マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第3篇 絶対的増殖価値の生産
第6章 不変資本と可変資本
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第3篇 絶対的増殖価値の生産

第6章 不変資本と可変資本

〔この章の概要〕

すでにみたように、生産手段の価値は生産物に移転し、労働力は生産物に新たに価値を付加します。ここでは、それぞれの要素が商品の価値形成にかかわる仕方の違いについてより詳細な検討が行われます。

本章のポイントは、第1章でみた労働の二面的性格が、資本主義的生産過程において、それぞれ異なった役割を果たすことです。マルクスが言うように、「労働対象に新たな価値を付け加えることと、生産物の中に元の価値を維持することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生み出す二つの全く違う結果なのだから、このような結果の二重性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるもの」なのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

労働の二面性

労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。

労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値のうちに、見いだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行われる。それは労働によって媒介されている。だが、どのようにしてか?

労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。一方では自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者は同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。

労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのか?いつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけである。紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのである。しかし、かれらが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄となかしきは、一つの生産物の、一つの新しい価値の、形成要素になる。生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである。ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのである。

もし労働者の行う独自な生産的労働が紡ぐことでないならば、彼は綿花を糸にはしないであろうし、したがってまた綿花や紡錘の価値を糸に移しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。だから、彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、それが一定時間継続するからである。つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。それだから、同じ時点における労働の結果の二面性が生ずるのである。

労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。

労働過程を形成している様々な要素は、生産物の生産に、一通りでなく、それぞれに異なる形で同時に関係しています。具体的には、労働者は、労働対象に労働をすることによって、それに新たな価値を加えます。同時に、他方で、そこに使われた生産手段は、生産物の価値を構成する要素として再現されます。つまり、価値としては維持されます。例えば、綿花と紡錘は、労働によって紡ぎ糸という生産物に再現され、その価値は生産物に、そのまま移転し維持されます。それは前章でまとめた式にも明らかです。

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(27シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

この移転は、労働過程の中で、生産手段が生産物に変化するプロセスで起こります。

移転とは何か、たとえばいま、漆器をつくるとします。原料は適度な大きさの木片がひとつ、すでに溶かれた漆の原液が一皿、鑿と刷毛とが労働用具です。木片を削りぬき、汁椀の形に整え、その表面に漆原液を何度か重ね塗りします。汁椀の形に成形される際の木片の相当部分は切屑として無駄になるから、物質片としての重量は減少します。漆をその表面に無駄なく塗りつければ、漆液はたしかに汁椀の表面に付着し、移転します。これが移転というものの分かり易い例です。言うまでもなく、ここで問題にしている転移がこのような物理的過程をさしているのではないのですが。価値なるものの移転が起こるというのは、一言で説明するのは難しいので、比喩的に、このような例にあてはめてみたというわけです。

本文を追いかけることに戻りましょう。労働者は「労働者は同一の時間のうちに、二度働くわけではない」。汁椀に漆液を刷毛で塗りつける作業と、漆の価値が保存され転移される仕事とは別の労働ではないわけです。あるいは一方では「綿花に価値を加え」、他方では「綿花の古い価値を保存し」、また紡錘の価値を綿糸へと「移転させる」ために二度働くわけではありません。労働する者はただ「新しい価値をつけ加えること」だけてあり、それによって「古い価値を保存する」のです。

新価値の付加と、すでに存在するものの価値の保存とは、全く異なった結果です。労働者は、同一の時間には、二つのことをすることはできません。するのは、ただひとつの労働です。たとえば椀に漆を塗ったり、綿糸を紡いだりするだけであるとするなら、このように結果が二重化していることは、ただその労働の二面性からのみ説明されうるということです。労働はつまり、そのひとつの属性によって価値を創造し、いまひとつの属性を通じて価値を保存、または移転していることになるということです。

漆器工は、ただ器に漆を塗る。紡績工はたんに紡ぎ、織物工はひたすら織り、鍛冶工はひとえに鉄を鍛える。それぞれの労働者はただそのようにして労働時間を、したがってまた価値を付け加えるだけです。労働する者が労働によって価値を付加するのは、その労働が漆器を作り、綿糸を紡ぎ、織物を織ることによってではないということです。同じ労働者がそのいずれの作業に従事しても、その者は同じく新たな価値を付け加えるからです。したがって、労働する者が価値を付け加えるのは、その労働が抽象的な社会的労働一般であることによってであり、また労働者が一定の価値量を付加するのは、その労働が一定時間継続するからです。

そのさい同時に生産手段の価値が保存され、移転される。どのようにして、と問う前にまず、この場合何が条件となるかを問題にしておくことができる。その条件を明確にして行くことが、実は同時に「いかにして」を明らかにしてゆくことになるはずである。

綿花は無駄なく目的に合わせて綿糸へと変化し、紡錘はその本来の使用目的に従って労働用具として使用され、綿糸を紡ぐために用いられます。綿花はその姿を変え、紡錘はその過程で磨滅するけれども、それが「目的にふさわしい形で消費される」限りで、それらの生産手段の生産過程は時間的にも空間的にも分離されたものでありながら、綿花と紡錘を制作するために消費された労働時間は綿糸の「新しい使用価値の生産に必要な労働時間」の一部となり、その価値は綿糸へと移転するというわけです。綿糸という当面の最終生産物は、それらの生産手段(の一部)を結合したものであり、原料と労働用具とはその生産物(の一部)として死者たちから復活させられるのです。それぞれの労働には、おのおのに特殊な有用な性格、特種に生産的な形態があることによって、それぞれが目的にふさわしい活動となるのです。

生産手段の価値が生産物に転移されるのは、労働自体が目的にふさわしい活動であることが条件となっています。労働そのものが目的にふさわしいというのは、ここではそれが正常に商品を生産する働きであることです。生産物が商品となるためには、それを製作する活動が、社会的に平均した強度において遂行された、有用な労働であることが必要である。つまり、全社会的な連関において、有効に消費された労働力の結果であるしだいを条件とするのである。

こうしてはじめて、生産手段の価値は生産物のなかで保存され、生産手段を制作するために必要であった労働時間もまた生産物の価値のうちへと算入されることになるはずです。そこで、計算が可能になり、加算が意味を持つのも、生産の社会的関連から帰結する構造的な効果を前提とすることがらに他ならないのです。

労働の抽象的で一般的なところ、それは量として数えることができることでもありますが、それは人間によって労働力が支出されたものであることに基づくのです。この特性によって紡績工の労働は、綿花と紡錘の価値に新しい価値をつけ加えるのです。それは、第1章の労働の二重性で分析した抽象的な人間的労働にあたります。他方で、労働がもつ具体的で有用な特性は、その労働過程がたとえば紡績過程であることにあり、この特性によって同じ労働が、これらの生産手段の価値を生産物に移転させ、その価値を生産物のうちに保存するのである。これは、第1章の労働の二重性でみた具体的な有用労働にあたります。つまり、ここで言う労働の二面性は、労働の二重性に重なるといえます。

労働過程を形成している様々な要素が、生産物の形成に、それぞれに異なる形で関係してくる。

労働者は、その労働者の特定の内容、目的、技術的な性格などに関わりなく、労働対象に特定の量の労働を加えることによって、それに新たな価値を加える。他方で、使われた生産手段の価値は、生産物の価値を構成する要素として、生産物のうちに再現される。たとえば綿花と紡錘の価値のうちに再現される。すなわち生産手段の価値は、生産物に移転され、そこに保存されるのである。この移転は、労働過程において、生産手段が生産物に変化するプロセスで発生する。それは労働によって媒介されているのだが、それではどのように媒介されるのだろうか。

労働者は同一の時間のうちに、二度働くわけではない。一度は自分の労働によって綿花に価値を加えるために働き、もう一度は綿花の古い価値を保存するために、すなわち自分が加工する綿花の価値や、労働において利用する紡錘の価値を、生産物である紡ぎ糸のうちに移転するために働くというわけではない。労働者はたんに新しい価値をつけ加えるだけであり、それによって同時に古い価値を保存するのである。

しかし労働対象に新しい価値をつけ加えることと、生産物のうちに古い価値を保存することは、まったく異なる結果であり、労働者は同じ労働時間のうちに、この二つの結果を同時にもたらす。労働者が同じ時間のうちに、この二つの結果を同時にもたらす。労働者が同じ時間のうちに一度しかないにもかかわらず、このように二つの異なる結果をもたらすとすれば、この結果の二面性は、労働者の労働そのものの二面性からしか説明することができない。この労働は同じ時点において、一方では一つの特性によって価値を創造し、他方では別の特性によって価値を保存しなければならないのである。

労働者はそもそもどのようにして生産物に労働時間を、そして価値をつけ加えるのだろうか。それは労働者に固有の生産的な労働様式の形態によってである。紡績工はつねに糸を紡ぐことで、織物工はつねに布を織ることで、鍛冶工はつねに金属を鍛造することで、労働時間をつけ加える。そのためには労働者はその目的に適った形態で労働しなければ、労働一般と、それによる新たな価値をつけ加えることはできない。綿花と紡錘、紡ぎ糸と織機、鉄と鉄床などの生産手段は、労働者が紡ぎ、織りあげ、鍛造することによって、初めて一つの生産物の構成要素になり、新たな価値の構成要素となる。これらの生産手段の使用価値の古い形態は消滅する。ただしそれは新しい形態の使用価値としてふたたび登場するためである。

しかし価値の形成形態の考察からも明らかなように、ある使用価値が、新しい使用価値の生産のために目的にふさわしい形で消費された場合には、消費された使用価値の生産に必要だった労働時間は、新しい使用価値の生産に必要な労働時間の一部に含まれる。つまりその労働時間は、消費された生産手段から新しい生産物に移転されたのである。

 

二つの例

ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しよう。合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になった。その生産物は、6倍の糸、すなわち6ポンドに代わる36ポンドの糸である。しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収しない。綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるのであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつけ加えられるだけである。他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸のうちにある。6紡績時間で6倍の原料価値が保存されて生産物に移される。といっても、同量の原料には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるのであるが。このことは、同じ不可分の過程で労働が価値を保存するという性質は労働が価値を創造するという性質とは本質的に違うものだということを示している。紡績作業中に同量の綿花に移って行く必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きい。

逆に、紡績労働の生産性が変わらず、したがって紡績工が1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間が必要だと仮定しよう。しかし、綿花そのものの交換価値は変動して、1ポンドの綿花の価格が6倍に上がるか、または6分の1に下がるとしよう。どちらの場合にも紡績工はむ引き続き同量の綿花に同じ労働時間、つまり同じ価値をつけ加え、また、どちらの場合にも同じ時間に同じ量の糸を生産する。それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて一方の場合には6分の1であり、他方の場合には6倍である。労働手段が高くなるか安くなるかするが労働過程では相変わらず同じ役だちをするという場合も、同様である。

紡績過程の技術的な諸条件が変わらず、またその生産手段にも価値変動が生じないならば、紡績工は相変わらず同じ労働時間で元どおりの価値の同じ量の原料や機械を消費する。この場合には、彼が生産物のうちに保存する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例する。2週間では、彼は、1週間でする労働の2倍の労働をつけ加え、したがって2倍の価値をつけ加え、また同時に、2倍の価値をもつ2倍の材料を消費し、2倍の価値を持つ2倍の機械を消耗させ、こうして2週間の生産物のうちに1週間の生産物の2倍の価値を保存する。与えられた不変の生産条件のもとでは、しかし、彼がよく多くの価値を保存するのは、彼がより多くの価値をつけ加えるからではなく、彼がこの価値を、以前と変わらない。そして彼自身の労働には依存しない諸条件のもとで、つけ加えるからである。

もちろん、相対的な意味では、いつでも労働者は新価値をつけ加えるのと同じ割合で元の価値を保存する、と言うこともできる。綿花が1シリングから2シリングに上がっても、または6ペンスに下がっても、労働者が1時間の生産物のうちに保存する綿花価値は、それがどんなに変動しようとも、つねに、彼が2時間の生産物のうちに保存する価値の半分でしかない。さらにまた、彼自身の労働の生産性が変動して、それが上がるか下がるかすれば、彼は、たとえば1労働時間のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花を紡ぐであろうし、それに応じて1労働時間の生産物のうちに以前よりも多いか少ない綿花価値を保存するであろう。それにもかかわらず、彼は2労働時間では1労働時間に比べて2倍の価値を保存するであろう。

たとえば、ここで技術革新がおこり、従来の紡績工が36時 間かけて紡いだ量の綿花を、たったの6時間で紡ぐことができるようになったとしましょう。その結果、目的に適った、その労働は、その力が6倍に強くなり、6倍の量の生産物を生産できるようになったということです。つまり、同じ時間の長さで6重量ポンドの紡ぎ糸を生産していたのが、6倍の36重量ポンドの量を生産できるようになった、ということです。この時の36重量ポンドの紡ぎ糸は、以前の6重量ポンドの紡ぎ糸と同じ量の労働時間しかかかっていないということです。

これまでの生産方法の比較は、次の式にまとめるとわかりやすいと思います。

まず、これまでの生産方式では、

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(27シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

それが、新しい生産方式では

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(2時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(0.5シリング)=綿糸(24.5シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(2時間)=綿糸(50時間)

このように、新しい生産方法では労働は6分の1となり、したがって、その価値も6分の1しか与えられないことになります。他方で、同じ労働時間で生産された生産物は36重量ポンドの紡ぎ糸には、原料として6倍の綿花が含まれています。同じ原料に6分の1の新たな価値しか与えられていないのに、同じ6時間の労働時間のうちに6倍の原料の価値が保存され、生産物に移転されていることになります。

このことが示しているのは、二面性の、価値を保存する労働と価値を創造する労働は、一つの労働の二つの面であるとして同一不可分でありながら、異なる特性を備えてもいるということです。つまり、紡績労働において、同じ量の綿花を紡ぐために必要な労働時間が長くなればなるほど、綿花につけ加えられた新しい価値は大きくなりますが、しかし同じ労働時間に紡がれた綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値は大きくなるのです。

別のケースを考えてみましょう。技術革新はおこらず、したがって生産性の向上は起こらなかたのですが、原料である綿花の交換価値が変動して、綿花1重量ポンドあたりの価値が6倍に高騰したか、6分の1に暴落したというケースを考えてみましょう。綿花の価格の変化とは関係なく、紡績工は同じ量の綿花に、同じ労働時間で生産をすることを続けているので、これに加えられる価値の大きさは変わりません。同じ時間で、同じ量の紡ぎ糸を生産しています。それにもかかわらず、綿花から生産物である紡ぎ糸に移転する価値は、綿花の価格が6倍に高騰した場合には6倍になり、6分の1に暴落した場合は6分の1になってしまいます。つまり、労働者が生産過程で同じ労働をしているにもかかわらず、労働手段の価値が変動すると、先ほどのケースと同じように生産物の価値が変動する結果となります。

これも式にまとめてみましょう。

まず、これまでの生産方式では、

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(27シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

それが、綿花の価値が6倍に高騰した場合には

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(120シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(127シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

最初のケースのような技術革新が起こらず、第2のケースのような生産手段の価値の変動がなければ、紡績工は同じ労働時間で、同じ価値の原料と生産手段を消費します。この場合には、紡績工が原料や生産手段から生産物のうちに移転し保存する価値は、彼が新たにつけ加える価値に正比例します。つまり、紡績工が2週間働けば、1週間働いた場合に比べて2倍の労働、すなわち2倍の新しい価値を付け加えることになり、同時に2倍の価値の2倍の量の原料を消費し、2倍の価値の機械装置を2倍消耗させます。その結果、2週間分の生産物は、1週間に生産した場合の2倍の価値を保存することになります。

このように生産条件が同じであれば、労働者が新たな価値を付け加えるのが多ければ多いほど、保存する価値も多くなります。しかし、労働者が多くの価値を保存するのは、彼が多くの価値を付け加えるからではなく(それは結果として、そうなっているというだけです)、労働とは別に、価値を付け加えるからです。

ただし、相対的な意味であれば、労働者は新しい価値を付け加えるたびに、同じ比率で古い価値を保存していると言えます。綿花の価格が1シリングから2シリングに値上がりしたとしても、6ペンスに値下がりしたとしても、労働者が1時間を投入した生産物に保存される綿花の価値は、より多くなったり少なくなったりします。いずれにしても、1労働時間のうちに生産物に保存する価値の量は、増えたり減ったりすることになるでしょう。2労働時間のうちに生産物に保存する価値は、1労働時間の場合の2倍となります。

たとえばある発明によって、紡績工がこれまで36時間かけて紡いだ量の綿花を、わずか6時間で紡げるようになったとしよう。目的に適った有用な生産活動としての彼の労働は、その力が6倍に強まったのである。その生産物も6倍になり、これまで6重量ポンド生産されていた紡ぎ糸が、36重量ポンドも生産されるようになった。この36重量ポンドの綿花は、これまで6重量ポンドの綿花が吸収していた労働時間しか吸収していない。

これまでの生産方法と比較すると、新しい生産方法で綿花に加えられた労働は、以前の6分の1にすぎず、したがってその価値も以前の6分の1しか加えられていない。他方で生産物である36重量ポンドの紡ぎ糸のうちには、かつての6倍の価値の綿花が含まれている。同じ原料に6分の1の新たな価値しか加えられていないのに、6時間の紡績時間のうちに、6倍の量の原料の価値が保存され、生産物に移転されている。

このことが示しているのは、価値を保存する労働と価値を創造する労働は、同一で不可分の労働過程でありながら、本質的にことなる特性をそなえた労働であるということである。紡績作業において、同じ量の綿花を紡ぐために必要な労働時間が長くなればなるほど、綿花につけ加えられた新しい価値は大きくなる。しかし同じ労働時間に紡がれた綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値は大きくなる。

この例とは反対に、紡績工の生産性は変化せず、1重量ポンドの綿花を紡ぎ糸に変えるために必要な労働時間は、以前とまったく同じだとしよう。しかし綿花そのものの交換価値が変動して、1重量ポンドの綿花の価値が以前の6倍に高騰したか、6分の1に下落したとしよう。綿花の価格が高騰しようが下落しようが、紡績工は同じ量の綿花に、同じ労働時間を加えつづけており、これに加えられる価値の大きさは変わらない。そして価格の増減にかかわらず、同じ時間に同じ量の紡ぎ糸を生産している。それにもかかわらず、彼が綿花から生産物である紡ぎ糸に移転する価値は、一方では以前の6分の1になり、他方では以前の6倍になる。労働者が生産過程で同じ働きをしているにもかかわらず、労働手段の価値が高騰したかを下落した場合にも、同じような結果になる。

[第一の例のように]紡績過程の技術的な条件が変動せず、[第二の例のように]生産手段の価値が変動しない場合には、紡績工は同じ労働時間のうちに、以前と同じ価値をもつ同じ量の原料と機械装置を消費する。その場合には、紡績工が生産物のうちに保存する価値は、彼が新たにつけ加える価値に正比例する。彼が2労働時間働けば、1労働時間働いた場合の2倍の労働、すなわち2倍の価値をつけ加えることになり、同時に2倍の価値の2倍の量の原料を消費し、2倍の価値の機械装置を2倍消耗させる。こうして2週間分の生産物には、1週間に生産した場合の2倍の価値を保存する。

 

生産手段の価値

価値は、価値章標での単に象徴的かその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。(人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物である。そして、労働そのものは、あの力の物的な発現である。)だから、使用価値がなくなってしまえば、価値もなくなってしまう。生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値をも失うのではない。というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、じつは、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ、生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失うかぎりのことである。生産手段は、ただ生産手段として失う価値を生産物に引き渡すだけである。しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点でそれぞれ事情を異にしている。

価値は普通は使用価値のうちに存在します。

だから、使用価値が失われると、、同時に価値も失われることになります。しかし、生産手段の場合には、生産のために消耗したり、消費されたりして、その物の使用価値が失われても、同時に価値が失われてしまうことはありません。それは、生産物に価値が移転して、別の形の使用価値となるからです。

このように価値というのは、使用価値に存在するというもが普通のあり方で、それはとても重要なことですが、上記のような商品の変身の分析からも分かるように、その使用価値がどのようなものであるかという内容とは無関係です。したがって、労働過程のうちで価値が生産手段から生産物に移転されるためには、生産手段はその独立した使用価値を喪失するとともに、交換価値も喪失します。生産手段は、かつて生産手段として持っていた価値だけを生産物に移転させるのです。 

価値は、価値記号のうちに象徴的に表現される場合をのぞいて、つねに使用価値のうちにしか、ある物のうちにしか存在しない。ちなみに人間自身も、たんなる労働力の担い手とみるかぎりでは自然の一つの対象にすぎず、自己意識をもつ生き物ではあるが、やはり一つの物である。そして人間の労働は、その力が物として外に現れることである。

だから使用価値が失われると、同時に価値も失われる。しかし生産手段の場合には、[生産のために消耗して]使用価値が失われても、同時に価値が失われることはない。なぜなら生産手段は労働過程においてほんらいの使用価値としての姿を失うのだが、それは生産物のうちで別の形の使用価値としての姿を獲得するためにすぎないからである。

価値にとっては、ある使用価値のうちに存在することはきわめて重要であるが、商品の変身の分析からも明らかなように、それがどのような使用価値のうちにあるかということはどうでもよいことである。こうして次のように結論できる。労働過程のうちで価値が生産手段から生産物に移転されるためには、生産手段はその独立した使用価値を喪失するとともに、その交換価値も喪失する必要がある。生産手段は、かつて生産手段としてもっていた価値だけを生産物にわたす。ただし労働過程で利用される[物的な]対象的な要因は、これについて異なったふるまいをみせる。

 

生産手段と労働手段の価値の移転

機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまうが、車軸に塗られる油なども同様である。染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われる。原料は生産物の実体になるが、しかしその形を変えている。だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの独立の姿をなくしてしまうわけである。本来の労働手段はそうではない。用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役だつのは、ただ、それらのものが最初の姿を保持していて明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程にはいって行くかぎりでのことである。それらのものは、生きているあいだ、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持しているが、それらが死んでからもやはりそうである。機械や道具や作業用建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられてつくられた生産物とは別に存在している。今このような労働手段が役だつ全期間を、それが作業場にはいってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察するならば、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っている。たとえば、ある紡績機械が10年で寿命を終わったとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械の全価値は10年間の生産物に移ってしまっている。だから、一つの労働手段の生存期間のうちには、この労働手段を用いて絶えず繰り返される労働過程の多かれ少なかれいくつかが含まれているのである。そして、労働手段も人間と同じことである。人間は、だれでも毎日、24時間ずつ死んでゆく。しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわからない。とはいえ、このことは、生命保険会社が人間の平均寿命から非常に確実な、そしてもっとずっと重要なことであるが、大いに利潤のあがる結論を引き出すということを妨げるものではない。労働手段も同じである。ある労働手段、たとえばある種類の機械が、平均してどれだけ長もちするかは、経験的によって知られている。労働過程での機械の使用価値が6日しかもたないと仮定しよう。そうすれば、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失ってゆき、したがって毎日の生産物にその価値の6分の1を引き渡すことになる。このような仕方で、すべての労働手段の損耗、たとえばその毎日の使用価値喪失とそれに応じて行われる生産物への毎日の価値引き渡しは、計算されるのである。

こうして、生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではないということが、適切に示される。もしもその生産手段が失うべき価値をもっていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それはけっして生産物に価値を引き渡しはしないであろう。その生産手段は、交換価値の形成者として役だつことなしに、使用価値の形成者として役だつであろう。それゆえ、天然に人間の助力なしに存在する生産手段、すなわち大地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木などの場合は、すべてそうなのである。

たとえば期間を熱するために使用される石炭や車軸に塗られる油などは、生産物が制作されたあとには痕跡を残すこともなく消失してしまいます。また、染料やその他の補助材料は生産物の性質の一部としてかたちを変え再現するとはいえ、それらもまた原料のかたちでは消失してしまいます。原料は生産物の実質的な内容となったときに、その形態を変えてしまい、もともとの自立的な姿を失くしてしまうのです。

しかし、本来の労働手段はそうではありません。用具や機械や、容器や工場の建物が労働過程で役立つことになるのは、明日もまた昨日とまったく同じ形で労働過程に入ってゆくかぎりでのことです。これらの労働手段はある日作業場に入って来て、一定期間のあいだ生産過程で使用され、やがてはがらくた小屋に追放される。その間に、機械や容器はその使用価値の一切を労働過程で消費されていることになる。交換価値はすべて生産物に移行してしまうのです。

たとえばある紡績機械が10年で寿命を終えたとすれば、10年間の労働過程の間に機械の価値の全体はその10年間の生産物に移行したことになります。どのような人間でも毎日24時間ずつ寿命を失っています。同じように用具も機械も、容器も工場も寿命を失っていくのです。ある人の寿命があと何日で尽きるかは、誰にも正確には分かりません。しかし、一般化した平均余命は人間についても機械に関しても、経験から知られている。人間に関しては生命保険会社が、機械をめぐっては工場の会計担当者がそれを計算することだろう。例えば、機械には耐用年限が定められていて、会計の場合には、その年限を平均余命にしています。それが減価償却です。たとえばその機械の労働過程における寿命つまり耐用年限がわずか6日間だとしましょう。その場合にはその機械は、平均して1労働日ごとに使用価値の6分の1ずつを失っていき、毎日自分の価値の6分の1ずつを生産物に移転していることになります。このようにすべての労働手段の消耗を、たとえば1日あたりの使用価値の喪失の程度を計算できるのであり、それに応じて1日あたりで生産物に移転される価値の大きさも計算できる。それが減価償却です。

ここで明らかになるのは、ある生産手段が労働過程で失う使用価値の大きさと同じ量を、生産物に付け加える価値としているのです。生産手段が、全く価値を失わないときには、生産物には全く価値が付け加わらないのです。そのような生産手段は交換価値の形成には役に立たず、ただ使用価値の形成に役立ったということになります。

機械の燃料として使われる石炭は、使用されると跡形もなくなる。車軸の潤滑剤として使われるオイルも跡形もなくなる、などなど。染料などの補助材料も姿を消すが、生産物の特性のうちにその痕跡を示している。原料は生産物の実質的な内容となるものであるが、その形態を変えたのである。だから原料も補助材料も、労働過程に使用価値として入りこんできたときにもっていた自立的な姿をなくしてしまう。

しかしほんらいの労働手段では状況が異なる。道具、機械、工場の建物、容器などは、もともとの姿を維持して、明日も昨日と同じように、同じ形態で労働過程に入っていくことで、初めて労働過程で役立つのである。これらの労働手段は、労働過程のうちにあって実際に生きて活動しているあいだだけでなく、その〈死後〉においても、生産物にたいしてその自立的な姿を保っている。

機械、道具、労働のための建物などの〈屍〉は、自分たちが生産を助けた生産物から分離して存在する。こうして労働手段が役立ったその〈生涯〉の全体を、すなわち仕事場にそれが持ち込まれた瞬間から物置に追放される最後の日までを考察してみよう。この生涯を通じて、労働手段の使用価値は労働によって完全に使い尽くされており、その交換価値は完全に生産物に移行したことになる。

たとえばある紡績機械の寿命が10年だったとしよう。するとこの10年間の寿命のうちの労働過程において、この機械の全体の価値は10年分の生産物に移行したことになる。すなわちある労働手段の寿命には、それを用いて毎日のように反復された大小のさまざまな労働過程が含まれている。労働手段も人間と同じことである。人間は毎日、24時間分の寿命を失っている。しかしある人の寿命があと何日で尽きるかは、誰にも正確には分からない。だからといって生命保険会社が、人間の平均寿命に基づいて、きわめて正確で、さらに重要なことに、きわめて儲かる結論を引き出せないというわけではない。

労働手段も同じことである。ある労働手段、たとえばある種の機械が平均してどの程度の期間にわたって利用できるかは、経験的に知られている。たとえばその機械の労働過程における寿命がわずか6日間だとしよう。その場合にはその機械は、平均して1労働日ごとに使用価値の6分の1ずつを失っていき、毎日自分の価値の6分の1ずつを生産物に移転しているのである。このようにすべての労働手段の消耗を、たとえば1日あたりの使用価値の喪失の程度を計算できるのであり、それにおうじて1日あたりで生産物に移転される価値の大きさも計算できる。

。け加える価値の大きさとまったく等しいということである。生産手段が失うべき価値をまったくもたないならば、すなわちそれがそもそも人間労働の生産物でないならば、生産物にいかなる価値もつけ加えることはないだろう。その生産手段は、交換価値の形成には役に立たず、ただ使用価値の形成に役立ったのである。これは大地、風、水、鉄鉱脈の中の鉄、原始林の中の樹木など、人間が働きかけなくても自然のうちに存在しているすべての生産手段にあてはまる。

 

生産手段と労働過程のずれ

ここでもう一つ別の興味ある現象がわれわれの前に現われる。たとえば、ある機械に1000ポンドの価値があって、それが1000日で損耗してしまうとしよう。この場合には、毎日機械の価値の1000分の1ずつが機械自からその毎日の生産物に移って行く。それと同時に、この機械は、その生活力はしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能している。だから、労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいるが、価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのである。労働過程と価値の増殖過程の相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである。

他方、それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分ずつしかはいらないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありうる。綿花を紡ぐときには毎日115ポンドについて15ポンドが落ちて、この15ポンドの糸にはならない綿屑にしかならないと仮定しよう。それでも、もしこの15ポンドの脱落が標準的であって綿花の平均加工と不可分であるならば、糸の要素にならない15ポンドの綿花の価値も、糸の実体になる100ポンドの綿花とまったく同じに、糸の価値にはいるのである。100ポンドの糸をつくるためには、15ポンドの綿花の使用価値がちりにならなければならない。だから、この綿花の廃物化は糸の生産の一つの条件なのである。それだからこそ、それはその価値を糸に引き渡すのである。これは、労働過程のすべての排泄物について言えることである。少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段に、したがってまた新たな独立な使用価値にならないかぎりでは、そう言えるのである。たとえばマンチェスターの大きな機械製造工場では鉄くずの山が巨大な機械でかんなくずのように削り落され、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に運ばれて行くのが見られるが、それは他日再び大量の鉄になって製鉄所から工場に帰ってくるのである。

また、このようなケースを考えてみましょう。1000ポンドの価値を有する機械があって、その耐用年限が1000日だったとします。そうだとすると、毎日この機械の価値の1000分の1ずつが、この機械が生産する生産物に移されていることになります。同時に、この機械自身が、日々消耗して衰えているということになります。

このように、労働過程の一つの要素である生産手段は、一つの全体として労働過程に入ってはきますが、価値の増殖過程には一部分ずつしか入らないことになります。同一の生産手段が、同一の生産過程において、労働過程の要素としては一つの全体として数えられるが、価値形成の要素としてはその一部だけが数えられることになります。

これとは反対に、ある生産手段が労働過程には全体として入りこんでくる場合も考えらます。たとえば綿花の紡績において、1日に115重量ポンドの綿花を処理して、そのうちの15重量ポンドは糸屑になって紡ぎ糸の製品の中に入らないとしましょう。この場合、廃棄物となるこの15重量ポンドの糸屑は、綿花の平均的な加工の際に不可避的に発生する標準的な量であれば、生産物の紡ぎ糸には含まれないこの15重量ポンドの綿花の価値も、紡ぎ糸の実質となる100重量ポンドの綿花と同じく、紡ぎ糸の価値に含まれていることになります。100重量ポンド紡ぎ糸を製造するためには、15重量ポンドの綿花の使用価値は、屑にならなければならないということです。

つまりこの糸屑という綿花の廃棄物の発生は、紡ぎ糸を生産するために必要な条件なのです。だからこの廃棄された綿花も、自分の価値を紡ぎ糸に与えていることになります。これは労働過程の廃棄物すべてにあてはまるとです。ただしこの廃棄物が、新たな生産手段となって、新たに独立した使用価値を形成する場合には、また事情が異なってきます。

つまりこの綿花の廃棄物の発生は、紡ぎ糸を生産するために必要な条件なのである。だからこの廃棄された綿花も、自分の価値を紡ぎ糸に与えているのである。これは労働過程の廃棄物すべてにあてはまる。ただしこの廃棄物が、新たな生産手段となって、新たに独立した使用価値を形成する場合には、事情が異なってきます。

たとえばマンチェスターの大規模な機械製造工場では、毎日、山のように多量の鉄屑が発生しますが、これは巨大な機械によってカンナ屑のように削られて、夕方には大型の車両に積載されて、工場から製鉄所に送り返されます。これは屑鉄として製鉄所で溶かされて、原料として再利用されやがてふたたび大量の鉄として、製鉄所から工場に戻ってくることになります。

ここで注目に値する興味深い現象が登場する。ある機械に1000ポンドの価値があり、それが使いはたされるまでの寿命は1000日だったとしよう。するとこの機械の価値の1000分の1ずつが毎日、この機械が生産する日々の生産物に移されることになる。同時にこの機械は、その活力が日々衰えているにしても、その全体が労働過程のなかで活動しているのである。

だから労働過程の一つの要素である生産手段は、一つの全体として労働過程に入ってくるが、価値の増殖過程には一部分ずつしか入らないことになる。同一の生産手段が、同一の生産過程において、労働過程の要素としては一つの全体として数えられるが、価値形成の要素としてはその一部だけが数えられるのである。ここでは労働過程と価値の増殖過程の違いが、[機械という物的で]対象的な要素に映しだされているのである。

他方で反対に、ある生産手段が労働過程には全体として入りこんでくる場合も考えられる。たとえば綿花の紡績において、1日に115重量ポンドの綿花を処理して、そのうちの15重量ポンドは糸屑になって紡ぎ糸の製品の中に入らないとしよう。その場合でも廃棄物となるこの15重量ポンドの糸屑が、綿花の平均的な加工の際に不可避的に発生する標準的な量であれば、生産物の紡ぎ糸には含まれないこの15重量ポンドの綿花の価値も、紡ぎ糸の実質となる100重量ポンドの綿花と同じく、紡ぎ糸の価値に含まれているのである。100重量ポンド紡ぎ糸を製造するためには、15重量ポンドの綿花の使用価値は、屑にならなければならないのである。

つまりこの綿花の廃棄物の発生は、紡ぎ糸を生産するために必要な条件なのである。だからこの廃棄された綿花も、自分の価値を紡ぎ糸に与えているのである。これは労働過程の廃棄物すべてにあてはまる。ただしこの廃棄物が、新たな生産手段となって、新たに独立した使用価値を形成する場合には、事情が異なる。

たとえばマンチェスターの大規模な機械製造工場では、山のように多量の鉄屑が発生するが、これは巨大な機械によってカンナ屑のように削られて、夕方には大型の車両に積載されて、工場から製鉄所に送り返される。これは[製鉄所で原料として再利用され]やがてふたたび大量の鉄として、製鉄所から工場に戻ってくるのである。

 

生産手段から移転される価値の尺度

ただ、生産手段が労働過程にあるあいだにその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。それが労働過程でこうむることのできる使用喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値量によって、すなわち自身の生産に必要に労働時間によって、制限されている。それゆえ、生産手段は、それが役だてられる労働過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできないのである。ある労働原料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であっても、それが150ポンドに、たとえば500労働日の価値に値するならば、それは、その役だちによって形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くはつけ加えないのである。その価値は、それが生産手段としてはいって行く労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されるのである。労働過程ではそれはただの使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけであり、したがって、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないであろう。

生産手段が労働過程のうちに古い使用価値の形態を失う場合というのは、生産物の新しい形態に価値を移す場合です。労働過程で生産手段が失う価値は、この生産手段を生産するために必要だった労働時間によって最大限を規制されています。つまり、その生産手段のもともとの価値以上は失う、つまり、新しい生産物に移すことはできないというわけです。

原料、機械、そして生産手段が、どれほど有用であったとしても、そもそも、それらの物が持っている価値以上に、生産過程によって、新しい生産物に価値を移転することはできません。「生産物に与える価値は、これからの[未来の]労働過程においてそれらの生産手段が利用されることによって決まるのではなく、その生産手段がそもそも生産されてきた[過去の]労働過程によって決まるのである。」つまり、新しい生産物の基準ではなくて、いまある原料や生産過程を基準にして、生産物の価値が決まるということです。考えてみれば、当たり前のことで、すでにある価値を組み合わせて、別のところに形成された価値を新しい価値と言っているのであって、何もないところから新たに価値を発生させるということはない。無から有は生じないということです。

生産手段が労働過程のうちに古い使用価値の形態を失う場合にかぎって、生産物の新しい形態に価値を移転する。労働過程で生産手段が失う価値の最大値は、その生産手段が労働過程で使用されるようになったときに所有していたもともとの価値の量によって制限される。すなわちこの生産手段を生産するために必要だった労働時間によって制限されるのである。だから生産手段は、それが利用される労働過程とは独立して、その生産手段にそもそもそなわっている価値以上の価値を、生産物につけ加えることは決してできないのである。

ある労働原料、ある機械、ある生産手段がどれほど有用なものであったとしても、それらの価値が150ポンド、たとえば500労働日の価値に等しいならば、それらを使って生産される総生産物に、150ポンド以上の価値を与えることはない。生産物に与える価値は、これからの[未来の]労働過程においてそれらの生産手段が利用されることによって決まるのではなく、その生産手段がそもそも生産されてきた[過去の]労働過程によって決まるのである。労働過程において生産手段はたんに使用価値として、有用な特性をそなえた物として役立つだけである。だからその労働過程に入ってくる前にすでに価値をそなえていなかったならば、生産物に価値を与えることはないのである。

 

〈魂の遍歴〉

生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは消費された肉体から、新らしく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行われる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にことを痛切に感じさせる。

このようなことを、マルクスは〈魂の遍歴〉と称しています。「その魂は使いはたされた肉体を離れて、新たに作りだされた肉体へと移る。しかしこの〈魂の遍歴〉は現実の労働のいわば〈背後〉で起こる」、価値の移転です。

労働力の価値と、生産手段の目減りに応じて積算される価値が生産物の価値に合算されて付け加えられるのは、その限りではやはり両者の間に生起する過程が形成されているからです。

生産的労働が生産手段を新たな生産物、新たな使用価値の形成要素へと変化させ、この変化(〈魂の遍歴〉)は、現実の労働の背後で生起します。漆器工はただ器に漆を塗り、紡績工はたんに紡いで、織物工はひたすら織り、鍛冶工はひとえに鉄を鍛えるだけだからです。

したがって、とマルクスは続けて書いている。「動する労働力、この生きた労働には〈天賦の資質〉のようなものがあって、[新しい生産物に]価値を与えることによって、[古い生産物の]価値を保存するのである。この資質は労働者にはいかなる費用も負担させないが、資本家には多くの利益を与えるのであり、これによって既存の資本価値を保存することができるのである。景気のよいあいだには、資本家は利益を増やすことに熱中しているので、労働がもたらすこの無償の贈与をすっかり忘れている。資本家がこの恩恵を実感するようになるのは、労働過程が暴力的に中断される恐怖が訪れたときである。」

なぜここでも恐慌なのか。過剰生産によってもたらされる生産恐慌であるなら、その到来とともに高価な生産手段のすべては無価値となり、原料の一切は倉庫で自然過程にゆだねられ、あるいは腐食し、あるいは腐敗してゆくことになるからです。それまで資本は、労働の無償の贈与に気づかない。資本の視点からすれば、すべては事物の間の過程にすぎないから。

生産労働によって生産手段は新しい生産物の構成要素に変化する。そのときに生産手段の価値に、〈魂の遍歴〉が起こる。その魂は使いはたされた肉体を離れて、新たに作りだされた肉体へと移る。しかしこの〈魂の遍歴〉は現実の労働のいわば〈背後〉で起こる。労働者は古い価値を保存しないかぎり、新しい労働を[生産物に]つけ加えることができず、新しい価値を作りだすことができない。というのも労働者はつねに特定の有用な形態で労働をつけ加える必要があるのだが、そのためには[古い]生産物を新しい生産物のための生産手段に変え、それによって[古い生産物のうちの]価値を新しい生産物に移転しなければならないからである。

つまり活動する労働力、この生きた労働には〈天賦の資質〉のようなものがあって、[新しい生産物に]価値を与えることによって、[古い生産物の]価値を保存するのである。この資質は労働者にはいかなる費用も負担させないが、資本家には多くの利益を与えるのであり、これによって既存の資本価値を保存することができるのである。景気のよいあいだには、資本家は利益を増やすことに熱中しているので、労働がもたらすこの無償の贈与をすっかり忘れている。資本家がこの恩恵を実感するようになるのは、労働過程が暴力的に中断される恐怖が訪れたときである。

 

生産手段の価値の行方

およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これらの消費によって労働は生産物を形成するのである。生産手段の価値は実際は消費されるのではなく、したがってまた再生産されることもできないのである。それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのものに操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消滅はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。のである。

生産手段において使用され、消費されるあるいは消耗させられるのは使用価値です。労働は、その使用価値を消費すること、つまり同時を利用することで、生産物を作り出します。しかし、生産手段は、現実には道具として使用されるだけで、原料のように消費されるのではありません。したがって、再生産されるとか、形を変えるということはありません。生産手段の価値が保存されるというのは、労働過程で生産手段の価値そのものに操作が加えられるからでありません。価値がもともと存在していた生産手段の使用価値が消滅し、それが新しい生産物に姿を変える、という付け替えられるために価値が保存されることになるということです。例えば、紡ぎ糸という生産物をつくるために紡錘という生産手段を使用しますが、紡錘は使用しているうちに磨耗します。紡錘が摩耗するということは、その分だけ価値が失われるということです。この失われた価値は、生産物である紡ぎ糸の価値の大きさ、つまり、価格にその紡錘の失われた分の価格が上乗せされるということです。それが現実の場面での価値の保存です。したがって、原料の綿花が紡ぎ糸という生産物に形を変えた、再生産されたのとは違います。

生産手段において使いはたされるのはその使用価値であり、労働はこの使用価値を消費することで、生産物を作りだす。しかし生産手段の価値は実際に消費されるのではなく、そのため再生産されることもできない。生産手段の価値は保存されるが、保存されるといっても、労働過程で生産手段の価値そのものに操作が加えられるからではない。価値がもともと存在していた生産手段の使用価値は消滅するが、それが[新しい生産物の使用価値という]別の使用価値のうちに姿を消しているために、価値が保存されるのである。だから生産手段の価値は、生産物の価値のうちにふたたび姿を現す。しかしそれは厳密には再生産されたのではない。生産されたのはあくまでも新しい使用価値であり、この新しい使用価値のうちに、古い交換価値がふたたび姿を現すのである。

 

労働力の価値の再生産

労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではない。労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存するあいだに、その運動の各瞬間は追加価値を、新価値を、形成する。かりに、労働者が自分の労働力の価値の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断するとしよう。この価値には、生産物価値のうちの、生産手段の価値からきた成分を越える超過分をなしている。それはこの過程のなかで発生した唯一の本源的な価値であり、生産物の価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。もちろん、それは、ただ、資本家によって労働力の買い入れのときに前貸しされた労働者自身によって生活手段に支出された貨幣を補填するだけである。支出された3シリングとの関係からみれば、3シリングという新価値はただ再生産として現われるだけである。しかし、それは現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではない。ある価値が他の価値による補填は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである。

生産手段の場合とは違って、労働力の場合は状況が異なるのです。労働は目的に適った形で生産手段の価値を生産物に移転し、保存するというものです。労働の運動のそれぞれの瞬間において、付加的な価値、新しい価値を作りだすのです。例えば、紡ぎ糸の生産について、これまで、たびたび見てきた次の式について

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(0.5個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(27シリング) 

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

上記三つの式のうち価格についての式でみていくと、「綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)」の部分は原料と生産過程の価値(ここでは24シリング)が生産物である綿糸の27シリングのうちに価値が維持されているものです。そして、「+労働(3シリング)」の部分が労働によって新たな価値が付加されたことを示しています。つまり、生産物の27シリングのうち24シリングは原料と生産手段の価値が移って維持されたもので、差額の3シリングが労働によって新たに価値が付加された分です。

この3シリングは労働過程の中で発生した唯一の価値で(というのも、24シリングは労働過程の以前から、もともとあった価値です)、この労働過程で、現実に生産された価値です。

これにたいして労働過程の主体的な要素、すなわち活動している労働力の場合は、状況が異なる。労働は目的に適った形で生産手段の価値を生産物に移転し、保存する。労働の運動のそれぞれの瞬間において、付加的な価値、新しい価値を作りだす。ここで労働者が自分自身の労働力の価値と等しい価値を生みだした時点で、たとえば6時間の労働で3シリングの価値をつけ加えた瞬間に、生産過程が中断されると考えてみよう。生産物の価値には、生産手段の価値によって生まれる部分が含まれているが、この3シリングの価値は[生産手段に含まれていた価値に労働者が追加した価値であるから]生産物の価値のうちの生産手段の価値への超過分を意味する。

この価値は、[生産手段の価値とは別に]この労働過程の内部で発生した唯一の本源的な価値であり、生産物の価値のうちで、この過程自身で生産された唯一の価値部分である。ただしこの価値は[生産が中断されたために]、資本家が労働力を購入する際に前払いし、労働者がみずからの生活手段のために支出した貨幣を補填するものにすぎない。支出された3シリングのことを考えると、ここで生産された3シリングの新しい価値は、あたかも再生産されたものであるかのようにみえる。しかしこの価値は、生産手段の場合とは違って、たんなるみせかけではなく、現実に再生産されている。新しい価値が創造されることで、一つの価値が別の価値によって補填されたのである。

 

労働力による価値の増殖

しかし、われわれがすでに知っているように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。この点までは6時間で十分でも、それではすまないで、過程は4たとえば12時間続く。だかに、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけではなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物形成者すなわち生産手段と労働力との価値を越える超過分をなしているのである。

はなしを価値の増殖過程のところに戻しましょう。増殖価値は、労働過程において労働力の価値のたんなる等価物が生産されたところで生産が終わるわけではなく、労働が継続、つまり延長されることで、労働による新たな価値の付加が、より大きくなる。その超過分が増殖価値ということになるわけです。

それは、前のところで確認したように、労働過程というのが、生産物の新たな価値を付け加えるから、労働がふえれば、それに比例して新たにつけ加えられる価値も増えるからです。

また、まえにも確認したように、生産条件が同じであれば、労働者が新たな価値を付け加えるのが多ければ多いほど、保存する価値も多くなります。つまり。生産物の価値の総量も増えるからです。

しかしすでに明らかにしたように、労働過程において労働力の価値のたんなる等価物が生産され、それが労働対象につけ加えられた時点で労働が中断されることはなく、この時点を超えて継続される。労働過程は、この例では[販売される労働力の価値を再生産するだけで]十分なはずの6時間では終わらず、たとえば12時間にわたって継続される。こうして労働力を活動させつづけることで、それ自体の価値が再生産されるだけでなく、これを超過した価値が生産される。この増殖価値は、生産物を生産するために使われた生産価値の形成物、すなわち生産手段の価値と労働力の価値を上回る生産物価値の超過分である。

 

不変資本と可変資本

われわれは、生産物の価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過部分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。

要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。

これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは、不変資本と可変資本として区別されるのである。

これまでのところで、労働過程の様々な要素(原料、生産手段、労働力等)が、生産物の価値の形成において、様々な役割を果たしていることを明らかにしてきました。それは、資本の様々な構成要素が、資本自身の価値増殖過程において機能することの説明と重なるとマルクスは言います。例えば、生産物の総価値のうち、生産物の構成要素の価値の合計を超える超過部分は、最初に労働者の賃金として前払いされた資本の価値を超えて価値増殖した資本の超過分というわけです。これは、一方には生産手段があり、他方には労働力があるのですが、このどちらも、もともとの資本価値が形態を脱ぎ捨てて労働過程の要素に変化する際にとった異なる存在形態にすぎないと言います。

この生産過程における二つの要素、生産物に価値を保存する生産手段と、新たに価値を付け加える労働力、これと同じように資本についても二つの部分に区分することができるのです。すなわち、生産手段の価値は、労働過程を通じて保存され、生産物へと移転されます。それはつまり、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は生産過程でその価値を変えない、ということです。この資本部分が不変資本部分あるいは簡単に不変資本と呼ばれるものです。

これに対して労働力に変化した資本部分は、生産過程でその価値を変化します。それはつまり増殖価値を生産し、その増殖価値そのものも可変的なものでありうる。この資本部分はしたがってひとつの不変量からたえずひとつの可変量へと変化してゆきます。資本のこの部分が可変資本部分、同じ簡略化して可変資本と言われています。

ここで、一方で、労働過程の観点からは資本の構成要素は、客体的な要素としての生産手段と、主体的な要素としての労働力に区別されます。しかし価値増殖過程からは、同じ要素が不変資本と可変資本に区別されるのです。

不変資本と可変資本という区別は、剰余価値の生産システムとしての資本の本質にかかわる決定的な区別であり、その後の議論の要となるものです。不変資本を「c」という記号で表現し、可変資本を「v」という号で表現しています。そして可変資本によって生み出される剰余価値を「m」という記号で表現しています。

これまで労働過程のさまざまな要素が、生産物の価値の形成においてそれぞれに異なる役割をはたすことを考察してきた。それによって実際には、資本のさまざまな構成要素が、資本自身の価値増殖過程においてはたす機能の特徴を説明してきたことになる。生産物の総価値のうち、生産物の構成要素の価値の合計を超える超過部分は、最初に[労働者の賃金として]前払いされた資本の価値を超えて価値増殖した資本の超過分である。一方には生産手段があり、他方には労働力があるが、このどちらも、もともとの資本価値が形態を脱ぎ捨てて労働過程の要素に変化する際にとった異なる存在形態にすぎない。

すなわち資本のうちで、原料、補助材料、労働手段などの生産手段に変化した部分は、生産過程においても価値が変化しない。そこでこの部分を不変的な資本部分、あるいは簡単に不変資本と呼ぶことにしよう。

これにたいして資本のうちで労働力に変化した部分は、生産過程においてその価値が変化する。この部分は自分自身の等価物と、それを超える超過部分を再生産するが、この超過部分が増殖価値である。この増殖価値は変動しうるのであり、かなり大きなものであることも、小さなものであることもある。資本のこの部分は、最初の不変の部分からつねに可変な部分に変化する。そこで資本のこの部分を可変的な資本部分、あるいは簡単に可変資本と呼ぶことにしよう。

労働過程の観点からは資本の構成要素は、客体的な要素としての生産手段と、主体的な要素としての労働力に区別される。しかし価値増殖過程からは、同じ要素が不変資本と可変資本に区別されるのである。

 

不変資本とその価値変動

不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない。1ポンドの綿花が今日は6ペンスであるが、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がると仮定しよう。引き続き加工される古い綿花は、6ペンスの価値で買われたものであるが、今では生産物に1シリングという価値部分をつけ加える。そして、すでに紡がれた、おそらくすでに糸になって市場で流通している綿花も、やはりその元の価値の2倍を生産物につけ加える。しかし、明らかに、この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがない。もし古い綿花がまだ全然労働過程にはいっていないならば、それを今では6ペンスではなく1シリングでもう一度売ることもできるであろう。それどころか、それが労働過程を通っていることが少なければ少ないほど、いっそうこの結果は確実なのである。それだから、このような価値革命にさいしては、最も少なく加工された形態にある原料に賭けるのが、つまり、織物よりはむしろ糸に、よりはむしろ綿花そのものに賭けるのが、投機の法則なのである。価値変化はここでは綿花を生産する過程で生ずるのであって、綿花が生産手段として、したがってまた不変資本として機能する過程で生ずるのではない。一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されているが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている。もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば─たとえば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きい量の労働を表わす─、前からある商品への反作用が生ずるのであって、この商品は、いつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず、その価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのである。

原料の価値と同じように、すでに生産過程で役だっている労働手段すなわち機械その他の価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがある。たとえば、もし新たな発明によって同じ種類の機械がよりも少ない労働支出で再生産されるならば、古い機械は多かれ少なかれ減価し、したがってまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移すことになる。しかし、この場合にも価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外で生ずる。この過程では、その機械は、それがこの過程にかかわりなくもっているよりも多くの価値を引き渡すことはけっしてないのである。

不変資本は、その名の示すように価値の大きさが不変であるというのではありません。それは、もともとあった価値が生産物に、その大きさのまま保存されるということだからです。したがって、例えば、もともとの原料が価格の上昇や下落などのような変動によって、価値の大きさが変化することは、当然あり得ます。紡ぎ糸を生産するときの原料である綿花は、農産物ですから毎年の気候などの条件で収穫量が変動しますから、価格もそれに応じて変動します。その綿花の価値の変動に伴って、生産される紡ぎ糸の価値も変化するわけです。

しかし、この価値の変動は、紡績という生産過程の中で生じた価値の増殖とは別物で、無関係です。この価値の変動は綿花の生産過程のうちで発生するもので、紡ぎ糸の生産過程において綿花が不変資本として機能するころで発生するではないのです。

原料の場合と同じように生産手段の価値の変動もあり得ます。たとえば何らかイノベーションによって、同じ機械類を前よりも少ない労働量の支出によって再生産できるようになったとすると古い機械類の価値は多かれ少なかれ低下することになり、それに比例して、生産物に移転する価値も小さくなります。しかし、この価値の変動もその機械類が生産手段として機能している生産過程の外部で発生したものです。この場合も、紡ぎ糸の生産過程において生産機械が不変資本として機能するころで発生するではないのです。

不変資本という概念は、[不変であるからといって]その構成要素において価値革命が発生する可能性を否定するものではない。今日、1重量ポンドあたりの単価が6ペンスだった綿花が、綿花の収穫の減少のために、明日には単価1シリングに高騰したとしよう。6ペンスの価値で購入されせた分の綿花の加工作業において、その綿花は今では生産物に1シリングの価値部分を加えることになる。そしてすでに紡績され、すでに紡ぎ糸となって市場に流通している[生産物に含まれている]綿花も、もともとの価値の2倍の価値を生産物に加えることになる。

しかしこの価値の変動は、紡績過程そのものの中で綿花に生じた価値の増殖とは無関係なものであるのは明らかである。古い綿花がまだまったく労働過程にはいっていなければ、それを今では6ペンスではなく1シリングで再販することもできよう。むしろ反対に、労働過程を経ていなければいないほど、確実に再販できるだろう。

だからこのような価値革命が発生した際には、加工度のもっとも低い原料で投機するのが投機の原則であり、織物よりは紡ぎ糸で、紡ぎ糸よりは綿花そのもので投機するのである。この価値の変動は、綿花の生産過程のうちにおいて発生するのであり、綿花が生産手段として、すなわち不変資本として機能する過程のうちで発生するものではない。

一つの商品の価値は、たしかにそのうちに含まれている労働の量によって決まるが、この労働の量そのものは社会的に決まるのである。その商品の生産のために社会的に必要とされる労働時間が変動すれば、もとの商品には遡及的な影響が発生する。たとえば同じ量の綿花を生産しようとしても、凶作のときには豊作のときよりも多くの労働時間を表現することになるだろう。その商品は、それが含まれる種の個別的な見本とみなされるだけである。その価値はつねに、社会的に必要とされる労働、すなわちつねに現在の社会的な条件のもとで必要な労働を基準として決定されるのである。

原料の価値だけでなく、すでに生産過程で利用されている労働手段の価値、たとえば機械類の価値も変化する可能性がある。この価値が変化すると、その労働手段が生産物につけ加える価値も変化する。たとえば何か新しい方法が発明されて、同じ機械類を前よりも少ない労働量の支出によって再生産できるようになったとしよう。すると古い機械類の価値は多かれ少なかれ低下することになり、それに比例して、生産物に移転する価値も小さくなるだろう。

しかしこの価値の変動も、その機械類が生産手段として機能している生産過程の外部で発生したものである。生産過程の内部でこの機械類が生産物につけ加える価値は、この過程とは独立して機械類がそなえている価値よりも大きくなることはありえない。

 

価値の変化と不変資本と可変資本の区別

生産手段の価値の変動は、たとえその生産手段がすでに過程にはいってから反作用的に生じても、不変資本としてのその性格を変えるものではないが、同様にまた、不変資本と可変資本との割合の変動も、それらの機能上の相違に影響するものではない。労働過程の技術的な諸条件が改造されて、たとえば、以前は10人の労働者がわずかな価値の10個の道具で比較的小量の原料に加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械で100倍の原料を加工するようになるとしよう。この場合には、不変資本、すなわち使用される生産手段の価値量は非常に増大し、労働力に前貸しされる資本の可変資本部分は非常に減収するであろう。しかし、この変動は、不変資本と可変資本との量的関係、すなわち総資本が不変成分と可変成分に分かれる割合を変えるだけで、不変と可変との相違には影響しないのである。

生産手段の価値の変化について、さらに考えてみましょう。この場合、生産機械の機能が向上すれば、それに伴って、労働の関わる部分が節約されることになります。例えば、10人の職人が手作業で糸を紡いでいたことが、紡績機という機械を導入したことにより、労働者は1人で済んでしまう。この場合、生産物の価値に占める不変資本の価値の割合が大きくなります。それに応じて、可変資本の割合は少なくなります。変わるのは、この比率だけで、結果としての生産物の価値に直接の影響はないわけです。

ただし、別の面から考えると、この機械導入によって、生産能力が大きく向上し、より多くの原料を使うことが可能となり、紡ぎ糸の生産総量が増えることになります。つまり、生産物の1つの価値は変わらなくても、生産量の増大の結果として価値の総量が増大することになります。

資本のこのような区別を生産過程における労働そのもののあり方から見てみると、この資本の不変性と可変性とが労働の二重性と深く関わっていることが分かります。原材料や機械や道具がその価値を生産物の価値にそのまま移すことができるのは、それらの原材料や道具・機械がその使用価値的性質に応じて労働によって適切に結合され、目的に適って消費されることによってです。もし原材料がでたらめに加工されたり、道具や機械がでたらめに使用されたら、まともな生産物は生産されないだろうし、その生産過程でどれほど多くの生産手段が消費されても、その生産手段は無駄に使用されたのであって、その価値が生産物に移転することはないだろうし、その生産過程でどれほど多くの生産手段が消費されようとも、その生産手段は無駄に使用されたのであって、その価値が生産物に移転することはない。したがって、原材料や道具・機械がその価値を生産物に移すことができるのは、何よりも生産的労働の具体的有用労働としての合目的的性格によるのです(そしてもちろんのこと、資本家は労働者が原材料を無駄にしないよう常に目を光らせており、この合目的性をできるだけ貫徹しようとするわけです)。

他方で、労働力に投じられた資本がその価値額を変えることができるのは、それによって用いられる労働の具体的な内容がいかなるものであれ、それが抽象的人間としての資格において一定時間機能するからです。すなわち、それが何を作るのであれ、それが機能した時間に比例して価値を生産手段に付け加えるからです。たとえば、1時間労働するならば、1時間分の価値を付け加え、8時間労働すれば8時間分の新たな価値を付け加えるもというように。

このように、生産的労働は、一方ではその具体的有用労働という性質において、各種の生産手段を合目的的に使用し、新たな使用価値としての生産物を生産することによって、生産手段価値をこの生産物の価値にそのまま移転させる。他方では生産的労働は、その抽象的人間労働という性質にそのまま移転させるわけです。他方では生産的労働は、その抽象的人間労働という性質において、それらの生産手段の価値(不変資本の価値)に新たな価値を付け加え、したがって価値としての生産物、すなわち価値生産物をも生産することになります。生産手段価値=不変資本価値に、この新たに生産された価値生産物が付加されることによって、新たな生産物の総価値が決定されるわけです。この新たな生産物の総価値を生産物価値と呼びます。したがって、生産物価値=生産手段価値(不変資本価値)+価値生産物(新価値)、である。不変資本価値は「c」で表現され、価値生産物は可変資本(v)と剰余価値(m)に分かれるから、生産物価値の大きさは、「c+v+m」で表現されることができます。

このように生産手段の価値が変化したとしても、そしてたとえその価値の変化が、生産手段が生産過程に入りこんだ後になってから遡及的に作用することがあるとしても、生産手段は不変資本であるという性格は変わることがない。同じように不変資本と可変資本の比率が変化しても、この両方の資本のはたす機能の違いに影響は生じない。ここで労働過程の技術的な条件が大きく変動したと想定してみよう。たとえばこれまでは10人の労働者が、それぞれに価値の小さな10個の道具を使いながら、かなり少量の原料を加工していたのが、今では1人の労働者が1台の高価な機械を使って、その100倍の原料を加工するようになったとしよう。

この場合には不変資本の価値、すなわち使用される生産手段の価値は非常に大きくなり、労働力のために前払いされる資本の可変部分は非常に小さくなるだろう。しかしこの変化は、不変資本と可変資本の大きさの比率を変化させるだけであり、変わるのは総資本が不変資本部分と可変資本部分に分割される比率にすぎない。それぞれが不変的であること可変的であることそのものに影響するものでないのである。

 

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