マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第5篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産
第15章 労働力価格と剰余価値の量的な傾向
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産

第15章 労働力価格と剰余価値の量的な傾向

〔この章の概要〕

剰余価値の生産には絶対的剰余価値と相対的剰余価値という二つの側面があります。この両方を踏まえ、労働力の価値(価格)と剰余価値の量的変動にどんな法則的な関係があるかを考察しています。

その考察のための前提として、次のことを確認しておくとよいでしょう。すなわち、労働力の価値は、(1)生活(消費)手段の価値、(2)労働力の養成費、(3)労働力の自然的相違(性別、年齢等)という三つの要因によって規定されています。(1)の使用価値としての量は不変であるとされます(価値量は可変)。その量は一定の社会(国)の一定の時代には与えられているので、不変量としても構わないし、むしろ適切だといいます。(2)と(3)の要因は捨象されます。なぜなら生産過程によって人的構成は異なり、この点を考慮すると複雑になってしまい課題から逸れてしまうからです。要するに、ここでは生活手段の価値だけを反映した労働力の価値の変動が考察されるということです。

次にマルクスは、1、商品はその価値どおりに売られる、2、労働力の価格はその価値よりも高くなることはあってもその価値よりも低くなることはけっしてない、という二つの前提を置いています。問題は後者の労働力の価格です。一般商品と同様に「価値どおりに売られる」と仮定しないのは何故でしょうか。労働力の価格が価値から離れる場合があり、それが一定の意味をもっているので考察に加えようというのです。労働の生産力が増大すると生活諸手段の価値が下がり、労働力の価値の低下につながりますが、労働力の価格はその価値までは下がらないことがあるということです。第1節でマルクスは「中間運動」として、そのことを論じています。

このような前提を踏まえて考察に入ります。つまり、労働力の価値(価格)と剰余価値の相対的大きさを規定する要因は、1、労働日の長さ、2、労働の強度、3、労働の生産力、の三つです。これらの要因のどれが、どれだけ変動するかによって、違った結果が生じます。マルクスは、主要な組み合わせの場合を考察していくのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

労働力の価値を決定する要因

労働力の価値は、平均労働者の習慣的に必要な生活手段の価値によって規定されている。この生活手段の形態は変動するかもしれないが、一定の社会の一定の時代には与えられており、したがって不変量として取り扱われてよい。変動するものは、この量の価値である。そのほかには二つの要因が労働力の価値規定に参加する。一方には、生産様式につれて変わる労働力の育成費があり、他方には、労働力の自然的相違、すなわち、男か女か、成熟しているか成熟していないかという相違がある。これらのいろいろに違った労働力の使用もまた生産様式によって制約されているのであるが、この使用は労働者家族の再生産費と成年男子労働者の価値とについての大きな相違を生じさせる。とはいえ、これらの二つの要因は以下の研究でもやはり除外されている。われわれは次のことを前提する。(1)商品はその価値どおりに売られるということ。(2)労働力の価格は、その価値よりも高くなることはあっても、その価値よりも低くなることはけっしてないということである。

このように前提すれば、労働力の価格と剰余価値との相対的な大きさは次の三つの事情に制約されているということが見いだされた。(1)労働日の長さ、すなわち労働の外延量。(2)労働の正常な強度、すなわち労働の内包量。したがって一定の時間に一定の労働量が支出されるということ。(3)最後に労働の生産力。したがって生産条件の発達度従って同量の労働が同じ時間に供給する生産物の量が大きかったり小さかったりするということ。この三つの要因の一つが不変で二つが可変であるか、または二つが不変で一つが可変量であるか、または最後に三つとも同時に可変であるかにしたがって、非常にさまざまな組み合わせが可能だということは明らかである。これらの組み合わせは、いろいろな要因が同時に変化する場合にも変化の大きさや方向はいろいろに違っていることがありうるということによって、いっそう多様にされる。以下ではただ主要な組み合わせだけについて述べることにする。

前のところ、第5章で、労働力という商品の価値は、その商品を生産するために必要な労働時間によって決まるということが述べられていましたが、労働力を生産するために必要な時間というのは、労働者が生きていくために必要なものを手に入れるための価値を得るための価値を生産する時間。その他にも、労働者本人だけでなく家族の生活、そして、労働者が労働するために必要なスキルを身に着けるために必要なものが含まれます。そして、その時間の全体は、個々の労働者によってはかられるのではなくて、社会的に一般化、定型化されて一律に、つまり定額に決められるということでした。そのことを踏まえて、第15章が展開されます。そういう労働力の価値は平均的な労働者が習慣的に必要とする生活手段の価値、つまり、そのような生活手段を購入することができる金額に相当するということです。ただし、平均的な労働者が習慣的に必要とする生活手段といっても、個々の労働者によって必要とする捉え方が違うし、さらに社会環境によっても大きく異なってきます。例えば、寒冷地では防寒は必要不可欠ですが、温帯地域ではそうではない。あるいは、電気やガスといった社会インフラが普及した地域とそうでない地域とでは必要な生活手段は全く違ってきます。そういう違いを量に置き換えると、それほど大きな違いにはならないとして(そうでないと計算できないから)、あらかじめ決まっている不変の一定量とします。変化するのは量ではなく価値の内容ということです。この他に労働力の価値を決定する要因が二つあります。一つは労働力の育成の費用、例えば教育とか技能の習得の費用あるいは情報や知識を得るといったもので、これは労働力を消費する生産過程の内容、たとえば熟練を要する作業とか技術革新のスピードが速くて新技術への対応を日々迫られるといった内容の違いによって違ってきます。そして、もう一つの要因は労働者の性別とか年齢といったようなもので、マルクスは自然の差異と言います。しかし、この二つの要因によって生ずる違いは、ここでは無視することになります。

そうなっている理由は、まず議論には次の二つのことが前提となっています。第一に、商品がその価値とおりに販売されること、第二に労働力の価格は価値以下に下落することはないということです。

そうすると、労働力の価格と、それに伴う相対的剰余価値の大きさは次の三つの要因によって決まってきます。第一に労働日の長さ、つまり労働の外延量、具体的には1労働日あたり何時間労働するかという総労働時間です。第二に労働の標準的な強度、すなわち一定の時間に一定の労働量が支出される内包量、具体的に言うと、1時間あたりこれだけのことができるという労働の中身です。個々の労働者は能力が一定ではないので一般的な労働者はこれくらいのことはするという標準的なものを定めている、それが標準的な強度です。第三に、労働の生産力すなわち一定の時間の標準的な労働によって、どのくらいの生産物が供給されるか、多いか少ないかという生産効率とか生産性といってもいいことです。

これらの三つの要因を組み合わせると様々な場合が想定できます。以下では、その主要な組み合わせについて、以下で考えていきましょう。

労働力の価値は、平均的な労働者が習慣的に必要とする生活手段の価値によって決まる。ある特定の社会の特定の時代においては、生活手段の形態はさまざまに異なるとしても、その量はあらかじめ決まっているので、不変量として扱うことができる。変化するのはこの量の価値である。ほかに二つの要因が、労働力の価値を決定する。一つは労働力の育成の費用であり、これは生産様式とともに変動する。もう一つは男性から女性か、成人か未成年かという、労働力の自然の差異である。これらの異なる労働力をどのように使用するかは生産様式によって異なるが、これによって労働者家族の再生産の費用と、成人の男子労働者の価値に大きな違いが発生する。しかしこれらの二つの要因は以下では無視する。

ここでは次の二つのことを想定している。第1に、商品はその価値どおりに販売されること、第2に、労働力の価格は、その価値以上に高くなることはあっても、その価値以下に下落することはないことである。

このことを想定すると、労働力の価格と、それに伴う相対的増殖価値の大きさは、すでに考察したように次の三つの要因によって決まる。第1は労働日の長さ、すなわち労働の外延量である。第2は労働の標準的な強度、すなわち一定の時間に一定の労働量が支出される内包量である。最後に第3は、労働の生産力、すなわち生産条件の発達段階におうじて、同じ時間のうちで同じ労働によって、より多くの生産物が供給されるか、より少ない生産物が供給されるかである。

 

 

第1節 労働日の長さと労働の強度とが不変で(与えられていて)労働の生産力が可変である場合

労働力の価値と剰余価値を定める第一の法則

この前提のもとでは労働力の価値と剰余価値とは三つの法則によって規定されている。第一に、与えられた長さの1労働日は、たとえどのように労働の生産性が、またそれにつれて生産物量が、したがってまた個々の商品の価格が変動しようとも、つねに同じ価値生産物に表わされる。

たとえば12時間労働日の価値生産物がならば、それは、生産される使用価値の量が労働の生産力につれて変動しても、つまり6シリングという価値が配分される商品の量が多くなったり少なくなったりしても、変わらないのである。

この前提、つまり、商品がその価値とおりに販売されることと、労働力の価格は価値以下に下落することはないということ、のもとでは労働力の価値と剰余価値は次の3つの法則にしたがうことになります。

第一の法則は、労働の生産性が変化し、それによって個々の製品の量や価格が変動したとしても、労働日あたりの価値生産物は変わらないということです。つまり、1労働日あたりの労働時間が12時間だった場合に、6シリングの価値が生産されるのであれば、労働の生産力が変化して、生産される使用価値の量が変わったとしても、生産される価値は6シリングのままです。つまり、労働日に生産される総価値が6シリングであることは変わらないのですが、生産力が向上し、より多くの量の物が生産されるようになるとすると、1個あたりの単価がその分下がるということです。

この前提のもとでは労働力の価値と増殖価値は次の三つの法則にしたがう。

第一の法則。労働の生産性が変化し、それによって個々の製品の量や価格が変化したとしても、与えられた長さの労働日はつねに同じ価値生産物を生みだす。

 

第二の法則

第二に、労働力の価値と剰余価値とは互いに反対の方向に変動する。労働の生産力の変動、その増進または減退は、労働力の価値には逆の方向に作用し、剰余価値には同じ方向に作用する。

12時間労働日の価値生産物は、一つの不変量、たとえば6シリングである。この不変量は、剰余価値と労働力の価値との合計に等しく、この労働力の価値は労働者が等価によって補填するものである。一つの不変量の二つの部分のうち、一方が減少しなければ他方が増加することはできないということは、自明である。剰余価値が3シリングから2シリングに下がらなければ、労働力の価値が3シリングから4シリングに上がることはできないし、また、労働力の価値が3シリングから2シリングに下がらなければ、剰余価値は3シリングから4シリングに上がることはできない。だから、このような事情のもとでは、絶対量が変動は、労働力の価値のそれであろうと、剰余価値のそれであろうと、同時にそれらの相対的または比較的な量が変動しなければ、不可能である。両方が同時に下がるとか同時に上がるかということは、不可能なのである。

さらにまた、労働の生産力が上がることなしには、労働力の価値が下がることはできないし、したがって剰余価値が上がることはできない。たとえば、前術の例では、労働の生産力が高くなって以前は6時間かかって生産されたのと同じ量の生活手段を4時間で生産することができるようにならなければ、労働力の価値が3シリングから2シリングに下がることはできない。逆に、労働の生産力が下がらなければ、つまり以前は6時間で生産されたのと同量の生活手段の生産に8時間もかかるようにならなければ、労働力の価値が3シリングから4シリングに上がることはできない。そこで、次のような結論が出てくる。すなわち、労働の生産性の増進は、労働力の価値を低下させ、したがって剰余価値を増進させるが、逆に生産性の減退は労働者の価値を高くして剰余価値を減少させるということである。

この法則を定式化するにあたって、リカードは一つの事情を見落としていた。すなわち、剰余価値または剰余労働の大きさの変動は、労働力の価値または必要労働の大きさが逆の方向に変動することを条件とするとはいえ、それだから両方が同じ割合で変動するということはけっしてならないということである。両方とも同じ大きさだけ増加または減少する。しかし、価値生産物または労働日のそれぞれの部分が増加または減少する割合は、労働の生産力の変動が生ずるよりも前から行われていた最初の分割によって定まるのである。労働力の価値は4シリング、または必要労働は8時間で、剰余価値は2シリング、または剰余労働は4時間だったが、労働の生産力が高くなったために労働力の価値が3シリングに、または必要労働が6時間に減少するとすれば、剰余価値は3シリングに、または剰余労働は6時間に増加する。一方ではつけ加えられ他方では引き去られるものは、2時間または1シリングという同じ大きさである。ところが、大きさの変動の割合はうちらとこちらとでは違っている。労働力の価値は、4シリングから3シリングに、したがって4分の1すなわち25%下がるが、剰余価値は、2シリングから3シリングに、したがって2分の1すなわち50%上がる。それゆえ、労働の生産力における与えられた変動の結果として生ずる剰余価値は増加または減少の割合は、労働日のうち剰余価値に表わされる部分が最初に小さければ小さいほど大きく、最初から大きければ大きいほど小さい、ということになるのである。

第二の法則は、労働力の価値と剰余価値は逆の方向に変化するということです。労働の生産力が増えれば、労働力の価値は減少し、剰余価値は増加する。逆に、労働の生産力が減ると、労働力の価値が増えて、剰余価値の減ってしまう。

つまり、労働日あたりの労働時間が12時間の場合の価値生産物は6シリングで不変だとします。この6シリングという不変の価値量は、剰余価値と労働力の価値を足した合計です。このように二つの価値の合計が6シリングという不変量であるときに、その二つの価値のうち一つの量が増えた場合には、残りのもう一つの量がその分だけ減ることになります。例えば、労働力の価値が3シリングから4シリングに増えたとしたら、もう一つの剰余価値は3シリングから2シリングに減ることになります。このように、労働力の価値と剰余価値とは、片方が増えれば、もう片方は減り、両方同時に増加したり減少することはありません。

労働の生産性が向上すれば労働日あたりの労働力の価値に費やされる時間が減少します。そうすると、上記のように剰余価値に費やす時間が相対的に増加することになります。これは、上記の言う、労働力の価値が減って、剰余価値が増えるということになります。具体的に言うと、生産量が向上して、これまでと同じものを同じ量を生産するために6時間必要だった生活手段が4時間で生産できるようになった、それは労働力の価値が3シリングから2シリングに減少することでもあるわけです。

このことから、労働の生産性の向上は、剰余価値を増大させますが、反対に生産性の低下は労働者の価値を増大させ、剰余価値を減少させると結論付けることができます。

リカードはこのような方式について、一つの事情を見落としています。すなわち、剰余価値や剰余労働の大きさが変化すると、労働力の価値や必要労働の価値の大きさが必ず逆の方向に変化する(剰余価値が減少すれば、労働力の価値は増加する)わけですが、その変化率は一様ではないということを考慮に入れていないのです。変化量は同じ、つまり増加と減少は同じ量だけします。これに対して、必要労働と剰余労働が増減する比率は、労働の生産力の変化が発生する前の比率によって決まるということです。

労働の生産力が変化すると剰余価値は変化します。その際の増減の比率は、労働日に占める剰余労働の割合が最初から大きければ小さくなり、最初から小さければ大きくなる、ということです。つまり、分母の大小で変化率が大きくなったり小さくなったりするということです。

第二の法則。労働力の価値と増殖価値は逆の方向に変化する。労働の生産力の変化、その増減は、労働力の価値の増減と反対の方向に変化し、増殖価値の増減と同じ方向に変化する。

12時間の労働日の価値生産物は、たとえば6シリングという不変量である。この不変量は、増殖価値に、労働者が等価物で置き換える労働力の価値を加えた量である。一つの不変量が二つの部分の合計で形成されている場合には、一つの部分が増えた場合には、残りの部分は減らされなければならないのは自明のことである。労働力の価値が3シリングから4シリングに増えるためには、増殖価値が3シリングから2シリングに減らなければならない。同じく増殖価値が3シリングから4シリングに増えるためには、労働力の価値が3シリングから2シリングに減らなければならない。この状況では、労働力の価値も増殖価値も、その絶対量が変化した場合には、その相対量あるいは比較量も同時に変化せざるをえない。両方が同時に増加したり減少したりすることはできない。

また労働の生産力が向上しないかぎり、労働力の価値が下落することはなく、増殖価値が増加することもない。前の例では、労働力の価値が3シリングから2シリングに下落するためには、労働の生産力が向上して、これまで生産するために6時間必要だった生活手段が4時間で生産できるようになる必要がある。反対に、労働力の価値が3シリングから4シリングに増加するためには、労働の生産力が低下して、これまで6時間で生産できていた生活手段を生産するためには8時間かかるようになる必要がある。

これによって、労働の生産性の向上は、増殖価値を増大させるが、労働の生産性の低下は、労働者の価値を増大させ、増殖価値を低下させると、結論できる。

リカードはこの方式を定める際に、一つの事情を見落とした。すなわち増殖価値や増殖労働の大きさが変化すると、労働力の価値や必要労働の価値の大きさが必ず逆方向に変化するが、その変化の比率は同じではないことを考慮にいれなかったのである。たしかに同じ量だけ増減するが、価値生産物や労働日のそれぞれの部分が増減する比率は、労働の生産力の変化が発生する前の比率によって決まるのである。

たとえば労働力の価値が4シリングで必要労働が8時間、増殖価値が2シリングで増殖労働が4時間だったとしよう。ここで労働の生産力が増大して、労働力の価値が3シリングに、必要労働が6時間に減少したならば、他方の増殖価値は3シリングに増え、増殖労働は6時間に増える。増えたのも減ったのも、2時間あるいは1シリングという同じ量である。しかし変化した比率は両方で異なる。労働力の価値は4シリングから3シリングに4分の1だけ、すなわち25%低下したが、増殖価値は2シリングから3シリングに2分の1も、すなわち50%も増加したのである。

したがって、労働の生産力が変化すると増殖価値は変化するが、その増減の比率は、増殖価値に表現されている労働日の部分が最初から大きければ小さくなり、最初から小さければ大きくなると、結論できるのである。

 

第三の法則

第三に、剰余価値の増加または減少は、つねに、それに対応する労働力の価値の低下または上昇の結果であって、けっしてその原因ではないのである。

労働日は不変な大きさのものであり、ある不変な価値量に表わされ、剰余価値の量的変動には、つねに、それとは逆の方向の労働力の価値の量的変動が対応し、そして、労働力の価値はただ労働の生産力の変動につれて変動しうるだけだから、これらの条件のもとでは、明らかに、剰余価値の量的変動をつねにそれとは逆の労働の価値の量的変動から生ずる、ということになる。そこで、すでに見たように、労働力の価値と剰余価値との絶対的な量的変動はそれらの相対的な大きさの変動なしには不可能だとすれば、今度は、労働力の価値と剰余価値との相対的な価値量の変動は労働力の絶対的な価値量の変動なしには不可能だということになるのである。

第三の法則によれば、剰余価値の量的変動は、労働の生産力によってひき起こされる労働力の価値運動を前提する。剰余価値の量的変動の限界は、労働力の新たな価値限界によって与えられている。しかし、事情がこの法則の作用することを許す場合にも、いろいろな中間運動が起こりうる。たとえば、労働の生産力が高くなったために、労働力の価値が4シリングから3シリングに、または必要労働時間が8時間から6時間に減少しても、労働力の価格は、3シリング8ペンスとか3シリング6ペンスとか3シリング2ペンスとかに下がるだけで、したがって剰余価値は3シリング4ペンスとか3シリング6ペンスとか3シリング10ペンスとかまでにしか上がらないということもありうるであろう。3シリングを最低限界とする低落の程度は、一方の側では資本の圧力が、他方の側では労働者の抵抗が秤の皿に投げ込む相対的な重さによって定まるのである。

労働力の価値は一定量の生活手段の価値によって規定されている。労働の生産力につれて変動するのは、この生活手段の価値であって、その量ではない。この量そのものは、労働の生産力が高くなれば、労働力の価格と剰余価値とのあいだになんらかの量的変動がなくても、労働者にとっても資本家にとっても同時に同じ割合で増大することがありうる。労働力の最初の価値は3シリングで必要労働時間は6時間、剰余価値もやはり3シリングで剰余労働も6時間だとすれば、労働の生産力が2倍になっても、労働日の分割が元のままならば、労働力の価格も剰余価値も変わらないであろう。ただ、両者のそれぞれが、量は2倍になったが価格はそれだけ安くなった使用価値に表わされるだけであろう。かりに労働力の価格が下がっても、労働力の新たな価値によって与えられている1と2分の1シリングという最低限界まで下がらないで、2シリング10ペンスとか2シリング6ペンスとかにとどまるならば、この下がった価格も、やはり増大した生活手段量をわすであろう。

このように、労働力の価格は、労働の生産性が高くなる場合には、労働者の生活手段量が同時に引き続き増大するにつれて絶えず下がるということもありうるであろう。しかし、相対的には、すなわち剰余価値に比べれば、労働力の価値はたえず下がってゆき、したがって労働者と資本家との生活状態の隔たりは拡大されるであろう。

第三の法則は、剰余価値の増減は、それに対応する労働力の価値の増減の結果であって、原因ではないというというものです。

総体としての労働日の大きさは不変と前提しているので、そのなかで剰余価値の大きさの変化つまり増減は、労働日の中に占める割合の増減であり、労働日の中で剰余価値以外のもので占めている労働力の価値の増減と逆方向に対応しています。つまり、労働力の価値が減少すれば、剰余労働の価値が増加する。これは第二法則で明らかになったことです。労働力の価値は生産力の変化に応じて変化します。つまり、生産力の増減→労働力の価値の減増→剰余価値の増減、という原因から結果の因果関係に図式化することができるというわけです。

労働力の価値は労働者にとって必要とされる特定量の生活手段の価値によって決まります。労働の生産力の変化に伴って変化するのは、この生活手段の価値であって、その量ではありません。この生活手段の量そのものは労働の生産力が向上すれば労働者と資本家のどちらにとっても同じ比率で増加することはありますが、それによって労働力の価値と剰余価値の比率が変化するとは限りません。

結果として、労働力の価格は労働の生産力が向上すれば下落し、同時に労働者の生活手段の量は増加することはありますが、比率的には剰余価値と比較すると、労働力理の価値は絶えず下落し、労働者と資本家の格差は像対していくことになります。

第三の法則。増殖価値の増減はつねに、それに対応する労働力の価値の増減の結果であって、その原因ではない。

労働日の大きさは不変量であり、不変の価値の大きさとして表現される。そして増殖価値の大きさの変化には、つねに労働力の価値の逆方向の変化が対応しており、労働力の価値は労働の生産力の変化だけにおうじて変化する。これらの条件のみとでは、増殖価値の大きさのあらゆる変化は、労働の価値が反対方向に変化したことによって生じるのは明らかである。

労働力の価値と増殖価値の絶対的な大きさの変化は、労働の生産力が変化し、それによって労働力の価値が変化することにより生じることになる。増殖価値の量的な変動の限界は、労働力の新たな価値の限界によって決定される。ただしこの法則が適用されるさまざまな状況のもとで、中間的な変化が発生することがありうる。たとえば労働の生産力が向上して、労働力の価値が4シリングから3シリングに低下し、必要労働の時間が8時間から6時間に短縮されたとしよう。その場合にも労働力の価格は、[3シリングではなく]3シリング8ペンス、3シリング6ペンス、3シリング2ペンスなどの水準までしか下がらないことはありうる。そうなると増殖価値も[4シリングではなく]3シリング4ペンス、3シリング6ペンス、3シリング10ペンスにしか増加しないこともありうる。労働力の価格が下落しても、その最低限度である3シリングまで低下するかどうかは、資本の圧力と労働者の抵抗のバランスによって決まるのである。

労働力の価値は、特定の量の生活手段の価値によって決まる。労働の生産力の変化に伴って変化するのは、この生活手段の価値であり、その量ではない。この生活手段の量そのものは、労働の生産力が向上すれば労働者と資本家の両方にとって同時に、同じ比率で増加することがあるが、それによって労働力の価格と増殖価値の比率が量的に変化する必要はない。

最初の労働力の価値を3シリング、必要労働の時間を6時間とし、増殖価値も同じく3シリング、増殖労働の時間を6時間としよう。ここで労働の生産力が2倍に向上したとしても、労働日における必要労働と増殖労働の配分が同じであれば、労働力の価格も増殖価値の大きさも変化しないだろう。どちらも量は2倍になり、それにともなって価格は半分になった使用価値で表現されるだけである。

労働力の価格は変化しないが、この価格はその価値よりも高くなっている。たとえ労働力の価格で低下しても、新しい労働の価値で決まる最低限の価格、すなわち1シリング半までは低下せず。2シリング10ペンス、2シリング6ペンスまでしか下がらないならば、この下がった価格はそれでも以前よりも多くの生活手段を表現することになるだろう。

このように労働力の価格は、労働の生産力が向上すればたえず下落するが、同時に労働者生活手段の量は増加していくことがありうる。しかし相対的には、すなわち増殖価値との比較においては、労働力の価値はたえず下落し、これによって労働者と資本家の生活水準の格差は増大していくことになる。

 

リカード理論の欠陥

リカードは前記の三つの法則をはじめて厳密に定式化した。彼の説明の欠陥は、(1)かの諸法則が妥当する場合の特殊の諸条件を、資本主義的生産の自明的な一般的な排他的な諸条件とみなしているということである。彼は労働日の長さの変動にも労働の強度の変動にも気がつかないのでので、彼の場合には労働の生産性がおのずから唯一の可変的要因になるのである。─(2)しかし、そしてこのほうがずっと大きな度合いで彼の分析をまちがったものにしているのであるが、彼もまた、他の経済学者たちと同様に、剰余価値を、そのものとしては、すなわち利潤や地代などのようなその特殊な諸形態から独立には、研究したことがなかった。それだから、彼は剰余価値率に関する諸法則を直接に利潤率の諸法則と混同しているのである。すでに述べたように、利潤率は前貸総資本にたいする剰余価値の比率であるが、剰余価値率はこの資本の可変資本だけにたいする剰余価値の比率である。500ポンド・スターリングの一資本(C)が合計400ポンド・スターリングの原料や労働手段など(C)と100ポンド・スターリングの労賃(v)とに分かれるものとし、さらに剰余価値(m)は100ポンド・スターリングだとしよう。そうすれば、剰余価値率はv/m=100ポンド/100ポンド=100%である。だが、利潤率は、m/c=100ポンド/500ポンド=20%である。さらに、利潤率は剰余価値率には少しも影響しないような事情によって定まることもあるということは明らかである。のちに本書の第3部では、同じ利潤率が非常に違ったいろいろな利潤率に表わされうるということ、また、一定の事情のものとでは、いろいろに違った剰余価値率が同じ利潤率に表わされうるということを示すであろう。

最後にマルクスは、リカードはこの三つの法則を厳密に定式化したが、彼の説明には幾つかの欠陥があったと指摘しています。第一に、この諸法則は労働日と労働の強度は不変という特殊な諸条件において妥当するのですが、彼はこの特殊諸条件を資本主義的生産の自明的な一般的な排他的な諸条件とみなしました。第二に、彼は、剰余価値をそれ自体として、その特殊的形態である利潤や地代から独立して研究したことがなかったので、剰余価値の諸法則と利潤の諸法則とを混同しました。

リカードはこれらの三つの法則を初めて厳密に表現した。ただし彼の説明には次の二つの欠点がある。第一に、これらの法則が特定の条件のもとでのみ成立していることを見逃しており、こうした特定の条件を資本制的な生産に自明な一般的で唯一の条件とみなしている。リカードは労働日の長さや労働の強度が変化しうることを認めないので、変動しうる要因は労働の生産性だけになってしまうのである。

第二にリカードは他の経済学者たちと同じように、増殖価値をそのものとして、すなわち利潤や地代などの特殊な形態とは独立して研究したことがないのであり、これが彼の分析を誤らせた重要な原因となっている。リカードは増殖価値率の法則をそのまま利潤率の法則にしてしまう。すでに指摘したように、利潤率とは、前払いした総資本にたいする増殖価値の比率であり、増殖価値率とは、総資本のうちの可変資本にたいする増殖価値の比率である。

たとえば500ポンドの資本(C)が、合計400ポンドの原料や労働者手段など[の不変資本](C)と、100ポンドの労働賃金[可変資本](v)に分割され、増殖価値(m)が100ポンドだったとしよう。この場合の増殖価値率は、v/m=100/100=100%である。しかし利潤率は、m/c=100/500=20%である。しかもこの利潤率は、増殖価値率にはまったく影響を与えない要因によって決まるのは明らかである。利潤率が同じでも、増殖価値率が異なることもある。これについては本書の第3部で説明するつもりである。

 

 

第2節 労働日と労働生産力が不変で、労働の強度が可変である場合

強度の増大と、生産物および労働力の価格の関係

労働の強度の増大は、同じ時間内の労働支出の増加を意味する。それゆえ、強度のより大きい労働日は、同じ時間数の強度のより小さい労働日に比べて、より多くの生産物に具体化されるのである。生産力が高くなっても、やはり同じ労働日でより多くの生産物を供給する。しかし、この場合には個々の生産物には以前よりも少ない労働がかかるのでその価値は元と変わらない。生産物の数は、この場合には、生産物の価値が下がることなしに、増加する。生産物の数とともにその価格総額も増大するが、生産力が高くなる場合には同じ価値総額がただ増大した生産物量に表わされるだけである。だから、時間数が元のままならば、強度のより大きい労働日はより大きい価値生産物に具体化され、したがって、貨幣の価値が元のままならば、よく多くの貨幣に具体化される。この労働日の価値生産物は、その強度が社会的標準度からどれだけずれるかによって、違ってくる。だから、同じ労働日が、以前のように不変な価値生産物に表わされるのではなく、可変な価値生産物に表わされるのであって、たとえば、強度のより大きい12時間労働日は、普通の強度の12時間の労働日のように6シリングにではなく、7シリングとか8シリングとかに表わされるのである。もし1労働日の価値生産物が、たとえば6シリングから8シリングに、変わるならば、この価値生産物の両部分、労働力の価格と剰余価値とは、同じ程度にであろうと違った程度にであろうと、同時に増大しうるということは、明らかである。もし価値生産物が6シリングから8シリングに上がれば、労働力の価格と剰余価値とはどちらも同時に3シリングから4シリングに増大することがありうる。労働力の価格が上がることは、この場合には必ずしもその価格がその価値を越えて上がることを含んではいない。逆に、その価格の上昇が、その価格よりも下への低下を伴うこともありうる。これは、労働力の価格上昇が労働力の速められた消耗を償わない場合には、いつでも起きることである。

人の知るように、一時的な例外はあっても、労働の生産性の変動が労働力の価値の大きさの変動をひき起こし、したがってまた剰余価値の大きさの変動をひき起こすのは、ただ、その産業部門の生産物が労働者の慣習的な消費にはいる場合だけである。この制限は、ここにはない。労働の量の変動が外延的であろうと内包的であろうと、その量的変動には、労働の価値生産物の大きさの変動が、この価値を表わす物品の性質にはかかわりなく、対応するのである。

労働の強度が増大するということは、同じ時間内で投入される労働の量が増加するということで、労働時間が同じであっても、より多くの生産物が製造されるということです。これに対して、労働の生産力が増加すると、同じ労働日でもより多くの生産物が供給されることになります。しかし、この場合、同じ労働日でより多くの生産物が供給されることは、個々の生産物の価値が低下することになります。これに対して、労働の強度が増大した場合は、個々の生産物に投じられる労働の量は変化しないので、生産物の価値は変わりません。この場合には生産物の価値は低下せずに、ただ量だけが変化します。

労働の強度の増大の場合は生産物の全体量が増加するし、価格の総額も増加します。これに対して生産力が向上した場合には、価格の総額は変化せずに、生産物の量だけが増大します。このように、労働の強度が増大すると、よく多くの貨幣価値が作りだされることになります。

労働日において生産する価値は、労働の強度が、社会的な水準から離れている程度によって変化します。そのため、同じ労働日であっても価値生産物の不変ではなく可変となります。それは、労働日の生産が増えたと言っても、労働力の価格と剰余価値が同じ比率で増加するとは限らないということです。

労働の大きさが労働日の延長や短縮といった外延的変化によっても、労働の強度の増減といった内包的変化によっても、いずれにしても変化によって労働が生産する価値の大きさが変化します。ただし、この価値が、どのような性質の生産物に体現されているかは、関係がない。

労働の強度が増大するということは、同じ時間のうちに投入される労働の量が増加するということである。強度の高い労働日では、労働時間が同じであっても、強度の低い労働日よりも多くの生産物が製造されることになる。もしも労働の生産力が増加すると、同じ労働日でより多くの生産物が供給される。しかしこの場合には個々の生産物に投じられている労働が減少するために、個々の生産物の価値が低下する。これにたいして労働の強度が増大した場合には、生産物に投じられる労働の量は変化しないから、生産物の価値はおなじである。この場合には生産物の価値が低下せずに、ただその量が増大するのである。

生産物の全体の量が増加するとともに、その価格の総額も増加する。生産力が向上した場合には、価格の総額は変化せず、その価格を構成する生産物の量が増大しているのである。このように労働時間が同じであれば、労働日の強度が増大すると、価値の高い生産物が作りだされるのであり、貨幣価値が同一であれば、よく多くの貨幣価値が作りだされることになる。

労働日が生産する価値は、その労働日の労働の強度が、社会の平均的な水準からどれほど離れているかによって、さまざまに変化する。そのため同じ労働日によってこれまでのように不変な価値生産物ではなく、可変な価値生産物が作りだされる。

たとえば同じ12時間でも、通常の強度の労働日では6シリングの価値が作りだされるときに、強度の高い労働日では7シリングあるいは8シリングの価値が作りだされることがある。労働日の価値生産物が、たとえ6シリングから8シリングに増大したならば、この価値生産物を構成する二つの部分である労働力の価格と増殖価値が同時に増大しうることは明らかであるが、同じように増加することも、異なった比率で増加することもある。

価値生産物が6シリングから8シリングに増加した場合、労働力の価格と増殖価値が同じように3シリングから4シリングに増加することもありうる。ただし労働者の価格が上昇したからといって、その価格が価値以上に上昇したということにはならない。逆に、価格が上昇しても、その価格がほんらいの価値よりも低いこともありうる。これは労働力の価格の上昇が、労働力の消耗速度の増大を埋め合わせることができない場合には、つねに発生することである。

一時的な例外は別として、労働の生産性が変化して労働力の価値の大きさが変化し、増殖価値の大きさもまた変化するためには、一つの条件があることは周知のことである。そのためには、その産業分野の生産物が、労働者が習慣的に消費する生産物でなければならないのである。しかし労働力の強度が向上する場合には、その制約がなくなる。

労働の大きさが外延的に[すなわち労働日の延長や短縮によって]変化するか、内包的に[すなわち強度の増減によって]変化するかにかかわらず、この変化によって労働が生産する価値の大きさが変化する。この価値がどのような性質の生産物に体現されているかは、これについては関係がないのである。

 

国ごとの違い

労働の強度がすべての産業部門で同時に同程度に高くなるとすれば、新たなより高い強度が普通の社会的標準度になり、したがって外延量としては教えられなくなるであろう。しかし、その場合にも労働の平均強度が国によって違うことに変わりはなく、したがってそれはいろいろに違った各国の労働日への価値法則の適用を修正するであろう。強度のより大きい一国の一労働日は、強度のより小さい他の国の一労働日に比べれば、より大きい貨幣表現に表わされるのである。

すべての産業分野で労働の強度が同時に、同じ程度に増大するならば、この新たな高い強度が社会的な標準強度となり、外延的な大きさについての意味はもたなくなる。しかしその場合にも国ごとに平均的な労働の強度は異なるのであり、国ごとに労働日への価値法則の適用も異なる。ある国民の労働日が、別の国民の労働日よりも強度が高いものであるならば、その国民の労働日は、別の国民よりも高額の貨幣価値を作りだすものとなるだろう。

 

第3節 労働の生産力と労働の強度が不変で、労働日が可変な場合

労働日が短縮される場合

労働日は二つの方向に変化することがありうる。それは短縮されるかまたは延長されることがありうる。

(1)与えられた条件のもとでの、すなわち労働の生産力と強度とが変わらない場合の、労働日の短縮は、労働力の価値を、したがってまた必要労働時間を変化させない。それに剰余労働を短くし、剰余価値を減らす。剰余価値の絶対量とともに相対量も、すなわち労働力の不変な価値量にたいする剰余価値量の割合も、減少する。ただ労働力の価格をその価値よりも低く押し下げることによってのみ資本家は損害を免れることができるであろう。

労働日の短縮に反対する従来のすべての決まり文句は、この現象はここで前提されているような事情のもとで起きるものと想定しているのであるが、現実にはこれとは反対に労働の生産性や強度の変動が労働日の短縮に先行するか、またはそのすぐあとに起きるのである。

資本主義的な生産様式が前

労働日そのもの変化は、短縮されるか、延長されるかという二つの方向になります。

そのうち短縮について考えてみましょう。労働の生産力と労働の強度が不変なままで、労働力が短縮されても、労働力の価値は変化しません。したがって、労働日の必要労働以外の部分、剰余労働と剰余価値が減らされることになります。剰余価値の大きさが小さくなり、労働力に対する剰余価値の比率も小さくなります。この場合、総体の価値が減少してしまうわけですから資本家にとっては利益が減るか損失となるわけですから、その損失を避けるためには、労働力の価格を労働力価値以下に引き下げるしかなくなります。

労働日の短縮に反対する意見は、このような場面を仮定して語られてきたもので、実際、このような場合は労働日の短縮が原因ではなく、それに先だって労働の生産性と強度の変化が起こっているのです。

労働日は二つの方向に変化しうる。短縮されるか、延長されるかである。

まず、労働日が短縮される場合について考えてみよう。与えられた条件のもとで、すなわち労働の生産力と労働の強度が不変なままで、労働日が短縮されても、労働力の価値は変化せず、したがって必要労働の時間も変わらない。それによって増殖労働の時間と増殖価値が減らされる。増殖価値の絶対的な大きさが小さくなり、その相対的な大きさ、すなわち変化していない労働力の価値にたいする増殖価値の比率も、小さくなる。資本家が損害をこうむることを避けるためには、労働力の価格を労働力の価値以下に引き下げるしかない。

労働日の短縮に反対してこれまで語られてきた常套的な文句はつねに、このように仮定した状況で、まさにこの現象が起こることを想定しているのである。しかし現実には逆に、労働日の短縮に先立って、あるいはその直後に、労働の生産性と強度の変化が発生しているのである。

労働日が延長される場合

(2)労働日の延長。必要労働時間を6時間、労働力の価値を3シリングとし、同様に剰余労働を6時間、剰余価値を3シリングとしよう。そうすれば、1労働日の全体は12時間となり、6シリングという価値生産物に表わされる。もし労働日が2時間延長され、労働力の価値が変わらないならば、剰余価値の絶対量とともにその相対量も増大する。労働力の価値量は、絶対的には変わっていないにもかかわらず、相対的には下がっている。第1節の諸条件のもとでは、労働力の相対的価値量は、その絶対量の変動なしには変動しえなかった。ここでは、それとは反対に、労働力の価値量の相対的な変動は、剰余価値の量の絶対的な変動の結果なのである。

1労働日を表わす価値生産物は、労働日そのものが延長されるにつれて増大するのだから、労働力の価格と剰余価値とは、増加分が同じであるかないかは別として、同時に増大することもありうるのである。つまり、この同時的増大は二つの場合に可能なのである。すなわち、労働日が絶対的に延長される場合と、この延長がなくても労働の強度が増大する場合とである。

労働日が延長されれば、労働力の価格は、たとえ名目的には変わらないか、または上がりさえしても、労働力の価値よりも低く下がることがありうる。すなわち、労働力の日価値は、前に述べたことを思い出せば、労働力の標準的な平均耐久力、または労働者の標準的な寿命にもとづいて、また、生命実体が適当に、正常に、人間の天性に適して、運動に転換されることにもとづいて、評価される。労働日の延長と不可分な労働力の消耗の増大は、ある点までは、代償の増加によって埋め合わされることができる。この消耗は幾何級数的に増大してゆき、それと同時に労働力のすべての正常な再生産条件と活動条件とは破壊される。労働力の価格と労働力の搾取度とは、互いに通約される量ではなくなる。

今度は延長の場合を考えてみます。仮に労働日の総体の時間を延長させたときに、労働力の価値が変化しない場合は、労働日の労働時間のうち必要労働時間が変わらないわけですから、それ以外の剰余労働時間が労働日の延長の分だけ増加することになります。つまり、剰余価値が増加します。それに伴って、労働力の価値に対する条価値の比率も増加します。反対に労働力の価値の大きさは変わりませんが、剰余価値と比べた比率は剰余価値が大きくなった結果、減少します。

また、労働日の延長によって労働日が生みだす価値千三物の量は増加します。これに伴い、労働力の価格と剰余価値も増加する可能性がありますが、その両方が同じように増えるとは限りません。

労働日が延長されると、労働力の価格が実質的に労働力の価値よりも低くなることがあります。つまり、労働力の1日あたりの価値は、標準的に決められている固定費のようなものなので、労働日が延長したとしても、変わらない可能性が高いからです。

次に、労働日が延長される場合を考えてみよう。必要労働の時間を6時間、労働力の価値を3シリング、増殖労働の時間を6時間、増殖価値を3シリングとしよう。すると全体の労働日は12時間になり、6シリングの価値生産物が生産される。労働時間を2時間延長すると、労働力の価値が変化しない場合には、増殖価値の絶対的な大きさが増加するとともに、その相対的な大きさも増加する。労働力の価値の大きさは絶対的には不変であるが、相対的には減少する。第1節の条件のもとでは、労働力の相対的な価値の大きさは、労働力の絶対的な大きさが変化しないかぎり、変動しなかった。ここでは逆に、労働力の価値の大きさが相対的に変化するが、増殖価値の絶対的な大きさが変化したためである。

労働日そのものが延長されると、労働日が生みだす価値生産物は増加するため、労働力の価格と増殖価値の大きさも同時に増加する可能性があるが、両方が同じように変化するかどうかは別である。この二つが同時に増加するには二つの場合が考えられる。一つは労働日が絶対的に延長された場合、もう一つは労働日を延長せずに労働の強度が増大した場合である。

労働日が延長されると、労働力の価格が名目的には変化しないが、あるいは増加したとしても、実際には労働力の価値よりも低くなることがありうる。すでに確認したように、労働力の1日あたりの価値は、労働力の標準的な持続時間の長さ、労働者の標準的な寿命、身体に含まれた物質が人間の本性にふさわしい形で運動に姿を変える際の標準的な水準などによって決定される。労働日を延長した場合には、労働力が消耗することは避けられないが、ある程度までは消耗した分を補うことで埋め合わせることができる。しかし埋め合わせうる水準を超えると、消耗は等比級数的に増大し、労働力のあらゆる正常な再生産や活動の条件が破壊される。そして労働力の価格とその搾取度は、たがいに埋め合わせることのできる量ではなくなるのである。

 

 

第4節 労働の持続と生産力と強度とが同時に変動する場合

分析方法

この場合には明らかに多数の組み合わせが可能である。どれか二つの要因が変化して他の一つが変わらない場合か、または三つとも同時に変化する場合がありうる。それらは、同じ程度でかまたは違った程度で、同じ方向かまたは反対の方向に、変化することがありうる。したがって、それらの変化が部分的または全面的に相殺されることもありうる。とはいえ、すべての可能な場合の分析は、第1、第2、第3節で与えられた解明によって、容易である。順々にどれか一つの要因を可変とし、他の二つの要因をさしあたり不変として取り扱うことによって、それぞれの可能な組み合わせの結果が見いだされる。それゆえ、ここではただ二つの重要な場合について簡単に注意するだけにしておこう。

労働時間の長さ、労働の生産力、労働の強度が同時に変化する場合は、変数が多いので、様々なケースが想定できます。3つの要因のすべてが変化する、うち2つだけ変化する、1つしか変化しない。変化したとして、どれが変化するか。また変化の大きさや方向も様々に考えられます。

ここでは、2つの重要と思われるケースを考えてみます。

この場合には、多数の組み合わせが可能となるのは明らかである。三つの要因のうちの二つの要因が変化し、一つの要因が不変な場合もあるし、三つの要因のすべてが同時に変化することもある。その変化の大きさが同じである場合も、異なる場合もあり、同じ方向に変化することも、逆に変化することもある。そのためにこれらの変化が部分的に、あるいは完全に相殺しあうこともある。

しかし第1節、第2節、第3節で示した解決手順にしたがえば、可能なすべての事例についてたやすく分析することができる。まず一つの要因を可変なものとみなし、残りの要因をとりあえず不変とみなして順番に考察すれば、あらゆる可能な組み合わせについて分析することができる。ここでは二つの重要な事例について簡単に指摘しておくにとどめよう。

 

労働の生産力が低下し、労働日が延長された場合

ここで労働の生産力が低下と言うのは、その生産物が労働力の価値を規定する労働部門についてのことであって、たとえば、土地の不毛度の増大によって労働の生産力が低下し、それに対応して土地生産物が騰貴する場合である。1労働日は12時間、その価値生産物は6シリング、そして半分は労働力の価値を補填し、残る半分は剰余価値を形成するものとしよう。つまり、1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とに分かれるわけである。土地生産物が騰貴したために労働力の価値が3シリングから4シリングに上がり、したがって必要労働時間が6時間から8時間に増加するとしよう。1労働日の長さが変わらなければ、剰余労働は6時間から4時間に、剰余価値は3シリングから2シリングに減ることになる。もし1労働日が2時間延長されて、12時間から14時間になれば、相変わらず剰余労働は6時間で剰余労働は3シリングであるが、剰余価値の大きさは、必要労働によって計られる労働力の価値にたいする割合では減少している。もし1労働日が4時間延長されて、12時間から16時間になればと、剰余価値と労働力の価値との、剰余労働と必要労働との、大きさの割合は元のまま変わらないが、剰余価値の絶対量は3シリングから4シリングに、剰余労働のそれは6時間から8時間に、つまり3分の1または33と3分の1%増大している。だから、労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合には、剰余価値の比率的な大きさは減少してもその絶対量は変わらないことがありうるのである。また、剰余価値の絶対量は増大してもその比率的な大きさは変わらないこともありうるし、また延長の程度によっては剰余価値が絶対的にも比率的にも増大することもありうるのである。

1799年から1815年のまでの期間にイギリスでは生活手段の価格騰貴は、生活手段で表わされる現実の労賃が下がったのに、名目的な賃金引き上げを伴った。このことから、ウェストやリカードは、農業労働の生産性の減退が剰余価値率の低下をひき起こしたという結論を引き出し、この彼らの空想のなかでしか妥当しない仮定を、労賃と利潤と地代との相対的な量的関係について重要な分析の出発点にした。ところが、高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのである。この時代こそは、無際限な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速度的な増加によって特別に特徴づけられた時代だったのである。

第1のケースは労働の生産力が低下し、同時に労働日が延長された場合です。例えば、土地の不毛化が進み、土地の生産物の価格が高騰し、そのために労働の生産力が低下した場合等がそうです。つまり、土地が不毛化したために労働日の中で労働力の価値を生みだすために、以前なら6時間で済んだ労働が8時間を費やさなければならなくなった。そうすると、労働日の残りの剰余価値が労働力の価値の分がふえただけ減少することになります。そうすると、総体の合計は減少します。そこで、労働日を延長したとすると、その延長分だけ剰余価値が増えるとしても、労働の生産力が低下する前の状態と比較すると、労働の生産力の低下により、剰余価値はいったん減少したので、そこから増加したとしても、労働日の延長の量によっては、差し引きマイナスの結果となるか、差し引きゼロとなる可能性もあります。いずれにしても労働力の価値は増えているので、それに対する剰余価値の比率は、変わらずか、減少、増加したとしても価値量の増加に比べれば少ない増加となります。

実際、1799年から1815年にかけてイギリスでは物価が高騰し生活手段の価格が上がりました。そこで名目賃金額は増加しましたが、生活手段の価格の上昇にはついていけず、実質的な労働賃金は減少となりました。しかし、労働の強度を高くするため、労働日の延長が図られました。そのため、剰余価値は量も比率も増加しました。ですから労働日の延長は際限がなかったのです。つまり、資本家は利益を増やすことができましたが、労働者は過酷な長時間労働を強いられ、実質賃金は減少して生活は苦しくない、資本家との格差は加速度的に増大したのです。

第1は、労働の生産力が低下し、同時に労働日が延長された場合である。

ここで、労働力の価値を決定している生産物を決定している労働分野で、労働の生産力が低下したと考えよう。たとえば土地の不毛化が進み、土地の生産物の価格が高騰し、そのために労働の生産力が低下した場合がそれに該当する。まず最初の状態として、労働日が12時間、生産される価値が6シリング、そのうちの3シリングが労働力を補填し、3シリングが増殖価値を形成するとしよう。したがって労働日は必要労働が6時間、増殖労働が6時間となる。

ここで土地の生産物が高騰したために、労働力の価値は3シリングから4シリングに増加したとしよう。必要労働の時間は6時間から8時間に増大する。このとき労働日の長さが変わらなければ、増殖労働の時間は6時間から4時間に短縮されることになり、増殖価値は3シリングから2シリングに下落する。

もしもこの場合に労働日が2時間延長されて12時間から14時間になると、増殖労働は以前と同じ6時間になり、増殖労働は3シリングになるが、必要労働の時間の長さで測定した労働力の価値との相対的な比率では、増殖価値の大きさは小さくなっている。労働日が4時間延長され、12時間から16時間になると、増殖価値と労働力の価値、増殖労働と必要労働の比率は前と同じに維持される。しかし増殖価値の絶対量は3シリングから4シリングに増加しており、増殖労働の絶対量は6時間から8時間に、すなわち3分の1あるいは33と3分の1%だけ増加する。つまり労働の生産力が低下し、同時に労働日が延長される場合には、増殖価値の相対的な比率は減少しても、その絶対量は変化しないこともありうるのである。また増殖価値の絶対量が増加しても、その相対的な比率は変わらないこともあり、労働日の延長の大きさによっては、増殖価値が絶対的にも相対的にも増大することもありうる。

1799年から1815年のあいだにイギリスでは生活手段の価格が高騰し、名目賃金は上昇した。しかし生活手段で表現された実質の労働賃金は下落した。そこでウェストとリカードは、農業労働の生産性の低下が、増殖価値の減少をもたらしたと結論した。そして彼らの幻想のうちでしか成立しないこの想定に基づいて、労働賃金、利潤、地代の相対的な比率について重要な分析を始めたのである。

しかし労働の強度が高められ、労働時間が強制的に延長されたので、この時期に増殖価値は絶対的にも相対的にも増加したのだった。この時期は、際限のない労働日の延長が〈市民権〉を獲得した時期であり、資本が加速度的に増大し、貧民もまた加速度的に増大したことが大きな特徴となった時期である。

 

労働の強度と生産力が増加し、労働日が短縮された場合

労働日の生産力の上昇の労働の強度の増大とは、一面から見れば、同じ形で作用する。両方とも、各期間内に得られる生産物量を増加させる。したがって、両方とも、労働日のうち労働者が自分の生活手段またはその等価を生産するのに必要な部分を短縮する。労働日の絶対的な最小限界は、一般に、労働日のこの必要ではあるが収縮の可能な構成部分によって、画される。1労働日全体がそこまで収縮すれば、剰余労働は消滅するであろうが、それは資本の支配体制のもとではありえないことである。資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようにかるであろう。

労働の生産力が増進すればするほど労働日は短縮されることができるし、また労働日が短縮されればされるほど労働の強度は増大することができる。社会的に見れば、労働の生産性は労働の節約につれても増大する。この節約には、単に生産手段の節約だけでなく、いっさいの無用な労働を省くことが含まれる。資本主義的生産様式は、各個の事業では節約を強制するが、この生産様式の無政府的な競争体制は、社会全体の生産手段と労働力との最も無限度な浪費を生みだし、それとともに、今日では欠くことができないにしてもそれ自体としてはよけいな無数の機能を生みだすのである。

労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力のある社会成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、すなわち、社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。労働日の短縮の絶対的な限界は、この面から見れば、労働の普遍性である。資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである。

第2のケースは労働日の強度と生産力が増大し、同時に労働日が短縮された場合です。労働の生産力の向上と労働の強度の増大は、どちらも時間あたりの生産量の増大を結果として生みます。その結果、労働日のうちで労働者の生活手段ないしその等価物の生産に必要な部分の労働時間を短縮させます。その結果、剰余労働の時間が変わらなければ、労働日の労働時間が短縮されます。その短縮された時間は、労働者は労働しなくていいわけですから、労働者にとって自由にできる時間が増える、余暇が生まれることになります。

ただし、資本主義的な生産様式では、その自由となった時間を資本家が見逃すはずはないので、その分を剰余労働の時間に振り分けて、労働日の短縮をせずに剰余価値を増やそうとするでしょう。

第2は、労働日の強度と生産力が増大し、同時に労働日が短縮された場合である。

労働の生産力の向上と労働の強度の増大は、ある意味では同じ形で作用する。どちらも時間あたりの生産量を増大は、ある意味では同じ形で作用する。どちらも時間あたりの生産量を増大させるからである。したがってどちらも、労働日のうちで、労働者の生活手段ないしその等価物の生産に必要な部分を短縮する。労働日の絶対的な最小限度は、この必要不可欠ではあるが、短縮することのできる部分によって決まる。すべての労働日がその最小限度まで短縮されると、増殖価値は消滅するが、資本の支配体制のもとではそれは不可能である。

資本制的な生産形態を廃絶すれば、労働日を必要労働の時間だけに制限することができる。その場合には他の状況が変わらない場合には、必要労働のおよぶ範囲が拡大することになるだろう。その一つの理由は、労働者の生活条件がさらに豊かになり、生活の要求水準が拡大するためである。もう一つの理由は、現在の増殖労働の一部が必要労働に算入されるようになり、社会的な予備財源と蓄積基金が設立されるようになるからです。

労働の生産力が向上すればするほど、労働日はそれだけで短縮できる。労働日が短縮されればされるほど、労働の強度は強まりうる。社会的にみると、労働の効率を高めることによっても労働の生産性を向上させることができる。労働の効率を高めるには、生産手段を節約するだけでなく、すべての無駄な労働を廃止することが必要である。

資本制的な生産様式のもとでは、たしかに個々の事業は効率を高めざるをえない。しかしその無秩序な競争システムのために、社会全体の生産手段と労働力がまったく無際限に浪費されることになる。さらに現在では不可欠ではあるが、その者としては必要のない無数の機能が生みだされるのである。

労働の強度と労働の生産力があらかじめ決まっている場合には、労働能力のある社会のすべてのメンバーに労働をできるだけ均等に分配すればするほど、そして一つの社会層が他の社会層に、労働の自然的な必然性を一方的に押しつけることができなくなればなるほど、社会的な労働日のうちで、物質的な生産に必要な部分はますます短くなり、個人が自由な精神活動や、社会的な活動のために利用できる時間はますます長くなる。その意味では、労働日の短縮の絶対的な限界は、労働がすべての人にあまねく分配されるかどうかによって決まるのである。資本制的な生産様式では、一つの階級の自由な時間は、大衆のすべての生活時間を労働時間に変えることによって確保されているのである。

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