マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第4篇 相対的剰余価値の生産
第10章 相対的剰余価値という概念について
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第4篇 相対的剰余価値の生産

〔この篇の概要〕

労働時間は無制限に延長させられるものではありません。そこには一定の限界があります。しかし、労働日にそういう限界があるにしても、1労働日のうち、労働力の再生産に必要とされる労働時間部分、いわゆる必要労働時間を短縮することができれば、その分、剰余労働時間は増加させることができます。資本主義はこれを生産方法の発展による生産性の向上によって実現させたのです。というのは生産性の向上にともなって労働者の生活費需品の生産に要する労働時間、すなわち必要労働時間は短縮されことになるのであって、商品として売買される労働力の価値は低下し、剰余価値は相対的に増加するからです。商品の価値は労働の生産力に反比例するのに対し、資本の利潤はこれに正比例するというリカードの分析は、ここでマルクスが相対的剰余価値の生産として、はじめて科学的に規定してみせたのです。それだけでなく、マルクスは、リカードとは異なり、資本主義のもとでは生産力は個々の資本家の手で個別的に増進しもしたがって相対的剰余価値の生産も個々の資本家の手で個別的に実現し、それによって生産力も社会的に向上していくことを明らかにしました。

以上のようにマルクスは、資本主義が相対的剰余価値の生産の方法を採用することによって、社会の進歩の基礎をなる生産力の向上を自らの利益として実現することになり、したがって生産力の発展が資本主義の内在的エネルギーとなって現われることを明らかにしました。それと同時に、このように資本主義に特有な、そして急速な生産方法の発展を、協業・分業・機械制工業として、具体的に説明しつつ、これらを通して資本主義社会における資本家と労働者との基本的な対立関係が確立されることを明らかにしていきます。

 

第10章 相対的剰余価値という概念について

〔この章の概要〕

ここで、絶対的剰余価値と相対的剰余価値が定義されます。ただ、絶対的剰余価値については、この前の第3篇のタイトルになっていながら、その定義づけはされずに、ここではじめて定義されました。というのも、絶対的剰余価値は相対的剰余価値と対の概念であるということだからです。したがって、第3篇で述べられてきたことは、この第4篇の相対的剰余価値との対比で、あわせて剰余価値ということになるということで、はじめて全体像が見えてくる、ということになります。

12時間の労働のうち6時間は、労働者の日価値分を再生産させる労働だったことになります。6時間で労働を終えてしまえば、剰余価値が生まれないことになるが、それを超えて働かせることによって剰余価値が生まれました。労働時間のうち、労働力価値の再生産分にあたる部分を必要労働時間とよび、それを超えて剰余価値を生産する部分を剰余労働時間とよびます。

必要労働時間を超えて労働時間が延長され、剰余価値が生産されることを、絶対的剰余価値の生産とよびます。

必要労働時間分の価値は支払われるから、これを支払労働、剰余労働時間分は支払われないので不払労働と呼ぶこともあります。また、この剰余労働の取得を搾取といいます。

搾取という言葉は、マルクス経済学の重要な概念としてきわめて有名ですが、その意味については誤解がきわめて多い。今みたように、搾取は労働者が剰余労働をさせられ、その分が不払労働として資本の所有になることをさします。ただしこれは労働力商品の使用価値に属することであって、その価値とは無関係のことだから、不払いは不法とはいえないのです。必要労働部分だけで労働力商品の価値は補填され、したがって、搾取されても労働力は再生産され、労働力は生きていくことができます。その仕組みを解明したのが、労働力商品の発見でした。

マルクスも不払労働という言葉が、資本家が「労働力の価値」に対してではなく、剰余労働時間を含めた労働時間のすべてに対して、価値を支払わねばならないという誤解を招きやすい通俗的表現だと注意を促しています。

ただし、現実には労働力の価値が完全に支払われず、過剰な搾取が行われることが多いのも事実です。それは後で出る「収奪」にあたるものといえます。搾取と同様、一般的にはこれも他人からなにかを奪い取るといった意味ですが、マルクスは両者をきちんと使い分けています。収奪は、他人の私有財産、とくに生産手段を奪うことであり、奪われた人間はそれまでのような生活ができなくなってしまう。たとえば、土地を奪われた農民は生活していくことができなくなります。

したがって、賃金が不当に低かったり、長時間労働や労働強化によって労働力が再生産できず、過労死したり短命化する場合は、労働者も収奪されていることになります。

そうなる理由は、剰余価値を増やすため、資本家は1日の労働時間をできるだけ延ばそうとするからです。8時間労働だったら剰余労働時間が2時間しかないのに、12時間労働だったらそれが6時間となり、剰余価値は3倍になります。そのため資本主義のもとでは労働日がきわめて長くなる傾向があります。

とはいえ、労働日の延長にはもちろん限界があり、それは二重に規定されています。

第一には労働者の肉体的限界によって規定される。人間は休息し、睡眠し、あるいは食事をし、入浴するというような、生理的欲求を充たさなければなりません。

マルクスは、労働日はなんと18時間まで可能性があると書いています。たしかに19世紀イギリスの現実として、16時間は珍しくなかった。本当に寝る時間を除いたすべてだったのです。

今の日本だったら通勤時間が2時間、往復で4時間とられるという人も少なからずいるでしょうが、マルクスの頃は通勤時間は短かったと思われます。バスはまだなかったし、一般的には工場の近くに労働者の住む町があって、歩いても20分程度までのところに住んでいたのでしょう。今でも夜9時まで残業して労働時間12時間に往復4時間かかると、16時間になります。労働のために日々16時間とられることがあるわけで、実質的には『資本論』の時代とあまりに変わっていないかもしれません。

もっとも、労働日を延ばさなくても剰余労働時間を増やすことが可能です。下の図で、必要労働時間を短くできれば、4時間のところにあった必要労働時間と剰余(増殖)労働時間との境界を左側に移動し(3時間にし)、労働時間を延長しなくても、あるいは短縮してさえ、剰余労働時間を長くすることができます。

どうすれば、そういう境界の移動ができるか、もちろん労働力の価値を価値どおりに支払わなければ、賃金部分にあたる必要労働時間を減らすことができますが、それは理論的には一応ないことです。労働力の日価値は正しく支払われることが理論的には前提となります。それでも資本主義が成立し、剰余価値が発生することを示したのがマルクスでした。

労働力の価値規定は、労働者が自分の労働力を再生産するための生活手段と等しい価値であり、それが1日3シリングでした。その生活手段が安くなって、たとえば2シリングになればいいわけです。物価が安くなり、衣食住の経費が安くなれば労働力の価値が下がります。生活手段の生産力が上昇して価値が低下すれば、必要労働時間を短縮することができるのです。

労働日の延長によって生産される絶対的剰余価値に対して、必要労働時間の短縮によって生じる剰余価値をマルクスは「相対的剰余価値」と名づけました。労働力価値の低下のためには、労働力価値を規定する生活手段の産業部門、または最終的には消費手段になる途中にある中間生産物の産業部門の生産力が増大し、物価が安くなればよいというわけです。

ただし、資本家たちが申し合わせて「労働者の生活手段を安くすれば労働力の価値が下がって剰余価値が増えるから、生活手段を低廉化しよう」と決めるわけではない。個々の資本家は、自分の生産する商品の生産力を上げようとし、それが結果として商品価値を下げ、相対的剰余価値が生産されるのである。

それでは、なぜ個々の資本家は生産力を上げようとするのだろうか。

マルクスは一つの例をあげる。ある商品の価値が社会的に1シリング(=12ペンス)のときに、新型の機械を導入して、9ペンスで作れる資本家が現われたとしよう。価値は個別的に決まるものではなく、社会的に決まるものなので、社会的には依然として1シリングの価値がある。となれば、この企業は、新しい生産方法を導入して生産コストを下げても、他社と同じ価格で売ることができます。つまり、この資本家はもう3ペンスを上乗せして、他社と同じ1シリングで売ることができます。その差がこの資本家にとって、「特別剰余価値」になります。その特別剰余価値を求めて資本家は生産力を高めようとするのである。

もっとも、1シリングで売れれば儲かるが、少し価格を下げないと今までより多くは売れないでしょう。10ペンスで売れば、他社よりも安いから売れる。しかも特別剰余価値はなくならず、なお1ペンスの特別剰余価値を余計に得ることができます。

このようにして、新しい生産方法による資本家の商品は、他の商品よりも安く出回り、その商品が売れることになる。逆に、今までの生産方法では競争に負けることになります。そうなると他社もこの新しい生産方法を競って導入し、結局すべての資本家が新しい生産方法になってしまえば、社会的に価値が9ペンスに下がり、特別剰余価値は消滅する。そのとき、資本家はさらに新しい生産方法を模索しなければならないわけです。

つまり、特別剰余価値は過渡的なものですが、他社よりも早く新しい生産方法を導入することによってコストを引き下げた資本家は、その新しい方法が普及するまでの間、特別に儲けることができた。その特別な儲けを求めて個々の資本家は新しい生産方法を導入し、それが広がっていく。それが繰り返されることによって社会的に生産力が上がり、諸商品の価値が下がっていくのである。そして、それが労働者の生活手段に関わる分野にも起きるので、労働力の価値が低下することになります。

生産力を高めることが資本の内在的衝動であり、結果として商品価値の低下が不断の傾向となるのです。

重農主義の経済学者ケネーが論敵を悩ませた批判があった。「もし剰余価値がほしいなら、資本家は製品を高くするよう努力するはずなのに、なぜさげようとするのか」と問われて、相手はそれに答えられなかった。その論敵を悩ませた矛盾が、このマルクスの説明によって解けたのである。個々の資本家は、特別剰余価値を得るために諸商品を低廉化することで、剰余価値を逆に増やしていたのでありました。

 

〔本分とその読み(解説)〕

労働の生産性の向上

労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。必要労働時間は不変だったが、反対に一労働日全体は可変だった。今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。線分ac、すなわちa─────b─cは一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるだろうか?言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか?

労働日acの限界は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもある終点cを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対に、aのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。かりに、a─────b´-b─cのなかのb´-bはb─cの半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。いま12時間労働日acのなかで点bがb´にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb´cになり、剰余労働は半分だけ増えて2時間から3時間になる。しかし、このように剰余労働がbcからb´cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabをab´に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部が資本家ための労働時間に転化することになる。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割である。

他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。1労働時間半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングならば、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補填するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられている。そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られる。12時間から10時間を引けば2時間が残り、そして、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるかは、まだわからない。もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またもっと少なくしか支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるであろうし、したがって、12時間労働日のうちから、2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎないであろう。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行われないことになる。この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけであろう。このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいえ、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されている。このことが前提されるかぎり、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるものではなく、ただこの価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのである。労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間を短縮から生ずるよりほかはなく、逆に、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。われわれの例で言えば、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかはないのである。

しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができる。彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。そして、それは、彼の労働手段が彼の労働方法かまたはその両方を同時にある変化が起きなければ2倍になることはできない。したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起きなければならない。われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである。そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では、生産様式与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないのである。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。

これまでの議論では、労働日のうちで、資本が労働力の価値に支払った対価に相当する部分、つまり必要労働の部分は一定の大きさとして扱ってきました。実際にこの部分は、社会の経済的な発展段階で、特定された生産条件という対象を絞られれば、制度上は標準労働時間と最低賃金という枠がはめられており、一定化とれています。これに対して、労働者が必要労働時間を超えて働く、つまり労働日が延長される時間が剰余労働時間で、この延長の量が剰余価値の比率と労働日の長さを決める。これは、前章までみてきたことです。

これまでは、必要労働時間は一定で、労働日全体の時間は延長がどのくらいになるかによって変わるものとして分析されてきました。今度は、全体としての労働日が一定として、つまり、1日の労働時間を延長することなしに、そこで生産される剰余価値を大きくする、つまり剰余労働を増やすということを考えてみましょう。

そのためには、1日の労働時間が変えられないのだから、それを必要労働と剰余労働に分割する比率を変えるしかありません。つまり、必要労働が減れば、剰余労働はそれにおうじて増得るというわけです。ということは、これまで労働者が実際に自分のために使っていた労働時間の一部が、資本家ための労働時間に変わることになります。

実際に、それが実行できるのか、例えば、剰余労働時間を2時間延長すれば、必要労働時間は2時間減少することになります。必要労働時間は資本が労働者に対価を支払う時間ですから、それが減ったということは、資本家が労働者に支払う賃料が減るということになります。しかし、このことは労働者がうけとる賃金を、彼の労働力の価値よりも低く抑えることでもあります。そのことによって、労働者はこれまでよりも生活手段のための費用が減ることになるわけです。そして労働者の労働力の再生産は、これまでよりも削られることになります。ということは、剰余労働を拡大するのは、正常な限度を超えることによって可能となるのであり、剰余労働の大きさは必要労働の時間の長さを侵害し、略奪することによって可能となるというとこです。

この場合、必要労働時間、つまり、労働力の生産に必要な労働時間、あるいは労働力の価値の再生産に必要な労働時間を短縮するには、労働者の賃金を労働力の価値よりも低くするのではなく、労働力の価値そのものを低下させる必要があります。

1日の労働日の長さが決まっているのであれば、剰余労働の時間を延長するには、必要労働の時間を短縮するしか方法はないのであり、その逆、つまり剰余労働が拡大したために必要労働の時間が短縮されたのではないのです。一見同じように見えますが、剰余労働時間を増やしたから、その分の必要労働時間を切り捨てるというのと、労働力の価値の低下を図って必要労働時間が、以前ほど費やす必要がなくなり、その分を剰余労働時間にふり向けるということでは、実際の手順は違います。

では、労働力の価値の低下をするにはどうしたらよいのかということになります。それは、例えば、従来10時間で生産されていた量の生活手段を8時間の労働で生みだされるようにするということです。それは、短くなった労働時間で同じ量の成果を残すということです。それは時間当たり生産量を増やすということで、これは労働の生産性の向上ということです。たとえばある靴屋が1足のブーツを製作するのに、現在の生産手段では1労働日の12時間かかるという場合。もしも同じ時間で2足製作するのであれば、靴屋は自分の生産力を2倍にしなければなりません。そのためには、自分の労働手段を変更するか労働方法を変更するか、あるいはその両方を同時に変更しなければならない。ということは、靴屋の労働の生産条件の革命が起きなければならないのです。

このように、労働の生産性向上というのは、労働過程に変更が加えられて、それによって商品の生産のために必要とされる労働時間が短縮され、これまでよりも少ない労働で、これまでよりも多い使用価値を生産することができるようになることです。

すでにみたように、生産力が2倍になったとしても1時間あたりの労働量は変化せず、したがって生産される価値量も変化しませんが、他方で同じ時間に2倍の生産物が生産されるようになるので、生産物1個あたりに付加される価値は半減します。生産力が上がると、それだけ生産物の価値は下がるのです。

そのため、労働者の生活手段を生産する産業部門(あるいはその部門で使用される原材料や機械を生産する部門)で生産力が上がれば、労働者の生活手段の価値が下がります。労働力の価値は労働力の再生産費、すなわち労働者の生活手段の価値によって決まるのですから、労働者の生活手段の価値が下がれば、労働力の価値も下がります。

こうして、生産力の上昇は労働力の価値を下げることになります。それゆえ、労働日が不変だとすれば、剰余価値量は増大します。このように、労働力価値の低下によって生み出される剰余価値のことを相対的剰余価値といいます。

これまでの価値増殖についての考察では、生産過程の変更ということは想定しませんでした。労働日には限りがあって、それは超えることができない以上、価値の増殖を追求するならば、その限界を超えることになります。そのためには、だから資本は、労働過程の技術的および社会的な条件、すなわち生産方式そのものを根本的に変革し、労働の生産力を向上させる必要がある。そしてこの労働の生産力の向上によって、労働力の価値を低下させ、労働日のうちで労働力の価値を再生産するために必要な部分を短縮する必要があるのである。

これまでの議論では、労働日のうちで、資本が労働力の価値に対して支払った対価に相当する部分は、一定の大きさとして扱ってきた。実際にこの部分は、社会の既存の経済的な発展段階における特定の生産条件のもとでは一定であり、不変である。ところが労働者は必要労働時間を超えて、2時間、3時間、4時間、6時間など、余分に働くことができる。この労働の延長時間の長さが、増殖価値の比率と労働日の長さを決定するのである。

これまではこの必要労働の時間は一定であるが、それに対して労働日の全体の長さは変えられるものとして論じてきた。今ここで長さが決まっていて、その必要労働の部分と増殖労働の部分の分割比率も決まっているとしよう。線分acは、a─────b─cという形で12時間の労働日を示すとしよう。線分abは必要時間の長さで10時間である。線分bcは増殖労働の長さで2時間である。その場合に、1日の労働時間を増やさずに、あるいは線分acを延長したとしてもそれとは無関係に、生産される増殖価値を大きくするには、つまり増殖労働を延長するには、どうすればよいだろうか。

1日の労働時間acを一定にしたままで、bcを今よりも長くするにはどうすればよいか。それは増殖労働の始まりを示すbを今よりもaに近づけることによって可能となる。たとえばa─────b´-b─cにおいてb´-bの長さを線分b─cの半分、すなわち1時間としてみよう。12時間の労働を表す線分acにおいて点bがb´に移動すると、線分bcはb´cに延びることになり、1日あたりの労働時間は変わらないままで増殖価値の長さは2時間から3時間に50%増えることになる。しかしこの増殖労働の長さをbcからb´cに延ばし、2時間から3時間に延長するには、必要労働abをa´bに動かし、10時間を9時間に短縮しなければならないのは明らかである。必要労働が縮小されれば、増殖労働はそれにおうじて増大するのである。ということは、これまで労働者が実際に自分のために使っていた労働時間の一部が、資本家ための労働時間に変わるわけである。変わるのは1日の労働時間ではなく、それを必要労働と増殖労働に分割する比率である。

他方で労働日の長さが決まっていて、労働力の価値が決まっているならば、増殖労働の長さは自然に決まる。労働力の価値とは、労働力を作りだすために必要な労働時間のことであり、これが労働力の価値を再生産するために必要な労働時間を決定する。1労働時間の価値が0.5シリングあるいは6ペンスの金額で示され、労働力の1日の価値が5シリングだとしよう。そのとき労働者は、彼の労働力の1日あたりの価値にたいして資本が支払う価値を補填するためには、あるいは彼に必要な毎日の生活手段の価値にひとしい価値を生産するためには1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値が労働者の労働力の価値であり、この労働力の価値が、彼の必要労働の時間の長さを決定する。

ところで増殖価値の時間の長さは、必要労働の時間を差し引くことで計算される。12時間から10時間を差し引くと、残りは2時間である。そうであればこの条件のもとでは、増殖労働の時間を2時間よりも長くする方法は存在しないことになる。ただし資本家は労働者に、1日に5シリング支払うのではなく、4シリング6ペンス、あるいはもっと少ない金額しか支払わないことができる。労働者が4シリング6ペンスの価値も再生産するためには、9時間の労働で十分であろう。これによって1日の労働時間12時間のうち、増殖労働の時間はこれまでの2時間ではなく3時間になる。そして増殖価値は1シリングから1シリング6ペンスに増える。

しかしこの成果は、労働者がうけとる賃金を、彼の労働力の価値よりも低く抑えることによって可能となったものにすぎない。労働者が9時間の労働で4シリング6ペンスしかうけとらないのでは、これまでよりも生活手段のための費用が1割ほど減ることになる。そして労働者の労働力の再生産は、これまでよりも削られることになる。すなわち増殖労働を拡大するのは、正常な限度を超えることによって可能となるのであり、増殖労働の大きさは必要労働の時間の長さを侵害し、略奪することによって可能となるのである。

労働賃金の実際の動きにおいては、こうした方法が重要な役割をはたすのはたしかだが、商品の売買は、そして労働力の売買は、その価値どおりに行われるという前提のもとでは、こうした方法はまったく不可能なものとなるだろう。この前提のもとでは、労働力の生産に必要な労働時間、あるいは労働力の価値の再生産に必要な労働時間を短縮するには、労働者の賃金を労働力の価値よりも低くするのではなく、労働力の価値そのものを低下させる必要がある。

1日の労働日の長さが決まっているのであれば、増殖労働の時間を延長するには、必要労働の時間を短縮するしか方法はないのであり、その逆、つまり増殖労働が拡大したために必要労働の時間が短縮されたのではない。わたしたちの例で言えば、必要労働の時間が1割減って、10時間から9時間に短縮され、それによって増殖労働の時間が2時間から3時間に延びるためには、労働力の価値が現実に1割だけ低下する必要がある。

このように労働力の価値が1割だけ減少するということは、それでは10時間で生産されていた量の生活手段が、今は9時間の労働で生みだされるということである。しかしそれは労働の生産力を向上させなければ不可能である。たとえばある靴屋が1足のブーツを製作するのに、現在の生産手段では1労働日の12時間かかるとしよう。もしも同じ時間で2足製作するのであれば、靴屋は自分の生産力を2倍にしなければならない。そのためには、自分の労働手段を変更するか労働方法を変更するか、あるいはその両方を同時に変更しなければならない。ということは、靴屋の労働の生産条件の革命が起きなければならない。靴屋の生産方法に革命が、労働過程に革命が起きなければならない。

労働の生産力の向上とは一般に、労働過程に変更が加えられて、ある商品の生産のために社会的に必要とされる労働時間が短縮され、これまでよりも少ない労働で、これまでよりも多くの量の使用価値を生産することができるようになることである。

これまで考察してきた形態での増殖価値の生産においては、生産方法は変更がないものと想定してきたが、必要労働を増殖労働に変えて増殖価値を生産しようとするならば、資本はこれまで歴史的に踏襲されてきた労働過程や、既存の労働過程をそのままの姿で利用しておいて、労働の持続時間を延長するだけでは十分ではない。だから資本は、労働過程の技術的および社会的な条件、すなわち生産方式そのものを根本的に変革し、労働の生産力を向上させる必要がある。そしてこの労働の生産力の向上によって、労働力の価値を低下させ、労働日のうちで労働力の価値を再生産するために必要な部分を短縮する必要があるのである。

 

相対的剰余価値

労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ。

労働力の価値を下げるためには、労働力の価値を規定する生産物、したがって慣習的な生産手の範囲に属するかまたはそれに代わりうる生産物が生産される産業部門を、生産力の上昇がとらえなければならない。しかし、一商品の価値は、その商品の最終形態を与える労働の量によって規定されているだけではなく、この商品の生産手段に含まれている労働量によって規定されている。たとえ、長靴の価値は、ただ靴屋の労働によってだけではなく、革や蝋や糸などの価値によっても規定されている。だから、必要生活手段を生産するための不変資本の素材的諸要素すなわち労働手段や労働材料を供給する諸産業で生産力が上がり、それに応じて諸商品が安くなれば、このこともまた労働力の価値を低くするのである。これに反して、必要生活手段も供給せずそれを生産するための生産手段も供給しない生産部門では、生産力が上がっても、労働力の価値には影響はないのである。

安くなった商品が労働力の価値を低くするのは、その商品が労働力の再生産にはいる割合に応じて低くするだけである。たとえば、シャツは必要生活手段ではあるが、しかし多くの生活手段の一つでしかない。それが安くなることは、シャツのための労働者の支出を減らすだけである。ところが、必要生活手段の総計は、みなそれぞれ別々の産業の生産物であるまったくさまざまな生産物から成っており、このような商品の一つ一つの価値は、いつでも労働力の価値の一可除部分をなしている。この価値は、その再生産に必要な労働時間が減るにつれて低くなるのであり、この労働時間の短縮は、かのいろいろな特殊な生産部門のすべてにおける労働時間の短縮の総計に等しい。われわれはこの一般的な結果を、ここでは、あたかもそれが各個の場合の直接的結果であり直接的目的であるかのように、取り扱う。ある1人の資本家が労働の生産力を高くすることによってたとえばシャツを安くするとしても、けっして、彼の念頭には、労働力の価値を下げてそれだけ必要労働時間を減らすという目的が必然的にあるわけではないが、しかし、彼が結局はこの結果に寄与するかぎりでは、彼は一般的な剰余価値率を高くすることに寄与するのである。資本の一般的な必然的な諸傾向は、その現象形態とは区別されなければならないのである。

資本主義的生産の内在的諸法則が諸資本の外的な運動のうちに現われ競争の強制法則として実現されしたがって推進的な動機として意識にのぼる仕方は、まだここで考察するべきことではないが、しかし次のことだけははじめから明らかである。すなわち、競争の科学的な分析は資本の内的な本性が把握されたときにはじめて可能になるのであって、それは、ちょうど、天体の外観上の運動が、ただその現実の、といっても感覚では知覚されえない運動を認識した人だけに理解されうるようなものだ、ということである。とはいえ、相対的剰余価値の生産の理解のために、また、すでに得られた結果だけにもとづいて、次のことを述べておきたい。

絶対的剰余価値とは労働日の長さを延長することによって生産される剰余価値です。これに対して、相対的剰余価値とは必要労働時間を短縮して、労働日の必要労働と剰余労働の比率の割合を変化させることによって生まれる剰余価値です。このとき、前にもふれましたが、必要労働時間を少なくするためには、労働力価値を低下させることが必要となります。そのためには労働力の価値を決定する生産物を生産する分野の生産性を向上させなければなりません。

労働力の価値は、その所有者つまり労働者に必要な生活手段の価値に依存しています。労働力の価値を引き下げるためには、それゆえ、「労働力の価値を規定する生産物」が生産される産業部門において何らかの技術革新がおこり、その結果、当該の部門で生産性の向上が可能とならなければなりません。この生産力の上昇は、必ずしも一商品の生産現場そのものでおこる必要はない。一商品の価値はその商品にとっての生産手段に含まれている労働量によっても規定されているから、たとえば革や蠟や糸など材料の価格が下がることでもブーツの価値が下がります。だから必要生活手段を生産するための不変資本の素材的な要素、つまり労働手段や労働材料を提供する産業分野の生産性が上がり、それに応じて様々な商品が安価になれば、このこともまた労働力の価値を低くすることになります。しかし、生活必需品と関係ない商品の生産性がいくら向上しても労働力の価値には影響がありません。

安価になった商品が労働力の価値をどの程度引き下げるか、つまりどの程度の影響を与えるかは、それが労働力に再生産にどの程度関わっているかによって変わってきます。ここでは、その具体例として、シャツを取り上げています。シャツは労働者にとって生活必需品ではあります。シャツが安価になれば、労働者がシャツに支払う金額が減りますが、それだけです。シャツの価値は労働力の価値のほんの一部分です。個々の生活必需品を生産する現場で生産性が上がり、そこでたとえばシャツの値段が下がったとしても、それはそれだけのことです。とはいえ生活必需品の総計はそうした数多くの多様な生活手段からなるのであるから、一生産部門における労働時間の短縮は結局のところいっさいの生産部門における労働時間の短縮に、つまり労働力の価値の低下につながるものとなるということです。

ここでは一般的な結果について、それがすべての事例について直接的な結果であり、直接的な目的でもあるかのようにのべています。しかし、たとえばシャツを安価にすることに成功した資本家自身はそのような目的をとくに意識しているわけではないでしょう。それでも一資本における技術革新の成功は一般的な剰余価値率の上昇に対して寄与します。だから「資本の一般的で必然的な動向と、その現象形態は区別して考える必要がある」とマルクスは言います。

ちなみに、個別資本が労働力の価値の低下を直接的な目的とすることができず、つまりはそれを意図することができないのには、もうひとつの原因がある。マルクスは、労働力の価値を規定する生産物について、それは「慣習的な生活手段の範囲に属するか、あるいはそれに替わりうるもの」であると語っていた。つまり社会的・文化的慣習の範囲で必要生活手段に算入されず、必要生活手段を生産するための生活手段も提供しない生産部門(たとえば奢侈品を製造する部門)では、かりにそこで技術革新が生起して、生産力が上昇しても、労働力の価値には影響を与えないということである。

とはいえ慣習は変化し、必要生活手段の範囲もまた拡大し、あるいは縮小する。それを決するのは、結局は一方で流通の場面であり、他方では資本間の競争であるということになるだろう。このふたつの局面については、あくまで資本の生産場面を問題としている当面の文脈では立ち入ることができない。

絶対的にしろ相対的にしろ剰余価値とは、労働力価値を上回って労働者によって生産された価値が資本家によって領有されたもののことです。つまりここでは、2つの異なった量が剰余価値の大きさを規定していることになります。すなわち、労働者が生産過程において生み出す価値の絶対量と、労働者の労働力価値の大きさです。前者は価値生産物のことを指しているので、より簡潔に表現すれば、剰余価値の大きさは、@価値生産物の大きさと、A労働力価値の大きさによって規定されている。つまり、剰余価値=価値生産物−労働力価値=@−Aです。そこで、さしあたって、剰余価値を増大させる方法は、労働力価値の大きさを一定として価値生産物の絶対量を増やすことと、価値生産物の絶対量を一定として労働力価値の大きさを減らすことの2つの想定することができます。大雑把に言えば、前者が絶対的剰余価値の生産であり、後者が相対的剰余価値の生産ということになります。

『資本論』では、労働力価値も価値生産物も労働時間に還元した上で、絶対的剰余価値と相対的剰余価値を定義しています。すなわち、絶対的剰余価値とは、必要労働時間を一定として労働日(したがって剰余労働時間)を延長することによって生産される剰余価値であり、相対的剰余価値とは逆に労働日の長さを一定として必要労働時間を短縮することによって生産される剰余価値のことである、としているのです。以上を図式化したのが下図です。

図の最初のもの(上)は、必要労働時間を4時間という一定の大きさにした上で、労働日全体が4時間から5時間へ、さらに6時間、7時間、8時間、9時間へと延長されるさまです。この延長に応じて剰余労働もまた、1時間、2時間、3時間、4時間、5時間と増大していきます。それに対して下の図は、総労働日の長さを8時間という一定の大きさとした上で、必要労働時間の長さを4時間から3時間へと短縮させています。これによって、剰余労働時間もまた4時間から5時間へと増大することになるのです。

定義に対する第2次接近

この章では触れられていませんが、標準労働日の成立を前提とするならば、このような規定は維持しえないものとなります。なぜなら、標準労働日が成立すれば、それを超えて労働時間を延長させると、少なくとも割増の追加賃金が発生し、したがって労働力価値の総量も増大することになるからです。

したがって、労働力価値の大きさないし必要労働時間の長さを一定として、労働日を延長させることという絶対的剰余価値の定義は修正されることになります。他方で、労働者が生産過程の中で生産する価値量が絶対的に増大するならば、それと比例して労働力価値が増大しても、剰余価値は増大することが可能です。したがって、労働力価値(ないし必要労働時間)の一定という条件は何ら絶対的剰余価値が生産される条件ではないことがわかります。

以上は絶対的剰余価値の定義に関わる問題だか、相対的剰余価値に関しても問題がある。垂直的特別剰余価値は個々の資本に雇われる労働力の価値低下によって生じているからです。だから、労働力価値の低下というだけで相対的剰余価値を定義することはできない。相対的剰余価値にあって重要なのは、労働力価値の低下が個別資本において特殊に生じるのではなく、ある程度全般的に生じることです。

以上の点を踏まえて、絶対的剰余価値と相対的剰余価値とを次のように再定義してもいいでしょう。標準労働日ないし標準強度を越えて労働者の支出する労働量の絶対的増大に比例して労働力価値が追加的に増大すると想定するならば、絶対的剰余価値は、剰余価値率を一定として、労働者の支出労働量を絶対的に増大させることによって、したがって労働者によって創出される価値量を絶対的に増大させることによって生産される剰余価値であると規定することができるでしょう。それに対して、相対的剰余価値は、労働者の支出労働量ないし労働者によって創出される絶対的価値量を一定として、労働力価値を全般的に低下させて剰余価値率を上昇させることによって生産される剰余価値であると定義することができるでしょう。

このように再定義することによってはじめて、一方を「絶対的」と規定し、他方を「相対的」と規定する意味もはっきりします。労働力価値と剰余価値との相対的関係(すなわち剰余価値率)が一定のままでも、労働者の支出労働量ないし生産価値量が絶対的に増大することで生じるのが絶対的剰余価値であり、労働者の支出労働量ないし生産価値の絶対量が一定のままでも、労働力価値と剰余価値との相対的関係が変わることによって生じるのが相対的剰余価値という区別です。

以上を図式化すると次のようになります。直線という表現では労働時間を表現できるが労働強度を表現できないので、下の図では円グラフを用いることにしました。円グラフでは、白い部分が労働力価値であり、グレーの部分が剰余価値です。

絶対的剰余価値は、労働者によって生み出された価値生産物が労働力価値と剰余価値とに分離される相対的な割合(白とグレーとの割合)が一定のままでも、円の大きさ(労働者が生み出す価値量=価値生産物)そのものが絶対的に増大すれば、剰余価値(グレー)もまた増大することを示しています。相対的剰余価値は、労働者が生み出した価値生産物の絶対的大きさが一定のままでも、この価値生産物が労働力価値と剰余価値とに分類される割合が変われば、やはり剰余価値(グレー)が増大することを示しています。

労働日の長さを延長することによって生産される増殖価値を、絶対的増殖価値と呼ぶことにしよう。これにたいして必要労働の時間を短縮して、労働日の必要労働と増殖労働の分割比率を変化させることによって生まれる増殖価値を、相対的増殖価値と呼ぶことにしよう。

労働力の価値を低下させるためには、労働力の価値を決定する生産物を生産する産業分野の生産力を向上させなければならない。すなわち習慣によって必要とされている生産手段や、それに代わりうる生産物を生産する産業分野の生産力が向上する必要がある。

ただしある商品の価値を決定するのは、その商品の最終的な形を決定する労働の量だけではない。その生産材料に含まれている労働の量も、商品の価値を決定する。たとえばブーツの価値を決定するのは靴屋の労働だけではなく、皮革、蝋、糸などの価値もかかわってくる。生産力が向上し、それにともなって不変資本の素材的な要因、すなわち労働手段、労働材料など、生活必需品の生産に必要なものを供給してくれる産業分野の商品の価格が低くなると、労働力の価値も同じく低くなるのである。他方で、生活必需品を供給することもなく、生活必需品を生産するための生産手段を供給することもない産業分野で生産力が向上しても、労働力の価値には影響しない。

安価になった商品が労働力の価値をどれほど引き下げることができるかは、それが労働力の再生産にどれほどかかわっているかによって決まるのは明らかである。たとえばシャツは生活必需品ではあるが、多くの必需品の一つにすぎない。シャツが安価になっても、労働者がシャツに支払う金額が減るだけである。生活必需品はさまざまな生産物で構成されており、それぞれに固有な産業で生産されている生産物なのである。これらの個々の商品の価値は、労働力の価値の何分の1かにすぎない。労働力の価値は、その再生産に必要な労働時間が短縮されると低下する。労働力の再生産のために必要な労働時間の短縮の総計は、個々のすべての産業分野での産業時間の短縮の総計である。

ここでは一般的な結果について、それがすべての事例について直接的な結果であり、直接的な目的でもあるかのように検討している、個々の資本家が、労働の生産力を向上させて、たとえば安価なシャツを提供するときには、労働力の価値を低下させることだけを意図しているだろう。しかしその資本家が最終的にはこのような結果をもたらすのに貢献するのだから、その資本家は増殖価値の一般的な比率を増大させるために貢献しているのである。資本の一般的で必然的な動向と、その現象形態は区別して考える必要がある。

資本制的な生産に内在する法則は、どのような方法で資本の外的な運動として現れ、競争するために絶対にしたがわざるをえない法則として妥当するようになるのか、そしてそうしたものとして個々の資本家に、みずからの動機として意識されるようになるのか、これらの問題はここでは検討しないが、次のことだけは初めから明らかである。すなわち競争について科学的に分析するためには、資本の内的な本性を理解しておく必要があるということである。それは天体の見掛け上の運動は、視角によっては捉えることができない真の運動を認識している人でなければ理解できないのと同じである。ただしこれまでの考察結果だけに基づいて、相対的な増殖価値の生産を理解するために、次の点を指摘することができる。

 

相対的増殖価値の生産

1労働時間が6ペンスすなわち半シリングという金量で表わされるとすれば、12時間の1労働日には6シリングという価値が生産される。与えられたの労働の生産力ではこの12労働時間に12個の商品がつくられると仮定しよう。各1個に消費される原料その他の生産手段の価値は6ペンスだとしよう。このような事情のもとでは1個の商品は1シリングになる。すなわち、生産手段の価値が6ペンス、それを加工するときに新しくつけ加えられる価値が6ペンスである。いま、ある資本家が、労働の生産力を2倍にすることに成功し、したがって12時間の1労働日に、この種の商品を12個ではなく24個生産することができるようになったとしよう。生産手段の価値が変わらなければ、1個の商品の価値は今度は9ペンスに下がる。すなわち、生産手段の価値が6ペンスで、最後の労働によって新しくつけ加えられる価値が3ペンスである。生産力が2倍になっても、1労働日は相変わらずただ6シリングという新価値をつくりだすだけであるが、この新価値は今度は2倍の生産物に割り当てられる。したがって、各1個の生産物には、この総価値の12分の1ではなく24分の1しか、6ペンスではなく3ペンスしか割当たらない。または、同じことだが、生産手段が生産物に転化するときに、生産物1個につき、今度は以前のようにまる1労働時間ではなくたった半時間労働が生産手段につけ加えられるだけである。この商品の個別的価値は、いまでは社会的価値よりも低い。すなわち、この商品には、社会的平均条件のもとで生産される同種商品の大群に比べて、より少ない労働時間しかかからない。1個は平均して1シリングであり、言い換えれば、2時間の社会的労働を表わしている。変化した生産様式では、1個は9ペンスにしかならない。言い換えれば、1労働時間半しか含んでいない。しかし、商品の現実の価値は、その個別的価値ではなく、その社会的価値である。すなわち、この現実の価値は、個々の場合にその商品に生産者が費やす労働時間によって計られるのではなく、その商品の生産に社会的に必要な労働時間によって計られるのである。だから、新しい方法を用いる資本家が自分の商品を1シリングというその社会的価値で売れば、彼はそれをその個別的価値よりも3ペンス高く売ることになり、したがって3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。しかし、他方、12時間の1労働日は、いまでは彼にとって以前のように12個ではなく24個の商品に表わされている。だから、1労働日の生産物を売るためには、彼は2倍の売れ行きまたは2倍の大きさの市場を必要とする。ほかの事情に変わりがなければ、彼の商品が市場のより広い範囲を占めるには、その価値を引き下げるよりほかはない。そこで、彼は自分の商品を、その個別的価値よりも高く、しかしその社会的価値よりも安く、たとえば1個10ペンスで売るであろう。それでもまだ彼は各1個から1ペンスずつの特別剰余価値を取り出す。彼にとってこのような剰余価値の増大が生ずるのは、彼の商品が必要生活手段の範囲にはいるかどうかには、したがってまた労働力の一般的な価値に規定的にはいるかどうかには、かかわりがない。だから、このあとのほうの事情は別として、どの個々の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品を安くしようとするという動機はあるのである。

「競争という強制法則」にかかわる事情であるがゆえに、ある意味では、ここで立ち入るのに適当ではないことがらにかかわるにしても、相対的剰余価値の生産を推進する動機を理解するため、ここで触れることのできる消息があります。それはつまり剰余価値の取得をめぐる個別資本間の競争であって、具体的には「特別剰余価値」を取得するための競争です。

1時間の労働の価値が6ペンス(半シリング)であるとすれば、1労働日を12労働時間とすると、6シリングの価値が生産されることになります。このような生産諸条件と労働の生産力のもとでは、1労働日にはちょうど12個の商品が生産できるとしましょう。商品各1個の生産に際して消費される生産手段の価値は6ペンスであるとすれば、生産手段の価値と、労働によって付加される価値とが、いずれも6ペンスであるから、商品一個の価値は1シリングになります。

ある資本家が、労働の生産力を2倍にすることに成功したものとする。それによって、1労働日には同じ商品が、12個ではなく、24個も製造されることになった、としてみましょう。その場合には、生産手段の価値はあいかわらず6ペンスで変化しないとしても、労働が付けくわえる価値は3ペンスとなるから、1個の商品の価値は9ペンスへと下落します。

生産力が倍増しても、1労働日に新たに作りだされた価値の総計は6シリングで、これまでと変わりません。しかし、この6シリング今では2倍の数の商品に分散されることになります。商品1個あたりで見ていくと、新たに作りだされた価値は、これまでは作りだされた価値全体、つまり6シリングの12分の1である6ペンスだったのが、今では、24分の1の3ペンスになったということです。。同じことを言い換えると、生産手段を生産物に加工するために、これまでは1個あたり1時間必要だったのが、今では半時間で十分だということになります。

この商品の1個あたりの価値は、社会的な価値を下回っていると言えます。それは、生産力が倍増していない平均的な条件のもとで生産されている膨大な量の同じ商品と比較すると、使用されている労働時間の長さが短縮されているからです。

個々の商品の実際の価値は、個々の資本家の生産する価値ではなく、社会的な価値によって決まります。つまり、個々の商品を生産するために実際に個々の生産者が必要とした労働時間ではなく、それを生産するために社会的に必要とされる労働時間によって、商品の実際の価値が決まるのです。したがって、新しい生産方法を採用した資本家が、この商品を1シリングという社会的な価値で販売すると、その商品の個別の価値よりも差額の3ペンスの特別な剰余価値を得ることができるのです。

この剰余価値の増大は、その商品が生活必需品の領分に含まれるものであるかどうかにかかわらず、すなわち労働力の一般的な価値を決定するものであるかどうかにかかわらず、この資本家のもとで発生します。だからこの問題は別として、個々の資本家には、労働の生産力を向上させて商品を安価に販売しようとする動機が生まれるということです。

1時間の労働の価値が貨幣価値に換算して半シリングまたは6ペンスだとして、1日の労働時間を12時間としよう。すると1日に6シリングの価値が生産されることになる。この労働力では、1日12時間の労働時間で12個の商品が生産できるとしよう。また1個の商品の生産に使用される生産手段と原料などの価値は6ペンスだとしよう。この状況では、完成した商品の価格は1個あたり1シリングになる。これは生産手段の価値6ペンスと、加工によってこれに新たにつけ加えられた価値6ペンスで構成される。

ここである資本家が、労働の生産力を2倍に高めることに成功したとしよう。それによって12時間の労働日に、この種の商品をこれまでの12個ではなく24個生産できるようになったとしよう。生産手段の価値が変動しない場合には、商品1個の価値は9ペンスになる。これは生産手段の価値6ペンスと労働によって新たにつけ加えられた価値3ペンスで構成される。

すなわち生産力が倍増しても、1労働日において新たに作りだされた価値の大きさは6シリングで、これまでと変わらない。ただこの6シリングが今では2倍の数の商品の分散されることになる。すなわち商品1個当たりで新たに作りだされた価値は、これまでは作りだされた価値全体[6シリング]の12分の1の6ペンスだったが、今ではその24分の1の3ペンスになったということである。同じことを言い換えると、生産手段を生産物に加工するために、これまでは1個あたり1時間必要だったのが、今では半時間で十分だということになる。

この商品の1個あたりの価値は、社会的な価値を下回っているのであり、[生産力が倍増していない]平均的な条件のもとで生産されている膨大な量の同じ商品と比較すると、使用されている労働時間の長さが短縮されているのである。平均的な条件のもとではこの商品の価値は1個あたり1シリングで、2時間の社会的な労働を表現している。しかし生産方法が改善された条件のもとでは、この商品のもとでは、この商品の価値は1個あたり9ペンスであり、1時間半の労働時間にひとしい。

ところである商品の実際の価値は、個々の資本家の生産する価値ではなく、社会的な価値によって決まる。個々の商品を生産するために実際に生産者が必要とした労働時間ではなく、それを生産するために社会的に必要な労働時間によって、商品の実際の価値が決まるのである。そのため新しい生産方法を採用した資本家がこの商品を1シリングという社会的な価値で販売すると、その商品の個別の価値よりも3ペンス高く販売することになり、3ペンスの特別な増殖価値を手にすることになる。

 

価値増強と競争

とは言え、この場合にも剰余価値の生産の増大は必要労働時間の短縮とそれに対応する剰余労働の延長とから生ずるのである。必要労働時間を10時間、すなわち労働力の日価値を5シリングとし、剰余労働を2時間、したがって1日に生産される剰余価値を1シリングとしよう。ところで、われわれの資本家は今では24個を生産し、それを1個10ペンスで、すなわち合計20シリングで売る。生産手段の価値は12シリングに等しいのだから、14と5分の2個の商品はただ前貸しした不変資本を補填するだけである。12時間の1労働日は残りの9と5分の3個で表わされる。労働力の価格は5シリングだから、6個の生産物には必要労働時間が表わされ、3と5分の3個には剰余労働が表わされる。必要労働と剰余労働との割合は、社会的平均条件のもとでは5対1だったが、いまでは5対3にしかならない。同じ結果は、次のようにしても得られる。12時間の1労働日の生産物価値は20シリングである。そのうち12シリングは、ただ再現するだけの生産手段の価値に相当する。そこで、8シリングが、1労働日を表わす価値の貨幣表現として残る。この貨幣表現は、同じ種類の社会的平均労働の貨幣表現よりも高く、この平均労働はその12時間分が6シリングにしか表わされない。例外的に生産力の高い労働は、何乗かされた労働として作用する。すなわち、同じ時間で同種の社会的平均労働よりも高い価値をつくりだす。ところが、われわれの資本家は労働力の日価値としては相変わらず5シリングしか支払わない。したがって、労働者はこの価値の再生産には今では以前のように10時間ではなく7時間半しか必要としない。したがって、彼の剰余労働は2時間半増加し、彼の生産する剰余価値は1シリングから3シリングに増加する。

設例で剰余価値が増えたのは、必要労働時間が短縮され、それによって剰余労働の時間が延長されたからです。かつての必要労働時間が10時間で、1日の労働力の価値は5シリングでした。そして剰余労働の時間は残りの2時間でした。その結果、1日に生み出される剰余価値は1シリングでした。しかし、この資本家は生産性を向上させ1日に24個というそれまでの2倍の個数の商品を生産し、1個を10ペンスで販売し、合計で30シリングを売り上げました。

整理してみましょう。

@従来の生産

1労働日12時間の労働で6シリングの価値を生産。なお、1日12個の商品を生産。

12個の商品=12シリング

このうち生産手段とは6シリング、労働力を5シリングに抑えて剰余価値は1シリング

 

A生産方法の改革により2倍の個数の商品を生産できるようになる

1労働日12時間の労働で6シリングの価値を生産は同じ。しかし、1日24個の商品を生産。

24個の商品=18シリング(1個あたり9ペンス)

このうち生産手段は半シリング×24個で12シリング、プラス、生産した価値6シリング

この商品を社会的価値(1個1シリング=12ペンス)で売れば,1個当り3ペンスの特別剰余価値

     しかし、2倍の市場が必要になる。そこで

B1個10ペンスで売る(それでも,1個当り1ペンスの剰余価値

不変資本補填分、労働力の価格、剰余価値を生産物個数で表わす

・生産手段の価値(不変資本、12シリング=144ペンス)補填分は14と 2/5 個の商品

・12時間の1労働日=残り9と3/5 個の商品で表わされる=8シリング

社会的平均労働の12時間は、6シリングで表されるにすぎない。例外的な生産力の労働は,力を高められた労働として作用する⇒同じ時間内に、同じ種類の社会的平均労働よりも大きい価値を作り出す。

・労働力の価格は5シリング=6個の生産物

残り3 3/5 個に剰余労働が表わされる       ( 社会的平均は 51 ) +

*必要労働(6個,5シリング):剰余労働(3 3/5 個,3シリング)=53 −+

価値生産物を時間で表わす

・12時間労働で5+=8シリングの価値を生産-----1時間で8ペンス

労働力の価値(=5シリング(60ペンス)=必要労働)を再生産するためには、10時間ではなく、7 と1/2 時間しか必要でない

剰余労働は残り4と 1/2 時間 =3シリング

 

こうして、改良された生産様式を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする。彼は、資本が相対的剰余価値の生産において全体として行うことを、個別的に行うのである。しかし、他方、新たな生産様式が一般化され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、あの特別剰余価値もなくなる。労働時間による価値規定の法則、それは、新たな方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえないという形で感知されるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるのである。こうして、この全過程を経て最後に一般的剰余価値が影響を受けるのは、生産力の上昇が必要生活手段の生産部門をとらえたとき、つまり、必要生活手段の範囲に属していて労働力の価値の要素をなしている諸商品を安くしたときに、はじめて起きることである。

商品の価値とはその社会的な価値であり、社会的な価値とは商品の生産に社会的に必要とされる労働時間によって決定されます。技術革新に成功し、あらたな方法により同一の商品を生産する個別の資本家は、その商品の社会的な価値と個別的な価値とのあいだに1個の時間的な差異を生んだことになります。この差異つまり社会的価値と個別的価値とのあいだの差分から、当のその資本家は特別剰余価値を取得することになるのです。

市場の規模もまた不変であるとすれば、現実にはもちろん当の個別資本は、新商品をその個別的価値よりは高価に、社会的価値よりは安価に販売することになるでしょう。設例では、その資本家は、たとえば1個10ペンスで商品を売るにしても、なお1個ごとに1ペンスの特別剰余価値を手にすることができます。

この場合でも剰余価値の増大は必要労働時間の短縮と、それに対応する剰余労働時間の延長から生じたものです。このように改良された生産様式をもちいている資本家は、他の同業資本家と比べて、1労働日中のより大きい一部分を剰余労働として領有することになります。競争という強制法則によって競争相手たちもまたあらたな生産様式の採用に踏みきらざるをえなくなります。最後に、そして、生産力の上昇が生活必需品を生産する部門をとらえたとき、一般的剰余価値率がその影響を受けることになるだろう。こうして商品を安価にするため、さらには商品を安価にすることで労働者そのものを安価なものとするために、労働の生産力を高めようとすることは、資本の内在的衝動であり、不断の傾向となるのです。

この事例では増殖価値が増大したのは、必要労働の時間が短縮され、それによって増殖労働が延長されたからだった。この事例ではかつては必要労働の時間は10時間であり、1日の労働力の価値は5シリングであった。そして増殖労働の時間は2時間であった。1日に生みだされる増殖価値は1シリングだった。しかしこの資本家は今では1日に24個の商品を生産し、1個を10ペンスで販売し、合計で30シリングの売り上げを手にする。生産手段の価値は12シリングと変わらず、前払いされた不変資本を補填するのは、14と5分の2個の商品である。12時間の1労働日に相当するのは、残りの9個5分の3である。労働力の価値は5シリングであるから、必要労働の時間は商品6個分に相当し、増殖価値の部分は商品3と5分の3個に相当する。通常の社会的平均条件のもとでは、必要労働と増殖労働の比率は5対1であったが、今では5対3になる。

これを次のように計算しても同じ結果になる。12時間の労働日で生産された生産物の価値は20シリングであり、そのうちの12シリングはここでも再現されるにすぎない生産手段の価値である。だから労働日の価値を貨幣で表現すると、残りの8シリングになる。同じ種類の商品を生産するための社会的な平均労働では、12時間の労働日で6シリングの価値しか生みださないので、社会的な平均労働と比較すると、この8シリングは高い価値である。このように生産力が例外的に高い労働は、より力の強い労働となり、同じ時間のうちに、同じ種類の社会的な平均労働よりも高い価値を創造する。ところがわたしたちの資本家は、労働力の1日あたりの価値としては前と同じように5シリングしか払わない。だから労働者は労働力の価値を生産するために以前は10時間を必要としていたが、今では7時間半でよいことになる。こうして労働者が実行する増殖労働は2時間半増えたことにより、生みだされた増殖価値は1シリングから3シリングに増大したのである。

このように、改良された生産方法を採用した資本家にあっては、同じ業界の他の資本家と比較して、1労働日あたりに占める増殖労働の時間が大きくなる。この資本家が個人として行なっていることを、資本は全体として、相対的増殖価値の生産のために実行しているのである。他方で、その新しい生産方法が普及してくると、安価に生産された商品の個別の価値と社会的な違いが消滅してしまい、この特別な増殖価値も消滅してしまうのである。この資本家は新しい生産方法を導入することで、生産した商品を社会的な価値を下回る価格で販売しなければならなくなり、商品の価値が労働時間の長さで決定されるという法則を実感することになる。そしてこの同じ法則のために、彼のライバルたちもこの新しい生産方法を導入することが、競争のためにしたがわざるをえない法則となるのである。

このすべての過程を通じて、最終的に一般的な増殖価値が増大するのは、生活必需品の領分に含まれる商品、すなわち労働力の価値を形成する商品を生産する産業分野で生産力が向上し、こうした商品が安価になった場合にかぎられるのである。

 

安価な日常品による増殖価値の増大

商品の価値は、労働の生産力に反比例する。労働力の価値も、諸商品の価値によって規定されているので、同様である。これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。それは、生産力が上がれば上がり、下がれば下がる。12時間の社会的平均労働日の1日は、貨幣価値を不変と前提すれば、つねに6シリングという同じ価値生産物を生産するのであって、この価値総額が労働力の価値の等価と剰余価値とにどのように分割されるすにはかかわりなくそうである。しかし、生産力が上がったために1日の生活手段の価値、したがってまた労働力の日価値が5シリングから3シリングに下がれば、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。労働力の価値を再生産するためには、10労働時間が必要だったが、今では6時間労働しか必要でない。4労働時間が解放されていて、それは剰余労働の領分に併合されることができる。それゆえ、商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向なのである。

商品の価値は労働の生産力の大きさに反比例する。設例で見てきたように、生産力が倍増しても、1労働日に新たに作りだされた価値の総計は6シリングで、これまでと変わりません。しかし、この6シリング今では2倍の数の商品に分散されることになります。商品1個あたりで見ていくと、新たに作りだされた価値は、これまでは作りだされた価値全体、つまり6シリングの12分の1である6ペンスだったのが、今では、24分の1の3ペンスになったということです。同じことを言い換えると、生産手段を生産物に加工するために、これまでは1個あたり1時間必要だったのが、今では半時間で十分だということになります。また、商品に価値によって労働力の価値が決まるのだから、同じように、労働力の価値は生産力の大きさに反比例することになります。

しかし、それとは反対に相対的剰余価値の大きさは、労働の生産力に正比例します。設例では、12時間の社会的に平均的な労働日で生産される商品の価値は、それが労働力の価値に相当する部分と剰余価値の部分にどのように配分されているとしても、つねに6シリングである。それが、生産力の増大により、日常の生活手段に必要な商品の価格が下がり、それによって、労働者が労働力を再生産するための費用が下がり、労働力の1日あたりの価値が下がることになります。設例では5シリングから3シリングに下がります。そうすると、商品の総体の価値は6シリングのまま変わらないので、必要労働の価値が5シリングから3シリングに2シリング下がると、その分剰余価値が増えることなり、1シリングから2シリング増えて3シリングに増大します。労働時間にすれば、かつては労働力の価値を再生産するために10時間の労働が必要だったものが、今では6時間でよいことになります。そうすると、差の4時間が自由に使えるようになり、それが剰余労働のために利用できるようになったわけです。

それゆえ、労働の生産力を向上させ、それによって商品を安価にすること、商品を安価にして、労働者自身も安価にすること、これが資本に内在する衝動であり、つねに存在する傾向なのです。

以前にも見ましたが、資本は絶え間なく生産力を上昇させ、単位時間あたりに生産される商品量をできるだけ増大させ、こうして諸商品の価値を絶え間なく引き下げようとする欲望を抱えています。

資本主義以前においても、長期間に見れば少しずつでも生産力の上昇は生じていたのは確かです。しかし、それはごくわずかなものでしかありませんでした。基本的に、資本主義以前の社会では、人々は、先祖伝来の方法で手工業や農業を営んでいたのであって、同じやり方が親から子へと、あるいは親方から弟子へと伝えられていたのでした。技術革新は偶然的なものか、あるいは以前からの方法が環境の変化などによって遂行できなくなったか、あるいは外部から新しい技術が流入するなどを通じて、散発的に起こるものでしかなかったと言えます。しかし、資本主義においては、絶えざる剰余価値を獲得する無限の運動体としての資本が生産を包摂することで、特別剰余価値の獲得をめぐって絶えず技術革新を起こし、単位時間あたりに生産される商品量を絶え間なく増大させ、商品の価値を持続的に引き下げる運動を進めているのです。価値増殖の無限の運動はこうして、技術革新と商品の大量生産と商品価値引き下げの無限の運動へと転化すると言えます。

このような運動の結果、あらゆる商品の価値はしだいに下がっていきます。このことの結果として、労働力という商品の価値もしだいに下がっていくことになるわけです。なぜなら、労働力の価値は、労働力を形成する直接的な労働だけでなく、労働力の生産と再生産に必要な様々な商品の価値によって規定されているからです。たとえば、労働力の価値を構成する第1の要素である必要生活手段の総価値量は、それを構成する種々の消費財の全般的な価値水準に、したがってその物価水準によって規定されています。特別剰余価値を目指す諸資本の絶えざる競争を通じて生産財の価値も消費財の価値も全般的に継続的に下がるだろうし、生産財の価値低下は、それが消費財の生産過程に入る限りでは、結局、消費財の価値低下に結びつくからです。

したがって、このような必要生活手段の全般的な価値低下という回り道を通じて、労働力価値も全般的に低下することになるのです。ただし、実際に、必要生活手段の全般的価値低下はただちに労働力の現実的な価値低下をもたらすわけではないのです。というのも、必要生活手段の範囲と水準とは労働者及び社会全体の意識水準や文化水準などにも依存しているからです。したがって、必要生活手段の価値が全般的に低下したとしても、それがただちに労働力価値の現実的低下に結びつくのではなく、それは、労働者がより多くの、あるいはより高度な必要生活手段を享受することを可能とするものになるかもしれません。また、資本は既存の商品の価値低下を絶えず追求するだけでなく、絶えず新商品をも生み出そうとし、それを労働者の必要生活手段の範囲に入れようと努力します。このこともまた、労働者の必要生活手段の範囲や種類を広げることに寄与し、したがって労働力の維持ないし上昇に寄与することになります。

労働者の実質賃金は絶対的に固定されているドグマ(賃金鉄則)に基づくのでもない限り、必要生活手段の全般的価値低下という事実からただちに労働力の全般的価値低下という結論を因果的に引き出すことはできないはずです。また実際に、必要生活手段価値の低下と比例して労働力価値が実際に下がるとしたら、より安くより大量に生産された消費財をいったん誰が購入するのだろうか?生産力の上昇による必要生活手段の全般的価値低下は、ただ労働力価値の全般的低下を可能とする必要条件を形成するだけであって、それが現実化するには、別の条件が必要になるはずです。

したがって、必要生活手段の全般的価値低下と労働力の全般的価値低下との関係は、労働力の担い手である労働者階級という生きた自己意識ある主体的存在を前提するならば、大雑把に言って次のような経過をたどると考えられます。

最初に、諸資本による絶え間ない生産力上昇運動を通じて必要生活手段を含む諸商品の全般的な価値低下が起こります。しかし、この時点では、これはむしろ労働者がその賃金によって購入しうる商品の量と多様性とが拡大することとして現れます。また、この価値低下の波が奢侈品にまで及ぶのなら、以前は労働者の手に入らないと思われていた諸商品がその価値低下を通じて労働者の一般的な欲求の対象になり、やがては必需品の範疇に入ってくるかもしれません。例えば、かつてテレビは一部の比較的裕福な者だけが入手しうるぜいたく品であり、近所に1台というレベルであったが、テレビの急速な価値低下によって、急速に一家に1台というぐらい必需品になっていきました。このように、商品の全般的な価値低下は、労働力価値の低下をただちに生むのではなく、むしろ逆に、労働者の平均的な生活欲求や文化水準を引き上げることにもつながりうるし、労働者がその生活を豊かにすることをも可能にすします。ここでは、現実にはまだ下がっていない労働力価格(賃金)と、潜在的に下がっている労働力価値との間に構造的ズレが生じているわけです。

また、この段階は同時に、資本家にとっては、自分たちが以前よりも大量に生産し販売するようになった諸商品、及び新たに生産するようになった諸商品の市場が確保されることをも意味しており、資本家にとっても─彼が商品の売り手であるかぎりは─けっしてマイナスではない。それどころか、資本はあらゆる手段を通じて労働者にできるだけ多くの商品を必要と思わせ、それらを買わせようと努力する。

しかし、他方では資本家は、労働力商品という特殊な商品の買い手でもあります。一般的商品の売り手としては、資本家は労働者が財布により多くの貨幣を持っていて、しかも財布のヒモができるだけゆるいことを心から望みます。しかし、労働力商品の買い手としての資本家は、労働力商品の価格ができるだけ低いことを望み、したがって労働力が社会的にできるだけ安いコストで生産されることを望むのです。このように資本はまったく矛盾した衝動を抱えています。しかし、それに対して、労働者の側も黙ってはいないでしょう。すでに獲得された生活水準、すでに獲得されたさまざまな文化水準をおめおめと手放すことはできないし、それこそが労働者の本来のまっとうな生活水準、正当な文化水準であると主張するだろう。

こうして、相対的に高く維持されている労働力価格と潜在的に下がっている労働力価値とのギャップを埋めようとする階級的攻防が生じる。このギャップを埋める方向は主として2つある。前者を後者にまで引き下げるか、後者は前者にまで高めるか、です。

資本家は、まだ相対的に高く維持されている労働力の価格を引き下げて、すでに潜在的に下がっている労働者価値に接近させることでこのギャップを埋めようとするでしょう。賃金の名目額を直接引き下げたり、特に日本の場合には低賃金の非正規雇用に切り替えたり、労働強化をしながらそれに見合って賃金を上げないなど、です。他方、労働者は、相対的に高く維持されている労働力の価格をそのまま維持し続け、あるいはいっそう高い労働力価格をさえ実現しようとし、そうすることで、その労働力価格で実現される生活水準・文化水準こそが労働者の本来の生活水準であることを資本家に対してだけでなく、社会全体に承認させようとします。

労働力の価格と価値とのあいだのこのギャップをめぐる資本家と労働者の階級的攻防は、社会的承認の契機を媒介として、どちらか一方に至るか、あるいはその中間のどこかの地点に落ち着くことになるでしょう。中間のいずれの地点で落ち着いた場合には、相対的剰余価値の生産と実質賃金の上昇とが同時に生じることになります。これは、労働者の生活水準の恒常的な上昇期として現象するのですが、同時に相対的剰余価値も分子的に(つまり少しずつ)発生しています。こういう時期は歴史的に実際に存在したが(たとえば戦後の高度経済成長期)、しかし、資本と賃労働とのあいだの根本的な権力的・経済的不平等ゆえに、このような時期はいつまでも続かない。やがて資本は一致団結して反転攻勢に出て、労働力価格ないし労働力価値を集中的に引き下げようとする。典型的には今日の新自由主義の時代がそうであり、ここにおいて相対的剰余価値は全社会的規模で発生することになるのです。

このように、相対的剰余価値の発生は、実質賃金の持続的向上と両立する分子的な形態だけでなく、資本の側の階級的攻勢による集中的な形態をも取りうるであって、後者の場合には、個々の資本家の努力だけでなく、資本家階級全体の努力が、そしてしばしば国家権力をも動員した策動(労働法の改悪や争議に対する弾圧、等々)が必要になるのです。

マルクスは『資本論』において、相対的剰余価値について最初に説明したさい、必要生活手段の全般的価値低下がただちに労働力の全般的価値低下に結びつくように議論を進めています。これは明らかに一面的であると言われています。

商品の価値は労働の生産力の大きさに反比例する。労働力の価値は、さまざまな商品の価値によって決まるのだから、同じように生産力の大きさに反比例する。それとは反対に、相対的増殖価値の大きさは、労働の生産力の大きさに正比例する。生産力が低下する相対的増殖価値は小さくなる。前の例では、貨幣価値が変わらないならば、12時間の社会的に平均的な労働日で生産される商品の価値は、それが労働力の価値に相当する部分と増殖価値の部分にどのように配分されているとしても、つねに6シリングである。

ここで生産力が増大して、日常の生活手段の価値が低下し、それによって労働力の1日あたりの価値が5シリングから3シリングに下がると、増殖価値は1シリングから3シリングに増大する。かつては労働力の価値を再生産するために10時間の労働が必要だったものが、今では6時間でよいことになる。4時間が自由に使えるようになったのであり、これを増殖労働のために利用できるのである。だから労働の生産力を向上させ、それによって商品を安価にすること、商品を安価にして、労働者自身も安価にすること、これが資本に内在する衝動であり、つねに存在する傾向なのである。

 

生産力の向上の目的

商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよいのである。彼が関心をもつのは、ただ商品に含まれていて、販売で実現される剰余価値だけである。剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいる。ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例して低下するのだから、つまりこの同じ過程が商品を安くすると同時に商品に含まれる剰余価値を増大させるのだから、このことによって、ただ交換価値の生産だけに関心をもっている資本家がなぜ絶えず商品の交換価値を引き下げようとする努力するのかという謎が解けるのである。この矛盾によって、経済学の創始者の1人であるケネーは彼の論敵たちを悩ましたのであり、それにたいしてこの論敵たちは彼への答えを借りっぱなしにしていたのである。ケネーは次のように言っている。

「諸君も認めるように、生産を害することなしに、工業生産物の製造における費用を、または費用のかかる労働を、節約することができればできるほど、この節約はますます有利である。というのは、それは製品の価格を下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、工業者の労働から生まれる富の生産は、彼らの製品の交換価値の増大にあると信じているのだ。」

こういうわけで、労働の生産力の発展による労働の節約は、資本主義的生産ではけっして労働日の短縮を目的としてはいないのである。それは、ただ、ある一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮を目的としているだけである。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産するようになり、したがって各1個の商品には10分の1の労働時間しか必要としないということは、けっして、相変わらず彼を12時間働かせてこの12時間には以前のように120個ではなく1200個生産されることを妨げないのである。それどころか、それと同時に彼の労働日が延長されて今度は14時間で1400個を生産するようなことになるかもしれない。それだから、マカロックとかユアとかシーニアとかというたぐいのもろもろの経済学者たちの著者を見ると、あるページには、生産力の発展は必要な労働時間を短縮するのだから労働者はそれを資本家に感謝するべきだ、と書いてあり、次のページには、労働者は10時間ではなく今度は15時間旗にいてこの感謝を表わさなければならない、と書いてあるのである。労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。次にこの方法の考察に移ろう。

資本家が欲するのは、商品に潜んでいて、その商品を売却すると現実のものとなる剰余価値だけで、その商品の絶対的な価値ではありません。これまで見てきたように、相対的な剰余価値は、労働の生産力の向上に正比例して増大する野に対して、商品の価値は生産力の向上に反比例して低下するから、同じプロセスにおいて商品が安価になると同時に、商品に含まれる剰余価値は大きくなるのです。

つまり、資本家にとっては、より大きな利益をもたらすことになるのです。同じコストで、生産量が増えるわけですから。

商品の価値とはその「社会的な価値」であり、社会的な価値は「商品の生産に社会的に必要な労働時間」によって決定されます。いま、技術革新に成功し、あらたな方法によりある商品を生産する個別資本は、その商品の社会的な価値と資本家が生産する商品の個別的な価値とのあいだに1個の時間的な差異を導入したことになる。この差異つまり社会的価値と個別的価値とのあいだの差分から、当の個別資本は「特別剰余価値」を取得することになるのです。

市場の規模もまた不変であるとすれば、現実にはもちろん当の個別資本は、新商品を「その個別的価値よりは高価に、社会的価値よりは安価に」販売することだろう。設例では、あらたな生産の資本家は、たとえば1個10ペンスで商品を売るにしても、なお1個ごとに1ペンスの特別剰余価値を手にすることができることになります。

この場合でも剰余価値の増大は必要労働時間の短縮と、それに対応する剰余労働時間の延長から生じているのです。その結果、改良された新たな生産様式をもちいている資本家は、他の同業資本家と比べて、同じ1労働日の中でも、剰余労働の時間が相対的に多くなることになるわけです。他の同業資本家は、そのままでは競争に負けてしまうので、あらたな生産様式の採用に踏みきらざるをえなくなります。最後に、それで、その商品全体として「生産力の上昇がおこり、それが必要生活手段を生産する部門にも波及したとき、一般的剰余価値率がその影響を受けることになる。それゆえ、「労働の生産力を向上させ、それによって商品を安価にすること、商品を安価にして、労働者自身も安価にすること、これが資本に内在する衝動であり、つねに存在する傾向なのである」。

資本の目指すところは、より大きな剰余価値(つまり、資本にとっては利潤)を獲得することである。そのかぎりで、ひたすら交換価値の生産にだけ関心をいだいている資本家が、どうしてたえず商品の交換価値を引き下げようと努力するのかが、一個の謎です。いまやしかし謎は解かれた。商品をより安価にしようとする努力は、結局のところ商品に含まれている剰余価値を増大させるからです。商品をより安価に製造することが、逆説的にも資本の内在的衝動となるのです。

その内在的な衝動を生み出す要因は、とりあえずは競争という超越的な原因です。競争という法則が、資本制そのものを構成する超越論的審級に他ならない次第については、やがてあきらかとなるとマルクスは言います。しかし当面の論脈ではまず、「相対的剰余価値の、さまざまに特殊な生産方法」が、問題とされなければならない。マルクスの叙述を追って私たちもまた、生産現場の編成それ自体を、単純な協業から機械制大工業にいたるまでたどってゆく必要がある。

資本家には、生産する商品の絶対的な価値は、それ自体はどうでもよいものである。資本家が関心をもつのは、その商品に潜んでいて、商品を売却すると現実のものとなる増殖価値だけである。増殖価値が現実のものとなると、前もって投下されていた価値もまた補填される。ところで相対的な増殖価値は、労働の生産力の向上に正比例して増大するが、一方で商品の価値は生産力の向上に反比例して低下するから、同じプロセスにおいて商品が安価になると同時に、商品に含まれる増殖価値は大きくなるのである。これによって資本家にとって重要なのは交換価値を生産することであるのに、資本家はつねに商品の交換価値を低下させようと努力するのはどうしてかという謎が解けるのである。この矛盾は、経済学の創設者の1人であるケネーが論敵たちを苦しめるために使った謎であり、彼の論敵たちは誰もこの問いに答えることができなかったのである。

ケネーは「あなた方も認めるように、生産に害がない範囲で、工業生産物の製造コストを低下させ、費用のかかる労働を節約できれば、それは大きな利益を生みだす。製品の価格が低くなるからである。ところがあなた方は、生産物の交換価値を高くすれば、工業での労働による富が大きくなると考えているのだ。」

つまり資本制的な生産においては、労働の生産力を向上されることで労働を節約することが目指されるが、その目的は労働日を短縮することはない。その目的は特定の量の商品を生産するために必要な労働時間を短縮することにある。労働者が自分の労働の生産力を増大させて、1時間あたりでたとえば以前の10倍の商品を生産できるようになったとしよう。その場合には商品1個あたりに必要な労働時間は10分の1になる。それでもこの労働者を前と同じように1日12時間働かせて、この12時間でこれまでの120個の代わりに1200個の商品を生産されることを妨げるものはない。それどころか彼の労働日が同時に延長されて、1日14時間に1400個生産するようになるかもしれないのである。

だからこそマカロック、ユア、シーニョアなどの系列の経済学者の著者を読むと、あるところでは生産力が向上すると、必要労働の時間が短縮されるから、労働者は資本に感謝しなければならないと述べられているかと思うと、次のページでは労働者は感謝の気持ちを表明するために、これまでの10時間ではなく、1日に15時間働かなければならないなどと述べられているのである。

資本制的な生産の枠組みでは、労働の生産力の向上は、1労働日のうちで労働者が自分のために働く部分を短縮させ、それによって資本家のために無償で働くことのできる部分を延長することを目的とする。商品が安価にならなくても、この目的をどのようにして実現できるかは、相対的増殖価値を生みだす特別な方法を考察することで明らかになるだろう。次の章ではこの問題を考察することにする。

 

※特別剰余価値

参考として、『資本論』ではまとまって説明されていませんが、ここでも触れられていた特別剰余価値について見ていきたいと思います。

特別剰余価値とは、ある特定の資本にある特定の時期において何らかの特別に有利な条件があることで、その資本に一時的に帰属する特殊な剰余価値のことを言います。したがってそれはあくまでも特定の資本に空間的に限定され、一定の期間に時間的に限定されているのであり、どの個別資本にも普遍的に生じる絶対的剰余価値や相対的剰余価値とは根本的に異なるものです。例えば、ある生産部門内においてある特定の資本のもとで技術革新が生じ、その資本が同じ生産部門内の他の諸資本よりも安い価格でより多くの商品を市場に提供することで発生するといったことです。

・特別剰余価値の発生

例えば、扇風機という商品の生産で考えてみましょう。かりに、規模も生産性もほぼ等しいA、B、C、Dの4つの主要な製造業資本が存在するとし(競争条件の同一性)、この4社が供給する商品の総量、たとえば扇風機の総量は市場が必要とする量と一致しているとします(需給の一致)。そこで、それぞれの資本は市場が必要とする扇風機のそれぞれ4分の1を供給しているとしましょう。需給が一致しているので、価値と価格は一致しており、したがって、それぞれの資本が供給する商品の価値はその価値と一致しています。その平均価格を、計算の便宜を考えて、かりに1万円としましょう。

今、扇風機1個あたりの不変資本の価値を6000円とし、残り4000円が最終製造段階でつけ加えられた価値生産物であるとします。さらに平均的な剰余価値率を100%とすると、この4000円の価値生産物のうち半分の2000円が可変資本となり、残り半分の2000円が剰余価値となります。各企業が1日あたり1000台の扇風機を平均的に生産しているとすると(つまり総計で4000台の扇風機を市場に供給している)、各企業が生産する1日あたりの不変資本価値で、残る400万円が1日あたりの価値生産物、そのうちの半分の200万円が1日あたりの可変資本価値であり、残り200万円が1日あたりの剰余価値が1日あたりの可変資本価値であり、残り200万円が1日あたりの剰余価値だということになります。

生産物価値(1000万円)=不変資本価値(600万円)+価値生産物(400万円)

価値生産物(400万円)=可変資本(200万円)+剰余価値(200万円)

さてここで、4社の中でA社が、何らかの画期的な生産方法を採用することで、単位時間あたりに生産できる扇風機の量を2倍に増やすことができたとしましょう。1日あたり1000台ではなく2000台を生産することができるようになったと。そうすると、1台あたりの不変資本価値の大きさも、個々の労働者の労働強度や労働時間も同じだとすると、労働者が作り出す総価値生産物の量(400万円)は以前と変わらないので、それが1000台ではなく2000台の扇風機に配分されることになります。したがって、1台あたりでの扇風機の個別的価値は1万円から8000円に下がることになります(内訳として、不変資本価値=6000円、価値生産物=2000円)。総生産物価値は8000×2000=1600万円となります。このうち1200万円は不変資本価値であり、200万円が可変資本価値、残る200万円が剰余価値です。このように生産性が上昇しても、これらの個別的価値に含まれる剰余価値の量は以前と何ら変わりません。

一方、他の3社、B、C、Dは引き続き以前と同じ方法を用いているのだから、それぞれが生産する扇風機の個別的価値は引き続き1台1万円であり、それぞれが引き続き1日に1000台を供給し続けています。すなわちその価値総額は3000万円のままです。これにA社の供給分と合わせると、市場に供給される総価値額は4600万円になります(3000万円+1600万円)。ところで、この商品の社会的価値は4つの資本が供給する総商品生産物の価値の平均値で決まります。今、資本Aはこれまでの2倍の商品を供給し、他の諸資本は以前と同じ量の商品を供給しているのだから、その総供給台数は4000台から5000台に遭えました。したがって、扇風機の1台あたりの社会的価値は、4600万円÷5000=9200円ということになります。そして以前よりも800円低いこの9200円という価格でなら、以前は4000台を吸収した市場が、今では5000台を吸収することができる(ここでも需給の一致が前提されるからです)。

さて、A社が自己の商品をこの社会的価値9200円で売り出すならば、A社の1日あたりの総生産物価値は1840万円となれます(9200円×2000)。そのうち不変資本価値は2倍の1200万円で、可変資本価値は引き続き200万円だから、この資本は総計で440万円の剰余価値を獲得する(1840万円-1200万円-200万円)。そのうち、200万円はこれまでと同じく通常の剰余価値ですから、その差額240万円が追加的に獲得された剰余価値、すなわち特別剰余価値ということになるのです。

この特別剰余価値は結局、個別的価値と社会的価値との差額から生じていることが分かります。1台あたりのこの差額は1200円であり(9200円-8000円)、それが2000台販売されるのだから、1200円×2000=240万円です。それが「特別」であるのは、第1に、A社という特定の資本にのみ特別に生じるからであり、第2に、競争条件が不均衡にある特定の時期にのみ生じるからです。

・特別剰余価値をめぐる市場の運動(水平的特別剰余価値)

資本Aが獲得するこの240万円の特別剰余価値は、どのようにすれば生まれるかを考えてみましょう。

資本Aが市場において新しい社会的価値の水準である9200円の価格で自社の商品を売り出したなら、競合する、他の諸資本B、C、Dもそれに追随して同じく9200円で売りに出さざるをえなくなるでしょう。もし引き続き1万円の価格のままで売っていれば、誰もが安いA社製の扇風機を買おうとするからで、競争に負けて市場から駆逐されてしまうからです。

ところが、他の諸資本の生産する諸商品の個別的価値は1万円のままですから、それを9200円で売るとすると、1台あたり800円のマイナスの剰余価値が発生することになります。B、C、Dはそれぞれ1日あたり1000台の扇風機を生産しているわけなので、これらの諸資本においては合計で240万円(800円×3000)のマイナスの剰余価値が生じていることになります。

つまり、生産部門全体に視野を広げるなら、資本Aが入手した240万円の特別剰余価値が失う剰余価値の事実上の移転なのであるから、このような特別剰余価値を水平的剰余価値、あるいはより簡潔に水平的剰余価値と呼びます。それが「水平的」なのは、それが第1に同じ生産部門の他の諸資本との関係で、すなわち水平的なヨコとの関係で生じるからであり、第2にその源泉は事実上、他の諸資本で生じるマイナスの剰余価値だからです。

しかし、B、C、Dの各資本はこのような事態を手をこまねいて見ているわけにはいきません。資本Aが導入したのを同じイノベーションを導入することを余儀なくされる。あるいは、同じ効果を持つ別の生産方法や技術を開発するかもしれません。いずれにせよ、やがて他の諸企業もその個別的価値をA社と同じ水準まで引き下げるに至るか、あるいは、それができない資本はその生産部門から撤退することになるだろうから、結局はその商品の社会的価値は8000円まで下がることになるでしょう。その時点で社会的価値そのものが8000円の水準になるので、資本Aの生産する商品の個別的価値とその商品の社会的価値との格差はなくなり、資本Aが特別に獲得していた臨時の剰余価値、すなわち剰余価値は消滅することに至るでしょう。

こうして、最初の均衡状態へと事態は回帰することになります。しかし、これで終わりではないのです。今度は別の資本が新しい画期的な生産方法や技術を導入するかもしれません。その場合には再び、その別の資本に特別剰余価値が発生し、その特別剰余価値をめぐって競争が生じ、こうして再び均衡状態が成立することで不均衡状態が続くことになるでしょう。

このように資本は絶えず、生産方法や生産手段に何らかの技術革新を引き起こして、商品一個あたりの個別的価値を引き下げることで特別剰余価値を得ようとします。できるだけ多くの剰余価値を得ることが資本の使命であり、その生命原理なのだから、資本は、労働時間をできるだけ延長させようとするのと同じ情熱でもって、技術革新に邁進することになるのです。資本主義社会をそれ以前のすべての経済システムから区別している一つの重大な特徴は、この絶えざる技術革新と、それによる諸商品のたえまない価値下落です。このメカニズムの核心にあるのは、この水平的特別剰余価値を獲得しようとする資本の運動なのです。

・新商品と新生産部門の開拓(部門内特別剰余価値)

同じ製品で生産方法のコストダウンした場合だけでなく、既存の諸商品とは大きく異なる新商品を開発し発売する場合には、部門内でも特別剰余価値は発生することもあります。それを部門内特別剰余価値と呼びます。

新商品は、これまで存在しなかった潜在的な需要に応えるもの、あるいは資本主義によって新たに創出された欲求を満たすものと考えます。資本制的な商品生産はもともと、既存の商品を資本制的な生産様式で生産するか、あるいは商品として供給されていない既存の消費財をより安くより大量に生産することによって、部門内特別剰余価値を獲得しようと激しく競争しあうものです。しかし、そのような価格を引き下げ競争には明らかに限界があるものです。初期の段階では画期的に生産性を引き下げ画期的に商品を安くする技術や機械を導入する余地が十分にあるので、それを先駆的に導入した資本には大規模な特別剰余価値が保障されます。しかし、しだいに生産性水準が上昇するにつれて、そして価格水準が十分下がっていくなら、いっそう生産性を引き上げる余地も小さくなっていきます。市場もしだいに成熟してきて、たとえ価格を下げてもたいして需要は増大しなくなる。これは前の水平的特別剰余価値です。たとえば現在、扇風機を大幅に値下げしたからと言って、扇風機需要がそれに比例して増大するとは考えられない。その一方で、生産性を引き上げて価格を引き下げるために必要な設備投資の額は幾何級数的に増大していくことになります。

したがって、既存部門における部門内特別剰余価値の生産はいずれ行き詰ることになる。そこで資本は、これまで存在しなかったような新商品を次々に開拓し、広告などの手段を通じてそれへの欲求を掻きたて、新しい市場を開拓していこうとするのです。

そこで、新商品の開発と販売を通じて、部門間特別剰余価値が発生するのです。例えば、新商品を開発して発売し、それが一定の需要を喚起したとしましょう。このとき、この新商品の価値は他のすべての諸商品と同じように、その商品を生産するのに必要だった費用と労働によって、したがって過去労働を含む総労働によってきまります。ただし、この商品を開発するのに要した費用と労働はこの商品を生産するのに必要だった費用と労働のうちに入ります。なぜならそのような研究開発なしには新商品を生産することはできなかったからです。

既存の商品では、複雑労働の場合には、生涯労働年数という客観的基準が存在しており、それはそれほど大きく変動しなません。しかし、新商品の場合は、それがどれだけの期間、特別の新商品としての地位を維持ずるのかにかかっていると言えます。新商品を開発した企業は、それにかかった研究開発費をできるだけ短期間で回収します。この新商品に対してはだ競争相手がそもそもいないのだから、その商品の価格を本来の価値水準まで下げる競争圧力は存在しない。一種の独占状態にあるわけです。それゆえ、この企業は、「研究開発費+この商品の直接的な価値」に一定の追加額を足して価格を設定します。そしてこの追加額は、市場の状況などを判断材料にしながらも、かなりの程度、企業の側の主観や思惑に左右される。他の競争相手がまだ登場していないこの黄金期にできるだけたくさん稼ごうとし、できるだけ短期間に研究開発費を回収するだけでなく、それを超えて追加的な剰余価値をも稼ごうとするからです。これもまた一種の特別剰余価値であり、水平的な特別剰余価値であり、水平的な特別剰余価値の一形態と言えます。

この特別剰余価値の源泉は、既存製品の生産のイノベーションのような同じ生産部門内の他の諸資本が失う剰余価値ではないでしょう。その生産部門には内の他の諸資本が失う剰余価値ではない。というのも、その生産部門にはこの資本から存在しないからです。しかし、視点を変えると、何らかの新商品が登場することで、市場のかなりの部分を失う生産部門が他に存在するということです。それはその新商品と、用途や効用などがかなり重なる旧来の商品を生産している生産部門である。例えば、自動車は馬車生産部門を一掃し、エアコンは扇風機生産部門を縮小し、テレビはラジオ生産部門を著しく縮小し、カラーテレビは白黒テレビを一掃し、液晶テレビはブラウン管のテレビを一掃し、クォーツ時計はゼンマイ式時計を大幅に縮小ないし一掃し、CDはレコードとその再生機を一掃し、ネットの映像配信はDVDを縮小し、PHSはポケベル生産部門を、携帯電話はPHS生産部門を、スマートフォンは旧型の携帯電話(ガラケー)生産部門を縮小ないし一掃した。そういう場合です。

このように新商品は、それが広く市場に受け入れられる場合に、その用途と効用の点で重なる旧来の商品を生産している生産部門の諸資本にマイナスの剰余価値を発生させるのであり、こうして、結局、新商品の直接的な価値部分や研究開発費をも上回って生じる追加的な剰余価値は、他の生産部門におけるマイナスの剰余価値によってある程度相殺されるのです。

しかし、このような独占状態はいつまでも続くものでもないでしょう。部門内特別剰余価値の場合と同じように、この新商品が市場で売れるとなれば、他の諸資本もこの部門にこぞって参入してくるだろうからです。後から参加する資本はしかも、先行資本の新商品を参考にすることで、研究開発に費やす費用を大部分節約することができます。他の諸資本もこの新商品を大量に生産し市場に出すことになれば、結局、新商品の価格は、その商品を再生産するのに必要な労働によって規定される本来の価値の大きさへと収斂していくことになります。このようにして、新商品の独占的販売によって稼ぎ出されるこの部門間特別剰余価値もまた消滅していくことになるのです。

しかし、いったんこのような新商品、新生産部門が成立すると、この新しい分野ではまだ生産性上昇の余地、価格引き下げの余地は十分にあるので、今度は部門内特別剰余価値をめぐる競争が激しく展開される。そしてやがて、この新部門では価格引き下げの余地、生産性上昇の余地がなくなってくると、再び新商品、新生産部門の開拓が熱心に追求される。このように、部門内特別剰余価値と部門間特別剰余価値とは相互に交代しあい、相互に補完し合い、相互に促進し合う関係にあるのです。

・垂直的な特別剰余価値

資本主義が最初に既存の労働過程を包摂した時点では、熟練した職人のような複雑労働は、かなり普遍的に存在していました。しかし、資本主義の発展とともに、そして生産過程の機械化によって、この熟練はしだいに解体されていきました。その具体的な様相について、ここで重要なのは、この熟練解体によって複雑労働の価値形成力と複雑労働力の価値に変化が生じることです。

熟練の解体を通じて複雑労働が単純労働化すると、ある生産物を生産するのにあらかじめ複雑労働力を形成しておく必要がなくなります。そこで、複雑労働力に追加される技能価値はしだいに消失し、したがって生産物価値に移転される価値も消失します。この両者は同じ大きさなので、複雑労働が単純労働化することによって、その価値形成力とは同じだけ減少することになります。しかし、熟練を解体して労働力価値を引き下げても、それ自体としては剰余価値を増大させない。増大するのは剰余価値率であって剰余価値量ではないのです。

このように、熟練の解体が一般に生じる場合には、労働力価値も価値構成力も同じだけ下落するので剰余価値は増大しません。しかし、水平的な特別剰余価値の場合のように、このような熟練の解体が、ある特定の資本においてのみ先駆的に生じた場合、一種の特別剰余価値が発生します。これが特別剰余価値の第2形態と言えます。

たとえば何らかの複雑労働を用いて商品を生産しているある生産部門において、他の諸資本がすべて旧来通り熟練労働者を雇用して生産物を生産しているのに、ある特定の資本は先駆的に新しい生産方法や機械を導入することによって、旧来の熟練労働を用いなくても同じ商品を生産することできるようになったとしましょう。たとえ単位時間当たりの生産量が同じでも、この特定の資本においては、熟練が解体し価値形成力が減った分だけ商品の個別的価値は下がっているわけです。しかし、その商品の社会的価値はこの資本が生産する商品の個別的価値だけで決定されるのではなく、いまだに旧来通り複雑労働を用いて商品を生産している他の諸資本の個別的価値との加重平均によって決定されます。したがって、その社会的価値はこの特定の資本の個別的価値よりもずっと高い。しがって、この特定の資本は自己の商品を社会的価値で販売することができなるのであり、その差額は特別剰余価値となるのです。

しかし、この場合に特別剰余価値が発生しているのは、労働力価値が単純労働力の価格水準まで引き下げられているのに、商品の価値がその個別的価値まで下がっていないからです。したがって、ここでの特別剰余価値の本来の源泉は他の諸資本がこうむるマイナスの剰余価値ではなく、自らの支配下にある労働者のこうむる労働力価値の引き下げです。たとえば、商品の価値が以前のままで、他の諸資本にマイナスの剰余価値が発生していなくても、自己の労働者の労働力価値の個別的引き下げによってこの特別剰余価値は発生しており、そこにはこの特別剰余価値は、基本的には資本−賃労働関係という垂直的な関係、すなわちタテとの関係で生じているのであり、それゆえそれを垂直的特別剰余価値、あるいはより簡潔に垂直的剰余価値と呼ぶことができるのです。商品の価値をその個別的価値まで引き下げなくてもよいのは、水平的特別剰余価値の場合と同じく他の諸資本とのヨコの関係のおかげなのですが、この特別剰余価値の源泉そのものの減価なのです。

この特別剰余価値も、他の諸資本が同じように機械などを導入して熟練を解体していけば、やがて商品の社会的価値はその個別的価値まで下がるので消失することになります。この点は水平的な特別剰余価値と同じです。

最初に水平的特別剰余価値を検討した際には熟練の解体の可能性は捨象されて生産力の増大だけが前提され、逆に垂直的特別剰余価値を検討した際には生産力の増大の可能性が捨象されて、熟練の解体だけが前提された。しかし現実の技術革新においては、しばしば生産力の上昇と熟練の解体とが同時に起こるだろうし、その場合、それを先駆的に行った資本には、水平的特別剰余価値と垂直的特別剰余価値とが同時的に発生する。とくに機械が導入された当初は、大量生産が実現されると同時に、熟練労働が大幅に解体されるのだから、この機械を先駆的に導入した資本には、水平的特別剰余価値をと垂直的特別剰余価値の両方を大量に入手することができる。資本は、このように、水平的ないし垂直的な特別剰余価値の獲得を目指して、絶えず技術革新を生産過程に導入して、ますます生産力を増大させ、ますます熟練を解体していくのです。

 

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