マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第2篇 貨幣の資本への変容
第4章 貨幣の資本への変容
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第2篇 貨幣の資本への変容

第4章 貨幣の資本への変容

〔この章の概要〕

貨幣が商品に対して価値の独立した存在としての富となってくることを究明したマルクスは、この規定を基礎にして、購買のための販売という商品流通W−G−Wに対して、あらたに販売のための購買という流通形式G−W−G´をとって、貨幣がみずからその価値を増殖する富となってくることを明らかにし、そしてこれを起点として「第2篇貨幣の資本への変容」を展開するのである。いまや貨幣は単なる商品の購買に支出されるのではなくて、G−W−G´という流通形式のもとに、より多くの貨幣を獲得する目的で投資される。それと同時にこのG−W−G´では、価値は単に商品の交換の基準をなすものとか、あるいはまたそれ自身に商品経済的富をなすものとかというだけでなく、みずから増殖する運動体となって現われる。すなわち価値はたえず一の形態から他の形態へと移りつつ、価値増殖をなすものとなる。しかしG−W−G´の過程の内部では、いいかえると購買と販売という取引においては、貨幣は貨幣として、商品は商品として機能するだけであって、より多くの価値は生まれえない。取引自身が、流通過程自身が価値増殖の源泉たりえないということは、すでにスチュアート以来の古典経済学によって明らかにされたことであるが、流通過程が価値増殖の源泉とされるかぎり、G−W−G´という形式は、安く買って高く売るという商人資本によって具体的に示されるように、全社会的に行われる価値増殖ではない。そこで、G−W−G´に基づいて価値増殖が商品経済的に合理的な仕方で、したがってまた全社会的に行われることになるということは、結局商品として買い入れられるWそれ自身が価値増殖をなしうるものでなければならないことになる。しかも、単に購買して販売されるWでは価値増殖は遂げられないわけであるから、このWは、そのまま転売されるWでは価値増殖は遂げられないわけであるから、このWは、そのまま転売せられえないと同時に、それ自身に価値とともに増殖価値を形成する性質をもった特殊な商品でなければならない。こうした条件を満たしうるものは、労働力という商品以外にはありえない。むろん人間の労働力は元来商品として生産されるものではない。しかし現実には、15世紀末以来の資本の原始的蓄積の過程をとおして、一方では生産手段から分離され、他方では封建的隷属関係から脱した、マルクスのいわゆる二重の意味での自由な無産労働者が大量につくり出されてきているし、また資本の一般的な流通形式たるG−W−G´を具体的に体現する商人資本はこの過程の推進を媒介する重要な役割を果たしたわけであって、資本はこうした歴史的過程を前提的基礎として、労働力を商品として購入しうるものとなるのであった。資本の一般的な流通形式G−W−G´は、かくしていまやあらたなる要因をとりいれてG−W<PmA…P…W´─G´(PmAは生産手段、Aは労働力、Pは生産過程)へと転化する。すなわちG−Wで買い入れられた商品Wは、そのまま販売されないであらたな商品W´の生産のために使用されるものとなる。奴隷と異なって、買われた労働力はそのまま他に転売されることはできない。それは生産過程で消費されるしかない特殊な商品であり、しかもその使用価値は生産過程においてはじめて実現されるものである。しかもこの生産過程はそれ自身の前後に流通過程をともなって資本の運動の内部で展開される。資本はこのような形で生産を支配するものとなって現われるのである。かくてG−W−G´が、具体的には、商品の転売において利益を獲得する商人資本の形式を代表するのに対し、このあらたな形式は産業資本の形式を代表するものということができる。資本の機能として展開される生産過程に先行して、それを媒介する労働力の売買の過程では、資本家と労働者とは単に労働力という商品の買い手と売り手として形式的には対等の地位にあるわけである。しかし一般商品と異なって、労働力はつねに資本に対してのみ商品となりうる特殊の商品である。したがって労働力はつねに資本に対してのみ商品となりうる特殊の商品である。したがって労働力の売買の過程そのものはすでに資本家と労働者との関係の端緒となるものであり、また資本家によってかわれた労働力は、労働者とともにありながら、資本家の手中においては資本の一形態をなし、労働者は、彼自身に対立するものとして現われる資本家に対して、一定の従属的地位に立たざるをえなくなる。このようにして資本家と労働者との関係は、商品経済的に取り結ばれ、商品経済的に展開されるのである。労働力はもともと人間と切り離すことのできないものであり、その商品化は、あらゆる生産物を商品化せずにはいない、商品形態の極限をなすものということができる。マルクスは、以上見てきたとおり、商品が貨幣へと発展し、貨幣が資本へと発展し、しかも資本は、この労働力という特殊な商品の出現によって、ついに生産過程をも支配する資本へと発展せざるをえない過程を、論理的に展開しているのである。ここにはじめて商品経済は、古代や中世の社会とは異なって、その基本的な社会関係自身をも商品形態をもってする特殊歴史的な資本主義社会を形成すると同時に、社会存続に必要な社会的労働の配分という原則を、資本主義社会として実現しうるものとなるのであった。マルクスが「資本論」の論述を「商品」から開始したのは、資本主義社会を一貫して規定する商品形態を明確にして、資本主義の特殊歴史的な形態を他の社会形態との対比において把握しようとしたからにほかならなかった。その意味では、以上の第1篇及び第2篇は、単に第1巻の「資本の生産過程」にとっての理論的前提をなすものであるばかりか、むしろ全3巻の理論を準備するための基礎的規定をなすものということができる。それと同時にこの部分は、マルクスの理論が古典経済学の限界を完全に抜いて、全く新たな科学的理論として展開される基礎を示すものと言えるのである。古典経済学と異なって、マルクスは商品を商品形態において分析することかに出発して、商品経済を基礎とする資本主義社会の歴史的形態を究明することができた。古典経済学が発見しえなかった重商主義や自由主義の歴史的意義と限界も、これによってはじめて明らかにされ、同時に古典経済学が立脚した資本主義的思想の物質的根拠も解明されることになります。商品経済の社会に特有な物神的性格が、したがってまた物神的観念が、はじめてマルクスの手で暴露されるものとなったというのも、商品経済が真に歴史的なものとして規定されたからである。このようにして、ブルジョワ・イデオロギーは、マルクスにおいて、単に否定され、排撃されるかわりに、むしろその根拠を明らかにされることによって、科学的に批判されるものとなるのである。

資本主義といいますが、資本主義とは一体何か、貨幣と資本のどこが違うのか、と問われたら、きちんと説明できる人は少ないのではないでしょうか。商品と貨幣についての理解が前提となるからで、このあたりでようやく説明できるところになりました。

商品流通は貨幣を生みだし、その貨幣から資本主義が生まれました。貨幣としての貨幣と、資本としての貨幣は、流通形態が違うだけである。商品流通を簡単に商品─貨幣─商品(W−G−W)という形式で表現すると、流通手段として機能するのが貨幣でした。ところが世の中には、これとは順序を逆にした貨幣─商品─貨幣(G−W−G)という流通形態があります。貨幣をとりあえず持っていて、なにか商品を仕入れ、それをまた売るという形式です。これが商品流通と資本流通の違いなのです。

W−G−Wは、異なる使用価値を得ることが目的の流通であり、貨幣をまた商品に換えるのですが、同じG−W、W−Gを含むとはいえ、G−W−Gの場合は違います。W−G−Wでは自分で消費するために商品を買うのに、G−W−Gではその商品をまた売るために買うからです。

商品流通の場合は、最初の商品1とあとの商品2は、同じであっても、別の使用価値に換わって取引が完了します。W1とW2は異質です。ところが資本流通の場合は、同じように書けば、G1を手放してG2を手に入れるわけですが、Gは同じ物です。同質です。そうすると100万円で商品を買って、それを売ってまた100万円にしたとすれば、何をしているのか分からない無意味に行動となります。二つの形態はまったく異なるものなのです。

そこでマルクスは、両形態の共通性と違いをみてゆきます。両者はともにW−G(売り)とG−W(買い)の統一ですが、その順序は逆になります。G−W−Gで貨幣は投資(前貸し)され、あとで回収されることになります。

W−G−Wで貨幣は二度地位を変えます。買い手から受け取り、また使われます。G−W−Gでは商品が二度地位を変え、貨幣が還流します。ここではその金額が増えたかどうかという量の問題より先に、まず質の問題として、再び貨幣になるということが重要となります。それが流通手段としての貨幣と、資本としての貨幣の違いとなります。

もちろん、W−G−Wを繰り返せばまた貨幣が手に入りますが、それは還流とは言えません。第一のW−G−Wはもう完了しており、第二のW−G−Wの途中であるだけです。それに対して、G−W−Gは貨幣が還流しなければ完了しないのです。

つまりG−W−Gは、商品の使用価値が目的なのではなく、質的に同じ貨幣=交換価値の量的差異を動機とし、目的として行われるものです。したがって、最初のGとあとのGが等価なら無意味で、増加している必要があります。それをG+凾f=G´で表わし、増加分を剰余価値と名づけます。価値増殖する運動が、貨幣を資本に転化するのです。

ところで、W−G−Wの場合は前も後もWは等価です。それに対して、G−W−Gは、GがG´になるのが正常で、しかも一度G´になるだけでは資本の目的は完了しません。G´もまた有限の富だから、それで目的をはたせないとはいえないからです。そのため資本の運動は無制限になります。

この運動の意識的担い手である貨幣所有者が資本家です。貨幣退蔵者が流通から貨幣を引き出し、勤勉と節約で富を増やそうとするのに対して、資本家は合理的に、貨幣を流通に投げ込むことでそれをします。

そのため、G−W−Gでは商品は資本である貨幣(貨幣資本)が転化した姿(商品資本)となります。貨幣は商品を経ることなくして資本には戻れないから、どんな商品でも資本家には貨幣に見えてきます。商品が「どんないやな臭気をはなっていようと」とマルクスは書いています。貨幣について「臭くない」といったローマ皇帝とは裏返しです。これはマルクスの皮肉でしょうか。もし小便を取引して利益を得られるなら、それが資本家にとって「貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡的な手段」になります。したがってG−W−G´の商品Wは、資本の実体である。またGは凾fは資本として区別のない一体のものになり、新たなG−W−Gの出発点となります。G−W−G´は、一見すると商品は仕入れて転売する商人資本に特有の形態にえますが、産業資本の流通にもあてはまります。また利子付資本(銀行など)も結局これを中抜きにしたもので、貨幣を貸して直接凾fを手に入れます。したがって、これがあらゆる資本が流通部面でとる資本の一般定式になります。

貨幣から資本に転化した資本の流通形態は、しかし今までの商品や貨幣の分析と矛盾しています・なぜなら流通過程は等価交換だから、GとWは等しい価値であり、そのWはまた等しい価値のGに換わるはずです。それがG´になって、最初のGとあとのG´の価値が変わるはずがない。等価交換の原則からは、ここで価値が増えることはありえず、法則と矛盾しています。W−G−Wでは、商品をAに売り、その貨幣でBの商品を買う。G−W−Gでは順序を逆にして、Bの商品を買い、それをAに売ったことになります。その順序の違いは、当事者の個人的事情であり、AとBには無関係のことです。彼らは自分との取引が商品としてなのか、資本としてなのかはわかりません。それなのになぜ価値が増殖するのでしょうか。

これは経済学にとってきわめて重要な難問であり、結局マルクス以前には解けなかった問題です。価値について言えば、等価交換からは剰余価値は生まれず、不等価交換では、個人的には利得があっても、社会的には富(価値)は増えていません。流通では価値は増殖しない。それが、歴史的には最初に現われた商業資本や高利貸資本の分析をマルクスが後回しにした理由でした。

流通部面では、資本家の買った商品の価値は増殖しません。もちろん資本家は、流通の外部ではその商品に価値をつけ加えることはできます。たとえば革を買って、それを靴にする場合です。人間労働が価値を生むからですが、それは今までの例でも実は同じでした。亜麻布織職は麻糸を仕入れてそれを織り、上衣裁縫職も服地を仕入れて裁縫していたはずです。それらは原料より価値は高くなっていますが、それ労働が追加されたからです。何もしないで価値を増殖させることはできないのです。

では一体どうすればよいのか。「これがロドスだ、ここで跳べ」というヘーゲルも使った有名な言葉がここで出てきます。ロドス島では古代オリンピックの優勝者より高く跳べたと言い張る選手に、聞いた男が「ここがロドスだ、ここで跳べ」と言ったという話です。事実で説明せよという教訓話として、『イソップ寓話集』「ほら吹き」に出てくる話です。こういう条件のもとで、さあ剰余価値を生んでみよ、やってみろと言っているわけです。そして、それを資本家は見事にやってみせるのです。

 

〔本文とその読み(解説)〕 

第1節 資本の一般的形態

資本の現象形態

商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界貿易と世界市場とは、16世紀に資本の近代的な生活史を開くのである。

商品流通の素材的な内容やいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見いだす。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。

歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利貸資本として相対する。とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現わすのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである。

歴史を見ても明らかなように商品流通がなければ、資本は成立することができません。資本は、前近代社会において支配的であった「人格的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力」とは全く異なる、「貨幣の非人格的な権力」にもとづいているからです。商品の交換は、まず商品(W)を販売して貨幣(G)を手にし、その貨幣によって他の商品(W)を購入するという、いわゆる商品の変身がW−G−Wとというプロセスなって現われるのです。この場合、個々の商品の変態の過程は相互に交錯して行われ、全体として一つの連鎖をなしつつ、商品経済の社会的な物質代謝の流通過程を形成し、貨幣はこれを媒介する流通手段として機能します。したがって貨幣が流通手段として機能する範囲を決定するものは、貨幣自身ではなくて商品流通です。貨幣は商品生産の産物とは、そういうことです。

とはいえ、資本を考察するために、歴史を遡る必要はありません。というのも、資本の運動は日々、私たちの「目の前で日々、演じられている」からです。それゆえ、商品の考察が、眼前の資本主義社会の商品から出発したように、資本の考察もやはり、眼前の資本主義社会の資本から出発します。 

商品の流通は資本の出発点である。資本が成立するための歴史的な前提となるのは、商品生産と発展した商品の流通、すなわち商業である。16世紀に世界的な商業活動が展開され、世界市場が成立したことで、資本の近代的な生の歴史が開幕するのである。

ここでは商品の流通の素材的な内容、すなわちさまざまな使用価値の交換については無視して、この流通過程が生み出した経済的な形態に注目することにしよう。するとこの過程の最後の産物として貨幣をみいだすことになる。商品流通のこの最後産物である貨幣が、資本の最初の現象形態である。

歴史的にはどこでも資本はまず貨幣の形態をとって、すなわち貨幣財産、商人資本、高利貸資本の形で、土地所有と対峙するようになる。しかし貨幣が資本の最初の現象形態であることを認識するために、とくに資本の歴史をふりかえる必要はない。同じ歴史がわたしたちの目の前で日々、演じられているからです。すべての新しい資本は、つねに貨幣という形で、最初の舞台である市場に登場する。この舞台は商品市場であり、労働市場であり、貨幣市場である。そしてこの貨幣が特定の過程をへて、資本に変容すべきなのである。

 

資本に変容する貨幣

貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。

商品流通の直接的形態は、W−G−W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G−W−Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、見いだす。その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命からして見れば、資本なのである。

流通G−W−Gをもっと詳しく見よう。それは、単純な商品流通と同じに、二つの反対の段階を通る。第一の段階、G−W、買いでは、貨幣が商品に転化される。第二の段階、W−G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である。この全過程が消えてしまっているその結果は、貨幣と貨幣との交換、G−Gである。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。

ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするならば、流通過程G−W−Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、やはりずっと簡単で確実であろう。他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さぞるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。まず循環W−G−WとG−W−Gとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。

ここでは、これまでの考察の復習から貨幣が商品流通の産物であったものから、資本に変容していくプロセスを考察していきます。

商品流通の直接的な形態はW−G−Wという商品(W)が貨幣(G)に姿を変え、その貨幣(G)が商品(W)にふたたび姿を変えるという形態で、これは「買うために売る」というものでした。この形態に並行して、「G−W−Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化つまり「売るために買う」があらわれるならば、そこで貨幣はG−Gという「運動」を示すことで「資本へと転化」し、「すでにその使命からすれば資本」なのである。貨幣は自己運動することで、資本へと転化するのです。資本となった貨幣とは、なによりもまず無限な自己運動そのものにほかなりません。これが資本としての貨幣の運動になるのです。

結論を急ぎすぎました。G−W−Gを、もう少し詳しく見ていきましょう。G−W−GもW−G−Wと同じように、二つの局面で構成されています。つまり購入の局面であるG−Wでは、W−G−Wでの購入のW−Gとは逆に貨幣(G)が商品(W)に姿を変え、第二の販売の局面であるW−Gではその商品(W)が貨幣(G)にふたたび姿を変えるのです。G−W−Gは、この二つの局面が全体として統一された運動で、通して見ると貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化ということになります。その外形だけを見れば、貨幣で商品を購入し、その商品で貨幣を購入するということになり、それは、つまり「売るために買う」ということです。

この場合、この運動のはじめと終わりは貨幣で、その間に商品が介在しているというわけで、その介在をとれば貨幣から貨幣への運動、つまり貨幣と貨幣の交換G−Gです。ここに例があるように、100ポンドの貨幣で2000ポンドの重さの綿花を購入し、それを110ポンドと売ったという場合、間に介在する2000ポンドの重さの綿花を取り去れば、100ポンドの貨幣と110ポンドの貨幣との交換ということになります。何か変な感じで、一見ボロ儲けという感じがしますが、その仕組みは後で詳しく見ていくことになるので、ここではあえてスルーします。ここでは、こういう商売をする人の気持ちになって考えましょう。100ポンドが110ポンドになって返ってくるのは儲けです。それが仮に、100ポンドが100ポンドで、何の変化もなく返ってきたら、儲けはなくて、実際に綿花を買って売ったという行為は、何の足しにもならなかったことになります。それなら、綿花を買って売るなどということを行った意味がありません。何もしなくても、100ポンドは100ポンドのままです。そのまま持っている方が、余計な労力をかけなくてもいいわけです。それが、商人というものの行動原理です。100ポンドを110ポンドにするために運動するのです。これは、W−G−Wの運動、例えば、農民が小麦が余ったから、それを市場で売って、綿布を買うというのと本質的に違います。農民の場合は、価値が大きくなるかではなく、違う使用価値を得るものです。だからW−G−WとG−W−Gとでは運動の性格が異なるのです。 

貨幣としての貨幣、資本としての貨幣の違いを作りだすのは、さしあたっては、流通形態の違いだけである。

商品流通の直接的な形態は、W−G−Wであり、商品(W)が貨幣(G)に姿を変え、その貨幣(G)が商品(W)にふたたび姿を変える。この場合には、購入するために販売するのである。

しかしこの形態とは異なる第二の特殊な形態がある。それはG−W−Gであり、貨幣(G)が商品(W)に姿を変え、その商品(W)が貨幣(G)にふたたび姿を変える。この場合には、販売するために購入するのである。貨幣の運動がこの第二の流通の軌跡を描くときに、貨幣は資本に変容するのであり、資本になるのである。むしろその規定からしてすでに資本である。

G−W−Gの流通をさらに詳しく考察してみよう。この流通は単純な商品の流通と同じく、二つの逆向きの局面で構成される。第一の購入の局面G−Wでは、貨幣が商品に姿を変える。第二の販売の局面W−Gでは、商品が貨幣にふたたび姿を変える。全体の運動はこの二つの局面が統一されたのであり、貨幣を商品と交換し、その同じ商品をふたたび貨幣と交換する。商品を販売するために購入するのである。販売と購入という外形的な違いを無視するならば、貨幣で商品を購入し、その商品で貨幣を購入すると言える。

すべての過程を消去して残るのは、貨幣と貨幣の交換であり、G−Gである。たとえば100ポンドで2000重量ポンドの綿花を購入し、それを110ポンドで販売するならば、結局は100ポンドを110ポンドと交換したことに、貨幣と貨幣を交換したことになる。

このような回り道をして、もしも貨幣をそれと同一の価値の貨幣と交換するならば、すなわち100ポンドの貨幣を100ポンドと交換するならば。このG−W−Gという流通過程が無内容な愚かしいものであるのは明らかだろう。こうして100ポンドを危険にさらすよりも、貨幣を手先に溜めこんでおく貨幣退蔵者のやり方のほうがはるかに簡単だし、確実であろう。

商人は、100ポンドで購入した綿花を110ポンドで販売できることもあるが、100ポンドで、ときには50ポンドで手放さなければならないこともある。いずれにしても商人にとってこの貨幣が、たとえば穀物を販売して手に入れた貨幣で衣服を購入する農民の使う貨幣のように、単純な商品流通において使われる貨幣の運動とは、まったく異なる独特で固有な軌跡を描くものであることは間違いない。だからここではW−G−WとG−W−Gという二つの流通の形態の違いの特徴を明らかにする必要がある。それによってこの形態の違いの特徴を明らかにする必要がある。それによってこの形態の違いの背後に潜む内容の違いも明らかになるだろう。

 

二つの流通形態の違い 

まず両方の形態に共通なものを見よう。

どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W−G、売りと、G−W、買いとに分かれる。二つの段階のどちらも、商品と貨幣という同じ二つの物的要素が相対しており、また買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた二人の人物が相対している。二つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一である。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの一人はただ売るだけであり、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りとを交互に行なう。

とはいえ、二つの循環W−G−WとG−W−Gをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階逆の順序である。単純な商品流通は売りで始まって購入で終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。

流通W−G−Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、逆の形態G−W−Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである。

形態W−G−Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。形態G−W−Gでは逆である。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。

その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G−W−Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。

ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W−G−Wは完全に終わっている。それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣類を買うならば、この3ポンドは私はとっては決定的に支出されている。私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。それは衣服商人のものである。そこで私が第二の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第一の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。その貨幣は、私が第二の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れて行く。だから、流通W−G−Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。これに反して、G−W−Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作は失敗したか、または過程が中断されてまだ間利用していないかである。というのは、過程の第二の段階、すなわち買い補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。

W−G−WとG−W−Gとの大きな違いは流通段階における順序が逆であるということです。後者にあっては、貨幣は「ただ前貸しされるだけ」、すなわちたんに投資されるにすぎない。見てきたとおり、前者にあって貨幣はその出発点には回帰せず、循環しません。これに対して後者では、開始点へと貨幣が循環しているのです。この時、貨幣が還流して出発点に戻ってくるときに、つまり、中間に介在する商品のことを省略して、出発する貨幣と返って来る貨幣とを比べて、後者の価値が大きくなっているかどうかは、ここでは関係なく、そのように動いています。商人は、交換によって、100ポンドを110ポンドにすることができますが、50ポンドになってしまうこともあるのです。それは損をすると一般には言います。買った価格より高い価格で売る、というのは結果としてそうなったということにすぎません(ただし、そのために商人は最大限の努力をするのですが)。これが貨幣としての貨幣の流通と、資本としての貨幣の流通の違いを感覚的に分かりやすく示す相違点で、これについては後で詳しく考えます。

W−G−WとG−W−Gとの違いに戻りましょう。単純な商品流通であるW−G−Wという運動は商品を販売して貨幣を得て、その貨幣で新たな商品を購入した時点で完結します。したがって、G−W−Gが循環する運動であるのに対して、一方通行、行ったきりです。かりに、W−G−Wで貨幣がふたたび得られた、つまり貨幣が手元に返ってくるように見える場合は、新たに商品を販売したということで、新たにW−G−Wの運動がスタートしたということで、元のW−G−Wの運動とは関係ないわけです。これは、W−G−Wの最終目的が消費であるからです。例えば、農家が余った麦を売った貨幣で綿布を購入するのは、綿布で服をつくるという消費のためです。したがって、W−G−Wにおいては、貨幣の支出は、あとで返ってくるわけではありません。それを目的としているわけではありません。これに対して、G−W−Gは貨幣が還流してきて完結するということです。つまりは、G−W−Gは最初に支出した貨幣が循環して返ってくることが最終目的なのです。 

まずこれらの二つの形態の共通点を確認しておこう。

どちらの循環も、販売W−Gと購入G−Wという逆向きの二つの局面に分解できる。この二つの局面はどちらも、商品と貨幣という二つの物的な要素が向き合っている。そして同じ経済的な性格の仮面をかぶった二人の人間、売り手と買い手が向き合っている。どちらの循環も、逆向きの二つの局面が統一されたものであり、この統一性はどちらにおいても、三人の契約者が登場することで仲介されている─第一の人は販売だけを行い、第二の人は購入だけを行い、第三の人は販売と購入を交互に行う。

しかしW−GとG−Wという二つの循環を初めから区別しているのは、逆向きの同じ流動局面が、逆の順序で現れるということである。単純な商品流通は販売で始まり、購入で終わる。反対に資本としての貨幣の流通は購入で始まり、販売で終わる。単純な商品流通では商品が運動の始まりと終わりにあり、資本としての貨幣の流通では貨幣が運動の始まりと終わりにある。最初の形態で貨幣が、第二の形態では商品が、全体の過程の進行を仲介する。

流通W−G−Wでは貨幣が最終的に商品に姿を変え、その商品は使用価値として役立つ。だから貨幣は支払われて終わりである。逆に流通G−W−Gの形態では、買い手が貨幣を支払うのは、次に売り手となって貨幣を回収するためである。この買い手は流通の中に貨幣を投入するが、それは同じ商品を販売して流通の中から貨幣をふたたび回収するためである。買い手は貨幣をふたたび手にいれるという狡猾な意図によって、貨幣を手放すのである。だから貨幣はたんに前払いされたにすぎない。

形態W−G−Wでは、同じ貨幣片が二度、その位置を変える。売り手はその貨幣を買い手からうけとり、それを別の売り手に支払う。全体の過程は、商品を販売して貨幣をうけとることから始まり、貨幣を手放して商品をうけとることで終わる。形態G−W−Gはその逆である。この過程では同じ貨幣片ではなく、同じ貨幣片ではなく、同じ商品が二度、その位置を変える。買い手はその商品を売り手からうけとり、それを別の買い手に引き渡す。

単純な商品流通では、同じ貨幣片が二度その位置を変えることで、貨幣片が一つの手から別の手に最終的に移動する。これにたいして資本としての貨幣の流通過程では、同じ商品が二度その位置を変えることで、貨幣はその最初の出発点に還流する。

貨幣がその出発点に戻るということは、商品が購入した価格よりも高い価格で販売されるかどうかとは、かかわりがない。高い価格で販売されるかどうかは、出発点に戻ってきた貨幣の大きさだけに影響する。貨幣が出発点に還流するという現象そのものは、購入された商品がふたたび販売された瞬間に、すなわちG−W−Gという過程が完了した瞬間にすでに成立している。これがたんなる貨幣としての貨幣の流通と、資本としての貨幣の流通の違いを感覚的に分かりやすく示す相違点である。

これにたいしてW−G−Wという循環が完結するのは、商品を販売して貨幣がもたらされ、別の商品を購入するためにその貨幣がふたたび手放された瞬間である。貨幣がふたたび出発点に還流することがあるとすれば、それはこの全体の過程が新たにふたたび実行された場合、すなわち反復された場合だけである。

たとえはわたしが1クォーターの穀物を3ポンドで販売して、この3ポンドで衣類を購入したとしよう。この場合にはこの3ポンドをわたしは最終的に手放すのである。それはわたしとはまったくかかわりがない。それは洋服屋のものである。

わたしがふたたび1クォーターの穀物を販売するならば、ふたたび貨幣がわたしの手先に戻ってくる。しかしそれは最初の取引の結果ではなく、あくまでもそれを反復した結果である。私が第二の取引を終了し、新たな購入を行った瞬間に、貨幣はふたたびわたしの手元を離れていく。

だからW−G−Wの流通過程においては、貨幣の支出は貨幣の還流とはまったく関係がない。これにたいしてG−W−Gの流通過程では、貨幣の支出方式そのものから、必然的に貨幣は還流する。この還流がなければ、この操作は失敗したのか、あるいはまだ中断されたままで未完成なのである。購入を補足して完成するのは第二の販売であり、この第二の販売が行われていないからである。

 

二つの流通過程の目的

循環W−G−Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して循環G−W−Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。

W−G−WとG−W−Gとの目的の違いについて、さらに考えていきましょう。単純な商品流通であるW−G−Wの運動のプロセスのはじまりとおわりはともに商品であり、同じ価値量の商品です。しかし、両者は質的にちがう使用価値の商品です。農家が余った麦を売った貨幣で綿布を購入するというケースでは、販売する商品は穀類で、購買する商品は衣服です。このとき、当の農家は異なる使用価値を得ることができたということで消費の欲望を満たすことができました。これに対して、貨幣流通であるG−W−Gは、過程の出発点と到達点とが、量と貨幣という質的に等しいものです。先ほど少し触れたように、出発点と到達点の貨幣が同じ量であったら、そのプロセスは無意味となります。ということは、貨幣の量ではかっているのです。貨幣の量というのは交換価値を表すものです。G−W−Gという運動は交換価値を目的として動いているのです。 

W−G−Wの循環は、片方の極としての一つの商品から始まり、反対の極としての別の商品で終わる。そして第二の商品は、この流通から抜けだして、消費される。だからこの流通過程の最終的な目的は、消費すること、すなわち欲望が満たされること、使用価値にある。これにたいしてG−W−Gの循環は、片方の極として貨幣で始まり、反対の極として貨幣で終わる。この循環を動かす動機となり、この循環を規定している目的は、交換価値そのものである。

 

剰余価値 

単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。流通G−W−Gではそうではない。この流通は一見無内容に見える。というのは同義反復的だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える。およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。それゆえ、過程G−W−Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。たとえば、100ポンド・スターリングで買われた綿花が、100プラス10ポンドすなわち110ポンドで再び売られる。それゆえ、この過程の完全な形態は、G−W−G´であって、ここではG´=G+ΔGである。すなわちG´は、最初に前貸しされた貨幣額プラスある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(サーブラス・ヴァリュー)と呼ぶ。それゆえ最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

単純な商品の流通であるW−G−Wは、出発点も到達点も商品であることは、前のところで考察しました。この交換は質的に異なる使用価値を得ることで完結します。これに対して、G−W−Gは、出発点も到達点も貨幣で、同義反復にも見えます。出発点と到達点がまったく同じであれば、交換する意味がありません。最初の100ポンドを綿花と交換し、次にその綿花と同じく100ポンドと交換したならば、回り道をして貨幣と貨幣を交換するだけであり、同じものを同じものと交換するだけであるから、まったく目的のない愚かしい操作のようにみえるのです。それが意味のある場合は、100ポンドで綿花を購入し110ポンドで販売するということです。このとき、出発点は100ポンドの貨幣であり、到達点は110ポンドの貨幣です。この出発点と到達点は、使用価値が質的に異なるわけではなく、貨幣の量に差があるのです。つまり、G−W−Gは量的な差が生まれることで、意味があることになるのです。言い換えれば、単純な商品流通W−G−Wの場合は、穀類を売って衣服を買うという異なる使用価値を求めるという消費が目的ですが、貨幣の流通G−W−Gの場合は、貨幣を出して貨幣を得るときにより多くの貨幣を得ようとする。つまり、より多くの量を獲得する、儲けることが目的となる。

従って、G−W−Gが意味を持つのは、G−W−G´という形式のときです。このG−W−G´の形態こそが、G−W−Gの完全な形態であると言えます。この場合のG´は、支出より多く獲得したものということになります。そこではG´=G+ΔGです。ΔGとは、より多く獲得した分、つまり増加分です。この増加分こそが、「剰余価値」と呼ばれるものです。貨幣のかたちで投資された価値は流通のなかで価値量を変化させ、より以上の価値を付け加えることになります。すなわち、「剰余価値を加えたのであり、増殖した」。この価値増殖の「運動が貨幣を資本に変容させる」のです。資本となった貨幣は、何よりもまず自己運動するものにほかなりません。そればかりではなく、資本としての貨幣とは、第一義的に価値の自己増殖の運動です。

単純な商品の流通では、二つの極は同じ経済的な形態をとる。どちらも商品である。このどちらも同じ価値の量を含んだものである。ただし、たとえば穀物と衣服のようにどちらも質的に異なる使用価値をそなえている。この運動の内容は、生産物の交換であり、社会的な労働が表現されたさまざまな素材が交換されることである。

G−W−Gの流通はこれとは異なる。この流通は一見すると同義反復であり、内容のないものにみえる。二つの極は同じ経済的な形態をとる。どちらも貨幣である。したがって両者の使用価値に質的な違いはない。というのは貨幣はさまざまな商品が変化した姿であり、そこでは商品の特別な使用価値は姿を消しているからである。

最初の100ポンドを綿花と交換し、次にその綿花と同じく100ポンドと交換したならば、回り道をして貨幣と貨幣を交換するだけであり、同じものを同じものと交換するだけであるから、まったく目的のない愚かしい操作のようにみえる。ある量の金額の貨幣を別の量の貨幣と区別するのは、金額の違いだけである。だからG−W−Gの流通過程の内容は、二つの極をなす貨幣の質的な差異から生まれるのではなく(どちらも貨幣だからだ)、量的な差異だけによって生まれる。

こうして最後には、最初に流通に投じられたよりも多くの量の貨幣が流通から引きだされることになる。100ポンドで購入された綿花は、100+10ポンド、すなわち110ポンドでふたたび販売される。だからこの過程を完全な形で表現すると、G−W−G´となる。ここでG´=G+ΔG、すなわち前払いされた貨幣の金額プラス増加額である。

この増加額、あるいは最初の価値からの超過分を、わたしは増殖価値(サーブラス・ヴァリュー)と呼ぶ。だから最初に前払いされた価値は、流通の中で保守されただけではなく、価値の大きさを変えたのであり、増殖価値を加えたのであり、増殖したのである。そしてこの運動が貨幣を資本に変容させたのである。

  

増殖への欲望

もちろん、W−G−Wで両極のWとW、たとえば穀物と衣服とが、量的に違った価値量であるということもありうることである。農民が自分の穀物を価値よりも高く売ったり、衣服をその価値よりも安く買ったりすることもありうる。また彼の方が衣服商人にだまされることもありうる。とはいえ、このような価値の相違はこの流通形態そのものにとってはやはりまったく偶然である。この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程G−W−Gのように無意味となってしまいはしない。両極が等価だということは、ここではむしろ正常な取引の条件なのである。

買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものがそうであるように、限度と目標とを、過程の外にある最終目的としての消費に、すなわち特定の諸欲望の充足に、見いだす。これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。たしかに、GはG+ΔGになり、100ポンド・スターリングは100プラス10ポンドになっている。しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値額である。もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、それはその役割からはずれてしまうであろう。それは資本ではなくなるであろう。流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して世界の最後の日までしまっておいてもびた一文もふえはしない。つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。なぜならば、両方とも交換価値の限定された表現であり、したがって両方とも量の拡大によって富そのものに近づくという同じ使命をもっているからである。たしかに、はじめに前貸しされた価値100ポンドの価値と、流通それに加わる10ポンドの剰余価値からは一瞬間区別されるにちがいないが、しかしこの区別はすぐにまた消えてなくなる。過程の終わりには、一方の側に100ポンドの原価値が出てきて他方の側に10ポンドの剰余価値が出てくるのではない。出てくるものは、110ポンドという一つの価値であって、それは、最初の100ポンドとまったく同じに、価値増殖過程を始めるのに適した形態にあるのである。貨幣は、運動の終わりには再び運動の始めとして出てくるのである。それゆえ、売りのための買いが行われる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。単純な商品流通─買いのための売り─は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役だつ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである。

単純な商品の流通であるW−G−Wは、出発点も到達点も商品で、交換は質的に異なる使用価値を得ることで完結することは、前のところで確認しました。例としてとりあげた、穀類を売って衣服を買うという場合、G−W−Gの場合のように、交換価値の量的な差異は偶然的なものとして、基本的には等しいということが正常な取引の条件となります。具体的に言うと、穀類を100ポンドの貨幣で売って、その100ポンドの貨幣に相当する衣服を買うということで正常に成立する。このとき、交換価値は穀類=貨幣100ポンド=衣服と等しくなるということです。しかし、場合によっては穀類を売るときに同じものを売る競争相手がいて、競争のために安く売らざるを得ないこともあります。また、衣服を買おうとして相手がごまかして高い値段で買わされることもあるかもしれない。しかし、これは、いつもあることではなく、つまり原則ではなく、偶然そうなったということです。G−W−Gの場合なら、よく多くの貨幣が循環で返ってくることが目的ですから、例のようなことは、損をすることが分かっていることですから、そのような交換を避けようとするでしょう。しかし、商品流通W−G−Wの場合には、衣服を得るという消費が目的ですから、交換価値で損をする場合でも交換は成立する可能性はある(程度問題であることは、当然ですが)。だから偶然的なのです。

W−G−Wという購入するために販売する行為を反復し、新たに繰り返す行為とは、この過程そのものと同じように、この過程の外部にある最終的な目的、つまり、今自分が持っていない物を手に入れるということ、を尺度とし、目標としています。この最終目的とは消費であり、これが欲しい(必要だ)という特定の欲望を満たすことです。

これに対してG−W−Gの場合の場合、最初にあるのも最後にあるのも同じ貨幣であり、交換価値で、この運動は循環の形態をとっています。G−W−Gの場合の終点は同時に出発点でもあるのです。そのため、この運動にはゴールという目標がなくて、繰り返し続けられ終わることありません。つまり、今まで述べてきた例で言えば、綿花を100ポンドで購入して110本で販売することは、100ポンドと110ポンドを交換することです。そして、次には得た110ポンドを元手に、その1.1倍の121ポンドを得る。その次には121ポンドを元手に、その1.1倍の133.1ポンドを得ようとする。そのように次々と繰り返して貨幣を増殖させていくのです。このとき、この動きの目的は、貨幣の量を増やすことになります。その目的は外部の何かが欲しいという外部的にものではなく、今ある貨幣を増やすという内部てきなものです。それが、何らかの時点で、貨幣が販売という貨幣を得る目的以外の目的で商品を購入することになれば、それは消費目的の購入であり、その時点でW−G−Wに転じたことになります。この転じた時に貨幣は資本としての貨幣から商品流通の貨幣(貨幣としての貨幣)に変容したということになります。

これをまとめると、単純な商品流通では、購入するために販売が行われるものですが、この行為は流通の外部にある最終的な目的、すなわち使用価値を手にいれて欲望を満足させるという目的のための手段として行なわれます。これに対して資本としての貨幣の流通は、自己目的であると言えます。すなわち価値の増殖は、たえず更新されるこの運動の内部にしか存在しないからです。だから資本の運動は際限のないものとなる。G−W−G´というプロセスがおわって戻ってきた貨幣を再び流通に投げ入れ、G−W−G´というプロセスを開始するということを、終わることなく繰り返すのです。

もちろんW−G−Wの両極を構成するWとW、すなわちこの例では穀物と衣服が、量的に異なる価値をそなえていることもありうる。農民が穀物をその価値以上の価格で販売することはあるだろうし、衣服をその価値以下の価格で購入することもあるだろう。あるいは反対に洋服屋にごまかされるかもしれない。

しかしこうした価値の違いは、流通形態そのものによってはまったく偶然的なものである。G−W−Gの場合とは異なり、両極の商品、この例では穀物と衣服が同じ価値であっても、この流通形態が意味を失うことはない。むしろ両極の商品の価値が等しいことが、正常な取引の条件なのである。

購入するために販売する行為を反復し、新たに繰り返す行為とは、この過程そのものと同じように、この過程の外部にある最終的な目的を尺度とし、目標としている。この最終目的とは消費であり、特定の欲望を満たすことである。

これに対して販売するために購入する行為では、最初にあるのも最後にあるのも同じ貨幣であり、交換価値である。そのためにこの運動には終わりというものがない。たしかにGはG+ΔGになり、100ポンドプラス10ポンドになっただろう。しかし質的には100ポンドも110ポンドも同じもの、すなわち貨幣である。量的には、100ポンドでも110ポンドでも、かぎられた金額である。110ポンドは、貨幣として支出されてしまうと、その役割をはたし終えたのである。それはもはや資本ではない。

もしも流通過程から引きあげられると、それは退蔵貨幣として固定され、この世の終わりまで溜めこんでおかれたとしても、びた一文も増えることはない。もしも価値の増殖を目指すのであれば、元手が100ポンドでも110ポンドでも、増殖への欲望に変わりはない。どちらも交換価値のかぎられた表現にすぎず、どちらも量を増やすことによって富そのものに近づくという使命をおびているのである。

たしかに最初に前払いされた100ポンドの価値と、流通の中で新たに獲得した10ポンドの増殖価値とは、しばらくのあいだは区別されねだろう。しかしその違いはすぐになくなる。この過程が完了したときに、片方に原価値の100ポンドがあり、他方に増殖価値の10ポンドがあるというわけではない。この過程から出てくるのは、110ポンドという一つの価値であり、最初の100ポンドと同じ形態をとりながら、次の価値増殖過程を開始しようとしている。貨幣は運動の終点で、出発点で同じ姿を示すのである。それぞれの循環は、販売するための購入が[販売で]終わるところで終点となるが、この終点はおのずとあらたな循環の出発点となる。

単純な商品流通では、購入するために販売が行われるが、この行為は流通の外部にある最終的な目的、すなわち使用価値を手にいれて欲望を満足させるという目的のための手段として行なわれる。これにたいして資本としての貨幣の流通は、自己目的である。価値の増殖は、たえず更新されるこの運動の内部にしか存在しないからである。だから資本の運動は際限のないものとなる。

 

資本家の登場

この運動の意識ある担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容─価値の増殖─が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。だから、使用価値はけっして資本家の直接目的として取り扱われるべきものではない。個々の利得もまたそうではなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである。この絶対的な致富衝動、この情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は気の違った資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣畜者なのである。価値の無休の増殖、これを貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、追求するのであるが、もっとりこうな資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通に投げこむことによって、それをなしとげるのである。

資本としての貨幣の流通を意識的に実行する人が資本家です。資本家の活動の原動力となる動機は、貨幣の量という抽象的な富をますます多量に獲得することです。ますます多量とは、単に量を増やすだけでなく、繰り返すことで獲得する量をも増やしていくからです。だから、使用価値を資本家の直接的な目的として考えるべきではないのです。例えば、何のために(何を買うために)お金を増やしていくのか、と問うことです。この問いは、お金そのものを増やしていくのですから、無意味です。しかも、その時に単にお金を増やすということでもなくて、お金を増やしていくという行為を繰り返して続けていくという行為そのものが目的なのです。

資本家は「情熱的に価値を追い求める」という点では、貨幣退蔵者と共通する性格を持っていると言えます。しかし、マルクスは、貨幣退蔵者は愚かしい資本家であるのにたいして、資本家は合理的な貨幣退蔵者であると言いました。貨幣退蔵者が愚かしい資本家であるというのは、価値の力を使わないことによって、すなわちたえず貨幣を流通の循環から出してしまうことによって価値をふやそうとするからです。具体的に言うと、できるだけ貨幣を使用せず、それをできるだけ手元に置いておくことによって貨幣を増やそうとする。しかし、そのような形での価値増殖は、貨幣退蔵者本人の勤勉と節欲にもとづくにすぎず、貨幣のさまざまな機能を否定することによってのみ可能となるものです。これに対して、資本家が賢明なのは、価値の力を用いて、貨幣を絶えず流通に投げ込むことによって価値を増やそうとするからです。

貨幣の所有者がこの運動を意識的に担うようになると、資本家になる。彼の人格、あるいはむしろ懐が、貨幣の出発点であり、終着点である。流通の客観的な内容は増殖であり、これが彼の主観的な目的である。彼の活動の原動力となる唯一の動機は、抽象的な富をますます多量に獲得することである。そのかぎりで彼は資本家となり、意志と意識をもつ人格化された資本として機能する。だから使用価値を、資本家の直接な目的として考察してはならない。さらに個々の利益すら資本家の直接の目的ではない。彼の目的はただ、利益の獲得を休みなくつづけることである。

たしかに貨幣退蔵者も資本家と同じように、より多くの富を目指す絶対的な衝動に駆られており、情熱的に価値を追い求める。しかし貨幣退蔵者は愚かしい資本家であるのにたいして、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者は、流通から貨幣を救いだすことによって、価値がたえず増大することを目指す。もっと賢い資本家は、貨幣を次々と流通に委ねることによって、これを実現するのである。

 

自己運動する価値

諸商品の価値が単純な流通のなかでとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。これに反して、流通G−W−Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで価値はたえず商品や貨幣とに形態を変換しながら、その大きさそのものを変え、原価地としての自分自身から剰余価値として自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである。

ここに至って、貨幣というものについて、ただの貨幣と資本としての貨幣との違いが明確になったと思います。ただの貨幣という形態は、商品交換を仲介するもので、W−G−Wという形態で、商品で商品を得る中間に介在するものです。したがって、W−G−Wの消費という目的を達したときに、残っているのは獲得した商品で、貨幣ではありません。これに対して、資本としての貨幣はG−W−Gという形態で、運動の主体として動く、自ら増殖する運動をするものです。

これを価値の面から見ていくと、W−G−Wの場合、結局は商品の使用価値が売る商品から買う商品に変容するのであり、その仲介をするのが貨幣の表す交換価値です。これに対して、G−W−Gの場合は、交換価値により流通するので貨幣が価値を表している。そして、貨幣で表される価値は流通を繰り返すことにより増殖する。それは、流通のプロセスの中で貨幣になったり商品になったりして、その変容を繰り返しながら、増殖していくのです。したがって、G−W−Gの運動は価値の自己増殖、価値は自らが価値であるが故に価値を生むのです。

つまり、こう言い換えると分かり易いかもしれません。「資本」というのは、日常用語のレベルでは、何らかの用途を持った一定額のお金の塊(資金)として理解されています。しかし、ある一定額の貨幣は資本の出発点だとしても、資本そのものではないのです。それは投資されて、さまざまな姿態を取って、そして最後に貨幣として手元に返って来なければ、それは単なる退蔵貨幣であって、資本ではない。資本とは、そういう循環を描く価値の運動体のことです。だから、われわれは資本を、単なる退蔵貨幣としてでも、単なる物としてでもなく、一個の運動、過程、流れとして捉える必要があるということです。

貨幣形態は、商品価値が単純な流通の中でとる自立的な形態であるが、これは商品交換を仲介する役割をはたすにすぎず、運動の最終的な結果においては姿を消している。これにたいしてG−W−Gの流通においては、商品も貨幣も、価値そのものが異なる存在様式をとって機能しているだけである。貨幣は価値の一般的な存在様式であり、商品は価値の特殊な存在様式、いわば変装した存在様式である。

価値は一方の形態から他方の形態へとたえず変化し、しかもその運動の中でみずからを失うことはない。このようにして価値は自己運動する主体に変わる。増殖する価値は、その生涯の循環において次々と異なる特殊な現象形態をとるのであり、それを固定してしまうと、「資本とは貨幣のことである」とか、「資本とは商品のことである」などといった説明がされるようになる。

しかし実際にはここで価値はある過程の主体であって、この過程の中で価値はたえず商品や貨幣という二つの形態を代わる代わるとりながら、自分の大きさを変えていくのである。そしてもともとの価値から自らを増殖価値として排出し、自分の価値を増やしていく、価値が増殖価値を作りだしていくこの運動は、価値自体の運動であり、価値の増殖であり、自己増殖にほかならないからである。このようにして価値は、みずからが価値であるがために価値を産むという奇妙な性質をおびる。価値は生きた子供を産む。少なくとも金の卵を産むののである。

 

価値の自立的な形態

このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とを取ったり捨てたりしながらしかもこの変換のなかで自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されねばならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。それは100ポンド・スターリングだった、それは今では110ポンドである、等々。しかし、貨幣そのものはここでは価値の一つの形態として認められるだけである。というのは、価値にはその形態を二つもっているからである。商品形態をとることなしには、貨幣は資本にはならない。だから、貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらないのである。資本家は、すべての商品が、たとえそれがどんなにみすぼらしく見えようと、どんなにいやな臭いがしようとも、内心と真実とにおいては貨幣であり、内的に割礼を受けたユダヤ人であり、しかも貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡行う手段であるということを知っているのである。

単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値がここでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現われるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。だが、それだけではない。いまや、価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身に対する私的な関係にはいるのである。それは、原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。つまり、父なる神としての自分を子なる神としての自分自身から区別するのであるが、父も子も同じ年なのであり、しかも、実は両者は一身なのである。なぜならば、ただ10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれて子によって父が生まれるやいなや、両者の区別は再び消えてしまって、両者は一つのもの、110ポンドであるからである。

つまり、価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始めるのである。G−G´、貨幣を生む貨幣、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。

売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G−W−G´は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。カイト売りとの中間で、すなわち流通部面の外で、行われるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に、利子生み資本では、流通G−W−G´は、短縮されて、媒介のないその結果として、いわば簡略体で、G−G´として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。

要するに、実際に、G−W−G´は、直接に流通部面に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。

商品生産から価値が自立化した価値体としての貨幣が生まれてきましたが、さらに、ここでは、G−W−G´という資本の運動を通じて、価値が主体として現われてきます。というのは、この運動は、まさしく価値が価値自身の力によって増殖する運動、価値の自己増殖運動にほかならないからです。これは、比喩的な言い方で、分かりにくいかもしれません。つまり、G−W−G´という貨幣の流通が繰り返すのは、貨幣を支出して獲得する、貨幣の使い手である貨幣所持者(この場合は資本家といってもいいです)は、彼自身は家とか自動車という商品を買うため、つまり使用価値を得るという欲望を満たすために行動しているのではない。それはあたかも、価値自体が生物のように子孫を増やして生存を広げるように増殖しているのに従っているように、価値自体を増やすために行動しているということです。

マルクスは第1節で商品のフェティシズムといいましたが、これは、さしずめ資本のフェティシズムといってもいい。つまり、資本が自己運動的な主体であるとみなされているのです。すでに商品は運動することによって商品であると言われました。この運動が商品流通であり、貨幣がその運動を媒介しています。その結果、貨幣には際限のないものという仮象がまとわりつくことになった。そして、ここに至って運動という、商品に発して貨幣が体現した性格が、資本そのものの固有性となっているのです。貨幣にあらわれた価値が、こうして資本となる。価値は過程を進みつつある貨幣となり、価値となることで、資本なのです。資本としての貨幣は流通から出てきて、流通へと入ってゆき、流通のなかで増殖して回帰してくる。それゆえ、と「資本論」のマルクスは書いている。「G−G´、貨幣を生む貨幣、これが資本の最初の通訳、すなわち重商主義者たちの口から洩れでた資本の描写なのである。」と。

では、いったいどうやって資本はその価値を増殖させるのでしょうか。できるだけ貨幣を支出しないという貨幣退蔵者のやり方は愚かで、賢明な資本家のものではありません、そこで、貨幣を何らかの商品に投じるしかないことになる。そして、それを貨幣に再転化することで、より多くの価値を獲得する以外に方法はないのです。これを、例の記号で表現すると、G−W−Gとなります。最後のGは、最初のGよりも額が大きくなっていないとだめなので、これは正確にはG−W−G´と書くことができます。G´はGより大きく、G´=G+ΔGです。このΔGとして表現できる部分、すなわち最初に投じた価値よりも増殖している価値部分が剰余価値(剰余価値)です。資本は、G−W−G´という循環を繰り返しながら、しだいに多くの剰余価値を獲得していって、出発点としての一定量の価値を増殖させていく絶え間ない運動体だと言えます。このように資本の運動をもっとも簡潔に表現したG−W−G´を、資本の一般的定式と呼びます。

こうした過程を統括する主体として価値は、何よりもみずからのアイデンティティを確保するための自立的な形態を必要とする。この過程において価値は、あるときは貨幣形態を、あるときは商品形態を身にまとい、そしてそれを脱ぎ捨てていくのであり、しかもこの〈衣替え〉のうちで自己を保持し、拡大していくからである。そして価値はこの自立的な形態を貨幣のうちだけにみいだす。

だから貨幣はすべての価値増殖過程の出発点であり、終着点である。かつて価値は100ポンドだったが、今では110ポンドである、など。しかし貨幣そのものはここでは価値の一つの形態にすぎない。というのは価値には二つの形態があるからである。貨幣は商品の形態をとらず資本になることはない・だから貨幣の退蔵の場合のように、貨幣が商品に敵対的になることはない。資本家は、どんな商品でも、それがどれほど安物にみえたとしても、どんな悪臭を放っていたとしても、その信念と真理において貨幣であり、〈心に割礼をうけた〉ユダヤ人であり、貨幣からより多くの貨幣を作りだす魔法の手段であることを熟知しているのである。

単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値にたいしてせいぜい貨幣という自立的な形態をとるにすぎない。しかしここでは価値が突然のように、みずからの力で進み、みずから運動する実体として登場する。この実体にとっては商品も貨幣も、たんなる形態にすぎない。いやそれだけではない。価値は商品のあいだの関係を表現する代わりに、自己とのあいだでいわば私的な関係をもつようになる。

[キリスト教の三位一体論で]父なる神と神の子キリストが区別されるように、もとの価値そのものと増殖関係が区別される。しかしどちらも同い年であり、実際には同一の人物である。なぜなら10ポンドの増殖価値を生むことで、初めて前払いされた100ポンドは資本になるからである。そしてこれが資本となった瞬間に、資本に息子が生まれる。そして息子が生まれることで。資本は父となる。その瞬間に両者は一体となって110ポンドとなるのである。

このようにして価値はみずからの力で進む価値となり、みずからの力で進む貨幣となり、こうして資本となる。それは流通から抜けだし、ふたたび流通の中に入り、流通の中で自己を保存し、増殖し、もっと大きくなって流通から還帰する。そしてたえず同じ循環を新たに始めるのである。G−G´、貨幣を生み落とす貨幣、お金を生むお金。資本の最初の通訳者である重商主義者たちは、資本についてこのように形容したのだった。

販売するために購入すること、正確にはより高い価格で販売するために購入すること、G−W−G´は、資本の一つの様式にすぎない商人資本だけに該当する特殊な形態のように思えるかもしれない。しかし産業資本もまた、商品に変容する貨幣であり、商品を販売してより大きな貨幣になって帰還してくる貨幣である。販売と購入のあいだにどのようなことが行われるか、あるいは流通の外部でどのようなことが行われるかは、運動のこの形式そのものをいささか変えるものではない。ついにはこれが利子を生む資本となると、G−W−G´の流通が短縮形をとって登場する。媒介する項のない流通の結果として、いわばG−G´という簡略な文体で登場するのである。これは貨幣がより大きな貨幣になること、価値がより大きな価値になることである。

こうして実際には、流通の領域に直接に登場してくる資本の一般的な定式は、G−W−G´と表現できるのである。

 

 

第2節 資本の一般的な定式の矛盾

資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。というのも、商品交換は、原則として、等しい価値(交換力)をもつ物どうしの交換だったからです。このような商品交換の法則にしたがって、たとえば、千円と値札に書かれている商品を千円で買い、それを再び千円で売ったとしても価値を増やすことはできません。ここでは、このような一般的な定式の矛盾について考察していきます。

 

価値の増殖の矛盾

貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通形態は、商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾している。この流通形態と単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。では、どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか?

それだけではない。このような逆転が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。資本家でとしては私は商品をAから買ってそれをまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次に商品をAから買うのである。取引仲間のAとBとにとってはこのような相違は存在しない。彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現わすだけである。私自身も、彼らにたいしてはそのつどただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。しかし、この二つ行為の関連はただ私にとって存在するだけである。Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものをまちがえているのだということ、この取引全体が買いで始まって売りで終わったのではなく逆に売りで始まって買いで終わったのだということを証明するであろう。じっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであろう。そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bのむ立場からは単なる買いになる。だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面からは抜け出ていないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた、剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。

資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。それが、どのように反しているかを、資本の流通形態と商品の流通形態との相違から見ていきますが、マルクスが注目するのはW−G−Wという順序とG−W−Gという順序とが逆になっていることです。

例えばW−G−Wの場合で、亜麻布−貨幣−聖書を考えてみれば、そこで生起しているのは、商品の持ち手変換といういわばひとつの空間的運動です。この空間的な運動そのものも、それが運動であるかぎりでは時間を前提としてはじめて成り立つものです。とりわけ亜麻布と聖書との直接的な交換であるならば、交換相手がただちに見つかるとはかぎらないと言えるので、時間的な契機は不可欠なものと考えられます。しかしここでは貨幣があいだに立つことで、時間的な差異は原理的には最小化することが可能なかたちとなっているわけです。これに対してG−W−Gの場合には、資本は、それが商品と貨幣の運動を基礎としながら変身していくものであるかぎりで、避けがたく資本そのものとして時間的な運動の形態となるほかはないわけです。空間的運動を基礎にする場合であっても、流通形態としての資本はかならず時間を媒介としてのみその運動をうちに吸収するのです。 

茶色の字のところは、しばらく措いて、本論は進みます。この順序の逆転を取引の当事者の立場で分析していきます。単純な商品流通の場合、資本、この場合は貨幣を持っている者(資本家)はW−G−WのGのところにいるわけです。つまり、資本家はAという人からW(商品)を買って、Bという他の人にそのW(商品)を売る。この逆の順序なった場合G−W−Gでは、Wという商品の所持者はWのところにいて、Bという人に自分の商品を販売して貨幣を得て、その貨幣で他のAという人から自分の持っていない商品を購入する。このどちらでもAという人もBという人も、やっていることは同じです。どちらのケースでも、Aさんは商品を売る人で、Bさんは商品を買う人です。このAとBの二人とは違って、最初の場合は資本家、次の場合には商品所持者となる人だけが、順序の逆転にともなって立場が変化します。つまり、最初の場合は貨幣として、次の場合には商品として、AさんやBさんに向き合うのです。ただし外形的な行為はAさんから買ってBさんに売ることは、どちらの場合も変わりありません。どちらの場合も、Aさんは商品を売るだけです。その商品がBさんに買われることとは無関係だし、関心もないでしょう。つまり、その商品がBさんでなくても、Cさんに買われてもいい。どちらでも同じです。同じようにBさんは商品を買うだけで、その商品がもともとAさんから仕入れられたこととは無関係で、関心もない。Aさんは売るだけで、Bさんは買うだけ。W−G−WにもG−W−Gにも一部しかかかわらない。この全部に関わるのは、ある時は資本家、またある時は商品所持者の人だけです。この人があって、はじめて、両方の流通過程が成立します。つまり、この人にとってのみ意味がある。Aさんは売れればいいのだし、Bさんは買えればいい。ABの二人にとって、そのニーズを満たすだけであれば、この人が間に挟まらなくて、二人が直接商品を売買してもかまわないわけです。ここには単純な商品と貨幣の物々交換があるといってもいいだけで、流通の連鎖が発生することはないでしょう。まして、連鎖が繰り返されて、利潤がうまれることには結びつかない。つまり、単純な商品の流通は価値の増殖には直接結びつかないのです。

貨幣が繭を破って資本に成長するこの流通形態は、商品の性格、価値の性格、貨幣の性格、流通の性格そのものについてこれまで述べてきたあらゆる法則と矛盾する。この流通形態と単純な商品の流通形態との違いは、ただ販売と購入という逆向きの同じ二つの過程が、逆の順序で登場するところにある。それではこのようなまったく形式的な違いが、この二つの過程の性格を魔法のように変えてしまうのはどうしてなのだろうか。

それだけではない。この順序の逆転は、たがいに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにあてはまるのである。資本家であるときわたしは、Aから商品を購入してBにそれを販売する。これにたいしてたんなる商品所持者であるときわたしは、[自分の]商品をBに販売し、次にAから[自分のもっていない]商品を購入する、取引仲間であるAとBには、この違いは存在しない。どちらも商品の買い手あるいは売り手として登場するだけである。

ただわたしだけは、あるときはたんなる貨幣の所有者として、あるときはたんなる商品の所有者として、すなわちあるときは買い手として、あるときは売り手としてAとBと向き合う。このどちらの取引の連鎖においても、わたしはある人物[]には買い手として、別の人物[]には売り手として向き合う。第一の場合にはわたしは貨幣として、第二の場合には商品として相手に向き合うのであり、けっして資本や資本家として、あるいは貨幣以上のもの、商品以上のものを代表する者として、貨幣や商品とは異なる作用を及ぼすことのできる何かを代表する者として、相手と向き合うのではない。

わたしにとってはAから購入し、Bに販売するというのは、一つの連鎖をなしている。しかしこの二つ行為の関連は、わたしにとってだけ存在するものである。AはわたしとBの取引には無関心であり、BもわたしもAの取引には無関心である。わたしがこの二人に、この連鎖を逆転させたことで自分がはたした特別な功績を説明しようとしたところで、彼らはわたしにこう指摘するだろう。「君はそもそも連鎖の順序を間違えているよ。この取引の全体は購入で始まって販売で終わってたわけではない。反対に販売で始まって購入で終わったのだよ」と。

たしかにわたしの最初の行為である購入は、Aの立場からすれば販売であり、私の第二の行為は、Bの立場から購入である。AとBはそれだけで満足せず、すべての連鎖が余計なものであり、まやかしであると主張するだろう。そしてAは商品を直接にBに販売し、Bは商品を直接にAから購入するだろう。そうなるとすべての取引は、ふつうの商品流通の一つの一面的な行為に還元されてしまい、Aからすれば単純な販売であり、Bからすれば単純な購入となるだろう。すなわち連鎖の順序を逆転するだけでは、単純な商品流通の領域を超えることはできなかったのである。むしろわたしたちは、商品の流通はその本性からして、流通に入りこんでくる価値を増やして、増殖価値を形成することを許すものであるかどうかを、調べてみる必要がある。

資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。それが、どのように反しているかを、資本の流通形態と商品の流通形態との相違から見ていきますが、マルクスが注目するのはW−G−Wという順序とG−W−Gという順序とが逆になっていることです。

 

単純な流通過程における価値の変化

流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、つねにそれである。貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役だってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要とする商品を手に入れるのである。しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。

ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。また、穀作農民Bが同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合に比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bもより多くのぶどう酒を手に入れるのである。だから、使用価値に関しては、「交換は、両方が得をする取引である」とも言えるのである。交換価値のほうはそうではない。

「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手にいれた価値と等しい価値をすでに交換以前にもっていたのだからである」。

貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれても、事態にはなんの変わりもない。商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。

抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他の使用価値と取り替えられるということのほかに、単純な商品流通のなかで行われるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。この貨幣形態は、最初は売りだされた商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替えする場合のようなものである。こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。それだから、価値が何であるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても、両方が交換価値で得をすることはありえないのである。ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」ということになるのである。もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである。

前のところでは、流通過程の順序の違いをみてきましたが、ここでは価値の面から違いを見ていきます。その時に流通過程は、単純に商品の流通だけであればAさんとBさんの関係にできてしまう。商品を売るAさんと買うBさんとの関係で、商品と貨幣との物々交換という形です。これは、Bさんが貨幣ではなく商品であっても形態は同じです。AさんとBさんは互いに相手の欲しいものを持っていて、それを相互に交換する。このように取引では、互いにほしい商品を手に入れることができるわけですから、その時点で欲望は満たされます。そういう意味で利益があったと見なされます。この場合得られた利益とは商品の使用価値です。AさんもBさんも、自分にとっては使用価値のない商品を相手に譲渡して、自分が使用するために必要とする商品を相手から受け取るからです。

マルクスは、こういう取引が成立するということについて、AさんBさんが互いに使用価値を満たすというだけにとどまらず、こういうことが常時成立していれば、社会的な分業が可能になるという効用を説いています。それについて具体的に次のような例を示しています。Aさんはワインの生産者で、Bさんは穀物農家です。このような取引が常時成立していれば、Aさんは醸造したワインを販売して穀物を購入することができます。Aさんは生きるためには穀物を食べなければならず、それを得るために自分で栽培するという道もあります。しかし、その分の労力を穀物栽培にとられてワインの生産は少なくなってしまいます。他方、穀物農家のBさんはワインが欲しいと、穀物の栽培の他にワインを生産するということになるでしょう。Aさんはワインの生産が、Bさんは穀物の生産が、それぞれ得意です。二人が、それぞれにワインの生産と穀物の生産を両方行うより、それぞれの得意なワインと穀物の生産に特化して専念した方が、生産性は高いし、トータルの生産量はずっと多くなるでしょう。そうすると、互いに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ交換価値でAさんはより多くの穀物を入手できるだろうし、Bもより多くのワインを入手できることになるでしょう。これらのことをまとめると、使用価値の面では、交換は双方が互いに利益をえることができる、と言えるのです。

一方、交換価値の面では事情が異なってきます。マルクスは次のようなケースを想定します「ある男がワインを大量にもっているが、穀物はもっていないとしよう。その男が、穀物を大量にもっているが、ワインをもっていない男と取引するとしよう。この二人の間で、50の価値のワインが50の価値の穀物と交換されるとしよう。」このとき、使用価値の面であれば、二人の男は、互いに持っていないワインと穀物を交換して、互いに利益をえることになります。しかし、交換価値の面では、ワインと穀物という使用価値は異なっていても、交換価値は同じ50です。同量の50の交換価値を互いに交換しても、価値が変わるわけではなく、利益はありません。交換価値は使用価値とは違って量ではかられるものです。だから、量が増えることが利益となるのです。

これは、貨幣が流通手段として二つの商品のあいだに介在し、購入と販売という行為が感覚的に分離されたとしても、事態に変わりはない。つまり、ワインを50で買って、50で売っても、そこに交換価値が増えることはないのです。この場合、商品の価値は、ワインから貨幣へと価値形態は変化しますが、価値の量は変化しません。価値の形態の変化には、価値の量の変化は含まれない、それぞれの変化は別なのです。1000円札を100円硬貨10枚に両替しても、貨幣の形態は変化しますが、1000円であることに変わりはありません。

以上をまとめると、商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎず、そこでこの現象が純粋な形で起こるときには、等しい価値どうしが交換されるにすぎない。その場合、使用価値については取引の当事者の双方が利益を得ることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益を得ることはできないことになるのです。交換価値については、「対等であるところに利益はない」ということになる。商品交換は、純粋な形では等価物の交換であり、価値を増大させる手段ではないのです。

ここまでのことをまとめると、そもそもG−Wつまり貨幣から商品への変化も、W−Gすなわち商品の貨幣への再転化も、それが単純な商品流通のなかで行われるのなら、たんなる形態変化であって、価値量の変化をまったく含んでいないはずです。それゆえ、その純粋なすがたにあっては、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって価値を増やす手段ではないということになるのです。 

流通過程が、たんなる商品の交換として表現される形態を調べてみよう。たとえば二人の商品所持者が、たがいに相手の所有する商品を購入し、たがいの請求額の差額を支払日に精算する場合は、つねにこうした形態をとる。貨幣はここで商品の価値を価格で表現するための計算貨幣として、利用されているだけであり、商品そのものに物として向き合うことはない。

この取引の目的は使用価値であるから、取引の当事者の双方が利益をえるのは明らかである。双方とも、自分にとっては使用価値のない商品の相手に譲渡して、自分が使用するために必要とする商品を相手からうけとるからである。しかしこの取引からえられる効用はこれだけではない。

たとえば[ワイン生産者の]Aがワインを販売して穀物を購入するとしよう。Aは穀物農家が自力でワインを醸造する場合と比較して、同じ労働時間のうちに多くのワインを生産することができるだろう。逆に穀物農家のBは、ワイン生産者のAが自力で穀物を生産する場合と比較すると、同じ労働時間のうちに多くの穀物を生産することができるだろう。そうするとたがいに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ労働時間のうちに多くの穀物を生産することができるだろう。そうするとたがいに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ交換価値でAより多くの穀物を入手できるだろうし、Bもより多くのワインを入手できるだろう。だから使用価値については、「交換は、双方が利益をえる取引である」と言うことができる。

しかし交換価値では事情が異なる。「ある男がワインを大量にもっているが、穀物はもっていないとしよう。その男が、穀物を大量にもっているが、ワインをもっていない男と取引するとしよう。この二人の間で、50の価値のワインが50の価値の穀物と交換されるとしよう。この交換は、どちらの男にとっても交換価値の増大を意味するものではない。どちらも交換する前に、この操作によって手にいれた価値と同じ価値をすでにもっていたからである」。

貨幣が流通手段として二つの商品のあいだに介在し、購入と販売という行為が感覚的に分離されたとしても、事態に変わりはない。商品の価値は流通に入りこむ前にすでに価格として表現されており、これは流通の前提であって、結果ではないのである。

単純な商品流通に内在する法則に由来しない事柄は無視して、ごく抽象的に考えるとしよう。この単純な商品流通で起きているのは、一つの使用価値が別の使用価値と取り替えられていることをのぞくと、商品の変身にすぎず、商品の形態変化にすぎない。ここではそれぞれの商品所持者の手元に、同じ価値が残っている。この価値は、同一の量の対象化された社会的な労働が、最初はその所有者の商品という姿で、次にその商品゛形を変えた貨幣という姿で、最後に貨幣がふたたび姿を変えた別の商品として表現されたものである。

この形態の変化においては、価値の大きさは変化しない。この過程で商品の価値はたしかに変化するが、それは[大きさの変化ではなく]貨幣形態における変化である。すなわち最初は販売される商品の価格として存在し、次にそれが一定の量の貨幣に変わるが、この貨幣の量はすでに価格として表現されていたものである。最後にこれは最初の商品と同じ価値の商品の価格に変わるのである。

この形態の変化そのものには、価値の量の変化は含まれない。5ポンドの銀行券を、ソヴリン貨、半ソヴリン貨、シリング貨などの硬貨に両替しても、価値の量が変わらないのと同じである。このように商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎない。そこでこの現象が純粋な形で起こるときには、等しい価値どうしが交換されるにすぎない。

だからこそ価値とは何かをまったく理解していない俗流経済学は、彼らなりにこの現象を純粋に考察しようとすると、需要と供給がたがいに釣りあうこと、その働きがそもそも解消されてしまうことを想定するのである。要するに使用価値については取引の当事者の双方が利益をえることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益をえることはできないことになる。

交換価値については、「対等であるところに利益はない」ということになる。たしかに商品がほんらいの価値と異なる価格で販売されることはある。しかしこうした逸脱は、商品交換の法則を損なうものとみなされる。商品交換は、純粋な形では等価物の交換であり、価値を増大させる手段ではないのである。

 

コンディヤックの取り違え 

それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようする試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。

「商品交換では等しい価値と交換されるということは、間違いである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。…もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。…なぜか?諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってより少なく必要なのであり、またその逆である。…われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多くの必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。…交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。…しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」

これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行われる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである。

それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発達した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う。

「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに生産行為とみなされなければならない。」

しかし、商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。それでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか?また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり一つの、「生産行為」を行うのだ、とも言えるであろう。

商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎず、、使用価値については取引の当事者の双方が利益を得ることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益を得ることはできない。したがって、商品の流通を増殖価値の発生源とみなす試みには、多くの場合、使用価値と交換価値の取り違えが潜んでいるとマルクスは言います。その典型的な例としてコンディヤックの説を俎上にあげます。彼は、商品の交換について、たとえ同じ価格、つまり交換価値であっても、その商品を必要としている人にとっては、その価値は相対的に大きくなるといいます。これについて、マルクスは、その商品を必要としているというのは使用価値のことで、交換価値とは別物であると、そこでコンディヤックは交換価値と使用価値を混同しているといいます。その前提には、前のところで、流通過程において使用価値と交換価値は別々であるということを分析してきたことを踏まえているからです。マルクスは言います「商品に支払いを行うときに、人はその商品の使用価値と価値の二つの価値に、二重に支払うわけではない。たしかに商品の使用価値は売り手にとってよりも買い手にとって有益なものかもしれないしかしそれが貨幣の形態になると、買い手よりも売り手にとって有益になるのである。それでなければ、売り手が商品を販売する理由がない」。

さらに加えて、発達した商品生産の行われる社会において、生産者が生活の必需品を自ら生産して、必要な量を超過した余分なものだけを流通に放出すると想定していることが、そもそも勘違いだと言っています。それは、前のところで、ワインの生産者と穀物生産者の交換のところで社会的分業が生まれているという指摘がありましたが、そういうことを踏まえると、コンディヤックの想定している生産者は現実には存在しないものだということが分かります。それをマルクスは子供っぽい誤りと評しています。

では、等価の交換からは増殖価値は生まれるのでしょうか。

だから商品の流通を増殖価値の発生源とみなす試みには、多くの場合、ある取り違えが、使用価値と交換価値の取り違えが潜んでいるのである。コンディヤックの場合にもそうである。「商品を交換する人々がたがいに同じ価値を交換しあうと考えるのは間違いである。その反対である。二人の契約当事者はたがいに、小さな価値を与えて大きな価値を手にいれているのである。…実際に同じ価値のものを交換するのであれば、どちらの当事者も利益をあげることはできないだろう。しかし双方ともに利益をあげているのであり、少なくとも双方ともに利益をあげるべきだったのである。なぜだろうか。それは物の価値は人間の欲望でしか決められないからだ。ある人にとって価値のあるものが、別の人には価値のないものであり、その逆もまたあてはまる。…われわれが消費に不可欠なものを売りにだすなどと前提することはできない。…われわれはたがいに自分に不要なものを放出して、自分に必要不可欠なものを手にいれようとする。われわれはわずかなものを手放して、多くのものを手にいれようとするのだ。…交換された物はどちらも同一の貨幣の量と等しい価値をもつとみなされたのだから、同じ価値のものと交換したのだと考えるのは自然なことである。…しかし別の観点からも考えるべきなのだ。われわれはどちらも余分なものを放出し、それと交換して必要なものを手にいれたのではないかと」。

この文章から明らかなように、コンディヤックは使用価値と交換価値を混同しているだけではない。発達した商品生産の行われる社会において、生産者が生活の必需品を自ら生産して、必要な量を超越した余剰部分、すなわち余分なものだけを流通に放出すると想定しているのであり、これはきわめて子供っぽい誤りである。

それでも近代の経済学者たちは、コンディヤックと同じ議論を繰り返してきた。とくに、商品交換の発達した姿である商業が、増殖価値を生みだす要因として説明される場合に、こうした過ちがみられるのである。たとえば「商業は、生産物に価値をつけ加える。同じ生産物でも、生産者の手元にあるときよりも、消費者の手元にあるときのほうが、価値が大きいからである。だから商業は文字通り生産活動とみなす必要がある」というぐあいである。

しかし商品に支払いを行うときに、人はその商品の使用価値と価値の二つの価値に、二重に支払うわけではない。たしかに商品の使用価値は売り手にとってよりも買い手にとって有益なものかもしれないしかしそれが貨幣の形態になると、買い手よりも売り手にとって有益になるのである。それでなければ、売り手が商品を販売する理由がない。だとすると、買い手は商人の所有している商品、たとえば靴下を貨幣に変えてやったときに、文字通り、「生産活動」をしていることにならないだろうか。

 

等価でない交換

もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣をが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。そうすれば、剰余価値の形成は行われない。しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どうしの交換を条件とする。とはいえ、ものごとは現実には純粋には行われない。そこで、次に互いに等価でないものどうしの交換を想定してみよう。

とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけである。すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣の区別である。したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品を所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。

そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。つまり、売り手は10という剰余価値を収めるわけである。しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になる。今度は第三の商品氏所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる。成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。このような、諸商品の一般的な名目的な値上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変わらないであろう。

今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。彼は、買い手になる前にすでに売り手だったのである。彼は買い手として10%もうける前に、売り手としてすでに10%損をしていたのである。いっさいはやはり元のままである。

要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである。

そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに、次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。

「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある。」

流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品の価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題に仮面をつけるだけのことでしかない。

売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、そのどちらかであるが、同様に買い手もまた彼の貨幣に表わされた商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているか、そのどちらかである。だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない。

前の疑問に対して、素っ気なく回答が返ってきました。「同じ交換価値をもつ商品と商品、あるいは商品と貨幣を交換するとき、これは等価物どうしの交換であり、流通に投じた価値よりも大きな価値を流通から引きだすことのできる人はいないのは明らかである。だからこれによって増殖価値が形成されることはない。」つまり、等価交換から剰余価値は生まれないのです。しかし、その一方で純粋な形での商品の流通は、等価交換を条件としています。これが、この節の最初で述べられていた流通過程の法則と増殖価値が矛盾する大きな点です。

コンディヤックの誤解は、前のところで指摘しましたが、商品を生産し所持している人々は、自分に必要なものを生産し、余ったものを他人に売る、あるいは他の商品と交換するという前提は誤りだしたのですが、この誤解の前提には、このような人々は自給自足で、それぞれが独立しているということが成り立っていることになります。そうでなければ、余分なものなど出てくるはずがないのです。足りているからこそ余剰が生まれるのです。しかし、それは誤りです、ではマルクスは、どのような前提にすればいいと言っているのでしょうか。ワインの生産者はワインの生産に特化し、穀物農家は穀物の生産に専念しています。これは自給自足のためではなく、生産したものとの交換により商品を得るためです。そこでは、欲しい商品を自分で作っていないのです。一方、自分の作っているワインや穀物は他人が欲しがっているものです。したがって、人は欲しいものは他人から譲ってもらうしかないのです。その意味で、商品所持者は互いに依存しあっているということになります。独立していないのです。一方、商品の方はどうでしょうか、交換されるという場合には、使用価値の素材による違いを別にすると、商品にはただ一つの違いしか残りません。それは商品の自然の形態とその変化した形態の違い、すなわち商品と貨幣という違いです。実際に、商品所持者は、商品を所有している売り手と、貨幣を所有している買い手という形で、たがいに区別されるだけとなるのです。

さて、等価交換からは増殖価値は生まれないとすれば、等価でない交換ではどうでしょうか。それは、実際、どういうことでしょうか。例えば、100の価値の商品を110で、すなわち名目価格の10%の上乗せ価格で販売できるという場合を考えてみましょう。このとき売り手は10%上乗せできるわけですから、その10%を価値増大分とすることができます。彼は、売り手であるだけでなく、買い手でもあります。商品所持者は互いに依存しあっているわけですから、売り手は他人の欲しがっている商品を10%上乗せで売ることができました。そして、今度は、その売って得た貨幣で欲しい商品を買うことになる、つまり買い手になるわけです。この時の売買の相手の売り手は同じように10%の上乗せの価格で売ってくる。そうなると、この人は売り手と買い手の両方になるわけですが、売り手のときには10%高い価格で売りつけて利益を得ることができるわけですが、買い手のときには10%高い価格で買わされて余計に払うという損失をこうむることになります。

このように、全体としてすべての商品所持者が所有する商品を10%高い価格で販売する、つまり等価でない交換をしようとしても、結局全体の価格の水準が10%押し上げられたということで、相対的には価値は変わらないことになる。つまり、単に価格の表示が変わっただけで内実は同じままということです。結局は、実質的に本来の価値で販売したのと同じことになるということです。だから、このように商品の名目価格(価格の表示)を一般的に引き上げるのは、商品の貨幣による呼び名が変わるだけで、商品と貨幣の価値関係は変わっていないのです。

このことは、反対に買い手が10%安く買えるようにしても、売り手が10%高く売れるようにしたことと同じ結果となります。買い手が得をしても売り手が損をするという正反対のことがおこり、同じ結果に行き着くということです。

したがって、等価でない交換(売り手が商品をその価値よりも高く売ること、あるいは、買い手が商品をその価値よりも安く買うこと)からは増殖価値は生まれないのです。

これらをまとめると次のようなことになります。すなわち、等価物ではないものが交換され、一方には利得が生まれるにしても、他方には損失が生じるのだから、やはり価値が増殖することはない。したがって、等価物どうしが交換されるとすれば増殖価値は生まれないし非等価物どうしが交換されるとしても、やはり増殖価値は生まれない。流通あるいは商品交換はまったく価値を創造しないということになります。それにもかかわらず、資本の一般的定式がなりたつためには、ほかならぬ商品交換から増殖価値が生成する必要がある。価値と価値のあいだのこの差異、剰余(増殖)は、いったいなにに由来するのかという疑問が生じてきます。

同じ交換価値をもつ商品と商品、あるいは商品と貨幣を交換するとき、これは等価物どうしの交換であり、流通に投じた価値よりも大きな価値を流通から引きだすことのできる人はいないのは明らかである。だからこれによって増殖価値が形成されることはない。そして純粋な形での商品の流通は、等価交換を条件とする。しかし現実の取引は純粋なものではない。そこで交換が等価でないと想定してみよう。

いずれにしても商品市場で商品所持者と向き合うのは、商品所持者である。そしてこれらの商品所持者がたがいに行使することができるのは、商品のもっている力だけである。商品の素材が違うことが、素材からみた交換の動機である。だれもが、みずからの欲望をみたす対象を自分では所有しておらず、それでいてだれもが他者の欲望を充足する対象を所有しているのである。だから商品所持者はたがいに依存しあっているのである。

商品の使用価値の素材による違いを別にすると、商品にはただ一つの違いしか残らない。これは商品の自然の形態とその変化した形態の違い、すなわち商品と貨幣の違いである。こうして商品所持者は、商品を所有している売り手と、貨幣を所有している買い手という形で、たがいに区別されるだけである。

ここで何らかの理由で売り手に、商品をその価値よりも高い価格で販売する特権が与えられていると想定しよう。たとえば100の価値の商品を110で、すなわち名目価格の10%の上乗せ価格で販売できるとしよう、すると売り手は10%の増殖価値を手にいれる。しかし彼は売り手であった後には買い手になる。そして第三の商品氏所持者が売り手として彼の前に現れる。その売り手も、商品を10%高い価格で販売する特権を認められている。彼は売り手としてはたしかに10の利益をえたが、買い手としては10の損失をこうむる。

全体としてみると、すべての商品の所有者は商品をたがいに10%高い価格で販売することになる。これは誰もがほんらいの価値で販売したのと同じことになる。だからこのように商品の名目価格を一般的に引き上げるのは、商品の価値をたとえば金ではなく、銀で評価するのと同じ効果を発揮する。商品の貨幣による呼び名、すなわち商品価格は高くなるかもしれないが、商品の価値関係はまったく変わっていないのである。

反対に、今度は買い手に特権が与えられて、商品をほんらいの価値よりも低い価格で購入できると考えてみよう。しかし指摘するまでもなく、買い手は次に売り手になる。彼は買い手になる前には売り手だったのである。だから買い手は10%の利益をえる前に、売り手としてすでに10%の損をしていたのである。こうしてすべては前と同じになる。

だから増殖価値の完成、すなわち貨幣の資本への変容は、売り手が商品をその価値よりも高く売ることによっても、買い手が商品をその価値よりも安く買うことによっても説明できないのである。

そしてトレンズ大佐のように、外部からさまざまな要因をもちこんでも、問題の解決が容易になるわけではない。「有効需要は、消費者の能力と傾向(!)によって決まる。というのも消費者は、直接的な交換の場合にも間接的な交換の場合にも、資本のすべての要素について、商品の生産に投じられた費用よりもわずかに多い額を支払おうするからである」。

流通において生産者と消費者は、たんに売り手と買い手として向きあっているだけである。生産者にとっての増殖価値が、消費者が商品の価値以上の代金を支払うことによって生まれると主張するのは、商品所持者は売り手であるから、商品をその価値よりも高い価格で販売する特権をもっているという単純な命題を粉飾したものにすぎない。

売り手は商品をみずから生産した者であるか、その生産者の代理である。しかし買い手もまた、所有している貨幣に表現されている商品をみずから生産した者であるか、その生産者の代理である。だから実際にはここでは生産者と生産者が向き合っているのである。その違いは、片方が販売し、他方が購入するということにすぎない。商品所持者が、生産者の名において商品をその価値よりも高い価格で販売し、消費者の名において商品のその価値よりも高い代金を支払うといってみても、問題の解決に向かって一歩も進むものではない。

 

増殖価値と流通

だから増殖価値が名目価格の引き上げによって生じるとか、商品をその価値よりも高い価格で販売する売り手の特権から生じるなどと考えるのは幻想であって、こうした幻想を手放さない人々は、販売せずに購入するだけの階級、すなわち消費するだけで生産することのない階級を想定しているのである。このような階級が存在することは、単純な流通という、私たちがこれまで考察してきた観点からは、まだ説明ができない。しかし先回りして指摘しておこう。

こうした階級がたえまなく購入しつづけるためには貨幣が必要であるが、そのための貨幣は交換を経由することなく、商品所持者から無償で、こうした階級にたえず流入してくる仕組みが必要であり、そのために恣意的な法や権力の権原が利用されるのである。こうした階級に商品をその価値よりも高い価格で販売するとしても、それは彼らに無償で提供した貨幣の一部を、ごまかして取り戻すということにすぎない。

たとえば小アジアの諸都市は、古代のローマに毎年、貨幣で貢租を支払った。ローマはその金でこれらの都市から商品を購入したが、その価格は商品の価値を上回るものだった。小アジアの人々はローマ人をごまかして、取り上げられた貢租の一部を商業という方法でふたたびローマから詐取したのだった。それでも小アジアの人々が詐取されていたことに変わりはない。彼らの[ローマに販売した]商品の支払は、[貢租という形でローマに支払わされた]彼らの金で行われたのである。これは豊かになる方法ではないし、増殖価値を作りだす方法でもないのである。 

それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生じるとかいう幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。しかし、ここで先回りしてみることにしよう。このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことである。たとえば小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代のローマに支払った。この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。小アジア人はローマ人をだました。というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまされた人々であった。彼らの商品の代理は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。こんなことはけっして致豊または剰余価値形成の方法ではないのである。

 

だから増殖価値が名目価格の引き上げによって生じるとか、商品をその価値よりも高い価格で販売する売り手の特権から生じるなどと考えるのは幻想であって、こうした幻想を手放さない人々は、販売せずに購入するだけの階級、すなわち消費するだけで生産することのない階級を想定しているのである。このような階級が存在することは、単純な流通という、私たちがこれまで考察してきた観点からは、まだ説明ができない。しかし先回りして指摘しておこう。

こうした階級がたえまなく購入しつづけるためには貨幣が必要であるが、そのための貨幣は交換を経由することなく、商品所持者から無償で、こうした階級にたえず流入してくる仕組みが必要であり、そのために恣意的な法や権力の権原が利用されるのである。こうした階級に商品をその価値よりも高い価格で販売するとしても、それは彼らに無償で提供した貨幣の一部を、ごまかして取り戻すということにすぎない。

たとえば小アジアの諸都市は、古代のローマに毎年、貨幣で貢租を支払った。ローマはその金でこれらの都市から商品を購入したが、その価格は商品の価値を上回るものだった。小アジアの人々はローマ人をごまかして、取り上げられた貢租の一部を商業という方法でふたたびローマから詐取したのだった。それでも小アジアの人々が詐取されていたことに変わりはない。彼らの[ローマに販売した]商品の支払は、[貢租という形でローマに支払わされた]彼らの金で行われたのである。これは豊かになる方法ではないし、増殖価値を作りだす方法でもないのである。

 

個人のずる賢さ

そこで、われわれは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまることにしよう。われわれの当惑は、ことによると、われわれが登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえていないということからきているのかもしれない。

商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。Aは40ポンド・スターリングという価値のあるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしよう。Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化させた。より少ない貨幣をより多くの貨幣にし、彼の商品を資本に転化させた。もう少し詳しく見てみよう。交換が行われる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングだった。交換のあとでも、総価値は同じく90ポンド・スターリングである。流通する価値は少しも大きくなっていないが、AとBとへのその分配は変わっている。一方で剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われる。同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたであろう。流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン王女時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである。

要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局は同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである。

これまでは売り手と買い手というカテゴリーで見てきましたが、個人としてみるとどうでしょうか。つまり、ある特定の個人の商品所持者だけが価値より高い価格で売ることができるという場合です。端的に言うと、正当な売買ではなく、ズルいことをする場合です。相手を出し抜くということは、悪く言えば相手を騙す詐欺的行為です。ここでの例でいえば、Aさんは40ポンドの価値量のワインをBさんに50ポンドで売りつけたとしたら、差額の10ポンドを利益として儲けることができたことになります。これは等価でない交換と言えます。実際の商売の場ではぼったくりという言葉があるように不当に高く売りつけて儲けている人はいます。このとき、Aさんはたしかに10ポンド儲けて価値を増殖させたことになるかもしれません。しかし、その一方で高く買わされたBさんは10ポンド損をして価値を不足させたことになるわけです。このABの関係は売買ということを介在させなければ、BさんからAさんに10ポンド移った。AさんはBさんから10ポンド奪ったということと同じです。全体として流通している価値の総量は、Aさんの取り分が増えて、Bさんの取り分が減ったという配分が変わっただけで、価値の総量が増えたわけではありません。実際にAさんの行為は正当とはみなされないだろうし、Aさんが一時的に儲けたとしても、Bさんがそれに気づけば、正当な40ポンドでワインを売ってくれる人から買うようになるでしょう。したがって、Aさんは持続的に価値を増殖することができるわけではありません。

これまで見てきたように、商品の交換比率、より端的に言えば商品の価格は商品の価値によって、すなわち社会的必要労働時間によって規制されています。それゆえ、平均的なケースを考えれば、商品は価値通りに交換されるのであり、商品流通から増殖価値(剰余価値)が発生しないことは明らかです。もちろん、個別的なケースを見れば、価値から乖離した価格で商品は販売されますが、このような「分配の変化」によって、生産活動が生み出す社会全体の価値が増えることはありません。価値から乖離した価格での販売は、一方が得をして、他方が損をするということでしかなく、いまの資本主義社会において資本が一般に増殖価値(利潤)を生み出すことができているという事実を説明することはできません。

このような事情は、なぜマルクスが商業資本や利子を生み資本をいきなり考察しないのかということの理由をなしています。商業資本であれ、利子生み資本であれ、増殖価値を創造するメカニズムを自らのうちにはもっていません。それらは増殖価値を産出するメカニズムを備えた「資本の基本形態」を解明したあとにはじめて説明することができるのです。なお、商業資本および利子生み資本についての考察は、「資本論」第3巻の課題となります。 

ここでは売り手が買い手であり、買い手が売り手でもある商品交換の範囲内で、考察をつづけよう。わたしたちが行き詰まったのは、人間を個人としてではなく、人格化されたカテゴリーとして考えていたことが原因かもしれないのである。

商品所持者Aはずる賢くて、商品所持者BやCを出し抜くことができるとしよう。そしてBもCもどれほど頑張っても、Aには太刀打ちできないとしよう。Aは40ポンドの価値のワインをBに販売し、それと引き換えに、50ポンドの価値の穀物をBからうけとるとしよう。Aは彼の40ポンドを50ポンドに変えた。少ない額の貨幣から大きな額の貨幣に変えたのであり、彼の商品を資本に変容させたことになる。

それではこの取引をもう少しくわしく調べてみよう。交換が行われる前にはAの手元には40ポンドのワインがあり、Bの手元には50ポンドの穀物があった。商品の価値の合計は90ポンドであった。交換した後も、価値の合計は90ポンドでまったく変わっておらず、流通している価値は一銭も増えていない。変化したのはAとBの持ち分の比率である。

片方には増殖価値が現れたかもしれないが、それは他方における不足価値として現れる。片方でプラスになると他方でマイナスになる。この価値の変化は、Aが交換という方法で隠蔽せずに、Bから直接に10ポンドを盗んだとしても発生するだろう。流通している価値の総額は、その配分が変化しても変わらないのは明らかである。あるユダヤ人がアン王女時代のファージング銀貨を売ってギニー金貨をうけとったとしても、その国に存在する貴金属の量がまったく変化しないのと同じである。一つの国の資本家階級を全体としてみれば、彼らは自分たちから利益を詐取することはできないのである。

つまりどれほどこね回してみても、結局は同じことである。価値の等しいものが交換されるならば増殖価値は発生せず、価値が等しくないものが交換されても、増殖価値は発生しない。流通や商品の交換からは価値は発生しないのである。

 

商業資本と高利資本

こういうことからも、資本の基本的な形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれわれが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本や高利資本とをさしあたりまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるであろう。本来の商業資本では、形態G−W−G´、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。他方、商業資本の全運動は流通部面のなかで行われる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようらなれば、不可能なものとして現われる。したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者のあいだに寄生的に割りこむ商人によって、これらの生産者か両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。この意味で、フランクリンは「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と言うのである。商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提となっているここでは、まだまったく欠けているのである。

商業資本にあてはまることは、高利資本にはもっとよくあてはまる。商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖された貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動によって、媒介されている。高利資本では、形態G−W−G´が、媒介の両極G−G´に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。それだからアリストテレスも次のように言うのである。

「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通にもとづいていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとづいていないで相互の詐取にもとづいているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称(利子および生まれたもの)もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかも、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちではこれが最も反自然的なものである」。

商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。また同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われるかということもわかるであろう。

商業資本はどのようにしてΔGを、つまり増殖価値を生むことができるのか。それは一言でいえば「安く買って、高く売る」ことによってです。商業資本の活動は、この節で見てきた流通過程の領域の内部に限られています。つまり、商品所持者であるAさんとBさんの交換の中間に介在して、流通の連鎖をつくるという活動です。ここまでの分析で明らかなように、増殖価値は流通そのものからは生まれない。だから等価物どうしが交換されるならば、商業資本は成立しえない。そうだとすると増殖価値が形成されるのは、購入する商品の生産者と販売する商品の生産者のあいだに、商人が寄生虫のように介在して、双方の生産者から利益を詐取することによってしか説明できないことになります。流通過程にあってはつねに等価物どうしが交換され、不等価交換は存在しないというのが分析で明らかにですが、そうであるなら、商業資本がそれを正当な仕方で利用する差異が存在し、しかも商人資本は帰結にあってその差異を抹消しているはずです。

そのような商品に生産者からの詐取だけが商業資本における価値の増殖をうんでいるのではなく、そこには長い連鎖の中間項が介在している。しかし、ここでは商品の流通とその単純な要素だけを考察しているので、それについては説明をしていません。

それでは、ここで少し寄り道をして本論が説明をしなかった商業資本の増殖価値について簡単に考えてみたいと思います。商業資本が価値増殖する場合に、商業資本はまず端的に時間的な差異を利用することによって利益を得ることができるのです。つまりたんに「安く買って、高く売る」のではなく「安い時に買って、高い時に売る」というわけです。余談ですが現在でもこの操作は株取引にあっては定石になっています。これがもっとも単純な商業資本の価値増殖のやり方です。もうひとつの、よりリスクの高い源泉は空間的な差異の利用であると言えます。簡単に言うなら「安い場所で買って、高い場所で売る」というやり方です。歴史的に有名な例を挙げれば、たとえばかつて西インド諸島の人々は、それほどは高価でもなかった貴金属を「粗野なスペイン人にもよく見える形に仕上げて目の前にちらちらさせ」、こうして拡散するとともに稀少化された金額によって世界市場の様相が一変することになる。ポルトガル人たちが大航海に出たころには、アジアでは銀のほうが金よりも乏しく、ヨーロッパ市場で安価であがなった銀を、アジアの各地で金と香料とに交換することが、ポルトガルに莫大な富をもたらした、というわけです。

この後者の空間的な差異の利用は、時間を条件として、時間的な繰り延べ作用の中で空間的な差異を横断しながら、それを消去するものである。商業資本はここで、ある流通圏で安く買った商品をべつの流通圏で高く売ることによって、価値増殖を反復するはこびとなるけれども、そこでは空間的差異が時間的差異によって横断され、消去されているわけです。商品の交換そのものが共同体と共同体とのあいだで発生したのと同じように、問題の場面ではたしかに異なる流通圏のあいだの差異から、つまり流通圏と流通圏とのあいだで資本が、とりわけ商業資本が生成されていると言えると思います。 

商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはさらによくあてはまることになります。商業資本では、市場に投じられる貨幣という極と、市場から引きだされる貨幣という極のあいだには、少なくとも購入と販売、すなわち流通の運動によって媒介されている。しかし高利貸資本では、G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮される。貨幣がそれよりも多い貨幣と交換されるのは、貨幣の本質と矛盾する形態であり、商品交換の観点からは説明できない。つまり、商業資本では貨幣の動きは商品の流通に付随する形になりますが、高利貸資本の場合には、商品流通が起こらないで、貨幣だけが動き回るのです。G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮されるとは、商品というWがないのです。それが商業資本との大きな違いです。それだけに、商品の生産ということに関わらないという点では、商業資本の特徴をさらに純粋化して推し進めたものと言えます。

高利貸資本という貨幣を貨幣と交換することには、どこかしら奇妙なところがある。しかし、これはすべての資本の特徴的な流通形態であるとも言えると思います。商業には一面において投機であり「賭博という側面がありました。時間的差異を利用するなら、同時に時間的劣化が避けがたいというリスクがあります。空間的差異を利用するという操作は、往復のリスクを計算に入れなくては成り立ちません。空間的差異を時間的な差異によって抹消することには、この二重のリスクが絡んでくることなりますに。そればかりではない。歴史的には、とくに高利貸資本は、イスラム経済圏では、それが投機と賭博であるがゆえに禁止されていたのです。

西欧のキリスト教圏で宗教改革以前には、利子をとって金銭を貸すことは批難されるべきなりわいでした。ところが他方宗教改革以前であっても、ヨーロッパの大富豪はしばしば金融業者であり、高利貸資本を代表する者でした。彼らはしかもシェークスピアの「ベニスの商人」のシャイロックのように「唾を吐きかけられ、野良犬のごとく足蹴にされる」対象ではなく、名望家とも呼ばれる存在でした。ここには、マルクスが資本の一般的定式の「矛盾」と呼んだものとはべつの意味で一箇の矛盾が、あるいは逆説が存在している。

わたしたちが現代社会の経済的な組織を規定している資本の基本的な形態を分析するにあたって、一般になじみで、いわば太古から存在している商業資本や高利貸資本をここでは考察しない理由は、これでお分かりいただけたと思う。

ほんらいの商業資本では、高く売るために購入するというG−W−G´がもっとも純粋な形で現れる。この商業資本のすべての運動は、流通の領域の内部だけで発生する。ところが貨幣の資本への変容は、そして増殖価値の発生は、すでに明らかなように流通そのものから説明することはできない。だから等価物どうしが交換されるならば、商業資本は成立しえないようにみえる。だとすると増殖価値が形成されるのは、購入する商品の生産者と販売する商品の生産者のあいだに、商人が寄生虫のように介在して、双方の生産者から利益を詐取することによってしか説明できない。フランクリンはその意味で「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と語ったのである。

しかし商業資本における価値の増殖は、商品の生産者にたいするたんなる詐取から説明することはできないのであり、そこには長い連鎖の中間項が介在している。ここでは商品の流通とその単純な要素だけを考察しているので、この中間項はまったく欠如しているのである。

商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはさらによくあてはまる。商業資本では、市場に投じられる貨幣という極と、市場から引きだされる貨幣という極のあいだには、少なくとも購入と販売、すなわち流通の運動によって媒介されている。しかし高利貸資本では、G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮される。貨幣がそれよりも多い貨幣と交換されるのは、貨幣の本質と矛盾する形態であり、商品交換の観点からは説明できない。

アリストテレスが次のように語るとおりである。「取材術には二種類ある、一つは商人の術であり、もう一つは家政術に属している。家政術は不可欠で称賛されるべきものである。しかし商人術は交換的なものであり、非難されるべきものである(なぜならそれは自然に合致したものではなく、人間がたがいに財を詐取しあうからである)。だからもっとも憎むべきなのは高利貸である。彼の財が貨幣そのものからえられるのであって、貨幣が作られた目的からえられるものではないからである。貨幣は商品の交換のために作られたものであるが、利子は貨幣をいっそう多くするものだからである。ここから利子という名もでてきた(タコスとは生まれたものを意味する)。なぜなら生まれたものが生んだものに似ているからである。利子は貨幣の子たる貨幣として生まれてきたのである。だからこれは取材術のうちでもっとも自然に反したものである」。

商業資本も、利子を生む[高利貸]資本も、派生的な形態であることは、いずれ明らかにするつもりである。そしてこれらの資本が、歴史的に資本の現代的な基本形態に先駆けて登場した理由も明らかにするつもりである。

 

増殖価値の発生源 

これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるのだろうか?流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば、革で長靴をつくることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。

では、増殖価値が流通から発生しないとすれば、どこから発生するのか、というのがここでの問題です。私たちが見てきたところでは、流通以外の場は生産しかありません。この難問を解決するためには、そもそも価値とは何だったのか、という原点に立ち返ってみる必要があれます。商品の価値とは何か?価値とは、その商品を生産するために必要な社会的・平均的な労働時間を実体とするものでした。つまり、簡単に言えば、価値の実体は労働であるということです。ということは、一つの解決策として、自己労働によって価値を付け加えることができれば、等価交換の原則を維持しつつ価値増殖させることができるのではないか?ということが考えられます。つまり、資本家が自ら生産活動を行うことによって増殖価値を生み出すことは可能ではないか、ということです。しかし、可能ではありません。

マルクスは「商品所持者は自分の労働によって価値を形成することはできる。しかしそれは自己増殖する価値ではない。」と言います。慥かに、彼は自分の労働をつけ加えることで、もとからあった価値に新しい価値をつけ加えて、その商品の価値を高めることはできます。たとえば皮革からブーツを製造したような場合で、これによって同じ素材が、より多くの価値をそなえるようになる。そこにはより大きな量の労働が含まれているからである。そこで今はブーツは皮革よりも多くの価値をそなえるようになました。しかし、皮革の価値そのものは変わっていないのです。このことは皮革の価値が自己増殖したことを意味していないのです。皮革のブーツが製造される過程において、皮革の価値がみずからに増殖価値をつけ加えたわけではないのです。たとえば、資本家が皮革を1万円で買い、自ら労働してブーツを作り、それを2万円で売るとします。このとき、たしかに資本家は1万円だけ価値を増やすことに成功したように見えますが、これはただ自分が支出した抽象的人間的労働が価値として皮革に新たに対象化されただけです。ですから、この増えた分の1万円は増殖価値ではありませんし、最初に皮革を購入するときに支出された1万円もまた資本にはなっていません。最初に投下された1万円が資本になるためには、資本家に労働させることなく、その1万円自身の力で価値を増やすことができなければなりません。すなわち、自らの価値の力だけによってその増分である増殖価値を生み出さなければならないのです。このように考えると、先ほどとば逆に、増殖価値はG−W−G´という流通からしか発生しえない、ということになります。

ただし、さまざまな独立職人や小経営や小農民はまさに自己及び家族の労働でもって商品(W=原材料など)に価値をつけ加えて、より多くの価値を持った新たな商品(W´)を生産し、それを販売することで生計を立ててきた。これは、一見したところ、G−W−G´を見事に達成しているかのように見えるのです。しかし、自己労働あるいは家族労働によってつけ加えられる価値量はたかが知れており、それによって購入した商品の価値をたしかに増すことができても、その差額は基本的に、その商品の流通過程で必要になる追加的な諸費用(流通費用)と、自分及び家族の生活費に消えてなくなるのであり、G−W−G´の運動を永続的に繰り返すことでますます大きな価値額へと成長していくことはほとんどできないというのが実情です。

これらの独立職人や小経営、小農民における運動原理は、ここで分析している資本の運動原理とまったく異なる所謂「生活の再生産原理」に基づいていると言えます。彼らが何らかの商品を再生産するためでしかない。したがって、この生活費用をまかなう分を大きく超える差額がたまたま生まれたとしても、それは不況や不作のときのために退蔵されるか(臨時的な流通準備金)、生活を多少改善することに用いられるか、あるいは労働時間を減らして生産量を調整するのであり、無限の価値増殖に用いられるわけではないのです。

もちろん、いったん資本主義が発生し、その運動原理が独立職人や小経営をも巻き込むならば、彼らの一部は、極度の節欲と自己および家族に過酷な長時間労働を強いることで潜在的資本を蓄積し、やがて資本家へと成り上がるかもしれない。しかしそれは、非資本家から資本家へと移行する特殊な過程を示すものであり、すでに十分に自分の両足で立っている資本の運動原理であるG−W−G´のメカニズムとして資本の価値増殖メカニズムは、自己労働(および家族労働)にもとづくのではない形で示されなければならないのですが。 

だから商品の生産者が流通の領域の外部で、他の商品所持者と接触することなしに価値を増殖したり、貨幣や商品を資本に変容させたりすることはできないのである。 

増殖価値が流通からは発生しないことは、すでに明確に示したとおりである。だから増殖価値が形成されるには、流通の背後にあって、流通そのもののうちに見えないものが関与しているのでなければならない。しかし増殖価値は、流通以外のどのような場所で発生することができるのだろうか。流通の領域は、商品所持者のあいだで発生するあらゆる相互的な関係の総体である。だから流通の領域の外部に残されているのは、商品所持者と彼が所有する商品との関係しかない。

商品の価値という観点からみると、この関係としては、商品には特定の社会的な法則にしたがって測定された商品の所持者の労働が投じられているということにしかない。その労働の量は、彼の商品の価値の大きさとして表現されています。価値の大きさは計算貨幣によって表わされるから、その労働量はたとえば10ポンドという商品の価格によって示されます。しかし彼の労働そのものは、商品の価値にも、商品に固有の価値を上回る超過分にも示されていない。労働は10の価格にも(それは増殖するならば11の価値になる)示されていないし、それ自身の価値を超える価値のなかに示されていない。

商品所持者は自分の労働によって価値を形成することはできる。しかしそれは自己増殖する価値ではない。彼は自分の労働をつけ加えることで、もとからあった価値に新しい価値をつけ加えて、その商品の価値を高めることができる。たとえば皮革からブーツを製造したような場合である。これによって同じ素材が、より多くの価値をそなえるようになる。そこにはより大きな量の労働が含まれているからである。そこで今はブーツは皮革よりも多くの価値をそなえるようになった。

しかし皮革の価値そのものは変わっていない。皮革の価値が自己増殖したわけではない。ブーツが製造される過程において、皮革の価値がみずからに増殖価値をつけ加えたわけではない。だから商品の生産者が流通の領域の外部で、他の商品所持者と接触することなしに価値を増殖したり、貨幣や商品を資本に変容させたりすることはできないのである。

 

資本が発生するための条件

つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。

こうして二重の結果が生じた。

貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、したがって等価物の交換どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さねばならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。これがロドスだ、さあ跳んでみろ!

この節のまとめです。G−W−G´は、それがG´=G+ΔGであるかぎり、「より高く売るために買う」にほかなりません。これは、ただ商業資本だけに当てはまる形態ではなく、流通過程の内部でのみ見るかぎりでは、産業資本もまた同じ操作をしているだけである。「高利貸資本」すなわちG−G´もまた、いわばその簡潔した形態にすぎません。G−W−G´は、「資本の一般的な定式」、ただし流通部面から見るかぎりでの一般定式にほかならないことになるのです。

マルクスはこのあとにただちに節をあらためて、この「一般的定式の矛盾」を指摘して行きます。そもそもG−Wつまり貨幣から商品への転化も、W−Gすなわち商品の貨幣への再転化も、それが単純な商品流通のなかで行われるなら、たんなる形態の変換であって、価値量の変化をまったく含んでいないのです。それゆえ、その純粋なすがたにあっては、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって価値を増やす手段ではないのです。しかし、等価物ではないものが交換されて、一方には利得が生まれるにしても、他方には損失が生じるのだから、やはり価値が増殖することはないわけです。したがって、等価物どうしが交換されるとすれば増殖価値は生まれないし非等価物どうしが交換されるとしても、やはり増殖価値は生まれない。流通あるいは商品交換はまったく価値を創造しないのです。それにもかかわらず、資本の一般的定式がなりたつためには、ほかならぬ商品交換から増殖価値が生成する必要があるのです。価値と価値のあいだのこの差異、剰余(増殖)は、いったいなにに由来するのでしょうか。

増殖価値は、流通過程から発生することができないのです。だが、とマルクスは自問します。「増殖価値は流通からではないとすれば、いったいほかのどこから発生することができるというのだろうか」。「資本はしたがって流通から発生することができないし、また流通から発生しないことも同様に不可能である。資本は流通から発生しなければならないと同時に、流通のなかで発生してはならないのである」。「貨幣の資本への転化」は商品交換の法則、すなわち等価交換の法則にしたがって生起しなければならない。資本の形成は流通部門で行われなければならず。流通の法則、等価物どうしの交換という法則にしたがって生起しなければならない。とはいえ、等価交換からは価値は増殖しない。資本はしかし増殖しないかぎりでは資本ではない。だから資本の生成は、流通部門で生起することはありえないようにみえる。「これが問題の条件である」。ヘーゲル「法哲学綱要」「序文」を想起しながら、マルクスは節を結ぶのです。「ここがロードスだ。ここで跳べ!」

だから資本が流通から発生することはない。しかし流通から発生しないわけにもゆかない。資本は流通のなかで発生しなければならないし、他方では流通のなかで発生してはならない。

こうして二重の結果が生じるのである。

貨幣が資本に変容するのは、商品の交換に内在する法則を基礎とすることによってであり、等価物の交換がその当然の出発点なのである。貨幣の所有者は、まだ資本家の蛹にすぎず。商品をそのとおりの価値で購入し、そのとおりの価値で販売しなければならない。しかもこの過程の最後で、最初に投入したよりも大きな価値を引きださねばならないのである。蛹から蝶への脱皮は、流通の領域で起こらなければならないし、他方では流通の領域で起きてはならない。これが問題の条件である。これがロドスだ、ここで跳べ!

 

 

第3節 労働力の売買

第2節で見たような条件のもとで、どのようにして増殖価値を生み出すことができるのでしょうか。すでにみたところから、購買G−Wや販売W−Gによって増殖価値を生み出すことができないのは明らかです。とすれば、増殖価値を生み出すことを可能にするものは、資本家が最初の購買によって入手する商品以外にはあり得ません。資本家は、その商品の使用価値が「労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品」、「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品」を運よく市場において見出さなければならないのです。このような一商品こそが、この節で考察する「労働力」という商品に他なりません。

G−WもW−G´もそれぞれは等価交換です。とすれば、W自身の価値が流通の外部でGからG´に等しいものへと変化していなければなりません。商品の価値は使用価値によって担われていたわけですが、商品の価値はどちらのときも等価交換されています。とすれば、この商品の使用価値が流通の外部で変化していたことになります。すなわち、そこに「価値を増やす」という使用価値をもつ特殊な商品が介在したことになります。つまり、その商品の側面が価値を増やすという性質を持ち、特殊な製品を市場で見いだして買い、その商品の使用価値によって価値を増やす、それをしないかぎり資本は増えません。しかし、価値を増やすことができるのは、人間の労働だけです。だから、「労働する」という使用価値を持つ商品を、資本家は仕入れなければならないのです。それが労働力商品です。労働力商品も、商品である以上、価値と使用価値の二面性をもっています。その使用価値は「価値を生みだす、価値を増やす」ことでした。その労働力商品を資本家は市場で見いだした。ということを、マルクスが見いだした。冒頭の商品の二面性から始まった分析は、この労働力商品の発見へと全部つながっていたのです。

マルクスは労働力を定義して「人間の生ける人格のなかにあって、何らかの種類の使用価値を生産する場合に、人間が活動させる肉体的、精神的能力の総体である」と書いています。このような労働力を商品として所有する人間が市場にいるためには、歴史的条件がありました。一つは、その所有者が労働力をみずからのものとして個人的に売却できること。つまり労働力商品を売ります、という売り手がいなければなりません。奴隷ではそういう売り方はできません。奴隷はまるごと買われて働かされるわけで、私の明日1日、あるいは1時間を売りますという権利がない。農奴もそういうことは言えません。言えるのは自由な人間だけであって、そういう人間が市場にいなければなりません。もっとも、自由な人間は古代・中世からいました。王侯・貴族はもちろんそうでしたし、また都市に住んだ職人もそうでした。しかし、彼らは労働をしないか、あるいは自分の仕事場をもって労働していました。したがって、労働力を売る自由な人間というのは、反面では他に生活を手段を持たず、自分の労働力を売るしかありません。売らなければ生活できない人間でなければならなかったのです。それが第二の条件です。そのような人間が歴史的に登場しないと、資本主義的商品生産は行えませんでした。つまり自由な人間であると同時に、生産手段をもっていないこと。とても皮肉な表現ですが、生産手段をもつことからも自由な人間が必要でした。マルクスはそれを二重の意味と言っています。ただし、それが封建的生産関係が消滅したためであったことは明白です。すべての社会的生産物が商品になるのは、資本主義的生産様式の基礎の上においての起こりうることでした。自由な労働者の出現は、世界中を包括する新しい生産関係の時代が到来したことを告げるものでした。

では、労働力商品の価値はどう決まるかというと。一般の商品ならば、それをつくるのに必要な社会的労働時間として決まります。しかし、労働力をもつ人間は工場で生産することができない。とはいえ、人間の存在を前提とすれば、それはほかの商品と同じように、その商品の再生産に必要な価値が労働力の価値になるはずです。それが現象としては価値に転化し、労働賃金となります。したがって賃金は労働者の生活費なのです。労働力の再生産にどれぐらいかかるのかというと。まず明日もちゃんと働けるように今日の食費が必要です。衣服や住居など生きていくための生活手段も必要です。暑い国と寒い国では着る物に違いがあり、食料品価格も違うでしょうが、一定の国・一定の水準があります。その生活手段の価値が労働力の価値規定の第一の費用となります。

それで労働者本人はよいが、しかし本人は数十年で働けなくなってしまいます。資本にとって、労働者が永久に存在するためには、次の世代の労働者が再生産される必要があります。そのため子供たちの生活手段も労働者の価値規定に含まれてきます。それによって、本人の再生産だけではなく子供が再生産され、労働者として世代交代するように市場に登場すれば、労働者が永遠に存続することになります。それが第二の費用となります。ここに、マルクスは子供のことしか書いていません。子供というのは、とくに男性労働者の場合1人では生めないわけで、常識的には家族が必要になります。そこで一般的な賃金論の本を見ると、労働力の価値規定の第二の費用を家族生活費と書いています。ところがマルクスは、妻のことにまったく触れていません。妻の生活費も当然入るというのが家族生活費という考え方だし、現実と言ってよいでしょう。労働運動のスローガンでも「家族を養える賃金をよこせ」ということになります。しかし実は、マルクスはそのことを書き忘れたわけではありませんでした。大工業が発達するにしたがって婦人・子供が労働力として動員されるようになると、労働力の価値規定にもそれが影響します。そのためにここでは、妻の生活費についてふれていません。次に技能と熟練を得て、発達した特殊的労働力とするための教育・習得費が必要です。これが第三の費用です。つまり、本人の再生産費、そして技能の熟練費が労働力商品の価値となります。

このような三つの費用には、それぞれの生理的最低限に加えて、文化的・歴史的要素が含まれています。三つの費用のそれぞれについて、生理的な最低限と、歴史的・文化的な要素の両方が入っていて、三費用・二要素が労働力の価値規定になります。したがって、労働力の価値規定は一定額の生活手段の価値となります。ただしこれは理論上の規定であり、精確に何円と算出できる性格のものではありません。とくに、歴史的・文化的要素は柔軟なものとならざるをえません。しかし、労働力の価値が一般的に生理的最低限ではないことは明らかですし、国により時代により違いがあることも明らかです。その価値が算定できなくても、以下の分析には影響しません。また、スポーツ選手の年俸などにこの価値規定は適用できません。それは社会的な富の生産とは区別される、需給法則だけに独占価格だからです。

貨幣所有者は商品市場で労働力商品を買い、その使用価値を使えば、価値を増殖することが可能です。それが具体的にどう行われるかをみるためには、生産過程の分析に進まねばなりません。流通過程では、労働者は資本家と法的に対等であり、商品を正しく等価交換する商品所有者同士として契約したのでした。ただし、お互い自由で対等なはずの資本家と労働者ですが、どうも様子がおかしい、とマルクスは書いています。その「相貌は、すでになにか違ったものになっているらしい」。貨幣所有者は資本家として元気に先頭を進んでいます。労働力所有者は資本家のうしろに従って、打ちのめされた人のようにふるまっています。今までは平等な関係と言ってきましたが、実はどうもそうした形式的な平等とは違う世界が生産過程にはあるらしい、と予告するものでした。

 

労働力という商品

資本に転化すべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものに起こりえない。なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけである。また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである。同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。そこで、変化は第一の行為G−Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。というのは、等価物どうしが交換されるのであり。商品にはその価値どおりに支払われるのだからである。だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自の商品に出会うのである─労働能力または労働力に。

われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。

前節で問われ、限られてきた「増殖価値はどこからうまれるか」について、もう一度おさらいをするように、「ああでもない、こうでもない」と答えを絞っていき、最後に残ったものが「労働力」という商品です。詳しく順を追って見ていきましょう。

まず、貨幣は単純な商品流通においては交換手段として、商品を購入するさいに商品の価値を表す手段という形態にとどまっているだけで、そのことは価値の増殖とは何の関係もありません(これが資本とならない、流通段階の貨幣ということです)。

次に流通過程の繰り返しとなる第二の行為、つまり購入した商品を他の人に販売するという行為においても、販売した人にとっては、商品の現物の形態が貨幣という交換手段の形態に変化しただけで、価値の量は同じままです。というのも。この流通過程は等価交換であり、貨幣は商品の価値の通りの価格で支払われているからです。ここで前節の結論である、増殖価値は、流通過程から発生することができない、ということが確認されました。

そこで残された可能性は、変化は商品の使用価値そのものから、使用価値は商品を使う、つまり消費することなので、そこかに発生するということです。しかし、そのように使用価値が価値を生みだすというのは特別な商品です。たとえば、ワインという商品の使用価値は、飲むということで、使用価値を消費するということは、ワインを飲むことです。ワインを飲んでしまえば、ワインそのものはなくなってしまうので、そこで増殖価値が生まれるということはありません。それに対して、使用価値を消費することで価値が発生するということは、労働を対象化することであり、価値を創造することだとマルクスは言います。それができれば、等価交換を前提にし、かつ自己労働を排除してもなお価値増殖が可能になる。それを使用することが労働そのものである特殊な商品、それは人間という主体が有する労働力という商品です。

労働力とは、人間の身体および精神の中に統合されて存在し、労働する際にそのつど発揮することのできる肉体的・精神的な諸能力、諸力の総体を言います。労働者が資本家に売っていたのは、実は労働そのものではなく、労働力という特殊な商品だった。ここにマルクスの発見があります。マルクスはこのことを発見することで、古典派経済学の難題を根本的に解決することができた。スミスら古典派経済学者は、賃金を、それが現象するままの姿で捉えて、それが「労働の価格」であると信じ込んでいた、だから、増殖価値の発生について説明ができなかった。しかし、労働者が資本家に売っているのは、労働そのものではなく、その発生源、源泉、動力源である「労働力」なのです。とはいえ、実際のところ、資本家は労働力を購入して労働を入手しているのだから、結果的に労働を買っているとも言えるのです。だって、資本家は、その労働で商品を生産し、それを販売して利益をえているのですから。しかし、直接的に購入しているのは労働力という商品であり、支払っているのはそれの価値なのです。

たとえば、ある買い手が「涼しさ」を得る目的で扇風機を買ったとすれば、買い手は結果的に「涼しさ」を買っているということになりますが、「涼しさ」という商品を直接に買ったのではないし、買い手が支払った代金も、「涼しさ」そのものの代金ではありえません(「涼しさ」の価値をいったいどうやって測るのか?)。それは、あくまでも「涼しさ」を作り出す源泉である扇風機の価値への支払です。そして、この扇風機の価値は使用価値としての扇風機を生産するのに社会的に必要な労働によって規定されるわけです。「涼しさ」そのものに経済的な意味での価値がないのと同じく、労働そのものにも経済的な意味で価値はないのです。労働は価値の実体、その源泉であって、それ自体は価値を持たないものです。価値を持つのは、労働そのものではなく、それを行う人間の労働力ないし労働能力ということになります。そしてその価値は、労働力を生産し日々維持・再生産するのに社会的に必要な総労働によって規定されており、その主たる部分は、労働力を日々維持するのに必要な生活諸手段の価値である。

しかし、この労働力という商品は、扇風機などの通常の商品と違って直接手でつかんだり、誰かにそのまま手渡すこともできないものです。それは人間の身体および精神という「器」のうちに埋め込まれているものです。それゆえ、まず第1に労働力は時間決めで売るしかない。すなわち1日分とか、1ヶ月分というようにです。第2に、労働力は労働者の精神・身体と一体なので、それを買い手に引き渡すためには、労働者は実際に資本家の監督下で労働するしかない。すなわち買い手による消費という行為を通じてしか、つまり実際に労働を行うことでしか労働力を現実に引き渡すことができないのです。

資本に変容すべき貨幣の価値の変化は、この貨幣そのものに起こることはありえない。購入手段であり支払手段である貨幣は、たんに購入したり支払ったりしている商品の価値を実現しているだけだからである。[取引のあいだをつうじて]貨幣をみずからに割り当てられた形態にとどまっており、変化することのない価値の大きさのいわば<化石>となっているのである。

またこの流通過程で行われる第二の行為、すなわち商品をふたたび販売するという行為においても、貨幣の価値は変化しない。この行為はたんに商品を現物の形態から貨幣の形態に変えるにすぎないからである。だから変化したのは、あくまでもこの流通過程で行われる第一の行為G−Wにおいて購入された商品であって、その価値ではないはずである。というのもこの購入は等価物どうしの交換であり。商品には価値のとおりの価格で支払われているからである。

だとすると変化は商品の使用価値そのものから、すなわち商品の消費から発生することになる。ある商品を消費してそこから価値を引きだすには、貨幣の所有者はきわめて幸運でなければならず、流通の領域の内部において、すなわち市場において、その使用価値が価値を生みだす源泉となるような特別な性質をもつ商品を発見しなければならない。この商品は、実際にそれを消費することそのものが労働を対象化することであり、価値を創造することでなければならない。実際に貨幣の所有者はこのような特別な商品を市場で発見するのである。これは人間の労働能力、すなわち労働力である。

ここで労働力あるいは労働能力という言葉は、一人の人間の身体、この生ける人格のうちに存在する肉体および精神的な能力の全体を意味する。人間は何らかの種類の使用価値を生産するときに、これらの能力を働かせるのである。

 

労働力商品の発生条件

しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない。労働者の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりのことである。

貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働力の対象化されている商品を売ることができないので、ただ自分の生きている肉体のうちに存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。

ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。彼は皮なしで長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活手段も必要である。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値誰では、だれも、未来の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお今なお毎日消費しなければならない。彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。生産時間はさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。

マルクスが発見した労働力という商品は、ワインや亜麻布といった一般的な商品とは違って直接手で掴んだり、誰かにそのまま手渡すこともできないものです。それは人間の身体および精神という「器」のうちに埋め込まれているからです。貨幣の所有者が労働力を欲しいと思っても、ワインや亜麻布のようにすぐ、それと分かり購入することはできない。そのためには様々な条件がうるのです。それは、「労働力」は「労働」でも「労働者」でもないからです。商品の交換ということは、それによって商品を渡さなければいけないとか、価値相応の貨幣を支払わなければならないといったルールに従わなければなりません。しかし、逆に、そのルールだけに従っていればいいものです。商品交換のルール以外のルールに従う義務はありません。具体的に言うと、労働者は奴隷ではないし、自らの労働力を商品として売り出すことで、はじめて市場に商品として出回り、貨幣の所有者が見つけることができるのです。

では、労働力の所有者である労働者が自らの労働力を商品として売り出すことができるための条件とは何でしょうか。つまり、労働力という商品の発生条件です。それはまず、「所有者はその労働力を自由に処分することができなければならない。すなわち自分の労働能力の自由な所有者であり、みずからの人格の自由な所有者でなければならない。労働者の所有者は市場で貨幣の所有者と出会い、対等な商品の所有者としてたがいに関係を結ぶ。両者の違いは、片方が買い手で他方が売り手であるということだけであり、両者は法的には平等な人格である。」ということです。これは、商品の流通過程において、交換の当事者の立場と同じということです。つまり、労働力の所持者は奴隷のように、人格などすべてを所有者に支配されているというわけではなく、労働力という商品を提供するのは、決して自らの意思に反して強制されるものでもなく、あくまでも、労働者自身が自由意思で販売するということが、その条件なのです。

このような主張に、「何か変だ」と思う人もいるかもしれません。マルクスといえば、資本家からの労働者の解放というイメージからすれば、ここでの労働者と資本家は平等で、労働者は自らの意思で労働力を提供している、というのであれば、労働者の解放などということと結びつかないのではないか。これは先走りになりますが、資本主義の資本家は労働者を奴隷のように支配しているのではないのです、その代わりに搾取ということが言われるのですが、それは、形式上、労働者と資本家との、ここで言われている関係がベースとなっているのです。それは、この後で、徐々に明らかにされてきます。その前提として、商品の交換から少しおさらいをしてみましょう。商品の交換というのは、その商品がどのように生産されたかを問わず、とにかく生産された商品について、それを所有している人と、それを欲しいと思う人が、それぞれいて、その人々が独立して、ということは共同体とか社会の規制とは関係なく、純粋に経済的な動機で、互いに縛られることなく自由な意思で契約する。つまり、当事者が相互に自由意思で合意した契約だけが双方を拘束する。労働力という商品もそれに従うわけです。たとえば、私たちが労働力商品の交換を通じて企業で働いているのは合意の下のものです。奴隷労働ではなく、職業選択の自由があって、その企業で働いているわけです。決して違法ではないし、差別があるわけではないのです。 

さて、労働力という商品の一般的な発生条件が示されましたが、具体的には、どういうことがあれば、その条件が満たされるのでしょうか。現代の私たちが実感できるように言い換えると、私たちが会社に就職するときに、どういう条件で労働契約つまり、合意をするかという労働条件です。ただし賃金は商品の価格ですから、とくに労働力という商品特有のものではないので、それは当たり前として、その他に労働力という商品に特有のものを考えてみます。第1に労働力は時間決めでしか売ることはできないということです。労働する時間を限定する、すなわち1日分とか、1ヶ月分というようにです。これは、例えば、商品を売るときにワインを売るときに、1本の瓶というように量を限定することにあたります。私たちが就職するときに勤務時間とか休日について取り決めます。そのことです。そうでなければ、1日24時間休みなく働かされることになってしまうかもしれない。そうなったら、奴隷も同じです。それは、自分自身を売ったと同じことです。労働力を売るということは、「彼は一つの人格として、つねに自分の労働力をみずからの財産として、すなわち自分自身の商品として処理しうる関係にあることが必要である。これが可能なのは、彼が自分の労働力をつねに短い間だけ、特定の時間の長さにかぎって、買い手の自由に使わせ、消費させるときだけである。」ということだとマルクスは言います。そのとき、労働力の所持者は、自分の労働力を譲渡するだけで、労働力の所有権を譲渡しているわけではないのです。

第2に、労働力は労働者の精神・身体と一体なので、それを買い手に引き渡すためには、労働者は実際に資本家の監督下で労働するしかない。すなわち買い手による消費という行為を通じてしか、つまり実際に労働を行うことでしか労働力を現実に引き渡すことができないということです。さて、自分の労働力とは異なるものを商品として販売しようとすれば、その人は原材料や労働の道具などの生産手段を所有していなければならないのは当然のことです。皮革がなければブーツは作れません。その他にも生活手段も必要です。誰も、未来の生産物、まだ生産が完了していない使用価値を食べて暮らすことはできないのです。

しかし貨幣の所有者が市場で労働力を商品として発見することができるためには、さまざまな条件が満たされる必要がある。商品の交換という行為そのものには、そのほんらいの性質によって生まれる従属関係のほかには、いかなる従属関係も含まれない。このことを前提とすれば、労働力が商品として市場に登場することができるのは、その持ち主である個人が、その所有者自身が、みずからの労働力を商品として売りにだすか、販売するからである。

労働力の所有者が、みずからの労働力を商品として販売できるためには、所有者はその労働力を自由に処分することができなければならない。すなわち自分の労働能力の自由な所有者であり、みずからの人格の自由な所有者でなければならない。労働者の所有者は市場で貨幣の所有者と出会い、対等な商品の所有者としてたがいに関係を結ぶ。両者の違いは、片方が買い手で他方が売り手であるということだけであり、両者は法的には平等な人格である。

この関係が持続するためには、労働力の所有者がつねに一定の時間だけ、自分の労働力を販売することが必要となる。というのは、彼が自分の労働力をまるごとそのまま売ってしまったならば、それは自分自身を売るということであり、そうなると彼はもはや自由人ではなく奴隷になり、商品の所有者ではなく商品そのものになってしまうからである。彼は一つの人格として、つねに自分の労働力をみずからの財産として、すなわち自分自身の商品として処理しうる関係にあることが必要である。これが可能なのは、彼が自分の労働力をつねに短い間だけ、特定の時間の長さにかぎって、買い手の自由に使わせ、消費させるときだけである。そのときは彼は、自分の労働力を譲渡するだけであって、労働力の所有権は決して放棄していないのである。

貨幣の所有者が市場で労働力を商品として発見するためには、次の第二の条件が重要である。すなわち労働力の所有者は、みずからの労働力が対象化されている商品を販売することはできず、みずからの生きた身体のうちに存在している労働力そのものを商品として売りにださなければならないということである。

自分の労働力とは異なるものを商品として販売しようとすれば、その人は原材料や労働の道具など、生産手段を所有していなければならないのは当然のことである。皮革がなければブーツは作れない。その他にも生活手段も必要である。誰も、かの〈未来音楽家〉でさえ、未来の生産物、まだ生産が完了していない使用価値を食べて暮らすことはできない。

この地上の舞台に登場した最初の日と同様に、人間は生産を開始する以前にも、生産しつつある間にも、今なお毎日消費しつづけなければならない。生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産してから売らなければならない。そして売れた後になって初めて、生産物は生産者の欲望を満たすことができる。この商品を売るために必要な時間もまた、生産時間の一部とみなされるのである。

 

「自由な」労働者

だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として、自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。

なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現われるかという問題には、労働市場を商品市場の一つの特殊な部門として自分の前に見いだす貨幣所持者は関心を持たない。そして、この問題はしばらくはわれわれの関心事でもない。われわれは事実にしがみつくという、貨幣所持者が実地にやっていることを、理論的にやるわけである。とはいえ、一つのことは明らかである。自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体が没落の産物なのである。

ここまででマルクスが述べていることを別の視点から見れば、労働力が商品となるには、生産活動に直接に関わる人々、すなわち労働者が前近代的共同体の人格的依存関係、あるいは奴隷制や封建制などの人格的従属関係から、「解放」されている必要があるということです。

この「解放」は労働者にとって二重の意味を持ちます。一方では、それによって、人々は「血縁」や「地縁」に基づき身分制や前近代的な因習から解放され、対等な商品所持者として関係を結ぶことができるようになります。他方では、前近代的共同体から「自由」になることにより、多くの場合、彼らは自分の生活手段(生活に必要なもの)を生産するための生産手段(生産に必要なもの)からも「解放」されます。すなわち、それを失ってしまいます。そのため、生活手段もまた、自前で生産して入手することができなくなってしまいます。

このような条件のみとでは、労働者は、自分が生産した労働生産物によって─直接消費するのであれ、商品として販売するのであれ─生活していくことができません。生産手段という、自分が労働することができる条件を失ってしまっているからです。だからこそ、労働者たちは、自分が所持している労働能力を商品として販売することを強制されるのです。

注意すべきは、ここで労働者たちが販売するのは決して労働ではなく、これから労働することができるという労働能力以外のなにものでもない、ということです。見てきたような条件のもとでは、労働者は生産手段をもっておらず、自分の意志で労働を行うことはできません。労働は、彼が資本家に自分の労働力を売り、資本家に何らかの仕事の遂行を命じられたときにはじめて行われます。

なお、このような条件が歴史的にいかに形成されたかについては、第24章の「いわゆる本源的蓄積」のところでみることになります。

ただ、簡単に、その意味をみていくと、例えば、中世において土地を持っていて、鋤や鍬を持っていて、それで穀物を作っていました。それを五公五民とか四公六民とか、そんな比率で年貢として差し出していました。それが資本主義の時代になって、二重の意味で自由な労働者が出現したわけです。中世の農民は土地から移動することはできなかったのに、新しい時代に出てきた労働者は自由に土地から移動することはできます。しかし、土地もないし、鋤や鍬のような生産手段もない。新しい時代ですから、旧時代の鋤や鍬ではないのでしょうけれど、例えば工場で生産をするのでも、その道具や生産機械を持っていない。たとえば、イギリスではエンクロージャー(囲い込み)という事態で農民が土地から追いだされる。かれらは、身体ひとつで、生きるための仕事を求めて都市に流れ込み、労働者として雇われる。それが産業革命の労働力となるのです。かれらは自分が食べていくため、自分で商品を作って売ることはできない。できるのは自分の労働力を商品として売るということだった。このようにして、資本主義のシステムが動いていくことになるのです。

ここでは「自由」という言葉の持つ2つの意味が反映しています。たとえば、あるエリアに「スモークフリー」(ただしこれは和製英語)という表示があるのを見て、「ここでは喫煙を自由にしていいんだ」と思ったらとんでもないことです。実際はその逆であって、喫煙が自由なのではなく、タバコの煙が存在しないこと、というのがここでの「フリー」の意味です。労働力商品化の第1の歴史的条件である労働者が生産手段から排除されていることは、この意味での「フリー」なのであり、労働者の側に生産手段が存在していないことを意味しています。したがって、ここで言う「自由」はかなり逆説的な意味を有しており、労働者は、生産手段から、すなわち自己の生活手段を自立的に作り出す手段から切り離されていることで、自分の労働力を商品として売ることを強制されているのです。

他方で、「フリー」とは、他者の支配に置かれていないこと、自分が自由な自立した人格であることをも意味します。この意味での「フリー」は、第2の歴史的条件である、労働者が他人の奴隷や土地の付属物ではなく、自己の労働力の所有者であって、その自由な処分者であるということに関係しているのです。

こうして、貨幣が資本に変容するためには、貨幣の所有者が市場で自由な労働者をみつけなければならない。この〈自由な〉という語には二重の意味がある。まず労働者は自由な人間として、みずからの労働力を自分の商品として処分できるのである。さらにこの労働者は、自分の労働力のほかには、売るべき商品をもっておらず、労働力を実現するために必要なものをまったく持ち合わせていないのである。

それではなぜこの自由な労働者は、流通の領域で貨幣の所有者と向き合うことになるのだろうか。しかしこの問いは、労働市場を商品の市場の特別な一部にすぎないと考えている貨幣の所有者が気に掛ける問題ではない。またここでは、わたしたちが気に掛けるべき問題でもない。貨幣の所有者は実践的な観点からこの事実に関心をもつが、わたしたちは理論的な観点からこの事実に関心をもつ。

それでもはっきりしていることが一つだけある。一方に貨幣あるいは商品の所有者がいて、他方に労働力しか所有していない者がいるという状態は、自然が作りだしたものではないということである。この関係は自然史に基づく関係ではないし、歴史のあらゆる時代に共通してみられる社会的な関係でもない。これは明らかに過去の歴史的な発展がもたらした結果であり、多くの経済的な変革の産物であり、一連の古い社会的な生産構成体が崩壊したことによる産物なのである。

 

資本制生産様式

さきに考察した経済的範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包み込まれている。商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるのかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本制生産様式の基盤の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行われうるのである。生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。

これまで見てきたことは、自然にそうなっているというものではなくて、歴史的な条件のもとで人工的に作られてきたものです。生産物が商品になったのもそうです。「それではどのような状況から、すべての(あるいはたんに大半の)生産物が商品という形態をとるようになったのか」と問いかけていけば、資本主義の生産様式が歴史的に成立したことで、はじめて可能になったものであるあることが分かります。

つまり、生産ということが自給自足の中にとどまり、個人やあるいは個人の属する小さな共同体(例えば村)の中で完結していたのであれば、商品の流通などということは起こらなかったでしょう。あるいは、多少の余剰が生まれて、消費しきれない生産物を近隣の村に持って行って、別の生産物と交換してくるという流通があり得たかもしれません。しかし、それだけでは発展性がない。単に余りものの交換にとどまるだけです。生産物が商品となって、常時流通するためには、生産量が自給自足の範囲にとどまらず、大量の余剰ができなければなりません。さらに、そういう流通の状態で、はじめて分業ということが成立してくる。たとえば、自給自足のときには自分が食べる穀物は自分で生産しなければなりませんでしたが、商品、例えば農具を作る専門の人がでてきて、穀物は自分で作らずに、生産した農具と交換により穀物を得るようになる。それを、マルクスは使用価値と交換価値の分離といいますが。そういう状態となって、はじめて商品というものが成立するというのです。

これを労働力という商品で考えてみましょう。労働力そのものはいつの時代にも存在していたものです。というよりも人類が生まれると同時に労働力も生まれたと言ってよいでしょう。しかし、それは常に資本家にとって大量に入手可能な市場的価値であったわけではありません。もちろん、労働力の売買それ自体は、太古の昔から部分的に行われてはいました。その時々の権力者や経済的有力者たちは、しばしば兵士を雇用していました。しかし、それは資本のG−W−G´の運動と結びついた市場的な大量商品ではありませんでした。もしそうだったら、資本主義は大昔から発達していたことになります。しかし実際には、資本主義がヨーロッパで発達し始めるのはようやく17〜18世紀になってからであり、主要な温帯地域を支配するのは19世紀後半になってからであり、世界全体を支配するのはようやく20世紀末になってからのことです。労働力はある一定の歴史的条件のもとで、はじめて資本にとっての大量商品となり、したがって、それを市場(労働市場)で任意に見出すことができるようになり、したがってG−W−G´の運動と有機的に結合するようになるのです。そのような歴史的条件とは何だと考えられるでしょうか?

たとえば、就活中の学生のことを考えてみてください。履歴書を無数に書いたり、あちこちの会社回りをしたりして、自己の労働力を会社側に買ってもらう約束を何とか卒業までにとりつけなければなりません。これはこれでけっして容易なことではないでしょう。会社回りをすると強く実感されるのは、まさに労働者は、セールスマンが何らかの商品を消費者に売るように自分の労働力を買い手に売り込まなければならないことです。自分が売ろうとしているのは、まだしてもいない労働それ自体などではなく、それを行う自己の能力、力量です。就活学生はいかに自分の労働力が有用でお買い得であるかを一生懸命説明しなければなりません。学歴、職歴、資格、経験、勤労意欲だけでなく、年齢、性別、人種、話し方、健康、体型、見た目、服装さえも、労働力を買ってもらえるかどうかの判断材料になります。本来は、労働遂行能力以外の要素を企業による採用の判断材料にすることは社会的差別になってくるのですが、労働力を好きなように買い叩き選別しようとする企業(資本)は、社会的に強制されないかぎり、そのような差別的選択基準を用いるのです。

しかし、たとえば彼の実家が自営業が何かだとして、その家業を継ぐことができるとすれば、このような売り込みをする必要はないわけです。自分の労働力をわざわざ買ってもらう必要はないし、他人の指揮と監督のもとで働く必要はない。何が違うのか?違うのは、自営業の場合には店舗などの生産手段が働き手自身の所有物であるということです。生産手段が自分(あるいは家族)のものであれば、その生産手段を用いて何らかの商品を生産してそれを売ればいいのであって、労働力そのものを商品として売る必要はない。労働力を売らなければならないのは、働き手から生産手段が分離されて、自分の労働力以外に何も売るものがないという状態にあることが必要となるからです。

しかし、それだけではありません。労働者自身が他人の所有物だったり、土地の付属物であったりする場合には、やはり労働者は自分の労働力を自分のものとして他人に販売することはできません。他人の奴隷である者は、そもそも自分の労働力を含めてまるごと他人の所有物ですから、それを自分で誰かに売ることはできない。封建社会の農民のように土地の付属物である場合も、その土地から離れて自分の労働力の買い手のところに売りに行くことはできません。労働力を任意に他者に売ることができるためには、労働者自身が自分の労働力の所有者となり、その自由な処分者となっていなければならないのです。

このような歴史的条件が広範に存在する場合にのみ、労働者は自分の労働力を他人に売ることができるし、売らざるを得ないのであり、また買い手は市場において労働力を商品として見出すことができるのです。これが、前のところで見た、自由な労働者です。

これまで検討してきた[商品や貨幣などの]経済的なカテゴリーにも、歴史的な痕跡が残っている。生産物が商品として存在しているという状態のうちに、特定の歴史的な条件が含まれているのである。生産物が商品になるには、それが生産者自身の直接的な生存手段として生産されてはならない。

わたしたちが「それではどのような状況から、すべての(あるいはたんに大半の)生産物が商品という形態をとるようになったのか」という問いを調べていけば、それがきわめて特殊な生産様式である資本制生産様式を基盤とすることで、初めて可能になったものであることが分かるだろう。ただしこうした研究は、商品の分析とはかけ離れたものである。

商品に姿を変えることのない生産物がきわめて多量に生産されていて、それが直接に生産者の自家消費にふり向けられていた時代には、社会的な生産過程が交換価値によってまだそれほど深く、広く完全には支配されていなかったが、それでも商品の生産と流通は行われることがありうる。しかし生産物を商品として語ることができるためには、社会の内部である程度まで分業が発展していることが必要である。使用価値と交換価値の分離は、直接的な物々交換によって始まったものであるが、この分離がすでに実現されていることが必要なのである。こうした発展段階は歴史期には、きわめて多様な経済的な社会構成体のもとで共通してみられる。

 

資本の成立のための条件

あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、あれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をさし示している。それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分である。資本はそうではない。資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。

商品の成立を見たので、次は貨幣を見ます。商品の交換が常態化したら、その手段として貨幣がどうしても必要になってきます。その場合の貨幣の機能については前章で見てきましたが、商品の等価物、流通手段、支払手段、退蔵貨幣、世界貨幣などの形態で表されるものでした。しかし、これはあくまでも商品の流通過程での貨幣です。貨幣は、そのまま資本となるわけではありません。貨幣は、特定の条件のもとで資本に変化していくのです。その条件というのは、歴史的なもので、つまり、自然とそうなるのではないのです。「資本が発生するためには、生産手段や生活手段を所有している人々が、市場において、自分の労働力を売るしかない自由な労働者をみいだす必要がある。」これが歴史的条件です。つまりは、資本とは繰り返し反復することで価値を増殖させていくものですから、その価値の増殖には、このような労働力という商品が条件となるので、このようなことになるというわけです。

この段階において、労働力という商品はどうやって成立するのかを見ていきたいと思います。この「二重の意味で自由な労働者」が、すなわち生産手段からも、他者や土地の支配者からも自由になり、自分の労働力以外に売るものがなくなった生産者が市場で大量に見出されるようになったある歴史的時点以降に、ようやく次第に労働力は商品になっていったわけです。しかし、このような二重に自由な労働力が大量に存在するだけでは、資本主義は発生しません。同じくらい重要なもう一つの条件が存在しないかぎり、このような労働者はただ貧民の群れを構成するだけであり、乞食や犯罪者となるか、あるいは別の経済システム(たとえば奴隷制や農奴制)に再吸収されてしまうだけです。

そして、まさにこのもう一つの条件が、この生産手段と生産者との分離過程の裏面で進行するのです。すなわち、生産者から分離されたこれらの生産手段(及び生産手段)が次第に一部の人間に独占されていき、彼らがその独占された富を用いて、G−W−G´の無限蓄積運動に邁進することです。人間が自己の生活を生産し再生産するのに必要な生産手段と生活手段とは、基本的に自然そのもの(すなわち土地)とそれを用いて生産された労働生産物の2種類が存在しますが、これらが資本家と土地所有者とによって独占され、生産者たちを支配し搾取する道具に転じるのです。資本家と土地所有者によるこのような生産手段の独占こそが、労働力の商品化と並んで、資本主義システムの核心に存在するメカニズムといえます。

そしてこのような条件が成立するためには、歴史的に、生産者たちから大規模に生産手段(及び生活手段)を収奪し、それらの生産手段を一部の富裕者の手中に集中させる歴史的過程が必要でした。これを資本の本源的蓄積と呼ぶのですが、この歴史的過程はしばしば長期にわたるすさまじい暴力を伴いました。この本源的蓄積過程を経て以降、資本は次第に労働力を包摂し、したがって労働力の消費過程である生産過程を包摂していきました。それによってはじめてG−W−G´という資本の運動は、社会の片隅に潜んでいた寄生的存在であることをやめて、自己を維持し再生産する一個の自立した有機的システムになることができたと言えます。

こうして労働者は、生産手段の独占者たる資本家に自己の労働力を売り、資本家から賃金を得ることで自己の生活を維持する賃労働者となりました。両者は資本主義システム成立の中核をなす階級であり、したがって両者が生産で取り結ぶ関係は、資本主義システムの基本性格を規定する生産関係である。

貨幣については、商品交換がある一定の水準にまで発達していることが、貨幣が成立するための条件である。貨幣はさまざまな特別な形態をそなえることがあり、たとえばたんなる商品の等価物、流通手段、支払手段、退蔵貨幣、世界貨幣などの形態をとりうる。貨幣がどのような形態をとるかということは、その機能の範囲の違いや、どの機能が相対的に他の機能よりも優先されるかなどによって、社会的な生産過程のきわめて多様な段階に応じたものとなる。それでも経験的には、それがかなり弱々しいものであっても、商品流通が発達していれば、貨幣のこうしたすべての形態は十分に成立しうるのである。

しかし資本については状況が異なる。商品や貨幣が流通していても、それで資本が成立するための歴史的な条件がそなわっているとは言えない。資本が発生するためには、生産手段や生活手段を所有している人々が、市場において、自分の労働力を売るしかない自由な労働者をみいだす必要がある。この一つの歴史的な条件のうちに、世界史が含まれているのである。このように資本は最初から、社会的な生産過程の一つの画期を告げているのである。

 

労働力の特質

そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている。この価値はどのように規定されるであろうか?

労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけである。したがって、労働力の生産はこの個人が存在を前提する。この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。この支出の増加は収入の増加を条件とする。労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要欲望な範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるのである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。

労働力の所有者は死を免れない。だから、貨幣が資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならない。消耗と死によって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである。

ここからは労働力という商品について詳しく見ていきます。他のすべての商品と同じようにこの商品は一つの価値をもっています。その価値はどのようにして決まるのでしょうか。ます、一般的に商品の価値は、その生産あるいは再生産に必要な労働時間で決まります。労働力も商品であるかぎりではたとえばその価値は同じように決まります。とくに、労働力そのものを生産するわけではありませんから、むしろ、労働力は人々の日常の生活過程のなかで再生産されます。言い換えれば労働力の価値は、労働力の所有者の生存の維持のために必要な生活手段の価値にほかなりません。労働力という商品は、労働者が労働するということですから、最低限、労働者が死んでしまっては労働できないのです。だから、労働者が生存するために必要なこと。衣食住、つまり生活です。しかし、ただ生存しているだけでは労働できません。ただ生きているだけではだめです。1カ月働いたら、次の1か月働くことができるためには、健康でエネルギーを補充しておかなければなりません。「労働によって、人間の筋肉、神経、頭脳などが特定の量だけ消耗する。それをふたたび補給しなければならない。こうして消耗量が増大すると、それを補う摂取の量も増大する。労働力の所有者は、今日の労働の後に、明日も同じ力と健康をそなえた同じ条件のもとで、同じ過程を反復できる必要がある。」つまり、労働力は人間の精神および身体と一体のものとして存在し、労働する際にその都度発揮される諸力ないし諸能力の総体として理解しうるのだから、人間の精神・身体が正常な状態で日々再生産されなければならない、それなしにいかなる労働力も存在しないというわけです。

では、人間の精神および身体は何によって再生産されているのでしょうか。第一に、一定水準の文化・習慣のもとで人が正常に日々生活するのに必要な生活手段を消費することによってです。この種の生活手段を必要生活手段と呼ぶとすれば、その中には、日々の食料、住居、衣服、食器、家具、寝具、種々の日用品などの物質的生活手段はもちろんのこと、一定の娯楽やレジャー趣味を楽しむのに必要なさまざまの文化的生活手段も入ることになります。一定の気晴らしや趣味を楽しむことができて初めて、労働者は「健康で文化的な」生活水準を手に入れることができることになるわけです。

しかし、このような生活手段の量と質、種類と範囲などは時代によって大きく異なるし、地域や国によっても異なるものです。たとえば、今ではパソコンやスマートフォンは我々の日常生活においても必需品となっていますが、かつてはこれらは贅沢品であったものですが、そもそも存在していなかったものです。しかも、その前の時代、例えば昭和30年代には電気冷蔵庫やテレビでさえ必需品ではなく贅沢品であったこともありました。また、日本のように四季がはっきりしている温帯地帯では、衣服や寝具は四季に応じたものをそろえておく必要があるし、暖房や冷房にかかる光熱費もばかにならないわけです。赤道直下の常夏の国のように、数種類のアロハシャツだけでいいというわけにはいかない。このように、時代と地域が異なれば、必要生活手段の質も量も種類も異なってきます。

さらに、この水準は、このような客観的な時代差・地域差を反映しているだけでなく、労働者の文化的・経済的な要求水準とそれを実現しようとする主体的な運動や闘争にも左右されるし、さらにはどのような生活水準が労働者にふさわしいのかという社会意識にも左右されます。それは、労働者は物言わぬ客体的存在ではなく、自意識と尊厳とをもった生きた主体的存在だからです。労働者自身がどの程度の生活水準が自分たちにふさわしいとみなすのか、あるいは社会的にそうみなされるのかは、客観的法則なるものによって機械的・自動的に決まるわけではないのです。この必要生活手段の範囲と水準とは、一定の時代と一定の地域において平均的にある一定の大きさで、その具体的な中身は、労働者のそれぞれの個性の違いに応じて大いに異なりうるのですが、価値観としてみたその価値は一定の水準に収まっているということができます。

しかし、必要生活手段の中には買ってすぐに消費できるものもあれば、そこからさらに一定の労働を加えなければ消費できないものもあります。今日では、スーパーやコンビニで買って、袋ないし蓋をあければすぐに食べられるような加工食品が多数出まわっていますが、それでも、我々はそれを買って自宅に運ばなければならないし、栄養のバランスのとれた文化的な食事をしようと思えば、材料を買ってきて自宅で調理する必要があるわけです。使い捨てにするのでないかぎり、衣服や寝具は一定の頻度で洗濯して干さなければならないし、家もまた一定の頻度で掃除したり修繕したりしなければなりません。

これらの、いわゆる家事労働はすべて労働者の物質的な生活の生涯と再生産に寄与しており、生活手段の使用価値を明らかに高めているわけだから、生産的労働といえます。それによって労働力が商品として労働市場で販売されるのだから、工場で機械を掃除する労働がその機械によって生産される商品の価値に入るのと同様、これらの労働は労働力商品の価値の中に入るといえます。家庭内において労働力の正常な生産と再生産に寄与するこのような種々の労働を家事労働と総称するとすれば、この家事労働は労働力商品の価値を規定する第2の要素となるのです。

これらの労働はすべて労働者の物質的な生活の生涯と再生産に寄与しており、生活手段の使用価値を明らかに高めているわけだから、生産的労働である。それによって労働力が商品として労働市場で販売されるのだから、工場で機械を掃除する労働がその機械によって生産される商品の価値に入るのと同様、これらの労働は労働力商品の価値の中に入る。家庭内において労働力の正常な生産と再生産に寄与するこのような種々の労働を家事労働と総称するとすれば、この家事労働は労働力商品の価値を規定する要素となると考えられます。

しかし、生活過程のなかで行われる家事労働はいずれもマルクスのいう「私的労働」(社会的分業の一部を構成しながら、私的個人によって行われる私的な労働)ではなく、したがって価値を生み出すことはありません。ですから、家事労働がどれほど労働力の再生産に役立とうと、それが労働力の価値を形成することはないのです。とはいえ、それはジェンダー的偏見に基づくものであり、労働価値説にもとづくなら当然に入らなければならないと考えられます。なぜならそれは、労働力を生産し再生産するのに社会的・平均的に必要な労働の一部を明らかに構成するからであり、その有働力が商品として労働市場で販売されるかぎりでは、それらの労働は労働力商品を生産し再生産するのに社会的に必要な労働にカウントされるからです。 

また、労働者は人間です。人の生命は有限で、死という終末を免れることはできません。つまり、労働力という商品を供給する労働者は永遠に供給することはできないのです。資本家は、労働者が死んでしまったら、労働力という商品を補充なければなりません。それは新たな労働者を雇うということです。そのためには、新しい労働者がいなければなりません。それは、死んだ者に代わる新しい世代。つまり、労働者が子供を生み育てるということが必要です。それによって、途切れることなく労働力を確保することができる。そのためには、労働者が家族を養い、子供を育てていくという労働も含まれることになります。労働力商品の再生産はこうして二重の意味での再生産であって、こうしてこの独特な商品所持者の種族が、商品市場で永久化される。つまり、階層あるいは階級の固定化となっていくのです。

これは長期的再生産に関わる労働力の価値としての要素です。そもそも、販売可能な一定水準の労働力として市場で登場するまでにその労働力の本源的形成に関わる労働と費用と言えます。人間は生まれながらにして一人前の労働力を持っているわけではありません。一人前の労働者として精神と身体とを一定の正常な水準で育成・成熟させ、一定の教育・文化水準を身につけさせるためには、育児労働や教育労働をはじめとする膨大な労働と費用とが投下されなければなりません。この部分もまた労働力価値の中に入らなければ、労働力は世代的に再生産されないことになります。したがって、労働力を一定年齢まで社会的に正常な水準で育成することに関わるこの部分は、労働力価値の構成要素と言えます。そしてその総額は、実際にその労働力が市場に販売されるようになったあと、労働力商品の生涯価値によって長期的に補填されることになるでしょう。たとえば、20年かけて一人前の労働者になり、生涯に40年間にわたって賃金労働者として直接的生産労働に従事するとすれば、その20年間に費やされた費用と労働との総額が貨幣価値に換算して4000万円であったとしましょう。この4000万円は、生涯労働年数の40年間で補填されるのだから、平均すると毎年100万円ずつがその間に支払われる年賃金の一部として補填されることになるわけです。したがって、労働者が年々獲得する賃金から、年間の本人生活費と家事労働分を差し引いた後で、100万円相当の予備が年々発生することになります。

この予備分は、労働者が子どもをもうけた場合には、当該児童の必要生活手段やその他子育てに関わる諸費用に充当されることになります。こうして、労働力は世代的に再生産されていくことになります。自分の労働力の世代的生産のためにかかった費用と労働とが賃金に反映し、その分が次世代の労働力の養育費に充当されるという世代的循環を通じて、全体として労働力の世代的再生産が実現されるというわけです。

商品としての労働力の特殊性は、しかしそれに止まりません。

そこでこの労働力という特別な商品をさらに詳しく検討してみる必要がある。他のすべての商品と同じようにこの商品は一つの価値をもっている。その価値はどのようにして決まるのだろうか。

労働力の価値は他の商品の価値と同じように、この特別な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって決まる。価値としての労働力そのものは、そのうちに対象化された一定の量の社会的な平均労働を表わしているにすぎない。労働力は、生ける個人にそなわる才能としてしか存在しない。だから労働力を生産するには、この個人が生存している必要がある。個人の生存が確保されたならば、労働力を生産するには次にその個人が生存している必要がある。生きている個人がみずからを維持するためには、一定の量の生活手段が必要となる。そこで労働力を生産するために必要な労働時間は、この生活手段を生産するために必要な労働時間だということになる。すなわち労働力の価値は、労働力の所有者を維持するために必要な生活手段の価値である。

しかし労働力は、それが外に現れることによって初めて現実のものとなるのであり、それは労働のうちでしか活動しない。しかしその活動によって、すなわち労働によって、人間の筋肉、神経、頭脳などが特定の量だけ消耗する。それをふたたび補給しなければならない。こうして消耗量が増大すると、それを補う摂取の量も増大する。労働力の所有者は、今日の労働の後に、明日も同じ力と健康をそなえた同じ条件のもとで、同じ過程を反復できる必要がある。

こうして、生活手段の全体の量は、労働する個人が通常の生活水準のもとで、みずからを労働する個人として維持するために十分なものでなければならない。食料、衣服、暖房、住居などの自然的な欲求そのものは、それぞれの国の気象条件やその他の自然条件におうじて異なる。またいわゆる必要な欲求の大きさも、その欲求が満たされる方法も、それ自身が歴史的な産物であり、その多くはその国の文化的な段階に左右される。とくに自由な労働者の階級がどのような条件のもとで形成されてきたか、労働者がどのような習慣や生活上の要求をそなえているかが決定的な意味を持つ。このため他の商品とは異なり、労働者の価値の決定には、必要な生活手段の平均的な大きさは、その範囲が決まっているものである。

労働力の所有者は死すべき存在である。そして貨幣が資本に持続的に変容するためには、労働力の所有者が市場に持続的に登場してくることが必要であるのだから、労働力の売り手はみずからを永続的なものとしなければならない。「あらゆる生ける個人が、みずからを永続化するのと同じように」。市場からは消耗と死によって、特定の数の労働力が失われるのであり、これは少なくとも同じ人数の新たな労働力によってたえず補給される必要がある。だから労働力の生産のために必要な生活手段の総量には、こうした補充要員、すなわち労働者の子供たちの生活手段も含まれることになる。これによってこの特別な商品を所有する種族が、商品市場において永続的に存在するようになるのである。

 

労働力の価値

一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。だから、この修養費は、普通の労働力についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。

労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。

生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に変われるか支払われるかしなければならない。しかし、これらの支出の総額がたとえば一年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われていなければならない。かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+…)/365であろう。この一平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には、半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。すなわち、労働日の毎日の生産のためには半労働日が必要である。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。

 

労働力という商品の価値は、他の商品がその商品を生産する労働の量であるのと違って、労働力を再生産する労働の量ではかられることになるというのは、前で考察しました。では、その再生産の内容とは何かということですが、それは大きく三つの要素にまとめることができます。一つ目は、1ヶ月の衣食住、それに少々のレジャーなどの、翌月の1ヶ月間働くエネルギーを蓄えるということ。二つ目は、家族を扶養し、子どもに教育を受けさせること。これは労働者階級を再生産することです。ここまでは、前にみてきたところです。そして、三つ目が自己教育をすることです。これは、労働にはある程度の技能や知識が必要だからです。たとえば、工場で機械を操作するには、機械の知識が必要ですし、工場で作業をするためには何らかの技能が必要です。それらは、労働者が自分で身に着けなければならないもので、そのためには学習したり、技能を習得したりするという行動が必要となります。あるいは、資本制生産様式が発展するためにイノベーションという飛躍的な改善がお行われます、それに伴って労働者も労働の内容が大きく変化することに応じていかなければなりません。そのための自己学習は必要なものです。

たとえば、ある特殊な生産部門においてはある特殊な技能が必要だとしたら、そのような技能を取得するのに必要な労働と費用は、当然、その特殊な労働力の価値の中に入るし、もし入らなければ、この技能は世代的に継承されないことになります。

たとえば、一人前の医者になるために、医学部を卒業してからさらに何年も研修を積まなければならず、それにかかる平均的な費用と労働とを補填する分が医者に支払われる賃金の中に入っていないとすれば、医療労働という特殊な技能は十分に供給されなくなるおそれがあります。医療部門に限定したとしても、このような特殊技能を必要とする職種は他にも多数存在します。看護師、薬剤師、検査技師、レントゲン技師、作業療法士、等々。いずれも一定の調練と修行を必要とし、それらの技能の形成ないし取得にかかった労働と費用とは、その部門の賃金の追加分として補填されなければならないでしょう。

かつては、このような特殊な部門でなくても、どの労働部門でもそれぞれ一定の特殊な技能と熟練とを必要とし、その取得に相当の労働と費用とを必要としていました。しかし現在では機械化と単純労働化とが進んで、一般労働部門における技能はごく短期間で身につけられるので、その部分の価値はごくわずかになってしまいました。 

労働力の価値の内容はこのようなものですが、それではその価値の量はどのようにして量るのでしょうか。

労働力の日々の再生産に必要とされる労働の量が1日あたりの価値日当価値であり、毎日のように再生産される労働力の価値です。これは、例えば、次のように計算されます。

A:労働力の生産のために毎日必要となる量

B:労働力の生産のために毎週必要となる量

C:労働力の生産のために3ヶ月ごとに必要となる量

ABCの1日あたりの平均量は次のように求められる

(365A+52B+4C+…N)/365

この平均的な1日に必要な量のために6時間の社会的な労働が投じられるとします。この投じられる労働の量は、毎日の社会的な平均労働が1日12時間とすると、平均労働の半日分に当たります。

この1日の社会的な平均労働の半分を貨幣に換算したものが、労働者がみずからの労働力の価格として売り出す販売価格と等価ということになります。

しかし、ここでいくつか気をつけるべき点があるのです。第1に、年労働力価値を測るのはあくまでも年平均労働日数であって、けっして365日ではないということです。1日分の労働時間が文字通りの24時間を意味しないのと同じく、1年間の労働日数はけっして365日ではないのです。「資本論」では年労働力価値を365日で割って労働力価値を算出しているのですが、これだと休日がゼロとなってしまいます。割る日数が具体的にどれだけの大きさであるのかは、労働者の権利水準と階級闘争の問題なのです。

第2に、ここで問題になっている労働力価値の大きさはあくまでも平均値であって、生活賃金はその平均値に一定の幅で照応するものにすぎず、現実の賃金はしばしばこの平均値を大きく下回っていのす。このような低賃金は生活賃金とはとうてい言えず、労働力価値のうち労働者個人の日々の生活を維持する分を超える部分をほとんどまかなうことはできないでしょう。したがって、労働力の世代的再生産を社会的規模で実現するためには、直接の賃金だけに依存することはできないのであって、子ども向けの社会福祉や教育費の公的負担が絶対に必要になるということです。

労働力の価値は他の商品の価値と同じように、この特別な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって決まる。価値としての労働力そのものは、そのうちに対象化された一定の量の社会的な平均労働を表わしているにすぎない。労働力は、生ける個人にそなわる才能としてしか存在しない。だから労働力を生産するには、この個人が生存している必要がある。個人の生存が確保されたならば、労働力を生産するには次にその個人が生存している必要がある。生きている個人がみずからを維持するためには、一定の量の生活手段が必要となる。そこで労働力を生産するために必要な労働時間は、この生活手段を生産するために必要な労働時間だということになる。すなわち労働力の価値は、労働力の所有者を維持するために必要な生活手段の価値である。

しかし労働力は、それが外に現れることによって初めて現実のものとなるのであり、それは労働のうちでしか活動しない。しかしその活動によって、すなわち労働によって、人間の筋肉、神経、頭脳などが特定の量だけ消耗する。それをふたたび補給しなければならない。こうして消耗量が増大すると、それを補う摂取の量も増大する。労働力の所有者は、今日の労働の後に、明日も同じ力と健康をそなえた同じ条件のもとで、同じ過程を反復できる必要がある。

こうして、生活手段の全体の量は、労働する個人が通常の生活水準のもとで、みずからを労働する個人として維持するために十分なものでなければならない。食料、衣服、暖房、住居などの自然的な欲求そのものは、それぞれの国の気象条件やその他の自然条件におうじて異なる。またいわゆる必要な欲求の大きさも、その欲求が満たされる方法も、それ自身が歴史的な産物であり、その多くはその国の文化的な段階に左右される。とくに自由な労働者の階級がどのような条件のもとで形成されてきたか、労働者がどのような習慣や生活上の要求をそなえているかが決定的な意味を持つ。このため他の商品とは異なり、労働者の価値の決定には、必要な生活手段の平均的な大きさは、その範囲が決まっているものである。

労働力の所有者は死すべき存在である。そして貨幣が資本に持続的に変容するためには、労働力の所有者が市場に持続的に登場してくることが必要であるのだから、労働力の売り手はみずからを永続的なものとしなければならない。「あらゆる生ける個人が、みずからを永続化するのと同じように」。市場からは消耗と死によって、特定の数の労働力が失われるのであり、これは少なくとも同じ人数の新たな労働力によってたえず補給される必要がある。だから労働力の生産のために必要な生活手段の総量には、こうした補充要員、すなわち労働者の子供たちの生活手段も含まれることになる。これによってこの特別な商品を所有する種族が、商品市場において永続的に存在するようになるのである。

 

労働力の価値の限界

労働力の価値の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。

このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。

「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力を把握することは、一つの妄想を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生存手段を、労働者と労賃を語るのである。」

労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。消化という過程のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のものが必要である。労働能力を語る人は、労働能力の維持のために必要な生活手段を捨象するのではない。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたたないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産は一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性と感ずるのである。そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は、…もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのである。

この労働力の価値の下限または最低限は、労働力の担い手である人間が、自分の生命過程を更新していくためにはどうしても毎日補給しなければならない量の商品の価値によって、すなわち肉体的に欠かすことのできない生活手段の価値によって決まる。労働力の価値がその最低限にまで低下すると、実際にはその価格は労働力の価値を下回っているのである。というのも、その人はもはや、衰弱した形でしか労働力を維持し、発揮することができなくなるからである。しかしあらゆる商品の価値を決定するのは、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間なのである。

この労働力の価値の規定は、事柄の本質によって決まるものであるのに、これを[イタリアの俗流経済学者の]ロッシのように粗雑だと嘆くのは、安っぽい感傷主義である。ロッシは「生産過程における労働の維持手段を無視して労働能力を捉えたと考えるのは、幻影を捉えたと考えるようなものである。労働と労働能力について語ることは、同時に労働者と生存手段、労働者と労働賃金について語ることである」と述べている。

しかし労働能力について語ったとしても、労働について語ったことにはならない。消化能力を語ったからといって、消化について語ったことにならないのと同じである。消化というプロセスを語るには、たんに丈夫な胃をもっているだけでは不十分であるのは周知のことである。

労働能力について語ることは、労働能力を維持するために必要な生活手段を無視することではない。むしろ生活手段の価値は、労働能力の価値に表現されているのである。労働能力が売れなければ、その所有者には何の役にも立たない。だから労働者は、自分の労働能力を生産するためには、特定の量の生活手段が必要であり、労働能力を再生産するためには、今後ともたえずそれが新たに必要となることを、自然の残酷な必然性と感じているのである。労働者はシスモンディとともに「労働能力は、…売れなければ無にひとしい」ことに気づくのである。

 

労働力の特殊性

この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまた現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はあとで行われる力の発揮においてはじめて成り立つのである。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実的引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。資本制生産様式の行われている国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払いを受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。労働者は、労働力の価格を支払いを受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけでなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されている。とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。

労働力というこの特殊な商品の特殊な特徴として、売り手と買い手のあいだで契約が結ばれても、その商品の使用価値が実際に買い手のもとに移行しないことがあげられる。ほかのすべての商品の価値と同じように、この労働力という商品の価値は、流通に入る前から決まっている。なぜならば特定の量の社会的な労働が、労働力を生産するためにすでに支出されているからである。

しかしその使用価値は、後にその力が行使されたときになって初めて存在するようになる。だから力が譲渡された時点と、力が現実に行使されて使用価値として存在するようになる時点のあいだには、時間的なずれが発生する。しかし使用価値が販売されて名目的に譲渡されから、買い手に実際にその使用価値が引き渡されるまでに、時間的なずれが発生するこの種の商品では、買い手の支払った貨幣は多くの場合、支払手段として機能する。

ところで資本制生産様式を採用しているすべての国で労働力の代価は、購入契約によって定められた期間をとおして労働力が実際に使用された後に、たとえば[週払いの賃金では]週末になってから初めて支払われる。だから労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家たちに前貸ししているのである。労働者は自分の労働力の価格を支払ってもらう前に、買い手にその労働力を消費させるのである。だから労働力はどこでも資本家に信用貸ししていることになる。

この信用貸しが決して空虚な妄想ではないことは、資本家が倒産した場合には、この信用貸しされていた賃金が支払われないことがあることから明らかである。そしてそれだけではなく、さらに一連の作用が長期にわたって発生することもある。しかし貨幣が購入手段として機能しているか、支払手段として機能しているかは、商品交換そのものの性質に影響を与えない。家賃の支払いと同じように、労働力の価格は、実際に現金化されるものはもっと後になってからだとしても、あらかじめ契約で定められているのである。代金は後払いだが、すでに労働力は売られているのである。しかしこの関係を純粋に理解するために、さしあたりは労働力の所有者は、労働力を売るたびに、その場で契約で定められた価格をうけとると考えておこう。

 

貨幣の増殖の秘密

いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の想定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行われる。そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るなと入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。ここでは、どのようにして資本が生産するかというだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。

問題は、労働力の「使用価値」が実現するのは、その「力の発現」においてであり、労働力が現実に商品として価値をあらわすのはいつでも「事後的」であるということです。労働力の購買者は、だからいったん買い入れた労働力を、その事前にさだまった─「流通に入る前から決定されていた」─価値を充填する時間を超えて、なおも使用し続けることができることになります。たとえば、ワインという商品を購入した場合には、その瓶1本の対価を支払って手にした時点でワインを飲むことができます。しかし、飲めるワインは手にした1本の瓶に限られます。これに対して、労働力を購入した資本家は、購入した後で労働者を労働させることによって労働力の価値を実現させる。そのため、買ったワインなら1本の瓶という限界があらかじめ設定されてしまっていますが、労働力の場合には、1本のワインのような絶対的な限度がないのです。労働者を余計に働かせることは物理的に不可能ではありません。そこに、労働力を買ったときに支払った価格以上の価値を実現することも不可能ではないことになるわけです。それが価値の増殖の原因のひとつともなり得るわけです。力の「譲渡」とその「現実的な発現」が「したがって、時間的にいって分離している」ことが、労働時間の分離そのものを可能にするというのは、こういうことです。この件が資本に、増殖価値の取得を、とりあえずは絶対的増殖価値の獲得を可能とすることになるはずなのです。「労働力が消費される過程は同時に、商品と増殖価値が生産される過程でもある」こと内容は、この後で詳しく分析されることになっています。そのためには「隠された生産の場所」に、「無用の者、立ち入るべからず」と書かれたその場所に立ち入らなければならない。とマルクスは皮肉を込めて書いています。「労働力の売買」はたんなる商品交換であって、その部面は「天賦の人権の真の楽園」でもあった。「そこを支配しているのはひとり、自由、平等、所有、そしてベンサムである」。これから辿られるのは、したがって楽園喪失の物語、エデンの園からの追放の物語となる。そこではまた、楽園があらかじめ失われ、たんに夢見られていたにすぎないしだいもあかされてゆくはずである。

貨幣の所有者が、この労働力という独特な商品の所有者に払う価値は、このようにして決定されるのである。貨幣の所有者がこの価値と交換して手にした使用価値は、実際に使用される際に、労働力が消費される過程において実現される。貨幣の所有者は、原材料など、この消費過程に必要なすべての物を商品市場で購入し、その正価を支払う。

この労働力が消費される過程は同時に、商品と増殖価値が生産される過程でもある。労働力の消費は、他のあらゆる商品の消費と同じように、市場や流通の領域の外で行われる。そこでわたしたちも貨幣の所有者や労働力の所有者とともに、流通の領域を、この表面的には活気にあふれ、すべての人々の注目を集める領域をあとにして、隠された生産の現場へと赴くことにしよう。この場所の入り口には、「関係者以外立ち入り禁止」という札が下がっている。この場所で初めて、資本がどのように生産を行うかだけではなく、いかにして資本そのものが生産されかが明らかになるだろう。貨幣の増殖の秘密がいまこそ暴かれねばならないのである。

 

貨幣の増殖の秘密 

労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由!なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等!なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。所有!なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。ベンサム!なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一の力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜け目のない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。

この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。

ここでは、第2章のプルードン批判のところでみた「ホモ・エコノミクス」幻想がより本格的に論じられています。ここで言われる「自由」とは商品売買の自由にほかならず、「平等」とは商品所持者としての平等にほかならず、「所有」とは物象の力にもとづいた排他的所有権にほかなりません。「所有」について補足しておけば、前近代的な、共同体の伝統や慣習にもとづいた重層的で複雑な所有とは異なり、近代社会の商品所有権は、それが物象の力だけに基づくものであるがゆえに、非常に単純な、それゆえ排他的な所有権となります。買い手は貨幣の力によってどんな商品でも排他的に所有することができ、それを自分の意志で自由に処分することができます。

それでは、最後に言われる「ベンサム」とは何でしょうか。もちろん、これはジェレミ・ベンサムの「功利主義」のことを指しています。すなわち、以上のような自由、平等、所有のもとで個々人が私的利益を追求することによってこそ、「相互の利益の、共同の利益の、全体の利益の事業」が成し遂げられるとする思想です。

このような「ホモ・エコノミクス」幻想を基準にするのであれば、労働力という商品の売買もこの「天賦の人権の真の楽園」で行われるわけですから、歓迎すべきものだということになります。

しかし、いまや私たちは労働力という商品の使用価値、すなわち労働について考察するために、このような幻想を生み出す「流通または商品交換の部面」を離れ、生産過程に移らなければなりません。すると、「わたしたちの舞台俳優の顔つきまで変わってくるようである」とマルクスは言います。「かつての貨幣の所有者は、資本家として一歩前を歩き、労働力の所有者は資本家のための労働者として、そのあとにつづく。資本家は意味ありげな笑みを浮かべて、仕事熱心な様子をみせ、労働者はおずおずと抵抗しながらそのあとを歩む。まるで身を粉にして働いたというのに、やがてはなめし皮屋に皮を剥がされる運命しか残されていない家畜のように。」

労働力の販売と購入も行われる商品の流通の領域、商品の交換の領域は実際に、天賦人権論の楽園だった。ここを支配しているのは、自由、平等、所有、そしてベンサムだけである。

自由!なぜならば、たとえば労働力などの商品の買い手と売り手は、みずからの自由意志によってしか規定されていないからである。彼らは自由で、法的に対等な人格として、契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的な表現を獲得する最終的な結果である。

平等!なぜならば、彼らはともに商品の所有者として、たがいに関係し、等価物どうしを交換するからである。

所有!なぜならば、彼らはそれぞれが自分の所有しているものしか処分しないからである。

ベンサム!なぜならば彼らはそれぞれ自分の事柄にしかかかわらないからである。

両者を結び、一つの関係を構築させる唯一の力は、彼らのエゴイズムであり、特殊な利益であり、私的な利害関係である。そしてそれぞれが自分だけにかかわり、誰も他人にかかわろうとしないがために、事物の予定調和の結果として、あるいはすべてを見通している天の摂理にしたがって、すべての人が相互の利益と、共通の利益と、共通の利害関係のために働くのである。

俗流の自由貿易主義者たちが、資本や賃労働の社会について判断するための直観や概念や尺度を作りだすときに考察するのは、単純な流通の領域であり、商品交換の領域である。しかしこの領域を立ち去ると、わたしたちの舞台俳優の顔つきまで変わってくるようである。かつての貨幣の所有者は、資本家として一歩前を歩き、労働力の所有者は資本家のための労働者として、そのあとにつづく。資本家は意味ありげな笑みを浮かべて、仕事熱心な様子をみせ、労働者はおずおずと抵抗しながらそのあとを歩む。まるで身を粉にして働いたというのに、やがてはなめし皮屋に皮を剥がされる運命しか残されていない家畜のように。

 

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