では、人間の精神および身体は何によって再生産されているのでしょうか。第一に、一定水準の文化・習慣のもとで人が正常に日々生活するのに必要な生活手段を消費することによってです。この種の生活手段を必要生活手段と呼ぶとすれば、その中には、日々の食料、住居、衣服、食器、家具、寝具、種々の日用品などの物質的生活手段はもちろんのこと、一定の娯楽やレジャー趣味を楽しむのに必要なさまざまの文化的生活手段も入ることになります。一定の気晴らしや趣味を楽しむことができて初めて、労働者は「健康で文化的な」生活水準を手に入れることができることになるわけです。
しかし、このような生活手段の量と質、種類と範囲などは時代によって大きく異なるし、地域や国によっても異なるものです。たとえば、今ではパソコンやスマートフォンは我々の日常生活においても必需品となっていますが、かつてはこれらは贅沢品であったものですが、そもそも存在していなかったものです。しかも、その前の時代、例えば昭和30年代には電気冷蔵庫やテレビでさえ必需品ではなく贅沢品であったこともありました。また、日本のように四季がはっきりしている温帯地帯では、衣服や寝具は四季に応じたものをそろえておく必要があるし、暖房や冷房にかかる光熱費もばかにならないわけです。赤道直下の常夏の国のように、数種類のアロハシャツだけでいいというわけにはいかない。このように、時代と地域が異なれば、必要生活手段の質も量も種類も異なってきます。
さらに、この水準は、このような客観的な時代差・地域差を反映しているだけでなく、労働者の文化的・経済的な要求水準とそれを実現しようとする主体的な運動や闘争にも左右されるし、さらにはどのような生活水準が労働者にふさわしいのかという社会意識にも左右されます。それは、労働者は物言わぬ客体的存在ではなく、自意識と尊厳とをもった生きた主体的存在だからです。労働者自身がどの程度の生活水準が自分たちにふさわしいとみなすのか、あるいは社会的にそうみなされるのかは、客観的法則なるものによって機械的・自動的に決まるわけではないのです。この必要生活手段の範囲と水準とは、一定の時代と一定の地域において平均的にある一定の大きさで、その具体的な中身は、労働者のそれぞれの個性の違いに応じて大いに異なりうるのですが、価値観としてみたその価値は一定の水準に収まっているということができます。
しかし、必要生活手段の中には買ってすぐに消費できるものもあれば、そこからさらに一定の労働を加えなければ消費できないものもあります。今日では、スーパーやコンビニで買って、袋ないし蓋をあければすぐに食べられるような加工食品が多数出まわっていますが、それでも、我々はそれを買って自宅に運ばなければならないし、栄養のバランスのとれた文化的な食事をしようと思えば、材料を買ってきて自宅で調理する必要があるわけです。使い捨てにするのでないかぎり、衣服や寝具は一定の頻度で洗濯して干さなければならないし、家もまた一定の頻度で掃除したり修繕したりしなければなりません。
これらの、いわゆる家事労働はすべて労働者の物質的な生活の生涯と再生産に寄与しており、生活手段の使用価値を明らかに高めているわけだから、生産的労働といえます。それによって労働力が商品として労働市場で販売されるのだから、工場で機械を掃除する労働がその機械によって生産される商品の価値に入るのと同様、これらの労働は労働力商品の価値の中に入るといえます。家庭内において労働力の正常な生産と再生産に寄与するこのような種々の労働を家事労働と総称するとすれば、この家事労働は労働力商品の価値を規定する第2の要素となるのです。
これらの労働はすべて労働者の物質的な生活の生涯と再生産に寄与しており、生活手段の使用価値を明らかに高めているわけだから、生産的労働である。それによって労働力が商品として労働市場で販売されるのだから、工場で機械を掃除する労働がその機械によって生産される商品の価値に入るのと同様、これらの労働は労働力商品の価値の中に入る。家庭内において労働力の正常な生産と再生産に寄与するこのような種々の労働を家事労働と総称するとすれば、この家事労働は労働力商品の価値を規定する要素となると考えられます。
しかし、生活過程のなかで行われる家事労働はいずれもマルクスのいう「私的労働」(社会的分業の一部を構成しながら、私的個人によって行われる私的な労働)ではなく、したがって価値を生み出すことはありません。ですから、家事労働がどれほど労働力の再生産に役立とうと、それが労働力の価値を形成することはないのです。とはいえ、それはジェンダー的偏見に基づくものであり、労働価値説にもとづくなら当然に入らなければならないと考えられます。なぜならそれは、労働力を生産し再生産するのに社会的・平均的に必要な労働の一部を明らかに構成するからであり、その有働力が商品として労働市場で販売されるかぎりでは、それらの労働は労働力商品を生産し再生産するのに社会的に必要な労働にカウントされるからです。
一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。だから、この修養費は、普通の労働力についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。
労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。
生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に変われるか支払われるかしなければならない。しかし、これらの支出の総額がたとえば一年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われていなければならない。かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+…)/365であろう。この一平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には、半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。すなわち、労働日の毎日の生産のためには半労働日が必要である。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。
労働力という商品の価値は、他の商品がその商品を生産する労働の量であるのと違って、労働力を再生産する労働の量ではかられることになるというのは、前で考察しました。では、その再生産の内容とは何かということですが、それは大きく三つの要素にまとめることができます。一つ目は、1ヶ月の衣食住、それに少々のレジャーなどの、翌月の1ヶ月間働くエネルギーを蓄えるということ。二つ目は、家族を扶養し、子どもに教育を受けさせること。これは労働者階級を再生産することです。ここまでは、前にみてきたところです。そして、三つ目が自己教育をすることです。これは、労働にはある程度の技能や知識が必要だからです。たとえば、工場で機械を操作するには、機械の知識が必要ですし、工場で作業をするためには何らかの技能が必要です。それらは、労働者が自分で身に着けなければならないもので、そのためには学習したり、技能を習得したりするという行動が必要となります。あるいは、資本制生産様式が発展するためにイノベーションという飛躍的な改善がお行われます、それに伴って労働者も労働の内容が大きく変化することに応じていかなければなりません。そのための自己学習は必要なものです。
たとえば、ある特殊な生産部門においてはある特殊な技能が必要だとしたら、そのような技能を取得するのに必要な労働と費用は、当然、その特殊な労働力の価値の中に入るし、もし入らなければ、この技能は世代的に継承されないことになります。
たとえば、一人前の医者になるために、医学部を卒業してからさらに何年も研修を積まなければならず、それにかかる平均的な費用と労働とを補填する分が医者に支払われる賃金の中に入っていないとすれば、医療労働という特殊な技能は十分に供給されなくなるおそれがあります。医療部門に限定したとしても、このような特殊技能を必要とする職種は他にも多数存在します。看護師、薬剤師、検査技師、レントゲン技師、作業療法士、等々。いずれも一定の調練と修行を必要とし、それらの技能の形成ないし取得にかかった労働と費用とは、その部門の賃金の追加分として補填されなければならないでしょう。
かつては、このような特殊な部門でなくても、どの労働部門でもそれぞれ一定の特殊な技能と熟練とを必要とし、その取得に相当の労働と費用とを必要としていました。しかし現在では機械化と単純労働化とが進んで、一般労働部門における技能はごく短期間で身につけられるので、その部分の価値はごくわずかになってしまいました。
労働力の価値の内容はこのようなものですが、それではその価値の量はどのようにして量るのでしょうか。
労働力の日々の再生産に必要とされる労働の量が1日あたりの価値日当価値であり、毎日のように再生産される労働力の価値です。これは、例えば、次のように計算されます。
A:労働力の生産のために毎日必要となる量
B:労働力の生産のために毎週必要となる量
C:労働力の生産のために3ヶ月ごとに必要となる量
ABCの1日あたりの平均量は次のように求められる
(365A+52B+4C+…N)/365
この平均的な1日に必要な量のために6時間の社会的な労働が投じられるとします。この投じられる労働の量は、毎日の社会的な平均労働が1日12時間とすると、平均労働の半日分に当たります。
この1日の社会的な平均労働の半分を貨幣に換算したものが、労働者がみずからの労働力の価格として売り出す販売価格と等価ということになります。
しかし、ここでいくつか気をつけるべき点があるのです。第1に、年労働力価値を測るのはあくまでも年平均労働日数であって、けっして365日ではないということです。1日分の労働時間が文字通りの24時間を意味しないのと同じく、1年間の労働日数はけっして365日ではないのです。「資本論」では年労働力価値を365日で割って労働力価値を算出しているのですが、これだと休日がゼロとなってしまいます。割る日数が具体的にどれだけの大きさであるのかは、労働者の権利水準と階級闘争の問題なのです。
第2に、ここで問題になっている労働力価値の大きさはあくまでも平均値であって、生活賃金はその平均値に一定の幅で照応するものにすぎず、現実の賃金はしばしばこの平均値を大きく下回っていのす。このような低賃金は生活賃金とはとうてい言えず、労働力価値のうち労働者個人の日々の生活を維持する分を超える部分をほとんどまかなうことはできないでしょう。したがって、労働力の世代的再生産を社会的規模で実現するためには、直接の賃金だけに依存することはできないのであって、子ども向けの社会福祉や教育費の公的負担が絶対に必要になるということです。
労働力の価値は他の商品の価値と同じように、この特別な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって決まる。価値としての労働力そのものは、そのうちに対象化された一定の量の社会的な平均労働を表わしているにすぎない。労働力は、生ける個人にそなわる才能としてしか存在しない。だから労働力を生産するには、この個人が生存している必要がある。個人の生存が確保されたならば、労働力を生産するには次にその個人が生存している必要がある。生きている個人がみずからを維持するためには、一定の量の生活手段が必要となる。そこで労働力を生産するために必要な労働時間は、この生活手段を生産するために必要な労働時間だということになる。すなわち労働力の価値は、労働力の所有者を維持するために必要な生活手段の価値である。
しかし労働力は、それが外に現れることによって初めて現実のものとなるのであり、それは労働のうちでしか活動しない。しかしその活動によって、すなわち労働によって、人間の筋肉、神経、頭脳などが特定の量だけ消耗する。それをふたたび補給しなければならない。こうして消耗量が増大すると、それを補う摂取の量も増大する。労働力の所有者は、今日の労働の後に、明日も同じ力と健康をそなえた同じ条件のもとで、同じ過程を反復できる必要がある。
こうして、生活手段の全体の量は、労働する個人が通常の生活水準のもとで、みずからを労働する個人として維持するために十分なものでなければならない。食料、衣服、暖房、住居などの自然的な欲求そのものは、それぞれの国の気象条件やその他の自然条件におうじて異なる。またいわゆる必要な欲求の大きさも、その欲求が満たされる方法も、それ自身が歴史的な産物であり、その多くはその国の文化的な段階に左右される。とくに自由な労働者の階級がどのような条件のもとで形成されてきたか、労働者がどのような習慣や生活上の要求をそなえているかが決定的な意味を持つ。このため他の商品とは異なり、労働者の価値の決定には、必要な生活手段の平均的な大きさは、その範囲が決まっているものである。
労働力の所有者は死すべき存在である。そして貨幣が資本に持続的に変容するためには、労働力の所有者が市場に持続的に登場してくることが必要であるのだから、労働力の売り手はみずからを永続的なものとしなければならない。「あらゆる生ける個人が、みずからを永続化するのと同じように」。市場からは消耗と死によって、特定の数の労働力が失われるのであり、これは少なくとも同じ人数の新たな労働力によってたえず補給される必要がある。だから労働力の生産のために必要な生活手段の総量には、こうした補充要員、すなわち労働者の子供たちの生活手段も含まれることになる。これによってこの特別な商品を所有する種族が、商品市場において永続的に存在するようになるのである。
労働力の価値の限界
労働力の価値の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。
このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力を把握することは、一つの妄想を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生存手段を、労働者と労賃を語るのである。」
労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。消化という過程のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のものが必要である。労働能力を語る人は、労働能力の維持のために必要な生活手段を捨象するのではない。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたたないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産は一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性と感ずるのである。そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は、…もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのである。
この労働力の価値の下限または最低限は、労働力の担い手である人間が、自分の生命過程を更新していくためにはどうしても毎日補給しなければならない量の商品の価値によって、すなわち肉体的に欠かすことのできない生活手段の価値によって決まる。労働力の価値がその最低限にまで低下すると、実際にはその価格は労働力の価値を下回っているのである。というのも、その人はもはや、衰弱した形でしか労働力を維持し、発揮することができなくなるからである。しかしあらゆる商品の価値を決定するのは、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間なのである。
この労働力の価値の規定は、事柄の本質によって決まるものであるのに、これを[イタリアの俗流経済学者の]ロッシのように粗雑だと嘆くのは、安っぽい感傷主義である。ロッシは「生産過程における労働の維持手段を無視して労働能力を捉えたと考えるのは、幻影を捉えたと考えるようなものである。労働と労働能力について語ることは、同時に労働者と生存手段、労働者と労働賃金について語ることである」と述べている。
しかし労働能力について語ったとしても、労働について語ったことにはならない。消化能力を語ったからといって、消化について語ったことにならないのと同じである。消化というプロセスを語るには、たんに丈夫な胃をもっているだけでは不十分であるのは周知のことである。
労働能力について語ることは、労働能力を維持するために必要な生活手段を無視することではない。むしろ生活手段の価値は、労働能力の価値に表現されているのである。労働能力が売れなければ、その所有者には何の役にも立たない。だから労働者は、自分の労働能力を生産するためには、特定の量の生活手段が必要であり、労働能力を再生産するためには、今後ともたえずそれが新たに必要となることを、自然の残酷な必然性と感じているのである。労働者はシスモンディとともに「労働能力は、…売れなければ無にひとしい」ことに気づくのである。
労働力の特殊性
この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまた現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はあとで行われる力の発揮においてはじめて成り立つのである。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実的引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。資本制生産様式の行われている国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払いを受ける。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。労働者は、労働力の価格を支払いを受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけでなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されている。とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。
労働力というこの特殊な商品の特殊な特徴として、売り手と買い手のあいだで契約が結ばれても、その商品の使用価値が実際に買い手のもとに移行しないことがあげられる。ほかのすべての商品の価値と同じように、この労働力という商品の価値は、流通に入る前から決まっている。なぜならば特定の量の社会的な労働が、労働力を生産するためにすでに支出されているからである。
しかしその使用価値は、後にその力が行使されたときになって初めて存在するようになる。だから力が譲渡された時点と、力が現実に行使されて使用価値として存在するようになる時点のあいだには、時間的なずれが発生する。しかし使用価値が販売されて名目的に譲渡されから、買い手に実際にその使用価値が引き渡されるまでに、時間的なずれが発生するこの種の商品では、買い手の支払った貨幣は多くの場合、支払手段として機能する。
ところで資本制生産様式を採用しているすべての国で労働力の代価は、購入契約によって定められた期間をとおして労働力が実際に使用された後に、たとえば[週払いの賃金では]週末になってから初めて支払われる。だから労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家たちに前貸ししているのである。労働者は自分の労働力の価格を支払ってもらう前に、買い手にその労働力を消費させるのである。だから労働力はどこでも資本家に信用貸ししていることになる。
この信用貸しが決して空虚な妄想ではないことは、資本家が倒産した場合には、この信用貸しされていた賃金が支払われないことがあることから明らかである。そしてそれだけではなく、さらに一連の作用が長期にわたって発生することもある。しかし貨幣が購入手段として機能しているか、支払手段として機能しているかは、商品交換そのものの性質に影響を与えない。家賃の支払いと同じように、労働力の価格は、実際に現金化されるものはもっと後になってからだとしても、あらかじめ契約で定められているのである。代金は後払いだが、すでに労働力は売られているのである。しかしこの関係を純粋に理解するために、さしあたりは労働力の所有者は、労働力を売るたびに、その場で契約で定められた価格をうけとると考えておこう。
貨幣の増殖の秘密
いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の想定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行われる。そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るなと入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。ここでは、どのようにして資本が生産するかというだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。
問題は、労働力の「使用価値」が実現するのは、その「力の発現」においてであり、労働力が現実に商品として価値をあらわすのはいつでも「事後的」であるということです。労働力の購買者は、だからいったん買い入れた労働力を、その事前にさだまった─「流通に入る前から決定されていた」─価値を充填する時間を超えて、なおも使用し続けることができることになります。たとえば、ワインという商品を購入した場合には、その瓶1本の対価を支払って手にした時点でワインを飲むことができます。しかし、飲めるワインは手にした1本の瓶に限られます。これに対して、労働力を購入した資本家は、購入した後で労働者を労働させることによって労働力の価値を実現させる。そのため、買ったワインなら1本の瓶という限界があらかじめ設定されてしまっていますが、労働力の場合には、1本のワインのような絶対的な限度がないのです。労働者を余計に働かせることは物理的に不可能ではありません。そこに、労働力を買ったときに支払った価格以上の価値を実現することも不可能ではないことになるわけです。それが価値の増殖の原因のひとつともなり得るわけです。力の「譲渡」とその「現実的な発現」が「したがって、時間的にいって分離している」ことが、労働時間の分離そのものを可能にするというのは、こういうことです。この件が資本に、増殖価値の取得を、とりあえずは絶対的増殖価値の獲得を可能とすることになるはずなのです。「労働力が消費される過程は同時に、商品と増殖価値が生産される過程でもある」こと内容は、この後で詳しく分析されることになっています。そのためには「隠された生産の場所」に、「無用の者、立ち入るべからず」と書かれたその場所に立ち入らなければならない。とマルクスは皮肉を込めて書いています。「労働力の売買」はたんなる商品交換であって、その部面は「天賦の人権の真の楽園」でもあった。「そこを支配しているのはひとり、自由、平等、所有、そしてベンサムである」。これから辿られるのは、したがって楽園喪失の物語、エデンの園からの追放の物語となる。そこではまた、楽園があらかじめ失われ、たんに夢見られていたにすぎないしだいもあかされてゆくはずである。
貨幣の所有者が、この労働力という独特な商品の所有者に払う価値は、このようにして決定されるのである。貨幣の所有者がこの価値と交換して手にした使用価値は、実際に使用される際に、労働力が消費される過程において実現される。貨幣の所有者は、原材料など、この消費過程に必要なすべての物を商品市場で購入し、その正価を支払う。
この労働力が消費される過程は同時に、商品と増殖価値が生産される過程でもある。労働力の消費は、他のあらゆる商品の消費と同じように、市場や流通の領域の外で行われる。そこでわたしたちも貨幣の所有者や労働力の所有者とともに、流通の領域を、この表面的には活気にあふれ、すべての人々の注目を集める領域をあとにして、隠された生産の現場へと赴くことにしよう。この場所の入り口には、「関係者以外立ち入り禁止」という札が下がっている。この場所で初めて、資本がどのように生産を行うかだけではなく、いかにして資本そのものが生産されかが明らかになるだろう。貨幣の増殖の秘密がいまこそ暴かれねばならないのである。
貨幣の増殖の秘密
労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由!なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等!なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。所有!なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。ベンサム!なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一の力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜け目のない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。
この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。
ここでは、第2章のプルードン批判のところでみた「ホモ・エコノミクス」幻想がより本格的に論じられています。ここで言われる「自由」とは商品売買の自由にほかならず、「平等」とは商品所持者としての平等にほかならず、「所有」とは物象の力にもとづいた排他的所有権にほかなりません。「所有」について補足しておけば、前近代的な、共同体の伝統や慣習にもとづいた重層的で複雑な所有とは異なり、近代社会の商品所有権は、それが物象の力だけに基づくものであるがゆえに、非常に単純な、それゆえ排他的な所有権となります。買い手は貨幣の力によってどんな商品でも排他的に所有することができ、それを自分の意志で自由に処分することができます。
それでは、最後に言われる「ベンサム」とは何でしょうか。もちろん、これはジェレミ・ベンサムの「功利主義」のことを指しています。すなわち、以上のような自由、平等、所有のもとで個々人が私的利益を追求することによってこそ、「相互の利益の、共同の利益の、全体の利益の事業」が成し遂げられるとする思想です。
このような「ホモ・エコノミクス」幻想を基準にするのであれば、労働力という商品の売買もこの「天賦の人権の真の楽園」で行われるわけですから、歓迎すべきものだということになります。
しかし、いまや私たちは労働力という商品の使用価値、すなわち労働について考察するために、このような幻想を生み出す「流通または商品交換の部面」を離れ、生産過程に移らなければなりません。すると、「わたしたちの舞台俳優の顔つきまで変わってくるようである」とマルクスは言います。「かつての貨幣の所有者は、資本家として一歩前を歩き、労働力の所有者は資本家のための労働者として、そのあとにつづく。資本家は意味ありげな笑みを浮かべて、仕事熱心な様子をみせ、労働者はおずおずと抵抗しながらそのあとを歩む。まるで身を粉にして働いたというのに、やがてはなめし皮屋に皮を剥がされる運命しか残されていない家畜のように。」
労働力の販売と購入も行われる商品の流通の領域、商品の交換の領域は実際に、天賦人権論の楽園だった。ここを支配しているのは、自由、平等、所有、そしてベンサムだけである。
自由!なぜならば、たとえば労働力などの商品の買い手と売り手は、みずからの自由意志によってしか規定されていないからである。彼らは自由で、法的に対等な人格として、契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的な表現を獲得する最終的な結果である。
平等!なぜならば、彼らはともに商品の所有者として、たがいに関係し、等価物どうしを交換するからである。
所有!なぜならば、彼らはそれぞれが自分の所有しているものしか処分しないからである。
ベンサム!なぜならば彼らはそれぞれ自分の事柄にしかかかわらないからである。
両者を結び、一つの関係を構築させる唯一の力は、彼らのエゴイズムであり、特殊な利益であり、私的な利害関係である。そしてそれぞれが自分だけにかかわり、誰も他人にかかわろうとしないがために、事物の予定調和の結果として、あるいはすべてを見通している天の摂理にしたがって、すべての人が相互の利益と、共通の利益と、共通の利害関係のために働くのである。
俗流の自由貿易主義者たちが、資本や賃労働の社会について判断するための直観や概念や尺度を作りだすときに考察するのは、単純な流通の領域であり、商品交換の領域である。しかしこの領域を立ち去ると、わたしたちの舞台俳優の顔つきまで変わってくるようである。かつての貨幣の所有者は、資本家として一歩前を歩き、労働力の所有者は資本家のための労働者として、そのあとにつづく。資本家は意味ありげな笑みを浮かべて、仕事熱心な様子をみせ、労働者はおずおずと抵抗しながらそのあとを歩む。まるで身を粉にして働いたというのに、やがてはなめし皮屋に皮を剥がされる運命しか残されていない家畜のように。