ジェーン・オースティン『高慢と偏見』を読む
 

1.はじめに

2.あらすじ 

3.『高慢と偏見』を読む体験 

4.『』の多彩な魅力 

(1)「」をめぐる小説 

(2)教養小説としての『』

 

1.はじめに

ジェーン・オースティンの小説は、あらすじだけを聞くと面白そうには思えないのに、実際に小説を読み始めると、物語に惹き込まれて離れられなくなると言われます。ひとつには、彼女の小説は波乱万丈のストーリーで、この先どうなるか目が離せなくなるとか、ドラマティックな展開に度肝を抜かれるとか、荒唐無稽な設定とか感傷的なロマンスとか、そういった読者をひきつける物語の要素は全くありません。彼女の小説について、こんな話だと紹介すると、たいていは味気ないことしか言えず、とにかく、実際に読んでみて、という他、何もいえなくなってしまうのが常です。そのようなオースティンの小説の中で『高慢と偏見』は、ヒロインとヒーローの恋のドタバタ騒ぎの挙句ハッピーエンドを迎えるという物語の要素が最も豊かな小説です。この作品はオースティンの代表作として、あるいはイギリスの近代小説の代表的な作品として広く認められ、これについては古今の小説家や批評家が紹介してくれているので、あえて私がそれらにつけ加えられることはないと思います。

私にとっての、オースティンの小説の魅力は、『マンスフィールド・パーク』や『ノーサンガー・アビー』のところでも指摘しましたが、語り口の魅力です。しかも、オースティンの小説では、語り口が単なるも言葉遣いとか、文章の書き方という表層の次元にとどまらず、それが登場人物のあり方だとか、物語そのものに大きくかかわっているというところです。とくに、この『高慢と偏見』はオースティンの魅力である語り口が、もっとも複雑で、主人公二人の人物造形や、その行動と切っても切れないほど密接に影響している。そして、そういう二人の行動がドタバタ騒ぎを起こし、あるいはその騒ぎに巻き込まれていく、そういう作品になっていると思います。

例えば、主人公の二人の出会いの場面です。エリザベスはダーシーの不愛想で見下すような態度に不快感を持ちます。そして、ダーシーとビングリーの会話を聞いてしまいます。それは、娘たちと踊らないダーシーにビングリーがエリザベスと踊ることを薦めたのに対して、「まあまあだけど、あえて踊りたいほどの美人じゃない。ほかの男から相手にされないお嬢さまの相手をする気分ではない」とう辛辣な返答をしたのです。エリザベスのダーシーに対する第一印象は最悪なものとなりました。この時のエリザベスを観察してみると、実はダーシーのことをあまり見ていないといえます。むしろ、はじめから色眼鏡で彼を見ている。それはどうしてかというと、彼が自分を見下し、馬鹿にしていると思ったからです。エリザベスという女性は聡明で、鋭い観察力を持っています。たとえば、従兄弟のコリンズからの手紙の文章から彼の人となりを見事に推測してみせた(しかも、後に実際にあってみたら、その推測が的確であったことが実証されました)ほどです。しかも、好奇心旺盛で、初めて会ったひとなら隈なく観察されてしまうことになります。しかし、ダーシーは、その観察すらやってもらえませんでした。慥かに、エリザベスは最初、ダーシーを探り始めます。しかし、先に述べたことからダーシーは自分を見下し馬鹿にしているとみなし、怒りを覚えます。感情的になるのです。そこかに生まれるダーシーの印象は、端的に言えば、「向こうが馬鹿にしているのだから、こっちから嫌ってやる」と言ってもいいものでした。エリザベスはダーシーをちゃんと見ていないのです。ダーシーの態度は人見知りするシャイな性格によるもので、エリザベスが感じた悪意はほとんどないものだからです。エリザベスは、観察眼を持っているがゆえにダーシーの心理状態を探ろうとし、そこから彼に悪意があると誤解し、かれを嫌い始めるのです。それは、彼女がもともと持っている聡明さは、正反対の行動です。そして、これに対するダーシーの方も、エリザベスに劣らず聡明なタイプで、友人のビングリーが直情的に行動するのを、冷静に抑える理性的な人物です。それが、エリザベスの聡明さや深い教養にいち早く気が付きながら、彼女に対する好感を感情的に抑えてしまいます。それは、逆にエリザベスがこっちを嫌っているからです。ダーシーはエリザベスに関心を持っているが故に彼女が自分を嫌っているという彼女の心理を探り当て、それで感情的になって冷静な評価をしなかったのです。つまり、二人とも聡明で、周囲の空気や感情に流されずに、自分というものをしっかり持っていて判断ができる人物なのです。しかし、中途半端に相手の心理を探り、分かったような気になって、周囲の空気に流されて、嫌い遭うのです。

一方で、読者は、そういう二人のことは、読んでいる時点では、すぐには分かりません。二人の判断は、そういう感情に流されものではなくて、ちゃんと判断しているように読んでしまうのです。それは、作者であるオースティンの語り口にあります。この作品では、作者は一人何役もこなしているのです、しかも、読者はそのことに気づいていません。一般的な小説の語りのように神様が上の方から客観的に物語を話していると、読者はおもってしまうのです。それがオースティンの語り口の巧さです。しかし、エリザベスがダーシーの振舞いを見たり、ビングリーとの会話を立ち聞きしてしまう場面での語りは、けっして神様のように上から客観的でないのです。エリザベスに寄り添うように、彼女の立場に立って、彼女の目に映る光景を描写し、ときに彼女の感情を代弁するように語っているのです。つまり、この場面はエリザベスの視点で語られている。しかし、読者は、それに気づかない。それが今度は、ダーシーがエリザベスのことを見ているときには、作者はダーシーに寄り添うのです。つまり、この『高慢と偏見』の主人公の二人は、最初から互いに寄りかかり合っていたのです。それが、この小説が、他の恋愛小説にないユニークなところです。近代の恋愛小説は、自立した個性をもった男女がいて、それぞれが主体的な意志で相手を好きになるというものです。それが近代的な個人の恋愛です。それに対して、『高慢と偏見』の主人公の二人は、一見、そういう近代的な個人であって主体的な意志で恋愛という行動をしているように見えて、実は、その意思決定は、あっちが嫌っているから嫌ってやるんだ、とでもいうような、相手の影響に受け身になって、それに流されて、意思決定に主体性がないことを明らかにしてしまっているのです。

これは、何も主人公二人の間に限ったことではなく、エリザベスがダーシーのプロポーズを受け入れる決意をするのは、彼とは関係のないところで、キャサリン・ド・バーグ夫人に彼の相手として不相応だとなじられたことに対して、反発し、怒った感情的な勢いで決心してしまったようなものです。一方、ダーシーもまた、ミス・ビングリーがエリザベスの悪口をいったことに反発して、かえってエリザベスに近づくことになったことがありました。このように主人公の二人に周囲の様々な人物が干渉してくるように関係してきて、事態は複雑になっていきます。二人の関係を中心にして、様々な人々が干渉してくるし、干渉し合う複雑な力学の場が作られているのです。そこで二人の意思決定や行動は、その複雑な力学の中から生まれてくることになるので、その決定の源が彼ら自身とは限らない、むしろ誰なのかわからない。このような、関係性、別の言葉でいえばネットワークが張り巡らされていて、その節目がそれぞれの人で、全体はその個々の節目よりもネットワークが動かしている。そういう様相だと思います。それがすごいのです。これは、きわめて現代的な見方で、そういう関係とか人のあり方を、『高慢と偏見』は19世紀の初めに、すでに完成された形でやっていた。これは、現代の読者の視点から過去の作品を見ていると思われるかもしれませんが、例えば、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』には、そういう相対的な視点は探しても見つかりません。むしろ強烈な自我をもった主体がぶつかり合うという内容で、それだけ『高慢と偏見』の特異さが浮かび上がると思います。

後は、ちょっとした追加です。さきに、関係の場という言い方をしましたが、それは場所でもあるんです。というのも、『高慢と偏見』は、オースティンの小説では珍しく、頻繁に主人公が移動するのです。エリザベスは、ロングボーンの実家から始まって、コリンズの牧師館のあるハートフォード、そこで、ダーシーからの1回目のプロポーズを断り、ロンドン、そして叔母たちとダービーシャへの旅行、そこでダーシーのペンパリー屋敷での再会、そしてロングボーンにもどる。ダーシーも、エリザベスに負けず移動を繰り返します。移動によって場所が変わると、場が変化します。場が変化すれば、場に関わっている人も変化します。例えば、ハートフォードでエリザベスはダーシーを手厳しく拒絶しますが、ペンバリーでは素直にダーシーに接し、リディアの駆け落ちの知らせを受けるとダーシーとの関係を喪うと涙を流すという別人のようになります。これには、もちろん物語の進行によってエリザベスの人間的な成長があるからなのですが、それだけでなく、人々の関係の場が変化して、その中でのエリザベスやダーシーのあり方や振舞いも、それに伴って変化しているのです。

この『高慢と偏見』には、だから核となるような確固としたものがないのです。それぞれの登場人物の個も人々が織りなす関係も、不確かで絶えず動いている。それを語る作者の語り口も、エリザベスに寄り添うかと思うと、次はダーシーへと移行し、次々と入れ替わっていく。よく考えてみると、確かなものが何もない。これって、ポストモダンそのものです。

ポストモダン文学などというと、アンチ・ロマンとかメタ小説とかいうようになって、深刻だったり、やたら重かったり、物語がひっちゃかめっちゃかで難解だったりで、あまり読んでも楽しいとか面白いことにはならないのですが、この小説を読んでいると、不確かなものがないとは全く感じられません。個性あるサブ・キャラクターが楽しくズッコケ、ヒロインとヒーローの恋のドタバタ騒ぎする、ハッピーエンドのコメディにまとまっているのです。

この後、実際に小説を読んでいって、個々の文章や登場人物の振舞いを追い掛けていきますが、このような複雑なままだと追い掛けたのを語ることができないので、ヒロインのエリザベスを中心にして追い掛けていくことにします。だし、それは、この小説を追い枯れる視点のひとつにすぎません。このほかにも、ダーシーの視点で追い掛けたり、多数の視点で複雑なままでおいかけるという、様々な読み方ができると思います。

 

2.あらすじ

その体験をするまえに、予備知識として、簡単に小説のあらすじを紹介しておきます。オースティンの小説の中では『高慢と偏見』はストーリーが複雑で起伏があります。他の作品と違って、読み手の解釈によって物語の様相が変わってしまうところがあります。そういうところは、これから実際に読んでいく作業の中で逐一、見ていこうと思います。ここでは、そのために大筋としてのストーリーの流れをざっと、頭に入れておくと、見やすくなると思います。では、簡単にあらすじを見ておきましょう。

ロングボーンに住む地主のベネット夫妻には息子がなく、5人の娘がいました。あるとき、金持ちの独身青年ビングリーが近隣のネザーフィールドに引っ越してきて、ベネット家の人々とも交際するようになります。まもなく、上品で美人の長女ジェインとビングリーは恋仲となります。ビングリーには友人のダーシーがいて、行動をともにしていましたが、次女のエリザベスは才気煥発なところがあり、彼の態度の高慢なところに気づいてしまい、それが気に入りません。同じ頃、隣町のメリトンに国民軍の連隊が駐屯すると、ベネット家の末の2人の妹達が、連帯の青年将校に熱を上げてしまうようになり、エリザベスも、ハンサムなウィッカムに好意を持つようになります。彼は過去にダーシーからひどい仕打ちをうけたという話をエリザベスに吹き込みます。一方、ビングリー氏は突然ロンドンに去ってしまい、ジェインは置いてゆかれたことになり、悲しみます。

ビングリーと入れ替わるように、ベネット家の相続権を持つ親類のコリンズがロングボーンを訪れます。彼は尊大な牧師で、ベネット家の娘のひとりを妻として得る目的でやってきたのでした。彼はエリザベスに求婚しますが、すげなく断られてしまい、彼女の友人シャーロットと結婚します。

失意のジェインは、気分転換のためにロンドンにいる叔父のガーディナー夫妻にところにしばらく滞在します。そこで、ビングリーを訪ねますが、ロングボーンでは親しくしていた彼の妹から冷淡な態度で扱われ、彼との再会を果たせず終わります。一方、エリザベスはコリンズとシャーロットの新婚過程に招待され、領主であるキャサリン・ド・バーグ夫人を紹介され、彼女の甥であるダーシーとも再会します。そこで、ダーシーはエリザベスに求婚します。しかし、エリザベスは。身分の違いを強調し、結婚してやるといわんばかりの彼の高慢な態度に立腹し、ウィッカムからきいた情報などから、求婚を拒絶します。それに対して、ダーシーは真実を明らかにした手紙をエリザベスに渡し、ビングリーとジェインを引き離したのは自分であることとその理由を説明するとともに、ウィッカムが放蕩者で、ダーシーの妹を誘惑したという事実を明かします。

エリザベスは、ガーディナー夫妻の休暇につきあい旅行に同道しますが、その途中でダーシーの屋敷であるペンバリーを見学します。そこで留守中であったはずのダーシーが予定外の帰宅をしたため、再会します。そのダーシーは人が変わったように彼女たちを丁重に扱います。そこに、妹のリディアがウィッカムと駆け落ちしたという知らせが届きます。

エリザベスは旅行を切り上げ、急いで実家に戻り、ベネット氏はロンドンでガーディナー夫妻の助力を得ながら駆け落ちした二人を探します。しかし、見つけることはできず、消沈しきってロングボーンに戻ります。その後、ウィッカムとリディアが結婚して、ベネット家を訪ねてきました。実は、ダーシーが二人を探し出し、ウィッカムに多額の金を渡して取引し、リディアと結婚させたのでした。エリザベスは真相をガーディナー夫人から聞きます。そして、ビングリーが、ロンドンからネザーフィールドに戻りジェインに求婚したのでした。ダーシーとエリザベスが婚約したと誤解したキャサリン・ド・バーグ夫人がエリザベスを訪ねてきて、結婚に猛反対するのですが、エリザベスは夫人に反抗します。このことを知って、ダーシーは勇気を得て、再び、エリザベスに求婚し、エリザベスは承諾したのでした。

 

3.『高慢と偏見』を読む体験(引用はちくま文庫の中野康司訳より)

第1章

他の作品のところでも述べましたが、オースティンは小説の始め方が印象的で、最初から読者をぐっと掴んで、物語に惹き入れてしまいます。この作品では主人公の両親であるベネット夫妻の会話から始まります。

金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。

この真理はどこの家庭にしっかり浸透しているから、金持ちの独身男性が近所に引っ越してくると、どこの家庭でも彼の気持ちや考えはさておいて、とにかくうちの娘にぴったりなお婿さんだと、取らぬタヌキの皮算用をすることになる。

「あなた、聞きました?ネザーフィールド屋敷にとうとう借り手がついたんですって」ある日、ベネット夫人が夫に言った。

いや、聞いてないね。たったいまロング夫人から聞いたんですよから間違いないわ」

夫は無言。

「あなたったら!借り手がどんな人か知りたくないの?」じれったそうに妻は声を荒げる。

「べつに。だが、おまえが話したいんなら聞いてもかまわんよ」

呼び水はこれで十分。

「もちろんあなたもちゃんと知しっとかなきゃだめ。ロング夫人の情報によると、ネザーフィールド屋敷を借りたのは、北イングランドの大金持ちの青年だそうよ。月曜日に立派な馬車でやってきて、お屋敷をひと目見て気に入って、その場でモリスさんと話を決めたんですって。9月29日の聖ミカエル祭の日までには正式に契約して、来週中にも召使いたちがやってくるそうよ」

「名前は?」

「ビングリーさん」

「もう結婚してるのかね?まだ独身かね?」

「何言ってるの!独身に決まってるじゃないの!大金持ちの独身青年よ。年収4、5千ポンドは固いわね。うちの娘たちにチャンス到来だわ!」

「うちの娘?うちの娘とどういう関係があるのかね?」

「まったくもう!ビングリーさんとうちの娘が結婚するかもしれないってことですよ!」(P.7〜9)

この会話を読んだだけで、物語の基本情報がかなりわかります。当時の他の小説(オースティンの他の作品も例外ではありません)が、語り手が状況を細々と説明するような始まり方をしていたのに対して、この作品では最初から登場人物の会話が入り、そこにそれだけの情報があり、ベネット夫妻の性格や二人の関係も描き出され、しかも物語世界の生き生きとした日常の中に、読者を引き込んでしまうのです。

夏目漱石が、この冒頭部を絶賛したといいます。漱石は留学中の研究の成果をまとめた『文学論』のなかで、「ジェーン・オースティンは写実の泰斗なり」と述べています。この会話部分をすべて引用し、これが単に平凡な夫婦の無意味な会話ではなくて、この中に夫婦の性格が生き生きと描かれていて、この一節だけで夫婦の全生涯を一幅の図として縮写しえていると、その平淡な写実の中に潜んでいる深さを称賛しているといいます。

ところで、このようなページを探して読んでいるような方で「高慢と偏見」を読んだことがないという人はいないでしょう、むしろ、一筋縄ではいかないような方、小説の内容も知っているし、一般的な議論には食傷気味といった人々が暇つぶしに見ているといったところではないでしょうか。そこで、ここから脱線していくことにします。この冒頭のところについて、平田さんという人がアイロニーについての分析をしています(詳しい内容はこちらを参照してください)。まず、冒頭の「金持ちの独身男性はみんな花嫁募集中にちがいない。これは世間一般に認められた真理である。」というのは言葉の表面的な意味と、当時の現実との間に食い違いがあるというのです。財産のある独身男性が必ずしも奥さんを必要としているとは限らないのであって、これはイギリスの田園都市における、ベネット夫人に代表されるジェントリー階級の母娘たちの間でだけ通用する、勝手な願望に過ぎないというのです。しかし、その逆の面、つまり財産のない若い女性は生きていくためには財産のある独身男性と結婚しなければ生きてゆけない、というのは一般的真実です。したがって、冒頭に示された文章は、イロニーであり、その後の夫婦の会話であたかも真理であるかのように扱われているころに、ベネット夫人の愚かさと、それをイロニーとして扱っているベネット氏の会話のズレが生じている。しかし、それだけでしょうか。前にも少し触れたように、財産のない若い娘にとって財産のある男性をつかまえて妻の座をゲットすることは生きるために必要なのです。しかも、これから明らかになっていきますが、当時の独特の相続制度のもとでベネット家の娘たちは、文字通り財産をもたない女性に該当するのです。だから、将来生きていくために財産のある男性を捕まえることは必須なのです。それゆえ、ベネット夫人が多少の空回りはあるにせよ、娘たちに男性をあてがうことに必死になるのは、当時の常識では母親として当然の行動といえるのです。むしろ、そういうことに斜に構えた姿勢をとって、夫人をかにかっているベネット氏の方が、常識とは距離を置いているといっても良い。では、なぜ夫人が愚かであるとからかわれているか。それは、この小説全体がベネット氏の視点に立って皮肉を述べているからです。主人公のエリザベスは、家族の中で、寛大なジェーンを別にして、彼女の側に立ってくれるのはベネット氏だけなのです。これは、ベネット氏からも同じです。つまり、ベネット家で、この3人以外の人々、それはイギリスの片田舎のミドルクラスという狭い社会で、その常識にどっぷりと浸かって、そのことを自覚していない人々なのです。そういう人々への皮肉を利かせるために、カリカルチャとして、あえて際立たせているのです。だから、引用した冒頭の夫婦の会話は、実はコントのようなデフォルメした台詞なのです。それを、漱石ですら平凡な夫婦の会話とみなしたというところに、オースティンという作家の巧妙さがあると思います。したがって、オースティンの皮肉、というか毒はベネット夫人に対してだけでなく、この夫婦の会話をもっともらしくリアリズムと感心してみせて、いかにも自分は読み巧者だと気取ってみせる批評家やスノッブにも向けられていると思うのです。そういう批評家やスノッブというのは、この小説でのベネット氏にあたるわけです。つまり、この小説は、一見、ベネット夫人を愚かと皮肉って笑いものにするポーズをとっていて、その笑いにひっかかってしまうベネット氏の側を嘲笑っている。なんで、こんな迂回するようなややこしいことをしているのか。それは、作者のオースティン自身がベネット氏の側の人間だからです。そうでなければ、こんな小説なんか書けません。そういうオースティンからみればベネット夫人を見る目とベネット氏の目が重なるのは容易です。だからストレートに笑い飛ばすことができる。その反面、自身を顧みれば、ベネット氏のおかしいところが見える、しかし、鏡を見るようなベネット氏への皮肉は屈折してしまうのは無理もないことでしょう。

そもそも、この『高慢と偏見』という小説は、登場人物を見渡せば、ほとんどすべての人が、善良で正直な人ばかりなのです。例外的に悪意のある人物としてはウィッカムくらいのものです。それで舞台がのんびりとした田舎で、ハッピーエンドの結末なのですから、微笑ましいハートウォーミングのラブストーリーには格好のシチュエーションなのです。ベネット夫人など欠点はあるものの善良な好人物ともとれるので、笑い飛ばされている性格だって愛嬌として描くこともできる。喜劇という日本語ですが、同じ喜劇でもhappy storyではなくfarceなのです。この小説は。つまり、善良さを基本的にポジティブではなく、ネガティブに見ているのです。そのような視点に立つと、この「高慢と偏見」という小説には、読者をむも嘲笑うような、ジェイン・オースティンという作家の底意地の悪さが見事に発揮された小説として見えてくるのではないでしょうか。

また、平田さんは夫婦の会話で交わされる言葉の数を比較しています。その結果は、圧倒的にベネット夫人の言葉の分量が多いのです。このことから、ベネット氏が夫人との会話を望んでいないこと、またできれば夫人を裂けたいと思っている推測できるとしています。それが、このあとで説明されている二人の性格と、夫婦としての釣り合いが取れていないことの悲劇と、平田さんはみなしています。ただ、上に述べたようなオースティンという作家の捉え方をすれば、そういう風に、すねて斜に構えているベネット氏の振舞いは、どこかの小説に出てくるような、類型の中にいる、言ってみれば凡庸の域を出ないわけで、彼自身それに気づいていない、と言えるわけです。それは、後にパーティの振舞いでダーシーに指摘され、娘のリジーから手痛いしっぺ返しを受けることになるのです。ここでは、それを明らかにしないオースティンという作家の残酷さという指摘にとどめておきましょう。

第2章

ベネット氏は近所の誰よりも早くビングリー氏を訪問しました。彼は、最初から、そのつもりで前章の夫人との会話も訪問するつもりだったのをとぼけて、夫人をからかったのでした。同じように、訪問した日の晩に、そのことをからかうように報告したのでした。その報告の会話も前章で引用した会話に負けないほど面白いのですが、長くなるので引用は控えることにします。しかし、今度は夫婦ふたりだけではなく娘たちも加わって家族の会話となります。ここでは、前章の会話でベネット夫妻の実質的な紹介ができてしまったのと同じように、娘たちの紹介ができてしまっています。ヒロインのエリザベスとジェインの二人は、このあとたっぷりと説明されますが、それ以外の家族については、ここであらかた説明されてしまいました。

第3章

うわさのビングリー氏が登場します。ベネット氏の訪問の数日後、その返礼のあいさつに訪れ、書斎で十分ほど話しただけでした。それで早速ディナーの招待状を送りましたが、ロンドンに出かける用事があるとのことが断られます。

これらのように、食事への招待と、そこでの紹介も男女の出会いの場であり、交際を深める場でもあったということでしょう。当時の領主たちにとって、ディナーは、その家の地位、洗練度などを示す大事な機会でありました。ディナーは時間、中味が重要で、とくに客を招く場合は贅沢な材料を使って、客が食べ切れないほどのご馳走を何コースも用意することでもとなし側の富や地位を誇示していたといいます。但し、当時の食事のコースは現代とは違って一皿ずる料理が各自に運ばれ、食べ終わると次の料理が出てくるというのではなくて、肉やスープや野菜等がテーブルに並べられて各自が好きな料理を好きなだけ取って食べるという方法でした。食事が済むと、男女別に男は喫煙室で煙草を一服したり、女は談話室でお茶や菓子をつまんだりして、そこで会話があり、後のところでエリザベスがキャサリン・ド・バーグと議論するのは、このような場でした。また、庶民階級は明るいうちに食事を済ませてしまうので、ディナーとして夜に食事をするということが上流階級のステイタスでもあったといいます。今回は、ディナーの招待は実現しませんでしたが、この後、ジェインがビングリー氏の家族にディナーの招待を受けることになります。

そして、数日後の舞踏会にはロンドンから姉夫婦と妹、そして友人のダーシーをロンドンから連れてきます。そこで、ヒングリーとダーシーは次のように紹介されます。

ビングリー氏は美男子で立派な紳士であり、明るい顔立ちで、自然で気取りのない態度だった。(中略)ビングリー氏の友人ダーシー氏は、すらりとした長身で、たいへんな美男子で、物腰もすこぶる上品で、たちまちみんなの注目を集めた。(P.19)

ビングリー氏は陽気で気さくにふるまい、人びとが好感をもって迎えられますが、ダーシー氏は逆に反感を買います。お高くとまって、みんなを見下していると思われたのです。舞踏会でもビングリー氏の姉妹と踊っただけで、地元の娘たちへの紹介は断り、踊らなかった。その中で、ダーシー氏とエリザベスの出会いがあります。それは最悪の出会いといってよいもので、とくにエリザベスがターシー氏に対して持った第一印象は最悪でした。彼女はビングリーとダーシーの会話を偶然聞いてしまったのです。それは、娘たちと踊らないダーシーにビングリーがエリザベスと踊ることを薦めたのに対して、「まあまあだけど、あえて踊りたいほどの美人じゃない。ほかの男から相手にされないお嬢さまの相手をする気分ではない」とう辛辣な返答をしたのです。当然、彼女は不快になりました。それを彼女は面白おかしく家族や友達に話したのです。これで、ベネット夫人は怒り心頭に発します。これに対して、夫人は、長女のジェインがビングリー氏と二度も踊ったと、それで気に入られたと有頂天の喜びようです。

このことについて、小説の中では説明されていないので、少し脱線します。当時の社会では男女の出会いの場は限られていて、しかも、とくに女性については、コンダクト・ブック(淑女教育のための行儀作法書)が次々に刊行されるなど、厳しいマナーとモラルで行動が規制されていました。その中でも、舞踏会は男女の出会いの数少ない場でした。例えば、当時の女性は舞踏会で、自分から男性を踊りに誘うことはできず、しかも、踊りに誘われず、年輩の夫人たちとともに「壁の花」になることは、若い女性にとっては不名誉なこととされていました。「壁の花」がつづくということは、男性と親しくなる機会を得ることができないことになって、結婚も遠のくことを意味してしました。先ほどのダーシーの言葉で「ほかの男から相手にされないお嬢さまの相手をする気分ではない」というのは、単に事実を述べているのではなく、エリザベスを「壁の花」として見下している。彼の言葉の中に、そんな「壁の花」をあてがわれたら困るというニュアンスをエリザベスが感じとったに違いありません。だから不快感を強くしたのです。それを、彼女は普通だったら怒りに我を忘れてもいいし、落ち込んでもよかったのに、それを面白おかしい滑稽話にしてしまったのです。ここでは冗談好きという紹介のされ方をしていますが、そういう行動からは、エリザベスという女性が、自分への理不尽な中傷にも感情的にならず、場の雰囲気を壊さないように、しかも相手に放っておかず笑い飛ばすという、冷静な対応を瞬時にできる聡明な人物であることを示していると言えます。また、舞踏会は、より多くの異性と知り合うための大切な場として、で、同じパートナーと2回以上踊らないのが暗黙のルールで、あえて同じパートナーと2回以上踊るのであれば、そのふたりは結婚を意識している証拠と見なされました。だから、ビングリー氏がジェインに2回ダンスを申し込むのを目撃すると、母親のベネット夫人はジェインの結婚を確信し、有頂天になって大騒ぎをするのです。

ただ、少し距離を置いて冷静に考えてみると、ダーシーの行動には、人びとが感じたように悪意があるとは思えないのです。むしろ、彼は気難しいところはあるけれど、あまり社交的ではなく、初対面の人は得意ではない面が行動に現れてしまったように見えます。それを人々が高慢であると、被害妄想のようにおおごとにしてしまったところがあるように見えます。それは、おそらく、ダーシー氏とエリザベスのクラスの違いを強調したかったのではないかと思います。この小説が『高慢と偏見』というタイトルで、実際に主人公の二人が高慢なプライドを捨てることで理解しあい、最後に結ばれるという大筋ですから、この出会いのところも、ダーシー氏の高慢ということにされてしまっているようです。しかし、おそらく、ダーシー氏の一挙手一投足まで舞踏会の人々は鵜の目鷹の目で注目していたはずであり、それは、例えば、現代であればセレブの振る舞いに世間が注目してパパラッチに付きまとわれ、もし、そこでスクープ写真が発表されたらパパラッチの無法ではなくセレブのスキャンダルを追及する、というのと同じです。むしろ、人々にダーシー氏の粗探しの気持ちがなかったか、と問われれば、正直言ってなかったとはいえないと思います。ダーシーは、その罠にまんまとはまったというわけです。

これは、第1章のところでも触れましたが、作者は客観的に中立の立場で物語を書いているのではなく、ネガティブに寄った立ち位置で物語を語っていると思われるからです。それが、おそらく、この物語を進めていく原動力になっているのではないかと思います。このことについては、後々語りたいと思っています。

さて、この舞踏会でヒロインとヒーローは出会います。一方のエリザベスとダーシーの出会いは惨憺たるでしたが、もう一方のジェインとビングリーは、出会った途端、互いに一目惚れだったのです。しかし、その場面を直接描写していません。ベネット夫人が上機嫌だった理由の説明の中で、ビングリー氏とジェインが2度ダンスを踊ったことと親しげに話していたということだけです。つまり、ベネット夫人の目を通して間接的にしか描かれていないのです。一般的な恋愛小説なら、このような出会いは衝撃的な出会いとして、ドラマチックに盛り上げるものです。恋愛小説の大きなヤマ場となりますから、例えば「ロミオとジュリエット」でロミオが素性を隠してキャピレット家に忍び込み、ジュリエットを見初め、ジュリエットがそれに気づくという出会いの場面は、全体の中でもとくに印象の強い場面です。作家は、こういうところを盛り上げようと叙述に力が入るべきところです。例えば、初めて顔を見た瞬間に電気が全身を走った、とか。それをさりげない、どころではなく、ほとんど無視に近い。この場面については、次の章でジェインとエリザベスの会話の中で、その日の夜になってエリザベスが回想を語ることで、ようやく、その一部が示されるだけです。むしろ、この先もそうですが、ジェインとビングリーの例愛の経過は、姉妹の会話のなかでジェインがエリザベスに話すという形で読者に示されるのです。実際、エリザベスとダーシーは結ばれるまで数多くの会話を交わすのですが(ときにはケンカしたりします)、ジェインとビングリーが互いに直接言葉を交わす場面は、小説の中では1度も描かれていないのです。これについて廣野由美子さんはNHKの100分で名著の中で“この作品をすでに読んだ方なら、ジェインとビングリーの会話がないと聞くと、信じがたいと思われるかもしれません。私たち読者は、頻繁に描かれるエリザベスとジェインの会話を通して、ジェインの気持ちを知ります。また、ビングリーがジェインをたびたびダンスに誘っているという事実から、二人が話していないわけがないと思いこんでしまいます。つまり、描かれていない二人の会話を、総像で補っているわけです。読者の想像力で埋めることができるのならば、書く必要はない。あるいは、二人の会話の中身自体は、物語の展開のうえで特に重要ではない。オースティンは、そう判断したら、余計なことはいっさい書こうとしない主義の作家なのです。”(P.26)つまり、廣野はオースティンが制限の作家であるとしています。それはそうなのかもしれませんが、オースティンが本質的にそのような傾向があるならば、エリザベスとダーシーの会話の場面も制限しているはずです。したがって、オースティンは、あえてジェインとビングリーの会話を描かなかったのではないかと考えてもいいのではないか。それは、この二人の恋愛エピソードがエリザベスとダーシーがメインとすれば、サブの位置づけだったからなのか。あまり、ジェインとビングリーが目立つと物語が冗長になって焦点がぼけてしまいます。それもありますが、あえてこの二組の恋愛の描き方を対照的にして互いを際立たせたのではないかと考えてもいいのではないか。とくに、ジェインとビングリーの恋愛は、後になってジェインとエリザベスの対話で回想されるという形で語られますが、これは、小説の中で恋愛を物語にして語っているというメタレベルのことを行っているのです。オースティンという人は、『ノーサンガー・アビー』でゴシック・ロマンのパロディをやり、『分別と多感』で恋愛小説のパロディをやり、ここでも、またパロディをやっているといえると思います。性懲りもなく、この人メタレベルで考える、そして語るということが好きなのではないかと思います。

第4章

ここでビングリー氏の正体が漸く明らかにされます。それまでは、彼の容姿や振舞いの描写や人々の噂話などしか作者は書いてくれなくて、ここで読者は作者の全能の視点から、小説の登場人物たちが知りえない情報を知ることになります。ということは、ここで、作者は初めて、超越的な視点で語ることを始めたと言えるわけで、ではそれまではどうだったのかというと、登場人物の誰かになりなわって、その小説の中の視点で語っていたと思います。そのために視点が限られたり、偏ったりしていた。ここに至って、作者は全能の視点で語ることができるようになった、ととりあえず言っておくことにしましょう。このことは、オースティンの作品の中では珍しいものです。彼女の小説の主人公たちは登場の際に素性を作者から説明されるのが一般的です。例えば、『分別と多感』では主人公たちの遺産の額が最初から明かされ、エドワードがどの程度の遺産を相続する予定の身分なのか、そういうことが前提でストーリーが進められます。これに対して、『高慢と偏見』は、身分の異なる者同士の結婚、つまり若い娘が玉の輿に乗る話です。それなのに、その身分の違いの大きな根拠である財産や素性などについて、噂話を最初に読者に与えて、正しい情報を勿体ぶって出し惜しみしているのです。

ビングリー氏とは、どんな人物か。ビングリー家は代々続いた大地主階級の名家というわけではなく、ビングリー家の財産は商売の成功によって築かれたものでした。ビングリー氏が父親から受け継いだ遺産は約10万ポンド(つまり働く必要のない裕福なジェントルマンです)で、父親は、その金で土地をどこかに買うつもりだったが、志を果たせぬままなくなってしまった。そして、ビングリー氏も同じことを考え土地を探していた。しかし、のん気な性格の彼はなかなか実行しようとしません。それに対して、ビングリーの姉妹は、彼に早く土地を買って地主になってほしいと強く願っていました。

また、ビングリーとダーシーは性格は正反対だが、固い友情で結ばれていました。ダーシーはビングリーののんびりとした、開けっぴろげな、素直な性格が大好きでした。ただし、ターシーは彼とは正反対の自分の性格が嫌いだったわけではない。一方、ビングリーは、ダーシーの深い友情に絶大な信頼を寄せ、ダーシーの判断力の正しさを最高に評価していました。

ここで、ちょっと微妙なニュアンスなんですが、ビングリーはたしかに上流階級に属していて大金持ちなんですが、土地を所有して、そこから収入を得ているジェントリーではないのです。これに対してダーシーは大地主です。当時の意識からいうと、公爵とか伯爵といった貴族はもともと領主で土地から収入を得る人々です。ダーシーは貴族ではないのですが、大地主であるという点で、それに準ずるものとみなされます。それに対して、事業に成功したビングリーは十流階級のなかでも、ワンランク下がるのです。それでも、ダーシーとビングリーの二人は「固い友情」で結ばれていたというのは、社会的地位とは関係なく、人柄で結ばれていたのです。しかし、ビングリー姉妹は、彼らのような中身がなかっため、自分たちの地位への不安から、ビングリーに地主になってほしい強く願っていたのです。また、彼女たちは自信が持てないことから、とにかく自分たちよりも下に位置するものを探し、蔑もうとします。その典型的な例は、この後になってベネット家の親類を嘲笑うくだりがでてきます。このことは、ジェントリーの世界でも、たとえ同じ家に生まれても、生来の資質、感性、友人関係、そして受けた教育などによって、真の紳士淑女になる場合と、階級にぶら下がる品性のない俗物に分かれる場合があったことを示しています。そういう流動性があるからこそ、この小説のような身分違いの結婚という物語が成立しえているのです。それを、この段階で作者は示唆しているといったら、考えすぎでしょうか。

さて、この第4章のメインは、ビングリー氏の紹介などではなく、ヒロインの二人、ジェインとエリザベスの会話です。これから小説の節目のたびに交わされる二人の対話の、これが最初です。そして、この小説のなかで、二人のヒロインが、いよいよ生き生きと動き出します。いわば、ここから本編の物語が動き始めるということになります。

ジェインは家族のみんなといるときは、ビングリー氏の話題が出ても何も言わなかったのに、妹のエリザベスとふたりだけに、なると待ちかねたように彼をほめちぎった。(P.26)

この引用した文章では、ジェインはエリザベスと他の家族を区別して、ビングリー氏を好きだというような本音は家族の前では一切話すことなく、エリザベスにだけ話していることを示しています。それは、引用している翻訳本で訳者が紹介しているような彼女の性格“たいへんな美人で、頭はいいのに、他人の欠点だけは見えなくて、天使のようにこころがやさしい”と紹介されているイメージにはいささか違和感を覚えるということです。かりに、この小説を映像化した場合(実際に、BBCのテレビドラマは評判になりましたし、映画化もされていますが)、ジェインをこのような単純な人としたとしたら、演じる俳優さんは、とくにアクターズ・スクールのメソッドを修得した人には辛いのではないでしょうか。天使みたいということは人間的な厚みがないということです、お伽噺ならいいですが、リアルに実体化しようとすると存在感が出せなくなる。現実の生活で、人びとに、そういう人物だとみなされるためには、そういうように振舞っているということで、そういう人間に限って、実は複雑なのです。この場面から、ジェインは家族の中で、エリザベスとその他の家族をはっきり区別しています。おそらく、そのことについて、エリザベス以外の家族は気づいていないでしょう。つまり、用意周到なのです。ジェインは、エリザベスのような才走った勇み足は、しないのです。二人の姉妹の違いは、対照的と訳者は紹介していますが、果たしてそうなのか、そう見えるというだけなのではないか。そういう視点で、二人の会話をみていくと、エリザベスの話していることは、直感的でストレートであるのに対して、ジェインはタテマエ的であるという違いが見えてきます。ジェインは、エリザベスが感じたままを直情的に述べた言葉を聞いて、いったん反芻してする。整理、検討して、言葉に置き換えて(これを概念化)して、そのことに客観性があるか(人々は受け入れるのか否か)を検討して、言葉を返しているのです。その結果、ジェインの言っていることは、官僚の答弁を思わせるような、高い視点で、誰もが納得できるような理想論に近いものになります。それが、ジェインの寛大さとして周囲の人々に見られているものではないでしょうか。そう考えると、この小説で頻繁に交わされる二人の姉妹の会話は、古代ギリシャのプラトンなどが、書き残していた対話篇のように見えてきます。実際のところ、エリザベスは、この対話によって自身の考えを確認したり、考え直す契機にしたりしています。それはまた、この次の章で、エリザベスと親友のシャーロット(彼女は利発さではエリザベスと対等と言えるでしょう)との会話が議論になっているのと比べると、特徴的であるのが分かります。

第5章

前日の舞踏会の波紋は、ベネット家の中には収まりきれず、近所のルーカス家のルーカス夫人と子供たちが訪ねてきて、話題が盛り上がります。このルーカス家の長女がシャーロットで、エリザベスとは大の仲良しです。後にコリンズと結婚して、大きな波紋を呼ぶことになりますが、他人に対して辛辣なエリザベスが仲良くしているということは、彼女と同等の会話ができるだけの賢さを備えた人物であるということです。しかも、エリザベスとは議論の立地点が違うので、二人の会話は、皮肉が混じった議論の応酬のようになるところがあります。おそらく、エリザベスは、それを楽しんでいるのでしょうか。ここでは、二人だけでなく、両家の人々の中で交わされているので、それほど白熱したやり取りにはなりませんでしたが、話題は舞踏会の様子から、二人の若い独身男性に移り、ジェインとビングリーが仲良くしていたということからダーシーの印象に移り、最後に、高慢についての議論になっていきます。この辺りの話のもって生き方は自然で、作者の熟達がよくわかります。しかも、登場人物に議論させて、それぞれの人物の境遇と性格で異なる意見を戦かわさせることで、議論に厚みがでています。そこでもメアリーという衒学的な人物を配して、彼女に抽象的な概念をもっともらしく語らせることで、作者が直接議論を物語に持ち込むことを回避して、しかも、メアリーというキャラクターをアピールさせるという一石二鳥のことをしています。これは、処女作「ノーサンガー・アビー」で、とってつけたように唐突に、小説とは何かを登場人物に演説のように語らせて、ちょっと浮いてしまっていたのと比べてのことです。

「プライドの高すぎる人は鼻持ちならないけど」とシャーロットが言った。「ダーシーさんの場合は、そんなに腹が立たないわ。ちゃんとそれだけの理由があるんですもの。あんなに美男子で、家柄も立派で、おまけに大金持ちで、何もかも揃ってるんですもの。プライドが高くなって高慢になるのは当然だわ。変な言い方だけど、ダーシーさんは高慢になる権利があるのよ」

「そのとおりね」とエリザベスが言った。「私のプライドを傷つけなければ、あの人の高慢も許してあげるわ」

「高慢は、人間共通の弱点だと思うわ」自分の意見の正しさをいつも自慢にしているメアリーが言った。「私はたくさん本を読んだから、確信をもってこう言える。人間は、すぐ高慢になるものなの。自分にちょっとでもいいところがあると、すぐにうぬぼれるの。ほんとはいいところなんかなくて、自分で勝手にそう思っている場合でもそうよ。うぬぼれのないひとなんでめったにないわ。ほんとに、人間共通の弱点なのよ。てせも、高慢は自尊心が強すぎるということだけど、自尊心と虚栄心は別よ、これはよく混同されるけど、まったく別よ。自尊心が強くても、虚栄心が強いとは限らない。自尊心は、自分で自分のことを偉いと思うことだけど、虚栄心は、他人から偉いと思われたいということよ」(P.35〜36)

エリザベスはシャーロットの言葉に、表面的には異議を唱えません。しかし、ダーシーの高慢を「そのとおりね」と一般論として認めるそぶりを見せながら、「私のプライドを傷つけなければ、あの人の高慢も許してあげるわ」という留保付け加えます。これは、第三章の舞踏会での一件を指しているでしょう。「まあまあだけど、あえて踊りたいほどのびじんじゃないね。それにぼくはいま、ほかの男から相手にされないお嬢さまのお相手をする気分じゃないんだ」(P.26)というダーシーの言葉によって、エリザベスの誇りは傷つけられたことを、ここで明かにしています。それまでは、この件を面白おかしいジョークにして笑い飛ばす素振をしていたのに、実は、かなり根深いものだったことが、ここで本人が図らずも明らかにしたのです。ここでも、シャーロットの言葉を表面的には認めていながら、ダーシーにこれだけ根深い恨みを抱いたことは、後々まで、彼女はダーシーに対する偏見を引きずることになるのですが、それを予告するようなことが、ここでのさりげない会話で表われているのです。だから、この小説は細部を侮れないのです。ではなぜ、エリザベスは、これほど深い偏見を抱いたのか。それについて、廣野由美子さんはNHKの100分で名著の中で、“エリザベスのうちには、もともとの自分からの上昇を目指す「成上り」としての意識が潜んでいます。一方、莫大な家伝の財産をもつダーシーは、「成上り」の対極にいる本物です。そういう人物から、エリザベスはある程度本当のことを言われてしまったわけです。彼女は知的で溌剌とした魅力はあるけれども、ジェインほどの美人でないことは、事実だからです。これはベネット夫妻の会話などからも読み取れる情報とも合致します。ですから、「まあまあ」とういダーシーの言葉は、当たっていると言えなくもありません。それが、かえて「成上り」としての彼女の本性を刺激し、偏見という形で攻撃性を帯びる形になった。(P.37〜38)”という説明をしています。なるほど、図星をつかれると、反論もできないし、「アンタには言われたくない」という人に言われてしまって、それでなおさら傷ついて、逆恨みしたというわけですね。そうなると、エリザベスって、本当に賢いの?ということになりませんか。天使のように微笑んでいるジェインの方が、よっぽど賢いのではないか、ということになってしまいそうです。その辺りで、廣野さんの解釈は穿ちすぎのような気がします。しかし、実は、エリザベスという女性は、オースティンの小説のヒロインの中では、珍しいドタバタを繰り返すキャラクターといえるかもしれません。他に思い至るのは「ノーサンガー・アビー」のキャサリン・モーランドです。

第6章

ちょうど、エリザベスとシャーロットの二人だけの会話がまとまって行われています。ジェインとビングリーとのことについてですが、二人の性格の違いと、後の結婚についての議論の伏線にもなっているので、少し長くなりますが引用しておきます。

「こういう問題で世間をだますのは楽しいかもしれないけど、あまり用心しすぎるのも良し悪しだと思うわ。女性が自分の恋心を相手の男性にまで隠していると、かんじんの男性の心もつかみそこねてしまうかもしれないわ。それで結局失恋に終わって、どうせ世間も知らないんだからと、自分を慰めてもつまらないわ。恋愛にも感謝や虚栄心は必要で、成りゆきに任せて放っておいたらだめよ。最初のきっかけはどんなかたちでもかまわないし、ちょっとした好意から始まるのも自然だと思うけど、それがほんとの恋心になるためには、何かの励ましが必要なのよ。女性は実際以上に、自分の恋心を相手に見せたほうがいいと思うわ。ビングリーさんは間違いなくジェインを好きだと思うけど、ジェインが何の反応も示さないと、ただ好きってだけで終わってしまうかもしれないわ」

「でも、控えめなお姉さまとしては、精いっぱい反応を示しているわ。お姉さまがビングリーさんに好意を持っていることは私にもわかるんですもの。好意をもたれているビングリーさんが気がつかなかったら、よっぽどどうかしてるわ」

「でも、あなたはジェインの控えめな性格を知っているけど、ビングリーさんは知らないのよ」

「でも、女性が男性を好きになって、その気持ちを隠そうとしなければ、当然相手にわかるはずよ」

「そうね、たびたび会っていればわかるかもしれないわ。でも、ビングリーさんとジェインはたびたび会ってはいるけど、何時間もふたりだけでいることはないし、会うときはいつもいっしょだから、ふたりだけで話す機会もないわ。だからジェインは、彼の注意をひく機会があったら、たとえ三十分でも有効に使うべきよ。そして彼の心をつかんだら、それからゆっくり恋に落ちればいいわ」

「それはいい考えね」とエリザベスは答えた。「ただし、それは玉の輿に乗ることだけが目的の場合ね。たとえば、もし私がお金持ちの旦那さまを、誰でもいいから旦那さまをつかまえたいと思ったら。そうするかもしれない。でもお姉さまの場合は違う。そういう下心があって、ビングリーさんに好意を抱いたわけじゃないわ。それにお姉さまは、自分がどの程度ビングリーさんを好きなのか、好きになってもいいのかどうか、それさえわかっていないの。知り合ってまだ二週間ですもの。メリトンの舞踏会で四曲踊って、ネザーフィールド屋敷で朝に一回会って、それから四回いっしょに食事をしただけですもの。これだけでは、相手がどんな人かわかるわけないわ」

「そんなことないわ。いっしょに食事をしただけなら、相手が食欲旺盛かどうかくらいしかわからないかもしれないけど、四晩もいっしょに過ごしたんでしょ?四晩もいっしょに過ごせば、いろんなことがわかるわ」

「そうね、四晩いっしょに過ごしたおかげで、あたりともトランプゲームはコマースよりヴァンタンのほうが好きだってことはわかったわ。でも、相手がどんな人間か、とういう大事な点についてわかったとは思えないわ」

「そうね」とシャーロットは言った。「とにかく、ジェインの成功を心からお祈りするわ。あした結婚しても、一年かけて相手の人柄を研究しても、幸せになれるチャンスは同じだと思うわ。幸せな結婚ができるかどうかなんて、まったくの運ですもの。お互いの性格がよくわかっていても、似た者同士でも、幸せな結婚生活が送れるかどうかはわからない。結婚してから人間が変わって、かえって県なの種になりかねないわ。夫婦になれば、一生いっしょに暮らさなきゃならないんですもの。できるだけ相手の欠点は知らないほうがいいのよ」

「面白い意見ね、シャーロット。でも、その意見は間違ってる。自分でもわかってるんでしょ?自分はそんな結婚はしないと思ってるんでしょ?」(P.39〜42)

この会話をみると、シャーロットは醒めているといえるほどリアリストで、ジェインとビングリーとの間について、どうすれば結婚という最終ゴールに到達できるかを戦略的に考えているのが分かります。まるで。ビジネスのプロジェクトの検討をしているような思考形態です。これに対して、エリザベスの方は、現状認識に願望や思い込みが入り込んで客観的な状況把握ができていなくて、何よりも、現状をどうしたいのか焦点が絞りきれていません。こうしてみると、エリザベスは頭がいいと紹介されてきましたが、シャーロットの賢明さと比べると、単に目端が利いて、きのきいたお喋りができる程度の、ちょっと早熟な女の子程度にしか見えません。それゆえに、ダーシーのような、当時の男権社会の男性からみれば可愛げがあると見られることができたといえるかもしれません。これに対して、シャーロットの賢明さは、男性とっては鼻持ちならないと受け取られかねないものです。現代社会でも、できる女性は煙たがられる場合がありますが、シャーロットには、そういうところが見えます。それが、後の結婚観をめぐる議論に反映していくのだと思いますが、ここでは、少し具体的に内容を追いかけてみましょう。まず、ジェインとビングリーの仲がはっきりしないという現状について、シャーロットは、まずは、ジェインがビングリーに恋心を抱いていることが明確に伝わっていないのだから、この際、そのメッセージは伝えるべきで、それがスタートだと言います。これに対して、エリザベスはジェインの控えめな性格にしては、よくやっていると姉をかばいます。そして、これだけジェインが努力しているのだから、ビングリーには伝わっているはずで、それが分からないのなら、ビングリーがおかしいと言います。ここに、エリザベスの明白な事実の誤認があって、ジェインをかばうことから、現実と願望を混同していることが、シャーロットのリアルな認識と比べると、はっきりします。事実、ビングリーはジェインの真意を分かっておらず、自分は好かれているのか不安になったわけですし、ダーシーはジェインにはその気がないとしてビングリーにジェインを諦めるように説得することになるわけです。そのことを、シャーロットは、ビングリーはジェインの控えめな性格を知らないと、客観的な事実を述べています。そして、シャーロットの意見を玉の輿にのるための戦術にすぎないと否定して、ジェインはそうなんじゃないといいます。ここにロジックも何もなくて、単に感情的になっていしまっているのが明白です。シャーロットは、そんな結婚の目的には一言も言及していないし、この恋愛を成功させるための有効な戦略について述べているだけです。その後の会話も、4回ほどあっただけでは相手のことは分からないとエリザベスは言いますが、それなら、ビングリーにジェインの控えめな性格を分かってもらいたいということと完全に矛盾しています。おそらく、シャーロットにとっては、つきあいきれないということだったのだと思います。彼女は、途中で黙って、適当なところで議論を切り上げてしまいました。

このようにエリザベスの可愛げを示した(?)ところで、次に重要な場面が続きます。ダーシーがエリザベスに興味を持ち始めたのです。それはエリザベスの知らないところで始まっていました。

ダーシー氏は、最初はエリザベスを美人とは認めなかった。舞踏会で初めて見たときは、ぜんぜんきれいだと思わなかったし、つぎに会ったときも、あら探しをしただけだ。ところが、彼女の顔にはいいところがまったくないと、自分にも友人たちにも言ったとたん、エリザベスの顔は表情豊かな黒い瞳のおかげで、非常に知的な感じのすることに、ダーシー氏は気がついた。そして困ったことに、この発見につづいてほかにもいいところが目につきだした。たとえば彼女の体形は、きびしい目で見れば、すらりと均整が取れているとは言いかねるが、全体として、軽やかで感じがいいということは認めざるを得ない。それに立ち居振る舞いも、上流階級の人間のように上品ではないが、自然で陽気な振舞いには心を引かれずにはいられない。だが、こうして自分がダーシー氏の関心になりはじめていることに、エリザベスは全く気づいていなかった。(P.42)

ダーシーはエリザベスの軽やかな姿や、自然で陽気な立ち居振る舞いなど彼女の魅力をあげて行きます。それらの発見について、「困ったことに」という語句が差し挟まれています。ここに、ダーシーが思いがけずエリザベスに恋し始めたことを、かなり自覚しているさまが表わされていると言えます。そのことを自覚しつつも、戸惑っているというニュアンスもあるでしょう。そうなると、ダーシーがエリザベスに対して突っかかるように、ことさらに悪く言ったり、無視してみせたりしたのは、子供が興味のある女の子をあえていじめたりするのと同じということなのでしょうか。そうだとすると、ダーシーという男性は、いい年齢をして、初心なタイプで、フランスの恋愛小説には絶対に相手にされないタイプの男性と言えます。

そんなダーシーはルーカス家で開かれた舞踏会で、誰とも踊ろうとしないダーシーに対してルーカス氏が気を利かせて、エリザベスの手をとり、ペアを組ませようと取り持ちます。しかし、エリザベスは慌てて手を引っ込めて、「あら、私は踊るつもりなんてありません。ダンスのパートナーを探しにこちらへ来たわけじゃありません。誤解しないでください(P.47)」と、ピシャリと断ります。これは、その前の舞踏会でダーシーが、自分と踊りたがらなかったことの仕返しでしょう。ダーシーから彼女の手を求めても、エリザベスの決意は変わりません。結局二人は踊らずに別れるのですが、その時エリザベスはいたずらっぽい視線を投げてくるっと去っていきます。ここに、彼女してやったりという満足感が表われていると思えるのですが、ダーシーにはコティツシュな媚に見えたのかもしれません。実際、この振舞いが、かえってダーシーを惹き付ける結果を招いたと思われます。「なぜかエリザベスには腹が立たなかった。むしろ彼女に対して、気持ちのいい満足感のようなものを覚えた」のです。これは構ってもらえたことを、単純に喜んでいる。まるで子どもです。このあと、ミス・ビングリー(彼女はダーシーに恋心を抱いています)がダーシーのところに来て、次のようなやりとりが行われます。

「毎晩こんな連中と過ごすのはたまらないと、思ってらっしゃるんでしょ?私も同じ気持ちですわ。ほんとうにうんざり!この人たちときたら、ほんとに退屈で騒々しくて、身分もわきまえずにご大層に振る舞って!さあ、この人たちの悪口をどんどんおっしゃって」

「それは推測は完全に間違ってます。ぼくはもっと楽しいことを考えていたんです。美しい人の美しい瞳がもたらす愉悦感について考えていたんです」

ミス・ビングリーはぎょっとしたようにダーシー氏の顔を見つめ、あなたにそんなことを考えさせた人は誰なんですか、と聞くと、ダーシー氏は大胆にこう答えた。

「エリザベス・ベネットさんです」

「エリザベス・ベネット!まあ、驚きましたわ。いつからそんなにお好きだったんですの?いつおめでとうをいったらよろしいんですの?」(P.48〜49)

ダーシーはミス・ビングリーから皮肉を言われて、嫌味な女性に対してあてこすりをしてやろうと思ったのかもしれません。そういう、結果としてダーシーの恋心をたきつけるようなことを、ミス・ビングリーはしていて、ターシーの気持ちはエリザベスに傾いていったことが描かれています。

一方、ミス・ビングリーも「ぎょっとしたようにダーシー氏の顔を見つめ」たと描写されていることから、彼女はダーシーに思いを寄せている故に、彼自身気付いていなかったエリザベスへの興味に、気づいていたと思えます。それだから、ダーシーとエリザベスの仲を妨害しようとするためにも、皮肉な嫌味を述べざるを得なかったと言えます。

ここで、少し道草を食うことにしましょう。ビングリー姉妹についてです。彼女たちは、共に美人で洗練された装いをしていますが、兄のビングリー氏のような自然さがなく、つまり、カタログから出て来たような格好で、洗練されたファッションが板についていない。振る舞いでも、高慢で、自分がそうしたければ、機嫌よくしているし、その気になれば、感じのよい態度もとれなくはないといった女性たちです。彼女たちの高慢さはダーシーの場合とは違います。ダーシーの場合には、もともと広くひとと付き合うタイプではないところと、異なる身分の人には防衛的になるところから、高慢な態度に出てしまう傾向があります。この姉妹に注目すると、淑女とは何かということが問われている、と解釈する人もいるようです。彼女たちは金持ちで、ダーシーのような身分の高い人とも対等に付き合えるわけですから、社会的には淑女です。しかし、本質的な淑女かというと疑わしくなります。例えば、ビングリー家が事業によって財産を築いたことを、思い出さないようにして、名家の出であるかのように思い込もうとしたり、土地を買ってジェントリーとしての外見を得ることを強く望んだりしているのです。それが、この章の冒頭で、ベネット家の人々を品定めしているというわけです。その姉妹の妹ミス・ビングリーは、ダーシーを意中の人として定めています。それゆえにエリザベスをライバル視して、ことあるごとにダーシーから彼女を引き離そうとします。しかし、その試みはことごとく裏目に出るという結果に終わります。たとえば、ここではダーシーから「美しい人の美しい瞳」について考えていたと言われて驚き、それがエリザベスのことだと打ち明けられ、衝撃を受けます。「いつからそんなにお好きだったんですの?いつおめでとうをいったらよろしいんですの?」と畳みかけるミス・ビングリーは、そもそもダーシーがエリザベスと結婚するはずはないと思っているので、相手を困らせる目的でわざと尋ねているのです。そういう皮肉をターシーは無視しました。こうしてエリザベスを貶めようとする彼女の試みは失敗に終わりました。このあとも、そういう失敗が出てきます。ミス・ビングリーは、ダーシーにすり寄ったり、エリザベスをライバル視して中傷したりして、かえってダーシーの心がエリザベスに接近するきっかけをつくるという役回りを演じることになります。彼女のような、物語の役割としては悪女なのだけれど、ドジでピエロのような役回りになっているキャラは、オースティンの他の作品には見当たりません。道草は、こんへんで終わりにしましょう。

さて、こんな道草をしたのは、ミス・ビングリーというピエロが絡むことで、この恋愛は、ダーシーをめぐるエリザベスとミス・ビングリーの三角関係の外見を呈することになっているということを述べておきたかったからです。とは言っても、ミス・ビングリーは埒外なので外見だけで実質を伴わないのですが。それは、ターシーとエリザベスの恋愛が、一目惚れでも片思いが相手に通じるというのでもない、互いに恋心を育てていって恋愛を成就するというものであるということで、この小説は、二人の恋愛を育んでいくプロセスをじっくりと描写しているからです。そのなかで、ミス・ビングリーが横槍を入れてくることが、二人の恋愛を育むプロセスの、ひとつのエピソードとして機能しているからです。このような恋愛の描き方はオースティンの小説の中では、これだけです。もともと、オースティンという作家はリアリズムと言われているように、外見の行動を描写することは得意でしょうが、心理を深く分析して描写することはやっていません。恋愛小説といってもフランスの小説のような恋愛心理の分析のような作品ではないのです。しかし、この作品では、深く穿っているわけではありませんが、ダーシーの心が徐々にエリザベスに傾斜していく様子が描写されています。しかし、今も述べたように心理小説ではないので、そこに適度にエピソードを挟んで、その際のダーシーの会話や振る舞いで、彼がエリザベスへの思いを強くしていくのが段階的に、そのときそのときで明らかになるように考えられているのです。これは、エリザベスをめぐるエピソードもそうです。したがって、ある意味では、この小説で起こる事件は、すべてエリザベスとダーシーの恋愛の進行状況の段階を、その時点で明らかにする舞台装置の役割を果たすように配置されていると言えるのです。

では、ダーシーはエリザベスに興味を持ち始めたのは、どういうわけなのでしょうか。ダーシーは、親しく知り合った間柄の人物でなければ自分から話もしないし、ましてや踊ったりもしないというひどく高慢な男性として紹介されていました。エリザベスに対しては「まあまあだけど、あえて踊りたいほどの美人じゃない。ほかの男から相手にされないお嬢さまの相手をする気分ではない」という辛辣な評価を口にしていました。これは、最初から女性たちを付き合う対象に入れていないで、エリザベスに対しては、対象を観察して判断した結果というより、たまたま視界に入ったので、それについて即興で寸評した程度のものでしょう。だから、エリザベスを含めて、対象外だったはずです。要するに無視していたわけです。そういう姿勢だったダーシーが、対象にも入っていなかったエリザベスを対象に入れて、しかも好意を持ち始めたということは、そこに姿勢の転換があったということです。人がそんな転換をするには、何か理由がなければ、そんなことはしません。その理由は何なのでしょうか。それについては、オースティンは直接理由を述べていません。以前も申しましたように、この小説は心理小説ではないのですか、いちいち登場人物の心理を追いかけているわけではないのです。それでは、どこに書かれているか、それは読者の想像に委ねられていると思います。

こういう場面は想像できないでしょうか、当時の社会で、この小説の熱心な読者であるアッパーミドルクラスの若い娘たちが集まって、お喋りをする話題のひとつとして、恋の話題は常にあるものでしょうが、この小説のダーシーは、読者の若い娘にとっては憧れのヒーローのようなもので(実際、数年前にBBCでテレビドラマ化されたときに、コリン・ファースという俳優の演じたダーシーは女性視聴者のヒーローになったそうです)、彼の話題として、エリザベスにどうして興味を持ったのかということは、お喋りの話題としては格好のものだったのではないかと思います。

では、そういうノリで考えてみたいと思います。ひとつのヒントは小説の最後近くで、エリザベスがダーシーとの結婚を父親のベネット氏に話す場面にあります。二人は嫌い合っていると思っていたベネット氏が理由を尋ね、それにエリザベスが答えるのです。それによると、ダーシーは、いつも男性を意識して行動する女性、例えば、その典型とも言えるミス・ビングリーのような女性にはあきあきしていた(それゆえ、ミス・ビングリーが三角関係の中でこっけいな存在としての意味があるのです)。そんなとき、エリザベスの「はつらつとした精神」に触れて、それは彼にとって抗し難い魅力になったというのです。ダーシーは、当時の慣習に従って、家柄と地位を何よりも大切に考え、上流階級の人々との交わりを続けてきたと思います。そこで出会う上流社交界の淑女たちの振舞いというのは形式的に厳しいほど規制されていたと思われます、さらに、ダーシーのような富豪の独身男性に対するとなれば、彼を意識して気に入られようとすると無難にふるまう。そうするとダーシーには、誰も同じように見えてきたのではないでしょうか。この後第8章でダーシーは理想の女性を語りますが、そこで語られるのはエリザベスとはかけ離れた、机上の空論のような陳腐な女性像です。たいていの男性が身勝手に考える女性像。いわゆる淑女の人たちは、そういうニーズに最大限に応えるように振舞う人たちです。これに対してエリザベスは、そんな上流階級の淑女の身分ではなく、田舎のミドルクラスで作法にはかなっておらず、最終目的の結婚のために自分の知識を押し殺したりもしない、さらに、自分の見識には自信を持っており、周りの人物から意見を言われたとしても自分の考えを曲げたりしないのが、自然体で生き生きとした印象で新鮮に映ったということなのだと思います。小説では、エリザベスのはつらつした精神が発揮されて、ダーシーとの間で、傍目には喧嘩に見えてしまうような会話を交わして、親しみを深めていく様子が活写されています。

第7章

ある日、ネザーフィールド屋敷、つまりビングリー家かにジェイン宛に手紙が届きます。ディナーの招待状で、差出人はビングリー姉妹で、ビングリー氏ではありません。男たち外出するので、女性だけで楽しもうというのでしょう。第4章で、ビングリー家でメリトンの舞踏会の印象を話す場面がありましたが、ビングリー氏はジェインに一目惚れ状態なので、彼女を誉めそやす以外には、なかったのですが、典型的な小姑タイプのビングリー姉妹も彼女を気に入ったようで、「いいお嬢さんで、親しく付き合いたい(P.51)」ということで意見図一致したということがありました。また第6章の冒頭で、ロングボーンの女性たちがビングリー姉妹を訪問し、姉妹も返礼のあいさつを返すことで、付き合いが始まりました。その中で、ビングリー姉妹は、ビングリー氏の礼賛の影響もあって、ジェインの感じの良さにいっそう好意的になっていきました。ジェインは、美人だし、ビングリー姉妹も好感を抱いてしまうような真実の淑女なのです。(そういうジェインがヒロインのタイプであるはずなのに、あえて脇役に配されているのが、この小説の大きな特徴です。それは、この小説のパロディとしての側面もありますが、この後の第8章でダーシーが理想の女性像を語りますが、それが当てはまってしまうのが彼女です。そして、エリザベスはダーシーに対して、そんな人は実際には、いるわけがないと反論しますが、そのいるわけがない人がジェインなのです。したがって、作者オースティンは作品の中で、ジェインという人物にはリアリティがないと明言しているわけで、そんな人を小説のヒロインにはできないでしょう。)他方、母親のベネット夫人には耐えられないし、下の3人の妹たちとは口もききたくない。そして、エリザベスには、妹のルイーザがターシーとの三角関係でライバル視しています。

この招待に応じて、ジェインは馬車ではなく乗馬で向かいます。しかし、天候が悪化して、騎乗のジェインは雨に打たれてひどい風邪をひいて帰れなくなり、心配したエリザベスが付き添いに向かい、そこで、ダーシーと再会することになります。再会は次章なので、恋愛小説としてなら、その次章が節目となるわけです。したがって、この章は、そのための経過的なところになるはずなのですが、この小説は、こういうところが、実は面白いのです。ベネット家でジェインに招待状が届いて、どうするかを家族で大騒ぎするのですが、各家族のキャラクターがそれぞれの役割に応じてお決まりのパターンのような類型的な振る舞いを応酬しあう様子は、まるで吉本新喜劇とは言わないまでも、連続テレビドラマの茶の間シーンを見ているような錯覚に陥ります。ベネット夫人の実家がメリトンの町で事務弁護士事務所を経営していて、今は妹のフィリップ夫妻が事務所を引き継いでいる。メリトンは小さい町だけれど、ベネット家のあるロングボーン村に比べれば賑やかで、若い娘が喜びそうな小間物を置いた店もある。それで、ベネット家の娘たちはたまに、散歩がてらフィリップ夫人を訪ねで町を楽しんでいるといい、とくに下の妹二人が大好きで、たびたび出かけた。

ふたりはほかの三人より頭がからっぽで、何もすることがないとすぐに町へ出かけて午前中いっぱい遊んで、版の話題を仕入れてきた。(中略)いまは話題も豊富で、キティーもリディアも幸せいっぱいだった。というのは最近、国民軍の連隊がこの付近に到着したからだ。(P.51)

というわけで二人は町でフィリップ夫人から駐留する国民軍の将校を紹介されて大喜びでした。それをベネット氏が

「おまえたちの話を聞いていると、おまえたちはこの辺でいちばんの馬鹿娘だとしかいいようがないな。まえからうすうす感じていたが、いまははっきりそう確信したよ」(P.52)

と皮肉を言われ、キティーは父親から突然そんなことを言われたのに驚いて黙ってしまいましたが、リディアはけろっとして、将校の噂話を続けます。そのリディアにベネット夫人が加勢してかばいます。そんなときに、ビングリー姉妹からの手紙が届いたのです。ベネット夫人は大喜びですが、冷静を装います。ジェインが馬車で出かけていいかと許可を求めますが、ベネット夫人は乗馬でいくように薦めます。その理由は、馬が塞がっているからですが、実際には馬車を使うように馬を工面することは可能なのです。しかし、あえてジェインに馬車を使わせないために、普段馬に乗らないベネット氏が馬を使うことになります。その辺の、馬に乗らされる羽目になるベネット氏と夫人のやり取り、馬車ででかけたいジェインを夫人が強引に押し切るやりとりは、わざとらしいほど、キャラクターのパターンの応酬で、コントを見ているようです。実は、夫人が馬車の使用を許さないのは深謀遠慮があって、天候の雲行きが思わしくないので、夕刻には雨になると思われ、乗馬でネザーフィールド屋敷に向かえば、雨で帰れなくなる。それで、屋敷に泊まらせてもらえば、ビングリー氏と会う時間が増えることになるというものです。これに対して、ベネット氏は途中で雨に降られて風邪をひいたらどうすると詰め寄りますが、夫人は風邪で死ぬわけではないと、自身の策を固持して譲りません。

こういう場面は、吉本新喜劇もそうですが登場人物のキャラクターがデフォルメされてまで明確にされていることが必要です。ここでは、ベネット家の家族の人たちの性格が明確に表われて、それぞれの違いがはっきりします。たとえば、先ほど引用した、馬鹿な娘といわれたとき、キティーはさすがに驚いて黙るのですが、リディアは反応が異なります。それは、母のお気に入りで、それが分かっているだけに強気で、危険な要素を備えた娘であること、これは後々の駆け落ち騒動の伏線にもなっていると思いますが、それと、対するベネット氏が父親としての威厳が認められていない、つまり、リディアがそれを認めていない状態にあるということが、ここで示されています。

ベネット氏については第1章で、次のように紹介されていました。

ベネット氏は頭の回転の速さと辛らつなユーモアと、冷たさと気まぐれが奇妙に入り混じった複雑な人物だった。おかげで妻は、夫婦生活23年の経験をもってしても、夫がどういう人間なのか、いまだよくわからない。(P.11)

このように妻であるベネット夫人が頭の悪い単純な人間であるに対してベネット氏は頭の良い複雑な人間であるかのように読者は印象づけられます。しかし、それなら、リディアから、頭がいい父親として、それなりのリスペクトを受けていいはずです。たしかに、リディアは愚かでわがままです。あるいは反抗期ということもあるかもしれません。だからといって、ここまで父親を無視できるでしょうか。それは、彼女にとって父親らしいことしてもらってこなかったからと考えられないでしょうか。というのも、この作品の中で、ベネット氏は頭がいいと言っても、その頭のよさを人を笑いものにすることだけに使っている、つまりは、能力を無駄遣いしている無気力な人物として描かれていると言えます。愚かな妻に失望しつつも、夫婦喧嘩によって波風を立てるようなことをせず、妻の愚かさをかにかうことに、家庭生活の楽しみを見出している。また、法律上は自分の財産は限定相続制度によって娘たちには渡らないのだが、それでも年収2千ポンドの土地という財産を増やそう努力して、娘たちに財産を残すこともできない。頭が良いのに能力を有効に活用せず、いまや読書と、人の愚かさを笑いものにする冷笑家になり下がっている。とくに、リディアの目には、子供の目の前で母親であるベネット夫人をからかって怒らせては笑いものにしている。妻を守り、導くことが求められて当時において、ネット氏は明らかに夫としての務めを放棄している。そういうものとして映ったのではないか。

したがって、ベネット家の家族は父親という中心的な権威が不在で、まとまりを欠いたメンバー各自がバラバラに好き勝手に行動していると言えます。この章の描写のようなドタバタ騒ぎは、そういう状態の反映といえます。この状態は、後々、ダーシーやビングリー姉妹からの家族全体への大きな軽蔑を招き、それだけでなくおおきなスキャンダルを起こすことにつながってゆくことになります。これをシリアスなドラマにしたら家族崩壊の話になりかねません。それを喜劇として取り扱うという点に、オースティンという作家のユニークさ、そして、それを実現させてしまったところに彼女の作家の力量の大きさが感じられます。

ところで、ベネット家に戻りますが、リディアはともかくとして、エリザベスという人物の人格形成にとっては父親の影響は大きかったと思います。家族の中では、エリザベスの良き理解者であり、彼女の機知とユーモアを高く評価してくれていた尊敬の対象だったと思います。その反面、ベネット氏の上述の側面は、エリザベスにとって失望させる父だった、と廣野由美子さんは指摘します(『深読みジェイン・オースティン』P.148)。一般論として不遇な父をもった女主人公のパターンは二通りあると言います。ひとつは反社会的な革命児になること、ふたつめは巧妙無比な世渡りの達人になる、そのいずれかだと言います。どちらにしろ父親が達することのできなかった高みに至ることを目指すようになる。この小説では、結果的にダーシーという大富豪と結婚して成り上がることになるわけです。ここでは、そのエリザベスがなりあげる動機のひとつとして父親との関係がありもこのような家族の日常的な描写のなかにも、見つけ出すことができるように巧みに配されているといえると思います。

第8章

第8章から第12章は、ジェインがネザーフィールド屋敷に招待されて、訪ねる道中で雨に降られたために、風邪で寝込んでしまった。姉の容態を心配したエリザベスが駆けつけて、付き添って看病することになりました。ここからは、ジェインが回復するまでの数日間、ネザーフィールド屋敷の場面が続きます。そこで、エリザベス、ダーシーとビングリー家の人々という限られた人物たちによる会話を中心とした室内劇となります。

まず、第7章でベネット家の家庭の様子がドタバタ喜劇のようにコミカルな場面として描写されていたのから、一転してネザーフィールド屋敷の食事や居間のだんらんの場面です。その場面転換と対照的ともいえる両者の雰囲気の違い。礼儀正しさや上品さには欠けるものの、明るく開放的で、メンバーが単純で伸び伸びしているベネット家が第7章。そして、続いて第8章は富豪のお屋敷であるビングリー家では、ビングリー氏には好感がもてるものの、礼儀正しさとか上品さはあるのでしょうが、どこか形式的で虚飾の雰囲気があります。この二つの家庭が続けて提示する、作者の巧みな構成と言っておきましょう。このことによって、ジェインとビングリーという恋人どうしの身分の違いを説明することなく、端的に雰囲気で読者に分からせてしまいます。この二つの世界の間の大きなギャップが具体的に示されていて、この後でベネット夫人がジェインの様子を見に訪問してきますが、その落差の大きいこと、これをジェインが越えるのは大変なことであることを場面として示しています。そして、これはジェインとビングリーだけでなく、エリザベスとダーシーにもいえることです。だから、エリザベスが、この場にいるというわけです。

そして、ジェインとビングリーの間、あるいはエリザベスとダーシーの間に実際の障害として立ちはだかるビングリー姉妹が障害としての正体を表わします。それは、まず、ジェインの容態を心配する様子を見せるのは、ジェインとエリザベスが目の前にいるときだけで、それ以外のところでは無関心しいう、あからさまな態度をとっているところです。そして、ミス・ビングリーは、エリザベスがジェインの看護で部屋に下がると、ダーシー相手に彼女の悪口を始めます。その内容は、ロングボーン村からネザーフィールド屋敷まではかなりの距離があり、そこを若い娘が一人で歩いて、しかも服を泥んこに汚すというのは行儀が悪いこととされていて、そのことを揶揄したり、ベネット家の身分をこき下ろしたりということです。こういうところを悪口として突いてくるところに、逆にビングリー姉妹の弱点が表われているともいえます。ひとつは世間的な身分に対するコンプレックスです。第4章で紹介されていましたが、彼女たちはジェントリーとしての身分や名家といったレッテルへのこだわりが強いということ、それは、ビングリーの父親が事業で財を得たことに対するコンプレックスです。もうひとつは、お行儀とかファションといった外形を取り繕うことへのこだわりです。このあとに出てきますが、彼女たちは、教養という点では、ダーシーとエリザベスの会話について行けないのです。

ミス・ビングリーはエリザベスをこき下ろすことで、ダーシーがエリザベスに向けている興味を萎えさせ、視線を自分に向けようと画策しているというわけです。ミス・ビングリーは、このように散々エリザベスの悪口を並べ立てたあとで、次のように言います。

「ダーシーさん」ミス・ビングリーが声をひそめて言った。「この事件で、あの人の『美しい瞳』にたいする考えも変わったんじゃありません?」(P.64)

これに対して、ダーシーは動じず、答えます。ちなみに『美しい瞳』は第6章のルーカス家での舞踏会で、ミス・ビングリーを前にして、ダーシーがエリザベスに興味があることを明らかにしたとき、彼女のことを形容した言葉です。

「いや、彼女の瞳は、運動のために輝きを増していました」(P.64)

この短い表現の中に、ダーシーのエリザベスに対する興味が増していることが伝わってきます。この頃では、ダーシーがエリザベスへの興味(思い)を強くしていくたびに『美しい瞳』という言葉がキーワードのように出てきます。例えば第9章で、この翌日にベネット夫人が訪ねてきてひと騒動あって帰ったあと、

ダーシー氏は、ビングリー姉妹がいくらエリザベスの悪口を言っても、悪口の仲間入りはしなかったし、ミス・ビングリーがエリザベスの「美しい瞳」のことでいくら彼をからかっても、まったく相手にしなかった(P.81)。

ダーシーは第8章の時点では、ミス・ビングリーのエリザベスへの悪口に対応つきあっていましたが、このときになると相手すらしなくなる、ということは、それだけエリザベスに傾斜しているということです。ダーシーはエリザベスに傾斜するのと反比例するように、ミス・ビングリーに対しては素っ気なくなっていきました。実際、第8章、つまり、エリザベスが訪れた初日の夕食後、お茶が入ったというので、エリザベスが居間に下りていくと、ダーシーはミス・ビングリーのお追従のような会話に律儀にいちいち応じていたのでした。それが、翌日、エリザベスが居間に行くと、妹への手紙を書いているダーシーにまとわりつくように、ミス・ビングリーが話しかけるのを、ダーシーはいちいち相手をしなくなります。それは、会話の場面での、ミス・ビングリーの発言数に対するダーシーの返答数が目に見えて減っているので明白なのです。おそらく、作者オースティンは、それを意識して書いていると思います。そして、午後には、まったく相手をしなくなっていくのです。これは、ダーシーの心が徐々にエリザベスに傾斜していくことを、間接的に表わしていることになります。言ってみれば三角関係の一方の端をエリザベス、もう一方の端をミス・ビングリーとして天秤にかけると、エリザベスが段々と重くなると、それに応じて、ミス・ビングリーの方は相対的にかるくなっていくということです。

一方、ダーシーとエリザベスの間について直接的な描写は、二人の会話の変化です。もともと、二人の会話は恋人たちの睦言とは似ても似つかないような理詰めの議論(論争)のようなものです。それが要所要所で挿入され、ふたりの恋愛の段階的な発展を跡づけています。

たとえば、夕食後の茶の席での場面に戻りましょう。そこでは、ダーシーへのビングリー姉妹のお追従の場となっていました。エリザベスは本を手に取る振りをしながら、耳をそばだてていると、ダーシーの妹を誉めそやすことから、若い女性の教養について話題は移り、ビングリー氏が「最近のお嬢さんは、みんなしっかり教養を身につけている。テーブルに絵を描いたり、衝立の表装をしたり、財布を編んだり、みんないろいろな習い事をしている。そういうことができないお嬢さんなんて会ったことがない。若いお嬢さんの話題が出ると、必ず、『たいへん教養のあるお嬢さまでございます』という話になるからね(P.69)」と言うのに、ダーシーは対して「ぼくの知っている女性で、ほんとうに教養のある女性はせいぜい五人だね。(中略教養というのはたいへんなものです(P.69)」と真っ向から反対し、それにミス・ビングリーが追随します。いつもなら、ビングリー氏はとくに反論せずに、それで議論は結論ということになるのでしょう。それを、エリザベスは黙ってみていられなくて、口を挟むのです。

「ダーシーさんのお知り合いで、教養のある女性は五人しかいないというのは、よくわかりました」とエリザベスが言った。「いいえ、ひとりでもいたら不思議なくらいだわ(中略)ええ、私はそんな女性にお目にかかったことありません。いまあなたがおっしゃったような、そんな能力と趣味と勤勉さと上品さを兼ね備えた女性なんて、お目にかかったことありません(P.69〜70)」

ここで、雰囲気は険悪になって、会話は打ち切られます。エリザベスは、ダーシーに対して好感情をもっていなくて、対抗意識がつよく、ルーカス家の舞踏会ではダンスの誘いをわざとらしく断ったりするという挑発的な態度で接しています。ここでのダーシーへの反論も、黙っていられなくて、つい挑発してしまったように見えます。しかし、エリザベスの発言を吟味してみると矛盾していることに気がつきます。彼女が「そんな女性にお目にかかったことがない」といいますが、そういう教養のある女性であるということが、なぜ分かるのでしょうか。つまり、お目にかかった女性が、教養のある女性であるかどうか分かるためには、エリザベス自身が教養のある女性でなければわからないのです。一方、ダーシーは教養ということについて厳しい見方をしているのは、ビングリーがちょっとした稽古事で身につくようなものとして教養を扱ったことに対して、教養というものは、そんな安易なものではない厳しいものだということを主張しているのです。おそらく、ダーシー自身の教養については自負があると思いますが、そのために彼自身は多大な努力をしているから、そういう発言がでてきているはずです。だから、彼が教養のある女性は知り合いで五人しかいないというのは、ビングリーが若いお嬢さんは教養があるということに対しての否定の意味合いで言っているものです。おそらく、偏見のある彼の真意は、教養ある女性なんぞいるはずがないというものだと思います。そこで、エリザベスの発言は、図らずも、その真意をついていて、しかも、言外で、そういう女性がいないといえる自分は、それだけの教養があり、ダーシーと同じところにいると共感を示しているとも解釈できるのです。だから、ダーシーは、エリザベスの発言に対して一言も反論していません。

これに対して、ダーシーの方はどうだったのでしょうか。おそらく、ミス・ビングリーのような阿諛追従には辟易していたのではないでしょうか。また、ビングリーは親友で性格もいい実物ですが、知識や教養の点ではダーシーに対等とはいえません。それが、不意の反論とは言え、ダーシーの発言の真意を汲み取って、それに反応してきた。彼としては充実した議論ができると喜んだのではないでしょうか。

第9章

一晩安静にできたおかげでジェインは快方に向かっていることが明らかになりました。それで、エリザベスは、母を呼んで今後のことを相談することにしました。ベネット夫人はリディアを連れてやってきて、ジェインを見舞うと、完全に回復するまではジェインを動かさない方がいいと言います。医者も賛成したため、ビングリー氏の依存がないので、しばらくネザーフィールド屋敷で療養することになりました。ジェインは早く帰りたかったようですが、聞き入れられませんでした。ベネット夫人はジェインの身体を心配する以上に、できるだけビングリー氏の近くにジェインを置いて、親しみを増すようにという姑息な計らいを優先させたというわけです。

さて、前章に続いて、エリザベスとダーシーの会話の密度が進展していきます。ここでは、ベネット夫人という異分子が乱入しますが、この段階まで、二人の会話がシンクロしてくると、ベネット夫人の見当外れの介入にも邪魔されず、二人の間で、手練手管ともとれなくもない会話が行われます。

エリザベスはビングリーと、人間の性格をめぐって話していて、エリザベスが、「複雑な性格は、それだけでも存在価値があります」(P.75)というと、ダーシーが横からに「でも田舎だと対象が少ないじゃないかな?(中略)田舎じゃ交際範囲も狭いし、変化もないし」(P.75)と口を挟みます。実はこの発言の前にエリザベスは、ビングリーはわかりやすい単純な性格の持ち主であると言っていました。そのため、複雑な性格というのは、この場ではビングリーは当てはまらないということは、それ以外にはダーシーしかいません。したがって、エリザベスは複雑な性格、つまりダーシーに興味があるというメッセージを発したといえます。それ故に、エリザベスビングリーが話しているところに、ダーシーは横かに口を挟んだのです。

また、ベネット夫人はダーシーに好感情を持っていません。彼女は感情を隠すことのできる人ではないので、彼に食ってかかったり、一方でビングリーの気を引くために、ジェインが15歳のときにある男性から美しい詩をおくられたという自慢話をまくし立てたりします。恥ずかしくなったエリザベスは、何とか母親を黙らせようと、詩をおくった男性の話を引き取ります。

「それでその方の恋も終わりました」たまりかねてエリザベスがさえぎった。「そうやって詩を捧げて恋をあきらめた男性は、昔からたくさんいたでしょうね。そういう詩の効用を最初に発見したのは誰かしら?」

「ぼくは『詩は恋の糧』だとおもっていましたがね」とダーシーが言った。

「強くて健康な、ほんものの恋ならそうかもしれません」

「強いものは、何でも自分の糧にしてしまいます。でも、弱々しい淡い恋は、美しいソネットをひとつ歌えばきえてしまいます」(P.79)

ダーシーの言う『詩は恋の糧』というのは、シェイクスピアの『十二夜』にある、「もし音楽が恋の糧ならば〜」(第1幕第1場)という言葉から引かれたものです。これは、シェイクスピアの作品を知悉していないとできないので、かなりの教養を要する会話です。それに加わることができるのは、この場のメンバーではエリザベスとダーシーの二人だけで、ほかの人たちは会話についていけません。それは、引用のダーシーの発言のあと、場はしんとしてしまうことからも分かります。誰も、この後に言葉を継げないのです。二人はここで、互角の相手として認め合います。この会話はまた、今後二人の恋がどれだけ試練に耐えうる強さを持ち、本物であるかが試される際の伏線となる、予言的な意味合いが込められている、と廣野さんは解釈しています(「深読みジェイン・オースティン」P.176)。つまり、ここでエリザベスは無意識のうちになのでしょうがダーシーを挑発して、ダーシーは本物であること、つまり本気で恋をしていることを暗に示したといえるということです。

このあとダーシーは、ミス・ビングリーが口にするエリザベスの悪口を相手にしなくなります。

第10章

夕食後の居間でのひととき、ダーシーは妹への手紙を書いています。それにまとわりつくようにミス・ビングリーが、「あら、とても字がお上手ね、行がとてもきれいに揃っているわ、ずいぶん長い手紙をお書きになるのね」とさかんに褒め上げるのですが、ダーシーはまったく無関心です。エリザベスは、その奇妙な会話を、聞くともなしに聞いて、面白くて仕方がない。ここには、意地悪な言い方をすれば、父親のベネット氏によく似た人を笑いものにする冷笑的な視点があります。エリザベスの場合は、それをユーモアとして受け取るので、父親のようなシニカルなところは薄いかもしれません。しかし、この視点の前提は上から目線です。つまり、見ている対象の人々に対して優越感を持っているからそういう見方をすることができるので、エリザベスは明確に意識しているわけではないかもしれませんが、明らかにミス・ビングリーを見下している。エリザベスという人物は、基本的に、ひとに対して、見下す、見上げるといった基準で見ているところがあります。それがここでのミス・ビングリーに対する見方に表われていますし、第3章のダーシーとの出会いの舞踏会の席で、「まあまあ」と評価されたことについて第5章でシャーロットとの会話で、「私のプライドを傷つけなければ、あの人高慢も許してあげるわ」とダーシーを評しているのは、そういう見下す、見上げる視点では、ダーシーは見上げる対象となることへの悔しさがにじみ出ているところがあります。それは、同じ姉妹でも、上下という視点を持たずに同じ目線で水平に見ようとするジェインと大きく違います。したがって、ミス・ビングリーに対する見解は、エリザベスとジェインは、まったく異なるものとなっているわけです。このことは、後で、あらためて触れていきたいと思います。

さて、エリザベスは父親ほど冷笑的ではないので、その後でビングリー氏が加わっての会話に加わります。手紙のことから、ビングリー氏は手早く手紙を書いてしまうことから、物事を急いで実行することについての話に話題がうつります。それは、昼間、ベネット夫人が訪問したときに、ビングリー氏が思い立ったら、すぐ引っ越してしまうという発言をしたことが尾を引いているのですが。ダーシーは物事をよく考えてから行動を起こすことを主張します。これは、前章の単純な人間か複雑な人間かという話にも関連していて、思い立ったらすぐ引っ越すことと単純な人間を結びつけていたのが、その時の議論です。それをダーシーがよく考えろというようなことを言っているのは、暗に、ビングリーがジェインに一目惚れしてしまっていることを暗に話しているとも解釈することができると思います。後に、ダーシーはビングリーとジェインの結婚にははっきりと反対します。未だ、この時点では旗幟を明らかにしていませんが、おそらく賛成はしておらず、社会的な身分の違いや家族環境なども考慮しながら、慎重に考えるように暗に薦めている、と解釈することは不可能ではないと思います。

これから馬に乗ろうとしているとき、友人に来週までいてくれ、と言われれば、その場で思い止まることに話題は移り、ダーシーは、それを状況に左右され易いと批判しますが、エリザベスは、それをビングリーのやさしい性格とかばいます。大切な友人から頼まれれば、理由を確かめずに従うのは友情や愛情を大切にするからだ、と。これは、暗にビングリーとジェインとの恋が本物であり、それを擁護することを暗に示していると解釈することもできるのではないでしょうか。ダーシーはビングリーの冗談に気分を害したので、エリザベスは黙ることにしますが、ダーシーは議論そのものに憤慨したわけではないのは、議論の相手である、エリザベスに歌やダンスの相手を所望したことからも明らかです。

ビングリー姉妹がダーシーの希望に応えて歌っているときです。

エリザベスはふたりがうたっているあいだ、ピアノの上の楽譜を開いて見ていたが、そのときダーシー氏の視線が、何度も自分に向けられているのに気づかないわけにはいかなかった。こんなに身分の高い男から好意を持たれるはずはないが、嫌いだから見られているというのはもっと不可解であり、結局こんなふうに考えるしかなかった。彼の判断基準から見ると、自分にはビングリー姉妹とはちがう変なところがあって、それでじろじろ見られているのかもしれない。そう思っても、エリザベスはべつに傷つきはしなかった。彼を好きなわけではないので、変な女だとおもわれてもいっこうに構わなかった。(P.89〜90)

ダーシーに注目されて、とまどうエリザベスの様子です。しかし、これだけでしょうか。ミス・ビングリーはダーシーがエリザベスに好意を持ち始めていることに気づいています。ダーシーを狙っているミス・ビングリーとしては、ライバルを排除するために、意識的にエリザベスの悪口をダーシーの前で口にしていることからも分かります。たしかに、ミス・ビングリーはダーシーのすぐ近くにいて、絶えず彼に注目しているので、彼の変化には敏感ですが、エリザベスがダーシーが注目していることに対して、このような無邪気でいるというのは、むしろ不自然ではないでしょうか。ここに作者オースティンの巧妙さがあるのではないかと思います。つまり、あえて書かないということです。おそらく、この場面で、楽譜を見ているときに、ダーシーの視線を無意識のうちに気にして、それなりに格好をつけたりするものです。あるいは、ダーシーに議論で突っかかったりするのは、彼を強く意識しているからに他なりません。それで、自分に視線を向けていることに対して、引用したような認識でいるということは、自分で自分をごまかしているのではないか、しかし、その潜在している真意は、作者は敢えて書かないでいて、名目的に、その場を取り繕うように、自分を納得させる表面的なことだけを書いているというわけです。

この後、ダーシーはエリザベスをダンスに誘いますが、エリザベスは敢えて彼を怒らせるように断りますが、やさしく対処されて驚きます。エリザベスの断り方は、怒らせようとした割には「彼女の言い方には、やさしさと茶目っ気が混じっているので、人を怒らせるのは無理」(P.91)だったのです。そのため、「ダーシーはこんな魅力的な女性に会ったのは初めてだ」(P.91)と思ってしまうのです。このときのエリザベスに、ダーシーに対する媚がまったくなかったということは想像できないでしょうが、オースティンはまったく触れていません。

このように、ほんの数日で、ダーシーのエリザベスに対する好意は、だんだんと強くなってきます。このころには、周囲の人に隠しきれないところまできています。エリザベスも、それに戸惑うところまで来ています。

第11章

翌日、ジェインは順調に回復し、起き上がることができるまでになりました。夕食後、ジェインは、ベッドから起きて、居間に下りてきました。そこで、屋敷の人々はジェインが元気になったことを喜びます。ビングリー姉妹は、エリザベスが屋敷に来て初めて見た楽しそうな表情をしていました。そして、とくにビングリー氏の喜びはひとしおです。ジェインが誰からも好かれる人物であることが、ここからも分かります。作者オースティンは、ジェインのことを書くときには、エリザベスのときのように直接、具体的に書いたりしません。このような間接的な描写によることが多いのです。このあと、ビングリー氏とジェインは、ふたりで仲よく会話を、この場合は恋人同士の会話ということになるのでしょうが、するのですが、その具体的な描写はありません。エリザベスとダーシーとのけんか腰のような議論は、誰がどうこうことを、どのように話したかを詳細に描写しているのと対照的です。

ここでも、これまでも何度か触れてきたことですが、第5章のところでオースティンは余計なことは書かない主義の作家だという廣野さんの主張を紹介しました。それはまた、余計なことは書かないのではなくて、敢えて書かないという意図があったのではないか、とも思えます。というのも、もし余計なことは書かないというのであれば、第7章のベネット家のドタバタ騒ぎは、果たして物語に必要なのか、疑問があるからです。恋愛小説で恋人たちが恋を確かめ合うような語らいと、脇役的存在の家族メンバーのドタバタ騒ぎのどちらが恋愛小説にといって重要か問われれば、普通は前者ではないかと思います。しかし、この小説では前者は省略して、後者はたっぷりと書かれているのです。そこから、オースティンは余計だから書かなかったのではなく、敢えて書かなかったのではないかと推測できるのではないかと思います。ひとつ考えられるのは、このような場面で、典型的な美女で恋愛小説のヒロインに相応しいジェインと美男だけれどちょっと頼りないところのある、これもまた恋愛小説のヒーローのパターンを踏襲しているビングリーという恋愛小説の定番のような恋人同士の会話は、読者の方でどんな会話をするか想像をめぐらすことが可能です。むしろ、作者が提示するよりも、読者が勝手に想像して楽しむことができる。それで、読者が想像をめぐらせても、全体としてのストーリーに大きな影響を与えることはない。むしろ、かえって小説のなかで具体的な会話を書いてしまうと、読者の想像の邪魔になってしまったり、読者が二人に対して抱いたイメージと異なってしまったりするおそれもあります。そこで、ここではむしろ、作者は筆を抑えて、読者の想像に任せるようにしたと推測できるのではないか、と思います。

しかし、これは本筋ではありません。この小説全体を通してみると、会話の内容を具体的に詳しく描写されているのは、エリザベスとダーシーが参加している会話だけです。この二人が小説の主人公だから当然といえば当然ではあります。とはいっても、二人の会話がすべて詳細に書かれているかというと、そんなこともありません。例えば後半で、エリザベスは叔父のガーディナー夫妻と休暇に旅行したときの描写はありますが、会話まではかかれず、ペンバリー屋敷(ダーシーの屋敷)を見学して、偶然ダーシーと再会するところから会話が詳しく描写されます。これは、ひとつの例です。こりこしは私見なので、異論は多々あると思いますが、この『高慢と偏見』という小説は、オースティのほかの作品に比べて一番の特徴的なところは、主人公のふたりが変態するところにあると思うからです。二人は変態をした結果として結ばれた。変態という方は可笑しいでしょうか。それは、脱皮といってもいい。要は主人公が自身のあり方を根本から変えて(自己変革といってもいいかもしれません)しまうひとプロセスを経ているという点です。その二人の変化は、ただ漠然と眺めているだけでは分からないので、なんといってもSFおやファンタジーのように、異なる生物に変身するわけではないので、内心が変化は目に見え難いので、それを見るためのものさしとなるキーワードがプライドと偏見といえるのです。

例えば、この章でも、ひょんなことから、ダーシーをギャフンと言わすには、彼をからかってやればいいエリザベスが言うと、そこから人をからかって笑いとはどうこうことかに話題が移り、エリザベスは「賢明なことや立派なこと」は笑いことはできず、「人間の愚かさやばかばかしさや、気まぐれや矛盾がおかしい」といいます。そしてダーシーには、そういうところはない、と。それに対して、欠点がない人間なんていない。その欠点として虚栄心や高慢があるということに話題は移り、虚栄心は誰でも陥りやすいが、高慢は優れた知性をもった人間なら抑えることは可能だと言います。それを聞いて笑いそうになります。

「ダーシーさんは欠点のない人間だということがわかりました。ご自分でそうおっしゃってるんですから間違いありません」

「とんでもない」ダーシーが抗議した。「ぼくはそんなこと言ってません。ぼくはたくさん欠点を持ってます。知力に欠陥があるとは思いませんが、性格的に問題があるかもしれません。ぼくは柔軟性に欠けているところがあって、人とうまくやっていくのが下手なんです。他人の愚行や悪行をいつまでも覚えているし、自分が受けた侮辱はぜったいに忘れません。そういうことは早く忘れたほうがいいんでしょうが、性格上そうはいかないんです。執念深い性格というんでしょうね。あいつはだめなやつだとか、大嫌いだとか、いったんそう思ったら永久にそうなんです」

「それはたしかに欠点ですわ!」エリザベスが大きな声で言った。「憎んだら一生恨むなんてたしかに性格上の欠陥だわ。でも、いい欠点をお選びになったわね。そんな欠点は笑えませんもの。すくなくとも私から笑われる心配はありませんから。ご安心ください」

「人間には、どんな立派な教育を受けても直せない、生まれつきの欠点があると思います」

「そしてダーシーさんの欠点は、あらゆる人間を憎む傾向があるということですね」

「そしてエリザベスさんの欠点は、人の言うことを故意に誤解する傾向があるということですね」ダーシーはにっこり笑って言った。(P.100〜101)

エリザベスは、この後でウィッカムという人物に出会い、ダーシーに迫害されたという告白を聞かされて、ここで交わされていた性格上の欠点が、単なる話題ではなくリアルなものとして、ダーシーを嫌うことになっていきます。この時点では、ダーシーに対しては第一印象が悪くて、好きになれない人物程度で、この場面では、

ミス・ダーシーが冷静で頭のいい彼をからかことは無理だと反論します。それにダーシーはどんなに賢明で立派な人々でも、いくらでもわらいものにできると皮肉をいいますが、エリザベスはネザーフィールド屋敷でダーシーと長い時間をともにするうちに、最悪だった第一印象を多少修正しようとする傾向が見られます。話してみると、それほど悪いやつじゃないということでしょうか。ダーシーも、自身の欠点などと喋っていますが、後にエリザベスからプロポーズを断られて高慢さを痛感させられたときのようなリアルさはありません。自身の欠点とは言っていますが、自分に欠点があるとは、心の底では思っていないので、キレイゴトを言っている感じがします。「高慢は優れた知性をもった人間なら抑えることは可能」だとダーシーは言いますが、この言葉は、後になって痛切に言った本人にかえってくることになるのです。ダーシーとエリザベスの議論のような会話は、その後での二人の現実の状況や行為の前触れのように、起こります。それは読者もよく注意していると分かりますが、この辺りは作者オースティンの周到さというか、かなり構成を緻密に考えて作品を執筆していると思います。『高慢と偏見』という作品は、作品中の個々のエピソードどうしが緊密に関連し合っていて、ネットワークのように張りめぐられていて、読者はすべてに気付けないほどです。そして、それに気づけるかどうかで、エピソードの読みが違ってくる。そういうところは、オースティンの他の作品には、ない特徴だと思います。

さて、主人公の二人が物語の進行に伴って変態するということに戻ります。二人の会話や振る舞いのなかでも、この変身にかかわるところが具体的に書かれていて、二人以外の登場人物は、そういう変化をする人はいません。だからこそ、この二人の恋は出会ったときに一目惚れで恋心が生まれてしまうのではなくて、何度か遭って話をしたり衝突したりして、徐々に恋心が芽生えて成長していくプロセスを踏んでいるのです。二人の恋心は変態に伴っているのか、変態を促すものになっているのか、とにかく不即不離の関係なのです。これを他のオースィンの小説の主人公たちの場合に比べると、他の小説の主人公たちは、出会ったときから、あるいは物語始まったときから恋人たちの両方、ふるいはどちらかの一方が恋心が出あがってしまっていて、あとはもう一方の相手に、それを分からせて獲得するという物語の作りになっています。従って、恋心を抱いた主人公は変態することはなく、終始一貫しているのです。また、もう一方は、最初のあり方に恋されているわけで、変態してしまったら、恋が醒めてしまうかもしれないので、こちらも変態しません。『高慢と偏見』の主人公たちは、変態するという点でユニークなのです。それゆえに、二人の恋心が芽生えていくところを段階的に描写されているのです。だから。それ以外の具体的な描写は抑えられ、二人の変化に関係するところだけが具体的に詳しく描写されていると思うのです。

第12章

ジェインの体調が回復してきたので、ロングボーンに帰ることになります。ジェインの帰宅をめぐっては、関係者それぞれの思惑が、食い違っていて、この後のドラマの展開を予想させる面白さがあるのですが。例えば、ベネット夫人はジェインをビングリー氏のもとに長く滞在させたいので馬車の手配をしぶり、ビングリー氏はジェインに無理をさせるのを心配し、ミス・ビングリーはエリザベスとダーシーを引き離したいので早く帰らせたかった。また、ベネット氏は二人がいないベネット家の味気なさに辟易していた、といった具合です。

ダーシーは、これらの人々にくらべると複雑です。彼にとっては、エリザベスは長居しすぎたというのが率直な感想ですが、それは彼が彼女に関心を持ちすぎることになったためだというのです。ミス・ビングリーは彼に対してうるさく付きまとうようになってしまった。一方で、エリザベスが、彼が関心を持ったことを誤解して、彼との結婚を期待させてしまうことを危惧します。そのため、滞在の最終日は、彼女に余計な期待を抱かせないために素っ気ない態度をとることにしたというのです。なんという自惚れ、これはエリザベスの立場からは高慢以外の何物でもありません。つまり、ダーシーの前章での、自身の欠点を自覚しているかのような言葉を、ここですでに裏切っていて、それに気づかないでいるのです。

第13章

ここから、物語は新たな人物が舞台に加わり、新展開をしていきます。コリンズというベネット氏の従兄弟に当たる人物です。将来、ベネット氏が亡くなった後、一家が暮らすロングボーンの土地と家を相続することになっているのが、このコリンズです。当時のイギリスでは、土地が複数の子どもの間で分割されることがないように長男にまるごと譲渡される「長子相続権」や、土地を相続するものは分割・売却あるいは抵当にいれることができず、そこから上がる収入だけを自分のものにする限定相続が法的基盤となっていました。この制度では、女子は、独身のままでいれば家系が途絶えると、結婚すれば財産が家族以外の者の手に渡るため、財産を相続すべきでないとされていました。したがって、ベネット家のような子どもは女子のみで男子の相続権者がない場合には、証書や遺言書のなかで、男の子をもつ別の傍系家族に譲渡することが明記されることが一般的でした。ベネット家でも、それに従って、傍系の男の子であるコリンズに土地と家をまとめて相続するようになっていたというわけです。

コリンズは、まずベネット氏に宛てた手紙の差出人という形で登場します。その手紙では長年の疎遠を詫び、自身はキャサリン・ド・バーグ夫人(この人物は、後で不思議な縁でエリザベスに関わってきます)という高貴な夫人の引き立てで牧師となることができた。それで、和解のためにベネット家を訪問したいと述べています。実は、コリンズのベネット家訪問の目的は、限定相続によりベネット家の娘たちの権利を侵害することになってしまった償いをしたいと、彼が勝手に思いこみ、そういう名目でベネット家の娘のひとりを妻にしようと考えてのものでした。このコリンズからの手紙の印象をエリザベスは、コリンズがキャサリン・ド・バーグ夫人に対して異常なまでの敬意を示していたり、教区民に対して洗礼や結婚、埋葬の儀式を行って職務に励むという異常な物言いをしたりしている点や、文章が仰々しいことに注目して、変人に違いないと考えます。彼女が「この人は、頭がまともなのかしら」と訝ると、ベネット氏は「まともの正反対だと期待できるね。卑屈さ傲慢さが入り混じった手紙だ」と感想を述べます。実際に登場したコリンズは、二人の印象を裏切らない人物なのですが、第一印象は次のように紹介されます。

コリンズ氏は約束どおり4時に到着し、ベネット家は家族総出で丁重に彼を迎えた。ベネット氏はほとんど口をきかないが、女たちはふつうに会話を進め、コリンズ氏も口は重いほうではなく、けっして無口なタイプではなかった。長身でやぼったい顔つきの、25歳の青年だった。非常にもったいぶった感じで、堅苦しい態度だった。席につくとすぐにベネット夫人にむかって、すばらしいお嬢さまばかりでお幸せですねと、お世辞を始めた。(P.115)

まず第4章のビングリーとダーシーの第一印象の描写と比べると言葉も多く、内容も具体的です。オースティンの小説では、誉める場合や模範的なものについては、簡単に紋切型の説明ですませてしまうところがあります。例えばエリザベスの叔父のガーディナー氏はロンドンで商人をやっているにもかかわらず教養がある人物で、ダーシーと会った時に話していて、それに気づくというのですが、その実際の会話の描写はありません。ただ、そういうことがあったと簡単に説明されるだけです。おそらく、ガーディナー氏の会話を再現するには落とし穴が多く、しかも再現したとしても小説の会話としては退屈になってしまうので、オースティンはリスクを避けたのでしょう。いや、それよりも、オースティン自身の気質に合わないというのが大きな理由でしょう。エリザベスに「人間の愚かさやばかばかしさや、気まぐれや矛盾がおかしいんです。そういうものを見たら、いつでも笑ってやります(P.100)」と言わせている人なのですから。そして、エリザベスも、おそらくはベネット氏も、この後で詳細に描写されるコリンズの会話を笑ってやっているのだと思います。作者のオースティンも一緒に。

第14章

夕食のあと、会話を控えていたベネット氏がコリンズを誘うように、彼の庇護者のことに話題を振り向けると、コリンズは饒舌になって、キャサリン・ド・バーグ夫人の礼賛の言葉をとうとうと並び立て、もったいぶった態度を増したと書かれています。コリンズの話す内容と、その言葉づかいは、を活写するオースティンは、楽しんで書いているところが想像できます。ベネットは案の定とほくそ笑みます。

ベネット氏の予想は当たっていた。コリンズ氏は期待どおりの、滑稽を絵に描いたような人物だった。ベネット氏はコリンズ氏のばかな話を心の底から楽しんだが、表情には出さずに、ときどきエリザベスと視線を合わせるほかは、ひとりでそのおかしさを楽しんだ。(P.119)

第15章

コリンズ氏の人物について、これまでの描写をまとめるように作者の総評が披露されます。

コリンズ氏はあまり頭のいい男ではなく、生まれつきの欠陥は、教育や人づきあいによって補われることもなかった。これまでの生涯の大半は、無学でケチな父親のもとで過ごされ、いちおう大学は出ているが、在学中に有益な友人をつくることもなく、必要な年限だけ在籍して卒業したにすぎなかった。父親のもとで服従を強いられて育ったために卑屈な態度が身についたが、いまはその反動で、頭の悪い人間がひとり暮らしをしているためにひどいうぬぼれ屋になり、若くして思わぬ成功をしたために、尊大な態度がすっかり身についてしまった。幸運にもキャサリン・ド・バーグ夫人の知遇を得、ちょうど空席となったハンズフォード教区の聖職禄を与えられて牧師となったのだ。そして、キャサリン夫人の身分の高さに対する尊敬心、庇護者としての彼女に対する崇拝心、それに自分にたいする過信、聖職者の権威に対する過信、教区牧師の諸権利にたいする過信などがいっしょになって、あの高慢と追従と、尊大と卑下が混ざりあった奇妙奇天烈な人間ができあがったのである。(P.122)

このように、コリンズという人物について、かなり詳しく、しかも辛辣に説明されています。これはビングリー氏などに比べると破格と言えるほどの詳しさです。そして、ここで語られている内容は、コリンズ本人がその行動で具体的に、これでもかというほど実例を示していきます。それは、滑稽で面白いことはたしかなのですが、描かれているコリンズにとっては容赦のないほどあからさまで、残酷と言っていいほどです。そこには、オースティン自身の悪意が潜んでいる。作者は明らかに、エリザベスとベネット氏の側にいると言えます。

ただし、そういう笑いものにすべき滑稽な人物について、ここまで突っ込んで取り上げるということが、全体の中でバランスを欠いているのも事実です。たんなる滑稽なキャラクターというだけではないはずです。そこで考えられるのは、ダーシーの陰画的な位置づけとして機能させようと図られているのではないか、ということが考えられます。それは、後で、詳しく見ていきたいと思いますが、ここで言えるのは、エリザベスが初対面の印象がよくなかったということを明らかに書かれているのは、男性ではダーシーとコリンズの2人だけだということです。二人は尊大さ(プライド→虚栄心)という点で括れるかもしれません。

続いて、突然ベネット家に和解の手紙を送り、訪問した理由も明かされます。

りっぱな家と十分な収入を得ると、つぎは結婚のことを考え出した。今回ベネット家に和解の申し入れをしたのも、ほんとの目的は花嫁探しだった。ベネット家の娘たちが評判どおりの美人で気立てもよければ、そのひとりを妻に選ぼうと思ったのである。限定相続でベネット家の家と土地を相続することにたいして、彼がなんらかの補償─ジェインのことばによると償い─をすると言ったのはこのことであり、彼としては、たいへんな名案だと思っており、自分はベネット家には十分すぎるほどふさわしい結婚相手であり、じつに寛大で無欲な申し出だと思っていた。(P.123)

つまり、コリンズのベネット家訪問は嫁探しで、和解というのは名目にすぎず、しかも、その名目も相手にとって恩恵だという甚だ自分勝手な都合のよいものでした。そういう自分で作ったフィクションを信じ込んで、あたかも既成事実のように思ってしまう(こういう人って、よくいますよね。しかも、当人は善意のつもりでいるから性質が悪い)。従って彼は自分がロングボーンの相続人であるから、ベネット家の娘たちは喜んでプロポーズを受け入れるだろうと自分勝手な自信に満ち溢れていたわけです。そしてコリンズが最初に選んだ結婚の相手はジェインでした。それは長女という順番で、しかも一番の美人ということで、彼にとっては当然の選択たったと言えます。ここに、彼の形式主義と功利主義的な損得勘定が働いて、しかも、愛情のかけらもなかったのです。たがら、ジェインがビングリーと婚約しそうだと知らされると、彼はベネット夫人が暖炉の火を搔き回している間に、当事者の気持ちなど関係なく、何の躊躇もなく標的をエリザベスに替えてしまいます。そもそも、彼の嫁探しの理由も第19章で話されたとおり、牧師である自分が教区の人々の結婚生活の模範となるため、幸福をえるため、そして崇拝する夫人から結婚を薦められたためでした。したがって、そこにコリンズの意思があるわけではなく、彼にとって結婚相手に対する愛情などは必要なく、ただ条件が合えば誰と結婚しても良かったのです。これは、後で明らかにされるシャーロットの結婚に対する考え方と残酷なほど釣り合うものです。そて、これもまた後で明らかになりますが、エリザベスからは嫌悪されるべきものです。

その後、ベネット家の娘たちは叔母のフィリップス夫人の住むメリトンの町に出かけます。これにコリンズも同道します。コリンズは、ベネット氏からは邪魔者扱いされ(もちろんコリンズ自身は、そのことに気づいていません)、ていよく追い払われたのです。しかも、メリトンのフィリップス家でも、場違いな振る舞いで浮きまくります。例えば、道中で、誰も聞いてくれないお喋りを延々と続ける、あるいはフィッリップス家を訪ねたときの呆れるほど馬鹿丁寧なあいさつ。しかし、この場面での主役は、もはやコリンズではなく、付近に駐屯している国民軍の将校たち、とくにウィッカムという青年です。

その出会いは恋愛小説の定番のような場面で、ウィッカムの外見は恋愛小説のヒーローそのもののように描かれています。

4人の娘たちの視線が、いっせいにひとりの青年にひきつけられた。4人ともはじめて見る青年だが、どこから見ても立派な紳士で、将校といっしょに道路の向こう側を歩いていた。将校のほうは、ロンドンから戻ったかどうかリディアが確めにきたデニー氏で、彼は道路の向こう側から軽く会釈した。4人の娘たちは、未知の青年紳士に見とれて、いったい誰なのかしらと思い、キティーとリディアがぜったいに確めてくると言って、向かいの店に用があるふりをして道路を渡ると、ちょうどふたりの青年紳士もこちらへ引き返してきて、友人のウィッカム氏を紹介しますと言った。ウィッカム氏はきのうロンドンから来たのだが、うれしいことに同じ連体の辞令をもらったのだそうだ。これは当然そうあるべきで、いまのウィッカム氏に欠けているのは赤い軍服だけだった。美しい顔立ちといい、すらりとした姿といい、感じのいい物腰といい、どこから見ても、ふるいつきたくなるようないい男だった。紹介がすむと、すぐにウィッカム氏が話しかけてきたが、それがまたじつに自然で、礼儀正しくて、気取りがなかった。(P.125〜126)

コリンズに劣らぬほど詳しい紹介です。しかし、コリンズの場合とは違って辛辣さがなくて、ハンサムな青年であるとポジティブな内容です。先ほどのコリンズの紹介のときに指摘したオースティンの性癖、つまり、誉めるのは苦手で貶すのであれば、いくらでも描けるというのを裏切るように見えます。しかし、ここで描かれているウィッカムの姿はすべて外見に関わることだけです。コリンズの紹介で、あれだけ突っ込んで精神的な面、教養とか性格とかいったことには一言も触れられていません。ここでは意識的に書かれていないと言えます。それは、深読みすれば、その書かれていないということが、ここでは外見はハンサムだけど、人となりは分からない(保証できない)と受け取れる伏線となっていると思えるものとなっています。ただし、このあたり、この小説を初めて読む人は当然気づくはずもありません。それは、一度この小説を読んで、この後ウィッカムがどのような行動をするかが分かって、この部分を読むと、こんなところですでに伏線が張られていたことに気づくのです。だから、この小説は筋が分かっていて、2度目に読んでも楽しいのです。

さて、この出会いの最後ダーシーとビングリーにも出会います。そして、このときのダーシーとウィッカムの様子がおかしいことにエリザベスが気づきます。これが、後の話の展開の中で意味を持ってくることになってきます。

第16章

翌日、メリトンのフィップス家で、ベネット家の娘たちにコリンズが夕食に招待されます。一方、国民軍の将校たちも同じ席に招かれていました。ウィッカムもいます。

エリザベスはウィッカム氏の姿を見ると、自分の目も頭も間違いなかったと思った。ウィッカム氏はきのう見たとおりのすばらしい男性であり、あれから頭のなかで思い描いていたとおりのすばらしい男性だと、あらためて感心した。××州連隊の将校たちはだいたいみんな立派な紳士で、今日招かれたのは、そのなかでもとりわけ立派な紳士たちだが、ウィッカム氏はそのなかでもさらに飛び抜けていた。姿といい、顔立ちといい、態度といい、歩き方といい、すべての点で飛び抜けていた。(中略)ウィッカム氏ほかの将校たちたちと比べものにならないくらいすばらしかった。

ウィッカム氏は、すべての女性の視線を集める幸せな男だが、エリザベスは幸せにも、彼のとなりにすわることになった。彼はエリザベスの隣りにすわると、すぐに優しく話しかけてきた、今夜はあいにくあめですね。もうすぐ雨の季節ですね。話題はこういうたわいのないものだが、そういう平凡で退屈で陳腐な話題も、こういうすてきな人がこんなふうに感じよく話すと、こんなに楽しくなるものかと、エリザベスはあらためて感心した。(P.133)

女性たち視線を集めるハンサムな男性が隣に座り、エリザベスはポーッと舞い上がっているように見えます。頭がいいとか何とかいっても、美形の男性が嫌いなはずがないでしょう。しかも、他の女性を差し置いて自分の隣りに座ってくれば、「やった!」と快哉をあげ、優越感に浸る。そういう偶然が契機となって、エリザベスがありふれた陳腐な会話にそえ感心してしまっている体たらくは、完全にのぼせ上がっています。そこに冷静な判断力なんてあろうはずがありません。そういう若い女性の弱さは、同性であるオースティンはよく分かっていて、それを残酷なまでに、滑稽な様子として描写しています。一応ヒロインのエリザベスだろうが、一片の容赦もありません。オースティンのリアリズムというのは、このような残酷さが、その底にある。

そして、追い討ちをかけるように、このときのウィッカムの不自然さと、冷静さを失って、それに気づかないエリザベスの姿を描いています。ウィッカムは、エリザベスに向かって長々と身の上話を始めます。この話が、エリザベスに悪影響を及ぼす危険な匂いがすることは、注意していれば読者も察することができるかもしれません(初見の読者では難しいかもしれませんが、再読以降の、ウィッカムのこの後の行動を知っている人が読むと気がつくことはできるでしょう。そして、気づいたときに、オースティンという作家の巧みさに感心してしまうのです)。それは、ウィッカムの語り口には、率直さに欠けた、技巧を凝らした言い回しが散りばめられているということです。例えば彼は自分の経歴を語る際に、彼の父親の職業は事務弁護士であったと言っていますが、ダーシー家では資産管理に貢献して高く評価され、先代の「最も親密な心の友」だったという曖昧な表現で正確な身分を明らかにしません。先代のことを自分の名付け親とか真の友とか呼んで、自身が彼に気に入られて、愛でられたことを強調し、同じ屋敷で育ったダーシーと対等であるかのように印象づけようとします。実際は、彼の父は使用人であった事実が、あとで明らかになります。そして、ダーシー家の先代は、ウィッカムを教区の聖職禄者として推薦するという遺言を残してくれたのですが、聖職禄が空になったとき、ダーシーが約束を破り、ウィッカムからその資格を奪ってしまったというのです。ダーシーがそのような不当な仕打ちを行った理由は、父親である先代が自分よりもウィッカムに愛情を注いだことに対する嫉妬なのだと説明します。

ウィッカムの会話の巧みさは、エリザベスがいかにダーシーのことを嫌っているかを探りながら、彼女の信頼を獲得しつつ、ダーシーのことをさらに悪く思うように仕向けていくのです。これは、同席しているコリンズと比較してみるとわかりやすいかもしれません。コリンズの会話は一方的です。相手の反応をあまり考えずに断定するように話します。例えば、招待されたフィリップス家の客間で席に着くとロージング屋敷のようだと褒めそやします。しかし、その場にいる誰もがロージング屋敷とは何かを知りません。それはキャサリン夫人の屋敷なのですが。だから、コリンズがひとりで勝手にしゃべって誰も耳を傾けない。庇護者であるキャサリン夫人を口を極めて賞賛しても、エリザベスは高慢な人なのだろうと推測するのです。これに対して、ウィッカムは、決してダーシーの悪口を直接口にしません。ダーシーに関しては

「彼が愉快な人間か不愉快な人間か、ぼくにはなんとも言えません。(中略)ぼくには言う資格がないんです。彼とは長い付き合いですが、彼を知りすぎているから、先入観が入って公平な判断ができないんです。」(P.136)

ということを何度も繰り返します。しかし、上記の内容を坦々と事実のみを客観的に並べ立てるように話すのです。しかも、そのことが分かる最低限のことしか話さない。いかにも話しにくそうにして。いわば出し惜しみです。そこで、聞き手であるエリザベスが好奇心の強いところを利用して、彼女の方から質問をさせる。そして、それについての判断は、聞き手であるあなたに任せますという態度です。そうすると、エリザベスは、たとえ、ウィッカムから押し付けられたことであっても、自分が主体的に判断したような体裁になっていきます。

この段階では、ウィッカムの話が本当かどうかは、まだ読者には分かりません。重要なのはエリザベスが、この話を鵜呑みにして信じてしまっているということです。だから、エリザベスに大きな影響を及ぼします。しかも、以前から持っていたダーシーに対する反感と嫌悪という点でウィッカムと考えを同じにするということで共感を抱き、そして自身のダーシーに対する偏見を強固なものにしていったと言えます。

「ダーシーさんがそんな悪い人間だとは思いませんでした。もちろん嫌いですけど、そこまで悪い人だとは思いませんでした。まわりの人を見くだすようなところがありますけど、そんな卑怯な復讐を、そんなひどい仕打ちを、そんな道に外れたことをする人だとは思いませんでした。」(P.141)

そしてまた、ここでもダーシーのことを語るうちにプライドについて触れているのです。これはウィッカム発言ですが

「彼(ダーシー)の全ての行動基盤はプライドと言っていいくらいですから。プライドは彼の親友みたいなものだし、そのプライドのおかげで、いいこともしています。でも、人間は首尾一貫した生き物じゃないし、ぼくに対する仕打ちに関しては、プライド以上の強い動機が関係しているんだと思います」(P.142)

第17章

翌日、エリザベスは昨夜のウィッカムとの会話の内容をジェインに話します。案の定、ジェインは二人を悪く思うことはできずに、話のどこかに間違いがあるはずではないかと言います。優しい性格のジェインは悪意を信じられないため、という印象の書き方になっているように見えます。しかし、

「ふつうの人間なら─つまり、自分の評判をすこしでも考える人間なら、そんなひどいことできっこない。それに、彼がほんとにそんなひどい人なら、親しい友人たちが気がつかないわけがないわ。」(P.150)

というジェインの意見は、冷静になってみれば、彼女が優しく寛容な人間であるかどうかとは別に、きわめてまっとうなものです。ただし、これを書いている私は、いちど小説を通読していて、この後の話の展開を知っているから言えることで、初見の読者であれば、エリザベス確信をもった主張に引きずられてしまう、というような書き方がされています。

ジェインという人物は、エリザベスのような才気溢れるタイプではないものの、控え目な性格ですが、ベネット氏がエリザベス以外の家族で唯一相手にしているくらいですから、知性と教養を備えているのはたしかです。それはビングリー姉妹にも好かれているところからも明らかです。ですから、単なるお人よしにとどまるような人物ではない。むしろ、才気ばしって思い入れで判断してしまいがちなエリザベスに比べて、自然体で慎重に考えるタイプであるため、結果として正確で客観的に物事を見ている場合が多いのです。

この章の後半は、ビングリーがネザーフィールド屋敷で舞踏会を開くことにして、わざわざベネット家に招待を伝えに訪れたことでしょう。ここで少し話の本筋からそれますが、この舞踏会への招待を聞いたエリザベスが思わぬ勇み足をしてしまいます。それは舞踏会が待ち遠しくて調子に乗って、こちらから話しかけることはしないコリンズに「あなたはビングリー氏の招待に応じるつもりですか、応じるとすれば、ダンスにも参加するつもりですか」(P.152)と聞いてしまいます。謹厳ぶった牧師のコリンズのことだから、舞踏会には出られないことをからかってやろうししたのでしょうが、ぎゃくに最初に踊りの相手を申し込まれてしまうのです。

エリザベスはぺてんに引っかかったような気がした。最初の二曲はぜったいにウィッカム氏と踊ろうと思っていたのに、なんとコリンズ氏になろうとは!彼女の陽気な性格がこんなことになってしまったのだ。でももう仕方がない。ウィッカム氏と踊る楽しみはすこし遅らせることにして、エリザベスはいさぎよくコリンズ氏の申し出を売れ入れた。(P.153)

エリザベスは先日知り合ったばかりウィッカムと踊りたかったのでしょうが、コリンズの申し出をここで断ってしまったら、一晩中誰とも踊れなくなってしまうので、しぶしぶ承諾することにしたのです。後日、実際の舞踏会で彼の滑稽な踊りぶりで恥をかくことなってしまうのです。そうなることが分かっていて、エリザベスはコリンズの申し出を受け入れたのです。どうしてでしょうか。現代の我々には不思議なことですが、それには当時のマナーを考えなければなりません。同じオースティンの小説で『ノーサンガー・アビー』のヒロイン、キャサリンは友人のイザベラたちと舞踏会に出かけて、イザベラの兄のジョン・ソープと最初の踊りを約束してしまいます。しかし、気紛れなソープは舞踏会の隣りのゲームに熱中してキャサリンは一人取り残されます。そこに思いを寄せていたヘンリー・ティルニーが現われて、淋しそうなキャサリンをダンスに誘うのですが、先役があるので誘いを受けることができないのです。当時のマナーでは、女性は自分から男性を踊りに誘うことはできず、しかも、踊りに誘われず、年輩の夫人たちとともに「壁の花」になることは、若い女性にとっては不名誉なこととされていました。一方、女性は誘われるだけで、自分から誘うことが出来ないであっても、女性に与えられた選択の権利は嫌な相手から誘いを断るだけでした。しかし、これにも制約があって、はっきりした理由が必要とされていました。誘われた男性が気に入らないからという理由で断るのは礼儀に反しているとして、すでに先約があるとか、疲れているので踊れないという理由しか認められなかった。そして後者の理由でことわった場合は、その後に気に入った男性から誘われた場合もいったん疲れているからと他の男性を断った手前、断らざるを得なくなるのでした。以前の第6章のルーカス家での舞踏会を思い出してください。エリザベスはダーシーからのダンスの申し込みをピシャリと拒絶します。このような事情を考えると、その時、エリザベスは、単にダーシーからの申し込みを断っただけにとどまらず、その晩の舞踏会でダンスをする機会を自ら失ったのです。頭のいいエリザベスのことですから、ダーシーの申し出を断るということが、どのようなことになるかを十分承知していたはずです。このとき、エリザベスがどれだけダーシーを嫌っていたのかということが、このことからも想像がつきます。だからこそ、ウィッカムとダーシーを嫌っているということで、簡単に共感できてしまったのです。

しかし、あらためて考えてみれば、エリザベスがダーシーを、これほどまでに嫌っているのは不自然に見えてきます。そもそものきっかけは、舞踏会の席で、ビングリーとダーシーが出席していた女性の品定めの会話をエリザベスが偶然聞いてしまったことです。その時、ビングリーがエリザベスが美人だというのを、ダーシーがそれほどでもないといったという程度です。それ以外には、ダーシーの態度が高慢に見えるという程度です。みんなの見ている前でエリザベスに恥をかかせたとかいうのではないのです。だから、エリザベスがダーシーを嫌っているのは、どちらかというと、彼女の一方的な思い込みに近い。その理由については、小説の中では何の説明もありません。この小説が書かれたのは18世紀のはじめで、無意識とか深層心理のような個人の心理を深く分析することはありませんでしたし、そもそもオースティン自身、フランスの心理小説のようのものを書こうしていたわけではありません。従って深読みをするのは、この小説には適切ではないかもしれせん。おそらく、筋立ての都合から、最初は嫌っていたのが、思わぬところで見直しがおこるというドラマティックな展開という物語の構造上の要請だったのだろうと思います。しかし、ここでもたびたび引用している廣野由美子の穿ちすぎのような深読みには、耳を傾けたくなるところもあります。詳しくは『深読みジェイン・オースティン』でも『100分で名著「高慢と偏見」』を読んでもらうことにして簡単に紹介だけしておきます。まず、エリザベスという人物の性格の歪みを指摘します。それは、彼女の家族環境が影響したことで、まず、母親の愛情を十分にうけられなかったこと。ベネット家の5人の娘の中でエリザベスだけが才気煥発で自意識が高いためか、凡庸な母親は彼女を手に余る存在のように感じていたようです。反対にエリザベスからは母の凡庸さが見えてしまう。それ故に母娘関係がギクシャクしたものとなり、エリザベスは母親から十分な愛情を受けられないと感じるようになったと言います。心理学で言えば愛着障害という形で基本的な安心感をもてなくなった。その裏返しとして自分の存在を示すという傾向が上昇志向の野心と結びついた。一方、彼女の父親は才気や能力に恵まれていたにもかかわらず、それを生かせず冷笑家として無力な存在でした。それが彼女の出世志向を焚き付ける影響を及ぼした。そして、彼女自身の置かれた環境があります。ベネット家は裕福ではなく、しかも父親の財産は当時の相続制度によって娘には残されない。当時の女性が自立して生きてゆく道はない。そこで残された手段は結婚しかありません。そんなときにダーシーが現われる。彼は彼女に欠けているものを全て持ち合わせている存在で、いままで彼女の周囲にいなかった存在です。そのダーシーから、彼女自身の身も蓋もない境遇を示されてしまった。それが自分への侮辱と受け取られて、それは彼女自身のプライドを無意識のうちに守ろうとする防禦本能が働いたのかもしれません、それが攻撃性としてダーシーに対する復讐心となって現われたというのです。そのためか、エリザベスのダーシーへの攻撃には、彼を刺激して自身を認めさせたいとい承認願望が見え隠れしている、というのです。承認願望があるということは、それが愛情に転換するのは容易なことです。

さて、話をもとにもどしましょう。エリザベスは、コリンズから舞踏会の最初のダンスの申し込みを受けたのを不審に思います。そして、彼女の知らないところで動き始めていた、コリンズの嫁選びに思い至ります。

第18章

ネザーフィールド屋敷での舞踏会。前半のヤマ場で、ここで物語が転換します。

まず、エリザベスは屋敷の客間でウィッカムが来ていないことを知らされます。彼女は、そこで軽い失望を覚え、それをダーシーのせいだと、彼への反感を募らせるのでした。しかし、会場で再会したシャーロットに悔しい気持ちをぶちまけ、コリンズの変人ぶりを話して憂さを晴らします。こんな何気ない一節があとで大きな意味を持ってくるのが、このオースティンという作家の巧みなところですが、この取るに足らないようなことが、シャーロットがコリンズという人物を認識するきっかけとなったと言えるからです。ここでは、オースティンは、だからどうだというようなことは一言も言っていません。あとになって、そういえば、あの時、と思い返すと…という、オースティンしかしないような、さりげない、あるいは気がつかない伏線です。

そして、前章で触れたコリンズとの恥ずかしいダンスの模様です。

まるで拷問みたいなダンスだった。ダンスなどめったにしたことがないらしいコリンズ氏は、下手なくせにもったいぶって、ダンスに気持ちを集中しないで謝ってばかりいて、ステップも間違えだらけだが、本人はいっこうに気づいていない、これ以上不愉快なパートナーは考えられず、エリザベスは恥ずかしさとみじめさを味わい、二曲踊り終わって開放されたときは、天にも昇るうれしさだった。(P.158)

そのあと、しばらくシャーロットとのお喋りをしていたら、突然ダーシーにダンスを申し込まれます。そして

ダーシー氏と向かい合って立つと、驚いたことに、突然、自分の身分が高くなったような気がし、まわりの視線にも同じような驚きが現われているような気がした。(P.159)

引用した二つの文章には、エリザベスの態度(心情)が対照的なのが分かります。同じ舞踏会の出来事ですから、それほど時間の隔たりもないはずです。おそらくコリンズとダーシーが接近する機会もここだけですし、エリザベスが、これほどあからさまに対照的な態度の違いを読者の前に分かり易く提示するのは、ここだけではないかと思います。それをオースティンは、そうだとアピールするわけでもなく、ここではエリザベス自身が意識していないこともあって、さり気なく示しています。そして、エリザベスは、おそらく、ここでダーシーと共に在るということがどういうことかということの一端を肌で感じ取ったのではないかと思います。それは、廣野由美子の解釈に従えば、自身でも意識していなかった野心が実感として彼女の目の前に現われた瞬間ではないかと思います。おそらく、ダーシーに対する潜在的な思いが、エリザベスらしい形で現われる(同じようなことは、後にペンバリー屋敷を訪問したときに、ダーシーと結婚すれば、自分がここの女主人となるのだとその姿を想像するところがあります。その時には、このときより時間も経って、彼女の思いも大きくなっていったので、より明確になっていますが。)。それゆえにか、彼女は、しばらく口をきくことができなくなります。

しかし、ここでは一端を示すだけで。彼女は正気にもどり、ダーシーに対する反感を取り戻します。そして、ダンスをしながらウィッカムのことを話題にするのです。そのとき「ダーシーの顔色が変わって尊大な表情になった」のを「まさに効果てきめんで」(P.161)と作者は、その模様を描いています。この作者の書き方は、客観的な視点ではなくて、エリザベスの立場で叙述しています。ここがオースティンの巧みなところで、以前にも触れましたがミステリー小説の倒叙法というアガサ・クリスティーが効果的に用いた手法があります。読者は作者による語りは神さまのような超越的な視点で客観的な説明をしているだろうと信じていることを利用して、限られた事実しか読者に明かさず、読者を煙に巻くという手法です。例えば、事件を犯人が、目撃者のふりをして語れば、自分が犯人と分かることは隠して、都合のいい事実だけを話します。それを読者が、すべての事実と錯覚してしまうと、事件の様相は違って見えてくる。それで最後に犯人がわかったときに意外さに驚いてしまうわけです。それと似たようなことをオーステインは、ここで実行しています。エリザベスの視点で見れば、ダーシーが顔色を変えて黙ってしまったのは怪しいと、疑惑を強くすることになるわけです。しかし、後になって事実が分かれば、単にウィッカムのことが話題となって不愉快になっただけと言った方が適切ということになります。(それはダーシーがエリザベスとのダンスが終わって別れた後で「彼の怒りは別の方向へ向けられた」(P.165)とさりげなく書かれていることから想像できます。)しかし、それを作者が小説の説明の中で語られると、読者はミステリー小説の読者と同じように疑惑を持つことになります。そうなると、ダーシーの発言や行動がことごとく怪しく見えてくるのです。この見え方は、おそらくエリザベスと同じです。そのあと、ミス・ビングリーがジェインから話を聞いて、心配してエリザベスに忠告しますが、エリザベスにはダーシーに恋しているが故に彼をかばっているとしか受け取れません。あるいはまた、エリザベスのミス・ビングリーに対して抱いている嫌悪感が素直に話を聞くことを許さないのですが、ここでの書かれ方の流れでは、ミス・ビングリーもダーシーの共犯者のように見えてきます。それは、エリザベスの次のつぶやきととどめを刺します。

「失礼な人!こんな卑劣な中傷で、私の心が動くと思ったら大間違いよ。いまの話ではっきりしたのは、あなたが事実を知ろうとしないこと、それに、ダーシーさんがウィッカムさんに敵意を持っているということだけだわ」(P.166)

また、一方でこのときに、もうひとつの事件の発端が起こっていました。これも、注意していないと分からないのですが、それも、エリザベスがダーシーを疑い始めたことと、コリンズに振り回されている真っ最中のことだったので、読者はなかなか気付かないでしょう。そんなときに持ってくるオースティンという作家は、巧いというのか、一筋縄ではいかないひとであることは確かでス。そこで、話は少し戻ります。ダーシーとエリザベスがダンスを踊っている最中に、エリザベスがダーシーのウィッカムの話題を話しかけ、一気にダーシーが不機嫌になった時です。そこに、お人好しでおせっかいのサー・ルーカス(シャーロットの父親です)が、二人に割り込んできます。そこで、ビングリーとジェインが仲良さそうに踊っている様子に注意を促し、二人の結婚をほのめかします。「ダーシーはそれがショックだったらしく、ちょうどいっしょに踊っていたビングリーとジェインを、真剣な表情で見つめた。だがすぐ我に返ると、エリザベスの方を向い」(P.162)たのです。これには、エリザベスは気づいていません。しかし、このことがダーシーをしてビングリーとジェインの結婚について考えさせることになり、この後でベネット家の人々の引き起こす騒動が大きな意味を持たされる。つまり、ダーシーが二人の結婚に反対するという行動をおこさせる最初の起点となったことになると思います。このことがなければ、ダーシーはビングリーの結婚ということを意識していなかったでしょうから。

話を戻しましょう。エリザベスはダーシーと踊った後、ジェインやシャーロットとお喋りをしていましたが、平穏な時間はそこまでで、そこから舞台は急転して動き始めます。ドタバタ騒動の始まりは、コリンズからでした。かれはダーシーがキャサリン夫人の甥であることを知り、勇み立ち、ダーシーにあいさつに行こうとします。社交界では身分の高い人から話しかけられるのが礼儀だと、エリザベスはコリンズを思い止まらせようと必死に説得するのですが、「ほかの場合でしたら喜んでご忠告に従いますが、この件に関してはあなたのように若い女性よりも、教育と人生経験の豊富な私のほうが、正しい判断をくだせるのではないかと、ま、そう考えるわけです」(P.170)とまくし立てて、エリザベスの忠告を無視して、ダーシーのもとに向かいます。エリザベスは、紹介もなく突然話しかけられて驚くダーシーを見ながら、自分の身内のコリンズが愚かな姿をさらしていることに、腹立たしい思いをします。ダーシーの呆れたような表情が、侮蔑をつのらせていくのを見て、エリザベスは今夜は楽しむことはないとあきらめ、これ以上わるいことが起こらないようにと思います。しかし、夜食の席ではベネット夫人がダーシーへの敵意をむき出しにしながら、ルーカス夫人を相手にジェインとビングリーの結婚を自慢げに大声でまくしたてているのです。エリザベスは止めようとしますが、逆に母から叱られてしまいます。それは、前に座っているダーシーにすべて聞こえてしまっていました。また、妹のメアリは他の茉莉もしないのに歌い出し、ベネット氏大声で冷やかしながらそれをやめさせ、コリンズが的外れの熱弁をふるうのでした。

「エリザベスは、家族の醜態をつきづきに見せられて、泣きたいほど情けない気持ちだった。今夜はベネット家の馬鹿ぶりを披露しようと、家族であらかじめ相談したとしても、こんなにみごとに醜態を演じることはできないだろう。」(P.178)

というようなありさまで、彼女は情けない気持ちでいっぱいになります。

ベネット家をばかにする絶好の機会を、ビングリー姉妹とダーシーに与えてしまったのは、なんとしても悔しいし、ダーシーの無言の侮蔑も、ビングリー姉妹の無礼な笑いも、両方とも我慢ならない(P.178)

というエリザベスの認識は、実は甘かった。ダーシーの方は、

ダーシー氏の顔は、腹立ちと軽蔑の表情から、何かを考え込むような表情へ変わっていった。(P.174)

ここでは、まだ読者には明らかにされてはいませんが、彼は、このとき友人のビングリーがジェインと結ばれてベネット家と婚姻関係になっても大丈夫なのかということ真剣に考え、悩みはじめていたのが、ここに表われています。そして、彼自身もエリザベスに対する思いをいかにおさえるべきかを考えるようになります。それは、この後で

彼はたびたびエリザベスの近くまで来て、手持ちぶさたの様子で立っていたが、話をするほどそばへはやってこなかった。(P.179)

この行動には、ダーシーの迷いが表われています。しかし、これを

これはたぶん、彼女がウィッカム氏の話をしたからではないかと思い、エリザベスは胸のすく思いがした。(P.179)

と作者は続けて述べていて、エリザベスの誤解なのでしょうが、作者の説明として書かれています。それで読者は誤解してしまいます。したがって、この舞踏会は、エリザベスはひたすら恥ずかしい思いをした時間であり、彼女以外ベネット家の人々は楽しい時間でしたが、ダーシーにとってはまったく違った意味をもつものとなったのでした。しかも、そのことは、この時点では読者は、とくにダーシーが真剣に考えていることは伝わっていません。この舞踏会がきっかけとなって、ビングリーはネザーフィールドを引き上げることになるのですが、作者は、この後でコリンズのエリザベスのプロホーズ騒動に話を移してワンクッション置いています。このあたりがストーリーの緩急なのでしょうが、オースティンという作家は本質的に長篇作家の資質を備えているひとだということが分かります。

なお、このネザーフィールド屋敷の舞踏会のドタバタ騒ぎは、終始エリザベスの視点で記述されてということをふげんしておきます。ここでの作者は客観的な語り手ではないのです。エリザベスは、このドタバタには参加していませんが、決して無関係ではなく傍観者として客観的に眺めてことができる立場ではありません。身内の人々のドタバタが重なっていくにつれて、「ああ、どうしよう」というような感情的なパニックになっていく、そういう視点で書かれているのを、読者は、そのドタバタ騒ぎの滑稽さと、その滑稽さがさらに際立つようにそれを嘆いてみせる視線をも眺めているということです。また、エリザベスという人物の性格から、そういう嘆きの最中でありながら、滑稽なことには面白がってしまう、それが彼女の行動に無意識のように出てしまっている。それは、読者にとっては、ベネット家の人々の行動のどこが可笑しいのかを解説してくれる役割も果たしているところもあるのです。もし、これが客観的にそれぞれの人の失態だけを描写しているのであれば、オースティンという作家は抑制した表現をする人でもあるので、素っ気なくなってしまって、これほど滑稽さが際立ったり、パニック感は読者には伝わらなかったと思います。

第19章

舞踏会の翌日、朝食が終わると、コリンズは単刀直入にエリザベスに結婚の申し込みをします。

「私が結婚する理由は、まず第一に、生活に余裕のある牧師は─たとえば私ですが─みんなちゃんと結婚して、教区民に結婚生活の模範を示すべきだと考えるからであります。第二に、結婚によって、自分もさらに幸福になると確信するからであります。そして第三に─これを最初に言うべきでしたが─キャサリン・ド・バーグ夫人の、私の庇護者と呼ばせていただいているキャサリン・ド・バーグ夫人の、ご忠告とお勧めがあったからであります。この問題について、ありがたくもキャサリン夫人は、二度も意見を述べてくださいました。しかも、意見を求められたわけでもないのに、ご自分からおっしゃってくださったのです。私がハンズフォードの牧師館を発つ前の晩、つまり土曜日の晩でしたが、いつものように、四人でカドリールというトランプゲームをしていて、勝負の間に、ジェンキンソン夫人がお嬢さまの足台を直してさしあげているときでした。キャサリン夫人がこうおっしゃったのです。『コリンズさん、早く結婚しなくてはいけませんよ。あなたのような牧師は、早く結婚しなくてはいけません。私のために、教養のある立派な女性を選んでください。でもあなたのためには、元気でよく働く女性がいいわね。あまり上流の出身ではなくて、少ない収入でもやりくりできる女性がいいわ。これが私の忠告よ。早くそういう女性を見つけて、ハンズフォードへ連れていらっしゃい。そうしたら私が会いに行きます』と、そうおっしゃってくださったのです。エリザベスさん、私が言うのもなんですが、キャサリン・ド・バーグ夫人のお引き立てとご親切を受けるというのは、たいへんなことなのです。お会いになればわかりますが、キャサリン夫人は、なんと形容してよいかわからないようなすばらしいお方です。あなたのあの機知と陽気さも、夫人のように身分の高いお方への前に出れば、沈黙と尊敬によって適度に抑えられて、必ずや夫人のおきにめすものとなるでしょう。ま、私が結婚を思い立った理由についての説明は、これで十分でしょう。つぎに、なぜ私がロングボーンのベネット家に花嫁探しに来たのか、つまり、ハンズフォードの近在にもいいお嬢さんはたくさんいるのに、なぜはるばるロングボーンへやってきたのか、その理由を説明しなくてはなりません。要するにこういうことです。あなたの父上がお亡くなりになると─いや、まだまだ長生きされると思いますが─この私が、ロングボーンの家と土地を相続することになっております。そこで私としては、そうした不幸が起きたときに─いや、いま申し上げたように、ずっと先のことかと思いますが─そのときにベネット家の損失をできるだけ少なくするために、ぜひ、ベネット家のお嬢さまのどなたかを妻に迎えなくてはいけないと思ったのです。エリザベスさん、これが私の動機でありますが、これによって、あなたの私に対する評価が落ちるとは思えません。さて、あともうしあげることはただひとつ、あなたにたいする私の熱烈な愛情を、熱烈な言葉でお約束するだけです。いや、財産にはまったく関心がありませんし、父上にも、その種の要求はいっさいしないつもりです。しても無理だと分かっているからです。あなたがおもらいになる遺産は─いや、これも母上がお亡くなりなってからのことですが─年利四分の公債が、わずか千ポンドだけだと伺っております。でありますから、財産の問題については、いっさい申し上げないつもりです。結婚後も、世足しの口から非難がましい言葉がもれるようなことはぜったいにないと、いまここで、はっきりとお約束できます」(P.185〜187)

長い引用になってしまいましたが、演説のようなプロポーズですね(笑)。コリンズが結婚しようとした理由は。牧師である自分が教区の人々の結婚生活の模範となるため、幸福をえるため、そして崇拝する夫人から結婚を薦められたためです。そして、ベネット家の娘たちを妻の候補に選んだ理由は、ベネット氏の財産を相続することへのつぐないの方法として最善だと考えたからと言います。コリンズは第15章で花嫁候補にジェインを考えていたのを、先約があることをほのめかされて即座に次女のエリザベスに変更したことからもわかる通り、結婚相手に対する愛情などは必要なく、条件があれば誰と結婚してもよかったのです。ベしかも、ネット家の財産は自分のものになるわけだから、この縁組は自分のためのものではなく、ベネット家に恩恵を授けるためにやっていると思っている。彼の告白の中で、ベネット家の財産に無関心であることをたびたび発言していて、表面的には彼のそういうベネット家に対する恩恵を施すポーズを表しているように受け取ることができます。しかしながら,実際にはエリザベスに自分と結婚しなければ年利四分の公債しか貰えないのだということをエリザベスに意識させることが目的なのであり、自分との結婚が非常に有利な条件であり、自分との結婚以外の道は残されていないのだと脅迫しているに過ぎません。このようにコリンズはエリザベスが自分のプロポーズを受け入れざるを得ないように、しっかりとその外堀を埋めるという、念の入り方です。そのため、エリザベスが自分の申し込みを断るはずがないと考えていたと思います。実際、ベネット夫人にとっては、願ってもない縁談でした。

エリザベスは、このコリンズのプロポーズを即座に断ります。

「プロポーズしていただいて光栄ですけど、はっきりお断りします。それ以外言いようがありません」(P.187)

「もう一度申し上げますが、ほんとに、はっきりお断りします。あなたは私を幸せにはできませんし、私も、ぜったいにあなたをしあわせにはできません。それに、キャサリン夫人が私を見たら、あらゆる点で、あなたの妻にはふさわしくないとお思いになりますわ」(P.187)

「私のことは私に決めさせてください。私の言うことを、どうかそのまま信じてください。あなたの幸福と繁栄を心からお祈りします。そして、私も、あなたのプロポーズを断って、あなたの幸福と繁栄に貢献させていただきます。あなたは私にプロポーズして、ベネット家にたいするあなたの良心は十分満足したはずです。ロングボーンの家と土地を、いつでも堂々と相続なさればいいんです。ですから、この件はもうすべて終わったとお考えください」(P.188)

けんもほろろとはこういうことをいうのでしょう。きっぱりと拒絶しています。小説とはいえ、よくまあ、これだけ言えたものだというほどです。エリザベスがいかにコリンズを嫌っているかが、読むものにストレートに伝わってきます。自分が結婚相手として不足があるはずがないと、上から目線で決めつける、それだけでも十分不快なのに、それに加えて、自分か彼女を好きでプロポーズするのではなくて、あなたに恩恵を施すために、いわば慈善事業のように(自己犠牲の精神で)「結婚してやる」とでも言っているかのような押し付けがましさ、誰でも不快に思うでしょう。才気を自負し、プライドがあるエリザベスならなおさらです。しかし、それにしては、この時代にここまで棘のあるストレートな拒絶というのは異常なことではないか。舞踏会のダンスの申し込みですら、女性に申し出を断る権利がある言とわれながら、女性が断るには相応の理由と手続が必要だったのです。結婚の申し込み、ダンスの申し込みとは比較にならないほど重大です。したがって、普通は男性から女性に結婚が申し込まれることに対して、女性が断るというのは、相応の理由とか断り方の作法のような制約があったと思います。そのなかで、これほどの激しい拒絶をするというのは、異常です。

読んでいて、不思議に思いませんか。理性的で頭のいいエリザベスが、これほど感情的になって嫌うというのは異常としか言いようがありません。これをエリザベスの上昇志向から解釈する人もいるようですが、この小説でのコリンズの役割は、エリザベスにとってダーシーと対照的な存在として、とくにプライドとか偏見という点で、ダーシーと表裏の関係にあるような役割を果たしていると思います。そういう物語の構成上、エリザベスはコリンズを嫌悪せざるを得なくなっていると思います。というのも、この後で、エリザベスはコリンズの牧師館で突然ダーシーからプロポーズされますが、それを即座に断ります。その即座というところも、ストレートで嫌悪感を露わにして断るというのは、このコリンズのプロポーズを拒絶するのと、全く同じなのです。その際のダーシーの愛の告白は、コリンズのプロポーズのように具体的に何を言ったか書かれていませんが、おそらく内容はコリンズに似たりよったりの上から目線の一方的な、相手が断るはずがないと高を括っているものだったようです。つまり、このコリンズのプロポーズは、ダーシーの1回目のプロポーズと同じなのです。エリザベスがダーシーのプロポーズを拒絶した理由には、ジェインとビングリーの件に対する怒りやウィッカムによって起こされた誤解も加わっていますが、本質的にはダーシーの高慢さへの反発が主要因であり、コリンズの拒絶は、まさに高慢さへの反発でもあるので、このときの強い嫌悪は、そのままダーシーの拒絶につながっていくものとなっているのです。それゆえ、ここでコリンズを強く嫌悪し、拒絶しておかないと、ダーシーへの拒絶と釣り合いが取れなくなる。少なくとも、高慢というキーワードが見え難くなってしまうからと思うのです。

さて、話を進めましょう。しかし、ダーシーとコリンズは、違います。その大きな違いは、エリザベスに断られたことに対する反応の違いです。コリンズは、エリザベスにこれほど断られても、それを真に受けず、二人の会話は全く噛み合わないのです。

「若いお嬢さまは、最初はみんなそうやって断るものです、内心はうけるつもりでも、プロポーズされて、すぐに『はい』とは言わないものです。ときには二度、三度と断る場合もございます。ですから私は、いまのお返事にぜんぜん落胆などいたしません。とおからず、あなたを祭壇のまえへお連れする日が来るものと信じております」(P.187)

「エリザベスさん、あなたのお断りは単なる言葉に過ぎないと、そう理解させていただきます。そう考える理由は、簡単に言えばこういうことです。つまり、私があなたの結婚相手として不足があるとは思えないし、牧師館での生活も、極めて望ましいものと考えているからであります。牧師という私の社会的地位、ド・バーグ家との強い縁故関係、そしてベネット家との血縁関係など、これらはすべて、私に非常に有利な条件だと考えるからであります。それに、この点もよく考えていただきたい。あなたはたくさんの魅力をお持ちだが、これからもこういう結婚の申込みがあるかどうか非常に疑問だということです。残念ながら、あなたの財産の分け前は微々たるものです。したがって、あなたの美しさも、さまざまな美点も、すべて帳消しとなるでしょう。そういうわけで、あなたのお断りは本気でないと、考えざるをえないのです。上流社会の洗練されたご婦人方が使う、あの『じらし戦法』で、私の恋心をつのらせようとする作戦ではないかと、考えざるをえないのです。」(P.189〜190)

コリンズの言葉は、ここで引用しているように饒舌であり、表面的にはお喋りなのですが、話をしていても相手のエリザベスの気持ちが全く読めていません。というより、相手がどうだということが頭にないのです。だから、エリザベスの気持ちを全く無視して強引にプロポーズし、彼女を苛立たせても何とも思わないのです。基本的な会話の能力に致命的な欠陥を持っているのです。そこが、エリザベスにプロポーズを断られて自身を反省するダーシーとは決定的に違います。ダーシーは─エリザベスもそうですが─会話を通じて他人を受け入れ、人格的な成長を遂げていくことが、最終的なハッピーエンドに結びつくに至ります。これに対して、コリンズは他人を受け入れることがなく、成長が生まれる余地がないまま終わる、平板で滑稽な人物として終始している。そういう特徴が、この後のダーシーという人物を対照的に際立たせていく、そういうことが典型的に表われている場面だと思います。

第20章

コリンズとエリザベスが別れた後、ベッネット夫人がコリンズのもとでプロポーズの首尾を確めます。このとき、コリンズはエリザベスに拒絶されたことに気づかず、満足そうな表情をしている(この期に及んで気づかない鈍感さ、あるいは世界が自分を中心に回っている愚かさ)コリンズを見て、ベネット夫人はエリザベスが断ったことに気づきます。そのことから2つの事件が起こります。

ひとつは、コリンズにエリザベスとの結婚をあきらめさせてしまったことです。このときまで、コリンズはプロポーズが断られたとは思っておらず、「プロポーズは順調にいったと満足そうに(P.192)」していたのです。しかし、話を聞いたベネット夫人が慌てて、次のように言います。

「あの子は強情で馬鹿な娘で、自分の損得もわからないんです。でも私がちゃんわからせますから」(P.193)

そこで、はじめてコリンズは、どうやら事態は自分の考えているものとは違っていることに気づき始めます。ただ、その気づき方がズレていて、そこがコリンズらしい滑稽なところです。

「ちょっと待ってください。エリザベスさんがほんとに強情で馬鹿な娘さんなら、牧師の妻としてふさわしいかどうか疑問です。結婚生活の幸せを願う私の妻としてふさわしいかどうか、はなはだ疑問です。ですから、エリザベスさんが私のプロポーズを拒みつづけるなら、強制しないほうがよろしいと思います。そういう性格的欠陥がおありでは、私の幸福に寄与することは無理でしょうから」(P.193)

と、ベネット夫人は慌てて騒ぎ立てることで、コリンズにプロポーズの拒否に気がつかせ、結果として寝た子を起こす破目に至ってしまうのです。このとき、コリンズは前章でエリザベスが、あれほど言葉を尽くして断ったのに伝わらずいた拒否が、ベネット夫人のひと言で伝わってしまったのは、なんとも可笑しい。そこが、この場面の滑稽さで、しかも、ベネット夫人の意図していない伝わり方をして、そのことに彼女が気づいていないで、騒動が起こるというドタバタ喜劇の典型的な展開です。読者はそれを笑うところです。しかし、それは脇へ措いて、コリンズはエリザベスとは話がすれ違いになってしまうのに、ベネット夫人とは話が通じるというところ。明らかに、この小説は、エリザベスと会話が通じる人々と、そうでない人々に明確に分けることができる。そして、そうでない人々は、ベネット夫人、コリンズ、その他にリディア、キャサリン・ド・バーグ夫人などですが、それらは皆エリザベスに敵対するか、障害となる人々で滑稽にデフォルメされた平板な人物として描かれているということです。しかし、馬鹿にならないのは、この場面で、ベネット夫人が思わず口に出した「あの子は強情で馬鹿な娘で、自分の損得もわからないんです」という言葉が、幾分かに話の流れで、誇張もある愚痴の定型句のような言葉ですが、そこに本音が潜んでいて、コリンズにその本音が伝わっているのが明らかであるということです。だから、コリンズはエリザベスとの婚約を思い直すことになった、と言えるのではないかということです。読者からみると、エリザベスが馬鹿どころではなく、頭の良い人物であることは一目瞭然ですが、コリンズから見れば理解不能な、何を考えているか分からないような娘に映ったかもしれない。しかも、それは母親であるベネット夫人の眼に映るエリザベスの姿と重なっていたということです。

そこで、ふたつ目の事件に移ります。ベネット夫人は夫であるベネット氏の書斎に駆け込み、エリザベスがコリンズのプロポーズを断ったことへの愚痴をぶちまけ、彼女の翻意を促すように訴えます。しかし、その企ては失敗に終わります。そして、怒りがおさまらないベネット夫人は、エリザベスの親友のシャーロットが訪ねてきた前で娘に対する不満をぶちまけるのです。

「ほら、あののんきな顔を見てちょうだい。自分のわがままさえ通れば、家族のことなんかどうだっていいですからね。でもリジー、はっきり言っておくけど、こんなありがたいお話しをつぎつぎにお断りしたら、一生結婚なんてできませんよ。そしてお父さまがなくなったら、あなたを養ってくれる人なんていませんよ。とにかく私はまっぴらです、いまここではっきり言っておきます。今日かぎりおまえとは縁切りです。さっき書斎で言ったでしょ。おまえとは二度と口をきかないって。きかないと言ったらききません。こんな親不孝な子供と口をききたくありません。」(P.197〜198)

娘によかれと願うあまり、縁談が壊れたことで、やけになった母親が口にした言葉として見れば、一時の気まぐれ、ちょっと感情的になりすぎた愚痴とみることも可能です。しかし、エリザベスの立場からみると、本音がちらついていると見えます。夫人から見たエリザベスは、自分の思い通りにならない、言ってみれば親不孝な娘で、気に入らない存在なのです。自分の支配に従わない反抗的な娘に対する日頃は抑えている不満が、ここで一気に爆発したと映る。この直後にコリンズは、シャーロットに求婚して承諾を得るのですが、この知らせを聞いたベネット夫人は衝撃を受け、シャーロットがやがてロングボーンの女主人となって自分の後釜になることを呪い、嘆きます。そして、自分をふこうにした災いのもととして、エリザベスをなじります。エリザベスからすれば溜まったもんじゃないです。

一方、エリザベスは、たとえば以前のネザーフィールド屋敷のベネット夫人の振舞いなどが典型的です恥ずかしい思いを何度も味わっています。つまり、大げさな言い方かもしれませんが、この母娘は、片や何を考えているか分からず反抗的で親不孝な娘と思い、片や母親を恥ずかしいと心のそこで軽蔑しているという断絶が存在している。それは、後で、ベネット夫人は駆け落ちというスキャンダルを起こしたリディアを終始信じてかばい続けるのですが、ここでのエリザベスをなじるのと比べて、明らかにえこひいきがあるのが分かります。そこに、エリザベスという人物の、たとえばコリンズに対する過剰なほどの嫌悪を露わにする、そういう心の闇とまではいいませんが、彼女の姉妹、たとえばジェインなどには見られない屈折がエリザベスにはあると思います。それは、明らかに父親のベネット氏から受け継いだものではないかと思います。それは、ダーシーに対する振舞いにも表われていて、それが彼女が他の女性とは一線を画すひとつの理由ともなっている。

こんど、少し視点を変えて、そこに触れてみましょう。コリンズのプロポーズをエリザベスが拒否したことをベネット夫人が怒り、なんとか翻意させようとしたこと自体は、当時の社会では、むしろ常識的な振舞いに当たると考えられます。一般論で言えば、女性の生きる道は結婚しかなかったと言って過言ではなかった時代ですから、ベネット氏が死んだ後で生活の面倒を見てくれる夫を娘たちが見つけない限り、自分と娘五人が路頭に迷うことは避けられないのが現実なのです。それゆえ、娘たちの将来を確実なものにしてやりたいと願うベネット夫人は、やり方に多少問題があったとしても、当時の社会的背景を考えると、母親として何とか縁談を纏めようと奔走することは、親として当然の行為であると言えるわけです。だから、ベネット氏にエリザベスの説得を求めたのは、当然のことです。しかし、ベネットは次のように皮肉な言い方で、エリザベスの拒絶を承認します。

「エリザベス、困ったことになったぞ。今日からおまえは、両親のどちらかと親子の縁を切らなくちゃならん、お母さんは、おまえがコリンズさんのプロポーズを断わったら、二度とおまえの顔をみたくないと言ってる。だがお父さんは、おまえがあんな男と結婚したら、二度とおまえの顔をみたくない」(P.195)

ベネット氏は姉妹の中でもエリザベスに対する愛情が最も深いと言えます。この発言には、愛する娘を手元から放したくないという気持ちもないわけではありませんが、それ以上に自身の苦い経験に裏打ちされた、結婚には生活の安定という経済的な事情だけではすまないものであるという認識があって、エリザベスとコリンズが結婚した場合、自身とベネット夫人の男女が逆になったような夫婦となることは眼に見えているので、それでエリザベスが幸せになれるかを考えてことだろうと思います。そこに、ベネット氏が個人としての人格をエリザベスに認め、個人と個人が結ばれるものとして結婚を捉えていたためだと考えられます。そして、その考えはエリザベスのものだったと言う事もできます。それは、主体というものが確立していなくて、他人の主体ということが理解できないベネット夫人やコリンズには通じないが、ダーシーには通じるものなのです。この章のコリンズとの結婚をめぐる対立は、その区分を明確にさせた事件と言うことができると思います。

第21章

この一軒の後まもなく、ビングリー家がネザーフィールド屋敷を去ります。何のあいさつもなく彼らが去ったことに対して、ベネット家の人々は不安を募らせます。そして、ジェインのところにミス・ビングリーからの手紙が届き、この冬はみなでロンドンで過ごすことになったと、伝えられます。加えて、ビングリーの結婚相手はダーシーの妹になりそうだということがあからさまに書かれていて、ジェインはショックを受けます。それを知ったエリザベスは、ビングリーがジェインのことをあきらめるはずがない、ミス・ビングリーの言うことは信用できないと、姉を励ますのですが、ジェインはビングリーのことを忘れようと努めます。ここでは、なぜビングリーが去ったのか真相が分からず、読者にはミステリーとして提示されます。

ここでのジェインとエリザベスの会話は、そのミステリーのシャーロック・ホームズとワトソンの会話のように謎を浮かび上がらすと共に、姉妹2人の違いと、それが謎を複雑にしている構造を読者に示してくれています。エリザベスは手紙を書いたミス・ビングリーはジェインしビングリーが好き同士でいることに気がついている。しかしビングリー家に対してベネット家は財産も地位もはるかに劣るからから二人の結婚に反対していると考えます。さらに、ミス・ビングリーは、ダーシーの妹とビングリーを結婚させて、自分とダーシーの仲を接近させて、あわよくば彼と結婚する策略であると。前者は、真相に近いのでしょうが、後者はエリザベスの妄想邪推のきらいがあります。それを聞いたジェインは、エリザベスの考えはミス・ビングリーが悪い人であるという前提のもとに打ち立てられていて間違っていると反論します。ジェインは事実は認めますが、エリザベスのように一方的な推測はつつしんで、ミス・ビングリーの過失、つまり思い違いをしている可能性もあると言います。そして、悪意にしろ思い違いにしろ、ビングリーとジェインの二人の結婚を当人同士が望んでいるにしても、周囲の家族や友人は望んでいないという事実を指摘します。そこに、二人の違いが、ジェインと比べると、エリザベスが人物を客観的に観察するというより、自身の印象なり思い入れの視点により解釈するという違いが露わになります。これは、かなり穿った見方なのですが、この小説の書かれた19世紀はじめは、産業革命の新技術が続々と生まれ、自然科学的な思考が普及していった時代です。この二人の姉妹の会話のジェインの姿勢には、この事実を証拠として積みあげて帰納的に結論に至るという筋道がとおっているように見えます。その底には客観的に事実を見るという冷静な眼と結論に至ることへの楽天的ともいえる信頼があります。これに対して、エリザベスは、その客観的事実には深層があって、そこにいたるのはただ表面的に観察しているのではだめだという認識論的な、もっと後の時代の、たとえば、フロイトやウェーバー、あるいはマルクスといった人々の視点があるような気がします。彼らの学説が時に主観的とか批判されたと似ていて、エリザベスの考え方には、主観性とか強引さが感じられるのは、そういう点も原因している。これは、かなり強引な議論で、時代的にオースティンがそういうことを意識していたとは考えられません。

第22章

さて、ベネット家の人々とコリンズはルーカス家のディナーに招待されます。コリンズにはエリザベスとの一件もあって、シャーロットが相手をつとめます。エリザベスは親友の親切に感謝しますが、シャーロットはエリザベスに結婚を断られたコリンズとの結婚をゲットしようとしていたのでした。そして翌朝、コリンズはベネット家の人々に知られないようにルーカス家を訪れシャーロットに熱烈なプロポーズをします。その経緯は次のように書かれています。

プロポーズは受け入れられた。そしてふたりで家に入ると、早くもコリンズ氏は、それでは結婚式の日取りを決めてほしいとシャーロットに返答を迫った。こういう性急な頼みには、とりあえず手を振って答えないのがふつうだが、シャーロットは彼の幸せを引きのばすつもりはなかった。生まれつきの馬鹿を絵に描いたようなコリンズ氏が相手では、甘い婚約期間が長く続いてほしいなどなどと、ロマンティックな思いにひたる気にはなれないからだ。それにシャーロット・ルーカスは、早く結婚して身を固めたいという一心でプロポーズを受け入れたので、結婚式がいきら早くてもかまわないのだ。

ふたりは、さっそく、サー・ウィリアム・ルーカス夫妻に同意を求めたが、これも二つ返事で承諾された。娘には何も財産を残してやれないので、経済的にも安定しているコリンズ牧師との結婚は、願ってもない良縁だ。それに将来は、ロングボーンの家と土地を相続することになっているそうだから、まさに前途は洋々たるものだ。(中略)ルーカス家にとっては、家じゅう大喜びのめでたい出来事だった。妹たちは、予定より一、二年早く社交界デビューができると喜び、弟たちは、これで姉さんが一生独身のオールドミスにならずにすんだと喜んだ。だがシャーロット本人は意外に冷静だった。彼女は目的を達し、自分の結婚について改めて考える余裕もでき、感想はだいたい満足できるものだった。コリンズ氏はたしかに頭も悪いし、感じのいい男でもないし、一緒にいても退屈だし、彼の愛情もきっと口だけのものだ。だが、それでも彼女はコリンズ氏と結婚するつもりだ。男性や結婚生活に憧れているわけではないが、結婚はつねに彼女の目標だった。なぜなら教育はあっても財産のない若い女性にとって、結婚は、人並みに生きるための唯一の生活手段であり、かりに幸福になれないとしても、飢えだけは免れるからだ。そしてシャーロットはいま、すくなくともこの安心だけは手に入れた。すでに二十七歳であり、器量もよくないシャーロットは、この幸運をひとりかみしめた。(P.213〜215)

ここでの小説の語りは、シャーロットの立場から、彼女の考え方の表明として述べられています。それと同時に当時の社会状況を事実として説明するものにもなっているといえると思います。おそらく、シャーロットの思いは、当時の教育のある女性、つまりは、この小説の読者たちの思いと共通するもので、シャーロットの境遇に共感する女性も少なかったのではないかと思います。このような女性たち(シャーロットやベネット家の娘たち、そして小説の読者たち)にとって結婚は死活問題だったといえます。とくに、裕福な財産に恵まれず、持参金があまり期待できない女性にとっては、何らかの方法で夫と家庭を手に入れないと、将来の生活も保障されない。中産階級以上の女性にとって、結婚以外の生きる道として唯一考えられるのは家庭教師(ガヴァネス)の職くらいでしたが、これは決して楽なものではなく、最後の砦でしかなかったことは、『エマ』の登場人物の一人、ジェイン・フェアファックスがガヴァネスの職に就くのに決死の覚悟でいた様子をみれば分かると思います。結婚して主婦になること。妻が「家庭の天使」であるべきだという価値感が通底していた当時では、結婚とは女性にとって職業と同義だったといえると思います。それだけではなく、ルーカス家のことを考えると、シャーロットは長女であって、彼女のほかにも妹たちがいます。彼女たちも、シャーロットと同じように結婚相手を探さなくてはなりません。その出会いの場が社交界です。上記の引用で「妹たちは、予定より一、二年早く社交界デビューができると喜び」とありますが、当時のイギリスの慣習では長女のみが社交界に送り出され,その下の娘たちは概ね家庭にとどめられていました。これは、後に、ベネット家の娘たちが慣習を破って5人全員が社交界に出ていることについて、キャサリン・ド・バーグ夫人は「5人ともみんな?それは変ね。あなたは二番目でしょ?お姉さまがまだ結婚していないのに、妹さんたちが社交界へ出るなんて!妹さんたちはまだお若いんでしょ?(P.284)」と驚きを隠せないのです。だから、シャーロットが、いつまでも結婚しないでいると、妹たちは社交界に出て結婚相手を探すことができないのです。

これに対してエリザベスの考えは次のように書かれています。

この不似合いな結婚に納得するまでには、ずいぶん時間がかかった。コリンズ氏が三日のうちにふたつのプロポーズをしたというのも、あきれた話で理解しがたいが、シャーロットがそのコリンズ氏のプロポーズを承諾したということのほうが、はるかに不可解で理解しがたい。シャーロットの結婚観が自分のとは違うということは、前から感じていたが、まさかほんとにシャーロットが、自分の気持ちをすべて犠牲にして、現実的利益だけを考えて結婚するとは、エリザベスには思ってもいなかった。シャーロット・コリンズ夫人!ああなんという屈辱的な光景だろう!親友が自分で自分をはずかしろめ姿は悲しいし、親友に失望せざるをえないのも悲しいが、さらに悲しいのは、シャーロットが選んだこの結婚が、彼女を幸せにするとはとても思えないということだ。(P.219〜220)

エリザベスは、この結婚について、シャーロットは幸せになれないという辛辣な言い方をするほど批判的です。しかし、物語の中では、シャーロットの家族は喜んでいるし、ベネット夫人は悔しがるほど妬んでいます。この結婚に批判的なのはエリザベスとベネット氏だけなのです。おそらく、当時の社会ではシャーロットの選択は間違っていないということ、結婚とはそういうものというのが常識だった。これに対して、批判的なエリザベスの姿勢というのは、いってみれば過激思想と言えるかもしれません。そして、この小説では、この後、さまざまな場面で、結婚観をめぐって議論がたたかわされます。例えば、シャーロットについては、この後の第24章でジェインを相手にエリザベスは次のように語ります。

「シャーロットがほんとにコリンズさんに好意を抱いているとしたら、彼女の頭がどうかしちゃったと思うしかないいまは彼女の心がどうかしちゃったと思うけど。ねえ、お姉さま、コリンズさんはうぬぼれ屋で、尊大で、心が狭くて、そのうえひどい馬鹿よ。それはお姉さまにもわかってるはず。あんな人と結婚する女性は頭がどうかしてる。お姉さまもそう思ってるはずよ。シャーロット・ルーカスだからといって、弁護なんてしちゃだめ。シャーロットのために、節操や誠実さの意味を変えてはいけないわ。利己主義を思慮分別と思ったり、危険にたいする鈍感さを、幸福の保証だと思ったりしてはいけないわ」(P.233)

それは、エリザベスとダーシーとの間を中心に他の人物も絡んでプライドをめぐる議論が繰り返されたのとおなじです。この小説では、「プライド」とか「結婚」といった概念の意味内容についての議論が続けられ、それによって主要な登場人物の行動に影響していく観念小説の性格があると思います。そういうところは、アンドレ・ジィドの『贋金つかい』という小説に通じるところがあると思います。

第23〜24章

シャーロットとコリンズの婚約が引き起こした波紋を並べていきます。ベネット夫人はロングボーンの相続人であるコリンズとエリザベスの結婚できず、シャーロットに取られてしまったかたちになって、ロングボーンの土地や家屋を奪われてしまうと悔しがり、エリザベスを責めるようにことまでします。また、エリザベスとシャーロットは親友だったのですが、この件によりわだかまりが生じます。

一方、ジェインはこの結婚を祝福するように努めますが、彼女は、実はそれどころではなく、ビングリーがロンドンから戻る気配がないので、心配しています。

それが第24章で、ミス・ビングリーからの手紙でビングリーはロンドンで冬を過ごすことが伝えられ、ジェインは失恋を自覚します。この手紙をめぐって、ジェインとエリザベスの姉妹の会話が第24章の後半を占めていますが、ビングリーをめぐっての会話はミステリー小説の謎解きのような趣があります。そして、エリザベスのビングリーのへの視点は名探偵のように冷静に的を得ています。彼女は、このように客観的で鋭い観察眼を持っているのに、ダーシーやウィッカムといった人々に対しては主観的な思い入れに流されて誤った見方に陥ってしまうのが不思議なほどです。

第25章

ロンドンからベネット夫人の弟夫婦がロングボーンにやってきます。ガーディナー氏というロンドンで商売を営んでいる人物で分別のある紳士的な人物で、エリザベスにとっては、後にペンバリー屋敷でダーシーとの再会に導くことになる人物です。エリザベスの叔母にあたるガーディナー夫人は聡明な女性で、ベネット夫人の愚痴の聞き役を務めた後、エリザベスとの会話になります。その内容は、ビングリーとジェインに関するもので、このことは前章のエリザベスとジェインの会話とは別の視点から二人の仲について捉え直すことになるものでした。この小説にたびたび挿入される会話の場面は、古代ギリシャ哲学の対話篇を思わせるところがあって、実は、この小説は観念について議論している部分が少なからずあって、思想小説と言ってもいいところがあります。このことは前にも述べましたが、この2章続けての別々の人物による会話を続けて挿入したことで、同じ題材を扱った対話が異なる視点で、しかも、同時ではなくて、24章と25章で続けて挿入されたことで多層的に読者に受け取られるように工夫されていると思います。24章ではビングリーと、彼の家族をどう見るか、そして25章ではビングリーとジェインの関係をどう見るかという具合です。その結果、単に対話篇をダラダラ続けて、内容は別として小説の物語としては平板になってしまうのを避けて、立体的で、物語の進行とシンクロして、この議論から、ジェインをロンドンのガーディナー夫妻のところに招待されることにつながります。そして、ロンドンで、ジェインはビングリー姉妹の姿に触れることになります。

第26章

ガーディナー夫妻は、クリスマスの1週間をロングボーンですごしましたが、ベネット夫人は彼らを歓待して、連日、客人を招待し賑やかにすごしました。その来客の中にウィッカムがおり、エリザベスと親しげにしていたのをガーデナー夫人が見つけて、彼女に忠告します。

「お金のない者同士が好きになっても不幸になるだけ。そういう無分別な恋に落ちてはいけないし、相手をそういう気持ちにさせてもいけないわ。ウィッカムさんがだめな人だと言ってるわけじゃありません。彼はとてもいい青年だし、それなりの財産さえあれば、あんないい結婚相手はいないと思う。でもいまの状態では、そういう恋心に身を任せてはいけないわ。あなたはしっかりした分別を持っているし、あなたが分別に従って行動することを、皆が期待しています」(P.249〜250)

ここでも、結婚についての議論(対話)が繰り広げられます。ガーディナー夫人はエリザベスにウィッカムとの関係について注意を促します。ガーディナー夫人はエリザベスとウィッカムとの結婚は分別に欠けると言います。ガーディナー夫人がウィッカムとの関係に注意を促す理由は、彼に財産がないという一点によるものです。この言葉から、結婚は生活するという経済的側面を重視し、それを分別という言い方で表わす夫人の姿勢が読み取れます。そこには、ロマンチックな愛情に駆り立てられる、極端な例が駆け落ちですが、感情が分別をおいこすことをたしなめるという言い方をしています。これは、シャーロットの愛情がなくても生活のために結婚をするということと似ていますが、ガーディナー夫人は、ウィッカムを財産さえあれば結婚相手してはいい人だといっていることから、愛情を否定しているわけではない。その忠告に対してエリザベスは、愛情さえあれば財産がなくても結婚に踏み込めること、それを毎日見ていると反論します。エリザベスは財産のあるなしに拘わらず、愛情があれば、結婚できると主張するのです。ただし、父親のベネット氏の期待を裏切らないでというガーディナー夫人の言葉に答えて、「私はいまのところ、ウィッカムさんに恋なんてしていません。ほんとに、していません。でも、彼は私がいままで会ったなかで最高にすてきな人です。(P.250)」と、ウィッカムという人物に惹かれてはいるものの、好きになってはいないけれど、「彼は私がいままで会ったなかで最高にすてきな人です。」という最後の一線を踏み越えていないエリザベスの状態を示しています。というより、ウィッカムとの恋について、エリザベスは、はじめてガーディナー夫人によって注意を受けたので、これによって、エリザベスのウィッカムへの傾斜にブレーキがかけられることになったと言えると思います。この会話を通じて、エリザベスはウィッカムに対して客観的な見方ができる端緒をつかめたと思います。このことがあって、後のダーシーからの手紙でウィッカムについての真相を冷静に受け容れる下地をつくることができのだと思います。ただし、エリザベスは、この時点ではウィッカムに対して疑念を抱いてはいません。

ガーディナー夫妻は、ビングリーに去られて気分が沈んでいるジェインを連れて、ロンドンに戻ってゆきました。ロンドンにはビングリーがいますが、ガーディナー氏のいる商人街とビングリーの住んでいるグロヴナー・ストリートとは離れていて、同じロンドにいても出会う可能性は、ほとんどありません。ジェインは、ロンドンに着いて1週間後、ビングリー宅を訪ねます。そこでビングリー姉妹と面会しましたが、ビングリーと会うことはできなかった。これが、ジェインからの手紙で、エリザベスは知るわけです。ここから、エリザベスとジェインの手紙のやり取りが始まり、二人の対話は書簡の往復に替わります。そうすると、対話篇から書簡体小説に様相が変わっていきます。そこで、やり取りされる情報や感情が制限されて、行間を読むというか、もっぱらエリザベスの側で描かれますが、エリザベスが想像で思いを巡らせていく比重が高くなります。そこに憶測の確定要素がふえてくることになります。オースティンは、口頭と手紙という伝達メディアの違いによる、コミュニケーションの質の変化を物語の展開とうまく合わせて、ジェインとビングリーの関係について、ミステリー的な要素がさらに強くなっていくことになります。これが、オースティンの語り口の巧さのひとつと言えるのではないでしょうかる。ジェインの手紙を読んだエリザベスは、ジェインがロンドンにいることがビングリー氏の耳に入るには、偶然意外には期待できないと考えます。つまり、ビングリー姉妹はジェインがロンドンに来たことをビングリーには隠していると考えます。

その後、ロンドンについてから4週間経っても事態にジェインはビングリーに会えません。ジェインがロンドンにいることを知っているビングリー姉妹も訪問するといって訪ねて来ません。ジェインがビングリー姉妹を訪ねて2週間も経って、ようやく彼女たちは現われたが、立ち寄った程度でした。ここにいたって、ジェインは彼女たちの冷たさに気がつきます。ビングリー姉妹はビングリーとジェインの結婚が現実的なものとなったことに危機感を抱き、その阻止のため個人的にはジェインに好意を持っていたかもしれませんが(ネザーフィールド屋敷にジェインを個人的に招待したのはミス・ビングリーでしたが、その時は二人の結婚する可能性は考えられていなかったのでしょう)、ビングリーに会わせず、諦めさせようとしている。ジェインは、ミス・ビングリーを憐れむような仕草をみせますが、エリザベスは手紙を読んでビングリー本人に対して失望するのでした。そこが、エリザベスの、多少のおっちょこちょいの才気ばしっての勇み足です。ジェインはミス・ビングリーのことは手紙に書いていますが、ビングリーのことは会っていないので分からないとして、何ら評価はしていません。そういうところは、ジェインの方が冷静で客観性の高い判断をしているように見えます。しかも、ジェインは、ビングリーのことは和からないと言っても、決して楽観視してはおらず、この恋は終わったと考えています。

一方で、エリザベスの方も、ウィッカムとの付き合いも終わることになります。ガーディナー夫人からジェインの様子を手紙で知らせてきたついでに、ウィッカム氏とのことを心配してきたので、それに対する答えとして明かされます。ウィッカムはエリザベスから遠ざかり、金持ちの相続人ミス・キングと付き合い始めます。しかし、これに対してエリザベスは失恋の痛手をうけるわけでもありません。「自分に財産があれば、彼はきっと自分を選んだだろうと思うと、虚栄心も十分満たされた。というのは、彼がいま夢中になっている女性の最大の魅力は、一万ポンドという財産だからだ。(P.259)」というように、エリザベスは揺るぎません。だから、ウィッカムに対して、自身の手紙で「いまの私の気持ちは、彼に対してやさしいだけでなく、お相手のミス・キングにたいしても冷静です。彼女を憎む気持ちはまったくありません(P.260)」と語ります。次の第27章でウィッカムとの別れの場面も「なごやかで親しみにあふれ(P.263)」、と書かれていて、それは奇妙なほどです。「最初に心ひかれた相手はエリザベスであり、彼の身の上話を聞いて同情してくれたのも彼女であり、すばらしい女性だと感心したことを、彼は忘れていなかった。別れのあいさつにもやさしい心づかいが感じられ、楽しい旅になりますようにと言ってくれた(P.262)」という気遣いによって、エリザベスはまいまい彼に好感を抱き、「ウィッカムが結婚しても独身のままでも、感じのいいすてきな男性の見本として、いつまでも変わらないだろうと彼女は思った(P.263)」とまで、ウィッカムに対する贔屓目を捨てることはありませんでした。こんなエリザベスについて作者は「エリザベスは、シャーロットが経済的独立のために結婚したときは、あんなに憤慨したのに、ウィッカムが経済的独立を望むことにたいしては、なぜか異議を唱えなかった。それどころか、彼が経済的独立を望むには当然だと思った。(P.259)」と、エリザベスの矛盾した態度を指摘しています。ここでは、自分を裏切ったウィッカムの誠意のなさに対して、盲目的に許してしまって、甘い幻想を抱いてえこひいきをしているエリザベスの愚かさが示されています。ジェインを裏切ったがどうか不明のビングリーに対しては、悪いときめつけ、明らかに彼女を裏切ったウィッカムは認めてあげていて、しかも、同じように財産目当ての結婚をしたシャーロットは許さずに、ウィッカムは許しているのです。これを小説の語りの中で並べているオースティンの小説の語りの構造は、直接的な表現をしなくても読者に、そうと分かるように書き方の構造をデザインしているのです。しかも、ビングリーに対して評価を急がないで、状況からわかる事実だけを受け入れているジェインの冷静さと、比べるとエリザベスの感情的というか主観の歪みはますます強調されます。エリザベスのこのような意地っ張りなところ、偏見に流されてしまうところが、結果的にダーシーからは媚びないとして印象的に映って、彼のハートを射止めることになるのです。だから、この恋物語は、『痘痕も靨』が蓋を開けたら、あばたがえくぼになってしまったころで恋が成就するという話といえかもしれません。

第27章

3月になって、コリンズとシャーロットの新婚家庭にエリザベスは招待されます。シャーロットの父であるルーカス氏と妹のマライアにエリザベスが加わったという一行です。ハーフォードシャー州のロングボーンから、コリンズの牧師館のあるケント州のハンズフォードまでは40キロあまりで、途中でロンドンに寄ってガーディナー家でジェインと再会します。元気そうにしていますが、ガーディナー夫人によれば、ときどき沈んでいることがあるらしい。ここで少し脱線しますが、思っている男を追いかけてロンドンに出てくるというのは、前作『分別と多感』のマリアンの例もそうです。そして、ロンドンに出てきても男性と会うことができない、彼が突然ロンドンに去ってしまったというミステリアスな状況というところも同じです。マリアンとジェインとでは恋の結末も違うのですが、オースティンのファンであれば、ジェインがビングリーをおいかけるようにロンドンにでてきて、妹のミス・ビングリーを訪ねて冷たくあしわれるということまで読んでいくと、『分別と多感』のマリアンを思わずにはいられないでしょう。オースティンにも、ファンがそういう読みをするという計算はあったと思います。しかし、このような男を追いかけるというモチーフは、『高慢と偏見』が最後になってしまいます。ジェインの場合は自発的にロンドンに出てきたというわけではないので、マリアンとは違い、男を追いかけたといえるか微妙ですが。

ここで、ガーディナー夫人とエリザベスがウィッカムをめぐって結婚についての議論が、第26章の議論を蒸し返すように繰り返されます。こんどは、エリザベスはウィッカムと別れてしまったので、状況は変化しています。まず、エリザベスが、お金目当ての結婚と分別ある結婚の違いを訊ねます。

「叔母さま、お金目当ての結婚と、分別のあると、どこが違うの?どこまでが分別で、どこまでがお金目当てだといえるの?去年のクリスマスに叔母さまは、お金のない彼が、お金のない私と結婚するのは無分別だと言って反対なさいました。それなのに、お金のない彼が、一万ポンドのお金持ちの女性と結婚するのは、お金目当てだからけしからんとおっしゃるのですか?これこと分別のある結婚だと思いますけど」(.265)

それに対して、ガーディナー夫人はウィッカムの相手のミス・キングがもともと魅力ある女性だったのか。ウィッカムは彼女に見向きもしなかったのを、1万ポンドの金持ちになったとたん彼がミス・キングに乗り換えたということ。そこにウィッカムの心情に誠意が見られないことを指摘します。それをエリザベスは、

   「お金のない人間は、お金のある人間みたいにお上品なお体裁にかまってる余裕はないのよ。」(P.265)

とウィッカムをかばう発言をします。それで相手のミス・キングも言いと言っているのなら、何も問題ないのではないか、と。しかし、それでは第22章でシャーロットが愛情も感じていないコリンズと結婚することについて、「シャーロットが選んだこの結婚が、彼女を幸せにするとはとても思えない(P.220)」と言って批判したエリザベスは、ここでは正反対の意見を言って、感情的にいらつくのです。おそらく、このいらつきは、自身の矛盾に気がついたのではないか、そこで、ウィッカムがお金目当てであることを、この議論で口にしたことによって、ウィッカムの行動について贔屓目で見ていて認めていなかったことに気づいた可能性があります。そのことを作者は明言していません。しかし、エリザベスは、直前にウィッカムと(気持ちよく)別れてきたところです。この時には、彼との結婚の可能性はないと考えていたはずですから、利害関係のないところでウィッカムを語ることのできることになったわけです。そのときに、ウィッカムとの思い出のあるロングホーンを離れてロンドンで語っているというところが隠れた原因かもしれません。そこで、エリザベスは状況も場所も変わったことに後押しされて、気分が変わろうとしているのです。この作品では、エリザベス、そしておそらくダーシーの移動ということが、小説のドラマの中で彼らの変化を促す舞台装置となっている。おそらく、エリザベスはロングボーンにとどまったままでいれば、相変わらずの生活を続けて、なかなか変わることができなかったのではないか。少なくとも、彼女に変化を促すような契機がなかったと思います。例えば、この後ハンズフォードで、シャーロットの実際の生活を見て、彼女に対する認識を改めるように迫られ、キャサリン夫人には、ここで自身がガーディナー夫人にくってかかったことを反対に受け身の立場になり、そして、ダーシーからプロポーズされることになる。そういう事態の変化はエリザベスに変化を促すのでもありますし、出発して初日のロンドンの時点において、エリザベス自身も変わる兆候を見せています。

そして、ガーディナー夫人との会話の最後で、夏休み観光旅行に誘われます。これが、ペンバリー屋敷でのダーシーとの再会になっていくですから、この旅はエリザベスが変わり始める転機なのです。

第28章

翌日、エリザベスの一行はハンズフォードのコリンズの牧師館に到着します。これから第35章まで、小説の前半の舞台はここで、前半のヤマ場を迎えます。一行はコリンズ夫妻の歓迎で迎えられ、さっそくコリンズが建物や周囲の案内が始まります。コリンズは得意満面でエリザベスを含めた一行を案内します。コリンズの得意そうな表情を見て、エリザベスは

「彼は部屋の広さや内装や家具について自慢そうに説明したが、エリザベスは、これは私に向かって言っているのではないか、つまり、彼のプロポーズを断ったことを私に後悔させようとして言っているのではないか、と思わざるをえなかった」(P.269)

と、偏見に持った感想を抱きますが、その後のコリンズの言動や振舞いには、そういう素振はなく、むしろ単純なコリンズには、そんな複雑な感情を持ち合わせていないことが明らかで、ここにエリザベスの抱いているコリンズへの軽蔑と嫌悪ゆえの疑心暗鬼といえます。そしてさらに、

こんな男と結婚して、よくもこんなうれしそうな顔ができるものだと、あらためてシャーロットを見ずにはいられなかった。(P.270)

前日のロンドンでは、金目当ての結婚をしようとしているウィッカムをあれほど庇ったのに、シャーロットに対しては相変わらず、好意的でない見方をしているのです。

しかし、家の中を案内されて、家具調度類がセンスよく整えられ、快適な空間をつくり、うれしそうなシャーロットの顔を見ていると、エリザベスは、寝室にひきとってひとりになると様々な思いが浮かびます。そこで、すこし冷静になって考えることができるようになります。

シャーロットはほんとにどこまで満足しているのだろうか。だが、彼女は夫をうまく操縦し、かつ、冷静に耐えているようであり、万事うまくいっていると認めざるをえない。(P.272)

ほんの数時間前まで、シャーロットに「よくもこんなうれしそうな顔ができるものだ」と軽蔑を隠さなかったエリザベスが、実際のうまくやっているシャーロットの生活ぶりにふれて、100%とはいえないまでも、ある程度は満足できていることを認めざるをえないところに変化してきています。それが「シャーロットはほんとにどこまで満足しているのだろうか。」という言葉に、シャーロットに対して、それまで下していた判断が主観的で、現実の実態をみないで組み立てられたものであることを突きつけられて、少し混乱しているエリザベスの姿を映しているように思います。

さらに、エリザベスは、この後の第32章のダーシーとの会話の中で次のように言います。

「シャーロットはとても頭のいい女性です。でも、コリンズさんと結婚したことが利口な選択だったかどうかはわかりません。でもすごく幸せそうだし、現実的なことだけを考えれば、彼女にはいい結婚だったんだと思います」(P.306)

おそらく、エリザベスには尊敬できない相手と結婚した性格の釣り合わない夫婦として、自身の両親であるベネット夫妻が身近だったと思います。エリザベスは、とくに父親のベネット氏の資質を受け継ぎ、かれに可愛がられてきたので、妻であるベネット夫人に愛情をもてずに軽蔑している父親を痛々しい思いで見ていたのではないでしょうか。なまじ、読書による知識があるばかりに、それが奇妙な夫婦であることは分かっていた。おそらく、自分がコリンズと結婚したら、ベネット氏のようになってしまうおそれは十分にある。何となれば、目の前に見本が存在しているからです。才気の点では自分と同等に近いシャーロットでも、同じような結果になるのではないか、と当然予想できた。だから、エリザベスはシャーロットは不幸になると言い切れた、とは言えないでしょうか。しかし、実際に新婚家庭を訪ねてみたら、シャーロットは、ベネット氏のような世を拗ねたような態度は一切見せず、嬉しそうにしている。それは認めざるをえない。そこでエリザベスは思っていたことと違うと、気づいた。しかも、ここはロングボーンのいつもの環境とは離れたところで、気分も新鮮で、従来の考えを引きずらないで、ある程度すなおにものを見ることができたので、なおさらです。あるいは、ロングボーンのベネット家にいるときのような邪魔が入らないので、ひとりになって静かに考えることができことも、それを可能にしたのかもしれません。いずれにせよ、この旅はエリザベスを反省的にして、静かに自身をかえりみる機会を与えることになったと思います。それが、彼女の変化を促すおおきな要因となったと思います。そして、この後で、そういうエリザベスが自己を顧みるに際して、絶好のたすけとなるような人物たちとの出会いが生まれるわけです。例えば、反面教師としてのキャサリン夫人であったり、ウィッカムの解毒剤のようなフィッツウィリアム大佐という人々です。

そして、コリンズ家はキャサリン夫人のディナーに招待されます。

第29章

エリザベスの眼に映ったキャサリン・ド・バーグ夫人は次のように描写されます。

キャサリン夫人は、背の高い大柄な女性で、目鼻立ちがはっきりしていて、若いときはさぞや美人だったと思われる。人柄は温かい感じではなく、みんなを迎えたときの態度は、相手に身分の違いを忘れさせるようなものではなかった。黙っていても威厳があるというのではなく、口をひらくと話し方がつねに威張った感じで、尊大な性格だということがよくわかる。(中略)キャサリン夫人を観察すると、顔つきも態度も、どことなく甥のダーシーに似ていることにすぐに気づいた(P.278)

つまり、キャサリン夫人はエリザベスがダーシーを嫌っているその尊大さや高慢さを、つまりダーシーの厭な面をさらに際立たせたような人物として描かれています。これが、数章後になってダーシーが夫人を訪れてエリザベスの前にも現われますが、そこでキャサリン夫人と比べられることになり、ダーシーの高慢さの方がまだましだ(笑)という見え方として現われます。この時点では、ダーシーはエリザベスへの思いを抱えて抑えることができない状態になってきており、彼自身の変化を生んでいるのですが、その変化はキャサリン夫人の高慢さが以前のダーシーの姿と重なるので、それに比べると和らいでいる、この時点のダーシーは変化が夫人との対照により見えてくる。そういうダーシーの陰画のような存在として、ここでは紹介を読むことができます。しかも、夫人は、自身は意図していないのでしょうが、この後でエリザベスを触発(挑発)する行為を繰り返します。

ディナーの後の客間にさがっての茶話はキャサリン夫人の独演会の様相となります。そのなかで、エリザベスだけが夫人と対等に会話をするのですが、このあたりが才気に溢れるだけでなく、反抗心があらわれていて、彼女らしいところが表われていると思います、夫人は、そういうエリザベスに興味を覚えたようで、だんだんと会話は二人に絞られていきます。そのやり取りの描写の巧みさは、それだけで面白いところです。例えば、二人の口調の違いと、ふたりがだんだん慣れてきて言葉遣いが、それぞれなりに段階的に砕けてくるプロセスだったり、夫人のエリザベスの会話のテンポ感の違いが文字の上からも分かってしまい、それが会話のぎこちなさと二人の女性の感覚のズレを巧みに読む人に感じさせるものとなっています。

そして、二人の会話の内容が、この会話のやり取りを見る限りでは、キャサリン夫人が自身の考えをエリザベスに押し付けようとして、エリザベスがやんわり受け流すような書き方になっているので、キャサリン夫人が自分の考えを押し付けようとしているような印象がありますが、夫人の話していることは当時の中流以上階層では常識的なことで、ベネット家、とくに娘のしつけや教育は常識から外れていると言えます。おそらく、当時の読者には常識を共有していたので、それが分かりますが、現代の日本の読者には、それが分かりません。そのため、キャサリン夫人がエリザベスを苛めているように映りますが、ここでは、ベネット家の非常識さ、さらにいえば、そのように娘たちにしつけをしていない父親のベネット氏が怠惰を浮き上がらせている場面なのです。それは、この後で、ダーシーがエリザベスに長い手紙を送って、ビングリーとジェインの結婚に反対して理由としてベネット家の不作法をあげていますが、その前触れの役割を果たしているのが、この場面なのです。エリザベスはダーシーの手紙を読んで、その説明でピンときて、その理由を納得して、ああと悲嘆しますが、その時に突然指摘されても、そのことを気に病んでいたりしなければ、すぐにピンと来るのは無理です。しかし、ここでのキャサリン夫人からベネット家の娘のしつけについて、あるいは父親をはじめとして両親からきちん教育を施されていないことに思い至り、過去のそういう事例としてネザーフィールド屋敷での失態に思い至ったとすれば、ダーシーの手紙はまさに図星だったわけです。そこで、やはり、ということになる。それは、読者にとっても、かなり以前のネザーフィールド屋敷の舞踏会のことなど急に思い出せないでしょう。それが、ここでの会話でほのめかされると、後の場面で思い出しやすくなるわけです。

なお、ベネット家のしつけのどういうところが常識外なのか、確認してみましょう。キャサリン夫人は、エリザベスを含めて5人姉妹の全員が社交界に出ていることについて、

「えっ、みんな?5人ともみんな?それは変ね。あなたは二番目でしょ?お姉さまがまだ結婚していないのに、妹さんたちが社交界へ出るなんて!」(P284)

18世紀のイギリスの慣習では長女のみが社交界に送り出され、その下の娘たちは概ね家庭にとどめられていました。長女か結婚すれば、次女が社交界に出られる。エリザベスの親友のシャーロット・ルーカスが結婚を焦った理由の一つに、自分が長女のために結婚がおくれれば妹が社交界に出られず、結婚相手を探す機会に恵まれないことになり家族に迷惑をかけてしまうことをおそれたことがあります。ルーカス家はベネット家に比べて慣習を守っていたからです。そのため、ベネット家の5人の娘たちが社会的慣習に従わず社交界に出ている様子は、キャサリン夫人には無教養な家庭に見えたのは当然のことです。また、その前の会話で、キャサリン夫人は、ベネット家の娘たちの教育にカヴァネス(家庭教師)をつけなかった両親の教育方針に驚きを隠せません。当時の中流以上の階層の女子教育は,ガヴァネスや女子生徒のための学校に委ね、音楽や絵画,フランス語,針仕事などのたしなみを身につけさせるのが当たり前でした。それをせずに、娘たちの自主性に任せるとエリザベスは反論していますが、キャサリン夫人からみれば放ったらかしにしているとしか見えない、不作法となるわけです。

第30章

エリザベスの滞在も2週間が過ぎ、ここでの毎日の決まったパターンの繰り返しのような生活の中で、穏やかに過ごしていると、シャーロットが毎日の生活を周到に計算して、快適なものにしていることにエリザベスは気が付きます。それは、ベネット氏が結婚生活に失望して、斜に構えたような生活姿勢であるのに対して、シャーロットはコリンズの干渉できない自分の空間をしっかりと確保して、そこを拠点に牧師館全体をコリンズにはきがつかないうちに彼女のセンスに染めてしまっているという前向きの姿勢なのです。そのことをエリザベスは認めざるをえないのです。そこに、エリザベスは、自身の考えを柔軟にするように、ここで日々は柔軟体操のような機能を果たしたといえるのではないかと思います。おそらく、ロングボーンのベネット家にとどまったままでは、このような自身の考えを変えていくきっかけを摑むことはできなかったのではないかと思います。それは、この後のダーシーとのやりとりで自身の偏見や高慢さに気づくことができたのは、ここでの準備運動があったからこそ、と言えるかもしれません。この小説では、毎日の生活の中で、突然に変化が起こりますが、その実、伏線のように、その兆候はちゃんと小説の中で書かれている、というわけです。気がつかない人は、気がつかない。だから、読む人によって、この小説の読み方が違ってくるのです。それが、この小説の面白いところです。

そして、滞在が3週間になろうというところで、ダーシーが現われます。叔母のキャサリン夫人を訪れたということですが、復活祭を過ごす予定なのでしょう。エリザベスは、図らずもダーシーと再会することになります。

第31章

ダーシーの到着以来、キャサリン夫人からの招待がなく、ダーシーや連れのフィッツウィリアム大佐とも会う機会がありませんが、復活祭の日のティータイムにエリザベスたちは招待され、そこでエリザベスとダーシーの会話の場面があります。それは第11章あたりのネザーフィールド屋敷での会話の再現のような、ダーシーの従兄弟のフィッツウィリアム大佐の傍らでエリザベスがピアノを弾いているところへ、ダーシーが近づいてくると、エリザベスは悪戯っぽい微笑を浮かべて言います。

「ダーシーさん、そんなふうにものものしく陣取って、私を脅すつもり?でも、いくら妹さんがお上手でも、私はびくびくしたりしませんわ。私は鼻っ柱が強くて、人に脅されるのが我慢ならないの。脅されるとますます勇気が出ます」(P.297)

エリザベスは、そのあともダーシーに対してからかうように挑発的な態度を取り続けます。同席しているフィッツウィリアム大佐にハートフォードシャーの舞踏会でのダーシーの高慢な態度を告げ口するように明かしてみせ、それに対してダーシーが

「初対面の人と気軽に話せる人がいますが、ぼくにはそういう能力に欠けているんです。みなさんみたいにうまく調子をあわせられないし、相手の話に関心がありそうな顔ができないんです」(P.300)

と弁解すると、エリザベスはたたみかけるように

「あら、それなら私の指と同じですわ。はじめてのピアノで上手にお弾きになる方がいますけど、私の指は、はじめてのピアノだとうまく動いてくれません。力も速さもいつもの調子が出ないし、表現力もいつもみたいにいきません。でも、それは、自分が悪いのだと思っています。私も面倒なことが嫌いで、練習をしないからです。だも、私の指自体が、上手な人たちの指より劣っているとは思いませんわ」(P.300)

と言って、ダーシーが初対面の人と話さないのは、暗に練習不足、努力が足りないと揶揄しているのです。しかし、その一方で彼女自身のピアノの練習不足を明かにして、それでもいいと言って、暗にダーシーを責めているのではないとフォローしている。

このようなエリザベスの態度を見ていると、彼女が単純にダーシーを嫌っているは思えません。本当に嫌っているのなら、関わらないように避けていれしいいわけです。しかし、彼女はあえてダーシーにからんでいるような態度をとっています。ここでの会話を見ていると、わざとダーシーに逆らったり、議論をふっかけたりして、反抗的な姿勢を取っている。そして、これが結果的にダーシーを惹き付けることになめのです。言ってみれば、ダーシーに対するエリザベスなりの自己アピールをしていたと同じです。これは、同じ嫌っている男性であるコリンズへの態度と比べると対照的なのです。コリンズとは議論がかみ合いませんが、ダーシーとは議論ができる。それゆえか、たとえ、ダーシーのことは嫌いかもしれないが、議論の相手としてはおもしろいと思う。そういう相手ですから、ダーシーとは会話を交わすたびに関係が接近して、会話のたびに人間関係が濃く、深くなっていくのです。

エリザベスダーシーの関係が、会話を交わすたびに深まっていくこからも分かるように、この作品は会話が物語の筋を展開させるための主要な推進力になっています。この作品は、人々のダイナミックな行動が少なく、描かれていたとしても規模の小さなものにとどまっていることに気づきます。同時代の小説では、女性の登場人物が気絶したりするのですが、オースティンの作品では気絶は描かれていませんし、暴力や抱擁といった誇張された感情表現もほとんど見られません。また、しばしば出てくる舞踏会のダンスの場面も、それはもっぱら会話の機会として設定されているためで、ダンスそのものの躍動的な動きそのものが描かれているわけではありません。この作品では逆に、登場人物の一瞬の目の動きや、わずかな表情の変化のような小さな動きによって、大きな喜びや驚きといった感情が表されています。

しかし、行動や感情のあらわれが小さく控えめであるからといって、その物語が劇的でないということはできないと思います。この小説では、行動の描写が抑えられる代わりに、会話でドラマが進展する度合いが大きくなっているからです。会話が互いの人物に作用を及ぼして、それによって人間関係が変容していく、そして、それに伴ってその当人たちがそれぞれに変化していく、そこに劇的な様相がある。ここまで、小説を読み進めてきた中でも、会話によって人間関係がスリリングに変化しているさまがよくわかると思います。この後、ダーシーからのエリザベスへの求婚や、エリザベスとキャサリン夫人の口論など、より激しい会話のやり取りによってドラマが大きく進展していく箇所が連続していきます。

第32章

ダーシーはエリザベスへの想いを抑えることができず、シャーロットとマライアが散歩に出かけ、エリザベス一人が留守番をしている牧師館の客間を突然訪問します。このときダーシーは自分の椅子をエリザベスの方へ引き寄せるという大胆な行動をとって彼女との距離を縮め、二人だけで話す機会を設け、自分の想いを告げようと試みるのです。しかし、このときはシャーロットとマライアが散歩から帰ってきてしまったため、ダーシーはエリザベスに想いを告げることができずに終わってしまうことになります。この時代、18世紀後半において、未婚の男女が一つの部屋に第三者の存在なく、二人きりになることは、男性が女性にプロポーズをするなどの特別な場面に限られていました。そのため、シャーロットがダーシーとエリザベスが二人だけで話をしているのを見て驚き、「ダーシーさんはあなたのことが好きなのよ。そうでなければ、こんなふうに突然うちへ来るはずはないわ(P.308)」とエリザベスに告げるのは、当時では、当然のことです。 このようなあからさまなダーシーの行動にもかかわらず、エリザベスは自分がダーシーの関心の的になっていることに全く気付いているようには見えません。それはダーシーへの偏見に満ちたエリザベスが、完全に彼の気持ちに盲目であり、自身の気持ちにも気づいていない、あるいは気づこうとしていないことを示しています。

第33章

エリザベスは、キャサリン夫人のロージング屋敷の森を散歩していて、三度も偶然にダーシーと遭遇します。これは、ダーシーがエリザベスに会おうと待ち伏せしたのです。しかし、彼女は、いっこうに気づきません。彼女は、自分のことになると鈍感になるのか、むしろ、意地悪をされていると逆方向に考えます。ダーシーの素振りが親しく話しかけるでもないのだから、というのが、その理由です。しかし、それは前章でダーシーが牧師館にエリザベスを訪ねたときと同じ素振りで、彼の思いつめた様子が、ここに表われています。それが、この後の章での告白となる伏線となっているわけです。しかし、その告白は最悪のタイミングとなされることになってしまうのですが、それが、この章での事件です。

エリザベスは、いつも散歩しているロージング屋敷の森の小道でフィッツウィリアム大佐に出会います。彼女は、ダーシーでないことに安心しますが、それゆえか、話題はダーシーのことから、いつしかビングリーに話が及ぶと、フィッツウィリアム大佐は意外なことをしゃべりだしました。

「その話の人物がビングリー君かどうか確かではないんです。ダーシーが話したのはこれだけです。最近ある友人が軽率な結婚をしようとしたけど、あきらめさせることができてよかったと、ダーシーはそう言ったんです。でも、名前もくわしい話もしていません。ただぼくは、ビングリー君ではないかと思ったんです。彼は軽率な結婚をしそうな男だし、去年の夏、ふたりはずっといっしょにいたそうですから」

「ダーシーさんはなぜそんな干渉をしたのか、理由は仰いましたの?」

「相手の女性に問題があって。ダーシーは反対したんだと思います」(P.317〜318)

このときエリザベスは、ビングリーがネザーフィールド屋敷から去った理由に思い至ります。ジェインとビングリーの間を引き裂いたのは、ダーシーだと解釈したエリザベスは、怒りでいっぱいになります。しかも、そのことをフィッツウィリアム大佐に自慢げに話す光景まで想像してしまうのです。牧師館に戻り、一人でじっくりと考えますが、やはりこれはジェインとビングリーの話としか思えません。

どう考えても、この話はジェインとビングリー氏のことだとしか考えられない。ターシー氏がこれほど影響力を持つ相手がこの世にふたりいるとは、つまり、ビングリー氏以外にもいるとは、考えられない。ビングリー氏とジェインの仲を裂こうとする悪だくみに、ダーシー氏が関係しているのは間違いないと前から思っていたが、その中心人物は、ミス・ビングリーだとばかり思っていた。だがじつはダーシー氏だったのだ。まさか自分の虚栄心を満足させるために、つまり、友達を助けて自慢するためにこんなことをしたのではないとしても、とにかく彼の高慢と気まぐれが、ジェインをあんなに苦しめて、いまもなお苦しめつづけているすべての不幸の原因だったのだ。(P.319〜320)

フィッツウィリアム大佐は、相手の女性に難点があると言っていましたが、それはきっとジェイン本人ではなくベネフィット家とその親戚に問題があるということで、社会的身分が低いことが原因なのだと考えます。

そこで彼女はこう結論した。ダーシー氏は、階級意識という最悪のプライドに動かされ、そして、ビングリー氏と自分の妹を結婚させたいという気持ちに動かされて、この結婚に反対したのだ。(P.321)

「彼女は結論した」と書かれていますが、あくまでも推論にすぎません。この考えは仮のものだから保留にしておこうという、冷静な理性は働かず、エリザベスはフィッツウィリアム大佐の推測と自分の解釈が真実であると信じて疑いません。ここでは、もともとダーシーに悪い印象を持っていたのも影響して、かなり感情的になっています。

エリザベスは怒りと悔しさで興奮し、疲れてしまいます。それで、頭痛を理由にキャサリン夫人の屋敷への訪問をキャンセルして、ひとりで部屋で休むことにしました。そこへ、ダーシーがやってきて求婚するのです。まさに最悪のタイミングです。

第34章

エリザベスは、牧師館に一人残って、ジェインからの手紙を読み返していました。突然、そこにダーシーが訪ねてきました。彼女の体調が悪いと聞いて見舞いに来た、というのは名目で、絶好のチャンスと告白しに来たのでしょう。というのも、彼は、これまで何度も告白を試みようとして失敗を繰り返してきました。普段であれば、行動に迷うタイプではない彼が、この件では逡巡を繰り返したために、機会を逃し続けてきました。このままでは、この地の滞在予定も終わりが迫ってきました。そこで、彼女が牧師館でひとり留守番をしていると聞いて、意を決してやってきたのでしょう。

一方のエリザベスは、そんなダーシーの事情など想像もつかず、というよりも、ダーシーへの怒りでいっぱいだったわけです。

おそらく舞い上がっていたのでしょう、エリザベスの冷たい様子にきづくこともなく、ダーシーはしばらくの沈黙ののち、彼女のそばに寄り、唐突に告白を始めます。

「ずいぶん苦しみましたが、だめでした。もうだめです。ぼくの気持ちはもう抑えられません。はっきり言わせてください。ぼくはあなたが好きです。愛しています。」(P.324)

この告白は、主語がダーシーで、彼自身のことしか視野に入っていません。つまり、愛を告白する相手であるエリザベスがいません。これは、ダーシーの独り言であって、相手に伝えるという配慮がないのです。だから一方的なのです。要するに自己満足。いくら愛の告白だからといって、こんなものを聞かされる側はたまったものではありません。続いての告白について、語り手は次のように述べます。

ダーシーはこれ(エリザベスの沈黙)を有望な兆候とうけとり、ずっと前からどんなに好きだったかという、愛の告白が始まった。彼はじつに雄弁に語ったが、愛以外にも告白することがあり、どちらかといえば、愛情に関する告白よりも、プライドに関する告白のほうが雄弁だった。つまり、自分はあなたを愛しているが、身分も家柄も違うので、あきらめるべきではないかと悩み苦しんだということが、めんめんと述べられた。自分の立派な家柄を傷つけて結婚しようというのだから、当然かもしれないが、それにしても、このプロポーズにいい印象を与えるとは思えない。(P.324)

ダーシーの告白は第19章のコリンズのプロポーズと共通するところがあります。それは、相手のことを考えずに自分本位で、自分が告白すれば相手は喜んで受け入れるということを疑いもしないで、というよりも、相手が断るといった人格があるということを忘れている、ということです。だから、このような相手を侮辱するようなプロポーズのされ方をして、相手がどう思うかが想像できないのです。コリンズの場合は、《この結婚はあなたには有利なものです》、《結婚してあげる》というような上から目線で恩恵を施してあげるのだから、受け入れるのは当然だというという姿勢がありました。相手の女性にとっては無礼ですね。ダーシーの場合は、《あなたとは身分が釣り合わないからずいぶん悩みました》というわけです。しかも話し終わったとき、「不安と心配を口にはしたが、その顔は成功を確信して安心しきっているようだった(P.525)」、つまり、エリザベスがどんな顔をして告白を聞いていたか、まったく見ていなかったのです。これは、緊張のあまりというのではなく、告白して入る自分に酔っているようなひとりよがりだった様子が見て取れます。

そのダーシーの様子を見ていた、エリザベスは、最初からプロポーズを断るつもりでダーシーに同情のそぶりさえ見せていたのが、怒りをつのらせ、ダーシーが予期しない返事をします。普通は、愛の告白をしてくれたことに対して、儀礼上からも感謝をしなければならないが、自分はその言葉すら言うことができない。

「私はあなたに好かれたいと思ったことはありませんし、あなたも、いやいや私をすきになったんですもの。私のせいで、苦しい思いをさせたことは申し訳ないと思いますけど、私が故意にしたことではございません。それに、その苦しい思いもすぐにおさまると思いますわ。立派な家柄にたいするあなたのプライドが、私を好きになってはいけないと、ずっと反対なさってきたんですもの、プロポーズを断わられたら、わたしのことなんてすぐに忘れてしまいますわ」(P.325)

エリザベスは、自身のプライドが傷つけられたことに憤り、ダーシーの愛情がつまらないものだと決めつけて侮辱し、復讐しようとした。エリザベスの攻撃性が露わになって、このあとも、女性が男性からのプロポーズを断る言葉としては、激しすぎる言葉が続きます。

「あなたは私を好きになったけど、それは自分の意志にも、理性にも、性格にも反することだとおっしゃいましたね。私を侮辱して怒らせるためだとしか思えませんけど、なぜあんな失礼なことをおっしゃったんですか?」(P.326)

とエリザベスは迫ります。そして、自分がダーシーを嫌いな理由として、第一にジェインとビングリーの仲を引き裂いたこと、第二にウィッカムにひどいことをしたことをあげます。第一の点については、ダーシー自身に覚えのあることですから否定しきれません。しかし、ダーシーはビングリーのためを思ってのことだと反論します。そのことは、言外にジェインはビングリーのふさわしい女性ではないと侮辱することになるのに、ダーシーは気づくこともありません。また、第二の点についてダーシーは反発します。ダーシーはウィッカムが嫌いですし、実際、彼の妹にひどい仕打ちをしていました(このことは、後にダーシーからエリザベスに宛てた手紙の中で明らかにされます)。それ以外に、ウィッカムがエリザベスの歓心を買っていたことへのやっかみもあったかもしれません。そこで、思わず逆襲にでます。これだけエリザベスに言われた後なのに、次のようなことを言うのです。

「ぼくがあなたのプライドを傷つけなければ、その罪も大目に見てもらえたかもしれない。ぼくはさっき、身分違いの結婚だから、なかなかプロポーズに踏み切れなかったと、正直に告白してあなたのプライドを傷つけたけど、それがなかったら、あなたの返事も変わっていたかもしれない。ぼくがもっとずるくて、身分違いのことで悩んだことは隠しておけばよかったのかもしれない。そうすれば、ぼくはあんなひどい非難をされずにすんだかもしれない。でも、ぼくはうそが嫌いです。どんなうそも嫌いです。だから、身分違いの結婚に悩んだということも、ぜんぜん恥じていません。悩むのが当たり前です。あなたの親戚の社会的地位の低さを、ぼくが喜ぶと思いますか?自分より階級の低い親戚ができることを、ぼくが喜ぶと思いますか?」(P.329〜330)

この言葉は、エリザベスの怒りに対して、火に油を注ぐようなものです。

「ダーシーさん、誤解しないでください。私は身分違いと言われて怒っているわけではありません。それどころか、プロポーズをお断りしやすくなって助かりました。もっと紳士らしい態度でプロポーズされていたら、お断りするのに心が痛みますもの」(P.330)

これは、ダーシーに対して、あなたはジェントルマンではない、と言っているのです。現代では、その意味が稀薄になって通じないと思いますが、当時であれば、ちゃんとした人間でないといっているようなものです。さらに、エリザベスは畳み掛けます。

「私は最初から、あの舞踏会でお会いした瞬間から、あなたの態度に反感を覚えました。高慢で、うぬぼれが強くて、他人の気持ちを考えない、自分勝手な人だと思いました。それであなたを嫌いになる土台ができて、それから色々なことがあって、骨の髄まであなたが大嫌いになったのです。あなたに会って一ヶ月もしないうちに、死んでもこの人とは結婚したくないとおもうようになりました」(P.331)

情け容赦もない言いようです。ここまで言ってしまえば、普通なら人間関係は終わります。しかし、このあと二人が結婚してしまうのですから、これほど荒唐無稽な話はありません。オースティンがリアリズムの作家などという評価がされていますが、それがいかに的外れであるか、ここでわかると思います。この作品を何度も読んでいる人は結末が分かっているので、ここから結末に向けて、オースティンがとっていく巧妙な物語の展開と語り口を堪能できるのですが、はじめて読む人は、未だ前半でヒロインとヒーローがこんなことになって、これで物語は終わるのかと思ってしまうでしょう。へんなたとえですが、ミステリー小説であれば主要な登場人物が途中で全員殺されてしまったようなものです。

エリザベスは自分のプライドが心底傷つけられたとき、すべてをかなぐり捨てて怒ったのです。そこには計略も打算もありません。彼女は本気で怒っています。自分のプライド(尊厳)を回復するために、エリザベスは徹底抗戦したのです。その態度が半端でなかったことが、はからずも効果を生み出していくことになります。というのも、この出来事は、ダーシーが自分の高慢さをはじめて反省するきっかけとなったからです。また、互角のやり取りができる勇気と才気のある人間として、エリザベスを再評価することへもつながったと言えるかもしれません。ここまで、相手を打ちのめしてまで、拒絶した自分を再評価されるとはエリザベスにとっても想定外の結果ということになるでしょう。身分も何も関係なしに、対等な人間と人間が、徹底的に衝突し合って、とことん本音を言い合う。そのことの真意が理解できて、そこから人間として成長していくことができる。ダーシーはそういう人間であったのです。そこが、最初に比較したコリンズとは違うのです。

ちなみに、ここでの二人の激しい会話には、プライドという言葉の意味内容が深く対立していることが表われています。ダーシーの示したプライドは、高慢にちかいと言え、階級、家柄、財産など、主として外的な属性に関わるものでした。これに対してエリザベスが守り抜こうとしたプライドは、尊厳と言い換えてもいいような、人間の中身に関わるものです。だから、彼女がダーシーに《あなたは紳士ではない》と言ったことの意味は、重いのです。ダーシー、あなたは、階級としては紳士に属するかもしれないが、人間として敬意を持たれる人ではないと言っているのです。こんなことは、ダーシーにとっては、生まれてはじめての体験であり、言葉を失うほどの衝撃だったと思われます。本当の紳士とはなにか、エリザベスはダーシーにそういう問題があることに気づかさせられたのです。

ダーシーが部屋を出て、走るように家を退去する音を聞いて、エリザベスもすさまじいほど動揺しました。しかし、一方で、「知らないうちにそんなに愛されていたのはうれしい気もする」(P.332)と、激しい怒りをぶつけた後で、このような恋心の芽生えが暗示されます。

これは、ダーシーもそうですが、エリザベスも本気で対決して、本音をぶつけあったという関係になったわけです。これは、たとえば「あしたのジョー」というマンガで主人公の矢吹ジョーと力石徹が殴りあいのけんかをしたあとに、本気で身体をぶつけあったことで、言葉をかわすよりも深い間柄になっていったのと似ています。つっぱりの不良高校生を題材にしたまんがでよくあるパターンです。それを、18世紀の上流社会舞台にした小説と似ているというのはおかしな話かもしれませんが、実は、オースティンの小説には、このようなダイナミックなアクションの要素が隠されていているのだということ、以前、この小説は会話によるドラマであることを指摘しましたが、ここでは会話によるアクションでもあることが示されているのです。

第35章

翌朝、エリザベスは、朝の散歩の途中でダーシーの待ち伏せに遭い、手紙を受け取ります。この章は、その手紙の大部分を占めています。

オースティンは抑制の作家といわれていることは、ここでは何度か言及してきましたが、前章で突然のプロポーズと激しい拒絶という劇的な場面があって、その後の状況なのですが、そこの描写が省略されて、翌朝エリザベスはいつものように目覚めて、散歩に出かけます。エリザベスについては、ダーシーが退去したあと、動揺して立っていられなくなり、30分ほど泣いたという説明がありますが、彼女は突然プロポーズを受けたといっても、拒絶した側です。それに対して、ダーシーの側の描写は一切語られていません。彼は、身分とか家柄といった大切なものを振り捨てて、エリザベスへの愛を優先させるという一大決心をして、彼女にプロポーズしたところが、激しい拒絶に遭い、それどころか自身の高慢さを厳しく非難されることになりました。そのショックは大きなものだったと思います。これは、人格を否定されたにも等しいことで、プロポーズに対する拒絶もあって、絶望的になってもいい状況です。この一晩、ドラマはエリザベスの側よりもダーシーの側にあったはずです。しかし、オースティンは、そこの描写をすっ飛ばします。

そして、翌朝、エリザベスはダーシーから手紙を受け取るのです。

ダーシーはエリザベスの拒絶にあって、逃げるように牧師館を出て、ロージング屋敷に戻ると、長い手紙を書いていたのです。ここでは、ダーシーがそういう行動をとるまでに懊悩や葛藤があったはずです。手紙をかくという行為も、エリザベスが指摘した事項に対する真実を説明するという、きわめて冷静で理性的な内容のものですが、そこに恨み言などを一言も交えることなく書かれていますが、その手紙を書くときには、自己を顧みるわけですから、そこで思い反省を強いられるわけです。おそらく、エリザベスに高慢さを指摘され、それを反省し、自己を変えていくことになる端緒が、この手紙を書くことにあったのだろうと思います。そういう、重要な描写をオースティンは書かないのです。なぜか、これまでの部分は読者の想像力を刺激して、小説にのめりこませるということで説明がつきましたが、ここはどうでしょうか。それにしては、重要なポイントではないかと思いますが。そこで、あらためて思うのは、この小説は、ヒロインであるエリザベスを描き、全体が、その視点で語られているということです。ここでは、作者はすべてを客観的に見渡す神さまの視点に立っていないで、あきらかにエリザベスの立場で語っているのです。エリザベスから見れば、翌朝、突然ダーシーが現われて、昨日の今日で驚いた。手紙を手渡されて、何かあるのかと訝しく思うが、好奇心を抑えることができない。そういう視点で手紙を読むことになります。そして、その手紙を読み、真実が明らかになっていくことで、ダーシーのことが、後から遡るように想像できるようになっている。

だから、ここではダーシーの振舞いがエリザベスに、どのように受け取られるという効果を果たしたかを読み取ればいいと思います。そこで、エリザベスの側からダーシーの振る舞いの意味を考えてみましょう。人は大きな試練に直面する時、それへの対応の姿勢でその人の本性が表われるものであり、その試練を乗り越えることにより見違えるほど成長することもできるものです。ここでのダーシーの振舞いは、高慢に囚われていた自己を変えて、成長させる契機としているように映ります。それは第一に、全く思いがけなくエリザベスの拒絶を受けた時、慎しんでエリザベスの自分に向けた中傷に耳を傾けたこと、そして黙って引き下って丸一日考え、誤解を解くための手紙をしたためたことです。誇り高いダーシーとしては、求婚を拒否されたすぐその場で反論し、エリザベスの口を封じることも十分可能であったはずです。しかし、彼は敢えてそうせず、自分に向けられた非難をしっかりと受け止め、冷静に考えた上で、手紙という形で自分の正しさを主張したのです。おそらく、その場で口頭で反論し、説明を試みても、彼女は感情的になり、冷静に理性を働かせることができず、理解を求めることはできなかったでしょう。結果として、この手紙は、エリザベスに全部暗記されるほど何度も繰り返し読まれ、全ての文章がじっくり検討され、確かな情報が積み重ねられ、エリザベスに冷静な判断を下させることを可能にしたのでした。それが、改めて、エリザベスがダーシーへの愛情を認識し始めるプロセスと重なっていくことになるのです。

では、そのダーシーからの手紙を見ていきましょう。便箋二枚の端から端までびっしり文字が書かれ、封筒にまで書かれた手紙は、午前八時、ロージングズにてと書かれていたので、おそらく徹夜して執筆されたのだろうと想像がつきます。

この手紙を受け取っても、どうか心配なさらないでください。昨夜あなたを不愉快にさせた、私のあの告白や申し出を繰り返すつもりはありません。ふたりの幸せのために早く忘れたほうがいいあの件をむし返して、あなたを苦しめたり自分をおとしめたりするつもりはありません。この手紙を書くのはわたしもつらいし、よむあなたもつらいでしょうが、私の性格上、これだけは書かなくては気がすまないし、どうしてもあなたに読んでいただきたいのです。どうかしばらく、私のためにお時間を割いてください。おいやだということはわかりますが、ぜひ読んでいただきたい。(P.333〜334)

このように始まる手紙は、エリザベスはダーシーのプロポーズを受け入れられない理由として、二つのことをあげていましたが、それにたいして、どうしてもこれだけは弁明したい、それは、ダーシーの側から見た真相をつたえるということ、それ以外はないということでした。この文章の語り方は、それまでのダーシーのイメージとは全く異なる、一方的に自己主張を押し付けることなく、相手への配慮がうかがえる文章になっています。それだけで、読む者は軽い驚きに見舞われます。さて、弁明の一点目は、彼がジェインとビングリーの仲を引き裂いたことです。それはジェインがビングリーに少しも愛情らしきものを表さないので、彼女が彼を愛していないと確信したためであり、また、ジェインとエリザベスを除くベネット家の人々礼儀作法上の欠陥があるため、ビングリーを不幸な結婚から助けたいと思ったということでした。その中で、彼は、ジェインがロンドンに来ていることをビングリーに伝えなかったことについては不誠実だったと謝罪しています。ということは、ビングリーはジェインを愛しているということも明らかになりました。そして、二点目はウィッカムに対して不当な扱いをして、彼の将来を台無しにしたということです。これに対しては、ウィッカムは自ら将来の聖職の地位を放棄し、その代わりに即座に援助金を願い出たこと。その三年後に聖職家のポストに空きが出ると、もとの遺言どおりに自分を推薦してほしいといってきたのをダーシーが断ると、ダーシーへの復讐と遺産目当てに彼の妹を誘惑して駆け落ち未遂事件をおこしたことを明らかにしました。そして、最後に、こう結ばれていました。

なぜ昨夜これを話さなかったのかと不審に思われるかもしれませんが、昨夜は気が動転して、何を話せるか、何を話すべきかわからなかったのです。しかし、いまの話が真実かどうかについては、いとこのフィッツウィリアム大佐に聞いていただくのがいちばんだと思います。彼は私の近親者であり親友であり、父の遺言執行人のひとりでもあり、聖職禄の件も、すべてくわしいことを知っています。あなたは私を嫌いなために、私の話を信用できないかもしれませんが、フィッツウィリアム大佐の話なら信用していただけるはずです。なるべく早くフィッツウィリアム大佐の話を聞けるように、この手紙を午前中にお届けするつもりです。(P.346)

なお、ちょうどウィッカムの真相が明らかになったので、ここでウィッカムという人物について触れておきたいと思います。さきほど、手紙の内容としてウィッカムのことをざっと述べましたが、もう少し詳しく見ていきたいと思います。彼に対してはダーシーの父が、長年仕えたウィッカムの父の功労に報いるため、名づけ子であるウィッカムに惜しみない親切を施し、学費を全額援助してウィッカムをケンブリッジ大学にいかせて、遺言状で、聖職禄をウィッカムに推薦するだけでなく、1000ポンドの遺産を与えることを言い遺しました。これについては、ダーシーの手紙とウィッカムの言い分は符合します。しかし、ウィッカムは次のことはエリザベスに隠していました。ダーシーの父が亡くなって間もなく、ウィッカムは、聖職には就かず法律の勉強をしたいからと、資金援助をダーシーに求めます。放蕩者のウィッカムが牧師に相応しくないと考えていたダーシーは、彼に3000ポンド与えて関わりを断ちました。しかし、その後聖職禄が空席になり、ウィッカムが自分を推薦してほしいと言ってきたため、ダーシーは拒否しました。すると、経済的に困っていたウィッカムは、ダーシーの悪口を言いふらした上に、ダーシーの妹を誘惑して駆け落ちしようとしましたが、事前に発覚して未然に防ぐことができたということでした。そこで、ウィッカムの目論見としては、本来、彼はダーシー家の恩恵により聖職者になることを志願していたが、聖職禄のポストが空くまでは無収入だったうえに、財産も使い果たしてしまったため、法律を勉強するという口実を作って、ダーシーに金を無心した。その金で遊び暮らしているうちに聖職禄の口が空いたので、それを確保しようとしてダーシーに要求したところ、主張が通らなかったため、法律の勉強もしていなかったので、軍人になる道を選ぶほかなかったというところでしょう。この当時の軍隊は、正規軍と国民軍により構成されていました。正規軍は、士官となるための任命辞令を金で買うというシステムで、これが安い値段ではなかったので、一般には裕福な家で、財産を相続できない次男以下が買って入隊していました。実際に敵の攻撃からイギリスを防衛したのは素人からなる国民軍の力に頼っていました。物語の中で、ウィッカムは正規軍の任命辞令を買うことができないウィッカムは、国民軍の連隊に入っていたことになります。彼は、自分が連隊に入った動機について、エリザベスに「ぼくが連隊に入ろうと思ったのも、ここには立派な社交界があって、舞踏会もたびたび開かれると聞いたからです。すばらしい連隊ということは知っていましたが、友人のデニー君から宿舎の様子を聞いたり、メリトンの人たちに親切にしてもらって知り合いもたくさんできたという話を聞いて、そこでここに決めたんです。正直に言いますが、ぼくには社交界が必要なんです。しっかりした職業と、人との付き合いが絶対的に必要なんです。(P.138)」と述べています。国を守ることよりも交際を重視するという考え方は、不純な動機に見えるかもしれませんが、当時としては一般的なものだったといいます。そこで金持ちの女性ミス・キングと交際し、結婚を目論むのです。そして、ベネット家の末娘リディアと駆け落ちをして、周囲に多大な迷惑をかけることになり、最終的には、エリザベスから、意志の弱い恥知らずな人物として軽蔑されることになります。こういうところは、オースティンの他の作品、例えば『分別と多感』のウィロビーや『説得』のエリオットと同じように、美男である容姿を利用して金持ちの女性に取り入るというキャラクターの系列にはいる人物です。 

第36章

前章でダーシーから手紙を手渡され、それを読んだエリザベスの様子です。エリザベスは朝の散歩の途中、ダーシーの待ち伏せに遭い、手紙を渡されます。そして、ダーシーが去った後、その手紙を読み始めます。それも、むさぼるように。おそらく、前日の怒りや興奮がまだ残っているせいもあるでしょう。その手紙は弁解の手紙だろうと、偏見を抱きながら読み始めます。手紙には改悛の情など示されていないし、相変わらず尊大さのものだし、高慢で無礼そのものだと。エリザベスは、怒りにかまけて途中で手紙を投げ捨てるようなことはしませんでした。ひとつは、彼女の好奇心の強さから何が書かれているのかという興味が強かったということと、彼女自身が意識していないところでダーシーを嫌いきれないところ、これまでもありましたが、これほどダーシーが嫌いなら近づかなければいいのに会話を楽しんでいいたりしたことがありましたが、それがここでも働いたのかもしれません。この時点で、彼女の中にはダーシーを思う土台ができていたといえるかもしれません。しかし、

「うそ!うそに決まってる!とんでもないデタラメだわ!」(P.9 ここから文庫版は下巻に替わります)

と手紙をしまい、散歩を続けようとします。しかし、すこし歩くと、心を落ち着かせて、再び手紙を取り出し、ウィッカムに関する記述から読み直し返し、冷静に努めて一文一文の意味をじっくり検討し始めます。そうすると、ウィッカム本人の説明と手紙の内容がかなりの部分で一致していることに気がつきます。大きな違いは、ウィッカムが聖職禄を放棄した代わりに3千ポンドを受け取ったことです。しかし、彼女の前には証拠がない以上、どちらが正しいとは言えません。彼女は、この時点で、ダーシーへの偏見を緩め、ウィッカムの主張と並べて検討するまでに至ります。そして、もう一度、手紙を読み返します。そして、これまでのウィッカムの行動を、ひとつひとつ思いだし検討していくと、不自然なところが見つかってくるのでした。そして、徐々にダーシーの手紙に書かれていることの正当性を認めざるを得なくなっていくのです。このくだりは、ウィッカムの言動や行動をいちいち検証していくところなのですが、エリザベスが検討していくと、ウィッカムの主張や行動の意味合いが180度転換していくのです。まるで法定サスペンスを見ていて、証言は変わらないのに、その示している事実の内容が逆転していくのをみるような面白さが、ここにはあります。良質のミステリーの楽しさです。それが、エリザベスの偏見がとれていって、その偏見を生み出すこととなって彼女のプライド(この場合は、ダーシーのプロポーズを拒否した矜持とは違う、虚栄心のようなもの)が変化していくのと連動している。その変化を、彼女が手紙を読み解く過程で、何度も手紙を読み返すたびに、ヴェールを一枚一枚はがすように彼女の偏見が取れていく変化を描いているのです。エリザベスは自らの偏見のために人物や物事の実体が見えなくなっていたことを、ダーシーからの手紙によって思い知らされるのです。それに伴い、自身に対する反省と、それに気付かなかった自分を責める気持ちと後悔が生まれてきます。ここには、アクションも人々の葛藤もなく、映画などにすれば静かな場面でしかないのですが、ここにはオースティンらしいドラマが盛り上がっているのです。ここまで、克明に描き、ここが物語の大きな転換点になるのですが、そのようにもっていく作者の巧みさには、ただ感嘆するばかりです。

一方でジェインとビングリー結婚を妨害したことについても、例えば、ジェインがビングリーに少しも愛情らしきものを表さないので,彼女が彼を愛していないとダーシーが確信したということについても、シャーロットが以前にジェインに対してはっきり意思表示しないと誤解されると言ったことなどを思い出し、ネザーフィールドで催されたパーティでのベネット家の人々の醜態を思い出すことができるようになっていきます。

ここにいたっても彼女は、これまでの自分の誤りに気付き、そして、次のように言います。

「ほんとな情けない!」エリザベスは心の中で叫んだ。「自分は人を見る目は確かだと得意になっていた。自分は頭がいいと得意になっていた。人を疑わないジェインのやさしい心を馬鹿にして、自分はなんでも人を疑って得意になっていた。それなのに、あのふたりのことは、まったくわかっていなかったのだ。ほんとに穴があったら入りたい!でもこれは当然の報いだ。たとえ恋をしていても、こんなに盲目にはなれなかいだろうが、私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ。ウィッカム氏に好意をもたれてうれしくなって、ダーシー氏に無視されたカチンときて、ふたりのことでは、最初から無知と偏見にとらわれて、すっかり理性を失っていたのだ」(P.14)

ここでの虚栄心とは、プライドの過剰くらいの意味合いで、高慢に近い意味合いだと思います。エリザベスは、自分のプライドの間違ってあり方を思い知らされ、反省するに至ったのです。しかし、それでエリザベスが変わるのかという、それはまた別問題なのでしょうが、少なくとも、ここからが彼女の変化のスタートということは間違いありません。実際、ここからオースティンによる描き方のニュアンスが微妙に変わったのではないかと思うのです。具体的にどこがということは指摘できませんが、印象として、これまでは、エリザベスには少し肩に力が入っているところがあり、そこから生意気な印象があり、それがひとつのチャームポイントになっていたのですが、ここからは、肩の力が抜けて、ときには弱い面も見せるようになります。そのため、生意気な印象は薄れて、可愛らしさが目につくようになるのです。

第37〜38章

翌朝、ダーシーとフィッツウィリアム大佐はロージング屋敷を去りました。二人がいなくなったことで、再び、キャサリン夫人からディナーに招待されます。そこで、エリザベスはキャサリン夫人の顔を見て、こう思います。

ダーシー氏のプロポーズを受け入れていた、いまごろは、夫人の甥の婚約者として紹介されているかもしれないのだ。そうしたら夫人の怒りはどんなだろうと思うと、微笑せずにはいられなかった。「ダーシーさんの婚約者として紹介されたら、キャサリン夫人はなんて言うかしら?どんな顔をするかしら?」と彼女は思って、ひとりでおかしかった。(P.17)

ついさっき反省したはずなのに、エリザベスは、ダーシーからの求婚を自慢したくなるという別の虚栄心にとらわれているように見えます。彼女は、いったんは自分の虚栄心を反省しましたが、だからといって、虚栄心から解放されるといったものではないのです。

ちなみに、彼女がキャサリン夫人の姪になると聞いたとき、夫人が何を言い、どんな行動に出るかは、のちに現実のものとなり、明らかになるのです。この時点でのエリザベスの呑気な好奇心が、満たされることになるという展開にも、オースティンの皮肉なユーモアが感じられます。

また、この後、彼女はロンドンに寄って、ジェインと落ち合って、一緒にロングボーンに戻ることになるのですが、そのロンドンで、こんなことを思うのです。

ダーシー氏のプロポーズの件を、家に帰るまでジェインに黙っていることのほうがたいへんだった。自分はジェインをびっくり仰天させる秘密を持っている。しかもその秘密を打ち明ければ、理性では追い払えない自分の虚栄心が満足することは間違いない。そんな秘密を黙っていることはたいへんだが、考えてみると、とこまで話すべきかわからないし、いったん打ち明けたら、ビングリー氏のことも触れなくてはならないだろうし、そうするとジェインを悲しませるだけだ。エリザベスはそう思って、この秘密を打ち明けるのをなんとか思いとどまった。(P.29)

エリザベスは懲りていませんね。虚栄心をひけらかす相手としては最もふさわしくないジェインに対してさえ、その欲求をおぼえているのです。それがなければエリザベスとは言えないかもしれませんが。しかし、この虚栄心が、いったんは逃がしたダーシーとの結婚を、このような形でこだわっていることの表われでもあると思います。なぜなら、ダーシーとの結婚がありえないと思っていれば、プロポーズされたことをひけらかすことはないはずです。彼女は少し前に、コリンズからのプロポーズも拒否しましたが、そのことを自慢しようともしていません。本来なら、彼女は、ダーシーに対しても、同じように、全否定すればいいのに、しないのです。

その、一方でエリザベスは、ダーシーの手紙を何度も読み返し、ほとんど全部暗記してしまっています。すべての文章をじっくり検討して、彼女の気持ちは大きく揺れ動いていました。怒りがダーシーに向けられたかと思えば、次の瞬間に自分が不当に彼を非難したことを思い、その怒りが自分にかえってくる。そういう揺れ動きです。そのなかで、彼女は自身を反省的に顧みるようになっていきます。

そうこうしているうちに、そろそろ牧師館を退去し、ロングボーンに帰ることになります。

第39章

ようやく、彼女たちが帰宅します。この間、エリザベスはロンドンでジェインと再会したのですが、二人の会話は一切描かれていません。ジェインは失恋の悲しみから癒えていないからかもしれませんが。エリザベスの会話も、ほとんどありません。ここで目立つのは、ベネット家の末娘のリディアです。エリザベスはダーシーからの手紙で家族のベネット家の人々礼儀作法上の欠陥を指摘され、ネザーフィールド屋敷での舞踏会での醜態を恥ずかしく思い出されたあとだったので、リディアが相変わらず、奔放に振舞うのが、気になるのです。エリザベスも、以前は一緒になって行動するところもありましたが、距離を置き、ときに行き過ぎをたしなめるようになります。それゆえになおさら、リディアが目立って見えてきます。

作者オースティンの描き方でも、以前は、リディアは家族のその他大勢で、いつもベネット家がにぎやかにしている、その一部として描かれていましたが、この章で途中までエリザベスとジェインを迎えに来たリディアの描き方は、一人の自立したキャラクターとして、エリザベスに対抗する存在感をもって描かれています。作者はそのような描き方の変化を小説の途中で行っているのです。これは、エリザベスが今後、ジェインとビングリーの仲や自分とダーシーの関係に対してベネット家の人々は障害となることを、ここで印象付けています。そして、このあとリディアが大事件を引き起こして、関係者を大混乱させることになる、当然、エリザベスも巻き込まれて、一時は悲嘆のどん底に突き落とされる、そういう事態をリディアの軽薄さが招くことになるのです。その布石として、リディアの人物像が、ここであらかじめ読者に印象づけられています。

エリザベスも、牧師館の静かで落ち着いた日々やロージング屋敷の乙にすました空間から、不作法だが、賑やかで生き生きとしたベネット家の空気に触れて、戻ってきたことを実感ではたのではないでしょうか。

その騒ぎの中で、ウィッカムがミス・キングに振られて、舞い戻ってきたことを聞きます。

「ウィッカムさんがメアリー・キングをこれっぽっちも愛していなかったことは、私が保証するわ。あんなそばかすだらけの不細工な女を、誰が好きになるもんですか」

エリザベスはどきっとした。リディアみたいなひどい言い方はできないが、自分も心の中では、同じようなことを考えていたと気づいたからだ。(P.33)

この時点では、未だ、ウィッカムに対しても揺れ動いているのが、ここで明らかになっています。しかし、エリザベスは、そのことに自覚しています。おそらく、以前であれば、リディアの発言にどきっとすることはなかったでしょう。その点では、ウィッカムに対して距離を置くことはできていると言えます。そして、彼女自身が、自分の行動やものの感じ方などについて反省的になってきています。これは、以前の彼女には見られなかったことです。その彼女の変化に伴い、それまで散漫だった物語がだんだんまとまる様相を呈してきます。それは、物語が変化するのか、それとも物語の捉え方がするのか、どちらとも言えませんが、この小説では、主人公のエリザベスの変化が物語を変えているといえると思います。

第40章

エリザベスは、自分の身に起きたことを姉に話したい気持ちを抑えることができず、帰宅した翌日、ジェインにダーシーからプロポーズされたこと、それを断ったことを話しました。これまでに、エリザベスとジェインの二人の会話の場面は物語のなかで何度も出てきました。前にも述べましたが、登場人物たちの心理や人間関係が展開していくところ、ここではエリザベスが自身の虚栄心に気付いて大きく変化しようとしているとき、また、彼女はこれからガーディナー夫妻と旅行に出かけて物語は大きく動きだすところですが、その前に、一度、物語のテンポをスローダウンさせて落ち着かせる機能を果たしています。それは。物語のリズムに強弱をつける効果があるのは、前にも述べましたが、ここでは、エリザベスがダーシーからの手紙を読んだ衝撃が冷めやらぬ状態であり、また自身の虚栄心に気づいたとはいえ、すぐにそれを受け容れられるというものでもないはずで、それを彼女が消化するには、じつは時間が必要なはずです。しかし、物語の都合上、それほど時間をかけるわけにはいかない。そこで、ジェインとの会話によって、エリザベスはジェインのアシストを受けてこれまでの経験を整理する機会をつくっているのです。この会話では二人の性格は正反対に立場となって見方の違いが際立たせられます。今までの会話の場面では、エリザベスは批判的に捉えるのに対して、ジェインは善意に解釈する傾向にあり、この場面でもそうです。そして、ここでは会話では、エリザベスがダーシーやウィッカムという人物の評価を180度転換させることについて、その急激な転換に当のエリザベス自身が確信を持てないでいるのを、ジェインとの会話で、その不安な揺らぎを次第に落ち着かせていくのです。エリザベスは、種々の出来事や人間に対して敏感に反応、対応し、そして変化していくのに対して、ジェインは終始一貫して小説中で変化しないのです。エリザベスが<>であるのなら、ジェインは<>という対照なのです。しかも、実は、エリザベスの<>は、ジェインの<>があってこそなのだということが、ここでの会話に表われています。つまり、エリザベスは、ここでダーシーやウィッカムの評価の転換や、今後、ウッィカムにはどのように対するかということを、いちいちジェインに当たって、ジェインの同意を得ているのです。つまり、エリザベスはジェインの同意によって、自身の変化を完了させていると言えるのです。

「でも私は」とエリザベスが言った。「理由もないのにダーシーさんを嫌って、ひとりで利口ぶっていたのね。」(P.41)

こういう心の奥底をさらすようなことはジェインだからこそ言うことができる。これは、これまで、彼女自身の内心の記述でも出てこなかった言葉です。それを口にすることができる。だから彼女は自身の考えや思いを落ち着かせることができるのです。さらに、こうも言います。

「(ダーシーからの手紙を読んで)すごく動揺したわ。すごく動揺したし、すごくみじめだったし、私の気持ちを話す相手もいなかった。お姉さまがいてくれれば私を慰めてくれて、私がそんなに馬鹿で見栄っ張りで変なことばかり言っているわけではないと、言ってくれたかもしれないけれど、そのお姉さまもいなかったんですもの。あのときはほんとにそばにいてほしかったわ!」(P41〜42)

まるで、エリザベスはジェインに依存しているかのようです。しかし、その一方で、ダーシーの手紙にあったビングリーの件はジェインには話しません。それはジェインの悲しみを募らせることになりそうだからと、ジェインを気づかうそぶりをみせています。しかし、そこにはジェインの知らない情報を自分が秘匿しているという優越感、つまり、自分がジェインに対して上位に立たせているところがあります。エリザベスには、ジェインにたいして上から目線に立って、保護するような行動をとります。そこにこの二人の一筋縄ではいかないところがあると思います。ただし、それはエリザベスの側に限ったことかもしれません。

第41章

エリザベスがロングボーンに戻って1週間が過ぎ、ようやく落ち着いてきます。その一方で、後半のドラマの展開に向けて、彼女の周囲が少しずつ動き始めます。そのひとつが、ウィッカムが所属している国民軍の連隊がブライトンに移ることになります。そこで、エリザベスはウィッカムと別れることになります。実は、ロングボーンに戻って間もなく、二人は再会したのですが、ダーシーの手紙によって真実を知ってしまったエリザベスは、ウィッカムとの再会に胸をときめかすことは、もはやありませんでした。最初は上品に見えた彼の物腰も、気取りと単調さしか感じられない。おまけに、ミス・キングに振られたウィッカムはエリザベスとのよりをもどそうとアプローチをかけてくるのが不愉快で腹が立つのです。自分が軽薄な色恋沙汰の相手にされて、馬鹿にされている分かったエリザベスは、最後の日にロージングズ屋敷でダーシーとフィッツウィリアム大佐に会ったことを伝えます。その時のウィッカムに顔に表われた不快な表情を見逃さず、彼の真実の人間性を見抜いたことで、二度と会いたくないと思うまでになりました。

また、エリザベスがダーシーの手紙を読んだことで、ウィッカムの本当の姿を知っただけでなく、人に対する見方に影響受けることになりました。それが、ロングボーンに戻ってきたとき、迎えに来た妹のリディアとキティの態度に嫌気がさし、家族の愚行と不作法をはっきりと認識し、これを何とかしなければと思うようになります。折から、連隊がメリトンを差ってブライトンに移ることになったのですが、リディアがフォースター大佐夫人にブライトン行きを誘われたことに対して、自分が嫌われたとしても、これを何とか制止し、ベネット家がこれ以上世間から軽蔑されるような事態に発展しないように行動をとるのでした。国民軍の将校たちと知り合ってちやほやされるのが大好きなリディアは、当然ブライトンに行きたいのですが、母親もリディアに味方し、エリザベスは父のベネット氏にブライトンは誘惑の多い土地だから愚かで軽薄なリディアを一人で行かせるのは危険だと訴えます。これに対してベネット氏は次のように答えます。

「(リディアを)ブライトンへ行かせなかったら、それこそ大騒ぎだし、行ってくれたほうが静かでいい。だから行かせてやればいい。(中略)幸いリディアには財産がないから、金目当てに寄ってくる男もいないだろうし、ブライトンには、リディアより魅力的な浮気娘がたくさんいるだろうから、将校たちもみんなそっちへ行ってしまう。リディアもブライトンへ行けば、自分が男にもてないことがわかって、本人のためにもなる。とにかく、リディアがみっともないことをしでかしたら、あとは一生家に閉じ込めておけるわけだ。」(P.52)

と高を括って、エリザベスの言葉にとりあわない。その結果は、後で明らかになるのですが、エリザベスの不安が的中し最悪の事態を招くことになるのです。ここでは、ベネット氏は聡明で能力のある人物で、そのことをエリザベスはよくわかっているのですが、その反面、その能力を使わずに父親としての義務を果たしていません。そのことは、エリザベスを失望させ、しかも結婚観や夫婦観に大きく影を落としているのです。それが、次の第42章の冒頭で次のように語られています。

もしエリザベスの結婚観が、自分の両親を見てできあがったとしたら、結婚生活の幸福や家庭の楽しさについて、あまり明るいイメージは生まれないのは当然だろう。彼女の父親は、ある女性の若さと美貌と、それが発散する表面的な明るさに引かれて結婚したのだが、彼女は頭も悪いし、心も狭い女性とわかり、結婚するとすぐに、妻にたいする愛情は冷めてしまった。妻に対する尊敬や信頼は永遠に消え失せ、彼が思い描いていた家庭の幸福は、完全に破壊されてしまった。だが、ベネット氏は、自分の軽率さが招いた失望を慰めるために快楽に走るような人物ではなかった。世間によく見られるように、自分の愚行と悪徳を慰めるために、快楽に走るようなことはしなかった。彼は田園と書物を愛し、そのふたつの趣味から、彼の人生のおもな楽しみが生まれた。妻から受ける人生の楽しみといえば、彼女の無知と愚かしさをからかう楽しみくらいのものだった。これはふつうの夫が妻に望むような楽しみではないが、ほかに楽しみようがないとすれば、人生を達観した者としては、与えられたものから楽しみを引き出すほかないのである。

だがエリザベスには、夫としての父の態度が間違っていることはわかっていたし、それを思うたびに心が痛んだ。だが、父の頭脳は尊敬しているし、自分をかわいがってくれることには感謝しているので、そういう父の欠陥は、なるべく忘れるように努めた。父が夫としての義務と礼儀に背いて、子供たちの前で妻を笑いものにするのはひどいと思ったが、なるべく考えないようにした。しかし、不釣合いな夫婦から生まれた子供にふりかかる不利益を、いまほど痛感したことはないし、せっかくの頭脳が間違った使われ方をしたために起きる不幸を、いまほど痛感したことはなかった。父の頭脳が正しく使われれば、妻の心の狭さは直せなくても、娘たちの品位を保つくらいのことはできたはずなのだ。(P.58〜59)

では、エリザベスの結婚観とはどのようなものだったか、話は少し脱線しますが、そのヒントとして、第59章で、ダーシーがベネット氏にエリザベスとの結婚の許し請うたあと、ベネット氏がエリザベスに送った次のような言葉に代弁されています。

「ダーシー氏にはさっき承諾を与えた。あの男にあんなふうに丁重に出られると、とても断れん。彼はそういう男だ。おまえがどうしても彼と結婚したいというなら、おまえにもいま承諾を与える。だが、もう一度よく考えたらどうかね。私はおまえの性格をよく知っている。おまえは、ほんとうに尊敬できる男と結婚しなければ、つまり、自分より立派な人間として尊敬できる男と結婚しなければ、ぜったいに幸せにはなれん。おまえは活発すぎるほどの頭をもっているから、自分より能力が下の人間と結婚すると、非常に危険だ。世間の評判を落とすようなことをして、不幸になるに決まってる。いいかい、リジー、私は、おまえが夫を尊敬できずに結婚生活を送る姿を見たくないのだ。そんな悲しい思いをわたしにさせないでおくれ。」(P.286)

この言葉には、ベネット氏自身の経験へ悔恨もまじえて、娘をよく知る父親の愛情が溢れています。したがって、この言葉の裏を返せば、エリザベスの結婚観が想像できるわけです。つまり、つまり、エリザベスの結婚観とは「相手に尊敬と感謝の気持ちと愛情を持てるようでなければ、幸せな結婚は出来ない」と言えるのではないでしょうか。エリザベスは、歪んだ夫婦関係で結ばれていた自分の両親を見て、そんな歪んだ関係では幸せな家庭環境が築かれることは出来ないと感じていた。そのため、自分が結婚する際には幸せな夫婦関係と家庭環境を得たいと思った、それが反映しているのではないか。

また、第26章で、エリザベスは叔母のガーディナー夫人からウィッカムとの交際について忠告を受けます。ガーディナー夫人はエリザベスとウィッカムが結婚するとしたら、それはは分別に欠けると言います。ガーディナー夫人がウィッカムとの関係に注意を促す理由は、彼に財産がないという一点によるものです。この言葉から、結婚は生活するという経済的側面を重視し、それを分別という言い方で表わす夫人の姿勢が読み取れます。そこには、ロマンチックな愛情に駆り立てられる、極端な例が駆け落ちですが、感情が分別をおいこすことをたしなめるという言い方をしています。ガーディナー夫人は、ウィッカムを財産さえあれば結婚相手してはいい人だといっていることから、愛情を否定しているわけではない。その忠告に対してエリザベスは、愛情さえあれば財産がなくても結婚に踏み込めること、それを毎日見ていると反論します。エリザベスは財産のあるなしに拘わらず、愛情があれば、結婚できると主張するのです。

さらに、第22章では親友のシャーロット・ルーカスが、財産のない若い女性にとって人並みに生きていくための唯一の生活の手段として、たとえ愛情の持てないコリンズと婚約したことについて、エリザベスは

まさかほんとにシャーロットが、自分の気持ちをすべて犠牲にして、現実的利益だけを考えて結婚するとは、エリザベスには思ってもいなかった。シャーロット・コリンズ夫人!ああなんという屈辱的な光景だろう!親友が自分で自分をはずかしろめ姿は悲しいし、親友に失望せざるをえないのも悲しいが、さらに悲しいのは、シャーロットが選んだこの結婚が、彼女を幸せにするとはとても思えないということだ。(P.219〜220)

と、周囲が二人を祝福するなかで、エリザベスと父のベネット氏の二人だけが、この結婚に批判的でした。これらのことから、エリザベスは、結婚について、愛情を第一に考えていること、その愛を持てる相手というのは尊敬できる男性であること。その場合、財産とか身分といったことは結婚の主要な条件にはいってこなかった。財産を否定するわけではないが、財産が結婚の条件とはならないで、愛情のある夫婦生活が幸福なのだという結婚観を、漠然とではあるかもしれませんが持っていたと思います。

しかし、それは、物語中でも親友のシャーロットもそうですし、シャーロットの結婚相手であるコリンズから、シャーロットの前にプロポーズをされたのを断ったときに母親から叱責されたり、といった当時の社会では、むしろ常識だった生活の手段として結婚という結婚観に対して真正面から反対するものだったと思います。エリザベスの言っている言葉や実際の行動は分別のあるものでしたが、その結婚観の内容だけを取りだしてみれば、愛情を第一とするロマンチックな恋愛小説のヒロインと変わらないのです。つまり、オースティンの小説はリアリズムと言われていますが、ヒロインのエリザベスという女性の本質は理想の男性との愛を求めるロマンチックな心情なのです。つまり、この小説について、いろいろと御託を並べています、核心はロマンチックな恋愛小説なのです。それが、この小説が時代を超えて広い人気を保っている理由のひとつではないでしょうか。

第42章

末妹のリディアは、エリザベスが心配しているとは露も知らず、喜び勇んでブライトンに出かけて行きました。

エリザベスは、ダーシーからのプロポーズを断ったあとで受け取った手紙を何度も読み返して、自身の偏見や高慢さを自覚することとなって、以前とは違っていました。それに伴って、ダーシーに対して持っていた怒りや嫌悪が次第に薄れていた。そこには、ダーシーに対する愛情の芽生えが見られる、と思うのは私だけでしょうか。しかし、その時には、彼はすでに去っていました。二人の関係は、エリザベスがダーシーのプロポーズを拒絶した時点で終わったのです。ロングボーンに戻ってからのエリザベスには、それ以前の溌剌としたところが影をひそめて、落ち着いた雰囲気に変わったように見えます。その反面、どこかあきらめのような投げやりな感じがしました。例えば、ウィッカムに対する態度にも、もはや彼に対しては魅力を感じられなくなったのを客観的に見て、特に彼を責めたり、からかったりしないで、坦々と別れたことなどに、そういう感じがします。言うなれば、彼女は、ダーシーという男性を初めて意識したときには、すでに去った後で、心の中にポッカリと空洞が生じたような状態なのです。読者は、エリザベスとダーシーのふたりは、これで終わりなのか、とやきもきさせられるところです。そこで、作者は、ご都合主義と言われそうですが、偶然の機会を用意しました。

第38章のコリンズ夫妻の牧師館からロングホーンへ帰る途中に立ち寄ったロンドンで、ガーディナー夫人に夏の旅行に誘われていた、その季節となります。しかし、旅行はガーディナー氏の仕事の都合で、計画が短縮され、行く先も湖水地方からダービシャー地方に変更となります。エリザベスは、ガーディナー夫人からの旅程の変更を告げる手紙を受け取り、ダービシャーの名を聞いたときから、ダーシーの所有するペンバリー屋敷のことを意識せずにはいられません。ガーディナー夫人がペンパリー屋敷に行きたがると、エリザベスは当惑し、夫人に隠れてこっそり宿のメイドに尋ねて、屋敷の主人に関する情報を得ようとします。そこで主人一家が不在だと聞くと、ほっとひと安心すると同時に、その屋敷を見たいという好奇心が湧き上がってきます。それで、翌朝何食わぬ顔をして、夫人の計画に同意するのでした。そこで、三人はペンバリー屋敷を訪問することにしました。

ちなみに、当時は、カントリーハウス観光といって、他人の家や庭を観光目的で訪問することが流行り始めていたそうです。もちろん、訪問を許されるのは、服装や立ち居振る舞い、そして言葉から、紳士淑女と判断される人々に限られていたということですが、この場合のペンバリー屋敷のように、たとえ主人が不在でも管理人や執事が、観光客に家の中を案内することは珍しいことではなかったそうです。一方、家を見せる側としては、自分の持つ家や庭の魅力や歴史的価値を独り占めしないで、請われれば一般の人にも公開するという公共的な意識があったのと、家や敷地にかかる税金対策という面もあったということです。オースティンの作品では『分別と多感』でブランドン大佐の親類のウィットウェル屋敷を訪ねようとして、当日の朝、ブランドン大佐に急用ができて、彼がいないと屋敷に入れないので、ドタキャンになってしまうエピソードがあります。この場合は、屋敷の持主が見知らぬ人には見せないとしていたので、そういう持主も少なくなかったそうです。ペンバリー屋敷の場合には、持主の公共的な意識から公開していたということでしょうから、そこに持主の性格の違いが現われていたと言えるかもしれません。

第43章

一行はペンバリー屋敷を訪問します。エリザベスたち三人を乗せた馬車が屋敷の敷地内に入り広大な庭園の森の中を進んで、屋敷が見えてくる描写は、『マンスフィールド・パーク』でファニーたちが、サザトン・コートを訪問したときの描写に通じるところがあって、オースティンの風景に対する好みがよく表われているところです。

屋敷の庭園はとにかく広大で、しかも変化に富んでいた。馬車は土地のいちばん低い場所から入り、しばらくは、ひろひろと美しい森の中を走っていった。

エリザベスは胸がいっぱいで話もできなかったが、すばらしい眺めが目に入るたびに感嘆の声を上げた。なだらかな上り坂を1キロほど走ってゆくと高い丘の頂へ出て、そこで森は終わり、突然炉の前にペンバリー屋敷が姿を現わした。屋敷は谷の向こう側に建ち、急なじぐざぐ道が谷へつづいていた。屋敷は大きな美しい石造建築で、小高い丘の中腹に建ち、うしろには、こんもりと樹木が生い茂った高い丘が連なっている。屋敷の前には、自然を演出するために欠かせない小川が流れ、しだいに大きな流れになっているが、人工的な感じはまったくない。川の土手も、整然としすぎてもいず、装飾過剰でもなく、まことに自然な感じだ。エリザベスはその美しさに感激した。これほどみごとに自然が演出された庭園は見たことがない─というより、自然の美しさがよけいな趣味によって傷つけられていないこれほどみごとな庭園は見たことがない。三人は感嘆のためにため息をもらし、そしてエリザベスは、このペンバリー屋敷の奥様になったらさぞかしすばらしいだろうなと、ふと思った。(P.67〜68)

ここではダーシーに会ってしまうことを恐れながらも、ベンパリーの美しい眺めにエリザベスの心が動かされる様子が良く伝わってきます。庭園は美しい眺めであり、その美しさは自然な感じで、過剰な装飾など余計な手が加わっていない、つまり装っていないありのまま、正直という、この庭園の主であるダーシーの人となりに、思いが連なっていくところがあります。つまり、この風景が、エリザベスのダーシーへの傾斜を促している様子が、この風景の描写に中にあると思います。それを客観的な風景描写の体裁を借りて、やってのける作者オーステインの巧みさには感心させられます。しかし、それだけでなく、「このペンバリー屋敷の奥様になったらさぞかしすばらしいだろうな」とふと思うと、一言加えられています。これはエリザベスの心の傾斜を表していると言えますが、その言い方が、ダーシーのプロポーズを断ったのは惜しいことをしたと後悔していると言わんばかりの、下世話な言い方をしています。

続いて、屋敷に入って、部屋のひとつひとつを見て回るのですが、

部屋はどれも広々として美しく、持主の財力にふさわしい立派な家具が具えつけられている。エリザベスは持主の趣味の良さに感心した。どの部屋も立派に贅沢に飾り立てたところがなく、たとえばロージング屋敷の家具と比べると、豪華さでは劣るかもしれないが、ほんとうの気品が感じられた。「私はこのお屋敷の奥さまになっていたかもしれないんだわ!」とエリザベスは思った。「いまごろはこんなすてきなお部屋で暮らしていたかもしれない!観光客として見物するのではなく、自分の部屋として楽しみ、叔父さまと叔母さまをお客さまとして迎えていたかも」(P.69)

ここでも、ペンバリー屋敷の豪華ではあるが、華美にならず趣味の良さと訪れる人の心を休める空気がエリザベスの心を和ませ、その主を思いを寄せていく様子が見て取れるのですが、そこにまた、「私はこのお屋敷の奥さまになっていたかもしれないんだわ!」と、屋敷にあるものひとつひとつが欲しくなるような言葉が出てきます。ここに、自分のものにはならなかった、といういささか物欲の混じった後悔が、この心中の言葉のなかで吐露されています。この当たりのエリザベスの心情の正直さが、この作品をリアルなものにしています。財力と、本物の気品に溢れた部屋や調度を見たら、ああ、もう少しでこんな立派なものが手に入ったのにと思うのが、人情というものでしょう。そうした思いをまったく書かなければ、主人公を美化しているような嘘っぽさが、かえって目立つかもしれません。ロマンチックな心情を持ちながら、こういう現金なところを正直に表わしてしまうところに、エリザベスというヒロインのユニークさがあり、リアルな存在感があると思います。

そこへダーシーが、突然帰って来ます。彼の帰宅が翌日だと聞いていたエリザベスは、きまり悪さと恥ずかしさに動揺します。この様子が、それまでの彼女のふるまいを見てきた読者としては、まるで別人のように映ります。この人が、ダーシーのプロポーズを決然と拒絶したり、彼を煙に巻くようにからかっていた同じひととは思えない、まるで初心な少女のようなはにかみを見せるのです。ここに、彼女がダーシーを意識しだしていること、恋愛感情を持ち始めていることが、態度に表われている。そういう彼女の変化を、直接言葉で説明することなく、態度や振る舞いの変化で示しているところに、おそらく、エリザベス自身が自分の変化に気づいていないことも示唆しているところもあって、こういう微妙な表現は、巧いと感心します。彼女から屈辱的な拒絶ということをされたダーシーが、プライドの高い彼が話しかけてきたというだけでも、彼女にとっては意外でしたが、丁重な態度で、しかも家族の様子まで聞いてくれたのです。ダーシーの態度がずいぶん変わったことに、エリザベスは気づきます。さて、エリザベスは、動揺しながらも、ダーシーの気持ちを探ろうとします。これって、恋する女性の典型的な行動ですね。

彼はいま何を考えているのだろう。私のことをどう思っているのだろうか。もしかしたら。もう愛していないから気持ちが楽になって、それであんなに丁重な話し方をしたのかもしれない。でもあの声にも、気持ちが楽になったような感じはまったくなかった、私に会って苦痛と喜びとどちらが大きかったはわからないが、私に会って平静さを失ったことだけは確かなのだ。(P.80〜81)

エリザベスは、なぜダーシーがこんなに変わったのかと思案します。その原因が自分にあるとは考えられない。まさか、ダーシーが今でも自分を愛しているなどとは…と心の中では否定するのですが、それは、そうであってほしいという気持ちの裏返しに他なりません。自分がまだダーシーに愛されていることを確めたい。叔父夫婦に対してダーシーが態度を取るかを観察することによっても、エリザベスはダーシーの気持ちを探ろうとします。このとき、エリザベスのなかでは、ダーシーとの結婚を願い気持ちが急速に高まっていると言えます。しかし、彼女自身は、そのことについて明確な自覚がないのです。

ここで、ちょっと視点を変えます。ダーシーの態度の変化、例えば話し方が丁重だったりということは、会話の言葉を文字にしただけでは分かりません。それは、声の出し方や話す姿勢といった身体的な微妙なニュアンスを伴うからです。その変化を表わすのは難しい。それをどのように変化したかを、直接表現するのではなくて、エリザベスが変わったと感じたとか、ガーディナー夫妻がダーシーの印象をベネット家の人々からきいたと違うと感じたということで表しています。その端的な例が、ダーシーとガーディナー夫妻の場面です。ガーディナー氏はロンドンのチープサイドに住んで商売をしています。それだけをとれば賤しいとされる身分ということになります。しかし、彼自身は立ち居振る舞いも感性も考え方のどれをとっても立派な紳士なのです。エリザベスはダーシーに彼ら夫妻を紹介することを一瞬躊躇し、紹介してから、こっそりと彼の反応をうかがわずにはいられないのは、さきほど述べた事情によるものです。というのも、彼は、彼女にプロポーズしたとき、自分の家柄に対するプライドゆえに、彼女の親戚を軽蔑して拒絶していたからです。

エリザベスはふたりを彼に紹介した。そして、どういう親戚でどういう職業かを説明しながら、そっと彼の顔色をうかがった。どんな顔をするか、しっかりと見届けたい。もしかしたら、商人とは口をききたくないと逃げ出すのではないか。だが、ロンドンで商人をしている親戚だと聞いて彼がショックを受けたことは明らかだが、彼はじっと耐え、逃げ出すどころかみんなといっしょに引き返し、ガーディナー氏と話さえはじめたるエリザベスはうれしかったし、ほこらしくもあった。紹介して恥ずかしくない親戚がいることを彼に知ってもらえたことが、何よりもうれしかった。彼女はふたりの会話に耳を傾け、叔父の頭に良さと、趣味の良さと、行儀の良さを示す一語一語に感激した。(P.83〜84)

ここでダーシーは、偏見に左右されることなく、ガーディナー氏と向き合うことによって、彼がまぎれもない紳士であることを知り、そこからは、たとえガーディナー氏の仕事が何であれ、彼が紳士であるということを評価します。エリザベスも、叔父がガーディナー氏が紳士であることには揺るぎない自信を持っています。しかし、それをあのダーシーが認めたということは、彼自身が変化したことを実際の行動で表わしているのです。なお、この場面で、エリザベスとダーシーの両方に、ガーディナー氏が紳士であることを伝える具体的な会話の言葉は、描かれていません。ちなみに、この作品では、品性に欠ける人物、性格の悪い人物、おろかで浅はかな人物たちの会話はみごとに再現されているのに、一方で、この場合のガーディナー氏のように手本になるような会話や発言は、「適切に言ってのけた」とか「自然に屈託なく答えた」といったあっさりとして描写で省略されてしまいます。これは、模範的な会話を再現するには落とし穴が多く、たいていの場合が退屈になりかねないことをオースティンは知っていたからでしょう。この場面ではガーディナー氏の紳士らしさは、教養、知識、感性のよさから来るものであるだけに、それを聞いて識別することは容易であったとしても、そのような会話を想像して作り上げることは困難です。

しかし、考えてみれば、このようなことをオースティンの小説の特徴として、わざわざピックアップするのは、現代の私たちの基準で読んでいるから、と言えるからでもあると思います。それは、当時の模範的な会話というのを、現代の私たちは容易に想像できないからです。実際のところ、現代の生活を題材にした小説でも、マンガでもドラマでも、例えば、日常的な会話とか、恋人どうしの普通の会話とか、そういう標準的な会話などは、たいていみんな知っているし、物語の展開に不可欠というのではないので、省略されてしまいます。そうではない、非日常的な会話、例えば、喧嘩だったり、その原因となるような不用意な言葉だったりといったものは、見る者にそれと分かるように目立つように描かれます。それは、物語を進める上で、当たり前のことで、いちいち標準的な会話まで詳しく描写していたら、物語の分量は膨大なものになってしまうし、仮に『高慢と偏見』のこの場面、ダーシーとガーディナー氏の模範的な会話をくわしく描写したら数ページになるでしょう。このシーンを省略しないとしたら、他でもビングリーとジェインの会話とか、そういうのを詳しく書いていたら、小説の長さは、現在の何倍になるでしょうか。それは、単に物語が長くなるというだけでなく、物語の筋が散漫になって、読者は退屈してしまうことになるでしょう。したがって、省略をオースティンの小説の特徴と、ことさらに言い立てる偉い学者の先生もいるようですが、そういう人は、小説の物語の筋を追いかける読者になったことがないのだろうと思います。それは、物語の生理のようなもので、物語をつくる作家ならは、誰でもやっていることです。したがって、オースティンの小説には省略という特徴があるのは、あまりたいしてことではなくて、むしろ、他の作家では気づかない省略ということに、オースティンの小説を読んでいると気づいてしまうということ、それで特徴的だと思ってしまうこと、それだけ省略が目立つことの方が、オースティンの小説の特徴ではないかと思います。つまり、オースティンは何を描いているではなく、何を描かないでいるかを読者にあえて分からせるように描いていると言えるからです。それは、どういうことか、例えば、他の作家では描くことはない日常の普通生活の繰り返しを、敢えて物語の中に取り入れようとしているからです。例えば、このダーシーとガーディナー氏との会話は物語の筋のなかで大切でしょうか、おそらく、オースティン以外の作家が恋愛小説を書いたときに、ヒロインとヒーローが偶然ヒーローの屋敷で出遭うという事件だけて十分ドラマティックです。それ以外は不要でしょう。しかし、『高慢と偏見』では、ダーシーとエリザベスが偶然再会するのは大きなドラマですが、そこで、ダーシーとガーディナー氏がちゃんと会話をするということがダーシー氏の変化を表わしているのです。それは日常生活の普通の繰り返しなのですが、そこにちょっとした差異が生まれている。その差異が、実は人の見えない変化の兆候を表わしていたりする。それをオースティンはすくい上げようとしている。日常の繰り返しの差異を描くためには、その繰り返しを描いていなければ分からない。その繰り返しというのは、普通の小説では省略されてしまうところです。だから、オースティンは、あえて省略されているという日常の繰り返しを省略されるようなものとして、しかし、読者にはある程度目立つように描いた。それを後年の読者には、省略が特徴に見えてしまったといえるのではないでしょうか。これは、私の偏見で、証拠がどうだとか根拠がどうだとかというのではありません。

物語が進むにつれてダーシーとエリザベスの間に存在していた誤解や偏見が解消され、幸せな結末へとつながるのですが、ベンパリーの風景や屋敷で働く使用人の話、訪問中に起こった出来事がエリザベスの心情を変えたことは確かであり、物語の中で二人の心を近づけるために美しいベンパリー屋敷が果たした役割は大きいと言えます。

第44章

ダーシーから妹を紹介したいと言われたとき、エリザベスは喜びます。翌日、ダーシーは、妹をエリザベスに紹介するために、ビングリーも連れて宿を訪問します。彼女としては思ってもみなかった好意の数々を矢継早やに示され当惑いを隠せないでいます。一方で、たんにダーシーから敬意を表わされてうれしかっただけでなく、妹のジョージアナを未来の義理の妹として意識していたと言えるかもしれません。屋敷への招待をうけたところで訪問は終わりますが、その夜、エリザベスは、この2日間を振り返って、気持ちを整理しながら、次のように考えます。

もう彼を憎んでいないことだけは確かだ。憎しみはとっくに消えていたし、それどころかだいぶ前から、彼に嫌悪感を抱いていた自分を恥ずかしく思っていた。彼が立派な人物だとわかってきて、最初は反発を感じながらもだんだん尊敬を抱くようになり、しばらく前からその反発もなくなって、すなおな尊敬に変わっていた。そしてきのう聞いた女中頭の証言─彼はほんとに立派な人物であり、心のやさしい人物だという証言のおかげで、その尊敬は親しみのこもった尊敬へと高められていた。だが、そういう尊敬や敬意にも増して、彼女が彼に好意を抱きはじめた理由として、もうひとつ見逃せない動機があった。それは感謝の念だ。つまり、彼女を愛してくれただけでなく、プロポーズを断ったときの彼女の無礼な態度や、そのときに彼女が口にした不当な非難などすべて許して、いまなお愛してくれていることへの感謝の念だった。彼はプロポーズを断った彼女を、憎むべき敵として避けて当然なのに、偶然再会すると、以前よりいちだんと熱心に彼女との交際を求めているようなのだ。しかも、彼女に直接言い寄るのではなく、彼女の親戚であるガーディナー夫妻にいい印象を与えようと努めたり、彼女に妹を紹介したりして交際を深めようとしている。あれほど気位の高かった彼がこんなに変わったかと思うと、単に驚くだけでなく感謝せずにはいられなかった。なぜなら、それは愛ゆえの変化、熱烈な愛ゆえの変化にちがいないからだ。そして彼のその変わりようを見て、彼女もまた、何か非常に甘美なもの、何かまだはっきりとはわからないが、何か非常に甘美なものを感じないわけにはいかないわけにはいかなかった。エリザベスは彼に尊敬と敬意と感謝を感じ、彼の幸福を心から願った。そして彼女は知りたかった。彼のその幸福が自分次第だということを、自分はどの程度望んでいるのだろうか。自分の態度次第で、彼はもう一度自分にプロポーズするかもしれないが、そう仕向けることが、はたしてふたりの幸福のためになるのだろうか。彼女は本当に知りたかった。(P.99〜100)

エリザベスは、ガーディナー夫妻とともに訪れたペンバリーで、庭園や邸宅を目の当たりにして、その趣味のよさと彼の精神性に惹かれ、ダーシーを四歳の時から知るというペンバリー館の老家政婦レノルズ夫人からダーシーが地主としても主人としても非の打ち所のない人物であることを知らされ、ダーシーの肖像画を前にして,これまでにない優しい気持ちを抱くことができるようになります。そこで、偶然二人は再会し、この時のダーシーの態度が前とうって変って丁寧になって、さらに身分が低いと軽蔑していたはずの彼女の叔父夫婦を釣りに誘い、自分の妹をエリザベスに紹介し、ピングリーも連れて宿を訪問するなど、彼女としては思ってもみなかった好意の数々を矢継早やに示され当惑いを隠せませんが、どれだけ差し引いても、それら一連の彼の行動のすべてが自分に対する変らぬ愛から出ていることをエリザベスは次第に確認することができて、感謝の気持が沸いてくる。それと同時に、自分が彼にとった無礼な態度が恥かしく思い出され、彼の過去の非礼は相殺される。エリザベスの心の中の彼の高慢に対する彼女の嫌悪感が許しを経て消失し、彼女は急速にダーシーに引かれていく。そういう心の動きが、ここにまとめられています。しかし、そのなかでも、「彼の幸福が自分次第」という幸福を願うという言葉の後に続けて、彼にもう一度プロポーズするように仕向けるということを考えているのです。ここにエリザベスという女性が結婚は愛し合うことという結婚観をみせて、生活の手段と考える世間の常識に反発するように見せながら、玉の輿を狙っている彼女のしたたかさが現われていると思います。愛か財産かという選択で、どちらか割り切れないところが、エリザベスという女性の面白いところで、それがまた、リアルな存在感を作り出していると思います。

しかし、よく読んでみると、このペンバリーでの一連のエピソードは一貫してエリザベスの視点で語られています。エリザベスはどのように思い、感じたかという心の動きを丁寧に追いかけています。これに対して、ダーシーの方は、あくまでエリザベスの目に映った姿が描かれています。ここでは、ダーシーはどのように思っているかは一切語られておらず、エリザベスの前に外形的な行動だけが示されています。そこで、ダーシーがエリザベスを愛し続けているというのは、脇で観察していたガーディナー夫妻の意見だったり、エリザベス自身の推測で語られているだけなのです。そして、エリザベスのダーシーに対する反応を追いかけていくと、最初は偶然再会した驚きから、彼の変化に戸惑い、感謝の気持ちを抱き、愛を感じ始める。その動きが一直線なのです。それの動きをみているとて、エリザベスが彼にプロポーズさせるように仕向けようと策略を考えようとしていますが、エリザベスにそういうことを考えさせるようなダーシーの戦略にエリザベスが引っ掛かった、その傾斜を丹念に描写しているのが、このペンバリーのエピソードではないかと考えられるのではないか。そのひとつの理由として、ここでのエリザベスは受け身なのです。ダーシーが積極的に動いていて、彼の心のうちは明らかにされず、矢継ぎ早に仕掛けてくるのに、エリザベスは戸惑う、というまとが繰り返され、彼女は考えを整理するのが追いつかないのです。そして、整理したところで出てきたのが、この心の中の声なのです。いわば、エリザベスがダーシーに翻弄され、押し切られている様相なのです。ダーシーという人物を考えれば、ペンバリーの広大な屋敷を管理し、老齢の女中頭を崇拝させるほどの人事マネジメント力のある人間が、それほど単純なおツムをしているはずがありません。その程度の策略くらい、できて当然ではないか、と現代の読者の常識では考えてしまうのです。

第45章

翌日、エリザベスはガーディナー夫人は、ダーシー兄妹からあいさつを受けた返礼として、ペンバリー屋敷を訪問します。そこで、ダーシー兄妹だけでなくビングリー姉妹とも再会します。そのときミス・ビングリーが漏らした言葉が、皮肉にもエリザベスとダーシーをふたたび結びつけることになります。

「ねえ、エリザベスさん、××州国民軍はメリトンを引きあげたんですってね。ご家族のみなさまはさぞかしお寂しいでしょうね」(P.106)

この言葉には、ウィッカムの話を持ち出して、エリザベスに嫌がらせをしようという思惑があります。同時に、ウィッカムのことに触れて、ダーシーがエリザベスに反感をもつように仕向けるという狙いもありました。しかし、結果的にこの言葉によって傷ついたのは、エリザベスではなくダーシーと彼の妹のジョージアナでした。ミス・ビングリーは、そのことにまったく気づいていません。ダーシーはエリザベスへの弁明の手紙の中で、妹がウィッカムに誘惑されたと書いていました。エリザベスは本当だろうかと疑っていたところはあったと思います。しかし、ウィッカムのことをほのめかされてジョージアナが動揺する様子を見て、その話が真実であったと確信します。一方、エリザベスが落ち着いた態度だったので、ダーシーは、彼女がウィッカムのことを何とも思っていないことを知ります。これによって、ダーシーとエリザベスの間にわだかまっていた誤解が氷解することになった。ミス・ビングリーが投じた矢は、彼女自身に返ってきてしまった。ここで、恋のライバルとしてのミス・ビングリーは完全に脱落しました。皮肉なことに、ダーシーとエリザベスの心を一瞬のうちに結び付けてしまった。ここには、登場人物たちの様々な思惑が交錯し、無言のうちに真実がひとつの像を結ぶドラマチックな場面になっています。

このようなエリザベスの愛し方について、後に作者は次のように述べています。

感謝や尊敬が愛の基盤になるとしたら、エリザベスのこの気持ちの変化は当然ありうることだし、間違ってもいない。だがそうでないとしたら、つまり、いわゆる一目惚れや、ろくに言葉も交わさぬうちに燃え上がった恋こそほんとうの愛であり、感謝や尊敬から生まれた愛など邪道であり不自然だとするならば、彼女を弁護する余地はないかもしれない。だが、ひとつだけ弁護の余地があるとすれば、彼女はウィッカムへの愛によって一目惚れを経験しており、それが不幸な結果に終わったために、もうひとつの華やかではない愛のかたち、すなわち感謝と尊敬を基盤にした愛のかたちを選んだのである。(P.122〜123)

つまり、このエリザベスがダーシーに対して抱いた愛は感謝や尊敬が基盤となった愛です。それは、これまでの物語を読めば一目瞭然です。それを作者が自ら明言しています。そのあとで、一目惚れで一気に燃え上がる恋をほんものだと言っているのは、一種のアイロニーでしょう。それはロマンチックな恋愛小説の一目あったその日から電気が走って・・・というような、「ロミオとジュリエット」のような古典から綿々と続く王道パターンに対して、この作品ではエリザベスがウィッカムに引っ掛かるというかたちで、パロディ化しています。それをほんものと、ここで作者が敢えて言っているのは、反語的表現以外の何物でもないでしょう。それは、おそらく、このような感謝や尊敬が基盤となった愛というのを恋愛物語にするのは、退屈なお説教になりがちで、そういう物語がほとんどなかっただろうからでしょう。一目惚れで一気に燃え上がる恋は、そのあと二人が周囲の障害を乗り越える話にできて、そういう話は、いくらでも面白くなる要素がある。これに対して、感謝や尊敬が基盤となった愛を物語にすれば、感謝や尊敬が生まれて、それが愛に育っていくプロセスを描かなくてはならない。しかし、それは植物が育つように、時間をかけて徐々に成長するものだろうから、山あり谷ありの物語にはしにくい、つまり語り難いわけです。それを、この『高慢と偏見』では、試みているわけですから、そこに作者としても、王道ではなく挑戦的な試みという立場ではある。この時点では、未だ小説は完結していませんから、試みは成功したかどうか分からない状態でしょう。そこでは、こっちがほんものとはいえない。そこで、アイロニー的な言い方をしていて、感謝や尊敬から生まれた愛こそがほんとうなのだけれど、今の時点では、正面切って言えない。そういう内容だと思います。実際、この章の直後に、そのウィッカムがベネット家の末妹のリディアと駆け落ちしてしまうのです。

第46章

翌朝、エリザベスのもとにジェインから手紙が届きました。それは、末妹のリディアがウィッカムと駆け落ちをしたという衝撃の事実でした。前にも述べましたが、18世紀のイギリスの上流社会は男女の交際について分別と礼節が求められていました。とりわけ女性に関しては、淑女のための行儀作法書であるコンダクト・ブックが次々と敢行され、男性以上に厳しいマナーとモラルが課せられていました。恋愛においては、まず個人的愛情に対する「社会的おすみつき」としての「婚約」が発表され、晴れて後、ようやくカップルは節度ある態度で愛情を世間に示すことが許されたといいます。婚約もしていない男性と浮名を流すことは社会のコードに違反し、「浮気女」とか「男たらし」のそしりを受けることになり、最悪の場合は「堕落した女」として社会から追放の憂き目にあうことになるのでした。駆け落ちは、まさに最悪の場合に当たります。同じ作者の『分別と多感』ではブランドン大佐の初恋の相手イライザがその例であり、彼女は財産を剥奪され、家から追い出され、行き倒れのようにして亡くなります。また『マンスフィールド・パーク』のマリア・バートラムはラッシュワース氏の妻となりながら、ヘンリー・クロフォードと駆け落ちし、サー・トーマスから追放同然の扱いを受け失意の日々を送ることになりました。それだけでなく、「堕ちた女」として社会のはみ出し者になることは、その家族全体が致命的な不名誉を被ることを意味しました。

運悪く、エリザベスがジェーンからの手紙を読んだところに、なんとダーシーが訪ねてくるのです。動揺していたエリザベスは苦し紛れに、涙に暮れながらこの秘密をダーシーに漏らしてしまいます。このことで、エリザベスのプライドは、この家族の恥辱によって根底から覆されます。ただでさえ、家柄や身分に厳しいダーシーが、ガーディナー氏のような人物として真の紳士であれば、まだしも、今回のような不名誉は絶対に許すことができないでしょう。ダーシーが、エリザベスへの愛を持ち続けているとしても、このスキャンダルによって結婚することは実質的に不可能になったと、エリザベスは考えました。それは、当時としては、当然のことです。

エリザベスはダーシーの暗い表情を見てすぐに思った。私の魅力が急に失せてしまったのだ。家族のこんな醜態を見せられたら、百年の恋だって冷めるに決まってる。エリザベスは驚かなかったし、ダーシーを責める気持ちも起きなかった。だが、彼が自分との恋をあきらめたとわかっても、エリザベスの心は軽くならなかったし、苦痛が和らぐこともなかった。ダーシーの愛を失うと知ってはじめて、自分のほんとの気持ちがわかった。もう彼をどんなに愛してもむだなのに、そのいまになってはじめて、自分は彼を愛することができるとわかったのだ。(P.120〜121)

失ったものを自覚すると同時に、新しい何かを発見すること。エリザベスは、ダーシーを失ったと実感したときに、かれを愛していることに気がつきます。それまでの、エリザベスは、たしかに彼に感謝や尊敬の気持ちを抱くようになり、愛されているということに気がついていましたが、その一方で、「自分の態度次第で、彼はもう一度自分にプロポーズするかもしれないが、そう仕向ける」ことを考えてみるなどといったように、自分は愛されているという有利な立場にいると思っていた。それは、彼女のプライドを満たすものであったから、そこにいて、心地好さに浸っていたようなところがありました。そこには、切実さが欠けていたと言えます。しかし、この事件で一転、彼女はどん底まで落ちます。そこで初めて、自分は本気でダーシーのことを愛していると自覚したわけです。失ってはじめて、その失ったものの大きさ、大事さにきづく。それはアイロニーです。それなら失う前に気づいて、失わないように気をつければよかったのに、そうはいかないのです。エリザベスという人物の性格と、この作品で描かれている恋愛のパターンを考えると、自分でそうとわかる一目惚れではなく、感謝と尊敬が、知らず知らず大きくなってきて、いつしか愛に変容していく。彼女は、その愛に最初から気付いていたわけではないので、いつ気付くか、その気付いたことを読者に分からせるか、それはまた、気付いたことにより彼女は気付く前と変わらなければなりません。それを日常の坦々とした日々のなかで、気付く、そして変わるというのを小説の中で表わすのは難しい。それには、何らかのきっかけをつくらないと分かり難い。そのきっかけとしては、エリザベスに変化を強いるようなことですから、彼女にとって第事件でなければならなくなります。そこで、ダーシーを失うというきっかけを持ってきたということになるでしょう。

アイロニーであると同時にショック療法ということもできるでしょう。オースティンの他の小説『マンスフィールド・パーク』のマリア・バートラムはラッシュワース氏の妻となりながら、ヘンリー・クロフォードと駆け落ちします。これによって、サー・トーマスは、ヘンリー・クロフォードという男性の正体を知り、彼のプロポーズを拒絶したファニーの真意をはじめて知ることができた。そういう大きな転機を作り出していました。この作品では、この直前に、ミス・ビングリーが失言によってダーシーとの関係が破綻したのに伴って、ダーシーとエリザベスとの間の誤解が解けたという、失うことによって、新たなものかせ得られたというアイロニカルな事例がありましたが、この作品の後半では、そういう事例が、いくつも出てきます。

この場面では、読者は、この先ふたりはどうなってしまうんだろうと、物語の先が楽しみになってきます。

第47〜49章

エリザベス一行は、急いで宿を引き払いロングボーンへの帰途を急ぎます。その途中、3人はウィッカムとリディアの事件について議論を重ねます。ガーディナー夫妻は、ジェインやダーシーのようにエリザベスと対等の会話ができる人物で、ここでの会話は、物語中で、たびたび、エリザベスとジェインが交わす会話に準じるものです。ここで、エリザベスは、二人にウィッカムがどのような人物であるかを説明しますが、この内容がいままでにないほど辛辣で容赦がないものとなっています。しかも、エリザベスは、それを突き放したように淡々と話しています。彼女は、ここで叔父夫婦という絶好の聞き手を得たことで、これまでのウィッカムとのことを清算するように言葉にして整理していったと思います。

この前にも、ロングボーンに戻ったときにウィッカムと再会し、彼の本性に触れたことや、ペンバリー屋敷でダーシーとの誤解を解いたときに、同時にウィッカムに騙されていたことを確認したことなど、ウィッカムに対しては気持ちの整理はついていましたが、ここで二人に話したことで、これを言語化、つまり概念化して、はっきりさせることができた。だから、彼の危険なところを客観的に分析したように、あますところなく明らかにすることがでました。ここで彼女の語っているウィッカムの行動の推測は、後日明らかにされる真相と、それほど違っていない正確なものでした。

これによって、エリザベスが偏見にとらわれることなく、事態をフラットな立場で見ることができるようになってきているのが、分かります。これは、以前の彼女からの変容を示していると思います。

実際、物語のサブ・キャラが事故やスキャンダルを起こして、それが主人公の周囲に大きな影響を与え、劇的な変化が起こるというのは、オースティンの他の作品でも、よく使われるのですが、それらは、往々にして、主人公たちの遥か遠くで起こり、そういう事態が起こったということを間接的に、例えば他の人の説明、新聞記事などで、そのこと自体はあっさり伝えられるものでした。ところが、この『高慢と偏見』では、事件は主人公の身近なところで起こり、その余波に彼女自身も翻弄されることになります。そのため、第53章まで、6章を費やしています。

一行は、ロングボーンの自宅にもどると、ジェインから状況を聞きます。ベネット氏は二人を探しにロンドンに出かけ、母親のベネット夫人は錯乱状態で、他の姉妹は、どうやら四女のキティは二人のことを知っていたのを隠していた。案の定、ベネット家はジェインが一人で支えていた状態でした。ガーディナー夫妻は、急ぎロンドンに戻り、ベネット氏に協力して、二人を探しますが、見つかりません。そんな日々か過ぎていきます。そして、徐々に、好人物と思われていたウィッカムの化けの皮が剝がされて、真実の姿が人々の前に明らかになってきます。彼は、方々に借金を重ね、中でも賭博の負けが大きく嵩み、にっちもさっちも行かない状態だったというのです。それで、二人の駆け落ちの真相がだんだんとはっきりしてきました。すなわち、ウィッカムは賭博の負けや遊興費のために多額の借金を抱え、それから逃れるために身を隠さなければならなくなり、その時に、自分とともに連れ立って逃げてくれる人物がいてさえすれば誰でもよかった。ウィッカムにとって結婚相手は金持ちであることが、必要条件であることは明白です。だから、リディアと結婚する意志はなかった。一方のリディアは、男性にちやほやされることが一番の喜びで、自分を誘ってくれる男性がいれば、彼女もまた誰でもよかった。ウィカムは自分と逃げてくれそうなリディアを誘い、リディアはウィカム誘われたことで有頂天になったということが、どうやら真相のようです。さらに、当時はハードウィック結婚法が成立し、結婚についての取り締まりが厳しくなっていました。当然そこにはモラルの強い要求があり、男女の交際は婚約という社会的な承認があってからで、そのためには、リディアのような21歳未満の女性ならば親の承認が必要でした。したがって、駆け落ちは道徳に反する行為とみなさり、駆け落ちをした者が家族の中にいれば、周囲から駆け落ちした本人はふしだらだと見られ、家族の名前にも傷が付き、姉妹や兄弟の結婚も危ぶまれる事態となるほどのことであったといえます。そんな事態になるかもしれないにも関わらず、リディア自身は自分が駆け落ちすることに面白みさえ感じて、フォースター大佐夫人に置き手紙を残していったのです。

この事件を噂で聞きつけた、コリンズからベネット家に手紙が届きますが、彼は手紙で早急にリディアを勘当し家族の縁を切るように要求していますが、コリンズの体面を重視する性格が表われてはいますが、それは当時では常識と言えるものだったと考えられます。オースティンの他の小説『マンスフィールド・パーク』では、ヘンリー・クロフォードと駆け落ちしたマライア・バートラムは、勘当こそ免れますが、屋敷には住まわせてもらえず、追放のような処分を受けたのでした。

こういうベネット家にとっては大事件で、エリザベスにとっても大きなとばっちりを受けることになるわけですが、彼女の場合には、それだけでなく、特別な事情がありました。それは、この事件によってダーシーへの愛情を自覚するに至ったのに、それがじかくできたところで、いよいよ、ダーシーとの愛をかなえるには状況が絶望的になり、どんどん事態は悪化しているということです。

エリザベスはいつもの彼女らしくなく元気がないが、ベネット家の不幸な状態が言い訳になってくれた。したがって、彼女がいくら沈んでいても、そのことからは何も推測できない。だが、エリザベス自身は、自分の気持ちはよくわかっている。ダーシーとのことがなければ、リディアの不始末もこれほど落ち込まずに耐えることができだろうし、眠れぬ夜ももっと少なくてすむだろうと、エリザベスは思った。(P.155)

つまり、エリザベスが落ち込んでいる本当の理由は、リディアの不始末ではなくて、そのことによってダーシーを失うことなのです。ずっとリディアとウィッカムのことが嗅がれている中に、そっと、さりげなく、上記の一節が挿入されていますが、それがオースティンらしさなんでしょうが、エリザベスも、このことをジェインにも言えず、事情を知っているガーディナー夫人が心配しているという書き方をしています。でも、この場面でダーシーを失うというので落ち込んでしまうというところが、エリザベスという人物の本性で、頭がいいため、そのことを隠していますが、それがなければ、実は、リディアや母親のベネット夫人と変わりないというわけです。自分のことしか考えていない。それを大っぴらにはできない、けれど、黙っていると、この後の物語の展開に続かないので、そっと小出しにして

ベネット氏とガーディナー氏が手を尽くしたにもかかわらず二人は見つからず、疲れ切ってベネット氏がロングボーンに戻ってきました。

その二日後、ベネット氏宛てにロンドンのガーディナー氏から手紙が届きました。その手紙には二人が見つかったということ、ガーディナー氏が結婚するつもりのなかったウィッカムを説得して二人を結婚させることにした。その条件は、金銭的なものですが、意外なほど低い条件で、父親としてのベネット氏の承認を請うというものでした。とりあえず、駆け落ちした二人を、事後的にせよ親が承認することになれば、正式な結婚ということになり、ベネット家の名誉は一応は保つことができます。それで、ベネット氏は、早速承諾の返事を送ります。これで、一件落着ということになり、ベネット夫人は、リディアが結婚するということで、今度は大喜びで騒ぎ出し、娘がふしだらなことをしたことなどすっかり忘れてしまうほどでした。

一方、ベネット氏は、ガーディナー氏からの手紙に書かれていたウィッカムの要求した金額が少なすぎることに疑問を持ち、ガーディナー氏が自腹を切ったこと、その金を返済しなければならないことに頭を悩ませます。これは、エリザベスもジェインも気付かず、事件が決着したことを単純に喜んでいました。このことからも、ベネット氏の頭の良さがわかります。

第50章

駆け落ち事件に解決のめどがついたことで、エリザベスには自分自身のことを考える余裕が出てくると、考えるのはダーシーのことです。彼女はダーシーに秘密を打ち明けてしまったことを公開し、彼と自分との間に越えがたい溝ができたことを痛感します。そして、可能性が消えたときになってはじめて、ダーシーと自分とは、性格においても能力においても釣り合っていて、互いに与え合うもののある理想の夫婦になれたのだ、思うのです。しかし、それもかなわないという無念な思いにとらわれます。

エリザベスはジェインの手紙で駆け落ち事件を知って、錯乱状態のときにダーシー氏に会ったために、彼にすべてを話してしまったが、いまはそれを深く後悔していた。リディアが結婚すれば、駆け落ちはめでたい結末となり、あまり感心しない最初のことは、その場に居合わせなかった人たちには知られずにすんだかもしれないのだ。

だがエリザベスは、この噂がダーシー氏の口からひろまるとは心配していなかった。秘密を守ることでは、彼ほど信頼できる人物はいないと思う。だが同時に、妹のあやまちをいちばん知られたくない相手も彼だった。といっても、彼に知られると自分に不利益が生じると思うからではない。駆け落ち事件がなくても、自分とダーシー氏のあいだには、すでに越えがたい溝ができているのだから。リディアの結婚が何の不名誉もなく立派に行われたとしても、ダーシー氏はベネット家と縁つづきになるつもりはないだろう。欠点だらけのベネット家に、さらに彼のもっとも軽蔑する男が近親者として加わるのだから、そんな家と縁つづきになることなど、ダーシー氏は考えもしないだろう。

ダーシー氏が自分との結婚をあきらめるのは当然だと、エリザベスは思った。ダービーシャー州で会ったときに、彼が自分との結婚を願っていたら間違いないと思うが、こんなことがあったあとも彼の気持ちが変わらずにつづいているとは、とうてい考えられない。エリザベスはみじめで悲しかった。何にたいしてかわからないが、漠然と後悔の念がこみあげた。彼から尊敬されてももう意味がないのに、彼の尊敬を失いたくないと思った。彼の消息を聞く機会はもうなさそうなのに、彼の消息を聞きたいと思った。そして、彼に会うことはもう二度となさそうなのに、彼とならきっと幸せになれるだろうと思った。

自分は4ヶ月前に彼のプロポーズを傲然とはねつけたが、いまは感謝感激して受け入れるだろうと、エリザベスはたびたび思った。これを知ったら、彼はどんなに得意な顔をすることだろう!彼がどんな男性にも負けないくらい寛大な人物であることは間違いないが、彼も人間である以上、得意になることはあるだろう。

性格においても知性においても、ダーシー氏こそ自分にぴったりな男性だということが、やっとエリザベスにはわかってきた。彼の知性も性格も自分とはタイプが違うが、自分の望みにぴったり叶っている気がした。ふたりが結婚すれば、ふたりにとって大きなプラスになるにちがいない。自分の陽気な明るい性格によって、彼のきまじめな性格がやわらげられて、彼の態度はもっと感じのいいものになるにちがいない。そして彼の判断力、教養と、世間に対する知識によって、自分はさらに大きなプラスになるにちがいない。

だが、この理想的な結婚によって人々を驚かせ夫婦生活の真の幸せを人々に示すことはできなくなってしまった。まったく違った種類の結婚がまもなくベネット家で行われ、この理想的な結婚の実現の機会を永遠に奪ってしまうのだ。(P.176〜178)

その後、ガーディナー氏からの手紙で、ウィッカムが国民軍をやめ、正規軍に入隊することになることが知らされます。第35章でも触れましたが、当時のイギリスの軍隊は正規軍と国民軍により構成されていて、正規軍は、士官となるための任命辞令を金で買うというシステムで、これが安い値段ではなかったので、一般には裕福な家で、財産を相続できない次男以下が買って入隊していました。ウィッカムは正規軍の任命辞令を買うことができなかったので、国民軍の連隊に入っていたのですから、正規軍に入るには任命辞令を買わなければなりません。しかし、借金まみれになって逃げ出したウィッカムですから、お金など持っているはずがありません。では、ガーディナー氏が、ウィッカムのためにお金を払ったのでしょうか。ベネット家の人たちは、そのことに気付いていませんが、読者の中には気付く人もいるはずです。オースティンは、ここでは、そのことをあえて説明していません。

第51〜52章

ウィッカムとリディアは、イングランド北部の連隊に赴任する途中、ロングボーンを訪れます。このとき、二人に反省の様子がまったくないのに、ベネット氏やエリザベス、ジェインは呆れてしまいます。しかも、エリザベスは実際に二人の様子を見ていて、ウィッカムがリディアを愛していないことを実感し、そして、二人の駆け落ちの真相が、以前に推測したとおりだったことを確信します。

リディアはウィッカムを愛しているが、エリザベスが思ったとおり、ウィッカムのほうはそれほどリディアを愛してはいなかった。あらためてふたりを観察しなくても、ちょっと考えれば、この駆け落ちがウィッカムの愛情ではなく、リディアの愛情によってなされたものだということは容易に想像できる。それに、ウィッカムはリディアを愛してもいないのになぜ駆け落ちをしたのか、それも不思議ではない。ウィッカムは借金から逃げるために姿をくらます必要があって、目の前にいい道連れがいたので駆け落ちしただけなのだ。ウィッカムはそういう男なのだ。(P.187)

また、このときリディアが聞かれもしないで、結婚式の模様をエリザベスに自慢げに話すなかで、思わず、ダーシーが出席していたことを洩らしてしまいます。それを聞き逃さなかったエリザベスは、この結婚にダーシーが関わっていたのではないかと疑い、ガーディナー夫人に手紙を書いて事情を問い合わせます。

その返信で、実はダーシーがロンドンに足を運んで、二人を捜し当て、ウィッカムを説得し、すべてを根回しして、二人を結婚させたという真相が明かされます。それを聞いて、エリザベスはびっくりするわけですが、その時点で、エリザベスはダーシーの真意を測りかねていた、つまり認識が不十分であったことが暴露されます。それは、エリザベスという人物は、結局は自分のことしか考えていないで、ダーシーに対しては、自分が獲得できるか否かということしか考えていなかったからといえます。だから、この事実を知ったときに彼女の心の中に希望を持ち始めるのです。彼が何の行為も抱いていないリディアのために、これだけのことをしてくれたのは、「私のためなのだ」と、彼女の内なる声が囁くのです。しかし、その一方で、彼との結婚となるとウィッカムと親戚になるという新たな障害がうまれたと、計算するのです。そこに、結婚は愛情といいながら、その愛情を計算して、ダーシーをいかにゲットするかという戦略を考えているのがエリザベスの愛情です。しかし、その一方で、ダーシーがあれほどのこだわりをもっていた身分の不釣り合い、彼女の家族の不謹慎、などを取るに足りないものとして退けるには大変な苦痛と屈辱を伴ったはずですが、彼はその克服の過程をすべて自身の胸の内に収めていたわけで、エリザベスには、それに対する感謝が生まれ、それに自分は値するのだろうかという謙遜とも不安ともとれる心の動きが生じます。

彼がリディアのためにそんなことをするはずはないと思うから、自分で自分の推測を打ち消してきた。それに、もしこの推測が正しかったら、彼にたいへんな恩義を受けることになるので、それも困ると思った。しかし、そのもやもやした推測が、すべて事実と判明したのだ!しかも、予想もしていなかったほどのことをダーシー氏はしてくれたのだ!リディアとウィッカムを探すために、わざわざロンドンへ出向いて、あらゆる面倒と不愉快さを我慢して捜索にあたってくれたのだ。へどが出るほど大嫌いなヤング夫人に頭を下げて頼まなくてはならなかったし、顔も見たくないし名前も口にしたくないウィッカムと何度も会って、道理を説いて説得し、最後は金で買収までしなければならなかったのだ。しかもそれを、好意も尊敬も感じていないリディアのためにしてくれたのだ。つまりこれは、みんな私のためにしてくれたのだとエリザベスは心の中でささやいた。だがその甘い希望は、すぐに他の考えによって打ち消された。ダーシー氏はウィッカムと親戚関係になることを、虫ずが走るほど嫌っているはずだが、その嫌悪感を克服するほどの愛情を、一度プロポーズを断った自分にたいしてまだ抱いているとは、とても思えない。いくらなんでも、自分がそこまでダーシー氏から愛されているとは思えない。自分と結婚すれば、ダーシー氏はウィッカムと義兄弟にならざるを得ないのだ!そんなことは彼のプライドが絶対に許さないだろう。たしかに彼は、リディアの結婚のためにたいへんな犠牲を払ってくれた。それを思うと自分が恥ずかしくなる。しかし彼は、なぜそうしたかという理由もちゃんと言っている。ウィッカムのことを黙っていた自分に責任があるから、その償いをしたいのだという説明は、いちおう納得できる。彼は気前のいい人間であり、それだけの財力もある。だがエリザベスはこうも考えた。彼女を安心させることになるリディアの結婚のために、彼がこれだけの犠牲を払ったということは、彼女のためにだけにしたのではないとしても、彼女への未練心もすこしは関係しているのではないだろうか。それにしても、何のお返しもできないダーシー氏に、ベネット家がこれだけの恩義をこうむるというのは、なんとも心苦しい。リディアを連れ戻して、名誉を救ってくれて、そのうえお金まで出してくれたのだ。それなのに、自分はこのあいだまで彼をあんなに毛嫌いし、あんなに無礼な言葉を浴びせてきたのだ。エリザベスは自分が恥ずかしくなり、彼をすばらしい人間だと思った。同情と名誉のために自分に打ち克つことができる彼を、ほんとうにすばらしい人間だと思った。(P.202〜204)

この引用の描き方を、よく読んでいると、慥かに、エリザベスはことの真相を知り、ダーシーに感謝し、彼の思いをおもんぱかって、同情と名誉のために自分に打ち克つことができる彼を、ほんとうにすばらしい人間だ」と思います。しかし、その前に、彼の行動について、「みんな私のためにしてくれたのだとエリザベスは心の中でささやいた。」のです。これを囁いた直後、彼女は現実のダーシーとの結婚の障害を考えます。そこで彼女の思いは揺れ動くことになります。しかし、エリザベスがダーシーへの思いを内心で語っているのは、彼との結婚の希望がよみがえってきたことが、そのスタートになっているわけです。したがって、彼女がダーシーをすばらしい人間だと思っているのは、結婚の対象としてのことで、ナイーブに彼に感謝しているのとは、ちょっと違うと思います。そこに、エリザベスという人物の頭の良さが、一種の計算高さにあるのです。そこに、この小説の一筋縄ではいかない面白さがあり、オースティンの他の小説と違って、この小説が、あえて、喜劇仕立てで書かれているのは、そういうところに理由があると思います。

一方で、ダーシーの内心については、エリザベスの推測でしか語られていません。この小説でも、ダーシーにしろ、ビングリーにしろ、ウィッカムにしろ、男性の内面描写を直接書かれているところは少なく、ほとんどが、ここでエリザベスが、ダーシーがどう思ったかを推測しているように間接的な描写に留まっています。おそらく、ダーシーという人物は、エリザベスに釣り合うような男性ですから、彼女に劣らず複雑な性格であるはずです。二人の会話の場面では、虚々実々の駆け引きを丁々発止とやりあっているのですから、頭の回転が早く知識が抱負というだけの人物ではないはずです。しかし、ここでの、自己犠牲にも見えるような英雄的な行動を見ていると、単純な人物に見えてきてしまいます。ここでのエリザベスの推測で語られているダーシーは立派な人物ですが、おそらく、その裏でエリザベスにおとらないほどに計算をしているのでしょうが、それはすべて無視、あるいは捨てられています。そこに、ヒーローとしての理想化が働いている。あくまでもエリザベスから見ているというのは、そういうわけで、オースティンの小説というのはリアリズムと言われていますが、恋愛小説であり、ダーシーはエリザベスにとっては白馬の王子様であり、そういうヒーローとしての理想化が行われている。それが、今回の英雄的な行動をしてしまう高潔な人格者として、私などから見たら、すばらしすぎてうそ臭いところがありますが。だいだい、リディアをウィッカムをめぐって、このような行動を、結婚し夫婦になってから、ダーシー実行したとして、エリザベスは、それを高潔な行動として感心するでしょうか、それとも家計の面から多額の無駄遣いを責めるでしょうか。どちらとも言えないでしょう。それほど、ダーシーの行ったのは、現実には無謀な行為であって、手放しで立派といえるのは、小説の世界だからです。それを、無謀に振る舞いとしてでなく、高潔な行動として描いて、読者に納得させてしまうところに、オースティンの小説の特徴があると思います。

第53〜54章

ウィッカムとリディアは赴任地であるニューカッスルにむけて出発し、ベネット家にようやく落ち着きがもどったころに、ネザーフィールド屋敷に人が戻ってくるという噂が伝わってきます。噂は、本当のこととなり、ある日、乗馬したビングリーがベネット家を訪ねて来ます。そのビングリーの傍らにダーシーもいました。エリザベスは驚きます。そして戸惑います。これまでのいきさつもあるし、しかもベネット家の人々は、そのことを知らないのです。そのため、ベネット夫人がダーシーに対して失礼を重ねます。そのことが、エリザベスをさらに戸惑わせます。

ダーシー氏が再びネザーフィールドへやってきて、彼女に会いにロングボーンへやってきたのだ。これはダーゴシャー州で、彼の一変した態度をはじめて見たときと同じくらいの驚きだった。

一瞬青ざめたエリザベスの顔に、血の気が戻って輝きを帯び、喜びの微笑に瞳も輝きを増した。ダーシー氏の愛情と希望はまだ消え失せていないと思ったからだ。だが、まだまだ確かではない。

「とにかく彼の態度を見てみよう」と彼女は思った。「期待をかけられるのは、それからでも遅くはない」(P.215〜216)

迷いのあるエリザベスは、ダーシーの様子を見てから、自身の行動を考えようとします。

一方のダーシーもダービシャー州のときとは印象が違って、以前の姿に戻ってしまったようでした。二人の会話も途切れがちです。

ダービシャーで会ったときは、あんなに気を使って愛想よく振舞っていたのに、今日はまるで感じが違って、何かひとりで考えこんでいるような様子だ。エリザベスはがっかりしている自分に腹が立った。

「これが当然なのだ」とエリザベスは自分に言った。「勝手な期待をした私が馬鹿なのだ。でも、それならなぜ来たのかしら?」(P.218)

おそらく、ダーシーにも不安や戸惑いがあったと思います。そして、エリザベスの様子を、彼女が彼を見ていたのと同じように、彼も彼女を見ていたと思います。それは、この後の章でわかりますが、ダーシーはエリザベスにプロポーズする気でいた。おそらく、リディアとウィッカムの件については、それをエリザベスへのプロポーズに役立てようというつもりはなかったと思います。それは、エリザベスのプライドの高さに対しては逆効果になる危険もあったし、何よりも、彼自身の人物に愛を感じてほしいという思いが強かったと思います。したがって、一度手酷くプロポーズを拒絶したエリザベスに再びプロポーズをしたとしても、応じてくれるかは、わからない。彼は、プロポーズを真剣に考えていたからこそ、彼女の様子が気になっていたと思います。そのため、ダービシャーのように話しかけることはできなかった。

彼らが帰ると、エリザベスは、あらためてダーシーの態度に驚き、かつ腹を立てるのでした。

「ロンドンでは叔父と叔母に、あんなに感じのいい態度をとれたのに、なぜ私にはあんな態度をとるのかしら。私がこわいのなら、なぜうちへ来たのかしら。私のことをなんともおもっていないのなら、なぜあんなに黙りこんでいるのかしら。ああ、わからない!ほんとにわからない人!もうあの人のことを考えるのはよそう!」(P.223)

エリザベスは、かなり苛々しています。ダーシーが無愛想と見るや、以前のような彼を攻撃する姿勢をとろうと身構えようとします。このあたり、エリザベスの不安な状態が表われています。ある意味、恋愛とは、本来、こういうものかもしれません。相手の態度によって悲観したり、また舞い上がったりと、一喜一憂する様は、エリザベスが才知に優れた人物であったとしても、その前に、ひとりの恋する女性であることを示していると言えます。

第55章

ビングリーは、たびたび、ベネット家を訪れるようになります。もはや、彼がジェインに対する愛情を持ち続けているのは明らかでした。そして、ある日、めでたく婚約が成立します。

これまで、あまり触れてきませんでしたので、ここでまとめて、ジェインについて述べていきたいと思います。

『高慢と偏見』ではジェインとエリザベスの姉妹を対照的に描いています。ちょうど前作の『分別と多感』も同じように、エリナーとマリアンという対照的な性格の姉妹が主人公で、姉のエリナーがジェインとよく似た、穏やかで、慎重なタイプで、妹のマリアンがおよそ正反対の性格で、姉のマリアンが、耐えて待ち続けて、恋を成就するという物語でした。『高慢と偏見』は、前作とは反対に、活発な妹のエリザベスが動き回って恋をゲットする物語です。ただし、ふたつの物語の姉妹の対照の仕方は異なりますが、正反対とも設定で、それぞれの性格をきわだたせ、その性格に応じた恋の形も対照的に描かれるという構造では、ふたつの作品は共通しているところがあります。

『分別と多感』のエリナーとマリアンは小説のタイトルである分別と多感をそれぞれが代表しているような設定でした。それでは、エリザベスとジェインの姉妹は、どうでしょうか。これまで、散々見てきたエリザベスとの対比でジェインを見てみましょう。ジェインは五人姉妹の中で一番美しく、母であるベネット夫人からの愛情も一番注がれています。かといって、自分の美しさを鼻にかけるような態度を取ることは全くなく、謙虚で控えめな美しい娘です。気が強く、物事をはっきりと言い切り、人の悪口まで言ってしまうエリザベスとは対照的で、周りの人々の欠点を見つけたり、それゆえにその人を嫌ったりすることはなく、すべての人の性格の良いところだけを見るような心の優しい人物です。しかし、謙虚で控えめな性格のために自分の気持ちをあまり表に出したりもしないので、ビングリーに対して抱いた好意も肝心の本人には気づかれないままになってしまっていたのでした。

二人の対照性が、実際の場面で現われているで、一番わかりやすいのが母親との関係です。母親のベネット夫人は、『高慢と偏見』のなかで最も喜劇的な人物として描かれています。読者は、賢い娘エリザベスとは似ても似つかぬ母親として、引き立て役のような存在として映ります。しかし、ベネット家に立ち入ってエリザベスとの母娘関係をみていくと、この二人の関係は、つねにぎくしゃくとしているのです。小説の冒頭の夫婦の会話の中で、ベネット氏が、他の4人の娘たちは愚かで無知だがエリザベスだけは頭が切れると評価しているのに対して、ベネット夫人はエリザベスは他の娘たちに比べていいところはないと、ジェインの半分も美人ではないし、リディアの半分も愛嬌がないと言っています。ここで、ベネット夫人はエリザベスに対して、低い評価、さらに言うと気に入らない娘だという気持ちを明かにしています。自分の頭で考え、それゆえに自己主張もするエリザベスは、ベネット夫人からみれば自分の思い通りにならない親不孝な娘で、できるだけ関わりを避けたい、気に入らない存在なのです。一方で、エリザベスの方でも母親は恥ずかしい存在なのです。そこには、自分を評価してくれない、ありのままの自分を受け容れてくれない母という断絶の意識があると考えられます。おそらく、その影響からか、他人に対してネガティブに反応する傾向があります。例えば、コリンズやビングリー姉妹に対する意地の悪いほど辛辣な態度は、行き過ぎなところがあり、ある面では、そういう不安定さが露呈しているといえなくもありません。これに対して、ジェインは、ベネット夫人にとっては自慢の美しい娘で、存分に愛情を注ぎ、その存在を全面的に肯定し、受け容れています。そのせいか、ジェインには自己肯定感が強く、どっしりと安定しています。それゆえに、誰に対しても親切な善意溢れる人間であるばかりでなく、エリザベスの場合のようなコンプレックスがないため、自分自身に対してもいたずらに卑下することなく、つねに自然体でいることができます。それゆえに、ややもすると、他人を決めつけて見てしまう偏見に囚われがちなエリザベスと違って、眼を歪めることなく正確に見ることができる。エリザベスのような鋭利な観察や分析で深堀することはありませんが、ありのままを見ることができているのです。その違いが端的に表われているのが、作品中に頻繁に挿入される、姉妹の対話です。そこで、エリザベスの独断の行き過ぎをたしなめて、まちがった方向にいってしまいそうなときに、軌道修正をしているのがジェインなのです。例えば、ジェインは、ダーシーに対して、評価をすることができたのです。

少し脱線しますが、このように、美人で、性格がよく、誰からも愛されるジェインは、典型的なロマンスのヒロインです。誰よりも美しく、もともと出来の良いヒロインが王子様のようなすてきな男性と結婚するというパターンが定石です。ジェインは、そのパターンにピッタリです。しかし、『高慢と偏見』はそういう定石のロマンスとは異質のゴタゴタが、次々と発生します。そのゴタゴタ引き起こす張本人であるエリザベスがヒロインになっています。典型的なロマンスであれば、エリザベスのようなキャラクターは三枚目の役割で、ヒロインを引き立てるような役回りです。そういうところに、オースティンという作家が、これまで『ノーサンガー・アビー』でゴシック小説のパロディを、『分別と多感』で恋愛小説のパロディを試みてきたように、ここでも典型的な恋愛小説のパターンに対して、パロディのように典型を外して、恋愛小説の見直しを試み、新しいパターンを試みています。しかも、それを新しい実験的な試みということを読者に意識させずに、面白いキャラのヒロインによるドタバタ喜劇のように笑えて、しかし、ロマンチックにもなれる恋愛小説として受け容れられるようにつくられています。しかし、従来の典型的な非の打ちどころのないヒロインを白馬に乗った王子様が迎えに来るというパターンから、人間と人間が対決するように対等な人間同士が正面からぶつかり合い、それによって互いに成長し、人間として認め合うことで恋愛が成立するという、新しい恋愛パターンをつくったといえます。そういうパターンでは、ジェインという女性は、いまひとつ物足りない。そのせいなのか、ジェインの恋愛の相手であるビングリーは美男子で正確も悪くないにもかかわらず、物足りない人物なのです。ジェインとビングリーの結婚について、父親のベネット氏は、皮肉をこめて、次のように祝福しました。

「こんな幸せな結婚ができて、私もほんとにうれしい。おまえたちはきっとうまくいく。性格もよく似てるし、ふたりとも協調性が豊かだから、ふたりでは何も決まらんだろうし、ふたりとも人がいいから、召使にだまされるだろうし、ふたりとも気前がいいから、家計はいつも赤字だろう」(P.239)

これは二人について当たっていると同時に、典型的な王子様とお姫様のロマンスを現実の結婚生活として考えると、こういうことになるのです。『高慢と偏見』では、典型的なロマンスの主人公タイプの現実的な面が見えてくるように描かれている。ここには、エリザベスをヒロインとしたこととは別に、恋愛小説のパロディであるとともに、新しい面がある。だって、恋愛小説は愛し合って結婚しい終わりですが、『高慢と偏見』では、結婚を一応のゴールとはしていますが、その後の結婚生活にまで視野が広がっていて、ベネット氏の言葉は皮肉ではありますが、どのような夫婦生活を送ることになるか、が物語のなかで後日談のように語られています。これは、現実の生活は続くのだということを、一言、皮肉でもいいから、断っておきたかったのでしょう。そこに、従来の恋愛小説とは違うというスタンスとそれを意識しているオースティンの気概が表われていると思います。

例えば、ジェインとビングリーは、ベネット氏による見通しが、早々に語られたので、リディアとウィッカムの夫婦生活については、次のように語られています。

ふたりの性格は、姉たちが結婚してもまったく変わらなかった。ウィッカムは、自分の忘恩とうそがすべてエリザベスにしられてしまったにちがいないと思ったが、カエルの面に小便という感じでこれに耐えた、そして、いろいろなことはあったがダーシーにうまく頼めば、また一財産つくれるのではないかという希望を、完全には捨てていなかった。(中略)リディアもウィッカムも金づかいが荒いし、将来のことなどまるで考えないから、ふたりの収入では生活費にも困ることは明らかだ。駐屯地が変わるたびに、必ずジェインかエリザベスのどちらかが、借金の支払いのために援助を求められた。平和が回復して除隊になっても、ふたりの生活ぶりはまことに不安定で、安い借家を転々として、いつも収入以上の生活をつづけた。リディアにたいするウィッカムの愛情はすぐに冷め、彼に対するリディアの愛情も、それよりすこし長くつづいただけだった。(P.303)

さて、話を本筋に戻しましょう。『高慢と偏見』という小説は、主人公のエリザベスもダーシーも、強い偏見に囚われていて、二人はぶつかり合うことで、自らの偏見に気がついて、そこから脱して行くプロセスを描いています。題名がそうだいらということもあるのか、これを小説のテーマというひともいるようですが、小説に登場する人たちは、皆何らかの偏見を抱えています。しかし、その中で、ジェインという人物は偏見にとらわれていないのです。そこで、彼女はエリザベスに対して、常に北を指し示す羅針盤のように、あるいは鏡となってエリザベスの偏見を映し出す存在でもあるのです。そういう機能を果たすには天使のような存在となってしまうところを、オースティンはヒロインの姉として、いささか存在感は薄いものの、人間として存在させています。

第56章

ジェインとビングリーの婚約発表から一週間後、ロングボーンに、突然、キャサリン・ド・バーグ夫人が乗り込んできます。彼女は、エリザベスとダーシーが結婚するという噂を聞きつけ、それを阻止するために、馬車を走らせてやってきたのです。

まず、夫人は噂を否定するようにエリザベスに要求します。わさわざ、夫人がロングボーンに出かけてきたということで、結果的に噂を事実として認めたことになる、と切り返すエリザベス。そして、夫人は感情的になってエリザベスのような、身分の低い親戚がいる女性と、自分の甥が結婚することは断じて許せない、と息巻いて本音を露わにします。親戚のことで徹底的にプライドを傷つけられたエリザベスは徹底抗戦の構えです。これとそっくりの場面が以前ありました。そうです第34章でダーシーからプロポーズを受けたとき、身分の違いや親戚を馬鹿にされプライド、というより自身の尊厳を傷つけられたエリザベスは、計略も打算もなく本気で怒りました。その再現のような場面です。だからこそキャサリン・ド・バーグ夫人はエリザベスの迫力に圧倒されていくのです。夫人の主張も、結婚が当人だけの問題では終わるものではなく、そこには家族や親戚、そしてさらに地位や名誉や財産など、世俗的な事柄もついてまわるというのは、当時では常識的な主張です。それに対してエリザベスは次のように言います。

「私にどんな親戚がいても、ダーシーさんに依存がなければ、あなたに関係ありません」(P.252)

親同士の決めた許婚の存在を主張するキャサリン夫人を、エリザベスはダーシー本人がその気にならなければ成立しないと一蹴します。

「それが私にどういう関係がありますの?私がダーシーさんと結婚することに、ほかに支障がないのなら、彼のお母さまと叔母さまがミス・ド・バーグとの結婚を望んでいても、私はあきらめるつもりはありません。おふたりがその結婚のために努力なさったことはわかりますが、実際に結婚するかどうかを決めるのは、おふたりではなくて、結婚する当事者です。ダーシーさんがミス・ド・バーグと結婚したいというのなら別ですが、そうではないとしたら、なぜほかの相手をえらんではいけないんですか?そして彼の選んだ相手が私だとしたら、なぜ私が彼と結婚してはいけないんですか?」(P.250)

エリザベスの主張は理にかなっていて、キャサリン夫人はエリザベスの情に訴えようとするも、エリザベスの考えを変えることはできません。エリザベスの歯に衣着せぬ物言いは、夫人を圧倒していきます。結果的に、自分の幸福を追求し、自分と関係のない人のことは考えないという姿勢は、自分に正直に生きる女性の、たくましく力強い姿を、読者に感じさせることになめのです。彼女は、高らかにこう言います。

「奥さまや、私と何の関係もない人たちの指図は受けずに、私が幸せになれる道を進むつもりだと言ってるだけです」(P.255)

以前、ダーシーと結婚したらウィッカムがダーシーの義弟になることをやきもきと心配したエリザベスが、ここでは、体面、儀礼、分別、信用などが損なわれるというキャサリン夫人の主張についてはバカバカしいと一蹴します。ここでの、エリザベスにとって、家柄とか財産のあるなしは議論するに及ばない、ばかげた問題で、本人同士が愛し合っているということだけなのです。それは、ダーシーの第1回目のプロポーズを社会的な地位や財産を一顧だにすることなく、彼女自身の尊厳の問題として拒絶した姿勢と変るところがありません。

だから、夫人は捨て台詞を残して退散するしかなかったのです。

第57章

キャサリン夫人は帰りましたが、エリザベスの動揺はおさまりません。まず、彼女とダーシーが婚約したという噂がどこから出たのか、彼女には不思議でした。おそらく、ビングリーとジェインが婚約したことで、もう一組と期待する雰囲気で噂をする人々が現われ、ルーカス家からコリンズを通じて夫人の耳に入った。多分そんなところでしょう。それは、コリンズから、ダーシーとの結婚を思いとどまるように忠告する手紙がベネット氏のところに届いたことで証明されたかたちとなりました。

一方で、キャサリン夫人は叔母としてダーシーに一定の影響力を行使して、さっき彼女が言ったことをダーシーに伝え、身分違いの女との結婚というプライドの高い彼の一番弱いところを突くに違いないと。しかも、もともとダーシーは、この結婚に迷いがあった、というように不安材料が後から後からでてきて、不安になります。エリザベスには、さっきまでの自信がなくなって、ぐらつき始めます。そして、

「ネザーフィールドには戻れなくなったという彼の手紙が、数日中にビングリーさんに届いたとしたら、すべてがわかるはずだ」とエリザベスは思った。「そうしたら、彼の変らぬ愛なんて、もう期待もしないし望みもしない。私の愛と誓いの手を得られたかもしれないのに、惜しい女だったと思うだけで満足するつもりなら、私も、惜しい男だったなんて思わずに、すぐに忘れることにしよう」(P.259)

ダーシーの愛が、キャサリン夫人の説得に負けてしまう程度なら、それはそれで結構という、開き直りです。

第58章

ネザーフィールドには戻れなくなったという手紙が届くというエリザベスの予想に反して、キャサリン夫人の訪問のあった数日後に、ビングリーがダーシーを連れてベネット家を訪れました。散歩に出て、偶然とり残され二人だけになったところでダーシーがエリザベスにプロポーズしました。彼は、キャサリン夫人からロングボーンでのエリザベスとのやり取りのことを聞き、エリザベスの本心を知ります。ダーシーは最初の求婚のときに、エリザベスから拒絶され、激しい言葉で侮辱されました。普通なら、それでもなお求婚を繰り返すという勇気は、なかなか出てきません。もし、そこで勇気をもって彼女に付きまとえば、未練がましいとか、現代ならストーカーです。そうならなかったのは、ひとつにはダーシーには社会的地位と財産があり、当時の男性優位の社会では男性が問題視されることはなかった。そして、こちらが重要だろうと思いますが、ダーシーがエリザベスの言葉を真摯に受け止めて、自身の偏見を克服したからと言えます。ダーシーは、エリザベスにこう語ります。

「あのときの自分の言葉と、あのときの自分の行動と態度を思い出すと、いまでも耐えがたいほどつらいんです。あなたの的を得た非難を、ぼくは一生忘れません。『もっと紳士的にプロポーズされていたら』とあなたはおっしゃいました。あのひと言がどんなにぼくを苦しめたか、あなたにはわからないでしょう。想像もつかないでしょう。正直に言いますが、あなたの言葉の正しさが本当にわかったのは、しばらくたってからでした」(P.270)

ダーシーのこの言葉は、小説前半のしゃべりと比べて見てください。まるで別人のようです。そういう変化(この場合は、成長と言っていいのでしょう)をさせてしまったほど、エリザベスを深く愛していたか、あるいは、そういう変化を促す存在としてエリザベスへの愛を深めたのか、それについての説明はありませんが、それだからこそ、ダーシーは、エリザベスに愛を受け容れてくれるか、前回のプロポーズのときのような過信はできなかったのです。だから勇気が持てなかった。

そんなプロポーズを逡巡していたダーシーの背中を押したのがキャサリン夫人でした。夫人はエリザベスの言葉をあらいざらいダーシーに伝えました。夫人の考えでは、それらはエリザベスの反抗的姿勢と厚顔無恥を証明するもので、それを彼に話せば、ダーシーはエリザベスに愛想をつかすと思ったのです。しかし、夫人の目論みは完全に裏目に出てしまいます。逆に、ダーシーは夫人の話をきいてプロポーズの可能性に希望を持つことができたのです。キャサリン夫人の行動は、ペンバリー屋敷で再会したミス・ビングリーがエリザベスを辱めようとウィッカムの件を持ち出してダーシーを怒らせたことの再現のようです。この場合も、皮肉なことにダーシーとエリザベスの縁結びをしてしまい、夫人の意図とは裏腹の効果をもたらしてしまいます。

このようにオースティンは常にアイロニーを重ねながら、作品を動かしていきます。ヒロインのエリザベスだって完璧な女性ではありません。彼女はおツムは人に抜きん出ているかも知れませんが、それゆえにプライドが高く、自己を過信するあまり偏見にとらわれがちです。相手のダーシーも似たようなところがありますが、ダーシーは謙虚さを獲得しようとしています。これに対して、エリザベスは、少しは反省のそぶりは見せたものの、本質は、それほど変わっていません。しかし、彼女は、むしろ、それを逆手にとって武器として活用し、遂にはダーシーという獲物をゲットし、結婚という、この物語の最初で目標としていた成功をおさめることができたわけです。このような結果だからこそ、完璧な人間ならぬ読者にとっては、痛快なわけです。完璧な美女が幸せな結婚に至りましたという話から、読者とは無縁な世界で起きた空々しい出来事です。しかし、エリザベスの話は、読者の自身の世界とのつながりが感じられるという点で、リアルでありかつ痛快に感じられるのです。

第59章

エリザベスとダーシーの婚約を家族に伝える際のひと騒動です。ダーシーのプロポーズが受け容れられたことで、この小説のメインの物語は大団円となりました。まだ数章が残っていますが、それらは後日談の様相を呈していきます。

第60章

まるで、エリザベスとダーシーが二人の恋愛の反省会をしているような内容です。エリザベスがダーシーに、なぜ自分を好きになったのかを質問しています。婚約成立後のふたりの仲睦まじい会話ですが、作者は言い足りないところがあったのでしょう。ここにきて、エリザベスは絶好調です。

「たぶんあなたは、お行儀の良さや、うやうやしさや、うるさく世話をやかれることなどにうんざりしていたのね。あなたに気に入られたい一心で話したり、見たり、考えたりする女性たちにうんざりしていたのね。ところが、私はそういう女性たちとぜんぜん違うので、あなたは私に興味を持ったのね。あなたが心のやさしい方でなかったら、私を大嫌いになっていたはずです。でもあなたは、いくら本心を隠しても、いつも気高い正しい心をお持ちです。必死に言い寄る女性たちを、心の底では軽蔑しているのです。」(P.292)

ダーシーに対して無礼ともいえる態度をとってきた自分が、なぜ彼の気を引くことになったのかということを、ダーシーの前で分析してみせています。まるで、エリザベスは、例えば、ミス・ビングリーのように彼にすり寄っていく戦略が彼には逆効果で、エリザベスは、そのことを見抜いて生意気な態度に出たことが功を奏した。戦略の勝利だと語っているかのようです。

また、エリザベスはガーディナー夫人へダーシーとの婚約を報告する手紙を次のように書きます。

「小馬のことは、叔母さまの名案です。ぜひ小馬に馬車を引かせて、ペンバリーの庭園めぐりをいたしましょう。私は世界一の幸せ者です。同じことを言った人はたくさんいるでしょうけど、この言葉は誰よりも私にぴったりです。私はお姉さまよりもっと幸せです。お姉さまはほほえむだけですけど、私は高笑いしています。」(P.296)

最初の小馬のことというのは、第52章でエリザベスがリディアとウィッカムの駆け落ち事件の解決にダーシーが絡んでいたことをリディアから聞きつけ、ガーディナー夫人に問い質した返事のなかで、ガーディナー夫人が次のようなことを書いていたことへの返信です。

「私をペンバリー屋敷から仲間はずれにしないでください。もう一度行って、あの広大なお庭を全部見せていただけたら、ほんとうに幸せです。すてきな小馬に引かせた低い四輪馬車に乗ってお庭めぐりをしたら、最高でしょうね。」(P.201)

つまり、ダーシーと結婚したあかつきには、広大なペンバリーの屋敷も庭園も私のものだから、すきなだけ見ることができる。いわば、ダーシーという結婚相手をゲットした戦利品のひとつとしてペンバリーを見せてあげますという意味が言外にあると思います。そのあとに「私は世界一の幸せ者です」と続くのは、その幸せは理想の相手をゲットしただけでなく、たくさんの戦利品を手にしたということが含まれている。それをあからさまに、比喩とはいっても、かなり直接的に表わしているわけです。それは、生活のために結婚したシャーロット・ルーカスを幸せになれないと批判したり、身分や社会的な関係を結婚に持ち出したキャサリン夫人に怒り、何よりも母親を恥ずかしいと思っていたエリザベスが、ここで、彼女たちと同じレベルで、しかも恥ずかしげもなく喜んでいるわけです。そういうエリザベスの矛盾したところ、しかも、鋭い観察眼と分析力をもっていながら、それに気付くこともないところを、オースティンは冷静に、客観的に眺めて、最後のハッピーエンドのところで明かにしてしまっている。この物語の終わり方が、アイロニーで終わらせている。ここに、この小説の一筋縄ではいかない、それゆえに、何度繰り返し読んでも、退屈しない面白さがあると思います。

それから、「私はお姉さまよりもっと幸せです。お姉さまはほほえむだけですけど、私は高笑いしています。」という文言。ジェインだってビングリーというお似合いの伴侶と相思相愛の結婚にたどり着けたのに、それを自分と比べて、自分のほうが幸せとことわるのでしょうか。そこには、姉の結婚よりも自分の方が規模の大きな玉の輿で、だから、比べれば、私の方が勝っている、という本音がはからずも出てしまっているのです。「ほほえむ」に比べると「高笑いする」は明らかに力強い。おなじ笑顔でも強さが違います。その違いは、幸せで勝っているということに喩えられていると言えます。これはまた、他方で、他の人物たちによって、ふたりの姉妹の性格を区別する言葉として使われてもいます。例えば、ダーシーは、「ジェインが美しいことは認めるけれど、ほほえみすぎる」と言っています。あるいは、ガーディナー夫人がロンドンでビングリーに会えないで元気がないジェインについて、「かわいそうなジェイン。だってあの人の気質では、ちょっとすぐには忘れられないものねえ。リジー、いっそのこと、あなたならもっとよかったんだわ。あなたなら、すぐに笑いとばしてしまうだろうから。」つまり、これはジェインとエリザベスの幸せの感じ方の違いの比喩でもあるのです。ジェインは、ビングリーと結婚して戦利品にほくそ笑むことは想像できません。しかも、「笑う」というのは、ベネット家の末娘リディアの口癖でもありました。

 

4.『』の多彩な魅力

(1)「」をめぐる小説

ジェーン・オースティンの小説には、りを入れています。単なるサクセスストーリーではないということには、留意しておいて下さい。

 

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