マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第7篇 資本の蓄積
第21章 単純再生産
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第7篇 資本の蓄積

〔この篇の概要〕

マルクスは『資本論』全3巻のうち、そのうち第1巻しか自らの手で公刊することができませんでした。その『資本論』第1巻は全7篇から成り、最後の篇は「資本の蓄積過程」と題されています。この第7篇でマルクスは、資本の不断の運動のなかで資本-賃労働関係が再生産され、拡大再生産されてゆく過程を問題とします。

資本として機能する価値量の運動は、一定の貨幣額が市場において生産手段と労働力へ転化する「流通部面」に始まります。運動の第二の局面、すなわち「生産過程」が終了すると、一定量の剰余価値を含んだ商品が生まれますが、この商品がふたたび流通部面に投げこまれなければなりません。商品はいまいちど貨幣となり、その貨幣はあらためて資本へと転化する。この継続的かつ反復的な「循環」が資本の流通をかたちづくるわけです。

資本の蓄積とは、この反復的循環において「剰余価値が資本として充用されること、または剰余価値が資本へと再転化すること」にほかなりません。剰余価値は、実際には、利潤や利子や商業利潤や地代などへと事後的に差異化し、分化することになるけれども、当面は資本の蓄積過程を問題とする場面なので、ここでは論じられていません。これらのすべては剰余価値の「転化形態」であるとはいえ、しばらくは剰余価値のすべては産業資本のもとに止まるものとして、純粋な蓄積過程が抽出されるわけです。

あらゆる社会は消費を停止することができるものではありません。消費はしかも、連続的な過程として起こります。人は今日も渇き、明日も飢えるからです。したがってすべての社会は広義の生産も止めることができず、生産もまた連続的でなければなりません。生産が連続的なものであるかぎりで、いっさいの「社会的生産過程」は「同時に再生産過程」ということになります。そこではまた「生産の諸条件は同時に再生産の諸条件」なのです。

資本は生産−再生産を反復することによって、差異が生まれます。つまり剰余価値もまた生産−再生産されるわけです。反復によって周期的に回帰し、とはいえ増加して回帰する資本価値として剰余価値は、資本の立場からすれば「資本から生じる収入」というかたちを取ることになります。いまこの収入が、資本の人格化である資本家にとって「消費財源」として役だつだけであり、周期的に回帰するものが周期的に立ち去るものにすぎないとすれば、生起するのは「単純再生産」です。すなわち、同規模でおなじ構成で反復的に回帰する再生産であるほかはないのです。

ところがマルクスによれば、この連続的な反復ですら、「あらたないくつかの性格を刻印する」のです。その性格のうち第一に問題とされるものが、いわゆる「領有法則の転回」にほかなりません。市民社会の原則を資本制そのものが蹂躙してゆくのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

資本の流通

ある貨幣量の生産手段と労働力への転化は、資本として機能するべき価値量が通る第一の運動である。この運動は、市場すなわち流通部面で行われる。運動の第二の段階、生産過程は、生産手段が商品に転化されたときに終わり、この商品の価値はその諸成分の価値を越えている。すなわち、最初に前貸しされた資本に剰余価値を加えたものを含んでいる。それからまたこれらの商品は再び流通部面に投げ込まれなければならない。それを売ること、その価値を貨幣に実現すること、その貨幣をあらためて資本に転化させること、そしてそれが絶えず繰り返されることが必要である。このような絶えず同じ継起的諸段階を通る循環は、資本の流通をなしている。

第1巻を締め括る第7節は、「資本の生産過程」が、不断に繰り返される過程として考察され、「資本の生産過程」という考察範囲における「近代社会の経済的諸法則」が総括され、資本主義的生産社会の本質が明らかにされます。第21章が始まる前の、いわば前書きにあたるこの部分で、まず資本の流通に言及します。資本の流通過程の本格的な分析は第2巻の課題ですが、「資本の生産過程」を継続的に進行する過程として考察するには、この過程を媒介する流通過程の存在を無視できないからです。ただし、第7篇の考察の前提として、この流通過程は正常に進行するものとされます。つまり「流通上の困難はない」(価値通りで販売され、過剰生産もない等々)ものとして考察されます。

まず、資本の運動の第一段階は貨幣が生産手段と労働力に転化することです。この段階の運動は市場で、流通の領域で行われます。そして第二段階は生産過程であり、生産手段が商品に転化することです。この商品の価値は、原材料や生産手段といった構成要素の価値の合計より大きくなっています。その差額が剰余価値です。

次に、商品を再び流通の領域、つまり市場に投入しなければなりません。この商品を市場に出して販売して、貨幣を得る、その貨幣を資本に転化し、生産過程を始める。最後にスタート地点にもどってくる。これを繰り返す。この循環こそが、資本の流通を形づくっているのです。

資本として機能すべき価値量が経験する運動の第一段階は、ある量の貨幣が生産手段と労働力に変容することである。この運動は市場において、流通の領域で行われる。この運動の第二段階は生産過程であり、生産手段が商品に変化した瞬間に完結する。この商品の価値は、その構成要素の価値の合計よりも大きくなっており、最初に前払いされた資本に増殖価値を加えた大きさになっている。

次にこの商品をふたたび流通の領域に投入する必要がある。この商品を販売し、その価値を貨幣において実現し、この貨幣を新たに資本に変容させ、こうした同じことを繰り返す必要がある。このようにつねに同じ連続的な段階を経由していくこの循環が、資本の流通を形成するのである。

 

蓄積の条件

蓄積の第一の条件は、資本家が、自分の商品を売ること、また、こうして手に入れた貨幣の大部分を資本に再転化させることをすでに済ませているということである。以下では、資本はその流通過程を正常な仕方で通るということが前提される。この過程のもっと詳しい分析は第2部で行なわれる。

剰余価値を生産する。すなわち不払運動を直接に労働者から汲み出して商品に固定する資本家は、その剰余価値の最初の取得者ではあるが、けっしてその最後の所有者ではない。彼は、あとで、社会的生産全体のなかで他の諸機能を果たす資本家たちや土地所有者などと分けなければならない。したがって、剰余価値はいろいろな部分に分かれる。剰余価値の断片は、いろいろな部類の人々の手にはいって、利潤や利子や商業利得や地代などという種々の互いに独立な形態を受け取る。これらの剰余価値の転化形態は、第3部ではじめて取り扱われうるものである。

だから、ここではわれわれは、一方では、商品を生産する資本家は商品をその価値どおりに販売するものと想定し、それ以上に彼の商品市場への復帰には立ち入らないことにし、流通部面で資本に付着する新たな諸形態にも、これらの諸形態に包まれている再生産の具体的な諸条件にも、立ち入らないことにする。他方では、われわれにとっては、資本家的生産者は全剰余価値の所有者とみなされる。または、別な言い方をすれば、彼と獲物を分け合う仲間全体の代表者とみなされる。つまり、われわれは最初はまず蓄積を抽象的に、すなわち単に直接的生産過程の一契機として、考察するのである。

ここで「蓄積の第一条件は…」と、いきなり「蓄積」という言葉が登場します。資本の蓄積の第一の条件は資本家が商品を販売して得た貨幣の大部分を再び資本に転化させることをすでにやっているということです。つまり、その転化した資本で再び商品を生産できるということです。

資本家は剰余価値を生み、労働者から不払労働を吸い上げて、商品を生産しました。資本家は剰余価値の最初の取得者ですが、最終的な所有者ではありません。資本家は、社会的な生産全体のなかで、他の機能を果たしている資本家(例えば資本家と分業している資本家)や地主などとも剰余価値を分け合っている。したがって、剰余価値は様々に分割され、そうした剰余価値は様々な人々の手に入ることになります。それらは利潤、利子、商業利益、地代などといった様々な形態に変容します。

そして、ここでの分析の前提と条件を提示します。それは次のようなことです

・商品を生産した資本家は商品をその価値どおりで販売するものと想定する

・商品市場に資本家が再び戻ってくるところまでは扱わない

・流通の領域での資本の新たな形態について、その形態に隠されている再生産の具体的な条件については扱わない

資本の一般定式G−W−G´はその一回の循環で剰余価値が生まれます。しかし、生産過程は一回だけで終わりというものではありません。繰り返し行われなければ、資本家は資本家であり続けることができません。したがって、繰り返し労働力と生産手段を買って、生産を継続する循環が資本の再生産となります。

それについて分析するためには、いくつかの前置きが必要です。

まず、資本家が剰余価値を得ても、実はそのすべてが自分の物になるわけではないということです。たとえば商品を売るために商業資本が独立し、そこに一部が分配され。あるいは銀行資本があり、そこから資金を借りていれば、利子の支払いが発生する。あるいは工場の土地が借地なら、地主にもその一部が分配される。というようなことです。剰余価値は、利潤、商業利潤、利子、地代などのようないろいろな形態に分かれるので、ここで得られた剰余価値を、産業資本が全部消費したり生産へ再投資するわけにはいかないのですが、その点については、ここでは度外視するのです。

また、資本家は商品を価値どおりに売ることとするということです。実際には商品の価格、競争の結果、費用価格+平均利潤という市場価格に転化していくものですが、それも度外視します。そのような現実の資本主義の現象面から抽出することによって、商品は価値どおりに売られ、すべての剰余価値は産業資本家が受け取るという前提で、再生産の問題を考えていくわけです。事態を複雑にしている現象面から抽象し、剰余価値が生産される場での、剰余価値の最初の取得者である資本家と、剰余価値の生産者である産業労働者の、もっとも根源的な関係として資本の蓄積過程を見ていくためです。

資本の蓄積の第一の条件は、資本家がその商品を販売し、それによって獲得した貨幣の大部分を、ふたたび資本に変容させることに成功していることである。以下では、資本がその流通過程を正常に通過していくことを前提とする。この過程の詳細な分析は、第2巻で行う。

資本家は増殖価値を生産し、労働者から不払運動を直接に吸いあげて、商品に固定したのであり、この増殖価値の最初の取得者ではあるが、最終的な所有者ではない。資本家は後に、社会的な生産の全体のうちでほかの機能をはたしている資本家や、地主たちなどとも、この増殖価値を分け合わねばならない。だから増殖価値はさまざまな部分に分割される。分割された増殖価値の一部は、さまざまなカテゴリーの人々の懐に入り、利潤、利子、商業利益、地代など、たがいに独立したさまざまな形態をとる。増殖価値のこれらの変容形態は、第3巻にいって初めて検討できるようになる。

ここではまず、商品を生産した資本家は、商品をその価値どおりで販売するものと想定する。そして商品市場に資本家がふたたび戻ってくるところまでは扱わない。また流通の領域で資本がおびる新たな形態についても、その形態に隠されている再生産の具体的な条件についても扱わない。

他方でわたしたちは、資本制的な生産者[である資本家]を、すべての増殖価値の所有者とみなす。増殖価値を分け合うすべての人々の代表とみなすと言ってもよいだろう。最初は蓄積を抽象的に、すなわち直接の生産過程の一つの要因として考察するのである。

 

蓄積過程の意味

なおまた、蓄積が行われるかぎり、資本家は、生産した商品の販売に、またそれによって得た貨幣を資本に再転化させることに、成功しているわけである。さらに、剰余価値がいろいろな部分に分かれるということは、剰余価値の性質を変えるものでもなければ、剰余価値が蓄積の要素になるために必要な諸条件を変えるものでもない。資本家的生産者が剰余価値のどれだけの割合を自分の手に確保し、どれだけの割合を他人に引き渡すにしても、とにかく彼はいつでも第一番に取得するのである。それゆえ、われわれが蓄積の説明で想定することは、蓄積の現実の過程でも前提されているのである。他方、剰余価値の分割と流通が媒介運動とは、蓄積過程の単純な基本形態を不明瞭にする。だから、蓄積過程を純粋な分析のためには、蓄積過程の機構の内的な営みをおおい隠すいっさいの現象をしばらく無視することが必要なのである。

蓄積が行われるということの意味は、資本家が生産した商品を販売し、それによって得ることのできた貨幣を再び資本に転化することに成功しているということです。また、剰余価値を様々に分割しても、それによって剰余価値の性質が変わらないし、剰余価値が蓄積の要因になるための条件が変わることもないということです。

これらの想定は、現実のプロセスでも想定されていることで、流通過程を分析するために、そのメカニズム内の動きを覆い隠そうとする現象を無視することになる。

ちなみに、蓄積が行われるということは、資本家が生産した商品を販売し、販売によってえられた貨幣をふたたび資本に変容することに成功しているということである。また増殖価値をさまざまな部分に分割しても、それによって増殖価値の性質が変わることはないし、増殖価値が蓄積の要因になるために必要な条件が変わることもない。生産者である資本家がどれだけの比率の増殖価値を自分のものとするか、それとも他人に譲るかは別として、資本家が増殖価値を最初に取得することに変わりはない。つまりわたしたちが蓄積について説明する際に想定していることは、現実のプロセスにおいても想定されていることなのである。他方で増殖価値が分割され、流通が媒介的な働きをするために、蓄積過程の単純な基本形態があいまいなものになってしまう。だから流通過程を純粋に分析するためには、流通過程のメカニズムの内的な動きを覆い隠してしまうすべての現象を、当面のところは無視する必要がある。

 

 

第21章 単純再生産

〔この章の概要〕

再生産を行うのはなにも資本に限ったものでありません。古代・中世の農業を考えてみても、収穫された稲や小麦を全部食べてしまったら、翌年蒔く種がなくなってしまいます。だから、収穫のうち何割かは翌年蒔くために保管し、そうでない部分だけが消費されることになります。あるいはそれも全部消費されずに翌年蒔く種を増やせば、収穫が増える拡大再生になります。こういうことは農業が始まった当初から、社会的形態を問わず必ず行われていたことです。牧畜の同じようなものです。た狩猟や漁労でも、また手工業でも、もちろん毎年再生産が行われてきました。

そのことを前提として、資本主義的再生産が行われます。最初にGを投資して、価値増殖してG+凾fになります。1生産サイクルを1年とすれば、毎年凾fが資本家の手元に残ることになります。1万ポンドの資本投下が、2000ポンドの剰余価値をもたらすとして、毎年木の実がなるように、毎年2000ポンドが周期的な果実として、資本にとっての収入になります。毎年生産が繰り返されるたびに、資本は収入を生むのです。この収入が、資本家にとっては毎年使ってよい消費の財源となります。剰余価値が全部個人的に消費されてしまうと、前年と同額の資本での生産が繰り返されて、単純再生産になります。

一方、労働者が受け取る賃金は、労働時間や出来高に応じた「労働の価格」として支払われます。そのため、資本家の取り分としての収入と同様に、労働者の取り分として賃金が支払われるように見えます、これらは所得として区別がないとするのが俗流経済学であり、今の近代経済学です。

人間社会の存続のためには生産・再生産が必要であり、資本主義ではそれが資本家のもとで働く労働者の社会的分業によって行われています。その生産物はいったんすべて資本家のものとなります。自分が作ったからといって労働者が勝手に持ち帰ることは許されません。その代わりに労働者は資本家から賃金を受け取り、それで自らが参加した社会的生産物の一部を資本家から買い戻していることになります。つまり、労働者が生産した生産物の一部分が、相当する貨幣形態で支払われるのが賃金であり、それで生活手段を買うことで、労働者は自分たち自身の生産物を資本家階級から取り返すのです。貨幣は、その購買手段の段階を演じていると言えます。労働者が剰余労働時間につくり、それをタダ取りした資本家の収入、あるいはそれが分配された利潤・配当、利子、地代とはまったく性格が異なるものです。

しかも、単純再生産は同じ生産過程の反復であるにもかかわらず、今までは見えなかったことが見えてきます。1万ポンドの資本投下に対する収入の2000ポンドは、最初の1万ポンドとは関係なく、毎年新たに生まれた2000ポンドを消費しているにすぎない、と資本家は考えるかもしれませんが、それが5年繰り返されると、資本家が手に入れた収入は累計1万ポンドに達します。つまりり、5年経てば最初の1万ポンドは回収が終わったことになります。資本家は、自分は元手にはまったく手をつけずに収入の分だけを使ったというでしょう。しかしそれでも、最初に投資された1万ポンドは、収入と同じ額になってしまう。ということは、再び投資される1万ポンドはすべて剰余価値に、すなわち他人の不払労働の対化物に置き換わったとみなすこともできます。元手である資本は、たとえ5年ではなくても、何年か再生産を繰り返せばすべて不払労働による剰余価値に置き換わっていることが、単純再生産場合でも見えてくる一つの大きな変化なのです。

ところで、単純再生産によって資本家が毎年収入を得ていたのに対し、労働者の側は生産過程が終わったときに入ったままの姿ででてきます。1回の生産過程が終わったあと、労働者は労働力を売った対価として労働力価値である賃金を得ますが、賃金というのは生活手段だから、再生産のスタート地点に戻ったとき、最初と同じ労働者の姿に戻っているだけです。労働力は再生産されましたが、それだけです。働かなくてもよくなっていたら、労働者は再び労働力の売り手として市場には現われないでしょう。労働者を労働者として再生産することが、資本主義的生産の条件となっています。そこで、労働者の行う個人的消費を、生産過程の付随事とすることを強いられることもあります。労働者がきちんと食事時間を与えられないで、労働をしながら食事をかきこむというような状況です。こうなると、彼の個人的な労働力再生産すら、燃料が切れた蒸気機関に石炭をくべるのと変わらないことになります。

もっと大きく階級関係としてみたら、資本家階級と労働者階級という全体と見ると、それがむしろ本質であることがはっきりします。つまり、労働者に食事休憩をきちんと与えないことは、法律に違反し、悪徳資本のやっていることにすぎません。しかし、労働者階級と資本家階級という階級全体でみると、労働者の個人的消費も資本の再生産の一要因となっていて、それは車を引く牛や馬が、自らの楽しみとして餌を食べて力を取り戻すことが、実は飼い主の利益になるのと全く同じことだ、とマルクスは指摘します。それを資本家は労働者の本能に任せておくことで達成できるのです。個人的生活の部面も含めて、階級関係として、労働者階級は資本家階級に見えない糸によってつながれているのです。外観は独立して個人と個人の存在に見えたのが、労働者は生活手段を使い尽くして再生産された労働力を、また売って自らの生活手段をつくらざるをえず、そしてそれをまた賃金で買い戻して使い尽くす、それを繰り返して労働者階級は存在しています。一回だけの生産過程だけでははっきり見えないことが、再生産へと視野を広げることによって見えてくるのです。

資本主義的生産過程は、資本を再生産すると同時に、労働者をも再生産し、それを永久化しています。そうだとすれば、貨幣を持つ労働者が市場で出会い、そこで労働力商品の売買が成立して、資本主義的な生産が可能になるという話は、もはや偶然の出会いではなかったことになります。資本主義的再生産は、一方に収入を得る資本家を再生産し、他方に生活手段を消費してしまう労働者を再生産し続けていたのです。労働者は、労働力をまた売るしかない状態で再生産され、市場でまた労働力を売らざるを得ない。生産過程に向かう自由・平等なはずの資本家と労働者の相貌が、何か違ったものになっています。資本家は先頭を進み、労働者はその後ろを打ちのめされて従っていました。労働者は自らの自由な行為者ではなかったということ、彼の労働力を売ることが彼の自由であるという時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間でもあるということが明らかになりました。資本家と労働者は、流通過程をみるかぎりでは対等な商品所有者同士の関係にみえましたが、そうではなく、形式的な自由・平等と実質は違っていた。資本主義的生産過程そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を生産し、再生産と続けるものでした。

 

〔本分とその読み(解説)〕

再生産の条件

生産過程は、その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく、連続的でなければならない。言い換えれば、周期的にたえず繰り返し同じ諸段階を通らなければならない。社会は、消費をやめることができないように、生産をやめることもできない。それゆえ、どの社会的生産過程も、それを一つの恒常的な関連のなかで、またその更新の不断の流れのなかで見るならば、同時に、再生産過程なのである。

生産の諸条件は同時に再生産の諸条件である。どんな社会も、その生産物の一部分を絶えず生産手段に、または新たな生産の諸要素に再転化させることなしには、絶えず生産することは、すなわち再生産することは、できない。他の事情が変わらないかぎり、社会がその富を同じ規模で再生産または維持するためには、たとえば1年というような期間に消費された生産手段、すなわち労働手段や原料や補助材料を同量の新品によって現物で補填するよりほかはないのであって、それだけの量は年間生産物量から分離されて再び生産過程に合体されるのである。だから、年間の生産物の一定量は生産のためのものである。それは、もとから生産的消費に向けられていて、その大部分は、おのずから個人的消費を排除するような現物形態で存在するのである。

生産過程というのは、1度商品を生産して剰余価値を得てお終いというのではなく、周期的に生産を繰り返していくものでなければなりません。社会には商品を消費する人があとからあとから出てきます。その人たちの要求に応えるたにも、生産を止めてしまうことなしに、続けて行かなければならない。したがって、社会的な生産過程は、繰り返して行われることから、再生産の過程でもあるのです。

だから、生産の条件は再生産の条件でもあります。生産を続け再生産をするためには、その生産物の一部を、絶えず生産手段や新たな生産要素に転化させなければなりません。他の事情が同じなら、その社会で富を同じ規模で再生産し、維持することができるためには、生産のために消費した生産手段つまり労働手段、原料、補助材料等を、再生産のために同量を新たに補給しなければなりません。年間の生産物のうちの一部は、次の再生産のためのものとなります。これは最初から生産のための消費に当てられるように予定され、消費者の個人的な消費の対象とならないようにされているものです。

生産過程の社会的な形態がどのようなものであれ、生産過程は連続的なものでなければならず、同一の段階を周期的に、たえず繰り返して歩まねばならない。ある社会が消費しなくなることができないように、生産をやめることもできない。だから恒常的な連関関係とたえまない更新の歩みのうちでは、すべての社会的な生産過程は同時に、再生産の過程でもある。

生産の条件は同時に再生産の条件でもある。いかなる社会も、生産をつづけ、再生産するためには、その生産物の一部をたえず生産手段に、あるいは新たな生産の要素に変容させなければならない。他の事情が同一であれば、ある社会がみずからの富を同じ規模で再生産し、維持することができるためには、たとえば1年間で消費した生産手段を、すなわち労働手段、原料、補助材料などを、同量の新たな現物で補給しなければならない。この補給された生産手段は、1年間の生産量から分離されて、ふたたび生産過程にとりこまれていく。年間の生産物のうちの一定の部分は、生産のためのものである。これは最初から生産的な消費に向けられたものであり、その多くは個人的な消費の対象とならないような現物の形態で存在している。

 

定期収入の発生

もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである。資本主義的生産様式では労働過程はただ価値増殖過程の一手段として現われるだけであるが、同様に再生産もただ前貸価値を資本として、すなわち自己増殖として再生産するための一手段として現われるだけである。資本家という経済的扮装が或る人に固着しているのは、ただ彼の貨幣が絶えず資本として機能しているということだけによるのである。たとえば100ポンドの前貸貨幣額が今年資本に転化して20ポンドの剰余価値を生むとすれば、それは来年も、それから先も同じ働きを繰り返さなければならない。資本価値の周期的増加分、または過程進行中の資本の周期的果実としては、剰余価値は資本から生ずる収入という形態を受け取る。

生産が資本主義的な形態のものであれば、再生産もそうです。資本主義的な生産様式では、労働過程はただ価値増殖過程のひとつの手段として現われるだけですが、同じように再生産の場合でも労働過程は前払いされた価値を資本として再生産するためのひとつの手段として現われます。

ある人が資本家と見られるのは、彼の有する貨幣がたえず資本として機能するからです。たとえば、彼の100ポンドの貨幣が、今年は資本に転化して20ポンドの剰余価値を生みだしたとすると、次の年も同じことを繰り返さなければならない。剰余価値は、資本の周期的な価値の増加分として、あるいは活動する資本がもたらす定期的な収穫として、資本によって発生する定期収入の形態をとるのです。

資本の再生産過程そのものを分析するためには、追加条件たる剰余価値の再投資という要件を捨象して、再生産過程を単純再生産として分析するのが分かりやすいので、単純再生産は拡大再生産を分析するための理論的前提となります。

しかし、単純再生産というのは、同じ規模での再生産の繰り返しですから、無限に自己増殖していく価値の運動体としての資本の原理からは明らかに逸脱しているといえます。とはいえ、現実の資本の運動においてはこのような単純再生産の局面はいくらでも見られます。例えば、生産規模を実際に拡大するためには、一定の比例的割合で労働者を集団的に雇用したり、新たな固定資本を購入したりしなければなりませんが、そのためにはそれを可能とするような額になるまで剰余価値を貨幣形態で蓄積しなければなりません。その間、資本は単純再生産の過程を経ることになります。また、さまざまな外的事情のせいで、剰余価値が獲得できなかったり、あるいはそれが流通過程で十分に実現できないかもしれない。あるいは、そうした場合も、資本は結果的に、単純再生産を経ることになるわけです。したがって、全体として拡大再生産が進行するという想定にあってすら、単純再生産の局面がしばしば現われることは必然的なのです。

また、どんな事情で単純再生産が生じるのであれ、少なくとも同じ規模で再生産ができているかぎり、資本はその運動を永続的に持続させることができるのだから、この単純再生産は資本の運動そのものの前提条件であると言うことができます。したがって、単純再生産は拡大再生産を分析するための理論的前提であるだけでなく、拡大再生産が実際に生じうるための現実的前提でもある。

生産が資本制的な形態のものであれば、再生産も資本制的な形態をとる。資本制的な生産様式では、労働過程は価値増殖過程のうちの一つの手段としてだけ現れる。同じように再生産も、前払いされた価値を資本として再生産するため、すなわち自己増殖する価値として再生産するための一つの手段としてだけ現れる。

ある人間に資本家という経済的な仮面がはりつくのは、彼の貨幣がたえず資本として機能するからである。たとえば前払いされた100ポンドの貨幣が今年、資本に変容して20ポンドの増殖価値を生みだしたとすると、次の年も、同じ作業を反復しなければならない。増殖価値は、資本の価値の定期的な増分として、あるいは活動する資本がもたらす定期的な収穫として、資本によって発生する定期収入の形態をとるのである。

 

単純再生産

もしこの収入が資本家にとってただ消費財源として役だつだけならば、言い換えれば、周期的に得られただけが周期的に消費されるならば、他の事情が変わらないかぎり、単純再生産が行われる。この単純再生産は、同じ規模での生産過程の単なる繰り返しであるとはいえ、この単なる繰り返しまたは連続がこの過程にいくつかの新しい性格を押印するのである。または、むしろ、それを単なる個別的な過程のように見せる外観上の性格を解消させるのである。

生産過程は、一定時間を限っての労働力の買い入れによって準備され、そして、この準備は、労働の販売期限が到来し、したがって一定の生産期間、たとえば週や月などが終わるごとに、絶えず更新される。しかし、労働者は、彼の労働力が働いてそれ自身の価値をも剰余価値をも商品に実現してから、はじめて支払いを受ける。つまり、彼は、われわれがしばらくはただ資本家の消費財源としか見ない剰余価値を生産するのと同様に、自身への支払の財源である可変資本も、それが労賃の形で彼の手に還流してくる前に生産しているのであり、しかも彼は絶えずこの財源を再生産するかぎりでのみ使用されるのである。それだからこそ、第16章の2に示したような経済学者たちの定式、すなわち賃金を生産物そのものの分けまえとして示す定式が生じたのである。労働者自身によって絶えず再生産する生産物の一部分、それが労賃の形で絶えず労働者の手に還流するのである。資本家は労働者に商品価値を、もちろん貨幣で支払う。だが、この貨幣はただ労働生産物の転化した形態でしかない。労働者が生産手段の一部分を生産物に転化させているあいだに、彼の以前の生産物の一部分は貨幣に再転化する。先週とか過去半年間とかの彼の労働によって彼の今日の労働とか次の半年間の労働とかが支払を受けるのである。貨幣形態が生みだす幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形態で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に返し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家から引き取る。生産物の商品形態と商品の貨幣形態とがこの取引を変装させるのである。

資本家がこの定期収入を、単に消費に使い切ってしまえば、すなわち周期的に獲得した収入金額をそのまま同じ額を(一部を生産手段にあてることなしに)消費してしまうならば、それは単純総生産と呼ばれます。単純再生産とは生産過程が同じ規模で反復されることで、この単なる繰り返しまたは連続がこの過程にいくつかの新しい性格を押印する。

まずは、資本のうち賃金として前払いされる部分である可変資本から検討されます。生産過程は労働力の購入から始まり、労働の販売期間が切れるごとに再び開始されます。労働者は、自らの労働によって労働力の価値も剰余価値をも商品に実現してから労賃を受け取るのですから、労賃とは労働者自身の労働が対象化された生産物の一部分だということになり、資本家の支払財源である可変資本も、その都度労働者によって再生産されているのです。資本家階級と労働者階級との関係、絶えず繰り返される再生産過程の中で考察すれば、可変資本は、実際にはそれ以前に労働者自身が生み出したものであることがわかります。可変資本が、労働者によって再生産されたものでなく、資本家の持つ元本であるかに見えるのは、生産物が商品形態をとり、商品が売られて貨幣形態とるからにすぎないのです。

ということで、生産過程は、特定の期限に区切って労働力を買い入れるところから始まります。労働力の買い入れ期間が満了し、それと同時に1週間とか1ヶ月といった一定の生産期間が満了したところで、次の一定期間の生産過程が始まる。しかし、労働者への支払は、その労働力がすでに働いて商品として実現した後で、はじめて行われます。だから、労働者は資本家の消費の原資となる剰余価値だけでなく、自身である労働者への支払の原資である可変資本をも、それが労働賃金として自身に支払われる前に、すでに生産しているのです。しかも彼は絶えずこの財源を再生産するかぎりでのみ使用されます。労働者に労働賃金という形でたえず労働者自身が再生産する生産物が戻ってくるのです。資本家は労働者に、その労働力という商品価値を貨幣で支払います。しかし、この貨幣は労働生産物の転化した形態でしかありません。労働者が生産手段の一部を生産物に転化させているあいだに、彼の以前に生産した生産物の一部が貨幣に再転化するのです。労働者の今週やこの半年の労働は、彼の先週や以前の半年の労働によって支払われます。

貨幣形態が生みだす幻想は、個々の資本家や労働者ではなく、資本家階級と労働者階級を観察すれば、消滅するものです。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する約束手形を、たえず貨幣形態で与える。労働者はこの手形を同様にたえず資本家階級に返還し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家から引き取る。生産物の商品形態と、商品の貨幣形態が、この取引を覆い隠しているのです。

資本家がもしもこの定期収入を、消費のための資金として使用するならば、すなわち周期的に獲得した金額だけを周期的に消費するならば、他の事情が同じであるかぎり、単純再生産が成立する。単純再生産とは、生産過程が同じ規模で反復されることであるが、それでもこの過程がたんなる個別の事象であるかのような見かけが失われるのである。

生産過程は、特定の期限をかぎって労働力を購入することから始まる。労働力の購入期限が満了し、それとともに週や月などの一定の生産期間が満了したところで、ふたたびあらたな生産過程が始まる。しかし労働者にたいする支払いは、その労働力がすでに働いて、みずからの価値と増殖価値を商品のうちに実現した後になって初めて行われる。だから労働者は、わたしたちが資本家の消費のための原資とみなした増殖価値を作りだしただけではなく、自分自身への支払いの原資、すなわち可変資本も、それが労働賃金として彼にもどってくる前に、すでに生産しているのである。労働者は、彼がこの原資をたえず再生産するかぎりで雇用される。だからこそ16章の2の[古典派の]経済学の定式2、すなわち賃金を生産物そのものの分け前とみなす定式が生まれてくるのである。

労働者に労働賃金の形態でたえず戻ってくるのは、労働者自身がたえず再生産する生産物の一部なのである。資本家はたしかに労働者にその商品価値を貨幣で支払う。しかしこの貨幣は、労働生産物が変容した形態にすぎない。労働者が生産手段の一部を生産物に変容させているあいだに、それ以前に彼が生産した生産物の一部が貨幣にふたたび変容する。労働者の今日の労働あるいは次の半年間の労働は、彼の先週の労働、あるいは過去半年間の労働によって支払われている。

貨幣形態が生みだす幻想は、個々の資本家や労働者ではなく、資本家階級と労働者階級を観察すればただちに消滅する。労働者階級が生産物を作りだし、資本家階級がこれをうけとり、労働者階級がその一部をうけとるべき生産物の支払いを約束した手形を、労働者階級に貨幣の形態で与える。労働者はこの手形を同じようにたえず資本家階級に返還し、自分の生産物のうちで自分に属する部分を引き取る。生産物の商品の形態と、商品の貨幣の形態が、この取引を覆い隠しているのである。

 

労働の原資

こういうわけで、可変資本は、ただ、労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要とし社会的生産のどんな体制のもとでもつねに自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源または労働財源の一つの特殊な歴史的現象形態でしかないのである。労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼の手に流れてくるのは、ただ、彼自身の生産物が絶えず資本という形で彼から遠ざかるからでしかない。だが、このような労働財源の現象形態は、労働者の彼自身の対象化された労働が資本家によって前貸しされるのだということを少しも変えるものではない。夫役農民をとって見よう。彼は、たとえば週に3日は自分の生産手段を用いて自分の畑で労働する。週の残りの3日は彼は領主の農地で夫役を果たす。彼は彼自身の労働財源を絶えず再生産するが、この財源は、けっして、彼にたいして、第三者が彼の労働に前貸しする支払手段という形はとらない。その代わりに、彼の支払われない強制労働もまたけっして自発的な支払われる労働の形態をとらない。この夫役農民の畑や役畜や種子、要するに彼の生産手段を、明日にも領主が自分のものにしてしまえば、以後は農民は自分の労働力を夫役領主に売らなければならなくなる。他の事情が変わらなければ、相変わらず彼は週に6日、すなわち3日は自分自身のために、3日は今では雇い主になっている元の夫役領主のために、労働するであろう。相変わらず彼は生産手段を生産手段として消費しその価値を生産物に移すのであろう。相変わらず生産物の一定部分は再生産にはいって行くであろう。しかし、夫役が賃労働という形をとるように、相変わらず夫役農民によって生産される労働財源も、元の夫役領主によって彼に前貸しされる資本という形をとる。ブルジョワ経済学者の狭小な頭脳は、現象形態を、それに包まれて現われるものと区別することができないので、彼は、今日でもまだ労働財源は地球上でただ例外的に資本という形で現われるだけだという事実にたいしては目を閉じているのである。

こうして可変資本は、労働者が自己保存と再生産のために必要とし、つねに自ら生産、再生産しなければならない生活手段財源や労働財源のひとつの特殊な歴史的な現象形態でしかないのです。労働の財源は、労働への支払い手段という形で労働者のもとにきますが、それは労働者自身の生産物が資本という形で、たえず労働者のもとから離れて行くからです。しかし労働の財源がこのような形で現われるからといって、労働者自身の対象化された労働が、資本家から労働者に前払いされるという事実が変わるわけではありません。

例えば、中世の賦役農民の場合、彼は週に3日は自分自身の生産手段を使って自身の畑で労働し、残りの3日は領主の農地で賦役労働をする。この農民は自身の労働財源をたえず再生産しています。しかし、この財源は、第三者が彼の労働に対して前払いした支払手段という形で彼の手に入るわけではありません。その代わりに強制的に行われる不払労働、つり賦役が、自発的に行われる支払労働となることはありません。ところが、翌日から領主が賦役労働の畑、役畜、種子などの生産手段を自分のものとして取得してしまったら、賦役農民は労働者のように自身の労働力を領主に売るほかはなくなってしまいます。他の事情が変わらなければ、農民は週に6日、うち3日は自分自身のために、3日は雇用主となった領主のために働くことになります。あい変らず、彼は生産手段を生産手段として消費して、その価値を生産物に移し、生産物の一定部分を再生産に回す。しかし、かつての賦役労働が今では賃金労働の形態をとるようになったので、彼が生産、再生産する労働の財源は、領主が前払いする資本の形態に変化します。このようにマルクスは、生産物が商品の形態をとらず、生活手段財源が労賃の形態をとらない封建時代を例にして、労働者の生活手段財源も自らの労働が対象化された生産物の一部分であるという、人類社会を貫く普遍的な関係を説いています。

このように可変資本は、生活手段の原資あるいは労働の原資の特別な歴史的な現象形態であり、労働者はこれを自己保存と再生産のために必要とする。どのような社会的な生産システムのもとでも、労働者はこれをつねにみずから生産し、再生産しなければならない。労働の原資は、労働にたいする支払手段という形でつねに労働者のもとに流入するが、それは労働者自身の生産物が、たえず資本という形で、労働者のもとから離れていくからである。しかし労働の原資がこのような現象形態をとるからといって、労働者自身の対象化された労働が、資本家から労働者に前払いされるという事実が変わるわけではない。

ここで賦役農民の例を考えてみよう。彼はたとえば週に3日、自分自身の生産手段を使って、自分の畑で労働し、週の残りの3日は、領主の農地で賦役労働をするとしよう。この農民は自分の労働の原資をたえず再生産している。しかしこの労働の原資は、第三者が彼の労働にたいして前払いした支払手段という形態をとることはない。その代わりに、強制的に行われる彼の不払労働が、自発的に行われる支払労働という形態をとることもない。

ところが明日にでも領主が、賦役労働の畑、役畜、種子など、要するに彼の生産手段を自分のものとして取得してしまったならばどうなるだろうか。その場合には賦役農民は、これからは彼の労働力を領主に売らなければならなくなる。他の事情が同じなら、彼はやはり週に6日だけ働くだろう。3日は自分自身のため、残りの3日は今では雇用主となった領主のために働くだろう。前と同じように生産手段を生産手段として消費して、その価値を生産物に移転するだろう。あいかわらず生産物の一定の部分は再生産に回されるだろう。しかしかつての賦役労働が今では賃金労働の形態をとるようになったのと同じように、賦役農民があいかわらず生産し、再生産する労働の原資は、今では領主が前払いした資本の形態をとることになる。

ブルジョワ経済学者は脳が足りないので、現象形態とそのなかに現われているものを区別できない。そして現在でもなお、労働の原資が資本の形態をとるのは世界でもまだ例外的であることを見逃してしまうのである。

 

単純再生産

たしかに、可変資本が資本家自身の財源から前貸しされる価値という意味を失うのは、ただ、われわれが資本主義的生産過程をその更新の不断の流れのなかで考察する場合だけのことである。とはいえ、この過程には、どこかに、いつか、その始まりがなければならない。だから、われわれのこれまでの立場から見れば、資本家はいつかあるとき他人の不払労働にはよらないなんらかの本源的蓄積によって貨幣所持者となり、したがって労働力の買い手として市場を歩くことができたのだということが、いかにもありそうなことに思われるのである。だが、それはとにかく、資本主義的生産過程の単なる連続、すなわち単純再生産は、まだそのほかにも、ただ可変資本部分だけではなく総資本をもとらえる奇妙な変化を引き起こすのである。

1000ポンドの資本で周期的に生産される剰余価値、たとえば毎年生産される剰余価値が200ポンドであって、この剰余価値が毎年消費されるとすれば、この過程が5年繰り返されたあとでは消費された剰余価値の総額は5×200だということ、言い換えれば、最初に前貸しされた資本価値1000ポンドに等しいということは、明らかである。もし1年間の剰余価値の一部分だけ、たとえば半分だけが消費されるとすれば、生産過程が10年繰り返された後に同じ結果が生ずるであろう。というのは、10×100=1000だからである。一般的に言えば、前貸資本価値を毎年消費される剰余価値で割れば、最初の前貸資本が資本家によって食い尽くされて消えてなくなるまでに経過する年数または再生産周期の数が出てくる。資本家が、自分は他人の不払労働の産物である剰余価値を消費して最初の資本価値を保持しているのだと考えても、その考え方によって事実を変えることは絶対にできない。ある年数が過ぎたあとでは、彼が取得した資本価値は同じ年数のあいだに等価なしで取得した剰余価値の総額に等しく、彼が消費した価値額は最初の資本価値に等しい。たしかに、彼は、大きさの変わっていない資本を自分の手に保持しており、その一部である建物や機械などは、彼が事業を始めたときからすでに存在していたものである。だが、ここで問題なのは、資本の価値であって、資本の物質的成分ではない。ある人が、自分の財産の価値に匹敵する借金をすることによって、全財産を使い果たすとすれば、まさにこの全財産はただ彼の借金の総額を現わしているだけである。資本家が自分の前貸資本の等価を食い尽くし場合も同じことで、この資本の価値はもはやただ彼が無償で取得した剰余価値の総額を代表しているだけである。彼の元の資本の価値はもはやひとかけらも存在しないのである。

だから、およそ蓄積というものを無視しても、生産過程の単なる連続でも、すなわち単純再生産でも、長短の期間の後には、どの資本をも必然的に蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化させるのである。資本そのものが生産過程にはいったときにはその充用者が自分で働いて得た財産だったとしても、遅かれ早かれ、それは、等価なしで取得された価値、または貨幣形態にあろうとなかろうと、他人の不払労働の物質化になるのである。

可変資本が資本家自身の財源から前払いされた価値という意味を失うのは、ただ、われわれが資本主義的生産過程をその更新の不断の流れのなかで考察する場合だけのことです。資本家は、ある時点で他者の不払労働に依らない何らかの本源的蓄積によって貨幣所有者となり、それによって労働力の買い手として市場に参入することができた、ということがいかにもありそうなことに見えます。そうであったとしても、資本主義的生産過程の単なる連続、すなわち単純再生産は、まだそのほかにも、ただ可変資本部分だけではなく総資本をもとらえる注目すべき変化を引き起こします。

単純再生産では、資本家は剰余価値を全部個人的に消費します。資本家はこう言います。「私が剰余価値を自分のために自由に消費することが出来るのは、私が働いてカネを溜め、それを資本として投下したからである。これは同額の資本価値として保持されており、その限り私は剰余価値を取得し費消する権利を持ち続ける」と。マルクスは、この資本家の理屈に対し具体的に反駁を加えていますが、これは一回きりの生産ではなく、再生産すなわち連続した生産を見ることによって可能となります。

1000ポンドの資本によって周期的に生産される剰余価値が200ポンドだとします。資本家がこれを毎年全額消費すると5年間で最初の資本価値と等しい額に達します。マルクスは、そうなると彼の元の資本の価値のひとかけらも存在しなくなり、その資本は資本化された剰余価値にすっかり置き換わってしまう、と言います。どうしてでしょうか。

マルクスは、これは、ある人が全財産と等しい額の借金をして、それを使い果たしてしまった場合と同様だと言います。この場合は、彼の全財産は借金の額を代表するにすぎなくなってしまいます。資本の場合はどうでしょうか。資本家は無償で得た剰余価値を消費し、前払い資本で用意した建物や機械は生産過程にずっと留まるので、元の資本が剰余価値に置き換わることなどあり得ないように見えます。しかし問題は、資本の物質的な成分ではなくて、資本の価値です。資本家が前払い資本と同額を個人的消費にあてれば、もはや資本の価値は剰余価値の総額を代表するにすぎません。これは元の資本が剰余価値に転化したこと、自己労働が他人の不払労働になったことを意味します。こうして剰余価値の取得と消費を正当化するために資本家が持ち出してきた根拠は失われてしまう、という訳です。

たしかに、わたしたちが資本制的な生産過程のたえざる更新の流れのなかで観察するときには、可変資本は資本家自身の原資から前払いされた価値であるという意味を失う。しかし資本制的な生産過程はいつか、どこかで始められる必要がある。そのためこれまでのわたしたちの観点からみると、資本家はある時点で、他者の不払労働によらない何らかの原初的な蓄積によって、貨幣所有者になり、それによって労働力の買い手として、市場に登場することができただろう。それでもなお、資本制的な生産様式のたんなる連続性、あるいは単純再生産は、さらに別の注目すべき変化を引き起こす。これは可変資本だけでなく、総資本にもかかわる変化である。

1000ポンドの資本で周期的に、たとえば1年ごとに生みだされる増殖価値が200ポンドだったとし、この増殖価値は毎年すべて消費されるとしよう。このプロセスを5年間反復すれば、消費された増殖価値の総額は5×200ポンドになり、最初の前払いされた資本の1000ポンドと同額になることは自明のことである。

毎年の増殖価値の一部、たとえば半分だけが消費された場合には、10×100=1000であるから、この生産プロセスが10年間だけ反復されると、同じ結果になるだろう。一般に前払いされた資本の価値を、毎年消費される増殖価値で割れば、最初の前払いされた資本が資本家によって完全に消費されるまで、すなわち消失してしまうまでに経過する年数または再生産周期の回数が計算できる。

もちろん資本家は、自分は他人の不払労働の生産物である増殖価値を消費していただけであり、最初の資本価値はそのまま残されていると考えることはできるが、それで事実が変わることはまったくない。ある一定の年数の間に資本家が取得した資本の価値は、同じ年数のうちに等価物を与えることなしに[すなわち不払労働によって]獲得された増殖価値の総額に等しく、資本家が消費した価値の総額は、もともとの資本価値に等しい。

たしかに資本家の手元に資本の価値の大きさは変化しておらず、その一部である建物や機械などは、彼が事業を開始した時点ですでに存在していたものである。しかし問題となるのは資本の価値であって、その物質的な構成要素ではない。ある人が自分の全財産の価値と同額の借金をしたとしよう。その人が全財産を使いはたしたならば、彼の全財産とは借金の総額を示しているにすぎない。同じように資本家が自分の前払いした資本と等価の額を消費したとすれば、この資本の価値は、彼が取得した増殖価値の総額を表現しているにすぎない。彼の古い資本の〈価値原子〉は、一原子も残されていない。

このようにすべての蓄積を無視するとしても、生産過程をたんに継続するだけで単純再生産を行っているならば、遅かれ早かれ一定の期間の後には、すべての資本は必然的に蓄積された資本に、あるいは資本化された増殖価値に変容する。資本が最初に生産過程に入ったときには、それは資本の使用者が個人的に築いていた財産だったかもしれないが、いずれは等価物を与えることなしに[不払労働によって]取得された価値に変容する。貨幣形態をとるかどうかは別として、他者の不払労働を体現したものに変容するのである。

 

 

労働者の疎外

われわれが第4章で見たように、貨幣を資本に転化せるためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りなかった。まず第一に、一方には価値または貨幣の所持有者、他方には価値を創造する実体を所持者が、一方には生産手段と生活手段との所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなければならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基盤であり出発点だったのである。

ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純生産によって、資本主義的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。一方では生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの過程から絶えず労働者が、そこにはいつたときと同じ姿で─富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実現するあらゆる手段を失っている姿で─出てくる。彼がこの過程にはいる前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程のなかで絶えず他人の生産物に対象化されるのである。生産過程は同時に資本家が労働力を消費する過程でもあるのだから、労働者の生産物は、絶えず商品に転化するだけではなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取する価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に、転化するのである。それだから、労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産しているのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠な条件なのである。

第4章で見たように、貨幣を資本に転化せるためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りませんでした。そのために必要なのは、一方に価値ないし貨幣の所有者、つまり生産手段と労働手段を所有している者が、もう一方に価値を作り出す実体を所有している者、つまり労働力のほかには何も所有していない者が存在し、両者が互いに買い手と売り手として向き合っていることです。したがって、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基盤であり出発点だったのです。

しかし、もともとは出発点であったものが、過程の単なる繰り返し、すなわち単純生産によって、資本主義的生産の固有な結果として絶えず繰り返し生産されて永続化されてしまう。一方では生産過程がたえず素材として富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方では労働者が、この過程から常に、もとのままの姿で出てきます。労働者は、富の人的源泉ではありながら、この富を自分のために実現するあらゆる手段を奪われたままです。

労働者が、この過程に入る前に、労働者の労働は彼自身から疎外されて資本家のものとなり、資本に取り込まれるので、彼の労働はこの過程のなかで、たえず他人の生産物に対象化されます。生産過程は資本家が労働力を消費する過程でもあるので、労働者の生産物はたえず商品に転化するだけでなく、資本すなわち価値を想像する力を搾取する価値に、人間を買う生活手段に生産者を使用する生産手段に転化するのです。したがって、労働者自身は、たえず客体としての富を、資本、つまり労働者にとって疎遠で彼を支配と搾取する権力として生産しているのです。この富の源泉とは、自らを対象化し、実現する手段から切り離されて、抽象的で、労働者の身体のうちにしか存在しないもの、それは賃金労働者として労働者です。労働者がこのようにたえず再生産され、永続化していくことが、資本主義的生産に必要不可欠な条件なのです。

すでに第4章において、貨幣を資本に変容させるためには、商品の生産と商品の流通が存在しているだけでは不十分であることを確認しておいた。そのために必要なのは、片方に価値ないし貨幣の所有者が存在しており、他方に価値を作りだす実体を所有している者が存在していること、片方に生産手段と労働手段を所有している者が存在しており、他方に労働力のほかには何も所有していない者が存在していること、そして双方がたがいに買い手と売り手として向き合っていることなのである。だから資本制的な生産過程に事実として与えられた基盤となり、出発点となるのは、労働の生産物と労働そのものが分離していること、客体としての労働条件と主体としての労働力が分離していることである。

しかしもともとは出発点であったものが、資本制的な生産に固有の結果として、プロセスのたんなる反復、すなわち単純再生産を媒介として、たえず新たに生産され、永続的なものとなっていく。一方では生産過程が、素材としての富を資本に変容させつづけ、資本家のための価値の増殖手段と享楽手段に変容させつづける。他方では労働者はつねに、この過程からもとのままの姿ででてくる。労働者は富の人的な源泉でありながら、この富を自分のために実現する手段はいっさい奪われたままである。

このプロセスに入る前から、労働者の労働は労働者自身から疎外されて資本家に取得され、資本にとりこまれるので、彼の労働はこのプロセスがつづくあいだ、たえず疎遠な生産物のうちに対象化されつつづける。生産過程は同時に、資本家が労働力を消費する過程でもあるから、労働者の生産物はたえず商品に変容するだけでなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取する価値に、人間を買う生活手段に、生産者[労働者]を使用する生産手段に変容するのである。

したがって労働者自身はたえず客体としての富を、資本として、すなわち労働者にとって疎遠で、彼を支配し搾取する権力として生産しているのである。そして資本家は同じようにたえまなく労働力を、主体として富の源泉として生産している。この富の源泉とは、みずからを対象化し、実現する手段から切り離されて、抽象的で、労働者のたんなる身体性のうちにしか存在しないもの、すなわち賃金労働者としての労働者である。労働者がこのようにたえまなく再生産され、永続化していくことが、資本制的な生産に必要不可欠な条件なのである。

 

労働者の二重の消費

労働者の行う消費には二つの種類がある。生産そのものでは、彼は生産手段を自分の労働によって消費し、それを前資本の価値よりも大きな価値のある生産物に転化させる。これは彼の生産的消費である。それは、同時に、彼の労働力を買った資本家による彼の労働力の消費でもある。他方では、労働者は労働力の代価として支払われた貨幣を生活手段に振り向ける。これは彼の個人的な消費である。だから、労働者が行う生産的消費と個人的消費とはまったく違うのである。第一の消費では彼は資本の動力として行動するのであって、資本家の者になっている。第二の消費では彼は自分自身のものであって、生産過程の外でいろいろな生活機能を行う。一方の消費の結果は資本家の生活であり、他方の消費の結果は労働者自身の生活である。

「労働日」の考察などでおりに触れて示したように、労働者はしばしば自分の個人的消費を生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。このような場合には、彼は自分の労働力を働かせておくために自分に生活手段をあてがうのであって、ちょうど、蒸気機関に石炭や水があてがわれ、車輪に油があてがわれるようなものである。そのとき彼の消費手段はただ生産手段の消費手段でしかなく、彼の個人的消費は直接に生活的消費である。とはいえ、これは資本主義的生産過程にとって本質的ではない一つの乱用として現れる。

労働者が行う消費には二重です。労働者は、生産をする中で、労働することで生産手段を消費し、前払いの資本の価値よりも大きな価値をもつ生産物に転化します。これが労働者の生産的な消費です。それは同時に、労働力を買った資本家が、労働者の労働力を消費することでもあります。他方で、労働者は労働力の売却と引き換えに支払われた貨幣を、生活手段として購入するために使用します。これが労働者の個人的な消費です。

この労働者の生産的な消費と個人的な消費は、全く異なる性質のものです。生産的な消費では、労働者は資本家のものとして、資本の運動する力として行動します。個人的な消費では、労働者はみずから行動する者として、生産過程の外部で生活機能をはたします。生産的な消費の結果は、資本家の生活であり、個人的な消費の結果は労働者自身の生活です。

「労働日」の検討で明らかになったように、労働者は自身の個人的消費を、生産過程の附随物にするように強いられることが多い。労働者は自分の労働力を維持するために生活手段を自らに供給します。その場合、労働者の消費手段は、たんなる生活手段の消費手段となり、労働者の個人的消費は、直接に生産的な消費になります。しかし、これは資本主義的生産にとって本質的なことではありせん。

労働者は二重の意味で消費する。労働者は生産において、労働することで生産手段を消費し、それを前払いされた資本の価値よりも大きな価値をもつ生産物に変える。これが労働者の生産的な消費である。それは同時に、労働力を買った資本家が、労働者の労働力を消費することでもある。他方で労働者は、労働力の売却と引き換えに支払われた貨幣を、生活手段として購入するために使用する。これは労働者の個人的な消費である。

だから労働者の生産的な消費と個人的な消費はまったく異なる性質のものである。生産的な消費においては、労働者は資本家のものとして、資本の運動する力として行動する。個人的な消費においては、労働者はみずから行動する者として、生産過程の外部で生活機能をはたす。生産的な消費の結果は資本家の生活であり、個人的な消費の結果は労働者自身の生活である。

「労働日」などを検討した際に明らかになったように、労働者は自分の個人的な消費を、生産過程のたんなる付随物にするように強いられることが多い。この場合には労働者は自分の労働力を維持するために、生活手段をみずからに供給する。蒸気機関に石炭と水とを供給し、歯車にオイルを差すのと同じである。その場合には労働者の消費手段は、たんなる生産手段の消費手段となり、労働者の個人的な消費は、直接に生産的な消費になります。しかしこれは資本制的な生産にとっては、本質的でない濫用として現れる。

 

労働者階級の消費

われわれが、個々の資本家と個々の労働者とにではなく、資本家階級と労働者階級とに目を向け、商品の個別的生産過程ではなく、資本主義的な生産過程をその流れとその社会的な広がりとのなかで見るならば、事態は別の様相を呈してくる。─資本家が彼の資本の一部分を労働力に転換すれば、それによって彼は彼の総資本を増殖する。彼は一石で二鳥を落とす。彼は、自分が労働者から受けとるものからだけでなく、自分が労働者に与えるものからも利得する。労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生みだすことに役だつ。それゆえ、絶対的に必要なものの範囲では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。つまり、労働者の個人的消費は、それが作業場や工場などのなかで行われようと外で行なわれようと、労働過程のなかで行われようと外で行われようと、つねに資本の生産および再生産の一契機なのであって、ちょうど機械の掃除が、労働過程で行なわれようとその一定の中休み時間に行われようと、つねに資本の生産および再生産の一契機であるようなものである。労働者は自分の個人的消費を自分自身のために行なうのであって資本家を喜ばせるために行なうのではないということは、少しも事柄を変えるものではない。たとえば、役畜の食うものは役畜自身が味わうのだからといって、役畜の行なう消費が生産過程の一つの必然的な契機だということに変わりはないのである。労働者階級の不断の維持と再生産も、やはり資本の再生産のための恒常的な条件である。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せておくことができる。彼は、ただ、労働者たちの個人的消費をできるだけ必要物に制限しておくように取り計らうだけであって、かの労働者に養分の少ない食物よりも養分の多い食物をむりやりとらせようとする南アメリカ的な粗野に比べれば、天地の隔たりがあるのである。

それゆえ、資本家も、その理論的代弁者である経済学者も、労働者の個人的消費のうちでただ労働者階級の永久化のために必要な部分だけを、つまり資本が労働力を消費するために実際に消費されなければならない部分だけを、生産的とみなすのである。そのほかに労働者が自分の快楽のために消費するものがあれば、それは不生産的消費なのである。もしも資本の蓄積が労賃の引き上げをひき起こし、したがって資本によるより多くの労働力の消費なしに労働者の消費手段の増加をひき起こすとすれば、追加資本は不生産的に消費されることになるであろう。実際には、労働者の個人的消費は彼自身にとって不生産的である。というのは、それはただ貧困な個人を再生産するだけだからである。それは資本家や国家にとっては生産的である。というのは、それは他人の富を生産する力の生産だからである。

こういうわけで、社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産とが行なわれるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えず繰り返し労働市場に現われるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者には見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。

以前は、資本は、自分にとって必要だと思われた場合には、自由な労働者にたいする自分の所有権を強制法によって発動させた。たとえば、機械労働者の移住はイギリスでは1815年に至るまで重刑をもって禁止されていた。

個々の資本家や労働者ではなく資本家階級労働者階級として見ると、個別の商品の生産過程ではなく資本主義的生産過程の流れを社会の中で見てみると、異なった状況が見えてきます。資本家が資本の一部を労働力に転換すると、それによって全体の資本を増殖させることになります。これは、資本家は労働者から受け取るものから利益を得るだけでなく、労働者に与えるものからも利益を得るわけで、資本家にとっては一石二鳥です。というのも、労働力と交換に支出された資本は生活手段に転化し、この生活手段の消費は、労働する労働者の筋肉、神経、骨、頭脳という生産手段を再生産し、さらに新たな労働者を生みだすからです。

したがって、労働者階級の個人的消費は、労働者の生存に必要な範囲で、労働力と引き換えに資本で得た生活手段が、資本によって新たに搾取できる労働力に再び変化することに他なりません。資本家にとって、それは生産手段である労働者の生産であり再生産ということになります。ということは、労働者の個人的な消費は資本の生産と再生産に直結するのです。工場の生産設備のメンテナンスと同じようなものと言うことができます。たしかに、労働者としては、なにも資本家のために個人的な消費をしているわけでなく、例えば食費は自分が食べたいから、自分の空腹を満たすために金を使うわけです。しかし、それは例えば、牧場の牛が空腹を満たすために餌を食べているのが、食肉の生産になっているのと同じなのです。

労働者階級が維持されているというのは、資本の再生産に必要な条件です。資本家は、この必要条件が満たされているかを気にしなくても、労働者の生存本能と生殖本能に任せておけば、自然と満たされることになっています。資本家が気にするのは、労働者の個人的な消費を最小限に抑えることです。だからこそ、資本家も経済学者も、労働者の個人的な消費の中でも、労働者階級がずっと生き残るために必要な部分だけを生産的な消費とみなすのです。この労働者階級が生き残るために必要な部分とは、資本が労働力を消費するために実際にどうしても必要な部分でもあるからです。そして、この部分を超えて、労働者が消費するのは、彼が自らの楽しみのために消費する非生産的な消費とみなします。

もしも資本の蓄積が労働賃金の総額を増やすことになり、それによって資本がより多くの労働力を消費、つまり労働者や労働時間を増やすのではなく、労働者個人の賃金を増やして、彼の個人的な消費が多くなるようになったとしたら、その資本は非生産的に消費されたことになります。しかし、事実としては、労働者の個人的な消費は、結果として彼自身にとっては非生産的です。それは困窮した個人としての労働者を再生産するだけだからです。しかし、このことが資本家と国家には生産的です。それは、労働者の再生産は自身のではなく他人の富を生産するためのものだからです。

このように社会的な観点からは、労働者階級は生産機械や道具などと同じような資本の附随物です。労働者階級の個人的な消費ですら、一定限度内では蒸気機関の燃料と同じように資本の再生産過程に属します。資本の再生産過程は、機械と違って自意識を持っている労働者が嫌気をさして逃げてしまわないように気を付けながら、労働者が生産した生産物が労働者の手元から引き離されて資本家の手元に運ばれるようにしているということです。

労働者の個人的な消費によって、一方では労働者階級の生存と再生産が確保されるのは、他方では生活手段を使い尽くしてしまうことによって労働市場から離れられなくすることが重要です。古代ローマの奴隷は鎖で縛られてしましたが、賃金労働者は見えない鎖によって資本家に縛られているのです。賃金労働者は外見上は独立して見えますが、それは契約という法的な擬制によって、そう見えているだけです。

単純再生産であれ、それがおよそ継続可能であるためには剰余価値の生産を条件とします。単純再生産が再生産するものはたんなる商品ではなく、剰余価値であり、たんなる剰余価値ですらなく、資本主義制的生産の出発点です。この出発点そのものが、資本主義的な生産の結果としてたえず繰り返し生産され、永遠化されるものです。資本主義では労働者が賃金労働者として前提され、その前提が生産されて、再生産される。この生産−再生産こそが資本主義的生産の必要条件です。

労働者は、生産現場では生産的消費をおこない商品を生産するほかに、労働力の対価として支払われた貨幣によって生活し、それによって必要生活手段を購入します。この局面は労働者の個人的消費です。この労働者による個人的消費すら資本の生産及び再生産の一契機なのであり、階級としての労働者の維持と再生産それ自体が資本の再生産のための恒常的条件となるのです。労働者はたしかにじぶんのために飲み、じぶんのために食べる。しかしたとえば役畜の食うものは役畜自身が享受するからといって、役畜のおこなう消費が生産過程となって一個の必然的な契機であることに、なんら変更はないわけです。労働者階級は直接的な生産過程の外部でも、生命のない労働用具とおなじように資本の付属物にすぎないのです。労働者はたしかにたんなる奴隷、資本制の奴隷ではないでしょう。しかしローマの奴隷は鎖によって賃金労働者は見えない糸によって、やはりそれぞれ所有者に繋がれているのです。

しかしわたしたちが個々の資本家や労働者ではなく、資本家階級と労働者階級を観察してみると、そして商品の個別の生産過程ではなく、資本制的な生産過程をその流れと社会的な規模において観察してみると、違った状況がみえてくる。資本家が資本の一部を労働力に転換すると、それによって全体の資本を増殖させることになる。これは資本家にとっては一石二鳥である。資本家は労働者から受けとるものから利益をえるだけではなく、自分が労働者に与えるものからも利益をえるのである。というのは、労働力と交換に支出された資本は、[労働者が自分のために購入する]生活手段に変わるのであり、この生活手段の消費は、働いている労働者の筋肉、神経、骨、頭脳を再生産し、さらに新たな労働者を生みだすのに役だつからである。

だから労働者階級の個人的な消費は、[労働者の生存に]絶対的に必要な範囲では、労働力とひきかえに資本から渡された[貨幣で購入した]生活手段が、資本によって新たに搾取できる労働力にふたたび変化することにほかならない。それは資本家にとって、もっとも不可欠な生産手段である労働者そのものを生産することであり、再生産することである。

したがって労働者の個人的な消費は、それが作業場や工場の内部で行われるか外部で行われるかにかかわりなく、資本の生産と再生産を構成する要因であることに変わりはない。それは機械の掃除が、労働過程のあいだに行われるか労働過程のうちに定められた休憩時間に行われるかにかかわりなく、生産と再生産を構成する要素であるのと同じである。

たしかに労働者の個人的な消費はみずからのために行われるのであって、資本家のために行われるわけではないが、それは問題ではない。役畜は自分が食べている餌を楽しんで食べているかもしれないが、役畜の行う消費が生産過程に必要な要因であることに変わりはないのと同じである。

労働者階級がたえず維持されるのは、資本の再生産のために必要な条件でありつづける。資本家は、この条件が満たされるかどうかを懸念する必要はなく、労働者の自己保存本能と生殖本能に安心して任せておくことができる。資本家が配慮するのは、労働者の個人的な消費をできるだけ最小限に抑えることである。その点で[西欧の]資本家は、労働者に栄養のない食べ物ではなく、栄養価の高い食べ物をむりやり食べさせる南アメリカの粗野なやり方とは、天と地ほども違うのである。

だからこそ資本家もそのイデオローグたる経済学者たちも、労働者の個人的な消費のうち、労働者階級が永続するために必要な部分だけは、すなわち資本が労働力を消費するために実際にどうしても消費されねばならない部分だけは、生産的な消費とみなすのである。そしてこの部分を超えて、労働者がみずからの楽しみのために消費するような部分は、非生産的な消費とみなすのである。

もしも資本の蓄積が労働賃金を引き上げ、それによって資本がより多くの労働力を消費するのではなく、労働者がより多くの消費手段を消費するようになるのであれば、追加された資本は非生産的に消費されたということになるのだろう。しかし事実としては、労働者の個人的な消費は労働者自身にとっては非生産的である。それは困窮した個人を再生産するだけだからである。ところがこれは資本家と国家にとっては生産的である。これは[労働者にとっては]他者の富を生産する力を生産することだからである。

このように社会的な観点からみると労働者階級は、直接的な労働過程の外部にあっても、死せる労働道具と同じように、資本の付随物である。労働者階級の個人的な消費ですら、ある限度までは資本の再生産過程を構成する要因にすぎない。しかしこの資本の再生産過程は、自意識をそなえた生産道具が逃げ去らないように配慮しながら、労働者が作りだした生産物が、片方の極である労働者の手元から引き離されて、その対極となる資本のもとに運ばれるようにしているのである。

個人的な消費によって、一方では労働者階級の自己保存と再生産が確実に行われるようになるが、他方ではこれによって生活手段が消尽され、労働者階級がたえず労働市場にもどってくることが重要なのである。ローマ時代の奴隷は鎖で縛られていたが、賃金労働者には見えざる糸によって、みずからの所有者に縛られている。賃金労働者の見掛けだけの独立性は、個々の雇い主がたえず替わることと、契約という法的な擬制によって維持されているのである。

かつて資本は、必要と思われたときには、自由な労働者にたいするみずからの所有権を強制法によって確保していた。たとえば、イギリスでは、1815年までは機械労働者の移住が、厳しい罰則によって禁止されていたのである。

 

労働者階級の再生産の意味

労働者階級の再生産には同時に、世代から世代への技能の伝達と蓄積とを含んでいる。このような熟練労働者階級の存在を、どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え、この階級を実際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは、恐慌にさいしてこのような階級がなくなるおそれが生ずれば、たちまち明らかになる。アメリカの南北戦争と、それに伴っておきた綿花飢饉とのために、人の知るように、ランカシャやその他の地方でなどで多数の綿業労働者が街頭に投げ出された。労働者階級自身のなかからも、その他の社会層からも、イギリスの植民地や合衆国への「過剰者」の移住を可能にするために国家の補助や国民の自発的寄付を求める叫びがあがった。そのとき、『タイムズ』(1863年3月24日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポッターの一つの書簡を公表した。彼の書簡は、適切にも、下院では「工場主宣言」と呼ばれた。ここでは、そのなかから、労働力にたいする資本の所有権があからさまに表明されているいくつかの特徴的な箇所をあげておこう。

労働者階級の再生産は、また、ある世代から次の世代へと、熟練技能を継承し、蓄積するという意味もあります。資本家は、熟練した労働者を必要な生産条件のひとつとみなし、実際に可変資本の現実の存在とみなしています。それは恐慌によって、そういう労働者がなくなるおそれが生じた時に明らかになります。例えば、アメリカの南北戦争によって綿花の輸入が激減し、ランカシャーの木綿工業の工場の稼働率が大幅に低下したとき、労働者が余ってしまった。この時のエドマンド・ポッターの「工場主宣言」に、それがあからさまに語られています。

労働者階級の再生産には同時に、一つの世代から次の世代へと、熟練技能を伝承し、蓄積するという意味がある。資本家は、このように熟練した労働者階級が存在することを、必要な生産条件の一つとみなしており、実際に可変資本の現実の存在そのものとみなしています。そのことは恐慌によってその存続が危ぶまれる事態になると、あらわに示される。アメリカの南北戦争とそれにともなう綿花飢饉によって、ランカシャーなどでは木綿工業の多数の労働者が路上に放りだされたのは周知のことである。他の社会層だけでなく労働者階級のうちからも、「余剰人口」をイギリスの植民地かアメリカ合衆国に移住できるようにするための国の補助や自発的な国民募金を求める声が高くなった。

当時『タイムズ』紙(1863年3月24日)はマンチェスター商業会議所の元会長のエドマンド・ポッターの書簡を掲載した。この書簡は下院では「工場主宣言」と呼ばれたが、それはもっともなことだった。ここでは労働力にたいする資本の所有権があからさまに語られている典型的な文章をいくつか引用することにしよう。

 

工場主宣言

「綿場労働者には次のように言ってよい。彼らの供給は大きすぎる。…それは、おそらく3分の1は減らされなければならない。そうすれば、残った3分の2にたいする健全な需要が現われるであろう。…世論は移民を促している。…雇用主(すなわち木綿工工場主)は、自分の労働供給が取り去られるのを見て喜んではいられない。彼はそれを不正とも不法とも思うであろう。…もしも移民が公共の財源から援助を受けるとすれば、雇い主には、意見を述べる権利があり、また、おそらくは抗議する権利があるであろう。」

同じポッターはさらに続けて次のようなことを論じている。すなわち、綿業がどんなに有益かということ、「それは疑いもなく人口をアイルランドからイングランドの農業地帯からも流し去った」ということ、その規模がどんなに巨大かということ、それは1860年にはイギリスの全輸出貿易高の13分の5を供給したということ、それは数年後にはさらに市場の拡大、ことにインド市場の拡大によって、また十分な「綿花供給1ポンド当たり6ペンスで」無理取りすることによって、かくちょうされるであろうということがそれである。それから彼は次のように続ける。

「時が─たぶん1年か2年か3年が─必要量を生産するであろう。…そこで私は尋ねたい、この産業は維持するに値するか、この機械(すなわち生きている労働機械)を整えておくことは労に値するか、そして、これを放棄しようなどと考えるのは最大の愚ではないか!私はそうだと思う。たしかに、労働者が所有物ではないし、ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが、彼らは両者の強みであり、精神的な、訓練された力であって、この力は一代で補充できるものではない。ところが、もう一つの、彼らが使用するたんなる機械は、大部分は、12カ月で有利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を推奨したり許可したりして(!)いったい資本家はどうなるのか?」。

この心痛は侍従長カルプを思い出させる。

「…労働者の精鋭を取り去ってしまえば、固定資本は非常に減価し、流動資本は劣等な労働のわずかな供給では戦いに身をさらさないであろう。…われわれは、労働者たち自身も移住を希望しているということを聞く。彼らがそれを望むのは非常にもっともである。…綿業の労働力を取り上げることによって、彼らの賃金支出を3分の1とか500万とか減らすことによって、綿業を縮小し圧迫すれば、そのとき労働者たちのすぐ上の階級である小売商人はどうなるだろうか?地代は、小屋代は、どうなるだろうか?小さな農業者、いくらかましな家主、そして地主はどうなるだろうか?そして、このような、一国の最良の工場労働者を輸出し、一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に、一国のすべての階級にとって自殺的な計画がありうるだろうか?」。「私は救済を受ける人々の道徳的水準を維持するために、ある種の強制労働を伴う特別な法律的取締りのもとに、綿業地帯の救貧局に付設される特別委員会の管理する2年か3年にわたる500万か600万の貸付を勧告する。…大規模な、あとをからにしてしまう移民と、一地方全体の価値と資本とをなくしてしまうことによって、彼らの最良の労働者を捨て去り、あとに残った人々を堕落させ無気力にするということ、地主や雇い主にとってこれ以上悪いことがありうるだろうか?」。

綿業工場主たちの選り抜きの代弁者ポッターは、「機械」の2つの種類を区別している。それはどちらも資本家のものであるが、一方は彼の工場のなかにあり、他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく、他方は生きている。生命のない機械は、毎日損傷して価値を失ってゆくだけではなくて、その現に存在する大群のうちの一大部分が不断の技術的進歩のために絶えず時代遅れになってゆき、わずか数カ月でもっと新しい機械と取り替えることが有利になることもある。反対に、生きている機械は、長もちがすればするほど、代々の技能を自分のうちに積み重ねれば重ねるほど、ますます改良されてゆくのである。『タイムズ』はこの大工場主に向かってなかんずく次のようにこう答えた。

F・ポッター氏は、綿業工場主の非常な重要さを痛感するあまり、この階級を維持しその職業を永久のものにするために、50万の労働者階級をその意志に反して一つの大きな道徳的救貧院のなかちに閉じ込めようとしている。この産業は、維持するに値するか?とポッター氏は問う。たしかに値する。あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を整えておくことは労に値するか?とさらにポッター氏は問う。われわれはここではたと立ち止まる。機械とポッター氏が言うのは人間機械のことである。なぜならば、彼は、自分はそれを絶対的所有物として取り扱うつもりはない、と断言しているからである。じつを言えば、われわれは、人間機械を整えておくこと、すなわち、必要になるまでそれぞれを閉じ込めて油を塗り込んでおくことが『労に値する』とは思わないし、また可能だとさえも思わないのである。人間機械には、いくら油を塗っても磨きをかけても働かずにいれば錆びるという性質がある。そのうえ、人間機械は、一見してわかるように、かってに蒸気をおこして破裂したり、われわれの大都市であばれ回ったりすることもできる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産にはいくらか長い時間がかかるかもしれないが、しかし、機械技術者と貨幣とがあれば、いつでもわれわれは勤勉で屈強な働き手を見いだすだけであろうし、それによって、われわれが使いきれないほどの多くの工場主を製造するであろう。…ポッター氏は、1年か2年か3年でこの産業が復活するもののように言って、われわれに、労働力の移住を奨励したり許可したりしないことを望んでいる!労働者の移住を望むのは当然だ、と言う。しかし、彼の考えるところでは、この国は、この50万人の労働者とこれにたよっている70万人とを、彼らの希望に反して、綿業地帯に閉じ込め、その必然の結果である彼らの不満を暴力で抑えつけ、彼らを施し物でやしなわなければならないのであり、しかも、いっさいは、工場主たちがいつか再び彼らを必要とするかもしれないということをあてにしてのことなのである。…『この労働力』を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うために、この島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」

この『タイムズ』の論説は、ただの知恵くらべでしかなかった。「大きな世論」というのは、じつは工場労働者は工場の付動産だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼ら移住は阻止された。人々は彼らを綿業地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込められた。そして、彼らは相変わらず「ランカシャの綿業工場主たちの強み」となっているのである。

「木綿工場の労働者には、次のように言えるかもしれない。諸君の供給は多すぎる。…供給はおそらく3分の1に減らさねばならないかもしれない。そうすれば残りの3分の2には、健全な需要が生まれてくるだろう、と。…世論は移民を強く求めている。…雇用主は(木綿工業の工場主はということだ─マルクス)、労働の供給が減るのを喜んで眺めていることはできない。雇用主としては、それは不公平で不正なことと考えるだろう。…移民が公的な基金の援助を受けるのであれば、雇用主は公聴会を要求し、場合によっては抗議する権利を保有する」。

ポッターはさらにつづけて、木綿工業がきわめて有益なものであり、「アイルランドとイギリスの農業地域から住民を吸いあげたことは疑問の余地がない」こと、木綿工業が巨大な規模をそなえているのは、1860年にイギリスのすべての輸出高の13分の5を占めていることからも明らかであること、これから数年後には、市場の拡大、とくにインド市場の拡大によってふたたび拡大に向かう見込みであり、「ポンドあたり6ペンス」の価格で十分な「綿花供給」を行うことができるようになることを論じる。そして次のようにつづけるのである。

「しばらく、おそらく1年、2年、3年くらいすれば、必要量が生産されるようになるだろう。…そこでわたしが聞きたいのは、この産業は堅持する価値のあるものではないのか、ということである。わたしは、それは愚かしいことだと考える。わたしは労働者が所有物ではないこと、ランカシャーと雇用主の所有物ではないことを認める。しかし労働者はランカシャーと雇用主にとっての強みなのである。労働者は一世代では埋め合わせることができないような、訓練された精神的な力なのである。これにたいして労働者が使用するたんなる機械類は、その多くが1、2カ月もすればよりよいものに交換できるし、改良できるだろう。労働力の移民が推奨され、あるいは許可(!)されてしまえば、いったい資本家はどうなるのか」。

このあわてぶりは侍従長カルプを思いおこさせる。

「労働者の精鋭を取りさってしまうならば、固定資本はその価値を大幅に失い、流動資本は劣等な労働の乏しい供給を求める闘いに加わるようなことはしないだろう。…労働者がみずから移住を望んでいるというが、彼らがそれを望むのはごく当然のことだ。…木綿工業から労働力を奪い、賃金の支払額をたとえば3分の1あるいは500万ほど減らして、木綿工業を縮小し、圧迫するならば、労働者の上にいる階級はどうなるのか。小売商人たちはどうなるのか、もっとも良質な工場労働者を輸出し、もっとも生産的な資本と富の一部を減価させることによって、国民を弱体化させるこの計画ほど、この国のすべての階級にとって自殺的な計画があるだろうか、答えてほしいのだ」。「わたしは500万から600万の公債を発行し[て困窮者に保護を与え]、2年から3年に分割して[扶助し]、木綿工業地帯の救貧局に設置された特別委員会がそれを管理し、扶助をうけた人々のモラルを維持するために、一定の強制労働を含む特別な法的規制を実行することを提案する。…地主や雇用主にとって、あとには何も残らない移住を拡大し、一地方全体の価値と資本を一掃し、みずからの最良の労働者を手放し、残った労働者の堕落と不満を誘うことほど、悪しきことがあるだろうか」。

木綿工業の工場主の選り抜きの代表であるポッターは、2種類の「機械類」を区別している。どちらも資本家のものだが、片方は工場のうちにあり、他方は夜と日曜日は工場の外の小屋に住んでいる。片方は死んでおり、他方は生きている。死んだ機械類は日々劣化して価値を失っていくだけではなくて、存在しているものの大半も、つねに技術進歩がつづくためにたえず時代遅れになり、数カ月のうちには新しい機械類に取り替えたほうが有利になることもある。これとは逆に生きた機械類は、継続的に使えば使うほど、世代を追って熟練した技能が蓄積され、改善されていく。『タイムズ』紙はこの工場主にこう答えている。

F・ポッター氏は、木綿工業の雇用主の異例なほどの絶対的な重要性を痛感しているので、この階級を維持し、彼らの仕事を永続させるためには、50万人の労働者階級を、彼らの意志に反してでも、巨大な道徳的な救貧院のうちに閉じ込めようとしている。この産業は維持する価値があるかとポッター氏は問う。われわれはその価値はあるが、ただし公正な手段を使ってのことだと答える。機械類を維持しておくことは努力に値するかどうかと、ポッター氏はふたたび問う。ここでわれわれは面食らう。機械という言葉でポッター氏は人間機械のことを意味しているのだ。というのは彼はその機械類を絶対的な所有物として扱うつもりはないと断言しているからである。人間機械を維持しておくこと、すなわち必要になるまで彼らを閉じ込めておき、それにオイルを差しておくことは努力に値しない、いや不可能であるとわれわれは言わざるをえない。人間機械には、使わないでいると錆びるという性質がある。諸君がどれほどオイルを差したり、磨いたりしてもである。さらにわれわれが目撃しているように、人間機械には自分で蒸気をおこして破裂したり、われわれの大都市で暴れ回ったりすることができる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産には長い時間がかかるかもしれない。しかし機械技術者と貨幣さえ用意すれば、勤勉で屈強な工場労働者をいつでもみつけることができるし、それによってわれわれが使いきれないほどの工場主を製造することができる。…ポッター氏はこの産業が1年、2年、3年で回復できるとおしゃべりしながら、われわれに労働力の移住を奨励しないように、あるいは許可しないようにと求めている。彼は、労働者が移住を望むのは当然だと言う。ところが彼はこの50万人の労働者とその扶養する家族70万人を、彼らの要求に逆らって、木綿工業地帯に閉じ込め、その必然的な帰結として発生する不満を暴力をもって抑圧しなければならず、労働者は施しによって生きていかねばならないというのである。そのすべてが木綿工場の工場主がいつか彼らを雇用できるかもしれないという可能性に賭けてのことである。…これらの〈労働力〉を、彼らを石炭や鉄や木綿と同列に扱おうとする者たちの手から救うために、この島国の偉大な世論が行動しなければならないときが来たのである」。

しかしこのタイムズの記事も、結局は気の利いたゲームにすぎなかった。「偉大な世論」は実際にはポッター氏と同じように、工場労働者は工場の移動式の付属品だと考えていたのである。労働者の移民は妨げられた。彼らは木綿工業の「道徳的な救貧院」に閉じ込められ、それまでと同じように「ランカシャーの木綿工場の工場主の強み」でありつづけたのだった。

 

労働者の経済的な隷属

こうして、資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである。

こうして、資本主義的生産過程は、連関のなかで見るならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。

資本主義的生産過程は労働力と労働条件の分離を再生産し、これによって労働者の搾取条件を再生産し、永続化させます。労働者には、生きるために自分の労働力を売らざるを得ないように強制し、一方で、資本家には、その労働力を買ってさらに豊かになるようにしています。資本家と労働者を、労働力の買い手と売り手として商品市場で向き合うようになっているのは、偶然とは言えません。労働者を労働力の売り手として常に商品市場に投入させ、その労働者の生産物をたえず資本家の購入手段に転化させているのは、このような過程の目的に適った仕組みなのです。実際には、労働者は自身の労働力を資本家に売る前から、すでに資本に属している。このような労働者の経済的な隷属は、労働者の自身の労働力の売却が周期的に繰り返され、雇用主が替わったり、労働市場の価格が変動することによって隠蔽されています。

資本家が、生産過程で生産される剰余価値をすべて個人的に消費した場合には、必然的に単純再生産が生じることになのます。もちろん、資本の再生産の流れの連続性を維持するためには、実際に単純再生産のためだけであっても、資本家はすべての剰余価値を個人的に消費することはできません。なぜなら、種々の不備の事態(原材料や賃金の高騰、市場の大きさの変化、等々)が生じたときの予備資金が必要であり(臨時的準備金)、それなしには単純再生産さえも維持できないことになるからです。しかし、ここでは問題を単純化するために、流通が順調に進むと仮定し、この予備資金の存在を考えないことにします。

たとえば、最初に投じる前払資本を1000Gとし、それが不変資本(c)と可変資本(v)とに分かれる割合は3:2とし、剰余価値率を100%とすると、前払資本の流れは以下のように図にできます。

600c

1000G−1000W……P……1400W´−1400G´

400v−400m

この資本循環においては、原資本1000Gが1400Gに転化しており、400Gだけ価値が増殖しています。しかし、生産過程において抽出されたこの剰余価値400Gは結局すべて資本家によって個人的消費に使われるので、2期目の生産も最初と同じく1000Gの前払貸資本から出発することになります。

しかし、不変資本600cのうち固定資本に相当する部分(機械や工場など)は1回の生産ごとに更新されるのではなく、その耐用期間全体にわたって生産過程にとどまって、その価値が少しずつ生産物に移行するものです。したがって、600cのうち固定資本の価値を体現する部分はそのまま次の生産に回るわけではない。それは資本家のもとで蓄えられて、固定資本が更新されるときに(たとえば5年後か10年後に)まとめて生産過程に投下されるものです。しかも、固定資本はその物的性質に応じて、その耐用年数には大きな差があります。日々技術進歩が行われる最新鋭の機械やパソコンなどであれば、その更新期間は3〜5年でしょう。しかし、工場やオフィスビルのようなものは、その耐用年数は数十年にもなります。したがって、固定資本について考察する際には、これらすべての固定資本の耐用年数の平均値を用いる必要がでてきます。たとえば、総固定資本が平均して5年ごとに更新されると仮定し、その総額が1000Gだとすると、毎年200Gずつ生産過程に価値として入り込むことになる(均等償却の場合)。この200Gは、生産された商品がすべて実現されれば資本家の手元に帰ってくるものですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元に帰ってくるのですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元で、あるいは銀行のもとで、固定資本更新用の準備金(長期的準備金)を形成します。そして5年かけて1000Gになった時点で、この1000Gが生産過程に投下されるのである。しかし、このような複雑な関係はここでの単純な再生産モデルにとっては外的な事情であるので、ここでは、計算を簡単にするために、このような固定資本更新のための蓄積を考えないことにし、不変資本600cがまるごと次期生産にも投下されると仮定します。

さて、このような単純再生産は、量的に見れば、何度繰り返されても─その他の諸事情が同一であるかぎり─、事態をいささかも変えるものではないわけです。1000Gは循環の終わりには1400Gの貨幣となり、そのうち400Gが個人的に消費されて、再び次の生産では1000Gが出発点となり、したがってやはり循環の終わりには同じ1400Gになるというわけです。しかし質的に見れば、このような単純な再生産の繰り返しであっても、さまざまな重要な変化が生じることになります。

まず第一に、単純再生産の繰り返しは、単に絶えず剰余価値を生産するだけではなく、資本・賃労働関係そのものを、資本主義的生産関係そのものを再生産することになります。というのも、労働者が得る賃金は自己の労働力を再生産することしかできない額に限定されているので、労働力が持っている価値増殖力が資本に奪われてしまっているからです。それゆえ、労働者は、自分(および家族)が生きていくのに必要な支出に賃金を使い果たしてしまった後は、再び無一文になってしまい(もちろん、耐久消費財の購入のためや子供の教育費のため、あるいは自分の老後のために一定の貯金はするのだが、この貯金も結局は未来のある時点で消費されることがあらかじめ決まっている)、それゆえ再び資本家のもとで賃労働者として働くことを余儀なくされるのです。

したがって、労働者は常に絶えず資本のもとに返ってこざるをえず、資本のために剰余価値を生産することを条件に賃金を獲得することしかできません。このような生産的地位はやがて子供の世代にも受け継がれ、生産関係が世代的にも再生産されます。このような生産関係の世代的再生産は、一方では、労働力価値のうちに次世代労働者を一人前の年齢にまで養うことを可能にする部分が含まれることと、他方では、世代を超えても労働者の地位を脱することを可能にするような貨幣蓄蔵を平均的労働者に対して不可能にしていること、という2つの条件を前提にしており、これらの前提が守られるかぎり、賃労働者としての地位は世代的に受け継がれていくことになります。

このような労働者としての地位の恒常的な再生産、さらには世代を超えての再生産は、賃労働者の集団を一個の階級として固定化することを意味します。このようにして賃労働者は客観的に労働者階級としての社会的地位を形成することになりす。客観的な意味での労働者階級の形成は、まず第一に、二重の意味で自由な労働者として労働力を資本家に売ることで生活せざるをえないという本源的条件、第二に、資本による実質的包摂を通じて階級離脱の可能性が縮小していくという生産関係的条件、第三に、協業、分業、機械化などを通じての労働者の結合と集団化がしだいに進行するという空間的条件、第四に、賃労働者としての地位が世代的に受け継がれるという時間的条件などに基づくものです。主体的な意味での階級形成(文化的・生活習慣上の共通性、階級的自覚の発展、経済的・政治的団結、等々)については、ここでは対象外として触れられていません。

他方で、資本家の側では、賃金と引き換えに労働者のこの価値増殖力を絶えずわがものとすることによって、絶えず自己を資本家として再生産し、したがってまた労働者の労働力を購入する権力を持った者として自己を再生産することになります。資本家も資本家階級となるのです。このようにして、資本主義的生産関係そのものが絶えず再生産され、世代的に受け継がれていくことによって、労働者階級と資本家階級との階級関係もまた形成され再生産されていくひとになります。

第二に、単純再生産が繰り返されることで、資本は周期的にある一定額の自由に処分可能な貨幣(すなわち剰余価値)を獲得することになります。資本家は(単純再生産を前提にするかぎり)それをすべて個人的消費に用いるのですが、しかし原資本に相当する部分を絶えず次の生産に投資し続けている限り、資本家はその後もずっとこの一定額の貨幣を得ることができるわけです。このように周期的に繰り返される何らかの行為ないし何らかの「物」の所有の結果として、自由に処分可能な一定額の貨幣が周期的に懐に入ってくる場合、それは収入ないし所得という形態をとることになります。資本家の場合、それは資本の所有から得られる、あるいは資本投資という行為から得られる収入ないし所得という形態をとり、労働者の賃金は労働という行為から得られる収入ないし所得という形態をとることになります。

このように、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣が、それが資本から生じているのであれ労働から生じているのであれ、それぞれの現実の起源を無視して「収入」ないし「所得」という抽象的形態で総括されることによって、あるいはそのようなものとして社会的に承認されることによって、生産過程における剰余価値の生産と搾取という現実的連関はますますもって覆い隠され、神秘化され、目に見えないものになります。ここでの連関は、ただ一定の「物」ないし「行為」と、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣というまったく外面的な連関でしかないのです。

第3に、資本家が労働力商品と引き換えに労働者に支払う賃金の元本は、生産過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本でした。資本家はその手持ち資金から労働力商品に対する対価を支払い、したがって、賃金は資本家自身の前払いに他ならないものです。

しかし、生産過程が繰り返されれば、実際には、資本家は、労働者に支払った貨幣を、生産過程で、資本家が入手した労働力が生み出す新たな価値(価値生産物)によってそっくり補填するのであり、しかもそれ以上の価値(剰余価値)をも入手するのです。したがって、資本家自身の財産からの前払いとして現われた賃金は、この再生産過程を通じて、実際にはそれが労働者自身によって生み出される価値の一部に他ならないことが明らかです。労働者は、絶えず自分が資本家から受け取る賃金と同じ額の価値を生産過程で資本家のために生み出してやり、さらにそれ以上の価値を生み出しているのです。

すなわち、労働者は、自分が受け取る賃金の代わりに、それと等価の労働力商品を資本家に譲り渡すだけでなく、それを繰り返し購入するための価値を絶えず資本家のために生産してやっているのです。通常、私がある商品を購入すれば、その貨幣は永遠に私のもとから去り、私の手元にはそれと等価の価値を持った商品が残るだけです。私がその商品を繰り返し購入するためには、それに必要な貨幣を絶えず別のところから調達しなければならない。しかし、労働力という商品は、それを繰り返し購入するための貨幣を絶えずその買い手に生み出してやるのであり、こうしてこの購入を永続的なものにすることができるのである。逆に労働者はそのような力能を賃金と引き換えに手放し、資本家に譲り渡してしまうのです。

第4に、再生産の繰り返しは、単に賃金を労働者自身がつくり出した価値からの分与に転化させるだけでなく、本来は資本家の最初からの所有物であったはずの原資本をも事実上、労働者自身がつくり出した剰余価値の塊に転化させるものです。これはどういうものかというと。資本家は何らかの手段を用いて蓄積した資本を元手に生産過程を開始しす。彼が最初に持っていた資本は、他人から盗んだり騙したりして手に入れた貨幣かもしれないが、しかし、少なくとも彼がその所有者として交換過程に登場するかぎりでは、その来歴は問われず、彼が所有しているものは合法的で正当なものであると想定されす。そして、実際にはそれは合法的に入手したものかもしれない。彼がこつこつと働いて貯めたお金かもしれないし、親から受け継いだ動産かもしれません。あるいは宝くじに当たって得たお金かもしれません。いずれにしても、彼はその原資本を自己の正当な所有物として手にしているわけです。しかし、資本家が最初に有しているこの原資本の起源が何であれ、再生産を繰り返すうちにこの原資本は事実上、剰余価値の塊となってしまいます。なぜなら、彼は対価なしに労働者から搾取した剰余価値を個人的に消費してしまい、使い果たしてしまうからです。彼が剰余価値を搾取していなければ、彼が消費したお金は彼自身の財産から支出しなければならなかったはずです。さもなければ、他人からお金を借りなければならなかったはずです。たとえば、原資本を1000Gとし、そこから獲得される剰余価値を200Gだとしす。彼はこの獲得された200Gを個人的に消費してしまう。もし彼が剰余価値を労働者から搾取していなければ、この消費された200Gは彼自身の財産から補填されるか、あるいは他人からお金を借りて補填されなければなりせん。あるいは、購入先である売り手への債務として残ることになるでしょう。いずれにせよ、その分は最終的に彼の財産でもって清算されなければならないのです。

このようにして、生産のこの1期目において、彼の原資本1000Gのうち200Gは事実上、剰余価値の体化物となり、次に生産の2期目が起こります。この2期目も1期目と同じ規模で生産が行われるわけであるから、他の諸事情が同じだとすれば、やはり剰余価値200Gが最終的に獲得される。資本家はこの200Gも個人的に消費してしまう。こうして、彼の原資本1000Gのうち400Gは剰余価値の塊となのす。こうして生産が3期目、4期目と繰り返され、5期目となると、彼の原資本1000Gは一つ残らず剰余価値の体化物となります。なぜなら、もし剰余価値を労働者から奪い取っていなければ、彼は借金しなければならず、したがって5期目の終わりには、彼は自分が持っている1000Gのすべてでもってその借金を清算しなければならないからです。実際には借金の場合は利子が発生するので、1000Gでも足りないのですが、少なくとも1000Gはもはや彼の手元に残りません。このように考えるならば、資本家は単純再生産を繰り返すだけで、事実上、彼の原資本を剰余価値の塊に変えてしまっているのです。これは市場や交換の表面的連関を見ているかぎりけっしてわからないことであり、マルクス経済学によって明らかにされた最も重要な洞察の一つです。

しかし、理論的にはそうだとはいえ、商品交換の形式的メカニズムの上では、資本家は何期生産を繰り返そうとも、どれほど個人的消費を繰り返そうとも、自己の原資本を自己の正当な所有物として保持し続けるし、彼らはけっしてそれが事実上労働者から奪ったものの塊になっているとか、ましてや労働者に借金を負っているなどとは思わないでしょう。しかし、もし労働者が全体としてこの内的連関に気がついて、資本家たちの所有している工場や機械や商品資本、資本家たちが個人的に享受している高級車や邸宅やクルーズや高級宝飾品などの一切合財がが、本当は労働者から奪い取った剰余価値の塊に好きないことを知り、その返還を要求したらどうなるだろうか?

このように資本制的な生産過程は、その過程の進行をつうじて、労働力と労働条件の切り離しを再生産する。資本制的な生産過程はこれによって、労働者の搾取条件を再生産し、永続化する。労働者には、生きるためにたえず自分の労働力を売るように強制し、資本家には、さらに豊かになるためにたえず労働力を買うことができるようにしている。資本家と労働者を、買い手と売り手として商品市場で向き合わせているのは、もはや偶然の力ではない。労働者を労働力の売り手としてつねに商品市場に投げ戻し、労働者自身の生産物をたえず資本家の購入手段に変えさせているのは、この過程そのものの目的に適った仕組みなのである。実際には労働者は自分を資本家に売る前から、すでに資本そのものである。労働者の経済的な隷属は、労働者の自己売却が周期的に更新され、その雇用主が次々と替わり、労働市場の価格が変動することによって媒介され、そして隠蔽されているのである。

こうして資本制的な生産過程を、全体との連関において再生産過程として観察するならば、たんに商品を生産しているだけではなく、増殖価値を生産しているだけではなく、資本関係そのもの、すなわち一方には資本家を、他方には労働者を生産し、再生産しているのである。

リンク                    .

第19章 出来高賃金に戻る  

第18章 時間賃金に進む

 

 

 
『資本論』を読むトップへ戻る