ジェーン・オースティン
『分別と多感』を読む
 

1.はじめに

2.あらすじ 

3.『分別と多感』を読む体験  

4.『』の多彩な魅力 

(1)悲劇としての『』 

 

1.はじめに

ジェーン・オースティンの6篇の長篇小説のうち、『分別と多感』は最初に出版された作品だと言われています。そのためか、若書きの気負いといいますか、多くの作家に初期作品に見られるギクシャクとした生硬さが散見され、後年の『高慢と偏見』などのような成熟した味わい深さに欠けると言われることがあります。中にはオースティンの作品の中でも出色の出来栄えと言えるとこも光るところがあるような優れたところも混在しているものの、部分的にとどまっている。それは初期作品ゆえに、作者が不慣れで、創作意欲に技量が追いついていない、そういうチグハグさゆえに、この作品を、とくに愛するファンも少なくない、というような紹介をされていることもあります。

しかし、生硬さとかギクシャクしているところと紹介されているところは、私には作家の初期作品ゆえの技巧の未成熟のせいではなくて、むしろ意図的に、そのように作品が作られていて、そのギクシャクしたところが、この作品の特徴であり、他のオースティンの作品にはない、この作品のユニークな魅力ではないかと思うのです。それは、これから、実際に作品を細かく読んでいくと、自然とあぶり出しのように浮かび上がって見えてくるものですが、ここでは、簡単に概説して置くことにします。そして、それを念頭において作品を読んでもらうと、漫然と読んでいては見えてこないものが、見えてくると思います。

では、そのような特徴とは、どういうことか、それについては、この作品を、突飛な喩えですが、音楽、具体的にいうと、ヨハン・セバスティアン・バッハの晩年の傑作『音楽の捧げもの』になぞらえることができると思っています。『音楽の捧げもの』という作品は、バッハがフリードリッヒ大王の宮廷に招かれて、大王の提示した取るに足らないようなテーマを題材に技巧を尽くした結果、出来上がった対位法の究極の姿のような作品です。オースティンの作品についての喩えとしては大仰すぎるかもしれませんが、オースティンの作品について、このような見方をしている人はあまりいないようなので、敢えて強調する言い方を試みました。これは、『分別と多感』に限らず、オースティンの作品に共通して見られる特徴なのですが、『分別と多感』には特に、それが前面に表われていて、作品自体の魅力の大きな要素となっていると思えるからです。それでは、簡単に、その特徴について説明していきましょう。

(1)まず第一に言えることは、この作品はパロディの要素があるということです。前作の『ノーサンガー・アビー』は、当時流行していたゴシック小説のパロディとして、作品の中にゴシック小説を揶揄するような表現が随所に見られるものでした。そして、この『分別と多感』は、『ノーサンガー・アビー』のようにあからさまではありませんが、恋愛小説のパロディとしての要素が見られます。例えば、ヒロインの一人であるマリアン・ダッシュウッドは、ロマン主義の詩や小説を読み耽った挙句、小説の場面を誂えたように出会ったウィロビーに夢中になってしまいます。これは、『ノーサンガー・アビー』で目の前の現実を見ようとしないで、ゴシックの物語の幻を見ようとするキャサリンと変わりありません。

このように、オースティンが2作も続けてパロディを試みるのは、伊達や酔狂ではなくて、オースティンの作品の本質に通じているからではないかと思います。それは、オースティンの小説というのはテクスト主義でなりたっているといえると思うからです。話はかわりますが、オースティンの小説は、リアリズムだといわれています。そのリアリズムというのは、簡単に言えば、現実を見たままに描くということだということです。例えば、絵画であれば、いろいろな絵画の様式があるけれど、そういうものを放り出して、まず自分で見ているものを、そのまま描いてみる。そういうものでしょう。日本画などでは、実際の花を写生するのではなくて、先人の描いた花の絵をお手本にそれらしく描く粉本ということか行われていました。リアリズムは、そういうのを否定して、目の前の現実を見ろというものです。しかし、オースティンという作家は、現実を直接見るというよりは、すでに書かれているテクストを見て、現実というのをどのように描いているかという表現のサンプルをたくさん取りだしてきて、それを批判的に評価して、取捨選択した表現を組み合わせて、いかにも現実を表現しているように見える表現を再構成していったように見えるのです。そのプロセスで、既存の表現を批評的に見るプロセスでパロディという手法が必要だったのではないかと思えるのです。この場合、オースティンにとっては、オリジナルな表現というのは、あまり意味を持たない。読者にとっては、既存の馴染み深い表現の方が、受け入れ易いわけですから、それをうまく使って、リアルだと思わせる効果を生めばいいわけです。オースティンのリアリズムというのは、そういう性格のものだったのではないかと思えるのです。だから、自然と受け入れられた。

(2)第二に、この作品は音楽でいうところの主題とか動機というテーマ(メロディ)を変形させたり、組み合わせたりして展開させていくのと似た手法で構成されているという点です。例えば、ダッシュウッド姉妹がそれぞれエドワードとウィロビーを思って、相手に騙されるといのは、同じパターンです。それを対照的に並べたり、入れ替わりスポットを当てたりします。あるいは、婚約ということが、マリアンとウィロビー、エリナーとエドワード、ルーシーとエドワードなどの様々な関係の中で取り上げられて、それぞれの中で意味合いが変化し、その捉え方の違いがドラマを男女のすれ違いやドラマを生んでいくというつくりになっています。この場合、複雑に絡み合う構成そのものがドラマをつくっていくのです。そこで、人物たちが、勝手に動き回ってしまうと、複雑な構成がまわらなくなってしまいます。そのため、登場人物の行動は、どうしてもギクシャクしてしまうのです。それは、さきになぞらえた『音楽の捧げもの』では、対位法の複雑な構成を聞かせるためにテーマとなるメロディが、あまりに魅力的すぎると聞く人の注意はメロディだけを追いかけることになって、構成の綾に注意を払わなくなってしまうので、メロディは拙いものとなっているのと似ています。『分別と多感』では、テーマの組み合せや展開に凝っているので、マリアンやエリナー、エドワードなどの人物たちは将棋の駒のように、決まり通りに動くだけのほうが都合が好いのです。これは、(1)で見たこととも関連するのですが、既存の様々なツールを使いまわして、読者に最大限の効果を与えるということで、そのための手段としてリアリズムというのもあるとおもうのですが、この物語がつくられていると思うのです。

ちなみに、リアリズムが効果的というのは、例えば、恋愛の話を進めていて、実際にこういうヤツっているよねという、今でいう、恋愛あるある、というような話を小説の中に織り交ぜているということではないかと思います。絵空事を夢見るようにして読むのではなくて、あるあると笑ったり、身につまされながら読むということをオースティンは、甲かとして考えた。それがリアリズムという表現となったのではないか、と考えられます。

(3)この小説の恋愛には二人のヒロインがいます。つまり、恋愛小説といいながら、その恋愛は二つあるのです。エリナーとマリアンという姉妹の恋愛が、同じパターンで進みます。それは、それぞれを単独でひとつの話として独立させているのではなく、二つを合わせて、ひとつの話になっていると言えるのです。エリナーの恋愛は、マリアンの失恋なしには成立し得なかったし、マリアンも逆にそうです。『音楽の捧げもの』を聴いてみると、テーマのメロディ自体は魅力的ではないのですが、対位法の手法で、例えばカノンといって同じメロディを少しずらして重ねて聞くと深遠なメロディに聞こえてくるところがあります。これは、『分別と多感』もそうで、姉妹二人が、同じ時期に恋に破れて、互いにそのことを打ち明けられずいながら、慰めあい傷つけあうというストーリーが、それぞれの恋愛に物語としての厚みを与えているのです。さらに、エリナーとマリアンの二人の姉妹を、それぞれ単独で取りだして、その行動や性格をじっくり観察してみると、とても現実にいそうな人物とはいえず、かなり極端なことが分かります。マリアンは、多感なタイプで感情のままに行動するロマンチックな恋愛小説のヒロインのカリカルチャのような人物ですが、エリナーも恋敵でもあり平気で嘘をつくようなルーシーとの約束を守って、自身の悲しみや家族との関係を犠牲にしてまでルーシーのためにエドワードの婚約の秘密を守るというのは、たしかにけなげで誠実ですが、いきすぎで、現実にはありえない極端な教条主義といえます。そういう極端な二人が、重なり合うように、恋愛をして、相手に騙されるという同じことを互いにくり返し、それを互いに見て、慰めあうことで、それらが輻輳し、極端であるはずのそれぞれの恋愛が、相対化され、恋愛が絶対ではなくて、人の様々な関係や行動の中で恋愛もあると見えて、そこで映えてくる。その結果、エリナーの恋愛は成就されるのですが、それが、現実に妥当で、ありえる話に見えてくるのです。そういう関係の構造として、その一部に恋愛があるということが、この『分別と多感』といういささか図式的な物語だからこそ、表わすことができているといえるのです。

以上のことを頭の片隅に置いて、小説を読んでみると、ちょっと違った面白さが見えてくると思います

 

2.あらすじ

その体験をするまえに、予備知識として、簡単に小説のあらすじを紹介しておきます。オースティンの他の小説ではヒロインを中心としたラブストーリーを柱に小さなエピソードが周辺で起こるというシンプルなストーリー構成なのに対して、『分別と多感』は姉妹のそれぞれのラブストーリーが交錯し、それぞれが三角関係をつくり、しかも登場人物が多く柱のラブストーリーにコミットしてくるという複雑なものです。したがって、他の作品に比べてあらすじのボリュームが大きくなります。

サセックス州の大地主であるダッシュウッド家の主人は指定相続人である息子ジョンに義母─ダッシュウッド夫人─と腹違いの娘たち─ヒロインのエリナーとマリアンとその妹─後援を頼みこみつつ死亡してしまいます。しかしジョンは妻のファニーに言いくるめられ、一家の財産を結局はびた一文渡さなかっために、後妻であるダッシュウッド夫人とその娘たちは客の立場に立たされただけでなく、期待していた援助を全く受けられません。ファニーの弟のエドワードはやがて同居することになりますが、長女のエリナーと互いに惹かれ合うようになります。その、エドワードには多大な財産を相続できる可能性がありました。ファニーは、その二人の仲を財産を横取りされるものと危惧して嫌がらせをします。それで、折り合いが悪くなったダッシュウッド夫人たちは、従兄妹のサー・ミドルトンの後援を得られることになり、屋敷を離れてデヴォン州のバートン・コテージに引っ越しました。こうして婦人と娘たちはバートン屋敷に住むミドルトン夫妻や夫人の母ジェニングス夫人、サー・ミドルトンの友人ブランドン大佐、ジェニングス夫人の遠縁の知り合いスティール姉妹たちと交際するようになります。

ある日マリアンは、家の近くの丘を駆け下りているとき、躓いて転倒してしまいます。ちょうど通りかかったウィロビーがメリアンを助け起こして、コテッジまで連れて行き、これをきっかけに、資産家ではないが、やがて叔母の財産を相続できるという美男子で才気溢れるウィロビーに、マリアンは情熱的な恋に陥ります。一方でブラントン大佐もマリアンに恋をし、拒絶されながらも一途に思い続けることになります。社交好きなミドルトン夫妻を中心に一同は社交を続けるが、突如ブラントン大佐はロンドンへ旅立ち、やがてウィロビーは理由も分からずに去っていってしまいます。そのため、メリアンは心に痛手を負います。

ミドルトン夫妻の母親であるジェニングズ夫人にエリナーとマリアンは気に入られ、夫人が年末にロンドンへ帰ることになると、2人は招待されます。エリナーは消極的でしたが、ロンドンでウィロビーに会える期待でマリアンに押し切られて招待を受けました。マリアンは、ロンドンでウィロビーに再会しますが、ウィロビーは資産家の令嬢との結婚が決まっており、すげない態度を取られ、挙句絶縁の手紙を受け取るとマリアンは絶望する。ブラントン大佐はウィロビーが自分が親代わりに保護している女性を捨てたことを知っており、そのことをエリナーにのみ明かし、ウィロビーとマリアンが婚約しなかったことを安堵させるのです。一方でエリナーはスティール姉妹がロンドンに滞在するミドルトン夫人に気に入られたために付き合いが出来た。スティール姉妹の妹であるルーシーはエリナーに自分はエドワードの婚約者であることを知らせ、エドワードに愛されているとその証拠をそっと見せるのでした。そのため、エリナーはエドワードを諦めざるをえなくなります。エドワードにはすでに母と姉が資産家の女性との縁談をお膳立てしていたため、ルーシーと婚約していることがばれると、母と姉から婚約を破棄するように迫られるがそれを拒絶したために勘当されてしまいます。ブラントン大佐はそれを知ると自分が持つささやかな聖職禄をエドワードに提供することをエリナーに告げます。

ロンドンに滞在している意味がなくなったダッシュウッド姉妹は母の元に帰りたくなるのですが、ジェニングズ夫人は姉妹を気に入っているため、返したくない。そのため妥協案として姉妹の住んでいる場所に近いパーマー夫妻の屋敷にジェニングズ夫人と共に滞在する案が示され、姉妹はそれを受けた。しかしマリアンはそこで心労から病になってしまい、一時は生命の危機かとも思われ、ブラントン大佐が母親のダッシュウッド夫人を迎えにいきます。しかし屋敷に入ってきたのはウィロビーであった。ウィロビーは自分の過ちのためにブラントン大佐の保護している女性を無下に捨てた形となり、そのためにブラントン大佐が怒ったため、その話がスミス夫人というウィロビーに遺産を残してくれそうな女性に知られ、その話がなくなったこと、そしてそのため金のために結婚する羽目になったこと、マリアンをまだ愛していること、などをエリナーに伝えるのでした。しかし、エリナーはウィロビーをマリアンに会わせず、ウィロビーは帰ります。

やがてルーシー・スティールが結婚したことを知るがその相手がエドワードでなく弟のロバートであったことをエリナーの許にやってきたエドワード本人から知らされます。エドワードは自分が過去の成り行きからルーシーと婚約したこと、そして愛を失いながらも誠実さのために婚約を破棄しなかったこと、しかしルーシーは去り、エドワードの代わりに莫大な資産を受け取ったロバートが兄に対するあてつけのためかルーシーと結婚したことを伝えたのでした。エリナーはエドワードと結婚し、ブラントン大佐から与えられた聖職に付き、勘当を取り消されます。やがてマリアンも周囲の圧力もあり、一途に愛してくれていたブラントン大佐と結婚し、大団円となります。

 

3.『分別と多感』を読む体験(引用はちくま文庫の中野康司訳より)

 第1章

物語の本筋は第2章から始まり、第1章は物語のプロローグのようで、語り手が物語の始まる状況、つまり設定が込み入っているので、その説明と人物の簡単な紹介となります。

オースティンの小説は、印象的な始まり方をするものが多く、例えば『説得』では主人公アンの父親エリオット氏のウィットに富んだ紹介だったり、『マンスフィールド・パーク』ではサー・トーマスと家族の会話で物語の舞台を読者に分からせてしまうものだったり、『ノーサンガー・アビー』では小説を揶揄するような口調でユーモラスにヒロインを紹介したりなのですが、この『分別と多感』の始まりは、それらの作品に比べると複雑な事情を要領よく説明するためなのか、事務的、悪く言うと平板に感じられます。この後に続く第2章では、ジョンとファニーの夫婦の間の財産分与に関する会話を、いかにもおーすてぃんらしい皮肉に富んだ描写で話が進み始めるのですから。

ところで、オースティンの主要作品は6篇の小説です。その中で、この『分別と多感』は最初に出版された小説です。最初は自費出版で世に出た『分別と多感』は人々に好評をもって迎えられ、オースティンの小説家としてのキャリアのスタートになった作品です。処女作といえる『ノーサンガー・アビー』は当時の流行だったゴシック小説のパロディの性格が強く、小説の中で小説とは何かを議論したりするメタ小説的な要素があったり、小説の語りを様々に試すといった実験的な作品、習作のような作品でした。したがって、オースティンの小説に読者が抱く一般的なイメージ、すなわち、ホームドラマとして狭い範囲の人間模様を日常生活のなかで描写する、とくにヒロインの心の機微を繊細に描いたという作品としては、この『分別と多感』が最初の作品です。しかも、この作品は他の作品に比べて登場人物が多く、しかも錯綜しているところがあります。さらに、ヒロインと家族の境遇についても、ややこしいところがあって、その境遇が物語を生んでいく契機のひとつとなっているので、それらを最初に読者に理解してもらう必要がある。また、実質的な第一作として、読者に受け容れられることを考えなければならない。といったことから、この後の人気作家として、ある程度読者を振り回すこともできるようになった後の作品とは違うという事情があると思います。そのような手探りの状態で始めたというのが、この第1章で、まずは、リスクを避けて手に取った読者が戸惑わないで、安心して読めるようにしよう、という始まりではないかと思います。

この物語の前提となる複雑な事情とは、まずは先代に遡ります。ダッシュウッド家はサセックス州ノーランド荘園の名門で、先代の甥ヘンリー・ダッシュウッドは1人暮らしをしていた先代を慰めるために同居していまする。そのヘンリーには後妻との間に3人の娘、つまりもこの物語のヒロインであるエリナーとマリアンとその妹のマーガレット、がいるのですが、家族に残してやれる財産は7千ポンドしかない。これが「限嗣相続」という当時のイギリス独特の相続制度です。この制度はオースティンの他の作品、例えば『高慢と偏見』でも物語の設定に際して重要な鍵となっているものです。要するに財産の相続権は男子にしか認められていないのです。したがって、ヘンリーが亡くなってしまうと母娘は、父親もしくは夫という後ろ盾なくしてしまうことになり、経済的にも社会的地位においても非常に不安定な状況に追いやられてしまいます。彼女たちの立場は脆弱なものなのです。一方、ヘンリーには、先妻との間に息子のジョンがいて、成人に達したとき、母親の莫大な遺産の半分を受け継いでいます。先代が亡くなると、遺言状が開封されました。それによると、ノーランド荘園はヘンリーの在世中はヘンリーのものとなるのですが、彼の死後は、3人の姉妹にそれぞれ1千ポンドが遺贈されるだけというものでした。すると、後に残される妻と娘たちには1万ポンドしか残らないのです。これは、『高慢と偏見』の父親が亡くなれば屋敷を出ざるを得ないベネット家の状況とそっくりです。ただ違いは、そのような目に会う前に幸運にもエリザベス達は相応しい伴侶(エリザベスはダーシー氏に、ジェインはビングリー氏に)に巡り会うことができ、経済的不安から解放されました。もし運が悪ければ、ダッシュウッド姉妹を待ち受けているのは、『エマの』ベイツ嬢のような窮状かもしれないのです。しかし、ヘンリーは姉妹が伴侶を見つける前に、亡くなってしまいます。家族の行末を案じたヘンリーは今わの際に、ジョンに彼らのあとを頼むと懇願し、ジョンはそれを約束しました。しかし、…。というところから物語がはじまるのです。

ここで、作者は詳細に登場人物の経済状態を説明しています。しかも具体的に金額を特定させています。それがなおさら、説明を事務的な印象にしています。これは、当時のロマンチックな小説が全盛の風潮の中で、かなり異彩を放っていたのではないかと思います。この物語でも、姉妹のうちマリアンはロマンチックな心情の世界の住人で、お金のことには無頓着、というよりも下世話な話と軽蔑しているところがある。そういうことに対する冷ややかな視線、とにかく人は食べていかなければ生きていけない。そのためにはお金が必要。そういう当たり前のことを踏まえてオースティンは小説を書きました。それが、この作品にも大きな底流となっています。そもそも、『分別と多感』という題名には、その前提が含意されているのではないかと思えるところがあります。この小説は、「分別」と「多感」という二つの概念をエリナーとマリアンという姉妹に、それぞれの代表となってもらい対比させることが物語の大きな柱となっています。ただし、オースティンですから一筋縄ではいきません。まずは、その二人の姉妹を、この章のなかで作者によって紹介されています。

長女のエリナーは、すぐれた知性と冷静な判断力をもち、まだ19歳だが、母親の相談役を立派につとめることができた。しばしば軽率な行動に走る母親の気性の激しさを抑えることもできた。一家にとって、まことに頼りになる存在だった。エリナーはまた、すばらしい心の持ち主だった。愛情豊かで、感情も豊かだが、自分の感情を抑制する術を知っている。感情の抑制は、エリナーの母親がこれから覚えなくてはならないことなのだが。ところが妹のマリアンは、感情の抑制などぜったいにおぼえたくないと思っていた。

マリアンの能力と才能は、多くの点でエリナーにまったく引けを取らなかった。姉に劣らず頭が良くて、観察力も鋭い。だが、何事においても情熱的で、悲しみも喜びも激しすぎて、節度を欠くきらいがある。心の広い、気立てのいい、魅力的なお嬢さまだが、唯一の欠点は慎重さに欠けるということだ。(P.12)

この文章を読む限りでは、作品のタイトルである「分別」はエリナーを表し、「多感」はマリアンを表していると思われるかもしれません。しかし、物語をすみ進めていくうちに、人間の性格なんてそう単純に図式化できるものではなく、オースティンがそれほど単純な書き方をするはずがないことが分かってきます。エリナーにも豊かな感情があり、マリアンにもおおいに分別があり、二人の性格は、根本的には、まったく異なっていると言うよりもむしろ似ていることに気づいてきます。モーランド・パーキンズというイギリスの研究者はは、『分別と多感』を論じた“Reshaping the Sexes in Sense and Sensibility”という著書の中で、「オースティンは、マリアンとエリナーを、ただ単に、二人の人生を表すためだけではなく、悲痛な内面の葛藤や分裂した自己を表すために、作り上げているのである。」と述べているそうです。オースティンは、一人の人間の内面の葛藤を表象するために、二人のヒロインを用いたというのです。すなわち,オースティン自身の心の中にある、自由に自分の考えや感情を表現したいというロマン主義的な面と、社会的な責任を重んじ、理性的な行動を取り,節度や均衡を旨とする合理主義的な面を、マリアンとエリナーという二人のヒロインによって、描き出そうとした。つまり、二人は表裏一体のような関係というのです。

 第2章

ヘンリーの葬儀が終わると、ジョンの妻ファニーがノーランド荘園に乗り込んできました。これによって、母娘4人は居候の地位に転落し、生活は激変してしまいます。

ファニー・ダッシュウッドは、三人の義理の妹たちに千ポンドずつ贈与するという夫の考えには断固反対だった。財産が三千ポンドも減ったら、かわいいハリー坊やには将来ひどい貧乏になってしまうというのだ。「その件はぜひ考え直してください」とファニーは必死に夫に訴えた。たった一人のわが子からそんな大金を奪うなんて、一体どういうおつもりなの?だいたいあの三姉妹は、あなたからそんな大金をもらう権利がありますの?あなたとは半分しか血がつながっていないし、そんなのは血縁でも何でもないし、赤の他人と同じですわ。腹違いの子供たちの間には愛情など存在しないというのは、わかりきったことじゃありませんか。それなのになぜあなたは、全財産を腹違いの妹たちに上げてしまうの?ご自分とかいそうなハリー坊やを破産に追い込むような真似をなぜなさるの?

「臨終の床で父に頼まれたんだ。妻と娘たちをよろしく頼むって」とジョン・ダッシュウッドは答えた。

「お父さまは、ご自分のおっしゃっていることがわかっていなかったのよ。亡くなる間際で頭がもうろうとしていたのよ。間違いないわ。もし正気だったら、あなたの財産の半分をあの人たちに上げてくれなんて頼むはずがないわ。あなたの子供のものになるはずの財産ですもの」

「ファニー、父は金額をはっきり言ったわけじゃないんだ。ただ漠然と、妻と三人の娘たちをよろしく頼むと言っただけだ。自分は妻と娘たちの将来のために十分なことをしてやれなかったから、彼女たちが暮らしに困らないようによろしく頼むって。でも、何も言わずにぼくに任せてくれればよかったのにな。まさんぼくが彼女たちをほったらかしにするはずがないじゃないか。でも臨終の床で、約束してくれと父に言われたから、約束しないわけにはいかなかった。とにかくそのときはそう思った。だから約束した以上、約束はまもらなくちゃ。彼女たちがノーランドを出て、新しい家に落ち着くときは、何かしてやらなくちゃ」

「そうね。それじゃ何かしてあげればいいわ。でも、三千ポンドも上げる必要はないんじゃない?お金は一度手放したら二度と戻ってこないのよ。妹さんたちが結婚したら、三千ポンドは永遠に戻ってこないのよ。かわいそうなハリー坊やのために、いつか取り戻せるのから話は別ですけれど─」

「なるほど、それはたいへんな違いだな」夫は深刻な表情で重々しく言った。「そんな大金を手放したことを、ハリーが残念がる時が来るかもしれないな。子供が沢山できて大家族になったら、三千ポンドは大助かりだ」

「そうですとも」

「それじゃ、金額を半分にしたらどうかな。それなら八方丸く収まる。五百ポンドずつでも、妹たちには相当な大金だ」(P.15〜16)

小心者の恐妻家のジョン・ダッシュウッドを強欲の妻ファニーの会話です。いかにもオースティンらしい皮肉たっぷりの夫婦の会話で、物語がはじまるや、作者は絶好調というわけです。ジョンは亡き父ヘンリーの臨終の際に、ダッシュウッド夫人と三姉妹のことをくれぐれも頼まれて、請け負いました。そのときに三姉妹に千ポンドずつ援助しようと考えましたが。ファニーは、それを巧みに半額の五百ポンドに減らし、金額を少なくして年金にすることし、ついには年金案の取り下げと金額を徐々に減らしていって、ついには金銭の援助ではなく、家探しや引っ越しの手伝いをしたり、時々肉や魚を贈ることにしてしまいます。例えば、ジョンが最初に考えていた三千ポンドは相続する遺産の、ほんの一部でしかないはずなのに、それを姉妹に渡したら、子供に残す財産がなくなってしまうというように規模の概念をすり替えていきます。そればかりでなく、本来ならダッシュウッド夫人のものであるはずの屋敷の家具調度や食器などをちゃっかりせしめてしまうことにしてしまいます。ファニーの巧妙さは、自分がジョンに無理強いで合意させたというかたちではなく、ジョンが自主的に提案するように誘導し、最終的には、ジョン自身が納得し、しかも、父との約束を反故にしてしまったことに対して何ら良心の呵責を感じることのないように仕向けてしまったところにあります。

この会話から二人の利己的な人間性と、夫婦の力関係をあぶりだしてしまう、オースティンの巧みさです。オースティンは、後に「マンスフィールド・パーク」の冒頭で、主人公のファニー・プライスを彼女の伯母のノリス夫人がサー・トマスに引き取って養育するように、巧みに誘導させてしまう会話場面で、これを戯画的に洗練させています。

なお、ファニー・ダッシュウッドは「マンスフィールド・パーク」のノリス夫人を想わせる所があるとすれば、母親のフェラーズ夫人が横暴な権力主義者で「高慢と偏見」のキャサリン夫人に通じるのと、エリナーの恋敵となるルーシー・スティールが財産目当てで男性の獲得に躍起となるところは「ノーサンガー・アビー」のイザベラ・ソープに通じるところがありますが、この三人が、いわば「分別と多感」の三悪女といってもいいでしょう。

 第3章

ヘンリーが亡くなって半年が経ちましたが、ダッシュウッド夫人と三姉妹は相変わらずノーランド荘園で暮らしています。居候としての生活は肩身の狭いもので、ダッシュウッド夫人とファニーとの仲は険悪に近くなっています。夫人は転居先を探していますが、なかなか適当なところが見つかりません。そんななかで、ファニーのもとに、その弟のエドワードという人物が遊びに来ていて、三姉妹の長女エリナーとの間に愛が芽生えたので、転居できなくなったと説明されます。

しかし、エリナーとエドワードの出会いとか、どのようにして愛し合うようになったということは書かれていません。考えてみれば、変ですよね。この小説はエリナーとマリアンという二人の姉妹の恋愛が大きな柱になっているはずです。恋愛小説では恋人たちの出会いは、そもそもの始まりで、最初のクライマックスというのが常套です。小説に限らず、現実でも結婚披露宴では新郎新婦のなれそめとか、であったときの第一印象といったことは、必ず語られるものです。つまり、恋愛の話に対して、みなが期待していることなのです。それなのに、オースティンは、まるっきり省略してしまいます。この小説ではエドワードが登場した時には、すでにエリナーと愛し合っていて、しかも、それが母親のダッシュウッド夫人がそれを発見したことを語ることによってなのです。

エドワードがダッシュウッド夫人の目を引くようになったのは、彼がノーランド屋敷に数週間滞在してからのことだった。そのころ夫人は悲しみのどん底にいて、まわりのことにはいっい無関心だったからだ。ただ、物静かで控えめな青年だと思い、その点は好感を持っていた。無神経な会話で夫人の傷ついた心をかき乱すようなこともなかった。夫人があらためてエドワードに注目してさらに好感を抱くようになったのは、ある日エリナーが、エドワードと姉ファニーの違いについて漏らした感想がきっかけだった。エドワードは姉と性格が反対だというエリナーの言葉を聞いて、ダッシュウッド夫人は断然エドワードが好きになったのだ。

「それで十分よ」とダッシュウッド夫人は言った。「ファニーに似ていないというだけで十分よ。それだけで、いい人だってことがわかるわ。私はもうエドワードを愛しているわ」

「彼をもっとよく知れば、きっと彼を好きになると思うわ」とエリナーが言った。

「好きになる?」母親はにっこり笑って答えた。「私はね、好きな人を愛さずにはいられないたちなの」

「彼を尊敬すると思うわ」

「いいえ、尊敬と愛を引き離すことなんて私にはできません」(P.25)

このように、ダッシュウッド夫人から語られるのは、気がついたら二人は恋人同士になっていたということです。その語り方も直接的ではなくて、間接的なほのめかしによってです。おもしろいことに、エリナーとエドワードの恋愛は、この小説の大きな柱であるにも関わらず、直接小説の中で描かれることは少なく、多くの場合、このダッシュウッド夫人の語りのように二人以外の第三者による伝聞として間接的に語られるのです。どうしてなのか、ということは、これが『分別と多感』という小説の構造的な特徴でもあるので、あとでじっくりと考えてみたいと思います。おそらく、作者のオースティンは、意図的にこのように書いているはずです。しかし、この時点では、指摘するだけにとどめておくことにします。そういうことになっている分かっていると、この後で、そういう描写がでてくることに気がつくことができるからです。

そしてまた、ダッシュウッド夫人にとっては、エドワードという人物が、このことによって初めて視野に入ってきたのです。考えてみると、同じ屋敷で数ヶ月暮らしていて、好感の持てる男性であることに、漸く気づかれたというのは、エドワードという人物の存在感が薄いということになります。これは、恋愛小説のヒーローとしては、極めて異質なタイプではないかと思います。この章では、エドワードの人物が簡単に紹介されていますが、それは、こともあろうにダッシュウッド夫人の視点で紹介されます。決して、エリナーの口からエドワードはこんなにすばらしい男性だと語られるのではないのです。

ファニーの弟すなわちエドワード・フェラーズは、たいへん紳士的で感じのいい青年で、姉がノーランド屋敷に移り住むとまもなく未亡人一家に紹介され、それ以来ほとんどの時間をここで過ごしていた。

エドワード・フェラーズは亡くなった大金持ちの長男なので、財産目当てで彼との交際を望む母親もいるかもしれない。ところがわずかな遺産を除いて、全財産は母親の意志次第なので、慎重を期して交際をとめる母親もいるかもしれない。でもダッシュウッド夫人は、どちらの考えにも影響されなかった。彼が心のやさしそうな青年で、娘を愛してくれていて、娘も彼を愛していればそれで十分だった。気が合って好き合っている若い男女を、財産が釣り合わないからといって引き裂くなどというのは、夫人の主義にまったく反することだった。また、エリナーと知り合った男性がエリナーの美点に気づかないなんてことは、ダッシュウッド夫人にはまったく考えられないことだった。

エドワード・フェラーズはとても評判のいい青年だが、容姿も話し方も特別すばらしいというわけではない。けっして美男子ではないし、あまり親しくない人が相手だと態度もぎこちない。内気すぎて自分の良さを十分に発揮できないのだ。でも生まれつきの内気さが取り払われると、たいへん率直な、愛情あふれる心の持ち主だということが、ひとつひとつの振る舞いにはっきりと表われた。それに生まれつきの頭の良さは、教育によって確実に向上していた。ところが残念ながら、母親と姉の期待にこたえるには、能力的にも性格的にもまったく向いていなかった。母親と姉は、何でもいいから彼に出世してほしいと思っている。なんとか世に出て、ひとかどの人物になってほしいと期待している。母親のフェラーズ夫人は、彼が政治に興味を持って政界に入るか、今をときめく大物たちと近づきになってほしいと願っている。姉のファニーも同じ希望を持っている。でもその夢が叶うまでのあいだ、せめて彼がバルーシュ型四輪馬車を颯爽と乗りまわしてくれたら、姉の気持ちもある程度は満足しただろう。ところがエドワードは、今をときめく大物たちにも、バルーシュ型四輪馬車にもまったく興味がなかった。彼の望みは、ひとえに家庭の幸福と静かな私生活にあった。でも幸いにも彼には、母親と姉の期待にこたえそうな前途有望な弟がいた。(P.24)

この紹介を読む限りでは、エドワードはいい人なのでょうが、パッとしません。恋愛小説のヒーローとしてもそうだし、この小説の中の他の男性の登場人物と比べても陰が薄いのです。それは、この後、小説を読み進めて行くと分かります。また、追い討ちをかけるように妹マリアンのエドワード評が紹介されますが、その評価は、むしろネガティブなものです。

「エドワードはすごくいい人だし、私も大好きよ。でも結婚相手としては…何かが欠けている気がするの。容姿もぱっとしないし、お姉さまが本気で好きになる男性なら、もっとはっきりした魅力があってもいいはずだけど、そういうものがまったくないわ。それに、彼には趣味らしい趣味がないんじゃないかしら。音楽にはほとんど興味がなさそうだし、エリナーの絵をすごくほめるけど、絵の価値がほんとうにわかっている人のほめ方ではないわ。お姉さまが絵を描いているときにしょっちゅう見に来るれど、絵のことなんか何もわかってないわ、絵の目利きとしてではなく、恋人としてほめているのよ。私を満足させるには、その両方が備わっていないとだめ、趣味がぴったり一致する男性とでなければ、私には絶対に幸せにはなれないわ。何もかも私と同じ感じ方をする人でなければだめ。同じ本や同じ音楽に、ふたりで一緒に夢中になれなくてはだめ。ね、お母さま、昨夜のエドワードの朗読を聞いたでしょ?単調な棒読みで、情熱のかけらもなかったでしょ?私はお姉さまに同情したわ。でもお姉さまは落ち着き払って耐えていたわね。朗読のひどさに気づいていないみたいに。私はよっぽど席を立とうと思ったわ。私をいつも夢中にさせるあの美しい詩が、あんなふうに読まれるなんて耐えられないもの!あの詩をあんなふうに冷静に鈍感に無感動に読むなんて信じられない!」

「そうね。彼の朗読は、簡潔で気品のある散文のほうが合っているわね。あのときそう思ったわ。でも、おまえがどうしてもクーパーの詩を読んでほしいと言ったのよ」

「でも、クーパーの詩を読んで感激しない人なんて!でも、そうね、趣味の違いってことはあるわね。お姉さまは私と感じ方が違うから、あんな朗読でも気にならずに、彼と幸せにやっていけるかもしれないわね。でも私は、愛する人にあんな朗読をされたら一度で幻滅ね。感受性のかけらも感じられないんですもの。ね、お母さま、私は世の中を知れば知るほど、私がほんとうに愛する人には絶対に出会えないような気がしてきたわ。私はとっても理想が高いの!私の愛する人は、エドワードのようなやさしい心を持ち、しかも容姿も態度もすばらしくて、その善良さを美しく飾ってくれないとだめなの」(P.27)

この引用したところは、エドワードの紹介ということもあるのでしょうが、それよりむしろ、エドワードに対して、このような見方をするマリアンという女性を間接的に紹介することになっている。姉のエリナーとは対照的な性格であることを際立たせている。この後でエリナーがエドワードを語るところが出てきますが、これと対照的なものです。また、マリアンも、この後である男性と恋愛関係になりますが、その描き方は直接的で、恋愛小説の典型的なパターンになっています。その点でも対照的です。その点については、後で、この部分を参照しながら、まとめて考えてみたいと思います。

第4章

ようやく、ヒロインのエリナー・ダッシュウッドが登場します。この章は妹のマリアンとの会話から始まり、二人の姉妹の性格が、それぞれ「分別」と「多感」を象徴していることが、その対照からも明らかにされます。二人の会話はエドワードの評価をめぐってのものです。

「残念ね、お姉さま、エドワードに絵の趣味がないというのは」とマリアンが言った。

「絵の趣味がない?」とエリナーが言った。「なぜそう思うの?たしかに彼は自分では絵を描かないけど、人が描いた絵を見るのは大好きだし、生まれつきの趣味の良さは持っているわ。それに磨きをかける機会はなかったけど。子供のときから習っていたら、とても上手になったと思うわ。彼は絵については自分の判断に自信がないから、あまり意見を言わないの。でも生まれつきの趣味の良さを持っているから、彼の意見はたいてい正しいわ」

マリアンは姉の気持ちを傷つけたくないので、それ以上は言わなかった。でも、エドワードは人の絵を見るのは大好きだとエリナーは言ったけれど、マリアンに言わせれば、そんなものは趣味のうちに入らない。マリアンが考える趣味とは、もっと強烈な喜びをもたらすものでなければならないのだ。「お姉さまは趣味の何たるかがわかっていないわ。趣味にたいするたいへんな誤解だわ」とマリアンは内心笑った。でもその誤解を生じさせた、姉のエドワードへの盲目的な愛は高く評価した。

(中略)

「彼と打ち解けた会話をしたことのある人なら、彼の分別と善良さは誰も疑わないわ」とエリナーはつづけた。「彼のすばらしい知性と道徳心は、彼を無口にさせる内気さによって隠されているだけですもの。あなたは彼の一番大事な長所を正当に評価する程度には、彼を知っているわけね。でもあなたの言う『彼の性格や趣味のこまかい点』は、やむをえない事情で、私ほどには知らないのね。あなたがお母さまのお世話でかかりきりになっているときに、私はたびたび彼とふたりだけで話す機会があったの。それで彼の気持ちや考え方がずいぶんわかったし、文学や趣味に関する彼の意見もたくさん聞いたわ。あえて言うけど、彼はとても教養豊かで、本が大好きで、想像力も豊かだし、観察力も正確だし、趣味もとても繊細で純粋よ。彼の能力のすばらしさは、彼を知れば知るほどわかってくるわ。態度や容姿だってそうよ。最初見たときは、彼の態度はたしかにぱっとしないし、容姿もけっして美男子とは言えないけど、でも、彼のすばらしい目の表情や、やさしい顔つきに気がつくと、見方がずいぶん変わってくるわ。いまでは私は、彼をほんとうに美男子だと思っているわ。少なくとも美男子に近いと思っているわ。ね、マリアン、あなたはどう思う?」

「いまは思わないとしても、すぐに彼を美男子と思うようになるわ。彼を兄として愛してほしいとお姉さまに言われたら、彼の心にも顔にも何の欠点も認めなくなるでしょうね」

エリナーはマリアンの言葉にびっくりし、エドワードのことを熱っぽくほめすぎてしまったことを後悔した。たしかに自分はエドワードを高く評価しているし、彼も自分に行為を持っていくれていると思う。でも、マリアンはすでにふたりの結婚を確信しているようだが、エリナーはまだそこまでは考えていないのだ。もっと確かなものがなければ、結婚までは考えられない。マリアンと母は何かを推測すると、つぎの瞬間にはそれを事実と思い込んでしまう。マリアンと母の場合、願いはすぐに希望に変わり、希望はすぐに期待に変ってしまうのだ。エリナーはマリアンに実情を説明しなくてはいけないと思った。

「私が彼を高く評価していることは否定しないわ。彼を尊敬しているし、好意を持っているわ」

マリアンが憤然としてさえぎった。

「尊敬?好意?お姉さまは冷たい人ね!人を愛することは恥ずかしいことだと思っているのね、その言葉をもう一度使ったら、私は部屋を出て行くわ」

エリナーは思わず笑ってしまった。「ごめんなさい。私の気持ちを控えめに言って、あなたを怒らせるつもりはないの。私の気持ちは、いまの言葉より強いものだと思ってくれていいわ。彼はとても立派な人だし、その彼が私に好意を抱いてくれているかもしれないんですもの。もちろん私も彼に特別な感情を持っているわ。軽率だとか愚かだとか言われない程度にね。でも、それ以上のものだとは思わないで。彼がほんとうに私に特別な好意を抱いてくれているのかどうか、私には確信が持てないの。どの程度の好意なのか、わからなくなるときがあるの。だから、彼の気持ちがもっとはっきりわかるまでは、実際以上のことを考えたり言ったりしたまくないの。そうやって自分の恋心を書きたてるようなことはしたくないの。それが当然だと思うわ。彼が私に好意を抱いてくれているのは間違いないと、内心では思っているわ。でも彼の気持ちとは別に、考えなければならないことがあるの。彼はまだ経済的に独立していないのよ。彼のお母さまがどういう人かわからないけど、お母さまの言動をファニーがときどき話題にしていて、その話を聞いたかぎりでは、やさしい人ではなさそうね。だからエドワードは、間違いなくこう思っているはずよ。たいした財産も地位もない女性と結婚しようと思ったら、いろいろな障害があるだろうって」

マリアンは、母と自分の想像がとんだ早合点だったと知ってびっくりした。

「それじゃ、ふたりはまだ婚約していないの?でも、すぐにそうなるわね。でも婚約が遅れれば、いいことが二つあるわ。私はそれだけ長くお姉さまと一緒にいられるし、エドワードは結婚する前に、絵にたいする生まれつきの趣味の良さに磨きをかけることができるわ。幸せな結婚生活には、趣味の一致はぜったいに必要ですもの。ああ!彼がお姉さまの絵の才能に刺激されて、自分でも描くようになったらすばらしいでしょうね!」

エリナーがマリアンに言ったのは、すべて自分のほんとうの気持ちだった。自分とエドワードの愛が、マリアンが思っているほど順調に実を結ぶとは考えられないのだ。ときどき彼の熱意が感じられなくなるときがあるのだ。それは無関心を示すものではないにしても、見込みのなさを物語っている。もしかしたら、彼はエリナーの愛情に確信を持てないでいるのかもしれない。でもそれは、彼に不安以上のものをもたらすはずはない。彼がたびたび襲われるあんな無気力な状態を生むとは考えられない。愛情のままに結婚するわけにはいかないという経済事情が、もっと大きな利用なのではないだろうか。エリナーが聞いたところでは、フェラーズ家の財産は彼の母親がすべて握っていて、母親つまりフェラーズ夫人は、いまでも彼に経済的に楽な暮らしはさせていない。母親の希望どおりに出世の道を歩まなければ。彼はこの先も自分の家庭を持てるような経済的独立は望めないらしい。エリナーはそういう事情を知っているので、楽観的な気持ちにはなれないのだ。エドワードが自分に好意を抱いてくれているからといって、マリアンと母が思っているように順調に実を結ぶとは思えない。それだころか、彼と一緒にいればいるほど、彼の愛情が疑問に思えてくる。ときどき気まずい感じになるときもあり、ただの友情以上のものではないとさえ思えてくるのだ。(P.29〜34)

引用が長くなりましたが、この姉妹の会話に第1章で紹介されていたエリナーとマリアンの対照が具体的に表われているので、あえて引用してみました。

エリナーはマリアンのエドワードへの低い評価に対して、次のように擁護します。

「彼と打ち解けた会話をしたことのある人なら、彼の分別と善良さは誰も疑わないわ」とエリナーはつづけた。「彼のすばらしい知性と道徳心は、彼を無口にさせる内気さによって隠されているだけですもの。あなたは彼の一番大事な長所を正当に評価する程度には、彼を知っているわけね。でもあなたの言う『彼の性格や趣味のこまかい点』は、やむをえない事情で、私ほどには知らないのね。あなたがお母さまのお世話でかかりきりになっているときに、私はたびたび彼とふたりだけで話す機会があったの。それで彼の気持ちや考え方がずいぶんわかったし、文学や趣味に関する彼の意見もたくさん聞いたわ。あえて言うけど、彼はとても教養豊かで、本が大好きで、想像力も豊かだし、観察力も正確だし、趣味もとても繊細で純粋よ。彼の能力のすばらしさは、彼を知れば知るほどわかってくるわ。態度や容姿だってそうよ。最初見たときは、彼の態度はたしかにぱっとしないし、容姿もけっして美男子とは言えないけど、でも、彼のすばらしい目の表情や、やさしい顔つきに気がつくと、見方がずいぶん変わってくるわ。いまでは私は、彼をほんとうに美男子だと思っているわ。少なくとも美男子に近いと思っているわ。ね、マリアン、あなたはどう思う?」(P.31〜32)

エリナー本人も“エドワードのことを熱っぽくほめすぎてしまったことを後悔した。”と書かれていますが、それは言葉の調子であって、その語っている内容についてはエリナーの特徴が表われていると思います。それは、冷静な観察に基づいて相手の価値を判断する態度であり、人物評価を道徳的基準に求めることです。エリナーは、まずエドワードを知るために彼によく会い、気持ちや考え方がわかるという手順を踏むのです。その結果見出した「分別」「善良さ」「知性」「道徳心」といった知的、道徳的価値がエドワードへの愛情の基盤となっているのです。だから、次の言葉が出てくるのです。

「私が彼を高く評価していることは否定しないわ。彼を尊敬しているし、好意を持っているわ」(P.31)

この言葉に対して、マリアンは憤然とします。

「尊敬(Esteem him)?好意(Like him)?お姉さまは冷たい人ね!人を愛することは恥ずかしいことだと思っているのね、その言葉をもう一度使ったら、私は部屋を出て行くわ」(P.32)

マリアンは愛するということを、“esteem “like”という紋切り型かつ中立的な言葉で語るエリナーの態度は、冷酷無比で許し難いものに映ってしまうのです。そこには、愛情という強い感情を分別や理性によって月並みなものになってしまうことへの嫌悪があると思います。マリアンの場合には、直観や感性(繊細な感受性)を大切にする、計算高い理性よりも感情に従うという点で対照的です。エリナーが「分別」「善良さ」「知性」「道徳心」といった知的、道徳的価値を基準にするのに対して、マリアンは「趣味」という感性的な価値を基準にしていると言えます。それは、マリアンの次の言葉に端的に表れています。

「幸せな結婚生活には、趣味の一致はぜったいに必要ですもの。」

その「趣味」をもって、マリアンはエドワードを高く評価できないのです。

「残念ね、お姉さま、エドワードに絵の趣味がないというのは」とマリアンが言った。

「絵の趣味がない?」とエリナーが言った。「なぜそう思うの?たしかに彼は自分では絵を描かないけど、人が描いた絵を見るのは大好きだし、生まれつきの趣味の良さは持っているわ。それに磨きをかける機会はなかったけど。子供のときから習っていたら、とても上手になったと思うわ。彼は絵については自分の判断に自信がないから、あまり意見を言わないの。でも生まれつきの趣味の良さを持っているから、彼の意見はたいてい正しいわ」

マリアンは姉の気持ちを傷つけたくないので、それ以上は言わなかった。でも、エドワードは人の絵を見るのは大好きだとエリナーは言ったけれど、マリアンに言わせれば、そんなものは趣味のうちに入らない。マリアンが考える趣味とは、もっと強烈な喜びをもたらすものでなければならないのだ。「お姉さまは趣味の何たるかがわかっていないわ。趣味にたいするたいへんな誤解だわ」とマリアンは内心笑った。でもその誤解を生じさせた、姉のエドワードへの盲目的な愛は高く評価した。(P.29)

そもそも、この小説が書かれた18世紀は、とりわけオースティンの小説で活写された中産階級においては、“the Age of Sensibility”と呼ばれ、感情が重視された時代であったといわれています。洗練された人々は、同情心や感情移入が強く、すぐに涙を流すのが特徴であったようです。この“Sensibility”は、まさに小説の題名である「多感」です。この“sensibility” を20世紀前半に活躍したイギリスの批評家ウォルター・アレンは、直感力・感覚器官の特殊な機能つまり理解力および感情の鋭さであると説明しています。その傾向を強調したのがロマンチックな恋愛小説のヒロインの性格や行動で、当時の小説の読者の女性たちは、そのようなヒロインを理想として憧れの対象だったわけです。

では、そういう対照的な二人の姉妹が論じ合っている当の対象であるエドワードという人物は、本当のところ、どのような人物なのでしょうか。実のところに、エドワードに好意を抱き、彼を高く評価しているエリナーでさえ、彼に対して不安になることがあるのです。

エリナーがマリアンに言ったのは、すべて自分のほんとうの気持ちだった。自分とエドワードの愛が、マリアンが思っているほど順調に実を結ぶとは考えられないのだ。ときどき彼の熱意が感じられなくなるときがあるのだ。それは無関心を示すものではないにしても、見込みのなさを物語っている。もしかしたら、彼はエリナーの愛情に確信を持てないでいるのかもしれない。でもそれは、彼に不安以上のものをもたらすはずはない。彼がたびたび襲われるあんな無気力な状態を生むとは考えられない。愛情のままに結婚するわけにはいかないという経済事情が、もっと大きな利用なのではないだろうか。エリナーが聞いたところでは、フェラーズ家の財産は彼の母親がすべて握っていて、母親つまりフェラーズ夫人は、いまでも彼に経済的に楽な暮らしはさせていない。母親の希望どおりに出世の道を歩まなければ。彼はこの先も自分の家庭を持てるような経済的独立は望めないらしい。エリナーはそういう事情を知っているので、楽観的な気持ちにはなれないのだ。エドワードが自分に好意を抱いてくれているからといって、マリアンと母が思っているように順調に実を結ぶとは思えない。それだころか、彼と一緒にいればいるほど、彼の愛情が疑問に思えてくる。ときどき気まずい感じになるときもあり、ただの友情以上のものではないとさえ思えてくるのだ。(P.34)

エリナーは、エドワードに「熱意が感じられなくなるときがある」といい、「彼がたびたび襲われるあんな無気力な状態」を冷静に観察して、彼の愛情に疑問を感じ、気まずくなるときもあると洩らしています。しかも、この時点では、作者オースティンも第3章で、彼について飾り気のない正直で優しい人柄だということは述べていますが、エドワードの美点について称賛の言葉を控えています。これは意図的なのでしょうか。エリナーは、この時点では、エドワードは経済的に独立できておらず母親の意向に従わざるを得ないからだと無理に自分を納得させています。しかし、本当の理由は明かされていません。この後、物語が進んでいっても、エドワードの挙動には、謎めいたところがあり、彼の正体は作品の終盤まではっきりわからないのです。しかも、小説の中で、エドワードがアクションを起こす場面はめったになくて、第三者からの伝聞で、彼の挙動がエリナーに伝えられ、読者はそれを知るのです。ヒロインの恋愛の相手であり、小説のヒーローであるはずが、存在感もないのです。

そして、エドワードの姉のファニー・ダッシュウッドは、弟がエリナーに好意を持っているらしいことを感知すると、未亡人一家に対して露骨に失礼な態度をとるようになります。一種の嫌がらせです。未亡人であるダッシュウッド夫人は、それを冷静に受け流すような人ではなく、憤然とするに至ります。彼女は、姉妹の妹の方のマリアンの性格に通じているのでしょう、“こんなところの一刻もいられない”というような思いを強くし、ちょうど従兄弟にあるサー・ジョン・ミドルトンからコテージを格安で貸しましょうという手紙が届きます。彼女は、渡りに船と、思案も問合せもなく決めてしまいます。

第5章

未亡人一家の引越しをめぐる場面です。サー・ジョンからの手紙は、ぜひとも未亡人一家のお世話をしたいという親切心に溢れた文章でした。彼が提供を申し出たバートン・コテッジは、今、一家が住んでいるノーランド屋敷のあるサセックス州から遠く離れたデヴォン州にあります。その話をきいたエドワードは

「デヴォン州!ほんとにそこへ引っ越すんですか?そんな遠いところへ?」(P.37)

と驚きを隠せないほどでした。未亡人は、当初は亡き夫の思い出が残る屋敷を離れたくなかったのでしたが、ファニーの仕打ちに耐えられず、未練の残らないように遠くに離れしてしまえという心境に変化したよううです。その際に、遠くに引っ越してしまうことで、エリナーとエドワードの仲を引き裂くことになってしまうことついては、まったく考えていないようでした。これはファニーの思惑通りになったということでしょう。未亡人は、エドワードを転居先のコテッジに招待します。愛があれば距離のひらきなんて、ということでしょうか。この点からも、未亡人はエリナーよりもマリアンに近いタイプの人であることが分かります。未亡人は、サー・ジョンの手紙が届いてからわずか3週間ほどで引越しの準備をすべて整えてしまいます。

愛するノーランド屋敷に最後の別れを告げるにあたり、彼女たちは思う存分涙を流した。マリアンはこれが最後だという晩に、屋敷の庭をひとりさまよいながら嘆きの声を上げた。

「ああ、いとしい、いとしいノーランドよ!私がおまえとの別れを悲しまなくなるのはいつのことだろう!新しい家をわが家と思えるようになるのはいつのことだろう!ああ、幸せな日々を過ごしたわが家よ、いまここからおまえを眺める私の悲しみをわかってもらえるだろうか!こうしておまえ眺めることはもう二度とないのだ!そしておまえたち、見慣れた木々たちよ!でもおまえたちは変わることはないだろう。私たちかせ去るからといって、葉一枚朽ちることはないだろう。私たちはもうお前たちを眺めることはできないというのに、枝ひとつ動きをとめることはないだろう。そう、おまえたちは変わることはない。おまえたちが与える喜びも悲しみも知らず、おまえたちの木陰を歩く者たちの運命の変化もわからないのだ!でも、これから一体誰がおまえたちを見て楽しむのだろう!」(P.40〜41)

未亡人一家がノーランド屋敷を離れるにあたってのマリアンの別れのことばです。現代の庶民の生活をしている私などからは、あまりに芝居がかったものに映ります。涙を流しながら「ああ、いとしい、いとしいノーランドよ!…」と呼びかけ、自分達がいなくなった後も愛着あるこの土地に変わらぬ時間が流れることが信じられないと言い放ち、ほとんどすべての文章が感情の吐露の表われである感嘆符で締めくくられるのです。おセンチな少女の甘々なひとりごとです。じつに、第4章と第5章の引越しをめぐる実際上の動きや手続などの場面では、姉のエリナーが必要なところで適切な助言をし、母親である未亡人が暴走しないようにしっかり手綱を引いているのに対して、マリアンは登場しません。つまり、生活に実際上の面倒事にはマリアンはタッチしない、あるいはしなくてもいいように守られているのです。それを作者オースティンは、このような場面にマリアンを登場させないことで間接的に表していると思います。敢えて書いていないのです。父親の死によって、姉妹は経済的にも社会的地位においても非常に不安定な状況に追いやられました。姉のエリナーは父親が亡くなった時点から、この不安定な状況への現実的対処を求めらました。しかしマリアンにとっては、母親と姉のエリナーが社会に対する盾のような役割を果たしていて、彼女は子供時代そのままに、自分だけの世界に浸っていることができたのです。マリアンは多感の人といっても、短い人生の中で家族と地方の狭い世間のわずかな付き合いと書物だけから知識を得てきたの過ぎない“うぶな娘”にすぎないのです。マリアンにとっては、真情を吐露した屋敷への惜別のことばなのでしょうが、冷静に読めば、彼女が日頃愛読しているロマンチックな詩人の詩文のどこかで読んだことのあるような言葉の羅列なのです。それは、マリアン自身がもっとも軽蔑する陳腐なものと言えなくもないのです。それを、作者オースティンは冷酷といえるほど、露わにして見せます。しかも、このように直接的な表現ではなく。ここに、オースティンという人の底意地の悪さを見るのは、私だけでしょうか。しかし、それだからこそ、オースティンの小説は魅力あるものとなっているのです。

オースティンの作品には、マリアンのように想像の世界にいる人物がでてきます。例えば、「ノーサンガー・アビー」のヒロインであるキャサリンはゴシック小説と現実の区別がつかない夢見る少女です。また、「説得」ではベニックという婚約者を失った悲しみからロマン主義の詩の世界に逃避している海軍軍人がでてきます。あるいは、「エマ」のヒロインもそうです。しかし、オースティンの初期の作品である「ノーサンガー・アビー」や「分別と多感」ではヒロインのような重要な人物であったのが、後年の作品では、「エマ」を除いて、そのような人物の影が次第に薄くなっていきます。例えば、同じような境遇であるはずの「マンスフィールド・パーク」のファニー・プライスは、むしろエリナーの系譜の人です。

第6〜8章

ダッシュウッド夫人と三人の娘たちの旅は、最初は物悲しい気分に支配され、退屈で味気ないものだった。でも目的地に近づくにつれて、これから住む土地への関心が、沈んだ気持ちを吹きとばしてくれた。バートン谷の美しい風景が見えてくると、晴れ晴れとした気分になってきた。気持ちのいい肥沃な土地で、樹木が生い茂り、豊かな牧草地がひろがっていた。曲がりくねった道を1、2キロ進むと、新居のバートン・コテッジに到着した。(P.42)

引越し先のゴートン・コテッジは住居としてはノーランド屋敷に比べると、粗末で小さな家でした。しかし、最近の建築で手入れも行き届いた快適な住空間のようでした。先行して環境を整えていた使用人たちに迎えられ、新しい生活を始めることになります。そこで、サー・ジョンをはじめとした、新たな生活で付き合うことになる人々のくわしい紹介が展開されます。それが第8章まで続きます。実は、そこまでが、この作品のプロットの紹介で、物語の序章と言えるものなのです。物語の本筋のストーリーは、じつに第9章からなのです。それまでの8章にもわたる長大なプロットの紹介が、この作品の大きな特徴のひとつであると思います。これほど長大な説明が為されているということは、作者のオースティンという人は、小説を執筆するに当たって、おそらく小説に書かれているのは一部でしかないのでしかないような、プロットを詳細に設定していると考えられます。オースティンはの小説は家族やその家族をとりまく限られた交際範囲という小さなコミュニティが舞台で、社会とか歴史といった壮大な世界が広がるわけではないと一般に言われています。一方、オースティン以外の小説家も、作品を書き始めるにあたって主人公や主な登場人物の性格や舞台を設定するとは思いますが、オースティンの場合には、小説の中で、それほど重要性を与えられていない端役に近いような人物に至るまで、しかもそれらの相関が、その来歴から詳細に設定されていて、それは一分の隙もない緻密な世界の構築のようです(例えば、ジョン・ダッシュウッドの善良だけれど、小心な恐妻家という性格設定で、妻のファニーに言いくるめられて、結果として未亡人一家への経済的援助をしなかった人物ですが、最初のうちだけしか登場しない人物なので、物語としては、そういう援助をしなかったということは重要でも、彼の善良さゆえの逡巡と、小心ゆえの欺瞞的な自己正当化までかかれいて、それは物語を効率的に展開させる点では余計なものです。しかし、それを敢えて、オースティンは、この作品では書いている)。言ってみれば、オースティンは小説という虚構の中に別の世界を完璧に構築しているとおもえるのです。オースティンの小説の物語というのは、その世界の中で起こっているひとつの挿話に過ぎないもので、その世界には他の小説には表れていないたくさんの物語が起こっている、と想像できるほどなのです。それは、かなり場違いな喩えかもしれませんが、現代の日本のアニメーション作品、たとえば「機動戦士ガンダム」がひとつの未来世界を構築して、その年代記として、その構築した世界からの挿話を物語のシリーズとして様々な作品を作り出すのと似ていると思います。しかし、大きく違うのは、オースティンの小説はガンダムのようにひとつの世界設定からたくさんの物語を引っ張ってくるようなことはせずに、一つの世界設定をすると、そこからはひとつの物語を語るだけだということです。この「分別と多感」はオースティンの初期作品で、他の作品ほどの熟練がみられないゆえでしょうか、オースティンは折角設定したのだからと、プロットの説明を捨てきれず(他の、とくに後期の作品では、そういう説明を惜しげもなく捨ててしまいます。これはオースティンの凄いところです)にいる。そこに、図らずも、オースティンという人の資質、世界を構築することへの嗜好が隠さず、表われてしまっている。そこが、他のオースティンの作品には失われてしまう、オースティンの特徴が色濃く現われている特権的な作品になっていると思います。

さて、未亡人一家が新居のバートン・コテージに落ち着くと、さっそく、サー・ジョンから妻のレディ・ミドルトン、彼女の母親のジェニングズ夫人、ジェニングズ夫人のもう一人の娘のパーマー夫妻、サー・ジョンの友人ブランドン大佐たちに引き会わされます。

大きな立派なお屋敷で、ミドルトン夫妻はここで歓待精神あふれる優雅な生活を送っていた。歓待精神はサー・ジョンを満足させるためであり、優雅な生活は奥さまを満足させるためだった。(中略)この夫婦は性格も行動も驚くほど正反対だが、才能と趣味の欠如という点ではじつによく似ていて、社交生活を除くとふたりの活動範囲は非常に限られているからだ。サー・ジョンは狩猟家で、ミドルトン夫人は母親以外の何物でもない。つまり、夫はキツネ狩りと鳥撃ちを楽しみ、妻は子供たちをかわいがり、それがふたりの唯一の楽しみだった。(P.47)

サー・ジョンは人の良さそうな、40歳くらいの大地主で、大勢の男女を集めてパーティをすることを楽しみにしていた。妻ミドルトン夫人は、26か27歳くらいの感情を欠いたような、反応の鈍い、優雅で、気取った女性である。陽気過ぎる夫と気取った妻の対称的な性格を持つ夫婦です。そのパーティは、ダッシュウッド姉妹もたびたび参加するはめになるのですが、主催者であるサー・ジョン夫妻の凡庸さから退屈なものでした。

ブランドン大佐はサー・ジョンの親友だが、性格の点では、サー・ジョンの友人としてまったく似つかわしくないように思われた。(中略)ブランドン大佐はものすごく無口で重々しい感じの人物だった。もう三十五歳を過ぎているので、マリアンとマーガレットに言わせると、まさに老いたる独身男だが、風采はそんな悪くはない。美男子ではないけれど、思慮深そうな顔つきで、物腰もたいへん紳士的だった。(P.50)

ブランドン大佐は、この作品中,最も思慮分別のある男性で、この後の物語の展開で重要な役割を演じることになる人物です。このパーティでマリアンが、皆の所望を受けてピアノの弾き語りをするのですが、その演奏は皆から大いに賞賛されます。しかし、実のところ、ブランドン以外は皆分かる振りをしているに過ぎなませんでした。それは、演奏中はお喋りに夢中で、演奏が終わると喝采をおくるという、まるで宴会でカラオケで歌っているときの反応のようです。そのなかで、ブランドンだけは「静聴することで賛辞を送った」のでした。ブランドンはマリアンの音楽の本物の価値を理解している様子が分かるのです。それをマリアンは理解するものの、恍惚の喜びこそ音楽の本当の楽しみ方として、ブランドの思慮深さを消極的にしか評価しません。しかし、小説を読み進めれば分かるのですが、ブランドンはマリアンに似た多感な性格の人物が苦々しい経験を経た思慮深さを身につけた人物で、マリアンのことを深く理解していたことが、その後の彼の行動で明らかになるのです。しかし、マリアンのブランドンに対する印象は辛辣ですらあって、彼を外見だけで判断し、肩にリューマチを患うフランネルのチョッキを着た老人だと思って、むしろ憐れんでさえいたのでした。

なお、ここで小さなことですが、注意しておいた方がいいこととして、ダッシュウッド一家がバートン・コテージへの引っ越しの際には、必要最小限のものを除いて、殆どのものを手放してしまったのですが、その中でも、家と馬車の喪失は重要な意味を持つことになります。このことについて、オースティンは、とくに書きたてるようなことはしていません。しかし、考えてみれば、社会生活の中で、人間は多かれ少なかれ他人の目を意識して行動しなければならないわけで、非の中で、とくに家庭というのは、本来の自分と異なる社会的な活動をする自己から離れ、休息をとり、内省し、自己を回復するための場所ということになります。すると、家を失ったダッシュウッド一家の人々は本来の自己に戻る空間を奪われ、常に社会的自己を維持していかなければならないことになります。具体的には、常にサー・ジョンに対して気遣いをしていなければならないわけです。また、自分の馬車を持たないということは誰かに同乗させてもらわない限り移動手段は徒歩になり、行動できる範囲が狭くなることを意味します。ダッシュウッド一家に家や馬車を提供するのは家主のサー・ジョン夫妻です。したがって、必然的にエリナーたちは精神と行動の自由をサー・ジョン一家に押さえられることになるのです。つまり、絶えず彼らに注視され、プライバシーを保つことが難しいという状況になってしまったのです。それが分かっている、エリナーは常に、行動のマナーということに気を配るのです。それと対照的に、マリアンの気ままな振る舞いが際立ってくることになるのです。それが、この物語のドラマを生んでいくことになります。

第9〜10章

これまで、主人公であるダッシュウッド一家の状況や、その経緯、あるいは登場人物の紹介が続いてきました。ここから、いよいよヒロインの二人は物語の中で行動を始め、物語は動き始めます。その最初の動きは、マリアンとウィロビーとの出会いです。

ある日、マリアンは散歩の途中で雨に降られてしまい、走って帰ろうとしたとき、転んで、足首を捻挫して歩けなってしまいます。その時、2頭の狩猟犬を従えたウィロビーが偶然に現れ、マリアンの身体を抱え上げ、コテージまで運ぶと、室内まで躊躇せずに入り、彼女を椅子に休ませた後、失礼を侘び、翌日の見舞いの許しを得て立ち去ったのでした。翌日、見舞いに訪れたウィロビーを見て、前日の出会いの際には、マリアンは恥ずかしくて彼の顔をよく見ることはできなかったので、改めて、彼が快活で気品ある物腰を備えた目を瞠るほどの美男子であることに気づきます。このように出会いは、ロマンチックな場面のようで、メリアンが好んでいた小説のロマンスの筋書きそのままと思えるものでした。

ウィロビー氏の容姿と態度は、マリアンが愛読する物語の主人公から想像したイメージとぴったりだった。(P.62)

最初に紹介されたように、マリアンは情感豊かで、文学や音楽の趣味を大切にする少女です。わずか17年ほどの人生の大半を、田舎の、家族の中で過ごしてきた彼女は、世間知らずで、現実の人生経験といえるものはほとんど経験していません。しかも、彼女にとっての世界はスコットやクーパーなどロマンスやロマン主義的書物から得られた知識で作られているといっても過言ではありません。ほとんど、想像の世界を現実と思っている。その点では、前作「ノーサンガー・アビー」のキャサリンが、ゴシック小説と現実の区別がつかないで、自分をヒロインと勘違いしてしまうのと変わらないのです。

しかし、この時点において作者オースティンはウィロビーのことをどのように描写しているかというと、「立派な風采」とか「気品のある声と言葉づかい」とか「男性的な美貌と溢れるような気品」とか、外見ばかりで、人柄とか性格といった内面的なことはまったくと言っていいほど触れていないのです。ロマンチックな出会いで恋に落ちたといっても、ウィロビーが美男子だったから、つまり、マリアンは趣味だの理想的な恋愛などと書物で得た知識を振りかざしていますが、実態は美形好みのミーハーに過ぎないのです。しかも、小説好きのミーハーな夢見る少女にありがちな恋に恋するタイプの典型的な行動パターンを絵に描いたように辿っていきます。「ノーサンガー・アビー」のキャサリンはヘンリー・ティルニーによってゴシック小説の世界から現実に目覚めるように導かれますが、マリアンは、そのような性格に巧みにとりいられて、要するとに男にひっけられるのです。その意味で、「分別と多感」という小説は、「ノーサンガー・アビー」がゴシック小説のパロディであったのと同じように、ロマンチックな恋愛小説のパロディでもあるのです。しかし、「分別と多感」で、作者オースティンは「ノーサンガー・アビー」のように露骨にゴシック小説に言及して、小説論を述べたり、皮肉にみちた態度をみせているのに対して、ここでは「ノーサンガー・アビー」のような姿勢を見せていません。それだけに、「ノーサンガー・アビー」のキャサリンは狂言回しのように扱われますが、マリアンはリアリズムの小説の人物として冷酷に扱われます。それが、「分別と多感」が単なる恋愛小説のパロディに終わらないものだからなのですが。

「分別と多感」が恋愛小説のパロディに終わらないとは、どういうことか。簡単に述べておきましょう。ウィロビーが現われたのは、エリナーがエドワードの本心を確認できぬままにノーランド屋敷を去ったあとです。この後、ウィロビーが突然姿を消すと、今度は入れ替わるようにエドワードが登場します。小説の中ではエドワードとウィロビーが顔を合わすことは決してないのです。エリナーの物語とマリアンの物語が、ある種整然と交彑に語られるのです。それは、まるでふたつの物語をべつべつに語っているようなのです。マリアンの物語は、今も述べたように恋愛小説のパロディです。一方エリナーの物語は正体に謎がつきまとうエドワードをめぐるサスペンスです。そして、それぞれの物語がロンドンに移ったときに、マリアンは恋愛に破れ、エリナーは謎をつきとめたところで、別々だった二つの物語は交錯し、二人は互いを理解し合い、それぞれの物語から二人の物語になって、恋愛小説でもサスペンスでもない現実を生きていく物語に変質していくのです。それが、「分別と多感」という小説の全体の構造です。

少し、先を急ぎすぎました。最初の出会いから、マリアンはウィロビーに対する思いを強めていきます。彼女は男性との関係については文学や音楽についての趣味が同じ人であることが必要条件であることを公言していましたが、ウィロビーとの付き合いを重ねていくと、彼は、その理想に合致するすると考えるようになります。ダンスと音楽の趣味が一致したばかりでなく、愛読書が同じであり、感激した条りまでがぴったりと一致しているというのです。しかし、これをマリアンが分かっていくのは、彼女自身の理想にウィロビーが当てはまるかの確認作業をしているようなものでした。擬態的な二人の会話の描写はありませんが、おそらく、趣味のついての会話は、マリアンが好きな文学についての話題を振り向けて、それについてウィロビーが同意するという形に近いものだったのではないかと想像できます。マリアンは趣味が同じだからウィロビーが好きになっていったのではなくて、ウィロビーが好きになってしまって、そのあとで彼が自分の理想の男性であることを確認していったといえると思います。ウィロビーとしては、マリアンの振り向ける話題について口裏を合わせるだけでよかったのです。

マリアンを会話に引き込むには、趣味の話をすればいい。趣味の話になったら彼女は黙ってはいられないし、はにかみも遠慮も忘れてたちまち夢中でしゃべりだす。ふたりともダンスと音楽が大好きだということがすぐにわかり、しかもうれしいことに、ダンスについても音楽についてもおおむね意見が一致した。マリアンはこれに勇気を得て、さらに彼の意見を知りたくなり、こんどは本について質問した。マリアンは自分の好きな詩人たちの名前をあげて熱っぽく語った。25歳の青年としては、それまでその詩人に興味がなかったとしても、よほど鈍感でないかぎり、それらの詩のファンにならないわけにはいかなかった。ふたりの趣味は驚くほど似ていて、ふたりとも同じ本と同じ一節が大好きだった。たとえ意見が違っても異論が出たとしても、マリアンが目を輝かせて熱弁をふるうと、意見の違いはたちまち解消された。ウィロビーはすべてマリアンの意見に従い、彼女の熱狂振りに感染した。(P.67)

このマリアンの行動は、恋愛小説の影響で作り上げた理想的な恋愛、それはハンサムな男性と出会い、趣味にあらわれる内面な性の合致した関係です。恋人どうしのふたりは世間の制約から自由になって奔放にふるまう。そのような理想を現実にしようとする。いわば、マリアンの、ここでの恋愛とは自己愛の変形のようなものだったと言えると思います。ウィロビーは、それに付き合い、そして時には煽ってあげることで、初心なマリアンに付け入った。身も蓋もない言い方かもしれませんが、作者オーステインも、そういう二人の関係を意識して書いていると思います。こんな関係は、たとえ、相手がウィロビーのような下心ありありの女タラシのような男性でなくても、「ノーサンガー・アビー」のヘンリーティルニーや「エマ」のナイトリーのようなメンターのように彼女を導くような男性でない限り、破綻することは目に見えています。

第11章

マリアンとウィロビーの二人はバートン・コテージでダッシュウッド一家に見守られながら、関係を深めていきました。一方、ダッシュウッド一家は社交好きなサー・ジョンの交際圏に入り、人々と忙しくお付き合いするようになります。そのような状態で、マリアンとウィロビーは人々の前で公然と恋人同士として振る舞うようになります。エリナーは、マリアンに自制するように忠告しますが、マリアンは聞く耳を持ちません。

マリアンは、率直さは恥ではないと言って、隠し立てをいっさい嫌った。人を愛するという感情が恥ずかしいものでないなら、その感情を抑制することは無用な努力であるばかりか、月並みな誤った考えに理性が屈服することであり、それこそ恥ずべきことだと、マリアンは考えているのだ。ウィロビーの考えも同じであり、ふたりの行動は、すべて自分たちの考えを行動で示したものだった。(P.76)

マリアンは、最初の紹介にもあったように情熱的な性質で、節度を欠く傾向がありました。しかも、好んで読んでいたロマン主義の文学の影響で、率直であること、つまり、自分の気持ちに正直であることに価値を置くようになっていました。そういうマリアンの行動が、家族や周囲の限られた範囲内で、無邪気なが無邪気な子供の域を出ない限りは、いささか大胆過ぎる率直さを伴うものであってもそれほど問題にはされません。しかし適齢期の娘として家の外へと一歩踏み出した途端、その率直さが思いもかけない波紋を生ずることになるのです。というのも、当時のイギリスの社会の中流以上の社会では「分別」と「礼節」ある行動が尊ばれていました。中でも女性は、コンダクト・ブック(淑女教育のための行儀作法書)が次々に刊行され、ひときわ厳しいマナーとモラルが要求されていました。とくに、恋愛は、まず個人的愛情に対する「社会的おすみつき」としての「婚約」が発表され、晴れて後、ようやくカップルは節度ある態度で愛情を世間に示すことが許されていたのです。だから、婚約を発表するでもなく、公然と恋愛関係を人々の前に明らかにするマリアンとウィロビーは、マナーに反して行動していたのです。

相手のウィロビーも、そんなマリアンを抑えるどころか、彼女に同調するのでした。それがまた、マリアンをいっそう夢中にさせるのでした。そんな、ウィロビーについて、最初から、エリナーは次のように冷静に観察していました。

マリアンだけでなくダッシュウッド夫人から見ても、ウィロビーは非の打ちどころのないすばらしい青年だった。エリナーから見ても、ただ一点を除けば、非難すべき点は見当たらなかった。その一点とは、彼がまわりの人間や状況を無視して、思ったことを言いすぎるという点だが、この点もマリアンそっくりで、とくにマリアンを喜ばせた点でもあった。他人について性急に判断をくだして、すぐにそれを口にする。自分の好きな相手だけに夢中になって、ほかの人たちへの礼儀を忘れてしまう。世間一般の礼儀作法を簡単に無視してしまう。こうした点に、彼の慎重さの欠如が表われていた。(P.70)

マリアンはウィロビーがそばにいると、他の人間には目もくれず、彼の行動や意見には全て同意するほどの熱中ぶりを示す。夜会でのトランプや踊りでも常に一緒で別々にならないように結束して、周りの人間とはほとんど口もきかないようにするほどでした。

当時の舞踏会は適齢期の男女にとって、より多くの異性と知り合うための大切な場であったといいます。そのため、同じパートナーと2回以上踊らないのが暗黙のルールで、それに反して、あえて同じパートナーと2回以上踊るのであれば、そのふたりは結婚を意識している証拠と見なされたそうです。例えば、『高慢と偏見』で,ビングリー氏がジェインに2回ダンスを申し込むのを目撃すると,母親のベネット夫人はジェインの結婚を確信し、有頂天になってしまったのです。実際、ふたりの気持は結婚という方向に向いていたわけです。ここでは、マリアンとウィロビーの場合も、2回以上、いやむしろお互い同士でしか踊らないという行為は、二人の強い意思表示であり、当然、周囲の人々はあきれながらも二人の結婚を確信させるものなのです。

しかし、ここで不思議に思うのは、ウィロビーが婚約しないのはなぜか、ということです。そもそも、このようなことが問題となるのは、二人が婚約していないからです。それならばいっそ婚約してしまえばいい。ウィロビーが、形式に囚われず思ったままを語り、考えのままに即行動する一方で、エリナーの見るように慎重さを欠いているのであれば、勢いで婚約してしまえばいいのです。これは後ほど明らかになりますが、エリナーの思い人であるエドワードは若気の至りとでもいうように婚約をしていて、そのために親から財産の相続をできなくなってしまうことになります。実は、財産の相続を約束されているが、現時点では相続はされておらず、自分では独立した生活できず、管理者の下で脛かじりの身であるという境遇は、ウィロビーもエドワードも同じです。そこで、エドワードは若い情熱の勢いである女性と婚約してしまいます。これに対して、ウィロビーはマリアンと恋をする仲でありながら最後まで、彼女とは婚約をしません。これは後になって分かることですが、彼は過去にも、若い女性を口説いて、もてあそび、そして、その責任をおわず捨ててきたという過去があります。そこから考えると、ウィロビーは、マリアンと似たような情熱的なタイプということになっていますが、財産の相続を控えている身分でエドワードのようなヘマを犯すことは回避しなければならないとして、冷静に計算をしていたのではないかと推測することができます。その意味では、ウィロビーは「ノーサンガー・アビー」の中で、戯れにイザベラをもてあそんだティルニー大尉に通じるような人物かもしれないのです。だから、マリアンは、ウィロビーの慰め者にされて、ゴミくずのように捨てられた、以前の女性のようになってもおかしくなかった。マリアンが、その被害者とならなかったのは、どうしてなのか。それも謎です。一見、シャイで真面目なエドワードが、実は、情熱に駆られて致命的なヘマをしていたり、後で触れることがあると思いますが、ヒロインのエリナーも妹思いの分別ある理性的な人物に見えて、角度をかえてみると打算的なエゴイストの一面が隠れているというように、オースティンがこの作品で描いている人物は、一筋縄ではいきません。その奥底に暗い一面を持っているというシニカルな認識が、この作品には通奏低音のように、秘かに流れている。それが「分別と多感」という二つの概念を対比的に取り上げている教訓的なところを前面に掲げている小説の奥底に流れている。それが、この小説の大きな魅力ではないかと思います。オースティンという人は、基本的に、そういうシニカルな見方を持っていたと思いますが、それがこの作品で、比較的よく表われているのではないかと思います。

一方、理想的な男性との恋愛に身を焦がし、幸福な状態にいるマリアンに傍らにいるエリナーはどうかというと。

マリアンはまさに幸福の絶頂にあった。彼女の心はすべてウィロビーに捧げられた。サセックス州を去っても忘れないノーランド屋敷への熱い思いは、ウィロビーとの交際がバートン・コテッジに与える魅力によって、思ったよりも容易に和らげそうだった。

だが、エリナーは、マリアンほど幸福ではなかった。エドワードを思う彼女の心はあまり安らかではないし、舞踏会や舟遊びも心から楽しむことはできなかった。どこの舞踏会も舟遊びも、彼女にすばらしい話し相手を与えてはくれなかった。彼女がサセックス州に残してきた人の埋め合わせとなり、ノーランドを懐かしむ彼女の気持ちを和らげてくれるような話し相手を。(P.77〜78)

何気ないよう書き方なので読み飛ばしてしまいそうなところですが、エリナーは、マリアンとの比較でノーランド屋敷を出ざるを得なかったこちから立ち直れないと読めてしまいます。しかし、マリアンが幸福の絶頂にあったことと並べられているということは、エリナーはそういうマリアンを間近で見ているということです。そのメリアンが幸せそうにしていると、エリナーは、自分を妹ほど幸せではないと思ってしまうのです。「エリナーは、マリアンほど幸福ではなかった。」と書かれているのは、そういう心理があることを示しているのではないでしょうか。妹が舞踏会や舟遊びで心から楽しんでいると、自分の満たされない気持ちが募り、面白くなくなってくる。妹にはウィロビーがいる、しかし、自分には「サセックス州に残してきた人」つまりエドワードかいないという欠如感が深まる。妹思いのエリナーは、ここでは妹に対する嫉妬に駆られている。ここに、分別のシンボルのような登場人物であるエリナーの、そういうシンボルを裏切る面が仄見えてきます。オースティンは第1章で紹介したエリナーの感情を抑制できるという性格を裏切る、つまり、感情に流されて、それを理性で糊塗する欺瞞的な性格をここで仄めかしているのです。“人間の生活には理性が大切か、感情が大切か。どちらも大切に決まっているか、どちらかが過剰になると、いろいろ困った問題が生じる。冷たい理性一点張りでは生きている甲斐がないし、感情に溺れすぎると人さまに迷惑をかけるし、自身の身の破滅を招くことにもなりかねない。18世紀は理性の時代と言われるが、ジェイン・オースティンが生きた18世紀末から19世紀初頭にかけて、時代の空気は理性重視から感情重視へと大きく舵を切りはじめた、理性によって感情を抑制することよりも、感情を思いっきり解放することに大きな価値と喜びを見出すようになった。オースティンはこの大きく変わりつつある時代の空気を背景にして、理性的な姉と情熱的な妹を主人公にした小説を書いた”というちくま文庫版の翻訳者による作品紹介は、この作品の読みを限定していて、この作品は、そういう先入見に収まりきれない豊かさをもっていることが分かります。

それで、寂しさを埋めようと、エリナーはエドワードの代わりになるような「話し相手」を求めます。しかし、口数が多いジェニングズ夫人も、退屈なミドルトン夫人も駄目で、交際範囲の中で唯一、尊敬に値する能力を具え、友達になりたいと思える相手といえば、ブランドン大佐だす。しかし、ブランドン大佐がわずかなりとも「埋め合わせ」になる資格を得たのは、たんに彼の知的レベルの高さだけが理由ではなかったのではないのかもしれません。メリアンに想いを寄せる大佐は、ウィロビーという強力なライバルの出現によって、失恋していました。だから、エリナーの大佐への共感は同病相哀れむといった性質を帯びていた、少なくともブランドン大佐に対して劣位になることはないと言えます。それが大佐に対する同情という形で表われます。このように見ると、エリナーというのは一皮剝げば、陰湿な性格のエゴイストの面をもっている。彼女の分別の理由は、そういう性格に起因している。少なくとも、マリアンは我がままですが、そういう冷徹なエゴイズムを認めることはできません。

ついでに、ブランドン大佐にも、少し触れておきましょう。第7章で、ダッシュウッド姉妹に紹介された大佐は、マリアンに好意を抱きます。その理由は、後でおいおい明らかになってきますが、それをジェニング夫人に見とがめられてしまい、噂話好きの夫人にマリアンを恋していると散々にからかわれます。それが周囲の人々の間に広まった時に、マリアンがウィロビーと出会ったので、人々の注目とからかいは当の二人に移ってしまったのに、はやし立てられ煽られた大佐は、マリアンに恋心を抱くようになっていた、それにエリナーが気づいたのが第10章です。なお、エリナーが気づいてのは、第11章で述べられているように、同病相憐れむという失恋を共有するという気持ちゆえです。

エリナーは不本意ながら認めざるをえなかった。大佐はマリアンに恋心を抱いているとジェニング夫人が興味本位で騒いでいたが、それが現実のものとなったということを。そして、ウィロビー氏はマリアンと性格が似ているために恋愛感情が芽生えたが、ブランドン大佐のような正反対の性格でも、恋愛感情は芽生えるのだということを。エリナーは心配しながら成りゆきを見守った。35歳の無口な男に勝ち目はない。相手は25歳の元気はつらつとした青年なのだ。エリナーは大佐の成功を祈ることはできないので、大佐がこの恋をあきらめてくれればいいと心から願った。エリナーは大佐が好きだった。重々しくて控えめすぎるが、なぜか気になる人物だ。態度はいかめしいけれど、どこかやさしい感じがするし、あの控えめな態度は、生まれつきの暗さとというよりも、何かの挫折感から来ているような気がする。大佐はひどい失恋をしたことがあると、いつかサー・ジョンが言っていたが、それは大佐が失意の人であるというエリナーの確信を裏づけてくれた。と言うわけでエリナーは、大佐を尊敬と同情の目で見ていた。(P.71〜72)

この時点のブランドン大佐は、エドワードの扱いと似ていて、エリナーが彼のことを、こうだと見ているとか、マリアンとウィロビーがボロクソに貶す会話のなかで扱われるとかいったような、間接的な書かれ方をしていて、本人が小説の中で積極的に行動したり、話したりするのが直接かかれていないのが、特徴的です。この点も、エリナーに対して直接、愛情告白をしないエドワードと似ています。ブランドン大佐はウィロビーに夢中になっているマリアンの姿を見ても、決して自身のみじめな感情を出さないで、彼女の行く末を心配しながら見守っているだけです。後々、彼はウィロビーの悪行をエリナーに告げることで、マリアンの思い込みによるウィロビーの偶像を崩すことになるのですが、その場合も、直接マリアンに働きかけることはしません。これらの点で、ブランドン大佐はエドワードと並べるような存在として扱われていると思います。ただし、ブランドン大佐は、この後から、次第に直接的に書かれるように、小説のものがたりに積極的にコミットするようになっていきます。

第12章

ある朝、エリナーはマリアンからウィロビーから馬を贈られたことを聞かされます。それは、マリアンの軽率さと無分別さを示すもので、エリナーはこれに対し、知り合ってまもない男性から、高価な贈り物をもらうのはやめた方がよい、その上馬を扱う使用人を雇う必要が出てくると、家計の負担になると言って、マリアンをたしなめます。そこで、マリアンは、知り合って間もないという言葉にピントきて、つぎのように反論します。

「お姉さまは間違っているわ!私がウィロビーのことをろくに知らないなんて!たしかに知り合って間もないけど、彼のことは世界中の誰のことよりもよく知っているわ、お姉さまとお母さまは別として、親密さを決定するのは、時間の長さやチャンスではないわ。問題はふたりの相性よ、7年間つきあっても気心が通じない人もいれば、7日間でも十分すぎる人もいるわ。」(P.83)

慥かに、言葉の上辺だけをみれば間違いではありません。しかし、実際のところどれほどマリアンがウィロビーという人物を知り得ているかといえば、この後、手痛い仕打ちを受けて捨てられたしまうのですから、この言葉には事実の裏づけはないのです。このマリアンの言葉、ああいえばこういう類の感情的なこじつけにすぎません。そこで、エリナーは、もし馬を受け取ったら、家計において母親がしなくてもいい苦労を強いられることになると、マリアンの母親を思う感情に矛先を変えて説得します。こうして、つねに妹の誤った考え方や行動を、正しく導こうとするエリナーの姿を見ながら、読者は、彼女が価値判断の基準とすべき「分別」を、しっかりと持ち合わせた人物であるとの印象を強めるように印象づけられます。ここにはエリナーは「監視者」としての側面が姿を現しています。妹の幸せを願うエリナーはこの一件を機に、メリアンとウィロビーが婚約しているのかどうかということを気にして、二人の関係をじっと観察するようになります。というのも、エリナーにとっては、あんなにあけっぴろげで隠し事が嫌いなふたりなのに、姉にも友達にも打ち明けずにいるのは、ちょっと意外な気がした。(P.85)」というように不審に思えたからです。

それは、「婚約」ということに対する姉妹の態度の違いが、二人の性格の特性の違いによるものと考えられるからです。この物語の背景をなす18世紀社会で、「分別」と「礼節」ある行動が尊ばれ、その中で、「婚約」は結婚への一過程以上の意義を持っていたといいます。つまり、恋愛のプロセスは、まず個人的愛情に対する「社会的おすみつき」としての「婚約」が発表され、晴れて後、ようやくカップルは節度ある態度で愛情を世間に示すことが許されというのですた。しかし、感情至上主義のメリアンは恋愛においても愛情のみを求め、社会的慣習や形式を一切顧慮しようとしないため、ウィロビーとの婚約の有無をめぐって周りが気をもむにもかかわらず、正式な婚約を求めないのです。それは、相手のウィロビーにとっては、「婚約」という法律上の証拠を残さずにメリアンとの逢瀬を楽しむことができるのですから、むしろ好都合なのですが、恋愛に目が眩んだメリアンにはそれが見えません。エリナーは、メリアンとは違って「婚約」を気にします。「婚約」は個人的愛関係を社会で是認させるもの、即ち、個人的関係に社会的意味を付与するものです。したがって婚約もしていない男性と公然と付き合うことは社会のコードに違反し、「浮気女」とか「男たらし」といったそしりを受けることになり、最悪の場合は「堕落した女」として社会から追放の憂き目に遭いかねないのです。例えば、「高慢と偏見」の末娘リディアがウィッカムと駆け落ちしたのは、社会からみれば不道徳な行為であり、その事実が発覚した時点で、エリザベスは家族である自分たち姉妹はまともな結婚はできないと絶望的になったのです。メリアンの振舞いは、外形的には、愚かなリディアとは同じと社会から見られてしまうおそれがあるということです。メリアンから見れば、世間に迎合していることになるかもしれませんが、エリナは社会的現実を認識しているがゆえに、メアリアンとウイロビィの婚約の有無について神経をとがらせるのです。

姉妹の末の妹マーガレットが、ウィロビーがマリアンの髪の毛を一房切り取ったところを見たと、エリナーに伝えます。これは、婚約の証しとして恋人同士の慣習として知られたことです。これは、同じようなことが、後にエドワードが身につけている髪の毛が誰のものかということが、エリナーを大きく悩ませることになるのです。

第13章

小説最初の山場となるウィットウェル屋敷への遠出のエピソードです。これは、バートン屋敷での語らいの晩に、ブランドン大佐の義兄が所有する、その屋敷の庭園の美しさをサー・ジョンが讃えたので、見物に行くことになったというのです。その翌日、人々は朝バートン屋敷に集まって、これから出かけようというときに、ブランドン大佐に急用の知らせが届き、大佐はロンドンにす向けすぐに出発しなければならなくなり、遠出は中止となります。集まった人々は大佐を引き止めたり、ウィットウェル屋敷の管理人に手紙を書いてくれと懇願するのですが、大佐は、それらをにべもなく拒否して、詳しい事情の説明もなく、人々を置き去りにするように出かけてしまいます。これは人々の不興を買い、ウィロビーは「楽しいことが嫌いな人間もいるのさ。ブランドンもそのひとりだ。風邪を引くのがこわくて、こんな小細工をして逃げるつもりなんだ。50ギニー賭けてもいい。あの手紙は大佐が自分で書いたんだ(P.92)」などと中傷されるのです。大佐も、そのことは分かっていたと思いますが、その行動の裏には、大佐以外の者の引率なしには、屋敷に他人を入れたくないという屋敷の持ち主の気持ちを尊重してのことだったので、ここに大佐の思慮深さと信義の厚さが表われているのですが、そのことはあえて説明されていません。なお、ブラドン大佐の急用は、物語のあとになって真相が明らかになります。これらのことは、あとになってウィロビーと大佐の対照がはっきりするにしたがって、思い出すように書かれているといえます。敢えていえば、この直後のウィロビーの行動や、次第に明らかになってくるウィロビーという人物との対照の伏線となっていると思います。このあたりのオースティンの作品の構成や表現方法は、まるでミステリーのトリックのような巧みさがあります。だから、漫然と読んでしまうと通り過ぎてしまうところに、あとになって思い出して、そうだったのかと思い至るという書き方です。しかも、その想起するのは、ウィロビーとブランドンの対照のように、対照的な人物や、その人物の対照的な過去との対比のように、人物の人柄が表われてくる際に、対比によって、それを鮮明にしているのです。そして、それによって思い起こす過去のエピソードが違って見えてくるのです。とくに、この作品は、その手法が多用されていて、読んでいる人は、そういえばあの時と想起するのと、ストーリーを読み進めるという二つの時間を同時に感じるようになっています。

さて、ブランドン大佐にとり残された人々は、付近を馬車でドライブすることになりましたが、ウィロビーとマリアンの2人を乗せた馬車は、それとは離れていっていましまいます。2人だけ単独でどこかへ遠乗りに行ってしまったのです。その晩の集まりで、ジェニングズ夫人から、二人がアレナム屋敷に行ったことが明かされます。詮索好きの夫人がハマ使いを差し向けて2人の行き先を突き止め、その後でエリナーがマリアンと二人だけになった時に妹の口から聞きだしたのです。それによると、2人だけでアレナム屋敷の中を見てまわり、庭園を散歩したりして長い時間を過ごしたというのです。エリナーは、それを聞いて、マリアンは屋敷の主人であるスミス夫人とは一面識もないのに、夫人の在宅時に屋敷に入るなどというのは、軽率な行為であると言います。当時の常識では、未婚の男女が2人だけで散歩すべきでないとされていた中で、2人は馬車で人々から逃げるように遠乗りに出かけたことだけでも正しいとは言えないのだそうです。おそらく、ウィロビーが、ブランドン大佐が突然去って、ウィットウェル屋敷への遠出が中止になった混乱状態になったのに乗じて、思い付きと気紛れで、メリアンを連れ出し、スミス夫人に許可を受けることなく屋敷を案内したのでしょう。メリアンは、ウィロビーのすることはすべて認めるのとともに、彼女自身も、その行為を楽しみ肯定していたのでしょう。ウィロビーの行動は、この同じ章で、ウィットウェル屋敷の主人との信義を守り、見学に行こうと集まった人々の期待を裏切ることをしてまで、したがったブランドン大佐と、同じように他人の屋敷に人を案内するという行為で、屋敷の主人への配慮もなく自己中心的な欲望に突き動かされるようにマリアンを連れて行ったウィロビーの行為が対照的に示されているものとなっている、はずなのです。しかし、さっと読んだだけでは、そうなっていません。それは、エリナーがマリアンとの会話の中で、そのことが説明されているからです。エリナーはマリアンの話をきいて、まず、マリアンがウィロビーと行動を共にして、未だ相続していない先から将来の計画をし、婚約もしていないのに周囲の誤解を招くような不用意で、淑女にあるまじき行動を取ったことを正しくないと指摘するのです。それは、姉の立場として忠告している、しかも、エリナーは監視者のような立場で妹の振舞いを見守っていたという立場で、まずそういう言い方をしているわけです。

「楽しいことは正しいに決まってるわ。私のしたことがほんとうに悪いことなら、私はそのそのに気づいたはずよ。悪いことをしているときは自分でもわかるし、悪いことをしていると思ったら、楽しい気持ちになんかなれないもの。(中略)私のしたことが間違っているというなら、私たちはいつも悪いことをしていることになるわ。私はジェニングズ夫人にほめられても何とも思わないし、非難されても何とも思わないわ。アレナム屋敷の庭園を散歩したり、屋敷の中を見学したりしたことが悪いことだなんて思わないわ。アレナム屋敷はいずれウィロビーさんにものになるんだし、そして…」(P.99)

というように、ここでもエリナーとマリアンの対照を示すことになっています。マリアンは、正しいか間違っているかを決めるのは世間の規範や礼儀ではなく自分自身であって、自分には判断力が備わっているので間違いを犯すはずがないという自己に忠実な、というよりもロマンチックな物語の主人公にありがちな主観的なパターンが示されます。そして、マリアンの口から、間接的にではありますが、ウィロビーとの婚約が匂わされるのです。それは、この発言の後、マリアンの態度がエリナーへの反抗を示していたのが、嬉しそうな態度に豹変し、アレナム屋敷の様子をエリナーに喜々として話し始めるのです。

ここで、ちょっと不思議なのは、ウィロビーとマリアンのアレナム屋敷訪問という場面を、うわさ話と姉妹の会話で話されるという間接的な描き方をしているというところで、しかも、ウィロビーとマリアンがそういうことを行ったということとその是非が話題の中心でその中味にはまったく言及されていないことです。2人の恋愛は少なくとも、この小説の前半の中心となる話です。このような若い男女の恋愛を正面から扱うのなら、ロマンチックな恋愛小説であれば、恋する2人が周囲の目を逃れて、将来結婚してともに生活するであろう屋敷を見てまわり、そこで愛を語りあうというのはひとつの大きな見せ場であるはずです。読者も、甘い恋人たちのシーンに胸をときめかせてページをめくるようなころであるはずです。それを、この小説では、ウィロビーがマリアンをどのように案内したかとか、2人はどんなことを話したか、表情は、感情はどうだったのか、といったことには一切触れないし、その場面を直接描くこともしませんでした。これは、ひとつには、前述のように、エリナーとマリアンの対照を示すのと、マリアンの気持ちがエリナーに洩らされるという話の流れという理由かあります。それだけでなく、この小説では、この前でもエリナーとエドワードが知り合って恋しあうところが、間接的にしかしめされない、そういう恋愛小説の中心的なものが、間接的に、誰かが話しているという描写、あるいは誰かから聞いたという描写で書かれています。作者のオースティンは、登場人物のフィルターを通して、恋愛を描写しているのです。ここに、あからさまではないのですが、恋愛ということに対する批評性が、作者の姿勢があると思います。そこに善悪とかマナーといった道徳的なものが入り込んできていますが、少なくとも、手放しで恋愛を至上のものとして扱って、恋人たちを暖かく見守るとか、称揚する姿勢はありません。それゆえに、ことさらに一般的な恋愛シーンを煽りたてることはせずに、むしろ抑制していると考えてもよいのではないかと思います。

オースティンの前作『ノーサンガー・アビー』はゴシック小説のパロディとして読むことができるように、この『分別と多感』はロマンチックな恋愛小説のパロディという面があるようにも思います。『ノーサンガー・アビー』のようなあからさまな皮肉は控えられていますが、メリアンは『ノーサンガー・アビー』のキャサリンとは違いますが、文学の世界に沈潜して、ややもすると現実の世間より優先してしまうところなどに共通するところがあります。キャサリンは現実と小説の区別がつかなくなって、近代的に改装されたノーサンガー・アビーにゴシック小説的な昔の面影を探し回りますが、マリアンの行動は恋愛小説の情熱的なヒロインを真似ているように思えます。キャサリンとは違って、それほど極端(というよりもキャサリンはパロディとして戯画的に設定されているわけですが)ではありませんが、目の前のリアルな状況や人々を見ようとしていないで、小説の純粋(マリアンにとって純粋ということですが)な世界を通して見ようとしている点は共通しています。ですから、マリアンもキャサリンと同じような現実と小説の区別がはっきりしていなくて、マリアンの見ている世界はリアルなものではなくて、小説の方向に捻じ曲げられていると言えます。キャサリンがノーサンガー・アビーの自室でクリーニングの請求書を現実にありえない陰謀か何かの密書のようにみてしまった、というほどではないにしろ、マリアンにもそういうところはある。その意味で、彼女の恋愛の行動は夢うつつのようなところがあって、それをそのまま行動として、この作品の中で表わしてしまうと、エリナーの生きているリアルな世界と矛盾してしまうことになる。一方で、オースティンという作家の持っている小説に対する批評性いうのでしょうか、『ノーサンガー・アビー』がゴシック小説のテクストに対する批評性を強く持っていたのと同じように、『分別と多感』は恋愛小説のテクストに対する批評性を、実は持っていたのではないか、つまり、マリアンとウィロビーの無軌道な行動は当時の恋愛小説のテクストへの批評の性格もあって、二人の行動を伝聞とすることは、そういうテクストを間接的な通っているということなのではないか。それは、『分別と多感』は『ノーサンガー・アビー』のようにあからさまにパロディの要素を前面に出していないので、皮肉の要素を控えめにするために、このような間接的な伝聞という表現の仕方を採ったのではないかと思えてきます。実は、この作品の中で、そういう要素が感じられる、割合に物語の中での転機となるような重要な場面で、伝聞のかたちで表現されているところが何ヶ所もあるのです。

一方、そのマリアンとウィロビーの二人を監視するエリナーは、自分自身のの観察力で二人の行動を中止する、つまり文字通り観察しているのです。その観察した内容を語るエリナーの言葉は社会的だったり道徳的な語彙を用いたものです。それは小説家の目ではなく、自然科学者のような感情や先入観に曇ることなく、冷静でリアルな視線なのです。

第14章

エリナーは、マリアンとウィロビーを監視するように見守っていましたが、二人が婚約について異様な沈黙を守っていることに対する不審感を抑えきれなくなってきます。面白いのは、この章は、それがメインの内容であるのに、導入部がブランドン大佐が突然ロンドンに行ってしまった理由をジェニングズ夫人があれこれ詮索しているのをエリナーは大佐をはなから信頼しているという一節をいれて、それに対照させるように、ウィロビーへの不審感の内容に入っていくところです。ちょっと先へ行ってしまいますが、この後ウィロビーも唐突にロンドンに行ってしまうので、ウィロビーとブランドンの二人の行動の対照が際立ってくるのです。

さて、以前に第12章のところで触れたように、マリアンは恋愛においても愛情のみを求め、社会的慣習や形式を一切顧慮しようとしないため、あえて婚約という形式を求めないのです。しかし、二人の公然と恋人同士のようにふるまうのを周囲の人々は婚約したと思っているのです。それは社会の常識では、婚約した男女こそが、人々の前で恋人どうしの振舞いをすることが許されるからです。だから、エリナーは二人は親密な態度で示しているのだから、婚約していることを秘密にする理由はないはずです。

その一方で、ウィロビーの振舞いは、婚約者然としていて、しかもダッシュウッド一家にも愛情溢れるものです。それが、婚約を公表しないことと辻褄があわないのです。この章では、そのウィロビーの親密で愛情に溢れた振舞いが強調されます。それが次章の伏線となっています。

第15章

翌日、一家はウィロビーとの約束があるというメリアンを残して、ミドルトン夫人を訪問します。しかし、戻ってみると泣き崩れるマリアンと、昨日の愛情深い様子とは打って変わった冷たくよそよそしいウィロビーの姿でした。今日、これからロンドンに向かって出発するというウィロビーはスミス夫人から言われたという事務的な説明だけで、その理由も明かさず、ダッシュウッド夫人から問われて、ロンドンに居を移してデヴォン州には戻らないという事情を明かします。そして、夫人が、それでも、バートン・コテージはいつでも歓迎するという親しみの挨拶にも、冷たい反応て、しどろもどろになって体裁を取り繕っていた、それて、慌しく別れを告げて去ってしまったのです。

エリナーの不安も母親に劣らなかった。たったいま起きた出来事を、不安と不信をもって思いめぐらした。みんなに別れを告げたときのウィロビーの冷ややかな態度。あのうろたえぶり。無理に明るさを装った感じ。そしてとりわけ、いつでもバートン・コテッジにいらしてくださいという母の招待に応じなかったこと。そして恋人らしくなく、彼らしくなく、しどろもどろになって尻込みたこと。それらを思い出すと、エリナーは激しい不安に襲われた。ウィロビーは最初から真剣な気持ちなどなかったのではないか。あるいは、ふたりは何かひどい喧嘩を下野ではないか。マリアンが泣きながら部屋を飛び出してきたことを考えると、ひどい喧嘩があったと見るのがいちばん自然だ。(P.100)

その後でエリナーと母親であるダッシュウッド夫人の議論となりますが、それがこの小説のパターンであり、何事かがあったときには、その後で必ず当事者の一方か比較的近しい第三者による、そのことに対する議論があって、評価が加えられるのです。それは、マリアンとウィロビーがアレナム屋敷に二人で出かけた後では、マリアンとエリナーがその是非をめぐって議論をしてしました。ここに、あからさまにされていないのですが、この小説では主要人物の行動や事件について、小説の中で必ず評価が加えられるという特徴があります。それは、小説の物語とは別の、つねに、その意味を考えるという、ふつうならお説教になりかねないのですが、不思議なことに、それがこの場面であればウィロビーの行動の不可解さを焙りだし、ミステリーの伏線を張るような効果を作り出しています。それは、この小説の主要な登場人物が、一見ふつうのどこにでもいるような人物に見えて、それぞれに過去を持っていて、それが時に些細なことで、謎めいたところを現わすのですが、それが物語の中では注意していないと気づかず読み流してしまうのですが、ここで、それを掘り起こすように小説の中で取り上げて議論をしてくれるのです。これは『高慢と偏見』ではエリザベスとジェインの姉妹の議論で、より洗練された形になりますが、『分別と多感』では議論する人が固定されず、それだけ議論のバリエィションは多彩になり、『高慢と偏見』にはない、ストーリーの違った側面を照らし出す機能が生まれてきます。ここでも、エリナーは、ウィロビーの狼狽ぶりや、陽気さを装ったわざとらしい態度などを細かく観察して、彼の誠意を疑います。これに対して、ダッシュウッド夫人は、彼の後見人のスミス夫人を悪者にして、二人の仲を妨害しようとしているとウィロビーの行動を善意に解釈しようとします。そして、二人が婚約していることは、その振舞いからも明らかであると疑うこともしません。かえって、二人が婚約しているのかを疑うエリナーを疑い深いと言います。エリナーは一歩譲って、二人が婚約したが事実だとしても、そのことを自分たち家族に隠すようにして明らかにしないのはおかしい、婚約したという証拠は何もないといって反論する。それに対して、夫人は愛に証文を求めるのかと問います。たとえ二人が婚約していたとしても、ウィロビーは遺産を相続して独立しているわけではないので、すぐに結婚できる立場にない。したがって、二人の結婚は前途多難で、いつになるか分からないのです。そういうことが、この議論で明らかになってくると、別の家族が入ってきて議論は中断します。

第16章

マリアンはウィロビーに去られて傷心の一夜を明かします。

マリアンはウィロビーと別れた夜に一睡でもしたら、自分を許せないと思っただろう。朝ベッドを出るとき、前夜以上にやつれていなかったら、家族に顔向けできないと思っただろう。しかし、そのような平静さを恥と思うマリアンが、そのような非難を受ける気づかいはまったくなかった。マリアンは一晩じゅう一睡もせず、ほとんど泣きどおしだった。起きると頭痛がし、口をきく気がしなかった。家族みんなを心配させ、誰が慰めてもいっさいを受け付けなかった。マリアンはまことに感受性豊かな女性なのだ。(P.118)

このオースティンの文章には、かなりの皮肉が感じられます。“マリアンはウィロビーと別れた夜に一睡でもしたら、自分を許せないと思っただろう。”といった言い方は、マリアンが自身を恋愛小説の悲恋のヒロインに仕立てているように見えます。そういう振舞いが、悲劇のヒロインという役柄に自身を没入させることになり、涙が涙をよぶ。マリアンには悪いが、悲しむというよりは悲しんでいる自分に酔っているという風情です。“マリアンはまことに感受性豊かな女性なのだ。”と文章を閉めていますが、マリアンにとって感受性とは、そういうもの、まるで、小説のヒロインに自己を同一化させてしまう『ノーサンガー・アビー』のキャサリンのようです。それは、出会ったときのウィロビーを小説の主人公のようだと思った陳腐さが、別れの時には、自身を恋人に去られたヒロインという陳腐さに当て嵌めて、それに気づかないでいる、いわゆる夢見る少女の典型的なパターンです。

一週間後、今度はバートン・コテッジにエドワードが訪ねてきます。ウィロビーと入れ替わるようです。

まもなくその光景のなかに、動くものが目に入った。馬に乗った人物がこちらへやってくるのだ。そしてすぐに、それがひとりの紳士であることがわかった。するとマリアンが狂喜したように叫んだ。

「彼よ!たしかに彼よ!間違いないわ!」

と叫んで駆け出したが、エリナーが大きな声で呼びとめた。

「マリアン!違うわ!ウィロビーさんじゃないわ。ウィロビーさんはもっと背が高いし、体つきの感じも違うわ」

「いいえ、彼よ」とマリアンは言った。「間違いないわ。体つきも、上着も、馬も、彼に間違いないわ。そうよ、すぐに戻ってくるとわかっていたの」

マリアンはそう言いながらまた駆け出した。エリナーは、その紳士がウィロビーではないとわかっているので、マリアンが変な人と思われるのを防ぐために、自分も駆け出してマリアンに追いついた。ふたりはすぐにその紳士から30メートル足らずのところので近づいた。マリアンはその紳士をもう一度見てがっかりして、くるりと背を向けて引き返そうとしたが、エリナーとマーガレットが声を張り上げて引きとめた。そしてもうひとつの声が─ウィロビーの声に劣らぬほど聞き慣れた声が─「待ってください!」とマリアンに呼びかけた。マリアンは驚いて振り返り、その紳士がエドワード・フェラーズだとわかって、歓迎のあいさつをした。

エドワードはこのとき、ウィロビーではないことを許してもらえる唯一の人物であり、マリアンから笑顔を引き出せる唯一の人物だった。マリアンは涙を払って彼にほほえみかけ、エリナーの喜びようを見て、しばらくは自分の失望を忘れた。(P.122〜123)

ここでは、映画のロングショットのような手法が用いられ、遠くの「一点」を見つめながら、願望が具体的な形を取るまで待つ人の心理が、鮮やかに描かれています。最初は三人の姉妹たちの視点を通して描かれているのが、まず、その中心がメリアンに据えられていて、マリアンは、その「一点」がウィロビーの姿となって表われることを期待した結果、失望してしまいます。一方、エリナーはがどの時点でそれがエドワードだと気づいたかは、まだ分かりません。彼女に関しては、たんに妹の思い違いを正そうとする役割しか描かれず、代わりに、「嬉しそうにしている姉の様子」を見て、メリアンが自らを慰めたという事実のみが伝えられます。しかし、ここでエリナーもまた、ウィロビーを待つメリアンに劣らず、その「動く一点」がエドワードであることを望み、希望がかなったことに、大きな喜びを覚えたことは、間違いない。その瞬間のエリナーの様子が直接描かれていないゆえに、いっそう読者の想像が掻き立てられることかがある。巧みな表現です。

ここでは、マリアンがウィロビーと思ったのがエドワードだったことで、二人が交替するような登場の仕方をしていることか、ここではっきりとさせられます。ヒーローの交代にあわせるように、ヒロインの焦点もマリアンが後景に退き、エリナーが前に出てきます。それに伴って、エリナーの立場が、観察者としてのものから当事者に変化してくると、不思議なことにエリナーは観察者としての冷静さを失くしていきます。それが、ここで引用した文章にも表われています。ここでのエリナーは冷静にエドワードであることを確認することをせず、期待と不安で、遠くの彼の影をいぶかり、彼と分かると歓喜で駆け出します。オースティンの小説には、エリナーをはじめとして冷静で賢明なヒロインが何人もいますが、それらの人々は総じて、他人を観察するときには冷徹なほど客観的に見ようとするのですが、自身のこととなると、激しく感情的になって、その落差が大きいことが多いのです。それで、人格が分裂してしてしまわないかというほどです。それを統一させているのは、ここではあからさまにならず、ときおりエリナーが垣間見せてくれるのですが、冷静さの根底にはコンプレックスがあるようなのです。それは、後になって、冷静であるように見えて、その実、先入観に縛られて人物を見ていることが明らかになります。

しかし、当のエドワードがおかしい。ここで、ウィロビーに替わって登場したエドワードが謎めいてくるのです。ウィロビーに対しては、エリナーは不審を抱きますが、エドワードに対しては、おかしいと感じ、それを強引に納得させようとします。それは、エドワードが前回ノーランド屋敷で会っていたときより元気がない風情でよそよそしい態度を崩さず、エリナーを避けている様子でさえあるのです。実は、その布石はノーランド屋敷を一家が去るときの二人別れにもありました。小説ではメリアンの目を通じて、第8章で次のように語られていました。

「おかしいわね!一体どういうことなの?あのふたりは一体どうなってるの!訳がわからない!最後の別れの時も、ふたりとねあんなによそよそしくて、あんなに落ち着き払って!最後の晩だって、ふたりはろくに話もしなかったわ!エドワードの別れの言葉は、お姉さまにも私にもまったく同じだったわ。やさしいお兄さまがふたりの妹に言ってるみたいで。最後の朝にも、私が二度も席を外して、ふたりだけにしてあげたのに、彼はそのたびに、私のあとから部屋を出てきてしまったの。それにお姉さまは、ノーランドを去ってエドワードと別れるというのに、泣きもしなかったわ。私なんてわんわん泣いたのに。お姉さまの自制心はまさに不動ね。お姉さまはいつ落ち込んだりふさぎ込んだりするのかしら。人に会いたくないと思うときや、一前で不安になッ足り不満になったりすることがあるのかしら」(P.56)

感情優先のマリアンの言葉で、エクスクラメーション・マークを多用する感情的な言葉なので、そういう彼女からはエリナーが感情的に乱れた態度をしないことをオーバーに語っているように読めてしまう文章です。しかも、最後に、姉を不動と言って、その克己心の強さを強調しているので、とくに不審に思うことがありません。しかし、マリアンは何となく変だと感じ取っていたのが、この言葉です。それを、後になって思い出すと、そういえばあの時、マリアンはあんなことを言っていたと分かる。本当にさり気ない伏線です。しかし、それが分かると、読者はエドワードという人物の謎めいたところが気になってくるのです。エドワードのよそよそしい態度は、この別れの時の続きのように見えてくるのです。第8章と同じようにマリアンがエドワードの様子を語ります。

マリアンの目から見ると、エドワードとエリナーの再会は、ノーランド屋敷でたびたび目にしたあの不可解なよそよそしさの続きでしかなかった。とくにエドワードの表情と言葉には、恋人同士が再会したときに見られるはずのものがまったく見られなかった。どぎまぎして、再会の喜びも感じていないみたいで、うれしそうでもなく、陽気でもなく、質問に答える以外はほとんど口もきかず、エリナーに特別な愛情を示すこともなかった。マリアンはそれを見れば見るほど、聞けば聞くほど、驚きが募るばかりで、なんだかエドワードが嫌いになってきた。(P.123)

エドワードがデヴォン州に二週間も前から来ていたことを知ったメリアンは、なぜ彼がもっと早くエリナーに会いに来なかったのだろうかと不審に思います。この段階に至って、多感なメリアンならずとも、読者も不可解に感じ始め、エドワードをめぐって何かミステリーがあることに気づくことになります。

第17〜18章

エドワードが訪問してきたバートン・コテッジでの日々です。読者としては、それまでエドワードという人物についてエリナーが思いを寄せている男性として、散々話題になっているので意外に思えるのですが、彼が実際に登場して、直接行動したり、自分の言葉を発しているところを直接描かれているのは、初めてに近いのです。ここまでのエドワードは、場面のなかでチョイ役のように短い場面でひと言喋るだけのような登場や、会話のなかで誰かが彼のことを話したり、あるいはエリナーの思い出の中で語られるのがほとんどで、間接的な描かれ方をされていました。だから、読者としては、生身のエドワードに触れるのは初めてに近いのです。そのように、いわば読者の前にはじめてまともに姿を表わしたエドワードの様子について、エリナーは次のように思ってしまう、と作者は書きます。

エリナーは、エドワードの元気のなさを見てものすごく不安になった。彼の訪問はエリナーにわずかな満足しか与えられなかったし、彼のほうも、この訪問を心から楽しんでいるようには見えなかった。彼が幸せそうではないのは明らかだった。以前は、彼はたしかにエリナーに特別な愛情を抱いていたはずなのだが、その愛情はいまでも変わっていないことをエリナーは願った。でもいまのところ、その愛情がまだ続いているかどうか、どうもはっきりしなかった。彼の生き生きしたまなざしが、ほんの一瞬愛情をほのめかしたかと思うと、つぎの瞬間にはよそよそしい態度に変わってしまう。(P.135)

これはエリナーの視点で語られたエドワードの様子です。これを深く気に留めずに読み進めると、そうかエドワードの様子は元気がないのか、普通ではないのかと、読者は不審に思うかもしれません。あまり注意していない読者なら、そこも読み飛ばして、エドワードが訪ねてきたというところにとどまってしまうかもしれません。いずれにせよ、このエリナーの感想は、伏線を張ったようなところで、後になって、「そう言えば、あの時」と思い出させるようになるような巧みな書き方になっていると思います。この小説には、そのような伏線がいくつも張られていて、それを読みながら掘り起こしていくという楽しみも、この小説にはあります。

しかし、例えば、今引用した部分ですが、そのような伏線として巧みだとは思うのですが、ここでエリナーがエドワードに対して思っていることと、私が読者として、ここに描かれているエドワードの様子を読む限りでは、とくに元気がないようには思えないのです。というのも、読者にはエリナーがエドワードが元気がないのではない普通の様子と思っていたような描写が示されていないのです。だから、この章で、エドワードの様子が描かれていて、エドワードの様子について元気がないと言っているのはエリナーだけで、それを受け入れざるを得ないようになっています。このような叙述のしかたで、私には思い出されるのは、ミステリーの倒述法という書き方です。アガサ・クリスティーがよく使ったトリックですが、犯人が語り手になって犯罪を語っていて、その犯人の視点で語られるのですから、読者はそれで語り手は犯人ではないと当初から信じてしまい、そこで最後のどんでんがえしで、実はその語り手が犯人だったと意外さに驚くという仕掛けです。そう考えると、この『分別と多感』という小説はエリナーの視点で語られている部分が多くて、読者は倒述法のミステリーの読者のように視野を限られていく仕掛けになっているところがあります。

これは、かなり飛躍した考えかもしれませんが、オースティンという作家は、物事に直接当たって、そこに新しい言葉や表現を作り出して世界を広げていくというタイプの人ではなくて、既存のテクストを批評的に取り込んで、それを組み合わせて表現を構築するタイプの人ということを示しているのではないかと思えるのです。何か分かり難いかもしれませんが、オースティンという人は、既存の表現というフィルターを通じて物事に触れていて、そこからはみ出ることはないのです。だから、新しい表現を創造するということはしない。むしろ、既存の表現を組み合わせてものがたりを作り込んでいく、アーティストというよりアルチザン(こんなことをアンドレ・ジイドだったかが言っていたような気がします)のタイプであるあかしなのです。つまり、エドワードについて、元気がある時とない時の様子の違いを、それぞれ描写することよりも、エリナーが思ったとして書いてしまえば済むわけです。しかも、エリナーはものごとを客観的に観察するタイプだと最初に紹介しているので、読者はそのエリナーが見るエドワードの姿を客観的事実としてそうだと自然に思う。そういう書き方になっています。それが、この小説の欠点といえばいえなくもないかもしれませんが(そう思う人は少ないと思います)、それがかえって一つの世界を完結させるような様相を呈している。つまり、最後のどんでん返しのない倒述法のミステリーで、読者は物語の世界に惹き込まれてしまうような効果を生み出しているといえるのです。

しかし、作者オースティンは、そういうことに決して無自覚ではないことは、この章の中の小さなエピソードが示していると思います。それは、会話の中で、出世して偉くなることが幸せなることとは限らないというエドワードの洩らした言葉に、マリアンが過剰に共感して「富や出世は幸せは無関係」と強弁します。これに対して、エリナーが幸せな生活には経済的な裏づけが必要と但書のようにつけたしをすると、マリアンが最低限の生活ができれば富は必要ないと反対します。そこで、エリナーが最低限の生活にはどれほどのお金が要るのか、と問うと。マリアンは年収二千ポンド以上はいらないと答えます、これに対して、エリナーが経済的な裏づけとして考えられるのは、その半分の千ポンドで十分だというのです。富を軽蔑するマリアンは実は、無意識のうちに金持ちの生活を前提にしているという、彼女の世間知らずの面が露わになる場面ですが、姉妹の富ということに対する見方の違いで、言葉のニュアンスが正反対になっている。言葉というのは視点によって意味合いが正反対に変わってしまうのです。そういう、言葉に対する相対的な視点が、ここで明らかにされています。だから、言葉の組み合わせによって、意味や内容が様々に変わってくる。現代の記号論の考え方のような姿勢です。それが、この小説では言葉だけでなく象徴的な記号がいくつか使われています。それが18章で少し触れられるエドワードの指輪です。

エドワードは、髪の毛をはめ込んだ指輪をしていることをメリアンに指摘されて、赤面し、エリナーのほうをちらっと見て、それが姉ファニーの髪の毛だとあわてて答えます。彼の様子から、その言葉が嘘であることは明らかです。エリナーは、それが自分の髪にちがいないと即座に思ってしまうます。彼がこっそり自分の髪の毛を盗んだのだろうと推測してしまうのです。それで、エリナーは悪い気がせず、心の中で、これからあらゆる機会を捕えて、それが自分の髪の色と同じであることを確認しようと決意します。エリナーは12章において、ウィロビーがメリアンの髪を切り取る場面を目撃したと、妹マーガレットから聞いたときには、エリナーは深刻に受け止めて、二人が婚約している証拠だと考えたのでした。それに対して、エドワードが自分の髪を盗んだという想定に対しては、エリナーは妙に甘くて寛大で、マリアンの場合のように深刻な捉え方はしません。しかし、真実は22章で明らかになりますが、エリナーではなくルーシーというエドワードと4年前に婚約した女性のものだったのです。エリナーはそれをエドワードの自分に対する愛の証だと、この時、信じた、そうあってほしいという願望から、早合点してしまったのです。つまり、それに対してエリナーの態度が変化していて、決して冷静な観察者ではないエリナーの本質が表われている。それとともに、ここでは婚約の証しとして髪の毛の記号的なシンボルとして扱われているのです。この髪の毛は、このあと、ウィロビーがマリアンに対して冷たく愛の拒絶が宣言されたときに、つき返される。つまり、愛情の記号的な証しとしてやりとりされる「もの」として扱われています。

それはどうしてか。それは、オースティンという作家の誠実さというのか、一種の愚鈍さと言ってもいいかもしれませんが、それがこの『分別と多感』という作品にはストレートに表われているということなのです。それはどういうことかというと、愛情という形のないもの、はっきりしないものを、客観的・外形的にはわからないものを、小説の言葉で単に「愛している」という言葉だけで、そこに愛があるとして物語をすすめてしまう恋愛小説の決まりごとを、嘘として、そのまま、この小説に用いることを潔しとしなかったということではないかと思います。つまり、オースティンにとって、従来の恋愛小説はヒーローとヒロインの間に愛があるということは自明の前提で、小説の中心は、二人の愛に対して周囲が障害となったり、周囲に騒ぎをおこすということであって、二人の間に愛あるということは、とくに小説に描かれていないから、それを示すことに注意が払われていない。しかし、『分別と多感』ではエリナーが執拗に愛の証拠のあるなしに執拗にこだわります。それは、恋愛小説のヒーローとヒロインの間に愛があるのか否か、本来、それが分かるのは当事者である二人だけで、周囲のものは推測するしかありません。それを小説にするならば、読者という第三者に分かる必要がある。しかも、この『分別と多感』はほとんどがエリナーの視点からの見聞きで進みます。したがってマリアンの恋愛についてはエリナーは当事者ではなく、そのエリナーに分かるような書き方が必要で、それが分かるためには外形的な何かが必要です。それゆえにエリナーは証拠にこだわることになるし、外形的なものとして記号的なシンボルが用いられていると言えるのではないでしょうか。それが、『分別と多感』が恋愛小説のパロディであり、メタ恋愛小説という性格をもった小説であるということです。

話は変わりますが、ここで小さなエピソードがあって、すこし長くなりますが下に引用します。

エドワードは美しい景色にあらためて感心して戻ってきた。村へ行く途中、バートン谷の美しい景色がいくつも目に入ったし、村はバートン・コテッジより高いところにあって見晴らしがいいので、それも彼を大いに喜ばせた。マリアンはそういう話題なら大好きなので、さっそく自分もそれらの景色を絶賛しはじめ、とくにどの景色にどういうふうに感心したのかと、こまかい質問をはじめた。するとエドワードはマリアンをさえぎってこう言った。

「あの、あまりこまかい質問はしないでください。ぼくは『ピクチャレスク』という美学のことは何も知らないんです。こまかいことを聞くと、ぼくの無知と無趣味にがっかりしますよ。『そそり立つ丘』と言うべきところを『急な丘』と言ったり、『ごつごつした奇怪な山肌』と言うべきところを『でこぼこの変な山』と言ったり、『おぼろげに霞む定かならぬもの』と言うべきところを、『遠くてよく見えないもの』と言ったりしそうです。ぼくの正直なほめ言葉で満足してください。バートン村はとても美しい村です。急な丘がたくさんあって、森には立派な材木になりそうな木が生い茂り、こぢんまりしたのどかな谷間には、豊かな牧草地がひろがり、こぎれいな農家があちらこちらに点在している。ぼくが考える美しい田園風景のイメージにぴったりです。美と実用を兼ね備えているからです。それにあなたが絶賛するんだから、ビクチャレスクな美しさもあると思う、ごつこづした岩や、崖や、灰色の苔や、灌木の茂みもあると思う。でも、そういうものはぼくの目には入らない。ぼくは『ピクチャレスク』という美学のことは何も知らないんです」(P.136)

これに対してマリアンは「知らないということをなぜそんなに自慢するの?」と理解できず、呆れるばかりなのですが、エドワードがこれほどピクチュアレスクを適確に皮肉ることができるほど知悉していることに気がつきません。それは、始め近くのところで、マリアンがエドワードに絵の趣味がないと馬鹿にしていたこてが、的外れであり、逆にマリアンがもっともらしい言葉を並べても、読んだ本に書かれている言葉を借りてしか物事を見えていないし、それに自身が気づいていないことを間接的に表わしています。だから現実の本質が見えない。ということは、外見に惑わされてウィロビーもブランドン大佐も誤解している。また、相手エドワードもピクチュアレスクという流行の美学に反発するあまり、こちらもまた素直に美に向いていない。それはこの後で明らかになる、ルーシーとの婚約というミステリーに反映しているのですが、これは後でわかってくることです。また、話は脱線しますが、この風景の美しさの議論は、前作『ノーサンガー・アビー』でキャサリンがティルニー姉妹とバース近郊の散歩をしていてピクチュアレスクについてキャサリンが無知なのを姉妹が教えていくという場面の裏返しのように見えます。もっと言えば、ここでエドワードが主張しているものは、『高慢と偏見』でエリザベスがペンバリーの風景や『マンスフィールド・パーク』でファニー・プライスがサザトン・コートにに抱く感想の土台となる見方に通底するものと言えます。おそらく、オースティン自身の美意識が、ここに反映していると思います。

第19章

エドワードは、バートン・コテッジにたった一週間しか滞在せず、楽しい交際の最中に、まるで自らに苦行を課すかのように去ってしまいます。用事がないのにもかかわらず、引き留められると、どうしても帰らねばならないと言って溜息をつくエドワードの態度は、矛盾に満ちていて、謎めいて見えるような印象を与える書き方になっています。

エドワードがバートン・コテッジを去る前にダッシュウッド夫人が、彼のことを心配して何か職業をもったほうが幸せなのではないか、と彼に問いかけようとします。するとエドワードは、自分にとって職業がないことは、大きな不幸であると認めたうえで、「困ったことに、職業の選択に関しては、ぼくも家族も選り好みが激しいんです。それでぼくはこんなに情けない怠け者になってしまったんです」と説明します。本当は牧師になりたいのだが、家族が自分には向かない軍人や法律家になることを勧めて、そういう体裁のよい仕事でなければ、いっそ何もしないほうがよいと言うので、という、まう都合のいい弁解です。「18歳の若者が、家族から何もしないようにと言われれば、わざわざ苦労して職業なんかにつくはずもありません。そういうわけで、ぼくはオックスフォード大学に入れられて、それ以来何もせずにぶらぶらしているんです(P.145)」と、エドワードは言い訳する。

エドワードのこの矛盾した言動は、すべて彼の母親すなわちフェラーズ夫人のせいだと、エリナーは思った。エリナーには幸いなことに彼の母親がどういう人物かよく知らないおかげで、息子の言動の不可解な点をすべて母親のせいにすることができた。エドワードのはっきりしない態度に失望し、いらだち、ときには腹も立ったけれど、全体としては彼の行動を、いろいろな事情を考慮に入れて寛大に見てあげようという気持ちだった。あのウィロビーがが突然立ち去ったときには、ダッシュウッド夫人からあんなにいろいろ言われも、そんな寛大な気持ちにはなれなかったのだが。

エドワードが元気がなくて、その言動が率直さと一貫性に欠けるのは、彼が経済的に独立していなくて、財産を握る母親の性格と意向をよく知っているからだと、エリナーは考えた。一週間という滞在期間の短さや、どうしても帰るという決意の固さも、原因は同じだろう。経済的に独立していないためにいろいろな束縛があり、母親の意向に添うように行動しなければならないのだ。義務と自由意志、親と子という、昔ながらの対立がすべての原因なのだ(P.145)。

考えてみれば、エドワードが去るのは、ウィロビーが突然、理由も告げずに去って行ったのと似ています。それを違う印象にしているのは、エリナーの視点から、こういうこと書かれているからで、そのエリナーの視点は、冷静な観察によるのではなくて、思い入れによって歪められています。ウィロビーに対しては辛辣なほど追及しようとしたのに対して、エドワードに対しては不当なほど寛大です。しかも、エドワードの様子が不審であるということの理由を、よく知らない彼の母親のせいにして、しかも、エドワードの指輪についても自分にとって都合のよいように解釈してしまっています。それを読者は、マリアンが、このように見たのなら、恋に目が眩んでしまったと思うでしょう。これに対して、エリナーは今まで冷静な観察者として印象付けられているので、読者は、事実そのものであるかのように捉えてしまうことになります。それゆえ、エドワードの謎めいたところというのは、エリナーの不安、つまりは恋する人が抱きがちなものというフィルターをかけることによって、実際以上に不審に見えてきた結果ということもできると思います。小説の叙述では、このエリナーによるエドワードについての見解(思い)の後に、さきほど述べましたダッシュウッド夫人のとエドワードの会話が続きます。そうすると、エドワードの単に元気がないということが、あたかも不審な謎に包まれているように読者には映ってくることになるのです。また、後になってエリナーがエドワードに対して持っていた見解が誤りであったことが明らかにされます。それは、エリナーの思い入れによって、彼女自身にとって都合よく解釈していただけのことだったわけですが(例えば、エドワードの指輪のはさまれた髪の毛を自分の毛であると妄想していたということなど)、読者にはエドワードが、より謎めいた存在として、ある種の虚像のようになっていきました。作者であるオースティンは、このようにして虚像としての存在を大きくふくらませていったので、その反面でエドワードの実在感を稀薄にしてしまうことになってしまいました。この後も、エリナーの思いの中での存在感は大きくなっていきくし、ダッシュウッド家をはじめとした人々の会話では話題にされるものの、彼が実際に登場して何らかのアクションを起こすことを直接語られることはありません。ウィロビーブランドン大佐に比べて登場の機会は不当なほど少なくなっています。しかし、彼の不審さの印象は、小説の物語が進むにつれて大きくなっていくことになります。

エリナーの振舞いから、彼女の思いがマリアンのときのように率直に表われないところは、エドワードが去ったことに対する態度からも分かります。エドワードがバートン・コテッジを去った後、エリナーは絵を描くなどをして一日中忙しく何かに取り組んで、表面的には、いつも通りに日常生活を過ごそうと励んでみるのです。マリアンがウィロビーに去られてしまったときには自分の殻に閉じこもったりつ、家族を避けてひとり散歩したりして、ただウィロビーの想い出にふけるばかりでした。エリナーの振舞いは、そういうマリアンと対照的に見えます。しかも、そのエリナーの様子を、脇でマリアンが見て、自分の振舞いとは正反対だと次のように言っています。「愛情が激しい場合は自制心を保つのは不可能だが穏やかな愛情しか持っていない場合は、誰だって自制心を保つことができるし、そんなことは別に立派なことではないということだ。姉は穏やかな愛情しか持てない人間だということを、マリアンは事実として認めたくはないけれど、あえて否定はしなかった(P.147)。」このように、マリアンの主観的な感想まで入った観察まで示されると、エリナーの冷静さ、そういう性格を読者に念入りに示しているのです。しかし、そこにさりげなく次のような文章が挿入されています。

それでも毎日、エドワードのことや、彼の振る舞いについて、そのときそのときの彼女の精神状態に応じて、さまざまに思いをめぐらす時間はあった。やさしさ、あわれみ、是認、非難、あるいは疑いの気持ちをもって思いをめぐらす時間はあった。母や妹たちがそばにいても、それぞれがしている仕事の性質上、おしゃべりができなくて、ひとりでいるのと同じ状態になることもたくさんあった。そういうときは、エリナーの頭は当然自由であり、彼女がいま考えることはひとつしかなかった。エドワードと自分に関する興味深い問題に関して、過去と未来が目の前に現れて、いやおうなく彼女の注意を引きつけ、彼女の記憶と思考と想像力を独占せずにはおかなかった(P.147〜148)。

ごく簡単にまとめられていますが、そこにはエリナーの物狂おしい想いが顔を覗かせています。つまりは、エリナーが忙しく動いているのは、考えないためであり、ひとたび活動を止めてしまうと、エドワードのことを想い始めて、それだけで頭の中がいっぱいになってしまうということを、彼女自身が分かっているのです。だから、無闇に身体を動かしている。だから、実のところは、マリアンそれほどと変わらないということです。

第20章

新しい登場人物、パーマー夫妻が登場します。夫人はジェニングズ夫人の娘で、後にエリナーとマリアンをロンドンに招くことになる。そして、マリアンはロンドンからの帰途、重い病気にで倒れ、夫妻のグリーンランド屋敷で介抱され、生死の境を彷徨います。二人とも好人物ですが、ここで紹介されている性格の特徴などは、ここでは触れません。

第21章

前章に続いて新たな登場人物、スティール姉妹の紹介です。このスティー姉妹の妹の方のルーシーはエリナーの恋敵となる女性で、オースティンのすべての作品の中で最も嫌な女として造形されているという人もいる、そういう人物です。ここから始まって、しばらく続くエリナーとルーシーの駆け引きは、この小説の中でもたくに読み応えのある場面です。しかし、ここがジェイン・オースティンという小説家の巧みなところなのでしょうが、前章のパーマー夫妻の紹介という、小説を読んでいる中での息抜きをするようなところに続いて、同じように始まる第21章は、初めて、この小説を読む人は、そういう後の展開が分かるはずもなく、前章と同じかと勘違いして、あまり意識しないで、ここも息抜きと注意を払うことなく、先へと読み飛ばしてしまいがちです。それが、読み進めた後になって「アレッ?!」と、あらためてルーシー・スティールという途中から登場した人物を再認識し始めます。「どこから出てきたんだっけ?」と、読者は、そこで立ちどまって、彼女はどんな人だったのだろうかと、この読み飛ばしてしまったところに立ち戻ることになるいうわけです。その場合、戻ってきて注意しながら読み込む。そうすると、さもありなんという、仄めかしの表現や伏線が、この登場の最初にところにも散りばめられていること気づくことになります。「そうだったのか!」と。『分別と多感』という小説は、このように読む時間の流れがひとつの方向だけという単純なものではなくて、途中から過去に戻ったり、そこから先に跳んだりすることが仕掛けられ、結果として、流れが複雑になっているのです。それが、この作品の一筋縄では行かない特徴といえます。

さて、スティール姉妹はジェニングズ夫人の遠縁にあたるというので、サー・ジョンからバートン屋敷に招待されます。そして、エリナーとマリアンの姉妹に紹介されます。「姉のアンは下品で、なれなれしくて愚かでお話にならないし、妹のルーシーにも、エリナーは目を惑わされることはなかった。たしかに美人だし、賢そうな目をしているが、ほんとうの上品さと純真さがまつたくないのだ。(P.173)」たとえば、「ふたりの態度はとても丁重で礼儀正しかった。エリナーはふたりが絶えず気をつかってミドルトン夫人に気に入られようとしているのを見て、ある種の分別を持った人たちだと認めた。いつも子供たちに夢中で、かわいらしいとほめそやし、絶えず気を引こうと努め、あらゆる気まぐれに調子を合わせてご機嫌をとった(P.168)。」ここでの作者の視線はエリナーの視線と重なります。エリナーはエドワードに対する場合と違って、その視線は冷徹なほど客観的に見えます。それは、この場合のように、作者の視線と重なるように書かれています。それがまるで、ミステリーの倒叙法のようなのです。そこに読者の錯覚を招くことになります。このあと、物語が進み、ルーシーとエリナーの確執が深まっていくにつれて、エリナーの視線に悪意が混じっていくようになりますが、一度錯覚に陥った読者はなかなかそのことに気付きません。そこにオースティンという小説家の巧妙さがあると思います。例えば、エリナーはスティール姉妹に対して「ある種の分別」を認めています。この小説のタイトルである『分別と多感』の『分別』のシンボルともいうべきエリナーがそう言うと、分別ということの価値が相対化されることになるわけです。小説のタイトルで『分別と多感』と二つが対照するように並べられても、それは必ずしも正負の対照ではないことを示しています。「分別」を本音を隠して他人にへつらい、とりいる手段としているスティール姉妹を登場させ、「分別」同士でエリナーとルーシーを対決させることで、『分別と多感』の対象は単純な二項対立にはならず、重層的に構成されているということになります。

さて、嘘を伴うスティール姉妹との付き合いを、潔癖なマリアンは拒絶してしまうので、エリナーが嫌々ながら姉妹の相手を一人で引き受けざるを得なくなります。一方、スティール姉妹は、招待してくれたサー・ジョンに手前もあって、エリナーとマリアンをほめそやし、交際を積極的に求めます。しかも、二人はサー・ジョンからマリアンとウィロビーの、エリナーとエドワードとの関係を知ります。そこで、姉妹はエドワードを知っているとエリナーに告げるのです。そこで、エリナーは二人に興味を持ち始め、エリナーの方からも付き合いをせざるを得なくなります。ここで初めて、作者オースティンは、スティール姉妹について、今までの脇役たち、例えば直前に紹介されたパーマー夫妻とは、ちょっと違うぞということを、読者に匂わせています。

第22章

もともとマリアンは、無礼、下品、無能、そして自分との趣味の違いにさえ我慢できないのだが、とくにいまの精神状態では、スティール姉妹を気に入るはずもなく、彼女たちからいくら話しかけられても仲良くする気はまったくなかった(P.178)。

このようにマリアンが自主的に退場すると、エリナーとルーシーの一騎打ちの対決の舞台が整えられていくように見えます。ここでルーシーという人物のおさらいとして、

ルーシーは生まれつき頭は良いほうだった。彼女の言うことはしばしば正しくて面白いし、30分くらいの話し相手としては楽しいとエリナーは思った。でも残念ながら、その生まれつきの能力は教育によって磨かれたことはなく、ルーシーは無知で無教養だった。いくら自分をよく見せようとしても、ルーシーの知的訓練の不足と、常識的な事柄に対する知識不足は、エリナーの目には隠しようがなかった。教育によって立派なものになったかもしれない才能が粗末に扱われているのを見て、エリナーは気の毒に思った。しかし、バートン屋敷でのルーシーの心づかいと熱心さとお世辞から垣間見られる、繊細さと正直さと誠実さの完全な欠陥に対しては、エリナーはきびしい目を向けた。要するにエリナーは無知なうえに不誠実であり、無教養なためにエリナーとは対等の会話ができないし、いくらエリナーに心づかいと敬意を示しても、ほかの人への振る舞いによってその努力を台無しにしてしまうのだ。エリナーは、そういう人物とはあまり長く一緒にいたくないと思った(P.178〜179)。

エリナーはルーシーについて、このように美人だか真の上品さや純真さがなく、心遣いが細やかでさかんに人にお世辞を言うけれど、そこには正直さと誠実さが欠如していることを、初対面の時から見抜いていました。無教養で、自分と対等な会話ができない人間なので、あまり一緒にいたくない。つまり、自分と対等でないと見下していたし言ってよいと思います。

エリナーは、そのルーシーから、ある日、フェラーズ夫人のことを尋ねられます。不意に思わぬことを尋ねられて、エリナーは驚きます。この様子を見て、ルーシーは「そうでしょうね、あなたが驚くのは当然よ。でも、私がすべてをお話ししたら、それほど驚かないでしょうね。フェラーズ夫人は、たしかにいまは私と何の関係もありません。でも、私たちが非常に親しい関係になる時が来るかもしれないの。どのくらい早く来るかはフェラーズ夫人次第だけど(P.181)」と、かわいらしくはにかむように下を向き、今の言葉の効果を確かめるように、横目にちらっとエリナーを見るのです。

それは、いかにも、心を許した友人に忠告を求めるという体裁で口火を切られたのです。要するに、ルーシーは、もったいぶって、話題を小出しにしながら、腹の探り合いを始めました。これは、相手のエリナーにとっては、生意気で、わざとらしい、苛々させられるような態度です。いわば、ルーシーの宣戦布告です。

この返事にエリナーは思わず大きな声を上げ「それ、どういう意味?あなたはロバート・フェラーズさんとお知り合いなの?ね、そうなの?(P.181)」と、ルーシーの問いに答えることなく、逆に問い返します。この時、エリナーはルーシーのの奇襲にたじろぎ、一瞬、我を失います。つまり、エドワードの弟のロバートの名を真っ先に実名をあげることによって、間接気にエドワードとの関係をルーシーに明かしてしまうことになります。ルーシーは、その以前に、サー・ジョンからエリナーとエドワードの噂を聞いていて、それでカマをかけるようにフェラーズ夫人のことを尋ねてみたのだろうと思います。その計略に、エリナーはまんまと引っ掛かって、隠していた心のうちを、思わず明かしてしまいました。

そこで、ルーシーは畳みかけるように攻勢に出ます。自分の親しい相手はロバートではなく、まさにエドワードその人なのだと、エリナーをじっと見つめて言うのです。このルーシーの話す態度の変化も、よく考えられています。フェラーズ夫人のことを尋ねた時には下を向いて、言い難そうにしていたのが、この時は、エリナーを真っ直ぐに見て言いました。最初は下から見上げるような関係だったのか、この時は対等、もしくは見下す関係に、立場が逆転してしまいました。それをルーシーは意識的に姿勢を変えて、そう仕向けていると言えます。

その瞬間、エリナーは一体何を感じただろう?「そんなことはうそだ」とすぐに思ったのだが、そう思わなかったら、その驚きはあまりに強烈すぎるし、あまりにも痛ましすぎただろう。エリナーは、相手がそんなことを言う理由も目的もさっぱりわからず、声も出ないほど驚いてルーシーのほうへ向き直った。エリナーの顔色は変わったが、「そんなことはうそだ」という気持ちはまったく変わらず、おかげで、ヒステリーの発作を起こしたり卒倒したりする危険は感じなかった(P.181)。

エリナーの動揺は収まりません。そもそも、エリナーはルーシーを最初から見下していたわけで、そのルーシーから自分の恋するエドワードと婚約していると告げられ立場は逆転するだけでなく、エリナー自身も自分より劣ったとして見下していた人間が、自分の大切なものに対して、「優先権」を持っていることを認めてしまうと、エリナーの自己価値は著しく侵害されてしまうことになるわけです。そこで、自己防衛本能がはたらき、まずは、弟のロバートではないか、同姓同名の他の人ではないか、などと対象をエドワードから外す方策を考えます。それは、ルーシーからは見苦しいと見えてしまうのではないでしょうか。だから、ここでのルーシーは冷静に、いかにも気配りをしているという風情で、4年前に婚約した経緯を説明します。そのルーシーの態度には優越感がうかがえます。おそらく、エリナーから見下されていることには気づいていたと思います。だからルーシーの事情説明は丁寧なのです。エドワードはオックスフォードに行く前に、ルーシーの叔父のミスター・プラットのもとで個人教育を受けており、その時に、二人は知り合い婚約したが、貧しいルーシーとの結婚を許すはずもないフェラーズ夫人を恐れて、4年間秘密にしているというのです。そして、エドワードがバートン・コテッジにロンドンからまっすぐ来ないかったのはルーシーと会っていたことが、ここで明らかになり、しかも元気がなかった原因も合わせて謎が解き明かされます。しかも、それらは明らかに辻褄が合っているものです。それが、なおさらエリナーのプライドを傷つけるのです。そこで、エリナーは驚き混乱している自己を立て直さなければなりません。そこで、ルーシーは嘘を言っているのだと決めつけることで、落ち着こうとします。そして、ルーシーの表情から嘘の証拠を見つけ出そうとします。

そこで、ルーシーは、エドワードからもらった手紙を証拠として見せます。当時の社会のルールでは男女間で手紙のやり取りができるたのは、婚約している場合に限られていました。少し話は脱線しますが、例えば、『高慢と偏見』でジェインが自分のロンドン滞在を恋するビングリー氏ではなく妹のミス・ビングリーに手紙で知らせたのは、婚約してもいないビングリー氏に手紙を書くことができなかったからです。その結果、ミス・ビングリーは故意にジェインのロンドン滞在を兄に知らせず、ジェインと兄の再会を阻止することに成功しました。また、『エマ』では,やはり秘密に婚約を交わしていたフランク・チャーチルとジェイン・フェアファックスは自分たちの文通を人に知られぬように、十分に注意していました。これに対して、後になりますが、マリアンはロンドンに行くとウィロビーに手紙を書きます。それを見て、エリナーは二人の婚約を確信するのですが、だからこそルーシーはエドワードから来た手紙を利用して、自分たちの婚約をエリナーに再認識させることができたわけです。その手紙にエドワードの筆跡を確認したとき、エリナーは、もはや疑いようがないと思い、打ちのめされます。

そして、とどめをさすような指輪の一件です。打ちのめされつつも、ここで何としても踏ん張らなければ、とエリナーが立ち向かおうとした矢先に、今度は、エドワードの指輪にルーシーの髪の毛がはめ込まれているという話題が持ち出されるのです。それを見たことがあるかとルーシーから尋ねられたときの、エリナーの様子は、次のように語られます。

「ええ」とエリナーは落ち着いた声で答えたが、その裏には、彼女がいまだかつて感じたことのない動揺と悲しみが隠されていた。エリナーは、屈辱と衝撃と敗北感に打ちのめされていた(P.189)。

以前の第18章で、この指輪を目にしたとき、エリナーは、その髪の毛は自分のもので、エドワードがこっそり盗んだのだろうと思い込んで、悦に入っていました。それが愚かな思い違いに過ぎず、こともあろうに自分が軽蔑している女の髪の毛だったと知ったとき、エリナーの優越感がどれほど大きな傷を負ったか。それは、彼女の人生において「いまだかつて感じたことのない」と表現されるほどの衝撃だったわけです。エリナーにとっては、エドワードも、そして自分自身も、価値が著しく低下してしまった。エリナーが味わった喪失感と悲しみが、ことさら大きかったのは、そのためです。

エリナーとルーシーの闘いの第一ラウンドは、奇襲攻撃によってルーシーが勝利を収めたと言えるでしょう。

第23章

一人になってエリナーは冷静に状況を分析します。「エリナーはルーシーの言うことをあまり信用してはいないが、今回の場合は、どう考えてもその真実性を疑うことはできなかった(P190)。」それは、ルーシーがわさわざ作り話をする理由がないからで、エリナーは疑う理由がないゆえに真実であると冷静に認めます。しかも、異論を唱えるのは自身の願望に過ぎないと認めます。プリマスの近くに住む友達の家に二週間滞在したというエドワードの言葉、彼の落ち込んだ精神状態、彼の自分の将来に対する不安とエリナーに対するあいまいな態度。一方スティール姉妹のノーランド屋敷とダッシュウッド家についての精通ぶり。そして物件証拠としての細密肖像画と手紙そして指輪、これらの客観的事実を列記して、それらはすべてルーシーの話していることと符合することを認めます。その上でエリナーの葛藤を次のように描写されています。

彼の不実な振る舞いにたいする憤りと、自分がその餌食になったことにたいする腹立たしさから、エリナーはしばらくはひたすら自分を哀れんだ。だが、やがて、ほかの考えが頭に浮かんだ。エドワードは故意に私をだましたのだろうか?彼が私に示した愛情は、いつわりの愛情だったのだろうか?ルーシーとの婚約は、ほんとうに愛情があっての婚約なのだろうか?違う。かつてはどうであったにせよ、彼がいまルーシーを愛しているとはとても思えない。彼の愛情はすべて私のものだ。これはぜったいに私の思い違いではない。ノーランドでは私の母も、妹たちも、エドワードの姉ファニーも、みんな彼の私への愛情に気がついていた。これは私の虚栄心から生まれた妄想ではない。彼はたしかに私を愛している。

この確信は、エリナーの心をどれほど慰めたことだろう!すぐにも彼を許してあげたいと思ったほどだ。ほかの女性と婚約していながら、私に愛情を感じはじめてからもノーランドに滞在しつづけたことは、たしかに非難さるべきことであり、この点は弁護の余地がない。しかし、たしかに彼は私の心を傷つけたけれど、彼の心はもっと傷ついているはずだ。たしかに私は哀れな状態だけれど、彼はもっと絶望的な状態だ。彼の無分別のおかげで、私はしばらくの間みじめな思いをしたけれど、彼は自分の無分別のおかげで、みじめな思いから抜け出す機会を永遠に失ってしまったように思われる。私はいずれは平静さを取り戻せるだろうが、彼は自分の将来に何を期待したらいいのだろう。彼はルーシー・スティールと結婚してすこしでも幸せになれるだろうか。私への愛情は別にしても、彼のような誠実さと、繊細さと、教養豊かな知性を持った青年が、ルーシーのような無教養で、狡猾で、自分勝手な妻に満足できるだろうか(P.191〜192)。

長い引用になりましたが、この文章では、作者オースティンは、エリナーの描写について第三者的な客観描写にエリナー自身が話者となる間接話法を混ぜています。この直前のエリナー自身の状況分析では、客観描写で一貫していたのにたいして、ここでは話法を巧みに転換させています。つまり、状況分析のところは事実が述べられているのに対して、引用したところは事実とエリナーの心理がごっちゃになっているのです。そこのとろが、作者オースティンのエリナーに対する容赦ない視線が微妙にうかがえると思います。この部分をよく読んでみると、エリナーの心理は客観的な装いをしながら、上から目線であることを隠せません。つまり、絶対的な自分を崩してはいないのです、むしろそのためにエドワードやルーシーを貶めるような認識をもって、自分はこのような人たちの被害者であって、しかし、寛大な自分は、とくにエドワードの身になって考えている。そのような、いまでいうと思い込みの激しいストーカーの心理によく似ています。それを巧みに隠蔽しているのが、いかにも客観的に装われている冷静に見える姿勢です。作者オースティンは、その微妙なところを、一見、エリナーは賢明な女性のように見せて描写しています。そういうオースティンの巧みさと、その底にひそむ意地の悪さは、一度気づいてしまうと麻薬のように、その魅力から離れられなくなるものです。だからこそ、エリナーはルーシーとの女の闘いを続けるので、両者は、実は同じ土俵にいる。どっちもどっちの似たもの同士なのです。

さて、エリナーの、その自分勝手な心理を少し追いかけてみましょう。当初、彼女は腹立たしい怒りがきて、そのあとには、自己憐憫が続きます。ここまでは、すなおに自身の感情を表しています。ここでエドワードを見放せば、優越感を保てたはずだったのが、彼に執着するエリナーは、彼をかばい始めます。ともかくいまエドワードの心はすべて自分のものなのだと、自らの心の内で勝利宣言することによって、エリナーはルーシーに踏みにじられた優越感を取り戻そうとします。すると、エドワードへの怒りは急速に和らぎ、憐憫の情へと推移していく。自分の愛する男性の美点を持ち上げる一方で、ルーシーに対してはさらに軽蔑と嫌悪感を強め、彼らが釣り合わないと決めつけるに至ります。ルーシーと結婚したら、エドワードは一生絶望的な状態で、幸せになる見込みは微塵もないと、エリナーが畳みかけるような反語表現で確信を固めていくとき、彼女は自己欺瞞を亢進させていきますく。そこには、ルーシーは軽蔑すべき人間であり、彼女との結婚が絶望的であるという願望で自己を正当化しているのが、分別に見えてくるように描かれています。

次にエリナーは、エドワードとルーシーの結婚の見込みについて考えてゆきます。財産や家柄という点で、自分よりもっと条件の悪いルーシーとの結婚は、エドワードの母親から猛反対されるはずだと、予想される。しかも、エドワードの心はすでにルーシーから離れているのだから、家族が反対してくれるだろうと予想して、ほっとしているような状態なのだろうと想像を進めさせ、エリナーは自分のためにではなく、エドワードのために泣けてくる。というようにすり替えを進めていきます。エリナーのこの涙は、純粋な同情や慈愛の涙だったと言えるかどうか。エドワードの心の状態を勝手に仮定したうえで、彼を憐れみ、ルーシーを軽蔑し、嘆かわしさあまり流された涙。その根底には、怒りがある。ルーシーとの婚約が発覚したとき、エドワードは決然とした態度で結婚に踏み切ろうとするのだから、彼はエリナーが思うほどには、ルーシーと結婚することを嫌がっていない可能性もあるかもしれません。しかしエリナーは、エドワードのなかにそういう可能性があることを、完全に否定したい。自分の愛する男性が、実は軽蔑すべき情けない人間かもしれないという苛立ちと怒りが、エリナーのこの涙のなかには、無意識のうちに混ざっていると言えます。だからこそ、エリナーは母にもマリアンにも秘密にします。「ふたりに相談しても、ふたりに話しても、何の助けにもならないことはエリナーには分かっていた(P.193)」と二人の前では、いつもと変わらぬ態度を崩しません。そこに分別の体裁を繕う、自制心と作者は書いていますが。

しかしその一方で、すぐまたルーシーと話がしたいと思うのです

。二人の婚約について詳しく知り、ルーシーの本心を知りたいという好奇心。冷静に話す振りをして、自分は彼らの婚約に対して友人として関心をもっているだけなのだ、ということを示そうとする見栄と負けん気。分別では制しきれないこうしたて欲求が、エリナーのなかに湧き上がってきたのではないか。つまり、緒戦で奇襲を受けたルーシーに対して、巻き返しを図るべく再戦に向けて動き始めたというわけです。ここでのエリナーは、失恋の悲しみに打ちひしがれた女性というよりも、ライバルのルーシーに対抗心を燃やす戦士のように見えます。そして、バートン・ハウスに招かれたときに、ルーシーが、ミドルトン夫人の娘に紙細工の籠を作って機嫌を取ろうとしているとき、エリナーは、「わたしもこういう手仕事が大好きなので、よろしければミス・ルーシー・スティールの手伝いをさせていただきたい」と申し出て、並んで座って話をするチャンスを作ります。他人に媚び、策略を用いてまでも、自分の欲求を満たそうとするエリナーの姿には、ルーシーと似た面が見えて、ルーシーと同レベルの位置に接近したようにも見えるし、実は本性は近いところにいるのではないか、と思えてきます。

第24章

エリナーとルーシーが二人になれたところで、第2ラウンドが始まります。エリナーは、エドワードを巡ってルーシーの本心を探ろうとします。エリナーに嫉妬心を抱いたルーシーが、自分の優位性を主張するためにエドワードとの4年間にわたる秘密の婚約の事実をエリナーに打ち明けたわけですが、最初、ルーシーが、「そちらが口火を切ってくださってありがたいわ」と、そして小さな鋭い目にたっぷりの意味をこめて「このあいだのあなたの態度には、冷たさといらだちが感じられたので、それで私は心配になったの、あなたは怒っているにちがいないと思ったの」(P.200)と、宣戦布告する。それに応えて打ち明けてくれたことの礼を返すエリナーの二人の表面上の礼儀正しさの陰で冷たい火花が激しく散らされ、礼儀正しい悪意の応酬となるこの場面は、目立った場面ではありませんが、この作品の見せ場になっています。エリナーは最初の衝撃から立ち直ると、本心を隠す防御としてのみならず、相手の本心を探るための有効な手段として礼儀正しい外面をを巧みに利用する。エリナーは、自ら進んでルーシーとその話題を取り上げることで、自分を完全に第三者の立場に置き、ルーシーの悪意から自分を守ると同時に、ルーシーの真意を探り出そうとします。つまりエリナーにとって、礼儀正しい態度は防御と攻撃のための優雅な武器に成り得ているのです。それが、この二人の対決場面の陰険なところは、オースティンの作品の中でも、これほどのものはありません。

ルーシーは、エドワードとの四年間もの婚約期間は愛情を試すのに十分すぎる長さであり、あらゆる試練に耐えてきたふたりの愛情は揺るぎないものだと誇らしげに語ります。それに対してエリナーは、ルーシーへの同情を示しながら同時に痛烈な皮肉を交えるという高度の社交術を展開します。

「そう信じることが、あなたにはいちばん大事なことね。彼も同じように、あなたの愛を信じて自分を支えているのでしょうね。もしお互いの愛が衰えたら、あなたの立場はほんとうにお気の毒になっていたでしょうね。婚約して4年もたてば、どんな男女だって、いろいろな事情から愛情が衰えることはあるでしょうから」

ルーシーはここで顔を上げだが、エリナーは、自分の言葉に不審を抱かせるような表情を絶対に見せないように注意した(P.201〜202)。

エリナーは自分の心の痛みをルーシーに悟られないように努めながら、ルーシーのエドワードへの愛情を確かめようとします。ルーシーは、エドワードと自分は深く愛し合っていると自慢し、もし彼がほかの女性のことを思っていれば、嫉妬深い自分はすぐに気づくだろうと言い放つのです。これを聞いてエリナーは、「そんなことが本当だとは、あなたも私も思ってはいないわよ」と、心中でつぶやとともに、ルーシーがエドワードをもう愛してはおらず、金持ちの男性との婚約が自分にもたらす利益のためにエドワードを縛っていると確信します。そして、ルーシーの厚顔無恥な態度に対して、エリナーは呆れ返るような気持ちと軽蔑の念を覚えるばかりです。たしかに、エリナーの推測は事実に近いでしょう。しかし、事実はルーシーがエドワードを見捨ててロバートに乗り換えた時に分かることで、この時点では事実というよりねエリナーの願望でしかありません。それを、ルーシーがエドワードからまったく愛されていない人間であると決めてかかっているエリナーの態度には、冷静な判断とは言えないものがあります。

そして、今後の進退についてエリナーが探りを入れると、ルーシーは、秘密の婚約が知れたら、フェラーズ夫人が怒って全財産を弟ロバートに譲ると言いかねないので、「エドワードのために性急な真似はしないほうがいいと思ってしまうの(P.203)」と言います。するとエリナーは、「あなた自身のためにもね。そうでなければ、あなたはご自分の無欲を美化していることになるわ」と間髪入れず言葉を挟んで、相手を黙らせるのです。これは皮肉がきつい。さすがルーシーも言葉に詰まってしまう。そして、ルーシーは、エドワードが早く牧師になれるように、ジョン・ダッシュウッド氏に働きかけてほしいと、思っていもいないことをエリナーに頼みます。これに対してエリナーは、自分には力になれないと断る。そして、それではと、ルーシーは、いっそ婚約解消すべきかどうかと、エリナーの意見を求める、つまり、カマをかけるのです。これに対してエリナーが、「こんな愛し合っているふたりの仲を裂くなんて、第三者には荷が重すぎるわ(P.206)」と答えると、ルーシーは「あなたが無関係だからこそ、あなたの意見が私にはとても重要よ」「もしあなたが私情をまじえて判断したら、あなたの意見は聞く価値がなくなるわ(P.206)」とやり返します。この二人の表面上は礼儀正しさを取り繕いながら、虚々実々の陰険なかけひきをしているのは手に汗をにぎるところがあります。エリナーのほうでは、ルーシーとエドワードが「愛し合っている」とは思っていないし、ルーシーのほうでも、エリナーが「無関係な」第三者だとは思っていない。お互いに心の内と言葉の表面の意味とが異なり、たんに相手を攻めたりかわしたりするためだけの会話が続いているのです。ここで、エリナーは、もう打ち切ったほうが賢明だと悟り、この問題について二度と話すまいと決意します。

このやりとりのあとエリナーが至った結論は、次のとおりです。

エドワードは妻となる女性をもう愛していないばかりか、結婚しても幸せになれる可能性はまったくないのだ。ルーシーのほうに真実の愛情があれば、すこしは可能性があるかもしれないが、ルーシーのほうにも、もう真実の愛情などないのだ。男性の愛情がすっかり冷めていることがわかっているのに、その男性をいつまでも婚約で縛りつけるというのはね真実の愛情などではなく、女性の利己心以外の何物でもないのだ(P.207)。

エドワードはルーシーを愛していないし、エドワードがルーシーと結婚した場合に彼が幸せになる見込みはまったくないし、ルーシーのほうにも愛情がありえない、また、ルーシーの意図は利己心以外の何物でもないと、全否定です。ある意味で、極端です。このときのエリナーは、ほんのわずかな愛情の存在や幸せの可能性も全面的に否定し、ルーシーの欠点やエドワードの不幸な状況を、拡大視しているように見えます。それは、好敵手ルーシーと対峙するためなのかもしれませんが、ほぼルーシーと互角と言えるのではないでしょうか。

エリナーとルーシーの女の闘いの第2ラウンドは、エリナーが奇襲のショックから態勢を立て直したところで、舞台はロンドンに移ることになります。

第25〜27章

エリナーとマリアンの二人はジェニングズ夫人に誘われてロンドンに向かうことになります。ここからしばらくの間、物語の舞台はロンドンに移ります。エドワードの秘密の婚約を知ってしまったエリナーは、ロンドンに行けばエドワードに会う可能性があり、乗り気ではありません。これに対して、マリアンはジェニングズ夫人を嫌っていたにもかかわらず、ウィロビーとの再会を期待して、かえってロンドン行きには積極的です。マリアンはウィロビーとの再会のためなら、わずかな可能性でも、それにすがるように、しかも、嫌っているジェニングズ夫人の誘いに喜んで応じるという、これだけを客観的にみれば、未練たらたらで、捨てられた自分をすなおに認めることができない愚かな田舎娘です。しかし、作者オースティンは、そのマリアンをむしろ純粋で情熱的なロマンチストのように描いています。『高慢と偏見』の登場人物になぞらえると、マリアンは軽薄で家族に迷惑をかけても反省すらしないリジーとよく似ています。それに対して、冷静に物事を見ようとするエリナーに懐疑的な思いを吐露させて、どちらかというとネガティブな描き方をしています。『高慢と偏見』ならエリザベスか友人のシャーロットにあたる。それが、この小説全体に屈折を作り出していて、『高慢と偏見』のようなコメディの性格がなくて、どちらかという悲劇的な様相を呈している印象を与えていると思います。次で引用している文章などは、よく見えている人が、盲目の人を羨ましがっているという屈折を通り越した一種の倒錯が表われています。

マリアンが恍惚として期待に胸をふくらませて、目を輝かせているのを見ると、それに比べて自分の前途がいかにむなしく、自分の気持ちがいかに暗いかを痛感せずにはいられなかった。マリアンと同じような不安な状況に身を置いて、同じような胸のときめきを感じて、同じような希望を持つことができたらどんなにうれしいだろうと、つい思わずにはいられなかった。(P.217)

エリナーは、このような場違いなほどネガティブなくせに、上の引用に続いて、次のように妹に対しては、したたかで冷徹な監視をしようとします。内側と外側の二重性というのか、おそらく対人関係て優位に立つということが、エリナーの行動の動機になっている。つまり、上から目線でいたい人なのです。

でもまもなく、ウィロビーのほんとうの気持ちがはっきりとわかるにちがいない。たぶん彼はロンドンにいるはずだ。マリアンがこんなにロンドンへ行きたがるのは、彼がそこにいると信じているからだ。エリナーは決意した。ウィロビーの人柄について自分てもよく観察し、他人の意見もよく聞いて、えられるかぎりの新しい事実を手に入れよう。そして同時に、マリアンにたいする彼の振る舞いをしっかりと観察し、ふたりがあまりたくさん会わないうちに、彼がほんとうはどんな人間で、マリアンのことをどう思っているのか、それをしっかり突きとめるのだ(P.218)。

ロンドンに到着すると、エリナーは早速母に向けて報告の手紙を書きます。その傍らで、マリアンが同じように手紙を書いているのを見て、自分と同様に母親に報告の手紙を書いているのだろうと思い、「マリアン、私がうちへ手紙を書いているから、あなたは一日か二日あとにしたらいいんじゃない?(P.219)」と話しかけると、マリアンは「私はお母さまに書くんじゃないの」とあわてたように答え(P.219)て、マリアンの手紙の宛先がウィロビーであることをさり気なく読者に分からせるようにしています。それで、エリナーはマリアンとウィロビーが婚約していることを確信して、ほっと安心します。というのも、以前にも述べましたが、当時の社会では男女間で手紙のやり取りができたのは、婚約している場合に限られていたからです。だからこそ第23章でルーシーはエドワードから来た手紙を見せて、自分たちの婚約をエリナーに再認識させることができたのです。マリアンがウィロビーに手紙を書くという行為そのものが、ふたりの婚約を物語っていることになるのです。隠し事をしないマリアンが、自分の婚約について一言も話をしないことに疑問を抱きながらもエリナーは、マリアンがウィロビーに手紙を書いたことでふたりの婚約を確信して安心したのは、そういうことからです。

このあと、マリアンはウィロビーの反応をひたすら待ち続けることになります。当初は、手紙を受け取ったウィロビーが、マリアンがロンドンに来たことを知るや、駆けつけてくると期待して待っていたのが、まったく音沙汰がありません。早速、訪れた来客をウィロビーと勘違いしたマリアンが、実はブランドン大佐だったことを知るや、落胆と失望を隠すこともしません。それを、こともあろうにマリアンを思い続けているブランドン大佐で、彼がマリアンの悲しみと失望に気づいている。そこに、すれ違いの物語が展開されています。このような片思いのすれ違いはセンチメンタルな純愛ドラマで、現代では手垢のついた常套手段のようなものになっていますが、ここでは純粋で初心な少女が役割を酸いも甘いも経験した分別ある中年男に担わせるというヒネリを利かせています。もっとも、ここでのブランドン大佐→マリアン→ウィロビーという関係は、オースティンは他の作品でも、例えば『マンスフィールド・パーク』ではファニー・プライス→エドマンド→メアリー・クロフォードの関係に重なります。しかも、三者の真ん中の人物が狡猾な人物に思いを寄せて、騙されているとも知らず、捨てられた悲しみを、自分を思っている人物に残酷にも打ち明けてしまう。それを一番左の人物は自身の思いを胸に秘めて、真ん中の人物の悲しみを受け止めようとする。オースティンの小説における片思いパターンといえると思います。

一方、ウィロビーが訪ねてくることも、手紙の返事もなく、待ち焦がれるマリアンは落ち着きを失ってゆき、落ち込んで、ほとんど話もしなくなってしまいます。

この3つの章はエリナーとマリアンがロンドンに出てきて、マリアンがウィロビーに手紙を出す以外は、場所がデヴォン州からロンドンに移ったたけで坦々とした日常の些事が綴られているところですが、ここにさりげなく、伏線というか、主要人物の感情の動きが、よく注意して読まないと見逃してしまうところです。例えば、上記のブランドン大佐の、あまり、感情を表に出さない人ですが、マリアンを心配して、彼女の顔を見るために毎日のように訪問して、会話をするのは、もっぱらエリナーで、エリナーも彼の会話がロンドンでの唯一の楽しみのようなものになっていくのですが、そこでブランドン大佐が、後の章で、重要なことだけれど、話しにくく、なかなか話すことができないということを、ここで何度も訪問して、エリナーと会話をしていて、話したそうにして黙ってしまうところが何度もでてきます。それが、伏線になっていて、その話があったときに、彼が話すのを躊躇していたことが思い起こされる。あるいは、第27章で、エリナーとマリアンの間に齟齬が生まれ始める。それは、マリアンがウィロビーの返事がなくて落ち着きをなくしたことぶ、普段なら気にかけない些細なことに敏感になってしまったがゆえなのでしょう。二人の間に溝が生まれます。それはまた、マリアンが孤立して、ますます自己の殻に閉じこもってしまうことでもあるわけで、エリナーの監視や忠告が効かなくなって行くことでもあわけです。手紙を待ち焦がれてマリアンエリナーが問いかけると

「手紙を待っているの?」エリナーが黙っていられなくなって言った。

「ええ、ちょっとね─でも、そうでもないけど」

ちょっと沈黙があってから、

「私を信用していないのね、マリアン」とエリナーが言った。

「あら、お姉さまからそんなことを言われるなんて!お姉さまこそ誰も信用しないじゃない!」

「私が?」エリナーが面食らって言った。「だってマリアン、私は何も打ち明けることがないのよ」

「私もないわ」マリアンが激しい調子で言った。「それじゃ、私たちの状況は似てるわね。つまり、ふたりとも何も言うことがないわけね。お姉さまは人に何も打ち明けないから。そして私は何も隠していないから」

エリナーは自分の秘密主義を批難されて当惑した。たしかに自分はいま秘密を持っているが、その秘密(つまりルーシー・スティールとエドワード・フェラーズとの婚約)は誰にも話すわけには行かない。そういう状況なので、エリナーはマリアンにむかって、「すべてを打ち明けて」と迫ることはできなかった。(P.251)

マリアンの揶揄的な「それじゃ、私たちの状況は似てるわね。」という言葉は、実は真実を突いていて、しかも互いに自分は隠しごとをしているのに相手を疑っている。とくに、マリアンは自分だけが追い込まれていると苛立っている。これも誤解によるすれ違いです。つまり、ここでは、マリアンはブランドン大佐たちとのすれ違いとエリナーとのすれ違いにいるのです。ここではすれ違いという関係が並行して描かれています。この作品は、このような関係を対比させたり、並列させるということを多用しています。婚約していると思われていたマリアンとウィロビーが実はそうではなく、全く予想外のエドワードとルーシーの秘密の婚約が明らかにされたのと対比されています。これについては、物語は同じような状況が錯綜しながら進行していく。マリアンはウィロビーとの関係が実質的な婚約以外の何物でもないと、形式よりは実質を重んじ、ルーシーは実体よりも、婚約という形式にこだわるという対照です。また恋人同士の手紙や愛情の証として切り取られた髪の毛など、同じような小道具が繰り返し用いられて、エリナーとマリアンのそれぞれの恋は、似たような展開をたどるのです。しかしエリナーは、エドワードの無分別な婚約を責めても、彼自身の高潔さや誠実さへの信頼感が揺らぐことはない。一方マリアンは、ウィロビーの不実な振舞いのみならず、彼の本質への疑念に二重にさいなまれることになる。そのマリアンがウィロビーとの婚約を公表しなかったのには理由がありました。マリアン恋人同然に振舞っていたのですが、実際には婚約という事実はなかっただけでなく、愛を告白されたこともなかった。嘘をつけないマリアンに唯一できることは、婚約していないという事実を決して告白しないことだったと言えます。つまり、告白しないことがマリアンの「秘密」の形というわけです。そしてその秘密が自分の弱点と関わる場合、秘密の存在は常に脅威として働くことになる。婚約をしていないという事実を自分だけの胸に秘め,マリアンはふたりだけの幸福な時間を楽しみながらも不安感と戦っていたに違いありません。だからこそ、ウィロビーからの返事が何もないマリアンの心の中は、その不安が大きく広がっていたはずです。そのように不安に苛まれていたマリアンからは、エリナーはどのように映っていたか。エドワードがルーシーと密かに婚約していたことを、マリアンは知りません。しかも、エリナーはあれこれとマリアンとウィロビーのことを心配して口出ししてくる。しかも上から目線です。うるさい、うっとおしい、自分だけエドワードとうまくやっていて…、ということになるのは自然です。一方、マリアンはルーシーとの約束があるため、自分もマリアンと似たような境遇にあるという自覚があります(この点で、マリアンとは違います。マリアンはエリナーの状態を知りません)。エリナーは、以前にもよくありましたが、自分の状態を考えると落ち込んでしまうために、他のことに集中することで、自分のことを考えないようにする。例えば、バートン・コテッジに訪ねてきたエドワードが慌しく去った後はスケッチばかりしていたように、ここでは、自身のこと棚上げにしてマリアンのことにかまけることによって、自身のことを考えることから逃避していると言えます。この場合、ルーシーとの確執においては本心を隠すこと戦略的に有利に働いたことか、マリアンに対するときは、却って信頼を失う方向に働いてしまうという対照も表われています。

そこで、エリナーは母親に手紙を書くことにします。これは、一度生まれてしまったすれ違いを、自身では回復することができなくなってしまっているためと考えられます。エリナーはロンドンに到着したことを手紙で知らせましたが、それは長女の責任の表われでありましたが、この手紙は母親への嘆願のものと言えます。

第28章

三、四日後、ミドルトン夫人に連れられてエリナーとマリアンは気乗りのしないままパーティーに出ることになりました。そこに、エリナーはウィロビーの姿を認めます。しかし、ウィロビーは洗練された感じの若い女性と一緒でした。マリアンは、かれに気がつくと愛情をこめて彼の名を呼び手を差しのべるのに、彼は無視するように、隣りのエリナーに形式的に話しかけます。マリアンは感情を爆発させ、「ウィロビー!これは一体どういうこと?私の手紙を受け取っていないの?私と握手してもくれないの?」(P.241)と迫ると、ウィロビーはマリアンの手に触れるのが苦痛であるかのように、ほんの一瞬手を握っただけの他人行儀の冷たい態度をとります。手紙を受け取ったかと問いただすマリアンに、一緒にいる若い女性の前での体面を気にするように、形式的な知らせのお礼をのべて、急いで立ち去ってしまいます。取り乱すマリアンを、エリナーは必死に落ち着かせようとします。その間に、ウィロビーは逃げるように部屋を出て行ってしまいました。エリナーは二人の中が破綻したことを確信します。

ウィロビーとマリアンの間に、何らかの約束があったことは間違いない。そしてウィロビーがそれをいやになったことも明らかだ。マリアンはまだ希望を抱いているかもしれないが、エリナーとしては、ウィロビーのあのような振る舞いが、何かの間違いや誤解のためだはとうてい考えられなかった。完全に心変わりしたという以外に、説明のしようがない。(P.243)

そして、エリナーは、この先マリアンがどれほど苦しむことになるか案じるのです。しかし、そこでおわらないところが、この物語の一筋縄で行かないところです。その直後に、エリナーはマリアンの悲惨な状態と自分の置かれた状況を比べて、自分のほうがまだましだと、つまり、マリアンと自分の不幸を比較してしまう、そして、自分が勝っていると、優越感を保つことができることに安堵しているようなのです。エリナーの冷静に見える態度の底には、マリアンや母親に対する優越感があるということを、ここでは垣間見せている。単純に『分別と多感』などと言えないのです。

マリアンのことを思うと、心配で胸が張り裂けそうだった。ウィロビーととあのような悲しい再会をして、すでに十分すぎるほどの苦しみを味わっているに違いないが、これからさらに残酷な結果と、残酷な苦しみが待っているかもしれないのだ。それに比べれば、自分の不幸はまだまだ軽いほうだとエリナーは思った。いずれはエドワードと別れ別れになるとしても、いままでどおり彼を尊敬できれば、なんとか自分の気持ちを支えることができるだろう。だがマリアンの場合は、あらゆることがあの不幸にさらに追い討ちをかけ、ウィロビーとの最後の別れ、すなわち、間近に迫った決定的な決裂というマリアンの悲しみを、さらにひどいものにしそうなのだ(P.244)。

第29章

翌朝、エリナーはマリアンのすすり泣きの声で目を覚まします。マリアンは悲しみに打ちひしがれながらも、昨日までのような苛立ちを表に出すことなく、諦念を湛えたような平静さが見られるようになりました。それだけ絶望が深く内面化しているということになるでしょう。朝食もほとんど食べることもないほどに元気をなくしたマリアンを、エリナーは、そっとしておこうとして、善意なのだろうけれどウィロビーとの婚約を疑わないジェニングズ夫人のおせっかいから守ろうとします。そんなとき、ウィロビーからの手紙が届けられます。

「お手紙ありがたく拝受致しました。心よりお礼申し上げます。私の昨夜の振る舞いに、あなたのお気に召さぬ点があったと聞き、まことに残念でなりません。いかなる点があなたのお怒りを買うことになったのか見当もつきませんが、私の意図したものでないことだけは確かですので、何卒お許し願います。デヴォン州でのあなたさまご一家とのおつきあいを思い出すたびに、心から感謝と喜びを感じております。その良き思い出は、いかなる誤解によっても乱されることはないと確信しております。あなたさまご一家に対する私の敬愛の念は、うそいつわりのない真実であります。しかし、万一不幸にも、私が感じていた以上のものを、あるいは、私が意図していた以上のものを、皆様に感じさせてしまったとすれば、敬愛の念の示し方に慎重さが足りなかった私を責めるほかはありません。私があなたさまご一家にたいして敬愛の念以上のものを抱くことなどありえません。それは、私がずっと以前よりほかの女性と婚約しており、数週間後には婚礼の運びになるという事実を見れば、おわかりいただけると思います。まことに残念ですが、これまでにいただいたあなたのお手紙と、ご親切にもお贈りくださいましたあなたの髪を、ご命令に従いお返し致します。(P.249)」

この手紙に対する評価はエリナーによって語られ、手紙の相手であるマリアンではありません。この小説は『分別と多感』という二つの性質を対比し、それぞれを体現しているかに見える姉妹をヒロインにして物語が進められているように見えます。しかし、姉のエリナーは、このように物語の主体として、ときには語りに重なるように扱われ、彼女が何を思ったか一人称のように語られることが少なくありません。これに対して妹のマリアンは、エリナーの目を通した三人称で語られます。つまり、この小説の多くの部分はエリナーの視点で成り立っているといっても過言ではありません。しかしだからといって、エリナーの視点は、作者の視点と必ずしも一致しているわけではありません。そこで、オースティンはエリナーの視点のある種の歪みを示してくれています。それは「分別」を体現しているようで、実はそういう外見によって偏見や感情的な見方に引きずられた姿を隠蔽している狡猾なエリナーです。そのようなエリナーがウィロビーの手紙を読んで怒り心頭に発する状態になります。この手紙は、読む前から別れを告げる内容は分かっていながら、その伝え方が「紳士としての普通の礼節すらわきまえられず、このような厚顔無恥な残酷さ(P.251)」と断じます。それは、この手紙が「残念ですがお別れしなければなりません」と謝っているのではなく、自身のいかなる背信行為も認めず、そもそも最初から特別な愛情などなかったと主張しているからです。これでは、マリアンが勝手に勘違いして、その間違いに気づいて落ち込んでいることになるわけです。つまり、体のいい逃げです。そんなマリアンが勝ってに落ち込んでいることに責任を負わされるのは迷惑だということになります。だから、エリナーは、ここに書かれたすべての言葉がマリアンに対するひどい侮辱で、こんな手紙を書いたウィロビー見下げ果てた卑劣漢と断じます。このエリナーの判断は理性的に見えます。しかし、そもそもエリナーは、最初から、この手紙をウィロビーを断罪するために読んでいるようなところがあります。ですから、上に述べたもっともらしい理由付けは、結論ありきのとってつけた理由に過ぎません(それは、あとでウィロビーの訴えるような弁解にほだされてしまうので、その程度の根拠なのです)。それをいかにも、理性的で分別があるかのように、エリナーは語る、語ることができるのです。そう思えてしまうのです。エリナー自身、そういう欺瞞に気づいていません。この手紙について言えば、、エリナーは、この手紙の伝え方に怒っていると言っています。しかし、仮に、この手紙が「残念ですがお別れしなければなりません」と謝る書き方をしていたら、どうだったのでしょうか。紳士としての礼節をわきまえているとして、ウィロビーを許したでしょうか。おそらく、そうはならないでしょう。別の理由をつけてウィロビーを同じように断罪したに違いありません。それは、ごまかしといってもいい。そんなことをするのはなぜなのか。エリナーは、この手紙を以って、ウィロビーという人物に対する最終的な評価を下します。「この婚約解消はマリアンの幸福を奪うものではなく、見下げ果てた破廉恥漢と生涯の契りを結ぶという取り返しのつかない最悪の不幸を免れたということであり、まさに正真正銘の解放であり、最高によろこばしいこと(P.256)」エリナーは、このように考えながら。その裏で、「こんな男とは似ても似つかぬエドワード・フェラーズの、似ても似つかぬ心について夢中で思いめぐらせていた(P.256)」のです。実は、エドワードを思って、それに対してウィロビーを貶すことによって、相対的にエドワードの価値を高めようとしていたのです。しかし、果たしてウィロビーとエドワードの行動は、それほど違うものなのでしょうか。二人とも、すでに婚約しているにもかかわらず、そのことを隠して未婚の女性と付き合い、しかも、相手の女性に好意を持たせるに至った。その一方で、自分からは明確な意思表示を注意深く避けている点で共通しているからです。むしろ、ウィロビーの方は、マリアンに別れを告げたという点では、相変わらずうやむやな態度を続けているエドワードよりはましと言えるところがあります。エリナーは、そういうところを見ることができると思いますが、あえて見ようとしていないような思えます。だからこそ、落ち込むマリアンに対して、いけしゃあしゃあと、次のような、なぐさめをいうことができるのです。

「いまはすごく苦しいかもしれないけど、こういうふうに考えられないの?彼がどんな人間かわかるのがもっと遅くなっていたら、つまり、これから何か月もしてから彼が婚約を解消したら、いまよりもっとつらい思いをしたかもしれないって。彼にたいするあなたの間違った信頼が、長くつづけばつづくほど、あなたのショックはそれだけ大きくなったはずよ(P.253)」

これは、マリアンを元気づけているようで、実はウィロビーに責任を押し付けて一方的に批難するという転嫁の可能性を閉ざしてしまって、結局は最初にウィロビーのような人物を選んでしまったマリアンが愚かだったのだということになり、最終的にはマリアンを責めることになっているものです。これは、エリナーがルーシー・スティールとの戦いで武器としていた巧妙な攻撃です。エリナーは、これを、こともあろうに、マリアンへの優越感を維持するために用いている。しかし、マリアンは悲嘆にくれているのと、虚偽をきらう潔癖な性格ゆえに、このような駆け引きには気がつかないだけです。

一方、マリアンは、ここに至って、ウィロビーと婚約していなかったという真実をついに明らかにします。それによって、ウィロビーをエリナーの批難から擁護さえしようとするのです。慥かに純粋で誠実ということなのでしょうが、その上にバカをつけたくなるようなお人よしで、これでは男に騙されてひっかかるのも無理はない世間知らずです。ロマンチックな理想に駆り立てられるように、恋愛小説のような激しい恋を実行しようとしたマリアンは、例えば、『ジェイン・エア』のヒロインのように、当時の社会の節度ある男女の付き合いの作法を無視して愛情至上主義を貫こうとしました。それゆえに、あえて世間でみとめられた婚約という陳腐なおやくそくに反抗した、ということでしょうか。

「私は彼と正式に婚約していると思っていたの、厳格な法律上の契約で結ばれていると同じように(P.207)」

これのようなエリナーの考えは間違いで、その間違いに基づいた行動は軽率だとエリナーは断じます。しかし、その実、エリナーこそ、エドワードと正式に婚約しているというルーシーに対して、本当にエドワードと愛し合っているのは自分であると、マリアンと同じような理論的な立場いたのです。ウィロビーを責めるエリナーに対して、マリアンは世間的なしきたりの縛られた周囲の人々がよってたかってウィロビーの愛情を挫折させたのだとして、そういう周囲の人々、つまり社会が自分たちを引き裂いたのだと言います。これは、まさにウィロビーに対比させてエドワードは立派だと庇い立てるエリナーと同じような行為です。つまり、エリナーとマリアンは対照的であるように見えて、実は同じことをしている。それがこの物語で、その二人の行為を対照的に見えるように描いているところに、オースティンという作家の巧みさがあると思います。そうやって、二人の恋愛が立体的に見えてくるし、それぞれを相対的に見ることができるようになるのです。その際に、「婚約」や「髪の毛」そして「手紙」というキーワードが二人の間でシンボリックなツールとして活用されます。少し先走りますが、それまで、マリアンに手紙を書くということをしなかったウィロビーが最後に別れの手紙を書いたのは婚約者であるミス・グレイの言われるままに書いたのであり、このミス・グレイは、マリアンにとっては、エリナーに対するルーシーのような位置にある女性です。その点でルーシーになぞらえられます。しかも、ウィロビーは彼女との愛のない結婚に対する嘆きの言葉をエリナーに告白することになるのですが、これはエドワードがルーシーと結婚したらこうなるとエリナーが想像した姿そのものです。

「その憎むべき敵が誰であろうと、あなたは自分の潔白と善意を信じて、気持ちをしっかり持って、その邪悪な勝利感に浸っている人たちを見返してやりなさい。それがそういう悪意に立ち向かう、理性的で立派なプライドいうものよ。(P.258)」

このエリナーの言葉は、このようなことから出てきたものではないでしょうか。誇り高く気概を見せつけ、世間の悪意をはね返せというのは、マリアンに向けられた言葉である同時に自らへにも向けられている。だから、エリナーはマリアンに向けて、あなたは孤立無援ではないと言うことができるのです。

第30〜31章

外出から帰宅したジェニングズ夫人より、ウィロビーがミス・グレイと結婚することになったという情報がもたらされます。そこで、知られていなかった事実が明らかになってきます。ミス・グレイは5万ポンドの財産をもつ金持ちで、他方のウィロビーは放蕩に近い派手な生活をおくっていたために借金がかさみ破産寸前の状態だった。したがって、この結婚は、ウィロビーの財産目当てで行うものであることが明らかであるということです。マリアンとウィロビーが婚約していると信じきっていたジェニングズ夫人は、マリアンは、そんなウィロビーに捨てられたのだと強く同情します。しかし、夫人の過剰に親切は、余計なお節介となって、かえってマリアンを傷つけることになってしまいます。エリナーは、マリアンを慰めるだけでなく、このような周囲からマリアンを守ることもしなければならなくなります。これに対して、ブランドン大佐は、ジェニングズ夫人とは違って、状況をきちんと把握し、決して出過ぎたまねをしません。その翌日、彼はジェニングズ夫人が出かけたのを見はからって訪問し、エリナーにウィロビーに関する話をします。

「私の目的は─私の願いは─つまり、私の唯一の願いは─そうなってほしいし、そうなると信じていますが─私の話が、妹さんの心に慰めを与えることになれば、ということです。いや、慰めという言葉は適切ではない。現在の慰めではなく、妹さんの心に確信を、永続的な確信を与えることです。妹さんと、あなたと、お母さまにたいする私の愛情をわかっていただくために、私はある話をしたいのです。許していただけますか?うそいつわりのない愛情と、なんとかあなた方のお役に立ちたいという切なる願いがなければ、とてもお話しできません。この話をすべきだという私の判断は正しいと確信していますが、自分にそう納得させるのにずいぶん時間がかかりましたから、もしかしたら間違っているかもしれないという心配はあります(P.279)」

ということわりで始められる、その話は、上記のことわりがそうであるように、ところどころで言葉に詰まってしまうことが文章のダッシュの多用に表れています。話をするにも、うまく整理ができなくて、話をしている彼自身のためらい、つまり、この話を伝えようとする意志が固まっていないで逡巡している様子が表われています。その話はウィロビーの正体を明かすことになるイライザ母娘の話なのですが、それが知らず知らずのうちに、マリアンへの恋心を告白するものになっていくのでした。ブランドン大佐がかつて愛し、別れさせられ、不幸な転落人生をたどったイライザと似ているマリアンに対して、懸念や気遣いが、その口調からも示されるのです。

その話の概要は、次のようなものです。ブランドン大佐は幼くして両親を亡くした従妹イライザと一緒に育てられ他のでした。イライザは容姿も気性もマリアンによく似た女性でした。ブランドンとイライザの親しみから発展して、熱烈に愛し合いようになりました。しかし、彼女の後見人で二人を育てた彼の父が多大な負債を負っていたため、莫大な遺産を残されたイライザをブランドンの兄である長男と強引に結婚させました。しかし、その長男は彼女を愛していなかったので、彼女に対して薄情な仕打ちをします。イライザは、そんな長男との生活に耐えられず、ブランドンと駆け落ちしようとしますが失敗してしまいます。その結果二人は引き裂かれることになり、その後、イライザは離婚してしまい転落の淵をたどることとなります。数年後、ブランドンは、消息が分からなくなっていたイライザを、漸くのことで探し当て、再会を果たしますが、彼女は結核に犯され、死を待つばかりの状態になっていました。彼女の死の間際に、ブランドンは、幼い私生児の娘を託されました。彼は娘のイライザを養育しようとしますが、独身で家族がいないため、手許に置いて育てることはできず、しかたなく寄宿学校に預けます。そのイライザは17歳の時に失踪してしまいます。彼女はウィロビーに誘惑され、弄ばれ、挙句に妊娠したところを捨てられてしまったのです。彼女から苦境を伝える手紙が届いたのが、第13章でウィットウェル屋敷に遠足に行こうとして皆が集まっていた時でした。その時、ブランドン大佐は人々の懇願を振り切って、理由も告げずにロンドンに駆けつけたのは、実は、このような理由からでした。このようにして、ブランドン大佐は、ウィロビーの悪行を告げることで、マリアンの思い込みによるウィロビーの虚像をこわすことを、エリナーを通じて行ったのでした。

第32〜33章

ブランドン大佐の話の一部始終はエリナーからマリアンに伝えられました。その後、マリアンは苛立った様子を見せることはなくなり、精神状態は、ひとまず安定するようになりました。しかし、以前の陽気さは失われ、陰気にふさぎこむようになってしまいます。安定した精神状態と言っても、必ずしも良い状態で安定したわけではなかったのです。それは、マリアンにとっては、ウィロビーの愛を失ったこと以上に、彼が卑劣な人間であることが分かったことがショックを大きくしてしまったからでした。それでも、マリアンはブランドン大佐を避けることはなくなり、彼に対して同情と敬意をもって接するように変わりました。

ブランドン大佐の思いやりのある控えめな質問には、エリナーはいつも快く答えた。大佐はマリアンの失恋の苦しみを和らげようとひたむきな努力をしたおかげで、それについてエリナーと親しく話し合う特権を得たのであり、ふたりはつねにお互いを信頼して話し合った(P.295)。

ウィロビーからの手紙が来てから二週間にもならない二月の初めに、ウィロビーが結婚したという知らせが届けられます。マリアンは、その知らせを毅然として、冷静に受け入れますが、その日は一日じゅう痛々しさを隠すことは出来ませんでした。

同じ頃、スティール姉妹がロンドンにやってきます。ここで物語はマリアンをめぐる激情的で悲劇的な様相から、表面上は喜劇の様相を呈していながら、その裏ではルーシーとエリナーの怜悧で陰険な対決が繰り広げられるものに一転します。お人好しのジェニングズ夫人を挟んでのエリナーとルーシーの会話はロンドンでの二人の女の闘いのゴングを告げるようなもので、あてこすりの応酬は、ボクシングでいえばジャブを双方が繰り出して様子を見ている段階で、今後の波乱を予感させてくれるものになっていますっ。このように、この作品は、物語がある方向に傾き始めると、必ず揺れ戻しの物語が挿入されて、一面的になることのないように巧みにバランスが保たれています。その結果、物語全体は中庸の体裁を保っているのです。そのことによって、この作品は深みに欠けるとか、散漫であるといった評価をする人もいるようです。しかし、物事を一面的に捉えることを潔しとしないのがオースティンという作家の真骨頂であり、彼女が小説の舞台としている家庭という空間は白黒のはっきりさせられない中間色で構成されているのが通常であり、そういう中間(中庸)として描かれているところに、読者はリアリティを感じることになると思います。おそらく、オースティンは、そのことを意識して作品を制作していると思います。それが、この作品にも反映していると思います。

さて、エリナーの異母兄のジョン・ダッシュウッド、つまり、物語のはじめの方でノーランド屋敷を相続しエリナーたち一家をバートン・コテッジに追い出した張本人が、ロンドンに出てきます。そして、エリナーと偶然、街中で再会します。そして、エリナーと一緒に外出していたジェニングズ夫人に紹介されると、矢継ぎ早に一家と知己を結びます。このあたりのジョン・ダッシュウッドの滑稽さを皮肉たっぷりに描くところは、この作品の喜劇的な楽しさを盛り上げます。こういう楽しさは、オースティンの作品の中でも、皮肉が利いているという点では『高慢と偏見』に並ぶものになっていると思います。これで、ロンドンを舞台にした後半の役者が揃いました。

第34章

ダッシュウッド夫妻が、ロンドンの宿でパーティーを開きます。そこにサー・ジョンとミドルトン夫人、ジェニングズ夫人、スティール姉妹、ブランドン大佐、そしてエリナーとマリアンが招待されます。全員集合の舞台で、空疎な会話が交わされる滑稽で喜劇的な場面の裏で陰険な思惑が交錯し、とげを含んだ皮肉やあてこすりの言葉や視線が火花を散らします。喜劇的な表層と陰険な深層とを行きつ戻りつしながら描くオースティンの筆致は冴えわたっていて、この章は何度読み返しても、見所満載です。おそらく、これほどの空疎と皮肉と悪意に満ちた場面を滑稽さで覆いつくすように描いたのは、他の作品では、まとまったものは見当たらないのではないかと思います。

まず、パーティーに先立って、ファニー・ダッシュウッドがミドルトン夫人を訪問すると、二人の夫人は意気投合するという、滑稽な場面から始まります。

ミドルトン夫人もファニー・ダッシュウッドを気に入った。ふたりとも自己中心的な冷たい女性で、それがお互いを惹きつけたのだ。無味乾燥な礼儀作法と、知性の欠如という点で、ふたりは大いに相通じるところがあるのだ(P.303)。

二人の女性の空虚さを、作者オースティンは皮肉たっぷりに描いてみせています。このような人々が集うパーティーは、それゆえに会話の貧困な、しらじらしいものとなります。しかし、そのことに当人たちは気づいていもいないのです。

たいへん豪勢なディナーで、召使の数も多くて、すべてが女主人の虚栄心と、それを支える主人の経済力を物語っていた。(中略)いかなる種類の貧しさも見られなかった。ただし、、会話の貧しさだけは目についた。しかも相当な貧しさだった。ジョン・ダッシュウッドの聞くに値するほどの話題も意見も持ち合わせていないし、妻のファニーはそれ以下だった。しかし、今日のディナーでは、それもあまり恥にはならなかった。客のほとんどが似たり寄ったりで、みんな感じのいい人間になるためにの資格を何かしら欠いていたからだ。先天的もしくは後天的な良識のなさ、品のなさ、元気のなさ、堪え性のなさ、などなど(P.319)。

この語りは、パーティーに出席したエリナーの視点が重ねられているものですが、ここでもエリナーの容赦のない鋭い観察が反映しています。しかしそれだけではなく、、ここには皮肉以上の悪意が含まれていると思います。つまり、明らかに彼女は上から目線で、どれだけ皆が無様か見届けてやろうという底意地の悪さです。それはエリナーがこのパーティーにについては最初から、陰湿ないじめに遭うことが予想できたにもかかわらず、出席した動機でもあるからです。

エドワードとロバートが来るかどうかはエリナーにはわからなかった。しかし、フェラーズ夫人に会えると思うと、エリナーはそのディナー・パーティーがたいへん楽しみになった。以前なら、エドワードの母親に会って紹介されると思うとすごく不安になったが、そういう不安を感じる必要はない。もうどう思われようとまったく気にせずに会うことができる。しかし、フェラーズ夫人がどういう人物か、自分の目で確かめたいというエリナーの好奇心は、以前と変わらず旺盛だった(P.315)。

一方、ルーシー・スティールはなんとか婚約者エドワードの家族であるフェラーズ家と近づきになって、どんな人たちかを確かめ、あわよくば気に入られるチャンスをつかむ機会としてディナー・パーティーに期待していました。しかも、エリナーにはエドワードがパーティーに出席しないことを、教えなくてもいいのに、わざわざエリナーをがっかりさせるために教えるのです。そして次のような言葉を付け加えます。

「エドワードは私をものすごく愛しているから、一緒にいると、私への愛情を隠せる自身がないのね、それで出席しないのよ(P.317)」

このとき、エリナーはフェラーズ夫人がエドワードをミス・モートンと結婚させようとしていることを知っていて、それを黙って聞いていました。このときのエリナーのことをオースティンは何も書いておらず、読者の想像に任せるようにしていますが(巧い!)、おそらく心の中で舌を出していたのだろうことは容易に想像できます。さらに、その後、食堂に案内される途中でルーシーは、エリナーにあてつけがましく、次のように言います。

「いまの私の気持ちをわかってくれる人はあなたしかいないわ。ほんとに耐えられそうにない!ああ、こわい!私の幸せのすべてがかかっている人にもうすぐ会うのね!私のお母さまになる人に!(P.317)」

これに対してエリナーは、次のように応じます。

エリナーはいますぐにこう言って、ルーシーの気持ちを楽にしてあげたかった。「私たちがこれから会おうとしている人は、あなたのお母さまではなく、ミス・モートンのお母さまになるかもしれない人よ」と。でもそうは言わずに、「そうね、同情するわ」とほんとに同情して言った(P.317)。

この文章は微妙で、読む人によって、いかようにもとれる文章になっています。ある人はエリナーの寛大な優しさをこの文章に読み取るでしょう。そうでないようにも、受け取ることもできます。エリナーはエドワードとミス・モートンとの結婚をフェラーズ家の人が進めようというしていることを知っていて、そのことをルーシーに伝えることもできるわけです。おそらく、二人の立場が逆でルーシーがエリナーの立場にあれば、このことを伝えて、相手ががっくりする様子を見ようとするでしょう。しかし、エリナーは伝えません。それをオースティンは「エリナーはいますぐにこう言って、ルーシーの気持ちを楽にしてあげたかった。「私たちがこれから会おうとしている人は、あなたのお母さまではなく、ミス・モートンのお母さまになるかもしれない人よ」と。」と書きます。いかにもルーシーのことを思いやっているようにも見えます。しかし、この「私たちがこれから会おうとしている人は、あなたのお母さまではなく、ミス・モートンのお母さまになるかもしれない人よ」という言い方は、かなり皮肉な口調です。この言葉に思いやりを感じられません。したがって、ここでエリナーがルーシーに伝えないのは、もっとルーシーにとってショックが大きいときに知るように今は黙っていると考えた方がいいのではないかと思います。情報独占しているほうが勝負は優位になるのです。つまり、エリナーの方がルーシーよりしたたかに闘っているというわけです。しかも、その後で、ルーシーに同情しています。これはルーシーの先が見えてしまったことに対する勝利の優越感があるから哀れんで同情できるということではないでしょうか。しかも、同情してあげることで、彼女自身が情報を隠しているというひけ目をそらせることができることになります。この時点で二人闘いの形勢は逆転しているのですが、ルーシーはそれに気づいておらず、この後、フェラーズ家の人々に取り入ろうと必死になりますが、それが虚しい努力であることをエリナーだけが知っている、というわけです。エリナーにとって面白くないわけがないでしょう。

また、エリナーはエドワードの母親であるフェラーズ夫人に対しても、それまで抱えていた不安をルーシーの存在ゆえに、そのような不安を感じることなく、むしろ、夫人の知らない情報を持っている優位な立場で対することになります。フェラーズ夫人は、予想できたことですが、エリナーに対してひと言も口をきかず、睨みつけるばかりで、何としてもエリナーを嫌い抜いてやる決意が、その態度に露骨に表わします。その時のエリナーの思いは、次のように語られます。

もう今となっては、フェラーズ夫人にこんな態度をされてもエリナーは傷つきはしなかった。二、三ヶ月前ならひどく傷ついたことだろう。でももうフェラーズ夫人には、エリナーをいじめる力はないのだ。フェラーズ夫人はエリナーをさらにいじめるために、スティール姉妹に向かっていやに愛想のいい態度を取ったが、そのあまりに露骨な態度の違いも、エリナーにはただ滑稽なだけだった。ルーシーとエドワードの秘密の婚約という事実を知ったら、フェラーズ夫人もファニーも、ルーシーをいちばんいじめたいはずなのに、そうとは知らずにそのルーシーにいちばん愛想よくしているのだ。そして、エドワードとはもう何の関係もなくなって、フェラーズ家に何の痛手も与えるはずのないエリナーを、当てつけがましく露骨に無視しているのだ。エリナーはただただ笑うしかなかった。しかし、その見当違いなお愛想を笑いながらエリナーは、そんな行動に出るフェラーズ夫人とファニーの心の貧しさを思い、そしてそのお愛想をさらに得ようと浅ましいほどの努力をするスティール姉妹の姿を見ると、その四人を心の底から軽蔑せずにはいられなかった(P.317〜318)。

例えば、エリナーが描いたスクリーンが飾られていたのを、一同が絶賛するのに、フェラーズ夫人はそれがエリナーの作品であるという理由だけで、スクリーンを見ることなく、突き返し、ミス・モートンの絵の才能を話題に持ち出し、そちらに話題をすり替えてしまおうとします。そこでマリアンが怒りを爆発させるのですが。しかし、エリナーは上から目線で、軽蔑し、嘲笑しているだけです。このことについて、次のように解釈する人もいます。スクリーンとは柄つきの扇のようなもので、暖炉の火よけなどにつかわれたものだといいますが、それをきれいなものにしたのが、この作品でのスクリーンでしょう。それは、場所を仕切り、背景を隠す作用があります。それをエリナーが描いたという行為の中に「隠す」という要素が含まれていたことを示唆しているというのです。エリナーは隠す人なのです。観察して、物事を知り、それを隠して自分だけのものとして、それによって他人に対して優位さを保つ。そして、ここで、その真実を、スクリーンをはっきりさせるのは嘘が嫌いで隠し事をしないマリアンなのです。そのスクリーンが二人の姉妹の対照をシンボリックに浮かび上がらせている、というのです。エリナーの、底意地の悪さが際立ってきますね。エリナーに比べれば、ルーシー・スティールがナイーブに見えてしまいます。しかも、理性的で優しいという外見を保ち続けているわけです。エリナーの理性とか、プライドの底には、このような冷酷さが流れている。おそらく、エリナーと言う女性の理性的でやさしいという態度、つまりは、彼女のアイデンテティは誰かを見下している優越感に支えられているという性格のものであると思います。フロムのいう権威主義的人間、サドマゾ・タイプです。

第35章

その翌日です。一夜明けて、フェラーズ夫人の正体と真意を見抜いたエリナーは、これ以上フェラーズ家との関係を深めるのは望ましくないという結論に達します。エドワードとの結婚には大きな困難が立ちはだかっていることが確認できました。現実には、フェラーズ夫人とエリナーの間にはルーシーがいるわけで、それはフェラーズ夫人には分かっていません。その有利さをエリナーは抜け目なく認識しています。それが、次のような文章からも窺うことができます。

ルーシーというもうひとつの大きな障害のおかげで、フェラーズ夫人が生み出すさまざまな障害には苦しめられずにすんだのだ。夫人の気まぐれに翻弄されたり、夫人に気に入られようと努力したりしないですんだのだ。(P.325)

エリナーの観察は、エリナーへのあてつけのためにフェラー夫人から厚遇をうけて有頂天になっているルーシーに向けられます。そこには皮肉が交じってしますが。エリナーの内心の声が次のように語られます。

ルーシーはフェラーズ夫人に親切にされてあんなに有頂天になっていたが、エリナーはそれが不思議でならなかった。夫人がルーシーにあんなに親切にしたのは、「エリナーではなから」というそれだけの理由だと思われるし、エドワードとルーシーとの秘密の婚約を知っていないからあんなにルーシーに親切にしたのだろう。しかし、欲とうぬぼれに目がくらんだルーシーはそれがわからずに、自分への励ましと勘違いしているのだろうか。でもたしかにルーシーは勘違いして有頂天になっている。きのうのルーシーの目つきがそれをはっきりしめしていたし、翌朝あらためてはっきり示されたのだ(P.325〜326)。

ここにあるようにパーティーの翌朝、ルーシーはエリナーを訪れ、パーティーでフェラーズ夫人に親切にされたことを有頂天にたって自慢します。それはまるでエリナーに対する勝利宣言のようでした。しかし、ここでのルーシーは少しナイーブ過ぎるのではないでしょうか。これまでのルーシーは周囲を冷静に観察して、抜け目なく行動していました。それが。一番慎重にならなければいけないフェラーズ夫人について、あまりにもナイーブに気に入られたと拙速に決め付けてしまっているのではないか。この章の辺りから、作者オースティンのルーシーの描き方が変化して行きます。この章では、ルーシーを道化のように描いている。これは、おそらく物語を最後の大団円に持っていくために、ルーシーという女性の一貫性を犠牲にしたのだと思います。

そこにエドワードが訪ねてきます。三角関係の当事者が思わず鉢合わせすることになって、急に雰囲気は気まずいものに一変します。ここでの。エリナーに対するルーシーの嫉妬と監視、これに対してエリナーがエドワードへの配慮をしながら自分のプライドと立場をまもろうとし、ただおろおろするだけのエドワードという三者三様を、オースティンは、極力ルーシーの描写を抑えて、彼女が背後に隠れているかのようにして、その彼女の存在を意識してのエリナーとエドワードのぎこちない会話でルーシーの存在(プレッシャー)を読者に想像させています。この辺の描写は巧い。

三人がいちばん避けたいと思っていた状況が、いちばん不愉快なかたちで起きてしまったのだ。三人が鉢合わせしただけでなく、この気まずさをなんとかしてくれる人がいないのだ。女性のほうが先に落ち着きを取り戻した。ルーシーとしては、ここはでしゃばってはいけない。婚約はまだ秘密という体裁を保たなくてはならない。だから、ルーシーは、エドワードに愛情のまなざしを送って軽くあいさつをすると、あとは何も言わなかった。

でもルーシーはそれ以上のことをしなくてはならなかった。エドワードのためにも自分のためにも、その役目を立派に果たしたいと思い、必死に気を静めてから、くつろいだ表情とざっくばらんな態度で彼を迎えた(P.329)。

しかも、そこにマリアンが闖入してきて、引っ掻き回します。そこで、エドワードは逃げるように退出してしまった。マリアンはエドワードとルーシーが密かに婚約していることを知りません。

第36〜37章

第34章でファニー・ダッシュウッドにうまくとりいったスティール姉妹は、ファニーから家に滞在するように招待を受け取ります。そのいきさつを、作者オースティンは小さな出来事の積み重ねで語っていますが、その皮肉をまじえた語り口は巧みです。物語の本筋とは直接関係ないかもしれませんが、こういうところは何も考えることなく、漫然と読んでいても楽しい部分です。

さて、スティール姉妹がファニーに招待されたことで、次の大きな波乱のきっかけとなります。その描き方が、また面白い。まず、ジェニングズ夫人が一方をエリナーにもたらします。ジェニングズ夫人は娘のパーマー夫人が出産したのに付き添っていて、そこで診察に来た医師からファニー・ダッシュウッドがヒステリーの発作を起こしたことを聞きつけます。ファニーのヒステリーの原因というのが、ルーシーとエドワードが密かに婚約しているという事実を知ってしまったことでした。ルーシーの姉が不用意に話してしまったのです。ジェニングズ夫人からエリナーに語られるというかたちで、あきらかにされます。この作品では、比較的大きな出来事が、その現場でライブに語られるのではなく、後になって手紙に書かれたのを読んだり、この場合のように第三者からの話で明らかにされるという手法で語られることがよくあります。以前の事例では、マリアンがウィロビーと二人でアレナム屋敷を訪ねたことを、ジェニングズ夫人がエリナーに話すことによって明らかとなります。つまり、作者オースティンは、作者が鳥瞰的な視点で、ものがたりのすべてを見渡して、神様みたいな超越的な視点ですべてを語ることをしていません。この物語でおこる様々な出来事を、物語の中の登場人物の目で見させて、その視点で語らせているのです。だから、この場面でも、読者はたしかにジェニングズ夫人の話から出来事が起こったことは分かりますが、同時に、ジェニングズ夫人はゴシップ好きな人で、話を大袈裟にしてしまうところがあります。また、夫人はファニーに対して好感を持っていないので、夫人の語りには歪みがあって、真実を性格に伝えていないところがあります。それは、ここまで物語を読んできた読者にも分かることです。従って、物語の中で話の聞き手となっているエリナーは、もっと事実を知りたいと躍起になるのです。この作品の物語自体は、それほど多くの登場人物を必要とするような大規模なものでもないのに、登場人物が多彩なのは、そういう様々な視点で語る人々を必要とするからではないでしょうか。人々の話で伝えられる事実には、話す人の視点による歪みや一面性によって出来事のすべてを客観的に明かされるわけではありません。さらに、この物語では舞台となっているのは比較的狭い世界で、話される内容についても知っている人の出来事となるので、そこに話す人との関係や思惑が入り込んできます。そのくい違いというのが、実はこの小説の隠れた肝なのではないかと思えるところがあるのです。というのも、この小説ではおなじような形の出来事がくり返されます。「分別と多感」というタイトルが象徴するようにエリナーとマリアンの姉妹は同じように恋をして、同じように男性に裏切られます。しかし、当の二人の視点や姿勢がまったく異なっているので、読者には、二人の恋愛のあり方が違って見えてくるのです。

そして、その話を聞く側の人々も話す人同様に認識は歪み、思惑を排除することはできません。そういう人々の遣り取りのなかで、事実が次第に見えてくる。前のところで、この作品はミステリー、とくに倒叙法によるもの、のようなところがあると言いましたが、出来事が明らかにされるが、その真相がなかなか見えてこないようになっているのと同じだからです。それは、当時のアッパー・クラスの人々の日常を舞台として、大事件が起こるのでもないオースティンの小説が、面白く、魅力的となっているのは、このような描き方で、現実が多層的で多彩に語られるところにあると思います。現代の目からみれば、オースティンはメディアというものを先取りしていたということができるかもしれません。

さて、ジェニングズ夫人から話をきいたエリナーは、エドワードとルーシーの結婚に対して特別の関心を持っている、つまり、彼女がエドワードに思いを寄せているとは、ジェニングズ夫人に思われていないことを察します。それで、ひとまずほっとします。また、その場にマリアンがいなくてありがたかった。それは妹への気遣いからだったと説明されています。そして、マリアンにこのことを自分の口で説明しようとします。しかし、先取りしますが、その説明では自身の失恋をはじめて明らかにするのですが、エリナーはマリアンと共感を分かち合って互いに慰め合おうとはしません。むしろ、エドワードはウィロビーとは違う、さらに言うと私はあなたとは違うということが、メリアンに向かって言いたげに見えるのである。その口調は終始上から目線でマリアンを励ますという姿勢を崩していません。エリナーそういう位置関係を崩さないため、おそらく、そういう位置関係が彼女の自己の拠って立つところになっているのだろうと思います。

エリナーは婚約の事実をマリアンに伝えます。そして、自分がその秘密を知ったのが4ヶ月前で、それを話すことができなかったことをも、そして、次の言葉を加えます。

「私にとっては、家族やお友達の心の平安も大切なことなの。だから私が苦しんでいることを知らせい心配させたくなかったの。でも、いまはもう、かなり平静な気持ちでそのことを考えたり話したりできるわ。だから、私のためにあまり悲しまないで。ほんとに、私はもうそんなに苦しんではいないんですもの。私にはいろいろな心の支えがあるの。この失恋は私の軽率さが引き起こしたわけではないし、まわりに迷惑をかけずに、ひとりでじっと耐えてきたわ。それに、エドワードには重大な罪はないと思うの。彼にはぜひ幸せになってほしいわ。彼はつねに自分の義務を立派に果たす人だから、いまはすこし後悔しているかもしれないけれど、最後はきっと幸せになると思うわ。それにルーシーは分別がないわけではないし、分別があればきっといいことがあるわ。それにマリアン、ただひとりの人を一生愛しつづけるというのは魅力的だし、人の幸せはひとりの人だけを愛することななっているというのも一理あるけど、絶対にそうでなければいけないというわけではないし、絶対にそうだと言うのは間違っているし、だいいちそんなことは無理な話よ。エドワードはたぶんルーシーと結婚するわ。容姿も頭も人並み以上の女性と結婚するのよ。時間がたって生活環境が変われば、自分が別の女性に惹かれていたことなんか忘れてしまうわ(P.357〜358)」

エリナーはの語り口は、自分が立派に耐えてきたという自慢にも聞こえます。その反面で、暗に、マリアンは無分別のせいで失恋を引き起こし、悲しみに浸って周囲に迷惑をかけていると諫めているように聞こえてきます。、そして、エドワードはウィロビーとは違って、大きな罪を犯したわけではなく、負っている義務を果たしているだとかばいます。こうしてエドワードと自分自身を美化しているのです。義務を果たすことと分別とが、自分を支える大切な要素であることを、エリナーはここで表明しています。それと同時に、つねに妹と比較して、自分は手本であらねばならないという優越感にも、彼女が支えられているさまがうかがわれるのです。

そんなエリナーの態度をマリアンは、俄かに信じることはできません。エリナー、それに加えて、長い独白になりますが、上記の言葉のように振舞う困難さを、つまり本音を打ち明けます。

「あなたは私がそんなに苦しまなかったと思っているのね。でもマリアン、よく考えてみて。エドワードとルーシーとの婚約という事実が、四ヶ月ものあいだ私の心に重くのしかかって、しかも私は誰にも話すことができなかったのよ。あなたとお母さまが突然このことを知ったらひどいショックを受けることが分かっているのに、ふたりにそれとなくにおわせて心の準備をさせることさえできなかったのよ。その婚約のことは、ルーシー本人からむりやり打ち明けられたの。私の幸せを破壊したルーシー本人から、しかもものすごく得意げに。だから私は必死に無関心を装って、ルーシーの猜疑心に対抗しなければならなかったの。私にとってはいちばん関心があることなのに、しかもその打ち明け話は一度だけじゃなかったわ。ルーシーの希望と喜びの言葉を何度も聞かされたわ。そして、自分がエドワードから永遠に引き離されたことはわかったけど、そのほうがよかったと思わせるような事実は何も耳に入ってこなかったし、彼が私に冷淡になったことを示すような事実も見当たらなかった。それに私は、彼のお姉さんの意地悪やフェラーズ夫人の侮辱的な言葉や態度にも戦わなくてはならなかったわ。しかも、私の身にこうしたことが起きているときに、あなたが一番よく知っているように、もうひとつの不幸が重なったの。もしあなたが、私にも感情があると思ってくれるなら、私がこの四ヶ月間ものすごく苦しんだということが、すこしはわかってもらえると思うわ。私はいまはもう平静な気持ちでこの問題を考えることができるし、自分から進んで慰めを受け入れることができるけど、そういう気持ちになれたのは、絶え間ないつらい努力の結果なの。ひとりでにそうなったわけではないの。最初からそういう気持ちになって明るく振舞っていたわけではないの。ぜんぜん違うのよ、マリアン。もしルーシーとの秘密を守る約束をしていなかったら、私は四ヶ月も自分の苦しみを隠し通すことはできなかったと思うわ。(P.358〜360)」

エリナーの独白のような説明は、マリアンにハトのように受けとめられたのでしょうか。このときはじめてマリアンはエリナーが自分と同じような状況にあること、しかも四ヶ月も前から同じように絶望を抱え込んでいたことを知ります。そして、自分の振舞いが、エリナーに対する思いやりを欠き、自己中心的であったことに思い至ります。それがマリアンの変化を呼び起こすことになるのです。それは、マリアンが野放図だった自己を抑えるという方向に変わるということです。そのひとつのあらわれが、この後、エドワードとルーシーの婚約が公表されたときに、彼ら二人に対して自分の感情を露わにすることなく冷静に振舞うということです。それをマリアンは立派にやってとげます。これが、それまでのどん底であった二人の状態に差し込んできた一筋の光明と言えるかもしれません。物語は、これを転機にして再生の話に変わっていきます。

その後で、二人の兄にあたるジョン・ダッシュウッドから、エドワードはルーシーとの婚約が発覚するや、母や姉から、その婚約を解消するように迫られますが。ルーシーを守って頑として譲らず、その結果、勘当されたことを告げられます。エドワードの行動は、ジェニングズ夫人をはじめとしてエリナーやマリアンの周囲の人々からは認められます。しかし、その本当の立派さを理解していたのはエリナーとマリアンの二人だけで、

彼はあまり値打ちのないもののために勇敢に母親と闘ったのであり、家族と財産を失った彼の心の慰めは、自分は正しいことをしたという意識だけなのだ(P.368)。

というシニカルな認識でした。

第38章

エドワードの婚約が明るみに出たおかげで、エリナーとマリアンの信頼関係は修復しました。マリアンはたしかに、自身が利己的であったことに思い至りましたが、かえって自己嫌悪の状態に落ち込んでしまい、エリナーの期待したように行いを改めようという努力を始める気にはなれませんでした。激しい自責の念にさいなまれ、もっと前に努力しなかったことを後悔したところにとどまり、無気力状態に陥っていました。

騒動の三日後、ルーシーの姉のアンの話、ルーシーからの手紙で事情が分かってきました。エドワードは母や姉からルーシーとの婚約を破棄して、財産家のミス・モートンと結婚するように説得されたが、彼はルーシーだけを愛していて、ルーシー以外の女性と結婚するつもりはないと断言し、家を飛び出したそうです。そして、3日後にルーシーのもとに現われて、自分は財産を失った身の上だから、ルーシーを婚約で縛ることはできないと、ルーシーのために婚約解消を申し出たというのです。

事態はエリナーの予想の範囲内で進行していました。つまり、エドワードとルーシーが結婚することは確定しているが、日取りはまったく未定であり、すべてはエドワードが聖職につけないと生活の目途が立たないので、いまのところ結婚できる望みはないのです

翌朝、エリナーのもとにルーシーからの手紙が届けられます。説明されている内容はアンから聞いた話とほとんど同じですが、大きな違いが一点、ルーシーがエドワードのことを思って身を退こうとしたらエドワードが放さなかったということになって、アンの話とは逆転しています。このあたりにルーシーという女性が自分の都合の良いように平気を嘘をつく女性であることが示唆されています。そして、この手紙の本当の目的は、事態をエリナーに知らせるためでも、エリナーにエドワードとの仲を見せ付けるためでもなく、エドワードが聖職につくことができるように誰かに推挙してもらうように手配をお願いすることでした。

第39〜41章

エリナーとマリアンのロンドン滞在は2ヶ月を過ぎ、二人とも、もはやロンドンに来るための目的はなくなってしまったので、母親のもとに帰ることにしました。その前に、エリナーは、ブランドン大佐からエドワードにデラフォードの聖職禄を提供したいという申し出をエドワードに伝えるように頼まれます。実は、このブランドン大佐がエリナーに使者となってもらうのを頼む場面は、脇でジェニングズ夫人が見ていて、ジェニングズ夫人の視点で語られるという回りくどい書き方をしています。以前に触れましたが、作者が鳥瞰的な視点で客観的に語っていないのです。この場合、ゴシップ好きで、お節介なジェニングズ夫人の視点で語られると、二人の会話は、ブランドン大佐がエリナーにプロポーズしていると誤解されているのです。それは、二人の会話の断片が耳に入って、それを勝手に想像してプロポーズの言葉と誤解してしまうのです。ここに、ちょっとしたギャグを挿入しているのは、そういう時代環境なのかもしれませんし、オースティンという作家は決して深刻にならないで、どこかに笑いの要素を残しているので、自然と、こういうことをしているのてもしれません。実際に、エリナーとブランドン大佐の会話が終わったあと、ジェニングズ夫人がプロポーズがあったものとエリナーに話す、会話のすれ違いの面白さは、思わず笑いをこぼしてしまうものです。これもオースティンの小説の親しみ易い理由の一つです。それだけでなく、ここに皮肉とか、当時の恋愛小説に対するパロディの面などの可能性も否定できません。オースティンは、読者の誤解を解くために、実は、と真実を後になって説明します。その説明の仕方が、ジェニングズ夫人が耳にした断片をいちいち取りだして、その誤解に対する真実をひとつひとつ訂正していくのです。このあたりはオースティも楽しみながら書いているのが分かります。

さて、ブランドン大佐からの申し出をうけたエリナーの気持ちは複雑です。エドワードがルーシーと結婚できるかどうかは、彼が聖職につけるかどうかにかかっていて、いまのところその望みはないと二日前に考えばかりだったのですから。その実現が現実のものとなり、こともあろうに、それをエリナーが伝えることになる。そこには「あまり純粋でもなく愉快でもない感情も多少は混じっていた(P.386)」というのは当たり前のことです。また、エドワードのことを考えると、エドワードはエリナーに恩義を施された感じることになり、ひんな苦痛を与えたくないと思ったのです。しかし、ブランドン大佐は、エドワードとはあまり面識はないものの、彼の話に同情し、エリナーへの友情から申し出たものです。

エリナーはエドワードに手紙を書くことにします。彼女は手紙をどう書いたらいいのか悩みますが、口頭で言うよりはいいと考えます。内容を吟味し、整然と完成された形で書くという手紙という手段をエリナーと熟考のう択ります。それで思い出すのは、エリナーはロンドンに着いて以後の報告を手紙を書いていたことです。とくに、マリアンがウィロビーに拒絶されたことと、その相談を手紙であらためて報告するのです。そこに、観察し理性的なエリナーの性格が反映している伝達手段として、オースティンが選んでいるのです。オースティンはメディアというのか、伝達する手段を、特別に意識していた作家ではないかと思います。それは、『ノーサンガー・アビー』といい『分別と多感』といい、初期作品が既存の小説のパロディとして、小説というメディアへの批判から始めているところに表われている。おそらく、オースティンという作家は、現実のリアルを自分の目で見て、オリジナルに表現を作り出すという作家ではなくて、既存の表現を批判して、それに自分なりのアレンジをしていって表現としていったという作家ではないかと思います。それゆえ、伝える手段については、同時代の作家の中では神経質だったのではないかと思います。だから、ここでオースティンが、ここでエリナーに手紙を選択させたのは、エリナーという女性の人となりと重なるようになっているのです。つまり、ここでは手紙とエリナーがイコールになっているのです。

エリナーは、先程からペンを片手に思案に暮れながらも内心では喜んでいた。自分の考えを手紙できちんと伝えるのはむずかしいが、エドワードに直接会って口頭で伝えるよりは楽だと思ったからだ(P.393)。

しかし、その手紙を書く前に、エドワードが突然別れの挨拶に訪れて、エリナーは口頭で伝えることになってしまいます。ここで、エドワードが登場したのは意外です。というのも、エドワードのエポックメイキングな行動はすべて誰かが話題にしてエリナーに伝わってくるという間接的に描かれていたからです。例えば、ルーシーとの婚約を貫き通し、勘当されたということも、直接、エドワードが行動している場面は描かれず、エリナーがスティール姉妹から話を聞くことで明らかになります。そのようなエドワードの扱い方に従えば、エリナーはブランドン大佐からの依頼を手紙にしたため、エドワードに送るというのが、自然です。しかし、ここで、敢えてエドワードが挨拶に訪れた。これは、かなり無理があるのではないか、というのもエドワードもエリナーも気まずいのは十分承知しているはずです。それを分かっていて、しかも、婚約を発表した若い男性が、未婚の女性を訪ねるというのは、無理してでも挨拶しなければいけないというのでしょうか。それなのに、あえて存在感の薄いエドワードをあえて登場させたのは、もっぱらエリナーが気まずいなかで、エドワードにブランドン大佐の申し出を説明させたかったからにほかならないと思います。この場面はエリナーのためのもので、エドワードはそのための道具、いわばエリナーの影といえると思います。つまり、ブランドン大佐の申し出はエドワードにとっては聖職禄を得ることになり、生活の目途が立つことになるわけで、恋敵であるルーシーとの結婚が実現することになるわけです。それを、エドワードに対して思いを寄せているエリナー自身が、その当のエドワードに、そのエドワードもエリナーの思いを知っていて、そのエドワードに直接伝える。そして、彼の反応を見させるということになります。これは、エリナーをヒロインとしての崇高さを際立たせるものなのか、オースティンには珍しくやりすぎの感じはします。エドワードは、この申し出がエリナーのおかげであり、そこにエリナーの思いを察していて、それが彼の言葉に表われています。しかし、それは言えない。このあたりは許されぬ恋の恋愛小説の常套的な場面でしょうが、それを巧みに使っています。

エドワードは突然はっと気がついたように言った。「相手があなたなら驚きません。そうです、これはすべてあなたのおかげです。あなたのご親切のおかげです。それくらいのことはぼくだってわかります。いや、はっきりわかりました。できればいますぐに感謝の言葉を述べたい。でもご存じのように、ぼくは口下手なので」

「いいえ、それはまったくの誤解です。これはすべて、あなたの立派な人柄と振る舞いのおかげてです。ブランドン大佐があなたの立派さを御認めになったおかげです。私はこの件にいっさい関知していません。」(P.395)

しかし、それだけでありません。実は、この前の章でジェニングズ夫人がエリナーとブランドン大佐の関係を誤解します。ブランドン大佐がエリナーにエドワードの聖職についての提案を話していたのを、夫人はプロポーズと勘違いします。それゆえに、夫人はエドワードが訪ねてきたときにエリナーに合わせたのです。それは、エドワードにも伝わっていたかもしれず、それがエリナーに対するエドワードの言葉に表われます。そこで、エドワードにも変化が生まれた可能性をさり気なく示唆しています。つまり、エリナーに対して、彼女の思いを知っていて、彼はルーシーとの婚約があるので応えることができない。そこに、エリナーがブランドン大佐と結ばれるかもしれないという疑念が入ってくると、エドワードに焦りが生じ、良識で抑えていたエリナーへの思いが湧き上がってくる。その様子が仄めかされています。

厳密に言えば、エリナーもこの件にすこしは関係していると認めざるを得ないだろう。でもエリナーとしては、エドワードに恩を施したような顔はしたくないので、ためらいがちに認めたのである。そしてたぶんそのことが、ついさっきエドワードの心に忍びこんだ、「もしかしたら大佐はエリナーに…」という疑念をさらに深めることになった(P.396)。

そして、デラフォードの牧師館は大佐の屋敷の近くだというエリナーの話を聞いたエドワードは

エドワードは返事をしなかったが、エリナーが横を向いたとき、ひどく真剣な、思いつめたようなくらいまなざしで彼女の横顔を見つめた。そのまなざしはまるで、牧師館とお屋敷の距離がずっと離れていればいいのに、と言っているかのようだった(P.397)。

このエドワードの様子は、嫉妬の感情が起きていることを示しています。それが、最後の大団円のエドワードの行動に繋がっている、いわば伏線となっていると思います。

そして第41章で、ブランドン大佐の申し出がルーシーに伝わり、エリナーはルーシーからの感謝を受けます。そのあと、ロンドンを離れることになるので、エドワードの姉のファニーに挨拶に訪れると、ファニーのエリナーへの態度が豹変してしまったのと、弟のロバートとの会話で、エリナーはこの一家に愛想をつかすところです。とくに、ロバートについては、あとでルーシーと結婚してしまう愚かさを、ここで前振りのように、エリナーの彼への嫌悪感も含めて強調しています。

第42章

エリナーとマリアンは、ロンドンを発って、母の待つバートン・コテージに戻ります。その前に、ジェニングズ夫人の娘シャーロットの嫁ぎ先であるクリーブランド屋敷への招待を受けて滞在し、そこからはバートン・コテージはすぐ近くという設定です。シャーロットは、ロンドンで出産したあと、屋敷に帰るのに、二人とジェニングズ夫人も同道することなったのでした。この小説は、全50章で構成されているのですが、前半は舞台や登場人物の説明などでゆっくりとしていて、ストーリーはなかなか進みませんでしたが、第30章代の後半でマリアンがウィロビーに拒まれた辺りから、徐々に動きが速くなってきて、加速度がつき始めました。ここから終盤に向けて激しい展開して、小説としての劇的な盛り上がりがはじまります。これは、全体の構成を作者オースティンは計算していたのか分かりませんが、前作『ノーサンガー・アビー』でも、終盤になって物語が急展開していったので、後半に盛り上がって、最後に急展開という構成は、オースティンのパターンなのかもしれません。最初はなかなか調子が出ないので、人物紹介などを丁寧に行って、小説を書き進めていくうちに本人も乗ってきて、物語が動き始めるという性質です。オースティンの後年の『説得』や『マンスフィールド・パーク』では、始まりと終わりのノリは、この作品ほど違わないので、この作品が初期作品であるがゆえに、オースティンの生来のテンポ感とか、書き手の体質が表われているのかもしれません。

第43章

マリアンは、前日散歩の途中で雨に降られて体調を崩します。最初のうちは風邪をひいた程度だと思われたのが、失意の彼女は体力を消耗し切った状態でいたので、重症の感染症を発病してしまうのです。マリアンは、ベッドから起き上がることができなくなり、高熱にうなされ、生死の境を彷徨うのです。これに対して、あるじのパーマー夫妻は感染症が赤ん坊にうつることを心配して親類の家に避難を余儀なくされます。屋敷に残ったのは、エリナーと母親代わりのジェニングズ夫人と召使だけです。エリナーはマリアンの容態の悪化を伝えて、ブランドン大佐に相談します。マリアンは、しきりに母親を呼び求めていると。すると、大佐はダッシュウッド夫人を呼びに行く使者の役目を引き受けます。

ジェニングズ夫人はきっぱりとこう言った。「私はマリアンさんの病気が治らないうちは、クリーヴランドから一歩も動きませんよ。私がマリアンさんを母親から引き離してここへ連れてきたのですから、私が母親代わりになって、しっかり看病するつもりよ」と。エリナーはこのやさしい言葉に感激し、心からジェニングズ夫人を好きになった(P.421)。

こういうときにブランドン大佐のような友人がいて、母を迎えに行く役をお願いできるとは、なんと心強いことだろう!なんとありがたいことだろう!大佐の判断力が母を導いてくれるだろうし、大佐が付き添ってくれれば母はあんしんするだろうし、大佐の友情が母を慰めてくれるだろう!(P.426)

ここは、マリアンが失恋の痛手から自己を見失い、そのことが彼女自身の生命の危機、つまり死に象徴され、そこから再生する。その際にエリナーをはじめ、ブランドン大佐、ジェニングズ夫人、そして母親のダッシュウッド夫人の必死の看護や思いに支えられる。そこで、無分別と他人に対する配慮の欠如を反省し、すべては自分の自己中心的な姿勢が招いたものと悟り、そこから新たな自己を再生しようとする契機となるところです。お伽噺では『白雪姫』が毒林檎を食べて死んでしまったのを、通りかかった王子様の口づけで生き返る。それと同時に、少女から大人の女性に生まれ変わる。『眠れる森美女』や『灰かぶり姫』などもそうです。そのパターンに乗ってマリアンは世間知らずの多感な少女から分別を備えた一人前の女性に生まれ変わるのです。それをオースティンの小説では珍しく、宗教的な奇蹟のような神秘体験のような深刻な場面になっています。オースティンの小説は『ノーサンガー・アビー』がそうですが、むしろ神秘的な体験などというものは種明かしをすれば、本人の早とちりだったり、錯覚でしかないという姿勢で、むしろ、そういうことを殊更に扱うことの滑稽さを皮肉るような姿勢で貫かれています。しかし、この場面だけは、最初にマリアンが散歩に出て、突然の雨に降られるところから、かなり強引に話を進めているのが分かりましたし、その後のマリアンの経過についても、ほかのところとは違っていました。

ただし、それでもオースティンらしいところは、これをお伽噺と同じようにマリアンの視点で描くのではなく、エリナーの視点で、エリナーの思ったことを中心にして、しかも、ブランドン大佐の活躍の場面としての要素も入れながら描いているところです。だから、場面としては壮大なロマンチックで深刻なドラマなのですが、オースティンは、そのドラマが突っ走ることはさせず、第三者であるエリナーの視点に移して、冷や水を浴びせるように冷静にさせているのです。例えば、トーマス・マンの『魔の山』の終盤で、主人公のハンスは山スキーに出かけて遭難してしまいます。そこで死に直面して、光に包まれるような神秘的な体験をします。宗教家が奇蹟に遭遇して悟る瞬間のようなイメージです。しかし、オースティンは、そんな非現実のこけおどしのような場面をつくりません。そこに、オースティンという作家のバランス感覚というのか、単純に突っ走ることをよしとしない屈折した性格が表われているところでもあります。実際に、マリアンが心のうちを明かすのは、危篤状態から脱してバートン・コテージに戻ってからになり、この劇的な場面では、マリアンの周囲の人びとに焦点が当てられています。また、この騒ぎの中で、思わぬ闖入者がでてきて一波乱起ることもあります。

第44章

マリアンの病状は、人々の必死の看病のかいがあって、危機を脱します。ほっとしたエリナーが母親の到着を待っていると、夜中に、突然ウィロビーが現われます。彼は、重病のメリアンの命が危ないという噂を耳にして、ロンドンからやって来たというのです。ウィロビーは、エリナーに事情を説明し、弁解を始めます。

その説明によると、初め、ウィロビーは適当に女性と楽しい時間を過ごそう思っていたときにマリアンに出会い、彼はマリアンの愛情を受けていることに満足し、うぬぼれているだけだったのだが、いつの間にか彼女の魅力の虜になってしまって、本気で好きになってしまった。それまでの彼の考えを覆し、財力に恵まれない彼女との結婚すら考え始めていた時に、イライザを誘惑して捨てたという事件が、遺産を相続させてくれるスミス夫人に知られてしまう。結局、彼は財産の相続を受けられなくなり、破産状態となって、家を出ることになりました。そこで、マリアンへの愛情と、経済的に豊かなミス・グレイとの結婚を秤にかけた。ウィロビーは経済的に逼迫して、負債で身動きが取れない状況にいたものの、身に付いた贅沢な生活は捨てられなかった。そこで後者を選び取った。金銭の負債が彼にこの恋を許さなかったというのです。ところが、ロンドンでのマリアンとの再会、それに気づいた婚約者ミス・グレイの嫉妬が彼を苦しめ、ミス・グレイに命じられるままに彼女の書いた手紙の原稿を書写する事態となり、その手紙を受け取ったマリアンを深く傷つける結果を招いたということであった。そして、今は愛のない結婚で不幸だと告白します。

そして、マリアンへの愛は真実だったと弁解するウィロビーに対して、エリナーは、次のようにさとします。

「あなたはご自分でご自分の道を選んだのです。誰かから無理強いされたわけではありません。奥さまは少なくとも、あなたから礼儀と敬意をもって扱われる権利があります。奥さまはあなたを愛しているはずです。そうでなければ結婚するはずがありません。奥さまをそんなふうに粗末に扱い、軽蔑なさったような言い方をしても、マリアンへの償いにはなりません。それに、あなたの良心にとっても気休めになるとは思えません(P.452)」

そして次のように分析してみせます。

ウィロビーという男が受けた取り返しのつかぬ深い傷について、黙って思いをめぐらせた。ウィロビーはすばらしい容姿と才能に恵まれ、率直で正直な性格と、愛情豊かな思いやりのある性質を持っていたにもかかわらず、あまりにも若くして経済的独立を許されたために、怠惰と放蕩と贅沢の習慣が身についてしまい、おかげで彼の心と人格と自分の幸福にまで、取り返しのつかぬ深い傷を受けることになったのだ。上流社交会が彼を虚栄心の強い浪費家にしてしまい、その虚栄心と浪費癖が、彼を冷酷な自己中心的な人間にしてしまった。虚栄心ゆえに、人の心を傷つけてまで愛の手柄を追い求めるうちに、ほんものの愛へと深入りしてしまった。だが浪費癖故に、少なくともそれがもたらした貧乏ゆえに、そのほんものの愛をあきらめなければならなかったのだ。虚栄心と浪費癖という二つの感情とあらゆる利益を犠牲にして、表面上はマリアンへの愛をあきらめたが、もはや許されぬ今になって、その愛が彼の心を支配している。そして、彼がためらうことなくマリアンを不幸のどん底へ突き落として勝ち取ったミス・グレイとの結婚が、今は彼にとって、不治の病のごとき癒やしようのない不幸の源になろうとしているのだ。(P.455〜456)

エリナーの分析は冷静にウィロビーの弱さやエゴイズムを容赦なくさらけ出します。しかし、その一方で、ウィロビーの情熱的な口調で、言葉に詰まって取り乱した気持ちを隠さない話しぶりに、次第に心を動かされ、同情を抑えることができません。ウィロビーが去ったあとで、次のように思うのです。

エリナーはほんの30分前まで、ウィロビーを最低の男として憎んで軽蔑していたのに、彼が自分の犯した過ちゆえに苦しんでいる姿を見ると、あらゆる欠点にもかかわらず、憐憫の情をかきたてられずにはいられなかった。そして、もはやダッシュウッド家とは永遠に縁の切れたそのウィロビーのことを、やさしさと愛惜の念をもって思い浮かべた。ただしその愛惜の念は、エリナーもすぐに気づいたように、彼の美点というよりは、彼の切実な訴えに影響されてかきたてられたものだった。それに、彼が自分の心に及ぼす影響力は、本来ならあまり重きを置いてはいけない事柄によって強められていると、エリナーは思った。たとえば、あの類稀なる魅力的な容姿。彼の場合は長所にはならないけれど、あの率直で、愛情のこもった、快活な態度。いまはもう罪深きものでさえあるけれど、マリアンにたいするいまだ衰えぬ熱烈な愛、などなど。しかしエリナーは、そうとわかっていながらも、彼のそうした魅力に影響されずにはいられなかった(P.458)。

ここに、分別の人と一概に断言できないエリナーの姿が垣間見えます。というのも、エドワードがエリナーに対して行ったことは、客観的にはウィロビーと、それほど違うわけではないのです。それに対して、エドワードは誠実で、ウィロビーは利己的であると、明確に一線を引くことができるでしょうか。エリナーは明確に区分していますが、そこにエリナーという人物の分別らしさの陰に隠れた感情的な歪みがある。それを、作者オースティンは、そういうエリナーの姿を計算して意識的に描いているわけではないと思います。こういうところは、おそらく、作者が独立して、エリナーが独りで歩き始めた結果ではないかと思います。それが、エリナーという人物のリアリティを実は作り出している。おそらく、オースティンの小説のヒロインたちの中でも、ここでのエリナーのように作者の掌の中におさまらず、独り立ちして越え出てしまったのは、エリナーだけではないかと思います。ここでのエリナーは、すこし前で、エドワードにブランドン大佐の提案を説明して、エドワードの人柄が高潔な大佐の心を動かしたと、エドワードにひけ目を感じさせないようにタテマエを臆面もなく語る姿。私からは、不自然なほど、いい人にしている、こんな人いないよね。というのとは違って、現実にこういう人って、いるね、という姿になっていると思います。

第45章

ウィロビーが去ってまもなく、ブランドン大佐に連れられて母親のダッシュウッド夫人が到着します。そこで、病状が回復に向かい始めたマリアンと母娘の再会が果たされます。ここからは最後の大団円に向けて、マリアンの回復(再生)を軸に話が進んでいきます。したがって、小説をたくさん読んでいる読者ならは、この後の話の展開はおおかた予想がつくもので、オースティンはの、その期待を裏切ることはありません。あとは、その予想された話をどのようにまとめていくか、ということになります。つまり、オースティンという作家は、本質的にまったく新たなものを無から創造するというタイプではなくて、既存の小説が目の前にあるということを認めて、それを土台にして、その小説に新しい意味を与えるというタイプの作家ではないかと思います。それゆえ、小説とは何かということを、すでにある小説に問い直すことをします。それは、無から新たなものを創造する際には行われないことです。新しいものをつくったら、それは新しい何かであって、既存の言葉で定義することは出来ないからです。定義できるのは、すでにあるものだけですから。しかし、オースティンの小説は、常に、小説とは何かという問いかけを行っていると思います。それが小説の形式となって表われているのが、この『分別と多感』もそうですし、よりはっきりした形になっているのは『ノーサンガー・アビー』で採られたパロディという形式で、そのなかで、小説とは何かという問いを実際に発して、メタ小説にもなっています。一方、この『分別と多感』も当時の恋愛小説を下敷きにして、『ノーサンガー・アビー』ほどあからさまではありませんが、パロディとして作られているところがあると思います。それゆえ、基本的な筋立ては恋愛小説の成道を踏まなければなりません。そこから外れてしまえば、パロディではなくなってしまうし、小説とは何かという問いかけも当事者の切実なものではなくなってしまうからです。

したがって、この小説では大団円のハッピーエンドに向けて物語が進められていきます。そこで、どのように終わらせるかが、オースティンの腕の見せ所であり、この作品の特徴的な魅力となっているのです。

さて、物語に戻りましょう。ダッシュウッド夫人はクリーブランド屋敷に向かう馬車の中で、ブランドン大佐からマリアンを愛しているという告白を聞きます。それは、大佐が意図したものではなく、馬車の中で危篤状態のマリアンを心配するあまり、思わず秘めていた恋情を抑えきれなくなってしまったのです。それを聞いたダッシュウッド夫人は、大佐の誠実な人柄と真摯な思いを認め、応援する決意をします。ただし、マリアンの生死すら不明で、回復したとしてもウィロビーへの失恋の痛手の中にいるので、大佐の思いを押し付けることはできない。しかし、ここでマリアンとブランドン大佐の二人の行く末にレールが敷かれたわけです。ここで方向性が明確に示されました。

第46章

マリアンの病状が快方に向かい始めたので、未だ不安は残りますが、いつまでもクリーブランド屋敷に迷惑をかけられないし、早く実家に帰りたいというので、バートン・コテージに帰ることになりました。エリナーとマリアンは、ようやく帰宅することができました。ここからしばらくは、マリアンの再生の物語です。

家に帰れたマリアンは肉体的にも精神的にも落ち着きを取り戻し始めます。それは、深刻な反省を経たものでした。そして、次のようなこれから新しい生活を始める決意を述べます。

「お天気が落ち着いて、私の体力が回復したら、毎日みんなで長い散歩をしましょうね。丘のはずれの農場まで行って、子供たちがどんなことをしているか見てきましょうね。バートン・クロスにあるサー・ジョンの新しい植林地や、大修道院にも行きましょうね。それに小修道院の遺跡に何度も行って、昔はこの辺まであったと言われているところまで、土台の跡を辿ってみるの。すごく楽しいでしょうね。夏はそれで楽しくすぎていくわ。毎朝必ず六時前に起きて、それからディナーまでの時間はすべて音楽と読書に当てるの。もう計画を立てたし、これからはまじめにきちんと勉強するつもりよ。うちにある本は娯楽にしか役に立たないものばかりだけど、バートン屋敷には、読む価値のある本がたくさんあるし、比較的新しい本はブランドン大佐から借りられるわ。毎日六時間読書すれば一年後には、いまの私に不足している知識を十分身につけられるわ(P.472)」

エリナーはマリアンの立派な計画を評価するものの、そこにはかつて彼女が過ちを犯す原因となった、その同じ旺盛な想像力が働いているのを見て思わず苦笑してしまいます。ここに上質のユーモアと、マリアンという女性の按排というものを知らず、つい度を越してしまう性格は直らないことか示唆されています。

数日後、晴天となってエリナーと近所を散歩しながら、マリアンはそれまでの自分を振り返って自分の病気は自らが招いたものであり、もしそのまま死んでいたら、その死は自滅以外の何物でもなかったと語ります。これがマリアン再生の物語のクライマックスでしょうから、少し長くなりますが引用します。

「私は病気をしたおかげで、いろいろ考えさせられたの。真剣にわが身を振り返る時間と心の落ち着きを、病気が与えてくれたの。話ができるようになるずっと前から、頭の中では、過去のことを振り返っていろいろ考えていたの。去年の秋に彼と知り合ったあとの私の振る舞いを思い出すと、自分に対する無分別と、他人に対する思いやりのなさばかりが目についたわ。自分の心の持ち方が自分の不幸の準備をしたんだし、その不幸に耐える力がないために、もうすこしで命まで落とすところだったということが、よくわかったわ。私の病気はまったくの自業自得で、これではいけない自分でもわかっていた不摂生が原因なの。もしあのまま死んでいたら自殺みたいなものね。自分の生命の危険が去るまで、私はその危険を知らずにいたの。でもいまこうして考えてみると、よく治ったものだと驚くわ。生命の危険が去ったあとの、あの生きたいという気持ち、神さまやお姉さまたちに償いをする時間が欲しいという気持ち、その気持ちの強烈さが私の命を奪わなかったことが不思議なくらいよ。でももし死んでいたら、看護人でもあり友人でもありお姉さまでもあるあなたを、どんな不幸に突き落としたことでしょぅ!私の最後の日々の不機嫌とわがままをすべて見ていたし、私の心の不平不満をすべて知っていたお姉さま!そのお姉さまの記憶の中に、わたしはどんなふうに残ったことでしょう!それにお母さま!お姉さまはお母さまをどう慰めることができたでしょう!私は自分で自分をどう呪ったらいいかわからないわ。自分の過去を振り返るたびに、人間としての義務を怠る、欠点だらけの自分の姿が目に浮かぶの。私は誰も彼も傷つけていたと思う。ジェニングズ夫人のあの絶え間ないご親切に対しても、私はまったくの恩知らずな軽蔑をもって応えていたわ。ミドルトン夫妻や、パーマー夫妻や、スティール姉妹や、ちょっとした知り合いにたいしても、私はいつも傲慢で失礼な態度ばかりとっていたわ。みなさんの長所をぜんぜん見ようともせず、せっかくのご親切にたいしても、いつもいらだってばかりいたわ。それにジョンお兄さまにもファニーにも─そうよ、あのふたりにはあまり長所はないかもしれないけど、もうすこし礼儀正しくすべきだったわ。でもお姉さまにたいして─ほかの誰よりも─お母さまよりも誰よりも─お姉さまにたいして私はいちばんひどいことをしてしまったわ。お姉さまの心と悲しみを私だけが知っていたのに、私はお姉さまのためにいったい何をしてあげたかしら?お姉さまのためにも私のためにもなるような同情心を持つことすらしなかったわ。お姉さまというお手本が目の前にあるのに、何の役にも立たなかったわ。お姉さまのことや、お姉さまを少しでも楽にしてあげることを少しは考えるようになったかしら?お姉さまの自制心と忍耐心を少しは見習うようになったかしら?みなさんに礼儀正しく接したり、誰かにお礼を言ったりする役目は、これまでずっとお姉さまがひとりで背負ってきたけど、その役目を私少しは引き受けて、お姉さまの負担を少しは軽くしてあげたかしら?いいえ、まったく何もしなかったわ。お姉さまが心の痛手を負っているとわかってからも、お姉さまは何の悩みもないのだと思い込んでいたときと同じように、私はうらゆる義務に顔をそむけて、お姉さまへの思いやりの気持ちを示す努力もいっさいしなかったわ。この世で不幸なのは自分だけだと思いこみ、私を捨てて踏みつけにした彼の心を恨んでばかりいて、お姉さまを限りなく愛していると言いながら、お姉さまのことはまったく考えずに、心配ばかりかけていたんだわ(P.478〜478)」

ここで初めてマリアンは、外側から自分自身を見つめ直しています。そして、これからは「たとえよその人とおつきあいするにしても、それはこういうことをみなさんに示すためよ。つまり私が謙虚な人間になって、行いを改めたこと、そして、礼儀作法という義務をすなおに忍耐強く果たせるようになったことを示すためよ(P.478)」とまで表明するのです。それを聞いて、エリナーは迷いながらも、クリーブランド屋敷にウィロビーが訪ねてきて弁明した内容をマリアンに話します。彼が悔恨の情を持っていてマリアンを愛していたということも、さり気なく含ませて。

「私があれほど大切に思っていた人が、最初から私をだましていたなんて、そんな疑いをかけるのは恐ろしいことよ。それにもしほんとうに、彼が最初から私をだましていたとしたら、私は自分のことをどう思えばいいの?恥ずかしいほど軽率な恋をした馬鹿な娘としか言いようがないじゃない(P.475)」

このようにウィロビーとの恋を振り返っていたマリアンにとって、エリナーの話は望んでいたものだったと言えます。これで、マリアンはウィロビーとの恋に自ら決着をつけることがてきたわけです。

マリアンは、このようにウィロビーに捨てられながらも再生の道を歩むことができたわけですが、同じようにウィロビーに捨てられたイライザとは対照的です。この作品は、ある要素に対して対照的な二つを提示して示しているという特徴があります。例えば、婚約を隠して女性を騙すという行いをするウィロビーとエドワード、婚約ということへの態度エリナーとマリアン、手紙や髪の毛ということについてエリナーとルーシー、マリアンをめぐるウィロビーとブランドン大佐といった具合です。ここでは、ウィロビーに弄ばれた二人の女性、マリアンとイライザが対照的に扱われているわけです。イライザはウィロビーに妊娠させられ、捨てられてしまいました。そして切羽詰って、ブランドン大佐に助けを求めました。これに対して、マリアンは、このように再生の手がかりをつかむことができて、最終的にはハッピーエンドに終わることになります。対照的に扱うことで両者の違いが際立つことになります。そこで、マリアンとイライザとの違いはどこにあったのか、それによってふたりの失恋の後の人生の方向が岐れてしまった。マリアンにあって、イライザになかったのは何でしょうか。ひとつはエリナーやブランドン大佐をはじめとした周囲のマリアンを思いやる人々です。もうひとつは、過去を反省し、将来にむけて自己変革しようとする精神でしょう。おそらく、イライザもマリアンに劣らず悩み苦しんだと思いますが、マリアンが第43条で経験したような転回がなかったということではないかと思います。裏を返せば、マリアンというヒロインは、第43条の転回を経験したということで、特別な女性として扱われているということになります。それだけ、作者オースティンにとっても、マリアンという女性は特別の存在だったのではないかと思われます。

この小説は恋愛小説のパロディの側面もあると前に述べましたが、その場合、この小説の中でパロディの対象として最も適しているのはマリアンです。だから、小説の前半では、からかいを含んで少し戯画的に描かれていたところはありした。しかし、『ノーサンガー・アビー』のキャサリンのような滑稽で笑い飛ばされるようには描かれず、その純粋さや真摯さゆえに読者の共感を呼ぶに足る大変魅力的な人物となっていました。彼女の苦悩は悲劇に相応しい集中力と迫力をもって描かれている、またその純粋な悲劇性が、リアルな日常性の描写の積み重ねであるこの小説の中で浮き上がって突出しているような印象を与えることも確かです。

作者オースティンは意図的に大げさな、からかいに満ちた表現を用いることによって、逆にマリアンとブランドン大佐との結婚が、決して恋愛小説の題材となるような驚くべき運命などではないことを強調します。マリアンの運命は、取り立てて珍しいものでもなく、多くの人々が辿るありふれた人生に過ぎないものです。このようにして、マリアンは悲劇の高みから一気に普通の日常性の世界中に落とされるのです。これこそが、イライザの物語に見られるような、当時の典型的な感受性の悲劇の小説のもつ不自然さを改めて浮かび上がらせるオースティンなりの答えといえないでしょうか。

しかしオースティンには一方で、マリアンが普通の社会に入っていける、うけ入れられるようになるこのプロセス、それは言ってみれば子供から大人へと移行していくプロセスにおきかえることができるもので、その代償として支払わされるべきものがあることも十分認識しているように思われる。エリナーが「二、三年もすれば、彼女の考え方も良識と観察に基づいた道理にかなったものになるでしょう」と、マリアンの子供っぽい独りよがりな言動への不満を漏らす場面があるが、それに対してブランドン大佐からは次のような言葉が返ってくる。「多分そうなることでしょう。しかし若い人の偏見には何かとても愛すべきものがあって、そういったものがより一般的な考え方を受け入れ、取って代わられていくのを見るのは残念な気がします。」もちろんエリナーは、熱烈さの魅力や世間に対する無知では補いきれない不都合さがあると反論するが、ブランドン大佐の言葉には、無邪気で向こう見ずとも取れる率直さや純粋さのもつ眩しさが社会の枠に閉じ込められ、分別や常識に取って代わられることを惜しむ気持ちが表れています。ブランドン大佐の中にもマリアンの抑制を知らない伸びやかさへの礼賛があと思いまする。オースティンは『分別と多感』の中で、子供から大人の認識へと移行していく過程において、成熟と引き換えに失うべきものもあることに目を向けている。そしてその喪失を密かに悼む気持ちが、この作品に一種のほろ苦さを添えている、そのシンボルがマリアンではないかと思うのです。

第47章

エリナーはマリアンにウィロビーの弁明を伝えました。これは姉妹ふたりだけにとどまらず、ダッシュウッド夫人にも伝えられます。マリアンが冷静な判断ができるようになったこともあって、、三人の見解はほほ一致し、ウィロビーの件に対する結論が出されます。エリナーは次のように語ります。

「もし彼と結婚していたら、間違いなく多くの困難に出会い、ひどい失望を味わうことになるだろうし、しかもそのときに、彼の頼りない愛情に支えられることすら期待できないだろう。彼と結婚したら、一年じゅう貧乏生活でしょうね。金づかいが荒いことは本人も認めているし、彼の行動を見れば、自制心とは無縁の人だということがはっきりしているわ。金づかいの荒い彼と、世間知らずのあなた(マリアン)が結婚して、わずかな収入で暮らすことになったら、ひどい苦労をするのは目に見えているし、しかも、あなたが経験したことも考えたこともないような苦労だから、何倍もつらいものになるでしょうね。あなたは立派な道義心を持った誠実な人間だから、自分たちの経済状態に気づいたら、可能なかぎりの節約に努めるでしょう。そしてたぶん、あなた自身の楽しみを切り詰めるだけならその節約は許されるでしょう。でも、その程度の節約ですまなくなったらどうなるかしら?─だって、あなたがいくらひとりで頑張っても、結婚前から始まっている彼の経済的破綻を食い止めるなんて無理に決まってるもの─とにかく、その程度の節約では済まなくなって、いくらそれが正しいとはいえ、彼の楽しみまで切り詰めようとしたら、一体どうなるかしら?ああいう身勝手な人に節約を承知させるのはとても無理でしょうし、それどころか彼は、あなたへの愛情が薄れて、そんな節約をいられることになった結婚を後悔するようになるんじゃないかしら(P.483〜484)」

「彼の行動は最初から最後まで、すべて身勝手さに基づいていたわ」

「最初にあなたの愛情をもてあそんだのも身勝手だし、あのあと本気であなたを好きになってから、その愛の告白を遅らせたのも身勝手だし、そして最後に、あなたを置いてバートンを去ってしまったのも身勝手以外の何物でもないわ。あらゆる点で、自分の快楽と安楽だけが彼の行動原理なのよ」

「いまは、彼は自分のしたことを後悔しているわ。でも、なぜ後悔しているかと思う?自分のしたことが自分のためにならなかったからよ。自分のしたことが自分を幸せにしてくれなかったからよ。いまは彼の経済状態は楽になって、お金の苦労からは解放されたわ。でも、あなたほど気立てのやさしくない女性と結婚したことを後悔しているの。でも、もしあなたと結婚していたら、彼は幸せになったと思う?けっしてそうはならないわ。別の苦労が生じるだけよ。いまは解放されたから何とも思っていないけど、いつもお金の苦労に悩まされるわ。気立ての点では申し分のない妻を得られても、いつもお金に困って貧乏することになるわ。そうしたらたぶん、すぐにこう考えるようになるわ。抵当に入っていない土地と、十分な収入から得られる無数の快楽と安楽の方が、家庭の幸福にとっても、単なる気立てのやさしい妻より何倍も重要だって、そう考えるに決まってるわ。」(P.483〜485)

このように、エリナーはウィロビーの自己中心的な性格を容赦なく暴きます。たとえ、彼に真実の気持ちがあったとしても、それこそが今回の悲劇の要因であり、もし仮にマリアンがウィロビーと結婚することが出来たとしても、不幸な結婚生活となることは明らかだということ。むしろ、ウィロビーと分かれることが出来てよかった、と結論を導き出したのです。ここまで、辛辣に言わなくても、他に言いようがあるとも思いますが、ここにエリナーという人物の上から目線が露骨に表われています。しかし、そう言われても、内容は的確だし、それまでのいきさつもあるかに、マリアンもダッシュウッド夫人も異議をとなえることはできず、黙って頷くしかないのです。そんなようには小説には書かれていませんが。私個人としては、こいつ性格よくないよな、キツイよな、と思ってしまうのです。

ある朝、下男から「フェラーズ氏が結婚した」という情報がもたらされます。このあたり、オースティンという作家の読者の興味を逸らさずにつなぎとめる巧さを発揮しています。しかも、その続け方です。このとき、不意打ちで知らせを聞いたエリナーの様子をオースティンは直接描くことをしていません。思わずエリナーに目をやったメリアンが、姉の顔を見て発作を起こし、椅子に倒れかかったこと。同じ方向を見たダッシュウッド夫人が、エリナーの苦しみぶりに気づいて、ショックを受けたこと。このように、ほかの人物たちの反応とおして、エリナーがいかにただならぬ表情をしていたかを、読者に想像させるという手法がとられているのです。ウィロビーの件について結果が出て、ひと区切りで、バートン・コテージの穏やかな生活が戻ってくる、と物語の緊張が緩んだところで、この章を終わらせるのでなく、同じ章の中で、別の事件の始まりを挿入して、読者の気を抜かせないのです。雑誌の連載小説などの常套手段で、この続きは次回をお楽しみに、という一回の連載の終わり方をして読者の興味を次回につないで、続けて読んでもらうように誘うわけです。ここでも、ひとつ終わったら、べつの一つが起こる予感を、読者に示しているわけです。読者はマリアンの次は、エリナーの災難か、と想像して先を読みたくなるのです。

下男の説明では、今朝エクセターの街路で停車していた馬車の中にいた二人連れの男女を認めたが、女性の方がルーシーだと分かり、早速挨拶したという。ルーシーはは下男に結婚して苗字が変わったと、フェラーズさんからダッシュウッド一家によろしく伝えて欲しいと言いつけられたという。ダッシュウッド夫人はさらにのときフェラーズ氏もいっしょに馬車に乗っていたのかを確認しようとします。下男の答えは、「馬車の座席にもたれていらっしゃる姿が見えましたが、顔をお上げになりませんでした」というものでした。小さな出来事ですが、ここにいくつかの伏線が張られていています。まず、これを聞いて、「彼が顔を上げなかった理由は、エリナーには容易に察しがついた(P.488)」とオースティンは書いています。しかし、その理由とは何かを明にしません。ここでも、読者の想像を誘います。そこで、読者の興味をマリアンからエリナーに一気に転換させるのです。これは、読者だけでなく、母親のダッシュウッド夫人が、このときのエリナーの様子を見て、はじめてエリナーがエドワードのことで苦しんでいたことに気づくのです。

エドワードのことはもう何でもないというエリナーの言葉を信じたのは間違いだったと、夫人にはもうはっきりとわかった。私はあのころマリアンのことが心配で、そちらで頭がいっぱいだったから、エリナーはそれ以上私を心配させまいとして、自分のことはすべて控えめに言っていたのだ。エリナーのあの慎重な、思いやりのある心つせかいに惑わされて、私はたいへんな思い違いをしてしまった。エリナーのエドワードへの愛情の深さは私もわかっていたはずなのに、前に思っていたよりも、そしていまこうしてはっきりしたよりも、ずっと軽いものだと思い込んでしまったのだ。そしてそう思い込んだために、私はいままでずっと、エリナーにたいして不公平で、無関心で、不親切でさえあったにちがいない。マリアンの苦しみはもつとはっきりしていて、すぐ目の前にあったために、そちらに母親の愛情のすべてを注いでしまい、エリナーのことはおろそかになってしまった。エリナーもマリアンと同じくらいの苦しみを味わい、しかしマリアンのようには騒がずに、ずっと勇敢に耐えていたというのに、私はそのことにまったく気がつかなかったのだ(P.490〜491)。

ここで最初はバラバラだった母と姉妹の間に共感が生まれます。ここに至って、この小説は、実は家族の物語でもあったことに、読者は気付かされることになります。つまり、父親の死を契機に平穏だった家族に危機に陥り、その際にそれぞれの思いがバラバラだったことが明らかになり、それぞれに傷つきながら、互いの理解に達して、家族を再生させるという大きな流れが伏流のように流れていたのでした。また、対照的だったのがフェラーズ夫人やファニーたちの家族で、最終的には二人の兄弟に期待を裏切られることになってしまうのです。そのほかにも、ミドルトン夫妻やパーマー夫妻といった家族が、エリナーの辛辣な観察を通して、読者にそれぞれ見本のように提示されていたのです。

さて、話をもどしましょう。フェラーズ氏が顔をあげなかった利用について、エリナーの解釈は次のようなものだったのではないでしょうか。エドワードにとってルーシーとの結婚は不幸なものであるため、落ち込んでいる彼は、顔も上げられなかったのだろうと。しかし、あとでこの馬車の中の男性は、エドワードではなくロバートであったことが判明するわけだから、エリナーの解釈は、たんなる妄想だったことになるわけです。

そして、エリナーが、このように誤った解釈をしてしまったのは、ルーシーの悪意、というよりは、ここでは悪戯によるものでしょう。というのも、ルーシーは街で会った下男に対して、結婚したことは伝えていますが、誰と結婚したことを話していないのです。これは、意図的です。この時点では、ダッシュウッド姉妹はルーシーとエドワードが婚約していると思っています。そこで、ルーシーが結婚して苗字が変わったと伝えれば、当然、エドワードと結婚したと思うでしょう。しかし、実際は弟のロバートと結婚してしまった。そのことは、知らさなければわかりません。そのところだけを、ルーシーは黙っていたわけです。したがって、ルーシーはエリナーに対して、エドワードと結婚したと誤解させ、悲しませてやろうと考えた。ルーシーとエリナーの間の女の闘いです。すでに決着はついていたので、これは付録の番外編ということになるでしょうか。ルーシーという女性の性格が、ここでもよく出ていると思います。蛇足ですが、フェラーズ氏が顔をあげなかった理由は、そのようなルーシーの意図にしたがって、下男にエドワードではないことを悟らせないため、というのが正解でしょう。

第48章

エリナーは絶望に沈み、つくづく思い知るのです。いかに覚悟していたとはいえ、不快な出来事を予想するのと、それが確かな現実になるのとでは、大違いであることを。エドワードが独身でいる間は、そのうち彼とルーシーの結婚を妨げるような何かが起こるかもしれないと、無意識のうちに希望を抱いていたことを。そのためにひどいショックを受けている自分を、エリナーは心の中で責めました。エリナーは、エドワードがこんなに速く結婚したことを意外だと思うが、たぶんルーシーが彼を早く自分のものにしなければと、結婚を急いだのだろうと考えます。この推測の中には、外れている部分と、あたっている部分とが混ざり合っています。正しくは、ルーシーが早く自分のものにしなければと急いだことは事実だったでしょうが、その相手は、エドワードではなくロバートだったわけですから。そのときエリナーは、牧師館で暮らす新婚の二人の姿を思い浮かべてしまいまうのです。エドワードの姿は想像つかなかったけれど、ルーシーの姿はエリナーの目にはっきりと見えました。それは、次のような姿です。

ルーシーは質素なひどい生活をしながら、体裁だけは立派に見せようと必死にやりしりをし、けちけちと倹約してしているところを人に知らせないように絶えず気をつかい、何事においても自分利益だけを考え、ブランドン大佐やジェニングズ夫人や、あらゆるお金持ちの知人たちに気に入られようと、涙ぐましい努力をしていることだろう。(P.493)

妙に細かいリアルな描写ですが、これもすべてエリナーの早とちりにすぎなかったことが後でわかります。なぜなら、ルーシーは慎ましやかな牧師夫人としての生活を選ばず、金持ちのロバートと羽振りの良い生活をする道を選んだのだからです。

その一方で、エドワードの結婚について知り合いから正式な便りがないことに対して、彼女は苛つきます。「誰をせめたらいいかわからないが、ここにいない親戚と友人のすべてを彼女は呪った。みんなおもいやりがないか、さもなくば筆不精なのだ(P.493)」。このように、エリナーは周囲に八つ当たりしさえする。ここでのエリナーは、冷静で、常に周囲を気遣い、取り乱すことことがないエリナーがです。読者は、ここに、分別を失った彼女の物狂おしい姿を見ているのです。それは、ウィロビーを失ったとき、彼以外のすべての人々のせいにしたメリアンと変わりのない姿です。

窓の向こうに、馬に乗った男性の姿が見えた。馬はバートン・コテッジの庭の門の前で停まった。立派な紳士だ。ブランドン大佐だ。さあこれで、エドワードの結婚についてくわしい話が聞ける。そう期待してエリナーは身震いした。だがしかし、それはブランドン大佐ではなかった。態度や動作の感じも違うし、背の高さも違う。ひょっとしたらエドワードではないだろうか。エリナーはもう一度よく見た。男性はちょうど馬をおりたところだ。もう間違いない。たしかにエドワードだ。(P.494)

こうして苛立っているとき、窓の向こうに、馬に乗った男性の姿が見えました。紳士だとわかり、ブランドン大佐だろうかと、近づ人物をしばらくじっと見つめるエリナー。これは、遠くの動く一点を見つめているうちに、それが─以前は「希望」、今回は「不安」という形で─エドワードの姿をとって現われた場面の反復であることは間違いない。それは、第16章で、バートン・コテージに引越しをした後、はじめてエドワードが訪ねてきた場面の反復です。その時は、霧の中から乗馬の紳士が現れてくるという登場の仕方で、最初は、数日前にマリアンのもとを去ったウィロビーが戻ってきたのか、とおもていたらエドワードだったのでした。つまり、このエドワードが訪ねてくるというのも、反復で、外形的には同じようなのですが、意味づけは変わっているのです。前回のエドワードの訪問は、希望をともなって歓迎されますが、エリナーに不可解さと不安な感情を芽生えさせることになったのですが、今回の訪問は不安を伴ってあらわれ、最終的には大きな喜びをもたらすものとなるわけですから。

そして、部屋に入って来たときのエドワードの表情は、動揺のために青ざめ、ダッシュウッド夫人から挨拶されても、口ごもってまともに返事ができません。そこで、エリナーがしぶしぶフェラーズ夫人のことを尋ねると、エドワードは、最初、母のことですかと答え、エドワード・フェラーズ夫人のことを問われると、ルーシーが弟と結婚してロバート・フェラーズ夫人になったことを知らせます。これを聞いたエリナーは、動揺のあまりその場に留まっていられなくなり、部屋から走り出て、ドアが閉まったとたん、わっと泣き出す。それは、「永遠に止まらないのではないかと思われるような嬉し涙」だった。

ここで象徴的なのは、部屋から走り出たというエリナーの行動です。分別の人であるエリナーか、みんなの見ている前で感情を抑えられなくなって、取り乱します。これは、それまでエリナーが決して見せることのなかった姿で、マリアンが死と再生の経験から、自らを変えようとし始めている一方で、エリナーは、それまでとは違う姿をあらわにします。それは同時に、このあとエドワードがエリナーに求婚するのですが、その前にエリナーが自分から愛を告白したことを意味すると言えます。

ということは、この場面は小説のの最大のクライマックスのはずなのですが、オースティンという作家の体質なのでしょうか、あっさりと、それほど盛り上がらずに終わってしまいます。クライマックスなのですから、もっとエリナーの忘我のような状態を、これでもかというほど綿々と綴ってもよさそうなものです。おそらく、オースティンがパロディの対象としたロマンチックな恋愛小説ならば、恋の成就したヒロインの歓喜の状態を、花が咲いたり、星が飛んだりして、満艦飾のように言葉を飾り立てて饒舌に書き綴っていると思います。ところが、オースティンは、そういうことをしないので、これだけの長篇小説のクライマックスなのに、ここで劇的に盛り上がって、興奮は最高潮にたっするということにはならず、物語がおわっての後日譚のように、あっさり終わってしまっています。それは、オースティンという人が、そういうベタなことをやろうとすると照れが入ってしまうタイプなのかもしれません。その体質は、この小説のつくりにもあって、最後の終わり方というよりは、物語のプロセスを読ませることが重視されているからだと思います。

第49章

エドワードはエリナーにプロポーズし、無事に受け入れられました。

実際エドワードは、普通以上に喜ぶだけの理由があった。彼がこんなにも有頂天の喜びを感じたのは、単にプロポーズが受け入れられただけではないからだ。長いあいだ苦しみの種となっていた不幸な婚約から─ずっと前からもう愛せなくなっていた女性から─何のやましさもなく解放され、そしてただちに、ほんとうに愛する女性を獲得することができたのだ。この女性こそ自分の理想の女性だと思った瞬間から、結婚はほぼあきらめなければならなかった理想の女性を(P.498)。

エドワードは、長い間苦しみの種になっていた不幸な婚約の縛りから、何ら良心の咎めもなく解放され、真に愛する理想の女性を獲得することができたというわけです。ここに至って初めてエドワードは、エリナーに心の内のすべてを打ち明け、過去の過ちを告白します。無為な生活をしていた大学生時代、家庭教師の家で出会ったルーシーに幼稚な初恋をし、軽率な婚約をするという愚行に走ってしまったこと、それは自分が世間知らずで暇を持て余していた結果であって、母親が活動的な職業を与えてくれていたら、ああいうことにはならなかっただろうこと。しかし、謎が解けてみると、エドワードの言葉は、彼に甘いエリナーとは違って、読者の目には、情けない言い訳のようにも映ります。エリナーは依怙贔屓していますが、読者の目には、ウィロビーがクリーブランド屋敷に現れて、エリナーに告白したことと、それほど変わらないのです。ただ、エリナーが二人を違うと断言しているので、読者はそう思ってしまうように誘導されます。そこに、エリナーという女性のルーシーとの闘いでも一歩も引けを取らなかったしたたかさ、そして普段は表に出さない感情的な、彼女も恋は盲目ということから逃れられない、面があって、それが彼女の分別の目を曇らせているところを、ここで見せています。

エドワードは、ロバートとの結婚を知らせるルーシーの手紙を読むまでは、彼女のことを、気立ての良い優しい女性で、本当に自分を愛してくれていると信じていたため、嫌々ながらも破断にできなかったのでした。それに対してエリナーは、秘密の婚約が暴露された当初、エドワードとの結婚をあきらめようとしなかったルーシーの思惑について、次のように説明するのです。

「あなたにとっていいことがそのうち起きるかもしれないし、あなたのご家族の怒りもそのうちに和らぐだろうと、彼女は思ったかもしれないわ。いずれにしても、彼女は婚約を続けても何も損はしなかったのよ。今回のロバートとの結婚で証明されたように、あの婚約は彼女の気持ちも行動も束縛してはいなかったんですもの。エドワード・フェラーズ氏と婚約しているというのはたいへんなことだし、たぶんそのおかげで、彼女の親戚や友人たちから一目置かれることになったと思うわ。それに、もっと得になることが起きなかったとしても、独身でいるよりあなたと結婚したほうが彼女にとってはよかったのよ(P.507〜508)」

これは、エリナーの鋭い人間観察の結果生まれた推測であり、的を得たものだろうとおもいます。しかし、これがかなり底意地の悪いものの見方であることも、たしかです。少なくとも、エリナーには、こういうルーシーの心の道筋が理解できるのだということ。つまり打算的な女の損得勘定が、自分も分かるからこそ、そう言えるのだと言うことが、ここで暴露されている。ある意味で、エリナーはルーシーと同じということなのです。それは、翻ってエリナーがエドワードの家族に対して、次のような述懐をするところに表われています。

「あなたのお母さまは、当然の報いを受けたことになるわね。あなたにたいする怒りから、弟さんに経済的独立を与えたばっかりに、弟さんは自分で勝手に奥さんを選んでしまったんですもの、お母さまは、ルーシーと婚約した長男を勘当したのに、次男にはわざわざ年収千ポンドを与えて、そのルーシーと婚約できるようにしてあげたようなものね。音音さんがルーシーと結婚して、お母さまはずいぶんショックを受けているでしょうね。あなたがルーシーと結婚した場合と劣らぬくらいに(P.505)」

まるで、悪役の捨て台詞です。内容は、真実をついているのはあきらかですが、ここにある皮肉には悪意が含まれています。これは、清く正しいヒロインの言葉ではありません。それをあえてエリナーに言わせてしまうのがオースティンという作家ということなのだろう思います。それゆえに、勧善懲悪の単純だが、クライマックスで盛り上がってカタルシスを味わい、読んだ後は何も残らないような小説はかけないのです。この『分別と多感』には、単純な善玉も悪玉も出てきません。エリナーはこのようなどす黒い感情を底に隠していますし、反対にウィロビーにはああなったのもしかたないねと同情できるところもある。それを書いてしまうのです。だから、読者は単純に熱狂することはできないし、面白いのだけど、どこか引っ掛かるところがある、読み終わった後で、後味に少しだけ苦味が残る、そういう作品です。

第50章

最後は駆け足で残った人々の決着をいちいちつけてまわるような最後となりました。こういうところが、オースティンの初期作品ということで、手馴れたところがなくて、多少散漫という評価を受けてしまう由縁でしょうか。その決着の中でも、もうひとりのヒロイン、マリアンについては、最後の大団円は、あっさりしすぎです。小説のなかで、一番目だっていたのですから、その割には、最後は尻すぼみのような呆気なさです。

マリアン・ダッシュウッドは、まことに数奇な運命を辿るように生まれついていた。自分の考え方がまったく間違っていたことを思い知らされ、ただひとりの人を一生愛しつづけるという自分座右の銘を、自分の行動によって否定しなければならなかった。17歳になって初めて男性を愛したのに、その愛はあきらめなければならず、そして、深い尊敬の念と熱い友情以上の感情はないままに、別の男性に自分から進んで結婚の承諾を与えることになったのだ。しかもその男性は過去において、彼女に劣らず恋愛問題で苦しんだ経験があり、彼女が2年前に、この人は年を取りすぎていると思った男性であり、そしていまでも健康上の理由で、フラクのチョッキを必要とする男性なのだ!(P.524)

この文章には、かつてエリナーが「二、三年すれば、マリアンももっと世間を見て、常識を身につけて、もっと大人の考えをもつようになるでしょう(P.79)」と、マリアンの子供っぽい独りよがりな言動への不満を漏らし、それに対してブランドン大佐からは次のような言葉が返ってくる。「そうなるかもしれない。でも、若い人の偏見には愛すべきものがあります。常識的な意見には簡単に屈してほしくないですね。(P.79)」といったことを受けたものです。ブランドン大佐の答えの中には、マリアンの抑制を知らない伸びやかさへの礼賛がある。しかし、ここに至って、マリアンは、以前の感情に忠実で自由奔放な魅力をすっかり失ってしまい、母親を始めとする周囲の人々の期待に応える形で、嫌いではないにしろ好きではないブランドン大佐との結婚を受け入れました。このマリアンの姿勢の変化に、死のイメージを読み取り、「あのまま死んでいたら自殺のようなものね。」という彼女のことばを引用しながらマリアンが無意識の幸福を選び取った。つまり、ブランドン大佐との結婚は、アイデンティティの放棄のようなものであり、魅力的なマリアンは死んでしまったという人もいます。マリアンは、多感から分別へと変わっていくことで、人格としては成熟に向かったということになるのでしょうが、そのと引き換えに失うべきものもあるということが、このマリアンの結婚に表われているのではないでしょうか。その喪失を密かに悼む気持ちが、この作品に一種のほろ苦さを添えているように思えてくるのです。

 

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