こうした過程を統括する主体として価値は、何よりもみずからのアイデンティティを確保するための自立的な形態を必要とする。この過程において価値は、あるときは貨幣形態を、あるときは商品形態を身にまとい、そしてそれを脱ぎ捨てていくのであり、しかもこの〈衣替え〉のうちで自己を保持し、拡大していくからである。そして価値はこの自立的な形態を貨幣のうちだけにみいだす。
だから貨幣はすべての価値増殖過程の出発点であり、終着点である。かつて価値は100ポンドだったが、今では110ポンドである、など。しかし貨幣そのものはここでは価値の一つの形態にすぎない。というのは価値には二つの形態があるからである。貨幣は商品の形態をとらず資本になることはない・だから貨幣の退蔵の場合のように、貨幣が商品に敵対的になることはない。資本家は、どんな商品でも、それがどれほど安物にみえたとしても、どんな悪臭を放っていたとしても、その信念と真理において貨幣であり、〈心に割礼をうけた〉ユダヤ人であり、貨幣からより多くの貨幣を作りだす魔法の手段であることを熟知しているのである。
単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値にたいしてせいぜい貨幣という自立的な形態をとるにすぎない。しかしここでは価値が突然のように、みずからの力で進み、みずから運動する実体として登場する。この実体にとっては商品も貨幣も、たんなる形態にすぎない。いやそれだけではない。価値は商品のあいだの関係を表現する代わりに、自己とのあいだでいわば私的な関係をもつようになる。
[キリスト教の三位一体論で]父なる神と神の子キリストが区別されるように、もとの価値そのものと増殖関係が区別される。しかしどちらも同い年であり、実際には同一の人物である。なぜなら10ポンドの増殖価値を生むことで、初めて前払いされた100ポンドは資本になるからである。そしてこれが資本となった瞬間に、資本に息子が生まれる。そして息子が生まれることで。資本は父となる。その瞬間に両者は一体となって110ポンドとなるのである。
このようにして価値はみずからの力で進む価値となり、みずからの力で進む貨幣となり、こうして資本となる。それは流通から抜けだし、ふたたび流通の中に入り、流通の中で自己を保存し、増殖し、もっと大きくなって流通から還帰する。そしてたえず同じ循環を新たに始めるのである。G−G´、貨幣を生み落とす貨幣、お金を生むお金。資本の最初の通訳者である重商主義者たちは、資本についてこのように形容したのだった。
販売するために購入すること、正確にはより高い価格で販売するために購入すること、G−W−G´は、資本の一つの様式にすぎない商人資本だけに該当する特殊な形態のように思えるかもしれない。しかし産業資本もまた、商品に変容する貨幣であり、商品を販売してより大きな貨幣になって帰還してくる貨幣である。販売と購入のあいだにどのようなことが行われるか、あるいは流通の外部でどのようなことが行われるかは、運動のこの形式そのものをいささか変えるものではない。ついにはこれが利子を生む資本となると、G−W−G´の流通が短縮形をとって登場する。媒介する項のない流通の結果として、いわばG−G´という簡略な文体で登場するのである。これは貨幣がより大きな貨幣になること、価値がより大きな価値になることである。
こうして実際には、流通の領域に直接に登場してくる資本の一般的な定式は、G−W−G´と表現できるのである。
第2節 資本の一般的な定式の矛盾
資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。というのも、商品交換は、原則として、等しい価値(交換力)をもつ物どうしの交換だったからです。このような商品交換の法則にしたがって、たとえば、千円と値札に書かれている商品を千円で買い、それを再び千円で売ったとしても価値を増やすことはできません。ここでは、このような一般的な定式の矛盾について考察していきます。
価値の増殖の矛盾
貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通形態は、商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾している。この流通形態と単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。では、どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか?
それだけではない。このような逆転が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。資本家でとしては私は商品をAから買ってそれをまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次に商品をAから買うのである。取引仲間のAとBとにとってはこのような相違は存在しない。彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現わすだけである。私自身も、彼らにたいしてはそのつどただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。しかし、この二つ行為の関連はただ私にとって存在するだけである。Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものをまちがえているのだということ、この取引全体が買いで始まって売りで終わったのではなく逆に売りで始まって買いで終わったのだということを証明するであろう。じっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであろう。そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bのむ立場からは単なる買いになる。だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面からは抜け出ていないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた、剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。
資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。それが、どのように反しているかを、資本の流通形態と商品の流通形態との相違から見ていきますが、マルクスが注目するのはW−G−Wという順序とG−W−Gという順序とが逆になっていることです。
例えばW−G−Wの場合で、亜麻布−貨幣−聖書を考えてみれば、そこで生起しているのは、商品の持ち手変換といういわばひとつの空間的運動です。この空間的な運動そのものも、それが運動であるかぎりでは時間を前提としてはじめて成り立つものです。とりわけ亜麻布と聖書との直接的な交換であるならば、交換相手がただちに見つかるとはかぎらないと言えるので、時間的な契機は不可欠なものと考えられます。しかしここでは貨幣があいだに立つことで、時間的な差異は原理的には最小化することが可能なかたちとなっているわけです。これに対してG−W−Gの場合には、資本は、それが商品と貨幣の運動を基礎としながら変身していくものであるかぎりで、避けがたく資本そのものとして時間的な運動の形態となるほかはないわけです。空間的運動を基礎にする場合であっても、流通形態としての資本はかならず時間を媒介としてのみその運動をうちに吸収するのです。
茶色の字のところは、しばらく措いて、本論は進みます。この順序の逆転を取引の当事者の立場で分析していきます。単純な商品流通の場合、資本、この場合は貨幣を持っている者(資本家)はW−G−WのGのところにいるわけです。つまり、資本家はAという人からW(商品)を買って、Bという他の人にそのW(商品)を売る。この逆の順序なった場合G−W−Gでは、Wという商品の所持者はWのところにいて、Bという人に自分の商品を販売して貨幣を得て、その貨幣で他のAという人から自分の持っていない商品を購入する。このどちらでもAという人もBという人も、やっていることは同じです。どちらのケースでも、Aさんは商品を売る人で、Bさんは商品を買う人です。このAとBの二人とは違って、最初の場合は資本家、次の場合には商品所持者となる人だけが、順序の逆転にともなって立場が変化します。つまり、最初の場合は貨幣として、次の場合には商品として、AさんやBさんに向き合うのです。ただし外形的な行為はAさんから買ってBさんに売ることは、どちらの場合も変わりありません。どちらの場合も、Aさんは商品を売るだけです。その商品がBさんに買われることとは無関係だし、関心もないでしょう。つまり、その商品がBさんでなくても、Cさんに買われてもいい。どちらでも同じです。同じようにBさんは商品を買うだけで、その商品がもともとAさんから仕入れられたこととは無関係で、関心もない。Aさんは売るだけで、Bさんは買うだけ。W−G−WにもG−W−Gにも一部しかかかわらない。この全部に関わるのは、ある時は資本家、またある時は商品所持者の人だけです。この人があって、はじめて、両方の流通過程が成立します。つまり、この人にとってのみ意味がある。Aさんは売れればいいのだし、Bさんは買えればいい。ABの二人にとって、そのニーズを満たすだけであれば、この人が間に挟まらなくて、二人が直接商品を売買してもかまわないわけです。ここには単純な商品と貨幣の物々交換があるといってもいいだけで、流通の連鎖が発生することはないでしょう。まして、連鎖が繰り返されて、利潤がうまれることには結びつかない。つまり、単純な商品の流通は価値の増殖には直接結びつかないのです。
貨幣が繭を破って資本に成長するこの流通形態は、商品の性格、価値の性格、貨幣の性格、流通の性格そのものについてこれまで述べてきたあらゆる法則と矛盾する。この流通形態と単純な商品の流通形態との違いは、ただ販売と購入という逆向きの同じ二つの過程が、逆の順序で登場するところにある。それではこのようなまったく形式的な違いが、この二つの過程の性格を魔法のように変えてしまうのはどうしてなのだろうか。
それだけではない。この順序の逆転は、たがいに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにあてはまるのである。資本家であるときわたしは、Aから商品を購入してBにそれを販売する。これにたいしてたんなる商品所持者であるときわたしは、[自分の]商品をBに販売し、次にAから[自分のもっていない]商品を購入する、取引仲間であるAとBには、この違いは存在しない。どちらも商品の買い手あるいは売り手として登場するだけである。
ただわたしだけは、あるときはたんなる貨幣の所有者として、あるときはたんなる商品の所有者として、すなわちあるときは買い手として、あるときは売り手としてAとBと向き合う。このどちらの取引の連鎖においても、わたしはある人物[A]には買い手として、別の人物[B]には売り手として向き合う。第一の場合にはわたしは貨幣として、第二の場合には商品として相手に向き合うのであり、けっして資本や資本家として、あるいは貨幣以上のもの、商品以上のものを代表する者として、貨幣や商品とは異なる作用を及ぼすことのできる何かを代表する者として、相手と向き合うのではない。
わたしにとってはAから購入し、Bに販売するというのは、一つの連鎖をなしている。しかしこの二つ行為の関連は、わたしにとってだけ存在するものである。AはわたしとBの取引には無関心であり、BもわたしもAの取引には無関心である。わたしがこの二人に、この連鎖を逆転させたことで自分がはたした特別な功績を説明しようとしたところで、彼らはわたしにこう指摘するだろう。「君はそもそも連鎖の順序を間違えているよ。この取引の全体は購入で始まって販売で終わってたわけではない。反対に販売で始まって購入で終わったのだよ」と。
たしかにわたしの最初の行為である購入は、Aの立場からすれば販売であり、私の第二の行為は、Bの立場から購入である。AとBはそれだけで満足せず、すべての連鎖が余計なものであり、まやかしであると主張するだろう。そしてAは商品を直接にBに販売し、Bは商品を直接にAから購入するだろう。そうなるとすべての取引は、ふつうの商品流通の一つの一面的な行為に還元されてしまい、Aからすれば単純な販売であり、Bからすれば単純な購入となるだろう。すなわち連鎖の順序を逆転するだけでは、単純な商品流通の領域を超えることはできなかったのである。むしろわたしたちは、商品の流通はその本性からして、流通に入りこんでくる価値を増やして、増殖価値を形成することを許すものであるかどうかを、調べてみる必要がある。
資本の流通形態、すなわち一般的な定式(G−W−G´)は、これまで見てきた商品交換の法則に反しています。それが、どのように反しているかを、資本の流通形態と商品の流通形態との相違から見ていきますが、マルクスが注目するのはW−G−Wという順序とG−W−Gという順序とが逆になっていることです。
単純な流通過程における価値の変化
流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、つねにそれである。貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役だってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要とする商品を手に入れるのである。しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。
ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。また、穀作農民Bが同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合に比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bもより多くのぶどう酒を手に入れるのである。だから、使用価値に関しては、「交換は、両方が得をする取引である」とも言えるのである。交換価値のほうはそうではない。
「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手にいれた価値と等しい価値をすでに交換以前にもっていたのだからである」。
貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれても、事態にはなんの変わりもない。商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。
抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他の使用価値と取り替えられるということのほかに、単純な商品流通のなかで行われるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。この貨幣形態は、最初は売りだされた商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものではないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替えする場合のようなものである。こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。それだから、価値が何であるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても、両方が交換価値で得をすることはありえないのである。ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」ということになるのである。もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる。その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである。
前のところでは、流通過程の順序の違いをみてきましたが、ここでは価値の面から違いを見ていきます。その時に流通過程は、単純に商品の流通だけであればAさんとBさんの関係にできてしまう。商品を売るAさんと買うBさんとの関係で、商品と貨幣との物々交換という形です。これは、Bさんが貨幣ではなく商品であっても形態は同じです。AさんとBさんは互いに相手の欲しいものを持っていて、それを相互に交換する。このように取引では、互いにほしい商品を手に入れることができるわけですから、その時点で欲望は満たされます。そういう意味で利益があったと見なされます。この場合得られた利益とは商品の使用価値です。AさんもBさんも、自分にとっては使用価値のない商品を相手に譲渡して、自分が使用するために必要とする商品を相手から受け取るからです。
マルクスは、こういう取引が成立するということについて、AさんBさんが互いに使用価値を満たすというだけにとどまらず、こういうことが常時成立していれば、社会的な分業が可能になるという効用を説いています。それについて具体的に次のような例を示しています。Aさんはワインの生産者で、Bさんは穀物農家です。このような取引が常時成立していれば、Aさんは醸造したワインを販売して穀物を購入することができます。Aさんは生きるためには穀物を食べなければならず、それを得るために自分で栽培するという道もあります。しかし、その分の労力を穀物栽培にとられてワインの生産は少なくなってしまいます。他方、穀物農家のBさんはワインが欲しいと、穀物の栽培の他にワインを生産するということになるでしょう。Aさんはワインの生産が、Bさんは穀物の生産が、それぞれ得意です。二人が、それぞれにワインの生産と穀物の生産を両方行うより、それぞれの得意なワインと穀物の生産に特化して専念した方が、生産性は高いし、トータルの生産量はずっと多くなるでしょう。そうすると、互いに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ交換価値でAさんはより多くの穀物を入手できるだろうし、Bもより多くのワインを入手できることになるでしょう。これらのことをまとめると、使用価値の面では、交換は双方が互いに利益をえることができる、と言えるのです。
一方、交換価値の面では事情が異なってきます。マルクスは次のようなケースを想定します「ある男がワインを大量にもっているが、穀物はもっていないとしよう。その男が、穀物を大量にもっているが、ワインをもっていない男と取引するとしよう。この二人の間で、50の価値のワインが50の価値の穀物と交換されるとしよう。」このとき、使用価値の面であれば、二人の男は、互いに持っていないワインと穀物を交換して、互いに利益をえることになります。しかし、交換価値の面では、ワインと穀物という使用価値は異なっていても、交換価値は同じ50です。同量の50の交換価値を互いに交換しても、価値が変わるわけではなく、利益はありません。交換価値は使用価値とは違って量ではかられるものです。だから、量が増えることが利益となるのです。
これは、貨幣が流通手段として二つの商品のあいだに介在し、購入と販売という行為が感覚的に分離されたとしても、事態に変わりはない。つまり、ワインを50で買って、50で売っても、そこに交換価値が増えることはないのです。この場合、商品の価値は、ワインから貨幣へと価値形態は変化しますが、価値の量は変化しません。価値の形態の変化には、価値の量の変化は含まれない、それぞれの変化は別なのです。1000円札を100円硬貨10枚に両替しても、貨幣の形態は変化しますが、1000円であることに変わりはありません。
以上をまとめると、商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎず、そこでこの現象が純粋な形で起こるときには、等しい価値どうしが交換されるにすぎない。その場合、使用価値については取引の当事者の双方が利益を得ることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益を得ることはできないことになるのです。交換価値については、「対等であるところに利益はない」ということになる。商品交換は、純粋な形では等価物の交換であり、価値を増大させる手段ではないのです。
ここまでのことをまとめると、そもそもG−Wつまり貨幣から商品への変化も、W−Gすなわち商品の貨幣への再転化も、それが単純な商品流通のなかで行われるのなら、たんなる形態変化であって、価値量の変化をまったく含んでいないはずです。それゆえ、その純粋なすがたにあっては、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって価値を増やす手段ではないということになるのです。
流通過程が、たんなる商品の交換として表現される形態を調べてみよう。たとえば二人の商品所持者が、たがいに相手の所有する商品を購入し、たがいの請求額の差額を支払日に精算する場合は、つねにこうした形態をとる。貨幣はここで商品の価値を価格で表現するための計算貨幣として、利用されているだけであり、商品そのものに物として向き合うことはない。
この取引の目的は使用価値であるから、取引の当事者の双方が利益をえるのは明らかである。双方とも、自分にとっては使用価値のない商品の相手に譲渡して、自分が使用するために必要とする商品を相手からうけとるからである。しかしこの取引からえられる効用はこれだけではない。
たとえば[ワイン生産者の]Aがワインを販売して穀物を購入するとしよう。Aは穀物農家が自力でワインを醸造する場合と比較して、同じ労働時間のうちに多くのワインを生産することができるだろう。逆に穀物農家のBは、ワイン生産者のAが自力で穀物を生産する場合と比較すると、同じ労働時間のうちに多くの穀物を生産することができるだろう。そうするとたがいに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ労働時間のうちに多くの穀物を生産することができるだろう。そうするとたがいに交換せずに自力でワインと穀物の両方を生産しなければならない場合と比較すると、同じ交換価値でAより多くの穀物を入手できるだろうし、Bもより多くのワインを入手できるだろう。だから使用価値については、「交換は、双方が利益をえる取引である」と言うことができる。
しかし交換価値では事情が異なる。「ある男がワインを大量にもっているが、穀物はもっていないとしよう。その男が、穀物を大量にもっているが、ワインをもっていない男と取引するとしよう。この二人の間で、50の価値のワインが50の価値の穀物と交換されるとしよう。この交換は、どちらの男にとっても交換価値の増大を意味するものではない。どちらも交換する前に、この操作によって手にいれた価値と同じ価値をすでにもっていたからである」。
貨幣が流通手段として二つの商品のあいだに介在し、購入と販売という行為が感覚的に分離されたとしても、事態に変わりはない。商品の価値は流通に入りこむ前にすでに価格として表現されており、これは流通の前提であって、結果ではないのである。
単純な商品流通に内在する法則に由来しない事柄は無視して、ごく抽象的に考えるとしよう。この単純な商品流通で起きているのは、一つの使用価値が別の使用価値と取り替えられていることをのぞくと、商品の変身にすぎず、商品の形態変化にすぎない。ここではそれぞれの商品所持者の手元に、同じ価値が残っている。この価値は、同一の量の対象化された社会的な労働が、最初はその所有者の商品という姿で、次にその商品゛形を変えた貨幣という姿で、最後に貨幣がふたたび姿を変えた別の商品として表現されたものである。
この形態の変化においては、価値の大きさは変化しない。この過程で商品の価値はたしかに変化するが、それは[大きさの変化ではなく]貨幣形態における変化である。すなわち最初は販売される商品の価格として存在し、次にそれが一定の量の貨幣に変わるが、この貨幣の量はすでに価格として表現されていたものである。最後にこれは最初の商品と同じ価値の商品の価格に変わるのである。
この形態の変化そのものには、価値の量の変化は含まれない。5ポンドの銀行券を、ソヴリン貨、半ソヴリン貨、シリング貨などの硬貨に両替しても、価値の量が変わらないのと同じである。このように商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎない。そこでこの現象が純粋な形で起こるときには、等しい価値どうしが交換されるにすぎない。
だからこそ価値とは何かをまったく理解していない俗流経済学は、彼らなりにこの現象を純粋に考察しようとすると、需要と供給がたがいに釣りあうこと、その働きがそもそも解消されてしまうことを想定するのである。要するに使用価値については取引の当事者の双方が利益をえることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益をえることはできないことになる。
交換価値については、「対等であるところに利益はない」ということになる。たしかに商品がほんらいの価値と異なる価格で販売されることはある。しかしこうした逸脱は、商品交換の法則を損なうものとみなされる。商品交換は、純粋な形では等価物の交換であり、価値を増大させる手段ではないのである。
コンディヤックの取り違え
それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようする試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。
「商品交換では等しい価値と交換されるということは、間違いである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。…もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。…なぜか?諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってより少なく必要なのであり、またその逆である。…われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多くの必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。…交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。…しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」
これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行われる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである。
それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発達した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う。
「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに生産行為とみなされなければならない。」
しかし、商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。それでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか?また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり一つの、「生産行為」を行うのだ、とも言えるであろう。
商品の流通によって生じる価値の変化は、商品の価値の形態の変化にすぎず、、使用価値については取引の当事者の双方が利益を得ることはできるかもしれないが、交換価値については、どちらも利益を得ることはできない。したがって、商品の流通を増殖価値の発生源とみなす試みには、多くの場合、使用価値と交換価値の取り違えが潜んでいるとマルクスは言います。その典型的な例としてコンディヤックの説を俎上にあげます。彼は、商品の交換について、たとえ同じ価格、つまり交換価値であっても、その商品を必要としている人にとっては、その価値は相対的に大きくなるといいます。これについて、マルクスは、その商品を必要としているというのは使用価値のことで、交換価値とは別物であると、そこでコンディヤックは交換価値と使用価値を混同しているといいます。その前提には、前のところで、流通過程において使用価値と交換価値は別々であるということを分析してきたことを踏まえているからです。マルクスは言います「商品に支払いを行うときに、人はその商品の使用価値と価値の二つの価値に、二重に支払うわけではない。たしかに商品の使用価値は売り手にとってよりも買い手にとって有益なものかもしれないしかしそれが貨幣の形態になると、買い手よりも売り手にとって有益になるのである。それでなければ、売り手が商品を販売する理由がない」。
さらに加えて、発達した商品生産の行われる社会において、生産者が生活の必需品を自ら生産して、必要な量を超過した余分なものだけを流通に放出すると想定していることが、そもそも勘違いだと言っています。それは、前のところで、ワインの生産者と穀物生産者の交換のところで社会的分業が生まれているという指摘がありましたが、そういうことを踏まえると、コンディヤックの想定している生産者は現実には存在しないものだということが分かります。それをマルクスは子供っぽい誤りと評しています。
では、等価の交換からは増殖価値は生まれるのでしょうか。
だから商品の流通を増殖価値の発生源とみなす試みには、多くの場合、ある取り違えが、使用価値と交換価値の取り違えが潜んでいるのである。コンディヤックの場合にもそうである。「商品を交換する人々がたがいに同じ価値を交換しあうと考えるのは間違いである。その反対である。二人の契約当事者はたがいに、小さな価値を与えて大きな価値を手にいれているのである。…実際に同じ価値のものを交換するのであれば、どちらの当事者も利益をあげることはできないだろう。しかし双方ともに利益をあげているのであり、少なくとも双方ともに利益をあげるべきだったのである。なぜだろうか。それは物の価値は人間の欲望でしか決められないからだ。ある人にとって価値のあるものが、別の人には価値のないものであり、その逆もまたあてはまる。…われわれが消費に不可欠なものを売りにだすなどと前提することはできない。…われわれはたがいに自分に不要なものを放出して、自分に必要不可欠なものを手にいれようとする。われわれはわずかなものを手放して、多くのものを手にいれようとするのだ。…交換された物はどちらも同一の貨幣の量と等しい価値をもつとみなされたのだから、同じ価値のものと交換したのだと考えるのは自然なことである。…しかし別の観点からも考えるべきなのだ。われわれはどちらも余分なものを放出し、それと交換して必要なものを手にいれたのではないかと」。
この文章から明らかなように、コンディヤックは使用価値と交換価値を混同しているだけではない。発達した商品生産の行われる社会において、生産者が生活の必需品を自ら生産して、必要な量を超越した余剰部分、すなわち余分なものだけを流通に放出すると想定しているのであり、これはきわめて子供っぽい誤りである。
それでも近代の経済学者たちは、コンディヤックと同じ議論を繰り返してきた。とくに、商品交換の発達した姿である商業が、増殖価値を生みだす要因として説明される場合に、こうした過ちがみられるのである。たとえば「商業は、生産物に価値をつけ加える。同じ生産物でも、生産者の手元にあるときよりも、消費者の手元にあるときのほうが、価値が大きいからである。だから商業は文字通り生産活動とみなす必要がある」というぐあいである。
しかし商品に支払いを行うときに、人はその商品の使用価値と価値の二つの価値に、二重に支払うわけではない。たしかに商品の使用価値は売り手にとってよりも買い手にとって有益なものかもしれないしかしそれが貨幣の形態になると、買い手よりも売り手にとって有益になるのである。それでなければ、売り手が商品を販売する理由がない。だとすると、買い手は商人の所有している商品、たとえば靴下を貨幣に変えてやったときに、文字通り、「生産活動」をしていることにならないだろうか。
等価でない交換
もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣をが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。そうすれば、剰余価値の形成は行われない。しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どうしの交換を条件とする。とはいえ、ものごとは現実には純粋には行われない。そこで、次に互いに等価でないものどうしの交換を想定してみよう。
とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけである。すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣の区別である。したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品を所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。
そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。つまり、売り手は10という剰余価値を収めるわけである。しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になる。今度は第三の商品氏所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる。成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。このような、諸商品の一般的な名目的な値上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変わらないであろう。
今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。彼は、買い手になる前にすでに売り手だったのである。彼は買い手として10%もうける前に、売り手としてすでに10%損をしていたのである。いっさいはやはり元のままである。
要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである。
そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに、次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。
「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある。」
流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品の価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題に仮面をつけるだけのことでしかない。
売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、そのどちらかであるが、同様に買い手もまた彼の貨幣に表わされた商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているか、そのどちらかである。だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみても、それは、われわれを一歩も前進させるものではない。
前の疑問に対して、素っ気なく回答が返ってきました。「同じ交換価値をもつ商品と商品、あるいは商品と貨幣を交換するとき、これは等価物どうしの交換であり、流通に投じた価値よりも大きな価値を流通から引きだすことのできる人はいないのは明らかである。だからこれによって増殖価値が形成されることはない。」つまり、等価交換から剰余価値は生まれないのです。しかし、その一方で純粋な形での商品の流通は、等価交換を条件としています。これが、この節の最初で述べられていた流通過程の法則と増殖価値が矛盾する大きな点です。
コンディヤックの誤解は、前のところで指摘しましたが、商品を生産し所持している人々は、自分に必要なものを生産し、余ったものを他人に売る、あるいは他の商品と交換するという前提は誤りだしたのですが、この誤解の前提には、このような人々は自給自足で、それぞれが独立しているということが成り立っていることになります。そうでなければ、余分なものなど出てくるはずがないのです。足りているからこそ余剰が生まれるのです。しかし、それは誤りです、ではマルクスは、どのような前提にすればいいと言っているのでしょうか。ワインの生産者はワインの生産に特化し、穀物農家は穀物の生産に専念しています。これは自給自足のためではなく、生産したものとの交換により商品を得るためです。そこでは、欲しい商品を自分で作っていないのです。一方、自分の作っているワインや穀物は他人が欲しがっているものです。したがって、人は欲しいものは他人から譲ってもらうしかないのです。その意味で、商品所持者は互いに依存しあっているということになります。独立していないのです。一方、商品の方はどうでしょうか、交換されるという場合には、使用価値の素材による違いを別にすると、商品にはただ一つの違いしか残りません。それは商品の自然の形態とその変化した形態の違い、すなわち商品と貨幣という違いです。実際に、商品所持者は、商品を所有している売り手と、貨幣を所有している買い手という形で、たがいに区別されるだけとなるのです。
さて、等価交換からは増殖価値は生まれないとすれば、等価でない交換ではどうでしょうか。それは、実際、どういうことでしょうか。例えば、100の価値の商品を110で、すなわち名目価格の10%の上乗せ価格で販売できるという場合を考えてみましょう。このとき売り手は10%上乗せできるわけですから、その10%を価値増大分とすることができます。彼は、売り手であるだけでなく、買い手でもあります。商品所持者は互いに依存しあっているわけですから、売り手は他人の欲しがっている商品を10%上乗せで売ることができました。そして、今度は、その売って得た貨幣で欲しい商品を買うことになる、つまり買い手になるわけです。この時の売買の相手の売り手は同じように10%の上乗せの価格で売ってくる。そうなると、この人は売り手と買い手の両方になるわけですが、売り手のときには10%高い価格で売りつけて利益を得ることができるわけですが、買い手のときには10%高い価格で買わされて余計に払うという損失をこうむることになります。
このように、全体としてすべての商品所持者が所有する商品を10%高い価格で販売する、つまり等価でない交換をしようとしても、結局全体の価格の水準が10%押し上げられたということで、相対的には価値は変わらないことになる。つまり、単に価格の表示が変わっただけで内実は同じままということです。結局は、実質的に本来の価値で販売したのと同じことになるということです。だから、このように商品の名目価格(価格の表示)を一般的に引き上げるのは、商品の貨幣による呼び名が変わるだけで、商品と貨幣の価値関係は変わっていないのです。
このことは、反対に買い手が10%安く買えるようにしても、売り手が10%高く売れるようにしたことと同じ結果となります。買い手が得をしても売り手が損をするという正反対のことがおこり、同じ結果に行き着くということです。
したがって、等価でない交換(売り手が商品をその価値よりも高く売ること、あるいは、買い手が商品をその価値よりも安く買うこと)からは増殖価値は生まれないのです。
これらをまとめると次のようなことになります。すなわち、等価物ではないものが交換され、一方には利得が生まれるにしても、他方には損失が生じるのだから、やはり価値が増殖することはない。したがって、等価物どうしが交換されるとすれば増殖価値は生まれないし非等価物どうしが交換されるとしても、やはり増殖価値は生まれない。流通あるいは商品交換はまったく価値を創造しないということになります。それにもかかわらず、資本の一般的定式がなりたつためには、ほかならぬ商品交換から増殖価値が生成する必要がある。価値と価値のあいだのこの差異、剰余(増殖)は、いったいなにに由来するのかという疑問が生じてきます。
同じ交換価値をもつ商品と商品、あるいは商品と貨幣を交換するとき、これは等価物どうしの交換であり、流通に投じた価値よりも大きな価値を流通から引きだすことのできる人はいないのは明らかである。だからこれによって増殖価値が形成されることはない。そして純粋な形での商品の流通は、等価交換を条件とする。しかし現実の取引は純粋なものではない。そこで交換が等価でないと想定してみよう。
いずれにしても商品市場で商品所持者と向き合うのは、商品所持者である。そしてこれらの商品所持者がたがいに行使することができるのは、商品のもっている力だけである。商品の素材が違うことが、素材からみた交換の動機である。だれもが、みずからの欲望をみたす対象を自分では所有しておらず、それでいてだれもが他者の欲望を充足する対象を所有しているのである。だから商品所持者はたがいに依存しあっているのである。
商品の使用価値の素材による違いを別にすると、商品にはただ一つの違いしか残らない。これは商品の自然の形態とその変化した形態の違い、すなわち商品と貨幣の違いである。こうして商品所持者は、商品を所有している売り手と、貨幣を所有している買い手という形で、たがいに区別されるだけである。
ここで何らかの理由で売り手に、商品をその価値よりも高い価格で販売する特権が与えられていると想定しよう。たとえば100の価値の商品を110で、すなわち名目価格の10%の上乗せ価格で販売できるとしよう、すると売り手は10%の増殖価値を手にいれる。しかし彼は売り手であった後には買い手になる。そして第三の商品氏所持者が売り手として彼の前に現れる。その売り手も、商品を10%高い価格で販売する特権を認められている。彼は売り手としてはたしかに10の利益をえたが、買い手としては10の損失をこうむる。
全体としてみると、すべての商品の所有者は商品をたがいに10%高い価格で販売することになる。これは誰もがほんらいの価値で販売したのと同じことになる。だからこのように商品の名目価格を一般的に引き上げるのは、商品の価値をたとえば金ではなく、銀で評価するのと同じ効果を発揮する。商品の貨幣による呼び名、すなわち商品価格は高くなるかもしれないが、商品の価値関係はまったく変わっていないのである。
反対に、今度は買い手に特権が与えられて、商品をほんらいの価値よりも低い価格で購入できると考えてみよう。しかし指摘するまでもなく、買い手は次に売り手になる。彼は買い手になる前には売り手だったのである。だから買い手は10%の利益をえる前に、売り手としてすでに10%の損をしていたのである。こうしてすべては前と同じになる。
だから増殖価値の完成、すなわち貨幣の資本への変容は、売り手が商品をその価値よりも高く売ることによっても、買い手が商品をその価値よりも安く買うことによっても説明できないのである。
そしてトレンズ大佐のように、外部からさまざまな要因をもちこんでも、問題の解決が容易になるわけではない。「有効需要は、消費者の能力と傾向(!)によって決まる。というのも消費者は、直接的な交換の場合にも間接的な交換の場合にも、資本のすべての要素について、商品の生産に投じられた費用よりもわずかに多い額を支払おうするからである」。
流通において生産者と消費者は、たんに売り手と買い手として向きあっているだけである。生産者にとっての増殖価値が、消費者が商品の価値以上の代金を支払うことによって生まれると主張するのは、商品所持者は売り手であるから、商品をその価値よりも高い価格で販売する特権をもっているという単純な命題を粉飾したものにすぎない。
売り手は商品をみずから生産した者であるか、その生産者の代理である。しかし買い手もまた、所有している貨幣に表現されている商品をみずから生産した者であるか、その生産者の代理である。だから実際にはここでは生産者と生産者が向き合っているのである。その違いは、片方が販売し、他方が購入するということにすぎない。商品所持者が、生産者の名において商品をその価値よりも高い価格で販売し、消費者の名において商品のその価値よりも高い代金を支払うといってみても、問題の解決に向かって一歩も進むものではない。
増殖価値と流通
だから増殖価値が名目価格の引き上げによって生じるとか、商品をその価値よりも高い価格で販売する売り手の特権から生じるなどと考えるのは幻想であって、こうした幻想を手放さない人々は、販売せずに購入するだけの階級、すなわち消費するだけで生産することのない階級を想定しているのである。このような階級が存在することは、単純な流通という、私たちがこれまで考察してきた観点からは、まだ説明ができない。しかし先回りして指摘しておこう。
こうした階級がたえまなく購入しつづけるためには貨幣が必要であるが、そのための貨幣は交換を経由することなく、商品所持者から無償で、こうした階級にたえず流入してくる仕組みが必要であり、そのために恣意的な法や権力の権原が利用されるのである。こうした階級に商品をその価値よりも高い価格で販売するとしても、それは彼らに無償で提供した貨幣の一部を、ごまかして取り戻すということにすぎない。
たとえば小アジアの諸都市は、古代のローマに毎年、貨幣で貢租を支払った。ローマはその金でこれらの都市から商品を購入したが、その価格は商品の価値を上回るものだった。小アジアの人々はローマ人をごまかして、取り上げられた貢租の一部を商業という方法でふたたびローマから詐取したのだった。それでも小アジアの人々が詐取されていたことに変わりはない。彼らの[ローマに販売した]商品の支払は、[貢租という形でローマに支払わされた]彼らの金で行われたのである。これは豊かになる方法ではないし、増殖価値を作りだす方法でもないのである。
それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生じるとかいう幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。しかし、ここで先回りしてみることにしよう。このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことである。たとえば小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代のローマに支払った。この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。小アジア人はローマ人をだました。というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまされた人々であった。彼らの商品の代理は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。こんなことはけっして致豊または剰余価値形成の方法ではないのである。
だから増殖価値が名目価格の引き上げによって生じるとか、商品をその価値よりも高い価格で販売する売り手の特権から生じるなどと考えるのは幻想であって、こうした幻想を手放さない人々は、販売せずに購入するだけの階級、すなわち消費するだけで生産することのない階級を想定しているのである。このような階級が存在することは、単純な流通という、私たちがこれまで考察してきた観点からは、まだ説明ができない。しかし先回りして指摘しておこう。
こうした階級がたえまなく購入しつづけるためには貨幣が必要であるが、そのための貨幣は交換を経由することなく、商品所持者から無償で、こうした階級にたえず流入してくる仕組みが必要であり、そのために恣意的な法や権力の権原が利用されるのである。こうした階級に商品をその価値よりも高い価格で販売するとしても、それは彼らに無償で提供した貨幣の一部を、ごまかして取り戻すということにすぎない。
たとえば小アジアの諸都市は、古代のローマに毎年、貨幣で貢租を支払った。ローマはその金でこれらの都市から商品を購入したが、その価格は商品の価値を上回るものだった。小アジアの人々はローマ人をごまかして、取り上げられた貢租の一部を商業という方法でふたたびローマから詐取したのだった。それでも小アジアの人々が詐取されていたことに変わりはない。彼らの[ローマに販売した]商品の支払は、[貢租という形でローマに支払わされた]彼らの金で行われたのである。これは豊かになる方法ではないし、増殖価値を作りだす方法でもないのである。
個人のずる賢さ
そこで、われわれは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまることにしよう。われわれの当惑は、ことによると、われわれが登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえていないということからきているのかもしれない。
商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。Aは40ポンド・スターリングという価値のあるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしよう。Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化させた。より少ない貨幣をより多くの貨幣にし、彼の商品を資本に転化させた。もう少し詳しく見てみよう。交換が行われる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングだった。交換のあとでも、総価値は同じく90ポンド・スターリングである。流通する価値は少しも大きくなっていないが、AとBとへのその分配は変わっている。一方で剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われる。同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたであろう。流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン王女時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである。
要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局は同じことなのである。等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない。流通または商品交換は価値を創造しないのである。
これまでは売り手と買い手というカテゴリーで見てきましたが、個人としてみるとどうでしょうか。つまり、ある特定の個人の商品所持者だけが価値より高い価格で売ることができるという場合です。端的に言うと、正当な売買ではなく、ズルいことをする場合です。相手を出し抜くということは、悪く言えば相手を騙す詐欺的行為です。ここでの例でいえば、Aさんは40ポンドの価値量のワインをBさんに50ポンドで売りつけたとしたら、差額の10ポンドを利益として儲けることができたことになります。これは等価でない交換と言えます。実際の商売の場ではぼったくりという言葉があるように不当に高く売りつけて儲けている人はいます。このとき、Aさんはたしかに10ポンド儲けて価値を増殖させたことになるかもしれません。しかし、その一方で高く買わされたBさんは10ポンド損をして価値を不足させたことになるわけです。このABの関係は売買ということを介在させなければ、BさんからAさんに10ポンド移った。AさんはBさんから10ポンド奪ったということと同じです。全体として流通している価値の総量は、Aさんの取り分が増えて、Bさんの取り分が減ったという配分が変わっただけで、価値の総量が増えたわけではありません。実際にAさんの行為は正当とはみなされないだろうし、Aさんが一時的に儲けたとしても、Bさんがそれに気づけば、正当な40ポンドでワインを売ってくれる人から買うようになるでしょう。したがって、Aさんは持続的に価値を増殖することができるわけではありません。
これまで見てきたように、商品の交換比率、より端的に言えば商品の価格は商品の価値によって、すなわち社会的必要労働時間によって規制されています。それゆえ、平均的なケースを考えれば、商品は価値通りに交換されるのであり、商品流通から増殖価値(剰余価値)が発生しないことは明らかです。もちろん、個別的なケースを見れば、価値から乖離した価格で商品は販売されますが、このような「分配の変化」によって、生産活動が生み出す社会全体の価値が増えることはありません。価値から乖離した価格での販売は、一方が得をして、他方が損をするということでしかなく、いまの資本主義社会において資本が一般に増殖価値(利潤)を生み出すことができているという事実を説明することはできません。
このような事情は、なぜマルクスが商業資本や利子を生み資本をいきなり考察しないのかということの理由をなしています。商業資本であれ、利子生み資本であれ、増殖価値を創造するメカニズムを自らのうちにはもっていません。それらは増殖価値を産出するメカニズムを備えた「資本の基本形態」を解明したあとにはじめて説明することができるのです。なお、商業資本および利子生み資本についての考察は、「資本論」第3巻の課題となります。
ここでは売り手が買い手であり、買い手が売り手でもある商品交換の範囲内で、考察をつづけよう。わたしたちが行き詰まったのは、人間を個人としてではなく、人格化されたカテゴリーとして考えていたことが原因かもしれないのである。
商品所持者Aはずる賢くて、商品所持者BやCを出し抜くことができるとしよう。そしてBもCもどれほど頑張っても、Aには太刀打ちできないとしよう。Aは40ポンドの価値のワインをBに販売し、それと引き換えに、50ポンドの価値の穀物をBからうけとるとしよう。Aは彼の40ポンドを50ポンドに変えた。少ない額の貨幣から大きな額の貨幣に変えたのであり、彼の商品を資本に変容させたことになる。
それではこの取引をもう少しくわしく調べてみよう。交換が行われる前にはAの手元には40ポンドのワインがあり、Bの手元には50ポンドの穀物があった。商品の価値の合計は90ポンドであった。交換した後も、価値の合計は90ポンドでまったく変わっておらず、流通している価値は一銭も増えていない。変化したのはAとBの持ち分の比率である。
片方には増殖価値が現れたかもしれないが、それは他方における不足価値として現れる。片方でプラスになると他方でマイナスになる。この価値の変化は、Aが交換という方法で隠蔽せずに、Bから直接に10ポンドを盗んだとしても発生するだろう。流通している価値の総額は、その配分が変化しても変わらないのは明らかである。あるユダヤ人がアン王女時代のファージング銀貨を売ってギニー金貨をうけとったとしても、その国に存在する貴金属の量がまったく変化しないのと同じである。一つの国の資本家階級を全体としてみれば、彼らは自分たちから利益を詐取することはできないのである。
つまりどれほどこね回してみても、結局は同じことである。価値の等しいものが交換されるならば増殖価値は発生せず、価値が等しくないものが交換されても、増殖価値は発生しない。流通や商品の交換からは価値は発生しないのである。
商業資本と高利資本
こういうことからも、資本の基本的な形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれわれが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本や高利資本とをさしあたりまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるであろう。本来の商業資本では、形態G−W−G´、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。他方、商業資本の全運動は流通部面のなかで行われる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようらなれば、不可能なものとして現われる。したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者のあいだに寄生的に割りこむ商人によって、これらの生産者か両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。この意味で、フランクリンは「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と言うのである。商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提となっているここでは、まだまったく欠けているのである。
商業資本にあてはまることは、高利資本にはもっとよくあてはまる。商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖された貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動によって、媒介されている。高利資本では、形態G−W−G´が、媒介の両極G−G´に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。それだからアリストテレスも次のように言うのである。
「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通にもとづいていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとづいていないで相互の詐取にもとづいているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称(利子および生まれたもの)もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかも、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちではこれが最も反自然的なものである」。
商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。また同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われるかということもわかるであろう。
商業資本はどのようにしてΔGを、つまり増殖価値を生むことができるのか。それは一言でいえば「安く買って、高く売る」ことによってです。商業資本の活動は、この節で見てきた流通過程の領域の内部に限られています。つまり、商品所持者であるAさんとBさんの交換の中間に介在して、流通の連鎖をつくるという活動です。ここまでの分析で明らかなように、増殖価値は流通そのものからは生まれない。だから等価物どうしが交換されるならば、商業資本は成立しえない。そうだとすると増殖価値が形成されるのは、購入する商品の生産者と販売する商品の生産者のあいだに、商人が寄生虫のように介在して、双方の生産者から利益を詐取することによってしか説明できないことになります。流通過程にあってはつねに等価物どうしが交換され、不等価交換は存在しないというのが分析で明らかにですが、そうであるなら、商業資本がそれを正当な仕方で利用する差異が存在し、しかも商人資本は帰結にあってその差異を抹消しているはずです。
そのような商品に生産者からの詐取だけが商業資本における価値の増殖をうんでいるのではなく、そこには長い連鎖の中間項が介在している。しかし、ここでは商品の流通とその単純な要素だけを考察しているので、それについては説明をしていません。
それでは、ここで少し寄り道をして本論が説明をしなかった商業資本の増殖価値について簡単に考えてみたいと思います。商業資本が価値増殖する場合に、商業資本はまず端的に時間的な差異を利用することによって利益を得ることができるのです。つまりたんに「安く買って、高く売る」のではなく「安い時に買って、高い時に売る」というわけです。余談ですが現在でもこの操作は株取引にあっては定石になっています。これがもっとも単純な商業資本の価値増殖のやり方です。もうひとつの、よりリスクの高い源泉は空間的な差異の利用であると言えます。簡単に言うなら「安い場所で買って、高い場所で売る」というやり方です。歴史的に有名な例を挙げれば、たとえばかつて西インド諸島の人々は、それほどは高価でもなかった貴金属を「粗野なスペイン人にもよく見える形に仕上げて目の前にちらちらさせ」、こうして拡散するとともに稀少化された金額によって世界市場の様相が一変することになる。ポルトガル人たちが大航海に出たころには、アジアでは銀のほうが金よりも乏しく、ヨーロッパ市場で安価であがなった銀を、アジアの各地で金と香料とに交換することが、ポルトガルに莫大な富をもたらした、というわけです。
この後者の空間的な差異の利用は、時間を条件として、時間的な繰り延べ作用の中で空間的な差異を横断しながら、それを消去するものである。商業資本はここで、ある流通圏で安く買った商品をべつの流通圏で高く売ることによって、価値増殖を反復するはこびとなるけれども、そこでは空間的差異が時間的差異によって横断され、消去されているわけです。商品の交換そのものが共同体と共同体とのあいだで発生したのと同じように、問題の場面ではたしかに異なる流通圏のあいだの差異から、つまり流通圏と流通圏とのあいだで資本が、とりわけ商業資本が生成されていると言えると思います。
商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはさらによくあてはまることになります。商業資本では、市場に投じられる貨幣という極と、市場から引きだされる貨幣という極のあいだには、少なくとも購入と販売、すなわち流通の運動によって媒介されている。しかし高利貸資本では、G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮される。貨幣がそれよりも多い貨幣と交換されるのは、貨幣の本質と矛盾する形態であり、商品交換の観点からは説明できない。つまり、商業資本では貨幣の動きは商品の流通に付随する形になりますが、高利貸資本の場合には、商品流通が起こらないで、貨幣だけが動き回るのです。G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮されるとは、商品というWがないのです。それが商業資本との大きな違いです。それだけに、商品の生産ということに関わらないという点では、商業資本の特徴をさらに純粋化して推し進めたものと言えます。
高利貸資本という貨幣を貨幣と交換することには、どこかしら奇妙なところがある。しかし、これはすべての資本の特徴的な流通形態であるとも言えると思います。商業には一面において投機であり「賭博という側面がありました。時間的差異を利用するなら、同時に時間的劣化が避けがたいというリスクがあります。空間的差異を利用するという操作は、往復のリスクを計算に入れなくては成り立ちません。空間的差異を時間的な差異によって抹消することには、この二重のリスクが絡んでくることなりますに。そればかりではない。歴史的には、とくに高利貸資本は、イスラム経済圏では、それが投機と賭博であるがゆえに禁止されていたのです。
西欧のキリスト教圏で宗教改革以前には、利子をとって金銭を貸すことは批難されるべきなりわいでした。ところが他方宗教改革以前であっても、ヨーロッパの大富豪はしばしば金融業者であり、高利貸資本を代表する者でした。彼らはしかもシェークスピアの「ベニスの商人」のシャイロックのように「唾を吐きかけられ、野良犬のごとく足蹴にされる」対象ではなく、名望家とも呼ばれる存在でした。ここには、マルクスが資本の一般的定式の「矛盾」と呼んだものとはべつの意味で一箇の矛盾が、あるいは逆説が存在している。
わたしたちが現代社会の経済的な組織を規定している資本の基本的な形態を分析するにあたって、一般になじみで、いわば太古から存在している商業資本や高利貸資本をここでは考察しない理由は、これでお分かりいただけたと思う。
ほんらいの商業資本では、高く売るために購入するというG−W−G´がもっとも純粋な形で現れる。この商業資本のすべての運動は、流通の領域の内部だけで発生する。ところが貨幣の資本への変容は、そして増殖価値の発生は、すでに明らかなように流通そのものから説明することはできない。だから等価物どうしが交換されるならば、商業資本は成立しえないようにみえる。だとすると増殖価値が形成されるのは、購入する商品の生産者と販売する商品の生産者のあいだに、商人が寄生虫のように介在して、双方の生産者から利益を詐取することによってしか説明できない。フランクリンはその意味で「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と語ったのである。
しかし商業資本における価値の増殖は、商品の生産者にたいするたんなる詐取から説明することはできないのであり、そこには長い連鎖の中間項が介在している。ここでは商品の流通とその単純な要素だけを考察しているので、この中間項はまったく欠如しているのである。
商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはさらによくあてはまる。商業資本では、市場に投じられる貨幣という極と、市場から引きだされる貨幣という極のあいだには、少なくとも購入と販売、すなわち流通の運動によって媒介されている。しかし高利貸資本では、G−W−G´の形態は、媒介する項のない両極G−G´に短縮される。貨幣がそれよりも多い貨幣と交換されるのは、貨幣の本質と矛盾する形態であり、商品交換の観点からは説明できない。
アリストテレスが次のように語るとおりである。「取材術には二種類ある、一つは商人の術であり、もう一つは家政術に属している。家政術は不可欠で称賛されるべきものである。しかし商人術は交換的なものであり、非難されるべきものである(なぜならそれは自然に合致したものではなく、人間がたがいに財を詐取しあうからである)。だからもっとも憎むべきなのは高利貸である。彼の財が貨幣そのものからえられるのであって、貨幣が作られた目的からえられるものではないからである。貨幣は商品の交換のために作られたものであるが、利子は貨幣をいっそう多くするものだからである。ここから利子という名もでてきた(タコスとは生まれたものを意味する)。なぜなら生まれたものが生んだものに似ているからである。利子は貨幣の子たる貨幣として生まれてきたのである。だからこれは取材術のうちでもっとも自然に反したものである」。
商業資本も、利子を生む[高利貸]資本も、派生的な形態であることは、いずれ明らかにするつもりである。そしてこれらの資本が、歴史的に資本の現代的な基本形態に先駆けて登場した理由も明らかにするつもりである。
増殖価値の発生源
これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるのだろうか?流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば、革で長靴をつくることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。
では、増殖価値が流通から発生しないとすれば、どこから発生するのか、というのがここでの問題です。私たちが見てきたところでは、流通以外の場は生産しかありません。この難問を解決するためには、そもそも価値とは何だったのか、という原点に立ち返ってみる必要があれます。商品の価値とは何か?価値とは、その商品を生産するために必要な社会的・平均的な労働時間を実体とするものでした。つまり、簡単に言えば、価値の実体は労働であるということです。ということは、一つの解決策として、自己労働によって価値を付け加えることができれば、等価交換の原則を維持しつつ価値増殖させることができるのではないか?ということが考えられます。つまり、資本家が自ら生産活動を行うことによって増殖価値を生み出すことは可能ではないか、ということです。しかし、可能ではありません。
マルクスは「商品所持者は自分の労働によって価値を形成することはできる。しかしそれは自己増殖する価値ではない。」と言います。慥かに、彼は自分の労働をつけ加えることで、もとからあった価値に新しい価値をつけ加えて、その商品の価値を高めることはできます。たとえば皮革からブーツを製造したような場合で、これによって同じ素材が、より多くの価値をそなえるようになる。そこにはより大きな量の労働が含まれているからである。そこで今はブーツは皮革よりも多くの価値をそなえるようになました。しかし、皮革の価値そのものは変わっていないのです。このことは皮革の価値が自己増殖したことを意味していないのです。皮革のブーツが製造される過程において、皮革の価値がみずからに増殖価値をつけ加えたわけではないのです。たとえば、資本家が皮革を1万円で買い、自ら労働してブーツを作り、それを2万円で売るとします。このとき、たしかに資本家は1万円だけ価値を増やすことに成功したように見えますが、これはただ自分が支出した抽象的人間的労働が価値として皮革に新たに対象化されただけです。ですから、この増えた分の1万円は増殖価値ではありませんし、最初に皮革を購入するときに支出された1万円もまた資本にはなっていません。最初に投下された1万円が資本になるためには、資本家に労働させることなく、その1万円自身の力で価値を増やすことができなければなりません。すなわち、自らの価値の力だけによってその増分である増殖価値を生み出さなければならないのです。このように考えると、先ほどとば逆に、増殖価値はG−W−G´という流通からしか発生しえない、ということになります。
ただし、さまざまな独立職人や小経営や小農民はまさに自己及び家族の労働でもって商品(W=原材料など)に価値をつけ加えて、より多くの価値を持った新たな商品(W´)を生産し、それを販売することで生計を立ててきた。これは、一見したところ、G−W−G´を見事に達成しているかのように見えるのです。しかし、自己労働あるいは家族労働によってつけ加えられる価値量はたかが知れており、それによって購入した商品の価値をたしかに増すことができても、その差額は基本的に、その商品の流通過程で必要になる追加的な諸費用(流通費用)と、自分及び家族の生活費に消えてなくなるのであり、G−W−G´の運動を永続的に繰り返すことでますます大きな価値額へと成長していくことはほとんどできないというのが実情です。
これらの独立職人や小経営、小農民における運動原理は、ここで分析している資本の運動原理とまったく異なる所謂「生活の再生産原理」に基づいていると言えます。彼らが何らかの商品を再生産するためでしかない。したがって、この生活費用をまかなう分を大きく超える差額がたまたま生まれたとしても、それは不況や不作のときのために退蔵されるか(臨時的な流通準備金)、生活を多少改善することに用いられるか、あるいは労働時間を減らして生産量を調整するのであり、無限の価値増殖に用いられるわけではないのです。
もちろん、いったん資本主義が発生し、その運動原理が独立職人や小経営をも巻き込むならば、彼らの一部は、極度の節欲と自己および家族に過酷な長時間労働を強いることで潜在的資本を蓄積し、やがて資本家へと成り上がるかもしれない。しかしそれは、非資本家から資本家へと移行する特殊な過程を示すものであり、すでに十分に自分の両足で立っている資本の運動原理であるG−W−G´のメカニズムとして資本の価値増殖メカニズムは、自己労働(および家族労働)にもとづくのではない形で示されなければならないのですが。
だから商品の生産者が流通の領域の外部で、他の商品所持者と接触することなしに価値を増殖したり、貨幣や商品を資本に変容させたりすることはできないのである。
増殖価値が流通からは発生しないことは、すでに明確に示したとおりである。だから増殖価値が形成されるには、流通の背後にあって、流通そのもののうちに見えないものが関与しているのでなければならない。しかし増殖価値は、流通以外のどのような場所で発生することができるのだろうか。流通の領域は、商品所持者のあいだで発生するあらゆる相互的な関係の総体である。だから流通の領域の外部に残されているのは、商品所持者と彼が所有する商品との関係しかない。
商品の価値という観点からみると、この関係としては、商品には特定の社会的な法則にしたがって測定された商品の所持者の労働が投じられているということにしかない。その労働の量は、彼の商品の価値の大きさとして表現されています。価値の大きさは計算貨幣によって表わされるから、その労働量はたとえば10ポンドという商品の価格によって示されます。しかし彼の労働そのものは、商品の価値にも、商品に固有の価値を上回る超過分にも示されていない。労働は10の価格にも(それは増殖するならば11の価値になる)示されていないし、それ自身の価値を超える価値のなかに示されていない。
商品所持者は自分の労働によって価値を形成することはできる。しかしそれは自己増殖する価値ではない。彼は自分の労働をつけ加えることで、もとからあった価値に新しい価値をつけ加えて、その商品の価値を高めることができる。たとえば皮革からブーツを製造したような場合である。これによって同じ素材が、より多くの価値をそなえるようになる。そこにはより大きな量の労働が含まれているからである。そこで今はブーツは皮革よりも多くの価値をそなえるようになった。
しかし皮革の価値そのものは変わっていない。皮革の価値が自己増殖したわけではない。ブーツが製造される過程において、皮革の価値がみずからに増殖価値をつけ加えたわけではない。だから商品の生産者が流通の領域の外部で、他の商品所持者と接触することなしに価値を増殖したり、貨幣や商品を資本に変容させたりすることはできないのである。
資本が発生するための条件
つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。
こうして二重の結果が生じた。
貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、したがって等価物の交換どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さねばならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。これがロドスだ、さあ跳んでみろ!
この節のまとめです。G−W−G´は、それがG´=G+ΔGであるかぎり、「より高く売るために買う」にほかなりません。これは、ただ商業資本だけに当てはまる形態ではなく、流通過程の内部でのみ見るかぎりでは、産業資本もまた同じ操作をしているだけである。「高利貸資本」すなわちG−G´もまた、いわばその簡潔した形態にすぎません。G−W−G´は、「資本の一般的な定式」、ただし流通部面から見るかぎりでの一般定式にほかならないことになるのです。
マルクスはこのあとにただちに節をあらためて、この「一般的定式の矛盾」を指摘して行きます。そもそもG−Wつまり貨幣から商品への転化も、W−Gすなわち商品の貨幣への再転化も、それが単純な商品流通のなかで行われるなら、たんなる形態の変換であって、価値量の変化をまったく含んでいないのです。それゆえ、その純粋なすがたにあっては、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって価値を増やす手段ではないのです。しかし、等価物ではないものが交換されて、一方には利得が生まれるにしても、他方には損失が生じるのだから、やはり価値が増殖することはないわけです。したがって、等価物どうしが交換されるとすれば増殖価値は生まれないし非等価物どうしが交換されるとしても、やはり増殖価値は生まれない。流通あるいは商品交換はまったく価値を創造しないのです。それにもかかわらず、資本の一般的定式がなりたつためには、ほかならぬ商品交換から増殖価値が生成する必要があるのです。価値と価値のあいだのこの差異、剰余(増殖)は、いったいなにに由来するのでしょうか。
増殖価値は、流通過程から発生することができないのです。だが、とマルクスは自問します。「増殖価値は流通からではないとすれば、いったいほかのどこから発生することができるというのだろうか」。「資本はしたがって流通から発生することができないし、また流通から発生しないことも同様に不可能である。資本は流通から発生しなければならないと同時に、流通のなかで発生してはならないのである」。「貨幣の資本への転化」は商品交換の法則、すなわち等価交換の法則にしたがって生起しなければならない。資本の形成は流通部門で行われなければならず。流通の法則、等価物どうしの交換という法則にしたがって生起しなければならない。とはいえ、等価交換からは価値は増殖しない。資本はしかし増殖しないかぎりでは資本ではない。だから資本の生成は、流通部門で生起することはありえないようにみえる。「これが問題の条件である」。ヘーゲル「法哲学綱要」「序文」を想起しながら、マルクスは節を結ぶのです。「ここがロードスだ。ここで跳べ!」
だから資本が流通から発生することはない。しかし流通から発生しないわけにもゆかない。資本は流通のなかで発生しなければならないし、他方では流通のなかで発生してはならない。
こうして二重の結果が生じるのである。
貨幣が資本に変容するのは、商品の交換に内在する法則を基礎とすることによってであり、等価物の交換がその当然の出発点なのである。貨幣の所有者は、まだ資本家の蛹にすぎず。商品をそのとおりの価値で購入し、そのとおりの価値で販売しなければならない。しかもこの過程の最後で、最初に投入したよりも大きな価値を引きださねばならないのである。蛹から蝶への脱皮は、流通の領域で起こらなければならないし、他方では流通の領域で起きてはならない。これが問題の条件である。これがロドスだ、ここで跳べ!
第3節 労働力の売買