マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第4篇 相対的剰余価値の生産
第11章 協業 |
第1部 資本の生産過程 第4篇 相対的剰余価値の生産 第11章 協業 〔この章の概要〕 第11章から第13章までは、相対的剰余価値を取得するための生産力上昇の方法が考察されます。これらの章で重要なのは、生産力上昇のための方法が同時に資本が賃労働者をより強力に支配するための方法になるということです。まず、最も基本的な方法である協業から見ていきます。 資本主義的生産は、比較的多数の労働者を同時に使用することによって始まりました。それが歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点でした。 同じ数の労働者が個別的に生産する場合と、1人の資本家のもとに結合されて労働する場合でも、これまでの理論的叙述からみれば生みだされる価値の総量は変わりません。しかし、実際には一定の変化が生じました。 比較的多数の労働者を同時に使用すると、労働手段の一部を共同で消費することで節約ができました。たとえば労働用の建物、原料の倉庫、それから容器、器具、装置等々が共同で消費されるからです。つまり1人1人が個別に労働したら、それぞれが自分の作業場を持ち、倉庫を建ててそれぞれに持っていなければなりません。たまにしか使わない道具も各人がそれぞれもっていなければならないわけです。ところが労働者が一つの作業場に集められて、そこで働くならば、倉庫も一つでよいし、たまにしか使わない用具も一つ備えておけば、必要になった人がそれを使えばよいわけです。建物にしても1人1人の作業場を建てるのに較べて、一つの大きな作業場を建てるほうが割安になり、照明や暖房も節約ができることになります。 それが協業です。マルクスは「同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び、相協力して労働する多数者の労働の形態を協業という」と定義しています。 協業はさらに、個別労働者の単純な総計とは本質的に異なります。集団力による生産力をつくりだしました。荷物をあげたり、道路から障害物を除いたりする場合です。人力しかない時代に、多くの人手を使うことは個別の合計ではない新しい力となりました。 そのため、協業は原始時代から非常に重要な役割をもっていました。収穫期や漁期のような決定的な瞬間には、多人数が一つの作業に集中しました。そのときに全員でその労働を行い、それが終わったら全員が山へ行って別の労働をします。このような集団の力による協業が、とくに全体の労働者数が少ない社会では有効でした。 また、多人数が同時に働くと労働の空間範囲が拡大するので、大規模な土木事業には協業が必要でした。これは当然分業も含んでいましたが、それも協業の一つの形態です。他方で、協業は労働者が集まってその生産領域を集中させるので、前述のように費用を節約することができます。協業によって生まれる生産力は、人間の個体的制限を脱した、社会的な能力を展開します。 しかも、そこに競争心が生まれます。1人だったらのんびりするところが、お互いの刺激によって作業能率が高まり、生産力が上がるのです。人間は本来社会的動物だからそうなるとマルクスは説明しています。 いわゆるバケツリレーが協業の例といえます。水を運ぶのに1人1人がバケツを持って走るのではなく、みんなが並んでバケツを手から手へと送っていくというものです。これは分業とは言えません。分業というのはAさんとBさんが一つの労働過程を分けるものですが、ここでは各人が同じことをするからです。みんなが同じようにバケツを一方から受けとって、他方に渡します。それでも生産力が上がります。上がるからこそ火事のときにバケツリレーをします。それが、次章の分業の基礎になるとマルクスは書いています。どの時代でも協業がまずあって、協業を前提にして次章の分業がくる。 ところで、労働力の売りと買いは、個別労働者と資本家との契約だったから、その個別労働者を資本家が集めた協業によって社会的な生産力を得たとしても、個別の労働者とは関係のないこととなります。それによって得られた社会的生産力は、資本が無償で手に入れた生産力になりました。生産力が上がれば当然労働時間が短くなる。つまりこれも相対的剰余価値を生むことになるわけですが、それは生活手段の低廉化のためではありません。抽象的な理論的分析には出てこなかった必要労働時間短縮の方法なのです。 協業では、労働について多数の労働者へ指示する必要が生じます。つまり労働に対する指揮の機能は、協業にともなって必然的に生まれるものでした。資本主義的な協業では、その指揮の機能は当然資本家の機能になります。 資本家がどういう基準で労働を指揮するかというと、剰余価値をできるだけ多く生産することを目的として指揮することになります。そのため、搾取される労働者とは敵対的な関係となることがあります。 この後マニュファクチュアや大工業についても、指揮労働についての話がさらに発展していくが、その基本がまずこの協業にあるわけです。したがって、指揮労働は、協業による使用価値の生産という社会的過程から発生する必然性としての一面と、資本主義的な協業にあっては、剰余価値を増やすための協業であることに由来する特殊性の二面性をもっていることになります。 さらに、小さな協業ならば指揮者は1人で足りますが、規模が大きくなっていくと、資本家は自分一人では労働者全体を監督できなくなります。そこでその機能を特殊な一部の労働者に譲り渡します。その労働者の仕事は、生産そのものではなく、協業がスムーズに行われ、剰余価値をできるだけ多く生むように監督することになりました。 したがって、指揮労働に、労働者から剰余価値をできるだけ多くとろうとする機能だけをみるのは誤りだ、とマルクスは指摘しています。監督労働には社会的に共同的な労働が行われることから生じざるを得ない機能という側面もあるからです。協同組合企業や社会主義でも指揮労働はなくなりません。協業には指揮監督系統が必要なのです。 〔本分とその読み(解説)〕 資本主義的な生産の開始 すでに見たように、資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことである。かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。生産様式そのものに関しては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かせる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけである。 これまで見てきたように、資本主義的な生産様式に実際に移行するのは、その資本家が、かなり多数の労働者を同時に雇い入れ、それによって労働過程の規模を拡大し、大きな工場で、大規模に製品を生産し、商品を大量に市場に供給するようになった時、そういう段階おいてです。同時とは、言葉をかえればおなじ空間の中でということであり、相当数の労働者が、同一の時間的現在において、ひとつの空間のなかで同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとに労働するということが、まずは資本制生産様式をしるしづけるものであると言えます。その結果資本主義的生産は、労働過程そのものの規模を拡大し、量的にかなり大きな規模で生産物を供給することになります。 つまり、資本主義にいたる前段階として考えられるマニュファクチュア(工場制手工業)やツンフト(同業組合による手工業)との違いは、規模の大きさという量的な、基準によると単純化できるということです。ただし、その規模の違いが、少々という程度ではなく、かなりの差であり、量の違いが質の違いを招くほどの違いです。 すでに考察してきたように、資本制的な生産が実際に開始されるのは、同じ個別資本が、かなり多数の労働者を同時に雇用し、それによって労働過程の規模を拡大し、かなり巨大な規模で製品を供給するようになったときである。歴史的にみても概念的にみても、同じ資本家の指揮のもとで、かなりの人数の労働者が同じ場所で(あるいは同じ仕事場で)、同じ種類の製品を生産する活動に従事するとき、初めて資本制的な生産が始まるのである。 生産様式そのものについては、マニュファクチュア[工場制手工業]もその端緒においては、同業組合的な手工業とほとんど違いはないのであり、せいぜい同じ資本で雇用している労働者の数がかなり多いという程度である。この段階ではツンフトの親方の仕事場が拡大されただけである。 ツンフトとマニュファクチュアの違い だから、相違はさしあたりはただ量的でしかない。すでに見たように、与えられた一資本の生産する剰余価値は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされる労働者の数を掛けたものに等しい。この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を少しも変えるものでもない。また、商品価値一般の生産についていえば、労働過程にどんな質的変化も無関係であるように見える。それは、価値の性質から出てくることである。12時間の1労働日が6シリングに対象化されるとすれば、この労働日の1200は6シリングの1200倍に対象化される。一方の場合には、12労働時間の1200倍が、他方の場合には12労働時間が、生産物に合体されている。価値生産では、多数はつねにただ多数の個として数えられる。だから、価値生産についは、1200人の労働者が別々に生産するか、それとも同じの資本の指揮のもとにいっしょになって生産するかでは、なんの相違も生じないのである。 マニュファクチュア(工場制手工業)とツンフト(同業組合による手工業)との違いは、生産規模という量的なものです。しかし、与えられた額の資本が生み出す剰余価値の大きさは、個々の労働者が作りだす剰余価値の量に、同時に雇用されている労働者の人数を乗じたものです。したがって、労働者の数がふえても剰余価値の比率が変わるわけはなく、それゆえ。労働の搾取度が変わるわけではありません。つまり、ツンフトからマニュファクチュアへの労働者数が増えて、規模が拡大しても、価値の生産においては、多数の労働者が個別に生産したにすぎない。したがって、商品の価値に変化はないのです。 マニュファクチュアとツンフト的な手工業の違いは、まずは量的なものにすぎない。すでに確認したように、与えられた額の資本が生み出す増殖価値の大きさは、個々の労働者が作りだす増殖価値の量に、同時に雇用されている労働者の人数を乗じたものである。雇用されている労働者の人数が変わっても、増殖価値の比率が変わるわけではないし、労働の搾取度が変わるわけでもない。商品の価値の生産一般に関しては、労働過程にどのような質的な変動が発生しても、まったく変化はないようにみえる。価値の本質からして、そうなるのだ。 12時間の1労働日の価値が6シリングとして対象化されるならば、この労働日が1200日続けば、6シリングの1200倍として対象化されることになる。1日の労働では12時間が、1200日の労働では12労働時間の1200倍が、商品に合体したことになる。価値の生産においては、多数の労働者が生産したとしても、多数の労働者が個別に生産したにすぎない。1200人の労働者が個別に生産しようと、同一の資本の指揮のもとで一緒に生産しようと、価値の生産においては、いかなる違いもないのである。 熟練と社会的な平均労働 とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。どの産業部門でも、個別労働者、ペーターやバウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っている。この個別的偏差は、数学では「誤差」と呼ばれるものであるが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見れば、相殺されてなくなってしまう。著名な詭弁家で追従者のエドマンド・パークは、彼が借地農業者としての実務経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っている。それはとにかくとして、同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の1日分であるということは、明らかである。1人の1労働日を、たとえば12時間としよう。そうすれば、同時に働かされる12人の労働者の1労働日は、144時間の1総労働日となる。そして、12人のうちの各人の労働は多かれ少なかれ社会的平均労働とは違っているかもしれないし、したがって各人が同じ作業に要する時間はいくらか多かったり少なかったりするかもしれないが、それにもかかわらず、各個人の1労働日は、144時間の1総労働日の12分の1として、社会的な平均的質をもっている。しかし、12人を働かせる資本家にとっては労働日は12人の総労働日として存在する。各個人の労働日は総労働日の可除部分として存在するのであって、そのことは、12人が互いに手を取り合って労働するのか、それとも彼らの労働の全関連はただ彼らが同じ資本家のために労働するということだけにあるのか、ということにはまったくかかわりがないのである。これに反して、もし12人の労働者のうちの2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われるとすれば、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうか、したがって一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然となる。そこには個別的な偏差が生ずるであろう。かりに、ある労働者が、ある商品の生産に、社会的に必要であるよりも非常に多くの時間を費やすとすれば、つまり彼にとって個別的に必要な労働時間が社会的に必要な時間または平均労働時間とひどく違っているとすれば、彼の労働は平均労働とは認められないであろうし、彼の労働力は平均労働力とは認められないであろう。それはまったく売れないか、または労働力の平均価値よりも安くしか売れないであろう。だから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのであって、われわれがもっと後で見るように、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのである。それにもかかわらず、この最低限度は平均とは違っており、しかも他方では労働力の平均価が支払われねばならない。それゆえ、6人の小親方のうち、一方のものは一般的剰余価値率よりも多くを、他方のものはそれよりも少なくを、取り出すことになるであろう。この不平等は、社会にとっては相殺されるであろうが、個々の親方にとっては相殺されないであろう。だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである。 ただし、量の違いは、ある程度以上になると、ひとつの質的な変化を起こします。今までに何度も確認してきましたが、商品の価値を規定するのは、社会的に平均的な労働時間です。この平均値というのは、同じ種類の値がバラバラに存在しているのを平均したものです。例えば「どんな産業分野でもペーターやバウルという個々の労働者は、平均的な労働者とは多かれ少なかれ異なるものである」。つまり、個別的偏差があるということです。ころが、相当数の労働者を雇用して、同一の時空間で労働させることによって、このような偏差あるいは「誤差」が抹消されてしまうのです。社会的に平均的な労働時間という抽象は、まずは生産現場における関係編成のうちにその具体的で現実的な根拠を護持することになるのです。そればかりではなく、「個々の生産者が資本家として生産するときに、つまり多数の労働者を同時に雇用して、最初から社会的な平均労働をさせるときに、初めて完全に実現されるのである」のです。 ただしある程度の範囲での違いは発生する。価値のうちに対象化された労働は、社会的な平均労働であり、平均的な労働力が支出されたものである。しかし平均値とはつねに、同じ種類のものが多数の異なる形で個々に存在しているものを平均した値である。どんな産業分野でもペーターやバウルという個々の労働者は、平均的な労働者とは多かれ少なかれ異なるものである。こうした個人的な差異は、数学的には「誤差」と呼ばれるものであり、ある程度の数の労働者をまとめて考えるときには、互いに相殺されて姿を消してしまう。 著名な詭弁家であり追従者でもあったエドマンド・パークは借地農としての自らの経験に基づいて、わずか5人の小作人という「ごく小さな集まり」をとっても、労働の個人的な違いはすべて姿を消してしまうこと、そしてイギリスの成人の小作人のうちから任意に5人を集めると、同じ単位時間のうちで、別の5人の組と同じ量の仕事をすることを主張していたのである。 バークが正しいかどうかは別としても、多数の労働者を同時に雇用した場合の労働日の総計を、雇用されている労働者の人数で割れば、それが社会的な平均労働による1労働日になるのは明らかである。1人の労働者の総計は、144時間となる。この12人の個々の労働者の労働は、社会的な平均労働からは多かれ少なかれ異なるものだろう。同じ作業をするのに、ある労働者は少し余計な時間がかかるだろうし、別の労働者は短い時間で片づけるだろう。それでもどの労働者の労働日も、144時間の労働日の12分の1として、社会的に平均的な質を備えているのである。 とろで、12人を雇用している資本家にとっては、1労働日はこの12人の労働の全体の労働日となっている。個々の労働者の労働日は、この全体の労働日の一部として存在しているのであり、それはこの12人の労働者が協力しあいながら労働するか、同じ資本家のために労働しているというだけの結びつきしかないかは、どうでもよいことなのである。 これに対して12人の労働者が、2人1組で6人の小親方に雇われているとすると、これらの親方たちがすべて同じ量の価値を生産するかどうか、一般的な増殖価値の比率を実現するかどうかは、まったくの偶然である。個人的な差異が必ず発生するのである。もしもある労働者が、一つの商品を生産するために、社会的に必要な時間よりもはるかに長い時間をかけたとすると、すなわち彼が個人としてその商品を生産するために必要な労働時間が、社会的に必要な時間、あるいは別の言い方をすれば平均労働時間と著しく異なるとすると、その労働者の労働は平均的な労働としては通用しなくなり、その労働力は平均的な労働力ではなくなる。彼の労働力はもはや売れなくなるか、あるいは労働力の平均的な価値を下回る価値でしか売れなくなる。 したがって労働の最低限度の熟練度が前提とされているのであり、後に考察するように、資本制的な生産には、この最低限度を測定するための手段が備わっているのである。それでもこの最低限度は平均値ではない。ところがその熟練度が最低の労働力に対して平均的な価値が支払われねばならないのである。 だから6人の小親方のうちで、一般的な増殖価値の比率よりも高い比率を実現する親方がいる一方で、これよりも低い比率しか実現できない親方もでてくるだろう。こうした不平等は社会的には相殺しあうだろうが、一人一人の親方においては、こうした相殺は起こらない。だから価値の増殖の一般法則というものは、個々の生産者が資本家として生産するときに、つまり多数の労働者を同時に雇用して、最初から社会的な平均労働をさせるときに、初めて完全に実現されるのである。 ただしある程度の範囲での違いは発生する。価値のうちに対象化された労働は、社会的な平均労働であり、平均的な労働力が支出されたものである。しかし平均値とはつねに、同じ種類のものが多数の異なる形で個々に存在しているものを平均した値である。どんな産業分野でもペーターやバウルという個々の労働者は、平均的な労働者とは多かれ少なかれ異なるものである。こうした個人的な差異は、数学的には「誤差」と呼ばれるものであり、ある程度の数の労働者をまとめて考えるときには、互いに相殺されて姿を消してしまう。 著名な詭弁家であり追従者でもあったエドマンド・パークは借地農としての自らの経験に基づいて、わずか5人の小作人という「ごく小さな集まり」をとっても、労働の個人的な違いはすべて姿を消してしまうこと、そしてイギリスの成人の小作人のうちから任意に5人を集めると、同じ単位時間のうちで、別の5人の組と同じ量の仕事をすることを主張していたのである。 バークが正しいかどうかは別としても、多数の労働者を同時に雇用した場合の労働日の総計を、雇用されている労働者の人数で割れば、それが社会的な平均労働による1労働日になるのは明らかである。1人の労働者の総計は、144時間となる。この12人の個々の労働者の労働は、社会的な平均労働からは多かれ少なかれ異なるものだろう。同じ作業をするのに、ある労働者は少し余計な時間がかかるだろうし、別の労働者は短い時間で片づけるだろう。それでもどの労働者の労働日も、144時間の労働日の12分の1として、社会的に平均的な質を備えているのである。 とろで、12人を雇用している資本家にとっては、1労働日はこの12人の労働の全体の労働日となっている。個々の労働者の労働日は、この全体の労働日の一部として存在しているのであり、それはこの12人の労働者が協力しあいながら労働するか、同じ資本家のために労働しているというだけの結びつきしかないかは、どうでもよいことなのである。 これに対して12人の労働者が、2人1組で6人の小親方に雇われているとすると、これらの親方たちがすべて同じ量の価値を生産するかどうか、一般的な増殖価値の比率を実現するかどうかは、まったくの偶然である。個人的な差異が必ず発生するのである。もしもある労働者が、一つの商品を生産するために、社会的に必要な時間よりもはるかに長い時間をかけたとすると、すなわち彼が個人としてその商品を生産するために必要な労働時間が、社会的に必要な時間、あるいは別の言い方をすれば平均労働時間と著しく異なるとすると、その労働者の労働は平均的な労働としては通用しなくなり、その労働力は平均的な労働力ではなくなる。彼の労働力はもはや売れなくなるか、あるいは労働力の平均的な価値を下回る価値でしか売れなくなる。 したがって労働の最低限度の熟練度が前提とされているのであり、後に考察するように、資本制的な生産には、この最低限度を測定するための手段が備わっているのである。それでもこの最低限度は平均値ではない。ところがその熟練度が最低の労働力に対して平均的な価値が支払われねばならないのである。 だから6人の小親方のうちで、一般的な増殖価値の比率よりも高い比率を実現する親方がいる一方で、これよりも低い比率しか実現できない親方もでてくるだろう。こうした不平等は社会的には相殺しあうだろうが、一人一人の親方においては、こうした相殺は起こらない。だから価値の増殖の一般法則というものは、個々の生産者が資本家として生産するときに、つまり多数の労働者を同時に雇用して、最初から社会的な平均労働をさせるときに、初めて完全に実現されるのである。 規模の経済 労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時にまたは交互に役だつ容器や用具や装置など、要するに生産過程の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。一方では、商品の交換価値は、したがって生産手段のそれも、それらの使用価値の利用度がどんなに高められても、少しも高くならない。他方では、共同で使用される生産手段の規模は大きくなる。20人の織工が20台の織機で作業する1室は、2人の職人をもつ1人の独立の織匠の室よりも広くなければならない。しかし、20人用の仕事場を1つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかからない。したがって、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的小さい価値成分を引き渡す。というのは、一つには、それらの引き渡す総価値が同時により大きい生産物量のあいだに割り当てられるからであり、また一つには、それらは、個々別々に使用される生産手段に比べて、絶対的にはより大きい価値をもってであるとはいえ、それらの作用範囲を考えれば相対的にはより小さい価値をもって、生産過程にはいるからである。これによって不変資本の一つの価値成分は低下し、したがってこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下する。その結果は、ちょうどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。このような、生産手段の充用における節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働者の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。 たとえば個別的に作業する職人たちと、協業というしかたで労働する労働者との間で、ツンフト、マニュファクチュアといった労働様式が、そのままでもかなりの多数の労働者が投入されることで、その労働過程の対象的な条件に革命を引き起こす、とマルクスは言います。例えば、たとえば、20人の職人ひとりひとりが作業するためには、20個の作業場を作らなければなりません。これに対して20人のたとえば職工が20台の織機で労働する一室は、空間的に拡大されるとはいえ、その作業の労働は、時間的にもコスト的にも縮小されることになる。 多数の労働者たちが同じ時間、同じ空間で働く結果、あるいは「多数の労働者が働いている建物、原料などの倉庫、多数の労働者が同時に、あるいは交替して利用する容器、道具、装置など」、つまり生産手段の一部が労働過程で共同で使われると、節約されることになります。生産手段の節約は、そして、生産される商品よりも安価なものとし、他方では労働力商品の価値をも下落させることになります。 一般に、多数の人々が共同で集中的に利用する生産手段の価値は、その規模や利用効率に正比例して大きくなることはありません。生産手段を共同で利用すれば、個々の生産物に含まれる生産手段の価値は小さくなります。それは生産手段の全体の価値が、より多数の生産物に配分されるからであり、生産手段が分散されている場合と比較すると、生産過程に含まれるからであり、生産手段が分散されている場合と比較すると、生産過程に含まれる生産手段の価値は絶対的に上昇するが、その働きの範囲の大きさを考えると、相対的には小さくなるからです。そして、それによって価値に含まれる不変資本の部分は小さくなります。そして不変資本の部分が小さくなることによって、商品の全体の価値も小さくなります。その結果として、商品の生産手段そのものが安価になったのと同じことになるわけです。 このようにして生産手段は、社会的な労働の条件あるいは労働の社会的な条件という性格を帯びるようになります。これがマニュファクチュアの生産手段とツンフトのような個別に独立して働く労働者や親方たちの分散された相対的に高価な生産手段との違いであり、こうした条件は多数の労働者が共同で働くのではなく、たんに空間的に集まって働くだけでも発生するのです。 労働様式が変化しない場合でも、かなり多数の労働者を投入することで、労働過程の対象的な条件に革命が生じる。多数の労働者が働いている建物、原料などの倉庫、多数の労働者が同時に、あるいは交替して利用する容器、道具、装置など、生産過程の一部が労働過程において共同で使われるようになる。生産手段の使用価値を徹底的に利用したからと言って、生産手段の交換価値や商品の交換価値が高くなるわけではない。 当然ながら、20人の織物工が20台の織機を使って働く部屋は、1人の自営の親方が2人の職人働かせる部屋よりも広くなければならない。しかし20人が働く作業場の生産コストは、2人が働く仕事場10か所の生産コストよりも低くなる。一般に、多数の人々が共同で集中的に利用する生産手段の価値は、その規模や利用効率に正比例して大きくなることはない。生産手段を共同で利用すれば、個々の生産物に含まれる生産手段の価値は小さくなる。それは生産手段の全体の価値が、より多数の生産物に配分されるからであり、生産手段が分散されている場合と比較すると、生産過程に含まれるからであり、生産手段が分散されている場合と比較すると、生産過程に含まれる生産手段の価値は絶対的に上昇するが、その働きの範囲の大きさを考えると、相対的には小さくなるからである。それによって価値に含まれる不変資本の部分は小さくなる。そして不変資本の部分が小さくなることによって、商品の全体の価値も小さくなる。その結果として、商品の生産手段そのものが安価になったのと同じことになる。 生産手段の利用がこのように経済的になるのは、労働過程において多数の労働者が共同で生産手段を利用できるからである。このようにして生産手段は、社会的な労働の条件あるいは労働の社会的な条件という性格を帯びるようになる。これが[マニュファクチュアの生産手段と]個別に独立して働く労働者や親方たちの分散された相対的に高価な生産手段との違いであり、こうした条件は多数の労働者が共同で働くのではなく、たんに空間的に集まって働くだけでも発生する。労働手段の一部は、労働過程が社会的な性格を獲得する以前から、すでに社会的な性格を備えているのである。 協業 生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって、労働力の価値を低下させるかぎりで。第二には、それが、前貸資本にたいする、すなわち総額の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりで、このあとのほうの点は、この著作の第3部の第1編ではめて論究されるので、すでにここでの問題にも関係のあるいくつかのことも、関連上、そこで述べることにする。このような、対象の分割は、分析の進行の命ずるところではあるが、それは同時に資本主義的生産の精神に対応するものである。というのは、資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立するのだから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特別な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるのである。 同じ生産過程でも、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という。 このように生産手段の節約は二つの視点から考える必要があります。第1は、生産手段が安価になる、つまりはコスト削減ということで、労働力の価値も低下するという視点です。第二は、資本の総額に対する剰余価値の比率が、不変資本が小さくなることによって変動するという視点です。どちらも、労働者自身の生産性の向上とは無関係で、労働者とはかかわりのない運用として考えることができます。 協業とは、「同じ生産過程において、あるいは同じではないがたがいに関連した異なる生産過程において、多くの人々が計画的に一緒に協力して働くような労働の形式」を言います。 協業といっても資本主義的な生産様式における協業には、それ以前の生産様式の協業に比べて、次にあげるような二重の独自性があります。 資本主義的な生産様式において特徴的でありまたその本来の出発点でもあるのは、数人の労働者ではなく、かなり多数の労働者が同一の時間、同一の空間(工場、オフィス、農場など)に集められ、同一の資本家ないしその代理人の指揮監督のもとに置かれ、そのもとで集団的労働が行われることです。 この資本制の協業は、一方では、それが直接出来してきた少人数の同業組合的な生産や問屋制家内工業の生産に対しては、その協業形態それ自体が独自性を有しています。同業組合や問屋制家内工業においては、1人か2人、せいぜい数人の徒弟や補助者が親方のもとで働いているだけでした。このような少人数における生産に対して、資本制の協業は人数制限の枠を取り払って、最初からそれよりもかなり多い数の労働者を集合させ、資本の監督のもとで労働させるものです。このことは最初の初期投資額をかなり大きい額にすることになります。他方で、資本制の協業は、過去の生産様式において一時的ないし部分的に存在していた協業(たとえば農村での刈り入れや土木工事など)に対して、協業が恒常的であるという点で特徴的で。協業それ自身は古代の社会でも中世の封建制社会でもありましたし、自営農においても家族による協業は存在しました。しかし、近代になって資本制の協業になって重要となるのはそのような協業一般ではなく、できるだけ多くの剰余価値を抽出するための手段としての(形態的運動原理)、また賃労働を支配し統制するための手段としての(実体的運動原理)、協業なのである。 この後者にあっては、「協業」という言葉からイメージされる仲間同士の協力関係は最初から問題にはなりません。本来の協業は、個々の主体的な労働者が相互に対等な形で協力する共同作業ですが、資本制の生産様式における協業では、労働者は資本によって上ないし外部から配置され仕事を割り当てられる受け身の存在です。ここでの生産的で効率的な形での共同作業というのは、労働者の側のきわめて高度な主体性と能動性、内在的な共同性や相互連携性とを必要とするのであり、それは資本制での協業の内容の中心となる客体化された労働者の外的結合というものと根本的に矛盾します。 生産手段の節約は一般に二つの観点から考える必要がある。第一は、生産手段が安価になることによって、商品が安価になり、同時に労働力の価値も低下するという観点である。第二は、前払いされた資本の総額は、不変資本部分と可変資本部分で構成されるが、この資本の総額に対する増殖価値の比率が[不変資本の部分が小さくなることによって]変動するという観点である。第二の観点については、本書の第3巻の第1部で考察する。議論の都合上、ここで扱われるべき問題のいくつかは、そこで考察されることになる。分析の進め方のために、考察対象をこのように分割して考察することになるが、それは資本制的な生産の精神にも適ったものである。資本制的な生産においては、労働条件は労働者から独立したものとして現われるのであり、こうした労働条件の節約も、労働者にはかかわりのない特別な運用であるかのように見えるのであり、労働者自身の生産性を向上させる方法とはまったく別のもののように見えるのである。 同じ生産過程において、あるいは同じではないがたがいに関連した異なる生産過程において、多くの人々が計画的に一緒に協力して働くような労働の形式を協業と呼ぶことにしよう。 新たな生産力の創出 騎兵1中隊の攻撃力とか歩兵1連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っているように、個別労働者の力の機械的な合計は。分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を掲げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうことが必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている。このような場合には、結合労働の効果は、個別労働では全然生みだせないか、またはずっと長い時間をかけて、またはひどく小さい規模で、やっと生みだせるかであろう。ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである。 多くの力が一つ総力に融合することから生ずることから新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働をする12人の個別労働者または引き続き12日労働する1人の労働者が供給する総生物よりも、ずっと大きいのである。このことは、人間は生来、アリストテレスが言うように政治的な動物ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのである。 マルクスによれば「協業」とは、「同じ生産過程において、あるいは同じではないがたがいに関連した異なる生産過程において、多くの人々が計画的に一緒に協力して働くような労働の形式」です。具体例としてあげているのは、軍隊について、騎兵中隊とか歩兵連隊というひとつの集団の軍事力は、個々の騎兵や歩兵の力を合わせたものとは違うということです。集団となってまとまった力は、個人の力の総和とは別物になるということを指摘しています。 たとえば重い荷物を掲げる、クランクを回す、障害物を除去するといった作業が「多数の手」によって遂行される場合でも、それらの作業はそれぞれに一種の共同作業です。ここでは、「多数の人々が力を合わせて作業する」がもたらす効果は、個別の労働ではほとんど生み出すことのできないものとなります。ここで重要なのは、「多数の人々の力が融合することで、一つのまとまった力が生まれるという新たな力の創造の可能性」です。 多くの生産現場では、多数の労働者が集められた自体から生まれる社会的な接触そのものが競争心や活力を生むことも指摘しています。そのため、12人の労働者が集まって同時に12時間の労働日に労働する方が、各人が12時間ずつ労働する12人の個別労働者、または、ひきつづき12日の間労働するひとりの労働者が供給する総生産物よりも、はるかに大きい成果を上げることができると言います。 騎兵中隊の攻撃力や歩兵連隊の防御力は、個々の騎兵や歩兵が個別に発揮する攻撃力や防御力の総計とは、本質的に異なる。これと同じように、たとえば重いものを持ち上げたり、クランクを回したり、道の障害物を取り除いたりするときに、多くの人手が集まってともに同じ作業で協力するときに発揮される社会的な力は、個々の労働者の力の力学的な総計とは本質的に異なったものである。このように多数の人々が力を合わせて作業する労働の成果は、個別の労働によってはまったく実現できないか、実現できても長い時間がかかるか、取るに足らないほどしか実現できないものである。ここで重要なのは、協業によって個々の労働者の生産力が向上するということだけではなく、多数者の力という新たな生産力が創出されることである。 このように多数の人々の力が融合することで、一つのまとまった力が生まれるという新たな力の創造の可能性とは別に、多くの生産労働においては、たんに社会的に接触することだけでも競争を生み出し、活気を独特な形で刺激し、個々の労働者の能力を高めるものである。そのため12人が集まって同じ12時間の労働日を1日働いて合計144時間の労働をするほうが、12人の労働者が別々に1日12時間労働するよりも、あるいは1人の労働者が12日続けて働くよりも、全体としてはるかに多量の製品を生産することができる。人間はアリストテレスの語ったような政治的な動物ではないとしても、社会的な動物だからである。 同種の仕事による分業 多くの人々が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行なうにかかわらず、各人の個別労働が総労働の部分として労働過程そのものの別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速くに通過することがありうる。たとえば、煉瓦積み工が、煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶためにたくさんの手で一つの列をつくるとすれば、彼らはめいめい同じことをするのであるが、それにもかかわらず個々の作業は一つの全体作業の連続的諸部分を、すなわちすべての煉瓦が労働過程で通過しなければならない別々の段階を、なすのであって、こうすることによって、全体労働者のたとえば24本の手は、足場を登り降りする各個の労働者の2本の手よりも速く煉瓦を運ぶのである。労働対象が同じ空間をより短い時間で通過するのである。他方では、たとえば一つの建物がいくつもの違った方面から同時に着工される場合には、協業者たちは同じことかまたは同種のことをするにもかかわらず、労働の結合が生ずる。144時間の1結合労働日、それは空間的に多方面から労働対象に着手する、というのは、結合労働者または全体労働者が前にもうしろにも、目と手をもっており或る程度まで全面性をもっているからであるが、そのような1結合労働日は、自分たちの仕事にそれよりも一面的に着手しなければならない多かれ少なかれ個々別々な労働者の12個の12時間労働日に比べれば、より速く総生産物を送り出す。生産物の種々の空間部分が同じ時間に成熟するのである。 われわれは、互いに補い合う多くの人々が同じことかまたは同種のことをするということを強調したが、それは、共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずるからである。労働過程が複雑ならば、いっしょに労働する人々が多数だということだけでも、いろいろな作業を別々の手に分配し、したがってそれらの作業を同時に行ない、こうして総生産物の生産に必要な労働時間を短縮するということを可能にするのである。 協業は一方では、ひとつ、あるいは同種の労働過程を時間的に分別し、それを空間的に並置することができます。つまり、多くの人が同じ仕事や類似した仕事を同時に協力して遂行する場合でも、個々の労働者の仕事は、全体の労働の一部としては、作業過程のそれぞれに異なる段階を遂行するということです。たとえば、煉瓦積みの職人が、梯子の下から一番上まで並んで、手渡しで順に煉瓦を運ぶという場合、1人の煉瓦積み職人が梯子を上がって運ぶ場合と比較してみると、個々の職人が実際にしていることは同じではあっても、個々の作業は全体の作業の連続的な部分を構成することになっている点が違います。煉瓦はこの労働過程において連続的な部分を順に通過していくことになります。このように12人の<全体労働者>のいわば24本の手で煉瓦を運べば、1人の労働者が梯子を登ったり降りたりしながら2本の手で煉瓦を運ぶよりも、短時間で煉瓦を運び上げることができるのです。この方法では労働対象は同じ空間より迅速に通過していくと言えます。 かくして、たとえば建物という「生産物の相異なる空間部分が同じ時間に成熟する」。 協業は、このように時間的な差異を空間的に統合しますが、他方で協業は、時間的に継続して継起しうる、複数あるいは異種の労働過程を、同時に、つまり同一の現在において同一の空間のうちで並行して遂行させます。ある建物を建築する際に、様々な側面から同時に作り始めるという場合です。このとき、この仕事に携わる人々は同じ仕事あるいは同様な仕事に従事するにもかかわらず、労働の結合が発生します。結合された労働者あるいは<全体労働者>は、いわば前にも後ろにも、手があり眼があることになり、ある意味ではその仕事のすべての場所にいることになる。だから12人の労働者が、1日12時間の労働日において、多かれ少なかれ個別に、仕事のごく一部だけからとりかかる場合と比較すると、結合された1日の労働日の144時間の労働によって、より迅速に作業を進めることができるのです。協業では、生産物のさまざまな空間的な部分が、同じ時間のうちでいわばすばやく熟していくのである。 このように、協業にあって多数の労働者が「互いに助け合いながら同じ仕事や類似した仕事をする」のです。協働としての労働のこの形態、すなわち空間的な併存と共存が、いわば生産現場の空間と時間とを再編するのです。 多くの人が同じ仕事や類似した仕事を同時に協力して遂行する場合でも、個々の労働者の仕事は、全体の労働の一部としては、作業過程のそれぞれに異なる段階を遂行していることがありうる。そして協業のために労働対象は、この作業過程を迅速に通過することがありうるのである。たとえば煉瓦積みの職人が、梯子の下から一番上まで並んで、手渡しで順に煉瓦を運ぶならば、[1人の職人が運ぶ場合と比較してみると]個々の職人が実際にしていることは同じではあっても、個々の作業は全体の作業の連続的な部分を構成することになる。煉瓦はこの労働過程において連続的な部分を順に通過していくのである。このように[12人の]<全体労働者>のいわば24本の手で煉瓦を運べば、1人の労働者が梯子を登ったり降りたりしながら2本の手で煉瓦を運ぶよりも、短時間で煉瓦を運び上げることができる。この方法では労働対象は同じ空間より迅速に通過していくのである。 またある建物を建築する際に、様々な側面から同時に作り始めるならば、その仕事に携わる人々は同じ仕事あるいは同様な仕事に従事するにもかかわらず、労働の結合が発生する。結合された労働者あるいは<全体労働者>は、いわば前にも後ろにも、手があり眼があることになり、ある意味ではその仕事のすべての場所にいることになる。だから12人の労働者が、1日12時間の労働日において、多かれ少なかれ個別に、仕事のごく一部だけからとりかかる場合と比較すると、結合された1日の労働日の144時間の労働によって、より迅速に作業を進めることができる。[協業においては、]生産物のさまざまな空間的な部分が、同じ時間のうちでいわばすばやく熟していくのである。 ここで、多数の労働者が互いに助け合いながら同じ仕事や類似した仕事をすることの意味を強調したが、それはこのもっとも単純な共同労働の形式が、協業が最も発展した姿においても重要な役割を果たすからである。労働過程が複雑なものとなると、多数の労働者がともに作業をしながら、様々に異なる作業段階を様々な労働時間を短縮することができる。 <決定的な瞬間>と協業 多くの生産部門には或る決定的な瞬間がある。すなわち、労働過程そのものの性質によって規定されていてそのあいだに一定の労働成果が達成されなければならないという時期である。たとえば、一群の羊の毛を刈るとか、何モルゲンかの穀物畑を刈り取って収穫するとかいう場合には、生産物の量も質も、作業が或る一定の時期に始まって或る一定の時期に終わるということにかかっている。この場合には、たとえば鰊漁の場合などのように、労働過程の占めるべき期間は、あらかじめ定められている。1人の個人は1日からはただ1労働日を、たとえば12時間のそれを切り取ることしかできないが、たとえば100人の協業は12時間の1日を1200時間の1労働日に拡大する。労働期間の短さが、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる。この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっており、有用効果大きさでは労働者数にかかっているとはいえ、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりもつねに小さい。このような協業が行われないために、北アメリカ合衆国の西部では多量の穀物が、またイギリスの支配によって古来の共同体を破壊された東インドの諸地方では多量の綿花が、毎年無駄にされるである。 多くの生産分野には、ある特定の短い期間に成果を左右する重要な作業が集中することがあります。例えば、農業では刈り入れの収穫を実の成熟している短い期間のうちに行わなければならなかったり、羊毛の刈り取りを一度にやってしまわなければならなかったりといったことです。このような時期の生産現場に大量の労働を集中的に投入することで、成果を確保できるのです。投入した労働の利用効果は、その労働者の人数に左右されることになりますが、この協調して投入すべき労働者の人数は、同じ時期に同じ仕事を個別にするために必要な労働者の人数よりも、つねに少ないのである。 多くの生産分野には<決定的な瞬間>というものがある。これは、労働過程の性格のために、その時期のうちにある特定労働の成果をどうしても実現しなければならない時期のことである。たとえば[特定の短い期間のうちに]大量の羊毛を刈り取る必要があったり、数モルゲンの広さの穀物畑を刈り取って収穫する必要があったりするものである。このような時期の仕事の質と量は、作業を適切な時期に始めて適切な時期に終えることができるかどうかに左右されるのである。 たとえばニシン漁では、労働過程を遂行することのできる時期というものは、あらかじめ決まっている。1人の人では1日のうちに労働日として割り当てることのできる時間は限られており、たとえば12時間である。しかしたとえば100人が協業して働くと、12時間の労働日は1200時間の労働日に変わるのである。仕事を遂行できる時期が短いとしても、<決定的な瞬間>に生産の現場に大量の労働を投入することによって、これを補うことができる。 適切な瞬間に成果がえられるかどうかは、結合した労働日を同じ時期に同時に投入できるかどうかにかかっている。投入した労働の利用効果は、その労働者の人数に左右されるが、この協調して投入すべき労働者の人数は、同じ時期に同じ仕事を個別にするために必要な労働者の人数よりも、つねに少ないのである。アメリカ合衆国の西部で、毎年のように大量の穀物が収穫されず放置されたり、イギリスの支配によって昔ながらの共同体が破壊されたインド東部で、多量の綿花が毎年のように無駄にされたりするのは、こうした協業が行われていないためである。 労働空間の拡大と集約 一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することを許すので、ある種の労働過程には、すでに労働対象の空間的関連によっても協業が必要になる。たとえば土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設などの場合がそうである。他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである。 これまでは、協業らよる労働時間の短縮、作業の効率化について見てきました。しかしそれだけではなく、協業は労働空間の拡大あるいは集約も可能にすることができます。例えば、労働空間の拡大は、土地の干拓、堤防の建設、農地の感慨、運河や道路や鉄道の建設などといった大規模な工事などです。他方で、生産の規模と比較して、生産領域を空間的に縮めることも可能です。それにより、これは労働者を一か所に集め、様々な労働過程をまとめ、生産手段を集中させることによって可能となります。 また一方では協業によって、労働空間を拡大することができる。ある種の労働過程では、労働対象にそなわる空間的な関係そのものから協業が必要である。たとえば土地の干拓、堤防の建設、農地の灌漑、運河や道路や鉄道の建設などがそうである。また他方では、生産の規模と比較して、生産領域を空間的に縮めることができる。このようにして労働の空間を集約しながら、同時に労働の影響する範囲を拡大することで、無駄な費用が大量に削減される。これは労働者を一か所に集め、様々な労働過程をまとめ、生産手段を集中させることによって可能となる。 協業による生産力の向上の理由 個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、それが労働の機械的潜勢力を高められるからであろうと、労働の空間的作用範囲を拡大するからであろうと、生産規模に比べて空間的生産場面を狭めるからであろうと、決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからであろうと、個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからであろうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからであろうと、いろいろな作業を同時に行なうからであろうと、生産手段を共同使用によって節約するからであろうと、個々人の労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと、どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協議そのものから生ずる。他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種属能力を発揮するのである。 これまで協業についての様々な場面を見てきました。具体的に言うと、、協業によって労働の力学的な潜在能力が高められる。あるいは空間的な影響範囲が広がる。さらに生産の規模と比較して、空間的な生産現場が狭められ集約されること。さらに生産の規模と比較して、空間的な生産現場が狭められて集約されること。決定的な瞬間に、大量の労働を短期間に動かすこと。個々の労働者の競争心を刺激し、活気を強めること。多数の人々が同じような作業に従事する作業に従事するために、継続性と多様性という特徴が生まれること。様々な作業が同時に実行されることもあるだろう。生産手段を共同で使用することで、経済的かつ効率的に利用されること。これらのことから、協業は、個々の労働者が別々に働いた場合と同じことでも、より多くの使用価値を生み出すということ、そして特定の利用効果を作りだすために必要とされる特定の労働の時間が短縮されることが分かりました。 この協業により高められた生産力、つまり、個々の生産の総和プラスアルファの生産力は、協業によって生まれた協業固有の生産力と言うことができます。労働者が他の労働者と毎年のように協力して計画的に作業することにより、その個人的な制約が取り除かれ、人類としての社会的な能力を展開するというものです。 協業が、多数の労働者が集団労働をさせられるということは、一見すると、かなり多数の労働者が同一の資本家の管理のもとで同一空間に集められることで同一の作業が行われるという形態は、それ以前の労働形態と比べると単にその規模が大きくなっただけで、それ以上の経済的変化は存在しないように見えます。しかし、この単なる量的変化は、資本主義的な生産様式のもとでは、次のような質的変化をももたらすのです。 1.生産手段の節約 まず、多くの労働者が同じ作業場で同一の生産手段(この場合は労働手段)を共同で使用することによる生産手段の物的節約という効果がうまれます。わかりやすいように、現代のオフィスから一例を取ると、ある労働部門において高性能コピー機が不可欠であるとすれば、個々人が自分の家ないし作業場に高価なコピー機を設置するよりも、共同の事務所の中に1台だけコピー機を買い入れて集団で共同使用したほうがはるかに出費を節約することができるでしょう。これは商品生産物の価値を相対的に引き下げることに役立つことになります。この要素は、共同で使用される生産手段が小規模である場合はごくささやかなものにすぎませんが、それが巨大化すればするほど、その節約効果は巨大なものとなっていくのです。 他方で、資本家はこのような経済的に合理的な節約を超えて、同じ空間に労働者を集合させることから発生する追加的なコストや必要な設備をも節約しようとします。たとえば、大勢の労働者が一箇所に集まっても快適に仕事ができるためには、工場自体のかなりの広さや各個人の自由なスペース、休憩室、その他が確保されなければならないし、冷暖房設備や十分な換気設備、安全のための種々の設備、等といったものも必要になります。しかし、資本家はこのような本来は必要な間接的生産手段をも節約しようとし、そうすることで商品生産物の価値を強制的に引き下げようとします。これは、必要労働時間以上に労働者を働かせることによる搾取の時間的形態と並ぶ搾取の空間的形態であると言うことができます。前者においては、必要労働時間を超えて働かせることがポイントであり、後者においては逆に労働者の安全や人権にとって必要な設備や手段をも切り縮めることがポイントです。 2.スキルの集団的取得 多くの労働者が同じ時間に空間内で労働をするなら、労働者たちは相互のスキルやよりよい方法を学び合うことによって、効率性を高めることができます。これもまた商品生産物の価値を相対的に引き下げることに寄与することです。これは一見すると資本主義的性格とは無関係に見えるかもしれませんが、実はそうではないんです。封建制の一つの重要な特徴は、様々な技術やスキルや知識が各職人のあいだで秘匿され、基本的に弟子にのみ受け継がれることでした。このような秘密主義と閉鎖主義は資本制の生産様式の協業によって打ち破られることになりました。それは一方では、そのような技術や知識が広く社会に共有されるという意味で進歩的な意味を持っていますが、それと同時に、熟練労働者による熟練の囲い込みが打破され、以前よりも容易に熟練を獲得できるものとなり、その価値が若干なりとも下がり、熟練の独占に依拠した労働者の力は掘り崩され、労働者の手から資本に移ってしまうのです。 3.競争の組織化 資本はさらに、労働者集団の中で競争を組織化することによって、労働者集団の作業効率の絶え間ない向上を意識的に追求します。マルクスは、協業の生産的効果の一つとして、多くの労働者を同時に雇用することによって平均的質の労働者を確保することができると述べていますが、しかし、資本は単なる所与の平均的質を確保して満足するような存在ではなく、多数の労働者を同じ空間内に集合させて労働させることで、労働者同士を比較し、労働者の中で競争を組織し、作業効率や作業スピードなどに関して平均値の高位平準化を実現することができるし、そうしようとするのです。すなわち、その集団の中の最も効率性が高い労働者の作業スピードに合わせるよう他の労働者たちに圧力をかけ、その水準に従わせようとするのです。しかしいったん全体がこの水準に達してもそれ終わりではありません。資本家はそこからさらにより高い基準を労働者集団に課してゆきます。この絶えず高まっていく基準についていけない労働者は排除され、解雇されることになるのです。こうして、この労働集団の平均的な作業量を意識的かつ系統的に高めることができるようになり、ますます多くの剰余価値を労働者から抽出することができることになるのです。したがって、資本主義における「平均」という概念は階級中立的な数学的概念などではなく、それは、一方では単位時間当たりの作業量を絶え間なく引き上げることと、その引き上げについていけない労働者を絶えず排除することによって成り立つ、優れて階級的な概念なのです。 マルクスは、労働者間の単なる接触が労働者同士の「競争心やアニマルスピリッツ(活気)」をもたらし、したがってこのような効率性を生み出すかのように書いていますが、しかしそれは社会的接触の自然な結果ではなく、競争を意識的に組織する資本の努力の結果なのです。 協業して働く労働日は、その日数が個々の別々に働いた場合と同じであっても、より多くの使用価値を生み出すのであり、特定の利用効果を作りだすために必要とされる労働の時間が短縮される。協業して働く労働日が、特定の場合において生産力を向上させる理由はいくつもある。協業によって労働の力学的な潜在能力が高められることもあるだろう。あるいは空間的な影響範囲が広がることもあるだろう。さらに生産の規模と比較して、空間的な生産現場が狭められ集約されることもあるだろう。さらに生産の規模と比較して、空間的な生産現場が狭められて集約されることもあるだろう。決定的な瞬間に、大量の労働を短期間に動かすこともあるだろう。個々の労働者の競争心を刺激し、活気を強めることもあるだろう。多数の人々が同じような作業に従事する作業に従事するために、継続性と多様性という特徴が生まれることもあるだろう。様々な作業が同時に実行されることもあるだろう。生産手段を共同で使用することで、経済的かつ効率的に利用されることもあるだろ。 そしていかなる場合にも、[協業して働くことで]結合された労働日に固有の生産力は、労働の社会的な生産力なのであり、社会的な労働の生産力なのである。これは協業そのものから生まれる生産力である。労働者が他の労働者と毎年のように協力して計画的に作業することにより、その個人的な制約が取り除かれ、人類としての社会的な能力を展開するのである。 協業のために必要な資本 およそ労働者はいっしょにいなければ直接に協業することはできないし、したがって彼らが一定の場所に集まっていることが彼らの協業の条件だとすれば、賃金労働者は、同じ資本、同じ資本家が彼らを同時に充用しなければ、つまり彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することはできない。それゆえ、これらの労働力そのもの生産過程で結合される前に、これらの労働力の総価値、すなわち1日分とか1週間分とかの労働者たちの賃金総額が、資本家のポケットのなかにひとまとめにされていなければならない。300人の労働者に、たった1日分だけでも、1度に支払うということは、少数の労働者に1年じゅうを通じて1週間ごとに支払う場合に比べて、よりも多くの資本投下を必要とする。だから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分しうる程度によって、定まるのである。 そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことである。たとえば、原料のための投下は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、それぞれ10人ずつを使っている資本家1人1人にとっての投下の30倍である。共同で利用される労働手段量も素材量も、使用労働者と同じ程度に大きくはならないが、やはりかなり大きくはなる。だから、個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのであって、協業の程度または生産の規模はこの集積の程度によって定まるのである。 最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働者自身を手の労働からら解放し小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個人資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われた。いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのである。 ある工場で協業をするためには、ある程度まとまった人数の労働者が必要となります。「労働者たちは一緒に作業するのでなければ、そもそも直接に協業することはできないのだから、労働者たちを特定の空間に集めることが、協業の条件」です。そのためには、多数の労働力を一度に投下することが必要で、それは同時に、一度の多量の労働職を購入し消費するということになります。 実際のところ、たとえば、300人の労働者に労働力の対価である賃金を1度にまとめて支払うのには、かなりのまとまった金額となってきます。ということは、労働者たちは一緒に作業するのでなければ、そもそも直接に協業することはできないのだから、労働者たちを特定の空間に集めることが、協業の条件ということになってきます。そこから「協業して働く労働者の人数、あるいは協業の規模は、さしあたりは個々の資本家が、労働市場において労働力を購入するために投じることのできる資本の額によって決まるのであり、個々の資本家が、多数の労働者の生活手段を支払うことができる金額によって決まる」ということになります。 同様のことは原材料や生産手段も言えます。つまり、共同で使用する労働手段の価値の大きさと素材の量は、雇用する労働者の数の増加と同じ比率で増加するわけではないとはいえ、かなりの比率で増加します。だから賃金労働をする労働者が協業するための物質的な条件は、個々の資本家の手元にかなり大量の生産手段が集積されていることであり、協業の大きさと生産の規模は、この集積度によって決まることになるのです。 つまり、資本にとって協業を実現させるためには、ある程度の労働力や生産手段を抱えていること、つまりは、その裏付けとなる資本を蓄積させていることが必要な条件であるということになっています。 労働者たちは一緒に作業するのでなければ、そもそも直接に協業することはできないのだから、労働者たちを特定の空間に集めることが、協業の条件である。そのため同じ資本の同じ資本家が、賃金労働をする労働者たちを同時に投入し、彼らの労働力を同じ時間に買い取るのでなければ、労働者たちを共同で作業することはできない。この労働力の全体の価値、すなわち1日あたりまたは1週間あたりで支払われる労働者の賃金に相当する金額が、資本家のポケットの中にまとまって存在していないと、労働力を生産過程において結合することはできない。 300人の労働者に賃金をまとめて支払うには、たとえ1日分にしても、1年間にわたって少数の労働者に毎週の賃金を支払うよりも多額の資本を投下する必要がある。協業して働く労働者の人数、あるいは協業の規模は、さしあたりは個々の資本家が、労働市場において労働力を購入するために投じることのできる資本の額によって決まるのであり、個々の資本家が、多数の労働者の生活手段を支払うことができる金額によって決まるのである。 不変資本の場合にも、[労働者という]可変資本の場合と同じである。300人の労働者を雇用している1人の資本家が原料の購入のために投下する資本は、10人しか雇わない資本家30人が支払う金額の30倍に達する。共同で使用する労働手段の価値の大きさと素材の量は、雇用する労働者の数の増加と同じ比率で増加するわけではないが、かなりの比率で増加する。だから賃金労働をする労働者が協業するための物質的な条件は、個々の資本家の手元にかなり大量の生産手段が集積されていることであり、協業の大きさと生産の規模は、この集積度によって決まることになる。 もともとは、個別の資本に必要な最低限度というものがあった。これは、同時に搾取される労働者の人数が十分に大きくなり、それによって増殖価値が十分に大きくなって、雇い主が手工業から解放され、小親方が資本家になり、そして資本関係が形式的に作りだされるために必要な最低限度だった。そして現在でもこうした最低限の個人資本が、分散され、互いに独立した多数の労働過程を、一つの結合された社会的な労働過程に変容させるために必要な物質的な条件となっているのである。 資本の監督機能 同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。生産場面での資本家の命令は、いまだは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。 すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラには指揮者を必要とする。この指揮や監督や監視や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。 まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に従業する労働者の数の増大につれて彼らの抵抗も大きくなり、したがってまたこの抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に大きくなる。資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなく、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって搾取者とその搾取材料との不可避な敵対によって必然的にされているのである。同時に、賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適当な使用を監督することの必要性も増大する。さらにまた、賃金労働者の協業は、ただ単に、彼らを同時に充用する資本の作用である。彼らの諸機能の関連も生産的全体としての彼らの統一も、彼らの外にあるのであり、彼らを集めてひとまとめにしておく資本のうちにあるのである。それゆえ、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意志の力として、彼らに相対するのである。 それゆえ、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特有な諸形態を展開する。資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産が開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群れそのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協業する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、マネージャー)や産業下士官(職工長、工場長、監視役)を必要とする。監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとづく植民地農場経営をと比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費に数える。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能と同一視する。資本家は、産業の指揮官がたら資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことである。 第3篇までの内容においては、資本が賃労働者に対して行う指揮は、資本家が賃労働者から彼の労働力を購買したことの「形式的な帰結」(ここでの形式的というのは貨幣が持つ経済的規定の力によって実現されている指揮だからです)として現れたものでしかありませんでした。しかしながら、生産方法としての協業が採用されるやいなや、資本の指揮は労働過程そのものを遂行するための必要事項に、現実的生産条件に発展します。というのも、多くの労働者が同時に労働する協業においては、その社会的形態と関わりなく─すなわち資本主義的生産のもとでの協業であろうと、ピラミッドの建築などの奴隷制社会の協業であろうと─指揮が必要とされていますが、資本主義的生産においては、この指揮の機能が、まさに資本の機能として遂行されるからです。 「バイオリン奏者が独奏するのであれば自分で指揮をすればよいが、オーケストラには指揮者というものが必要である」と。ただし資本家は産業の「指揮者」であるから資本家なのではなく、資本家だから産業の司令官となるのです。つまり、指揮の機能は、資本に固有の機能なのです。そして、それゆえに、特殊な性格を帯びてくるのです。 それは、資本家による指揮は、それが資本の機能として行われることによって、それ以前にはなかった新たな性格を獲得するということです。というのも、資本家による指揮は、たんに協業に調和を与えるためだけではなく、賃労働者から増殖価値を搾取し、資本の自己増殖を可能にするものでなければならないからです。資本家は生産過程においてたえず賃労働者の抵抗やサボタージュの可能性に直面するので、資本家による指揮は、たんに個々人の作業に調和を与え、協業を可能にするために行われるだけでなく、賃労働の抵抗を押さえつけ、サボタージュを防ぐためにも行われなければならないのです。 労働者にとっては、生産手段は他人の所有物であり、協業は労働者自身のうちにあるのではなく外部すなわち資本家から強いられたことです。つまり、労働者にとっては、資本家が計画し、権威により従わせられるものとして、彼ら自身に対立するものです。 とはいえ、現実に資本家が指揮を行う際には、この二つの機能は分けることができず、渾然一体となって現れます。個々の賃労働者は協業を円滑に行うために指揮に従わなければなりません。したがって、資本主義的生産過程では、協業という生産方法自体が賃労働者の従属を促すものとして作用してしまうのです。 そして、資本が一定規模以上となり、手工業の形態から資本制の生産様式に移っていくと、個々の労働者や労働者集団を直接に監督し続ける機能は、資本家から特別な種類の賃金労働者に譲り渡されることになっていきます。軍隊が司令部の下に士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協業する労働者集団も、産業的な士官(支配人、マネージャー)や産業的な下士官(現場監督、工場長、監視役)などを必要とし、これらの人々が労働過程において資本の名のもとに命令を下し、監視することになるのです。 このような指示し監督する仕事は固定化されて、専業となります。 経済学者は資本制的な生産様式を考察する場合には、共同的な労働過程そのものの性格から生まれたこの監督の機能と、この過程の資本制的で絶対的な性格によって必然的に生まれた監督の機能を同じものと考えるのである。資本家は、産業活動を監督するから資本家なのではなく、資本家であるからこそ、産業活動の遂行を命令する者となるのです。 資本制の協業とは何よりも、かなり多数の労働者を資本家の支配監督のもとで同一空間に集めて集団的に作業させることです。労働者が資本家の直接的監督下に置かれることは、それだけですでに以下のような経済的・階級的意味を帯びてきます。 労働者が資本家ないしその代理人による直接の監督下に置かれることによって、生活時間に埋め込まれていた労働時間が生活時間から空間的に分離され、したがって時間的にも厳格に分離され、資本による労働時間管理が初めて可能になるのです。そもそも、資本によって空間的に包摂される以前は、都市の職人たちの労働時間と生活時間とはそれほど厳密に分離してはいなかったし、労働時間も労働強度も労働者自身の裁量にかなり左右されていましたた。生活時間と労働時間とが厳密に分離し、後者が資本の管理下に置かれることによって、いつ労働時間が始まり、いつそれが終わるかが定まり。まさにそのことによって、増殖労働時間を本当の意味で強制できることができるというわけです。増殖価値は何よりも、労働者の労働日の一部が資本家によって領有されることで産み出されるが、このような時間的包摂は、資本制の協業を通じた労働過程の空間的包摂によって初めて現実化すると言えます。 第2に、労働時間をそれ自体として資本の直接の管理下に置くことによって、労働そのものにおける、労働の一定の強度と連続性の維持、資本家にとっての効率性、等々を確保することができるようになります。定められた労働時間の間は、許可された休憩時間以外は常に一定のかなり高いテンポで働くというような労働スタイルは、資本制の協業によって初めて確立されます。それも最初のうちは決して簡単ではなかったでしょぅ。このような労働様式を押しつける過程は労働者側の激しい抵抗をしばしば伴ったのであり、それは自律的職人ないし農民を資本主義的賃金労働者へとつくり変える階級的規律化の過程でもありました。 同じようにもともとは、資本が労働に対して行使する指揮権は、労働者が自分のために働くのではなく、資本家のために、資本家のもとで働くようになったことから生じた形式的な帰結にすぎなかった。しかし多数の賃金労働者が協業して働くようになると、資本は労働過程そのものを遂行する指揮権を握ることが必要となり、これは生産が行われるための実際の条件となる。生産現場での資本家の命令は、戦場での将軍の命令と同じように不可欠なものとなる。 直接の社会的な労働や共同労働が、ある程度まで大規模になると、多少なりとも指揮というものがある。この指揮によって個々の人々の活動が調和するようになり、生産体の自立した器官の運動ではなく、生産体の全体の運動から生まれる一般的な機能を果たすようになるのである。 バイオリン奏者が独奏するのであれば自分で指揮をすればよいが、オーケストラには指揮者というものが必要である。資本の命令で行われる労働が協業するようになると、資本がこのような監督、監視、調整の役割を果たすようになる。こうした指揮の機能は、資本に固有の機能として、特殊な性格を帯びてくる。 まず、資本制的な生産過程を動かす動機であり、定められた目的であるのは、資本の自己増殖をできるだけ大きくするということ、できるだけ大きな増殖価値を生み出すこと、すなわち資本家が労働力をできるだけ搾取することである。しかし同時に雇用されている労働者の人数が増えると、労働者の抵抗も大きくなり、この抵抗を抑えるための資本家の圧力も必然的に強くなる。 資本家による指揮は、社会的な労働過程の本性からして生まれるものである。それに由来する固有の機能であるだけではない。これは社会的な労働過程を搾取する役割を果たすのであり、その土台となっているのは、搾取する者と搾取される原材料[である労働者]との間の抗争が避けられないものとなっているという事実である。また賃金労働者にとっては、生産手段は他人の所有物として現われてくるものであり、こうした生産手段の規模が大きくなるとともに、こうした生産手段が適切な形で使用されるように管理する必要性も高まる。 さらに賃金労働者の協業は、労働者たちを同時に投入する資本のたんなる働きとなってくる。賃金労働者の機能の結びつきと、生産する全体的な組織としての統一性は、労働者のうちではなく、労働者の外部に、すなわち労働者を集めて一緒に働かせる資本の内にある。労働者が遂行する様々な仕事の結びつきは、労働者には観念的には資本家の計画として現われるのであり、実践的には資本家の権威として、賃金労働者の活動を自らの目的のために従わせる他人の権力として、労働者たちに対立するものとして現われる。 このため資本家の指揮をその内容からみると、二重の意味を帯びている。一方では生産物を作りだすための社会的な労働過程という側面があるが、他方では資本の価値の増殖過程としての側面もあるのであり、この指揮は形式からみると専制的である。協業がかなり大規模に発展すると。この専制も独自の形態をとるようになる。 資本がすでに述べた最低限度にまで達すると、資本家は手工業の形態から解放されて、本来の意味での資本制的な生産が始まり、個々の労働者や労働者集団を直接に監督し続ける機能は、特別な種類の賃金労働者に譲り渡されることになる。軍隊が司令部の下に士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協業する労働者集団も、産業的な士官(支配人、マネージャー)や産業的な下士官(現場監督、工場長、監視役)などを必要とし、これらの人々が労働過程において資本の名のもとに命令を下すのである。 監督の仕事は固定されて、専業となる。経済学者は、植民地の奴隷制に基づく農場経営を自営農民や独立した手工業者たちの生産方法と比較する際に、この監督の仕事を生産における無駄な費用として計算する。ところが同じ経済学者が資本制的な生産様式を考察する場合には、共同的な労働過程そのものの性格から生まれたこの監督の機能と、この過程の資本制的で絶対的な性格によって必然的に生まれた監督の機能を同じものと考えるのである。資本家は、産業活動を監督するから資本家なのではなく、資本家であるからこそ、産業活動の遂行を命令する者となるのである。封建時代には、大土地所有のもとに軍事と裁判の最高権限が属していたように、資本制時代には資本のもとに産業活動に命令を下す最高権限が属しているのである。 協業の社会的な生産力 労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取引している間いだは、自分の労働力の所有者なのであり、そして、彼が売ることができるものは、ただ彼がもっているもの、彼の個人的な個別的な労働力だけである。この関係は、資本家が1つの労働力ではなく、100の労働力を買うとしても、またはただ1人の労働者とではなく100人の互いに独立した労働者と契約を結ぶとしても、それによって少しも変うられるものではない。資本家はこの100人の労働者を協業させることなしに充用することもできる。それだから、資本家は100の独立した労働力の価値を支払うのではあるが、しかし100という結合労働力の代価を支払うのではない。独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのではあるが、お互いどうしでは関係を結ばないのである。彼らの協業は労働過程にはいってからはじめて始まるのであるが、しかし労働過程では彼らは自分自身のものではなくなっている。労働過程にはいると同時に彼らは資本に合体されている。協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼ら自身はただ資本の一つの特殊な存在様式でしかない。それだからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は資本の生産力なのである。労働の社会的な生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるのであり、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。労働の社会的な生産力生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのである。 労働者の側から見れば、彼が商品として売ることができるのは、自身がもっている孤立した個人としての労働力です。資本家が1人の労働力を購入するのも、100人の労働力を購入するのも、労働者の側からは変わりありません。また、協業しようがはまいが、それで個人としての労働力の価値、つまり支払われる賃金は同じです。 労働者が社会的な労働者として発揮する生産力は、資本の生産力です。労働者が特定の条件のもとに置かれると、何もしなくても労働の社会的な生産力が生まれてくるのであり、資本は労働者をこの条件のもとに置くのである。労働の社会的な生産力を生み出すために資本はいかなる費用も支払う必要はなく、また労働者が同じ資本のもとに所属する以前には、労働者が社会的な生産力を生み出すことはない。労働の社会的な生産力を生み出すために資本はいかなる費用も支払う必要はなく、また労働者が社会的な生産力を生み出すことはない。そのため。この社会的な生産力(協業)は資本が、その本性として、もともと所有しているように見えてしまうのです。 労働者は労働力の売り手として資本家と市場で取引している間は、自分の労働力の所有者である。ただし労働者を売ることができるものは、自分が持っているもの、すなわち孤立した個人の労働力だけである。資本家が1人の労働力を購入するのではなく、100人の労働力を購入するとしても、あるいは1人の労働者と契約するのではなく、互いに独立した100人の労働者と取引するとしても、このことに変わりはない。資本家はこの100人の労働者を協業させずに働かせることもできる。だから資本家は100人の独立した労働者の価値を支払うのであるが、100人の協業する労働者の労働力の価値を支払うことはない。 このため労働者が社会的な労働者として発揮する生産力は、資本の生産力なのである。労働者が特定の条件のもとに置かれると、何もしなくても労働の社会的な生産力が生まれてくるのであり、資本は労働者をこの条件のもとに置くのである。労働の社会的な生産力を生み出すために資本はいかなる費用も支払う必要はなく、また労働者が同じ資本のもとに所属する以前には、労働者が社会的な生産力を生み出すことはない。そのため、この社会的な生産力は資本がその本性として所有しているかのように、資本に内在した生産力であるかのように見えるのである。 協業労働の効果 単純な協業の効果は、古代のアジア人やエジプト人やエルトリア人などの巨大な工事にみごとに現われている。 「過去の時代には、これらのアジア諸国は、行政費や軍事費を支弁したあとになお生活手段の余剰をもっていて、それを奢侈や実用の工事のために支出することができた。ほとんどすべての非農耕人口の手と腕とに及んだ彼らの命令権と、かの余剰にたいする君主と僧侶階級との排他的処分権とは、彼らが国土をいっぱいにしたあの巨大な記念物を建造するための手段を彼らに与えた。…巨大な像や大量の物が運搬されたことは人を驚かすものであるが、それらを動かすにあたってはほとんどただ人間の労働だけが惜しげもなく用いられた。労働者の数と彼らの労苦の集中だけで十分だった。たとえば、われわれは、たとえ各個の沈積物は貧弱で微小でも巨大な珊瑚礁が大海の深みから隆起して島となり陸地を形づくるのを見る。アジアの王国の非農耕労働者たちは、自分の個人的な肉体的な苦労のほかには、工事に寄与するべきものをほとんどもっていないのであるが、しかし彼らの数は彼らの力なのであって、この大群を指揮する権力があの巨大な工事の原動力となったのである。労働者たちが生きて行くための収入が1つまたは少数の手に集中されていたということこそが、あのような事業を可能にしたのである」。 このような、アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政者などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは、彼が単独な資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらないのである。 協業は、たとえ単純なものであっても、巨大な成果をもたらすことは、古代の巨大建造物をみればあきらかです。古代のアジアなどの国では君主や神官が強大な支配力をもっていたので、膨大な数の人々に命令して、巨大な建造物を生み出すことができました。このような営みが可能となったのは、労働者たちが生きていくために必要な収入が、君主や神官などの1人または少数の人々の手に集中されていたからです。 このような古代の君主や神官の権力が、近代社会では資本家に引き継がれることになりました。資本家が個人として現れようとも、株式会社のような結合した資本家として現れようとも、この点では変わりありません。 単純な協業の効果がどれほど巨大なものであるかは、古代のアジア、エジプト、エルトリアなどの巨大建造物などが明らかにしている。「かつてはこれらのアジア諸国には、行政の費用と軍事費を支払った後にも、まだ生活手段が余分に残っていたので、豪華な建物や有用な建物のために支出することができた。君主と神官階級は、農民以外のほとんどすべての住民の手と腕に対する命令権と余剰の生活手段の排他的な処分権を所有していたので、巨大な記念建造物を建設する手段を持つことができ、国中にこうした建物を建設したのだった…驚くほどに巨大な立像や重いものを輸送することができたが、こうした輸送に携わったのは人間であり、人間の労働が惜しみなく投入されたのである。労働者の数とそその労苦を集中するだけで足りた。あたかも大洋の深海から巨大な珊瑚礁が成長して島となり陸地を形成するのを目撃するかのようである─個々の沈積物は小さく、弱々しく、取るに足らぬものであったとしてもである。アジアの王国では、農民以外の住民は自分の身体的な苦労の他には仕事に使えるものがなかったが、その数の多さが力となったのであり、この膨大な数の人々にたいする命令権こそが、巨大な建造物を生み出したのである。このような営みが可能となったのは、労働者たちが生きていくために必要な収入が、1人または少数の人々の手に集中されていたからである」。 このようにアジアやエジプトの王たちの権力が、そしてエトルリアの神政者の権力が、近代社会では資本家に引き継がれたのである。資本家が単独の資本家として現われようとも、株式会社の場合のように、結合した資本家として現われようとも、このことに変わりはない。 協業の歴史的な発展 人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同体の農業で、支配的に行われているのが見られるような、労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとづいており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れていないように個々の個人が種族や共同体の臍帯からまだ離れていないことにもとづいている。この二つのことは、このような協業を資本主義的協業から区別する。大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われているが、これは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいている。これに反して、資本主義的形態は、はじめから、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提している。とはいえ、歴史的には、それは、農民経営にたいして、また同職組合的形態をそなえているかどうかかかわりなく独立手工業経営にたいして、対立して発展する。これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの特別な歴史的な形態として現われるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別する歴史的な形態として現われるのである。 協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現われるように、協業そのものも、個々別々な独立な労働者や小親方の生産過程に対立して資本主義的生産過程の独自な形態として現われる。それは、現実の労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化である。この変化は自然発生的に起きる。その前提、同じ労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用は、資本主義的生産の出発点をなしている。この出発点は、資本そのものの出現と一致する。それゆえ、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現われるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的な形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現われるのである。 これまで考察してきたその単純な姿では協業は比較的大規模な生産と同時に現われるのであるが、しかし、それは資本主義的生産様式のある特別な発展期の固定的な特徴的な形態をなすものではない。それがほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてであり、またある種の大規模農業においてである。その大農業というのは、マニュファクチュア時代に相応したもので、本質的にはただ同時に充用される労働者の数と集積された生産手段の量とによって農民経営から区別されるだけである。単純な協業は、分業や機械が重要な演ずることなしに資本が大規模に作業をするような生産部門では、つねにその部門の主要な形態なのである。 協業の単純な姿そのものはそのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現われるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのである。 生産労働における労働は、例えばインド文明の共同体の農作業で、すでに行われていました。この場合、人々は共同体を離れて生活することは難しく、生きるためには協業するしかなかったといえます。この点では、近代の資本制的な生産では労働者は自由に移動でき、自由に資本家と労働力の売買を選択することができるという点で違います。 インドの農村が古代や中世では、大規模な農地での農奴制や奴隷制といった直接的な支配と隷属の関係を土台にした協業が行われました。近代の資本制的な協業は、これらのような形態と対立する形で発展し、特別な歴史的形態として生まれたものです。 協業によって発展してきた労働の社会的な生産力は、資本の生産力として現われてきました。協業こそが、実際の生産過程で資本制的な生産様式となって生じた最初の変化なのです。この変化が起こるための前提条件は、多数の賃金労働者が同じ労働過程に同時に雇用されることであります。規模が大きくなること、資本という蓄積が生まれたことと同じことです。 このため、「資本制的な生産様式は、労働過程が一つの社会的な形態に変容するための歴史的な必然性として登場」したとマルクスは言います。資本は、生産力を向上させ、さらに大きな利益をあげるために、この協業という形態を、さらに利用していきました。 ここまで見てきたのは単純な協業です。古代や中世の協業とくらべると、協業の形は変わっていません。しかし、資本制的な生産では、これが発展して分業や機械が重要な役割を果たす協業が現われてきます。 同じ資本家の監督下で基本的に同じ労働を行う作業集団という形態は資本主義的協業の最初の最もプリミティブな形態であり、これを仮に消極的協業と呼ぶことにします。 協業のこの消極的段階でも様々な「効果」を発揮しうるのですが、しかし協業という形態は、集団でないとできないタイプの労働を行う場合には不可欠の形態です。重いものを数人で協力して運ぶ場合や、季節的ないし時間的に集中して行わなければならない作業を一斉に行う場合などです。これを積極的協業と呼ぶとすれば、これは「協業」という言葉によりふさわしい、本来の協業であると言えるでしょう。そしてこのような積極的協業を通じて労働生産性の向上が達成されることになるのですが、その場合なおのこと、労働者の主体的な協力関係と共同性を必要とし、したがって、客体化された労働者の外的配置という資本主義的協業の本質的側面と深刻に矛盾します。 この積極的協業は、生産様式の次の段階への、すなわち分業への架け橋にもなるものです。なぜなら、労働者集団が一個の有機的な全体として労働を行う場合には、通常、その内部で作業の何らかの機能的分化もまたただちに始まるからです。たとえば、大きな重いものを集団でいっせいに持ち上げるとき、そのどの部分を担うかという点においてすでに一定の分業が潜在的に起こっています(水平的分業)。またその重いものを持って運ぶ際には、持ち手の位置の違いから、前を向いて歩くもの、後ろを向いて歩くもの、横歩きするものなどの相違が当然に生じるでしょう。しかし、このような分業は一時的であり、また他の人の作業形態との違いはごくわずかです。 この積極的協業においては、協業労働者のあいだで一定の水平的協業が起こっているだけでなく、実際に作業を行う者たちとそれを指揮する者とのあいだの分業も生じています(垂直的分業)。たとえば、重い荷物を運ぶ時に、「せーの」と掛け声を上げて全体を指揮する者がある程度自然発生的に必要になるでしょう。この者は普通は同じ作業者ですが、集団が大規模になればなるほど、また作業内容が複雑になればなるほど、それを全体として統合し指揮し監督し調整する等々の独自の機能(指揮管理機能)が必要になり、この指揮管理機能を専一的に担う独自の管理者ないし監督者が機能的に一定必要になってきます。そして、資本制生産様式では、このような管理者は必然的に資本家ないしその代理人が担うことになります。このように、資本のもとでの指揮管理機構はそれ自体独自の二重性を帯びることになります。つまり、一定規模以上の協業において必ず必要になる指揮監督の生産的機能と、労働者からできるだけ多くの増殖労働時間を確保するための管理統制の階級的機能です。 そして、協業の発達は単に、生産手段を節約したり、競争を組織したりすることに作用するだけにとどまらず、この生産様式にふさわしい労働者のあり方と労働空間のあり方をも規定していきます。 労働が協業的なものになることによって、労働者は個別的労働者から集団的労働者(あるいは全体労働者)の一員となってゆくのです。協業が消極的な段階である場合には、この集団的労働者はただ個別的労働者の寄せ集めであるにすぎません。しかし、協業が消極的なものから積極的なものになるにつれて、集団的労働者は単に集合的なものから有機的で相互依存的なものへと発展していきます。たとえば集団で物を持ち上げるとき、もはや労働者は単独で労働者として意味をなさないのであり、物を持ち上げる集団全体の一分子としてのみ労働者としての役割を果たし得る。このような労働のあり方を結合労働と呼ぶ。 このような結合労働は、後で見る分業とマニュファクチュアにおいていっそう高度な発展を遂げることになりますが、その最初の段階はこの積極的協業において見られるのです。そして、この労働者集団が独自につくり出す生産力はこの労働力に対して支払うのではない。両者の差額は資本家によって獲得される無償の贈り物となるのです。 またこのような集団的生産力は、資本の支配のもとに労働者が集められ、資本家の指揮のもとに行われる集団作業から生まれるので、この独自の生産力は、結合労働者の生産力として現われるのではなく、資本の生産力として転倒的に現われます。 また、多くの労働者が一つの空間に集められて共同の作業を行う限りで、独自の集合的な労働空間である作業場が必要となるのであり、これは資本による空間的包摂によって物的な器となる。この作業場はそこで行われる生産規模が大きくなるにつれ、工場としてより自立した形態をもつようになり、後で考察する機械制大工業においては大工場へと物的により自立した形態を持つようになります。 労働過程における協業は、狩猟民族のような人類の文化の初期の段階にも、インドの共同体の農業においても支配的なものだったが、こうした協業は一方では生産条件の共有に依拠するものであり、また他方では1人1人の個人が、部族や共同体の<へその緒>から切り離されていないことに依拠するものである。あたかも個々の蜜蜂の個体が、蜂の巣から離れることができないのと同じである。この二つの要素が、古代の協業と近代の資本制的な協業と区別する。 大規模な協業活動の応用は、古代でも中世でも、そして近代の植民地でも散発的に行われてきたが、こうした応用は直接的な支配と隷属の関係に依拠するものであり、多くの場合は奴隷制に基づいたものだった。これに対して資本制的な協業形態は最初から、みずからの労働力を資本に売る自由な賃金労働者に依拠している。ただしこの資本制的な協業は歴史的には、農業経営や独立した手工業経営(同職組合的かどうかを問わない)と対立する形で発展してきた。こうした農業経営や独立した手工業経営と比較すると資本制的な協業は、一つの特別な歴史的形態の協業として登場したのではなく、資本制的な生産過程に特有の、それまでの形態とは異なる特別な歴史的な形態の協業として登場したのである。 協業によって発展してきた労働の社会的な生産力は、資本の生産力として現われてきた。同じように協業そのものも、孤立した労働者や小親方たちによる生産過程と対立しながら、資本制的な生産過程に固有の形式として登場してきた、協業こそは、実際の生産過程が資本に従属することによって生じた最初の変化なのである。この変化は自然発生的に起きる。この変化が発生するための前提条件は、多数の賃金労働者が同じ労働過程に同時に雇用されることであるが、これこそが資本制的な生産の出発点である。この出発点は、資本そのものの登場と同じことを意味する。 このため資本制的な生産様式は、労働過程が一つの社会的な形態に変容するための歴史的な必然性として登場するのであり、他方では資本は労働過程の生産力を向上させながら、さらに大きな利益が得られるように労働過程を搾取するために、労働過程のこの社会的な形態を利用するのである。 これまで考察してきた単純な姿の協業は、かなり大規模な生産活動と結びついたものであるが、これは資本制的な生産様式の特別な発展時期を示すような固定的な特徴を示す形態ではない。こうした協業は、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアに、これに近い形で登場しているのである。さらにマニュファクチュア時代に登場したある種の大規模農業にも、これに近いものが見られる。こうした大規模農業とそれまでの農民経営の違いは、同時に投入される生産分野においては、つねに支配的な形式として登場したのであり、こうした協業ではまだ分業や機械類は重要な役割を果たしていないのである。 協業は資本制的な生産方法の基本的な形態ではあるが、このような単純な姿は、このような姿は、さらに発展した形態と並存する特定の形態にすぎないのも明らかである。
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