資本家と賃労働者のあいだで売買された商品は労働力という独特の商品です。それは、労働者の精神および身体と一体のものとして存在しており、その生産的消費を通じて新たな価値と剰余価値を生むものです。それはまさに金の卵を生む鶏であり、資本家のあらゆる利潤の真の源泉です。しかし、この関係は流通表面においてはそのままの形では現われることはありません。商品の買い手としての資本家が、商品の売り手としての労働者に支払う対価は、単なる商品代金としてではなく、労賃つまり労働賃金として現われます。しかし、この労賃は、一般的な認識においては、労働力商品の価値を実現するものとして現われるのではなく、「労働の価格」として、すなわち、労働者が実際に行う具体的有用労働の価格として、したがって労働者が行った労働に対する正当な対価ないし報酬として現われるのです。
この表われ方では、搾取関係が覆い隠されてしまうことになります。資本家が獲得する剰余価値は、労働者が生産過程で実際に作り出す新たな価値量と、労働力商品自身が持っている価値の大きさとの差額でした。ところが、もともと賃金が、労働者が行った労働そのものに対する価格ないし対価であるとすれば、資本は労働者が生産過程においてなした生産的労働としての貢献分をすべて支払っていることになってしまい、労働者からの搾取は消えてなくなり、剰余価値の源泉が見えなくなってしまうことになります。
封建社会においては、生産者たる農民が生産した総生産物のうち、自分(と家族)が生きていくのに必要な分(および来年の種まき用の分)を除いてそれ以外が「年貢」ないし「貢納」などとして領主に取り上げられます。あるいは、夫役として一定期間、領主のために労働そのものが提供させられる。この関係においては、労働者が自分の生産したもののうち自己の労働力を再生産する分を超えた分(ないしは労働そのもの)が非生産者によって搾取されていることは明白です。
しかし、資本主義的生産関係においては、このような明瞭さ、透明性は消えてなくなります。目に見える使用価値としての生産物が、自分の分とそれ以外の分とに分割されるのではなく、それ自体としては目に見えない価値生産物が分割されるのであり、この搾取関係は商品・貨幣関係によって覆い隠されているわけです。労働者が直接的に受け取るのは、自分の作った生産物の一部ではなく、直接的にはそれとは別に資本家から支払われる貨幣という抽象的なものです。それが体現している価値量が、自分が新たにつくり出した価値部分(価値生産物)よりも小さいかどうかは、見た目ではまったくわかりません。価値は、使用価値ないし商品という物的外皮に覆われており、この生産物の価値のどこからどこまでが自分が新たに作り出した部分であって、どこからどこまでが生産手段価値がただ再現しているだけの部分なのかは、高度な抽象力でてしか分析できないのです。
そして、この社会関係は、賃金が労働力価値の貨幣表現ではなく、労働者がなした労働の価格であるとされることでいっそう物神化されるのです。生産過程において労働者がどれほど使用価値的に、あるいは価値的に貢献しようと、それはすべてあらかじめ賃金によって評価され、実現されている、というわけです。
古典派経済学者たちもその後の俗流経済学者たちも、賃金を「労働の価格」として把握していたし、今日においても社会通念として、賃金は「労働の価格」とみなされていました。そして、その場合の「労働」とはもちろんのこと、価値を生産する労働のことではなく、何らかの具体的な使用価値をつくり出す具体的有用労働のことです。では、「労働力の価値」が「具体的有用労働の価格」として転倒的に現象する理由はいったい何でしょうか?
まず第一に、これは、あらゆる商品において生じている転倒が労働力商品に関しても生じているとみなすことができます。我々は商品を買うとき、その使用価値ないし効用に対してお金を払っていると思っています。たとえば、我々がパソコンを買うとき、その値段はパソコンの具体的な使用価値、すなわち文章を打って表示することができる、表やグラフをつくることができる、インターネットや電子メールをすることができる、ゲームをしたりDVDを観ることができる、等々の諸機能に対する対価だと思っているわけです。たしかに、我々は商品のそうした使用価値=効用を目的として商品を買うのですが、その価格はその具体的使用価値の代金なのではなく、そうした使用価値を消費過程で生み出すことのできるその現物本体の価格なのであり、したがってその価格の大きさは、それが生み出す使用価値ないし効用の大きさによってではなく、その本体を生産するのに要した社会的必要労働量によって規定されるのです。
しかし、買い手は、自分が商品を買う目的とその商品の価格とを直接に結びつけます。自分がその商品を買うのはその商品を消費したときに自分が得る効用のためなのだから、自分が懐から出すお金の大小は、その効用の大きさの大小によって決まると考えるわけです。ここには、「価値」と「使用価値」との取り違えだけでなく、後者に関しても「現物形態としての使用価値」と「効用としての使用価値」との取り違えが見られます。
それと同じように、労働力の場合も、その価格は、その労働力本体ではなく、その具体的な効用、すなわちそれを消費したときに発揮される具体的有用労働の対価として現われるのです。資本家が労働者を雇うのは、ある特定の生産過程において特定の労働を行なわせるためである。部品の組み立てであったり、塗装であったり、皿洗いであったり、旋盤であったり、荷物運びであったり、である。資本家は直接的には、あくまでもそうした具体的な有用労働を行わせるために労働者を雇うのであり、したがって、その価格はその具体的な有用労働の対価として現われます。
そのかぎりでは、労働力の価値ないし価格が「労働の価格」として現われるのは、労働力商品にのみ特有なことなのではなく、商品一般に生じているのです。
ところで、労働力商品の種々の特殊性はこの転倒と無関係ではないのです。すなわち、労働力という商品は生きた人間の精神および身体のうちに不可分に統合され、それと一体になっているものです。他の通常の物的商品のように、それ自体を人間の外部に分離して存在する「物」として取り扱うことはできません。それゆえ、一般の商品よりもいっそうこの取り違えは生まれやすい。一般の商品の場合には、その商品の消費過程で生じる「効用としての使用価値」とは別に、その「現物形態としての使用価値」を想定することはより容易であったし、したがって、古典派経済学者が考えるように、その商品の価格を、効用の価格としてではなく、それとは区別される、「現物形態としての使用価値」が有している価値として、したがってその現物を生産するのに必要な社会的労働量で規定することはなおさら困難である。そういうことです。
それに対して、労働者が行う具体的な労働は目に見えるものです。それはある一定の動作として、動きとして、運動として、行為として、はっきりと目に見え、特定可能なものです。それゆえ、労働者に支払われるものは、この「目に見える」ものの価格として観念されるのはある程度必然的です。さらに、この労働力が人間の精神および身体と一体であることから、この労働力を現実に買い手に譲渡するためには、買い手のもとで実際に労働するしかないわけです。つまり、労働を与えることによってしか労働力を譲渡することができません。それゆえ、労働者が資本家に売っているものは労働力ではなく労働そのものであるという観念はいっそう強化されることになります。そのため、商品価値の本質を見抜いた古典派経済学者たちも、賃金を引き続き「労働の価格」として記述しつづけたのです。
基本的には、労働力の価値が「労働の価格」として現象する要因の主要なものは以上の2つです。すなわち、商品一般に見られる「取り違え」に加えて、人間の精神および身体と一体になっているという労働力商品の現物形態としての特殊性がそうした取り違えをいっそう容易にすること、です。この2つの力学が合成されて、賃金=「労働の価格」という観念が普遍的に成立します。賃金が通常は後払いされるという事情もまたこうした状況を補強するが、それはまったく非本質的です。
このようにして、労働力価値と価格が労働賃金の形に変化すること、労働そのものの価値と価格に変化することが決定的に重要であることが分かる。この現象形態は、実際の関係をみえなくしながら、まさにその反対の姿を提示するのである。この現象形態を土台として、労働者と資本家についてのあらゆる法的な概念が生まれ、資本制的な生産様式のあらゆる神秘化が行われ、自由についてのあらゆる幻想が生まれ、俗流経済学のあらゆる護教的な詭弁が成立する。
世界史は、労働賃金の秘密を説き明かすために長い時間をかけたが、この現象形態の必然性とその存在理由ほど、たやすく理解できるものはないのである。
資本と労働のあいだの交換は、最初は他のすべての商品の購入および販売と同じ種類のものとして知覚される。買い手がある一定の金額の貨幣を[売り手に]与え、売り手は貨幣とは違う物を[買い手に]販売する。法的な意識からみると、ここにはせいぜい素材の違いしか存在しない。これは法的には「汝が与えんがために我は与える。汝がなさんがために我は与える。汝が与えんがために我はなす。汝がなさんがために我はなす」という等価な公式である。
さらに交換価値と使用価値は、それ自体としては通約することのできない量である。そのため「労働の価値」や「労働の価格」という表現は、「綿花の価値」や「綿花の価格」という表現と同じように合理的なものにみえる。しかも、労働者が支払いをうけるのは、働いた後であるという事情も加わる。その場合には支払手段として機能する貨幣は、供給された物、この場合には供給された労働の価値あるいは価格を、[その物をうけとった]後になってから現実のものとするのである。
最後につけ加えておけば、労働者が資本家に供給する「使用価値」は、実際には彼の労働力ではなく、労働力の機能であり、具体的には裁縫労働、製靴労働、紡績労働などの一定の有用労働である。この同じ労働が他面からみると一般的な価値形成要素なのである。これが労働が他のあらゆる商品と異なる特徴であるが、この特徴は通常は意識されない。
ここで12時間労働の対価として、たとえば6時間労働の価値生産物である3シリングをうけとる労働者の立場に立ってみよう。彼にとっては実際に、12時間の労働は3シリングを購入するための手段である。彼の労働力の価値は、彼が習慣的に購入する生活手段の価値が変動すると、3シリングから4シリングに増えるかもしれないし、3シリングから2シリングに減るかもしれない。あるいは彼の労働力の価値が同一であっても、需要と供給の関係の変化によって、その価格は4シリングに増えたり、2シリングに減ったりするかもしれない。
いずれの場合にも彼は12時間の労働を提供する。彼がうけとる等価物の大きさが変動すると、彼にとっては自分の12時間の労働の価値ないし価格が変動したものとして現われるのは必然的なことである。この事情のために労働日は不変であるとみなすアダム・スミスは、反対に次のような主張をするようになった。すなわちスミスは生活手段の価値は変動するかもしれないし、同じ労働日が労働者にとっては多くの貨幣として現れるか、少ない貨幣として現れるかもしれないが、労働の価値は不変であると主張したのである。
次に、資本家の立場に立ってみよう。彼はできるだけ小額の貨幣で、できるだけ多くの労働を獲得しようとする。そのため彼が実際に関心をもつのは、労働力の価格を、労働力の機能が生みだす価値のあいだの差額だけである。しかし資本家はすべての商品をできるだけ安価に購入したいと考えている。そして自分が利潤を手にするのは、いつでも実際の価値よりも安く購入して、実際の価値よりも高く販売するといういわば単純な〈いんちき〉によってであると考えているのである。そのため資本家は、もしも労働の価値というものが実際に存在していて、彼が実際にその価値な支払いをしているならば、資本は存在しえず、彼の貨幣は資本に変容しないことを洞察できないのである。
さらに労働賃金の現実の運動が作りだすさまざまな現象からは、支払いの対象となっているのが労働力の価値ではなく、労働力の機能の価値、すなわち労働そのものの価値であることを証明しているようにみえる。これらの現象は大きく分けて二つのグループに分類できる。
第一は、労働日の長さが変化すると、労働賃金の額が変動することである。機械について考えてみると、機械を1週間だけ賃借するには、1日だけ賃借するよりも高い費用がかかる。そこで支払いの対象となっているのは機械そのものではなく、機械の機能の価値であることが結論できる[そして労働賃金も同じように考えてしまうのである]。
第二は、労働者の賃金は、たとえ同じ機能をはたす仕事についても、個人ごとに異なることである。このような違いは奴隷制にもみられるが、奴隷制では労働力そのものがいかなる迷彩もほどこさずにそのまま正直に、公然と売られるので、そこに幻想が入り込む余地はない。ただし奴隷制では、奴隷の労働が平均を上回った場合の利益も、平均を下回った場合の損害も、奴隷の所有者にかかってくるが、賃金労働のシステムでは、それが労働者にかかってくるという違いがある。なぜなら労働賃金の場合には労働力を売るのは労働者自身であるが、奴隷制の場合には第三者が売るからである。
いずれにしてもこの「労働の価値と価格」とか「労働賃金」という現象形態は、現象の背後にある本質的な関係、すなわち労働力の価値と価格とは異なるものである。そしてあらゆる現象形態とその隠された背景について語りうることが、この労働賃金という現象形態にもあてはまる。すなわち現象形態はありきたりな思考形態として、直接にひとりでに再生産されていくが、その隠された背景は、科学によって初めて発見されなければならないのである。古典派経済学は、事態の真実にかなり近づいているが、それを意識的に表現していない。ブルジョワ的な大井のちに安住しているかぎり、古典派経済学にはそれができないのである。