資本家が、生産過程で生産される剰余価値をすべて個人的に消費した場合には、必然的に単純再生産が生じることになのます。もちろん、資本の再生産の流れの連続性を維持するためには、実際に単純再生産のためだけであっても、資本家はすべての剰余価値を個人的に消費することはできません。なぜなら、種々の不備の事態(原材料や賃金の高騰、市場の大きさの変化、等々)が生じたときの予備資金が必要であり(臨時的準備金)、それなしには単純再生産さえも維持できないことになるからです。しかし、ここでは問題を単純化するために、流通が順調に進むと仮定し、この予備資金の存在を考えないことにします。
たとえば、最初に投じる前払資本を1000Gとし、それが不変資本(c)と可変資本(v)とに分かれる割合は3:2とし、剰余価値率を100%とすると、前払資本の流れは以下のように図にできます。
600c
1000G−1000W……P……1400W´−1400G´
400v−400m
この資本循環においては、原資本1000Gが1400Gに転化しており、400Gだけ価値が増殖しています。しかし、生産過程において抽出されたこの剰余価値400Gは結局すべて資本家によって個人的消費に使われるので、2期目の生産も最初と同じく1000Gの前払貸資本から出発することになります。
しかし、不変資本600cのうち固定資本に相当する部分(機械や工場など)は1回の生産ごとに更新されるのではなく、その耐用期間全体にわたって生産過程にとどまって、その価値が少しずつ生産物に移行するものです。したがって、600cのうち固定資本の価値を体現する部分はそのまま次の生産に回るわけではない。それは資本家のもとで蓄えられて、固定資本が更新されるときに(たとえば5年後か10年後に)まとめて生産過程に投下されるものです。しかも、固定資本はその物的性質に応じて、その耐用年数には大きな差があります。日々技術進歩が行われる最新鋭の機械やパソコンなどであれば、その更新期間は3〜5年でしょう。しかし、工場やオフィスビルのようなものは、その耐用年数は数十年にもなります。したがって、固定資本について考察する際には、これらすべての固定資本の耐用年数の平均値を用いる必要がでてきます。たとえば、総固定資本が平均して5年ごとに更新されると仮定し、その総額が1000Gだとすると、毎年200Gずつ生産過程に価値として入り込むことになる(均等償却の場合)。この200Gは、生産された商品がすべて実現されれば資本家の手元に帰ってくるものですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元に帰ってくるのですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元で、あるいは銀行のもとで、固定資本更新用の準備金(長期的準備金)を形成します。そして5年かけて1000Gになった時点で、この1000Gが生産過程に投下されるのである。しかし、このような複雑な関係はここでの単純な再生産モデルにとっては外的な事情であるので、ここでは、計算を簡単にするために、このような固定資本更新のための蓄積を考えないことにし、不変資本600cがまるごと次期生産にも投下されると仮定します。
さて、このような単純再生産は、量的に見れば、何度繰り返されても─その他の諸事情が同一であるかぎり─、事態をいささかも変えるものではないわけです。1000Gは循環の終わりには1400Gの貨幣となり、そのうち400Gが個人的に消費されて、再び次の生産では1000Gが出発点となり、したがってやはり循環の終わりには同じ1400Gになるというわけです。しかし質的に見れば、このような単純な再生産の繰り返しであっても、さまざまな重要な変化が生じることになります。
まず第一に、単純再生産の繰り返しは、単に絶えず剰余価値を生産するだけではなく、資本・賃労働関係そのものを、資本主義的生産関係そのものを再生産することになります。というのも、労働者が得る賃金は自己の労働力を再生産することしかできない額に限定されているので、労働力が持っている価値増殖力が資本に奪われてしまっているからです。それゆえ、労働者は、自分(および家族)が生きていくのに必要な支出に賃金を使い果たしてしまった後は、再び無一文になってしまい(もちろん、耐久消費財の購入のためや子供の教育費のため、あるいは自分の老後のために一定の貯金はするのだが、この貯金も結局は未来のある時点で消費されることがあらかじめ決まっている)、それゆえ再び資本家のもとで賃労働者として働くことを余儀なくされるのです。
したがって、労働者は常に絶えず資本のもとに返ってこざるをえず、資本のために剰余価値を生産することを条件に賃金を獲得することしかできません。このような生産的地位はやがて子供の世代にも受け継がれ、生産関係が世代的にも再生産されます。このような生産関係の世代的再生産は、一方では、労働力価値のうちに次世代労働者を一人前の年齢にまで養うことを可能にする部分が含まれることと、他方では、世代を超えても労働者の地位を脱することを可能にするような貨幣蓄蔵を平均的労働者に対して不可能にしていること、という2つの条件を前提にしており、これらの前提が守られるかぎり、賃労働者としての地位は世代的に受け継がれていくことになります。
このような労働者としての地位の恒常的な再生産、さらには世代を超えての再生産は、賃労働者の集団を一個の階級として固定化することを意味します。このようにして賃労働者は客観的に労働者階級としての社会的地位を形成することになりす。客観的な意味での労働者階級の形成は、まず第一に、二重の意味で自由な労働者として労働力を資本家に売ることで生活せざるをえないという本源的条件、第二に、資本による実質的包摂を通じて階級離脱の可能性が縮小していくという生産関係的条件、第三に、協業、分業、機械化などを通じての労働者の結合と集団化がしだいに進行するという空間的条件、第四に、賃労働者としての地位が世代的に受け継がれるという時間的条件などに基づくものです。主体的な意味での階級形成(文化的・生活習慣上の共通性、階級的自覚の発展、経済的・政治的団結、等々)については、ここでは対象外として触れられていません。
他方で、資本家の側では、賃金と引き換えに労働者のこの価値増殖力を絶えずわがものとすることによって、絶えず自己を資本家として再生産し、したがってまた労働者の労働力を購入する権力を持った者として自己を再生産することになります。資本家も資本家階級となるのです。このようにして、資本主義的生産関係そのものが絶えず再生産され、世代的に受け継がれていくことによって、労働者階級と資本家階級との階級関係もまた形成され再生産されていくひとになります。
第二に、単純再生産が繰り返されることで、資本は周期的にある一定額の自由に処分可能な貨幣(すなわち剰余価値)を獲得することになります。資本家は(単純再生産を前提にするかぎり)それをすべて個人的消費に用いるのですが、しかし原資本に相当する部分を絶えず次の生産に投資し続けている限り、資本家はその後もずっとこの一定額の貨幣を得ることができるわけです。このように周期的に繰り返される何らかの行為ないし何らかの「物」の所有の結果として、自由に処分可能な一定額の貨幣が周期的に懐に入ってくる場合、それは収入ないし所得という形態をとることになります。資本家の場合、それは資本の所有から得られる、あるいは資本投資という行為から得られる収入ないし所得という形態をとり、労働者の賃金は労働という行為から得られる収入ないし所得という形態をとることになります。
このように、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣が、それが資本から生じているのであれ労働から生じているのであれ、それぞれの現実の起源を無視して「収入」ないし「所得」という抽象的形態で総括されることによって、あるいはそのようなものとして社会的に承認されることによって、生産過程における剰余価値の生産と搾取という現実的連関はますますもって覆い隠され、神秘化され、目に見えないものになります。ここでの連関は、ただ一定の「物」ないし「行為」と、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣というまったく外面的な連関でしかないのです。
第3に、資本家が労働力商品と引き換えに労働者に支払う賃金の元本は、生産過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本でした。資本家はその手持ち資金から労働力商品に対する対価を支払い、したがって、賃金は資本家自身の前払いに他ならないものです。
しかし、生産過程が繰り返されれば、実際には、資本家は、労働者に支払った貨幣を、生産過程で、資本家が入手した労働力が生み出す新たな価値(価値生産物)によってそっくり補填するのであり、しかもそれ以上の価値(剰余価値)をも入手するのです。したがって、資本家自身の財産からの前払いとして現われた賃金は、この再生産過程を通じて、実際にはそれが労働者自身によって生み出される価値の一部に他ならないことが明らかです。労働者は、絶えず自分が資本家から受け取る賃金と同じ額の価値を生産過程で資本家のために生み出してやり、さらにそれ以上の価値を生み出しているのです。
すなわち、労働者は、自分が受け取る賃金の代わりに、それと等価の労働力商品を資本家に譲り渡すだけでなく、それを繰り返し購入するための価値を絶えず資本家のために生産してやっているのです。通常、私がある商品を購入すれば、その貨幣は永遠に私のもとから去り、私の手元にはそれと等価の価値を持った商品が残るだけです。私がその商品を繰り返し購入するためには、それに必要な貨幣を絶えず別のところから調達しなければならない。しかし、労働力という商品は、それを繰り返し購入するための貨幣を絶えずその買い手に生み出してやるのであり、こうしてこの購入を永続的なものにすることができるのである。逆に労働者はそのような力能を賃金と引き換えに手放し、資本家に譲り渡してしまうのです。
第4に、再生産の繰り返しは、単に賃金を労働者自身がつくり出した価値からの分与に転化させるだけでなく、本来は資本家の最初からの所有物であったはずの原資本をも事実上、労働者自身がつくり出した剰余価値の塊に転化させるものです。これはどういうものかというと。資本家は何らかの手段を用いて蓄積した資本を元手に生産過程を開始しす。彼が最初に持っていた資本は、他人から盗んだり騙したりして手に入れた貨幣かもしれないが、しかし、少なくとも彼がその所有者として交換過程に登場するかぎりでは、その来歴は問われず、彼が所有しているものは合法的で正当なものであると想定されす。そして、実際にはそれは合法的に入手したものかもしれない。彼がこつこつと働いて貯めたお金かもしれないし、親から受け継いだ動産かもしれません。あるいは宝くじに当たって得たお金かもしれません。いずれにしても、彼はその原資本を自己の正当な所有物として手にしているわけです。しかし、資本家が最初に有しているこの原資本の起源が何であれ、再生産を繰り返すうちにこの原資本は事実上、剰余価値の塊となってしまいます。なぜなら、彼は対価なしに労働者から搾取した剰余価値を個人的に消費してしまい、使い果たしてしまうからです。彼が剰余価値を搾取していなければ、彼が消費したお金は彼自身の財産から支出しなければならなかったはずです。さもなければ、他人からお金を借りなければならなかったはずです。たとえば、原資本を1000Gとし、そこから獲得される剰余価値を200Gだとしす。彼はこの獲得された200Gを個人的に消費してしまう。もし彼が剰余価値を労働者から搾取していなければ、この消費された200Gは彼自身の財産から補填されるか、あるいは他人からお金を借りて補填されなければなりせん。あるいは、購入先である売り手への債務として残ることになるでしょう。いずれにせよ、その分は最終的に彼の財産でもって清算されなければならないのです。
このようにして、生産のこの1期目において、彼の原資本1000Gのうち200Gは事実上、剰余価値の体化物となり、次に生産の2期目が起こります。この2期目も1期目と同じ規模で生産が行われるわけであるから、他の諸事情が同じだとすれば、やはり剰余価値200Gが最終的に獲得される。資本家はこの200Gも個人的に消費してしまう。こうして、彼の原資本1000Gのうち400Gは剰余価値の塊となのす。こうして生産が3期目、4期目と繰り返され、5期目となると、彼の原資本1000Gは一つ残らず剰余価値の体化物となります。なぜなら、もし剰余価値を労働者から奪い取っていなければ、彼は借金しなければならず、したがって5期目の終わりには、彼は自分が持っている1000Gのすべてでもってその借金を清算しなければならないからです。実際には借金の場合は利子が発生するので、1000Gでも足りないのですが、少なくとも1000Gはもはや彼の手元に残りません。このように考えるならば、資本家は単純再生産を繰り返すだけで、事実上、彼の原資本を剰余価値の塊に変えてしまっているのです。これは市場や交換の表面的連関を見ているかぎりけっしてわからないことであり、マルクス経済学によって明らかにされた最も重要な洞察の一つです。
しかし、理論的にはそうだとはいえ、商品交換の形式的メカニズムの上では、資本家は何期生産を繰り返そうとも、どれほど個人的消費を繰り返そうとも、自己の原資本を自己の正当な所有物として保持し続けるし、彼らはけっしてそれが事実上労働者から奪ったものの塊になっているとか、ましてや労働者に借金を負っているなどとは思わないでしょう。しかし、もし労働者が全体としてこの内的連関に気がついて、資本家たちの所有している工場や機械や商品資本、資本家たちが個人的に享受している高級車や邸宅やクルーズや高級宝飾品などの一切合財がが、本当は労働者から奪い取った剰余価値の塊に好きないことを知り、その返還を要求したらどうなるだろうか?