ジェーン・オースティン
『ノーサンガー・アビー』を読む
 

1.はじめに

2.あらすじ 

3.『ノーサンガー・アビー』を読む体験  

4.『』の多彩な魅力 

(1)悲劇としての『』 

(2)『ク』

 

1.はじめに

ジェーン・オースティンの小説は、あらすじだけを聞くと面白そうには思えないのに、実際に小説を読み始めると、物語に惹き込まれて離れられなくなると言われます。

 

2.あらすじ

その体験をするまえに、予備知識として、簡単に小説のあらすじを紹介しておきます。オースティンの小説は波乱万丈とか荒唐無稽とは正反対の、平穏で単調な日々の生活の繰り返しのなかで、些細な事実を淡々と綴っていくという特徴があります。しかし、この『ノーサンガー・アビー』は、物語の主な舞台が、前半がバースというリゾート地で、日常生活から人工的に隔てられた祝祭的な空間で、後半はノーサンガー・アビーという、主人公のキャサリンにとっては招待されて訪れるところです。したがって、物語は主人公のキャサリンにとっては非日常的な空間が舞台となっています。それゆえに、キャサリンは日常生活にはないウキウキとした情態、言ってみれば軽い躁状態にあります。そういう状態から、他のオースティンの作品にはない、主人公が騒動を繰り返し起こすという、比較的起伏のある物語になっています。

リチャード・モーランド牧師の娘キャサリン・モーランドは、貴族でも裕福な家の娘でもない、自身も目立ったところのない平凡な女性です。それが隣人のアレン夫妻から誘われて、イギリス南部の保養地バースを訪れることから物語は始まります。そこでアレン夫人の友人のソープ夫人の娘であるイザベラ・ソープと親しくなり、共に舞踏会に行ったりして楽しいときを過ごすのです。イザベラの兄で、キャサリンの兄ジェームズの大学の友達でもあるジョンソープに、キャサリンはしつこく迫られることになります。一方、イザベラ・ソープはキャサリンの兄のジェイムズを結婚相手として狙い、婚約に至ります。そしてキャサリンは、社交パーティでヘンリー・ティルニーと知り合い、想いを寄せるようになります。ヘンリーの妹であるエレノア・ティルニーとも友達になります。ヘンリーは自身の小説観や、歴史世界についての知識でキャサリンを魅了していく。キャサリンはヘンリーとエレノアの父であるティルニー将軍によって、ヘンリーの実家であるノーサンガー・アビーに招待されます。ゴシック小説『ユードルフォの秘密』の愛読者であるキャサリンは、その屋敷はどこか暗く、古めかしく、魅力的な謎に満ちているのだろうと期待して、さまざまな空想に耽ります。しかし、その期待は次々と外れるのです。キャサリンはこの屋敷に関する数々の謎を指摘してヘンリーに披露するが、彼はそれら全てに反論して否定していきます。例えば、ティルニー将軍が過去に妻を虐待したのではないかと疑って、亡くなったティルニー夫人の部屋を秘かに探索するのですが、ヘンリーに現場を見つかってしまい、愚かな妄想をたしなめられます。キャサリンは愚かな自身の姿に気付いてゆきます。そんな中で、兄のジェイムズからの手紙でイザベラとの婚約が解消されたことを知ります。イザベラは、ヘンリーの兄のティルニー大尉に乗り換えてしまったのです。そして、ヘンリーの留守中に、突如ロンドンから戻った将軍は、キャサリンに翌朝出て行くように命じます。追い出される理由もわからないまま、キャサリンは屈辱感を覚えつつ、落胆して帰郷していきました。ヘンリーに彼女と別れるよう言い付けるが、ヘンリーはそれを拒否して彼女の後を追い、彼女と結婚するというハッピーエンドで終わります。

 

3.『ノーサンガー・アビー』を読む体験

 第1章

子どものころのキャサリン・モーランドを知っている人は、彼女が小説のヒロインになるように生まれついたなんて絶対に思わないだろう。彼女の境遇、両親の人柄、彼女自身の容姿と性格など、どこから見てもヒロインとしては完全に失格だった。

という冒頭の文章。ジェイン・オースティンの小説の書き出しはどれも面白いが、この『ノーサンガー・アビー』の書き出しも小説の世界に一気に引き込まれてしまう文章です。しかし、他のオースティンの小説と比べると、この文章は特異です。そのような他の彼女の作品と違っている書き出しが、この小説の特異性と密接に関係していることでもあり、ひとつのシンボルとして見ることができるものなので、まずは、そのことについて考えていきたいと思います。例えば『説得』の書き出しはヒロインの父親で当主のサー・ウォルター・エリオットの紹介です。彼は家系を記した記録しか読まないという文章で、事実を客観的に記述しているような文章ですが、その素っ気ないほど簡潔な文章の中に、彼の人柄と現在のヒロインの窮状を招いた要因が集約されて表わされていて、さらに、その冷徹な記述が、ヒロインが置かれているあたたかいとはいえぬ雰囲気すら伝えている出だしです。そこでは、作者の語りが、神様のような超越した視点で、小説の人物を冷たいほど突き放した客観的な視点を徹底されています。これに対して、『ノーサンガー・アビー』の書き出しの文章は、“誰も〜なんて思わないでしょう?”と読者にかたりかけ、同意を求める書き方をしています。これは事実を客観的に記述しているのではなくて、判断を読者に委ねているのです。ここでの作者は神さまの視点にいません。しかも、この文章の内容には具体性がなく、事実を客観的に記述しているのではなくて、作者という個人が小説の登場人物のひとりになって、ヒロインを見た印象を語っているようなのです。では、なぜ『説得』のように具体的な事実を客観的に語らないのか。それが、『ノーサンガー・アビー』をオースティンの他の作品から画然と隔てられている違いなのです。簡単にいうと、オースティンの他の作品はヒロインが如何に相手を掴まえるかという手練手管のやり取りを活写しているのに対して、『ノーサンガー・アビー』は手練手管以前の、ヒロインが手練手管を出す以前の人を恋するところを中心に描いた作品だからです。だから、ヒロインは相手に向けて行動する物語でなく、相手をどのように思っていくかの物語なのです。したがって、ヒロインの行動は外形のアクションですから外側から客観的に描くことが出来ます。これに対して、『ノーサンガー・アビー』のヒロインは妄想する、つまり思うという内面のアクションが中心なので外側からは分かりません。したがって、主観的に、どうなの?と問いかけるようにして描いていくようになります。どう思っているのか、当人に聞いてみるか、あれこれ想像するかしかないのです。だから、この書き出しで、作者は主観的に見た目を語り、評価を読み手に問いかけているのです。

書き出しの文章について、いいたいことは、これだけではありません。この小説に対する解説でよく言われている小説のパロディとして読むことができるということが、この書き出しから、すでに窺うことができるということについてです。この゜書き出しの文章の中で“ヒロインとしては完全に失格だった”と小説の設定についてもここで評価的なコメントを付しています。むしろ、それが文章の記述の中心です。これは、当時の小説、とくにゴシック小説のヒロインの姿に対する揶揄的な姿勢の表れであると解説されているようです。この文書でヒロインと言っているのは当時の小説の多くで用いられていたヒロイン像のことで、『ノーサンガー・アビー』のキャサリンは、そのヒロイン像に当てはまらないことを小説の冒頭で明言している。そういう差別化が、当時の小説とは違うということを宣言しているのであり、当時の小説の一様なヒロインへの皮肉になっている、ということです。

他方で、“ヒロインとしては完全に失格だった”という書き出しは、では小説のヒロインとはどのようなものなのか、という問いかけを内包しているということも出来ます。この小説を読み進めていくと、作者オースティン自身が小説についてああでもないこうでもないと、いろいろ作品の中で語っていて、この小説が小説について語る小説、つまりメタ小説でもある。それが、この書き出しでは。小説のヒロインとは何かという問いかけをしていることが、メタ小説として小説とは何かの一環であると捉えることができるというわけです。

書き出しについて、長々と書いてきましたが、この書き出しには、この作品の様々な要素が集約されているということなのです。それをオースティンがたったひとつの書き出しの文章に込めてしまって、それを読者との出会い頭にぶつけてきている。それが、この小説のおおきな特徴のひとつです。

そしてキャサリンも、生まれてこのかた誰にも負けないくらい不器量だった。みともないほどの痩せっぽちで、青白い肌でひどく血色が悪いし、髪も美しい巻き毛ではなくて、まっすぐな黒い貧弱な髪で、目鼻立ちすごくきつい感じだった。容姿はこんなところだが、性格のほうも、小説のヒロインとしてはまことに不向きなものだった。男の子なの遊びなら何でも大好きで、お人形さん遊びよりもクリケットのほうが大好きだし、ヒロインが幼いころに熱中しそうな遊び、たとえばヤマネを飼ったり、カナリアに餌をあげたり、バラに水をやったりすることよりも、クリケットのほうが断然好きだった。園芸趣味はまったくなくて、たまに花を摘んでも、たいていいたずらが目的だった。摘んではいけないと言われた花ばかり摘むのだから、そうとしか考えられない。性格はこんなところだが、勉強や芸事の能力も、じつに驚くべきものだった。誰かに教えてもらわないと何も覚えられないし、何も理解できないし、教えてもらってもどうしても駄目なときもあった。しばしば集中力に欠け、本質的に知能がついてゆけないときもあるからだ。(p.9)

父はごくふつうの牧師で、“娘を監禁する癖はなく”、母は“誰もが予想するようにキャサリンを産んで死ぬ”、ということもなく生き続けて」、10人もの子どもを生んだ健康的な女性という、平凡な“それ以外に何の取り柄もない”家庭に、キャサリンは生まれ育ったのです。この“娘を監禁する癖はなく”とか“誰もが予想するようにキャサリンを産んで死ぬ”といったことは、ゴシック小説の定番的な設定であって、ここでは、わざわざそうでないということ、否定的な表現を繰り返しています。これは、ゴシック小説に対する皮肉という言い方と説明されていることのあるようです。

ゴシック小説に限らず当時の小説のヒロインは生まれながらに美しいというのが決まり事のようになっていて、それゆえに、キャサリンが不器量だということ、しかも。ヒロインの容貌が具体的に描かれていること自体が、それまでの小説では稀なことで、通常はヒロインの美しさが強調されても、具体的なイメージは曖昧で、それは読者の想像に委ねるという場合が多かったといいます。また、ヒロインは聡明であって、その能力で困難を乗り越えたり、危機を回避したりするということからも、キャサリンはそういう具体的な才能にかけていることを列記されています。つまり、ここではキャサリンは取り立てて美人でもなく才能もない平凡な娘だったことを具体的に、従来の小説からするとヒロイン失格であることをキャサリンの生い立ちを通して強調されます。しかし、皮肉の意図があったとはいえ、小説の冒頭で、ヒロインについて、これほどまでにないない・・と否定の言葉をくどいほど繰り返すというのは、かなり変わっているというか、普通では、最初からそんなネガティブであるというのは読むほうも、それほど感じのいいものでもないだろうし、決してノーマルなやり方ではなかったのではないかとおもうのです。だから、オースティンは、このような始まり方を、覚悟をもってやった、あるいはそうせざるを得なかったのではないかとおもうのです。少なくとも、パロディっぽくやりましょうといった安易な気持ちでやったのではないと思います。というのも、そのあとで、つまり、最初の何章かはプロットの説明に終止してストーリーが始まらないのです。例えばこうです。

なんとも奇妙で不可解な性格である!というのは、10歳にしてこれだけ十分な堕落の兆候があったにもかかわらず、キャサリンは心も性格もけっして悪くはないのだ。ぜんぜん強情ではないし、すぐに喧嘩するようなこともないし、妹や弟たちにはとてもやさしくて、ほんのときたま姉貴風を吹かせる程度なのだ。さらに付け加えるとキャサリンは騒々しくて乱暴で、束縛されることと、清潔なことが大嫌いで、家の裏の丘の斜面を転がりおりるのが何よりも大好きだった。(P.10)

オースティンの他の作品と比べてみると、このことは特異と言えます。他の小説では、最初からストーリーが展開し始めて、その物語の中で手際よく登場人物が小説の中で実際に動いて、こういう人なのだなということが分かるようになっているのが常なのです。“キャサリンは騒々しくて乱暴で、束縛されることと、清潔なことが大嫌いで、家の裏の丘の斜面を転がりおりるのが何よりも大好きだった”などいう説明をまじえないで、物語の中で、それが表われるような効果的な場面があって、それに触れてキャサリンはこういう性格なのだということが具体的に示されるというのが、他の作品の場合なのです。そもそも小説の読者というのは気紛れだし、小説を読むことだけが愉しみというわけではないのですから、ストーリーが始まらず、いつまでもプロットの紹介ばかりでは、退屈になって放り出してしまいかねません。オースティンという作家は、そういう読者の性向をよくわかっていたと思います。それが証拠に、他の作品では、はじめからヒロインとヒーローは両方とも登場していて、この二人のやり取りがはじめから展開するという本題に入っているのです。それが、この『ノーサンガー・アビー』に限っては、退屈になってしまう恐れのあるプロットの紹介を延々と続けて、なかなか物語が始まらないのです。これは、単にパロディだからということだけで説明がつくのでしょうか。だいだい、当時の読者は、パロディだからと許してくれるでしょうか。私には、オースティンはパロディとして意図的にこのような長いプロットの紹介を行ったとは思えません。むしろ、そうせざるを得なかったのではないかと思います。それは、この作品が若書きで、作家としての巧みさが備わっていなかったということでもなく、この『ノーサンガー・アビー』という作品の特異さゆえに、そうせざるを得なかったと思うのです。

オースティンは、この『ノーサンガー・アビー』において、17世紀のルネ・デカルトが哲学で行ったことを、小説で行ったのではないかと思うのです。いわゆる方法的懐疑です。デカルトが確かなものを求めて、疑わしいものを片っ端から除けていって、最後にこれだけは疑うことができないとして、疑っている自分がいるということに行き着いたように、オースティンは、ここで小説について、何が本質的になくてはならないものなのか、そこで、どうしても必要かどうかを問いかけて、本質的でないものをひとつひとつ否定していくという作業、この中で実際に行っているのです。父は“娘を監禁する癖はなく”、家庭は平凡な“それ以外に何の取り柄もない”というようにです。それは、プロットの設定だけにとどまらず、物語の展開についても物語の中の波乱万丈か平凡かという分岐点で、ことごとく波乱万丈の選択肢を外しているのです。言ってみれば、小説を彩っているお飾りをことごとく取り除いていって、残された、これを取り除いてしまうと小説として成立しなくなってしまう、というものだけを残して、それだけで小説が成立するか、読者を楽しませることができるか、という本質の追究を試みている作品になっていると思うのです。もちろん、オースティンは自覚してそんなことをしているとは考えられません。おそらく、未だ自身の方法が摑めていない中で、自身のスタイルを手探りで試しているうちに、こんなことになってしまったのだろうと思います。『ノーサンガー・アビー』についてメタ小説的な言及を作中でオースティが述べているところがありますが、それは、この作品全体がそういうものなので、その中で出てきたものと考えられないでしょうか。つまり、そういう言及があるからメタ小説なのではなくて、もともと、そういう構造なので、それに従って言及が出てきているという作品なのです。それゆえに、小説の構成において無理がかかってしまって、そのひとつが、長いプロットの説明ということになると思います。

第1章の物語も未だ始まっていないところで、あまり長居すると、この後が始まらなくなってしまいます。このへんで、次に移りましょう。

 第2章

この第2章から物語は始まるといっていいのです。オースティンの他の小説であれば、第1章などなくて、この第2章からはじまるように書かれるでしょう。この第2章では村の地主であるアレン氏が療養のために保養地であるバースに逗留することになり、アレン夫妻と親しくしていたキャサリンがバース行きに誘われ、同行することになります。そこから物語は、実質的に始まります。しかし、この第2章でも未だにキャサリンの紹介をやっています。ヒロインであるキャサリンの紹介について、オースティンはキャサリンについて否定的な文章を繰り返し、ヒロイン失格であることを強調するようにのべています。しかし、第1章のところで引用したように、決してキャサリンというキャラクターに対して悪意があるというわけではいことが分かります。この引用では17歳のキャサリンが“優しい心をもち、明るく素直な性格で、自惚れや気取りがまったくない”ということを言っています。このように控えめながら述べられているわずかな長所は、小説のヒロインとして地味で目立たないものですが、実は人間にとって本質的に大切なものだということが、物語が進んでいくに従って次第に明らかになってくるのです。廣野由美子は『深読みジェイン・オースティン』のなかで、これは平凡な女性がいかに恋愛を経験するかというプロセスを通して、「ヒロインとは何か」を追求する物語であると言える、と述べています。私には、それ以上に、現実の日常生活のなかで、人として大切なもの、しかも平凡な日常で普段は気付かないのが物語をとおして浮き上がってくる、そうものを目指している作品であるように思えるのです。少し、先を急ぎすぎました。

例えば、こんな風にです。

彼女がどういう人物か、いまここでしっかり説明しないと、説明しそこなってしまうかもしれない。まず、彼女は愛情深い心を持ち、とても明るい率直な性格で、うぬぼれや気取りはまったくない。態度は、少女時代のぎこちなさと内気さがやっと抜けたところで、容姿はとても感じが良くて、きれいに見えるときは美人の部類に入る。そして頭のほうは、17歳の娘の例に漏れず、無知で無教養だった。(P.16)

第1章では触れることができませんでしたが、上の文章は翻訳なので、原語ではどのような文体で語られているのか分かりませんが、この文章を読むかぎりでは、語り手が冷静で事実を客観的に語るというスタイルではなくて、キャラが立っているというのか物語の登場人物のように生きいきとした性格をもった人物として、読者に向けて語りかけてくるスタイルをとっています。実は、第1章も第2章も、ヒロインのキャサリンをはじめとした小説の登場人物たちは、生きて動いていません。この段階では、将棋の駒のように単にストーリーの設計図のなかで動かされているだけです。いってみれば、おばあさんが子供に昔話を語りきかせるように、語り手である作者が、そのおばあさんのように生きていて、子供ならぬ読者に語っている。ヒロインのキャサリンなどの登場人物は、作者の語りのなかのコマにとどまっています。そのため、キャサリンの人物の説明をすることになっているのです。それはどうしてかというと、小説の語り口が否定を連ねているからです。例えば、次のように。

あまり幸先はよろしくないけれど、とにかくこうして出発し、キャサリンの旅が始まった。何事もない平穏無事な旅であり、強盗にも風にも見舞われなかったし、馬車が転覆してヒーローが助けに現われることなかった。ひやりとしたのは一度だけ、アレン夫人が宿屋に木底靴を忘れて大騒ぎしたときだが、それ結局は夫人の思い違いで、ちゃんと荷物の中に入っていた。(P.18)

引用した文の内容は、バースへの移動は何も起こらず無事だったということです。事件も何もないわけなので、物語の進行の上で必要のない文章のはずです。しかし、小説には不要な文章などありません。この文章も必要なのです。それは、“強盗にも風にも見舞われなかったし、馬車が転覆してヒーローが助けに現われることなかった”という否定を連ねたところ。〜も起こらなかったということ。この起こらなかったことは波乱万丈のストーリーで使われるような事件や事故です。そのようなことは、非日常的で、通常では起こることのない例外的なことです。万が一といいますが、一万回のうち一回あるかないかということです。しかし、手に汗を握るような波乱万丈のストーリーでは、そのような万が一のことがつづけざまに起こるから、読者はそういうものに巻き込まれるように、日常を忘れ、刺激に翻弄されていくのです。オースティンは、そういうことをここで、あれもないこれもない、と断るように敢えて否定を重ねます。それをパロディと考えることもできるでしょう。しかし、ここでは何も起こらない、いわば万が一の9999回の平凡な日常的な事例の一つであったわけで、当たり前なので、あえて書く必要のないことのはずです。オースティンという作家は、その9999回の方を小説にしようとした人であるわけです。『高慢と偏見』や『エマ』といった作品には、そういう日常の、いつもと変わらない毎日のこまごまとしたことが描かれています。但し、それらの作品では“〜などは起こらなかった”というアクシデントの発生を否定するような断りを入れていません。それは、これらの作品では、非日常的な特別な事件という刺激がなくても、読者は面白く物語を追いかけられるように、作者は書けているし、読者もそういうものとして作品を受け容れているからです。しかし、『高慢と偏見』や『エマ』が波乱万丈のストーリーとは違う小説として受け容れられる以前は、そもそも、そういうものがなかったので、オースティン本人としても模範としてならうようなものがなく、自身で新たなスタイルを切り拓いたということになるはずです。おそらく、何もないところから新たなものを生み出すことはできないはずなので、おそらく、既存の小説をもとにして、それに変革をほどこしていくというプロセスで、最終的には『高慢と偏見』や『エマ』のようなスタイルに行き着いたと思います。オースティンが、そういうスタイルを会得する前、その時に既存の波乱万丈のストーリーのスタイルに従わないで物語をつくっていくために、そうでないという、いわば既存のものをいったん否定するという段階があったはずで、それは多くの作家の場合には、習作のようなもので、世には出てこないことが多いのですが、それが出ている作品。それがこの『ノーサンガー・アビー』ではないか。この作品を読み進めていくと、後半では登場人物たちが生き生きと動き始めていきますが、この作品を制作しているさなかに、オースティンは、何か摑んだのかもしれません。その点で、オースティン自身も、この作品に捨て難い魅力を感じていたのではないかと思います。

また、視点を変えて考え見ると、この引用した文章のように、否定を連ねて、何も起こらなかったというだけで読者を読ませてしまうという、かなり過激で実験的な試みをしているともいえるわけです。だからこそ、小説の中に作者が登場して、小説とはこういうもので、こういうこともできるという、いわば弁解ともいえるようなコメントを加えることも敢えて行った、と言えるのではないかと思えるのです。

少しくどいかもしれませんが、他のセンチメンタルン小説では、ヒロインが生まれて初めて旅に出る際には、うら若い乙女が道中で出会う様々な危険を心配する家族たちによって、大げさな別れの場面が繰り広げられるのですが、キャサリンの家族はいたって平然としていて、それが日常の普通のことなのですが、淡々と彼女を送り出すわけです。それを、“幸先よくない”というように、引用の文章ではのべているわけです。あるいは、強盗や嵐に襲われること、馬車が転覆することなどが、“助け”“幸運”であるとされたりするような言い方は、キャサリンが小説を読みすぎて、これまでの読んだ小説の中で起こったような出来事、そこでヒロインは運命的な出会いをすることになったりするわけですが、そんなことを期待するキャサリンの現実ばなれした物事の捉え方の歪みを浮かび上がらせているところでもあります。そういうキャサリンの歪みは、パロディとして捉えることもできますが、平凡な淡々とした日常を対照的に浮かび上がらせる効果も果たしていると思います。

バースに到着して、いよいよキャサリンは小説の中で動き始めます。

一行は無事バースに到着した。馬車はバース周辺の美しい景色の中を通り過ぎ、それから町の通りを走って宿へと向かったが、キャサリンはうれしさいっぱいで、わくわくぞくぞくしながら、あちこちきょろきょろ見まわした。もとちん幸せになるためにバースに来たのだが、これだけで十分幸せだった。(P.18)

この文章だけでも、キャサリンという女性が、好奇心旺盛で、生き生きとした目で馬車の中から周囲の景色を見ていたのが分かります。オースティンは、このようなさり気ない場面で生身の人間としてのキャサリンの、それまでの小説にない魅力を生き生きと描き始めます。また、引用の二つ目以降の文章についてみて見ると、最初のところは馬車の客観的な状況の描写で、キャサリンのことになると、語っているのは作者ですが、そこにキャサリンの行為だけでなく、内面の感情の描写も入ってきます。そして、次の文章の“もちろん幸せになるためにバースに来たのだが、これだけで十分幸せだった。”は完全のキャサリンの思いになっています。このように作者は、ここでは、状況を客観的に語る鳥瞰的な視点と、キャサリンの感情に踏み込んで説明する語り、そして、キャサリンになり代わって思いを語る立場を、かわるがわる、時には複合させながら語っています。これ以外のところでは、作者が自身のキャラクターとして登場人物のように思いを語ったりと、語る視点を多重的に、いったりきたりしながら語っています。しかも、注意しないで読み流してしまうと、どこまでが客観的な状況の語りで、どこからがキャサリンの内面なのか区別がつきにくくなっていて、時には、その状況も客観的なのか、キャサリンから見えている状況なのか判然とし難い区なっているところも出てきます。このような語りの多重性、多層性は、日本の少女マンガでもあって、ふきだしに入っていないナレーションが、客観的な説明なのか、キャラクターの内心の声なのか、作者が闖入してきたのか判然とし難く、それが渾然一体となって、読者の感情移入を誘うようになっています。それと似たような、ことをこの作品で、オースティンはすでに行おうとしている。それは、この小説が、とくに前半では細かなエピソードはありますが、おおきなストーリーの起伏というのが見られないので、その代わりに平凡に設定されたヒロインの内面の感情や考えの動きを活写することで、その日常の細かなことが生々しいものとして、意味をもってくる。それが小説の動きを作り出すものになっていると言えます。

しかも、ここでさり気なく、キャサリンがバースに来たのは“幸せになるため” ということ、すくなくともキャサリンはそれを期待しているという大事なことが示されています。この、この後のキャサリンの行動の動機となるものです。実に、この小説は平凡な少女が幸せを求めて努力していく物語であるというものであるからです。

しかし、物語はキャサリンの期待した通りには進みません。現実なんてそんなものです。バースに着いた興奮のままに、衣装を買いにいったり、髪を整えたりして、準備をしているうちはよかったのですが、いざ社交界に打って出ようと舞踏会場に出かけてみれば、人ごみに右往左往し、便りのアレン夫人はキャサリンをエスコートしてくれず、人ごみでこったがえす会場で誰も知り合いがなく、ダンスもできず、期待した出会いの気配もなく、かすかな居心地の悪さすら味わされるというものでした。いってみれば散々なものとして終わるはずが、最後の最後、二人の紳士が、彼女の聞こえるところで「きれいな子だね」と言ったのが耳に入り、そのことによって、今夜はとても楽しい舞踏会だったと思い始めるのでした。

この単純な賛辞をささやいてくれたふたりの紳士に彼女は心から感謝した。そしてその感謝の気持ちは、彼女の美しさを称えた15編のソネットに対して感じる感謝の気持ちよりも、はるかに大きいものだった。こうしてキャサリンは、会場のすべての人に好意を感じながら椅子駕籠へとおもむき、今夜の舞踏会で自分が注目を浴びたことにすっかり満足したのだった。(P.26)

これは、キャサリンの純真さ、すなおさそして前向きな姿勢を表わしているものですが、このよさをキャサリンは小説を通じて持ち続けていくことになります。それがキャサリンのヒロインとしての魅力をつくっていくものではあるのですが、この時点では世間知らずのこどもが浮かれて有頂天になっている喜劇的な場面にもなっているのです。

 第3章

バースに着いてしばらくは、小説らしい事件はおこりそうもなく、ロマンスの気配もありません。頼りになるはずのアレン夫人は知り合いを見つけることができず、キャサリンの舞踏会デビューは首尾よく終わるというわけにはいきませんでした。それにもかかわらず、キャサリンはとくに失望することないのは、彼女のすなおで前向きなところであり、それは反面からみれば鈍感ということになるのでしょうが、そのあたりも、波乱万丈のロマンス小説のヒロインからはほど遠いことが、彼女の具体的な態度や行動からも強調されるように書かれています。

そして、ここでキャサリンは、小説のヒーローであるヘンリー・ティルニーに出会います。その出会いも、ドラマチックにはほど遠いもので、社交会館の司会進行役である儀典長が、キャサリンのダンスのお相手として紹介したのがヘンリーだったというわけです。

青年の名前はヘンリー・ティルニー氏といい、年齢は二十四、五歳で、かなりの長身で、とても感じのいい顔立ちで、知的な生き生きとした目をし、絶世の美男子まではいかないが、かなりそれに近い美男子だった。それに態度も申し分ないし、こんなすてきな人を紹介されて、自分は最高に運がいいとキャサリンは思った。踊っている間は言葉を交わす暇はなかったが、お茶の席について話をすると、思ったとおりの好青年だった。とても流暢に元気よく話し、茶目っ気たっぷりで、冗談好きな感じで、よくわからないが面白い人だと思った。(P.27〜28)

この紹介も、作者の客観的な事実の記述に、キャサリンの印象(主観)が入り込んでいます。しかし、この紹介は颯爽としたところも、殊更にヒーローとして印象的なところもなく、ヘンリーという人物もヒーローとするにはもの足りなさが残る人物として、オースティンも些かの留保をのこすような紹介をしています。キャサリンは、そんなヘンリーを“よくわからないか面白い人物”という好感は持ったのでしょうが、ロマンスにあるような最初の出会いで運命的な恋に落ちるということはなく、ユーモアの視点も含ませつつ、どちらかというと、どこにでもあるような月並みな出会いの形になっていると思います。この出会いで、キャサリンとヘンリーの間で会話の場面があって、ここで初めて説明的でない会話、作者の手を離れて登場人物が自身の会話を始めます。人物たちがようやく生き生きとし始めます。ヘンリーは、オースティンの他の小説のヒーローたち(エドワード・フェラーズ,ブランドン大佐,ダーシー,エドモンド・バートラム,ナイトリー)にはない流暢さの反面皮肉たっぷりなおしゃべりには、彼自身の弱さとそれを隠すような斜に構えた態度だということが徐々に明らかになってくるのですが、そういう相反する面を抱えた人物であることが、この会話の中で仄めかすように示されています。しかし、初めて読む読者はそのことには気付かず、後になって、思い出すと、たしかに最初のところからそういう風に書かれていたと後から気付くような、いわば伏線として記述されています。このあたりの用意周到さは、とても若書きとは思えない技巧的なところです。二人の初対面の場面で、ヘンリーは舞踏室にふさわしいちょっとした会話を彼女に教授するように話しかけます。彼女が書いてもいない日記の内容を提示して見せたり、女性の手紙の書き方についての批評をしたりします。それに対して、キャサリンは、彼が予想した一般的な女性とは違って、非常に素直で直截に答えます。彼女は何のてらいもなく、日記はつけていないし、女性の手紙の書き方が男性より上手だと思わないと言うのです。

キャサリンは性格はよいが、ヘンリーとの知性の差は明白で、知的レベルでは彼女は彼の足下にも及ばないのが、この会話のやり取りからも明らかです。女性向きのお決まりの会話をわざとらしく模倣しようとしたり、女性の日記や手紙の書き方を嘲ったり、女性の言葉遣いや読書の趣味について論じるヘンリーの「冗談」に対して、キャサリンは時々、「笑うべきかどうかわからず、顔をそむける」というように、戸惑いを示したり、無反応だったりするのですが、これは彼の言葉がユーモアとして機能していないことを示すものです。キャサリンの弱点を皮肉るために彼女をからかうヘンリーは、そのからかい方はいささか意地が悪く、時として彼は、女性蔑視の傾向を示すこともあるのです。しかし、キャサリンは、そのことに気付くこともありません。それは、ある面ではヘンリーの知性の引き立て役でもあるのですが、この鈍さが彼女の魅力であることが徐々に明らかになって、それがヘンリーを動かすことにもなっていくのです。ここでは、この二人の出会いの際に、その萌芽が、登場人物の二人にも、読者にも気付かないところで示唆されているのです。

それだから、というわけではないのですが、この小説はゴシック小説のパロディという言い方がよくなされますが、この小説のストーリーには謎解きの要素があって、読者の気付かないところで巧みな伏線が張られているのです。それには、読者も読んでいて最後まで謎解きの性格に気付いていない、そういうさり気ないもので、それこそがジェイン・オースティンという作家の面目躍如たるところです。

第4章

翌日、キャサリンはヘンリーとの再会を期待して張り切ってポンプ・ルームへ出かけますが、結局ヘンリーは現れません。下の文章はキャサリンのヒロインらしかならぬところが、皮肉を交えて表わされています。こういう表現はオースティン独特のものでしょう。

翌日キャサリンは、いつもより張り切った気持ちで大急ぎでポンプ・ルームへ出かけた。午前中は絶対にティルニー氏に会えると思い、ほほえみ浮かべて今か今かと待ち構えた。だが残念ながらほほえみは必要なかった。結局ティルニー氏は現れなかったのである。(P.36)

その代わりにアレン夫人が学生時代の旧友であるソープ夫人と再会し、キャサリンはその三人の娘を紹介されます。たまたま、キャサリンの兄ジェイムズがオックスフォード大学でソープ家の長男ジョンと親しく、ソープ家のクリスマスに招待されたという機縁から、とくに長女のイザベラとは意気投合するように仲良しとなります。

第5章

キャサリンはヘンリーとの再会を期待しているのですが、ヘンリーは姿を見せません。その一方で、イザベラとの親交を深めていきます。“友情のあらゆる段階をあっという間に通過し、友情のあらゆる証拠を短期間に全部示してしまい”という端折った書き方で、オースティンは、最初のヒロインや周囲の登場人物の紹介もそうでしたが、下手な小説のような紋切り型の常套的なフレーズをパロディのように使いまわしています。それは、パロディとして皮肉を表わすと同時に、物語の余計な描写を適当に端折り、物語の展開をスピーディーにしています。オースティの力量をもってすれば、もっとさりげなく巧みに書くこともできるのに、あえてこんなたどたどしいやり方をとって、読み手に意識させている。それは、ひとえにこの第4章の半分以上を占めている作者による小説論を導くためです。

物語としては、キャサリンとイザベルは二人で過ごす時間が長くなり、ついには二人で部屋にこもって小説を一緒に読むようになります。そこで、唐突に以下のような作者の長大な小説論が挿入されているのです。

われがヒロインは作品の中で小説を読んだのである。なぜならば私は、小説家たちのあのけちくさい愚かな慣習に従うつもりはないからだ。小説家は、自分も書いてその数を増やしている小説というものを、自分で軽蔑して非難して、その価値をおとしめたり、自分の敵と一緒になって、小説に情け容赦ない悪罵を浴びせ、自分の小説のヒロインが作品の中で小説を読むのを許さず、ヒロインが偶然小説を手にしても、つまらないページをつまらなそうにめくる姿ばかりが描かれる。ああ!小説のヒロインが、別の小説のヒロインから贔屓にされなければ、いったい誰が彼女を守ったり、尊敬したりするだろうか?私はあのような愚かな慣習に従うつもりはまったくない!想像力の営みを罵倒し、新刊小説が出るたびに、最近の新聞雑誌を埋め尽くす陳腐な言葉であれこれ論評するのは、批評家の先生方にお任せしよう。私たち小説家は、虐げられた者たちなのだから、お互いに仲間を見捨てないようにしようではないか。小説家が生み出した作品は、ほかのどんな文学形式よりも多くの真実と喜びを読者に提供してきたのに、小説ほどひどい悪口を言われたものはない。プライドや無知や流行のおかげで、小説の敵は、小説の読者の数と同じくらい存在するのである。長大な英国史の9百分の1の縮約版をつくった人。ミルトンとポープとマシュー・プライアーの詩の十数行の抜粋と、『スペクテイター紙』のエッセイの一編と、スターンの小説の一章を集めて一冊の本にした人。こういう人たちの才能は、千人のペンによって称賛されるのに、どうやら世の人々は、小説家の才能をけなしてその努力を過小評価し、才知と機知と趣味のよさにあふれた作品を無視したいらしい。私たちはこういう言葉をよく耳にする。「私は小説など読みません─小説はめったに開きません─私がしょっちゅう小説を読むなんて思わないでくださいね─小説にしてはよくできていますね」などなど。あるいはこういう会話をよく耳にする。「ミス・××、何を読んでいらっしゃるの?」と聞かれ、「あら!ただの小説よ!」と若い女性は答え、関心なさそうに、恥ずかしそうに本を閉じる。「なんだったかしら。『セシーリア』だか、『カミラ』だか、『ベリンダ』よ」

つまり小説とは、偉大な知性が示された作品であり、人間性に関する完璧な知識と、さまざまな人間性に関する適切な描写と、はつらつとした機知とユーモアが、選び抜かれた言葉によって世に伝えられた作品なのである。ところで、もとその若い女性が、小説ではなく『スペクテイター紙』を読んでいたら、誇らしげに本を差し出して題名を言ったことだろう。ただし、趣味の良い若い女性がほんとにその分厚い本を読んだら、その内容にも文章にも嫌悪感を抱くことだろう。現実にあり得ない出来事や、ひどく不自然な人物や、現代人には関心のない話題が多いし、それに、下品な言葉がたくさん使われているので、そんな下品な言葉を許容した時代にたいしても不快感を抱くことだろう。(P.45〜47)

ここでは、当時の文学界を構成するさまざまな要素に対して、批判が浴びせられています。まず、自分自身が行っている小説を書くという行為を「軽蔑して非難し、貶めて」、「敵といっしょになって、小説に罵声を浴びせかけている」小説家自身。「小説における想像力の発露を、言いたい放題にののしり、新しい小説が出るたびに、最近の雑誌を埋め尽くす陳腐な駄文で論評する」批評家たち。歴史書の簡略版や古典を抜粋した書物などを過大評価するジャーナリズムの風潮。小説を読むことを恥じ、自分が低級な読者ではないように装う読者たち。とりわけ、アディソンとスティールによる文学論が掲載された『スペクテイター』紙については、さも高級な読み物であるかのようにもてはやされていましたが、それは「趣味のよい若い読者なら、内容も書き方もうんざりする」ようなもので、「ありえない状況、不自然な人物、誰も関心をもたないような話題から成り立っていて」、使用される言葉も、耐えがたいほど「下品」であると、このあと酷評が続きます。

 つまり、ここでオースティンは、価値ある小説を不当に貶めるすべてのものに対して、ここで厳しい告発を行っています。彼女が「価値ある小説」として称賛しているのは、若い女性読者が、自分が読んでいるのは「ただの『セシリア』や『カミラ』、『べリンダ』にすぎない」と謙遜するような作品、「つまり、知性の偉大な力が示され、人間性に関する完璧な知識や、さまざまな人間性の楽しい描写、機知とユーモアの生き生きとした発露が、選び抜かれた言葉で世に伝えられた作品にすぎない」と、語り手であるオースティンは皮肉るように言います。ここでは、小説がいかに優れた文学ジャンルであるかという、作家としての信念が掲げられるとともに、それを解さないあらゆるものに対する諷刺が行われている。実は、オースティンが優れた小説の実例として挙げた『セシリア』や『カミラ』の作者フランシス・バーニー、あるいは『べリンダ』の作者マライア・エッジワースさえ、たんなる称賛の対象ではなく、実は諷刺を免れていません。バーニーは、『エヴリーナ』の序文において、作家のなかでも小説家は「数は多いが、尊敬に値しない」ことを認め、『カミラ』の出版時には、自らの作品を「小説」と呼ばねばならないことを遺憾としているのです。また、エッジワースも、『べリンダ』の宣伝文で、「この作品は教訓話として世に示されたものであり、作者は小説であるとは認めたくない」と述べています。したがって、彼女たちは、優れた小説を書きながらも、同時代の小説蔑視の風潮におもねって、自らの作品が「小説」であると取られることを避けたがっていたのです。したがって、オースティンがここで揶揄している作家 ― 小説を書くという自らの行為を貶め、敵といっしょになって小説を罵倒し、傷ついた仲間を見捨てている小説家 ―のなかに、優れた同時代の女性作家たちも含まれていることになってしまうのです。

ですから、この長大な小説擁護論はかなり毒のきいた皮肉がたっぷりと籠められているのですが、むしろ八方塞の出口なしのような状況にあるわけで、オースティンはその冷厳な事実を分かっているので、このような皮肉な書き方しかできないと思います。皮肉というより、むしろ、やけっぱちと言った方が当を得ていると思います。そういう小説の現状に対する認識をもっているなかで、その小説を擁護し、そのためにいままで貶められてきた小説とは違うものを書こうとしているのが、まさにこの作品であり、既存の小説と同じようなものであれば、同じように貶められてしまうので、そうでないもの、という〜でないという発想を持たざるを得なくなって、否定を積み上げてしまう結果を招いている。それが、ここでのオースティンの小説擁護論です。この時点では、この新しい小説も、未だ、こういうものだと示すところまで至っていません。オースティンとしては、この作品こそ価値ある小説となるもののはずだからです。

そこが、オースティンの他の作品にない、小説とはどういうものかという自己回帰的なところが、この作品の独特なものなのです。

第6章

前章に続いて、キャサリンとイザベラの二人が登場します。しかし、前の第5章では、作者による紋切り型のような紹介で、イザベラはこういうタイプの女性ということと、二人が仲良くなっていくプロセスで、小説のプロットの説明のようなものでした。これに対して、この第6章では、会話を中心に二人の女性が生き生きとして存在しはじめて、具体的な行動でキャサリンとイザベラの対照的な性格が明らかになってきます。読者には、前章の作者による説明よりも、ここにきて小説の場面での動きの中で表われる二人の女性の方が印象的にイメージできるのです。

イザベラは誰もが目を瞠るような派手なタイプの美人で、ファッショナブルな服装とスタイルにキャサリンはたちまち魅了されます。しかも、美辞麗句のような言葉を度々口にします。“私は親友のためなら何でもするわ。”“中途半端に人を愛することができないの。それが私の性分なの。”“私の愛情は過剰なほど強烈なの。”といった具合です。そんなイザベラは、実は自ら感傷小説のヒロインを演じていると言えます。暖かくて、寛大な、溢れ出る愛情を持ち、友情に忠実で、お金に興味がないというヒロイン役です。『ノーサンガー・アビー』についてはキャサリンは、しばしば小説のヒロインになりきってしまって、虚構と現実を混同してしまうことが言われますが、実は、イザベルもキャサリンとは違った意味で小説のヒロインになりきっているのです。感傷小説のヒロインの最後には金持ちの男性や貴公子と結ばれるハッピーエンドに行き着くわけです。イザベラはキャサリンと話している最中でさえも抜かることなく周りに気を配り、少しでも自分の気を引くような男性がいないか注意を払っている様子をオースティンは、生き生きと描いています。例えば、ポンプ・ルームでイザベラは、自分のほうを見ている二人の嫌な若い男たちを避けたがっている素振りを示しつつ、彼らが立ち去ったと知ると、一方はとてもハンサムな青年だったと矛盾した発言をして男性への興味を漏らし、彼らを追いかけて行こうとする。相手の本心が見抜けないキャサリンは、男たちに追いつかないようにと気遣うのですが、イザベラは同じ方向にある帽子屋に立ち寄りたいという口実と、男性をつけあがらせないという方針を主張して譲りません。“キャサリンはこんな道理には反論できなかった。それで、ソープ嬢の独立心と男に負けないという意地を示すために、彼女たちは直ちに出発して、二人の青年のあとを早足で追いかけた”という最後の一節では、上品さを装いつつ、誰彼となく異性に関心をもって油断なく目をつけ、追いかけようとするイザベラの姿を活写しています。対照的に、彼女に騙され言いくるめられているキャサリンの鈍感さ、あるいは純真さが際立たされるのです。この作品は小説の世界に魅了された夢見る少女が現実に目覚めていく話というひとつの大きな流れがありますが、それはキャサリンという一筋だけではなく、イザベルのように別の流れもあるのです。作者のオースティンは、それを一見しても分からないように巧妙に隠すようにしていますが、それが、小説の流れを豊かなものにしているのです。これは、こじ付けかもしれませんが、ミハイル・バフチンがドストエフスキーの小説を分析してポリフォニー構造ということをいいましたが、オースティンにその先駆を見てもいいのではないかと思うのです。

ただし、イザベラの行動には現実的な理由があるのです。イザベラの母ソープ夫人は未亡人で、金持ちではなく、その上、イザベラを含む娘三人とジョンを含む息子三人という合計六人の子どもがいます。ソープ夫人は明るく善人でありますが、子どもに甘いひとです。また、当時は一般的に母親は娘の結婚相手探しに奔走するものですが、そうすることもなく、物語にはほとんど登場しません。したがって、イザベラは自分の将来を考え、よりよい結婚相手を獲得するためその美貌を最大限に利用し、自らの計画を実行する必要があったのです。しかも、小説の影響で自身を小説のヒロインに同化して幸せな結婚をするというゴールを強く意識するようになっていた。だから、この作品におけるイザベラの役回りは悪女役を割り当てられたていますが。ゴシック小説の登場人物とはひと味もふた味も違うと言えます。オースティンはイザベラを普通の一人の女性として描いていると言えます。読者はイザベラの内心をちゃんと想像できる、ということは、共感することも可能なのです。それまでの男性作家による、物語のお飾りのような善玉の美しいだけヒロインとか、憎まれ役の悪の化身といった薄っぺらな女性ではない。そこに女性でもあるオースティンという作家のもっていた新しさが、こういうところに表われていると思います。オースティンは、女性を内側から知り抜いた女性作家の目で、普通の女性を諷刺の対象として、結婚市場における女性の策略や俗物根性を暴き出していきますが、イザベラは、打算的嫌らしさという点で『分別と多感』のルーシー・スティールや『高慢と偏見』のビングリー嬢、またコケティッシュな誘惑者として『マンスフィールド・パーク』のメアリ・クロフォード等の先駆けとなる人物と言っていいのではないでしょうか。ちょっとイザベラ・ソープを持ち上げすぎたかもしれませんが。

それは、前章で作者が展開した小説論について、この第6章で登場人物から異論が提示され、この小説が作者の小説擁護論を単純に提示するだけのものではないのです。まずは、二人の会話の中で、キャサリンはイザベラからラドクリフ夫人の『ユードルフォの謎』を薦められます。それが、キャサリンがゴシック小説にのめり込んでいくきっかけになるのです。つまり、後半のキャサリンの行動の基点となっているのが、ここで『ユードルフォの謎』を薦められ、読み始めて、惹きこまれて行くのです。それが、ここでさり気なく書かれています。ここでは、同時に小説について、二人の会話が挿入されています。イザベラは、ゴシック小説を沢山読んでいて、ゴシック小説の典型である『ユードルフォの謎』を読んだことがないキャサリンをとても奇妙に思うと、見下すように会話は始まります。イザベラは、その原因をキャサリンの母が小説に反感を持っているからと推測するのですが、ここでキャサリンは『サー・チャールズ・グランディソン』を持ち出すと、即座にそれを退屈な小説だとイザベラはこの作品を全く受け入れる気はないことを示しています。実は、『サー・チャールズ・グランディソン』は人間関係を中心とした市井の人の営みを主題とし、細部性具象性実証性を具えた話的性格が色濃い作品で、その作者であるサミュエル・リチャードソンというイギリス小説の父と言われ、オースティンが大きな影響を受けたと言われています。つまり、前章で、作者の言葉として“つまり小説とは、偉大な知性が示された作品であり、人間性に関する完璧な知識と、さまざまな人間性に関する適切な描写と、はつらつとした機知とユーモアが、選び抜かれた言葉によって世に伝えられた作品なのである。”とのべていた、ひとつの実例が『サー・チャールズ・グランディソン』と言えるのです。それを、こともあろうに、すぐ後で、登場人物に退屈といって否定されているのです。この『ノーサンガー・アビー』では、作者が作品中で小説についてしばしば言及し、メタ小説の要素がありますが、それは必ずしも作者の小説に対する考え方をモノローグのように開陳して読者に聞かせるというのではなくて、小説については様々な立場があり、それに従って意見も多様です。そういう異なる意見をここでは作者の考えとは相容れないところもあるかもしれませんが、ダイアローグのように登場人物たちに議論をさせています。このあとでも、ティルニー兄妹とのキャサリンとの会話で歴史と小説を比べながら議論するところが出てきます。これらによって、小説とはどういうものかという議論が分厚くなり、メタ小説としての豊かなひろがりが、登場人物たちの行動の様々な方向性とリンクするように(例えば、キャサリンとイザベラ、エリイとの生き方の違いと小説観の違いが、リンクするように対照されています。)読み取ることができます。従って、メタ小説といっても観念を弄ぶようなものではないのです。

なお、『サー・チャールズ・グランディソン』に関しては、キャサリンの母が呼んでいた小説として紹介されていて、キャサリンの両親は、平凡ではあるけれど、正直で、実直な人柄で、田舎での日常生活の現実には対処できる充分な道徳観念を持った人々で、そういう人が読んでいた小説として紹介されているわけです。つまり、軽薄で打算的なイザベラには拒まれるが、キャサリンを育んだ分別のある常識人には受け容れられる小説というわけなのです。その『サー・チャールズ・グランディソン』の良さが分かるキャサリンも、母親の資質を受け継いでいることが分かるのです。

第7章

キャサリンは、兄であるジェイムズと再会し、同時に、兄の友人でありイザベラの兄であるジョン・ソープと出会います。それは道路をあるいていたキャサリンとイザベルの二人とトラブルを起こした馬車に乗っていたのが彼らだったという、出会いです。ジョンソープはでっぷり太った中背で、自分が美男子だと思い込んでいるような自分を知らない人で、後で明らかになりますが、自分勝手で他人のことを思い遣るということのない人です。会話の話題は馬車など自分の持ち物の自慢話か金銭に関することのみです。例えば、キャサリンとソープとの会話で、ソープが馬車の話題が途切れると話すことがなくなったので、黙りがちになったので、キャサリンが話題をかえて小説の話をしようとすると、次のような会話となります。

「あのソープさん、『ユードルフォの謎』をお読みになったことはありますか?」

「『ユードルフォの謎』?とんでもない!読んでいません。ぼくは小説なんて読みませんよ。ほかにすることがありますからね」

キャサリンは恥ずかしくなって小さくなり、そんな質問をしたことを謝ろうとしたが、ジョンがさえぎってこう言った。

「小説って、馬鹿なことばかり書いてありますね。『トム・ジョーンズ』のあとは、ろくな小説はありませんね。まあ、『修道士』くらいですね。『修道士』はこのあいだ読みました。でもほかは、どれもこれも馬鹿な小説ばかりです」(P.63〜64)

ここで、小説に関する別の意見が出てきました。このようにこの小説では、物語中の至る所に、このように意見が分散してあらわれます。第4章で作者がまとまった小説論を開陳しましたが、あれは例外的なことで、小説の中の登場実物たちが、それぞれが置かれた環境の中で、その人物のあり方にかさなるように、それぞれの小説に対する考え方が、とくに会話の中で明らかにされます。この作品は、前の章においてポリフォニー的の先駆ではないかということを述べましたが、むしろオースティンは点描のように、作品中でポツリポツリと登場人物たちに、それぞれの立場、場面で、例えば小説について語らせているのです。それが登場人物たちで議論をたたかわせて、それが物語を進めていくということにはなりません。ドストエフスキーの長篇小説では、その議論が物語の骨格になっていたりして、例えば『罪と罰』ではラスコーリニコフの思想に対して他の人物達との論争のような議論が物語のひとつの中心になっていますが、この作品では、そういうことにはなりません。むしろ、ドストエフスキーの小説が、議論の部分が大きくなって多少観念的で(議論のための議論になってしまいそうで)、登場人物たちの生身の動きが地に足がついていない理想化しすぎているように見えるところがあります。オースティンは、そうなってしまうのを避けたのではないかと思えるところがあります。それが、議論をたたかわすことを前面にするのではなくて、それぞれの場面でそれぞれの人物たちに、それぞれ語らせて、あとは読者に任せるというのか、この小説でとられているやり方ではないかと思います。この場合も、イザベラ・ソープという、軽薄で享楽的なところのある俗物的な人物の発現ですが、当時の社会で現実的な男性が一般的に抱いていたであろう小説に対する意見はこんなところではないか、と納得できてしまうのです。端的に言うと、差別的な言い方ですが女子供の娯楽という考え方で、そういう風潮に媚びるようにして作家は作品を制作していかなければならなかった。おそらく、この時代に量産された読み物としての小説の大半はこのジョン・ソープのような外野の意見と、イザベラ・ソープのような読み手に消費されることを想定して制作されたと言えるのではないか。オースティンは、ジョン・ソープの意見に対して、風刺的な扱いをしていますが。決して否定はしていません。それは、そういう一般的な風潮があって、オースティンもそれを一旦受け容れざるを得なかったからではないでしょうか。

ジョン・ソープという人物は、この後でキャサリンを振り回し、騒動に巻き込んでしまうような人物で、悪役に位置付けられる役回りですが、たんなる狂言回しとしてだけでなく、一人の人間として一般性のあるように書かれていることが、この小説に対する意見のところなどに表われている。それが、この小説の特徴なのです。ジョン・ソープは友達にしたくない、なるべくなら遠ざけたいような人物ですが、こういう人いますよね、たしかに。

なお、この会話の中で、キャサリンはジョン・ソープに対して不愉快な印象を持ちつつも兄の友人で、親友イザベラの兄だからと、ダンスの申込みを受けて断りなかったことが、あとになって辛い思いをすることになるのですが。

第8章

この第8章の冒頭で『ユードルフォの謎』を読み耽るキャサリンの様子から始まります。

キャサリンは『ユードルフォの謎』を読みふけり、仕立て屋の到着も多少遅れたけれど、アレン夫妻とキャサリンは、約束の時間どおりアパー・ルームに到着した。(P.70)

ほんの短い一説ですが、実は、この直前、第7章の終わりはキャサリンが帰宅して『ユードルフォの謎』を読み耽るところなのです。第7章から第8章は、章をまたぎますが、キャサリンが読書に耽っているので続いています。読者は、キャサリンが『ユードルフォの謎』に熱中しているのが、一度にいわれるのではなくて、このような短い描写が、この前にも何度も出てきます。それがボディーブローのように徐々にきいてくる。そういう小出しにして、最初に出会うときには、読者はそれほど気に留めることはないのに、それが手を変え品を変えで繰り返すように、例えば、キャサリンはイザベルとの会話で『ユードルフォの謎』を読んでいることを話題にしたり、ジョン・ソープとの会話でも持ち出します。散発的にでてくると、無視できなくなり、徐々に印象が強くなってくる。まるで、キャサリンは四六時中『ユードルフォの謎』に夢中になっているように見えてくるのです。そういう点描的な手法とでもいい手法を、オースティンは、この作品で、いろいろと使っています。小説の議論なんかもそうですが、ここでは、確認のために、キャサリンが『ユードルフォの謎』を読み耽るのに関係した文章を引っ張ってきましょう。

ソープ家とアレン家の一行が社交会館のオクタゴン・ルームで落ち合う時間も決まったので、キャサリンは『ユードルフォの謎』を読みはじめ、ワクワク、ハラハラ、ドキドキのすばらしい想像力の世界に浸った。舞踏会のための着替えのことも、食事のことも、俗事はいっさい忘れ、仕立て屋の到着の遅れを心配するアレン夫人をなだめることもせず、今夜の舞踏会のダンスの相手がすでに決まっているわが身の幸せさえ、一時間の間にたった一分思い出しただけだった。(第7章 P.69)

「今日はいままでひとりでなにをしていたの?『ユードルフォの謎』を読んでいたの?」

「ええ、今朝起きてからずっと読んでいたの。いまちょうど黒いヴェールのところよ」

「ほんとに?まあ、すてき!でも、黒いヴェールのうしろに何があるか、ぜったい教えてあげないわ!ものすごく知りたいでしょ?」

「ええ、すごく知りたいわ。いったい何かしら?でも言わないで。言ってもぜったい聞かないわ。たぶん骸骨ね。きっとローレンティーナの骸骨だわ。『ユードルフォの謎』はほんとに面白いわね。一生読んでいたいくらい。あなたに会う約束がなかったら、ぜったいに途中でやめたりしなかったわ」(第6章 P.49)

今日の計画が決まったので、キャサリンは朝食を終えると、静かに座って本を読み始めた。時計が1時を打つまでは、ここを動かず本を読み続けるのだ。(第9章 P.84)

こんな具合ですが、これらが、後半でキャサリンがノーサンガー・アビーに招待されることへの興味の伏線となっているのです。

さて、物語は舞踏会の場面に移ります。楽しみにしていたダンスも、昨日、ダンスを申し込まれたジョン・ソープはキャサリンを置き去りにしてどこかへ行ってしまいます。兄のジェイムズとイザベルはダンスを楽しんでいます。その間キャサリンは、ダンス相手のいない女性と周囲の人びとに思われてしまった上に、せっかく申し込まれたヘンリーからのダンスを断らざるをえず、悔しい思いをするのです。これは、後日、ジョン・ソープがキャサリンをドライブに強引に連れ出して、ティルニー兄妹との散歩の約束を自分の都合を優先させるために破らせてしまうことの前触れとなっています。それは、ジョン・ソープという人物の自分勝手で、不誠実な性格の現われなのですが、まだ、このダンスの申込みの段階では、それほど悪質なものとして目立つものではないのです。それが、あとになって、徐々に質の悪さが露わになってくると、そう言えばと想起される伏線となってきます。それは、不誠実さだけでなく、第7章で出会ったときのキャサリンとの会話で、馬車と馬の話題を自分勝手にひとしきり話した後で話題がなくなり、キャサリンの話をきくでもなく、通り過ぎる女性の品定めをするという行為が、ここで繰り返されます。つまり、キャサリンを放ったらかしにして屈辱的な思いさせたことにも気付かず、彼女を待たせたあと、無神経にそれまで会っていた友人の馬や犬の話や、その友人と犬を交換するなどの話を、キャサリンが興味を持つかなど、お構いなしにこまごまと始める。キャサリンが視線をヘンリーのいた場所に向けるのに気づかないのです。

一方、そのような理不尽な扱いをされた側のキャサリンは、相手がどうあろうと約束を破ることはできない。そういう常識を両親からしつけられていて、無意識のうちにも秩序ある社会においては慣例的な礼儀を果たさなければならないということを認識しているのです。それが、このときの彼女の振る舞いに表われています。そういうキャサリンですが、ジョン・ソープの不誠実に不快感を持ち始める。それが、後に決定的な場面でソープを拒絶することになる、伏線となっています。

一方、キャサリンはヘンリー・ティルニーとの再会を果たし、彼の妹であるエレノアと出会います。イザベラとはまったく違った女性ですが、キャサリンはヘンリーの妹ということだけでなく好感を持ちます。

ミス・ティルニーはスタイルがよくて、美しい顔立ちで、とても感じのいい表情をしていた。イザベラ・ソープのような際立った派手さはないし、流行の最先端という感じもないが、ほんものの優雅さが感じられた。その態度には、良識と育ちの良さが現われ、すこしも内気な感じはしないが、必要以上にあけっぴろげなところもなかった。とても、魅力的なお嬢さまだと誰もが思うだろうか、本人は、舞踏会で男性の注目を集めようとは思っていないし、ちょっとしたことで有頂天になって狂喜したり、信じがたいほど怒り狂ったりすることもなさそうだった。(P.76)

ここでエレノアはイザベラと比較しながら紹介されています。この二人は対照的で、敢えて言えば、ゴシック小説の悪女がイザベラでヒロインがエレノアに当たるような書き方で、ここにゴシック小説のパロディと見られている要素が表われているかもしれません。では、キャサリンはどうなのでしょうか。おそらく、キャサリンは読者であってゴシック小説の外にいるのです。つまり、キャサリンとエレノアの関係は、小説をワクワクしながら読んでいて、ヒロインに感情移入している読者と、小説のヒロインの関係になぞらえることができるのではないでしょうか。だから、エレノアがヘンリーの妹であることとは別に、キャサリンがエレノアをひと目で気に入ってしまうのは、そういう構造にこの小説が作られているからだと言えます。キャサリンという人物は受け身で、自分から行動を起こすということは少ない人物です。ヘンリーと出会っても、ひたすら待つだけなのに、エレノアに対しては、自分から彼女を探し、エレノアのもとに自ら赴いて、交際を申し込むという積極的な行動をとります。一方、エレノアは小説のヒロインで読者に読まれるだけですから、キャサリンに対して受け身の姿勢なのです。

ヘンリーとの再会を果たし、妹のエレノアとも出会ったこの夜の舞踏会は、しかしキャサリンにとっては、あまり楽しくはないものでした。それはジョン・ソープの自分勝手な振る舞いに振り回されたためでした。

ところで、この章について述べた最初のところで、キャサリンが『ユードルフォの謎』を読み耽るという記述が短いのですが、何回も繰り返し出てくるということを指摘しました。この小説の中で、とくにバースでの場面に顕著なのですが、(実は、後半でキャサリンがノーサンガー・アビーに招待され時の描写にも、繰り返しのパターンがあるのですが)、繰り繰り返しが多いのです。というよりも、バースでのシーンは基本的にはすべて繰り返しで構成されているのです。舞踏会を例にあげれば、バースについてすぐ、不慣れな状態でアレン夫妻に連れられたキャサリンは舞踏会デビューを果たします。その時は、知り合いもなく、会場の混雑に圧倒されて、身の置き場も分からず困惑するばかり。踊ることも、会話もできず、疲れてだけという経験。次が、儀典長にダンスの相手を紹介されてヘンリー・ティルニーと出会うことになる。そして、第3回目が、この章での舞踏会で、この後にも舞踏会の場面が出てきます。このように舞踏会の場面は繰り返すように現われて、その繰り返しのたびに、キャサリンは前回と同じではなく、舞踏会のたびに変わってきます。それは社交界に慣れてきたというのもありますが、彼女の成長が前回と比べると同じではないということで、分かるのです。だいたい成長というのは、階段を上がるようなステップアップではなく、スロープを上がるように緩慢で滑らかな変化を続けるようなもので、ずって見ていると成長したことが分かり難くなります。ところが、この舞踏会のように場面で区切って前回と比較すると、前回との間の時間は断絶しているため、ギャップがあり、変化していることが見えてくるのです。しかし、それはキャサリンという人物だけに注目してのことで、それだけでなく、舞踏会の繰り返しのたびに舞踏会に登場する人間関係が変わってきます。最初の時は、アレン夫妻に連れられてとはいえ、キャサリン独りという状況でした。舞踏会という皆が楽しんでいる場所でキャサリンは独りの部外者のように取り残されていた。それが二回目の時にはヘンリーというパートナーが現われて、キャサリンは漸く舞踏会にコミットすることができた。さらに、ヘンリーとの関係が始まるわけです。そして、この章での舞踏会では、キャサリンはすでに常連のメンバーのように振る舞い、ソープ家の人々や兄という仲間もできて次第に舞踏会での存在感が生まれてきます。また、ジョン・ソープのようなキャサリンに対して害をなすような人物との関係も生まれます。最初は独りぼっちだったキャサリンが、2回目では相手をできて、3回目には仲間という関係ができていく、その拡がりが他方では恋の相手と彼女に災厄をもたらす人物との関係もできていくという物語の展開も作っていく。これは、舞踏会だけでなく、ジョン・ソープの馬車に乗せられるということも最初にバースの街中での事故でのことから、兄やイザベルとともに遠乗り、その2回目ではティルニー兄妹との約束があったにもかかわらず合意うに連れて行かれるといったこと。あるいは、ポンプ・ルーム等でのイザベラとのおしゃべりの時間。あるいはティルニー兄妹との散歩。それらが、変化しながら繰り返される。まるで、複数の主題を変奏させながら交互にいり変わり立ち代り繰り返し、各主題の綾が絡んで、一つの大きなものがたりになっていくのです。まるでクラシック音楽の交響曲のソナタ形式のようです。これは、同じオースティン作品で『高慢と偏見』でも、舞踏会は何度かありますが、物語の中のエピソードとしてであり、『ノーサンガー・アビー』のように繰り返すことで変化が分かるようになるという構成にはなっていません。しかも、そういう変化しながら繰り返すのがある一方で、『ユードルフォの謎』を読み耽るという同じ行為が短いながら、何度も現われます。その他にも、夜寝たとか、朝起きてアレン夫人の相手をしたとか、日常的な繰り返しが飽きずに挿入されます。まるで、頭の悪い小学生の夏休みの日記のようです。しかし、それは舞踏会のように変わっていく繰り返しがある反面、日常的なところは毎日同じ繰り返しがあること、それをわざわざくどいほど挿入しているのは、繰り返し同士の対照をつくって、変化を際立たせているのだろうと思います。また、ゴシック小説のような波乱万丈のロマンスでは、日常の細々としたことは、むしろ、そういうことを忘れさせて、非日常の世界に誘うので、そういうことは書かれることはないでしょう。ここでオースティンがほんの短い文章ですが難解も繰り返したのは、リアルな日常との接点を作ろうとしたのではないかとも思います。

第9章

昨夜の舞踏会では、みじめな気分なりましたが、一晩ぐっすりと眠ったキャサリンは、翌朝は爽快に目ざめます(これも繰り返しですね。お決まりの読書の記述の短く挿入されています。)。前向きな気持ちになり、エレノアとの親交を深めようと、あれこれ計画を考え始めます。昼にポンプ・ルームへ赴き、そこにエレノアも来ているであろうから、そこで、昨日の会話の続きをしようと考えます。

しかし、その計画に、思わぬ横槍が入ります。ジョン・ソープから馬車の遠乗りに誘われたのです。昨夜、そういう話をしたことになっていますが、キャサリンにははっきりとした記憶がありません。小説には明確に書かれていませんが、この後で明らかになってくる彼の行動パターンから、おそらく急に思い立って馬車に乗りたくなり、キャサリンの都合などお構いなしに誘いに来たのでしょう。昨夜、そういう話をしたというのは、それらしい口実ではないでしょうか。そのあたりは、強引さといい、この時点では、未だ、それほど目立っていません。しかし、結局、気乗りがしないままキャサリンが強引な誘いに押し切られるように馬車に乗せられると、馬車でのソープとの会話に、不愉快な思いを募らせていき、徐々にソープという男の招待が明らかになってきます。

「アレン老人はものすごい金持ちなんでしょうね?」

キャサリンは何のことかさっぱり分からなかった。ジョンはもう一度質問を繰り返し、「アレン老人ですよ。あなたと一緒にいる」と付け加えた。

「あら、アレン氏のことですか?ええ、お金持ちだと思います」とキャサリンは言った。

「それで、子どもは一人もいないんですか?」

「ええ、一人も」

「子供のつぎに権利がある相続人にはおいしい話だな。アレン氏はあなたの名親なんでしょ?」

「私の名親?いいえ、違います!」

「でも、あなたはいつもアレン夫妻と一緒にいるじゃないですか」

「ええ、いつも一緒にいますけど」

「やっぱりね。それが聞きたかったんです。」(P.88)

ジョン・ソープは、どうやら子供のいない財産家のアレン氏の保護下にあるキャサリンを彼の相続人だと思っているらしいことが、この会話から分かってきます。しかし、キャサリンは単にアレン氏のことを話していると思っていて、彼の質問の隠された意味が理解できません。つまり、ジョン・ソープがなぜキャサリンに接近してきたか、その真意を理解できず、単に親友の妹だからという程度のことしか思えないのです。そのキャサリンの鈍感さについては、作者による紹介でストレートに指摘されてきましたが、それにつづく馬車についての会話で、ソープがジェイムズの二輪馬車はおんぼろで、「僕は5万ポンドくれるといっても,あんなものに乗って2マイルも行きませんよ」と言ったすぐ後で、おびえるキャサリンを見ると、「僕なら5ポンドで,あれに乗って,釘一本失くさずに,ヨークまで行って帰ってみせます」と宣言する。キャサリンはひとつのことに関して、まったく異なる二つの説明を聞いて驚くだけです。それについて、作者は改めて次のように述べています。

キャサリンはその生まれ育ちゆえに、おしゃべりな人間の癖を知らないし、過剰な虚栄心を持った人間がくだらない主張をしたり、恥知らずな嘘をついたりするということを知らなかった。キャサリンの両親は、ごく平凡な現実的な人たちで、機知を楽しむ習慣はなく、父親はときどき駄洒落を言う程度だし、母親はときどきことわざを口にする程度だった。だから彼女の両親は、自分を偉く見せるために嘘をついたり、いまこう言ったのにつぎの瞬間に正反対のことを言ったりすることはいっさいなかった。(P.92)

このようにキャサリンの鈍感さを、正直さとして、ある意味で彼女が純真であるというニュアンスを作り出しています。従来のヒロインの類型に当てはまらない、普通の少女として設定しているというようですが。実は、この純真さのニュアンスと示すということで、作者オースティンは巧みに理想化をしていると思います。このところで、最初に、ソープはアレン氏が金持ちであることを確認し、キャサリンはその財産を相続するという思いを強くします。その裏には、いわゆる逆玉ねらいの意図が透けて見えますが、キャサリンはそれに気がつきません。また、この小説の読者にも、この時点でははっきりさせていません。作者は、その後ですくに馬車の話題に会話を流してしまいます。そして、上記のようなキャサリンの鈍感さを指摘するコメントを入れるのです。ここで、読者はキャサリンの率直さは印象に残ると思いますが、ソープの陰謀(?)は仄めかされますが、すぐに引っ込められて、伏線のようになっています。このあとでソープがキャサリンを探るように、似たような質問をする場面ができますが、それも繰り返しのテーマです。しかも、多くの場合、そういう繰り返しのテーマが最初に表われたとき、この場合のようにさり気なくして、読者には、それと分からないように努力している。それが後になって、繰り返されるのを読者が気付くと、そういえば・・・と思い起こそうとする、そいういうものとなっています。

その遠乗りから戻ってくると、思いの外時間がかかってしまって、夕方近くなっていました。そのため、昨夜から経過していたポンプ・ルームに出かけるには、もう遅すぎる時刻となってしまいました。しかも、アレン夫人はキャサリンがジョン・ソープたちに誘われて遠乗りに出かけていた間に、ポンプ・ルームに出かけてエレノアと会っていたことを夫人から聞きます。キャサリンは、エレノアと出会って、すぐに気に入って、親しくなりたいと望みますが、なかなか会うこともできません。このパターンはヘンリー・ティルニーと似たようなパターンです。つまり、このはじめの方の物語の一つの推進力として、キャサリンがヘンリーに会いたいと、あれこれ考えたり、いろいろなところに出かけたりしても、なかなか会えない。その縮小版がエレノアとの関係といえそうです。これに対して、イザベルとジョンのソープ兄妹とは常に一緒であり、キャサリンが求めて会いに行くというより、ジョンがキャサリンに会いに来るのをキャサリンが避けるという、ティルニー兄妹とのパターンと対照的なパターンで、それぞれのパターンが対照されるようにキャサリンをめぐって繰り返されます。

第10章

その晩、キャサリンはイザベルたちと会います。ここでは、イザベルと兄のジェイムズが仲睦まじい様子が描写されていて、それ横目に、キャサリンは、明日こそは、エレノアと会おうと決意を新たにして翌日、キャサリンは意を決して、勇躍ポンプルームに向かいます。そこでまた、イザベラと会いますが、彼女と兄の様子を見ているうちに、二人の会話に入って行けない雰囲気を感じます。

キャサリンはいつものように、すぐにイザベラと一緒になった。最近いつもイザベラに付き添っているジェイムズも一緒になり、三人はほかの連中から離れて、しばらく三人で部屋を歩き回っていたが、やがてキャサリンは疑問を抱きはじめた。こうして三人だけでいて、しかも、ふたりから除け者同然の扱いをされている自分の状況は、はたして幸せなのだろうか?イザベラとジェイムズは、感傷的な議論や活発な口論に夢中だが、感傷的な議論はささやき声で行われ、活発な口論は大きな笑い声が混じるので、キャサリンはその内容をひと言も聞き取れなかった。だから、たびたびふたりから賛同を求められても、意見の言いようがなかった。(P.102)

これは微妙ですね。キャサリンもイザベルも、いつもと変わらないつもりでいるのに、それまでとは、どこか違ってしまっている。それをイザベルは気付いていないが、キャサリンは微妙に感じ取っている。しかし、明確にそうだとは言えない。その微妙な変化は、それまで、キャサリンとイザベルの様子を繰り返し表わしてきたからこそ、ここで生じている小さな変化を書くこともできたし、キャサリンが何となく感じたということを書くことも可能になったといえます。もしこれが、二人の場面がものがたりのエピソードとして、何かの事件の場面のときだけ書かれるというのでれば、この変化はひとつの事件ということになって、こんな微妙なニュアンスではなくて、もっと決定的な場面ということになってしまったでしょう。波乱万丈のゴシック小説はそういう事件の連続で物語ができています。これに対して、オースティンは、日常的なもの、ゴシック小説に比べれば事件らしい事件も起こらないところで小説を書いているわけです。そこでは、こういう微妙な変化ともいえないような変化を捉えて、そこで心が移ろっていく、それが行動となって、物語に推進力を生む、ということを試みているわけです。実際、この後キャサリンは、意を決して、エレノアを探し、キャサリン自身からエレノアに話しかけるという積極的な行動を起こすことになるのです。

しかも、この引用した文章は、作者による説明ですが、これが客観的な外形描写なのか、キャサリンの内心なのか、明確に区分できないような微妙な文章です。最初の“キャサリンはいつものように、すぐにイザベラと一緒になった。”は明らかに客観的な描写です。これに続く文章の前半、“最近いつもイザベラに付き添っているジェイムズも一緒になり、三人はほかの連中から離れて、しばらく三人で部屋を歩き回っていたが、”までも同じです。そして、この後の部分、“やがてキャサリンは疑問を抱きはじめた。”はキャサリンの心理状態の描写に変わります。次の“こうして三人だけでいて、しかも、ふたりから除け者同然の扱いをされている自分の状況は、はたして幸せなのだろうか?”はキャサリンの内心の声、モノローグです。次の文章の前半、“イザベラとジェイムズは、感傷的な議論や活発な口論に夢中だが、感傷的な議論はささやき声で行われ、活発な口論は大きな笑い声が混じるので、”は客観的な描写なのか、キャサリンが感じたことなのか、どちらとも受け取れる文章なのです。この文章の受け取り方が違うと、これに続く“キャサリンはその内容をひと言も聞き取れなかった。だから、たびたびふたりから賛同を求められても、意見の言いようがなかった。”はキャサリンの心の状態なのか、客観的な状況なのかかわってくるのです。おそらく、オースティンは、その両方に取れるように意図していたのではないかと思います。翻訳なので確かなことは言えませんが。しかし、この状況変化が、キャサリンをエレノアとの交際に促すことにつながっているのです。だから、この文章は作者が鳥瞰的な立場で客観的に語っているのではない。この文章はキャサリンを動かしています。この文章は客観的な状態でもあり、キャサリンの内心でもあります。この『ノーサンガー・アビー』で、オースティンは、このような語りをいたるところで行っています。その理由のひとつとして考えられるのは、この小説の本質的なところに関連しているところではないかと思います。

それは、こういうことです。この小説は、この物語の中でキャサリンが読み耽っている『ユードルフォの謎』等のゴシック小説のような荒唐無稽の設定で波乱万丈の物語手に汗を握るという物語ではありません。むしろ、その正反対の、平凡な主人公が普通の人々の中で日常的な毎日を繰り返していることを題材にした物語です。読者は、波乱万丈で先の見えない物語の展開にワクワクするのでもなく、ヒーローやヒロインの活躍やピンチの胸を躍らせるわけでもありません。この物語の主人公であるキャサリンは、行動的であるわけでもなく、受け身の行動パターンでもあるので、彼女がアクションを起こすということも期待できません。しかし、実は、人というものは、何か行動をする時、あるいは、何も行動していないように見えても、実は、その時に考えたり、何かを思ったりしている。もっと後の時代の言葉でいえば、内面をというものをもっていて、それは絶えず動いている。そこにこの小説は足を踏み入れようとしている。それは、内心ということが発見された現代からの視点で見ているので、そう見えるのかもしれません。そうは、後年の心理小説を経験しているからでしょうか。しかし、そういう小説、例えばドストエフスキーの小説の人物たちは、反省的で、絶えず、ウジウジするほど、色々と考えていて、その反省しているのは内心の声として、人物のモノローグのように語られています。それに比べると、この小説のキャサリンはドストエフスキーの人物たちのように反省的ではないし、そもそも内心なんてものを持っていません。そんな屈折もしていないし、そんなめんどくさいことをやっていられません。例えば、ジョン・ソープに強引に遠乗りに連れて行かれて、遠乗りが楽しくなくて、不愉快な思いをしても、楽しみにしていたエレノアとの再開が果たせず、アレン夫人は会えたということも、そういうことは後を引きずるように気にしないで、気を取り直して眠りにつく、そういうキャサリンの姿は、何度も出てきます。それが、こういう日常的なところで小出しするように書かれています。これは、ひとつには、おそらく、キャサリンや両親というのは、ひとつの理想化された素朴で実直な庶民、堕落した有閑階級に対して、しかもキャサリンは未だ子供で、そこに無垢な存在として、それが周囲の汚れた大人たちに囲まれて変容していく、アダムとイブが楽園を追放される旧約聖書以来の神話的な物語のパターンとしてオースティンは意識してはいないかもしれませんが、ベースにあるように思えるのです。聖書の楽園を追放される前のアダムとイブには内心なんてありません。知恵の実を食べてはじめて羞恥を覚えたのですから。それになぞられているようなキャサリンに、内心のモノローグなんて無理です。とはいえ、ゴシック小説のヒーローやヒロインのように心は空っぽで類型的なパターンで行動するハリボテではありません。普通の人間として思い、感じている、そういう人物です。そういう人物が小説の中にいて、自分で感じ、考え、行動する。いわば、読者が共感するようなパターンの部分的には生まれてきているのではないか。そういうところに、この小説の本質的な魅力がある。そのキャサリンが思い、感じることを、キャサリンは、自身で語ることのできるような存在ではない。むしろ、キャサリンの内心は語ることができるほど自立も自律もしていない。そこで、オースティンが採った方法が、このような語り口なのでないかということです。作者がキャサリン本人に代わって、キャサリンの内心をすくい上げて、作者の言葉として語っている。この時に、キャサリン自身は、こう思っているという自覚はないかもしれないのです。だから、作者が語るのです。ちなみに、これは日本の少女マンガ、とくに24年組といわれる作家たち、例えば大島弓子、萩尾望都、倉多江美といった作家達が思春期やそれ以前の内面が確立する前の未分化の内面を表現するときに、少女の内面と現実世界の境界が曖昧になって、その間を行き来するような表現をつくっていったのと、このオースティンの試みには共通点があるように思えるのです。それ以外にも明治の初めに言文一致の小説の試みで、二葉亭四迷が落語の語りを『浮雲』の中で試みているのはいかかでしょうか。

さて、キャサリンは、ポンプ・ルームでエレノアと再会を果たし、親交を深めます。そして、翌日の晩の舞踏会での再開を約束します。その場には、エレノアの兄であるヘンリーも出席するであろうことも。そして、舞踏会の場面です。この小説の中で繰り返し現われる場面です。これで何回目となるでしょうか。

キャサリンが木曜日の晩にアパー・ルームに入っていったときの気持ちは、この前の月曜日の晩とは全く違っていた。あの晩は、ジョン・ソープとのダンスの約束で有頂天になっていたが、今度は、また、彼から申し込まれたら大変だと思い、ジョンの視線を避けることばかり考えていた。ティルニー氏から三度目の申込みを期待することはできないし、期待するのもかしいが、それでもやはり、今夜の彼女の願いと希望と計画は、その一点に集中しているのだ。若い女性なら、このような危機的状況に立たされたヒロインは必ずや同情してくださるだろう。若い女性なら、同じような心の動揺を経験したことがおありだろう。会うのを避けたい男性に追いかけられる危険を経験したことが、少なくともそういう危険を感じたことがきっとあおりだろう。そして、好かれたい男性の関心を引こうと必死になった経験もきっとおありだろう。(P.106)

ここでも作者は、キャサリンになり代わって語っています。しかし、作者はキャサリンではなく、キャサリンとして語るわけではありません。そこで、どうしても突き放した語りになってしまう。それが、この文章にも感じられる皮肉です。これは考えの飛躍ですが、この小説全体がパロディとして書かれていることは、批評家や研究者は指摘していますが、その理由はこういう内在的なところにあるのではないでしょうか。

さて、ここでさらにもうひとつ、キャサリンは内心を自分で語ることはなく、作者が説明してあげるということ以外に、キャサリンの行動に仄めかしとして表われている。そうてないと、キャサリンはは自身を他人に伝えることはできないわけで、読者はそこからキャサリンの気持ちなどを推測できるのです。それをオーステインが意識的な使っているのが視線の動きではないかと思います。上の文章でも、ジョン・ソープからのダンスの誘いをさけるために、“度は、また、彼から申し込まれたら大変だと思い、ジョンの視線を避けることばかり考えていた。”と言っています。この視線について、少しまとめて述べてみましょう。この視線の中心となる人物はキャサリンです。彼女は思ったことを十分言葉で語ることがない代わりに、作品の中で視線で語っているところがあります。読者は彼女の視線を何度となく追いかけていると思います。たとえば、それによって彼女が気持ちを伝え合うことができる人物と、そうでない人物をはっきりと書き分けれていることに気付くことができると思います。彼女の気持ちを伝え合うことのできる人物の第一に数えられるのが兄のジェイムズです。第一部の終盤でキャサリンの友人であるイザベラと、ジェイムズの婚約が成立する場面において、キャサリンは素直に喜んで、その気持ちを兄に伝えようとするのは、言葉ではなく視線です。婚約を祝うための的確な言葉が見つからないキャサリンの目から、それゆえに最も表現の豊かな言葉の欠片となってその感情が溢れ、それらを兄のジェイムズはたやすく結びつけて、その視線に込められた気持ちを正確に読み取っている。この場面を見るだけでも、彼女と兄との良好な関係がうかがえるのです。しかし、この物語でジェイムズ以上にキャサリンの視線を向けられるのはヘンリー・ティルニーであることは明らかでしょう。例えば、第4章から5章にかけて、ヘンリーとの再会を願って、キャサリンの視線はアッパー・ルームとロウアー・ルーム、盛装と平服の舞踏会、街を歩く人、馬上の人、馬車の中の人々にも向けられるが、ヘンリーを見つけることさえできず、さまよいます。そして、第8章で再開した二人の間の視線のやり取りが活写されています。

これに対して、キャサリンは、ジョン・ソープとは視線を避けようとする姿勢が目立ちます。同じ第8章でキャサリンはソープとその約束をしているがために、ヘンリーからのダンスの申し出を受けることができません。しかしソープとの会話があまりにも他愛のないものであるため、ダンスの間、ヘンリーと別れた方向に視線を向けざるをえないのです。上で引用した文章もそうでした。この第十章で、舞踏会が始まっても、キャサリンはソープにその相手をすることを申し込まれないように、彼の視界に入らないように、視線を避けることに躍起になって、ソープと視線が合いそうになると、うつむいて扇を見つめるのです。しかし、ソープは、そういうキャサリンの思惑などお構いなしに、ヘンリーの誘いを受けてダンスをするキャサリンに、「やぁ、ミス・モーランド!」という言葉とともにキャサリンに背後から話しかけ、自らの無神経さを露呈するとともに、ソープにもキャサリンにも、相手の目を見て話そうとする意思が全くないことが分かります。しかも、背中から突然話しかけたり、相手が何か言おうとしているときに後ろを向いて去っていったりというソープの非常識な態度から、この二人の間には友情にせよ愛情にせよ、この先友好的な関係が結ばれことはないことを暗に示しています。

そて、何回目かの舞踏会、キャサリンは念願かなってヘンリーとのダンスに興じます。このヘンリーとのダンスについて、第8章の舞踏会でのジョン・ソープと踊った時と対照されています。パターンをくりかえすことで、その差異が際立つように強調されるわけです。ジョン・ソープとのダンスでは、キャサリンは視線をソープと合わせることをせず、別れたヘンリーの方に向けられます。相手のソープは、それを気にすることなく、ということはキャサリンをちゃんと見ていないからでしょうが、一方的に自慢話を話し続けます。これに対して、ヘンリーとのダンスは会話が弾み、ダンスとの共通点があるとして結婚についてまで及びます。この間のオースティンの描写は、二人の発言だけで数ページ続きます。二人の間には作者すら介入することができないと言わんばかりです。おそらく、会話の話題が結婚のことに及んでいるのは、伏線としての意図があったのかもしれませんが、それは考えすぎでしょうか。ここでは、些細な例かもしれませんが、二人の会話の話題は様々なところに向かいますが、例えば、バースでの滞在ついて退屈するかという他愛もない会話もありました。

「バースに6週間も滞在したら、退屈するのが当然なんだけど」

「いいえ、私は6か月滞在したって退屈しないわ」

「いや、バースはロンドンに比べると変化に乏しい町です。毎年みんなこう言います。「バースは6週間くらい滞在するには楽しい町だけど、それ以上滞在すると、世界一退屈な町になるね」って。彼らは毎年冬にバースにやってきて、6週間の滞在を10週間か12週間に延ばし、そろそろ金がなくなると帰っていくんですが、みんなそう言いますよ」

「他人は他人、私は私ですわ。ロンドンへたびたび行く人にとっては、バースなんてつまらないかもしれないけれど、私は片田舎の小さな村に住んでいるので、自分の村よりバースの方が退屈だなんて思いません。ここには面白いものがたくさんあるし、一日じゅう見たりしたりすることがありますけど、私の村には何もありませんもの」

「あなたは田舎が嫌いなんですか?」

「いいえ、大好きですわ。私は生まれた時から田舎に住んでいますけど、とても幸せです。ても、田舎の生活はバースの生活より単純です。田舎の生活は、来る日も来る日もまったく同じですもの」

「でも田舎の生活の方が、時間の過ごし方が理性的ではありませんか?」

「私が?」(P.113)

会話はまだまだ続きますが、同じ章でイザベラがキャサリンに同じ話題での発言が下の引用です。

「私がもうバースにうんざりしたのはご存じ?今朝、あなたのお兄さまと私は完全に意見が一致したの。バースは、二、三週間過ごすにはとてもいい所だけど、ここに住みたいとは思わないって。どんな都会よりも田舎のほうが好きだという点で、お兄さまと私は完全に意見が一致したの(P.100)

些細なことですが、バースに退屈するとか、田舎の生活を話題にしてお喋りするというパターンで、繰り返しをするようにして対照させ、発言しているキャサリンとイザベルの二人の資質や性格の違いを明確に示しています。イザベルの発言には真意が伴っていない口先だけなのが明白で、都会や田舎を抽象的にしか語っていません。また、イザベルにはバースでは刺激が足りず退屈しはじめているのが、そのことばからも分かります。これに対して、キャサリンの発言は具体的で、田舎をかたってもそこに彼女自身がいることが生き生きと語られています。そこに心から村か好きなことはわかるし、二人の女性の発言を比べると、実はキャサリンは賢い人ではないか思えてくるのです。

そして、この章の最後で、ダンスが終わり、ティルニー兄妹と別れる際に、翌日、連れ立って散歩にでかけることを約束します。

第11章

翌朝はどんよりと曇った空模様で、天気がよかったらという散歩の条件が今さらながらに思い出されて、キャサリンは願いがかなうどうか、やきもきするところから始まります。午前中の天気はおもわしくなく、雨さえ降ってくる。しかし、今日の散歩は諦めかけたところで、次第に天気が好転して晴れ間が見えてくる。実に、この描写にオースティンは、翻訳ですが文庫本で3ページを費やします。物語の進行に、それほど必要なのかという雑事のように思われる描写です。しかし、オースティンは必要だったから書いたはずです。キャサリンは、これまでティルニー兄妹に好意を寄せていながら、なかなか会うことさえできず、本人もやきもきするということを繰り返してきました。例えば、舞踏会でヘンリーに出会った後、キャサリンは彼の姿を求めてバース中を探し回るようにしますが、見つけることはできません。また、エレノアと出会った翌日。ポンプ・ルームでの再会を図りますが、ジョン・ソープに遠出に誘われて、その機会を逃します。その間、キャサリンは会えないことを残念に思う。そういうことを繰り返します。このように思う人に会いたいと願いつつ、行き違いや何らかの障害が起こって会えなくて、その間会いたいという思いは、むしろ募っていく。これは、現代に至るまで、通俗的なロメドラマのパターンです。おそらく、そのルーツのひとつはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』あたりなのでしょうが、ジュリエットの場合には旧家どうしの対立関係という障害が明らかです。しかし、庶民であるキャサリンには、そんなしがらみはありません。そこで、日常的な些細な行き違いが、いくつも用意され、それが手を変え品を変えて立ちはだかることで、ジュリエットと同じような状況を作り出しています。これは、『ロミオとジュリエット』のパロディではないか、しかも、それを日常的な場面に置き換えているわけです。

さて、天気がよくなったけれど、約束の散歩の時間を過ぎてしまったので、どうしようかというときに、不意に、ソープ兄妹とジェイムズが馬車での遠乗りに誘いにきます。ティルニー兄妹との約束を理由に断るキャサリンに対して、ジョン・ソープはまったく理由にならないとして猛烈な勢いで却下し、イザベラはキャサリンの弱みにつけこみ、行き先が小説に出てきそうな古城であると言って誘惑します。さらにジョンは、ティルニー兄妹が馬車で別の方向へ出かけていたという嘘をでっち上げます。ようやく諦めてジョンの馬車に乗ったキャサリンは、まもなくティルニー兄妹が歩きながら自分のほうを見ているのに気づいて、馬車を止めてほしいと叫びます。しかし“ジョン・ソープは笑いながら馬に地を当てて、ますます速度を速め、奇声を発して馬車を走らせ続けた。(P.126)”のです。なにも、奇声を発することもないと思いますが、これは男性が嘘をついて騙してまで、女性を無理やり馬車に乗せて連れ去るというゴシック的題材のひとつである「誘拐」になぞらえて、さしずめジョン・ソープはゴシック小説の悪漢のパロディというわけです。

第9章での遠乗りに続いて、この遠乗りでも、結局はティルニー兄妹の人々と会うことへの妨害となりました。このような遠乗りは、この後もう一度繰り返されますが、繰り返しを重ねるたびに、キャサリンを誘うジョン・ソープの手口は、より強引になり、悪質になっていきます。それとともに、ジョン・ソープのキャサリンを二人に合わせまいとする意思が明確になり、小説の中での悪役としての位置がハッキリしてきます。一方で、キャサリンはソープの人間性を理解していって、彼への嫌悪を募らせていきます。それまで、兄の親友であり、イザベルの兄だからということで、ソープを信頼しようと努め、ソープへの嫌悪を抱くことに負い目を感じていたキャサリンが、兄の親友だからというような先入観を捨てて、真っ直ぐに彼を見ようとする契機になりました。その中で、約束を守るとことを貫こうとするキャサリンの誠実さが、ここでは対照的に際立たせられます。例えば、次のキャサリンの発言に端的に表われています。

「ソープさん、なぜ私をだましたんですか?ふたりが馬車でランズダウン・ロードへ走っていくのを見たなんて、なぜ嘘をついたんですか?こんなことは我慢できません。ふたりは私を変な人だと思ったにちがいないわ。礼儀知らずと思ったにちがいないわ。ふたりがすれちがったのに、私は声もかけなかったんですもの!私がどんなに怒っているか、あなたにはわからないでしょうね、私はクリフトンにもどこにも行きたくありません。馬車から飛び降りてでもふたりのところへ戻りたいんです。ふたりがフェートン馬車で出かけたなんで、なぜ嘘をついたんですか?」(P.167)

キャサリンは、意識しないでも、秩序ある社会においては慣例的な礼儀を果たさなければならないということが身についているのが分かります。だから、他人を尊重せず、自分本位に行動して、平気で嘘をついたり、人を騙して、社会のルールを無視するジョンの欺瞞を直感的に見抜いて、彼への嫌悪を確信するに至るのです

しかも、この遠出は無謀なことであると、後でアレン氏から忠告され、途中で引き返すことを提案したジェイムズを賢明だったことが明らかにされます。ソープは、そのジェイムズの判断に対して、ジェイムズがのろまで、自分の馬車を持たないせいだと自分勝手な悪態をつくというおまけもついてくる。

第12章

キャサリンは翌朝、エレノアを謝罪と説明のために訪問します。ここでのキャサリンは積極的で、まず、ポンプ・ルームで芳名帳で、彼女の住所を調べて、一刻も早くと急ぎ足で宿へ向かいます。しかし、結果として居留守を使われて面会を断られてしまいます。帰ろうとしていたキャサリンが振り返ると、玄関から出てくるエレノアの姿を認め、すぐあとに父親のティルニー将軍がついて、二人で散歩に出かけるのを見たからでした。キャサリンは屈辱感に打ちのめされます。ここに、すれ違いのパターンが繰り返されます。このティルニー兄妹とのすれ違いの繰り返しは、回を重ねるしたがって、キャサリンがより積極的になり、それにともなって、すれ違った時のキャサリンの落胆が相対的に大きくなってきます。徐々にキャサリンの思いが募ってくるということで、ここでは、さらにティルニー将軍という登場人物が絡んでくることで、この人物は表裏のある人物として、この人物が関係することは、常に表面的な見た目と、そこに隠された真相が、実は…というようなかたちで、食い違っている。いわばゴシック小説では、悪の陰謀の黒幕のような存在として現われます。キャサリンが居留守を使われて面会を拒絶されたのは、実は、自分の外出が妨げられるのを嫌ったティルニー将軍が、娘は不在だと無理にキャサリンに告げさせたというのが事の真相だったのです。エレノアはむしろキャサリンに失礼になると気にしていたが、父親に意見することはできなかったということ、そこにティルニー将軍の権威的な性格が暗示されているのですが、この時点ではそこまではわからず、あとになって、そういえば、そういうこともあったと想起される伏線として、ここに張られているようです。

キャサリンは、率直な性格で、見たまま、聞いたままをそのままストレートに受け取り、その裏を想像するという、いわばスレたところのない純粋な(鈍感な)性格として設定されていますから、そういう実は…ということは分からずに、この経験から、しょげかえってしまい、その気分の晴れないまま、その日の晩、みんなと芝居見物に出かけます。ティルニー家の人々とは劇場で会うこともなく、キャサリンは芝居に集中することができていましたが、第5幕がはじまったところで反対側にボックス席にティルニー将軍とヘンリーの姿を見つけてしまいます。それで、キャサリンは芝居に集中することができなくなり、一時的に忘れていた苦悩にとらわれます。キャサリンは何度となくボックス席に視線を向けますが、ヘンリー・ティルニーは一度もキャサリンの方を見ませんでした。

だがとうとう彼もキャサリンの方を見て、軽く会釈した。ああ、しかし、なんという軽い会釈だろう!まったくにこりともせず、ほんのちょっと見つめ合うこともせず、すぐに舞台のほうへ視線を戻してしまったのだ!キャサリンはあまりにもみじめで、どうもじっとしていられない気持ちだった。彼が座っているボックス席にすぐに駆け寄って、きのうの行き違いの説明をいますぐ聞いてもらいたいと思った。小説のヒロインのような感情ではなく、ごく自然な感情が彼女を襲った。彼の非難がましい冷たい態度によって自分のプライドが傷つけられたとは思わなかった。「自分は無実であり、疑う彼が悪いのだから、こちらが怒っていることを示すべきだ」とは思わなかったし、「きのうの件は彼の方から聞いてくるべきであり、こちらは彼を避けたり、他の男性とたわむれたりして、彼の過ちを悟らせるべきだ」とも思わなかった。キャサリンは、今回の行き違いという不幸な出来事の責任を、すべてわが身に引き受けた。少なくともそういう態度で、弁明の機会をただひたすら待つことにした。(P.136〜137)

この文章で例によって、オースティンは客観的な描写にキャサリンの内心を織り交ぜています。最初の文章はヘンリーの様子ですが、それに続く文章はキャサリンの内心の声で、そこから、最初の文章を振り返ると、ヘンリーの軽い会釈は、いかにもすげないものに思えてきます。ヘンリーは芝居に熱中していて、キャサリンへの会釈がつい、うつろになってしまったかもしれないのですが。この流れで読むと、彼の態度にキャサリンへの怒りが秘められているように見えてくる。つまり、視線をキャサリンに同化するような文章になっていると思います。それを、以前にも述べましたが、視線のやり取りを会話のように扱って表現しています。そして、キャサリンの感情の動きを説明する中で、オースティンは“小説のヒロインのような感情ではなく、ごく自然な感情が彼女を襲った。”という小説についてのオースティンのコメントをさりげなく挟んでいます。このあたりがパロディと言われる由縁でもあるのでしょうが、敢えて小説のヒロインのような、他人には分かりやすいような大げさなポーズではない真正なもの゛と断っています。そのために、繰り返しによって、キャサリンの喜びと落胆の振り幅を徐々に大きくしてきて、自然に見えるように、全体として配慮して物語を作ってきていて、ここで敢えて断っている。そのあとの文章でくどいかもしれませんが、小説のヒロインによくある内省的な反省をしていくと、“「自分は無実であり、疑う彼が悪いのだから、こちらが怒っていることを示すべきだ」とか、「きのうの件は彼の方から聞いてくるべきであり、こちらは彼を避けたり、他の男性とたわむれたりして、彼の過ちを悟らせるべきだ」”といった方向に流れてしまう。内心の語りのロジックとはそういうもので、当時の小説のヒロインの主体性というとそういう方向になってしまって、現実の平凡な市井の女性の、あまり物事を突き詰めて考えないという実態とはかけ離れているという、オースティンの認識がここで、くどいほど述べられていると思います。そうでない、ああでない、というこの小説に特徴的な否定的な言い方です。それによって、平凡であることをポジティブに表わそうとしているというわけです。あれこれ、面倒なことを言いましたが、要はキャサリンの反省が真正なものであるということを、そういう平凡なことを言うために、これだけの文言を重ねないと、平凡であるということが表わせなかった、ということで、当時の小説のありかた、小説の言語について、オースティンは、ここで、かなり考えていて、言葉を重ねていたのではないかと思います。

そして、芝居が終わって、ヘンリーが挨拶に席を訪れたときに、堰を切ったように謝罪と説明の言葉を連ねます。そこで、ヘンリーの口から、視線の会話は、その時にも成立していたことが説明されます。「僕ら兄妹の楽しい散歩を願うため」に「わざわざ振り返ってくれた」というヘンリーの言葉をもらい、それによってキャサリンの気持ちは救われるのです。小説としては、この件に関して、そこで初めてキャサリンの視点からではない解釈が披露され、キャサリンにも読者にも、ヘンリーの怒りは彼女の勘違いであったという事実が伝わるという構造になっています。そこで、ヘンリーの口からエレノアの居留守の真相が伝えられます。面白いのは、その後で、「でも,ミスター・ティルニー,どうしてあなたは,妹さんみたいに寛大ではないのですか」と彼に無邪気に質問をするところです。ヘンリーは単刀直入に尋ねられてうろたえるのですが、彼女のこの率直さという無邪気は、それまでの小説のヒロインには考えられないものではないかと思います。こういうところがキャサリンのという女性の新鮮な魅力だと思います。

落胆の後で、回復すれば、その喜びをより大きなものとなります。この小説では、小さな繰り返しを重ねることで、その振り幅を徐々に大きくしていって、キャサリンのヘンリーに対する好意が次第に恋心になっていくも、この反復パターンのプロセスで、ドラマチックな恋愛小説に対するアンチテーゼにもなっているのではないかと思います。ともあれ、キャサリンは信頼を回復したついでに、散歩をすることを再び約束することもできたのでした。

だから、彼が去った寂しさを別にすれば、このときのキャサリンは、世界一幸せなお嬢さまと言っても過言ではなかった。(P.140)

しかし、この第12章はそれだけでは終わりません。ジョン・ソープとティルニー将軍が、面識のないはずの二人がなにやら話し合っている様子を、しかもキャサリンのことを話題にしているらしいことを、彼女が気づきます。

第13章

前章で、キャサリンは誤解を解いて、再びティルニー兄妹との散歩の約束を取りつけることに成功しました。しかし、その当日になって、またしてもソープ兄妹が彼女を遠出に連れ出そうと誘いに来ます。ティルニー兄妹との散歩をしているところに、横槍のようにソープ兄妹から遠出に誘われるというエピソードの反復です。しかも、この反復は短期間で間をおかず繰り返されます。読者は、それゆえ繰り返しであることが分かるようになっています。実のところ、我々自身の生活を顧みれば、日常などは同じことの繰り返しであるし、人生の転機となるような出来事ですら、過去に似たようなことの繰り返しであるような場合が多いのです。ただ、そのことに気づいていないだけで、この『ノーサンガー・アビー』では、物語を短期間のものに収縮してしまうことで、そのような繰り返しであることを明らかにしている作品で言えるかもしれません。

さて、これで読者の皆さまは、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、そして土曜日のすべての出来事をご覧になったことになる。この六日間にキャサリンの身にふりかかったすべての出来事と、その希望と不安と苦しみと喜びが、すべて述べられた。つづいて、日曜日にキャサリンを襲った苦悩について述べれば、めでたく一週間を終えることになる。(P.144)

と作者が自ら述べているように、この小説では、毎日の事件を綴っているので、そこに作者が人為的に時間を凝縮させている操作が施されているわけです。これは、物語のテンポとか、ただでさえ、ゴシック小説のような波乱万丈の展開がないのですから、小さなエピソードの積み重ねで物語を展開させていくための操作ということでしょう。しかし、読者はあまり、そうは感じないのではないか。それは、小説の中に、些細な日常性の記述が反復されているからではないでしょうか。つまり、キャサリンが朝目覚めたとか、夜寝たという。どうということのない描写です。そこで、出来事だけでない描写が、日常の平凡な時間を読者に想起させる。そこで、事件ばかりではないことを示しているというわけです。

また、繰り返しということであれば、同じオースティンの作品で『説得』においては、主要な登場人物たちが、それぞれの過去において同じような経験をしたことが、現在、目の前で起きている事態に対して、どれたけ、その経験を教訓として対処しているかということで、それぞれの運命に差が生まれる、というのがストーリーの大きな骨格になっています。この物語でも、基本的には繰り返しが骨格にあるのですが、スパンが長いのと、スケールが大きいので、なかなか読者には気付きません。それはそれで、まるで見えない運命のように登場人物たちが直面させられるという叙事詩的な作品に似つかわしくなっています。これに対して、『ノーサンガー・アビー』の場合には、繰り返しであることが誰にでも分かるように、ストーリーもコンパクトに凝集されています。これは、『説得』のようなスケールよりも、繰り返しのバリエーションが物語を展開させていく、音楽のような作品となっているからです。

さて、物語に戻りましょう。一旦は途中で引き返したために実現されなかった遠乗りの計画がイザベルとジェイムズの間で再び持ち上がり、ジョン・ソープをまじえた3人でキャサリンを誘いに来ます。キャサリンは、ティルニー兄妹との散歩の先約があるからと、行くことはできないと断ります。ここまでは、前回と同じことの繰り返しです。しかし、今回は、キャサリンは強い意志を示して固辞しているのに対して、3人の誘いは執拗で強引です。ソープ兄妹し散歩の約束を取り消すように要求し、猛烈に抗議してくるのです。

イザベルとジョンは「いや、取り消さなくてはいけないし、絶対に取り消すべきだ」と猛然と抗議した。「明日は絶対にクリフトンに行かなくてはならないし、キャサリン抜きでは行きたくないし、散歩なんか一日延ばしたってどうってことはない」とイザベラとジョンは言い、キャサリンがいくら断っても耳を貸そうとしなかった。(P.145)

先約があるから散歩の約束を延ばすことをイザベラから求められ、先約などなかったのだから嘘はつけないとキャサリンは譲りませんが、ここで、嘘をつくことに対して何のわだかまりないイザベルと虚偽を嫌うキャサリンの差異が表われています。これが後々、二人を分かつ大きな要因となっていくのですが、これも小さな伏線というべきか、小さな予告、仄めかしを、作者が用意周到に準備しているといえるでしょう。ただし、読者は、始めて読んで、後の展開が分からない人は、気付くことはないでしょう。

「あなたはミス・ティルニーと知り合ってまだ間もないのに、一番の親友で旧友の私よりも、ミス・ティルニーのほうが好きになったのね。私のことなんてどうでもよくなったのね。ね、キャサリン、私は悔しいわ。あなたをこんなに愛している私が、赤の他人のためにこんな侮辱を受けるなんて、ほんとに悔しいわ!私は誰かを愛したら、どんなことがあってもその人を愛し通すわ。でもきっと、私の愛情は誰の愛情よりも強いのね。愛情が強すぎて、心の平和が得られないのね。あなたの愛情を赤の他人に横取りされたと思うと、この身を引き裂かれたような気がするわ。あのティルニー兄妹に何もかも奪われてしまったような気がするわ」(P.147)

約束という重要な社会のモラルを守ろうとしているキャサリンに対して、このような不当な責め方をするイザベラは“心が狭くて、自分勝手で、自分の欲求を満たすことしか考えない人”だと、キャサリンは初めてイザベラを疑い始めることになります。しかも、キャサリンが板ばさみにあって、つらく悲しい思いをしているのに対して、イザベラは“でもたいした心の葛藤はなさそうね”と低い声で呟くのでした。

その一方で、ジョン・ソープは勝手にエレノアのところに行って、キャサリンからの伝言だと偽り、散歩を延期する約束を取りつけて来てしまいます。キャサリンがティルニー嬢を追いかけて申し開きに行こうとすると、“イザベラが彼女の一方の手を掴み、ソープがもう一方の手を掴んで”、抗議の声を浴びせかけるのです。自らの欲望を満たすために、相手の気持ちや事情はいっさい考慮しようとせず、文字どおり力づくで連れ去ろうとするソープ兄妹の暴力的なやり方は、ゴシック小説に間々見られるヒロインを、よってたかっていじめる悪党の振る舞いのようです。しかも、ソープ兄妹をふりきってエレノアを追うキャサリンに対して、ソープは口にできないような下品な言葉を投げつけます。

結局、今度の繰り返しでは、キャサリンはティルニー兄妹との約束を守ることができました。ティルニー兄妹にひどい人と思われたくないという強い思いが、彼女に必死の行動をさせたことになるわけです。そのひどい人だと思われたくないということのベースには、約束を破るのはひどい人だという倫理が彼女に備わっているということの表れでもあるわけです。こうしてキャサリンは、自己判断に基づき行動したのですが、兄をはじめとする三人の怒りは収まらないわけです。不安になってアレン氏の意見を聞きにいき、キャサリンは自分の判断に自信を持つまでに成長したのである。

一方、キャッサリンは、必死になってティルニー兄妹を追いかけ、一家の宿に飛び込むことになってしまいます。そこで、二人の誤解をはらすことができた。それだけでなく、兄妹の父親であるティルニー将軍に紹介されます。その将軍から愛想よく相手をされて、キャサリンは嬉しく思いますが、前の章において劇場でジョン・ソープとキャサリンのことを話していたことの影響であり、これが後半の展開への伏線となっていきます。

第14章

翌朝はとてもいい天気で、キャサリンは念願のティルニー兄妹との散歩に出かけます。“新たな問題が持ち上がることもなく、突然何かを思い出すこともなく、思いがけない呼び出しもなく、計画をめちゃめちゃにする無遠慮な侵入もなく、われらがヒロインは、無事に約束を果たすことができたのだった。約束の相手はヒーローその人なのに、ヒロインの運命としてはまことに珍しいことである。(P.159”という極めて皮肉な書き方で、この書き方が小説に対する揶揄も含まれています。

雑木林の丘を散歩しながらの、兄妹との会話は、アラン夫人あるいはイザベルたちのお喋りとは異質の知的なもので、最初はゴシック小説についてから始まり(この部分は、作者がこの作品中の散在する様々な小説論のひとつとして、教養ある男性はゴシック小説など読まないということに対する、ヘンリーを借りたオースティンの一つの考え方かもしれませんし、第7章でジョン・ソープが小説は馬鹿なことばかり書いてあるといったことと対照的に扱われている事も、小説をめぐっての態度が正反対であることも、ヘンリー・ティルニーとジョン・ソープをヒーローと悪漢として対比的に見ることのできる表われとも思えます)、エレノアが歴史書をよく読むことに話は移ります。キャサリンは、小説は好きだが、歴史は好きになれないとして、次のように言います。

「私も(歴史を)好きになれたらいいんですけど」とキャサリンは言った。「義務的にすこしは読みますけれど、いやなことや退屈なことしか書いていないんですもの。どのページを開いても、教皇や国王たちの争いや、戦争や疫病のことばかりで、男はみんなろくでなしで、女はほとんど出てこなくて、ほんとにうんざりするわ。でも、よく不思議に思うの。歴史書の大部分は作り話なのに、なぜこんなに退屈なんだろうって。英雄の言葉も考えも計画も、ほとんどが作り話だと思うわ。それなのになぜあんなに退屈なのかしら。ほかの本に書かれた作り話はすごく面白いのに」(P.163〜164)

話は脱線しますが、現代の視点で引用したキャサリンの発言をみると、かなり鋭い指摘で、彼女は鋭い知性の持ち主と見なされてもおかしくはないと思います。例えば、歴史の虚構性のことは歴史というものの本質的な問題を突いているし、女は出てこないというのは、歴史の虚構性に伴う偏った視点の指摘でもあります(当時はフェミニズムという視点から歴史をみることはなかったのでしょうから)。話をもどしますが、キャサリンにこう言わせて、これに応ずる、エレノアの発言でも、歴史に作り話があることを否定していないのは、作者のオーステインが、そういう考えを持っていたということで、これは広い意味での小説論=虚構論のひとつとして、オースティンが扱っているだろうことは想像できます。また、この引用した会話の前半で“争いや、戦争や”とそんなことにうつつをぬかす男はろくでなしだということはば、この後で政治に話題が飛んで、“恐ろしいこと”について話されることの伏線と見ることができます。

その後、兄妹は風景について話し合いますが、キャサリンは絵画の知識がなくて、二人の会話が理解できず、自分が無知であることを正直に話します。キャサリンの素直に性格は。彼女の行動のいたるところにあらわれますが、これもそのひとつでしょう。友人のイザベラと違うのもこの点で、この違いが、この後で二人を分かつことになる根本的な要因だと思います。キャサリンは、自分の無知を認めることができて、それを恥ずかしいと感じることができる人だということです。イザベルは、第6章で『サー・チャールズ・グランディソン』を読んでもいないのに、つまらないと知ったかぶりして切り捨てたり、自分の趣味に閉じこもるように、気に入らないものは認めません。だから、キャサリンは、遠乗りをめぐる意見対立でも、イザベラの自分勝手な屁理屈をおかしいと冷静に判じ、正しいという一点で譲らず、ティルニー兄妹の信頼を勝ち取ることができわけです。一方は、作者のオースティンは、そのキャサリンに対するヘンリーの好感を“器量が良くて、心がやさしくて、無知な頭をもった女性は、よほど運の悪い事情がないかぎり、頭のいい青年の心を必ず引きつけるものだ”と皮肉った書き方をしていますが、この点もパロディとして考えればいいのかもしれません。(これはファニー・バーニー『カミラ』のパロディだそうです)

会話の最後は政治の話になって、ヘンリーが一方的に話すだけになり、キャサリンが小説の新刊書の情報として“とにかくものすごく恐ろしいものなんですって”というのをエレノアが誤解して、ロンドンで暴動が起こると勘違いして驚きます。その誤解をヘンリーが説明して解きます。このときエレノアが誤解したのは、理由がないわけでなく、ヘンリーは次のように言います。

「ミス・モーランド、ぼくの愚かな妹は、あなたのあんな明快な言葉を誤解したんです。あなたはもうすぐロンドンで恐ろしいものが出るといいましたね。すこしでも理性のある人間なら、これは貸本屋な関係した話だと察しがつくはずだけど、なんと妹の頭には、“セント・ジョージ広場に集結した三千人の暴徒の姿が浮かんだんだ。三千人の暴徒がイングランド銀行を襲撃し、ロンドン塔に押しかけ、ロンドン死骸が血の海となり、国民の希望の星である第12軽騎兵隊が、暴徒鎮圧のためにノーサンプトンから召集され、そしてわれらが勇敢なる兄フレデリック・ティルニー大尉が、騎兵隊の先頭に立って突撃を開始した瞬間、二階の窓から飛んできたレンガのつぶてに当たって落馬するんです。ね、愚かな妹を許してやってください。女性の弱さと、軍人の兄の身を心配する妹の恐怖心が、こんな妄想を生んだんです。でも妹は、ふだんはこんなに愚かではありませんよ」(P.170〜171) 

ここで、ヘンリーがエレノアの誤解は当時の世相からは現実味のあるものだったそうです。例えば“線と・ジョージ広場”というのは、1780年に起きたゴードン暴動の集会の場であり、1795年に政府に抗議する市民のデモの起きた場所でした。フランス革命の影響でイギリスでは大衆の不満が増大し、革命勃発の機運が漲り、1795年、議会開会に向かう途中の国王の馬車が襲撃されるなど事件が相次ぎました。それに対する政府の抑圧は強化されていました。また、“ノーサンプトン”には実際に騎兵隊が駐留していました。ちょうど『ノーサンガー・アビー』が執筆されていたが、この1790年代後半でした。これに対して、廣野由美子は、同時期の1790年代に、イギリスのゴシック小説作家たちが、このような自国の状況から目を逸らすかのごとく、過去の異国を舞台とした物語を書くことによって、読者の恐怖を煽ろうとしていたと指摘します。そして、オースティンはそのような流行作家たちの文学的姿勢、そしてそれに対して盲目的な読者の姿勢に対して、批判の目を向けていたと。つまり、この会話での「“恐ろしいこと”はイギリスの足元の現実にこそあるのではないか?」というメッセージをテキストに潜ませることによって、彼女はゴシック小説が描く恐怖の嘘っぽさを諷刺しているとも解釈できる。そのように読むと、このくだりの直前に挿入された「政治」の話題のあとの「沈黙」は、特別の意味を帯びてくる。と。(廣野由美子『深読みジェイン・オースティン』P.69〜70)

この散歩の最後に、キャサリンは正式にディナーに招待され“あまりのうれしさに、どうしよいかわからぬほど”となりました。

この第14章のほとんどは散歩の場面でした。それまで、エピソードを細切れのようにして、それらを出し入れするようにして、モザイクのようにして全体をつくっていた物語のつくりが、ここではひとつのエピソードをじっくりと読ませることを初めて行いました。ここで、小説のテンポが変化してきました。キャサリンの周囲が、ソープ家の人々やアレン夫妻から、ティルニー家の人々に替わるにつれて、小説自体が変化してきます。その点で、この第14章は転換点となるところです。

第15章

キャサリンは、イザベルから手紙で呼び出され、兄のジェイムズと結婚を約束したことを告げられます。キャサリンがティルニー兄妹と散歩をしていた日に、兄とソープ兄妹は馬車の遠出に出かけ、そこで愛の告白があったということです。キャサリンは、最愛の兄と親友が婚約したことに感激します。兄は、両親の了解をえるために故郷のフラートンに急ぎ出発することになります。そこでのイザベルとキャサリンの会話がすれ違いなのは、今後の展開を予想させるものではありますが、この時点では、先のことは読者はわからないので、後になって、ああやっぱりねと納得する時に、この二人の会話のすれ違いが思い起こされる、そういった類の伏線になっていると思います。

イザベルのジェイムズに対する思いを語っている言葉には、そのうらに彼の財産への期待という打算があるのでしょうが、この時には真意あふれるように情熱的です。それは、キャサリンがたじろくほどです。しかし、イザベルの情熱的すぎる言葉には、ある種の過剰があり、自分で自分に酔っている、あるいは煽っているところも垣間見えます。ただし、これは、この後でのイザベルの行動を知っているから分かることであって、この時点では、すこし我が儘なところのある、夢見がちなお嬢さんが。結婚の約束が成立したことに有頂天になっているとしか見えません。しかし、キャサリンは、何となく、イザベルの過剰さについていけないものを感じています。それは、結婚後の生活と財産の話についての二人の見解のすれ違いにあらわれています。二人とも、財産なんて必要ないといいながら、キャサリンが語る生活プランは財産を前提にしたものであるの対して、キャサリンは自分の実家の生活がそうなので、それをモデルにして考えているところです。おそらく二人は、意識していないでしょうが、イザベラはキャサリンの言っている田舎の質素な生活をするということは、最初から想定外であることは明らかです。このようなイザベラの下心を隠してキャサリンと接しているのは、彼女自身のしたたかな巧妙さもありますが、おそらく、その巧妙さを自身でも意識していないところのあるのでしょう。これに対して、イザベルの兄のジョン・ソープは意識的です。策略的であるのを自覚しています。それだけに、策略はあからさまで、読者には、はっきりと分かるのです。しかし、キャサリンは、それに気づきません。キャサリンは、鈍感ということになっていて、人の言葉には裏があるということが分からないからです。言ったとおり、言葉の表層だけをとらえてしまうのです。少し長くなりますが、ジョン・ソープの策略的な愛の告白を、キャサリンは、それと分からず受け容れてしまう形になっています。

「この結婚はほんとにすごいな!あなたのお兄さんとぼくの妹はうまいことを思いついたもんだ。ね、ミス・モーランド、あなたはどう思います?ぼくはなかなかいい考えだと思いますね。」

「ええ、とてもいい考えだと思いますわ」

「ほんとに?ずいぶん素敵なお返事ですね。でも、あなたが結婚の敵でなくてよかった。「一度結婚式に出たら、また出たくなる」という昔の歌をご存じですか?ね、イザベラの結婚式にはでてくれますね?」

「ええ、できれば出席したいって、イザベラさんに約束しました」

「あの、それじゃ」とジョンは、体をよじって馬鹿みたいに笑いながら言った。「それじゃ、その昔の歌がほんとかどうか、ふたりでためしてみましょうか」

「ふたりで?でも、私は歌はだめなんです。では、どうぞご無事で。私は今日、ミス・ティルニーにディナーに呼ばれているので、もう返らなくてはなりません」

「いや、そんなに急ぐことはありませんよ。こんどいつ会えるかわかりませんからね。といっても、二週間後には帰ってきますけど、ぼくには死ぬほど長い二週間になるだろうな」

「それじゃ、なぜそんなに長く行っているんですか?」相手が返事を待っているらしいので、キャサリンは仕方なく答えた。

「いや、あなたは親切な人だ。すごく親切なやさしい人だ。ぼくは絶対に忘れない。あなたは誰よりもやさしい人だとぼくは思っています。ものすごくやさしくて、ただやさしいだけじゃなくて、あらゆるすばらしいものを持っています。そしてあなたは…いや、ほんと、あなたのようなすばらしい人はいません」

「あら、とんでもないわ!私のような人間ならいくらでもいるわ。もっとすばらしい人がたくさんいるわ。それでは、さようなら」

「あの、ミス・モーランド、もしご迷惑でなければ、近いうちにフラートンにごあいさつに伺うつもりです」

「ハイ、どうぞいらしてください。父も母も、あなたにお会いしたらとても喜ぶと思いますわ」

「そしてミス・モーランド、あなたもぼくに会うにはおいやではないでしょうね」

「とんでもない!私は会うのがいやな人なんていませんわ。人と一緒にいるのはいつだって楽しいわ」

「いや、それはぼくの考えとまったく同じですね。「ぼくに楽しい仲間をお与え下さい、愛する仲間をお与え下さい。好きな人と好きな場所に一緒にいられたら、ほかのことはどうでもいい」というのがぼくの考えです。あなたはいま、ぼくとまったく同じことをおっしゃいました。いや、それを聞いてほんとにうれしい。ミス・モーランド、どうやらあなたとぼくは、ほとんどの点で同じ考えを持っているようですね」

「沿うかも知れませんけど、私はそんなことは考えたことありません。それにほとんどの点といっても、正直言って、私は自分の考えなんてよくわからないんです」

「いや、そうですとも、それはぼくだって同じです。自分に関係ないことで頭を悩ますなんてことはしません。ぼくの考えは非常に単純です。居心地のいい家に、好きな女性と一緒に住むことができれば、それ以上のぞむものはないということです。財産なんてどうでもいい。ぼくには十分な財産があるから、相手の女性が一文無しなら、かえってそのほうがいいんです」

「そうですね。その点は私も同じ考えです。男性か女性か、どちらか一方に十分な財産が在れば、もう一方には財産なんて必要ないわ。どっちが持っていようと、とにかくあればいいんですもの。大金持ちが大金持ちを求めるなんていやだわ。それに、お金のために結婚するのは一番いけないことだと思うわ。それでは、さようなら。どうぞ、ご都合のいいときに、いつでもフラートンにお出かけください」

そう言ってキャサリンは立ち去った。

後に残されたジョン・ソープはこう確信したのだった。

「よし、愛の告白はうまくいった。明らかに前途有望だ」(P.187〜191)

上記の引用の中での、キャサリンの受け答えはしっかりとしたもので、決して彼女は愚かとは思えません。むしろ、イザベルの会話などと比べるとストレートですが話の筋道は明確で、本質的に頭のいい人の話し方です。それが、言葉の表層の意味を直接的に捉えるしかできないというのは、現実では考えられないことです。それをあえて設定してのは、作者オースティンの意図的なものでしょうか。前のところで述べましたように、この作品は、従来の小説に対して、ネガティブに「〜でない」を積み重ねて、小説の要素を否定して排除していって日常の平凡な生活という、それまでの小説にないものが残ったところで作ろうとした作品です。そこで、ヒロインであるキャサリンも、小説のヒロインである要素を排除していったアンチ・ヒロインとして設定されているように見えます。そこで施してある仕掛けが、キャサリンのそういう矛盾したところではないかと思います。それは、小説の虚構と現実との区別がつかなくて、後半では、それが物語を展開させていく大きな要素となっていきます。しかし、それだけでなくて、単にキャサリンが子供だからというのではなくて、小説というのは虚構、つまり嘘です。それが現実を表わしてしまう。そういう構造的な矛盾があります。オースティは、そのことを分かっていて、あえて他人の嘘を信じてしまうキャサリンというヒロインを設定して、このキャサリンそのものが、オースティンの小説論、虚構論を体現していたのではないかと思えてくるのです。その意味では、後年のオースティンが作家として成熟していった『高慢と偏見』などよりも、こちらの『ノーサンガー・アビー』の方が知的に屈折した点の多い複雑な作品と捉えることもできるのではないでしょうか。

第16章

このあたりから、キャサリンの他人に対するやさしさと、言葉の表層の意味しか捉えないということが目立ってきて、小説の物語に大きく作用するようになってきます。

キャサリンはティルニー家のディナーに招待され、訪問します。しかし、期待とは裏腹にもの足りなく思う結果となります。ディナーは文句のつけようもなく、ティルニー将軍も丁重に彼女を迎えてくれたのに、ミス・ティルニーとの親交が深まったわけでもなく、ヘンリー・ティルニーとも以前ほど楽しめなかった。その理由は、物語が進むにつれて次第に明らかになってきますが、それを、この出会いの当初の時点でキャサリンが直感的に感じ取っていたわけで、彼女は決して鈍いわけでも、愚かでもないのです。ここで、オースティンは、それまで、キャサリンが何かを感じた場合、たとえつまらない日常のことでも具体的に詳しく、その事態を描写していたのに、このディナーの模様については、具体的なことはすべて省略して、キャサリンがそう感じたということを、後から回想するように記述しているだけです。つまり、オースティンは、このディナーの模様については意図的に隠蔽していると言えます。しかし、そうしているとは読者は、あまり感じないでしょう。それが、従来の小説のやり方だからです。それまで、オースティンは、この作品において、そういうやり方を否定するように、キャサリンをめぐる事態は細かく記述してきました。そこで、このディナーの部分の大きな省略です。しかも、さりげなく、です。

それに次いで、イザベルとの会話に場面は転換し、そのディナーについてイザベルに話すと、それはティルニー兄妹の高慢さのせいだと言いますが、それは半分は当たっているわけで、キャサリンは兄妹の親密でない態度にもの足りなさを覚えたのは事実で、キャサリンはそれを元気がなかったと好意的に受け取っていますが、その背後にいたティルニー将軍については、イザベルが高く評価しているのが、この後の物語の伏線を補強していることになっています。この二人の会話で、もうひとつ、大きな伏線となっているのが、今夜の舞踏会でイザベルが40マイル離れたところにいるはずのジェイムズのことが心を占めていて、ダンスなんか絶対しないと言っていることです。この伏線は、読んでいる時には気付かず素通りしてしまいますが、後で、重要な意味を持ってくることになります。

この日の晩の舞踏家では、キャサリンは、ティルニー兄妹と再会し、前日のディナーとは打って変わって、親密な楽しいときを過ごします。そして、新たな登場人物として、兄妹の兄である、長男のティルニー大尉が登場します。凄く美男子でお洒落な男性ですが、キャサリンは、うぬぼれが強そうで、好感がもてないと感じます。彼は、「ぼくはダンスなんてするもんか!」と大きな声で言い、「ダンスなんてしている弟の気が知れない」とあからさまにヘンリーを嘲笑しているのを、キャサリンは見ます。何か、このシーンは、オースティンの後年の作品、『高慢と偏見』で、ダーシーがビングリーと村のダンスパーティーに現れて、ダンスをしないでいるのを、ヒロインのエリザベスが見咎めるシーンがダブリます。それでは、好感をもてるはずはないですが、キャサリンの直感は当を得ているのは、物語が進むにつれて明らかになってきます。

ティルニー大尉はヘンリーを通じて、イザベラにダンスを申し込みたいので紹介して欲しいとキャサリンに頼みます。これに対して、キャサリンはためらうことなく断ります。彼はダンスなどしないと言っていたのを覚えていたし、イザベルもダンスをしないといっていたからです。そして、キャサリンは、ティルニー大尉がイザベルの事情を知らず踊らないのでいるのをかわいそうに思ってダンスに誘ったと考えた。それをヘンリーは「あなたは他人の行動の動機を実に簡単に理解しますね」と評する。そして「あなたは、こういうことはいっさい考えないんですね。「人間の行動はどういうことに影響される可能性があるのか」。「ある人物の感情、年齢、境遇。生活習慣などを考慮すると、その人物の行動派どうこうことに影響されるか」ということを全く考えないんですね。そしてあなたは、「自分はどういうことに影響されるか。ある行動をする場合、自分はどういうことに影響されるか」ということしか考えないんですね」と言います。

二人の会話がなされている一方で、ティルニー大尉は自らイザベラに話しかけ、イザベラは微笑んで応じているのです。キャサリンは、それに驚いてしまいます。これについて、ヘンリーは次のように言います。さっきの、キャサリンには分からないといった説明を具体的にしてものです。

「いままでイザベラさんは、気が変わったことは一度もないんですか?」

「えっ?でもそれは…それにあなたのお兄さまだってそうよ!イザベラは踊らないという私の言葉を、あなたから伝えていただいたのに、お兄さまはなぜイザベラに申し込んだのかしら?」

「その点にいては、ぼくはまったく驚きませんね。イザベラさんについては、あなたが驚けと言うから驚きますけど、ぼくの兄については、はっきり言って、あの程度のことは平気でやると思っていました。イザベラさんはたいへんな美人で、誰が見てもとても魅力的ですからね。そして彼女の意志の固さは、あなたにしかわかりませんからね」

「あなたは私を笑っているのね。でもイザベラは、ふだんはとても意志が固いのよ」

「ある程度はだれだってそうです。何があっても絶対に気が変わらないというのは、ただ強情なだけかもしれない。必要なときにいつ譲歩するかによって、正しい判断力が試されるんです。ぼくの兄のことは別として、ミス・ソープがいま譲歩したのは正しい判断だと思いますね」(P.200)

その後で、キャサリンとイザベルの会話に場面は移りますが、キャサリンがどう思って、どんな気持ちでいるかは、いつもと違って、一切書かれていません。このあたり仄めかし方、読者の想像に任せるという省略の仕方は巧みです。

そこで、場面は急に飛んで、後日、二人が次に会ったときになります。兄のジェイムズからイザベルに二通目の手紙が届いたところです。

ジェイムズ・モーランドから二通目の手紙が届き、父親の気前のいい贈与の意思が明らかになったのだ。現在モーランド氏は、年収約400ポンドの聖職禄を持っており、その贈与権も持っているのだが、息子ジェイムズが十分な年齢に達したら、その聖職禄を譲るというのである。これでモーランド家の収入はかなり減ることになるし、子供はほかに9人もいることを考えると、これは決してケチくさい額ではない。そのうえ、少なく見積もっても400ポンドの値打ちのある土地も、将来ジェイムズに譲るというのである。(P.202)

これは、作者による説明的な文章ですが、モーランド家に立った視点での説明で、キャサリンの視点も一部反映しているものだと思います。というのも、これに対してイザベラはひどく暗い表情になったからです。それをとりなすようなソープ夫人も、イザベラの気持ちが分かっているからこそ、慰めようとしているわけです。あきらかに、イザベルは第15章でジェイムズとの結婚で財産なんて必要ないと言ったことと矛盾する態度を示しているわけです。ここでのイザベルは、明らかに当てが外れた失望感をあらわにして、モーランド氏をケチだと仄めかしているわけです。当然、キャサリンは不愉快になります。キャサリンは、持ち前のやさしさから、イザベルを信じようとします。

第17章

キャサリンは、ティルニー将軍から我が家であるノーサンガー・アビーに招待されます。ティルニー兄妹との交友を続けられるわけです。それだけでなく、ノーサンガー・アビーというゴシック小説に出てくるような名前に好奇心で一杯になるわけです。つまり、後半の始まりです。

ンはヘンリー

 

 

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