マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第5篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産
第14章 絶対的剰余価値と相対的剰余価値
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産

第14章 絶対的および相対的剰余価値

〔この章の概要〕

この章では、第3篇および第4篇の考察にもとづいて、理論的な整理を行います。

資本は、賃労働者から労働力を買うことで、賃労働者にたいする指揮命令権を獲得し、労働過程を自らの価値増殖活動にしたがわせます。マルクスはこれを「資本のもとへの労働の形態的包摂」と呼んでいます。ここでは、まだ生産方法の変化は生じていませんが、それでも生産過程内部の関係に根本的な変化が生じています。第9章でみたように、労働者が生産手段を使用するものではなく、生産手段が労働者を使用するという生産過程における物象化が発生するからです。

さらに、資本は労働過程を技術的に変革することをつうじて、労働過程を技術的な次元でも自らの支配下に置きます。これが「資本のもとへの労働の実質的包摂」です。いまや形態的包摂において発生していた転倒は技術的にも実現されることになります。資本は分業を組織することによって、労働者の作業を一面化・単純化し、労働者を分業に組み入れられることによってしか生産できない存在へと変え、さらに大工業においては生産手段が機械となることによって現実に能動性を獲得し、労働者はその付属物にされてしまいます。このようにして、資本は技術的な変革をつうじて賃労働者を従属させ、賃労働者にたいする支配を実質的なものにするのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

生産労働の概念の拡大

労働過程は、まず第一に、その歴史的諸形態にはかかわりなく、人間と自然とのあいだの過程として、抽象的に考察された(第5章を見よ)。そこでは次のように述べられた。「労働過程全体をその結果の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現れる。」そして、注7では次のように捕捉された。「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義生産過程についてはけっして十分なものではない。」これが、ここではもっと詳しく展開されるのである。

労働過程が純粋に個人的な過程であるかぎり、のちには分離してゆく諸機能をすべて同じ1人の労働者が一身に兼ねている。彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的に獲得する場合には、のちには彼が制御される。個々の人間は、彼自身の筋肉を彼自身の脳を制御のもとに活動させることなしには、自然に働きかけることはできない。自然の体制では頭と手が組になっているように、労働過程は頭の労働と手の労働とを合一する。のちにはこの二つが分離して、ついには敵対的に対立するようになる。およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的な生産物に、1人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する。その要員の構成員は、労働対象の取扱いに対してより近くあるいは遠く関与している。それゆえ、労働過程そのものに協業的な性格につれて、必然的に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのである。生産的に労働するためには、もはやみずから手を下すことは必要ではない。全体労働者の器官であるであるということだけで、つまりその部分的機能のどれか一つを果たすということだけで、十分である。前に述べた生産的労働の本源的な規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体として見た全体労働者については相変わらず真実である。しかし、個別に見たその各種の成員には、それはもはやあてはまらないのである。

第5章では労働過程について、人間と自然との間のプロセスとして考察しました。ここでは、まず、その考察を発展させていきます。

労働過程が純粋に個人の過程として完結したものであれば、一人の労働者が自分の生活のために自給自足をするように必要なすべての機能を統合的にひとりで行います。つまり、労働対象を自分の生活のために、個人で取得して、それに手を加え管理する。それが、のちに一人では完結できなくなって、個人に統合されていた機能が分離されるようになります。つまり、労働対象を自分以外の人の生活のために、他の人が取得して、他の人に管理される。労働過程は、個人が、頭脳労働と手作業を統合していたのを、後になると、頭脳労働と手作業が分離されて、対立関係になるのです。そこでは、生産物が生産者個人の生産物から、社会的な生産物、つまり全体労働者の協業による共同の生産物や統合された労働者の分業による共同の生産物へと変化します。

このように労働過程が協業的になっていくと、その結果として生産的な労働というもの幅広いものになるのです。これに伴い、その労働の担い手である労働者の範囲も行うことも幅広くなっていくことになります。例えば、生産的に労働するものが、自分の手で作業しなければならないということではなくなります。全体労働者といって、すべての作業を行うのではなく、その作業のうちの一部分担すれば十分だということになります。はじめに述べた生産労働という過程は、ものをつくるという生産そのものの性格に基づくものであり、全体労働者が行うことと一致します。

これまで労働過程はまず、その歴史的な形態とは別に、人間と自然とのあいだの過程として抽象的に考察してきた(第5章を参照されたい)。そこでは「この過程の全体をその成果である生産物という観点からみると、労働手段と労働対象はともに生産手段として現れ、労働そのものは生産的な労働として現れている」と書かれている。さらに注7において、「生産的な労働のこの規定は、単純な労働過程の観点から定められたものであり、資本制的生産過程の観点からは不十分なものである」と補足しておいた。以下ではこれについてさらに発展させる必要がある。

労働過程が純粋に個人的な過程であるかぎりは、[最初は]同じ1人の労働者がすべての機能を統合しているのであり、それが後に分離されるのである。彼は自然の対象を自分の生活の目的のために個人的に取得することによって、みずからを抑制する。しかし後には抑制されるようになる。1人の人間は、頭脳を制御しつつ自分の筋肉を動かさなければ、自然に働きかけることはできない。自然のシステムにおいては頭と手が一つの身体に属しているように、労働過程は頭脳労働と手作業を統合している。後になって頭脳労働と手作業が分離され、敵対的な対立項になる。

生産物は個人の生産者の直接的な生産物から、社会的な生産物へ、1人の〈全体労働者〉の共同の生産物に、すなわち統合された労働人員の共同の生産物へと変化する。この結合された労働人員のうちには、労働対象を操作する場所に近いところにいる者も、遠く離れたところにいる者もいる。

このようにして労働過程そのものが協業的な性格を獲得していくと、必然的に生産的な労働の概念が拡大されることになり、その労働の担い手である生産的な労働者の概念も拡大していく。今や生産的に労働する者がつねにみずから手を下す必要はなくなる。〈全体労働者〉の一つの〈器官〉となり、その下位の機能の一つを担当すれば十分なのである。すでに述べた生産的な労働のほんらいの規定は、物質的な生産そのものの性格からえられたものであり、全体としてみれば〈全体労働者〉に依然として該当する。ただし〈全体労働者〉を構成する個別の成員については、もはやこの規定は該当しない。

 

生産的な労働者の概念

ところが、他方では、生産的労働の概念は狭くなる。資本主義的生産は単に商品の生産であるだけではなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産するのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼がなにかを生産するというだけでは、もはや十分ではない。彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけである。物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を豊ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。それゆえ、生産的労働者の概念は、けっして単に活動と有用効果との関係、労働者と労働生産物との関係を包括するだけではなく、労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである。本書のなかでも理論の歴史を取り扱う第4部では、古典派経済学はもとから剰余価値の生産を生産的労働者の決定的な性格としてきたということが、もっと詳しく示されるであろう。それゆえ、経済学が剰余価値の性質をどのように把握するかにしたがって、その生産的労働者の定義も違ってくるのである。たとえば、重農学派は、ただ農耕労働だけが剰余価値をもたらすのだから、ただ農耕労働だけが生産的だ、と言う。だが、重農学派にとっては、剰余価値はただ地代という形態だけで存在するのである。

これに対して、生産的な労働というのは、資本制的な生産の場合の労働を指すことになるので、労働過程に比べる範囲は狭められます。というのも、資本制的な生産は、たんに商品を生産するだけでなく、剰余価値を獲得するための生産、つまり剰余価値の生産となっているからです。このとき、労働者は、もはや自分ために生産をするのではなく、資本のために生産することになります。労働者が生産的な労働をするというのは、資本家のために剰余価値を生産するということです。逆に言えば、資本の自己増殖のための労働が生産的な労働なのです。

わかりやすい例でいうと、学校の教師が生産的な労働者になるのは、子供に教育をするだけではだめで、学校の経営が利潤をあげるために教育という作業をする場合です。生産的な労働者というのは、たんに活動と効果の関係、労働者と労働生産物との直接的関係だけでなく、資本の価値増殖との関係が加わります。とくに、この関係は社会的な関係です。そして、剰余価値の性格によって、労働者の生産的な労働の性格も変わってくることになります。その剰余価値の性格の違いによって分類されるのが、絶対的剰余価値と相対的剰余価値です。

すでに第5章でマルクスは労働過程一般のあり方を考察していました。そこではまず、労働過程は人間と自然との間の物質代謝としていわば歴史貫通的様相にあって考察されました。それは労働過程を個人的過程として捉えるものだったと言えます。

ここでは、それを越えて、労働過程そのものが協業的な性格を強めていくにつれて、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのです。労働過程が個人的なものである限りで、個々の労働過程にあって頭脳労働と手作業とが統一されています。協業の開始はこの二つの労働を分離させ、後には敵対させるようになります。その結果、「およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的な生産物に、1人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する。その要員の構成員は、労働対象の取扱いに対してより近くあるいは遠く関与している。」生産的な労働はもはやカー労働者自身が手を下すことを必ずしも要求しないで、全体労働者の器官として、その部分的機能のどれかひとつを果たすだけで人は生産的に労働することができることになります。一方で、資本主義的な生産過程のもとでは生産的労働の概念は狭隘化もします。つまり、労働者の生産的な労働は、第一義的には自分のためのものでは最早なく、資本のためのものになっています。資本主義的生産は商品を生産するものです。すなわち他者にとっての使用価値を生産するものでなければならなく名のマス。そればかりではありません。資本主義的な生産とは本質的に剰余価値の生産です。つまり、労働者は何かの物を生産するというだけでは不十分なのです。労働者は剰余価値を生産しなければならない。マルクスはここでつづけて、やや奇妙とも見える例を挙げています。学校を教育工場として捉える例です。

他方では、生産的な労働の概念は狭められている。資本制的な生産はもはやたんなる商品の生産であるだけではなく、本質的に増殖価値の生産となっている。労働者は自分のために生産するのではなく、資本のために生産する。このため労働者がそもそも何かを生産するだけでは十分ではない。労働者は増殖価値を生産しなければならない。労働者が生産的であるのは、資本家のために増殖価値を生産する場合である。すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけが生産的な労働者なのである。

物質的な生産領域ではないところから一例をあげよう。たとえば学校の教師が生産的な労働者になるのは、子供の頭に働きかけるだけでは、実業家を豊ませるための労働に自分を酷使する場合である。実業家が自分の資本をソーセージ工場ではなく教育工場に投資したとしても、状況に変わりはない。要するに生産的な労働者という概念には、たんに活動と効果の関係、労働者と労働の生産物の関係が含まれるだけではなく、労働者に資本の直接的な価値増殖手段という烙印を押す生産関係が含まれているのであり、この生産関係は、社会的および歴史的に成立した特殊な生産関係なのである。したがって生産的な労働者であるということは、幸運なことではなく、ひどく不幸なことなのである。

経済学の理論の歴史は本書の第4部でさらに検討するつもりであるが、そこでは古典派経済学が最初から、増殖価値の生産を生産的な労働の決定的な性格とみなしてきたことが明らかにされよう。そこで増殖価値の本性をどのようなものと理解するかによって、彼らの生産的な労働についての定義も変わってくる。たとえば重農主義者たちは、農業労働だけが増殖価値を供給すると考えた。だから農業労働だけが生産的だと説明する。重農主義者にとっては、増殖価値は地代という形でしか存在しないのである。

 

絶対的剰余価値と相対的剰余価値

労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること─これは絶対的剰余価値の生産である。それは資本主義的体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち、必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価物をいっそう短時間に生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。絶対的剰余価値の生産はただ労働日の長さだけを問題にする。相対的剰余価値の生産は労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革する。

だから、相対的剰余価値の生産は、一つの独自な資本主義的生産様式を前提するのであって、この生産様式は、その諸方法、諸手段、諸条件そのものとともに、最初はまず資本のもとへの労働の形式的従属を基礎として自然発生的に発生して育成されるのである。この形式的従属に代わって、資本のもとへの労働の実質的従属が現われるのである。

絶対的剰余価値の概念については、第5章で考察しましたが、労働者が自身が商品として提供する労働力の価値に等しい等価物だけを生産する労働時間を超えて延長された労働時間で生産される剰余価値が絶対的剰余価値です。このような絶対的剰余価値の生産が資本制的な生産の一般的な基礎です。一方、相対的剰余価値の概念については第10章で考察しました。相対的剰余価値の生産のためには、労働日を労働者自身の価値分を生産する必要労働と超過分を生産する剰余労働の二つの部分に区分し、剰余労働の時間を長くすれば、剰余価値が増大する。そのためには労働日の時間数には限りがあるので、必要労働の時間を短くすれば、相対的に剰余労働の時間が増えることになります。まとめると、絶対的剰余価値の生産を増やすためには労働日の全体の時間を増やせばよいのであり、相対的剰余価値の生産を増やすためには労働日を増やすことなく労働のプロセスを変えなければならないのです。

このように相対的剰余価値の生産は、資本主義的に固有の生産様式が前提となっています。この前提とされている生産様式は、生産方法、生産手段、条件などと同じように、労働が資本に形式的に従属する形で、自然発生したように見えるものでした。やがて、労働は形式的な従属から実質的な従属となっていくのです。つまり、当初の絶対的剰余価値の生産に際しては、労働は形式的従属であったものが、相対的剰余価値を生産する段階に至って、実質的な従属になっていく、と思います。

ここで言えることは、人々が必要労働時間を超えて剰余労働をさせられるのは、何も資本主義に特有な現象ではない、資本が剰余労働を発明したわけではないということです。社会の一部が生産手段を独占している社会では、その一部の人以外の人は生産手段(歴史的には主として農地の所有権)から排除されている階級社会(歴史的には中世の農奴制)。どこでも被支配階級は支配階級のために剰余労働をしなければなりませんでした。これが、次で触れられる中間段階です。

労働者が自分の労働の価値の等価物だけを生産する限界点を超えて労働日が延長され、その増殖価値を資本がみずからのものにする。これが絶対的増殖価値の生産である。これは資本制的なシステムの一般的な基礎であり、さらに相対的増殖価値の生産の出発点である。相対的増殖価値の生産においては、労働日は最初から二つの部分に、すなわち必要労働の部分と増殖労働の部分に分割されている。増殖労働の時間を長くするためには、まず必要労働の時間の部分を短くすればよいのであり、そのためには労働賃金の等価物がより短時間で生産されるようにするのである。絶対的増殖価値の生産にあたっては、労働日の長さだけが問題になる。これにたいして相対的増殖価値の生産は、労働の技術的なプロセスを根本的に変革し、社会的な集団形成を根本的に変革するのである。

このように相対的増殖価値の生産においては、資本制に固有の生産様式が前提とされている。この生産様式は、生産のための方法、手段、条件そのものと同じように、まずは労働が資本に形式的に従属する形で、自然発生的に生まれ、形成されたものだった。やがてこの形式的な従属の代わりに、資本への労働の実質的な従属が生まれてくるのである。

 

中間段階

剰余労働が直接的強制によって生産者から取り上げられるのでもなく、資本へもとへの生産者の形式的従属も現われていないような、いろいろな中間形態については、ただそれを指摘しておくだけでよい。資本はまだ直接には労働過程を征服していないのである。父祖伝来の経営様式で手工業や農業を営む独立生産者たちと並んで、高利貸や商人が現われ、これらの生産者から寄生虫的に吸い取る高利貸資本や商人資本が現われる。一つの社会のなかでのこのような搾取形態の優勢は、資本主義的生産様式を排除するがは、他面では、中世後期にそうだったように、それへの過渡をなすこともありうる。最後に、近代的家内労働の例が示すように、ある種の中間的形態は、たとえその相貌はまったく変わっているにせよ、大工業を背後であちこちに再生産される。

その中間段階には、生産者が強制的に剰余労働をさせられる、つまり労働時間の延長を強いられる段階や生産者の資本への形式的な従属ができていない段階が考えられます。この段階では、未だ資本が労働過程を直接に支配しているわけではありません。独立自営の生産者は、代々受け継がれてきた経営方法で手仕事をしているか、農耕をしているかどちらかです。このような生産者とともに高利貸しや商人が出現し、生産者に寄生するような高利貸資本や商人資本が生まれました。

このような搾取形態が社会で支配的になっている限りでは、資本主義的な生産様式は成立できません。歴史としては中世の終わりごろに見られたのですが、このような搾取形態は資本主義への過渡的な形態と言えると思います。他方で、近代の家内工業の例では、中間的な形態が全く別の姿で、大工場を背景として、その周辺に再生産されました。

その中間段階として、生産者から直接に増殖労働が強制的に絞り取られていない段階や、生産者の資本への形式的な従属がまだ成立していない段階が考えられるが、これについては簡単に触れるだけで十分だろう。この段階ではまだ資本が直接に労働過程を支配していない。自立的な生産者は、先祖から伝えられた経営方式で手仕事をしているか、農耕しているだろう。こうした自立的な生産者とともに高利貸や商人が現われ、やがて生産者に寄生する高利貸資本や商人資本が登場してくる。

こうした搾取形態が社会で支配的であるかぎり、資本制的な生産様式は成立しないが、中世後期にみられたように、こうした搾取形態が資本制的な生産様式への過渡的な形態となることはありうる。最後に近代の家内労働の例が示すように、中間的な形態がまったく別の姿をとりながらも、大工業を背景としてあちこちに再生産される。

 

剰余価値を向上させる方法

絶対的剰余価値の生産のためには、資本のもとへの労働の単に形式的な従属だけで十分で、たとえば、以前は自分自身のためにかまたは同職組合親方の職人として働いていた手工業者が今は賃金労働者として資本家の直接的支配に服するということだけで十分だとしても、他面では、相対的剰余価値の生産のための諸方法は同時にまた絶対的剰余価値の生のための諸方法でもあるということが示された。じつに、労働日の無限度な延長こそは、大工業の最も固有な産物だということが示されたのである。一般に、独自な資本主義的生産様式は、それが一つの生産部門全体を制服してしまえば、ましてすべての決定的な生産部門を征服してしまえば、もはや相対的剰余価値の単なる生産手段ではなくなる。それは今や生産過程の一般的な、社会的に支配的な形態となる。それが相対的剰余価値生産のための特殊な方法として作用するのは、第一には、ただ、これまではただ形式的に資本に従属していた諸産業をそれがとらえる場合、つまりその普及にさいしてだけのことである。第二には、ただ、すでにそれにとらえられている諸産業が引き続き生産方法の変化によって変革されるかぎりでのことである。

ある観点からは、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との区別はおよそ幻想的に見える。相対的剰余価値も絶対的である。なぜならば、労働者自身の生存に必要な労働時間を越えての労働日の絶対的延長を条件としているからである。絶対的剰余価値も相対的である。なぜならば、それは、必要労働時間を労働日の一部分に制限することを可能にするだけの労働の生産性の発展を条件としているからである。しかし、剰余価値の運動に注目するならば、このような外観上の無差別は消え去ってしまう。資本主義的生産様式がすでに確立されて一般的な生産様式になってしまえば、およそ剰余価値率を高くすることが問題となるかぎり、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との相違はつねに感知されざるをえない。労働力が価値どおりに支払われることを前提すれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。

絶対的増殖価値の生産には、労働が資本形式的に従属するだけで十分です(ただし、相対的増殖価値の生産には不十分です)。形式的な従属というと、たとえば、それまで、独立した職人として働いていたり、ギルドの親方の下で職人として働いていたのが、工場で賃労働者として、資本家の監督の下で働くようになったということです。

このような資本主義的な生産様式が一つの産業に行き渡って支配的になると、もはや資本主義的な生産様式は相対的剰余価値を生み出すための特別な生産様式にとどまらず、一般的な生産様式として産業に定着することになりました。それは、それまで形式的に資本に従属していた、つまり、資本により資金を提供されながら生産過程は手工業だったりマニュファクチュアを踏襲していたものが、生産方法の変革が次々と起こって、たとえば労働者が独立した職人として働いていたり、ギルドの親方の下で職人として働いていたのが、工場で賃労働者として、資本家の監督の下で働くようになったということです。

絶対的剰余価値と相対的剰余価値の違いも、はっきりとは分けらないという見方もあります。たとえば、絶対的剰余価値は必要労働時間を超えて1日の労働時間を延長させて余計に働かせることから生まれるわけですが、そのためには必要労働時間を1日のいっぱいいっぱいでは労働時間の延長もままならないのですから、そのためには労働の生産性が改善されていなければならない、つまり相対的剰余価値が前提となる。また、その反対に、相対的剰余価値のためには労働時間の延長という絶対的剰余価値の要素がある程度必要となるのです。つまり、どちらかが単独では成り立ちえないというわけです。

しかし、このような事態は資本主義的な生産様式が確立され一般化すると、絶対的剰余価値と相対的剰余価値の違いが明確になります。この時、労働力という商品に対して、その価値にみあった支払がなされるとすれば、剰余価値を生み出すためには、次の二つの選択肢のどちらかしかないということになります。

ひとつは生産性が変わらないのなら1日の労働時間を絶対的な延長する、あるいは労働時間の延長ができないなら生産性の向上により剰余労働の時間の比率を増やすしかない。

もし、人間が1日かかって必要労働しかできなかったのなら、剰余労働などというものは存在し得なかったでしょう。その意味では、人間は1日働けば、1日の生活に必要なもの以上のものを生産できたのです。実際、サルなどの生活を観察してみると、動物は生きるために1日中、寝る時間以外の時間を必死になって餌を探して、いわば働いているわけではないことが分かります。サルならば、日向ぼっこをして毛づくろいをしたり、昼寝もしています。このように動物の場合でも、必要労働時間という言い方をすれば、1日のうち10時間も必要労働時間があるということはないのです。もちろん、その生活上の欲望が少ないから人間とは一律に比べられませんが、彼らなりの必要労働時間は、それほど長いものではないでしょう。マルクスが自然状態と考えている、歴史的にみれば石器時代の人間も、朝から晩まで1日中、野山を走り回って狩りをしたわけではないでしょう。じっさい、そんな体力が続くはずがありません。人間がサルなどの動物と違うのは、必要労働に費やした時間以外の時間は余暇にして、発達した脳を労働以外に使って、学術や文化・芸術へと発展するものをつくりはじめたのです。日の出の方向や月の満ち欠けを観測したり、絵を描き、装飾品をつくり、歌ったり、踊ったりした。それが文化の始まりと言うことできます。

絶対的増殖価値が生産されるためには、労働が資本に形式的に従属するだけで十分である。たとえば以前は自立して働いたか、同職組合の親方のもとで職人の1人として働いていた手工業者が、今や賃金労働として、資本家の直接の監督下で働くようになるだけで十分である。またすぐに確認したように、相対的増殖価値の生産方法は、同時に絶対的増殖価値の生産方法でもある。実際に労働日を際限なく延長するのは、大工業にもっとも固有な方法であることが明らかにされたのである。

資本制に固有の生産様式が一つの生産分野の全体を支配するようになると、ましてやすべての重要な生産分野を支配するようになると、それはたんなる相対的増殖価値の生産手段ではなくなる。今では一般的で社会的に支配的な生産過程の形式となったのである。

すると、資本制的な生産様式が相対的増殖価値を生産する特別な方法となるのは、次の二つの場合に限られる。第一は、それまでは形式的に資本に従属していたにすぎない産業をこうした生産様式が支配するようになり、宣伝としての役割をはたす場合である。第二は、こうした産業において生産方法が変革されて、継続的な大変革が起こる場合である。

ある視点からみると、絶対的増殖価値の違いはたんに幻想にすぎないようになる。相対的増殖価値は絶対的である。というのは、労働者自身の生存に必要な労働時間を超えて、労働日を絶対的に延長しなければ、相対的増殖価値は生産されえないからである。絶対的増殖価値は相対的である。というのは、必要労働の時間を労働日の一部に制限できるほどに、労働の生産性が発展していなければ、絶対的増殖価値は形成されないからである。

しかし増殖価値の運動に着目すると、この同一性のみかけは解消される。資本制的な生産様式が確立されて一般的な生産様式になると、増殖価値率の向上が目指されるようになり、絶対的増殖価値と相対的増殖価値の違いが明確になる。労働力に、その価値にみあった支払いが行われると想定すると、次の二つの選択肢しか残されていない。

すなわち、労働の生産力とその標準的な強度が変わらないならば、労働日を絶対的に延長することによってしか、増殖価値率を向上させることはできない。反対に労働日の長さが変わらないのであれば、その労働日を構成する必要労働と増殖労働の相対的な比率を変えることによってしか、増殖価値を向上させることはできない。賃金が労働力の価値を下回ることができないとすれば、この比率の変化が可能となるのは、労働の生産性あるいは強度が変化することによってでしかない。

 

剰余価値の自然的な基盤

もし労働者が彼自身や彼の子孫の維持に必要な生活手段を生産するのに彼の時間の全部を必要とするならば、彼には第三者のために無償で労働する時間は残らない。ある程度の労働の生産性がなければ、労働者がこのように処分しうる時間はないし、このような余分な時間がなければ、剰余労働はなく、したがって資本家もなく、さらにはまた奴隷所有者も封建貴族も、一口に言えばどんな大所有者階級もないのである。

こうして、剰余価値の自然的基盤について語ることもできるのであるが、それは、ただ、ある人が自分の生存に必要な労働を自分の肩から他人の肩に転嫁することを妨げるような絶対的な自然的障害はなにもないというまったく一般的な意味で言えるだけであって、それは、たとえば、他人の肉を食料として使うことを妨げるような絶対な自然的障害はなにもないというようなものである。しばしば行われることではあるが、このような労働の自然発生的な生産性に神秘的な観念を結びつけるようなことは、けっしてしてはならない。人間が彼らの最初の動物状態からやっと抜け出してきて、彼らの労働そのものもすでにある程度まで社会化されてきたときに、はじめて1ある人剰余労働が他の人の生存条件になるような諸関係が現われる。文化の初期には、労働の既得の生産力は小さなものであるが、欲望もまた小さいのであって、欲望はその充足手段とともに、またこの手段によって、発達するのである。さらに、このような初期には、他人の労働によって生活する社部分の割合は、大勢の直接生産者に比べれば目にはいらないほど小さい。労働の社会的生産力が増進するにつれて、この割合は絶対的にも相対的にも増大する。そのうえに、資本関係は、長い発達過程の産物である経済的な土台の上で発生する。資本関係がそこから出発する基礎となる既存の労働の生産性は、自然のたまものではなく、何千もの世紀を包括する歴史の所産なのである。

必要労働時間には労働者が自身と子孫を生活させることが含まれていても、第三者のために働く時間は含まれません。そういう限定がなければ、必要労働時間という定義ができないし、それ以外の余剰の時間つまり余白がなければ、剰余労働時間をそこに置くことはできないわけで、それができなければ、資本家は搾取することができないわけです。この限定を剰余労働をつくりだすための自然的な基盤というものがあるのです。ただし、これは一般的な意味であって、ある特定の個人の労働者があてはまらないこともあります。例えば、自身の生存のために必要な労働をしない人に対して、無理矢理労働を自然が強制することはありません。

これに対して、人間が原初の自然の野生の状態から、社会化されると、労働についても、1人の人間の剰余労働が他の人間にとっての生存条件となる関係が成立してしまいます。成立した初期は生産力は自然状態と変わらぬほどのわずかなものだったのが、生産力の向上に伴って、欲望が大きくなっていくものです。それに従って、他人の労働によって生存する人々の比率が増えていくことになります。というのも、自然状態においては、人々は、それぞれ自給自足の独立した生存ができていたが、生産力は低く、欲望を抑えざるを得なかった。欲望を持てなかったわけです。しかし、社会化されて生産か増えてくると、欲望を持つことができるようになる。そうすると、欲望を抑えられなくなる。そうなってくると、自然状態の自給自足ではいられなくなる。そこで、社会化された労働の関係に参加せざるを得なくなる。その結果、資本主義的な労働の生産過程がつくられたというわけです。したがって、これは自然に生まれたのではなく、時間をかけて作られたものです。

古代ギリシャのアテネ社会でも、共和制の古代ローマ社会でも、奴隷が社会的生産の担い手となっていました。奴隷制社会における奴隷所有者が市民でした。また、中世の封建社会では、王族・貴族や教会が、農民の増殖漏示ウを取り上げました。中世の農民は、週に3日は自分の分余地を、3日は領主の直営地を耕作しました。資本主義以前の剰余価値率は100%が水準だったことになります。

このような奴隷制度あろうと、封建制であろうと、あるいは近代の資本家であろうと、被支配階級の剰余労働を手に入れる支配階級が存在していたことでは変わりありません。とはいえ、生産物の交換価値ではなく使用価値が主たる目的として生産される場合は、剰余労働に対する欲望は制限されていました。というのは、封建領主のところに領民から年貢として生産物がどれだけ納められても、結局それで生活するというだけならば、1日に小麦をそれほどは食べられるわけではありません。肉を2キロも3キロも食べられない。その欲望の範囲は限られていて、それ以上搾取する意味がなかったからです。領民の生産できる限定された使用価値を自分が消費するならば、その量には限界があったのです。

しかしそれを売って、貨幣・金を手に入れ、何か別のものを買える場合は、その欲望の限界がなくなります。そのため、古代にあっても金山・銀山では過度労働が行われていたと言います。金はいくら手に入れても、貯えたり、使うことができたからです。近代の資本家は、使用価値ではなく価値を目的として生産し、剰余労働を最終的に貨幣の形態で手に入れるので、資本家には工場が金山に見えることになるのです。

もしも労働者がみずからとその子孫の生活手段を生産するために、すべての時間を必要とするならば、第三者のために無償で働く時間は残されていない。ある程度の労働の生産性がなければ、労働者には自由に使える時間は残されておらず、余剰な時間が存在しなければ増殖労働がありえず、したがって資本家も、奴隷所有者も封建貴族も存在しえない。要するに大所有者階級は存在しえない。

だから増殖価値にはいわば、自然的な基盤というものがあることになる。しかしそれはごく一般的な意味においてであって、自分の生存に必要な労働をみずから行わず、他者におしつけることを妨げるような絶対的な自然の障害は存在しない。それは人間を食料とすることを妨げる絶対な自然の障害が存在しないのと同じである。ときに、こうした自然発生的な労働の生産性を神秘的な観念と結びつけることが試みられるが、そのようなことは好ましい。

人間がその最初の動物的な状態から抜け出して、その労働がある程度まで社会化されると、初めて1人の人間の増殖労働が他の人間の生存条件となる関係が成立する。文化の初期の段階では、獲得された労働の生産力はごくわずかなものであるが、欲望もまたわずかなものである。欲望はそれを満たす手段の発達とともに、それに応じて発達するのである。また初期の段階では社会のうちで他者の労働によって生存している人々の比率は、直接の生産者の数と比較すると、無視できるほどに小さなものである。

労働の社会的な生産力が向上するとともに、こうした人々の比率が絶対的にも相対的にも大きくなる。ちなみに資本関係は、長期的な発達過程によって生まれる経済的な土台の上に成立する。資本関係が基礎とする既存の労働の生産性は自然の賜物ではなく、数千世紀にわたる歴史の賜物である。

 

労働の生産性と自然条件

社会的生産の姿が発展しているかいないかにかかわりなく、労働の生産性はつねに自然条件に結びつけられている。これらの自然の条件は、すべて、人種などのような人間そのものの自然と、人間をとりまく自然とに還元されうるものである。外的な自然条件は経済的に二つの大きな部類に分かれる。生活手段としての自然の富、すなわち土地の豊かさや、魚の豊富な河海などと、労働手段としての自然の富、たとえば勢いのよい落流、航行可能な河川、樹木、金属、石炭等々とに、分かれる。文化の初期には第一の種類の自然の富が決定的であり、もっと高い発展段階では第二の種類の自然の富が決定的である。たとえば、イギリスとインドと、また、古代世界でならばアテナイやコリントを黒海沿岸諸国と比較せよ。

どうしても充足させなければならない自然的欲望の数が少なければ少ないほど、そして自然的な土地の豊かさや気候の恩恵が大きければ大きいほど、生産者の維持と再生産とに必要な労働時間はそれだけ少ない。したがって生産者が自分自身のために行う労働以上に他人のために行う余分な労働は、それだけ大きなものでありうる。たとえば、すでにディオドロスも古代のエジプト人について次のように言っている。

「彼らの子供の養育のために彼らにかかる労苦や費用がわずかなことは、まったく信じられないほどである。彼らは子供たちに手近な有りあわせの粗末な食物を料理してやる。火であぶることができさえすれば、パピルスの下の方を食べさせたり、沼草の根や茎を生のままで、または煮たり焼いたりして食べさせたりもする。気候がよいので、たいていの子供は靴も服もなしで歩いている。それだから、1人の子供が大人になるまでに親にかかる費用は、概して20ドラクマを越えないのである。エジプトにはあのように人口が多く、そのためにあのように多くの大工事を起こすことができたということは、おもにこの点から説明することができるのである。」

とはいえ、古代エジプトの大建造物は、その人口の大きさによるよりも、むしろ人口のうち自由に利用されうる部分の割合が大きかったことによってできたものである。個々の労働者はその必要労働時間が短いほどそれだけ多くの剰余労働を提供することができるが、それと同じに、労働人口のうちの必要生活手段の生産に必要な部分が小さければ小さいほど、ほかの仕事に利用されうる部分はそれだけおおきいのである。

社会化されたとか資本主義的とかいっても、生産は自然の条件と切り離すことはできません。その自然の条件は内的な条件と外的な条件の二つに分類することができます。さらに外的な自然条件は経済的に二つに分類できます。ひとつは生活手段となる自然の富で、例えば肥沃な土壌とか魚の豊富な水域といったもので、もうひとつは、労働手段となる自然の富で、例えば勢いのある水流、航行可能な河川、材木、鉱石のような鉱物資源です。

人間が社会化したといっても初期の自然状態に近い段階では人間はより強く自然の条件に結び付けられているので、自然の富が重要であり、社会化が進み文化が発展すると、労働手段となる自然の富が重要となってきます。

自然の条件に対して求める欲望が少ない、あるいは自然の条件が豊か(土壌が肥沃だったり、気候の恩恵が大きい)であれば、必要労働時間、つまり生産者の維持に必要な労働時間は短くなります。それに応じて、余白の時間が増えるので、自分自身のための時間を超えて他人のために労働することのできる時間が増えることになります。古代のエジプトについての、古代ギリシャの歴史家ディオゲネスの記述によれば、エジプトではあまり働く必要がなかったらしいということです。エジプトの彫刻をみても裸に近いし、食べ物も手近にあったと言えます。ナイル川の川辺に生えているパピルスの下の方は食料にもなった。それを子供に食べさせて、上はパピルスにしました。子供たちは靴も着物もつけないで歩くので、子供が大人になるまでギリシャの通貨単位で20ドラクマ以上はかからなかったといいます。この金額の実感は分かりませんが、きわめて少ない金額であったことは分かります。そして人口も多く、ピラミッドや大神殿のような大工事ができたのはそのためでありました。より正確に言えば、人口の大きさのものではなく、自由に使用できる人口の割合が大きかったためだ、マルクスは書いています。たしかに、人口がたくさんいても、その人たち全員が1日中働かなければ生きていけなかったら、それらはつくられなかった。その必要労働時間が比較的短かったからこそ、一部の人が1日中働くことによって、それ以外の多くの人は生活手段の生産をしなくてもよくなり、ほかの事業のために動員できたのです。

社会的な生産がどの程度まで発展しているかは別として、労働の生産性がつねに自然の条件と結びついているのはたしかである。こうした自然の条件としては、人種など、人間そのものの[内的な]自然の条件と、人間をとりまく[外的な]自然条件がある。外的な自然の条件は、経済的に大きく二つに分類できる。一つは生活手段となる自然の富であり、肥沃な土壌や、魚の豊富な水域などである。もう一つは労働手段となる自然の富であり、勢いのある水流、航行可能な河川、材木、金属、石炭などである。

文化の初期の段階では生活手段となる自然の富が重要であり、文化の発展が高度に進むと、労働手段となる自然の富が重要になる。たとえば現代のイギリスとインドを比較し、古代世界のアテナイやコリントスと周囲の黒海世界を比較してみるとよく分かるだろう。

絶対に満たさなければならない自然の欲望の数が少なければ少ないほど、また自然の土壌の肥沃度が高く、気候の恩恵が大きいほど、生産者の維持と再生産に必要な労働時間は短くなる。その分だけ、生産者が自分自身のための労働を超えて、他者のために労働する余地が大きくなることがありうる。たとえばディオドロスがエジプトについて、「エジプト人が子供たちの養育のために負担する労力と費用は信じられないほど低い。ごく手近な粗末なものを簡単に調理して食事を与える。火であぶることができれば、パピルスの根に近い部分を食べさせることもある。あるいは沼に生える植物の根や茎を生で、または煮たり焼いたりして食べさせる。大気が温暖なので、多くの子供は靴も履かず、服も着ずに歩き回る。1人の子供が大人になるまでに両親が負担する費用は、一般20ドラクマに満たない。エジプトにこれほど多数の人口があり、あれほどの大工事が行えたのは、主にこれによって説明できる」と語っているとおりである。

しかし古代のエジプトで大建造物を建築できたのは、人口の多さそのものよりも、自由に利用できた労働人口の比率が高かったためである。個人の労働者は、必要労働の時間が少なければ少ないほど、多くの増殖価値労働を行うことができる。それと同じように、必要な生活手段の生産に従事する労働人口の比率が小さければ小さいほど、ほかの仕事に自由に利用できる人口の比率は高くなる。

 

自然の社会的な制御

すでに資本主義的生産が前提されていれば、他の事情が不変で労働日の長さが与えられている場合には、剰余労働の大きさは、労働の自然条件につれて、ことに土地の豊度につれて、違ってくるであろう。しかし、けっして、その逆に最も豊饒な土地が資本主義的生産様式の成長に最も適した土地だということにほかならない。この生産様式は人間による自然の支配を前提する。有り余る自然は、「幼児を手引きひもに頼らせるように人間を自然の手に頼らせる」のである。このような自然は、人間自身の発展を自然必然性にするものではない。植物の繁茂した熱帯ではなく、むしろ温帯こそは、土地の絶対的な豊かさではなく、土地の分化、土地の天然産物の多様性こそ、社会的分業の自然的基礎をなすものであり、人間を取り巻く自然環境の変化によって人間を刺激して人間自身の欲望や能力や労働手段や労働様式を多様化させるものである。一つの自然力を社会的に制御する必要、それを節約するとか、それを大規模な人工によってはじめて取り入れるとか、馴らすとかする必要は、産業史の上で最も決定的な役割を演じている。たとえば、エジプや、ロンバルディアやオランダなどに見られる治水がそれである。あるいはまたインドやペルシアなどでも同様で、そこでは人工運河による灌漑は、土地に欠くことのできない水を供給するだけではなく、その沈水といっしょに鉱物性肥料を山から運んでくるのである。アラビア人の支配のもとでのスペインやシチリアの産業が繁栄の秘密は、運河が解説だったのである。

恵まれた自然条件は、つねに、ただ、剰余労働したがってまた剰余価値または増殖生産物の可能性を与えるだけで、けっしてその現実性を与えるのではない。労働の自然条件の相違は、同量の労働によってみたされる欲望の量が国によって違うことの原因となり、したがって、その他の事情が同様ならば、必要労働時間が違うことの原因となる。自然条件が剰余労働に作用するのは、ただ、自然的限界として、すなわち、他人のための労働を始めることができる時点を定めることによって、である。産業が進歩してくるにつれて、この自然的限界は後退して行く。西ヨーロッパの社会では労働者は自分の生存のために労働することの許しをただ剰余労働によってのみあがなっているのであるが、この社会のまんなかでは、剰余生産物を提供するということは人間労働の生まれつきの性質であるかのように思われやすいのである。しかし、たとえばサゴ椰子が森林に野生しているアジアの群島の東部諸島の住民をとってみよう。

「住民は、樹に穴をあけて、髄が熟しているのを確かめれば、幹を倒していくつにも切り、髄を掻き出して水を混ぜて濾すのであるが、そうすればこれが立派に使用できるサゴ粉である。1本の樹から普通300ポンドがとれ、また500ポンドから600ポンドもとれることもある。だから、そこでは森に行って自分のパンを伐ってくるわけで、ちょうどわれわれのところで薪を伐ってくるようなものである。」

かりに、このような東アジアのパンの伐採者の1人が自分のすべての欲望をみたすには毎週12労働時間が必要だとしよう。彼に自然の恩恵が直接に与えるものは、多くの暇な時間である。彼がこの時間を自分のために生産的に使うようになるには、いろいろな歴史的事情が必要であり、この時間を他人のための剰余労働に費やすようになるには、外的な強制が必要である。もし資本主義的生産がもち込まれてくれば、この実直者は、1労働日の生産物を自分のものにするためには、おそらく週に6日労働しなければならないであろう。なぜ彼は今では週に6日労働するのか、または、なぜ彼は5日の剰余労働を提供するのか、ということは自然の恩恵では説明できない。自然の恩恵が説明するのは、ただ、彼の必要労働時間が週に1日に限られているのか、ということだけである。とにかく、彼の剰余生産物は、人間労働の生まれつきの神秘な性質からは生じないであろう。

労働の歴史的に発達した社会的な生産諸能力がそうであるように、労働の自然によって制約された生産諸力も、労働が合体される資本の生産諸力として現われる。─

資本主義的な生産様式が前提とする場合、1日あたり労働時間を一定とすると、剰余労働時間の長さは、必要労働時間の1日に占める割合をどれだけ低くすることができるかによって決まってきます。それは労働生産性の向上によりより短時間で必要労働時間相当の成果をあげることができるように、農業の場合であれば、労働の自然条件、とくに土壌の肥沃度によって決まってきます。ただし、資本主義的生産の場合、その反対は正しくないのであり、肥沃な土壌が最適ということにはなりません。資本主義的な生産は自然を支配することを前提とします。つまり、人間がコントロールできるということを目指すので、いくら肥沃な土壌でも天候に恵まれず収穫が得られないという自然に支配されるのではありません。そこでは、天候の変化に対応できるような多様な作物を植えることでリスクを分散する(投資であればポートフォリオに相当する)のが人間による自然のコントロールです。そのためには、土壌の絶対的な肥沃さではなく多様な作物を植えるという分業が土台となります。

このように自然の力を人間の力によって(社会的に)制御し、飼いならすようにコントロールし、例えば治水のように変えていくことが、産業の歴史において決定的な役割を果たしました。

肥沃な土壌のような恵まれた自然条件は、つねに剰余労働と増殖価値をもたらすための可能性を提供するだけで、その実現が約束されているわけではありません。労働の自然条件は多様なものです。たとえ同じように土壌が肥沃でも、気候の違いにより、おなじ時間働いても収穫の量が違ってくるし、その国の欲望を満たすかどうかは欲望の量によっても違います。そのため、必要労働時間は国によって、つまり社会的要因によって異なってくるのです。

自然の条件は剰余労働にたいしては自然の限界として機能するだけで、それは他者のための労働を始める時点を決定するだけです。産業が発展してくると、この自然の限界は後退する、つまり、人の裁量範囲が広がることになります。

たとえば、サゴ椰子という植物があります。マレーシアなどに自生する植物ですが、それを切って、茎の中に白く蓄積された澱粉を水でさらして粉にすると、もうそれが食料となります。これは、1年間に1週間労働すれば、その年の食料が確保できるという便利な植物です。そういう生活をしていても、もし原住民がサゴ椰子を自由に切ることができなくなり、資本主義的になってしまうとなると、やはり住民たちは1年中工場で大量のサゴ椰子の澱粉を作らされることにな゜かもしれません。なぜそうなるかは、自然的要因からは説明できません。つまり、必要労働が短いというのは剰余労働を長くできるという可能性を示すだけであって、それが現実の剰余労働時間に転化するためには、歴史的・社会的な事情が必要なのです。

ひとたび資本制的な生産が前提となると、他の条件が同じで、労働日の長さが決まってくるならば、増殖労働の大きさは労働の自然条件、とくに土壌の肥沃度によって決まるだろう。しかしその反対は正しくないのであり、もっとも肥沃な土壌が資本制的な生産様式の成長に最適であるということにほかならない。資本制的な生産は、人間が自然を支配することを前提とする。あまりに潤沢な自然は「子供を歩行器につなぐように、人間を自然の手につなぐ」のである。このような自然のもとでは、人間が発展することは自然の必然的な法則にはならない。植物が繁茂する熱帯の気候ではなく、温帯こそが資本の母国である。土壌の絶対的な肥沃さではなく、土地の分化、すなわち土壌からえられる生産物の多様性こそが、社会的な分業の自然な土台となる。この多様性が刺激となって人間はみずから生息する自然環境を変え、みずからの欲望、能力、労働手段、労働様式を多様なものとするのである。

自然の力を社会的に制御し、無駄なく活用し、まず人間の手仕事によって大規模に取り込み、飼い慣らす必要性こそが、産業の歴史において決定的な役割をはたしたのである。たとえばエジプト、ロンバルディア、オランダなどでの治水事業がその実例である。あるいはインドやペルシアなどでは、人工の運河を建設して灌漑し、土壌に必要不可欠な水を供給しただけでなく、その沈泥を使ってミネラル豊富な肥料を山から運んできた。アラブ人が支配していたスペインとシチリアで産業が繁栄した秘密も、運河が建設されたことにある。

恵まれた自然条件はつねに、増殖労働と、増殖価値または増殖生産物をもたらす可能性を提供するだけであって、それを実現することを約束しているわけではない。労働の自然条件は多様なものであり、同じ量だけ働いても、それが満たすことのできる欲望の量は国によってさまざまに異なる。そのため必要な労働時間は国ごとにことなるものとなる。

自然の条件は増殖労働にたいして自然の限界として働くだけであり、他者のための労働を始めることができる時点を決定するだけである。産業が進展してくると、この自然の限界は背後に退く。西欧の社会では、労働者は増殖労働を行うことで、自分の生存のために労働するための〈許可〉を買い取るしかないのである。こうした社会にあっては、増殖生産物を提供することが、人間労働に生まれつき備わっている性質であるかのように考えられがちである。

しかしたとえば森にサゴ椰子の木が生い茂るアジアの群島の東部諸島の住民のことを考えていただきたい。「住民が樹木に穴を開け、樹液が熟していることを確かめると、幹を切り倒して、いくつかの部分に切断する。樹液をとりだして水と混ぜ、それを漉すと、立派なサゴ粉がとれる。1本の樹木からふつうは300重量ポンドほど、場合によっては500〜600重量ポンドの粉がとれる。われわれは森に行って薪を切りだすが、ここではパンを切りだすのである」。

東アジアのこの「パン切りだし」者が、自分のすべての欲求を満たすために週に12時間働く必要があっとしよう。自然の恩恵が彼に直接に与えるのは、多くの余暇の時間である。彼がこの余暇を自分のために生産的に利用するようになるには、さまざまな歴史的な状況が必要である。彼がこの余暇を他者のための増殖労働に支出するようになるには、外的な強制が必要である。

資本制的な生産が導入されたならば、この実直な男も、1労働日の生産物[であるサゴ椰子のパン]を手に入れるために、あるいは週に6日も働かなければならないかもしれない。しかし彼が今ではなぜ週に6日も働かなければならないのか、すなわち週に5日もの増殖労働を提供しなければならないかは、自然の恵みからは説明できない。自然の恵みから説明できるのは、彼の必要労働が週1日だけであることの理由だけである。いずれにしても彼の増殖生産物は、人間労働にそなわった〈隠れた性質〉のような不思議なものではないのである。

自然によって条件づけられた労働の生産力は、歴史的に発達した社会的な労働の生産力と同じように、労働がとりこまれた資本の生産力として現れるのである。

 

古典経済学者の剰余価値の理論

リカードは剰余価値の源泉のことは少しも気にかけていない。彼は剰余価値を、彼の目には社会的生産の自然的形態に見えた資本主義的生産様式に固有な1事象として取り扱っている。彼が労働の生産性に剰余価値の存在の原因を求めているのではなく、ただ剰余価値の大きさを規定する原因を求めているだけである。これに反して、彼の学派は、労働の生産力が利潤(剰余価値と読め)の発生原因であることを声高く宣言した。とにかく、重商主義者に比べれば、一つの進歩だった。というのは、重商主義者のほうは、生産物の価格のうちの生産費を越える超過分を交換から、すなわち生産物をその価値よりも高く売ることから、導き出しているからである。とはいえ、リカード派もただ問題を回避しただけで、それを解決したのではなかった。じっさい、これらのブルジョワ経済学者たちは、剰余価値の源泉に関する切実な問題をあまり深く掘り下げることは非常に危険だという正しい本能をもっていたのである。しかし、リカードから半世紀もあとで、ジョン・スチュアート・ミル氏が、リカードを最初に浅薄化した連中のくだらない逃げ口上をへたに蒸し返すことによって重商主義者にたいする自分の優越を大いばりで確認しているのは、またなんということだろうか?

ミルは次のように言っている。

「利潤の原因は、労働が、労働の維持に必要であるよりも多くを生産する、ということである。」

これだけでは、昔の調子となんの変わりもない。だが、ミルはこれに自分のものもつけ加えようとする。

「または、命題の形を変えて言えば、なぜ資本が利潤を生むかという理由は、食物や衣服や原料や労働手段が、それらの生産に必要な時間よりも長い時間をもつということである。」

ミルはここでは労働時間の持続をその生産物の持続と混同している。この見解によれば、その生産物がたった1日しかもたない製パン業者は、その生産物が20年以上も長もちする機械製造業者と同じ利潤を彼の賃金労働者から引き出すことはとうていできないということになるのであろう。もっとも、もし鳥の巣がそれをつくるのに必要な時間よりも長くもたないならば、鳥は巣なしですまさなければならないということは確かであろうが。

まずこの根本真理を確立しておいてから、ミルは重商主義にたいする自分の優越を次のように確立する。

「こうして、われわれは、利潤が生ずるのは、交換という偶発事からではなく、労働の生産力からであるということを知る。一国の総利潤はつねに労働の生産力によって規定されているのであって、交換が行なわれるかどうかにはかかわりない。もし分業がなければ、買いも売りないであろうが、それでもやはり利潤は存在するのであろう。」

つまり、ここでは、交換は、売買は、この資本主義的生産の一般的な条件は、ただの偶然事なのであって、労働力の売買がなくてもやはり利潤はあるのだ!

さらに言う。

「一国の労働者の全体が彼らの賃金総額よりも20%多く生産するとすれば、物価の高低にかかわらず、利潤は20%になるであろう。」

これは一面ではきったく奇妙な同義反復である。なぜならば、もし労働者たちが彼らの資本家のために20%の剰余価値を生産するとすれば、利潤は労働者たちの賃金総額にたいして100対20の比をなすであろうから。他方、利潤は「20%となるであろう」と言うのは、全然まちがいである。利潤は必ずもっと小さくなければならない。というのは、利潤は前貸資本の総額にたいして計算されるからである。たとえば、資本家が500ポンド・スターリングを前貸ししたとし、そのうちの400ポンドは生産手段に、100ポンドは労賃に投じているとしよう。仮定したように剰余価値率が20%ならば、利潤率は500対20、すなわち4%であって、20%ではないであろう。

次には、社会的生産のいろいろな歴史的形態をミルがどのように扱っているかを示すみごとな見本が現われる。

「いつでも私は、わずかばかりの例外を除けばどこでも行われている現在の事態を前提する。すなわち、資本家は労働者への支払を含めていっさいの前貸しをする、というのがそれである。」

今日まで地球上でただ例外的にしか行われていない状態をどこにでも見るという世にもまれな視覚の錯誤!しかし、まだ先がある。ミルはすなおに認める、「資本家がそうすることは、絶対的な必要事ではない」と。それとは反対だ。

「労働者は、もしその間の彼の生存に必要な資力をもっているならば、彼の賃金の全額の支払をさえも、労働が完了するまで待つこともできるであろう。だが、こういう場合には彼はある程度までは、事業に投資してその継続に必要な資金の一部を提供する資本家であろう。」

同じ論法で、ミルは次のように言えるであろう。生活手段だけではなく労働手段までも自分自身に前貸しする労働者は、ほんとうは彼自身の賃金労働者である、と。あるいはまた、アメリカの農民は彼自身の奴隷であって、ただ、この奴隷は、主人である他人のためにではなく自分自身のために労役に服するだけのことである、と。

ミルは、このようにはっきりと、資本主義的生産はそれが存在しないときにさえもやはり存在するであろうということを、われわれに証明してくれたあとで、今度はまったく首尾一貫して、資本主義的生産はそれが存在するときにさえも存在しないということを論証しようとするのである。

「そして、前のほうの場合(資本家が賃金労働者にその生活手段の全部を前貸しする場合)にさえも、労働者は同じ観点から(すなわち資本家として)考察されることができる。なぜならば、彼は自分の労働を市場価格よりも安く(!)引き渡すので、この差額(?)を自分の企業主に前貸しするものとみなされることができるからである、云々。」

じっさい、現実には労働者は自分の労働を1週間というような期間にわたって資本家に無償で前貸しして、週末などにその市場価格を受けとるのであるが、このことは、ミルによれば、労働者は資本家にするのである!低い平地ではただの盛り土でも小山のように見える。われわれの今日のブルジョアジーの低さを、その「偉大な精神」と呼ばれる高さによって計ってみようではないか。

古典派経済学者たち、たとえばリカードは増殖価値の源泉を考えようともしませんでした。彼にとって資本主義的生産様式は自然な形態にみえたので、増殖価値は自然に生まれてくると考えたからです。したがって、彼は増殖価値が生まれる原因ではなく、増殖価値の大きさを決める原因を探究しました。

これに対してリカード派の経済学者たちは増殖価値の発生原因は、労働の生産力であると宣言しました。これらについて、マルクスは単に増殖価値の源泉という問題を回避しただけで解決したわけではないと評します。

彼らの50年後のジョン・スチュアート・ミルは、増殖価値の原因は労働者が自身生活維持のために必要なもの以上に生産するからだと説きました。彼は、労働時間の長さと生産物が長持ちする時間の長さを混同しているとマルクスは言います。つまり、生産物が1日しか保たないパン屋は、生産物であるパンが20年以上も持続して使われる機械の製造業者と同じ利潤を、そこから引き出すことは決してできないことになります。この根本的な真理が確立されると、利潤は交換という偶発的な出来事から発生するのではなく、つねに労働の生産力によって決まる、ということになります。

これによると、資本主義的な生産の一般的な条件である交換、すなわち購入と販売は純粋に偶発的な出来事になってしまう。そして労働力の売り買いなしでも、利潤が存在するというのです。

次に、彼は資本家は労働者への支払いを含めて、必要な資本の前払いをすることを前提としていると言います。しかし、マルクスは実際には、労働者が自分自身の生活手段だけではなく、労働手段まで前払いしている労働者は、現実にはみずからの賃金労働者なのであるといいます。そこに彼の根本的な誤解があるわけです。

リカードは増殖価値の源泉についてはまったく考えようともしていない。リカードにとっては資本制的な生産様式は社会的な生産の自然の形態にみえたので、増殖価値はそれに内在していると考えたのである。彼が労働の生産性について考察するときに、そこで探しているのは増殖価値が存在する原因ではなく、増殖価値の大きさを規定する原因にすぎない。

これにたいしてリカード派の経済学者たちは、利潤(ここでは増殖価値を意味する)の発生原因は、労働の生産力であると声高に宣言した。これは重商主義者よりは一歩の前進である。重商主義者は生産物の価格が生産費用よりも高くなる原因は交換であると考えたのだった。すなわち生産物がその価値を上回る価格で販売されることが、その原因だと考えたのだ。ただし、リカード派も、たんに問題を回避しただけであって、解決したわけではなかった。

実際にこれらのブルジョワ経済学者たちは、増殖価値の源泉という焦眉の問題に深入りするのは非常に危険だという正しい本能をそなえていたのである。ところがリカードから50年も後に登場したジョン・スチュアート・ミル氏はリカード派の亜流たちの怠惰な言い逃れを繰り返しながら、いかに重商主義者よりも優れているかを偉そうに主張する。何をか言わんやである。

次にミルが語る言葉は、社会的な生産の歴史的にさまざまに異なる形態をどのように扱っているかをまざまざと示している。「わたしは少数の例外を別として、どこでも既存の状態を前提にしている。すなわち資本家は労働者への支払を含めて、必要なすべての資本の前払いをすることを前提にする」。今日まで地球上でごく稀にしか実現されていない「賃金の前払いという」事態を全般的であるとみなすのは、珍しい目の錯覚であろう!しかし先に進もう。ミルも「資本家がそうするという絶対的な必然性があるわけではない」ことを認めるだけの良心はそなえている。逆に「労働者は、労働が完全に終わるまで、そのあいだに生存できるだけの賃金があれば、すべての賃金の支払いを待つこともできる。しかしその場合に労働者はある程度まで資本家なのである。彼は資本を事業に投資し、その事業の継続に必要な資金の一部を提供しているのである」。

ミルは反対に、自分自身の生活手段だけではなく、労働手段まで前払いしている労働者は、現実にはみずからの賃金労働者なのであるとも言えたはずである。あるいは他人である主人のためではなく、自分のためだけに働いているアメリカの農夫は、自分自身の奴隷なのだと。

こうしてミルは、資本制的な生産は、それがまだ存在していないところであっても、つねに存在するであろうと明確に証明する。そしてそれが存在するときでも、まだ存在しないことを証明するのは、実に首尾一貫したところである。「先に示した場合でも(資本家が賃金労働者にすべての生活手段を前払いする場合である)、労働者を同じ観点から考察することができる(すなわち資本家とみなすということである)。労働者は彼の労働を市場価格を下回る価格で(!)提供することによって、その差額(?)を企業主に前貸ししているかのようにみなせるからである」。

実のところ労働者は資本家に、1週間なら1週間分の労働を無料で貸しだしているのであり、週末になってやっとその市場価格をうけとるのである。ミルによるとこれによって労働者は資本家になるのだという!平地では土が盛り上がっているだけで、丘のようにみえる。今日のブルジョアジーが「偉大な精神」の代表とみなす人物の水準をみれば、今日のブルジョワたちの平板さが明らかになるだろう。

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