マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第7篇 資本の蓄積
第22章 剰余価値の資本への転化
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第7篇 資本の蓄積

〔この篇の概要〕

マルクスは『資本論』全3巻のうち、そのうち第1巻しか自らの手で公刊することができませんでした。その『資本論』第1巻は全7篇から成り、最後の篇は「資本の蓄積過程」と題されています。この第7篇でマルクスは、資本の不断の運動のなかで資本-賃労働関係が再生産され、拡大再生産されてゆく過程を問題とします。

資本として機能する価値量の運動は、一定の貨幣額が市場において生産手段と労働力へ転化する「流通部面」に始まります。運動の第二の局面、すなわち「生産過程」が終了すると、一定量の剰余価値を含んだ商品が生まれますが、この商品がふたたび流通部面に投げこまれなければなりません。商品はいまいちど貨幣となり、その貨幣はあらためて資本へと転化する。この継続的かつ反復的な「循環」が資本の流通をかたちづくるわけです。

資本の蓄積とは、この反復的循環において「剰余価値が資本として充用されること、または剰余価値が資本へと再転化すること」にほかなりません。剰余価値は、実際には、利潤や利子や商業利潤や地代などへと事後的に差異化し、分化することになるけれども、当面は資本の蓄積過程を問題とする場面なので、ここでは論じられていません。これらのすべては剰余価値の「転化形態」であるとはいえ、しばらくは剰余価値のすべては産業資本のもとに止まるものとして、純粋な蓄積過程が抽出されるわけです。

あらゆる社会は消費を停止することができるものではありません。消費はしかも、連続的な過程として起こります。人は今日も渇き、明日も飢えるからです。したがってすべての社会は広義の生産も止めることができず、生産もまた連続的でなければなりません。生産が連続的なものであるかぎりで、いっさいの「社会的生産過程」は「同時に再生産過程」ということになります。そこではまた「生産の諸条件は同時に再生産の諸条件」なのです。

資本は生産−再生産を反復することによって、差異が生まれます。つまり剰余価値もまた生産−再生産されるわけです。反復によって周期的に回帰し、とはいえ増加して回帰する資本価値として剰余価値は、資本の立場からすれば「資本から生じる収入」というかたちを取ることになります。いまこの収入が、資本の人格化である資本家にとって「消費財源」として役だつだけであり、周期的に回帰するものが周期的に立ち去るものにすぎないとすれば、生起するのは「単純再生産」です。すなわち、同規模でおなじ構成で反復的に回帰する再生産であるほかはないのです。

ところがマルクスによれば、この連続的な反復ですら、「あらたないくつかの性格を刻印する」のです。その性格のうち第一に問題とされるものが、いわゆる「領有法則の転回」にほかなりません。市民社会の原則を資本制そのものが蹂躙してゆくのです。

 

第22章 剰余価値の資本への転化

〔この章の概要〕

資本主義的生産過程は、資本を再生産すると同時に、労働者をも再生産し、それを永久化しています。そうだとすれば、貨幣をもつ資本家と、労働力をもつ労働者が市場で出会い、そこで労働力商品の売買が成立して、資本主義的な生産が可能になるという話は、もはや偶然の出会いではなかったことになります。資本主義的再生産は、一方に収入を得る資本主義を再生産し、他方に生活手段を消費してしまう労働者を再生産し続けていたのである。労働者は、労働力をまた売るしかない状態で再生産され、市場でまた労働力を売らざるを得ないのだ。

生産過程に向かう自由・平等なはずの資本家と労働者の相貌が、「なにか違ったものになっている」。資本家は先頭を進み、労働者はその後ろを打ちのめされて従っていました。その理由が分かりました。労働者は「みずから自由か行為者ではなかったということ、彼の労働力を売ることが彼の自由であるという時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間でもあるということ」が明らかになりました。

資本家と労働者は、流通過程をみるかぎりでは対等な商品所有者同士の関係にみえたが、そうではなかった。形式的な自由・平等と実質は違っていたのです。

資本主義的生産過程を再生産過程としてみると、商品と剰余価値を生産するだけではなく、資本主義的階級関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を生産し、再生産し続けるものでした。

単純再生産では、凾fの増加分は収入として全部使われてしまいましたが、それを使わずに、たとえば収入すべてを再投資に向ければ、1万ポンドだった資本が、その次は1万2000ポンドになります。より多くの原料を仕入れ、追加的労働者を雇うと、より多くの剰余価値が生まれ、1年後には剰余価値も2割増しで2400ポンドになります。このように資本が増大していくのが拡大再生産であり、蓄積です。

「資本としての剰余価値の充用、または剰余価値の資本への再転化を、資本の蓄積という」。これが資本蓄積の定義です。

それが可能になるためには、現物で生産手段が市場になければなりません。それが市場にあるためには、それが生産されていなければなりません。単純再生産の場合は、他の資本家も単純再生産を繰り返していれば生産手段はあるわけですが、拡大再生産となると前年必要だったよりも多くの生産手段が市場にあることが前提になります。つまり他の資本家も拡大再生産をしていなければなりません。

それから労働力についても、以前より多い労働者が必要になります。拡大再生産のために必要な追加的労働者が市場にいなければなりません。

それは大丈夫だとマルクスは書いています。労働者の通常の賃金は「彼の生存のみではなく、彼らの増殖をも保証するに足りるものにしている」。私は労働力の価値規定の説明では、夫婦と子供2人で、労働者がいわば単純再生産されるという数字の例をあげてきたのですが、マルクスは、労働者の増殖を保証するに足りるものであると書いています。労働力の価値規定は、たとえば子供が3人として計算していなければいけなかったことになります。昔は乳幼児の死亡率も高かったので、労働者夫婦2人を単純再生産するためにも、やはり子供は4、5人いないと危なかったのでしょう。実際、昔は子供が多かったのです。労働者家族は単純再生産で子供2人という想定は、現代的な考え方にすぎていて、子供は4、5人いて、しかしそのうち1人以上は死ぬというような価値規定だったようです。ただし、昔は子供を育てるのに今日のような費用はかからなかったはずですが。

追加的労働手段と労働力が市場にあれば、単純再生産は、螺旋的に規模が拡大する拡大再生産へと転化されます。

次に、拡大再生産について分析してみましょう。実際には資本家が消費する収入部分と再投資部分に分かれるでしょうが、ここでは単純に全剰余価値が資本に転化することにします。また、その追加投資は、同じ商品の増産に向けられるのが、分離されてほかの商品の生産をはじめるのかは度外視します。社会的にみれば同じことだからです。そしてもちろん、当初の原資本が単純再生産を続けることも、当然の前提となります。

その最初の資本がどこからきたかはともかく、2000ポンドの追加資本については「その成立過程をわれわれはきわめて精確に知っている。それは、資本化された剰余価値である」。つまり、すべてが前年の剰余労働であることは、まったく疑問の余地がありません。先祖から受け継いだ遺産ではないことが、はっきりしています。追加労働者に支払われる賃金部分は、前年に労働者が生みだした剰余価値であり、つまり階級としてみれば、労働者階級からの搾取によって資本はタダで労働力を買えたことになります。「資本が」資本を生みだすのです。

しかも拡大再生産によって資本家と労働者の差はさらに広がり続けるのです。

資本家はつねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売りますが、商品の価値どおりの売買は、商品生産と商品流通に基づく法則でした。それをマルクスは「商品生産の所有法則」と言っています。それが実はその反対物に顛倒していました。反対物とはなにかというと、つまり等価物の交換は外観的なものにすぎず、実質的には不等価である交換の法則へ転換したということです。その理由は二つあります。

第一に、労働力を買う資本は、資本がもっている貨幣でした。しかし、拡大再生産では、それはもともと労働者から無償で獲得された剰余価値の一部分(剰余価値は機械や原料にも転化されるので)にすぎなくなります。資本家は無償で手に入れた剰余価値で追加労働力を買いました。そうなると形式的には商品生産と流通の法則にうますが、実質は違ってきます。

第二に、その追加労働者が、また次の剰余価値を生みだし、その剰余価値でまた次の追加労働力が買われることになります。そうすると、形式としては労働力の不断の売買ですが、実質的には、資本家がたえず無償で獲得する他人の剰余労働の一部で、再びより多くの労働力を買うことになってしまいます。

単なる商品交換の法則ではなく、資本がもっている貨幣(資本)は、労働者からタダ取りしたものであり、それでまた労働力が買われるという関係が永久に拡大し続けることになります。いわば「相手から盗んだ金で買う」関係になっています。それは、もはや対等な商品所有者同士の取引とはいえないものでしょう。

マルクスはそれを「資本主義的領有法則」と名づけています。所有と領有のニュアンスの違いは、日本語ではピンときません。しかし、ドイツ語では、一般的には横領とか私物化という悪い意味の言葉であって、合法的だが、実質的には横領だというニュアンスを込めてマルクスは使ったのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転

資本の蓄積とは

これまでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかを考察しなければならなかったが、今度は、どのようにして資本が剰余価値から生ずるのかを考察しなければならない。剰余価値の資本としての充用、または剰余価値の資本への再転化は、資本の蓄積と呼ばれる。

われわれはこの過程をまず第一に個別資本家の立場から考察しよう。たとえばある紡績業者が1万ポンド・スターリングの資本を、その5分の4は綿花や機械などに、残りの5分の1は労賃に、前貸ししたとしよう。彼は1年間に12,000ポンド・スターリングの価値ある24万重量ポンドの糸を生産するものとしよう。剰余価値率を100%とすれば、剰余価値は、総生産物の6分の1に当たる4万重量ポンドの糸という剰余生産物または純生産物のうちに含まれており、この生産物は販売によって実現されるはずの2000ポンド・スターリングという価値をもっている。2000ポンドという価値額は2000ポンドという価値額である。この貨幣を嗅いでみてもながめてみても、それが剰余価値だということはわからない。ある価値が剰余価値だという性格は、どのようにしてそれがその所有者の手にはいったかを示してはいるが、しかしそれは価値や貨幣の性質を少しも変えるものではないのである。

そこで、新しく加わった2000ポンドという金額を資本に転化させるために、他の事情がすべて不変ならば、紡績業者はこの金額の5分の4を綿花などの買い入れに、5分の1を新たな紡績労働者の買い入れに前貸しするのであろう。そして、これらの労働者は、紡績業者が彼らに前貸ししただけの価値をもつ生活手段を市場で見いだすであろう。次に、この新たな2000ポンドの資本が紡績場で機能し、それはまた400ポンドの剰余価値を生みだすのである。

これまでは、剰余価値がどのようにして資本から生まれるかを考察してきましたが、ここでは資本がどのようにして剰余価値から生まれるかを考えていきます。剰余価値を資本として利用すること、あるいは剰余価値を資本に転化することを資本の蓄積と言います。少し補足すると、資本家はG(ある貨幣額)をPm(生産手段)とA(労働力)に転化し、P(生産過程=価値増殖過程)を経てW+凵i商品)となり、販売によってG´(増殖した貨幣額)となって資本家は剰余価値(凾f)を手にしますが、それを自分の欲望を満たすものとして全部消費すると単純再生産になりますが、これに対して、資本家が剰余価値を個人的消費にではなく、資本として運用≠キる場合には拡大された規模での再生産になる、ということで資本の蓄積イコール拡大再生産ということが言えます。

最初に個々の資本家の立場から考えてみましょう。マルクスは紡績業者が1万ポンドの資本を前払いして2000ポンドの剰余価値を得る場合を例示していますが、この2000ポンドは確かに剰余価値として取得されたものであるとしても、一旦取得されてしまうとそれは単なる価値、貨幣以外の何ものでもなくなり、その起源は問題でなくなってしまいます。

そこで、紡績業者は、この2000ポンドを、最初に1万ポンドを前払いして2000ポンドの剰余価値を得たのと同じように、前払いして400ポンドの剰余価値を得ようとします。

これまでわたしたちは、増殖価値がどのようにして資本から生まれるかを考察する必要があったが、これからは資本がどのようにして増殖価値から生まれるかを考える必要がある。増殖価値を資本として利用すること、あるいは増殖価値を資本にふたたび変化させることを資本の蓄積という。

このプロセスをまず、個々の資本家の立場から考えてみよう。ある紡績業者がたとえば1万ポンドの資本を前払いして、そのうち5分の4を綿花や機械類に投資し、残りの5分の1を労働賃金に投資したとしよう。彼は年に1万2000ポンドの価値のある24万重量ポンドの紡ぎ糸を生産するとしよう。増殖価値率を100%とすると、増殖価値は4万重量ポンドの紡ぎ糸という増殖生産物あるいは純生産物のうちに体現されている。これは総生産物の6分の1に該当し、これを販売すると2000ポンドの価値が実現される。2000ポンドの価値量は2000ポンドの価値量であり、ほかの何ものでもない。この貨幣の匂いをかいでみても外から眺めてみても、増殖価値であることは分からない。ある価値が増殖価値としての性格をそなえているということは、それがどのようにして所有者のもとにやってきたかを示すものではあるが、それによって価値の性格も、貨幣の性格も、少しも変わるものではない。

そこでこの紡績業者は、他の事情が同じであれば、この2000ポンドを資本に変えるためには、前と同じようにその5分の4を綿花などの購入のために、5分の1を新たな紡績労働者の雇用のために前払いするだろう。労働者たちは、資本家が前払いした[貨幣の]価値をもつ生活手段を市場で購入するだろう。こうして2000ポンドの新しい資本が紡績工場で働き始めることになり、それが新たに400ポンドの増殖価値をもたらすだろう。

 

資本の蓄積の条件

資本価値は最初は貨幣形態で前貸しされた。ところが、剰余価値ははじめから総生産物の一定の部分の価値として存在する。総生産物が売られ、貨幣に転化されれば、資本価値は再びその最初の形態を得るが、剰余価値のほうはその最初の存在様式を変えている。とはいえ、この瞬間からは資本価値も剰余価値も両方とも貨幣額であって、それらの資本への再転化はまったく同じ仕方で行われる。資本家はそれらをどちらも商品の買い入れに投ずるのであって、これらの商品は、彼がまたあらためて自分の製品の製造を始めること、しかも今度は拡大された規模で始めることを可能にする。だが、このような商品を買うためには、彼はそれらが市場にあるのを見いださなければならない。

彼のもっている糸が流通するのは、彼が自分の年間生産物を市場に出すからにほかならない。それは、他のすべての資本家も同じように各自の商品ですることである。しかし、これらの商品は、市場にやってくる前にすでに年間総生産物のうちに存在していたのである。すなわち、個別資本の総額または社会的総資本がその年のうちに転化してゆくところの、そして各個の資本家はただその一可除部分を手にしているにすぎない。ところの、各種の対象の総量のうちに存在していたのである。市場でのできごとは、ただ年間生産の個々の成分の転換を実現するだけで、これらの成分を一つの手から別の手に移しはするが、年間総生産を大きくすることも、生産された対象の性質を変えることもできないのである。だから、年間総生産物がどのように使用されうるかは、総生産物そのものによって定まるのであって、けっして流通によって定まるのではないのである。

まず第一に、年間生産は、その年のうちに消費される物的資本部分を補填するべきすべての対象(使用価値)を供給しなければならない。これを引き去ったあとには、純生産物または剰余生産物が残り、それに剰余価値が含まれている。では、この剰余生産物はなにから成っているのか?ことによると、資本家階級の必要や欲望をみたすべき物、つまりこの階級の消費財源にはいるものからでも成っているのであろうか?もしそれが全部だとすれば、剰余価値は残らず使いはたされ、ただ単純再生産が行われるだけであろう。

蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化させなければならない。だが、奇跡でも行われないかぎり、人が資本に転化させうるものは、ただ、労働過程で使用する物、すなわち生産手段と、そのほかには、労働者の生活維持に役だちうる物、すなわち生活手段とだけである。したがって、年間剰余労働の一部分は、前貸し資本の補填に必要だった量を超える追加生産手段と追加生活手段との生産にあてられていなければならない。一言で言えば、剰余価値が資本に転化できるのは、それをになう剰余生産物がすでに新たな資本の物的諸成分を含んでいるからにほかならないのである。

次にこれらの成分を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働の追加を必要とする。すでに使用されている労働者の搾取が外延的に内延的にも増大しないようにするとすれば、追加労働力を買い入れなければならない。そのためにも資本主義的生産の機構はすぐにまにあうようになっている。というのは、この機構は労働者階級を労賃に依存する階級として再生産し、この階級の普通の賃金はこの階級の維持だけではなくその増殖をも保証するに足りるからである。このような、いろいろな年齢層の労働者階級によって年々資本に供給される追加労働力を、資本は、ただ、年間生産のうちにすでに含まれている追加生産手段に合体させさえすればよいのであって、剰余価値の資本への転化はそれですんでいるのである。具体的に見れば、蓄積は、累進的に増大する規模での資本の再生産ということに帰着する。単純再生産の循環は一変して、シスモンディの表現によれば、一つの螺旋に転化するのである。

資本は、最初は貨幣で前払いされます。これに対して剰余価値ははじめから総生産物の一定の部分の価値として存在します。この総生産物が販売されて、貨幣に転化されると、資本は当初の貨幣のかたちに戻りますが、剰余価値は当初に対して形態が変化しました。この時、資本も剰余価値も同じ貨幣の形態でいくらという貨幣量で価値を量ることができるようになり、剰余価値から資本への再転化ができるようになります。資本家は、どちらにしても、貨幣で商品を購入することができ、それによって新たに製品の製造を始めることができます。このとき製造規模は拡大するわけです。

先ほどの紡績業者の例に戻れば、彼の糸が市場で流通するのは、彼が生産物である糸を市場に出しているからであり、他の資本家たちも、彼らのそれぞれの製品を同じように市場に出しています。しかし、これらの商品は市場に出される前に、すでに総生産物すなわち各種の対象の総量の中に存在していたものです。この対象の総量とは、個別資本の総額、あるいは社会的な総資本が1年のあいだにこの総量に変容したというもので、それぞれの資本家は、その総額の一部を手にしているにすぎません。

「市場のできごと」すなわち流通は、年間の生産物を他の生産者等の手に再配置する媒介者としての役割を果たすが、年間総生産物の額を大きくすることも、その性質を変えるものではなく、したがって、年間総生産が、どのように使用されるかは、「総生産物の構成」つまり社会全体がどのような諸生産物で成り立っているかということであり、その構成は諸生産物の関連によって決まるのであり、流通によって決まるのではありません。

年間の生産は、1年間という区切りの期間に消費される資本を補填するための使用価値を供給する必要があります。年間の生産物から、その補填された部分を差し引いた残りが純生産物で、それが剰余価値の現われです。この剰余価値の構成を考えてみましょう。この剰余価値が資本家階級の欲望を満足させるだけの消費財源として使われるだけなら、剰余価値はすべて個人的な消費となり、単純再生産が繰り返されるだけとなります。

資本を蓄積させるためには、この剰余価値の一部を資本に転化させなければなりせん。しかし、資本に転化させることができるのは、労働過程で使用する生産手段か、労働者の生活を支える生産手段だけです。そのた、剰余労働の一部は前払い資本を補充をするために必要な量を超えた分の追加的な生産手段と生活手段のために使われなければなりません。

剰余価値が資本に転化できるのは、それを担う剰余生産物が新たな資本の物的な構成要素を含んでいるからです。これが実際に資本として機能するために、資本家階級は労働力を追加しなければなりません。そのためには、労働者の労働時間を延長するか、労働の強度を高めるかして、それだめなら追加労働力の買い入れつまり新たに労働者を雇い入れるしかありせん。資本主義のメカニズムは、そのために、ちゃんと間に合うようにと配慮されて作られています。つまり、このメカニズムは、労働者階級を、労賃に依存する階級として再生産していて、通常の賃金で労働者の生存だけでなく、新たな労働者である子孫の育成による労働者の増殖も保証しているからです。

資本は、いろいろな年齢層の労働者階級が毎年資本に供給する追加労働を、年間生産に含まれている追加生産手段に取り込めばよいのであり、これによって剰余価値の資本への転化が完了するのです。具体的には、蓄積とは資本が規模を拡大しながら再生産されることです。単純再生産の循環は一つの螺旋(累進的に増大する規模での資本の再生産)に転化します。

資本は当初、貨幣の形態で前払いされている。これにたいして増殖価値は最初から、総生産物の特定の部分の価値として存在している。この総生産物が販売され、貨幣に変わると、資本価値は当初の[貨幣の]形態をとりもどすが、増殖価値は当初の存在形態からは変わっている。しかしこの瞬間から資本価値も増殖価値も貨幣量であって、資本への再変容はまったく同じ形で行われる。資本家はそのどちらも商品の購入に使うのであり、この商品によって資本家は、製品の製造を新たに開始することができるが、さらに規模を拡大して製造することができるようになる。しかしこれらの商品を購入するためには、市場でそれをみつけることができなければならない。

この資本家の紡ぎ糸が市場で流通することができるのは、彼が1年間の生産物を市場に出すからであり、他のすべての資本家たちも、それぞれの商品について同じようにしている。しかしこの商品は市場に登場する前に、すでに1年間の生産原資、すなわちすべての種類の対象の総量のなかに存在していたものである。個別資本の総額、あるいは社会的な総資本が1年のあいだにこの総量に変容したのであり、それぞれの個別の資本家はその総額の割り当てを手にしているにすぎない。

市場でのプロセスは、年間総生産の個々の部分を遂行しているにすぎず、これらの部分を一つの手から別の手へと引き渡しているが、年間総生産を拡大したり、生産された対象の性質を変えたりすることはできない。したがって年間総生産がどのように使用されうるかは、その総生産自身の構成によって決まるのであり、流通により決まるのではない。

まず年間生産は、1年間に消費される資本の物的な構成部分を補填するために十分なあらゆる対象(使用価値)を供給しなければならない。その補填された部分を差し引いた残りが純生産物であり、そこに増殖価値が体現されている。それではこの増殖生産物は何で構成されているのか。増殖生産物はもしかすると、資本家階級の欲求と欲望を満足させるために、すなわち彼らの消費原資として使われるのだろうか、それがすべてだとしたら、増殖価値は残らず使いはたされ、単純再生産が行われるだけだろう。

資本を蓄積するためには、増殖価値の一部を資本に変容させる必要がある。しかし奇跡でも起きないかぎり、資本に変容させることができるのは、労働過程で使用することができるもの、すなわち生産手段であるか、労働者の生活を支えることのできるもの、すなわち生活手段だけである。だから年間の増殖労働の一部は、追加的な生産手段と生活手段の生産のために使われなければならない。しかもその量は、前払い資本の補填に必要な量を超えていなければならない。要するに、増殖価値が資本に変容することができるのは、増殖価値を体現する増殖生産物が、すでに新しい物的な構成要素を含んでいるからである。

これらの物的な構成要素を実際に資本として機能させるためには、資本家階級は労働を追加しなければならない。すでに雇用している労働者の労働時間を延長するか、労働の強度を高めてさらに搾取を強化できない場合には、新たな労働力を雇用しなければならない。それについても資本制的なメカニズムはすでに配慮している。このメカニズムでは[前の章で考察したように]労働者階級を、労働賃金に依存する階級として再生産しているのであり、その通常の賃金で、労働者の生存だけではなく、その[子孫による]増殖も保証しているからである。

資本は、労働者階級が毎年供給するさまざまな年齢層の追加的な労働力を、年間生産のうちにすでに含まれている追加的な生産手段のうちにとりこめばよいのであり、これによって増殖価値の資本への変容は完了したのである。具体的には、蓄積とは結局のところ、資本が規模を拡大しながら再生産されることにほかならない。単純再生産の循環は、シスモンディの言葉を借りれば、螺旋状の発展へと変容する。

 

追加資本の発生源

そこで、われわれの例に帰ることにしよう。それは、アバラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、うんぬん、という昔話である。最初の1万ポンドの資本は2000ポンドの剰余価値を生み、それが資本化される。新たな2000ポンドの資本は400ポンドの剰余価値を生む。これがまた資本化されて、つまり第二の追加資本に転化されて、新たな剰余価値80ポンドを生み、また同じことが繰り返される。

ここでは、剰余価値のうち資本家の消費する部分は無視することにする。また、追加資本が元の資本につけ加えられるか、それとも元の資本から分離されて独立に価値増殖されるようになるかということや、それを蓄積した資本家がそれを自分で利用するか、それとも別の資本家の手に渡すかということも、さしあたりわれわれの関心事ではない。ただ、われわれが忘れてはならないのは、新たに形成された資本と並んで元の資本も引き続き自分を再生産し剰余価値を生産するということであり、また、同じことは、蓄積された資本とそれによって生みだされる追加資本との関係にはつねにあてはまるということである。

最初の資本は、1万ポンドの前貸しによって形成された。その所持者は、どこからそれを手に入れたのか?彼自身の労働や彼の先祖の労働によってだ!経済学の代表者たちはみな一様にこう答えてくれる。そして、実際にも彼らの仮定は、商品生産の諸法則に一致するただ一つのものであるように見える。

2000ポンドの追加資本については、事情はまったく別である。われわれはその発生過程をまったく精確に知っている。それは剰余価値が資本化されたものである。それは、最初から、他人の不払労働から生まれたものでない価値はみじんも含んではいない。追加労働力が合体される生産手段も、追加労働力が維持されるための生活手段も、剰余生産物の、すなわち資本家階級が毎年労働者階級からとりあげる貢物の、構成要素以外のなにものでもない。資本家階級がこの貢物の一部分で労働者階級から追加労働力を買うとすれば、それが十分な価格で買われ、したがって等価と等価とが交換されるとしても─やはり、それは、被征服者自身から取り上げた貨幣で被征服者から商品を買うという、征服者が昔からやっているやり方と変らないのである。

もし追加資本がそれ自身の生産者を働かせるとすれば、この生産者は、まず第一に元の資本を引き続き価値増殖しなければならないが、さらにそのうえ彼の以前の労働の成果を、それに費やされたよりも多くの労働で買いもどさなければならない。資本家階級と労働者階級とのあいだの取引として見れば、以前から働いていた労働者の不払労働で追加労働者が使用されるとしても、事態に変わりはない。場合によっては、資本家は追加資本を機械に換え、この機械は追加資本の生産者を失業させてそのかわりに二人か三人の子供を就業させるということもあるであろう。どの場合にも、労働者階級は、自分の今年の剰余労働によって、次の年に追加労働を使用する資本をつくりだしたのである。これが、つまり、資本なよって資本を生む、と人の言うことなのである。

第1の追加資本2000ポンドの蓄積の前提は、資本家によって前貸しされた、彼の「最初の労働」によって彼のものになった。1万ポンドという価値額だった。ところが、第2の追加資本400ポンドの前提は、それに先行する。第1の追加資本2000ポンドの蓄積にほかならないのであって、これの生んだ剰余価値の資本化されたものが第二の追加資本である。過去の不払労働を所有が、今では、生きている不払労働をますます大きな規模でいま取得するためのただ一つの条件として現われるのである。資本家が蓄積したものが多いほど、ますます多く彼は蓄積することができるのである。

当初の1万ポンドの資本が2000ポンドの増殖価値を生み、それが資本に転換される。新しい2000ポンドの資本が400ポンドの増殖価値を生み、これがふたたび資本に転換され、第二の追加資本により、今度は80ポンドの新たな増殖価値をもたらし、同じことが繰り返される。このような例をもとに考えてゆきましょう。

ここでは資本家が消費する剰余価値の部分は無視します。また追加資本がどのように処理されるかは、ここでの考察の対象外とします。最初の資本は1万ポンドの前払いで形成されていて、それがどこから来たのかに気にしません。これに対して2000ポンドの追加資本については、その発生プロセスを正確に知ることができ、これは剰余価値が資本に転化されたものです。すべて他者の不払労働に由来するものです。追加労働が投入される生産手段も、追加労働力が自らを養う生活手段も、剰余生産物すなわち資本家階級が労働者階級から毎年とりあげる貢物の構成要素です。資本家階級が、この貢物の一部を使って、労働者階級から追加労働力を購入するとすると、たとえ正規の価格を支払い、等価物どうしの交換が行われるにしても、それは征服者が被征服者から奪った金で買うという、昔ながら征服者のやり方と変わらないのです。

追加資本が、それを生みだした生産者をそのまま働かせる場合には、この生産者は、まず、当初の資本の価値増殖を続ける必要があり、さらに加えて追加資本の剰余価値生産のためには、労働者は以前働いた以上により多く働かなければならないことになります。資本家階級と労働者階級との間の取引としてみれば、これで雇用していた労働者の不払労働によって、追加の労働者が新たに雇用されるとしても、事態に変わりはありません。場合によっては、資本家は追加資本で1台の機械を購入し、追加資本を生みだした労働者を労働者を失業させ、その代わりに数人の子供を働かせることもあり得ます。いずれにしても、労働者階級は今年の剰余労働によって、翌年の追加労働を使用する資本を作り出しているのです。このことが、資本が資本を生むということなのです。

最初の例に戻ると、2000ポンドの最初に生まれた追加資本は当初の前払い資本1万ポンドが前提としてあり、この1万ポンドは原初的蓄積としても、次の400ポンドの追加資本は、前の2000ポンドの追加資本が蓄積されたことが前提となります。2000ポンドの第一の追加資本から生まれた剰余価値が資本に蓄積されたものが400ポンドの追加資本です。これが、資本を蓄積しながら拡大していく仕組みです。

わたしたちの例に戻ろう。これはアバラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生んだなどという古い物語である。当初の1万ポンドの資本が2000ポンドの増殖価値を生み、それが資本に転換される。新しい2000ポンドの資本が400ポンドの増殖価値を生み、これがふたたび資本に転換され、第二の追加資本により、今度は80ポンドの新たな増殖価値をもたらし、同じことが繰り返される。

ここでは資本家が消費する増殖価値の部分については無視する。また追加資本がもとの資本に組み込まれるか、独立した価値増殖のために、もとの資本とは別に扱われるか、あるいは追加資本を蓄積した資本家が自分でその資本を使うのか、他の資本家に譲渡するかも、さしあたりは検討しない。しかし忘れてはならないのは、新たに形成された資本とともに、もとからの資本も自己を再生産し、増殖価値を生産しつづけているということ、そのことはすべての蓄積された資本と、それによって生みだされた新たな追加資本との関係についても言えるということである。

もとの資本は1万ポンドの前払いによって形成された。この1万ポンドを、その所有者はどこで手に入れたのだろうか。彼自身の労働と彼の祖先の労働によってであると、経済学の代表者たちは口を揃えて言う。たしかにこの見解は、商品の生産法則に合致する唯一の見解のように聞こえる。

しかし2000ポンドの追加資本については、状況はまったく異なる。わたしたちはその発生プロセスを正確に知っている。これは増殖価値が資本に転換されたものである。そこには最初から、他者の不払労働に由来しない〈価値原子〉は一原子も含まれていない。追加労働が投入される生産手段も、追加労働力がみずからを養う生活手段も、増殖生産物に統合された構成要素であり、資本家階級が労働者階級から毎年とりあげる貢物の構成要素である。資本家階級がこの貢物の一部を使って、労働者階級から追加的な労働力を購入するのであれば、たとえ正規の価格を支払い、等価物どうしの交換が行われているとしても、それは征服された者から奪った金で、征服された者から商品を買いとる征服者の昔ながらのやり方と変らない。

追加資本が、自分自身を生みだした生産者をそのまま雇用している場合には、この生産者[労働者]はまず、もともとの資本の価値の増殖をつづける必要がある。さらに自分の以前の仕事の成果を、それを作りだすために必要だった労働よりも多くで買い戻さねばならない。資本家階級と労働者階級のあいだの取引としてみるならば、これまで雇用されていた労働者の不払労働によって、追加的な労働者が雇用されるとしても、事態に変わりはない。資本家は追加資本で1台の機械を購入するかもしれない。そしてその機械は、追加資本を生みだした生産者を路上に放りだし、その代わりに数人の子供たちを雇うかもしれない。いずれにしても労働者階級は今年の増殖労働によって、来年の追加労働を雇いいれるための資本を作りだしたのである。資本が資本を生みだすとよく言われるが、その真相はここにある。

2000ポンドの最初の追加資本が蓄積されるための前提であったのは、資本家が前払いした1万ポンドの価値額であり、これは資本家がその「原初的な労働」によって所有するようになったものである。これにたいして第二の追加資本400ポンドの前提となるのは、先行する2000ポンドの最初の追加資本が蓄積されることである。この第一の追加資本から生まれた増殖価値が資本に転換されたのが第二の追加資本なのである。過去の不払労働を所有していることが、今では生きた不払労働を、現在においてその規模をたえず拡大しながら所得するための唯一の条件なのである。資本家がこれまでに蓄積してきたものが多ければ多いほど、ますます多くのものを蓄積できるのである。

 

私的所有の法則の弁証法

追加資本第1号になる剰余価値が、原資本の一部分による労働力の買い入れの結果だったかぎりでは、すなわち、商品交換の諸法則に一致した買い入れ、また法律的に見れば、労働者の側には彼自身の諸能力の自由な処分権利、貨幣または商品の所持有の側には彼のもつ価値の自由な処分権のほかにはなにも前提しない買い入れの結果だったかぎりでは、また、追加資本第2号以下がただ単に追加資本第1号の結果であり、したがってあの最初の関係の帰結であるかぎりでは、さらにまた、一つ一つの取引が引き続き商品交換の法則に一致し、資本家はつねに労働力を買い、労働者はつねにそれを売り、しかも、われわれが仮定したいと思うように、労働力の現実の価値どおりに売買するかぎりでは、明らかに、商品生産と商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。最初の売買として現われた等価物どうしの交換は、一変して、ただ外観的に交換が行われるだけになる。なぜならば、第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価なしで取得された他人の労働生産物の一部分にほかならないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者である労働者によって、ただ補填されるだけではなく、新しい剰余を伴って填補されなければならないからである。こうして、資本家と労働者とのあいだの交換という関係はただ流通過程に属する外観でしかなくなり、内容そのものとは無関係でただ内容を不可解にするだけの単なる形式になるのである。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人労働の一部を、絶えず繰り返しそれよりも多量の他人労働と取り替えるということである。最初は、所有権は自分の労働にもとづくものとしてわれわれの前に現われた。少なくとも、このような仮定が認められなければならなかった。なぜならば、ただ同権の商品所持者が相対するだけであり、他人の商品を取得するための手段はただ自分の商品を手放すことだけであり、さして自分の商品はただ労働によってつくりだされうるだけだからである。所有は、今では、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として表われ、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現われる。所有と労働との分離は、外観上両者の同一性から出発した一法則の必然的な帰結になるのである。

第一の追加資本を生みだした剰余価値は、当初の資本の一部で労働力を購入したことによって生まれたものです。この労働力の購入は商品交換の法則にのっとっていて、法的には、労働者が自己の能力を自由に処分する権利と、資本家は所有する貨幣を自由に処分する権利の両方が尊重されたものです。そして、第二の追加資本以降の追加資本は第一の追加資本の結果に過ぎず、最初の資本家と労働者の関係の帰結です。それぞれの追加資本の資本家と労働者の取引は商品交換の法則に則って行われます。資本家はつねに労働力を購入し、労働者はつねに労働力を売り、しかもこの売買が労働力の現実の価値どおりに行われていると想定しています。そして、商品生産と商品流通に商品交換の法則や私的所有は、正反対のものに転化することになります。

最初の売買の際の等価物の交換は、たんに見かけの上で交換に他なりません。なぜなら、第一に、労働力と交換される資本の部分は他者の不払労働による生産物の一部に過ぎないからで、第二に、その資本の部分は労働者によって補填される必要があり、その際に新たな剰余部分によって補填される必要があるからです。だから、資本家と労働者の間の交換関係は流通過程で生まれた見せかけにすぎません。

労働力がたえず売買されているというのは形式にすぎません。その中身は資本家がすでにあらかじめ対象化された他者の労働の一部を、等価物を支払うことなく取得し、これをたえずより大きな量の他者の労働に転換している。最初は所有権というのは自分の労働に根拠をもつもののように見えますが、少なくともそのように想定するのが妥当でなければならなかった。なぜならば、同等の権利をもった商品の所持者が向き合って、相手の商品を取得するための手段は、唯一自分の商品手放すことのみであり、その自分の商品は自らの労働によって作り出されたものだからです。しかし、今や、所有とは資本家にとっては他者の不払労働やその生産物を取得する権利として現実化し、労働者にとっては自身の生産物を取得することの不可能性として現実化します。所有と労働の分離は、見掛け上の両者の同一性からスタートした法則の必然的な帰結です。

第一の追加資本を生みだした増殖価値は、もとの資本の一部を投じて労働力を購入したことによって生まれた。この購入は商品交換の法則に合致しており、法的にみるかぎり、それが前提としているのは、労働者の側においては自己の能力を自由に処分する権利であり、貨幣または商品所有者の側においては、みずから所有する価値を自由に処分する権利だけである。そして第二の追加資本より後の追加資本の結果にすぎず、最初の[資本家と労働者の]関係の帰結にすぎない。また個々の取引はすべて、商品交換の法則に合致して行われつづけている。資本家はつねに労働力を購入し、労働者はつねに労働力を売り、しかもわたしたちはこの売買が労働力の現実の価値どおりに行われているものと想定している。こうして、商品生産と商品流通に依拠する取得の法則あるいは私的所有は、その内容で不可避的な弁証法の働きによって、その正反対のものに転化するのである。

最初の売買として登場する等価物の交換は一転して、たんに見掛けの上での交換にほかならなくなる。なぜなら第一に、労働力と交換される資本の部分が、等価物[の支払い]なしに取得された他者の労働生産物の一部にすぎないからである。第二に、その資本の部分は生産者である労働者によって補填される必要があるが、その際に新たな剰余部分をともなって填補される必要があるからである。すなわち資本家と労働者のあいだの交換関係は、流通過程で生まれた見せかけにすぎず、内容とは疎遠な形式であり、その内容を神秘化しているたんなる形式にすぎない。

その形式からみると、[交換関係において]労働力がたえず売買されているようにみえる。しかしその内容からみると、資本家がすでにあらかじめ対象化された他者の労働の一部を、等価物を支払うことなく取得し、これをたえずより大きな量の他者の労働に転換しているのである。

最初は所有権は自己の労働に依拠しているかのようにみえた。少なくともそう想定するのが妥当でなければならなかった。たがいに向き合うことができるのは、同等の権利をもった商品の所有者だけだからである。そこでは他者の商品を取得するための唯一の手段は、自分の商品を譲渡することであり、自分の商品はみずからの労働によってしか作り出せないからである。

しかし今や所有とは、資本家の側には他者の不払労働ないしはその生産物を取得する権利として現れ、労働者の側には、自分自身の生産物を取得することの不可能性として現れる。所有と労働の分離は、見掛けの上では両者の同一性から出発したようにみえる法則の必然的な帰結となるのである。

 

蓄積プロセスの再確認

このように、資本主義的取得様式は商品生産の本来の諸法則にはまっこうからそむくように見えるとはいえ、それはけっしてこの諸法則の侵害から生まれるのではなく、反対にこの諸法則の適用から生まれるものである。資本主義的蓄積を終結点とする一連の諸運動段階を簡単に振り返ってみれば、このことはいっそう明らかになるであろう。

われわれがまず第一に見たように、ある価値額の資本への最初の転化は、まったく交換の諸法則に従って行われた。契約当事者の一方は自分の労働力を売り、他方はそれを買う。前者は自分の商品の価値を受け取り、それと同時に、その商品の使用価値─労働─は後者に引き渡されている。そこで、後者は、すでに彼のものである生産手段を、やはり彼のものである労働の助けによって、ある新しい生産物に転化させるのであって、この生産物もまた法律上正当に彼のものである。

この生産物の価値は、第一に、消費された生産手段の価値を含んでいる。有用労働は、この生産手段の価値を新たな生産物に移すことなしには、この生産手段を消費することはできない。ところが、売れるものであるためには、労働力は、それが使用されるべき産業部門で有用労働を供給することができなければならない。

新たな生産物の価値は、さらに、労働力の価値の等価と剰余価値とを含んでいる。しかも、それを含んでいるのは、幾日とか幾週とかいう一定の期間を定めて売られる労働力のもっている価値が、同じ期間にその労働力の使用がつくりだす価値よりも小さいからである。とはいえ、労働者は、自分の労働力の交換価値を支払ってもらい、それと同時にその使用価値を手放したのである─どの売買でもそうであるように。

この特別な商品、労働力が、労働を供給するという、したがって価値を創造という、独特の使用価値をもっているということも、商品の生産の一般的法則を動かすことはできない。だから、労賃として前貸しされた価値額が生産物のうちにただ単に再現するだけではなく、剰余価値だけふえて現われるとしても、それは、売り手をだますことから起きるのではなく、売り手はたしかに自分の商品の価値を受け取っているのであって、それはただ買い手がこの商品を消費するから起きるだけである。

交換の法則が要求する同等性は、ただ交換によって互いに引き渡される商品の交換価値の同等性だけである。しかも、交換の法則は、これらの商品の使用価値の相違をはじめから要件としているのであって、取引が終了してからはじめて始まるこれらの使用価値の消費とはまったくなんの関係もないのである。

だから、貨幣の資本への最初の転化は、商品生産の経済的諸法則とも、そこから派生する所有権とも、最も厳密に一致して行われるのである。だが、それにもかかわらず、この転化は次のような結果を生む。

(1)生産物は資本家のものであって、労働者のものではないということ。

(2)この生産物の価値は、前貸資本の価値のほかに、剰余価値を含んでおり、この剰余価値は労働者には労働を費やさせたが資本家にはなにも費やさせなかったにもかかわらず、資本家の合法的な所有物になるということ。

(3)労働者は引き続き自分の労働力を保持していて、買い手が見つかりしだい再びそれを売ることができるということ。

資本主義的な取得様式は、商品生産の法則に反しているように見えますが、実は、この法則に則っているのです。そのことを明らかにするためにも、資本の蓄積が生まれるまでの動きの様々な局面を見てみましょう。

ある価値の資本への転化は交換の法則に従って行われます。契約者の一方は自分の労働力を売り、もう一方は買います。前者は使用価値である労働を後者に譲渡し、後者は所有している生産手段を取得した労働の助けをかりて、新たな生産物に変えます。この生産物は後者のものです。

この生産物の価値に含まれているのは、第一に消費された生産手段の価値です。有用労働が、この生産手段を消費したときに、この生産手段の価値を新しい生産物に移します。このような有用労働を提供できることが労働力が売れるものであるために必要です。

第二に、新しい生産物には、さらに労働力の価値の等価物と剰余価値を含んでいます。それは、1日とか1週間などといった一定の期間を定めて売られる労働力の価値が、その期間に使用されることによって作り出される価値より少ないからです。労働者は、他の売買の場合と同じように、自身の商品である労働力の交換価値を貨幣で支払われ、それに対して労働力の使用価値を提供しただけです。

この労働力という特別な商品は、労働を提供し、価値を創造するという特別な使用価値を持っています。しかし、そのことが商品の生産の一般法則に影響を与えるものではありません。つまり、労働賃金として前払いされた価値が、生産物に単に再現されるだけでなく、剰余価値の分だけ増えて再現されるとしても、それは労働の売り手である労働者をごまかしたことによって起こったのではありません。売り手である労働者は、自分の商品である労働力の価値を受け取っているのであり、買い手が労働力という商品を消費したからです。

交換の法則は、交換される双方の商品の交換価値が等しいことが前提となっています。等しいのは交換価値であり、それぞれの商品の使用価値については、最初から異なることが前提となっています(もともと異なる使用価値を求めて交換しようとするわけですから)。取引が成立した後、取得した商品の使用価値を消費するときには、交換価値が交換の際に等価であるということはまったく関係がありません。

このように貨幣が資本に最初に転化するプロセスは、商品生産の経済法則にも、そこから派生する所有権とも一致します。それにもかかわらず、次のような結果をもたらします。

(1)生産物は労働者のものではなく資本家のものとなる

(2)生産物の価値には、前払いされた資本の価値だけでなく剰余価値が含まれる。この剰余価値の生産のために労働者は労働を提供したけれど、資本家は何も提供しなかった。それにもかかわらず、生産物は合法的に資本家の所有するものとなる

(3)労働者は引き続き自分の労働力を保持(所有)し、買い手が見つかれば売ることができる

つまり資本制的な取得様式は、商品生産のほんらいの法則に正面から反しているようにみえるが、それでいてこの法則に違反して生まれたのではなく、逆にこの法則が適用されることで生まれたのである。そのことをさらに明確に示すためにも、最終的に資本制的な蓄積が生まれるまでの運動のさまざまな局面について、その順序を簡単に振り返ってみよう。

わたしたちは、ある価値量が資本に変容したさいには、交換の法則が完全に遵守されていることを確認した。一方の契約者は自分の労働力を売り、他方の契約者はそれを買う。売り手は彼の商品の価値をうけとり、それによってその商品の使用価値である労働は、買い手に譲渡される。次に買い手は、すでにすでに自分のものとしている生産手段を、同じく自分のものとなった労働の助けを借りて、新たな生産物に変える。この生産物はその権利からして、彼のものである。

この生産物の価値に含まれているのは第一に、消費された生産手段の価値である。有用労働がこの生産手段を消費した場合には、必ずその価値が新しい生産物に移転される。ただし労働力が売れるものであるためには、その労働力が使用される産業分野で有用な労働を提供できる必要がある。

新しい生産物の価値にはそのほかに、労働力の価値の等価物と増殖価値が含まれている。しかもそれは、1日あるいは1週間など一定の期限を定めて売られた労働力の価値が、その期限内にそれを使用することによって生みだされた価値よりも少ないことによって生まれたのである。しかし労働者は、すべての売買と同じように、自分の労働力の交換価値を貨幣で支払われているのであり、それによってその使用価値を譲渡したのである。

労働力というこの特別な商品は、労働を提供し、価値を創造することのできる特別な使用価値をそなえている。しかしそのことは、商品の生産の一般法則に影響を与えることはできない。つまり労働賃金として前払いされた価値量が生産物のうちにたんに再現されるだけではなく、増殖価値の分だけ増えて再現されるとしても、それは労働力の売り手をごまかしたことによって生まれたのではない。売り手はたしかに自分の商品の価値をうけとっているからである。それは買い手がこの[労働力という]商品を消費することによって生まれたのである。

交換法則は、たがいに譲渡される商品の交換価値が等しいことを前提としているだけである。その使用価値については、最初から異なるものであることが前提となっている。取引が完了し、成立した後に始まる商品の[使用価値の]消費には、交換価値はまったくかかわらない。

このように貨幣が資本に最初に変容するプロセスは、商品生産の経済法則にも、さらにそこから派生する所有権とも、厳密に一致しながら進行する。それにもかかわらず、次のような結果をもたらす。

第一に、生産物は労働者のものではなく資本家のものである。

第二に、この生産物の価値には、前払いされた資本の価値だけでなく、増殖価値が含まれる。この増殖価値の生産のために労働者は労働を提供したが、資本家はいかなるものも負担していない。それにもかかわらずこれは資本家が合法的に所有するものとなる。

第三に、労働者は自分の労働力を維持しており、買い手をみつければ、新たにそれを売ることができる。

 

単純再生産

単純再生産は、ただこの第一の操作の周期的反復でしかない。そのたびごとに、絶えず繰り返して、貨幣は資本に転化される。だから、法則は、破られるのではなく、反対に、引き続き実証される機会を保持しているだけである。

「あいついで行われる多数の交換行為は、最後のそれを最初のそれの代理にするだけである。」

それにもかかわらず、すでに見たように、単純再生産だけでも、この第一の操作─孤立的過程としてとらえたかぎりでのそれ─にまったく変化した性格を刻印するのに十分なのである。

「国民所得を分け合う人々のうち、一方(労働者)は年々新たな労働によってそれにたいする新たな権利を得るのであり、他方(資本家)はすでに前もって本源的な労働によってそれにたいする恒久的な権利を得ているのである。」

だが、周知のように、労働の領域は、長子が奇跡を行う唯一の領域ではないのである。

純再生産は、この最初の操作、つまり貨幣の資本への最初の転化から生産物が生み出されるまでの過程を指すことで、この繰り返し(連続)です。

単純再生産だけでも、この第一の操作――孤立的過程としてとらえたかぎりでのそれ――にまったく変化した性格を刻印するのに十分なのです。労働者は、毎年新たな労働により、それに対する権利を、そのたびに獲得するのに対して、資本家は最初に取得した労働によって永続的な権利を獲得している、ということです。

単純再生産は、この最初の操作を周期的に反復することにすぎない。そのたびごとに貨幣はつねに新たに資本に変容する。法則は破られることなく、逆に法則が適用されつづけるための機会をえるだけである。「連続的な複数の交換行為では、最後の交換行為は最初の交換行為の代理となるにすぎない」。

それにもかかわらず、この最初の操作を孤立した事象として眺めてみると、単純再生産はこの最初の操作にまったく異なった性格を与えるのである。「国民所得の分配にあずかる人々のうち、一方の人々は(すなわち労働者は─マルクス)、毎年新たな労働をつうじて、所得にたいする新たな権利を獲得する。他方の人々は(すなわち資本家は─マルクス)、事前にすでに、原初的な労働によって、所得にたいする永続的な権利をすでに獲得している」。もっとも周知のように、最初に生まれた子供が奇跡を行うのは労働の領域だけではない。

 

拡大再生産

単純再生産に代わって、拡大された規模での再生産である蓄積が行われるようになっても、事態にまったく変わりはない。前の場合には資本家は剰余価値を全部使い果たすのであるが、あとの場合には一部分だけを消費して残りを貨幣にすることによって自分の市民的徳性を示すのである。

剰余価値は彼の所有であって、彼以外の人のものだったことはない。彼がそれを生産のために前貸しするとすれば、彼は、彼がはじめて市場に現われた日とまったく同じに、彼自身の財源からの前貸しをするのである。この財源が今度は彼の労働者の不払労働から出たものだということは、事態になにごともつけ加えはしない。労働者Aの生産した剰余価値で労働者Bが雇われるにしても、第一に、Aは自分の商品の正当な価格を一文も値切られることなしにこの剰余価値を提供したのであり、第二に、この取引はBにはなんの関係もないことである。Bが要求すること、また要求する権利のあることは、資本家が彼の労働力の価値を支払うということである。

「それでも、両方ともに得をしたのである。労働者が得をしたというのは、彼の労働がなされる前に(彼自身の労働が実を結ぶ前に、と言うべきだ)、果実が前貸しされたからであ、工場主が得をしたというのは、この労働者の労働には彼の賃金よりも大きな価値があった(彼の賃金よりも多くの価値を生んだ、と言うべきだ)からである」。

単純再生産ではなく、拡大再生産による蓄積が行われるようになっても、事態は同じです。単純再生産の場合、資本家は剰余価値をすべて個人的な消費で使い果たしてしまいますが、拡大再生産の場合は、剰余価値の一部を消費して、残りは貨幣に換えることで市民的な道徳を示すという点が違うだけです。

剰余価値は資本家のものです。資本家が剰余価値を生産のために前払いしたとしても、それは当初の原資から前払いするのと同じです。たしかに、この原資は、今回は、労働者の不払労働によって得られたものですが、そのことは事態には何の影響も与えません。かりに労働者の不払労働によって得られた剰余価値によって、新たに別の労働者が雇用されたとしても、その別の労働者には、当初の労働者は関係ありません。新たな労働者は、自身の労働力の価値を正当に支払われることを要求するだけです。

つまり、違った点は、労働者は年々の労働によって賃金を得るという権利を新たに獲得しなければならないのに対し、資本家は本源的資本を持っているが故に剰余価値の取得という永久の権利を獲得している、という点です。

単純再生産の代わりに、拡大された規模の再生産である蓄積が行われるようになっても、事態にまったく変わりはない。単純再生産では資本家は増殖価値をすべて使い尽くすが、蓄積が行われる場合には彼の市民的な道徳を証明すべく、その一部だけを消費して、残りを貨幣に換えるという違いがあるだけである。

増殖価値は資本家のものであり、一度でも他者のものであったことはない。資本家がそれを生産のために前払いしたとしても、それは彼が初めて市場に足を踏みいれたとき同じように、あくまでも彼の原資からの前払いである。たしかにこの原資は今回は、彼の雇用した労働者の不払労働によって生まれたものであるが、そのことは事態にまったく影響しない。労働者Aの生産した増殖価値で労働者Bが雇われたとしても、労働者Aはその[自分の労働力という]商品の正当な価格を一文も値切られずに[売却して]、この増殖価値を生産したのであり、さらにこの取引は労働者Bとはまったく関係がない。

労働者Bが要求し、また要求する権利があるのは、資本家が彼の労働力の価値を正しく彼に支払うことである。「それでも双方ともに利益をえたのだ。労働者が利益をえたのは、彼の労働の果実を(他の労働者が行った不払労働の果実と言うべきだろう─マルクス)、その労働がなされる前に(彼自身の労働の果実が実る前にと言うべきであろう─マルクス)、前払いされたからである。工場主が利益をえたのは、その労働者の労働が賃金以上の価値をもっていた(彼の賃金を上回る価値を生みだしたと言うべきだろう─マルクス)からである」。

 

階級的な観点から

もちろん、われわれが資本主義的生産をその更新の不断の流れのなかで考察し、個々資本家と個別労働者とのかかわりに、全体に、つまり資本家階級とそれに相対する労働者階級とに、着目するならば、事柄はまったく違って見える。だが、そうすれば、われわれは、商品生産にとってはまったく外的なものである尺度をあてがうことになるであろう。

商品生産では、ただ、売り手と買い手とが互いに独立して相対しているだけである。彼らの相互関係は、彼らのあいだに結ばれた契約の満期日がくれば、それで終わりである。取引が繰り返されるとすれば、それは新しい契約によるもので、この契約は以前の契約とはなんの関係もないのであり、この契約で同じ買い手が同じ売り手に再会するとしても、それはただ偶然でしかないのである。

だから、商品生産またはそれに属する過程は、商品生産自身の経済的諸法則に従って判断されるべきだと考えれば、われわれはそれぞれの交換行為を、それ自体として、その前後に行われる交換行為とのいっさいの関連の外で、考察しなければならないのである。また、売買はただ個々の個人のあいだに行われるのだから、全体としての各社会階級のあいだの関係を売買のうちに求めることは許されないのである。

今日機能している資本が経てきた周期的再生産や先行した蓄積の列がどんなに長くても、この資本はいつでもその最初の処女性を保持している。おのおのの交換行為─個別的に見たそれ─で交換の諸法則が守られるかぎり、取得様式は、商品生産に適合した所有権には少しも触れることなしに、徹底的な変革を経験することができる。同じこの権利は、生産物が生産者のものであって生産者は等価と等価とを交換しつつただ自分の労働によってのみ富を得ることができるという最初の時期に有効であるのと同様に、資本主義時代にも、社会の富が、ますますおおきくなる度合いで、絶えず繰り返し他人の不払労働を取得する地位にある人々の所有になるという時代にも、有効なのである。

このような結果は、労働力が労働者自身によって商品として自由に売られるようになれば、不可避的になる。しかしまた、そのときからはじめて商品生産は一般化されるのであって、それが典型的な生産形態になるのである。そのときからはじめて、どの生産物もはじめから販売のために生産されるようになり、いっさいの生産された富が流通を通るようになる。賃労働がその基礎となるとき、はじめて商品生産は自分を全社会に押しつける。しかしまた、そのときはじめて商品生産はそのいっさいの隠された力を発揮する。賃労働の介入は商品生産を不純にする、と言うことは、商品生産は不純にされたくなければ発展してはならない、と言うことである。商品生産がそれ自身の内在的諸法則に従って資本主義的生産に成長してゆくのにつれて、それと同じ度合いで商品生産の所有法則は資本主義的取得の諸法則に一変するのである。

すでに見たように、単純再生産の場合でさえも、すべての前貸しされた資本は、最初はどうして手に入れたものであろうと、蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化するのである。しかし、生産の流れのなかでは、およそすべての最初に前貸しされた資本は、直接に蓄積された資本に比べれば、すなわち、それを蓄積した人の手のなかで機能しようと他の人の手のなかで機能しようと、とにかく資本に再転化した剰余価値または増殖生産物に比べれば、消えてなくなりそうなむ大きさ(数学的意味での無限小)になる。それだからこそ、経済学は、一般に、資本を「再び剰余価値の生産に充用される蓄積された富」(転化した剰余価値または収入)として説明するのであり、あるいはまた資本家を「剰余生産物の所有者」として説明するのである。現存の資本はすべて蓄積されたか利子または資本化された利子だという表現では、ただ同じ見方が別の形式をとっているだけである。なぜならば、利子は剰余価値の一つの断片でしかないからである。

このことは、個々の労働者と資本家という関係からそうですが、視点を労働者階級と資本家階級という総体的に変えてみると、違った様相を呈してきます。

商品の生産では、独立した売り手と買い手が向き合っているだけです。両者の関係は、契約が満了すれば終わるという、契約限りのもので、仮に取引が継続されるとしても、それは新たに契約が締結されたからで、前の契約とは関係のない、結果としてそうなったということにすぎません。だから、商品の生産のプロセスを商品生産の経済法則から考察するためには、すべての交換行為を独立したものとして考える、つまり、交換行為はその前後の行為とは関連づけずに考えなければならないということです。しかも売買は個人の間で行われるものであるということから、社会的な階級の関係から考えることは許されないのです。

現在、実際に機能している資本がこれまでに行ってきた周期的な再生産と蓄積がどれほど長期的に行われてきたとしても、この資本は最初に交換行為を始めた時と変わらない。それぞれ個別の交換行為は、交換の法則が守られていれば、商品の生産にふさわしい所有権を侵害することなく、取得様式を根本的に変えることができます。そもそもの最初は、生産物は生産者のものであり、生産者は等価物を交換しながら、自身の労働によって豊かになることができました。資本主義の時代になると、社会的な富が絶えず規模を拡大しながら、他者の不払労働を取得できる人々のものとなっていきました。このどちらの時代でも所有権のルールは同じように通用するのです。

このような結果は、労働者が自信の労働力を商品として自由に売ることができるようになると、不可避なこととなります。そうなると商品生産が一般的なものとなり、これが典型的な生産形態となります。同時に、あらゆる生産物が最初から販売するために生産されるようになり、生産された富が、すべて流通するようになります。賃金労働が商品生産の基礎となったとき、商品生産が社会全体に強制されることになります。そうなって、はじめて、商品生産は、その潜在的な能力を発揮することができるのです。

賃金労働が生まれたことによって商品生産が不純なものとなったと主張するのは、商品生産が純粋なものであり続けるために発展してはならないと主張するのと同じです。商品生産は、それ自身の内在的な法則に従って資本主義に発展していくのであり、それに応じて商品生産の所有の法則は資本主義的な取得の法則に転化していくのです。

単純再生産の場合でも、前払いされた資本は、どのようにして入手されたかは関係なく、蓄積された資本または資本に転化された剰余価値に転化します。しかし、生産のプロセスでは、最初に前払いされた資本は、資本に転化した剰余価値や剰余生産物の大きさを比べると、ごくわずかな大きさにすぎません。そのため経済学では、資本を一般的に「新たに剰余価値の生産のために蓄積された富(転化した剰余価値または収入)」と説明していて、資本家を剰余価値の所有者と呼びます。あるいは、存在するすべての資本は蓄積されたか資本化された利子だということも、これまでのことを別の形で述べているにすぎません。利子とは剰余価値のたんなる一部に過ぎないからです。

しかしわたしたちが資本制的な生産をそのたえざる更新の流れのうちに考察し、個々の資本家と労働者ではなくその総体を、すなわち資本家階級と労働者階級を考察の対象とするならば、事態はまったく違ってみえてくる。ただしその場合には、商品の生産とはまったく異質な尺度を使うことになる。

商品の生産においては、たがいに独立した売り手と買い手が向き合っていた。両者の関係は、彼らのあいだで締結された契約が満了する時点で終了する。取引が反復されるとしても、それは新たな契約が締結されたからであり、その契約は前の契約とはまったくかかわりがない。新たな契約で買い手と売り手がまったく同じであったとしても、それは偶然のことである。

だから商品の生産について、あるいはそれに付随するプロセスについて、商品の生産に固有の経済的な法則に基づいて判断するためには、わたしたちはすべての交換行為を独立したものとして考察する必要があるのであり、その交換行為に先立つ行為やそれにつづく行為とまったく関連づけずに考察しなければならない。しかも売買は個人のあいだで行われるものであるから、社会のすべての階級のあいだの関係をそこに探すことは許されないのである。

現在機能している資本がすでに行ってきた周期的な再生産とそれ以前の蓄積の系列がどれほど長いものであろうと。この資本はつねに最初の処女性を維持している。個別的にみたどの交換行為においても、交換の法則が守られているならば、商品の生産にふさわしい所有権をいささかも侵害することなく、取得様式が根本的に変化することはありうるのである。

原初の状態では、生産物は生産者のものであり、生産者は等価物を交換しながら、みずからの労働によってのみ、豊かになることができた。資本制の時代には、社会的な富が、たえず規模を拡大しながら、つねに他者の不払労働を取得することができる人々の所有になっていく。しかしこのどちらでも、すでに述べてきた所有権の法則が通用するのである。

労働者がみずからの労働力を商品として自由に売るようになると、このような結果になるのは避けがたいことである。そのときに初めて商品の生産が一般的なものとなり、これが典型的な生産形態になる。そしてそのときに初めて、あらゆる生産物が最初から販売されるために生産されるようになり、生産されたすべての富が流通するようになる。賃金労働が商品生産の基礎となったときに初めて、商品生産が社会のすべてにおいて強制的なものとなる。しかしそのときに初めて商品生産はみずから隠された潜在的な能力を発揮するようなものになるのである。

賃金労働が生まれたために、商品生産が不純なものとなったと主張するのは、商品生産が純粋なものであるためには、発展してはならないと主張するのと同じであることである。商品生産はみずからの内在的な法則にしたがって資本制的な生産に発展していくのであり、それに応じて商品生産の所有法則は、資本制的な取得の法則に転化していくのである。

すでに確認したように、単純再生産の場合でも、前払いされたすべての資本は、それがどのように入手されたかにかかわりなく、蓄積された資本に、または資本に転化された増殖価値に変容する。しかし生産の流れのうちでは、直接に蓄積された資本、すなわちふたたび資本に変容した増殖価値あるいは増殖生産物の大きさと比較すると(それが蓄積した人のもとで機能しているか他者の下で機能しているかにかかわりなく)、最初に前払いされたすべての資本は、ごくわずかな大きさにすぎない(数学的な意味での無限小である)。だからこそ経済学では資本を一般に「新たに増殖価値の生産のために使われる蓄積された富」(変容した増殖価値または収入)と説明するのであり、資本家を「増殖生産物の所有者」と呼ぶのである。あるいは、存在するすべての資本は蓄積されたか資本化された利子であるという表現も、同じ見方を別の形で語ったものにすぎない。利子とは増殖価値のたんなる一部にすぎないからである。

 

第2節 経済学の側から拡大された規模での再生産の誤った把握

古典派経済学の誤謬

次にわれわれは蓄積または剰余価値の資本への再転化に関するいくつかのいっそう詳しい規定に進むのであるが、その前に、古典派経済学によって生みだされた一つの疑義をかたづけておかなければならない。

資本家が彼自身の消費のために剰余価値の一部で買う商品は、彼にとって生産と価値増殖の手段としては役だたないものであるが、同様に、彼が自分の自然的および社会的諸欲望の充足のために買う労働も、生産的労働ではない。このような商品や労働を買うことによっては、彼は剰余価値を資本に転化させるのではなく、反対にそれを収入として消費または支出するのである。昔の貴族の心がけは、ヘーゲルが正しく言っているように、「現在あるものを使い果たすことにあり」、またことに人使いの贅沢さを誇りにするのであるが、これとは反対に、ブルジョワ経済学にとって決定的に重要だったのは、資本の蓄積を市民の第一の義務として告げることだったのであり、また、自分にかかる費用よりも多くのものをもたらす生産的労働者の追加を得るために収入のかなりの部分を支出するということをしないで、収入の全部を食ってしまったのでは、蓄積することはできない、と飽きることなく説教することだったのである。他方では、ブルジョワ経済学は世間の偏見とも戦わなければならなかった。その偏見は、資本主義的生産を貨幣畜蔵と混同し、したがってまた蓄積された富とは、その現在の現物形態の破壊を免れた、つまり消費を免れた富か、または流通に投ぜられることから救われた富だ、考えるのである。貨幣を流通から締め出すことは、貨幣を資本として増殖することとは正反対であろうし、蓄財のつもりで商品を蓄積するのはただの愚行であろう。大量の商品の蓄積は、流通の停滞か過剰生産かの結果なのである。たしかに、かの世俗的観念の底には、一方に、富者の消費財源として積み上げられてだんだん消費されてゆくという財貨の姿があり、他方に、どの生産様式にもつきものの減少である在庫形成があるのであるが、これについては流通過程の分析のところで一言することになるであろう。

だから、古典派経済学も、不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって行われる剰余生産物の消費を蓄積過程の特徴的な契機として強調するかぎりでは、正しいのである。だが、古典派経済学の誤りもまたここから始まる。アダム・スミスは、蓄積をただ生産的労働者による剰余生産物の消費として説明すること、または、剰余価値が資本化を剰余価値がただ労働力に転換されることとして説明することを、はやらせた。たとえばリカードの言うところを聞いてみよう。

「一国の生産物はすべて消費されるものと考えなければならない。しかし、それが別の価値を再生産する人々によって消費されるか、それとも別の価値を再生産しない人々によって消費されるかによって、考えられるかぎりの最大の相違が生ずる。われわれが、収入が貯蓄されて資本につけ加えられる、と言うとき、その意味するところは、収入のうちから資本につけ加えられると言われる部分が不生産的労働者によってではなく生産的労働者によって消費されるということである。資本が非消費によって増殖されると考えるよりも大きな誤りはない。」

リカードもその後のすべての人々も、

「収入のうちから資本につけ加えられると言われる部分は生産的労働者によって消費される」というアダム・スミスの誤りを口まねしていたのであるが、これ以上に大きな誤りはないのである。この考え方によれば、資本に転化される剰余価値はすべての可変資本になるということになる。そうではなく、剰余価値も、最初に前貸しされる価値と同様に、不変資本と可変資本とに、生産手段と労働力とに、分かれるのである。労働力は、可変資本が生産過程のなかでとっている形態である。この過程では、労働力そのものは資本家によって消費される。労働力は、その機能─労働─によって生産手段を消費する。それと同時に、労働力を買うために支払われた貨幣は生活手段に転化し、この生活手段は、「生産的労働」によってではなく、「生産的労働者」によって消費される。アダム・スミスは、根本的にまちがった分析によって、次のようなばかげた結論にたどりつく。すなわち、各個の資本は不変成分と可変成分とに分かれるにしても、社会的資本はただ可変資本だけになってしまう、言い換えればただ労賃の支払いだけに支出されてしまう、というのである。たとえば、ある織物業者が2000ポンド・スターリングを資本に転化させるとしよう。彼はこの貨幣の一部分を織物工の買い入れに投じ、他の部分を毛糸や毛織機械などに投ずる。しかし、彼に毛糸や機械を売る人々はさらにその代金の一部分で労働者に支払い、このようにして、ついには2000ポンド全部が労賃の支払に支出されてしまう。つまり、2000ポンドに代表される生産物の全体が生産的労働者によって消費されることになる。明らかに、この議論の全支点は、「このようにして」という言葉にあるのであって、これがわれわれを次から次へとどこまでも追い立てるのである。実際、アダム・スミスは、まさに研究が困難になろうとするところで研究をやめてしまうのである。

資本家が剰余価値の一部で、自分が消費するために購入した商品は、生産手段や価値増殖の手段にはなりません。同じように、同じように、資本家が自分の自然的な欲望や社会的な欲望を満足させるために購入する労働も、生産的な労働ではありません。このように商品や労働を購入することによって、資本家は剰余価値を資本に転化させるのではなく、逆に剰余価値を収入として扱って、自己のための消費や支出に使っている、ということがあります。昔の貴族たちは、現在手元にあるものを使い果たすこと、それによる贅沢を誇示することを基本姿勢としていました。これとは対照的に、ブルジョワ経済学の重要事項が、資本の蓄積こそがブルジョワの第一の義務であるということです。具体的には、次のように奨めます。収入をすべて使い果たしてしまっては蓄積ができない。だから、収入の大部分で生産労働者を追加的に獲得するために使うべきで、このような労働者は支出した以上のものをもたらしてくれるからです。

また、ブルジョワ経済学は次のような大衆的偏見に異議を唱えます。大衆的偏見とは、資本主義的生産と貨幣の退蔵を混同して、蓄積された富というのは消費されずに残った富、すなわち流通に回されず貯蔵されたと富であるという偏見です。しかし、貨幣を流通に回さないということは、貨幣を資本として増殖させることとは正反対のことです。蓄財のつもりで商品を貯め込んでおくことは愚かな行為でしかありません。商品が大量に蓄積されるのは、流通の停滞か過剰生産の結果です。慥かに、一般の人々は、財貨を金持ちが貯め込んでいて、それがゆっくりと消費されていくと思っています。他方、すべての生産様式には在庫の形成という現象がられるのもたしかです。

古典派経済学では、蓄積過程の特徴は、剰余価値を非生産的な労働者ではなく、生産的な労働者が消費することであることを強調しました。このことは正しいのですが、まさにここから古典派経済学の誤謬が始まります。つまり、蓄積を生産的労働者による剰余生産物の消費として説明し、そして、剰余価値が資本に転化されることを労働力に転化されることだと説明してしまったことです。そのため、資本に転化した剰余価値は、すべて労働者を雇用するための可変資本ということになります。そうではなくて、剰余価値は最初に前払いされた資本と同じように不変資本と可変資本に、すなわち生産手段と労働力に分割されるのです。労働力とは、生産過程で可変資本が存在している形態です。労働力そのものは、生産過程で資本家が消費します。労働力は生産過程のなかで労働することで生産手段を消費します。同時に労働力の購入で支払われる貨幣は生活手段となり、この生活手段は生産的な労働者に消費されます。アダム・スミスはこのように根本的に逆転した分析によって、あらゆる個別資本は不変部分と可変資本に分割されるが、社会的な資本は可変資本としてだけ使われ、労働賃金の支払いだけに支出されるという愚かしい結論に達したのでした。

ここで、蓄積について、あるいは増殖価値が資本にふたたび変容するプロセスについて、いくつか詳しい規定を述べたいと思うが、その前に古典派経済学が作りだした一つの曖昧な点を解消しておく必要がある。

資本家が増殖価値の一部を使って、自分で消費する目的で購入した商品は、生産手段や価値の増殖手段として、資本家の役に立つことはない。同じく、資本家が自分の自然的な欲望や社会的な欲望を満たすために購入する労働も、生産的な労働ではない。こうした商品や労働を購入することで、資本家は増殖価値を資本に変容させるのではなく、逆に増殖価値を収入として扱って、消費ないし支出しているのである。

ヘーゲルが正しく指摘しているように、かつての貴族は「手元のものを消費する」こと、とくに使用人を贅沢に使って、みずからを誇示することを基本的な心構えにしていた。これとは対照的にブルジョワ経済学にとって決定的に重要なことは、資本の蓄積こそがブルジョワの第一の義務であることを宣言し、飽きることなく次のように説教することだった。「すべての収入を食い尽くしてしまったのでは蓄積はできない。収入の大きな部分は、追加的な生産的労働者を獲得するために使うべきであり、こうした労働者は支出した以上のものをもたらしてくれるのである」と。

またブルジョワ経済学は、次のような大衆的な偏見にも異議を唱える必要があった。というのは、資本制的な生産と貨幣の退蔵を混同して、蓄積された富とは、その現物形態から破壊されることのない富、すなわち消費されずにすんだ富のことであり、流通から救いだされた富のことであるという偏見があったからである。しかし貨幣を流通から締めだすことは、貨幣を資本として増殖させるのとは正反対のことである。貨幣の退蔵と同じ意味で商品を蓄積することは、まったく愚かしい行為である。商品が大量に蓄積されるのは、流通が閉塞した結果であるか、過剰生産の結果である。たしかに一般の人々は、財貨が富裕層の人々の消費の源泉として蓄積され、それがゆっくりと消費されていくというイメージを抱いている。他方ではすべての生産様式に、在庫の形成という現象がみられるのもたしかである。この在庫の形成の問題は、流通過程を分析するさいに、少し検討する予定である。

古典派経済学では、蓄積過程の特徴は、増殖価値を非生産的な労働者が消費することではなく、生産的な労働者が消費することにあると強調したが、これは正しい。しかしここから古典派経済学の誤謬が始まる。アダム・スミス以来、蓄積をたんなる生産的な労働者による増殖生産物の消費として説明し、増殖価値が資本に転化されることを、増殖価値がたんに労働力に転化されることによって説明するのが流行になった。たとえばリカードは次のように語っている。「一国の生産物はすべて消費されることを理解しなければならない。しかしそれを消費するのが、他の価値を再生産する人々なのか、それを再生産しない人々なのかは、考えられるかぎりで最大の違いを生みだす。収入が貯蓄されて資本に追加されると言うとき、われわれは資本に加わったとされる収入部分が、非生産的な労働者ではなく、生産的な労働者によって消費されたということを意味しているのである。消費しないことで資本が増えると考えることほど大きな誤謬はない」。

しかしリカードとその後継の経済学者たちがスミスにしたがって、「資本に加わったとされる収入部分は、生産的な労働者によって消費される」と語るときほど、大きな誤謬はないのである。

この考え方によると、資本に変容したすべての増殖価値は、[労働者を雇用するための]可変資本になってしまう。そうではなく増殖価値は最初に前払いされた価値と同じように、不変資本と可変資本に、すなわち生産手段と労働力に分割される。労働力とは、生産過程の内部で可変資本が存在する際にとる形式である。生産過程において、労働力そのものは資本家が消費する。労働力はその労働という機能において、生産手段を消費する。

同時に労働力の購入のさいに支払われた貨幣は、生活手段に変わり、この生活手段は「生産的な労働」によってではなく[生産的な労働者]によって消費される。アダム・スミスは根本的に逆転した分析によって、あらゆる個別資本は不変部分と可変資本に分割されるが、社会的な資本は可変資本としてだけ使われ、労働賃金の支払いだけに支出されるという愚かしい結論に達したのだった。

スミスによると、たとえば織物業会が2000ポンドを資本に変容させたとしよう。彼は貨幣の一部を織物工の雇用に使い、残りの部分を毛糸や毛織機械などに投じる。しかし彼に毛糸や機械類を販売する人々もまた、彼から支払われた2000ポンドの一部で、労働などを購入するのであり、それが次々とつづくと、最後は2000ポンドのすべては、労働賃金の支払いに支出されることになる、すなわち2000ポンドによって代表される生産物がすべて生産的な労働者によって消費されるというのである。これでお分かりいただけると思うが、この議論を支えているのは、「それが次々とつづく」というところである。これがわたしたちをあちこち引きずり回すのである。実際にはスミスは研究の難しくなるところで、議論を打ち切っているのである。

 

農主義の貢献

年間生産を一括した全体だけを考察しているあいだは、年間の再生産過程は容易に理解される。しかし、年間生産のすべての成分が商品市場に出されなければならないのであって、そこから困難が始まるのである。多くの個別資本や個人収入のいろいろな運動が、一つの一般的な場所変換─社会的な富の流通─のなかで交差し、混じり合い、紛れ込んでしまうのであって、この一般的な場所変換が、見る目を惑わせ、非常に複雑な問題の解決を研究に課するのである。この現実の問題の分析は、第2巻の第3篇で行うつもりである。─年間生産の姿をそれが流通から出てくるときの形で示すという試みを彼らの「経済表」のなかではじめてやったということは、重農学派大きな功績である。

なお、経済学が、純生産物のうちから資本に転化される部分は全部労働者階級によって消費されるというアダム・スミスの命題を、資本家階級のために利用することにぬかりがなかったのは、言うまでもない。

1年間の総生産を単独で持ち出して、その原資だけに注目するなら、1年間の再生産過程は理解できます。しかし、1年間の生産の全ての部分は商品市場に出されなければならないのであり、そこから困難が始まるのです。多くの個別資本や個人収入のいろいろな運動が、一つの一般的な場所変換─社会的な富の流通─のなかで交差し、混じり合い、紛れ込んでしまうのであって、この一般的な場所変換が、見る目を惑わせ、非常に複雑な問題の解決を研究に課するのである。

重農主義者の大きな功績は、「経済表」で年間の生産を流通からでてきた姿で描くことを初めて試みたことにあります。

年間総生産の原資だけに注目されるならば、1年間の再生産過程はすぐに理解できる。しかし1年間の生産のすべての部分は、商品市場にもちこまれる必要があり、そこで困難な問題が生まれる。個別の資本と個人的な収入の運動が、社会的な富の流通という一般的な配置の転換のうちで、交錯し、混ざり合い、見失われる。この配置の転換が[研究者の]視線を攪乱し、研究者はきわめて複雑な課題を解決することを求められるのである。実際の連関は第2巻の第3篇で分析するつもりである。

重農主義者のきわめて大きな功績は、「経済表」を提示することで、年間の生産を流通からでてきた姿で描くことを初めて試みたことにある。

純生産物のうちで資本に変容する部分はすべて労働者階級が消費するということのスミスの命題を、経済学が資本家階級の利益のために抜け目なく利用したのは自明のことである。

 

第3節 剰余価値の資本と収入とへの分割、節欲説

剰余価値の分割

われわれは剰余価値または剰余生産物を、前章ではただ資本家の個人的消費財源として、本章ではこれまではただ蓄積財源としてのみ考察した。しかし、剰余価値は、そのどちらかの一方だけであるのではなく、同時にそれらのどちらでもある。剰余価値の一部分は資本家によって収入として消費されるのであり、他の部分は資本として充用され、蓄積されるのである。

剰余価値の量が与えられていれば、これらの部分の一方が小さければ小さいほど他方はそれだけ大きいであろう。他の事情はすべて変わらないと仮定すれば、この分割が行われる割合は蓄積の大きさを決定する。しかし、だれがこの分割を行うかといえば、それは剰余価値の所有者、つまり資本家である。だから、この分割は資本家の意志行為である。彼が取り立てる貢物のうちから彼が蓄積する部分のことを、人々は、彼がそれを貯蓄するのだ、と言う。なぜそう言うかといえば、彼がそれを食ってしまわないからであり、言い換えれば、彼が、資本家としての自分の機能を、つまり自分を富ませるという機能を果たすからである。

前章では剰余価値と剰余生産物を資本家の個人的な消費財源として、本章ではここまで蓄積財源としてのみ考察してきました。しかし、剰余価値は、このようにどちらかの片方のみに限られるのではなく、一部を消費に、他の一部を資本に転化するというように両方に使われます。

このうち一方が多額になれば、残りの一方は少なります。この両方の比率、つまり剰余価値を両方に分割する比率によって蓄積の大きさが決まってきます。この分割の比率を決めるのは、剰余価値の所有者である資本家です。この分割は資本家の意志によってなされるのです。資本家が蓄積する部分を、人々は貯蓄といいます。資本家が、消費してしまわないからで、言い換えれば、自らを富ませるという資本家の機能を果たすからです。

前章では、増殖価値と増殖生産物を資本家個人の消費原資としてのみ考察し、本章もここまでは蓄積原資としてのみ考察してきた。しかし増殖価値はそのどちらかの片方ではなく、同時に両方に使われるのである。資本家は増殖価値の一部を収入として消費し、他の一部を資本として使用して、蓄積する。

増殖価値の量が与えられていれば、片方の用途で使う分が大きければ大きいほど、他方の用途に使われる分は小さくなる。他の事情が同じだとすると、この分割の比率によって蓄積の大きさが決まる。しかしこの分割の比率を決めるのは、増殖価値の所有者である資本家である。この分割は資本家の意志的な行為なのである。資本家が手にした貢物のうち、彼が蓄積する部分のことを、彼はそれを貯蓄していると言われる。彼がその部分を消尽していないからである。すなわち彼は、みずからを富ませるという資本家としての機能をはたしているからである。

 

資本家の歴史的な役割

資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権、すなわち、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付のないものではない存在権をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれるのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の想像を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累積的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである。

それゆえ、彼のあらゆる行動が、ただ彼において意志と意識とを与えられている資本の機能でしかないかぎりでは、彼にとって彼自身の私的消費は彼の資本の蓄積から盗みとることを意味するのであって、ちょうどイタリア式簿記で私的支出が資本にたいする資本家の借方に現われるようなものである。蓄積は、社会的な富の世界の征服である。蓄積は、搾取される人間材料の量を拡大すると同時に、資本家の直接間接の支配を拡大するのである。

資本家が資本の人格化であるかぎり、歴史的な価値と存在、リヒノフスキーの言う日付のある存在です。資本家が人格化された資本であるかぎり、資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちにあり、すなわち、使用価値と個人的消費ではなく交換価値とその増殖が、資本家の動機となるのです。

価値の増殖を熱愛する資本家は人類を生産のための生産へと容赦なく駆り立て、社会的生産力を強制的に発展させ、物質的な生産条件を強制的に創出させます。このような物質的な生産条件だけが、個人の自由で完全な発展を根本原理とかる社会形態の基礎となるのです。

資本家は資本の人格化としてのみ尊重されます。そのような者として資本家は、貨幣の退蔵者と富への衝動を共有しています。しかし、貨幣退蔵者の富への衝動は個人的なものですが、資本家の場合は社会的なメカニズムの働きとして現れます。この場合は、資本家はこのメカニズムを動かす歯車の一つです。

さらに、資本主義的生産様式が発達してくると、個々の企業に投資された資本は必然的にたえず増大させられることになります。そして、競争は資本家に資本主義的生産様式に内在する法則を外在的な法則として押しつけます。競争は資本家を自己の資本を確保するための、資本の増強を強制します。資本家は、資本を増強するためには、資本を累積的に蓄積するしかないのです。

このような資本家の行動は、意志と意識を与えられた資本の働きによるものです。そうなると、資本家の私的な消費は、彼自身の資本の蓄積から盗み取るようなものとみなされます。したがって、蓄積とは社会的な富の世界を征服することです。つまり、蓄積は搾取の量を増大され、間接または直接の資本家による支配を拡大することです。

資本家が人格化された資本であるかぎりでのみ、歴史的な価値と歴史的な存在権をそなえている。あの機知に富んだ[プロイセンの右派の議員の]リヒノフスキーが語るように、この存在権には日付がないわけではない。資本家が人格化された資本であるかぎりで、彼の過渡的な必然性が、資本制的な生産様式のもつ過渡的な必然性のうちに含まれるのである。そのかぎりで、使用価値と享楽ではなく、交換価値とその増殖が、資本家を動かす動機となる。

価値の増殖を狂信的なまでに熱愛する資本家は、人類を生産のための生産へと容赦なく駆り立て、社会的な生産力を強制的な発展させ、物質的な生産条件を強制的に創出させる。こうした物質的な生産条件のみが、あらゆる個人の自由で完全な発展を根本原理とする高度な社会形態の土台となりうるのである。

さらに資本制的な生産様式が発達してくると、個々の企業に投資された資本は必然的にたえず増大させられることになる。そして競争のために、資本制的な生産様式に内在する法則が、外在的な法則として資本家に強制的におしつけられる。競争のために資本家は、自分の資本を確保するためには、資本をたえず増強せざるをえなくなる。そして資本を増強するには、資本を累積的に蓄積するしかないのである。

このようにして資本家のふるまいは、資本家のうちで意志と意識を与えられた資本の働きにすぎなくなる。そうなると資本家が私的な消費をすると、それは自分の資本の蓄積から盗む行為になってしまう。イタリア式の簿記では、私的な消費が資本にたいする資本の借方に記入されるのと同じである。蓄積とは、社会的な富の世界を征服することである。蓄積は搾取される〈人間材料〉の量を増大させると同時に、資本家による間接的および直接的な支配を拡張することである。

 

ファウスト的な葛藤

だが、原罪の結果はどこにも現われる。資本主義的生産様式が発展し蓄積が増進し富が増大するにつれて、資本家は資本の単なる化身ではなくなる。彼は自分自身のアダムに「人間的な共感」を覚える。そして、禁欲への熱中を古風な貨幣蓄蔵者の偏見として嘲笑するように教育される。古典的な資本家は、個人的消費に、資本家の職分に反する罪悪で蓄積の「抑制」だという烙印を押すのであるが、現代化された資本家は、蓄積を彼の享楽欲の「禁欲」として理解することができるのである。「彼の胸には、ああ、二つの魂が住んでいて、それが互いに離れたがっているのだ!」

資本主義生産様式の歴史的発端─そして資本家に成り上がるものはそれぞれ個別的にこの歴史的な段階を通る─では、致富欲と貪欲とが絶対的な熱情とそして優勢を占める。しかし、資本主義的生産が進展は、ただ享楽の世界を作りだすだけではない。それは、投機や信用制度によって、いくらでもにわかな致富の源泉を開く。発展がある程度の高さ達すれば、富を誇示であると同時に信用の手段でもある世間並みな程度の浪費は、「不幸な」資本家の営業上の必要な手段にさえなる。奢侈は資本の交際費の一部になる。もともと、資本家は、貨幣蓄蔵者とは違って、彼自身の労働や彼自身の非消費に比例して富をなすのではなく、彼が他人の労働力を搾取し労働者に人生のいっさいの快楽を絶つことを強要する程度にしたがって富をなすのである。だから、資本家の浪費は、はでな封建領主の浪費のような無邪気な性格をもっているのではなく、むしろその後ろにはいつでも最も卑しい貪欲や最も小心な打算が潜んでいるのであるが、それにもかかわらず、彼の浪費は、彼の蓄積といっしょに、しかも一方が他方を中断させる必要なしに、増大するのである。それと同時に、個々の資本人の高く張った胸のなかでは、蓄積欲と享楽欲とのファウスト的葛藤が展開されるのである。

しかし、資本主義的生産様式が発達し、蓄積が進み、富が増大すると、資本は資本の人格化であることをやめます。古典的な資本家は個人的な消費は蓄積の放棄という罪と考え、近代的な資本家は蓄積を享楽衝動の節制として理解します。

資本主義的生産様式の歴史的発端、すべての成り上がりの資本家は個人として、この歴史的段階を経験するものですが、には富への衝動と貪欲が絶対的に優位な情熱となり、他のすべてを圧倒します。しかし、資本主義的生産が進歩すると、資本家のための享楽の世界が生まれ、それだけでなく、投機と信用制度によって、無数の一瞬で富を得る機会が作りだされます。

資本主義がある段階まで発展すると、慣習で認められた程度の浪費ならば、それは富を誇示して信用を得るための手段となります。それが営業上の不可欠な手段となる資本家もいます。贅沢は、いわば交際費のようなものとなるわけです。ただし、資本家は自身の労働によって得た収入を、支出を節約した蓄積して豊かになったのではなく、他人である労働者の労働を搾取して、その労働者の生活の楽しみを抑えつけることによって豊かになったのです。

だから、資本家の浪費は、中世の封建貴族のような無邪気なものではありません。資本家の贅沢の背後には、常に汚れた貪欲と小心な打算が潜んでいます。マルクスは、そこにファウスト的な葛藤があると言います。

しかし原罪はいたるところで効き目を現わす。資本制的な生産様式が発達し、蓄積が進み、富が増大すると、資本家はたんに資本の化身であることをやめる。彼はみずからのうちの[原罪を犯した]アダムにたいして[人間的な共感]を覚えるようになり、禁欲を熱狂的に求める心を、貨幣退蔵者の偏見として嘲笑するように教育される。古典的な資本家は、個人的な消費は資本家としての機能にたいする罪であり、蓄積の「放棄」であると断罪していたものであるが、近代的な資本家は、蓄積を自分の享楽衝動の「節制」として理解できるようになる。「ああ、彼の胸には二つの魂が住んでいて、一つの魂は別の魂から離れようとする」のである。

資本制的な生産様式の歴史的な黎明期には(そしてあらゆる成り上がりの資本家は個人としては、すべてこの歴史的な段階をひとたびは通過するのである)、富への衝動と貪欲が絶対的な情熱となり、他のすべてを圧倒してしまう。しかし資本制的な生産が進歩すると、[資本家のための]享楽の世界が作りだされる。それだけではなく、投機と信用制度によって、一瞬のうちに豊かになる無数の源泉が作りだされるのである。

資本制的な発展がある段階に到達すると、慣習で認められた程度の浪費であれば、富を誇示することで信用を獲得する手段となる。「不運な」資本家にとっては営業上の不可欠な手段となるのである。贅沢は、資本のいわば〈交際費〉のようなものとなる。それでなくとも資本家は貨幣退蔵者と同じく、[ふつうの人のように]個人的な労働[によってえた収入][その収入の]個人的な節約のあんばいによって裕福になるのではない。他者の労働を吸収し、労働者のあらゆる生活の楽しみを節約することによって裕福になるのである。

だから資本家の浪費は、浪費好きの封建貴族の浪費のような善良な性格をそなえていない。その背後にはつねに、もっとも汚れた貪欲と不安に満ちた打算が潜んでいる。それでも資本家の浪費は、蓄積とともに増えていき、一方を増やすために他方を中断する必要はない。こうして同時に、個々の資本家の高く膨らんだ胸のうちで、蓄積衝動と享楽衝動のあいだのファウスト的な葛藤がくりひろげられていくのである。

 

マンチェスターの工業の4つの時期

ドクター・エイキンが1795年に公刊した一書のなかには、次のように述べてある。

「マンチェスターの工業は、4つの時期に区分することができる。第1期には工場主たちは自分の生計のために激しく働かなければならなかった。」

彼らは特に徒弟の親たちから盗むことによって富をなした。すなわち、この親たちは子供を徒弟として工場主に預け、そのかわりに多額の礼金を支払わなければならなかったのに、徒弟たちは飢えに悩まされていたのである。他面で平均利潤は低く、蓄積は非常な節約を必要とした。彼らは貨幣蓄蔵者のように暮らした。そして、彼らの資本の利子を食ってしまうようなことはけっしてしなかったのである。

「第2の時期にはすでに彼らは小財産をもちはじめていたが、やはり以前と同じに激しく働いていた。」なぜならば、奴隷使役者が誰でも知っているように、労働の直接的搾取には労働が必要だからである。「そして、彼らは相変わらず同じように質素に暮らしていた。…第3の時期には奢侈が始まった。そして、騎乗り(騎馬で行く外交員)を派遣して王国内のあらゆる市場都市で注文を取ることによって、営業が拡張された。おそらく、1690年以前には、3000ポンドから4000ポンドの資本のうちで工業で得られたものはわずかしかなかったか、または全然なかったであろう。だが、このころ、またはもう少し後では、工業家たちはすでに貨幣を蓄積していて、木やしっくいの家のかわりに石造の家を建てはじめていた。…まだ18世紀の初めのころには、マンチェスター一工場主は、1パイント[約0.56リットル]の外国産のぶどう酒を客に出して、近所じゅうの非難を買った。」

機械が出現するまでは、工場主たちの集まる酒場での彼らの一晩の消費は、1杯のポンス代6ペンスと1袋のタバコ代1ペニーとを超えることはけっしてなかった。やっと1758年になって、画期的なできごととして、「実際に事業に携わっていて自分の馬車をもっている者が1人!」現われた。18世紀の最後の3分の1期にあたる「第4の時期は、営業の拡張に支えられた非常な奢侈と浪費との時期である。」この善良なドクター・エイキンが今日マンチェスターで生き返ったとしたら、はたして彼はなんと言うだろうか!

ここまで述べてきたことの実例として、エイキンという医師によるマンチェスターの工業の発展を4つの時期に分けたレポートを取り上げます。第1期では、工場主たちは生計のために熱心に働かざるを得なかった時期です。事業の利潤は低く、資本の利子などもわすかで、蓄積するために節約に努めました。

第2期になると、工場主たちは小財産を得ましたが、相変わらず必死に働いていました。労働者を直接に搾取するためにも、工場主も労働していました。それが第3期になると、工場主たちの贅沢が始まりました。事業が拡大し、貨幣を蓄積できるようになりました。そして第4期には、機械類の登場により、事業が拡張し、大いなる贅沢と浪費の時代となりました。

[医者で歴史家の]エイキン医師が1795年に発表したある文書には次のように書かれている。「マンチェスターの工業は、4つの時期に区分できる。第1期は、工場主たちが生計を立てるために熱心に働かざるをえなかった時期である」。彼らはとくに、自分の子供たちを徒弟に預けてきた両親から金をまきあげて豊かになった。両親は工場主に子弟を徒弟として預けて多額の礼金を払ったが、徒弟たちは食べものに飢えていた。他方で利潤は平均的に低く、蓄積するために熱心に節約する必要があった。工場主たちは貨幣退蔵者のように生活し、資本の利子などはわずかでも消費しなかった。

「第2期になると、彼らはちょっとした資産を獲得し始めたが、前と同じように必死で働いた」。奴隷使用人なら誰でもよく知っているように、労働者を直接に搾取するには、工場主も労働する必要がある。「そして工場主たちは相変わらず質素に暮らしていた。…第3期になると、贅沢が始まる。そして王国のあらゆる市場都市に、騎馬営業人(馬に乗った注文取り─マルクス)が派遣されて注文を集めるようになり、事業は大きく拡大した。1690年以前には、工業分野の活動でえられた資本が3000〜4000ポンドに達している事業はまったく、あるいはほとんどなかっただろう。しかしこの頃か、その少し後になると、工業家たちは貨幣を蓄積しており、木造やモルタル造りの家屋ではなく、石造りの家屋を建造して住むようになった。…18世紀の最初の数十年の最初の数十年でもまだ、工場主が客を1パイント[約0.56リットル]の外国産のワインでもてなすと、近隣の評判になったものだった」。

機械類が登場する前は、工場主たちが夜に酒場に集まっても、その費用が[ラム酒のカクテルの]ポンス1杯6ペンスと、たばこ1袋1ペニーを超えることは決してなかった。1758年になって初めて、画期的なことに、「実際に事業を手掛けている人物で豪華な自家用の馬車をもつ人が現われた」。18世紀の最後の3分の1期にあたる「第4期は、事業の拡張に支えられた大いなる贅沢と浪費の時代である」。善良なエイキン医師が生まれ変わって最近のマンチェスターの様子をみたら、いったいどう言うだろうか。

 

モーセの言葉

蓄積せよ、蓄積せよ!これがモーセで、預言者たちなのだ!「勤勉は材料を与え、それを倹約が蓄積する。」だから、倹約せよ、倹約せよ!剰すなわち、剰余価値や剰余生産物のできるだけ大きな部分を資本に再転化させよ!蓄積のための蓄積、生産のための生産、この定式のなかに古典派経済学はブルジョワ時代の歴史的使命を言い表わした。古典派経済学は富の生みの苦しみについては一瞬も考え違いはしなかった。だが、歴史的必然を嘆いたとてなにになろう?古典派経済学にとっては、プロレタリアはただの剰余価値を生産する機械として認められるだけだとすれば、資本家もまたただこの剰余価値を剰余資本に転化させるための機械として認められるだけである。古典派経済学は資本家の歴史的機能を大真面目に問題にする。資本家の胸を享楽欲と致富欲とのやっかいな葛藤から守ってやろうとして、マルサスは、20年代の初めに、現実に生産に携わる資本家には蓄積の仕事を割り当て、その他の剰余価値を分け取る人々、すなわち土地貴族や国家と教会からの受給者などには浪費の仕事を割り当てるという分業を弁護した。彼は言う、「支出への熱情と蓄積への熱情を分けて考えること」は最も重要なことである、と。もうとっくに享楽家となり社交家となってしまっていた資本家諸氏はわめきたてた。彼らの代弁者の1人、リカード学派のあるものは次のように叫んだ。マルサス氏は高い地代や高い租税などを唱えて、不生産的な消費者によって絶えず産業家に刺激を与えようとする!生産、ますます拡大される規模での生産、愛言葉はたしかにこう響くのであるが、しかし、

「このようなやり方では生産は促進されるどころかかえって妨害される。また、もし諸君が彼らに働くことを強制しうるとすれば、その性格から見てたぶんりっぱに働くであろうと考えてよい一群の人々を、ただ他人をつねって刺激するためになまけさせておくということも、十分に公平だとは言えない。」

このように、彼は、産業資本家からうまい汁を吸い取ることによって産業資本家を蓄積に駆り立てることを不公平だと思うのであるが、その彼が、「労働者を勤勉にしておくためには」労働者をできるだけ最低賃金に抑えつけておくことが必要だと考えるのである。また、不払労働の取得が利殖の奥の手だということをも、彼はけっして隠そうとはしないのである。

「労働者の側からの需要の増加の意味するところは、彼ら自身が生産物のうちから自分自身のためにはより少なく取り、それより大きい部分を彼らの雇い主の手にゆだねようとする彼らの意向以外のなにものでもない。そして、これは消費(労働者側の)を減らすことによって供給過多(市場過充、過剰生産)を生みだす、と言う人があるならば、私は、ただ、供給過多は高利潤と同義だ、と答えることができるだけである。」

蓄積せよというのが預言者モーゼの言葉です。勤勉が供給する材料を、節約が蓄積する。剰余価値や剰余生産物をできるだけ多く、資本に再転化させる。蓄積のための蓄積、生産のための生産。この公式によって古典派経済学は、ブルジョワ時代の歴史的な使命を表明したのです。

古典派経済学は、富が生まれる際に必要な生みの苦しみについては正しく理解していました。労働者が、たんに剰余価値を生産する機械のようなものならば、資本家もまた剰余価値を資本に転化させる機械に過ぎません。古典派経済学は、そのように考えました。

マルクスは、労働者を搾取して取り上げた富を、資本家や地主たちが取り合う様と、それを議論する経済学者たちを揶揄的に紹介しています。

蓄積せよ、蓄積せよ。これがモーセの言葉であり、預言者の言葉である。「勤勉が供給する材料を、節約が蓄積する」。すなわち節約せよ、節約する。増殖価値や増殖生産物のできるかぎり多くの部分を資本にふたたび変容させよ。蓄積のための蓄積、生産のための生産。この公式によって古典派経済学は、ブルジョワ時代の歴史的な使命を表明したのである。

古典派経済学は、富が生まれる際に必要な生みの苦しみについては、一瞬も誤ることがなかった。しかし歴史的な必然性について嘆いてみても、何の役に立つだろう。古典派経済学にとってプロレタリアが、たんに増殖価値を生産する機械にすぎないのであれば、資本家もまた増殖価値を増殖資本に変容させるための機械にすぎない。古典派経済学たちは、資本家の歴史的な使命について真面目に考える。

マルサスは資本家の胸のうちの享楽への衝動と豊かになろうとする衝動の癒しがたい葛藤から資本家を解放するために、1820年代の初めにある分業を称賛した。すなわち実際に生産に携わる資本家には蓄積の仕事を分け与え、増殖価値の配分にあずかる他の当事者、すなわち土地貴族や、国家や教会から俸給をうけとっている人々には浪費の仕事を分け与えるというのである。マルサスは「支出のための情熱と蓄積のための情熱を分離しておく」ことがきわめて重要であると主張する。

これを聞いて、すでに長いあいだ遊蕩児となり、社交人となっていた資本家諸君は憤慨して大声で叫んだ。彼らの代弁者であるリカード派の経済学者は、何を言うのかと叫ぶ。マルサス氏は地代と税金を増幅して、非生産的な消費者を優遇し、それを実業家への刺激としようとしている。生産、たえずさらに大規模な生産と、決まり文句のように繰り返されるが、「そのような措置によっては、生産は刺激されるどころか阻害される。働くように強制することができれば、効率よく働いてくれるような性格の人々を、他人からくすねるという目的のためだけに、このように怠けさせておくのは、あまり公平なことではない」。

この経済学者は、実業家である資本家からその上前をはねることによって、彼らを蓄積へと追い立てるのはあまり公平なことではないと考えている。ところがこの人物は、「労働者が勤勉に働くように」、労働者の賃金を最低限の水準に抑えておく必要があると考えているのである。またこの人物は、不払労働を取得することが、利殖の秘密であることを、一瞬たりとも隠そうともしない。「労働者側の需要が増大するということは、労働者が自分の生産物のうちから自分のためにはより少なくとり、雇用主により多くを残しておく傾向があるということだ。そしてこれが消費を(すなわち労働者側の消費を─マルクス)減らすことによって、供給過剰(市場の飽和と過剰生産─マルクス)をもたらすと言うならば、わたしは供給過剰と利潤が高いこととは同義語であると言わざるをえない」。

 

俗流経済学の弔鐘

われわれは

労働者から取り上げた獲物を産業資本家と怠け者の土地所有者などとのあいだにどのように分配すれば、蓄積のためにいちばん役に立つか、という学者仲間の争論も、7月革命の前では鳴りをしずめた。それからまもなく、都市のプロレタリアートはリヨンで警鐘を鳴らし、農村のプロレタリアートがイギリスで焼打ちをした。海峡のこちら側ではオーウェン主義が、あちら側ではサン・シモン主義やフーリエ主義がはびこった。俗流経済学の時を告げる鐘はすでに鳴っていた。ナッソー・ウィリアム・シーニョアがマンチェスターで、資本の利潤(利子を含めて)は、支払を受けない「最後の12時間の1労働時間」の産物だ、ということを見つけだした時からちょうど1年前に、彼はもう一つの別な発見を世に告げていた。「私は」、と彼はおごそかに言った、「私は、生産用具として考えられる資本という言葉のかわりに節欲という言葉を用いる。」これこそ俗流経済学者の「発見」のなによりの見本だ!俗流経済学は、経済学的範疇のかわりにへつらいものの文句をもってくる。ただそれだけだ。シーニョアは次のように講義する。「未開人が弓をつくるとき、彼はひとつの勤労に従事するのであるが、彼は節欲をおこなうのではない。」このことは、初期の社会状態では、どうして、なぜ、資本家の「節欲なしで」労働手段がつくられたのか、をわれわれに説明してくれる。「社会が進歩すればするほど、ますます社会は節欲を要求する。」すなわち、他人の勤労とその生産物とを自分のものにするという勤労に従事する人々の節欲を。労働過程のいっさいの条件は、そのときから、それらと同じ数の、資本家の節欲の実行に転化する。穀物が、ただ食料になるだけでなく、種として播かれもするということは、資本家の節欲なのだ!ぶどう酒が発酵のための時間を与えられるということも、資本家の節制なのだ!もし資本家が「生産用具を労働者に貸す」(!)ならば、言い換えれば、蒸気機関や綿花や鉄道や肥料やひき馬などを食ってしまわないで、または、俗流経済学者の子供じみた考え方によれば、「それらの価値」を奢侈やその他の消費手段に使ってしまわないで、それらに労働力を合体させて資本として増殖するならば、彼は自分自身のアダムから奪い取るのである。こういうことを資本家階級はいっさいどのようにしてやるのか、これは俗流経済学がこれまで頑強に守ってきた秘密である。要するに、世界はただこの現代のヴィシュヌ神前の贖罪者である資本家の難行苦行によってのみ生活しているのである。ただ蓄積するためだけでなく、単に「資本を維持するためにも、それを食ってしまうことの誘惑に抗するための不断の努力が必要である。」だから、単純な人道も、明らかに、資本家を殉教と誘惑から救うことを命じているのである。ちょうど、近ごろジョージア州の奴隷所有者が、奴隷制の廃止によって、黒人奴隷から鞭でたたき出した剰余生産物を全部シャンパンに使ってしまうか、それとも一部分をより多くの黒人とより多くの土地に再転化させるかという苦しい板挟みから救われたのと同じように。

非常にさまざまな経済的社会構成体のなかでただ単純再生産が行われるだけではなく、規模の相違はあるにせよ、拡大された規模での再生産が行われる。ますます多く生産されて、ますます多く消費され、したがってますます多くの生産物が生産手段に転化される。しかし、この過程は、労働者に対して彼の生産手段が、したがってまた彼の生産物も彼の生活手段も、まだ資本の形で対立していないあいだは、資本の蓄積ととしては現われないし、したがってまた資本家の機能としても現われない。数年前に死んだリチャード・ジョーンズ、この人はヘイリーヘリー地区の東インド大学の経済学の講座をマルサスから受け継いだ人であるが、彼はこの点を二つの大きな事実によってよく論じ尽くしている。インド人民の最大の部分は自営農民だから、彼らの生産物、彼らの労働手段や生活手段も、けっして「他人の収入から貯蓄される、したがってまた先行の蓄積過程を通ってきた財源の形では」存在しない。他方、イギリスの支配による古い体制の解体が最も少なかった地方の非農業労働者は、直接に豪族によって使用され、これらの豪族の手には農村の剰余生産物の一部分が貢租や地代として流入する。この生産物の一部分は豪族によって現物形態で消費され、別の一部分は豪族のために労働者の手で奢侈手段やその他の消費手段に転化され、その残りが、自分の労働用具の所有者である労働者の報酬になる。生産も拡大された規模での再生産も、ここでは、あの奇妙な聖者の、あの悲しい姿の騎士の、「禁欲する」資本家の、いっさいの介在なしに進行するのである。

 

労働者から取り上げた略奪品を、産業資本家と怠惰な地主などのあいだで、どのように分配するのが蓄積をもっとも促進するかという学問的な論争は、7月革命を前にして沈黙した。その直後には都市プロレタリアートがリヨンで警鐘を鳴らし、農村プロレタリアートがイギリスで焼き討ちの炎を広げた。イギリスではオーウェン主義者たちが、フランスではサン・シモン主義者たちやフーリエ主義者たちが勢力を拡大した。俗流経済学の弔いの鐘が鳴らされた。

ナッソー・W・シーニョアがマンチェスターで、資本の利潤(利子を含む)は不払の「12時間の労働時間の最後の1時間」の生産物であることを発見する1年前に、彼は厳かに、「わたしは生産道具として考えられた資本という語の代わりに、節制という語を使う」と宣言していた。これこそ、俗流経済学者の「発見」の最高の見本というべきだろう。それは経済学的なカテゴリーを、またはどうして、労働手段が作られたかを教えてくれる。「社会が進歩すればするほど、それだけ多くの節制が必要になる」。節制が求められる人々は、勤労活動に従事する人々であるが、この勤労活動というのは、他人の勤労活動とその生産物を自分のものにする活動なのである。

このときから労働過程のすべての条件は、資本家の節制の実践行為となる。「穀物は食べられるだけでなく、蒔かれる必要がある」、これが資本家の節制である!「ワインは発酵するまでに時間がかかる」、これが資本家の節制である!。資本家が「生産手段を労働者に貸す」とき(!)、言い換えれば蒸気機関、綿花、鉄道、肥料、役畜などを自分で食らい尽くすことなく、あるいは俗流経済学者が子供っぽく考えるように、「それらの価値」を贅沢やその他の消費手段に浪費することなく、労働力と一体化させて資本として増殖させるときには、資本家はみずからのアダムを[うちなる欲望を]ふり払っているのである。

資本家階級がこれをいかにして実行すべきかについては、これまで俗流経済学は頑固にその秘密を守ってきた。[ヒンズー教の神]ヴィシュヌ神前で、近代の贖罪者たち、この資本家たちがみずからに課す苦行によって、世界がどうにか生き延びていければ、それで十分ではないかというわけである。蓄積だけでなく、単純な「資本の維持ですら、それを食い尽くそうとする誘惑に抗するには、たえざる努力が必要なのである」。

近年、奴隷制が廃止されたために、ジョージア州の奴隷所有者はそれまでの辛いジレンマから解放された。黒人奴隷に鞭を振るって搾り取った増殖生産物をすべてシャンペンに注ぎ込んでしまうか、それともその一部をより多くの奴隷と土地にふたたび変容させるべきかという辛いジレンマである。それと同じように、資本家たちと殉教と誘惑のジレンマから救ってやることは、単純な人道的な見地からも必要とされるだろう。

経済的な社会編制はきわめて多様なものであり、単純再生産だけではなく、その規模の大小はあっても、規模を拡大していく再生産も行われる。次第にますます多く生産され、ますます多く消費されるようになり、よく多くの生産物が生産手段に変わっていく。しかしこのプロセスは資本の蓄積とはみえないし、資本家の機能ともみえない。労働者の生産手段が、労働者の生産物と生活手段が、まだ資本の形で労働者と向き合っていないからである。

[ロンドンの]ヘイリーヘリー地区にある東インド・カレッジの経済学講座をマルサスからうけついだリチャード・ジョーンズは数年前に他界したが、このことを次の二つの大きな事実に説明している。インドの人民の大部分は自営農民なので、生産物も労働手段も生活手段も、「他者の収入から貯蓄された原資の形で存在したことはなく、先行する蓄積過程を経ていない」。他方でイギリスの支配によっても、古いシステムがほとんど解体してしなかった地方の非農業労働者たちは、農村の増殖生産物の一部を貢租や地代としてうけとっていた支配層に雇われていた。

 

資本の運動法則は絶えざる価値増殖であり、無限にその資本を蓄積していくことです。したがって、獲得された剰余価値がすべて個人的に消費されるという想定は、この原理と矛盾します。したがって、その一部が次期生産のための追加資本となって原資本に合体されることで、はじめて資本はその本来の運動形態を獲得するというわけです。この場合、剰余価値は個人的に消費するための消費元本としての収入と次期生産に投資するための蓄積元本としての追加資本に分割されることになります。

獲得された剰余価値が消費元本と蓄積元本(追加資本)とに分割される割合を剰余価値分割率と呼ぶことにすれば(剰余価値分割=蓄積元本/剰余価値)、この剰余価値分割率の大きさしだいで、次期生産の出発点となる前貸資本の大きさが変わることは明らかです。そこで、たとえば、獲得された剰余価値の半分が個人消費され、残り半分が次期生産のための蓄積元本つまり追加資本になるとしましょう(つまり剰余価値分割率は50%)。

たとえば、1000Gが600cと400vに分かれ、剰余価値率が100%で400mの剰余価値が獲得されるとすると、その400mの半分200mが消費元本となり、のこり200mが蓄積元本となって追加資本として次期生産に回ることになります。この追加資本200mがそのまま原資本1000Gに合体されて、第2期の生産が開始されるわけです。他の諸事情が同じであれば、この1200Gは同じ割合で(3:2)で不変資本(c)と可変資本(v)とに分かれることになります。剰余価値率も同じだとすると、第1期と第2期の蓄積過程はそれぞれ以下のような資本循環を形成します(このように拡大再生産を前提にした資本循環をとくに蓄積循環と呼びます)

このように第2期の生産においては、出発点としての貨幣資本が1000Gから1200Gに増大したことによって、獲得される剰余価値の量も増えて、400mから480mになっています。したがって、最終的な貨幣資本の大きさも、第1期の1400Gではなく、1680Gに増大しているわけです。

この第2期の蓄積循環は、より分析的に見れば、原資本の運動と追加資本の運動とに分かれることになります。こちらは実際には一体のものとして資本の運動を遂行することになりますが、便宜的に原資本の運動と追加資本の運動とに分けることができます。すると、それは以下の2つの運動になるわけです。

この2つの運動が合体したものが、先に示した第2期の蓄積循環になるわけです。同じようにして第3期の生産も記述することができます。第2期の生産によって生じた剰余価値480mのうち、同じく半分の240mが消費元本となり、残る240mが蓄積元本となって出発点の資本1200Gに追加されるとすると、第3期の生産は1440Gから出発することになり、最終的には576mの剰余価値を生むことになります。

このように、1000Gから始まった資本の運動は、蓄積と拡大再生産を繰り返すことで、1000G→1200G→1440Gとしだいに拡大した大きさで生産を開始することができ、それに応じて可変資本の量も、400v→480v→576vというように拡大し、したがってそれがつくり出す剰余価値の大きさも、400m→480m→576mというように複利的に増大していくのです。

ところで、剰余価値の半分が消費元本に、残る半分が蓄積元本となって追加資本として次期生産に回るとしても、このような分割率は何ら必然的なものではありません。この分割率は、資本家がどれぐらいの個人的消費を享受しどれくらい自己の資本を拡大したいと思うのかという主観的要素と、次期生産を拡大する上でどれぐらいの資本量がどの対象に対して必要かという客観的要素(これはこれで他資本の投資動向や市況などにも左右され)とに依存します。後者の客観的要素をとりあえず捨象すると、剰余価値分割率は、個人的消費をますます拡大したいという自然人としての資本家の欲求(消費欲)と、資本をますます拡大したいという「資本の人格化」としての資本家の欲求(蓄積欲)との、葛藤と対立によって規定されることになります。

そして、資本家はずうずうしくも、この葛藤から、自己の利潤を正当化するための新たな理屈を考え出しました。それは、資本家が獲得した剰余価値のすべてを個人的に消費してしまわずに、次期生産に振り向けることは、「節欲」という美徳を発揮することなのであり、したがってそのような美徳に対する報酬として利潤が支払われるべきだというものです(節欲説)。このような節欲説は基本的に、剰余価値そのものが収入ないし所得という形態をとっていることにもとづいています。収入ないし所得というのは、周期的に懐に入ってくる一定額の自由に処分可能な貨幣のことです。資本家はこの収入を自由に使っていいのであり、それでもって贅沢三昧してもいいわけです。そうする正当性が「収入」という概念には付着していることになります。しかし、勤勉なるわが資本家は、そのような「権利」をあえて行使せず、自己の欲望を抑えて自己の収入の一部を次期生産に回して富を生産し、こうして社会に貢献し、労働者に「仕事」を与えているというわけです。このような麗しき「節欲」と立派な「社会貢献」に対して、どうして利潤を請求してはいけないのか、と。このような利潤正当化論を生産利潤の人格的正当化と呼ぶことができるでしょう。

 

第4節 資本と収入への剰余価値の分割比率とは別に蓄積の規模を規定する諸事情。労働力の搾取度─労働の生産力─充用される資本と消費される資本との差額の増大─前貸資本の大きさ

剰余価値と蓄積を決定する要因

剰余価値が資本と収入とに分かれる割合を与えられたものとして前提すれば、蓄積される資本の大きさは、明らかに剰余価値の絶対量によって定まる。80%が資本化され20%が食ってしまわれると仮定すれば、蓄積される資本は、総剰余価値が3000ポンドだったか1500ポンドだったかによって、2400ポンドになるか、または1200ポンドになるであろう。だから、蓄積の大きさの規定では、剰余価値量を規定するすべての事情がいっしょに働くわけである。われわれはこれらの事情をここでもう一度とりまとめてみる、といっても、ただそれらが蓄積に関連して新しい視点を与えるかぎりでのことであるが。

剰余価値が資本と収入に分割される比率が決まっているとすると、剰余価値を大きくすれば、蓄積される資本の大きさが比例して大きくなります。そうだとすると、剰余価値を大きくする要因が、蓄積される資本の大きさに間接的に影響を与えることになります。

増殖価値が資本と収入に分割される比率が与えられているとすると、蓄積される資本の大きさが増殖価値の絶対的な大きさによって決まるのは明らかである。増殖価値の80%が資本に転化され、20%消費されるとしよう。増殖価値の大きさが3000ポンドあれば2400ポンドが蓄積された資本になり、増殖価値が1500ポンドなら、1200ポンドが蓄積された資本になる。だとすると増殖価値の大きさを決定するさまざまな要因がすべて、蓄積される資本の大きさにかかわってくることになる。ここで、蓄積にかんして新たな視点を提供してくれる要因にかぎって、簡単に振り返っておくことにしよう。

 

労働力の搾取度

われわれがおぼえているように、剰余価値率はまず第一に労働力の搾取度によって定まる。経済学はこの役割を非常に重く見て、そのために、ときには労働の生産力の上昇による蓄積の加速を労働者の搾取の増大による蓄積の加速と同視することもある。剰余価値の生産に関する諸篇では、どこでも、労賃は少なくとも労働力の価値に等しいということが前提されていた。とはいえ、実際の運動ではむりやりに労賃をこの価値より下に引き下げることがあまりにも重要な役割を演じているので、われわれもしばらくこの点にとどまらざるをえない。この引き下げは、事実上、ある限界のなかで、労働者の必要消費財源を資本の蓄積財源に転化させるのである。

ジョン・ステュアート・ミルは次のように言う。「労賃は生産力をもってはいない。労賃は一つの生産力の価格である。労働そのものといっしょに商品の生産に寄与するものではないのであって、それは、機械そのものの価格がそうではないのと同じことである。もし買われないでも労働が得られるならば、労賃はなくてもすむだろう。」

だが、もし労働者が空気だけで生きていられるものならば、どんな価格でも彼らは買われないであろう。だから、労働者がただということは、数学上の意味での極限であって、ますますそれに近づくことはできても、けっしてそれに到達することはできないのである。彼らをこの虚無的な立場に押し下げることは、資本の恒常的な傾向である。私がたびたび引用する18世紀の一著述家、『産業およびと商業に関する一論』の著者が、イギリスの労賃をフランスやオランダの水準まで押し下げることはイギリスの歴史的な重大使命だと説くとき、彼はただイギリス資本の魂の底にひそむ秘密をもらしているだけである。なかでも彼は次のように素朴に言っている。

「だが、われわれの貧民(労働者を意味する術語)がぜいたくに暮らそうと思うならば、…彼らの労働は当然高値にならざるをえない。…われわれの製造機売業労働者が消費する恐ろしいぜいたく品なの山を考えてみるだけでよい。そこには、ブランデー、ジン、茶、砂糖、外国産の果実、強いビール、捺染リンネル、かぎタバコ、ふかしタバコ、その他がある」。

彼はノーサンプトンシャーの一工場主の書いたものを引用しているが、この工場主は天の一方にらみながら次のように痛嘆するのである。

「労働はフランスではイギリスよりもたっぷり3分の1は安い。なぜかといえば、フランスの貧民は激しく働いてそまつな衣食で暮らしており、彼らがおもに消費するものは、パン、果実、野菜、根菜、乾魚の類だからである。つまり、彼らはごくまれにしか肉は食わないし、また小麦が高ければパンもろくに食わないからである。」論者はさらに続けて言う。「そのうえに、彼らの飲みものは水かそれに似た弱い酒だから、じっさい彼らの金は支出は驚くほどわずかである。…このような事態にすることはたしかに困難ではあるが、フランスでもオランダでもそれが存在していることが適切に証明しているように、到達できないものではない。」

それから20年後には、アメリカの山師で貴族に列せられたヤンキーのベンジャミン・トムソン(別名ランフォード伯爵)が、同じ博愛の道をたどって、神と人類との多大な満足をかちえた。彼の『論集』は、労働者の高価な常食のかわりに代用食ですませるための各種の調理法をもりこんだ料理全書である。この奇妙な「哲人」の特別に上出来な調理法は次のようなものである。

「大麦5ポンド、とうもろこし5ポンド、3ペンスの鰊、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスの胡椒と野菜─合計20と4分の3ペンスで、64人分のスープができる。じつに、穀物が平均価格では1人当たり4分の1ペニー(3ペニッヒ足らず)に食費を引き下げることができる。」

資本主義的生産の進歩するにつれて、商品の不純化によってこのトムソンの理想もよけいなものになってきた。

剰余価値率は労働力の搾取度によって決まります。経済学は、この要因を重視するあまり、労働力の生産性を高めることで蓄積を促進することと、労働者の搾取を高めることを混同してしまいます。

剰余価値の生産を考えていたときは、労賃は少なくとも労働力の価値と等しいことを前提にしていました。実際に労賃を労働力の価値以下に低くしてしまうことについて、少し検討してみます。このような労賃の引き下げは、その労働力の価格を下回る分が労働者に必要な消費財源から資本家の蓄積の財源に転化されることになります。

J・S・ミルは、労賃そのものに生産力があるはずもなく、生産力を作りだすのは労働であり、労働が無料で得られるなら、労賃は不要になると言いました。しかし、労働者は生活をしなければならず、そのためにはお金が必要です。だから、労働者のコストをゼロにするということは理論上の数字であって、現実にはありえないことです。しかし、資本というのは、そうしようとする傾向が常にあります。

ある著作家によれば、イギリスの労働者はフランスやオランダの労働者に比べ3倍の労賃を得ていて、酒や煙草、フルーツといった贅沢品を消費している。これに対してフランスの労働者は、同じように働くが、粗食に甘んじ、肉などはめったに食べない。だから消費する金額はわずかだといいます。

このように資本は労賃の額を削ることを常に考えています。

すでに確認したように、増殖価値率は何よりも労働力の搾取度によって決まる。経済学はこの要因を重視するあまり、ときに労働の生産力を高めることで蓄積を促進することと、労働者の搾取を高めることによって蓄積を促進することを同じことと考えてしまう。

増殖価値の生産を考察した部分ではつねに、労働賃金は少なくとも労働力の価値と同一であることを想定してきた。しかし労働賃金を労働力の価値以下に下げるように強制することは、実際の運動においては非常に重要な役割を果たすので、ここで立ちどまって検討せざるをえない。実際にこの引き下げは、一定の限界はあるが、労働者に必要な消費の原資を資本家の蓄積の原資に変えてしまうのである。

J・S・ミルは「労働賃金に生産力はない。それは生産力の価格である。労働賃金が労働そのものとともに、商品の生産に貢献することはない。それは機械の価格そのものが商品の生産に貢献しないのと同じである。労働が支払わずに手にはいるのであれば、労働賃金は不要になるだろう」という。しかし労働者がかすみを食って生きていけるのであれば、どんな価格を払っても、彼らを買うことはできないだろう。だから労働者のコストをゼロにすることは、数学的な意味での極限であって、そこに接近することはできても、けっして到達することはできない。だし労働者をこのニヒリズム的な立場まで押し下げようとするのは、資本のたえざる傾向である。

これまでしばしば引用してきた18世紀の著作家で、『産業と商業に関する論考』の著者は、イギリスの労働賃金をフランスとオランダの水準まで引き下げるのが、イギリスの重要な歴史的な課題であると語っているが、これはイギリスの資本のもっとも深いところに息づいている魂の秘密を明かしているのである。この著者はたとえば次のように素朴に語る。「われわれの貧民が(労働者を示す術語である─マルクス)贅沢に暮らしたいと思うならば、…彼らの労働は高くならざるをえない。…われわれのマニュファクチュア労働者たちが消費している贅沢品なの山を考えていただきたい。たとえばブランデー、ジン、紅茶、砂糖、外国産のフルーツ、強いビール、染めた亜麻布、嗅ぎタバコ、タバコなどである」。

この著者はさらにノーサンプトンシャーのある工場主の文章を引用しているが、この工場主は天を仰いでこう叫ぶのである。「フランスではイギリスよりも労働が3分の1は安価である。フランスの労働者はしっかりと働くし、食料や衣料をきりつめているからである。彼らが主に消費するのは、パン、フルーツ、葉野菜、根菜、干物の魚などである。彼らはめったに肉は食べず、小麦が高くなると、食べるパンの量も減らすのだ」。「しかも(とこの論者はつつける─マルクス)、しかもそれに加えて、飲み物は水や、それに似た弱い酒であるから、驚くほどわずかしか金を使わない。…こんな状態を作りだすのはたしかに困難かもしれないが、実現できないわけではない。フランスやオランダでそうなっているからだ」。

その20年後に、アメリカのペテン師で、男爵の位を授けられたヤンキーのベンジャミン・トンプソン(別名ランフォード伯爵)は、神と人々に気にいられるべく、この博愛主義路線を継承している。彼の『エッセイ』なるものは、労働者がふだん食べている値段の高い食事の代わりにすべき代用食のあらゆる種類のレシピを掲載した料理本である。この奇妙な「哲学者」のもっとも成功したレシピは次のようなものである。「5ポンドの大麦、5ポンドのコーン、3ペンスのニシン、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスの胡椒と葉野菜、合計20と4分の3ペンスで、64人分のスープができる。穀物が平均価格だとすると、食費は1人前で4分の1ペニー(3ペニッヒ以下である─マルクス)に下げることができる」。資本制的な生産の進歩とともに、不正品の生産が流行し、トンプソンの理想も不要になっていった。

 

公的な扶助に依拠した搾取

18世紀の末ごろ、そして19世紀の初めの数十年の間、イギリスの借地農業者や地主は、農業日雇人たちに労賃の形ででは最低よりも少なく支払い、残りは教区扶助金の形で支払うことによって、絶対的な最低賃金を押しつけた。イギリスのドグベリー〔愚直な小役人〕たちが賃金率を「合法的に」決定しようとするときに演じた茶番の一例。

「1795年にスクワイア〔いなかの地主階級の紳士〕たちがスピーナムランドの労賃を決定したとき、彼らはもう昼食を済ませていたが、明らかに彼らは、労働者たちにはそんなことをする必要はない、と考えていた。…彼らは、8ポンド11オンスのパンの塊が1シリングのときには男1人の週賃金を3シリングとし、パン塊が1シリング5ペンスになるまでは、週賃金を規則的に上げてゆくことを決定した。パン塊がこの価格より高くなれば、賃金は、パン塊の価格が2シリングに達するまでは、比率的には下がることになった。そして、その場合には男1人の食物は以前より5分の1少なくなることになった。」

上院の調査委員会では、1814年に、大農業科で治安判事で救貧院管理者で賃金調整委員のA・ベネットという人物に次のような質問を受けている。

「労働者の日労働の価値と教区扶助金とのあいだにはなんらかの比率が認められるか?」答え─「認められる。各家庭の毎週の収入は、1人当たり1ガロンのパン塊(8ポンド11オンス)と3ペンスに達するまでは、彼らの名目賃金を越えて補充される。…われわれの考えるところでは、1ガロンのパン塊は家族の一人一人を1週間養うのに十分である。そして3ペンスは衣類用である。また、教区が衣類そのものを与えるほうがよいと思えば、3ペンスは引き去られる。この慣行は、単にウィルトシャの西部全体だけではなく、私の信ずるところでは全国で行われている。」当時のあるブルジョワ著術家は次のように叫んでいる。「こうにして、農業家たちは自分たちの同郷人のりっぱな一階級を多年にわたって堕落させた。というのは、彼らはこの階級に救貧院の保護を求めることを強制したからである。…農業家は、労働者の側での最も不可欠な消費財源の蓄積をさえも妨げることによって、自分自身の利得をふやしてきたのである。」

今日、労働者の必要消費財源の直接的略奪が、剰余価値の、したがってまた資本の蓄積財源の形成の上でどんな役割を演じているかは、たとえば、いわゆる家内労働によって示された。そのほかの事実も本篇の叙述の進行につれて示される。

18世紀から19世紀にかけて、イギリスの借地農や地主たちは日雇いの農業労働者に最低賃金を強要しました。彼らは最低賃金の労賃すら支払うことをせず、賃金の不足分は教区の扶助金で補完しました。

18世紀末、地主たちが労賃を決めたときは労働者に昼食は必要ないと考えていました。そのため、労働者たちは救貧院に助けを求めざるを得なかった。借地農たちは労働者が生活するために必要不可欠な財産を満たすことなく、その分を自分たちの利益に回していました。

現在は労働者の生存に必要不可欠な消費の財源を直接奪って、それを剰余価値とする、その結果資本の蓄積とする。それは、上記の例からも明らかです。

18世紀末と19世紀の最初の数十年の間、イギリスの借地農と地主たちは、日雇いの農業労働者に、絶対的な最低賃金を強要した。労働賃金としては最低賃金を下回る金額しか支払わず、不足分を教区の扶助金から払わせたのである。イギリスの〔愚かしい役人〕ドグベリーたちが賃金水準を「合法的に」確定する道化芝居の一幕を紹介しよう。

「1795年に地主たちがスピーナムランドの労働賃金を決めた際には、彼らは昼食を済ませている。しかし彼らは明らかに労働者には昼食はむ必要ないと考えていたようである。…彼らの決定は次のようなものだった。週あたりの賃金は、8重量ポンド11オンスのパンの価格が1シリングであれば、男1人あたり3シリングが妥当である。同じ量のパンの価格が1シリング5ペンスになるまで、週給を規則的に上げるものとする。しかしこの価格を上回った場合には、同じ量のパンの価格が2シリングになるまで、賃金を下げるものとする。そのとき男1人あたりの食料は、前よりも5分の1は少なくなるはずである」。

1814年の上院の調査委員会では、大借地農で、治安判事をつとめ、しかも救貧院の所長で、賃金調整委員でもあるA・ベネットという人物に次のような質問をした。「労働者の1日の労働の価値と、労働者への教区の扶助金には、何らかの比例関係がありますか」。「はい。それぞれの家庭の1週間の収入の合計が、〔扶助金と〕標準労働賃金と合わせて、1人あたり1ガロンのパン(8重量ポンド11オンス)の価格プラス3ペンスになるように調整されます。…1ガロンのパンがあれば、家庭のそれぞれの成員を1週間養うには十分だと考えています。3ペンスは衣料代です。教区が衣料は現物で支給すべきだと判断した場合には、この3ペンスは差し引かれます。この方式はウィルトシャーの西部全体だけでなく、全国で行われていると思います」。当時のブルジョワ著作家は叫んでいる。「このようにして借地農たちは自国の尊敬すべき階級に、救貧院に助けを求めるように強制し、長年にわたって堕落させてきた。…借地農は、労働者が必要不可欠な消費の原資を蓄積することを妨げて、みずからの利益を増してきたのである」。

現在、労働者の生存に必要不可欠な消費の原資を直接的に略奪することが、増殖価値の形成に、そして資本の蓄積の原資の形成に、どのような役割をはたしてきたかは、いわゆる家内労働の例からも明らかである。その他の事実についても、この第7編でさらに展開していく予定である。

 

労働手段のための不変資本の節約─工場の例

どの産業分野でも、不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、投資の大きさによって決定されている一定の労働者数にたいして十分でなければならないとはいえ、それは必ずしも使用労働量と同じ割合で増加する必要はない。ある工場では100人の労働者が8時間労働で800労働時間を供給するとしよう。もし資本家がこの総計を半分だけ大きくしようと思うならば、彼は50人の新しい労働者を雇えばよい。しかし、その場合には彼は新たな資本を、賃金のためだけでなく、労働手段のためにも前貸ししなければならない。だが、彼はもとからの100人の労働者に8時間ではなく12時間労働させてもよいのであって、その場合には前からある労働手段だけで十分であり、ただそれがいっそう速くいたむだけである。こうして、労働力のいっそう大きい緊張によって生みだされる追加労働は、剰余生産物と剰余価値、つまり蓄積の実体を、不変資本部分の比例的増大なしに、増大させることができるのである。

工場においては、不変資本のうち労働手段で構成されている部分は、その投資の規模によって、労働者の人数に応じたものでなければなりません。しかし、労働の量の増加と同じ比率で不変資本のその部分が増加する必要はない。労働量の量を増やすために、労働者の数を増やさなくても、既存の労働者の労働時間を延長すればよいのです。その場合には、労働手段が短い期間で消耗してしまうだけです。

すべての産業分野において、不変資本のうちで労働手段で構成される部分は、その投資の規模によって必要な労働者の人数にふさわしいものでなければならない。しかしその部分は、使用する労働の量の増加とまったく同じ比率で増大していく必要はない。たとえばある工場で100人の労働者が8時間働いて、合計800労働時間の総労働時間を供給しているとしよう。資本家がこの総労働時間を5割増やしたいと考えたならば、50人の労働者を新たに雇用すればよい。その場合には、賃金だけでなく、労働手段にも新たな資本を前払いする必要がある。

しかし資本家はすでに雇用している100人の労働者に、8時間ではなく12時間働かせてもよいのである。その場合には既存の労働手段で十分であり、労働手段が以前よりも短い期間で消耗するだけである。労働力により高い緊張を求めることで生みだされる追加労働は、増殖生産物と増殖価値を、すなわち蓄積の実質を増やすことができ、しかも不変資本の部分を同じ比率で増やす必要はない。

 

採掘業の例

採取産業、たとえば鉱山業では、原料は前貸資本の構成部分にはならない。労働対象はここでは過去の労働の生産物ではなく、自然から無償で贈られたものである。属鉱石、鉱物、石炭、石材などがそれである。ここでは不変資本はほとんどただ労働手段だけで成っており、この労働手段は労働量が増加しても(たとえば労働者の昼夜交替)十分まにあうものである。しかし、そのほかの事情はすべて変わらないとすれば、生産物の量と価値も充用労働も正比例して増加するであろう。はじめて生産が始まった日にそうだったように、ここでは、本源的な生産物形成者であり、したがってまた資本の素材的要素の形成者でもある人間と自然とが、協力するのである。労働力の弾力性のおかげで、蓄積の領域が、あらかじめ不変資本が拡大されることなしに拡大されてきたのである。

鉱山業などでは、原料は前払資本の一部ではありません。鉱山業の労働対象は過去の労働の生産物ではなく、鉱石などの自然資源です。したがって不変資本には原材料は含まれず、ほとんどが労働手段だけとなり、生産物の量と価値は、投入された労働に比例して増加します。

たとえば鉱山業のような採掘産業では、原料は前払い資本の一部ではない。ここでの労働対象は、それに先立つ過去の労働の生産物ではなく、自然から無償で贈与されたものである。たとえば金属鉱石、鉱物、石炭、石材などがそうである。こうした産業では不変資本はほとんど労働手段だけで構成されており、労働量が増加しても(たとえば労働者が昼夜交替で働いて)、それにふさわしい量を供給することができる。他の事情がすべて同じであれば、生産物の量と価値は、投入された労働に正比例して増大するだろう。

生産が始められた最初の日と同じように、ここでは本源的な生産物の形成者、すなわち資本の素材的な要素の形成者である人間と自然がいわば手を携えて進むのである。不変資本をあらかじめ増やしておかなくても、労働力の柔軟性のおかげで、蓄積の領域が拡大されたのである。

 

農業の例

農業では、種子や肥料の追加分の前貸しなしには、耕地を拡大することはできない。しかし、この前貸がなされさえすれば、土地の純粋に機械的に耕耘でさえも、生産物の大量増加に奇跡的な作用を及ぼす。こうして従来と同数の労働者がより多くの労働を行なうことによって、労働手段の新たな前貸しを必要とすることなしに、豊度が高められるのである。ここでもまた、新たな資本の介入なしに蓄積の増大の直接的源泉となるものは、自然にたいする人間の直接の働きかけである。

農業では種子と肥料が前もって必要で、これらを入手できないと耕作地を転げることはできません。しかし、この経費を前払いさえすれば、あとは土地を耕しことで、生産量は増える。この耕作を従来と同じ労働者数で行えば、労賃が増えることがないので、蓄積を増大することができます。

農業では種子と肥料の分を追加的に前払いしなければ、耕作地拡張することはできない。しかしこの前払いさえしておけば、土地をただ機械的に耕作するだけで、生産物の量には驚くべき効果がもたらされる。そこでこれまでと同じ人数の労働者によってより多くの仕事がなされるならば、労働手段に新たに前払いせずに、収穫は増大する。ここでも新たな資本を投資せずに蓄積を増大させることができるのであり、その直接的な源泉となるのは、人間が自然に直接的に働きかけることである。

 

工業の例

最後に、本来の工業では、労働の追加支出はつねに対応する原料の追加支出を前提するが、しかし必ずしも労働手段の追加支出は前提しない。そして、採取産業や農業は製造工業にそれ自身の原料やその労働手段の原料を供給するのだから、前者が追加的資本補給なしで生みだした追加生産物は後者のためにもなるのである。

工業では、労働が増えると、原料がこれにつれて増やさなくてはならなくなる。

最後にほんらいの工業においては、労働を追加的に支出した場合には、つねに原料の追加的な支出が必要になる。しかし工業でも労働手段に追加的に支出することは必ずしも必要ではない。また、製造工業に原料と、生産に使われる労働手段の原料を供給するのは採掘産業と農業であるので、これらの産業が追加的な資本を補給せずに生産した生産物が製造工業に供給されることは、製造工業にも有利になるのである。

 

結論

一般的に結論すれば次のようになる。資本は、富の二つの本源的形成者である労働力と土地とを自分に合体することによって、一つの拡張力を獲得するのであって、これによって資本は、外観上は資本自身の大きさによって画されている限界を越えて、すなわち資本の定在がそのなかにあるところのすでに生産されている生産手段の価値と量とによって画されている限界を越えて、それ自身の蓄積の諸要素を拡大することができるのである。

これまで述べてきたことを一般化すると、資本は労働力と土地を取り込むことによって拡張能力を得る。それで、資本は外観によって決まる大きさの枠、すなわち生産手段の量と価値によって形づくられた限界を超えて蓄積の要素を拡大することが出来るのです。

一般的な結論として、資本は富の二つの原初的な形成者である労働力と大地を、みずからのもとにとりこむことによって、拡張能力を獲得するのであり、この拡張能力によって資本は、みずからの蓄積の要素を、見掛けの限界を超えて拡張することができる。この見掛けの限界は、資本そのものの大きさによって決まっているかにみえた限界、すなわちすでに生産された生産手段の量と価値によって、すでに目にみえる形で存在していた限界である。

 

労働の生産性の向上

資本の蓄積におけるもう一つの重要な要因は、社会的労働の生産性の程度である。

労働の生産力の増大につれて、一定の価値を表わす生産物量、したがってまた与えられた大きさの剰余価値を表わす生産物量は増大する。剰余価値が不変ならば、または、それが低下しても、労働の生産力が上昇するよりも緩慢にしか低下しないかぎり、剰余生産物の量は増大する。それゆえ、もし収入と追加資本とへの剰余生産物の分割が元のままならば、資本家の消費は蓄積財源が減少することなしに増加することができる。蓄積財源の比率的な大きさは、消費財源を犠牲にしても増大しうるが、その場合にも資本家は、商品が安くなることによって、以前と同じかまたはもっと多くの享楽手段を自由に処分することができる。しかし、労働の生産性が上昇につれて、すでに見たように、労働者の低廉化、したがって剰余価値率の上昇が進むのであり、実質労賃が上がる場合にさえもそうなる。実質労賃はけっして労働の生産性に比例しては上がらない。だから、同じ可変資本価値がよりも多くの労働力を動かすのであり、したがってまたより多くの労働を動かすのである。同じ不変資本価値がより多くの生産手段に、すなわちより多くの労働手段や労働素材や補助材料に表わされ、したがってまたより多くの生産物形成者とともに価値形成者を、または労働吸収者を供給する。それゆえ、追加資本の価値が変わらなければ、またそれが減少してさえも、加速された蓄積が行われるのである。再生産の規模が素材的に拡大されるだけではなく、剰余価値の生産が追加資本の価値よりも速く増大するのである。

資本の蓄積にとって、もうひとつの重要な要因が労働生産性がどれだけ高いかということです。

労働の生産性が向上すると、生産物の量が増加し、結果的に生産物の価値の一定割合含まれる剰余価値も増加します。剰余価値率が変わらないで一定の場合は、生産物の量が増えれば、その率にしたがって剰余価値が増加します。また剰余価値率が低下しても、労働生産力の上昇の比率よりも小さければ、剰余生産物の量は増加します。したがって、もし、剰余価値を資本家が自身の消費と追加資本とにわける割合が変わらないとすれば、蓄積の財源を減らさずに資本家の消費を増やすことが出来ます。また消費にまわす率を下げることで蓄積の原資にまわす率を上げることもできますが、この場合商品の原価が下がったので、消費の原資の額自体は減ることはありません。

しかし、労働の生産性が向上すると、労賃が上がっても、労働者の価格は下がり、剰余価値率が向上します。実質的な労賃は、労働生産性の向上と同じ比率で増加することはありません。可変資本の価値が同じであっても、以前よりも多くの労働力を調達することが出来、より多くの労働を実現することが出来るのです。また、不変資本の価値が同じであっても、より多くの生産手段(労働手段、労働素材、補助材料等)として、よく多くの生産物形成者や価値形成者を供給します。

このように、追加される資本の価値が増加しない場合も、生産力の向上によって、蓄積が加速されることになります。再生産の規模が拡大されるだけでなく、剰余価値の生産が、追加資本の価値よりも早く増加するのです。

資本の蓄積にとって重要な別の要因として、社会的な労働の生産性の高さがある。

労働の生産力が向上すると、それにともなって生産物の量も増加するのであり、この量のうちに、一定の大きさの価値と、さらに特定の大きさの増殖価値の大きさが表現されている。生産物の量が増加すると、増殖価値率が変わらない場合は、あるいは価値率が低下してもその減少の比率が労働生産力の上昇の比率よりも小さな場合には、増殖生産物の量は増大する。

そこで増殖価値を〔資本家の消費する〕収入と追加資本に分割する比率が変わらないとすれば、蓄積の原資を減らさずに資本家の消費を増やすことができる。消費の原資を減らすことで、蓄積の原資の比率を増やすことは可能であるが、その場合にも商品が安価になったので、資本家はこれまでと同様あるいはそれ以上の享楽手段を入手することができる。

しかしすでに確認したように労働の生産性が向上すると、現実の労働賃金が上昇した場合も、労働者の価格は低くなり、増殖価値の比率が増大する。実質的な労働賃金は、生産性の向上の比率と同じ比率で増加することはない。そこで可変資本の価値が同じであっても、以前よりも多くの労働力を調達することができ、より多くの労働を実現できる。

また不変資本の価値が同じであっても、それはより多くの生産手段として、すなわちより多くの労働手段、労働素材、補助材料などとして現われることになり、より多くの生産物形成装置が供給され、より多くの価値形成装置が、より多くの労働吸収装置が供給される。

このように、追加される資本の価値が同じであるか減少した場合にも、〔生産力の向上によって〕蓄積が加速されることになる。再生産の規模が素材的に拡大されただけでなく、増殖価値の生産が、追加資本の価値よりも早い速度で増加するのである。

 

労働の生産性の向上が及ぼす影響

労働の生産力の発展は、原資本すなわちすでに生産過程にある資本にも反作用する。現に機能している不変資本の一部分は、機械類などのような労働手段から成っており、このような労働手段はかなり長い期間を経てはじめて消費され、したがって再生産され、または同種の新品と取り替えられる。しかし、毎年これらの労働手段の一部は死んで行く。つまりその生産的機能の終点に達する。だからその一部分は、毎年、その周期的再生産の、または同種の新品による代替の、時期に達している。もし労働の生産力がこのような労働手段の出生の場所で増大したならば、そしてこの生産力は科学や技術の絶えまない流れらつれて絶えず発展するものであるが、そういう場合には、いっそう有効な、またその効率から見ればいっそう安価な機械や道具や装置などが古いものにとって代わる。既存の労働手段にも絶えず細部の変化が生ずるということは別として、古い資本はより生産的な形で再生産される。不変資本のもう一つの部分である原料や補助材料は、1年のうちに絶えず再生産され、農業から生まれる部分はたいていは毎年再生産される。だから、ここでは改良された方法の採用などはすべて追加資本にも前から機能している資本にもほとんど同時に作用するのである。化学の進歩は、すべて、有用な素材の数を増やし、すでに知られている素材の利用を多様にし、したがって資本の増大につれてその投下部面を拡大するが、ただそれだけではない。それは、同時に、生産過程と消費過程との排泄物を再生産過程の循環のなかに投げ返すことを教え、したがって先だつ資本投下を必要としないで新たな資本素材をつくりだす。ただ単に労働力の緊張度を高めることによって自然の富の利用を増進することと同様に、科学や技術は、現に機能している資本の与えられていた大きさにはかかわりのない資本の膨張力をつくりあげる。同時に、科学や技術は、原資本のうちのすでに更新期にはいった部分にも反作用する。原資本は、その新たな形態のなかに、古い形態背後で行われた社会的進歩を無償で取り入れるのである。もちろん、このような生産力の発展には、同時に、現に機能している諸資本の部分的な減価が伴う。この減価が競争によって痛切に感ぜられるかぎり、おもな重圧は労働者にかかってくる。すなわち、労働者の搾取を強めることによって、資本家は損害を埋め合わせようとするのである。

労働の生産力の発達は原資本すなわち生産過程にある資本にも影響します。すでに機能している不変資本の一部は機械類などの労働手段であり、長期間にわたって消費され、再生産され、新品の機械に交換されます。これらは、毎年、周期的な再生産の状態にあるか、新品の機械との交換の時期に達していると言えます。

労働の生産力が、このような労働手段が生まれた場所で向上するならば、しかも科学技術の発達とともに持続的に向上していくとすれば、古い機械、道具、装置などは、もっと効率が良くて、低コストなものに交換されていくことになるでしょう。既存の労働手段も不断に細部の改良が加えられるなど、古い資本は再生産されます。不変資本の、もうひとつの要素である原料と補助材料は、年間を通じて継続的に再生産されます。そのため、以前より優れた方法が採用されると、追加資本にも、既に機能している資本にも、すぐに効果が及びます。

化学の進歩は、有用な材料の数を増やすとともに、既存の材料の応用範囲を拡大し、資本が増加するにつれて投資の範囲を広げることになります。それだけでなく、生産過程と消費家庭から出される排泄物を再生産する循環に投入することを教え、資本の先行投資なしで、新たな資本材料を作り出す。採掘産業や農業では、労働力の緊張度を高めるだけで、自然から富を得ることを、さらに効率的に推し進めることが出来たのですが、それと同じように、科学と技術は原資本のうちで更新時期に入った部分にも影響します。このようにして原資本は、それ自身が古い形態の間に行われていた社会的な進歩、新たな形態に更新するときに取り込んで行きます。

この生産力の発展と同時に、すでに機能している資本の価値が部分的に低下することになります。そして、部分の負担が労働者にかかってくることになります。資本家は労働者の搾取を強化することで、その損失を補填しようとするからです。

労働の生産力の発達は、原資本にも、すなわちすでに生産過程のうちにある資本にも影響する。すでに機能している不変資本の一部は、機械類などの労働手段であり、これらはかなり長い期間にわたって消費され、再生産され、あるいは同種の新品の機械に替えられる。しかし毎年、こうした労働手段の一部は死滅する。すなわち生産機能の最終的な目的を実現し終える。だからその部分は毎年、周期的な再生産の状態にあるか、同種の新品の機械との交換の時期に達しているのである。

労働の生産力がこうした労働手段の誕生の場所において向上する場合には、しかも科学技術の不断の潮流とともに持続的に向上していくとすれば、古い機械、道具、装置などは、より効率が高く、しかも性能から判断してより安価なものに交換されていくことになろう。既存の労働手段にもたえず細部の改良が加えられるものであるが、それを別としても、古い資本はより生産的な形で再生産されることになる。

不変資本の別の要素である原料と補助材料は、1年をつうじて継続的に再生産され農業分野から供給されたものは1年ごとに再生産される。そのためこれに以前よりも優れた方法などが採用されると、追加資本にも、すでに機能している資本にも、ほとんど即時に効果を発揮する。

化学のあらゆる進歩は、有用な材料の数を増やし、既知の材料の応用範囲を拡大し、資本の増加とともにその投資分野を増やすことになる。しかしそれだけではなく、生産過程と消費過程から出される排泄物を再生産過程の循環の中にふたたび投入することを教え、資本の先行投資なしで、新たな資本材料を作りだすのである。

〔採掘産業と農業では〕労働力の緊張度を高めるだけで、自然の富を収奪することができたが、それと同じように科学と技術は、すでに機能している資本の所与の大きさに依存しない新たな拡張能力を作りだす。この拡張能力は同時に、原資本のうちで、すでに更新段階に入った部分にたいしても影響する。このようにして原資本は、みずからの古い形態の背後で行われた社会的な進歩を、新たな形態のうちに無償で取り込むのである。

もっともこの生産力の発展と同時に、すでに機能している資本の価値が部分的に低下することになる。そして競争のために、この価値の減損が切実に感じられるようになると、その主要な負担は労働者にかかってくる。資本家は労働者の搾取を強化することで、その損失を補填しようとするからである。

 

労働の生産性と資本価値の維持

労働は、労働によって消費される生産手段の価値を生産物に移す。他方、与えられた労働量によって動かされる生産手段の価値も量も、労働の生産性が上がるのに比例して増大する。だから、同じ労働量でいつでも同量の新価値をその生産物につけ加えるだけだとはいえ、その労働量が同時に生産物に移す古い資本価値は、労働の生産性が高くなるにつれて増大するのである。

たとえば、1人のイギリス人紡績工とシナ人紡績工とが同じ時間数だけ同じ強度で労働するとすれば、両者は1週間に等しい価値を生みだすであろう。この価値は等しいにもかかわらず、強力な自動装置によって労働するイギリス人の週間生産物の価値と、紡ぎ車しかもっていないシナ人の週間生産物の価値とのあいだには、非常に大きな差がある。シナ人が1ポンドの綿花を紡ぐのと同じ時間で、イギリス人は何百ポンドの綿花を紡ぐ。シナ人のそれよりも数百倍も大きい額の古い価値が、イギリス人の生産物の価値をふくらますのであって、この生産物のなかにそれだけの古い価値が、新たな有用形態で保持され、このようにして繰り返し資本として機能することができるのである。フリードリヒ・エンゲルスがわれわれに教えているところでは、「1782年には、それ以前の3年間の(イギリスでの)羊毛の全収量が、労働者の不足のために未加工のままで置かれてあった。そして、もしも新しく発明された機械が助けにきてそれを紡いでしまわなかったなら、それはまだそのままになっていなければならなかったであろう。」もちろん、機械の形で対象化されている労働は直接には1人の人間も地中から呼び出しはしなかったが、しかし、それは、少数の労働者が比較的わずかな生きている労働をつけ加えることによってただ羊毛を生産的に消費してそれに新価値をつけ加えるだけではなく、糸などの形で羊毛の元の価値をも維持するということを、可能にしたのである。また同時に、それは羊毛の拡大再生産のための手段と刺激とを与えたのである。

新価値を創造しながら元の価値を維持するということは、生きている労働の天質である。だから、労働は、その生産手段の効果や規模や価値の増大につれて、したがって労働の生産力の発展に伴う蓄積につれて、絶えず膨張する資本価値をつねに新たな形態で維持して不滅にするのである。このような労働の自然力は、労働が合体されている資本の自己維持力として現われるのであって、それは、ちょうど、労働の社会的生産力が資本の自己維持力として現われるようなものである。また資本家による剰余労働の不断の取得が資本の不断の自己増殖として現われるようなものである。労働のすべての力が資本の力として映し出されるのであって、ちょうど商品のすべての価値形態が貨幣の形態として映し出されるようなものである。

労働は、労働によって消費される生産手段の価値を、生産物に移します。労働の生産性が高くなると、一定量の労働で利用される生産手段の量も価値も増大します。したがって、同じ労働量で生産物に新たに追加される価値は同じでも、その労働が生産物に移す古い価値は労働の生産性の向上につれて増加します。

例えばイギリスと中国の紡績工が同じように働いても、1週間で、両方とも同じ価値を生みだす。しかし、生みだされる価値の大きさは同じでも、イギリスの労働者の巨大な自動装置を使って働く1週間の生産物の価値と、中国の労働者が紡ぎ車1台だけで生産する生産物の価値は、非常に大きな違いがあります。中国人が1ポンドの綿花を紡ぐ間に、イギリス人は数百ポンドの綿花を紡ぎます。中国人の数百倍の大きさの旧価値が、イギリス人の生産物の価値にはあります。この旧価値は、生産物において新たに利用できるようになって保存されます。資本は、このようにして繰り返して機能するようになるのです。

機械化することで対象化された労働は、直接に人間を新たに生みだしたわけではないですが、少数の労働者が、少しの労働を追加するだけで、羊毛という原料を生産物のために消費し、新たな価値を追加することができます。それだけでなく、紡ぎ糸等の形態で旧価値を保存することができました。それは、羊毛の拡大再生産のための手段と刺激も与えたのです。

新しい価値を生みだしながら、旧価値を維持するのは、生きた労働のもともとの機能です。このようにして労働は、生産手段の効率化や価値の増加につれて、すなわち、生産力が発達して蓄積が進むにつれて、膨張を続ける資本の価値を、新しい形態にして、永続的なものにしていくのである。労働がもともともっているこのような力は、資本の自己維持能力として現れます。それは労働の社会的生産力が、資本の特性として現れれて、資本家のよる剰余労働の取得が、資本の自己増殖のように見えるのと同じことです。商品のあらゆる価値形態は貨幣形態にみえるのと同じように、労働のすべての力は資本の力に見えてくるのです。

労働は、みずから消費する生産手段の価値を、生産物に移転する。労働の生産性が高くなると、一定の労働量で利用される生産手段の量と価値も増大する。だから同じ労働量で生産物につけ加えられる価値は、生産性が低かったときと同じであっても、その労働が生産物に同時に移転する旧資本価値は、労働の生産性の向上とともに増加する。

たとえばイギリスと中国の紡績工が同じ労働強度で、同じ時間だけ働いたとすれば、どちらも1週間に同じ価値を生みだすだろう。生みだされる価値の大きさは同じでも、巨大な自動装置を使って働くイギリスの労働者が1週間に生産する生産物の価値と、紡ぎ車を1台しか使わない中国の労働者が1週間に生産する生産物の価値には、法外な違いが発生する。中国人が1ポンドの綿花を紡ぐあいだに、イギリス人は数百ポンドの綿花を紡ぐだろう。中国人の数百倍の大きさの旧価値が、イギリス人の生産物の価値を膨らませている。この旧価値は生産物のうちに、新たに利用できる形態をとって保存され、そのようにして資本として繰り返し機能しうるようになっていた。

フリードリヒ・エンゲルスは「1782年には、過去3年間に収穫された羊毛のすべてが、(イギリスで─マルクス)労働者不足のために加工されずに放置されていた。もしも新たに発明された機械が助太刀でやってきて、この羊毛を紡ぐことがなかったら、まだそのまま放置するしかなかっただろう」とわたしたちに教えてくれる。

機械の形態で対象化された人間の労働は、もちろん地中から直接に人間をよみがえらせたわけではないが、わずかな数の労働者がかなりわずかな生きた労働を追加するだけで、羊毛を生産物に消費し、それに新たな価値を追加することができた。それだけではなく、紡ぎ糸などの形態でその旧価値を保存することができたのである。さらに羊毛の拡大再生産を実行するための手段と刺激も与えたのである。

 

投じられた資本と称する消費された資本の差額

資本が増大するにつれて、充用された資本と消費された資本との差も増大する。言い換えれば、建物とか機械とか排水管とか役畜とか各種の装置とかいうような労働手段の価値量も素材量も増大するのであるが、これらの労働手段は、長短の期間にわたって、絶えず繰り返される生産過程で、そのもの全体として機能し、一定の有用効果の達成に役だつのに、他方、それはただ徐々に損耗して行くだけであり、したがってその価値を少しずつ失って行き、したがってまたその価値をただ少しずつ生産物に移して行くだけである。これらの労働手段が生産物に価値をつけ加えることなしに生産物形成者として役だつ程度に応じて、つまり全体として充用されながら一部分ずつしか消費されない程度に応じて、それらは、前にも述べたように、水や蒸気や空気や電気などのような自然力と同じ無償の役だちをするのである。このような、過去の労働が生きている労働につかまえられて活気づけられるときに行う無償の役だちは、蓄積の規模が大きくなるにつれて累積されて行くのである。

過去の労働はつねに資本に扮装するので、すなわちAやBやCなどの労働の受動態は非労働者Xの能動態に扮装するので、ブルジョワや経済学者たちは口をきわめて過去の労働の功績を称賛するのであって、この労働は、スコットランドの天才マカロックによれば、固有の報酬(利子や利潤など)を受けるべきだということにさえなるのである。つまり、生きている労働過程で生産手段の形で協力する過去の労働の重みがますます大きくなるということは、この労働を過去に不払労働として行った労働者自身から疎外されたその姿、すなわち資本というその姿のおかげだと言われるのである。資本主義的生産の実際的当事者やそのイデオロギー的代弁者が、生産手段を今日それに付着している敵対的な社会的な仮面から離して考えることができないのは、ちょうど、奴隷所有者が労働者そのものを奴隷というその性格から切り離して考えることができないようなものである。

資本が増加すると、投入された資本と消費された資本の差が大きくなります。建造物とか機械類とか排水管とか役畜とかの各種の装備などの労働手段の価値も量も増加します。これらは長期でも短期でも、たえず繰り返される生産過程においてずっと稼働し続け、ある程度の有用な効果を実現させます。その一方で、摩耗はわずかであり、したがって価値の損耗もむわずかで、これらの物の価値はごくわずかしか生産物に移転することはありません。

これらの労働手段が生産物に価値を加えることなく生産物を形成する手段として機能する、つまり全体として使用されるか部分的に消費されるかによって、水力とか蒸気とか、電気のようなエネルギーと同じように無償サービスをすることになります。過去の労働が現在の労働によって活用された時に行われるこの無償サービスは、蓄積の規模の拡大とともに累積されてゆきます。

過去の労働は資本の姿で現われます。つまり、A、B、Cなどの労働者の労働債務が、労働しない資本家Xの資産に記載されるのである。

資本が増大してくると、投じられた資本と消費された資本の差額が大きくなる。すなわち、建造物、機械類、排水管、役畜、すべての種類の装置などの労働手段の価値量と物質量も増大する。これらは長期または短期にわたって、たえず反復される生産過程でずっと全体として作動しつづけるか、特定の利用効果を実現するために役だつものである。これらの摩耗はごくわずかであり、その価値もごくわずかしか失わず、その価値もごくわずかずつしか生産物のうちに移転しない。

これらの労働手段が、生産物に価値をつけ加えずに生産物を形成する手段として役立つならば、すなわち全体として使用されるものの、部分的にしか消費されない場合には、すでに指摘したように、水力、蒸気、大気、電気のような自然力と同じ無償サービスをすることになる。過去の労働が生ける労働によって活用され、生命を吹き込まれたときに行うこの無償サービスは、蓄積の規模が拡大するとともに累積されていく。

過去の労働はつねに資本としての姿をまとっている。すなわちA、B、Cなどの〔労働者の〕労働債務が、労働しない〔資本家〕Xの資産に記載されるのである。だからこそブルジョワ経済学者たちは、過去の労働の功績を称賛するのである。スコットランドの天才マカロックによると、この過去の労働は自分自身の報酬(利子、利潤など)をうけとるべきだということになる。こうして、生ける労働過程のうちで、生産手段の形をとって作用を及ぼす過去の労働はたえず、その重要性をましていくことになるが、それは過去の不払労働を提供した労働者自身から疎外された姿、すなわち資本としての姿をしたものの恩恵によるとされるのである。

資本制的な生産の実践的な代理人とそのイデオロギー的な饒舌家たちは、生産手段にいま貼りついている敵対的な社会的な仮面を、生産手段から剥がして考えることができない。あたかも奴隷使用者が、奴隷としての仮面をかぶった労働者を、労働者そのものとして考えることができないのと同じである。

 

前払い資本の大きさ

労働力の搾取度を与えられたものとすれば、剰余価値の量は、同時に搾取される労働者の数によって規定されており、また、この労働者数は、いろいろに違った割合でではあるが、資本の大きさに対応している。だから、資本の連続によって資本が増大すればするほど、消費財源と蓄積財源とによって分かれる価値総額もますます増大するのである。それゆえ、資本家はますますぜいたくに暮らしながら同時にますます多く「節制する」ことができるのである。そして、最後に、前貸資本の増大につれて生産規模が拡大されればされるほど、生産のすべてのバネがますます精力的に働くのである。

労働力の搾取の程度が一定であれば、剰余価値の量は、搾取される労働者の人数によって決まります。この労働者の人数は、資本の大きさによって決まります。資本が継続的な蓄積によって大きくなればなるほど、消費と蓄積に老けられる価値の総額が大きくなります。したがって、資本家は節制しながらも、贅沢ができるようになるのです。

労働力の搾取度が決まっていれば、増殖価値の量は、同時に搾取される労働者の人数によって決まる。この労働者の人数は、その比率はさまざまに異なるが、資本の大きさによって決まる。資本が継続的な蓄積によって増大すればするほど、消費の原資と蓄積の原資によって分割される価値の総額も大きくなる。したがって資本家はより多く「節制」しながら、ますます贅沢な暮らしをすることができるようになる。そして前払い資本の額が増加するとともに、生産の規模が拡大すればするほど、生産のすべてのバネが力強く働くようになるのである。

 

単純再生産においては、資本と労働との生産関係が永続的なものとして再生産されることが明らかにされましたが、拡大再生産においては、可変資本を一定の割合で絶えず拡大していかなければならないので(労働時間と労働強度を一定とするかぎり)、これは資本─賃労働関係そのものの拡大をもたらすことになります。資本の蓄積循環のテンポは明らかに労働者の世代的再生産のテンポよりもはるかに短いので、この拡大再生産は必然的に、資本─賃労働関係そのものの外延的ないし内包的拡大を前提するものです。それは、資本─賃労働関係が支配する領域そのものが社会的に拡大することを必然的に含意します。

生産関係を恒常的に持続することは階級関係を形成する本質的な要件ですが、拡大再生産においては、単に生産関係が恒常性を獲得するだけでなく、その絶えざる拡大を意味しているのだから、それは必然的に階級関係そのものの絶えざる拡大をも意味しまます。この過程を機械的かつ直線的に把握すれば、社会の全成員がいずれ資本家階級と労働者階級という2大階級に分裂するという想定が可能になる。しかし、現実にはこの過程は、この傾向に反対に作用するさまざまな要因(労働者階級の一部が絶えず他の階級、とりわけ小ブルジョワジーや公務員などに転化すること、ブルジョワジーの一部が土地所有者などの別の階級に転身すること、生産者を直接的には賃労働者にすることなく搾取ないし収奪するさまざまな手法が発達すること、など)によって絶えず妨げられます。とはいえ、歴史的・長期的には社会の成員はしだいに資本家階級と労働者階級とに分化していくことになる、というわけです。

先に単純再生産について見た際に、単純再生産の単なる繰り返しであっても、資本家の原資本は剰余価値の塊になってしまうことが明らかになりました。では、この拡大再生産ではどうなのでしょうか?

まず、獲得された剰余価値の一部は引き続き資本家によって個人消費されるので、その分は原資本の価値を剰余価値へと置き換えていく。では、個人的消費に回る分ではなく、次期生産に回る追加資本は所有の正当性に関してどのような意味を持つのでしょうか?それは最初から剰余価値をもとにしているのだから、その追加資本の一部が可変資本として労働者の労働力と交換される場合には、労働者から奪い取った貨幣で労働者と商品交換を行うことを意味します。

たとえば、私がある店に行って、その店で何か買い物をしたとしましょう。そして、私はその店で売られている品物をその値段どおりに買うとする。たとえば、私が1万円のお金を持って、その店で売られている1万円の商品を買う。その商品の価格が価値どおりのものだとすると、この商品交換はきわめて正当な交換です。すなわちそれは、1万円の価格を持った商品と1万円の貨幣とが交換される等価交換です。しかし、私がその店に持っていった1万円が実は、その前夜に私がその店に忍び込んで、その店の金庫から盗んだお金だったたらどうでしょうか?そうすると、その店の1万円の商品と私が持っている1万円の貨幣との交換は、その交換の場面だけを見れば等価交換ですが、その貨幣の流れを全体として見れば、それは、私がまったく等価なしにその店の品物を奪い取ったことと同じでしょう。ここでの「交換」はまったく形式的で戯画的なものです。それと同じように、追加資本の一部が可変資本に転化された場合、そこでの資本と労働力の交換は、実際には等価交換でも何でもなく、等価なしに労働者の労働力商品を一方的に奪い取ることと同じです。なぜなら、労働力の購入に使われたその貨幣は労働者から事前に等価なしに奪い取った(つまり搾取した)剰余価値の一部に他ならないからです。

このように、私的所有とそれにもとづく等価交換によって商品価格者が他者の所持する商品ないし生産物をわがものとする(領有する)という商品交換的な領有の独白の法則的あり方(領有法則ないし取得法則)は、資本主義的蓄積過程においては、等価なしに他者の所持する商品を一方的にわがものとする(領有者)という正反対の事態へと引っ繰り返るのです。これを領有法則の転回といいます。こうして、資本は、その蓄積過程を通じて自らの領有の商品交換的正当性を自ら否定することになるのです。

通説では、マルクスは、資本家と労働者のあいだで売買されているのが「労働」ではなく「労働力」であることを発見し、等価交換を通じて搾取が成立するメカニズムを明らかにしたとされ、それがマルクスの最大の功績の一つだとされています。これは間違いではないが(ただし、「労働」と「労働力」とを最初に区別したのはシスモンディである)、しかし、等価交換を通じた搾取の合法則的成立論は、マルクスの議論の前半にすぎないのであり、その後半分が忘れられてはならず、この後半分を提示したものこそ、この「領有法則の転回」論に他ならないといいます。

たしかに、資本は労働力商品の売買を通じて、等価交換の原則を形式的に侵害することなく剰余価値を取得するでしょう。しかし、それによって、直接的ではないにせよ、結果的には不等価交換が生じているのであり、より多くの価値とより少ない価値とが結局は「交換」されているのです。そして、その差額、すなわち剰余価値が再び追加資本として労働力との交換に入るならば、いかなる対価もなしに収奪したものと、その収奪された側の商品とが交換されるのであり、この場合は形式的な等価交換さえ否定されているのです。

つまり、マルクスは、「貨幣の資本への転化」論において、資本の一般的定式(G−W−G´)の「外観上の矛盾」を提示し、その矛盾が労働力商品の登場で解決されることを説いているのですが、それでとどまるのではなく、生産過程論と蓄積過程論を通じて、この「外観上の矛盾」が実は単なる外観ではなく、資本に内在する「現実の矛盾」の現われであることを明らかにしているのです。『資本論』の準備草稿である「経済学批判要綱」や1861〜63年草稿を読めば、マルクスが繰り返しこのことを強調していることがわかるといいます。マルクスにとって、労働力商品の導入による「外観上の矛盾の解決」論と、それが実は資本に内在する現実的矛盾を示す「領有法則の転回」論とはセットなのだといいます。

資本は常に出発点において、等価交換の原則にのっとって可変資本と労働力を交換し、そしてその結果として、等価によらない剰余価値を一方的にわがものとし、絶えずこの等価交換を正反対のものに引っ繰り返しており、そうすることを通じて、等価交換的な正当性を自ら否定しているといいます。

 

第5節 いわゆる労働財源

古典派経済学の労働財源の理論

この研究の過程で明らかになったように、資本はけっして固定した量ではなく、社会的富のうちの弾力性のある一部分であり、剰余価値が収入と追加資本とに分かれるにしたがって絶えず変動する一部分である。さらに、われわれが見たように、現に機能している資本の大きさは与えられたものであっても、これに合体される労働力や科学や土地(土地は、経済学的には、人間の助力なしに天然に存在する労働対象のすべてを含むものと考えてよい)はこの資本の弾力的な力をなすものであって、これらの力はこの資本に、ある限界のなかでは、資本そのものの大きさにはかかわりのない作用範囲を許すのである。このことを見るに当たっては、同じ資本量の作用度が非常に違うことの原因になるような、流通過程の諸事情は、すべて度外視された。われわれは資本主義的生産の制限を前提し、したがって社会的生産過程の一つの純粋に自然発生的な姿を前提するのだから、既存の生産手段と労働力とで直接に計画的に実現されうるいっそう合理的な結合は、すべて度外視されたのである。古典派経済学は、以前から、社会的資本を固定した作用度をもつ一つの固定した量と考えることを好んだ。しかし、この偏見をはじめて定説として固めたのは、生粋の俗物ジェレミ・ベンサム、この19世紀の平凡な市民常識のおもしろくもない知ったかぶりで多弁な託宣者だった。哲学者仲間でベンサムといえば、詩人仲間のマーティン・タッパーのようなものである。両人とも、イギリスでなければ製造できないしろものだった。彼の説では、生産過程の最もありふれた現象、たとえばその突然の拡張や収縮も、じつに蓄積でさえも、まったく理解できないものになる。この説は、ベンサム自身によっても、またマルサスやジェームズ・ミルやマカロックなどによっても、弁護論的な目的のために利用された。ことに、資本の一部である可変資本、すなわち労働力に転換それる資本を、一つの固定量として説明するために、利用された。可変資本の素材的存在、すなわち労働者にとって可変資本が表わしている生活手段量、またはいわゆる労働財源は、社会的富のうちの、自然の鎖で区切られていて越えることのできない特殊部分にでっちあげられた。社会的富のうちの、不変資本として機能するべき、または、素材的に言い表わせば、生産手段として機能するべき部分を動かすためには、一定量の生きている労働が必要である。この量は技術的に与えられている。しかし、この労働量を流動化するために必要な労働者数は与えられていない。なぜならば、それは個々の労働力の搾取度につれて変動するからである。また、この労働力の価格も与えられてはいないのであって、ただこの価格の最低限界が、しかも非常に弾力的にそれが与えられているだけである。この説の根底にある事実はつぎのようなものである。一方では、労働者は、非労働者の享楽手段と生活手段とへの社会的富の分割に口出しはできない。他方では、労働者は、ただ例外的な恵まれた場合に富者人の「収入」の犠牲においていわゆる「労働財源」を拡大することができるだけである。

この研究によって、資本というものは固定した動かないものではなく、社会的な富のなかでも柔軟な部分であって、剰余価値が資本家の消費と追加資本に振り分けられる比率によって絶えず変動する、ということが分かります。また、今、実際に機能している資本の大きさが一定の場合でも、その資本の中に取り込まれた労働力や科学や土地は、この資本を柔軟にしているものです。資本が柔軟になることが出来るということは、そこに一定の限度はありますが、資本そのものの大きさとは関係なく、そこで資本が動くことのできる領域をもっているということです。

これまでは同じ資本の量でも作用度が違ってくることに大きな影響を与える流通過程の様々な関係を考えてきませんでした。また、資本主義的な生産のさまざまな制約、つまり社会的な生産過程の自然発生的な姿を前提としていたので、生産手段と労働力の結びつきについても直接的で計画的に実現できることも無視してきました。

古典派経済学は社会資本について作用度の大きさも固定されたものとして理解する傾向にありました。これは偏見ですが、それが理論として定説化したのはジェレミー・ベンサムです。彼の理論では、生産過程がなぜ突然のように拡張したり縮小したりするのかという生産過程のごく平凡な現象すら説明できず、まして蓄積についてはまったく説明できません。これは、可変資本を固定量として説明するために利用されました。

可変資本の素材的部分は労働者に生活者段の量を表わしているのですが、これが労働財源です。これは、社会的な富のうちで自然法則に制限された特別な部分として、その枠を超えることはできないという虚構がつくられてきました。社会的な富のうち不変資本、素材的に言えば生産手段として機能する部分を動かすためには、一定量の労働が必要です。その一定量というのは技術的な理由から、あらかじめ決まっています。しかし、その量の労働を調達するために必要な労働者の人数は決まっていません。というのも、それは個々の労働者の搾取度によって変わってくるからです。さらに、この労働力の価格も決まっていません。決まっているのは最低価格だけで、これはきわめて弾力的です。

この理論の根底にあるのは、社会的な富を非労働者である資本家の享楽と生活の消費にどのように分配するかに、労働者は口出しすることはできないという事実です。労働者が富裕な人、つまり資本家の収入を減らして、その分を労働賃金の増加にできるのは、稀だという事実です。

この研究によって明らかになったのは、資本は固定したものではなく、社会的な富の弾力的な部分であり、増殖価値が〔資本家の消費する〕収入と追加資本に分割される比率によってたえず変動するということである。また現に機能している資本の大きさが一定の場合でも、その資本の中にとりこまれた労働力、科学、大地は(経済学的な意味での大地とは、人間が手を加えることなく、自然のうちに存在しているすべての労働対象と理解すべきである)、資本のこの弾力的な能力を構成することも明らかになった。この弾力的な能力は、一定の限度はあるが、資本そのものの大きさとは独立した可動的な領域を資本に用意するものである。

ただしこれまでは、資本の量が同じでも、その作用度にきわめて大きな影響を及ぼす流通過程のさまざまな関係については、すべて無視してきた。またわたしたちは資本制的な生産のさまざまな制約を前提としており、社会的な生産過程の自然発生的な姿を前提としてきたので、既存の生産手段と労働力の結びつきについても、より合理的な結びつきをより直接的かつ計画的に実現できることも無視してきた。

古典派経済学は以前から社会資本を、その作用度の大きさも固定されたものとして理解することを好んできた。この偏見が理論として固定されたのは、俗物の元祖ともいうべきジェレミー・ベンサムが登場してからである。19世紀の凡庸なブルジョワ的な常識を、真面目な顔をして学者気取りで饒舌に語った賢者ベンサム、この男が哲学者のうちで占める位置は、〔凡庸な詩人の〕マーティン・タッパーが詩人のうちで占める位置と同じようなものである。どちらもイギリスでしか生まれようのない人種である。

ベンサムの理論では、生産過程がなぜ突然のように拡張したり縮小したりするのかという生産過程のごく平凡な現象すら説明できず、まして蓄積についてはまったく説明できない。彼の理論はベンサム本人だけでなく、マルサス、ジェイムズ・ミル、マカロックなどによっても、〔資本制的な生産の〕擁護の目的で利用された。資本の一部である可変資本、すなわち労働力に転換できる資本を固定量として説明するために利用されたのである。

可変資本の素材的な部分は、労働者にたいして表示された生活手段の量であり、これがいわゆる労働原資である。この部分は、社会的な富のうちで、自然の掟に守られた特別な部分として、それを超えることはできないという虚構が作られてきた。社会的な富のうち、不変資本として機能する部分、あるいは素材的に表現するならば生産手段として機能する部分を動かすためには、特定の量の生ける労働が必要である。その量は技術的な理由からあらかじめ決まっている。しかしその量の労働を調達するために必要な労働者の人数は決まっていない。それは個々の労働者の搾取度によって異なるからである。さらにこの労働力の価格も決まっていない。決まっているのは価格の最低限度だけであり、これはきわめて弾力的なものである。

この理論の土台となっている事業は、社会的な富を非労働者〔である資本家〕の享楽手段と生活手段にどのように分配するかについては、労働者が口出しすることはできないということ、そして労働者が富裕な人の「収入」を減らして、いわゆる「労働賃金」を拡大できるのは、ごく稀な場合に限られるということである。

 

資本フォーセット教授の理論

労働財源の資本主義制的な限度をその社会的な自然限度につくり変えることが、どんなにばかばかしい同義反復になってしまうかは、ことにフォーセット教授によって示されるであろう。彼は次のように言う。

「一国の流動資本は、その国の労働財源である。それゆえ、一人一人の労働者か受け取る平均貨幣賃金を計算するには、われわれはただ単にその資本を労働者人口で割りさえすればよいのである。」

つまり、言い換えれば、われわれはまず現実に支払われる個々の労賃を合計して一つの総額にし、次に、この合計は神と自然とによって定められた「労働財源」の価値総額をなすものだと主張する。最後に、われわれは、こうして得られた総額を労働者の頭数で割って、もう一度、一人一人の労働者に平均してどれだけを割り当てることができるかを見いだすというわけである。これは、非常にずるいやり方である。それは、フォーセット氏がすぐに続けて次のように言うのを妨げないのである。

「イギリスで年々蓄積される富の全体は二つの部分に分けられる。一つの部分は、イギリスでわれわれ自身の産業を維持するために用いられる。もう一つの部分は諸外国に輸出される。…われわれの産業で充用される部分は、年々この国で蓄積される富のあまり大きな部分をなしてはいない。」

つまり、イギリスの労働者から等価額で取り上げられる年々増大する剰余生産物の過半は、労働者からとりあげたものであるにもかかわらず、イギリスではなく、諸外国で資本化されるわけである。しかし、こうして輸出される追加資本とともに、じつにまた、神とベンサムとによって発明された「労働財源」の一部分も輸出されるのである。

労働財源の資本主義的な限界を、社会的な自然限度につくり変えることが、バカバカしい同義反復であることはフォーセット教授が明らかにしています。

労働原資の資本制的な限界を、社会的な自然の限界に作り変えることが、いかに悪趣味な同義反復にたどりつくかを明らかにしているのは、フォーセット教授である。彼は「ある国の流動資本は、その国の労働の原資である。したがってそれぞれの労働者かうけとる平均賃金を計算するには、この資本を労働人口で割り直せばよい」と主張する。

すなわち、まず現実に支払われている個々の労働賃金を総計してから、次にこの総計は、神と自然によって定められた「労働の原資」の価値の総額であると主張するからである。そしてこうして計算された総額を労働者の人数で割り算すると、労働者が平均して1人当たりどの程度の金額をうけとっているかをふたたび発見できるというのである。これは稀にみるほど狡猾なやり方である。それでいてフォーセット氏はつづけてこう語る。「毎年イギリスで蓄積される富の総額は、二つの部分に分けられる。一つの部分はイギリスで、わが国の産業を維持するために使われる。残りの部分は外国に輸出される。…我が国の産業に使われる部分は、毎年わが国で蓄積される富の主要部分ではない」。つまり毎年増大していく増殖生産物の大きな部分は、イギリスの労働者に等価の支払いを行うことなく、労働者からとりあげたものであるにもかかわらず、イギリスではなく外国で資本に転化されているのである。こうして輸出された追加と本とともに、神とベンサムによって発明された「労働の原資」の一部もまた輸出されているのである。

 

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