マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第6篇 労働賃金
第18章 時間給の賃金
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第6篇 労働賃金

〔この篇の概要〕

第6篇では、労働者にとって身近で、日々の生活にとって欠くことのできない生活の糧となる労賃(賃金)について考察されます。労賃の本質的な規定については、すでに第2篇「貨幣の資本への転化」の中で与えられていました。労賃の本質は労働力の価値であって、その貨幣表現が賃金です。労働者が賃金と引き換えに売り渡すのは労働力という商品なのです。しかし、日常的な現象(「ブルジョア社会の表面」)では、労働力が売られるではなく労働が売られていて、労賃は「労働の価値」「労働の対価」として現われ、労働日の全部が支払労働であるかに見えます。こうした外観上の矛盾を解明することがこの篇の第1の課題です(第17章)。労賃の本質が明るみにされれば、現実の様々な形態の賃金形態によって隠されている搾取関係もまた明るみになります。そのことを時間賃金、出来高賃金といった具体的形態を通して考察することが第2の課題です(第18、19章)。

同じ労働を行う労働者のなかに、個人的な違いがある労働賃金の支払方法もあります。つまり、多くの製品を作る人は賃金が高く、同じ時間・同じ労働をしていても、その生産量が少ない人は賃金が少ない支払形態です。労働の量と対応して賃金が支払われるようにみえるのが、出来高賃金です。

しかし、これは時間賃金の転化形態にほかならないとマルクスは指摘しています。労働の量は本来は時間数でしか量れないわけですから、その時間数が基本になって、それを出来高に転化したものと言えます。出来高賃金は、1日12労働時間の平均的な作業量として製品を24個作るならば、それで日価値3シリングが受け取れるように決まるからです。つまり1個=1.5ペンスにすれば、1日に平均的労働者は24個作り、3シリング(=36ペンス)の賃金を受け取る。これは労働力の日価値を標準的な作業量で割っているわけだから、時間賃金の転化形態にすぎず、その不合理性も同じことです。出来高賃金と時間賃金にはまったく本質的な違いはないことが分かります。

出来高賃金になると、ますます労働の価値・価格という感じが強くなります。その日頑張って人より多く働き、多く作れば人よりもたくさん賃金をもらえるからです。まさに自分の労働とその賃金が直結し、労働者の作業能力によって賃金が規定されていることになります。あるいは、そのように見えるのです。

さらに、出来高賃金には時間賃金とは違った特性があります。

まず出来高賃金では、一定以上の品質と量の製品を作ることが前提になります。不良品であれば賃金は支払われません。そうなると、労働の質と量が賃金制度によって確保されることになります。時間給だと、悪く言えばサボったり、だらだらしていてもよかったのですが、出来高賃金ではそうはいきません。資本家がもっとも気を使う商品の品質と量を、労働者自身がたえず意識しながら労働することになります。

そしてさらに、出来高賃金の場合、たとえば20個とか18個とかいう1日の最低限の基準が設けられ、それに達しない労働者は解雇されることになるでしょう。時間給に較べて1人1人の労働者の労働能力がはっきりと見えるようになります。

こうして労働の質と量が労働者自身によって規制されるので、監督労働の大部分が不必要になります。たとえば、家内工業(内職)は基本的にすべて出来高賃金です。監督ができないから、昨晩何時間労働しましたと申告されても本当はどうか分からない。しかし出来高ならば、労働者が何時間かかろうと関係がなくなります。現代では、外回りの営業や運輸・配送業などの歩合給にこの要素が組み込まれています。

しかも、出来高賃金は労働の強度を増すものです。労働者としては、できるだけ多く作ったほうが賃金が高くなるわけですから、自ら進んで労働強化をするようになります。その結果、資本家はその標準強度を高めることが容易になりました。1日24週という例でしたが、労働者が熟練し、強度を強め、平均的労働者は30個作れるようになれば、出来高賃金1.5ペンスは高すぎることになって、1個1.2ペンスへと単価が切り下げることになります。

出来高賃金だと労働者によって生産量と賃金に差が生じるわけですが、工場全体で考えると、資本家にとっては総生産量も総支出もさしあたりは変わりません。つまり時間賃金であったら、そうした個人的差を平均化した生産量が想定され、賃金も平均としての賃金一律に支払うわけです。それに対して出来高賃金は、個人的に差をつけて支払うだけで、企業全体としては総額が同じになります。生産量もさしあたり同じになりますが、さらにいま述べた理由から自然に生産力が上がっていくことになります。

出来高賃金は労働者に自由感、独立心、自制心をもたせ、他面では労働者相互の競争を発展させる傾向があります。それらもまた生産性を高める要因となり、賃金は一時的に増えても、長期的にはもとの水準に戻り、労働強化だけが残ることになります。

 

第18章 時間給の賃金

〔この章の概要〕

実際賃金がどのように支払われるかというと、第一に、労働日の長さによって賃金を支払う形態があります。一定時間働くと賃金が支払われる賃金の形態であり、それが時間賃金です。労働力の再生産費、労働力の目標値が3シリング(=36ペンス)なら、12時間労働日の場合は時給3ペンスとなります。

しかし、日給と時給では大きな違いができます。1時間3ペンスという時給になると、1日に6時間のパートタイム労働の場合は18ペンス=1.5シリングの支払となり、それでは労働力の再生産ができないからです。

現代のパートタイマーやフリーターは、このような時給制になっていますが、過少就業のため生活ができないことになります。この支払形態では、資本家は労働力の再生産費を労働力商品の価値として支払う義務がなくなり、資本家は労働者を就業させたいと思う労働時間だけ使うことができるようになります。仕事の多い時間帯だけ雇用し、たとえば6時間分だけ賃金を払うといった雇用が可能になります。そのため、賃金が労働力の再生産費であるということ自体が、まったく意味を失ってしまうのです。

それだけではありません。この6時間というのは、マルクスの例では必要労働時間にあたります。つまり3シリングの価値を生みだしているわけですが、時給制での支払いは1.5シリングになります。そうすると、6時間労働して労働者は自分の労働力価値分を再生産していながら、つまり社会的生産に十分参加していながら、その生活費を受け取れず、他方で資本家の側には1.5シリングの剰余価値が残されることになるのです。

低い時間賃金によって、労働者は日賃金を増やすため長時間労働をせざるをえなくなります。長時間働けば、日賃金は増えるとはいえ、それによって労働力価値の消耗が補填できずに短命化すれば、たとえ1日4シリングを得ていたとしても、「労働の価値」すら支払われておらず、労働力の価値以下に下がっていることになるでしょう。

実際のところ、標準労働時間を超える場合は、時給が割増給となることがマルクスの当時からありました。ところがイギリスの多くの産業部門では、時給を引き下げることで規定外労働が常態化され、労働者はそれをせざるをえなくなっていました。時間賃金の低さが、逆に長時間労働を強制するものになっていたのです。

労働者の側からみれば、悪循環になり、資本家の側からみればたいへん好ましい環境が起きることになります。労働賃金が、そういう役割をもつものとして機能しています。一般的に賃金が安いほど労働日が長いという傾向は、今も変わっていないでしょう。

非常に今日的な問題が、すでに『資本論』に書かれています。労働者が長時間労働すると労働力の供給量が増えることになり、需給法則から賃金が下がり、労働時間がさらに長くなります。剰余労働時間が異常に長くなり、剰余価値が異常に大きくなると、資本家は搾取分すべてを自分の利益にしなくてもよくなるという。商品価格に算入せず、商品の買い手に贈与されます、つまり商品価格を価値以下に安くすることで買い手にプレゼントされます、とマルクスは指摘しています。

100円ショップ、そして牛丼もハンバーガーもどんどん値下げされました。安くできた理由はコストの削減であり、その国内要因の大きな部分は、やはり労働強化と賃金の引き下げであす。宅配便なども、徹夜のたいへんな労働条件のなかで価格が下げられていて、そこに消費者ないし買い手に贈与されている部分がありそうです。逆に言えば、資本家の側も剰余価値の一部を放棄するところまで、競争によって駆り立てられています。

ここに書かれていることは、インフレの強かった今から30年前に『資本論』を読んだ時は、まさかそんなことがあるのだろうかという感じでした。ところが、今になってみると、まさにそういう現象が復活しています。新自由主義が自由主義を復活させたのです。自由競争の激化によって、労働者にとって厳しい状況が生まれています。

もちろん、輸入の問題もありますが、中国製品が安いというのも、中国の賃金水準の低さと、劣悪な労働条件での生産物が日本に流入しているからです。市場の国際化がいっそう進んだ現在、中国などの膨大な労働供給と賃金圧力が、日本の労働賃金を引き下げる要因になっています。

 

〔本分とその読み(解説)〕

時間給の賃金とは

労賃はそれ自体また非常にさまざまな形態をとるのであるが、この事情は、素材にたいする激しい関心のために形態の相違には少しも注意を払わない経済学概説書からは知ることのできないことである。とはいえ、このような形態のすべてについて述べることは、賃労働の特殊理論に属することであり、したがって本書の任務ではない。しかし、二つの支配的な基本形態についてはここで簡単に述べておかなければならない。

労働力の売りは、われわれが記憶しているように、つねに一定の時間を限って行われる。それゆえ、労働力の日価値、週価値、等々が直接にとる転化形態は、「時間賃金」という形態、つまり日賃金、等々なのである。

労働は様々な形式で現れますが、労働賃金もまたきわめて多様な形式で現れます。しかし、古典派経済学では形式の差異を無視してしまうので、説明できていません。それには労働賃金の専門的な研究が必要ですが、ここでは2つの基本的な主要形態について見ていきます。それが、「時間賃金」と「出来高賃金」です。本章では前者が考察されます。時間賃金は「労働力の価格および価値」の直接的な転化形態であり、もっとも基本的な形態です。

労働賃金もまたきわめて多様な形式で現れる。しかしこの事情は、あまりに素材に貪欲な関心をもっているために、形式の差異を無視してしまう経済学のハンドブックからは読みとれない。これらのすべての形式を説明するのは、賃金労働の特殊研究の書物でなすべきことであって、本書の任務ではない。しかし二つの主要な基本的な形態については、ここで簡単に展開しておく必要があろう。

すでに確認してきたように、労働力はつねに、特定の時間の長さを限って売られるのである。そのため労働力の1日あたりの価値あるいは1週間あたりなどの価値が直接に表現される形態は、日給などの「時間給の賃金」の形態と呼ばれる。

 

時間給の計算方法

そこでまず言っておきたいのは、第15章で述べた労働力の価格と剰余価値との量的変動に関する法則は、簡単に形を変えることによって労賃の諸法則に転化するということである。同様に、労働力の交換価値とこの価値が転換される生活手段の量の相違も、今では名目労賃と実質労賃の相違いとして現われる。本質的形態ですでに説明されたことを現象形態で繰り返すことは、無益であろう。それゆえ、われわれの説明も時間賃金を特徴づけるわずかばかりの点に限ることにしよう。

労働者が自分の日労働や週労働などと引き換えに受け取る貨幣額は、彼の名目賃金、すなわち価値によって評価された労賃の額をなしている。しかし、明らかに、労働日の長さが違えば、つまり彼が1日に供給する労働量が違えば、それに応じて同じ日賃金や週賃金などが非常に違った労働の価格を、すなわち同量の労働にたいする非常に違った貨幣額を表わすことがありうる。だから、時間賃金ではさらに日賃金とか週賃金とかいう労賃の総額と労働の価格とが区別されなければならないのである。では、この価格、すなわち或る与えられた量の労働の貨幣価値は、どのようにして見いだされるのか?労働の平均価格は、労働力の平均的な日価値を平均的な1労働日の時間数で割ることによって、得られる。たとえば、労働日の日価値は3シリングで、これは6労働時間の価値生産物であり、1労働日は12時間だとすれは、1労働時間の価格は3シリング/12=3ペンスである。このようにして見いだされる1労働時間の価格は労働の価格の尺度単位として役だつ。

賃金は日賃金、週賃金等々といった形で労働者に支払われますが、時間賃金では、この日賃金、週賃金という「賃金の総額」と「労働の価格」との区別が求められます。実際に1日、または1週間働いて得られる賃金=貨幣総額は、働いた時間数、労働日の長さによって異なってきますが、賃金総額を算出するためには、尺度単位が必要になります。ある与えられた量(一定量)の労働の貨幣価値(価格)こそ「労働の価格」に他なりません。労働力の平均的な日価値を平均的な一労働日の時間数で割ることで得られたのが「一労働時間の価格」で、これは労働の価格の尺度単位として役だちます。例えば、労働日の1日あたりの価値が3シリングで、これが6時間の労働で生産できる価値量だとすると、1労働日を12時間とすれば3シリング÷12時間=3ペンスで、1労働時間の価格は3ペンスとなります。

第15章では、労働力の価格と増殖価値の大きさの変化についての法則を説明したが、これに簡単な形式的な変更を加えるだけで、そのまま労働賃金の法則に変えられることに注意を促しておきたい。同じように、労働力の交換価値と、この価値が表現する生活手段の量の違いは、ここでは名目賃金と実質賃金の違いとして現れる。すでに本質的な形式で発展させてきたことを、現象的な形式で繰り返すのは意味のないことだろう。ここでは時間給の賃金に特徴的ないくつかの点について考察するにとどめよう。

労働者が自分の1日の労働や1週間の労働にたいしてうけとる貨幣額は、その名目賃金の額であり、その価値によって評価された労働賃金である。しかし労働日の長さによって、すなわち労働者が日々提供する労働量によって、同じ日給や週給であっても、きわめて多様な労働の価格を表現できること、同じ量の労働にたいして、きわめて多様な貨幣額を表現できることは明らかである。

そのため時間給の賃金においても、日給や週給などの労働賃金の総額と、労働の価格は区別しなければならない。ところでこの労働の価格、すなわち与えられた労働の量の貨幣価値はどのようにして確認することができるのだろうか。労働の平均価格は、労働力の1日あたりの平均的な価値を、平均的な労働日の時間数で割ることで計算できる。たとえば労働日の1日あたりの価値が3シリングであり、これは6時間の労働時間が生産できる価値量だとすると、労働日を12時間とすれは、1労働時間の価格は3シリング/12=3ペンスになる。このようにして計算した1労働時間の価格は、労働の価格を示す単位として使うことができる。

 

労働価格の変化と賃金の変化

それゆえ、労働の価格は引き続き下がっても日賃金や週賃金などは変わらないこともありうる、ということになる。たとえば通例の1労働日は10時間で労働力の日価値は3シリングだったとすれば、1労働時間の価格は3と5分の3ペンスだったわけである。それは、1労働日が12時間に延びれば3ペンスに、また、1労働日が15時間に延びれば2と5分の2ペンスに下がる。それにもかかわらず、日賃金や週賃金は元のままで変わらない。これとは反対に、労働の価格は変わらないか、または下がりさえしても、日賃金や週賃金は上がることもありうる。たとえば1労働日が10時間で労働力の日価値が3シリングならば、1労働時間の価値は3と5分の3ペンスである。仕事が増えたために労働者が元のままの労働の価格で12時間労働するすれば、彼の日賃金は今度は労働の価格の変動なしに3シリング7と5分の1ペンスに上がる。同じ結果は、労働の外延量ではなくその内包量が増加しても、生ずることがあるであろう。それゆえ、名目上の日賃金や週賃金の上昇が、元のままかまたは低落した労働の価格を伴うこともありうるのである。同じことは、家長の供給する労働量が家族の労働によってふやされる場合には、労働者家族の収入にもあてはまる。だから、名目上の日賃金や週賃金の引き下げによらないで労働の価格を引き下げるいろいろな方法があるわけである。

したがって、「労働の価格」(一時間労働の価格)が引き下げられたとしても、労働時間の延長によって日賃銀、週賃金の受け取る総額が変わらないか、もしくは増える場合があることは容易に理解できます。たとえば労働日の労働時間が10時間で、労働力の1日あたりの価値が3シリングであれば、1労働時間当たりの価格は3÷10で3と5分の3ペンスですが、労働日の労働時間が12時間に延長されれば3÷12で3ペンスに下がる。しかし、日給や週給は変わらないということです。

逆に「労働の価格」が変わらなかったり引き下げられても、日給や週給が上がることがあります。例えば、上記の設例で労働日の労働時間が10時間で、労働力の1日あたりの価値が3シリングであれば、1労働時間当たりの価格は3÷10で3と5分の3ペンスですが、仕事量が増えても労働価格はそのままで12時間に労働時価が延長されたとすると、日給は3シリング7と5分の1ペンスに増える。このように「労働の価格」切り下げを可能とする一般的な方法は労働時間の延長です。その他に、労働の内包量を高める労働強化もその方法の一つです。

このように名目的な日給や週給引き下げずに、労働の価格を引き下げることができます。

そのため労働価格が継続的に下落しても、日給や週給が変わらないことがありうる。たとえば労働時間となっている労働日が10時間で、労働力の1日あたりの価値が3シリングであれば、1労働時間あたりの価格は3と5分の3ペンスである。しかし労働時間が12時間に増えれば、その価格はたちまち3ペンス以下に下がり、さらに15時間に増えれば、2と5分の2ペンスに下がる。それでも日給や週給は変わらない。

逆に労働の価格が変わらなくても、あるいは下がって場合にも、日給や週給が上がることがある。たとえば労働日が10時間あたりの価値が3シリングであれば、1労働時間の価値は3と5分の3ペンスである。仕事量が増えて、労働価格はそのままで労働者が12時間働いた場合には、日給は労働価格が上がらないのに3シリング7と5分の1ペンスに増える。同じことは、労働の外延量(時間の長さ)ではなく、その内包量(強度)が増大した場合らもおこりうるだろう。

したがって名目的な日給や週給が上昇しながら、労働価格は変化しなかったり、下落したりすることもありうる。また家族の成員の労働によって、家長が供給する労働の量が増加するような場合には、労働者の家族の収入についても同じことが言える。つまり名目的な日給や週給を引き下げずに、労働価格を低下させるさまざまな方法があるのである。

 

一般法則

しかし、一般的法則としては次のようになる。日労働や週労働などの量が与えられていれば、日賃金や週賃金は労働の価格によって定まり、労働の価格そのものは、労働力の価値の変動につれて、または労働力の価格が労働力の価値からずれるのにつれて、変動する。反対に、労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は日労働や週労働の量によって定まる。

一般法則では次のようなことが言えます。1日や1週間あたりの労働量が変わらないとすると、日給や週給は労働の価格によって決まります。そして、その労働の価格は、労働力の価値の変化あるいは労働の価値と労働の価格のずれによって決まります。逆に、日給や週給などの賃金は労働の価格が変わらなければ、労働量によって決まります。

しかし一般的な法則は次のように表現できる。1日あたりの労働や週あたりの労働の量が変わらないとすると、日給や週給は労働の価格によって決まる。そして労働の価格は、労働力の価値の変化によって、あるいは労働の価値から労働の価格がどの程度ずれているかによって変化する。逆に、労働の価格が変わらないとすると、日給や週給は1日あたりの労働の量あるいは週あたりの労働の量によって決まる。

 

過少就労の問題

時間賃金の度量単位、1労働時間の価格は、労働日の日価値を慣習的な1労働日の時間数で割った商である。かりに1労働日は12時間であり、労働力の日価値は3シリングで6労働時間の価値生産物だとしよう。1労働時間の価格はこの事情のもとでは3ペンスであり、その価値生産物はは6ペンスである。ところで、もし労働者が1日に12時間よりも少なく(または1週に6日よりも少なく)、たとえば6時間か8時間しか働かされないとすれば、彼は、この労働の価格では、2シリングか1シリング半の日賃金しか受け取らない。彼は、前提によれば、ただ自分の労働力の価値に相当する日賃金を生産するだけのためにも平均して1日に6時間労働しなければならないのだから、また、同じ前提によれば、どの1時間のうちでも2分の1時間だけ自分自身のために労働し、2分の1時間は資本家のために労働するのだから、もし彼が12時間より少なく働かされるならば彼は6時間の価値生産物を取り出すことはできないということは、明らかである。人々は、前には過度労働の破壊的な結果を見たのであるが、ここでは労働者にとって彼の過少就業から生ずる苦悩の源泉を見いだすのである。

もし1時間賃金が、資本家が日賃金や週賃金を支払う約束をしないでただ自分が労働者を働かせたいと思う労働時間の支払だけを約束するという仕方で確定されるならば、資本家は最初に1時間賃金つまり労働の価格の度量単位の算定の基礎になった時間より短く労働者を働かせることができる。この度量単位は、(労働力の日価値)/(与えられた時間数の労働日)という比率によって規定されているのだから、それは、労働日が一定の時間数のものでなくなれば、もちろんなんの意味もなくなってしまう。支払労働と不払労働との関連はなくされてしまう。今では資本家は、労働者に彼の自己維持のために必要な労働時間をゆるすことなしに、労働者から一定量の剰余労働を取り出すことができる。資本家は、就業の規則性をまったく無視して、ただ便宜や気ままや一時的な利害に従って極度の過度労働と相対的または全部的失業とをかわるがわるひき起こすことができる。彼は、「労働の正常な価格」を支払うという口実のもとに、労働日を、労働者には少しも相応の代償を与えることなしに、異常に延長することができる。それだからこそ、このような1時間賃金を押しつけようとする資本家たちの企てに反対して、建築部門で働くロンドンの労働者たちのまったく当然な暴動(1860年)も起きたのである。労働日の法的制限はこのような無法に終末を与える。といっても、もちろん、それは機械との競争や充用労働者の質の変化や部分的恐慌や一般的恐慌などから生ずる過少就業に終末を与えるものではないが。

時間給という賃金の単位である1労働時間の価格は、労働日の1日あたりの価値を、労働日の時間数(その日その日の実際の労働時間ではなく、通例としてそうなっているという名目上の時間数)で割った値です。労働日に12時間の労働をして、その場合の労働力の価値は6時間の価値生産物である3シリングになるとします。この場合の1労働時間の価格は3シリング÷12時間=3ペンスとなり、1労働時間の価値生産物は3シリング÷6時間=6ペンスとなります。実際には、労働者が1日12時間よも少ない労働時間、たとえば8時間や6時間しか働かされなかったとしたら、時間給は3ペンス×8時間=2シリングあるいは3ペンス×6時間=1.5シリングしか支払われないことになります。

この場合、労働者は1時間の労働でも支払われる賃金は3分の2だったり半分だったりで、その残りはタダ働き、つまり資本家のために働いている、このように彼の労働時間が1日12時間よりも少ないと、6時間分価値生産物を生産できないのは明らかです。前のところでは、超過労働を見てきましたが、ここでは過少労働の問題点を見いだそうとしています。

1時間あたりの賃金を決めるに当たり、日給や週給をあらかじめ定額で決めるのではなく、時間給を労働の働いた時間分だけ支払うという取り決めにした場合、資本家は、最初に見積もった労働時間よりも少ない時間しか働かせないことができます。この場合、労働価格の測定単位としての時間当たり賃金は、(労働力の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)で決められていたわけですから、分母の労働時間が時間足らずとなるわけですから、成り立たなくなるとマルクスは言います。

こうなってしまうと、もはや支払労働と不払労働という区別が見えなくなってしまいます。(与えられた労働日の労働時間)を充たさないということは、労働者が自己を保存する、つまり生きていくために必要な労働時間を充たさないということです。その一方で資本家は一定の剰余価値を絞り取っている。資本家は、就業の取り決めを破って、自分の都合と一時的な利害によって、労働者に労働力の再生産をできなくするような無理を強いている。労働する時間が短くなれば、受け取る賃金は少なくなり、労働力の再生産が不可能になってしまいます。これまでは労働者の過度労働の破壊的結果を見てきましたが、今度は労働時間の縮小(過少就業)による労働者の生活破壊を見ることになります。

『資本論』では、何らかの時間単位で支払われる賃金はすべて時間賃金であるとされていますが、労働力が再生産される基本単位を一応クリアしている時間を基準にするのと、それ以下の時間を基準にするのとでは、その意味はまったく異なります。

ここで言う時間賃金(時給)とは、文字通り、1時間を基準にして支払われる賃金のことです。この額は形式的には1日あたりの標準賃金を標準労働日で割ることで得られるものです。

時間賃金=1日あたりの標準賃金/標準労働日

したがって、この計算式で求められるかぎりでの時間賃金は、標準賃金の単なる形式的に転化形態にすぎず、ただ支払い単位が1時間になったにすぎないように見えます。しかし、この時間賃金はもはや直接的には労働力再生産の基本単位にもとづいておらず、そこから切り離されています。たとえば時給1000円だとすると、はたしてその時給額で本当に労働力の再生産ができるかどうかは、その時給額だけからはわかりせん。しかし、それをもとにひと月の賃金額を計算しなければならないのです。たとえば、時給1000円で週40時間働くとしてひと月あたりに計算しなすと、それは月額16万円になりす。ここから各種税金(所得税と地方税)、年金保険料と健康保険料(ちなみに、これらの保険料は強制徴収であり、所得額にある程度比例するので本質的に税金=所得税であり、ただ「税金」と呼ばれていないだけである。ここから日本の所得税は低いという神話が生まれることになった)などが差し引かれるなら、手取りで12〜13万円ほどになるわけです。ここまで計算してようやくそれが標準賃金の範囲内に収まるのかどうかが計算できます。同じことはある程度まで、日給や週給にもあてはまるのですが、ここまで計算してようやくそれが標準賃金の範囲内に収まるのかどうかが計算できるのである。同じことはある程度まで、日給や週給にもあてはまるが、たとえば標準賃金の最も短いものである「日給」でさえ、その「1日」とは文字通りの24時間のことではなく、労働力再生産に必要な非労働時間込みでの「1日」でした。しかし、時給で言うところの「1時間」とは基本的に文字通りの労働時間だけを指しています。労働した時間だけに賃金を支払うというこの形態は、非労働時間を含めての賃金である日給や週給などとは質的に異なるのです。

そして、このことから、賃金は「労働の価格」であるとする外観が、この賃金形態においていっそう強められていることがわかります。標準賃金においては、非労働時間を含む労働力再生産の単位に基づいて支払われているのだから、それが「労働の価格」ではなく、むしろ労働力を再生産するのに必要な額を表現したものであるという理解ははるかに成立しやすいと思います。しかし、労働力再生産の基本単位が時間で割られて個々の断片に分解されると、このような観念も打ち砕かれることになります。「労働の価格」という外観はまさに、時間賃金でこそ真に成立するのであると言えます。

この外観は、時間賃金の水準そのものが標準賃金から量的にずれることによっていっそうはなはだしくなります。最初は単に標準賃金を標準労働日で割ることによって時間給の基本額が成立するのだから、それは部分と全体との違いにすぎなかった。しかし、いったん、標準賃金と時間給とが別個のカテゴリーとして成立し、それらが異なった生産部門や雇用形態に付着するようになれば、それぞれの賃金水準はそれぞれのさまざまな諸事情に規定されて別個に運動するようになります。標準賃金を獲得しうるのは、相対的に雇用形態が安定していて、労働者の組織性も相対的に進んでいるような部門が多いであろうから、そこでの賃金水準は相対的にあがりやすくなります。それに対して、時間単位で賃金が支払われるような労働者は最も組織性が弱く、資本との間の相対的力関係が最も不利である場合が多いだろうから、その賃金水準はなかなか上がらない。こうして、両者は量的にしだいに分離するようになるわけです。

したがって現実の時間賃金は基本的に、1日あたり標準賃金を標準労働日で割った値と法定最低賃金のあいだに位置するだろうし、ほとんどの場合、法定最低賃金と等しいかそれを少しだけ上回る水準になるだろうと考えられます。こうして時間賃金は、標準賃金の要件を@を満たさないだけでなく、Aをも満たさないものになるのです。時間賃金が標準賃金から質的のみならず量的にも乖離することによって、時間賃金の本来の理論的起源(労働力の再生産単位にもとづく標準賃金を標準労働時間で割ったもの)が完全に忘却され、文字通り、単なる1時間単位の労働に対する対価として現われるようになる。こうして、時間賃金は標準賃金の直接的な派生形態であることをやめ、独立した賃金形態になるのです。

時間給の賃金の単位である1労働時間の価格は、労働日の1日あたりの価値を、通例となっている労働日の時間数で割った値である。労働日が12時間、労働力の価値は6時間の価値生産物である3シリングとしよう。この条件のもとでは、1労働時間の価格は3ペンスであり、1労働時間の価値生産物は6ペンスである。ここで労働者が1日12時間より少なく(あるいは週6日よりか少なく)、たとえば8時間や6時間しか働かされなかったとしよう。その場合にはこの労働価格のままだは、2シリングあるいは1シリング半の日給しかうけとらないことになる。

この前提のもとでは、彼は自分の労働力の価値にみあった日給分を生産するためには、1日あたり平均して6時間は働かなければならない。またこの前提によると、それぞれの1時間のうちで、彼が自分自身のために働いているのはその半分だけであり、残りの半分は資本家のために働いているのである。だから彼の就業時間が12時間よりも少ないと、6時間分の価値生産物に作りだせないのは明らかである。以前は超過労働がもたらす破壊的な結果について考察してきたが、ここでは過少就労がもたらす苦悩の源泉を発見するのである。

1時間あたりの賃金を決める際に、資本家が日給や週給を支払う義務はなく、ただ労働者を働かせたいと思う労働時間分だけ支払えばよいことが取り決められた場合には、労働価格の測定単位である時間あたりの賃金を最初に見積もる際に基礎となっていた時間数よりも少ない時間しか、労働者を就業させないことができる。労働価格の測定単位である時間当たりの賃金は、(労働力の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)で決定されていたのであるから、労働日に定められただけの時間がふくまれなくなれば、すべての意味を失うのは当然のことである。

この場合には支払労働と不払労働の関係が消滅する。この方式では資本家は、労働者が自己を保存するために必要な労働時間を与えずに、労働者から一定の量の増殖価値を絞りとることができるようになる。資本家は就業の規則性をすべて破壊し、自分の都合と恣意と一時的な利害だけに基づいて、労働者に途方もない超過労働と、相対的な失業あるいは絶対的な失業を課すことができる。

資本家は、「労働の標準価格」を支払うという名目のもとで、労働者に適切な補償を与えることなく、労働日を異常なまでに延長することができる。この時間あたりの賃金方式を導入しようとした資本家にたいして、ロンドンの建築労働者が1860年に暴動を起こしたが、これはまったく理に適ったことなのである。労働日の法的な制限はこのような無法に終止符をうつものである。もちろん機械との競争、雇用される労働者の質的な変化、部分的な恐慌や全般的な恐慌のために発生する過少就業に終止符をうつことはできないのではあるが。

 

標準労働日システム

日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないので、しかもその正常な水準よりも下がることもありうる。それは、労働の価格または1労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。もし(労働力の日価値)/(労働日)という分数の分母が大きくなれば、分子はそれよりももっと速く大きくなる。労働力の価値は、その機能が長くなるにつれて、その消耗が増大するので増大し、しかもその機能の持続の増加よりももっと速い割合で増大する。それゆえ、労働時間の法的制限なしに時間賃金が広く行われている産業部門の多くでは、労働日が或る一定の点まで、たとえば第10時間目の終わりまでを限って正常と認められるという慣習が自然発生的にでき上がったのである。(「標準労働日」、「1日の労働」「正規の労働時間」。)この限界を越えれば、労働時間は時間外(オーバータイム)となり、1時間を度量単位として、いくらかよけいに支払われる(エクストラ・ペイ)。といっても、その割増は多くの場合おかしいほどわずかではあるが。こういう場合には標準労働日は現実の労働日の一部分として存在するのであって、1年じゅうをつうじて前者よりも後者のほうが長いことも多いのである。ある標準限界を越えての労働日の延長に伴う労働の価格の増大は、イギリスのいろいろな産業部門では次のような形で行なわれている。すなわち、もし労働者がとにかくいくらか満足な労賃を取り出そうと思うならば、いわゆる標準時間中の労働の価格が低いために、いくらかよけいに支払われる時間外労働をいやでもしなければならないという形である。労働日の法的制限はこのような楽しみにも終末を与えてしまうのである。

1労働時間あたりの価格、つまり時給の額が変化せず労働日あたりの労働時間が延長されれば、労働の名目価格は変化せず、日給や週給の額は増えることになります。この場合、(労働力の1日あたりの価値)/(労働日)という時間給の公式で、分母である労働日あたりの労働時間が延長により大きくなると、分子である労働力の価値は、その機能が継続される時間が長くなると、それだけ消耗が進むので、理論的には、その価値は大きくなります。

多くの産業分野では、1日の労働時間が法律によって決められていなかったので、自然発生的な習慣で、例えば1日10時間を標準としていた。これが標準労働日です。この時間を超えると時間外労働となって、割増の時給が支払われます。ただし、割増と言っても、ばかばかしいほどに低い率なのですが。

標準労働日というのは、実際の労働日の限られた一部を標準労働日として区切ったもので、実際の労働日が標準労働日よりも長い労働時間となる日が多いようです。労働日が、このような一定の標準を超えて延長されると、時間外となり時給が割増となるので、労働価格は増大します。現実のイギリスのさまざまな産業の現場では、標準労働日の労働価格があまりに低く設定されていたために、労働者は時間外労働をせざるをえなくなっていました。労働日を法律で規制することによって、このような理不尽なやり方はできなくなりました。

標準賃金とは、@労働力の標準的な再生産単位にもとづいて支払われ(質的規定)、A標準労働日だけ働けば社会的に標準的な生活を送ることのできる水準の賃金(量的規定)です。この基準の範囲はもちろんかなりの伸縮性があり、また直接的な賃金だけでなく、種々の付加給付もそこに含められます。

この労働力の再生産単位は、最も短いものから最も長いものまでさまざまです。労働力が再生産される最も短い基本単位は言うまでもなく「1日」、つまり「日」という単位です。労働者は労働力を正常に再生産するためには、休憩、食事、風呂かシャワー、それらに伴う家事労働、交流や娯楽、そして十分な長さの連続した睡眠時間を必要とするのであり、それらなしには正常な労働力を回復させることはできず、翌日も前日の開始時点と同じに健康状態で労働を再開することはできせん。したがって、労働力はどんなに短くても1日という単位でしか再生産されないのであり、賃金は少なくともこの基本単位を前提としたものでなければならないわけです。これは具体的には「日給」ということになります。

しかし、毎日労働を続けていれば、しだいに肉体的にも精神的にも疲れがたまってくるのであり、1日の労働後の休憩や睡眠や娯楽だけでは十分に回復することはできせん。また、家事労働の中には、洗濯のようにまとめて行った方が効率のいいものも存在するし、家族がいる場合には、労働が終わった後のほんの数時間ではなく、まとめて団欒や交流の時間を取る必要があるでしょう。したがって、ある一定の日数、たとえば5日や6日ほど労働日が続けば、週末の1日ないし2日をまるまる休息や娯楽や交流や家事労働に当てる必要が出てくるのであり、それなしには労働力も正常に再生産されないことがわかるでしょう。すなわち、この場合、労働力は1週間を単位として再生産されていると言えます。つまり、1週間でもらえる賃金(週給)は、このような1日ないし2日の休日を前提としたものでなければならないわけです。

しかし、日常生活においては支払いが月単位であるものが少なくありません。家賃がそうだし、光熱費や水道料金、日刊紙を購読していればその新聞代、今日ではさまざまな通信費(固定電話代、携帯電話代、インターネットのプロバイダー料金、等々)、などもそうです。ほとんどの労働者にとっては、このような毎月決まって支出されるものが支出の大部分を占めています。何かをローンで買った場合には、ローンの支払いもたいてい月ごとです。賃金によってこのような支出をまかなった上で、なおかつ残った賃金で標準的な生活ができなければ、労働力を正常な形で再生産することはできません。それゆえ、労働力というのは、本来、日単位でも週単位でもなく、少なくとも月単位で再生産されていると言えると思います。それゆえ、労働者の賃金は、最初は日給、週給という形態が多かったのが、やがて(少なくともこの日本では)「月給」という形態に移っていったのであり、それには十分な理由があると言えます。

労働力が再生産される本来の基本単位は、したがって「月」であると言えます。しかし、日本のように四季がある国ないし地域においては、月ごとの出費はけっして同じではありません。夏の時期と冬の時期には光熱費が飛びぬけて高くなり、それは言うまでもなく冷房と暖房をする必要があるからです。また冬の方が衣服代は高くつきます。したがって、賃金はこのような季節的な支出額の違いを考慮したものでなければなりせん。また、日本ではかつて、たまった「つけ」の支払は盆と暮れに行われていました。それゆえ日本では伝統的に、夏と冬にボーナスを出すことによって、このような季節的差異をまかなってきました。したがって、月給+ボーナスという組み合わせは、事実上、1年という金を単位として支払われる賃金だということができます。また、1年のうちある程度まとめて休暇を取らなければ、労働力が正常な形で再生産されないと主張することも可能です。その場合は、日曜や土曜以外に、一定の年休分が給与計算の中に入らなければならないわけです。

しかし、労働力の再生産費用は、季節ごとに違うだけでなく、年齢によっても、ライフサイクルのどの時点にいるかによって変わってくるものです。日本ではこの相違は伝統的に年功賃金や扶養手当の加算などとして対処されてきました。しかし、この面での大きな支出差は賃金額の変化だけでは対処しきれないし、また個人差もきわめて大きいので、国家や自治体による福祉支出を通じて対処する必要性が出てくるものです。このような点も考慮に入れれば、標準賃金の最も長い単位は結局、生涯労働年数ということになると言えます。

このように標準賃金は労働力が再生産される基本単位にもとづいて支払われるのであり、その最も短い単位は「日」であり、その最も長い単位は「生涯労働年数」であることがわかります。これらのさまざまな単位の中で何が「標準的」であるかは、時代や国によって異なってきます。そして日本を含む今日の先進資本主義諸国においては、「月」が最も標準的な再生産単位として承認されていると考えることができ、したがって「月給制」が最も一般的な賃金支払い形態であると言えます。そして、賃金支払いの基本単位が短ければ短いほど、それはますます標準賃金としては非本来的なものに近づくのであり、派生的な形態に近づくと言えます。

以上で、標準賃金の質的規定についてです。しかし、Aの量的規定も重要であり、たとえ月単位で給料が払われていたとしても、その水準が低すぎて、とうてい標準的な生活を保障するものにほど遠い場合には、そのような賃金は形式的に標準賃金であると言うことができても、実質的にはそうではないと言えます。そして労働者たちは、標準労働日の確立のために必死で闘っただけでなく、賃金の水準ができるだけ「標準」と呼べるものにするためにも必死で闘ってきたのです。

法律で長さを規定できる標準労働日と違って、標準労働の大きさを法律で決めることはできないので、この「標準」は標準労働日の場合よりもはるかに不安定であって、力関係が資本家にいっそう有利になれば、直ちにこの標準は切り下げられる傾向にあります。それゆえ、標準賃金を法律できめることができない代わりに、賃金の最低水準を法律で定めさせるための闘争、すなわち法定最低賃金のための闘争が必要となったのでした。それより下がれば労働者が健康で文化的な最低水準のもとで生きていけないような賃金の最低水準を法律で定めるための闘争は、法定標準労働日のための闘争と並んで労働者にとってきわめて重要なものなのでした。

理論的には法定最低賃金とは、標準賃金の下限を規定するものでなければなりません。つまり、それ以上の額でさえあれば、標準労働日だけ働けば標準的な生活を可能にする水準でなければならないわけです。ところが、実際には、この法的最低賃金は、全体としての賃金上昇テンポから立ち遅れる傾向にあり、この下限を大きく下回る水準になっているのが普通です。

このような低い水準の最低賃金は、本来、一種の拘束時間賃金とみなすべきと考えられます。つまり、いかなる具体的な業務を遂行していなくても法律上支払わなければならない賃金が法定最低賃金なのだから、それは労働者を一定時間、資本の指揮命令下に拘束していることそれ自体に対する支払だとみなすべきなのです。したがって、単に一定時間拘束されているだけでなく、それに加えて一定の具体的な仕事が課せられている場合には、すべて追加的な労働力支出がなされているのであるから、その分の賃金の上乗せがなければならないはずです。ところが、先進国の中で最も労働者の地位が低く、労働者の抵抗力が弱い日本では、非正規労働者の圧倒的多数は、この最低賃金レベルで、正規労働者並みの仕事をさせられている。これは許しがたい過剰搾取と言えます。

ところで、マルクスとエンゲルスは奇妙なことに、その手紙などから推測するに、法定最低賃金の要求を無意味なものとみなしていたようです。法定標準労働日の制定に対してあれほど大きな重要性を付したにもかかわらず、法定最低賃金に対しては最後まで冷淡であったそうです。しかし、それは歴史によって誤りであることが明らかになっています。労働者の広範な闘争によってバックアップされているならば、法定最低賃金の引き上げは賃金水準一般を引き上げる役割を果たすのである。ただし、現在の日本のように、そのような闘争によって交えられていない場合には、保守政権主導のもとで行われる最低賃金の臆病な段階的引き上げは、ただ純粋に最低賃金労働者の賃金を法定分だけ上げることに帰結するだけであり、労働者全体の賃金の引上げにはほとんど結びつかない。

日給や週給が増えても、労働の名目価格は変化せず、しかもその標準的な水準を下回るという事態も起こりうる。これは労働価格または1労働時間の価格が変化せず、労働日が通例の長さを超えて延長される場合にはつねに起こることである。(労働力の1日あたりの価値)/(労働日)という分数で、分母が大きくなると、分子はさらに急速に大きくなる。労働力の価値は、その機能が継続される時間が長くなると、それだけ消耗が進むので、その価値は大きくなるのであり、しかもその機能が継続される時間の増加よりも早い比率で価値が増加する。

労働時間が法律によって制限されておらず、時間給の賃金支払い方式が支配的な多くの産業分野では、労働日をある一定の時間まで、たとえば10時間までを標準とみなすという習慣が自然発生的に生まれていた(これは「標準労働日」とか「正規の労働時間などと呼ばれていた」)。この標準の時間を超えると、労働時間は時間外労働時間(オーバータイム)となり、時間単位で割増金(エクストラ・ペイ)が支払われる。ただしこの割増金はばかばかしいほどに低い比率だった。

こうなると標準労働日は、現実の労働日のうちの限られた一部となり、1年をつうじて現実の労働日が標準労働日よりも長い労働日がつづくことも多い。労働日が一定の標準的な限界を超えて延長されるにしたがって、たしかに労働価格は増大するものの、イギリスのさまざまな産業分野では、これが次のような形で遂行されている。すなわちいわゆる標準時間のあいだの労働価格があまりに低く設定されているために、労働者は満足できる労働賃金を手にするためには、労働価格がいくらか高く設定されている時間外労働時間で働かざるをえなくなるのである。労働日を法律で制限することで、このように身勝手なやり方には終止符が打たれた。

 

労働日の長さと労働賃金

一般に知られている事実として、ある産業部門での労働日が長ければ長いほど労賃は低い、ということがある。工場監督官A・レッドグレーヴは、このことを1839年から1859年の20年間の比較概観によって例証しているが、それによれば、労賃は10時間法の適用を受けている工場では上がったが、1日に14時間から15時間作業している工場では下がった。

「労働の価格が与えられていれば、日賃金や週賃金は供給される労働の量によって決まる」という法則からはまず第一に次のことが出てくる。すなわち、労働の価格が低ければ低いほど、労働者が単にみじめな平均賃金を確保するだけのためにも、労働量はますます大きくなければならず、言い換えれば、労働日はますます長くなければならない、ということである。この場合には労働の価格の低いことが労働時間を長くすることへの刺激として作用するのである。

ところが、それとは逆に、労働時間の延長もまた労働の価格の低下を、したがってまた日賃金や週賃金の低下をひき起こす。

ある産業では、労働日の労働時間が長くなればなるほど労働賃金が低くなっていました。10時間労働法が適用された工場では労働賃金が上昇し、そうでない工場では1日に14時間から15時間の労働が行われ、逆に労働賃金が低くなっていました。

労働価格、つまり時給が決まっていれば、労働量つまり働いた時間によって1日の賃金が決まる、ということは、その単価を低く抑えれば、労働者は労働時間を長くしなければ1日の賃金を確保できなくなります。したがって、労働価格を低くすることは、労働者に長時間働かせる拍車のような働きをすることになります。これを逆に言うと、労働時間が延長されると労働価格が下落するということになり、結果として1日や1週間の賃金も下落するわけです。

ある産業部門において、労働日が長ければ長いほど労働賃金が低くなるのは、周知の事実である。工場視察官A・レッドグレーヴは1839年から1859年の20年間の概観データの比較からこのことを明らかにしている。それによると10時間労働法が適用された工場では労働賃金が上昇し、1日に14時間から15時間の労働が行われる工場では労働賃金が低下しているという。

「労働の価格が決まっている場合には、日給や週給の額は、与えられる労働の量によって決まる」という法則からまず明らかになるのは、労働の価格が低ければ低いほど、労働者はわずかな平均賃金でも確保しようとするため、それだけ労働量を増やすか、労働日を長くせざるをえないことである。この場合は労働価格の低さは、労働時間を延長するための〈拍車〉のような役割をはたす。

逆に、労働時間が延長されると、労働価格が下落し、日給と週給も下落する。

 

競争のもたらす効果

労働の価格が(労働日の日価値)/(与えられた時間数の労働日)によって規定されるということからは、ただ労働日を延長するだけでも、その埋め合わせがなされないかぎり、労働の価格を低下させる、ということが出てくる。しかし、資本家が長期間にわたって労働日を延長すねことを可能にするのと同じ事情は、資本家が労働の価格を名目的にも引き下げて、ついには増加した時間数の総価格、つまり日賃金や週賃金が下がるようにすることを、初めは可能にし、ついには強制する。ここでは二つの事情を指摘しておくだけでよい。もし1人が1人半分とか2人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。商品価格の一部分は労働の価格から成っている。労働の価格のうちの支払われない部分は、商品価格でき計算しなくてもよい。この部分は商品の買い手にただで贈ってもよい。これは競争が駆り立てる第一歩である。競争が強要する第二の一歩は、労働日の延長によって生みだされる異常な剰余価値の少なくとも一部分を同様に商品の販売価格から除くことである。このようにして、異様に低い商品の販売価格がまずところどころに形成され、しだいに固定されて、以後はそれが過度な労働のもとでのみじめな労賃の不変な基礎になる。といっても、それは元来はこのような事情の産物だったのであるが。ここは競争の分析をするところではないから、この運動は暗示するだけにしておく。だが、ほんのしばらく、資本家自身の言うことを聞いてみよう。

「バーミンガムでは業者のあいだの競争が激しいので、われわれのうち多くのものが、普通は恥ずかしくてできないようなことを、雇い主としてなさざるをえなくなっている。しかも、もはや金はもうからないで、ただ公衆だけがそこから利益を得ている」。

労働価格は下の式で計算することができます。

(労働日の1日あたりの価値)÷(与えられた労働日の労働時間)

この式に従って計算すれば、労働日の労働時間が延長されれば、1日あたり価値が変わらない限り、労働価格は小さくなります。資本家が労働日の労働時間を延長できる事情があれば、この計算式の通りに労働価格を低下させることができるわけです。こうして、やがては総体としての日給や週給も低下させることができるわけです。

このような労働時間を延長できる事情として、次の二つの場合をあげることができます。ある男性労働者が1人で1.5人分あるいは2人分の労働をこなせるようになると、その労働者の供給する量は市場で標準とされる労働供給量より多くなります。工場主は同じ労賃でも供給量のいい方を採りたがりますから、その結果、標準的な労働者は雇われなくなる。そこで、他の労働者も供給量を上げようとする競争が生まれます。それに乗じて、資本家は労働価格を下げることができるようになる。このように労働価格が下がれば、資本家は労働時間を延長しても支払う賃金を抑えることができる。そこで、さらに労働時間を延長することができる、というわけです。

しかし、資本家がこのように平均的な水準を超えた異常に低い賃金で労働者を長時間働かせるようになると、今度は資本家同士の競争の手段となります。つまり、資本家同士は市場で競争していますが、競争している商品の価格の一部は労働価格が含まれています。その労働価格が低く抑えられるわけですから、その分商品の価格を値下げすることができる。市場での商品の競争が有利になると、他の資本家も同じように商品の価格を下げようとする。そういう競争が資本家に強いられることになる。これが第一歩です。

これに続く第二歩は、労働日の延長で得られた剰余価値の一部を商品の販売価格に含めないようにする。つまり、資本家の受け取るはずの儲けの一部を削って商品の値下げをするということです。この結果、商品の販売価格は普通でないほど値下げされることになり、最初は特別だったのが、やがては当たり前になって、価格として固定化されることになってゆく。一方、労働者の側では、低い労働賃金が当たり前になってしまう。

労働価格は(労働日の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)の式で計算される。だから労働日が延長され、それに対していかなる補償も行わなければ、労働価格は低下する。しかし資本家が労働日を長期間にわたって延長できるような事情が存在する場合には、資本家は労働価格を名目的にも低下させることができるようになり、やがては労働価格も下がらざるをえなくなる。こうして労働時間が長くなったものの総価格は低下し、日給と週給も低下する。

こうした事情としては次の二つをあげておけば十分だろう。もしも1人の男性労働者が、1人半あるいは2人分の労働をこなせるようになると、市場に存在する労働力の供給量が変わらなくても、[効率の高くなった既存の労働力によって]供給される労働の量は多くなる。これが労働者のあいだの競争を激化させ、資本家は労働価格を低下させることができるようになる。そしてこのようにして労働価格が低下するとともに、資本家は労働時間をさらに延長させることができるようになる。

しかし資本家がこのように、社会的な平均水準を超えた異常な不払労働を自由に処分できるようになると、これは資本家どうしでの競争手段となる。商品価格の一部は労働の価格で構成されている。労働の価格の不払部分は、商品価格に含める必要はない。それは[商品の値下げという形で]商品の買い手に贈与することができるのである。これが競争が資本家に強いる第一歩である。

競争によって強いられる第二歩目は、労働日の延長でえられた異例なほどに膨大な増殖価値の少なくとも一部を、商品の販売価格に含めないようにすることである。これによって商品の異様なまでに低い販売価格が、最初は散発的に作りだされ、やがては固定されるようになる。そしてその後はこの販売価格が、超過労働のもとで働く労働者がうけとる乏しい労働資金の不変の基礎となるのである。しかしもともとはこうした低い販売価格こそ、こうした異例な事情の産物だったのである。

ただしこの競争について分析することは、本書の課題ではないので、この動きについてはたんに指摘しておくにとどめよう。むしろしばらく資本家にみずから語ってもらおう。

「バーミンガムでは親方たちの競争があまりにも激しいので、われわれ雇用主としてはふつうならとてもできないことを実行せざるをえないことが多い。それでいてわれわれには利益は残らず、大衆だけがそこから利益をえている」。

 

パン屋のあいだの競争

われわれの記憶にあるように、ロンドンの製パン業者には2つの種類があって、一方はパンを標準価格で売り、他方は標準価格よりも安く売っている。[標準価格売り]業者は議会の調査委員会で自分たちの競争者を次のように非難する。

「彼らは、第一には公衆を欺き(商品の不純化によって)、第二には自分の使用人から12時間労働の賃金で18労働時間をむさぼり取ることによってのみ、生存している。…労働者の不払労働は、競争戦をやりぬくための手段になっている。…製パン業者間の競争は、夜間労働を廃止することの困難の原因である。自分のパンを麦粉の価格につれて変わる原価よりも安く売っている安売り業者は、自分の使用人からいっそう多くの労働をたたき出すことによって、損失を免れている。私は私の使用人から12時間の労働しか取り出さないのに、私の隣人は18時間か20時間を取り出すとすれば、彼は販売価格で私を打ち負かすにちがいない。もしも労働者が時間外労働にたいする支払を要求することができれば、こんなやり方はすぐにおしまいになるであろう。…安売り業者の使用人のかなり多数は、外国人や少年少女などで、彼らはほとんどどんな労賃でも自分たちの得られるもので満足せざるをえないのである。」

この泣き言が興味をひくのは、資本家の頭にはどんなに生産関係の外観だけしか映じないものかをそれが示しているからである。資本家は、労働の正常な価格もまた一定量の不払労働をふくんでいるということも、知ってはいないのである。剰余労働時間という範疇は彼にとってはおよそ存在しないのである。なぜならば、それは、彼が日賃金のなかに含めて支払っていると信じている標準労働日のなかに含まれているからである。とはいえ、彼にとっても時間外労働、すなわち労働の通例の価格に相応する限度を越えた労働日の延長は、やはり存在する。しかも、彼の安売り競争者にたいしては、彼はこの時間外労働にたいする割増払をさえも主張するのである。彼はまた、この割増払も通常の労働時間の価格も同様に不払労働を含んでいるということも知ってはいない。たとえば、12時間労働日の1時間の価格は3ペンスで、2分の1労働時間の価値生産物であるが、時間外の1労働時間の価格は4ペンスで、3分の2労働時間の価値生産物であるとしよう。前の場合には資本家は1労働時間のうち半分を、あとの場合には3分の1を、代価を支払わずに取り込むのである。

例えば、ロンドンには種類のパン屋があるということは以前に照会しましたが、それは正規の価格で販売するフルプライス店と安売り店であるアンダーセラーズです。このうちフルプライス店はアンダーセラーズを不正な価格で公衆を欺いていると非難します。彼らは店の職人に12時間分の賃金しか与えずに18時間働かせでいて、6時間分の不払労働によってパンの価格を不当に引き下げている。そんな製パン業者の競争のために、夜間労働の廃止を困難にしている。正規なフルプライス店は職人に12時間の賃金分の労働しかさせていないため、彼らのように価格を引き下げることはできない。そのため、彼らとの競争に負けてしまう。職人たちが、その6時間の時間外労働にたいして賃金の支払いを強く求めることができれば、彼らは不当な価格を維持することができなくなるはずだ。

このような非難を見ると、資本家は生産関係の表面しか見えていないことをよく表しています。資本家は正規の価格にもある程度の不払労働が含まれていること、つまりは不払労働こそが資本家の利潤の源泉であることに気づいていない。資本家にとっては剰余労働というものが存在することに思い至っていない。というのも、剰余労働時間は標準労働日のうちに含まれてしまっているからです。

しかし、資本家にも時間外労働は見えています。フルプライス店のオーナーは競争相手のアンダーセラーズに対して、時間外労働の割増賃金を支払うことを要求しているからです。実は、この割増賃金を支払ったところで、通常の労働時間と同じように不払労働が含まれていることに気づいていないのです。

ロンドンには2種類のパン屋があることはすでに紹介した。正規の価格で販売するフルプライス店と、正規の価格以下で販売するアンダーセラーズである。フルプライス店は議会の調査委員会で、ライバルのアンダーセラーズを次のように非難する。「彼らは第一に(不正な商品の販売によって─マルクス)、公衆を欺いているのです。第二に、店の職人に12時間分の賃金しか与えずに、18時間の労働を絞りとることによって成立しているのです。…労働者たちの不払労働こそが、競争合戦のための手段になっているのです。…製パン業者どうしの競争こそ、夜間労働の廃止を困難にしている原因です。アンダーセラーズたちは、原価を下回る価格でパンを販売していますが(原価は小麦粉の価格とともに変動します)、より多くの労働を労働者から絞り採っているので、自分たちは損をしていません。わたしが自分の店の職人には12時間しか労働させず、隣の店が自分の店の職人たちに18時間や20時間も労働させていたのでは、わたしの店は販売価格の高さのために隣の店に負けてしまいます。職人たちが時間外労働にたいして支払いを強く求めるようになれば、こうしたやり方はすぐになくなるでしょう。…アンダーセラーズの店で雇用されている労働者の多くは外国人や未成年、あるいはどんな低い労働賃金でも、うけとられるならそれに甘んじるような人々なのです」。

このパン屋の嘆きが興味深いのは、資本家の頭にはいかに生産関係の仮象しかみえていないかが、よく分かるからである。資本家は、労働の標準価格にもある程度の不払労働が含まれていること、この不払労働こそが、資本家の利潤の標準的な源泉であることを知らないのである。資本家にとっては増殖労働時間というカテゴリーがまったく存在しない。というのも、増殖労働時間は標準労働日のうちに含まれているが、資本家は標準労働日については日給ですでに支払っていると考えているからである。

しかし資本家にとっても、時間外労働のカテゴリー、すなわち通例となっている労働価格にふさわしい限度を超えて、労働日を延長する時間外労働のカテゴリーは存在している。この店主はライバルのアンダーセラーズにたいして、この時間外労働に割り増し料金を支払うことを要求している。実はこの割り増し給にも、通常の労働時間の価格も同じように、不払労働が含まれていることを、資本家は知らないのである。

たとえば12時間の労働日の1時間の労働の価格4ペンス、すなわち1労働時間の3分の2の価値生産物だとしよう。そのとき資本家は前者については1労働時間の半分を、後者について1労働時間の3分の1を、対価を支払わずに手にしているのである。

 

資本家と賃労働者

このようにして、

 

 

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第19章 出来高賃金に進む

 

 

 
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