労働者階級の消費
われわれが、個々の資本家と個々の労働者とにではなく、資本家階級と労働者階級とに目を向け、商品の個別的生産過程ではなく、資本主義的な生産過程をその流れとその社会的な広がりとのなかで見るならば、事態は別の様相を呈してくる。─資本家が彼の資本の一部分を労働力に転換すれば、それによって彼は彼の総資本を増殖する。彼は一石で二鳥を落とす。彼は、自分が労働者から受けとるものからだけでなく、自分が労働者に与えるものからも利得する。労働力と引き換えに手放される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉や神経や骨や脳を再生産して新しい労働者を生みだすことに役だつ。それゆえ、絶対的に必要なものの範囲では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である。つまり、労働者の個人的消費は、それが作業場や工場などのなかで行われようと外で行なわれようと、労働過程のなかで行われようと外で行われようと、つねに資本の生産および再生産の一契機なのであって、ちょうど機械の掃除が、労働過程で行なわれようとその一定の中休み時間に行われようと、つねに資本の生産および再生産の一契機であるようなものである。労働者は自分の個人的消費を自分自身のために行なうのであって資本家を喜ばせるために行なうのではないということは、少しも事柄を変えるものではない。たとえば、役畜の食うものは役畜自身が味わうのだからといって、役畜の行なう消費が生産過程の一つの必然的な契機だということに変わりはないのである。労働者階級の不断の維持と再生産も、やはり資本の再生産のための恒常的な条件である。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せておくことができる。彼は、ただ、労働者たちの個人的消費をできるだけ必要物に制限しておくように取り計らうだけであって、かの労働者に養分の少ない食物よりも養分の多い食物をむりやりとらせようとする南アメリカ的な粗野に比べれば、天地の隔たりがあるのである。
それゆえ、資本家も、その理論的代弁者である経済学者も、労働者の個人的消費のうちでただ労働者階級の永久化のために必要な部分だけを、つまり資本が労働力を消費するために実際に消費されなければならない部分だけを、生産的とみなすのである。そのほかに労働者が自分の快楽のために消費するものがあれば、それは不生産的消費なのである。もしも資本の蓄積が労賃の引き上げをひき起こし、したがって資本によるより多くの労働力の消費なしに労働者の消費手段の増加をひき起こすとすれば、追加資本は不生産的に消費されることになるであろう。実際には、労働者の個人的消費は彼自身にとって不生産的である。というのは、それはただ貧困な個人を再生産するだけだからである。それは資本家や国家にとっては生産的である。というのは、それは他人の富を生産する力の生産だからである。
こういうわけで、社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。しかし、この過程は、このような自己意識のある生産用具が逃げてしまわないようにするために、彼らの生産物を絶えず一方の極の彼らから反対極の資本へと遠ざける。個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産とが行なわれるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えず繰り返し労働市場に現われるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者には見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。
以前は、資本は、自分にとって必要だと思われた場合には、自由な労働者にたいする自分の所有権を強制法によって発動させた。たとえば、機械労働者の移住はイギリスでは1815年に至るまで重刑をもって禁止されていた。
個々の資本家や労働者ではなく資本家階級労働者階級として見ると、個別の商品の生産過程ではなく資本主義的生産過程の流れを社会の中で見てみると、異なった状況が見えてきます。資本家が資本の一部を労働力に転換すると、それによって全体の資本を増殖させることになります。これは、資本家は労働者から受け取るものから利益を得るだけでなく、労働者に与えるものからも利益を得るわけで、資本家にとっては一石二鳥です。というのも、労働力と交換に支出された資本は生活手段に転化し、この生活手段の消費は、労働する労働者の筋肉、神経、骨、頭脳という生産手段を再生産し、さらに新たな労働者を生みだすからです。
したがって、労働者階級の個人的消費は、労働者の生存に必要な範囲で、労働力と引き換えに資本で得た生活手段が、資本によって新たに搾取できる労働力に再び変化することに他なりません。資本家にとって、それは生産手段である労働者の生産であり再生産ということになります。ということは、労働者の個人的な消費は資本の生産と再生産に直結するのです。工場の生産設備のメンテナンスと同じようなものと言うことができます。たしかに、労働者としては、なにも資本家のために個人的な消費をしているわけでなく、例えば食費は自分が食べたいから、自分の空腹を満たすために金を使うわけです。しかし、それは例えば、牧場の牛が空腹を満たすために餌を食べているのが、食肉の生産になっているのと同じなのです。
労働者階級が維持されているというのは、資本の再生産に必要な条件です。資本家は、この必要条件が満たされているかを気にしなくても、労働者の生存本能と生殖本能に任せておけば、自然と満たされることになっています。資本家が気にするのは、労働者の個人的な消費を最小限に抑えることです。だからこそ、資本家も経済学者も、労働者の個人的な消費の中でも、労働者階級がずっと生き残るために必要な部分だけを生産的な消費とみなすのです。この労働者階級が生き残るために必要な部分とは、資本が労働力を消費するために実際にどうしても必要な部分でもあるからです。そして、この部分を超えて、労働者が消費するのは、彼が自らの楽しみのために消費する非生産的な消費とみなします。
もしも資本の蓄積が労働賃金の総額を増やすことになり、それによって資本がより多くの労働力を消費、つまり労働者や労働時間を増やすのではなく、労働者個人の賃金を増やして、彼の個人的な消費が多くなるようになったとしたら、その資本は非生産的に消費されたことになります。しかし、事実としては、労働者の個人的な消費は、結果として彼自身にとっては非生産的です。それは困窮した個人としての労働者を再生産するだけだからです。しかし、このことが資本家と国家には生産的です。それは、労働者の再生産は自身のではなく他人の富を生産するためのものだからです。
このように社会的な観点からは、労働者階級は生産機械や道具などと同じような資本の附随物です。労働者階級の個人的な消費ですら、一定限度内では蒸気機関の燃料と同じように資本の再生産過程に属します。資本の再生産過程は、機械と違って自意識を持っている労働者が嫌気をさして逃げてしまわないように気を付けながら、労働者が生産した生産物が労働者の手元から引き離されて資本家の手元に運ばれるようにしているということです。
労働者の個人的な消費によって、一方では労働者階級の生存と再生産が確保されるのは、他方では生活手段を使い尽くしてしまうことによって労働市場から離れられなくすることが重要です。古代ローマの奴隷は鎖で縛られてしましたが、賃金労働者は見えない鎖によって資本家に縛られているのです。賃金労働者は外見上は独立して見えますが、それは契約という法的な擬制によって、そう見えているだけです。
単純再生産であれ、それがおよそ継続可能であるためには剰余価値の生産を条件とします。単純再生産が再生産するものはたんなる商品ではなく、剰余価値であり、たんなる剰余価値ですらなく、資本主義制的生産の出発点です。この出発点そのものが、資本主義的な生産の結果としてたえず繰り返し生産され、永遠化されるものです。資本主義では労働者が賃金労働者として前提され、その前提が生産されて、再生産される。この生産-再生産こそが資本主義的生産の必要条件です。
労働者は、生産現場では生産的消費をおこない商品を生産するほかに、労働力の対価として支払われた貨幣によって生活し、それによって必要生活手段を購入します。この局面は労働者の個人的消費です。この労働者による個人的消費すら資本の生産及び再生産の一契機なのであり、階級としての労働者の維持と再生産それ自体が資本の再生産のための恒常的条件となるのです。労働者はたしかにじぶんのために飲み、じぶんのために食べる。しかしたとえば役畜の食うものは役畜自身が享受するからといって、役畜のおこなう消費が生産過程となって一個の必然的な契機であることに、なんら変更はないわけです。労働者階級は直接的な生産過程の外部でも、生命のない労働用具とおなじように資本の付属物にすぎないのです。労働者はたしかにたんなる奴隷、資本制の奴隷ではないでしょう。しかしローマの奴隷は鎖によって賃金労働者は見えない糸によって、やはりそれぞれ所有者に繋がれているのです。
しかしわたしたちが個々の資本家や労働者ではなく、資本家階級と労働者階級を観察してみると、そして商品の個別の生産過程ではなく、資本制的な生産過程をその流れと社会的な規模において観察してみると、違った状況がみえてくる。資本家が資本の一部を労働力に転換すると、それによって全体の資本を増殖させることになる。これは資本家にとっては一石二鳥である。資本家は労働者から受けとるものから利益をえるだけではなく、自分が労働者に与えるものからも利益をえるのである。というのは、労働力と交換に支出された資本は、[労働者が自分のために購入する]生活手段に変わるのであり、この生活手段の消費は、働いている労働者の筋肉、神経、骨、頭脳を再生産し、さらに新たな労働者を生みだすのに役だつからである。
だから労働者階級の個人的な消費は、[労働者の生存に]絶対的に必要な範囲では、労働力とひきかえに資本から渡された[貨幣で購入した]生活手段が、資本によって新たに搾取できる労働力にふたたび変化することにほかならない。それは資本家にとって、もっとも不可欠な生産手段である労働者そのものを生産することであり、再生産することである。
したがって労働者の個人的な消費は、それが作業場や工場の内部で行われるか外部で行われるかにかかわりなく、資本の生産と再生産を構成する要因であることに変わりはない。それは機械の掃除が、労働過程のあいだに行われるか労働過程のうちに定められた休憩時間に行われるかにかかわりなく、生産と再生産を構成する要素であるのと同じである。
たしかに労働者の個人的な消費はみずからのために行われるのであって、資本家のために行われるわけではないが、それは問題ではない。役畜は自分が食べている餌を楽しんで食べているかもしれないが、役畜の行う消費が生産過程に必要な要因であることに変わりはないのと同じである。
労働者階級がたえず維持されるのは、資本の再生産のために必要な条件でありつづける。資本家は、この条件が満たされるかどうかを懸念する必要はなく、労働者の自己保存本能と生殖本能に安心して任せておくことができる。資本家が配慮するのは、労働者の個人的な消費をできるだけ最小限に抑えることである。その点で[西欧の]資本家は、労働者に栄養のない食べ物ではなく、栄養価の高い食べ物をむりやり食べさせる南アメリカの粗野なやり方とは、天と地ほども違うのである。
だからこそ資本家もそのイデオローグたる経済学者たちも、労働者の個人的な消費のうち、労働者階級が永続するために必要な部分だけは、すなわち資本が労働力を消費するために実際にどうしても消費されねばならない部分だけは、生産的な消費とみなすのである。そしてこの部分を超えて、労働者がみずからの楽しみのために消費するような部分は、非生産的な消費とみなすのである。
もしも資本の蓄積が労働賃金を引き上げ、それによって資本がより多くの労働力を消費するのではなく、労働者がより多くの消費手段を消費するようになるのであれば、追加された資本は非生産的に消費されたということになるのだろう。しかし事実としては、労働者の個人的な消費は労働者自身にとっては非生産的である。それは困窮した個人を再生産するだけだからである。ところがこれは資本家と国家にとっては生産的である。これは[労働者にとっては]他者の富を生産する力を生産することだからである。
このように社会的な観点からみると労働者階級は、直接的な労働過程の外部にあっても、死せる労働道具と同じように、資本の付随物である。労働者階級の個人的な消費ですら、ある限度までは資本の再生産過程を構成する要因にすぎない。しかしこの資本の再生産過程は、自意識をそなえた生産道具が逃げ去らないように配慮しながら、労働者が作りだした生産物が、片方の極である労働者の手元から引き離されて、その対極となる資本のもとに運ばれるようにしているのである。
個人的な消費によって、一方では労働者階級の自己保存と再生産が確実に行われるようになるが、他方ではこれによって生活手段が消尽され、労働者階級がたえず労働市場にもどってくることが重要なのである。ローマ時代の奴隷は鎖で縛られていたが、賃金労働者には見えざる糸によって、みずからの所有者に縛られている。賃金労働者の見掛けだけの独立性は、個々の雇い主がたえず替わることと、契約という法的な擬制によって維持されているのである。
かつて資本は、必要と思われたときには、自由な労働者にたいするみずからの所有権を強制法によって確保していた。たとえば、イギリスでは、1815年までは機械労働者の移住が、厳しい罰則によって禁止されていたのである。
労働者階級の再生産の意味
労働者階級の再生産には同時に、世代から世代への技能の伝達と蓄積とを含んでいる。このような熟練労働者階級の存在を、どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え、この階級を実際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは、恐慌にさいしてこのような階級がなくなるおそれが生ずれば、たちまち明らかになる。アメリカの南北戦争と、それに伴っておきた綿花飢饉とのために、人の知るように、ランカシャやその他の地方でなどで多数の綿業労働者が街頭に投げ出された。労働者階級自身のなかからも、その他の社会層からも、イギリスの植民地や合衆国への「過剰者」の移住を可能にするために国家の補助や国民の自発的寄付を求める叫びがあがった。そのとき、『タイムズ』(1863年3月24日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポッターの一つの書簡を公表した。彼の書簡は、適切にも、下院では「工場主宣言」と呼ばれた。ここでは、そのなかから、労働力にたいする資本の所有権があからさまに表明されているいくつかの特徴的な箇所をあげておこう。
労働者階級の再生産は、また、ある世代から次の世代へと、熟練技能を継承し、蓄積するという意味もあります。資本家は、熟練した労働者を必要な生産条件のひとつとみなし、実際に可変資本の現実の存在とみなしています。それは恐慌によって、そういう労働者がなくなるおそれが生じた時に明らかになります。例えば、アメリカの南北戦争によって綿花の輸入が激減し、ランカシャーの木綿工業の工場の稼働率が大幅に低下したとき、労働者が余ってしまった。この時のエドマンド・ポッターの「工場主宣言」に、それがあからさまに語られています。
労働者階級の再生産には同時に、一つの世代から次の世代へと、熟練技能を伝承し、蓄積するという意味がある。資本家は、このように熟練した労働者階級が存在することを、必要な生産条件の一つとみなしており、実際に可変資本の現実の存在そのものとみなしています。そのことは恐慌によってその存続が危ぶまれる事態になると、あらわに示される。アメリカの南北戦争とそれにともなう綿花飢饉によって、ランカシャーなどでは木綿工業の多数の労働者が路上に放りだされたのは周知のことである。他の社会層だけでなく労働者階級のうちからも、「余剰人口」をイギリスの植民地かアメリカ合衆国に移住できるようにするための国の補助や自発的な国民募金を求める声が高くなった。
当時『タイムズ』紙(1863年3月24日)はマンチェスター商業会議所の元会長のエドマンド・ポッターの書簡を掲載した。この書簡は下院では「工場主宣言」と呼ばれたが、それはもっともなことだった。ここでは労働力にたいする資本の所有権があからさまに語られている典型的な文章をいくつか引用することにしよう。
工場主宣言
「綿場労働者には次のように言ってよい。彼らの供給は大きすぎる。…それは、おそらく3分の1は減らされなければならない。そうすれば、残った3分の2にたいする健全な需要が現われるであろう。…世論は移民を促している。…雇用主(すなわち木綿工工場主)は、自分の労働供給が取り去られるのを見て喜んではいられない。彼はそれを不正とも不法とも思うであろう。…もしも移民が公共の財源から援助を受けるとすれば、雇い主には、意見を述べる権利があり、また、おそらくは抗議する権利があるであろう。」
同じポッターはさらに続けて次のようなことを論じている。すなわち、綿業がどんなに有益かということ、「それは疑いもなく人口をアイルランドからイングランドの農業地帯からも流し去った」ということ、その規模がどんなに巨大かということ、それは1860年にはイギリスの全輸出貿易高の13分の5を供給したということ、それは数年後にはさらに市場の拡大、ことにインド市場の拡大によって、また十分な「綿花供給1ポンド当たり6ペンスで」無理取りすることによって、かくちょうされるであろうということがそれである。それから彼は次のように続ける。
「時が─たぶん1年か2年か3年が─必要量を生産するであろう。…そこで私は尋ねたい、この産業は維持するに値するか、この機械(すなわち生きている労働機械)を整えておくことは労に値するか、そして、これを放棄しようなどと考えるのは最大の愚ではないか!私はそうだと思う。たしかに、労働者が所有物ではないし、ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが、彼らは両者の強みであり、精神的な、訓練された力であって、この力は一代で補充できるものではない。ところが、もう一つの、彼らが使用するたんなる機械は、大部分は、12カ月で有利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を推奨したり許可したりして(!)いったい資本家はどうなるのか?」。
この心痛は侍従長カルプを思い出させる。
「…労働者の精鋭を取り去ってしまえば、固定資本は非常に減価し、流動資本は劣等な労働のわずかな供給では戦いに身をさらさないであろう。…われわれは、労働者たち自身も移住を希望しているということを聞く。彼らがそれを望むのは非常にもっともである。…綿業の労働力を取り上げることによって、彼らの賃金支出を3分の1とか500万とか減らすことによって、綿業を縮小し圧迫すれば、そのとき労働者たちのすぐ上の階級である小売商人はどうなるだろうか?地代は、小屋代は、どうなるだろうか?小さな農業者、いくらかましな家主、そして地主はどうなるだろうか?そして、このような、一国の最良の工場労働者を輸出し、一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に、一国のすべての階級にとって自殺的な計画がありうるだろうか?」。「私は救済を受ける人々の道徳的水準を維持するために、ある種の強制労働を伴う特別な法律的取締りのもとに、綿業地帯の救貧局に付設される特別委員会の管理する2年か3年にわたる500万か600万の貸付を勧告する。…大規模な、あとをからにしてしまう移民と、一地方全体の価値と資本とをなくしてしまうことによって、彼らの最良の労働者を捨て去り、あとに残った人々を堕落させ無気力にするということ、地主や雇い主にとってこれ以上悪いことがありうるだろうか?」。
綿業工場主たちの選り抜きの代弁者ポッターは、「機械」の2つの種類を区別している。それはどちらも資本家のものであるが、一方は彼の工場のなかにあり、他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく、他方は生きている。生命のない機械は、毎日損傷して価値を失ってゆくだけではなくて、その現に存在する大群のうちの一大部分が不断の技術的進歩のために絶えず時代遅れになってゆき、わずか数カ月でもっと新しい機械と取り替えることが有利になることもある。反対に、生きている機械は、長もちがすればするほど、代々の技能を自分のうちに積み重ねれば重ねるほど、ますます改良されてゆくのである。『タイムズ』はこの大工場主に向かってなかんずく次のようにこう答えた。
「F・ポッター氏は、綿業工場主の非常な重要さを痛感するあまり、この階級を維持しその職業を永久のものにするために、50万の労働者階級をその意志に反して一つの大きな道徳的救貧院のなかちに閉じ込めようとしている。この産業は、維持するに値するか?とポッター氏は問う。たしかに値する。あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を整えておくことは労に値するか?とさらにポッター氏は問う。われわれはここではたと立ち止まる。機械とポッター氏が言うのは人間機械のことである。なぜならば、彼は、自分はそれを絶対的所有物として取り扱うつもりはない、と断言しているからである。じつを言えば、われわれは、人間機械を整えておくこと、すなわち、必要になるまでそれぞれを閉じ込めて油を塗り込んでおくことが『労に値する』とは思わないし、また可能だとさえも思わないのである。人間機械には、いくら油を塗っても磨きをかけても働かずにいれば錆びるという性質がある。そのうえ、人間機械は、一見してわかるように、かってに蒸気をおこして破裂したり、われわれの大都市であばれ回ったりすることもできる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産にはいくらか長い時間がかかるかもしれないが、しかし、機械技術者と貨幣とがあれば、いつでもわれわれは勤勉で屈強な働き手を見いだすだけであろうし、それによって、われわれが使いきれないほどの多くの工場主を製造するであろう。…ポッター氏は、1年か2年か3年でこの産業が復活するもののように言って、われわれに、労働力の移住を奨励したり許可したりしないことを望んでいる!労働者の移住を望むのは当然だ、と言う。しかし、彼の考えるところでは、この国は、この50万人の労働者とこれにたよっている70万人とを、彼らの希望に反して、綿業地帯に閉じ込め、その必然の結果である彼らの不満を暴力で抑えつけ、彼らを施し物でやしなわなければならないのであり、しかも、いっさいは、工場主たちがいつか再び彼らを必要とするかもしれないということをあてにしてのことなのである。…『この労働力』を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うために、この島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」
この『タイムズ』の論説は、ただの知恵くらべでしかなかった。「大きな世論」というのは、じつは工場労働者は工場の付動産だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼ら移住は阻止された。人々は彼らを綿業地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込められた。そして、彼らは相変わらず「ランカシャの綿業工場主たちの強み」となっているのである。
「木綿工場の労働者には、次のように言えるかもしれない。諸君の供給は多すぎる。…供給はおそらく3分の1に減らさねばならないかもしれない。そうすれば残りの3分の2には、健全な需要が生まれてくるだろう、と。…世論は移民を強く求めている。…雇用主は(木綿工業の工場主はということだ─マルクス)、労働の供給が減るのを喜んで眺めていることはできない。雇用主としては、それは不公平で不正なことと考えるだろう。…移民が公的な基金の援助を受けるのであれば、雇用主は公聴会を要求し、場合によっては抗議する権利を保有する」。
ポッターはさらにつづけて、木綿工業がきわめて有益なものであり、「アイルランドとイギリスの農業地域から住民を吸いあげたことは疑問の余地がない」こと、木綿工業が巨大な規模をそなえているのは、1860年にイギリスのすべての輸出高の13分の5を占めていることからも明らかであること、これから数年後には、市場の拡大、とくにインド市場の拡大によってふたたび拡大に向かう見込みであり、「ポンドあたり6ペンス」の価格で十分な「綿花供給」を行うことができるようになることを論じる。そして次のようにつづけるのである。
「しばらく、おそらく1年、2年、3年くらいすれば、必要量が生産されるようになるだろう。…そこでわたしが聞きたいのは、この産業は堅持する価値のあるものではないのか、ということである。わたしは、それは愚かしいことだと考える。わたしは労働者が所有物ではないこと、ランカシャーと雇用主の所有物ではないことを認める。しかし労働者はランカシャーと雇用主にとっての強みなのである。労働者は一世代では埋め合わせることができないような、訓練された精神的な力なのである。これにたいして労働者が使用するたんなる機械類は、その多くが1、2カ月もすればよりよいものに交換できるし、改良できるだろう。労働力の移民が推奨され、あるいは許可(!)されてしまえば、いったい資本家はどうなるのか」。
このあわてぶりは侍従長カルプを思いおこさせる。
「労働者の精鋭を取りさってしまうならば、固定資本はその価値を大幅に失い、流動資本は劣等な労働の乏しい供給を求める闘いに加わるようなことはしないだろう。…労働者がみずから移住を望んでいるというが、彼らがそれを望むのはごく当然のことだ。…木綿工業から労働力を奪い、賃金の支払額をたとえば3分の1あるいは500万ほど減らして、木綿工業を縮小し、圧迫するならば、労働者の上にいる階級はどうなるのか。小売商人たちはどうなるのか、もっとも良質な工場労働者を輸出し、もっとも生産的な資本と富の一部を減価させることによって、国民を弱体化させるこの計画ほど、この国のすべての階級にとって自殺的な計画があるだろうか、答えてほしいのだ」。「わたしは500万から600万の公債を発行し[て困窮者に保護を与え]、2年から3年に分割して[扶助し]、木綿工業地帯の救貧局に設置された特別委員会がそれを管理し、扶助をうけた人々のモラルを維持するために、一定の強制労働を含む特別な法的規制を実行することを提案する。…地主や雇用主にとって、あとには何も残らない移住を拡大し、一地方全体の価値と資本を一掃し、みずからの最良の労働者を手放し、残った労働者の堕落と不満を誘うことほど、悪しきことがあるだろうか」。
木綿工業の工場主の選り抜きの代表であるポッターは、2種類の「機械類」を区別している。どちらも資本家のものだが、片方は工場のうちにあり、他方は夜と日曜日は工場の外の小屋に住んでいる。片方は死んでおり、他方は生きている。死んだ機械類は日々劣化して価値を失っていくだけではなくて、存在しているものの大半も、つねに技術進歩がつづくためにたえず時代遅れになり、数カ月のうちには新しい機械類に取り替えたほうが有利になることもある。これとは逆に生きた機械類は、継続的に使えば使うほど、世代を追って熟練した技能が蓄積され、改善されていく。『タイムズ』紙はこの工場主にこう答えている。
「F・ポッター氏は、木綿工業の雇用主の異例なほどの絶対的な重要性を痛感しているので、この階級を維持し、彼らの仕事を永続させるためには、50万人の労働者階級を、彼らの意志に反してでも、巨大な道徳的な救貧院のうちに閉じ込めようとしている。この産業は維持する価値があるかとポッター氏は問う。われわれはその価値はあるが、ただし公正な手段を使ってのことだと答える。機械類を維持しておくことは努力に値するかどうかと、ポッター氏はふたたび問う。ここでわれわれは面食らう。機械という言葉でポッター氏は人間機械のことを意味しているのだ。というのは彼はその機械類を絶対的な所有物として扱うつもりはないと断言しているからである。人間機械を維持しておくこと、すなわち必要になるまで彼らを閉じ込めておき、それにオイルを差しておくことは努力に値しない、いや不可能であるとわれわれは言わざるをえない。人間機械には、使わないでいると錆びるという性質がある。諸君がどれほどオイルを差したり、磨いたりしてもである。さらにわれわれが目撃しているように、人間機械には自分で蒸気をおこして破裂したり、われわれの大都市で暴れ回ったりすることができる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産には長い時間がかかるかもしれない。しかし機械技術者と貨幣さえ用意すれば、勤勉で屈強な工場労働者をいつでもみつけることができるし、それによってわれわれが使いきれないほどの工場主を製造することができる。…ポッター氏はこの産業が1年、2年、3年で回復できるとおしゃべりしながら、われわれに労働力の移住を奨励しないように、あるいは許可しないようにと求めている。彼は、労働者が移住を望むのは当然だと言う。ところが彼はこの50万人の労働者とその扶養する家族70万人を、彼らの要求に逆らって、木綿工業地帯に閉じ込め、その必然的な帰結として発生する不満を暴力をもって抑圧しなければならず、労働者は施しによって生きていかねばならないというのである。そのすべてが木綿工場の工場主がいつか彼らを雇用できるかもしれないという可能性に賭けてのことである。…これらの〈労働力〉を、彼らを石炭や鉄や木綿と同列に扱おうとする者たちの手から救うために、この島国の偉大な世論が行動しなければならないときが来たのである」。
しかしこのタイムズの記事も、結局は気の利いたゲームにすぎなかった。「偉大な世論」は実際にはポッター氏と同じように、工場労働者は工場の移動式の付属品だと考えていたのである。労働者の移民は妨げられた。彼らは木綿工業の「道徳的な救貧院」に閉じ込められ、それまでと同じように「ランカシャーの木綿工場の工場主の強み」でありつづけたのだった。
労働者の経済的な隷属
こうして、資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである。
こうして、資本主義的生産過程は、連関のなかで見るならば、すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。
資本主義的生産過程は労働力と労働条件の分離を再生産し、これによって労働者の搾取条件を再生産し、永続化させます。労働者には、生きるために自分の労働力を売らざるを得ないように強制し、一方で、資本家には、その労働力を買ってさらに豊かになるようにしています。資本家と労働者を、労働力の買い手と売り手として商品市場で向き合うようになっているのは、偶然とは言えません。労働者を労働力の売り手として常に商品市場に投入させ、その労働者の生産物をたえず資本家の購入手段に転化させているのは、このような過程の目的に適った仕組みなのです。実際には、労働者は自身の労働力を資本家に売る前から、すでに資本に属している。このような労働者の経済的な隷属は、労働者の自身の労働力の売却が周期的に繰り返され、雇用主が替わったり、労働市場の価格が変動することによって隠蔽されています。
資本家が、生産過程で生産される剰余価値をすべて個人的に消費した場合には、必然的に単純再生産が生じることになのます。もちろん、資本の再生産の流れの連続性を維持するためには、実際に単純再生産のためだけであっても、資本家はすべての剰余価値を個人的に消費することはできません。なぜなら、種々の不備の事態(原材料や賃金の高騰、市場の大きさの変化、等々)が生じたときの予備資金が必要であり(臨時的準備金)、それなしには単純再生産さえも維持できないことになるからです。しかし、ここでは問題を単純化するために、流通が順調に進むと仮定し、この予備資金の存在を考えないことにします。
たとえば、最初に投じる前払資本を1000Gとし、それが不変資本(c)と可変資本(v)とに分かれる割合は3:2とし、剰余価値率を100%とすると、前払資本の流れは以下のように図にできます。
600c
1000G-1000W……P……1400W´-1400G´
400v-400m
この資本循環においては、原資本1000Gが1400Gに転化しており、400Gだけ価値が増殖しています。しかし、生産過程において抽出されたこの剰余価値400Gは結局すべて資本家によって個人的消費に使われるので、2期目の生産も最初と同じく1000Gの前払貸資本から出発することになります。
しかし、不変資本600cのうち固定資本に相当する部分(機械や工場など)は1回の生産ごとに更新されるのではなく、その耐用期間全体にわたって生産過程にとどまって、その価値が少しずつ生産物に移行するものです。したがって、600cのうち固定資本の価値を体現する部分はそのまま次の生産に回るわけではない。それは資本家のもとで蓄えられて、固定資本が更新されるときに(たとえば5年後か10年後に)まとめて生産過程に投下されるものです。しかも、固定資本はその物的性質に応じて、その耐用年数には大きな差があります。日々技術進歩が行われる最新鋭の機械やパソコンなどであれば、その更新期間は3~5年でしょう。しかし、工場やオフィスビルのようなものは、その耐用年数は数十年にもなります。したがって、固定資本について考察する際には、これらすべての固定資本の耐用年数の平均値を用いる必要がでてきます。たとえば、総固定資本が平均して5年ごとに更新されると仮定し、その総額が1000Gだとすると、毎年200Gずつ生産過程に価値として入り込むことになる(均等償却の場合)。この200Gは、生産された商品がすべて実現されれば資本家の手元に帰ってくるものですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元に帰ってくるのですが、それは次の生産過程には投下されず、資本家の手元で、あるいは銀行のもとで、固定資本更新用の準備金(長期的準備金)を形成します。そして5年かけて1000Gになった時点で、この1000Gが生産過程に投下されるのである。しかし、このような複雑な関係はここでの単純な再生産モデルにとっては外的な事情であるので、ここでは、計算を簡単にするために、このような固定資本更新のための蓄積を考えないことにし、不変資本600cがまるごと次期生産にも投下されると仮定します。
さて、このような単純再生産は、量的に見れば、何度繰り返されても─その他の諸事情が同一であるかぎり─、事態をいささかも変えるものではないわけです。1000Gは循環の終わりには1400Gの貨幣となり、そのうち400Gが個人的に消費されて、再び次の生産では1000Gが出発点となり、したがってやはり循環の終わりには同じ1400Gになるというわけです。しかし質的に見れば、このような単純な再生産の繰り返しであっても、さまざまな重要な変化が生じることになります。
まず第一に、単純再生産の繰り返しは、単に絶えず剰余価値を生産するだけではなく、資本・賃労働関係そのものを、資本主義的生産関係そのものを再生産することになります。というのも、労働者が得る賃金は自己の労働力を再生産することしかできない額に限定されているので、労働力が持っている価値増殖力が資本に奪われてしまっているからです。それゆえ、労働者は、自分(および家族)が生きていくのに必要な支出に賃金を使い果たしてしまった後は、再び無一文になってしまい(もちろん、耐久消費財の購入のためや子供の教育費のため、あるいは自分の老後のために一定の貯金はするのだが、この貯金も結局は未来のある時点で消費されることがあらかじめ決まっている)、それゆえ再び資本家のもとで賃労働者として働くことを余儀なくされるのです。
したがって、労働者は常に絶えず資本のもとに返ってこざるをえず、資本のために剰余価値を生産することを条件に賃金を獲得することしかできません。このような生産的地位はやがて子供の世代にも受け継がれ、生産関係が世代的にも再生産されます。このような生産関係の世代的再生産は、一方では、労働力価値のうちに次世代労働者を一人前の年齢にまで養うことを可能にする部分が含まれることと、他方では、世代を超えても労働者の地位を脱することを可能にするような貨幣蓄蔵を平均的労働者に対して不可能にしていること、という2つの条件を前提にしており、これらの前提が守られるかぎり、賃労働者としての地位は世代的に受け継がれていくことになります。
このような労働者としての地位の恒常的な再生産、さらには世代を超えての再生産は、賃労働者の集団を一個の階級として固定化することを意味します。このようにして賃労働者は客観的に労働者階級としての社会的地位を形成することになりす。客観的な意味での労働者階級の形成は、まず第一に、二重の意味で自由な労働者として労働力を資本家に売ることで生活せざるをえないという本源的条件、第二に、資本による実質的包摂を通じて階級離脱の可能性が縮小していくという生産関係的条件、第三に、協業、分業、機械化などを通じての労働者の結合と集団化がしだいに進行するという空間的条件、第四に、賃労働者としての地位が世代的に受け継がれるという時間的条件などに基づくものです。主体的な意味での階級形成(文化的・生活習慣上の共通性、階級的自覚の発展、経済的・政治的団結、等々)については、ここでは対象外として触れられていません。
他方で、資本家の側では、賃金と引き換えに労働者のこの価値増殖力を絶えずわがものとすることによって、絶えず自己を資本家として再生産し、したがってまた労働者の労働力を購入する権力を持った者として自己を再生産することになります。資本家も資本家階級となるのです。このようにして、資本主義的生産関係そのものが絶えず再生産され、世代的に受け継がれていくことによって、労働者階級と資本家階級との階級関係もまた形成され再生産されていくひとになります。
第二に、単純再生産が繰り返されることで、資本は周期的にある一定額の自由に処分可能な貨幣(すなわち剰余価値)を獲得することになります。資本家は(単純再生産を前提にするかぎり)それをすべて個人的消費に用いるのですが、しかし原資本に相当する部分を絶えず次の生産に投資し続けている限り、資本家はその後もずっとこの一定額の貨幣を得ることができるわけです。このように周期的に繰り返される何らかの行為ないし何らかの「物」の所有の結果として、自由に処分可能な一定額の貨幣が周期的に懐に入ってくる場合、それは収入ないし所得という形態をとることになります。資本家の場合、それは資本の所有から得られる、あるいは資本投資という行為から得られる収入ないし所得という形態をとり、労働者の賃金は労働という行為から得られる収入ないし所得という形態をとることになります。
このように、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣が、それが資本から生じているのであれ労働から生じているのであれ、それぞれの現実の起源を無視して「収入」ないし「所得」という抽象的形態で総括されることによって、あるいはそのようなものとして社会的に承認されることによって、生産過程における剰余価値の生産と搾取という現実的連関はますますもって覆い隠され、神秘化され、目に見えないものになります。ここでの連関は、ただ一定の「物」ないし「行為」と、周期的に得られる自由に処分可能な貨幣というまったく外面的な連関でしかないのです。
第3に、資本家が労働力商品と引き換えに労働者に支払う賃金の元本は、生産過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本過程の出発点にあっては、資本家自身が所有している財産ないし貨幣資本でした。資本家はその手持ち資金から労働力商品に対する対価を支払い、したがって、賃金は資本家自身の前払いに他ならないものです。
しかし、生産過程が繰り返されれば、実際には、資本家は、労働者に支払った貨幣を、生産過程で、資本家が入手した労働力が生み出す新たな価値(価値生産物)によってそっくり補填するのであり、しかもそれ以上の価値(剰余価値)をも入手するのです。したがって、資本家自身の財産からの前払いとして現われた賃金は、この再生産過程を通じて、実際にはそれが労働者自身によって生み出される価値の一部に他ならないことが明らかです。労働者は、絶えず自分が資本家から受け取る賃金と同じ額の価値を生産過程で資本家のために生み出してやり、さらにそれ以上の価値を生み出しているのです。
すなわち、労働者は、自分が受け取る賃金の代わりに、それと等価の労働力商品を資本家に譲り渡すだけでなく、それを繰り返し購入するための価値を絶えず資本家のために生産してやっているのです。通常、私がある商品を購入すれば、その貨幣は永遠に私のもとから去り、私の手元にはそれと等価の価値を持った商品が残るだけです。私がその商品を繰り返し購入するためには、それに必要な貨幣を絶えず別のところから調達しなければならない。しかし、労働力という商品は、それを繰り返し購入するための貨幣を絶えずその買い手に生み出してやるのであり、こうしてこの購入を永続的なものにすることができるのである。逆に労働者はそのような力能を賃金と引き換えに手放し、資本家に譲り渡してしまうのです。
第4に、再生産の繰り返しは、単に賃金を労働者自身がつくり出した価値からの分与に転化させるだけでなく、本来は資本家の最初からの所有物であったはずの原資本をも事実上、労働者自身がつくり出した剰余価値の塊に転化させるものです。これはどういうものかというと。資本家は何らかの手段を用いて蓄積した資本を元手に生産過程を開始しす。彼が最初に持っていた資本は、他人から盗んだり騙したりして手に入れた貨幣かもしれないが、しかし、少なくとも彼がその所有者として交換過程に登場するかぎりでは、その来歴は問われず、彼が所有しているものは合法的で正当なものであると想定されす。そして、実際にはそれは合法的に入手したものかもしれない。彼がこつこつと働いて貯めたお金かもしれないし、親から受け継いだ動産かもしれません。あるいは宝くじに当たって得たお金かもしれません。いずれにしても、彼はその原資本を自己の正当な所有物として手にしているわけです。しかし、資本家が最初に有しているこの原資本の起源が何であれ、再生産を繰り返すうちにこの原資本は事実上、剰余価値の塊となってしまいます。なぜなら、彼は対価なしに労働者から搾取した剰余価値を個人的に消費してしまい、使い果たしてしまうからです。彼が剰余価値を搾取していなければ、彼が消費したお金は彼自身の財産から支出しなければならなかったはずです。さもなければ、他人からお金を借りなければならなかったはずです。たとえば、原資本を1000Gとし、そこから獲得される剰余価値を200Gだとしす。彼はこの獲得された200Gを個人的に消費してしまう。もし彼が剰余価値を労働者から搾取していなければ、この消費された200Gは彼自身の財産から補填されるか、あるいは他人からお金を借りて補填されなければなりせん。あるいは、購入先である売り手への債務として残ることになるでしょう。いずれにせよ、その分は最終的に彼の財産でもって清算されなければならないのです。
このようにして、生産のこの1期目において、彼の原資本1000Gのうち200Gは事実上、剰余価値の体化物となり、次に生産の2期目が起こります。この2期目も1期目と同じ規模で生産が行われるわけであるから、他の諸事情が同じだとすれば、やはり剰余価値200Gが最終的に獲得される。資本家はこの200Gも個人的に消費してしまう。こうして、彼の原資本1000Gのうち400Gは剰余価値の塊となのす。こうして生産が3期目、4期目と繰り返され、5期目となると、彼の原資本1000Gは一つ残らず剰余価値の体化物となります。なぜなら、もし剰余価値を労働者から奪い取っていなければ、彼は借金しなければならず、したがって5期目の終わりには、彼は自分が持っている1000Gのすべてでもってその借金を清算しなければならないからです。実際には借金の場合は利子が発生するので、1000Gでも足りないのですが、少なくとも1000Gはもはや彼の手元に残りません。このように考えるならば、資本家は単純再生産を繰り返すだけで、事実上、彼の原資本を剰余価値の塊に変えてしまっているのです。これは市場や交換の表面的連関を見ているかぎりけっしてわからないことであり、マルクス経済学によって明らかにされた最も重要な洞察の一つです。
しかし、理論的にはそうだとはいえ、商品交換の形式的メカニズムの上では、資本家は何期生産を繰り返そうとも、どれほど個人的消費を繰り返そうとも、自己の原資本を自己の正当な所有物として保持し続けるし、彼らはけっしてそれが事実上労働者から奪ったものの塊になっているとか、ましてや労働者に借金を負っているなどとは思わないでしょう。しかし、もし労働者が全体としてこの内的連関に気がついて、資本家たちの所有している工場や機械や商品資本、資本家たちが個人的に享受している高級車や邸宅やクルーズや高級宝飾品などの一切合財がが、本当は労働者から奪い取った剰余価値の塊に好きないことを知り、その返還を要求したらどうなるだろうか?
このように資本制的な生産過程は、その過程の進行をつうじて、労働力と労働条件の切り離しを再生産する。資本制的な生産過程はこれによって、労働者の搾取条件を再生産し、永続化する。労働者には、生きるためにたえず自分の労働力を売るように強制し、資本家には、さらに豊かになるためにたえず労働力を買うことができるようにしている。資本家と労働者を、買い手と売り手として商品市場で向き合わせているのは、もはや偶然の力ではない。労働者を労働力の売り手としてつねに商品市場に投げ戻し、労働者自身の生産物をたえず資本家の購入手段に変えさせているのは、この過程そのものの目的に適った仕組みなのである。実際には労働者は自分を資本家に売る前から、すでに資本そのものである。労働者の経済的な隷属は、労働者の自己売却が周期的に更新され、その雇用主が次々と替わり、労働市場の価格が変動することによって媒介され、そして隠蔽されているのである。
こうして資本制的な生産過程を、全体との連関において再生産過程として観察するならば、たんに商品を生産しているだけではなく、増殖価値を生産しているだけではなく、資本関係そのもの、すなわち一方には資本家を、他方には労働者を生産し、再生産しているのである。
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