30シリングという糸価値が20ポンドの糸のうちにあるならば、この価値の8割すなわちその不変部分24シリングは、生産物の8割すなわち16ポンドの糸のうちにある。そのうち13と3分の1ポンドは原料すなわち紡がれた綿花の価値20シリングを表わしており、2と3分の2ポンドは消費された補助材料や労働手段すなわち紡錘などの価値4シリングを表わしている。
要するに、13と3分の1ポンドの糸は、20ポンドの糸という総生産物に紡がれたすべての綿花、すなわち総生産物の原料をわしているが、それ以上には何も表わしてはいない。そのなかには、13と3分の1シリングの価値をもつ13と3分の1ポンドの綿花だけしか含まれていないが、しかし、6と3分の2シリングというそれに付け加えられた価値が、残りの6と3分の2ポンドの糸に紡がれた綿花の等価をなしているのである。それは、ちょうど、6と3分の2ポンドの糸からは綿花が引き抜かれて、総生産物中のすべての綿花が13と3分の1ポンドの糸に詰め込まれたようなものである。これに反して、この13と3分の1ポンドの糸には、今では、消費された補助材料や労働手段の価値も、紡績過程で創造された新価値も、全然含まれていないのである。
同様に、不変資本の残り(=4シリング)が含まれている別の2と3分の2ポンドの糸は、20ポンドの糸という総生産物に消費された補助材料と労働手段の価値のほかには、なにも表わしていないのである。
それゆえ、生産物の10分の8、すなわち16ポンドの糸は、肉体的には、使用価値として見れば、糸としては、残りの生産物部分とまったく同じに紡績労働の形成物であるにもかかわらず、この関連では少しも紡績労働を、つまり紡績過程そのもので吸収された労働を、含んではいないのである。それは、まるで紡績なしに糸になったかのようであり、その糸の姿はただの幻ででもあるかのようである。じっさい、もし資本家がそれを24シリングで売って、それで彼の生産手段を買いもどすならば、16ポンドの糸はただ綿花や紡錘や石炭などが仮装したものでしかないということがわかるのである。
これと反対に、あとに残る10分の生産物、すなわち4ポンドの糸は、今では、12時間の紡績過程で生産された6シリングの新価値のほかにはなにも表わしてはいない。消費された原料や労働手段の価値のなかからこの糸に含まれていたものは、すでに抜き出されて最初の16ポンドの糸に合体されてしまった。20ポンドの糸に具体化された紡績労働が、生産物の10分の2に集約されているのである。まるで、紡績工が4ポンドの糸を空中で紡いだか、または、人間労働の助力なしに天然に存在していて生産物には少しも価値をつけ加えない綿花や紡錘で紡いだかのようである。
こうして毎日の紡績過程の全価値生産物が4ポンドの糸となって存在するのであるが、この4ポンドのうち、半分はただ消費された労働力の補填価値だけを表わし、つまり3シリングの可変資本だけを表わし、残りの2ポンドの糸はただ3シリングの剰余価値だけを表わしているのである。
紡績工の12労働時間は6シリングに対象化されるのだから、30シリングという糸価値には60労働時間が対象化されている。それは20ポンドの糸となって存在するのであるが、この糸の10分の8すなわち16ポンドは、紡績過程以前に過ぎ去った48時間労働の物質化、すなわち糸の生産手段に対象化された労働が物質化であり、これにたいして、この糸の10分の2すなわち4ポンドは、紡績過程そのもので支出された12労働時間の物質化である。
価値の比例配分で見ていきましょう。20重量ポンドの紡ぎ糸の価値は30シリングです。この価値の8割を占めるのが不変資本で、その分量は16重量ポンドの紡ぎ糸に相当します。
20重量ポンドの綿糸(総価値)=16重量ポンド(c)+2重量ポンド(v)+2重量ポンド(m)
このうち、原料の綿花に相当するのは、16重量ポンド×20シリング(原料)/24シリング(不変資本=生産手段)で計算された13と3分の1重量ポンドです。残りの2と3分の2重量ポンドが使い尽くした補助材料や紡錘の磨耗分です。
この13と3分の1重量ポンドの紡ぎ糸は、原料となった綿花を表わしています。これを綿花の価値に換算すると13と3分の1シリングとなります。そして、これに付け加えられる6と3分の2シリングの価値は、6と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸から綿花を引き抜いて、総生産物のうちのすべての綿花を13と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸の中に詰め込んでいるかのようです。つまり、綿花の価値を相対的に表している。同じように不変資本の残りの生産手段の部分は2と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸に相当し、そこに使い尽くされた補助材料と労働手段の価値が表現されています。
生産物の8割を占める不変資本の部分に相当する16重量ポンドの紡ぎ糸を使用価値として見ると、紡績過程で形成されたものですが、綿花が紡ぎ糸の変身したかのように見えます。
また、残りの2割の可変資本の部分は12時間の労働により生産された6シリング相当の新しい価値を示しています。20重量ポンドの紡ぎ糸を生産した紡績労働は、この生産物の2割の部分に濃縮されています。まるで紡績工が4重量ポンドの紡ぎ糸を空中で紡いだかのようです。
このようにして、新たに生産された4重量ボンド相当の紡ぎ糸のうち、2重量ポンド分は可変資本を表わし、残りの2重量ポンド分は増殖価値を表します。
紡績工の12時間の労働時間は6シリングの価値で表され、30シリングの紡ぎ糸の価値に60時間の労働が込められています。残り8割の16重量ポンドは、紡績過程が行われる以前の過去の労働が物質化されたものです。
以上のように比例按分することができます。

20重量ポンドの紡ぎ糸のうちに30シリングの価値が存在しているのだから、この価値の8割を占める24シリングの不変部分は、生産物の8割、すなわち16重量ポンドの紡ぎ糸の中に存在していることになる。この16重量ポンドのうちの13と3分の1重量ポンドは、原料の価値、すなわち紡錘された20シリングの綿花の価値を示しており、残りの2と3分の2重量ポンドは使い尽くした補助材料や労働手段の価値、たとえば紡錘の4シリングの価値等を示している。
すなわち13と3分の1重量ポンドの紡ぎ糸は、総生産物である20重量ポンドの紡ぎ糸のうちに紡がれた原料であるすべての綿花を表現しているが、ほかには何も表現していない。そこには13と3分の1シリングの価値をもつ13と3分の1重量ポンドの綿花しか含まれていないが、それに付け加えられている6と3分の2シリングの価値は、残りの6と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸に紡がれた綿花の等価物となっている。それはまるで、6と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸から綿花を引き抜いて、総生産物のうちのすべての綿花を13と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸の中に詰め込んでいるかのようである。その代わりに、使い尽くした補助材料や労働手段の価値も、紡績過程で創造された新しい価値も、その中にまったく含まれていない。
同じように、不変資本の残りの4シリングが含まれている別の2と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸の中には、総生産物である20重量ポンドの紡ぎ糸のうちに使い尽くされた補助材料と労働手段の価値だけが表現されている。
生産物の8割の16重量ポンドの紡ぎ糸は、すなわち使用価値としてみるならば、生産物の残りの部分とまったく同じように、紡績過程で形成されたものである。しかしこの観点からみると、これは紡績労働でも、紡績過程そのもののうちに吸収された労働でもない。それはまるで紡績されることなしに紡ぎ糸に変身したかのようにみえ、紡ぎ糸としての姿は、純粋な見掛けだけのように見える。実際に資本家がそれを24シリングで販売して、自分の生産手段を買い戻すときには、16重量ポンドの糸はまるで綿花であり、紡錘であり、石炭などにすぎないことが明らかになる。
反対に、生産物の残りの2割を構成する4重量ポンドの紡ぎ糸は、12時間の紡績で生産された6シリングの新しい価値しか表示していない。使い尽くされた原料と労働手段の価値のうちで、この部分に含まれていたものはすでに抜きとられて、最初の16重量ポンドの紡ぎ糸のうちに〈移植された〉のである。20重量ポンドの紡ぎ糸のうちに宿っていた紡績労働は、生産物の2割の部分に濃縮されている。まるで紡績工が4重量ポンドの紡ぎ糸を空中で紡いだかのようである。言い換えれば、人間の労働がまったく加えられずに天然に存在しており、生産物にいかなる価値を付け加えることもない綿花と紡錘によって作りだしたかのようである。
こうして、日々の紡績過程が生み出したすべての価値生産物が宿る4重量ポンドの紡ぎ糸のうち、2重量ポンドは使い尽くされた労働力の補填価値、すなわち3シリングの可変資本だけを表示し、残りの2重量ポンドは3シリングの増殖価値だけを表示する。
紡績工の12時間の労働時間は、6シリングのうちに対象化されるから、30シリングの紡ぎ糸の価値には、60労働時間が対象化されている。この労働時間は20重量ポンドの紡ぎ糸の中に存在している。その8割の16重量ポンドは、紡績過程が行われる前の過去の48時間の労働が物質化されたものであり、紡ぎ糸の生産手段のうちに対象化された労働が物質化したものである。残りの2割の4重量ポンドは、紡績過程そのもののうちで支出された12時間の労働時間が物質化したものである。
比例案分の意味
われわれが前に見たように、糸の価値は、糸の生産中に生みだされた新価値と、すでに糸の生産手段のうちに前から存在していた価値との合計に等しい。今ここで示されたのは、生産物価値のうちの機能的または概念的に違った諸成分は生産物そのものの比例配分的諸部分で表わされうる、ということである。
このように生産物─生産過程の結果─が、ただ生産手段に含まれている労働または不変資本部分だけを表わしている生産物量と、ただ生産過程でつけ加えられた必要労働または可変資本部分だけを表わしているもう一つの生産物量と、ただ同じ過程でつけ加えられる剰余労働、すなわち剰余価値だけを表わしている最後の生産物量とに分かれるということは、のちにこれが複雑で未解決の問題に応用されるときにわかるように、簡単なことであると同時に重要なことでもある。
生産物である紡ぎ糸の総価値は、その生産過程で生み出された新しい価値と、紡ぎ糸の生産手段の中にすでに存在していた価値を合計した総額です。そして、ここでの考察により、この生産物価値の構成要素は、その比例按分で示すことができました。その構成要素とは、大きく三つに分けることができます。第一は、生産手段に含まれる労働、つまり不変資本を表わす量の生産物です。第二は、生産過程で付け加えられた必要労働、つまり可変資本を表わす量の生産物です。そして第三は、増殖労働、つまり増殖価値を表す量の生産物です。ここでマルクスは、この分割の重要性は、後の段階で明らかになると言います。
すでに確認したように、紡ぎ糸の価値は、その生産において生み出された新しい価値の総額と、紡ぎ糸の生産手段の中にすでに存在していた価値の総額を合計したものである。ここでの考察によって明らかになったのは、機能的にも概念的にも異なる生産物価値の構成要素は、生産物そのものの部分において比例案分して示すことができるということである。
生産過程の果実である生産物をこのように三つの部分に分けて考えることができるのは簡便だし、重要なことでもある。これらの三つの第一の部分は生産手段に含まれる労働、すなわち不変資本だけを表示する特定の量の生産物である。第二の部分は生産過程において付け加えられた必要労働、すなわち可変資本だけを表示する特定の量の生産物である。第三の部分は同じ生産過程において付け加えられる増殖労働、すなわち増殖価値だけを表示する特定の量の生産物である。この分割の重要性は、後の段階で、複雑かつ未解決の問題を解決する際に明らかになるだろう。
労働時間の分割
これまでわれわれは総生産物を12時間労働日の既成の結果として考察した。しかし、われわれはまたこの総生産物といっしょにその成立過程をたどりながら、しかもいくつかの部分生産物を機能的に区別された生産物部分として示すこともできるのである。
紡績工は、12時間で20ポンドの糸を生産するのだから、1時間では1と3分の2ポンド、また8時間では13と3分の1ポンド、すなわちまる1労働日に紡がれる綿花の総価値に相当する部分生産物を生産する。同じようにして、次の1時間36分の部分生産物は2と3分の2ポンドの糸であり、したがって12労働時間中に消費される労働手段の価値を表わしている。同じように、紡績工は次の1時間12分では2ポンドの糸=3シリング、すなわち彼が6時間の必要労働でつくりだす全価値生産物に等しい生産物価値を生産する。最後に、彼は残りの1時間12分でもやはり2ポンドの糸を生産し、その価値は彼の半日の剰余労働によって生産された剰余価値に等しい。このような計算の仕方は、イギリスの工場主のためには日常の使用に役だつのであって、たとえば彼は、1労働日の最初の8時間すなわち3分の2では自分の綿花を回収し、等々と言うであろう。もちろん、この方式は正しい。じっさい、それは、ただ第一の方式を、生産物の諸部分ができ上がって並んでいる空間から、それらが次々にできてくる時間に翻訳したものにすぎない。しかしまた、この方式は、非常に粗雑な考え方をともなうこともありうる。ことに、実際上は価値増殖過程に関心をもちながら理論的にはそれを曲解することを利益とする人々の場合には、なおさらそうである。たとえば、次のように思い込むこともありうる。われわれの紡績工は、彼の労働日の最初の8時間では綿花の価値を、次の1時間36分では消費された労働手段の価値を、さらにその次の1時間12分では労賃の価値を生産または補填し、そして、ただあの有名な「最後の1時間」だけを工場主に、剰余価値の生産に、ささげるのだ、と。こうして、この紡績工には、二重の奇跡を行う義務が負わされる。というのは、綿花や紡錘や蒸気機関や石炭や油などを、彼がそれらを用いて紡績するその同じ瞬間に生産し、そして与えられた強度をもつ1労働日をそれと同じ強度の5労働日にするという義務である。すなわち、われわれ場合には、原料や労働手段の生産には24分の6すなわち4つの12時間労働日が必要であり、またそれを糸に転化させるためにはもう一つの12時間労働日が必要だからである。強欲がこのような奇跡を信じるということ、また、この奇跡を証明する学者的追従者にもけっしてかかないということは、いま、歴史的に有名な一つの例によって示されるであろう。
これまでは、設例の紡ぎ糸のという生産物の1労働日、すなわち12時間の完結したひとつのプロセスとして見てきました。ここでは、これを部分的に分けて、異なる生産物として示してみましょう。
設例では、紡績工は12時間で20重量ポンドの紡ぎ糸を生産するので、1時間あたりに換算すると1と3分の2重量ポンド、8時間では13と3分の1重量ポンドを生産することになります。同じ方法で次の1時間36分の部分的な生産物は2と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸になり、、これは1労働日12時間で使い尽くされる生産手段の価値を表しています。最後は残りの1時間12分で、同じ2重量ポンドの紡ぎ糸を生産します。この紡ぎ糸の価値は6時間の増殖労働によって生み出された増殖価値に等しいことになります。
このような計算のやり方は、イギリスの工場主が日常的に利用しているのです。例えば、「「1日の労働の最初の8時間、すなわち1労働日の3分の2の労働で、綿花の分を回収した」という言い方をします。この前の「価値の比例配分」の説明で生産物を完成品として空間的に横に並べていたのを、ここでは空間的な配置のかわりに時間的な配置にして、縦に並べてみました。これは、生産物の諸部分ができ上がって並んでいる空間から、それらが次々にできてくる時間に翻訳したものです。
しかし、この分割方式では、例えば、紡績工は紡績工は1日の労働日の最初の8時間で、綿花の価値を生産し、次の1時間36分で、使い尽くした労働手段の価値を生産し、続く1時間12分で、労働賃金の価値を生産あるいは補填し、かの有名な「最後の1時間」だけを工場主に、すなわち増殖価値の生産に捧げたという、間違った解釈をしてしまうおそれがあります。
そこで、紡績工は二重の奇跡を行うことを求められているとマルクスは言います。それは、綿花、紡錘、蒸気機関、石炭、オイルなどを使って紡績しているのと同じ瞬間に、まさにそれらのものを生産しなければならないということです。

私たちはこれまで、総生産物を12時間の労働日がもたらした完結した結果として考察してきたが、その成立過程に注目することで、これを部分的に生産物に分けて、機能的に異なる生産物として示すこともできる。
紡績工は12時間で20重量ポンドの紡ぎ糸を生産する。1時間あたりでみると1と3分の2重量ポンドを生産し。8時間では13と3分の1重量ポンドを生産する。これは1労働日の全体で紡ぐ綿花の総価値に対する部分的な生産物とみることができる。同じ方法で、次の1時間36分の部分的な生産物は2と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸になり、これは12時間の1労働日のうちに使い尽くされる労働手段の価値を示す。さらに次の1時間12分で紡績工は2重量ポンドの紡ぎ糸を生産するが、この価値は3シリングであり、これは必要労働によって作り出すすべての価値生産物に等しい生産物価値である。最後に彼は残りの1時間12分で同じく2重量ポンドの紡ぎ糸を生産するが、この紡ぎ糸の価値は1労働日の半分の6時間の増殖労働によって生み出された増殖価値に等しい。
この種の計算方法は、イギリスの工場主が日常的に利用しているものであり、たとえば「1日の労働の最初の8時間、すなわち1労働日の3分の2の労働で、綿花の分を回収した」などと言う。この言い分が正しいのは明らかであるが、実際には最初の分割方式では生産物を完成品としていわば空間的に横に並べていたのを、第二の分割方式ではこうした空間的な配置の代わりに時間的な配置を利用して、いわば縦に並べているにすぎない。
しかしこの分割方式の背後には、きわめて野蛮な考え方が控えていることもありうる。とくに実際には価値の増殖過程に強い関心を抱きながら、理論的にそれを曲解することに利益を感じるような人は、そうした考え方をしがちである。たとえば次のように思い込むのである。すなわち、紡績工は1日の労働日の最初の8時間で、綿花の価値を生産し、次の1時間36分で、使い尽くした労働手段の価値を生産し、続く1時間12分で、労働賃金の価値を生産あるいは補填し、かの有名な「最後の1時間」だけを工場主に、すなわち増殖価値の生産に捧げたという妄想を抱くのである。
こう考えるならば紡績工は二重の奇跡を行うことを求められる。すなわち綿花、紡錘、蒸気機関、石炭、オイルなどを使って紡績しているのと同じ瞬間に、まさにそれらのものを生産しなければならないのである。そしてこのような強度の1日の労働日を5労働日に変えなければならないのである。というのは、私たちの検討した事例では、原料と労働手段の生産には24を6で割った4日の労働日(1労働日は12時間)が必要であり、それを紡ぎ糸に変えるには、さらに1日の労働日(12時間)が必要だからである。このような奇跡を信じる貪欲な人々がいること、またそれが正しいことを証明しようとする学問的な追従者がいることを、次に歴史的に有名な例によって説明することにしよう。
第3節 シーニアの「最後の1時間」
「最後の1時間」
1836年のある日、その経済学と名文で聞こえたナッソー・W・シーニアは、いうならばイギリスの経済学者のなかのクラウレンは、オクスフォードからマンチェスターに呼び出された。オクスフォードでは経済学を教えているのだが、マンチェスターそれを学ぶためにである。工場主たちは、最近判定された工場法と、さらにそれ以上を求める10時間運動に対抗して、彼を懸賞闘士として選んだのである。彼らはいつもながらの実務上の明敏さで、この教授には「かなりの仕上げが必要だ」ということを認めていた。それだから、彼をマンチェスターに呼び寄せたのである。教授のほうでは、マンチェスターで工場主たちから受けた講義を作文して、『綿工業に及ぼす影響から見た工場法についての手紙』、ロンドン、1837年という小冊子に書いた。そのなかでは、とりわけ次のような有益なことを読むことができる。
「現行法のもとでは、18歳未満の人員を使用する工場は、1日に11時間半、すなわち週初の5日間は12時間、土曜日は9時間よりも長く作業することはできない。ところで、次の分析(!)は、このような工場では純益の全部が最後の1時間から引き出されているということを示している。ある工場主が10万ポンド・スターリングを投資するとしよう─8万ポンドを工場建物と機械とに、2万ポンドを原料と労賃とに。この工場の年間売上高は、資本が1年に1回転し総収益が15%になるものと前提すれば、11万5000ポンド・スターリングの価値をもつ商品にならなければならない。…この11万5000ポンド・スターリングのうち、23の半労働時間のおのおのは、毎日で115分の5すなわち23分の1を生産する。この23分の1である。11万5000ポンド・スターリングの全体をなしているこの23分の23のうち、23分の20、すなわち11万5000のうちの10万は、ただ資本を補填するだけである。23分の1、すなわち総利益(!)1万5000のうち5000ポンド・スターリングは、工場と機械類との損耗を補填する。あとに残る23分の2、すなわち毎日の二つの最後の半時間は、10%の純益を生産する。それゆえ、価格は元のままとして、この工場が11時間半ではなく、13時間作業してもよいならば、流動資本としての約2600万ポンド・スターリングの追加によって、純益は2倍よりも多くなるであろう。他方、もし労働時間が毎日1時間だけ短縮されるならば純益はなくなるであろうし、またもし1時間半短縮されるならば総収益もなくなるであろう。」
そして、教授はこれを「分析」と呼ぶのだ!もし彼が、労働者は1日のうちの最良の時間を、建物や機械や綿花や石炭などの価値の生産に、したがってまたそれらの価値の再生産または補填に浪費してしまう、という工場主たちの嘆きを信じたのであれば、およそ分析はよけいだったのである。彼はただ単にこう答えればよかったのである。諸君!もし諸君が11時間半ではなくて10時間作業させるとすれば、ほかの事情が変わらないかぎり、綿花や機械などの毎日の消費は1時間半分だけ減るであろう。だから、諸君は諸君が失うのとちょうど同じだけを得るのである。諸君の労働者たちは、将来は、前貸資本価値の再生産または補填のために1時間半少なく浪費するであろう、と。もしまた、シーニアが工場主たちの言うことをそのまま信じないで、専門家として分析が必要だと考えたのならば、なによりもまず、彼は、ただ労働日の長さにたいする純益の比率だけの問題では、工場主諸君にお願いして、機械類や工場建物や原料と労働とをごちゃまぜにしないで、一方の側には工場建物や機械類や原料などに含まれている不変資本を置き、他方の側には労賃として前貸しされる資本を置くようにしてもらうべきだったのである。そこで、次に、工場主たちの計算では労働者は2分の2労働時間、すなわち1時間で労賃を再生産または補填するということにでもなったなら、分析家は次のように続けるべきだったのである。
諸君に言うところでは、労働者は最後から2番目の1時間で自分の労賃を生産し、最後の1時間で諸君の剰余価値または純益を生産する。彼は同じ長さの時間では同じ大きさの価値を生産するのだから、最後から2番目の1時間の生産物は、最後の1時間の生産物と同じ価値をもっている。さらに、彼が価値を生産するのは、ただ彼が労働を支出するかぎりでのことであって、彼の労働の量は彼の労働時間で計られる。それは、諸君の言うところによれば、1日に11時間半である。この11時間半の一部分を彼は自分の労賃の生産または補填のために費やし、他の部分を諸君の純益の生産のために費やす。そのほかには彼は1労働日のあいだなにもしない。ところが、陳述によれば、彼の賃金と彼の提供する剰余価値とは同じ大きさの価値なのだから、明らかに彼は自分の労賃を5と4分の3時間で生産し、そして諸君の純益を別の5と4分の3時間で生産するのである。さらに、2時間分の糸生産物の価値は、彼の労賃・プラス・諸君の純益という価値額に等しいのだから、この糸価値は11時間半の労働時間で計られ、最後から2番目の1時間の生産物は5時間45分で計られ、最後の1時間の生産物もやはりそれで計られていなければならない。われわれは、いま、やっかいな点にきている。そこで、注意せよ!最後から2番目の1労働時間も、最初のそれと同じに普通の1労働時間である。それより多くも少なくもない。
それでは、どうして紡績工は、5時間45分の労働時間を表わす糸価値を1労働時間で生産することができるのか?彼はじつはそんな奇跡は行わないのである。彼が1労働時間で使用価値として生産するものは、一定量の糸である。この糸の価値は、5時間45分の労働時間によって計られ、そのうちの4時間45分は、毎時間消費される生産手段すなわち綿花や機械類などのうちに彼の助力なしに含まれており、4分の4すなわち1時間は彼自身によってつけ加えられている。つまり彼の労賃は5時間45分で生産され、また1紡績時間の糸生産物もやはり5時間45分の労働時間を含んでいるのだから、彼の5時間45分の紡績労働の価値生産物が1時間の紡績労働の生産物価値に等しいということは、けっして魔術でもなんでもないのである。ところで、もし諸君が、綿花や機械類などの価値を再生産または「補填」のために労働者が彼の労働日のただの1瞬間でも失うものと考えるならば、それはまったく諸君の思い違いである。彼の労働が綿花や紡錘を糸にすることによって、つまり彼が紡績することによって、綿花や紡錘の価値はひとりでに糸に移るのである。これは彼の労働の質のおかげであって、その量のおかげではない。もちろん、彼は1時間では半時間でよりも多くの綿花価値などを糸に移すであろう。しかし、それはただ彼が1時間では半時間でよりも多くの綿花を紡ぐからにほかならない。そこで、諸君にもお分かりであろう、労働者が最後から二番目の1時間で彼の労賃の価値を生産し、最後の1時間で純益を生産するという諸君の言い方の意味するものは、彼の労働日のうちの2時間の糸生産物には、その2時間に前にあろうが後にあろうが、11時間半の労働時間が、すなわち彼の丸1労働日とちょうど同じだけの時間が具体化されているということ以外のなにものでもないのである。そして、労働者は前半の5時間45分では自分の労賃を生産し後半の5時間45分では諸君の純益を生産するという言い方の意味するところもまた、諸君は前半の5時間45分には支払うが後半の5時間45分には支払わないということ以外のなにものでもないのである。私が労働への支払と言い、労働力への支払と言わないのは、諸君にわかる俗語で話すためである。そこで、諸君が代価を支払う労働時間と支払われない労働時間との割合を比べてみれば、諸君はそれが半日対半日、つまり100%であるのを見いだすであろう。とにかく、わるくないパーセンテージである。また、もし諸君が諸君の「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも諸君らしいやり方だと思われるのだが、余分の1時間半をただの剰余労働につけ加えるならば、剰余労働時間は5時間45分から7時間15分にうえ、したがって剰余価値率は100%から126と23分の2%に上がるだろうということにも、少しも疑う余地はないのである。ところが、もし諸君が、1時間半の追加によって剰余価値率が100%から200%に、また200%より高くさえなるだろう。すなわち「2倍より多くなる」だろう、と期待するとすれば、諸君はあまりにも度はずれな楽天家である。反対に─人の気持はおかしなものだ、ことに財布に気を取られているときには─、もし諸君が、11時間半から10時間半に労働日を短縮すれば諸君の純益は全部なくなってしまうだろうと心配すれば、諸君はあまりにもうろたえた悲観屋である。けっしてそうはならない。他の事情はすべて元のままだと前提すれば、剰余労働は5時間45分から4時間45分に減るであろう。それでもなおまったく十分な剰余価値率、すなわち82と23分の14%になる。ところで、あの宿命の「最後の1時間」について、諸君は千年説の信者が世界の没落について語る以上に作り事を言ったのであるが、それは「ただのたわごと」なのである。その1時間がなくなったからとて、諸君の「純益」がどうなるものでなければ、諸君にこき使われている少年少女たちの「魂の純潔」がどうなるものでもないであろう。いつか諸君の「最後のとき」がほんとうに告げられたら、オクスフォードの教授を思い出されよ。ではまた、あの世でよろしくお願いする。さらば!…1836年にシーニアによって発見された「最後の1時間」の警報は、1848年4月15日、10時間法に反対して、経済高官の1人であるジェームズ・ウィルソンによって、『ロンドン・エコノミスト』誌上でまたもや吹き鳴らされたのである。
オクスフォード大学の経済学者ナッソー・W・シーニアは、1836年にいわゆる「最後の1時間」を主張しました。資本家は労働日の最後の1時間で利益を得られるのだから、労働時間を短縮すると経営の存続が危うくなる、というものです。労働者は。下の図で最後の2番目の1時間(緑色の部分)で自分の労賃を生産し、最後の1時間(黄色い部分)で資本家の剰余価値(純益)を生産すると言います。したがって総労働時間を短縮すると、剰余価値を生み出す黄色い部分がなくなってしまうという主張です。
ここでシーニアが示している例をもとに下のような図をつくることができます。
資本 10万ポンド(建物と機械類8万+原料と労賃2万)
資本は1年で1回転し、総利益が、その15%
そのために11万5000ポンドの商品販売が必要で、
このうち資本の補填 10万ポンド 20/23
工場や機械の損傷の補填 5000ポンド 1/23
残った1万ポンドが利益 2/23、これが下の図の黄色い部分に相当する。
したがって、工場の稼働時間が11時間半ではなく、13時間稼働すれば、延長した1時間半の分はすべて利益となる。反対に、10時間半に短縮すると利益がなくなってしまう。

しかし労働者は実際に一日に11時間30分働き、その半分の5時間45分を労賃の生産または補填のために費やし、他の5時間45分を純益の生産のために費やしています。その一方で、1時間分の糸の価値は5時間45分で計られ、剰余価値(純益)に等しいのです。紡績工は、あたかも1労働時間で5時間45分に相当する剰余価値を生産しているかのようです。彼はじつはそんな奇跡は行ないません。彼が1労働時間で生産するのは使用価値としての一定量の糸であって、この糸の価値は5時間45分という労働時間によって計られます。そのうち4時間45分は生産手段のうちに既に含まれており、1時間は彼自身によって付け加えられています。結果として5時間45分の紡績時間の価値生産物が1紡績時間の生産物価値に等しいということ以上ではありません。
実際の紡績過程を示したのが下図です。見られるように、労働者は価値の付加(形成)と価値の移転を同時に行うのです。価値生産物は生産物価値の一部分を構成するだけです。この例では1時間短縮で剰余価値率は100%から82と23分の14%(4時間45分÷5時間45分)に減りますが、だからといってシーニアの言うように剰余価値の全部が無くなるということはありません。

1836年のある晴れた朝のこと、経済学の学識と美しい文体で有名だったナッソー・W・シーニョアは、イギリスの経済学界のクラウレンと呼ぶべき人物であるが、オクスフォードからマンチェスターに招かれた。オクスフォード大学で経済学を教えていた彼は、マンチェスターで経済学を学ぶことになったのである。というのも、マンチェスターの工場主たちが、しばらく前に判定された工場法に反対し、さらに困惑させられる10時間労働の要求運動に対抗する目的で、シーニョアを用心棒に雇ったのである。
工場主たちは鋭い実務的な感覚から、この教授先生にはまだ「最後の仕上げが足りない」ことをやく見抜いていた。そこで彼をマンチェスターに招いたのである。教授先生は、マンチェスターで工場主たちから教わったことをまとめて、パンフレット『工場法が綿工業に与える影響についての書簡』を刊行した。そこには次のようなありがたい教えを読むことができる。
「現行法のもとでは、18歳未満の人を雇用している工場では、1日に11時間半以上の労働を課すことはできない。すなわち月曜から金曜までは1日12時間、土曜日は9時間までしか働かせることができないのである。次の分析(!)から明らかなように、こうした工場では、純益はすべて最後の1時間に生まれる。
たとえばある工場主が10万ポンドを投資したとしよう。そのうちの8万ポンドは、工場の建物と機械類に投じられ、2万ポンドは、原料と労働賃金に投じられるとしよう。資本が年に一回転するとして、総利益を15%と仮定すると、工場は年間11万5000ポンドの価値の商品を販売しなければならない。…この11万5000ポンドのうち、1日の労働時間を構成する23の半労働時間[30分]のおのおのが生産するのは、1日で115分の5、すなわち23分の1である。この23分の1である。この23分の23、すなわち総額の11万5000ポンドのうちの23分の20(10万ポンド)は、資本の補填だけに費やされる。23分の1、すなわち総利益(!)の1万5000ポンドのうちの5000ポンドは、工場や機械類の損耗の補填に費やされる。こうして残った23分の2、すなわち毎日の二つの最後の半労働時間[すなわち1時間]だけが、10%の純益を作りだしていることになる。
そこで物価が同じで、工場が11時間半ではなく、13時間稼働することができれば、流動資本を約2600万ポンド追加するだけで、純益は2倍以上になる。反対に労働時間が1日に1時間減らされると純益はなくなり、さらに1時間半減らされると、総利益もなくなるのである」。
教授はこれを「分析」とおっしゃるのである。工場主たちは、労働者たちが1日の最良の時間[最初の10時間半]を、建物、機械類、綿花、石炭などの価値の生産、したがって単なる再生産や補填のために浪費していると嘆いているが、教授はこれを信じ込むのである。しかしこれを信じるのであれば、「分析」などはまったく不要のことだったのである。
教授はこう答えればよかったのだ。「諸君が労働者たちに11時間半ではなく10時間働かせるようにしたら、他の条件が同じであるかぎり、綿花や機械類の日々の消費も1時間半分だけ減るだろう。だから失うのとまったく同じものを手にすることになるのだ。諸君の労働者たちはそうなれば、前払いされた資本の再生産や補填のために浪費する時間もまた、1時間半だけ減らすことになるだろう」と。
シーニョアが工場主の言葉をそのまま信じ込むのではなく、専門家としてほんとうの分析が必要だと考えていたのならば、工場主たちに、純益と労働日の長さの比率について、次のように要請すべきだったのである。「どうか機械類、工場の建物、原料、労働などをごちゃごちゃに混同しないでいただきたい。片方には、工場の建物、機械類、原料などに含まれる不変資本をおき、他方には労働賃金に前払いされた資本をおいて、これらを区別していただきたい」と。それでも工場主たちの計算したように、労働者が二つの半労働時間、すなわち1時間で労働賃金を再生産あるいは補填するという結果がでたら、分析者として次のように語るべきだったのである。
「諸君によると、労働者は最後の1時間で諸君の増殖価値、すなわち純益を生産し、その前の1時間で自分たちの労働賃金を生産しているという。ところで労働者は同じ時間のうちでは同じ価値を生産する。だから最後の1時間の生産物も、その前の1時間の生産物も価値としては同じである。また労働者は労働を支出するかぎりで価値を生産するのであり、彼の労働量は労働時間によって測定される。この労働時間は諸君によると1日に11時間半である。労働者はこの11時間半の一部を、自分の労働賃金の生産あるいは補填のために費やし、他の一部を諸君の純益を生産するために費やした。彼は労働日のうちに他のことは何もしていない。
ところで諸君によると、労働者の賃金と労働者が生産する増殖価値の大きさは同じである。だから労働者は労働日の半分にあたる5時間45分で自分の賃金を生産し、残りの5時間45分で諸君の純益を生産していることになる。さらに2時間分の紡ぎ糸の生産物の価値は、労働者の労働賃金と諸君の純益の合計に等しいのだから、この紡ぎ糸の価値は、11時間半の労働時間によって計らなければならない。すなわち最後から1時間の生産物についても、その前の1時間の生産物についても、5時間45分の労働時間によって計る必要がある。
さてここが面倒なところであり、とくに注意していただきたい。最後の1時間も、その前の1時間も、どちらもふつうの労働時間であり、それ以上でもそれ以下でもない。それでは紡績工は5時間45分の労働時間に相当する紡ぎ糸を、どのようにして1時間の労働時間で生産することができるだろうか。実際には労働者はそのように奇跡を起こしているわけではない。労働者が1時間の労働時間で生産する使用価値は、特定の量の紡ぎ糸の価値は、5時間45分の労働時間によって計られるが、そのうちの4時間45分に相当する部分は、[過去の労働の分であり]労働者の力を借りることなく、毎時間に消耗される生産手段、すなわち綿花や機械類などのうちに隠れているのである。労働者は、残りの4分の4、すなわち1時間だけを付け加えるのである。
このように、労働者の労働賃金は、5時間45分で生産され、紡績労働の1時間の生産物である紡ぎ糸も、同じ量の5時間45分の労働時間を含んでいるのである。だから労働者の5時間45分の紡績労働の価値生産物が、1時間の紡績労働の生産物価値と等しいのは、何ら不思議なことではないのである。
もしも諸君が、労働者が綿花や紡錘、機械類などの価値を再生産し、〈補填〉することによって、労働日の一瞬でも失っていると考えるならば、それは間違いである。労働者が労働することで綿花と紡錘から紡ぎ糸が生産されることによって、すなわち彼が紡ぐことによって、綿花と紡錘の価値は自然に紡ぎ糸に移行するのである。その移行は労働者の労働の質によって生じるのであり、量によって生じるのではない。
もちろん労働者が1時間のうちに紡ぎ糸に移行させる綿花の価値は、半時間のうちに移行させる量よりも多い。しかしそれはいったんに労働者が1時間のうちに紡ぐ綿花の量が、半時間のうちに紡ぐ綿花の量よりも多いからである。これでお分かりいただけることだろう。諸君は、労働者が最後の1時間で純益を生産し、その前の1時間で労働者の労働賃金の価値を生産していると主張する。しかしこの主張は、労働者の労働日のうちの2時間で生産される紡ぎ糸の生産物のうちに、その前後関係は別として、彼の11時間半の労働時間、すなわち丸1日の労働日と同じ時間が宿っているということを表現するにすぎないのである。
そして労働者が最初の5時間45分に自分の労働賃金を生産し、残りの5時間45分に諸君の純益を生産しているという表現は、諸君は最初の5時間45分に対しては労働者に[賃金を]支払っているが、残りの5時間45分には、支払っていないことを意味するにすぎない。私はここでは労働力に対する支払いと言わずに、労働に対する支払いと言うとすれば、それは諸君の俗語に合わせているからにすぎない。
さてここで諸君が報酬を支払っている労働時間と、何も支払っていない労働時間の比率を比較してほしい。すると半日と半日の比率、すなわち100%であることが分かるだろう。結構な比率ではないか。諸君が諸君の雇用している〈人手〉に、11時間半ではなく13時間働かせたならば、そしていかにも諸君らしいやり方で新たな1時間半を増殖労働にあてさせるならば、支払っていない労働時間の長さは5時間45分から7時間15分になり、増殖価値率は100%から126と23分の2%に増えることは明らかである。ところが諸君は1時間半の労働時間を付け加えれば、増殖価値が100%から200%に、それどころか〈2倍以上〉と語られているところからみて、200%以上に増大するなどと期待しているようであるが、それでは諸君は救いがたい楽天家と言わざるを得ない。
人間の心は不思議なもので、財布の中身を考えるときはとくに不思議な働きをするものである。だからその反対に労働時間を11時間半から10時間半に減らすと、純益がすべて失われると恐れているのかもしれない。しかしそれでは諸君は手の付けようのない悲観主義者と言わざるを得ない。そんなことはありえないのである。他の条件が同じであれば、5時間45分の増殖労働は4時間45分に減るだろうが、それでも82と23分の14%という十分な増殖価値率が残る。諸君は災いに満ちた〈最後の1時間〉について、千年王国の信者が世界の終末について語る以上の空想の物語をでっちあげているが、これは〈まったく無意味なこと〉である。最後の1時間が失われても、諸君の純益が失われることはありえず、諸君が雇用している子供たちの〈魂の純潔〉が失われることもないだろう。
いつの日にか諸君の〈最後の1時間〉が現実に訪れたときには、このオクスフォード大学の教授がかたったことを思いだしていただきたい。またいつかお付き合いをお願いできることを期待して、さらば!」。…1836年シーニョアによって発見された〈最後の1時間〉の進軍ラッパは、1848年4月15日に、経済学のボスの1人のジェイムズ・ウィルソンが『ロンドン・エコノミスト』誌において、10時間労働法に反対する戦のラッパとして、ふたたび吹きならされることになる。
第4節 剰余生産物
増殖生産物の比率
生産物のうち剰余価値を表わしている部分(第2節の例では20ポンドの糸の10分の1、すなわち2ポンドの糸)をわれわれは剰余生産物と呼ぶ。剰余価値率が、資本の総額にたいする剰余価値の比率によってではなく、資本の可変的成分にたいする剰余価値の比率によって規定されるように、剰余生産物の高さは、総生産物の残余にたいするそれの比率によってではなく、必要労働を表わしている生産物部分にたいする剰余生産物の比率によって規定される。剰余価値の生産が資本主義的生産の規定的な目的であるように、生産物の絶対量によって富の高さは計られるのである。
必要労働と剰余労働との合計、すなわち労働者が自分の労働力の補填価値と剰余価値とを生産する時間の合計は、彼の労働時間の絶対的な大きさ─1労働日─をなしている。
生産物のうちで剰余価値が示されている部分が剰余生産物です。剰余価値率は、資本の総額に対する剰余価値の比率ではなく、可変資本に対する剰余価値の比率です。そのために、剰余生産物の比率も、剰余生産物と必要労働の部分の比率です。資本制的な生産の目的は、剰余価値を生産することです。そこで、富の大きさを決定するのは、生産物そのものの絶対的な大きさではなく、剰余生産物の相対的な大きさです。
ここで、必要労働と増殖労働を合計したものが、労働時間の絶対量であり、労働日と呼ばれます。
増殖生産物とは、生産物のうちで増殖価値が示されている部分のことである(第2節の例では、20重量ポンドの紡ぎ糸の10分の1、すなわち2重量ポンドの部分)。増殖価値率は、資本の総額に対する増殖価値の比率ではなく、資本の可変的な構成部分に対する増殖価値の比率で決定される。そのために増殖生産物の比率も、増殖生産物と、全体の生産物の残りの部分の比率によってではなく、増殖生産物と、生産物のうちで必要労働が示されている部分の比率によって決まるのである。資本制的な生産のもっとも重要な目的は、増殖価値を生産することであるが、富の大きさを決定するのは、生産物そのものの絶対的な大きさではなく、増殖生産物の相対的な大きさなのである。
ここで必要労働と増殖労働を合計したもの、すなわち労働者が自分の労働力を補填する価値と増殖価値を生産する時間を合計したものが、彼の労働時間の絶対量であり、これが労働日である。
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