マルクス『資本論』を読む
目次と序文 |
カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。 まずは、目次は次の通りです。各節の記述とリンクさせているで、その節のところをクリックすれば、ページを開くことができます。また、最初から順番に読んでいくのなら、目次の下から序文がはじまるので、追い掛けていってください。 なお、私が『資本論』を読む際に、参考書として以下に列記した書籍を参照していました。ここでの記述には、多少の引用も含めて、それらの影響は避けられないというか、ほぼパクッているところもあると思います。 ・宇野弘蔵と佐藤優の書籍 ・熊野純彦「資本論の思考」 ・森田成也「新編マルクス経済学再入門」 ・佐々木隆治「シリーズ世界の思想 マルクス 資本論」 第1版への序文 第1部 資本の生産過程 第1篇 商品と貨幣 a.相対的価値形態の内容 b.相対的価値形態の量的な規定性 第2篇 貨幣の資本への変容 第3篇 絶対的増殖価値の生産 第5節 標準労働日をめぐる闘争。14世紀半ばから17世紀末にいたる労働日延長のための強制法 第6節 標準労働日をめぐる闘争。強制的な法律による労働時間の制限。1833〜1864年におけるイギリスの工場立法 第7節 標準労働日をめぐる闘争。イギリス工場法の他国への影響 第4篇 相対的増殖価値の生産 第3節 マニュファクチュアの二つの基本形態─異種的なマニュファクチュアと有機的マニュファクチュア 第6篇 労働賃金 第20章 国による労働賃金の格差 第7篇 資本の蓄積過程
第2部 資本の流通過程 第1篇 資本の諸変態とその循環 第2節 第2段階 生産資本の機能 第3節
では序文から読んでいきましょう。マルクスの師にあたるヘーゲルの著作は序論とか序文が最も難解だという人が少なくありません。それは、著作の趣旨や内容が短い文章の中に詰め込まれていたからです。だから、序論は重要なのでした。しかし、『資本論』を読んでいくにあたって序文は、ヘーゲルの場合のように趣旨や内容を最初に紹介しているわけではありません。文章も難解というほどのものでもありません。以下が序文の文章ですが、翻訳が読みやすい訳文になっているせいもありますが、スッと読めてしまいます。それでいいと思います。本番は、この後の本文から、冒頭でガツーンと一発食らいます。 ただし、初めて『資本論』を読む場合には、それでよいのですが、再読したり、繰り返して読んでみると、この短い序文に書かれていることが成程と納得するところがあるのです。たしかに、この序文で、『資本論』の基本姿勢を仄めかしているところがあるのです。それを所見で気が付いて、この後の本文を読み進めるというのは難しいでしょう。だから、初めて読むときには、読み飛ばしていい。そういう意味で、この序文は味わい深いのです。なお、序文の概要は省略します。 第1版への序文 ここにその第1巻を読者におくるこの著作は、1859年に刊行された私の著書『経済学批判』の続きとなるものである。初めと続きとのあいだの長い休止は、長年にわたる病気のせいで、これが私の仕事をいくたびも中断させたのである。 まえのほうの著書の内容は、この第1巻の第1章に要約してある。そうしたのは、ただ関連をつけ完全にするためだけではない。叙述が改善されている。以前にはただ暗示されただけの多くの点が、ここでは、事情の許すかぎり、さらに進んで展開されており、また反対にあちらでは詳しく展開されていることが、こちらではただ暗示されるにとどまっている。価値理論および貨幣理論の歴史に関する諸節は、今度は、当然のこととして、全部なくなっている。とはいえ、以前の著書の読者、第1章の註のなかにこの理論の歴史のための新たな資料が示されているのをみいだすであろう。
もともと『資本論』は、当初、『経済学批判』の続編として執筆されたものであることが、ここで明らかにされています。簡単に経緯を述べてみると、1859年にマルクスは『経済学批判』という本を刊行しました。構想では、これを第1部として、全6部からなる大著を数年で書き終えるつもりだったのです。ところが、その続編『資本論』の第1巻が出たのは67年ですから、8年もボヤボヤしていたわけですね。挙句の果てに、彼の手で完成できたのはこの第1巻まででした。どうしてかと言うと、マルクスはいちばん最初の価値論のところで行ったり来たりして、何度も何度も書き直していたからなんです。
なにごとも初めが困難だということは、どの科学の場合にも言えることである。それゆえ、第1章、ことに商品の分析を含む節の理解は、最大の困難となるであろう。ここでもっと詳しく、価値実体と価値量との分析について言えば、私はこの分析をできるだけ平易なものにした。貨幣形態をその完成した姿とする価値形態は、非常に無内容で簡単である。それにもかかわらず、人間精神は2000年以上もまえから、空しくその解明に努めてきたのであり、しかも他方では、これよりずっと内容の豊富な複雑な諸形態の分析に、少なくともだいたいのところまでは、成功したのである。なぜだろうか?成育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。そのうえ、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学試薬も役にはたたない。抽象力がこの両方の代わりをしなければならない。ところが、ブルジョワ社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的細胞形態なのである。細胞のないものには、この形態の分析は、ただあれこれと細事のせんさくをやっているだけのように見える。じっさい、そこでは細事のせんさくを事とするにはちがいない。しかし、それは、ちょうど、顕微解剖でそのようなせんさくがなされるのと同じことなのである。 それゆえ、この価値形態に関する一節を別とすれば、本書を難解だと言って非難することはできないであろう。もちろん、私が予想している読者は、なにか新しいことを学ぼうとし、したがってまた自分自身で考えようとする人々なのである。
マルクスは序文で難しいから覚悟しなさい、というようなことを言っています。こんなことを書くから、読者は最初から構えてしまうんです。取っ付き難くしているんです。現代では、書店で手に取ってみて、いきなり「この本は難しい。特に最初の章を理解するのがものすごく難しくて、最大の難関だ」なんて書かれていたら、十中八九書棚に戻してしまって、買わないですね。慥かに第1章は本当に何を言っているかわかりづらいんです。それで、ほとんどの人が投げ出してしまうんです。
物理学者は、自然過程を観察するにさいしては、それが最も内容の充実した形態で、しかも攪乱的な影響によって不純にされることが最も少ない状態で観察するか、または、もし可能ならば、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行う。この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところでは、イギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役だつことの理由なのである。とはいえ、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態を見てドイツの読者がパリサイ人のように顔をしかめたり、あるいは、ドイツではまだまだそんなに悪い状態にはなっていないということで楽天的に安心したりするとすれば、私は彼に向かって叫ばずにはいられない、ひとごとではないのだぞ!と。 資本主義的生産の自然法則から称する社会的な敵対関係の発展度の高低が、それ自体として問題になるのではない。この法則そのもの、鉄の必然性をもって作用し自分をつらぬくこの傾向。これがもんだいなのである。産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである。
ここでマルクスは、「本書の究極的な目的は、現代社会の経済的な運動法則を明らかにすることにある。」と自ら表明しています。ここから読み取ることができるのは、マルクスは『資本論』の対象を「現代社会の経済的な運動法則」に限定しているということです。ここでの現代社会とは、マルクスにとっての現代、つまり、マルクスが生きた時代、我々からみれば19世紀の近代社会です。その社会の経済運動、いわゆる資本主義経済です。ということは、資本主義経済だけを対象として分析をするということで、あらゆる時代に、どういう状況でも役に立つ普遍的な法則を見つける、というようなことは目的としていないということです。例えば、近代経済学の現にある経済の動きを分析して、それに普遍的な法則性があると考えると過去にも未来の経済にも当てはまる。だから将来の予測ができるということになります。それは、例えば医学が、過去に同じような症状に有効だった薬が、今回の患者にも同じように有効だろうと考えるのと同じです。そこには対症療法的に役に立つということ、だから経済政策から、はたまた投資の予想まで実用的であるということになっているわけです(実際には、どうなのかというと、今、経済学に対する風当たりは強いですね)。これに対して、マルクスは資本主義の分析に限定しています。そのベースには歴史的な視点があるからです。それは、経済が学問的対象となるほどに社会的に、あるいは人々の認識の中で独立した存在となったのは資本主義経済が初めてだから、とマルクスが考えたからです。それまでの社会は、経済以外の宗教だとか慣習だとか、あるいは暴力といった要素で社会が動いていた。人が経済を中心に物事を考え、経済によって社会が動くようになったのは近代の資本主義経済になってからなのです。たしかに、お金をはらって物を売ったり買ったりするといった経済活動というのは近代に限らす、いつの時代にも、どこでも行われていました。しかし、それは経済ということの現象面で、資本主義という内在的論理をもったシステムができあがり、人々がそれに適合した考えや行動をする(経済合理性)ようになり、そういう人々が社会を構成していく、つまり、資本主義を明らかにするということは時代の真実を明らかにすることになるのです。そういうものとして経済を対象とした。それが『資本論』の目的であると、ここでマルクスは語っているのです。 そして、「本書の究極的な目的は、現代社会の経済的な運動法則を明らかにすることにある。」と言っていることの中で重要なこととして、もう一点は「運動法則」を明らかにするというところです。単に現代の経済を明らかにするのではなくて運動の法則を明らかにするといっているのです。法則というのは、ある運動が一回かぎりで成立しただけでは法則とはいいません、再現性がなければいけないのです。自然法則がそうで、万有引力の法則は、地球上という条件があれば、その他の条件がとんなに異なっても成立してしまうのです。『資本論』は現代の経済の運動にもそういうところがあって、つまり、資本主義経済であれば、私がやっても、マルクスさんがやっても同じような運動をする、それが法則です。そういうものを明らかにするというのです。まず、資本主義という条件の下にいるということがわかるためには、その条件の中にいてはわからないのです。いったん資本主義の外に出て客観的に眺めることが必要です。それは、資本主義社会にいるマルクス自身が、自分がどういうところにいるかを分かるということです。少しだけ先回りしますが、資本主義社会では、経済法則によって個々の人々(マルクスは、資本家と労働者というふたつに大別します)も動かされてしまっていて、それを法則性というのです。自分が自由に支配し、操作しているように捉える人もいるかもしれませんが、そんなことはない。その人自身が動かされるわけです。これが法則です。法則的強制です。資本主義では個々人の自由は実現できません。生活をうまくやり、何とか国家財政を豊かにしていこうと言っても、思い通りには絶対にできない。それは法則によって縛られているからです。そこで経済学というものが登場してくる。なんで縛られているのか、どうしてわれわれはそういう強制的動きに支配されているのかを解明しなければならない、となったわけです。そこで、経済法則を解明し得る法律や政治から離れて、経済の動きを解明できる可能性を探ることになるわけです。たとえば、自然法則を私たちは変えることができません。自然法則に反したことをやればしっぺ返しを受けます。法則によって私たちは縛られています。ところが、経済は人間の行動なのです。一人ひとりの人間がそれぞれの意思に基づいて行動もしているのに、何で強制的な法則が生まれ、それによってわれわれが縛られているのか。ここを解明しなければいけない。だから、法則を明らかにするといても、自然法則のように現象を観察して、そうなればこうだときまっているわけではなくて、人間の行動というのは自然と違ってなかなか法則通りに動くわけではないのです。それが法則に従うようにうごいてしまう。どうしてそうなるのか。それが、ここでマルクスが言っている「法則を明らかにする」ということです。
しかし、これは別としよう。資本主義的生産がわが国で完全に取り入れられているところ。たとえば本来の工場では、イギリスよりもずっと悪い状態になっている。というのは、工場法という対抗物がないからである。そのほかのあらゆる部面でわれわれは、ほかの大陸西ヨーロッパ全体と同じに、ただ資本主義的生産の発展だけによってではなく、またその発展の欠けていることによっても苦しめられている。近代的な窮迫のほかに、多くの伝来的な窮迫がわれわれにのしかかっているのであるが、この窮迫は、古風な時代おくれの生産様式が時世に合わない社会的な、また政治的な諸関係をともなって存続していることから生じているのである。われわれは、生きているものに悩まされるだけではなく、死んだものにも悩まされるのだ。死者が生者をとらえる!
イギリスのものに比べると、ドイツやその他の大陸西ヨーロッパの社会統計は貧弱なものである。それでもなお、この社会統計は、十分にヴェールをまくり上げて、その背後にメドゥーサの顔のあることを感知させるのである。もしわれわれの政府や議会が、イギリスで行われたように、経済事情に関する定期的調査委員会を設置して、この委員会が真実の探求のためにイギリスのそれと同じ権限を与えられ、この目的のためにイギリスの工場視察官や、「公衆衛生」についての医務報告者や、婦人・少年の搾取、住宅・栄養状態についての調査委員たちのような、専門家で不偏不党で厳正公平な人々を見いだすことができるならば、われわれはわれわれ自身の状態に恐れおののくであろう。ペルセウスは、怪物を追いかけるために隠れ頭巾を必要とした。われわれは、怪物の存在を否定し去ることができるようにするために、この頭巾で耳も目も隠してしまうのである。 これらのことについて、自分を欺いてはならない。18世紀のアメリカの独立戦争がヨーロッパの中間階級のために警鐘を鳴らしたように。19世紀のアメリカの南北戦争はヨーロッパの労働者階級のため警鐘を鳴らした。イギリスでは変革過程は手にとるように明らかである。この過程は、ある高さまで進めば、大陸にはね返ってくるにちがいない。それは、大陸では、労働者階級自身の発達の程度によって、あるいは血なまぐさい形で。あるいはより人間的な形で進むであろう。だから、より高い動機は別としても、今日の支配階級は、労働者階級の発達を妨げている障害のうちで法律によって処理できるいっさいのものを除去することを、まさに彼ら自身の利害関係によって命ぜられているのである。それだからこそ、私は、ことにイギリスの工場立法の歴史、その内容、その成果には、本巻のなかであのような詳細な叙述のページをさいたのである。一国は他国から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえ一社会がその運動の自然法則を探りだしたとしても、─そして近代社会の経済的運動法則を明らかにすることはこの著作の最終目的でもある─、その社会は自然的な発展の諸段階を跳び越えることも法令で取り除くこともできない。しかし、その社会は、分娩の苦痛を短く緩和することはできるのである。
この序文では、ドイツで『資本論』を出版するのにイギリスの分析をしていて何になるのかといかという疑問に答えています。そもそも資本主義経済と言っても、歴史的・地理的特性によってさまざまです。それを一般理論として精緻な分析をするために、マルクスは当時のイギリス経済をモデルとして選んだのです。イギリスは産業革命を始めた国であり、当時もっとも資本主義が発達していたからです。それゆえに、資本主義そのものの内的メカニズムに深く分け入って、その内部から資本主義の特徴や本質を明らかにして、原理論を作り上げることを目指したと言えます。そして、その原理をもとにドイツなどのイギリス以外の国の地域性などによる資本主義の特徴を見いだしていくことができるというものです。これを発展させたものが、宇野弘蔵の三段階論です。
起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかに描いてはいけない。しかし、ここで問題にされるのは、ただ、人が経済的範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである。 経済学の領域では、自由な科学的研究は、他のすべての領域で出会うのと同じ敵に出会うだけではない。経済学の取り扱う素材の固有な性質は、自由な科学的研究に抗して、人間の胸中の最も激しい、最も狭小な、最も悪意に満ちた感情を、私的利害のフリアイ(復讐の女神)を、戦場に呼びだす。たとえばイギリスの[国教会の典礼を重視する一派である]高教会は、その39の教条のうちの38までにたいする攻撃は許しても、その貨幣収入の39分の1にたいする攻撃は許さないのである。今日では、無神論でさえ、伝来の所有関係にたいする批判に比べれば、軽過失なのである。
自由な科学的な研究は、経済学の分野ではほかの分野と同じ種類の敵と直面するだけではない。科学的な研究が経済学の分野でとりあつかう素材の独特な性質のものであり、人間の心に宿る最も激しく、狭量で、憎悪に満ちた情熱、すなわち自己の利益という凶暴な女神を、知らぬうちに舞台に呼び出してしまうのである。たとえばイギリスの[国教会の典礼を重視する一派である]高教会派は、貨幣収入の39分の1を減らされるよりは、信仰箇条の39分の38を減らされることを甘受するだろう。現在では伝統的な所有関係を批判することに比べれば、無神論など微罪にすぎない。 マルクスは、自身の分析を科学的といいます。ここでも「科学的な研究」といっています。さっきも指摘しましたが、法則を明らかにするという姿勢が、その具体的な現われです。後に、化学や物理学のような自然科学に対して社会科学とよばれるようになったのですが、経済学において科学的といっても、自然科学とは違います。ここでいう科学的とはいわゆる体系知、つまり、全体的・総合的に見ることの知識。ドイツ語でいうヴィセンシャト(Wissenschaft)のことです。自然科学の法則のように再現性が期待できないから検証できないし、実験ができない。マルクスが法則といっても、それはあくまでも「モデル」です。だから、そのままどこにでも通用するわけでもなく、それでもいいんです。経済は人間の行動なのです。一人ひとりの人間がそれぞれの意思に基づいて行動をしているのです。だから、以前もそうだったからといって、同じような場面で、以前と同じ行動をとるとは限らない。ただ一点、肝心かなめのポイントで原理に筋が通っていればいいんで、それがはずれていないかどうかが重要なんです。
とはいえ、ここにもある進歩があることは見落とせない。たとえば、最近の数週間に公表された青書『産業問題および労働組合に関する帝国在外使節通信』を指摘したい。イギリスの国王の在外代表者たちがここで率直に語っているのは、ドイツでもフランスでも、要するにヨーロッパ大陸のどの文明国でも、資本と労働との現存の諸関係の変化がイギリスにおけると同様に感知され、同様に避けられないということである。同時に大西洋のかなたでは、北アメリカ合衆国の副大統領ウェード氏が公開の席上で、奴隷制の廃止のつぎには、資本関係と土地所有関係の変化が日程にのぼるだろう!と。これこそは時代の兆候であって、[王や枢機卿の着る]紫衣や黒衣(宗教)でもそれをおおいかくすことはできないのである。この徴候は、明日にでも奇跡が現われるだろう、ということを意味してはいない。それが示しているのは、現在の社会はけっして固定した結晶体ではなく、変化することの可能な、そしてつねに変化の過程にある有機体なのだという予感が支配階級のあいだにさえ起こりはじめているということである。 本書の第2巻は、第2部で資本の流通過程をとりあげ、第3部で全体の過程の構成をとりあげる予定である。最後の第3巻では理論的な歴史を考察する(第4部)。 およそ科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかつて譲歩したことのない世論と称するものの先入見にたいしては、あの偉大なフィレンツェ人の標語が、つねに変わることなく私のそれでもある。 汝の道をゆけ、そして人にはその言うに任せよ!
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