マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第6篇 労働賃金
第17章 労働力価値または価格
の労働賃金への変容
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第6篇 労働賃金

〔この篇の概要〕

第6篇では、労働者にとって身近で、日々の生活にとって欠くことのできない生活の糧となる労賃(賃金)について考察されます。労賃の本質的な規定については、すでに第2篇「貨幣の資本への転化」の中で与えられていました。労賃の本質は労働力の価値であって、その貨幣表現が賃金です。労働者が賃金と引き換えに売り渡すのは労働力という商品なのです。しかし、日常的な現象(「ブルジョア社会の表面」)では、労働力が売られるではなく労働が売られていて、労賃は「労働の価値」「労働の対価」として現われ、労働日の全部が支払労働であるかに見えます。こうした外観上の矛盾を解明することがこの篇の第1の課題です(第17章)。労賃の本質が明るみにされれば、現実の様々な形態の賃金形態によって隠されている搾取関係もまた明るみになります。そのことを時間賃金、出来高賃金といった具体的形態を通して考察することが第2の課題です(第18、19章)。

同じ労働を行う労働者のなかに、個人的な違いがある労働賃金の支払方法もあります。つまり、多くの製品を作る人は賃金が高く、同じ時間・同じ労働をしていても、その生産量が少ない人は賃金が少ない支払形態です。労働の量と対応して賃金が支払われるようにみえるのが、出来高賃金です。

しかし、これは時間賃金の転化形態にほかならないとマルクスは指摘しています。労働の量は本来は時間数でしか量れないわけですから、その時間数が基本になって、それを出来高に転化したものと言えます。出来高賃金は、1日12労働時間の平均的な作業量として製品を24個作るならば、それで日価値3シリングが受け取れるように決まるからです。つまり1個=1.5ペンスにすれば、1日に平均的労働者は24個作り、3シリング(=36ペンス)の賃金を受け取る。これは労働力の日価値を標準的な作業量で割っているわけだから、時間賃金の転化形態にすぎず、その不合理性も同じことです。出来高賃金と時間賃金にはまったく本質的な違いはないことが分かります。

出来高賃金になると、ますます労働の価値・価格という感じが強くなります。その日頑張って人より多く働き、多く作れば人よりもたくさん賃金をもらえるからです。まさに自分の労働とその賃金が直結し、労働者の作業能力によって賃金が規定されていることになります。あるいは、そのように見えるのです。

さらに、出来高賃金には時間賃金とは違った特性があります。

まず出来高賃金では、一定以上の品質と量の製品を作ることが前提になります。不良品であれば賃金は支払われません。そうなると、労働の質と量が賃金制度によって確保されることになります。時間給だと、悪く言えばサボったり、だらだらしていてもよかったのですが、出来高賃金ではそうはいきません。資本家がもっとも気を使う商品の品質と量を、労働者自身がたえず意識しながら労働することになります。

そしてさらに、出来高賃金の場合、たとえば20個とか18個とかいう1日の最低限の基準が設けられ、それに達しない労働者は解雇されることになるでしょう。時間給に較べて1人1人の労働者の労働能力がはっきりと見えるようになります。

こうして労働の質と量が労働者自身によって規制されるので、監督労働の大部分が不必要になります。たとえば、家内工業(内職)は基本的にすべて出来高賃金です。監督ができないから、昨晩何時間労働しましたと申告されても本当はどうか分からない。しかし出来高ならば、労働者が何時間かかろうと関係がなくなります。現代では、外回りの営業や運輸・配送業などの歩合給にこの要素が組み込まれています。

しかも、出来高賃金は労働の強度を増すものです。労働者としては、できるだけ多く作ったほうが賃金が高くなるわけですから、自ら進んで労働強化をするようになります。その結果、資本家はその標準強度を高めることが容易になりました。1日24週という例でしたが、労働者が熟練し、強度を強め、平均的労働者は30個作れるようになれば、出来高賃金1.5ペンスは高すぎることになって、1個1.2ペンスへと単価が切り下げることになります。

出来高賃金だと労働者によって生産量と賃金に差が生じるわけですが、工場全体で考えると、資本家にとっては総生産量も総支出もさしあたりは変わりません。つまり時間賃金であったら、そうした個人的差を平均化した生産量が想定され、賃金も平均としての賃金一律に支払うわけです。それに対して出来高賃金は、個人的に差をつけて支払うだけで、企業全体としては総額が同じになります。生産量もさしあたり同じになりますが、さらにいま述べた理由から自然に生産力が上がっていくことになります。

出来高賃金は労働者に自由感、独立心、自制心をもたせ、他面では労働者相互の競争を発展させる傾向があります。それらもまた生産性を高める要因となり、賃金は一時的に増えても、長期的にはもとの水準に戻り、労働強化だけが残ることになります。

 

第17章 労働力価値または価格の労働賃金への変容

〔この章の概要〕

第4章で賃労働者が販売するのは労働力であると説明されていましたが、現実のわれわれの日常では賃金は労働の対価という外観をとって現われます。典型的なのが時間給であり、「時給1000円」などとして、つまり1時間の労働の対価が1000円であるというふうに表わされます。この章では、このように労働力の価値が「労働の価格」としてなぜ、いかにして現象するのかが問題となります。

第4章では、賃労働者が売るのは労働力であって、労働ではないと説明されていましたが、より正確に言えば、ここでマルクスが指摘しているように、そもそも労働は販売することができるようなものではなく、価値も持っていません。もし労働者が生産手段を持っており、労働力を売ることなく労働できるのであれば、生産した使用価値が物質的な物であれ、無形のサービスであれ、その使用価値を商品として販売するでしょう。賃労働者のように、生産手段を持っていないのであれば、労働は労働力を販売した後にその労働力の買い手の指揮の下に行われるのであり、もはやその労働は労働者のものではなく、彼によって売ることはできません。

また、このようにまた、このように、労働は商品にはならないのですから、当然、価値も持っていません。労働量は価値の大きさを規定しますが、労働それ自体の大きさを規定しますが、労働それ自体は商品ではなく、価値を持たないのです。それにもかかわらず、労働力の価値は必然的に労賃形態、すなわち「労働の価格」という形態をとって現われてくることになります。

ざっと見ていきましょう。労働力の価値が現実に支払われる形態は、労働賃金になる。そして資本主義社会では、労働者の賃金は「労働の価格」として支払われます。「労働力の価値」という概念は、マルクスの発見によるものだから、それ以前は労働の価値、労働の価格という表現がされていました。

ここで注意しておかなければならないのは、今は正規雇用なら月給制が一般的でしょう。月給制だと、その月が31日あろうと、2月のように28日しかなくても、また国民の祝日の有無にかかわらず、月給は毎月基本的に同じになります。労働時間と厳密には連動していないわけですが、マルクスの時代には一般の工場労働者は日給制の週払いが多かった。その形態は20世紀になっても続き、日本でも第2次世界大戦直後まで一般的でした。月給制も通年して平均化されていると考えてもよいのですが、簡単にするために日賃金が毎日支払われるものとして話を進めましょう。

さて、日賃金の場合、どういう形態になるかというと、今でもアルバイトの募集広告では、たとえば時給が800円などと書かれています。8時間だと6400円になるということです。それだと1時間800円で8時間働けばきちんと8時間全部もらえるように見えます。これが「労働の価格」という観念です。アダム・スミスはこれを自然価格と呼んでいました。労働の自然価格・必要価格が一定のものとしてあって、それが需給関係による市場変動によって上下に変動するとしました。つまり、価格といっても価値として扱われていました。

「労働の価格」として、労働によって生みだした価値を全部労働者がもらっているとすれば、本当はもっと価値が生まれていると認めるとすれば、等価交換ではなくて不等価交換であることを認めたことになり、どうしても説明に矛盾が生じた。それがスミスやリカードを混乱させていたことです。

こうしてみると、マルクスの「労働力商品」の発見が、いかに見事に問題を解決していたかが分かると思います。すなわち、実際市場で売られているのは労働ではなく、労働者のもつ労働する能力という使用価値でした。その労働が現実に始まるやいなや、使用価値である労働は資本家のものとなります。実際のその労働は、労働力商品の使用価値の使用であり、価値ではありません。労働力の価値はその再生産費で決まるもので、使用価値とはまったく別のものだったのです。

しかも「労働の価値」という表現においては、労働力価値の概念がまったく消し去られ、その反対物、つまり本質を隠すものになっています。時給800円で1日6400円払うというのは、まったく搾取がないかのような現象形態になっているのです。

マルクスは労働力の価値が労働賃金という転化形態にどう表示されるかを検討しましょう。

封建制下の農民が週に3日間領主の畑で働かされていれば、あるいは五公五民として収穫の半分を取り上げられれば、剰余労働が無償で取られていることがはっきりしていました。それが、労働者の場合はどこからが剰余労働なのか分からなくなっています。

奴隷の場合は、1日中働かされて、まったく賃金をもらえません。そうすると奴隷の労働すべてが、所有者に無償で取られているように、いわば剰余労働時間だけのように奴隷にはみえてしまいます。しかしそれは間違いで、奴隷の場合は、十分もらえていたかは別として、食事や衣料を支給されていました。それは奴隷の労働のなかから還元されていたわけで、つまり実は奴隷労働のなかにも必要労働部分があったことになります。奴隷の場合は、逆にすべてが支払労働のように見えます。

そこに、労働力の価値を労働の価格に、すなわち労働賃金に転化することの、決定的な重要性がありました。現実の関係を隠蔽して、1日の労働時間について全額を支払うという現象形態が、労働者と資本家のあらゆる法律的観念の基盤になっています。そのため、労働賃金の秘密を見破るのは難しく、労働力商品を古典派経済学はとうとう発見できなかった。

一方、資本家は3シリングの剰余価値が生まれていることに当然気がついているわけですが、資本家は何でも安く買って、できるだけ高く売ることを当然のことと思っているので、この場合も剰余価値の源泉がどこにあるからは、あまり考えません。原料を安く仕入れることと賃金を低くすること、あるいは原料の無駄を節約することと労働者を長く働かせることに本質的な違いがあるとは思っていません。

 

〔本分とその読み(解説)〕

「労働の価値」という概念の矛盾

ブルジョワ社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。そこでは労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では、労働の市場価格、すなわち労働の必要価格の上下に振動する価格が論ぜられる。

だが、ある商品の価値とはなにか?その商品の生産に支出された社会的労働の対象的形態である。では、なにによってわれわれはその商品の価値の大きさを計るか?その商品に含まれている労働の大きさによってである。では、たとえば12時間労働日の価値はなにによって想定されているだろうか?12時間から成っている1労働日に含まれている12労働時間によって。これはばかげた同義反復である。

とにかく、商品として市場で売られるためには、労働は、売られる前に存在していなければならないであろう。だが、もし労働者が労働に独立の存在を与えることができるとすれば、彼が売るものは商品であって労働ではないということにはなるであろう。

このような矛盾はべつとしても、もし貨幣すなわち対象化された労働と生きている労働とが直接に交換されるとすれば、それは、まさに資本主義的生産を基礎としてはじめて自由に発展する価値法則を廃止するか、または、まさに賃労働によって立つ資本主義的生産そのものを廃止することであろう。12時間の1労働日は、たとえば6シリングという貨幣価値に表わされる。第一に、等価と等価とが交換されるとすれば、労働者は12時間の労働と引換えに6シリングを受け取る。彼の労働の価格は彼の生産物の価格に等しいであろう。この場合には彼は彼の労働の買い手のために剰余価値を生産しないであろうし、6シリングは資本に転化しないであろうし、資本主義的生産の基礎はなくなってしまうであろうが、しかし、まさにこの基礎の上でこそ、彼は自分の労働を売るのであり、彼の労働は賃労働なのである。もう一つの場合には彼は12時間の労働と引き換えに6シリングよりも少なく、すなわち12時間の労働よりも少なく受け取る。12時間の労働が10時間とか6時間とかの労働と交換される。このように不等な諸量を等置することは、ただ価値規定を廃棄するだけではない。このような自分自身を廃棄する矛盾は、およそ法則として表明されるとか定式化されることさえできないのである。

より多い労働とより少ない労働との交換を、一方は対象化された労働で他方は生きている労働だという形態の相違から引き出すことは、なんの役にもたたない。このやり方は、商品の価値は、その商品に現実に対象化されている労働の量によってではなく、その生産に必要な生きている労働の量によって規定されるのだから、ますますばかげたものになる。ある商品が6労働時間を表わしているとしよう。それを3時間で生産することができる発明がなされるならば、すでに生産されている商品の価値も半分だけ下がる。今ではその商品は、以前のように6時間ではなく、3時間の必要な社会的労働を表わしている。つまり、その商品の価値量を規定するものは、その商品の生産に必要な労働の量であって、労働の対象的形態ではないのである。

ブルジョワ社会とここでは言っていますが、資本主義生産様式が一般化した社会ですね、それを表面的に見ると、労働者の賃金は労働の価格、すなわち一定の量の労働に対して支払われる対価と見える。マルクスの文章の常套手段ですが、この場合は見えるものと実体は違うという反語の意味合いを含ませていると言えるでしょう。この後に、そのように見えてしまう事態を分析していきますから。まずは定義の明確化です。労働の価値とは、その価値を貨幣で表わしたもの、つまり3シリングという形で表わされ、それが労働の必要価格または自然価格、いってみれば使用価値に相当するようなもの、一方では市場価格という交換価値に相当するもので、これは市場価格ですから需要と供給により変動します。

一般的に商品の価値というのは、その商品を生産するために投じられた社会的な労働です。その価値の大きさは、その商品の生産に投じられた労働の量でよって決まります。では、労働という商品の価値、つまり労働の価値を規定しようとすれば、どうなるか。「12時間労働日の価値は…12時間の労働日1日に含まれている12時間の労働によって」規定されるということになりますが、これでは12時間労働の価値は、12時間の労働の価値だという、間の抜けた同義反復になってしまいます。

そもそも労働が労働力という商品として市場で売買取引されるためには、労働力という労働者からは独立した商品が成立していることが前提となるはずです。しかし、労働そのものは流動状態であって、生産現場ではじめて発動できるのですから、市場でその存在を商品として現わすことはありません。

これは矛盾していますが、これを措いてしても、労働が商品として売られるということが、生きた労働が貨幣すなわち対象化された労働と直接に交換されるという意味であるとすると、賃労働による資本主義的生産を廃止することになってしまい。等価交換を前提にすれば、1日の生きた労働と、それが結晶した分の貨幣額が交換されるのですから、資本家は剰余価値を得ることができません。等価交換ですから労働日はすべて労働力の価値となるわけですから、剰余価値は発生しません。他方で不等価交換を前提すれば、それは価値法則を廃止することになってしまいます。この交換が意味することは、賃労働によって立つ資本主義的生産そのものを廃止するか、価値法則を廃棄することであって、成り立つはずもありません。より多い労働とより少ない労働との交換を、対象化された労働つまり貨幣(賃金)と生きた労働つまり実際の労働との形態的相違から導き出すことによっては、剰余価値も不等価交換も説明することはできないのです。

ブルジョワ社会の表層では、労働者の賃金は労働の価格という見掛けのもとに現われる。すなわち一定の量の労働に対して支払われる一定の金額の貨幣という見掛けをとるのである。そこでは労働の価値という言葉が使われ、その価値を貨幣で表現したものが労働の必要価格または自然価格と呼ばれるものである。一方では労働の市場価格という表現が使われるが、これは必要価格よりも上か下に変動する価格である。

しかしある商品の価値は何か。商品を生産するために投じられた社会的な労働が、対象としての形態をとったものである。その価値の大きさはどのようにして計るのか。その商品のうちに含まれている労働の大きさによってである。それではたとえば12時間の労働日の価値はどのようにして決まるのか。それは12時間の労働日1日に含まれている12時間の労働によってである。これは何とも間の抜けた同義反復ではないだろうか。

労働が商品として市場で売られるためには、売られる以前にいずれにしても労働が存在していなければならないだろう。しかし労働者が労働に、自分から独立した存在を与えることができるのであれば、労働者は商品を売っていることになり、労働を売っていることにはならないだろう。

この矛盾を無視するとしても、生きた労働が貨幣と、すなわち対象化された労働と直接に交換されるならば、それは資本制的な生産を基盤として初めて自由に発達してきた価値法則を廃棄することになってしまう。あるいは賃金労働に依拠している資本制的な生産そのものを廃棄することになってしまうだろう。

12時間の労働日は、たとえば6シリングという貨幣価格で表現されるとしよう。それが等価物の交換であるならば、労働者は12時間の労働にたいして6シリングうけとっていることになる。労働者の労働の価格は、生産物の価格に等しいだろう。すると労働者は、労働の買い手のために増殖価値を生産することはないだろう。その6シリングが資本に変容することはないので、資本制的な生産の土台が崩壊するだろう。しかし労働者はこの資本制的な生産の土台の上で自分の労働を売るのであり、この土台の上でこそ、彼の労働は賃金労働なのである。

それでは労働者が12時間の労働にたいして6シリング以下のものしか、すなわち12時間の労働以下のものしか、うけとらないとしたらどうなるだろう。そのときはいわば12時間の労働が10時間の労働と、あるいは6時間の労働と交換されるということになってしまう。このように、等しくないものを等しいものと等置することは、価値の規定を廃棄することである。それだけではない。みずからを廃棄するこうした矛盾は、法則として表明したり、定式として示したりすることがそもそもできないのである。

より多くの労働がそれよりも少ない労働と交換されるのは、片方が対象化された労働であり、他方がいける労働であるという形態の違いによるものであるという説明が行われることもあるが、こうした説明は何の役にも立たない。ある商品の価値はそもそも、その商品に現実に対象化されている労働の量によって決まるのではなく、その生産に必要な労働の量によって決まるのであるから、この説明はさらにばかげたものである。

ある商品が6時間の労働時間を表現しているとしよう。さまざまな発明のおかげで、この商品が3時間で生産できるようになったとすると、すでに生産されている商品であっても、その価値は半減する。かつての6時間ではなく、今はその商品の表現する社会的な労働時間は3時間にすぎない。このように商品の価値の大きさを決定するのは、その生産に必要とされる労働の量であり、その商品に対象化された労働の形態ではないのである。

 

古典派経済学の誤謬

商品市場で直接に貨幣所持者と向かい合うのは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値をもってはいないのである。

「労働の価値」という表現では、価値概念はまったく消し去られているだけではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは、本質的な諸関係の現象形態を表わす範疇である。現象では事物が転倒されて現われることがよくあるということは、経済学以外では、どの科学でもかなりよく知られていることである。

古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに「労働の価値」という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか?を問題にした。やがて、古典派経済学は、需要供給関係の変動は、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。需要と供給が一致すれば、ほかの事情が変わらないかぎり、価格の振動はなくなる。しかし、そのときは、需要供給もまたなにごとかを説明することをやめる。労働の価格は、需要と供給とが一致していれば、需要供給関係にかかわりなく規定される労働の価格である。すなわち、労働の自然価格である。そして、これが本来分析されなければならない対象として見いだされたのである。あるいはまた、市場価格のかなり長い変動期間、たとえば1年をとって見たとき、その上がり下がりが相殺されて1つの中位の平均量に、1つの不変量になるということが見いだされた。この不変量は、もちろん、それ自身から互いに相殺される諸偏差とは別に規定されなければならなかった。このような、労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格、すなわち労働の「必要価格」(重農学派)または「自然価格」(アダム・スミス)は、他の商品の場合と同じに、ただ、貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。このようにして、経済学は、労働の偶然的な価格をつうじて労働の価値に到達しようと思った。他の諸商品と同じに、この価値も次にはさらに生産費によって規定された。だが、生産費─労働者の生産費、すなわち、労働者そのものを生産または再生産する費用とは何か?この問題は、経済学にとって、無意識のうちに最初の問題にとって代わった。というのは、経済学は、労働そのものの生産費を問題にしていてはぐるぐる回りするだけで少しも前進しなかったからである。だから、経済学が労働の価値と呼ぶものは、じつは労働力の価値なのであり、この労働力は労働者の一身のなかに存在するものであって、それがその機能である労働とは別ものであることは、ちょうど機械とその作業とが別ものであるようなものである。人々は、労働の市場価格といわゆる労働の価値との相違や、この価値の利潤率にたいする関係や、また労働によって生産される商品価値にたいする関係などにかかわっていたので、分析の進行が労働の市場価格からいわゆる労働の価値に達しただけではなく、この労働の価値そのものをさらに労働力の価値に帰着されるに至ったということを、ついに発見しなかったのである。このような自分自身の分析の成果を意識していなかったということ、「労働の価値」とか「労働の自然価格」とかいう範疇を問題の価値関係の最後の十全な表現として無批判に採用したということは、あとで見るように、古典派経済学を解決のできない混乱や矛盾に巻き込んだのであるが、それがまた俗流経済学には、原則としてただ外観だけに忠実なその浅薄さのための確実な作戦基地を提供したのである。

商品市場で直接に貨幣所有者、つまり買い手である資本家に向き合うのは、労働ではなくて労働者です。労働者が市場で実際に売るのは労働力(労働するための肉体的、精神的な能力、ある技能や技術で労働する能力)であって、生きている労働(実際の労働)が売られているのではありません。生きている労働は、商品市場ではなく、生産過程においてはじめて発動するのです。労働は価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値をもってはいない、価値をもっているのは、労働ではなく、労働力という労働する能力なのです。

「労働の価値」という表現は、地球の価値というように、空想的な表現であり、そこでは価値概念は消し去られています。この空想的な表現は生産関係そのものから生じており、本質的な関係の現象形態を示すカテゴリーなのです。

古典派経済学は、日常的に使われている「労働の価値」というカテゴリーを無批判に借りてきて、この価値がどのように規定されるのかを考えました。その場合、一般的な商品と同じように需要と供給によって市場で価格が決定するものでないことに気づくようになります。すなわち、需要と供給の関係の変化で説明できるのは市場での価格の変動、一定の水準の枠を越えて下または上に価格が変動する理由だけです。需要と供給が一致すれば価格は変動しません。需要と供給が一致していて、一定の水準の枠内で変動する価格は需要と供給の変動では説明できません。つまり、それ以外の理由で決まる自然価格であり、古典派経済学は労働の価格を自然価格として分析しようとしたのです。この不変な大きさは、偶然的な市場での労働の価格を支配し、決定する役割をはたすものであり、労働の「必要価格」(重農主義者)とか「自然価格」(アダム・スミス)と呼ばれました。この価格は他の商品の場合と同じように、貨幣によって表現された価値でしかありえないのです。

自然価格は他の商品と同じように生産費用によって決定されると考えられました。具体的に、労働の価格を決める生産費用とは労働者を生産する費用、すなわち労働者そのものを生産あるいは再生産するための費用ということになり、それは何かという循環論に陥ってしまい、本来の問題である「労働の価値」に決着をつけること(それが不合理な表現であること等)ができませんでした。古典派経済学は、実際には「労働の価値」ではなく「労働力の価値」とは何かという問題に到達していたにもかかわらず、「自分自身の分析のこの帰結を意識していなかった」のです。

商品市場で貨幣の所有者と直接に向き合うのは、実際には労働ではなく、労働者である。労働者が売るのは、彼の労働力である。彼の労働が始まると、その瞬間からその労働は彼のものではなくなり、彼がそれを売ることはできなくなる。労働は価値の実質であり、内在的な尺度であるが、労働そのものにはいかなる価値もない。

「労働の価値」という表現には、価値の概念がまったく拭いさられているだけでなく、その反対のものに変わってしまっている。それは地球の価値のような空想的な表現である。しかしこうした空想的な表現は生産関係そのものから生まれたものである。本質的な関係の現象形態を示すカテゴリーなのである。現象のうちでは事物がしばしば転倒して示されるものである。これは経済学をのぞいて、どの学問分野でもかなり周知のことがらである。

古典派経済学は、いかなる批判もせずに日常生活から「労働の価値」というカテゴリーを借りてきて、それからこの価値がどのようにして決まるのかと考えた。しかし古典派経済学はやがて、需要と供給の法則では、他のすべての商品の価格と同じように、労働の価格を決定できないことに気づくようになる。需要と供給の関係の変化で説明できるのは価格の変動だけなのであり、市場価格がある一定の水準よりも上あるいは下に変動する理由を説明できるだけなのである。需要と供給が一致すれば、他の事情が同一ならば、価格の変動はとまる。しかしそうなるともはや需要と供給の関係では何も説明するものがなくなってしまう。需要と供給が一致すれば、労働の価格は需要と供給とは無関係に決まる自然価格になる。そしてこの自然価格こそが、そもそも分析すべきものだったことが発見されたのである。

あるいは市場価格の変動をかなり長期間、すなわち1年をつうじて調べてみると、その上下の変動は中間の平均的な値、すなわち不変な大きさに収斂することが発見された。この不変な大きさは当然ながら、この不変の大きさからの偏差(これらの偏差はたがいに相殺される)では決定することができず、別の方法で決めなければならないのである。

この不変な大きさは、偶然的な市場での労働の価格を支配し、決定する役割をはたすものであり、労働の「必要価格」(重農主義者)とか「自然価格」(アダム・スミス)と呼ばれた。この価格は他の商品の場合と同じように、貨幣によって表現された価値でしかありえない。経済学はこのような方法で、労働の偶然的な価格をつうじてその価値に迫ることができると考えたのであった。

その後、この価値は他の商品と同じように、その生産費用によって決定されるものと考えられた。しかし生産費用とは何か、労働者を生産する費用とは、労働者自身を生産し、再生産する費用とは何か、労働者自身を生産し、再生産する費用とは何か。最初の問いに代わってこの問いが、経済学のうちに無意識に入り込んできた。というのも労働そのものの生産費用を問題にしても循環論に陥るだけで、先に進めなくなったからである。

経済学が労働の価値と呼んでいるものは、実際には労働力の価値であり、その労働力は労働者の人格のうちに存在するものであり、その機能である労働とは違うものである─。機械が、機械の作用とは違うものであると同じように。経済学では、労働の市場価格と労働のいわゆる価値との違いは何か、この価値と利潤率はどのような関係にあるのか、この価値と、労働によって生産された商品価値はどのような関係にあるのかといった問題に取り組んでいた。しかし分析を進めているうちに、分析の対象が労働の市場価格から労働の価値と呼ばれるものに変わってしまったことも、そしてこの労働そのもの価値が労働力の価値のうちに解消されてしまったことに気づかなかったのである。

いずれ検討するように、古典派経済学がこのように、解きがたい混乱と矛盾のうちに巻き込まれたのは、自分たちの分析の結果にあまりにも無頓着であり、考察している価値関係の最終的な適切な表現として、「労働の価値」や「労働の自然価格」などのカテゴリーを無批判的にうけいれたからである。そしてこれが、原則として表層的なみかけしか重視しない俗流経済学にとっては、考察のための確固とした土台となったのである。

 

労働賃金に示された労働力の価値と価格

そこで、われわれは、まず第一に、労働力の価値と価格が労賃というそれらの転化形態にどのように現われるか、を見ることにしよう。

人の知るように、労働力の日価値は労働者のある一定の寿命を基準として計算されており、この寿命には労働日のある一定の長さが対応する。かりに、慣習的な1労働日は12時間、労働力の日価値は3シリングで、これは6労働時間を表わす価値の貨幣表現だとしよう。もし労働者が3シリングを受け取るならば、彼は12時間機能する彼の労働力の価値を受け取るわけである。いま、もしこの労働力の日価値が1日の労働の価値として言い表わされるならば、12時間の労働は3シリングの価値をもつ、という定式が生ずる。労働力の価値は、このようにして、労働の価値を、または、貨幣で表わせば、労働の必要価格を規定する。反対に、もし労働力の価格が労働力の価値からずれるならば、労働の価格もまたいわゆる労働の価値からずれるわけである。

労働の価値というのは、ただ労働力の価値の不合理な表現でしかないのだから、とうぜんのこととして、労働の価値はつねに労働の価値生産物よりも小さくなければならない、ということになる。なぜならば、資本家はつねに労働力をそれ自身の価値の再生産に必要であるよりも長く機能させるからである。前の例では、12時間機能する労働力の価値は3シリングであって、これは、その再生産に労働力が6時間を必要とする価値である。ところが、この労働力の価値生産物は6シリングである。なぜならば、労働力は実際は12時間機能しており、そして労働力の価値生産物は労働力自身の価値によってではなく労働力の機能の継続時間によって定まるのだからである。こうして、6シリングという価値をつくりだす労働は3シリングという価値をもっている、という一見してばかげた結論が出てくるのである。

そういう古典派経済学への批判を踏まえた上で労働力の価値と価格が労働賃金という形で表われということを分析していきましょう。

例えば、1労働日が12時間、そして労働力の1日あたりの価値を3シリングでそれが6労働時間に相当するとして、労働者が3シリングをうけとると、12時間にわたって機能する彼の労働力の価値を受けとったということになります。

外見上では労働力の日価値が1日の労働の価値として表現されて、12時間の労働は3シリングの価値をもつ、という定式が生ずることになってしまいます。このようにして労働力の価値は、労働の価値を決めるのです。

これでは、12時間労働する労働力の価値は3シリングと言うことになります。これに対して、この労働力を再生産するためには6時間の労働力を必要とします。こうして、6シリングの価値を生みだす労働が3シリングの価値しかないという労働力の価格とその再生産のための費用が一致しない、一見したところばかげた結論が出てくるのです。

ここではます、労働力の価値と価格がどのように変化して、労働賃金のうちに表現されるようになるかを調べてみよう。

すでに考察してきたように、労働力の1日あたりの価値は、労働者の一定の寿命に基づいて計算されるのであり、その寿命には一定の労働日の長さが対応している。たとえばその土地で習慣として行われている労働日を12時間、労働力の1日あたりの価値を3シリングとしよう。その3シリングは6労働時間を表わす価値の貨幣表現であるとしよう。労働者が3シリングをうけとると、12時間にわたって機能する彼の労働力の価値をうけとったことになる。

この労働力の1日あたりの価値を(1日の労働力の価値)と呼ぶことにすれば、「12時間の労働は3シリングの価値をもつ」と表現することができる。このように労働力の価値は、労働の価値を決定する。あるいは貨幣表現で言えば、労働の必要価格を決定するのである。これにたいして、労働力の価格がその価値と一致しない場合には、労働の価格も、労働のいわゆる価値とは一致しなくなる。

労働の価値は、労働力の価値を不合理な形で表現したものにすぎない。そこで労働の価値が労働の価値生産物よりもつねに小さくならざるをえないのは明らかである。というのは、資本家はつねに労働力を、労働力の価値の再生産に必要な時間よりも長く機能させるからである。前の例では、12時間つづけて機能する労働力の価値は3シリングである。この価値を再生産するためには、6時間の労働力を必要とする。ところがこの労働力が生みだす価値生産物は6シリングである。この労働力は実際には12時間にわたって機能したのであり、その価値生産物は労働力自身の価値によってではなく、その機能が継続された時間の長さで決まるからである。こうして、6シリングの価値を生みだす労働が3シリングの価値しかないという、一見したところばかげた結論がえられたのである。

 

奴隷労働と賃金労働との違い

さらに、人の見るように、1労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表わしている3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の1労働日全体の価値または価格として現われる。つまり、労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行う強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである。

この不合理に気付かないと、3シリングの労働は賃金が払われない不払労働の6時間をふくむ12時間の1労働日全体の価値として表われてしまうことになります。つまり、労働賃金というのは、労働日には支払労働と不払労働とがあるということを痕跡すら残さず消し去ってしまうのです。その結果、すべての労働が支払労働であるかのように見えてしまうのです。

中世の農奴制の賦役であれば、農奴が自分のために行う労働は自分の農地で行い、領主のために行う労働は領主の農地で行い、空間的にも時間的にも明確に区別されています。あるいは、奴隷制の場合は奴隷は自分ために労働するということはなく、すべて主人のための労働として、奴隷当人にとっては不払労働となります。

現代の賃金労働は、奴隷労働の全労働が不払労働として現われるのとは全く正反対で、奴隷の場合には所有関係が、奴隷自身のための労働を隠蔽し、賃労働の場合には貨幣関係が、賃労働者の無償労働を隠蔽するのです。

さらに次のことが明らかになる。3シリングの価値のうちには、労働日のうちの支払労働の部分、すなわち6時間の労働が表現されているが、これが6時間の不払労働の時間を含む12時間の労働日全体の価値または価格として現われる。つまり労働賃金という形態は、労働日が必要労働と増殖労働に分割され、支払労働と不払労働に分割されるという痕跡をまったく拭いさってしまうのである。すべての労働が支払労働であるかのように現われてくる。

賦役労働であれば、賦役労働者が自分のために行なう労働と、領主のために行う強制労働は、空間的にも時間的にも、感覚的に明確に区別されている。奴隷労働においては、奴隷が自分自身の生活手段の価値を作りだしている労働日の部分、すなわち奴隷が実際には自分のためには働いている労働日の部分までもが、その主人のための労働として現われる。奴隷のすべての労働は、不払労働として現われるのである。

これとは逆に賃金労働という形態にあっては、増殖労働すなわち不払労働も、支払労働として現われる。奴隷労働においては所有関係によって、奴隷が自分自身のために働いていることが隠蔽されるが、賃金労働では貨幣関係によって、賃金労働者が無償で働いていることが隠蔽されるのである。

 

労働賃金の現象形態

このことから、労働力の価値と価格が労賃という形態に、すなわち労働そのものの価値と価格とに転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような、現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである。

労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を要するのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、その存在理由を理解することもたやすいことはないのである。

資本と労働とのあいだの交換は、人間の知覚には、さしあたりは他のすべての商品の売買とまったく同じ仕方で現われる。買い手は或る貨幣額を与え、売り手は貨幣とは違った或る物品を与える。法的意識はここではせいぜい素材の相違を認めるだけで、それは、法的な対等を意味する次のような言い方に表わされている。「汝が与えるために我は与える。汝がなすために我は与える、汝が与えるために我はなす、汝がなすために我はなす。」

さらに、交換価値と使用価値とはそれ自体としては通約のできない量なのだから、「労働の価値」とか「労働の価格」という表現も、「綿花の価値」とか「綿花の価格」とかいう表現以上に不合理なものには見えないのである。そのうえに、労働者は自分の労働を提供したあとで支払いを受けるということが加わってくる。ところが、貨幣は、支払手段として機能する場合には、供給された物品の価値あるいは価格をあとから実現するのである。したがって、いま論じている場合には、提供された労働の価値または価格をあとから実現する。最後に、労働者が資本家に供給する「使用価値」は、実際には彼の労働力ではなくてその機能なのであり、たとえば裁縫労働とか製靴労働とか紡績労働とかいう一定の有用労働である。その同じ労働が別の面から見れば一般的な価値形成要素であるということ、この性質によって労働は他のいっさいの商品から区別されるのであるが、それは普通の意識の領域の外にあるのである。

たとえば12時間の労働にたいして6時間の労働の価値生産物、たとえば3シリングを受け取る労働者の立場に立って見れば、彼にとっては実際には彼の12時間の労働が3シリングの購買手段である。彼の労働力の価値は彼の慣習的な生活手段の価値の変動につれて3シリングから4シリングに、または3シリングから2シリングに変わるかもしれないし、また、彼の労働力の価値はかわらなくても、その価格は需要供給関係の変動によって4シリングに上がったり2シリングに下がったりするかもしれないが、彼が与えるのはつねに12労働時間である。だから、彼の受け取る等価の大きさが変わるごとに、その変動は彼にとっては必然的に彼の12労働時間の価値または価格の変動として現われるのである。この事情は、労働日を一つの不変量として取り扱うアダム・スミスを惑わして、逆に、次のような主張をさせることになった。すなわち、生活手段の価値が変動したために同じ労働日が労働者にとってより多くの貨幣に表わされたより少ない貨幣に表わされたりしても、労働の価値は不変である、というのである。

他方、資本家のほうを見れば、もとろん彼はできるだけ多くの労働をできるだけ少ない貨幣で手に入れようとする。だから、実際に彼が関心をもつのは、ただ労働力の価格と労働力の機能がつくりだす価値との差だけである。だが、彼はどんな商品でもできるだけ安く買おうとするのであって、いつでも、自分の利潤は価値よりも安く買って高く売るという単純な詐取から生ずるのだと考えているのである。それゆえ、もし労働の価値というようなものが現実に存在していて彼がこの価値を現実に支払うのだとすれば、資本というものは存在しないだろうし、彼の貨幣も資本に転化しはしないだろうということは、彼には考えられないのである。

そのうえに、労賃の現実の運動が示す諸現象は、労働力の価値が支払われるのではなくて労働力の機能すなわち労働そのものの価値が支払われるのだということを証明しているように見える。このような現象をわれわれは二つの大きな部類に帰着させることができる。第一には、労働日の長さの変動につれて労賃の変動である。同じように言えば、機械を1週間賃借りするには1日賃借りするよりも高くかかるという理由から、機械の価値が支払われるのではなくてその作用の価値が支払われるのだと結論することもできるであろう。第二には、同じ機能をはたす別々の労働者たちの労賃の個人的差異である。このような個人的差異は、なんの飾り気もなしにあからさまに労働力そのものが売られる奴隷制度のもとでも見いだされるが、それがいろいろな幻想のきっかけになるようなことはない。ただ、平均よりも上の労働力の利益、または平均よりも下の労働力の不利益が、奴隷制度のもとでは奴隷所有者のものになり、賃金労働制度では労働者自身のものになるだけである。そして、そうなるのは、労働者の労働力が一方の場合には彼自身によって売られ、他方の場合には或る第三者によって売られるからである。

とにかく、「労働の価値および価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現われる本質的な関係としての労働力の価値および価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事態にかなり近く迫ってはいるが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョワの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。

以上のことから、労働力の価値と価格が労働賃金の形に変化することで、労働そのものの価値や価格が変化することが分かりました。このような現象は、実態を隠蔽し、その反対の事態を目に見えるようにするのです。その見てくれを反映するように労働者と資本との関係が法的に規定され、資本主義的な生産様式の神秘化(不払労働が支払労働に見えてしまう)や自由の幻想(資本家と労働者は自由な契約に基づいた対等の関係であるという)、それが資本主義こそ人類が理想とする生産社会であるという俗流経済学の弁護論的たわごとが生み出される基礎なのです。

こうした外観が生じるのは、次のような諸事情からです。

まず、資本と労働の交換は、一般的な商品の売買とおなじようなものとして捉えられました。買い手がある一定の金額を売り手に渡し、売り手は商品を渡す。法的には貨幣と商品という物品の違いが現われます。価値は等しい等価交換です。

さらに、「労働の価値」や「労働の価格」という表現は、「綿花の価値」や「綿花の価格」という表現と同じように合理的なものにみえる。しかも、綿花が出来上がったものとして売買されるのと同じように労働も出来上がったものとして売買される、つまり労働者は労働を提供した後で、その支払われるのが労働賃金であるように見えてしまいます。

現実には、労働者が資本に提供するのは彼の労働力ではなく、労働力の機能つまり一定の具体的な有用労働、例えば裁縫労働、製靴労働、紡績労働のようなもので、同時に価値形成要素であるという一般的な商品とは異なる特徴をもったものです。しかし、この特徴は、一般的、つまりは外見的には科学的分析によらなければ分からず、全く意識されないものです。

12時間労働の対価として、たとえば6時間労働の価値生産物である3シリングをうけとる労働者の立場から見ると、12時間の労働は3シリングを得るための手段です。彼の労働力の価値は彼の生活手段の価値が変動すれば、3シリングが4シリングに反対に2シリングなる可能性もある。そのため、労働力の価値が同一であっても市場の需要と供給の変化によって変動するかもしれません。

増えるにしても減るにしても、労働者は12時間の労働を提供します。彼が受け取る額が変動すると、彼はそれが提供した12時間の労働に対するものだとして、12時間の労働の価値、価格が変動したものとして表われます。つまり、労賃の変動を12時間労働の価値の変動として意識してしまうことになります。

反対に資本家の立場から見れば、できるだけ少ない金額で、できるだけ多くの労働の提供を受けようとします。資本家は商品というものをできるだけ安い買い取りたいと考え、それに投下した費用以上の額で商品を売ることで利潤を得られると考えています。他の商品と同じように「労働の価値」にも支払っていると理解するのだから、「労働の価値」という考えを不都合には思わず、「労働の価値」を現実に支払えば資本は実在しないことなど考えられないのです。

労働賃金の現実の運動は、労働力の価値が支払われるのではなく、その機能である労働そのものの価値が支払われるということを証明するかの現象を見せる。このような現象は次の2つに分類できます。

第一には、労働日の長さを延長することによる変動です。第二には、個人の能力差によって同じ労働時間の賃金が変動することです。

いずれの場合も、この「労働の価値と価格」とか「労働賃金」という現象形態が、現象の背後にある本質的な関係、すなわち労働力の価値と価格とは異なるものであることを隠蔽し、この隠された背景は古典派経済学はそれを見つけることはできないのです。

資本家と賃労働者のあいだで売買された商品は労働力という独特の商品です。それは、労働者の精神および身体と一体のものとして存在しており、その生産的消費を通じて新たな価値と剰余価値を生むものです。それはまさに金の卵を生む鶏であり、資本家のあらゆる利潤の真の源泉です。しかし、この関係は流通表面においてはそのままの形では現われることはありません。商品の買い手としての資本家が、商品の売り手としての労働者に支払う対価は、単なる商品代金としてではなく、労賃つまり労働賃金として現われます。しかし、この労賃は、一般的な認識においては、労働力商品の価値を実現するものとして現われるのではなく、「労働の価格」として、すなわち、労働者が実際に行う具体的有用労働の価格として、したがって労働者が行った労働に対する正当な対価ないし報酬として現われるのです。

この表われ方では、搾取関係が覆い隠されてしまうことになります。資本家が獲得する剰余価値は、労働者が生産過程で実際に作り出す新たな価値量と、労働力商品自身が持っている価値の大きさとの差額でした。ところが、もともと賃金が、労働者が行った労働そのものに対する価格ないし対価であるとすれば、資本は労働者が生産過程においてなした生産的労働としての貢献分をすべて支払っていることになってしまい、労働者からの搾取は消えてなくなり、剰余価値の源泉が見えなくなってしまうことになります。

封建社会においては、生産者たる農民が生産した総生産物のうち、自分(と家族)が生きていくのに必要な分(および来年の種まき用の分)を除いてそれ以外が「年貢」ないし「貢納」などとして領主に取り上げられます。あるいは、夫役として一定期間、領主のために労働そのものが提供させられる。この関係においては、労働者が自分の生産したもののうち自己の労働力を再生産する分を超えた分(ないしは労働そのもの)が非生産者によって搾取されていることは明白です。

しかし、資本主義的生産関係においては、このような明瞭さ、透明性は消えてなくなります。目に見える使用価値としての生産物が、自分の分とそれ以外の分とに分割されるのではなく、それ自体としては目に見えない価値生産物が分割されるのであり、この搾取関係は商品・貨幣関係によって覆い隠されているわけです。労働者が直接的に受け取るのは、自分の作った生産物の一部ではなく、直接的にはそれとは別に資本家から支払われる貨幣という抽象的なものです。それが体現している価値量が、自分が新たにつくり出した価値部分(価値生産物)よりも小さいかどうかは、見た目ではまったくわかりません。価値は、使用価値ないし商品という物的外皮に覆われており、この生産物の価値のどこからどこまでが自分が新たに作り出した部分であって、どこからどこまでが生産手段価値がただ再現しているだけの部分なのかは、高度な抽象力でてしか分析できないのです。

そして、この社会関係は、賃金が労働力価値の貨幣表現ではなく、労働者がなした労働の価格であるとされることでいっそう物神化されるのです。生産過程において労働者がどれほど使用価値的に、あるいは価値的に貢献しようと、それはすべてあらかじめ賃金によって評価され、実現されている、というわけです。

古典派経済学者たちもその後の俗流経済学者たちも、賃金を「労働の価格」として把握していたし、今日においても社会通念として、賃金は「労働の価格」とみなされていました。そして、その場合の「労働」とはもちろんのこと、価値を生産する労働のことではなく、何らかの具体的な使用価値をつくり出す具体的有用労働のことです。では、「労働力の価値」が「具体的有用労働の価格」として転倒的に現象する理由はいったい何でしょうか?

まず第一に、これは、あらゆる商品において生じている転倒が労働力商品に関しても生じているとみなすことができます。我々は商品を買うとき、その使用価値ないし効用に対してお金を払っていると思っています。たとえば、我々がパソコンを買うとき、その値段はパソコンの具体的な使用価値、すなわち文章を打って表示することができる、表やグラフをつくることができる、インターネットや電子メールをすることができる、ゲームをしたりDVDを観ることができる、等々の諸機能に対する対価だと思っているわけです。たしかに、我々は商品のそうした使用価値=効用を目的として商品を買うのですが、その価格はその具体的使用価値の代金なのではなく、そうした使用価値を消費過程で生み出すことのできるその現物本体の価格なのであり、したがってその価格の大きさは、それが生み出す使用価値ないし効用の大きさによってではなく、その本体を生産するのに要した社会的必要労働量によって規定されるのです。

しかし、買い手は、自分が商品を買う目的とその商品の価格とを直接に結びつけます。自分がその商品を買うのはその商品を消費したときに自分が得る効用のためなのだから、自分が懐から出すお金の大小は、その効用の大きさの大小によって決まると考えるわけです。ここには、「価値」と「使用価値」との取り違えだけでなく、後者に関しても「現物形態としての使用価値」と「効用としての使用価値」との取り違えが見られます。

それと同じように、労働力の場合も、その価格は、その労働力本体ではなく、その具体的な効用、すなわちそれを消費したときに発揮される具体的有用労働の対価として現われるのです。資本家が労働者を雇うのは、ある特定の生産過程において特定の労働を行なわせるためである。部品の組み立てであったり、塗装であったり、皿洗いであったり、旋盤であったり、荷物運びであったり、である。資本家は直接的には、あくまでもそうした具体的な有用労働を行わせるために労働者を雇うのであり、したがって、その価格はその具体的な有用労働の対価として現われます。

そのかぎりでは、労働力の価値ないし価格が「労働の価格」として現われるのは、労働力商品にのみ特有なことなのではなく、商品一般に生じているのです。

ところで、労働力商品の種々の特殊性はこの転倒と無関係ではないのです。すなわち、労働力という商品は生きた人間の精神および身体のうちに不可分に統合され、それと一体になっているものです。他の通常の物的商品のように、それ自体を人間の外部に分離して存在する「物」として取り扱うことはできません。それゆえ、一般の商品よりもいっそうこの取り違えは生まれやすい。一般の商品の場合には、その商品の消費過程で生じる「効用としての使用価値」とは別に、その「現物形態としての使用価値」を想定することはより容易であったし、したがって、古典派経済学者が考えるように、その商品の価格を、効用の価格としてではなく、それとは区別される、「現物形態としての使用価値」が有している価値として、したがってその現物を生産するのに必要な社会的労働量で規定することはなおさら困難である。そういうことです。

それに対して、労働者が行う具体的な労働は目に見えるものです。それはある一定の動作として、動きとして、運動として、行為として、はっきりと目に見え、特定可能なものです。それゆえ、労働者に支払われるものは、この「目に見える」ものの価格として観念されるのはある程度必然的です。さらに、この労働力が人間の精神および身体と一体であることから、この労働力を現実に買い手に譲渡するためには、買い手のもとで実際に労働するしかないわけです。つまり、労働を与えることによってしか労働力を譲渡することができません。それゆえ、労働者が資本家に売っているものは労働力ではなく労働そのものであるという観念はいっそう強化されることになります。そのため、商品価値の本質を見抜いた古典派経済学者たちも、賃金を引き続き「労働の価格」として記述しつづけたのです。

基本的には、労働力の価値が「労働の価格」として現象する要因の主要なものは以上の2つです。すなわち、商品一般に見られる「取り違え」に加えて、人間の精神および身体と一体になっているという労働力商品の現物形態としての特殊性がそうした取り違えをいっそう容易にすること、です。この2つの力学が合成されて、賃金=「労働の価格」という観念が普遍的に成立します。賃金が通常は後払いされるという事情もまたこうした状況を補強するが、それはまったく非本質的です。

このようにして、労働力価値と価格が労働賃金の形に変化すること、労働そのものの価値と価格に変化することが決定的に重要であることが分かる。この現象形態は、実際の関係をみえなくしながら、まさにその反対の姿を提示するのである。この現象形態を土台として、労働者と資本家についてのあらゆる法的な概念が生まれ、資本制的な生産様式のあらゆる神秘化が行われ、自由についてのあらゆる幻想が生まれ、俗流経済学のあらゆる護教的な詭弁が成立する。

世界史は、労働賃金の秘密を説き明かすために長い時間をかけたが、この現象形態の必然性とその存在理由ほど、たやすく理解できるものはないのである。

資本と労働のあいだの交換は、最初は他のすべての商品の購入および販売と同じ種類のものとして知覚される。買い手がある一定の金額の貨幣を[売り手に]与え、売り手は貨幣とは違う物を[買い手に]販売する。法的な意識からみると、ここにはせいぜい素材の違いしか存在しない。これは法的には「汝が与えんがために我は与える。汝がなさんがために我は与える。汝が与えんがために我はなす。汝がなさんがために我はなす」という等価な公式である。

さらに交換価値と使用価値は、それ自体としては通約することのできない量である。そのため「労働の価値」や「労働の価格」という表現は、「綿花の価値」や「綿花の価格」という表現と同じように合理的なものにみえる。しかも、労働者が支払いをうけるのは、働いた後であるという事情も加わる。その場合には支払手段として機能する貨幣は、供給された物、この場合には供給された労働の価値あるいは価格を、[その物をうけとった]後になってから現実のものとするのである。

最後につけ加えておけば、労働者が資本家に供給する「使用価値」は、実際には彼の労働力ではなく、労働力の機能であり、具体的には裁縫労働、製靴労働、紡績労働などの一定の有用労働である。この同じ労働が他面からみると一般的な価値形成要素なのである。これが労働が他のあらゆる商品と異なる特徴であるが、この特徴は通常は意識されない。

ここで12時間労働の対価として、たとえば6時間労働の価値生産物である3シリングをうけとる労働者の立場に立ってみよう。彼にとっては実際に、12時間の労働は3シリングを購入するための手段である。彼の労働力の価値は、彼が習慣的に購入する生活手段の価値が変動すると、3シリングから4シリングに増えるかもしれないし、3シリングから2シリングに減るかもしれない。あるいは彼の労働力の価値が同一であっても、需要と供給の関係の変化によって、その価格は4シリングに増えたり、2シリングに減ったりするかもしれない。

いずれの場合にも彼は12時間の労働を提供する。彼がうけとる等価物の大きさが変動すると、彼にとっては自分の12時間の労働の価値ないし価格が変動したものとして現われるのは必然的なことである。この事情のために労働日は不変であるとみなすアダム・スミスは、反対に次のような主張をするようになった。すなわちスミスは生活手段の価値は変動するかもしれないし、同じ労働日が労働者にとっては多くの貨幣として現れるか、少ない貨幣として現れるかもしれないが、労働の価値は不変であると主張したのである。

次に、資本家の立場に立ってみよう。彼はできるだけ小額の貨幣で、できるだけ多くの労働を獲得しようとする。そのため彼が実際に関心をもつのは、労働力の価格を、労働力の機能が生みだす価値のあいだの差額だけである。しかし資本家はすべての商品をできるだけ安価に購入したいと考えている。そして自分が利潤を手にするのは、いつでも実際の価値よりも安く購入して、実際の価値よりも高く販売するといういわば単純な〈いんちき〉によってであると考えているのである。そのため資本家は、もしも労働の価値というものが実際に存在していて、彼が実際にその価値な支払いをしているならば、資本は存在しえず、彼の貨幣は資本に変容しないことを洞察できないのである。

さらに労働賃金の現実の運動が作りだすさまざまな現象からは、支払いの対象となっているのが労働力の価値ではなく、労働力の機能の価値、すなわち労働そのものの価値であることを証明しているようにみえる。これらの現象は大きく分けて二つのグループに分類できる。

第一は、労働日の長さが変化すると、労働賃金の額が変動することである。機械について考えてみると、機械を1週間だけ賃借するには、1日だけ賃借するよりも高い費用がかかる。そこで支払いの対象となっているのは機械そのものではなく、機械の機能の価値であることが結論できる[そして労働賃金も同じように考えてしまうのである]

第二は、労働者の賃金は、たとえ同じ機能をはたす仕事についても、個人ごとに異なることである。このような違いは奴隷制にもみられるが、奴隷制では労働力そのものがいかなる迷彩もほどこさずにそのまま正直に、公然と売られるので、そこに幻想が入り込む余地はない。ただし奴隷制では、奴隷の労働が平均を上回った場合の利益も、平均を下回った場合の損害も、奴隷の所有者にかかってくるが、賃金労働のシステムでは、それが労働者にかかってくるという違いがある。なぜなら労働賃金の場合には労働力を売るのは労働者自身であるが、奴隷制の場合には第三者が売るからである。

いずれにしてもこの「労働の価値と価格」とか「労働賃金」という現象形態は、現象の背後にある本質的な関係、すなわち労働力の価値と価格とは異なるものである。そしてあらゆる現象形態とその隠された背景について語りうることが、この労働賃金という現象形態にもあてはまる。すなわち現象形態はありきたりな思考形態として、直接にひとりでに再生産されていくが、その隠された背景は、科学によって初めて発見されなければならないのである。古典派経済学は、事態の真実にかなり近づいているが、それを意識的に表現していない。ブルジョワ的な大井のちに安住しているかぎり、古典派経済学にはそれができないのである。

 

 

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