ウェイクフィールドは「資本が社会のすべての成員のあいだに均等に分配されているとすれば、自分で利用できる以上の資本を蓄積することに利益をみいだすような人は誰もいないだろう。北アメリカの状況はいわばこうした状態なのである。ここでは土地所有の情熱のために、賃金労働者という階級が成立しないのである」と述べている。
労働者が自分の生産手段の所有者であるかぎり、労働者は自分のために蓄積することができるのであり、その場合には資本制的な蓄積も、資本制的な生産様式もありえない。そのために必要不可欠な労働者階級が存在しないからである。それではかつてのヨーロッパで、どのようにして労働者から労働条件を奪いとることができ、資本と賃金労働を成立させることができたのだろうか。それはまったく独特な〈社会契約〉によってである。
「人類は…資本の蓄積を進めるためにごく簡単な方法を採用した」のであるが、その資本の蓄積こそ、アダムの時代以来、人生の唯一のそして最終の目的だったのだとウェイクフィールドは語る。さらに「人類は資本の所有者と労働の所有者に分かれた。…この分割は、自由意志に基づく相互の了解と結合によるものだった」という。
要するに、莫大な数の人間たちが、「資本の蓄積」の栄光のために、みずからを収奪することにしたというわけである。そして植民地では、この自己破壊的な熱狂の衝動が、いかなる束縛もなく自由に放たれるというのだ。社会契約を夢想の世界から現実の世界から現実のものに変えることのできる人間と環境が揃っているのは、植民地だけだからというのである。それでは自然発生的な植民と異なるこの「組織的な植民」は何のために必要なのだろうか。しかし、しかしである。「北アメリカ連邦の州では、住民の10分の1でも賃金労働者とみなせるかどうかは、疑問である。…それにたいしてイギリスでは、大部分の民衆が賃金労働者になっている」。
しかし実際のところ、労働する人間が資本の栄誉のために自己を収奪する衝動などというものは存在しないのであり、ウェイクフィールドすら、植民地の富の自然発生的な土台となるのは、ただ奴隷制だけであることを認めている。彼の組織的な植民というものも、窮余の一策にすぎない。というのも彼が相手にしているのは奴隷たちではなく、自由な人間だからである。
「サント・ドミンゴ島に初めて移住したスペイン人たちは、本国から労働者を送ってもらえなかった。しかし労働者(すなわち奴隷のことである─マルクス)がいないと、資本は駄目になってしまうのか、各人が自分で使うことのできる大きさまで縮小したことだろう。そして実際にそのとおりのことが、イギリス人が設立した最後の植民地で起きたのだった。つまり賃金労働者がいないために、穀物の種や家畜や道具などの多量の資本が無用になってしまい、植民者たちは自分の手で使えるだけの資本しかもたなくなってしまった」。
すでに確認したように、民衆から土地を収奪したことが、資本制的な生産様式の土台を構築した。これとは反対に、自由な植民地の本質は、大量の土地がまだ民衆の所有であり、すべての植民者はその一部を自分の私的所有に、そして個人的な生産手段に変えることができ、そうしても後からやってくる植民者たちが、同じようにするのを妨げないというところにある。これこそが植民地の繁栄の秘密であり、同時にその諸悪の根源、すなわち資本の移住にたいする抵抗の秘密でもある。
「土地の価格が非常に安く、すべての人間が自由であり、誰でも望めば、自分の土地を手に入れることができるところでは、製品において労働者の労働が占める比率で考えると、労働はきわめて高価であるだけではない。どんな代価を払っても、共同作業をするのが困難なのである」。
植民地では労働者はまだ労働条件から切り離されていないし、労働条件の〈根〉である土地からも切り離されていない。たとえ切り離されていたとしてもまだ散発的に、あるいはきわめて局地的に切り離されているにすぎない。そのために工業はまた農業と分離しておらず、農村の家内工業もまだ破壊されていない。そのような状態でどうやって資本のための国内市場が生まれるというのだろうか。
「アメリカの国民で、農業だけに専従している人はいない。例外となるのは、奴隷とその所有者、すなわち資本と労働を大きな仕事のために結びつける人たちだけである。土地を自分で耕す自由なアメリカ人は、同時にほかにもさまざまな仕事に携わっている。彼らが使う家具や道具の一部は、自分で作るのがふつうである。住む家まで自分で建てることが多く、自家で製造した製品を、どんな遠い市場までも運んでいく。彼らはみずから紡ぎ手であり、織り手である。自分で使う石鹸も蝋燭も、靴も服も自分で作る。アメリカでは農業は、鍛冶屋や粉屋や食料品店の店主の副業であることが多いのである」。
こんな素人ばかりがいるところで、資本家のための「節制の場」がどこにあるというのだろうか。
資本制的な生産の大きな利点は、この生産様式は賃金労働者を賃金労働者として再生産するだけでなく、資本の蓄積と比例して、賃金労働者の相対的な過剰人口をつねに生みだすところにある。これによって労働の需要と供給の法則が正しい軌道に維持され、賃金の変動幅が資本制的な搾取に適切な範囲に保たれる。そして最後に労働者の資本家への従属という社会的に不可欠に依存状態が生まれる。このような絶対的な従属関係こそ、母国の経済学者たちが、あたかも売り手と買い手の自由な契約関係でもあるかのように、資本という商品の所有者と労働という商品の所有者という、同程度に独立した商品所有者のあいだの自由な契約関係でもあるかのように、巧みにごまかそうと苦労している秘密なのである。
しかし植民地ではこのような麗しい幻想は、ずたずたに引き裂かれる。植民地には、多くの労働者がすでに大人になってからやってくるので、人口の絶対数は母国と比較すると、はるかに急速に増えるが、労働市場はつねに供給不足である。労働の需要と供給の法則は破綻してしまう。一方で旧世界は搾取に飢え、節約を求める資本を投入しつづける。しかし〔植民地では〕賃金労働者を賃金労働者として規則的に再生産しようとしても、手のつけようのない障害に、部分的に解決不可能な障害に直面することになる。資本の蓄積と比例して、過剰な賃金労働者を作りだそうとするならば、障害はさらに大きなものとなる。
今日の賃金労働者は、明日には独立した自営農民が手工業者になってしまう。彼は労働市場からは姿を消すが、救貧院へと姿を消したわけではない。賃金労働者がこのようにたえず独立した生産者になり、資本のためではなく、自分自身のために働き、資本家のためではなく、自分自身を豊かにさせることは、労働市場の状況にきわめて有害な影響を及ぼすことになる。賃金労働者の搾取度が、満足できないほどに低いだけではない。賃金労働者は従属関係を投げ捨てるだけではなく、節約する資本家に従属しているという感情すら捨てることになる。このようにして、E・Gウェイクフィールドがあれほど巧みに、雄弁に、感動的に描写する弊害が発生するのだ。