マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第3篇 絶対的増殖価値の生産
第5章 労働過程と価値の増殖過程
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第3篇 絶対的剰余価値の生産

〔この篇の概要〕

マルクスは第3篇から第5篇にかけて、生産過程を資本の生産過程として内容的に分析し、それを通して資本家と労働者との地位関係を究明していきます。まず初めに、資本の生産過程において、資本が労働者の労働力を源泉として価格増殖をとげる機構を一般的に明らかにしていきます。古典経済学は、マルクス以前に、利潤や地代や利子などを、労働価値説に立脚して説明しようとしましたが、明確な説明はできませんでした。その説明の不備な点や欠陥は、資本家と労働者との基礎的関係を純粋な価値でぶんせきすることにより、初めて克服されるものでした。

それはどういうことか、すなわち、労働者の受け取る賃金は、結局は労働者の必要とする生活資料の価値によって規定されているということは、すでに古典経済学でもあきらかにされていましたが、その賃金は労働者の労働そのものに対する報酬として外観的にしか理解されていませんでした。これに対してマルクスは、賃金というのは労働力という商品の代価に他ならないものであり、労働力という商品の価値は、他の一般商品の価値と同様に労働力それ自身生産に要する労働時間によって、事実上労働者の生活資料の生産に必要な労働時間によって規定される(労働力を生産するためには、労働者が家族とともに生活できなければならないということから)のに対して、労働力の使用価値は、資本の生産過程において労働力の支出として実現される労働そのもの(実際に生産物を生産するという労働そのもの)であることを明らかにしました。それとともに、マルクスは、第一に、労働力という商品の使用価値は労働そのものであることから、その使用価値は同時に、新たな価値を形成し、生産するものであるということ、第二には、一般に人間の1日の生活資料の生産はまる1日の労働までは必要としないということを基礎として、労働者の1日の労働力の生産に必要な労働時間は、労働者の1日分の労働時間の一部にすぎないということを明らかにしました。したがって、資本家は、労働者の1労働日のうち、労働力の生産に必要な労働時間に相当する部分をもって、言い換えると労働力の価値に等しい価値を生産する部分をもって、労働力の代価として賃金形態で前貸しした資本を補填し、残余の労働時間を剰余価値として獲得することになるというわけです。古典経済学が単なる価値の分割部分として説明した利潤や地代や利子などは、ここに明確に剰余価値という範疇のもとに総括されて、これを源泉としてやがてこれらの収入形態が独立化されるものであるということが明らかにされたのでした。次に、マルクスは、このような価値増殖過程の分析に基づいて、生産過程において単にその価値を新たな商品の価値として移転するにすぎない生産手段に当てられる不変資本と、生産過程において新たな価値を、したがって剰余価値を形成する労働力に投ぜられる可変資本という、資本の機能上の区別を行います。そして資本の価値増殖の大きさを、総資本の一部となるにすぎないが真に価値増殖をなす可変資本に対する剰余価値の比率m/vによって純粋に表現され、これを価値増殖の根源を曖昧にする利潤率と区別しました。

労働者は、これらの剰余価値を生産することによって、はじめて自己の労働生産物の一部を、その労働力の代価として受け取る賃金で買い戻し、資本家は労働力に対して賃金の形で前貸しする可変資本の価値を、労働力によって新たに生産された価値から剰余価値とともに回収するという関係にあります。このような様式で展開される資本主義的生産は、労働者の全労働時間を資本の支配のもとにおくものとして、当然、まず労働時間の延長による絶対的剰余価値の生産としてあらわれるものです。しかし労働時間は無制限に延長できるものではありません。そこには一定の限界があります。しかし、労働日がそのような限界をもっているとしても、1労働日うち、労働力の再生産に必要労働時間部分、いわゆる必要労働時間が短縮されるならば、増殖労働時間は増加します。資本主義は、これを生産方法の発展による生活資料の増進によって実現しました。というのも生産力の増進につれて労働者の生活資料の生産に要する労働時間、すなわち必要労働時間は短縮されることになります。それにより、商品として売買される労働力は、その価値を低下し、剰余価値は相対的に増加することになるからです。商品の価値は労働の生産力に反比例するのに対して、資本の利潤は正比例するするというリカードの分析は、マルクスによって相対的剰余価値の生産として、はじめて科学的に規定されたのでした。さらにマルクスは、資本主義のもとでは生産力は個々の資本家の手で個別的に増進させられ、したがって相対的剰余価値の生産も個々の資本家の手で個別的に実現され、それによって全体の生産力も社会的に増進することを明らかにしました。

 

第5章 労働過程と価値の剰余過程

〔この章の概要〕

これまでマルクスとともに私たちは、商品交換から貨幣が析出されてくる次第を辿り、貨幣が資本へと転化するはこびを跡づけてきました。商品流通から生成してきた(産業)資本は、労働力という特殊な商品を市場に見出し、それを所有者(労働者)から購入することで、生産を開始します。「資本論」の構成でいえば、ここまでの考察が第1部「資本の生産過程」の第1篇「商品」と第2篇「貨幣の資本への転化」にあたるものでした。

第1巻は、じっさい直接的な生産過程を主題化するとはいうものの、その第1篇、第2篇の商品・貨幣論は、むしろ第3編の序論とでもいうべき位置にあると捉えることができます。資本論体系の問題構成にしたがえば、つづく第3篇は「絶対的剰余価値の生産」と題されて、狭義の資本制生産をめぐる考察が、以下ではじめて主題的に展開されることになります。

資本制的な生産過程そのものへと立ち入るに先立ち、マルクスはよく知られているとおり、いったんは生産一般のありかたを「労働過程」の名のもとに分析していまなす。労働過程とは、特定の社会的形態のいっさいと関わりなく考察された、使用価値の生産過程に他なりません。私たちも、その分析に含まれるいくつかの論点を確認することから始めておことにしましょう。

マルクスの規定によればも労働力の使用が労働そのものです。初歩的な事項をあえて記しておくなら。「労働」と「労働力」とをこのように区別しておくことが、この後で展開される剰余価値の解明のために不可欠な区別を設定することになります。

資本家は労働力商品を買い入れて、それを使います。資本家は、その売り手である労働者を労働させて、労働力を消費させます。労働者は資本家のもとで労働することによって、はじめて現実的に活動する労働力、つまり労働力を使用価値として売った労働者になります。

労働するとは、有用労働をしてなにかの使用価値をつくることです。資本家のもとで、資本家が用意した物を使って一定の生産物、なんらかの使用価値をつくるわけですが、しかし人間の生活に有用な使用価値の生産は、資本主義的生産でなくても行われてきたことでした。

小麦を作るとか米を作ることは、古代でも中世でも、資本主義的農業(日本にはあまりないが)でも同じように行われてきました。つまり、その一般的性質は、資本家のもとで生産するからといって、変わるものではない。したがって、いかなる特定の社会形態からも独立したものとして、労働がどのように行われ、どのようにして使用価値がつくられかを、労働過程としてまず考察しましょう。

労働とは「人間と自然とのあいだの一過性」であり「人間がその自然との物質代謝を、彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程」です。物質代謝とは、生物が自然から物質を摂取して利用し、不用物を排出する過程のことです。つまり、物を作るという人間の行為は、本質的に自然との間で自然との間で行われ、自然のなかから役に立つ物を利用することと言えます。しかも、人間の労働は本能ではなく、目的意識をもって遂行させます。

ところで、動物は労働をしないのでしょうか。人間だって最初はサルだったはずです。

動物が労働するかは、むずかしい問題です。アリはたいへん高度な社会性をもって集団生活を営んでいると言われます。しかしそれは人間とは違って本能にすぎないというのが一般的な考え方ですが、最近では、サルはもちろん、哺乳動物の群れの生活などに、人間の社会生活との共通性、その原点がみられるという指摘もされています。マルクスは、動物は労働していないと言い切っているのではなく、ここでは問題としません、ここでは人間労働のことだけを取り上げるという書き方をしています。

「人間は道具を作る動物である」というのは、フランクリンの言葉ですが、最近は道具を作り、それを使う動物が次々と発見されています。道具を作るのは人間だけではなかったです。最初に有名になったのは、蟻塚のシロアリを捕るのに、近くのやわらかい枝を取ってきて、その葉をむしって穴の中に突っ込むチンパンジーの存在でした。外敵が入ってきたと思った蟻がそれに噛みついたところを、抜いて食べています。原始的とはいえ、意図的に適切な道具を作り、使用しているのです。それは労働といえなくもありません。

それと同じようなことを、鳥も広範にやっています。鳥もくちばしで、しなやかで必要な長さのある小枝を取って、葉をむしり、それを木の穴に差し込んで、中にいる昆虫の幼虫を捕って食べています。そのような例が、いろいろ発見されています。

きわめて原始的な道具だが、どの枝がよいかを選び、加工して用途に応じた道具を作る能力が、動物のなかにも多少はあることがわかってきました。そのような技術は本能ではなく、後天的に習得されたもので、子孫へも伝えられてしまうものになっています。

したがって、動物の労働についての議論を深めるためにも、まず人間の労働を詳しくみていく必要があります。

労働過程には三つの要素があります。まず当然ながら労働という活動そのものです。次に労働が働きかける対象である労働対象があります。さらに、人間は手や足で直接にではなく、労働対象との間になにかの物を媒介させて労働することがほとんどです。その道具や機械を労働手段といいます。つまり、労働そのものと、労働対象と労働手段、その三つが労働過程を形成する要素となります。

これを生産物の立場からみると、労働対象と労働手段の二つは生産手段となります。そして労働は生産的労働として現われます。労働は物を作りだすのだから生産的に決まっていますが、資本主義的生産においては、その意味が変わっていくことになります。

労働対象と労働手段についてマルクスは詳しく分析を続けます。

人間は動物と同じように、自然の中から物を取ってきます。これが最も原始的な労働の姿であり、狩猟や採取では自然の存在そのものが労働対象になっていました。自然にいる魚や獣、木に実る果物や木の実が、まず労働対象になりました。

自然から直接に使用対象を獲得することは動物も同じですが、人間の場合は、すでに自然から引き離されたて労働が加わっている物を、さらに加工して、新たに労働をつけ加えて物を作ります。むしろ自然から直接に物を採取する労働は、近代の人間社会では比率的に小さい。たとえば製鉄労働は、鉱山からすでに採掘された鉄鉱石を使って行われます。そこで、自然と区別して「労働対象がそれ自体すでにいわば過去の労働によって濾過されている」物をマルクスは原料と定義しました。鉄鉱石は原料ということになります。

生産物として労働過程から出てきたものが、また次の生産の生産手段として入り込むので、生産物が労働過程の結果だけではなく、次の労働過程のための条件ともなります。たとえば鉄鉱石がそうでしたし、製鉄された鉄鋼もまた次の労働過程の原料です。

農業において蒔かれる種も、それ自体がすでに労働生産物です。それは前年の労働によって作られた生産物の一部が、また土地に蒔かれて翌年の生産物になるからです。つまり、種は人の手によってすでに作られた生き物であり、それが再び労働対象として労働過程に入ります。人類が採取経済を脱して農業をはじめたことの画期的意味が、そこにありました。

労働手段には、たとえば農具や工具、発達した機械装置などが含まれます。人間が労働対象を加工するのに使い、手の延長としての道具が労働手段です。定義すると、たいへん抽象的となり「労働者が自己と労働対象とのあいだに置き、この対象に対する彼の活動の導体として彼に役立つ物または諸物の複合体」となります。石鹸からコンピュータまですべてが労働手段であり、それが歴史の初期にあっては人類史の発展段階を示す尺度ともなっています。石器時代、青銅器時代、鉄器時代というようにです。

労働者が直接使うのは労働手段のほうであり、その「物の機械的、物理的、化学的諸属性を利用して、それらを彼の目的に応じて、他の物(=労働対象)に及ぼす力の手段として作用させる」のです。

労働手段が過去の労働の生産物であることは、誰の目にもはっきりしています。

土地は一面では労働対象ですが、労働手段でもあるのです。たとえば、土地はもっとも原始的な道具の一つである作業台となります。広い意味で考えると、労働するためには、人間が立って働けるあるいは工場を建てる地面が必要です。土地そのものはそう言う意味でも労働手段です。すでに労働の加わったこの種の労働手段として、運河や道路などがあります。

農業において、土地は単なる労働対象ではなくなっています。収穫を高めるために造成・整備され、そこに種(=労働対象)を蒔くのだから、農具と並んで土地そのものかが労働手段という側面ももつようになっています。

また、歴史的にみると、早い時代からすでに飼育動物が使われていました。動物を労働対象として食料にするのではなく、犬を狩りで使ったり、羊の番をさせたり、牛馬に犂を引かせて農耕を行なうなど、飼育動物の労働手段としての利用がとくにオリエント社会では早い段階から発達していた。

すでに労働が加えられた労働対象である原料の場合、もちろん生産物の主要実体をなすこともある。たとえば小麦はその主要実体となります。しかし、なかには補助的にその形成に立ち入るだけのものもあります。たとえば、そのパンを焼く窯の火を燃やす燃料です。焼き上がったパンにその原料は入りません。むしろ、残っていたら困るでしょう。

蒸気機関では石炭が消費されます。さらに機械油が運動部分をスムーズに動かすために少しずつ消費されます。直接生産物のなかには実体として現われず、労働手段によって消費される原料を補助材料とよびます。マルクスはそれを労働対象である原料に分類していますが、むしろ労働手段の一部と考えたほうがよいようなきもするところです。さらに作業場の照明や暖房のための要素も生産物の使用価値には現われませんが、その生産に必要な補助材料となります。

資本主義的生産様式では、労働過程に必要なすべての要素を用意します。生産手段と労働力を商品市場で買ってきます。資本家は必要な物をすべて習い、そしてそれを消費します。

その資本家のもとで労働者が労働するわけですが、その労働の一般的性質は、自営の労働者が物を作る場合と変わりありません。自営の靴屋が型紙に合わせて革を切り、それを縫って靴を作る労働と、資本家に雇われた靴工場の労働者が靴を作る労働は、とりあえずは変化がありません。さしあたり市場で資本家が見いだすままに生産手段を買い、そしてその労働も、資本主義以前から行われていた方法を引き継がれなければならなかったのです。

資本主義的に生産される生産物は、もちろん使用価値です。しかし、商品としての使用価値は自分のために必要な物ではなく、人のための使用価値、それを売って貨幣に転化するための、価値の担い手としての使用価値でありました。

つまり、第一に、資本家は使用価値と価値の二面性をもつ商品を生産しようとしています。また第二に、資本家は貨幣を資本に転化するために、それを生産のために購入(投資)した商品、すなわち労働力と生産手段の総額よりも高い価格で売るために、使用価値だけではなくて価値、価値だけではなく剰余価値を生産しようとしていたのでした。資本家にとって生産過程は、使用価値をつくる労働過程と、価値をつくる価値形成過程の統一でなければなりませんでした。

その視点からみると、労働過程では生産手段と生産的労働として現われたものを、資本家は資本として購入することになります。つまり、資本としての貨幣が転化した、資本としての商品の姿となります。資本としての生産手段は、使用価値を変えるだけで価値を増殖するものではないから「不変資本」、資本としての労働力は価値を増殖する使用価値をもつものだから「可変資本」と呼ばれます。

それでは資本主義的生産様式では、商品生産はどのように行われるのでしょうか。

産業革命によってイギリスが「世界の工場」になるうえでの中核的産業だったのが撚糸の生産でした。撚糸とはふつう木綿糸のことで、何本もの細い木綿繊維を撚って強い糸にしたものです。マルクスは、その糸を生産する紡績工場を例にして説明します。

まず原料は綿花であり、10ポンドの綿花の価値が10シリングとする。それでいっさいの補助材料をも代表させよう。綿花から撚糸を紡ぐ労働手段は紡績機で代表させよう。紡績機の紡錘は、できた糸を巻き取っていく部分だが、高速で回転するため摩擦する。10ポンドの綿花を防ぐと、2シリングの紡錘を消耗することにする。つまり、10ポンドの撚糸生産のために、労働対象と労働手段で合わせて12シリングが必要となる。できた撚糸の使用価値が、綿花と紡錘に代わってその価値の担い手になる。

もちろん、そのためには労働者によって撚糸労働が行われねばならない。社会的平均としては10ポンドの撚糸を作るためには6時間の労働を必要とする。したがって紡績労働を行う労働者の労働力消費の価値3シリングを支払わなければならない。その結果、生産手段価値12シリングに労働力価値3シリングを加えて、10ポンドの撚糸は15シリングの価値になります。

資本家は、15シリング(綿花10シリング+紡錘2シリング+労働力3シリング)を投資して生産した商品を売れば、15シリングを得られることになる。しかしそれでは1シリングも儲からない。資本家はおそらく言うであろう。

「自分は自分の貨幣を、より多くの貨幣にするつもりで投資したのだ。こんなだまし討ちは二度と食わない」

たしかにこれは現実の資本主義的生産とは違っています。そこで考えてみると、労働者にはその日1日の労働力価値3シリングを支払い、6時間働かせていました。しかし労働力価値である労働力再生産費(現象としては賃金)と、労働力の日々の支出(労働力商品の使用価値)は、まったく違う大きさでした。この資本家は、1日分の労働力を買ってその使用価値を6時間しか使わなかったのです。そこに問題があったわけで、そま使用価値をもっと使えばよかったというわけです。

そこで、労働者をもう6時間働かせたらどうなるか。労働力の日価値、つまり日賃金は3シリングで変わりません。そこで2倍働かせれば、当然20ポンドの糸が紡げることになります。それには綿花20シリングと、紡錘は2倍減ってしまうので、4シリングが必要になります。生産手段の合計24シリング+労働力価値3シリングで、27シリング投資すれば20ポンドの撚糸ができます。

撚糸10ポンドが15シリングだったから、撚糸20ポンドは30シリングで売れます。そうすると投資した資本27シリングに対して、商品の売上が30シリングになります。

ここに剰余価値3シリングが生産されたことになります。労働者1人ずつから1日3シリングです。

労働力の日価値が変わらないというところが重要です。労働力の使用価値である労働そのものは貨幣所有者に売られたものであって、労働者そのものではありません。貨幣所有者である資本家は、3シリングの労働力の日価値を支払いました。それによって、その日1日中の労働が彼のものとなりました。だから労働をまる1日行わせることができます。

種明かしをすれば、労働力の日々の維持のためには、この例でいえば、実際には6時間の労働しか必要としないという事情が、剰余価値の生産の秘密でした。それだけの生産力があることが、資本主義の前提になっています。つまり、労働力もその日の価値通りに売買され、等価交換の法則を守りながら、ついに剰余価値を生産することができたというわけです。

12時間の労働のうち6時間は、労働者の日価値分を再生産させる労働だったことになります。6時間で労働を終えてしまえば、剰余価値が生まれないことになるが、それを超えて働かせることによって剰余価値が生まれました。労働時間のうち、労働力価値の再生産分にあたる部分を必要労働時間とよび、それを超えて剰余価値を生産する部分を剰余労働時間とよびます。

必要労働時間を超えて労働時間が延長され、剰余価値が生産されることを、絶対的剰余価値の生産とよびます。

必要労働時間分の価値は支払われるから、これを支払労働、剰余労働時間分は支払われないので不払労働と呼ぶこともあります。また、この剰余労働の取得を搾取といいます。

搾取という言葉は、マルクス経済学の重要な概念としてきわめて有名ですが、その意味については誤解がきわめて多い。今みたように、搾取は労働者が剰余労働をさせられ、その分が不払労働として資本の所有になることをさします。ただしこれは労働力商品の使用価値に属することであって、その価値とは無関係のことだから、不払いは不法とはいえないのです。必要労働部分だけで労働力商品の価値は補填され、したがって、搾取されても労働力は再生産され、労働力は生きていくことができます。その仕組みを解明したのが、労働力商品の発見でした。

マルクスも不払労働という言葉が、資本家が「労働力の価値」に対してではなく、剰余労働時間を含めた労働時間のすべてに対して、価値を支払わねばならないという誤解を招きやすい通俗的表現だと注意を促しています。

ただし、現実には労働力の価値が完全に支払われず、過剰な搾取が行われることが多いのも事実です。それは後で出る「収奪」にあたるものといえます。搾取と同様、一般的にはこれも他人からなにかを奪い取るといった意味ですが、マルクスは両者をきちんと使い分けています。収奪は、他人の私有財産、とくに生産手段を奪うことであり、奪われた人間はそれまでのような生活ができなくなってしまう。たとえば、土地を奪われた農民は生活していくことができなくなります。

したがって、賃金が不当に低かったり、長時間労働や労働強化によって労働力が再生産できず、過労死したり短命化する場合は、労働者も収奪されていることになります。

そうなる理由は、剰余価値を増やすため、資本家は1日の労働時間をできるだけ延ばそうとするからです。8時間労働だったら剰余労働時間が2時間しかないのに、12時間労働だったらそれが6時間となり、剰余価値は3倍になります。そのため資本主義のもとでは労働日がきわめて長くなる傾向があります。

とはいえ、労働日の延長にはもちろん限界があり、それは二重に規定されています。

第一には労働者の肉体的限界によって規定される。人間は休息し、睡眠し、あるいは食事をし、入浴するというような、生理的欲求を充たさなければなりません。

マルクスは、労働日はなんと18時間まで可能性があると書いています。たしかに19世紀イギリスの現実として、16時間は珍しくなかった。本当に寝る時間を除いたすべてだったのです。

今の日本だったら通勤時間が2時間、往復で4時間とられるという人も少なからずいるでしょうが、マルクスの頃は通勤時間は短かったと思われます。バスはまだなかったし、一般的には工場の近くに労働者の住む町があって、歩いても20分程度までのところに住んでいたのでしょう。今でも夜9時まで残業して労働時間12時間に往復4時間かかると、16時間になります。労働のために日々16時間とられることがあるわけで、実質的には『資本論』の時代とあまりに変わっていないかもしれません。

 

〔本文とその読み(解説)〕

第1節 労働過程

労働とは

労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、労働力の売り手を労働させることによって、労働力を消費する。このことによって労働力の売り手は、現実に、活動している労働力、労働者になるのであって、それ以前はただ潜在的にそうだっただけである。彼の労働を商品に表わすためには、彼はそれをなによりもまず使用価値に、なにかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に表わされなければならない。だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値を、ある一定の品物である。使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行われることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである。

労働は、まず第一に人間と自然のあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。人間は、自然素材にたいして彼自身のひとつの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然を変化させる。彼は、彼自身の自然うちに眠っている潜在勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。ここでは、労働の最初の動物的な本能的な諸形態は問題にしない。労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に現われるという状態は、太古的背景のなかに押しやられているのである。われわれは、ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定する。蜘蛛は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているというのは、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからである。労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心象のなかに存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要がある。しかも、それは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。

労働力という商品の使用価値を実現させるということは、労働力という商品を消費することで、それは労働力の売り手である労働者に労働させることです。労働者は商品の売買の際には、実際には労働しているわけではないので、この時には、あくまでも労働力の売り手にすぎないわけで、労働をすることによって労働者となるわけです。

第1章第2節で考察したように商品の価値は労働によって表わされます。そこで労働の二面性など性格が分析されていましたが、そもそも労働とは何なのか、がここで考察されます。これは「資本論」の中でも基本的な概念であり、この概念の立て方に「資本論」の独自性があるので、ここでは、じっくりと呼んでいきたいと思います。

マルクスが労働について考える際の大前提は、人類が自然の一部であるということです。人間は有機体の一種であり、ほかのあらゆる有機体と同じように、たえず自然とやりとりすることによってしか生きることができません。人間は呼吸し、酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出します。食物や水を摂取し、尿や便として排泄します。他方、自然の側も、排出された二酸化炭素を植物の光合成をつうじて酸素に変換します。また、尿や便は土壌を肥沃にし、植物の育成を促します。

マルクスは、このような人間と自然のあいだの循環のことを、「人間と自然との物質代謝」と呼びました。人間は、他のあらゆる生命体と同じように自然の一部であり、何よりもまず、この物質代謝を通じて自らの生命を維持しているのです。

しかし、人間が必要とする自然とのかかわりはそれだけではありません。体温を保持し身体を防護するために衣服を作ったり、安定して食料を確保するために植物を栽培したり、安全な生活領域を確保するために住居を作ったりします。つまり、人間たちは自然との物質代謝を円滑に行うために、自分の行為によって、自然を変容させているのです。このような活動は、人間が自然との物質代謝を規制し、制御するという意味で、人間と自然との物質代謝の媒介だと言うことができます。

とはいえ、この場合もやはり、その複雑さや多様性によって区別されるとはいえ、ほかの生命体の活動と共通の性格を持っています。マルクスがここで挙げているような、蜘蛛が巣を張るという行為も、蜘蛛と自然との物質代謝の媒介であることに違いありません。

しかし、人間による物質代謝の媒介とほかの生物によるそれとには決定的な違いがあります。人間による物質媒介が意識的に行われるのにたいし、ほかの生物による物質代謝の媒介は本能的に行われるにすぎないということです(もちろん、人間以外の動物も一定の意識性をもっていますが、その程度が人間とは決定的に相違しています)。人間が労働する際には、まず構想をもち、それからこの構想にもとづいて行為し、これを実現します。それゆえ、人間による自然との物質代謝の媒介はすぐれて意識的行為であり、したがってまた知的行為なのです。このような、人間に固有な、自然との物質代謝の意識的な媒介のことを、マルクスは労働と呼びました。 

ここで、マルクスは労働を、「人間と自然の間で行われる過程であり、人間が自分の行為によって自分と自然の物質代謝を媒介し、調節し、制御する過程である」と言います。人間はいわば自然の贈与を受けることなくして、生存することができません。世界における人間の生存の第一の条件は自然そのものの豊かさと、その多産性です。しかも、人間はたいていの場合、自然素材をそのままのかたちで使用するのではなく、自分自身の生活のために使用可能な形態にして、それを獲得しています。すなわち人間は自然を加工して、自らにとって使用価値を持つものとして形成し、消費しているのです。このような意味での第1章第2節で言う有用労働は、いってみれば永遠の自然必然性にほかならない。たとえば採集経済にあっても、自然に自生している植物を刈り取ることは、すでに一種の労働です。そのようにして刈り取られた植物の実が、たとえば焼いたり、あるいは蒸したり、または粉に挽いたりしなければ食用とならないのなら、そういった加工のいっさいもまた労働であり、それは人間の生の必然であるとともに、自然の必然にほかならないのです。その必然によって強いられ人間が各種の労働を行うとき、人間は自然そのものに対して、みずからも自然力として相対することになります。しかもさしあたりは自らの身体性そのものが可能とする自然力として対峙しているのです。穂を刈り取るためには、上腕の適度な力を植物の茎に加えねばならず、畑を拓くためには根の張った大木を大地から切り離さなければなりません、人はまた、自然力を利用して、自然素材の形態変化を惹き起こし、自然力によって自然素材に相対します。人間はたとえば火を熾し、釜の中の水温を上げ、植物の実を調理したりもするのです。

でもいれだけなら、人間以外の生物も同じようなことをしています。マルクスも挙げているように「蜘蛛も、織物工と同じような作業をするし、蜜蜂は大工の棟梁も顔負けの構造の巣を作りだす」のです。労働とは人間だけが実現できるものです。では、この例で言う蜘蛛と織物工の違い、あるいは蜜蜂と大工の違いはどこにあるのでしょうか。

人間による物質媒介が意識的に行われるのにたいし、ほかの生物による物質代謝の媒介は本能的に行われるにすぎないとマルクスは言います。たとえば、先ほどの例で優れた蜜蜂と下手な大工をくらべて、後者は家を「すでに頭の中で作り終えて」おり、人間の労働においては、結果は「労働が開始されたときにすでに労働者が思い描いていたもの、彼の観念の中に存在していたもの」ものにすぎないと言っています。労働者は、つまり「自然的なもの」の形態を変えることで「自然に存在する物のうちに、自分の目的を実現する」のです。労働者自身は、その目的を意識しており、その目的の実現のために最良の方法を計画し、自身の器官を最大限に働かせるように注意を集中させる、その意識を目的を完遂するまで維持させるのです。その意志が人間の労働に特徴的なものなのです。

労働力を使用することは、労働そのものである。労働力の買い手は、労働力の売り手を労働させることで、労働力を消費する。それまでは労働力の売り手は、可能性としての労働力としての労働者だったが、労働することによって労働力の売り手は、現実に活動する労働力となり、こうして労働者となる。

労働者がみずからの労働力を商品のうちに表現するためには、何よりも労働力を使用価値のうちに、すなわちある種の欲望の充足に役立つ事物のなかに、それを表現しなければならない。こうして資本家は労働者に、特定の使用価値を、特定の物品生産させるのである。この使用価値の生産、すなわち財の生産は、資本家のために、あるいは資本家の管理のもとに行われるが、それによって生産の一般的な性質が変化することはない。だから労働過程はまず、いかなる特定の種類の社会的な形態とも独立した形で考察しなければならない。

労働とはまず何よりも、人間と自然の間で行われる過程であり、人間が自分の行為によって自分と自然の物質代謝を媒介し、調節し、制御する過程である。人間は自然の素材に対して、みずからも自然の力として向き合う。人間は自分の生活に使用できる形式で自然の素材をみずからも自然の力として向き合う。人間は自分の生活に使用できる形式で自然の素材をみずからのものとするために、腕、脚、頭、手など、自分の身体にそなわる自然力を働かせる。

この運動によって人間は自分の外なる自然に働きかけて変化させるが、同時にそれによって自分の内なる本性も変化させる。人間は自分の本性にそなわっていた潜在的な能力を発現させ、その力の営みをみずからの管理下においておく。ここでは、動物に近い原始的で本能的な労働形態は考察していない。労働者がみずからの労働力の売り手として商品市場に登場するときの状態は、人間の労働がまだ原始的で本能的な形態を脱していなかった遠い昔の状態とは、まったくかけ離れたものだからである。

わたしたちが想定するのは、人間だけが実現することのできる形態の労働である。たしかに蜘蛛も、織物工と同じような作業をするし、蜜蜂は大工の棟梁も顔負けの構造の巣を作りだす。しかしどんなに下手な大工たちにも、どれほど優れた蜜蜂よりも最初から優れている特徴がある。大工が[蜜蜂のように]蝋で巣を作るとしても、彼はすでに頭の中でそれを作り終えているのである。

労働過程の最後に出現するものは、労働が開始されたときにすでに労働者が思い描いていたもの、彼の観念の中に存在していたものの結果にほかならない。労働者は自然に存在するさまざまな物の形態を変えるだけではない。労働者は自然に存在する物のうちに、自分の目的を実現するのである。労働者はこの目的を認識しており、この目的は法則のように彼の行為の種類とやり方を決定するのであり、彼はこの目的を認識しており、この目的に自分の意志をしたがわせなければならない。この[労働者の意志の目的への]服従は決してそれだけの孤立した行為ではない。[目的の実現のために]労働者のさまざまな器官が働かせるだけではなく、目的にしたがおうとする意志が注意力という形で現れ、労働するすべての期間をつうじて、この注意力を維持する必要がある。労働そのものの内容や作業方法が、労働者にとって魅力のないものであればあるほど、つまり労働者が身体的および精神的な力の自由な営みとして、労働を楽しむことが少なければ少ないほど、ますますこの注意力が必要とされる。

 

労働過程の構成要素

労働過程を単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。

人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる)は、人間が手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象として存在する。労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は、すべて、天然に存在する労働対象である。それは、たとえばその生活要素である水から引き離されて捕えられる魚であり、原始林で伐り倒される木であり、鉱脈からはぎ取られる鉱石である。これに反して、労働対象がそれ自体すでにいわば過去の労働によって濾過されているならば、われわれはそれを原料と呼ぶ。たとえば、すでにはぎ取られていてこれから洗鉱される鉱石はそれである。原料はすべて労働対象であるが、労働対象はすべて原料であるとはかぎらない。労働対象が原料であるのは、ただ、すでにそれが労働によって媒介された変化を受けている場合だけである。

生産のためには少なくとも、生産的労働を行う労働力ないし労働者と並んで、労働対象と労働手段とが必要です。これらを生産の3要素と言い、この3要素が結合されて現実に何らかの有用な労働生産物が生産される過程を労働過程といいます。

労働過程を構成するのは三つの要素、つまり、自然の物質代謝のなかで人間だけが行うことのできる労働が、他の生物もできる物質代謝と区分される特徴的な要素は、第一に目的に適った行為、第二に労働対象、そして第三に労働手段です。

第一の目的に適った行為については、前のところで述べられたように、大工が家を建てるとき、あらかじめ頭の中で思い描いており、その実現を目的として行為をするということです。しかし、労働は、人間の目的意識的な活動だけでは可能ではありません。労働の対象となる自然や原料(人間の手が加えられた労働対象のことを原料と言います)が必要ですし、さらには労働手段となる道具や機械、あるいは作業を行う土地も必要となります。労働対象と労働手段は、生産物の側から見れば、いずれも生産のための手段なので、両者をまとめて「生産手段」と呼びます。それが、ここで挙げられている労働過程を構成する三つの要素です。

では第二の要素が労働対象です。労働の対象となる自然や原料です。たとえば「大地」は、そこを流れる水とともに人間が手を加えなくても最初から労働の一般的な対象として存在しているものです。もともと人間に食料や、そのままで利用できる生活手段を提供してくれたものでした。人間は労働によって、様々なものを「大地」との直接的な結合から引き離すことをします。その引き離すものが「自然に存在する労働対象」で、例えば、水から分離される魚、原始林で伐採される木、鉱脈から剥ぎとられる鉱石などです。

これに対して、労働対象がすでに「人間の過去の労働によって濾過されて」いる場合マルクスはとくにそれを「原料」と呼びます。たとえば、すでに採掘されて、これから洗鉱される状態の鉱石は原料です。原料はすべて労働対象ですが、労働対象がすべて原料ではありません。原料は労働によって自然状態から引き離されたものです。だから、大地の鉱脈に埋まっている鉱石は原料ではありませんが、労働の対象です。

労働過程を構成する単純な要素は、[第一に]目的に適った行為、すなわち労働そのものであり、[第二に]労働対象であり、そして[第三に]労働手段である。

大地は(経済的な意味では水も大地に含まれる)、もともと人間に食料や、そのままで利用できる生活手段を提供してくれたものだった。これは人間が手を加えなくても、人間の労働の一般的な対象として存在しているものである。労働はさまざまな物を[大地からうけとって]大地との直接的な結びつきから引き離すが、こうした物は自然に存在する労働対象である。たとえば自分の生活環境である水から引き離されて捕獲される魚、原生林で伐採される樹木、鉱脈から採掘される鉱石などが、こうした物である。

これにたいして労働対象そのものが、人間の過去の労働によっていわば〈濾過されている〉場合には、それは原料と呼ばれる。すでに採掘されてこれから洗鉱される状態の鉱石は原料である。すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象が原料であるわけではない。労働対象が原料と呼ばれるのは、すでに労働によって媒介された変化が発生している場合だけである。

 

道具の意味

労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけ導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である。労働者は、いろいろな物の機械的、物理的、化学的な特性を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる。労働者が直接に支配する対象は─完成生活手段、たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつのであるが、このような場合は別として─労働対象ではなく、労働手段である。こうして、自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になる。その器官を彼は、聖書の言葉にもかかわらず、彼自身の肉体器官につけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばすのである。土地は彼の根源的な食料倉庫であるが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもある。それは、たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を提供する。土地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役だつためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提する。およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具や石製の武器が見いだされる。加工された石や木や骨や貝からのほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用と創造は、萌芽としてはすでにある種の動物も行うことだとはいえ、それは人間特有の労働過程を特徴づけるものであり、それだからこそ、フランクリンも人間を道具を作る動物だと定義しているのである。死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判断にとっては労働手段の遺物がもっているのである。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区分するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行われる社会的諸関係の表示器でもある。労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけでその全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、たとえば管や槽や籠や壺などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかにより決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業ではじめて重要な役割を演ずるのである。

労働過程の三つの要素の三番目が労働手段、つまり道具のようなものです。労働者による労働対象へのはたらきかけに際し、その媒介として役立つ「さまざまな事物の複合体」が「労働手段」です。原始的には、例えば、樹木から果実を手でもぎとるように人間の身体器官それ自体が労働手段であるけれども、人間はやがて手の延長としての「自然的なもの」をじぶんの「活動の器官」として利用するようになります。道具の使用がそうです。「大地」はそれ自体が人間にとって「本源的な食糧庫」であるばかりでなく、同時にまた人物の「労働手段の本源的な武器庫」です。たとえば、石はそれを投げたり、こすったり、つぶしたり、切ったりするのに使うことができます。このようなさまざまな石器、の他に木や骨や貝殻でつくられたものなど。大地そのものが、農地として、すでに一つの労働手段でもありますが、それが農耕のための労働手段として役立つようになるためには、他のさまざまな労働手段と、かなり高度に発展した労働力が前提となります。また、人類史にあってすでに永く「飼い慣らされた動物」すなわちすでに労働を加えられた動物が重要な労働手段となっています。

労働手段は人間に特有な労働過程の特徴です。「労働手段は人間の労働力の発達を測る測定器であるだけでなく、労働が行われた社会的な関係を表示する装置でもある」とマルクスは言います。これは、労働過程を、いかに高い品質にするか、つまりは生産を効率化し、品質を高めるかということに関係し、他の生物では結果オーライで、プロセスには多くの注意を払わないのに対して、人間は結果だけでなく、プロセスも意識するということを示していることになるからです。

労働手段とは、労働者が自分と労働対象のあいだに割り込ませる物あるいは物の複合体であり、これは労働者が労働対象に加える行為の〈導き手〉となるものである。労働者はこうした物の機械的、物理的、化学的な特性を利用して、自分の目的にふさわしい形で、他の物に力を加える手段として、こうした物を働かせる。労働者が直接に支配している物は、労働対象ではなく、労働手段である。ただし[樹木から]果実をもぎとる場合のように、そのまま自分の身体の器官だけを労働手段として用いる場合など、すでにできあがっている生活手段は別で[労働手段ではなく、労働対象で]ある。

このようにして自然にある物そのものが労働者の活動の器官になる。労働者はこうした器官を自分の身体の器官とともに利用し、聖書の教えとは反対に、自分の自然の姿を延長するのである。大地は労働者にとっては本源的な食糧庫であり、さらに労働手段の本源的な武器庫でもある。大地はたとえば労働者に石を与えてくれる。彼はそれを投げたり、こすったり、つぶしたり、切ったりするのに使う。大地そのものがすでに一つの労働手段であるが、それが農耕のための労働手段として役立つようになるためには、他のさまざまな労働手段と、かなり高度に発展した労働力が前提となる。

一般に、労働過程が多少とも発達してくると、すぐに加工された労働手段が必要となる。最古の時代の人類の洞窟にも、石器や石製の武器がみつかる。人類史の黎明の時代には、加工された石、木、骨、貝殻だけではなく、飼い慣らされた動物が労働手段として主要な役割を演じている。こうした飼い慣らされた飼育動物は、すでに人間の労働によって変化をこうむっているのである。

人間以外のある種の動物でも、労働手段の使用と創造はいわば萌芽としてみられるが、それでもこれは人間に特有な労働過程の特徴である。そこでフランクリンは人間を「道具を作る動物」と定義したのである。絶滅した種の動物の身体構造を調べるには、残された骨の構造が重要な遺物となるように、労働手段の遺物は、没落した経済的な社会構成体を判断するための重要な手掛かりとなる。何が作られたかではなく、いかにして、どのような労働手段を用いて作られたかが、経済的な時代を区分するための基準となる。

労働手段は人間の労働力の発達を測る測定器であるだけでなく、労働が行われた社会的な関係を表示する装置でもある。労働手段としてはまず、機械的な労働手段がある。これは生産の骨格と筋肉の系統であり、社会的な生産の時代を区別するための基準として重要な役割をはたす。これほど重要ではない労働手段としては、労働対象の容器として使われるものがある。これはごく一般的に、生産の血管系統とも呼べるものであり、筒、樽、籠、壺などを挙げることができる。この生産の血管系統が重要な役割をはたすようになるのは、化学工業が登場してからのことになる。

 

広義の労働手段

もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに教えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介ししたがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行われるために必要なすべての対象的条件がある。それらは直接には過程にはいらないが、それらなしでは過程がまったく進行することができないか、またはただ不完全にしか進行することができない。この種類の一般的な労働手段はやはり土地そのものである。なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所を与え、また彼の過程に仕事の場を与えるからである。この種類の労働によって媒介されている労働手段は、たとえば作業用の建物や運河や道路などである。

広い意味での労働手段にはまた、およそ労働過程が行われるために必要な「対象的条件のすべて」も含まれます。その中には、労働の働きを対象に媒介する手段、すなわち何らかの方法で活動の〈導き手〉となる手段があり、さらに労働過程そのものが発生するために必要なあらゆる対象的な条件があります。マルクスは、その代表的な例として「大地」をあげます。「大地」は労働対象として例示されていました。たとえば農業における土地は、労働を働きかける対象であるとともに、働きかけるための足場でもあるので、間接的な労働手段でもあるのです。この種の労働手段として、ここでは労働するための建物、運河、道路などが挙げられています。

このように労働手段とか労働対象という区別は、その使用価値的性質から機械的に導き出せないのであって、労働過程そのものにおけるその独自の位置や役割によって相対的に規定されます。

さらに広い意味で労働過程の労働手段に含められるものとして、労働の働きを対象に媒介する手段、すなわち何らかの方法で活動の〈導き手〉となる手段があり、さらに労働過程そのものが発生するために必要なあらゆる対象的な条件がある。これらは直接に労働過程に入りこむことはないものの、これなしでは労働過程がまったく進まないか、完全な形では進むことができないものである。

この種の一般的な労働手段はまたしても大地そのものである。大地は労働者にその立つべき場所を与え、労働過程に作業空間を与えるからである。この種の労働手段としては労働するための建物、運河、道路などがあるが、これらもやはりすでに労働によって媒介されているのである。

 

生産的な労働

要するに、労働過程では人間は活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化を引き起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。

この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現れる。

ある一つの使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ以前のいくつもの労働過程の生産物である別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいって行く。この労働の生産物であるその同じ使用価値が、あの労働の生産手段になる。それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもあるのである。

労働過程とは、労働の供給者である労働者が労働手段を使って活動し、当初の目的に応じて労働対象を変化させるというプロセスです。しかし、労働過程で生産された生産物からは、労働過程は見えません。たとえば、生産されたワインは飲むという使用価値として現われています。あるいは葡萄が形態を変化させて、飲むという人の欲望をみたすようになった素材です。ワインを生産するというブドウという素材を加工するプロセスが労働過程で、そこでの労働は使用価値を作るという目的のために、対象である原料の葡萄を生産手段である道具を使って加工するという過程です。その結果として生産された存在がワインです。

この過程を、生産物からの視点で見てみると、労働手段、つまり生産の道具も、労働対象つまり原料も、ともに生産手段として、労働は生産的な労働として現われます。単純にこれだけならば、人が生きて生きてくために食べ物を生産するということで、単純に生産物だけを取り出せば、そうかどうかはわかりません。

というのも、労働力の提供である労働過程は、使用価値である生産部を現わすことですが、この労働過程には、それ以前の労働過程で生産された生産物、これは別の使用価値をあらわすものですが、その生産物が労働手段や労働の対象として使われている。反対に、この労働過程で現わされた生産物は、この後の労働過程に労働手段として投じられることになります。つまり、労働過程の生産物は労働過程が繰り返されるということのなかで、労働過程の結果であったり、生産条件であったりするのです。

このように労働過程において、人間は労働手段を使って活動し、当初の目的におうじて労働対象を変化させる。この労働過程は生産物のうちではみえなくなっている。そこで作られた生産物は使用価値であり、形態を変化させて人間の欲望を満たすようになった自然素材である。労働はその対象と結びついた。労働は対象化され、対象は労働を加えられた。労働者においては[せわしない仕事の]落ち着きのなさという形で現れていたものが、生産物においては落ち着いた特性として、存在するものという形で現れる。労働者は紡ぎ、その生産物は紡がれた糸となる。

この過程の全体をその成果である生産物という観点からみると、労働手段と労働対象とともに生産手段として現われ、労働そのものは生産的な労働として現れている。

労働過程からは、ある使用価値が生産物として出てくるが、反対にこの労働過程には、それ以前の複数の労働過程の生産物であった別の使用価値が生産手段として投じられている。この労働の生産物である使用価値は、さらに次の労働の生産手段となるのであり、生産物は労働過程の結果であると同時に、その条件でもある。

原料

鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで)のように、その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。たとえば農業における種子がそれである。自然の産物とみなされがちな動物も、おそらくは前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態にあっては、多くの世代をつうじて人間の制御のもとに人間労働を介して継続された変化の産物である。しかし、特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示しているのである。

原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありうる。補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、干草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂泊されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や暖房のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。主要材料と補助材料の区別は本来の化学工業ではあいまいになる。なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実態として現われるものはなにもないからである。

物はそれぞれさまざまな性質をもっており、したがっていろいろな用途に役だつことができるので、同じ生産物でも非常にさまざまな労働過程の原料になることができる。たとえば穀物は製粉業者や澱粉製造業者や酒造業者や飼畜業者などにとっては原料である。それは種子としてはそれ自身の原料となる。同様に、石炭は生産物として鉱山業から出てくるが、生産手段としてはそれにすいってゆく。

同じ生産物が同じ労働過程で労働手段としても原料としても役だつことがある。たとえば家畜の飼育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。

消費のために完成された形態で存在する生産物が、たとえばぶどうがぶどう酒の原料になるように、新しく別の生産物の原料になることもある。または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかには使いようのない形態で手放すこともある。この状態にある原料、たとえば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれるが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、いろいろな過程から成っている一つの全過程を通らなければならないことがあり、その場合には、それを完成生活手段または完成労働手段として押し出す最後の労働過程にいたるまでの各過程で、絶えず変化する姿で絶えず繰り返し原料として機能するのである。

要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行う特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変わればかの諸規定も変わるのである。

労働対象については、狩猟や漁業、あるいは鉱業などでは自然から採取します。これらの労働過程は、その採取という行為で、採取されたものが生産物ということになります。これらの産業をマルクスは採取産業と呼んでいます。しかし、ほとんどの産業は、このような採取産業ではありません。採取産業以外の産業では労働対象には原料を使用します。原料とは。労働の産物です。たとえば、農業では農産物という生産物を結果として生産しますが、その原料は種子です。種子は前年の農産物の一部であったり、他の生産者によって種子として生産されたものを購入して、使用します。このような農業の場合などがそうですが、原料となる種子は自然の産物であり、採取産業のようにも見えますが、あるいは牧畜の場合、家畜の餌となる牧草は自然に生えているので採取のようにも見えますが、こうしたものは、前年の生産物や他の生産者が生産したものでなくても、長年にわたって、何世代もかけて、人間の管理や人間の労働によって形成されてきた生産物と言えるのです。たとえば、植林された杉林は、自然の山林ではなく、木材という原料を生産していると言えるのです。とくに、労働手段となるようなものには、表面的に見ても、そういう過去の労働の痕跡を容易に見て取ることができるものです。

このような原料が主要な材料となる場合もありますが、その他に、たんに補助材料として、生産物の形成に関与するだという場合もあります。補助材料とは、労働手段として使われる(消費される)もので、マルクスが挙げている例としては、蒸気機関で燃料(生産手段)として石炭が消費される、あるいは歯車がスムーズに回転するために潤滑油が消費される、あるいは馬車を引く馬の餌として干し草が消費されるといったようなものです。そしてまた、亜麻布を漂泊するために漂白剤として塩素が消費される、あるいは鉄の製造のために溶鉱炉の燃料として石炭が消費される、あるいは羊毛を染めるために染料が消費されるなどのよう素材を変化させるための補助材料として原料に加えられる。そしてまた、作業場の照明や暖房のために燃料として薪や石炭を消費するように労働の遂行そのものの補助となる役割をはたす。

どんな物にも、様々な特性が備わっていて、ケースバイケースで、様々な用途に利用できます。それゆえ、同じ生産物でも、多様な労働過程で原料として利用されることが可能です。マルクスが例として挙げているのは、穀物に関係して、製粉業者も澱粉製造業者も醸造業者も家畜飼育業者などが小麦粉や澱粉の主要材料として、あるいは発酵させてビールを絞る原料として、あるいは家畜の餌として消費するわけです。また、その穀物が同じ穀物の種子として、それ自身を生産するための原料として使用されることもあります。また、石炭は前にも例として挙げられていましたが、鉱業の生産物であるし、同時に石炭を採掘する機械の動力としての蒸気機関の燃料でもあるし、蒸気機関をつくるための鉄鋼を生産するための溶鉱炉の燃料としても使用されているのです。

また、同じ生産物が同じ労働過程において、労働手段として利用されると同時に原料としてとして利用されることもあります。マルクスが例として挙げているのは、家畜の飼育において、家畜は食肉に加工するための原料でふり、また家畜の糞は肥料の材料としても利用されるというものです。

また、葡萄の果実がワインの原料となるように、そのままで葡萄として食べるという消費ができる生産物が、新たにワインという他の生産物の原料になるということもあります。そしてまた、労働の生産物が、労働の原料として使用するための形態に変えられることもあります。マルクスが挙げている例は、綿花、糸、紡ぎ糸で、この状態の原料は半製品、あるいは中間製品と呼ばれます。この場合、当初の原料が、すでに生産物であっても、様々な過程の中で、一つの過程ごとに姿を変えていき、それぞれの過程で、次の過程の新たな原料となっていく、そして、最終的な労働過程の後にはじめて完成した生活手段や労働手段として、結果の生産品となるものです。綿花から糸が作られ、その糸が撚られて紡ぎ糸となり、その紡ぎ糸が織られて布となる、という具合です。

これらの様々なケースをまとめると、ある一つの使用価値が原料として姿を現したり、労働手段として姿を現したり、あるいは生産手段として姿を現したりする。さまざまなケースがあり、それがどのような形で姿を現すのかは、その使用価値が労働過程においてどのような特定の機能を果たしていくか、どのように地位を占めているかによって決まってくるということです。

鉱業、狩猟、漁業などは、労働対象を自然のうちから採取する産業であるが(農耕の場合は、処女地そのものを最初に開墾する場合だけがこうした採取産業とみなされる)、こうした採取産業をのぞくとするすべての産業分野では原料を対象として利用する。原料とは、労働によってあらかじめ〈濾過〉された労働対象であり、それ自体がすでに労働の生産物である。たとえば農業における種子がこうした原料である。

人間は動物や植物を自然の産物とみなしがちだが、こうしたものも、おそらく前年の労働の生産物であるだけでなく、現在のような形になるまで、いくつもの世代を経て、人間の管理のもとで、人間の労働によってたえず変化してきた生産物なのである。とくに労働手段は、ごく表面的にみても、過去の労働の痕跡を残しているものが大多数である。

この原料が生産物の主要な内容となる場合もあれば、たんに補助材料として、生産物の形成に関与するだけの場合もある。補助材料は労働手段によって消費される。たとえば蒸気機関で石炭が消費され、歯車によってオイルが消費され、馬車馬によって干し草が消費されるのである。漂泊していない亜麻布を漂泊するために塩素が利用され、鉄の製造のために石炭が利用され、羊毛を染めるために染料が利用されるのも、素材に変化を起こすために、補助材料として原料に加えられるのである。また作業場の照明や暖房のために使われる[石炭や薪などの]物質のように、労働の遂行そのものを助ける役割をはたす補助材料もある。ただしほんらいの化学工業では、利用された原料が生産物の物質的な内容としてふたたび姿を現すことがないため、主要材料と補助材料の区別はあいまいなものになる。

どんな物にも多様な特性がそなわっていて、さまざまな用途で利用できるため、同じ生産物をきわめて多様な労働過程で原料として利用することができる。たとえば穀物であれば、製粉業者、澱粉製造業者、醸造業者、家畜飼育業者などが、原料として使用することができる。また同じ穀物が種子として、それ自身を生産するための原料として利用されることもある。また石炭は、鉱業の生産物であると同時に、鉱業で生産手段として利用されている。

同じ生産物が同じ労働過程において、労働手段として利用されると同時に原料として利用されることもある。たとえば家畜の飼育である。家畜は[肉として]加工するための原料であると同時に、[その糞を利用して]肥料の製造のための手段ともなる。

ブドウの果実がワインの原料となるように、そのままで消費できる生産物が、新たに他の生産物の原料になることもある。あるいは労働によって、労働の生産物がふたたび原料として使用するしかない形態に変えられることもある。綿花、糸、紡ぎ糸などがその例であり、こうした状態の原料は半製品と呼ばれるが、中間製品と呼ぶべきだろう。当初の原料は、それがすでに生産物であっても、さまざまな過程の全体を経過し、一つの過程ごとに姿を変えていき、たえず次の過程の新たな原料として機能し、最終的な労働過程の後に初めて完成した生活手段や労働手段として、労働過程を終えるものもある。

要するに、ある一つの使用価値が原料として姿を現すか、労働手段として姿を現すか、それとも生産物として姿を現すかを決めるのは、その使用価値が労働過程においてどのような特定の機能をはたしているか、どのような地位を占めているかということである。地位が変われば、その規定も変わるのである。

 

労働の生産的消費

それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。それは、ただ生きている労働の対象的要因として機能するだけである。紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。もちろん、紡績材料や紡錘なしでは紡ぐことはできない。だから、これらの生産物が現にあるということは、紡錘が始まるときには前提されている。しかし、この過程そのものでは、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物だということはどうでもよいのであって、それは、ちょうど栄養という行為ではパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはどうでもよいようなものである。むしろ反対に、もし労働過程にある生産手段が過去の労働の生産物としての性格を感じさせるとすれば、それは欠陥のためである。切れないナイフや切れがちな糸などは、刃物屋のAとか蝋引工のEをまざまざと思い起させる。できのよい生産物では、その使用属性が過去の労働に媒介されているということは消え去っているのである。

労働過程で役だっていない機械は無用である。そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵される。鉄は錆び、木は腐る。織られも編まれもしない糸は、だめになった綿である。生きている労働は、これらの物をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければならない。労働の火になめられ、労働の肉体として摂取され、労働過程で自分たちの概念と使命とにかなった機能を果たすように活気づけられて、これらの物は、たしかに消費されるにはちがいないが、しかし、目的に適するように消費されるのであり、生活手段として個人的消費にはいるかまたは生産手段として新たな労働過程にはいることのできる新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費されるのである。

このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。

労働はその素材的要素を、その対象と手段を消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は、消費者とは別の生産物である。

その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費する。言い換えれば、生産物の生産手段として生産物を利用する。しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行われるように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしていない生産手段も役だっているのである。

生産物は、ひとつの労働過程の結果です。しかし、新たな労働過程に入ると、その生産手段として利用されることになり、生産物としての性格を失うことになります。つまり、その生産物は、その本来の使用価値を消費されるのではなく、次の労働過程の対象化された要素として利用される以外の利用はされなくなるのです。たとえば、紡績工は紡錘を紡ぐための道具としか見ません、亜麻を紡ぐ対象としか見ません。しかし、亜麻は紡ぐための対象であるし、紡錘は紡ぐための道具であり、これらは、紡ぐという労働過程に不可欠です。ということは、亜麻や紡錘は紡錘労働がちゃんと動くための前提となっています。

しかし、ここでの労働過程そのものでは、亜麻と紡錘が、前の別の労働の生産物であるかどうかは、とくに問題ではない。そのようなことに注意を払われる必要はないのです。栄養の摂取という観点、ここの例ではパンを食べる際には、そのパンが小麦をつくる農民、小麦粉をつくる製粉業者、パンを焼くパン屋の過去の労働の生産物、誰が小麦を作ったかとかいうようなことには問題にされないのです。それが問題にされるのは、そういう生産手段に欠陥が見つかったような場合です。ナイフが切れないと感じたら、それを製造した刃物工は誰かと追及したくなりますし、糸がすぐに切れてしまうと、それに蝋引きをしたのは誰かと怒りを覚える、あるいはパンが不味かったりすれば、パン屋に苦情を言いたくなる、という具合です。その生産物に欠陥がなく、優良な生産品であれば、それが過去の労働で、誰かによってつくられたということは意識されず、忘れられてしまっている。

生産機械は便利なものですが、その労働過程で実際に使われていないのであれば、それは無用の長物でしかありません。形あるものは滅びるといいますが、機械は使わないで、放置しておけば、鉄の部分し錆びてくるし、木材の部分は腐ったり、朽ちてきます。そのようにどんどん劣化してしまいます。あるいは、原料にしても労働過程で使われないものは、無駄なもの、ごみと同じです。しかし、それが労働過程で使われることになれば、失せていた、それらの価値が甦ることになります。使われない生産品にも、それ自体の使用価値はあったのでしょうが、それは使われないことで実現していなかった、いわば可能性の状態にあったのです。しかし、それが労働過程で使われることで、使用価値が現実化した。これらは、労働過程によって使用されることで新たに使用価値をもたされた。使用するということは消費されることです。それらは消費されるといっても新しい生産物の構成要素となって、生まれ変わると言えます。

だから、生産物というのは労働過程の結果として存在してるものですが、新たな労働過程が成立するための条件になります。それゆえ、過去の労働の生産物を使用価値として維持、実現させるための唯一の手段は、新たな労働過程の生産対象、あるいは生産手段として、使用することなのです。

それゆえ、労働は生産物である生産対象や生産手段を使用、つまり消費するということです。このような労働過程における生産物の消費は、生産的な消費として、マルクスは個人の消費と区別しています。個人の消費は生産物を生きた個人の生活手段として使いはたす。たとえば、ワインを飲む、パンを食べる、服を着る。それをマルクスは消費者自身を生産するという言い方をします。これに対して、生産的な消費は生産部を労働のための手段として消費します。したがって、生産的な消費は生産物を生みだすのです。

これを逆に、労働対象や労働手段の側から見れば、そもそも労働対象も労働手段も生産物なのです。その限りで、労働過程はそれらを使用するわけですから、生産物を生みだすために生産物を消費するということになります。もともとの労働過程は、人間の手が加わることなく存在していた大地、つまり自然と人間との間で生まれたことでした。

だから生産物は生産手段として新たな労働過程に入ることで、生産物としての性格を失うのである。この生産物は、生きた労働の対象化された要素として機能するしかなくなる。紡績工は紡錘を、紡ぐための道具としかみなさないし、亜麻を、紡ぐための対象としかみなさない。もちろん紡ぐ素材[である亜麻][紡ぐ道具である]紡錘がなければ、そもそも紡ぐことはできない。だからこれらの[亜麻や紡錘などの]生産物が存在していることは、紡錘労働を始めるための前提となる。

しかしこの労働過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であるかどうかは問題ではない。栄養の摂取という観点からみれば、パンが農民、製粉業者、パン屋などの過去の労働の生産物であるかどうかは問題ではないのと同じである。むしろ話は逆であって、ある生産手段が過去の労働の生産物であったことが想起されるのは、労働過程において生産手段の欠陥があらわになった場合なのである。ナイフが切れないと、それを製造した刃物工の顔を思いだすし、糸がすぐに切れてしまうと、それに蝋引きをした労働者の顔を思いだすという具合である。生産物が優秀であれば、その使用特性が過去の労働によって媒介されたものであることは消え失せているのである。

労働過程で使われない機械は無用のものである。さらに機械は、自然の物質代謝の破壊力にさらされている。鉄は錆びるし、木は朽ちる。織りあげられない糸や、編まれない糸は、無駄になった綿花にすぎない。生きた労働はこれらの物を使うことで、死者の中から呼び覚まし、たんなる可能性にすぎない使用価値を現実的で有効な使用価値に変化させなければならない。それらのものは労働の〈火〉になめられ、労働の肉体としてとり込まれ、労働過程における概念や職務にふさわしい機能を与えられて、消尽される。これは消尽されるが、目的をもって消尽されるのであり、新しい使用価値をもったものとして、新しい生産物の構成要素として消尽されるのである。その生産物は個人の生活手段として新しい労働過程に進むことができる。

だから存在する生産物は労働過程の結果であるだけでなく、労働過程そのものの存立条件でもある。こうして、過去の労働の生産物を使用価値として維持し、実現するための唯一の手段は、こうした生産物を労働過程のうちに投げ込み、生きた労働と接触させることなのである。

労働はその素材的な要素を、その対象を、その手段を消費し、食べ尽くす。このように労働は消費する過程なのである。この生産的な消費と個人の消費の違いは、個人の消費は生産物を、生きた個人の生活手段として使いはたすが、生産的な消費は生産物を、労働のための生活手段として、個人の活動する労働力の生活手段として使いはたすことにある。だから個人消費は消費者自身を生産するが、生産的な消費が生みだす結果は、消費者ではない生産物である。

労働手段も労働対象もそもそもすでに生産物であるかぎりで、労働は生産物を生みだすために生産物を消尽する。すなわちある生産物を、別の生産物を生産するための手段として消尽するのである。ところでもともとの労働過程は、人間の手が加わることなく存在していた大地と人間のあいだでのみ生じたものだった。だが人間の労働がまったく加えられていない自然の素材、自然に存在する自然物が生産手段として利用されることもある。

単純で抽象的な労働過程

これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである。それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。小麦を味わってみても、だれがそれをつくったのかはわからない。たとえば、奴隷監視人の残酷な鞭のもとでか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、あるいはまたキンキンナトゥス[古代ローマの将軍、隠退して耕作した] がわずかばかりの土地の耕作でそれを行うのか、それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行うのか、というようなことはなにもわからないのである。

これまでは、労働過程を単純化し、抽象化して記述してきました。それでまとめると、労働過程は使用価値を作り出すという目的を実現させるための行為ということができます。このような労働過程は、人間の欲望を充たすために自然に存在するものを取得する行為であり、人間と自然の物質代謝のための一般的な条件であり、人間の生を規定する自然の条件です。この節の最初でマルクスは、労働を「人間と自然の間で行われる過程であり、人間が自分の行為によって自分と自然の物質代謝を媒介し、調節し、制御する過程である」と定義していますが、それは、このように労働を単純化し、抽象化して捉えたものです。この場合、人間と労働を、そして自然とその素材を考察したのでした。

これまでは労働過程について、単純で抽象的な要素に注目して記述してきたが、この労働過程は使用価値を作りだすという目的に適った行為である。この労働過程は人間の欲望を充足するために自然に存在するものを取得する行為であり、人間と自然の物質代謝のための一般的な条件であり、人間の生を規定する永遠の自然条件である。だからこれは人間の生のいかなる形式にも依存せず、すべての社会形態に共通したものである。ある労働者と別の労働者の関係を考察する必要がなかったのはそのためである。人間と労働を、そして自然とその素材を考察すれば十分だったのである。

小麦[で作られたパン]を味わっても、それを誰が栽培したのかは分からない。それと同じく[小麦が栽培された]労働過程をみても、それがどのような条件のもとで行われたのかは分からない。奴隷監督者の残酷な鞭のもとで栽培されたのか、資本家の不安なまなざしのもとで栽培されたのか、[古代ローマで田園生活を享受していた]キンキナトゥスのような人物が自分の狭い畑で栽培したのか、石で野獣を殺すような原始人が栽培したのかは、分からないのである。

 

資本制生産様式における労働過程の特徴

われわれの将来の資本家のところに帰るとしよう。われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要なすべての要因を、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを、買ってからのことだった。彼は、抜けめのないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とかいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とをすでに選び出した。そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうことによっては、もちろん変わらない。また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかという特定の仕方も、さしあたりは資本家の介入によって変わるわけではない。資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じたままで受け取らなければならない。労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。

ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行われるものとしては、二つの特有な現象を示している。

労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。資本家は、労働が整然と行われて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具がたいせつにされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむをえないかぎりでしか損傷されないように、見守っている。

また第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない。資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、自分の労働を与えるだけである。彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのである。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。彼の立場からは、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物のあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。

ここからは、資本制生産様式、つまり資本主義経済において資本家が労働者を雇って生産するするというあり方について見てゆきましょう。資本家は、商品市場で労働過程に必要なすべての要素、つまり労働対象と生産手段、そして人的な要素である労働力を購入します。しかし、彼は、自分で現場に立ち入り、それらを自ら直接消費するわけではありません、彼の専門は、生産物を生産することではなく、市場で、そのため(生産物を生産するという自らの事業)の最適な要素を購入することです。

資本家は、購入した商品である労働力を消費します。それは、労働力の担い手である労働者に労働させて、生産対象や生産手段を消費させるのです。一方、労働者の方は、生産対象や生産手段を自分のためにではなく、資本家のために消費しますしかし、だからといって、その労働過程の内容が変化するわけではありません。たとえば、自分のためにつくるのでも、資本家のためにつくるのでも、紡績をするということ、そのやり方は同じで、変わりません。

資本家は、さしあたり労働力を市場でみつけてきたままの形で受け取り、消費するしかありません。労働力が何をするかということは、以前の資本家というものが未だ存在していなかった時代からずっと行われていることを行うということが期待されていて、資本はそれを購入するわけです。そうでなければ、資本家は労働力を購入する目安がないわけです。ただし、資本主義経済が進展し、産業革命により労働過程の内容が大きく変化しますが、それは、この後、つまり、資本家が労働力を市場で調達するというシステムが定着してからです。

このような資本家が労働力を消費するという労働過程には二つの特有な現象があるとマルクスは指摘します。

一つは、労働力を担う労働者は、彼の労働を所有している資本家の監督のもとで労働します。資本家はその労働を監督しながら、労働が秩序正しく行われ、生産手段が目的に適って使用され、原料が無駄になることがなく、労働のための道具が大切に扱われ、このような道具の消耗が、労働において使用するために必要な最小限に抑えられるように目を配るのです。

二つ目は、生産物は直接の生産者である労働者のものではなく、資本家の所有物になります。資本家は労働力の価値にたいして例えば日払いで(賃金を)支払いをする。その一日のあいだは、すべての商品の使用権と同じように、その労働力の使用権は資本家のものです。商品の使用権は、その商品を購入した人のものです。実際に労働力の所有者は労働することで、自分が販売した労働力の使用価値を提供するのです。労働者が資本家の仕事場に足を踏みいれた瞬間から、彼の労働力の使用価値は資本家のものであり、資本家は労働力の使用である労働を自分のものとするのです。

まとめるとこうなるでしょう。労働者はいつの時代においても、種々の生産手段を用いて自分の生活にとって必要な生産物を作り出すことで、自分たちの生命と生活とを再生産してきました。どんな社会もこのような日々の生産行為なしには1日たりとも成り立たないのです。この場合の生産物は労働者自身の所有となるものであり、その使用価値は労働者が使用するためのものでせす。労働過程は、人類史全体に共通するこのような社会的物質代謝の過程でもあるわけです。しかし、資本主義においてはそれは資本の支配と管理のもとで行われ、したがって資本主義的に特殊な性質を帯びることになるのです。資本家は生産手段と労働力とを購入してそれを労働過程で結合して生産を行うというのです。しかも、その目的はあくまでも労働者自身が使用するためにはなく、剰余価値を生産することになるのです。

このような資本家による労働力の購入と使用は、労働力という商品の消費といえますが、それには二つの特有な現象を伴うことをマルクスは指摘します。第一の現象は、労働過程の資本による統制にかかわるもので、労働力を担う労働者は、彼の労働を所有している資本家の監督のもとで労働するということです。これは、資本による労働の包摂として、やがて以下、段階を追って主題化されることになるものです。段階をたどるごとに、労働はその意味を変容させてゆくことになるのです。

第二の特有な点について、マルクスは次の説明を付け加えている。資本は労働力に対して、たとえばその「1日分の価値」にあたる貨幣を支払う。つまりその日一日分の労働力の消耗が補填され、翌日も同等な労働力が再生産されるのが可能となる限りでの労賃を、労働力の対価として与えるのだと。1日だけ賃借りした馬についてその1日の使用が賃借りした者の自由であるように、労働力という「商品の買い手には商品の使用がぞくする」。資本家の作業場には、一方ではそれ自体としては動かず「死んでいる」生産手段があり、資本は他方でその生産要素に、同じく資本にとっては生産要素であるにすぎない労働を「生きている酵素」として付け加えるのである資本家の立場からすれば、そのかぎりで労働過程は、一方では自分の生産手段の生産的消費であり、他方では労働力という「みずからが買い取った商品の消費」でしかないのだから、「この過程の生産物がかれに属するのは、かくてちょうど、資本家のワインケラーのなかの発酵過程の産物がかれのものであるのと、まったく同じ」なのであるということです。

さて、わたしたちの生まれつつある資本家に戻ろう。彼が商品市場で労働過程に必要なすべての要素を、すなわち対象的な要素である生産手段と、人的な要素である労働力を購入したところで、彼のもとを立ち去っていたのだった。彼は抜け目のない専門家のまなざしで、自分の事業である紡績に、あるいはブーツの製造に適した生産手段と労働力をすでに選びだしている。

そこで資本家は、購入した商品である労働力を消費しようとする。すなわち労働力の担い手である労働者に労働させて、生産手段を消費させようとするのである。労働者は生産手段を自分の目的のためではなく、資本家の目的のために消費するが、それで労働過程の一般的な性格が変わることはない。また資本家が介入したからといって、ブーツを製造したり、糸を紡いだりする特定の方法とやり方もさしあたりは変わることはない。

資本家はさしあたり、労働力を市場で見つけてきたままの形でうけとるしかないし、その労働力の行う労働も、まだ資本家というものが存在しなかった時代に行われたままの形でうけとるしかない。労働者が資本に従属することによって生産様式は変化することになるが、これはまだ後の段階のことであり、もっと後で考察すればよいのである。

資本家が労働力を消費する過程であるこの労働過程には、二つの特有な現象がみられる。

第一に労働者は、彼の労働を所有している資本家の監督のもとで労働する。資本家は労働を監督しながら、労働が秩序正しく行われ、生産手段が目的に適って使用され、原料が無駄になることがなく、労働のための道具が大切に扱われ、こうした道具の消耗が、労働において使用するために必要な最小限に抑えられるように目を配る。

さらに第二に、生産物は直接の生産者である労働者のものではなく、資本家の所有物になる。資本家は労働力の価値にたいしてたとえば日払いで支払いをする。その一日のあいだは、資本家が一日借りた馬など他のすべての商品の使用権と同じように、その労働力の使用権は資本家のものである。商品の使用権は、商品を購入した人に与えられる。実際に労働力の所有者は労働することで、自分が販売した労働力の使用価値を提供するのである。労働者が資本家の仕事場に足を踏みいれた瞬間から、彼の労働力の使用価値は資本家のものであり、資本家は労働力の使用である労働を自分のものとする。

資本家は労働力を購入するひとによって、あたかも生きた〈酵母〉でもあるかのように、労働そのものを、資本家が所有する死せる生産物の形成要素と合体させたのである。資本家からみると、労働過程は彼が購入した労働力の消費にすぎないが、この[労働力という]商品に生産手段を加えなければ、労働力を消費することはできない。労働過程は、資本家が購入した物と物、資本家が所有する物と物のあいだで起こる過程である。だからこの過程によって生まれる生産物は、ワインの醸造所で[酵母を使って]行われる発酵過程の生産物と同じように、資本家のものなのである。

 

 

第2節 価値増殖過程

第1節では労働過程について考察しましたが、資本家が労働力を使って生産するものはたんなる使用価値ではなく、価値をもっている商品です。ですから、ここでは生産をたんなる労働過程として考察するだけではなく、「価値形成過程としても考察」しなければなりません。

資本家の目的

生産物─資本家の所有物─は、ある使用価値、糸や長靴などである。しかし、たとえば長靴がいわば社会的進歩の基礎をなすものであり、しかもわれわれの資本家は徹底的な進歩派であるとしても、彼は長靴を長靴そのもののために製造するのではない。商品生産では、およそ使用価値は、それ自身のために愛される物ではない。商品生産ではおよそ使用価値が生産されるのは、ただそれが交換価値の物質的な基底、その担い手であるからであり、そしてわれわれの資本家にとっては二つのことが肝要である。第一に、彼は交換価値をもっている使用価値を、売ることを予定されている物品を、すなわち商品を生産しようとする。そして第二に、彼は、自分の生産する商品の価値が、その商品の生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち商品市場で彼のだいじな金額を前貸しして手に入れた生産手段と労働力との価値総額よりも、高いことを欲する。彼はただ使用価値を生産しようとするだけではなく、商品を、ただ使用価値だけではなく価値を、そしてただ価値だけではなく剰余価値をも生産しようとするのである。

前節では労働過程というものを見てきました。その最後で、資本制生産様式における労働過程の特徴は、資本家が市場で生産手段や労働力を購入して生産するという点にあることまで至りました。資本家は、例えば紡ぎ糸やブーツを、労働者に生産させても、それは自分が使うためではなく、その使用価値を欲しているわけではありません。では何のために、資本家は生産させているのでしょうか。

この場合、ここでマルクスは二つの点が重要だと言います。第一に、資本家は、交換価値をもつ使用価値を、売ることを目的とした品物を、すなわち商品を生産したいと考えている。つまり、生産品の本来の使用価値を使用することを目的とするのではなくて、使用価値をもった生産品を市場で交換することを目的として生産していると言えます。したがって、資本家が求めるのは使用価値ではなく交換価値です。そして、第二に、生産品を交換に出すときに交換価値、つまり、生産するために要した経費の合計を、上回る価値のものと交換したい。言い換えれば、生産に要した費用の合計より高い価格で売りたいということです。この第一の点については交換価値と等価の価値を交換で得る、価値形成過程を示しており、第二の点については、交換価値以上の価値を得る価値増殖過程を示していると言えます。

労働過程は、資本家による労働力の消費過程としてあらわれる場合は、資本家の立場からするならば、「事物の間の過程」であって、資本が購入して、資本に属するものとものとのあいだに生起する一プロセスです。あえていえば、労働過程は事象の過程として物象化してあらわれる。これはしかし、一個の「取り換え」であり、錯覚にすぎません。資本が特定の生産手段と一定の労働力を消費して、例えば長靴を生産する場合、生産物であある長靴は資本家にとっては使用価値ではないわけです。資本にとっての商品は、たんにそれが「交換価値の物質的基体、その担い手」となる限りで生産されるものに過ぎません。その際資本は、生産された商品の価値が、その生産のために必要な商品(生産手段と労働力)の「価値総額」、すなわちそれぞれの市場で投資された「価格総額」を上回るものであることを欲望している。つまり、利益を出そうとするわけです。資本とは運動であり、価値増殖に向かう不断の生成であり続けなければならないからです。したがって資本はただ「使用価値」を生産しようとするわけではなく、「商品」を生産しようとする。言い換えれば「ただ使用価値を、ではなく価値を、たんに価値を、ばかりではなく剰余価値もまた」生産しようとする。─ここで問題となっているのは商品の生産です。ところで商品とは「使用価値と価値との統一」でした。したがって「商品のような生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならない」。だから、生産過程は価値形成過程としても考察されることになります。

商品の生産過程が価値形成過程として考察される場合、第一に問題となるのは、生産過程の果実として資本の所有物となって、その手中に帰する「生成物のうちに対象化されている労働」の量を「計算すること」であることです。

資本家の所有物である生産物は、たとえば紡ぎ糸やブーツなどであり、これは使用価値である。ブーツがある程度は社会的な進歩の基礎をなしていて、わたしたちの資本家が断固として進歩を擁護する人であったとしても、だからと言ってブーツをそれ自体の目的で生産するわけではない。商品生産においては、使用価値そのものは「それ自体で愛される」ようなものではない。ここで使用価値が生産されるのは、それが交換価値の物質的な土台であり、担い手であるかぎりのことである。

そしてわたしたちの資本家には二つのことが重要である。第一に資本家は、交換価値をもつ使用価値を、売ることを目的とした品物を、すなわち商品を生産したいと考えている。第二に資本家は、生産した商品の価値が、その商品の生産に必要だったさまざまな商品の全体の価値を上回るようにしたいと考えている。その商品の価値が、商品市場でかなりの金額を前払いすることで手にいれた生産手段の価値と労働力の価値の合計を上回るようにしたいのである。資本家はたんに使用価値を生産するだけでなく、商品を生産することを、使用価値だけでなく価値を生産することを、たんに価値だけでなく増殖価値を生産することを望んでいるのである。

価値の形成過程

ここでは商品生産が問題なのだから、これまでわれわれが考察してきたものはただ過程の一面しかないということは、じっさい明らかである。商品そのものが使用価値と価値との統一あるように、商品の生産過程も労働過程と価値の形成過程との統一でなければならないのである。

そこで、今度は生産過程を価値形成過程としても考察してみることにしよう。

われわれが知っているように、どの商品の価値も、その使用価値に物質化されている労働の量によって、その生産に社会的に必要な労働時間によって、規定されている。このことは、労働過程の結果としてわれわれの資本家の手にはいった生産物にもあてはまる。そこで、まず、この生産物に対象化されている労働が計算されなければならない。

たとえば、生産物が糸であるとしよう。

糸の生産には第一にその原料が、たとえば10ポンドの綿花が必要だった。綿花の価値がどれだけであるかは、あらためて調べる必要はない。なぜならば、資本家はそれを市場で価値どおりに、たとえば10シリングで買ったのだからである。綿花の価格には、その生産に必要だった労働がすでに一般的社会的労働として表わされている。さらに、綿花を加工中に消耗した紡錘量がわれわれにとっては他のすべての充用された労働手段を代表するものとして、2シリングの価値をもっていると仮定しよう。12シリングの金量が24時間労働または2労働日の生産物だとすれば、まず第一に、この糸には2労働日が対象化されているということになる。

綿花が形を変えており消費された紡錘量はまったくなくなっているという事情に惑わされてはならない。40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1個の紡錘の価値とすれば、すなわちこの等式の両辺を生産するために等しい労働時間が必要だとすれば、一般的価値法則にしたがって、たとえば10ポンドの糸は10ポンドの綿花の価値と4分の1個の紡錘との等価物である。この場合には、同じ労働時間が、一方では糸という使用価値に、他方では綿花と紡錘という使用価値に現われている。つまり、糸と紡錘と綿花とのどれに現われるかは、価値にとってはどうでもよいのである。紡錘と綿花とが静かに並んでいないで、紡錘過程で結合され、この結合によってそれらの使用形態が変えられ、それらが糸に転化されるということは、それらの価値には少しも影響しないのであって、それは、これらの物が単純な交換によって糸という等価物と取り換えられたのと同じことである。

綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩耗または消費なしに綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。

ここからは生産過程を、価値の形成過程として考察していきます。商品の価値の量は、その商品の使用価値という結果に現われるものをつくった労働の量です。その労働の量は、使用価値を作るために社会的に必要と規定された労働時間です。これは第1章第2節の労働の二重性のところで見てきたことです。これは、資本制の生産様式で労働過程の結果として、資本家が労働者に作らせた生産物にも当てはまります。

商品の生産過程を価値形成過程として考察しようとして、まず問題となるのは、「その商品の使用価値のうちに物質化された労働の量」を計算することです。マルクスは、具体的に紡ぎ糸の生産を例として分析していきます。

この場合の生産物は糸とりわけ錦糸です。そのさい、どのような商品の価値も、使用価値としての、その商品を生産するのに「社会的に必要な労働時間」によって規定されていることが前提となります。このとき、それぞれの市場におけるすべての交換はその価値どおりに行われ、当の価値をその都度価格が表示しているものとします。

紡ぎ糸を生産するためには原料として10ポンドの重量分の綿花が必要です。この綿花の価格は、改めて調べなくても、資本家が市場で購入している価格で、10シリングです。この綿花の価格には、綿花を生産するために必要だった労働が、一般的な社会的労働としてすでに表されていることです。そして、この綿花を加工するためには、2シリングの価値の紡錘を使い切る(消費する)ことになってしまう作業が必要です。実際には、このほかにも必要な労働手段もあるのですが、ここでは分析が煩雑になるのを避けて、単純化して、他の労働手段については省略して、紡錘に代表させています。この紡ぎ糸の重量10ポンドを生産するには全部で24時間の労働が必要とされているとします。そうすると、1日の労働時間が12時間として、2日分の労働が必要ということになります。つまり、重量で10ポンド分の紡ぎ糸には、綿花10シリングと紡錘2シリングの合計の12シリングの価値に相当する2労働日が対象化されていることになります。

つまり、式にするとこうなります。

綿花(10重量ポンド)+紡錘(4分の1個)=綿糸(10重量ポンド)=労働(24時間)

綿花(10シリング)+紡錘(2シリング)=綿糸(12シリング)=労働(24時間)

外見上では、綿花から糸、そして紡ぎ糸と形が変わっていきます。最初の原材料である綿花は、労働過程に投入されると加工という労働が施されその姿形を大きく変えてしまいます。また、紡錘は使用されてなくなってしまいます。しかし、これで価値そのものに変化が発生することはなく、綿花と紡績を単純に物々交換によって紡ぎ糸という等価物にしたとしても、価値に変化が発生しないのと同じことです。そこで、ここには次のような式が成り立ちます。

40重量ポンドの紡ぎ糸=40重量ポンドの綿花の価値+1本の紡錘の価値

この式は、左辺と右辺の生産物を生産するためには、同じ労働時間が必要であることを意味しています。綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料として生産される紡ぎ糸の生産に必要な労働時間の一部であり、紡ぎ糸の中に含まれています。綿花を紡ぐ際に摩耗し、消費される紡錘の生産に必要な労働時間についても、これと同じことがあてはまります。そうすると一般的な価値の法則に基づいて、10重量ポンドの紡ぎ糸の価値は、10重量ポンドの綿花の価値と4分の1個の紡錘の価値に等しいことになるわけです。

実際に、ここでは商品の生産が問題なのだから、これまでわたしたちはこの過程の[労働過程としての]一面しか考察してこなかったのは明らかである。商品そのものが使用価値と価値を統一したものであるのと同じように、商品の生産過程もまた労働過程と価値の形成過程を統一したものでなければならない。

そこでわたしたちは生産過程を、価値の形成過程としても考察してみよう。

すべての商品の価値は、その商品の使用価値のうちに物質化された労働の量によって決まること、その商品を生産するために社会的に必要とされる労働時間によって決まることは、すでに確認してきた。これは、労働過程の結果として、わたしたちの資本家にもたらされる生産物についてもあてはまる。だからこの生産物のうちに対象化された労働を計算してみる必要がある。

たとえば生産物として紡ぎ糸を例にとろう。

紡ぎ糸を生産するには第一に原料が、たとえば10重量ポンドの綿花が必要である。この綿花の価値について改めて調べる必要はない。資本家が市場でその価値通りの価格で、たとえば10シリングで購入しているからである。綿花の価格には、それを生産するために必要だった労働が、一般的な社会的労働としてすでに表現されているのである。さらに綿花を加工するためには、2シリングの価値の紡錘を使い切る必要があったとしよう。そのほかにも労働手段が必要であるが、ここではこの紡錘だけで代表させることにしよう。[1日の労働時間を12時間として]24時間の労働、すなわち2労働日の労働によって、12シリングに相当する金の量を生産できるとするならば、この紡ぎ糸の中には、[綿花10シリングと紡錘2シリングの合計の12シリングの価値に相当する]2労働日が対象化されていることになる。

綿花はその形態を変えており、消費した紡錘は完全に姿を消しているが、これで考え違いをしてはならない。ここで[40重量ポンドの紡ぎ糸=40重量ポンドの綿花の価値+1本の紡錘の価値]という等式が成立するとしよう。この等式は、この式の等置された二つの項の生産物を生産するためには、同じ労働時間が必要であることを意味する。そうすると一般的な価値の法則に基づいて、10重量ポンドの紡ぎ糸の価値は、10重量ポンドの綿花の価値と4分の1個の紡錘の価値に等しいことになる。この場合、同じ労働時間が上の項では紡ぎ糸の使用価値に、下の項では綿花と紡錘のうちに現われるかは、問題ではないのである。ただし綿花と紡錘は静かに横になっているのではない。紡錘の過程においてたがいに結びついたのであり、この結びつきによってその使用形態が変化し、やがては紡ぎ糸に変化したのである。ただしこれで価値そのものに変化が発生することはない。綿花と紡績を単純に物々交換によって紡ぎ糸という等価物にしたとしても、価値に変化が発生しないのと同じことである。

綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料として生産される紡ぎ糸の生産に必要な労働時間の一部であり、紡ぎ糸の中に含まれている。綿花を紡ぐ際に摩耗し、消費される紡錘の生産に必要な労働時間についても、これと同じことがあてはまる。

 

生産物における生産手段の価値

こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている。こいくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働は、すべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形あるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば30労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、30日目の労働日が最初の労働日よりも29日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料と労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。

要するに、12シリングという価格で表わされる綿花と紡錘という生産手段の価値は、糸の価値の、すなわち生産物の価値の成分をなしているのである。

ただ二つの条件だけはみたされなければならない。第一に、綿花も紡錘も或る使用価値の生産に現実に役だっていなければならない。われわれの場合には、それらのものが糸になっていなければならないどんな使用価値によって担われるかは、価値にとって問題ではないが、とにかく、ある使用価値によって担わなければならない。第二には、与えられた社会的生産条件のもとで必要な労働時間だけが用いられたということが前提されている。1ポンドの糸の形成にはただ1ポンドだけの綿花が消費されているべきである。紡錘についても同である。もし資本家が気まぐれに鉄の紡錘の代わりに金の紡錘を使ったとしても、糸の価値のうちに数えられるのは、ただ社会的に必要な労働、すなわち鉄の紡錘の生産に必要な労働時間だけである。

われわれは、今では、生産手段、綿花と紡錘が、糸の価値のどれだけの部分をなしているかを知っている。それは、ちょうど12シリングであり、言い換えれば2労働日の物質化である。そこで次に問題となるのは、紡績工の労働そのものが綿花につけ加える価値部分である。

綿花から紡ぎ糸を生産するケースでの分析が続きます。次に見るのは、労働過程です。綿花を生産する労働、摩耗した紡錘を生産する労働、綿花と紡錘を使って紡ぎ糸を生産する労働、これらの時間的にも空間的に別々の労働は、紡ぎ糸の価値、つまり紡ぎ糸の生産に必要とされる労働時間と考えると、一つの労働過程の連続した様々な局面とみなすことができます。

紡ぎ糸の構成要素を生産するために必要であった労働時間、すなわち、綿花を生産するための労働時間や紡錘を生産するための労働時間は、綿花は紡錘し完成しているので、すでに行われ過去の時間です。これに対して、紡績という紡ぎ糸を生産するのはこれからで、現在の労働時間ということになります。しかし、ここで労働時間を計算する場合には、その時間的なズレは気にする必要はありません。

この場合。前者は紡績過程の初期の段階で、後者は同じ過程の後期の段階と考えればよい。

そうすると、12シリングという価格で表現された生産手段、すなわち綿花と紡錘の価値は、紡ぎ糸の価値の構成要素であり、生産物の価値の構成要素であると言うことができます。ただし、それが成り立つためには、つぎの二つの条件を満たしていなければなりません。その第一の条件は、綿花と紡錘は、紡ぎ糸の使用価値の生産に現実に役立っている必要があるということです。これまでの例で言えば、実際に紡ぎ糸が綿花と紡錘から生産されていなければならないということです。反対に、綿花と紡錘から生産されていないとすれば、無関係ということになるわけです。そして、第二の条件は、その品物の生産に、与えられた社会的な生産条件のもとで必要とされる労働時間だけが投じられていなければならないということです。1重量ポンドの糸を紡ぐのに1重量ポンドだけの綿花が必要であるとすれば、1重量ポンドの紡ぎ糸を生産するのに、1重量ポンドを上回る綿花を消費してはならないということです。紡錘についても同じです。仮に必要な1重量ポンドより余計に2重量ポンドの綿花を消費したとしたら、余分の1重量ポンドは無駄遣いしたということですから、必要とされる量ではない。

これで、生産手段である綿花と紡錘が、紡ぎ糸の価値のどのような部分を占めているかが明らかになりました。その合計は12シリングであり、2労働日が物質化したもので、次のような式で表すことができます。

綿花(10シリング)+紡錘(2シリング)=綿糸(12シリング)=労働(2日)

そして、次に検討するのは、紡績工の労働が、綿花につけ加える価値の部分です。

綿花そのものを生産するためにも、摩耗した紡錘を生産するためにも、最後に綿花と紡錘を生産するためにも、最後に綿花と紡錘を使って紡ぎ糸を生産するためにも、時間的および空間的に分離されたさまざまな特殊な労働過程を経る必要がある。しかし紡ぎ糸の価値、すなわちその生産のために必要とされる労働時間に注目するならば、これらの多様な労働過程は、一つの労働過程の連続したさまざまな局面とみなすことができる。紡ぎ糸に含まれるすべての労働は、すでに行われた過去の労働である。

紡ぎ糸の構成要素を生産するために必要であった労働時間は、すでに行われた過去の時間、[動詞で言えば]過去完了であるが、紡績という最後の労働過程で直接に投じられた労働は、現在に近い出来事、いわば現在完了の出来事であるという違いはあるが、それは些細な違いにすぎない。

一軒の住宅を建設するのに、特定の量の労働、たとえば30労働日の労働が必要だとしよう。30日目の労働は、1日目の労働と比較すると、29日遅れて生産に加わるが、そのことでその家に投じられた労働時間の総量が変化することはない。だから労働材料と労働手段に含まれる労働時間はすべて紡績過程の初期の段階、すなわち最終的に紡績労働が加えられる以前の段階ですでに投じられたものとみなすことができる。

このようにして12シリングという価格で表現された生産手段、すなわち綿花と紡錘の価値は、紡ぎ糸の価値の構成要素であり、生産物の価値の構成要素である。

ただしそのためには次の二つの条件を満たす必要がある。第一に、綿花と紡錘は、使用価値の生産に現実に役立っている必要がある。これまでの例で言えば、実際に紡ぎ糸が綿花と紡錘から生産されていなければならない。その[品物の]価値の土台となるのがどのような使用価値であるかは問題ではないが、ともかくある使用価値が土台となっていなければならない。

第二に、その品物の生産に、与えられた社会的な生産条件のもとで必要とされる労働時間だけが投じられていなければならない。1重量ポンドの糸を紡ぐのに1重量ポンドだけの綿花が必要であるとすれば、1重量ポンドの紡ぎ糸を生産するのに、1重量ポンドを上回る綿花を消費してはならない。紡錘についても同じことが言える。資本家が妄想に駆られて、鉄の紡錘ではなく金の紡錘を使ったとしても、紡ぎ糸の価値として計算されるのは、社会的に必要な労働だけであり、ここでは鉄の紡錘の生産に必要な労働時間だけである。

このようにして、生産手段である綿花と紡錘が、紡ぎ糸の価値のどのような部分を占めているかが明らかになった。その合計は12シリングであり、2労働日が物質化したものである。次に検討する必要があるのは、紡績工の労働が、綿花につけ加える価値の部分である。

 

生産物における労働の価値

われわれはこの労働を今度はで労働過程の場合とはまったく別な観点から考察しなければならない。労働過程の場合には、綿花を糸に転化させるという合目的的活動が問題だった。他の事情はすべて変わらないものと前提すれば、労働が合目的的であるほど糸は上等である。紡績工の労働は他の生産的労働とは独自な相異のあるものだった。そして、この相違は、紡績の特殊な目的、その特殊な作業方法、その生産手段の特殊な性質、その生産物の特殊な使用価値のうちに、主観的にも客観的にも現われていた。綿花と紡錘とは紡績労働の生活手段としては役だつが、それらを使って施条砲をつくることはできない。これに反して、紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、すなわち価値の源泉であるかぎりでは、それは砲身中ぐり工の労働と、またここではもっと手近な例で言えば、糸の生産手段に実現されている綿花栽培者や紡錘製造工の労働者と少しも違ってはいない。ただこの同一性によってのみ、綿花栽培も紡錘製造も紡績も同じ総価値の、すなわち糸の価値の、ただ量的に違うだけの諸部分を形成することができるのである。ここで問題になるのは、もはや労働の質やその特性や内容ではなく、ただその量だけである。ただそれが計算されるだけでよいのである。われわれは、紡績労働が単純な労働であり社会的平均労働であると仮定しよう。これとは反対の仮定をしても事態は少しも変わらないということは、あとでわかるだろう。

紡績工の労働が、綿花につけ加える価値をみていきます。この労働について見ていくに際して、これまでの労働とは視点を変える必要があるとマルクスは指摘します。紡績工の労働は他の生産的な労働とは異なる特殊なものだというのです。つまり、この労働過程では、綿花を紡ぎ糸に変えるという目的に適っていればいるほど、製品である紡ぎ糸の品質は向上するのです。

綿花と紡錘は紡績労働の生活手段であって、ほかの労働、例えば大砲の製造労働に対しては何の役にも立たないものです。しかし、一般論として見ると、紡績労働というのは価値を形成するもので、価値の源泉であると言えます。この点では大砲を製造する労働も同じです。これと同じことは紡績労働の生産手段を製造する、綿花の栽培労働や紡錘を製造する労働も価値を形成するものです。

このような価値を形成するという点で同じであるからこそ、綿花の栽培、紡錘の製造、紡績という労働が同一の価値、この場合は紡ぎ糸の製造に集約される価値の、それぞれ一部となっていると言えるのです。そのような見方では、様々な労働の質、特性、内容の違い、つまり、綿花の栽培、紡錘の製造、紡績というそれぞれの違いは問題とされず、労働量だけが問題となり、その量の総和が、最終的に紡ぎ糸という結果の生産品に表されているのです。量だけの問題とするならば、労働は単純化、平均化されます。それが単純労働というもので。社会的な平均労働、つまり、社会一般で紡績に必要な労働の量という考え方で捉えられるのです。

この労働については、これまで労働過程として考察してきたのとはまったく異なる視点から観察する必要がある。労働過程では、綿花を紡ぎ糸に変えるという目的にふさわしい労働が考察されてきた。ほかのすべての条件が同じであると想定すると、労働が目的に適っていればいるほど、製品である紡ぎ糸の品質は向上する。紡績工の労働は他の生産的な労働とは異なる特殊なものであり、この違いは主観的にも客観的にも明白である。その違いはたとえば、紡績の特別な目的のうちに、特別な生産方法のうちに、生産手段の特別な性格のうちに、生産物の特別な使用目的のうちに現われてくる。

綿花と紡錘は紡績労働の生活手段として役立つが、これは大砲を製造するために使えるものではない。ところが紡績工の労働が価値を形成するものであり、価値の源泉であるという意味では、大砲の砲身を製造する労働者の労働といささかも異なるところはない。この例で言えば、紡ぎ糸の生産手段に実現されている綿花の栽培者の労働や、紡錘を製造する労働者の労働とまったく違いはないのである。

この同一性があるからこそ、綿花の栽培、紡錘の製造、紡績という労働が、同一の総価値、すなわち紡ぎ糸の価値の量的に異なる部分を構成することができるのである。この観点からはさまざまな労働の質、特性、内容の違いは問題ではなく、その量だけが問題となる。その量が計算されるだけでよいのである。私たちは紡績労働が単純労働であって、社会的な平均労働であると想定している。しかし反対の想定をしてもまったく同じであり、これはやがて明らかにするつもりである。

 

価値を形成する労働時間

労働過程では、労働は絶えず不静止の形態から存在の形態に、運動の形態から対象化性の形態に転換される。1時間後には紡績運動がいくらかの量の糸に表わされている。つまり一定量の労働、すなわち1労働時間が綿花に対象化されている。われわれは労働時間、すなわち紡績工の生命力の1時間の支出と言うが、それは、ここで紡績労働が労働として認められるのは、ただそれが労働力の支出であるかぎりのことであって、それが紡績という独自な労働であるかぎりのことではないからである。

過程が続いているあいだに、すなわち綿花が糸に変えられてゆくあいだに、ただ社会的に必要な労働時間だけ費やされるということは、いまや決定的に重要である。正常な、すなわち平均的な社会的生産条件のもとでは、aポンドの綿花が1労働時間中にbポンドの糸に変えられていなければならないとすれば、ただ12×aポンドの綿花を12×bポンドの糸に変える1労働日だけが、12時間の1労働日として認められる。なぜならば、ただ社会的に必要な労働時間だけが価値形成的として数えられるからである。

「労働過程が進展するうちに、労働は休みなく活動する形態から[静止した]存在の形態へと、運動の形態から対象化された形態へと、たえず変化する。」抽象的で分かりにくい書き方をしていますが、要するに、労働しているという活動していることから、その労働の結果として生産品が産み出されるのですが、それが静止した形態、あるいは対象化された形態というのです。たとえば、1時間の労働の結果作りだされたある量の紡ぎ糸は1時間の労働が対象化されたものということです。この場合、労働は個々の労働ではなくて、社会的にある量の紡ぎ糸を作り出すのに必要とされる労働量だということです。それは労働過程における労働力であり、紡ぎ糸を生産することが、この場合の労働として認められるのは、労働力として支出される。それが量として単純化された労働だからです。だから、この場合は紡績という特殊な労働としてではなく、労働力として支出されているのです。

ここで、一番重要なことは、綿花から紡ぎ糸に変容するという、この生産過程で消費される労働というのは、実際に個々の労働で費やされた時間ではなく、社会的にその過程に必要だとされた労働時間だということです。この社会的に必要な労働時間だけが、価値を形成する労働時間であると考えられているということです。具体的にいうと、その一定量の紡ぎ糸の生産に対して資本家が労働力を支出した労働者に支払う労賃は、その社会的に必要な労働時間で計算した分を支払う、つまり支出するということになるのです。

労働過程が進展するうちに、労働は休みなく活動する形態から[静止した]存在の形態へと、運動の形態から対象化された形態へと、たえず変化する。1時間の労働が終了すると、紡績の作業は特定の量の紡ぎ糸となって現われる。すなわち綿花のうちに、一定量の労働が、1労働時間が対象化されたのである。ここで1労働時間とは、紡績工の生命力が1時間にわたって支出されたことを意味するが、このような表現を使うのは、紡績労働が労働として認められるのは、それが労働力として支出されるからであり、紡績という特殊な労働として投じられているからではないためである。

これについて何よりも重要なのは、綿花が紡ぎ糸に変容するこの過程において消費されるのは、社会的に必要な労働時間だけであるということである。ここで、正常な、すなわち平均的な社会的な生産条件のもとでは、1労働時間のうちに、a重量ポンドの綿花がb重量ポンドの紡ぎ糸に変化している必要があるとしよう。その場合に12時間の1労働日とみなすことができるのは、12a重量ポンドの綿花を12b重量ポンドの紡ぎ糸に変化させる労働日だけである。社会的に必要な労働時間だけが、価値を形成する労働時間と考えることができるからである。

 

 

価値形成における原料と生産物

労働そのものと同様に、ここでは原料や生産物もまた本来の労働過程の立場から見るのとまったく違った光のなかに現われる。原料はここではただ一定量の労働を吸収物として認められるだけである。じっさいこの吸収によって、原料は糸に転化するのであるが、それは、労働力が紡績という形で支出されて原料につけ加えられたからである。しかし、生産物である糸はもはやただ綿花に吸収された労働の計測器でしかない。もし1時間に1と3分の2ポンドの綿花が紡がれるならば、1と3分の2ポンドの糸に変えられるならば、10ポンドの糸は、吸収された6労働時間を表わしている。今では、一定量の、経験によって確定された量の生産物が表わしているものは、一定量の労働、一定量の凝固した労働時間にほかならない。それらはもはや社会的労働の1時間分とか2時間分とか1日分とかの物質化されたものでしかないのである。

労働がほかならない紡績労働であり、その材料が綿花であり、その生産物が糸であるということは、労働対象そのものがすでに生産物であり、つまり原料であるということと同様に、ここではどうでもよいことになる。かりに労働者が紡績工場ではなく炭鉱で働かされるとすれば、労働対象である石炭は天然に存在しているものであろう。しかし、それにもかかわらず、炭層からはぎ取られた石炭の一定量、たとえば1ツェントナーは、一定量の吸収された労働を表わすだろう。

このように労働がそうだったように、労働過程においては原料と生産物も、これまでとは異なる姿で現れてきます。たとえば、原料は、特定の量の労働を吸収した物ということになります。綿花という原料は紡績などの労働を吸収することによって紡ぎ糸という生産品に変化したのです。そこでは労働力が紡績作業という形で支出され、それが原料に追加されたということになるのです。一方、紡ぎ糸という生産物は、そこから原料である綿花を差し引けば、支出された労働力の量を量ることができるというわけです。

紡ぎ糸の設例で考えてみると、1時間の労働により1と3分の2重量ポンドの綿花から同量の紡ぎ糸が生産できることになっているとしましょう。そうであれば、10重量ポンドの紡ぎ糸は6時間の労働で生産されることになります。つまり、ここでの言い方をすれば、そこに吸収された6時間の労働を表わしてします。このように、特定の量の生産物は、そこに吸収された特定の量の労働、つまり労働時間を表わすものであるということです。反対に見れば、生産物とは、1時間分とか6時間分とかいうように特定の量の社会的な労働が物質化したものと言うことができます。

このような単純化された観点においては、その労働が紡績労働であり、その素材が綿花であり、その生産物が紡ぎ糸であるということ、そして労働対象がすでに生産物であり、原料であるということは、重要な意味をもたない。すべては量で表現されるため、質的な内容とか種類いうようなことは問題にされないのです。ここでは、紡績労働と石炭の採掘とを同じように、そこで生産された物は一定の労働時間という量を表わすものとして同じ列に並べられています。

労働そのものと同じように原料と生産物も、ほんらいの労働過程の観点から眺めるときとはまったく異なる姿で登場してくる。ここでは原料は、特定の量の労働を吸収した物としての意味しかもたない。原料は実際に労働を吸収することによって紡ぎ糸に変化するのであるが、それは労働力が紡績作業という形で支出されて、原料につけ加えられたからである。しかしこの観点からは生産物である紡ぎ糸は、綿花に吸収された労働の測定器にすぎない。

1時間あたりで1と3分の2重量ポンドの綿花が紡がれ、1と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸になるとしよう。すると10重量ポンドの紡ぎ糸は、そこに吸収された6時間の労働時間を表現している。ここでは特定量の生産物とは(この量は、経験によって確定されている)、特定の量の労働、凝固した特定の量の労働時間を示すものにすぎない。生産物とは、1時間分、2時間分、あるいは1日分の社会的な労働が物質化されたものにすぎない。

だからこの観点からは、その労働が紡績労働であり、その素材が綿花であり、その生産物が紡ぎ糸であるということ、そして労働対象がすでに生産物であり、原料であるということは、重要な意味をもたない。労働者が紡績工場ではなく炭鉱で雇用されていたならば、労働対象である石炭は[生産物ではなく]、天然に存在するものであろう。それでも炭層から掘りだされた一定の量の石炭、たとえば1キログラムの石炭が、そこに吸収された一定の量の労働を表現していることに変わりはないのである。

 

生産物の価値

労働力の売りのところでは、労働力の日価値は3シリングに等しいと想定され、またこの3シリングには6労働時間が具体化されており、したがって労働者の日々の生活手段の平均額を生産するためにはこの労働量が必要だということが想定された。今われわれの紡績工は1労働時間に1と3分の2ポンドの綿花を1と3分の2ポンドの糸に変えるとすれば、6時間では10ポンドの綿花を10ポンドの糸に変えるということになる。つまり、紡績過程の継続中に綿花は6労働時間を吸収するわけである。この6時間の労働時間は3シリングの金量で表わされる。つまり、この綿花には紡績そのものによって3シリングの価値がつけ加えられるのである。

そこで、生産物である10ポンドの糸の総価値を調べてみよう。10ポンドの糸には2と2分の1労働日が対象化されている。2日分の労働は綿花と紡錘量とに含まれており、2分の1日分の労働は紡績過程のあいだに吸収されている。同じ労働時間は、15シリングの金量で表わされる。だから、10ポンドの糸の価値に相当する価格は15シリングとなり、1ポンドの糸の価格は1シリング6ペンスとなる。

以前の労働力の販売のところでも労働力の1日の価値を3シリングとし、その3シリングは6時間の労働時間が相当し、これが労働者の毎日の平均的な生活手段を生産するために必要な労働時間と想定しました。ここで、ずっと考察を進めている設例にあてはめて考えると、紡ぎ糸を生産する紡績工は1時間としたのは、前のところですが、6時間で10重量ポンドの紡ぎ糸を生産するわけです。この6時間の労働は3シリングの価値と表現されている。ということは、この労働によって、原料である綿花に3シリングの価値が加えられたということになります。

これらをまとめて、10重量ポンドの紡ぎ糸という生産物の総価値を考えてみましょう。そこには2日半の労働日が対象化されています。このうち2日分は綿花と紡錘の生産に費やされた労働日であり、あと半日が紡績作業に費やされた労働日です。この2日半の労働は15シリングに相当します。したがって、10重量ポンドの紡ぎ糸の価値に相当する価格は15シリングで、1重量ポンドあたりでは1シリング6ペンスとなります。

今までことをまとめると、次のような式ができます。

生産の条件

綿花(10ポンド)+紡錘(4分の1個)+労働(6時間)=綿糸(10ポンド)

市場の価格

綿花(10シリング)+紡錘(2シリング)+労働(3シリング)=綿糸(15シリング)

労働の時間

綿花(20時間)+紡錘(4時間)+労働(6時間)=綿糸(30時間)

わたしたちは労働力の販売について考察してきたころで、労働力の1日の価値を3シリングとし、その3シリングには6時間の労働時間が表現されており、これが労働者の毎日の平均的な生活手段を生産するために必要な労働量であると想定した。ここでわたしたちの紡績工が、1労働時間のうちに、1と3分の2重量ポンドの綿花を1と3分の2重量ポンドの紡ぎ糸に変えると想定しよう。すると6時間で10重量ポンドの綿花が10重量ポンドの紡ぎ糸に変えられる。紡績過程において、綿花が6時間の労働時間を吸収するわけである。この6時間の労働時間は、3シリングの金の量として表現される。こうして紡績作業によって、綿花に3シリングの価値が加えられたことになる。

さて、この10重量ポンドの紡ぎ糸という生産物の総価値を調べてみることにしよう。そこには2日半の労働日が対象化されている。そのうちの2日分は綿花と紡錘に含まれる労働日であり、残りの半日分が紡績作業の間に紡ぎ糸に吸収された[紡績工の労働]分である。この2日半の労働時間は、15シリングの金の量に相当する。すると10重量ポンドの紡ぎ糸の価値に相当する価格は15シリングであり、1重量ポンドあたりでは1シリング6ペンスとなる。

 

剰余価値の不在

われわれの資本家はほっとする。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでおらず、したがって、貨幣は資本に転化してはいない。10ポンドの糸の価格は15シリングであり、そして、15シリングは商品市場で生産物の形成要素に、または、同じことであるが、労働過程の諸要因に支出された。すなわち、10シリングは綿花に、2シリングは消耗した紡錘量に、そして3シリングは労働力に。ふくれあがった糸の価値はなににもならない。なぜならば、糸の価値は、ただ以前に綿花や紡錘や労働力に分かれていた価値を合計でしかなく、そしてこのように既存の価値をただ単に加算することからはけっして剰余価値は生まれえないからである。今ではこれらの価値はすべた一つの物に集中されているが、しかし、それらは、15シリングという貨幣額が三つの商品購買によって分散される前には、やはり15シリングの貨幣額として集中されていたのである。

この結果はそれ自体として奇異なものではない。1ポンドの糸の価値は1シリング6ペンスであり、したがって、10ポンドの糸には、われわれの資本家は商品市場で15シリングを支払わなければならないであろう。彼がその私宅を市場でできあいで買おうとも、自分で建てさせようと、これらの操作のどちらも、家の取得に投ぜられた貨幣を増加させはしないであろう。

俗流経済学に精通している資本家はおそらく言うであろう、自分は自分自身の貨幣を、より多くの貨幣にするつもりで前貸ししたのだ、と。しかし、地獄への道はいろいろな良い意図で舗装されているのであって、彼は、生産することなしに金もうけをしようともくろむこともできたのである。彼はこう言っておどかす。二度とこんなだまし打ちは食わないぞ。これからは、自分で商品を製造するのはやめて、できあいを市場で買うことにしよう、と。しかし、彼の仲間の資本家たちがみな同じことをするとすれば、彼は市場をどこで商品で見つけだせるのか?そして彼は貨幣を食うことはできない。彼は自問自答する。自分の節欲を考えてほしい。自分の15シリングはむだ使いすることもできたのだ、そうはしないで、自分は生産的に消費して糸にしたのだ。だが、その報酬として、彼は後悔のかわりに糸をもっているのである。彼はけっして貨幣蓄蔵者の役割に逆戻りしてはならない。貨幣蓄蔵者は、禁欲の結果がどうなるかをすでにわれわれに示した。そのうえに、なにもないところでは、皇帝もその権利を失っているのである。彼の禁欲の功績どうであろうと、この過程から出てくる生産物の価値は、投入された商品価値の総額に等しいだけだから、彼の禁欲に特別に報いるためのものはなにもないのである。というわけで、彼は徳の報いは徳だということであきらめればよいのである。そうはしないで、彼はしつこくなってくる。糸は自分にとっては無用だ。自分は売るためにそれを生産したのだ。それならば彼はそれを売ればよい。あるいはまた、もっと簡単には、これからは自分に必要な物だけを生産すればよい。それは、すでに彼のお抱え医者マカロックが過剰生産という疫病の特効薬として彼に与えた処方である。彼はなおも強情に逆らう。労働者は自分の手足だけで虚空のなかに労働の所産を創造し商品を生産することができようか?自分が労働者に材料を与えたからこそ、労働者はただそれだけによって、ただそれだけのなかに、彼の労働を肉づけすることができるのではないか?ところで、社会の大部分は、このような素寒貧から成っているのだから、自分は自分の生産手段、自分の綿花や自分の紡錘によって、社会のために測り知れない役だちをしたのではないか?おまけに自分が生活手段まで供給してやった労働者自身のためにも、それをしてやったのではないか?それなのに、自分はこの役だちを勘定に入れてはならないのか?だが、労働者も彼のために綿花や紡錘を糸にするというお返しをしたではないか?そのうえに、ここでは役だちが問題なのではない。役だちというのは、商品にせよ労働にせよ、ある使用価値の有用な作用にほかならない。ところが、ここでかんじんなのは交換価値である。彼は労働者に3シリングという価値を支払った。労働者は彼に、綿花につけ加えた3シリングという価値で精確な等価を、価値にたいして価値を、返した。われわれの友は、今まであれほど資本らしく高慢だったのに、にわかに自分自身の労働者だというつつましい態度をとる。自分だって労働したではないか?紡績工の監視という労働を、総監督という労働をしたではないか?自分のこの労働もやはり価値を形成するのではないか?彼が使っている監督や支配人は肩をすくめる。しかし、そのあいだに彼はもう快活に笑いながら、もとの顔つきに帰ってしまった。彼はこの長たらしい繰り言でわれわれをからかったのである。そのために彼は一文も出しはしない。彼はこのようなつまらない言い訳やみえすいたごまかしを、特にそのために雇ってある経済学の教授たちに任せておく。彼自身は一個の実際家であって、自分が商売の外で言うことはいちいち気にかけていないが、自分が商売のなかでやることはいつでも心得ているのである。

ここで、生産物である10重量ポンドの紡ぎ糸の総価値を見直してみましょう。10重量ポンドの紡ぎ糸には、2日半の労働が対象化されています。2日分の労働は綿花と紡錘量とに含まれており、半日分の労働は紡錘した紡ぎ糸に吸収されています。同じ労働時間は、15シリングの価格であらわされます。10ポンドの糸の価値に相当する価値は1シリング6ペンスとなる。これが、前までのおさらいです。

この結果に資本家は戸惑いを隠せません。これでは、生産した紡ぎ糸の価値15シリングは、前払いされた資本の価値(原料である綿糸の価格が10シリング+補充した紡錘が2シリング+紡錘の労働量が3シリング)と等しいことが明らかになったからです。資本を投下(前払い)しても、価値はちっとも増えないのです。つまり、儲からないのです。つまり、増殖価値は生まれてこない。10重量ポンドの紡ぎ糸の価格は15シリングです。また、紡ぎ糸という生産物の構成要素を調達するために支出した金額も15シリングです。すなわち、綿花のために10シリング、消耗された紡錘のために2シリング、労働力のために3シリングです。この紡ぎ糸の価値は、これまで綿花、紡錘、労働力に分散されていた価値を合計したものです。投下された価値は15シリングであり、回収されるべき価値も15シリングでした。そこで、資本家は戸惑うのです。資本は増殖しなければならない。投下された資本は増殖価値を生まなければならない。そうして投資された貨幣は資本に変化するのです。しかし、そのすべてが、ここでは生起しないのです。増殖価値が生じないのです。それゆえ、資本家は戸惑うのです。

マルクスはここでしばらくは資本家の繰り言に付き合っていきます。ここでは、それをいちいち追い掛けることはしません。本文を流し読みすればいいと思います。

そこでわたしたちの資本家は仰天する。これでは生産物の価値は、前払いされた資本の価値とまったく等しいのである。前払いした価値は増殖せず、増殖価値は生みだされていない。だから食料は資本に変容しなかったのである。10重量ポンドの紡ぎ糸の価格は15シリングであるが、生産物の構成要素を調達するために、言い換えれば労働過程を構成するさまざまな要素を調達するために市場で支出された金額も、15シリングである。すなわち綿花のために10シリング、消耗された紡錘のために2シリング、労働力のために3シリングである。たしかに紡ぎ糸の価値は大きくなったが、何の役にも立たない。この価値はそれまで綿花、紡錘、労働力に分散されていた価値を合計したものにすぎないからである。このように既存の価値を単純に加算しただけでは、永久に増殖価値は発生しないのである。これらの価値はいまでは一つの製品に集められたが、15シリングという貨幣の量が[綿花と紡錘と労働力という]三つの商品に分割される以前には、もともとはこの貨幣の量のうちに集まっていたものなのである。

その結果は意外なものではない。1重量ポンドの紡ぎ糸の価値は1シリング6ペンスであり、わたしたちの資本家は、10重量ポンドの紡ぎ糸を購入するには、市場で15シリングを支払わねばならないだろう。自分の住宅を完成品として市場で購入しても、自分で[大工に]建築を依頼しても、住宅を購入するために支出される金額が増えることはないだろう。

俗流経済学に詳しい資本家であれば、貨幣を前払いしたのは、もっと多くの貨幣を手に入れるためだったと主張するかもしれない。しかし地獄への道はさまざまな善き意図で舗装されているという。資本家は生産せずに[投機などで]金を儲けようと考えることだってできたのである。資本家は、このような手は二度と食わないと脅すかもしれない。これから商品を自分で生産するのをやめて、完成品を市場で購入することにする、と。しかし同僚の資本家たちもみな同じようにふるまうとすれば、市場のどこで商品をみつけられるだろうか。そして資本家も貨幣を食べて生きることはできないのである。

そこで資本家は説教を始める。「わたしが節制していることも考えてほしい。この15シリングを放蕩のために使うこともできたのだ、しかしそうせずに、この貨幣を生産のために消費した。そして紡ぎ糸を生産したのだ」と。しかしその代償として彼は今や疚しい良心の痛みではなく、紡ぎ糸を所有しているのである。資本家はもはや貨幣退蔵者の役割に戻ることできない。貨幣退蔵者は、その禁欲がどのような結果をもたらすかを教えてくれたのだった。

それに、何もないところでは、皇帝ですらその権利を失うと言われる。資本家の禁欲にどのような功績があるとしても、それに特別な報酬が支払われるべき理由はない。労働過程から生みだされた生産物の価値は、投じられた商品の価値の合計と等しいというだけのことだからだ。だから彼は[禁欲したという]徳の高さとしてうけとって満足すべきなのだ。しかし資本家はそうせずに言い張る。「わたしには紡ぎ糸は何の役にも立たない。わたしはこれを販売するために生産したのである」と。それならば販売するがよい。あるいはこれからは自分に必要な物だけを生産すれば、もっと簡単だろう、これは実は、彼の掛かりつけの医者であるマカロックがかつて、過剰生産という流行病にたいする特効薬として、資本家に与えた処方なのである。

資本家はそれでもまだしつこく抵抗する。「それならば労働者は自分の手足だけで、虚空に労働のイメージを描きながら、商品を生産することができるだろうか。わたしは労働者に素材を与えたではないか。この素材によって、この素材のうちに、労働者は自分の労働を血肉化することができるのだ。社会の大部分は、[労働者のような]一文無しの連中なのだから、わたしは自分の生産手段によって、綿花や紡錘によって、社会と労働者自身に、計り知れないほどの奉仕をしたではないか。それに労働者は生活手段まで与えたのだ。この奉仕をわたしは計算にいれてはならないのか」と。

しかし労働者もまた資本家に、綿花と紡錘を紡ぎ糸に変えるという形で返礼しているではないか。それにこれはとても〈奉仕〉と呼べるものではない。奉仕とは、商品であれ労働であれ、ある使用価値が有益な作用をすることにほかならない。ここで問題になっているのは[こうした有益な作用ではなく]交換価値である。資本家は労働者に3シリングの価値を支払った。労働者は、綿花につけ加えられた3シリングの価値という形で、資本家にまったく等しい価値を返した。[支払われた]価値にたいして価値を返したのである。

そこで、さきほどまであれほど自分の資本を自慢しにしていたわたしたちの資本家は、急に彼が雇った労働者と同じような控え目な態度になり、こう言い始める。「わたしだって自分で働いたのだ。紡績工を監視し、監督する仕事をしたのだ。このわたしの労働も価値を形成するはずではないか」と。これを聞いたら、資本家のもとで働いていた現場監督と管理人は肩をすくめることだろう。

やがて資本家は明るい笑顔を取り戻して、前の顔つきに戻る。長々しい繰り言で彼はわたしたちをからかったのだ。それでわずかでも損をするつもりはない。こうした見え透いた言い訳や空虚な思いつきを語るのは、そのために雇っている専門の経済学の教授にまかせておくのである。資本家は実務的な人間であり、仕事について何をなすべきかはよく承知しているものの、それ以外の分野では何を語るべきか、つね日頃から考えているというわけではないのである。

 

剰余価値の源泉

もっと詳しく見よう。労働力の日価値は3シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半日の労働がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているより大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久な法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け取ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、1日の労働力の使用、1日じゅうの労働は、彼のものである。労働力はまる1日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の1日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって労働力の使用が1日につくりだす価値が労働力自身の日価値の2倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手にたいする不法ではないのである。

われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情は前からわかっていたのである。それだから、労働者は6時間だけではなく12時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。10ポンドの綿花が6労働時間を吸収して10ポンドの糸になったとすれば、20ポンドの綿花は12労働時間を吸収して20ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。20ポンドの糸には今では5労働日が対象化されている。4労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、1労働日は紡錘過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、5労働日の金表現は30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。だから、これが20ポンドの糸の価格である。1ポンドの糸は相変わらず1シリング6ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は27シリングだった。糸の価値は30シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも9分の1だけ大きくなった。こうして27シリングは30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。

ここでマルクスは、増殖価値生産のメカニズムを明らかにしています。すなわち、資本家が労働力という商品を購買し、それを消費することによっていかにして増殖価値が生産されるかを明らかにしています。一言で言えば、それは、労働力の価値と労働力の使用価値である労働が生み出す価値との差から発生してきます。

ここで重要なのは、以上のような資本家による増殖価値の生産と取得は、商品交換の法則の侵害によって、すなわち不等価交換によって実現されるものではなく、商品交換の法則に従って行動することによって実現されるものだということです。資本家も労働力の売り手も、たがいの自由意志にもとづいて、労働力商品の売買を行います。このとき、資本家は労働力という商品の価値に見合う対価、すなわち労働力の再生産に必要な費用をまかなうだけの貨幣を支払っています。ここには、商品交換の法則の侵害も、労働力の「売り手に対する不正」もありません。にもかかわらず、資本家は労働力を買い、それを消費することによって、労働力の購買に必要であった価値よりも多くの価値を生産し、すなわち増殖価値を生み出し、それを取得することができるのです。このように、資本家は、商品生産から発生する所有権にしたがって、まったく正当性を失うことなしに、増殖価値を生産し、貨幣を資本に変化することができるのです。

なお、ここで資本家に労働力を販売し、資本家の指揮のもとでの労働者の指揮のもとで労働する労働者のことを賃労働者と呼びます、また、資本のもとで、剰余価値の生産のために、労働力商品の消費を過程として行なわれる労働のことを賃労働と呼びます。

では、順を追って本文を見ていきましょう。労働力の1日あたりの価値は3シリングでした。そのうち、労働力を再生産するために必要な日々の生活手段を獲得するためには半日の労働が必要です。「労働力に含まれている過去の労働と、その労働力がもたらすことのできる生ける労働とは違うものであり、労働力の日々の維持の費用と、労働力の日々の支出とは違うものである。」とマルクスは言います。「労働力に含まれている過去の労働」とは、労働力の1日の価値をかたちづくるものであり、労働力自身を再生産するために1日に必要な生活手段の価値によって規定されているもので、いわば「労働力の日々の維持の費用」です。一方、「その労働力がもたらすことのできる生ける労働」とは、これに対して「労働力の日々の支出」なのであって、両者はまったく一致しないのです。「労働力に含まれている過去の労働」は労働力の交換価値を規定して、「その労働力がもたらすことのできる生ける労働」は労働力の使用価値を規定しています。資本家が労働力を購入する時には労働力の価値を支払わなければなりません。その値段は1日あたり3シリングです。これは等価交換の取引です。しかし、労働力をいったん1日分だけ購入した資本家は、その使用価値を1労働日の間自由に消費することができます。「労働者を24時間生存させるために半日分の労働が必要であるからといって、労働者がそれを超えてまる1日働くことが妨げられるわけではない」のです。

ここで、労働力の価値と、労働過程において労働力が増殖する価値は、二つの異なる量なのだと言います。資本家が労働力を購入するときに注目していたのは、この二つの価値の差だったのです。労働力の価値は、その維持費によって決まります。労働力によって価値を増殖するためには、労働力の毎日の支出を増やせばいいだけのことです。この二つの異なる量に見合うようにして、労働力には二つの使用価値があると言います。ひとつは、それが有用な労働を行いうるということです。資本は、具体的には長靴や綿糸を製造しなければならない。労働力は、だからそのような使用価値を生産するために、「有用な形で支出されなければならない」というものです。労働力には、しかし、第二に「労働力という商品に特殊な使用価値」がある。それつまり労働力が「価値の源泉」であり、しかも、労働力自身が有する価値「よりも大きな価値」の源泉であるということ。そのような意味で価値の源泉である労働力が増殖価値を作り出すというものです。資本家が労働力という商品に求めていたのは、このように二つの価値の量があって、その二つの量に差があるということ、その差が資本家にとって儲けの源泉となるということです。資本はここで何も不正をはたらいているわけではない。

資本家、つまり、貨幣を持っている人は、ここで何も不正をはたらいているわけではないのです。資本家は、むしろ「商品交換の永遠の法則」にしがって行動しています。労働力の売り手は、他のすべての売り手と同じように、労働力という商品を販売して、労働力の交換価値を実現して、その使用価値を引き渡しました。労働者は、使用価値を譲渡せずに、交換価値を手に入れることはできません。労働力を販売し、その使用価値を譲渡したことによって労働力の使用価値、すなわち労働そのものは、もはや売り手である労働者のものではなくなりました。これは、例えば、油売りの商人が油を売ったならば、もはやその油の使用価値は、商人のものではなく、買い手のものとなるのと同じです。

使用価値の譲渡とは、すなわち24時間分の生活資料を買い求めるに足るだけの貨幣と引き換えに、資本家による労働力の使用に同意することです。それだけではありません。そもそも労働力というのは、およそ力や能力が一般にそうであるように、可能性においてのみ存在するものです。労働力が現実化するとき、それは労働そのものとなるものです。労働力はしたがって可能性において価値通り買い取られ、現実にそれが使用されることで価値以上のものを、つまり増殖価値を産出することになるのです。しかし、他方で労働者はまる1日労働することができるにもかかわらず、労働者が、その1日分労働力を維持するためには半日の労働でいいのです。その結果、労働力の使用1日につくり出す価値は、労働者自身の1日の価値の2倍になるのです。これは買い手にとって特別な幸運であるとマルクスは言っています。しかし、売り手である労働者には幸運とは言えないのですが、これは不法なことではないのです。

資本家は、このような事情をちゃんと分かっています、だからこそ、この制度のメリットを最大限に生かそうとして、労働者が仕事場に来れば、6時間ではなく12時間の労働に必要な原料や道具用意していたのです。10重量ポンドの綿花は、6時間の労働を吸収して10重量ポンドの紡ぎ糸に変化するのだから、20重量ポンドの綿花は、12時間の労働を吸収して20重量ポンドの紡ぎ糸に変化すると予想したのです。

これによって生産物である紡ぎ糸はどうなるのでしょうか。20重量ポンドの紡ぎ糸には、10重量ポンドでは2日半の労働日が対象化されていた2倍の5労働日(60時間)が対象化されています。このうち、原料として消費した綿花と紡錘の量に相当する分として4労働日が対象化され、紡錘労働に1労働日が吸収されています。この5労働日を金額で表すと30シリングです。これが20重量ポンドの紡ぎ糸の価格となります。ただし、1重量ポンドの紡ぎ糸の価格は1シリング6ペンスで、10重量ポンドの紡ぎ糸の時と同じです。しかし、この20重量ポンドの紡ぎ糸の生産に投入された商品の総額は27シリングだったのです。他方、紡ぎ糸の価値は30シリングです。この両者の差額の3シリングが増殖価値です。ここに至って、手品のように、合法的に、貨幣は、資本に変容したのです。

ここで、以前のまとめた設例の式に変更を加えることで、どのようになったかという変化を知ることができます。以前の設例の式と異なる点は、労働者が今回は1日6時間ではなく、12時間働く点にあります。この労働時間の延長に応じて、原料の量は倍となり、紡績の磨滅も2倍となります。以上を前提として整理してみましょう。下段の青い斜字体の式は以前の設例の式を比較のために補記したものです。

生産の条件 綿花(20ポンド)+紡錘(2分の1個)+労働(12時間)=綿糸(20ポンド)

綿花(10ポンド)+紡錘(4分の1個)+労働(6時間)=綿糸(10ポンド)

市場の価格 綿花(20シリング)+紡錘(4シリング)+労働(3シリング)=綿糸(27シリング) 

綿花(10シリング)+紡錘(2シリング)+労働(3シリング)=綿糸(15シリング)

労働の時間 綿花(40時間)+紡錘(8時間)+労働(12時間)=綿糸(60時間)

綿花(20時間)+紡錘(4時間)+労働(6時間)=綿糸(30時間)

前提によって1シリングは2労働時間をあらわす。したがって生産物である20重量ポンドの綿糸は60労働時間を対象化しているがゆえに(60÷2=30によって)、この事例では20重量ポンドの綿糸の価格は30シリングとなります。

この設例では、資本は生産手段ならびに労働力に27シリングを投下して、しかも等価交換という商品交換の原則を侵害することなく、一方では生産手段を生産的に消費し、他方で同じく購入した商品である労働力の使用価値を消費することで、(30シリング−27シリング=3シリングだから)3シリングの増殖価値を取得したことになるというわけです。

さらに詳しく調べてみよう。労働力の1日あたりの価値は3シリングだった。そのうちに半日の労働日が対象化されているから、労働力を生産するために必要な日々の生活手段を獲得するためには、半日の労働が必要である。しかし労働力に含まれている過去の労働と、その労働力がもたらすことのできる生ける労働とは違うものであり、労働力の日々の維持の費用と、労働力の日々の支出とは違うものである。前者が労働力の交換価値を決定し、後者が労働力の使用価値を決定する。労働者を24時間生存させるために半日分の労働が必要であるからといって、労働者がそれを超えてまる1日働くことが妨げられるわけではない。

だから労働力の価値と、労働過程において労働力が増殖する価値は、二つの異なる量なのである。資本家が労働力を購入したときに注目しているのは、この価値の差額だったのである。労働力には、紡ぎ糸やブーツを製造するという有益な性質があるが、これが不可欠な条件であるのは、価値を創造するためには、労働が有益な形で支出されなければならないからにすぎない。

しかし何よりも重要なことは、労働力というこの商品には特殊な使用価値があって、この使用価値こそが価値の源泉となり、それ自身の価値よりも大きな価値を生み出す源泉となるということである。資本家がこの[労働力という]商品に求めていた奉仕は、まさにこのことにある。その際に資本家は商品交換の永遠の法則にしたがって行動する。

実際に労働力の売り手は、他のすべての商品の売り手と同じように、[労働力を販売することで]交換価値を実現し、同時にその使用価値を譲渡したのである。労働者は、使用価値を譲渡せずに、交換価値を手に入れることはできない。これによって労働力の使用価値、すなわち労働そのものは、もはや売り手のものではなくなる。油売りの商人が油を売ったならば、もはやその油の使用価値は、商人のものではなくなるのと同じである。

貨幣の所有者は、労働力の1日あたりの価値を支払った。だからその1日の労働は、すなわちその1日の労働力の使用は買い手のものである。労働力は1日中活動し、働くことができる。ところがその労働力を日々維持するためには、半日の労働日で十分なのである。だからこの労働力を1日使用することで生み出される価値は、その労働力自体の1日あたりの価値の2倍になる。これは買い手には幸運なことではあるが、売り手にたいする不法ではない。

わたしたちの資本家は、彼をにんまりさせるこの事情を最初から知っていたのである。だからこそ労働者が仕事場に赴くと、6時間ではなく、12時間の労働過程に必要な生産手段が用意されていたのである。10重量ポンドの綿花は、6時間の労働を吸収して10重量ポンドの紡ぎ糸に変化するのだから、20重量ポンドの綿花は、12時間の労働を吸収して20重量ポンドの紡ぎ糸に変化するだろう。

この延長された労働過程の生産物を観察してみよう。20重量ポンドの紡ぎ糸には、今では5労働日が対象化されている。原料として消耗した綿花と紡錘の量のうちに4労働日が対象化され、紡錘過程のうちに1労働日か吸収されている。この5労働日を金で表現すると、30シリングあるいは1ポンド10シリングである。これがこの20重量ポンドの紡ぎ糸の価格である。そして1重量ポンドの紡ぎ糸の価格は1シリング6ペンスで変わりはない。しかしこの過程に投入された商品の総額は27シリングであった。そして紡ぎ糸の価値は30シリングである。生産物を生産するために前払いされた価値と比較して、生産物の価値は9分の1だけ増えた。こうして27シリングが30シリングに増加した。3シリングの増殖価値が生まれたのである。こうして手品はついに成功した。貨幣は資本に変容したのである。

 

剰余価値の発生

問題の条件はすべての解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生み出した。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くも安くもなく、売る。それでも、彼は、初めに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。この全過程、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、としてまた、そこでは行なわれない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである。こうして「最善の世界では万事が最善の状態にある」のである。

資本家は貨幣を新たな生産物の素材形成者または労働過程の諸要因として役だつ諸商品に転化させることによって、すなわち諸商品の死んでいる対象性に生きている労働力を合体することによって、価値を、すなわちすでに対象化されて死んでいる過去の労働を、資本に、すなわち自分自身を増殖する価値に転化させるのであり、胸に恋でも抱いているかのように「働き」はじめる活気づけられた怪物に転化させるのである。

ここで問題の条件を確認しましょう。するとすべて解決されていることが分かります。個別に見ていけば、商品交換の法則、つまり等価交換の法則に従っています。綿花にも、紡錘にも、労働力にも、そのすべての商品に価値どおりの価格、つまり正当な価格を支払い購入しました。その結果、金額にすれば30シリングの価値のある20重量ポンドの紡ぎ糸を生産物として得ました。

そして、資本家は商品を購入した市場に赴き、生産した20重量ポンドの紡ぎ糸を販売しました。1重量ポンド当たりの紡ぎ糸を1シリング6ペンスの価格で、その価値よりも1ペニーも高くも低くもない(正当な)価格で販売しました。それでも、資本家は商品の生産のために投下した金額より3シリング多い金額を手にすることができたのでした。このことを指してマルクスは「ありうべき最善の世界では、すべてが最善である」と言いました。

資本家が自分の貨幣を資本に変容させたこのすべての過程は、流通の領域の内部、つまり、市場で貨幣により商品を購入し、再び市場で商品を売り貨幣を手にしたということで起こったものです。それは他方で、増殖価値が生まれたのは、その流通過程においてではありませんでした。たしかに、労働力を市場で購入することが条件となっているから、流通を媒介としています。しかし、流通は単に導入だけで、増殖価値を作り出すのは生産過程です。この生産過程において市場で購入した労働力という商品が労働することにより新しい生産物の素材を作りだしたことで、価値を増殖価値に変容させたのです。それが、貨幣が資本に変容したということです。

問題のすべての条件は解決され、しかも商品交換の法則はまったく破られていない。等価物が等価物と交換された。資本家は買い手としては、ほかの商品の買い手と同じように、綿花にも、紡錘にも、労働力にも、そのすべての商品にその価値どおりの価格で支払った。それから商品のすべての買い手がすることをした─商品の使用価値を消費したのである。労働力が消費される過程は同時に生産される過程でもある。この過程によって、30シリングの価値のある20重量ポンドの紡ぎ糸が生産された。

こうして資本家は前に商品を購入した市場にふたたび赴き、商品を販売する。1重量ポンドの紡ぎ糸を1シリング6ペンスの価格で、その価値よりも1ペニーも高くも低くもない価格で販売する。それでも資本家はこれによって、ほんらいこの流通過程に投入した金額よりも3シリング多くを手にするのである。

資本家が自分の貨幣を資本に変容させたこのすべての過程は、流通の領域の内部で起こるのではあるが、同時に流通の領域の内部で起こるのではないのである。労働力を市場で購入することが条件となっているのだから、この過程は流通を媒介としている。しかし流通はたんに生産部門で発生する価値の増殖過程を導きだす役割しかはたしていないという意味では、この過程は流通の内部で起きたのではないのである。こうして「ありうべき最善の世界では、すべてが最善である」ということになる。

資本家は貨幣を[労働力という]商品に変容させたが、この商品は新しい生産物の素材を形成するために役立ち、労働過程のさまざまな要因として役立つ。そしてこれによって資本家は、商品の死んだ[物質の]対象としての性格を、生きた労働力に合体させるのである。こうして資本家は価値、すなわち対象化された過去の死せる労働を資本に合体させるのである。こうして資本家は価値、すなわち対象化された過去の死せる労働を資本に、すなわちみずからを増殖する価値に、命を吹き込まれた怪物に変容させるのである。この怪物は、恋にもだえる身ように、「働き」始めるのである。

 

価値増殖過程と価値形成過程および労働過程

いま価値形成過程と価値増殖過程とを比べてみれば、価値増殖過程は、ある一定の点を越えて延長された価値形成過程にほかならない。もし価値形成過程が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点までしか継続しなければ、それは単純な価値形成過程である。もし価値形成過程がこの点を越えて継続すれば、それは価値増殖過程になる。

さらに価値形成過程と労働過程を比べてみれば、後者は、使用価値を生産する有用労働によって成り立っている。運動はここでは質的に、その特殊な仕方において、目的と内容とによって、考察される。同じ労働過程が価値形成過程ではただその量的な面だけによって現われる。もはや問題になるのは、労働がその作業に必要とする時間、すなわち労働力が有用に支出される継続時間だけである。ここでは、労働過程にはいって行く諸商品も、もはや、合目的的に作用する労働力の機能的に規定した素材的な諸要因としては認められない。それらは、ただ対象化された労働の一定量として数えられるだけである。生産手段に含まれているにせよ労働力によってつけ加えられるにせよ、労働はもはやその時間尺度によって数えられるだけである。それは何時間とか何日間とかいうようになる。

資本による生産過程、すなわち資本主義的生産過程はなによりもまず、価値増殖過程であることが明らかになりました。このように、剰余価値の生産を目的とした生産のあり方のことを「資本制生産様式」と言います。資本制生産様式では、生産過程が価値増殖過程として編成されることにより、生産過程に根本的な変化が起きてきます。

その変化を価値増殖過程と価値形成過程との比較から明らかにしようとします。すると、価値の増殖過程は、価値の形成過程がある一定の点を越えて延長されたものであると指摘します。その一点とは、「資本が購入した労働力の価値」を示す一点に他なりません。

さらに価値形成過程と労働過程を比較してみましょう。労働という運動を量ではなく質的な観点から、特有の様式や目的、内容について考えると、それは交換価値ではなく使用価値で考えるということです。しかし、価値形成においては、この同じ労働過程が量の面からだけで捉えられるようになります。とくに重要なのは労働時間、生産に必要と社会的に認められている時間です。これは、労働力という商品に支払われる対価に換算される時間の長さです。同じように、ここで原料とか生産手段として使用される商品は、労働の量としてしか数えられないものとなります。つまり、何時間の労働とか何日の労働といった具合です。

ここでは、増殖価値を生み出すということについて、労働者の側からみていきます。本文では、具体的な細かい分析から入っていますが、それでは全体の意味がつかめないので、本文では書かれていない、隠れてしまっている分析の幹の部分を、ここで想像してみましょう。労働者はいつの時代においても、種々の生産手段を用いて生活にとって必要な生産物を作り出すことで、自分たちの生命と生活とを再生産してきました。どんな社会もこのような日々の生産行為で成り立っているのです。労働過程は、人類全体に共通するこのような社会的物質代謝の過程でもありますが、資本主義においてはそれは資本の支配と管理のもとで行われ、したがって資本主義的に特殊な性質を帯びることになるのです。資本家は生産手段と労働力とを購入してそれを労働過程で結合して生産を行うのですが、その目的はあくまでも労働生産物そのものではなく、増殖価値を生産することにあります。

一定の社会的分業が行われている商品生産社会では、私的生産者である労働者、つまり、自分の生活のために自分で生産する労働者が生産過程で行う労働は、一定の有用な労働生産物を生産するだけでなく、その労働時間に比例して価値をも生産します。したがって、商品生産社会においては、生産過程は同時に価値形成過程でもあるわけです。しかし、資本家は自己の支配する生産過程が単なる価値形成過程であることで満足しないで、自己の購入した労働力を、その価値分が再生産される時間を超えて労働時間を強制的に延長することによって増殖価値を形成しようとします。こうして、資本主義のもとでの生産過程は価値増殖過程に転化するのです。とはいえ、資本主義的生産過程はそれでもなお労働過程の一形態でもあるから、資本主義生産過程は、労働過程と価値増殖過程との統一として規定することができる。

ここで価値の形成過程と価値の増殖過程と比較してみよう。すると価値の増殖過程は、価値の形成過程がある一定の点を超えて延長されたものだということが分かる。資本が購入した労働力の価値が、新たな等価物を作り出す点までつづいて、そこで終わるならば、それは単純な価値の形成過程にほかならない。この点を超えて、価値の形成過程がつづけられるときに、価値の増殖過程となるのである。

さらに価値の形成過程と労働過程を比較してみよう、労働過程では、使用価値を生産する有用な労働が行われる。これは労働という運動を質的な観点から眺め、その特別な様式や、目的や、内容について考えるものである。ところが価値の形成過程では、この同じ労働過程が量的な側面だけから考察される。そのときに重要なのは、労働がその作業を遂行するために必要な時間の長さであり、労働力が有用な形で支出される時間の長さである。この観点からみると、労働過程において使用される商品は、ある目的を目指して遂行される労働力の機能的に規定した素材的な要因ではなくなる。商品はもはや、対象化された労働の一定の量としてしか数えられない。労働は生産手段に含まれているか、労働力によって付加されるかにかかわらず、もはや時間の尺度にしたがってしか数えられない。つまり何時間の労働、何日の労働などのようにである。

 

増殖価値を生みだすための条件

しかし、労働は、ただ、使用価値の生産に費やされた時間が社会的に必要であるかぎりで数にはいるだけである。これはいろいろなことが含まれている。労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない。もし紡績機械が紡績業にとって社会的に支配的な労働手段であるならば、労働者の手に紡ぎ車が渡されてはならない。労働者は、正常な品質の綿花の代わりに絶えず切れる屑綿を与えられてはならない。どちらの場合にも、彼は1ポンドの糸の生産に社会的に必要な労働時間よりも多くを費やすことになるだろう。しかし、この余分な時間は価値または貨幣を形成しはしないであろう。とはいえ、労働の対象的諸要因の正常な性格は、労働者にではなく資本家に依存している。もう一つの条件は、労働力そのものの正常な性格である。労働力は、それが使用される部門で、支配的な平均程度の技能と熟練と敏速さをもっていなければならない。ところで、われわれの資本家が労働市場買ったのは正常な品質の労働力である。この力は、普通の平均的な緊張度で、社会的に普通な強度で、支出されなければならない。このことには、資本家は、労働しないで時間を浪費することのないように気をつけるのと同じ細心さで注意する。彼は、一定の期間をきめて労働力を買っている。彼は、自分のものをなくさないように注意する。彼は、盗まれることを欲しない。最後に─そしてこの点についてはこの紳士は一つの独自な刑法典をもっているのだが─原料や労働手段の目的に反した消費が行われてはならない。というのは、浪費された材料や労働手段は、対象化された労働の余分に支出された量を表わしており、したがって数にはいらず、価値形成の生産物に加えられないからである。

このように価値増殖過程に労働過程を統一させるための条件を分析しています。つまり、労働過程が量的に捉えられるための条件です。その量というのは、社会的に必要とされた労働時間で、それが可能となるためには、次の二つの条件が必要となります。

ひとつは、労働力が正常な条件のもとで機能していることです。例えば、紡績機械を使って紡績の作業をするのが社会的に支配的な労働手段となっているところで、労働者に手回しの紡ぎ車が与えられてはならないということです。後者の正常でない場合には、労働者は紡ぎ糸を生産するためには、社会的に必要とされる労働時間よりも多くの労働時間をかけなければならなくなります。この時間は余計にかかった時間です。社会的に必要な時間が6時間であるはずが8時間かかってしまった。この差額の2時間は価値も貨幣も生み出さない無駄な時間ということになります。これは、労働者がサボっているのではなく、資本家が無駄なことをさせているということになり、この無駄の責任は資本家にあります。つまり、この正常化か資本家が行うことです。

ふたつめは、労働力そのものが正常な性格のものであるということです。つまり、労働力を担う労働者が、平均レベルでの熟練度、技能、作業スピードを備えているということです。社会的に必要とされる労働時間というのは、その作業をする平均的なレベルの労働者を基準にして想定されています。したがって、実際の作業は、想定されているレベルの労働者が実際に作業していることが条件です。例えば、手際が悪くて、作業時間が平均の2倍かけてしまう人が、2時間の作業4時間かけてしまえば、差額の2時間は余計にかかった無断時間ということになってしまいます。

これらのことは、資本家にとっては、結果として増殖価値が減ってしまうことになりかねません。資本家は原料や生産手段が浪費されることを嫌います。同じように労働時間が浪費されることも嫌います。そのために、労働者がサボったりしないようにと同様に、上記のふたつの条件を満足しているように神経質なまでに監視するのです。原料や労働手段が浪費されること、それは対象化された労働が不必要に支出されことを意味しており、これは計算に入れられず、価値形成の生産物から失われることになるからです。

これは労働過程が価値増殖過程に統一(包摂)されることによって、ある決定的な社会的変化が生じるということです。一般の労働過程では労働者が主体であり、種々の生産手段が手段であり、何らかの労働生産物が目的でした。しかし、資本主義のもとでの労働過程、つまりは価値増殖過程に統一された場合には、労働者はもはや主体ではなく、それによって生み出される生産物それ自体も目的ではなく、どちらも、資本家が増殖価値を生産し取得するための単なる手段にすぎなくなるということです。つまり、労働過程は、G−W−G´において、出発点の貨幣(G)を終結点であるより多くの貨幣(G´)に転化させるための媒介項(手段)に過ぎないことになります。資本のこの悪無限的な形態的運動原理に包摂されることで、労働過程は、その中に存在する労働者、労働対象、労働手段もすべて、資本にとって価値を増殖させるための手段にすぎなくなるのです。

ここにおいて両者においては、全く異なる3項連結式が成り立つことになります。一般的な労働過程においては、出発点(主体)は労働者自身ないし労働力であり、生産手段が手段であり、労働生産物が目的でした(労働力−労働手段−労働生産物)。しかし、価値増殖過程に包摂された労働過程では、出発点は資本であり、これが主体となるので、目的は労働生産物ではなく、より多くの貨幣、より多くの価値、すなわち増殖価値になるのです。そして、両者のあいだに挟まれた労働過程はその3要素を含めてすべて単なる手段ということになります。したがって、「資本−労働過程(労働力−労働手段−労働生産物)」、そして、全体として手段になっているこの労働過程の内部をより詳しく見ると、労働者が生産手段を使うのではなく、資本の所有物であり資本と一体である生産手段が労働者を用いるというさらなる転倒が生じています。資本の所有物である生産手段(資本)が、資本の購入した労働力を用いて、これまた資本の所有物である労働生産物を生産するのだから、「生産手段−労働力−有働生産物」という実に奇妙な3項連結式が成り立つということになるのです。本来は単なる物であるはずの生産手段が資本と一体になることで主体的地位になり、生きた人格である労働力が単なる手段という客体的地位に陥るのである。これを「物の人格化と人格の物化」と呼ぶものです。

以上のことによって、生産的労働の概念も変質する。労働過程の見地からは、生産手段を用いて有用な生産物を作り出す労働が生産的でした。しかし、価値増殖過程の観点からすると、資本のために増殖価値を生産する労働だけが生産的ということになります。したがって、労働者を酷使すればするほど、労働者のあらゆる生命力を剰余価値抽出の手段にすればするほど、その労働者は資本にとって生産的であるということになるわけです。

しかしこのような計算が行われるのは、使用価値の生産に費やされた労働時間が、社会的に必要な労働時間である場合だけである。そのためにはいくつもの条件がある。まず労働力は正常な条件のもとで機能しなければならない。

たとえば紡績機械を使って紡績の作業をするのが社会的に支配的な労働手段となっているところで、労働者に手回しの紡ぎ車が与えられてはならない。正常な品質の綿花が労働者に与えられるべきであって、たえず切れる屑綿が与えられてはならない。[正常でない]どちらの場合にも、労働者は1重量ポンドの紡ぎ糸を生産するために、社会的に必要な労働時間よりも長い時間を費やすことになるだろうが、この超過時間は、価値も貨幣も作りださないだろう。ただし対象となる労働要因を正常な性格のものにするのは、労働者ではなく資本家の責任である。

次の問題となるのは、労働力そのものが正常な性格のものであるかどうかである。労働力が使用される部門において、労働力はその部門で支配的な平均程度の熟練度、技能、作業速度を備えていなければならない。しかしわたしたちの資本論は、労働市場で正常な品質の労働力を購入したのである。この労働力は平均的な緊張度で社会的に見て通常の強度で利用される必要がある。資本家は。労働が行われないままに時間が浪費されることのないように監視するだけではなく、通常の密度で労働が行われるように、神経質なまでに監視するのである。

資本家は労働力を一定の期間を決めて購入したのである。資本家は自分の取り分を奪われることを嫌う。彼は盗まれることを嫌う。最後に、原料や労働手段が目的に反して消費されるのを防ぐ必要がある─資本家には独自の刑法典があるのだ。原料や労働手段が浪費されること、それは対象化された労働が不必要に支出されことを意味しており、これは計算に入れられず、価値形成の生産物から失われるのである。

 

生産過程の二重の意味

要するに、前には商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの同じ労働との相違が、今では生産過程の違った面の区別として示されているのである。労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。

ここで分析していることは、最初の商品の分析のところで労働の二重性として、有用労働と抽象的な人間労働という二つに区別しましたが、ここでの価値の形成過程と価値の増殖過程の、それぞれに統一された労働過程の捉え方の区別の通じていると言えると思います。

かつては商品の分析によって、使用価値を作り出す労働と、価値を作り出す労働が区別されたが、この区別がここでは生産過程の異なった側面として示されていることが、お分かりいただけるだろう。

生産過程は、労働過程と価値の形成過程を統一するものとしては、商品を生産する過程である。他方で労働過程と価値の増殖過程を統一するものとしては、生産過程は資本制的な生産過程であり、商品生産の資本制的な形態なのである。

 

単純労働と複雑労働

前にも述べたように、資本家によって取得される労働が、単純な社会的平均労働であるか、それとも、もっと複雑な労働、もっと比重の高い労働であるかは、価値増殖過程にとってはまったくどうでもよいのである。社会的平均労働に比べてより高度な、より複雑な労働として認められる労働は、単純な労働力に比べてより高い養成費のかかる、その生産により多くの労働時間が費やされる、したがってより高い価値をもつ労働力の発現である。もしこの力の価値がより高いならば、それはまたより高度な労働として発現し、したがってまた同じ時間内に比較的より高い価値に対象化される。とはいえ、紡績労働と宝石細工労働との等級の差違がどうであろうと、宝石細工労働者がただ彼自身の労働力の価値を補填するだけの労働部分は、彼が剰余価値をつくりだす追加的労働部分から、質的には少しも区別されないのである。相変わらず剰余価値はただ労働の量的超過だけによって、同じ労働過程の、すなわち一方の場合には糸生産の過程の、他方の場合には宝石生産の過程の、延長された継続だけによって、出てくるのである。

他方、どの価値形成過程でも、より高度な労働はつねに社会的平均労働に還元されねばならない。たとえば1日の高度な労働はx日の単純な労働に。つまり、資本の使用する労働者は単純な社会的平均労働を行なうという仮定によって、よけいな操作が省かれ、分析が簡単にされるのである。

価値の増殖過程にとっては、資本家が取得した労働が、単純で社会的な平均的な労働であるか、複雑で特別な重みのある労働であるかは、まったく問題ではないといいます。しかし、複雑で特別な重みのある労働とは、養成のために高い費用を投じており、その生産のために多くの労働時間が投じられて、単純な労働と比較して高い価値をもつ労働力が行使されることです。このような労働の場合、労働力の価値が高いほど、より高度な労働が実現されます。だから同じ労働時間のうちで、相対的に高い価値として、商品のうちに対象化されるのです。そのような労働は装飾品とかブランド品にようか種類の商品に見られます。例えば宝飾品です。

しかしだからといって、紡績労働と宝石細工とのあいだに、熟練を要するというような質の違いがあるにせよ、宝石細工に従事する労働者については、自分の労働力の価値を作りだす労働の部分と、増殖価値を作りだす労働の部分には、質的にはまったく違いがない、つまり、両者を同列にして労働時間という量ではかることができるということです。増殖価値は、つねに労働の量の超過によって、つまり、同じ労働の時間延長によってつくり出されるのです。

では、紡績労働と宝石細工との違いは、つまりそうでない労働と高度な労働の違いは同じ労働時間で高い価値をうむかどうかの違い、つまり、時間当たりの単価の違いということになるということです。その高い単価のためには、相応の支出もあるので、社会的に必要に時間の労働では等価交換ということになり儲けは出ません。したがって、儲け、つまり増殖価値を作り出すためには、紡績労働の場合と同じように労働時間を延長させるしかないのです。

ここに増殖価値という資本主義経済がここまで支配的となるまで成長した資本の拡大再生産を動かしていく仕組みと、それが労働者からみれば、労働力の商品化をしたことによる搾取が増殖価値の基本であることが指摘されています。ここがひとつのマルクスの分析のキーポイントとなるところです。ここで簡単に概説しておきます。ここから、このことについて詳細な分析が続くので、ややもすると、その細かさに木を見て森を見ないことになりかねないので、このあたりで基本的な核をおさえておくと、迷う危険は少なくなると思います。

労働力という商品の価値というのは、実際のところ、その商品を購入した資本家が商品の担い手である労働者に支払う賃金で表わされるわけです。ところで、その価値というのは、ワインのような商品のように、その生産につぎ込まれた労働の量ではなくて、労働力はこれから労働で何かをつくるというものなので、労働力自体がワインのようにすでに作られたものではないので、労働力が日々使えるために再生産されるために必要な労働の量です。つまり、ワインは瓶に入っているのを飲めばおしまいですが、労働力は、今日1日労働してもらって、また明日も同じように労働してもらうという商品、明日も労働してもらうために必要なものを支払うのが賃金です。これが労働力という商品の特殊性です。その賃金というのは、社会的に平均的な必要量というのが決まっていて、それは、ワインなら生産の労働ですが、労働力は労働者個人の生活費(衣食住という生きていくために必要な費用)、そして、個人の労働者が家族を養い子どもという次の労働者を育てるための費用、そして労働者が労働のための技術や知識を身につけるための教育費です。

ここで注目すべきは、その労働力という商品の価値、つまり賃金として労働者に払われる金額よりも、労働者の労働により生産された商品の価値が大きいということです。その仕組みが、ここで説明されていた増殖価値という仕組みです。今の常識で言えば当たり前のことです。例えば、自動車工場の期間工として私が働くとします。時給1200円で自動車メーカーが私を雇うということは、会社は、それ以上に儲けているということです。そうでなければ雇っている意味はない。この時給と儲けの差が増殖価値です。しかし、これは古代や中世の奴隷をこき使っているのとは違います。だから不法な奪取ではないのです。あくまでも合法的で公正な手続きなのです。

それが証拠に、私は時給1200円でとにかく生活していくことができます。節約すれば、時々、ささやかな贅沢だって出来るでしょう。つましいかもしれないが妻と子供くらいは何とか養えます。しかも、私が就職するときには、自由意思で、会社とは平等な関係で契約したのです。形式的ですが。私は、その賃金とか条件に納得して契約したのです。「1200円なんて安い時給で働きたくない」と私が言うこともできるのです。その時、会社は首に縄をつけて私を拘束することなんてありません。会社は「あ、そうですか、それならお引き取り下さい」というだけです。労働者は、職業を選択できる自由を持っています。それは、土地や身分に縛りつけられていないからです。しかし、その反面で、農地に縛られている農民は、すでに生産手段をもっているので、米とかイモを作って自給できます。これに対して、土地に縛られない自由な労働者は生産手段を持っていないので、自らを労働力という商品として売るしか生きる道がない。それが社会でシステムとして定着してしまったのが資本主義社会です。

すでに指摘したように、価値の増殖過程にとっては、資本家が取得した労働が、単純で社会的な平均的な労働であるか、複雑で特別な重みのある労働であるかは、まったく問題ではない。社会的な平均的な労働と対比した、この複雑で特別な重みのある労働とは、養成のために高い費用を投じており、その生産のために多くの労働時間が投じられて、単純な労働と比較して高い価値をもつ労働力が行使されることである。この労働力の価値が高いほど、より高度な労働が実現される。だから同じ労働時間のうちで、相対的に高い価値として[商品のうちに]対象化される。

しかし紡績労働と宝石細工のあいだにどのような等級の違いが存在していようとも、宝石細工に従事する労働者が自分の労働力の価値を作りだす労働の部分と、増殖価値を作りだす労働の部分には、質的にはまったく違いがない。増殖価値はつねに、労働の量の超過によって、同じ労働過程の持続時間が延長されることによって発生するのである。紡績労働ではそれが紡ぎ糸の生産過程であり、宝石細工労働ではそれが宝石の生産過程であるという違いがあるにすぎない。

またどのような価値の形成過程においても、高度な労働はつねに社会的な平均的な労働に還元されねばならない。たとえば1日分の高度な労働は、x日分の単純労働と等しいというように、資本が雇用する労働者は、単純な社会的な平均的な労働に従事すると想定することで、余計な操作が省かれて、分析が簡単になるのである。

価値の増殖過程にとっては、資本家が取得した労働が、単純で社会的な平均的な労働であるか、複雑で特別な重みのある労働であるかは、まったく問題ではない。社会的な平均的な労働と対比した、この複雑で特別な重みのある労働とは、養成のために高い費用を投じており、その生産のために多くの労働時間が投じられて、単純な労働と比較して高い価値をもつ労働力が行使されることである。この労働力の価値が高いほど、より高度な労働が実現される。だから同じ労働時間のうちで、相対的に高い価値として[商品のうちに]対象化される。

 

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