1労働時間あたりの価格、つまり時給の額が変化せず労働日あたりの労働時間が延長されれば、労働の名目価格は変化せず、日給や週給の額は増えることになります。この場合、(労働力の1日あたりの価値)/(労働日)という時間給の公式で、分母である労働日あたりの労働時間が延長により大きくなると、分子である労働力の価値は、その機能が継続される時間が長くなると、それだけ消耗が進むので、理論的には、その価値は大きくなります。
多くの産業分野では、1日の労働時間が法律によって決められていなかったので、自然発生的な習慣で、例えば1日10時間を標準としていた。これが標準労働日です。この時間を超えると時間外労働となって、割増の時給が支払われます。ただし、割増と言っても、ばかばかしいほどに低い率なのですが。
標準労働日というのは、実際の労働日の限られた一部を標準労働日として区切ったもので、実際の労働日が標準労働日よりも長い労働時間となる日が多いようです。労働日が、このような一定の標準を超えて延長されると、時間外となり時給が割増となるので、労働価格は増大します。現実のイギリスのさまざまな産業の現場では、標準労働日の労働価格があまりに低く設定されていたために、労働者は時間外労働をせざるをえなくなっていました。労働日を法律で規制することによって、このような理不尽なやり方はできなくなりました。
標準賃金とは、@労働力の標準的な再生産単位にもとづいて支払われ(質的規定)、A標準労働日だけ働けば社会的に標準的な生活を送ることのできる水準の賃金(量的規定)です。この基準の範囲はもちろんかなりの伸縮性があり、また直接的な賃金だけでなく、種々の付加給付もそこに含められます。
この労働力の再生産単位は、最も短いものから最も長いものまでさまざまです。労働力が再生産される最も短い基本単位は言うまでもなく「1日」、つまり「日」という単位です。労働者は労働力を正常に再生産するためには、休憩、食事、風呂かシャワー、それらに伴う家事労働、交流や娯楽、そして十分な長さの連続した睡眠時間を必要とするのであり、それらなしには正常な労働力を回復させることはできず、翌日も前日の開始時点と同じに健康状態で労働を再開することはできせん。したがって、労働力はどんなに短くても1日という単位でしか再生産されないのであり、賃金は少なくともこの基本単位を前提としたものでなければならないわけです。これは具体的には「日給」ということになります。
しかし、毎日労働を続けていれば、しだいに肉体的にも精神的にも疲れがたまってくるのであり、1日の労働後の休憩や睡眠や娯楽だけでは十分に回復することはできせん。また、家事労働の中には、洗濯のようにまとめて行った方が効率のいいものも存在するし、家族がいる場合には、労働が終わった後のほんの数時間ではなく、まとめて団欒や交流の時間を取る必要があるでしょう。したがって、ある一定の日数、たとえば5日や6日ほど労働日が続けば、週末の1日ないし2日をまるまる休息や娯楽や交流や家事労働に当てる必要が出てくるのであり、それなしには労働力も正常に再生産されないことがわかるでしょう。すなわち、この場合、労働力は1週間を単位として再生産されていると言えます。つまり、1週間でもらえる賃金(週給)は、このような1日ないし2日の休日を前提としたものでなければならないわけです。
しかし、日常生活においては支払いが月単位であるものが少なくありません。家賃がそうだし、光熱費や水道料金、日刊紙を購読していればその新聞代、今日ではさまざまな通信費(固定電話代、携帯電話代、インターネットのプロバイダー料金、等々)、などもそうです。ほとんどの労働者にとっては、このような毎月決まって支出されるものが支出の大部分を占めています。何かをローンで買った場合には、ローンの支払いもたいてい月ごとです。賃金によってこのような支出をまかなった上で、なおかつ残った賃金で標準的な生活ができなければ、労働力を正常な形で再生産することはできません。それゆえ、労働力というのは、本来、日単位でも週単位でもなく、少なくとも月単位で再生産されていると言えると思います。それゆえ、労働者の賃金は、最初は日給、週給という形態が多かったのが、やがて(少なくともこの日本では)「月給」という形態に移っていったのであり、それには十分な理由があると言えます。
労働力が再生産される本来の基本単位は、したがって「月」であると言えます。しかし、日本のように四季がある国ないし地域においては、月ごとの出費はけっして同じではありません。夏の時期と冬の時期には光熱費が飛びぬけて高くなり、それは言うまでもなく冷房と暖房をする必要があるからです。また冬の方が衣服代は高くつきます。したがって、賃金はこのような季節的な支出額の違いを考慮したものでなければなりせん。また、日本ではかつて、たまった「つけ」の支払は盆と暮れに行われていました。それゆえ日本では伝統的に、夏と冬にボーナスを出すことによって、このような季節的差異をまかなってきました。したがって、月給+ボーナスという組み合わせは、事実上、1年という金を単位として支払われる賃金だということができます。また、1年のうちある程度まとめて休暇を取らなければ、労働力が正常な形で再生産されないと主張することも可能です。その場合は、日曜や土曜以外に、一定の年休分が給与計算の中に入らなければならないわけです。
しかし、労働力の再生産費用は、季節ごとに違うだけでなく、年齢によっても、ライフサイクルのどの時点にいるかによって変わってくるものです。日本ではこの相違は伝統的に年功賃金や扶養手当の加算などとして対処されてきました。しかし、この面での大きな支出差は賃金額の変化だけでは対処しきれないし、また個人差もきわめて大きいので、国家や自治体による福祉支出を通じて対処する必要性が出てくるものです。このような点も考慮に入れれば、標準賃金の最も長い単位は結局、生涯労働年数ということになると言えます。
このように標準賃金は労働力が再生産される基本単位にもとづいて支払われるのであり、その最も短い単位は「日」であり、その最も長い単位は「生涯労働年数」であることがわかります。これらのさまざまな単位の中で何が「標準的」であるかは、時代や国によって異なってきます。そして日本を含む今日の先進資本主義諸国においては、「月」が最も標準的な再生産単位として承認されていると考えることができ、したがって「月給制」が最も一般的な賃金支払い形態であると言えます。そして、賃金支払いの基本単位が短ければ短いほど、それはますます標準賃金としては非本来的なものに近づくのであり、派生的な形態に近づくと言えます。
以上で、標準賃金の質的規定についてです。しかし、Aの量的規定も重要であり、たとえ月単位で給料が払われていたとしても、その水準が低すぎて、とうてい標準的な生活を保障するものにほど遠い場合には、そのような賃金は形式的に標準賃金であると言うことができても、実質的にはそうではないと言えます。そして労働者たちは、標準労働日の確立のために必死で闘っただけでなく、賃金の水準ができるだけ「標準」と呼べるものにするためにも必死で闘ってきたのです。
法律で長さを規定できる標準労働日と違って、標準労働の大きさを法律で決めることはできないので、この「標準」は標準労働日の場合よりもはるかに不安定であって、力関係が資本家にいっそう有利になれば、直ちにこの標準は切り下げられる傾向にあります。それゆえ、標準賃金を法律できめることができない代わりに、賃金の最低水準を法律で定めさせるための闘争、すなわち法定最低賃金のための闘争が必要となったのでした。それより下がれば労働者が健康で文化的な最低水準のもとで生きていけないような賃金の最低水準を法律で定めるための闘争は、法定標準労働日のための闘争と並んで労働者にとってきわめて重要なものなのでした。
理論的には法定最低賃金とは、標準賃金の下限を規定するものでなければなりません。つまり、それ以上の額でさえあれば、標準労働日だけ働けば標準的な生活を可能にする水準でなければならないわけです。ところが、実際には、この法的最低賃金は、全体としての賃金上昇テンポから立ち遅れる傾向にあり、この下限を大きく下回る水準になっているのが普通です。
このような低い水準の最低賃金は、本来、一種の拘束時間賃金とみなすべきと考えられます。つまり、いかなる具体的な業務を遂行していなくても法律上支払わなければならない賃金が法定最低賃金なのだから、それは労働者を一定時間、資本の指揮命令下に拘束していることそれ自体に対する支払だとみなすべきなのです。したがって、単に一定時間拘束されているだけでなく、それに加えて一定の具体的な仕事が課せられている場合には、すべて追加的な労働力支出がなされているのであるから、その分の賃金の上乗せがなければならないはずです。ところが、先進国の中で最も労働者の地位が低く、労働者の抵抗力が弱い日本では、非正規労働者の圧倒的多数は、この最低賃金レベルで、正規労働者並みの仕事をさせられている。これは許しがたい過剰搾取と言えます。
ところで、マルクスとエンゲルスは奇妙なことに、その手紙などから推測するに、法定最低賃金の要求を無意味なものとみなしていたようです。法定標準労働日の制定に対してあれほど大きな重要性を付したにもかかわらず、法定最低賃金に対しては最後まで冷淡であったそうです。しかし、それは歴史によって誤りであることが明らかになっています。労働者の広範な闘争によってバックアップされているならば、法定最低賃金の引き上げは賃金水準一般を引き上げる役割を果たすのである。ただし、現在の日本のように、そのような闘争によって交えられていない場合には、保守政権主導のもとで行われる最低賃金の臆病な段階的引き上げは、ただ純粋に最低賃金労働者の賃金を法定分だけ上げることに帰結するだけであり、労働者全体の賃金の引上げにはほとんど結びつかない。