マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第7篇 資本の蓄積
第23章 資本主義的蓄積の一般法則
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第7篇 資本の蓄積

〔この篇の概要〕

マルクスは『資本論』全3巻のうち、そのうち第1巻しか自らの手で公刊することができませんでした。その『資本論』第1巻は全7篇から成り、最後の篇は「資本の蓄積過程」と題されています。この第7篇でマルクスは、資本の不断の運動のなかで資本-賃労働関係が再生産され、拡大再生産されてゆく過程を問題とします。

資本として機能する価値量の運動は、一定の貨幣額が市場において生産手段と労働力へ転化する「流通部面」に始まります。運動の第二の局面、すなわち「生産過程」が終了すると、一定量の剰余価値を含んだ商品が生まれますが、この商品がふたたび流通部面に投げこまれなければなりません。商品はいまいちど貨幣となり、その貨幣はあらためて資本へと転化する。この継続的かつ反復的な「循環」が資本の流通をかたちづくるわけです。

資本の蓄積とは、この反復的循環において「剰余価値が資本として充用されること、または剰余価値が資本へと再転化すること」にほかなりません。剰余価値は、実際には、利潤や利子や商業利潤や地代などへと事後的に差異化し、分化することになるけれども、当面は資本の蓄積過程を問題とする場面なので、ここでは論じられていません。これらのすべては剰余価値の「転化形態」であるとはいえ、しばらくは剰余価値のすべては産業資本のもとに止まるものとして、純粋な蓄積過程が抽出されるわけです。

あらゆる社会は消費を停止することができるものではありません。消費はしかも、連続的な過程として起こります。人は今日も渇き、明日も飢えるからです。したがってすべての社会は広義の生産も止めることができず、生産もまた連続的でなければなりません。生産が連続的なものであるかぎりで、いっさいの「社会的生産過程」は「同時に再生産過程」ということになります。そこではまた「生産の諸条件は同時に再生産の諸条件」なのです。

資本は生産−再生産を反復することによって、差異が生まれます。つまり剰余価値もまた生産−再生産されるわけです。反復によって周期的に回帰し、とはいえ増加して回帰する資本価値として剰余価値は、資本の立場からすれば「資本から生じる収入」というかたちを取ることになります。いまこの収入が、資本の人格化である資本家にとって「消費財源」として役だつだけであり、周期的に回帰するものが周期的に立ち去るものにすぎないとすれば、生起するのは「単純再生産」です。すなわち、同規模でおなじ構成で反復的に回帰する再生産であるほかはないのです。

ところがマルクスによれば、この連続的な反復ですら、「あらたないくつかの性格を刻印する」のです。その性格のうち第一に問題とされるものが、いわゆる「領有法則の転回」にほかなりません。市民社会の原則を資本制そのものが蹂躙してゆくのです。

 

第23章 資本主義的蓄積の一般法則

〔この章の概要〕

資本主義的生産過程は、

 

〔本分とその読み(解説)〕

第1節 資本構成の不変な場合に伴う労働力需要の増加

資本の構成とは

この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う。この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。

資本の構成は、二重の意味に解されなければならない。価値の面からみれば、それは、資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値すなわち労賃の総額とに分かれる割合によって、規定される。生産過程で機能する素材の面から見れば、それぞれの資本は生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって、規定される。私は第一の構成を資本の価値構成と呼び、第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにする。二つの構成のあいだには密接な相互関係がある。この関係を表わすために、私は資本の価値構成を、それが資本の技術的構成によって規定されその諸変化を反映するかぎりで、資本の有機的構成と呼ぶことにする。簡単に資本の構成と言う場合には、いつでも資本の有機的構成を意味するものと考えられるべきである。

ある一定の生産部門に投ぜられている多数の個別資本は、多かれ少なかれ互い違った構成をもっている。これらの資本の個別的構成の平均は、われわれにこの生産部門の総資本の構成を与える。最後に、すべての生産部門の平均構成の総平均は、われわれに一国の社会的資本の構成を与え、そして、以下では結局はただこれだけが問題にされるのである。

ここでは、資本の増加が労働者に及ぼす影響について考えます。とくに、資本の構成とその蓄積で発生する変化についてです。

資本の構成は二重の意味で理解する必要があります。価値という観点では、資本の構成は不変資本と可変資本に振り分けられる比率によって決まります。これを資本の価値構成と呼びます。生産過程で使われる素材という点では、資本は生産手段と労働力とに分けられます。この観点では、資本の構成は使用される生産手段の量と、それを使用するために必要な労働の量の比率で決まります。これを資本の技術的構成と呼びます。

この二種類の構成は密接な相互関係にあります。資本の価値構成が技術的構成によって規定され、技術的構成の変化を反映しているのを資本の有機的構成と呼びます。

特定の生産分野に投入される個別資本は、量の大小により構成が異なります。個々の資本構成の平均値をとることで、生産部門全体の資本構成を知ることができます。すべての生産部門全体の平均値をとることで社会資本の構成を確認できます。

この章で資本の成長が労働者階級の運命に及ぼす影響について考察する。この影響について研究するもっとも重要になる要因は、資本の構成と、蓄積の過程で発生する資本の構成のさまざまな変化である。

資本の構成は二つの意味で理解する必要がある。価値の観点からみると、資本の構成は不変資本(生産手段の価値)と可変資本(労働力の価値、すなわち労働賃金の総額)に分割される比率によって決まる。生産過程において使われる素材という観点からみると、すべての資本は生産手段と生ける労働力に分けられる。この観点からみると資本の構成は、使用される生産手段の量と、それを使用するために必要な労働の量という二つの量の比率で決まる。ここでは最初の意味での資本の構成を資本の価値構成と呼び、第二の意味での資本の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにしよう。

この二つの構成にはたがいに密接な相互関係がある。この相互関係を表現するために、資本の価値構成がその技術的構成によって規定され、技術的構成の変化を反映するかぎりで、それを資本の有機的構成と呼ぶことにしたい。たんに資本の構成と呼んだときには、資本の有機的構成を意味するものと理解されたい。

特定の生産分野に投入される多数の個別の資本は、多少なりとも異なる構成になっている。個々の資本構成の平均値をとることで、その生産部門の全体の資本の構成を知ることができる。最後に、すべての生産部門の平均構成の全体の平均をとると、一つの社会資本の構成が確認できる。以下では最終的にはこう構成について論じることになる。

 

資本の蓄積の結果

資本の増大は、その可変成分、すなわち労働力に転換される成分の増大を含んでいる。追加資本に転化されるとして剰余価値の一部分は、はつねに可変資本すなわち追加労働財源に再転化されなければならない。他の不変な諸事情といっしょに資本の構成も不変だということ、すなわち一定量の生産手段または不変資本が動かされるためにはつねに同量の労働力が必要だということを前提すれば、明らかに、労働にたいする需要と労働者の生計財源とは、資本の増大に比例して増大し、資本が急速に増大すればそれだけ急速に増大する。

資本は年々剰余価値を生産し、剰余価値の一部は年々原資本につけ加えられるのだから、また、しこの増加分そのものも、すでに機能している資本が大きくなって行くにつれて年々増大するのだから、そして最後に、特別に致富欲を刺激するもの、たとえば新たに生じた社会的欲望による新たな市場や新たな投資部面の開発などが現われれば、蓄積の規模は、ただ資本と収入とへの剰余価値または剰余生産物の分割を変えるだけのことによって、にわかに拡大されるのだから、資本の蓄積欲望が労働力または労働者数の増大を上回り、労働者にたいする需要がその供給を上回り、したがって労賃が上がるということがありうる。むしろ、前記の前提がそのまま存続する場合は、結局はそうなるよりほかはない。毎年、前年よりも多くの労働者が使用されるのだから、おそかれ早かれいつかは、蓄積の欲望が通常の労働供給を上回り始める点が、つまり賃金上昇の始まる点が、現われざるをえないのである。このことについての嘆きが、イギリスでは、15世紀全体をつうじて、また18世紀の前半にも、大きく聞こえてくる。とはいえ、賃金労働者が維持され増殖されるための事情が多かれ少なかれ有利になるということは、資本主義的生産の根本性格を少しも変えるものではない。単純再生産が資本関係そのものを、一方に資本家、他方に賃金労働者を、絶えず再生産するように、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極により多くの賃金労働者を、再生産する。労働力は絶えず資本に価値増殖手段として合体されなければならず、資本から離れることはできず、資本への労働力の隷属は、ただ労働力が売られて行く個々の資本家入れ替わることによって隠されているだけで、このような労働力の再生産は、事実上、資本そのものの再生産の一契機をなしているのである。つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。

資本が増加すると、可変資本、すなわち労働力に転化できる部分も増加します。追加資本に振り分けられる剰余価値の一部は、常に追加的な労働財源に変えられる可変資本に振り分けられる必要があります。他の事情が同じで資本構成が一定で、一定量の不変資本を使用するには同量の労働力が必要であるとすると、資本が増加すれば、つねにそれに比例して労働の需要が増加し、労働者の生活財源が増加します。これは資本の増加の比率が高いほど、その増加の比率も高くなります。

資本は毎年、剰余価値を生産し、その一部を原資本に追加します。しかも、機能している資本が大きくなるにつれて、この増加分も増えていきます。最後には、新たに生じた社会的な欲求によって、新しい市場が開拓され、新しい投資分野が開拓されというような富を求める衝動が刺激されると、剰余価値や剰余生産物を消費のための収入と資本の追加に振り分ける比率を変更するだけで、資本の蓄積の規模が急速に拡大します。このようにして資本の蓄積への欲求が労働力や労働者数の増加を上回るようになり、労働者の需要を供給が上回って、結果として労賃が上昇することがあり得ます。

このようにして、毎年、前年より多くの労働者が雇用されるようになり、蓄積をしたいという意欲が労働の供給を上回る時点が、労賃の上昇が始まる時点で、それは遅かれ早かれ必ず到来します。

単純再生産は不断に資本関係そのものを、資本家と賃金労働者に再生産します。同様に、拡大された規模での再生産すなわち蓄積は、拡大された規模で資本関係を再生産し、よく多くの資本家、よく多くの賃金労働者を再生産します。

労働力は価値を増殖する手段として資本に取り込まれる必要があり、資本から解放されることはありえません。労働力は資本に隷属しています。

す。

資本が増加すると、資本の可変資本の部分、すなわち労働力に変えられる部分も増加する。増殖価値の一部が追加資本として投資されるときに、その一部はつねに可変資本に、すなわち追加的な労働の原資に変えられる必要がある。ここで他の事情が同じであり、かつ資本の構成が一定である、すなわち一定の量の不変資本を使用するには、つねに同じ量の労働力が必要であると想定しよう。この想定によると、資本が増加すれば、つねにそれに比例して労働の需要が増加し、労働者の生活の原資が増加するのは明らかであり、資本の増加の比率が高いほど、その増加の比率は高くなることも明らかである。

資本は毎年、増殖価値を生産し、その一部は毎年、原資本に追加される。しかもすでに機能している資本の規模が増大するにともなって、この増加分そのものが増えていく。そして最後には、新たに生じた社会的な欲望によって、新しい市場が開拓され、新しい投資分野が開拓されるなど、富を求める衝動に特別な刺激が加えられると、たんに増殖価値あるいは増殖生産物を資本と収入に分割する比率を変更するだけで、蓄積の規模を急激に拡大できるようになる。このようにして資本の蓄積への欲望が労働力や労働者の人数の増加を上回るようになり、労働者の需要が供給を上回って、結果として労働賃金が上昇することがありうる。前記の想定が変わらないかぎり、最終的にはこのような事態にならざるをえない。

このようにして毎年、前年よりも多くの労働者が雇用されるようになり、蓄積の欲望が通常の労働の供給を上回る時点が、すなわち賃金の上昇が始まる時点が、遅かれ早かれ到来せざるをえない。イギリスでは15世紀全体および18世紀の前半をつうじて、賃金の上昇について声高な苦情が聞かれたものだった。しかし賃金労働者の雇用が確保され、増加するというかなり有利な状況が存在したところで、資本制的な生産の根本的な性格が変わるわけではない。

単純再生産はたえず資本関係そのものを再生産し、一方に資本家を、他方に賃金労働者を再生産する。それと同じように、拡大された規模での再生産すなわち蓄積は、拡大された規模で資本関係を再生産し、一方の極にはより多くの資本家あるいはより大規模な資本家を再生産し、他方の極にはより多くの賃金労働者を再生産する。

労働力は価値を増殖する手段としてたえず資本にとりこまれる必要があり、労働力は資本から解放されることはできない。労働力が資本に隷属していることは、労働力がみずからを売り渡す相手となる個々の資本家の顔が変わることで、どうにか隠蔽されているにすぎない。この労労働力の再生産は実際に、資本自身の再生産の一つの要素を形成しているのである。このようにして資本の蓄積は、プロレタリアートの増加である。

 

古典派経済学の理解

古典派経済学はこの命題を十分に理解していたのであって、アダム・スミスやリカードたちは、前にも述べたように、蓄積を、まちがって、剰余生産物の資本化部分全体が生産的労働者によって消費されるということ、すなわちその部分全体が追加賃金労働者に転化するということと、同一視してさえいるのである。すでに1699年にジョン・ペラーズは次のように言っている。

「ある人が10万エーカーの土地と10万ボンドと10万頭の家畜とを持っていようとも、もし労働者が1人もいなければ、この金持ちも、みずから労働者であるよりほかに、なんでありえようか?そして、労働者が人々を富ませるのだから、労働者が多ければ多いほど、それだけ富者も多くなる。…貧者の労働は富者の宝庫である。」

また、バーナード・マンデヴィルも18世紀の初めに次のように言っている。

「所有権が十分に保護されているところでは、貧者なしで生活するよりも貨幣なしで生活するほうが容易であろう。なぜかといって、もし貧者がいなければ、いったいだれが労働するだろうか?…労働者は餓えから守られなければならないが、同時に貯えるに値するようなものを与えられてもならないであろう。ときとして最下層階級の人がなみなみでない勤勉と倹約とによって、自分が生い立った境遇から浮かび上がることがあれば、だれも彼を妨げてはならない。じっさい、質素に暮らすということは、たしかに、社会のどの個人、どの家族にとっても最も賢明な策である。しかし、貧民の大部分がけっしてなまけていないで、しかも自分たちが収得するものを絶えず支出するということは、すべての富んだ国の利益なのである。…自分の暮らしを自分の日々の労働によって立てている人々は、彼らの欲望のほかには、彼らを刺激して彼らを働かせるものをもっていないのだから、この欲望を鎮めることは賢いが、これを満たしてしまうことは愚かであろう。働くもの勤勉にすることのできる唯一のものは、適度な労賃である。少なすぎる労賃は、彼を、その性質に応じて、無気力にしたり絶望させたりし、多すぎる労賃は彼をわがままにし怠惰にする。…これまで述べてきたことから、奴隷が認められていない自由な国では最も確実な富は勤勉な貧民が多いこということになる。彼らは陸海軍のためのけっして尽きることのない供給源であるだけではなく、彼らがいなければ、なんの享楽もないであろうし、どんな国の産物も価値を表わすことはできないであろう。社会(というのはもちろん非労働者から成っている社会)を幸福にし、人民を困窮状態にも満足させておくためには、大多数のものがいつまでも無知で貧乏であるということが必要である。知識はわれわれの望みを大きくし何倍にもする。そして、人の望むところが少なければ少ないほど、その人の欲望はたやすく満されうるのである。」

この正直もので頭のよいマンデヴィルでさえ理解していないことは、蓄積過程そのものの機構が資本といっしょに「勤勉な貧者」の数をふやすのだということである。貧民とは、すなわち賃金労働者であって、彼らは自分の労働力を、増大する価値増殖力に転化させるよりほかはないのであり、またそうすることによって、資本家として人格化されている自分自身の生産物への自分の従属関係を永久化するよりほかはないのである。この従属関係について、サー・F・M・イーデンは彼の『貧者の状態、または、イギリス労働者階級の歴史』のなかで次のように言っている。

「われわれの地帯では欲望の充足のために労働が必要である。それゆえ少なくとも社会の一部分はたゆます労働しなければならない。…いくらかの人々は、労働はしないのに、勤勉の産物を自由に処分することができる。しかし、それは、これらの財産所有者にとって、ただ文明と秩序とのおかげであって、彼らは市民的制度の純粋な被造物である。なぜならば、これらの市民的制度は、人が労働の果実を労働によらないでも取得することができるということを認めているからである。独立の財産をもっている人々がその財産を手に入れたのは、ほとんどまったく他人の労働のおかげであって、少しも他人の能力にまさっていない彼ら自身の能力のおかげではないのである。富者を貧者から区別するものは、土地や貨幣の所有ではなく、労働にたいする支配力である。…貧者にふさわしいのは、劣悪な、または奴隷的な状態ではなく、安楽で自由な従属状態であり、また財産のある人々にとっては、自分たちのために働く人々にたいする十分な影響力と権威とである。…このように従属関係は、人間の本性を知っている人なら誰でも知っているように、労働者自身の安楽のために必要なのである。」

ついでに言えば、サー・F・M・イーデンは、アダム・スミスの弟子のなかで18世紀に何らかの有意義な仕事をしたただ1人の人である。

古典派経済学、労働力は価値を増殖する手段として資本に取り込まれる必要があり、資本から解放されることはありえません。労働力は資本に隷属しているということを、理解していました。だから、アダム・スミスやリカードは、蓄積とは剰余生産物の資本に転化された部分は労働者に支払われ分になる、すなわち、労働者を追加する賃金の分となると誤解していました。つまり、剰余生産物が増えれば、雇用も増える、その結果士会全体は豊かになると。

しかし、実際は、蓄積過程のメカニズムは資本を増やすと共に賃金労働者の数も増やすのですが、労働者は貧しく資本家の隷属状態のままで、そういう賃金労働者が増えるということなのです。

この従属関係についてはF・M・イーデンが、文明の秩序では、働かなければならない労働者、働かなくてもよい資本家に二極分化した。この秩序のもとでは、資本家は労働者の労働により自由と富を手に入れることを認めたのだという。資本家の所有する富は、労働者の労働に負っているもので、自身の才能によって獲得したものではない。両者の違いは労働の支配力があるかないかであると、従属関係が本質であると説明しました。マルクスは、この見解を古典派経済学の中で、唯一評価しているようです。

古典派経済学はこの命題をよく理解していた。だからこそ、すでに指摘したようにアダム・スミスやリカードたちは、蓄積とは増殖生産物のうちで資本に転化された部分がすべて生産に携わる労働者によって消費されることだと、すなわちそれが追加的な賃金労働者に変化することだと誤解していたのである。1699年にすでにジョン・ペラーズが次のように語っている。「誰かが10万エーカーの土地を持ち、10万ボンドの貨幣を持ち、10万頭の家畜を持っていたとしても、この裕福な男は労働者がいなければ、自分で労働者になるしかないではないか。労働者が人々を豊かにするのであり、労働者の数が多ければ多いほど、豊かな人も多くなる…貧者の労働は富者の鉱脈である」。

またバーナード・マンデヴィルも18世紀初頭に、こう述べていた。「所有権がしっかりと守られているところでは、貧者なしで暮らすことよりも貨幣なしで暮らすほうが楽だろう。貧者がいなければ誰が働くというのか。…労働者は餓死しないように保護される必要があるが、貯蓄できるほどの金をうけとるべきではない。もしも最下層の者が異例な勤勉と空腹にたえて自分の階層から抜けだすのであれば、誰もこれを妨げてはならない。質素であることは、社会のすべての個人と家族にとって、もっとも賢明な策であることは否定できない。しかし大部分の貧者が無為に陥ることなく、受け取った収入をすべて支出することは、すべての裕福な国民にとって利益となることである。…日々の労働によって生計を立てている人にとって、勤労への意欲を駆り立てるものは自分の欲望だけである。この欲望を鎮めることは賢明ではあるが、それを満たしてしまうのは愚かしいことだろう。労働する人を勤勉にするのは、適切な労働賃金だけである。労働賃金が低すぎると、性格によっては無気力になったり、絶望したりするだろうし、高すぎると高慢で怠惰になるだろう。…これまで述べてきたことから明らかなのは、奴隷が許されない自由な国民における最も確実な富は、労働する多数の貧民が存在するということである。彼らは陸軍や海軍の兵士の尽きることなき供給源であり、彼らなしではいかなる享楽もなく、彼らなしではいかなる国の産物も活用できないだろう。社会を(もちろんここでは非労働者から構成される社会という意味だ─マルクス)幸福にし、窮乏状態にあっても国民を満足させるためには、大多数が無知であり貧しいままでありつづける必要がある。知識はわれわれの願望を拡大させ、何倍にもする。1人の人間の願望が少なければ少ないほど、その人の欲望はすぐに満たすことができるのである」。

正直で頭のいいマンデヴィルが分かっていなかったことは、蓄積過程のメカニズムそのものが資本を増やすとともに、「勤勉な貧者」の数を、すなわち賃金労働者の数を増やすということだった。賃金労働者は自分の労働力を、増加する価値増殖力に変えざるをえないのであり、そのことによって、自分自身の生産物に、資本家に人格化された生産物に永続的に従属せざるをえないのである。

この従属関係についてはF・M・イーデン卿が著書『貧者の状態、イギリスの労働者階級の歴史』において、次のように説明している。「われわれが住むあたりでは、欲望を満たすために労働が必要なので、社会の少なくとも一部は、倦まず弛まず働かなければならない。…労働しない一部の人々は、勤勉が生みだした産物を自由に手に入れることができる。しかしこうした財産所有者がそれを許されているのは、文明と秩序のおかげであり、彼らはブルジョワ的な制度の純粋な被造物なのである。なぜならこれらの制度は、人が労働によらずに、労働の果実を取得することを承認したからである。なぜならこれらの制度は、人が労働によらずに、労働の果実を取得することを承認したからである。独立した財産を所有する人々は、その財産をほとんどすべて他者の労働に負っており、自分の才能によって獲得したのではない。彼らの能力がほかの人々の能力よりも優れていたからではないのである。富者と貧者の違いを作りだしているのは、土地と貨幣の所有ではなく、労働の支配力である。…貧者にふさわしいのは、忌まわしい隷属状態ではなく、快適で自由な従属関係である。財産をもつ人々にふさわしいのは、自分たちのために働く人々への十分な影響力と権威である。…このように従属関係は、人間の本性を知る人には明らかなように、労働者自身の安楽のためにも必要不可欠なのである」。ちなみに、F・M・イーデン卿はアダム・スミスの弟子たちのうちで、18世紀において何らかの有意義なことをなしとげた唯一の人物だった。

 

資本の蓄積と労働価格の上昇

これまで想定してきたような、労働者にとって最も有利な蓄積条件のもとでは、資本への彼らの従属関係は、耐えられないこともない形態、またはイーデンの言う「安楽で自由な」形態をまとっている。それは資本の増大につれていっそう強度を増すのではなく、ただ外に広がるだけである。すなわち、資本の搾取・支配部面が、ただ資本そのものの広がりと資本の臣下の数とにつれて拡大されるだけである。労働者たち自身のますます大きくなり、そしてますます多くの追加資本に転化するようになる剰余生産物のうちから、以前よりも大きい部分が支払手段という形で彼らの手に還流してくるので、彼らは自分たちの享楽の範囲を広げ、彼らの衣服や家具などの消費原資をもっと充実させ、小額の準備金を形成することができるようになる。しかし、衣服や食物や取り扱いが良くなり、特有財産が増えても、それは、奴隷の従属関係や搾取を廃止しないのと同じように、賃金労働者の従属関係や搾取をも廃止しはしない。資本の蓄積につれて労働の価格が上がるということが実際に意味しているのは、ただ、すでに賃金労働者が自分で鍛え上げた金の鎖の太さと重みとが、ただその張りのゆるみを許すということでしかないのである。この題目についての論争では、たいていの場合に、かんじんな点が、すなわち資本主義的生産の種差〔一つの種を他の種から区別する特有な性質〕が見落とされてきた。資本主義的生産で労働力が買われるのは、その役だちやその生産物によって買い手の個人的な欲望を満たすためではない。買い手の目的は、自分の資本の増殖であり、彼が支払うよりも多くの労働を含んでいる商品の生産、つまり、彼にとって少しも費用がかからないのに商品の販売によって実現される価値部分を含んでいる商品を生産である。剰余価値の生産、すなわち利殖は、この生産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段を資本として維持し自分自身の価値を資本として再生産し不払労働において追加資本の源泉を与えるかぎりでのみ、労働者は売れるのである。だから、労働力の販売の条件のうちには、労働者にとってより有利であろうと不利なものであろうと、労働力の不断の再販売の必然性と、資本としての富の不断の拡大再生産とが含まれているのである。労賃は、すでに見たように、その性質上、つねに労働者の側からのが一定量の不払労働の供給を条件とする。労働の価格の低下を伴う労賃の上昇などはまったく別としても、労賃の増加は、せいぜい、労働者がしなければならない不払労働の量的な減少を意味するだけである。この減少によって制度そのものが脅かされるような点までこの減少が続くことはけっしてありえないのである。労賃の率についての激しい衝突、そしてだいたいにおいてそのような衝突では雇い主がやはり名人だということはすでにアダム・スミスが明らかにしたことでもあるが、いのこの衝突を別とすれば、資本の蓄積から生ずる労働の価格の上昇は次の二つの場合のどちらかにあたるものである。

これまでの本書の分析は、労働者にとって、少なくとも不利にならないような条件を前提としてきました。しかし、この前提にそった従属関係は、資本の増加があっても維持されるのではなく、資本の搾取が強化し、支配対象となる労働者の数が増えるものとなりました。

労働者が生産した剰余生産物が増えて、それにつれて追加資本が増えると、増えた剰余生産物が労働者に対しても労賃という支払いが還流してきて増えました。それにより、労働者は消費財源を増やすことが出来、処遇が改善されました。多少でも貯えを残すことが出来るようになりました。しかし、そうは言っても、従属関係と搾取がなくなったわけではありません。つまり、従属関係と搾取がなくなるよけではなく、単に、その拘束が緩んだだけです。資本主義の下では、労働力を購入する者は自身の個人的な欲望を満たすためでなく、所有する資本を増殖するために、それをするのです。つまり、自分購入に支払った以上のものを労働者が生産することで、それが剰余生産物あるいは剰余価値の生産様式です。

労働力が生産手段を維持し、自分自身の価値を生産し、不払労働で追加資本の源泉を供給することが出来るかぎりで、それは販売可能なものとなる、という条件があります。この条件が労働者にとって有利だろうが不利だろうが、ここには労働力を販売するという必然性と資本を拡大再生産する必然性があります。

労賃というのは、労働者が一定量の不払労働を供給することを強いることが含められています。労賃が上昇しても、それはせいぜいのところが、労働者が提供を強制される不払労働の量が減少することを意味するにすぎせん。しかも、この減少には限度があります。

これまでは労働者にとってもっとも有利な蓄積条件を想定してきたが、この条件のもとでは労働者の資本への従属関係は、まだどうにか耐えうる形態、イーデンの言葉を借りれば「快適で自由な」形態をまとっている。この従属関係は資本の増加ともに集約的に強化されるのではなく、外に広がる形になっている。資本の搾取領域と支配領域が、その規模と隷属する者たちの数を増やす形で、拡大していくだけである。

労働者がみずから作りだした増殖生産物が増大し、より多くが追加資本に変化するとともに、より多くの増殖生産物が労働者にも支払手段という形で還流してくる。それによって彼らは自分たちの享楽の範囲を拡大し、衣服や家具などのための消費原資を増やし、わずかな額を預金することもできるようになる。しかし奴隷たちの衣類や食事が、そして処遇が改善され、固有の財産が増えたとしても、奴隷としての従属関係と搾取がなくなるわけではないのと同じように、賃金労働者にとっても、その従属関係と搾取がなくなるわけではないのと同じように、賃金労働者にとっても、その従属関係と搾取がなくなるわけではない。

資本の蓄積が進んで労働価格が上昇するということは、賃金労働者がみずから鍛えあげた金の鎖がさらに長く、重くなることにほかならず、ただその鎖が前よりも緩くなるということにすぎない。この問題についての論争では多くの場合、もっとも重要な点である資本制的な生産に固有の違いが見逃されてきた。資本制的な生産において、購入者の個人的な欲望を満たすためではない。購入者の目的は、彼が所有する資本を増殖することにある。自分が支払ったよりも多くの労働を含む商品を生産すること、すなわち彼がまったく費用を支払わず、商品の販売によって実現される価値部分を含む商品を生産することこそが目的である。増殖価値の生産または価値の増殖こそがこの生産様式の絶対的な法則である。

労働力が生産手段を資本として維持し、自分自身の価値を資本として再生産し、不払労働によって追加資本の源泉を供給することができるかぎりで、労働者は販売可能になるのである。だから労働力の販売条件が、労働者にとって有利なものであろうと不利なものであろうと、そこには労働力をたえず販売し直す必然性と、たえず拡大する資本という富を再生産する必然性が含まれているのである。

すでに確認したように労働賃金は、労働者が一定量の不払労働を供給することを強いる性格のものである。労働の価格が低下しながら労働賃金が上昇するような場合を別とすれば、労働賃金の上昇といっても、それは最善の場合でも、せいぜい労働者が供給しなければならない不払労働の量が減少することを意味するにすぎない。しかもこの減少は、システムが存立できなくなるところまで進むことはありえないのである。

労働賃金率に関しては暴力的な対立が発生するような場合は別として(アダム・スミスが指摘したように、こうした対立においても主人はつねに主人の地位にとどまる)、資本の蓄積が原因となって労働価格が上昇するのは、次の二つのいずれかの場合である。

 

労働賃金が上昇する二つの場合

その一つは、労働の価格の上昇が蓄積の進行を妨げないのでその上昇が続くという場合である。これは少しも不思議なことではない。そのわけについてアダム・スミスは次のように言っている。

「利潤が下がる場合でも資本は増加する。それは以前より急速にさえ増大する。…一般に、大資本は、利潤が減少する場合にも、利潤が大きい場合の小資本よりも急速に増大する」(『国富論』)

この場合には、不払労働の減少もけっして資本の支配の拡大を妨げないということは明白である。─または、これがもう一つの場合であるが、労働の価格の上昇の結果、利潤の刺激が鈍くなるので、蓄積が衰える。蓄積は減少する。しかし、その減少につれて、その減少の原因はなくなる、すなわち、資本と搾取可能なきる労働力とのあいだの不均衡はなくなる。つまり、資本主義的生産過程の機構は、自分が一時的につくりだす障害を自立機で除くのである。労働の価格は、再び、資本の増殖欲求に適合する水準まで下がる。その水準が、賃金の上昇の始まる前に標準的と認められていた水準よりも低いが、高いか、それとも同じかは別として、とにかく労働の価格は下がる。要するに、第一の場合には、労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の減退が資本を過剰にするのではなく、反対に、資本の増加が搾取可能な労働力を不足にするのである。第二の場合には、労働力または労働人口の絶対的または比率的増大の増進が資本を不足にするのではなく、反対に、資本の減少が搾取可能な労働力またはむしろその価格を過剰にするのである。このような資本の蓄積における絶対的諸運動が、搾取可能な労働力の量における相対的諸運動として反映するのであり、したがって、労働力の量そのものの運動に起因するように見えるのである。数学的表現を用いて言えば、蓄積の大きさは独立変数であり賃金の大きさ従属変数であって、その逆ではないのである。たとえば、産業循環上の恐慌局面では商品価格の一般的な低落が相対的な貨幣価値の上昇として表現され、繁栄局面では商品価格の一般的な上昇が相対的な貨幣価値の低落として表現される。このことから、いわゆる通貨学派は、物価の高いときには流通する貨幣が多すぎるのであり、物価の低いときにはそれが少なすぎるのだ、と結論する。彼らの無知と事実の完全な誤認とは、あの蓄積の諸現象を、一方の場合には賃金労働者が少なすぎ、他方の場合には多すぎるのだと説明する経済学者たちのうちに、似合いの対を見いだすのである。

いわゆる「自然的人口法則」の根底にある資本主義的生産の法則は、感嘆に次のことに帰着する。資本蓄積と賃金率との関係は、支払いを受けない、資本に転化する労働と、追加資本の運動に必要な追加労働との関係にほかならない。だから、それは、けっして、一方には資本の大きさ、他方には労働者人口、という二つの互いに独立な量の関係ではなくて、むしろ結局はただ同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係でしかないのである。労働者階級によって供給され資本家階級によって蓄積される不払労働の量が、支払労働の異常な追加によらなければ資本に転化できないほど急速にぞうだいすれば、賃金は上がるのであって、他の事情がすべて変わらないとすれば、不払労働はそれに比例して減少するのである。ところが、この減少が、資本を養う剰余労働がもはや正常な量では供給されなくなる点に触れるやいなや、そこに反動が現われる。収入のうちの資本化される部分が小さくなり、蓄積は衰え、賃金の上昇運動は反撃を受ける。つまり、労働の価格の上昇は、ある限界のなかに、すなわち資本主義体制の基礎を単にゆるがさないだけではなく、増大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界のなかに、閉じ込められているのである。だから、一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則が実際に表わしているのは、ただ、資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産と上昇に重大な脅威を与えるおそれのあるような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、すべて、資本主義的蓄積の本性によって排除されている、ということでしかないのである。そこでは労働者が現存の価値の増殖欲求のために存在するのであって、その反対に対象的な富が労働者の発展欲求のために存在するのではないという生産様式では、そうであるほかはないのである。人間は、宗教では自分の頭の作り物に支配されるが、同様に資本主義的生産では自分の手の作り物に支配されるのである。

労働賃金率について、資本の蓄積によって労働価格が上昇するのは、次の二つの場合のうちのいずれかです。

第1の場合は、労賃が上昇しても、蓄積の進行を妨げるほどでないので、労働価格が上昇する場合です。というのも、利潤が少なくなっても資本は増加するからです。とくに大資本は利潤が小さくなっても、資本は大きくなります。この場合にも、不払労働が減少しても、従属関係がなくなるわけではありせん。

第2の場合は、労働価格が上昇したために、より利潤を得ようするようになり、蓄積が停滞する場合です。この場合、蓄積は減少します。そうなると、その減少の要因である資本と労働陸の不均衡が解消されることになります。その結果、労働価格は資本の増殖にふさわしい水準に低下します。

第1の場合には資本が増加したために、搾取できる労働力が不足したことが原因です。第2の場合は資本が減少したために搾取できる労働力が過剰になり、労働力の価格が高すぎるようになったことが原因です。

このような資本の蓄積の動きは、搾取できる労働力の量によって量が決まるように見えます。しかし、蓄積の大きさは、数学でいう独立変数であり、賃金の大きさは、それによって決まる従属変数です。そのため、恐慌の際には商品価格は一般的に下落し、それは貨幣価値の上昇として現れます。逆に好況の際には、商品価格が一般的に上昇し、これが相対的に貨幣価値の低下として現われます。

資本の蓄積と賃金率の関係は、資本に転化した不払労働と追加資本を動かすために必要な追加労働の関係であって、資本の大きさと労働者数という二つの独立変数の関係ではないのです。

労働者が供給し、資本家が蓄積した不払労働の量が急速に大きくなると、大量の不払労働を追加しないと、その蓄積を資本に転化することが出来なくなります。その場合に賃金は上昇し、不払労働は相対的に減少します。しかし、不払労働の減少があるところまで進行すると、剰余労働を供給できなくなります。そこで収入のうちで資本家出来る部分が減少し、蓄積が鈍化するため、賃金の上昇に歯止めがかかります。つまり、労働価格の上昇には限度があり、それは資本主義的なシステムを損なうことなく、むしろ拡大再生産ができるという枠内ということです。資本主義的生産様式では、いまある価値を増殖したいという欲望のために労働者が存在しているのであって、労働者が発展するために富があるわけではないのです。

一つは、労働賃金が上昇しても、蓄積の進行を妨げることができないために、労働価格が上昇しつづける場合である。それは何ら不思議なことではない。アダム・スミスが指摘するように、「利潤が少なくなっても、資本は増えるからである。むしろ前よりも急速に増加する。…一般に大資本は、利潤がより小さくなっても、利潤の大きな小資本よりも急速に増加する」(『国富論』)この場合には、不払労働が減少しても、資本の支配の拡大が妨げられることはないのは明らかなことである。

第二の可能性は、労働価格が上昇したために、利潤をえようという刺激が弱まり、蓄積が停滞することである。そして蓄積は減少する。しかし蓄積が減少すると、その減少の原因が、すなわち資本と搾取できる労働力との不均衡が解消される。すなわち資本制的な生産過程のメカニズムは、それが過渡的に生みだした障害を、みずからの手で解消するのである。労働価格は、資本の価格増殖の欲望にふさわしい水準にまで低下する。その水準は、賃金の上昇が始まるまでの標準とされていた水準を下回ることも、それに等しくなることも、それを上回ることもあるだろう。しかしいずれにしても低下するのである。

この第一の場合には、労働力あるいは労働人口の絶対的または相対的な成長が低下するために資本が余剰になったわけではなく、反対に資本が増加したために、搾取できる労働力が不足したのである。第二の場合には、労働力あるいは労働人口の絶対的あるいは相対来な成長が拡大したために資本が不足したのではなく、反対に資本が減少したために、搾取できる労働力が過剰になった。正確には労働力の価格が高すぎるようになったのである。

いわゆる通貨学派はこれによって、物価が高騰するのは貨幣の流通が多すぎるからであり、物価が下落するのは貨幣の流通が少なすぎるからだと結論する。彼らの無知とまったくの事実誤認は、経済学者たちが、すでに述べた蓄積の現象を、片方の場合は賃金労働者が少なすぎるから発生し、他方の場合は賃金労働者が多すぎるから発生すると解釈するのとよく似ている。

いわゆる〔マルサスの〕「自然な人工法則」とよばれるものの土台となっている資本制的な生産の法則は、たんに次のようなものにすぎない    。資本の蓄積と賃金率の関係とは、資本に変容した不払労働と、追加資本を動かすために必要な追加労働の関係にほかならないということである。これは決して、資本の大きさと労働人口の数という二つの独立した量の関係ではなく、最終的にはむしろ、同じ労働人口について、その不払労働と支払労働の関係にほかならない。

労働者階級が供給し、資本家が蓄積した不払労働の量が急速に大きくなると、異例なほどに多量の支払労働を追加しないと、それを資本に変容させることができないことがある。そのような場合には賃金は上昇し、他の事情がすべて同じであれば、不払労働は相対的に減少する。しかし不払労働の減少があるところまで進行し、資本を養っている増殖労働がもはや通常の量で供給できなくなると、そこで反動が起こる。収入のうちで資本化される部分が少なくなり、蓄積が鈍化し、賃金の上昇運動に反撃が加えられる。

つまり労働価格の上昇にはある限度があり、この限度は資本制的なシステムの土台を損ねないようになっているだけではなく、このシステムをますます大きな規模で拡大して再生産することを保証するようになっているのである。だから自然の法則ででもあるかのように神秘化された資本制的な蓄積の法則が実際に表現しているのは、資本制的な蓄積のほんらいの性格に基づいて、労働の搾取度の低下や労働価格の上昇が、資本関係の絶えざる再生産や、再生産のたえざる規模の拡大に重大な危険をもたらすことがありえないようにされているという事実なのである。

資本制的な生産様式においては、現存する価値を増殖したいという欲望のために労働者が存在しているのであって、その逆に対象化された富が、労働者の発展の欲望のために存在しているわけではないのだから、これ以外のあり方は考えられないのである。宗教においては、人間は自分の頭で作り出したものに支配されるが、資本制的な生産においては、人間は自分の手で作りだされたものに支配されるのである。

 

一つは、労働賃金が上昇しても、蓄積の進行を妨げることができないために、労働価格が上昇しつづける場合である。それは何ら不思議なことではない。アダム・スミスが指摘するように、「利潤が少なくなっても、資本は増えるからである。むしろ前よりも急速に増加する。…一般に大資本は、利潤がより小さくなっても、利潤の大きな小資本よりも急速に増加する」(『国富論』)この場合には、不払労働が減少しても、資本の支配の拡大が妨げられることはないのは明らかなことである。

第二の可能性は、労働価格が上昇したために、利潤をえようという刺激が弱まり、蓄積が停滞することである。そして蓄積は減少する。しかし蓄積が減少すると、その減少の原因が、すなわち資本と搾取できる労働力との不均衡が解消される。すなわち資本制的な生産過程のメカニズムは、それが過渡的に生みだした障害を、みずからの手で解消するのである。労働価格は、資本の価格増殖の欲望にふさわしい水準にまで低下する。その水準は、賃金の上昇が始まるまでの標準とされていた水準を下回ることも、それに等しくなることも、それを上回ることもあるだろう。しかしいずれにしても低下するのである。

この第一の場合には、労働力あるいは労働人口の絶対的または相対的な成長が低下するために資本が余剰になったわけではなく、反対に資本が増加したために、搾取できる労働力が不足したのである。第二の場合には、労働力あるいは労働人口の絶対的あるいは相対来な成長が拡大したために資本が不足したのではなく、反対に資本が減少したために、搾取できる労働力が過剰になった。正確には労働力の価格が高すぎるようになったのである。

いわゆる通貨学派はこれによって、物価が高騰するのは貨幣の流通が多すぎるからであり、物価が下落するのは貨幣の流通が少なすぎるからだと結論する。彼らの無知とまったくの事実誤認は、経済学者たちが、すでに述べた蓄積の現象を、片方の場合は賃金労働者が少なすぎるから発生し、他方の場合は賃金労働者が多すぎるから発生すると解釈するのとよく似ている。

いわゆる〔マルサスの〕「自然な人工法則」とよばれるものの土台となっている資本制的な生産の法則は、たんに次のようなものにすぎない    。資本の蓄積と賃金率の関係とは、資本に変容した不払労働と、追加資本を動かすために必要な追加労働の関係にほかならないということである。これは決して、資本の大きさと労働人口の数という二つの独立した量の関係ではなく、最終的にはむしろ、同じ労働人口について、その不払労働と支払労働の関係にほかならない。

労働者階級が供給し、資本家が蓄積した不払労働の量が急速に大きくなると、異例なほどに多量の支払労働を追加しないと、それを資本に変容させることができないことがある。そのような場合には賃金は上昇し、他の事情がすべて同じであれば、不払労働は相対的に減少する。しかし不払労働の減少があるところまで進行し、資本を養っている増殖労働がもはや通常の量で供給できなくなると、そこで反動が起こる。収入のうちで資本化される部分が少なくなり、蓄積が鈍化し、賃金の上昇運動に反撃が加えられる。

つまり労働価格の上昇にはある限度があり、この限度は資本制的なシステムの土台を損ねないようになっているだけではなく、このシステムをますます大きな規模で拡大して再生産することを保証するようになっているのである。だから自然の法則ででもあるかのように神秘化された資本制的な蓄積の法則が実際に表現しているのは、資本制的な蓄積のほんらいの性格に基づいて、労働の搾取度の低下や労働価格の上昇が、資本関係の絶えざる再生産や、再生産のたえざる規模の拡大に重大な危険をもたらすことがありえないようにされているという事実なのである。

資本制的な生産様式においては、現存する価値を増殖したいという欲望のために労働者が存在しているのであって、その逆に対象化された富が、労働者の発展の欲望のために存在しているわけではないのだから、これ以外のあり方は考えられないのである。宗教においては、人間は自分の頭で作り出したものに支配されるが、資本制的な生産においては、人間は自分の手で作りだされたものに支配されるのである。

 

 

第2節 蓄積とそれにともなう集積との進行途上での可変資本の相対的減少

労働の生産性の向上と生産手段

経済学者たち自身の言うところによれば、賃金の上昇をひき起こすものは、社会的富の現在の規模でもなければ、既得の資本の大きさでもなく、ただ、蓄積の持続的な増大であり、その増大の速度である(アダム・スミス『国富論』第1編第8章)。これまでわれわれはこの過程の一つの特殊な局面だけを見てきた。すなわち、資本の技術的構成が不変のままで資本の増大が生ずるという局面である。だが、過程はこの局面を越えて進む。

資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積を最も強力な槓杆となる点が必ず現われる。アダム・スミスは次のように言っている。

「賃金を高くする原因そのものが、すなわち資本の増加が、労働の生産能力の上昇を促して、より少ない労働量でより多くの生産物量を生産することを可能にする。」

土地の豊度などのような自然条件を別とすれば、また、単独で労働する独立生産者の技能、といっても製品の量で量的に実証されるよりもむしろその品質で質的に実証される技能を別とすれば、労働の社会的な生産度は、1人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模によって表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。そのさい、この生産手段は二重の役割を演ずる。一方の生産手段が増大は労働の生産性の増大の結果であり、他方の生産手段の増大はその条件である。たとえば、マニュファクチュア的分業や機械の使用が進むにつれて、同じ時間により多くの原料が加工されるようになり、したがってより大きな量の原料や補助材料が労働過程にはいるようになる。これは労働の生産性の増大の結果である。他方、使用される機械や役畜や鉱物性肥料や排水管などの大量は労働の生産性の増大の条件である。また、建物や巨大な炉や運輸機関などとして集積された生産手段の大量もやはりそうである。とはいえ、条件であろうと結果であろうと、生産手段に合体される労働力に比べての生産手段の量的規模の増大は、労働の生産性の増大を表わしている。だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。

アダム・スミスのような経済学者たちの見解では、賃金上昇の原因となるのは、蓄積の継続的な増大と、その増大の速さです。われわれは、このプロセスの特殊なケース、つまり資本の技術的な構成が変化しない状態で資本の増加が進むというケースを検討してきました。しかし、このプロセスはこのケースを超えてしまします。

資本主義的システムの一般的土台ができてしまうと、蓄積のプロセスで、社会的な労働生産性が向上して、それが蓄積を強力に飛躍させる段階が必ずある。いま、土地の肥沃さといった自然条件や個々の生産労働者の熟練などは無視することにすると、労働力の社会的な生産性は1人の労働者が一定時間内に、一定の集中で、どの程度の生産物を生産できるか、によって測ることができるというものです。労働者が生産に際して使用する労働手段の量は、この労働の生産性が向上するにつれて、増加します。その際に、生産手段は二つの異なる役割を果たします。ひとつは、労働生産性の向上の結果として生産手段が増加する場合で、もうひとつは生産手段が労働生産性向上の条件となる場合です。前者の例では、分業や機械化の進展により一定時間での原料の加工の量が増えると、使用する原料や補助材料が増える。また、後者の例では、使用される機械類、役畜、鉱物肥料、排水管などが一定の量で存在することは、労働生産性が向上するための条件です。しかし、それが結果でも条件でも、生産手段の量が増加するということは、労働生産性が向上していることを示すものです。つまり、労働生産性の向上は、その労働によって使用される生産手段の量と比べて、労働量が相対的に減少することです。

経済学者たちの見解によると、賃金を上昇させる原因となるのは、既存の社会的な富の規模でもなく、すでに獲得された資本の大きさでもなく、たんに蓄積が継続的に増加することであり、そしてその増加の速さである(アダム・スミス『国富論』第1編第8章)。わたしたちはこれでこのプロセスのごく特殊な局面だけを検討してきたのであり、資本の技術的な構成が変化しない状態で資本の増加が進むという局面を考察してきた。しかしこのプロセスはこの局面を超えて進行することになる。

資本制的なシステムの一般的な土台がひとたび確立されると、蓄積の過程において、社会的な労働の生産性が上昇して、それが蓄積をもっとも強力に推進する梃子の役割をはたすようになる段階がかならず到来する。アダム・スミスは「賃金を上昇させるのと同じ原因、すなわち資本の増加が、労働の生産性を向上させ、わずかな労働量で多くの生産物を生みだせるようになる」と語っている。

ここでは土地の肥沃さなどの自然条件も、個別に労働する独立した生産者の熟練度なども無視することにしよう。こうした熟練度は、製品の量という量的な側面よりも、製品の質という質的な側面でも重要になるのである。その場合には労働の社会的な生産性は、一人の労働者が与えられた時間のうちで、同じ緊張度の労働力によって、生産者段のどの程度の相対的な分量を生産物に変容させるかによって表現される。労働者がその機能をはたすために使用する生産手段の量は、その労働の生産性が向上するにつれて、増加する。

その際に生産手段は二つの異なる役割をはたす。労働の生産性の向上の結果として、生産手段が増加する場合もあれば、生産手段の増加が、労働の生産性の向上の条件となることもあるのである。たとえばマニュファクチュア的な分業や機械類の使用が進むと、同じ時間のうちにより多くの原料が加工されて、労働過程により多くの原料や補助材料が入ってくることになる。これは労働の生産性が向上したことによる結果である。他方で、使用される機械類、役畜、鉱物肥料、排水管などが一定の量で存在することは、労働の生産性が向上するための条件である。建物、巨大な炉、輸送手段などに集積された生産手段が一定の量で存在することも、その条件である。

しかしそれが結果であれ条件であれ、生産手段にとりこまれた労働力と比較して、生産手段の量が増加するということは、労働の生産性が向上していることを示すものである。つまり労働の生産性の向上は、その労働量によって動かされる生産手段の量と比較して、労働量が相対的に減少することのうちに現われる。労働過程の主体的な要因の大きさが、客体的な要因の大きさと比較して小さくなることのうちに現われるのである。

 

可変資本と不変資本の比率の変動の法則

このような、資本の技術的構成の変化、すなわち、生産手段の量がそれに生命を与える労働力の量に比べて増大するということは、資本の価値構成に、資本価値の可変成分を犠牲としての不変部分を増大に、反映する。たとえば、一つの資本について百分率で計算すれば、最初は生産手段と労働力とにそれぞれ50%ずつが投ぜられ、後に、労働の生産性が発展すると、生産手段に80%、労働力に20%が投ぜられる、というようにである。この、可変資本部分に比べて不変資本部分がだんだん増大して行くという法則は、商品価格の比較分析によって(すでに展開されたように)一歩ごとに確証される。このことは、同じ一つの国についていろいろな経済的時代を比較してみても、同じ経済的時代のいろいろな国を比較してみても、同じことである。消費される生産手段の価値すなわち不変資本部分だけを代表する価格要素の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例するであろうし、他方の、労働の代価を支払う価格要素、すなわち可変資本部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に、蓄積の進展に反比例するであろう。

しかし、不変資本部分に比べての可変資本部分の減少、または資本価値の構成の変化は、資本の素材的構成諸成分の変動をただ近似的に示すだけである。たとえば、紡績業に投ぜられている資本価値は、今日では8分の7が不変部分で8分の1が可変資本部分であるが、18世紀の初めにはその2分の1が不変部分で2分の1が可変部分だった。ところが、一定量の紡績労働が今日生産的に消費する原料や労働手段などの量は、18世紀初に比べれば何百倍にもなっている。理由は簡単で、労働の生産性の上昇につけて労働の消費する生産手段の規模が増大するだけではなく、その規模に応じてその価値が低下するということである。つまり、その価値は、絶対的には上がるが、その規模に比例しては上がらないのである。したがって、不変資本と可変資本との差の増大は、不変資本が転換される生産手段の量と可変資本が転換される労働力の量との差の増大よりも、ずっと小さいのである。前のほうの差は、あとのほうの差といっしょに増大するのではあるが、増大の度合いはより小さいのである。

なおまた、蓄積の進展は、可変資本部分の相対量を減らすとはいえ、けっして同時にその絶対量の増大を排除するものではない。かりに、ある資本価値が初めは50%の不変資本と50%の可変資本とに分かれ、後には80%の不変資本と20%の可変資本とに分かれるとしよう。その間に、最初の資本、たとえば6,000ポンドが、18,000ポンドに増大したとすれば、その可変成分5分の1だけ増大しているわけである。それは3,000ポンドだったが、今では3,600ポンドである。ところが、以前は労働需要を20%増やすには20%の資本増加でよかったのに、今ではそのためには最初の資本を3倍にすることが必要なのである。

労働生産性の向上は、資本の価値構成にも影響を及ぼします。それは資本価値の可変成分を減らしながら、不変成分を増加させるということです。例えば、ある資本について、当初は生産手段50%、労働力に50%投資されていたとしましょう。それが、労働生産性の向上により、生産手段に80%、労働力に20%が投資されるようにへんかします。可変成分を減らしながら、不変成分を増加するというのは、この段階で生じます。祖毛を確認するには、商品価格を比較分析すればよいのです。価格を構成する様々な要因のうちで、消費される生産手段の価値、すなわち不変資本の相対的な大きさは、蓄積の進展に正比例して増大します。これに対して、労働にたいして支払われる部分、すなわち可変資本の相対的な大きさは、蓄積の進展に反比例して減少します。

ただし、不変資本部分にたいする可変資本部分の減少は、資本の構成要素の素材的変化を近似的に示すだけです。例えば、紡績業の資本構成は、18世紀はじめでは不変部分と可変部分が2分の1ずつでしたが、現在では、不変部分が8分の7、可変部分が8分の1になっています。しかし、一定量の紡績労働が原料などの労働手段の量と比較すると、今では18世紀はじめと比べて数百倍になるでしょう。その理由は単純であり、労働生産性が向上すると、労働によって消費される生産手段の量が増加するだけでなく、生産手段の価値が相対的に低下するからです。したがって、不変資本と可変資本の差異の増大は、生産手段の量と労働力の量の差の増大に比べれば、かなり小さいのです。

蓄積が進むと、可変資本の相対的な大きさは減少いますが、絶対的な大きさは増加することもありえます。例えば、当初の資本構成が不変部分と可変部分が2分の1ずつだったとして、その後不変資本80%、可変資本20%に変わったとしましょう。その間に当初の資本は6000ポンドから18000ポンドに増えたとすれば。可変部分も20%部分だけ増加したことになります。当初は3000ポンドだったのが3600ポンドに増加している。ただし、労働の需要を20%増やすには、当初は資本を20%増やせばよかったのが、今では当初の資本を3倍にしなければならなくなりました。

資本の技術的な構成がこのように変動し、生産手段に生命を吹き込む労働の量と比較して、生産手段の量が増加することは、その価値の構成にも影響する。資本価値の可変部分を減らしながら、不変部分を増加させるのである。たとえばある資本について百分率で表現すると、もともとは生産手段に50%、労働力に50%投資されていたとしよう。それが労働の生産性が向上すると、たとえば生産手段に80%、労働力に20%が投じられるようになる。可変資本の部分と比較して不変資本の部分が増加するというこの法則は、すでに述べてきたように、あらゆる段階で確認されるのであり、それを確認するには商品価格を比較分析すればよい。これは一つの国民のさまざまな経済的な時代を比較しても、また同じ経済的な時代のさまざまな国民を比較しても、同じように確認できることである。

価格を構成するさまざまな要因のうちで、消費される生産手段の価値、すなわち不変資本だけを代表する部分の相対的な大きさは、一般的に蓄積の進展に正比例して増大する。また労働にたいして支払われる部分、すなわち可変資本の部分を代表する価格要素の相対的な大きさは、一般に蓄積の進展に逆比例して減少する。

ただし不変資本部分にたいする可変資本部分の減少、すなわち資本価値の変動は、資本の素材的な構成要素の変化を近似的に示すだけである。たとえば紡績に投じられた資本価値の構成は、18世紀の初めにはその2分の1が不変資本部分で、残りの2分の1が可変資本部分だったとしよう。それが現在では8分の7が不変部分で、8分の1が可変資本部分になっているとしよう。しかし一定の量の紡績労働が生産的に消費する原料や労働手段の量で比較するならば、今では18世紀初めと比較して数百倍になっているだろう。その理由は単純なことであり、労働の生産性が向上すると、たんに労働によって消費される生産手段の量が増加するだけでなく、生産手段の価値がその量と比較すると大幅に低下するからである。つまり生産手段の価値は絶対的には増加するが、その量と比較すると相対的に低下するのである。だから不変資本と可変資本の差異の増大は、不変資本が投じられる生産手段の量と、可変資本が投じられる労働力の量の差異の増大と比較すると、はるかに小さいのである。前者の差異は、後者の差異の増加とともに増大するが、後者ほど大きく増えない。

ところで蓄積が進展すると、可変資本部分の相対的な大きさは減少するものの、絶対的な大きさは増大することもありうる。ある資本価値の当初の構成が不変資本50%、可変資本50%だったとしよう。そして後にその構成が不変資本80%、可変資本20%に変わったとしよう。そのあいだに当初の資本、たとえば6000ポンドが1万8000ポンドに増加していたとすれば、可変資本の部分も5分の1だけ増加することになる。当初は3000ポンドだったのが、今では3600ポンドになっているのである。ただし労働の需要を20%増やすためには、かつては資本を20%増やせば十分であったのに、今では当初の資本も3倍にする必要がある。

 

本源的蓄積

第4篇で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織化することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化することができる。商品生産では生産手段は私人の所有であり、したがって手の労働者は単独で独立に商品を生産するか、または自己経営のための手段をもっていなければ自分の労働力商品として売るのであるが、このような商品生産という基礎の上では、かの前提は、ただ個別資本の増大によってのみ、または、ただ社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されて行くのにつれて、実現される。商品生産という地盤は、大規模な生産を、ただ資本主義的形態においてのみになうことができる。したがって、個々の商品生産者の手のなかでのある程度の資本の蓄積が、独自な資本主義的生産様式の前提となるのである。それゆえ、われわれも、手工業から資本主義的経営への移行にさいしては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。それは本源的蓄積と呼ばれてもよい。なぜならば、それは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的な基礎だからである。このような蓄積そのものがどうして生ずるかは、ここではまだ研究しなくてもよい。とにかく、それが出発点なのである。しかし、この基礎の上で成長するところの、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、すべて、同時にまた剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であり、この剰余生産物はそれ自身または蓄積を形成要素である。だから、この方法は、同時に、資本による資本の生産の方法、または資本の加速的蓄積の方法である。剰余価値から資本への連続的な再転化は、生産過程にはいる資本の量が増大して行くこととして現われる。この増大はまた、生産規模の拡大の基礎となり、それに伴う同時に労働の生産力の増大方法の基礎となり、剰余過程の加速的生産の基礎となる。こうして、ある程度の資本蓄積が独自な資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、後者はまた反作用的に資本の加速的蓄積の原因になるのである。それだから、資本の蓄積につれて独自な資本主義的生産様式が発達するのであり、また独自な資本主義的生産様式の発展につれて、資本の蓄積が進展するのである。この二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的構成の変化を生みだすのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。

労働の社会的生産力の発展は、大規模な協業によって可能となりました。例えば、労働の分割と結合とを組織化することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化することができたのです。

商品生産では生産手段は私的な個人の所有です。したがって職人は単独で独立に商品を生産するか、または自営する資金をもっていなければ自分の労働力を商品として売るしかないのです。したがって、大規模な協業が可能となるのは、個別資本を増大させるしかないのです。あるいはまた、社会の生産手段と生活手段が資本家の私有物に転化されて行くのにつれて、可能となります。商品生産という地盤が大規模な生産をできるようにするには、資本主義的生産形態をとることが必要です。この資本主義的生産様式がつくられるには、個々の生産者にある程度の大きさの資本が蓄積されねばなりません。つまり、手工業から資本主義的経営に移行するには、このような資本の蓄積が必要になると考えざるを得なかったのです。このような資本の蓄積は、資本主義的生産の結果ではなく、その出発点となるものであることが分かりました。それが本源的蓄積と呼ばれるものです。しかし、このような基礎の上で発展してきた労働の社会的生産力を向上させる方法は、そのまま剰余価値あるいは剰余生産物の生産を増加させるための方法であり、この剰余生産物は資本の蓄積を形成する要素です。この方法は、同時に資本によって資本を生産する方法であり、その蓄積を加速する方法でもあることになります。剰余価値が継続して資本に転化すると、生産過程に投入される資本が増加することになります。それは生産規模を拡大するため基礎であり、同時に労働生産力を向上させる方法の基礎であり、剰余過程の生産を加速するための基礎でもあるのです。それはすなわち、ある程度の資本蓄積が、資本主義的生産様式の条件であるなら、反対に、この生産様式が資本の蓄積を加速させる原因となります。このようにして資本の蓄積が進むと資本主義的生産様式が発達し、この生産様式によって資本の蓄積が進むのです。この二つの経済的要因は互いに刺激を与え、その刺激に複比例して、資本の技術的構成が変化し、この変化によって資本の不変部分に比べて可変部分はますます小さくなっていくのです。

第4篇で確認したことだが、労働の社会的な生産力の発展は、大規模な協業を前提としているのであり、この前提のもとでなければ、労働の分割と結合の組織化も、大量に集積することによる生産手段の節約も行えない。またこの前提のもとでのみ、機械システムなど、素材的にも共同でしか利用することのできない労働手段を作りだし、巨大な自然力を生産に奉仕させ、生産過程を科学の技術的な応用分野にすることができるのである。

ところで生産手段が私的な個人に所有されているような商品生産、すなわち職人が個別に独立して商品を生産しているか、自営する資金がない場合にはみずからの労働力を販売するしかないような商品生産の基礎の上では、このような前提を満たすためには個別の資本を増大させるしかない。あるいは社会的な生産手段と生活手が、どの程度まで資本家の私有財産に変化するかに応じて、こうした前提が満たされるようになる。

商品生産の土台が、大規模な生産を担うことができるようになるためには、資本制的な生産形態をとるしかない。だから資本制に固有の生産様式が構築されるための前提となるのは、個々の商品生産者の手元に、特定の大きさの資本が蓄積されることである。そこで手工業から資本制的な経営に移行するに当たっては、このような蓄積を想定しなければならなかったのである。この蓄積は、資本制的に固有な生産によって生まれた歴史的な結果ではなく、その歴史的な基礎であるから、これを原初的な蓄積と呼ぶことができるだろう。それがどのようにして発生したかは、ここではまだ研究する必要がない。それが出発点であることを確認しておけばよい。

しかしこの土台の上で発展してきた労働の社会的な生産力を向上させる方法はすべて、そのまま増殖価値または増殖生産物の生産を増加させるための方法であり、増殖生産物は資本の蓄積を形成する要素でもある。この方法は同時に、資本によって資本を生産する方法であり、その蓄積を加速する方法でもある。増殖価値がたえず資本に変容されていると、生産過程に入る資本が増加することになる。それは生産の規模を拡大するための基礎となり、同時に労働の生産力を向上させる方法の基礎となり、増殖過程の生産を加速するための基礎となる。

すなわちある程度の資本の蓄積が、資本制に固有の生産様式の条件として現われると、この生産様式が逆向きに働いて、資本の蓄積を加速させるため原因となるのである。こうして資本が蓄積されると資本制に固有の生産様式が発達し、この資本制に固有の生産様式によって、資本の蓄積が進むことになる。この二つの経済的に要因はたがいに刺激を与えあうのであり、その刺激に複比例する形で、資本の技術的に構成が変化し、不変資本の部分と比較して、可変資本の部分はますます小さくなっていくのである。 

 

資本の集積の特徴

各個の資本は生産手段が大なり小なりの集積であって、その大小に応じて大なり小なりの労働者軍の指揮権をもっている。どの蓄積も新たな蓄積の手段となる。それは、資本として機能する富の量の増加につれて、個別資本家の手のなかでのこの富の集積を拡大し、したがって大規模生産と独自な資本主義的生産方法との基礎を拡大する。社会資本の増大は多数の個別資本の増大によって行われる。他の事情はすべて変わらないと前提すれば、個別資本は、またそれらとともに生産手段の集積は、それらの資本が社会的総資本の可除部分をなしている割合に応じて増大する。同時に、元の資本から若枝が分かれて、新しい独立な資本として機能する。その際、とりわけ、資本家の家族のあいだでの財産の分割は、一つの大きな役割を演ずる。したがって、資本の蓄積につれて資本家の数も多かれ少なかれ増えるのである。このような集積は、直接に蓄積にもとづくものであり、またはむしろ蓄積と同じなのであるが、それは二つの点によって特徴づけられる。第一に、個別資本家の手のなかでの社会的生産手段の集積の増大は、他の事情が変わらなければ、社会的富の増大の程度によって制限されている。第二に、社会的資本の、それぞれの特殊な生産部面に定着している部分は、多数の資本家のあいだに配分されていて、彼らは互いに独立して競争する商品生産者として相対している。だから、蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行われているのである。それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現われるが、他方では多数の個別資本の相互の反発としても現われるのである。

個別の資本は生産手段の集積されたもので、その大きさに応じた労働者集団への指揮権を有します。蓄積は新たな蓄積のための手段となり、資本として機能している富が増加すれば、個別の資本家の手のなかでこの富の集積を拡大し、その結果として大規模生産と独自な資本主義的生産方法の基礎が拡大します。社会資本の増大は多数の個別の資本の増大によって行われます。他の事情はすべて変わらないとすれば、個別資本あるは生産手段の集積は、個別の資本が社会的総資本の分割可能な構成部分となる割合に応じて増大します。同時に、元の資本から新たな資本が分岐して独立して機能をはじめます。その際、とくに重要な役割を果たすのは、資本家の家族への資産の分割です。そして、資本の蓄積とともに資本家の数も増えます。このような集積について、つぎの二つの特徴をあげることができると思います。

第1に、社会的生産手段は個別の資本家にそれぞれ集積されますが、社会的な富の増加の程度に応じたものとなります。第2に、社会的資本のなかでも特殊な生産部門についてのものは多くの資本家に分配されているので、これらの資本家は互いに競合する商品の生産者として向き合っています。それゆえ、古い資本が

蓄積とそれに伴う集積とが多数の点に分散されているだけではなく、現に機能している資本の増大と交錯して新たな資本の形成や古い資本の分裂が行われているのです。

すべての個別資本は、生産手段が多少なりとも集積されたものであり、それに応じて労働者軍団への指揮権を多かれ少なかれ所有している。あらゆる蓄積は、新たな蓄積のための手段となる。資本として機能している富の量が増大するとともに、蓄積はこの富をますます個別の資本家の手中に集積させ、このようにして大規模な生産と資本制に固有な生産方法の土台を拡大していく。そして多数の個別の資本が増加することで、社会資本が増大していくのである。他のすべての事情と同じと想定すると、個別資本が社会的な総資本の分割可能な構成部分となるのに比例して、個別資本は増大し、それとともに生産手段の集積も進展する。

同時に、もとの資本から若い枝が分岐し、新たな独立した資本として機能するようになる。その際にとくに重要な役割をはたすのは、資本家の家族への資産の分割である。こうして資本の蓄積とともに、資本家の総数も多少なりとも増加することになる。この種の集積は直接に蓄積を土台にしたものであり、むしろ蓄積と同じものとなる。こうした集積について、次の二つの特徴を挙げることができる。

第一に、社会的な生産手段は個別の資本家のもとにますます集積することになるが、他の事情が同じであればこのプロセスは、社会的な富の増加の度合いによって制約される。第二に、社会的な資本のうち、特別な生産分野に定着している部分は、多数の資本家のあいだに分配されているのであり、これらの資本家は独立して競合する商品の生産者として向き合っている。古い資本が分割されることによって、すでに機能している資本の増加が阻害される。このため蓄積は生産手段の集積の進展であり、労働の指揮権の集積の進展であるが、他方では多数の個別資本どうしの相互反発としても現われるのである。

 

資本の集中プロセス

このような、多数の個別資本への社会的総資本の分裂、またはその諸部分の相互の反発にたいしては、この諸部分の吸引が反対に作用する。これは、もはや、生産手段や労働指揮の単純な、蓄積と同じ意味の集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、それらの個別的独立の解消であり、資本家による資本家からの収奪であり、少数のより大きな資本への多数のより小さい資本の転化である。この過程を第一の過程から区別するものは、この過程はただすでに存在し機能している資本の配分の変化を前提するだけであり、したがってそれが行われる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということである。一方で資本が一つの手のなかで大きなかたまりにふくれ上がるのは、他方で多くの手のなか資本がなくなるからである。これは、蓄積および集積とは区別される本来の集中である。

このような諸資本の集中または資本による資本の吸収の諸法則をここで展開することはできない。事実を簡単に示唆しておくだけで十分である。競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業を正常な条件で営むために必要な個別資本の最小量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は消滅する。このようなことは別にしても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがては競争戦での一つの新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。

このように社会的総資本は多くの個別の資本に分散し、それぞれの個別資本が互いに反発しあっています。しかし、それと同時に反発に対する反作用として互いの引力も発生します。それは、蓄積の場合と同じような生産手段と労働者の指揮権の集積ではありません。すでに形成されている資本の集積であり、中小の個別の資本が大資本に収奪されて吸収されるかにです。このプロセスの特徴的なところは、すでに機能している既存の資本の配分が変化することを前提している、すなわち、それが行われる範囲は社会的富の絶対的な増加または蓄積の絶対的な限界によって制限されてはいないということです。もしも、資本が一人だけのものとなり、巨大化したとすれば、それは多くの人々から買収したからで、これは蓄積とか集積といったことではなく、集中です。このような資本の集中についての法則は、資本による他の資本の吸収の法則であり、これについては、ここではこれ以上は考察しません。ここでは、単に事実を指摘するだけにします。競争は商品の安売り合戦の形で行われます。商品の販売価格を安くするためには、労働の生産性を向上させる必要があり、労働の生産性は、生産の規模にさゆうされます。それやえ、大きな資本は小さな資本に競争で勝利することになります。また、資本主義的生産様式が発達すると、事業を正常な条件で営むために最低限必要な資本の量もより小さくて済むようになることです。そのため、中小の資本は、大きな資本が支配していない分野に参入して、そこで競争しようとします。このような分野での競争の激しさは、競争し合う資本の数が多くなければなるほど激しいものとなります。このような競争は、多くの小資本が競争に敗れて没落することで終わります。この競争に負けて没落した資本の一部は、勝利した資本のもとに移り、残りは消滅してしまいます。他方、資本主義的生産に伴って、信用制度という新しい制度が作り出されました。当初は蓄積の補助的なものとして目立たないものでしたが、やがては競争の際の大きな武器となり、資本の集中を進めるメカニズムとなりました。

社会的な総資本はこのように多数の個別資本に分裂し、分裂した個別資本がたがいに反発しあう。しかし同時にこの反発とは逆向きの引力も発生する。それは、もはや蓄積と同じような性格の生産手段と労働の指揮権のたんなる集積ではない。すでに形成された資本の集積であり、個別の独立した経営の廃棄であり、資本家による資本家の収奪であり、多数の中小の資本が少数の大資本に変容していくことである。

このプロセスが以前のプロセスと異なるところは、このプロセスはすでに機能している既存の資本の配分が変化することを前提としており、社会的な富の増加による節約、すなわち蓄積の絶対的な限界による制約をうけていないことにある。もし資本が一人の手のうちであまりに巨大化しているとすれば、それは多くの人々の手から離れたからである。これはもはや蓄積でも集積でもなく、ほんらいの意味での集中である。

この資本の集中の法則、資本による資本の吸収の法則について、ここではこれ以上は詳しく考察することができない。事実を簡単に指摘するだけでもよいだろう。闘争は商品の安売り合戦によって行われる。他の事情が同じであれば、商品の価格を引き下げるには、労働の生産性が向上する必要があり、労働の生産性は生産の規模に左右される。だから大きな資本は小さな資本に勝利する。

またすでに確認されたように、資本制的な生産様式が発達すると、通常の条件のもとで一つの事業を経営するために必要となる個々の資本の最低額が高くなっていく。そのため中小の資本は、大工業がまだ散発的に征服しているにすぎないか、完全には征服していない産業分野に参入しようと押しかける。こうした産業分野での競争の激しさは、競合する資本の数に比例して強くなり、資本の大きさに反比例する。この競争は、多数の小さな資本の没落によって終わるのが常である。没落したこれらの資本の一部は勝利した資本のもとに移り、一部は消滅する。

これとは別に、資本制的な生産とともに、信用制度というまったく新しい力が作りだされる。この制度は最初は蓄積の慎ましい助手でもあるかのように、ひっそりと忍び込み、社会の表面に散在しているさまざまな大きさの貨幣手段を、見えざる糸によってかき集め、個別の資本家や資本家連合のもとに送り込むにすぎない。しかしやがては競争の戦で新しい恐るべき武器となり、ついに資本の集中のための法外な社会的なメカニズムらになるのである。

 

集中と集積の違い

資本主義生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、今日では、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越によって規定されているとはいえ、集中の進展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことはとくに集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本を諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それはその部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

資本主義的生産と蓄積の進展により、集中を促進する強力なメカニズムである競争と信用制度も発展します。それと同時に、集中される素材となる個別資本も増加します。資本主義的生産が拡大すると、一方では社会的欲望が発生し、もう一方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大企業のための技術的手段が作り出されます。したがって、現在では個別資本の間の相互に引き合う傾向と集中への傾向がかつてないほど強くなっていまます。集中へと向かう運動の相対的な広さと強さは、ある程度まではすでに実現された富の大きさや経済メカニズムの優位さによって決まります。しかし、社会的資本の絶対量が増加するといって、必ずしも集中が進展するとは限りません。これこそが集中と集積を区別する重要な特徴です。集積は拡大再生産を言い換えたものにすぎませんが、集中はすでに存在する資本の配分の変更、つまり社会的資本を構成する部分の量的な配分の変更によって実現することができるのです。資本が1人の資本家の手の中で巨大なものに成長することができるのは、多数の個別資本家の手の中から資本を奪ったからです。ある事業分野に投資されたさまざまな資本が、すべて一つの個別資本に融合させられたとすれば、その事業分野では集中が極限に達したと言うことができます。一つの社会でこのような極限に達したということは、社会的資本が1人の資本家の手あるいは一つの会社に集められたということなのです。

資本制的な生産と蓄積が進展すると、集中を促進するもっとも強力な二つの梃子である競争と信用制度も、同じく発達してくる。それと同時に蓄積が進展することで、集中のための素材である個別資本も増加してくる。資本制的な生産が拡大すると、一方では社会的な欲望が生みだされ、他方では巨大な産業企業のための技術的な手段が作りだされるが、こうした活動は、それに先立つ資本の集中と結びついたものである。したがって現在では、個別資本のあいだで働く相互的な引力と集中の傾向が、かつてないほどに強くなっている。

集中へと向かう運動の相対的な規模とエネルギーは、ある程度まではすでに実現された資本制的な富の大きさと、経済的なメカニズムの優位に支えられている。ただし集中が進展するかどうかは、社会的な資本の量が絶対的に増加することによって決まるわけではない。そして、これこそが集中と集積を区別する重要な特徴である。集積とは、拡大再生産を言い換えたものにすぎない。ところが集中は、すでに存在する資本の分配を変更するだけで実現できる。社会的な資本を構成するそれぞれの部分の量的な分配を変えればよいのである。

資本が一人の手の中で巨大な量に成長することができるのは、すでに多数の人々の手から資本が奪われたからである。ある事業分野に投資された資本がすべて一つの個別資本に融合させられたとすれば、その事業分野では集中がその極限に達していることになる。一つの社会でこの極限に到達したとき、社会的な資本の全体がただ一人の資本家の手に、あるいはただ一つの資本家の会社の手に集められたのである。

 

集中が行われる道筋

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行われようと─この場合はいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、断片化された資本をみずからのもとに引き寄せる場合である。あるいは集中はすでに形成されているか、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せる─、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行われようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、その物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからです。このような規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行われることがあります。この場合はある一つの資本が他の資本にたいして圧倒的に強い引力の中心となり、他の資本の個別の凝縮力を破壊し、断片化された資本をみずからのもとに引き寄せる場合です。他方では、集中はすでに形成されているか、形成されつつある多数の資本が集まって、一つの株式会社を設立するという円満な手続きを踏んで、資本を融合するという形で行われることがあります。どちらでも経済的な作用は同じです。産業施設の規模が拡大することは、どの場合にも、多数の人々の総労働をいっそう包括的に組織するための出発点となるもので、こうした人々の物質的推進力をいっそう広く発展させることができます。これは、個々ばらばらに慣習に従って営まれてきた生産過程を、社会的に結合し、科学的に処理される生産過程へと転化させて行くための出発点になるのです。

集中は、産業資本家が事業の規模を拡大できるようにすることで、蓄積の働きを手助けする。こうした規模の拡大は、蓄積の結果として起こることもあるだろうし、集中の結果として起こることもあるだろう。集中は合併という暴力的な方法で行われることがある。それはある一つの資本が他の資本にたいして圧倒的に強い引力の中心となり、他の資本の個別の凝縮力を破壊し、断片化された資本をみずからのもとに引き寄せる場合である。あるいは集中はすでに形成されているか、形成されつつある多数の資本が集まって、一つの株式会社を設立するという円満な手続きを踏んで、資本を融合するという形で行われることがある。どちらでも経済的な作用は同じである。

産業設備の規模が拡大することは、多くの人々の総労働をさらに包括的に組織するための出発点となるものであり、こうした人々の物質的な原動力をさらに広範に発展させることができる。これは慣習にしたがって経営されてきた個別の生産過程を、社会的に結合し、科学的に処理される生産過程へとたえず転換していくための出発点となるのである。

 

集中と集積の違い

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる集中の漸次的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界にはまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

しかし、集中は社会的な資本を構成する諸部分の量的な編成を変えるだけですが、これに比べて蓄積は、いわば再生産を円運動から螺旋運動に移行させることによって、次第に増大していくプロセスであり、きわめて緩慢な歩みを示すのは明らかです。もしも、蓄積によって個別の資本が大きくなって鉄道を敷設できるようになるのを待っていたとしたら、世界には鉄道というものが、未だに存在していなかったでしょう。ところが、集中は、株式会社というやり方で、たちまちのうちに実現させてしまったのです。集中は、蓄積の効果を向上させ、加速させることができる一方で、資本の技術的な組成の変化を促進し、拡大します。この変革によって、可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのです。

ただし、集中は社会的な資本を構成する中心部分の量的な分布を変更するだけであるが、これにたいして蓄積は、いわば再生産を円運動から螺旋運動に移行させることによって、次第に増大していくプロセスであり、きわめて緩慢な歩みを示すのは明らかである。蓄積の手段だけで、いくつかの個別の資本が鉄道を敷設できるようになるまで待っていたのであれば、世界にはまだ鉄道というものは依存していなかっただろう。これにたいして集中は、株式会社という方法を利用することで、瞬く間にこれを実現した。このように集中は蓄積の効果を向上させ、加速させることができる一方で、資本の技術的な組成の変化を促進し、拡大する。この変革によって資本の不変部分が増加しながら、可変部分が減少し、それによって労働の需要が相対的に減少することになる。

 

集中と蓄積の働き

集中と蓄積によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこには─今日では─集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新らしい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役だつ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。

集中と蓄積とによって一夜のうちに融合された資本の塊は、他の資本と同じように、しかもそれより迅速に再生産され、増殖され、それによって社会的蓄積をより強力に促すのです。だから、今日では、社会的蓄積の進展には、暗黙のうちに集中の働きが含意されているのです。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、新しい発明や発見あるいは産業上の諸改良を利用するための媒体として役だちます。しかし、古い資本も、いつかは、その全体をあらたなものに作り変えねばならない瞬間を迎えるものであり、脱皮することで、技術的にすべてが完備された姿となって再生されます。それは、より少ない労働で、より多くの機械装置や原料を動かすことができる姿です。このように労働の需要が絶対的に減少するのは必然的で、この脱皮のプロセスを経験した資本が、集中の運動のために規模を拡大すればするほど、この労働の需要の減少は大きなものとなるのです。

このように、蓄積の進行により形成される追加資本は、その規模に比べれば雇用する労働者の数がますます少なくなるようになり、新しい構成で周期的に再生産される古い資本は、それまで雇用していた労働者を大量に解雇するようになるのです。

集中と蓄積によって一晩のうちに融合された資本の塊は、他の資本の塊と同じく、しかも他の資本よりも迅速に再生産され、増殖される。それによって新たな社会的な蓄積の梃子として強力に働くのである。だから現在では、社会的な蓄積の進展を語るとき、そこには暗黙のうちに集中の働きが含意されているのである。

正常な蓄積のあいだに追加資本が形成されるが、これは新たな発明や発見、あるいは産業における一般的な改良のための手段としてとくに有益である。しかし旧資本もやがては、その全体をあらたなものに作り変えねばならない瞬間を迎えるものであり、脱皮することで、技術的にすべてが完備された姿となって再生されます。こうしてより少ない労働で、より多くの機械装置や原料を動かすことができるようになる。それによって労働の需要が絶対的に減少するのは避けられないことであるが、この脱皮のプロセスを経験した資本が、集中の運動のために規模を拡大すればするほど、この労働の需要の減少は大きなものとなるだろう。

このように、蓄積が進む際に形成される追加資本は、その規模と比較するとますます少数の労働者しか雇用しなくなり、新たな構成で周期的に再生産される旧資本は、それまで雇用していた労働者をますます大量に放りだすのである。

 

 

第3節 相対的過剰人口または産業予備軍の累進的性格

相対的過剰人口の発生

資本の蓄積は最初はただ量的拡大として現われたのであるが、それが、いま見てきたように、資本の構成の不断の質的変化を伴って、すなわち資本の可変成分を犠牲としての不変成分の不断の増大を伴って、行われるようになるのである。

独自な資本主義的生産様式、それに対応する労働の生産力の発展、それによってひき起こされる資本の有機的構成の変化は、蓄積の進展または社会的富の増大と単に同じ歩調で進むだけではない。それらはもっとずっと速く進行する。なぜかといえば、単純な蓄積すなわち総資本の絶対的拡大は総資本の個々の要素の集中を伴うからであり、また追加資本の技術的変革は原資本の技術的変革を伴うからである。つまり、蓄積の進行につれて、不変資本部分と可変資本部分との割合が変わって、最初は1対1だったのに、2対1、3対1、4対1、5対1、7対1というようになり、したがって、資本がおおきくなるにつれて、その総価値の2分の1ではなく、次々に、3分の1、4分の1、5分の1、6分の1、8分の1等々だけが労働力に転換されるようになり、反対に、3分の2、4分の3、5分の4、6分の5、8分の7、等々が生産手段に転換されるようになるのである。労働にたいする需要は総資本の大きさによってではなくその可変成分の大きさによって規定されているのだから、それは、総資本の増大につれてますます減って行くのであって、前に想定したように総資本の増大に比例して増加するのではない。それは、資本大きさに比べて相対的に減少し、またこの大きさが増すにつれて加速的累進的に減少する。総資本の増大につれて、その可変成分、すなわち総資本に合体される労働力も増大するにはちがいないが、その増大の割合は絶えず小さくなって行くのである。蓄積が、与えられた技術的基礎の上での生産の単なる拡張として作用する中休み期間は、短くなって行く。与えられた大きさの追加労働者数を吸収するために、または、古い資本も絶えず形態を変えるので、すでに機能している労働者数を働かせるためにも、ますます速度を増す総資本の蓄積が必要になっているだけではない。この増大する蓄積と集中とは、それ自身また資本の構成の新たな変化の、すなわち資本の不変成分に比べての可変成分のいっそう速くなる減少の、一つの源泉になるのである。このような、総資本の増大につれて速くなり、そして総資本そのものの増大よりももっと速くなるその可変成分の相対的な減少は、他面では、反対に、可変資本すなわち労働者人口の雇用手段の増大よりもますます速くなる労働者人口の絶対的な増大のように見える。そうではなく、むしろ、資本主義的蓄積は、しかもその精力と規模とに比例して、絶えず、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求にとってよけいな、したがって過剰な、または追加的な労働者人口を生みだすのである。

資本の蓄積は、最初は量の拡大として行われました。しかし、以前にも見たように資本の構成は不断に変化しています。可変資本を減少させた代わりに、不変資本を増加させながら、蓄積が進む。

資本主義は生産様式とそれに対応した労働者の生産力の発展とそれによって引き起こされる資本の有機的構成の変化は、蓄積の進展や社会的富の増加と同じ歩調で進むのですが、それだけてなく、それよりもずっと速いペースで進みます。というのも、単純な蓄積すなわち総資本の拡大は総資本の個々の要素の集中をともなうからで、また、追加資本の技術的革新は原資本の技術的革新を伴うからです。つまり、蓄積が進行すると、不変資本部分と可変資本部分の比率は、最初は1:1だったのが、2:1、3:1、4:1、5:1と変化していくのです。そして資本が大きくなるにつれて、資本の総価値において労働力が占める比率は2分の1から3分の1、4分の1、5分の1、6分の1、8分の1へと段階的に低下し、反対に生産手段の占める比率は3分の2、4分の3、5分の4、6分の5、8分の7と段階的に上昇していきます。労働に対する需要は、総資本の大きさによって決まるのではなく、可変資本部分の大きさによって決まります。だから、総資本が増加するととるに、それに比例して装荷するのではなく、しだいに減少していきます。つまり、総資本の増加とともに、労働に対する需要は相対的に減少し、しかも総資本が大きくなればなるほど、加速度的に小さくなるというわけです。総資本が増大すれば、可変資本部分すなわちそこに取り込まれる労働力も増加します。ただし、その増加の割合は低下していきます。 蓄積が、その技術的基盤で生産を拡大させるだけの中休み期間は、段々と短くなっていき、追加労働者を新たに雇うためには、それどこか、旧資本がたえず変身するので、すでに雇用されている労働者の雇用を維持するためには、総資本の蓄積が加速度的に進む必要があるのです。さらに蓄積と集中が進行すると、資本の新たな構成の変化、すなわち資本の不変部分に比べて可変部分がより速く減少すること、を促す源泉のひとつとなります。このような総資本の増加とともに、可変部分の減少は、総資本の増大よりも速くなります。反対に、この可変部分の相対的な減少は、可変資本の絶対的な増加すなわち労働者人口の雇用手段の増加より速いペースで労働者人口が増加するように見えます。しかし、実際はそうではなく、むしろ資本主義的蓄積は、そのエネルギーや規模に比例して、絶えず相対的に過剰労働者人口を発生させます。これは資本の平均的な価値増殖への欲求にとっては余計な過剰労働者人口です。

資本の蓄積はもともとは量的な拡大として行われたにすぎないが、すでに確認したように、その構成はたえず質的に変化している。可変資本の部分を減少させ、不変資本の部分を持続的に増加させながら、蓄積が進むのである。

資本制は固有の生産様式、それに対応した労働者の生産力の発展、そしてそれに基づく資本の有機的な構成の変化は、蓄積の進展あるいは社会的な富の増加と並行して進展するのであるが、それよりもはるかに速いペースで進展する。それは単純な蓄積や総資本の絶対的な拡大にともなって、総資本の個別的な要素においても集中が発生し、追加資本の技術革新にともなって原資本の技術も革新されるためです。

蓄積が進行すると、不変資本の部分と可変資本の部分の比率は、最初は1対1だったとすると、それが2対1に、3対1に、4対1に、5対1に、さらに7対1にと変化していく。そして資本の増加とともに、資本の総価値において労働力が占める比率は2分の1ではなく、3分の1、4分の1、5分の1、6分の1、8分の1へと段階的に低下し、生産手段が占める比率は段階的に3分の2、4分の3、5分の4、6分の5、8分の7のように増加する。

労働にたいする需要は、総資本の大きさによって決まるのではなく、その可変部分の大きさによって決まるのであるから、総資本が増加するとともに、前に想定したように、それに比例して増加するのではなく、次第に減少していくのである。総資本の増加とともに、労働にたいする需要は相対的に減少し、しかも総資本が大きくなればなるほど、加速度的に小さくなる。

総資本の規模が大きくなれば、可変資本の部分と、そこにとりこまれる労働力も次第に増加するのはたしかだが、その増大の比率は低下しつづける。蓄積がたんに既存の技術的な基盤に基づいて、生産を拡大するだけにすぎない中間的な停滞期は、次第に短縮されていく。特定の人数の労働者を追加的に雇用するには、それどこか、旧資本がたえず変身するので、すでに雇用されている労働者の雇用を維持するためには、総資本の蓄積が加速度的に進む必要があるのである。

さらにこのように蓄積と集中が進展すると、それが資本の新たな構成の変化を促す源泉となり、これが作用して資本の不変的な部分にたいする可変的な部分の減少がさらに加速されることになる。総資本の増加とともに、総資本の可変的な部分の相対的な減少が加速度的に進行するのであり、それ自体の絶対的な増加よりも急激に生じる。そしてこの相対的な減少のために、可変資本の絶対的な増加、すなわち労働者の雇用手段の増加よりも速いペースで、全体の労働者人口が絶対的に増加しているようにみえる。しかし実際は資本制的な蓄積は、そのエネルギーや規模と比較すると、つねに相対的な過剰労働者人口を生産する。これは資本の平均的な価値増殖の欲望にとって必要でない余剰な、追加的な労働者人口である。

 

資本主義的な生産に固有の人口法則

社会的総資本を見れば、その蓄積の運動はある時は周期的な変動を呼び起こし、またある時はこの運動の諸契機が同時にいろいろな生産部面に配分される。いくつかの部面では資本の構成の変化が、資本の絶対量の増大なしに、単なる集積の結果として起きる。ほかの諸部面では資本の絶対的な増大が、その可変成部分またはそれによって吸収される労働力の絶対的な減少と結びついている。また別の諸部面では、資本が、ある時は、与えられた技術的基盤の上で増大を続けて、その増大に比例して追加労働力を引き寄せ、ある時は有機的な変化が生じて資本の可変成分が縮小する。どの部面でも、可変資本部分の増大またはそれによって吸収される労働力の絶対的な減少と結びついている。また別の諸部面では、資本が、ある時は与えられた技術的基礎の上で増大を続けて、その増大に比例して追加労働力を引き寄せ、ある時は有機的な変化が生じて資本の可変成分が縮小する。どの部面でも、可変資本部分の増大、したがってまた就業労働者数の増加は、つねに激しい動揺と一時的な過剰人口生産とに結びついている。そのさい、この過剰人口の生産は、すでに就業している労働者をはじき出すという比較的目にたち形をとることもあれば、追加労働者人口を通常の排水溝に吸収することが困難になるというあまり人目につかないが効果は劣らない形をとることもある。すでに機能している社会的資本の大きさとその増大とにつれて、生産規模の拡大と動かされる労働者群の増大とにつれて、彼らの労働の生産力の発展につれて、富のすべての源泉の流れが広くなり満ちてくるにつれて、資本が労働者をますます多く引き寄せたり、ますます多くはじき出したりする規模もまた拡大され、資本の有機的構成や資本の技術的形態の変化はますます速くなり、また、ある時は同時に、ある時は交互に、この変化に襲われる生産部面の範囲は広くなる。だから、労働者人口は、それ自身が生み出す資本蓄積につれて、ますます大量にそれ自身の相対的過剰化の手段を生みだすのである。これこそ、資本主義的生産様式に特有な人口法則なのであって、じっさい、どの特殊な歴史的生産様式にも、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則があるのである。抽象的な人口法則というものは、ただ動植物にとって、人間が歴史的に干渉しないかぎりで、存在するだけである。

社会的総資本を見ると、その蓄積の運動が周期的な変化を起こしたり、その運動の要素がいろいろな生産分野に分配されたりします。ある生産分野では資本の絶対的な大きさはそのままで、単に集積の結果として資本の構成が変化します。別の生産分野では、資本の絶対的な大きさが増えて、その可変部分やそれに吸収される労働力が減少します。さらに別の産業分野では、資本が既存の技術的基盤の上で増大することで、その増大に比例して追加労働力を引き寄せて雇用されたり、あるいは、有機的な転換が起こって、可変部分が減少します。これらすべての産業分野で、可変部分の増加や雇用労働者の増加は、つねに激しい変動や一時的な過剰労働人口を生じさせます。その際に、この過剰労働人口が発生するは、すでに雇用されている労働者の解雇という明らかな結果を引き起こすこともあれば、追加的に雇用すべき労働者が雇用されなくなるという目立たたない結果を引き起こすこともあります。いずれにせよ、結果は変わりません。すでに機能している社会的資本の大きさやその増大の程度に応じて、あるいは生産規模の拡大と雇用している労働者数の増加の程度に応じて、あるいは労働生産力の向上に応じて、あるいはあらゆる富の源泉から派生する富の大きさに応じて、資本による労働者の雇用の規模も拡大し、あるいは資本による労働者の解雇の規模も増大します。そして、資本の有機的構成や資本の技術的形態の変化はますます急激なものとなり、ある時は同時並行で、ある時は別々に、このような変化が発生する生産分野の範囲も拡大します。だから、労働者人口は、それ自身が生みだす資本蓄積によって、自分たちが相対的に過剰となってしまう手段を、より大規模に生産するようになってしまう。これこそが、資本主義生産様式に特有の人口法則で、じっさい、どんな特殊な歴史的生産様式にでも、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則があるのです。

社会的な総資本を観察してみると、蓄積の運動があるときは周期的な変化を呼び起こし、あるときはその運動の要素がさまざまな生産分野に同時に配分されることが分かる。ある生産分野では、資本の絶対的な大きさはそのままで、たんなる集積によって資本の構成が変化している。別の生産分野では、資本が絶対的に増加し、その可変的な部分が、そしてそれに吸収された労働者が絶対的に減少している。さらに別の生産分野では、既存の技術的な基盤の上で資本が増加することで、その増加に比例して労働者が追加的に雇用されている。あるいは有機的な転換が発生して、可変資本の部分が減少している。これらすべての分野で、可変資本の増加および雇用される労働者の人数の増加は、つねに激しい変動を、一時的な過剰労働人口の発生をもたらす。この過剰な労働人口は、すでに雇用されている労働者を解雇するという明確な形で発生することも、追加的に雇用すべき労働者を通常の捌け口で吸収できなくなるという目立たない形で発生することもあるが、その作用に変わりはない。

すでに機能している社会資本の規模の大きさと、その増大の程度に応じて、あるいは生産の規模の拡大と雇用している労働者の人数の増加に応じて、労働の生産力の発展に応じて、あらゆる富の源泉から湧きでる富の大きさに応じて、資本による労働者の雇用の規模も拡大し、あるいは資本による労働者の解雇も増大する。そして資本の有機的な構成とその技術的な形式における変動も急激なものになり、ときには同時に、ときには交替でこうした変動が発生する生産分野の範囲も拡大される。

したがって労働者人口は、みずから生みだした資本の蓄積によって、自分たちが相対的に過剰となるための手段を、より大きな規模で生産するようになる。あらゆる歴史的な生産段階には、歴史的に妥当する特定の人口法則があるが、これこそが資本制的な生産に固有の人口法則である。〔マルサスの原理のような〕抽象的な人工法則が存在するのは植物と動物においてだけであり、人類が歴史的に介入しないかぎりで、存在するのである。

 

過剰労働人口の役割

しかし、過剰労働者人口が蓄積の、言い換えれば資本主義的基礎の上での富の発展の、必然的な産物だとすれば、逆にまたこの過剰人口は、資本主義的蓄積の槓杆に、じつに資本主義的生産様式の一つの存立条件に、なるのである。それは自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て上げたものででもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである。この過剰人口は、資本の変転する増殖欲求のために、いつでも搾取できる人間材料を、現実の人口増加の制限にはかかわりなしに、つくりだすのである。蓄積と、それに伴う労働の生産力の発展とにつれて、突発的な資本の膨張力が増大するが、それは、現に機能している資本の弾力性が増し、また資本をただ自分の弾力的な一部分でしかないものとする絶対的な富が増大するからだけではなく、また、なにか特別な刺激があればすぐに信用がこの富の異常な部分を生産のために追加資本として役だてるからだけでもない。生産過程そのものの技術的な諸条件、すなわち機械や輸送機関などが、最大の規模で、追加的生産手段への剰余生産物の最も急速な転化を可能にするのである。社会的な富のうちの、蓄積の進展につれてふくれあがって追加資本に転化できる大量は、その市場がにわかに拡大された古い生産部門に、または、鉄道などのように、古い生産部門の発展によって必要になった新たに開かれた生産部門に、激しい勢いで押し寄せる。すべてこのような場合には、人間の大群が、突発的に、しかも他の部面で生産規模を害することなしに、決定的な点に投入されうるようになっていなければならない。過剰人口はそれを供給するのである。近代産業の特徴的な生産過程、すなわち、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されながら、10年ごとの循環をなしている形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その大なり小なりの吸収、さらにその再形成にもとづいている。この産業循環の変転する諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、過剰人口の最も精力的な生産動因の一つになるのである。

しかし、過剰労働者人口が、蓄積の、すなわち資本主義的基礎の上での富の成長は必然的な産物であるならば、反対に、この過剰人口は資本主義的蓄積を促す役割を果たすことになり、させには資本主義的生産の存立条件のひとつとなります。過剰人口は、いつでも自由に利用できる産業予備軍となるのであり、まるで資本が自らの費用で育て上げたものであるかのように、彼らを従属させます。過剰人口は、現実の人口増加への制約には関係なく、資本の価値増殖の欲求を満たすために、いつでも搾取することのできる人間素材を作り出します。蓄積が進み、それに伴って労働生産力が向上すると、資本の膨張力が突発的に増大します。それは、たんに、既存の資本の柔軟性が高くなり、この資本が柔軟な一部を形成する富の絶対量が増大するからではなく、また、信用制度よって何か特別な刺激があれば、この富の異常な部分を追加資本として生産に利用できるからでもない。生産過程そのものの技術的な条件、すなわち機械や輸送手段などによって剰余生産物をきわめて大規模かつ迅速に、追加的生産手段に変えることができるようになっているからです。蓄積が進むと、追加資本に転化できる社会的富が大量に氾濫し、それが市場で急に拡大した古くからの生産分野に゜激しく流れ込みます。さらに、鉄道などの古くからの生産部門が発展したため必要になった新しい青邨部門に勢いよく流れ込みます。すべてこのような場合に、大量の人間を、他の生産部門の生産規模を縮小させることなく、生産にとって重要な場所に迅速に投入できるようにしておく必要があります。過剰人口が、そのための人間を供給するのです。近代産業の特徴的な生産過程、すなわち、中程度の活況、生産の過熱、恐慌、沈滞の各時期で形成される循環過程が、小さな諸変動に中断されながら、10年周期の循環を繰り返す形態は、産業予備軍または過剰人口の不断の形成、その過剰人口の大なり小なりの吸収、さらにその再形成に基づいています。この産業循環の諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、さらに過剰人口を活発に再生産するのです。

しかし過剰労働者人口が蓄積の、すなわち資本制的な基礎における富の発展の必然的な産物であるならば、この過剰人口は逆に、資本制的な蓄積の梃の役割をはたすことになり、さらには資本制的な生産の存立条件の一つになるのである。過剰人口は、いつでも利用できる産業予備軍となるのであり、資本はみずからの費用で育てたかのように、この産業予備軍を絶対的にみずからのものとするのである。

過剰人口は、現実の人口増加の制約とはかかわりなく、つねに変化しつづける資本の価値増殖の欲望を満たすために、いつでも搾取できる〈人間素材〉を作りだす。蓄積が進み、それにともなって労働の生産力が発展すると、資本の膨張力が突発的に増大する。その理由はたんに、すでに機能している資本の弾力性が高まり、絶対的な富が増大するからだけではない(資本はこの富の弾力的な一部を形成する)。また、信用制度によって、どのような特別な刺激にたいしても、ただちにこの富の異例なほど多くの部分を、追加資本として生産に利用できるようにするからだけでもない。生産過程そのものの技術的な条件、すなわち機械類や輸送手段などによって、増殖生産物をきわめて大規模かつ迅速に、追加的な生産手段に変えることができるようになっているからである。

近代産業に特有の〈経歴〉は、中程度の好況、生産の過熱、恐慌、停滞という循環過程を、小さな変動によって中断されながら、10年周期で繰り返していくものであるが、これを支えているのが産業予備軍あるいは過剰人口の不断の形成であり、大規模あるいは小規模な〔過剰人口の〕吸収であり、その再形成である。この産業の循環過程もまた、転換局面において過剰人口を補充し、さらに活発に再生産する働きをするのである。

 

近代産業の生存条件

このような近代産業の特有な生産過程は、人類の過去のどの時代にも見られないものであるが、それは資本主義的生産の幼年期にも現われることはできなかった。資本の構成は非常に緩慢にしか変化しなかった。だから、資本の蓄積には、だいたいにおいて、それにつりあった労働需要の増大が対応した。資本の蓄積の進展は、現代に比べれば緩慢だったが、それでも、搾取可能な労働者人口の自然的限度にぶつかり、この限度は、後に述べるような強制手段によらなければ除かれないものだった。生産規模の突発的な発作的な膨張は、その突発的な収縮の前提である。収縮はまた膨張を呼び起こすのであるが、しかし膨張のほうは、利用可能な人間材料なしには、人口の絶対的増加に依存しない労働者の増加なしには、不可能である。このような増加は、労働者の一部分を絶えず「遊離させる」単純な過程によって、生産の増加に比べて使用労働者数を減らす方法によって、つくりだされる。だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現われている。天体は、ひとたび一定の運動に投げ入れられれば、絶えずその運動を繰り返すのであるが、ちょうどそれと同じように、社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮との運動に投げこまれてしまえば、絶えずこの運動を繰り返すのである。結果がまた原因になるのであって、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全過程の変転する諸局面は周期性の形態をとるのである。ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。

このような近代産業に特有の生産過程は、人類の過去の歴史のいかなる時代にも見られなかったものであり、資本主義的生産の初期にも現れていませんでした。資本主義的生産の初期には、資本の構成は変化してもとても緩慢なものでした。そのため、資本が蓄積されると、全体として労働の需要はそれに比例して増加したのです。現代と比較すると、当時は蓄積の進行がゆっくりしていて、搾取できる労働者人口には自然の制約がありました。しかし、この自然の制約は、後に述べるような強制手段によらなければ除くことのできないものでした。生産規模が突発的で発作的に膨張することは、それが突然に収縮するための条件でもあります。この収縮は膨張を再び呼び起こすものです。しかし、膨張するためには、自由に利用できる人間素材が必要であり、労働者の雇用者数が、全体の人口の絶対量が増加することと関係なく増加することが必要です。このような労働者の増加は、労働者の一部を不断に「放出」させるという単純なプロセスによって、そして、生産量の増加と比較して雇用される労働者数を相対的に減少させる方法によって、可能となります。このようにして近代産業のすべての運動形態は、労働者人口の一部をたえず失業者または半失業者の状態にしておくことから生ずるのです。古典派経済学は、産業循環のサイクルを転換期のたんなる徴候にすぎない信用の膨張や収縮を、このような転換の原因とみなしています。これはあさはかな見解です。一つの天体が決まった軌道を動き始めるようになると、後はつねに同じ運動を繰り返すように、社会的な生産も、膨張と収縮が交替する運動を始めた時は、つねに同じ運動を繰り返すようになります。つまり、結果がふたたび原因となり、プロセス全体の転換の局面は、みずからの条件をつねに再生産しながら、周期性という形式をとるのです。そしてこのような運動形態が固まると、古典派経済学ですら、資本の平均的な増殖欲求の水準から判断すると余分な過剰人口、すなわち相対的過剰人口が、近代産業の生存条件であることを理解するようになるのである。

この近代産業に特有の〈経歴〉は、人類の歴史のいかなる段階にもみられなかったものであり、資本制的な生産の幼年期にも成立しえないものだった。資本制的な生産の幼年期には、資本の構成はごく緩慢にしか変動しなかった。そのため資本が蓄積されると、概して労働の需要はそれに比例して増加したのである。現代と比較すると、当時は蓄積の進行が緩慢であり、搾取できる労働者人口には自然の制約があった。しかもいずれ考察するように、この自然の制約は暴力的な手段でなければ、とりのぞくことができないものだった。

生産規模が突然かつ断続的に膨張することは、それが突然に収縮しうるための条件である。この収縮は膨張をふたたび呼び起こす。しかし膨張するためには、自由に利用できる〈人間素材〉が必要である。労働者の雇用人数が、全体の人口の絶対的な増加とはかかわりなく増加することが必要なのである。このような労働者の増加は、労働者の一部をつねに「放出」しておくという単純なプロセスによって、そして生産の増大と比較して、雇用される労働者の人数を相対的に減少させるさまざまな方法によって可能となる。こうして近代産業のすべての運動形態は、労働者人口の一部をたえず失業者あるいは半失業者に変えておくことから生まれているのである。

〔古典派〕経済学の浅薄さはとくに、産業的な循環サイクルの転換期のたんなる兆候にすぎない信用の膨張を、こうした転換の原因とみなしているところにある。一つの天体が決まった軌道を動き始めるようになると、後はつねに同じ運動を繰り返すように、社会的な生産も、膨張と収縮が交替する運動を始めた時は、つねに同じ運動を繰り返すようになる。結果がふたたび原因となり、プロセス全体の転換の局面は、みずからの条件をつねに再生産しながら、周期性という形式をとる。そしてこの周期性の形態が固定されると、〔古典派〕経済学ですら、資本の平均的な増殖欲求の水準から判断すると余分な過剰人口、すなわち相対的過剰人口が、近代産業の生存条件であることを理解するようになるのである。

 

経済学の過剰人口論

オックスフォードの元の経済学教授で後にイギリス植民省の役人になったH・メリヴェールは、次のように言っている。

「かりに、恐慌のとき国民が大いに奮起して移民によって数十万の過剰な人手から免れようとすれば、結果はどうなるだろろうか?労働需要が回復すると同時に不足が現われるだろうということである。人間の再生産がどんなに速く行われても、成年労働者の補充のためにはとにかく一世代の間隔が必要である。ところで、われわれの工場主の利潤は、おもに、需要の盛んな好機を利用して不況期の損失を埋め合わせる力にかかっている。この力を彼らに保証するものは、ただ機械と筋肉労働とにたいする指揮権だけである。彼らの目の前に利用可能な労働者がいなければならない。彼らは、彼らの仕事の活気を必要な場合にはいっそう強くし、また市場の状況に応じてこれを弱めることができなければならない。それでなければ、彼らは、この国の富の基礎をなす優勢を競争戦のなかで維持することはとうていできない。」

マルサスは、その偏狭な考え方によって、過剰人口を労働者人口の絶対的な過度増殖から説明しており、労働者人口の相対的な過剰化からは説明していないのであるが、その彼でさえ、過剰人口のうちに近代産業の一つの必要物を認めているのである。彼は次のように言っている。

「結婚に関する賢明な習慣は、もしもそれが、おもに商工業に依存している一国の労働者階級のあいだで、ある程度まで盛んに行われるようになれば、その国にとって有害になるであろう。…特別な需要が生じて追加労働者が市場に供給されるのは、人口の性質上、16年から18年たたなければ不可能であるが、貯蓄によって収入が資本に転化することは、それよりもずっと速く起きることがありうる。一国は、つねに、その労働財源が人口よりも急速に増加するようになりやすい状態にある」。

経済学は、このように、労働者の相対的過剰人口の不断の生産を資本主義的蓄積の一つの必要物として説いた後に、適切にも1人のオールドミスの姿を借りて、彼女の資本家の「美しい理想」の口から、自分のつくりだした追加資本によって街頭に投げ出された「過剰者」に向かって次のような言葉を語らせるのである。

「われわれ工場主は、諸君が生きて行くのに必要な資本をふやすことによって、諸君のためにできるだけのことをしている。だから、それ以上のことは、諸君が、自分たちの数を生活手段に適合させることによって、自分でしなければならないのだ。」

資本主義的生産にとっては、人口の自然的増加が供給する利用可能な労働力の量だけでは、けっして十分ではない。この生産は、その自由な営みのためには、この自然的限度に制限されない産業予備軍を欠くことができないのである。

オックスフォード大学の経済学教授、H・メリヴェールは次のように語っています。

「恐慌のときに、国が移民によって数十万人の余剰な人手を整理してしまうように全力で努力したとすれば、その結果はどうなるでしょうか?労働需要が回復したときに、労働力不足が起こるだろうかということです。人間の再生産がどんなに迅速に行われても、成年労働者を新たに補充するためには、一世代待たなくてはなりません。わが国の工場主の利潤は主に、需要の盛んな好況期に不況期の損失を穴埋めすることができるかどうかにかかっています。工場主がこれをするために行使できるのは、機械と筋肉労働に対する指揮権だけです。そのためには、工場主の目の前に、いつでも利用可能な労働者がいることが必要です。工場主たちは、好景気、不景気に応じて、労働者たちの労働の活気を強めたり緩めたりすることができなければなりません。そうでないと、工場主たちは、厳しい競争に直面しながら、競争力を維持することはできません。」

マルサスは過剰人口を、労働者人口の相対的過剰ではなく絶対的な過度増殖から説明しています。これは、彼の偏狭さを示すものです。それでも、マルサスは過剰人口が近代産業にとって必要であることは認識していました。マルサスは次のように言います。

「(結婚を控えて子供を作らないという)結婚の賢明な習慣を、マニュファクチュア段階の国で、労働者たちが皆守るようであると、その国には有害な結果をもたらすでしょう。というのも、特別な需要が生じて追加労働者が必要になっても、それが市場に供給されるには、人口の性質上、16年から18年も待たなければならないということです。これに対して、貯蓄によって収入が資本に転化することは、それよりもずっと速く起きるのです。つねに、労働財源が人口よりも急速に増加するようになりやすい状態にあるということなのです。」

このように経済学は、つねに労働者の相対的過剰人口が資本主義的蓄積には必要であると説きます。

資本主義的生産に必要な労働力の量は、人口の自然増加による供給では間に合わない。資本主義的生産が自由に活動できるためには、人口の自然増加という制約を受けない産業予備軍が必要なのです。

オックスフォード大学の経済学教授で、後にイギリス植民省の役人になったH・メリヴェールは、次のように語っている。「恐慌の際に、国が移民によって数十万人の余剰貧民をなくすように全力で努力したならば、その結果はどうなるだろろうか。労働の需要が復活した際に、労働力が欠乏するようになるだろう。人間の再生産がどれほど迅速に行われても、成人の労働者の代わりをみつけるには、ともかく一世代の間隔が必要である。わが国の工場主の利潤を大きく左右するのは、活発な需要のある好況期を活用して、不況期の損失を埋め合わせることができるかどうかである。工場主がこれを行なえるのは、機械類と手仕事にたいする指揮権によってのみである。〈人手〉が自由に利用できることが必要である。工場主たちは市場の状況に応じて、労働者の作業の緊張度を必要に応じて強めたり、緩めたりすることができなければならない。それでないと工場主たちは、厳しい競争に直面しながら、この国の基盤である彼らの優越性を維持することはできない」。

マルサスは過剰人口を、労働者人口の相対的な過剰によってではなく、絶対的な過度の増殖から説明しており、これは彼の凡庸さを示すものであるが、それでも過剰人口が近代産業にとって必要なものであることを認識している。彼は次のように語るのである。「主としてマニュファクチュアと商業に依存している国で、労働者たちが結婚にかんする賢い習慣をあまりに維持しすぎると〔すなわち結婚を控えて子供を作らないと〕、その国には有害になるだろう。…人口というものの性格からして、特別な需要があっても、16年から18年は経過しなければ、増加した労働者が市場に供給されることはありえない。しかし貯蓄によって収入が資本に変化する速度は、はるかに速い。どの国も、労働原資が人口よりも急速に成長する可能性につねに直面しているのである」。

このように経済学は、つねに労働者の相対的な過剰人口が生みだされることを、資本制的な蓄積のために必要なものであると説得する。そして次に経済学は老いた処女にふさわしい口調で、資本家の「美しき理想」に、次の言葉を語らせる。語りかける相手は、資本のために路上に放りだされた「余剰になった人々」である。「われわれ工場主は、君たちが生活するために必要な資本を増やすために、君たちのためにできるかぎりのことをしている。あとは君たちがしなければならない。君たちの人数を、生活手段に合わせなければならない」。

資本制的な生産にとっては、利用できる労働力の量が、人口の自然増加によって供給される水準であっては不十分なのである。資本制的な生産が自由に活動するためには、この自然的な制約に左右されない産業予備軍が必要不可欠なのである。

 

蓄積の効果の要約

これまでは、可変資本の増減には精確に従業労働者数の増減が対応するということが想定されていた。

しかし、可変資本によって指揮される労働者の数が変わらなくても、または減少さえしても、可変資本が増大する場合もある。すなわち、労働者数は変わらないかまたは減少しても、1人1人の労働者がよく多くの労働を供給し、したがって、労働の価格は変わらなくても彼の労賃がふえるか、または労働の価格が下がってもその低下が労働量の増加よりも緩慢でありさえすれば、やはり彼の労賃はふえるという場合である。このような場合には、可変資本の増大は、労働量の増加の指標にはなるが、従業労働者数の増加の指標にはならない。どの資本家にとっても、その絶対的関心事は、一定量の労働をより少数の労働者から搾り出すことであって、同様に廉価に、またはより以上に廉価に、より多数の労働者から搾り出すことではない。あとのほうの場合には流動させられる労働の量に比例して不変資本の投下が増加するが、第一の場合にはこの投下はずっと緩慢に行われる。生産の規模が大きければ大きいほど、この動機はますます決定的である。この動機の重みは、資本の蓄積につれて増してくる。

すでに見たように、資本主義的生産様式と労働の生産力との発展─それは蓄積の原因でもあれば結果でもある─につれて、資本家は、同額の可変資本を投下しても個々の労働力の外延的または内包的な搾取の増大によってより多くの労働を流動させることができるようになる。また、やはりすでに見たように、資本家は同じ資本価値でより多くの労働力を買うようになる。というのは、彼はますます熟練労働者を不熟練労働者によって、成熟労働者を未成熟労働者によって、男子労働者を女子労働者によって、成年労働力を少年または幼年労働力によって、駆逐して行くからである。

こうして、蓄積の進行につれて、一方ではより大きい可変資本が、より多くの労働者を集めることなしに、より多くの労働を流動させるのであり、他方では同じ大きさの可変資本が同じ量の労働力でより多くの労働を流動させるのであり、最後により高級な労働力を駆逐することによってより多くのより低級な労働力を流動させるのである。

それゆえ、相対的過剰人口の生産または労働者の遊離は、そうでなくても蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革よりも、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よりも、もっと速く進行するのである。生産手段は、その規模や作用力が大きくなるにつれて、ますますわずかな度合いで労働者の雇用手段になるとすれば、この関係そのものをさらにまた変えて行くものは、労働の生産力が増進するにつれて資本はその労働供給をその労働者需要よりももっと速く大きくして行くということである。労働者階級の就業部分の過度労働はその予備軍の隊列を膨張させるが、この予備軍がその競争によって就業部分か加える圧力の増大は、また逆に就業部分に過度労働や資本の命令への屈従を強制するのである。労働者階級の一方の部分が他方の部分の過度労働によって強制的怠惰という罰をくわえられるということ、またその逆のことは、個々の資本家の致富手段になり、また同時に、社会的蓄積の進展に対応する規模での産業予備軍の生産を速くする。どんなにこの契機が相対的過剰人口の形成において重要であるかを示すのは、たとえばイギリスである。イギリスがもっている労働の「節約」のための技術的手段は巨大なものである。それにもかかわらず、もし明日にでも一般的に労働が合理的基準に制限され、また労働者階級のいろいろな層についてさらに年齢や性に応じて労働の等級が区分されるようなことがあれば、その場合には国民的生産を今日の規模で続行するには現存の労働者人口では絶対的に不足であろう。そのときは、今日では「不生産的な」労働者の大多数が、「生産的な」労働者に転化されなければならないであろう。

これまでは、可変資本の増減に対応して、労働者数が増減すると想定して考察を進めてきました。

しかし、可変資本がコントロールする(支払う)労働者数が増えなくても、可変資本が増えることはありえます。すなわち、ひとひとりの労働者が、それぞれに今までより多くの労働を提供し、労働価格が変わらなくても、労賃が増えるという場合。あるいは、労働価格が低下した場合でも、その下がり方が労働量の増加よりもゆっくりであれば、労賃は上昇するという場合です。これらの場合、可変資本の増加は、労働量の増加の指標にはなりますが、労働者数の増加の指標にはなりえません。資本家は誰でも、一定量の労働をより少数の労働者が搾り取ることが絶対的に好ましいと思っています。同じように、その一定量の労働を、より多数の労働者から搾り取ることは、たとえ費用が同額か、たとえ低費用であっても、好まないものです。後の方の場合、労働者数が多くなると不変資本の支出が引き出される労働量に比例して増加します。これに対して、労働者数が少ないと、この増加が緩慢になるからです。これは、生産の規模が大きければ大きいほど、このような労働者数を抑制しようという動機が決定的な意味を持ってくるのです。そして資本の蓄積が進むにつれて、この動機の重要度はますます高まっていきます。

すでに見たように、資本主義的生産様式と労働生産力の発展は、蓄積の原因でもあり結果でもあるのですが、これにつれて資本家は個々の労働力をより長時間にわたって働かせ、労働の強度をさせに高めながら搾取することで、可変資本を投下する額を増やすことなしに、より多くの労働を自由に使えるようにするのです。というのも、資本家は熟練労働者の代わりに未熟練労働者を、男子労働者の代わりに女子労働者を、成年労働者の代わりに少年や幼年労働者を利用することを進めて、同じ労働価値で、より多くの労働力を購入しようとするからです。

こうして蓄積の進行につれて、一方では可変資本を増やしながら、労働者数を増やすことなく、より多くの労働を自由に使えるようになり、他方では可変資本を増やすことなく、ということは購入する労働力を増やすことなく、より多くの労働を自由に使うこともできます。というのも、より低級な労働力で高級な労働力を駆逐するようになるからです。

それゆえ、相対的過剰人口が発生するあるいは労働者が工場から解雇される放出がおこるのは、そうでなくても蓄積の進行につれて速くされる生産過程の技術的変革よりも、またそれに対応する不変資本部分に比べての可変資本部分の比率が急速に低下するよりも、もっと速く進行するのです。生産手段の規模や作用力が大きくなるにつれて、労働者を雇用する比率は低下しても、労働生産力が向上するにつれて資本はその労働供給を労働者の需要よりも大きくするので、この関係は変化していくと言えます。労働者階級のうち雇用されている労働者が超過労働を行うために、失業者が減らず予備軍の隊列が増えて、この予備軍からの競争によって、雇用されている労働者に強いプレッシャーがかかってきます。そのため、雇用されている労働者は、さらに超過労働に駆り立てられ、資本の命令への屈従が強いられるようになります。労働者階級の一方の部分が、雇用されている労働者という他の部分の超過労働のために、失業者として無為に過ごす罰を与えられること、またはその逆、すなわち失業者の存在により雇用されている労働者が超過労働を強いられること、が生じることは、個々の資本家が富を増やす手段になり、同時に社会的蓄積の進展にみあった規模で、産業予備軍の創出を加速させるのです。

これまでは、可変資本の増加または減少に正確に対応している労働者の数が増加または減少すると想定してきた。

しかし可変資本が指揮する労働者の数が同じであるか減少したとしても、可変資本は増加することがある。個々の労働者がよく多くの労働を提供して、労働価格が同じでも、その労働賃金が上昇する場合である。あるいは労働価格が低下した場合にも、その下がり方が労働量の増加の速度よりも緩慢であれば、労働賃金は上昇し、可変資本は増加するのである。

そうなると、可変資本の増加は、労働量の増加を示す指標ではあっても、就業している労働者の数の増加を示す指標とはならないことになる。資本家は誰でも、特定の量の労働をより少数の労働者から絞りとることが絶対に好ましいと判断しているのであり、その特定の量の労働をより多くの労働者から絞りとることは、たとえ同じ費用でも、あるいはさらに低い費用であって、好まないのである。労働者の人数が多くなると、不変資本の支出は、引きだされる労働の量に比例して増加する。労働者の人数が少ないと、この増加ははるかに緩慢になる。生産の規模が大きければ大きいほど、この〔労働者の人数を抑えようとする〕動機が決定的な意味をもつ。そして資本の蓄積とともに、この動機の重要性は高まるのである。

すでに確認したように、資本制的な生産様式の発達と労働生産力の向上は、蓄積の原因であり結果でもあるが、これによって資本家は、個々の労働力をより長時間にわたって働かせ、労働の強度をさらに高めながら搾取することで、可変資本の投資額を変えずに、より多くの労働を自由に使えるようになる。さらに段階的に熟練労働者の代わりに未熟練の労働者を雇用し、成熟した労働者の代わりに未成年や児童の労働力を利用することで、同じ資本価値でより多くの労働力を購入するようになることも、すでに確認してきた。

すなわち蓄積が進むと、一方では可変資本を増やしながら、雇用する労働者の数を増やさずに、より多くの労働を自由に使えるようになる。ところが他方では可変資本を増やさず、購入する労働力の大きさも変えずに、より多くの労働を自由に使うこともできる。そして最後に、より低級な労働力で高級な労働力を駆逐するようになる。

蓄積の進展によって生産過程の技術的な変革が加速され、それに応じて不変資本にたいする可変資本の比率が急速に低下していくが、相対的な余剰人口の生産あるいは労働者の放出は、これよりもさらに急速に進むのである。生産手段がその規模と効果を拡大すると、それが労働者の雇用手段となる比率は小さくなってくるが、労働の生産力が向上すると、資本が労働者の需要よりも急速に労働の供給を増やすために、この状況はふたたび修正されることになる。

労働者階級のうちですでに雇用されている労働者が超過労働を行うために、〔失業者が増えて〕予備軍の隊列は長くなるが、逆にその予備軍からの競争のために、雇用されている労働者に強い圧力がかけられる。そのため雇用されている労働者はさらに超過労働へ駆り立てられ、資本の直接の命令に服従せざるをえなくなる。労働者階級の一部が、〔就業している労働者という〕他の部分の超過労働のために〔失業者として〕無為に過ごすことを強いられ、またその逆が生じる〔すなわち失業者の存在のために雇用されている労働者が超過労働を強いられる〕ことは、個々の資本家を富ませる手段になり、同時に社会的な蓄積にみあった規模で、産業予備軍の創出を加速させるのである。

この要因が相対的な過剰人口の形成にいかに重要な役割をはたすかは、イギリスの例が立証している。イギリスで労働を「節約」するためにとられた技術的な手段は巨大なものだった。しかし明日にでも、労働が一般に号的な水準に制限され、労働者階級のさまざまな層に、年齢と性別を考慮して労働が割り当てられたならば、現在の労働者人口では、国民生産を現在の規模で維持することは絶対に不可能だろう。そうなれば現在は「非生産的な」〔すなわち失業中の〕労働者の大多数が、「生産的な」労働者に変わる〔すなわち雇用される〕ことが必要になるだろう。

 

産業予備軍と賃金との関係

だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさ増減少によって、過剰人口が吸収されたり再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。近代産業には10年の循環期とその周期的な諸局面とがあり、しかも蓄積の進展につれてその諸局面はますます急速に継起する不規則な振動と交差するのであるが、このような近代産業にとっては、次のようなことは、じっさいみごとな法則でもあろう。すなわち、労働の需要供給が資本の膨張・収縮によって、つまり資本のそのつどの増殖欲求に従って規制されていて、そのために、あるときは資本が膨張するので労働市場が相対的に供給過少になって扱われ、あるときは資本が収縮するので労働市場が再び供給過多になるというのではなく、逆に資本の運動が人口の絶対的な運動に依存するのだという法則である。だが、これは経済学的独断である。この独断によれば、資本蓄積の結果として労賃は上がる。労賃の上昇は労働者人口の加速度的増加に拍車をかけ、この増加が続いて、ついに労働市場は供給過剰になり、したがって資本は労働者供給にたいして相対的に不足になる。そこで労賃は下がり、今度はメダルの裏側が現われる。労賃の低下によって労働者人口はだんだん減って行き、そのために労働者人口に比べて資本は再び過剰になる。あるいはまた、他の人々が説明するところでは、労賃の低下と、それに対応する労働者の搾取の増大とは、再び蓄積を速くするが、同時に他方では、低くなった労賃が労働者階級の増大を妨げる。あるいはまた、そこでまた、労働供給が労働需要よりも少なくなり賃金が上がるという状態が現われ、さらに同じことが繰り返される。発展した資本主義的生産にとってなんとみごとな運動方法ではないか!賃金の上昇の結果として現実に労働能力のある人口のいくらかでも絶対的な増大が生ずるようになるまでには、産業戦が演ぜられ戦闘が交えられ勝敗が決せられなければならない期間がいくたびとなく過ぎ去ることであろう。

だいたいにおいて、労賃は一般的に、産業循環のサイクルの局面が変わる(好況から不況へ、不況から好況へ等)のによって起こった産業予備軍の増大と減少という動きによって左右されます。労賃は、労働者の総数の変動によってではなく、労働者の中の雇用されている現役軍と失業している予備軍の比率の変化によって決まります。すなわち、過剰人口の相対的な増減によって、吸収されたり放出されたりすることによって決まるというのです。近代的な産業には10年サイクルの周期的な景気変動があり、蓄積が進むときには、それにつれて短期的で小規模な変動が不定期に発生して、周期的なサイクルに影響を与えます。あるときには資本が膨張するために労働市場が相対的に供給過少になり、別のある時は資本が収縮して労働市場が供給過剰になる。このように、労働の需要と供給は、資本の膨張と収縮によって、つまり、資本の価値増殖の欲求の強さによって決まる、ということです。しかし、その反対に、資本の運動の方が人口数の増減によって決まるとしているのが経済学の独断でしかありません。この独断によれば、資本が蓄積されれば、その結果として労賃が上がります。労賃が上昇すると、そのために労働者人口の急速な増加に拍車がかけられます。この労働者人口の増加は、労働市場が供給過剰になるまで、すなわち労働の供給に対して資本が相対的に不足になるまで続きます。そこで、労賃が下がり、これまでとは逆の動きで、労働者の総人口が段々と減少し、そのために労働者人口に対して資本が過剰となります。あるいは、別の説明によれば、労賃の低下と、それに対応した労働者の搾取の強化によって、蓄積を加速させ、同時に低くなった労賃が労働者階級の増大に歯止めをかけます。こうして、再び労働の供給が需要を下回り、賃金が上昇するようになり、これが繰り返されます。発達した資本主義的生産では、なんとみごとな運動方法ではないか!しかし、賃金が上がって現実に、労働能力のある人口が、いくらかでも増加できるまで、産業の戦いが始められ、産業戦が解禁し、決闘が行われ、決着がつけられなければなにない最終期限が、過去に何度もありました。

全体的にみると、労働賃金の一般的な運動は、産業循環の局面の転換に応じた産業予備軍の膨張と収縮だけによって決まる。労働賃金は、労働者人口の絶対数の変動によって決まるのではなく、労働者階級を現役軍と予備軍に分かつ比率の変動によって決まるのである。すなわち過剰人口の相対的な規模の増加と減少によって、あるときは吸収され、あるときはふたたび放出される大きさによって決まるのである。

現代産業には、10年サイクルの循環による周期的な局面があり、蓄積が進むとますます短い間隔で不規則な変動が発生して、この周期的な局面に影響が発生する。現代産業では、あるときには資本が膨張するために労働市場が相対的に供給過小になり、あるときには資本が収縮してふたたび供給過多になる。このように労働の需要と供給は、資本の膨張と収縮によって、資本のその時点での価値増殖の欲望の強さによって決まるのである。しかしその反対に、資本の運動のほうが人口数の絶対的な運動に依存しているという法則があるとすれば、それは見事な法則であるに違いない。しかしこれこそが経済学のドグマなのである。

このドグマによると、資本が蓄積されると労働賃金は上昇する。労働賃金が上昇したために、労働者人口の急速な増加に拍車がかけられる。この増加は労働市場が供給過剰になるまで、すなわち労働の供給にたいして資本が相対的に不足するためになるまでつづくのだという。そこで労働賃金が低下し始め、これまでと逆の運動が発生する。労働賃金が下落したために労働者人口は次第に減少し、そのためにふたたび労働者人口にたいして資本が過剰になるというわけである。

あるいは別の説明によると、労働賃金の低下とそれに応じた労働者の搾取の強化によって蓄積が加速され、同時に労働賃金の低下によって労働者階級の増加に歯止めがかけられる。こうしてふたたび労働供給が労働需要を下回り、賃金が上昇するようになり、これが繰り返されるというのである。

これは発達した資本制的な生産にとっては麗しい運動方法ではある!しかし賃金が上昇して現実に労働能力のある人口がいくらかでも絶対的に増加することができるまでに、産業の闘いの戦端が開かれ、戦闘が行われ、決着がつけられねばならない最終期限が、何度も何度も過ぎ去ることだろう。

 

イギリスの実例

1849年と1859年とのあいだには、穀物価格が下落と同時に、実際的に見ればただ名目的でしかない賃金引き上げがイギリスの農村地方に現われた。たとえば、ウィルトシャでは週賃金が7シリングから8シリングに、ドーセットシャでは7シリングか8シリングから9シリングに上がった。これは農業過剰人口が異常な流出の結果であって、この流出は、戦争のための需要、鉄道や工場や鉱山などの大拡張によってひき起こされたものだった。労賃が低ければ低いほど、ほんのわずかな労賃の上昇でも百分比ではそれだけ大きく表わされる。たとえば、週賃金が20シリングのとき、それが22シリングに上がれば、10%の上昇である。ところが、たった7シリングだったのが9シリングに上がれば、28%の上昇率なり、たいしたことのように聞こえる。とにかく、借地農業者たちはわめきたて、『ロンドン・エコノミスト』までがこの飢餓賃金について大まじめに「一般的な実質的な値上がり」だとしゃべりまくった。そこで、借地農業者たちはどうしたか?彼らは。独断的な経済的な頭のなかでの成り行きのように、このすばらしい支払いのために農業労働者が増加して、彼らの賃金が再び下がらざるをえなくなるまで、待っていたであろうか?彼らはより多くの機械を採用した。そして、たちまちのうちに労働者は借地農業者をさえ満足させるほどの割合で再び「過剰」になった。今度は、以前よりも「より多くの資本」が、しかもより生産的な形で、農業に投ぜられた。こうして、労働にたいする需要は、ただ相対的にだけではなく、絶対的にも減少したのである。

先に述べました経済学上の作り話は、労賃の一般的な動きを規定している諸法則、すなわち、労働者階級としての総労働力と社会的資本の関係を規定している諸法則と、特定の生産部門に労働者人口を分配している法則とを混同してしまったことから生まれたものです。たとえば、好景気になって一部の生産部門で特に活況になり、平均的な利潤を上回る利潤を得ることができ、追加資本がそこに押し寄せてくるようになると、当然、労働需要が増加し、労賃が上がります。労賃が上がると、その有利な部門に引き寄せられる労働者がますます多く増えて、ついには、この部門で労働力が飽和状態に達し、賃金は元の平均水準に戻るか、もっと低く下がります。そうすると、その部門への労働者の流入が止まり、場合によっては流出に転じることもあります。経済学者はこのような例から、どこでどのようにして賃金の上昇によって労働者が増加し、そのため賃金の下落が発生するかを考えました。しかし、そこで経済学者が実際に見ていたのは、特定の生産部門の労働市場の変動にすぎません。

1849年から1859年まで、イギリスの農村地帯では穀物価格が低下するとともに、現実にはたんに名目的にすぎない賃金が上昇した。たとえばウィルトシャーでは週給が7シリングから8シリングに上がり、ドーセットシャーでは7〜8シリングから9シリングに上がるなどの例がみられた。これは戦争の需要によるものだったり、鉄道、工場、鉱山などの大規模な拡張が行われたために、過剰な農業人口が異例なほど流出したことによるものだった。

労働賃金が低ければ低いほど、ごくわずかな上昇でも、大きな上昇率となって現われる。たとえば20シリングの週給が22シリングに〔2シリングだけ〕上昇すると、10%の上昇率になるが、わずか7シリングの賃金が9シリングに〔同じ2シリングだけ〕上昇すると、28%の上昇率になり、非常に大きな上昇率のように聞こえる。

いずれにしても借地農はわめきたて、『ロンドン・エコノミスト』はこの飢え死にしかねなすほどの低賃金について真面目な顔をして「全般的で大幅な上昇」と書いたものである。そこで借地農たちは何をしただろうか。ドグマ的な経済学者が頭の中で考えたように、この素晴らしい賃金が支払われるために農業労働者の数が増えて、ふたたび賃金が下がるようになるまで、待っていただろうか。そんなことはない。彼らはより多くの機械装置を導入したのである。そしてあっという間に労働者は、ふたたび「過剰」になり、借地農たちが満足できる状況が生まれたのである。今や農業には、前よりも「多くの資本」が投資され、しかも生産的な形で投資されるようになった。これで労働需要は相対的に減少しただけでなく、絶対的にも減少したのである。

 

経済学のドグマの違い

あの経済学の作り話は、労賃の一般的な運動を規制する諸法則、または労働者階級すなわち総労働力と社会的総資本の関係を規制する諸法則を、労働者人口を特殊な諸生産部門のあいだに配分する諸法則と混同している。たとえば、好景気のために蓄積が或る一定の生産部面で特に盛んで、そこでは利潤が平均利潤よりも大きくて追加資本がそこに押し寄せるとすれば、もちろん労働需要も労賃も上がる。高くなった労賃は労働者人口のますます大きい部分をこの好況部面に引き寄せるが、ついにはこの部面でも労働力が飽和度に達し、賃金はまた元の平均水準、または押し寄せ方がひどすぎた場合にはこの水準よりもさらに低く、下がる。そうなれば、問題の事業分野への労働者の流入がやむだけではなく、それに代わって労働者の流出が起きることさえある。ここで、経済学者は、「どこで、どうして」賃金の増加につれて労働者が絶対的に増加するか、また労働者の絶対的増加につれて賃金が減少するか、がわかったと思うのであるが、彼が実際に見ているのは、ただ、一つの特殊な生産部面の労働市場の局地的な変動だけであり、ただ、資本の欲求の変化に応じていろいろ投下部面に労働者人口が配分されるという現象だけなのである。

先に述べました経済学上の作り話は、労賃の一般的な動きを規定している諸法則、すなわち、労働者階級としての総労働力と社会的資本の関係を規定している諸法則と、特定の生産部門に労働者人口を分配している法則とを混同してしまったことから生まれたものです。たとえば、好景気になって一部の生産部門で特に活況になり、平均的な利潤を上回る利潤を得ることができ、追加資本がそこに押し寄せてくるようになると、当然、労働需要が増加し、労賃が上がります。労賃が上がると、その有利な部門に引き寄せられる労働者がますます多く増えて、ついには、この部門で労働力が飽和状態に達し、賃金は元の平均水準に戻るか、もっと低く下がります。そうすると、その部門への労働者の流入が止まり、場合によっては流出に転じることもあります。経済学者はこのような例から、どこでどのようにして賃金の上昇によって労働者が増加し、そのため賃金の下落が発生するかを考えました。しかし、そこで経済学者が実際に見ていたのは、特定の生産部門の労働市場の変動にすぎません。

先に述べた経済学のフィクションは、労働賃金の一般的な運動を支配している法則、すなわち労働者階級としての総労働力と社会的な総資本の関係を支配している法則と、特定の生産分野に労働者人口を分配している法則を混同することで生まれたものである。たとえば好況になって、一つの生産分野がとくに活況になり、平均的な利潤を上回る利潤がえられ、追加資本がその分野に押し寄せてくるようになると、もちろん労働需要が増加し、労働賃金は上昇するだろう。労働賃金が高くなると、ますます多くの労働者人口がその有利な分野に引き寄せられ、やがてはその生産分野の労働力が飽和するようになる。そして労働賃金はまたもとの平均水準まで戻り、労働者がこの分野に殺到しすぎた場合には、それを下回るだろう。するとその事業分野への労働者の流入がとまり、場合によっては流出することもあるだろう。

経済学者たちはこの例から、「とこでどのようにして」賃金の上昇によって労働者の絶対的な増加が発生し、労働者の絶対的な増加のために賃金の下落が発生するかが分かるからと考えたのである。しかし経済学者がみているのは実際には、特定の生産分野の労働市場で発生する局地的な変動にすぎない。労働者人口が、変動する資本の欲求にしたがって、さまざまな投資分野に配分される現象を眺めているにすぎないのである。

 

経済学の擁護論批判

産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押し込むのである。ここで経済学的弁護擁護論の大事業の一つに立ち返ってみなければならない。人々の記憶にあるように、新しい機械の採用や古い機械の拡張によって可変資本の一部分が不変資本に転化される場合に、このような、資本を「拘束する」と同時にまさにそうすることによって労働者を「遊離させる」操作を、経済学的弁護論者は、逆に、それが労働者のために資本を遊離させるというように説明するのである。ここではじめて弁護論者の恥知らずを十分に評価することができるのである。遊離させられるのは、ただ単に機械によって直接に駆逐される労働者だけではなく、彼らの補充要員も遊離させられるのであり、また、事業が従来の基礎の上で普通の仕方で拡張される場合には規則的に吸収される追加隊も遊離させられるのである。彼らは今ではみな「遊離させられて」いて、これから機能しようとする新しい資本はみな彼らを自由に利用することができる。この資本に引き寄せられるのが彼らであろうと別の労働者であろうと、機械が市場に投げ出したのと同数の労働者を市場から連れてくるのにちょうど十分であるかぎり、一般的な労働需要への影響はゼロであろう。もしこの資本がそれよりも少ない数の労働者を使用するとすれば、過剰労働者の数は増大する。もしそれよりも多数を使用するとすれば、使用される者が「遊離された者」を超過する分だけ一般的な労働需要が増大する。だから、どの場合にも、もしそうでなければ投下を求める追加資本が、一般的な労働需要に与えるであろう活況は、機械によって街頭に投げ出された労働者でまにあうかぎり、中和されているのである。つまり、資本主義的生産の機構は、資本の絶対的増大に伴ってそれに対応する一般的な労働需要の増大が生ずることのないようになっているのである。そして、これを弁護論者は、失業労働者たちを産業予備軍のなかに封じこめておく過渡期のあいだに彼らを襲う窮乏や苦悩や場合によっては破滅やの埋め合わせと呼ぶのである!労働にたいする需要は資本の増大と同じことではなく、労働の供給は労働者階級の増大と同じことではなく、したがって、互いに独立な二つの力が互いに作用し合うのではない。さいころはいかさまだ。資本は両方の側で同時に作用するのである。一方で資本の蓄積が労働にたいする需要をふやすとき、他方ではその蓄積が労働者の「遊離」によって労働者の供給をふやすのであり、同時に失業者の圧力は就業者により多くの労働を流動させることを強制して、或る程度まで労働の供給を労働者の供給から独立させるのである。この基礎の上で行われる労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制を完全なものとする。それだからこそ、労働者たちが、自分たちがより多く労働し、より多く他人の富を生産し、自分たちの労働の生産力が増進するにつれて、自分たちにとっては資本の価値増殖手段としての自分の機能までがますます不安定になるというのは、いったいどうしてなのか、という秘密を見抜いてしまうゆいなや、また彼らが、彼ら自身のあいだの競争の強さの程度はまったくただ相対的過剰人口の圧力によって左右されるものだとうことを発見するやいなや、したがってまた、彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするやいなや、資本とその追従者である経済学者とは、「永遠な」いわば「聖なる」法則の侵害について叫びたてるのである。すなわち、就業者と失業者との連結は、すべて、かの法則の「純粋な」働きをかき乱すからである。他方、たとえば植民地で、反対に作用する諸事情が産業予備軍の創出を妨げ、また同時に資本家階級への労働者階級の絶対的な従属を妨げるやいなや、資本は、そのぼんくらなサンチョ・パンサといっしょに、「神聖な」需要供給需給の法則に反逆して、強制手段によってそれを押さえこもうとするのである。

産業予備軍は景気の停滞している時や中くらい景気のいい時には、雇用労働者にプレッシャーをかけることができ、また、過剰生産が行われている時期や突発的に景気が良くなった時には、産業予備軍がいることで、雇用労働者からの要求を抑制する効果が生じます。だから、相対的過剰人口は、労働の需要と供給の法則が働く背景となっています。産業予備軍は、この法則の働く範囲を、資本の搾取欲と支配欲に絶対に都合のよい程度におさめるようにしているのです。

新しい機械が導入されたり既存の機械の利用が拡大されたりして、可変資本の一部が不変資本に転化されるのは資本を固定して労働者を放出させる施策です。これを経済学弁護論者は、逆に、それが労働者のために資本を遊離させるというように説明します。実際に、放出されるのは、機械によって直接駆逐された労働者だけではなく、彼らの交代要員や、あるいはこの事業が拡大されると新たに雇用されるはずだった追加部隊も、雇用されないということで、放出と同じ目に遭うことになります。そして、新たに機能し始める資本が、彼らを自由に利用できるようになります。この新しい資本に引き寄せられるのが彼らであろうと別の労働者であろうと、機械が市場に投げ出したのと同数の労働者を市場から連れてくるのにちょうど十分であるかぎり、一般的な労働需要への影響はないでしょう。その資本が雇用する人数が、それよりも少なければ過剰労働者の数は増えるし、多ければ使用される者が放出された者を超過する分だけ一般的な労働需要が増大します。本来なら投資先を求める追加資本は、一般的な労働需要を飛躍的に増加させるはずです。ところが、この場合には、いずれにしても、機械によって街頭に放出された労働者の数だけ、この増加分が相殺中和されてしまうのです。つまり、資本主義的生産のメカニズムは、資本が増大しても、それにふさわしい形で一般的な労働需要が増加しなくてすむように配慮されているということなのです。このことを経済学的弁護論者は、失業した労働者が産業予備軍に追いやられるまでの間の過渡期に、彼らが経験する窮乏、苦悩あるいはもしかしたら破滅を穴埋めする補填であると言います。資本の増加は労働需要の増加を意味するのではなく、労働者階級の拡大は、労働の供給を意味するものではないというように、二つの独立した力がたがいに働きあっているわけではないということです。資本は労働需要と労働の供給という両方の側で同時に作用します。一方で資本が蓄積されて労働にたいする需要が増加すると、他方では労働者を放出することで供給される労働者を増やしています。そして、産業予備軍という失業者からのプレッシャーのために、就業している労働者はさらに多くの労働をするように強いられます。このプレッシャーによって、ある程度までは労働の供給が超過労働という形で、新規の労働者の雇用という労働者の雇用とは、独立した別物になるからです。これらによって、労働の需要と供給の法則は資本に支配されたものとなるのです。それだからこそ、労働者は、自分たちがより多くを働き、より多くの他人の富を生産し、労働の生産性が高まるとともに、なぜ資本の価値増殖手段としての自分たちの機能がますます危ういものとなっていくのかという秘密を見抜く。そして、労働者は彼らのあいだでの競争の激しさは、相対的な過剰人口のもたらす圧力だけによって決まるものであることに思いいたるのです。だからこそ彼らは労働組合などを結成することによって、雇用されている労働者と雇用されていない労働者のあいだで、計画的な相互協力の関係を構築し、それによって資本制的な生産の自然法則が労働者階級にもたらす破滅的な結果を防ぎ、緩和しようとするのです。しかし労働者が、このような試みを始めると、資本やその追従者である経済学者は、労働の需要と供給の法則が侵害されたことに憤慨します。

停滞期や中程度の好況期には、産業予備軍が現役の労働者軍に圧力をかけるし、過剰生産が行われている時期や突発的な高揚期には、産業予備軍は現役の労働者軍の要求を抑制する。すなわち相対的な過剰人口は、労働の需要と供給の法則が働くための背景を構成しているのである。産業予備軍は、資本の搾取欲と支配欲に絶対に都合のよい程度の内部でしか、この法則が働かないようにする。ここで経済学の〔資本制的な生産の〕擁護論が行ってきた一大事に立ち戻るべきだろう。

すでに確認したように、新しい機械類が導入されるか、既存の機械の利用が拡張されると、可変資本の一部が不変資本に変えられる。これは資本を〔固定して〕「拘束し」、労働者を「遊離」〔放出〕させる操作である。しかし経済学の擁護論は、この操作を反対に、労働者のために資本を遊離させるものと解釈していたのだった。ここでわたしたちは、この擁護論者の厚かましさを完全に明らかにすることができる。遊離させられたのは、機械によって直接に駆逐された労働者だけではない。彼らの交代要員も、あるいは旧来の基盤のもとでは、通常は事業が拡大されると規則的に雇用されていた追加部隊もまた。遊離させられたのである。今ではかれらの全員が「遊離」されている。そして新たに機能し始めるすべての資本が、彼らを自由に使うことができるのである。

その資本がこれらの〔遊離した〕労働者を雇用するのか、もっと別の労働者を雇用するのかにかかわらず、機械類によって市場に追いやられた労働者と同じ数の労働者を、市場から自由に利用する。〔すなわち雇用する〕のに十分なものであれば、一般的な労働需要にたいする影響はゼロになるだろう。その資本が雇用する人数がそれよりも少なければ、余剰労働者の数は増えるし、多ければ、一般的な労働需要は増加する。しかしその場合にも実際に増加した人数は、雇用者の人数から「遊離された者」の数を引いた残りの部分にすぎない。

その資本がこれらの〔遊離した〕労働者を雇用するのか、もっと別の労働者を雇用するのかにかかわらず、機械類によって市場に追いやられた労働者と同じ数の労働者を、市場から自由に利用する。〔すなわち雇用する〕のに十分なものであれば、一般的な労働需要にたいする影響はゼロになるだろう。その資本が雇用する人数がそれよりも少なければ、余剰労働者の数は増えるし、多ければ、一般的な労働需要は増加する。しかしその場合にも実際に増加した人数は、雇用者の人数から「遊離された者」の数を引いた残りの部分にすぎない。

ほんらいなら投資先を求める追加資本は、一般的な労働需要を飛躍的に増加させるはずである。ところがこの場合にはいずれにしても、機械によって路上に放りだされた労働者の数だけ、この増加分が相殺されてしまうのである。すなわち、資本制的な生産のメカニズムは、資本が絶対的に増加しても、それにふさわしい形で一般的な労働需要が増加しなくてもすむように配慮しているのである。

そしてこれを経済学の擁護論者たちは、失業した労働者たちが、産業予備軍に追いやられるまでの過渡期に、彼らが経験する悲惨さと苦悩と起こりうる破滅を穴埋めする補填と称しているのである。資本の増加は労働需要の増加を意味するのではなく、労働者階級の拡大は、労働の供給を意味するものではない。二つの独立した力がたがいに働きあっているわけではない。この骰子はいかさまである。

資本は両方の側で同時に作用する。資本が蓄積されて労働の需要が増加すると、他方では労働者たちを「遊離」させることで、供給される労働者を増やしている。そして就業していない労働者からかかる圧力のために、就業している労働者たちはさらの多くの労働をするように強いられる。この圧力のために、ある程度までは労働の供給が〔超過労働の形で〕労働者の供給〔すなわち新規の労働者の雇用〕とは独立したものになるからである。この基盤のもとで、労働の需要と供給の法則の専制を完全なものとする。

こうして労働者は、自分たちがより多くを働き、より多くの他人の富を生産し、労働の生産性が高まるとともに、なぜ資本の価値増殖手段としての自分たちの機能がますます危ういものとなっていくのかという秘密を見抜くのである。そして労働者たちは、彼らのあいだでの競争の激しさは、相対的な過剰人口のもたらす圧力だけによって決まるものであることに思いいたる。だからこそ彼らは労働組合などを結成することによって、雇用されている労働者と雇用されていない労働者のあいだで、計画的な相互協力の関係を構築し、それによって資本制的な生産の自然法則が労働者階級にもたらす破滅的な結果を防ぎ、緩和しようとするのである。しかし労働者たちがこれを試み始めると、資本やその追従者である経済学者たちは、「永遠の」法則、いわば「聖なる」法則が侵犯されたことに憤慨するのである。

雇用されている労働者と雇用されていない労働者のあいだの連帯は、それがいかなるものであっても、かの法則の「純粋な」働きを妨害するからである。その一方では、植民地などにおいて、不都合な事情のために産業予備軍の創出が妨げられ、したがって労働者階級の資本家階級への絶対的な隷属が妨げられたような場合には、資本はその凡庸なサンチョ・パンサ〔経済学者〕たちとともに、「聖なる」需給法則に逆らって、強制的な手段でこの法則に介入しようとするのである。

 

現実の蓄積運動は社会的真空の中で行われるのではなく、さまざまな現実的諸条件の中で遂行されます。このような諸条件に影響され、拘束され、しばしば変容を受けながら資本蓄積は進行するものです。そこで、まずは資本の蓄積運動を規定する3つの基本条件を考察します。

資本の蓄積運動に影響を与える諸要素は無数に存在しますが、それをすべて一度に考慮することはできず、それはあまりにも問題を複雑にしてしまうからです。まず追加不変資本に関しては、引き続き問題なく調達できるものと仮定すると、そこにおいても究極的には自然の限界は存在するし、それは別の視点からは重要なテーマになりますが、その点を別とすれば、ある資本が拡大再生産をするのに必要な不変資本は、その不変資本を生産する別の資本拡大再生産によって供給されるとみなすことができます。しかし、追加可変資本はそうではありません。可変資本の対象となる労働力は生きた人間であり、工場や農場や鉱山などで資本によって大量生産するわけにはいかないからです。また、資本の蓄積において決定的なのは何よりも、剰余価値を生産することのできる可変資本であり、それなしには、他にどんな条件が存在しようとも、資本の蓄積と拡大再生産は机上の空論です。それゆえ、資本蓄積の現実の運動を考察する場合には、何よりもこの可変資本が問題にならなければなりません。

しかし、問題を可変資本に絞ったとしても、追加可変資本の需要条件と供給条件に関係する諸要素はやはりきわめて多い。そこで、ここでも漸次的接近法を用いて、まず第1次的接近として、資本の蓄積運動を規定する諸条件のうち、可変資本の需給に最も直接的にかかわる3つの基本条件を中心に見ていくことになります。

@資本の価値構成

まず第1の資本の価値構成です。これは何よりも各蓄積循環における可変資本の大きさを規定し、したがって労働力に対する需要条件を規定するものです。蓄積率を規定する3つの変数はすべて、各蓄積循環における可変資本の量に関わりますが、すべてを同時に考察するのは大変なので、この3つの変数のうち資本の価値構成飲みを考察の対象とし、独自の変数としての剰余価値率と剰余価値分割率については、次で考察することにします。

さて、この資本の価値構成は、歴史的にしだいに高度化されていく傾向があるようです。また、個々の資本規模そのものが歴史的にしだいに大きくなっていくこと自体が、このような資本構成を高めることに貢献するものです。なぜなら、不変資本の割合を高めるような大規模な技術設備や大量の原材料は、それ自体、大規模な資本蓄積を前提としているからです。たとえば、社会的にはすでに高度な生産技術が存在していたとしても、小資本の場合、その資本規模が小さいためにそれを採用することができないかもしれないわけです。その場合には、資本規模の絶対的大きさそのものが、資本構成の高度化に対するネックになります。この障害が大きければ、やがてこの小資本は市場から駆逐されるわけです。時間とともに拡大再生産を通じて個々の資本の資本規模が大きくなるだけでなく、このような資本規模に依拠した高度な技術を採用できない小資本が市場から駆逐されることも通じても、平均的な資本規模はしだいに大きくなっていくというわけです。

以上のような資本構成の歴史的高度化は、資本の蓄積運動に対する長期的な枠組みを設定するものです。

A賃労働人口の大きさ

第2の条件は、賃労働人口の大きさ、すなわち現役労働者・失業者を問わず、賃労働者として利用可能な労働人口の大きさです。労働者の労働力価値のうちには、賃労働力の世代再生産のための費用と労働(育児労働や教育労働)とが入っています。この育児労働分の価値は2人目の子どもの必要生活手段の購入に当てることができるので、労働力価値がきちんと支払われているかぎり、労働者世帯は複数の労働力を再生産することができる。しかし、労働力の世代的再生産は少なくとも15〜20年以上はかかるかなり長期の過程であり、その具体的なあり方は、多様な諸要因によって規定されています。たとえば、資本主義発展の初期段階においては、シスモンディが『経済学新原理』で示しているように、資本主義以前における事実上の人口の単純再生産メカニズム(基本的に長子だけが子孫を残せる仕組み)が崩壊したことや、国力の大きさを人口増(それは同時に戦争に動員できる兵力の増大を意味する)で測ろうとする重商主義的イデオロギーなどのさまざまな理由があって非常に出生率が高くなり、労働人口の急増が見られました。この出生率はその後しだいに低下していきますが、世界大戦の勃発による多産奨励によって再び上昇しました。その後、平和な時代の到来によって一時的に再び出産ブームが起こりましたが、その後、本格的な少子化が起こっています。

このように出産数の長期的増減、したがってまた労働人口の社会的・世代的な再生産の数は、資本の蓄積運動だけではとうてい規定しきれないもきわめて多様な政治的・経済的・社会的・ジェンダー的諸条件に依存しています。それゆえここでは、資本主義のもとでの長期的な人口変動の歴史的趨勢をとって、絶対的な労働人口が少しずつ増大していく状況を想定しておくことにします。

資本の短期的ないし中期的な蓄積運動にとってはより重要なのは現役世代内における労働人口の大きさとその可変性です。この賃労働人口はけっして固定的なものではなく、それは外延的にも内包的にも拡大可能な可変の大きさです。たとえば、非資本主義的ないし半資本主義的な諸領域を資本がしだいに包摂していくことによって、古い生産諸関係を解体し、それまでは資本・賃労働関係の外部で働いていた労働者を賃労働者にしていくことによって、賃労働者として利用可能な労働力を外延的に拡大することができます。歴史的には主に、没落した旧支配層(貴族や武士、あるいはその子女)、独立自営職人や小商人、あるいは自営農、使用人などがそのような対象となります。

それに対して、すでに資本主義的システムに形式的に包摂されてはいるが、しかしまだ直接的には賃労働者ではない住民層を賃労働者に転化することによって、賃労働者として利用可能な労働力を内包的に拡大することができます。典型的には、賃労働者家族のうちまだ賃労働者化してない部分を賃労働者化することです。これは年齢階層別に3つのパターンに分けることができます。第1は若年層であり、平均的に賃労働化する年齢よりも早期に賃労働者化する場合であす。第2は現役労働年齢層であり、これは専業主婦や家事手伝いのように世帯主たる賃金労働者の扶養で生活していた部分が賃労働者化する場合です。第3は高齢層であり、いったんは現役労働者を退いた後に、生活費などのさまざまな理由から再雇用される場合です。これらの層は賃労働者の獲得する賃金や貯金に依存して生活しているという意味で、すでに資本主義的生産関係に包摂されていますが、直接的には賃労働者化していないのであり、これらの層が新たに賃労働者の隊列に加わること、あるいは再び加わることは、労働人口の内包的拡大となります。

その他にも、たとえば公務労働部門を民営化したり縮小したりすることによって、あるいは福祉を削減ないし縮小することによっても、既存の資本主義的領域の内部でも賃労働者層を拡大することができます。

B労働時間と労働強度

第3の基本条件は雇用労働者の労働時間と労働強度の大きさです。これもまた、これまでさんざん述べてきたように、固定的な大きさではなく、きわめて柔軟な可変量です。そして、労働時間を延長したり労働強度を高めるたりすることによって、資本は充用労働者数を代替えすることができるのであり、充用労働者数を増やすことなく、あるいは場合によっては減らしさえしても、労働の供給そのものを増大させることができます。

標準労働日の成立を前提とすれば、そして、等価交換が形式的に守られるとすれば、労働時間の延長と労働強化は労働者への追加賃金の支払いを伴うので、可変資本の増加を必然的に招くことになります。しかし、現役の労働者にできるだけ長時間・過密労働を押しつけながら、それによって増大する可変資本を節約するために雇用労働者数を削った場合には、可変資本の総量は変わりません。変わるのは、一単位あたりの可変資本によって充用される労働者の数だけです。たとえば、各労働者に8時間労働を課していて、各労働者1時間あたりに2500円の価値を生み、1日あたりの賃金が1万円であるとすると、剰余価値率は100%です。その場合、例えば400万円という1日当たりの可変資本の総額において雇用される労働者数は400人であり、その場合に獲得される剰余価値は可変資本と同じ400万円です。しかし、たとえば各労働者に2時間の追加労働をさせ、それに比例して賃金を増額した場合、1人あたりの賃金は1万2500円となるだろう(賃金率の割増は捨象する)と、同じ400万円という可変資本額で雇える労働者の数は400人から320人に減少しますが、獲得される剰余価値は引き続き400万円となります。このように、労働時間の延長と労働強化は、剰余価値の生産性を維持したまま労働力の需要を減らすことができるわけです。

これら3つの条件を絶対的とは言わないまでも、概ね不変である、あるいは可変性に乏しいという条件設定は、一見するとまったく空想的であるように思える。しかし、実際にはそうではない。局面的には、そのような諸条件が相対的に固定的である状況はいくらでも存在しうるし、実際に存在しました。典型的には、産業革命以前の「分業とマニュファクチュア」時代やそれ以前の時期がそうです。この時期には多くの労働は高度な技能ないし熟練にもとづいており、したがってまず第1に、当然ながら資本の価値構成はきわめて低く、かつそれを簡単に引き上げることはできません。熟練にもとづいているかぎり、その労働生産性を簡単に引き上げることはできないし、道具の高度化や専門化にも限界があります。また熟練の水平的解体を通じて技能価値を引き下げることは可能ですが、それでも多くの労働はなお熟練にもとづいており、その習得はけっして容易ではないものです。したがって、技術的構成の高度化に関しても、個々の労働力価値を下げることに関しても根本的に限界があり、したがって資本の価値構成を高めることは困難と言えます。

第2に、賃労働人口に関しても簡単に増大させることはできません。熟練にもとづいているかぎり、水平的解体を増大させることはできないし、熟練にもとづいているかぎり、水平的解体を経ているとはいえ、それを習得するにはやはり数年の訓練と修業を期間を必要とするし、当時、熟練労働者は基本的に成人男性労働者に限定されていたので、簡単に拡大することはできません。

第3に、労働時間と労働強度も簡単に増大させることはできません。なぜなら、高度な熟練にもとづく労働というのは、手の細やかな動きや神経の持続的緊張なーにもとづいているものであるから、長時間労働によって疲れた場合にはたちまち仕事の正確さを損なうことになるだろうし、その密度を簡単に増やすことはできないからです。単純労働であれば、そのテンポを高めることは比較的容易ですが、複雑労働はそうはいかないのである。さらに、生産が基本的に熟練労働者の熟練に依拠した抵抗力を有しているので、長時間労働や労働強化に対して抵抗することができる。熟練労働者はいわば自分たちの熟練ないし技能を囲い込み、組織化することによって、労働供給を、労働者数の点でも労働支出量の点でも、制限することができるのである。

このように、労働の需要と供給に関わる3つの基本的条件がおおむね不変である場合に、資本蓄積が進行するとどうなでしょうか?資本構成が一定のままで蓄積と拡大再生産が進行すれば、400v→480v→576vというように可変資本は増大していきます。最初のうち、このような拡大は、すでにある程度都市に滞留していた過剰人口を吸収することで乗り切られるでしょうが、やがて労働力供給の不足という限界にぶつかることになります。すでに見たように、基本的に熟練に依拠した生産が行われているかぎり、労働力を外延的にも内包的にも容易に拡大することはできないからであり、また労働時間を延長したり労働強化をすることで労働供給を増やすことも簡単にはできないからです。この場合、資本の蓄積運動は基本的に労働力の世代的再生産に制約されたものとなります。ここでは、労働者数は一定のテンポで世代的に増大していると前提されているので、その範囲内では蓄積を拡大することができます。しかし、このような長期的な世代的再生産のテンポをも超えて各資本が蓄積を強行しようとすれば、必然的に各資本は全体として不足している熟練労働者を相互に奪い合うことになる。これは必然的に賃金の上昇をもたらします。ここでは、単なる労働者不足が賃金を上昇させるという機械的な因果関係がここで言われているわけではないことに注意が必要です。そのような市場主義的因果関係など存在しません。それは今日の日本を見ても明らかです。しかし、大規模な機械化以前のこの時期には、労働者の側は自分たちの熟練に依拠することによって、そしてこの熟練を囲い込み、組織化することで、労働力不足を賃金上昇につなげる階級的力量を有していました。そして、労働力不足による賃金上昇がそのまま継続する場合には、剰余価値率はしだいに下がっていき、したがって蓄積率を引き下げることになります。これはたしかに、可変資本の拡大率を引き下げることになるので、労働力不足の進行は若干緩和されますが、それは抜本的な対策にはなりません。また可変資本の額が絶対的に増大すれば、不変資本に投じる貨幣額も少なくなるだろうし、これは資本構成を著しく低くするとともに、資本規模そのものの縮小を意味するわけです。資本規模の縮小は必然的に生産される剰余価値の総量そのものを絶対的に減らすことになります。これは無限の価値増殖体としての資本の自己否定であり、資本の蓄積危機を意味するものです。追加貨幣資本は利益の上がる投資先を失うことになり、深刻な過剰資本問題が発生します。これは、資本・賃労働関係そのもの、したがって両者間の根本的な支配・従属関係を覆すわけではありませんが、その支配力が大幅に緩み、労働者にとってその地位を向上させる絶好の機会を利用する能力がある場合には、労働者は自分たちの生活を改善することができるだけでなく、政治的自信を深め、自立性を増し、資本に対してしだいに反抗的になっていくことになります。もちろん、労働者の生活向上は、総じて労働者の結婚や子どもの出産を促すことになるので、長期的には労働力の世代的拡大再生産の促進につながるわけです。古典派経済学者たちは、賃金増にもとづくこのような人口増によって労働供給条件が緩和して、労働の需給が均衡状態に達するとみなしましたが、それはかなり強引な想定であると言わざるをえません。なぜなら、それによって以前より多くの労働力が利用可能になるのは15年から20年以上も先なのであり、しかも資本蓄積が必要とするほどの多産性をアブリオリに想定する根拠はないからです。このようにして、労働者の自立化の増大は、蓄積危機と並んで、資本の階級的支配の危機(階級危機)をもたらすことになります。

資本の運動原理は二重でした。すなわち、絶え間ない価値増殖としての形態的運動原理と、労働者にたいする絶え間ない支配の強化としての実体的運動原理です。ここでは、密接に関連したこの2つの原理がともに危機に陥っていることが分かります。

しかし、資本はこのような事態を前にして手をこまねいているわけではありません。資本はそもそも事態が蓄積危機や階級危機に至るずっと以前に、相対的な労働力不足を解消するためにあらゆる手段を真剣に追求します。こうして、3つの条件の不変性という前提は覆され、いずれも資本にとって有利な方向に転換する時期がやってくるわけです。

こうして、資本は、機械と大工業の導入を通じて、3条件がおおむね不変のままでの蓄積様式から3条件が資本にとって有利な側に変化する蓄積様式へと移行します。

それは、まず資本構成の高度化です。資本は、この蓄積危機と階級危機を回避するために積極的に生産様式の変事を目指し、何よりも大規模に機械を導入することによって危機を回避しようとします。まずもって資本はこれまでと同じ技術的構成で再生産を繰り返すのではなく、機械という新しい高度な固定資本へと蓄積元本の一部を投資するのです。これは一石二鳥にも三鳥にもなるものです。まず第1に、これまでは、既存資本に関しても追加資本に関しても同じかなり高い割合で可変資本に投じなければならなかったのが、労働者を減らして機械に投じることによって、資本は新しい投資先を見出すからです。第2に、先駆的に機械を導入すれば、特別剰余価値を獲得することができるので、この先駆的資本にとっては蓄積危機を大幅に緩和することができるし、後進的資本を市場から駆逐することで労働の需要条件をも緩和することができるからです。第3に、機械は熟練を解体し、単純労働化することができるので、その分、労働力価値を引き下げることができるからです。これもまた蓄積危機を緩和させることができるものです。第4に、反抗的な労働者を機械でもって置き換えることで労働者の抵抗力をくじくことができ、階級危機を緩和させることができ、このことはさらに、これまで高騰していた労働者の賃金を抑えることができるので、蓄積危機の緩和にも役立つからです。

機械という新しい固定資本投資によって実現される新しい生産力はもちろんのこと、その労働生産性を以前よりはるかに高めるので、流動資本への投資をも大幅に増やすことになります。このようにして、可変資本の絶対額が低くなるだけでなく、不変資本への投資額が飛躍的に増大するので、資本構成は著しく高まります。これは、資本のこれまでの労働力不足体質を改善して、逓減的な割合で可変資本を増大させるだけですむようになり、それは労働力の需要条件を大幅に改善します。だが、それは以下に見るように、労働力の供給条件をも大幅に改善することになります。

それはつまり、熟練に依拠した生産から機械に依拠した生産への移行は。労働力の供給に関しても何重にも資本にとって有利な条件を生み出すということです。第1に、それは熟練を垂直的にも解体し、多くの労働を単純化することによって、それを成人男性だけでなく、女性でも子どもでも外国人でも老人でもなしうる労働に転化します。大規模に機械化が進んだ時代には、炭鉱などを除けば、労働者のかなりの部分は女性労働者と児童労働者によって占められていました。製糸業や綿糸紡績のように、労働者の8〜9割が女性と子どもによって占められていた場合さえありました。第2に、労働が単純化すれば、部門間の労働移動も容易になるので、この点でも労働力の供給条件は緩和されます。熟練に依拠していた時代は、特定の部門は特定の技能を持った労働者しか雇うことができなかったので、たとえ他部門で労働者が余っていても、その労働者を安易に雇うことはできませんでした。しかし、労働の単純化はこのような制限も突破することを可能にしました。第3に、大規模な機械化は労働生産性の飛躍的な発展意味するので、非資本主義部門との競争に速やかに勝利することができるようになり、それらの部門を解体して、そこで働いていた労働者を容易に賃労働者に転化させることができるようになりました。第4に、機械による大規模生産は国外の伝統的産業も破壊するので、国境を越えた労働者の移動を容易にし、需要対象となる労働力の市場は国際的な広がりを持つようになりました。そして第5に、この点はあまり注目されないが、機械化がつくり出す大規模な輸送手段、交通機関は、地理的にも労働力の供給範囲を著しく拡大しました。

こうして、賃労働は内包的にも外延的にも急速に拡大することができるようになり、労働力の供給条件も著しく資本にとって有利なものとなりました。

しかし、一方で、機械化は、労働力の供給条件を資本にとって有利なものにするだけでなく、労働者数に関わらない労働供給を増やすことも可能にしました。すなわち、1人当たりの労働者から抽出することのできる労働量を増大させることができるからです。

すでに述べたように、熟練に依拠した生産は二重の意味で労働時間の延長や労働強化にとって制限となっていました。まず技術的に、熟練労働が持つ全体性、複雑性は、安易に労働時間の延長や労働強度を高めることを妨げます。マニュファクチュア的分業の進展は、全体性を一定破壊しますが、結局は手の熟練に依存しているかぎり、ある種の有機的全体性を完全に除去することはできません。次に階級的に、熟練労働者は、容易に取って代わることはできない熟練を武器にすることで、資本に対する一定の自立性を確保し、その点からも、資本が押しつける労働時間延長や労働強化を困難にします。機械化は、この両方の制限を突破するのに役立つものでした。それが労働を単純化することによって技術的複雑さと全体性を根本的に破壊し、労働時間の延長と労働強化を技術的に可能にしました。またそれは熟練に依拠した労働者の階級的自立性をも打ち砕き、生産のイニシアチブが労働者から、機械を統制する資本家に移ることによって、労働者により多くの労働を押しつける資本家の権力もまた増大しました。

資本家が労働時間の延長や労働強化によって増大した労働支出に比例的に見合う追加的な賃金を支払う場合には(機械化の最初の段階においては、資本の力が一気に高まるので、この前提は必ずしも守られない)、これは同時に可変資本の増大をもたらします。しかし、労働力不足のために生じる賃金増大の場合には、支出労働量が一定のままで可変資本額が増大するので、したがって、労働時間を延長したときに支払うべき追加賃金額を算出するための基準となる基本賃金額も増大します。それに対して、労働時間を延長させ労働を強化することで、労働者に対する需要を増やすことなく労働供給を増大させるならば、追加賃金の基準となる基本賃金額を低く抑えることができるので、たとえ追加賃金を支払ったとしても、資本にとってはプラスになります。

以上3つの諸条件がすべて資本にとって有利になることで、上昇傾向にあった労賃を劇的に引き下げることができ、資本の蓄積条件を大幅に改善し、したがって蓄積率を高めることができるわけです。蓄積率が高まれば当然、労働需要も増えるが、それは以前よりも低い割合でしか増えないということです。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、資本の価値構成が高度化すればするほど─他の諸条件が同一であれば─、長期的には蓄積率が下がることです。たしかに、機械化が大規模に進行していく時期には、高騰した労賃を引き下げ、また熟練の解体を通じて労働力価値そのものを引き下げることができるので、短期的には蓄積率を高めることができます。だからこそ蓄積危機が回避されるのです。しかし、資本構成が絶え間なく高まっていくことは、長期的には蓄積率を再び引き下げることになります。つまり、資本の価値構成を高度化させることは万能の解決策でも何でもなく、深刻な蓄積危機と階級危機という二重の危機を回避するために、長期的には蓄積率を相対的に下げる選択をしていたのです。したがってこれは、拡大再生産に伴う蓄積率の低下という基本矛盾を解消するものではけっしてなく、それはちょうど商品に内在する価値と使用価値との矛盾が貨幣の出現によって解消されるのではなく、それが運動しうる形態を見出すだけであるのと同じく、資本構成の高度化とその他の諸条件の変化は、資本形態に内在する矛盾を解消するのではなく、資本が蓄積運動を継続しうる形態を、したがって資本が運動しうる形態を見出すだけなのです。

しかし、このことから次のことが言えます。資本の価値構成を高度化しすぎたならば、労働力不足による賃金上昇によって生じた剰余価値の絶対量の減少と同じ蓄積危機に直面する可能性があるということです。価値の源泉、したがって剰余価値の源泉は労働力だけであるから、可変資本を不変資本に置き換えすぎたならば、結局は、生産されうる価値と剰余価値の総量が減ってしまうことになります。これは、資本構成の過剰高度化によるもう一つの蓄積危機です。この場合、せっかく投資された固定資本そのものが過剰になってしまい、生産的に使用されない事態が発生することになります。先の蓄積危機においては過剰になっていたのは、利益の上がる投資先を失った貨幣資本でしたが(貨幣資本の過剰)、この蓄積危機の第2形態において過剰になっているのは生産資本、とりわけ固定資本です(生産資本の過剰)。また、過剰に投資しすぎた固定資本をフル稼働させて商品生産を行えば、生産資本の過剰問題は回避できますが、今度は市場が吸収できないほどの大量の商品資本を市場にあふれさせることになるかもしれず、投資した資本がほとんど回収できないという有効需要危機をもたらすかもしれません(商品資本の過剰)。

このように、資本はある蓄積危機の現実性を別の蓄積危機の可能性でもって回避するのであり、このような種々の蓄積危機に接近したり離れたりしながら、その矛盾に満ちた運動を遂行するのです。あたかも資本構成さえ高度化すれば蓄積危機を永続的に回避することができるかのように単純化した解説がしばしば見られるが、決してそうではないことに注意しなければならないのです。

 

 

第4節 相対的過剰人口の種々の存在形態。資本主義的蓄積の一般法則

相対的な過剰人口の三つの形態

相対的過剰人口は、考えられるかぎりのあらゆる色合いで存在する。どの労働者も、彼の半分しか就業していないとか、またはまったく就業していない期間は、相対的過剰人口に属する。相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的に現われ、ときに不況期に慢性的に現われるというように、産業循環の局面転換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現れる諸形態を別とすれば、それはつね次の三つの形態がある。流動的、潜在的、停滞的形態がそれである。

相対的過剰人口は、考えられるかぎりの多様な在り方で存在します。すべての労働者は半分しか就労していな(非正規の短期労働?)かったり、雇用されていなかったりしていれば、そのあいだは相対的過剰人口に含まれます。相対的過剰人口には、産業の景気循環の局面の変化に応じて周期的に繰り返し現れる形態あります。たとえば、恐慌の時には急激に相対的過剰人口が増大し、不況の期間には緩慢に相対的過剰人口が増大していきます。このような変化を別にすると、相対的過剰人口は次の三つの形態をとりす。すなわち、流動的、潜在的、停滞的な形態です。

相対的な過剰人口は、あらゆる種類の多様な形で存在しうる。すべての労働者は、半雇用者あるいは非雇用者であるあいだには、相対的な過剰人口に含まれる。相対的な過剰人口には、産業循環の局面の変化に応じて周期的に反復して発生する大きな変動形態がある。たとえば恐慌の時期には、急激に過剰人口が増大し、不況の期間には緩慢に過剰人口が増大する。こうした変動形態を別とすると、過剰人口はつねに次の三つの形態をとる─流動的な形態、潜在的な形態、停滞的な形態である。 

 

流動的な過剰人口

近代産業の中心─工場やマニュファクチュアや製錬所や鉱山など─では、労働者はときにははじき出され、ときにはいっそう大量に再び引き寄せられて、生産規模にたいする割合では絶えず減って行きながらも、だいたいにおいて就業者の数は増加する。この場合には過剰人口は流動的な形態で存在する。

本来の工場では、また、機械が要因として加わっているとかまたはただ近代的な分業が行われているだけのすべての大きな作業場では、まだ少年期を過ぎていない男子労働者がたくさん使用されている。少年期を過ぎてしまえば、そのまま同じ事業部門で使用されるものは非常に少数で、大半は型どおりに解雇される。これらのものは、流動的過剰人口のうちの産業規模の拡大につれて増加大する要素をなしている。その一部分は移住するが、実際にはただ移住する資本について行くだけである。その結果の一つは、女子人口が男子人口よりも急速に増加するということで、イギリスがその実例である。労働者数の自然的増加が資本の蓄積欲求を満足させないで、しかも同時にそれを超過するということは、資本の運動そのものの一つの矛盾である。資本はより多くの年少労働者を必要とし、より少ない成年男子労働者を必要とする。これよりももっとひどいもう一つの矛盾は、分業によって一定の事業部門につながれているために失業しているものが大ぜいいるというちょうどそのときに人手の不足が訴えられるということである。そのうえ、資本による労働力の消費は非常に激しいので、中年の労働者はたいていすでに多かれ少なかれ老朽してしまっている。彼は過剰人口の隊列に落ちこむか、またはより高い等級からより低い等級に追い落とされる。まさに大工業の労働者の場合にこそ、われわれは寿命が最も短いのを見るのである。

「マンチェスターの衛生官のドクター・リーが確認したところでは、同市では有産階級の平均寿命は38歳であるが、労働者階級の平均寿命はたった17歳である。リヴァプールでは、前者のそれは35歳、後者のそれは15歳である。だから、特権階級は、彼らよりも恵まれていない仲間の市民に比べて、2倍以上の寿命をもっているというになる。」

このような事情のもとでは、プロレタリアートのこの部分の絶対的増大は、その構成要素が急速に消耗するにもかかわらずその数を膨張させるという形態を必要とする。つまり、労働者世代の急速な交替である(この法則は、人口のうちの他の諸階級にはあてはまらない。)この社会的要求は、大工業の労働者の生活事情の必然的な結果である早婚によって満たされ、また、労働者の子どもの搾取が彼らの生産につけるプレミアムによってみたされるのである。

近代産業の中心である工場、マニュファクチュア、精錬所、鉱山などでは、労働者は、時には放出され、時には再び雇用されたりしながら、全体として雇用人数は増加していくのですが、生産規模に対する雇用者の比率は低下していきます。この場合、過剰人口は流動的な形態にあると言います。

工場、部分的に機械を導入しているか、近代的な分業が行われているだけの大規模な作業場でも、未成年の男子労働者が大量に必要とされています。この未成年労働者が成年に達すると、彼らの大半は慣例にしたがって解雇され、そのまま雇用を維持される労働者は、ごく少数です。解雇された人々は流動的な形態の過剰人口の一部となります。産業の規模が拡大すると、この人口も増加します。その一部は移民となって海外に移住するりですが、実際には海外に進出した資本の後を追いかけているのです。その結果として、男子に比べて女子の人口が急速に増えることになります。労働者数の自然増加が資本の蓄積欲求を満たさず、しかも同時にそれを超えるというのは、資本の運動の矛盾のひとつです。つり、資本は年少の労働者をより多く必要としていすが、成年の男子労働者はそれほど必要としていないからです。このことよりもさらにひどい矛盾は、数千人の人々が失業して路上に放りだされているのに、人手不足が訴えられているということです。これは、分業が進んだために、労働者が特定の事業部門に拘束されているからです。さらに資本による労働力の消費があまりに急激であるため、労働者が中年にさしかかった頃には、多かれ少なかれ老いぼれてしまう。こうなると、中年の労働者は過剰人口の1人に転落するか、ランクの低い労働者に格下げされることになります。大工業で働く労働者の平均寿命がもっとも短いのです。

このような事情のもとでプロレタリアートのこの部分の絶対数が増加するのは、この部分が急速に消耗するにもかかわらず、その数が増加する形態が必要です。すなわち、労働者の急速な世代交代が必要です。この社会的な必要性は、大工業で働く労働者の生活状況の必然的な結果である早婚によって、達成されます。さらにそのおまけとして、生まれた子供にたいする児童労働者への搾取が加わる。

近代産業の中心である工場、マニュファクチュア、製錬所、鉱山などでは、労働者はあるときは放出され、あるときはふたたび多量に引き寄せられながら、全体としては雇用人数は増加していくが、生産規模と比較すると、その比率はたえず低下していく。過剰人口はここでは流動的な形態にある。

ほんらいの工場においても、あるいはたんに部分的に機械装置を導入しているか、近代的な分業が行われているにすぎないすべての大規模な作業場でも、未成年の男性労働者が大量に必要とされる。こうした労働者が成年になると、その大半は通例にしたがって解雇されるのであり、同じ産業分野で雇用を維持される労働者はごく少数である。

解雇された人々は流動的な過剰人口の一部となる。産業の規模が拡大すると、この部分も増加する。その一部は海外に移住するが、実は海外に進出した資本のあとを追っているにすぎない。その結果として、男性の人口よりも女性の人口が急速に増加することになる。それはイギリスの例からも明らかである。労働者の人数の自然の増加が資本の蓄積欲求も満たさず、しかも同時にそれを超えるというのは、資本の運動そのものの矛盾の一つである。

資本は年少の労働者をより多く必要としており、成年の男性労働者をあまり必要としていない。これよりもさらに明確な矛盾は、数千人の人々が路上に放りだされているのに、人手不足が嘆かれることである。分業のために彼らが特定の事業分野に縛りつけられているからである。さらに資本による労働力の消費があまりに急激であるあるために、労働者は中年にさしかかると、すでに多少なりとも老いぼれてしまっている。中年の労働者は過剰人口の1人に転落するか、ランクの低い労働者に格下げされる。ほかならぬ大工業で働く労働者が、もっとも平均寿命が短いのである。

「マンチェスターの保健衛生官のリー医師が確認したところでは、この都市の有産階級の平均寿命は38歳であるが、労働者階級の平均寿命は17歳にすぎない。リヴァプールでは前者が35歳、後者が15歳である。特権的な階級の寿命は、恵まれない同胞市民たちの2倍以上になる」

このような状況のもとでプロレタリアートのこの部分が絶対的に増加するためには、この部分が急速に消耗するにもかかわらず、その数を増加させるような形態が必要である。すなわち労働者の急速な世代交替が必要なのである(人口の他の階級については、この法則は妥当しない)。この社会的な必要性は、大工業で働く労働者の生活状況の必然的な結果である早婚によって満たされる。さらにその〈おまけ〉として、労働者の生産活動において、児童労働者の搾取がつけ加えられるのである。

 

潜在的な過剰人口

資本主義的生産が農業を占領するやいなや、または占領する程度に応じて、農業で機能する資本が蓄積されるにつれて、農村労働者人口にたいする需要は絶対的に減少するのであるが、ここでは、農業以外の産業の場合とは違って、労働人口の排出がそれよりも大きな吸収によって埋め合わされることはないであろう。それゆえ、農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュア・プロレタリアートに移行しようとしていて、この転化に有利な事情を待ちかまえているのである。(マニュファクチュアはここではすべての非農業的産業を意味する。)だから、相対的な過剰人口のこの源泉は絶えず流れているのである。しかし、諸都市へのその絶えまない流れは、農村そのものにたえず潜在的過剰人口があることを前提するのであって、この過剰人口の大きさは、ただ排水路が特別に広く開かれるときだけ目に見えるようになる。それゆえ、農村労働者は、賃金の最低限度まで押し下げられて、片足はいつでも貧困の泥沼に突っ込んでいるのである

資本主義的生産様式が農業にも浸透し、支配的になっていくにつれて、農業でも資本の蓄積が進むようになり、その進行に伴って農業労働人口の需要は減少していきます。ところが、農業では、これまで見てきた産業部門のように、放出された労働者が、新しい事業が勃興して産業全体の労働者需要が増加し、そこに吸収されるということがありません。そのため、放出された農業労働者の一部は、都市に出てプロレタリアートになる予備軍として、都市に出るタイミングを見計らっている。それゆえ、このタイプの相対的過剰人口は、源泉から流れ出るという一方的なものです。この流れは、農村から都市へと流れる一方的なものです。これは都市から見れば、農村から流入してくる潜在的な過剰人口ということになります。

資本制的な生成が農業を支配するようになると、あるいはその支配度が高まるに応じて、そこで機能する資本の蓄積が進むとともに、農業労働人口の需要は絶対的に減少していく。ところが農業では、他の分野でみられたように、労働人口の放出が、より大きな吸収「雇用」によって補われることがない。そのため農業人口の一部は、たえず都市プロレタリアートあるいはマニュファクチュア・プロレタリアートになる準備を整えているのであり、この変身に好ましい状況が現われるのを待ち構えている(ここでマニュファクチュアとは、農業以外のすべての分野の産業のことである)。

だからこの相対的な過剰人口の〈泉〉はつねに流れでるばかりである。しかし都市へと向かってたえず流れるこの流れは、農村そのものにたえず潜在的な過剰人口が存在することを前提としている。この潜在的な過剰人口の規模は、〔都市に過剰人口を放出する〕排水路が例外的に広く開かれたときに、初めて明らかになる。こうして漁業労働者の賃金は最低水準に抑えられ、片足をつねに貧弱の泥沼に突っ込んでいるのである。

 

停滞的な過剰人口

相対的過剰人口の第三の部類、停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業はまったく不規則である。したがって、それは、自由に利用できる労働力の尽きることのない貯水池を資本に提供している。その生活状態は労働者階級の平均水準よりも低く、そして、まさにこのことがそれを資本の固有な搾取部門の広大な基礎にするのである。労働時間の最大限と賃金の最小限とがそれを特徴づけている。われわれは家内労働という項のなかですでにそのおもな姿を知った。この過剰人口は、絶えず大工業や大農業の過剰労働者から補充され、また、ことに、手工業経営がマニュファクチュア経営に敗れ後者がまた機械経営に敗れて行く滅びつつある産業部門からも補充される。蓄積の範囲とエネルギーとともに「過剰化」が進むにつれて、この過剰人口の範囲も拡大される。同時にまたこの過剰人口は、労働者階級のうちのそれ自身を再生産し永久化する一要素をなしているのであって、この要素は、労働者階級の総増加のうちに他の諸要素よりも比較的大きな割合を占めている。実際には、出生数と死亡数だけではなく、家族の絶対的な大きさも、労賃の高さに、すなわちいろいろな労働者部類が処分しうる生活手段の量に、反比例する。このような資本主義的社会の法則は、未開人のあいだでは、または文明化した植民地の人々のあいだでさえも、不合理に聞こえるであろう。この法則は、個体としては弱くて迫害を受けることの多い動物種族の大量的再生産を思い出させる。

相対的過剰人口の第三の形態である停滞的過剰人口は、現役の従業労働者のうちの不規則に雇用される労働者です(現代ならばさしずめ非正規雇用ということになりましょうか)。このような人々は、資本が自由に使うことのできる労働力の無尽蔵の供給する貯蔵庫となっています。彼らの生活水準は労働者階級の平均を下回り、資本による搾取を幅広く支える基盤となっています。このような労働者の特徴は、労働時間が最長であることと賃金が最低であることです。このような特徴は、すでに家内工業の項目で確認しています。この停滞的過剰人口は、大工業と農業で余った労働者から絶えず補充され、とくに手工業による経営がマニュファクチュアに敗退し、マニュファクチュアが機械化経営に敗退するプロセスで没落した産業部門から調達されます。蓄積の規模とエネルギーが大きくなると、労働者の過剰分が増えて、これにより停滞的な過剰人口の規模が大きくなります。同時にまた、この過剰人口は、労働者階級のなかでも、自らを再生産し永久化するところを担います。労働者階級が全体として数を増加しているなかで、この部分の増加率が一番大きいのです。つまり、出生率や死亡率だけでなく、家族のメンバーの人数も、労賃、つまりさまざまな労働者が処分できる生活手段の量、に反比例します。資本主義社会のこのような法則は、そうでない社会の人々から見れば不合理に見えるかもしれません。動物界でも弱い動物ほど繁殖力が強いことを思い出させます。

る。

相対的な過剰人口の第三の形態である停滞的な過剰人口は、現役の労働者軍の一部を構成しているが、まったく不規則に雇用される労働者である。こうして彼らは、資本が自由に使うことのできる労働力の無尽蔵な貯蔵庫となっているのである。その生活水準は、労働者階級の平均水準を下回り、資本に固有の搾取が行われる分野を広い範囲で支える基盤となっている。これらの労働者の特徴は、労働時間が最長であることである。わたしたちは家内工業の考察で、その主要な特徴をすでに確認している。

この種の過剰人口は、大工業と農業で過剰になった労働者からたえず新風に調達され、とくに手工業経営がマニュファクチュア経営に敗北し、マニュファクチュア経営が機械経営に敗北する過程で没落した産業分野から調達される。蓄積の規模とエネルギーが大きくなると、〔過剰化〕が進行し、これによってこの種の過剰人口の規模も拡大する。

しかしこの過剰人口は、労働者階級のうちにあって、みずから再生産し、永続する部分となる。そして労働者階級の全体の増加のうちでこの部分が占める比率は、他の部分よりも大きい。実際に出生率や死亡率だけでなく、家族の成員の数も、労働賃金に反比例するのである。すなわちさまざまなカテゴリーの労働者が自由に処分できる生活手段の量に反比例して、家族の人数が多くなるのである。資本制的な社会のこの法則は、未開人にとっては、あるいは文明化した植民地の人々にとっても、不合理に思えるかもしれない。個体としては弱く、攻撃されやすい種の動物は、繁殖率が高いことを思いださせる。

 

貧民の三つのカテゴリー

最後に、相対的過剰人口のいちばん底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。浮浪者や犯罪者や売春婦など、簡単に言えば本来のルンペンプロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つの部類から成っている。第一は労働能力のあるものである。イギリスの受救貧民の統計にざっと目を通しただけでも、その数が恐慌のたびに膨張し、景気の回復ごとに減少しているということが分かる。第二は孤児や貧児である。彼らは産業予備軍の候補で、たとえば1860年のような大興隆期には急速に大量に現役労働者軍に編入される。第三は堕落したもの、零落したもの、労働能力のないものである。ことに、分業のために転業ができなくなって没落する人々、労働者としての適正年齢を越えた人々であり、最後に、危険な機械や鉱山採掘や化学工場などとともにその数を増す産業犠牲者、すなわち不具者や罹病者や寡婦などである。受救貧民は、現役労働者軍の廃兵院、産業予備軍の死重〔運搬具自体の重み〕をなしている。受救貧民の生産は相対的過剰人口の生産のうちに含まれており、その必然性は相対的過剰人口の必然性のうちに含まれているのであって、受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産及び発展の一つの存立条件になっている。この貧民は資本主義的生産の空費に属するが、しかし、資本はその空費の大部分を自分の肩から労働者階級や下層中間階級の肩に転嫁することを心得ているのである。

相対的過剰人口の最下層に沈殿しているのが、受救貧民という公的な扶助を受ける人々です。たとえば、浮浪者、犯罪者、売春婦などで、そもそもルンペン・プロレタリアートを別にすれば、この社会層は三つ層に分類することができます。第一は労働能力のある者たちです。イギリスの統計では、恐慌が起こるたびにこの人々が増加し、景気回復につれて減少しています。第二は孤児や貧民です。この人々は産業予備軍の候補者たちで、大好況の時には急速で大規模に雇用されました。第三には落伍した人々、労働能力のない人々で、危険な機械や鋼材の採掘、化学工業の増大により労働災害や化学物質による疾病の犠牲者たちです。受救貧民は、現役の労働者軍のいわば傷病兵です。受救貧民が生まれるということは、相対的過剰人口が生まれることの一つの要因です。このような貧困層は相対的過剰人口とともに、富の資本主義的な生産・発展の存立条件の一つになっています。この人たちは資本主義的生産の無駄な出費の一つで、資本は、これを労働者階級や下層中産階級にうまく押しつけている。

相対的な過剰人口の最下層に沈殿するのが、〔公的な扶助を受ける〕救貧院たちである。放浪者、犯罪者、娼婦など、ほんらいのルンペンプロレタリアートを別とすると、この社会層は三つのカテゴリーで構成される。第一は労働能力のある者たちである。イギリスの救貧民の統計を一瞥してみるだけでも、恐慌が起こるたびにこれらの人々が増加し、社会の景気が回復するごとに減少していることが分かる。第二は孤児や貧民の子供たちである。彼らは産業予備軍の候補者たちであり、たとえば1860年などの大好況の時期には、急速かつ大量に労働者軍に編入された。第三に零落した者たち、落伍した者たち、労働能力のない者たちである。これらは、分業のためにほかの仕事につけなくなって落伍した者たち、労働者の平均年齢を超えて生き延びた者たち、そして最後に、危険な機械類、鉱山の採掘、化学工場などが増大するとともに増えてきた産業の犠牲者たち、すなわち障害者、病人、寡婦などである。

救貧民は、現役労働者軍のいわば傷病兵であり、産業予備軍のうちに自然に生まれる重石のようなものである。救貧民の産出は、相対的な過剰人口の産出のうちに組み込まれており、その必然性は相対的な過剰人口の必然性のうちに組み込まれている。こうした貧困層は、相対的な過剰人口とともに、資本制的な生産と富の発展の存立条件の一つなのである。彼らは資本制的な生産の冗費の一つであり、資本はその費用の大部分を労働者階級と下層中間階級に負担させる術を心得ているのである。

 

蓄積の絶対的な一般法則

社会的な富、現に機能している資本、その増大の規模とエネルギー、したがってまたプロレタリアートの絶対的な大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。自由に利用されうる労働力は、資本の膨張力を発展させるのと同じ原因によって、発展させられる。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力といっしょに増大する。しかしまた、この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。それは、すべての他の法則と同じように、その実現にさいしてはさまざまな事情によって変化を加えられたのであるが、このような事情の分析はここではまだなされないのである。

労働者に向かって、彼らの数を資本の価値増殖欲求に合わせるようにと説教する経済学の知恵の愚かしさがわかるであろう。資本制的生産・蓄積の機構は、この数を絶えず価値増殖欲求に適合させているのである。この適合の最初の言葉は、相対的過剰人口または産業予備軍の創出であり、最後の言葉は、現役労働者軍のますます増大する層の貧困と受救貧民の死重とである。

ますます増大する生産手段が、社会的労働の生産性の増進のおかげで、ますますひどく減って行く人力支出によって動かせうるという法則─この法則は、労働者が労働手段を使うのではなくむしろ労働手段が労働者を使うという資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が自分たちの雇用手段に加える圧力はそれだけ大きくなり、したがって、労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の力を売るということはますます不安定になることのうちに表わされている。つまり、生産人口よりも生産手段や労働の生産性のほうが速く増大するということは、資本主義的には、逆に労働者人口がつねに資本の価値増殖欲求よりも速く増大するということのうちに表わされるのである。

社会的な富、現に機能している資本、その資本の成長の規模とエネルギーが大きければ大きいほど、そしてプロレタリアートの絶対数とその労働生産力が大きければ大きいほど、産業予備軍も大きくなります。利用可能な労働力は、資本の膨張力を発展させる原因と同じ原因で発展します。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の潜在的な力とともに成長します。この産業予備軍の大きさが現役の労働者軍に対して大きくなればなるほど、固定的な過剰人口が大きくなります。彼らの貧困は、働くことができないから、労働の苦しさに反比例します。最後に、このような労働者階級の最も貧しい人々と産業予備軍が大きくなればなるほど、公的な扶助を受ける貧民層も拡大します。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般法則です。この法則は、他の法則と同じように、実際には状況によって修正を受けますが、ここでは、その分析はしません。

労働者たちに向かって、彼らの人数を資本の価値増殖の欲求に合わせて増減させよと説く経済学者の愚かさは、このことからも明らかです。資本主義的な生産と蓄積のメカニズムは、労働者の数を絶えず資本の価値増殖欲求に合わせるように調整しているからです。この調整のはじめは、相対的過剰人口または産業予備軍の産出であり、最後は、たえず増大する現役の労働者軍の貧困と受救貧民の産出です。

社会的な労働生産力が向上するおかげで、人の労働力の支出をより減らしていきながらも、ますます大量の生産手段を働かせるようになります。これは、労働者が労働手段を使うのではなく、労働手段が労働者を使うという資本主義的な基盤の上では、労働の生産力が向上すればするほど、労働者たちが自分の雇用手段にたいする圧力が大きくなり、彼ら自身の生存の条件がますます危ういものとなるということです。労働者は他人である資本家の富を増大させるために、資本の自己増殖のために自らの力を売ることで生存しているからです。つまり、生産手段と労働の生産性が生産人口よりも急速に増大するということは、資本主義的なシステムでは、その反対の形で、すなわち労働者人口が資本の価値増殖欲求よりも急速に増大するということです。

社会的な富、すでに機能している資本、資本の成長の規模とエネルギーが大きければ大きいほど、そしてプロレタリアートの絶対数とその労働の生産力が大きければ大きいほど、産業予備軍も大きくなる。使用可能な労働力は、資本の膨張力が発展するのと同じ原因で増大する。そこで産業予備軍の相対的な大きさは、富の潜在的な能力とともに拡大する。この産業予備軍の大きさが、現役の労働者軍に対して大きくなればなるほど、固定的な過剰人口も多くなる。彼らの貧困は〔働けないために〕、労働の苦しさに反比例する。最後に労働者階級のこの病人層と産業予備軍が大きくなればなるほど、公的な扶助をうける貧困層も増加する。これが資本制的な蓄積の絶対的な一般法則である。この法則は他のあらゆる法則とおなじように、実現される際にはさまざまな状況によって修正されるが、これについてはここでは分析しない。

労働者たちに向かって、資本の価値増殖の欲求に合わせて自分たちの人数を増減させよと説教を垂れる経済学の智恵の愚かしさは、このことから明らかであろう。資本制的な生産と蓄積のメカニズムは、労働者の数をたえず資本の価値増殖の欲求に合わせて調整している。この調整の最初の言葉は、相対的な過剰人口あるいは産業予備軍の産出である。その最後の言葉は、たえず増大する現役の労働者軍の層の貧困と、救貧民という自然に生まれる重石である。

社会的な労働の生産力が向上するおかげで、人間の労働力の支出をますます減らしながら、ますます大量の生産手段を動かせるようになる。この法則は労働者が労働手段を使うのではなく、労働手段が労働者を使うという資本制的な基盤の上では、次のような形で実現される。すなわち労働の生産力が向上すればするほど、労働者は自分たちの雇用手段に対する大きな圧力となり、彼らの生存条件がますます危ういものとなる。彼らは他人の富を増大させるため、資本の自己増殖のためにみずからの力を売ることで生存しているのである。生産手段と労働の生産性が生産人口よりも急速に増大するということは、資本制的なシステムにおいてその反対の形で、すなわち労働者人口が資本の価値増殖の欲求よりも急速に増大するという形で現われてくる。

 

剰余価値の生産と労働者

われわれは第4篇で相対的増殖価値の生産を分析したときに次のようなことを知った。すなわち、資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属品に引き下げ、彼の労働の苦悩で労働の内実を破壊し、独立した力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力から彼を疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガーノートの車の下に投げこむということ、これらのことをわれわれは知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべてまた逆にかの諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。最後に、相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に、反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。

第4篇で相対的剰余価値の生産を分析した際に、次のことが明らかになりました。すなわち、資本主義的システムのもとでは、労働の社会的生産力を向上させるための方法は、ひとりひとりの労働者の犠牲を伴うということ、つまり、生産を増大させためのあらゆる手段は、生産者である労働者を支配し搾取する手段となり、労働者を不具にし、機械の付属品に貶め、労働の苦悩によって労働の内実を破壊し、独立した力としての科学が労働過程に組み込まれるにつれて、労働過程の精神的な力から労働者を疎外するということ、そして、これらの手段が労働者の働く条件を歪め、労働者を狭量陰険きわまる専制に服従させ、労働者の生活時間を労働時間に変えること、などです。しかし、剰余価値を生産する方法は、同時に蓄積を進める方法でもあり、その逆に、蓄積の拡大は剰余価値を生産する方法を発展させる手段となります。だから、資本が蓄積されればされるほど、労働者が受け取る支払額が多くても少なくても、労働者の状態は悪化せざるをえないのです。最後に、相対的過剰人口あるいは産業予備軍の大きさは、常に蓄積の規模やエネルギーと均衡するという法則は、強く労働者を縛りつけるのです。この法則は、資本の蓄積に対応する労働者の困窮を必然的にもたらすものです。一方で富が蓄積されると、他方では自分の生産した物を資本として生産している階級の貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落が蓄積されるのです。

第4篇で相対的増殖価値の生産を分析した際に、次の諸点を確認してきた。資本制的なシステムのもとでは、労働の社会的な生産力を向上させるためのすべての方法は、個々の労働者の犠牲もとで行われること、生産を増大させるためのあらゆる手段は、生産者〔労働者〕を支配する手段に、そして搾取する手段になり、労働者を部分人間へと歪め、機械の付属品に貶め、労働の苦悩によって労働の内実を破壊すること、そして科学が独立した能力として労働過程に組み込まれるとともに、労働過程のもつ精神的な力から労働者が疎外されること、そしてこれらの手段は、労働者が働く条件を損ない、労働者をきわめて卑小で卑劣な専制に従属させ、労働者の生活時間を労働時間に変え、彼の妻子を資本のジャガーノートの車輪の下に投げだすこと、などである。

しかし、増殖価値を生産するあらゆる方法は、同時に蓄積を進めるための方法でもあり、その逆に蓄積の拡大は、増殖価値を生産するための方法を発展させる手段にもなる。そこで資本が蓄積されればされるほど、労働者がうけとる支払額の多少にかかわらず、労働者の状態は悪化せざるをえないことになる。

最後に相対的な過剰人口あるいは産業予備軍が、つねに蓄積の規模やエネルギーにふさわしい大きさになるというあの法則は、ヘファイストスの楔がプロメテウスを岩に縛りつけたよりもさらに強く、労働者を資本に縛りつける。その法則は、資本の蓄積に対応する〔労働者の〕困窮の蓄積を必然的にもたらす。一方の極では富が蓄積されると同時に、他方の極では自分自身の生産物を資本として生産している階級の困窮と、労働の苦痛と、奴隷状態と、無知と、粗暴化と、道徳的な退廃が蓄積されるのである。

 

経済学者の認識

このような、資本主義的蓄積の敵対的な性格は、経済学者たちによってもいろいろな形で言い表わされている。といっても、彼らは、部分的には類似していても本質的には違っている前資本主義的な生産様式の諸現象をこれと混同しているのではあるが。

18世紀の偉大な経済学著作家の1人、ヴェネツィアの僧オルテスは、資本主義的生産の敵対関係を社会的な富の一般的な自然法則だと考えている。

「経済的な善と経済的な悪とは、1国のなかではつねに均衡を保っていて、ある人々にとっての財の豊富はつねに他の人々にとっては財の不足に等しい。ある人々の大きな富は、つねにはるかに多くの他の人々の必要物の絶対的な略奪を伴う。1国の富はその国の人口に対応しており、その貧困はその富に対応している。ある人々の勤勉は他の人々の怠惰を強要する。貧者と怠惰者とは、富者と勤労者との必然的な果実である。」云々。

オルテスよりもおよそ10年後に高教会のプロテスタント牧師タウンゼンドは、まったく粗野なやり方で、貧困を富の必然的な条件として賛美した。

「労働の法律的強制は、あまりにも多くの煩労と無理と物議とに結びついているが、飢餓は、平和で無口で絶えまない圧力であるだけではなく、勤勉と労働とへの最も自然な動機として最大の努力を呼び起こす。」

つまり、いっさいは、労働者階級のあいだの飢餓を恒常的にすることにかかっているのであって、このことは、タウンゼンドによれば、特に貧民のあいだで有効な人口原理が、そうなるように取り計らうのである。

「貧民がある程度まで無分別であって(すなわち、金のさじをくわえないで生まれてくるほど無分別であって)、そのために公共社会の最も下賤で不潔で劣等な役目を果たす人々がつねに絶えないということは、一つの自然法則であるように思われる。人類の幸福のもとはこれによって大いに増大し、もっと上品な人々は、労苦から解放されて、なににも煩わされないでもっと高尚な職務に携わることができる。…救貧法は、神と自然とによってこの世に設けられたこの制度の調和と美、均斉と秩序を破壊しようとするものである。」

かのヴェネツィアの僧は、貧困を永久化する神慮の定めのうちに、キリスト教的慈善や独身や修道院や聖堂の存在理由を見いだしたのであめが、それとは反対に、このプロテスタントの牧師は、この定めのうちに、ほんのわずかばかりの公の補助を受ける権利を貧民に与えた法律を非難するための口実を見いだすのである。シュトルヒは次のように言う。

「社会的な富の進展は、あの有用な社会階級を生みだす。…この階級は最も飽き飽きする最も下等な最もいやな仕事に携わり、一言で言えば、人生のいっさいの不快なものと下賤なものを自分の肩に背負い、そして、まさにそうすることによって、他の諸階級のために余暇と精神の明朗と伝統的な(そのとおり!)品格とをつくりだすのである。」

シュトルヒは次のように自問する。いったい、民衆の貧困や堕落を伴ったこの資本主義文明が野蛮にまさる長所とは、なになのか?彼が見いだす答えはただ一つ─安全!ということだけである。シスモンディは次のように言う。

「産業や科学の進歩によって、どの労働者も毎日自分の消費に必要であるよりもずっと多くのものを生産することができる。しかし、同時に、彼の労働は富を生産するのであるが、もし彼が自分で富を消費する立場におかれるとすれば、この富は彼を労働にはあまり適しないようにするであろう。」シスモンディによれば「技術の改良も、産業がわれわれに与えてくれる享楽も、もしも労働者がするような絶えまない労働でそれらを購わなければならないとすれば、人々(すなわち労働者でない人々)はおそらくこれらのものをすべた断念するであろう。…努力は今日ではその報酬から分離されている。同じ人間がまず労働してそれから休息するのではない。そうではなく、ある人が労働するからこそ、他の人は休ませなければならないのである。…だから、労働の生産力の無限の増大も、その結果は、ひまな金持ちの奢侈や享楽の増加でしかありえないのである。」

最後に、魚のように冷血なブルジョワ理論家デステュット・ド・トラシは無情にも次のように宣言する。

「貧国とは人民が安楽に暮らしている国であり、富国とは人民が概して貧しい国である。」

このような資本主義的蓄積の敵対的な性格は、経済学者もさまざまな言い方で表わしています。といっても、彼らは前資本主義的生産様式にみられる現象と、この資本主義的蓄積を混同しているようです。

18世紀の経済学の著作家であるオルテスというヴェネツィアの僧は、資本主義的生産のもつ敵対的性格は社会的な富の一般的な自然法則であると考えています。

「経済的な善と悪は1国の中でつねに均衡している。ある人々にとって財が豊富にあることは、他の人にとって必要な物を略奪されるでもある。1国の富はその国の人口に対応しており、1国の貧困はその国の富の大きさに対応している。ある人々が勤勉になれば、他の人は失業させられる。貧者と失業者は、富者と勤労者が必然的に生みだす。」

オルテスの約10年後、高教会派プロテスタントの牧師タウンゼントは、貧困は富の必然的条件であると言った。

「法律によって労働を強制すると、多くの労苦や強制と騒動を生む。それに比べると、飢餓は平和的で無口で絶え間ない圧力となるだけでなく、勤勉と労働に対するインセンティブとなり、強い意欲を呼び起こす。」

つまり、すべてのことは、労働者階級に飢餓を永続的にすることにかかっているというわけです。

ヴェネツィアのカトリック僧は貧困が永久化することはキリスト教的な慈善や独身制や修道院などの宗教組織の存在理由だとし、プロテスタントの牧師は貧者がわずかな公的補助をうける権利を保障する法律を非難する口実としました。

その後の経済学者たちも、言い方は変わりますが、言っている内容は同じです。

資本制的な蓄積のこうした敵対的な性格は、経済学者たちもさまざまな形で表明している。ただし彼らは、部分的に類似したところはあるが、本質的に異なる前資本制的な生産様式にみられる現象を、資本制的な蓄積と混同しているのではあるが。

ヴェネツィアの聖職者のオルテスは、18世紀における経済学の分野での偉大な著作家の1人であるが、資本制的な生産のもつ敵対的な性格は、社会的なとの富の一般的な自然法則であると理解している。「経済的な善と経済的な悪は、1国ではつねにバランスを保っている。ある人々にとって財が豊富にあることは、別の人々にとっては財が不足していることを意味する。ある人々が巨大な富をもつということは、つねに他の多くの人々がその必要物を絶対的に奪われていることをともなう。1国の富はその人口に対応したものであり、その困窮は富の大きさに対応したものである。一部の人々が勤勉になれば、他の人々が無為を強いられる。貧者と無為な人々は、富者と勤労者が必然的に生みだす産物である」。

オルテスのほぼ10年後には、高教会派のプロテスタントの聖職者であるタウンゼントが、きわめて粗野な形で、貧困は富の必然的な条件であると称賛した。「法律によって労働を強制すると、あまりに多くの労苦と、無理強いと、騒動が生まれる。それに比べると飢餓は、平和的で、無口で、たえざる圧力となるだけでなく、勤勉と労働へのもっとも自然な動機となり、もっとも力強い努力を呼び起こす」。

つまりすべてのことは、労働者階級のうちに飢餓を永続的なものにすることにかかっているというわけである。タウンゼントによると、それに貢献しているのが、とくに貧困者のうちで働いている人口原理だという。「貧しい人々がある程度は軽率なのは(すなわち金のスプーンを口にくわえて生まれてこなかったほど軽率であるというわけだ─マルクス)、そして社会のもっとも卑しく、不潔で、下等な機能をはたす人々がつねに存在することは、自然法則と考えられる。人間の幸福の原資は、これによってきわめて増大している。より繊細な人々は幸い仕事を免除され、高級な職業に遠慮なくたずさわることができる。…救貧法は神と自然が世界のうちに作りあげたこのシステムの調和と美と、均整と秩序を破壊しようとするものである」。

かのヴェネツィアの聖職者オルテスは、困窮が永続化する神慮の定めのうちに、キリスト教的な慈善や独身制、そして修道院や宗教組織の存在すべき理由をみいだしていた。これにたいしてこのプロテスタントの聖職者はこの定めのうちに、貧者がわずかな公的な扶助をうける権利を保障している法律を断罪する口実をみいだしたのである。

シュトルヒは「社会的な富の進歩は、社会にとって有益なあの階級、…すなわちもっとも退屈で卑しく、嫌悪すべき仕事に従事する人々、要するに人生における不快なもの、隷属的なものすべてその肩に担う階級を生みだす。彼らはそれによって、別の階級が余暇の時間と、精神の軽やかさと、伝統を重んじる(うまい表現だ─マルクス)品格をもてるようにしているのである…」と指摘していた。

シュトルヒは自問する、この資本制的なもたらすのに、野蛮な社会よりもどこが優れているのかと、彼がみいだす唯一の利点は安全である!

シスモンディは「産業と科学の進歩によって、すべての労働者は毎日、自分が消費するために必要なものよりも多くを生産できる。しかし同時に、彼の労働が富を生産している一方で、労働者がその富を自分で消費しなければならなくなれば、彼は労働に適さない者になってしまうだろう」と語る。シスモンディによれば、「もしも人間が(すなわち労働しない者のことだ─マルクス)、芸術の完成であれ、産業がわたしたちと作りだしてくれる快楽であれ、それを労働者がするようにたえざる労働によって購入しなければならないのであれば、おそらくすべて諦めることだろう。…現在では苦労とその報酬は切り離されている。ある人がまず働いてから休息をとるのではない。その逆である。ある人が働くから、別の人が休息をとらざるを得ないのである。…労働の生産力がたえず向上することは、怠惰な富者の贅沢と享楽を増やすだけである」。

最後に冷血なブルジョワ理論家のデステュット・ド・トラシーは無慈悲にも「貧しい国とは、民衆が安楽に暮らしている国であり、富める国とは、民衆が一般に貧しい国のことである」と断言する。

 

資本は労働力および労働そのものの供給面でも需要面でも有利な立場に立つことができ、人為的な過剰労働人口をつくり出すことができ、これを相対的過剰人口と呼びます。それが「相対的」であるのは、資本の蓄積条件をどのように想定しようとも雇用できないような大量の過剰人口が絶対的に存在するからではなく(絶対的過剰人口)、資本の蓄積欲と増殖欲に比して人為的に創出された過剰人口だからです。

絶対的過剰人口というのは、資本主義の発達がまったく未熟なのに農村から都市に大量に人口移動が起きたときや(イギリスの初期資本主義化の時代)、また戦争や大災害などによって経済が部分的ないし全般的に崩壊したときなどに発生するものです。たとえば、戦後日本の1940年代末から50年代初頭にかけて、戦後復興がまだ進んでいない段階で膨大な人々が満州や内容諸島から引き揚げてきたために絶対的過剰人口が発生し、そのため、国策として南米への大量移住が実施された(ちなみにこれらの移民たちは現地で艱難辛苦をきわめたといいます)ことなどが、それに当たります。それに対して、相対的過剰人口というのは、すべての就業希望者を雇用するのに十分なだけの資本が量的に存在するのに、資本の蓄積欲と増殖欲とに必要な範囲でのみ労働者が雇用され、そうでなければ、労働者は資本から遊離されて過剰人口の大群の中に放り出される場合に生じる、人為的な過剰人口のことです。

たとえば、労働時間と労働強度という条件を例にとると、一方では、すでに雇用されている労働者が長時間労働と過密労働を強いられているというのに、他方では、多くの失業者が仕事を求めているという状況は、典型的にこの過剰人口が相対的なものであること、すなわち資本の蓄積欲と増殖欲によって人為的につくり出されたものであることを示しています。現役労働者の労働時間を短縮し、その過密労働をより人間的なテンポの労働にしさえすれば、多くの失業者を雇用することができるというのに、資本家はそうしようとはしません。資本ができるだけ多くの蓄積をすることこそが雇用を生み出す条件であるという古典派経済学は、この現実を説明できません。資本の蓄積運動が生み出しているのは雇用そのものではなく、相対的により少ない雇用にすぎないのです。

資本の蓄積運動は、このような相対的過剰人口が存在して初めてスムーズに進行することができるのです。なぜなら、好況時に資本の大規模な拡張が生じたとき、あるいは新生産部門が大規模に群生するとき、それらに必要な大量の労働力をこの相対的過剰人口から調達することができるからです。こうしてこの相対的過剰人口は、ちょうど戦争の時に兵隊に召集される予備軍のように、資本の大規模な拡張期に随時動員される産業の予備軍になるというわけです。これを産業予備軍と呼びます。そしてこの産業予備軍は、好況が不況に転化したときには再び失業者の大群に放り込まれるのです。

このようにして相対的過剰人口がつくり出されたなら、その圧力はまた現役労働者に反作用して、現役労働者に対してよりいっそうの長時間労働と過密労働を強制する手段になり、その賃金水準を押し下げ、労働者を資本に対して従順な存在にするための手段になります。また、労働者をより従順にすることができれば、失業を生むような大規模な機械の導入もますます容易になり、これをさらに賃金を圧縮することで剰余価値率を高め、資本の蓄積率を回復させることになります。

しかし、相対的過剰人口の大規模な発生はたしかに、労働者に対する資本の支配力を著しく高めることになりますが、だからといって労働者は完全に無力になるわけでも、資本の支配が全能になるわけでもないのです。たしかに『資本論』では、このような相対的過剰人口の創出によって「資本の専制」が完成するかのように論じられていますが、このような見方は一面的と言わざるを得ません。実際に、資本に対する労働者の闘争はそれ以降大きく発展し、資本の運動法則をさまざまな面で制約することに成功しているからです。たとえば、現役労働者は失業労働者と連帯することを通じて、相対的過剰人口の重荷を軽減することができるわけですし、また、資本の絶えざる拡張運動は結局、周期的に労働力需要の大規模な増大をもたらすのであり、相対的過剰人口が(マルクスの主張するように)累進的に増大するわけでもない。「資本の専制」はけっして完成することはない。それは常に未完成であると言えます。

 

『資本論』では、「資本蓄積論」において、相対的過剰人口の発生について、あたかも資本の有機的構成の高度化だけで相対的過剰人口が発生するかのような説明をしています。それゆえ、多くの解説書の類は、その部分だけを切り取って、資本の有機的構成の高度化論だけで相対的過剰人口の発生を説明しているようです。しかし、その論理だけで相対的過剰人口の発生を説明するのにはいささか無理があるのではないか。現役労働者自身の労働時間と労働強化という契機、さらには労働可能人口の外延的・内包的拡大という契機を入れてはじめて、説得的に相対的過剰人口の発生を説明することができるのではないでしょうか。

しかし、よく読むと、『資本論』の中で、最初に資本構成は、労働者の労働支出量や労働可能人口の増減の問題についても論じられており、これらの諸契機を入れて立体的に相対的過剰人口の発生を説きなおしている。そして、これらの議論を総括して、次のように述べています。

「相対的過剰人口を形成する上でこの契機〔現役労働者の過度労働〕がどれほど重要であるかを示しているのは、たとえばイギリスである。イギリスにおける労働『節約』の技術的手段は巨大なものである。それにもかかわらず、もし明日にでも全般的に労働が合理的水準に制限され、また労働者階級のさまざまな層が年齢と性にふさわしい形で再区分されるならば、現在の規模で国民的生産を継続していくには、現存の労働者人口では絶対的に不十分であろう」。

つまり、「イギリスにおける労働『節約』の技術的手段は巨大なもの」(=資本構成がきわめて高度)だが、それでも、「全般的に労働が合理的水準に制限され」(=過度の労働時間と労働強度が制限される)、「労働者階級のさまざまな層が年齢と性にふさわしい形で再区分される」(=女性や子供の過剰な使用が制限される)ならば、「現存の労働者人口では絶対的に不十分」である(=相対的過剰人口は発生しない)、と言っているわけです。事実上、これらの諸条件のいずれかが欠けるときには、相対的過剰人口の発生が必然的であるわけではないということになるわけです。実際、資本主義の歴史を顧みると、資本主義は大規模な機械化の後になっても、繰り返し労働力不足に陥っている事実が見られます。

@相対的過剰人口の諸形態T─流動的過剰人口

以上みたように、資本の蓄積運動は3つの基本条件が資本にとって有利なように変化した場合には不可避的に相対的過剰人口を生み出す。そしてこの相対的過剰人口は具体的にさまざまな形態を取っており、それは主として、「流動的」「潜在的」「停滞的」という3つの形態で存在していると言います。この3大区分はエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で先駆的に論じ、マルクスが『資本論』で体系化したものです。

まず最も主要で基本的な存在形態は。資本の時間的ないし空間的に不均等な蓄積運動の中で絶えず失業者として排出され、また絶えず現役労働者として吸引される流動的部分であり、これを流動的過剰人口と呼びます。これは通常、「失業者」と呼ばれている部分であり、失業統計にも数えられる部分です。これは最も典型的な過剰人口であり、これまで相対的過剰人口そのものとして説明されてきたのも実はこれでした。したがって、このタイプは相対的過剰人口一般であるとともに、その他の特殊なタイプとの対比において相対的過剰人口の特殊な一類型をなすと考えられます。

この流動的過剰人口には主として2つのタイプが存在します。1つは、資本の全体としての景気変動によってその数を絶えず変化させる循環型です。これらの人々は好況の時には雇用労働者として吸引され、不況の時には失業者として排出される(流動的過剰人口の時間的形態)というものです。この失業者の大きさは、好況の時に最も縮小し、不況の時に最も拡大しますが(循環的失業)、最も縮小する場合にも、ほとんど常にある一定数か恒常的部分として残ります(構造的失業)。そのプールにいる具体的な顔触れは時期によって異なりますが、量的にはほとんど常にある一定数が失業プールにとどまるものです。

流動的過剰人口のもう一つのタイプは、資本と資本の間および部門間の不均等発展によって生じる移動型です。資本は全体として好況・不況の変動を経過するとはいえ、どの局面においても常に並んで多数の生産部門が存在するのであり、その一部はむ事業不振か資本構成を高度化したために、あるいは熟練労働者を単純労働者に置き換えたり、中高年労働者をより若い労働者に成人を児童に置き換えたりしたために、労働者を絶えず排出しており、別の一部は事業を拡大したか新部門への進出を開始したがゆえに労働者を吸引しており、労働者はその場合、同じ部門内のある資本から別の資本へと、あるいはある部門から別の部門へと移動することになります(流動的過剰人口の空間的形態)。

このような労働移動は、資本間や部門間で起こるだけでなく、特定の地域に大規模に多くの資本が集積したり、逆に特定の地域から大規模に資本が逃避して産業が衰退したりする場合には、国境さえ超えた労働力の大規模な地理的異動さえ生じることになります。たとえば、フィリピンの国民の1割は出稼ぎ労働者として海外で暮らしており、国内の家族に定期的に送金しています。そして、交通運輸手段の大規模な発展はこのような労働移動の範囲をますます拡大し、移動の範囲が広がれば広がるほど、流動的過剰人口の潜在的規模も拡大するわけです。

流動的過剰人口のこの2つのタイプが相互に絡み合っているのは明らかです。不況期に排出された労働者が好況期に再吸収されるとしても、以前と同じ資本ないし別の生産部門に(しばしばより賃金の安い部門に)、そして時にはまったく別の地域の資本に吸引されるのです。

A相対的過剰人口の諸形態U─潜在的過剰人口

相対的過剰人口の第2の基本形態は、賃労働者として資本に吸引されていないときには別の社会的範疇を構成している人々であり、彼らは全般的な好況になった時には、既存の社会的範疇から一時的ないし長期にわたって離脱して、自己の労働力を資本に提供するものです。これを潜在的過剰人口と呼びます。

潜在的過剰人口には、先に述べた労働人口の外延的・内包的拡大におおむね照応して、2つのタイプに分けることができます。1つは、賃労働者として雇われていないときには、自営業者、独立職人、自営農、使用人といった別の職業的・階級的範疇を構成していて、資本・賃労働関係の外部ないしその周辺で生計を立てている周辺型です。自営農の場合のように、農閑期にのみ出稼ぎ労働者として資本に動員される場合も含まれます。もう1つのタイプは、専業主婦、家事手伝い、学生、あるいはその他の扶養家族として、賃労働者世帯の内部で生計を営んでいる従属型です。

どちらの場合も、賃労働者として雇用されていないときには、職業安定所に通うわけではないので、統計的には「失業者」にカウントされないのですが、潜在的には過剰人口を構成しているのであり、好況時や長期的な資本拡張期には賃労働者として大規模に動員されるものです。

B相対的過剰人口の諸形態V─停滞的過剰人口

相対的過剰人口の第3の形態は、形式的には現役労働者に属し自らの賃金収入で部分的ないし全体的に生計を立てているが、構造的に低賃金でその就労状態がきわめて不安定かつ断続的である労働者層です。これを停滞的過剰人口と呼びます。これらの人々も統計上は「失業者」に数えられない場合が多いのですが、相対的過剰人口の中に含まれます(半失業者)。たとえば、内職労働者、日雇い労働者(日雇い派遣を含め)、季節労働者、収穫期に農場から農場へと移動するタイプの農場労働者、あるいは一時的な建設ブームの時に雇われるが、それが終わると解雇される臨時の建設労働者、高齢の再就職者、その他さまざまな形態の低賃金で短期的な非正規労働者などがこれにあたります。彼ら・彼女らは典型的なワーキングプア層を構成しています。

この第3の形態も大きく言って2つのタイプに分かれます。1つ目は、本人自身は低賃金で不安定雇用だが、他のより安定した稼得者と生計をともにしているか部分的に扶養されている補完型です。これはかつて「家計補助型」と呼ばれたものですが、ここではより簡潔に「補完型」と呼んでおくことにします。従属型の潜在的過剰人口が賃労働者になった場合がその典型であり、そのおかげで、貧困層としては表面化しにくく、潜在的ワーキングプアを形成します。しかし、この層も、何らかの事情(死別や離婚など)で主要な稼得者を失なったり、あるいは病気や障害や失業のせいで主要な稼得者の収入が断たれた場合には、たちまちワーキングプア層として表面化するものです。

2つ目は、そのような生計を共にしたり部分的にでも扶養してくれるパートナーや近親者がおらず、低賃金の不安定雇用だけで独力ないしほぼ独力で生計を立てている孤立型です(部分的に福祉の支援を受けている場合も含まれる)。この総は働く貧困層としてはっきりと目に映るようになるものです。現代の高齢労働者の増大は、高齢ワーキングプアをも増大させており、以前から多かった若年ワーキングプアと並んで、大きな社会問題となっています。

※福祉受給層とアンダークラス層

現代では、相対的過剰人口のこの3つの主要な形態とは別に、それらとは深く関連した一大部分として、生活保護や障碍者年金などの福祉を受給することでその生計の全部ないし大部分を維持している福祉受給者と、こうした福祉受給からさえ排除されているアンダークラス層が存在しています。

高齢や障害や病気その他さまざまな理由で人並みに働けず、かつ誰かの被扶養者になることもできない人々に提供される総合生活保障型福祉(典型的には生活保護)は、これらの人々の生存権を保障し、社会が社会としての凝集性と文明性を維持する最後のセーフティーネットです。たとえそれを直接に受ける人が人口のごく一部であっても、それは実際にはその国に住むべき住民のための福祉となっています。なぜなら、誰もが病気やケガや暴力などのために働けなくなったり、誰かの扶養を受けられなくなったりすることなどいくらでもあるからです。

これらの人々の生活水準とその規模は、資本の蓄積運動の結果であるだけでなく、国ないし自治体による福祉給付の水準とその受給要件という制度的条件によって大きく変わります。福祉給付の水準が低ければ低いほど、福祉受給層はただちに受給貧民層になるからです。

マルクスの時代には、すべての福祉受給層は事実上受給貧民層でもありまし。しかし、労働者の闘いを通じて、また福祉国家の成立を通じて、福祉の給付水準が高まり、ある程度「健康で文化的な」水準の生活が保障されるようになることで、両者はけっして同一ではなくなりました。しかし、今日、福祉の給付水準の絶え間ない切り下げが行われているため、再び受給貧民層が大量に出現するようになっています。また受給要件を不当に厳しくしたり、受給者を蔑視したりすること(スティグマ化)は、受給対象からはじかれる人々や受給を拒む人々を大量に生み、これらの人々はますます停滞的過剰人口(とくにその孤立型)の大群の中に吸収され、全体として現役労働者層を圧迫し、労働者の賃金水準をいっそう押し下げることになると考えられます。また、生活保護の給付基準は他のさまざまな福祉制度の基準と連動しており、それが切り下げられれば、それと連動したその他の福祉制度の基準も切り下げられてしまいます。日本ではこの間一貫して生活保護の支給水準が下がり続けており、このことは、この層だけでなく、日本の勤労者およびすべての福祉受給者の生活を低下させています。

アンダークラス層は、福祉受給者の対象からも除外されているために、路上生活者であったり、違法ないし違法すれすれの仕事に従事していたり、しばしば犯罪組織にくみこまれたりする人々です(マルクスはこの層を「ルンペンプロレタリアート」と呼びましたが、この用語は否定的な印象しか与えないので、ここではアンダークラス層と呼んでいます)。全体としての労働者の権利が脆弱で、福祉が貧困であればあるほど、停滞的過剰人口と並んで、この層もまた必然的に増大します。これらの層は一方では社会的無関心と社会的排除の対象にされると同時に、これらの層をターゲットとした搾取産業や性産業、しばしば違法な種々の取引、業種などもはびこらせることになります(貧困ビジネス)。

このアンダークラス層の構成にはしばしば女性差別や人種差別・民族差別が深くかかわってきます。たとえば、アンダークラス層をターゲットにした典型的な産業として性産業があります。その被害者となるのはほとんど女性であり、多民族国家の場合にはさらに先住民、外国人、有色人種の割合が優位に高くなります。原発産業などもこのようなアンダークラス層をターゲットにしており、しばしば少数民族・人種や移民労働者がその犠牲になっています。これらの人々は通常の雇用や福祉から排除されやすいので、こうしたリスクの高い分野に入らざるをえないのです。

貧困ビジネスは、単に福祉からはじかれた人々を食い物にするものです。それは生活保護受給者自身をもターゲットにしています。たとえば、彼らを使い安アパートにぎゅうぎゅうに押し込みながら、家賃や食費などを名目に保護費のほとんどを奪い取ってしまう手口などがそうです。この事例に典型的に示されるように、貧困者に現金さえ渡しておけば福祉の役割が果たせると考えるのはまったく一面的です。貧困者には現金だけでなく、普遍的な社会的サービスときめ細かい社会的支援が必要なのです。

 

また、相対的過剰人口が労働者に及ぼす影響として次のようなことが考えられます。まず、富の蓄積と貧困の蓄積です。相対的過剰人口の大規模な創出は、資本と労働者との間の力関係を労働者にとって不利なものにするので、賃金は停滞ないし低下傾向を帯びることになります。単位時間当たりの賃金が下がり、これまでどおりの生活をしようと思えば、ますますもって長時間労働に従事せざるをえなくなり、労働者1人当たりの労働供給量がいっそう増大し、ますます過剰人口圧力が増すことになります。

資本家に雇われている労働者の労働条件がますます過酷になる一方では、仕事にありつけず、貧困にあえぐ労働者の数はますます多くなるだろう。雇われるのも地獄、雇われないのも地獄としいう状況が生み出される。そして、それと平行して福祉給付の水準切り下げとその受給要件の厳格化、福祉受給のスティグマ化、等々が進行する場合には、福祉を受けるのも地獄、受けないのも地獄という状況が追加されるだろう。

このようにして、資本の蓄積運動が進めば進むほど、すなわち資本家とその代理人においては富と資本とが増大すればするほど、労働者とその家族においては、低賃金、長時間労働、過密労働、不安定雇用、失業、生活苦、尊厳の剥奪、等々が増大していく。一言で言えば、一方の極において富の蓄積が進行するものと平行して、他方の極において貧困の蓄積が進行するのです。

資本主義は、たとえ労働者を搾取していても、全体としては労働者を結局は豊かにするのだという資本主義システムの実体的正当性がここにおいて破綻します。資本は生産過程において労働者を搾取するだけではありません。それは蓄積過程を通じて、労働者を貧困と不安定雇用に追いやるものです。これが資本主義的蓄積の一般的法則です。とはいえ、この法則は具体的な諸状況に応じて、何よりも階級闘争の力量や社会的諸制度の充実度や国際環境の違いに応じて、あからさまに発揮される場合もあれば、大きく緩和される場合もあります。ここでも経済法則は機械的に貫徹されるのではなく、階級闘争、社会的意識、社会的諸制度、等々さまざまなものに媒介されてはじめて現実的なものとなるのです。

次に、労働者の内的分化と格差があげられます。労働者の一部がさまざまな形態の過剰人口のプールの中に放り込まれ、貧困層へと叩き落されるとはいえ、すべての労働者が均等にこの不幸を経験するわけではありません。労働者は全体として、そうした過剰人口のプールに陥りやすい部分と、そうではない部分とに相対的に分化します。

まずもってそれは、独自に資本主義的な生産様式の発展による単純労働化がきわめて不均等に進行する結果です。たとえば機械化によってすべての熟練労働が一様かつ同時的に駆逐されるわけではありません。最初に機械化が捉えるのは、分業とマニュファクチュアによる熟練の水平的解体によって相対的に単純化した工程であって、それ以外の部分はなお熟練労働に依拠しています。工程間のこの不均衡はもちろんのこと、他の諸工程へと機械化を波及させていく原動力にもなるのですが、しかしそれは常に不均等に進行します。また、既存の諸工程において伝統的な熟練労働が垂直的にも解体されて単純労働化が進む一方で、新たな熟練労働により小規模にだが生み出されていきます。機械化が進めば、その高度な機械を製造する熟練労働が必要になるだろうし、機械を製造する機械生産されれば、さらにより小規模ですが、そのような機械製造機械を生産するための熟練労働が必要になります。あるいは、新しい機械を設計したり開発したりする頭脳労働が必要になります。

このようにして、生産様式の発展による単純労働化は不均等に進行し、労働者の間に相対的により高度な労働を担う少数の熟練労働者あるいは頭脳労働者層と、相対的により単純な労働者を担う多数の単純労働者層に分かれます。そして、最も相対的過剰人口の圧力を受けやすいのは、特殊な訓練や熟練を必要としない単純労働者層であるのは明らかです。この層ほど多くの競争者がおり、したがってより大きな競争圧力を受けます。機械によって真っ先に駆逐されるのもこの層です。したがって、これらの層の賃金は低下しやすいです。

さらに問題なのは、単純ではあるが重労働である、種々の危険性を伴うという場合、このような要素は本来ならより高い労働力価値、したがってより高い賃金に反映しなければなりませんが(なぜならより多くの労働力を支出させ、労働力をより短期間で衰退させるから)、純労働に対する過剰人口圧力を受けて、むしろこのような重労働やハイリスク労働が相対的に低賃金にさえなるわけです。

しかし、労働者のこのような二極分化、あるいはより複雑な諸部分への分化は、このような客観的過程だけで生み出されるわけではありません。資本の側は、ある職務が実際に高度な労働であるかどうかにかかわりなく、階層的な職務区分を恣意的に設定することによって「高度な」労働と「低度」な労働とを人為的につくり出し、ことなった賃金水準をそれらに設定することによって、労働者同士のあいだで競争と分離を組織しようとします。

さらに、さまざまに存在する社会的差別をそうした労働者の分断と低賃金維持に利用することもできます。典型的なのは女性差別と人種差別(民族差別を含む)であり、資本主義は単に既存の女性差別や人種差別を利用するだけでなく、新たにさまざまな形で女性差別や人種差別をつくり出し、より強化することによって、女性労働者、少数人種や少数民族の出身者を過剰搾取することによって、労働者階級全体の地位を低く押しとどめようとするのでした。

このように経済的な資本の力学とその他のさまざまな社会的差別の力学が 合成しあって、労働者はさまざまな線に沿って分断され、大規模な階級内格差が生み出され、あるいは絶えず再生産される。相対的過剰人口の圧力は労働者階級に対して均等に作用するのではない。それは、労働者内のヒエラルキーの中でより下位に位置づけられた人々に対してより直接的かつ強力に作用し、これらの人々をより貧困な状況へと、したがってより過剰人口圧力を受けやすい状況へと追い込みます。このような悪循環を断つには、過剰人口圧力そのものを軽減する措置をとるだけでなく(解雇規制や福祉の充実など)、社会のなかのさまざまな構造的差別を是正し緩和する措置を取らねばならなりません。

この相対的過剰人口の巨大な圧力を通じて、これまでの議論で前提にされてきた労働力商品の等価交換という原則さえ─とくに下位に位置づけられた労働者層にあっては─踏みにじられるようになります。たとえ、等価交換を前提にしても、資本はその再生産の繰り返しの中で、原資本はやがて剰余価値の塊と化すし、蓄積と拡大再生産を通じて等価交換はまったくの形式となり、実質的な不等価交換に転化することを、これまでの議論の中で明らかにしてきました。しかし、その場合でも、建前の上では等価交換は維持されていると前提されていました。しかし、資本は、大規模に相対的過剰人口をつくり出すことによって、形式的な等価交換さえ守らなくなります。多くの労働者にあっては、賃金が無残に買い叩かれ、労働力価値をはるかに下回る水準となります。これは、貧民層においては子供を産み育てることを経済的にきわめて困難にし、長期的にこのような状況が続けば、労働力の世代的再生産そのものを危機に追いやります。また、労働時間が延長されてもしばしば標準最大労働日さえ上回り、過労死や過労自殺さえ頻繁に生み出します。労働者の安全性を無視して推し進められ、実際に多くの労働災害を生むようになり、しばしば消費者をも巻き添えにします。これらはすべて今日の日本で進んでいる事態です。現代日本は、マルクスが『資本論』で描き出した資本主義的集積の一般的法則の典型的なモデル国家となっています。階級闘争の弱さと福祉国家の弱さとがまさに、資本主義の経済法則をかなり純粋な形で貫徹する結果をもたらしていると言えます。

 

 

第5節 資本主義的な蓄積の一般法則の例示

                (省略)

 

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第24章 いわゆる本源的蓄積に進む

 

 

 
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