マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第4篇 相対的増殖価値の生産
第13章 機械類と大工業
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第4篇 相対的増殖価値の生産

第13章 機械類と大工業

〔この章の概要〕

資本主義的生産様式は、科学を生産に意識的に応用する大工業において、はじめてみずからにふさわしい生産方法を手に入れます。ここでも、第11章、第12章と同様に、機械に典型的に現れる大工業的な生産方法が資本主義的生産においてももつ意味が重要なポイントとなります。マルクスがこの章の冒頭で述べているように、「機械設備は、増殖価値の生産のための手段」なのです。

マニュファクチュアが生じたのは、たしかに「一般的な協業的な形式」からです。とはいえ、マニュファクチュアは同時に、単純な協業においては前提とされていた「手工業的な活動」のあり方を「分解」してしまいました。手工業的活動を分解し破壊することによって、マニュファクチュアは同時にまた、同一の部分労働に同じ労働者を釘づけにしました。このようにマニュファクチュアの段階にあってすでに、小規模な手工業的生産過程においては「時間的継起」であったものが「空間的な並置」へと変換されることになりました。ここで「同時性」、つまりそれ自体空間化された時間は資本の時間化作用の効果であるとともに、それ自身とてつもない強度をともなう時間のかたちを組織してゆくのです。マニュファクチュアとは、いわば前駆的な近代資本であるにすぎない。しかし、そこにあらわれているのは、それ自体生産メカニズム、生産機械であり、それはやがてそのまま機械制大工場を可能とする社会的機構にほかならないのでした。それが現実化し、一般化したのが機械制大工業です。

資本主義における機械の使用は、それによって労働者の労働、人間の労苦を軽減することを目的にしていなかった。資本家が機械を使う目的は、商品を低廉化し、特別剰余価値を、またその結果として相対的剰余価値を、またその結果として相対的剰余価値を得ることだからだ。その手段として資本主義は機械を発明し、発展させました。

そもそも機械とは何か、道具とはどこが違うのだろうか。機械についての説明はいろいろ行われていたが、マルクスはどれも経済学的には不十分だと指摘しています。たしかに、常識的には機械は複雑なものだとか、人間の力ではなく動力源を使うものだと思いがちです。しかし、複雑な仕掛けは古代からあったし、水車や風車、動物の利用も同様に長い歴史があります。

マルクスは、経済学的立場から、「すべての発達した機械装置は、動力機と配力機構と道具機(または作業機)の三つの部分からなっている」と定義しました。

動力機というのが全体を動かす原動力であり、マルクスの時代だと蒸気機関です。アークライトの紡績機が産業革命の出発点になったが、当初は蒸気機関ではなく、水力を使っていました。水力でも別にかまわない。今は蒸気機関の時代でもないので、それはディーゼルエンジンでも電力でも、ともあれまず動力機があります。

配力機構というのは、動力機の起こした力を道具機に伝える装置です。そしてその末端に道具機あるいは作業機がついていて、それが人間の手と道具に代わって、原料に対して物理的、化学的な作用を及ぼして生産を行うのです。

機械による生産の時代をひらいた産業革命というと、蒸気機関の発明というイメージがあります。マルクスは道具機がその出発点になったと指摘している。

道具機は、それ以前の労働者が使っていた道具は同じ機能をはたすものとして発明され、しかも人間の限界から解放されたものとなった。人間のようなミスも少なく、あるいは人間よりも強い力をも作業します。また多くの道具を同時に動かすことができます。人間が金槌をふるおうと思ったら、ふつう一個しか扱えない。器用な人が両手で二つ持ってもそれが限界で、三つも四つもの金槌を同時に使うことはできません。ところが機械はそれをやすやすと行い、生産力が飛躍的に高まりました。

道具機が発明されて、たとえばアークライトの水力紡績機ができても、それが流水があって、その流れが急で水車を回せるようなところでないと使えなかった。町から離れた山間部などの、流水のあるところに散在的に工場が建てられました。その後蒸気機関が改良されて実用的なものになりました。それにより労働者の住む町に工場を建てることが可能になり、都会に工場を集中させることができたのです。道具機が先にあって、それが動力機の発達を促しました。あるいは必然化したのだとマルクスは指摘しています。道具機と動力機が配力機構によって結合され、全体が機械装置になったのです。

マルクスは機械そのものについて「まだ機械的生産の単純な要素であるにすぎない」と書いています。というのは、同種機械の協業とは区別される機械体系へと機械は発展し、機械制大工業というのは、まさに機械体系によって成り立っているからです。

同種機械の協業はどういうものかというと、封筒製造機の例が出ています。紙を切って、折って糊付けすると、封筒がたくさんできます。これは単なる機械で、それが5台並んでいれば、封筒がさらに5倍できるという協業としての意味はあります。機械にしても1台1台置くよりは、まとめておいたほうが場所の節約になります。あるいは1台ずつ別々に機械を置いたら5台の蒸気機関が必要なのが、一か所にまとめて大きな蒸気機関を置き、それから5台の機械に動力を配分すれば当然大きな節約になります。

したがって同種機械の協業というのも、もちろん大きな意味をもちますが、本来の機械体系は種類の異なる一連の作業機を組み合わせ、労働対象が段階的にそれを通過していくものを指していました。

具体的な例として羊毛工場があげられています。羊を飼育して、羊の毛を刈って、それを工場へ送るところまでは原料生産です。有機的マニュファクチュアでは、まずその毛を打ってならし、次にその毛を梳いて、毛の繊維を一列に揃えました。それから太い糸を作り、徐々に細かい糸にしていきました。このように一連の作業によって、工場に着いた原料の羊毛から、いくつもの工程を経て毛糸が作られました。マニュファクチュアにおいては、各工程に専門の職人がいましたが、そのそれぞれが機械に置き換えられ、各段階の仕事をする機械が順に並べられました。原料の羊毛が、異なる機械の間を通過していくことによって製品になっていくようになりました。

これが同じ機械が並んでいる場合と質的に違います。機械の違う機械の組合せによる機械体系です。有機的マニュファクチュアのほうがそれに転換されやすかった。

マニュファクチュアの部分労働者の場合と同様に、その労働の過程によって、機械の台数も調整して配置されました。部分労働者に代わって部分作業が置かれたことになります。

その際、機械の都合で全体の過程が分割されていくことになりました。マニュファクチュアにおいては、それ以前からのいわば職人の伝統によって労働過程が分割されていました。それが機械の都合、技術学的な必然性、あるいは合理性によって労働過程が分解されるようになりました。こうなると、分業とはいってもむしろその過程が機械体系の本質になってきます。

機械は一つの巨大な自動装置になり、必要な一切の作業を行うようになります。機械の改良が進むと、労働者は始動やトラブル発生時以外は機械に付き添うだけとなってしまいました。機械制になると、それまでの労働とは労働のあり方が大きく変わったのである。機械制の大工場では巨大な機械が建物を満たして、爆発的な大量生産が行われるようになった。

ところで、機械はマニュファクチュアによって製造された。それがなければ機械は生産できなかったから、マニュファクチュアは機械制の直接的な技術的基礎となりました。機械を生産するマニュファクチュア部門が発展したのですが、やがてマニュファクチュアでは製造できない、たとえば木製ではなく鉄製の大型機械になると、機械でなければ機械を作れないようになっていました。

また、最終的な製品となる過程のどこかの部分が機械化されると、その同じ過程にある他の部面に機械化が波及しました。たとえば、原料が大量にできるようになると、その先の工程が機械化されることになりました。

さらに運輸交通手段の革命をもたらしました。産業革命のいちばん大きなその発展は鉄道です。それまでは馬車だったものが、蒸気機関によって、鉄道網がイギリス国内に形成されるようになったのです。鉄道によって原料が運ばれ、製品も移動したので、商品を売る市場も広がりました。

蒸気機関を船に載せた蒸気船ができて、それまでの風を頼りの航海から、安定した長距離の航海が行えるようになりました。そのため、外国からの原料の輸入と、商品の外国市場への販売が飛躍的に拡大しました。

日本に黒船がやって来たのも蒸気船だからこそでした。蒸気船だと、また行こうと思えば予定通りに来ることができます。1860年代の日本の幕末は、マルクスが『資本論』を書いていた頃に当たります。蒸気船が世界中に、港の解放、食料と燃料の補給、そして市場の開放を要求する時代になっていたのです。

機械の動力機の問題が解決すると、さらに作業機の改良が進み、熟練労働者にもできいほどの精確さと迅速さをもった機械が作られるようになりました。

また機械は1人の人間では動かないものになっていきのす。そのため労働過程が協業であることが、技術的にも必然化していきました。多くの点で、生産方法を大きく変えるものだったのです。

資本家は機械を使うことによって儲かるから機械を使い、剰余価値を増大させるわけですが、当然ながら機械は道具に較べて高額になります。厳密に言えば、多くの労働を要するので価値が大きくなったわけです。ただし機械は長期間使えるし、大量に物を生産する耐久性をもっているので、個々の商品に転化される価値移転部分は小さくなります。本来の減価償却のことです。当然のことですが、移転する価値が小さくなるから、商品価値が下がり、機械が資本主義のなかで使われるようになっていくのです。

しかし、資本家が機械を採用するかどうかには別の事情があります。現実の賃金との比較です。労働者が酷使されて、その賃金が価値以下になっていた鉱山業では、婦人・児童労働者の使用が工場法で禁止されるまで、機械は採用されませんでした。小さな坑道にもぐり込むには体の小さい労働者の方が都合が良かったからです。戦前の日本の炭鉱でも事情は同じでした。これも資本主義による機械使用の本質をよく物語るものといえます。

労働過程は人間と自然の間の過程です、労働過程をその結果から見れば、労働そのものは生産的労働でした。しかし、それは単純な労働過程の立場から生ずるもので、資本主義的生産過程については決して十分ではなくなります。

たとえば、1人の自営業者が生産をする場合、その生産者は作業場で工具を使って物を作るだけでく、買いにきた客に対応し、あるいは製品を届け、原料の在庫が減っていたらそれを仕入れる。製品の改良を考えて設計・試作したりする。さらには毎日売上や支払いに現金や手形を扱い、それを帳簿につける。そうしたことを1人で行っていました。今でも自営の人はしているでしょう。その全体が一つの物を作って売るために必要な、それに付随する労働だったからです。

それが、マニュファクチュアとも比較にならないほど生産規模が拡大した大工業の時代になると、今列挙したような仕事が、それぞれの専門の労働者に分業化されていきました。つまり、工場で機械の横に立って製品を作る人だけが生産的労働をしてるわけではなく、原料の仕入れ、製品の輸送、新製品の研究・開発、販売と経理、そういった仕事を労働者全体でするようになり、個々の労働者はそのなかの一部門を担当するようになりました。そうなると、工場で働いていない、製品に直接関わらない経理部門の労働者も生産的労働者ということになります。また、協業による指揮監督労働も必然的に拡大しました。

そういう意味で、商品は個人的生産者の直接的生産物から社会的生産物へ、全体労働者の共同生産物へと転化しました。したがって、全体労働者の一器官として、その部分機能を行うだけで生産的労働者になるのです。生産的労働の意味的な拡大がありました。

他方で、生産的労働の概念が狭められました。剰余価値、具体的には利潤を生産しなければ、資本にとっては生産的労働ではないことになります。

物質的生産以外の例として学校教師をマルクスは例にあげています。教師は児童の頭脳な加工するという意味で、本来的に生産的労働だということでしょう。しかしそれだけはなく、私学の場合、企業家がソーセージ工場へ投資するのと同じように教育工場(=学校)に投資されるわけだから、教師はそこで児童の頭脳に加工して利潤を上げることで生産的労働になる。赤字になれば企業と同様に私学も破産します。

『工場の哲学』を書いたユアは、工場は機械が中心であり、労働者はその付属機関にすぎないと表現しましたが。まさにそれが機械の資本主義的使用を特徴づけるものでした。

そしてマニュファクチュアでは熟練労働から不熟練労働までいろいろな階層があったのが、機械の助手として労働が単純化され。不熟練労働者が支配的になりました。これが近代的なプロレタリア階級です。

それと同時に、機械が人間労働者を使用するという顛倒が現われました。労働からの「人間疎外」がだれの眼にもはっきりと見えるようになりました。工場労働者は死んだ機械に合体された生きた付属物にすぎず、その労働の内容は無内容なものとなり、自分でなにかをつくりあげていくことを実感できない労働になっていきます。機械の付属器官という労働も、今では機械の横にいる必要すらなくなりました。指令室でメーターの針だけを見続けるような労働になると、ますます無内容な労働になっているでしょう。

しかも、工場には軍隊の兵営と同じような規律がつくられ、肉体労働と指揮監督労働者への分割が進行します。就業規則にはブルジョワが愛好していたはずの分権や代議制民主主義の観念はまったくなく、資本の労働者に対する専制が貫かれている、とマルクスに皮肉られる状況となったのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

第1節 機械類の発達

機械の目的

ジョン・スチュアート・ミルは、その著書『経済学原理』のなかで次のように言っている。

「すべてのこれまでなされた機械の発明が、どの人間かの毎日の労苦を軽くしたかどうかは疑問である。」

だが、このようなことはけっして資本主義的に使用される機械の目的ではないのである。そのほかの労働の生産力の発展がどれでもそうであるように、機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものなのである。それは、剰余価値を生産するための手段なのである。

前章でマニュファクチュア的分業をしるしづけるものは、「部分労働者は商品を生産しない」ということであり、それはすでに「ひとりの資本家の手の中に生産手段が集中していること」を前提していることを見ました。マニュファクチュア以前の様々な形態は、労働様式を根本的に変更するものではないのですが、マニュファクチュアはそれを根底的に変容させ、個人的労働力の根幹をとらえるものでした。その意味で、マニュファクチュアには、消去することのできない資本制の刻印がきざみこまれ、傷痕は抹消不能なものとなったのです。マニュファクチュアとして展開された分業は、労働者の額に「彼が資本の所有であることを示す焼印を押す」のである。マニュファクチュアは労働者の身体動作を一面的なものとし、「部分労働者」としてしまうからである。この過程は「科学を独立の生産能力として労働から切り離し、それに資本への奉仕を強要する大工業にあって完了する」。マニュファクチュアが一方で科学を、他方では機械そのものを生み出したと言えるところは否定できません。

そこで、機械制大工業に移ります。まず「機械の発達」を論じるに際してマルクスは、機械の目的を、その他の労働の生産力の発展がどれもそうである通り、機械は商品を安価にすべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮し、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものであると定義します。機械とは、剰余価値を生産するための手段なのです。

このような視点から、以下において、マルクスは、機械の意味、機械を商品生産へと導入することの意義を、原理的にも歴史的にも跡づけてゆきます。

ジョン・スチュアート・ミルは『経済学原理』において「これまでさまざまな機械が発明されてきたが、これで日々の労苦が軽減された人が、1人でもいるかどうか、疑問である」と語っている。

しかし資本制的に利用される機械は、そのようなことを目的としてはいないのである。ほかのどんな方法による労働の生産力の発展と同じように、機械の目的は商品を安価に製造し、労働日のうちで、労働者が自分の生存のために使用する部分を短くし、労働者が資本家のために無償で働く部分を長くすることだった。機械は増殖価値の生産のための手段なのである。

 

機械と道具の違い

生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。だから、まず第一に究明しなければならないのは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか、である。ここで問題にするのは、ただ大きな一般的な特徴だけである。なぜならば、社会史の諸時代は抽象的な厳密な境界線によっては区分されないということは、地球史諸時代の場合と同じことだからである。

数学者や機械学者は─そして人々の見るようにイギリスの経済学たちもあちこちでこれを繰り返しているのだが─道具を簡単な機械だと言い、機械を複雑な道具だと言う。彼らは、そこに本質的な相違を見ないで、簡単な機械的な力、たとえばてこや斜面やねじやくさびなどまでも機械と呼んでいる。じっさい、どの機械も、どんなに装われ組み合わされていようとも、このような簡単な力から成っているのである。しかし、経済学の立場からは、この説明はなんの役にもたたない。それには歴史的な要素が欠けているからである。他方には、道具と機械との区別を、道具では人間が動力であるが、機械では動物や水や風などのような、人間力とは違った自然力が動力であるということに求める人もある。この区別に従えば、生産上の非常にさまざまな時代に現われる牛をつけた犂は機械だが、たった1人の労働者の手で動かされて1分間に9万6000の目を織るクローセン式回転織機はただの道具だ、ということになるであろう。じつに、同じ織機でも、手で動かせば道具だが、蒸気で動かせば機械だ、ということになるであろう。動物力の応用は人類の最古の発明の1つなのだから、実際には機械生産が手工業生産に先行するのだということになるであろう。1753年にジョン・ワイアットが彼の紡績機械を、またそれによって、18世紀の産業革命を、世に告げたときに、彼は、人間に代わってロバがこの機械を運転する、とは一言も言わなかったが、それにもかかわらず、この役割はロバのものになった。「指を使わないで紡ぐための」機械、これが彼のもくろみだったのである。

生産様式の変革が起こったのは、マニュファクチュアでは労働力について、大工業では工場や機械化といった労働手段についてです。前章でマニュファクチュアを考えたので、ここでは大工業を考えていきます。つまり、労働手段として、以前の道具を使っていたのが機械化に移っていったことについて考えていきます。その前提として、道具と機械の違いについて、まず考えていきます。しかし、その場合には、それぞれの特徴を外から概略的に眺めてゆきます、というのも、道具と機械のあいだには明確で厳密な境界線を引くことができないからです。

抽象的な学問にいそしむ学者たちは、経済学者たちもそうですが、道具とは単純な機械であり、機械とは複雑な道具であると説明します。このような説明では、機械と道具に本質的な違いはないと考えているのが分かります。このころの機械は、単純な機械のしくみで構成されて、組み合わされたものと言えると思います。しかし、それでは、ここでの経済学的な分析には、それでは不十分です。そこで、これから分析していきます。

また、道具と機械の違いについて、別の面から、道具は、それを使う人間が動力となるのに対して、機械は人の力とは異なる自然力、たとえば動物の力(馬車)?や水力、風力などが使われるとこにあると説明されることもあります。しかし、この区別も厳密なものでなく、マルクスはその例外を列挙していますし、同じ織機であっても、手で動かせば道具になり、蒸気で動かせば機械ということになってしまいます。つまり、同じものが道具でも機械でもありうることになるのです、この区別では。動物の力を利用することは、原始時代から行われていたものです。そうすると、道具より機械の方が古いということになってしまいます。それはおかしい。

人間の活動にあって、機械のたんなる道具と区別するものは何なのでしょうか。あるいは何をもって労働手段は道具から機械に転化されるのでしょうか。そこには単に量的な意味しかないのか。あるいは、質的に決定的な何ものかが、そこでは生起しているのかもしれない。

労働過程論の文脈でも確認しておいたとおり、人間にとって最初の道具は、自らの身体そのものと言えます。人間の身体はもちろん単なる道具ではなく、たとえば可動範囲に手を伸ばしてものをつかむとき、人ははことさらに四肢のひとつを道具として意識しているわけではないとしても、一例を挙げれば、大地を踏みしめ、土を均すとき、足の裏は当人にとっても端的に道具として意識されることが可能となるでしょう(たとえば麦踏みの場面)。自らの足裏をもちいるかわりに、たとえば木片を組み合わせて槌を作製して、それを地面に叩きつければ、槌は身体の一部、ここでは足の裏を代替する道具となります。そこでは決定的と言える何事かが生起しているだろうか。

ここで道具が、身体に対して、その器官を代替するだけの機能を果たしているにすぎないならば、ある意味で決定的な要因は何もないわけです。しかし、道具は、身体機能をつねに過剰に代替します。例えば、シャベルはそれだけで手のひらによって加えられる力を凌駕して土に働きかけ、槌ならば足の裏ではとうてい及ばない重量を大地に負荷します。道具が身体の器官を代理するときに、それは原理的に必ず身体機能に対する過剰代替となるかぎりでは、道具がもたらすものはすでに単なる量的なものだけにとどまるものではありません。それはつねに質的な変容を世界と人間との関係にもたらし、その限りで道具一般の制作が人間にとって決定的なものとなるのです。

それでは機械はどうでしょうか。たとえば、ここで説明されているように、道具とは単純な機械であって、機械とは複雑な道具にすぎないのでしょうか。これは、そんな単純なものではなく、原理的にも、また歴史的にも考えられなければならない、とマルクスは言います。  

生産様式の変革は、マニュファクチュアにおいては労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点として行なわれる。だからまず考察する必要があるのは、どのようにして労働手段が道具から機械に変わったのか、機械は手工業で利用する道具とどのように異なるのかということである。ただしここでは、概略的な一般的な特徴だけについて考える。社会史の時代区分は、地質学の時代区分と同じように、抽象的に厳密な境界線で区切ることはできないからである。

また道具と機械の違いについて、道具とは人間が動力となるが、機械では人力とは異なる自然力、たとえば動物の力、水力、風力などが利用されることに違いがあると説明されることもある。しかしこの区別によると、牛に引かせる犂は、きわめて多様な生産物時代で使われてきたものだが、これも[動物の力を使うので]機械だということになるし、1人の労働者が1分間に9万6000の目を織るクローセン式回転織機は、人間が手で動かすのだから道具だということになってしまう。さらに同じ織機でも手で動かせば道具だし、蒸気で動かせば機械だということになる。

動物の力を利用することは、人類のもっとも古い発明の1つである。すると実際には手工業生産よりも機械生産のほうが先立つことになる。1753年にジョン・ワイアットが紡績機械を発明し、18世紀の産業革命の到来を告げたときに、彼は人間の代わりにロバがこの機械を動かすとは一言も言わなかった。ところが実際にはロバがこの機械を動かすことになったのである。彼の謳い文句は、「指を使わずに紡げる」機械ということだった。

 

機械類の特徴

すべて発達した機械は、三つの本質的に異なる部分から成っている。原動機、伝達機構、最後に道具機または作業機がそれである。原動機は全機構の原動力として働く。それは蒸気機関や熱機関や電磁気機関などのようにそれ自身の動力を生みだすこともあれば、また、水車が落水から、風車が風からというように、外部の既成の自然力を受け取ることもある。伝達機構は、節動輪、動軸、歯輪、回転軸、鋼、調帯、小歯輪、非常に多くの種類の伝動装置から構成されていて、運動を調節し、必要があれば運動の形態を、たとえば垂直から円形にというように、変化させ、それを道具機に分配し伝達する。機構のこの両部分は、ただ道具機に運動を伝えるためにあるだけで、これによって道具機は労働対象をつかまえて目的に応じてそれを変化させるのである。機械のこの部分、道具機こそは、産業革命が18世紀にそこから出発点するものである。それは、今もなお、手工業経営やマニュファクチュア経営が機械経営に移るたびに、毎日繰り返し出発点となるのである。

機械というのは、発達した機械ならば、三つの本質的に異なる部分から構成されています。すなわち、原動機、伝道機構、最後に道具機または作業機です。原動機は全体のメカニズムの原動力(現代でいえばモーターとかエンジン部分)で、蒸気機関、熱機関、電磁気機関(モーターなど)といったものは自ら動力を生み出すものと、風車や水車といった自然の力に頼っているものとに分けられます。

伝道機構(伝達機構)は、その名の通り原動機でつくられた原動力を作業機に伝えて動かすものです。はずみ車、駆動シャフト、歯車、羽根車、シャフト、ロープ、バンド、連結器具、さまざまな種類の中間軸などの複雑な機構で構成されたもので、運動を調整し、必要に応じて変化させ、それを工作機に伝達し、分配するものです。

そして、工作機で、これを動かすために原動機と伝道機構が存在する、いわば機械の働くメインの部分です。工作機は、伝達された運動によって労働対象を捉えて、その目的に応じて変化させる。つまり、以前に労働者が類似した道具で遂行していたのと同じ作業を自分の道具で遂行するのです。この工作機こそが18世紀の産業革命の出発点であるとマルクスは言います。手工業から機械工業への移行は、この部分が担ったのです。

発達した機械類は、三つの本質的に異なる部分で構成されている─原動機、[力の]伝達機構、そして最後に工作機械または作業機械である。原動機は全体のメカニズムの原動力となる。蒸気機関、熱機関、電磁気機関などの原動機はみずから動力を生み出すが、水車が水の流れから、風車が風から力をうけとるように、外部にすでに存在する自然力から戦力をえるものもある。

伝達機構は、はずみ車、駆動シャフト、歯車、羽根車、シャフト、ロープ、バンド、連結器具、さまざまな種類の中間軸などで構成されたもので、運動を抑制し、必要な場合には運動形態を変換し(たとえば垂直運動を回転運動に変換する)、運動を工作機械に分配し、伝達する。

原動機と伝達機構の二つのメカニズムは、第三の工作機械に運動を伝達するためだけに存在する。工作機械は伝達された運動によって労働対象を捉え、目的におうじて変化させるのである。機械のこの部分、すなわち工作機械こそが、18世紀の産業革命の出発点である。手工業経営から機械経営に移行するときには、これがつねに新たに出発点となる。

 

道具と機械のほんらいの違い

そこで、道具機または本来の作業機をもっと詳しく考察するならば、しばしば非常に変化を加えられた形態をもってであるとはいえ、だいたいにおいて、手工業者やマニュファクチュア労働者の作業に用いられる装置や道具が再現するのであるが、しかし今では人間の道具としてではなく、一つの機構の道具として、または機械的な道具として再現するのである。機械全体が、たとえば力織機の場合のように、ただ古い手工用具にいくらか変化を加えたその機械化版でしかないが、または、作業の骨組みに取りつけられて働く器官が、古いなじみのもの、すなわち紡績機の紡錘、靴下編み機の針、機械のこぎりののこぎり、裁断機の刃などのようなものであるかである。これらの道具と今なお大部分は手工業的またはマニュファクチュア的に生産されていて、あとからはじめて機械的に生産された作業機体に取りつけられるのである。つまり、道具機というのは、適当な運動が伝えられると、以前に労働者が類似の道具で行っていたのと同じ作業を自分の道具で行う一つの機構なのである。その原動力が人間から出てくるか、それともそれ自身また一つの機械から出てくるかは、少しも事柄の本質を変えるものではない。本来の道具が人間から一つの機構に移されてから、次に単なる道具に代わって機械が現われるのである。人その区別は、相変わらず人間自身が第一の動力であっても、すぐに見分けがつくのである。人間が作業のために同時に使用できる労働用具の数は、彼の自然的な生産用具、すなわち彼自身の肉体の器官の数によって、限られている。ドイツでは、まず、1人の紡績工に2つの紡ぎ車を踏ませること、つまり同時に両手と両足とで作業させることが試みられた。これは骨の折れすぎることだった。その後、2つの紡錘をつけた足踏み紡ぎ車が発明されたが、同時に2本の糸を紡ぐことのできる紡績の名手は、ほとんど双頭の人間のようにまれだった。ところが、ジェニー紡績機ははじめから12〜18個の紡錘で紡ぎ、靴下編み機は一時に何千本もの針で編む、等々というふうである。同じ道具が同時に動かす道具の数は、1人の労働者の使う手工業道具を狭く限っている有機体的な限界からは、はじめから解放されているのである。

工作機の部分について詳しく見ていきましょう。この部分は手工業者やマニュファクチュアの作業において労働者が使っていた道具や装置が、同じように使われていることが分かります。ただし、ほとんどの場合、それは大幅に外観は変えられてしまって、もはや人間の道具ではなくて、機械仕掛けの道具、機械的な道具になっているのです。例えば、力織機は、以前から使われていた手工業者の道具に機械化したすぎないものもあります。あるいは、紡績機の紡錘、靴下編機の針、機械鋸の刃、裁断機の刃のように、古くから知られている道具が、ずっと使われてきた道具が、作業機の仕組みの一部の器官として利用されているものもあります。

このような、長く使われてきた道具と、作業機で同じ機能をはたす機械的な道具となった道具との違いは、その道具の誕生の時点から生まれたものです。前者の場合、その大部分が今でも手工業やマニュファクチュアで生産されているものです。それで、工作機械は、かつて労働者が同じような道具を使って手作業で行っていた作業を、機械が代わって行うためにその道具が適切に働くために必要な運動を伝達して作業する機構(メカニズム)です。そうすると、この道具の運動の駆動力が人間によるものであるか、機械から生まれたもの、つまり原動機によるものであるかは、本質的な違いではないと考えてもいいのではないか。つまり、道具が人間の手で使われるものから機械のメカニズムで動かされるものに変わったときに、単なる道具から機械になるということです。

1人の人間が同時に一回で使うことのできる道具の総数は、身体の器官によって制限されます。例えば手は2本しかないため、同時に4個や5個のハンマーを握ることはできません。ドイツでは手工業の時代に、1人の紡績工に2台の紡ぎ車を踏ませて、両手と両足を同時に使って作業させようとしたといいます。しかし、これはあまりに過酷でした。これに対してジェニー紡績機は最初から、12個から18個の紡錘を使って紡ぐことができるし、靴下編み機は同時に数千本の針を使って編むことができます。このように1台の工作機が同時に動かすことのできる道具の総数は、最初から1人の人間が手作業で同時に一回で使うことのできる道具の総数という生物学的な限界を超えていました。

つまり、道具から機械に変わることによる本質的な変化として、作業量の飛躍的な増加、その増加量は人間が身体を使ってできる作業量の限界をはるかに超える量の作業を可能にするということにあります。1台の機械で、何十人もの人間が作業するのと同じ量の作業をすることができるようになるということです。

決定的な変容は工作機によって現われる。それはもともとの道具を人間の手から切り離し、ひとつの機構へと委ね、そのことで道具は、人間の身体器官が課する制限から解放されて、機械の一部となり、道具を機構のうちに取り込むことで、機械は本来の意味で機械となると言えます。

例えば紡ぎ車の場合、労働者の足は、ただ原動力として働くだけであり、紡錘を操作し、糸を撚る手が本来の紡績作業を遂行します。後者を、「産業革命がとらえる」。人間の四肢がただ動力として作動する場面では、それを自然の力(風力、水力、動物等々)で代替することはむしろ容易く、それはいかなる産業革命も引き起こさない。人間が単に動力として道具機に働きかける段階にいたってはじめて、動力と人間の身体との結びつきが切断されて、風や水、やがては蒸気がそれに取ってかわる。

かくてはじめてワットの蒸気機関が意味を持つ、それは「石炭と水を食って、自分で自分の動力を生み出し、その力が全く人間の制御に服しており、可動的であるとともに移動の手段であり、都市的であって、水車のように田園的ではなく、水車のように生産を田園地帯に分散させず、都市に集中することを可能とし、その技術的適用という点で普遍的であり、その所在地に関しては局所的な事情に制約されることの比較的に少ない原動機」だったからです。

そこでこの工作機械あるいはほんらいの作業機械についてさらに詳しく調べてみると、そこには手工業者やマニュファクチュア労働者が使っていたのとほとんど同じ装置や道具がふたたび登場しているのが分かる。ただし大幅に修正されていることが多く、もはや人間の道具ではなく、機械仕掛けの道具、機械的な道具になっているのである。力織機のように、その機械の全体が、以前から使われていた手工業者の道具に多少とも手を加えて機械化したにすぎないものがあるし、あるいは紡績機の紡錘、靴下編機の針、機械鋸の刃、裁断機の刃のように、古くから知られている道具が、作業機械の仕組みのうちに活動する〈器官〉としてとりつけられているものでもあり、そのいずれかである。

こうした古くから知られている道具と、作業機械のほんらいの〈身体〉に変わった道具の違いは、その誕生にまでさかのぼる。こうした道具はその大部分が今なお手工業やマニュファクチュア的に生産されているものであり、だから工作機械とは、かつて労働者が同じような道具を使って[手作業で]行っていた作業を、その道具に適切な運動を伝達することで遂行するメカニズムということになる。そうしてみると、その運動の駆動力が人間によるものであるか、機械から生まれたものであるかということは、本質にかかわる違いではないことが分かる。ほんらいの道具が人間の手から一つのメカニズムに引き渡されたときに、たんなる道具の代わりに機械が登場するのである。人間がまだ最初の動力源として機能していても、この違いは一目瞭然である。

人間が同時に使うことのできる労働の道具の総数は、人間に自然にそなわる生産の道具である身体の器官の数によって制約されている。ドイツでは最初の頃に、1人の紡績工に2台の紡ぎ車を踏ませて、両手と両足を同時に使って作業させようとしたが、これはあまりに過酷だった。後に2個の紡錘をそなえた足踏み式の紡ぎ車が発明された。しかし2本の糸を同時に紡ぐことのできる紡ぎ名人は、双頭の人間のようにごく稀だった。これに対してジェニー紡績機は最初から、12個から18個の紡錘を使って紡ぐことができるし、靴下編み機は同時に数千本の針を使って編むことができる。このように1台の工作機械が同時に動かすことのできる道具の総数は最初から、1人の労働者が手作業で道具を動かすことのできる狭い生物学的な限界を突破していた。

 

駆動力の供給源の変化

多くの手工業道具では、ただの原動力としての人間と、固有の操作器をそなえた労働者としての人間との相違は、感覚的に別々な存在をもっている。たとえば、紡ぎ車の場合には、足はただ原動力として働くだけであるが、紡錘を操作して糸を引いたり撚ったりする手は、本来の紡績作業を行うのである。まさに手工業用具のこのあとのほうの部分をこそ、産業革命はまず第一にとらえるのであって、動力という純粋に機械的な役割は、自分の目で機械を監視し、自分の手で機械の誤りを正すという新たな労働といっしょに、さしあたりはまだ人間に任せておくのである。これに反して、人間がはじめからただ単純な動力としてそれに働きかけるだけの道具、たとえばひきうすの柄をまわすとか、ポンプを動かすとか、ふいごの柄を上げ下げするとか、うすでつくとかいう場合の道具は、たしかに、まず第一に動力としての動物や水や風の応用を呼び起こす。このような道具は、一部はマニュファクチュア時代のうちに、まばらにそれよりもずっと前から、機械となるまでに成長するが、しかしそれらは生産様式を変革しはしない。それらがその手工業的形態にあってもすでに機械だということは、大工業の時代に明らかになる。たとえば、1836/37年にオランダ人がハレム湖を干拓するのに用いたポンプは、普通のポンプの原理に従って組み立てられていて、ただ人間の手の代わりに巨大な蒸気機関がそのピストンを動かしていただけだった。鍛冶工の使う普通の非常に不完全なふいごが、今なお時おりイギリスでは、ただその柄を蒸気機関に結びつけるだけのことで、機械的な空気ポンプに変えられることがある。

蒸気機関そのものも、17世紀の末にマニュファクチュア時代のあいだに発明されて18世紀の80年代の初めまで存続したそれは、どんな産業革命をも呼び起こさなかった。むしろ反対に、道具機の創造こそ蒸気機関の革命を必然的にしたのである。人間が、道具を用いて労働対象に働きかけるのではなく、ただ単に動力として道具機に働きかけるだけになれば、動力が人間の筋肉を着ていること偶然となって、風や水や蒸気などがそれに代わることができる。もちろん、このことは、ときにはこのような交替によって元来は人間的動力だけに向くような構造をもっていた機構の大きな技術的変化が引き起こされることもあるということを排除するものではない。近ごろでは、ミシンや製パン機などのようにこれから道路を開かねばならない機械のすべてが、その用途のためにはじめから小規模ではありえないというものでないかぎり、人間的動力と純機械的動力とに同時に適するような構造を与えられる。

産業革命の出発点となる機械は、ただ一個の道具を取り扱う労働者の代わりに一つの機構をもってくるのであるが、この機構は一時に多数の同一または同量の道具を用いて作業し、またその形態がどうであろうと単一な原動力によって動かされるものである。ここにわれわれは機械を、といってもまだ機械的生産の単純な要素として、もつのである。

手工業で使用する道具の多くは、たんなる駆動力として働く人間と、ほんらいの作業を行う労働者としての人間は、感覚的に明確に区別できる。つまり、例えば、紡ぎ車の場合には、労働者の足が足踏みを漕いで紡ぎ車を回す駆動力として働き、手が紡錘を操作して、糸をつまんだり撚ったりするほんらいの紡績作業を担当します。産業革命が変革したのは、後者の手が担当する部分です。

道具に駆動力を提供する純粋に機械的な役割は、当初はまだ人類に委ねられていました。紡ぎ車でいえば、足で漕いで車を回す部分です。ただし、人間は、ただ車を回すだけでなく、機械を目で監視し、間違ったところは手で修正するという仕事も同時に併行して行っています。もっとも挽臼の棒を回したり、ポンプを動かしたり、ふいごの柄を上下させたり、臼でついたりするなど、人間が最初からたんなる駆動力として利用されている場合には、まずは機械となって動物や水や風が動力源として利用されるようになります。

しかし、これだけでは生産様式を革命的に変えるところまでは行きません。このことをもって産業革命とはいえないのです。蒸気機関は17世紀末のマニュファクチュア時代に発明されたもので、1780年代の初頭まで使われつづけたのですが、産業革命を引き起こすことはなかったのです。むしろ事態は逆であり、工作機械が発明されたために、蒸気機関の革命が必要不可欠になったのである(そこで、ワットによる蒸気機関の改良が必要性に応える形で行われたといえるのです)。人間が道具を使って労働対象に働きかけるのではなく、たんなる駆動力として工作機械に働きかけるにすぎなくなった瞬間から、駆動力が人間の筋肉という姿をとるのはたんに偶然にすぎなくなり、風、水、蒸気などがその代わりとなりうるのです。

もちろん駆動力がこのように水力や風力のような自然の力に変わったとしても、もともとは人力だけを念頭において構成されたメカニズムが技術的に大きく変動する可能性がなくなるわけではありません。しかし、産業革命のきっかけとなった機械は、個々の道具を使って働いていた労働者の代わりに、同じまたは同様な道具を多量に使用し、形態のいかんを問わず、単一の駆動力によって同時に動くメカニズムを利用するのです。

手工業で使用する多くの道具では、たんなる駆動力として働く人間と、ほんらいの作業を行う労働者としての人間は、感覚的に明確に区別できる。たとえば紡ぎ車の場合には、労働者の足が駆動力として働き、手が紡錘を操作して、糸をつまんだり撚ったりするほんらいの紡績作業を担当する。産業革命がまず働きかけるのは、手工業の道具において手が担当する部分である。

道具に駆動力を提供する純粋に機械的な役割は、当初はまだ人類に委ねられていた。ただし人間はほかにも、機械を目で監視し、間違ったところは手で修正するという新たな仕事も遂行するようになる。もっとも挽臼の棒を回したり、ポンプを動かしたり、ふいごの柄を上下させたり、臼でついたりするなど、人間が最初からたんなる駆動力として利用されている場合には、まずは動物や水や風が動力源として利用されるようになる。

この種の道具は、一部はマニュファクチュア時代に、散発的にはそれよりもはるか以前から機械へと発展してきたものだが、生産様式を革命的に変えるようなことはない。それでもこうした道具が、たとえ手工業的な姿をしていても、すでにまぎれもなく機械であることは、大工業時代での使われ方をみればすぐに分かる。たとえば1836年から37年にオランダ人がハレム湖の水を汲みだすのに使ったポンプは、普通のポンプと同じ原理によるものであり、人間の手ではなく巨大な蒸気機関がピストンを動かしていただけである。今日のイギリスでも、鍛冶工が使うごくありきたりで不完全なふいごのアームを蒸気機関につないで、ふいごを機械的なエア・ポンプとして利用することがある。

蒸気機関は17世紀末のマニュファクチュア時代に発明されたもので、1780年代の初頭まで使われつづけたが、産業革命を引き起こすことはなかった。むしろ事態は逆であり、工作機械が発明されたために、蒸気機関の革命が必要不可欠になったのである。人間が道具を使って労働対象に働きかけるのではなく、たんなる駆動力として工作機械に働きかけるにすぎなくなった瞬間から、駆動力が人間の筋肉という姿をとるのはたんに偶然にすぎなくなり、風、水、蒸気などがその代わりとなりうるのである。

もちろん駆動力がこのように自然の力に変わったとしても、もともとは人力だけを念頭において構成されたメカニズムが技術的に大きく変動する可能性がなくなるわけではない。その用途からして小規模に利用されることが考えられないものを除いて、ミシンや製パン機など、これから発展していく必要のある機械については、人間を駆動力とする製品と、機械的な駆動力だけを利用する製品の両方が、現在でも開発されているのである。

産業革命のきっかけとなった機械は、個々の道具を使って働いていた労働者の代わりに、同じまたは同様な道具を多量に使用し、形態のいかんを問わず、単一の駆動力によって動くメカニズムを利用する。ここでわたしたちが機械と呼ぶものが登場するが、これはまだ機械による生産の単純な要素の一つにすぎない。

 

 

駆動力としての自然力

作業機の規模とその同時に作業する道具の数との増大は、いっそう大規模な運動機構を要求し、この機構はまたそれ自身の抵抗に勝つために人間動力よりももっと強力な動力を要求する。すなわち、人間が均等な連続的な運動の生産道具としてはきわめて不完全なものだということは別にしても、それ以上に強力な動力が要求されるのである。人間はもはや単純な動力として働くだけとなり、したがって人間の道具に代わって道具機が現われているということが前提されれば、いまや自然力は動力としても人間にとって代わることができる。マニュファクチュア時代から伝えられたすべての大きな動力のうちで、馬の力は最悪のものだった。というのは、馬には自分の頭をもっているからであり、また馬には費用がかかり、しかもそれが工場内だけで使用されうる範囲は限られているからである。それにもかかわらず、大工業の幼年期にはしばしば馬が用いられたのであって、それは、当時の農業者の苦情は別としても、今日まで伝わっている馬力による機械力の表現がすでに立証していることである。風はあまりにも気まぐれで制御しにくかった。さらにまた、大工業の出生地、イギリスでは、すでにマニュファクチュア時代から水力の使用のほうが盛んだった。すでに17世紀には、2つの回転石。したがってまた2つのひきうすを1つの水車で動かすことが試みられていた。ところが、今では増大した伝動機構の規模が、もはや不十分になった水力と衝突するようになった。そして、これは、摩擦の法則のいっそう精密な研究を促した事情の一つである。同様に、柄を押し引きすることによって動かされた製粉機では動力の作用が不均等だったという事情からは、のちに大工業であのように重要な役割を演ずる節動輪の理論と応用とが生まれた。このようにして、マニュファクチュア時代は、大工業の最初の科学的な、また技術的な諸要素を発展させた。アークライトのスロッスル紡績機は最初から水力で運転された。しかし、水力を主要な動力として使用することにも困難な事情がともなった。水力は、任意に高めることもその不足を補うこともできなかった。それは、ときどき涸れたし、またなによりもまずまったく局地的な性質のものだった。ワットの第2のいわゆる複動蒸気機関の出現によってはじめて次のような原動機が見いだされた。それは、石炭と水を食って自分で自分の動力を生みだし、その力がまったく人間の制御に服し、可動的であるとともに移動の手段でもあり、都市的であって水車のように田舎的でなく、水車のように生産を田舎に分散させないで都市に集中することを可能にし、その技術的応用という点で普遍的であり、その所在地に関しては局地的な事情に制約されることの比較的少ない原動機だったのである。ワットの偉大な天才は、1784年4月に彼がとった特許の説明書に示されているが、そこでは彼の蒸気機関が、特別な目的のための発明としてではなく、大工業の一般的な動因として説明されている。彼がそこで暗示している応用のうちのいくつかは、たとえば蒸気ハンマーのように、半世紀以上もたってからはじめて実現された。しかし、彼は蒸気を機関を航海に応用することの可能性を疑っていた。彼の後継者、ボールトン・ワット会社は、1851年に海洋汽船用の巨大な蒸気機関をロンドン産業博覧会に出品した。

機械の規模が大きくなり、その機械で同時に使うことができる道具の数が増大すると、それを動かすための大規模な運動メカニズムが必要になってきます。それは人間が動かす駆動力によりもはるかに強力な駆動力を必要とするものです。もともと、人間というのは、機械のように均等で連続的な運動を行うことは得意ではありません。もしも、人間がたんなる駆動力としてしか働いていないのであれば、どうその道具の代わりに工作機が登場した場合には、その原動力として人間の力に代わって風力や水力のような自然の力を利用するのは、ほぼそのままで可能となります。

その自然の力として、どのようなものがあったのかを見ていくと、昔から使われてきた駆動力として馬があげられます。しかし、これは人間以上に使い勝手の悪いものでした。馬には馬なりの意志というものがあるし、使用するコストが高く、工場で使用するには範囲が限られていたからです。

また、風力については、風任せという言葉もあるとおりに、あまりにも不定期であり、制御しにくいものでした。また、水力については、イギリスではマニュファクチュア時代から広く利用されていました。しかし動力の伝達機構が次第に大規模なものとなってくると、水力の供給が不十分であることが問題となってきます。このことが摩擦法則の詳細な研究を促した原因の一つでした。また製粉機は柄を押したり引いたりして作動するので、この運動力の不均一さが問題となり、はずみ車の理論と応用が促されました。このはずみ車は後に大工業においてきわめて重要な役割を果たすようになりました。

アークライトのスロッスル紡績機は、水力で駆動されるものでした。しかし、このような水力を主要な動力源とするには、大きな問題点がありました。水力は、その大きさを自由に操作することはできないし、時には枯渇してしまうおそれもある。そして、自由に移動することが難しい、都市に設置することが難しいという場所の制限がありました。

そこで登場したのがジェームス・ワットによって改良された蒸気機関、いわゆる複動蒸気機関です。これは石炭と水を消費して動力を作り出す原動機です。この原動機の動力は人間が自由にコントロールすることができて、移動させることができますし、何よりも、この蒸気機関を原動機として自身が移動する機関車や蒸気船も作られました。また、水車のように田園ではなく都市で利用することができました。水車というのは田園地方に生産場所が分散することになりましたが、蒸気機関では都市に生産場所を集中させることができました。そのため、技術的な用途がきわめて広く、移動や設置場所を自由に決めることができました。

機械の体系によって、生産の過程はより連続的なものとなり、「自動原理」がより貫徹したものとなる。その典型としてマルクスは、近代的製紙業を挙げています。

工場に「機械的な怪物」が現われると、建物じゅうにそのからだをひろげた怪物が「悪魔的な力」爆発させ生産を開始する。すると。ただちにまた、様々な関係が爆破され、世界の光景が一変してしまったもというわけです。

機械制大工場は「生産様式の変革」を引き起こしました。そして、ひとつの産業部門での変革はさらに、他の産業部門の変革を誘発しました。たとえば機械紡績は機械織布を必要とし、その両者は漂白や染色における機械的・化学的革命を要求しました。他方綿紡績の変容は、原料の生産そのものを変更させ、やがては大規模な木綿生産を要求するにいたりました。工業は農業に影響し、両者の革命は社会的生産過程の一般的条件、すなわち交通・運輸機関の革命を促しました。河川汽船や鉄道や海洋汽船や電信体系が、しだいに大工場に適合的なものとなっていったのです。そのすべては膨大な量の鉄を必要とし、さらに、巨大な鉄の需要は、その鉄を生産するために巨大な機械を再び要求するものとなりました。こうして機械によって機械を生産する」ことが始まり、大工業は「それにふさわしい技術的基礎を作り出して、自らの足で立つ」ことになったのです。

機械化は巨大化でもあります。機械旋盤は普通の足踏み旋盤の「巨大な再生」であり、平削機は巨大な鉄製の大工道具です。

作業機械の規模が大きくなり、機械において同時に使われる道具の数が増大すると、さらに大規模な運動メカニズムが必要となる。そして機械のうちで発生する内的な抵抗を克服するために、人間の駆動力よりもはるかに強力な駆動力が必要となる。そもそも人間というのは、均等で連続的な運動を行う生産道具としては、きわめて不完全なものである。もしも人間がたんなる駆動力としてしか働いておらず、人間の使う道具の代わりに工作機械が登場するようになると、今度は原動力として働く人間の代わりに自然の力を利用できるようになる。

マニュファクチュア時代から継承されてきた大きな駆動力のうちで、馬の力は最悪のものだった。馬には馬なりの意志というものがあるし、使用するコストが高く、工場で使用するには範囲が限られていたからである。それでも大工業時代のごく初期には馬が頻繁に利用された。そのことは当時の農家の苦情から分かるし、現在でも機械の力を馬力という言葉で表現する習慣があることからも分かる。

風力はあまりにも不定期であり、制御しにくかった。大工業の発祥の地であるイギリスでは、マニュファクチュア時代から水力が広く利用されていた。17世紀にはすでに1台の水準で、2つの回転石を動かして2組の挽臼を同時に働かせることが試みられていた。しかし動力の伝達機構が次第に大規模なものとなってくると、水力の供給が不十分であることが問題となる。このことが摩擦法則の詳細な研究を促した原因の一つである。また製粉機は柄を押したり引いたりして作動するので、この運動力の不均一さが問題となり、はずみ車の理論と応用が促された。このはずみ車は後に大工業においてきわめて重要な役割を果たすようになる。

このようにしてマニュファクチュア時代に、後の大工業につながる最初の科学的および技術的な要素が発達したのだった。アークライトのスロッスル紡績機は、最初から水力で駆動されていた。しかし水力を主要な駆動力として利用する場合には、いくつかの困難な問題に直面する。水力は大きさを自由に増大させることができないし、供給不足を補うことができず、枯渇するときもあるし、何よりもきわめてローカルな性格をそなえていた。

ワットの発明した第2の蒸気機関、いわゆる複動蒸気機関によって、初めて石炭と水を消費して動力を供給する原動機が登場した。この原動機の動力は完全に人間が制御することができ、移動させることができるし、それ自身が移動の手段でもある。また水車のように田園ではなく都市で利用することができる。水車の場合には田園地方に生産場所が分散することになったが、この蒸気機関では都市に生産場所を集中させることができる。技術的な用途はきわめて広く、ローカルな条件のために立地が制約されることもない。

ワットの偉大な発明の才は、1784年4月に取得した特許の仕様書からも明らかである。そこには彼の蒸気機関が特定の目的のために発明されたものではなく、どの大工業でも駆動力として利用できることが明記されている。いくつかの用途が実例としてあげられているが、なかには蒸気ハンマーのように、実現するまで半世紀以上かかった用途も少なくない。ワットは蒸気を動力として利用できるかどうかは疑問としていた。しかし彼のあとを継いだボールトン・ワット商会は1851年のロンドン産業博覧会に、大洋を航海する蒸気船のための巨大な蒸気機関を出品している。

 

機械の成長

まず道具が人間という有機体の道具から一つの機械装置の、すなわち道具機の道具に転化されてから、次には原動機もまた一つの独立な、人力の限界からは完全に解放された形態を与えられた。同時に、これまで考察してきたような個々の道具機は、機械的生産の単なる一要素に成り下がる。いまや一つの原動機が多数の作業機を同時に動かすことができるようになった。同時に動かされる作業機の数が増すにつれて、この原動機も大きくなり、そして伝動機構は巨大な装置に広がるのである。

ところで、二つのものが区別されなければならない。多数の同種の機械の協業と機械体系とがそれである。

このように道具は、人間の身体が利用する道具から、機械装置に組み込まれた道具になるにつれて、原動機もまた人間の力のなかという制約から解放されました。それは機械の自立ということになり、形態にもそれがあらわれました。その制約から解かれたことにより、機械は巨大化することが可能となりました。

このように道具が、人間の身体が利用する道具から、機械装置に組み込まれた道具に、すなわち工作機械の道具になった後に、原動機もまた人間の力のもっていた制約から解放されて、自立した形態をとるようになった。それとともにこれまで考察してきたように、個々の工作機械は機械的な生産のたんなるひとつの要素に転落する。一つの原動機が多数の作業機械を同時に駆動できるようになる。また、同時に作動する作業機械の数が増大するとともに、原動機も大きくなり、伝達機関も巨大な装置に成長する。

ここで次の二つを区別する必要がある。多数の同種の機械の協業と機械システムは異なるものである。

 

同種の機械の協業

多数の同種の機械の協業の場合には、製品の全体が同じ作業機械で生産される。かつては、たとえば織物工が織機を使って作業する場合のように、1人の手工業が自分の道具を使ってさまざまな作業を遂行するか、複数の手工業者が独立して、あるいはマニュファクチュアに組み込まれて、各種の道具を使ってさまざまな作業を順番に遂行していたものである。しかし今では作業機械がさまざまな作業をすべて遂行するようになった。

たとえば封筒を生産する近代のマニュファクチュアでは、1人の労働者が折べらを使って紙を折り、次の労働者が糊をつけ、第三の労働者が模様を圧印するフタの部分を折り返し、第四の労働者が模様を圧印するというように作業が順に進められていた。そして封筒はこれらの部分労働のそれぞれにおいて、異なる人の手のもとに動いていく必要があった。

しかし封筒製造機は、1台でこれらのすべての作業を1度にこなし、1時間で3000枚以上の封筒を製造する。1862年のロンドン産業博覧会に出品されたアメリカ製の紙袋製造機は、紙を裁断し、糊を塗り、折り目で祈る作業をすべてこなして、1分間に300枚の紙袋を製造する。マニュファクチュアにおいては全体のプロセスが分割されて順に遂行されたが、機械経営ではさまざまな道具を組み合わせて作業する1台の作業機械が、そのすべてを遂行するのである。

このような作業機械には、複雑な手工業の道具がたんに機械化されただけのものもあるが、さまざまな特化された単純な道具がマニュファクチュアのように組み合わされたものもある。いずれにしても工場では、すなわち機械経営の作業場では、いつでも単純な協業が再現される。労働者のことは無視するならば、これはまずは同種の作業機械が同時に作動する空間的な集合体とみなすことができる。たとえば織物工場は、同じ作業場の建物の中に多数の力織機を並べ、裁断工場は多数のミシンを並べることで成立する。

しかしここに技術的な統一がある。多数の同種の作業機械は、一つの原動機を共通で利用しており、その原動機の心臓の鼓動からの刺激を、同時に、そして同様にうけとっているからである。この刺激を作業機械に伝達する伝達機構の一部も、すべての作業機械が共有しており、この伝達機構の末端部分が、それぞれの工作機械に分岐しているにすぎない。多数の作業機械がいまや同じ運動メカニズムのたんなる同種の〈器官〉として働いているのである。  

機械が人間の身体という制約から解放されて、独自な形態や規模になっていくことのひとつとして、一つの原動機が多数の作業機械を同時に駆動できるようになるということもありました。これは機械の大型化をまねくことになりますが、これによって生じる複数の機械がひとつの機械システムに結合するということがおこります。これは、多数の同種の機械の協業とは異なるものです。

そこで、まず同種の機械の協業を見ていきましょう。これは製品の全体が同じ作業機で生産されるということです。かつては、たとえば織物工が織機を使って作業する場合のように、1人の手工業が自分の道具を使ってさまざまな作業を遂行するか、複数の手工業者が独立して、あるいはマニュファクチュアに組み込まれて、各種の道具を使ってさまざまな作業を順番に遂行していたものが、作業機がさまざまな作業をすべて遂行するようになった、というものです。

あるいは、封筒を生産する近代のマニュファクチュアでは、1人の労働者が折べらを使って紙を折り、次の労働者が糊をつけ、第三の労働者が模様を圧印するフタの部分を折り返し、第四の労働者が模様を圧印するというように作業が順に進められていました。そして封筒はこれらの部分労働のそれぞれにおいて、異なる人の手のもとに動いていく必要がありました。それを封筒製造機は、1台でこれらのすべての作業を1度にこなし、1時間で3000枚以上の封筒を製造するようになったのです。このように、マニュファクチュアにおいては全体のプロセスが分割されて順に遂行されていたのが、機械経営ではさまざまな道具を組み合わせて作業する1台の作業機械が、そのすべてを遂行するのです。

このような作業機には、様々な特化された単純な道具がマニュファクチュアのように組み合わされたものと言えます。このような機械化された工場は、職人たちによる単純な協業が、機械によって再現されたものと言えます。つまり、同種の作業機が同時に同じ空間で作動する集合体と見なすことができます。たとえば織物工場は、同じ作業場の建物の中に多数の力織機を並べているし、裁断工場は多数のミシンを並べています。

一方で、この機械化された工場には技術的な統一があります。多数の同種の作業機は、ひとつの原動機を共通に利用しています。つまり、一つの原動機による駆動力を、同時に、おなじように作業機が共有している。これは伝道機も共有しています。多数の作業機が同じ運動メカニズムの末端の部分として働いているのです。

多数の同種の機械の協業の場合には、製品の全体が同じ作業機械で生産される。かつては、たとえば織物工が織機を使って作業する場合のように、1人の手工業が自分の道具を使ってさまざまな作業を遂行するか、複数の手工業者が独立して、あるいはマニュファクチュアに組み込まれて、各種の道具を使ってさまざまな作業を順番に遂行していたものである。しかし今では作業機械がさまざまな作業をすべて遂行するようになった。

たとえば封筒を生産する近代のマニュファクチュアでは、1人の労働者が折べらを使って紙を折り、次の労働者が糊をつけ、第三の労働者が模様を圧印するフタの部分を折り返し、第四の労働者が模様を圧印するというように作業が順に進められていた。そして封筒はこれらの部分労働のそれぞれにおいて、異なる人の手のもとに動いていく必要があった。

しかし封筒製造機は、1台でこれらのすべての作業を1度にこなし、1時間で3000枚以上の封筒を製造する。1862年のロンドン産業博覧会に出品されたアメリカ製の紙袋製造機は、紙を裁断し、糊を塗り、折り目で祈る作業をすべてこなして、1分間に300枚の紙袋を製造する。マニュファクチュアにおいては全体のプロセスが分割されて順に遂行されたが、機械経営ではさまざまな道具を組み合わせて作業する1台の作業機械が、そのすべてを遂行するのである。

このような作業機械には、複雑な手工業の道具がたんに機械化されただけのものもあるが、さまざまな特化された単純な道具がマニュファクチュアのように組み合わされたものもある。いずれにしても工場では、すなわち機械経営の作業場では、いつでも単純な協業が再現される。労働者のことは無視するならば、これはまずは同種の作業機械が同時に作動する空間的な集合体とみなすことができる。たとえば織物工場は、同じ作業場の建物の中に多数の力織機を並べ、裁断工場は多数のミシンを並べることで成立する。

しかしここに技術的な統一がある。多数の同種の作業機械は、一つの原動機を共通で利用しており、その原動機の心臓の鼓動からの刺激を、同時に、そして同様にうけとっているからである。この刺激を作業機械に伝達する伝達機構の一部も、すべての作業機械が共有しており、この伝達機構の末端部分が、それぞれの工作機械に分岐しているにすぎない。多数の作業機械がいまや同じ運動メカニズムのたんなる同種の〈器官〉として働いているのである。

 

機械システム

ところが、本来の機械体系がはじめて個々の独立した機械に代わって現われるのは、労働対象が互いに関連のあるいろいろな段階過程を通り、これらの段階過程がさまざまな、といっても互いに補い合う一連の道具機によって行われる場合である。ここでは、マニュファクチュアに固有な分業による協業が再現するのであるが、しかし今度は部分作業機の組み合わせとして再現するのである。いろいろな部分労働者、たとえば羊毛マニュファクチュアならば打毛工や梳毛工や剪毛工や紡毛工などの独自な道具が、今では、特殊化された作業機の道具に転化しており、それぞれの作業機は統合された道具機構の体系のかなで一つの特殊な機能のための特殊な器官になっている。機械体系がはじめて取り入れられる諸部門では、だいたいにおいてマニュファクチュアそのものが機械体系に、生産過程の分割の、したがってまたその組織の、自然発生的な基礎を提供するのである。とはいえ、すぐに本質的な区別が現われる。マニュファクチュアでは労働者は個々別々にか、または組に分かれて、それぞれの特殊な部分過程を自分たちの手工業道具で行わなければならない。労働者が過程に同化されるにしても、過程のほうもあらかじめ労働者に合うようにされているのである。このような主観的な分割原理は、機械による生産にとってはなくなってしまう。この場合には、総過程は客観的に、それ自体として考察され、それを構成する諸段階に分解されるのであって、それぞれの部分過程を行なうことやいろいろな部分過程を結合することの問題は力学や化学などの技術的応用によって解決されるのであるが、もちろんその場合にもやはり理論的な構想は、積み重ねられた実際上の経験によって補われなければならない。それぞれの部分機械は、すぐその次にくる部分機械にその原料を供給する。そして、それらはみな同時に働いているのだから、生産物は絶えずその形成過程のいろいろな段階の上にあると同時に、また絶えず一つの生産段階から別の生産段階に移ってゆくのである。マニュファクチュアでは部分労働者の直接的協業が特殊な労働者群のあいだの一定の比例数をつくりだすのであるが、同様に、編成された機械体系の場合には、いろいろな部分機械が絶えず互いに関連して働いているということが、それらの数、大きさ、速度のあいだの一定の割合をつくりだすのである。結合された作業機、すなわち今ではいろいろな種類の作業機から、またそれらの群から、編制された一つの体系は、その総過程が連続的であればあるほど、すなわち、原料が第一の段階から最後の段階まで移ってゆくあいだの中断が少なければ少ないほど、つまり人間の手に代わって機構そのものが原料を一つの生産段階から次の生産段階に進めてゆくようになればなるほど、ますます完全なものになる。マニュファクチュアでは各種の特殊過程の分立が分業そのものによって与えられた原理だとすれば、それとは反対に、発達した工場ではいろいろな特殊過程の連続が支配するのである。

同種の機械の協業に対して、機械システムの方を見ていきましょう。機械システムが、個々の独立した機械の代わりに登場するのは、労働対象が相互に関連したさまざまな段階的な過程を通り抜け、しかも種類の異なる工作機の系列それぞれの過程をたがいに捕捉しながら遂行するようになってからです。マニュファクチュアに特有な協業はここでもみられます、ここではもはや部分作業機による協業となっています。

つまり、マニュファクチュアでのさまざまな部分労働者、たとえば羊毛マニュファクチュアでは打毛工、梳毛工、剪毛工、紡毛工などが使う特殊な工具は、ここでは特殊化された作業機械の道具に変わっています。これらの作業機は、統合されたメカニズムのシステムにおいて、特殊な機能をはたす特別な器官となります。

この変化を細かく追い掛けると、次のようになります。機械化されていないマニュファクチュアでは、労働者は、それぞれの部分労働を自分の手工業的な道具を使って作業していました。この全体のプロセスは、そういう労働者が作業することにあわせて構築されたものです。これに対して機械化されたシステムでの生産は、マニュファクチュアでのような労働者の作業に合わせた部分労働への分割のプロセスは姿を消して、機械生産に合わせて、それ自体として考え直されて、全体を構成する諸段階に分解されることになります。それぞれの部分的なプロセスを遂行し、さまざまな部分的なプロセスを結びつける課題は、力学や化学などの技術的な応用によって解決されることになります。

そのプロセスで分割された作業を担う、それぞれの部分の作業機は、次の段階の作業に原料を供給し、これらは同時に動いています。そのため、製品は、その製造プロセスの様々な段階で、同時に製造されていて、たえず一つの段階から次の段階へと移行しているのです。

また、マニュファクチュアでは、部分労働者の直接的な協業で、個々の部分労働に従事する人員の一定の比率が定められていました。それと同じように、編成された機械システムにおいては、部分機械の相互のたえざる協業によって、個々の部分機械の数、大きさ、速度について、一定の比率が定められます。このようにして部分機械が結合した全体としての作業機械は、さまざまな作業機で構成される組織化されたシステムを構成するようになり、全体のプロセスが連続的に行われれば行われるほど、このシステムは完全なものとなっていくのです。すなわち、中断することなしに原料が最初の段階から最後の段階まで移行し、一つの生産段階から次の生産段階へと、人間の手を借りることなくメカニズムそのものが作業を進めていくようになればなるほど、完全なものとなるのです。マニュファクチュアでは個々の特殊プロセスが孤立したものとなるのは、分業そのものから生まれた原理でした。これに対して機械化された工場では、個々の特殊なプロセスの連続性こそが支配的な原理なのです。

これはたいしてほんらいの機械システムが、個々の独立した機械の代わりに登場するのは、労働対象が相互に関連したさまざまな段階的な過程を通り抜け、しかも種類の異なる工作機械の系列それぞれの過程をたがいに捕捉しながら遂行するようになってからのことである。マニュファクチュアに特有な協業はここでもみられるが、いまや部分作業機械による協業として再登場するのである。

さまざまな部分労働者、たとえば羊毛マニュファクチュアでは打毛工、梳毛工、剪毛工、紡毛工などが使う特殊な工具は、ここでは特殊化された作業機械の道具に変わっている。これらの作業機械は、統合された道具メカニズムのシステムのうちで、特殊な機能をはたす特別な〈器官〉となる。機械システムが導入されたばかりの部門では、一般にマニュファクチュアそのものが、生産過程の分割やそのための組織の自然発生的な土台を、機械システムに提供する。しかし本質的な違いがすぐに明らかになる。

マニュファクチュアでは労働者は、個人あるいは集団で、それぞれの特殊な部分的なプロセスを自分の手工業的な道具を使って遂行する必要がある。労働者はそのプロセスに合わせて働く必要があるが、そもそもそのプロセスそのものが労働者に合わせて作られたものなのである。機械システムでの生産では、このような労働の主観的な分割の原理は姿を消す。機械生産においては全体のプロセスは客観的なものとなり、それ自体として考察され、全体を構成する諸段階に分解される。それぞれの部分的なプロセスを遂行し、さまざまな部分的なプロセスを結びつける課題は、力学や化学などの技術的な応用によって解決されるのである。その際に理論的な構想を、広範に蓄積された実際の経験によって補う必要があるのはもちろんである。

あらゆる部分機械は次の段階の部分機械に原料を供給し、それらの部分機械はすべて同時に作動する。そのため製品はその製造プロセスのさまざまな段階にあり、一つの生産段階から次の生産段階へと絶えず移行していくのである。

マニュファクチュアにおいては、部分労働者の直接的な協業によって、個々の労働者集団を構成する人員の一定の比率が定められていた。それと同じように、編成された機械システムにおいては、部分機械の相互のたえざる協業によって、個々の部分機械の数、大きさ、速度について、一定の比率が定められる。このようにして結合された作業機械は、個々のさまざまな作業機械とその集団で構成される組織化されたシステムを構成するようになり、全体のプロセスが連続的に行われれば行われるほど、このシステムは完全なものとなる。すなわち、できるだけ中断することなしに原料が最初の段階から最後の段階まで移行し、一つの生産段階から次の生産段階へと、人間の手を借りることなくメカニズムそのものが作業を進めていくようになればなるほど、完全なものとなるのである。マニュファクチュアでは個々の特殊プロセスが孤立したものとなるのは、分業そのものから生まれた原理であった。これにたいして発達した工場では、個々の特殊なプロセスの連続性こそが支配的な原理なのである。

 

巨大な自動装置

機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単かる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが1つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる。とはいえ、体系全体はたとえば蒸気機関によって運転されても、個々の道具機は、自動ミュール機械採用以前にミュール紡績機の始動のために必要だった運動のように、また今日でも細糸の紡績では必要な運動のように、ある種の運動のためにはなお労働者を必要とするとか、または、スライド・レスト(回転装置)が自動装置になる前の機械製造におけるように、機械の一定の部分を労働者が、その作業を行うためには道具のように労働者によって操作されなければならない、ということもありうる。作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を加える余地のあるものではあるが。たとえば、たった1本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である。生産の連続という点でも自動原理の一貫という点でも、一つの実例とみなしてよいものに、近代的な製紙工場がある。一般に紙の生産で業は、いろいろな生産手段に基礎とするいろいろな生産様式の区別を、またこれらの生産様式と社会的生産関係との関連を、17世紀のオランダや18世紀のフランスは本来のマニュファクチュアの典型を、近代のイギリスには自動的製造の典型をわれわれに提供しており、さらにまたシナとインドには今なおこの産業の二つの違った古代アジア的形態が存在するからである。

ただ伝動機の媒介によって一つの中央自動装置からそれぞれの運動を受け取るだけの諸作業機の編制された体系として、機械経営はその最も発展した姿をもつことになる。個々の機械に代わってここでは一つの機械的な怪物が現われ、そのからだは工場の建物いっぱいになり、その悪魔的な力は、はじめは巨大な手足の荘重ともいえるほど落ち着いた動きで隠されているが、やがてその無数の固有の労働器官の熱狂的な旋回舞踏となって爆発するのである。

機械システムは、みずから作動する1台の原動機によってシステムが駆動されるようになると、それ自体が巨大な自動装置に変身することになります。

全体のシステムを、たとえば蒸気機関で駆動することもできるのですが、それでも個々の工作機の特定の運動には、まだ労働者が必要な場合があるし、あるいは機械の一部を労働者が手仕事で使う工具のように操作する必要がありました。作業機が原料の加工のために必要なすべての作業を、まったく人手を借りずに遂行できるようになり、人間はたんなる補助的な形でしか必要でなくなると、機械の自動化システムが完成したと言えます。

この自動化されたシステムが、中心となる唯一の自動装置から、伝道機を通じて動力を受け取ってそれぞれの作業機がシステムとして動くようになると、機械化された工場の経営は、もっとも発達した形態をとるようになる。とマルクスは言います。個々の機械は全体としてのひとつの巨大な機械の器官のようになるのです。

機械類のシステムでは、織物産業のように同種の作業機械をたんに協業させる場合もあれば、紡績産業のように異種の作業機械を組み合わせて利用する場合もある。どちらの場合もある。どちらの場合にも、みずから作動する1台の原動機によってシステムが駆動されるようになると、それ自体が巨大な自動装置に変身する。

全体のシステムを、たとえば蒸気機関で駆動することもできるが、それでも個々の工作機械の特定の運動には、まだ労働者が必要な場合があるし(たとえば自動ミュール機械が導入されるまでは、ミュール紡績機を始動させるのに人手が必要であり、現在でも細糸の紡績では人手が必要である)、あるいは機械の一部を労働者が手仕事で使う工具のように操作する必要があった(旋盤の工具送り台が自動化されるまでは、機械製造の分野でも人手が必要だったのである)。

作業機械が原料の加工のために必要なすべての作業を、まったく人手を借りずに遂行できるようになり、人間はたんなる補助的な形でしか必要でなくなると、機械の自動化システムが完成したと言える(もっともつねに細部の改善は必要であろうが)。たとえば糸が1本でも切れると紡績機を自動で停止させる装置や、杼のリールに巻かれている横糸がなくなると、改良型の蒸気織機を自動で停止させる装置などは、きわめて近代的な発明である。

生産の連続性の原理あるいは自動化の原理が実現されている一例として、近代的な製紙工場をあげることができる。一般に製紙産業は、利用されているさまざまな生産手段に基づいて、さまざまな生産様式の違いを調べたり、こうした生産様式と社会的な生産関連の関係を詳細に調べたりするのに最適な産業である。かつてのドイツの製紙業は、手工業的な生産の典型であり、17世紀のオランダと18世紀のフランスには、ほんらいのマニュファクチュア的な製紙産業の典型をみいだすことができ、近代のイギリスには自動化した製紙産業の典型がみられるからである。さらに中国とインドには、二つの異なる古代アジア的な製紙業の形態が残されている。

作業機械の構造化されたシステムが、中央にある唯一の自動装置から、伝達機械を通じて動力をうけとるようになると、機械経営はもっとも発達した姿を示すようになる。個々の機械は姿を消して一つの機械の怪物が登場し、その肢体が工場の建物全体を満たすようになる。その悪魔的な力は、初めは巨大な四肢の壮重で悠然とした動きのうちに潜んでいるが、それが炸裂するとき、無数の固有の労働器官があたかも熱に浮かされたかのように激しく踊り狂うのである。

 

マニュファクチュアと大工業の関係

ミュール紡績機や蒸気機関などは、それらの製造を専業とする労働者がまだいないうちからあったのであって、ちょうど、世のなかに仕立屋がいないうちから人間は衣服を着ていたようなものである。とはいえ、ヴォーカンソンやアークライトやワットなどの発明が実用化されることができたのは、ただ、これらの発明家たちの目の前に、マニュファクチュア時代から既成のものとして供給されたかなりの数の熟練した機械労働があったからにほかならない。これらの労働者の一部分は、いろいろな職業の独立手工業者から成っており、別の一部分はマニュファクチュアのなかに集められていて、このようなマニュファクチュアでは、前にも述べたように、分業が特に厳しく行われていた。発明が増し、新しく発明された機械に対する需要が増してくるにつれて、一方ではさまざまな独立部門への機械製造の分化が、他方では機械製造マニュファクチュアのなかでの分業が、ますます発展してきた。だから、この場合にはわれわれはマニュファクチュアのなかに大工業の直接的な技術的基礎を見るのである。かのマニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部面で、手工業的経営やニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして、機械経営は自分にふさわしくない物質的基盤の上に自然発生的に立ち現われたのである。機械経営は、ある程度まで発展してくれば、この最初は既存のものとして与えられ次いで古い形のままでさらに仕上げを加えられた基礎そのものをひっくり返して、それ自身の生産様式にふさわしい新たな土台をつくりださねばならなかった。個々の機械が、人力だけで動かされているかぎり、いつまでも矮小であるように、また機械体系が、既存の動力に─動物や風やそして水にさえ─蒸気機関がとって代わるまでは、自由に発展することができなかったように、大工業も、それに特徴づける生産手段としての機械そのものが個人の力や熟練のおかげで存在していたあいだは、つまり、マニュファクチュアのなかの部分労働者やその外の手工業者が彼らの矮小な道具を取り扱うために必要とした筋肉の発達や目の鋭さや手の巧妙さにたよっていたあいだは、十分な発展をとげる力を麻痺させられていた。こうして、このような発生の仕方からくる機械の高価─意識的動機として資本を支配する一事情─は別としても、すでに機械によって経営されていた産業の拡大も、新たな生産部門への機械の侵入も、まったくただ、ある種の労働者部類の増大によって、すなわちその仕事の半ば芸術的な性質のためにだんだんふやすことができるだけで飛躍的にふやすことができなかった部類の増大によって、制約されていた。しかし、ある発展段階では、大工業はその手工業的な土台やマニュファクチュア的な土台とは、技術的にも衝突せざるをえなくなった。道具機がその構造をはじめに支配していた手工業的な原型から離れて一つの自由なただ機械としてのその任務だけによって定められた姿を与えられるにつれて、原動機や伝動機構や道具機の規模が増大し、それらの諸構成部分がいっそう複雑多様になり、いっそう厳密な規則性をもつようになるということ、自動体系が完成されて、使いこなしにくい材料、たとえば木材に代わる鉄の使用がますます不可避になるということ、─すべてこれらの自然発生的に生じてくる課題の解決は、どこでも人的な制限にぶつかったが、この制限は、マニュファクチュアで結合された労働者群によっても、ある程度打破されるだけで、根本的には打破されないものである。たとえば近代的印刷機や近代的蒸気織機や近代的梳毛機のような機械は、マニュファクチュアによって供給されることはできなかったのである。

ある一つの産業部面での生産様式の変革は他の産業部面でのその変革を引き起こす。このことがまず第一にあてはまるのは、社会的分業によって分立していてそれぞれが一つの独立の商品を生産してはいるがそれにもかかわらず一つ総過程の諸段階として組み合わされているような諸産業部門である。たとえば、機械紡績は機械織布を必要にし、これらは両方とも漂白や捺染や染色業での機械的・化学的革命を必要にした。また他方では、綿紡績での革命は綿実から綿繊維を分離するための綿織機の発明を呼び起こし、これによって、当時要求されていた大きな規模での木綿生産がはじめて可能になったのである。ことにまた、工業や農業の生産様式に起きた革命は、社会的生産過程の一般的な条件すなわち交通・運輸機関の革命をも必要にした。家内的副業をともなう小農業や都市の手工業を、フーリエの言葉を借りて言えば、その主軸としていた社会の交通・運輸機関は、拡大された社会的分業や労働手段と労働者との集積や植民地市場をもつマニュファクチュア時代の生産上の要求に応ずることはもはやまったくできなかったし、したがってまた実際に変革それもしたのであるが、同時に、マニュファクチュア時代から伝えられた運輸・交通機関もまた、生産の激烈な速度や巨大な規模や大量の資本と労働者との一生産部面から他の生産部面への不断の投げ出しや新たにつくりだされた世界市場的関連をともなう大工業にとっては、やがて、堪えられない束縛となったのである。それゆえ、完全に変革されてしまった帆船建造は別としても、交通・運輸事業は、河川汽船や鉄道や海洋汽船や電信の体系によって、しだいに大工業に適合するようにされたのである。しかしまた、いまやそのために鍛えられ、溶接され、切断され、穿孔され、成型されなければならなかった恐ろしく巨大な鉄量もまた巨大な機械を必要とし、このような機械をつくりだすためのマニュファクチュア的な機械製作ではむまにあわなくなったのである。

ミュール紡績機や蒸気機関などは、それらの製造を専門にする労働者が登場する前から存在していました。そして、その後に発明されたヴォーカンスン、アークライト、ワットなどの機械はミュール紡績機や蒸気機関などを製造ことで熟練した機械労働者にたよることで実用化することができました。これらの労働者は、もともとは自立した職人であったり、マニュファクチュアで働く人々でした。

機械化が進み、新しい機械が発明され、その新しい機械の需要が大きくなってくると、機械の製造は分業が進み、それぞれの分業が専門化していきました。この機械製造マニュファクチュアでは、大工業に移っていく技術的な基盤ができていました。マニュファクチュアが機械を製造し、大工業はこれらの機械を使用することで、最初に進出した部門で手工業経営とマニュファクチュア経営を消滅させていきました。

つまり、機械経営というものは、もともと手工業とかマニュファクチュアというようなみずからにふさわしくない物質的な土台の上に自然発生的に生まれてきたものです。機械経営はこのような既存の基盤の上で、古い形態を改良しながら成長してきました、一定の発展段階に到達すると、この基盤をみずから破壊して、その生産様式にふさわしい土台を新たに作り直す必要に迫られたのでした。

また、個々の機械についても、人間の力によって動かされているうちは小規模なままでした。それが機械システムが、その人間の身体という枠を超えて発停できるようになったのは、駆動力として蒸気機関が発明されてからのことです。他方で、大工業においてもそれに特徴的な生産手段である機械そのものが個人の熟練の力に頼っている間は、すなわち筋肉の発達やまなざしの鋭さや手仕事の巧みさに依存しているあいだは、十分に発展することができなかったのです。

この段階では、未だ機械はコストが高く、資本の側は、このことを意識していてコスト高を克服しなければならないと意識していました。このことを別すると、すでに機械化されていた産業が大きく成長していくと、機械類が新たな分野に進出することに対して障害となっていたのは、機械を扱う労働者の数が、それほど増加しないということでした。機械を扱う仕事は職人が作っていたという手仕事に頼っているうちは、生産を飛躍的に増大せることはできず、漸増するだけだったので、生産規模を大きくできなかったのです。しかし、それがある段階を過ぎると大工業は、技術的にも、生産規模からも、その手工業あるいはマニュファクチュア的な土台では対処しきれなくなりました。原動機の範囲も、工作機の範囲も広くなり、それぞれの機械の部品は複雑で多様になり、厳密に規則的に製造されることが求められるようになりました。そして、そういう機械を製造する工作機械は、そのもともとの製造プロセスは手工業のモデルに依拠していたのが、やがてはこのモデルから解放されて、その機械のほんらいの課題にふさわしい自由な姿をとるようになっていきました。このようにして自動システムが形成され、加工の難しい素材を使うことが避けられなくなり(たとえば木の代わりに鉄が利用されるようになる)ました。これらの自然発生的な課題を解決しようとすると、いたるところで人間という条件による制約に直面することになりました。それまでのマニュファクチュアで結合されていた労働者集団では、この問題はある程度は解消できても、根本的に解決することはできませんでした。とくに、近代的な蒸気織機、近代的な梳毛機などの機械は、マニュファクチュアでは供給できなくなっていたのです。

あるひとつの産業分野で生産様式の変革が起こると、それに続いて別の産業分野で変革が起こる。このような連鎖的な変革が起こりやすい産業分野は、社会的な分業によって、互いに分離されて、それぞれが独立した商品を生産している。その一方で、全体的なプロセスの段階として関係がある分野です。たとえば機械紡績が発達すると、織物分野でも機械化が必要になり、この二つの分野が機械化されたために、布地の漂白業、捺染業、染色業でも機械的・化学的な革命が必要になる。他方では木綿の紡績業で革命が起きると、綿の果実から綿の繊維を分離する綿織り機が発明されるようになり、これによってその頃から必要とされていたような大規模な木綿の生産が可能となったといったことです。

さらに工業部門や農業部門の生産様式の変革は、これらをひろく包み込む社会的な生産過程の一般的な条件、つまり社会インフラである通信手段や輸送手段の変革を必要とするようになりました。これらの社会インフラはその社会の軸なのです。手工業やマニュファクチュアの時代の通信手段や輸送手段は、大工業にとっては束縛と感じられたのです。大工業の生産速度はマニュファクチュアの時とは比較にならないほど速くなり、生産手段は途方もなく巨大になりました。そのために資本と労働者をある生産分野へとたえず大量に移動させたり、新たに創出された世界市場大量に商品を供給できる輸送手段や通信手段が求められたのです。具体的に言うと、予想手段としての船において、帆船の製造が根本的に変革されただけではなく、河川用の汽船、鉄道、海洋汽船、電信などのシステムによって、通信と輸送手段は次第に大工業の生産様式にふさわしいものに変わっていったのです。そして恐ろしいほど多量の鉄を鍛造し、溶接し、切断し、穴繰りし、成形することが必要になり、そのために巨大な機械が求められました。こうした巨大な機械は、マニュファクチュア的な機械製造の生産できなかったのです。

ミュール紡績機や蒸気機関などは、それらの製造を専門にする労働者が登場する前から存在していた。仕立屋がいない頃から人間が服を着ていたのと同じである。しかしヴォーカンスン、アークライト、ワットなどの発明が実用化できたのは、マニュファクチュア時代に育成された、多数の熟練した機械労働者に頼ることができたからである。これらの労働者は、さまざまな職業の自立した職人であるか、マニュファクチュアで働く人々であった。すでに述べたようにマニュファクチュアでは分業がとくに厳格に行われていたのである。

発明が増え、発明された機械の需要が増大すると、一方では機械の製造がさまざまな独立した部門にますます特化するようになり、また他方では機械製造マニュファクチュアの内部での分業がますます進んだ。この分野ではすでにマニュファクチュアのうちに、大工業に直接につながる技術的な基盤が成立していたのである。マニュファクチュアが機械を製造し、大工業はこれらの機械を使用することで、最初に進出した部門で手工業経営とマニュファクチュア経営を消滅させたのである。

すなわち機械経営は、もともとはみずからにふさわしくない物質的な土台の上に自然発生的に生まれてきたのである。機械経営はこの既存の基盤の上で、古い形態を改良しながら成長してきたが、一定の発展段階に到達すると、この基盤をみずから破壊して、その生産様式にふさわしい土台を新たに作り直す必要があったのである。

個々の機械も、人間の力だけで作動しているうちには、ちっぽけなものである。機械システムが自由に発展できるようになったのは、動物、風、水のような駆動力の代わりに、蒸気機関が登場してからのことである。それと同じように大工業も、それに特徴的な生産手段である機械そのものが個人の力を熟練に頼っている間は、すなわち筋肉の発達やまなざしの鋭さや手仕事の巧みさに依存しているあいだは(これらは職人やマニュファクチュアの部分労働者が小さな道具を扱うために必要としたものだった)、十分に発展することができなかったのである。

このような状況では機械はコストが高く、資本はこれを意識して克服しなければならなかったが、それを別とすると、すでに機械化されていた産業が拡大して、機械類が新たな生産分野に進出するのを妨げる制約となっていたのは、機械を扱う労働者の人数がそれほど増加しなかったことにある。機械を扱う仕事はなかば芸術的な性格をそなえていたために、飛躍的に増大することはできず、漸増するだけだったのである。

しかしある段階に到達すると大工業は技術的にも、その手工業的な土台やマニュファクチュア的な土台と衝突せざるをえなくなった。原動機の範囲も、工作機械の範囲も広くなり、機械の部品は複雑で多様になり、厳密に規則的に製造されるようになる。そして工作機械は、そのもともとの製造においては手工業のモデルに依拠していたが、やがてはこのモデルから解放されて、その機械のほんらいの課題にふさわしい自由な姿をとるようになる。こうして自動システムが形成され、加工の難しい素材を使うことが避けられなくなり(たとえば木の代わりに鉄が利用されるようになる)、これらの自然発生的な課題を解決しようとすると、いたるところで人間という条件による制約に直面することになった。マニュファクチュアで結合されていた労働者集団では、この問題はある程度は解消できても、根本的に解決することはできなかった。近代的な蒸気織機、近代的な梳毛機などの機械は、マニュファクチュアでは供給できなかったのである。

ある産業分野で生産様式の変革が起こると、別の産業分野で変革が引き起こされる。こうした連鎖的な変革が起こりやすい産業分野は、社会的な分業によってたがいに分離されて、それぞれが独立した商品を生産しているが、それでも一つの全体的なプロセスの段階としてたがいに独立した商品を生産しているが、それでも一つの全体的なプロセスの段階としてたがいに結びついているような分野である。たとえば機械紡績が発達すると、織物分野でも機械化が必要になり、この二つの分野が機械化されたために、布地の漂白業、捺染業、染色業でも機械的・化学的な革命が必要になる。他方では木綿の紡績業で革命が起きると、綿の果実から綿の繊維を分離する綿織り機が発明されるようになり、これによってその頃から必要とされていたような大規模な木綿の生産が可能となったのである。

さらに工業と農業の生産様式の革命によって、社会的な生産過程の一般的な条件である通信手段と輸送手段における革命が必要となった。ある社会の通信手段と輸送手段は、フーリエの言葉を借りれば、その社会の要の軸なのである。小規模な農業と副業的な家内工業、ならびに手工業の時代の通信手段と輸送手段では、社会的な分業が拡大し、労働手段と労働者が集中し、植民地市場をもつマニュファクチュア時代の生産の要求をまったく満たすことができなくなり、大きな変革が発生した。それと同じようにマニュファクチュア時代からうけついだ輸送手段と通信手段は、大工業にとってはすぐに耐えがたい束縛となったのだった。大工業の生産速度は熱に浮かされたように速く、生産手段は途方もなく巨大になる。そのため資本と労働者をある生産分野へとたえず大量に移動させ、新たに創出された世界市場に対処できる輸送手段と通信手段が求められたのである。

こうして帆船の製造が根本的に変革されただけではなく、河川用の汽船、鉄道、海洋汽船、電信などのシステムによって、通信と輸送手段は次第に大工業の生産様式にふさわしいものに変わっていった。そして恐ろしいほど多量の鉄を鍛造し、溶接し、切断し、穴繰りし、成形することが必要になり、そのために巨大な機械が求められる。こうした巨大な機械は、マニュファクチュア的な機械製造の生産できなかったのである。

 

大工業の自立 

こうして、大工業はその特徴的な生産手段である機械そのものをわがものとして機械によって機械を生産しなければならなくなった。このようにして、はじめて大工業は、それにふさわしい技術的基盤をつくりだして自分の足で立つようになったのである。19世紀の最初の数十年間に機械経営が拡大されるにつれて、実際に機械はしだいに道具機の製造を支配するようになった。とはいえ、最近の数十年間にはじめて、大規模な鉄道建設と汽船による航海とが、原動機の製造に使用される巨大な機械を出現させたのである。

機械による機械の製造のため最も重要な生産条件は、どんな出力でも可能でしかも同時に完全制御できるような原動機だった。それはすでに蒸気機械として存在していた。しかし、同時に、個々の機械部分のために必要な厳密に幾何学的な形状、すなわち線、平面、円、円筒、円錐、球などを機械で生産することも必要だった。この問題は、19世紀の最初の10年間にヘンリー・モーズレによるスライド・レスト(往復滑台)の発明によって解決したが、これはやがて自動化され、また変形されて、最初は旋盤用だったものが、他の工作用の機械にも転用された。この機械的な装置、なんらかの特殊な道具にとって代わるのではなく、たとえば鉄のような労働材料に切削道具の刃をあてたり、合わせたり、立てたりすることによって一定の形状をつくりだす人間の手そのものにとって代わるのである。このようにして、個々の機械部分の幾何学的な形状を、

「どんなにも熟練した労働者の手がどんなに積み重ねた経験でも与えることができないほどの容易さと精確さと速さとで生産すること」

に成功したのである。

次に、機械製作のために用いられる機械のうちで本来の道具機にあたる部分を考察するならば、そこには手工業的な用具が再現するのであるが、しかし、それは巨大な規模で再現するのである。たとえば、中ぐり盤の工作部分は巨大な錐であって、この錐は蒸気機関で動かされるのであるが、また逆に、それがなければ大きな蒸気機関や水圧機のシリンダーを生産することはできないだろう。機械旋盤は普通の足踏旋盤を巨大な再生であり、平削盤は大工が木材の加工に使うのと同じ道具で鉄に加工する鉄製の大工である。ロンドンの造船所で合板を切る道具は、巨大なかみそりであり、裁縫鋏が布を切るよう鉄を切る切断機は鋏のおばけであり、また、蒸気ハンマーは普通のハンマーの頭で作業するのであるが、この頭は雷神でも振れないような重さのものである。たとえば、ネーズミスの発明の一つであるような蒸気ハンマーは、6トン以上の重さがあって、7フィートの垂直落下で36トンの重さの鉄砧の上に落ちる。それは、花崗岩塊をやすやすと粉砕するのであるが、また同じように、つづけて軽く打つことによって柔らかい木材に釘を打ち込むこともできるのである。

機械としての労働手段は、人力のかわりに自然力を利用し経験的熟練のかわりに自然科学の意識的応用に頼ることを必然的にするような物質的存在様式を受け取る。マニュファクチュアでは社会的労働過程の編制は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つのまったく客観的な生産有機体をもつのであって、これを労働者は既存の物質的生産条件として自分の前に見いだすのである。単純な協業では、また分業によって特殊化された協業の場合にさえも、個別的な労働者が社会化された労働者によって駆逐されるということは、まだ多かれ少なかれ偶然的なこととして現われる。機械は、のちに述べるいくつかの例外を除いては、直接に社会化された労働すなわち共同的な労働によってのみ機能する。だから、労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。

このようにして大工業は、自身に特徴的な生産手段である機械を機械によって生産せざるをえなくなりました。そのことで大工業は自身に適した技術的な基盤を作りだし、それによって自立することができました。

機械が機械を製造できるようになるため必要な生産条件は、どのような出力で完全に制御することができる原動機を生産することです。それが蒸気機関です。しかし、この蒸気機関が原動機として稼働することができるためには、蒸気機関の個々の部品に必要とされる精密な幾何学的な形状、すなわち直線、平面、円、円筒、円錐、球などの形状を機械で製造できる必要がありました。この課題は19世紀の最初の10年間に、ヘンリー・モーズレイによる旋盤の工具送り台の発明によって解決されました。これはやがて自動化され、改造されて、旋盤用に製造されていたこの工具送り台が他の工作用の機械にも使われるようになったのでした。これらの工作用の機械はある特定の道具に代わって登場してきたものではなく、機械的な〈手〉の役割をはたし、鉄のような労働材料に切削道具の刃をあて、おしつけ、動かすことで、特定の形状を作りだすことができます。このようにして機械の個々の部品のさまざまな幾何学的な形状を、もっとも熟練した労働者の手がどれほど経験を蓄積しても実現できなかったほどの容易さをもって、精密に、迅速に生産することができるようになったのです。

ここで、例えば機械の製造に使われる機械の工作機の部分について考えてみたいと思います。この部分では手工業で用いる道具が使われることがあります。しかし、規模はずっと大きくなっています。たとえばボーリング機で工作を行う部分は巨大なドリルであり、蒸気機関によって運転されますが、この機械がなければ大型の蒸気機関や油圧ブレスのシリンダーを製造できません。

このように労働手段が道具から機械になることで一つの物質的な存在様式を獲得する、とマルクスは言います。これは、機械化されることで人間の力の代わりに自然の力を利用し、経験によって獲得される熟練の代わりに自然科学を基盤とした技術を意識的に利用するようになるということです。マニュファクチュアでは、労働過程の構造は労働者が作業するということを基準にして、作業の分割や分業のプロセスが編成されます。これに対して大工業の機械システムでは、それ自体がひとつの有機体のような存在となって、客観的な科学や技術に基づいて作業が編成されます。そこで働く労働者は、その編成に合わせなければならなくなります。

このように大工業は、その特徴的な生産手段である機械そのものを制覇し、機械によって機械を生産せざるをえなくなった。それによって大工業は初めてみずからにふさわしい技術的な基盤を作りだし、みずからの足で立つようになった。19世紀の最初の数十年に機械経営が成長すると、機械は実際に工作機械の製造を次第に手中のものにするようになった。しかし巨大な規模の鉄道建設と海洋汽船の運航をきっかけとして、原動機の製造に使われる巨大な機械が登場するようになったのは、この数十年来のことである。

機械が機械を製造できるようになるために必要な本質的な生産条件は、どのような出力でも、完全に制御して出すことのできる原動機が開発されることである。これ自体は蒸気機械としてすでに存在していた。しかし機械の個々の部品に必要とされる精密な幾何学的な形状、すなわち直線、平面、円、円筒、円錐、球などの形状を機械で製造できる必要があった。この課題は19世紀の最初の10年間に、ヘンリー・モーズレイによる旋盤の工具送り台の発明によって解決されたが、これはやがて自動化され、改造されて、旋盤用に製造されていたこの工具送り台が他の工作用の機械にも使われるようになった。これらの工作用の機械はある特定の道具に代わって登場してきたものではなく、機械的な〈手〉の役割をはたし、鉄のような労働材料に切削道具の刃をあて、おしつけ、動かすことで、特定の形状を作りだす。このようにして機械の個々の部品のさまざまな幾何学的な形状を、「もっとも熟練した労働者の手がどれほど経験を蓄積しても実現できなかったほどの容易さをもって、精密に、迅速に生産する」ことができるようになったのである。

ここで機械の製造に使われる機械のうちで、ほんらいの工作機械に相当するものについて考察しよう。この部分では手工業的な道具がふたたび現れるようにみえるが、その規模は巨大である。たとえばボーリング機で工作を行う部分は巨大なドリルであり、蒸気機関によって運転されるが、この機械がなければ大型の蒸気機関や油圧ブレスのシリンダーを製造できないだろう。機械式の旋盤は、通常の足踏み式の旋盤を巨大な規模で再現したものであり、平削り盤は大工が木材を削る工具のカンナで鉄を削るもので、いわば巨大な鉄の大工である。

ロンドンの造船所で化粧板を削るのは巨大な剃刀であり、裁縫で布を切るために使う鋏で鉄を切断するカッターは鋏の怪物である。また蒸気ハンマーはふつうのハンマー・ヘッドと同じように使われるが、そのヘッドの重量は巨大で、雷神でも振り回せないほどである。たとえばナスミスが発明した蒸気ハンマーは、重量が6トン以上もあり、36トンの鉄床の上に、7フィートの高さから落下する。花崗岩の塊をたやすく砕くことができるが、連続して軽く打つ動作も可能であり、柔らかい木材に釘を打つこともできる。

労働手段は機械類になることで、一つの物質的な存在様式を獲得する。これは人間の力の代わりに自然の力を利用し、経験によって獲得される熟練の代わりに自然科学を意識的に利用する。マニュファクチュアにおいては社会的な労働過程の構造は純粋に主観的に編成されるのであり、どこまでも部分労働が組み合わせられたものである。これにたいして機械システムでは大工業が完全に客観的な生産の有機体を所有しており、これは労働者にとっては、既存の物質的な生産条件としてすでに存在しているものである。単純な協業では、さらに分業によって専門化された協業においても、個別の労働者が社会化された労働者によって駆逐されるかどうかは、あくまでも偶然の出来事である。しかし後に述べるいくつかの例外を別として、機械類は直接的に社会化された労働のうちで、すなわち共同労働のうちでしか機能しない。このようにして労働手段の性格そのものからして、労働過程が協業によって行われることが技術的に必然的なものとなる。

 

 

第2節 機械類から生産物への価値移転

機械の価値

すでに見たように、協業や分業から生ずる生産力を、資本にとって一文の費用もかからない。それは社会的労働の自然力である。蒸気や水などのように、生産的な過程に取り入れられる自然力にも、やはりなんの費用もかからない。しかし、人間が呼吸するためには肺が必要であるように、自然力を生産的に消費するためには「人間の手の形成物」が必要である。水の動力を利用するためには水車が、蒸気の弾性を利用するためには蒸気機関が、必要である。科学も、自然力と同じことである。電流の作用範囲内では磁針が偏向することや、周囲に電流が通じていれば鉄に磁気が発生することに関する法則も、ひとたび発見されてしまえば、一文の費用もかからない。しかし、これらの法則を電信などに利用するためには、非常に高価で大仕掛けな装置が必要である。すでに見たように、機械によって道具は駆逐されるのではない。道具は、人体の矮小な道具から、規模においても数においても、人間のつくった一つの機械の道具に成長するのである。手作業道具をもってではなく、自分の道具を自分で扱う機械をもって、いまや資本は労働者に作業させるのである。それだから、大工業は巨大な自然力や自然科学を生産過程に取り入れることによって労働の生産性を非常に高くするにちがいないということは一見して明らかであっても、この高められた生産力が別の面での労働支出の増加によってあがなわれるのではないということは、けっしてそれほど明らかではないのである。不変資本の他のどの成分とも同じように、機械は価値を創造しはしないが、しかし、機械を用いて生産される生産物に機械自身の価値を引き渡す。機械が価値をもっており、したがって価値を生産物に移すかぎりで、機械は生産物の一つの価値成分をなしている。機械は、生産物を安くするのではなく、自分自身の価値に比例して生産物を高くするのである。そして、だれの目にも明らかなように、機械や体系的に発達した機械設備、すなわち大工業の特徴的な労働手段は、手工業経営やマニュファクチュア経営の労働手段に比べて、比べものにならないほどその価値がふくれ上がっているのである。

いままでみてきたことからも分かるように、協業と分業によって生じる生産力には、資本にとって一文の費用もかからない。というのも、この生産力は社会的な労働から自然に生まれるものだからです。さらに生産過程、つまり生産設備で動力として使用される蒸気や水力などの自然の力(エネルギー)そのものにも費用はかかりません。しかし、このような自然の力(エネルギー)を生産過程で使用するためには、人間の手による構造物、例えば水力をエネルギーとして使用するためには水車が必要だし、蒸気を利用するには蒸気機関が必要です。

同じことは自然科学が発見した法則を生産現場で利用するためには、非常に高価で大規模な装置が必要になります。例えば電磁石は、そのもの自体には利用するのに費用は掛かりませんが、この原理を応用して電信という通信を利用するためには、各所に電信所や電線を設置し、そのための電力を発電するといった大規模な設備がひつようとなり、その設置には多大な費用がかかります。その一方で、機械が登場したからと言って道具が駆逐されてしまうというわけではありません。もともとは人が使って、人の身体の一部のように、人の身体の範囲で機能していた道具が、その人という範囲を超えて、機械という人間が作りだしたメカニズムと一体となって、数や規模が大きく拡大したものとなっていったのでした。

いまや、資本、つまり工場の経営では、労働者に対して、手作業の道具ではなく、機械の操作をさせます。そして、機械が道具を使うようになっています。このように、資本が、生産過程に、巨大な自然力や自然科学を取り入れて利用することによって、生産性を飛躍的に向上させたのです。しかし、その生産力の向上は、労働支出の増大を伴うもの、つまりは労働の強化によって為されたものではなかったのです。

機械というのは生産過程ですから不変資本ということになりますが、これは、それ自体が価値を創造するというものではありません。機械というのは、それを使って製品が製造されるというものです。この場合、機械の価値の一部が製品に移転するということになります。実際には、機械という設備の減価償却が生産の原価の一部に算入されるということですが、機械は製品に価値を加算するもので、減価させるものではありません。このように製品に自らの価値の一部を加算するということは、機械というのは大工場に特有のものですが、それ自体大きな価値を備えているからこそ、そういうことができる。 

以前に考えた生産の3要素では、生産手段として労働対象と労働手段とを挙げ、前者はおおむね原材料で、後者は道具や機械や工場などです。しかし、この機械制大工業とそれによる大規模工場の発達が起こるまでは、生産手段の主要部分は圧倒的に原材料であって、労働者が用いる道具は、その価値の大きさからしても、その物質的存在感からしても、全体としての生産における重みはごくわずかなものでした。

生産の最初の段階では、生産そのものは圧倒的に手の熟練に依存し、マニュファクチュアが発達すると、手の熟練とともに、大量に用いられるようになる原材料も重要になりまし。しかし、労働手段は、マニュファクチュアの中で専門化して高度化しているとはいえ、その物質的重みは相対的にまだ小さいままでした。質的に均一なものを大量に生産する能力は、手の熟練にも原材料そのものにも依存しているのではなく(ただし、機械による大量生産に適した安価で豊富な原材料の発見・開発は機械化の次の段階において決定的なものとなる)、圧倒的に機械の性能とその規模に依存しているといえます。それは大規模な工場の中にその巨体でもって配置され、労働者は今ではその巨大な機械に奉仕する補助者のような役割に引き下げられます。この新しい労働手段は生産を左右する決定的な物質的手段となるのです。

また機械は、生産において物質的に巨大な役割を果たすだけでなく、それ自体が大きな価値を持つ固定資本です。不変資本は、その価値が1回ごとにまるごとの生産物の中に入る流動資本と、一定期間生産過程にとどまって、その間に生産される諸商品の価値の中に少しずつ自己の価値を移転させる固定資本に分れられます。しかし、労働手段が小さな道具にすぎないマニュファクチュア時代においては、このような区分にはほとんど独自の意義はなかったと言えます。不変資本である生産手段の価値の圧倒的部分は原材料、すなわち流動資本が占めていたからです。流動資本と異なる固定資本の特徴は、その価値のすべてが生産物の価値に入るのではなく、その平均的な耐用期間に応じて、その一部だけが生産物の価値に入る点にあります。しかし、使用されている固定資本が小さくて安価な道具である場合に、その一部が生産物の価値に入るといっても、ほとんど捨象しても困らないぐらいわずかにすぎませんでした。それゆえ、マニュファクチュア時代の経済学者であるアダム・スミスは、しばしば労働手段の存在を忘れて、生産過程を、労働者が原材料に価値を付加する過程として描き出しているのです。しかし、機械が発達し、大規模な工場が作られるようになれば、その機械と工場設備とは巨大な価値物として重きをなすようになり、その一部が生産物の価値に入っていく事実はとうてい捨象できないものとなりました。そのせいで、機械制大工業時代の古典派経済学者の中には、スミスとは逆に、生産物価値について考察するときに、逆に原材料の価値を忘れてしまい、賃金と固定資本で価値を規定する者が出たほどでした。

さて、1回の生産ごとに生産物価値に物的にも価値的にもまるごと入る流動資本の場合、生産物価値に占めるその価値の大きさは非常にはっきりしています。10万円の原材料を使って何らかの商品生産物を作ったとしたら、その生産物価値には原材料の10万円が入っているのは明らかです。しかし、長期にわたって生産過程にとどまり、その価値がその平均耐用年数に応じて少しずつ商品生産物に移転される固定資本の場合、その平均耐用年数がどれぐらいであると想定されるかによって、生産物の中に入る価値量の計算も変わってきます。

たとえば、1000万円の価値を持ったある機械の標準耐用年数が10年であると想定される場合には、資本家は、毎年100万円ずつその価値が1年間に生産される商品の価値の中に入ると計算することができるし、そのように固定資本の減価償却費を計上する。しかし、それがもし5年間であると想定されるならば、資本家は、その機械の実際の物質的耐用期間がどれぐらいであろうと、毎年、倍の200万円ずつを償却費として計上することができ、わずか5年で固定資本を償却することができる。こちらのほうが資本家にとってはるかに有利であるのは明らかです。なぜならその分、帳簿上、利潤の大きさを低く見せることができるし、したがってそれにかかる税金を低く抑えることができるからであり、また5年が過ぎた後は、たとえ引き続きその固定資本を用いていても、その費用は理論的にゼロであり、したがってその分価格を引き下げることができるからである。

価値は自然物ではなく、社会的なものです。固定資本の価値が生産物価値に移転するのは自然現象ではなく、社会現象です。したがって、その移転価値の大きさはある機械の平均耐用期間がどれぐらいであると想定されるかで大きく変わってきます。たしかに、機械の物質的耐用期間は、その機械の具体的な自然的性質とその物質的摩耗に応じてある程度客観的に定まっているものです。だが、いくら物質的に使用可能だからといって、完全にぼろぼろになって壊れるまでの全期間を耐用期間として設定するのは非現実的ですし、さまざまな事故の元になります。それゆえ、耐用期間は固定資本が十分に安全かつ効果的に機能する期間に限定されなければなりません。

しかし、それでもまだ不十分です。というのも、激しい競争と技術革新の中で固定資本が絶えざる社会的消耗(経済的陳腐化)をこうむる資本主義社会においては、このような限定された耐用期間の設定でもまだ非現実的だからです。それゆえ、結局は、物質的耐用期間をある程度参考にしながらも、種々の固定資本の耐用期間は社会的に設定されることになるのです。これを社会的耐用期間と呼ぶのですが、この社会的耐用期間の標準年数は、ちょうど標準労働日が、ある程度自然的な性質を持っている標準最大労働日の範囲内で社会的に決定されているのと同じく、物質的耐用期間の範囲内で社会的に決定されるものです。

とはいえ、各資本が勝手に耐用期間を設定することは混乱の元であるし、正常な競争条件を保障するものでもない。それゆえ、各々の固定資本の標準的な減価償却期間や償却方式に関してはしばしば税法上の規定によって一定の公的基準が定められることになります。 

すでに考察したように、協業と分業によって発生する生産力の費用を、資本はまったく負担することがない。この生産力は、社会的な労働から自然に生まれる力なのである。さらに生産過程にとりいれられる蒸気や水などの自然力にも費用はかからない。しかし人間が呼吸するために肺が必要であると同じように、自然力を生産的に消費するためには、「人間の手による構造物」が必要である。水の運動力を活用するには水車が必要だし、蒸気の弾力性を活用するには蒸気機関が必要である。

自然力について言えることは、科学についてもあてはまる。電流が流れている作用場で磁針が偏倚する法則や、周囲は電流が流れていると鉄が磁性化する法則は、ひとたび発見されたならば、利用するのに一文もかからない。しかしこれらの法則を電信などで利用するためには、非常に高価で大規模な装置が必要になる。すでに確認したように、機械が登場したからといって道具が駆逐されることはない。人間の身体が利用するちっぽけな道具が、その規模においても数量においても拡大して、人間が作りだしたメカニズムに付属する道具へと成長していく。

資本は手作業の道具ではなく機械を労働者に操作されるが、今では機械そのものが道具を操るのである。そのため資本が生産過程において、巨大な自然力と自然科学をとりいれることで、労働の生産性を異例なほどに飛躍させるのはすぐに明らかになる。しかしそれほど明らかではないのは、この生産力の向上が、労働の支出の増大によってまかなわなれたものではないということである。

機械類は不変資本の他の部分と同じく、みずから価値を創造することはない。機械類は、そうした機械類を使って製造された製品に、自分の価値を譲り渡すのである。機械は価値をそなえており、製品にその価値の一部を移転するのであるから、機械は製品の価値の一部を構成する。機械は製品を廉価にするのではなく、みずからの価値に応じて、製品を高価にするのである。そして大工業に特徴的な労働手段であり、体系的に発達してきた機械類は、手工業経営やマニュファクチュア経営の労働手段と比較すると、比較にならないほどの大きな価値をそなえているのは明らかである。

 

規模の経済

そこで、まず第一に言っておきたいのは、機械は労働過程はいつでも全体としてはいってゆくが、価値増殖過程にはつねに一部分ずつしかはいってゆかないということである。機械は、自分が損耗によって平均的に失ってゆく価値よりも多くの価値はけっしてつけ加えない。だから、機械の価値と、周期的に機械から生産物に移されてゆく価値部分とのあいだには、大きな差が生ずるのである。価値形成要素としての機械と、生産形成る要素としての機械とのあいだには、大きな差が生ずるのである。同じ機械が繰り返し同じ労働過程で役だつ期間が長ければ長いほど、それだれこの差も大きくなる。

もちろん、すでに見たように、本来の労働手段または生産用具はどれでも労働過程にはいつでも全体としてはいるのであり、価値増殖過程には、いつでもただ一部分ずつ、その毎日の平均損耗に比例して、はいるだけである。とはいえ、このような、使用と損耗のあいだの差は、道具の場合よりも機械の場合の方がずっと大きいのである。なぜならば、機械のほうが耐久力が大きい材料でつくられており寿命が長いからであり、機械の子充用は厳密に科学的な法則に規制されていてその構成部分やその消費手段の支出のいっそうの節約を可能にするからであり、最後に、機械の生産的作用範囲は道具のそれとは比べものにならないほど大きいからである。この両方から、すなわち機械と道具から、それらの毎日の平均費用を引き去れば、すなわち、それらが毎日の平均損耗と油や石炭などの補助材料の消費とによって生産物につけ加える価値成分を引き去れば、機械や道具は、人間の労働を加えられることなく存在する自然力とまったく同じに、無償で作用することになる。機械の生産的作用範囲が道具のそれより大きいだけに、機械の無償の役だちの範囲も道具のそれに比べてそれだけ大きい。大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で自然力と同じように無償で作用させるようになるのである。

協業やマニュファクチュアの考察で明らかになったように、ある種の一般的な生産条件、たとえば建物などは、個別的な労働者が分散した生産条件に比べれば、共同の消費によって節約され、したがって生産物を高くすることがより少ない。機械の場合には、一つの作業機の機体がその多数の道具によって共同に消費されるだけではなく、同じ原動機が伝動機構の一部とともに多数の作業機によって共同に消費されるのである。

とはいえ、機械は、労働過程という生産物を形成する要素としては、そのつど全面的に労働過程に参入するのですが、価値形成要素としてはきわめて部分的にしか価値増殖過程に関わりません。つまり、機械は、それが消耗されることで平均的に失う価値、つまり減価償却でだけ、製品に価値を加えるのです。したがって、機械の価値と、機械から製品に加えられる価値には大きな違いがあります。同一の機械が同一の労働過程で使用される期間がながいほど、この差は大きくなるのです。

そもそも機械に限らず、労働手段や生産器具はすべて、全面的に労働過程に参入しますが、価値増殖過程では日々の平均的な消耗におうじて部分的に加わります。ここで、しかし、機械には、これらとのハッキリとした違いがあります。それは、機械は巨大な機械ほどはるかに寿命が長く、耐久力があるということです。大工場では、厳密な科学的な法則に規定されて利用されるために、部品や消費手段の消耗が経済的に行われる、つまり、減価償却は一定の価値や率にしたがって規則的に計算されるのです。

実際、機械と道具で、日々の平均的費用の控除を比べてみましょう。日々の平均費用というのは、日々の平均的な消耗と、オイルや石炭などのような燃料つまり補助材料を消費して、商品の原価に加算する費用です。その費用として加算されない残りの部分は無償で、人間の労働をつけ加えずに存在する自然力のようなものということになります。機械は道具よりも生産作用の領域が広いので、この無償の部分は道具より大きなものとなります。このようにして、人間は大工業時代になって初めて、機械という形ですでに対象化されている過去の労働の生産物を、自然力と同じように無償で働かせるようになるのです。

それゆえ、建物などのように特定の生産条件は、個別の労働者が分散して働いている場合比べると、労働者がその一ヵ所に集まって、共同で使用するために、費用を節約できることになり、そのことによって製品のコストを下げている。これに対して、機械の場合は、、一つの作業機械の〈身体〉が、そこに取りつけられた多数の道具によって共同に消費されるだけでなく、同じ原動機や、伝達機構の一部も、多数の作業機械によって共同に消費されるのです。

資本が自然力や科学を無償で利用することができるという事情は、資本主義という生産システムを特徴付ける、重要な要素になります。

すでにみたように、資本が協業や分業が発生する社会的労働の生産力を利用するさいには、なんの費用もかかりません。資本は個々の労働者にたいして労働力の対価を払いさえすれば、それらの結合から生まれる生産力を無償で利用することができるのです。同じように、資本は、自然力や科学を利用するとしても、それらに支払いをする必要はありません。ただ、それらを利用するための機械設備に支払いをすればよいのです。

もちろん、マニュファクチュアで用いられる道具と違い、機械設備は大規模であり、それだけ多くの労働が投下されており、したがって大きな価値を持つものが大半です。しかし、機械には道具と比べて高い耐久性をもち、より多くの生産物を生産することができるという利点があります。つまり、機械設備単体としては非常に大きな費用がかかりますが、生産物1個あたりに移転され機械設備の価値は非常に少ない額で済むのです。第6章でみたように、生産手段の価値は消耗分だけ徐々に生産物に移転してきますから、耐久性が高く、より多くの生産物を生産することができればできるほど、その機械が生産物1個ないし1単位あたりに移転する価値の量は少なくなります。

ですから、「大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で…[少額の価値移転の分を除けば]無償で作用させるようになる」のであり、これによって自然力や科学を文字通り無償で利用することができるのです。

とはいえ、ここでいう「無償」という言葉の意味には注意が必要です。というのも、ここでいう「無償」とは、あくまで資本にとっての「無償」でしかないからです。たとえば、水力や火力といった自然力を資本は「無償」のものとして利用しますが、「無償」だからといって際限なく利用すれば、廃水や排ガス、二酸化炭素の大量排出などによって人々の健康や生態系に深刻な被害を及ぼすことになるでしょう。しかし、増殖価値の生産だけを目的とする資本にとっては、このような社会的な「コスト」はコストではありません。資本にとっては、あくまで価値だけが、より端的にいえば、支出しなければならない貨幣だけがコストなのです。このように、資本にとっては価値だけがコストでうり、社会的な「コスト」はコストとして現われないからこそ、資本による自然や科学の利用によってさまざまな環境破壊が未曽有の規模で引き起こされる可能性が生じるのです。このことについては、第10節「大工業と農業」において詳しく見ることになります。

まず、機械類は労働過程はつねに全体として入り込んでいるが、価値の増殖過程には部分的にしか入らないことを指摘しておく必要がある。機械類は、それが消耗されることで平均して失う価値部分しか、製品に価値を付与することはない。だから機械の価値と、機械から製品に規則的に伝達される価値部分には、大きな違いがある。価値を形成する要素としての機械と、製品を形成する要素としての機械には、大きな違いがあるのである。同じ機械類が同じ労働過程で使用できる期間が長ければ長いほど、この違いは大きくなる。

すでに確認したように、[機械だけではなく]ほんらいの労働手段や生産器具というものはすべて、労働過程には全体として参加するが、価値増殖過程には、日々の平均的な消耗分におうじて、部分的にしか参加しない。しかし道具類と比較すると、機械類では[労働過程における]使用と[価値増殖過程における]消耗には、はっきりとした違いがある。それは機械類は耐久性の高い素材で作られており、長持ちするからであり、厳密な科学的な法則に規定されて利用されるために、部品や消費手段の消耗が経済的に行われるからであり、最後に道具と比較して生産作用の領域がはるかに広いからである。

ここで機械類と道具類から、日々の平均的費用を控除したとしよう。この日々の平均費用は、日々の平均的な消耗と、オイルや石炭などの補助材料を消費して製品につけ加える価値部分である。すると残りの部分は無償で働くようになり、人間の労働をつけ加えずに存在する自然力のようなものになる。機械類は道具よりも生産作用の領域が広いために、無償で働く規模も道具よりも大きなものとなる。人間は大工業時代になって初めて、機械という形ですでに対象化されている過去の労働の生産物を、自然力と同じように無償で働かせるようになるのである。

協業とマニュファクチュアを考察して明らかになったことは、建物など、特定の一般的な生産条件は、個別の労働者が分散している条件と比較すると、共同で消費されるために節約でき、これが製品を廉価にしているということである。機械類については、一つの作業機械の〈身体〉が、そこに取りつけられた多数の道具によって共同に消費されるだけでなく、同じ原動機や、伝達機構の一部も、多数の作業機械によって共同に消費されることを指摘できる。

 

機械類が移転する価値の大きさ

機械の価値と、それの1日に生産物に移される価値部分の差が与えられていれば、この価値部分が生産物を高くする程度は、まず第一に生産物の大きさによって、いわば生産物の表面積によって、定まる。ブラックバーンのベーンズ氏は、1857年に公刊された或る講義録のなかで、次のように見積もっている。

「実際の1機械馬力は、準備装置をつけた450の自動ミュール紡錘、または200のスロッスル紡錘、または縦糸かけや糊つけなどの装置をつけた力織機であれば、15の40インチ幅織機を運転する。」

第1の場合には450のミュール紡錘の1日の生産物に、第2の場合には200のスロッスル紡錘の生産物に、第3の場合には15の力織機の生産物に、1蒸気馬力の1日の費用とそれによって運転される機械の損耗とが配分されるので、そのために1オンスの糸または1エレの織物にごく小さな価値部分が移されるだけである。前にあげた蒸気ハンマーの例でも同じことである。蒸気ハンマーの1日の損耗や石炭消費などが、それが1日に打つ恐ろしく大きな鉄量に配分されるのだから、各1ツェントナーの鉄にわずかな価値部分しか付着しないのであめが、もしこの巨大な用具が小さな釘を打ち込むようなことがあれば、この価値部分は非常に大きいであろう。

作業機の作用範囲が、つまりその道具の数、または、力が問題になる場合には作業機の規模を与えられたものとすれば、生産物量は、作業機の働く速度によって、たとえば紡錘の回転する速度とかハンマーが1分間に与える衝撃数とかによって、定まるであろう。かの巨大なハンマーのうちには、1分間に70回の衝撃を与えるものもたくさんあり、紡錘を鍛造するために比較的小型の蒸気ハンマーを使用するライダーの特許鍛造機は1分間に700の衝撃を与える。

機械が生産物に価値を移す割合を与えられたものとすれば、この価値部分の大きさは機械自身の価値の大きさによって定まる。機械そのものに含まれている労働が少なければ少ないほど、機械が生産物につけ加える価値は少ない。価値を引き渡すことが少なければ少ないほど、ますます機械は生産的であり、機械の役だちはますます自然力の役だちに近くなる。ところが、機械による機械の生産は、機械の大きさや効果に比べて機械の価値を小さくするのである。

手工業的またはマニュファクチュア的に生産される商品の価格と、同じ商品でも機械で生産されるものの価格との比較分析からは、一般的に、機械生産物では労働手段から移される価値部分が相対的には増大するが絶対的には減少するという結論が出てくる。すなわち、この価値成分の絶対的な大きさは減少するが、たとえば1ポンドの糸というような生産物の総価値に比べればその大きさは増大するのである。

もしある機械を生産するのにこの機械の充用によって省かれるのと同じだけの労働がかかるとすれば、その場合にはただ労働の置き換えが行われるだけで、商品の生産に必要な労働の総量は減らないということ、すなわち労働の生産力は高められないということは、明らかである。とはいえ、機械の生産に必要な労働と機械によって省かれる労働との差、すなわち機械の生産性の程度は、明らかに、機械自身の価値と機械によって代わられる道具の価値との差によって定まるものではない。この差は、機械の労働費用、したがってまた機械によって生産物につけ加えられる価値部分が、労働者が自分の道具で労働対象につけ加えるであろう価値より小さいかぎり、なくならない。それゆえ、機械の生産性は、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られるのである。

ベーンズ氏によれば、1蒸気馬力で運転される450個のミュール紡錘とその準備装置には2人半の労働者が必要であり、各1個の自動ミュール紡錘で10労働労働日で1週間に13オンスの糸(平均番手)が紡がれるので、1週間で365と8分の5ポンドの糸が2人半の労働者によって紡がれる。だから、綿花が糸に変られるときに、約366ポンドの綿花(簡単にするために胃は無視する)が150労働時間、すなわち10時間労働日の15日分しか吸収しないのであるが、もし紡ぎ車で紡げば、1人の手紡工が13オンスの糸を60時間で供給する場合には、同じ量の綿花が2700の10時間労働日すなわち2万7000労働時間を吸収するであろう。旧式のブロックプリンティングすなわち更紗の手染めが機械捺染によって駆逐されたところでは、たった1台の機械が1人の男または少年の助けによって1時間で以前には200人の男がやったのと同じ量の四色更紗布を捺染する。1793年にイーライ・ホイットニが繰綿機を発明するまでは、1ポンドの綿を綿実から分離するには1日の平均労働日が必要だった。彼の発明によって、1日に100ポンドの綿が1人の黒人女工によって得られるようになったが、それからのちにも繰綿機の効果はもっとずっとおおきくされた。1ポンドの綿繊維は、以前は50セントで生産されたが、のちにはもっと大きな利潤をあげながら、すなわちもっと多くの不払労働を含めて、10セントで売られるようになる。インドでは繊維を実から分離するのにチュルカという半機械的な用具が用いられており、これを使って男1人と女1人とで1日に28ポンドの綿を繰る。数年前にドクター・フォーブズが発明したチュルカを使えば、男1人と少年1人とで1日に250ポンドを生産する。牛や蒸気や水が動力として使われる場合には、わずか数人の少年や少女がフィーダー(機械に材料を手渡す人)として必要なだけである。このような機械の16台が、牛で運転されて、1日に、以前に750人が平均して1日にした仕事を行なうのである。

機械の価値と、その機械から日々の製品に引き渡される価値、つまり減価償却の部分の差が明らかになっているとすれば、この価値の部分がどの程度まで製品の価格を引き上げるかは、その製品の規模によって、すなわちその表面積の大きさによって決まるといいます。

その計算について、機械が生産物に価値を引き渡す比率があらかじめ決まっていれば、この価値の大きさは、機械そのものの価値によってきまります。つまり、機械そのものの価値に決まった比率を乗じれば、計算できるからです。そこで、機械の価値すなわち、機械そのものに含まれる労働の量が少ないほど、機械が製品に引き渡す価値は小さくなります。そして、機械が製品に引き渡す価値が小さければ小さいほど、機械の生産性は高くなり、自然力のもたらす寄与と似た性格のものになるわけです。そして機械類による機械類の生産は、機械類の生産の規模と効果に応じて、機械類の価値を小さくしていくことになります。

手工業やマニュファクチュアで製造された商品の価格と、機械で生産された商品の価格を比べてみましょう。一般的に、機械で製造された商品の場合、労働手段によってつけ加えられる価値の部分は相対的には増加しますが、絶対的には減少します。つまり、機械によって引き渡される価値は大きくなるのですが、機械によって製品の生産量は増大するために、生産に必要な労働量が減少し、製品全体の生産コストが減少するために、比率として引き渡される絶対額はむしろ減少するのです。

ある機械を生産するために、その機械の使用によって節約された労働と同じ量の労働が必要なのであれば、商品を生産するために必要な労働の総量は減少したことにはなりません。したがって、労働の生産性が向上したことにはなりません。その機械の生産性の大きさは、機械の生産に必要な労働の量と、機械の使用によって節約される労働の量の差であって、これは機械そのものの価値と、その機械が使われることになったために、使われなくなった道具の価値との差でないということです。

機械によって製品に加算される価値の大きさが、労働者が道具を使っていたときに労働対象に付加していた価値の大きさよりも小さい限り、この差は存在します。だから、機械の生産性は、機械によって人間の労働力がどこまで節約されたかによって決まります。

ここで機械類の価値と、機械から日々の製品に引き渡される価値の部分の差が明らかになっているとすれば、この価値の部分がどの程度まで製品の価格を引き上げるかは、その製品の規模によって、すなわちその表面積の大きさによって決まる。ブラックバーンのベインズ氏は、1857年に発表した講義録で、「実際の1機械馬力は、自動式のミュール紡錘であれば、その準備装置を含めて450個、スロッスル紡錘であれば200個、力織機であれば経糸を張る装置や糸に糊を塗る装置を含めて、40インチのクロス織機を15台作動させることができる」と見積もっている。

つまり1蒸気馬力を供給する日々の費用と、この動力によって作動する機械類の消耗は、第一の例では450個のミュール紡錘が1日に生産する製品に分配され、第二の例では200個のスロッスル紡錘が生産する製品に、第三の例では15台の力織機が生産する製品に分配される。だから1オンスの紡ぎ糸や1ヤードの布地に分配される価値部分はごく小さなものとなる。前記の蒸気ハンマーについても同じことが言える。日々の消耗や石炭の消費量は、それが毎日処理する多量の鉄に分配されるために、1キログラムの鉄に追加される価値部分はごくわずかである。もしもこの巨大なハンマーで小さな釘を打つのであれば、この価値部分は非常に大きくなるだろう。

作業機械の作用範囲が、すなわち作業機械にとりつけられている道具の数が明らかになっていて、さらに力が問題になるときには、その力の大きさが明らかになっているとしよう。そのときに製品の量を決定するのは、作業機械の速度、たとえば紡錘の回転速度や、1分あたりのハンマーの打撃回数などである。巨大な蒸気ハンマーの多くは、毎分70回も打てるものがあり、かなり小型の蒸気ハンマーで紡錘を製造するライダー式の特許鍛造機は、毎分700回の打撃を与えることができる。

機械類が生産物に価値を引き渡す比率があらかじめ明らかになっているならば、この価値部分の大きさは、機械そのものの価値によって決まる。機械そのものに含まれる労働の量が少ないほど、機械が製品に引き渡す価値は小さくなる。機械が製品に引き渡す価値が小さければ小さいほど、機械の生産性は高くなり、自然力のもたらす寄与と似た性格のものになる。そして機械類による機械類の生産は、機械類の生産の規模と効果におうじて、機械類の価値を小さくしていく。

手工業やマニュファクチュアで製造された商品の価格と、機械で製造された同じ商品の価格を比較してみると一般的に、機械で製造された商品では、労働手段によってつけ加えられる価値部分は相対的には増加するが、絶対的には減少することが分かる。この価値部分の絶対的な大きさは小さくなるが、1重量ポンドの紡ぎ糸などの製品の全体の価値において占める比率は大きくなるのである。

ある機械を生産するために、その機械の使用によって節約された労働と同じ量の労働が必要なのであれば、それは労働を投じる場所が替わっただけのことであり、一つの商品を生産するために必要な労働の総量は減少せず、労働の生産性も向上しないことは明らかである。しかし機械の生産に必要な労働の量と、機械の使用によって節約される労働の量の差異、すなわち機械の生産性の大きさは、機械そのものの価値と、機械のために使用されなくなって道具の価値の違いで決まるものではないのは明らかである。

機械によって製品につけ加えられる価値部分の大きさ、すなわち機械の労働費用が、労働者が道具を使っていたときに労働対象につけ加えていた価値部分の大きさよりも小さいものであるかぎり、この差異は存在しつづれる。だから機械の生産性は、機械によって人間の労働力がどの程度まで節約されたかによって決まるのである。

ベインズ氏によると、1蒸気馬力で作動する450個の自動ミュール紡錘とその準備装置に2人半の労働者が必要である。そして自動ミュール紡錘1個あたりで、10労働時間の労働日で週に13オンスの糸(平均番手)が紡がれる。こうして2人半の労働者で、週に365と8分の5重量ポンドの糸が紡がれることになる。すなわち約366重量ポンド(簡略化のために胃は無視する)の綿花を糸に変えるには、150労働時間、すなわち10労働時間として15労働日の労働しか、綿花に吸収されていないことになる。

これを[手動の]紡ぎ車で紡ぐとすればどうなるだろうか。手紡工が13オンスの糸を紡ぐのに、60時間かかるとしよう。すると366重量ポンドの綿花は、10労働時間は労働日で2700労働日、すなわち2万7000労働時間を吸収することになる。

旧式のブロック・プリント機を使っていた木綿の手染産業に代わって登場した機械的な捺染産業では、ただ1台の機械に1人の男性あるいは青少年がついているだけで、以前であれば200人の男性が1時間かけて染めていたのと同じ量の四色染め木綿布を、同じ時間で生産できるのである。

イーライ・ホイットニーが1793年に綿繰り機を発明するまでは、1重量ポンドの綿を綿の実から取りだすのに、平均労働日で1日かかっていた。この機械の発明によって、黒人の女工1人で1日に100重量ポンドの綿を取りだせるようになり、しかもこの綿繰り機の効率はその後はるかに向上しているのである。綿の繊維1重量ポンドの価格は、以前は50セントであったが、この発明によって10セントに低下し、しかもそこに含まれている利潤、すなわち不払い労働の大きさは前よりも増えているのである。

インドでは綿の繊維を実から取りだすのに、半ば機械化されたチュルカという道具を使うが、1人の男性を1人の女性がこの道具を使って1日に28重量ポンドの綿を取りだせた。しかし数年前にフォーブス博士が発明した[新型の]チュルカでは、1人の男性と1人の子供によって1日に250重量ポンドを生産できるようになった。この機械に牛、蒸気、水力を動力として利用すれば、数人の子供たちがフィーダー(機械に材料を投入する孫)として働くだけでよくなる。牛を動力として利用した場合、この機械が16台あれば、以前なら平均して750人の労働日を必要とした仕事を、わずか1日でこなせるのである。

 

剰余価値のための機械

すでに述べたように、蒸気機関は、蒸気犁の場合には、1時間に3ペンスすなわち4分の1シリングの費用で、66人の人間が1時間あたり15シリングの費用で行うのとおなじ量の仕事を行なう。誤解を防ぐために、もう一度この例に帰ってみよう。すなわち、この15シリングは、けっして、1時間に66人によってつけ加えられる労働の表現ではないのである。もし必要労働にたいする剰余労働の割合が100%だったならば、この66人の労働者は1時間に30シリングの価値を生産したわけである。といっても、彼ら自身にとっての等価には、すなわち15シリングの労賃には、ただ33時間が表わされているだけであるが。だから、ある機械に、それによって駆逐される150人の労働者の年賃金と同じだけの、たとえば3000ポンド・スターリングの費用がかかるとしても、この3000ポンドは、けっして、150人の労働者によって供給され労働対象につけ加えられる労働の貨幣表現ではなく、彼らの年労働のうち彼ら自身のために労賃に表わされる部分だけの貨幣表現である。これに反して、3000ポンドという機械の貨幣価値は、その機械の生産中に支出されるすべての労働を、この労働がどんな割合で労働者のための労賃と資本家のための剰余価値とを形成するかにかかわりなく、表現しているのである。だから、この機械には、それによって代わられる労働力と同じだけの費用がかかるとしても、この機械そのものに対象化されている労働は、つねに、この機械によって代わられる生きている労働よりもずっと小さいのである。

すでに述べたことだが、蒸気耕転機の蒸気機関が、1時間に3ペンス(4分の1シリング)の費用で行う仕事の量は、66人の人間が15シリングの費用で1時間に行う仕事の量にひとしい。誤解があるといけないので、この例に戻るとしよう。この15シリングという費用は、66人の人間が1時間につけ加えた労働の量を表現できるわけではない。増殖労働にたいする必要労働の比率が100%とすると、66人の労働者は1時間に30シリングの価値を生産している。しかし労働者自身の等価物である15シリングの労働賃金には、66時間の労働のうちの33時間しか表現されていない。

ここである機械の価格が、その機械によって不要になった150人の労働者の年間賃金の合計、たとえば3000ポンドにひとしいと想定しよう。この3000ポンド[の年間賃金]は、150人の労働者が提供し、労働対象につけ加えられた労働を貨幣で表現したものではない。それが表現しているのは、これらの労働者の年間の労働の一部、すなわち労働者自身の等価物である労働賃金が表現されている労働部分にすぎない。これにたいして機械の貨幣価値としての3000ポンドは、その生産に支出されたすべての労働を表現しており、このすべての労働にはさまざまな比率で、労働者のための労働賃金と資本家のための増殖価値が含まれているのである。だから機械の購入費用と、機械のために不要となった労働力の費用がまったく同じだったとしても、機械そのものに対象化されている労働は、機械のために不要になった生ける労働よりも、つねにはるかに小さいのである。

 

機械が利用される場合とされない場合

ただ生産物を安くするための手段だけとして見れば、機械の使用の限界は、機械自身の生産に必要な労働が、機械の充用によって代わられる労働よりも少ないということのうちに、与えられている。だが、資本にとってはこの限界はもっと狭く表わされる。資本は、充用される労働を支払うのではなく、充用される労働力の価値を支払うのだから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界を与えられるのである。必要労働と剰余労働とへの労働日の分割は国によって違っており、同じ国でも時期によって違い、また同じ時期でも事業部門によって違うのだから、さらにまた、労働者の現実の賃金は彼の労働力の価値よりも低いことも高いこともあるのだから、機械の価格と機械によって代わられる労働力の価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働量と機械によって代わられる労働の総量との差は変わらなくても、非常に違っていることがありうるのである。だが、資本家自身にとっての商品の生産費を想定し、資本家を競争の強制法則によって動かすものは、ただ前のほうの差だけである。それだからこそ、今日イギリスで機械が発明されてもそれが北アメリカでしか用いられないとか、16世紀と17世紀にドイツで発明された機械がオランダだけで使われたとか、18世紀にフランスでなされた多くの発明はただイギリスで利用されただけというようなことになるのである。古くから発達した諸国では、機械そのものが、いくつかの事業部門へのその応用によって、ほかの諸部門で労働過剰を生みだし、そのために、これらの部門では労働力の価値よりも下への労賃の低落が機械の使用を妨げ、また、もともとの自分の利得を充用労働の減少からではなく支払労働の減少からあげている資本の立場からは、機械の使用を不必要にし、しばしば不可能にさえもするのである。イギリスの羊毛工業のいくつか部門では、最近の数年間に児童労働が非常に減らされており、ところによってはほとんど駆逐されている。なぜか?工場法は、児童を二組に分けて、一方を6時間、他方を4時間労働させるか、またはどちらも5時間ずつ労働させるということを強調した。ところが、親たちはこの半日工を以前の全日工よりも安く売ろうとはしなかった。それだから、半日工は機械によって代わられたのである。鉱山での女や子供(10歳未満)の労働が禁止されるまでは、はだかの女や少女を、しばしば男といっしょにして炭鉱やその他の鉱山で使用する方法が、資本から見ればその道徳律にも、またことにその元帳にも合っていたので、それが禁止されてからのちにはじめて資本は機械に手を出したのである。

ヤンキーは石を割るための機械を発明した。イギリス人がそれを使わないのは、この労働を行なう「哀れな人」(この貧民とは農業労働者を意味するイギリスの経済学の術語である)は自分の労働のほんのわずかな部分に支払を受けるだけなので、機械は資本家にとっては生産を高価にするおそれがあるからである。イギリスでは川舟をひいたりするには今でも馬の代わりに女が使われることがあるが、そのわけは、馬や機械を生産するのに必要な労働は数学的に与えられる量であるが、これに反して、過剰人口の女を養うのに必要な労働は、どのようにでも計算できるからである。それだから、つまらないことに人力が恥知らずに乱費されることは、まさにこのイギリスで。この機械の国で、他のどの国よりもひどいのである。

機械を、製品を生産する費用を削減させるための手段としてだけ考えると、機械の導入は限られてしまいます。その機械を生産するために必要な労働が、機械を導入することで不要となった労働の量よりも少ない場合にしか、機械を導入するメリットがないことになるからです。しかし、実際に資本が支払いを行うのは、投じられた労働(実際の労働時間)に対してではなく、投じられる労働の価値に対してです。したがって。機械を導入するメリットは、その機械の価値と、機械を導入することで不要となる労働力の価値の差なのです。

この労働力の価値を量るための、労働日を必要労働と増殖労働に分ける比率は国や時代あるいは産業分野によって異なってきます。さらに実際の労働者の賃金は、その労働者の労働力の価値よりも低くなったり高くなったりすることもあります。それゆえ、機械を生産するために必要な労働量と、機械によって不要になる全体の労働量がたとえ同じであっても、機械類の価格と、機械によって不要になった労働力の価格の差は、さまざまに変化する可能性があるのです。

資本家にとって商品の生産費用(コスト)が決まるのは、この機械類の価格と機械によって不要になった労働の価格の差によってです。このことだけが競争に必要なものとして資本家を動かすのです。早くから産業が発達してきた先進国では、機械が複数の産業分野において利用されるようになると、機械化されない他の分野に機械化された分野で不要となった労働者が流入した結果、労働の過剰が発生し、そのためにその分野では労働賃金が労働力の価値を下回るようになり、それがその分野での機械の利用を妨げることとなってしまいます。そもそも資本家の利益は、投入する労働の量の低下ではなく、支払う労働の量の低下によって決まるのですから、このような労働賃金が労働力の価値を下回る状況では、資本家の立場からすると安価な労働力を利用すればよく、機械を利用するのは無駄であり、それゆえ、しばしば不可能ということになるのです。

この章の冒頭で確認したように、資本制的生産様式においては、機械はあくまで増殖価値の生産のための手段であり、人間の労働を節約することを目的として導入されるものではありません。ですから、たとえそれを導入することによってそれぞれの生産物の生産に必要とされる労働時間を短縮し、生産物の価値を低下させることができるとしても、それだけでは機械を導入する理由にはなりません。機械の導入によって取得できる増殖価値が増えなければ意味がないからです。それゆえ、資本制的生産においては機械の導入によって生産物の生産に必要とされる資本にとってのコスト(すなわち生産手段および労働力の価値)が低下する場合にしか、機械は導入されません。つまり、導入される機械の価値が、それを導入することによって削減することができる労働力の価値を下回る場合にだけ、機械は導入されるのです。ですから、労働者の賃金が異常に低かったり、労働日が異常に長かったりするなどの条件の下では、労働力に費やされるコストが低いのでなかなか機械が普及してかないということになります。

機械を、生産物を安価にする手段としてだけ考えるならば、機械の利用には一つの限界がある。機械自身を生産するために必要な労働が、機械によって不要になる労働の量よりも少なくなる場合にしか、機械を利用する意味はないからである。しかし資本にとってはこの限界はさらに小さなものとして表現される。資本が支払を行うのは、投じられる労働にたいしてではなく、投じられる労働の価値にたいしてである。だから機械を使用する限界を定めるのは、機械自身の価値と、機械によって不要になる労働力の価値の差なのである。

労働日を必要労働と増殖労働に分ける比率は国ごとに異なる。同じ国でも時代ごとに異なり、同じ時代でも産業分野ごとに異なる。さらに労働者の実際の賃金は、その労働力の価値よりも低くなったり、高くなったりすることがある。だから機械を生産するために必要な労働量と、機械によって不要になる全体の労働量がたとえ同じであっても、機械類の価格と、機械によって不要になった労働力の価格の差は、さまざまに変化しうる。

資本家自身にとっての商品の生産費用が決まるのは、この機械類の価格と機械によって不要になった労働の価格の差であるから、これだけが競争の強制力によって資本家を動かす。そのため今日イギリスで発明された機械がアメリカでしか利用されなかったり、16、17世紀にドイツで発明された機械がオランダでしか利用されなかったり、18世紀にフランスで行われた多くの発明がイギリスでしか利用されなかったりするのである。

早くから発達してきた諸国では、機械が複数の産業分野において利用されると、他の分野で労働の過剰が発生し、そのためにその分野では労働賃金が労働力の価値を下回るようになり、それがその分野での機械の利用を妨げる。そもそも資本家の利益は、投入する労働の量の低下ではなく、支払う労働の量の低下によって決まるのであるから、このような[労働賃金が労働力の価値を下回る]状況では、資本家の立場からすると[安価な労働力を利用すればよいのだから]機械を利用するのは無駄であり、しばしば不可能である。

イギリスの羊毛マニュファクチュアの複数の分野において、この数年間に子供の労働がきわめて少なくなり、ほとんど消滅しているところもある。それはどうしてだろうか。工場法では、子供たちを二つの班にわけて交替して働かせることを求めている。片方の班は6時間働き、第二の班は4時間働くか、両方の班が5時間ずつ働くように規定されたのである。しかし子供たちの両親は、[1労働日の半分しか働かない]このハーフ・タイマーを以前のフル・タイマーよりも安く売るつもりはなかった。そのためハーフ・タイマーたちの代わりに機械が採用されたのである。

鉱山における女性労働と児童(10歳未満)労働が禁止されるまでは、資本は裸体の女性と少女を、しかも多くの場合、男たちと一緒に炭鉱などの鉱山で働かせていた。これは資本家の道徳規範に適ったものであり、とくに帳簿の規範に適うものだった。この禁止規定が実施されるまで資本家が機械を導入しなかったのはそのためである。

北米で砕石機が発明されたが、イギリス人はこれを採用しなかった。それはイギリスで石を割るために雇用されている貧民たちには(この貧民とはイギリスの経済学の専門用語では農業労働者を意味する)、労働のごく一部にしか報酬が支払われないので、機械類を採用すると資本家にとっては生産費用が高くなると考えられたからである。

イギリスでは今でも川で船を曳くなどの仕事に、馬ではなく女性たちが雇用されることがある。それは馬や機械のために必要な労働は、数学的に計算された所与の量であるのに、過剰人口のもとで女性を養うために必要な労働は、どのようにでも計算できるからである。こうして、機械の国であるイギリスでも、半端な仕事のために他のどの国よりもひどい恥知らずな人間力の浪費が行われているのである。

 

 

第3章 機械経営が労働者に及ぼす直接的影響

大工業の出発点となるのは、すでに明らかにしたように、労働手段の革命であって、変革された労働手段はその最も発達した姿を工場の編制された機械体系において与えられる。この客観的な有機体に人間材料がどのようにして合体されるかを見る前に、かの革命が労働者そのものに及ぼすいくつかの一般的な反作用を考察してみよう。

機械化された大工業というのは、もともと労働手段の変革があって、その変革された労働手段にやり方の上に機械化された工場のシステムが成立したと言います。そこで、労働手段の主体である労働者の影響をここでは、見ていきます。

これまで述べてきたように、大工業の出発点となるのは、労働手段の革命であった。変革された労働手段がもっとも発達したのが、工場において構造化された機械システムである。この客観的な有機体に、人間という素材が一体化していくのだが、その前にこの革命が労働者そのものに与えた一般的な反作用をいくつか調べておくことにしよう。

 

A.資本による補助的労働力の取得。婦人・児童労働

機械による搾取

機械が筋肉をなくてもよいものにするかぎりでは、機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性が比較的大きい労働者を充用するための手段になる。それだからこそ、婦人・児童労働は機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!こうして、労働と労働者とのこのたいした代用物は、たちまち、性の差別も年齢の差別もなしに労働者家族の全員を資本の直接的子支配のもとに編入することによって賃金労働者の数を増やすための手段になったのである。資本家のための強制労働は、子供の遊びにとって代わっただけでなく、家庭内で習慣的な限界のなかで家族自身のために行われる自由な労働にもとって代わったのである。

労働力の価値は、個々の成年労働者が生活維持に必要な労働時間によって規定されていただけではなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定もされていた。機械は、労働者の家族の全員を労働市場に投ずることによって、成年男子の労働者の労働力の価値を彼の全家族のあいだに分割する。それだから、機械は彼の労働力を減価させるのである。たとえば4つの労働力に分割された家族を買うには、おそらく、以前に1人の家長の労働力を買うのにかかったよりも多くの費用がかかるであろう。しかし、そのかわりに1労働日が4労働日となり、その価格は、4労働日の剰余労働が1労働日の剰余労働を超過するのに比例して、下がってゆく。今では1つの家族が生きるためには、4人がただ労働を提供するだけではなく、資本のための剰余労働をも提供しなければならない。こうして、機械は、はじめから、人間的搾取材料、つまり資本の最も固有な搾取領域を拡張すると同時に、搾取度をも拡張するのである。

機械化の進展によって、かつて労働者が担っていた単純な肉体作業は機械が取って代わるようになりました。それに伴って、筋力が不足していたり、成長していないで肉体がまだ出来上がっていない人々、つまり女性や子供も作業場に労働者として入ることを可能にしました。そのおかげで、賃労働者全体の数を飛躍的に増加させることができました。いまや、年齢や性別に関わりなく、労働者として、資本は使用することができるようになったわけです。しかし、それは子供の側からは、遊んだり家の手伝いをしていた時間を賃労働を課せられることになったのです。

労働力の価値は、個人としての労働者が生きていくために必要な労働時間だけではなく、労働者の家族の生活を維持するために必要な労働時間も含められていました。しかし、機械化によって、成人男性だけでなく女性や子供も労働者として働くことができるようになったことによって、成人男性労働者の家族全員も労働者となったのでした。そうすると家族の生活を維持するための労働は成人男性だけでなく、女性や子供も担うこととなり、それぞれの家族が分け持つことになりました。その結果、精神男性が担っていた労働力は分割され、賭けの労働力の価値は引き下げられることになったのです。

例えば4人家族の場合を考えてみましょう。以前にはお父さんという成人労働者1人の労働力だけでした。それが家族4人の労働力、つまり4倍になったのです。しかも同職労働は1人のときよりも4人の場合の方が多いので、4倍となった労働力の価値は相対的に低下することになります。その結果、機械化によって、搾取の対象となる人の範囲を広くして、しかも搾取の強度も高めたのです。

機械類によって筋肉の力は不要になった。そのため機械は筋力のない労働者や、身体はまだ成熟していないものの四肢の柔軟性に富む労働者を使用するための手段となるのである。だから機械類の資本制的な利用の最初の言葉は、女性労働と子供の労働だった。労働と労働者に代わるものとして登場したこの力強い代替物はすぐに、賃金労働者の数を増やすための手段となり、性別と年齢に関わりなく、労働者の一家の全員を資本の直接の命令のもとに置くことになった。資本家のために行われる強制労働によって子供の遊び場が奪われただけでなく、習慣的に家族自身のために行われていた家庭内での自由な労働の場も失われたのである。

労働力の価値を決めていたのは、個々の成人労働者が生きていくために必要な労働時間だけではない。労働者の家族の生活の維持のために必要な労働時間も、これを決めていたのである。機械類によって労働者の家族の全員が労働市場に投げ込まれ、これによって成人男性労働者の労働の価値が、彼の家族の全員に分割された。こうして機械類は、成人男性労働者の労働力の価値を引き下げたのだった。

たとえば4人の労働力に分割された一家族の労働を買おうとすれば、以前に家長1人の労働力を買っていたときよりも、高くつくかもしれない。その代わりにかつての1労働日ではなく、4労働日が手に入るのである。しかも4人の増殖労働は1人の増殖労働よりも多いので、増殖労働が増えた分だけ、この4労働日の価値は相対的に低下する。今では家族が生き延びるために、4人は労働だけではなく、増殖労働も資本に提供しなければならない。このようにして機械類は、資本のもともとの搾取領域である人間という搾取的材料の範囲を拡大し、さらにその搾取度も高めたのである。

 

機械による契約関係の変革

機械はまた資本関係の形式的な媒介すなわち労働者と資本家とのあいだの契約をも根底から変革する。商品交換の基礎の上では、資本家と労働者とが、自由な人として、独立な商品所有者として、一方は貨幣と生産手段との所持者、他方は労働力の所持者として、相対するということが、第一の前提だった。ところが、今では資本家は未成年者または未成年を買う。以前は、労働者は彼自身の労働力を売ったのであり、これを彼は形式的には自由な人として処分することができた。彼は今では妻子供を売る。彼は奴隷商人になる。子供の労働にたいする需要は、しばしば形式から見ても、アメリカの新聞広告でよく見られたような黒人奴隷にたいする需要に似ている。たとえば、イギリスの一工場監督官は次のように言っている。

「私の注意は、私の管区の最も重要な工業都市の一つで発行されている地方新聞に出た一つの人広告に向けられた。以下はその写しである。12人から20人まで少年を求める。年齢は13歳として通用するより若くないもの。賃金は1週4シリング。照会は云々。」

この「13歳として通用する」という文句は、工場法では13歳未満の児童は6時間だけ労働することを許されるということに関連している。証明資格のある医師が年齢を証明しなければならない。だから、工場主は、すでに13歳になっているように見える少年を求めるのである。工場主の使用する13歳未満の子供の数がしばしば飛躍的に減少していることは、最近20年間のイギリスの統計のなかで人を驚かすのであるが、それは、工場監督官たち自身の証言によれば、大部分は証明医のしわざだったのであって、彼らは資本家の搾取欲や親の小商人的要求に応じて子供の年齢をずらせたのである。ロンドンの悪評の高いペスナル・グリーン区では、毎週月曜と火曜との朝に公開の市場ができて、そこでは9歳から上の男女の子供たちがロンドンの絹製造業者に自分自身を賃貸しする。「普通の条件は、週に1シリング8ペンス(これは親のものになる─マルクス)と私自身の2ペンスとで、ほかにお茶がある。」契約は1週間かぎり有効である。この市場がひらかれているあいだの光景や言葉づかいはまったく腹だたしいものがある。今でもイギリスでは見られることであるが、女たちは「少年を救貧院から連れてきて、どんな買い手にでも1週2シリング6ペンスで賃貸しする。」立法があるにもかかわらず、今でも大ブリテンでは少なくとも2000人の少年が生きている煙突掃除機として(彼らに代わる機械があるのに)彼ら自身の親たちによって売られるのである。機械によって労働力の買い手と売り手との法律関係に革命がひき起こされ、そのために全取引が自由な人と人とのあいだの契約という外観すら失ってしまうのであるが、この革命はのちにはイギリスの議会に工場制度への国家干渉のための法律上の口実を与えた。これまで干渉を受けていなかった産業部門での児童労働を工場法が6時間に制限するたびに、いつでも繰り返し工場主たちの苦情が響き渡る。すなわち、一部の親たちが、今度は、規制を受けることになった産業から子供を連れ去って、まだ「労働の自由」よりも高く売れるような産業、つまり13歳未満の子供が大人同様に働くことを強制され、したがってまたより高く売れるような産業に、子供たちを売るのだ、と言うのである。

しかし、資本は生来1個の平等派なのだから、すなわち、すべての生産部面で労働の搾取条件の平等を自分の天賦の人権として要求するのだから、ある一つのむ産業部門で児童労働の法的制限は、また別の部門での制限の原因になるのである。

機械は、労働者と資本家との契約、つまり労働契約を根本的に変えてしまいました。そもそも労働契約というものは、労働力という商品を有する労働者と生産手段とお金をもつ資本家とが、相互に独立して締結するものです。この場合の労働者は自由な人格として、自らの持つ労働力を、自分の自由意思で売ることができたのです。しかし、機械化によって労働の状況が変化してくると、妻や子供といった家族についての労働契約を結ぶ、つまり働かせるようになったのです。マルクスは、これを妻や子供を売る奴隷商人と辛辣な言い方をしています。

子供の労働者を求める求人広告は、アメリカの新聞に載っている黒人奴隷を求める広告によく似ています。

工場法では13歳未満の児童は1日6時間までしか働かせてはならず、雇用にあたっては公認の資格認定医師が年齢証明書を発行しなければならない、と定めています。そこで、工場主は13歳になっているようにみえる児童を求めている。そういう資本家の搾取に対して、子供の両親は子供の年齢をごまかしているのです。

機械化は労働契約の契約関係にまで変革をもたらしました。それだけでなく、あらゆる取引から、自由な人格の相互の契約というタテマエを吹き飛ばしてしまいました。このことが、後になって、議会で、国家システムが法的に介入することを正当化する、例えば工場法のような、根拠をあたえたのでした。

これまでは運用対象になっていなかった産業分野にも工場法が適用されるようになり、児童の労働時間が6時間に制限されるようになりましたが、その適用範囲が拡大するたびに、工場主からは、規制を受けるようになると、両親は子供たちをそこから引きあげ、まだ「労働の自由」が支配している産業分野に、すなわち13歳未満の児童が成人と同じように働くことを強制されているところに、高い値段で売り渡すのだ、という苦情が寄せられました。

もともと資本家は平等を主張するものです。しかし、彼らの主張する平等とは、労働の搾取条件を平等にすることです。つまり、産業分野によって搾取の条件が異なってはならないのです。だから、ある産業分野で児童労働が法的に制限されると、他の産業分野でも同じように制限されねばならないのです。

機械類はさらに、資本関係を形式的に媒介している労働者と資本家の契約にも、根本的な革命をもたらす。商品の交換を土台とするこの契約の第一の前提は、資本家と労働者が自由な人格として向き合うこと、独立した商品の所有者として、すなわち片方は貨幣と生産手段の所有者として、他方は労働力の所有者として向き合うことだった。しかし今では資本家は未成年者や、なかば未成年の人々を買うようになった。労働者はかつては、形式的に自由な人格として、みずから処分することのできる労働力を売っていた。ところが今では労働者に自分の妻や子供たちを売るのである。奴隷商人になったのだ。

子供の労働を求める求人広告は、その形式からして、アメリカの新聞広告でおなじみの黒人奴隷の求人広告と似ている。たとえばイギリスのある工場視察官は次のように述べている。「わたとの担当する地域のもっとも重要な工業都市の一つで発行されていた新聞の求人広告が目に留まった。そこには〈12人から20人の少年を求む。13歳として通用しない年少者は不可。週給4シリング。詳細は…〉と書かれているのである」。

この「13歳として通用しない」という言葉は、工場法では13歳未満の児童は1日6時間までしか働かせてはならないと定めていることにかかわる。雇用にあたっては公認の資格認定医師が年齢証明書を発行しなければならない。だからこの工場主は、すでに13歳になっているようにみえる児童を求めているのである。

過去20年間のイギリスの統計で驚かされるのは、工場主によって雇用されている13歳未満の児童の数が急速に減少する傾向が強いことである。工場視察官の報告によると、その主な原因は資格認定医師たちの仕業であり、資本家の搾取度と両親のあくどい欲望に迎合して、児童の年齢をごまかしているのである。

とかくの風評のあるロンドンのペスナル・グリーン地区では毎週月曜日と火曜日の朝に公開の〈市〉が開かれ、9歳からの男女の児童がロンドンの絹マニュファクチュアにみずからを賃貸しするのである。「通例の条件は、週に1シリング8ペンス(これは親のものになる─マルクス)と自分の小遣いの2ペンス、それとお茶」である。契約は週かぎりである。この〈市〉の光景、そしてそこで交わされる言葉は、まことに目にするにも聞くにも耐えがたいものである。

現在のイギリスでもなお、女たちが「子供たちを救貧院からつれてきて、どんな相手にでも週に2シリング6ペンスで賃貸しする」ことが行われている。法律違反であるにもかかわらず、グレート・ブリテンで少なくとも2000人の子供たちが、そのための機械が存在しているにもかかわらず、〈生ける煙突掃除人〉として両親の手で売り渡されているのである。

機械類は、売り手と買い手のあいだの法律関係にまで革命をもたらした。そしてあらゆる取引から、自由な人格のあいだの契約という外見すら失われた。このことが後に議会にたいして、工場システムに国家が法的に介入することを正当化する根拠を与えたのである。

これまで運用を除外されていた産業分野にも工場法が適用されるようになり、児童の労働が6時間に制限されるようになるたびに、工場主からはいつも次のような苦情が新たに述べられたのだった。規制を受けるようになると、両親は子供たちをそこから引きあげ、まだ「労働の自由」が支配している産業分野に、すなわち13歳未満の児童が成人と同じように働くことを強制されているところに、高い値段で売り渡すのだと。

しかし資本は生まれながらの[平等を主張する]水平派であり、すべての生産部門で労働の搾取条件を平等にすることを、天賦の人権として要求するのである。だからある産業分野で児童の労働が法的に制限されると、他の産業分野でも制限が行われるようになる。

 

幼児の死亡率

機械が、最初はその基礎の上に成長する工場で直接に、次にはそのほかのすべての産業部門で間接に、資本の搾取のもとに置く児童や少年やそしてまた労働婦人の肉体的退廃には、すでに前にも言及した。それゆえ、ここでは、幼少期における労働者児童の異常に高い死亡率という1点だけについて述べておこう。

イングランドの戸籍管区のうち16区では、1歳未満の生存児10万人につき年平均死亡数はわずかに9085人(1区ではわずかに7047)であり、24区では1万以上1万1000未満、39区では1万1000以上1万2000未満、48区では1万2000以上1万3000未満、22区では2万以上、25区では2万1000以上、17区では2万2000以上、11区では2万3000以上、フー、ウルヴァハンプトン、アトュトン・アンダー・ライン、プレストンでは2万4000以上、ノッティンガム、ストックボード、ブラッドフォードでは2万5000以上、ウィズビーチでは2万6001、マンチェスターでは2万6125である。1861年の政府の医事調査の示したところでは、地方的な事情は別として、この高い死亡率の原因は、特に母親の家庭外就業、それに起因する子供の放任と虐待、ことに不適当な食物、食物の不足、阿片剤を飲ませることなどであり、そのうえに、自分の子供にたいする母親が不自然な疎隔。その結果としてわざと食物をあてがわなかったり有毒物を与えたりすることが加わる。「婦人の就業が最も少ない」農業地区では「これに反して死亡率は最も低い」のである。ところが、1861年の調査委員会は予想外の結果を明らかにした。すなわち、北海沿岸のいくつかの純農耕地区では、1歳未満の子供の死亡率が、最も悪評の高い工業地区のそれにほとんど匹敵する、というのである。そこで、ドクター・ジュリアン・ハンターが、この現象を現場で研究することを委託された。彼の報告は『公衆衛生に関する第6次報告書』に採り入れられてある。それまでは、マラリアとかそのほか低湿地帯に特有の病気が多くの子供の命を奪ったものと推測されていた。調査は正反対の結果を示した。すなわち、

「マラリアを駆逐したその同じ原因が、すなわち、冬は湿地で夏はやせた草地だった土地を肥沃な穀作地に変えたということが、乳児の異常な死亡率を生みだしたということ」だった。

ドクター・ハンターがその地方で意見を聴取した70人の開業医は、この点について「驚くほど一致して」いた。つまり、土地耕作の革命にともなって工業制度が採り入れられたのである。

「少年少女といっしょに隊をつくって作業する既婚婦人たちは、『親方』と称して隊全体を雇っている1人の男によって、一定の金額で農業者の使用に任される。これらの隊は、しばしば自分の村から何マイルも離れて移動し、朝晩路上で見かけるところでは、女は短い下着とそれにつりあった上着とを着て、長靴をはき、またときにはズボンをはいていて、非常にたくましく健康そうに見えるが、習慣的になった不品行のためにすさんでおり、この活動的で独立的な暮らし方への愛着が家でしなびている自分の子供に与える有害な結果には少しもとんちゃくしない。」

ここでは工場地区のすべての現象が再生産されるのであり、しかも、隠匿された幼児殺しや子供に阿片を与えることはいっそう大きく再生産されるのである。イギリス枢密院医務官で『公衆衛生』に関する報告書の主任編集者であるドクター・サイモンは次のように言っている。

「それによって生みだされる害悪を知っているだけに、成年婦人の包括的な産業的使用を私が強い嫌悪の念をもって見るのもやむをえないことであろう。」工場監督官R・ベイカーは政府の報告書のなかで次のように叫んでいる。「もしすべての家族もちの既婚婦人がどんな工場で働くことも禁止されるならば、それは、じっさい、イギリスの工業地区にとって一つの幸福であろう。」

児童、青少年、女性労働者たちは、機械化によって発展した産業分野の工場で、次には間接にはすべての他の分野の工場で搾取の対象となったのでした。それは端的に労働者の子供たちの高い死亡率にあらわれています。地このように幼児の死亡率の高い主要な原因は、域的な状況を別とすると、母親が家庭の外で働いていることと、それに由来する幼児の放置と虐待にあると、マルクスは言います。例えば、食べ物が適切でなかったり、栄養不足だったり、阿片などが与えられたりしているのです。また母親が子供たちに自然な感情を持てなくなっているために、意図的に飢えさせたり毒を与えたりしているようになっていることもあるのです。

文章中、マルクスは、このような引用をしています。「既婚の女性たちが、娘たちや若者たちと一緒の労働隊に編成され、〈請負親方〉と呼ばれる男がこの労働隊をまるごと、借地農に一定の金額で貸しつけるのである。この労働隊は自分たちの村から数マイルの離れた場所まで働きに行かされ、朝夕に路上でその姿をみかける。女性たちは短いスリップとそれに合った上衣を着て、長靴を履き、ときにはズボン姿である。一見するととてもたくましく、健康的にみえるが、習慣になった放埓さのために身を持ち崩している。彼女たちは、こうした活動的で独立した暮らし方への好みが、家で発育不良になっているわが子にどんな悲惨な結果をもたらしているかには、まったく無頓着である」。これと同じことが工場地区で見られます。ある工場視察官の主張をマルクスは紹介しています。「家族もちのすべての既婚女性に、いかなる工場でも働くことを禁止できたならば、それはイギリスの工場地区にとっては大きな幸福をもたらすものだろう」。

こうした児童、青少年、女性労働者たちの身体的な破壊については、すでに語っておいた。これらの人々は、まず機械を土台として発展した産業分野の工場で、次には間接的にその他のすべての産業分野の工場について、資本の搾取のもとに置かれたのである。ここでは労働者の子供たちがまだ幼児の頃からきわめて高い死亡率を示していることを指摘するにとどめよう。

イングランドの戸籍管区において、1歳未満の生存する幼児10万人ごとの年間の平均死亡者の数を比較してみると、わずか9085人以下にすぎない管区が16区ある(ある管区では7047人しか死亡していない)。1万人以上1万1000人未満の管区は24区、1万1000人以上1万2000人未満の管区は39区、1万2000人以上1万3000人未満の管区は48区、2万人以上の管区は22区、2万1000人以上の管区は25区、2万2000人以上の管区は17区、2万3000人以上の管区は11区である。フー、ウルヴァーハンプトン、アトュトン・アンダー・ライン、プレストンの管区の幼児の平均死亡者数は2万4000人を上回り、ノッチンガム、ストックボード、ブラッドフォードの管区は2万5000人を上回り、ウィズビーチでは2万6000人を超え、マンチェスターでは2万6125人である。

1861年の公的な医学調査で明らかになったのは、地域的な状況を別とすると、このように幼児の死亡率の高い主要な原因は、母親が家庭の外で働いていることと、それに由来する幼児の放置と虐待にある。食べ物が適切でなかったり、栄養不足だったり、阿片などが与えられたりしているのである。また母親が子供たちに自然な感情を持てなくなっているために、意図的に飢えさせたり毒を与えたりしていることもある。「これにたいして女性の就業率がもっとも低い」農業地帯では、「幼児の死亡率はもっとも低い」のである。

しかし1861年のこの調査を実行した調査委員会は予想外の事実に気づいた。北海沿岸の純農業地帯の1歳未満の幼児の死亡率が、もっとも悪評の高い工業地帯の死亡率に近いのである。そこでジュリアン・ハンター医師がこの現象を現場で調査するように委託された。医師の報告は『公衆衛生に関する第6次報告書』に収められている。これまではこうした農業地帯での幼児の死亡率の高さはマラリアなど、低湿地の地域に特有の疾患によるものと考えられていた。ところが調査結果はこれを真っ向から否定するものとなった。「それまで冬のあいだには沼沢地であり、夏にはやせた牧草地であった土地が、肥沃な穀倉地帯に変身しており、それによってマラリアは駆逐されていた。しかしそのことが幼児の異常な死亡率の高さを生む原因だった」。

これに関しては、ハンター医師が現地で意見を聴取した70人の開業医は「驚くほど同じ意見だった」。土壌の耕作方法に革命が起こるとともに、工業的なシステムが導入されたのである。

「既婚の女性たちが、娘たちや若者たちと一緒の労働隊に編成され、〈請負親方〉と呼ばれる男がこの労働隊をまるごと、借地農に一定の金額で貸しつけるのである。この労働隊は自分たちの村から数マイルの離れた場所まで働きに行かされ、朝夕に路上でその姿をみかける。女性たちは短いスリップとそれに合った上衣を着て、長靴を履き、ときにはズボン姿である。一見するととてもたくましく、健康的にみえるが、習慣になった放埓さのために身を持ち崩している。彼女たちは、こうした活動的で独立した暮らし方への好みが、家で発育不良になっているわが子にどんな悲惨な結果をもたらしているかには、まったく無頓着である」。

工場地区でみられたすべての現象がここでもみられる。むしろ闇に葬られた嬰児殺しや幼児への阿片の投与などは、工場地区よりも悲惨になっている。『公衆衛生』に関する報告書の主任編集長であるイギリス枢密院医務官のサイモン医師は、「わたしは成人の女性を広範に産業界で雇用することには激しい嫌悪を感じるものであるが、それはその弊害を知っているからである」と語っている。工場視察官のR・ベイカーはある公式の報告書で「家族もちのすべての既婚女性に、いかなる工場でも働くことを禁止できたならば、それはイギリスの工場地区にとっては大きな幸福をもたらすものだろう」と述べている。

 

工場での初等教育の義務化

婦人・児童労働の資本主義的搾取から生ずる精神的萎縮は、F・エンゲルスによってその『イギリスにおける労働者階級の状態』のなか、またそのほかの著書たちによっても、余すところなく述べられているので、ここではそれを指摘するだけにしておく。しかし、未成熟な人間を単なる剰余価値製造機にしてしまうことによって人為的に生みだされた知的荒廃、それにまた、精神をその発達能力やその自然的豊饒性そのものをそこなうことなしに休耕状態に置く自然発生的な無知とは非常に違ったものであるが、このような知的荒廃は、ついに、イギリス議会さえも、工場法の適用を受けるすべての産業で分初等教育を14歳未満の児童の「生産的」消費の法定条件にするということを強要したのである。資本主義的生産の精神は、工場法のいわゆる教育条項の疎漏な書き方からも、行政機構の欠陥のためにこの義務教育が大部分は再び幻想的になるということからも、この教育法にたいする工場主たちの反対そのものからも、そしてこの法律を回避するために彼らが実行した奸計術策からも、はっきりと見え透いていた。

「ただ立法府だけがとがめられなければならない。なぜならば、立法府は、児童教育のためを計ると見せかけながら、口実にされたこの目的を保証しうるような規定を一つも含んでいないごまかしの法律を制定したのだからである。それが規定しているのは、子供たちは毎日一定の時間(3時間)学校と称する場所の四壁内に閉じ込められるべきだということ、そして、児童使用者はこれに関して毎週学校教師または学校女教師として署名する人物から証明書をもらわなければならないというほかには、なにもないのである。」

1844年の改正工場法が制定されるまでは、学校教師または女教師によって十字形で署名された通学証明書が珍しくなかった。というのは、教師自身も字が書けなかったからである。

「このような証明書を発行している或る学校を訪れたとき、私は、教師の無知に驚くあまり、彼に向って言った、『失礼ながら、あなたは字を読めるのか?』と。彼は答えた、『ええ、まあ、多少は』と。弁解して彼はつけ加えた。『とにかく、私は生徒たちの前に立っているのだから』と。」

1844年の法律が準備されているときに、工場監督官たちは、彼らが法律上完全に有効と認めざるをえなかった証明書を発行する学校と称する場所のあまりにもひどい状態を摘発した。彼らが実現させたことは、ただ1844年以降は

「通学証明書の数字は教師が手で書き込まれていなければならず、同じく教師の姓名も彼自身の手で書かれていなければならない」ということだけだった。

スコットランドの工場監督官サー・ジョン・キンケードも、これに似た職務上の経験を語っている。

「われわれが訪ねた最初の学校は、ミス・アン・キリンという人が開いていた。私が彼女の名のつづりを聞くと、たちまち彼女はまちがいをやった。彼女はCの字から始めたのだが、すぐに訂正して、自分の名はKで始まるのだと言った。しかし、通学証明書の彼女の署名を一見して私が気づいたことは、彼女がそれをいろいろにちがってつづっているということだったし、また筆跡を見ても彼女に教授能力がないことは疑う余地がなかった。彼女自身も自分が記帳できないことを認めていた。…第2の学校では、私は奥行き15フィートで間口10フィートの教室を見た。これだけの空間のなかに75人の子供が数えられ、彼らはなにかわけのわからないことを早口にしゃべっていた」。

「しかし、子供たちの通学証明書はもらっているが教育は受けていないというのは、こんなみじめな場所だけのことではない。というのは、有能な教師のいる学校はあっても、その多くでは、3歳から上のあらゆる年齢の子供で混雑をきわめ、そのために教師の努力もほとんどむだになってしまうからである。彼の暮らしは、どのみちみじめなものではあるが、まったくただ一室に詰め込めるだけの数の子供たちから受け取る小銭の数だけに依存している。そのうえに、学校の備品はとぼしく、本やその他の教材も不足しており、息苦しい不快な空気が哀れな子供たち自身をいっそう元気のないものにしている。私は多くのこのような学校を訪ねたが、そこではたくさんの子供たちがまったくなにもしないでいるのを見た。そして、これが通学として証明され、このような児童が政府の統計で教育されたものとして扱われるのである。」

スコットランドでは工場主たちは通学義務のある子供をできるだけ排除しようとする。

「教育条項にたいする工場主たちの激しい嫌悪を証明するには、これだけで十分である。」

このことは、特別の工場法によって規制されている更紗やその他の捺染業では、奇怪な恐ろしいありさまで現われている。法律の規定によれば、

「どの子供も、この種の捺染業で使用される前に、その就業第1日の直前の6ヶ月のあいだに少なくとも30日、そして150時間よりも少なくない時間通学していなければならない。捺染業で働いているあいだも、やはり6ヶ月という期間ごとに30日間にわたり150時間は通学しなければならない。…通学は午前8時から午後6時までのあいだになされなければならない。おなじ1日のうちに2時間半よりも少ないかまたは5時間を越える通学を150時間の一部分として計算してはならない。普通の事情のもとでは、子供は、30日のあいだ午前と午後、1日に5時間ずつ通学し、30日がすぎて、150時間という法定の総時間数に達すれば、すなわち、彼ら自身の言葉で言うと、彼らの通学簿を仕上げてしまえば、捺染工場に帰って、次の通学時期がくるまで再び6ヶ月間そこにとどまり、その次にまた、再び通学簿が仕上がるまで学校にいる。…法定の150時間通学する少年の非常に多くは、6ヶ月間の捺染工場滞在から帰ってくると、ちょうど最初と同じ状態になっている。…もちろん、彼らはその前の通学によって得たことは再びすっかり忘れてしまっている。また別の更紗捺染工場では、通学はまったく営業上の必要に合わせて定められる。所要の時間数は、6ヶ月にわたる一期間ごとに、おそらく6ヶ月のあいだに分散されている一度に3時間から5時間までの分割払いによって、満たされる。たとえば、ある日は午前8時から11時まで、また別のある日は午後1時から4時まで学校にはていて、それから子供は再び何日か欠席したあとで、突然また午後3時から6時までやってくる。次にはたぶん3日か4日つづけて、または1週間も、やってくるが、その後また3週間かまる1ヶ月も見えなくなり、そして、たまたま雇い主が子供を必要としない何日かのはんぱな日に、何時間かの余りの時間だけ帰ってくる。こうして、子供は、150時間がなしくずしにすまされるまで、学校から工場へ、工場から学校へと、いわばこづきまわされるのである。」

結合された労働人員に、圧倒的な数の子供や女を加えることによって、機械は、マニュファクチュアではまだ男子労働者が資本の専制にたいして行っていた反抗を、ついに打ちひしぐのである。

女性と子供の労働が搾取されということは、未成熟な人間をたんなる増殖価値の生産機械に変えてしまうことです。これによってつくりだされる道徳的な退廃は、自然のままの無知な状態とは異なるものです。自然のままの無知は、精神を耕して成長させないまま放置したものですが、道徳的な退廃は潜在的な発達の可能性、もともとの耕す前の肥沃さそのものを損ねてしまうものです。イギリス議会は14歳未満の児童への初等教育を義務付ける教育条項を成立させました。しかし、法律の表現は曖昧で、行政の機構が設置されたわけではなかったので、これに反対する工場主たちによって骨抜きにされてしまいました。児童のための学校は、お世辞にも学校と言えるような代物ではありませんでした。

マニュファクチュアで働く男性労働者たちはまだ資本の専制に抵抗していたのですが、機械化された工場は協業によって結びつけられた労働人員に、女性と子供を大量につけ加えることで、ついにこの抵抗を切り崩してしまったのです。

女性労働と子供の労働が資本制的に搾取されることでどのような道徳的な退廃が生じているかは、F・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』でまざまざと描きだされているし、その他の著書でもこと細かに描かれているので、ここではそれを指摘するだけにしておこう。ただし未成熟な人間をたんなる増殖価値の生産機械に変えてしまうことによって人為的に作りだされる知的な荒廃は、自然に発生する無知とは異なるものである。自然に育つ無知は、たしかに精神を耕さないままにしておくが、その発達能力、生来の肥沃さそのものを損ねることはない。この知的な荒廃を目にしたイギリス議会もついに、工場法の適用されるすべての産業分野にたいして、14歳未満の児童を「生産的に」消費するための法的な条件として、初等教育を義務づけざるをえなくなった。

しかし工場法のこのいわゆる教育条項は曖昧に表現されていて、行政的な機構が設置されておらず、工場主自身がこの教育法案に反対し、その適用を回避するためにさまざまなトリックや策略を実行しているだけに、義務違反の大半はふたたび幻想となったのだった。そこにもまた資本制的な生産の精神が輝きだしていたのである。

「非難されるべきなのは立法府である。立法府が作りだしたのは架空の法律にすぎず、児童の教育に配慮するという見掛けのもとで、掲げられた目標の実現を保証することのできるいかなる規定も定められていないからである。この法律で定められているのはただ、児童が毎日一定の教育時間だけ、学校と称する場所の四つの壁の中に閉じ込められること、そして児童を雇用する者は毎週、学校教師と称する人物が署名した証明書を受け取らなければならないということだけである」。

1844年の改正工場法が制定される前は、教師が[署名ではなく]バツ印をつけただけの就学証明書も稀ではなかった。教師自身が字が書けなかったからである。「このような証明書を発行している学校を訪れると、教師の無知さかげんに唖然としたものである。〈すみません、あなたは字を読めますか〉と尋ねると〈まぁ、少しは〉と考えるのである。そして申し訳のように、〈いずれにしても生徒たちの前に立っていますから〉と答えるのである」。

1844年の法律が準備されているあいだに、工場視察官と称するこうした場所の恥ずべき状態を告発した。しかしそこで発行された証明書は法的に有効なものと認めざるをえなかった。工場視察官たちが実現できたのは、1844年以降は「就学証明書の数字は、教師が手書きで記入しなければならず、教師の氏名もみずから署名しなければならない」ということだけだった。

スコットランドの工場視察官のジョン・キンケード卿も、工場の視察で同じような経験をしたことを語っている。「われわれが訪問した最初の学校は、アン・キリン婦人という女性が運営していた。氏名の綴りを尋ねるとすぐに間違えた。最初をCで始めたのだが、すぐにKですと言い直した。しかし就学証明書の署名を調べてみると、さまざまな綴りで署名していることがわかった。筆跡からみても、夫人に教育能力がないことは疑問の余地がなかった。彼女も、自分では記録をつけられないことを認めていた。…2番目に訪問した学校では、教室は奥行き15フィート、幅10フィートで、この空間に75人もの児童が詰め込まれ、わけのわからないことをぺちゃくちゃと喋っていた」。

「児童たちの就学証明書が発行されていながら、実際には教育を受けていないのは、こうした劣悪な施設だけに限られない。能力のある教訓がいる学校の多くでも、下は3歳児からのあらゆる年齢の児童たちが意味もなく混在しているので、教師が教育を与えようとしても、まったく無駄なのである。教師の生計は悲惨としか言いようのないもので、教室に詰め込めるかぎり詰め込んだ生徒たちからうけとる小銭の数だけによって決まる。おまけに学校の設備は貧弱であり、教科書やその他の教材も乏しく、吐き気のするような空気は哀れな子供たちのやる気をなくす。わたしが訪問した多くの学校では、子供たちはただ座っているだけで、ほかに何もしていなかった。これが就学として証明され、こうした子供たちは公約で教育を受けたものとして扱われている」。

スコットランドでも工場主は就学義務のある児童はできるだけ雇わないようにしている。「このことからも、工場主たちが教育条項にいかに強い反感を抱いているかは明らかである」。これが途方もなくグロテスクか状況を作りだしているのは、独自の工場法の適用をうけている木綿平織産業と捺染産業である。この法律の規定によると、「すべての児童は、この種の捺染工場で雇用される前に、就業する初日の直近の6ヶ月のうち、少なくとも30日、しかも合計150時間以上、通学していなければならない。捺染工場で雇用されているあいだも、同様に6ヶ月ごとに30日間、合計150時間以上、学校に通わせなければならない。…通学時間は午前8時から午後6時まででなければならない。1日につき2時間半未満の通学時間や、5時間を超える通学時間は、前記の通学時間に含めることはできない。

このためふつう、児童は30日間、午前と午後、1日5時間ずつ通学して、30日後に150時間という法律の定めを満たして、彼らの用語では帳簿の帳尻を合わせる。それからふたたび捺染工場に戻って、次の通学時間がくるまで半年のあいだ工場で働く。時期がくるとふたたび学校に通って、帳簿の帳尻を合わせるのである。…多くの子供たちは、法律で定められた150時間を学校で過ごしても、その後の6ヶ月を捺染工場で働くうちに、すっかり白紙の状態に戻っている。…前に学校で学んだことなど、もちろんみんな忘れているのである。

また別の捺染工場では、工場の仕事の都合だけで通学期間が決められる。すなわち6ヶ月の期間のあいだら通学日を分散させて、1日3時間から5時間通学させて、いわば分割払いで必要な通学期間をこなすのである。たとえばある日は午前8時かに午前11時まで通学させられ、次の日は午後1時から4時まで通学する。しばらく欠席した後に、また思いだしたように午後の3時から6時まで通学する。その後の3、4日、あるいは1週間は通学してくるかもしれないが、また突然のように3週間から1ヶ月も姿を見せないこともある。その後にも雇用主がたまたまその子を必要としない中途半端な日に数日間、中途半端な時間だけ、通学してくるといった状態である。こうして児童は150時間が満了するまで、学校から工場へ、工場から学校へと、いわば小突き回されるのである」。

マニュファクチュアで働く男性労働者たちはまだ資本の専制に抵抗していたが、機械類は協業によって結びつけられた労働人員に、女性と子供を大量につけ加えることで、ついにこの抵抗を切り崩すことに成功したのである。

 

B.労働日の延長

資本としての機械の欲望

機械は、労働の生産性を高くするため、すなわち商品の生産に必要な労働時間を短縮するための、最も強力な手段だとすれば、機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接にとらえた産業で労働日をどんな自然的限界をも越えて延長するための最も強力な手段になる。機械は、一方では、資本が自分のこのような不断の傾向を赴くままにさせることを可能にする新たな諸条件をつくりだし、他方では、他人の労働にたいする資本の渇望をいっそう激しくする新たな動機をつくりだすのである。

まず第一に、機械では労働手段の運動と働きとが労働者にたいして独立化されている。労働手段は、それ自体として、一つの産業的な恒久運動機構となり、この機構は、もしそれが自分の人間的補助者のなかのある種の自然的制限すなわち彼らの肉体的弱点や彼らのわがままに衝突しないならば、不断に生産を続けるはずのものである。だから、それは、資本としては─そして資本としては自動装置を資本家において意識と意志とをもつのであるが─、反抗的ではあるが弾力的な人間的自然的制限を最小の抵抗に抑えつけようとする衝動によって、活気づけられているのである。そうでなくても、この抵抗は、機械による労働の外観上の容易さと、より従順な婦人・児童要素とによって、減らされているのである。

機械は労働の生産性を高め、ひとつの製品の生産に必要な労働時間を短縮させるための最も強力な手段です。他方で、資本の担い手である機械は、、あらゆる自然の限界を超えて労働日を延長させるためのもっとも強力な手段となります。機械は人間と違って休む必要がないからです。そのことは、限界を超えて労働を使用したいという欲望を資本家にたきつけるものとなるのです。

機械が導入されると、その労働手段としての働きが、労働者から独立したものとなります。つまり、機械による労働手段が永久機関のように休みなく永遠に働きつづけるようなものとなり、その機械を操作する労働者の身体をもった人間である限界とは独立して、休みなく生産し続けることができるということです。

もとより、資本家は機械がそのように中断することなく生産し続けることを望んでいるので、機械は、そのような資本家の欲望と意志を体現するものとなっています。そのような機械は、労働者の人間である限界にとどまる抵抗を抑えようとします。このように人間の抵抗は機械での作業が、手作業より楽なものであることと、女性や子供という労働者が弱者であり資本に逆らうことができないために、抵抗が弱められているのです。

機械類は労働の生産性を高め、ある商品の生産に必要な労働時間を短縮するためのもっとも強力な手段である。そのため資本の担い手である機械類は、まず機械化の直接の影響を受けた産業分野において、あらゆる自然の限界を超えて労働日を延長させるためのもっとも強力な手段となる。機械類は、あらゆる拘束から解き放たれたいと願う資本に固有のたえざる傾向を実現するための新たな条件を作りだす一方で、他人の労働を利用しようとする資本の貪欲な願望をさらに強める新たな動機を作りだしたのだった。

機械類が導入されるとまず、機械のうちにとりつけられた労働手段の動きと作用が、労働者から独立したものとなる。労働手段はそれ自体が産業的な永久機関のようなものとなり、助手である人間の自然的な限界である身体的な弱さやわがままなどに衝突しないかぎり、中断せずに生産しつづけることだろう。

自動装置が資本として存在するときには、資本家という姿において意識と意志をもつのであり、この資本としての機械は、抵抗するものの弾力性のある人間の自然的な限界を、どうにかして最低限の抵抗に抑えようと衝動に動かされている。この人間たちの抵抗は、一見しいたところは機械での作業が楽なものであることと、従順で柔軟な女性労働と子供の労働が導入されたことのために、そもそも弱められているのである。

 

機械の損耗と労働日

機械の生産性は、すでに見たように、機械から製品に移される価値成分の大きさに反比例する。機械が機能している期間が長ければ長いほど、機械によってつけ加えられる価値はそれだけ大きい生産物量の上に分けられることになり、機械が個々の商品につけ加える価値部分はそれだけ小さくなる。ところが、機械の活動的な生存期間は、明らかに、労働日の長さすなわち1日の労働過程の継続時間にこの労働過程が繰り返される日数を掛けたものによって規定されている。

機械の損耗は、けっしてその利用時間に精確に数学的に対応するものではない。また、このように対応するものと前提しても、7年半のあいだ毎日16時間ずつ使われる機械は、15年のあいだ毎日8時間ずつしか使われない同じ機械と比べて、これと同じ大きさの生産期間を包括するのであって、これよりも多くの価値を総生産物につけ加えるのではない。しかし、前のほうの場合には機械の価値はあとのほうの場合の2倍の速さで再生産されるであろうし、また、この機械によって資本家は7年半のあいだに、別の場合には15年間で飲み込むのと同じ量の剰余労働を飲み込むであろう。

機械の物質的な損耗は二重である。一方は、個々の貨幣が流通によって摩耗するように、機械の使用から生じ、他方は、使われない剣が鞘のなかで錆びるように、その非使用から生ずる。これは自然力による機械の消耗である。第一の種類の損耗は多かれ少なかれ機械の使用に正比例し、あとのほうの損耗はある程度まで機械の使用に反比例する。

しかし、物質的な損耗のほかに、機械はいわば無形の損耗の危険にもさらされている。同じ構造の機械がもっとも安くに再生産されうるようになるとか、この機械と並んでもっと優秀な機械が競争者として現われるようになるかとすれば、それに応じて機械は交換価値を失ってゆく。どちらの場合にも、たとえ機械そのものはまだ若くて生命力をもっていようとも、その価値は、もはや、実際にその機械自身に対象化されている労働時間によっては規定されないで、それ自身の再生産かまたはもっと優秀な機械の再生産に必要な労働時間によって規定されている。したがって、それは多かれ少なかれ減価している。機械の総価値が再生産される期間が短ければ短いほど、無形の消耗の危険は小さくなり、そして、労働日が長ければ長いほど、かの期間は短い。ある生産部門ではじめて機械が採用されるという場合には、その機械をもっと安く再生産するための新しい方法やいろいろな改良が次々に現われて、それは個々の部分や装置だけではなく機械の全構造に及ぶ。それだから、機械の生涯の最初の時期には労働日延長へのこの特別な動機が最も急激に作用するのである。

機械化された工場の生産性は、機械から製品に引き渡される価値部分の大きさに反比例します。機械が作動している時間が長ければ長いほど生産される総量は大きくなります。しかし、機械によってつけ加えられる価値は、その多くなった生産物の総量がふえるほど、生産された個々の商品につけ加えられる価値が小さくなります。また、生産の総量は機械が作動できる時間という限界があります。1日24時間、それ以上の時間はありません。したがって、1日の労働時間の長さに、日数を乗じた時間が、この期間の長さとなります。

機械の損耗度は、上記の利用時間の長さに正比例するわけではありません。例えば、7年半のあいだ毎日16時間も使用した機械と、15年にわたって毎日8時間だけ使用した機械を比較してみると、どちらも生産に使われた時間の長さは同じです。同様に、生産物の総量につけ加えた価値の大きさも同じです。しかし1日に16時間にわたって7年半も使用された機械の価値は、1日8時間で15年間使用された機械の2倍の速度で再生産されるのです。それによって資本家は、7年半のあいだに、ほんらいなら15年間掛けてえられたはずの増殖労働を手にするということになります。

機械の物質的な磨耗は二重に生じるものです。まず、機械は使用することで摩耗します。他方で、使用しないことでも、錆びたりして消耗します。錆などは自然の力の侵食です。この二重の磨耗によって、使用したことによる摩耗はある程度使用時間に正比例するものですが、自然力による侵食は使用時間に反比例するのである。

機械は物質的な磨耗だけでなく、いわば無形の磨耗というのもあります。つまり、同じような機械が、より安価で生産されたり、その機械より優れた機械がライバルとして登場した時には、その機械の交換価値は価値を減じることになります。はなはだしい場合には価値を失うこともありえます。このどちらの場合にも、その機械がどれほど新品で、活力にあふれていたとしても、その機械の価値は、その安価となった機械の生産に費やした時間によって、あるいはすぐれたライバルの機械の生産に必要な労働時間によって決まるからです。

その機械の全体の価値が再生産される期間が短いほど、無形の損耗が発生するおそれは小さくなります。そして、労働の時間が長いほど、その機械の全体の価値が再生産される期間、つまり機械を休ませる期間は短くなります。ある産業分野で機械が最初に導入された時期には、その機械をより安価に再生産する方法や改良が次々と考案されます。このような方法や改良は、労働時間をできるだけ長くしようという動機の切実なあらわれです。

すでに確認したように機械類の生産性は、機械から製品に引き渡される価値部分の大きさに反比例する。機械が作動している期間が長ければ長いほど、生産物の総量は大きい。そして機械によってつけ加えられる価値は、多くなった生産物の総量に分散されるまで、生産物の総量が大きくなるほど、個々の商品に機械がつけ加える価値が小さくなる。しかし機械が作動することのできる期間の長さに規定されるのはあきらかである。そして1日の労働過程の時間の長さに、その労働過程が反復される日数を乗じた大きさが、この期間の長さを決定する。

機械の損耗度は、その利用時間の長さに厳密に数学的に比例するわけではない。また仮に比例すると想定したとしても、7年半のあいだ毎日16時間も使用した機械と、15年にわたって毎日8時間だけ使用した機械を比較してみよう。どちらも生産に使われた時間の長さは同じであり、生産物の総量につけ加えた価値の大きさも同じである。しかし1日に16時間にわたって7年半も使用された機械の価値は、1日8時間で15年間使用された機械の2倍の速度で再生産されるのである。それによって資本家は、7年半のあいだに、ほんらいなら15年間掛けてえられたはずの増殖労働を手にするのである。

機械の物質的な摩耗は二重に生じる。まず、硬貨が流通するときに摩耗するように、機械は使用されることで摩耗する。他方で剣を鞘にいれておいたままにしていると錆びるように、使用しないことでも摩耗する。この摩耗は自然力による侵食である。使用による摩耗は多少なりとも使用時間に正比例するが、自然力による侵食はある程度は使用時間に反比例するのである。

機械は物質的に摩耗するだけではない。いわば無形の損耗が生じることもある。同じ構造の機械が安価に再生産できるようになるか、さらに優れた機械がライバルとして登場した場合には、もとの機械は交換価値を失う。どちらの場合にも、もとの機械がどれほど若々しく、活力にあふれていたとしても、その価値は、機械のうちに対象化されている労働時間によって、あるいはさらに優れた機械の生産に必要な労働時間によってきまるのである。すなわちもとの機械は多少なりとも価値が下がったということである。

その機械の全体の価値が再生産される期間が短いほど、こうした無形の損耗が発生する危険性は小さくなる。そして労働日が長いほど、その機械の全体の価値が再生産される期間は短くなる。ある産業分野で機械類が最初に導入された時期には、それをより安価に再生産する方法や改良がつづけざまに考案される。こうした方法や改良は機械の個々の段階には、労働日を延長しようとする特別な動機がきわめて切実なものとなる。

 

労働日の延長の利益

ほかの事情が変わらず労働日も与えられているとすれば、2倍の労働者数を搾取するためには、機械や建物に投ぜられる不変資本部分も原料や補助材料などに投ぜられる不変資本部分も2倍に必要がある。労働日を延長すれば、生産規模は拡大されるが、機械や建物に投ぜられる資本部分は不変のままである。したがって、剰余価値が増大するだけではなく、その搾取のために必要な支出が減少することになる。このことは、ほかの場合でも労働日が延長されればつねに多かれ少なかれ起きることではあるが、この場合にはいっそう決定的に重要である。というのは、ここでは労働手段に転化される資本部分が一般にいっそう大きな比重をもつからである。すなわち、機械経営の発展は、資本のうちの絶えず増大する一成分を、資本が一方では絶えず価値増殖を続けると同時に他方では生きている労働との接触を中断されればたちまち使用価値も交換価値も失ってしまうような形態に、拘束するのである。イギリスの巨大綿業者の1人であるアッシュワース氏はナッソー・ウィリアム・シーニア教授に次のように教えた。

「もしある農夫が彼の鋤をほうっておくならば、彼はそのあいだ18ペンスの資本をむだにすることになる。もしわれわれの使用人(すなわち工場労働者)の1人が工場を去るならば、彼は10万ポンド・スターリングもかかった資本をむだにすることになる。」

考えてもみよ!10万ポンドもかかった資本をただの一瞬間でも「むだ」にするとは!じっさい恐ろしいことにちがいない、われわれの使用人の1人がかりそめにも工場を去るというようなことは!機械の規模が大きくなるということは、アッシュワース氏に教えられたシーニアにもわかるように、労働日がますます延長されてゆくことを「望ましい」ものにするのである。

そのほかの状況が同じで労働時間も一定であれば、搾取する労働者の数を2倍にするためには、原料や補助材料に投入される不変資本の金額を2倍にするだけでなく、機械類や建物に投入される不変資本の金額も2倍にすることが必要です。つまり、労働者の数を増やして、生産機械の数も増やせば、同じ時間で機械の台数が2倍になり、生産が2倍になるということです。しかし、労働時間を延長すれば、機械や建物に投入する不変資本の金額を変えずに生産規模を拡大することができます。

労働時間の延長は、剰余価値を増やすだけでなく、剰余価値を搾取するために必要な費用も節約できるということです。それは、労働手段に投入される資本が、費用の中で大きな比重を占めているからです。機械化した工場生産が発達すればするほど、機械化のために資本を投入することになる。ここではマルクスは資本が機械に拘束されるという言い方をしていますが、機械への投資を避けられなくなるということです。しかし、その投入された資本は価値を増殖させます。しかしまた他方では、機械が生産を休んだり止めてしまったりしたときには価値を失ってしまう。それゆえ、投資をやめられなくなる、つまり拘束されるのです。

その他の状況に変わりがなく労働日も一定だとすると、搾取する労働者の数を2倍にするためには、原料や補助材料に投入される不変資本の金額を2倍にするだけでなく、機械類や建物に投入される不変資本の金額も2倍にする必要がある。しかし労働日を延長すれば、機械類や建物に投じる不変資本の金額を変えずに、生産規模を拡大することができる。

これによって増殖価値が増えるだけでなく、増殖価値を搾取するために必要な経費も削減される。これは労働日を延長した場合には多少なりともつねに発生することではあるが、ここではそれが決定的な意味を持つ。労働手段に投入されている資本部分が一般に大きな比重を占めているからである。機械経営が発達すると、たえず増大する資本は[機械という]一つの形態に拘束されることになる。たしかにこの形態における資本は一方ではたえず価値を増殖することができるが、他方では生ける労働との接触を断たれた瞬間に、使用価値も交換価値も失ってしまうからである。

イギリスの巨大な木綿業者のアッシュワース氏は、ナッソー・W・シーニョア教授にこう教えたものだった。「農夫が鋤を置けば、休んでいるあいだに彼は18ペンスを失ったことになる。われわれの人員(工場の労働者のことだ)の1人が工場を離れると、彼は10万ポンドもした資本を無駄にしたことになる」。

考えていただきたい!10万ポンドもした資本を一瞬でも「無駄に」することができるだろうか。実際にわれわれの人員の1人がそもそも工場を離れることなど、許すべからざることである!アッシュワース氏に教えられたシーニョア教授が洞察したように、機械類を使用する規模が大きくなると、労働日をたえず延長することが「望ましい」ことになる。

 

機械の「初恋」時代と普及期

機械が相対的剰余価値を生産するというのは、ただ、機械が労働力を直接に減価させ、また労働力の再生産に加わる諸商品を安くして労働力を間接に安くするからだけではなく、機械が最初にまばらに採用されるときには機械所有者の使用する労働を何乗もされた労働に転化させ、機械の生産物の社会的価値をその個別的価値よりも高くし、こうして資本家が1日の生産物のより小さい価値部分で労働力の日価値を補填することができるようにするからでもある。それゆえ、機械経営がまだ一種の独占となっているこの過渡期のあいだは、利得は異常に大きなものであって、資本家はこの「初恋時代」をできるかぎりの労働日の延長によって徹底的に利用しようとするのである。利得の大きいことは、より以上の利得への熱望をそそるのである。

同じ生産部門のなかで機械が普及してゆくにつれて、機械の生産物の社会的価値はその個別的価値まで下がる。そして、剰余価値は資本家が機械によって不必要にした労働力から生ずるのではなく逆に彼が機械につけて働かせる労働力から生ずるのだという法則が貫かれる。剰余価値はただ資本の可変部分だけから生ずるのであり、また、すでに見たように、剰余価値は二つの要因によって、すなわち剰余価値率と、同じ時に働かされる労働者の数とによって、規定されている。労働日の長さが与えられていれば、剰余価値率は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれる割合によって規定される。また、同じ時に働かされる労働者の数のほうは、不変資本部分にたいする可変資本部分の割合によって定まる。ところで、機械経営は労働の生産力を高くすることによって必要労働の犠牲において剰余労働を拡大するとはいえ、それがこのような結果を生みだすのは、ただ、与えられた一資本の使用する労働者の数を減らすからにほかならないということは、明らかである。機械経営は、資本のうちの以前は可変だった部分、すなわち生きている労働力に転換された部分を、機械に、つまりけっして剰余価値を生産しない不変資本に、変える。たとえば、24人の労働者からしぼり出すのと同じ量の剰余価値を2人の労働者からしぼり出すということは、不可能である。24人の労働者のそれぞれは12時間についてたった1時間の剰余労働しか提供しないとしても、合計すれば24時間の剰余労働を提供するが、2人の労働者では、総労働が24時間にしかならない。だから、剰余価値を生産するために機械を充用するということのうちには一つの内在的な矛盾がある。というのは、機械の充用が、与えられた大きさの一資本によって生みだされる剰余価値の2つの要因のうちの一方の要因である剰余価値率を大きくするためには、ただ他方の要因である労働者数を小さくするよりほかはないからである。この内在的な矛盾は、一つの産業分野で機械が普及するにつれて、機械で生産される製品の価値が同種のすべての商品の規制的な社会的価値になれば、たちまち外に現われてくる。そして、この矛盾こそは、またもや資本を駆り立てて、おそらく自分では意識することなしに、搾取される労働者の相対数の減少を相対的剰余労働の増加によるだけではなく絶対的剰余労働の増加によって埋め合わせるために、むりやりな労働日の延長をやらせるのである。

機械が相対的剰余価値を生産するのは、直接的に労働力の価値を低下させるか、労働力の再生産の過程で使用される商品の価格を下げることで間接的に労働力の価値を低下させることによってです。しかしそれだけではなく、機械導入の最初の頃は、他のライバルは手工業かマニュファクチュアであるため、機械の所有者が使用する労働は、その機械によって、機械を導入する以前に比べて能力の高い労働に変化しているのです。そのため、機械で生産するひとつひとつの製品の価値は、手工業を前提とする社会的な価値よりも低くなります。それにより、資本家はその価値の差によって、労働者の1日の価値をまかなうことが可能となるのです。

このような過渡期では、機械化された生産が、この工場が唯一で、独占的であることから、利益は異様と言えるほど莫大なものになります。このとき、資本は作れば作るほど利益が増えるので、労働日を延長しようとします。

しかし、それは過渡的なことで、他の工場も追随して機械化を導入するので、その生産分野では機械化が普及します。そうなると、機械で製造した製品の社会的な価値は、先駆的に機械化して生産して価値を低くしていた製品と同じところまで低下してきます。そうなると、次のような剰余価値の一般的な法則があてはまる状態になってゆきます。つまり、剰余価値は資本家が機械化することによって節約した労働力によって生まれるのではなく、機械で働かせる労働力によって生まれるということです。剰余価値の大きさは、剰余価値率と同時に使用される労働者の人数によって決まります。

労働日の長さ(1日の労働時間)が決まっていれば、剰余価値は労働日が必要労働と剰余労働に分配される比率によってきまります。また、工場で使用される労働者の人数は、不変資本に対する可変資本の比率によって決まってきます。これは、生産設備で何人の労働者が必要となるかということです。そこで、機械化された工場の経営は、労働の生産力を向上させることで、必要労働を短縮して低く抑え、相対的に剰余労働が大きくなるように努めます。それが可能になるのは、雇用する労働者の人数が減るからです。機械化することによって、以前は可変資本であった労働力に変えられていた資本の一部が機械に、つまり固定資産という不変資本に変えられたからです。

実際のところ、例えば24人の労働者を使用していることで生まれている剰余価値を、機械の導入によって労働者2人に減らすことができたとしても、この労働者を使用して剰余価値をえることはできないわけです。計算してみると、24人の労働者で、1日の労働時間12時間のうち1時間ずつ剰余労働を行うと、1日で24時間の剰余労働ということになります。しかし、2人の労働者では総労働時間が24時間です。

だから、剰余価値を生産するために機械を使用することには本質的な矛盾が内在するとマルクスは指摘します。つまり、剰余価値の大きさは、剰余価値率と同時に使用される労働者の人数によって決まるのですが、機械化によって剰余価値率を高めることができたとしても、それはもう一方の剰余価値の大きさを決める要因である労働者数を削減することによって可能となるのです。

このような矛盾は、その産業分野で機械が一般的に普及して、機械を使用して生産した製品の価値が、その生産一般の社会的価値と等しくなったときに、現われます。そこで、資本は、この矛盾を克服するために労働日を強引に延長させようとするようになるのです。そうすれば、労働者の人数の減少を総体の労働時間を増やすことによって、補おうとするのです。

機械が相対的増殖価値を生産するのは、直接に労働力の価値を低下させるか、労働力の再生産過程において使用される商品の価格を下げることで、労働力の価値を間接的に低下させることによってである。しかしそれだけではない。機械がまだ散発的に導入され始めた初期の時期には、機械の所有者が使用する労働は、機械のために能力の高い労働に変化しているのである。これによって機械で生産する製品の個別の価値が、その社会的な価値よりも低くなるのであり、資本家は1日の生産物のより少ない部分で、労働者の1日の価値をまかなえることになる。

機械経営がまだある種の独占であるこうした過渡期には、利益は異例なほどに大きくなり、資本家は労働日をできるだけ延長することで、この「初恋時代」を徹底的に搾取し尽くそうとする。大きな利益がえられるために、さらに利益を増やそうとする渇望が生まれるのである。

同じ生産分野で機械が一般に普及してくると、機械で製造した製品の社会的な価値は個別の価値にまで低下してくるのであり、次の法則が妥当するようになる。増殖価値は、資本家が機械によって節約した労働力によって生まれるのではなく、機械で働かせる労働力によって生まれるのである。その場合には増殖価値は資本の[不変部分の機械ではなく]可変部分からだけ生まれるのであり、すでに確認したように増殖価値の大きさは、増殖価値率と、同時に使用される労働者の人数によって決まる。

たとえば24人の労働者から搾取している増殖価値を、[機械の導入によって労働者を2人に減らしても、この]2人の労働者から搾取することはできない。24人の労働者であれば、それぞれが12時間のうちの1時間しか増殖労働を行わなくても、合計で24時間の増殖労働が提供されることになる。しかし2人の労働者では、総労働の時間が24時間なのである。

だから増殖価値を生産するために機械を使用することには、内在的な矛盾がひそんでいるのである。与えられた大きさの資本がもたらす増殖価値は[すでに述べた]2つの要因によって決まるが、機械を使用して片方の要因である増殖価値率を高めることができるのは、もう一つの要因である労働者の人数を削減することによってなのである。

この内在的な矛盾は、ある産業分野で機械類が一般に普及して、機械を使用して生産した製品の価値が、同種のすべての製品の価値を決定する社会的な価値とひとしくなると顕在的なものになる。資本自身は意識することがないだろうが、この矛盾のために資本はきわめて暴力的に労働日を延長しようとするのである。資本は労働日を延長することで、搾取される労働者の人数の相対的な減少を、相対的増殖労働だけでなく、絶対的増殖労働の増加によって補おうとするのである。

 

機械のパラドックス

こうして、機械の資本主義的充用は、一方では、労働日の無制限な延長への新たな強力な動機をつくりだし、そして労働様式そのものをも社会的な労働体の性格をも、この傾向にたいする抵抗をくじくような仕方で変革するとすれば、他方では、一部は労働者階級のうちの以前は資本の手に入らなかった諸層を資本にまかせることにより、一部は機械に駆逐された労働者を遊離させることによって、資本の命ずる法則に従わざるをえない過剰な労働者人口を生みだすのである。こうして、機械は労働日の慣習的制限も自然的制限もことごとく取り払ってしまうという近代歴史上の注目に値する現象が生ずるのである。こうして、労働時間を短縮するための最も強力な手段が、労働者とその家族との全生活時間を資本の価値増殖に利用できる労働時間に変えてしまうための最も確実な手段に一変する、という経済的逆説が生ずるのである。古代の最大の思想家、アリストテレスは次のように夢想した。

「もしも、ダイダロスの作品がひとりでに動いたり、ヘファイストスの三脚台が自力で神聖な仕事についたりしたように、それぞれの道具が、命令によって、または自力で予感して、自分のするべき仕事をすることができるとすれば、もしもそのように梭がひとりでに織るとすれば、親方に助手もいらないし、主人に奴隷もいらないであろう。」

また、キケロの時代のギリシャの詩人、アンティパトロスは、穀物をひくための水車の発明を、このすべての生産的な機械の基本形態を、女奴隷の解放者として、また黄金時代の再建者として、たたえた!「異教徒だ、まさに異教徒だ!」彼らは、かしこいバスティアが発見していたように、そしてすでに彼以前にもっとかしこいマカロックが発見していたように、経済学やキリスト教についてなにもわかってはいなかった。ことに、彼らには、機械が労働日の延長のための最も確実な手段だということがわからなかった。彼らは、一方の人の奴隷状態を他方の人の十分な人間的発達のための手段として是認したかもしれない。しかし、何人かの粗野な、または半開の成り上がり者を「えらい紡績業者」や「大きなソーセージ業者」や「有力な靴墨商」にするために大衆の奴隷化を説教するためには、彼らには、独自なキリスト教的な器官が欠けていたのである。

このように機械化を進めると、労働日を無制限に延長させたいという強力な動機が資本家に生まれます。そこで労働のスタイルそのものを変えようとしました。これは近代的な産業に特有のスタイルと言えます。つまり、これまでの労働日の慣習的な制約も自然の制約もすべて取り払ってしまったのです。それは、労働時間を短縮するためのもっとも強力な手段であったはずの機械が、労働者とその家庭のすべての生活時間を、本来なら労働力の再生産のために必要な時間であったはずの時間が、資本の価値増殖のために利用できる労働時間に変えるためのもっとも確実な手段になるという経済的なパラドックスが生まれたのです。

資本は機械を導入することによって、生産コストを低下させ、短期的には特別増殖価値を取得することができますし、長期的には労働力の価値を低下させ、相対的増殖価値を取得することができます。しかし、ここには「内在的な矛盾」があります。というのも、機械を導入すれば、それだけ労働者が機械に取って代わられてしまい、ある一定額の資本が雇用する労働者の数が減少せざるを得ないからです。労働力の数が減少すれば、当然、その一定額の資本が生み出す増殖価値も減少せざるを得ません。これを埋め合わせようとして、労働日の延長が追求されるのです。

もっとも、このような「内在的矛盾」は、直接に当事者たちには意識されず、社会全体の平均的な「利潤率の低下」として感知されることになります。利潤率とは、増殖価値/前貸総資本(不変資本と可変資本の全体) によって定義されるものであり、資本の現実的動向を規定する要因となります。これについて詳しく知るには『資本論』第3巻を読まなければなりませんので、ここでは取り上げませんが、次のことだけは指摘しておきましょう。

マルクスの時代に比べて圧倒的に生産力が高くなった現在では、利潤率が非常に低い水準まで低下しており、とりわけいわゆる先進資本主義国においてはこのことは顕著な傾向となっています。このような状況の中でおこなわれてきたのが、規制緩和や財政支出の削減などの「新自由主義的」な諸政策なのです。日本ではこのような政策は「構造改革」などと呼ばれ、あたかも「経済成長」を目的にしているかのように言われていますが、実際はそうではありません。利潤率の低下が進み、それゆえ経済の停滞が著しい状況の中で、そう簡単に経済成長を実現できないことは誰にでもわかります。「新自由主義的」諸政策の本当の目的は、経済成長ではなく、社会保障なども含めた労働者の実質的な取り分を減少させることにより、増殖価値率を高め、利潤率の低下を補うことにあるのです。過度な労働時間による「過労死」がこれほど社会問題化しているにもかかわらず、むしろ、それに逆行するような、残業代不払いを合法化する法律の成立が資本によって要請されているのは、このような背景があるからにほかなりません。

このように機械を資本制的に利用することで一方では、労働日を際限なく延長しようとする強力な動機が新たに生まれる。そしてこうした傾向に抵抗しようとする動きを排除するような方法で、労働様式そのものを変革し、社会的な労働体の性格も変革するのである。他方で機械を使用することで資本はそれまで雇用できなかった労働者階級の層[女性と子供たち]を雇用できるようになるとともに、機械によって不明になった労働者たちを放出する。そこで、過剰な労働者人口が発生するのであり、この労働者人口は資本の法則に服さねばならないのである。

こうして近代産業の歴史におけるきわめて特異な現象が発生する。機械が労働日の慣習的な制約も自然の制約もすべて廃棄してしまうのである。こうして、労働時間を短縮するためのもっとも強力な手段であったはずの機械が、労働者とその家庭のすべての生活時間を、資本の価値増殖のために利用できる労働時間に変えるためのもっとも確実な手段になるという経済的なパラドックスが生まれるのである。

古代のもっとも偉大な思想家であるアリストテレスは、次のような夢を語っている。「ダイダロス作の彫像や、詩人が〈ひとりでに神の集いに入りきたりぬ〉と言っているヘファイストスの鼎がみずから動くように、梭がみずから布を織り、琴の撥がみずから弾ずるなら、職人の親方は下働き人を必要とせず、また主人は奴隷を必要としないであろう」。またキケロの時代のギリシャ詩人アンティパトロスは、穀物を碾くための水車の発明について、このあらゆる生産機械の原初的な形態とも言える発明を女奴隷の解放者であり、黄金時代をふたたび作りだす者と称えた。「異教徒よ、異教徒のすばらしさよ!」

異教の古代ギリシャ人たちは、利口なバスティアや、もっと賢いマカロックがすでに発見していたようには、経済学もキリスト教も理解していなかった。彼らはたとえば、機械が労働日を延長するためのもっとも確実な手段であることを認識していなかった。ギリシャ人たちはたしかに、1人の人間が完全な人間的な発達をとげるための手段として、別の人間が奴隷とされることを容認した。しかし数人の粗野な、あるいは自惚れた成り上がり者たちを「卓越した紡績業者」やら「優れたソーセージ作り」やら「勢力のある靴墨ディーラー」にしようとして、大衆を奴隷にするための説教をしたりはしなかった。古代のギリシャ人たちには、キリスト教に特有の器官が欠けていたのである。

 

C.労働の強化

労働の長さから強度に

機械が資本の手のなかで生みだす労働日の無限度な延長は、すでに見たように、のちには、その生活の根源を脅かされた社会の反作用を招き、またそれとともに、法律によって制限された標準労働日を招くのである。この標準労働日の基礎の上では、われわれが以前にも出会ったことのある一つの現象が決定的に重要なものに発展する─すなわち労働の強化が。絶対的剰余価値の分析にさいしては、まず第一に労働の外延的な大きさが問題にされ、労働の強度のほうは与えられたものと前提されていた。そこで今度は、外延的な大きさから内包的な大きさまたは程度の大きさへの変転を考察しなければならない。

機械類の進歩と、機械労働者という一つの独特な階級の経験の堆積とにつれて、労働の速度が、したがってまたその強度が自然発生的に増大するということは、自明である。たとえば、イギリスでは半世紀のあいだに労働日の延長が工場労働の強度の増大と並行して進んでいる。しかし、だれにもわかるように、一時的な発作としてではなく、毎日繰り返される規則的な均等性をもって労働が行われなければならない場合には、必ず一つの交差点が現われて、そこでは労働日の長と労働の強度とが互いに排除し合って、労働日の延長はただ労働の強度の低下だけと両立し、また逆に強度の上昇はただ労働日を短縮だけと両立するということにならざるをえない。しだいに高まる労働者階級の反抗が国家を強制して、労働時間の短縮を強行させ、まず第一に本来の工場にたいして一つの標準労働日を命令させるに至ったときから、すなわち労働日の延長による剰余価値生産の増大がきっぱりと断たれたこの瞬間から、資本は、全力をあげて、また十分な意識をもって、機械体系の発達の促進による相対的剰余価値の生産に熱中した。それと同時に、相対的剰余価値の性格に一つの変化が現われてくる。一般的に言えば、相対的剰余価値の生産方法は、労働の生産力を高くすることによって、労働者が同じ労働支出で同じ時間により多くを生産できるようにする、ということである。同じ労働時間は相変わらず総生産物には同じ価値をつけ加える、といっても、この不変の交換価値は今ではより多くの使用価値で表わされ、したがって、一個の商品の価値は下がるのではあるが。ところが、生産力を発展と生産条件の節約とに大きな刺激を与える強制的な労働日の短縮が、同時にまた、同じ時間内の労働支出の量大、より大きい労働力の緊張、労働時間の気孔のいっそう濃密な充填、すなわち労働者の濃縮を、短縮された労働日の範囲内で達成できるかぎりの程度まで、労働者に強要することになれば、事態は変わってくる。このような、与えられたある時間内により大量の労働が圧縮されたものは、いまや、そのとおりのものとして、つまりより大きい労働量として、教えられる。[外延的な大きさ]としての労働時間の尺度と並んで、今度はその密度の尺度が現われる。今では10時間労働日の密度の濃い1時間は、12時間労働日の密度のうすい1時間に比べて、それと同じか、またはそれよりも多い労働すなわち支出された労働力を含んでいる。したがって、その1時間の生産力の上昇による相対的剰余価値の増大は別としても、今では、たとえば6時間40分の必要労働にたいする3時間20分の剰余労働が、以前には8時間の必要労働にたいする4時間の剰余労働が与えたのと同じ価値量を、資本家に与えるのである。

このようにして機械を導入した工場の資本家は、労働日を際限なく延長させようとします。これに対して、社会はこれに抵抗し、法律によって標準労働日を定めました。この標準労働日という規制を受けたことから、資本家は、労働日の延長から労働強化に努めるように方向転換しました。この辺りの事情は、絶対的剰余価値のところで見ましたが、そのときには、労働の外延的な大きさとしての時間についてで、労働の内包的な大きさとしての強度は問題としませんでした。ここでは、労働の外延的な大きさとしての時間が、内包的な大きさとしての強度に変えられていくプロセスを追い掛けていきます。

機械化が進展し、機械労働者という人々が新たに生まれて経験を蓄積していくにしたがって、その労働の速度と強度は自然と高まっていったのは当然のことと言えます。たとえば、イギリスでは過去50年間を通じて、労働日の延長と工場労働の強化が変更して進められました。しかし、作業というものは突発的に発生する一度きりのものではなくて、毎日毎日、同じ作業を規則的に同じように繰り返すものです。だから、労働日の延長と労働の強化があるところで限界に到達してしまうことは明らかです。この限界に到達してしまったら、労働日を延長すれば労働の強度はかえって低くなってしまい、また、労働の強度を高めれば労働日を短縮することになってしまうようになってしまいました。

このような資本家の動きに対して、労働者側の抵抗は怒りを伴って高まるのは当然で、そこで政府は労働時間を強制的に短縮させるため、工場に標準労働日を採用するように命じたのでした。ここいいたって、労働日の延長により絶対的剰余価値を増産させることができなくなりました。そこで資本家は、機械化された生産体制をより発達させることによって、相対的剰余価値を生産することに傾注するようになりました。

このことによって相対的剰余価値の性格が変化しました。つまり、一般的に相対的剰余価値を生んでいくためには、労働の生産力を向上させて、労働者が同じ時間のうちに、同じ労働を投じて、より多くの製品を製造できるようにしなければならない。あるいは、労働時間が同じであれば、全体の製品に同じ価値が付与されるが、より多くの製品が製造されるために個々の製品の交換価値は変化しないものの、全体の使用価値は増大するのであり、これによって個々の商品の価値は低下する。というものです。

しかし、ここで労働日の規制のように強制的に短縮させられると状況が一変します。つまり、労働日を延長することができなくなったので、生産量を増やしていくためには、生産力を発展させ、生産条件の効率を向上させることしかなくなります。それにしたがって、同じ労働時間のうちに投じられる労働の量が増やされることになります。そのたるに、労働力の緊張が強められ、労働時間の隙間が細かに埋められることになりました。つまり労働者は、短縮された労働日のうちで実現できるかぎりで、労働を最大限まで密度を濃くすることを求められるようになりました。

そこで相対的剰余価値の性格が変わります。標準労働日という規制された労働時間のうちにより多くの労働を詰め込むようになります。それは、より多くの労働量として、そのまま計算されるようになり、外延的な大きさとしての労働時間の尺度に代わって、新たに労働時間の密度という別の内包的な尺度が登場することになりました。10時間の労働日のうちの密度の濃い1時間には、12時間の労働日のうちの密度の濃い1時間と同じだけ、あるいはそれ以上の労働が、投じられた労働力として含まれているようになりました。12時間から10時間に労働日の労働時間に短縮されても、同じ量の生産物を生産するということです。それが密度が濃くなるということです。この10時間の場合の密度の濃い1時間の労働によって作られた製品は、12時間の場合の密度の濃い1時間12分の労働によって作られた製品と同じ、あるいはより多くの価値を備えているというわけです。労働の生産力が向上したために相対的剰余価値が増加したということになります。

資本の手中にある機械類は、労働日を際限なく延長する。すでに確認したように、生活の根を脅かされた社会はこれに反発し、法律によって標準労働日を定めるようになる。この標準労働日を基盤として、すでに確認した現象である労働の強化が、決定的に重要なものとなる。絶対的増殖価値の分析で問題としたのは、労働の外延的な大きさ[としての時間]だけであり、労働の[内包的な大きさとしての]強度は与えられたものとしていた。これから検討するのは、労働の外延的な大きさが、内包的な大きさあるいは強度としての大きさに変えられていくプロセスである。

機械類が発達し、機械労働者という独特な階級が経験を蓄積するとともに、労働の速度と強度は当然ながら自然発生的に高まっていくのは明らかである。たとえばイギリスではこの半世紀のあいだを通じて、労働日の延長と工場労働の強度の増大が並行して進んできた。しかし仕事というものは突発的に発生する一時的なものではなく、規則的な均等性をもって日々反復されるものであるから、労働日の延長と労働の強度が拡大しなくなるある限界に到達するのは明らかである。この限界に到達した後は、労働日を延長しようとすれば労働の強度を低めなければならず、労働の強度を高めようとすれば、労働日を短縮せざるをえなくなる。

労働者階級の怒りが次第に高まると、国家は労働時間を強制的に短縮させ、ほんらいの工場に標準労働日の採用を命じざるをえなくなる。これによって労働日を延長して増殖価値の生産を増大させる道が最終的に閉ざされた。そこで資本はその瞬間から、機械システムの発達を加速させることによって、相対的増殖価値を生産することに意識的に全力を投じるようになった。

それとともに相対的増殖価値の性格に一つの変化が生じる。一般的に相対的増殖価値を生産するには、労働の生産力を向上させて、労働者が同じ時間のうちに、同じ労働を投じて、より多くの製品を製造できるようにする。労働時間が同じであれば、全体の製品に同じ価値が付与されるが、[より多くの製品が製造されるために個々の製品の]交換価値は変化しないものの[全体の]使用価値は増大するのであり、これによって個々の商品の価値は低下する。

しかし労働日が強制的に短縮されると状況は一変する。そしてこれが生産力を発展させ、生産条件の効率を向上させるための巨大な刺激となる。それとともに同じ労働時間のうちに投じられる労働の量が増やされ、労働力の緊張が強められ、労働時間の隙間が細かに埋められることになる。つまり労働者は、短縮された労働日のうちで実現できるかぎりで、労働を最大限まで密度を濃くすることを求められるのである。

与えられた時間のうちにより多くの労働が詰め込まれると、それはより多くの労働量として、そのまま計算されるようになる。[外延的な大きさ]としての労働時間の尺度のほかに、労働時間の密度という別の[内包的な]尺度が登場するのである。いまやこの10時間の労働日の密度の濃い1時間には、12時間の労働日の密度の濃い1時間と同じだけ、あるいはそれ以上の労働が、投じられた労働力として含まれている。この密度の濃い1時間の労働によって作られた製品は、密度の濃い1時間12分の労働によって作られた製品と同じ、あるいはより多くの価値を備えている。労働の生産力が向上したために相対的増殖価値が増加したことは別としても、現在ではたとえば[10時間の労働日のうちの]3時間20分の増殖労働が(必要労働の時間は6時間40分)、かつては[12時間の労働日のうちの]4時間の増殖労働によって(必要労働の時間は8時間)作りだされたのと同じ価値量を資本家に与えるのである。

 

労働日を短縮した効果

そこで次には、どのようにして労働が強化されるか?が問題である。

短縮された労働日の第一の作用は、労働力の作用能力はその作用時間に反比例するという自明の法則にもとづいている。それゆえ、ある限界内では、力の発揮の持続という点で失われるだけのものが、力の発揮の度合いという点で得られるわけである。しかし、労働者は現実にもより多く労働力を流動させるということ、これにたいしては、資本は支払い方法によって配慮する。機械がなんの役割も演じないかまたはつまらない役割しか演じないようなマニュファクチュア、たとえば製陶業では、工場法の実施が明確に示したことは、単なる労働日の短縮によっても、労働の規則性、均質性、秩序、連続性、エネルギーが驚くほどに高められるということだった。ところが、この作用は本来の工場では疑わしいものに見えた。というのは、ここでは、労働者が機械の連続的な均質な運動に従属していることが、もうとっくに最も厳格な規律をつくりだしていたからである。それだから、1844年に労働日を12時間よりも短縮することが討議されたときには、工場主たちはほとんど一致して次のように言明したのである。

「彼らの監督たちは、いろいろな作業場で、職工たちが時間をむだにしないように監視していた」、「労働者の側の用心深さと注意深さの程度を高める余地はほとんどない」、そして、機械の運転速度などのような他の事情がすべて変わらないとすれば、「それゆえ、うまく経営されていた工場では、労働者の注意深さを高めることなどからなにか大きな結果を期待するということは、無理であろう。」

このような主張は実験によって否定された。R・ガードナー氏は、プレストンにある自分の2つの大工場で1844年4月20日からはそれまでの1日12時間の作業をやめて11時間だけ作業させることにした。約1年後に現われた結果は、

「同量の生産物が同額の費用で得られて、労働者全体が以前は12時間でかせいだのと同じ労賃金11時間でかせいだ」ということだった。

ここでは紡績場や梳綿場での実験には触れないことにする。というのは、それは機械の速度の増加(2%)と結びついていたからである。これに反して、非常にさまざまな種類の軽い模様つきの趣味品までが織られていた織物部では、客体的な生産条件にはまったくなんの変化も起きなかった。そこでの結果は次のようだった。

「1844年1月6日から4月20までは、12時間労働日で労働者1人の平均週賃金がは10シリング1ペンス半、1844年4月20日から6月29日までは、11時間労働日で平均週賃金が10シリング3ペンス半だった。」

ここでは、以前に12時間で生産されたよりも多くのものが11時間で生産されたわけであるが、それは、ただ労働者のむらのない忍耐力と彼らの時間の節約との増進だけによるものだった。労働者たちは同じ賃金をもらって1時間の自由な時間を得たが、資本家のほうも、同じ生産物量を手に入れながら1時間分の石炭やガスなどの支出を節約することができたのである。同様な実験は、ホロックス・アンド・ジャクソン会社の諸工場でも行われて同様な成功をもたらしたのである。

労働時間の密度を高めるというのは、労働の強化と同じです。

労働日が短縮されたことによって生まれる最初の効果は、労働力の効率が労働力の行使される時間の長さに反比例するという周知の法則に基づいたものだということで。すなわちある特定の限界までは、労働時間の長さが短くなった分だけ、労働力の働きが向上することで補われるということです。そして、実際に資本家は支払い方法を工夫して、労働者が実際により多くの労働力を発揮するような配慮をするのです。

機械化された工場では、労働者は、機械の連続的で均質な動きに従属しており、すでにきわめて厳格な規律が作りだされていました。つまり、製造の速度は機械の均一的な動作の速度、つまり運転速度に従っていて、その速度を上げなければ、密度は高くならないはずです。

しかし、実際に繊維部門の工場では、11時間の労働日で、以前の12時間の労働日の頃よりも多くの製品がされたのでした。これはひとえに労働者がはるかにむらのないねばりをもって働き、時間効率を高めたことによるものです。労働者は同じ賃金をうけとり、1時間の自由時間を手に入れました。そして、資本家もまた同じ生産量を獲得し、1時間分の石炭やガスなどの支出を節約することができたのです。

それではどのようにして労働は強化されるのだろうか。

労働日が短縮されたことによって生まれる最初の効果は、労働力の効率は労働力は行使される時間の長さに反比例するという周知の法則に基づいたものである。すなわちある特定の限界までは、労働時間の長さが短くなった分だけ、労働力の働きが向上することで補われる。そして資本は支払い方法を工夫して、労働者が実際により多くの労働力を発揮するように配慮するのである。

製陶業など、機械がまったく、あるいはほとんど役立たないマニュファクチュアでは、工場法が購入されて労働日が短縮されただけで、労働の規則性、均質性、秩序、連続性、エネルギーなどが驚くほどに高まることが明らかになった。しかしほんらいの工場ではこの効果は疑問だった。工場では労働者は、機械の連続的で均質な動きに従属しており、すでにきわめて厳格な規律が作りだされていたからである。

だからこそ1844年に労働日を12時間以下に短縮する交渉が行われた際に、工場主たちはほぼ声を揃えて次のように断言したのだった。「工場の現場監督は、さまざまな作業場所で、工員たちにまったく時間を無駄にしないように監視してきた」。「労働者の集中度と注意力はこれ以上高めることはできない」。機械の運転速度などの他の条件がすべて変わらないとすれば「しっかりと運営された工場では、労働者の注意力の向上などによって何らかの明確な成果をあげられると考えるのは意味のないことである」。

しかしこうした主張はさまざまな実験によって反駁された。工場主のR・ガードナー氏は1844年4月20日以降、プレストンに所有していた2か所の大工場で、これまでの1日12時間を廃止して1日11時間労働にした。約1年後には、「以前と同じ費用で同じ量の製品が生産され、すべての労働者は12時間働いていたのと同じ賃金を11時間で稼いだ」ことが明らかになった。

紡績と梳毛作業におけると同じような実験では、同時に機械類の運転速度が2%引き上げられているので、ここでは触れないことにする。織物部門では、きわめて多様な種類の絵柄の薄手の流行品が織られていて、客観的な生産条件にはまったく変化はなかった。この部門での結果をあげると次のようになる。「1844年1月6日から4月20までは、12時間労働日で、労働者の平均賃金は週10シリング1ペンス半だった。1844年4月20日から6月29日までは、11時間労働日で、労働者の平均賃金は週10シリング3ペンス半[に増えたの]だった」。

この部門では11時間の労働日で、以前の12時間の労働日の頃よりも多くの製品がされたことになる。これはひとえに労働者がはるかにむらのないねばりをもって働き、時間効率を高めたことによるものである。労働者は同じ賃金をうけとり、1時間の自由時間を手に入れたが、資本家もまた同じ生産量を獲得し、1時間分の石炭やガスなどの支出を節約することができたのである。ホロックス・アンド・ジャクソン社のいくつかの工場でも同じような実験が行われたが、いずれも同じ結果がでている。

 

労働力の強化方法

労働日の短縮は、最初はまず労働の濃縮の主体的な条件、すなわち与えられた時間により多くの力を流動させるという労働者の能力をつくりだすのであるが、このような労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、資本の手のなかにある機械は、同じ時間により多くの労働をしぼり取るための客体的な、体系的に充用される手段になる。そうなるには2通りの仕方がある。すなわち、機械の速度を高くすることと、同じ労働者の見張る機械の範囲、すなわち彼の作業場面の範囲を広げることである。機械の改良は、労働者にいっそう大きな圧力を加えるためにも必要であるが、それはまた労働の強化におのずから伴うものでもある。なぜならば、労働日の制限は資本家に生産費の最もきびしい節約を強制するからである。蒸気機関の改良は、ピストンの1分間の運動回数を多くし、また同時に、いっそう力を節約することによって同じ原動機でいっそう大規模な機構を運転することを可能にし、しかも石炭の消費は前と同じか、または減少さえもするのである。伝動機構の改良は摩擦を減らす。また、以前の機械と比べて現代の機械のきわだった長所をなすことであるが、大小のシャフトの直径や重量を、ますます小さくなってゆく最小限度まで減らしてゆく。最後に、作業場の改良は、近代的蒸気織機の場合のように、速度を高め作用を拡大しながら機械の大きさを減らすか、または、紡績機の場合のように、機体を大きくするとともにそれの扱う道具の大きさや数を大きくするか、または50年代の中ごろに自動ミュール紡績機で紡錘の速度が5分の1高くされたようなやり方で、目に見えない細部の変更によってこれらの道具の可動性を大きくする。

では、そのような今日はどのようにして可能になったのでしょうか。労働日が短縮されると、そこで労働の密度を高めようとする動機が生まれます。労働者は、労働時間が短くなってしまうと賃金が減ってしまわないように、限られた時間内で、より多くの成果をあげようとします。一方で、資本家はその時間で、より多くの利潤を得ようとして機械をシステマティックに使用しようとします。

その具体的方法として2つのやり方があります。ひとつは機械の運転スピードを速くすることであり、もうひとつは機械の数を増やすことです。これらのことは労働者に大きな圧力を加えることになります。それが労働の強化になります。そこで資本家は生産費用を厳密に管理する必要があります。それは機械を増やしているので、その分の費用が余計にかかっているからです。

例えば、蒸気機関が改良されるとピストンの毎分の運動数が増加し、しかも同じ原動機によってより大きな作業をさせることができるようになります。しかし、石炭の使用量は増えないか、場合によっては減少させられます。そこでは、蒸気機関の改良のコストと、作業効率アップや費用の削減のメリットを照らし合わせて管理する必要があります。

労働日が短縮されると、まず労働の密度を高めようとする主体的な条件が作りだされる。すなわち労働者は、与えられた時間のうちでより多くの労働力を発揮することができるようになる。この労働日の短縮が法律で強制されるようになると、資本家の所有する機械は、同じ時間のうちに多くの労働を絞り取るための客観的な手段となり、これが組織的に利用される。

そのために2つの方法が利用される。一つは機械の運転速度をあげることであり、もう一つは同じ労働者がうけもつ機械の数を増やすこと、すなわち担当する範囲を拡大することである。[担当する範囲を拡大するには、機械の編成を改善する必要があるが]こうした機械類の編成の改善は、労働者に大きな圧力を加えるために必要とされるが、同時におのずと労働を強化することになる。労働日の長さに制限が加えられたために、資本家は生産費用を厳密に管理する必要があるからである。

蒸気機関が改良されるとピストンの毎分の運動数が増加し、しかも力を節約することで、同じ原動機によってより大きなメカニズムを作動させることができる。しかも石炭の使用量は変わらないか、場合によっては減少するのである。動力の伝達機構が改良されると、摩擦が発生しにくくなり、大小の軸の直径と重量が限界まで抑えられ、その限界はつねに小さくなりつづける(これが古い機械と現代的な機械のもっとも明確な違いである)。作業機械が改良される場合は、近代の蒸気織機のように、運転速度を速めて、機能範囲を拡大しながらも小型化される場合もあるし、紡績機のように、本体は大型になりながらも、操作する道具の数と範囲を増やす場合もある。細部に目につかないような改良を加えて、道具の可動性を高める場合もある。1850年代の半ばに、自動ミュール紡績機はこの方法で、紡錘の作動速度を2割も速めたのである。

 

イギリスでの実例

労働日が12時間に短縮されたのは、イギリスでは1832年のことである。すでに1836年にはイギリスの一工場主は次のように明言した。

「以前比べると、工場で行われる労働は非常に増大したが、それは、機械の速度の著しい増大が労働者にいっそうの注意深さと活動性とを要求するということの結果である。」

1844年にはロード・アシュリ、今のシャフツベリ伯が、次のような、文書で立証された陳述を下院で行った。

「工場での諸工程に従事する人々の労働は、このような作業が開始されときに比べれば、今では3倍になっている。機械が数百万人の人間の腱や筋肉に代わる仕事をしてきたことは疑いもないが、しかしまた、機械は、その恐ろしい運動によって支配される人々の労働を驚くほどに増加させてもきた。…40番手の糸を紡ぐために1対のミュール紡績機について12時間行なったりきたりする労働は、1815年には8マイルの距離を歩きとおすことを含んでいた。1832年には、同じ番手の紡績のために1対のミュール機について12時間に歩行する距離は20マイルになり、またしばしばもっと長かった。1825年には、ミュール機1台について紡績工は12時間に820回の糸張りをしなければならなかったから、合計すれば12時間で1640回になった。1832年には、紡績工は彼の12時間労働日のあいだにミュール機1台について2200回、合計4400回の糸張りを、1844年にはミュール機1台について2400回、合計4800回の糸張りをしなければならなかった。そして、いくつかの場合には、要求される労働量はもっと大きい。…私はここにもう一つ1842年の文書をもっているが、そのなかでは、労働がますます増加してゆくのは、ただ歩行距離が大きくなるからだけではなく、生産される商品の量が増加するのに職工数はその割合には減少するからであり、さらにまた、今ではしばしば、より多くの労働を必要とするより不良な綿が紡がれるからでもある、ということが立証される。…梳綿場でも労働の大増加が生じた。以前は2人に分けられていた労働を今では1人がする。…織物場では、多数の人々が働いており、たいていは女性であるが、機械の速度が増したために、最近の数年間に労働はまる10%も増加した。1833年には毎週紡がれたが数は1万8000だったが、1843年には2万1000になった。1819年には蒸気織機では横糸通しの回数は1分間に60だったが、1842年には140となり、これは労働の一大増加を示すものである。」

12時間法の支配のもとですでに1844年に労働が到達していたこの注目に値する強度を前にしては、イギリスの工場主たちが、この方向でのこれ以上の進歩はもはや不可能だ、だから労働時間のこれ以上の短縮は生産の減少と同じことだ、と言明したのも、当時としてはもっともなことだと思われた。彼らのこねる理屈の外観上の正当性は、同じ時に彼らの倦むところのない監察官、工場監督官レナード・ホーナーが次のように言明したことによって、最もよく証明される。

「生産される量はおもに機械の速度によって規制されるのだから、次のような諸条件が許すかぎりでの最も大きい速度で機械を運転することが工場主たちの利益であるにちがいない。その条件とは、機械の早すぎる損傷の防止、製品の品質の維持、連続的には不可能なほどの不可能なほど緊張しすぎるということは、よくあることである。そこで、破損や製品の粗悪化が、速度の利益では償えないほどになるので、工場主も機械の速さをゆるめざるをえなくなる。活動的で思慮のある工場主ならば、到達可能な最大限度を見つけだすので、私の得た結論は、12時間で生産するのと同じ量を11時間で生産するのは不可能だ、ということである。さらにまた、私は、出来高賃金で支払を受ける労働者は、同じ程度の労働を続けることができるかぎり最大の努力をするものと考えた。」

こういうわけで、ホーナーは、ガードナーなどの実験にもかかわらず、労働日を12時間からさらに短縮することは生産物の量を減らすにちがいない、と結論したのである。彼自身も、10年後には1845年の自分の疑念を引用して、労働日を強制的な短縮によって両方とも同様に最高度に緊張させられる機械と人間の労働力との弾力性を、自分がまだほとんど理解していなかったということを、語っているのである。

労働日が12時間に制限されたのは、イギリスでは1832年のことである。すでに1836年の時点で、イギリスのある工場主は「機械類の運転速度が著しく速まったために、労働者にいっそうの注意深さと活発さが求められ、以前と比較して工場で行われる労働がはるかに増大した」と語っている。

1844年には現シャフツベリー伯のアシュリー卿が下院において次のように、資料の裏づけのある証言を行っている。「工場の作業に従事する者の労働は、こうした作業が導入された頃と比較して、3倍の規模になっている。それまで数百人の人間の腱と筋肉が担ってきた仕事を、機械が代わりにするようになったのは間違いない。しかし機械は反対に、その恐るべき運動によって、支配する人間の仕事を驚くほどに増加させたのである。…40番手の糸を紡ぐためには、2台1組のミュール紡績機のあいだを歩いて往復する必要があるが、1815年頃には労働者は12時間の労働時間で、合計8マイルを歩いていた。1832年にはこの2台1組の機械で同じ糸を紡ぐためには、12時間の労働時間で20マイル、あるいはそれ以上の距離を歩かなければならなくなった。

1825年には、紡績工は12時間の労働時間でミュール機1台で820回、2台では合計で1640回も糸を張らなければならなかった。それが1832年には紡績工は同じ12時間の労働時間でミュール機1台で2200回、2台で合計4400回も糸を張る必要があった。それが1844年にはミュール機1台で2400回、2台で4800回にのぼっているのである。そして必要な労働の量がさらに大きくなっている場合もみられる。

…わたしの手元にある1842年の別の資料によると、労働の量が次第に増大しているのは、たんに歩く距離が増えているからだけではない。生産される商品の量が増えているのに、工員の数がそれに反比例して減っているからである。しかも品質の低い綿花が紡がれることもあり、そのために余計に仕事が増えている。…梳綿室でも労働が大幅に増えている。かつては2人でぶんたんしていた仕事を今では1人でこなしている。…織物室では多くの人が雇われているが、その多くが女性である。過去数年間は機械の運転速度が早まったために、1割以上も仕事が増えている。1838年には毎週1万8000綛[木綿糸840ヤード]を紡いでいたが、1843年には2万1000綛に増えている。1819年には蒸気機関で作動させる杼の数は毎分60個だったが、1842年にはそれが140個に増えている。労働の量はこれほど増えているのである」。

12時間労働法の適用のもとで、1844年の時点でこれほどの驚くべき労働の強度が達成されていたことを考えると、当時のイギリスの工場主たちが、この方向でさらに進歩を実現することはできない、いれ以上に労働を短縮するということは、生産を削減することだと説明したのも根拠あることに思える。工場主たちの主張が正しいようにみえたことは、彼らをずっと監督してきた工場視察官レナード・ホーナーがその頃に次のように発言していることからもよく分かる。

「生産量は主として機械類の運転速度によって決まる。だから工場主たちは、運転速度を最大にすることを望むに違いない。しかしそれには次の条件を考慮にいれる必要がある。機械類があまりに短期間に損耗してしまわないようにすること、製品の品質を維持すること、労働者が機械の速い速度に対応できること、労働者が持続して働けなくなるような緊張感を感じないようにすること、などである。工場主が焦って、機械の運転速度をあまりに速くしてしまうことも多い。そうすると破損したり不良品が発生したりして、速度を上げたことによる利益よりも大きな不利益が生まれ、工場主は機械の速度を遅くせざるをえなくなる。熱心で賢い工場主なら、到達できる最大速度をすぐにみつけるはずだから、わたしは11時間で12時間分の量を生産することはできないと結論した。さらに出来高払いで働いている労働者は、同じ労働水準を維持できるかぎり、最大限の努力をするだろうと想定した」。

この想定に基づいてホーナーは、すでに述べたガードナーなどの実験があったにもかかわらず、労働日を12時間以下に制限することは、製品の生産量を減少させるはずだと結論したのである。しかし10年後にホーナーは、1845年のこの考察を引用しながら、労働日を強制的に短縮することによって、機械類と人間の労働力にかけられる緊張の大きさに、機械も人間もいかに弾力的な対応できるかを、自分がほとんど理解していなかったと、認識不足を認めることになる。

 

10時間労働法以後

そこで次に、1847年以後の時期、すなわちイギリスの綿・羊毛・絹・麻工場に10時間法が適用されることになってからの時期に移ろう。

「紡錘の速度は、1分間にスロッスル機では500回転、ミュール機では1000回転増加した。すなわち、1839年には1分間に4500回転だったスロッスル紡錘の速度は、今(1862年)では5000回転になり、1分間に5000回転だったミュール紡錘の速度は今では6000回転になっている。これは、第一の場合には10分の1、第二の場合には6分の1の速度の増加となる。」

ジェームズ・ネーズミスはマンチェスターに近いパトリクロフトの有名な技師であるが、彼は1852年にレナード・ホーナーへの手紙のなかで、1848年から1852年になされた蒸気機関の改良について説明しる。彼は、蒸気馬力が政府の工場統計では引き続き1828年におけるその効率を基礎にして計算されていて、もはや名目的なものであり、ただ実馬力の指標としてしか役だたないものだということを述べてから、ことに次のように言っている。

「少しも疑う余地のないことであるが、同じ重量の蒸気機関、しばしば同じ機関にただ現代の改良を加えただけのものが以前よりも平均して50パーセント大きい仕事をしており、また、速度が毎分220フィートに限られた時代に50馬力を供給したのと同じ蒸気機関が、今日ではより少ない石炭消費で100馬力以上を供給する場合も多い。…現代の蒸気機関は、同じ公称馬力のものでも、その構造の改良やボイラーの減少した容積と構造などの改良の結果、以前よりも大きい力で運転される。…だから、公称馬力にたいする割合では以前と同数の職工が使用されるにもかかわらず、作業機にたいする割合では以前よりも少数の職工が使用されるのであろう。」

1850年には連合王国の諸工場は2563万8716の紡錘と30万1445台の織機とを動かすために13万4217公称馬力を使用していた。1856年には紡錘との数はそれぞれ3350万3580と36万9205だった。もし所要馬力が1850年と同じだったとすれば、1856年には17万5000馬力が必要だったことになる。ところが、政府の報告によれば、それは16万1435馬力にすぎなかったので、1850年の基準によって計算する場合に比べて1万馬力以上も少なかったのである。

「1856年の最近の報告(政府統計)によって確認された事実は、工場制度が急速に広がっているということ、機械にたいする割合では職工数が減ってきたということ、蒸気機関が力の節約やその他の方法によっていっそう大きな機械重量を運転するという、そして、作業機の改良や製造方法の変化や機械の速度の増大やその他多くの原因によって製品量の増加が達成されるということである。」「各種の機械に加えられた大きな改良は機械の生産力を非常に高くした。労働日の短縮が…これらの改良に刺激を与えたということには少しも疑う余地はない。これらの改良と労働者のいっそう強い緊張とは、(2時間すなわち6分の1)短縮された労働日に、以前はもっと長い労働日に生産されたのと少なくとも同量の製品が生産される。という結果をひき起こしたのである。」

次に1847年に10時間労働法がイギリスの木綿工場、羊毛工場、絹工場、麻工場に導入された後の時期について調べてみよう。

「紡錘の速度は、スロッスル紡績機で毎分500回転増大し、ミュール紡績機で1000回転増加した。要するにスロッスル紡錘の速度は、1839年には毎分4500回転だったが、今では(1862年)5000回転になり、ミュール紡錘の速度は毎分5000回転だったのが6000回転に上がった。これはスロッスル紡錘では1割の増加、ミュール紡錘では2割の増加になる」。

マンチェスター近郊のパトリクロフトの著名なエンジニアリング技師であるジェイムズ・ナスミスは1852年にレナード・ホーナーに書簡を送り、1848年から1852年のあいだに行われた蒸気機関の改良について次のように説明している。まず彼は、公式の工場統計では蒸気機関の馬力が相変わらず1828年の効率を基準にしているが、これはたんに名目的なものにすぎず、実際の力を示すたんなる目安にすぎないことを指摘した後に、「[以前と]同じ重量の[最新の]蒸気機関では、あるいは[以前と]同じ蒸気機関に近代的な改善を加えただけでも、平均すると以前よりも5割増しの仕事をすることができること、そして毎分220フィートというわずかな速度か出せなかった時代に50馬力を供給していた同じ蒸気機関が、今ではより少ない石炭を消費しながらでも、100馬力以上の仕事ができること、これは疑う余地のないことです。…公称馬力が同じでも近代的な蒸気機関は構造が改善され、ボイラーなどの規模や構造が小型化されたために、以前よりも大きな力をだせるようになっています。…ですから公称馬力との比較では、雇われている工員の人数は前と同じでも、作業機械との比較では、雇用されている行員の人数は減っているのです」ということである。

1850年に[アイルランドを含めた]連合王国の工場では、13万4217馬力の公称馬力を使って、30万1445台の織機を運転して2563万8716個の紡錘を回転させていた。1856年には36万9205台の織機を運転して、3350万3580個の紡錘を回転させている。そのためには1850年と同じ状況であれば、17万5000馬力が必要となったはずである。しかし公的な報告によると、16万1435馬力しか使われておらず、1850年を基準とした場合よりも1万馬力以上も少なかった。

「1856年に行われた最新の報告によると、次の事実が確認された。すなわち工場システムが急速に広がっていること、機械との比率でみた労働者の数が減少していること、力の効率的な利用などの方法によって、蒸気機関が作動させる機械の重量が増加していること、そして作業機械の改善、製造方法の運転速度の増大、その他の多くの原因によって、生産量が増大したことである」。「すべての種類の機械で大幅な改善が行われているために、機械の生産力が飛躍的に増大した。この改善のきっかけとなったのが…労働日の短縮であることは間違いない。こうした改善と、労働者の集中的な努力によって、以前よりも短い労働日で、以前の長い労働日に生産されていた頃と少なくとも同じ量の製品が生産されているのである」。

 

工場主の利益の改善と労働力の破壊

労働力の搾取の強化につれてどんなに工場主たちの富が増大したかは、すでに次のような一事によって証明されている。すなわち、イギリスの綿工場やその他の工場の平均増加は、1838年から1850年までは1年当たり32であったが、これにたいして1850年から1856年までは毎年86だったということである。

1848年から1856年までの8年間には10時間労働日の支配のもとでイギリスの工業の進歩は大きなものだったが、この進歩も次の1856年から1862年までの6年間には再びはるかに追い越された。たとえば、絹工場では紡錘は1856年に109万3799、1862年に138万8544、織機は、1856年には9260、1862年に1万709だった。ところが、労働者数は1856年に5万6137で1862年に5万2429だった。これによれば、紡錘数の増加は26.9%、織機数の増加は15.6%で、それと同時に労働者数の減少が7%になる。1850年には梳毛糸工場で87万5830の紡錘が使用され、1856年には132万4549(51.2%の増加)、そして1862年には128万9172(2.7%の減少)だった。しかし、1856年には複撚紡錘が数にむはいっているが、1862年にははいっていないので、これを引き去れば、紡錘の数は1856年以来ほとんど変わっていない。ところが、1850年以来多くの場合に紡錘や織機の速度は2倍になった。梳毛糸工場の蒸気織機の数は1850年に3万2617台、1856年に3万8956、1862年に4万3048だった。その従業員数は、1850年に7万9737、1856年に8万7794、1862年に8万6063だったが、そのうち14歳未満の子供は1850年に9956、1856年に1万1228、1862年に1万3178だった。つまり、そのため1862年と1856年とを比べれば、織機数は非常に増加したにもかかわらず、従業労働者の総数は減少し、搾取される子供の数は増加したのである。

1863年4月27日に、議員フェランドは下院で次のように説明した。

「ランカシャーおよびチェシャの16の地区の労働者代表から委任を受けて私は語るのであるが、彼らが私に告げたところでは、機械の改良によって工場での労働は絶えず増加しているとのことである。以前は1人が助手といっしょに2台の織機を扱っていたのに、今では助手なしで3台を扱っており、また1人で4台を扱うというようなこともけっして異例ではない。12時間労働は、報告された事実からも明らかなように、今では10時間よりも少ない労働時間のなかに圧縮されるのである。それゆえ、最近数年来工場労働者の労苦がどんなにひどく増加してきたかは、言うまでもなく明らかなことでる。」

それゆえ、工場監督官たちは1844年および1850年の工場法の良好な結果を飽きもせずに、十分な権利をもって称賛するのであるが、それにもかかわらず、彼らは、労働日の短縮が、労働者の健康を破壊するような、したがって労働力そのものを破壊するような労働の強度をすでに生みだしているということを、認めるのである。

「たいていの綿工場や梳毛糸工場や絹工場では、近年非常に運転速度を高くされてきた機械を取り扱う労働に必要な激しい疲労を伴う興奮状態が、ドクター・グリーンハウによってその最近の驚嘆に値する報告のなかで指摘されたような肺病による過大な死亡率の一原因だと思われる。」

少しも疑う余地のないことであるが、資本にたいして労働日の延長が法律によって最後的に禁止されてしまえば、労働の強度の系統的な引き上げによって埋め合わせをつけ、機械の改良はすべて労働力のより以上の搾取のための手段に変えてしまうという資本の傾向は、やがてまた一つの転回点に向かって進まざるをえなくなり、この点に達すれば労働時間の再度の減少が避けられなくなる。他方では、1848年から現代までの時代すなわち10時間労働日の時代のイギリス工業の激しい前進が、1833年から1847年までの時代すなわち12時間労働日の時代を凌駕していることは、後者が工場制度の開始以来の半世紀すなわち無制限労働日の時代を凌駕しているよりもずっとはなはだしいのである。

機械の発明が、ただちに資本によるその利用につながるとは限りません。たとえば掘削機を導入するかどうかは、労働力商品の価値水準によって左右されるでしょう。鉱山では、当初、女性や10歳未満の子供が成人男性と一緒に使用されていたので、採算面などから機械化を考えていなかったのが、婦人労働と児童労働側が禁止されてはじめて、資本は機械の導入を考えたのです。

ことはしかし入り組んでいる。機械は一方で、筋力のない労働者を充用するための手段ともなります。だからこそ婦人・児童労働は、機械の導入によって成人男性の肉体労働と同等の成果をあげるものとなったのです。そうなると、資本家は成人男性よりも安い賃金で使える女性や子供を使いたくなります。その結果「資本家のための強制有働」が子どもの遊びに取ってかわり、家庭内の細々とした器用仕事とも取って代わることになったのです。

機械は労働者の家族全員を労働市場へと投げ込むことになったのです。「成人男子の労働力の価値を、かれの全家族のあいだに分別する。だから、機械は成人男子の労働力を減価させる」。機械はこうして「搾取領域」を拡張するとともに「搾取度」を拡大したのです。以前なら成年男子労働者は、「自由に」みずからの労働力を売っていたと言えます。しかし、いまや彼は「妻子を売る」ようになってしまいます。言うならば、男は「奴隷商人」と化したのです。機械制大工場というかたちをとった資本制的な生産様式が、親が権力を乱用し「奴隷商人」となることを促したのです。資本制の内部における「古い家族制度の崩壊」がどれほど厭うべきものと映じるにせよ、機械制大工場は、女性や子どもに決定的な役割を割り当てることで、「家族や同性の関係の、より高い形態のためのあらたな経済的基礎」を創出していったのです。

そればかりではない。機械は一方では労働時間を短縮するもっとも有力な手段です。機械は、他方しかし「資本のにない手」としては「労働日を実際の自然的限界を越えて延長するためのもっとも強力な手段」となりました。ひとつだけその理由を挙げるなら、機械の物質的損耗は、機械を使用することによっても使用しないことによっても生じ、第一の損耗は使用に正比例し、後者の損耗は使用に反比例するということです。機械は使用しておくほうが「自然力」から守られ、くわえてまた「社会習慣上の」損耗に備えることもできるものです。機械は、つまり陳腐化するまえに使いきられる必要があったのです。

こうして、機械は労働をまず外延的に強化するのです。すなわち労働時間を延長させます。機械は他方また労働を内包的にも強化する。つまり労働の強度もまた高めるのです。理由は単純です。機械の速度が増したからです。労働日が短縮されたからといってそれだけですむとは限らないのです。労働日の短縮はときに労働力そのものを破壊するほどの労働の強度を生むのです。

労働力を集中的に搾取することで、工場主がどれほど大きな利益を獲得したかを獲得したかを明確に示しているのは、イギリスにおいて新たに設立された木綿工場やその他の工場の数が、1838年から1850年までは年平均で32工場であったのにたいして、1850年から1856年には平均して年に86工場も新設されているという事実である。

1848年から1856年までの8年間に、10時間労働日制が支配的になったイギリス産業は飛躍的に発展したが、1856年から1862年までのその後の6年間には、これを大きく上回る発展がつづいた。

たとえばイギリスの絹工場で、1856年に使用していた紡錘の数は合計で109万3799個であったが、これが1862年には138万8544個に増加している。1856年には織機9260台が運転されていたが、1862年にはこれが1万709台に増加した。それにたいして1856年に雇用されていた労働者の数は5万6137人だったのが、1862年には5万2429人に減少しているのである。増加と減少の比率でみると、紡錘の数は26.9%増加し、織機の台数は15.6%増加しているのにたいして、労働者数の数は7%減少したのである。

梳毛織工場で使用された紡錘の数は、1850年には87万5830個だったが、1856年にはこれが132万4549個に51.2%も増加したが、1862年には128万9172個へと2.7%減少した。しかし複撚紡錘の数が1856年には統計に含められ、1862年の統計には含められていないので、これを除外すると紡錘の数は1856年以来ほとんど減少していない。

1850年以降、紡錘の回転速度も織機の運転速度も多くの場合2倍になった。梳毛織物工場における蒸気織機の台数は、1850年には3万2617台だったが、1856年には3万8956台に増加し、さらに1862年には4万3048台に増えた。雇用されている労働者の人数は、1850年には7万9737人だったが、1856年には8万7794人に増加し、1862年には8万6063人に減少した。そのうち14歳未満の児童の数は、1850年には9956人だったが、1856年には1万1228人に、1862年には1万317人に増加している。そのため1856年を比較してみると、織機械の台数は大幅に増加しているのに、雇用されている労働者の総数は減少しており、搾取されている児童の人数は増加しているのである。

1863年4月27日に、下院でフェランド議員が次のように説明した。「わたしはランカシャーとチェシャーの16の地区の労働者代表から委託されて発言しているのですが、彼らによると、機械類が改良されたために工場での労働が増えつづけているということです。以前は1人の労働者が助手を1人使って2台の織機を操作していたところを、今では助手なしで、3台を操作しなければならないそうですし、4台操作することも稀ではないそうです。このことからも、以前は12時間で行われていた仕事が、今では10時間未満の労働時間のうちに圧縮されていることは明らかです。そのため工場労働者の苦労がこの数年間にどれほど大きく増加しているかは、自明のことでありましょう」。

工場視察官たちはこうした理由から、1844年と1850年の工場法がもたらした好ましい成果を飽きることなく称賛するのであり、その理由も理解できる。しかし工場視察官もまた、労働日の短縮によって、労働がきわめて強化されたために、労働者の健康に、すなわち労働力そのものに破壊的な影響が発生していることを認めている。「多くの木綿工場、梳毛織物工場、絹工場で、機械類の運転速度が近年になって異例なほどに速められているために、機械を操作する労働者の緊張が高まり、これが労働者を疲労困憊させている。グリーンハウ医師が最近発表した優れた報告書で証明しているように、これが肺病による死亡率の異例な高さの原因となっていると思われる」。

資本は、法律の規定のために、労働日を延長することが最終的にまったく不可能となった瞬間から、労働の強度を組織的に高めることでこれを埋め合わせ、機械類のあらゆる改良を、労働力をさらに吸い尽くす手段とする傾向がある。この資本の傾向がつづくならば、ある時点で労働時間をさらに吸い尽くす手段とする傾向がある。この資本の傾向がつづくならば、ある時点で労働時間をさらに短縮しなければならなくなることに、疑問の余地はない。一方で、1848年から現在まで、すなわち10時間労働日の時代のイギリス工業の躍進は、1833年から1847年までの12時間労働日の時代の躍進をはるかに凌駕するものだった。12時間日の労働時代にイギリス工業は、工場システムが導入されてからの半世紀、すなわち労働日の制限が存在していなかった時期と比べると大躍進を遂げていたのであるが、現在の躍進はそれを圧倒するほどのものなのである。 

 

 

第4章 工場

自動機械としての工場

われわれは本章の始めのところで工場の身体、機械体系の編制を考察した。その次には、機械が婦人・児童労働を取り入れることによってどんなに資本の人間的搾取材料を増加させるか、機械が労働日の無制限な延長によってどんなに労働者の全生活時間を没収するか、そして、巨大に増加する生産物をますます短時間で供給することを可能にする機会の進歩が、どのようにして、結局は、一瞬ごとにいっそう多くの労働を流動させるため、または労働力をますます強度に搾取するための、体系的な手段として役だつことになるか、を見た。そこで今度は目を工場全体に、しかもその最も完成された姿に、向けてみよう。

ドクター・ユア、この自動式工場のピンダロスは、この工場を一方では

「絶えまなく一つの中心力(原動力)によって活動させられる一つの生産的機械体系を技能と勤勉とをもって見張る成年および未成年の各種の労働者の協業」

として描写き、他方では

「同じ一つの対象を生産するために協調して絶えまなく働いており、したがってすべてが一つの自動的に運動する動力に従属している無数の機械的で自己意識的な器官とから構成されている一つの巨大な自動装置」

として描いている。

この二つの表現はけっして同じではない。一方の描写では、結合され全総労働または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置が客体として現われる。他方の表現では、自動装置そのものが主体であり、労働者はただ意識のある器官として自動装置の意識のない器官と並列させられ、この器官といっしょに中心的動力に従属させられているだけである。第一の表現は、大規模の機械の充用が可能なかぎりどれにでもあてはまるものであり、第二の表現は、機械の資本主義的充用を、したがってまた現代の工場制度を特徴づけている。それだからこそ、ユアはまた、運動の出発点となる中心機械を、たんにアウトマート(自動装置)として示すだけではなく、アウトクラート(専制君主)として示すことを好むのである。

「これらの大きな作業場では、仁慈な蒸気の君が無数の家来自分のまわりに集めている」。

作業道具といっしょに、それを取り扱う手練も労働者から機械に移る。道具の仕事能力は、人間労働力の個人的な限界から解放される。こうして、マニュファクチュアのなかでの分業がもとづいている技術的基礎が廃棄される。したがって、マニュファクチュアを特徴づけている専門化された労働者の等級制に代わって、自動的な工場では機械の助手たちがしなければならない労働の均等化または水平化の傾向が現われるのであり、部分労働者たちの人工的につくりだされた区別に代わって、年齢や性の自然的な区別のほうが主要なものになるのである。

自動的な工場のなかで分業が再現するかぎりでは、それは、まず第一に、専門化された機械のあいだに労働者を配分されることであり、また、労働者群を、といっても編制された組をなしていない群を、工場のいろいろな部門に配分することであって、そこではこれらの労働者群は並列する同種の道具機について作業するのであり、したがって彼らのあいだではただ単純な協業が行われるだけである。マニュファクチュアにおける編成された組に代わって、主要労働者と少数の助手との関係が現れている。本質的な区別は、現実に道具機について働いている労働者(これには動力機の見張りや給炭をする何人かの労働者も加わる)と、この機械労働者の単なる手伝い(ほとんど子供ばかり)との区別である。この手伝いのうちには、多かれ少なかれすべてのフィーダー(ただ機械に作業材料を渡すだけのもの)が数えられる。これらの主要部類のほかに、機械装置全体の調整や平常の修理に従事していてその数から見ればとるに足りない人員がある。技師や機械工や指物工などがそれである。これは、かなり高級な、一部分は科学的教育を受けた。一部分は手工業的な労働者部類であって工場労働者の範囲にははいらないでただ工場労働者に混じっているだけである。この分業は純粋に技術的である。

およそ機械による労働は、労働者が自分の運動を自動装置の一様な連続的な運動に合わせることを覚えるために早くから習得することを必要とする。機械設備全体そのものが、多様な、同時に働く、結合された諸機械の一つの体系をなしているかぎり、それにもとづく協業もまた、各種の労働者群を各種の機械のあいだに配分することを必要とする。しかし、機械経営は、同じ労働者を同じ機能に永続的に適合させることによってこの配分をマニュファクチュア的に固定する必要をなくしてしまう。工場の全運動が労働者からではなく機械から出発するのだからこそ、労働者過程を中断することなしに絶えず人員交替を行なうことができるのである。これについて最も適切な証明を与えられるのは、1848年から1850年のイギリスの工場主反逆の当時に実行されたリレー制度である。最後に、機械による労働が年少時には急速に習得されるということも、特別な一部類の労働者をもっぱら機械労働者として養成する必要をなくする。そして、単なる手伝いの仕事は、工場では一部は機械によって代替えできるものであり、あるいはまた、その非常な簡単さのために、この労苦をしょわされた人員が短時間ごとに絶えず交替することを可能にするのである。

機械化が進み、その完成形として自動化された工場が出現します。資本制的な生産様式の大工場では自動化がなされ、その自動装置としての機械が主体となって、労働者はその器官として、中央の機械に動きに服従するように従っています。これが近代的な工場システムです。

そこでは、作業道具も、その作業道具を使いこなす熟練した技能も、労働者の手から機械へと移るのです。道具の機能は人が使っていた頃の労働者の肉体に制約されていた範囲を越えていきます。工場全体としては専門労働者の分業の上に成り立っていたマニュファクチュアの限界をはるかに越えてしまうのです。その結果、マニファクチャでありました専門労働者のヒエラルキーは無意味なものとなってしまいます。自動化されて工場では作動する機械の助手として働くことになり、従事する労働者は労働は均質化され、平等になります。

たしかに自動化された工場でも分業はありますが、分業の作業をするのは機械であり、機械はそのために専門化されます。専門労働者ではなく、労働者はそれらの機械の助手であるにすぎません。労働者は構造化された集団を形成しない労働者群であり、工場のさまざまな部署に配属され、列を作って並べられた同種の工作機械で仕事をするだけです。そのため労働者が行うのは、助手という単純な協業にすぎなくなります。

これらの労働者の主要部分の他には、少数ですが、エンジニア、機械工、大工などの全体の機械の調整や修理を担当する専門家としての労働者もいます。彼らは専門的な科学の教育を受けた人か機械の修理技術に熟練した人々で、主要な労働者たちに比べて高い地位を占めています。このような人々は、本来は工場労働者群に属するものではありません。

これに対して、労働者群の主要部分である機械を操作する労働者は、若い頃から作業を習得させ、機械の均質な動きやスピードに肉体を順応させやすいからです。工場の機械には、様々な種類がありますが、そうした機械に合わせて労働者が作業を効率的に行うためには、それぞれの機械ごとに労働者の集団を配置する必要があります。しかし、マニュファクチュアの場合のように作業に熟練が必要で、そのために長期の修行が必要なわけではなく、機械化された工場では一人の労働者を同じ作業に固定する必要はありません。工場の全体の動きは熟練した労働者ではなく、機械が動かしているからです。したがって、労働者の配置を変えても工場の操業が止まることはありません。つまり、労働者は取り替え可能な部品のようなものになったのです。

この章ではまず工場の〈身体〉である機械システムの編成について検討してきた。さらに機械類が女性労働や子供の労働を取り込みながら、いかにして搾取する人間材料を増やしてきたか、労働日を限りなく延長することで、いかにして労働者のすべての生活時間を没収してしまうかを調べてきた。それから機械類の進歩によって、ますます短時間で大量の製品を生産できるようになり、ついには機械類が、時間ごとにより多くの労働を投入させて、労働力をつねに集中的に搾取するための組織的な手段となったことを検討してきた。そこで次に、工場の全体をもっとも完成された形での工場を調べてみることにしよう。

自動化された工場を歌う詩人ピンダロスとも呼べるユア博士は、自動化された工場を次のように描写している。この工場は「成人と未成年のさまざまな階層の労働者の協業であり、彼らは中心の力(原動機の動力)によってたえまなく作動する生産的な機械システムを、熟練したまなざしで勤勉に監視している」と。他方でユアはこの工場をさらに「数知れぬ機械的な器官と、自己意識をもつ器官で構成された巨大な自動装置であり、これらの器官は同じ一つの対象を生産するために、中断することなく協調して働く。このためこれらの器官は、みずから運動する一つの運動力に従属させられている」とも描写する。

この二つの表現はけっして同じものではない。最初の描写では、結合された全体の労働者ないし社会的な労働体が優位に立つ主体として登場し、機械的な自動装置は客体となっている。第二の描写では、自動装置そのものが主体であり、労働者はたんに自己意識をもつ器官として、意識を持たない器官と同じ扱いであり、これらの器官が中央の運動力に服従している。最初の表現は機械類が大規模に利用されるすべての場合に適用できるが、第二の表現は機械類の資本制的な利用の特徴であり、したがって近代的な工場システムの特徴である。このためユアはすべての運動が生まれる中央の機械を、たんに自動装置としてではなく、専制君主として描くのを好むのである。「この巨大な工場では、慈悲深い蒸気権力が、無数の臣下をその周囲に集めている」。

作業道具も、作業道具を操作する熟練した技術も、労働者の手から機械へと移るのである。道具の作業能力は、人間の労働力の個人的な制約から解放される。そしてマニュファクチュアの分業の土台となっていた技術的な基盤が解消されるのである。こうしてマニュファクチュアの特徴であった専門労働者の階級構造は姿を消し、自動化された工場でたんに機械の助手として働く労働者たちの労働は均質なものとなり、平等なものとなる。人為的に作られた部分労働者のあいだの差異は背景に退き、年齢や性別などの自然な差異が前景に登場する。

自動化された工場でも分業は行われるが、とりあえずは労働者が専門化された機械に割り当てられるだけのことにすぎない。労働者は構造化された集団を形成しない労働者群であり、工場のさまざまな部署に配属され、列を作って並べられた同種の工作機械で仕事をする。そのため労働者が行うのは、単純な協業にすぎない。マニュファクチュアでは特定の構成の労働者集団が形成されたが、工場では主要な労働者と数名の助手の集団ができるにすぎない。

これらの労働者の本質的な違いは、工作機械で実際に仕事をする労働者と(これには、原動機を見張り、燃料を供給する少数の労働者も含められる)、これらの機械を操作する労働者のたんなる使い走りにすぎない労働者(ほとんどが子どもたちである)の違いである。こうした使い走りの労働者には、機械に作業素材を供給するだけの「フィーダー」たちのほぼすべてが含まれる。

この労働者の主要な階層のほかに、少数ながらもエンジニア、機械工、大工など、機械類の全体の調整と日常的な修理を担当する人員がいる。彼らは科学的な教育を受けた人々か、手工業に従事してきた人々で、労働者階層ではかなり高い位置を占める。これらの人員はほんらいの工場労働者の集団には属しておらず、たんに混じっているにすぎない。この分業はたんに技術的なものにすぎない。

機械を操作する労働はすべて、労働者が若い頃から習得する必要がある。自分の動きを自動装置の均質で継続的な動きに合わせる必要があるからである。すべての機械類は、多様で、しかも同時に作動する結合された機械のシステムを構成する。こうした機械類に依拠して協業を行わせるためには、さまざまな種類の機械ごとに、さまざまな種類の労働者集団を配置する必要がある。

しかし同じ労働者を継続的に同じ機能に従事させたマニュファクチュア経営とは違って、機械経営ではこうした配置を固定する必要はない。工場の全体の動きは労働者から始まるものではなく、機械から始まるため、たえず人員を取り替えても、労働者過程が中断されることはない。このことをもっとも分かりやすく証明したのが、1848年から1850年のイギリスの工場主の反乱時代に採用されたリレー・システムである。

さらに労働者たちがまだ若い時期に機械を扱うことを学べば短期間に習得できるので、機械労働のためだけに特別な階層の労働者を育成する必要はなくなる。たんなる使い走りの仕事は、工場ではその一部を機械に行わせることができるし、まったく単純な仕事なので、この重労働を強いられた人員を短期間に次から次へと交替させることもできるのである。

 

生ける部品としての労働者

ところで、機械は古い分業体系を技術的にくつがえすとはいえ、この体系は当初はマニュファクチュアの遺習として慣習的に工場のなかでも存続し、次にはまた体系的に資本によって労働力の搾取手段としてもっといやな形で再生産され固定されるようになる。前には一つの部分道具を扱うことが終生の専門だったが、今度は一つの部分機械に使えることが終生の専門になる。機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分にしてしまうために、乱用される。こうして労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけでなく、同時にまた、工場全体への、したがって資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される。ここでも、いつものよう、社会的生産過程の発展による生産性の増大と、この過程を資本主義的利用による生産性の増大とを区別しなければならないのである。

マニュファクチュアや手工業では労働者が道具を奉仕させ、工場では労働者が機械に奉仕する。前者では労働者から労働手段の運動が起こり、後者では労働手段の運動に労働者がついて行かねばならない。マニュファクチュアでは労働者たちは一つの生きている機構の手足になっている。工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きている付属品物として合体されるのである。

「同じ機械的な過程を絶えず繰り返す果てしのない労働苦のたまらない単調さは、シシュフォスの苦痛らも似ている。労働の重荷は、シシュフォスの岩のように、疲れ果てた労働者の上に何度も落ちてくる。」

機械労働は神経系統を極度に疲らせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、身心のいっさいの自由な活動を封じてしまう。労働の緩和でさえも責め苦の手段になる。なぜならば、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのだからである。資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、一つの自動装置に転化することによって、労働手段は労働過程そのものなかでは資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである。生産過程の精神的な諸力が手の労働から分離するということ、そしてこの諸力が労働にたいする資本の権力に変わるということは、すでに以前にも示したように、機械の基礎の上に築かれた大工業において完成される。個人的な無内容にされた機械労働者の細部の技能などは、機械体系のなかに具体化されていてそれといっしょに「主人」の権力を形成している科学や巨大な自然力や社会的集団労働の前では、とるにも足りない小事として消えてしまう。それだからこそ、この主人、すなわちその頭のなかで機械と自分の機械独占とが不可分に合生しているこの主人は、争いが起きると、「職工たち」に向かって人をばかにした態度で次のように呼びかけるのである。

「工場労働者たちはこういうことをしっかりおぼえておかなくてはいけない、というのは、自分たちの労働がじつは非常に低級な種類の技能労働だということ、これほど身につけやすい労働、その質から見てこれほど報酬のよい労働はほかにはないということ、最低の経験者をちょっと訓練するだけでこれほど短時間にこれほどたっぷり得られる労働はほかにはないということである。じっさい、主人の機械は、6か月の教育で仕込むことができてどんな農業にでもおぼえられるような労働者の労働や技能よりもずっと重要な役を、生産の仕事で演ずるのである。」

資本制的な生産様式の機械化された工場は、マニュファクチュアの古いシステムを駆逐していきましたが、労働者を搾取するという伝統は引き継がれ、かえって組織化し定着していきました。労働者は、マニュファクチュアの時代には生涯をつうじて一つの部分道具を使いこなす専門職だったものが、工場時代になると生涯をつうじて一つの部分機械に奉仕する専門職となってしまったのです。つまり、機械の部品になってしまったのです。

労働者は、自身の労働力を再生産するために必要な費用が著しく減らされます。というのも、熟練という専門的な技能を習得する必要がなくなったからです。そして、労働者は熟練をもって自立することはなくなり、工場に従属するようになります。マニュファクチュアと手工業の時代には、労働者は道具を自分に奉仕させた野に対して、大工業時代には、労働者は機械に奉仕するようになりました。また、マニュファクチュアと手工業の時代には労働者が主体となって労働手段が動かされたのですが、大工業時代には労働者は労働手段の動きに従わなければならなくなりました。マニュファクチュアでは労働者は一つの生けるメカニズムの肢体を構成していたが、工場では一つの死せるメカニズムが労働者とは別の独立した形で存在しており、労働者は生ける付属品としてこのメカニズムに組み込まれてしまいました。

資本制的な生産というのは労働過程あると同時に、資本の価値増殖過程でもあります。したがって、労働者が労働条件(機械)を利用するのではなく、反対に労働条件(機械)が労働者を利用するのが、この資本制的な生産に共通の特徴となります。このことが、機械によって現実化されたのです。

機械で働く個人の労働者は、もはや熟練を要する細部の細工の手腕など、取るに足らない些事となってしまいます。その代わりに機械システムに体現された科学や、巨大な自然エネルギー、社会的な集団労働で、これらは機械とともに、労働者を従わせる権力となりました。

マニュファクチュアにおける分業においても作業の専門化が発生し、労働者たちが独立の生産能力を失ってしまいましたが、大工業における機械の導入によって、労働者の熟練はさらに不必要となっていきます。機械による生産においては、人間の労働の役割はもはや副次的なものでしかありません。マニュファクチュアにおいては、人間の労働の役割はもはや副次的なものでしかありません。マニュファクチュアにおいては、分業によって作業を単純化するとはいえ、依然として個々の作業者の技能や熟練は重要な意味を持っていました。ところが、大工業においては、労働者は機械の運動を補助する役割を果たすにとどまり、労働者の技能や熟練は重要な意味をもたなくなるのです。

このような労働者からの技能や熟練の剥奪は、労働者の抵抗の基盤を奪い取ることになります。マニュファクチュアのように生産が個々の労働者の技能や熟練に依存しているうちは、生産のイニシアチブは労働者の側にあり、また、代わりの労働者を雇うことも容易ではありませんでした。ところが、大工業においては労働者は機械体系の補助として必要とされるのみであり、生産のイニシアチブは機械体系のほうにあります。また、代わりの労働者を雇うことも容易でしょう。

こうして、賃労働者たちは技術的にも生産手段に従属するようになってしまいます。生産方法のいかんにかかわらず、賃労働者たちが自分の労働力を売り、資本のもとで労働するかぎり、彼は生産手段を資本として扱わなければなりませんでした。すでに、この段階で生産手段が主体となり、労働者が手段となるという転倒した関係が成立していたのです。しかし、この段階ではたんに資本がもっている価値という形態の力によってこのような顚倒が成り立っているだけであり、それはまだ現実的基盤を獲得していませんでした。ところが、大工業においてはこの転倒が現実的基盤を獲得します。すなわち、生産手段が主体となり、客体として労働者を支配するという転倒が形態的のみならず、技術的にも成立するのです。ここでは、生産に必要とされた生産者の知識や洞察は、近代的テクノロジーによって作られた機械体系にとってかわられてしまいます。生産過程における資本の権力は、生産的知を労働者から剥奪し、資本に集中する大工業においてはじめて確固たるものとなるのです。

このように機械類は技術の力で古い分業システムを駆逐していくが、それでも古いシステムはマニュファクチュア時代の伝統として工場に習慣的に残存し、その後は資本によって労働力を搾取するための手段として、さらに嫌悪すべき形で組織的に再現され、固定化されていく。かつては[マニュファクチュア時代のように]生涯をつうじて一つの部分道具を使いこなす専門職だったものが、[工場時代には]生涯をつうじて一つの部分機械に奉仕する専門職となる。機械は、労働者を幼い頃から一つの部分機械の部品に変容させるために、濫用されるのである。

このようにして労働者自身を再生産するために必要な費用が著しく減らされるだけでなく、労働者が工場全体に、そして資本家に、寄る辺なく従属するシステムが完璧なものとなるのである。これについても、他のすべての側面と同じように、社会的な生産過程の発展による生産性の向上と、この過程を資本制的に搾取することで可能となった生産性の向上を区別する必要がある。

マニュファクチュアと手工業の時代には、労働者は道具を自分に奉仕させたが、大工業時代には、労働者は機械に奉仕する。マニュファクチュアと手工業の時代には労働者が主体となって労働手段が動かされたが、大工業時代には労働者は労働手段の動きにしたがわねばならない。マニュファクチュアでは労働者は一つの生けるメカニズムの肢体を構成していたが、工場では一つの死せるメカニズムが労働者とは別の独立した形で存在しており、労働者は生ける付属品としてこのメカニズムに組み込まれている。

「同じ機械的なプロセスをたえず反復するはてしのない仕事の苦悩のもたらす悲惨な単調さは、シシュフォスの仕事のようである。労働の重荷は、シシュフォスが押し上げる岩のように、疲れはてた労働者の上にたえず落ちてくる」。

機械システムは労働者の神経系をきわめて痛めつける一方で、筋肉の多面的な活動を抑圧し、身体および精神のすべての自由な活動を奪い取る。機械のおかげで仕事は楽になったとしても、そのことが逆に労働者を拷問にかける手段となる。機械によって労働者は労働から解放されたわけではなく、しかも労働者の労働の内容が失われたからである。

すべての資本制的な生産は労働過程であると同時に、資本の価値増殖過程でもある。だから労働者が労働条件を利用するのではなく、反対に労働条件が労働者を利用するのが、この資本制的な生産に共通の特徴である。そして機械類によって初めて、この逆転が技術的に目に見える現実となる。労働手段が自動装置に変身することで、労働過程そのもののうちで労働手段は資本として労働者に向き合うようになる。労働手段は死せる労働力を支配し、吸い尽くすのである。

 

労働者の規律

労働手段の一様な動きへの労働者の技術的従属と、男女の両性および非常にさまざまな年齢層の個人から成っている労働体の独特な構成とは、一つの兵営的な規律をつくりだすのであって、この規律は、完全な工場体制に仕上げられて、すでに前にも述べた監督労働を、しがって同時に筋肉労働者と労働監督官とへの、産業兵卒と産業下士官とへの、労働者の分割を十分に発達させるのである。

「自動的な工場でのおもな困難は…人々が労働をするさいの不規律な習慣を捨てさせて彼らを大きな自動装置の不変の規則性に一致させるために必要な規律にあった。だが、自動体系の要求と速度とに適合するような規律法典を案出して有効に実施することは、ヘラクレスにふさわしい事業だった。そして、これこそはアークライトの貴重な業績なのだ!この体系がまったく完全に組織されている今日でさえも、思春期を過ぎた労働者たちのあいだに…自動体系のために役にたつ助手を見いだすということは、ほとんど不可能なのである」。

工場法典のなかでは資本は自分の労働者にたいする自分の専制を、よそではブルジョワジーがあんなに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化しているのであるが、このような工場法典は、ただ大規模な協業や共同的労働手段ことに機械の使用につれて必要になってくる労働過程の社会的規制の資本主義的戯画でしかない。奴隷使役者のむちに代わって、監督の処罰帳が現われる。すべての処罰は、もちろん、罰金と減給とに帰着する。そして、工場リュクルゴスたちの立法者的明察は、彼らにとって彼らの法律にたいする違反のほうがその遵守よりもできればいっそう有利になるようするのである。

労働者たちが機械という労働手段の均一な運転によって技術的に支配され、さまざまな年齢の男女の労働者たちで労働母体が独特な形で構成されるようになると、そこに兵営のごとき規律が作りだされました。そこでは、機械の均一の動きに合わせて、労働者は均一な動きをさせられます。そこには軍隊が一糸乱れぬ行進をするような規律が必要となります。そうなると、労働者を獲得する仕事が生まれ、作業する労働者と監督する労働者という分業が、軍隊であれば一般の兵卒と下士官の分業のようになるのです。

この規律のために、工場の規則が作られますが、これは、資本が自分の労働者たちに行使する独裁的な権力を、私的な法律として勝手に定めたものであり、いわゆる民主的な権力の分割の規定も、代議制度の規定もありません。

労働者たちが労働手段の均一な運転によって技術的に支配され、さまざまな年齢の男女の労働者たちで労働母体が独特な形で構成されるようになると、そこに兵営のごとき規律が作りだされ、それが発展し、やがては完全な工場体制が作りださせる。そうなるとすでに述べたような労働者の監督の仕事が生まれ、手仕事をする労働者と作業を監督する労働者の分業が、いわば一般の産業兵卒と産業下士官の分業が完全に発達するのである。「自動化された工場で発生する困難な問題は、…人々が仕事において不規則な習に頼るのをやめさせ、巨大な自動装置の変わることなき規則性にしたがうようにする規律を作りだすことである。しかし自動化されたシステムの速度と必要にふさわしい規律を定めた規則集を作りだして、これを実施して成功を収めることは、ヘラクレスの偉業のような大事業だった。これこそアークライトの貴重な業績だったのである!システムがきわめて高い完成度で組織化されている現在でも、すでに成熟した労働者のうちから、…自動化されたシステムの役立つ助手をみつけるのはほとんど不可能である」。

工場の規則集は、資本が自分の労働者たちに行使する独裁的な権力を、私的な法律として勝手に定めたものであり、ブルジョワジーが好んでいるはずの権力の分割の規定も、さらに好みの代議制度の規定もみあたらない。大規模な協業の発達と、共通の労働手段である機械類の活用によって、労働過程を社会的に規制する必要が生まれたが、工場の規則集はこうした規制の資本制的な戯画にすぎない。奴隷所有者の鞭の代わりに、労働監督の罰則集が登場する。すべての罰はもちろん、罰金と賃金カットによって行われる。そして工場の[立法者]リュクルゴスは、立法にあたって明敏さを発揮し、規則が守られるよりも、規則違反をしてもらうほうが利益になるように定めているのである。

 

工場労働の物質的な条件

ここでは、工場労働が行われる場合の物質的諸条件を指摘するだけにしておこう。四季の移り変わりにも似た規則正しさでその産業死傷報告を生みだしている密集した機械設備のなかでの生命の危険は別として、人工的に高められた温度や、原料のくずでいっぱいになった空気や、耳をろうするばかりの騒音などによって、すべての感覚器官は一様に傷つけられる。工場制度のもとではじめて、温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手のなかで、同時に、作業時における労働者の生活条件、すなわち空間や空気や光線の組織的な強奪となり、また労働者の慰安設備などはまったくの論外としても、生命に危険な、またはや健康に有害な生産過程の諸事情にたいする人体保護手段の強奪となる。フーリエが工場を「緩和された徒刑場」と呼んだのは不当だろうか?

工場労働の物質的な条件、たとえば労働者が働く工場の環境は酷いものです。資本家は、利潤のために生産手段を節約し、その結果、労働者の生活条件を組織的に略奪する結果となりました。労働者から空間を、大気を光を組織的に奪い、生命や健康を脅かす生産過程のさまざまな状況から人々を保護する手段を奪うことになりました。資本家にとって、工場は労働者が快適に過ごせることを目的とした施設ではないのです。

工場労働がどのような物質的な条件で行われているかは、ここでは示唆するにとどめる。室温は人為的に高められ、空気は原料の粉塵で充満しており、耳を聾するような騒音がつづいているために、あらゆる感覚器官がひとしく傷つけられる。ところ狭しと並べられている機械類に囲まれているために、生命が危険にさらされる。こうした機械類のために、季節の移り変わりのように規則的に、産業[事故による]死傷報告書が作成されていくのである。

社会的な生産手段の節約は、工場システムのうちで初めて、温室の中の植物のように素早く成熟した。しかしこの節約は同時に資本の手のうちで、労働者の生活条件を組織的に略奪する手段となったのである。労働者から空間を、大気を光を組織的に奪い、生命や健康を脅かす生産過程のさまざまな状況から人々を保護する手段を奪った。労働者が快適に過ごせることを目的とした施設などありようがないフーリエが工場を「緩和された牢獄」と呼んだのは不当なことだろうか。

 

 

第5章 労働者と機械との闘争

ラッダイト運動

資本家と賃金労働者との闘争は、資本関係そのものとともに始まる。それは、マニュファクチュア時代の全体をつうじて荒れつづける。しかし、機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに、この資本の物質的存在様式に、挑戦するのである。彼は、資本主義的生産様式の物質的基盤としての、生産手段の特定の形態にたいして、反逆するのである。

17世紀にはほとんど全ヨーロッパが、リボンや笹縁を織る機械、いわゆるパントミューレ(シュヌールミューレまたはミューレンシュトゥールとも呼ばれる)にたいする労働者の反逆を体験した。17世紀の最初の3分の1期の末には、あるオランダ人がロンドンの近くに設けた風力製材所が暴民の前に屈した。18世紀の初めにも、イギリスの水力挽材機は、議会にも支持された民衆の反抗をかろうじて屈服させた。1758年にエヴァレットが最初の水力回転の剪毛機をつくったときには、それは10万人の失業者によって火をつけられた。アークライトが粗梳機や梳毛機にたいしては、それまで羊毛を梳いて暮らしていた5万の労働者が議会に陳情した。19世紀の最初の15年間にイギリスの工業地区行われた機械の大量破壊、ことに蒸気織機を利用したために起きたそれはラダイト運動という名のもとに、シドマスやカースルレーなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた。機械をその資本主義的な充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的な生産手段そのものからその社会的利用価値に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである。

このように、資本家の労働者に対する搾取に対して、労働者の側は従順だったわけではありません。労働者の反抗が起こりました。これは資本家と労働者との闘争として資本というシステムが生まれると同時に始まりました。それが、機械化の導入によって、労働者は機械化に対する反対闘争を始めました。その有名なものがラッダイト運動です。19世紀の最初の15年間に、とくに蒸気織機の普及によって、イギリスのマニュファクチュア地域で大規模な機械の打ち壊し運動が広まったというものです。

資本家と賃金労働者のあいだの闘争は、資本関係が始まるとともに開始される。この闘争はマニュファクチュア時代をつうじて荒れ狂った。しかし機械類が導入されると、労働者はこの資本の物質的な存在様式である労働手段そのものと闘うようになる。労働者はこの特定の形態の生産手段を、資本制的に生産様式の物質的な基盤とみなして、これに叛乱を起こすのである。

17世紀にはヨーロッパのほとんどの国で、リボンやレースを織るために使われるいわゆるリボン織機(モール織機とかミューレンシュトゥールと呼ばれている)にたいする労働者の叛乱が発生した。17世紀の最初の3分の1期の末には、あるオランダ人がロンドンの近郊に建設した風力製材所が暴徒化した貧民によって破壊された。18世紀に入ってからも、イギリスで水力による動力鋸を導入しようとしたが、民衆に抵抗されて苦労したものだった。民衆は議会からも支持されていたのである。1758年にエヴァレットが初めて羊毛を水力で切る装置を発明したときにも、10万人の失業者たちによって焼き払われた。アークライトが粗梳機や梳毛機を発明した際には、それまで羊毛梳きで生計を立てていた5万人の労働者が議会に陳情した。

19世紀の最初の15年間に、とくに蒸気織機の普及によって、イギリスのマニュファクチュア地域で大規模な機械の打ち壊し運動が広まった。ラッダイト運動と呼ばれるこの運動は、[内務大臣をつとめた]シドマスや[外務大臣をつとめた]カースルレイが率いる[イギリスの]反ジャコバン政府に、きわめて反動的な弾圧策を採用させる口実となったのである。労働者たちが機械類と機械の資本制的な使用を区別するようになるまでは、そして物質的な生産手段そのものを攻撃するのではなく、その社会的な搾取形態を攻撃することを学ぶには、まだ時間と経験が必要だったのである。

 

マニュファクチュア時代の闘争

マニュファクチュアのなかで起きる労賃のための闘争は、マニュファクチュアを前提しているもので、けっしてマニュファクチュアの存在に向けられているものではない。マニュファクチュアの形成に攻撃が向けられるかぎりでは、それは同職組合の親方や特権都市によってなされるのであって、賃金労働者によってなされるのではない。それだから、マニュファクチュア時代の著述家たちにあっては、分業は可能的に労働者にとって代わられる手段と考えられていることが多く、現実に労働者を駆逐する手段とは考えられていないのである。この区別は自明である。たとえば、今日50万人が機械で紡ぐ綿花を昔の紡ぎ車で紡ぐためには、イギリスに1億人の人間が必要だろう、と言うとき、もちろん、それは機械がこの存在したこともない1億人にとって代わったという意味ではない。それは、ただ、紡績機械にとって代わるためには何千万人もの労働者が必要だろうということだけである。これに反して、蒸気機関がイギリスで80万人の織物工を街頭に投げ出したと言うとすれば、それは、現存する機械にとって代わるためには一定の労働者数が必要だろう言っているのではなく、実際に機械によって代替または駆逐されている現存する労働者数のことを言っているのである。マニュファクチュア時代には手工業的経営が、分解されたとはいえ、やはり基礎になっていた。新しい植民地市場は、中世から受け継いだ都市労働者の相対的にわずかの数では満足させることができなかったし、また、本来のマニュファクチュアは、同時に、封建制の解体とともに土地から追い出された農村民のためにも新しい生産分野を開いたのである。だから、当時は、作業場のなかでの分業や協議では、就業労働者をいっそう生産的にするという積極面のほうがより多く目だっていたのである。協業や少数者の手のなかでの労働手段の結合は、それが農業に応用されれば、たしかに、多くの国で大工業時代よりもずっと前から、生産様式の、したがってまた農村住民の生活条件や就業手段の、大きな急激な強力な革命を引き起こすことになる。しかし、この闘争は、最初は資本と賃労働のあいだでよりもむしろ大きな土地所有者と小さな土地所有者とのあいだで行われるのである。他方、労働者が労働手段や羊や馬などによって駆逐されるかぎりでは、直接的暴力行為がここでは第一番に産業革命の前提をなしている。まず労働者が土地から追い出されて、そこから羊がやってくる。イギリスで見られるような大規模な土地盗奪は大農業のためにはじめてその応用場面をつくりだす。それだから、このような農業の変革は当初はむしろ政治革命の外観をもつのである。

マニュファクチュアの時代の資本家と労働者の闘争は労働賃金をめぐる争いで、マニュファクチュアの存在を前提としていて、マニュファクチュアそのものを攻撃するものではありませんでした。マニュファクチュアの分業は労働者を駆逐するものではなかったからです。これは、後年の機械化された大工場では、蒸気機関の導入によって多数の労働者が駆逐されたのとは違います。

マニュファクチュアの時代には、手工業的な経営が解体された形ではあっても、まだその土台は残っていました。中世からうけついだ都市の労働者の数はそれほど多くはなく、この人数では新たに登場した植民地市場の需要を満たすことはできませんでした。そしてほんらいのマニュファクチュアは、封建制の解体によって土地を追われた農民たちに、新しい生産領域を開いたのです。その当時は、作業場での分業と協議は、雇用された労働者の生産性を高めるという積極的な側面をそなえていたのです。

マニュファクチュア時代の労働賃金をめぐる闘争は、マニュファクチュアの存在を前提としたものであり、マニュファクチュアそのものを攻撃するものではなかった。マニュファクチュアの形成に抵抗する勢力はあったが、それは同職組合の親方や特権のある都市からの抵抗であって、労働者からの抵抗ではなかった。だからこの時代の著作では分業を、潜在的に労働者に替わる手段とはみなしていても、労働者を駆逐する手段とは考えていなかった。この違いは自明なものである。

たとえば、旧式の紡ぎ車で木綿を紡いでいたら、現在は50万人の労働者が機械で紡いでいる量の木綿を紡ぐには、イギリスに1億人の紡ぎ手が必要になるだろうと言われることがあるが、これに実際に存在していなかった1億人の労働者の場所を、機械が奪ったことを意味しているわけではない。これが言おうとしているのは、現存する紡績機械の代わりをするには、数百万人の労働者が必要だっただろうということだけである。

これにたいして、蒸気機関がイギリスで80万人の織物工を路上に放りだしたと言うときには、たんに現存する機械の代わりに特定の数の労働者が必要となるということを語っているのではなく、実際に機械によって場所を奪われ、駆逐された現存する労働者の人数について語っているのである。

マニュファクチュアの時代には、手工業的な経営が解体された形ではあっても、まだその土台となっていた。中世からうけついだ都市の労働者の数はそれほど多くはなく、この人数では新たに登場した植民地市場の需要を満たすことはできなかった。そしてほんらいのマニュファクチュアは、封建制の解体によって土地を追われた農民たちに、新しい生産領域を解放したのである。その当時は、作業場での分業と協議は、雇用された労働者の生産性を高めるという積極的な側面をそなえていた。

協業が展開され、少数の人々のうちで労働手段が結合されたことによって、農業分野では生産方法の巨大で暴力的な革命が突如として発生し、それによって多くの国で大工業時代の前にみられた農村人口の生活条件と雇用方法にも、同じような革命が発生したのである。しかしこの闘いは当初は、資本と賃金労働のあいだの闘いではなく、そもそも大地主と小地主のあいだの闘いであった。

他方で労働者が労働手段、羊、馬などによって仕事を奪われる場合には、何よりも直接的な暴力行為が産業革命の前提となっていた。まず労働者が土地から追い払われてから、羊が土地に入ってくるものである。イギリスのように大規模な土地の略奪が行われたことによって、大規模な農業が展開できる場所が作りだされたのである。こうした農業革命は、初期の段階ではむしろ政治革命の見掛けのもとで進められるのである。

 

機械による労働者の駆

機械としては労働手段はすぐに労働者自身の競争相手になる。機械による資本の自己増殖は、機械によって生存条件をなくされてしまう労働者の数に正比例する。資本主義的生産の全体制は、労働者自身が自分の労働力を商品として売るということを基礎にしている。分業は、この労働力を一面化して、一つの部分道具取り扱うまったく特殊化された技能にする。道具を取り扱うことが機械の役目になれば、労働力の使用価値といっしょに交換価値も消えてなくなる。労働者は、通用しなくなった紙幣のように、売れなくなる。労働者階級のうちで、こうして機械のために余分な人口にされた部分、すなわちもはや資本の自己増殖に直接には必要でない人口にとされた部分は、一方では機械経営にたいする古い手工業的経営やマニュファクチュア的経営の対等でない闘争のなかで破滅し、他方ではすべってのもっと侵入しやすい産業部門にあふれるほど押し寄せ、労働市場に満ちあふれ、したがって労働力の価格をその価値よりも低くする。受救貧民火した労働者にとって一つの大きな慰めともいうべきはものは、一つには彼ら自身の苦悩がただ「一時的」だということであり、また一つには、機械は一つの生産分野の全体をだんだん征服してゆくだけで、そのために機械の破壊作用の規模や強度がそがれるだろうということである。一方の慰めは他方の慰めをあだにする。機械が一つの生産分野をだんだんとらえてゆく場合には、機械はそれと競争する労働者層のうちに慢性的な貧困を生みだす。この推移が機械な場合には、機械は大じかけに急性的に作用する。イギリスの綿布手織工の没落は徐々に進行して数十年にわたって長びき1838年にやっと終止符をうたれたが、世界史上にこれ以上に恐ろしい光景はない。彼らのうちの多くのものが餓え死にし、多くのものが家族も含めて1日に2ペンス半で暮らした。これとは反対に、イギリスの綿業機械は東インドには急速に作用し、東インド総督は1834〜1835年には次のことを確認した。

「困窮は商業史上にほとんど比類のないものである。綿織物工の骨はインドの野をまっ白にしている。」

たしかに、これらの織物工たちが一時の生に別れを告げたかぎりでは、機械は彼らにただ「一時の難儀」を与えただけだった。とはいえ、機械の「一時的な」作用は恒常的である。というのは、機械は絶えず新たな生産領域をとらえてゆくからである。およそ資本主義的生産様式は労働条件にも労働生産物にも労働者にたいして独立化され疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして機械によって完全な対立に発展するのである。それゆえ、機械とともにはじめて労働手段にたいする労働者の凶暴な反逆が始まるのである。

労働手段は手工業やマニュファクチュアの時の道具などは労働者の身体の一部となったりその延長となったりして補助するものでしたが、機械化された工場においては労働者のライバルに変身します。資本家は機械を導入することによって、労働者の職場を奪っていきました。もともと、資本主義的生産システムでは、労働者は労働力を商品として資本家に売り渡すものにしました。それは、形式的には労働者と資本家は平等で、自由な合意によって労働契約が成立するということになっていました。しかし、まず、マニュファクチュアの分業では、労働力を部分的な作業のための一面的な機能にしてしまいました。そうすると、労働力を売り渡す対象範囲が限定されることになり、労働者の選択の範囲が限定されてしまうことになります。そしてさらに、今、機械化によって、労働者は自身の労働力の使用価値も交換価値も失ってしまうことになります。

この時の労働者を、誰も買い取ってもらえない者となります。そのような職にあぶれた者は余剰人口に加算され、そういう人々は、たとえば他の産業分野に多量に流入し、その分野の労働市場を溢れさせて、しまいには全体として労働市場が溢れてしまうようになり、労働力の供給過剰を招き、労働力の価値を引き下げることになります。つまり、機械の浸透は労働者の困窮を生み出していくことになりました。資本制的な生産様式は、一般論としては、労働条件と労働の生産物を労働者から切り離して独立した存在とするのですが、機械化によって、労働者と対するものにしてしまいました。そこにいたって、労働者は労働手段にたいして叛乱を起こすことになるのです。

労働手段は機械になった途端に、労働者自身のライバルになる。機械を利用した資本の自己満足は、機械が生存条件を破壊する労働者の数に正比例して大きくなる。資本制的な生産のすべてのシステムは、労働者がみずからの労働力を商品として売り渡すことに依拠している。分業はこの労働力をたんに部分道具を扱うだけのきわめて特殊化された一面的な技能にしてしまう。こうした道具の操作が機械によって行われるようになった途端に、労働者はその使用価値も交換価値も一挙に失ってしまう。

労働者は通用しなくなった紙幣のようなもので、誰も買う人がいなくなる。労働者階級のうちで余剰人口に変えられ、資本の自己増殖にもはや直接には必要とされなくなった部分は、旧式の手工業やマニュファクチュア的な経営が機械経営と闘う不公平な闘争のうちで没落していくか、あるいは参入しやすいさまざまな産業分野に多量に流入し、労働市場をあふれさせて、労働力の価値をその実質的な価値以下に引き下げるのである。

救貧民になった労働者の心の慰めとなるのは、自分たちの苦悩が「一時的な苦境」にすぎないものだと考えるか、機械類が一つの生産分野の全体を制覇するには時間がかかり、そのあいだに機械の破壊的な作用の大きさも強度も低下するだろうと考えることにある。しかしその慰めの片方が他方を打ち砕く。機械が生産の現場に浸透するのに時間がかかる分野では、機械はそのライバルとなる労働者の慢性的な困窮を作りだしていく。反対に機械が急速に浸透していく場合には、大規模で急激な困窮を生み出すのである。

機械の浸透がゆっくりと進んだ例は、1838年にやっと終焉するまでに数十年もかかったイギリスの木綿の手織職人の没落の歴史であり、これは世界史上でもっと悲惨な一幕だった。手織職人の多くは餓死し、多くは1日わずか2ペンス半で、家族をかかえて長く露命をつないだ。

それにたいして東インド会社の木綿織機は急激な作用を引き起こした。東インド総督は1834〜1835年にこう断言した。「商業の歴史においてこれほどの困窮を目にしたことがない。木綿の手織職人の骨で、インドの平原は真っ白になった」。

これらの織物職人が一時の生に別れを告げたという意味では、たしかに機械がもたらしたのは「一時的な苦境」だったかもしれない。ところでこの機械の「一時的な」作用は、機械がつねに新しい分野に進出していくことによって永続的なものとなる。資本制的な生産様式は一般に、労働条件と労働の生産物に、労働者から自立し、疎外された姿を与えるものであるが、機械類の導入によってこの姿は労働者に完全に対立したものとなる。こうして機械類とともに、労働者による労働手段への荒々しい叛乱が始まるのである。

 

機械への叛乱

労働手段が労働者を打ち殺すのである。この直接的な対立は、たしかに、新しく採用された機械が伝来の手工業経営やマニュファクチュア経営と競争するたびに最も明瞭に現われる。しかし、大工業そのもののなかでも、絶えず行われる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのである。

「機械の改良の不変の目的は、手の労働を減らすこと、または、人間装置のかわりに鉄製の装置をおくことによって工場の生産連鎖の一環を完成するである。」「これまで手で動かされていた機械に蒸気力や水力を応用することは毎日のできごとである。…動力を節約とか製品の改良とか同じ時間内の生産の増加とか子供や女や男の人手を一つでも減らすとかいうことを目的としている比較的小さな機械改良は、絶えず行われていて、外観上はたいしたことではないが、それにもかかわらず大きな結果をもたらすものである。」「ある作業が多くの技能や確実な手を必要とする場合には、つねに、非常に熟練してはいるがまたいろいろな不規律なことを起こしがちな労働者の手からできるだけ早くこの作業を取り上げて、子供が見張っていてもよいようによく調整された一つの特別な機構にそれをゆだねるようになる。」「自動体系では労働者の才能はますます排除される。」「機械の改良は、一定の成果を得るために必要な従業成年労働者数の減少を要求するだけではなく、ある部類の個人を他の部類の個人の代わりに、熟練度の低いものを高いもののかわりに、子供を大人のかわりに、女を男のかわりに用いるようにする。すべてのこのような転換は、労賃率の不断の変動の原因になる。」「機械は絶えず大人を工場の外にほうり出す。」

積み上げられた実際経験や機械的手段の既存の規模や技術の不断の進歩などによる機械使用の非常な弾力性は、短縮された労働日の圧力のもとでの機械使用の突進によって、われわれに示された。しかし、1860年に、このイギリスの綿工業の絶頂の年に、だれが、その直後の3年間に、アメリカの南北戦争の拍車のもとに呼び起こされた疾走する機械改良やそれに対応する手労働の駆逐を予測しであろうか?ここではこの点に関するイギリスの工場監督官の公式の挙証二つ三つの例をあげるだけで十分である。マンチェスターの一工場主は次のように言う。

「75台の梳綿機のかわりにわれわれは今では12台しか使っていないが、それが同量の、以前より上質ではないにしても以前と同質のものを生産する。…労賃の節減は1週間当たり10ポンド、綿くずの節減は10%である。」

マンチェスターのある細糸工場では、

「運転速度の増大といろいろな自動工程の採用とによって、ある部門では労働者人員の4分の1、ある部門では2分の1以上が排除された。また、第2梳綿機に代わった精梳機は、以前は梳綿場で働いていた職工の数非常に減らした。」

また、別の紡績工場はその「職工」の一般的節減を10%と評価している。マンチェスターの紡績業者ギルモア社は次のように言う。

「われわれの送風室では新たな機械によって生じた職工と労働賃金との節減はまる3分の1と評価され…糸巻き機・伸張機室では支出も職工も約3分の1少なくなり、紡績室では支出が約3分の1少なくなったと評価される。だが、それだけではない。われわれの糸が次の織物工に渡されれば、それは新しい機械の使用によって、非常に改良されているので、彼らは古い機械糸で織る場合に比べてより多くのよりよい織物を生産することになる。」

工場視察官A・レッドグレーヴは次のようにつけ加えている。

「生産が高められながら労働者が減らされるという事態は急速に進んでいる。羊毛工場では近ごろ職工の新たに減少が始まったが、それは今も続いている。ロッチデールの近くに住んでいる或る校長から数日前に聞いたところでは、女子校での大きな減少は、恐慌の圧迫のせいだけではなく、羊毛工場の機械の変化のせいでもあって。この変化によって平均70人の半日工の減少が生じたとのことである。」

労働手段が労働者に対立することの直接的な表われは、まず、機械化された工場が、以前から存在していた手工業やマニュファクチュアと競合することによってです。そして、機械化された大工場の中でも、機械の絶えざる改良と自動化の発達によって労働者が駆逐されます。

機械の改善とは人間の手作業を減らし、それを機械の作業置き換えること。その目的は生産サイクルの機械化です。そして、機械の動力についても手動から水力や蒸気機関というエネルギーに転換する。そのエネルギーは手動の限界をはるかに越えますが、その動力を効率的に活用する機械の改善は、同じ時間に生産できる製品の量を飛躍的に増やした。その一方で、労働者の作業は単純化され熟練を要しない児童や女性でもできるようなものとなり、非熟練労働者や女性や児童といった低賃金の労働者を資本家は、成人の労働者と入れ替えることができるようになった。

機械化がある程度進んだ上で、経験が蓄積され、継続的に技術が進歩し、機械が改良されている状態にあるならば、このような労働日の短縮の圧力がかかったところで、却って、その事態に対応して機械化をさらに進めることができました。例えば木綿産業では手仕事が駆逐されてしまったのです。ここでは、「生産が増加しているのに労働者の人数が減らされるという現象が急速に広まっている」。という報告が残されています。

労働手段が労働者を打倒する。この直接的な対立がもっともあらわになるのは、新たに導入された機械類が、従来から存在する手工業やマニュファクチュアと競合する場合であるのは明らかである。しかし大工業の内部でも、機械類の絶えざる改良と自動化されたシステムの発達によって、同じ状況が発生する。

「機械類の改善はつねに、手の仕事を減らすこと、そして人間の装置の代わりに鉄製の装置を採用することで、工場の生産連鎖の輪を完全なものとすることを目的とする」。「これまで手動で運転していた機械を蒸気や水力で運転することが日常的に行われている。駆動力を節約し、製品を改善し、同じ時間に生産できる製品の量を増やし、それまで子供や女性や男性がしていた仕事を機械ができるようにするため、機械類に小さな改良を加える作業がつねに行われている。これはそれほど重要なことにはみえないが、それでも大きな成果をもたらす」。「多くの熟練と確実な手腕が必要とされる作業が行われている場合には、あまりに熟練していて、あらゆる種類の不規則な作業を行いがちな労働者の代わりに、子供一人でも見張れるほどに精密に構築されたメカニズムを採用するのがつねである」。「自動化されたシステムでは、労働者の才能は次第に駆逐されていく」。「機械類が改良されると、特定の成果をあげるために雇用されている成人労働者の数を減らすことが必要になるが、それだけではなく、雇用されている労働者の集団を、もっと別の集団に替える必要がある。熟練者集団の代わりに非熟練者集団を雇用し、成人集団の代わりに子供の集団を雇用し、男性の集団の代わりに女性の集団を雇用するのである。これらの交替はすべて、労働賃金のたえざる変動の原因になる」。「機械類はたえず成人労働者を工場の外に放りだす」。

実地の経験が蓄積され、機械的な手段がすでにある規模で存在しており、たえず技術的な進歩が実現されるならば、機械というものがどれほど柔軟性を発揮するかは、労働日の短縮の圧力のもとで、機械が遂げた大躍進がもっとも明白に示すところである。しかし1860年、すなわちイギリスの木綿産業の絶頂期にあって、アメリカの南北戦争の刺激をうけて、その後の3年間にこれほど急速に機械類が改良され、手仕事が駆逐されるようになることを、誰が予測しただろうか。

これについてはイギリスの工場視察官の公式報告からいくつの例を引くだけで十分だろう。マンチェスターのある工場主は「われわれは以前から75台の梳綿機を使っていたが、今では12台で、以前よりも優れていないとしても同程度の品質の製品を同じだけ製造している。…労働賃金は週に10ポンドは節約できたし、木綿の屑も10%は少なくなった」と語っている。

マンチェスターのある細糸工場では「機械の運転速度を速め、さまざまな自動プロセスを導入することによって、ある部門では4分の1の人員を削減できた。人員が半分以下になった部門もある。同時に2台目の梳綿機の代わりに梳篠機を導入することで、それまで梳綿機で雇用していた職工を大幅に減らすことができた」。

別の紡績工場では「職工」が全体として1割は削減できたと推定している。マンチェスターの紡績業者ギルモア社の経営者たちは「当社のふいご室では、新しい機械類を導入して、職工と労働賃金を3分の1以上は削減できた。…糸巻室と糸張室では、経費と職工を3分の1は削減できた。紡績室では経費を3分の1は削減できたと推定している。それだけではない。新しい機械類によって、職工に渡される紡ぎ糸の品質が大幅に向上しているために、以前の機械で紡いでいた織物よりも、品質でも量でも優れた製造できるようになった」と語っている。

工場視察官A・レッドグレーヴは「生産が増加しているのに労働者の人数が減らされるという現象が急速に広まっている。最近、羊毛工場でも職工を新たに減らしており、この傾向はさらにつづいている。ロッチデールに住むある教師から数日前に聞いたところでは、女子校で生徒数が大幅に減少しているが、それは恐慌の圧力のためだけではなく、羊毛工場の機械類が新しいものに変えられたためだという。これでハーフ・タイマーの人数が平均して70人は減らされたという」と指摘している。

 

機械の改良の統計表

アメリカの南北戦争のおかげでイギリスの綿工業で行われた機械改良の総結果は、次の表に示されている。

(表は省略)

このように、1861年から1868年まで338の綿工場がなくなった。すなわち、より生産的でより大規模な機械がより少数の資本家の手に集中されたわけである。蒸気織機の数は2万663だけ減少した。しかし、同時にその生産物は増加したのだから、今では改良織機1台は旧式織機1台よりも多くの仕事をしたということになる。最後に、紡錘数は161万2547だけ増加したが、従業労働者数は5万505だけ減少した。こうして、綿業恐慌が労働者の上に押しつけた「一時的な」困窮は、機械類の急激でしかも持続的な進歩によって、強められ固定されたのである。

アメリカは南北戦争によって、木綿産業が停滞し、それに替わって販売量を増やしたイギリスの木綿産業は機械の改良を進めて、生産量を増大させることに成功しました。その一方で、わずか7年間で338か所の木綿工場が姿を消しました。競争に負けた小規模な工場が退場したためで、生産性の高い大規模な機械が少数の資本家のもとに集中することになりました。労働者は減少したにもかかわらず生産量は増加しました。この結果、労働者の困窮は機械化によって、いっそう進んだのです。

アメリカの南北戦争のおかげで、イギリス木綿産業における機械の改良が進んだわけだが、次の表はその成果を示すものである。

1861年から1868年まで338か所の木綿工場が姿を消している。これは生産性の高い大規模な機械類が、少数の資本家のもとに集中したことを示している。蒸気織機の台数は、2万663台ほど減少しているが、同じ時期に生産物は増加している。改良型の織機は旧式の織機よりも性能が向上しているのである。最後に紡錘の数は161万2547個増加しているが、従業員の人数は5万505人減少した。木綿飢饉が労働者に強いた「一時的な」困窮は、機械類の急速で持続的な進歩によってさらに強められ、維持されたのである。

 

資本と科学

とはいえ、機械は、いつでも賃金労働者を「過剰」にしようとしている優勢な競争者として作用するだけではない。機械は、労働者に敵対する力として、資本によって声高く、また底意をもって、宣言され操作される。機械は、資本の専制に反抗する周期的な労働者の反逆、ストライキなどを打ち倒すための最も強力な武器になる。ガスケルによれば、蒸気機械は初めから「人力」の敵手だったのであり、これによって資本家は、ようやく始まりつつあった工場制度をおとしいれようとした労働者たちの高まる要求を粉砕することができたのである。ただ労働者暴動に対抗する資本の武器として生まれただけの1830年以来の発明を集めてみても、完全に一つの歴史が書けるであろう。われわれはなによりもまず自動ミュール紡績機を思い出す。というのは、それは自動体系の新しい一時代を開くものだからである。

蒸気ハンマーの発明者ネースミスは、労働組合調査委員会での彼の証言のなかで、1851年の大がかりな長期間の機械労働者のストライキの結果自分が採用した機械の諸改良について、次のように報告している。

「われわれの現代の機械改良の著しい特徴は、自動的な道具機の採用である。今日、機械を使用する労働者がしなければならないこと、そしてどんな少年にでもできることは、自分で労働することではなくて、機械のみごとな作業を見張っていることである。ただ自分の技能だけに頼っている部類の労働者は今ではすべて排除されている。以前は私は機械工1人について少年4人を使っていた。この新しい機械的結合のおかげで、私は成年男工の数を1500から750に減らした。その結果は、私の利潤のかなりの増加だった。」

ユアは更紗捺染工場で用いられる捺染用の機械について次のように言っている。

「ついに資本家たちは、科学の助けを求めることによって、この堪えられない隷属状態(すなわち彼らにとってやっかいな労働者の契約条件)から免れようと試みた。そして、まもなく彼らは自分たちの正当な権利、身体の他の部分にたいする頭の権利を回復したのである。」

彼はまた、ストライキが直接の誘因となった縦糸糊づけ用の発明について次のように言っている。

「古い分業戦線のうしろで不落のとりでに守られていると妄信していた不平家たちの群れは、こうして現代の機械戦術によって自分たちの側面が襲われ、自分たちの防衛手段が無力にされたのを知った。彼らは無条件で降服するよりほかはなかった。」

彼は自動ミュール機の発明については次のように言っている。

「それは、勤労階級のあいだに秩序を回復するという使命を帯びていた。…資本は、科学を自分に奉仕させることによって、つねに労働の反逆的な手に服従を強要する、というわれわれがすでに展開した説を、この発明は確証している。」

ユアの著作が刊行されたのは1835年、すなわち工業制度の発展がまだ比較的低い時のことだったにもかかわらず、その著作が今でも工場精神の古典的な表現であるのは、ただ単にそのあからさまな無恥のせいだけではなく、彼が資本の頭の無思想な矛盾をさらけ出しているその素朴さのせいでもある。たとえば、彼は、資本が自分の雇い入れた科学の助けによって

「つねに労働の反逆的な手に服従を強要する」という「説」を展開したあとで、「それ(機械物理額)は金持ちの資本家の専制を助けて貧しい階級の抑圧手段に力を貸しているといって或る方面から非難されること」を憤慨している。

また、機械の急速な発達が労働者にとってどんなに有利であるかを長々と説教したあとで、彼は労働者たちに向かって、労働者は自分の反抗的態度やストライキなどによって自分で機械の発達を速めるのだ、ということを警告している。彼は次のように言う。

「このような乱暴な反逆は、人間の浅はかさを、その最も軽蔑に値する性格において、自分を自分の首を絞刑吏にする人間の性格において、示している。」

その数ページまえでは、これと反対に次のように言っている。

「労働者たちのまちがった考えから起きる激しい衝突や中断がなかったら、工場制度もっとずっと速く発達したであろうし、すべての関係者にとってもずっと利益になったであろう。」

そこて、また彼は次のように叫んでいる。

「大ブリテンの工場地区の住民にとって幸いなことには、機械の改良はただ徐々に行われるだけである。」「機械は、成年工の一部を駆逐し、そのために成年工の数は労働にたいする需要を越えるので、機械は成年工の労賃を引き下げる、と言う。しかし、機械は児童労働にたいする需要を大きくし、したがってその賃金率を引き上げるのだ。」

このような慰めの施し主自身が他方では子供の賃金の低いことを弁護して、「それは、親たち自分たちの子供をあまり早くから工場にやることを控えさせる」と言うのである。彼の著書全体が無制限労働日の弁明書なのであって、もし13歳の子供を1日12時間よりも良くこき使うことを立法が禁止するならば、それは彼の自由愛好心に中世の最暗黒時代を思い出させるのである。それにもかかわらず、彼は、工場労働者たちに向かって、機械によって「自分たちの不滅の利益について熟考するひまをつくってくれた」神の摂理に感謝の祈りをささげるようにすすめることもできるのである。

しかし、このことは機械そのものが労働者のライバルというだけではないのです。資本家が、機械化を労働者に敵対的に扱っているからです。すなわち、労働者は資本家に対抗してストライキなどの抵抗をすることがありますが、機械化によって、労働者を減らすことは、間接的に抵抗力を削ぐことになるからです。

マルクスが指摘しているように、「機械としては労働手段はすぐに労働手段はすぐに労働者自身の競争相手になる」のであり、「労働者階級のうちで、こうして機械のための余分な人口にされた部分、すなわちもはや資本の自己増殖に直接には必要でない人口にされた部分は…もっと侵入しやすいあらゆる産業部門にあふれるほど押し寄せ、労働市場に満ちあふれ、したがって労働力の価格をその価値より低く」します。

しかし、機械は労働者の競争相手となるだけではありません。資本家は機械を、労働者の抵抗を打ち砕くための最も強力な武器として、意図的に導入することさえあります。というのも、機械によって省力化し、熟練を不要とすることによって、労働者の抵抗の基盤を奪い取ることができるからです。このように、機械はたんに生産コストを引き下げ、商品を安く販売するための手段としてだけではなく、労働運動を潰すための手段として意図的に導入されることもあるのです。

機械の発達は熟練の解体を決定的なものとするものでした。分業とマニュファクチュアの場合、各工程に分割されることで熟練が水平的に解体されたのですが、個々の労働そのものは昔からの熟練労働とほぼ同じままであるか、あるいは専門的道具の開発によってむしろ個々の熟練の水準は高まりました。しかし、この水平的に解体された熟練のうち相対的に単純なものが機械化されれば、その機械を取り扱うのに必要な労度絵はそれ自体としてきわめて単純なものとなり、技能の水準そのものが劇的に下がり、労働そのものが低質化することになりました。これを熟練の垂直的解体と言います。分業とマニュファクチュアの場合には、相対的に単純な労働でもその習得に半年と1年がかかっていたのが、今では数週間、場合によっては数日間で習得可能となり、労働力価値は技能価値部分がほとんどゼロになることによって大きく引き下げられることになったのです。ただし、機械がマニュファクチュア時代の専門的道具のように、労働の複雑さと細かさを増すための専門的機械となる場合には(旋盤のように)、熟練は必ずしも垂直的に解体するとは言えず、高度な機械を扱う新しい熟練になりますが、これはあくまでも例外的なことです。

機械によって熟練が垂直的に解体されると、労働の側にあったさまざまな知識や技能などの精神的・身体的力能は機械の側に移され、労働者が自己の身体と頭脳のうちに有していた内在的生産手段は機械のうちに外在化されて資本の所有となり、逆に労働者を支配する手段に転化したのでした。そのことによって、生産過程におけるイニシアチブが決定的に資本の側に移行しました。生産のテンポやあり方を規定しているのは今では労働者の側の腕前や意思ではなく、機械を支配する資本の都合です。労働者を資本の直接的な指揮下に置くことは、生産過程におけるこのような自律性剥奪の最初の一歩でしたが、この剥奪は機械の導入によって飛躍的に増大しました。また巨大な価値物としての固定資本は、労働者がもはやそのような巨大な固定資本を自前で購入することを不可能にするので、マニュファクチュア時代におけるよりもずっと確実に労働者の自立や小規模な個人経営の存立を妨げ(工場の数は減少しました)、資本への労働者の従属を確固たるものにしたのです。

こうして、機械制大工業の成立によって、労働過程そのものが労働者中心のものから生産手段たる機械中心的なものへと変容し、価値増殖過程における主体と手段との転倒が物質的にも現実化したのです。単に資本による労働過程の実質的包摂が成立するだけでなく、資本への労働者の実質的従属もまた成立しました。

機械の持つような階級的性格は資本家にもよく理解されていたので、特別増殖価値をめぐる資本間の競争のための手段として機械の導入が積極的に進められただけでなく(機械の経済的充用)、しばしば、反抗的な労働者を取り除くために、労働者の熟練的・物質的基盤を打ち砕いて労働者をより従順なものにするために、機械が積極的に導入されたり、そのための機械が発明されたりもしてきました(機械の階級的充用)。

大規模な機械化を通じて労働者を機械の付属物の地位へと追いやることは、資本主義的労働過程の本源的矛盾である労働者の主体性と資本主義的客体化との矛盾を媒介するより高度な形態と言えます。それとともに、作業労働者は、機械を操作する労働者、機械の動きに合わせて作業する労働者、材料の補充や生産屑の片づけなどをする補助労働者などに分割される。これは機械の充用それ自体が生み出す独自の分業である。

しかし機械類は、つねに賃金労働者を「余分なものに」することを狙っている圧倒的なライバルであるだけではない。資本家は機械類が、労働者に敵対的な潜在能力であることを明確に、そして戦略的に宣言しており、その目的のために利用しているのである。労働者たちは労働者たちは資本の独裁に抵抗して、ときにストライキなどの手段で周期的に叛乱を起こすが、機械類はこれを鎮圧するためのきわめて強力な戦闘手段となる。

[ジャーナリストの]ギャスケルによると、蒸気機械こそは、「人間の力」の敵対者であり、資本家はこの蒸気機械の力を借りることで、草創期にあった工場システムを危機に直面させかねなかった労働者の高まる要求を打ち砕くことができたのである。1830年以来の発明の歴史は、資本が労働者の叛乱を弾圧するための戦闘手段が発明された歴史として書き直すこともできる。とくに自動ミュール機は、自動化されたシステムの新時代を切り開いた機械として特筆に値する。

蒸気ハンマーを発明したナスミス氏は、労働組合調査委員会で証言した際に、1851年の機械工の大規模で長期的なストライキをきっかけとして機械類を改良したことについて、次のように語っている。「現代の機械類の改良のもっとも顕著な特徴は、自動工作機械の導入です。今では機械を使用する労働者の役割は自分で働くことではなく、機械のすばらしい仕事ぶりを見張っていることであり、これは子供でもできることなのです。自分の技能だけを頼りにしていたかつての労働者たちは、もはや姿を消しました。以前は1人の機械工に4人の子供を助手としてつけていたものです。しかし今ではこうした新しい機械類を組み合わせることで、成人男性の機械工の人数を1500人から750人に半減させることができました。それによってわたしの利益は大幅に増えたのです」。

ユアは木綿の捺染工場で使用されている捺染機械について「最後に資本家たちは、科学という手段に頼ることで、この耐えがたき奴隷状態(資本家にとって煩わしい労働者との契約条件のことである)から解放されようと試みた。やがて彼らは、頭が身体を支配するという彼らの正当な権利を回復したのだった」と語っている。

ユアはまたストライキが直接の原因となって発明された経糸の糊付け機械について、「不満を抱く労働者たちは、昔ながらの分業体制を背後に陣取って、負けるはずはないと自負していた。ところが現代的な機械の攻勢によって側面を突かれ、防衛手段を失ったのだった。こうして無条件降伏を強いられたのである」と語っている。

また自動ミュール機械の発明についてユアはこう語っている。「この機械は、産業界の諸階級のあいだにふたたび秩序を取り戻すことを使命としていた。…この発明は、資本は科学をみずからに奉仕させることで、反抗的な労働の担い手を従順にさせるというわれわれの理論の正しさを確認するものだった」。

ユアの著作が発表されたのは1835年のことで、まだ大工業システムはそれほど発達していなかった。それにもかかわらずこの著作は今でも、工場精神の古典的な表現でありつづけているが、それはシニシズムをあらわにしているからだけではなく、資本の頭脳の無思想的な矛盾をあからさまに示すその素朴さのためでもある。たとえば資本が金をだして雇った科学の助けを借りて、「つねに反抗的な労働の担い手を従順にさせる」という「理論」を展開したすぐ後で、「機械物理工が、富裕な資本家の独裁の手助けをして、貧しい階級の抑圧手段とかっていくと告発するひとがいる」と憤慨してみせるのである。

あるいは機械類の急速な発展が労働者にどれほど大きな利益をもたらすか、長々と説教しておきながら、労働者がストライキなどで反抗すると、機械類の開発がさらに加速されるだろうと警告する。そして「そのような暴力的な叛乱は、人間の浅はかさを示すものであり、自分で自分の首を絞めるような人間のもっとも軽蔑すべき性格の表われである」というのである。

そしてその数ページ前ではそれと反対のことが語られていたのだった。「労働者たちの誤った考え方のために起きた激しい衝突や中断さえなかったならば、工場システムはもっと迅速に発展していただろうし、すべての当事者にとって利益となっていただろう」。そして彼は叫ぶ。「グレート・ブリテンの工場地区の住民にとって幸いなことに、機械の改良はごくゆっくりとしか進まない」。そして「機械類は、糸部の成人労働者を駆逐し、成人労働者の数が、労働需要を上回るようにするので、成人労働者の労働賃金を低下させていると非難する人がいるが、それは間違っている。機械類は児童労働の需要を増大させることで、彼らの賃金率を高めているのである」という。

労働者に慰めを与えようとするこの男は、子供の賃金の低さを弁明するために、「このように賃金が低いので、両親はあまりに幼い頃から子供を工場にやるのを控えている」と語るのである。この著書はいたるところで、労働日を制限することに反対を唱えている。13歳の児童を1日12時間以上もこき使うことが法律で禁止されると、このリベラルな魂の人物は中世の暗黒時代のことを思いだすのである。それでいてユアは、工場労働者たちに、神の摂理に感謝を求めたりするのである。機械類によって労働者たちは「自分たちの永遠の利益について熟考する時間が与えられた」からだというのである。

 

 

第6節 機械類によって駆逐される労働者に関するの補償説

補償理論

多くのブルジョワ経済学者、たとえばジェームズ・ミル、マカロック、トレンズ、シーニア、J・S・ミル等々の主張するところでは、労働者を駆逐するすべての機械設備は、つねにそれと同時に、また必然的に、それと同数の労働者を働かせるのに十分な資本を遊離させるということになる。

である資本家が、たとえば一つの壁紙工場で、1人1年30ポンド・スターリングで100人の労働者を充用すると仮定しよう。そうすれば、彼が1年間に支出する可変資本は3000ポンドである。彼は労働者を50人解雇して、残りの50人に1台の機械をつけるが、この機械に彼は1500ポンドかけるとしよう。簡単にするために、建物や石炭などは問題にしないことにする。さらに、1年間に消費される原料にはこれまでと同じに3000ポンドかかると仮定する。この変態によっていくらかでも資本が「遊離」されているだろうか?古い経営様式では投下総額6000ポンド・スターリングは、半分は不変資本、半分は可変資本から成っていた。それは今では4500ポンドの不変資本(原料に3000ポンド、機械設備に1500ポンド)と500ポンドの可変資本から成っている。可変資本部分、すなわち生きている労働力に転換される資本部分は、総資本の半分ではなくなって、たった4分の1である。この場合には資本の遊離が生ずるのではなく、もはや労働力とは交換されない形態での資本の拘束、すなわち可変資本から不変資本への転化が生ずるのである。6000ポンドの資本は、ほかの事情が変わらないかぎり、今ではもはや50人より多くの労働者を使用することはできない。機械が改良されるごとに、資本が使用する労働者は少なくなる。新たに援用される機械には、それが駆逐する労働力や労働道具の総額よりもわずかしかかからないとすれば、たとえば1500ポンドではなく1000ポンドしかかからないとすれば、1000ポンドの可変資本が不変資本に転化または拘束されて、500ポンドの資本が遊離されることになるであろう。これは、同じ年間賃金を想定すれば、50人の労働者が解雇されているときに、約16人の労働者の雇用財源になる。いや、じつは労働者数は16人よりもずっと少なくい。というのは、この500ポンドが資本に転化されるためには、やはり一部分は不変資本に転化されなければならないのだから、労働力には一部分しか転換されえないからである。

しかしまた、新しい機械の製作にはかなりの多数の機械工が使用されるものとしよう。それは、街頭に投げ出された壁紙工にたいする補償になるであろうか?機械の製作に使用される労働者は、どんなに多くても、機械の充用が駆逐する労働者よりも少ない。解雇された壁紙工の労賃だけを現わしていた1500ポンドという金額は、今では機械の姿で、(1)機械の製造に必要な生産手段の価値、(2)機械を製作する機械工の労賃、(3)彼らの「雇い主」のものにかる剰余価値を表している。そのうえに、機械は、一度できあがれば、死ぬまで更新される必要がない。だから、追加された数だけの機械工を引き続き就業されておくためには、壁紙工場主は次々に機械によって労働者を駆逐しなければならないことになるのである。

じつは、あの弁護論者たちも、このような資本の遊離のことを言っているのではないのである。彼らが言うのは、遊離された労働者の生活手段のことである。たとえば前記の例では、機械は、50人の労働者を遊離させ、したがって「自由に利用される」ようにするだけではなく、同時に彼らと1500ポンドの価値の生活手段との関連をなくし、こうしてこの生活手段を「遊離させる」のだということは、否定することはできない。機械は労働者を生活手段から遊離させるという簡単な少しも新しくない事実が、経済学的には、機械は生活手段を労働者のために遊離させるとか、労働者を充用するための資本に転化させるとかいうように聞こえるのである。要するに、すべてはただ表現の仕方だけなのである。ものは言いようでかどがたたないというわけである。

この説によれば、1500ポンドの価値の生活手段は、解雇された50人の壁紙労働者の労働によって価値増殖される資本だった。したがって、この資本は、50人がひまをもらえばたちまち用がなくなって、この50人が再びそれを生産的に消費することができるような新しい「投資」がみつかるまでは、落ち着くところもない。だから、おそかれ早かれ資本と労働者とが再びいっしょにならなければならないのであり、そしてそうなればそこに補償があるのである。こういうわけで、機械によって駆逐される労働者の苦悩もこの世の富と同じように一時的なのである。

多くのブルジョワ経済学者は、補償理論を主張しました。機械は労働者を駆逐しますが、それと同時に、その駆逐された労働者を雇用するための新たな資本を作り出すという主張です。

じっさいに例をとって考えてみましょう。ある工場では100名の労働者を、1人年間30ポンドで雇用しているとします。したがって、この工場の資本家が1年に支出する可変資本は30ポンド×100名=3000ポンドです。いま、このうち50名の労働者を解雇し、残った50名を1500ポンドの機械のもとで働かせることとします。なお、1年に消費する原料3000ポンドで変わりません。ここで起こる変化を見ていきましょう。

以前の経営方式では、投資総額が6000ポンドで、その内訳として可変資本に労働賃金の3000ポンド、不変資本に原料の3000ポンドでした。それが、今は、不変資本が4500ポンド(以前からの不変資本3000ポンド+機械1500ポンド)と可変資本が労賃の1500ポンドの構成に変わりました。可変資本の投資総額に占める比率は半分から4分の1に縮小しました。この減った分は、資本が新たに利用できるようになったのではなく、不変資本に替わっただけです。

もし、このとき新たな導入された機械の価格が、そのことで解雇されられた労働者の賃金総額よりも低く、1000ポンドだったとしましょう。この場合、不変資本は3000ポンド+1000ポンドで、可変資本は1500ポンドなので、投資総額5500ポンドとなります。以前の6000ポンドに比べて500ポンドが余ったことになります。この5000ポンドで新たに労働者を雇用するとした場合に、同じ賃金で雇用できるのは16名にとどまり、解雇した50名に遠く及びません。しかし、500ポンド全部が賃金に投資されるわけではなく、その一部にすぎないでしょう。

これでは補償理論は成り立ちません。では、どうすれば成り立つか。ブルジョワ経済学者たちは、解雇された労働者の生活手段のことを考えていました。つまり、1500ポンドの機械は50名の労働者を解雇させただけではなく、1500ポンドの価値の生活手段と労働者との結びつきを断ち、それによって、この生活手段をあらたに利用できることにしたのです。つまり、1500ポンドの価値の生活手段は、50人が解雇されるとただちに使い道がなくなり、新たな投資先がみつかり、その結果かれらが雇用されるのでしばらく我慢すればいいということになるのです。

ジェームズ・ミル、マカロック、トレンズ、シーニョア、J・S・ミルなどの多くのブルジョワ経済学者たちは、労働者を駆逐するすべての機械類はつねに同時に、その同じ労働者たちを雇用するために十分な資本を新たに利用できるようにするのであり、これは必然的なことであると主張している。

ここである資本家がたとえば壁紙工場で100名の労働者を、年間1人30ポンドで雇用しているとしよう。この資本家が1年に支出する可変資本は3000ポンドである。この資本家がそのうちの50名の労働者を解雇し、残りの50名を1500ポンドの価値の機械のもとで働かせたとする。簡略化のために建物や石炭などは無視するとしよう。さらに1年間に消費する原料は、以前と変わらず3000ポンドだとしよう。さてこの変化によって、何らかの資本が「新たに利用できるように」なっただろうか。

以前の経営方式では投資総額は6000ポンドで、その半分が不変資本、半分が可変資本であった。それが今では同じ投資総額で、そのうち不変資本が4500ポンドで(原料3000ポンド、機械類1500ポンド)、可変資本が1500ポンドの構成になっている。可変資本、すなわち生ける労働に転換された部分は、以前は投資総額の半分を占めていたが、今では4分の1を占めるだけである。この場合には、資本が新たに利用できるようになったのではなく、反対に一つの形態に縛りつけられたのであり、この形態の資本はみずからを労働力に変えることをやめている。可変資本が不変資本に変えられたのである。

6000ポンドの投資総額では、他の事情が同じであれば、今では50人を超える労働者を雇用することはできない。機械類が改良されるごとに、雇用される労働者の数は少なくなるのである。新たに導入された機械の価格が、それによって駆逐された労働力と労働道具の費用の総額よりも低く、1500ポンドではなく1000ポンドだったとしよう。その場合には可変資本1000ポンドが不変資本に変えられて固定され、500ポンドの資本が新たに利用できるようになった。この500ポンドは、年間賃金が同一であれば、ほぼ16人を雇用する原資となるが、すでに50人が解雇されているのである。実際にこの原資で雇用できる人数は16人よりもはるかに少なくなるだろう。500ポンドが資本に変容するためには、その一部が固定資本に変わる必要があり、労働力に変わることのできるのはそのごく一部にかぎられるからである。

ところで新しい機械類を製造するために[別の会社で]多数の機械生産工が雇用されたと考えてみよう。この雇用は路上に放りだされた壁紙工への補償となりうるだろうか。どれほど多めに見積もっても、機械の製造に雇用される労働者の数は、機械の使用によって駆逐された労働者の数よりも少ない。解雇された壁紙工の労働賃金の総額は1500ポンドであった。しかし今では機械の姿になったこの金額が示しているのは、第一に機械の生産に必要な生産手段の価値であり、第二に機械を生産する機械生産工の労働賃金であり、第三に機械生産工の「雇用主」の手に入る増殖価値である。

しかも機械はひとたび完成すれば、それが廃用されるまでは更新する必要がない。そのため新たに追加された機械生産工の雇用を維持するためには、壁紙工場の工場主が次々と機械を導入して、労働者を駆逐するしかないのである。

実際にあれらの資本の擁護者たちが考えていたのは、このような形で資本を新たに利用できるようにすることではなかったのである。彼らは解雇された労働者の生活手段のことを考えていたのである。たとえばこの例では機械類は、50名の労働者を解雇して、彼らを「新たに利用できる」ようにしただけではない。同時に1500ポンドの価値の生活手段と、[解雇された]労働者の結びつきを断ち、それによってこれらの生活手段を「新たに利用できるようにした」ことは否定できない事実である。機械が労働者と生活手段の結びつきを断つことは単純で周知の事実であるが、これを経済学的に雇用するための資本に変えるということになるのである。すべては表現方法の違いなのである。ものは言いようなのだ。

この理論によると、1500ポンドの価値の生活手段は、解雇された50人の壁紙工の労働によって価値が増殖される資本だということになる。だからこの資本は、50人の労働者が解雇されるとただちに使い道がなくなる。そして新たな「投資先」がみつかり、そこで解雇された50人の労働者が生産的にそれを消費できるまでは、落ち着くことがないというのである。こうして資本と労働者は遅かれ早かれふたたび出会わざるをえないので、そのときに補償が行われるというのである。機械が駆逐した労働者の苦悩は、この世の富と同じように一時的なものだということになる。

 

その批判

1500ポンドという金額の生活手段は、解雇された労働者たちにたいしてけっして資本として対立しはしなかった。彼らに資本として対立したのは、今では機械に転化している1500ポンドだった。もっと詳しく見れば、この1500ポンドは、解雇された50人の労働者が1年間に生産した壁紙のただ一部分を代表していただけで、彼らはこれを現物でではなく貨幣形態で自分たちの雇い主から賃金として受け取っていたのである。1500ポンドに転化された壁紙で彼らは同じ金額の生活手段を買った。だから、この生活手段は彼らにとって資本としてではなく商品として存在していたのであり、そして彼ら自身もこの商品にとって賃金労働者としてではなく買い手として存在していたのである。機械が彼らを購買手段から「遊離させた」という事情は、彼らを買い手から買い手ではないものに転化させる。だから、かの商品にたいする需要が減ったのである。それだけのことである。もしこの需要の減少が他の方面からの需要の増加によって埋め合わされなければ、これらの商品の生産に従事している労働者たちの移動が起きる。それまで必要生活手段を生産していた資本の一部分は別の形態で再生産されるようになる。市場価格の低落と資本の移動が続いているあいだは、必要生活手段の生産に従事する労働者たちも彼らの賃金の一部分から「遊離させ」られる。だから、かの弁護論者は、機械は労働者を生活手段から遊離させることによって同時にこの生活手段が労働者を充用するための資本に転化させるということを証明しているのではなくて、それと反対に、きわめつきの需要供給の法則を用いて、機械はただそれが採用される部門だけでなくそれが採用されない部門でも労働者を街頭に投げ出すということを証明しているのである。

しかし、1500ポンドの生活手段は、実際には機械に姿を変えただけです。結局、労働者は、それまで手にした1500ポンドを手にすることができなくなった。それによって、1500ポンドの購買がなくなったのです。したがって。その分だけ商品の需要が減少したのです。

この需要の減少が、ほかのところでの需要の増加によってカバーされないと、これらの商品の市場価格は下がってしまいます。それが長期間になると、その商品の生産現場では労働者が解雇などで流出することになります。そして、その商品を生産していた資本の一部が、他の形態(他の工場、他の製品に置き換え等)で再生産されるようになります。

そこで経済学者たちは、需要と供給の法則にしたがって、機械は、それが導入されていない生産分野でも、労働者を減少させるということを証明したにすぎない。

しかし1500ポンドの金額の生活手段は、それまで解雇された労働者に資本として向き合っていたことはないのである。これらの労働者に資本として向き合っていたのは、今では機械に姿を変えた1500ポンドである。詳しく調べてみると、この1500ポンドは解雇された50人の労働者が生産した壁紙の一部を示しているにすぎない。労働者たちは雇用主から、現物ではなく貨幣形態でこれを労働賃金としてうけとっていたのである。

この1500ポンドに姿を変えた壁紙によって、労働者たちは同額の生活手段を購入していた。すなわちこれらの生活手段は労働者にとっては資本としてではなく、商品として存在していたのであり、これらの商品にとって彼らは賃金労働者としてではなく、買い手として存在していたのである。機械が彼らを購買手段から切り離して「新たに使用できるようにした」ために、彼らは購買者から非購買者に変わった。そのためにこれらの商品の需要が減少した。これですべてである。

この需要の減少が別のところでの需要の増加によって補われないかぎり、これらの商品の市場価格は低下する。この価格の低下が大きな範囲で長期間つづくと、その商品の生産に従事する労働者の移動が始まる。かつて必要とされていた生活手段を生産していた資本の一部が、他の形態で再生産されるようになる。市場価格の低下と資本の移動がつづくあいだは、必要な生活手段を生産するために雇用されていた労働者は、その賃金の一部から「切り離される」。

だからかの資本の擁護者である経済学者たちが証明したのは、機械類が労働者を生活手段から切り離し、同時にそれによって生活手段が労働者を雇用するための資本に変わるということではなかった。その反対に彼らは、立証済みの需要と供給の法則にしたがって、機械類はそれが導入された生産部門だけでなく、それが導入されていない生産部門でも、労働者たちを路上に放りだすことを証明したにすぎないのである。

 

貧民化する犠牲者 

経済学的楽天主義にゆがめられた現実の事態は、次のようなものである。機械に駆逐される労働者は作業場から労働市場に投げ出されて、そこで、いつでも資本主義的搾取に利用されうる労働力の数を増加させる。第7篇で明らかになるように、ここでは労働者階級のための補償としてわれわれに示されているこのような機械の作用は、それとは反対に、最も恐ろしいむちとして労働者にあたるのである。ここではただ次のことだけを言っておこう。一つの産業分野から投げ出された労働者はもちろん別のどの部門かで職を求めることはできる。彼らが職をみつけて、彼らいっしょに遊離された生活手段と彼らとの縁が再び結ばれるとしても、それは、投下を求める新しい追加資本によって行われるのであって、けっして、すでに以前から機能していて今では機械に転化している資本によって行われるのではない。そして、その場合にも彼らの前途はなんと見込みのないものであろうか! この哀れな連中は、分業のためにかたわになっていて、彼らの元の仕事の範囲から出ればほとんど値うちがなくなるので、彼らがはいれるのは、ただわずかばかりの低級な、したがっていつでもあふれていて賃金の安い労働部門だけである。また、どの産業部門も年々新たな人間の流れを引き寄せ、この流れその部門に規則的な補充や膨張のための人員を供給する。これまで一定の産業部門で働いていた労働者の一部分を機械が遊離させれば、この補充人員も新たに分割指されて他の諸労働部門に吸収されるのであるが、最初の犠牲者たちは過渡期のあいだに大部分はおちぶれて萎縮してしまうのである。

このような能天気な経済学は、次のような現実を隠していると言えます。すなわち、機械のために工場を辞めさせられた労働者は、仕事場から労働市場に放り出されます。そのことは、搾取の対象となる労働力が増えることになる、これは、資本家にとってはありがたいことである反面、労働者にとっては厳しいことになるのです。

ある産業分野で工場を解雇になった労働者はたしかに、自由な身分ではあり、自由に別の産業で仕事を探すことはできます。労働者は機械を導入したもとの会社に就職できるわけではないので、1500ポンドの資本は、この労働者の役に立っているわけではないのです。役に立つのは、別の仕事を供給してくれる別の投資です。

労働者の側からみれば、工場の分業のために偏った作業しかできなくなっているので、かつての働き場所以外のところでは、そこでの経験は無価値です。それゆえ、他の職場をみつけるとしたら、技術を要しない低賃金の底辺の労働しか残されていないでしょう。

さらに、最初の過渡期をすぎると、すべての産業分野で定期的な補充や成長のための人員の供給源となっていきます。

この経済学的なオプティミズムが糊塗している現実の事態は次のようなものだ。機械類によって駆逐された労働者たちは、仕事場から労働市場へと放りだされる。そして資本制的な搾取に自由に利用できる労働力をふやすことになるのである。この節では機械類のもたらす作用が、労働者階級にとっての補償となるという理論を紹介したが、実はそれは労働者にとってきわめて恐るべき鞭となるものであることは、本書の第7篇「資本の蓄積過程」において明らかにされる。

ここでは次のことを指摘しておくにとどめよう。ある産業分野から放逐された労働者はたしかに、どこか別の場所で仕事を探すことができる。仕事がみつかれば、労働者と、彼らとともに放りだされた生活手段との絆がふたたび結ばれることになるだろう。しかしそのために役立ったのは投資先を探している新たな追加資本であって、以前から機能していて、今では機械類に姿を変えている資本ではない。

それにしても[新しい仕事をみつけた]労働者の将来はなんという危ういものであろうか。この哀れな人々は、分業のために不具になっていて、かつての働き場所から外に出るとほとんど無価値である。彼らは求人数が少なく、求職者であふれかえっている低賃金の底辺労働にしか、仕事をみつけることはできないだろう。

さらにすべての産業分野は毎年、[労働年齢に達した]新たな人の流れを吸収するのであり、それが定期的な補充や成長のための人員の供給源となる。機械類によって、ある特定の産業分野でこれまで雇用されていた労働者の一部が放出されると、補充人員もまた再編成され、他の産業分野に吸収される。そして最初の犠牲者の多くは、この過渡期のあいだに零落し、貧民になるのである。

 

資本の擁護者の弁明

生活手段からの労働者の「遊離」が機械そのものの責任でないということは疑いもない事実である。機械はそれがつかまえる部門の生産物を安くし、増加させるのであって、他の産業部門で生産される生活手段量を直接に変化させはしないのである。だから、社会には機械が採用されてからもそれは以前と同量かまたはもっと多量の、排除された労働者のための生活手段があるのであって、年間生産物のうちの非労働者によって浪費される巨大な部分はまったく別としてもそうである。そして、これが経済学者的弁護論の眼目なのである!機械の資本主義的充用と不可分な矛盾や敵対関係などは存在しないのである!なぜならば、そのようなものは機械そのものから生ずるのではなく、その資本主義的充用から生ずるのだからである!つまり、機械は、それ自体として見れば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力に対する人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富をふやすが、資本主義的に充用されれば生産者を貧民化するなどの理由によって、ブルジョワ経済学者は簡単に次のように断言する。それ自体としての機械の考察が明確に示すように、すべてかの明白な矛盾は、日常の現実のただの外観であって、したがってまた理論においては、全然存在しないのだ、と。そこで、彼はもはやこれ以上頭を悩ますことはやめにして、しかも自分の反対者にたいしては、機械の資本主義的充用にではなく機械そのものに挑戦するという愚かさを責めるのである。

ブルジョワ経済学者も、そのさい一時的な不都合も生ずるということは、けっして否定してはいない。だが、裏のないメダルがどこにあろう!資本主義的利用以外の機械の利用は、彼にとっては不可能である。だから、機械による労働者の搾取は、彼らにとっては労働者による機械の利用と同じことなのである。だから、機械の資本主義的充用が現実にどんなありさまであるかを暴露するものは、およそ機械の充用一般を欲しないもので、社会的進歩の敵なのだ!まるであの有名な首切り犯人ビル・サイクスの論法そっくりである。

「陪審員諸公よ、たしかにこの行商人の首は切られた。だが、この事実は私の罪ではない。それはナイフの罪だ。こんな一時の不都合のためにわれわれはナイフの使用をやめなければならないだろうか?考えて見られよ!ナイフなしでどこに農工業があろうか?それは外科手術では治療に役だつし、解剖では知識を与えるではないか?しかも楽しい食卓ではちょうほうな助手ではないか?ナイフを廃止する─それはわれわれを野蛮のどん底に投げもどすことである。」

このような事態について、機械そのものには直接的な責任はありません。機械は、製品の生産コストを下げ、生産量を拡大させるだけです。これが、ブルジョワ経済学者の理論です。彼らによれば、機械というものはそれ自体では、労働時間を短縮させ、労働を軽減するものです。しかし、資本制的な生産で機械が導入されれば、労働日を延長させ、労働の強化を促すことになります。つまり、機械は、それを利用して人間が自然を征服し、人を豊かにするためのものであるものが、資本制生産様式の下では、自然のエネルギーで人間を奴隷化し、労働者を貧民にするのです。彼らは、機械化の結果、労働者がひどい状態に貶められる事態を否定はしません。しかし、そういう事態を暴く者は、機械の使用そのものを望まない者であり、社会的な進歩に敵対する者だといいます。

機械類そのものには、労働者が生活手段から「切り離される」ことになった責任がないのは疑う余地はない。機械類は、それが導入された分野で製品を安価にし、増やすだけである。だから他の産業分野で生産された生活手段の量には、当面は影響を与えない。機械が導入された後にも、社会には仕事を失った労働者のための生活手段は前と同じだけ、あるいはもっと多量に存在している(ただし非労働者が毎年消費する多量の製品は別としてである)。

これが経済学者の資本の擁護論の要である。彼らは、「資本制的な機械の利用と分かちがたく結びついている矛盾や対立などというものは存在しない。こうした矛盾や対立は機械類そのものから生まれるものではなく、機械を資本制的に使用することから生まれるものだからだ」と主張する。彼らによると、機械はそれ自体として考察すれば労働時間を短縮するが、資本制的に利用された場合には、労働日は延長する。それ自体としては労働を軽減するが、資本制的に利用された場合には、労働の強度を強める。それ自体としては人間が自然力を征服した勝利であるが、資本制的に利用された場合には、自然力によって人間を奴隷にする。それ自体としては生産する労働者の富を増すものであるが、資本制的に利用された場合には生産する労働者を貧民にするものである。こうしてブルジョワ的な経済学者たちは、「機械をそれ自体として考察すれば、誰の目にも明らかなあの矛盾も卑怯な現実のたんなる見掛けにすぎず、それ自体は、そして理論のうちには、まったく存在していない」と、簡単に宣言する。このようにしてブルジョワ経済学者たちは、この問題にこれ以上頭を悩ませるのをやめてしまう。そして論争相手は、機械の資本制的な使用と闘わず、機械そのものと闘っている愚か者だと責めるのである。

ブルジョワ経済学者たちも、機械を利用することでしばらくは不愉快な事態になることを否定するものではない。しかしコインにはつねに裏面が存在する。彼らにとって機械は、資本制的に使用するほかないものである。彼らにとって機械による労働者の搾取は、労働者が機械を使い尽くすことと同じことを意味する。だから機械の資本制的な使用が実際にはどのような事態をもたらしているかを暴く者は、機械の使用そのものを望まない者であり、社会的な進歩に敵対する者だということになる。これはまるで有名な喉切り殺人鬼のビル・サイクスと同じ理屈である。

「陪審員のみなさん、たしかにこの行商人は喉を切られました。しかしこの事実はわたしの責任ではなく、刃物の責任で起きたことです。このような一時的な不愉快の出来事のために、わたしたちは刃物の使用をやめるべきでしょうか。でも考えてみてください。刃物なしで農作業や手仕事ができるでしょうか。刃物は外科では治療のために、解剖学では教育のために使われていませんか。楽しい食事に欠かせない助手ではないですか。刃物をなくしてごらんなさい。最悪の野蛮状態に逆戻りするのです」。

 

機械の導入に関する絶対的な法則

機械は、それが採用される労働部門では必然的に労働者を駆逐するが、それにもかかわらず、他の労働部門では雇用の増加を呼び起こすことがありうる。しかし、この作用にはいわゆる補償説と共通な点はなにもない。おのおのの機械生産物、たとえば1エレの機械織物というようなものは、それによって駆逐される同種の手工業生産物よりも安いのだから、次のようなことが絶対的な法則として結論される。機械によって生産される商品の総量が、それによって代わられる手工業製品やマニュファクチュア製品の総量と同じならば、充用される労働の総額は減少する。労働手段そのもの、すなわち機械や石炭などの生産のために労働の増加が必要になるかもしれないが、それは、機械の充用によってひき起こされる労働の減少よりも小さくなければならない。そうでなければ、機械生産物は手工業生産物と同じに高いか、またはそれよりももっと高価であろう。ところが、減少した労働者数によって生産される機械製品の総量は、駆逐される手工業製品の総量と同じままではなく、実際にはそれよりもずっと大きくなるのである。40万エレの機械織物は10万エレの手織物よりも少ない労働者によって生産されると仮定しよう。この4倍になった生産物には4倍の原料が含まれている。だから、原料を生産は4倍されなければならない。しかし、建物や石炭や機械などのような消費される労働手段について言えば、それらの生産に必要な追加的な労働が増大しうる限界は、機械生産物の量と、同数の労働者によって生産されうる手工業生産物の量との差につれて、変動するのである。

機械化によって、その産業分野では労働者が駆逐されてしまうことは必然だとマルクスは言いますそれが他の産業分野に労働者を供給することになるのは、ブルジョワ経済学者の唱える補償理論とは関係がない、と。かなわち、機械で生産された製品は、以前の手工業で生産された同じ製品よりも安価です。ここから次のような法則が導かれます。機械で生産した製品の総量が、それ以前の手工業やマニュファクチュアの同じ製品の生産量と同量であれば、そこに投入される労働の総額は減少する。

機械織りの布地40万ヤードを生産する労働者の人の数が、手織りの布地10万ヤードを生産する労働者の数よりも少ないという場合。生産量は4倍になり、生産のために使われた原料も4倍になりました。この原料について、4倍の量を生産するための労働手段や労働は、一定限度で増えるだけです。この例で言えば、必ずしも4倍になるとは限らない。その限度は機械で生産した製品の量と、同じ人数の労働者で手工業で生産できる製品の量の違いに応じて変化するものです。

したがって、ひとつの生産分野で機械化が進むと、そのための生産分野を提供する産業分野の生産が連鎖反応のように生産を増加させます、そのために労働者の追加が必要になってきます。労働者を追加させる人数は、労働日の長さと労働の強度が決まっていれば、投じられる資本の不変資本と可変資本の比率によって変わります。また、その産業分野で機械化がどれほど進展しているかによっても比率は変わります。

例えば、イギリスの炭坑や鉱山で働く労働者数はずっと飛躍的に増加してきましたが、ここ数十年は機械化の普及により、増加率が低下してきています。その機械化の普及によって、その機械を生産する機械工という新しいタイプの労働者が生まれました。

機械類は、それが導入された労働分野から労働者を駆逐するのは必然的であるが、それでも他の労働分野で追加的な雇用をもたらすことはありうる。しかしこの効果はいわゆる補償理論とはまったく関係がない。機械で生産した場合、たとえば機械で織った1ヤードの布地は、それによって駆逐された手工業で生産された同種の製品よりも安価である。ここから次の絶対的な法則が導かれる。機械で生産した製品の総量が、それによって駆逐された手工業やマニュファクチュアで生産された製品の総量と同じであれば、投入される労働の総額は減少する。

機械類や石炭など、労働手段そのものを生産するために必要な労働の量は増加するかもしれないが、その増加分は機械類の使用によって減少する労働の量よりも小さくなければならない。それでないと機械で生産した製品の価格が、手工業で生産した製品の価格と同じか、それよりも高くなってしまう。しかし実際には、少なくなった労働者を使って機械で製造した製品の総量は、駆逐された手工業で製造した製品の総量と同程度にとどまることはなく、それよりもはるかに増大する。

ここで機械織りの布地40万ヤードを生産する労働者の人数が、10万ヤードの布地を手織りする労働者の人数よりも少ないとしよう。生産量は4倍になったので、使われた原料の量も4倍になっている。だから4倍の原料を生産する必要がある。しかし4倍の原料を生産するために必要な建物、石炭、機械などの消耗する労働手段に必要な追加的な労働は、それと同じだけ増えるわけではなく、一定の限度で増えるだけである。この限度は、機械で生産した製品の量と、同じ人数の労働者で手工業で生産できる製品の量の違いにおうじて変化する。

 

産業分野の多様性の拡大

こうして、ある一つの産業部門での機械経営の拡張にともなって、まず第一に、この部門にその生産手段を供給する他の諸部門での生産が増大する。そのために従業労働者数がどれほど増加するかは、労働日の長さと労働の強度とを与えられたものとすれば、充用される諸資本の構成によって、すなわちそれらの不変成分と可変成分との割合によって、定まる。この割合はまた、かの諸部門そのものを機械がすでにとらえている程度によって、さまざまに違ってくる。炭坑や金属鉱山で働く運命を負わされた人間の数は、イギリスでの機械使用の進展につれて非常に増大したが、その増大も、最近の10年間は新しい鉱山用機械の使用によって緩慢化されている。一つの新しい種類の労働者が機械といっしょにこの世に出てくる。すなわち、機械の生産者である。われわれかげすでに知っているように、機械経営はこの生産部門そのものをもますます大規模に取り入れてゆく。さらに、原料について言えば、たとえば綿紡績業のあらしのような突進が合衆国の綿花栽培を、またそれといっしょにアフリカの奴隷貿易を温室的に助成しただけではなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州の主要な事業にしたということは、少しも疑う余地はない。1790年に合衆国で最初の奴隷人口調査が行われたときには、奴隷の数は69万7千だったが、それが1861年には約4百万にのぼった。地方、これに劣らず確かなこととして、機械羊毛工業の繁栄は、ますます耕地を牧羊場に変えるとともに、農村労働者の大量駆逐と「過剰化」とをひき起こした。アイルランドでは、1845年以来ほとんど半減したその人口を、なおもアイルランドの地主やイングランドの羊毛工場諸氏の要求に精密に適合する程度まで押し下げようとする過程が、この瞬間にもまだ進行しているのである。

ある一つの労働対象がその最終形態に達するまでに通らなければならない前段階または中間段階を機械がとらえるならば、次にこの機械製品がはいってゆくまだ手工業的またはマニュファクチュア的に経営されている作業場では、労働材料といっしょに労働需要も増えてくる。たとえば、機械紡績業は糸を大いに豊富に供給したので、手織工たちは当初は出費の増加なしに十分の時間作業することができた。こうして彼らの収入は増えた。そこで、綿織物業への人間の流入が始まり、それは、たとえばイギリスではジェニー、スロッスル、ミュールという三つの紡績機によって生みだされた80万人の綿織物工がついに再び蒸気織機によって打ち倒されてしまうまで、続いた。同様に、機械によって生産されたる衣服材料が豊富になるにつれて、裁断工や仕立女工などの数も、ミシンが現われるまでは、増加する。

機械経営が相対的にわずかな労働者によって供給する原料や半製品や労働道具などの量の増加に対応して、これらの原料や半製品の加工は無数の亜種に分かれてゆき、したがって社会的生産部門はますます多種多様になる。機械経営はマニュファクチュアとは比べものにならないほど社会的分業を推進する。なぜならば、機械経営はそれがとらえた産業の生産力を比べものにならないほど高度に増進するからである。

機械のもたらす直接の結果は、剰余価値を増加させると同時にそれを表わす生産物量も増加させ、したがって、資本家階級とその付属物を養ってゆく物資といっしょにこれらの社会層そのものを増大させるということである。彼らの富の増大と、第一次的生活手段の生産に必要な労働者数の不断の相対的減少とは、新しい奢侈欲望を生むと同時にその充足の新たな生産手段を生みだす。社会的生産物のいっそう大きな部分が余剰生産物に転化し、余剰生産物のいっそう大きな部分が洗練され多様にされた形で再生産され消費される。言い換えれば、奢侈品生産が増大する。生産物の洗練や多様化は、また、大工業によってつくりだされる新たな世界市場関係からも生ずる。ますます多くの外国産嗜好品が国内生産物と交換されるだけではなく、ますます大量の外国産の原料や混合成分や半製品などが生産手段として国内産業にはいってくる。この世界市場関係にともなって、運輸業での労働需要が大きくなり、運輸業も多数の新しい亜種に分かれる。

機械化によって、労働者を多数雇用することなく、より多量の原料、半製品、労働道具の供給を受けることができるようになります。これらの多量の原料や半製品は、納入する産業など下請けが生産することになって、社会的な分業が広がって、生産分野が多様化していきます。手工業やマニュファクチュアでは、そのほとんどを自分で作って調達していたのに比べて、このような社会的分業の広がりは、全体としての生産性が比較にならないほど高くなりました。

機械化の直接的な効果は増殖価値の増大です。そして、増殖価値を実現させている生産物も増えて、富が増大します。そこで、新たな贅沢品の需要が増加し、その生産のための新たな生産手段が生み出されます。

このような贅沢品が社会的生産物の中での比率を高め、これらが洗練された多様な製品に再生産され、消費が増えます。これによって、生産物の洗練と多様化がさらに推進されます。同時にますます多量の外国の嗜好品が国内の生産物と交換されるようになり、外国産の原料、素材、半製品が生産手段として国内の産業にますます大量に流入するようになります。このような世界市場との関係によって、運輸業における労働需要が増大し、運輸業は多数の新たな下位分類に分化していきます。

ある労働対象が最終的な形態にまで到達するには、その前段階や中間段階を通過する必要があるが、これらの段階に機械類が浸透してくると、そうした機械を利用する手工業やマニュファクチュア経営の仕事場で使用される労働材料が増加し、それにともなって労働の需要も増加する。たとえば機械式の紡績によって紡ぎ糸が大量かつ安価に供給されるようになると、当初は手織工も支出を増やさずにフルタイムで働くことができ、収入も増えた。それによって木綿織物産業に労働者が流入してきた。そしてたとえばイギリスではジェニー、スロッスル、ミュールの三種類の紡績機によって、80万人の木綿織物職人が新たに必要とされたが、結局は蒸気織機の登場によってこれらの人々は姿を消すことになる。同じように機械で生産された布が多量に安価で供給されると、仕立職人、仕立女工、裁縫女工などの数が増えたが、ミシンの登場で姿を消すことになる。

機械経営によって、かなり少数の労働者を雇用しながら、ますます多量の原料、半製品、労働道具などが供給されるようになると、こうした原料や半製品が無数の下位の分類に分化していき、社会的な生産分野の多様性が増大することになる。機械経営ではマニュファクチュアと比較にならないほど、社会的な分業が推進される。機械経営を採用した産業分野の生産性が、比較にならないほど高くなるからである。

機械類を導入したことによる直接的な効果は、増殖価値が増大すること、そして増殖価値が実現されている生産物も増大し、この社会階層が増えていく。彼らの富は増大し、第一次生活手段の生産に必要な労働者の数が相対的に減少しつづける一方で、新たな贅沢品の需要が増加し、それを満たすための新たな生産手段が生みだされる。

社会的な生産物のますます大きな部分が余剰生産物に変わり、この余剰生産物のますます大きな部分が、洗練された多様な形態で再生産され、消費される。すなわち贅沢品の生産が増加するのである。さらに大工業によって、世界市場との新たな関係が発生し、これによって生産物の洗練と多様化がさらに推進されることになる。ますます多量の外国の嗜好品が国内の生産物が交換されるようになり、外国産の原料、素材、半製品が生産手段として国内の産業にますます大量に流入する。この世界市場との関係によって、運輸業における労働需要が増大し、運輸業は多数の新たな下位分類に分化していく。

 

新しい産業での雇用の増加

労働者の相対的減少につれての生産手段と生活手段の増加は、その生産物が運河やドックやトンネルや橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働の拡張をひき起こす。直接に機械を基礎として、またはそれに対応する一般的な産業変革を基礎として、まったく新たな産業部門が、したがって新たな労働分野が形成される。とはいえ、それらが総生産のなかで占める範囲は、最も発展した諸国にあってさえも、けっしてたいしたものではない。これらの分野の従業労働者の数は、最も粗雑な手の労働の必要が再生産されるのに比例して増加する。この種の主要産業と見ることのできるものは、現在では、ガス製造業、電信業、写真業、汽船航海業、鉄道業である。1861年の国勢調査(イングランドおよびウェールズの)の結果では、ガス工業(ガス製造所、機械的装置の生産、ガス会社の代理店など)の従業員数は1万5211、電信業では2399、写真業では2366人、汽船業では3570、鉄道業では7万599で、そのうち約2万8000が多少とも恒常的に従業している「不熟練」土工と、管理および営業関係の全員とである。すなわち、これら5つの新しい産業の従業員総数は9万4145である。

機械化の進展によって既存の産業分野では労働者の人数が相対的に減少しますが、生産手段と生活手段が増加していて、そのために運河や道路(トンネルや橋梁を含む)といった社会インフラ、こういうものは短期的で直接的な利益を生むものではないのですが、そういう分野でも労働が増大しています。これ以外にも、機械化を直接の契機として、あるいは機械化に伴う産業変革によって、新しい産業が発生し、そのための新しい労働が生まれます。

このような新しい分野で雇用される労働者の人数は増加しています。これに該当する分野は、ガス製造業、電信業、写真業、汽船運送業、鉄道業などです。

労働者の人数が相対的に減少するなかで生産手段と生活手段が増加していくため、運河、ドック、トンネル、橋梁など、遠い将来にならないと利益が生まれない産業分野でも、労働が増大していく。機械類を直接の契機として、あるいはそれに対応した一般的な産業変革をきっかけとして、まったく新しい産業分野が登場し、新しい労働分野が誕生する。しかしこうした新しい生産分野の製品が全体の生産物において占める比率は、発展のもっとも進んだ国でもそれほど大きくない。

新しい分野で雇用される労働者の人数は、辛い手仕事の必要性に直接に比例して増加する。現在、こうした産業分野とみなされるのはガス製造業、電信業、写真業、汽船運工業、鉄道業などである。イングランドとウェールズの1861年の人口調査によると、ガス産業(ガス製造工場、ガス器具の生産施設、ガス会社の代理店)で雇用されている人数は1万5211人、電信業で雇用されている人数は2399人、写真業で雇用されている人数は2366人、汽船会社で雇用されている人数は7万599人である。そのうち2万8000人は、多少なりとも常備の「非熟練」の土木作業員、管理および営業部門の人員である。この5つの新たに登場した産業で雇用されている従業員の総数は9万4145人になる。

 

「奉公人階級」の増大

最後に、大工業の諸部面で異常に高められた生産力は、じっさいまた、他のすべての生産部面で内包的にも外延的にも高められた労働力の搾取をともなって、労働者階級のますます大きい部分を生産的に使用することを可能にし、したがってまたことに昔の家内奴隷を召使とか下女とか従僕というような「僕婢階級」という名でますます大量に再生産されることを可能にする。1861年の人口調査によれば、イングランドおよびウェールズの総人口は2006万6224人で、そのうち977万6259が男、1028万9965が女だった。このうちから、労働に不適当な老幼者、すべての「不生産的」な女や少年や子供、次には官吏や牧師や法律家や軍人などのような「イデオロギー的」な諸身分、さらに地代や利子などの形で他人の労働を消費することだけを仕事にしている人々のすべて、最後に受救貧民や浮浪者や犯罪者などを引き去れば、男女両性と種々雑多な年齢層のざっと800万のうちから、次の各部類にそれぞれ次のような人数が属する。

農業労働者(牧人、借地農のもとに住む作男、下働きの女性を含む)

1095万8261人

木綿、羊毛、毛糸、亜麻、麻、絹、ジュート工場、機械化された靴下製造業、機械化されたレース製造業の従業員

64万2607人

炭鉱および鉱山の従業員

56万5835人

すべての金属工場(溶鉱炉や圧延工場など)と各種の金属加工工業の従業員

39万699人

奉公人階級

120万864人

すべての繊維工場の従業員と炭鉱・金属鉱山の従業員とを合計すれば、120万8442となる。また、前者をすべての金属工業および加工工場の従業員と合計すれば、総数は103万9605となり、どちらの場合にも現代の家内奴隷の数よりも小さい。機械の資本主義的利用の成果のなんというすばらしさだろう!

最後に、大工業の分野で生産力が飛躍的に高まると、すべての産業分野で労働力の搾取が労働強度の面でも労働時間の延長でも強化され、生産的でない作業に従事する労働者が増えていきました。「奉公人階級」と称される、召使、下働きの女性、従僕などです。これらの人々の数は、繊維工場の総従業員数と金属工業および金属加工業の従業員数を合計よりも多数なのです。

最後に、大工業の分野で生産力が異例なまでに高まると、その他のすべての生産分野でも労働力の搾取が内包的にも(強度も)外延的にも(時間の長さも)強化され、労働者階級のますます多くの部分を生産的でない用途で利用できるようになる。こうして「奉公人階級」という名のもとで、男女の召使、下働きの女性、従僕など、かつての家内奴隷たちがますます大量に再生産されることになる。

1861年の人口調査によると、イングランドとウェールズの総人口は2006万6224人であり、男性が977万6259人、女性が1028万9965人である。そこから次の人々を差し引くことにしよう。働くには若すぎるか、高齢すぎる人、すべての「非生産的な」女性、青少年と児童、さらに役人や聖職者、法律家、軍人など「イデオロギー的な」身分の人々、地代や利子など、他者の労働を消費して暮らしている人々、最後に救貧民、浮浪者、犯罪者などであり、これらの人々を除くと、残るのはさまざまな年齢層の男女が約800万人である。これには生産、商業、金融などで活動している資本家も含まれる。この800万人の内訳は次のようになる。

農業労働者(牧人、借地農のもとに住む作男、下働きの女性を含む)

1095万8261人

木綿、羊毛、毛糸、亜麻、麻、絹、ジュート工場、機械化された靴下製造業、機械化されたレース製造業の従業員

64万2607人

炭鉱および鉱山の従業員

56万5835人

すべての金属工場(溶鉱炉や圧延工場など)と各種の金属加工工業の従業員

39万699人

奉公人階級

120万864人

繊維工場で働くすべての従業員と炭鉱および鉱山で働く従業員を合計すると120万8442人になる。繊維工場の総従業員数と金属工業および金属加工業の従業員数を合計しても、103万9605人である。どちらも近代的な家内奴隷の人数よりも少ないのである。資本が使用している機械類のなんとすばらしい成果であることか。

 

 

第7節 機械経営の発展に伴う労働者の排出と吸収。綿業恐慌

経済学の「切り札」

経済学の一人前の代表者ならばだれでも認めるように、機械の新たな採用は、さしあたりその競争相手になる伝来の手工業やマニュファクチュアの労働者に疫病のように作用する。ほとんどすべての人々が工場労働者の奴隷状態を嘆いている。そこで、みなが出す切り札はなにか?機械は、その導入期および発展期の恐怖のあとでは、労働奴隷を最終的に減らしてしまうのではなく、結局はそれをふやすのだ!じっさい、すでに機械経営を基礎としている工場でさえも一定の成長期の後には、つまり長短の「過渡期」の後にはそれが最初に街頭に投げ出されたよりももっと多くの労働者を苦しませるといういまいまいして定理、資本主義的生産様式の永久の自然必然性を信ずるすべての「博愛家」にとっていまいましい定理を持ち出して、経済学者は歓呼の声をあげるのだ!

しかも、すでにいくつかの例、たとえばイギリスの梳毛糸工場や絹工場の例でも明らかにしたように、一定の発展度に達すれば、工場諸部門の異常な拡張は、充用労働者数の単に相対的な減少だけではなく絶対的な減少とも結びついていることがありうる。1860年に議会の命令で連合王国の全工場の特別調査が行われたとき、ランカシャーとチェシャとヨークシャとの工場地区のうちの工場監督官R・ベーカーに割り当てられた地区には652の工場があった。そのうち570工場が、蒸気織機8万5622、紡錘(複撚紡錘を除く)681万9146、蒸気機関で2万7439馬力、水車で1390馬力、従業員9万4119を占めていた。ところが、1865年には、同じこれらの工場が、織機9万5163、紡錘702万5031、蒸気機関で2万8925馬力、水車で1445馬力、従業員8万8913を占めていた。つまり、1860年から1865年までに、これらの工場は蒸気織機で11%、紡錘で3%、蒸気馬力で5%の増加を示したが、それと同時に従業員数は5.5%減少したのである。1852年と1862年とのあいだにはイギリスの羊毛加工の著しい成長があったが、充用労働者数のほうはほとんど変わらなかった。

「これは、新しく採用された機械がその前の時期の労働をどんなに大きな度合いで駆逐してしまったかを示している。」

経験的に与えられているいくつかの事例では、従業工場労働者の増加はしばしばただ外観的でしかない。すなわち、すでに機械経営の上に立っている工場の拡張によるものではなく、付随的な諸部門をだんだん合併して行った結果である。たとえば、1838年から1858年にかけての力織機およびそれによって働かされる工場労働者の増加は、(イギリスの)木綿工場ではただ単にこの事業部門の拡張によるものだった。ところが、他の諸工場では、それまでは人間の筋力で運転されていたじゅうたんやリボンや亜麻などの織機に蒸気力が応用されたことによるものだった。だから、これらの工場労働者の増加はただ従業労働者総数の減少の表現でしかなかったのである。最後に、ここではまったく無視されていることであるが、金属工場を除けばどこでも少年労働者(18歳未満)や女性や子供が工場従業員中の非常に優勢な要素をなしているのである。

とはいえ、だれにもわかるように、機械経営によって多数の労働者が実際に駆逐され可能的に代替されるにもかかわらず、同種工場数の増加または既存工場の規模の拡大に表現される機械経営そのものの成長につれて、結局は工場労働者も、彼らにとって駆逐されたマニュファクチュア労働者や手工業よりも多数になることがありうるのである。たとえば、毎週充用される500ポンド・スターリングの資本が古い経営様式ではその5分の2の不変成分と5分の3を可変成分とから成っているとしよう。すなわち、200ポンドは生産手段に、300ポンドは労働力に、たとえば労働者1人当たり1ポンドずつ投ぜられているとしよう。機械経営になれば総資本の構成も変化する。今ではたとえば5分の4の不変成分と5分の1の可変成分とに分かれる。すなわち、労働力には100ポンドしか投ぜられない。つまり、以前に使用されていた労働者の3分の2は解雇される。この工場経営が拡張されて、そのほかには生産条件の変化なしに充用総資本が500から1500に増加するとすれば、今度は300人の労働者が使用されることになり産業革命の前と同数になる。充用資本がさらに増加して2000になれば、400人の労働者が使用されることになり、したがって古い経営様式の場合よりも3分の1だけ多くなる。絶対的には充用労働者数は100人増加しているが、相対的には、すなわち前貸し総資本にたいする割合では、800人減っている。なぜならば、2000ポンドの資本は古い経営様式では400人ではなく1200人の労働者を使用したはずだからである。だから、従業労働者数の相対的減少はその絶対的増加と両立するのである。前例では、総資本が増大してもその構成は変わらないと仮定したが、それは生産条件を不変としたからである。しかし、われわれがすでに知っているように、機械使用が進むにつれて、機械や原料などから成っている不変資本部分は増大するが、労働力に投ぜられる可変資本部分は減少するのであり、同時にこれもわれわれが知っているように、ほかのどんな機械経営でもこのように絶えまなく改良が行われるのではなく、したがって総資本の構成もこれほど可変的ではないのである。しかし、この絶えまない変化もまた、休止点によって、また与えられた技術的基礎の上での単に量的に拡張によって、絶えず中断される。それとともに従業労働者数は増加する。こういうわけで、連合王国の綿・羊毛・梳く毛糸・亜麻・絹工場の全労働者数は1835年にはたった35万4684だったが、1861年には蒸気織機工(8歳以上の種々雑多な年齢層の男女)の数だけでも23万654を数えたのである。もちろん、この増大も、アジアやヨーロッパ大陸で駆逐された手織工のことはまったく別としても、イギリスの綿布手織工と彼ら自身の使用する家族とを合わせれば、1838年にもまだ80万を数えたということを考えれば、、あまりたいしたものとは思われないのである。

ブルジョワ経済学者たちは、機械化され工場では、機械化による短い成長期を過渡期として、機械化によって駆逐された労働者よりも多数の労働者を酷使することになる事態を、労働者の数が増加することを単純に歓迎しているとマルクスは言います。

機械化によって実際に大量の労働者が駆逐され、かつ潜在的に代替されているが、それにもかかわらず機械化が進展すると、工場に雇用されている労働者の人数を全体としてみると、機械化工場の経営者によって駆逐された手工業やマニュファクチュアの職人や労働者の数を上回る可能性があるのです。こうした機械経営の発達は、同じ種類の工場の総数の増加や、既存の工場の規模の拡大などから確認できます。

機械化が進むと、工場経営の資本構成は変化します。例えば、毎週500ポンドの資本が投入されているとして、古い経営方法ではその5分の2を不変資本が構成し、5分の3を可変資本が構成しています。これは、生産手段に200ポンド、労働力に300ポンドが投じられていることになります。さらに労働者1人当たりに投じられる金額は1ポンドです。これが機械化によって、5分の4が固定資本で、5分の1が可変資本と変わりました。労働力に投資される資本は100ポンドに減りました。そのため、それまで雇用されていた労働者の3分の2は解雇されたのです。しかしこの工場経営が拡大されて、他の生産条件は同一で、総資本の金額が500ポンドから1500ポンドに増大しました。そうすると300人の労働者が雇用されることになり、産業革命の前のマニュファクチュアのときと同じ数です。投下される資本がさらに2000ポンドに拡大すると、400名の労働者が雇用され、古い経営方式のときよりも、労働者の数は3分の1ほど増加することになるのです。絶対数でみると、労働者数は100人増加しているが、相対的にみると、すなわち前払いされた総資本との比率でみると、800人減少したことになる。2000ポンドの資本があれば、古い経営方式では400人ではなく、1200人の労働者を雇用していたはずだからです。

このように、雇用する労働者の人数の相対的な減少は、その絶対的な増加と矛盾しないのです。以前に想定しておいたように、総資本が増加しても、生産条件が同じであれば、総資本の構成は変化しません。しかしすでに確認されたように、機械の使用が拡大すると、機械類や原料で構成される不変資本の部分は増加し、労働力に投資される可変資本の部分は減少します。さらに機械経営ほど、改良が継続的に続けられ、総資本の構成比率が継続的に変動する経営方式はないことも確認されています。そして、工場が大きくなるのに従って、新たな労働者が雇用されるのです。

経済学のまともな代表者たちであれば、機械類が新たに導入されると、この機械類との競争に最初に直面させられる手工業とマニュファクチュアで働く労働者に、その影響がペストのように襲いかかることを認めない人はいないだろう。彼らのほぼすべてが、工場労働者の奴隷状態を嘆いているのである。その後で彼らが示す切り札はどんなものだろうか。たしかに機械類が導入され、発達していく時期は恐ろしいものであるが、最終的に労働奴隷の数は減ることはなく、増大するという慰めなのである。

経済学者たちはなんと、機械経営を基礎とした工場では、短い成長期の後で、遅かれ早かれ「過渡期」がすぎると、機械経営によって路上に放りだされた労働者よりも多数の労働者たちが酷使されることになるという忌まわしい「定理」を歓呼して迎えるのである。資本制的な生産様式の永遠なる自然法則の必然性を信じているすべての「博愛主義者」には忌まわしいはずのこの定理をである。

イギリスの毛糸工場や絹工場などのいくつかの実例から明らかなように、工場部門の異例な拡大も、ある一定の発展段階に到達すると、雇用する労働者の数が相対的に減少するだけではなく、絶対的にも減少することがありうる。1860年に議会の命令で連合王国のすべての工場の特別人口調査が行われていた。工場視察官のR・ベイカーが担当していたランカシャー、チェシャー、ヨークシャーの工場地区には、652か所の工場があった。このうち570か所の工場に、次のものが装備されていた。すなわち8万5622台の蒸気織機、681万9146個の紡錘(複撚紡錘を除く)、2万7439馬力の蒸気機関、1390馬力の水車、9万4119人の従業員である。

ところが1865年に同じ工場群では次のようになっている。9万5163台の蒸気織機、702万5031個の紡錘、2万925馬力の蒸気機関、1445馬力の水車、8万8913人の従業員である。これをみると1860年から1865年にかけてこれらの工場群で、蒸気織機は11%増加し、紡錘は3%、蒸気馬力は5%増加しているのに対して、従業員数は5.5%減少しているのである。1852年から1862年にかけてイギリスの羊毛加工業は大幅に成長したが、雇用する労働者の数はほとんど変化していない。「これは、新たに導入された機械類が、その前の時代の労働をどれほど大規模に駆逐したかを示すものである」。

実際の事例からみても、雇用されている工場労働者が増加することはあっても、見掛けだけのことが多い。機械経営を基盤とした工場が拡大して人員が増えたのではなく、副次的な部門を段階的に併合していったために増えたのである。たとえば1838年から1858年にかけて、力織機が増加し、雇用された工場労働者の人数も増加したが、これはイギリスの木綿工場で業務分野が拡大したことによるものである。それにたいして他の工場では、それまで人間の筋肉を使って動かしていた絨毯織機、リボン織機、亜麻織機などの動力として蒸気が導入されたことで、工場労働者の人数が増加したこともある。これらの工場労働者の雇用人数の増加は、雇用されている全体の労働者の人数の減少を表現するものでしかなかった。ただしここではまったく考慮されていないが、金属工場を除くすべての工場で、工場の従業員の大多数は、青少年(18歳未満)、女性、児童で占められていることを指摘しておこう。

ここですぐに理解できるのは、機械経営によって実際に大量の労働者が駆逐され、かつ潜在的に代替されているが、それにもかかわらず機械経営が発達すると、工場に雇用されている労働者の人数を全体としてみると、[機械経営の]工場経営者によって駆逐された手工業やマニュファクチュアの職人や労働者の数を上回る可能性があるということである。こうした機械経営の発達は、同じ種類の工場の総数の増加や、既存の工場の規模の拡大などから確認できるのである。

たとえば毎週500ポンドの資本が投じられているとして、古い経営方法ではその5分の2を不変資本が構成し、5分の3を可変資本が構成しているとしよう。生産手段に200ポンド、労働力に300ポンドが投じられているわけだ。さらに労働者1人当たりに投じられる金額は1ポンドとしよう。

機械経営が導入されると、この資本構成は変化する。今ではたとえば5分の4が固定資本で、5分の1が可変資本となる。労働力に投資される資本は100ポンドにすぎない。そのため、それまで雇用されていた労働者の3分の2は解雇されることになる。しかしこの工場経営が拡大されて、他の生産条件は同一で、総資本の金額が500ポンドから1500ポンドに増大したとしよう。そうすると300人の労働者が雇用されせることになり、産業革命の前と同じになる。投下資本がさらに2000ポンドになると、400名の労働者が雇用され、古い経営方式のときよりも、労働者の数は3分の1ほど増加することになる。絶対数でみると、労働者数は100人増加しているが、相対的にみると、すなわち前払いされた総資本との比率でみると、800人減少したことになる。2000ポンドの資本があれば、古い経営方式では400人ではなく、1200人の労働者を雇用していたはずだからである。

このように、雇用する労働者の人数の相対的な減少は、その絶対的な増加と矛盾しないのである。前に想定しておいたように、総資本が増加しても、生産条件が同じであれば、総資本の構成は変化しない。しかしすでに確認されたように、機械の使用が拡大すると、機械類や原料で構成される不変資本の部分は増加し、労働力に投資される可変資本の部分は減少する。さらに機械経営ほど、改良が継続的に続けられ、総資本の構成比率が継続的に変動する経営方式はないことも確認されている。

ただしこのたえざる変動が休止期を迎えることはあるし、既存の技術的な土台がたんに量的に拡大するために、こうした変動はたえず中断される。その場合には雇用される労働者の数は増加する。たとえば1835年には、連合王国の木綿工場、毛糸工場、亜麻工場、絹工場で雇用されている労働者の人数は合計で35万4684人にすぎなかった。1861年には蒸気織機工(8歳以上のさまざまな年齢層の男女で構成される)だけで、23万654人に達しているのである。ただし1838年の時点にはイギリスで雇用されていた木綿手織工の人数は、職工が自宅で雇用していた家族を含めると80万人もいたことを考えると、これはそれほど大幅な成長とも思えなくなる。しかもアジアとヨーロッパ大陸では、さらに大量の手織工が駆逐されたのである。

 

機械経営の発展とサイクル

この点についてはもう少し述べておかなければ似らないか、そこでは、われわれの理論的叙述そのものがまだ到達していない純粋に事実的な関係にもいくらか触れることになる。

ある産業部門で機械経営が伝統の手工業やマニュファクチュアを犠牲として拡張されるあいだは、その成功が確実なことは、いわば弓矢軍に向かう針発銃装備軍の勝利が確実であるようなものである。機械が最初にその勢力圏を征服するこの第1期は、機械に助けられて生産される異常な利潤のために決定的に重要である。この利潤はそれ自体として加速的蓄積の一つの源泉になるだけではなく、絶えず新たに形成されて新たな投下を求める社会的追加資本の大きな部分をこの恵まれた生産部面に引き入れる。最初の疾風怒濤時代の特別な利益は、機械が新たに採用される生産部門で絶えず繰り返し現われる。しかしまた、工場制度がある範囲まで普及して一定の成熟度に達すれば、ことに工場制度自身の技術的基盤である機械がそれ自身または機械によって生産されるようになれば、また石炭と鉄の生産や金属の加工や運輸が革命されて一般に大工業に適合した一般的生産条件が確立されれば、そのときこの経営様式は一つの弾力性、一つの突発的飛躍的な拡大能力を獲得するのであって、この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を見いださないのである。機械は一方では原料の直接的増加をひきおこす。たとえば綿織機が綿花生産を増加させたように。他方では、機械生産物の安価と変革された運輸交通機関とは、外国市場を征服するための武器である。外国市場の手工業生産物を破滅させることによって、機械経営は外国市場を強制的に自分の原料の生産場所に変えてしまう。こうして、東インドは、大ブリテンのために綿花や羊毛や大麻や黄麻やインジゴなどを生産することを強制された。大工業の諸国での労働者が不断の「過剰化け」は、促成的な国外移住と諸外国の植民地化とを促進し、このような外国は、たとえばオーストラリアが羊毛の産地となったように、母国のための原料生産地に転化する。機械経営の主要所在地に対応する新たな国際的分業体制がつくりだされて、それは地球の一部分を、工業を主とする生産場面として他の部分のために、農業を主とする生産場面に変えてしまう。この革命は農業における諸変革と関連するのであるが、後者はここではまだこれ以上詳しく論究することはできない。

1867年月2月18日に下院はグラッドストン氏の発議によって、1831年から1868年の連合王国の各種穀類および澱粉の総輸出入に関する統計を作成させた。次にその結果の概略を示そう。澱粉はクォーターを単位として穀物に換算してある。(統計表は省略)

工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その世界市場への依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生みだし、市場が収縮すれば麻痺状態が現われる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、したがってまた生活状態に与える不確実で不安定は、このような産業循環の諸時期の移り変わりに伴う正常事となる。繁栄期を除いて、資本家のあいだでは、各自が市場で占める領分をめぐって激烈きわまる闘争が荒れ狂う。この領分の大きさは、生産物の安さに比例する。そのために、労働力にとって代わりうる改良された機械や新たな生産方法の使用における競争が生みだされるほかに、どの循環でも、労賃をむりやりに労働力の価値よりも低く押し下げることによって商品を安くしようとする努力がなされる一時点必ず現われる。

このように工場労働者数が増大は、工場に投ぜられる総資本がそれよりもずっと速い割合で増大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の退潮期から干潮期と満潮期との交替のなかでしか実現されない。しかも、それは、ときには可能的に労働者の代わりをしときには実際に労働者を駆逐する技術的進歩によって、絶えず中断される。機械経営におけるこの質的変化は、絶えず労働者を工場から遠ざけ、あるいは新兵の流入にたいして工場の門戸を閉ざすのであるが、他方、諸工場の単に量的な拡張は、投げ出された労働者のほかに新しい補充兵をも飲みこむのである。こうして、労働者たちは絶えずはじき出されては引き寄せられ、あちこちに降りまわされ、しかもそのさい召集されるものの性別や年齢や熟練度は絶えず変わるのである。

ひとつの産業部門で、機械化が従来の手工業やマニュファクチュアとの競争に打ち勝って事業を成長させる場合には、機械化の側が勝利し成功する可能性はきわめて高いものです。この場合、機械を使用することで通常では考えられないほど多くの利潤をあげることができます。ここで得られた利潤は、事業の資本の蓄積の原資となります。しかしそれだけでなく、そのことが社会的な投資を呼び込む効果を作り出します。このような特別も言える高い利潤は機械化導入の初期において、その生産部門で起こりました。

しかし、その後機械化が進み工場が一定程度以上の大きな規模になると、機械化のその機械が機械で生産されるようになり、また石炭や鉄の生産や金属加工、運輸などが大規模に機械化されるとという大工業に適した生産条件が社会的に整備されると、この生産様式は飛躍的に成長できる力をえることになります。この拡大は原材料の量と販路だけが制約となりました。

そこで、このような原材料による制約を打破するために、例えば綿織機が綿花の生産を増大させたように、原材料の供給量を直接増大させようとします。また他方では、販路による制約を打破するために、機械で生産した製品の価格の安さと、運輸・通信システムの革新によって、外国市場に進出し、そこのライバルである手工業製品を破滅させ、その代わりに外国市場を自国の原料の生産場所に強制的に変えてしまうことをします。

その典型的な例はインドです。このようにして、イギリス本国での機械化された工場を軸に、新たに国際的な分業体制が作り直されました。この体制のもとで、地球の一部の地域は農業を主な生業とする生産場所となり、この地域は工業を主な企業とする生産場所に、農産物を供給するようになったのです。

機械化された大工場の生産様式には、このような断続的で飛躍的に成長する可能性があり、しかもグローバルな世界市場を相手にしているため、熱狂的といえるような増産が行われる傾向にあります。その増産の後で、製品を作りすぎて商品が市場であふれて、その結果市場で売れなくなり、生産がとまってしまう。このようなサイクルは、景気不景気の景気循環として繰り返されるようになります。そうなると、雇用と労働者の生活状態は不確実で不安定なものとなっていきます。そして、このような変動が当たり前のように繰り返されるようになるのです。

好況な時以外の時期では、各工場のあいだで市場シェアをめぐる競争が行われます。このときの市場シェアは、製品の価格の低さに直接関係します。価格が低ければ競争に勝って売上を拡大し、市場シェアを上げることができるのです。そこで、工場の経営者、つまり資本家たちは、人間の労働者にとって代わる機械の導入や、機械化によるあたらしい生産方法を競って導入しようとします。そして、その都度労働賃金を無理やりに下げて、生産する製品の価格を下げようと試みるのです。

そこで、工場の労働者数が増加しているのは、その増加率を上回る率で、工場に投入する総資本が増加しているからです。しかし、このような事は、景気循環の中の景気後退の時期から好調に転ずる過渡期にのみ発生するのです。しかも、その際に技術の進歩によって、労働者の増加が抑えられることもあります。そうなると、労働者の新規の採用を抑えるか、今いる労働者を解雇することになるのです。

他方で、工場がたんに改良を行わずに、ただ生産量を増やすだけであれば、労働者の採用を増やし続けることになります。このようにして、労働者の雇用は景気や工場の状況に絶えず左右される不安定なままであり続けるのです。

ここでいう産業サイクルとは、いわゆる景気循環のことです。資本主義的生産様式においては、生産が私的に、それゆえ無政府的に行われるために経済が偶然的な事情で変動するというだけでなく、好況と不況が周期的に発生します。しかも、この両者がゆるやかに交代するのではなく、80年代の日本のバブルのときのように、大変な好景気のあとに突然、恐慌がやってくることが一般的です。日本のバブル崩壊やリーマン・ショックのあとに、多くの労働者がリストラされたり、賃金をカットされたりしたことからもわかるように、賃労働者の労働条件はこのような産業サイクルにふりまわされることになります。

このような産業循環がどのようなメカニズムで発生するかは、第3巻で説明されることになりますが、産業循環がすでにみた利潤率の動向を軸にして発生することだけは指摘しておきましょう。マルクスがいう活況の時期は、停滞状態から脱却し、市場が拡張していく時期なので利潤率も上昇していきますが、好況の時期になると生産力の上昇にともなって利潤率が低下し始めます。資本家たちは利潤率の低下をカバーするために、投下する資本量を増大させることによって、利潤を増やそうとしますが、そうすると今度は労賃や生産手段の価格が上昇し、利潤率がさらに低下することになります。それでも、好況には多少の増産をしても景気が良いので市場が吸収してくれますが、やがてそれも限界になり、過剰生産の状態になってしまいます。こうして、ある時点で、投下する資本量を増やしてもそれ以上利潤率を増やすことができないという資本の絶対的過剰生産の状態に陥り、生産の拡大がストップし、「恐慌」が発生するのです。そして経済は停滞状態に陥ります。

以上が産業サイクルの基本的なメカニズムですが、ここで重要なのはいっけん金融の問題のようにみえるバブル崩壊であっても、その背景には実体経済における利潤率の低下、さらには利潤の停滞ないし減少という現象があるということです。『資本論』第1巻でも、「経済学の浅薄さは、とりわけ、産業循環の局面転換の単なる兆候でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているということのうちに、現われている」と述べられています。じっさい、TSSI(時間的単一体系解釈)という欧米の新しいマルクス経済学の潮流は、バブル崩壊に先立って利潤率が低下し、続いて利潤が頭打ちになり、それからバブル崩壊が起きていることを種々の統計の分析によって明らかにしています。

これにかんしてまだいくつか指摘しておくべきことがある。それについては、私たちのこれまでの理論的な記述ではまだ説明できない純粋な事実関係についても、少しふれることになろう。

ある産業部門で、機械経営が伝統の手工業やマニュファクチュアを犠牲にしながら拡大していくあいだは、その成功はきわめて確実なものである。あたかも火縄銃を装備した軍が、弓矢を装備した軍に勝利を収めるようなものである。機械が最初にみずからの活動領域を征服していくこの第1期は、決定的に重要な意味をもつ。この時期には、機械を使用することで、異例なほどに豊かな利潤をあげることができるからである。この利潤はまず、加速しつつある蓄積の原資となるが、それだけではなく、つねに新たに形成され、新しい投資先を探し求めている社会的な追加資本を、こうした有利な生産分野に誘い込む〈呼び水〉となる。この初期の疾風怒濤の時代にえられる特別な利益は、生産分野に機械が新たに導入されるたびに繰り返されるのである。

しかし工場制度がある程度の規模にまで拡大し、一定の成熟度に達すると、とくにそれ自体の技術的な基盤である機械が、機械によって生産されるようになると、あるいは石炭や鉄の生産、金属の加工、運輸などで革命的な変化が発生し、大工業にふさわしい一般的な生産条件が確立されると、この経営様式は弾力性を獲得し、飛躍的な拡張能力を獲得する。この飛躍を制限するのは原材料[の量]と販路だけである。

機械類は一方では[原材料の制約を打破するために]、綿織り機が綿花の生産を増大させたように、原材料の供給を直接に増大させる。また他方では機械は[販路と原材料の制約を打破するために]機械で生産した製品の価格の安さと、運輸・通信システムの革新によって、外国市場の手工業製品を破滅させ、その外国市場を自国の原料の生産場所に強制的に変えてしまうのである。

このようにして東インドは、綿花、羊毛、麻、ジュート、藍などをグレート・ブリテンのために生産することを強いられたのだった。大工業時代の諸国ではつねに労働者が過剰になるために、労働者の外国への移住と外国の植民地化が急速に促進されることになる。労働者が赴いた国は、たとえばオーストラリアが羊毛の産地となったように、母国のための原材料の生産地になるのです。

こうして機械経営の主要な拠点を軸として、新たな国際的な分業体制が確立される。この体制のもとで、地球の一部の地域は農業を主な生業とする生産場所となり、この地域は工業を主な企業とする生産場所に、農産物を供給するようになる。この革命は農業における革命と結びついたものであるが、ここではこれについては細かに説明することはできない。

1867年月2月18日に下院はグラッドストーン議員の発議により、1831年から1868までに連合王国で輸入および輸出されたすべての種類の穀物と穀物粉類の統計を作成するように命じた。上の表はその要約である。穀物粉類は、クォーター単位の穀物に換算した。

工場制度には、このように断続的で飛躍的な拡張能力があり、しかも世界市場に依存しているために、熱に浮かれたように生産が行われるのは必然的であり、その後で市場で商品が余剰になり、市場が収縮すると麻痺状態にならざるをえない。産業のライフサイクルは、中程度の活況、好況、過剰生産、恐慌、停滞という系列をたどることになる。機械経営によって雇用と労働者の生活状態は不確実で不安定なものになり、産業のライフサイクルの交替にともなって、こうした変動が発生するのはごくふつうのことになる。

好況期を除いたその他の時期では、資本家のあいだでは、市場シェアをめぐる熾烈な闘争が展開される。この市場シェアの大きさは、製品の価格の低さに直接に正比例する。ここから資本家のあいだでは、人間の労働力に代わりうる機械類の使用の競争と、新しい生産方法の使用の競争が展開され、サイクルごとに労働賃金をむりやりに労働力の価値以下にひきさげることで、製品を安価にしようとする試みが行われる時点が必ず到来する。

つまり工場労働者の数が増加しているのは、その増加率よりもはるかに急激に、工場に投下された総資本が増加しているからなのである。しかしこのプロセスは、産業のサイクルの退潮期から好調期への移行期間のあいだだけに発生する。しかもこのプロセスは技術の進歩によってかならず中断される。技術の進歩は潜在的に労働者を駆逐するだけの場合と、実際に駆逐してしまう場合がある。機械経営のこのような質的な変化は、たえず労働者を工場から追い払うか、新規の求職者にたいして門を閉ざすのである。

しかし他方で工場がたんに量的な拡張をつづけている場合には、放出された労働者だけでなく、新規の求職者もそこに吸収されていく。このようにして労働者はたえず放りだされ引き込まれ、あっちに投げだされこっちに投げ返され、しかも雇用される労働者の性別、年齢、熟練度もたえず変化していく。

 

イギリスの木綿工業の歴史

工場労働者の運命は、イギリスの綿工場の運命をすばやく概観することによって、最も明らかにされる。

1770年から1815年までは、綿工業が不況または停滞状態にあったのは5年間である。この第1期の45年間、イギリスの工場主たちは機械と世界市場とを独占していた。1815年から1821年までは不況。1822年と1823年は好況。1824年には団結禁止法の廃止、工場が一般的大拡張、1825年は恐慌、1826年には綿業労働者のあいだにひどい困窮と暴動。1827年にはやや好転、1828年には蒸気織機および輸出が大増加。1829年には輸出、特にインドへのそれが過去のすべての年を追い抜く。1830年は市場過充、大窮境、1831年から1833年まで持続的不況。対東アジア(インドと中国)貿易が東インド会社の独占から引き離される。1834年には工場と機械との大増加、人手の不足。新しい救貧法が工場地帯への農村労働者の移住を促進する。田園諸州からの子供の一掃。白色奴隷売買。1835年は大好況。同時に綿布手織工の餓死。1836年は大好況。1837年と1838年は不況と恐慌。1839年は景気回復。1840年は大不況、暴動、、軍隊の介入。1841年と1842年には工場労働者の恐ろしい苦悩。1842年には工場主が穀物法の撤廃を強要するために労働者を工場から閉め出す。労働者の大群がヨークシャに流れ込み、軍隊に追い返され、その指導者はランカスターで裁判にかけられる。1843年は大窮乏。1844年には回復。1845年は大好況。1846年にははじめは持続的な好況、次いで反動の兆候。穀物法の廃止。1847年は恐慌。「大きなパン」を祝って10%以上の一般的な賃金引き下げ。1848年は持続的な不況。マンチェスターは軍隊に警護される。1849年には回復。1850年は好況。1851年には下落する物価、低い賃金、頻繁なストライキた。1852年には好転が始まる。ストライキの続発、工場主は外国の労働者を輸入すると言っておどす。1853年には輸出上昇、プレストンでは8ヶ月にわたるストライキと大窮乏。1854年は好況、市場過充。1855年には合衆国やカナダや東アジア諸市場から破産の報知が続々とくる。1856年は大好況。1857年は恐慌。1858年には好転。1859年には大好況。工場の増加。1860年は、イギリス綿工業の絶頂。インドやオーストラリアその他の市場はいっぱいになって、1863年にもまだ滞貨の全部を吸収しきれないなどだった。フランスとの通商条約。工場および機械設備の激増。1861年に好況がしばらく続き、次いで反動、アメリカの南北戦争、綿花飢饉。1862年から1863年まで完全な崩壊。

綿花飢饉の歴史は非常に特徴的なので、しばらくこれについて述べなければならない。1860年から1861年にかけての世界市場の状況から推察すれば、綿花飢饉は工場主たちにとっては好都合にやってきたもので、またいくらかは有利でもあったのであって、この事実は、マンチェスター商業会議所の報告書のなかで認められ、議会ではパーマストンやダービによって声明され、いろいろなできごとによっても確証されている。もちろん、1861年には、連合王国の2887の綿工場のうちには小さなものもたくさんあった。工場監督官のA・レッドクレーヴの管区のなかにはこの2887工場のうちの2109工場があるのであるが、彼の報告によれば、この2019工場のうち392、すなわち19%はわずかに10蒸気馬力未満を使用し、345、すなわち16%は10馬力から20馬力未満を使用していたが、これにたいして1372は20馬力以上を使用していた。小工場の多くは織物工場で、1858年以来の好況期のあいだに大部分は投機師たちによって設立され、彼らのうちの或るものからは糸を、別の或るものからは機械設備を、第三のものからは建物を提供されて、以前は作業監督だったものやその他の無資力者によって経営されていた。これらの小工場主たちはたいていは没落した。もし綿花飢饉が商業恐慌を阻止しなかったら、彼らはやはり同じ運命に見舞われたであろう。彼らは工場主の数の3分の1を占めていたとはいえ彼らの工場は、それとはふつりあいに小さな部分を、綿工業に投下された投資のうちから吸収していた。麻痺の範囲はどうだったかと言えば、信頼のできる統計によれば、1862年の10月には紡錘の60.3%と織機の58%が休止していた。これはこの産業部門全体のことであって、もちろん、個々の地方ではこれとは非常に違っていた。ごくわずかな工場だけが完全に(週60時間)操業し、そのほかの工場は断続的に操業していた。通常の出来高賃金で時間いっぱい就業した少数の労働者の場合にさえも、週賃金は減少せざるをえなかった。というのは、上等綿に代わって下等綿が、シー・アイランド綿に代わってエジプト綿が(細糸紡績工場の場合)、アメリカ綿とエジプト綿に代わってスラト綿(東インド綿)が、そして本綿に代わって屑綿とスラト綿との混合物が使われたからだった。スラト綿の繊維が短いこと、そのなかにごみの多いこと、糸が切れやすいこと、縦糸の糊づけに澱粉代用の各種の重い材料を用いたこと、等々は、機械の速度や、1人の織物工が見張ることのできる織機数を減少させ、機械の過誤に伴う労働を増加させ、生産物量にも出来高賃金にも制限を加えたのである。スラト綿を使って時間いっぱい就業かれば、労働者の損失は20%、30%またはそれ以上になった。しかも、工場主の多くは、出来高賃金の率を5%、7.5%、10%引き下げた。これによって、1週間に3日、3日半、4日しか、あるいは1日に6時間しか就業しない人々の状態が推察されるであろう。すでに相対的な好転が現われてからの1863年にも、織布工や紡績工などの週賃金は3シリング4ペンス、3シリング10ペンス、4シリング6ペンス、5シリング1ペンス等々だった。こんな悲惨な状態にあっても、こと賃金の引き下げに関しては工場主の発明心は休むことを知らなかった。ときには、彼の綿花の粗悪なためや機械設備が適当でないために起きる製品の欠陥にたいしても、その罰として賃金の引き下げが行われた。また、工場主が労働者の小屋の所有者だった場合には、名目賃金からの引き去りを家賃の取り立ての代わりにした。工場監督官レッドグレーヴが自動機見張り工(彼らは一対の自動ミュール機の見張りをする)について語っているところでは、彼らは

「2週間の完全作業を終わると8シリング11ペンスのかせぎになり、この金額から家賃が引き去られたが、その半分は工場が贈り物として逃したので返したので、見張工は6シリング11ペンスだけは持って帰った。織布工の週賃金は、1862年の終わりごろには、2シリング6ペンスから上へいくつかの等級に分かれていた。」

職工たちの作業時間が短縮されているときにさえ、しばしば家賃は賃金から引き去られた。ランカシャのあちこちで一種の飢餓病が発生したのも不思議ではない!だが、これらのいっさいよりももっと特徴的だったのは、生産過程の変革が労働者の犠牲において行われたということである。それこそ、解剖学者たちが蛙でやるような本式の無価値体実験だった。工場監督官レッドグレーヴは次のように言っている。

「私は多くの工場での労働者の実収入をあげたが、そこから、彼らが毎週同じ額を得ているものと結論してはならない。労働者たちは、工場主が絶えずやっている実験のために非常に大きな変動のもとにおかれている。…彼らの収入は、綿のなかの混ぜものの質につれて上がったり下がったりする。ときにはそれが彼らの以前の収入に15%近づくたかと思えば、次週か次々週には50%から60%も下がる。」

これらの実験は、労働者たちの生活手段だけを犠牲にしてなされたのではなかった。彼らは彼らの五官の全部でそれを償わなければならなかった。

「綿花の荷解きに従事する人々はがまんできない悪臭で気持ちがわるくなる、と私に告げた。…混綿場や粗梳綿場や梳綿場の従業者たちは、飛散するほこりに顔じゅうの穴を刺激されて、せきや呼吸困難を起こす。…繊維が短いために、糸には糊づけのときに多量の材料が、しかも以前使われていた穀粉の代わりに各種の代用物がつけられる。そのために織布工の悪心や消化不良が起きる。ほこりのために起きる気管支炎、また咽頭炎、さらにスラト綿のなかの汚物が皮膚を刺激するために起きる皮膚病がはびこる。」

他方では、穀粉の代用物は、糸の重さを増して、工場主諸君にとってフォルトゥナトゥスの財布になった。それは「15ポンドの原料を、織り上がれば、26ポンドの重さに」した。1864年4月30日の工場監督官報告書では次のように述べている。

「この産業は今ではこの手続きをまったくあつかましく利用している。確かな筋から聞いたところでは、重さ8ポンドの織物が5.25ポンドの綿と2.75ポンドの糊とでつくられる。別の5.25ポンドの織物には2ポンドの糊が含まれていた。これは普通の輸出用シャツ地だった。その他の種類ではしばしば50%も糊がつけられていたので、工場主たちは、名目上織物に含まれている糸にかかったよりも少ない貨幣で織物を売りながら利益をあげるということを自慢できるのであり、また実際に自慢していたのである。」

しかし、労働者たちは、工場のなかでは工場主たちの、工場の外では市当局の、実験の材料にされて、賃金引き下げと失業とに、困窮と慈善とに、上下両院の賛辞に、悩まされなければならなかっただけではない。

「綿花飢饉で職を失った不幸な婦人たちは社会の廃物となり、そしてそうなったままだった。…若い売春婦の数は、最近25年間に類のない増加を示した。」

このような労働者の姿を実際に見ようとするなら、イギリスの木綿工場の歴史を追い掛けるのがよいでしょう。

こうした工場労働者の運命を知ろうとするとならば、イギリスの木綿工場の歴史を一瞥するのがもっとも分かりやすいだろう。

1770年から1815年までは、イギリスの木綿工業が不況や停滞に直面したのはわずか5年間にすぎない。この最初の45年のあいだに、イギリスの工場主たちは機械類と世界市場を独占していた。その後の1815年から1821年は不況だった。1822年と1823年は好況だった。1824年は団体禁止法が撤廃され、工場が全般的に普及していった。1825年は恐慌で、1826年には木綿工場の労働者が極度の窮乏に直面して暴動が起きた。

1827年にはわずかに好転し、1828年には蒸気織機と輸出が増大した。1829年には輸出、とくにインド向けの輸出が過去最高を記録した。1830年には市場に製品がだぶつき、深刻な困窮が発生した。1831年から1833年までは不況がつづき、東アジア(インドと中国)向けの輸出が、東インド会社の独占ではなくなった。1834年には工場と機械類が大幅に増加し、労働者が不足した。新しい救貧法によって農村の労働者が工場地区に移住することが促進された。農村には子供の姿がみえなくなった。白色奴隷の売買。

1835年は大好況でありながら木綿の手織工が餓死する事態になる。1836年は大好況。1837年と1838年は不況と恐慌。1839年にはふたたび景気が回復。1840年は大不況で暴動が発生し、軍隊が出動した。1841年と1842年は工場労働者にとって苦難の年だった。1842年には工場主が穀物法の撤廃を進めようとして、工場から労働者を排除した。数千人の労働者がヨークシャーに流れ込み、軍隊によって追い返された。指導者たちはランカスターで裁判にかけられた。1843年はきわめて悲惨な年だった。1844年には再び回復。1845年は大好況。1846年は、当初は持続的に景気が上向き、その後に反動の兆しが現れた。穀物法が撤廃された。

1847年は恐慌で、[穀物法の撤廃でパンが大きくなるという][大きなパン]を祝って賃金が10%あるいはそれ以上も引き下げられた。1848年は不況がつづく。マンチェスターに戒厳令が敷かれる。1849年にふたたび回復。1850年は好況。1851年は物価が低落し、賃金が下げられ、ストライキが頻発した。1852年はふたたび改善の兆し。ストライキがつづき、工場主たちは労働者への脅しとして外国の労働者の導入をちらつかせる。1853年には輸出が増加。プレストンで8ヶ月のストライキ、極度の困窮。1854年は好況で市場がだぶつく。1855年にはアメリカ合衆国、カナダ、東アジア市場から、倒産の報告がつづく。1856年は大好況で、1857年には恐慌になる。1858年には改善がみられ、1859年には大好況で、工場が増加した。1860年にイギリス木綿産業の絶頂期が到来。インドやオーストラリアなどの市場で極度のだぶつきが発生し、1863年になってもまだ在庫が残る。フランスと通商条約を締結。工場と機械類は飛躍的に増大した。1861年はしばらく活況がつづいたが、後に反動がくる。アメリカの南北戦争、綿花飢饉。1862年から1863年まで完全な崩壊。

綿花飢饉の困窮の歴史はあまりに特徴的なので、しばらく考察してみることにしよう。1860年から翌1861年の世界市場の状況から判断すると、綿花産業の危機は工場主たちにとっては好都合なものであり、利益があがることもあったようである。この事実はマンチェスターの商業会議所の報告でも確認されており、議会でもパーマストン議員やダービー議員が主張しており、実際の出来事がそのことを確認している。

1861年に連合王国に存在した2887か所の木綿工場には、多数の小規模な工場が含まれていた。工場視察官のA・レッドクレーヴの報告によると、この2887か所の工場のうちの2109か所が彼の担当地域に存在していた。そのうち392工場、すなわち19%の工場で使用している蒸気馬力は10馬力未満であり、16%に相当する345か所の工場の蒸気馬力は10〜20馬力、1372か所は20馬力以上だった。

こうした小規模な工場の大半は織物工場で、1858年以降の好況の際に設立されたものだった。設立者の多くは投機家で、ある者が紡ぎ糸を提供し、第二の者が機械類を提供し、第三の者が建物を提供するというぐあいで、工場の経営はかつての作業監督や、資産のない人々に委ねられた。こうした小規模な工場はほぼ全滅した。綿花飢饉によって商業恐慌は回避されたが、こうした工場は綿花飢餓なしでも、商業恐慌で同じ運命にあったことだろう。

こうした工場は工場主の数では、全体の3分の1を占めていたが、綿工業に投資された金額からみれば、こうした工場が吸収していた資本の額は、全体の投資額のごく一部にすぎなかった。こうした工場の操業停止状態を示す信頼できる統計によると、1862年の10月には、これらの工場の紡錘の60.3%、織機の58%が操業を停止していた。この数字はこの産業分野全体のもので、地域ごとに大きなばらつきがあった。フルタイム(週に60時間)で操業していた工場はごくわずかであり、多くの工場は断続的に操業していた。

フルタイムで雇われて、通常の出来高賃金をうけとっていた労働者は少数で、しかも週あたりの賃金は減少せざるをえなかった。というのは、上質の綿花ではなく、劣悪な綿花が原料として使われたからである。細糸紡績工場ではシー・アイランド綿の代わりにエジプト綿が使われた。またアメリカ綿とエジプト綿の代わりにスラト綿(東インド綿)が使われ、純綿の代わりに屑綿とスラト綿の混綿が使われた。スラト綿は繊維が短く、ごみが多く、糸が切れやすかった。また経糸の糊付けに使われる穀物粉が、さまざまな種類の重い素材で代用されることなどもあった。そのために機械の運転速度が遅くなり、1人の織物工が見張ることのできる織機の台数が減り、機械の誤動作のために仕事が増え、生産量が低下し、出来高賃金が低くなったのである。

スラト綿を使ってフルタイムで就業した場合には、労働者の損失は20〜30%またはそれ以上になった。しかも工場主の多くは、出来高賃金の歩合を5%、7.5%、10%も切り下げた。週に3日、3日半、4日しか就業していない労働者や、1日6時間しか働かない労働者の悲惨な状態は想像に難くない。1863年にはいくらか回復したが、それでも織物工や紡績工の週あたりの賃金は3シリング4ペンス、3シリング10ペンス、4シリング6ペンス、5シリング1ペンスなどの水準だった。

このような苦境のもとでも、賃金引き下げを目指す工場主たちの発明精神はきわめて旺盛だった。ときには製品の品質が低いため、罰金という形で賃金カットが行われたが、この品質の低下は、工場主の提供する綿花の質が低く、機械類が不適切だったために起きたことなのである。工場主が労働者の仕事場所の家主である場合には、名目賃金から家賃を徴収することで埋め合わせが行われた。

工場視察官のレッドグレーヴは自動機の見張り工(2台の自動ミュール機を見張る)について、「彼らは2週間フルタイムで働いて合計8シリング11ペンスを稼いだが、そこから家賃が差し引かれた。ただし工場主はその半額を贈与として戻したために、見張り工の手取りは6シリング11ペンスだった。1862年の年末には、最低が2シリング6ペンスで、その上にいくつかランクがあった」と語っている。

職人たちが1日に短時間しか労働していない場合にも、家賃が賃金から差し引かれることが多かった。ランカシャーの一部の地区で、ある種の飢餓病が発生したのも意外なことではないだろう。これらすべてのことよりも特徴的なのは、労働者を犠牲にしながら生産過程の革命が進められたことである。解剖学者が蛙の身体を使ってやるような、無価値な身体を使った実験だった。

工場視察官のレッドグレーヴは「わたしは多くの工場で労働者の実際の収入がどの程度の額になるかを示してきたが、彼らがこうした金額を毎週うけとっていると考えてはならない。工場主がたえず実験を行うために、労働者たちは大きな変動の犠牲になっている。…綿糸の混ぜものの品質のために、彼らの収入は大幅に変動する。以前の収入に15%くらい近づいたかと思うと、翌週、あるいは翌々週には50〜60%も低下するのである」と指摘している。

この工場主の実験は、労働者の生活手段の犠牲のもとで行われただけではない。労働者はその五官のすべてをもって償わされたのである。「綿花の荷解き作業をしている者たちは、絶えがたい臭気で気分が悪くなると語っていた。…混綿室、粗梳室、梳綿室で働く者たちは、飛散する埃やゴミで目、耳、鼻、口を刺激され、咳き込み、呼吸困難になる。…繊維が短いので糊付けのために綿糸に多量の素材が添加される。以前に使われていた穀物粉の代わりに、ありとあらゆる物質が利用される。…織物工が吐き気と消化不良に苦しむのはそのためである。埃による気管支炎、咽頭炎が蔓延し、スラト綿に含まれている汚れで皮膚が刺激されて皮膚病がはびこるのである」。

一方で穀物粉の代用物質によって寒さが増すので、それが工場主の「幸福の財布」になった。代用物質を使うと、「15重量ポンドの原料が織りあがると26重量ポンドの製品になった」。

1864年4月30日の工場視察官報告書にはこう書かれている。「木綿産業では、補助物質をまことに許しがたいほどの規模で使っている。確かな筋によると、8重量ポンドの織物を製造するのに、綿花は5.25重量ポンドの織物には、2重量ポンドの糊が含まれていた。これらの織物はふつうの輸出用のシャツのためのものだった。他の種類の織物では50%もの糊が添加されていた。このようにして工場主たちは、名目上はその中に含まれている紡ぎ糸の価値よりも低い価格で布地を販売して、しかも金持ちになるという芸当をしてみせたのである。そのことは工場主にとっては自慢できることであり、実際に自慢していたのである」。

しかし労働者たちは、工場では工場主の実験に苦しめられ、工場の外では市当局の実験に苦しめられ、さらに賃金カットと失業に悩まされ、困窮と慈善事業と上下両院の賛辞に苦しめられた。それだけではない。「綿花飢饉のために職を失った不幸な女性たちは社会の敗残者になり、そこから立ち直れなかった。…若い娼婦たちの数は、過去25年間の増加率を上回る比率で増えた」。

 

木綿産業の歴史の総括

このように、イギリスの綿工業の第1期の45年間、1770年から1815年には、恐慌と停滞は5年しかないが、しかし、これはイギリスの綿工業の世界独占の時期だった。第2期の48年間、1815年から1863年には、不況と停滞の28年にたいして回復と好況は20年しかない。1815年から1830年には大陸ヨーロッパおよびアメリカ合衆国との競争が始まる。1833年からはアジア諸市場の拡張が「人類の破壊」によって強行される。穀物法が廃止されてから、1846年から1863年には中位の活況と好況と8年にたいして9年の不況と停滞がある。綿工業の成年男子労働者の状態が、好況期にさえも、どんなものだったかは、つけ加えた注からも判断されるのであろう。

このようにイギリスの木綿産業の最初の45年間、すなわち1770年から1815年までの期間には、恐慌や停滞が発生したのはわずかに5年だけだった。しかしそれはイギリスの木綿工業が世界を独占していた時代だった。第2期、すなわち1815年から1863年までの48年間には、回復期と好況期はわずかに20年にすぎず、残りの28年は不況と停滞の期間だった。

1815年から1830年にかけて、ヨーロッパ大陸とアメリカ合衆国との競争が始まる。1833年以降は、[中国での阿片の販売などの][人種の破壊]によってアジア市場の拡大が強制的に行われた。穀物法が撤廃されてから、すなわち1846年から1863年までの時期には、中程度の活況と好況の年が8年で、不況と停滞の年が9年だった。好況期においてすら、成人男子の綿織物工がどのような状況に置かれていたかは、次の脚注から判断できるだろう。

 

 

第8節 大工業によるマニュファクチュア、手工業、家内労働の変革

A.手工業と分業に依拠した協業の廃棄

協業と分業の廃止

すでに見たように機械は手工業にもとづく協業を廃棄し、また手工業的労働の分業にもとづくマニュファクチュアを廃業する。第1の種類の一例は草刈り場で、それは草刈人の協議にとって代わる。第2の種類の適切な一例は縫針製造用の機械である。アダム・スミスによれば、彼の時代には10人の男が分業によって1日に4万8000本以上の縫針をつくりあげた。ところがたった1台の機械が11時間の1労働日に14万5000本を供給するのである。女1人または少女1人が平均して4台のこの機械を4台見張っているので、この機械を使えば1人で1日に約60万本、1週間では300万本以上の縫針を生産するわけである。単一の作業機が協業やマニュファクチュアに代わって現われるかぎりでは、この作業機そのものがまた手工業的経営の基礎になることができる。しかし、このように機械を基礎として手工業経営が再生産されるということは、ただ工場経営への過渡をなすだけであって。蒸気や水のような機械的動力が人間の筋肉に代わって機械を動かすようになりさえすれば、いつでも工場経営が現われるのが通例である。散財的には、そしてやはりただ一時的には、小経営が、たとえばバーミンガムのいくつかのマニュファクチュアでのように蒸気の賃借りによって、また、織物業の或る部門でのように小型の熱機関を使用などによって、機械的動力と結びつけられるということもありうる。コヴェントリの絹織物業では「小屋工場」の実験が自然発生的に広がった。方形に建てた小屋の列の中央に、蒸気機関を置くためのいわゆるエンジン・ハウスが一つ設けられ、この蒸気機関が小屋のなかの織機とシャフトで連結された。どの場合にも蒸気はたとえば織機1台あたり2シリング半で前借りされていた。この蒸気料は、織機が動いていてもいなくても毎週支払われるものだった。それぞれの小屋に2〜6台の織機が置いてあって、労働者自身のものも掛けで買ったものも賃借りしているものもあった。小屋工場と本来の工場との戦いは12年以上も続いた。それは、300の小屋工場の全滅で終わった。過程の性質上はじめから大規模生産を必要とするものではなかった場合には、最近の数十年間に新しく現われた産業、たとえば封筒製造や鉄ペン製造などは、通例は、工場経営になるまでの短期間の過渡段階として、まず手工業経営を、次にマニュファクチュア経営を通った。このような変態は、製品のマニュファクチュア的生産が一連の段階的製造過程からではなく多数の無関連な過程から成っている場合には、やはり非常に困難である。こういうことは、たとえば鉄ペン工場の大きな障害になっていた。しかし、すでに15年ほども前に、6つの無関連な過程を一度にやってしまう自動装置が発明された。手工業は最初の鉄ペン12ダースを1820年に7ポンド4シリングで供給し、マニュファクチュアはそれを1830年に8シリングで供給したが、工場はそれを今日では2ペンスから6ペンスで卸商に供給している。

これまで、機械化された工場が手工業における協業やマニュファクチュアにおける分業を廃止においやっていった状況を調べてきました。

このときに、たんに機械が個々の労働者が行っていた作業を代わって行うというだけなら、手工業でもマニュファクチュアのままでもよかったはずです。しかし、機械化すると手工業もマニュファクチュアも工場経営に変わってしまうのが通例です。マニュファクチュアのような規模の小さな経営でも、散発的で短期的なものにとどまるとしても、機械の導入することは可能です。ただし、この機械化への移行は単純に直線的なものではなく、その産業分野の性格や、とくに労働過程の状況により時間がかかったりして異なってきます。産業分野の中には、生産過程の性格から、そもそも大規模な生産を必要としない産業もありました。

これまで機械類が、手工業に依拠した協業と、手工業的な労働の分業に依拠したマニュファクチュアを廃業していった状況を調べてきた。手工業に依拠した協業を大工業が廃止した実例は草刈り場であり、これで草刈り人夫の協議は不要になった。マニュファクチュアの分業を廃止した実例は縫い針の製造機械である。アダム・スミスによると、当時は10人の男性労働者が分業によって、1日に14万5000本の縫い針を製造できる。成人女性1人あるいは少女1人で、こうした製造機械を平均して4台見張っており、この機械を使って1人で1日に約60万本、1週間に300万本以上の縫い針を製造できるのである。

協業やマニュファクチュアに代わって個々の作業機械が仕事をするという意味では、作業機械そのものが手工業的な経営の土台となることも可能なわけである。しかし機械によって手工業を再生産する営みは、工場経営に向かう過渡期にすぎない。原則として、人間の筋肉の代わりに、蒸気や水力などの機械的な動力が機械を作動させるようになれば、すぐに工場経営が登場するのが通例である。

たしかに小規模な経営で機械的な動力を利用する例は、散発的かつ短期的には可能である。たとえばバーミンガムの一部のマニュファクチュアでは、蒸気動力を賃借りしていたし、織物工場の一部の部門では小型の熱機関を利用して、機械的な動力と結びつけていた。コヴェントリーの絹織物工場で、自然発生的に「コテッジ工場」の実験が行われたことがある。四角に並べて建造されたコテッジの中央にいわゆるエンジン・ハウスが建てられ、そこに蒸気機関を設置した。この蒸気機関がシャフトを介して、コテッジの織物機械に動力を提供したのである。いずれの場合にも蒸気は賃貸しされ、たとえば織物機械1台あたり2シリング半の料金が徴収された。織物機械が作動しているかどうかにかかわりなく、この蒸気機関は週払いで支払われた。それぞれのコテッジには2〜6台の織物機械があり、労働者が所有していたか、信用払いまたは賃貸しされていた。このコテッジ工場とほんらいの工場との闘いは12年以上もつづいた。この闘いは300のコテッジ工場が完全に姿を消すことで終結した。

生産過程の性格から、そもそも大規模な生産を必要としない産業もある。たとえば封筒の製造とか鋼鉄ペンの製造などである。この数十年のうちに新たに登場したこれらの産業では、最初は手工業経営で始まり、後にマニュファクチュア経営が短期間の移行プロセスとして登場し、最後に工場経営に移行していくことが多い。この変身を遂げるのがきわめて難しくなるのは、製品のマニュファクチュア的な製造が単純に段階を追って進展するのではなく、多数の分散的な労働過程を含んでいる場合である。

たとえば鋼鉄ペンの工場ではこれが大きな障害になった。しかしすでに15年ほど前に6つの分散的な労働過程を一度に行う自動装置が発明された。1820年に手工業経営で最初の鋼鉄ペンが供給されたときには、12ダースで7ポンド4シリングの価格だった。1830年にはマニュファクチュア経営で、同じ量を8シリングで供給するようになった。今日では工場経営によって、2ペンスから6ペンスの価格で卸売業者に供給している。

 

B.マニュファクチュアと家内労働への工場制度の反作用

労働スタッフの構成の変化 

工場制度が発展につれて、またそれに伴う農業に変革につれて、すべての他の産業部門でも生産規模が拡大されるだけでなく、それらの部門の性格も変わってくる。生産過程をいろいろな構成段階に分解し、そこに生ずる諸問題を力学や化学など、要するに自然科学の応用によって解決するという機械経営の原理は、どこでも決定的になってくる。こうして、機械は、ある時はこの、旧来の分業から生じたマニュファクチュア編制の堅い結晶は解けて、それに代わって不断の変転が現われる。このことは別としても、全体労働者または結合労働人員の構成は根底から変革される。マニュファクチュア時代とは反対に、いまや分業の計画は、婦人労働やあらゆる年齢層の子供の労働や不熟練工の労働、要するにイギリス人がその特徴をとらえて安い労働と呼んでいる労働の充用をできるかぎり基礎とするようになる。このことは、機械を使用するかしないかを問わずすべての大規模に結合された生産にあてはまるだけでなく、いわゆる家内工業にも、それが労働者の自宅で営まれるか小さな作業場で営まれるかを問わず、あてはまる。このいわゆる近代的家内工業と古い型の家内工業とには名称のほかにはなんの共通点もないのであって、後者のほうは、独立な都市手工業と独立な農民経営、そしてなによりもまず労働者家族の家を前提とするものである。家内工業は今では工場やマニュファクチュアや問屋の外業部に変わっている。資本によって場所的に大量に集中され直接に指揮される工場労働者やマニュファクチュア労働者や手工業のほかに、資本は、大都市のなかや郊外に散在する家内工労働者の別軍をも、目に見えない糸で動かすのである。たとえば、アイルランドのロンドンデリのティリ会社のシャツ工場は、1000人の工場労働者と田舎に分散している9000人の家内労働者とを使用している。

安価で未熟な労働力の搾取は、近代的なマニュファクチュアでは、本来の工場で行われるよりももっと露骨になる。なぜならば、工場にある技術的基盤や筋力に代わる機械の使用や労働の容易さがマニュファクチュアにはほとんどないからである。また同時に、マニュファクチュアでは女や未成年者の身体が最も容赦なく毒物などの影響にさらされているからである。この搾取はまた、いわゆる家内工業では、マニュファクチュアで行なわれるよりももっと露骨になる。なぜならば、労働者たちの抵抗能力は彼らの分散に伴って減ってゆき、多くの盗人的寄生者が本来の雇い主と労働者とのあいだに押し入り、どこでも家内労働は同じ生産部門の機械経営や少なくともマニュファクチュア経営と戦っており、貧窮は労働者からどうしても必要な労働条件である空間や光や換気などをさえも取り上げ、就業の不規則性は増大し、そして最後に、大工業と大農業とによって「過剰」にされた人々のこの最後の逃げ場では労働者どうしのあいだの競争が必然的に最高度に達するからである。機械経営によってはじめて体系的に完成される生産手段の節約は、はじめから、同時に冷酷きわまる労働力の乱費なのであり、労働機能の正常な諸前提の強奪なのであるが、それが今では、一つの産業部門のなかで労働の社会的生産力や結合労働過程の技術的基礎の発展が不十分であればあるほど、このような敵対的な殺人的な面をますます多くさらけ出すのである。

工場制度が発展し、それが原因で農業のやり方を大きな変化させることになりました。その変化は農業だけに限らずほかのすべての産業分野に及びました。それらでは、規模が拡大し、その内容が変化しました。内容の変化とは、生産過程を分析して、その過程の中の部分的な作業を確認し、個々の部分の直面している問題を自然科学をもととした技術によって解決するようにしました。

このようにして、手工業における分業を活かすために生まれたマニュファクチュアの作業要素や構成のコアな部分が、機械化の作業との競争に勝てない時代遅れとなり、変化せざるをえなくなりました。一方、実際に作業している労働者も根本的な変化を強いられました。そこで、マニュファクチュアは安価な労働力である女性や未成年や非熟練の労働者に作業をさせるようになりました。

手工業の時代には、労働者の自宅や小さな作業場で行われていました。家内工業と呼ばれるのは、そのためです。しかし、これに対して近代的な工場では外部拠点に労働者は出向いて、そこで集中的に作業をするようになりました。工場の経営者である資本家は、このような空間的に集中した場所で労働者を大量に雇用して指揮を執るようになりました。他方で、都市や田舎に分散する家内工業を単に解体するのではなく利用しようとしました。そのような家内工業では、労働者の搾取が、より過酷になりました。機械化された工場では、労働者の肉体、とくに筋肉の代わりに機械が作業を行うことで、無肉体労働としての作業は楽なものとなりました。いわば、機械を導入した過渡期のマニュファクチュアや手工業では、労働者の搾取がひどいものとなりました。それは、女性や子供に作業をさせたり、労働者の分散を利用して団結させないようにしたのでした。

機械を導入するということは生産手段の節約を進めるものですが、それに伴って、当初から労働者を浪費していました。それは、本来ならば、労働者を効率的に働かせるために必要な条件を否定するようなことが行われていました。そこで、資本家は無理に効率化をすすめ、労働者に過酷な負担を強いることになるのでした。

工場制度が発展し、それにともなって農業に革命的な変化が発生すると、他のすべての産業分野でも生産規模が拡大するだけでなく、その性格も変化してくる。すべての産業分野で、機械経営の原理が支配的なものとなる。生産過程を分析して、その構成要素となるさまざまな部分的な過程を確認し、その部分的な過程の直面する問題を、力学や化学などの自然科学を応用して解決するようになるのである。そのためマニュファクチュアのさまざまな部分的な過程において、機械類があちこちで利用されるようになる。

このようにして旧来の分業から発生したマニュファクチュアの構造の<結晶>が、いわば融解するのであり、たえざる変化に直面するようになる。これを別としても、<全体労働者>の構成も、組み合わされた労働スタッフの構成も、根本的に変化する。マニュファクチュア時代とは異なり、今では分業を計画するにあたっては、イギリス人が巧みに「安価な労働」と呼ぶ労働、すなわち女性労働、あらゆる年齢層の子供の労働、非熟練労働などが基礎とされるようになる。

これは機械を使うかどうかにかかわらず、大規模に組み合わされた労働にあてはまるだけではなく、労働者の自宅や小さな作業場で行われているいわゆる家内工業にあてはまる。こうした近代的な家内工業が旧来の家内工業と共通しているのはもはや名前だけである。旧来の家内工業は、都市の独立した手工業、独立自営農業、とくに労働者の自宅での家族の労働を前提としたものだった。今では近代的な家内工業は、工場、マニュファクチュア、問屋の外部拠点に変貌しているのである。

資本は工場労働者、マニュファクチュア労働者、手工業の労働者を空間的に集中した場所で大量に雇用して、直接にその指揮をとっているが、そのほかにも大都市や田園地帯に散らばる家内工業の一軍を、見えざる糸を操って指揮している。たとえばアイルランドのロンドンデリーにあるティリー社のシャツ工場では、1000名の工場労働者のほかに、地方に分散した9000名の家内労働者を雇用しているのである。

安価で未熟な労働力の搾取は、ほんらいの工場よりも近代的なマニュファクチュアにおいてさらに恥知らずなものとなる。工場には技術的な基盤があり、筋力の代わりに機械が使われ、仕事は楽になっているが、マニュファクチュアはその多くが欠けているだけでなく、きわめて非良心的な形で、女性や未成年者の身体が有害物質などの影響にさらされているからである。

しかし家内工業では、マニュファクチュアよりもさらに恥知らずな搾取が行われることになる。その理由は、労働者が分散して働いているために抵抗能力が殺がれること、ほんらいの雇用主と労働者のあいだに、さまざまな寄生者が割り込んで賃金をかすめとること、家内工業はいたるところで、同じ生産分野の機械経営と、あるいは少なくともマニュファクチュア経営と競争状態に置かれること、貧困のために労働者に必要な労働条件、空間、光、換気などが奪われること、仕事がますます不規則になること、最後に家内工業では仕事を求める労働者の競争が最大になることがあげられる。家内工業は大工業と農業で「余剰になった」労働者たちのいわば最後の避難所なのである。

機械経営では一貫して生産手段の節約を推進するが、これは最初から同時にきわめて無配慮な労働力の浪費だったのであり、労働機能が必要とする正常な前提条件を奪いとるものだった。労働の社会的な生産性が低く、結びつけられた労働過程の技術的な土台が未発達な産業分野ほど、この生産手段の節約はますます敵対的で殺人的な側面をあらわにするのである。

 

C.近代的なマニュファクチュア

過剰労働の実例

そこで今度は前述の原則をいくつかの例によって説明することにしよう。読者はすてに労働日に関する章から実際に多数の証拠を知っている。バーミンガムとその付近の金属マニュファクチュアは、3万人の子供と少年、それに1万人の女を、多くは非常に重い労働に使用している。彼らはここでは健康に有害な黄銅鋳造場やボタン工場や琺瑯・メッキ・ラック塗り作業で見られる。成年工や未成年工の過度労働はロンドンのいくつかの新聞・書籍印刷工場に「屠殺場」という名誉ある名称を保証している。同じ過度労働は製本工場でも行われ、その犠牲はことに女や少女や子供である。ロープ製造工場での未成年者の激しい労働。製塩所やろうそく製造をその他の化学マニュファクチュアでの夜間労働。機械経営でない絹織物工場では織機を動かすための少年の殺人的消耗。最も卑しまれる、最も不潔な、最も賃金の低い労働のひとつで、好んで若い娘や女が用いられるのは、ぼろの選別である。人の知るように、大ブリテンは、それ自身の無数のぼろは別としても、全世界のぼろ取引の中央地になっている。そこにはぼろが日本やはるか遠方の南アメリカ諸国やカナリア群島から流れ込む。しかし、その主要供給源は、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、エジプト、トルコ、ベルギー、オランダである。それは肥料にされ、毛くず(寝具用)やショディ(再製羊毛)製造に用いられ、また紙の原料として役だつ。ぼろ選別女工は、まず彼女たち自身を最初の犠牲にする天然痘その他の伝染病を持ちまわる媒体として役だつ。過度労働、困難で不適当な労働、その結果として幼少時からこき使われる労働者の粗暴化、これらのものの典型的な実例として認められるのは、鉱山業や炭鉱業と並んで瓦や煉瓦の製造であるが、これにはイギリスでも新発明の機械はまだきばらにしか応用されていない(1866年)。5月から9月までは朝の5時から晩の8時まで労働が続き、また、乾燥が屋外で行われる場合にはしばしば朝の4時から晩の9時まで続く。朝の5時から晩の7時までの労働日は、「短縮された」、「過度な」労働日とみなされる。男女の子供たちが、6歳から、またときに4歳からさえも、使用される。彼らは大人と同じ時間労働し、またしばしば大人よりも長時間労働する。労働は激しく、夏は暑さは疲労をいっそうひどくする。たとえば、モズリの或る瓦工場では24歳になる1人の娘が、粘土を運んだり瓦を積んだりする2人の少女を助手として、1日に2000枚の瓦をつくった。これらの少女は毎日10トンの重さを深さ30フィートの粘土坑のすべりやすい側面に沿ってひきずり上げ、210フィートの距離を運んだ。

「ひどい道徳的退廃陥ることなしに瓦工場の煉獄を通過することは、子供にとっては、不可能である。…彼らがほんとうに小さい時から耳にする下品な言葉、彼らを無知粗暴なままで成長される卑猥で粗野で無恥な習慣は、その後の彼らの生涯を無法、無頼、放縦にする。…堕落の恐ろしい根源の一つは、住居の様式である。型造り工(本来の熟練工で1組の労働者の頭)は、それぞれ、7人から成っている自分自身の組を自分の小屋に泊めて食事を給する。彼の家族であろうとなかろうと、大人の男も少年も少女もこの小屋で寝る。小屋は2室、ただ例外的に3室で成っており、すべて1階で、通風はよくない。昼間のひどい発散で身体は疲れ果てているので、健康法とか清潔とか作法などはかまっていられない。これらの小屋の多くは、乱雑と不潔と塵埃とのほんとうの標本である。…この種の労働に若い娘を使う制度の最大の害悪は、彼女たちを通例はその幼時から以後の全生涯にわたって無頼きわまる仲間に釘づけにしてしまうということである。彼女たちは、自分が女であることを自然から教えられる前に、粗暴な口ぎたない少年になる。きたならしいぼろを少しばかりまとい、膝からずっと上までむきだしにし、髪も顔も垢まみれにして、彼女たちは、すべての慎みや羞恥の感情を軽蔑することを見習う。食事時間には地面に寝そべったり、付近の掘り割りで水浴する少年を眺めたりしている。苦しい1日仕事がやっとすむと、彼女たちはよい服に着替えて男たちといっしょに酒場に出かける。」

こ階級全体に子供の時から大酒飲みが多いのは、まったく当然のことでしかない。

「いちばん悪いのは、煉瓦製造工たちが自暴自棄になっていることである。いくらかましな1人がサウソールフィールドの牧師に言った、煉瓦工を改心させようとなさるのは悪魔を改心させることですぞ!」。

近代的マニュファクチュア(これはここでは本来の工場以外のすべての大規模な作業場を意味する)における労働条件の資本主義的節約については、第4次(1861年)および第6次(1864年)の『公衆衛生報告書』のなかに公認の最も豊富な材料が見いだされる。いろいろな作業場所、ことにロンドンの印刷業者や裁縫業者の作業場の描写には、われわれの小説家たちのどんなにいやらしい想像もかなわない。労働者の健康状態に及ぼす影響は、言うまでもなく明らかである。ドクター・サイモンは枢密院の最高医務官で『公衆衛生報告書』の編集官でもあるが、彼はなかんずく次のように述べている。

「私の第4次報告書(1861年)で示したように、労働者の第一の衛生権、すなわち彼らの雇い主がどんな作業のために彼らを集めるにせよ、労働は、雇い主の力の及ぶかぎり、しいっさいの避けられうる非衛生的な事情から解放されているべきだ、という権利を主張することは労働者にとっては実際には不可能である。私が指摘したように、労働者は、この衛生上の正義を自分で達成することが実際にできないかぎり、衛生警察当局から有効な援助を得ることはできない。…いまや、無数の男女労働者の生命が、彼らの単なる就業が生み出す果てしない肉体的苦痛によって、いたずらにさいなまれ縮められるのである。」

作業場が健康状態に及ぼす影響の例証として、ドクター・サイモンは次のような死亡統計表を与えている。(死亡統計表は省略)

これまで確認してきたことを実例を、近代的マニュアルでの過酷な労働の実例を、ここで説明しています。

ここでは、これまで確認してきた法則を実例で説明することにしたい。労働日に関する章では、すでに多数の証拠を示してきた。バーミンガムとその近郊の金属マニュファクチュアの多くでは、1万人の女性、3万人の児童と青少年を、きわめて厳しい重労働につかせている。彼らは健康に有害な黄銅鋳造工場やボタン工場で働き、ホウロク、メッキ、塗装作業で働いている。ロンドンのさまざまな新聞や書籍の印刷工場は、成人や未成年の労働者にあまり過剰労働をさせるので、「屠殺場」という名誉な名前をつけられている。製本工場でも同じような過剰労働がみられ、そこで屠殺されている犠牲者は主として女性、少女、児童である。

ロープ工場では未成年者が重労働をさせられているし、製塩工場、ロウソク工場、その他の化学マニュファクチュアでは夜間労働が行われている。機械化されていない絹織物工場では未成年者が織物機械の動力として殺人的に使い捨てられている。とくに労働条件が劣悪で不潔で、しかも賃金が低いのは屑布の仕分け作業で、ここでは少女と女性が好まれて雇われている。

周知のようにグレート・ブリテンは自国で発生する無数の屑布だけでなく、全世界の屑布の取引の中央市場となっている。屑布は日本からも、はるか南米諸国からも、カナリア諸島からも流れ込んできている。しかしこの屑布の主要な供給源は、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、エジプト、トルコ、ベルギー、オランダである。これらの屑布は肥料にされたり、布団用の毛屑の生産に使われたり、人造羊毛の生産に使われたり、紙の原料として利用されたりしている。屑布の仕分けに従事する女性労働者は、天然痘などの感染性の疫病をばらまく媒介者となり、さらにその最初の犠牲者になる。

過剰労働や過重で不適切な労働が行われ、こうした労働に幼年期から消費されたために労働者の粗暴化が典型的にみられる産業分野は、鉱山・炭鉱業、瓦・煉瓦製造業である。イギリスの瓦・煉瓦製造業では、1866年の時点でも、新たに発明された機械はごく散発的にしか使われていない。5月から9月までは朝の5時から夜の8時まで働かされ、屋外で乾燥作業を行う時期には、朝の4時から夜の9時まで働かされることも多い。朝5時から夜7時までの労働日は、「短縮された」「過度の」労働日とみなされている。

6歳からの男女の児童が雇われており、ときに4歳の児童が使われることもある。これらの児童が成人と同じ時間数を、しばしばそれ以上の時間を働くのである。労働は苛酷であり、とくに夏は暑さで消耗が激しくなる。たとえばモズリーのある瓦工場では、24歳の娘が1日に2000枚の瓦を製造していた。2人の少女が助手として補佐していて、粘土を運んだり、煉瓦を積み上げたりしている。少女たちは1日に10トンの重さの粘土を、深さ30フィートの粘土採掘場から、滑りやすい側道をたどりながら運び上げる。その距離は210フィートを超えるのである。

「子供にとって、道徳的にひどい悪影響をうけずに煉瓦工場の〈煉獄〉を通過することはできない。…幼い頃から下品な言葉を聞き慣れて、不潔で下品な恥知らずな習慣に馴染み、無知で粗暴なままに育っていくならば、後に無法で、邪悪で、放埓な人間となるのは間違いない。…道徳的な退廃のもっとも恐るべき原因は、暮らし方である。煉瓦の型作り工は(ほんらいの熟練労働者で、労働グループを率いる)、自分の小屋に7人ほどの配下を住まわせて食事を与える。家族の成員であるかどうかを問わず、この小屋に男たち、少年や少女たちが寝泊まりする。こうした小屋はふつうは2部屋、たまに3部屋で構成される。部屋はすべて1階にあり、あまり換気はされていない。労働者たちは日中の激しい発汗のために消耗しているために、健康の管理や衛生、マナーなどへの

配慮はまったく欠如している。これらの小屋の多くは、無秩序と不潔さと埃の見本である。…若い娘をこのような労働で雇用するこの方式の最大の弊害は、若い娘が幼少時からその後の一生にわたって忌まわしい男たちとともに暮らさざるをえなくなることである。自然によって自分が女性であることを教えられる以前に、少女たちは乱暴な悪童になってしまう。汚れたぼろ布をわずかに身にまとうだけで、足は膝上まで露出しており、髪と顔は垢まみれのまま、いかなる慎みや羞恥心も軽蔑することを教えられる。野原に寝そべったままで食事したり、近くの川で水浴びする少年たちを眺めたりしている。1日の辛い仕事がやっと終わると、いくらかまともな服に着替えて、男たちと酒場に行く」。

こ階級の子供たちが早い頃から大酒呑みになるのはごく自然なことである。「最悪なのは、煉瓦職人たちがみずから絶望していることである。まだましな男がサウソールフィールドの牧師に、煉瓦職人を回心させようというのは、悪魔を回心させるようなものですよ、と語ったという」。

近代マニュファクチュア(ここではほんらいの工場を除いたすべての大規模な作業場を考えている)において、労働条件がどれほど資本制的な精神で節約されているかについては、『公衆衛生報告書』の第4次報告書(1861年)と第6次報告書(1864年)に、詳細な公認の資料が掲載されている。作業場所の記述、とくにロンドンの印刷業者と仕立業者の作業場の記述は、われらの小説家がその想像力をどれほどの吐き気のするまで駆使したところで、太刀打ちできないだろう。労働者の健康が害されるのは言うまでもない。枢密院の首席医務官で『公衆衛生報告書』の公的な編集者でもあるサイモン医師は、次のように語っている。「わたしは第4次報告書(1861年)で、労働者が基本権である衛生権を主張するのがどれほどまでに不可能であるかを指摘しておいた。この衛生権は、どんな作業のために労働者を集めるにしても、雇用主は避けうるかぎり、いかなる不衛生な状態においても労働者を働かせないようにしなければならないというものである。すでに指摘したように、労働者がみずからこの衛生上の正義を実現するのは事実として不可能であり、衛生局の行政官からも有効な助力はえられていない。…今でも無数の男女の労働者たちが、たんに仕事をしているというだけで身体にかぎりのない苦痛を与えられており、彼らの生命は無駄に苦しめられ、短くされている」。サイモン医師は、作業場が健康に及ぼす悪影響を示すために、前掲の死亡統計表を示している。

 

 

D.近代的家内工業

次に目を転じていわゆる家内労働を見てみよう。この、大工業の背後につくり上げられた資本の搾取部面と、その奇怪な状態とについて、一つの観念をもつためには、イギリスのへんぴな村のいくつかで営まれている見かけにはまったく牧歌的な釘製造業を見ればよい。ここでは、レース製造業と麦藁細工業とのうちの、まだ全然機械経営になっていない部門かまだ機械経営やマニュファクチュア経営と競争していない部門から二つ三つ例で十分である。

前のCが近代マニュファクチュアの過酷な労働の実例を紹介していたに続いて、ここでは、近代での家内工業での実例を紹介しています。近代になると多くの産業部門で大工場置き換えられていった結果、家内工業は、大工場との競争が発生していない部門に限られるようになります。しかし、全体として資本主義化された近代では、大工場の背後で、以前の牧歌的なままではいられなくなります。その例をレース製造業と藁編み産業で見ていきます。

次に、いわゆる近代的な家内工業での労働を調べてみよう。大工業の背後で作りだされたこの家内工業という資本の搾取領域とその法外さについて、その概略だけでも知ろうとするならば、イギリスの僻地にある一見したところ牧歌的ないくつかの農村で営まれている製釘業を調べてみるとよい。ただしここでは機械経営がまったく浸透していないために、機械経営やマニュファクチュア経営との競争がまだ発生していないレース製造業と藁編み産業の分野のいくつかの実例をみておけば十分だろう。

 

レース産業の実例

イギリスのレース生産に従事する15万人のうちで約1万が1861年の工場法の適用を受ける。残りの14万人のうちの非常な多数は女と男女の少年と子供である。といっても、男はほんのわずかなのであるが。この「安い」搾取材料の健康状態は、ノッティンガムの一般施療院の医師ドクター・トルーマンの提出した次の表かを見ればわかる。レース製造女工で大部分は17歳から24歳までの患者686人のうち肺結核患者は次のような割合だった。

1852年 45人に1人

1853年 25人に1人

1854年 17人に1人

1855年 18人に1人

1856年 15人に1人

1857年 13人に1人

1858年 15人に1人

1859年  9人に1人

1860年  8人に1人

1861年  8人に1人

肺病率におけるこの進歩は、どんなに楽天家の進歩主義者にも、どんなにうそで固めたドイツの自由貿易論切売り人にも、満足なものであるにちがいない。

1861年の工場法は、機械によって行われるかぎりでの本来のレース製造を規制するものであり、そしてこの機械による製造がイギリスでは通例である。われわれがここで簡単に、しかも労働者たちがマニュファクチュアや問屋などに集中されているかぎりでではなく、ただ彼らがいわゆる家内労働者であるかぎり、顧慮しようとする部門は、(1)仕上げ(機械で製造されたレースの最後の仕上げで、さらに多数の支部部門を含む一部門)と(2)レース編みとに分かれる。

イギリスでレースの生産に従事している労働者は15万人であるが、そのうち1861年の工場法の適用をうけているのは1万人にすぎない。残りの14万人の大多数は女性、男女の青少年と児童である。ただし青少年と児童のうちで男性の比率ははるかに小さい。この「安価な」搾取材料の健康状態は、ノッチンガムの総合診療所の医師であるトルーマン医師が作成した次の表から明らかである。多くが17歳から24歳までのレース織り女工686人のうち、肺結核患者の比率は次のとおりである。

1852年 45人に1人

1853年 25人に1人

1854年 17人に1人

1855年 18人に1人

1856年 15人に1人

1857年 13人に1人

1858年 15人に1人

1859年  9人に1人

1860年  8人に1人

1861年  8人に1人

肺結核の患者発生率のこの進歩をみれば、どんな楽天的な進歩主義者も、ドイツの大嘘つきの自由貿易主義論の行商人も、満足することだろう。

1861年の工場法は、機械が使われているのであれば、ほんらいのレース製造業にも適用されるはずであり、イギリスでは原則としてレースは機械で製造されているのである。わたしたちがここで簡単に調べようとしているのは、レース製造の労働がマニュファクチュアや卸売業に集中しておらず、いわゆる家内労働として行われている部門であり、これは仕上げ部門(機械で製造されたレースの最後の仕上げを行うが、さらに多数の下位部門に分類される)と、レース編み部門に分かれる。

 

レース仕上

レースの仕上げは、いわゆる「女親方の家」でが、または女たちによって単独にかまたは子供としいっしょに自宅で、家内労働として営まれる。「女親方の家」を管理する女たちは、自分自身も貧乏である。仕事場は彼女たち自宅の一部になっている。彼女たちは、工場主や商店の持ち主などから注文を受け、自分の家の広さや変動する仕事の需要に応じて、女や少女や小さな子供を使っている。従業女工の数は、これらの仕事場のいくつかでは20人から40人まで、そのほかでは10人から20人までのあいだで変動する。子供が仕事を始める平均最低年齢は6歳であるが、5歳未満のこともよくある。普通の労働時間は朝の8時から晩の8時まで続き、その間に1時間半の食事の時間はあるが、その食事は不規則であり、穴のような臭い仕事場でとられることも多い。景気のよい時には、労働はしばしば朝の8時(ときには6時)から夜の10時か11時か12時までも続く。イギリスの兵営では兵士1人当たりの規定の空間容積は500〜600立方フィートで、軍病院では1200立方フィートである。あの穴のような仕事場では1人当たり67〜100立方フィートである。同時に、ガス燈は空気中の酸素を消費する。レースをよごさないように子供たちは靴を脱がされることが多く、冬でもそうで、しかも床は石や煉瓦でできているのである。

「ノッティンガムでは珍しくもないことであるが、15人から20人の子供が、12フィート平方以上はなさそうな小室に詰め込まれて、24時間のうち15時間も作業を続け、その作業は、飽き飽きさせる単調さのためにただでさえ消耗的なのに、それがあらゆる非衛生的な事情のもとで行なわれるのが見られる。…最年少の子供でさえ、驚くほどの張りつめた注意と速さとで労働し、指を休めたりその動きをゆるめたりするひまはほとんどないだれかに問いかけられても、彼らは一瞬でも惜しむかのように仕事から目を離さない。」

労働時間が延ばされるにつれて、「長い棒」が刺激剤として「女親方」の役に立つ。

「子供たちは、単調で、目が悪くて、姿勢が変わらないために疲れやすい仕事に長時間束縛されていて、それが終わるころには、だんだん疲れてきて鳥のように落ち着きがなくなる。まさに奴隷の仕事である。」

女が自分の子供といっしょに自宅で、つまり現代的意味では借り部屋で、しばしば屋根裏部屋で、働いている場合には、事態はもっと悪いこともあるであろう。この種の仕事は、ノッティンガムの周辺80マイルの範囲に出される。問屋で働いている子供が夜の9時か10時にそこを出るときには、自宅で仕上げるためにもう一束持って帰らされることもよくある。資本家的パリサイ人が、彼の賃金奴隷の1人をつうじてこの仕事を渡すときには、もちろん、「それはお母さんの分だ」というもっともらしい言葉を添えるのであるが、哀れな子供が寝ずに手伝わなければならないということは十分承知の上なのである。

レースの仕上げ部門の家内労働は、いわゆる「女親方の家」に集まって行われるが、女性たちの自宅で個別の家内労働として行われ、その場合には子供に手伝わせることもある。「女親方の家」を営んでいる女性もまた貧しい。こうした女性は、自宅の一部を作業場所として提供している。彼女たちは工場主や卸売業の店舗の所有者から注文をうけ、部屋の大きさにおうじて、あるいは仕事の需要の変動におうじて、女性、少女、幼い児童などを雇用する。雇用される女性たちの人数は、ある仕事場では20人から40人、別の仕事場では10人から20人といったところである。児童が仕事に就き始める最低年齢は平均して6歳であるが、5歳未満から仕事を始めることも多い。

通常の労働時間は朝の8時から夜の8時までである。食事の時間は1時間半であるが、不規則であり、しかも悪臭のする穴蔵のような仕事場で自分で摂らねばならない。景気のよい時期には、仕事は朝の8時から、ときには朝の6時から始まり、夜の10時、11時、12時までつづくことも多い。

ちなみにイギリスの兵舎では、兵士1人あたりに与えられる空間容積は500〜600立方フィートとすることが定められている。この穴蔵のような仕事場では、1人あたり67〜100立方フィートにすぎない。同時にガス灯が大気中の酸素を消費する。レースが汚れないように、子供たちは冬でも靴を脱がねばならないことが多いが、床は石や煉瓦で敷かれているのである。

「ノッチンガムでは、15名から20名の子供たちが、せいぜい12平方フィートしかない小さな部屋に詰め込まれていることも珍しくない。子供たちはそこで、24時間のうちの15時間ものあいだ、単調でうんざりするような憑かれる仕事を、しかもきわめて不衛生な環境で行うのである。…もっとも年少の子供でも、注意深く、驚くべき速さで仕事をする。仕事を遅くしたり、指を休めたりすることはない。彼らに質問しても、一瞬でも無駄にしたくないという不安から、仕事から目をあげることもない」。

労働時間が長くなると、「女親方」は「長い棒」を使って活をいれることになる。「子供たちは単調で、目が疲れ、同じ姿勢をとるために消耗するこうした仕事に長いあいだしばりつけられているので、仕事が終わる頃になると、疲れて小鳥のように落ち着かなくなる。これはまさに奴隷労働である」。

女性が自宅で子供たちと働くときには、さらに状況が悪くなる場合もある。自宅とはいっても現代的な意味では借り間であり、屋根裏部屋であることも多い。この種の仕事はノッチンガムの周囲80マイルほどの範囲にある仕事場に注文される。卸売商人のところで夜の9時から10時まで働いた子供が帰宅しようとすると、家で仕上げるようにと、もう一束渡されることもある。自宅の雇人の1人に仕事を代行させる資本の[偽善者]ファリサイ人は、おためごかしに親切そうに「これはお母さんの分だよ」と言うのである。この哀れな子供が寝ずに手伝わねばならないことを十分に承知している。

 

レース編み部門

レース編み産業は、おもにイングランドの2つの農業地区で営まれている。その一つはホ二トンのレース地区で、デヴォンシャの南海岸に沿って20マイルから40マイルにわたり、北デヴォンのわずかばかりの地方を含んでいる。もう一つは、バッキンガム州、ベッドフォード州、ノーサンプトン州の大きな部分と、オックスフォードおよびハンティンドンシャの隣接諸地方とを包括している。一般に農業日雇い労働者の小屋が仕事場になっている。事業主のうちには、このような家内労働者を3000人以上も使っているものがあり、家内労働者は主に子供と少年で、それも女性ばかりである。レース仕上げについて述べた状態はここでも再現する。ただ、「女親方」に代わって、貧しい女性たちが自分の小屋で開いているいわゆる「レース学校」が現われるだけである。5歳から、ときにはもっと早くから、12歳から15歳まで、子供たちはこれらの学校で働くのであるが、最初の1年間は最年少者が4時間から8時間、その後は朝の6時から晩の8時か10時まで労働する。

「部屋は一般に小さな小屋の普通の居間で、煙突は空気の出入りを防ぐためにふさいであり、なかにいるものは冬でも自分たちの体温だけで暖を採ることもある。また別の場合には、この教室と称するものは、小さな物置のような場所で、火をたくところもない。…このような穴への詰めすぎと、そのために起きる空気の汚れは、しばしば極度にひどい。そのうえに、下水や便所や小さな小屋のへの入り口によくある腐敗物やその他の汚物の有害な作用がある。」

空間について言えば、

「あるレース学校では、18人の少女と女教師がいて、1人当たりは35立方フィートである。別の学校では、堪えられない臭気のなかに18人がいて、1人当たり24.5立方フィートである。この産業では、2歳から2歳半の子供が使われていることもある。」

レース編み産業は、イングランドの2つの農業地帯が中心となっている。その一つはホ二トンのレース地区であり、デヴォンシャーの南海岸に沿って20マイルから30マイルの長さにおよび、北デヴォンの一部の地区も含まれる。もう一つはバッキンガム州、ベッドフォード州、ノーサンプトン州の大部分と、これに隣接するオクスフォードとハンティンドンシャーの隣接地区である。日雇い農業者向けの小屋が仕事場として使われることが多い。

かなりの数のマニュファクチュアが、3000人を超える家内労働者が雇用しているが、その多くは少女や娘たちであり、すべて女性である。レース仕上げ業について述べた状況がここでもあてはまる。違いは「女親方」ではなくみずからも貧しい女性たちが、自宅で「レース学校」を開いていることだけである。少女たちは5歳から、あるいはもっと幼い頃から、12歳から15歳になるまでこの学校で働く。最初の年は最年少の少女たちは1日4時間から8時間働き、その後は朝の6時から夜の8時あるいは10時まで働く。「部屋は多くは小さな小屋のふつうの居間である。外気が入らないように煙突には目張りがしてあり、働く人は冬でも自分の体温でからだを暖めるしかない。あるいは物置のような狭い部屋がいわゆる教室として使われることもあり、暖炉もない。…この穴蔵のような部屋に多数の人々が詰め込まれ、そのために空気がきわめて汚れている。小屋の出入り口には便所や下水溝があり、腐敗物などの汚物が有害な作用を及ぼす」。使われる部屋と言えば、「あるレース学校には女教師のもとで18人の少女が働いており、1人あたりの空間は35立方フィートしかない。別の学校では耐えがたい悪臭のする部屋で18人が働いており、1人あたり24.5立方フィートの空間しかない。この産業では2歳から2歳半の幼児が使われることもある」。

 

藁編み産業の実例

バッキンガム州やベッドフォード州の田舎でレース編みが見られなくなるあたりから麦わら編み始まる。それは、ハートフォードシャの大きな部分と、エセックスの西部と北部とに広がっている。1861年には麦わら編みと麦わら帽子製造とに4万8043人が従事しており、そのうちの3815人が各年齢層の男性で、その他は女性であり、しかも1万4913人は20歳未満、そのうち約7000は子供だった。レース学校に代わって、ここでは「麦わら細工学校」が現われる。子供たちはここでは普通は4歳から、ときには3歳と4歳とのあいだから、麦わら細工の課業を始める。もちろん、教育は受けない。子供たち自身も小学校を「普通の学校」と呼んで、この吸血施設とは区別しているのであるが、この施設では彼らはただ労働だけをやらされ、半ば飢えた母親の命ずる仕事をたいていは1日に30ヤード仕上げなければならない。この母親たちは、それからまた自宅で夜の10時か11時か12時までも子供たちを働かせることもよくある。彼らはわらで指を切り、またたえず口でわらを湿すので口も切る。ドクター・バラードが要約したロンドンの医務官全体の見解によれば、300立方フィートが寝室または作業室での1人当たりの最小空間になっている。麦わら細工学校では空間はレース学校でよりももっと狭く割り当てられていて、1人当たり12と3分の2立方フィート、17立方フィート、18.5立方フィートであり、また22立方フィート未満である。委員ホワイトは次のように言っている。

「これらの数字のうちの小さいほうのものが表わす容積は、子供が各辺3フィートの箱のなかに包装されたときに占める容積の半分よりもまだ小さい。」

これが、12歳や14歳にもならない子供の受ける生の喜びなのである。貧しくおちぶれた親たちは、子供たちからできるだけたくさんたたき出そうと思うだけである。子供たちが成長すれば、もちろん、親のことなどは少しもかまわずに見捨ててしまう。

「このようにして育てられた住民のあいだに無知と悪徳とがあふれていることは、驚くに足りない。…彼らの徳性最低の段階にある。…かなり多くの女たちが私生児を、しかも往々まだ大人にならないうちから、もっていて、これには犯罪統計の精通者でさえも驚くほどである。」

そして、このような模範家族の故国は、キリスト教では確かに権威者であるモンタランベール伯に言わせれば、ヨーロッパのキリスト教模範国なのだ!

労賃は、以上に述べた産業部門では一般にみじめなものであるが、(麦わらさいく学校の子供の例外的な最高賃金でも3シリング)、それがまた、特にレース製造地帯で一般的に行われている現物賃金制度によって、その名目金額よりもずっと低く押し下げられるのである。

バッキンガムとベッドフォード州でレース編みが行われていない地区では、藁編み産業が盛んになっている。ハートフォードシャーの大部分と、エセックスの西部と北部に広まっている。1861年には藁編み麦わら帽子の生産に4万8043人が雇用されていたが、そのうちの3815人はさまざまな年齢層の男性で、残りが女性である。そのうち20歳未満は1万4913人で、7000人が少女である。ここでレース学校のかわりに「藁編み学校」が登場する。

少女たちはふつうは4歳から、ときには3歳から4歳のあいだの頃から藁編みの授業をうけはじめる。授業といっても教育をうけるわけではない。少女たちは一般の学校を「ふつうの学校」と呼んで、彼らの吸血施設と区別している。この施設で少女たちは[学ぶことはなく]ただ働くだけである。飢えかけた母親から命じられて1日30ヤードほどの藁を編まねばならない。さらに母親たちは、自宅で子供たちを夜の10時、11時も12時まで働かせることも多い。藁を口で湿らせる必要があるので、尖った藁で指や口を怪我することが多い。

バラード医師がまとめたロンドンのすべての医務官の総合見解によると、寝室と作業室では一人あたり少なくとも300立方フィートを確保する必要がある。しかし藁編み学校の教室はレース学校よりもさらに狭く、一人あたりの空間容積は12と3分の2立方フィート、17立方フィート、18.5立方フィート、22立方フィート未満などとなっている。

ホワイト委員は「この小さな値がどのようなものかというと、一人の子供を縦・横・高さ3フィートずつの箱に詰め込んだとしても、その容積の半分以下にすぎないのである」と説明している。これが12歳から14歳になるまで、子供たちが享受する人生の喜びなのである。零落して貧しくなった両親は、子供たちをできるだけ絞り取ることしか考えていない。成長した子供たちは当然ながら両親のことなど顧慮せず、親元を飛びだすことになる。「このようにして育った住民のあいだに、無知と悪徳がはびこることである。…道徳の水準はきわめて低い。…多くの女性が未成年のうちから私生児を産んでおり、犯罪統計に詳しい人々も驚くほどである」。この模範的な家族の国は、キリスト教に詳しいモンタランベール伯爵の言葉よれば、「ヨーロッパのキリスト教の模範国家」ということになる。

これらの産業分野の労働賃金は一般に悲惨なものであるが(藁編み学校での子供の賃金は、例外的に高い場合でも3シリングである)、とくにレース産業地区では一般に現物賃金制度が採用されており、実際の賃金は名目賃金よりもはるかに低くなっている。

 

 

E.近代的マニュファクチュアと近代的家内労働の大工業への移行。これらの経営方式への工場法の適用による革命の推進

工場経営への移行

女性や未成年者の労働力の単なる乱用、いっさいの正常な労働条件と生活条件との単なる強奪、過度労働と夜間労働との単なる残虐、このようなことによって労働力を安くすることは、結局は、もはや越えられない一定の自然的限界にぶつかり、またそれとともに、このような基盤の上に立つ商品の低廉化も資本主義的搾取一般も同じ限界にぶつかる。ついにこの点にきてしまえば、といってもそれまでには長くがかかるのであるが、機械の採用の時が告げられ、また、分散していた案内労働(あるいはまたマニュファクチュア)の工場経営への急速な転化の時が告げられる。

過渡期のマニュファクチュアや手工業が機械を導入して、市場での競争で工場に対抗しようとして、労働者に対する搾取を過酷なものにしました。それは、これまで実例を見てきたような、女性と未成年の労働力のむきだしの濫用、あらゆる正常な労働条件と生活条件のむきだしの略奪、超過労働と夜間労働のむきだしの残忍さ、といったようなことです。しかし、それでも生産には限界があり、工場との競争には対抗できない。そこで、マニュファクチュアや手工業が工場経営への変化が起こりました。

以下では、服飾品産業を実例として見ていきます。

女性と未成年の労働力のむきだしの濫用、あらゆる正常な労働条件と生活条件のむきだしの略奪、超過労働と夜間労働のむきだしの残忍さ、こうしたさまざまな方法で労働力を安価に搾取しようとしても、最後にはもはや超えることのできない自然の限界に到達する。そしてこのような方法による商品の値下げと資本制的な搾取もまた、限界に直面する。それまでに長い時間がかかるかもしれないが、ついにこの限界点に到達すると、機械類を導入するための鐘が鳴らされ、分散した案内労働あるいはマニュファクチュアは急速に工場経営へと変化していくことになる。

 

服飾品産業の実例

この運動の最大の実例を提供するものは、「衣料品」の生産である。「児童労働調査委員会」の分類によれば、この産業に包括されるものは、麦わら帽・婦人帽製造業者、縁なし帽製造業者、裁縫業者、ミリナーおよびドレスメーカー、シャツ製造業者およびとシャツ縫い婦、コルセット製造業者、手袋製造業者、靴製造業者、その他ネクタイやカラーなどの製造のような小部門である。イングランドおよびウェールズでこの産業に従事する女性は1861年には58万6298人で、そのうち少なくとも11万5242人は20歳未満、1万6560人は15歳未満だった。連合王国におけるこれらの女工の数(1861年)は75万334人だった。同じ時にイングランドおよびウェールズで帽子・靴・手袋製造業者および裁縫業に従事していた男子労働者の数は43万7969で、そのうち1万4964は15歳未満、8万9285は15歳以上20歳未満、33万3117は20歳以上だった。この報告には、この産業に属する多くの小物の部門が落ちている。しかし、そこに示されているだけの数字をとって見ても、1861年の国勢調査によれば、イングランドとウェールズだけで102万4267人という合計になり、したがって、農業と牧畜とに吸収される数とだいたいや同じである。なんのために機械はあのように巨大な生産物量を魔法でつくりだすことを助けるのか、そしてあのように巨大な労働者群を「遊離させる」ことを助けるのか、これが今ようやくわかってくるのである。

「衣料品」の生産は、第一にマニュファクチュアによって営なまれるが、このマニュファクチュアは既成のばらばらな四肢による分業をその内部で再生産しただけのものである。第二には、比較的小さな手工業親方によって営まれるが、彼らは以前のように個人消費者のためにではなく、マニュファクチュアや問屋のために仕事をするのであって、一つの都市とか地方の全体が靴製造などのような部門を専門に営んでいることもよくある。最後に最も広い範囲にわたっていわゆる家内労働者によって営まれ、彼らはマニュファクチュアや問屋の、またあまり大きくない親方さえもの外業部になっている。大量の労働材料、原料や羊製品などは大工業から供給され、大量の安い人間材料(慈悲憐憫にまかされた)は大工業や農村から「遊離されたもの」から成っている。この部面のマニュファクチュアが発生したのは、おもに、需要の変動に応じていつでも出勤できる一軍を手もとに置いておきたいという資本家の要求によるものだった。しかし、これらのマニュファクチュアは、自分のかたわらに、分散した手工業的経営や家内経営を広大な基盤として存続させた。これらの労働部門での剰余価値の大量生産も、同時にまたその製品がますます安くなることも、主として、人間にとって可能な最大限の労働時間と結びついたただ露命をつなぐだけに必要な最小限の労賃のおかげだったし、また現にそのおかげなのである。商品に転化される人間の血と汗とのこの安さこそは、絶えず販売市場を拡大したし、また毎日拡大しつつあるのであり、ことにまたイギリスにとっては、それに加えてイギリス的な習慣や好みが広まっている植民地市場を拡大するのである。ついに一つの転換点がやってきた。旧来の方法の基礎、すなわち体系的に発達した分業を多かれ少なかれ伴う労働者材料のただ野蛮な搾取だけでは、拡大される市場のためにも、もっと急速に激しくなる資本家たちの競争のためにも、もはや不十分になった。機械の時代を告げる鐘は鳴った。決定的に革命的な機械、すなわち、婦人服製造、裁縫、靴製造、縫い物、帽子製造、等々のような生産部面の無数の部門をすべて一様にとらえる機械─それはミシンである。

服飾品の生産は、一部ではマニュファクチュア経営で行われています。そこで行われているのは外部で生産された部品を分業で組み立てるという再生産です。この部品の生産には手工業の親方たちが担っています。こまようにして、この親方たちは以前のように個人の消費者を相手にしてものづくりをするのではなく、マニュファクチュアや卸業者のために働くようになりました。

大工業は、大量の労働材料、原料を供給するもので、その大工業から切り離された人々や農村から離脱した人々が大量の安価な労働力となって、その手工業やマニュファクチュアで働くようになりました。資本家はこれらの手工業やマニュファクチュアを下請けとして扱い、需要の増減に合わせて、需要が減ったときにはすぐに切り捨てられるというように使い勝手のいいものとなったのでした。

これらの下請けは労働者の賃金を人間として生存できるギリギリの水準まで落とすことで剰余価値、つまり利潤をようやく確保していたのでした。このように安価に生産された製品は、薄利多売であるため、つねに販路の拡大を求めイギリス本国にとどまらず、植民地市場を開拓していきました。

ところが、その拡大した販路の市場ニーズと、参入してきた大工場との競争に対処できなくなり、機械を導入せざるをえなくなります。それがミシンでした。

この変化のもっともめざましい実例は「服飾品」の生産である。「児童労働調査委員会」の分類によると、この産業に含まれるのは麦わら帽子・婦人帽の製造業、ふちなし帽子の製造業、仕立屋、婦人服のミリナーとドレスメーカー、シャツ製造業と縫い物業、コルセット製造業、手袋製造業、そのほかネクタイ、カラーなどの小物の製造業である。

1861年にイングランドとウェールズでこの産業の諸部門に雇用されていた女性従業員の数は58万6298人で、そのうち少なくとも11万5242人は20歳未満であり、1万6560人は15歳未満である。1861年の連合王国のこれからの女工の人数は75万334人であった。同時期にイングランドとウェールズで帽子・靴・手袋製造業と仕立屋に従事していた男性の労働者の数は43万7969人であり、そのうち15歳未満は1万4964人、15歳以上20歳未満は8万9285人で、20歳以上は33万3117人であった。このデータには、この産業分野に含まれる多くの小物の部門の統計は含まれていない。

しかしこのデータからでも、1861年の人口調査によってイングランドとウェールズだけで確認されたこの産業分野の労働者の数は、合計102万4267人ということになる。これは農業と牧畜に従事する労働者の数に相当する。機械類がどれほど巨大な製品量を魔法のように生みだし、どれほど巨大な量の労働者を「放出した」か、想像つくというものである。

「服飾品」の生産の一部は、マニュファクチュア経営で行われることがあるが、マニュファクチュアの内部では、すでに外部で完成品として製造された個々の部品を分業で組み立てる作業を再生産するだけである。「服飾品」の生産の他の一部は、小規模な手工業の親方たちが担っている。ただし親方たちは以前のように個人の消費者のために働くのではなく、マニュファクチュアと卸売業者のために働くのである。そのため一つの都市や地方の全体がたとえば靴の製造などの特定の部門だけを専門としていることも多い。さらにもっとも広い範囲にわたって広がっているのがいわゆる家内労働者である。彼らはマニュファクチュアと卸売業者の外部拠点となっているが、小規模な親方たちの外部拠点となることもある。

大量の労働材料、原料、半製品を供給するのは大工業であり、大量の安価な人間材料(慈悲と同情に委ねられた)を供給するのは、大工業と農村から「切り離された」人々である。この部門でマニュファクチュア経営が行われるようになったのは、資本家が需要の増減に合わせてすぐに対応できる部隊を手元に置いておきたいと願ったためである。

これらのマニュファクチュアは、分散した手工業および家内工業的な経営を、その広い基盤として併存させた。こうした労働部門ではより大きな増殖価値が生みだされ、製品も安価であったが、それは主として、人間が生存できるかどうかというぎりぎりの水準まで労働賃金が引き下げられていたこと、人間としての限界すれすれの水準まで労働時間が延長されていたことによるものであり、それは今でも変わりはない。まさに人間の血と汗が生みだした安価な商品が、販路をつねに拡大しつづけたのであり、今なお拡大しているのである。これはイギリスにとっては同時に植民地市場の開拓につながっている。植民地ではイギリス風の習慣と趣味が支配的だったからである。

ところがついに転換が起こる。これまでの方式の基礎材料のむきだしの残酷な搾取と、それと並行して行われる多少とも組織的な分業の発達だけでは、もはや拡大しつづける市場に、そしてさらに急速に加速する資本家のあいだの競争に、対処できなくなるのである。機械類の登場の時を告げる鐘が鳴る。決定的に革命的な機械が、この生産分野の無数の部門に、ドレスメーカー、仕立業、製靴業、裁縫業、帽子製造業などのすべてに同時に襲いかかった。その機械がミシンだった。

 

ミシン革命

ミシンが労働者に与える直接の影響は、大工業の時代に新たな事業部門を征服するすべての機械のそれだいたい同じである。あまりにも未成熟な年齢の子供は退けられる。ミシン労働者の賃金は、家内労働者の賃金に比べれば高くなるとはいえ、家内労働者の多くは「貧困者中の最貧困者」に属するのである。ミシンの競争相手にされるいくらかましな地位にある手工業者の賃金は下がる。新たなミシン労働者は、もっぱら少女と若い女である。彼女たちは、機械力を助けによって、いくらか重い仕事では男子労働者の独占を破り、軽いほうの仕事からは大ぜいの老婦や未成熟な子供を追い払う。熾烈な競争は最も弱い手作業労働者を打ち倒す。最近10年間のロンドンでの餓え死にのものすごい増大は、ミシン裁縫業の拡大に並行している。ミシンは、その重さや大きさや特性に応じて腰かけるか立つかして女工の手と足でかまたは手だけで動かされ、それを取り扱う新しい女工たちは多大の労働力を支出する。彼女たちの仕事は、過程が、以前の方式と比べれば短かくなっていることが多いとはいえ、長く続くために、健康に有害になる。靴やコルセットや帽子などの製造でのように、ただでさえ狭くて詰まりすぎている仕事場にミシンが乗り込んでくれば、どこでも健康に有害な影響をますます大きくするのが常である。委員ロードは次のように述べている。

「30人から40人のミシン工がいっしょに働いている天井の低い仕事場にはったときに受ける感じは、がまんできないものである。…そこの熱気は、アイロンを熱するためのガス炉のせいでもあるが、恐ろしいものである。…このような仕事場では、おもにいわゆる適度な労働時間、すなわち朝の8時から晩の6時までの労働時間が実行されている場合さえも、毎日3人や4人はきまって卒倒するのである。」

社会的経営様式の変革、この生産手段の変化の必然的産物は、種々雑多な過渡形態の入り混じるなかで実現される。これらの過渡形態は、すでにミシンがあれこれの産業部門をとらえている範囲、またとらえてからの時間の長さによって違っており、また、その時の労働者の状態によっても、マニュファクチュア経営と手工業経営と家内経営とどれが優勢かということによっても、作業場の賃貸料などによっても、違っている。たとえば、作業がたいていはすでに主として単純な協業によって組織されていた婦人服製造では、ミシンはさしあたりはただマニュファクチュア経営の新たな一要因となるだけである。裁縫やシャツ製造や製靴などではあらゆる形態が入り混じっている。ここには本来の工場経営がある。あたらでは中間の雇い主が親玉の資本家から原料を受け取って、「小部屋」か「屋根裏部屋」に10人から50人、またはもっと多くの賃金労働者をミシンのまわりに集めている。最後に、どの機械でもそれが編成された体系をなしていないで小型のまま使える場合にはそうであるように、手工業者または家内労働者が、自分の家族かまたはわずかばかりの外から入れた労働者といっしょに、やはり自分のものであるミシンを利用している。今日イギリスで実際に広まっているのは、資本家がかなりたくさんのミシンを自分の建物のなかに集中し、そのミシンの生産物を家内労働者のあいだに分配してそれからあとの加工を指せるという制度である。しかし、過渡形態の雑多なことによって、本来の工場経営への転化の傾向が隠されてしまうのではない。この傾向を助長するものは、第一にはミシンそのものの性質であって、ミシンの多方面の応用可能性は、従来ばらばらに分かれていたいろいろな営業部門が同じ建物のなかで、また同じ資本の指揮のもとで一つにされるということを促すのである。第二には、準備的な針仕事やその他いくつかの作業も、ミシンのあるところでやるのが最も適当だという事情であり、最後に、自分のミシンで生産している手工業者や家内労働者の不可避的な収奪である。ミシンに投ぜられる資本量はますます増大して、生産を刺激し、市場の停滞をひき起こすのであるが、この停滞は、家内労働者がミシンを売り払わされる合い図の鐘になる。ミシンそのものの過剰生産は、販路に窮したミシン生産者たちに、週払いでミシンを賃貸しすることを強要し、こうして小さなミシン所有者たちにとっては致命的な競争をつくりだす。さらに続くミシンの構造の変化と価格の低下とは、その前からあるミシンをも同様に減価させて、それらは、もはや大量にまとめて捨て値で買われて大資本家の手で有利に利用されるよりほかはなくなる。最後に、蒸気機関が人間にとって代わって、それがすべての同様な変革過程でそうであるように、ここでも決着をつける。蒸気力の応用は、最初は純粋に技術的な諸障害、たとえば機械の振動や機械の速度の調節の困難や比較的軽い機械の急速な破損などにぶつかるが、これらはみな、やがては経験がそれを克服することを教えるような障害ばかりである。一方では比較的大きなマニュファクチュアでの多量の作業機の集積が蒸気力の応用を促すとすれば、他方では蒸気と人間の筋力との競争が大工場での労働者と作業機との集積を速める。こうして、イギリスは今日広大な「衣料品」生産部面でも、そのほかのたいていの産業でと同じように、マニュファクチュアや手工業や家内労の工場への変革を経験しているのであめが、すでにその前からすべてこれらの経営形態は大工業の影響のもとでまったく変形され、分解され、ゆがめられて、もうとっくに工場制度のあらゆる奇怪事をその積極的な発展契機なしに再生産し、またそれ以上のことをやってもいたのである。

ミシンの導入の影響は、大工業が次々と産業分野に進出し機械化が進んだときと同じような影響を与えました。ミシンの使用は生産性を著しく高め、そのミシンの使い手は相対的に高い賃金で雇用され、その反面従来の家内労働者はミシンとの競争に負けて、さらに賃金を引き下げられたり、雇われなくなったりしました。なお、新手の労働者であるミシンの使い手は少女と娘たちでした。彼女たちは、ミシンという機械を使うことによって、男性が独占していた力仕事の領域にも進出し、他方では、軽作業の領域から多数のベテランの女性や児童を追い出していきました。

しかし、当の彼女たちは、ミシンを操作する不自然な姿勢を長時間にわたって強いられ、健康を害してしまうことになりました。

他方で、生産体制の変化については、そもそもミシンの導入のような生産手段の大きな変化は、必然的に社会的な経営方式にも大きな変化を呼び起こすものですが、それが完了するまでは、さまざまな過渡的な形態が錯綜して出現するものです。しかも、ミシンという機械は独特で、小型のためさまざまな形で利用できる機械であり、これまで分離されていたさまざまな事業分野を一つの建物のなかに集めて、同じ資本の指揮にしたがわせることができ、また裁縫やその他の中間的な作業は、ミシンが設置された場所で行うのがもっとも好ましいという事情も、こうした傾向を促しました。つまり、大工場でも家内工業ででも使うことができたのです。

しかし、競争が激しくなってくると、大工場は資本を拡大して再投資して規模を大きくして生産をより安価に、より大量にしました。そうすると零細な家内工業は競争に負けていきます。その結果、大工業に集中していくことになっていきました。そして、手工業やマニュファクチュアの労働者たちは大工場の労働者と同じ過酷な状態に追い込まれていきました。

ミシンが労働者に直接に及ぼす影響は、大工業時代に新しい産業分野を征服したあらゆる機械類が及ぼした影響と似たようなものである。あまりに幼い児童たちはもはや雇われない。ミシン労働者の賃金は家内労働者よりも高くなる。家内労働者の多くは「貧困者のうちの最貧者」となる。手工業の労働者の立場は家内労働者よりはましであるが、ミシンとの競争のために賃金は低くなる。新しいミシン労働者はすべて少女と娘たちである。彼女たちは機械の力を借りることで、男性が独占していた力仕事の領域に進出し、他方では軽作業の領域から多数の高齢の女性と児童たちを追いだす。熾烈な競争は、もっとも弱い立場にある手作業の労働者に打撃を与える。この10年間、ロンドンで餓死者がすさまじい勢いで増えているが、これはミシン裁縫業の拡大と並行しているのである。

ミシン裁縫業で新たに雇用された女工たちは、ミシンを手と足で、あるいは手だけで操作し、ミシンの重さ、大きさ、特殊な用途におうじて、座って、あるいは立ったままで操作することで、大きな労働力となる。以前のシステムと比較すると、労働過程そのものは短縮されているが、それが長くつづけられるため、この仕事は健康に有害な影響を与える。靴、コルセット、帽子の製造業のように、もともと狭くて過密な仕事場でミシンが採用されると、健康への害はさらに大きくなる。

ロード委員は「その天井の低い仕事場には、30人から40人のミシン労働者が一緒に働いていたが、そこに足を踏みいれると耐えがたい気持ちになる。…アイロンを熱するためのガス・ストーブの影響もあって、部屋の熱気はすさまじいものである。このような仕事場では、たとえば労働時間が適切なもので、朝8時から夕方6時までであったとしても、毎日のように3人から4人の女工が気絶するほどである」。

生産手段が変化すると、必然的に社会的な経営方式にも革命的な変動が発生するが、それが完了するまでは、さまざまな過渡的な形態が錯綜して現われるものである。ミシンの場合にも、ある産業部門をどのような規模で、どのくらいの期間をかけて征服したかによって、こうした過渡的な形態は異なるものとなる。あるいは労働者がその際にどのような状況に置かれていたか、マニュファクチュア経営、手工業経営、家内労働経営のどの経営が主流だったか、作業場所の賃貸料がどの程度だったかによっても異なる。

たとえばドレスメーカー業では多くの場合、労働がすでに単純な協業によって組織化されていたため、ミシンは当面マニュファクチュア経営で一つの新しい要因とみなされただけだった。これにたいして仕立業、シャツ製造業、製靴業などでは、あらゆる種類の形態が混在している。ほんらいの工場経営が行われているところもあれば、中間請負人が上位の資本家から原料をうけとって、「部屋」や「屋根裏部屋」に10人から50人、場合によってはそれ以上の賃金労働者を集めてミシンを踏ませているところもある。これは組織化されたシステムを構成しないきわめて小型の機械ではよくみられることである。

この傾向はまず、ミシンという機械の独特な性格によって促進されている。すなわちミシンはさまざまな形で利用できる機械であり、これまで分離されていたさまざまな事業分野を一つの建物のなかに集めて、同じ資本の指揮にしたがわせることができる。また裁縫やその他の中間的な作業は、ミシンが設置された場所で行うのがもっとも好ましいという事情も、こうした傾向を促している。最後に、自前のミシンで生産する手工業者と家内労働者が搾取されるのは避けられないことも、これを推進する。

この運命はすでに部分的に実現されている。ミシンに投下された資本はたえず増大しており、そのためにミシンの生産が加速され、市場がだぶついてくる。これは家内労働者が自分のミシンを売り払わされるシグナルとなる。ミシンがこのように過剰生産されると、ミシン生産者は販路がないために、週決めでミシンを賃貸しせざるをえなくなる。これはミシンを所有する小規模な生産者にとっては、致命的な競争の発生を意味する。

ミシンの構造はたえず改良され、価格はたえず低くなるので、古い型のミシンの価値は下落しつづける。やがては捨て値で大量に売却され、それが大手の資本家のもとに集中され、そこで活用されて利益をあげるようになる。こうして、他のすべての同様な変革過程でみられたように、人間の代わりに蒸気機関が利用されるようになり、そこで決着がつくのである。ミシンに蒸気機関を利用するにあたっては、当初は純粋に技術的な障害に直面した。ミシンが振動する問題、速度の制御の難しさ、小型のミシンの損耗の速さなどの問題である。これらもやがては経験によって克服されることになる

多量の作業機械が大規模なマニュファクチュアに集中されて、蒸気機関を動力として利用することが求められるようになる一方では、蒸気と人間の筋力が競争した結果として、大工業に労働者と作業機械が集中するようになる。このようにして他の多くの産業分野と同じように、イギリスの「服飾品」の巨大な産業分野においてマニュファクチュア、手工業、家内労働が、大規模な工場経営に転換していくことになる。これらの経営形態は、大工業の影響のもとで根本的に変革され、分解され、変形される。工場システムの積極的な発展契機を共有することなく、工場システムのもつすべての残酷さを再現し、さらに拡大してきたのである。

 

工場法の適用の影響

この自然発生的に起きる産業革命は、婦人や少年や児童を使用するすべての産業への工場法の拡張によって、人為的に促進される。労働日の長さ、中休み、始業・終業時刻に関しての労働日の強制的規制や児童の交替制度や一定の年齢に達しないいっさいの児童の使用禁止などは、一方では、機械設備を増やすことや筋肉の代わりに蒸気を動力として用いることを強要する。他方では、時間で失われるものを空間で取り返すために、炉や建物などのような共同的に利用される生産手段の拡張が行われる。つまり、一口に言えば、生産手段のいっそうの集積と、それに対応する労働者にいっそうの密集とが現われるのである。工場法におびえるすべてのマニュファクチュアが激しく繰り返す最大の抗議は、元どおりの規模で営業を続けるためにはもっと大きな投資が必要だということなのである。しかし、マニュファクチュアと家内労働とのあいだのいろいろな中間形態やと家内労働そのものについて言えば、それらの地盤は、労働日や児童労働の制限が現われれば陥没してしまうのである。安い労働力を無制限な搾取こそは、これらの形態の競争能力の唯一の基礎をなしているのである。

このように自然発生的に進行する産業革命は、女性、青少年、児童が雇用されているすべての産業分野に工場法が適用されるようになると、さらに人為的に加速されるのでした。つまり、工場法によって、労働日の長さ、休憩時間、始業時間、終業時間などが強制的に規制され、児童労働が禁止されるようになると、より多くの機械化がすすめられ、蒸気機関などによる大規模で集中的な生産システムが整備されます。

他方で、工場法によってマニュファクチュアのや手工業は従来のままでは、やっていけなくなり、資本を増やして大工業に変化するかやめるかしか二つの道しかなくなります。いずれにせよ、大工業が生き残ることに変わりはありません。

このように自然発生的に進行する産業革命は、女性、青少年、児童が雇用されているすべての産業分野に工場法が適用されるようになると、さらに人為的に加速される。工場法によって、労働日の長さ、休憩時間、始業時間、終業時間などが強制的に規制され、児童の作家シフト・システムが規制され、ある年齢を下回る児童の雇用が完全に禁止されるようになると、さらに多くの機械類が必要となる一方では、動力を人力から蒸気に転換することが必要になる。また[工場法の規制によって]時間的に失われたものを空間的にとりもどすために、炉や建物など、共同で使用する生産手段が拡張される。要するに、生産手段の集中がさらに高められ、これにおうじてさらに多数の労働者が集中するようになる。

工場法によって存立を脅かされたマニュファクチュアがつねに熱心に繰り返した主な抗議は、以前と同じ規模で業務をつづけていくためには、資本の投下額を増やさざるをえなくなるというものだった。しかしマニュファクチュアと家内工業の中間形態[である手工業]と家内工業は、労働日と児童労働が制限された瞬間から、その労働の基盤を失ったのである。これらの形態の競争力を支えていた唯一の基盤は、安価な労働力を無制限に搾取できることだったからである。

 

「自然の限界」の消滅

工場経営の主要条件は、ことに労働日の規制を受けるようになってからは、結果の正常な確実性、すなわち与えられた時間内に一定量の商品または所期の有用効果を生産することである。さらにまた労働日の法定の中休みは、生産過程にある製品をいためないで作業を突然休んだり周期的に休んだりすることを含んでいる。もちろん、このような結果の確実性や作業の中断可能性は、化学的および物理的過程が一つの重要な役割演じている工業、たとえば製陶業、漂白業、染色業、製パン業、たいていの金属加工業などでよりも、純粋に機械的な工業でのほうがより容易に達成されうる。無制限な労働日や夜間労働や自由な人間乱費の慣行のもとでは、どの自然発生的な障害も生産にたいする永久的な「自然の制限」とみなされやすい。どんな毒薬が外注を根絶するのも、工場法がこのような「自然の制限」を根絶する以上に確実ではない。製陶業のだんなたちよりも声高く「不可能」を叫んだものはなかった。1864年には彼らに工場法が強制された。そして、早くも16ヶ月後にはいっさいの不可能が消えてなくなっていた。工場法によってよび起こされた

「蒸発によらないで圧力によって陶土漿をつくるという改良された方法、未焼品を乾燥させるための窯の新しい構造などは、製陶技術上の非常に重要なできごとであって、前の世紀には見もことのできなかった製陶技術の一進歩を表している。…窯の温度はかなり下げられ、同時に石炭消費は大いに減少し、製への作用はいっそう速くなっている。」

あらゆる予言のもかかわらず、陶器の費用価格は上がらなかったが、生産物の量は増加して、1864年12月から1865年12月までの12ヶ月の輸出は、前3か年の平均にたいして13万8628ポンド・スターリングの価値超過を示した。マッチの製造では、少年たちが、昼めしを呑みおろすあいだにさえも、熱い燐混合液の毒気を顔に受けながらそのなかに軸木浸すということは、自然法則とみなされていた。工場法(1864年)は、時間を節約する必要によって、その蒸気が労働者に届かないような「浸し機」の使用を強制した。また、まだ工場法の適用を受けていないレース製造の諸部門では、いろいろなレース素材の乾燥に必要な時間の長さがまちまちで3分から1時間以上までの差があるために食事時間も規則的ではありえないということが、今でも主張されている。これにたいして「児童労働調査委員会」の委員たちは次のように答える。

「事情は壁紙印刷の場合と同じである。この部門の主要な工場主の何人かは、使用材料の性質によって、また材料が通る工程がいろいろに違っているので、食事のために作業をにわかに中止することは大きな損失なしにはできないのだ、強く主張した。…工場法拡張法(1864年の)の第6節第6条によって、彼らはこの法律の公布の日から18ヶ月の猶予期間が認められ、この期間の経過後は、工場法によって定められた休息時間を守らなければならないということになった。」

この法律がやっと議会を通過したばかりのときに、工場主諸君はもう次のことを発見していた。

「われわれが工場法の施行から予測したような不都合は現われなかった。生産が阻害されたというようなことは見いだされない。われわれは同じ時間で前よりも多く生産しているのである。」

おそらくイギリス議会の独創性を非難するような人はいないであろうが、要するに、この議会は、経験によって、労働日の制限や規制にたいするいわゆる生産上の自然的障害はすべて一つの強制法によって簡単に一掃できるという見解に到達したのである。それゆえ、ある産業部門では工場法が施行されるときには、その間に工場主たちの手で技術上の諸障害を除くための6ヶ月から18ヶ月の期間がおかれるのである。ミラボーの、「不可能?そんなばかなことを言ってくれるな!」という言葉は、近代の技術学にはことによくあてはまる。しかし、このようにして工場法がマニュファクチュア経営から工場経営に転化に必要な物質的諸要素を温室的に成熟されるとすれば、それはまた同時に、資本投下の増大の必要によって、小親方の没落と資本の集積を促進するのである。

工場法によって労働日が規制されるようにかってからの工場経営の本質的な条件は、一定の時間のうちに定められた量の商品を生産すること、あるいは目指していた効果をあげることによって、目指した成果をつねに確実に実現することに大きくシフトしていきました。

しかし、その実現は産業分野によって向き不向きがあり、たとえば、製陶業、漂白業、染色業、製パン業、大部分の金属加工業など、化学的なプロセスや物理的なプロセスが重要な役割をはたす産業では、不向きでした。

労働日を制限しない長時間労働では自然の限界と呼ばれる限度まで労働者を酷使していましたが、工場法は、その自然の限界を根絶させました。例えば、製陶業では、それは不可能だと抵抗したのですが、生産工程の改良や新しい生産方法によって、製陶の技術が大きく進歩し、可能となりました。しかも、コストの増大を抑え、生産性は向上したのです。他の産業分野でも同じようなことが起こりました。

つまり、工場法が成立して、規制が行われても、それによる弊害は起こらなかったのです。

工場経営のための本質的な条件、とくに労働日が規制されるようにかってからの工場経営の本質的な条件は、一定の時間のうちに定められた量の商品を生産すること、あるいは目指していた効果をあげることによって、目指した成果をつねに確実に実現することにある。また労働日の規制のもとで、労働者には法律で定められた休憩時間を与えるためには、急に、あるいは規則的に仕事の手がとまっても、生産中の製品に損傷が発生しないことが必要である。

このように、目指した成果を確実に実現することと、作業を中断できることという条件は、もちろん純粋に機械的な工業分野ではかなり容易に実現できるが、製陶業、漂白業、染色業、製パン業、大部分の金属加工業など、化学的なプロセスや物理的なプロセスが重要な役割をはたす産業では、なかなか実現が困難である。

労働日を制限せず、夜間労働を実行し、人間を勝手に濫用できたかつての野放図な生産方法では、すべての書類の自然発生的な障害が、やがては永遠の「自然の限界」とみなされるようになる。しかし工場法がこうした「自然の限界」を根絶するのは、殺虫剤で虫を殺すよりも確実だった。

そんなことは「不可能である」と誰よりも大声で叫んでいたのは、製陶業の工場主たちだった。しかし1864年に工場法が製陶業に適用されると、その16ヶ月後には、すべての「不可能なこと」はすでに消滅していた。工場法によってその可能性が指摘されていた「蒸発されるのではなく圧力をかけることで粘土塊を作るという改良された方法、焼く前の製品を乾燥させるのが炉の新しい構造などは、製陶技術における重要な出来事であり、前世紀にはみられなかった製陶技術の大きな進歩である。…炉の温度は大幅に低められ、石炭の消費量も大幅に減少し、短時間で製品に効果を与えられるようになった」。あらゆる予言とは逆に、最終製品の生産コストは上昇せず、生産量は増大した。1864年12月から1865年12月までの12ヶ月の輸出額は、それ以前の3年間の平均輸出額を13万8628ポンドも上回った。

マッチ製造業では、少年たちが昼食を呑み込むあいだにも、マッチ軸をリン混合溶液に浸す作業をつづけ、高温の溶液の有毒な蒸気を顔に浴びるのが、〈自然法則〉として定められていた。1864年の工場法が適用されて時間を節約せざるをえなくなったので、マッチ産業では「浸し機」を使わざるをえなくなったが、これで蒸気が労働者にかかることがなくなったのだった。

同じようにレース製造マニュファクチュアのうちで、現在でも工場法が適用されていない部門では、さまざまなレース素材を乾燥するために必要な時間の長さがまちまちであり、3分ですむものも1時間以上のかかるものがあるので、一定の時間に食事をとらせることはできないと主張している。これにたいして「児童労働調査委員会」の委員たちは次のように指摘している。「壁紙印刷業でも状況は同じである。この業界の主な工場主たちは、使用している素材の性質も、素材が処理される過程の違いのために、食事の時間になって急に仕事の手をとめると、大きな損失がでると強く主張していた。…工場法の適用の拡大に関する(1864年の)法律の第6節第6条の定めによって、この業界にはこの法律の施行時点から18ヶ月の猶予期間が認められた。この猶予期間の後は、工場法で定められた休憩時間を遵守することが義務づけられているのである」。

この法律が議会を通過した直後に、工場主たちは次のことを発見したのだった。「工場法の導入によって発生すると考えられていた弊害は生じなかった。どんな形でも生産に支障があるとは考えられない。実際に同じ時間で前よりも多量の製品を生産しているのである」。

イギリス議会にひらめきがありすぎると非難する人はいないだろうが、ここでも経験によって議会は、強制的な法律を導入すれば、労働日の制限や規制をさまたげていた生産のいわゆる〈自然的な障害〉なるものは、すべて簡単にとりのぞけることを洞察したのである。そのために一つの産業部門に工場法を導入する際には、6ヶ月から18ヶ月の猶予期間を認めて、その期間のうちに工場主たちに技術的な障害をとりのぞかせたのだった。

[フランスの革命家の]ミラボーは、「不可能だって?わたしにそんなことは言わないでくれ」と言ったものである。これは近代のテクノロジーにもぴったりとあてはまる。しかし工場法はこのように、マニュファクチュア経営から工場経営に転換するために必要とされた物質的な要因を人為的に促進したとすれば、それは同時に必然的に資本の投下額を増やすことになり、小規模な親方の没落を促進し、資本の集中を促進する結果となったのだった。

 

労働の不規則性

純粋の技術的な障害や技術的に排除の可能な障害を別としても、労働日の規制は労働者たち自身の不規則な習慣にぶつかる。ことにそうなのは、出来高賃金がおもになっていて、1日または1週のある部分での時間の空費をその後の過度労働や夜間労働によって埋め合わせることができた場合であるが、この方法は、成年労働者を粗暴にし、彼の仲間の未成年者や女性を破滅させるものである。

このような労働力の支出上の不規則は、長々しい単調な労働の苦痛にたいする一つの自然発生的な粗暴な反動でもあるとはいえ、それとは比べものにならない大きな度合いで生産そのものの無政府性から生ずるのであり、この無政府性はまた資本による労働力の無拘束な搾取を前提するのである。産業循環の一般的な周期的な局面転換やそれぞれの生産部門での特別な市況変動のほかに、ことにまた、航海に適した季節の周期性によってであろうと流行によってであろうと、いわゆるシーズンがあり、ごく短期間に仕上げなければならない大口注文の突発性がある。このような注文の習慣は、鉄道や電信の普及につれて広がる。たとえばロンドンの一工場主は次のように述べている。

「全国をつうじての鉄道網の拡張は、短期注文の習慣を非常に助長してきて、今では買い手はグラスゴーやマンチェスターやエディンバラから2週間に1度ずつとか、あるいは卸で買うために、われわれが商品を供給しているシティの問屋にやってくる。彼らは、すぐに仕上げなければならない注文をするのであって、以前に習慣だったように在庫品を買うのではない。数年前までにはわれわれはいつでもひまな時には次のシーズンの需要に備えて仕事をすることできたが、今では、次のシーズンに需要がどうなるかは、だれも予言することはできない。」

まだ工場法が適用されていない工場やマニュファクチュアでは、いわゆるシーズン中は周期的にものすごい過度労働が、にわかな注文のために断続的に、広く行われる。工場やマニュファクチュアや問屋の外業部、すなわち家内労働の部面では、ただでさえまったく不規則で、その原料や注文に関してはまったく資本家の気まぐれしだいであり、資本家はここでは建物や機械など償却を顧慮する必要は少しもなく、労働者自身の皮のほかはなにも賭けないでよいのである。このような家内労働の部面では、いつでも利用できる産業予備軍がまったく組織的に大量培養されて、それが1年のある時期には最も非人間的な労働強制によって大量殺害され、他の時期には仕事不足によって廃物にされるのである。「児童労働調査委員会」は次のように言っている。

「雇い主たちは家内労働の常習的な不規則性を利用して、臨時の仕事が必要な時には、夜の11時、12時、2時までも、じつに、きまり文句で言えば、何時まででもそれを強制し」、しかも、それを「悪臭が諸君を打ち倒すほどの」場所でやるのである。「おそらく諸君は戸口まで行って戸をあけても、そこから先に進むことはしりごみするであろう。」尋問された証人の一人である靴工は次のように言う。「われわれの雇い主は奇妙な人たちで、彼らは、1人の少年が半年は死ぬほどこき使われ、あとの半年はほとんど強制的にぶらぶらさせられていても、それが何の害もないと思っているのだ。」

そうすると、純粋の技術的な障害や技術的に解決できる障害を別とすれば、労働日の規制の妨げとなるのは、労働者自身の不規則な習慣ということになります。労働者が主に出来高賃金制で賃金をうけとっている場合に、1日のうちのある時間、あるいは週のうちのある日を仕事をせずに過ごしておいて、その不足分を残業や夜間労働で補うというようなことがそうです。

このように労働者が不規則な時間に労働するというのは、単調な仕事が長時間続くことに対して、生身の肉体が我慢できないという自然な反応という面もありますが、生産が無秩序なためということが大きな理由でした。

このような無秩序は、たとえば突発的な注文や短納期の習慣などに起因するもので、これは通信や輸送手段の発展によって、さらに助長されました。工場法の成立以前は、それに対応するために超過労働が行われ、おおもとの大工場がそうであれば、下請けのマニュファクチュアなどでは、そのしわ寄せで、それ以上の超過労働を強いられたのでした。

純粋の技術的な障害や技術的に解決できる障害を別とすれば、労働日の規制の妨げとなるのは、労働者自身の不規則な習慣である。労働者が主に出来高賃金制で賃金をうけとっていて、1日のうちのある時間、あるいは週のうちのある日を仕事をせずに過ごしておいて、その不足分を残業や夜間労働で補うことができる場合には、この傾向が強くなる。この方法は成年労働者を粗暴にするし、彼の助手として使われる未成年の労働者や女性労働者を破滅させる。

このように労働者が自分の労働力を不規則に支出するのは、単調な仕事が長くつづくことにたいする生身の自然な反応ではあるが、それよりも生産の無秩序さのためである場合がはるかに多い。生産が無秩序なのは、資本が労働力を無制限に搾取しようとするからである。

こうした労働の不規則性は、産業サイクルの一般的で周期的な局面の転換や、それぞれの生産部門に固有の市場の特別な変動によって起こるものであるが、それだけではなく季節的な要因も加わる。この季節的な要因は[原料を選ぶ]船舶の航行に好都合な季節の周期性によって生じるものも、[季節的な]流行のために生じるものもある。また、ごく短い納期で大量の注文が突然に出されるためであることもある。

こうした突発的な注文の習慣は、鉄道や電信の普及によって強まっている。たとえばロンドンのある工場主は「鉄道システムが全国に広がったために、納期の短い注文をだす習慣がきわめて強くなっている。今では買い手が2週間に1度の頻度でグラスゴーからマンチェスターからもエディンバラからもやってきて、当社が納品しているシティの卸売業者でまとめて仕入れている。これまでの習慣では、注文が出ると倉庫から在庫を納品していたが、今ではすぐに注文をこなさなければならない。数年前には需要が少ない時期には、次のシーズンの需要を見込んで生産しておくことができたが、今では次のシーズンの需要がどうなるか、誰も予測できない」と語っている。

まだ工場法が適用されていない工場やマニュファクチュアでは、いわゆるシーズンのあいだには周期的に、急な注文のために恐ろしいまでの超過労働が断続的に行われる。さらに工場やマニュファクチュアや卸売業者そのものではなく、その外部拠点である家内労働の領域はただでさえ不規則であり、原料も注文も、資本家のまったくのきまぐれで与えられる。家内労働の場合には資本家が建物や機械などの有効利用に配慮する必要はまったくなく、生身の労働者だけが危険にさらされる。こうした家内労働の領域では、いつでも利用できる産業予備軍が組織的に多量に育成される。この産業予備軍は、1年のある時期はきわめて非人間的な労働によって破壊され、別の時期は仕事がなくて零落させられるのである。

「児童労働調査委員会」は次のように述べている。「雇用主は家内労働に習慣的にみられる不規則性を悪用する。臨時の仕事が必要となる時期には、夜の11時、12時あるいは2時までも働かせる。実際に俗に言うように〈24時間働かせる〉のである」。しかもその仕事場は、「諸君なら悪臭で気絶してしまうようなところなのである。諸君も戸口まで行ってドアを開けることはできるだろうが、足を踏み入れるどころか、振り向いて逃げだすだろう」。尋ねられた証人の一人は靴製造工で、その親方について「われわれの雇用主は奇妙な人で、少年たちに1年の半分を死ぬほど働かせ、残りの時期にはまったく仕事を与えないでおいて、それで少年たちには何の害もないと信じているのです」と証言している。

 

業務上の慣例

技術上の障害と同じように、このいわゆる「営業慣習」(「営業の発達につれて発達してきた慣習」)も、関係資本家たちによって生産の「自然制限」だと主張されたし、また現に主張されているのであるが、これは、工場法がはじめて綿業貴族を脅やかしたときに彼らが好んであげた叫びだった。彼らの産業は他のどの産業にもまして世界市場に依存しており、したがってまた航海に依存しているとはいえ、経験は彼らのうそをとがめた。それ以来、すべて「営業上の障害」と呼ばれるものは、イギリスの工場監督官たちから無意味なごまかしとして取り扱われる。「児童労働調査委員会」の徹底的に良心的な調査が実際に証明するところでは、いくつかの産業では、すでに充用されている労働量を1年じゅうにもっと均等に配分されるには労働日の規則によるよりほかはないのであり、この規制は、殺人的で無内容でそれ自体大工業の体制には不適当な流行の気まぐれにたいする最初の合理的な規則なのであり、大洋航行および交通機関一般の発達は、季節労働の元来の技術的根拠を廃棄しているのであれ、すべてその他の制御できないと言われる事情も、建物の拡張、機械設備の追加、同時に従業する労働者数の増加、おのずから卸売商業制度に呼び起こされる反響によって、一掃されるのである。とはいえ、資本は、その代弁者の口を通じて繰り返し明言されているように、労働日を強制法的に規制する「一つの一般的な法律の圧力のもとでのみ」このような変革に服するのである。

第8章でもみたように、資本主義的生産様式は、旧来の生産様式をたんに解体するのではなく、それが利用できるものであるかぎり、みずからのシステムの中に組み込み、徹底的に利用します。ここでも、独自な資本主義的生産様式としての大工業が、マニュファクチュアや家内労働を組み込み、苛烈な搾取を行うことが指摘されています。とりわけ家内労働や生産力が低く、「安価な労働力の無制限の搾取がそれらの競争からの唯一の基礎」をなしているため、「敵対的で殺人的な面をますます多くさらけ出」します。このような資本主義のもとでの前近代的な生産様式の徹底的な利用は、労働者たちが長年の闘争を通じて勝ち取った工場法による労働日の規制によって、はじめて消滅することになります。

生産の当事者である資本家たちは、これらの「業務上の慣例」(「商業の成長とともに発達してきた習慣」と呼ばれている)は、技術的な障害と同じように、生産の「自然な限界」であると主張してきた。工場法が木綿成金たちにとって脅威になり始めた頃に、彼らが好んで同じように叫んでいたのだった。木綿産業は他のどの産業よりも世界市場に依存しており、海洋航海に釣枠依存しているのはたしかだが、それでもこれまでの経験から、それが嘘であったことが明らかになっている。

それ以来というもの、イギリスの工場視察官たちはこうした「業務上の障害」なるものを、空疎な逃げ口上とみなしている。実際に「児童労働調査委員会」の徹底的で良心的な調査から次のようなことが明らかになった。すなわちいくつかの産業では、労働日の規則が導入されると、大工業にはそぐわない無内容な気紛れが流行しているが、これは労働者にとっては殺人的で無内容なものであり、労働日の規制はこうした気紛れを防ぐために初めて導入された合理的な規則であること、海洋航海と通信手段の発達によって、季節労働のほんらいの技術的な基盤がそもそも崩壊していること、その他の克服できない事情とされた事柄も、実際には建物を増築し、機械類を追加し、同時に雇用される労働者の人数を増やすなどの手段で解消できるし、卸売産業のシステムに自然と発生する反作用によって解消されていくことなどが明らかになったのである。それでも資本家たちは、労働日を強制的な法律で規制する「一般的な議会条例の圧力のもとでしか」こうした変革をうけいれようとしなかったのであり、そのことはその代弁者たちが声高に主張したことであった。

 

 

第9章 工場立法(保健・教育条項)、イギリスにおけるその一般化

保健条項

工場立法は、この、社会がその生産過程の自然発生的な姿に加えた最初の意識的な計画的な反作用、それは、すでに見たように、綿糸や自動機や電信と同様に、大工業の一つの必然的な産物である。われわれは、イギリスでのその一般化に移る前に、イギリスの工場法のなかの労働日の時間数には関係のないいくつかの条項にも簡単に触れておかなければならない。

保健条項は、その用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、実際には、壁を白くすることやその他いくつかの清潔維持法や換気や危険な機械にたいする保護などに関する規定に限られている。われわれは第3部で、工場主たちが彼らの「職工」の手足を保護するためにわずかな支出を彼らに課する条項にたいして熱狂的に反抗したということに、立ち帰るであろう。ここでもまた、利害の対立する社会では各人はその私利を追求することによって公益を推進する、という自由貿易の信条が輝かしく示される。一つの例で十分である。人の知るように、アイルランドでは最近の20年間に亜麻工業が大いに発達し、それにつれてスカッティング・ミル(亜麻を打って皮をはぐ工場)が非常にふえてきた。そこには1864年にはこの工場が約1800あった。周期的に秋と冬にはおもに少年と女、つまり近隣の小作人の息子や娘や妻で機械にはまったくなじみのない人々ばかりが、畑仕事から連れ去られて、スカッティング・ミルの圧延機に亜麻を食わせる。その災害は、数から見ても程度から見ても機械の歴史にまったく例がない。キルディナン(コーク近郊)のたった一つのスカッティング・ミルだけでも、1852年から1856年までに6件の死亡と60件の不具になる重傷とがあったが、それらはどれもわずか数シリングの簡単な設備で防止できるものだった。ダウンパトリックの諸工場の証明医ドクター・W・ホワイトは、1865年12月16日のあるの公式報告書のなかで次のように明言している。

「スカッティング・ミルでの災害は最も恐ろしい種類のものである。多くの場合に四肢の一つが胴体からもぎ取られる。死亡か、そうでなくてもみじめな無能力と苦痛との前途かが、負傷の通例の結果である。この国での工場の増加は、もちろん、このような身の毛のよだつ結果を広げるであろう。私は、スカッティング・ミルにたいする適切な国家の監督によって身体生命の大きな犠牲が避けられることを確信する。」

資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押しつけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?

「1864年の工場法は、製陶業で200以上の作業場を白く塗らせ清潔にさせたが、それまで20年間も、または完全に、いっさいのこの種の処置が節制されたのであり(これが資本の「節欲」なのだ!)しかもこれらの作業場では2万7878もの労働者が働いているのであって、彼らは、これまでに、過度の昼夜作業のあいだ、またしばしば夜間作業のあいだも、有毒な空気を吸い込んでいて、それが他の点では比較的無害なこの仕事に病気と死とをはらませていたのである。この法律は換気装置を非常に増加させた。」

それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどんな合理的改良も許さないものだということを、的確に示している。繰り返し述べたように、イギリスの医師たちは、一様に、継続的な作業の場合には1人当たり500立方フィートの空間がどうにか不足のない最小限だと言っている。そこで!工場法がそのあらゆる強制手段によって比較的小さい作業場の工場への転化を間接的に推進し、したがって間接に小資本家の所有権を侵害して大資本家に独占を保証するのだとすれば、作業場でどの労働者にも必要な空間を法律で強制するということは、数千の小資本家を一挙に直接に収奪するものであろう!それは、資本主義的生産様式の根源を、すなわち資本の大小を問わず労働力の「自由な」購入と消費とによる資本の自己増殖を、脅かすものであろう。それゆえ、この500立方フィートの空気ということになると、工場立法は息切れがしてくるのである。保健関係当局も、もろもろの産業調査委員会も、工場監督官たちも、500立方フィートの必要を、そしてそれを資本に強要することの不可能を、いくたびとなく繰り返す。こうして、彼らは、実際には、労働者の肺結核やその他の肺病が資本の一つの生存条件であることを宣言しているのである。

工場立法は、社会の生産過程の自然発生的な形態にたいして、社会が初めて意識的かつ計画的に遂行した対抗措置であった。すでに確認したように、これは木綿の紡ぎ糸、自動装置、電信などと同じように、大工業の必然的な産物である。イギリスにおける工場立法の普及について検討する前に、イギリス工場法の規定で、労働日の時間数と関係のないいくつかの条項についても、簡単に触れておかねばならない。

保健条項は、資本家が抜け道を見つけやすいような表現になっていることを別としても、きわめて貧弱である。実際にこの条項では、壁を白く塗るよう定めた規則、清潔さを保つためのその他の規則、換気の規則、危険な機械からの保護のための規則などに限られている。「人手」の四肢を保護するためにわずかな出資をすることを定めた条項に、工場主たちがいかに狂信的な反対競争を遂行したかは、第3部でとりあげるつもりである。

これについては、利害の対立する社会では、すべての当事者が自己の利益を追求することで公益が促進されるという自由貿易主義者たちのドグマが輝かしいまでに主張される。一例をあげるだけで十分だろう。周知のようにこの20年間にアイルランドでは、亜麻産業と亜麻を打つ工場である亜麻打ち工場が急増した。1864年にはこの種の工場が約1800か所もあったのである。

秋と冬になると、主として少年たちと女性、すなわち近隣の小作人の息子や妻や妻たちなど、機械のことなどまったく知らない人々が周期的に畑仕事をやめて工場で雇われて、亜麻打ち工場の粉砕機に亜麻を投げ込むのである。そこで発生した事故は、その多さからみても激しさからみても、機械の歴史で未曾有のものだった。コーク近郊のキルディナンの一か所の工場だけで、1852年から1856年にかけて死者が6人、重度の障害をもたらす重症者が60人も発生している。こうした事故はすべて、わずか数シリングの単純な装置をつければ防げたはずのものである。

ダウンパトリックの工場の公認外科医のW・ホワイト医師は、1865年12月16日づけの公式報告書で、次のように語っている。「亜麻打ち工場での事故はきわめて悲惨である。多くの場合、四肢の一つがむしりとられる。事故にあうと死ぬか、生涯にわたる悲惨な苦痛と無能力を味わうことになる。わたしは、国が亜麻打ち工場を適切な形で監督すれば、身体と生命の大きな犠牲を防ぐことができると確信している」。

ごく簡単な清潔の維持装置と保健のための装置を採用させるだけのことに、国が強制的な法律を導入するしかないということ、このことほどに資本制的な生産様式の特徴をあらわにしている事実はないのではないだろうか。

「1864年の工場法によって、製陶業では200か所を超える作業場で、壁が白く塗られ、清掃が行われた。これは過去20年来、あるいは最初からまったく行われずに放置されてきた措置である(これが資本の「節制」とかいうものである)。これらの作業場には2万7878人の労働者が雇用されており、これまでは昼間の厳しい労働が行われるあいだも、夜間の労働においても、労働者たちは汚れた空気を吸ってきた。この仕事は比較的無害なものではあるが、この汚れた空気のために病気と死が蔓延していた。工場法で換気装置がきわめて普及した。

工場法のこの保健条項は、資本制的な生産様式はその本質からして、ある水準を超えると、いかなる合理的な改善も拒否するものであることを、痛烈に示すものとなった。これまで繰り返し指摘してきたように、イギリスの医者たちは異口同音に、労働が持続して行われる場所では、一人あたり500立方フィートの空間が、必要不可欠な最小限度であると語っている。しかし、である。もしも工場法が強制的な規制によって、小規模な作業場の工場への転換を間接的に促進し、それによって小資本家の所有権を間接的に侵害し、大資本家に独占を保証するのだとすれば、作業場において労働者に一人あたりに必要な最小の空間を与えるように法律で強制するなどということは、数千の小資本家を一挙に、そして直接に収奪することになるだろう!これは資本制な生産様式の根幹を脅かすものとなるだろう。すなわち大資本であるか小資本であるかを問わず、労働力の「自由な」購入と消費によって、資本が自己増殖することを妨げることになるだろう。というわけで、この500立方フィートの空気を前にして、工場法は息切れにしてしまうのである。

保健局、産業調査委員長、工場視察官などは、500立方フィートの[空気の]必要性を再三再四にわたって繰り返すが、同時にそれを資本に強制することが不可能であることも繰り返し語るのである。こうして彼らは実際には、労働者が肺結核やその他の肺病を病むことは、資本の生存条件の一つであると宣言しているのである。

 

教育条項

工場法の教育条項は全体としては貧弱に見えるとはいえ、それは初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は、教育および体育を筋肉労働と結びつけることの、したがってまた筋肉労働を教育および体育と結びつけることの、可能性をはじめて実証した。工場監督官たちはやがて学校教師に証人尋問から工場児童は正規の昼間生徒の半分しか授業をうけていないのに、それと同じかまたはしばしばそれより多くを学んでいるということを発見した。

「事情は簡単である。半日しか学校にいない生徒は、いつでも新鮮で、ほとんどいつでも授業を受け入れる能力があり、またそうする気がある。半労半学の制度は、この二つの仕事のそれぞれ一方を他方にとっての休養および気晴らしとするものであり、したがって児童のためにどちらか一方を中断なしに続けるよりもずっと適当である。朝早くから学校に行っている少年は、しかもこんなに暑いときには、自分の労働をすませて生き生きと元気よくやってくる少年と競争することは、とうていできないのである。」

さらに別の証明は、1863年のエディンバラの社会科学会議でシーニアが行った講演のなかに見いだされる。そこでは彼もまた、なかんずく上級および中級の児童の一面的で不生産的で長すぎる授業時間がいたずらに教師の労働を多くしているということ、「また、それが児童の時間や健康やエネルギーを、単にむだにするだけではなく、まったく有害に乱費する」ということを示している。工場制度からは、われわれがロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、未来の教育の萌芽が出てきたのである。この教育は、一定の年齢から上のすべての子供たちのために生産的労働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間を生みだすための唯一の方法でもあるのである。

工場法の教育条項は全体として乏しいものであるが、初等教育を与えることが、労働のために強制的に求められる条件であることを宣言している。この条項が成果をあげることで、授業や体育を筋肉労働と結びつけうること、そして筋肉労働を授業や体育と結びつけうることが、初めて示されたのである。工場視察官たちは学校の教師に質問することで、すぐに次のことを発見した。すなわち工場労働をしている児童たちは、昼間に学校に通っている正規の生徒たちと比較すると、授業時間は半分に満たないものの、正規の生徒たちと同程度か、あるいはもっと多くを学んでいるのである。「理由は簡単だ。半日しか学校にいない生徒は、いつも元気で、いつも授業をうける能力と意志がある。半日は働き、半日は学ぶというシステムは、学ぶにしても働くにしても、休養と気晴らしになる。児童にとっては片方だけをずっとつづけるよりも、このシステムのほうがはるかに適切なのだ。朝早くから学校にずっと座っている子供は、とくに暑い時期には、仕事先から元気に溌剌としてやってくる子供に、太刀打ちできるはずがない」。

1863年にシーニョアがエディンバラの社会科学会議で行った講演も、別の証拠になる。シーニョアは上級や中級のクラスの児童にとって学校での生活がどれほど一面的で非生産的で、長すぎるものとなっているか、そして教師の仕事が意味もなく増えているかを説明した後に、「それによって児童の時間、健康、エネルギーが実りのないものとして浪費されているだけでなく、有害な形で浪費されている」と語っている。ロバート・オーウェンの書物を読めば詳しく分かるように、未来の教育の萌芽は工場システムから誕生したのである。未来の教育では、ある一定の年齢になったすべての子供たちに、生産的な労働と授業と体育の両方を結びつけて課すべきである。しかもたんに社会的な生産の増大のための方法としてではなく、完全に発達した人間を作りだすための唯一の方法として、課すべきなのである。

 

習熟過程の欠如

すでに見たように、大工業は、1人の人間の全身を1生涯1つの細部作業に縛りつけるマニュファクチュア的分業を技術的に廃棄するのであるが、それを同時に、大工業の資本主義的形態はそのような分業をさらにいっそう奇怪なかたちで再生産するのであって、この再生産は、本来の工場では労働者を一つの部分機械の自己意識のある付属物にしてしまうことによって行われ、そのほかではどこでも、一部は機械や機械労働のまばらな使用によって、また一部は婦人労働や児童労働や不熟練労働を分業の新しい基礎として取り入れることによって、行われるのである。

マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なかんずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供たちの一大部分が、非常に幼少の時から最も簡単な作業に固く縛りつけられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場で役にたつものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現われる。たとえば、イギリスの書籍印刷所では、以前は、マニュファクチュアや手工業の制度にふさわしく、徒弟たちが比較的容易な作業からもっと内容のある作業に移って行くということが行われていた。彼らはある修業過程を経てから一人前の印刷工になった。読み書きできるというは、彼らのすべてにとって職業上の一つの要件だった。印刷機が現われると、なにもかも変わった。印刷機では二種類の労働者が使われ、1人は大人の労働者で機械見張り工であり、その他は多くは11歳から17歳までの少年機械工で、これらの少年の仕事は、ただ印刷用紙を機械に差し込んだり印刷された紙を機械から引き出したりことだけである。彼らは、ことにロンドンでは、1週間のうち何日かは中断なしに14時間か15時間か16時間、そしてしばしば食事と睡眠のためにたった2時間休むだけでぶっつづけに36時間も、この苦役をやる!そして、一般に、まったくすさんだ、正常でない人間になっている。

「彼らを仕事ができるようにするためには、どんな種類の知的な訓練も必要ではない。彼らの技能が役だつような機会は少なく、判断を必要とするような機会はなおさら少ない。彼らの賃金は、少年としてはいくらか高いほうだとはいえ、彼ら自身の成長につれて上がるわけではないし、また、彼らの大多数は機械の見張り工という収入も多く責任も大きい地位に進む見込はまったくない。というのは、機械1台につく見張り工はたった1人なのに、少年はしばしば4人もついているからである。」

彼らが、子供向き仕事をするには年をとりすぎれば、したがって少なくとも17歳になれば、印刷所からは解雇されてしまう。彼らは犯罪の新兵になる。彼らになにかほかの仕事をつくってやろうとするいくつかの試みも、彼らの無知や粗野や肉体的精神的な退廃のために、失敗に終わった。

すでに確認したように、マニュファクチュアでは一人の人間全体を生涯にわたって細かな部分労働に縛りつけていたが、大工業はこのマニュファクチュア的な分業を技術的に廃棄した。しかしその一方では資本制的な形態の大工業は、かつての分業をさらに怪物的な形で再現する。すなわちほんらいの工場では、労働者は部分機械の自己意識をもつ部品に変わってしまうのである。それはあらゆる場所で、機械と機械労働が散発的に利用されるからであり、また分業の新たな基盤として、女性労働、児童労働、非熟練労働が導入されるからである。

このようにしてマニュファクチュア的な分業と大工業の本質との矛盾が暴力的な形であらわになる。というのも、近代的な工場とマニュファクチュアに雇用されている児童の多くは、きわめて幼い頃からごく単純な操作だけをするように訓練されているので、長いあいだ搾取されていても、そのマニュファクチュアや工場で役立つようないかなる種類の労働を学ぶこともできないという重要な事実のうちに、この矛盾がはっきりと示されているのである。

たとえばかつてのイギリスの書籍印刷業では、マニュファクチュアや手工業にみられたように、徒弟が簡単な仕事から、もっと内容のある仕事へと移行していくシステムがあった。徒弟たちはこの修業プロセスを終えると、一人前の印刷工になったのである。この時代の印刷業では、すべての人が読み書きできることが必要な条件となっていた。

しかし印刷機の登場によって、これらのすべてが一変した。印刷機では二種類の労働者を必要とする。一人は成人の労働者で、機械を見張る。ほかは11歳から17歳までの機械補助者で、その仕事というのも、1ボーゲンの印刷用紙を機械に差し込んだり、印刷された紙を機械から取りだしたりことにすぎない。とくにロンドンでは彼らは、週の何日かは1日14時間、15時間、16時間にわたって、食事と睡眠のためにわずか2時間の休憩を与えられるだけで、しばしば36時間も休みなく、この辛い仕事に従事するのである。彼らの多くは文字が読めず、概して粗野で風変わりな連中になる。

「彼らに仕事をさせるには、どんな種類の知的な訓練も不要である。技能が必要な機会は少なく、判断する必要がある機会はさらに少ない。賃金は子供としては高いほうだが、その成長に比例して増えるわけではない。多くの子供たちは、収入が高く責任もある機械の見張り係になれる見込みもない。1台の機械に一人の見張り係がいればよいのに、しばしば4人も子供が補助についているからである」。

彼らがこうした子供っぽい仕事にはふさわしくない年齢になると、遅くとも17歳までには、印刷所を解雇され、やがて犯罪予備軍になる。彼らに別の場所で仕事をみつけてやろうと試みでも、無知で、粗野で、身体的にも精神的にも堕落しているために失敗に終わるのだった。

 

近代的な工業のもたらした革命と矛盾

作業場のなかでのマニュファクチュア的分業ついて言えることは、社会のなかでの分業についても言える。手工業とマニュファクチュアが社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、一つの専門的な生産部門への生産者の包摂、彼の仕事に元来の多様性の分裂は、一つの必然的な発展契機である。この基礎の上では、それぞれの特殊生産部門は自分に適した技術的姿態を経験的に発見し、だんだんそれを完成してゆき、一定の成熟度に達すれば急速にそれを結晶させる。時折り変化を呼び起こすものは、商業によって新しい労働材料が供給されることのほかには、労働用具がしだいに変化することである。ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業が秘技と呼ばれて、その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしていたヴェールは、大工業によって引き裂かれた。大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも考慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれの所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行為はすべて必ずそれによって行われるという少数の大きな基本的な運動形態を発見したのであるが、それは、ちょうど、機械がどんなに複雑でも、機械学がそれにだまされて簡単な機械的な力の不断の反復見誤ったりしないのと同じことである。近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。

ここから続く3つの項目はいずれも同じ段落から引用していますが、理論的には本章で最も重要なポイントを含んでいますので、内容ごとに分けて解説していきます。

まず、テクノロジーから見ていきましょう。内容を補足するために、本章の冒頭の注にあった文章も引用してあります。

テクノロジーと聞くと、純粋に自然科学の問題だと思うかもしれません。じっさい、私たちが大学の工学部で学ぶことができるテクノロジーは大半が自然科学的な科目から構成されています。しかし、ここまで読んできた読者はすでに明らかだと思いますが、それはけっして「中立」的な学ではありません。むしろ、テクノロジーは「自然にたいする人間の能動的な関わり」がと゜ういうものであるかを「あらわに示して」いるのです。もちろん、当時の数学者や機械学者がやったように、テクノロジーをたんなる物理学や化学などの自然科学に還元することは簡単にできます。しかし、それではテクノロジーを本当に理解したことにはならない、むしろ、テクノロジーは、それを生み出す「自然にたいする人間の能動的な関わり」がどういうものか、あるいは「人間の生活の、したがってまた人間の社会的生活関係やそこから生ずる精神的諸観念の直接的生産過程」がどういうものかを分析することによって解明しなければならない、とマルクスは言うのです。マルクスによれば、「あとのほうが、唯一の唯物論的な、したがって科学的な方法である」ということになります。

では、テクノロジーはどのような「自然にたいする人間の能動的な関わり」から生まれてきたのでしょうか。ここでマルクスが述べているように、近代以前においては生産にかんする知識や技術はその生業を営む一部の人に独占されていました。つまり、秘伝技を世襲で伝えていたギルドに典型的なように、生産にかんする知は特定の人格と結びつけられていたのです。そこでは、一方では生産にかんする知が一部の人に独占され、社会から隠されていましたが、他方では生産にかんする知が労働者から1人歩きし、労働者に敵対することを防いでいました。

ところが、剰余価値を最大化するために、自然科学を意識的に応用し、可能な限り生産力を高めることを原理とする大工業においては、このような人間の側の事情は考慮されません。むしろ、大工業はテクノロジーという新しい知の様式を生み出し、生産にかんする知と労働者との結びつきを切断しようとしています。つまり、大工業においてはこれまで労働者たちが独占していた知識や技術が労働者たちから切り離され、テクノロジーはじっさいの生産者のことを考慮することなく、生産方法を変革し、むしろこの新しい生産方法に生産者の行為を適応させようとするのです。すなわち、労働者が生産手段を使用するのではなく、生産手段が労働者をしようするという資本主義的生産過程の転倒した「自然にたいする人間の能動的な関わり」こそが、大工業の原理を生み出し、この原理が新たな知の様式であるテクノロジーを生み出したのです。

機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業に絶えず変革し、大量の資本と労働力の大群とを、一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働を転換、機能を流動、労働者が全面的移動性を必然的にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する。われわれはすでに、どのようにこの絶対的な矛盾が労働者の生活状態のいっさいの静隠と固定性と確実性をなくしてしまうか、そして彼の手から労働手段とともに絶えず生活手段をただき落とそうとし、彼の部分機能とともに彼自身をもよけいなものにしようとするか、を見た。また、どのようにしてこの矛盾が労働者階級の不断の犠牲と労働力の無際限な乱費と社会的無政府の荒廃とのなかであばれ回るか、を見た。これは消極面である。

大工業は、生産者の側の事情を考慮することなく、自然科学を意識的に応用し、生産力を最大化しようとしますから、それ以前の生産様式とはことなり、その「技術的基礎は革命的」であり、「労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革」します。ですから、大工業じしんの原理、あるいはその「本性」にしたがえば、「労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性」は必然的になっていきます。これは、労働者たちに固定的な分業からの解放をもたらしますから、大工業の積極的な側面だと言えるでしょう。大工業の原理は、相対的剰余価値の生産のために生まれてきたものであるにもかかわらず、自然科学の意識的応用による生産力の上昇と固定的分業からの解放の可能性という積極的な要素を人類にもたらすのです。

ところが、現実に生起する事態はそう単純ではありません。というのも、まさにそのような「労働者の全面的可動性」は労働者から生産的な知を剥奪することによって実現されるものであり、本章で詳細にみてきたように、それによって「労働者の生活状態のいっさいの静穏と固定性と確実性」が失われてしまうからです。また、前章で詳しくみたように、労働者を分業に縛りつけ、他のことができない労働力にすることによって、それらの人々を従属させ、支配することが容易になりますから、大工業の内部でも新たに発生した分業を固定化し、労働者を支配しようとする傾向が生まれてきます。

ですから、大工業はその本性にしたがって、分業の廃棄と「労働者の全面的可動性」という傾向をもたらすにもかかわらず、他方では、労働者たちから生産的な知を剥奪し、彼らを従属させ、彼らの生活を不安定なものにするという事態をもたらすことになります。

しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るところで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変動する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくるくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の死活問題にする。大工業を基礎として自然発生的に発達してこの変革過程の一つの要因となるものは、工学および農学の学校であり、もう一つの要因は「職業学校」であって、この学校では労働者の子供が技術学やいろいろな生産道具の実際の取扱いについてある程度の教育を受ける。

工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である。靴屋は靴以外のことには手を出すな!」この手工業の知恵の頂点は、時計師ワットが蒸気機関を、理髪師のアークライトが縦糸織機を、宝石職人フルトンが汽船を発明した瞬間から、ばかげきった文句になったのである。

大工業は、前の項目でみたような積極面と消極面をもたらしますが、もし私たちが、大工業の本性にしたがって「合理的」に生産力の増大を追求しようとするならば、大工業の消極面は克服されなければなりません。つまり、「一つの社会的な細部機能のたんなる担い手にすぎない部分個人を、さまざまな社会的機能をかわるがわる行うような活動様式をもった、全面的に発達した個人によって置き換え」なければなりません。端的に言えば、科学の意識的応用によって絶えず生産過程を変革する大工業に対応することができる労働者を生み出さなければならないのです。

しかし、現実には、このような「全面的に発達した個人」に資本を従属させ、搾取することは容易ではありません。そのため、資本は労働者を解雇し、失業者のなかから労働力を補給することにより、大工業の絶えざる生産過程の変革に対応しようとします。しかし、これは労働力を乱費し、社会を疲弊させることになり、「合理的」な生産力の上昇に反するやり方でしかありません。

したがって、ここでは、「合理的」に生産力を上昇させるために「全面的に発達した個人」を必要とする大工業の本性と、価値増殖のために労働者たちを徹底的に従属させ、いつまでも好きなように利用できるような存在に貶めようとする資本の本性とが衝突します。マルクスは大工業の原理をけっして手放しで称賛しようとしているわけではなく、むしろそれが相対的増殖価値の獲得のために生産力を上昇させる必要から生まれてくることを指摘しているわけですが、資本制的生産様式は、労働者を従属させ、支配することにもとづいているので、このような大工業の原理とさえ矛盾してしまうのです。端的に言えば、資本主義は生産力を上昇させるための人間の発展、あるいはそのための教育とさえ、矛盾するようになるということにほかなりません。

ですから、大工業が要求する「全面的に発達した個人」をもたらすための職業教育および技術教育は、資本主義社会では、非常に不十分にしか実現されません。しかし、それでもマルクスは、大工業が要求する職業教育および技術教育は「変革の酵素」になると考えていました。なぜなら、それはいかに不十分であれ、徹底的に生産能力を奪われた賃労働者たちがふたたび知識や技術を取り戻すための拠点になりうるからです。つまり、マルクスは労働者たちの社会的および政治的力量の増大とともに職業教育および技術教育を充実させることによって、労働者の側に知を取り戻し、資本の支配に対抗していくことができると考えたのです。

作業場の中でのマニュファクチュア的な分業にあてはまることは、社会の中での分業にもあてはまる。手工業とマニュファクチュアが社会的な生産の全般的な土台であるあいだは、生産する労働者はただ一つの生産部門だけに縛りつけられ、労働者の仕事に含まれていたさまざまな多様性は引き裂かれたが、それは発展のために必要な契機だった。この基盤の上で、それぞれの特殊な生産部門が、それにふさわしい技術的な姿を経験によって発見していくのであり、それを次第に完成し、ある成熟度に達するとすぐに結晶していくのである。

さまざまな場所で変化が生まれるのは、商業によって新たな労働材料が供給されるためであり、労働道具が次第に変化していくためである。しかし労働道具は経験によってそれにふさわしい形態になるとそのまま固定する。そのことは道具が1000年ものあいだ、世代から世代にうけつがれてきたことからも証明される。18世紀にいたるまで、特殊な職業が秘伝と呼ばれ、その奥義を極められるのは専門の経験を積んだ精進者だけがと考えられたのは特徴的である。

ところが大工業は、人間自身の社会的な生産過程を人間の目から覆い隠していたこのヴェールを剥ぎとった。このヴェールのために、自然発生的に分化してきたさまざまな生産部門が、たがいに謎めいたものとなっていたのであり、その部門に精通した人にも謎となっていたのである。ところが大工業の原理は、とりあえず人間の手をまったく考慮にいれずに、それぞれの生産過程を、それを構成するさまざまな要素に分解する。この原理こそが、テクノロジーという完全に近代的な科学を創造したのである。

かつては社会的な生産過程の諸形態は、多彩な色彩をもち、まったく関連のないようにみえ、それぞれに固定化されていたものだったが、今や意識的な計画のもとで、目指す効用にふさわしい形で自然科学を組織的に特殊化しながら応用するようになり、こうした諸形態は解消されたのである。

人間の身体による生産行為は、どれほど多様な道具を使うとしても、つねに少数の重要な基本的な運動形態のうちで行われるが、テクノロジーはこの運動形態を発見したのである。それは機械がどれほど複雑であっても、そこに単純な機械力がたえず持続して働いていることを機械工学が見逃すことはないのと同じである。近代的な工業では、生産過程の既存の形態を最終的なものと考えることはないし、最終的なものとしてとりあつかうこともない。だから近代以前の生産様式の技術的な基盤が本質的に保守的なものであったのにたいして、近代的な工業の技術的な基盤は革命的なものなのである。

機械類、化学的なプロセスおよびその他の方法によって、近代的な工業は生産の技術的な基盤を変革すると同時に、労働者の機能そのものを変革し、労働過程の社会的な結合を変革する。それによって近代的な工業は、社会の内部の分業につねに革命的な変化を生じさせ、大量の資本と労働力を、ある生産部門から別の生産部門へとたえまなく移動させる。そのため大工業はそのほんらいの性質によって必然的に労働を転換させ、機能を流動的なものとし、労働者が全面的に移動する可能性を作りだす。しかし一方では大工業はその資本制的な形態において、古い分業をその固定化された特殊性とともに再登場させるのである。

この絶対的な矛盾が労働者の生活からあらゆる落ち着きを奪い、安定感と確実性を破壊するものであることは、すでに確認してきた。この矛盾は労働者の手から労働手段をとりあげ、たえず生活手段を奪おうとする。労働者の一部の機能を無用なものとすると同時に、労働者そのものを不要な存在にしようとする。この矛盾は労働者階級の絶えざる犠牲のもとで、労働力を際限なく貪ろうとし、社会的な無政府状態のもたらす荒廃のうちで荒れ狂う。これが否定的な側面である。

しかし労働の転換が圧倒的な自然法則のもとで、いたるところで障害に出会いながら、自然法則の盲目的で破壊的な作用のうちで遂行されるならば、大工業はみずからの破局のうちに、次のことを認めざるをえなくなる。すなわち労働の転換において、労働者ができるだけ多面性を維持することを一般的な社会的な生産の法則として承認し、状況におうじてそれを正常に実現していくことは、大工業にとって生存をかけた重要な課題であるということを。

絶えず変動しつづける資本の搾取の要求にいつでも応じられるような窮乏した労働者人口を予備軍として維持するという異常な事態の代わりに、絶えず変動しつづける労働の要求にいつでも応じられるような人間の絶対的な適応性を育てていけるかどうか、たんなる社会的な細部の機能を担う部分個人ではなく、さまざまな社会的な機能を次々に担っていくことのできる完全に発達した個人を育てていけるかどうかが、資本にとって死活問題となる。

工学や農学の専門学校は、大工業の基盤の上で自然発生的に発達したこの変革プロセスの要素の一つであり、労働者の子弟がテクノロジーについて、さまざまな生産道具の実践的な使い方について学ぶ職業学校も、こうした要素の一つである。工場立法は、資本家からやっとのことで引きだした最初の譲歩として、工場労働と初等教育を結びつけただけである。労働者階級が政治権力を奪いとるのは避けがたいことであるから、テクノロジーに関する授業は、理論的にも実践的にも、労働者のための学校において重要な地位を確保するようになることに、疑問の余地はない。

同じように疑う余地のないことは、資本制的な生産形態と、それに伴う労働者の経済的な関係が、こうした変革の酵素とも、古い分業を廃棄するという目標とも、真っ向から矛盾するということである。しかしある歴史的な生産形態に含まれる矛盾が発展するということは、それが解体されて新たな姿をとるようになるために可能な唯一の歴史的な道筋なのである。[靴屋に絵を批判された古代の画家が答えたように]「靴屋よ、お前は自分の木型を守っていよ!」という言葉は、手工業の究極の智恵であった。しかし時計職人のワットが蒸気機関を発明したときから、理髪師のアークライトが経糸織機を発明したときから、宝石職人のフルトンが汽船を発明したときからは、この言葉はすさまじい愚しさを示すものとなったのである。

 

親権への介入

工場立法が工場やマニュファクチュアなどでの労働を規制するかぎりでは、このことは当初はただ資本の搾取権への干渉として現われるだけである。ところが、いわゆる家内労働の規制は、いずれも、ただちに父権の、すなわち近代的に解釈すれば親権の、直接的侵害として現われるので、このような規制処置をとることには、思いやりのあるイギリス議会は長いあいだためらっているように見えた。とはいえ、事実の力は、ついに、大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族制度そりもりをも崩壊させるということを、いやおうなしに認めさせた。子供の権利が宣言されざるをえなくなった。1866年の「児童労働調査委員会」の最終報告のなかでは次のように言っている。

「不幸なことであるが、男女の子供をほかのだれにたいしてよりも彼ら自身の親にたいして保護される必要があるということは、証言の全体から見て明らかである。」一般に児童労働の、また特に家内労働の、無制限な搾取の制度は、「幼くてか弱い子供にたいして親たちが自分かってな無法な権力をなんの拘束も制御もなく行使するということによって、維持される。…親たちが、自分の子供をいくらかの週賃金をかせぐためのただの機械にしてしまう絶対的な権力をもっていてはならない。…子供や少年には、早くから彼らの肉体力を損傷し彼らの道徳的存在としての程度を低下させるような親の権力の乱用に対して、立法の保護を求める権利がある。」

とはいえ、両親の権力の乱用が資本による未熟な労働力の直接間接の搾取をつくりだしたのではなく、むしろ逆に、資本主義的搾取様式が親の権力を、それに対応する経済的基礎を廃棄することによって、一つの乱用にしてきたのである。資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えようとも、大工業は、家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男女の少年や子供に決定的な役割を割り当てることによって、家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのである。

言うまでもなく、キリスト教的ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは、ちょうど古代ローマ的、または古代ギリシャ的、または東洋的形態を、しかも相ともに一つの、歴史的な発展系列を形成しているこれらの形態の一つを、絶対的と考えることと同様に、愚かなことである。また、同様に明らかなことであるが、男女両性の非常にさまざまな年齢層の諸個人から結合労働人員が構成されているという、この構成の自然発生的な野蛮な資本主義的形態にあってこそ、すなわちそこでは生産過程のために労働者があるのであって、労働者のために生産過程があるのではないという形態にあってこそ、退廃や奴隷状態の害毒の源泉であるとはいえ、それに相応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するにちがいないのである。

マルクスは主要著作においてジェンダーに関連する体系的な叙述を残していません。それゆえ、一部のフェミニストからは「マルクスはジェンダーを無視している」という非難を受けてきました。実際、マルクスはヴィクトリア時代の道徳観念を共有しており、ジェンダーバイアスから自由ではありませんでした。『資本論』においても、今日なら問題視されるような、ジェンダーバイアスやパターナリズムにもとづく叙述がみられます。しかし、他方で、マルクスは男女関係のあり方には若い頃から強い関心を抱いており、インタナショナルなどの活動への女性の参加を積極的に支持しました。広い意味ではジェンダーに関心を持っていたと言えるでしょう。この引用文からも、資本主義の発展がいわゆる女性の社会進出を促すことによって古い男女関係を変革し、より高度な形態での男女関係や家族のあり方を築き上げるための基礎を形成するとマルクスが考えていたことが分かります。生産関係と同じように、性に関する社会関係や家族関係もまた、資本主義から脱却することで、より高度で自由なものに変革することができるのです。これについてマルクスは多くの叙述を残していませんが、晩年の共同体研究からは近代家族に対するマルクスの批判的視座を窺うことができます。

工場立法が工場やマニュファクチュアなどにおける労働を規制しているかぎりで、それはとりあえず資本により搾取への[国の]介入とみなされる。これにたいして家内労働への規制は、ただちに父権への介入であり、近代的に解釈すれば親権の直接的な侵害である。この一歩を踏みだすまで、思いやりのあるイギリス議会は長いことためらっているようにみえた。しかし事実のもつ力を前にして、大工業は古い家族関係そのものを、古い家族制度やその家族労働の経済的な基盤もろとも解体することを、ついに認めざるをえなくなった。そして子供の権利を宣言せざるをえなくなったのである。

1866年の「児童労働調査委員会」の最終報告には、「これらのすべての証言から残念ながら明らかなことは、男女の子供たちを誰よりもまず両親から守るひつようがあるということである」と書かれている。児童労働一般と、とくに家内労働を極限まで搾取するシステムは「両親が、自制心も節度もなく、恣意的で容赦のない権力を、幼くか弱い子供たちに行使することによって維持されている。…ある程度の賃金を毎週絞りとるために、自分の子供たちをただの身体の力を幼いうちから破壊し、道徳的および知的な水準を低下させる両親の権力の濫用から、立法によって保護される権利をもっている」。

しかし両親の権力の濫用が、資本による未成熟な労働力の搾取を直接的あるいは間接的に作りだしているわけではない。その反対に資本制的な搾取こそが、両親の権力の経済的な土台を破壊したために、両親がその権力を濫用するようになったのである。たしかに資本制的なシステムの内部での古い家族制度の解体は、きわめて恐ろしく、嫌悪すべきもののようにみえる。それでも大工業は、家族制度の領域の彼方に、組織された社会的な生産過程を作りだすことによって、女性、男女の児童たちに決定的な役割を与えたのであり、それによって家族や男女の関係がさらに高次な形態のものとなるための新しい経済的な土台を作りだしたのである。

もちろんキリスト教が浸透したゲルマン的な家族形態を絶対的なものとみなすことは、古代ローマの家族形態、古代ギリシャの家族形態、東洋の家族形態を絶対的なものとみなすのと同じように愚かしいことである(ちなみに、これらの家族形態をたがいに、歴史的な発展系列を構成している)。また自然発生的に存酷な性格をそなえた資本制的な形態のもとでは、さまざまな年齢層の男女の個人を組み合わせて労働人員を構成することは、堕落と隷属を生みだす害悪の源泉となるのは明らかである。そこでは生産過程のために労働者が存在するのであり、労働者のために生産過程が存在するのではないからである。しかし適切な関係なもとに置かれれば、このような組み合わせは逆に人間的な発展のための源泉になるに違いない。

 

工場法の一般化

工場法は、機械経営の最初の姿である紡績業と織物業のための例外法から、すべての社会的生産の法律に一般化する必要は、すでに見たように、大工業の歴史的発展行程から生ずる。というのは、大工業の背後では、マニュファクチュアや手工業や家内労働という伝来の姿な完全に変革され、マニュファクチュアは絶えず工場に、手工業は絶えずマニュファクチュアに変わり、そして最後に手工業や家内労働の諸部面は、相対的に驚くばかりの短期間に、資本主義的搾取の凶暴きわまる無法が思いのままに演ぜられる苦難の洞穴になり変わるからである。そこで、二つの事情が最後の決着をつける。第一には、資本は社会的周辺の個々の点だけで国家統制を受けるようになると、他の点でますます無節操に埋め合わせをつけるという絶えず繰り返される経験であり、第二には、競争条件の平等、すなわち労働搾取を制限の平等を求める資本家たち自身の叫びである。この点について、二つの衷心の叫びを聞いてみよう。W・クックスリー社(ブリストルで釘や鎖などの製造業者)はその事業で自発的に工場規制を実行した。

「付近の諸工場では古い不規則な制度が続いているので、この会社は、その少年工たちが晩の6時以後にどこかよそで労働を続けるようにそそのかされるという不当なめにあっている。もちろん、会社は言う、『これはわれわれにとって不正であり、損失である。というのは、少年たちの力による利益は全部われわれのものだのに、その力の一部分がそのために消耗するからである』と。」

J・シンプソン(ロンドンの紙袋紙箱製造業者)は「児童労働調査委員会」の委員に次のように言っている。

「私は工場法実施の請願にはどれにでも署名するつもりである。とにかく、私の工場を閉めてから、他人はもっと長く作業して自分の注文を横取りするかもしれないと思うと、いつも夜は心配でたまらない。」要約して「児童労度調査委員会」は次のように言う。「同じ事業部門でも小経営は労働時間の法的制限を受けないのに、比較的大きい事業主の工場を規制に服させるのは、彼らにとって不当たであろう。比較的小さい作業場を除外すれば、労働時間に関して競争条件が平等でなくなるという不公正のほかに、大きいほうの工場主にとってはまた別な不利が加わるであろう。すなわち、彼らへの少年や婦人の労働の供給が、法律を免れている作業場のほうに向け変えられるであろう、というのがそれである。最後に、それは比較的小さい作業場な増加に刺激を与えることになるであろうが、このような作業場は、ほとんど例外なしに、国民の健康や安楽や教育や一般的な改善にとって益するところの最も少ないものである。」

「児童労働調査委員会」は、その最終報告のなかで、約半数が小経営や家内労働に搾取されている140万人以上の子供と少年と婦人を工場法のもとに置くことを提案している。委員会は次のように言っている。

「もしも議会がわれわれの提案を全面的に採用するならば、疑いもなく、このような立法は、まず第一にそれが取り扱う年少虚弱者にだけでなく直接に(女)また間接に(男)その有効範囲にはいるもっと多数の成年労働者にも、きわめて有益な影響を及ぼすであろう。それに彼らは規則正しい軽減された労働時間を課するであろう。それは、彼ら自身の福祉と国の福祉とが大いに余力している肉体力の貯蓄を節約し、蓄積するであろう。それは、発育ざかりの世代を、その体質を損傷して早くからの退廃を招く幼少期の過度労働から保護するであろう。最後に、それは少なくとも13歳までは初等教育を受ける機会を与え、したがってまた、委員会の報告書のなかにあのように忠実に描かれていて深い悲痛と国民的屈辱の感なしには見ることのできないような、あの信じられないほどの無知にも終末を与えるであろう。」

トーリ党内閣は、1867年2月5日の開院式の勅語のなかで、産業調査委員会の提案を「法案」に作成したと告げた。そのためには、新たな20年間の無価値体実験を必要としたのだった。すでに1840年には、児童労働の調査のための議会委員会が任命されていた。この委員会の1842年の報告は、N・W・シーニアの言葉によれば、

「資本家や親たちの貪欲と利己と残酷とを描いて、また子供や少年の貧苦と堕落と破壊とを描いて、これまで世人の目に映ったなかで最も恐ろしい画面」を繰り広げた。「…おそらく、この報告は過去の一時代の惨状を描いたものと思われるであろう。だが、残念ながら、この惨状は今なお以前と同じひどさで続いているという報告がある。2年前にハードウィックによって公表された一つの小冊子は1842年に非難された悪弊が今日(1863年)は満開である。…この報告(1842年)は20年ものあいだ顧みられることもなく、そのあいだに、人々は、われわれが道徳と呼ぶものについても、学校教育や宗教や自然の家族愛についても、なにごとも知らずに成長した子供たちに今の世代の親となることを許したのである。」

その間に社会状態すでに変わっていた。議会も1863年の委員会を要求を1842年の要求のように拒絶しようとはしなかった。こうして、すでに1864年、委員会がはじめてその報告書の一部を公表したときには、土器産業(製陶業を含む)、壁紙・マッチ・雷管・弾薬筒製造、ビロード剪毛業が、繊維産業に適用されている法律のもとに置かれた。1867年2月5日の開院式の勅語のなかで、当時のトーリ党内閣は、その間1866年にその任務を完了した委員会の最終提案にもとづいて、さらに別の諸法案の提出を告げた。

1867年8月15日には工場法拡張法が、そして8月21日には作業場規制法が、勅裁をえた。前者は大きな事業部門を規制し、後者は小さな事業部門を規制する。

工場法は、機械経営が最初に実現された産業である紡績業だけに例外的に適用される法律として始まったが、この法律がすべての社会的な生産を規制する一般的な法律となっていくのは必然的なことである。そしてこれまで確認したように、大工業の歴史的な発展の進みゆきのために、それは必然的なものとなったのである。この発展を背景として、マニュファクチュア、手工業、家内労働の伝統的なあり方が根本的に変革され、マニュファクチュアはたえず工場に変化し、手工業はたえずマニュファクチュアに変化していく。そして最後には手工業と家内労働の領域は、驚くほど短い期間のうちに、嘆きの洞窟になってしまい、そこでは資本制的な凶暴で無法なゲームを気ままに展開するのである。

さらに次の二つの決定的な事情があった。まず、社会の周辺領域のいくつかの場所だけで国家が資本を監視するようになると、資本は他の場所でますます節度なく、その分を取り戻そうとする経験が何度でも新たに何度でも新たに繰り返されたことである。また資本家たちもみずから、競争条件を平等にすること、すなわち労働の搾取を平等に制限することを求めた。これについては二つの心からの叫びに耳を傾けよう。W・クックスリー社は、ブリストルで釘やチェーンを製造している企業であるが、同社は自発的に工場規制を採用した。ところが「近隣の工場では、古い不規則なシステムが維持されているので、当社の少年工が夕方の6時以降に別の工場で働くように誘われている。ほんらいなら当社の利益となるはずの少年たちの力の一部がそれによって消耗するので、これは当社にとって(ともちろん彼らは主張する)不公正なことであり、損失をもたらすのである」という。

ロンドンで紙袋や段ボールを製造しているJ・シンプソン社の代表は「児童労働調査委員会」の委員に、「わたしは工場法の導入を求めるすべての請願書に署名するつもりである。自社の工場を[定時に]閉めた後に、他の工場がもっと長時間労働をさせて、当社がうけるべき注文をかすめとるのではないかと、夜になると心配でたまらないからである」と語ったという。「児童労度調査委員会」は次のようにまとめている。「同じ事業分野で、大手の雇用主の工場だけを規制の対象にしておいて、小規模な事業には労働時間を法的に規制しないでおくのは不公正なことだろう。労働時間の規制を小規模な作業場に適用しない場合には、競争条件が不平等になって公正さが失われる。さらに大規模な工場にとって別の不利益が生じる。大手の工場で雇用されるはずだった青少年や女性の労働者が、工場法の適用されない作業場に奪われるからである。これによって結局は小規模な増加することになるが、こうした施設はほぼ例外なく、国民の健康、快適さ、教育、および一般的な改善を目指すには劣悪な場所なのである」。

「児童労働調査委員会」は最終報告で、140万人以上の児童、青少年、女性の労働者を工場法の適用対象とすることを提案している。その約半数が、小規模経営や家内労働で搾取されているのである。委員会は次のように指摘する「議会が当委員会の提案を全面的にうけいれるならば、こうした立法は、この法律がさしあたり対象として青少年や弱者にきわめて好ましい影響を与えるだけでなく、直接に(女性労働者のことだ)あるいは間接に(成人の男性労働者のことだ)、その法律が適用される多数の成人労働者に、きわめて有益な影響を及ぼすことだろう。この立法は彼らを、規則的で節度のある労働時間で働かせるように強制することになろう。この立法は彼らを、規制的で節度のある労働時間で働かせるように強制することになろう。この立法は彼らの身体的な力の余力を節約させ、蓄積させるだろう。彼ら自身の福祉も国の福祉も、こうした人々の余力に大きく依存しているのである。この立法育ち盛りの世代が、幼少の時代から酷使されないように保護するだろう。酷使されると身体の素質が損なわれ、早くから衰弱してしまうのである。最後にこの立法は少なくとも13歳になるまでに初等教育をうける機会を与え、それによって彼らの信じがたいほどの無知が是正されることになるだろう。彼らの無知のひどさについては委員会の報告書にまざまざと描写されているが、これは深い悲痛の思いと国民的な屈辱感なしには直視できないほどのものである」。

トーリー党内閣は1867年2月5日の開院式の勅語で、産業委員会の提案を「法案」にしたことを告げた。これが法案になるまでは、それまでの20年にわたる〈価値なき身体〉の新たな実験が必要だったことになる。1840年にはすでに議会の児童労働調査のために委員会が任命されていた。N・W・シーニョアの言葉を借りると、1842年に提出されたこの委員会の報告書に描かれていたのは、「資本家と親たちの貪欲、利己心、残酷さをあばいた地獄絵であり、児童や青少年の悲惨、堕落、破壊を描いた地獄絵であり、これまで人々が目撃したもっとも恐ろしいありさまであった。…この報告書は過ぎ去った時代の惨状を描いたものだと思うかもしれない。しかしこの惨状が以前と変わらぬひどさでつづいていることを示すさまざまな弊害が、今なお(1863年のことだ)まったく改善されないままであることを明らかにしている。…この報告書が(1842年の報告書のことだ)、20年にわたって顧みられずに放置されていたあいだ、子供たちはわれわれが道徳と呼ぶものについても、学校教育や宗教や自然な家族愛についても、何も知ることなく育ってきたのであり、そしてその子供たちが今の世代において親になることを、われわれは許してきたのである」。

この20年のあいだに、社会的な状況は一変した。議会はもはや、1842年の要求を退けたようには、1863年の委員会を要求を退けることはできなかった。そこで委員会が報告書の一部を公表した1864年の時点で、すでに陶磁器産業(陶器を含む)、壁紙、マッチ、薬莢、信管製造業、ビロード剪毛業が、これまで繊維産業に適用されてきた法律のもとに置かれていた。1867年2月5日の開院式の勅語で、当時のトーリー党内閣は、1866年に任務を終えた委員会の最終報告に基づいて、さらに別の法案を作成した。

1867年8月5日には「拡大工場法」が、また8月21日には「作業規制法」が勅裁をえた。「拡大工場法」は大規模な事業分野を規制するものであり、「作業場規制法」は小規模な事業分野を規制するものである。

 

規制内容

工場法拡張法が規制するものは、溶鉱炉、製鉄所および製鋼所、鋳造工場、機械製造工場、金属加工工場、グッタペルカゴム工場、製紙工場、ガラス工場、煙草工場、さらに印刷工場および製本工場、また一般にこの種の工業作業場で年間に少なくとも100日間50人以上を使用するもののすべてである。

この法律のもとに包括される領域の広さを想像してもらうために、この法律で確定されたいくつかの定義をあげておこう。

「手工業とは(この法律では)なんらかの物品およびその一部の販売を目的とする製造、変改、装飾、修理、完成において、またそれに付随して、職業的に、または利得を目的として営まれるなんらかの手工業労働を意味するものとする。」

「作業場とは、児童、少年労働者または婦人によって『手工業』が行われるところの、また前記の児童、少年労働者または婦人を従業させるものがその出入および管理の権利を有するところの、屋内または屋外のなんらかの室または場所を意味するものとする。」

「従業とは、一人の親方または以次に規定される親の一人のもとで、賃金を受けると受けないとにかかわらず、ある『手工業』に従事することを意味するものとする。」

「親とは、父、母、後見人、その他ある…児童または少年労働者を後見または監督するものを意味するものとする。」

第7条、すなわち、この法律の諸規定に違反して児童、少年労働者および婦人を従業させたることにたいする者にたいする罰則は、親であるかどうかにかかわらず作業場所有者にたいしてだけではなく、

「児童、青少年労働者、女性労働者の保護者であるかまたその者の労働から直接の利益を受けるものである親またはその他のもの」

にたいしても、罰金を規定している。

大工場に適用される工場法拡張法は、多くのつまらない例外規定や資本家とのいくじしない妥協によって、工場法よりも後退している。

作業場規制法は、そのすべての細目においてみすぼらしいものだったが、その施行を委任された都市や地方の官庁の手のなかで、死文のようになっていた。1871年に議会がこの施行権をこれらの官庁から取り上げて工場監督官の手に管したときには、これによって彼らの監督区域内には作業場の数は一度に10万以上の作業場が増し、瓦工場だけでも300もふえたが、監督官についている職員は、すでにその前からもあまりにも手不足だったのに、慎重至極にもたった8人の補導員が増されただけだった。

要するに、この1867年のイギリスの立法で目につくことは、一面では、資本主義的搾取の行き過ぎにたいしてあのように異常な広範な処置を原則的に採用する必要が支配階級の議会に強制されたということであり、他面では、次いで現実にこの処置を行うにあたって議会が示した不徹底、不本意、不誠実な態度である。

「拡大工場法」が規制したのは、溶鉱炉、製鉄・製鋼所、鋳造工場、機械製造工場、金属加工工場、[ゴム状の樹脂である]グタペルカ工場、製紙工場、ガラス工場、煙草工場、印刷工場と製本工場、この種のすべての工業的な作業場で、1年間に100日以上にわたって、50人以上の従業員が雇用されている施設である。

この法律が適用される範囲の広さを理解できるように、この法律で定められたいくつかの定義をあげてみよう。

「手工業とは、何らかの物品およびその一部を、販売する目的で製造し、改造し、装飾し、修繕し、完成するために、またそれに附随して、職業としてあるいは利潤を目的として行われる何らかの手作業を意味するものとする」。

「作業場とは、そこで児童、青少年労働者、女性労働者が<手工業>を行う屋内または屋外の部屋あるいは場所であって、それらの児童、青少年労働者、女性労働者を従業させる者が出入りと監督の権利を有する部屋あるいは場所を意味するものとする」。

「従業とは、賃金の支払いをうけて、あるいはうけずに、一人の親方または以下で規定する両親のうちの一人のもとで<手工業>に従事することを意味するものとする」。

「親とは、父、母、後見人、そのほか、児童や青少年労働者を後見または監督する人物を意味するものとする」。

この法律の第7条は、この法律の規定に反して児童、青少年労働者、女性労働者を従業させた者への罰則であり、この罰則では、作業場の所有者に対して、それが親の一人であるかどうかを問わず、罰金を課すことを定めるだけでなく、「児童、青少年労働者、女性労働者の保護者であるか、またそれらの者の労働から直接に利益を受ける親またはその他の者」にも罰金を課すことを定めている。

大規模な施設を対象とした「拡大工場法」には、情けない例外規定が多数定められており、資本家との臆病な妥協の産物であるために、工場法よりも後退したものとなっている。

「作業場規制法」は、すべての細目においてお粗末なものであり、その実施を委ねられた都市や地方官庁によって、まったくの死文となっていった。1871年に議会は彼らから全権をとりあげ、工場視察官にそれを移管した。これによって工場視察官の担当する監督区域内の作業場の数は一挙に10万か所も増加し、瓦工場だけでも300か所が加わった。工場視察官の人数はそれまでもきわめて不足していたが、このときにも人員の増強はきわめて慎重なものであり、わずか8名の補佐が任命されただけである。

このように1871年のこのイギリスの立法で注目されるのは、まず支配階級である議会が、資本制的な搾取にたいして、これほど広範で異例な規制を採用することを、原則としてうけいれざるをえなかったという必然性である。第二は、この規制が実行に移された際にみられた不徹底さ、拒絶感、悪意である。

 

鉱山の規制

1862年の調査委員会はまた鉱山業の新たな規制も提案したが、この産業が他のすべての産業と違っている点は、この産業では土地所有者の利害と産業資本家の利害とが相伴うということである。かつて工場立法にとってはこの二つの利害の対立が好都合だった。今はこの対立がないということは、鉱山立法における遅延と術策とを説明するに足りるものである。

すでに1840年の調査委員会はあのように恐ろしいけしからぬ暴露をやって、全ヨーロッパの前でひどい騒ぎをひき起こしていたので、議会は1842年の鉱山法によって自分の良心を救わねばならなかったのであるが、この法律では女と10歳未満の子供との地下労働を禁止するだけにとどまった。

次いで1860年には鉱山監督法が現われた。それによれば、鉱山はとくにそのために任命された官吏の監督を受けなければならず、また10歳から12歳までの男児は、修学証明書を所持しているか、または一定時間通学している場合のほかは、使用されてはならない。この法律は、任命された監督官がおかしいほど少数だったということ、彼らの権限がひどく小さなものだったということ、また、そのうちにもっと詳しくわかるようなその他の諸原因のために、まったく一つの死文でしかなかった。

1862年の調査委員会はさらに、鉱山業にたいするあらたな規制も提案していた。鉱山業が他の産業と異なるのは、土地の所有者と産業資本家の利害が一致していることにある。[他の産業で]この両者の利害が対立していることが、工場立法に有利に働いてきた。この対立が存在しないために、鉱山法の立法活動が遅らされ、さかんに嫌がらせが行われたのである。

1840年に調査委員会が惨状を暴露したことで、世論のすさまじい憤慨が巻き起こり、スキャンダルとしてヨーロッパ全域に伝えられた。そこで議会は1842年に鉱山法を採択することで、みずからの良心を慰めねばならなかった。ただしこの鉱山法では、女性と10歳未満の児童を地下で働かせることを禁じているだけであった。

その後の1860年に鉱山視察法が制定された。この法律では視察の目的で任命された官吏が鉱山を視察することと、10歳から12歳までの男児は、修学証明書を所持しているか、一定の時間数だけ就学していなければ、働かせることはできないと定めていた。しかしこの法律はまったくの死文となっていた。任命された視察官の人数が笑止なほどに少なく、その権限がごくかぎられたものであっただけでなく、後にとりあげるさまざまな理由があったからである。

 

「青書」の証人尋問

鉱山に関する最新の青書は『鉱山特別委員会報告書。付…証言資料。1866年7月23日』である。これは下院議員から成っていて証人喚問の権限を与えられている一委員会の作品である。厚いフォリオ版の一冊であるが、そのなかに含まれている「報告」そのものはたった5行で、その内容は、委員会としてはなにも言うことはない、もっと多くの証人が喚問されなければならない!というのである。

証人尋問の仕方は、イギリスの法廷の反対尋問を思わせる。すなわち、イギリスの法廷では弁護人があつかましい、わかりなくい、こんがらがった質問で証人をあわてさせて、無理なことを言わせようとするのである。その弁護人がこの場合には議会の尋問委員自身で、その中には鉱山所有者も採掘業者もいるのである。証人は鉱山労働者で、多くは炭鉱労働者である。このまったくの茶番は、あまりにもよく資本の精神を特徴づけているので、ここでいくつかの抜き書き出さないわけにはいかないのである概観しやすいようにするために、調査結果などを項目別にしておく。イギリスの青書では質問と義務的答弁とには番号がついているということ、ここで引用する証言をした証人は炭鉱の労働者だということに注意しておきたい。

(1)鉱山での10歳以上の少年の従業。労働は、やむをえない鉱山への往復のほかに、通例14時間から15時間、例外的にはもっと長く、朝の3時、4時、5時から晩の4時、5時まで続く(第6、第452、第83号。)。成年労働者は2交替で、すなわち8時間ずつ労働するが、少年には、費用を節約するために、このような交替はない(第80、第203、第204号。)。幼い子供は、おもに鉱山のいろいろな区画の引き戸の開閉に使われ、いくらか年の多い子供は石炭運びなどの重労働に使われる(第122、第739、第740号。)。このような地下での長時間労働は18歳から22歳まで続き、その年ごろから本来の鉱山労働への移行が始まる(第161号。)。子供や少年はと未成年者は今日では以前のどの時代よりもひどくこき使われている(第1663〜第1667号)。鉱山労働者たちは、ほとんど一様に、14歳未満の鉱山労働を禁止する法律の制定を要望している。そこで、ハッシ・ヴィヴィアンは(彼自身が採鉱業者である)が次のように質問する。

「この要望は親の貧乏の程度によるのではないか?」次にブルース氏─「父親が死んだり、不具になったりしたとき、家庭からこの収入源を取り上げるのは、ひどくはないだろうか?それでも一般的な法規は適用されなければならない。きみたちは、どうしても14歳未満の子供の地下従業を禁止することを望むのか?」答え─「どうしても。」(第107〜110号。)

ヴィヴィアン─「14歳未満の労働が鉱山で禁止されば、親は子供を工場などやるのではないだろうか?─普通はそんなことはない。」(第174号)労働者─「戸の開閉はやさしそうに見える。それは非常に苦しい仕事である。絶えず戸を引くということは別としても、少年は閉じ込められていて、ちょうど地下牢にいるようなものだ。」ブルジョワ・ヴィヴィアン─「その少年は、もし明かりがあれば、戸の番をしながら本を読めるのではないか?─まず第一に、彼は自分でロウソクを買わなければならないだろう。それに、そんなことは許されもしないだろう。彼がそこにいるのは、自分の仕事を気をつけてやるためで、彼には果たさなければならない義務がある。坑内で少年が本を読んでいるのは見たことがない。」(第139、第141〜160号。)

(2)教育。鉱山労働者たちは、工場でと同じように子供たちの義務教育のための法律があることを要望している。彼らは、10〜12歳の少年を使用するには教育証明書が必要だという1860年の法律の条項はただの妄想だ、と言う。資本家的予審判事の「きびしい」尋問ぶりは、ここではまったく滑稽なものになる。

(第115号。)「法律がより多く必要なのは、雇い主にたいしてか親のほうにたいしてか?─どちらにたいしても。」(第116号。)「どちらか一方にたいして他方にたいしてよりもより多くか?─なんと答えたらよいか?」(第137号。)「労働時間を学校の授業に合わせるという要求のようなものを雇い主は示しているか?─けっして」(第211号。)「鉱山労働者たちの教育はあとでもっとよくなるのか?─一般に彼らは悪くなる。悪い習慣になじむ。酒やばくちのたぐいにふけって、まったく手がつけられなくなる。」(第454号。)「なぜ子供たちを夜学にやらないのか?─たいていの炭鉱地帯にはそんなものはない。だが、かんじんなことは、長い過度労働に疲れきっていて、子供たちの目があかないということだ。」「では」とこのブルジョワは結ぶ。「では、、きみたちは教育に反対なのか?─いや、けっして、だが、しかし、うんぬん。」(第443号。)「鉱山所有者たちは、10歳から12歳までの子供を雇うときには通学証明書を求めることを、1860年の法律によって強制されているのではないか?─法律ではそうだが、雇い主はそんなことはしない。」(第444号。)「きみたちの見るところでは、この法律条項は一般的には実行されていないのか?─全然実行されていない。」(第717号。)「鉱山労働者たちは教育問題には非常に関心をもっているか?─大多数は。」(第718号。)「彼らは法律の励行を切望しているか?─大多数は。」(第720号)「そんなら、なぜ法律の励行を強要しないのか?─通学証明書のない少年を雇わないことを望んでいる労働者もたくさんいるが、そう言えば注意人物になる。」(第721号。)「誰にマークされるのか?─自分の雇主に。」(第722号。)「でも、法律を守るからといって雇い主がその男を迫害するとは、きみたちも思わないだろう?─彼らはやるだろうと思う。」(第723号。)「なぜ労働者たちは、そんな少年を使うことを断らないのか?─それは彼らのかってにはならない。」(第1634号。)「きみたちは議会の干渉を望むのか?─もし鉱山労働者の子供の教育のために何か有効なことをしようとするなら、法律によって教育を強制的なものにするよりほかはない。」(第1636号。)「それは大ブリテンのすべての労働者の子供についてのことか、それとも炭鉱労働者だけのことか?─私は鉱山労働者として語るためにきているのだ。」(第1638号。)「なぜ鉱山の子供をほかの子供と区別するのか?─彼らは一つの例外だから。」(第1639号。)「どんな点で?─肉体の点で。」(第1640号。)「なぜ彼らにはほかの部類の子供たちにとってもより多くの教育がたいせつだというのか?─彼らにとってのほうがより多くたいせつだと言うのではない。だが、彼らのほうが、鉱山の過度な労働のために、昼間の学校や日曜学校で教育を受ける機会が少ないのだ。」(第1644号。)「この種の問題を無条件に論ずるのは不可能ではないだろうか?」(第1646号。)「こういう地方に学校は十分にあるのか?─いいえ。」(第1647号。)「もしも国が、どんな子供でも学校にやることを要求したとすれば、すべての子供を入れるための学校はいったいどこから出てくるのか?─そうさせるような事態になれば、学校はおのずからできてくるだろうと思う。子供だけでなく、大人の鉱山労働者も大部分は書くことも読むこともできない。」(第705、第726号。)

(3)女性労働。女性労働者は、1842年以後はもはや地下では使われないが、地上では石炭の積み込みなどや、運河や鉄道貨車まで炭車を引っ張って行くことや、石炭の選別などに使われる。その使用は最近3〜4年のあいだに非常に増えた。(第1727号。)それらはたいてい鉱山労働者の妻や娘や寡婦で、年は12歳から50歳、60歳に及ぶ。(第647、第1779、第1781号。)

(第648号。)「鉱山労働者たちは、鉱山での婦人の従業をどう考えているか?─一般に排斥している。」(第649号。)「なぜか?─彼らはそれを女性を堕落させるものと考えている。…彼女たちは男の服のようなものを着ている。羞恥心などはまったくなくしていることが多い。タバコを吸う女も多い。労働が不潔なのは、坑内の労働と同じである。なかには既婚の女で家庭の務めを果たせないものも多い。」(第651号以下、第701号。)(第709号。)「寡婦がこんなに収入の多い仕事(週に8〜10シリング)をよそで見つけることができるだろうか?─それはなんとも言えない。」(第710号。)「それなのに(冷血漢?)きみたちは彼女たちからこの暮らしの道をもぎ取るつもりなのか?─そのとおり。」(第1715号。)「どうしてそういう気持になるのか?─われわれ鉱山労働者は、女性を大いに尊敬しているので、彼女たちが炭杭に追いやられるのを見ていられないのだ。…この労働は大部分は非常に苦しいものだ。この娘たちの多くは1日に10トンを持ち上げている。」(第1732号。)「鉱山で働く婦人労働者は、工場で働くものよりも堕落していると思うか?─不良の割合は工場の娘の場合よりも大きい。」(第1733号。)「だが、きみたちは工場の道徳状態にも満足しているわけではないだろう?─そうだ。」(第1734号。)「それならば、工場の婦人労働も禁止したいと思うのか?─いや、そうは思わない。」(第1735号。)「なぜか?─工場労働のほうが女性にとって恥ずかしくないし、女性に適してもいるからだ。」(第1736号。)「それでも、工場労働は女性の道徳には有害だというわけか?─いや、鉱山労働に比べればずっと有害でない。それに、私は道徳上の理由からだけではなく、肉体的、社会的な理由からもそう言うのだ。娘たちの社会的堕落は悲惨であり、極端になっている。このような娘が鉱山労働者の妻になれば、夫たちはこの堕落のためにひどく苦しんで、家庭をよそにして酒に走ることになる。」(第1737号。)「だが、製鉄所で働く女性についても同じことが言えるのではないか?─ほかの事業部門のことはわからない。」(第1740号。)「では、製鉄所で働く女性と鉱山で働く女性とのあいだにはどんな違いがあるのか?─そういう問題は考えたことがない。」(第1741号。)「きみたちは一方の部類と他方の部類とのあいだになにか違いを見いだすことができるか?─それについてはなにも確かめたことはないが、家々を訪ねてみてわれわれの地方のひどい状況を知っている。」(第1750号。)「婦人労働が堕落の原因になるような場合には、きみたちは、どこでもそれを廃止することを大いに望んでいるのではないか?─そうだ。…子供の最良の感情は母の手による養育から生まれるよりほかはない。」(第1751号。)「それならば、農業に従事する女性の場合にもそう言えると思うが?─農事は2シーズンだけのことだが、われわれのところでは女が四季をつうじて働きとおし、しばしば昼夜にわたり、全身びしょぬれになって、からだはは弱くなり、健康はこわされる。」(第1753号。)「きみたちは問題(すなわち婦人労働者の問題)を一般的に研究したことがないのだろう?─自分のまわりを見渡してきたが、これだけのことは言える。炭坑の婦人労働に匹敵するようなものはどこにも見当たらなかった、と。(第1793、第1794、第1808号。)それは男の労働で、しかも強壮な男に向く労働だ。鉱山労働者のうちましなほうの部類、向上心があって人間らしくなろうとするものは、その妻に助けてもらうどころか、彼女たちによって下のほうに引っぱられるのだ。」

ブルジョワたちはあれこれと質問を続け、それからやっと寡婦や貧しい家庭などにたいする彼らの「同情」の秘密が明らかになる。

「炭鉱主たちは何人かの紳士を監督に任命し、この紳士たちは、気に入られようとして、万事をできるだけ経済的な土台の上にのせる方針を採っているので、使われる娘たちは1日に、もし男ならば2シリング6ペンスもらうはずの場合でも、1シリングから1シリング6ペンスをもらうのである。」(第1816号。)

(4)検屍陪審。

(第360号。)「きみたちの地方での検屍について聞きたいのだが、災害が起きたとき、労働者たちは裁判手続きに満足しているだろうか?─いや、満足してはいない。」(第361〜375号。)「なぜ満足しないのか?─特に、鉱山のことはまったく知らない人々が陪審員にされるからである。労働者は、証人としてしかのへほかは、けっして呼ばれない。だいたい近所の小売商人が採用されるが、彼らは自分の顧客である鉱山主の勢力下にあるうえに、証人の使う専門用語が全然わからない。われわれは鉱山労働者が陪審の一部分を構成することを要望する。判決は概して証言とは矛盾している。」(第378号。)「では陪審員は公平ではないというのか?─そうだ。」(第379号)「労働者ならば公平だろうか?─労働者が公平でありえないという動機は認められない。彼らは専門の知識をもっている。」(第380号。)「だが、彼らには、労働者の利益を考えて不当にきびしい判決を下す傾向はないだろうか?─いや、そうは思わない。」

(5)不正な度量衡。労働者たちは、2週ごとでなく1週ごとの支払、運炭ソ槽の容積によらないで重量による計量、不正な度量衡の使用の防止などを要望する。

(第1071号。)「もし炭槽が不正に大きくされたならば、労働者は2週間の予告期間をおいてその鉱山をやめることができるだろう?─だが、よそに行っても、同じことだ。」(第1072号。)「それでも、不正が行われている所からは去ることができるだろう?─不正は一般に行われている。」(第1073号)「しかし、労働者は、行くさきざきの所から、2週間の予告期間をおいて、去ることができるのだろう?─そうだ。」

これでこの問題はおしまい!

(6)鉱山監督。労働者の爆発性のガスによる災害に苦しむだけではない。

(第234号以下)「炭坑内のほとんど呼吸もできないような悪い換気についても、われわれは訴えなければならない。そのために労働者はどんな種類の仕事もできなくなる。たとえば、私の働いている採掘箇所では、ちょうど今、毒気のために多くの人々が何週間も病床に投げ込まれている。主要坑道はたいてい通風は十分だが、ちょうどわれわれの働いている場所がそうでないのだ。だれかが換気について監督官に苦情を言ってやれば、その男は解雇され、『注意』人物になって、よそでも仕事は見つけられなくなる。1860年の『鉱山監督法』は、ほんとうに紙くずでしかない。監督官は、その数が少なすぎるが、おそらく7年に1度形式的な巡察をするだけだろう。われわれの監督官は、まったく無能な70歳の老人だが、その人が130以上の炭杭を管轄している。もっと多くの監督官のほかに、補助監督官も必要だと思う。」(第280号。)「では、労働者自身からの情報もなしにきみたちの望むことはなんでもやれるような大ぜいの監督官を政府は置かなければならないのか?─それは不可能だが、彼らは鉱山の情報をみずから進んで求めるべきだ。」(第285号。)「その結果は、換気などについての責任(!)を鉱山所有者から政府の役人に転嫁することになるとは思わないか?─けっして。現行の法律を守ることを強制するのは、役人の仕事でなければならない。」(第294号。)「きみたちが補助監督官と言うのは、いまの監督官よりも俸給の少ないもっと下級の人々のことか?─もっとよい人が得られるなら、けっして下級の人を望むわけではない。」(第295号。)「きみたちが求めているのは、もっと多くの監督官なのか、それとも監督官よりも下級の人々なのか?─われわれに必要なのは、自身で鉱山を駆け回る人々、一身のことにくよくよしない人々である。」(第297号。)「諸君の希望どおりに監督官をもっと下級の人々で補充すれば、彼らの熟練の不足のために危険が生ずるのではないだろうか?─いや、適当な人物を任命するのが政府の仕事だ。」

この種の尋問は、ついに調査委員長にとってさえあまりにもばかばかしくなってくる。そこで彼がなかにはいる。

「きみたちが求めているのは、自身で鉱山を見回って監督官に報告する実務的な人々で、そうなれば監督官も自分のいっそう高い学識を用いることができるわけだ。」(第531号。)「このような古い坑の全部の換気装置には、かなりの費用がかかるのではないか?─そうだ、入費はかさむかもしれないが、人命が保障されるだろう。」

(第581号。)ある鉱山労働者は1860年の法律の第17条に抗議して言う。

「現在では、鉱山のある部分が就業不可能な状態にあるのを鉱山監督官が発見すれば、彼はそれを鉱山所有者と内務大臣とに報告しなければならない。鉱山所有者にはそれから20日間の猶予期間がある。20日後に彼はいっさいの変更を拒否することができる。ただし、拒否する場合には、彼は内務大臣に書面を出して、5人の鉱山技師を推薦しなければならない。そしてそのなかから大臣は裁定人を選ばなければならない。われわれは、この場合実質的には鉱山所有者は自分自身の審判者を任命することになる、と主張するのである。」

(第586号。)彼自身鉱山所有者であるブルジョワ尋問委員は言う。

「これはまったく思惑的な抗議だ。」(第588号。)「すると、きみたちは鉱山技師の誠実さをほんのわずかしか認めないわけか?─このやり方が非常に不当で不公平だというのだ。」(第589号。)「鉱山技師は一種の公的な性格をもっていて、そのために彼らの決定はきみたちの懸念するような不公平なものにはならないのではないか?─これらの人々の個人的な性格に関する質問に答えることは、お断りしたい。彼らが多くの場合非常に不公平な態度をとるということ、そして人命にかかわるような場合には彼らからこの権力を取り上げるべきだということを、私は確信する。」

同じブルジョワはあつかましくも質問する。

「もし爆発すれば鉱山所有者も損をするのだと思わないか?」。

最後に(第1042号)次のような問答がある。

「きみたち労働者は、政府の援助を求めないで、自分の利害に自分で注意していることはできないのか?─できない。」

鉱山に関する最新の「青書」は『鉱山特別委員会報告書ならびにその議事録、証言、付属文書。1866年7月23日、下院の命により印刷』である。これは下院議員で構成される委員会が作成したもので、この委員会は証人を喚問し、証言させる権限をそなえていた。分厚いフォリオ版であるが、その報告そのものはわずか5行にすぎず、報告の内容は委員会としてはまだ結論がでておらず、さらに多数の証人を喚問しなければならないというだけである!

この委員会での証人の尋問のやり方は、イギリスの法廷での反対尋問を想いださせる。イギリスの法廷では、弁護士は証人の反対・妨害尋問において、相手を混乱させるような恥ずべき質問をすることで、証人を動揺させて、証言を歪めようとする。この委員会で議会の尋問官が法廷の弁護士の役をつとめた(その中には鉱山主や採掘業者も含まれる)。証人の役割をはたしたのは鉱山労働者であり、しかも多くは炭鉱労働者である。

この尋問はまったくの茶番であるが、資本の精神の特徴をあからさまに示しているので、いくつか引用しよう。見通しをよくするために、タイトルをつけて調査結果などを示すことにする。イギリスの「青書」では質問と義務づけられた回答に番号が振られていること、ここで引用した回答は炭鉱の労働者によるものであることに留意されたい。

(1)10歳以上の子供の炭鉱での雇用

子供たちは鉱山への往復に必要不可欠な時間のほかに、早朝の3時、4時、5時から、夕方の4時あるいは5時まで、原則として14時間から15時間にわたって働かされるが、例外的な場合にはさらに長時間働くこともある。成人労働者は2交替で、8時間ずつ働く。しかし子供には費用の節約のためにこうした交替は止められていない。年少の児童は主に、鉱山のさまざまな区画の通気ドアの開閉に従事し、年長の子供は石炭運びなどの辛い仕事に従事している。こうした地下での長時間の労働は、18歳から22歳になるまでつづけられ、その年齢にほんらいの鉱山労働に従事するようになる。現在では児童と未成年者は、過去のどのような時期よりも厳しい労働を課せられている。

鉱山労働者は誰もが、14歳未満の児童の鉱山での労働を禁止する議会条例の制定を要求している。そこで[尋問官の]ハッシー・ヴィヴィアンは(彼は採鉱業者である)こう質問する。「その要求は、両親がどれほど貧乏であるかによるのではないか」。次に[尋問官の]ブルース氏はこう質問する。「父親が亡くなっていたり、手足が不自由になっていたりする場合には、家族から子供の収入を奪うのは、酷ではないか。しかし一般的な規則となれば遵守しなければならない。諸君はどんな場合にも、14歳未満の児童の地下での労働を禁止することを望むのか」。これにたいする答えは「どんな場合でもです」。

ヴィヴィアンは尋ねる「14歳未満の児童の鉱山での労働が禁止されると、両親は子供を工場などに送りだすのではないか」。「原則として、そのようなことはありません」。労働者「ドアを開け閉めするのは簡単そうにみえます。でも実はとても辛い作業なのです。たえず隙間風が吹き込むだけでなく、児童は真っ暗な地下牢に閉じ込められたようなものですから」。ブルジョワのヴィヴィアン「明かりがあればドアの番をしてあいだに本を読めるのではないか」。「本を読むにはロウソクを買わなければならないでしょうし、そもそもそんなことは許されていません。子供は自分の仕事に注意を払うためにそこにいるのであって、義務を満たさねばならないのです。坑内で本を読んでいる子供など、みたことがありません」。

(2)教育

鉱山労働者は、工場と同じように児童に義務教育を授けることを要求している。1860年の法律の規定では、10歳から12歳の児童を雇用する場合には就学証明書が必要であると定めている。しかしこの規定はまったく骨抜きになっているという。資本家たちの予審判事たちの「答えにくい」尋問は、ここではなんとも滑稽なものになっている。

「その法律で規制する必要があるのは、雇用主か、それとも親か」「その両方です」。「雇用主か親か、そのどちらかをとくに規制する必要があるのではないか」「どうお答えすればよいのですか?」。「雇用主から、労働時間を学校の時間に合わせて調整することを求められることがあるか」「まったくありません」。「鉱山労働者の教育水準が後になってから高くなることはあるか」「一般に教育水準は低くなります。悪い習慣がつき、酒や賭博などに熱中し、まったく手がつけられなくなります」。「なぜ児童を夜間学校にやらないのか」「ほとんどの炭鉱地帯にはそのような学校はありません。そもそも長い超過労働のために疲れはてて、目を開いていられないほどなのです」。そこでこのブルジョワは結論する。「ということは、諸君は教育には反対だということだね」「とんでもない、でも…」。「鉱山主たちは1860年の法律によって、10歳から12歳の児童を雇用する際には、就学証明書を要求するように義務づけられているのではないか」「法律ではそう定められていますが、雇用主はそんなことはしません」。「諸君の意見では、法律のこの条項は一般に実行されていないということか」「まったく実行されていません」。「鉱山労働者は教育の問題に関心をもっているか」「多くは」。「鉱山労働者は法律が実行されることを望んでいるのか」「多くは」。「それではなぜ法律の実行を迫らないのか」「多くの労働者は就学証明書のない児童が働けないようにすることを望んでいますが、そんなことをいうと、目をつけられてしまいます」。「誰に目をつけられるのか」「雇用主にです」。「しかし諸君は、ある人が法理に忠実だからといって、雇用主がその人を迫害するなどとは思わないだろう」「迫害すると思います」。「労働者はなぜこうした児童を雇用することを拒まないのか」「それは労働者の選択に委ねられていません」。「諸君は議会の介入を望むか」「鉱夫の子供たちを教育するために何か有効なことをするには、議会条例で強制的にやるしかありません」。「グレート・ブリテンのすべての労働者を対象とすべきか、それとも炭鉱労働者だけにか」「わたしは炭鉱労働者の名において証言するために、ここに来ているのです」。「鉱山の子供たちをなぜ他の子供たちと違う扱いにするのか」「鉱山の子供たちは例外的な子供たちだからです」。「どんな点で例外的なのか」「身体の点においてです」。「鉱山の子供たちの教育はなぜ他の階級の子供たちの教育よりも重要なのか」「鉱山の子供たちの教育がより重要だとは言っていません。ただ鉱山では超過労働のために、ふつうの学校や日曜学校で教育をうける機会が少なくなっているのです」。「この種の問題を絶対的な形で論じることはできないのではないでしょうか」。「地区には十分な数の学校があるか」「ありません」。「国がすべての子供を通学させるように命じたらば、すべての子供たちを通わせる学校をどこから調達するのか」「それが必要になれば、学校はおのずとできるはずです」。「子供の大多数だけでなく、成人の鉱山労働者の大多数も、読み書きができません」。

(3)女性労働

女性労働者は、1842年からは地下での労働に雇用されることはなくなった。しかし地上では、石炭などの積み込み、運搬用の桶を運河や鉄道貨車まで引っ張って運ぶ作業、選炭の作業などに使われている。この3、4年に女性労働者の利用が大幅に増加した。12歳から50歳、60歳までの女性が働いており、多くは鉱山労働者の妻、娘、寡婦たちである。

「鉱山労働者は、女性が鉱山労働者に雇われていることをどう考えているか」「とても嫌っています」。「なぜか」「女性にたいする侮辱だと考えるからです。…女性のような服装をしています。多くの場合、羞恥心というものがまったく失われます。多くの女性が喫煙します。彼女たちの仕事は、坑内の仕事と同じように汚い仕事です。家庭をもっている女性が多いのに、家庭での義務を果たすことができなくなります」。「寡婦たちはほかの場所でこれほどの高給(週に8シリングから10シリングである)の仕事をみつけられるか」「それはわたしには分かりません」。「それでもなお、彼女たちから生計の手立てを奪おうというのか」「そのとおりです」。「そんな気持ちはどこから生まれるのか」「わたしたち鉱山労働者は美しき性である女性に敬意を払っているのです。女性が炭杭に追いやられるのは忍びないのです。…これらの仕事の多くはとても辛い仕事です。娘たちが、1日に10トンもの重さのものを持ち上げているのです」。

「諸君は、鉱山で雇われている女性労働者は、工場で雇われている女性労働者よりも、不道徳だと思うか」「工場の女性たちよりも道徳的に堕落した女性の比率は高いでしょう」。「しかし諸君は工場の道徳水準にも満足していないだろう」「していません」。「それでは諸君は工場の道徳水準にも満足していないだろう」「していません」。「それでは工場でも女性の労働を禁止することを望んでいるのか」「いいえ、そんなつもりはありません」。「どうしてかね」「工場労働者のほうが女性にとって見栄えがよく、まともだからです」。「それでも工場労働者は女性の道徳に有害だと考えるのか」「鉱山での仕事にくらべればはるかにましです。わたしは道徳的な理由からだけではなく、身体的および社会的な理由からも反対しているのです。娘たちの社会的な堕落は悲惨で極端なものです。こうした娘たちが鉱山労働者の妻になれば、夫たちは妻のこうした堕落に苦しめられ、家から逃げだして酒に走ることになります」。「しかし製鉄所で雇われている女性にも同じようなことが起こるのではないか」「ほかの産業分野のことは知りません」。「しかし製鉄所で雇われている女性と鉱山で雇われている女性にはどのような違いがあるのか」「そんなことは考えたことがありません」。「両方の女性たちの違いがあるのか」「そんなことは考えことがありません」。「両方の女性たちの違いを何かみつけられないのか」「それについては確かめたわけではないのですが、家庭を訪問してみると、わたしたちの地区の状況がひどいことは分かります」。「諸君は、女性労働が堕落の原因となるすべての分野で、女性労働をやめさせたいと考えているのではないか」「そうです。子供たちの情緒が優れたものとなるためには、母親による養育が必要なはずです」。「しかしそれは農業での女性の雇用にもあてはまるのではないか」「農業では女性の労働は2シーズンだけですが、わたしたちのところでは1年をつうじて働きつづけ、しかも昼も夜も働くことも多いのです。肌までびしょぬれで、体質は弱くなり、健康がむしばまれます」。「諸君はこの問題(女性の雇用問題である)を一般的に研究してきたわけではないのだろう」「周囲は見回してきただけですが、次のことははっきりしています。鉱山での女性の労働に比べられるようなものは、どこにもみつかりませんでした。これは男性のための仕事、しかも強壮な男性のための仕事です。女性の稼ぎをあてにせずに、みずからを高め、人間性を高めようとしている比較的優良な鉱山労働者は、労働する妻によって貶められるでしょう」。

ブルジョワたちが反対尋問をつづけていくと、彼らの寡婦を貧しい家庭にたいする「同情」の秘密が明らかになる。

「炭鉱主は、数人の紳士を監督に任命しますが、監督は炭鉱主に気に入られたくて、何でもできるかぎり経済的な土台に立脚させようとするのです。そこで男性は1日に2シリング6ペンスの賃金をうけとるのに、雇用されている娘たちは1日1シリングから1シリング6ペンスしかうけとれないのです」。

(4)検死陪審員

「諸君の地域での検死について質問するが、労働者は事故が発生したときの裁判手続きに満足しているか」「満足していません」。「なぜ満足していないのか」「鉱山のことをまったく知らない人々を陪審員にするからです。労働者は証人としてしか呼ばれません。多くの場合、近くの小売店の店主が陪審員になりますが、鉱山主が顧客なので、鉱山主の影響下にあるのです。そして証人がつかう専門用語すら理解していないような人々です。わたしたちは鉱山労働者が陪審員の一部に含められることを要求します。概して証言と矛盾した判決が下されています」。「陪審員は公平ではないということか」「そうです」。「労働者は公平だろうか」「労働者には、不公平になるべき理由がありません。それに彼らには専門的な知識があります」。「しかし労働者たちは、自分たちの利益のために厳しい判決を下す傾向はないか」「ないと思います」。

(5)不正な度量衡など。

労働者が要求しているのは、2週間ごとに賃金が支払われるのではなく、毎週賃金が支払われること、運搬桶の計量尺度を容積ではなく、重量にすることを、不正な度量衡の使用を禁止することなどである。

「運搬桶が不正に大きくされたならば、2週間の通告でその鉱山の仕事をやめることができるだろう」「でも別の鉱山に行っても、どこでも同じことが起きます」。「しかし不正が行われている鉱山の仕事はやめられるだろう」「どこでもやっていることなのです」。「しかしどこでも2週間の通告で、仕事をやめることはできるだろう」「はい」。

これでこの問題はおしまいというわけだ。

(6)鉱山の視察

労働者の爆発性のガスによる事故に苦しめられているだけではない。

「鉱山では換気が十分に行われず、ほとんど呼吸もできないことに、苦情を述べざるをえません。そのためにどんな仕事もできなくなってしまいます。たとえばわたしが働いている採掘場所では、有害な大気のために人々が何週間も病床についています。主要な坑道は十分に通気されていることが多いのですが、わたしたちが今働いている坑道には通気がないのです。視察官に換気についての苦情を送ると、解雇されて〈注意人物〉とみなされ、どこでも働けなくなります。1860年の鉱山視察法はまったくの死文です。視察官の人数が少なすぎて、7年に1度くらい、ごく形式的に視察するだけです。わたしたちの地区の視察官は70歳の無能な人物ですが、その人物が130以上の炭杭を監視しているのです。視察官を増やす必要がありますし、視察官補佐も必要です」。「それでは政府は、諸君が要求するすべてのことを、労働者からの情報なしでも実行できるような多数の視察官グループを組織すべきだというのか」「それは不可能ですが、視察官はみずから炭坑に情報をとりにくるべきです」。「諸君は、それによって換気などの責任(!)を鉱山主から政府の役人に転嫁する結果になるとは思わないか」「まったく思いません。既存の法律を遵守するように強制するのは、政府の役人の仕事であるはずです」。「諸君は視察官補佐が必要だと言うが、それは現在の視察官よりも給料も水準も低い人ということか」「もっと優れた人物が来てくれるならば、水準の低い人物を望んだりしません」。「視察官の人数を増すことを望んでいるのか、もっと低いランクの人を望んでいるのか」「わたしたちが必要としているのは、自分で炭坑を駆け回り、身体が汚れるのを嫌がらない人々です」。「諸君の要望にしたがってランクの低い人物を採用すると、彼らの未熟さのために危険が生じることはないか」「いいえ、適切な人間を雇用するのは政府の仕事です。」

こうした吟味はやがては調査員会の委員長にも愚かしいものと思えてくる。そこで口をはさむ。「諸君が望んでいるのは、自分で炭坑を見回り、視察官に報告するような実務的な人々だ。報告があれば視察官は優れた学識を発揮できるというわけだ」。「これらの古い炭坑のすべてを換気すると、高い費用がかかるのではないか」「はい、費用は高くなるかもしれません。しかし人間の生命が保護されます」。

ある鉱山労働者が1860年の法律の第17条に抗議している。「現在の法律では、鉱山の一部が操業不可能であることを鉱山視察官が発見した場合には、それを鉱山主と内務大臣に報告しなければなりません。鉱山主にはその後20日間の猶予期間が与えられます。そして20日間の猶予期間が終わると、鉱山主はどんな変更も拒否できるのです。ただし拒否する場合には、鉱山主は書類を提出し、5名の鉱山技師の名前を大臣に提案しなければなりません。大臣はその5名の鉱山技師のうちの1人を選任しなければなりません。これでは鉱山主は実際には、自分で自分の裁判官を任命しているのと同じであるというのがわたしたちの主張です」。

みずから鉱山主であるブルジョワ尋問官は「それはまったくの憶測に基づく異議だ」と主張する。「諸君は鉱山技師の誠実さをまったく信用していないのか」「そのやり方が全く不適切で不公平だと主張しているのです」。「鉱山技師は公的な性格の人々だから、諸君が恐れているような偏った決定を下すことはないのではないか」「これらの人々の個人的な性格にいての質問にはお答えできません。わたしは、彼らが多くの場合、非常に偏った行動をすること、人間の生命がかかっているところでは、こうした権限を彼らからとりあげることを確信しているのです」。

この同じブルジョワが、恥ずかしげもなく質問する。「諸君は、爆発が起これば鉱山主も損失をこうむるとは考えていないのか」。

最後の質問。「諸君は政府の援助を求めずに、自分たちの利益を守ることはできないのか」「できません」。

 

視察官の不足

1865年には大ブリテンに3217の炭鉱があり、そして─監督官は12人だった。ヨークシャのある鉱山所有者が(『タイムズ』、1867年1月26日)自分で計算したところでは、監督官たちの時間を全部吸収してしまう純官庁的な仕事は別として、各鉱山の視察は10年に1回しか行われえないことになる。近年(ことに1866年と1867年)は大災害が件数でも規模でも(しばしば200〜300人の労働者を犠牲にして)累進的に増大してきたのも、驚くにあたらない。これが、「自由な」資本主義的生産の美点なのだ!

とにかく、1872年の法律は、欠点だらけのものではあっても、鉱山で従業する児童の労働時間を規制し、また採鉱業者と鉱山所有者とにある程度までいわゆる災害の責任を負わせる最初の法律である。

1865年にはグレート・ブリテンには3217か所の炭鉱があり、視察官は12名だけだった。ヨークシャーのある鉱山主がみずから計算したところでは(1867年1月26日付の『タイムズ』紙による)、視察官はまったくのお役所仕事に時間をとられていることもあって、それぞれの鉱山は10年に1度しか視察できないという。近年(1866年と1867年)になって、鉱山の大事故がその件数からみても規模からみても(場合によっては200人から300人の労働者が犠牲になっている)、次第に増加しているのは驚くべきことではないのである。これが「自由な」資本制的な生産の美点なのだ。

とはいえ1872年の法律がどれほど欠陥の多いものだったにせよ。鉱山で雇用される児童の労働時間を初めて規制し、いわゆる<事故>が発生した際には、採鉱業者と鉱山主にある程度の責任を負わせた初の法律だった。

 

工場立法の一般化の帰結

農業における児童、少年、婦人の従業状態を調査するための1867年の勅命委員会は、いくつかの非常に重要な報告を公表してきた。工場法の諸々則を、修正された形で、農業に適用しようするいろいろな試みがなされてきたが、今までのところ、それらはすべて完全に失敗に終わった。しかし、ここで注意を促しておきたいのは、このような諸原則を一般的に適用しようとする逆らうことのできない傾向は存続しているということである。

労働者階級の肉体的精神的保護手段として工場立法の一般化が不可避になってきたとすれば、それはまた他方では、すでに示唆したように、矮小規模の分散的な労働過程から大きな社会的規模の結合された労働過程への転化を、したがって資本の集積と工場制度の単独支配とを、一般化し促進する。工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的におおい隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに直接のむき出しの支配をもってくる。したがって、それはこの支配にたいする直接の闘争をも一般化する。それは、個々の作業場では均質性、合則性、秩序、節度を強要するが、他方では、労働日の制限と規則とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。それは、小経営や家内労働の諸領域を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがってまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。

工場法が社会変革にとって決定的な重要性をもっていることはすでに第8章で見たとおりですが、ここでは本章の議論をふまえて、さらに工場法の意義が全面的に展開されています。すでにみたように、工場法が一般化すると、資本は労働日の延長に頼ることができなくなるので、よりいっそうの社会的生産力の発展とそれによる労働の強化を追求します。また、前近代的生産様式は淘汰され、「資本の直接のむき出しの支配」が現われてきます。資本の外部にあった前近代的社会関係という「安全弁」がなくなり、これまでにみてきたような資本主義的生産の矛盾が露骨に現れてくるようになります。こうして、より高度な社会形態を可能にするような社会的生産力が発展し、労働者たちが社会的に結合していくための条件が生まれるとともに、資本主義的生産の矛盾が激化することにより、それにたいする人々の敵対が生まれてきます。こうして、工場法は、「新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機と成熟させる」のです。

この工場法の例に示されているように、どんな改良的施策であれ、資本主義的生産様式それじたいの矛盾を解消することはできません。第2次世界大戦後のヨーロッパの福祉国家とその後の反動が示しているように、改良的施策により矛盾を緩和することをつうじて資本主義ないし商品経済が浸透していった結果、資本の矛盾が露骨に現れてくるようになることさえあります。しかし、やはりそれは、一方では、社会的生産力の発展をより「合理化」し、他方では、労働者階級の社会的結合、すなわちアソシエーションの可能性を生み出し、より高度な社会のための重要な成熟させていくという意味で重要な意味をもっているのです。

ここでもう一点、重要なのは、変革の拠点を工場システムにみていたオーウェンを高く評価していることから見て取れるように、社会変革の契機として社会的生産力の発展をマルクスが重視していたということです。マルクスが重視していたということです。マルクスは法律や制度によって社会を変えることができるという「法学幻想」を『資本論』のなかで繰り返し批判し、生産関係の変革の重要性の重要性を強調していますが、だからといって一部の「アソシエーション」主義者たちが抱いているような協同組合などの「孤立的な変革要素」にたいする幻想は微塵ももっていませんでした。もちろん、マルクスはその意義を全面否定するわけではありませんが、新たな社会の拠点は資本主義的生産様式のもとで社会化され、結合された多数の生産者たちの取り組みにあると考えられたのです。じっさい、歴史はマルクスが予見した通りとなり、企業を横断して組織された産業別労働組合や一般的労働組合が社会を改良する大きな力となりました。現代では、情報テクノロジーの発展をつうじて、マルクスが目撃した工場システムとは異なるタイプの社会的生産力も形成されつつあり、このような社会的生産力の発展からどのような変革の契機をつかみ出すかが理論的にも実践的にも重要な課題となるでしょう。

農業における児童、未成年、女性の雇用を調整するために設立された1867年の王室委員会は、いくつかのきわめて重要な報告書を発表した。これまで、工場法の原則に修正を加えた上で農業分野にも適用しようするさまざまな試みが行われてきたが、まったくの失敗に終わっている。しかしここで留意する必要があるのは、これらの原則を一般的に適用しようとする抵抗しがたい傾向が存在しているという事実である。

労働者階級の身体的および精神的な保護の手段として、工場立法の一般化が避けがたいものとなる。すでに述べたように他方ではこれは、分散された小規模な労働過程が、大きな社会的な規模で結合された労働過程に変わっていく過程を普遍的なものとし、促進することになる。それによって資本の集中と工場体制の独裁が普遍的なものとなり、促進されるのである。この工場立法の一般化のプロセスは、資本の支配がまだ部分的に隠されていたすべての古い形態と過渡的な形態を破壊し、その代わりに直接的で隠れることのない資本の支配を確立する。そこで資本の支配にたいする直接の闘争も普遍的なものになるのである。工場立法が一般化されると、個々の作業場における均質性、規則性、秩序、経済性が強制されるが、その一方では労働日の制限と規則を技術によって克服しようとする巨大な刺激をもたらすとともに、全体としての資本制的な生産の無秩序と災厄を深刻なものとする。そして労働の強度は高まり、機械と労働者のあいだの競争が激化することになる。

これによって小規模経営と家内労働の領域が破壊され、「過剰人口」の最後のはけ口が失われ、それまで社会的なメカニズムの全体にそなわっていた安全弁が破壊される。それは生産過程の物質的な条件と社会的な結合を成熟させ、それとともに生産過程の資本制的な形態のうちに孕まれていた矛盾と敵対関係を成熟させる。このプロセスは新しい社会の形成要因と、古い社会の変革要因の両方を同時に成熟させるのである。

 

 

第10章 大工業と農業

大工業がもたらした農業の変革

大工業が農業とその生産当事者たちの社会的諸関係とに引き起こす革命は、もっとあとでなければ述べられないことである。ここでは、いくつかの予想される結果を簡単に示唆しておくだけで十分である。農業での機械の使用は、それが工場労働者に与えるような肉体的な損害をもたらすおそれはむほとんどないが、あとで詳しく見るように、それは農業では労働者の「過剰化」にいっそう強く作用し、また反撃を受けることなく作用する。たとえばケンブリッジ州やサフォーク州では、耕地面積は最近20年来非常に拡張されてきたが、農村人口は同じ期間に単に相対的にではなく絶対的にも減少した。北アメリカ合衆国では農業機械はしばらくはただ可能的に労働者にとって代わっただけだった。すなわち、農業機械は生産者により大きな地面の耕作を許すが、現実に従業労働者を駆逐してはいないのである。イングランドとウェールズでは1861年には農業機械の製造に従事していた人員の数は1034だったが、蒸気機関や作業機を用いて従業していた農業労働者の数はわずかに1205だった。

農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替えるかぎりで、最も革命的な作用する。こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。旧習になずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術的応用が現われる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的につくりあげられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。資本主義的生産、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地のあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的な自然条件を、攪乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現われ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現われる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と持病化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけではなく、と同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。

第2節でもみたように、資本による生産方法の変革は労働者だけではなく、自然環境にたいしても大きな影響を与えます。

資本は、賃労働の再生産を顧慮することなく、労働日を延長しようとするように、自然の再生産を顧慮することなく、自然力を使い尽くそうとします。というのも、資本は、過剰労働による労働者の寿命の短縮にコストを払う必要がないように、自然の利用による環境破壊にたいしてコストを払う必要がないからです。資本にとって自然は、労働力と同じように、価値増殖の手段であるにすぎません。それゆえ、人間と自然とのあいだの物質代謝が攪乱されてしまうのです。たとえば、資本が農業を営む場合、ある一定期間のあいだだけ生産力を上げ、剰余価値を獲得することだけが重要であり、長期的に人間と自然との物質代謝をどのように維持していくかということには関心をもちません。その結果、物質代謝を考慮しない酷使により、土地は疲弊してしまい、肥沃度を持続的に維持することができなくなってしまいます。

第5章でみたように、ほんらい労働とは人間と自然との物質代謝を媒介し、規制し、制御する行為であるはずでした。ところが、資本主義的生産においては、この物質代謝を制御するはずの労働が、賃労働という特殊な形態をとり、資本の価値増殖を目的として行われるために、逆に持続可能な物質代謝を攪乱してしまうのです。

このような資本主義的生産の傾向はやがて自然力や労働力を使い潰し、資本どころか、人間自身の存在すらも脅かすことになるでしょう。にもかかわらず、労働日の場合とまったく同じように、絶えざる競争にさらされている資本家たちは、この環境破壊を自分たちの手では止めることができないのです。

資本は生産方法を変革することをつうじて、資本にとってふさわしい生産手段として自動機械体系を作り出し、他方で資本にとって都合のよい従属的な賃金労働者をうみだしました。資本は生産過程を自分に適合するように作り替えたのです。ところが、資本はまさにこのような試みにおいて深刻な困難に直面します。資本による剰余価値生産だけを目的にした生産力上昇は、人間と自然との物質代謝を撹乱し、資本主義社会、ひいては人類の存在すら脅かすようになります。資本は自分に似せて世界を作り替えることによって危機に陥るのです。

このように考えると、資本主義による生産力の発展はあるところにまで達すると限界にぶつかることがわかります。マルクスが言うように、労働が人間と自然の物質代謝を媒介する行為だとすれば、ほんらい生産力とは人間と自然との物質代謝を規制する能力のことにほかなりません。それは、けっして生産テクノロジーが発展したとしても、それが現在の人間と自然との物質代謝を攪乱しているのだとしたら、生産力の発展とは言えないでしょう。

したがって、マルクスは価値増殖を最優先する資本主義的生産関係のもとでは、人間と自然との持続可能な物質代謝を可能にする合理的な生産力を実現することができないということを問題としたのです。だからこそ、資本主義は変革されなければならないし、むしろ、変革されなければ自然も人間も破壊されてしまい、生きていくことはできないという意味で、人間たちはその変革を強制される。これがマルクスにとっても根本的に変革の根拠だったのです。ここで二つ目に掲げた『資本論』第3巻の草稿の一節において、マルクスが未来社会の展望を、たんにアソーシエイトした諸個人が労働配分や生産物分配のあり方を社会的に規制することにではなく、「アソーシエイトした人間たちが…物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的な制御のもとにおくということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしくもっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝をおこなうということ」に求めている理由も、以上から容易に理解できるでしょう。 

大工業が農業とその生産者の社会的な関係に引き起こす革命的な変化については、後に記述する。ここでごく簡単に、いくつかの結論を先取りして述べるにとどめよう。農業における機械の利用は、工場労働者に発生するような身体的な危険性は伴わないが、いずれさらに詳細に検討するように、労働者の「余剰化」をさらに集中的に促進し、しかも労働者からの反発を招かないという特徴がある。

たとえばケンブリッジ州とサフォーク州では、過去20年間に耕地の面積は著しく増加したが、同じ期間に農村人口は相対的に減少しただけでなく、絶対的にも減少している。これにたいしてアメリカ合衆国では、農業機械は当面は潜在的に労働者に代わって使用されるようになっているだけである。というのは、農業機械によって生産者はさらに広い面積を耕作できるようになったが、実際には雇用している労働者を駆逐したわけではないからである。1861年にイングランドとウェールズで農業機械の生産に従事していた労働者の数は1034人だったが、蒸気機関や作業機械を利用していた農業労働者の数は、1205人にすぎなかった。

大工業は、古い社会の<>である「農民」を一掃して、賃金労働者を雇用されるため、農業分野でこそ、もっとも革命的な作用を及ぼす。これによって農村での社会的な変革の必要性と対立関係は、都市と似たものとなっていく。習慣だけに依拠した非合理的な経営が姿を消して、科学が技術的な用途で意識的に応用されるようになる。未熟で未発達な形態にあった農業とマニュファクチュアにふさわしく維持されていた旧来の家族の絆が引き裂かれていくプロセスが、資本制的な生産様式によって完成される。

この資本制的な生産様式は同時に、農業と工業がこれほどまでたがいに対立しながら形成してきた形態を土台にして、新たにより高次な綜合と統一を作りだすための物質的な前進を確立する。大きな中心地に集まった都市の住民がますます優勢になっていくと、資本制的な生産は一方では社会の歴史的な動力を蓄積していくが、他方では人間と大地のあいだの物質代謝を攪乱することになる。この物質代謝において食料や衣料として人間の利用される土壌成分が土壌に戻され、それが肥沃な土壌が維持されるための永続的な自然条件となっていたが、これが攪乱されるのである。

資本制的な生産はこれによって、都市労働者の身体的な健康を破壊し、農村労働者の精神的な生活を破壊することになる。ただしこれは同時に、たんに自然発生的に生じていただけの物質代謝の状態を踏襲して、社会的な生産を規制する法則としてこれを再構築するものであり、人間の完全な発達にふさわしい形で再構築することを強制するものでもある。

農業でもマニュファクチュアでも、生産過程の資本制的な変革は、同時に生産者の受難の歴史として現われた。労働手段は同時に労働者を従属させるための手段として、搾取するため手段として、貧窮化させるための手段として現われた。労働過程の社会的な結合は、労働者の個人的な生活力、自由、自立を組織的に抑圧するものとなった。都市は集中する都市労働者の抵抗力は拡大するが、農村労働者は広い地域に分散するために、抵抗力が低下する。

都市の産業と同じように、現代的な農業では労働の生産力の向上と流動化の進展は、労働力そのものの荒廃と衰退という犠牲のもとに進められた。資本制的な農業におけるあらゆる進歩は、労働者を略奪する技術の進歩であると同時に、土地を略奪する技術の進歩でもある。特定の期間にわたって土地を肥沃なものとするあらゆる技術の進歩でもある。たとえば北米のアメリカ合衆国のように、大工業がこうした発展の基礎となっている国では、この破壊プロセスはますます迅速に進展することになる。このように資本制的な生産は、あらゆる富の源泉である土壌と労働者を破壊しなければ、社会的な生産過程の技術と結合を発達させることができないのである。

 

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