時間給の賃金の単位である1労働時間の価格は、労働日の1日あたりの価値を、通例となっている労働日の時間数で割った値である。労働日が12時間、労働力の価値は6時間の価値生産物である3シリングとしよう。この条件のもとでは、1労働時間の価格は3ペンスであり、1労働時間の価値生産物は6ペンスである。ここで労働者が1日12時間より少なく(あるいは週6日よりか少なく)、たとえば8時間や6時間しか働かされなかったとしよう。その場合にはこの労働価格のままだは、2シリングあるいは1シリング半の日給しかうけとらないことになる。
この前提のもとでは、彼は自分の労働力の価値にみあった日給分を生産するためには、1日あたり平均して6時間は働かなければならない。またこの前提によると、それぞれの1時間のうちで、彼が自分自身のために働いているのはその半分だけであり、残りの半分は資本家のために働いているのである。だから彼の就業時間が12時間よりも少ないと、6時間分の価値生産物に作りだせないのは明らかである。以前は超過労働がもたらす破壊的な結果について考察してきたが、ここでは過少就労がもたらす苦悩の源泉を発見するのである。
1時間あたりの賃金を決める際に、資本家が日給や週給を支払う義務はなく、ただ労働者を働かせたいと思う労働時間分だけ支払えばよいことが取り決められた場合には、労働価格の測定単位である時間あたりの賃金を最初に見積もる際に基礎となっていた時間数よりも少ない時間しか、労働者を就業させないことができる。労働価格の測定単位である時間当たりの賃金は、(労働力の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)で決定されていたのであるから、労働日に定められただけの時間がふくまれなくなれば、すべての意味を失うのは当然のことである。
この場合には支払労働と不払労働の関係が消滅する。この方式では資本家は、労働者が自己を保存するために必要な労働時間を与えずに、労働者から一定の量の増殖価値を絞りとることができるようになる。資本家は就業の規則性をすべて破壊し、自分の都合と恣意と一時的な利害だけに基づいて、労働者に途方もない超過労働と、相対的な失業あるいは絶対的な失業を課すことができる。
資本家は、「労働の標準価格」を支払うという名目のもとで、労働者に適切な補償を与えることなく、労働日を異常なまでに延長することができる。この時間あたりの賃金方式を導入しようとした資本家にたいして、ロンドンの建築労働者が1860年に暴動を起こしたが、これはまったく理に適ったことなのである。労働日の法的な制限はこのような無法に終止符をうつものである。もちろん機械との競争、雇用される労働者の質的な変化、部分的な恐慌や全般的な恐慌のために発生する過少就業に終止符をうつことはできないのではあるが。
標準労働日システム
日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないので、しかもその正常な水準よりも下がることもありうる。それは、労働の価格または1労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。もし(労働力の日価値)/(労働日)という分数の分母が大きくなれば、分子はそれよりももっと速く大きくなる。労働力の価値は、その機能が長くなるにつれて、その消耗が増大するので増大し、しかもその機能の持続の増加よりももっと速い割合で増大する。それゆえ、労働時間の法的制限なしに時間賃金が広く行われている産業部門の多くでは、労働日が或る一定の点まで、たとえば第10時間目の終わりまでを限って正常と認められるという慣習が自然発生的にでき上がったのである。(「標準労働日」、「1日の労働」「正規の労働時間」。)この限界を越えれば、労働時間は時間外(オーバータイム)となり、1時間を度量単位として、いくらかよけいに支払われる(エクストラ・ペイ)。といっても、その割増は多くの場合おかしいほどわずかではあるが。こういう場合には標準労働日は現実の労働日の一部分として存在するのであって、1年じゅうをつうじて前者よりも後者のほうが長いことも多いのである。ある標準限界を越えての労働日の延長に伴う労働の価格の増大は、イギリスのいろいろな産業部門では次のような形で行なわれている。すなわち、もし労働者がとにかくいくらか満足な労賃を取り出そうと思うならば、いわゆる標準時間中の労働の価格が低いために、いくらかよけいに支払われる時間外労働をいやでもしなければならないという形である。労働日の法的制限はこのような楽しみにも終末を与えてしまうのである。
1労働時間あたりの価格、つまり時給の額が変化せず労働日あたりの労働時間が延長されれば、労働の名目価格は変化せず、日給や週給の額は増えることになります。この場合、(労働力の1日あたりの価値)/(労働日)という時間給の公式で、分母である労働日あたりの労働時間が延長により大きくなると、分子である労働力の価値は、その機能が継続される時間が長くなると、それだけ消耗が進むので、理論的には、その価値は大きくなります。
多くの産業分野では、1日の労働時間が法律によって決められていなかったので、自然発生的な習慣で、例えば1日10時間を標準としていた。これが標準労働日です。この時間を超えると時間外労働となって、割増の時給が支払われます。ただし、割増と言っても、ばかばかしいほどに低い率なのですが。
標準労働日というのは、実際の労働日の限られた一部を標準労働日として区切ったもので、実際の労働日が標準労働日よりも長い労働時間となる日が多いようです。労働日が、このような一定の標準を超えて延長されると、時間外となり時給が割増となるので、労働価格は増大します。現実のイギリスのさまざまな産業の現場では、標準労働日の労働価格があまりに低く設定されていたために、労働者は時間外労働をせざるをえなくなっていました。労働日を法律で規制することによって、このような理不尽なやり方はできなくなりました。
標準賃金とは、①労働力の標準的な再生産単位にもとづいて支払われ(質的規定)、②標準労働日だけ働けば社会的に標準的な生活を送ることのできる水準の賃金(量的規定)です。この基準の範囲はもちろんかなりの伸縮性があり、また直接的な賃金だけでなく、種々の付加給付もそこに含められます。
この労働力の再生産単位は、最も短いものから最も長いものまでさまざまです。労働力が再生産される最も短い基本単位は言うまでもなく「1日」、つまり「日」という単位です。労働者は労働力を正常に再生産するためには、休憩、食事、風呂かシャワー、それらに伴う家事労働、交流や娯楽、そして十分な長さの連続した睡眠時間を必要とするのであり、それらなしには正常な労働力を回復させることはできず、翌日も前日の開始時点と同じに健康状態で労働を再開することはできせん。したがって、労働力はどんなに短くても1日という単位でしか再生産されないのであり、賃金は少なくともこの基本単位を前提としたものでなければならないわけです。これは具体的には「日給」ということになります。
しかし、毎日労働を続けていれば、しだいに肉体的にも精神的にも疲れがたまってくるのであり、1日の労働後の休憩や睡眠や娯楽だけでは十分に回復することはできせん。また、家事労働の中には、洗濯のようにまとめて行った方が効率のいいものも存在するし、家族がいる場合には、労働が終わった後のほんの数時間ではなく、まとめて団欒や交流の時間を取る必要があるでしょう。したがって、ある一定の日数、たとえば5日や6日ほど労働日が続けば、週末の1日ないし2日をまるまる休息や娯楽や交流や家事労働に当てる必要が出てくるのであり、それなしには労働力も正常に再生産されないことがわかるでしょう。すなわち、この場合、労働力は1週間を単位として再生産されていると言えます。つまり、1週間でもらえる賃金(週給)は、このような1日ないし2日の休日を前提としたものでなければならないわけです。
しかし、日常生活においては支払いが月単位であるものが少なくありません。家賃がそうだし、光熱費や水道料金、日刊紙を購読していればその新聞代、今日ではさまざまな通信費(固定電話代、携帯電話代、インターネットのプロバイダー料金、等々)、などもそうです。ほとんどの労働者にとっては、このような毎月決まって支出されるものが支出の大部分を占めています。何かをローンで買った場合には、ローンの支払いもたいてい月ごとです。賃金によってこのような支出をまかなった上で、なおかつ残った賃金で標準的な生活ができなければ、労働力を正常な形で再生産することはできません。それゆえ、労働力というのは、本来、日単位でも週単位でもなく、少なくとも月単位で再生産されていると言えると思います。それゆえ、労働者の賃金は、最初は日給、週給という形態が多かったのが、やがて(少なくともこの日本では)「月給」という形態に移っていったのであり、それには十分な理由があると言えます。
労働力が再生産される本来の基本単位は、したがって「月」であると言えます。しかし、日本のように四季がある国ないし地域においては、月ごとの出費はけっして同じではありません。夏の時期と冬の時期には光熱費が飛びぬけて高くなり、それは言うまでもなく冷房と暖房をする必要があるからです。また冬の方が衣服代は高くつきます。したがって、賃金はこのような季節的な支出額の違いを考慮したものでなければなりせん。また、日本ではかつて、たまった「つけ」の支払は盆と暮れに行われていました。それゆえ日本では伝統的に、夏と冬にボーナスを出すことによって、このような季節的差異をまかなってきました。したがって、月給+ボーナスという組み合わせは、事実上、1年という金を単位として支払われる賃金だということができます。また、1年のうちある程度まとめて休暇を取らなければ、労働力が正常な形で再生産されないと主張することも可能です。その場合は、日曜や土曜以外に、一定の年休分が給与計算の中に入らなければならないわけです。
しかし、労働力の再生産費用は、季節ごとに違うだけでなく、年齢によっても、ライフサイクルのどの時点にいるかによって変わってくるものです。日本ではこの相違は伝統的に年功賃金や扶養手当の加算などとして対処されてきました。しかし、この面での大きな支出差は賃金額の変化だけでは対処しきれないし、また個人差もきわめて大きいので、国家や自治体による福祉支出を通じて対処する必要性が出てくるものです。このような点も考慮に入れれば、標準賃金の最も長い単位は結局、生涯労働年数ということになると言えます。
このように標準賃金は労働力が再生産される基本単位にもとづいて支払われるのであり、その最も短い単位は「日」であり、その最も長い単位は「生涯労働年数」であることがわかります。これらのさまざまな単位の中で何が「標準的」であるかは、時代や国によって異なってきます。そして日本を含む今日の先進資本主義諸国においては、「月」が最も標準的な再生産単位として承認されていると考えることができ、したがって「月給制」が最も一般的な賃金支払い形態であると言えます。そして、賃金支払いの基本単位が短ければ短いほど、それはますます標準賃金としては非本来的なものに近づくのであり、派生的な形態に近づくと言えます。
以上で、標準賃金の質的規定についてです。しかし、②の量的規定も重要であり、たとえ月単位で給料が払われていたとしても、その水準が低すぎて、とうてい標準的な生活を保障するものにほど遠い場合には、そのような賃金は形式的に標準賃金であると言うことができても、実質的にはそうではないと言えます。そして労働者たちは、標準労働日の確立のために必死で闘っただけでなく、賃金の水準ができるだけ「標準」と呼べるものにするためにも必死で闘ってきたのです。
法律で長さを規定できる標準労働日と違って、標準労働の大きさを法律で決めることはできないので、この「標準」は標準労働日の場合よりもはるかに不安定であって、力関係が資本家にいっそう有利になれば、直ちにこの標準は切り下げられる傾向にあります。それゆえ、標準賃金を法律できめることができない代わりに、賃金の最低水準を法律で定めさせるための闘争、すなわち法定最低賃金のための闘争が必要となったのでした。それより下がれば労働者が健康で文化的な最低水準のもとで生きていけないような賃金の最低水準を法律で定めるための闘争は、法定標準労働日のための闘争と並んで労働者にとってきわめて重要なものなのでした。
理論的には法定最低賃金とは、標準賃金の下限を規定するものでなければなりません。つまり、それ以上の額でさえあれば、標準労働日だけ働けば標準的な生活を可能にする水準でなければならないわけです。ところが、実際には、この法的最低賃金は、全体としての賃金上昇テンポから立ち遅れる傾向にあり、この下限を大きく下回る水準になっているのが普通です。
このような低い水準の最低賃金は、本来、一種の拘束時間賃金とみなすべきと考えられます。つまり、いかなる具体的な業務を遂行していなくても法律上支払わなければならない賃金が法定最低賃金なのだから、それは労働者を一定時間、資本の指揮命令下に拘束していることそれ自体に対する支払だとみなすべきなのです。したがって、単に一定時間拘束されているだけでなく、それに加えて一定の具体的な仕事が課せられている場合には、すべて追加的な労働力支出がなされているのであるから、その分の賃金の上乗せがなければならないはずです。ところが、先進国の中で最も労働者の地位が低く、労働者の抵抗力が弱い日本では、非正規労働者の圧倒的多数は、この最低賃金レベルで、正規労働者並みの仕事をさせられている。これは許しがたい過剰搾取と言えます。
ところで、マルクスとエンゲルスは奇妙なことに、その手紙などから推測するに、法定最低賃金の要求を無意味なものとみなしていたようです。法定標準労働日の制定に対してあれほど大きな重要性を付したにもかかわらず、法定最低賃金に対しては最後まで冷淡であったそうです。しかし、それは歴史によって誤りであることが明らかになっています。労働者の広範な闘争によってバックアップされているならば、法定最低賃金の引き上げは賃金水準一般を引き上げる役割を果たすのである。ただし、現在の日本のように、そのような闘争によって交えられていない場合には、保守政権主導のもとで行われる最低賃金の臆病な段階的引き上げは、ただ純粋に最低賃金労働者の賃金を法定分だけ上げることに帰結するだけであり、労働者全体の賃金の引上げにはほとんど結びつかない。
日給や週給が増えても、労働の名目価格は変化せず、しかもその標準的な水準を下回るという事態も起こりうる。これは労働価格または1労働時間の価格が変化せず、労働日が通例の長さを超えて延長される場合にはつねに起こることである。(労働力の1日あたりの価値)/(労働日)という分数で、分母が大きくなると、分子はさらに急速に大きくなる。労働力の価値は、その機能が継続される時間が長くなると、それだけ消耗が進むので、その価値は大きくなるのであり、しかもその機能が継続される時間の増加よりも早い比率で価値が増加する。
労働時間が法律によって制限されておらず、時間給の賃金支払い方式が支配的な多くの産業分野では、労働日をある一定の時間まで、たとえば10時間までを標準とみなすという習慣が自然発生的に生まれていた(これは「標準労働日」とか「正規の労働時間などと呼ばれていた」)。この標準の時間を超えると、労働時間は時間外労働時間(オーバータイム)となり、時間単位で割増金(エクストラ・ペイ)が支払われる。ただしこの割増金はばかばかしいほどに低い比率だった。
こうなると標準労働日は、現実の労働日のうちの限られた一部となり、1年をつうじて現実の労働日が標準労働日よりも長い労働日がつづくことも多い。労働日が一定の標準的な限界を超えて延長されるにしたがって、たしかに労働価格は増大するものの、イギリスのさまざまな産業分野では、これが次のような形で遂行されている。すなわちいわゆる標準時間のあいだの労働価格があまりに低く設定されているために、労働者は満足できる労働賃金を手にするためには、労働価格がいくらか高く設定されている時間外労働時間で働かざるをえなくなるのである。労働日を法律で制限することで、このように身勝手なやり方には終止符が打たれた。
労働日の長さと労働賃金
一般に知られている事実として、ある産業部門での労働日が長ければ長いほど労賃は低い、ということがある。工場監督官A・レッドグレーヴは、このことを1839年から1859年の20年間の比較概観によって例証しているが、それによれば、労賃は10時間法の適用を受けている工場では上がったが、1日に14時間から15時間作業している工場では下がった。
「労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は供給される労働の量によって決まる」という法則からはまず第一に次のことが出てくる。すなわち、労働の価格が低ければ低いほど、労働者が単にみじめな平均賃金を確保するだけのためにも、労働量はますます大きくなければならず、言い換えれば、労働日はますます長くなければならない、ということである。この場合には労働の価格の低いことが労働時間を長くすることへの刺激として作用するのである。
ところが、それとは逆に、労働時間の延長もまた労働の価格の低下を、したがってまた日賃金や週賃金の低下をひき起こす。
ある産業では、労働日の労働時間が長くなればなるほど労働賃金が低くなっていました。10時間労働法が適用された工場では労働賃金が上昇し、そうでない工場では1日に14時間から15時間の労働が行われ、逆に労働賃金が低くなっていました。
労働価格、つまり時給が決まっていれば、労働量つまり働いた時間によって1日の賃金が決まる、ということは、その単価を低く抑えれば、労働者は労働時間を長くしなければ1日の賃金を確保できなくなります。したがって、労働価格を低くすることは、労働者に長時間働かせる拍車のような働きをすることになります。これを逆に言うと、労働時間が延長されると労働価格が下落するということになり、結果として1日や1週間の賃金も下落するわけです。
ある産業部門において、労働日が長ければ長いほど労働賃金が低くなるのは、周知の事実である。工場視察官A・レッドグレーヴは1839年から1859年の20年間の概観データの比較からこのことを明らかにしている。それによると10時間労働法が適用された工場では労働賃金が上昇し、1日に14時間から15時間の労働が行われる工場では労働賃金が低下しているという。
「労働の価格が決まっている場合には、日給や週給の額は、与えられる労働の量によって決まる」という法則からまず明らかになるのは、労働の価格が低ければ低いほど、労働者はわずかな平均賃金でも確保しようとするため、それだけ労働量を増やすか、労働日を長くせざるをえないことである。この場合は労働価格の低さは、労働時間を延長するための〈拍車〉のような役割をはたす。
逆に、労働時間が延長されると、労働価格が下落し、日給と週給も下落する。
競争のもたらす効果
労働の価格が(労働日の日価値)/(与えられた時間数の労働日)によって規定されるということからは、ただ労働日を延長するだけでも、その埋め合わせがなされないかぎり、労働の価格を低下させる、ということが出てくる。しかし、資本家が長期間にわたって労働日を延長すねことを可能にするのと同じ事情は、資本家が労働の価格を名目的にも引き下げて、ついには増加した時間数の総価格、つまり日賃金や週賃金が下がるようにすることを、初めは可能にし、ついには強制する。ここでは二つの事情を指摘しておくだけでよい。もし1人が1人半分とか2人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。商品価格の一部分は労働の価格から成っている。労働の価格のうちの支払われない部分は、商品価格でき計算しなくてもよい。この部分は商品の買い手にただで贈ってもよい。これは競争が駆り立てる第一歩である。競争が強要する第二の一歩は、労働日の延長によって生みだされる異常な剰余価値の少なくとも一部分を同様に商品の販売価格から除くことである。このようにして、異様に低い商品の販売価格がまずところどころに形成され、しだいに固定されて、以後はそれが過度な労働のもとでのみじめな労賃の不変な基礎になる。といっても、それは元来はこのような事情の産物だったのであるが。ここは競争の分析をするところではないから、この運動は暗示するだけにしておく。だが、ほんのしばらく、資本家自身の言うことを聞いてみよう。
「バーミンガムでは業者のあいだの競争が激しいので、われわれのうち多くのものが、普通は恥ずかしくてできないようなことを、雇い主としてなさざるをえなくなっている。しかも、もはや金はもうからないで、ただ公衆だけがそこから利益を得ている」。
労働価格は下の式で計算することができます。
(労働日の1日あたりの価値)÷(与えられた労働日の労働時間)
この式に従って計算すれば、労働日の労働時間が延長されれば、1日あたり価値が変わらない限り、労働価格は小さくなります。資本家が労働日の労働時間を延長できる事情があれば、この計算式の通りに労働価格を低下させることができるわけです。こうして、やがては総体としての日給や週給も低下させることができるわけです。
このような労働時間を延長できる事情として、次の二つの場合をあげることができます。ある男性労働者が1人で1.5人分あるいは2人分の労働をこなせるようになると、その労働者の供給する量は市場で標準とされる労働供給量より多くなります。工場主は同じ労賃でも供給量のいい方を採りたがりますから、その結果、標準的な労働者は雇われなくなる。そこで、他の労働者も供給量を上げようとする競争が生まれます。それに乗じて、資本家は労働価格を下げることができるようになる。このように労働価格が下がれば、資本家は労働時間を延長しても支払う賃金を抑えることができる。そこで、さらに労働時間を延長することができる、というわけです。
しかし、資本家がこのように平均的な水準を超えた異常に低い賃金で労働者を長時間働かせるようになると、今度は資本家同士の競争の手段となります。つまり、資本家同士は市場で競争していますが、競争している商品の価格の一部は労働価格が含まれています。その労働価格が低く抑えられるわけですから、その分商品の価格を値下げすることができる。市場での商品の競争が有利になると、他の資本家も同じように商品の価格を下げようとする。そういう競争が資本家に強いられることになる。これが第一歩です。
これに続く第二歩は、労働日の延長で得られた剰余価値の一部を商品の販売価格に含めないようにする。つまり、資本家の受け取るはずの儲けの一部を削って商品の値下げをするということです。この結果、商品の販売価格は普通でないほど値下げされることになり、最初は特別だったのが、やがては当たり前になって、価格として固定化されることになってゆく。一方、労働者の側では、低い労働賃金が当たり前になってしまう。
労働価格は(労働日の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)の式で計算される。だから労働日が延長され、それに対していかなる補償も行わなければ、労働価格は低下する。しかし資本家が労働日を長期間にわたって延長できるような事情が存在する場合には、資本家は労働価格を名目的にも低下させることができるようになり、やがては労働価格も下がらざるをえなくなる。こうして労働時間が長くなったものの総価格は低下し、日給と週給も低下する。
こうした事情としては次の二つをあげておけば十分だろう。もしも1人の男性労働者が、1人半あるいは2人分の労働をこなせるようになると、市場に存在する労働力の供給量が変わらなくても、[効率の高くなった既存の労働力によって]供給される労働の量は多くなる。これが労働者のあいだの競争を激化させ、資本家は労働価格を低下させることができるようになる。そしてこのようにして労働価格が低下するとともに、資本家は労働時間をさらに延長させることができるようになる。
しかし資本家がこのように、社会的な平均水準を超えた異常な不払労働を自由に処分できるようになると、これは資本家どうしでの競争手段となる。商品価格の一部は労働の価格で構成されている。労働の価格の不払部分は、商品価格に含める必要はない。それは[商品の値下げという形で]商品の買い手に贈与することができるのである。これが競争が資本家に強いる第一歩である。
競争によって強いられる第二歩目は、労働日の延長でえられた異例なほどに膨大な増殖価値の少なくとも一部を、商品の販売価格に含めないようにすることである。これによって商品の異様なまでに低い販売価格が、最初は散発的に作りだされ、やがては固定されるようになる。そしてその後はこの販売価格が、超過労働のもとで働く労働者がうけとる乏しい労働資金の不変の基礎となるのである。しかしもともとはこうした低い販売価格こそ、こうした異例な事情の産物だったのである。
ただしこの競争について分析することは、本書の課題ではないので、この動きについてはたんに指摘しておくにとどめよう。むしろしばらく資本家にみずから語ってもらおう。
「バーミンガムでは親方たちの競争があまりにも激しいので、われわれ雇用主としてはふつうならとてもできないことを実行せざるをえないことが多い。それでいてわれわれには利益は残らず、大衆だけがそこから利益をえている」。
パン屋のあいだの競争
われわれの記憶にあるように、ロンドンの製パン業者には2つの種類があって、一方はパンを標準価格で売り、他方は標準価格よりも安く売っている。[標準価格売り]業者は議会の調査委員会で自分たちの競争者を次のように非難する。
「彼らは、第一には公衆を欺き(商品の不純化によって)、第二には自分の使用人から12時間労働の賃金で18労働時間をむさぼり取ることによってのみ、生存している。…労働者の不払労働は、競争戦をやりぬくための手段になっている。…製パン業者間の競争は、夜間労働を廃止することの困難の原因である。自分のパンを麦粉の価格につれて変わる原価よりも安く売っている安売り業者は、自分の使用人からいっそう多くの労働をたたき出すことによって、損失を免れている。私は私の使用人から12時間の労働しか取り出さないのに、私の隣人は18時間か20時間を取り出すとすれば、彼は販売価格で私を打ち負かすにちがいない。もしも労働者が時間外労働にたいする支払を要求することができれば、こんなやり方はすぐにおしまいになるであろう。…安売り業者の使用人のかなり多数は、外国人や少年少女などで、彼らはほとんどどんな労賃でも自分たちの得られるもので満足せざるをえないのである。」
この泣き言が興味をひくのは、資本家の頭にはどんなに生産関係の外観だけしか映じないものかをそれが示しているからである。資本家は、労働の正常な価格もまた一定量の不払労働をふくんでいるということも、知ってはいないのである。剰余労働時間という範疇は彼にとってはおよそ存在しないのである。なぜならば、それは、彼が日賃金のなかに含めて支払っていると信じている標準労働日のなかに含まれているからである。とはいえ、彼にとっても時間外労働、すなわち労働の通例の価格に相応する限度を越えた労働日の延長は、やはり存在する。しかも、彼の安売り競争者にたいしては、彼はこの時間外労働にたいする割増払をさえも主張するのである。彼はまた、この割増払も通常の労働時間の価格も同様に不払労働を含んでいるということも知ってはいない。たとえば、12時間労働日の1時間の価格は3ペンスで、2分の1労働時間の価値生産物であるが、時間外の1労働時間の価格は4ペンスで、3分の2労働時間の価値生産物であるとしよう。前の場合には資本家は1労働時間のうち半分を、あとの場合には3分の1を、代価を支払わずに取り込むのである。
例えば、ロンドンには種類のパン屋があるということは以前に照会しましたが、それは正規の価格で販売するフルプライス店と安売り店であるアンダーセラーズです。このうちフルプライス店はアンダーセラーズを不正な価格で公衆を欺いていると非難します。彼らは店の職人に12時間分の賃金しか与えずに18時間働かせでいて、6時間分の不払労働によってパンの価格を不当に引き下げている。そんな製パン業者の競争のために、夜間労働の廃止を困難にしている。正規なフルプライス店は職人に12時間の賃金分の労働しかさせていないため、彼らのように価格を引き下げることはできない。そのため、彼らとの競争に負けてしまう。職人たちが、その6時間の時間外労働にたいして賃金の支払いを強く求めることができれば、彼らは不当な価格を維持することができなくなるはずだ。
このような非難を見ると、資本家は生産関係の表面しか見えていないことをよく表しています。資本家は正規の価格にもある程度の不払労働が含まれていること、つまりは不払労働こそが資本家の利潤の源泉であることに気づいていない。資本家にとっては剰余労働というものが存在することに思い至っていない。というのも、剰余労働時間は標準労働日のうちに含まれてしまっているからです。
しかし、資本家にも時間外労働は見えています。フルプライス店のオーナーは競争相手のアンダーセラーズに対して、時間外労働の割増賃金を支払うことを要求しているからです。実は、この割増賃金を支払ったところで、通常の労働時間と同じように不払労働が含まれていることに気づいていないのです。
ロンドンには2種類のパン屋があることはすでに紹介した。正規の価格で販売するフルプライス店と、正規の価格以下で販売するアンダーセラーズである。フルプライス店は議会の調査委員会で、ライバルのアンダーセラーズを次のように非難する。「彼らは第一に(不正な商品の販売によって─マルクス)、公衆を欺いているのです。第二に、店の職人に12時間分の賃金しか与えずに、18時間の労働を絞りとることによって成立しているのです。…労働者たちの不払労働こそが、競争合戦のための手段になっているのです。…製パン業者どうしの競争こそ、夜間労働の廃止を困難にしている原因です。アンダーセラーズたちは、原価を下回る価格でパンを販売していますが(原価は小麦粉の価格とともに変動します)、より多くの労働を労働者から絞り採っているので、自分たちは損をしていません。わたしが自分の店の職人には12時間しか労働させず、隣の店が自分の店の職人たちに18時間や20時間も労働させていたのでは、わたしの店は販売価格の高さのために隣の店に負けてしまいます。職人たちが時間外労働にたいして支払いを強く求めるようになれば、こうしたやり方はすぐになくなるでしょう。…アンダーセラーズの店で雇用されている労働者の多くは外国人や未成年、あるいはどんな低い労働賃金でも、うけとられるならそれに甘んじるような人々なのです」。
このパン屋の嘆きが興味深いのは、資本家の頭にはいかに生産関係の仮象しかみえていないかが、よく分かるからである。資本家は、労働の標準価格にもある程度の不払労働が含まれていること、この不払労働こそが、資本家の利潤の標準的な源泉であることを知らないのである。資本家にとっては増殖労働時間というカテゴリーがまったく存在しない。というのも、増殖労働時間は標準労働日のうちに含まれているが、資本家は標準労働日については日給ですでに支払っていると考えているからである。
しかし資本家にとっても、時間外労働のカテゴリー、すなわち通例となっている労働価格にふさわしい限度を超えて、労働日を延長する時間外労働のカテゴリーは存在している。この店主はライバルのアンダーセラーズにたいして、この時間外労働に割り増し料金を支払うことを要求している。実はこの割り増し給にも、通常の労働時間の価格も同じように、不払労働が含まれていることを、資本家は知らないのである。
たとえば12時間の労働日の1時間の労働の価格4ペンス、すなわち1労働時間の3分の2の価値生産物だとしよう。そのとき資本家は前者については1労働時間の半分を、後者について1労働時間の3分の1を、対価を支払わずに手にしているのである。