芭蕉の俳句を読む
『笈の小文』
 

1.はじめに〜『笈の小文』について

この作品は一編の紀行文として成立したものではなく、芭蕉が書き残した数編の短い紀行文の草稿を、門人の川相乙州が後に編集したものだそうです。芭蕉自身は長篇の紀行文を作成するために、そのパーツとなるように短い紀行文の草稿を書きためていたであろうもの。それがまとめられて一編に結実することなく遺されたものと、それ以外に遺されていた随想風の俳文や句稿を加えられて作られたものということだす。そのせいか、他の紀行文に比べて、まとまりのない雑然とした内容になっていると言われています。

私のこのページでもそうですが、『奥の細道』や『野ざらし紀行』のような他の芭蕉の紀行文について書いていますが、そのもととなった旅の事情や、その旅の行程や、そこにある風景や名所がどうとかいうことには興味がなくて、芭蕉がどういう句を詠んだか、どのように紀行文を書いたかということ、そして、それを私自身がどのように読んでいるかということを書いてきました。(したがって、『奥の細道』の風景をたどるとか、芭蕉のエピソードなどを期待している人は、他に適当なページが掃いて捨てるほどあるので、そっちに行かれることを強くお勧めします)

 

2.『笈の小文』の序文の文学論

私にとっては、この『笈の小文』の序文には、芭蕉の文学論ともいうべき俳文が置かれていて、たいへん興味深いものです。

芭蕉の俳句を読んでいくのが本筋なのですが、まずは、この序文に敢えて注目したいと思います。 

百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

この序文は大きく三つの部分に分けることができると思います。まず、最初の部分は、

百骸九竅の中に物有、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。

この部分は、風羅坊の自己紹介です。まず、風羅坊という名前の由来を説明し、これまで、ずっと俳諧を仕事をしてきたことを述べています。「百骸九竅」とは百の骨と九つの穴で人の身体の構成要素を指します。これは『荘子』「斉物論篇」からの引用と言われています。ただし、『荘子』の本文では百骸九竅六臓」と書かれていて、芭蕉は後ろの部分の「六臓」を省略しています。それは『荘子』では、人間の本体とは何かということを問いかけるために、このような言葉を持ち出しいるということですが、芭蕉は「六臓」という身体の中身を省略した「百骸九竅」によって構成された身体の外形をもちだして、そのなかに、名づけようのない何かがあって、それが自分の本体だと言っているのです。その名づけようのない何かを、仮に風羅坊と名づけておく、というのです。

仮に名づけるというのだから、実は何でもいいのです。この風羅坊という名は、芭蕉が『奥の細道』の旅のときに使った別号ということですが、風羅というのはおそらく造語で、「羅」は羅紗の羅で薄い絹の布を指します。「誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」と言っているように、芭蕉の名の由来である植物のバショウの葉は風に破れやすいという特徴があり、その破れやすい薄い葉を羅になぞらえた、ということでしょうか。

それはともかく、このように身体という外形とその中に何かあるという捉え方は、まるで近代西欧の心身二元論を想わせるではありませんか。少しこじつけかもしれませんが、芭蕉は風羅坊と仮称していますが、現代の概念でいえば、精神とか魂といった言葉があてはまるのではないかと思います。ここで、芭蕉自身が自覚して明確に述べているわけではありませんが、俳諧を詠むということを精神的な行為として、それを行うのは人の身体の中に存在する何かであると、つまり精神的な存在であるというとが、明確な言葉とはならずに芭蕉本人の中で意識されていたことの表れではないかと思います。そういう精神的な営為という意味合いで、後に取り上げられる西行をはじめとする先人たちに連なっているということになるのです。

地方で、敢えて風羅坊という仮の名をもってきて、私という一人称を使わないということは、現実の芭蕉そのものではなく、芭蕉個人その人との間に相応の距離があるということでもあります。それは、芭蕉の紀行文が、『奥の細道』などはその代表ですが、必ずしも実際の旅のドキュメントではなくて、虚構が混入しているというところに、芭蕉にとって表現とはそういうもので、敢えて、芭蕉自身ではない風羅坊というものが彼自身の創作を支えている根源的な部分にあるものということなのだろうと思います。何か分かり難い言い方かもしれませんが、自身の中に自身ではない仮の何かがいる、とでもいいましょうか。

続く、「狂句」は俳諧の意味ですが、俳諧と言わずに狂句と言っているのは、そこに卑下したニュアンスが加わります。これは謙遜なのか、それとも当時の状況として俳諧は和歌や連歌に対して一段下に見られていたことを踏まえて、このような言い方をしているのでしょうか。この狂句を「終に生涯のはかりごとゝなす。」と言っています。「はかりごと」とは普通は計略という意味で使われる言葉ですが、ここでは仕事という意味でしょう。狂句という卑下したことを生涯の仕事とすると宣言しているわけです。ここに芭蕉の矜持が表われているといったら深読みしすぎでしょうか。

さてもこのように自己紹介に続いて、自らの人生や文学観を語り始めます。まず、二つ目の部分で、風羅坊がたどってきた生涯について述べます。

ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。

生涯、俳諧に携わることになった風羅坊ですが、これまでに飽きてやめようと思ったこともあれば、積極的に俳諧に取り組んで、人よりうまくなって自慢しようと思ったりして、あれこれと悩んで、自分一人の身をもてあましたこともあった。そして一時は武士になる事も願ったが、俳諧のために妨げられ、仏道修行をして悟りを開こうとも思ったが、俳諧のために断念せざるをえなかった。そのようにして、とうとう無能無芸のまま、ただ俳諧一筋に携わることになってしまった。そう述べられています。「是非胸中にたゝかふて」は、どういうあり方がよいのか、我が胸のなかでも考えが戦いあってということで、「是が為に身安からず」は、そのために身の休まることはない、ということで、我が人生の述懐といった趣でしょうか。「しばらく」は一時的にはの意味。「身を立む」というのは立身出世をすることで、芭蕉の生まれからは具体的には、武士にとりたてられることをさすと思います。「学で愚を暁ン」は、学問を修めて自身の愚かさを悟ろうの意味で、「学で」は仏教の教えを学んでということでしょう。つまり僧侶の道を歩むということです。「これが為にさへられ」は、これによって願いが遮られての意で、「是が為に破られ」は、これによって望みが破られたということです。これとは俳諧であり、俳諧のために何か訳のわからない状態になる自分のなかの「もの」なのだろう。俳諧があるために、俳諧に心を奪われてきたために、俗世間での生き方も、聖人としての生き方も、ともにできなかったということです。そして、「つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る」と言っている。とうとう無能無芸のまま、ただこの俳諧というひと筋につながって生きてきたということになります。

このことについては、芭蕉の伝記的なエピソードを追いかければ、実際にどうだったのかは分かると思いますが、私にとって、それはどうでもいいことで、ここでは、芭蕉がそのように述べているといことです。ここには、結果としてそうなったのか、本人が意志してそうしたのか分かりませんが、他の可能性を犠牲にして俳諧の道を進んできたことを自ら述べているというのが、ここでのポイントだと思います。俳諧というものに捉われてしまって、他のすべてを擲ったということであれば、近代芸術において才能に翻弄されて芸術のためにすべてを犠牲にするというロマン主義的な天才というものが連想されます。風狂という言葉が、まさにそのことを連想させます。

そして、最後に一転して風羅坊の文学論が展開されます。

西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

「唯此一筋に繋る」と風羅坊の有り様を述べた後に、突如、西行、宗祇、雪舟、利休の名を挙げて、その底に流れているものはひとつだと言う。それまで風羅坊のことを説いてきたのを、文芸、芸道の全般へと話題が転じられるというのか、人生かに拡げられたという感じでしょうか。「西行の和歌における」は、西行の和歌において成したことの意味。以下「宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における」と同様の構造で、四人の名と携わったジャンルの名称が挙げられていきます。ちなみに、ここで挙げられた人々について簡単に触れておきましょう。

西行は平安時代後期の歌人で、草庵生活と行脚を繰り返した。芭蕉にとっては、もっとも親しく、尊敬すべき先人といって間違いありません。

宗祇は室町時代後期の連歌師で、やはり諸国を旅してまわった人です。連歌史上最大の作者といっても過言ではなく、芭蕉はこの人に対しても尊敬の念を深く抱いていました。

雪舟は室町時代後期の禅僧にして画家です。中国から伝来した水墨画の技法を我がものとし、日本で山水画を大成した人物として著名です。

利休は安土桃山時代の茶人で、わび茶として、いまに続く茶の湯の大成者としてこれも有名です。

いずれも、それまでの伝統を受け継ぎながら、大きな変革をなし、それぞれの道を代表するひとりになった四人の名を出てし、各ジャンルで彼らが成した業績の偉大さを想起させながら、「其貫道する物は一なり」と言います。貫道は道を貫くこと。いろいろな道の根底に通じるものの意で、それはひとつなのだと言う。西行、宗祇、雪舟、利休の間には根本的に共通するものがあると言うわけです。

素直に文章を読めば、このような捉え方になると思います。これに対して、田中善信は「芭蕉」のなかで、「其貫道する物は一なり。」の「一」は同じという意味ではなく、「自然」という言葉の代用として使われているのだと言います。それは、『荘子鬳齋口義』という注釈書の「大宗師篇」の注にある「一ハ自然ナリ、造化ナり」という文言に由来するというということです。だからこそ、これに続いて、「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。」では、彼らのみならず、俳諧に携わっている風羅坊もまた、自然の運行に身を任せて、四季の風物を友として暮らしている、と。つまり、風羅坊もまた、かれらと同じように自然に立脚しているというのです。このような生活を送っている風羅坊にとって目に見るもの、心に思い描くものすべてが、花や月のように美しいのです。

ここでは、学者の細かな解釈に深入りする必要はないと思いますが、芭蕉の句を読んでいく上では、大雑把に、四人の偉大な先達に連なるように風羅坊の俳諧も同じものが一貫している、それを自然ということ、くらいに受け取っておけば良いと思います。そうすると、慥かに、この文章の意味の流れがスムーズになります。ここでは、むしろ、偉大な四人の名を挙げて文章を展開させて点から、芭蕉は俳諧を和歌などから一段下がったところにあるとは考えていなかった、同等か、むしろそれ以上の可能性もあると、ここで主張していことになることに注目すべきだと思います。これは当時としては極めて大胆な発言だったのではないかと思います。社会の一般的な見方でいえば、和歌と俳諧の間には雲泥の差があり、俳諧など遊びにすぎないということになるのだからです。ここには芭蕉の俳諧感、風雅感を知るうえでは絶対に見落としてはいけないものがあると言える。

「見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。」というのは、この前に造化と四時の語を出したことを受け、造化にしたがい、四時を友とするとはどういうことであるかがより詳細に語られているところで、自然の流れ、季節の流れにしたがって、個々の対象を見るならば、すべての対象は花になるし、月になる。連歌や俳諧連歌では花の座、月の座といって、花と月を一定数必ず詠まなければならない決まりがあり、それほどこのふたつは大事なのです。つまり、世俗的に世界を離れた、つまり俗塵の垢に汚されることのない澄んだ心を保つ心の大切さを説いているということになるでしょうか。しかし、芭蕉の俳諧というのは、世俗的な世界を離れては成り立たないもので、それを誰よりも、芭蕉自身が認識していることでしょう。したがって、この文章には、世俗的な世界にいながら、その中に美を見出していうとする芭蕉の姿勢が示されている、と考えることもできます。花や月といった伝統的なものだけが美だというのではなくて、それ以外にも、広大で様々な美がある。だから、「見る處花にあらずといふ事なし」というのは、見るところがすべて花のような美になる。あるいは「もふ所月にあらずといふ事なし。」で思うところはすべて月のように美しいものとなるということです。その後は「像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。」と続きます。見たものである形が花でないとき、つまり、見たものの花のような美を見出せないとき、その人は夷狄つまり野蛮な人と同じだ、思ったことである心が花でないとき、その人は鳥獣と同じだということになります。慥かに、何かを見て、それを美しいと感じるかどうかは、その人次第かもしれません。絶対的な美というものが存在しているのではなく、美と感じられる心のなかに美は存在するのかもしれません。風雅な心を持っていれば、何を見ても花を見たのと同じように、その対象のなかに美が見いだせるはずだということが語られています。最後に、「夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」として、そのような野蛮人や鳥獣のような境遇から抜け出して、自然に身を任せ、自然に帰れと説いて終わります。

この部分は、西行、宗祇、雪舟、利休に一貫するもの、自然と述べるところから始まり、最後を自然に身を任せ、自然に帰れと説いて終わります。西行、宗祇、雪舟、利休が和歌、連歌、絵、茶というそれぞれのジャンルで追求しているものが、自然というもので一貫している。その自然というもので一貫していることで、ジャンルの差というのは、単なる表われ方の違いでしかなく、そこに上下の差などなくなってしまう。あるいは、芭蕉の作品創作を行う風羅坊と仮に名をつけた何ものかは、西行、宗祇、雪舟、利休にも内にもっていたと考えられる。彼らは、きっと自分のなかにある「名状」しがたい何かに突き動かされて、それぞれの業績を残したので、芭蕉もそれに倣おうとしている。表面を真似るのではなく、感動するところをふまえた上で、自分は自分の道を進むのだと決意を持っている。自然に至るのは、その何ものかが必要だった。

 

3.『笈の小文』の句を読む

『笈の小文』からいくつかの句をピックアップして読んでいきたいと思います。なお、『笈の小文』は句集ではなくて、紀行文集のようなものであって、全体の構成とか地の文とよばれる散文の部分にも工夫が凝らされています。だから、句だけをピックアップするのは偏った姿勢であることは否定できません。そのことを最初に断っておきます

●旅人と 我名よばれん 初しぐれ

旅の最初に詠まれた句です。

旅人と 我名よばれん初しぐれ

出かけようとすると、時雨がはらはらと降ってきた。おや、今年初めての時雨だ。昔から旅を彩る趣きのひとつだ。ひとつ、これに濡れながら、西行や宗祇と同じように旅人と呼ばれる身になって出かけよう。そんな感じの句です。

数年前の『野ざらし紀行』の出立の句が、

野ざらしを心に風のしむ身かな

と、自分の死を思い描いて、秋風のなかに身震いするといった悲壮感漂うものであったことに比べると、今度は実に弾んだような明るい心境であることがよく分かります。この違いは、芭蕉の境遇の変化とか、さまざまな事情が原因しているのでしょうが、そういうことはここでは気にしません。ここでは、あくまで、表われた作品を読むので、周辺の事情は切り捨てています。

さて、時雨というのは、西行をも宗祇をも連想させるところがあります。例えば、「江口」という謡曲にもなった西行の江口で時雨が降ってきて、雨宿り求めて遊女と歌を詠み交わしたというエピソードがあります。また宗祇のそれに基づく発句「世にふるもさらに時雨の宿りかな」は代表作のひとつと言われているそうです。おそらく、出発に時雨を降らせたのは、これらの先人を踏まえてのことではないか、それは、この前の序文で西行や宗祇といった人々の名をあげて、彼らへの対抗意識のような自負を表していることから想像できると思います。

時雨というのはしとしと降るあめですが、それを旅立ちの際に降らせるというのは、しんみりした淋しいという雰囲気ではなくて、先人の表現にあるように美的な風情を醸し出している道具立てとも言えるので、ここでは、そういう雰囲気をつくっていると考えてよいのではないかと思います。

●紀行文論

ここで、突然、紀行文とは別の文脈で、序文の風雅論ほどではありませんが、膝を改めて紀行文論が述べられています。この『笈の小文』は、もとになった旅はあって、そのおりに芭蕉が書き貯めた文章を集めてまとめたものですから、その時に書いた雑文が混入していてもおかしくはありません。むしろ、こういうこと、芭蕉自身が紀行文というものをどう考えているかを書き残していたのを読むことができるわけですから、この『笈の小文』に限らず、『奥の細道』などを読む際に役立つことになると思います。

さて、それほど長い文章ではないので、ここで読んでみることにしましょう。

抑、道の日記といふものは、紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。まして浅智短才の筆に及べくもあらず。其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覺侍れども、黄哥(奇)蘇新のたぐひにあらずば云事なかれ。されども其所そのところの風景心に残り、山館・野亭のくるしき愁も、且ははなしの種となり、風雲の便りともおもひなして、わすれぬ所々跡や先やと書集侍るぞ、猶酔ル者の猛語にひとしく、いねる人の讒言するたぐひに見なして、人又妄聽せよ。

冒頭、「抑、道の日記といふものは、」とかなり大上段に構えたようなところで始まります。なにやら、これから『笈の小文』という紀行文を始めるに当たって紀行文とは、そもそも何であるかということを、これから自分なりに明らかにしておきたい、と読者に自分の考えを開陳しますから、よく聞いてくださいと言っているようなものです。続いて、「紀氏・長明・阿佛の尼の、文をふるひ情を盡してより、」と、序文の風雅論では、西行、宗祇、雪舟、利休の名をあげていましたが、ここでの紀行文論では紀貫之、鴨長明、阿仏尼の名を並べて挙げています。おそらく、芭蕉は紀行文を書くにあたって、これらの先人を意識していたことがここからも分かります。序文の風雅論では、西行、宗祇、雪舟、利休といった和歌、連歌、絵、茶の湯といった分野を切り拓いた第一人者の名をあげて、その底意として俳諧の分野では自分こそが、この人たちに当たるものだという自負が隠れていると考えられます。それと同じように、芭蕉は紀行文について、過去の時代の紀行文作者の代表者をあげて、この芭蕉が生きた時代においては自分こそが、その人たちに連なるという自負と、そういう紀行文を残したいという強い願望の表れではないかと思います。

「紀氏」は紀貫之で平安時代の『土佐日記』の作者です。日記文学というのを創始した、あるいは紀行文を日記という形式で遺すことを初めて行った人です。「長明」は鴨長明で『方丈記』の作者。無常観という思想を底流にしたエッセイを著した禅僧で、『東関紀行』という紀行文の作者とされていました。禅僧であって、その思想を文章にしたというところで芭蕉にとっては、とくに先人としてあげたのでしょう。「阿佛の尼」は『十六夜日記』の作者です。女性の身でありながら、危険も多かった旅を敢行し、それを日記に残した開拓者です。しかし、とくに『土佐日記』に対しては、紀貫之は歌人でもあり、自身の旅の事実そのままを記しているわけではなく、文学的な創作を加えて作品としたものです。『奥の細道』をはじめとした芭蕉の紀行文も必ずしも旅のドキュメントというわけではなく、少なからず演出を加えているものです。道に日記といいながらも、道々ありのままの記事を書き留めるということを芭蕉は考えていなかったということからも、紀貫之を先人として真っ先に挙げていることは、意図的であると思います。そういう先人たちが優れた旅の日記を残した。

「餘は皆俤似かよひて、其糟粕を改る事あたはず。」の「餘」はそれ以外の意味。その先人たちが優れた旅の日記を残した他は、つまり、彼らの後に続いて書かれたものは、みな似たりよったりだということ。そして、「糟粕」とは酒粕、つまり酒を絞った残り粕のことで、おいしいところを取り除いた残り粕です。つまり、先人たちの残した優れた旅の日記という昇華されたものの残り粕のようなもので、その先人たちの域を越えることがない、具体的にいうと真似ごとにとどまっているということです。

「まして浅智短才の筆に及べくもあらず。」と自身を謙遜してみせて、浅い知恵、乏しい才能の私の筆が、それらの優れた作品に及ぶべくもないと述べてから、具体的な書き方の問題へと話が進んでいきます。そんな私は、こう書いていきます、と。

「其日は雨降、昼より晴て、そこに松有、かしこに何と云川流れたりなどいふ事、たれたれもいふべく覺侍れども、黄哥(奇)蘇新のたぐひにあらずば云事なかれ。」その日は雨が降って、昼から晴れて、そこに松がある、あそこになんとかという川が流れているといったこと。そんなことは誰でもが書けることです。「黄哥蘇新」とは、『詩人玉屑』の「蘇子瞻は新を以ってし、黄魯直は奇を以ってす(黄山谷の詩は奇警さ、蘇東坡の詩は新鮮さを特長とする)」から、宋代を代表する漢詩人、黄山谷と蘇東坡の作品が極めて斬新な表現でできたことをいう意味の成語です。つまり、誰でも書けるような題材については極めて斬新な表現のようなプラスアルファでもないかぎり書くべきでない。そう言っています。

そうは言っても…、逆説によって芭蕉は文章を進めます。この逆説は、この前で厳しいことを言っていることを決して否定しているわけではなく、それを踏まえて、それは分かっているが、だからといって旅の日記を書かないというのではなく、芭蕉は書いているわけです。それが「されども」という短い言葉に表れていると思います。「山館・野亭のくるしき愁も」は、『東関紀行』の一文に「或は山館・夜亭の夜のとまり、或は海辺水流の幽なる砌にいたるごとに、目に立つ所々、心とまるふしぶしを書き置きて、忘れず忍ぶ人もあらば、おのづから後のかたみともなれとてなり」をふまえたものだそうです。「山館・野亭」は山中や野山における野宿の意味で、そうすると、野山での旅寝、海や川の風景などの旅ならではの特別なことや、心に残ったことを書き残して、それを忘れずにしておくと、後々その旅を思い出すよすがとなる、という内容を含んでいるということでしょう。このことを踏まえて、芭蕉の文章にもどると、次のような内容になるのではないかと思います。そうは言っても、行く先々の心に残る風景や、野山に夜を過ごす苦しさ、つらさも話の種くらいにはなるだろうし、風雅な心をかき立てるよすがともなるだろうと思いなして、心に残るあちらこちらのことどもを、後や先にとかき集めているのだということだ。例えば、この『笈の小文』の断片を芭蕉が綴っているのが、このことに当てはまるというわけです。

「猶酔ル者の猛語にひとしく、いねる人の讒言するたぐひ」の「猶酔ル者の猛語」は酔っ払いのわけの分からない言い草で、「いねる人の讒言」は眠っている人のうわごと、つまり寝言です。ということは、ここで芭蕉が言っているのは、私の書き集めてみたこの紀行は、酔っぱらいのでまかせに等しく、寝ぼけて漏らすうわ言の類だとみなして聞き流してほしいということになるのではないでしょうか。ここには、謙遜も入っていますが、彼自身の自負も感じられます。つまり、先人の旅の日記の真似事であれば、人々にとっては慣れ親しんだものの範囲内なので安心して読むことができます。しかし、その範囲からはみ出て、新しいことにチャレンジしたものは、人々にとって必ずしも親しみやすいとは限りません。時には理解してもらえず、わけが分からないと見なされるかもしれません。しかし、それでもいいと芭蕉は、ここで言っているわけです。文章の最後の「亡聴せよ」には、そういう覚悟の意味合いが含まれているのではないでしょうか。そう言いながら、現に、ここてせ紀行文を書いているわけですが、ここには先人の真似事でない、肩を並べるような、先例のないような紀行文を創ろうとする意志が、この底に流れているのではないかと思います。

●星崎の闇を見よとや啼千鳥(鳴海)

江戸から名古屋まで一気にとんでしまいます。この星崎のあたりは鳴海潟という干潟が広がって千鳥が鳴いていて歌枕の名所となったと言います。

星崎の闇を見よとや啼千鳥

星崎の闇を見よと勧めているのか、千鳥が盛んに鳴き立てているというような意味でしょう。星崎という地名を句に折り込んだのは、夜の星を連想させて、闇の景にイメージを連ねる。一方で、千鳥が夕暮に啼く風情を和歌にうたわれてきたことを踏まえて、これも夜のイメージ。つまり、夜の闇をより強調しているわけです。闇を見ようとしているのは、芭蕉でしょうが、そこで見えるものを詠んでいるのではなく、千鳥の啼く声が聞こえてくる。何も見ない暗闇に千鳥の声だけが聞こえてくる。聴覚、つまり聞くということが、間接的に夜の深い闇を表わしているのです。しかも、見るというのは距離をおくものですが、聞こえてくるのは音が、こちらに寄ってくるものです。つまり、闇が忍び寄ってくるという。芭蕉本人も闇につつまれるように、その中にいるという風情ではないでしょうか。

とはいっても、夜の深深とした静けさはないのです。なぜなら、千鳥が啼きたてているからです。したがって、夜の闇に沈むといったような落ち着いた世界ではなくて、どこか落ち着かないのです。その落ち着きのなさは、心の不安、例えば闇に中で孤独を感じたり、旅の不安だったりなのかもしれませんが、旅はまだ始まったばかり、それを突き詰めるまでにはいっていません。

●冬の日や馬上に凍る影法師

初案は「冬の田の馬上にすくむ影法師」だったのが、「さむき日や馬上にすくむ影法師」、「すくみ行や馬上にこおる影法師」といったような推敲を経て、最終的に、この形になったといいます。

あまつ縄手、田の中に細道ありて、海より吹上る風いと寒き所也。

 冬の日や馬上に凍る影法師

あまつ縄手は現在の愛知県豊橋市杉山町天津で渥美半島の西岸になります。縄手は縄手道で、田の間のあぜ道のことです。田のなかに細い道があり、海から吹き上げる風でとても寒いところだった前書きにあり、寒風が吹き付ける寒々しい田んぼの一本道を馬に乗ってすすんでいると、遮るものがないので寒風にあたって、身も凍るように冷え切ってしまっている。

この句は幾多の推敲を経て最終的な今の形となったことはすでに述べましたが、最終形とそれ以前の形の大きな違いは「冬の日や」という詠嘆です。これで、延々と続く長い田んぼ道を、すくみながら進む芭蕉を、黒い冬の雲の合間から一瞬顔を出した陽の光が照らす、という光景が見えてきました。その冬の日に照らされて影が映った。何か舞台の演出のような感じがしませんか。寒風に吹かれて身も凍るような状態で、馬に揺られていた芭蕉は、身を縮込ませて、目も開けられなかった。そこに、雲間から、つまり天から冬の日が差してきて、辺りが明るくなって、芭蕉は目を上げる。それまで地を這うようにしていた芭蕉は、天から光が差して顔を上げる、それで、自らの影が映っているのを見る。まるで、冬の厳しさのなかに身を置いている自身に光があたり、自身を影法師で見出す。その姿は馬上で凍っている旅人の姿でしょうか。

●鷹一つ見付てうれしいらご崎

前書きにある保美村は、芭蕉の友人であり弟子でもある杜国が隠棲しているところです。杜国という人は、『野ざらし紀行』の終わり近くで「杜国に贈る白芥子に羽もぐ蝶の形見哉」という別れを惜しむ句を作り掲載したほどの親しい人です。保美村に向かう道中は、前に「冬の日や馬上に凍る影法師」と詠んだほどの独り旅が寒風が身に沁みるようなものでした。それが伊良湖岬に向かう道中は杜国が同道する道程となり、親しい人と連れ立って旅路となりました。それだけ、寒さの感じ方が違ってくるはずです。伊良湖岬は豊橋あたりから太平洋に突き出る渥美半島の突端、つまりどん詰まりです。その伊良湖岬へは先に進むほど陸地が細くなり、したがって海からの寒風を遮るものがなくなり強くなる。地の果てに行くような心細さがあります。

保美村より伊良古崎へ壱里計も有べし。三河の國の地つヾきにて、伊勢とは海へだてたる所なれども、いかなる故にか、万葉集には伊勢の名所の内に撰入れられたり。此渕(州)崎にて碁石を拾ふ。世にいらご白といふとかや。骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて、鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹など歌にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし 

保美村から伊良古崎へは約1里の道。三河の国から地続きなのに伊勢の志摩半島側から見ると、島のように見えるため『万葉集』には伊勢国伊良古の島と記載されています。この洲崎、岬の浜で碁石を拾う。貝殻から作る白い碁石はここの名産で、そのことを「世にいらご白といふとかや」と書いています。骨山は伊良湖岬にある小高い山のことで、鷹を捕らえるところだとある。また、ここは南の海のはじめであって、鷹がここから南の海に渡るスタート地点だというところでもあります。西行を含め伊良湖での鷹を詠んだ歌がいくつかあるそうです。例えば、「巣鷹渡る伊良胡が埼を疑ひてなほ木に帰る山帰りかな」。いらご鷹と歌に詠まれていると思えば、さらに情趣が深く感じられたのでとして、次の句に続きます。

鷹一つ見付てうれしいらご崎

季語は鷹で冬。一句として読めば、鷹の名所として知られる伊良湖岬で、一羽の鷹を見つけた嬉しさよといった意味になる。和歌で知られる風物を、実際に我が目でとらえた喜びが、この句の感動の中心をなしているということになるでしょう。上に述べたように、ここ伊良湖岬は鷹の渡りの名所ということですから、渡り鳥はふつうは群れをなして飛んでいくものです。しかし、この芭蕉一行が伊良湖岬に出かけたのは初冬を過ぎたあたりということで、歌に詠まれているような渡りの大群を見ることはできなかった。それでも一羽の鷹が空を舞っている姿を見つけることができた。そういう情景だと思います。鷹の群れを求めて出かけてきたものの、冬の寒い空には現われず、ようやく一羽の鷹を見つけた。群れをなして飛ぶという鷹が、ここでは一羽で飛んでいる。その鷹に芭蕉は自身の旅の姿を重ね合わせた。それによって何か心強いものを感じたかもしれません。それは、ほんの数日前に寒風の中で一人馬に乗って寒さが身に沁みると詠んだ後なのです。それゆえ、この句の「うれし」には、単に一羽の鷹を見つけたという以上の思いがあるのではないか。さらに、求めていた鷹に出会えたということは、親しい友人で、いま共に旅をしている杜国と出会えたことも重ねられている。そういう喜びも込められていると見てよいのではないでしょうか。

●旅寝してみしやうき世の煤はらい

芭蕉は名古屋で過ごして後、故郷の伊賀上野に向かいます。

師走十日餘、名ごやを出て、旧里に入んとす。

旅寝してみしやうき世の煤はらい

「煤はらい」が冬の季語。当時は薪で炊事などをするから天井などに煤が付いてしまいます。そのたまってしまったのを笹だけや箒などではらい、あわせて家のなかをきれいにするのが煤払いです。年末のニュースなどで京都や奈良の大寺院が、信者や僧侶が総出でお堂の柱や桟を大きな箒で払ってるいのを話題にします。あれを一般家庭で行っていた。今の大掃除に相当するようなものです。暦の上では12月13日に行うとされています。それで、前書きに「師走十日餘」とあるわけです。「旅寝して」は、方々を旅して泊まり歩いている、つまり、自宅に定住せずに、転々と旅を続けている芭蕉自身の身の上(生き方)を表現しているようである。それは、「浮き世」の在り方ではないわけです。「浮き世」の住人、つまり世間の人々は、この時期は自宅の煤払いに精を出しているのです。世間は煤はらいで忙しそうにしている頃、旅寝を続ける自分はただそれを眺めるばかりであると詠んだのです。

浮世の外に自分がいるということは、旅を続ける身として絶えず意識していなければならなかった。それは彼の自負でもある一方、やや引け目に思うところでもあったのではないでしょうか。その微妙なところが、芭蕉の文芸を支えるもののひとつで、それが「みしや」という見るに詠嘆の「や」を加えた表現に表われている。

●草臥て宿かる比や藤の花

4月11日、八木での吟。この記述は時間的異動があって、このくだりは時間的には吉野よりもっと後になるものです。であれば藤の花は春の季題で季節的に合わなくなる。そこでここへ持ってきたのであろう。杜国と会って元気になった気分がここで萎えているのも附合しない。

旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれども、夜の料にと、かみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉*なんど物に包て、後に背負たれば、いとヾすねよはく、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて、道猶すゝまず、たヾ物うき事のみ多し。

 「旅の具」は旅に必要な道具で荷物ということです。荷物の多いのは道ざはり、すなわち道中の邪魔です。そこでほとんどの物は捨て去ってしまった。それが「物皆払捨たれども」という表現です。それでも必需品だけ捨てるわけにはいきません。「夜の料」とは夜に寝るときの道具、夜具のことで、そのための紙子ひとつは欠かせません。紙子は紙で作った衣装のことで、紙子や紙衣などともいい、夜具の用意がない宿ではこれにくるまって寝るために必要です。それから雨が降ったときの用意として合羽の類、そして硯・筆・紙に薬等、それに昼の弁当などもひとつの包にして背中に背負うことになります。するともともと足が弱く、力のない身なのが後ろに引っ張られるようになって道ははかどらないとある。ただつらいことばかりだともある。

草臥て宿かる比や藤の花

もう暮れ方です。あまり丈夫でない芭蕉は、すっかりくたびれてしまいました。そろそろ宿を借りようと疲れた身体でふと見やると、薄暗い中にぼんやりと紫の藤の花が咲いていた。その藤の花のけだるい風情に旅の疲れも一時忘れるほどだ。前文が、重い荷物をもっての旅が疲れるものであることをくどくどと説明しているのが、「草臥て(くたびれて)」を強調するようです。たそがれの藤にこもるほのかな倦怠感と相俟って、旅に疲れた芭蕉の姿が浮き上がってきます。おそらく、ここで宿を探しても、ろくな宿はないでしょう。芭蕉がやっと泊めてもらったのは、かれの財布との関係もあって、申し分なく貧弱な宿だったと想像されます。しかし、くたびれた旅人にとっては、とにかく手足をのばすだけの宿にでもありついたことは、ほっとした安らぎをもたらすものでした。そういうところで詠んだ句ではないか、と想像されます。しかし、裏を返すと、そういうところでも芭蕉は句を詠んで書き留めていたわけです。

●故郷や臍の緒に泣く年の暮

芭蕉は、名古屋で過ごしてから伊賀上野に帰郷し、生家で年越しをします。3年前の『野ざらし紀行』以来の故郷でした。その時に詠んだ句が

手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜

という、母の死をみとることができず、白くなった遺髪を手にした慟哭の句でした。その熱い涙に比べると、3年後の句では、しみじみと万感の思いが沁みてくるような句です。

故郷や臍の緒に泣く年の暮

故郷での年の暮れに亡き親を偲びつつ、臍の緒を手にとって泣くことだの意味です。

小西甚一は冒頭の「故郷や」は見事だと言っています(『俳句の世界』講談社学術文庫)が、そのことについて、句作で苦労をしてはじめて見事さが実感できると、あえて説明していません。小西ほど深く鑑賞することはできていませんが、「故郷や」と切れ字で詠嘆を表わしているところ。これはひとつには、長く故郷を離れていて、いつも懷かしく追懷していたということ、その地に帰って来たという感慨。しかしだからといって、故郷に対して、芭蕉にある種の違和感が芽生えていることがこの「故郷や」には窺われる。故郷に帰ってきて、その地で「故郷や」と、まるで遠くから故郷を思うというような言葉を用いています。そこに、故郷と芭蕉の間に距離があることを示しています。それは、生家に既に父母は無く、芭蕉の生家であった家は、今は兄半左衛門とその家族との住居と変容していることからも、明らかであろうと思います。久し振りに帰郷した芭蕉を、兄半左衛門とその家族や芭蕉の姉妹は暖かく迎えたに違いありません。しかし、そこはもう芭蕉の生家であって、生家ではなかった。帰って来た44歳の芭蕉の目にうつる「故郷」は、20歳代の若かったころの芭蕉の目に映っていた故郷とはまるで異なる別物なのだということでもあるわけです(この句の結び「年の暮」は掛詞となっていて。文字通り年末という意味と、もうひとつ晩年という意味が掛けられていることからです。)。そういう単純に懐かしいというだけでは割り切れない感情が、この「故郷や」に込められている。

そして、この句の中心は「臍の緒に泣く」の部分です。故郷やから臍の緒へと意外な転換が小さな驚きを伴いますが、「臍の緒」は芭蕉が生まれたとき、母親が大切に取って置いたもので、その母親の死去の際、棺に納めるものであると言います。芭蕉の母は、天和三年(1683)、芭蕉が四十歳の時に亡くなりましたが、その臍の緒を母親とともに埋葬しなかったのは、芭蕉がその場に居なかった為と言われています。いま、母が亡くなって四年、それでも臍の緒は残されています。芭蕉が目にした臍の緒は母親の所有物であり、また芭蕉自身の所有物でもある。芭蕉が臍の緒を見て感じるのは、単に今は亡き父母の面影が偲ばれ、懐旧の情に堪えかね涙にくれるばかりではなく、母親の死に駆けつけることの出来なかった悔恨の情であり、口惜しさがあると思います。その一方で、今、こうして芭蕉の「臍の緒」に再会できるのは、両親が亡くなった後も、捨てずに取って置いてくれた兄のおかげです。その兄に対して、感謝の気持ちが湧いてくる。こうして、兄弟が揃って再会できるのも、兄が家を守ってくれているおかげなのです。「臍の緒に泣く」のは、父母を思い出し、兄に対しての感謝の思いで、涙が出てくるということになるわけです。

3年前の「手に取らば…」の句のように母親を失った悲しみに単純化することはなく、様々な思いが湧いてきて交錯しています。「年の暮」という体言止めが、亡き母の思い出とともに現在の齢をとった兄弟と再会しているということに、それらの思いを受け止め、まとめていると思います。

●丈六にかげろふ高し石の上

故郷の伊賀上野で越年した芭蕉は、近くの神龍寺に詣でます。

伊賀の國阿波の庄といふ所に、俊乗上人の旧跡有。護峰山新大仏寺とかや云、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の緑に埋て、御ぐしのみ現前とおがまれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全おはしまし侍るぞ、其代の名残うたがふ所なく、泪こぼるゝ計也。石の連(蓮)台・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覺えられけれ。

伊賀国阿波の庄は伊賀上野の東方で、現在の三重県伊賀市富永にあたります。ここに俊乗上人の旧跡があり、護峰山新大仏寺です。俊乗坊重源という鎌倉時代初期の僧侶が奈良の東大寺を復興し、七ヶ所の道場を開いたのですが、この伊賀の新大仏寺もそのひとつです。護峰山は山号で現在は五宝山と書く。この寺の本尊は江戸時代の補作とされながら、頭部は快慶の作とされる毘盧遮那仏と呼ばれるもので、阿波の大仏さんとして知られるものだそうです。建仁2年(1202年)の創建当時は十一の堂宇を持つ大寺院だったが、やがて衰退し、寛永12年(1635)の暴風雨と山崩れにより破壊・埋没という事態に陥ったそうです。芭蕉が訪れたのは、その災害から53年後で、いまだ惨憺たる状態だったようで、そのことがここに書き綴られています。すなわち、名前だけが千年前の形見として残るだけで、建物は破壊されて礎石を残すのみ。僧坊も絶えて田や畑となり、一丈六尺の尊像は苔に覆われて御首だけが目の前で拝められるという有様。上人の肖像は昔のままに残り、当時の形見であることに疑いはなく、涙がこぼれてならない。「丈六」というのは一丈六尺でおよそ4.85メートルで、釈迦の身長がそうであったといい、仏像の標準的な高さが丈六になります。連座は大仏を載せる蓮華台のこと。また、獅子の座はその蓮華台を載せる石の台座で獅子が彫られているもの。これらが雑草の上にうず高く重ねられている。「双林の枯たる」は釈迦が入滅された際、沙羅双樹が枯れていっせいに白くなったということを指す。そのさまを眼前に見るような心地がする。つまり、荒廃して朽ちてしまっている情景です。

丈六にかげろふ高し石の上

かつて、丈六の尊像が置かれていた石の上に、陽炎が高く揺らいでいるその陽炎の高さに、もといらっしゃった丈六のおもかげがほのかに浮かぶ。かつて、そこに在ったものは、今は見えない存在になっていても、そこに在り続ける。多くの人々が、そこに在ることを望んだものは、たとえ姿を消しても、そこに在り続ける。この句は、はじめは「陽炎におもかげつくれ石の上」と詠んだのが、最終的にはこのようになったといいます。「陽炎に…」の句では、「おもかげつくれ」と、ゆらめく陽炎に在りし日の大仏の幻像を見ようとした芭蕉の情念をストレート表わしています。しかしながら、後の句に比べて、主観があからさまで、大仏の姿があまり浮かんできません。それが、最終形のこの句では、「陽炎におもかげつくれ」という大仏の俤をつくるという意志的な行為の表現から「丈六にかげろふ高し」という俤が浮かんでくる表現に変ってきています。それによって、中心が俤をつくるという意志的なことから俤そのものに移っています。「丈六」という大仏の俤のイメージを表わす言葉を入れています。しかも「丈六の」とは言わず「丈六に」とすることで、そのあとで「高し」と高さを表わす語が来るので、「丈六」は大仏の寸法を表わすだけではなく、大仏の荘厳さをも表わしています。そもそも真の仏様とは、形も姿も無いのであって、程度の低い人たちには眼で見える像で拝ませるけれど、修業を積んだ人には不要であり、薬師寺の仏足石のごとく、足の形だけ彫ってあれば、仏様の全体が拝む人の心眼に感じ取られる。それにならって陽炎の高さ、様態だけ言って、あとは叙述しないことによって、むしろ本当の仏様を描いている。そういう句です。

「描写しないことによって描写する以上に表現する」のは、禅における「不言の言」と共通するものです。これは、芭蕉が禅のから学び取ったものではないでしょうか。それが、いわゆるわびさびに昇華していくことになるわけです。

●何の木の花とはしらず匂哉

2月になって伊勢参宮に出かけ、そこで詠んだ句です。

何の木の花とはしらず匂哉

何という木だか分からないが、清らかな花の匂いがただよって神々しく感じられることだ、というような意味でしょう。『西行法師歌集』所収の西行歌、「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるゝ」をふまえ、神域のありがたさを詠んだものであると知られているということです。西行に深い敬意を抱いていた芭蕉が伊勢参宮に際して西行の和歌を想った。芭蕉の心は、いつしか西行の心になってゆき、この句が生まれた、と評した人がいますが、この句は、言ってみれば西行の歌を俳句にしつらえたようなものです。しかし、和歌と俳句は違います。その違いが西行と芭蕉の違いとなって表われています。例えば、西行は「かたじけなさに涙こぼるゝ」と伊勢参宮の感動し涙をこぼしたという自らの感情をストレートに表現しています。これに対して、芭蕉はかたじけないとも、涙こぼしたとも、そのようなことは一言も表わしていません。芭蕉は西行の涙を想ったのか、何の木の花の匂いなのか、分からないけれども、木の花の匂いに心も体も洗われましたということを詠んだのです。詠んであるのは、どこからともなくほのかに流れてくる花の香だけです。その「ほのかさ」のなかに、深い信仰の念が微妙な陰影をもって表現されている。陽炎の高さだけを述べ、それによって仏様の姿を感じ取らせた前の「丈六にかげろふ高し石の上」の句と同じゆきかたと言えます。心の中の感じを直接に持ち出さず、あたりの景色などを透してそれとなく表現しているわけです。高濱虚子は「短歌は煩悩を詠い、俳句は悟りを詠む」と言ったそうですが、だから西行は煩悩を詠んでいるのに対して、芭蕉は木の花の匂いだと悟ったことを詠んだということ。これが二人の違いとなって作品に表われていると思います。

●此山のかなしさ告よ野老掘

伊勢の菩提山神宮寺は行基の開基の寺と言い伝えられていた名刹ですが、芭蕉が訪れたこの時代すでに荒れ果て、山野に変わっていたそうです。その見る影もない悲しい状態が一句の動機。芭蕉は以前にも廃墟となった寺を訪れ、「丈六にかげろふ高し石の上」の句を詠み、廃墟の何もない石の台座の上に尊像を見出そうとしました。ここでは「菩提山」の哀しさを告げよと詠っています。

菩提山

此山のかなしさ告よ野老掘

野老を掘る人よ、この山寺で起こった悲しい出来事を語っておくれという意味でしょぅか。「野老」は山野に自生するヤマイモ科の植物で、野老堀が春の季語です。野老堀の人は、長年にわたって、この山で野老をとっていたので、あたり一帯を熟知している人でもあるわけです。その昔、参拝者で賑わっていた神宮寺が、今は建物の姿も無く、廃墟となって草深い山にひっそりと埋もれている。訪れる者はその山菜採りだけ。そういう寂しく、もの悲しいイメージです。

ちなみに、この句の「かなしさ」が何を指すのかということについては、廃墟となった寺の悲しさという見方、釈迦が入滅した際の悲しさという見方、説話での西行と人々の別れだとする見方などいくつもの説が提起されている。

●ほろほろと山吹 ちるか瀧の音

18日に亡父の年忌があったりして、しばらく伊賀に逗留していた芭蕉は、3月の半ばに吉野に向かいます。

西河

ほろほろと山吹 ちるか瀧の音

前書きに「西河」とあるのは、現在の奈良県吉野郡川上村にある吉野川の激しい渓流のことです。吉野大滝とも言われますが、一般的な高いところから落ちる滝ではなく、吉野川の急流が岩の間をみなぎり落ちるものです。吉野という桜が有名ですが、山吹の花も桜に劣らず、この地域の名物だったといわれています。古来から和歌にもうたわれており、例えば古今集に納められた紀貫之の次のような歌があります。

吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり

とくに、このあたり川岸には一面に山吹の花が咲いていたといいます。この句では、山吹が川岸に咲きみだれ、こぼれる姿を、川音を背景に「ほろほろと山吹ちるか」と詠んでいます。「ほろほろと」という言葉は、むかしから黄葉の落ちる姿や、衣のほころびるさま、また山鳥の類の鳴き声として感情移入されてきた言葉で、「吹ちるか」という詠嘆と呼応して、一句のイメージを確かなものにしていると言えます。

そのイメージをさらに確かなものにしているのは、近景と遠景の対比です。すなわち、吉野川急流を遠く背景にして、ほろほろと散る山吹の黄色い花びらを近景にしています。あるいは、吉野川の激しい流れの瀬音と音もなく散る山吹の花びら、あるいはその瀬音の他何もない山峡の奥ぶかさ。それらの対比が重ねられてイメージが広がっていいます。

●ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲

芭蕉は吉野から高野山にのぼります。

ちゝはゝのしきりに恋し雉の聲

この句は、奈良時代の僧侶である行基が詠んだとされる『玉葉集』所収の和歌「山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をふまえたものと言われています。歌では山鳥の鳴く声であったのを雉の声とし、亡き両親への思慕を詠んだ。雉の鳴く声を聞くと父母のことがしきりに恋しく思われるという意味になります。和歌では山鳥はほろほろと鳴く詠まれていますが、雉の鳴く声は鋭くて、どこか哀調を感じさせるところがあります。それゆえに、行基の歌と同じ山鳥ではなく、雉の声にした。しかし、行基の歌が山鳥だから、私は雉だという発想ではなく、芭蕉は実際に雉の声を聴いて父母を偲んだのではないかと思います。

芭蕉は、22年前の23歳の時に、故主良忠の位牌を納めるため、高野山に来たことがあります。この高野では、いろいろな追憶が去来したのではないか。それにもまして、故郷で臍の緒に泣き、2日18日に父の年忌をいとなんだ最近の感動が、つよく迫ったに相違ありません。5年前に亡くなった母、その臨終にかけつけることもできなかった自分。それらの心情が、すべて「恋し」に集約されているのです。そこに、雉子が鳴いた。「しきりに」という、細工のないストレートな表現に、芭蕉の、感極まった様子がうかがえるではありませんか。

小西甚一は、「ちゝはゝのしきりに恋し」と「雉子の聲」とが融けあって、高く美しい抒情がほのぼの流れる。これも、ひとつの象徴である。しかし、さきの「何の木の」にくらべると、象徴の仕方が同じでない。「何の木の」の句は、句ぜんたいが景趣で、心情はその裏に潜む表現であるが、こちらは、心情と景趣が両方とも表面に出て、対立しながらしかも感覚のむ深層で融合する。と言っています。

●旅論

序文の風狂論、旅立ち直後の紀行文論、そして、この紀三井寺とあって俳句が置かれるはずなのに、唐突に自分にとって旅はどのようなものであるのかということが語られていきます。これが『笈の小文』がメモの寄せ集めであるからこそのものなのでしょうが、これらのように芭蕉が自分にとって大事なことについて、まとまって語っているのがあるということは、他の紀行文にはない『笈の小文』独特の魅力になっていると思います。

跪(踵 )はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ。山野海濱の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の實をうかがふ。猶栖をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。寛歩駕にかへ、晩食肉より甘し。とまるべき道にかぎりなく、立つべき朝に時なし。ただ一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿からん、草鞋のわが足によろしきを求めんと斗は、いさゝかのおもひなり。時々気を轉じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし。日比は古めかしく、かたくなゝりと悪み捨たる程の人も、邊土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又此旅のひとつなりかし。

「跪はやぶれて西行にひとしく」は、旅をすれば自ずとかかとが傷つき、それは彼の西行も同じだったはずだという意味です。当時の旅は徒歩が原則で、草鞋を履いて土や砂利の道を歩いたわけですから、かかとを傷つけたり、マメをつくったりと脚をはじめ身体に無理を強いるものであったはずです。しかし、それはいにしえの時代も同じで、尊敬する西行とも痛みを共有している。そして、この文は旅の大変さということで続きます。「天龍の渡しをおもひ」で、芭蕉は『西行物語』にあるエピソードに思いを寄せます。すなわち、西行が天竜川の渡船場にいるとき、人がいっぱいだから降りろと頭を打たれ下船させられたという話です。このとき、旅をすればそうした苦難もあると、西行は怒ることしはなかった。また、別の逸話が「馬をかる時はいきまきし聖の事心にうかぶ」で、これは『徒然草』106段「高野証空上人、京へ上りけるに」のある高野聖が、細道で堀に自分の馬を落とされ、腹立ちまぎれに相手の馬子をののしりすぎて、己のいたらなさに気づいて恥ずかしくなって逃げ出したという話で、それを道中で馬を借りる時に思い出す際に思い出す、と言っています。

次の文章では、山野や海浜の美しい景色に接しては、自然の巧みを見て取り、あるいはすべての執着から離れた修行者の跡を慕い、風雅を愛した人の真実を探ろうとするとある。「無依の道者」とは執着を持たない修道の世捨て行者のことで、修業で各地を歩いた人々で、次の「風情の人」と重なる西行や宗祇といった人々のことを暗に指しているのではないかと思います。それは、つまりすばらしい自然の美を味わい、優れた古人の心に触れる。それが私の旅なのだということを言いたいのではないかと思います。

そして、猶と入って文章が旅を日常生活と対比するように語り始めます。「栖をさりて器物のねがひなし」とは、家が無いので、家具や財産などを貯めこもうなどとつゆ思わないという意味。旅を続ける身であれば、ものは邪魔なだけ。立派な道具類など自分には関係ないというのでしょうか。また、「空手なれば途中の愁もなし」は、無一物なので道中の不安といったものもないということ。空手は手ぶらで何も持たないこで、途中の愁いとは、たとえば盗賊に襲われたりする心配といったことをここでは言っています。襲われたとしても、奪われるものなど何もないというわけです。これは、旅をしていると、何かを持とうという物欲が薄れていくということが書かれています。「寛歩駕にかへ、晩食肉より甘し」は、ゆったりと歩いて駕篭など使わず、歩き疲れて宿に上っての遅い夕食は空腹のために食べるものが肉よりうまく感じられるの意味。江戸時代、基本的に獣の肉は食べないことになっているから、ここでの肉は魚や鶏のことを言っているのでしょうか。歩き疲れ、空腹になって食べれば何だってうまいというわけ。ここでも贅沢とは無縁の旅の有り様が記される。そしてそれは物質的には乏しいけれど自由に満ちたものなのです。続いて、「とまるべき道にかぎりなく」は、どこで泊まらねばならないといった約束などないということ。「立べき朝に時なし」は、朝の何時に立たねばならないということはないということ。気の向くままに行動できるというのです。それは、日常の生活では仕事で何時に起きて、日中は仕事をしなければならないとか、夜は誰々とやくそくがあるとか、そういう制約に縛られることはないということです。しかし、他方で、そんな旅だが一日に願うことが二つあると打ち明けるように言います。「こよひ能宿からん」がその一で、「草鞋のわが足によろしきを求めん」がその二。気持ちよく一夜の宿泊ができる宿と、足に合っていて歩きやすい草鞋、願いはそれだけだというのです。「いさゝのおもひなり」とあるようにまさにささやかな願いだ。休息と睡眠を十分に取り、よい草鞋で歩きたいというのは、徒歩を中心とする当時の旅にあって極めてまっとうな願いです。しかし、本人も言っていますが、ささやかな願いです。

ここでまた、文章が変って終わりは、彼なりの旅のメリットを語って、まとめます。「時々気を轉じ、日々に情をあらたむ」は、時に応じて気分を変え、日によって情感を変えるという意味。つまり、旅をしていると、一瞬ごとに気持ちが切り替わり、一日一日を新鮮な思いで迎えることができるというのです。さらに、「もしわづかに風雅ある人に出合たる、悦かぎりなし」と、そうした毎日のなかでも、特に嬉しいのはわずかにでも風雅な心を持つ人に出会うことだ。そうしたときの喜びには限りがないとある。かと言って、そうでない人あっても悪いわけではない。「日比は古めかしく、かたくなゝりと悪み捨たる程の人も、邊土の道づれにかたりあひ、はにふ・むぐらのうちにて見出したるなど、瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して、物にも書付、人にもかたらんとおもふぞ、又此旅のひとつなりかし。」といいます。「古めかし」は古風なことで、「かたくなゝり」は頑固、頑迷なこと。古臭く、頑迷な人だと、日頃は憎らしく思っているような人であっても旅で会うのはまた格別というのです。は憎らしく思っているような人であっても旅で会うのはまた格別というのだ。続く、「はにふ」は埴生の小屋を略した言い方で、土間にむしろを敷いて寝るような家のことです。「むぐら」は雑草のことで、荒廃してみすぼらしい家を象徴するものとしてよく使われる喩えです。「はにふ・むぐらのうち」で粗末な小屋の中の意味となります。そのような人とでも、辺鄙な土地の道連れとして語り合ったり、みすぼらしい家のなかで見出したりするのは、「瓦石のうちに玉を拾ひ、泥中に金を得たる心地して」何かに書付けたり、人にも語りたいと思うものだ。それもまた旅のひとつのあり方なのだとある。「瓦石のうちに玉を拾ひ」は、瓦や石のなかに宝玉を拾うということ。「泥中に金を得たる」は泥の中から黄金を見つけるということ。どちらも得難いものを手にするということです。

以上、この文章では、自分の旅が西行等のそれに倣った質素なものであることを言い、また何の制約も束縛もない自由なものであると言っています。常に心が改まっていくことも旅の利点だとも言っています。

●若葉して御めの雫ぬぐは ヾや

高野山から和歌の浦に出た芭蕉は、奈良に来て、あちこちの寺に詣で、唐招提寺で鑑真和尚の像を拝しました。

招提寺鑑真和尚来朝の、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して、

鑑真は唐の高僧で、日本からの要請に応じ、船で渡ろうとしつつも暴風雨などによって何度も阻まれ、12年目の天平勝宝6年(754年)にようやく来日することができ、唐招提寺を開き、律宗を広めました。しかし、その間の苦労で失明の身となった。この前書きでは、鑑真が来日するに際して、船中七十余度にわたる難儀を乗り越えられ、この七十余度というのは数多くのということですが、目の中には潮風が入って、とうとう目が不自由になられてしまったと。そういう姿の尊像を拝して詠んだと書いています。この像を拝した芭蕉は、俳諧の道に生涯をかけた自分の行路も顧みられて、深い感動が全身にわくのを覚えたのでしょう。

若葉して御めの雫ぬぐはヾや

心なしか、御目のあたりに、雫がやどったみたいな感じがする。その雫を拭いて、暗い御目のあたりを爽やかにしてあげたい。外は、あざやかな若葉が目もさめるばかり。その若葉の木漏れ日にかこまれた堂の中で、静かに目をつぶった尊像。実際にはない涙をまのあたりに感じての一句といえるでしょうか。

●蛸壺やはかなき夢を夏の月

「旅人と我が名呼ばれん初時雨」で始まった芭蕉の『笈の小文』の旅は、この句で終了となります。この後は付録といえる『更科紀行』に引き継がれます。

明石夜泊

明石は現在の兵庫県明石市で、万葉以来の景勝地として知られます。『源氏物語』にも明石の巻があり、また明石は『平家物語』ゆかりの地でもあります。源平の命運を分けたのは一の谷の戦いで、そこから逃げ落ちた平家にまつわる地籍が明石には少なからずあります。その須磨と明石は『源氏物語』に「這ひわたるほど」と書かれているほどの距離。明石の海には義経等によって追われ、はかなく消えていった平家一門の見果てぬ夢が眠っているといってよいのです。明石の夜を泊まってという意味の「明石夜泊」という前書きからは、そのようなことまでが感じ取られるようになっています。ところが、伊賀の人に宛てて書かれた書簡によると、実際の芭蕉自身の行動としては、この夜明石には泊まらず、須磨に戻っているので、この前書きは虚構の前書きということになります。

文芸上は前書きに「明石夜泊」とある以上、芭蕉は明石に宿り、蛸と同じくはかなき夢を垣間見たと読むことになるわけです。夜泊は漢詩によく見られる題で、特に夜に船を留め、そのなかで一夜を明かすことを意味します。ここでもそのようなイメージを持って句を読んでいいのだろうと思います。

蛸壺やはかなき夢を夏の月

蛸は明石の名産として知られ、とくに蛸壺漁は明石が発祥と言われています。その蛸壺とは、蛸が暗いところを好む習性を利用して、素焼きの壷を海に沈めると蛸が中に入って眠ったところを引き上げ捕まえるというものです。芭蕉は、蛸壺を海に沈めるところを見たということにして。夜になって、静かな海面には、月が、ひたひたと動く波を銀色に輝かせる。この美しい波の下、短い夏の夜が明けた朝、自分がどうなるのかも知らず、蛸たちは、はかない夢を結ぶ。哀感と旅情とを美しい月明かりの夜に深く沈ませた情景がうかんできます。

あすの運命を知らずに生きるのは蛸だけではなく、あらゆる生き物がそうで、人間も例外ではありません。諸行無常を自ら体現した平家の運命などが思われて、生あることの根源的な哀しさまでが感じられる、それは「明石夜泊」に込められたものから、この句が導かれるように詠まれたことでセットで感じ取れるように構成されています。生まれて死んでいくという一点においては、蛸も自分も戦で亡くなった人々も何ら変わることはないはずです。そのことを実感させるために、たとえ虚構であったとしても、どうしてもこの地に一泊せねばならなかったというわけなのでしょう。

 

4.『更科紀行』について

版本『笈の小文』には『更科紀行』と題されたものが付載されています。これは「笈の小文」の旅の後、木曽路を通り、更科で月見をするというもので、ゆうならば「笈の小文」の旅の帰途にあたるものです。芭蕉の旅ということでいえば、これも含めて一連の旅ということになると思います。だたし、この『更科紀行』が独立した紀行文として書かれたことは、芭蕉の自筆稿本が現存することから確認できると言います。

しかし、『笈の小文』の旅がどちらかというとよく知った場所の反復であったし、行く先々で多くの門人に囲まれて安全な旅だったのに対して、『更科紀行』の木曽街道の旅は物理的にも危険があり、追い剥ぎや山賊などの不安もないではなかったので、気楽なものとは言えない旅だったと言います。それだけにこの旅は多くの秀句を生み出し、収穫の極めて多い旅となったといわれています。

 

5.『鵜舟』

『更科紀行』の句を読んでいく前に、芭蕉は『笈の小文』の旅の行程で、『更科紀行』に書かれた木曽街道の旅に向かう前に、京都で過ごし、大津から岐阜を通って名古屋に出て、そこから木曽街道に入りました。この道中の、岐阜に滞在した折に長良川の鵜飼を観賞した際に、俳文を制作しています。この俳文が『鵜舟』と呼ばれ、ここで詠まれた句は傑作とされているので、ここで読んでいきたいと思います。

岐阜の庄長柄川の鵜飼とて、世にことごとしう言ひののしる。まことや、その興の人の語り伝ふるにたがはず、淺智短才の筆にも言葉にも尽すべきにあらず。「こころ知れらん人に見せばや」など言ひて、闇路に帰る、この身の名残惜しさをいかにせむ。

 「岐阜の庄長柄川の鵜飼とて」とこの文章は書き始められ、「ことごとしう」は大げさで物々しいこと。「言ひののしる」は口々に言い立てること、つまり皆が褒めそやしていうので世間で大きな評判となっているという意味です。現在でも長良川の鵜飼は有名で多くの観光客を集める名物イベントです。これは、芭蕉の旅した江戸時代からもそうだったということです。それを実際に見た芭蕉は「まことや、その興の人の語り伝ふるにたがはず」と書いています。本当にそのおもしろさと言ったら人が語り伝えるのに変わることがない、つまり噂どおりだというわけです。そしてそれを伝えようとしても、淺智短才の者が筆を使おうが、ことばにしようが表し尽くせるものではないと続きます。「こころ知れらん人に見せばや」とは、これを風流心や文才のある人に見せたいものだと意味です。この言葉は、『後撰和歌集』の源信明の歌「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらん人に見せばや」を踏まえたものです。そんなことを話しながら闇のなかを宿に帰ったのだ。それにしてもこの名残惜しさはなんとしたものであろうかと締めくくられるのです。「この身の名残惜しさをいかにせむ」とあるのは謡曲『鵜飼』に「…鵜舟のかがり影消えて、闇路に帰るこの身の、名残惜しさをいかにせん…」という石和の笛吹川で禁断の殺生をしたために地獄におちた鵜飼の亡霊が、朝の到来とともにあの世に帰る無念を表すところを、そのまま引用しています。つまり、夜道を宿に帰る芭蕉と、「闇路」すなわちあの世に戻る亡霊の名残おしさを重ねているのです。芭蕉はそれを引きながら、さらに普遍的な問題へとこの鵜飼見物の経験を昇華させていくのです。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな

鵜舟が目の前で、花やかな篝火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極に達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、何とも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残るという意味になるでしょうか。歓楽極まりて哀情深しという有名な成句にも示された普遍的な感情を、具体的な体験を通して一句にまとめたものと言えそうです。そこで、謡曲『鵜飼』を踏まえていることを考えると、鵜飼は見ていて楽しいものだけれど、そこに繰り広げられるのは殺生に他ならないことに思い至ります。そのことから、生きることの哀れや、殺生を止めない人間の業といったことにまで連想は及んでいくのです。したがって、この句の「やがて悲しき」は人間という存在の悲しさにつながっていくものと考えることができます。

 

6.『更科紀行』の句を読む

●俤や姥ひとり泣く月の友

姨捨山

前書きの姨捨山は冠着山を正式名称とする山で、姨捨という名から棄老伝説と結びつき、説話が生まれていた。姨捨伝説と呼ばれ、若い息子が妻にそそのかされて老母を姨捨山に捨てたが、姨捨山に出る月の美しさに目が覚めて、母を連れ帰ったという内容です。姨捨の月は、「田毎の月」として、土佐の高知の桂浜、石山寺の秋の月と並んで日本三名月とも言われたといいます。

俤や姥ひとりなく月の友

姨捨山に出る月を見ていると、捨てられてひとり泣く老婆のおもかげが偲ばれる。これを今宵の月見の友にしようという意味でしょうか。これは「俤は姨一人泣く月の友や」の「や」の部分が倒置になったもので、これによって「俤」が強調されることになるといいます。その「俤」は人の姿があたかもそこに見えるかのような幻をいい、姨捨山にかかる月を見ていると、今にもそこに姥の姿があるようだという意味になります。その「姥」というのは、姨捨伝説の姥で、やはり月を見ながら一人で泣いている。それを月のみを友としている「月の友」と表現して、名月を愛でることを姥の悲しみを偲ぶことに重ねているわけです。

●ひよろひよろと尚露けしや女郎花

ひよろひよろと尚露けしや女郎花

女郎花が露に濡れて、その重さに堪えかねてひょろひょろと首をもたげている。その名の通り、手弱女の頼りない風情がある。そんな意味内容でしょうか。

女郎花(おみなえし)は秋の季語で、人里に咲く花ですが、今ではセイタカアワダチソウになわばりを奪われてしまって、あまり見ることができなくなってしまいました。背は高いがどこか細く頼りなげで、その様子を芭蕉は「ひよろひよろと」と表現しています。そこになお露がしとどに降りているから一層弱々しく映り、その姿を、可憐と感じたのでしょう。その花は女性的で、それゆえ本来高貴な女性を意味する「女郎」の文字が当てはめられてきました。風に吹かれて揺れるさまが、互いに寄り添うかのように見えると言います。

この句は単独だと昼夜の区別はないが、名月の句の後に来ることで、月夜のオミナエシの句になるというシチュエィションです。細くて頼りなげな花の姿を「ひよろひよろと」と擬態語による卑俗に表現したあとに、「尚露けし」と続けることで、露が月の光に黄金色に輝き出す。その輝くものは何か、オミナエシだというストーリー性を持たせています。

●身にしみて大根からし秋の風

身にしみて大根からし秋の風

大根という野菜は、痩せ地で育ったものほど背丈が小さく、肉もやせていて、辛いとされています。木曽の山地の大根はだから辛かったと思います。木曽には辛味大根があるということが江戸時代の注釈書に記され、木曽と大根は付け合い語の関係になるほどつながりのあるものだった。その大根の辛さが身にしみる感じと木曽の秋風の寒さがしみじみと身にしみる感じが溶け合った表現です。「からし」は大根のからさであると同時に、秋風にも浸透するからさで、秋の寒風が身を通して吹きすぎる感覚を表わしています。このように、大根のからさと秋の風と身にしみる感じを重複させたのは、それらよりはるかに更科紀行の旅は、身に染みるものがあったのであろうということを言外に表わしていると思います。

●木曽の橡浮世の人の土産かな

木曽の橡浮世の人の土産かな

木曾で拾った橡の実を、世の営みにあくせくしている人々への土産に持って帰ろうという意味でしょうか。トチは日本産マロニエ。ユズリハに似た喬木で高さは30メートル近くにも達します。夏に薄ピンクの凝りついたような花が咲き秋にどんぐり状の実がなります。それが「橡」の実で、秋の季語です。その橡の実は餅についたのが橡餅です。

『山家集』の西行歌に、「山ふかみ岩にしたたる水とめむかつがつ落つるとちひろふ程」とあって、とちには山に隠れて暮らす人のイメージがあります。「浮世の人」はそれとは対照的に一般の社会で暮らす人のこと。ここは自分の俳諧仲間を指しています。実は、この橡の実は旅の同行者である越人に渡したのであることは、「としのくれ杼の實一つころころと」(『阿羅野』)から分かるといいます。つまり、俳諧仲間や門人達のなかにあっても、芭蕉自身は浮世の外にいるという意識が潜在していて、自身をそう意識したうえで、世俗から離れて木曽路を歩く興趣を友人たちと共有したいという思いで、この句を詠んでいるわけです。

●送られつ別れつ果ては木曽の秋

送られつ別れつ果ては木曽の秋

中山道の旅の結果、見送りの人に送られ、旅中の人々も別れを告げ、木曽の秋になった、という意味でしょうか。「何々つ、何々つ」というのは、何々したり、何々したりということで、この句では見送られたり、別れたりを繰り返しつつ、その果てに木曽路で秋を味わう身となったといった、ということになります。

「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨そばづたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。島崎藤村の『夜明け前』の冒頭ですが、木曽は深山幽谷のイメージがあります。前の句の「木曽の橡浮世の人の土産かな」で浮世と木曽を対比させるようにしていますが、この句では、浮世からこんなに離れたところに来たという感慨も含まれている。それが「果ては」という語に、果てまで来てしまったという意味合いを含ませているのではないかと思います。また、「果ては」という言葉には、長い推移を思わせる余意があり、そのためこの句は単なる旅懐の句に終わらず、境涯を詠んだ句にもなってもいると考えられます。つまり、体力も衰え、俳句追求の長い旅もこれで終るが、満足する旅が続けられたので、もう思い残す事は無いという充実感も含意されているというわけです。

なお、同じ句が、句集『曠野』に載せられたときには「送られつ送りつ果ては木曽の秋」に変わっています。『更科紀行』では「送られつ別れつ」だったのが、『曠野』では「送られつ送りつ」に。その結果、「送りつ」と「別れつ」では、表現されていることが大きく変化してしまいます。『曠野』の方の句では人生の普遍性のようなものを詠んでいるものに変わっています。つまり。父母から送り出され、成人し、今度は子を送り出す。そんな人間の一生をも感じさせるような言葉になっているのです。そして、「果ては」という言葉が人生の終末というようなことを想像させるようなのです。つまり、この「果ては」という言葉を、芭蕉は他の句でも用いていて、例えば『野ざらし紀行』の「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」というようにいずれも「死」を意味しているわけです。その関連で言えば、この句の「送られつ」というのは人生の終わり、ということになるわけです。

●吹き飛ばす石は浅間の野分かな

吹き飛ばす石は浅間の野分かな

浅間のふもとを行くと、折から激しい野分のために、浅間山の小石(軽石)までが吹き飛ばされている。さすがに浅間山の野分はすさまじいことだ、という意味でしょうか。

「野分」とは台風や秋の暴風のことで、和歌などで野分は野の草木を分けて吹くと詠まれるものですが、この句では石を飛ばしているという点で異彩を放っています。そうした事実への驚嘆が一句の根底にあって、野分という言葉をそのように使わざる得なかったのではないかと思います。浅間山は活火山で、江戸時代に天明の大噴火があったりと火山活動は活発だったようです。東海道沿いの富士山が裾野に樹海が広がっているのに対して浅間山は溶岩流や噴石が露出した荒涼としていて、芭蕉には、初めて見る光景だったのではないでしょうか。石が吹き飛ぶ様子は浅間山の噴火を連想させる、芭蕉は、噴煙を上げている浅間山に、かつては表現したことのない「自然」を感じていたのかもしれません。それは花鳥風月の枠に収まりきらない圧倒的な「自然」です。『奥の細道』もそうですが、芭蕉は旅を通じて、和歌からの伝統的な決まりごとに従って句を詠むことから、体験に基づいて句を作る方向へ目を開かせていった、その一つの例が、この句にあると思うのです。それゆえか、この句は最終形に落ち着くまで、何度も推敲しています。よほどおさまりがつかなかったようです。

この「吹きとばす」の句をもって『更科紀行』は一巻の終わりとなります。帰り道についてくわしく描写することはなく、江戸に帰着したことについてもなんら触れることがありません。唐突な感じもします。

 

 

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