マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第6篇 労働賃金
第19章 出来高賃金
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第6篇 労働賃金

〔この篇の概要〕

第6篇では、労働者にとって身近で、日々の生活にとって欠くことのできない生活の糧となる労賃(賃金)について考察されます。労賃の本質的な規定については、すでに第2篇「貨幣の資本への転化」の中で与えられていました。労賃の本質は労働力の価値であって、その貨幣表現が賃金です。労働者が賃金と引き換えに売り渡すのは労働力という商品なのです。しかし、日常的な現象(「ブルジョア社会の表面」)では、労働力が売られるではなく労働が売られていて、労賃は「労働の価値」「労働の対価」として現われ、労働日の全部が支払労働であるかに見えます。こうした外観上の矛盾を解明することがこの篇の第1の課題です(第17章)。労賃の本質が明るみにされれば、現実の様々な形態の賃金形態によって隠されている搾取関係もまた明るみになります。そのことを時間賃金、出来高賃金といった具体的形態を通して考察することが第2の課題です(第18、19章)。

同じ労働を行う労働者のなかに、個人的な違いがある労働賃金の支払方法もあります。つまり、多くの製品を作る人は賃金が高く、同じ時間・同じ労働をしていても、その生産量が少ない人は賃金が少ない支払形態です。労働の量と対応して賃金が支払われるようにみえるのが、出来高賃金です。

しかし、これは時間賃金の転化形態にほかならないとマルクスは指摘しています。労働の量は本来は時間数でしか量れないわけですから、その時間数が基本になって、それを出来高に転化したものと言えます。出来高賃金は、1日12労働時間の平均的な作業量として製品を24個作るならば、それで日価値3シリングが受け取れるように決まるからです。つまり1個=1.5ペンスにすれば、1日に平均的労働者は24個作り、3シリング(=36ペンス)の賃金を受け取る。これは労働力の日価値を標準的な作業量で割っているわけだから、時間賃金の転化形態にすぎず、その不合理性も同じことです。出来高賃金と時間賃金にはまったく本質的な違いはないことが分かります。

出来高賃金になると、ますます労働の価値・価格という感じが強くなります。その日頑張って人より多く働き、多く作れば人よりもたくさん賃金をもらえるからです。まさに自分の労働とその賃金が直結し、労働者の作業能力によって賃金が規定されていることになります。あるいは、そのように見えるのです。

さらに、出来高賃金には時間賃金とは違った特性があります。

まず出来高賃金では、一定以上の品質と量の製品を作ることが前提になります。不良品であれば賃金は支払われません。そうなると、労働の質と量が賃金制度によって確保されることになります。時間給だと、悪く言えばサボったり、だらだらしていてもよかったのですが、出来高賃金ではそうはいきません。資本家がもっとも気を使う商品の品質と量を、労働者自身がたえず意識しながら労働することになります。

そしてさらに、出来高賃金の場合、たとえば20個とか18個とかいう1日の最低限の基準が設けられ、それに達しない労働者は解雇されることになるでしょう。時間給に較べて1人1人の労働者の労働能力がはっきりと見えるようになります。

こうして労働の質と量が労働者自身によって規制されるので、監督労働の大部分が不必要になります。たとえば、家内工業(内職)は基本的にすべて出来高賃金です。監督ができないから、昨晩何時間労働しましたと申告されても本当はどうか分からない。しかし出来高ならば、労働者が何時間かかろうと関係がなくなります。現代では、外回りの営業や運輸・配送業などの歩合給にこの要素が組み込まれています。

しかも、出来高賃金は労働の強度を増すものです。労働者としては、できるだけ多く作ったほうが賃金が高くなるわけですから、自ら進んで労働強化をするようになります。その結果、資本家はその標準強度を高めることが容易になりました。1日24週という例でしたが、労働者が熟練し、強度を強め、平均的労働者は30個作れるようになれば、出来高賃金1.5ペンスは高すぎることになって、1個1.2ペンスへと単価が切り下げることになります。

出来高賃金だと労働者によって生産量と賃金に差が生じるわけですが、工場全体で考えると、資本家にとっては総生産量も総支出もさしあたりは変わりません。つまり時間賃金であったら、そうした個人的差を平均化した生産量が想定され、賃金も平均としての賃金一律に支払うわけです。それに対して出来高賃金は、個人的に差をつけて支払うだけで、企業全体としては総額が同じになります。生産量もさしあたり同じになりますが、さらにいま述べた理由から自然に生産力が上がっていくことになります。

出来高賃金は労働者に自由感、独立心、自制心をもたせ、他面では労働者相互の競争を発展させる傾向があります。それらもまた生産性を高める要因となり、賃金は一時的に増えても、長期的にはもとの水準に戻り、労働強化だけが残ることになります。

 

第19章 出来高賃金

〔この章の概要〕

同じ労働を行う労働者の中に、個人的な違いがある労働者の支払方法もあります。つまり、多くの製品を作る人は賃金が高く、同じ時間・同じ労働をしていても、その生産量が少ない人は賃金が少ない支払形態です。労働の量に対応して賃金が支払われるようにみえるのが、出来高賃金です。

しかし、これは時間賃金の転化形態にほかならないとマルクスは指摘しています。労働の量は本来は時間数でしかはかれないわけだから、その時間数が基本になって、それを出来高に転化したものといえます。出来高賃金は、1日12労働時間の平均的な作業量として製品を24個作るならば、それで日価値3シリングが受け取れるように決まるからです。つまり、1個=1.5ペンスにすれば、1日に平均労働者は24個作り、3シリング(=36ペンス)の賃金を受け取る。これは労働力の日価値を標準的な作業量で割っているわけだから、時間賃金の転化形態にすぎず、その不合理性も同じことです。出来高賃金と時間賃金にはまったく本質的な違いはないということが分かります。

出来高賃金になると、ますます労働の価値・価格という感じが強くなります。その日頑張って人より多く働き、多く作れば人よりもたくさん賃金をもらえるからです。ままさに自分の労働とその賃金が直結し、労働者の作業能力によって賃金が規定されていることになります。あるいは、そのように見えます。

さらに、出来高賃金には時間賃金とは違った特性があります。

まず出来高賃金では、一定以上の品質と量の製品を作ることが前提になります。不良品であれば賃金は支払われません。そうなると、労働の質と量が賃金制度によって確保されることになります。時間給であれば、悪く言えばサボったり、だらだらしていてもよかったのですが、出来高賃金ではそうはいかない。資本家がもっとも気を使う商品の品質と量を、労働者自身がたえず意識しながら労働することになります。

そしてさらに、出来高賃金の場合、たとえば20個とか18個とかいう1日の最低限の基準が設けられ、それに達しない労働者は解雇されることになる。時間給に較べて1人1人の労働者の労働能力がはっきりと見えるようになるのです。

こうして労働の質と量が労働者自身によって規制されるので、監督労働大部分が不必要になります。例えば、無家内工業(内職)は基本的にすべて出来高賃金です。監督ができないので、昨晩何時間労働しましたと申告されても本当かどうかわからない。しかし出来高ならば、労働者が何時間かかろうと関係がなくなります。現代では、外回りの営業や運輸・配送業などの歩合給にこの要素が組み込まれています。

しかも、出来高地賃金は労働の強度を増すことになります。労働者としては、できるだけ多く作ったほうが賃金が高くなるわけですから、みずから進んで労働強化をするようになるわけです。その結果、資本家はその標準強度を高めることが容易になりました。1日24個という例だったのが、労働者が熟練し、強度を強め、平均的労働者は30個作れるようになれば、出来高賃金1.5ペンスは高すぎることになって、1個1.2ペンスへと単価が切り下げることができます。

出来高賃金だと労働者によって生産量と賃金に差が生じるわけですが、工場全体で考えると、資本家にとっては総生産量も総支出もさしあたりは変わりあせん。つまり時間賃金であったら、そのような個人的差を平均化した生産量が想定され、賃金も平均としての賃金を一律に支払うわけです。それに対して出来高賃金は、個人的に差をつけて支払うだけ述べた理由から自然に生産力が上がっていくことになります。出来高賃金は労働者に自由感、独立心、自制心をもたせ、他面では労働者相互の競争を発展させる傾向があります。それらもまた生産性をたかる要因となり、賃金は一時的に増えても、長期的にはもとの水準に戻り、労働強化だけが残る、というわけです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

出来高賃金と時間給の賃金

出来高賃金は時間賃金の転化形態にほかならないのであって、ちょうど時間賃金が労働力の価値または価格の転化形態にほかならないようなものである。

出来高賃金では、一見したところ、労働者が売る使用価値は彼の労働力の機能である生きている労働ではなくてすでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格は、時間賃金の場合のように(労働力の日価値)/(与えられた時間数の労働日)という分数によってではなくて、生産者の作業能力によって規定するかのように見える。

この外観を正しいと信ずる確信は、まず第一に、労賃のこの二つの形態が同じ時に同じ産業部門で相並んで存立するという事実によっても、すでに激しく動揺せざるをえないであろう。たとえば、次のように言う。

「ロンドンの植字工は通例は出来高賃金で働いていて、時間賃金は彼らのあいだでは例外である。地方の植字工の場合はこれと反対で、地方では時間賃金が通例で出来高賃金が例外である。船大工はロンドン港では出来高賃金で払われ、そのほかのイギリスの港ではどこでも時間賃金で支払わる。」

同じロンドンの馬具製造工場では同じ作業にフランス人ならば出来高賃金で支払われ、イギリス人ならば時間賃金で支払われるということもよくある。本来の工場では一般に出来高賃金が優勢であるが、作業の種類によっては、技術上の理由からこの計算方法が不可能で、そのために時間賃金で支払われるものもある。しかし、労賃の支払の形が違ってもそのために労賃の本質は少しも変えられるものではないということは、それ自体として明らかなことである。といっても、資本主義的生産の発展にとっては一方の形態よりも好都合だということはあろうが。

出来高賃金は時間給の賃金と並ぶ労賃の主要な形態です。時間給の賃金は、労働力の価格から派生した賃金であるのに対して、出来高賃金は時間給の賃金から派生した賃金とマルクスは言います。

出来高賃金においては、労働者によって売られる使用価値は生きた労働ではなく、すでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格(賃金額)は労働者の作業能力によって規定されるかのように見えます。

このような出来高賃金の外見については、実際には時間給と出来高賃金という二つの賃金システムが同じ産業分野で同時に併存している、という事実から、両方の賃金について支払形態は違うものの、本質は変わらないことが明らかです。

時間給の賃金は、労働力の価値あるいは価格から派生した賃金形態であったが、出来高賃金は時間給の賃金から派生した賃金形態にほかならない。

出来高賃金では一見すると、労働者が売り渡した使用価値が、彼の労働力の機能ではなく、すなわち生きた労働ではなく、あたかもすでに生産物に対象化された労働であるかのようにみえる。そしてあたかもこの労働の価格は、時間給の賃金の場合のように、(労働力の1日あたりの価値)/(与えられた労働日の労働時間)という式によってではなく、生産する労働者の作業能力によって決まっているようにみえる。

このような見掛けを信じている人も、この両方の賃金システムが同じ産業分野において同時に併存しているという事実に、その確信を根底から揺るがされることになるだろう。たとえば「ロンドンの植字工は原則として出来高払いの賃金で働いており、時間給の賃金は例外である。逆に地方の植字工では時間給の賃金がふつうで、出来高賃金は例外である。ロンドン港の船大工には出来高賃金が払われているが、イギリスの他のすべての港では時間給の賃金が払われている」のである。

ロンドンでは同じ馬具製造所の同じ作業にたいして、フランス人には出来高賃金、イギリス人には時間給の賃金が支払われることもしばしばである。出来高賃金が一般的になっているほんらいの工場でも、個々の労働機能において、技術的な理由からこの計算方法を採用せずに、時間給の賃金が支払われることがある。いずれの形態支払い方式が、資本制的な生産に有利であるということはあっても、こうした賃金の支払い形態の違いによって、労働賃金の本質が変わることはないのは自明のことである。

 

出来高賃金の不合理さ

通例の1労働日は12時間で、そのうちの6時間は支払われ、6時間は支払われないとしよう。1労働日の価値生産物は6シリング、したがって1労働時間の価値生産物は6ペンスだとしよう。平均的な強度と熟練度とをもって労働する、つまり、実際に1物品の生産に社会的に必要な労働時間だけを費やす1人の労働者は12時間に、不連続品を24個、または一つの連続製品の計量可能部分を24個供給するということが、経験によってわかっているとしよう。そうすれば、この24個の価値は、それに含まれている不変資本部分を引き去れば、6シリングであり、各1個の価値は3ペンスである。労働者は1個につき1ペンス半を受け取り、したがって12時間では3シリングをかせぐ。時間賃金の場合には、労働者が6時間は自分のために、6時間は資本家のために労働するとみなしても、各1時間の半分は自分のために、残りは資本家のために労働するとみなしても、どちらでもよいのであるが、それと同じに、この場合にも各1個の半分は支払わない、と言ってもよいし、12個の価格は労働力の価値だけを補填し、残りの12個には剰余価値が具体化されている、と言ってもよいのである。

出来高賃金という形態も時間賃金という形態と同じように不合理である。たとえば、2個の商品は、それに消費された生産手段の価値を引き去れば、1労働時間の生産物として6ペンスの価値があるのに、労働者はそれにたいして3ペンスという価格を受け取ね。出来高賃金は、直接には実際少しも価値関係も表わしてはいないのである。ここで行われるのは、1個の価値をそれに具体化されている労働時間で計ることではなく、逆に、労働者の支出した労働を彼の生産した個数で計ることである。時間賃金の場合には労働がその直接的持続時間で計られ、出来高賃金の場合には一定の持続時間中に労働が凝固する生産物量で労働が計られるのである。労働時間そのものの価格は、結局は、日労働の価値=労働力の日価値という等式によって規定されている。だから、出来高賃金はただ時間賃金の一つの変形でしかないのである。

出来高賃金がどのように計算されるかと言えば、実のところ時間給の賃金と変わらないのです。例えば、出来高、つまり1日あたり何個の商品を生産するかという標準的な計算基礎は、時間給の計算基礎と同じです。だから、労働日を12時間労働として半分の6時間を必要労働で残りを剰余労働として6時間分の労働賃金を支払う時間給と同じように、労働日に24個の商品を生産し、半分の12個を必要労働の分とし、残り12個は剰余労働の分とする。つまり、6時間か12個かというのは形式的な違いで、計算の中身は半分しか労働賃金が支払われないという点で同じです。

出来高賃金は、一つの製品の価値を実際に費やされた労働時間で測定するのではなく、労働者が支出した労働を生産物の個数で測定するにすぎません。したがって、出来高賃金は時間給の賃金の変形の一つにすぎません。

ここで通例の労働日の労働日が12時間で、そのうちの6時間は支払労働で、6時間が不払労働だとしよう。この労働日の価値生産物は6シリングで、労働時間の価値生産物は6ペンスになる。平均的な労働の強度と熟練度で働く1人の労働者が、一つの品物を生産するために、実際に社会的に必要な労働時間だけを使用するとしよう。さてこれまでの経験から、この労働者は12時間で24個の独立した製品を、あるいは連続した製品の計量可能な部分を供給するとしよう。そのときに、この24個分の価値から、そこに含まれている不変資本の分を差し引くと、残りは6シリングとなり、1個の価値は3ペンスになる。労働者は1個について1ペンス半をうけとり、12時間で3シリングを稼ぐのである。

時間給の賃金を考える際には、労働者が6時間は自分のために働き、6時間は資本家のために働くと想定するか、あるいは1時間の半分を自分のために働き、1時間の残りの半分を資本家のために働くと想定するかは、まったく同じことだった。出来高賃金についても、個々の製品について半額が支払われており、残りの半額は支払われていないと考えても、12個の価格は労働力の価値に代わるものであり、残りの12個に増殖価値が体現されていると考えても、どちらも同じことである。

出来高賃金の形態は、時間給の賃金の形態も同じように不合理なものである。たとえば2個の商品は、それが消費した生産手段の価値を差し引いて、1労働日の生産物として6ペンスの価値をもっているが、労働者はそれにたいして3ペンスの価格しかうけとらない。出来高賃金は実際には、いかなる価値関係も表現していないのである。この賃金形態では、一つの製品の価値を、そのうちに体現された労働時間で測定するのではなく、逆に労働者が支出した労働を、彼が生産した製品の個数で測定するのである。

時間給の賃金においては労働は、その直接の持続時間によって測定され、出来高賃金においては労働は、一定の持続時間のうちに凝固して生まれる生産量によって測定される。労働時間の価格そのものは、1日の労働の価格=労働力の1日の価値という式で与えられる。だから出来高賃金は時間給の賃金の一つの変形にすぎない。

 

出来高賃金の性格

そこで、出来高賃金の特徴をもう少し詳しく考察してみよう。

この場合には労働の質が製品そのものによって左右されるのであって、各個の価格が完全に支払われるためには製品は平均的な品質をもっていなければならない。出来高賃金は、この面から見れば、賃金の削減や資本家的ごまかしの最も豊かな源泉になる。

出来高賃金は、資本家に、労働の強度を計るための明確な尺度を提供する。ただ、前もって確定され経験的に固定されている商品量に具体化される労働時間だけが、社会的に必要な労働時間として認められ、そういうものとして支払を受ける。それだから、ロンドンのやや大きい裁縫工場では、1時間を6ペンスとして、たとえば1枚のチョッキというような或る出来高の労働が1時間とか半時間とか呼ばれるのである。どれだけが1時間の平均生産物であるかは、経験によって知られているのである。新型や修理などの場合には、一定の出来高が何時間に相当するかについて雇い主と労働者とのあいだに争いが起きるが、このような場合にも最後には経験が決着をつける。ロンドンの家具製造場などでも同様である。もし労働者が平均的な作業能力をもっていなければ、つまり彼が一定の最小限の1日仕事を供給することができなければ、彼は解雇されるのである。

この場合には労働の質や強度が労賃の形態そのものによって制御されるのだから、この形態は労働監督の大きな部分を不要にする。したがって、この形態は、前に述べた近代的家内労働の基礎をなすと同時に、搾取と抑圧との階層制的に編成された制度の基礎をなすのである。この制度には二つの基本形態がある。出来高賃金は一方では資本家と賃金労働者とのあいだに寄生者が介入すること、すなわち仕事の下請けを容易にする。仲介人たちの利得は、ただ、資本家が支払う労働の価格と、この価格のうちから仲介人たちが実際に労働者に渡す部分との差額だけから生ずる。この制度はイギリスではその特色を生かして「苦汁制度」と呼ばれている。他方では、出来高賃金は、資本家が主要な労働者─マニュファクチュアでは組長、鉱山では採炭夫など、工場では本来の機械工─と出来高当たり幾らという価格で契約を結び、その価格で主要な労働者自身が自分で補助労働者の募集や賃金支払を引き受けるということを可能にする。資本による労働者の搾取がこの場合には労働者による労働者の搾取を媒介として実現されるのである。

出来高賃金が与えられたものであれば、労働者が自分の労働力をできるだけ集約的に緊張させるということは、もちろん労働者の個人的利益ではあるが、それが資本家にとっては労働の標準強度を高くすることを容易にするのである。同様に、労働日を延長することも労働者の個人的利益である。というのは、それにつれて彼の日賃金や週賃金が高くなるからである。それとともに、時間賃金のところですでに述べたような反動が現われる。労働日の延長は、出来高賃金が変わらなくても、それ自体として労働の価格の低下を含んでいるということは別としても、である。

時間賃金の場合には、わずかな例外を別とすれば、同じ機能には同じ労賃というのが一般的であるが、出来高の場合には、労働時間の価格は一定の生産物量によって計られるとはいう、日賃金や週賃金は、それとは反対に、労働者たちの個人差、すなわち1人は与えられた時間内に最小限の生産物しか供給せず、別の1人は平均量を、第三の1人は平均量よりも多くを供給するという個人差につれて、違ってくる。だから、この場合には現実の収入については、個々の労働者の技能や体力や精力や耐久力などの相違に従って、大きな差が生ずるのである。もちろん、このようなことは、資本と賃労働との一般的な関係を少しも変えるものではない。第一に、一つの作業場全体としては個人差は相殺されるので、作業場全体は一定の労働時間では平均生産物を供給するのであって、支払われる総賃金はその産業部門の平均賃金になるからであろう。第二に、労賃と剰余価値との割合は元のままで変わらない。というのは、各個の労働者の個別的賃金には彼によって個別的に供給される剰余価値量に対応するからである。しかし、出来高賃金のほうが個性により大きい活動の余地を与えるということは、一方では労働者たちの個性を、したがってまた彼らの自由感や独立心や自制心を発達させ、他方では労働者どうしのあいだの競争を発立させるという傾向がある。それゆえ、出来高賃金は、個々人の労賃を平均水準よりも高くすると同時にこの水準そのものを低くする傾向があるのである。しかし、一定の出来高賃金が久しい以前から伝統的に固定してしまっていて、それを引き下げることが特別に困難だったところでは、雇い主たちがそれをむりに時間賃金に改めることに逃げ場を求めたということも、例外的にはあった。たとえば、1860年にはこれに反対してコヴェントリのリボン繊工の大ストライキが起きている。最後に、出来高賃金は、前に述べた時間給制度の一大支柱である。

出来高賃金の性格をもう少し調べてみましょう。この方式では、労働の質は製品という出来高によって管理されています。つまり、出来高として1個の製品を生産して、それに応じて賃金が支払われるためには、その作られた製品が平均的な品質を備えたものでなければならないからです。

この方式によって、資本家は労働の強度の明確な基準を手に入れることができることになります。時間給の賃金方式であれば、決められた時間を働いたということが賃金の支払の対象で、その時間内のダラダラ働いても、一生懸命働いても賃金は変わりません。そのため、労働者がちゃんと働いているかを監視しなければなりませんでした。しかし、出来高賃金の場合は、あらかじめ定められた商品の量を一定の品質で生産するという労働時間だけが、賃金を支払うべき労働時間とみなされるわけです。この場合、一定の量と質は実地の経験基づいて決められます。労働者が求められる作業能力を備えていないために、1日に定められた最低の仕事量をこなせない場合には解雇されることになります。こうして、労働の量と質が確保されることになるわけです。

この方式では、一定品質の製品をつくっただけ賃金が払われるので、賃金を得るためには労働者は質と量を確保しなければならないため、時間給の場合のような労働の監視は必要なくなります。

このシステムには二つの基本形態があます。ひとつは資本家と労働者の中間に介入して、資本家に労働者を手配し、その手数料として労働者の賃金の一部ピンハネする「汗を搾り取るシステム」です。もう一つは、労働者の親方が労働者の雇用と支払を引き受け、資本家から仕事を請け負うという、親方によるピンハネで、労働者による労働者の搾取です。

出来高賃金の額が決まっていれば、労働者の個人の賃金は、自分の労働力を集約的に行使して生産の質と量を向上させることによって増えるように見えるため、資本家にとっては、労働の標準強度を努力せず向上させることができることになるわけです。労働日を延長することは生産量を増やすことになるので、労働者の利益と一致することになります。

時間給の賃金システムでは、同じ作業の労働には同額の賃金が支払われます。しかし出来高賃金のシステムでは労働者の生産量で測られることになるため、個々の労働者の技能、力、エネルギー、耐久力などによって賃金額が違ってくることになます。

ただし、そのような違いが資本と賃金労働の一般的な関係の違いを生むことはありません。時間給の同一の賃金と出来高賃金の個人によって違う額の賃金の違いは、労働者個人のレベルでは大きな違いですが、工場の全体として支払われる労働者の賃金総額としてみれば個人の額の違いは相殺され時間給でも出来高で大きな違いは生じません。最終的には平均的な賃金に落ち着くからです。第二に、賃金の内訳をみれば必要労働と剰余労働の比率は変化しないからです。しかし、出来高賃金は、労働者の側からは自分の個性を活用できる余地を与えられるように見えるため、労働者は自由であるという心持ちや独立心、自制心などを発達させ、労働者どうしの競争を煽ることになる傾向があります。そのため、出来高賃金は、労働者個人の賃金は高くなる傾向がありますが、平均水準そのものは、むしろ低下します。

ここで触れている賃金システムが二つの雇用の形態を作り出している点について、その二つの雇用形態について詳しく述べてみたいと思います。その第1は、労働者と資本家とが直接に雇用関係を結ぶのか、それとも中間業者ないし親方的存在を介在させて間接的に雇用関係を結ぶのかである。前者を直接雇用と呼び、後者を間接雇用と呼ぶ。

独自に資本主義的な生産様式が未発達な時期においては、雇用形態の主流は間接雇用でした。労働過程がまだ資本主義以前の伝統的手法でなされている場合、その労働過程に精通した親方的存在が末端の作業労働者を募集し、労働者を選別し、生産過程を指揮監督し、個々の労働者への賃金の支払いを管理していました。資本家はこの親方的存在と契約を結んで、賃金もまとめて支払い、労働者の選抜や管理を委ねていました。これを内部請負制といいます。労働過程そのものが旧来のやり方でなされていたので、それに精通していない資本家は、自ら労働者の質や量を確定することかできなかったし、その労働を指揮監督することもできなかった。それゆえ、伝統的な労働様式に精通している親方的存在に、労働者の募集や選別や指揮監督を委ねたのです。この親方的存在は、その報酬として、直接作業を行う労働者よりもはるかに多額の賃金を獲得していましたが、それはむしばしば、本来は末端の作業労働者に支払われるべき賃金からの控除(中間搾取)でした。

この形態は一方では、総賃金額を低く抑えたり、労働者の募集・選別や労務管理にかかるコストを節約したり、また搾取に対する労働者の怒りを直接資本に向けさせないといった数々のメリットが資本の側にあったのですが、他方では、旧来の生産様式がそのまま維持されることを前提としており、生産様式の変革を通じてより資本の運動原理に沿ったより効率的で大規模な生産過程を実現するにはふさわしくなかったし、また労働者を直接管理することができないがゆえに、労働そのものをより効率的なものにする上でも大きな制約がありました。そして、親方的存在による中間搾取はしばしば残酷な形態をとり、また時に暴力団がそうした役割を担ったことで、労働者の強い反発と抵抗を受け、また社会的な非難を浴びることにもなりました。こうした中で内部請負制はやがて崩壊し、しだいに雇用の形態は間接雇用から直接雇用へと移行し、それを通じて生産様式の変革やより緻密な労働者管理なども実現することができるようになっていきました。

この内部請負制を筆頭とする間接雇用はこうして、労働者の地位向上の中で法的に禁止されるか、大きな制限のもとに置かれるようになったのですが、1980年〜90年代以降の新自由主義化の中で再び解禁され、今度はより洗練された大規模な近代的ビジネスとして発展するようになりました。それが派遣労働という業務形態であり、それを仲介する人材派遣業者である。あるいは内部請負ではなく、外部の下請け企業に特定の工程をまるごと任せるタイプの請負、すなわち外部請負である。

これらの新たな間接雇用が1980〜90年代以降に普及したのは、まず第1に、派遣業者に対する支払いは、派遣業者の中間搾取を入れたとしても、正規労働者より安い賃金支払いですむからであり、第2に解雇しやすいからであり、第3に、雇用に関わるさまざまな費用を節約することができるからである。

これらの派遣労働や請負労働の普及は、労働者の地位を著しく低め、雇用を不安定化させるとともに、労働者の雇用と労働者への指揮監督との分離をもたらした。派遣労働者が派遣先で不当な扱いを受けても、派遣元の企業は派遣契約の維持を優先させるために派遣労働者を守ってくれないし、派遣先企業の労働組合も他人事なので守ってくれない。

ここで出来高賃金の性格をもう少し詳しく調べてみよう。

この方式では、労働の質は製品そのものによって管理されている。1個あたりの価格が完全に支払われるためには、製品は平均的な品質をそなえていなければならない。この点からみると出来高賃金は、賃金カットと資本家のごまかしのもっとも豊かな源泉になる。

この方式によって資本家は、労働の強度について明確な基準を手にいれることができる。経験に基づいてあらかじめ定められた商品の量に体現された労働時間だけが、社会的に必要な労働時間とみなされて、支払いが行われる。たとえばロンドンの大手の裁縫工場では、チョッキ1枚等の特定の製品の出来高が、1時間、半時間などと呼ばれ、1時間に6ペンスが支払われる。1時間に平均してどの程度の製品が生産されるかは、実地の経験に基づいて決定される。

新しい流行品や修理などの作業では、雇用主と労働者のあいだで、どの程度の出来高であれば1時間に相当するかについて争いが起こることがあるが、それも結局は経験によって決定される。ロンドンの家具製造業などでも同じことである。労働者が平均的な作業能力をそなえていないために、1日に定められた最低の仕事量をこなせない場合には、解雇される。

この方式では労働の質と強度が、労働賃金の形態そのものによって管理されているために、労働の監視はほとんど無用になる。そのためこの労働賃金形態は、すでに述べた近代的な家内労働の基盤となるだけでなく、階層構造として組織された搾取と抑圧のシステムの基盤となるのである。

このシステムには二つの基本形態がある。出来高賃金ではまず、資本家と賃金労働者のあいだに寄生者が入りこんでくるのが容易になり、仕事の下請けが行われやすくなる。この中間に介入した人の利益は、資本家が支払う労働価格と、介入者が実際に労働者に支払う価格の差額である。このシステムはイギリスではその特徴を捉えて「汗を搾り取るシステム」と呼ばれている。

他方では出来高賃金によって、資本家と親方労働者が(マニュファクチュアでは班長、鉱山では石炭などの採掘工、工場ではほんらいの機械工)、1個あたりの価格を取り決めておき、この価格に基づいて親方労働者が自分で補助労働者の雇用と支払いをひきうけることができる。ここでは資本による労働者の搾取が、労働者による労働者の搾取によって実現される。

出来高賃金の額が決まっていれば、労働者の個人的な利益は、自分の労働力をできるだけ集約的に行使することによって生まれるが、資本家にとってはこれで、労働の標準強度をたやすく高めることができる。また労働日を延長することは労働者の個人的な利益ともなる。それによって日給または週給が高くなるからである。かりに出来高賃金が変化しなくても、労働日が延長されるならば、それじたいがすでに労働価格の低下をもたらす。しかしそれを別としても、時間給の賃金のところで述べた反動がここでも発生する。

時間給の賃金システムでは、わずかな例外を別とすると、同一の機能をはたす労働者には同じ労働賃金が支払われる。しかし出来高システムでは、労働時間の価格はたしかに一定の生産量で測定されるが、日給あるいは週給は、労働者の個人的な違いによって変化する。ある労働者は与えられた時間に最低限の製品しか納品せず、別の労働者は平均的な量を納品し、第三の労働者は平均を上回る量を納品するなど、違いがでるからである。そのため実際の収入源は、個々の労働者の技能、力、エネルギー、耐久力などによって大きく異なるものとなる。

もちろんこれによって資本と賃金労働の一般的な関係に違いが生じることはない。というのも第一に、個人的な違いは工場の全体でみると相殺され、工場全体としては一定の時間に平均的な生産物を供給するのであり、支払われた賃金の総額も、その産業分野の平均的な賃金になるからである。第二に、労働賃金と増殖価値の比率は変化しないからである。個々の労働者に支払われる賃金は、その労働者が個別に作りだした増殖価値の量に対応したものである。しかし出来高賃金では、労働者に自分の個性を活用できる大きな余地を与えられるため、労働者は自分の個性、自由であるという気持ち、独立心、自制心などを発達させる傾向があるが、他方では労働者のあいだの競争が激化する傾向がある。そのため出来高賃金は、個人的な労働賃金は平均水準よりも高くする傾向があるが、同時にその平均水準そのものを低下させる傾向がある。

一定の出来高賃金がすでに長いあいだ伝統的に固定されていて、それを引き下げるのが特別に困難である場合には、雇用主たちが例外的に、出来高賃金を時間給の賃金に強制的に変えてしまう事例もみられた。たとえば1860年にコヴェントリーのリボン繊工たちが、こうした切り替えに抗議する大規模なストライキを決行した。結局のところ出来高システムは、すでに考察した時間給のシステムの主要な柱の一つなのである。

 

資本主義的生産との適性

これまでに述べたところから、出来高賃金は資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態だということがわかる。出来高賃金はけっして新しいものではない─それはことに14世紀のフランスやイギリスの労働法規では時間賃金と並んで公式に現われる─とはいえ、それがはじめていくらか大きな部面を占めるようになるのは、本来のマニュファクチュア時代のことである。大工業の疾風怒濤時代、ことに1797年から1815年までは、出来高賃金は労働時間の延長と労賃を引下げのための槓杆として役だっている。この時代の労賃の運動については非常に重要な材料が次にあげる青書のなかに見いだされる。すなわち、『穀物法関係の請願に関する特別委員会の報告および証言』(1813/1814年議会会期)および『穀物の成育・取引・消費状態に関する上院委員会の報告および全関係法規』(1814/1815年議会会期)がそれである。そこには、反ジャコバン戦争が始まってからの労働の価格の継続的低下についての文書による立証が見いだされる。たとえば織物業では出来高賃金がひどく下がったので、労働日は非常に延長されたのに1日の賃金はかえって以前より低くなっていた。

「織物工の実収入は以前よりも非常に少ない。普通の労働者にたいする彼の優越は、はじめは非常に大きかったが、ほとんどまったくなくなった。じっさい、熟練労働と普通労働との賃金の差は、今では以前のどの時代よりもずっと小さくなっている」。

出来高賃金に伴う労働の強度の増大や時間の延長が農村プロレタリアートにとってはどんなに実りの少ないものだったかは、地主や借地農業者の側に立つ党派的な一著述から借りてきた次のような文句に示されている。

「農事作業のずっと大きな部分が、日ぎめか出来高かで雇われている人々によって行なわれる。彼らの週賃金は約12シリングである。そして、出来高賃金の場合には、働くことへの刺激がより大きいために、週賃金の場合に比べて1人が1シリングか2シリングくらいはよけいにかせぐと予想されるとはいえ、彼の総収入を見積もってみれば、彼が1年じゅうの仕事で失うところのほうがこの増収よりも大きいということを見いだすのである。…さらにまた一般的に見いだされるのは、これらの労働者の賃金は生活必需品の価格にたいしてある一定の割合をなしていて、子供が2人ある1人の労働者は教区の保護に頼ることなしに自分の家族を養えるようになっているということである。」

当時、マルサスは、議会によって公表された事実に関連して次のように言った。

「じつを言えば、出来高賃金の慣行が非常に広がっていることは私は不満である。1日のうちの12時間とか14時間、またはもっと長い時間にわたる実際に激しい労働は、人間にとってあまりにも多すぎる。」

工場法の適用を受ける作業場では出来高賃金が通例のことになる。なぜならば、そこでは資本は労働日をもはや内包的に拡大するよりほかはないからである。

労働の生産性が変動につれて、同じ生産物量が表わす労働時間も変動する。したがってまた出来高賃金も変動する。というのは、出来高賃金は一定の労働時間の価格表現だからである。前にあげた例では、12時間に24個が生産され、12時間の価値生産物は6シリング、労働力の日価値は3シリング、1労働時間の価格は3ペンスで、1個あたりの賃金は1ペンス半だった。1個の製品に2分の1労働時間が吸収されていた。同じ1労働日が、今では、たとえば労働の生産性が2倍になったために、24個ではなく48個を供給するようになったが、他の事情はすべて元のままで変わらないとすれば、各1個はもはや2分の1ではなく4分の1労働時間しか表わしていないので、出来高賃金は1ペンス半から4分の3ペニーに下がる。1.5ペンスの24倍は3シリングであり、4分の3ペニーの48倍もやはり3シリングである。言い換えれば、同じ時間で生産される個数が増加し、したがって同じ1個に充用される労働時間数が減少するのと同じ割合で、出来高賃金は引き下げられるのである。このような出来高賃金の変動は、それだけならば純粋に名目的であるのに、資本家と労働者とのあいだに絶えまのない闘争をひき起こす。なぜかといえは、資本家が実際に労働の価格を引き下げるための口実にそれを利用するからである。または、労働の生産力の増大には労働の強度の増大が伴っているからである。あるいはまた、出来高賃金の場合にはあたかも労働者は彼の生産物に支払われるのであって彼の労働力に支払われるのではないかのように見える外観を、労働者がほんとうだと思いこみ、したがって、商品の価格の引き下げが対応しないような賃金の引き下げには反抗するからである。

「労働者たちは、原料の価格や製品の価格を注意ぶかく見守っているので、自分たちの雇い主の利潤を精確に見積もることができるのである。」

このような要求を資本は、当然、賃労働の性質についてのひどい考え違いとしてかきたづけてしまう。資本は、このような、産業の進歩に課税しようとする思い上がりに怒声を浴びせて、労働の生産性は労働者にはおよそなんの関係もないのだときっぱり言い切るのである。

これまでの説明からも明らかなように、出来高賃金は資本制的な生産様式に最適な賃金形態であると言うことができます。実際にマニュファクチュア時代のころから実際に存在して、労働時間の延長や労働賃金引下げのための梃の役割を果たしていました。出来高賃金とともに、労働の強度が増大し、労働日が長くなったと報告書は伝えています。

工場法が適用された作業場では、一般に出来高賃金が採用されています。そこでは資本は、労働日を内包的にしか[強度を高めることによってしか]拡大できないからです。労働の生産性が変化すると、生産物の量が同じであっても、労働時間は減少します。したがって出来高賃金はある一定の労働時間を価格で表わしたものというわけです。言い換えれば、同じ時間のうちに生産される個数が増加し、1個を生産するために必要な労働時間数が減少すると、それと同じ比率で出来高賃金は下落します。出来高賃金のこの変化はたんに名目的なものにすぎませんが、資本家と労働者のあいだにたえざる闘いを引き起こすことになります。資本家がこれを、実際に労働の価格を引き下げる口実として利用するか、労働の生産性の向上にともなって、労働の強度が増大するためです。

賃金の時間給以外の形態として出来高賃金(出来高給)があります。最も単純な形態の出来高は次のような式によって算出することができます。

出来高賃金=時間賃金/1時間あたりの生産個数

たとえば、時間賃金が1000円だとして、1時間あたりに生産される生産物(たとえば何かの部品)の個数が10個である場合には、出来高賃金は1個あたり100円だということになります。

実際に生産された生産物の個数単位で賃金が支払われることで、1時間あたりに生産される生産物(たとえば何かの部品)の個数が10個である場合には、出来高賃金は1個当たり100円だということになります。

実際に生産された生産物の個数単位で賃金が支払われることで、賃金が「実際の価格」であるという外観がより強固なものになるのは明らかです。しかもここでの「労働」はもはや時間で測られる抽象的労働ではなく、具体的な使用価値を生産する具体的な労働なのですから、賃金が「特定の具体的有用労働に対する価格」であるという外観が決定的なものになるわけです。賃金という形態そのものに潜在していた「転倒」がここにおいて完成された形態を取ることになるのです。

しかし、この出来高賃金の計算式においてただちに問題になるのは、分母にある「1時間あたりの生産個数」というものをいったいどのように測るかということです。一般的な答えは、ある資本家の指揮下にいる各労働者が生産する個数の単純平均ということになるでしょう。しかし、「平均的」という概念は資本主義のもとではけっして階級中立的な算術的概念ではないはずです。資本家は絶え間なくこの平均の水準を高めようと努力し、その引き上げについていけない労働者を排除することによって、1時間当たりに生産される平均個数を引き上げようとします。そして、もっと露骨には、労働者集団の中で最も能力が高く、1時間あたりに最も多くの個数を生産することのできる労働者が基準にされさえすることでしょう。あるいは逆に、この1個あたりの出来高賃金を絶え間なく引き下げることによって、平均的な時間賃金を得るだけでもより集中してより高い強度で、あるいは長時間、労働せざるをえなくすることもあるでしょう。そして資本家はたいていこの両方を同時に追求するものです。

そして、労働者の側からの組織的抵抗がなければ、1個あたりの賃金水準に際限なく切り下げられ、事実上、法定最低賃金さえ下回る事態になりかねません。しかも法定最低賃金は基本的に時間賃金として表示されているので、出来高賃金という形態をとっているかぎり、資本家にとってこの最低賃金以下の賃金を支払ってすますことは実に容易となります。資本家にとってはいつでも立派な言い訳が用意されている。ある労働者が事実上最低賃金以下しか平均的に得ていなくても、それはその労働者が無能で、要領が悪いせいなのであって、出来高賃金の水準が低いせいではないと主張することができるというわけです。

この意味で、出来高賃金は、資本家にとって、賃金を容易に切り下げ、容易に労働強化や長時間労働を押しつけることができる形態として理想的です。しかし他方では、この形態が集団的労働にもとづく現代的な生産様式にまったく不向きであるのも明らかです。機械化された工場で1時間あたりの生産個数を決定づけるのは、高い出来高賃金を求めて労働する労働者の意欲ではなく、基本的に労働者のコントロール下にはない大規模生産手段としての機械の性能やラインのスピードやその配置だからです。出来高賃金は、集団的労働や機械かが向かない特殊な産業部門ないし労働分野でのみ、資本家にとって理想的な賃金形態なのであって、一般的には必ずしも理想的な賃金形態とは言えないのです。

これまでの説明から明らかなように、出来高賃金は資本制的な生産様式にもっともふさわしい労働賃金の形態である。たとえば14世紀のイギリスとフランスの労働規約にはすでに、出来高賃金が時間給の賃金とともに正式に登場している。これは新しいものではないが、ほんらいのマニュファクチュア時代に初めて大きな活動の余地を獲得したのである。大工業の疾風怒濤の時代、とくに1797年から1815年の時期には、出来高賃金は労働時間を延長し、労働賃金を引き下げるための梃の役割をはたした。

以下の青書には、この時期の労働賃金の運動に関する非常に重要な資料が収められている。『穀物条例に関連した請願についての特別委員会の報告と証拠資料』(1813/1814年の議会会期)および『穀物の成育、取引、消費の状態についての上院委員会報告およびそれに関連するすべての法律』(1814/1815年の議会会期)。そこには反ジャコバン戦争が始まってから、労働価格がどれほど一貫して低下しつづけてきたかを示す証拠資料がみられる。たとえば織物業では、出来高賃金が大幅に下落したために、労働日が著しく延長されているにもかかわらず、1日あたりの賃金が下落していた。「織物工の実収入は以前よりも非常に少なくなっている。かつてはふつうの労働者よりもはるかに収入が多かったが、今ではほとんど変わらなくなっている。実際に熟練労働者と一般労働者の賃金の違いは、過去のいかなる時期よりも、はるかに小さくなっている」。

出来高賃金とともに、労働の強度が増大し、労働日が長くなっているのであり、これが農村プロレタリアートにとっていかに益のないものであったかは、大地主と借地農の側に立って書かれたある文書の次の箇所が明らかにしている。「農作業のほとんどの部分を、日雇いまたは出来高払いで雇われた人々が担っている。こうした人々の週給は約12シリングである。出来高賃金の場合には、労働への刺激が強いために、週給で比較すると1シリングあるいは2シリングは高くなると考えられるかもしれない。しかし全体の収入でみると、1年のうちに仕事のない時期があるため、その余剰分は相殺されることが分かる。…さらに一般的には、これらの人々の賃金は、生活必需品の価格と相関関係があると言える。だからこそ、1人の男が2人の子供をかかえて、教区の保護に頼らずに一家を養っていけるのである」。

当時マルサスは、議会が公表した事実について「実のところ、わたしは出来高賃金の慣行が著しく広まることには不満である。長い期間にわたって1日に12時間から14時間、あるいはさらに長い期間にわたって厳しい労働をつづけることは、人間には耐えきれないことである」と語っていたものである。

工場法が適用された作業場では、一般に出来高賃金が採用されている。そこでは資本は、労働日を内包的にしか[強度を高めることによってしか]拡大できないからである。

労働の生産性が変化すると、生産物の量が同じであっても、それが表現している労働時間は変化する。したがって出来高賃金は、ある一定の労働時間を価格で表現したものだからである。さきに挙げた例で考えよう。12時間に24個の製品が生産され、12時間の価値生産物は6シリングであり、労働力の1日あたりの価値は3シリングである。これで1労働時間の価格は3ペンス、1個あたり賃金は1ペンス半となる。1個の製品に0.5労働時間が吸収されていた。

ここで労働の生産性が2倍になったために、同じ労働日で24個ではなく48個生産できるようになり、ほかの事情は同じであるとしよう。出来高賃金は1個あたり1ペンス半から0.75ペニーに下落する。1個が表現する労働時間がいまや0.5時間ではなく、0.25時間になったからである。24×1.5ペンス=3シリングであり、48×0.75ペニー=3シリングである。

言い換えれば、同じ時間のうちに生産される個数が増加し、1個を生産するために必要な労働時間数が減少すると、それと同じ比率で出来高賃金は下落する。出来高賃金のこの変化はたんに名目的なものにすぎないが、資本家と労働者のあいだにたえざる闘いを引き起こす。資本家がこれを、実際に労働の価格を引き下げる口実として利用するか、労働の生産性の向上にともなって、労働の強度が増大するためである。

あるいは出来高賃金では、実際には労働者の労働力に支払いが行われているのに、労働者を真にうけて、実際に商品の価格の下落に対応してない賃金の引き下げに抵抗するからである。「労働者は原料価格と製品価格を注意深く監視しており、雇用主たちの利潤を正確に見積もることができる」。資本は当然ながら、こうした要求は賃金労働の性格についての粗野な誤解として拒否する。資本は、産業における進歩に税金をかけるようなこうした傲慢な要求を罵倒し、労働の生産性は労働者とはまったく関係がないと、あからさまに宣言するのである。

 

 

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