マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第7篇 資本の蓄積
第24章 いわゆる本源的蓄積
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第7篇 資本の蓄積

〔この篇の概要〕

マルクスは『資本論』全3巻のうち、そのうち第1巻しか自らの手で公刊することができませんでした。その『資本論』第1巻は全7篇から成り、最後の篇は「資本の蓄積過程」と題されています。この第7篇でマルクスは、資本の不断の運動のなかで資本-賃労働関係が再生産され、拡大再生産されてゆく過程を問題とします。

資本として機能する価値量の運動は、一定の貨幣額が市場において生産手段と労働力へ転化する「流通部面」に始まります。運動の第二の局面、すなわち「生産過程」が終了すると、一定量の剰余価値を含んだ商品が生まれますが、この商品がふたたび流通部面に投げこまれなければなりません。商品はいまいちど貨幣となり、その貨幣はあらためて資本へと転化する。この継続的かつ反復的な「循環」が資本の流通をかたちづくるわけです。

資本の蓄積とは、この反復的循環において「剰余価値が資本として充用されること、または剰余価値が資本へと再転化すること」にほかなりません。剰余価値は、実際には、利潤や利子や商業利潤や地代などへと事後的に差異化し、分化することになるけれども、当面は資本の蓄積過程を問題とする場面なので、ここでは論じられていません。これらのすべては剰余価値の「転化形態」であるとはいえ、しばらくは剰余価値のすべては産業資本のもとに止まるものとして、純粋な蓄積過程が抽出されるわけです。

あらゆる社会は消費を停止することができるものではありません。消費はしかも、連続的な過程として起こります。人は今日も渇き、明日も飢えるからです。したがってすべての社会は広義の生産も止めることができず、生産もまた連続的でなければなりません。生産が連続的なものであるかぎりで、いっさいの「社会的生産過程」は「同時に再生産過程」ということになります。そこではまた「生産の諸条件は同時に再生産の諸条件」なのです。

資本は生産−再生産を反復することによって、差異が生まれます。つまり剰余価値もまた生産−再生産されるわけです。反復によって周期的に回帰し、とはいえ増加して回帰する資本価値として剰余価値は、資本の立場からすれば「資本から生じる収入」というかたちを取ることになります。いまこの収入が、資本の人格化である資本家にとって「消費財源」として役だつだけであり、周期的に回帰するものが周期的に立ち去るものにすぎないとすれば、生起するのは「単純再生産」です。すなわち、同規模でおなじ構成で反復的に回帰する再生産であるほかはないのです。

ところがマルクスによれば、この連続的な反復ですら、「あらたないくつかの性格を刻印する」のです。その性格のうち第一に問題とされるものが、いわゆる「領有法則の転回」にほかなりません。市民社会の原則を資本制そのものが蹂躙してゆくのです。

 

第24章 いわゆる本源的蓄積

〔この章の概要〕

第6編までの展開で、マルクスは資本の生産過程がいかにしてその価値増殖をなすかを明らかにしましたが、第7編で、資本は資本自身を再生産するとともに、資本家と労働者との関係をも再生産するものであるということを明らかにして、すすんで資本家的蓄積の一般的法則を積極的に展開して、産業予備軍の形成という資本主義に特有な人口法則を明らかにする。生産力の増進は、資本の構成において可変資本部分に対して不変資本部分を相対的に増加することになり、資本の蓄積の進展とともに資本はみずから労働人口の過剰を形成しつつ、それによって蓄積のさらに一層の発展を実現するというのである。それはまさに資本がみずからの力によって確保し、一つの社会として自立できる機構をなすものにほかならない。そして最後の2章で、この資本の再生産過程のうちに再生産される労働力の商品化の歴史的条件が、いいかえれば、生産手段と直接生産者との分離という資本主義成立の根本条件が、旧社会の崩壊過程においていかにして形成されてきたかを、資本の原始的蓄積の過程として、イギリスの史実を詳述しています。

 

〔本分とその読み(解説)〕

第1節 本源的蓄積の秘密

経済学の原罪としての本源的蓄積

どうようにして貨幣が資本に転化され、資本によって剰余価値がつくられ、また剰余価値からより多くの資本がつくられるかは、これまで見てきたところである。ところで、資本の蓄積は剰余価値を前提し、剰余価値は資本主義的生産を前提するが、資本主義的生産はまた商品生産者たちの手のなかにかなり大量の資本と労働力とがあることを前提する。だから、この全運動は一つの悪循環をなして回転するように見えるのであり、われわれが、の悪循環から逃げ出すためには、ただ、資本主義的蓄積に先行する「本源的」蓄積(アダム・スミスの言う「先行的蓄積」)、すなわち資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積を想定するよりほかはないのである。

この本源的蓄積が経済学で演ずる役割は、原罪が神学で演ずる役割とだいたい同じようなものである。アダムがリンゴをかじって、そこで人類の上に罪が落ちた。この罪の起源は、それが過去の物語として語られることによって、説明される。ずっと昔のあるときに、一方には勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜きの人があり、他方にはなまけもので、あらゆる持ち物を、またそれ以上を使い果たしてしまうくずどもがあった。とにかく、神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかを明かしてくれるのである。それはとにかくとして、前の話に戻れば、一方の人々は富を蓄積し、あとのほうの人々は結局自分自身の皮のほかにはなにも売れるものをもっていないということになったのである。そして、このような原罪が犯されてからは、どんなに労働しても相変わらず自分自身よりもほかにはなにも売れるものを持っていない大衆の貧窮と、わずかばかりの人々の富とが始まったのであって、これらの人々はずっと前から労働しなくなっているのに、その富は引き続き増大してゆくのである。

こんな愚にもつかない子供だましを、たとえばティエール氏は、かつてあんなに才気に富んでいたフランス人に向かって所有権の擁護のためにまだ大まじめに言って聞かせるのである。ところがひとたび所有権の問題が舞台に現われれば、この子供用読本の立場をどんな年齢にもどんな発育段階にも適する唯一の正しい立場として固持することが神聖な義務になるのである。現実の歴史では、周知のように、征服や圧制や強盗殺人が、要するに暴力が、大きな役割を演じている。おだやかな経済学でははじめから牧歌調がみなぎっていた。はじめから正義と「労働」とが唯一の致富手段だった。といっても、もちろんそのつど「今年」だけは例外だったのであるが。実際には本源的蓄積の諸方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではないのである。

どのようにして貨幣が資本に転化するか、資本によって剰余価値が生み出され、剰余価値がさらに多くの資本を生み出すかを、これまで考察してきました。資本の蓄積は剰余価値を前提とし、剰余価値は資本主義的生産を前提し、この資本主義的生産は大量の資本と労働力を前提とします。このようにしてみると、上記のことは資本が出発点であると同時に帰結でもあるという循環の様相を呈しているように見えます。このような循環の外に出るためには、資本主義的蓄積に先行する本源的蓄積を想定することが求められます。それは、資本主義的生産の結果ではなく、出発点となる蓄積です。

この本源的蓄積が経済学で果たす役割は、神学の「原罪」のようなものです。それは、いかにして人が働いてパンを手に入れなければならなくなったかということ、その一方で、どうして働かなくてもパンを手に入れる人がいるのかということです。それは、勤勉で賢明で倹約できる人が富を蓄積し、怠け者で浪費する人は結局のところ自分自身を売るしかなくなる、というのです。これはまた、大多数の人々の貧困の始まりを告げ、少数の人々に富が集中することを説明するものとなっています。

これまで、貨幣がいかにして資本に変容するか、資本によっていかにして増殖価値が生みだされ、増殖価値がいかにしてさらに多くの資本が生みだされるかを考察してきた。資本の蓄積は増殖価値を前提とし、増殖価値は資本制的な生産を前提とし、この資本制的な生産は、かなり大量な資本と労働力が商品生産者の手のもとにあることを前提している。

このようにしてみるとこの前提のプロセスは〔資本が出発点であると同時に帰結でもあるという意味で〕間違った循環論のうちにあるように思われる。この循環論から外に出るには、資本制的な蓄積に先行する「原初的な」蓄積(アダム・スミスがいう先行的な蓄積)を想定する必要がある。つまり資本制的な生産様式の結果ではなく、その出発点となる蓄積である。

この原初的な蓄積が経済学においてはたす役割は、神学において原罪がはたす役割に等しいものである。アダムがリンゴをかじったことで、人類は罪を負った。過去の逸話として語られることで、罪の起源が説明される。はるか大昔に、片方には勤勉で、頭がよく、何よりも節約を重視するエリートがいた。他方には、怠惰で、すべてを浪費するルンペンがいたというわけである。

神学の原罪の伝説がわたしたちに語っているのはもちろん、いかにして人間が額に汗して〔働いて手に入れたパンを〕食べねばならない運命になったかということである。それにたいして経済学的な原罪の歴史物語がわたしたちに語っているのは、どうして額に汗して〔働いて手に入れたパンを〕食べる必要がまったくない人々いるのかということである。どちらも同じことである。勤勉で、頭がよく、何よりも節約を重視する人々が富を蓄積し、怠惰で、すべてを浪費する人々は結局のところは、自分自身を売るしかなくなるというのである。この原罪が、大多数の人々の貧困の始まりを告げるものとなる。これらの人々はどれほど働いても、自分自身のほかにも売るものがない。これはまた、少数の人々の富の始まりを告げるものである。これらの人々は働くのをやめても、その富は増えつづけるのである。

このようなつまらない子供だましを、たとえばティエール氏は所有権を弁護するために、麗々しいきまじめさで、かつてあれほど才気に富んでいたフランス人に説き聞かせているのである。ところがひとたび所有権が問題になると、すべての年齢層のすべての発育段階の人々に、この児童向けの読本の立場だけを正当なものとして語るのが、聖なる義務になる。

周知のように現実の歴史では、制服が、服従が、強盗殺人が、要するに暴力が大きな役割をはたしている。ところが穏やかな経済学には、牧歌的な世界がずっと広がっている。法と「労働」は、はるか昔から富を増やす唯一の手段だった。ただしいつでも「今年限りは」の例外なのである。実際には原初的な蓄積の方法は、牧歌的なものとはかけ離れたものであった。

 

資本主義的な生産の基本条件

貨幣も商品も最初から資本ではないのであって、ちょうど生産手段や生活手段がそうでにいのと同じことである。これらのものは資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは一定の事情のもとでなければ行われないのであって、この事情は要するに次のことに帰着する。すなわち、二つの非常に違った種類の商品所持者が対面し接触しなければならないという事情である。その一方に立つのは、貨幣や生産手段や生活手段の所有者であって、彼らにとっては自分がもっている価値額を他人の労働力の買い入れによって増殖することこそが必要なのである。他方に立つのは、自由な労働者、つまり自分の労働力の売り手であり、したがってまた労働の売り手である。自由な労働者というのは、奴隷や農奴などのように彼ら自身が直接に生産手段の一部分であるのでもなければ、自営農民などの場合のように生産手段が彼らのものであるのでもなく、彼らはむしろ生産手段から自由であり離れており免れているという二重の意味で、そうなのである。このような商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基本的諸条件は与えられているのである。資本関係は、労働者と労働実現条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産がひとたび自分の足で立つようになれば、それはこの分離をただ維持するだけではなく、ますます大きくなる規模でそれを再生産する。だから、資本関係を創造する過程は、労働者を自分の労働条件の所有から分離する過程、すなわち、一方では社会の生活手段と生産手段を資本に転化させ、他方では直接生産者を賃金労働者に転化させる過程以外のなにものでもないのである。つまり、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならないのである。それが「本源的」として現われるのは、それが資本の前史をなしており、また資本に対応する生産様式の前史をなしているからである。

貨幣や商品は最初から資本であるわけがないし、生産手段や生活手段もそうです。これらは資本に転化する必要があるのです。この転化が起こるには、一定の事情であることが必要です。すなわち、それぞれ異なる商品を持った者が互いに向き合っているという事情です。片方は、貨幣、生産手段、生活手段といった商品の所有者で、彼は他人の労働力を購入することを欲しています。なぜなら、その労働力によって自身の持っている価値を増殖させるためです。もう一方は自由な労働者、つまり自分の労働力を商品として売る者です。彼は生産手段を持たず、つまり農民が生産手段である土地に縛られるようなことはない、つまり自由な人です。商品に関わる者たちがこのように両極化すると、資本主義的生産の基本的な条件が確立されたことになります。労働者が、労働を売ることができるために生産手段を所有していないことが前提となります。資本主義的生産が自立して動き始めると、この分離が維持されるだけでなく、さらに大規模に拡大再生産されるようになります。

このような資本関係を形成するプロセスは、労働者が生産手段を切り離すプロセスでもあります。これは一方では、社会的な生活手段と生産手段を資本に転化させ、他方では生産者を賃金労働者に変えるということです。したがって、本源的蓄積とは、生産者と生産手段を分離させるプロセスということです。

貨幣と商品が最初から資本であるわけではないし、生産手段や生活手段も最初から資本ではない。それらを資本に変容させる必要があるのである。この変容が起こるためには、特定の状況が存在していなければならない。すなわち、まったく異なる二つの商品を所有している者がたがいに向き合い、接触する必要がある。つまり片方には貨幣、生産手段、生活手段の所有者がいる。彼らにとって重要なのは、他人の労働力を購入することによって、自分が獲得している価値の総額を増殖させることである。他方には、自由な労働者がいる。彼らは自分の労働力の売り手であり、労働の売り手である。自由な労働者であるということには二重の意味がある。奴隷や農奴とは違って、直接的には生産手段に属さない〔という意味で自由な〕のであり、反対に、自営農民などとは違って、生産手段が自分のものではなく、そうしたものから自由であり、切り離されているのである。

商品市場がこのように両極化すると、資本制的な生産の基本条件が確立されたことになる。資本関係は、労働者が、労働を現実のものとする生産手段の所有から分離されていることを前提とする。資本制的な生産が自立的なものになり始めると、この分離が維持されるだけでなく、さらに大規模にこの分離が再生産されるようになる。

資本関係を作りだすプロセスは、労働者が自分の労働条件の所有から切り離されるようになるプロセスである。このプロセスは一方では社会的な生活手段と生産手段を資本に変容させ、他方では直接の生産者を賃金労働者に変える。だからいわゆる原初的な蓄積とは、生産者と生産手段が、歴史的に分離されるプロセスにほかならない。それが「原初的な」ものにみえるのは、資本の前史を形成し、資本にふさわしい生産様式の前史を形成するからである。

 

血と炎の歴史

資本主義的社会の経済的構造は封建社会の経済的構造から生まれてきた。後者の解体が前者の諸要素を解き放したのである。

直接生産者、労働者は、彼が土地に縛りつけられていて他人の農奴または隷農になっていることをやめてから、はじめて自分の一身を自由に処分することができるようになった。自分の商品の市場が見つかればどこへでもそれをもって行くという労働力の自由な売り手になるためには、彼はさらに同職組合の支配、すなわちその徒弟・職人規則やじゃまになる労働規定からも解放されていなければならなかった。こうして、生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運動は、一面では農奴的隷属や同職組合制からの生産者の解放として現われる。そして、われわれのブルジョワ的歴史家たちにとっては、ただこの面だけが存在する。しかし、他面では、この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段を奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。このような彼らの収奪の歴史は、血に染まりと火と燃える文字で人類の年代記に書き込まれているのである。

産業資本家たち、この新たな王権者たち自身としては、同職組合の手工業親方だけでなく、富の源泉を握っている封建領主をも駆逐しなければならなかった。この面から見れば、彼らの興起は、封建的勢力やその腹だたしい特権にたいする戦勝の成果として、また同職組合やそれが生産の自由な発展と人間による人間の自由な搾取とに加えていた拘束にたいする戦勝の成果として、現われる。しかし、産業の騎士たちが剣の騎士たちを駆逐するということは、ただ自分たちのまったくあずかり知らない諸事件を利用することによってのみ成就された。彼らは、かつてローマの被解放民が自分の保護主の主人になるために用いたのと同じ卑劣な手段によって、成り上がったのである。

資本主義社会の経済構造は封建社会の経済構造から生まれてきたものです。封建社会が解体して資本主義社会のさまざまな要素を解放したのです。

直接生産者である労働者は、自分の土地に縛られることや他人の農奴であることや隷属農民であることをやめて、はじめて自分自身を自由に処分できるようになりました。さらに彼は労働力の自由な売り手となって、どこの市場でも自由に売ることができるようになるために、同職組合の支配や徒弟制度や仲間内のしきたりなどといった面倒な労働規制から解放されなければなりませんでした。このようにして、生産者を賃金労働者に変えていく歴史的な運動は、一方ではこのような農奴のような隷属関係や同職組合の拘束から労働者を解放したように見えます。しかし他方では、この新たに解された人々は生産手段をすべて奪われ、古い制度で与えられていた生活の保障を奪われ、はじめて自分自身を売るしかなくなったのです。

産業資本家という新たな権力者は、同職組合の親方たちを追い払うだけでなく、富の源泉を握っていた封建領主を追い払う必要がありました。そういう観点でからみると彼らが権力を握ったのは、封建的勢力や彼らの持つ特権との戦いに勝利した結果で、同時に、同職組合やそれが自由な生産の発展と人間の自由にたいして拘束していたことへの戦いに勝利した成果です。

資本制的な社会の経済構造は、封建社会の経済構造のうちから生まれてきた。封建社会が解体して、資本制的な社会のさまざまな要素を解放したのである。

生産者を賃金労働者に変えるこの歴史的な動きは、一方ではこのように隷属関係と同職組合の強制からの解放のようにみえる。わたしたちのブルジョワ的な歴史家には、この側面しかみえないのである。しかし他方では、この新たな解放された人々は、すべての生産手段を奪われ、古い封建的な制度による生活の保証がすべて奪われた後に、初めて自分自身を売るようになったのである。この剥奪の歴史は、人類の年代記に、血と炎の歴史として書き込まれているのである。

産業資本家たち、この新しい権力者たちは、同職組合の手工業的な親方たちを追い払うだけでなく、富の源泉を所有していた既存の封建領主たちも追い払う必要があった。その観点からみると、産業資本家たちが権力を握ったのは、封建的な権力やその腹立たしい特権との戦いに勝利を収めた結果であり、同時に同職組合にたいする戦い、同職組合が自由な生産の発展と、人間による人間の自由な搾取にたいして設けていた障害との戦いに勝利を収めた結果である。しかし産業の騎士たちは、自分たちとはかかわりのない出来事を利用し尽くして、剣をもつ騎士たちを追い払っただけのことである。ローマの解放奴隷が、かつての保護者の主人となるために使ったのと同じような卑劣な手段によって、勝利を収めたのである。

 

資本主義時代の歴史的な背景

賃金労働者とともに資本家を生みだす発展の出発点は、労働者の隷属状態だった。そこからの前進は、この隷属の形態変化に、すなわち封建的搾取の資本主義的搾取への転化に、あった。転化の歩みを理解するためには、それほど遠くさかのぼる必要はない。資本主義的生産の最初の萌芽は、すでに14世紀および15世紀に地中海沿岸のいくつかの都市で散在的に見られるとはいえ、資本主義時代が始まるのは、やっと16世紀からのことである。資本主義時代が出現するところでは、農奴制の廃止はとっくにすんでおり、中世の頂点をなす独立都市の存立もずっと以前から色あせてきているのである。

本源的蓄積の歴史のなかで歴史的に画期的なものといえば、形成されつつある資本家階級のために槓杆として役だつような変革はすべてそうなのであるが、なかでも画期的なのは、人間の大群が突然暴力的にその生活手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている。この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており、この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代も国によって違っている。それが典型的な形をとって現われるのはただイギリスだけであって、それだからこそわれわれもイギリスを例にとるのである。

賃金労働者だけでなく資本家をも生みだした発展の出発点となったのは、労働者の隷属状態でした。この発展は、隷属状態の形態が、封建的な搾取から資本主義的な搾取に変化することで生じたものです。このプロセスを理解するためには、それほど遠い昔までさかのぼる必要はなく、資本主義的生産の萌芽は14世紀から15世紀にかけての地中海沿岸の都市で散発的に見られましたが、本格的になったのは16世紀になってからで、農奴制はなくなり、独立自由都市も中世の最盛期を過ぎて色褪せたものとなっていました。

本源的蓄積の歴史のなかで時代を画したのは、いろいろな変革があったなかでも、大量の人々が突然暴力的に生活手段を奪われ、プロレタリアとして労働市場に放り出されたことです。この時に農民が土地を奪われ、農村にいることかができず、都市に流入して賃金労働者にならざるをえなかったことです。このような土地の収奪の歴史は国によって異なりますが、典型的なのがイギリスの場合であって、ここでは、それを見ていきたいと思います。

賃金労働者を作りだし、資本家を生みだした発展の出発点にあったのは、労働者の隷属状態であった。この発展は、隷属状態の形式が、封建的な搾取から資本制的な搾取に変わることで生まれたのである。この進みゆきを理解するためには、それほど昔にさかのぼる必要はない。資本制的な生産の萌芽は、地中海沿岸のいくつかの都市で、14世紀および15世紀頃から散発的にみられるが、資本制の時代が始まるのは16世紀になってからである。資本制が始まるところでは、すでに農奴制が姿を消していた。そして独立した都市という中世の華も、しばらく前から色あせたものとなっていた。

原初的な蓄積の歴史で時代を画したのは、あらゆる種類の変革であり、台頭する資本家階級はこれを梃子として利用したのだった。とくに大量の人々が自分たちの自給自足の手段を突如として暴力的に奪われ、法の保護を奪われたプロレタリアとして、労働市場に放りだされたことが重要な要因だった。このプロセス全体の土台となるのは、農村の生産者である農民たちから土地が奪われたことである。この土地の収奪の歴史は、国ごとに異なる色彩をおびているし、さまざまな段階がつづく順序も、さまざまな歴史的な時代も異なる。この歴史が古典的な形態をとったのはイギリスだけであり、わたしたちはこれからその実例を検討してみよう。

 

資本主義的生産はそもそもどのようにして開まったのでしょうか。資本主義の条件が、一方では資本に転化することのできる貨幣と生産手段を独占した少数者の形成と、他方では二重の意味で自由な多数者(賃労働者)の排出とを条件とするならば、その形成と排出の過程が同時に、ここで明らかにされるわけです。

前項では、資本主義的な蓄積の諸相を見てきました。とはいえ、資本主義的生産は商品生産者たちの手のなかにかなり大量の資本と労働力とが存在することを前提とする以上、この資本主義的蓄積に先行する本源的蓄積を明らかにすべく叙述がすすみます。

マルクスは、皮肉な調子で資本主義の原罪をめぐる物語として本源的蓄積のプロセスを物語ろうとします。それは、いうまでもなく陳腐な子供だましであって、現実の歴史では、よく知られているとおり、征服や圧政や強盗殺人、要するに暴力が、大きな役割を演じているものです。この歴史の一端を主にイギリスに即して、自由な労働者の形成、すなわち、生産者と生産手段との歴史的分離過程として問題とするものが、『資本論』第1巻末尾の本源的蓄積論の課題です。それは、したがってとりあえずは資本の前史という意味をもつことになります。その歴史的な動向は他面では、血と火との文字で人類の年代記に書き込まれる収奪の歴史でした。

 

 

第2節 農村住民からの土地の収奪

豊かな民衆の没落

イギリスでは農奴制は14世紀の終わりころには事実上なくなっていた。当時は、そして15世紀にはさらにいっそう、人口の非常な多数が自由な自営農民から成っていた。たとえば彼らの所有権がどんなに封建的な看板によって隠されていたにしても、いくらか大きな領主所有地では、以前はそれ自身農奴だった土地管理人は自由な借地農業者によって駆逐されていた。農業の賃金労働者は、一部は、余暇を利用して大土地所有者のもとで労働していた農民たちから成っており、一部は、独立の、相対的にも絶対的にもあまり多数でない、本来の賃金労働者の階級から成っていた。後者もまた事実上は同時に自営農民でもあった。というのは、彼らも自分たちの賃金のほかに4エーカー以上の大きさの耕地と小屋とをあてがわれていたからである。そのうえに、彼らは、本来の農民といっしょに共同地の用益権を与えられていて、そこには彼らの家畜が放牧されていたし、また同時にそれは彼らの燃料になる木や泥炭なども供給していた。ヨーロッパのどの国でも、封建的な生産は、できるだけ多くの家臣のあいだに土地を分割するということによって特徴づけられている。封建領主の権力は、どの君主のそれとも同様に、彼の地代帳の長さにではなく彼の家臣の数にもとづいていたし、またこの家臣の数は自営農民の数にかかっていた。ノルマン人による制服の後にはイギリスの土地は巨大なバロン領に分割されてそのうちにはただ1つで900の旧アングロサクソン貴族領を包括するものもしばしばあったとはいえ、この土地には一面に小農民経営がばらまかれていて、ただあちこちにいくらか大きい領主直轄地が点在していただけだったのである。15世紀にとくに顕著になった都市の勃興と、こうした農村の経営状況によって、民衆が豊かになった。大法官フォーテスキューはその豊かさを『イギリスの法を称えて』で雄弁に描きだしている。しかし同じ事情のために、そこには資本の富は存在しなかった。

資本主義制的生産様式の基礎をつくりだした変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期と16世紀の最初の数十年間に演ぜられた。サー・ジェームズ・スチュアートが正しく言っているように、「どこでもいたずらに家や屋敷をふさいでいた」封建家臣団の解体によって、無保護なプロレタリアの大群が労働市場に投げ出された。それ自身ブルジョワ的発展の一産物だった王権は、絶対的主権の追求にさいしてこの家臣団の解体を強行的に促進したとはいえ、けっしてその唯一の原因ではなかった。むしろ、王権や議会に最も頑強に抵抗しながら、大封建領主は、土地にたいして彼自身と同じ封建的権利をもっていた農民をその土地から暴力的に駆逐することによってと、また農民の共同地を横領することによって、比べものにならないより大きなプロレタリアートをつくりだしたのである。これに直接の原動力を与えたものは、イギリスでは特にフランドルの羊毛マニュファクチュアの興隆とそれに対応する羊毛価格の騰貴だった。古い封建貴族は大きな封建戦争に食い尽くされていたし、新しい貴族は、貨幣が権力中の権力になった新しい時代の子だった。だから耕地の牧羊場化は新しい貴族の合言葉になったのである。ハリソンは彼の『イングランド記。ホリンシェッドの年代記への序』のなかで、小農民の収奪がどんなに国を荒廃させているかを描いている。「われわれの大横領者たちが何を気にかけようか?」農民の住居や労働者の小屋はむりやりに取り壊されるか、または腐朽するに任された。ハリソンは次のように言っている。

「どの騎士領の古い財産目録を比べてみても、無数の家屋や小農民経営がなくなっているということと、この国はずっとわずかな人々しか養っていないということ、いくつかの新しい都市が興ったとはいえ、多くの都市は衰微しているということが分かるだろう。…牧羊場にするために破壊されて、もはや領主の家しか残っていないたような町や村のことも、話せないわけではない。」

あの古い年代記の嘆きは誇張されてはいるが、しかし、それらは諸生産関係における革命が当時の人々自身に与えた印象を精確に描いている。大法官フォーテスキューの著書とトマス・モアの著書とを比べてみれば、15世紀と16世紀との隔たりは目に見えるように明らかになる。ソーントンが正しく言っているように、イギリスの労働者階級は、どんな過渡段階も通らないで、その黄金時代から鉄の時代に転落したのである。

イギリスでは14世紀末には農奴制は消滅していました。そして15世紀には、自由な自営農民が多数となっていました。かつての封建領主の領地では農奴は借地農に替わっていました。

農業での賃金労働は、以前は自営農民が自分の農地の作業が済んだ後の余った時間に大土地所有者の農地で働くというものでした。ただし、少数ではあるが、本来の意味での賃金労働をする者もいました。自営農民たちは4エーカー程度の土地と家屋を持ち、その他に村の共有地の入会権(用益権)を持っていました。その権利の内容としては、家畜の放牧や薪の採取などをそこで行うことを許されるというものでした。中世の封建制度下での生産は、多くの封臣に土地を分け与えることで成り立っていました。封建領主の権力は臣下の人数で計られ、それは自営農民の数で規定されるというものでした。その後、ノルマン人による征服で大土地所有制度がうまれ、その土地を耕作する小農がいました。

その後、15世紀から16世紀にかけて資本主義的生産様式の基礎が形作られました。ジェイムズ・スチュアート卿が言っているように、穀潰しの封建的家臣団が解体され、それによって大量のプロレタリアが労働市場に放り出されました。ブルジョワ的な発展の産物だった王権は、絶対的な権力を得ようとして、このような家臣団の解体を強引にすすめました。しかし、それだけが原因ではありません。むしろ封建領主たちは、王権や議会に強く抵抗しながら、彼らと同じように土地所有権を持っていた農民を彼らの土地から暴力を使って追い立て、村の共有地を奪い取ることによって、多数のプロレタリアを生みだしました。この直接の大きなきっかけとなったのは、イギリスでは特にフランドル毛織物製造のマニュファクチュアの興隆と、それに伴う羊毛の価格高騰でした。古い封建貴族は大きな戦争によって姿を消していき、新しい貴族はお金こそが最大の権力と考える人々でした。彼らのモットーは「耕地を牧羊地に変えよ」でした。ハリソンは『イングランド記。ホリンシェッドの年代記への序』で、小規模農民の土地が奪い取られたことが、国土をいかに荒廃させてしまったかを描き出しました。そこでは、農民の住居は取り壊され、朽ちるにまかせられたのでした。ハリソンは言っています。「どこの騎士領でも、古い財産目録を調べてみれば、たくさんの家屋や小規模な農民が姿を消していること、土地で養う住民の数が激減してしまったこと、多くの都市が荒廃してしまったことが分かります。いくつか新しい都市が生まれましたが、羊の牧草地にするために大木の町や村が破壊され、今では、そこには領主の館しか残されていない」

このような古い年代記の記述は誇張されるのが常です。しかし、ここでの嘆きは、生産関係の革命が当時の人々に衝撃を与えたことを反映したものです。このような変化は唐突に起こったのです。

イギリスでは14世紀の終わり頃には、すでに農奴制が実質的に消滅していた。住民の圧倒的な多数は、自由な自営農民であった。封建的な〈看板〉のために、土地所有の実態が覆い隠されていたとしても、15世紀にはますますそれが顕著になっていたのである。かつての領主の大規模な地所では、かつてみずから農奴だった土地管理人たちは、自由な借地農によって追い払われていた。

農業における賃金労働者となったのは、かつては手が空いた時間に大土地所有者のところで働いていた農民が主であった。ただし相対的にも絶対的にも少数ではあるが、ほんらいの意味での賃金労働者もいた。しかしほんらいの賃金労働者も実際には同時に自営農民であり、賃金収入のほかに、4エーカーか、それ以上の土地と、そこに付随した小屋を所有していたのである。さらに彼らはほんらいの農民たちと同じように、村の土地の入会権を享受しており、そこで家畜を放牧し、火を焚くための薪や泥炭を搾取することができた。

ヨーロッパのどの国でも、封建的な生産の特徴は、できるだけ多くの封臣に土地を分け与えることにあった。封建領主の権力は、どの君主とも同じように、地代帳の長さによって決まるのではなく、臣下の人数によって決まるのであり、臣下の人数は、自営農民の人数によって決まるのである。ノルマン人による制服の後、イギリスの土地は巨大なバロン領に分けられていたが、そのなかには、それ以前のアングロサクソン貴族領の900倍の面積をもつものもあった。土地を耕作するのは小農であり、ところどころに領主の大規模な土地が散在するだけだった。15世紀にとくに顕著になった都市の勃興と、こうした農村の経営状況によって、民衆が豊かになった。大法官フォーテスキューはその豊かさを『イギリスの法を称えて』で雄弁に描きだしている。しかし同じ事情のために、そこには資本の富は存在しなかった。

資本制的な生産様式の基礎を作った大変革の序曲は、15世紀の最後の3分の1期と16世紀の最初の数十年のあいだに始まる。ジェイムズ・スチュアート卿が述べているように、「役立たずのまま、いたるところの家屋と中庭に溢れていた」封建的な家臣団が解体され、法の保護をうけないプロレタリアの大群が労働市場に投げだされた。市民的な発展の産物である王の権力は、絶対的な主権を獲得しようとして、こうした封建的な家臣団の解体を暴力的に促進したのはたしかだが、それが唯一の原因ではない。

むしろ封建的な大領主たちが、王権と議会に最も頑強に抵抗しながら、農民を土地から暴力的に追い立てることで、そして農民たちの共有地を奪い取ることで、はるかに多数のプロレタリアを生みだしたのである。封建的な法律のもとでは、農民たちは大領主と同じように、この土地の封建的な法的権利を所有していたにもかかわらずである。

イギリスでその直接のきっかけとなったのは、主としてフランドル毛織物を製造するマニュファクチュアが興隆し、それにともなって羊毛の価格が高騰したことである。古い封建貴族は、封建領主のあいだの大戦争で姿を消しており、新しい封建貴族は、金こそが最高の権力であると考える新しい時代の子だった。彼らのモットーは、「農地を牧羊地に変えよ」というものだった。ハリソンは『イングランドの描写。ホリンシェッド年代記への序』において、小農の土地が奪いとられたことが、国土をいかに荒廃させたかを描きだしている。「われらが大簒奪者は何も顧慮しない」。農民の住居も、労働者の小屋も暴力的に取り壊され、朽ちるにまかされた。

ハリソンは述べている。「どんな騎士領でも、古い財産目録を調べてみれば、無数の家屋と小規模な農民経営が姿を消していること、土地で養う住民の数がはるかに減っていたこと、多くの都市が荒廃していることが分かるだろう…ただし新たな都市が生まれて繁栄しているのはたしかであるが。…羊の牧草地にするために破壊された町や村について、必要なら多くのことを語ることができよう。そこには今では領主の館しか残されていないのである」。

こうした古い年代記の嘆きはいつも誇張されたものではある。しかしこの嘆きは、生産関係の革命が、同時代人にどれほど強い印象を与えたかを、正確に描きだしている。大法官フォーテスキューとトマス・モアが書いたものを比較してみると、15世紀と16世紀を隔てる裂け目がよく分かるだろう。〔イギリスの経済学者の〕ソーントンが正しく述べているように、イギリスの労働者階級はその黄金時代から鉄の時代へと、いかなる中間の移行段階も経ずに、突如として没落したのである。

 

立法者たちの対処

立法は、この変革をまえにして驚きあわてた。それは、「国民の富」すなわち資本形成と民衆の容赦ない搾取と貧困化とがいっさいの国策の極致とみなされるような文明水準には、まだ立っていなかったのである。ベーコンは、彼のヘンリー7世治世史のなかで、次のように言っている。

「そのころ(1849年)少数の牧夫によって容易に管理できる牧場(牧羊場など)に耕地が変えられることについて、苦情がふえてきた。そして有限契約や終身契約や1年契約の借地農場(ヨーマンの一大部分がこれによって生活していた)が領主直営地に変えられた。これは人民を衰えさせ、その結果、都市や教会や10分の1税の凋落をもたらした。…この弊害の救済にあたっては、当時の王や議会の賢明さは賛嘆に値するものがあった。…彼らはこのような、人口を減らしてしまう共同地横領や、それに続いて現われる人口削減的な牧場経営を阻止する方策をとった。」

1489年のヘンリー7世の一条例の第19条は、最低20エーカーの土地がついているすべての農民家屋の破壊を禁止した。ヘンリー8世第25年の一条例では、同じ法律が更新される。それは、なかんずく次のように言っている。

「多くの借地農場および家畜の大群、特に羊が少数の手に集中され、それによって地代は非常に増大して耕作は非常に衰退し、教会も家屋も取り払われ、驚くほど多数の人民が自分自身をも家族をも養うことが不可能にされている。」

それゆえ、この法律は荒廃した農場の再建を命じ、穀物地と牧草地との割合などを規定するのである。1533年の一条例は、2万4000頭もの羊を所有する土地所有者が何人もあることを嘆いて、その数を2000頭に制限している。人民の訴えも、ヘンリー7世以来150年にわたって小借地農業者や農民の収奪に抗した立法も、どちらも同じに無効だった。それらの不成功の秘密を、ベーコンはうっかりわれわれに漏らしている。その著『随筆集または生活と道徳に関する忠言』第29節で彼は次のように言っている。

「ヘンリー7世の条例は、一定の標準規格の農業経営と農家とをつくりだしたもので、深遠で感嘆に値するものだった。すなわち、それは、農業経営と農家とのためにある割合の土地を保存したのであって、これによって、それらは、十分な富をもち隷属状態に陥っていない臣民を生みだすことができるようになり、また雇い人の手にではなく所有者の手に犂を維持することができるようになったのである。」

資本主義体制の要求したものは、これとは反対に、民衆の隷属状態、民衆自身の雇い人への転化、民衆の労働手段を資本への転化だった。この過渡時代のあいだにも、立法は、農村の賃金労働者の小屋についている4エーカーの土地を維持することに努め、また、彼が自分の小屋に下宿人をおくことを禁止した。1627年、チャールズ1世の治下でも、フォントミルのロジャー・クロッカーは、固定付属地として4エーカーの土地がついていない小屋をフォントミルの傾地のなかにつくったというかどで、処罰された。1638年、チャールズ1世の治下でも、4エーカーの土地が付属することを定めた古い法律を強制するために、一つの勅命委員会が任命された。クロムウェルも、ロンドンの周辺から4マイル以内の地に4エーカーの土地のついていない家を建てることを禁止した。18世紀の前半になっても、農村労働者の小屋に1エーカーから2エーカーの付属地のない場合には、告訴される。今日で小屋に小園子がついているとか、小屋から遠く離れてわずかばかりの土地を賃借りすることができれば、彼は幸福である。ドクター・J・ハンター医師は次のように言っている。

「地主と借地農業者とはここで提携する。かりにわずか数エーカーでも小屋につければ、労働者をあまりにも独立させすぎることになるだろう。」

立法は、この大変革に驚き慌てました。この社会は、未だ「国民の富」、すなわち資本形成と民衆の容赦のない搾取と貧困化とがいっさいの国策の極致とみなされるような文明の段階には、達していなかったからです。たとえば、15世紀後半、人口を減らしてしまう共同地横領や、それに続いて現われる人口削減的な牧場経営を阻止する方策をとりました。フランシス・ベーコンによれば、このような政策は、標準的な大きさで自立した農業経営と農家をつくりだそうとしたものでした。

しかし、資本主義のシステムが必要としているのは、その正反対です。それは、民衆の隷属状態、民衆自身の雇い人への転化、民衆の労働手段を資本への転化でした。

立法者たちは、この大変革に驚愕した。彼らはまだ、「国富」を論じる段階に到達していなかったからである。資本の形成と、国民大衆の容赦なき搾取と貧困化が、あらゆる国家的な叡智の極致とされる文明段階に、立法者たちはまだ達していなかったのである。〔フランシス・〕ベーコンは『ヘンリー7世治世史』で、次のように述べている。「この頃に(1849年─マルクス)、農地がわずかな羊飼いだけで管理できる草地(羊の放牧地─マルクス)に変えられたことを嘆く声が増えてきた。そして期限つきで貸与される土地、生涯にわたって貸与される土地、解約するためには1年前に通告が必要な土地が(ヨーマン層の多くはこの土地を耕作して暮らしていた─マルクス)、領主の直営の土地に変えられてしまった。これは大衆の没落を引き起こし、それが都市と10分の1税の没落を招いた。…この弊害を是正するために当時の王と議会が考えだした知恵はすばらしいものだった。…こうした〈人口を減少させる囲い込み〉と、それに依拠した〈人口を減少させる牧草地〉の経営に対抗する法的な措置を採用したのである」。

1489年のヘンリー7世のある条例の第19条では、20エーカー以上の土地をもつ農民の家屋を破壊することをすべて禁止している。ヘンリー8世の治世25年のある条例では、この法律がさらに更新され、とくに次のように指摘している。「多くの借地農場と家畜の大群、とくに羊の大群は、少人数の人々のもとに集中しており、そのたに地代がきわめて高騰し、畑での耕作がほとんど姿を消し、教会や家屋が取り壊され、驚くほど多数の民が、みずからと家族を養うことができなくなっている」。

そこでこの法律では農場を再建することを命じ、穀物畑と牧草地の比率を定めた。1533年のある条例では、多くの土地所有者が2万4000頭もの羊を所有していることを嘆き、その数を2000頭に制限することを命じている。しかし民の嘆きも、小作人と農民の収奪を防ぐためのヘンリー7世以来の150年間の法律も、どちらも空しいものだった。ベーコンはその秘密をわたしたちに明かしてくれる。

ベーコンは『随筆集、生活と道徳に関する忠言』の第29節で次のように述べている。「ヘンリー7世の条例はよく考えられた称賛すべき法律である。それによって特定の標準的な大きさの農業経営と農民の家屋が作りだされた。つまり農家に特定の大きさの土地が与えられ、十分な富をもつ隷属していない臣下を生みだそうとした。鍬をもつ者が雇われ人ではなく、土地の所有者となるようにしたのである」。

しかし資本制のシステムが必要としているのはその逆のこと、すなわち民衆が隷属した状態にあり、雇われた人になり、みずからの労働手段を資本に変容させることである。この過渡期にあっても立法者たちは、農村にある賃金労働者の小屋に、4エーカーの土地が付随していることを命じ、賃金労働者が自分の小屋に借家人を住まわせることを禁じた。1627年にもチャールズ1世の統治下で、フォントミルのロジャー・クロッカーは、フォントミルの傾地に、4エーカーの土地が付属しない小屋を付属不動産として建設したことで処罰されている。同じくチャールズ1世の統治下で1638年には、4エーカーの土地が付属することを定めた古い法律を強制的に施行させるための王立委員会が設立されている。クロムウェルもロンドンから4マイル以内の地域で、4エーカーの土地が付属していない家屋の建設を禁じた。18世紀の前半になっても、農村労働者の小屋に1、2エーカーの土地が付属していない場合には訴追されている。現在では農村労働者は、自分の家に小さな庭がついていれば、あるいはどこか離れた場所に数ルーテ〔数平方メートル〕の地所でも借りられれば、それだけで幸福だという状態になっている。

ハンター医師は述べている。「これについては地主も借地農も協力しあっている。小屋に小さな地所でもつけたら、労働者たちがあまりにも自立した存在となるだろうというのである」。

 

宗教改革と土地収奪

民衆の暴力的な収奪過程は16世紀には宗教改革によって、またその結果としての大がかりな教会領の横領によって、新たな恐ろしい衝撃を与えられた。カトリック教会は宗教改革の時代にはイギリスの土地の一大部分の封建的所有者だった。修道院などにたいする抑圧は、その住人をプロレタリアートのなかに投げこんだ。教会領そのものは大部分は国王の強欲な寵臣に与えられるか、または捨て値で投機師的な借地農業者や都市ブルジョワに売り渡され、彼らは旧来の世襲の領民たちを大ぜいいっしょに追い出して、領民たちの農場をひとまとめにした。法律によって貧困農民に保証されていた教会の10分の1税の一部分の所有権は、ことわりなしに没収された。「いたるところに貧民がいる」エリザベス女王はイングランドを旅行したあとでこう叫んだ。彼女の治世の第43年には、ついに救貧院の実施によって受救貧民の存在を公式に認めざるをえなくなった。

「この法律の立案者たちはその理由を表明することを恥とし、そのために、いっさいの慣例に反しても、なにも前文をつけないでこれを世に送った。」

この法律は、チャールズ1世第16年の法律第4号によって永久的なものと宣言され、そして事実上1834年になってはじめて新しいいっそう厳格な形を与えられた。このような、宗教改革のこの直接的影響は、その最も永続的な影響ではなかった。教会領は古代的な土地所有関係の宗教的堡塁になっていた。その崩壊とともに、この関係ももはや維持できなくなったのである。

民衆の暴力的な収奪は、16世紀の宗教改革とその結果の教会領の大がかりな横領によって促進されました。この時代、カトリック教会はイングランドの土地のかなりの部分の封建的所有者でした。ところが、宗教改革によって修道院などが廃止されたため、その土地の住民がプロレタリアートになってしまいました。教会の所有する土地の大部分は、強欲な王の寵臣たちに与えられるか、または捨て値で投機師的な借地農業者や都市ブルジョワに売却されました。これらの土地の購入者は、代々そこで暮らしてきた領民たちを追い払い、その領民たちの土地をひとまとめにしました。それで貧窮した領民たちは、法律によって教会の10分の1税の一部の所有を認められていましたが、それも没収されてしまいました。エリザベス1世の治世になって救貧民の存在が認められて、救貧税が導入されました。

民衆の暴力的な収奪プログラムにとって、新たなおそるべき原動力となったのが、16世紀の宗教改革と、それによる教会財源の大規模な強奪であった。宗教改革の時代に、カトリック教会はイングランドの土地のかなりの部分を封建的に所有していた。ところが宗教改革によって修道院などが廃止されたために、その土地の住民がプロレタリアートの世界に投げだされることになった。教会の所有する土地そのものは、その大部分が強欲な王の寵臣たちに与えられるか、投機を担う借地農や市民に捨て値で売却された。土地の購入者は、古くからその土地に暮らしている世襲の領民たちを大量に追い払い、所有する土地を統合した。貧窮した農民たちは、法律に基づいて教会の10分の1税の一部の所有を認められていたが、それも暗黙のうちに没収されてしまった。エリザベス女王はイングランドの視察旅行のあとで、「どこにでも貧民がいる」と叫んでいる。女王の治世の43年目になってようやく救貧民の存在を公的に認めて、救貧税を導入したのである。「この法律を立案した人々は、その根拠を明記するのを恥じて、いっさいの慣習に反して、前文なしでこの法律を発表した」のだった。

チャールズ1世の治世16年の法律第4号で、救貧法は永続的なものと宣言され、実際に1834年には新たな形式で厳格な法律として定められた。〔救貧法というという〕宗教改革のこの直接的な影響は、そのもっとも根強い影響ではなかった。〔もっと根強い影響は教会の土地の剥奪であり〕教会の所有地は、古代的な土地所有のあり方を守る宗教的な砦であった。これが崩壊するとともに、古代的な土地所有のあり方はもはや維持できなくなったのである。

 

農業革命の暴力的な原動力

17世紀の最後の数十年間にも、独立農民層であるヨーマンリは、まだ借地農業者の階級よりも人数が多かった。それはクロムウェルの主力をなしていて、マコーリの告白によっても、飲んだくれの肥やし臭い田舎貴族や、彼らに抱えられていて主人の「愛妾」をめとらなければならなかった田舎牧師などに比べれば、有利な地位にあった。農村賃金労働者でさえも、まだ共同地の共同所有者だった。1750年にはヨーマンリはほとんどなくなっていたし、また18世紀の最後の数十年間には農民の共同地の最後の痕跡も消えてしまった。ここでは農業革命の純粋に経済的な原動力は見ないことにする。ここでは農業革命の暴力的槓杆を問題にするのである。

17世紀の末には、独立農民層であるヨーマンリは、まだ借地農の階級よりも人数が多かった。彼らはクロムウェルの勢力の中核で、社会にとって有益な人々でした。また農村の賃金労働者も村の共有地の共同所有者でもありました。しかし、18世紀半ばになると、ヨーマンリは姿を消し、18世末には共有地もなくなりました。

17世紀の最後の数十年になっても、ヨーマン層は借地農よりも数が多く、独立した農民層だった。彼らはクロムウェルの勢力の核心を構成し、〔イギリスの歴史家の〕マコーリーすら認めているように、社会にとって有益な存在であって、泥酔した糞貴族や、その配下で主人の〔愛人〕と結婚しなければならなかった田舎の牧師とは対照的な人々だった。農村の賃金労働者でも、まだ村の土地の共同所有者であった。しかし1750年にはヨーマン層は姿を消してしまう。そして18世紀の最後の土地の共同所有はもはやその痕跡も残してない。ここでは農業革命の純粋に経済的な動機については論じない。この革命の暴力的な原動力となったものを調べてみよう。

 

囲い込みと法律

スチュアート朝復位のもとでは、土地所有者たちは法律によって横領をなし遂げたが、このような横領は大陸ではどこでも法律的な回り道なしでも行われた。彼らは封建的土地制度を廃止した。すなわち、国家にたいする土地の義務を振り落とし、農民やその他の民衆への課税によって国家への「償い」をし、彼らがただ封建的権利をもっていただけの土地の近代的私有権を要求し、そして、最後にかの定住関係諸法律を強要したのであるが、これらの法律がイギリスの農耕者に与えた影響は、事情の変化を考慮に入れさえすれば、タタール人ポリス=ゴドゥノフの布告がロシアの農民に及ぼした影響と同じだったのである。

「名誉革命」は、オレンジ公ウィリアム3世といっしょに地主的および資本家的利殖者たちをも支配者の地位につけた。彼らは、それまでは控えめにしか行われなかった国有地の横領を巨大な規模で実行することによって、新時代の幕をあけた。これらの地所は贈与され、捨て値で売られ、また直接的横領によっても所有地に併合された。すべてが法律上の慣例などは少しも顧慮しないで行われた。このように詐取的に横領された国有地は、共和革命のときになくならなかったかぎりでの教会からの盗奪地といっしょになって、イギリスの寡頭支配の今日の王侯的所領の基礎をなしている。ブルジョワ的資本家たちはこの処置を助けたのであるが、その目的は、なかんずく、土地を純粋な取引物に転化させること、農業大経営の領域を拡大すること、農村から彼らへの無保護なプロレタリアの供給をふやすことなどにあった。そのうえに、新たな土地貴族は、新たな銀行貴族や、孵化したばかりの大金融業者や、当時は保護関税に支持されていた大製造業者たちの当然の盟友だった。イギリスのブルジョワジーが自分の利益のために行動して誤らなかったことは、スウェーデンの都市ブルジョアとまったく同じだった。といっても、後者は、前者と反対に、自分の経済的堡塁である農民と手を携えて、国王を助けて寡頭支配からの王領の奪還(1604年以来、後にはカール10世およびカール11世の治下で)を強行させたのであるが。

共同地─いま考察した国有地とはまったく別なもの─は一つの古代ゲルマン的制度だったのであって、それが封建制の外皮の下で存続したのである。すでに見たように、この共同地の暴力的横領が、多くは耕地の牧場化を伴って、15世紀末に始まり16世紀にも続けられるのである。しかし、当時はこのプ過程は個人的な暴行として行われたのであって、これにたいして立法は150年にわたってむだな抗争を続けたのである。18世紀の進歩は、法律そのものが今では人民共有地の盗奪の手段になるということのうちに、はっきりと現われている。といっても、大借地農業者たちはそのほかに彼ら自身としての小さな個人的方法も用いるのではあるが。この盗奪の議会的形態は「共同地囲い込み法案」という形態であり、言い換えれば、地主が人民共有地を私有地として自分自身に贈与するための法令であり、人民収奪の法令である。サー・F・M・イーデンは、共同地を封建領主にとって代わった大土地所有者の私所有地として説明しようとする自分の狡猾な弁護士的弁論を自分で反駁している。すなわち、彼自身が「共同地の囲い込みのための一般法」を要望し、したがって共同地を私有地にするためにはひとつの議会的クーデタが必要だということを認めており、他方ではまた収奪された貧民のための「損害補償」を立法部に要求しているのである。

一方では独立のヨーマンに代わって任意借地農業者、すなわち1年の解除予約期間を条件とする比較的小さい借地農業者で地主の恣意に依存する隷属的な一群が現われたが、他方では、国有地の横領と並んで、ことに、組織的に行われた共同地の横領が、かの18世紀に資本借地農場とか商人借地農場とか呼ばれた大借地農場の膨張を助けたのであり、また農村民を工業のためのプロレタリアートとして「遊離させる」ことを助けたのである。

スチュアート朝の王政復古のもとで、土地所有者は法律に基づいて土地を収奪したのでした。これに対してヨーロッパの大陸諸国では、法律などなくても土地収奪が行われました。その結果土地所有者たちは封建的な土地制度を終わらせてしまいました。つまり、封建制において定められた自分たちの義務を国家に負わせることにしてしまい、その代償として農民や民衆に税金を課すようにし、彼らの封建的な権利しか認められていない土地に対して、近代的な所有権を求め、最後に定住を農民に強いたのでした。

「名誉革命」で、ウィリアム3世と地主で資本家的な利権家たちが、新たに支配層となりました。彼らは、それまで控えめに行われていた国有地の横領を、大規模に行いました。国有地は無料で贈与されるか、捨て値で売り飛ばされるかして、直接強奪され、個人の所有地に併合されました。これらすべては、法律などまったく顧慮されずに進められました。このように、まるで詐欺なやり方で横領した国有地と、名誉革命でも失われなかった教会の地所から奪った土地が、現在のイギリスの貴族や王侯の領地となっています。ブルジョワ資本家たちも、この作業の手助けをしました。その目的は、土地は単なる商取引の物品となり、大規模な農業経営が行われる地域を拡大し、プロレタリアートが大量に農村に流入させるためでした。そのうえ、新しい土地貴族は新興の銀行貴族や生まれたばかり金融資本家や、その他保護関税に支えられていたマニュファクチュア産業家たちと盟友となりました。村の共同地というのは、前述の国有地とは別の古代ゲルマン的制度で、封建制の下でも存続していました。しかし、この共同地の暴力的な収奪は、耕地を牧草地に変えました。これは15世末に始まり16世紀まで行われましたが、それは法に基づかない暴力的なものでしたが、18世紀には法律で認められ、合法的に民衆から土地を取り上げる手段となりました。

その結果、自営農民であるノーマンリに代わって、任意借地農という1年契約の小規模な借地農で地主の言いなりになる人々が現われました。また、これらの土地の強奪によって農村の住民は土地を奪われ、プロレタリアートとなっていったのでした。

スチュアート朝の王政復古のもとで、土地所有者は法律の規定に基づいて、収奪を貫徹した。ヨーロッパ大陸ではどこでも、こうした法律なしで収奪が遂行されたのだった。彼らは封建的な土地制度を廃止した。すなわち、〔封建制のもとで定められた〕自分たちの職務を国家に負わせてしまい、その「代償」として、農民とその他の民衆に税金をかけさせ、彼らとしては封建的な権利しかもっていない土地に、近代的な私有財産権を要求し、最後にさまざまな定住法を押しつけたのである。これは状況の違いを考慮にいれれば、タタール人のポリス=ゴドゥノフのロシア農民への布告と同じような効果を、イギリスの農民層に及ぼす結果となったのである。

「名誉革命」によって、オレンジ公ウィリアム3世とともに、地主的で資本制的な利権家たちが、支配層となった。彼らは、それのではごくつつましく行われてきた国有地の窃盗を、巨大な規模で実行することによって、この新しい時代の幕を開いたのだった。国有地は無料で贈与されるか、捨て値で売り飛ばされるか、直接に強奪され、個人の所有地に併合された。これらのすべては、合法性への配慮などまったくなしで実行されたのだった。

こうして詐欺のように奪取した国有地と、共和主義的な〔名誉〕革命のあいだにも失われなかった教会の地所を奪った土地こそが、現在のイギリスの寡頭制的な貴族領の基礎となっているのである。ブルジョワの資本家たちもこの作業を手助けした。それは何よりも、土地をたんなる商取引の品物に変えてしまい、大規模な農業経営が行われる地域を拡大し、法の保護を奪われたプロレタリアートがますます大量に農村から流入してくるようにするためだった。

さらにこの新しい土地貴族は、新たな銀行貴族や、生まれつつあった大金融資本家や、その頃は保護関税に支えられていた大マニュファクチュア工業家たちと、ごく自然に盟友になったのだった。イギリスのブルジョワジーは、スウェーデンの都市の市民と同じように、自分たちの利益を守りながら正しく行動したのである。ただしスウェーデンの都市の市民はイギリスのブルジョワジーとは正反対に、自分たちの経済的な基盤であった農民と協力して、1604年以降、後にはカール10世とカール11世の統治下で、歴代の王が寡頭制の貴族層から王の領地を奪い返すのを支持したのだった。

村の共有地は、すでに述べた国有地とは別に、古代のゲルマン時代の制度であり、封建制の覆いのもとで存続していた。すでに確認したように、村の共有地の暴力的な収奪は、農地を牧草地に変える動きとともに、15世紀末に始まり、16世紀にもつづけられた。当時はこのプロセスは個人的な暴力行為として遂行されていたのであり、立法者たちはこれを押しとどめようとしたが、150年間にわたって空しい努力をつづけただけだった。

18世紀における進歩は、法律そのものがこの民衆の土地を強奪する手段となったことである。もっとも大借地農はこの法律とは別に、独自の方法で小規模な収奪を実行していた。議会における〔この法律による〕強奪は、「共同土地囲い込み法」という形で行われた。これは地主たちが民衆の土地を、私有財産としてみずからに贈与することを認めた法令であり、民衆の収奪法令だった。

F・M・イーデン卿は〔この法令を〕擁護する巧みな弁論を展開し、この共有地は、封建領主の代わりに登場した大土地所有者の私的な所有地であると説明しようとしていた。ところが彼は「共同土地の囲い込みのための一般的な議会法」を要求することで、擁護論にみずから反論する結果となってしまった。この法案を要求するということは、共有地を私的な所有地に変えるには、議会によるクーデターが必要であることを認めるということだからである。ところが他方では彼は立法府にたいして、土地を収奪された貧民のための「損害補償」を求めているのである。

自営農民であるヨーマンに代わって登場したのは任意借地農であり、彼らは1年契約のかなり小規模な借地農で、地主の言いなりになる人だった。一方で国有地の強奪と並行して、村の共有地が組織的に盗まれ、これによって18世紀には資本借地農場とか商人借地農場と呼ばれた大規模な借地農場の数が増大した。これによって農村の住民は、プロレタリアとして産業に「放出」されたのである。

 

囲い込み論争

とはいえ、18世紀は国の富と人民の貧との同一性を19世紀と同じ程度にはまだ把握していなかった。それだから、当時の経済学の文献のなかには「共有地の囲い込み」に関して非常に激しい論戦が見られるのである。いま手もとにあるおびただしい資料のうちからわずかばかりの箇所をあげておこう。というのは、それによって当時の状態がいきいきと描きだされるからである。

ある筆者は怒りに燃えて次のように書いている。「ハーフォードシャの多くの教区では、平均50〜150エーカーの24の借地農場が合併されて、3つの農場になっている。」「ノーサンプトンシャとリンカーンシャでは共同地の囲い込みが非常に盛んで、囲い込みによって生じた新たな領地はたいてい牧場に変えられている。その結果、以前は1500エーカーも耕作されていた領地で今では50エーカーも耕作されていないものがたくさんある。…以前の住宅や穀倉や厩舎などの廃墟が」前に人の住んでいたことの唯一の痕跡になっている。「100戸の家と家族が、…8戸か10戸に減っているところも少なくない。…15年か20年前からはじめて囲い込みが行われたたいていの教区でも、土地所有者は、耕地が開放されていたときに土地を耕していた人々の数に比べれば、非常に少ない。4人から5人の富裕な牧畜業者が大きな最近囲い込まれたばかりの領地を横領しているのを見ることは少しもめずらしいことではないが、これらの土地は以前は20人から30人の借地農業者や同じくらい多数の比較的小さい所有者の手にあったのである。すべてこれらの人々は自分の家族といっしょに、また自分が使用し養っていた他の多くの家族ともいっしょに、自分の土地から投げ出されたのである。」

単に休閑地だけでなく、自治体に一定の支払いをして耕かされていた土地までが囲い込みという口実で隣接の大地主によって併合されたことも多かった。

「ここでは開放地と既耕地の囲い込みについて述べよう。囲い込みを弁護する著術家たちでさえも、囲い込みが大規模借地農場の独占を増進し、生活手段の価格を高め、人口減少をひき起こすということは認めている。…そして、現在行われているような荒地の囲い込みでさえも、貧民からはその生活維持手段の一部を奪い、また、すでに大きすぎる借地農場をいっそう膨張させるのである。」ドクター・プライスは次のように言っている。「もし土地がわずかばかりの大借地農業者の手にはいってしまうならば、小借地農業者(前には彼はこれを「自分の耕す土地の生産物により、また自分が共同地に放牧する羊や家禽や豚などによって自分と家族を養い、したがって生活手段を買う機会をほとんど持たない一群の小土地所有者と小借地農業者」と呼んでいる)は、他人のための労働によって生計の資を得なければならないように、そして、自分に必要なすべてのものを市場に求めざるをえないような人々に変えられてしまう。…おそらくより多くの労働がなされるであろう。というのは、そのための強制がより多く行われるからである。…都市もむ工場も大きくなるであろう。というのは、そこには仕事を求める人々がますます多く追い立てられてくるからである。これが、借地農場の集中が自然的に作用する仕方なのであり、また、何年も前からこの王国では実際に作用してきた仕方なのである。」

彼は囲い込みの総結果を次のように要約する。

「全体として下層人民階級はほとんどの点から見ても悪化しており、比較的小さい土地所有者や借地農業者は、日雇い人や常時雇い人の地位まで押し下げられている。また、それと同時に、このような状態で生活を維持することはますます困難になってきたのである。」

じっさい、共同地の横領とそれに伴う農業革命とは、農業労働者たちのうえにきわめて急激に作用したのであって、そのため、イーデン自身の言うところによっても、1756年から1780年までに彼らの賃金は、最低限度を割って公共の貧民救済によって補充されるようになったのである。彼らの労賃は、イーデンの言うところでは、「やっと絶対に生活必需品を得るに足りるだけのものだった。」

もうしばらく、囲い込みを擁護者でドクター・プライスの反対者だった人の言葉を聞いてみよう。

「開放地で自分の労働を浪費している人々がもはや見られないないからといって、人口減少が生じたと考えるのは、正しい結論ではない。…小農民が他人のために労働しなければならない人々に変えることによって、もっと多くの労働力動かされるとすれば、それこそ、国民(そのなかにはこの変えられた人々はもちろんはいらない)が希望するにちがいない利益である。…彼らの結合された労働が一つの借地農場で使用されれば、生産物はもっとふえるであろう。こうして工業のための余剰生産物が形成されるのであり、したがってまた、この国民の金鉱の一つである工業が穀物の生産量に比例して増大されるのである。」

「神聖な所有権」にたいするどんなにあつかましい冒涜でも、人間にたいするどんなにひどい暴行でも、それが資本主義的生産様式の基礎を築くために必要だとあれば、経済学者はストア派的な冷静さでそれを考察するのであるが、なかでも、この冷静さをわれわれに示しているのは、そのうえになおトーリー党的に染めあげられており「博愛家」でもあるサー・F・M・イーデンである。15世紀の最後の3分の1期から18世紀末まで行われた暴力的な人民収奪に伴う数々の盗賊行為や残虐や人民の苦難も、ただ、彼を次のような「快適な」結論的省察に到達させるだけである。

「耕地と牧地との適当な割合が設けられなければならなかった。14世紀の全体と15世紀の大部分とをつうじて、なお、耕地2エーカーまたは3エーカーにたいして、また場合によっては4エーカーにたいしてさえも、牧場は1エーカーの割合だった。16世紀の中期にはこの割合は耕地2エーカーにたいして牧地2エーカーとなり、さらに後には耕地1エーカーにたいして牧地2エーカーとなり、最後に耕地1エーカーにたいして牧地3エーカーという適当な割合ができあがった。」

19世紀には、もちろん、農耕者と共同地との関連の記憶さえもなくなってしまった。もっとあとの時代のことは言わないにしても、1810年から1830年までに農村から取り上げられて議会によって地主から地主へと贈られた351万1770エーカーの共同地の代わりに、どんなにわずかな補償でも農村民に与えられたことがあるだろうか?

とはいえ、18世紀では国の富と民衆の貧困が同じであることは、19世紀ほどには分かっていなかった。そのため、「共有地の囲い込み」について激しい論争が起こりました。ある論者は、この動きによって農民が土地を奪われ追い出されることに憤慨し土地が大地主に併合されてしまう。また、ある者は「囲い込み」は資本制的な生産様式の基盤となるとして擁護しました。

ただし18世紀においては、国の富と民衆の貧困の同一性について、19世紀ほどにはよく認識されていなかった。このため当時の経済学の文献では、「共有地の囲い込み」について非常に激しい論争が展開された。手元にあるおびただしい資料のうちから、この論争の激しさをうかがわせるいくつかの文章を引用することにする。

ある論者は憤慨して「ハーフォードシャーの多くの教区では、平均して50エーカーから150エーカーの面積の24か所の小作地が合併されて3か所になってしまった」と書いている。「ノーサンプトンシャーとリンカーンシャーでは、村の共有地の囲い込みが非常に進んで、この囲い込みによって成立した新しい地主所有地の多くは牧草地に変えられた。そのため多くの地主所有地では、それまでは1500エーカーの耕地があったのに、今では50エーカーほども耕作されていない」。かつての住人たちの痕跡としては、「以前の住所や納屋や家畜小屋の廃墟があるだけである」。「100戸の家屋と家族が、…今では8戸から10戸になってしまったところも少なくない。…15年から20年前に囲い込みが始まった多くの教区では、囲い込みのない状態で耕作が行われていた頃と比較して、土地所有者の数が大幅に減っている。かつては20人から30人の借地農がいて、さらに多数の小規模な土地所有者とその家族が住んでいた場所が、最近では囲い込まれて大規模な地主所有地になり、そこを4人から5人の豊かな牧畜業者が奪い取っているのをみるのも、珍しいことではない。かつての借地農たちは、多数の家族もろとも所有地から放りだされた。そして借地農に雇われ、生計を立てていた多くの家族も、同じく放りだされたのである」。

囲い込みという口実で、隣接する大地主に併合されてしまうのは休耕地だけではなく、特定の料金を支払って耕作されていた村の土地や、村で共同で耕作していた土地も併合されたのだった。「わたしが問題にしているのは、すでに耕作されていて囲われていない畑や土地が、囲い込まれていることである。囲い込みを擁護している著作家たちでさえ、囲い込みが大規模な借地農場の独占を強め、食料価格を高騰させ、過疎状態を作りだすことを認めている。…現在進められているような荒地の囲い込みでも、貧民の生存手段の一部を奪うことになり、すでに大規模になっている借地農場をさらに膨れあがらせる」。

プライス博士は、「土地が少数の大規模な借地農の所有地になると、小規模な借地農は(プライスはこうした人々を〈自分と家族を食べさせていける多数の小土地所有者や借地農で、彼らは自分たちが耕す土地の農産物を購入することはほとんどない〉と表現していた─マルクス)、他人のために働いて自分の食料を獲得するしかない人々になってしまい、生活で必要なすべての品物を市場で購入することを強いられている。…働かざるを得ないという強制を感じるので、ますます多く働くようになっているとみられる。…ますます多くの人が仕事を求めて、都市とマニュファクチュアへと追いやられてくるので、都市とマニュファクチュアは成長することになるだろう。借地農場の集中がおのずともたらす結果はこのようなものであり、何年も前から実際に王国ではこのような字体が発生しているのである」と指摘している。

囲い込みの全体的な帰結について、プライス博士は次のようにまとめている。「全体として下層の大衆の状況はすべての点について悪化している。小土地所有者と小規模な借地農たち日雇い労働者や雇われ人に落ちぶれてしまった。このような状態では、生活を維持するのはきわめて困難になっている」。

実際に共有地の収奪とそれにともなう農業革命は、農業労働者にきわめて強い影響を与えたのであり、イーデンの語るところでは、それが完了した1756年から1780年の頃には、彼らの賃金は最低賃金を下回り始め、公的な貧民救済で補わねばならなくなっていた。イーデンによると彼らの賃金は「生活に絶対に必要なものをどうにか購入できるほど」になっていた。

ここでしばらくプライス博士の反対者で、囲い込みを擁護する人々の意見を聞いてみよう。「囲われていない畑で労働が浪費されてないからといって、過疎状態になっていると結論するのは正しくない。…小農が他人のために労働しなければならない人々に変わったために、より多くの労働力が利用できるようになるならば、それは国民には利益となるのであり(この国民に、他人のための労働者に変えられた人々はもちろん含まれないわけだ─マルクス)、好ましいことに違いない。…1か所の借地農場に労働が結合されるならば、生産物も増えるだろう。それによってマニュファクチュアのための余剰生産物が生みだされ、生産される穀物の量に応じてこの国の金脈の一つであるマニュファクチュアも拡大されるだろう」。

資本制的な生産様式の基盤を確立するために必要となれば、経済学者たちは「神聖な所有権」をあつかましく侵害することも、人間に乱暴な暴力がふるわれることも、ストア派的な魂の平静さをもって平然と擁護するのである。その典型的な例が、この平静さにトーリー的な味わいを加味した「博愛主義者の」F・M・イーデン卿である。15世紀の最後の3分の1期から18世紀末までつづけられた民衆の暴力的な奪取にともなう強奪と残虐さと民衆の苦難のすべてについて、彼は次のような「好ましい」結論に到達するのである。

「農地と牧草地の適切な比率を確立する必要があった。14世紀を通じて、そして15世紀の大半の時期を通じて、牧草地1エーカーにたいして農地が2、3エーカー、ときには4エーカーもあった。16世紀の半ばに、牧草地2エーカーにたいして農地も2エーカー程度になり、後には牧草地2エーカーにたいして農地が1エーカーになった。そしてついに牧草地3エーカーに農地1エーカーという適切な比率になったのである」。

19世紀になると当然ながら、農地と共有地の結びつきの記憶も失われるようになる。後の時代のことは言うまでもない。1810年から1830年のあいだに強奪され、議会によって地主から地主へと贈与された351万1770エーカーの土地にたいして、農村の人々は鐚一文でも賠償をうけているだろうか。

 

高地スコットランドの典型例

最後に、農耕者から土地を取り上げる最後の大がかりな収奪過程は、いわゆる地所の清掃(実際には土地からの人間の掃き捨て)である。これまでに考察してきたいっさいのイギリス的方法は、この「清掃」において頂点に達した。前章で現代の状態を述べたときに見たように、もはや掃き捨てられるべき独立農民もいなくなった今では、ついに小屋の「清掃」にまで進んできたので、農業労働者たちは自分の耕す土地そのものの上にはもはや自分の住所に必要な空間を見いださないのである。

しかし、本来の意味での「地所の清掃」がなにを意味するかは、近代ロマン文学の約束の地、スコットランド高地で、はじめて知ることができる。そこでは、この過程が、その組織的な性質によって、またそれが一挙に遂行される規模の大きさによって(アイルランドでは地主たちはいくつかの村を同時に清掃することに成功したが、スコットランド高地ではドイツの公国ほどの大きさの地面が清掃されめ)─そして最後に、横領された土地所有の特殊な形態によって、一段ときわだっているのである。

スコットランド高地のケルト人は氏族から成っていて、氏族はそれぞれ自分の定住している土地の所有者だった。氏族の代表者、その首長または「グレート・マン」はただこの土地の名目上の所有者でしかなかったということは、ちょうどイギリスの女王が全国土の名目上の所有者であるようなものである。イギリス政府がこれらの「グレート・マン」たちの内部戦争やスコットランド低地平原への彼らの絶えまない侵入を抑圧することに成功してからも、氏族の首長たちは彼らの昔からの盗賊稼業をけっしてやめなかった。彼らはただその形式を変えただけだった。彼らは自分自身の権威によって彼らの名目的所有権を私有権に変えた。そして、氏族員たちの反抗にぶつかったので、彼らは公然の暴力で氏族員たちを追い払おうと決心した。

「イギリスの王ならばこれと同じ権利で自分の臣民たちを海中に追い込むこともできるだろう」

とニューマン教授は言っている。この革命は、スコットランドでは最後の王位僭称者叛乱の後に始まったのであるが、この革命については、サー・ジェームズ・スチュアートやジェームズ・アンダソンの著書によってその初期の様相を追跡することができる。18世紀には、農村から追い出されたゲール人には同時に国外移住も禁止されたが、それは、彼らをむりやりにグラスゴーやその他の工業都市に追い込むためだった。19世紀に支配的だった方法の実例としては、ここではサザランド女公の「清掃」だけで十分であろう。この、経済に通じていた人物は、公位につくと同時に決意を固めて、経済の根本治療をやることにし、以前の同じような過程によって住民がすでに15,000人に減っていた全州を牧羊場に変えてしまうことにした。1814年から1820年まで、この15,000の住民、約3000戸の家族は、組織的に追い立てられ根絶やしにされた。彼らの村落は残らず取り壊されて焼き払われ、彼らの耕地はすべて牧場に変えられた。イギリスの兵士がその執行を命ぜられ、土着民と衝突することになった。一老婦は小屋を去ることを拒んで、その火炎に包まれて焼け死んだ。このようにして、この夫人は、いつともない昔から氏族のものになっていた794,000エーカーの土地をわがものにした。追い払われた土着民には、彼女は海浜に約6000エーカー、一戸当たり2エーカーをあてがった。この6000エーカーは、それまでは荒れるにまかされていて、所有者には少しも収入をもたらさなかった。女公は、その気高い気持ち駆られて、数百年前から公家のために自分たちの血を注いできた氏族員たちにこの土地を1エーカー平均2シリング6ペンスの地代で賃貸しした。横領した氏族地全体を彼女は29の大きな賃貸し放羊場に分割し、それぞれに、たいていはイングランド人である農僕を一家族ずつ住まわせた。1825年には15,000のゲール人はすでに131,000の羊にとって代わられていた。土着民のうちで海浜に投げ出された部分は、漁業によって暮らしを立てようとした。彼らは両棲動物になった。そして、イギリスのある著作家が言っているように、半分は陸上、半分は水上で暮らしたが、しかも両方合わせて半人分の暮らししかしていなかったのである。

ところが、正直なゲール人たちは、氏族の「グレート・メン」にたいする自分たちの山岳ロマン的崇拝を償うために、もっとひどいめにあわなければならなかった。魚のにおいが首長たちの鼻にはいった。彼らはその向うにあるもうけ口をかぎつけて、海浜をロンドンの大きな漁商人たちに賃貸した。ゲール人は二度目の追い出しにあった。

最後の農民の土地収奪のプログラムは、地所の「清掃」という土地からの人間の掃き捨てです。これまで見てきたイギリス的方法は、この「清掃」で頂点に達しました。すなわち、追い払うべき自営農民がいなくなると、ついには小屋の「清掃」により農民たちの住居空間も奪われたのでした。

しかし、「清掃」がもともと意味するものは、実際にスコットランド高地で見ることができます。ここでは組織的に一挙に「清掃」が行われました。この地の人々は氏族でまとまっていて、その氏族はそれぞれ自分の定住している土地の所有者となりました。その氏族の代表者、その首長または「グレート・マン」はただこの土地の名目上の所有者でしかなかった。この首長たちは名目的な所有を私的所有権に変えて、それに基づく強制力で収奪に抵抗する者を追い払うようになりました。この追い払われた人々は、国外移住は禁じられていたのでグラスゴーやその他の工業都市に追いやられたのでした。

農民の土地収奪の最後の大規模なプロセスは、いわゆる「土地の清掃」である(実際には土地からの人間の掃き捨てである)。これまで検討してきたイギリスの方法はこの「清掃」でその頂点に達する。前の節で近代化のあり方を描きだしてきたが、追い払うべき自営農民がいなくなると、次には小屋の「清掃」が行われ、結果として農民たちは、自分たちが耕作する土地に住むための空間まで奪われたのだった。

しかしこの「清掃」がそもそも何を意味したのかは、近代ロマン主義の約束の地である高地スコットランドで確認することができる。この地では、このプロセスが組織的に行われたことによって、一挙に行われた政争の規模の大きさによって、このようにして横取りされた土地の特別な形式によって、このプロセスの特徴が明確に示されている。アイルランドでは土地所有者たちはいくつかの村を一挙に清掃することができた程度であるが、高地スコットランドでは、ドイツの一公国もの広さで、清掃が行われたのであった。

高地スコットランドのケルト人たちは氏族で構成され、どの氏族も自分たちが居住している土地を所有していた。氏族の代表、つまり首長は、その土地の名目的な所有者にすぎなかった。イギリスの女王が、国全体の土地の名目の所有者にすぎないのと同じである。

イギリス政府は、これらの「グレート・マン」たちの内部抗争を抑え、さらに低地スコットランド平原への絶え間ない侵入を阻止することはできたものの、氏族の首長たちは昔からの強奪の仕事をやめたわけではなかった。ただその形式を私的な所有権に変えた。そして氏族の人々が抵抗すると、公然とした暴力で彼らを追い払うことを決めたのである。

〔イギリスの政論家で急進主義者の〕ニューマン教授は、「イギリス王が同じ権利を手にいれたら、臣下たちを海に追い落とすこともできるだろう」と語っている。スコットランドで最後の王位請求者の叛乱が終わった後に、この革命が始まったのであり、その最初の段階をジェイムズ・スチュアート卿とジェイムズ・アンダーソンの著書で確認することができる。18世紀になると農村から追いだされたゲール人は、国外に移住することを禁じられた。彼らを暴力的にグラスゴーやその他の工業都市に追いやるためである。

19世紀にもっともよく利用された方法の実例としては、サザーランド侯爵夫人が自分の公国で行った「清掃」を挙げれば十分だろう。経済学の教育をうけた夫人は、権力を握るとすぐに経済的に過激な〈治療〉を行うことを決めた。これまですでに農村から農民を追いだすプロセスが進められていたために、人口は公国の全体でわずか1万5000人に減少していたが、この公国をすべて牧羊地に変えることにしたのである。1814年から180年までに、約3000の家族で構成された1万5000人の住民が組織的に追放され、根絶させられた。あらゆる村が破壊され、焼き尽くされた。すべての畑は牧草地に変えられた。実行部隊としてイングランドの兵士たちが投入され、住民たちと衝突した。ある老女は自分の住んでいた小屋から離れることを拒んで、小屋ごと焼かれて死んだ。

このようにして公爵夫人は、太古の時代から氏族のものだった79万4000エーカーの土地を自分のものにしたのだった。夫人は追い払った住民たちに、海岸沿いに6000エーカーの土地を、すなわち一家族あたり2エーカーの土地を与えた。この6000エーカーの土地は荒地のままに放置されていたもので、以前の所有者にはいかなる収入ももたらさなかった土地だった。公爵夫人は高貴な感情に動かされて、何世紀ものあいだ、彼女の家のために戦って血を流してきた臣下たちに、1エーカーあたり平均2シリング6ペンスの地代で、この土地を貸すことにしたのだった。

夫人はこのようにして氏族から奪った土地を、29か所羊の大放牧地に分割した。それぞれの放牧地には、一家族だけを住まわせたが、彼らのほとんどはイングランドの小作農の農僕だった。1825年の時点ではすでに1万5000人のゲール人の代わりに、13万1000頭の羊がいた。海岸に追い払われた原住民の多くは、漁業で生き延びようとした。かれらは〈両棲類〉になった。あるイギリスの著作家が語っているように、半ばは海で、半ば陸で、つまりどちらつかずな暮らしをするようになったのである。

しかしおとなしいゲール人は、氏族の「グレート・マン」にたいする山岳地方特有のロマンティックな崇拝の報いとして、さらに厳しい償いをしなければならなかった。お偉方たちはこの場所でとれる魚の匂いを嗅ぎつけて、これは儲かると判断し、この海岸地域をロンドンの大手の漁業の卸売業者に貸与してしまったのである。こうしてゲール人はふたたび追い払われたのだった。

 

牧羊地から狩猟地へ

しかし、最後に牧羊場の一部分は狩猟場に再転化される。人の知るように、イングランドには元からの森林というものはない。貴人の猟園にいる鹿は体質的に家畜であって、ロンドンの市参事会員のようにふとっている。だから、スコットランドは「高貴な情熱」の最後の逃げ場なのである。1848年にサマーズは次のように言っている。

「スコットランド高地では、森林が非常に拡張された。ガイックのこちら側にはグレンフェシーの新しい森があり、あちら側にはアードヴェリキーの新しい森がある。同じ方向に、近ごろもうけられた巨大な荒れ地、ブラック・マウントがある。東から西へ、アバディーン付近からオーバンの岩地に至るまで、今では一線の森林が連なっており、また、高地の他の地方にはロック・アーケイグ、グレンガリ、グレンモリストンなどの新しい森林がある。…彼らの土地の牧羊地化は…ゲール人をいっそう不毛な土地に追いやった。今では鹿が羊にとって代わろうとしており、ゲール人をさらにいっそう破滅的な貧困に追い込んでいる。…鹿猟林と人民とは共存することはできない。とにかくどちらか一方が場所をあけなければならない。もし狩猟場の数や広さがこれからの4分の1世紀間に過去の4分の1世紀間と同じに増加するならば、もはや1人のゲール人もその郷土には見られなくなるだろう。高地の地主たちのあいだに進行しているこの運動は、一部は流行や貴族的な欲情や狩猟道楽などのせいであるが、他面では彼らはもっぱら利潤に目をつけて鹿の取引を営むのである。じっさい、一片の山地でも狩猟場にすれば、多くの場合牧羊場とは比べものにならないほど有利なのである。…狩猟場を求める道楽者は自分の財布の大きさが許すかぎりの値をつける。…この高地に負わされた苦悩は、ノルマン諸王の政策がイングランドに負わせた苦痛にも劣らない過酷なものだった。鹿はますます自由な遊び場得たのに、人間はますます狭い柵の中に負いこまれた。…人民の自由は次から次へと取り上げられて行った。…そして、抑圧は今なお日ごとにひどくなって行く。人民の清掃と駆逐は、アメリカやオーストラリアの原野で樹木ややぶが切り払われるのとまったく同じように、不動の原則として、農業上の一必然事として、地主たちの手で遂行される。そして、その仕事その平静な事務的な歩みを続けて行くのである。」

教会領の横領、国有地の詐欺的な譲渡、共同地の盗奪、横領と容赦ない暴行とによって行われた封建的所有や氏族的所有の近代的私有への転化、これらはみなそれぞれ本源的蓄積の牧歌的な方法だった。それらは、資本主義的農業のための領域を占領し、土地が資本に合体させ、都市工業のためにそれが必要とする無保護なプロレタリアートの供給をつくりだしたのである。

そして、最後に牧羊場の一部が狩猟場に変えられました。イングランドには自然の森がなくなってしまったので、お偉方の狩りの楽しみのために家畜を放し飼いにする場を作ったのでした。つまり、狩猟のための鹿が広大な土地を与えられた代わりに、そこに住んでいた現地住民は追い払われ、「清掃」されました。

教会領を奪取し、国有地を詐欺のような方法で譲りうけ、村の共有地を盗みとり、封建的な所有や氏族的な所有を遠慮も会釈もない暴行によって、近代的な私的所有地に変えてしまいました。これらはどれも、原初的な蓄積のための牧歌的な方法でした。このような方法によって資本主義的な農業のための領域が征服され、土地が資本と一体のものになり、都市の産業のために必要な法的な保護を奪われたプロレタリアートが生みだされたのです。

しかし最後に、羊の牧草地の一部が今度は、狩猟場に変えられた。イングランドにはもはやほんらいの森がないことはよく知られている、お偉方の猟園に飼われている野生動物は、作られた家畜であり、ロンドン市の参事会員のように肥えている。このためスコットランドが〔狩猟という〕〔高貴な情熱〕の最後の避難所になったのである。

〔イギリスのジャーナリストの〕サマーズは1848年に次のように述べている。「スコットランド高地では、森が著しく拡張されている。ガイックのこちら側には、グレンフェシーの新しい森があり、向こう側にはアードヴェリキーの新しい森がある。そのは、最近作られた巨大なブラックマウントの荒野がある。アバディーン近郊からオーバンの岩地にいたる東西方向は、今ではずっと森林帯がつづいている。高地の別の地区にも、ロック・アーケイグ、グレンガリー、グレンモリストンなどの新しい森林がある。…ゲール人は、自分たちが住んでいた場所を羊の牧草地に変えられて荒れた土地に追いだされたが、今度は羊の代わりに鹿が、ゲール人をさらに過酷な困窮へと追い込んでいる。…野生動物のための森林と民衆は共存することができない。どちらかが場所を譲らなければならない。狩猟地の数と規模が今後の四半世紀に、これまでの四半世紀と同じペースで増加するならば、ゲール人はもはや故郷の地に、一人も残っていないことになるだろう。高地地方の土地所有者のこうした傾向は、流行によるものでもある。つまり貴族の欲望と狩猟好みなどのためである。しかし一方で彼らは野生動物の取引を利益だけを目指して行っているのである。というのは、山地の一部を狩猟場に変えると、牧草地とは比較にならないほどの利益が上がる場合があるのは事実だからである。…狩猟地を探している愛好家は、財布の都合がつくかぎりの高い価格をつける。…高地を襲ったこの苦境は、ノルマンの王たちの政策のためにイングランドを襲った困窮にも劣らない。鹿はこれまでのように自由に動ける空間を手に入れたが、反対に人間たちはますます狭い範囲に閉じ込められることになった。…民衆は次々と自由を奪われた。…抑圧は日毎に強まっている。土地所有者たちは確固とした原則に基づいて、農業上の必然性として、土地の清掃と民衆の追放を推進した。それはアメリカはオーストラリアの未開地から、樹木や灌木が一掃されたのと同じである。そして全体の作業は、実務的で穏やかな手順にしたがって行われた」。

教会領を奪取し、国有地を詐欺のような方法で譲りうけ、村の共有地を盗みとり、封建的な所有や氏族的な所有を遠慮も会釈もない暴行によって、近代的な私的所有地に変えてしまう。これらはどれも、原初的な蓄積のための牧歌的な方法だった。こうした方法によって資本制的な農業のための領域が征服され、土地が資本と一体のものになり、こうして都市の産業のために必要な法的な保護を奪われたプロレタリアートが生みだされたのである。

 

イギリスの農奴制は14世紀の終わりごろに。ほとんど姿を消していました。15世紀になってかわりに現われたのは、人口の多数を占める「自由な自営農民」、いわゆるヨーマンリーであったとマルクスはいいます。

16世紀の前半にかけて、ところがフランドル地方で羊毛マニュファクチュアが興隆し、イギリスでも農地の牧羊地化がすすみ、1750年には、ヨーマンリーはほとんど姿を消して、借地農業者と農村賃労働者への二極分解が進みまし。こうして、農民の多くは土地から駆逐され、大量のプロレタリアートが生みだされることになります。マルクスが問題とするのは、この農業革命の「暴力的な槓杆」にほかなりません。

並行して進んでいたのは、教会領の強奪や国有地の横領です。より重要なものは「共同地」の暴力的な詐取です。共同地は「古代ゲルマン的制度」であって、封建制下でもなお存続していました。これは15世紀末に始まり、16世紀にも続けられ、18世紀についに合法化されました。「共同地囲い込み法案」とは、地主が共有地を私有地として自分に贈与するための法令でした。最後の仕上げは、いわゆる「地所の清掃」つまり「土地からの人間の掃き捨て」でした。

19世紀に支配的であった方法の実例としてマルクスが挙げるのは、サザランド女公のケースです。この人物は経済に通じており、住民がすでに15,000人に減少していた全州を牧羊地に変えることを決意し、1814年から1820年にかけて、当地の住民、約3000戸の家族が根絶やしにされました。兵士が動員され、村落は焼き払われました。女公はいつともないむかしより氏族のものとなっていた794,000エーカーの土地をわがものとした。

 

 

第3節 15世紀以後の被収奪者にたいする血の立法。労賃引き下げのための諸法律

放浪者にたいする血の立法

封建家臣団の解体や継続的な暴力的な土地収奪によって追い払われた人々、このように無保護なプロレタリアートは、それが生みだされたのと同じような速さでは、新たに起きてくるマニュファクチュアによって吸収されることができなかった。他方、自分たちの歩き慣れた生活の軌道から突然投げ出された人々も、にわかに新しい状態の規律に慣れることはできなかった。彼らは群れをなして乞食になり、盗族になり、浮浪の人になった。それは、一部は性向からでもあったが、たいていは事情の協調によるものだった。こういうわけで、15世紀の末と16世紀の全体とをつうじて、西ヨーロッパ全体にわたって浮浪にたいする血の立法が行われたのである。今日の労働者階級の父祖たちは、まず第一に、彼らに強要された浮浪民化と窮民化とにたいする罰を受けたのである。立法は彼らを「自由意志による」犯罪者として取り扱った。そして、もはや存在しない古い諸関係のもとで労働を続けるかどうかも彼らの善意によって定まるものと想定したのである。

封建的な土地制度が解体されて、暴力的に土地を奪われた人々は、プロレタリアートとなって放りだされたのでした。同時に、その一方で台頭しつつあったマニュファクチュアに労働者として吸収されることはありませんでした。というのも、人々は新しい状況にすぐに馴染むことはできなかったからです。このようにして、乞食、放浪者、盗人といったあぶれものが大量に生まれたのでした。このころ、つまり15〜6世紀は、西欧のいたるところで、そのような人々の取り締まりが強化されました。為政者たちは彼らを、追い詰められた人々ではなく、自発的な犯罪者とみなしたのです。

封建的な主従関係が解体され、土地が段階的に暴力的に収奪されたことによって土地を追われた人々は、法の保護を失ったプロレタリアートとなったが、世界に放りだされたのと同じように迅速に、台頭しつつあったマニュファクチュアに吸収されることはできなかった。他方では、慣れ親しんだ暮らし方から急に放りだされた人々は、新たな状況の規律にすぐ馴染めるわけでもなかった。こうして乞食、盗人、放浪者が大量に生まれた。一部の人々にはもともとその傾向があったとしても、多くはやむをえない事情のためだった。

そのため15世紀末から16世紀の全体をつうじて、西欧のいたるところで、放浪者を取り締まる血の立法が行われることになった。現在の労働者階級の父祖たちはまず、放浪者や貧民にならざるをえなかったことで、罰せられたのである。立法者たちは彼らを「みずからの意志で」犯罪者になったものとみなし、善き意志さえあれば、もはや存在しなくなった昔ながらの環境で仕事をつづれることができたはずだと想定したのである。

 

イギリスの立法

イギリスではこの立法はヘンリ7世の治下で始まった。

ヘンリ8世、1530年。老齢で労働能力のない乞食は乞食免許を与えられる。これに反して、強健な浮浪人にはむち打ちと拘禁とが与えられる。彼らは荷車のうしろにつながれて、からだから血が出るまでむち打たれ、それから宣誓をして、自分の出生地か最近3年間の居住地に帰って、「仕事に就く」ようにしなければならない。なんという残酷な皮肉だろう!ヘンリ8世の27年には前の法規が繰り返されるが、しかし新たな補足によっていっそう厳格にされる。再度浮浪罪で逮捕されればむち打ちが繰り返されて耳を半分切り取られるが、累犯3回目には、その当人は、重罪犯人であり公共の敵であるとして死刑に処せられることになる。

エドワード6世。その治世の第1年、1547年の一法規は、労働することを拒むものは彼を怠惰者として告発した人の奴隷になることを宣告される、と規定している。主人は自分の奴隷をパンと水と薄いスープと彼にふさわしいと思われるくず肉とで養わなければならない。主人は、奴隷にはどんないやな労働でもむちと鎖とでやらせる権利をもっている。奴隷は、14日間仕事を離れれば終身奴隷の宣告を受けて、額か背にS字を焼きつけられ、逃亡3回目には国に対する反逆者として死刑に処せられる。主人は奴隷を、他の動産や家畜とまったく同様に、売ることも遺贈することも奴隷として賃貸しすることもできる。奴隷たちが主人に逆らってなにごとかを企てれば、やはり処刑される。治安判事は告訴にもとづいてこういうやつらを捜査しなければならない。浮浪人者が3日間ぶらついていたことがわかれば、出生地に送られ、灼熱の鏝で胸にV印を焼きつけられて、その地で鎖につながれて街路上やその他の労役に使われる。もし浮浪人が虚偽の出生地を申し立てれば、その地の住民または団体の終身奴隷にされ、S字を焼きつけられる。だれでも、浮浪人からはその子供を取り上げて、男は24歳まで、女は20歳まで徒弟にしておく権利をもっている。もし彼らが逃亡すれば、この年齢になるまで親方の奴隷にされ、親方は彼らを好きかってに鎖につないだりむち打ったりすることができる。だれでも主人は、自分の奴隷の首や腕や脚に鉄の環をはめて見分けやすいようにし、自分のものであることを確実にしておくことができる。この法規の最後の部分は、ある種の貧民が、彼らに飲食物を与えて仕事をみつけてやろうとする地区または個人によって使用されるべきことを規定している。この種の教区奴隷は、イギリスでは19世紀になっても長く徘徊者という名で保存されていた。

エリザベス、1527年。鑑札をもっていない14歳以上の乞食は、2年間彼らを使おうとする人がいなければ、ひどくむち打たれて左の耳たぶに焼き印を押される。再犯の場合は、18歳以上ならば、2年間彼らを使おうとする人がなければ死刑にされるが、3回累犯の場合には国にたいする反逆者として容赦なく死刑にされる。同様な法規としては、エリザベス第18年の法律第13号があり、また1597年のものかぎある。

ジェームズ1世。放浪して乞食をしているものは、無頼漢で浮浪者だという宣告を受ける。小治安裁判所の治安判事は、彼を公然とむち打たせる権限と、初犯は6ケ月、再犯は2年投獄する権限とを与えられている。入獄中は、治安判事が適当と考える回数と打数だけむち打たれる。…矯正不可能な危険な浮浪者は、左肩にR字を焼きつけられて強制労働を課され、再び乞食をして逮捕されれば、容赦なく死刑にされる。これらの規定は18世紀の初期まで有効だったが、アン第12年の法律第23号によってやっと廃止された。

イギリスでは、16世紀中ごろヘンリー8世の頃、老いて働けない乞食は許されたものの、働き盛りの放浪者は仕事に就かないと鞭打ちか牢屋に入れられました。この制度は年々強化され、働かない者への罰則は、奴隷に落とされたり、逃げ出した者は反逆者とみなされ死刑になると、だんだん重くなっていきました。

イギリスではこの法律はヘンリー7世の統治下で始まった。

ヘンリー8世の統治下の1530年、老いて働けない乞食は乞食証明書をもらえるが、働き盛りの放浪者には鞭打ちの刑と牢屋が待っていた。荷車のうしろに縛りつけられ、身体から血が流れだすまで鞭で打たれた。そして生まれ故郷か、過去3年間住んでいた場所に戻り、「仕事に就く」ことを誓わされた。なんという残酷なアイロニーだろうが!

ヘンリー8世の治世27年目の法律では、これまでの規定が繰り返されているが、さらに厳しい規定が新たに加えられた。二度目の放浪を見つけられた者は、鞭打ちが繰り返されるだけでなく、耳を半分切り落とされる。3度目の放浪を見つけられた者は、重罪人として、国家の敵とみなされて死刑に処せられるのである。

エドワード6世。治世1年目の1547年の法律では、働くことを拒否する者がいた場合には、その者を怠け者として告発した人物の奴隷となるべきことが定められた。奴隷の主人となった者は、奴隷を飲み水とパンで養わねばならない。ときおりは薄いスープと、彼にふさわしいと思われる余りの肉を与えなければならない。そしてこの奴隷を鎖につなぎ、鞭で打つことによって、どれほど忌まわしいと思われる仕事でもさせる権利があった。この奴隷が14日間にわたって逃亡していた場合には、国家の反逆者として死刑に処せられる。

主人は奴隷を売ることも、遺産として残すことも、奴隷として賃貸しすることも、すべての動産や家畜とまったく同じ扱いをすることができる。奴隷たちが主人に反逆を試みた場合にも処刑される。治安判事は、告訴された場合には逃亡した奴隷を追跡しなければならない。

放浪する者が3日のあいだ無為に過ごしていたことが明らかになった場合には、生まれ故郷に連れ戻し、そこで赤く焼けた鉄で胸にVの文字を烙印し、鎖につないで、路上での労働やその他の労役に就かせねばならない。放浪者が自分の故郷を偽って申告した場合には、罰として偽って申告した土地の終身奴隷あるいはその土地の住民や団体の終身奴隷となり、Sの文字を烙印される。すべての人は、放浪者の子供を奪い取り、男性は24歳まで、女性は20歳まで、徒弟として働かせる権利をもつ。徒弟が逃げだした場合には、前記の年齢まで雇人の奴隷となり、主人は奴隷を鎖につなぎ、鞭で打つなど、望むままにしてよいとされていた。主人は自分の奴隷の首、腕、足に鉄の輪をはめて、すぐに識別して確実に確保できるようにすることが許された。

この立法の最後の部分では、ある種の貧民は、彼らに食べ物と飲み物を与えて、仕事をみつけてやるつもりのある村や個人が雇用すべきであると定めている。この種の教区奴隷は19世紀のずっと後まで、イギリスでは徘徊者と呼ばれて存続していた。

エリザベス朝の1527年。乞食証明書を所持しない乞食は、14歳以上であれば鞭で激しく打ち、その者を2年間にわたって雇おうとする人物が現われない場合には、左の耳朶に烙印を押すことが定められた。再犯の場合には、その者が18歳以上であり、同じように2年間にわたって雇おうとする人物が現われない場合には、死刑に処する。3回目の場合には、情状酌量なしに国家反逆罪で死刑に処する。同じ規定がエリザベス治世18年の法律13号と、1597年の法律でも定められている。

ジェイムズ1世。放浪して物乞いをしている人は浮浪者または放浪者と宣言される。小治安法廷の治安判事は、これらの人々を公開の鞭打ち刑に処し、初犯の場合には半年間、再犯の場合には2年間の懲役につかせる権利を与えられていた。投獄されているあいだは、治安判事が適切と考える頻度と回数で、鞭打ちの刑を与えることになっていた。改善の余地のない危険な浮浪者は、左肩にRの文字の烙印を押して強制労働につかせる。それでも乞食をしている現場を押さえられた場合には、情状酌量なしに死刑に処せられるとされた。18世紀初頭まで法的な効力を維持していたこれらの規定は、アン女王の治世12年目の法律23号でやって廃止された。

 

フランスとオランダの立法

これに類する法律はフランスにもあって、フランスでは17世紀の中ごろパリに浮浪人国と称するものが設けられていた。ルイ16世時代の初期にも(1777年7月13日の勅令)、16歳から60歳までの強健な男で生計の資もなく職業にもついていないものは、すべてガリー船〔奴隷や囚人に漕がせる大型船〕に送られることになっていた。同様な法令としては、1537年10月のネーデルランドについてのカール5世の法令、1614年3月19日のオランダ諸州および諸都市の最初の布告、1649年6月25日の連合州の告示などがある。

イギリスに対してフランやオランダの場合も、同じような措置がとられていました。

17世紀半ばに放浪者たちが〈放浪人王国〉を作りだし、パリをその首都としていたフランスでも、同じような法律が定められていた。ルイ16世の初期においても(1777年7月13日の勅令)、16歳から60歳までの健康な人間が生活手段をもたず、職業についていない場合には、〔囚人や奴隷が漕ぐ大型船の〕ガレー船に送られることになっていた。

カール5世のネーデルランドについての1537年10月の法律も、1614年3月19日のオランダ諸州・諸都市が発布した最初の布告も、1649年6月25日の統一諸州の公告も、同じような内容のものだった。

 

資本の規律と強制

こうして、暴力的に土地を収奪され追い払われ浮浪人にされた農村民は、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるためにむち打たれ、焼き印を押され、拷問されたのである。

一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかに売るものがないという人間が現われることだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や習慣によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられるはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は「生産の自然法則」に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである。

このようにして、暴力的に土地を奪われ、そこから追いだされた農村の住民は、放浪者となったあげく、理不尽な法律によって犯罪者の烙印を押され鞭打たれることで、賃金労働に必要な規律を叩き込まれました。

制度として労働条件が資本として現れ、労働を売る他にない人々が現われたとしても、資本主義的な生産様式には十分とは言えません。また、このような人々に、自分の労働を自由意志によって売ることを強いることでも十分とは言えません。労働者階級は、資本主義的生産が形作られるにつれて、教育や新たにつくられる慣習などを通じて、資本主義的生産様式で求められる規律を当たり前のこととして受け容れるようになっていきました。

完成した資本主義的生産の組織は堅固です。そこでは、相対的過剰人口が常に発生するために、労働の需要と供給が維持され、それによって労賃も資本の価値増殖に必要な範囲内に収まることになります。経済的な状況は無言の強制力として、労働者に機能し、資本の支配が確立されることらなりました。

直接的な暴力は残りますが、減少し、ほとんど例外的なものとなりました。ただし、資本主義的生産が歴史的に誕生し定着する段階では、労働者に従わせるために、国家権力による直接的な力の行使を必要としました。これが本源的蓄積と呼ばれるものです。

このように、土地を暴力的に強奪され、土地から追われ、放浪者にされてしまった農村の住民は、奇怪で恐ろしい暴力的な法律によって、鞭打たれ、烙印を押され、拷問されることで、賃金労働のシステムに必要な規律に合うように調教されたのである。

片方の極において労働条件が資本として現れ、反対の極には自分の労働しか売るものがない人々が現れるだけでは〔資本制的な生産様式の確立には〕十分ではない。またこうした人々に、自分の労働を自由な意志で売るように強制するだけでも十分ではない。労働者階級は、資本制的な生産が進行するなかで形成されるのであり、教育と伝統と習慣をつうじて、資本制的な生産様式の要求するもの〔規律〕を自明な自然法則として承認してしまうのである。

完成された資本制的な生産過程の組織は、いかなる抵抗も打ち砕く。相対的な過剰人口がつねに生みだされるために、労働の需要と供給の法則が維持され、それによって労働賃金も、資本の価値増殖の欲求にふさわしい範囲に収まることになる。経済的な状況は無言のうちに強制する力があり、労働者にたいする資本の支配が確立される。

経済外的で直接的な暴力も相変わらず使われるが、これは例外的なものにとどまる。事態が通常通り進展するなら、労働者は「生産の自然法則」に委ねておくことができる。生産条件そのものから発生し、その条件によって保証され、永続的なものとなる資本への従属に委ねることができるのである。

しかし資本制的な生産が歴史的に誕生する段階においては状況が異なる。台頭してきたブルジョワジーは、労働賃金を「規制する」ため、国家権力を必要とし、これを使うのである。この権力によって初めて、労働日を延長し、労働者たちを通常みられるような従属状態に置いておくことによって、利益の追求にふさわしい範囲に、労働賃金を制限することができるのである。これがいわゆる原初的な蓄積の本質的な要素なのである。

 

初期の労働者法

14世紀の後半に発生した賃金労働者の階級は、その当時も次の世紀にも人民のうちのほんのわずかな成分をなしていただけで、それは農村の独立農民経営と都市の同職組合組織とによってその地位を強く保護されていた。農村でも都市でも、雇い主と労働者とは社会的に接近した地位にあった。資本への労働の従属は、ただ形式的でしかなかった。すなわち、生産様式そのものは、まだ独自な資本主義的性格はもっていなかった。資本の可変的要素は不変的要素よりもずっと大きかった。それゆえ、賃労働にたいする需要は、資本の蓄積が行われるごとに急速に増大したが、賃労働の供給はただ緩慢にしか需要について行かなかった。国民的生産物の大きな一部分が、後には資本の蓄積財源に転化されるものも、当時はまだ労働者の消費財源のなかにはいって行った。

賃労働に関する立法は、もともと労働者の搾取をねらったもので、その歩みはいつでも同様に労働者に敵対的なのであるが、この立法はイギリスでは1349年のエドワード3世の労働者法から始まる。フランスでこれに対応するものは、ジャン王の名で布告された1350年の勅令である。イギリスの立法とフランスの立法とは並行して進んでおり、内容から見ても同じである。これらの労働法が労働日の延長を強制しようするかぎりでは、私はもうそれには立ち帰らない。というのは、この点は前に第8章第5節で論じておいたからである。

労働者法は、下院の切実な訴えもとづいて制定された。あるトーリ党員は素朴に次のように言っている。

「以前は貧民たちは非常に高い労賃を要求して、産業と富とを脅かした。今では彼らの賃金はあまりにも低くて、やはり産業と富とを脅やかしてはいるが、しかし事態は当時とは違っており、おそらく当時よりももっと危険である。」

都市についても農村についても、出来高仕事についてもと日ぎめ仕事についても、法定賃金率が確定された。農村労働者は1年契約で雇い入れ、都市労働者は「公開市場で」雇い入れなければならない。法定賃金よりも高く支払うことは禁錮刑で禁止されるが、法定よりも高い賃金を受け取ることは、それを支払うことよりももっと重く処罰される。たとえば、エリザベス徒弟法の第18条と19条でも、法定よりも高い賃金を支払うものは10日の禁錮刑を科されるが、それを受け取るものは21日の禁錮刑を科される。1360年の一法令は、刑罰をいっそう厳格にして、さらに肉体的強制によって法定賃金率で労働をしぼり取る権利をさえ雇い主に与えた。石工や大工を団結させるようないっさいの結合や契約や誓約などは無効と宣言される。労働者の団結は、14世紀から団結禁止法が廃止された1825年まで、重罪として取り扱われる。1349年の労働法やそれに続いて生まれた諸法律の精神は、労賃の最高限は国家によって規定されるが、最低限はけっして規定されないということから見ても、まったく明らかである。

16世紀には、人の知るように、労働者の状態は非常に悪くなっていた。貨幣賃金は上がったが、貨幣の減価とそれに対応する商品価格の上昇に比例しては上がらなかった。つまり、賃金は実際には下がったのである。それでもまだ、賃金押し下げのための諸法律は、「雇い手のなかった」人々の耳切りや焼き印といっしょに存続した。エリザベス第5年の徒弟法第3章によって、治安判事は、ある種の賃金を確定して季節や物価に応じてそれを変更する権限を与えられた。ジェームズ1世はこの労働規制を織物工や紡績工その他ありとあらゆる労働者部類に拡張し、ジョージ2世は労働者の団結を禁止する諸法律の適用をすべてのマニュファクチュアに拡張し

14世紀後半に賃金労働者は成立し、15世紀になっても、それほど多くなくて、住民のほんの一部でした。その頃は、農村では自作農による農業経営が、都市では同職組合組織による労働者保護がありました。このように農村でも都市でも労働者と親方は社会的には対等に近く、資本への労働の従属は形式的なものにすぎませんでした。資本の蓄積によって労働需要は増加しましたが、賃金労働供給の増加は、その需要に応えるほどのものではありませんでした。生産した大部分は労働者の消費に回され、後のような資本の蓄積の原資にはなりませんでした。

賃金労働者の法律は、当初から労働者の搾取を目的としたもので、ずっと労働者に敵対的なものでした。イギリスでの始まりは1349年の労働者規制法でした。都市と農村で出来高の賃金と日給が法定され、規定された賃金より高い賃金は禁止され、違反した賃金については支払った側ではなく受け取った労働者が罰せられました。また、14世紀から労働者の団結は重大な犯罪となりました。16世紀の労働者の状況は劣悪でした。賃金はたしかに上昇しましたが、物価の上昇に見合ったものではなく、実質賃金は減少していたのでした。それでも法律によって、人々は働かなければならないので、労働賃金の上昇を抑えるしくみが存続していました。

14世紀の後半に成立した賃金労働者の階級は、成立した当初も15世紀になっても、住民のごく一部を占めるにすぎなかった。農村では自立した農業経営が営まれ、都市では同職組合組織が維持されていたことによって、労働者階級の地位は強固に保護されていた。農村でも都市でも、親方と労働者は社会的にみて近い位置を占めていた。資本への労働の従属は、たんに形式的なものにすぎず、生産様式には、資本制的な生産に固有の性格がそなわっていなかった。資本の可変的な〔労働の〕要素が、不変的な〔生産手段の〕要素よりもはるかに重要だった。そのため資本の蓄積とともに賃金労働の需要は急速に増加したが、賃金労働の供給はごくわずかずつしか増加しなかった。国民生産の大部分は、後には資本の蓄積の原資となるが、この段階ではまだ労働者の消費の原資として使われていた。

賃金労働者にかんする立法は、最初から労働者の搾取を目指したものであり、その後もつねに労働者に敵対的なものであったが、この種の法律はイングランドでは1349年のエドワード3世のもとで労働者規制法として始まった。フランスでこれに対応するのが、ジャン王の名で布告された1350年の勅令である。イギリスとフランスの法律はほぼ同時に発布されたもので、内容も同じである。こうした労働者規制法が労働日の延長を強要しようとしていたことについては、すでに第8章第5節で論じたので、ここでは繰り返すことはしない。

〔イングランドの〕労働者規制法は下院の緊急の訴えによって制定された。

あるトーリー党員は素朴にも次のように語っている。「以前は貧民が非常に高い賃金を要求していたので、産業と富になっていた。今では賃金が非常に低くなり、結果としては産業と富にとって別の意味で脅威になっている。以前よりこの脅威のほうが危険かもしれない」。

都市と農村で、出来高の仕事と1日ぎめの仕事のための法定賃金が定められた。農村の労働者は1年契約で、都市の労働者は「自由市場で」雇われることが規定された。規則で定められた額よりも高い賃金を払うことは禁止され、違反すると懲役刑に処せられた。ただし定められた額よりも高い賃金を支払った側よりも、それをうけとった側が厳しく罰せられことになった。たとえばエリザベス朝の徒弟法の第18条と19条では、定めよりも高い賃金を支払った者は10日の懲役刑が与えられるが、受けとった者は21日の懲役刑を与えられる。1360年の法律ではさらに厳しい処分を定めており、親方は、身体的な強制を加えてでも、法定の賃金に基づいた労働を行わせる権利を認められていた。

壁塗り職人や大工たちがたがいに団結するようなすべての結合、契約、誓約などは無効と宣言された。労働者の団結は14世紀から、重大な犯罪とともに罰せられ、1825年に団体禁止法が廃止されるまでつづいた。1349年の労働者規制法、およびそれを継承した法律の精神がどのようなものであるかは、労働賃金の上限は国家によって定められていたが、最低賃金の規定はまったくなかったことからも明らかである。

16世紀には周知のように、労働者の状況はきわめて劣悪になった。賃金の価格はたしかに上昇したが、貨幣の価値の低落と物価の上昇にみあったものではなかった。だから実際には賃金は低下していたのである。それでも「雇おうとする人物が現われない人物が現われない」人々〔放浪者〕の耳を切り落とす規定や、烙印を押す規定とともに、労働賃金を引き下げるさまざまな法律が存続していたのである。

エリザベス治世第5年の徒弟法第3条では、治安判事には特定の労働賃金の額を定め、季節と物価に応じてこれを変更する権利が認められている。ジェイムズ1世は、この賃金の規定を織物工、紡績工、その他のすべての種類の労働者にも適用させた。ジョージ2世は労働者の団結を禁じた法律を、すべてのマニュファクチュアに適用した。

 

マニュファクチュア時代以降の労働者法

本来のマニュファクチュア時代には、資本主義的生産様式は、労賃の法的規制を実行不可能なものにし不要なものにすることができるだけの十分な強さに達していたが、それでも、人々は、万一の場合のことを考えて、昔の武器庫をからにしようとは思わなかった。ジョージ2世第8年の法令も、ロンドンと付近の裁縫職人にたいして、一般的服喪の場合のほかは2シリング7ペンス半よりも高い賃金を禁止した。ジョージ3世第13年の法令第68条も、絹織工の労賃の規制を治安判事の権限とした。1796年になっても、労賃に関する治安判事の命令が非農業労働者にも適用されるかどうかを決定するためには、上級裁判所の2つの判決が必要だった。1799年にも、まだ、スコットランドの鉱山労働者の賃金は、エリザベスの一法令と1661年および1671年のスコットランドの二つの法律とによって規制されるということが、一つの法律によって確認された。その間にどんなに事情が変わったかは、イギリスの下院で起きた前代未聞の一事件によって示された。イギリスの下院では、400年以上も前から、労賃がけっして越えてはならない最高限についていろいろな法律が製造されてきたのではあるが、この下院で1796年にはウィットブレッドが農業日雇労働者のために法定の最低賃金を提案したのである。ビットはこれに反対したが、「貧民の状態が悲惨だ」ということは認めた。ついに、1813年、ついに賃金規制に関する諸法律は廃止された。資本家が自分の私的立法によって工場を取り締まるようになり、救貧税によって農村労働者の賃金をどうしても必要な最低限まで補わせるようになってからは、これらの法律はこっけいな変則だったのである。雇い主と賃金労働者とのあいだの契約や期限つき解雇予告などに関する労働者法規の諸規定は、契約違反した雇い主についしては民事訴訟を起こすしか許されないで、契約に違反した労働者にたいしては刑事訴訟を起こすことを許しているが、このような諸規定は現在でもりっぱに通用しているのである。

団結を禁止する残酷な法律は、1825年にプロレタリアートの威嚇的態度の前に屈した。といっても、屈したのはただ一部分だけだった。古い諸法規のいくつかの美しい残片は、1859年になってやっとなくなった。最後に、1871年6月29日の法律は、労働組合の法的承認によってこの階級立法の最後の消し去るのだと称した。ところが、同じ日付の一法律(暴力、脅迫、妨害に関する刑法改正法)は、事実上、以前の状態を新しい形で再現させるものだった。この議会的手品によって、ストライキやロック・アウト(工場主たちが同盟して自分たちの工場を同時に閉鎖することによって行うストライキ)にさいして労働者が利用しうる手段が、普通法による取締りから特別刑法による取締りのもとに移され、この刑法の解釈は治安判事の資格においての工場主自身に任されたのである。2年前には、同じ下院と同じグラットストン氏とが、人も知る公明なやり方で、労働者階級にたいするいっさいの特別刑法を廃止するために一つの法律を上程したのだった。しかし、それは第2読会から先には進められなかった。こうして事態は長引かされていたあいだに、ついに「大自由党」は、トーリ党との同盟に勇気づけられて、自分を支配者の地位に押し上げてくれたそのプロレタリアートに断固として敵対することを決意した。この裏切りだけでは満足しないで、「大自由党」は、いつでも尾を振って支配階級に奉仕しているイギリスの裁判官たちに、古ぼけた「陰謀」取締法を再び掘り出してそれを労働者の団結に適用することを許した。要するに、イギリスの議会は、まったくいやいやながら民衆の圧力に屈して、ストライキや労働組合を禁圧する法律を放棄したのであるが、それは、すでにこの議会そのものが、5世紀の長きにわたって、労働者に対抗する恒常的な資本家組合の地位を恥知らずの利己主義で維持してきてからあとのことだったのである。

マニュファクチュアの時代になると、資本主義的生産様式が確立されると、それ以前のように労賃を法律で規制することは不要になりました。法律の規制は万一の場合にそなえての保証のような位置付けになりました。

1796年には、最低賃金の法定が議会に提案され(否決になりましたが)、1813年には労賃を規制する法律が廃止されました。また、労働者の団結を禁止した法律は段階的に緩和されましたが、ストライキは特別に刑法の対象として残りました。

これらの緩和は、民衆の圧力を受けて、議会では嫌々認められました。議会は資本家層によって牛耳られていたからです。

ほんらいのマニュファクチュア時代になると、資本制的な生産様式が十分に確立されているために、労働賃金を法律で規制するのは不可能になっており、また不要になっていた。しかし万一の場合にそなえて、賃金の規制という古い武器庫の武器を捨てるに忍びなかったのである。ジョージ2世の治世8年の法律は、ロンドンとその近郊の裁縫職人の1日あたりの賃金が、一般的な服喪の場合をのぞいて、2シリング7ペンス半を上回ることを禁じていた。ジョージ3世の治世13年の法令の第68条でも、絹織物工の賃金を治安判事に決定させている。

1796年になっても、労働賃金を定めた治安判事の命令が、農業以外の分野の労働者にも適用されるかどうかについて、上級審で2件の判決が下される必要があったほどである。1799年には、ある議会条例で、ある議会条例で、スコットランドの鉱山労働者の賃金が、エリザベス朝の労働者法と、1661年と1671年のスコットランドの二つの法律によって定められていることが確認されている。

その後、いかに状況が逆転したかを示すのが、イギリスの下院で起きた前代未聞の事件である。イギリスの下院はこれまでの400年以上のあいだ、労働賃金が絶対にそれを超えてはならない上限を定めた法律を作りつづけてきたが、1796年にウィットブレッド議員が農業の日雇い労働者の法定最低賃金を提案したのである。ビット首相はこれに反対したが、「貧民の状態が残酷なまでにひどい」ことは認めた。

1813年には、ついに労働賃金を規制する法律が廃止された。資本が私的な立法によって自分の工場を取り締まるようになっており、さらに農村労働者の賃金が必要な最低限を下回っても、救貧税によってこれを補うようにされていることから考えると、このような労働賃金の規制は滑稽な変則状態にすぎないものとなっていたのである。労働者規制法のさまざまな規定のうち、雇用主と賃金労働者の契約や、解雇の通告期間などの規定は、雇い主が契約違反した場合には民事訴訟を起こすことだけを認め、労働者が契約違反した場合には刑事訴訟を起こすことを認めるものだったが、これは現在でも完全に有効とされている。

結社を禁止した残酷な法律は、プロレタリアートの威嚇的な態度によって1825年には廃止された。しかし部分的な廃止にすぎなかった。この古い法律のみごとな痕跡が消滅したのは、やっと1859年になってからである。ついに1871年6月29日の議会条例では、この階級立法の最後の痕跡を廃止し、労働組合を法的に承認することをうたった。しかし実際には議会は同じ日に、暴力、強迫、妨害にかんする刑法の改正法によって、これまでの状態を新しい形式で復活させただけであった。

議会のこうした手品によって、ストライキやロックアウト(ロックアウトとは、工場主たちがまとまって、自分たちの工場を同時に閉鎖するストライキである)の際に労働者たちが用いることのできる手段は、通常の法律の適用から除外され、特別刑法の適用対象とされたのだった。そしてこの特別刑法の解釈は、工場主たちが治安判事の資格において行うことになった。

ところがその2年前には、この同じ下院が、そして同じグラットストーン氏が、例のごとく率直な姿勢で、労働者階級を対象としたこうした特別刑法をすべて廃止する法律を提案していたのだった。しかしこの法律は第2読会までしか審議が進まず、問題は先送りされた。ついに「大自由党」がトーリー党と提携して、自分たちを政権につかせてくれたプロレタリアートに徹底的に敵対する勇気をだしたのだった。「大自由党」はこの裏切りだけでは満足せず、尻尾を振って支配階級に奉仕する裁判官たちが、「陰謀」についての古臭い法律を掘りだしてきて、労働者の団結に適用することまで、認めたのだった。

このようにしてみると、イギリスの議会がストライキや労働組合を禁止する法律を廃止したのは、民衆の圧力のもとで、嫌々ながらのことであったのがよく分かる。議会はそれまで500年にわたって、恥知らずなエゴイズムを発揮しながら、労働者と対抗する資本家たちの永続的な組合の地位を堅持することを主張してきたのである。

 

フランスの事例

革命のあらしが荒れ始めると、ただちにフランスのブルジョワジーは、労働者がやっと獲得したばかりの団結権を再び彼らから取り上げた。1791年6月4日の布告によって、ブルジョワジーは、いっさいの労働者団結を「自由と人権宣言との侵害」だと宣言し、500リ−ブルの罰金と1年間の公権剥奪とで処罰されるべきものだとした。この法律は、資本と労働とのあいだの競争戦を警察権利によって資本に好都合な限界内に押しこむのであるが、それは、いくつもの革命や王朝交替を乗り越えて存続した。恐怖政治でさえもこれには手を触れなかった。それは最近やっと刑法典から抹消されたばかりである。このブルジョア的クーデタの口実以上に特徴的なものはない。報告者ル・シャブリエは次のように言う。「労賃が現在よりも高くなることによって、労賃を受け取る人が生活必需品の欠乏に起因するほとんど奴隷的従属にも等しい絶対的従属から脱することは望ましい」とはいえ、労働者が彼らの利害について協定し、共同的に行動し、それによって彼らの「ほとんど奴隷状態にも等しい絶対的従属」を緩和しようとすることは許されない。なぜならば、彼らはまさにこうすることによって「自分たちの以前の親方である今の企業家の自由」(労働者を奴隷状態に維持する自由!)を侵害することになるからであり、また、以前の同職組合親方の専制に対抗する団結は─なにを言うことやら!─フランス憲法によって廃止された同職組合の再建だからである!

フランスでは、フランス革命時にブルジョワジーたちは労働者の団結は天賦人権に属するものと宣言されました。しかし、法律は警察の力で労働者の権利を資本に好都合に制約するものでした。その理由は、労働者の権利が認められ高い賃金を要求できるようになれば、ブルジョワの実業家の経営の自由が侵害されるから、というものでした。

フランスでは革命の嵐が始まるとすぐに、ブルジョワジーはやっと手に入れたばかりの団結権を労働者の手からとりあげようとした。ブルジョワジーたちは1791年6月4日の布告で、労働者の団結はいかなるものであっても、「自由と人権宣言の暗殺行為」であると宣言し、違反した場合には500リ−ブルの罰金と、1年間の公民権の剥奪が科せられることにされた。

この法律は、資本と労働のあいだの闘いを、国家の警察の力で、資本に好都合な制約のうちに封じ込めようとしたものであり、その後のいくつかの革命と王朝の交替の後にも存続した。〔ジャコバン派の〕恐怖政治すら、この法律には手を触れなかった。ごく最近になってやっとフランス刑法典から削除されたのである。

このブルジョワ的なクーデターで使われた口実は、きわめて特徴的なものだった。報告者ル・シャブリエは、「賃金が上昇して、賃金をうけとる者たちが、生活必需品の欠乏によるほとんど奴隷に近い絶対的な依存状態から、解放されることは望ましいことである」と認めながら、労働者たちが自分たちの利害について話し合い、共同の行動によってこの「ほとんど奴隷に近い絶対的な依存状態」を和らげようとするのは許されないことだと主張する。そのようなことをすれば、「かつての親方であり、現在の実業家の自由を」侵害することになるからであり(実業家たち自由とは、労働者を奴隷状態にしておく自由である!)、かつての親方たちの同職組合の専制に対抗しようとする団結は(ここに注目されたい!)、フランス憲法によって廃止された同職組合の再興になるというのである!。

16世紀になるとすでに、農村から大量に弾きだされてきた農民が労働者となって当時のマニュファクチュアによっても吸収されず、彼らは群れをなして乞食となり、盗賊となり、浮浪人となりました。彼らを待ち受けることになったのは、16世紀の全体を通じて西ヨーロッパ総体を覆った「浮浪に対する血の立法」でした。

イギリスではこの「浮浪」に対抗する当の立法はヘンリー7世下に始まります。そして、ヘンリー8世の治世下の1530年の法律。老齢で労働能力のない乞食には、乞食免許が与えられる。これに対して、強健な浮浪人には鞭うちと拘禁とが与えられる。彼らは荷車の後ろに繋がれて、からだから血が出るまで鞭うたれ、それから宣誓をして、自分の出生地か最近3年間の居住地にもどり仕事につくようにしなければなりませんでした。さらに、ヘンリー8世の27年には以前の法規がくりかえされるけれども、新たな補足によってより厳格にされる。再度浮浪罪で逮捕されると鞭うちが繰り返されて、耳を半分切り取られるが、累犯3度目は当人は重罪犯人であって、公共の敵であめとして死刑に処せられることになるというのでした。

エドワード6世治下、1547年には、浮浪人は自分を告発した者の奴隷となることが定められました。主人には、鞭と鎖とで奴隷を強制的に労働させる権利がある。奴隷が14日の間仕事を離れれば終身奴隷の宣告を受け、額か背中にSの焼印を押され、逃亡3回に及べば、国家への反逆者として処刑される。主人は奴隷を「パンと水と薄いスープと、彼にふさわしいと思われるくず肉」で養わなければならないが、他方奴隷を、他の動産や家畜と同じように売ることも遺贈することもできる。浮浪人が3日ぶらついていたことが分かれば、出生地に送り返され、灼熱の鏝で胸にV字を焼き付けられ、鎖でつながれて、労役に就かせられる。というものでした。

エリザベス女王の治世のもと、1572年には、鑑札を持たずに浮浪している14歳以上の乞食は、鞭うたれたうえに、左の耳たぶに焼き印を押されることになりました。再犯者の場合、彼または彼女が18歳以上なら、2年の間彼らを使おうとする者が出てこなければ処刑されるいっぽう、3回の累犯の場合はただちに国家への反逆者として処刑されるというものでした。

ジェームズ1世が即位したのちは、こうだ。放浪者に対して治安判事には、初犯ならば6カ月、再犯となると2年の間投獄する権限が与えられました。矯正不可能な浮浪者は、左肩にR字を焼き付けられ、再び放浪して逮捕されれば、容赦なく死刑に処せられるというものでした。

このように、暴力的に土地を収奪され、追い払われ浮浪人にされた農村民は、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるために鞭うたれ、焼き印を押され、拷問されたのでした。

これが「血の立法」の内実でし。マルクスは、当面の総括を与えています。資本主義的生産にとって、人口が両極化し、生産手段が集中するだけでは十分でない。二重の意味で自由な労働者が集積されるだけで十分ではない。資本主義的生産の進展につれて、教育や伝統や慣習によって、この生産様式の諸要素を自明な自然法則として認める層が、つまり無抵抗な労働者階級が必要となってきます。その結果労働者に対する資本家の支配が確定されるまでは、資本はさまざまな局面において「国家権力を必要とし、利用する」。これが、本源的蓄積にあって一箇の本質的契機なのだというわけです。

 

 

第4節 資本家的借地農業者の生成

借地農の登場プロセス

われわれは、無保護なプロレタリアの暴力的創出、彼らを賃金労働者に転化させる流血的訓練、労働の搾取度とともに資本の蓄積を警察力によって増進する君主や国家の卑劣な行為、これらのことを考察してきたのであるが、次に問題となるのは、もともと資本家はどこから出てきたのか?ということである。というのは、農村民の収奪は直接にはただ大きな土地所有者をつくりだすだけだからである。借地農の生成について言えば、われわれはそれを手探りすることができる。というのは、それは幾世紀にもわたる緩慢な過程だからである。農奴たち自身も、また自由な小土地所有者たちも、非常にさまざまな所有関係のもとに置かれていたのであり、したがってまた非常にさまざまな経済的諸条件のもとで解放されたのである。

ここまでは、プロレタリアートが暴力的に生み出されるようになったことや、彼らを賃金労働者に変え、厳しい規律に従わせ、労働搾取により資本の蓄積が増大するようになったことを分析してきました。こんどは、労働者に対して資本家の側、つまり、資本家はどのようにして発生したかを見ていきたいと思います。なお、農民の財産を奪うことで生まれたのは大土地所有者です。借地農は数世紀という長い期間を通じて、中世の封建制の農奴から小土地所有者となり、土地の収奪により生まれてきたのは、前に見た通りです。

これまで、法の保護をうけないプロレタリアートが暴力的に生みだされるプロセスについて、そして彼らを賃金労働者に変える血なまぐさい規律化について、さらに労働の搾取度を強めながら資本の蓄積を警察力で増大させる君主や国家の卑劣な行為について調べてきた。次に問題となるのは、それでは資本家はそもそもどこから登場してくるのかということである。というのも、農村の住民の財産を収奪することで生まれるのは、直接には大土地所有者だけだからである。

借地農の誕生については、いわば手探りで考察することができる。数世紀の長い期間をつうじて進む緩慢なプロセスの産物だからである。農奴そのものも、そして自由な小土地所有者そのものも、きわめて多様な所有関係のうちにあり、きわめて多様な経済的な条件のもとで、解放されていったのである。

 

イギリスの借地農

イギリスでは、借地農業者の最初の形態は、自分自身も農奴だったベーリフ〔領主の土地管理人〕である。彼の地位は古代ローマのウィリクスの地位と似ており、ただ勢力範囲がこれよりも狭いだけである。14世紀の後半には、ベーリフは地主から種子や家畜や農具を供給される借地農業者と置き換えられる。この借地農業者の状態は農民の状態とあまり違わない。ただ彼のほうがより多く賃労働を搾取するだけである。彼はまもなくメテイエ、すなわち半借地農業者になる。彼は農業資本の一部を提供し、地主が他の部分を提供する。両者は、契約で定めた割合で総生産物を分け合う。この形態はイギリスでは急速になくなって、本来の借地農業者の形態に席を譲る。本来の借地農業者というのは、彼自身の資本を賃金労働者の使用によって増殖し、剰余生産物の一部分を貨幣か現物かで地主に地代として支払うものである。

15世紀をつうじて独立農民や賃奉公と同時に自作もする農僕が自分の労働で富を得ているあいだは、借地農業者の境遇もその生産領域も相変わらずたいしたものではない。15世紀の最後の3分の1期の農業革命は、16世紀のほとんど全体をつうじて(といっても最後の数十年を除いて)続くのであるが、この革命は農村民を貧しくして行くのと同じ速さで借地農業者を富ませて行く。共同牧場などの横領によって彼はほとんどただで自分の家畜を大いに増やすことができ、同時にこの家畜は土地耕作のためのいっそう豊富な肥料を彼に提供する。

16世紀には一つの決定的に重要な契機が加わる。当時は借地契約が長期で、99年にわたるものも多かった。貴金属の価値、したがってまた貨幣の価値が引き続き低落したということは、借地農業者のために黄金の果実を結んだ。この低落は、前に論じた他の事情はすべて別にしても、労賃を低落させた。労賃の一部分は借地農業潤につけ加えられた。穀物や羊毛や肉類など、要するにすべての農業生産物の価格の継続的な上昇は、借地農業者がなにもしないでも彼の貨幣資本を膨張させたが、他方、彼が支払わなければならなかった地代は以前の貨幣価値で契約されていた。こうして彼は、彼の賃金労働者と彼の地主とを同時に犠牲にして、富をなしたのである。だから、16世紀末のイギリスに当時の事情から見れば富裕な「資本主義的借地農業者」という一階級があったということは、少しも不思議ではないのである。

イギリスの場合、最初の借地農は、中世の農奴のなかで土地管理人を務めていました。14世紀後半、この土地管理人の代わりに、地主から種子、家畜、農具を与えられた小作農である借地農が発生しました。やがい、この借地農は、自身が農業資本の一部を提供し、残りを地主が提供するという半借地農になっていきました。この人々は地主と、契約時に収穫を分け合う比率を決めました。しかし、15世紀には半借地農は消滅し、独立自営農民と借地農に二極分化しました。前者は自らの労働で富裕になる可能性がありました。そして、15世紀後半からの農業改革により、借地農も含めて農業全体が豊かになりました。ただし農村の住民は村の共同地を奪われたため貧困化しました。

イギリスで最初に登場した形態の借地農は、みずからも農奴であった土地管理人であった。彼の地位は古代ローマのウィリクスほど広い職務をはたしていなかった。14世紀の後半には、この土地管理人の代わりに、借地農が登場する。借地農は地主から種子、家畜、農具を与えられた小作農であり、農民とそれほど違わなかったが、農民より賃労働を利用することが多かった。

やがてこの借地農は半借地農になる。彼はみずから農業資本の一部を提供し、地主が残りの農業資本を提供する。両者は契約で定めた比率で、収穫をわけ合う。しかしイギリスではこの形態は急速に消滅し、ほんらいの借地農が登場する。ほんらいの借地農は、賃金労働者を利用してみずからの資本を増殖させ、余剰生産物の一部を地代として、地主に貨幣か現物で支払う。

15世紀をつうじて、独立自営農民と、賃金労働をしながらみずからも農業を営む農僕が、みずからの労働で富裕になることができたのであり、借地農の状況は中間的なものであり、みずからの労働で富裕になることができたのであり、借地農の状況は中間的なものであり、生産領域において占める地位も中間的なものだった。ところが農業改革が15世紀の最後の3分の1期に始まり、16世紀全体を通じて進行した後に(ただし16世紀の最後の数十年を除く)、借地農は豊かになり、同時に農村の住民は貧困になった。村の共有だった牧草地を奪いとることなどで、借地農はいかなる費用もかけずに家畜の数を増やすことができた。そしてこの増加した家畜〔の排泄物〕が、土地の耕作に必要な肥料を大量にもたらしたのである。

16世紀に決定的に重要な要因が加わる。当時の借地契約は長期的なものであり、99年に及ぶことも多かった。貴金属の価値が低下しつづけ、それによって貨幣の価値が低下したために、借地農は〈黄金の実り〉を手にすることができた。すでに述べた状況は別として、これが労働賃金を低下させたからである。この労働賃金の一部は借地農の利潤となった。そして穀物、羊毛、肉など、要するに農産物の全体の価格がたえず上昇したので、借地農の資本は何もしなくても膨らんだ。しかも地代は、かつての貨幣価格で契約した金額を支払えばよかったのである。こうして借地農は賃金労働者と地主の犠牲のもとで、富裕になっていった。16世紀末のイギリスに、当時の状況からみて豊かな〔資本制的な借地農〕という階級が誕生したのは不思議ではない。

 

 

第5節 農業革命の工業への反作用。産業資本のための国内市場の形成

農民の収奪の結果

発作的ではあるがまた絶えず繰り返される農村民の収奪と駆逐とは、すでに見たように、まったく、同職組合的関係の外にあるプロレタリア群を繰り返し都市工業に供給したのである。この好都合な事情こそは、老アダム・アンダソン(ジェームズ・アンダソンと混同してはならない)に彼の商業史のなかで神の摂理の直接の干渉を信じさせるのである。われわれはもうしばらく本源的蓄積のこの要素について述べなければならない。独立自営農村民の稀薄化には、ジョフロワ・サン・ティレールが宇宙物質の一方での濃密化を他方での稀薄化によって説明しているように、ただ工業プロレタリアートの濃密化が対応していただけではない。その耕作者の数が減少したにもかかわらず、土地は以前と同量かまたはより多量の生産物を生みだした。というのは、土地所有関係の革命が耕作方法が改良や協業の大規模化や生産手段の集積などを伴っていたからであり、また、農村賃金労働者の労働の強度が高められただけではなく、彼らが自分自身のために労働した生産場面がますます縮小したからである。つまり、農村民の一部分が遊離させられるのにつれて、この部分の以前の食料もまた遊離させられるのである。この食料は今や可変資本の素材的要素に転化する。追い出された農民は、この食料の価値を自分の新しい主人である産業資本家から労賃という形で買い取らなければならない。国内で生産される農産工業原料についても、事情は生活手段の場合と同じだった。それは不変資本の一つの要素に転化した。

たとえば、フリードリヒ2世の時代に、たとえなににもならなかったにせよ、せっせと亜麻を紡いでいたのヴェストファーレンの農民のうち、一部分は暴力的に収奪されて土地から追い出され、あとに残った別の部分は大借地農業者の日雇い労働者になった、と想定しよう。同時に大きな亜麻紡績工場や織物工場ができて、「遊離した人々」は今ではそこで賃労働をしているとしよう。亜麻は見たところ以前と少しも変わりはない。その繊維の一筋も変わってはいないが、しかしその体内には一つの新しい社会的な魂が乗り移っている。それは今ではマニュファクチュア経営者の不変資本の一部になっている。亜麻は、以前は、それを自分で栽培して家族といっしょに少しずつ紡いでいた無数の小生産者のあいだに分配されていたが、今では、自分のために他人に紡がせたり織らせたりする1人の資本家の手のなかに集積されている。亜麻紡績場で支出される特別な労働は、以前は無数の農民家族の特別収入に、あるいはまた、フリードリヒ2世の時代には、ただで取り上げられる租税に、実現された。今ではそれが少数の資本家の利潤に実現される。紡績や織機は、以前は広く農村に分散されていたのに、今では労働者と同じように、また原料とも同じように、わずかばかりの大きな作業場に詰め込まれている。そして、紡錘も織機も原料も、紡ぎ手や織り手の独立な生存の手段から、今では彼らに命令し彼らから不払労働を吸い取るための手段に転化している。大きなマニュファクチュアを見ても、大きな借地農場を見ても、それらが多くの小さな生産場が合併されたものだということや、多くの小さな独立生産者の収奪によってできたものだということはわからない。とはいえ、とらわれない目で見れば惑わされることはない。革命の獅子ミラボーの時代にも、大マニュファクチュアは合併マニュファクチュア、合併作業場と呼ばれたが、それは、われわれが合併耕地というようなものである。ミラボーは次のように言っている。

「人々が見ているのは、ただ、数百人の人々が1人の指揮者のもとで働いていて一般に合併マニュファクチュアと呼ばれている大きなマニュファクチュアだけである。これに反して、非常に多くの労働者が分散していてめいめいが自分の計算で働いている作業場は、ほとんど一顧の価値も認められていない。それらはまったくなおざりにされている。これは非常に大きなまちがいである。なぜならば、ただこのような作業場だけが国民の富の真に重要な成分をなしているのだからである。…合併工場は1人か2人の企業家にはすばらしい富を与えるであろう。しかし、労働者は、ただ賃金に多い少ないがあるだけで、みな日雇い人でしかなく、企業家の幸福には少しもあずからないのである。これに反して、分散工場では、だれも金持ちにはならないが、多くの労働者が豊かに暮らすのである。…勤勉で倹約な労働者の数は増加するだろう。なぜならば、彼らは賢い暮らし方を、すなわち勤勉を、自分たちの状態を根本的に改善するための手段とみるのであって、わずかばかりの賃金引き上げを獲得するための手段とは見ないからである。このような賃金引き上げは、けっして将来のための重要な目的ではありえないのであって、せいぜいその日暮らしをいくらかましにさせるだけである。たいていは小さな農業と結合されている分散的な個人的な作業場は、自由な作業場である。」

農村の住民が、繰り返し収奪され、村から追い出され、彼らは都市に流入しプロレタリアートとなっていきます。本源的蓄積のこの部分ついて、これから見ていきましょう。

農地では、多数の農民が追い出されたのですが、これまでと同じか、あるいはそれ以上の農産物が収穫されました。大土地所有という土地の所有の変化に伴って、農耕の方法が改善され、生産手段が集中的に投入されるようになって、生産性が向上したためです。また、農村人口が減ったため、農村での食料消費も減少しました。他方、この農民たちは農村を追い出され都市に流入しましたが、食べることは必要で、彼らの食料は都市で農村から出荷される農産物を買うことで得ることになります。つまり、以前は農村のコスト(可変資本)だったものが、今度は売り物として生産物(不変資本の要因)に転化したわけです。

たとえばドイツのフリードリヒ2世の統治下のウェストファーレン地方の農民。彼らはもともと亜麻糸を生産していたが、暴力的に土地から追い払われました。そして残った人々も大規模な農場の日雇い労働者になりました。一方、麻糸の紡績工場と織布工場が建設され、その賃金労働者となりました。以前は、農家が自分で麻を栽培し、家族で麻糸を紡いでいたのが、今では資本家が他人に紡がせた糸が集まってくることになりました。かつては地域の全体に広く分散していた紡績と織機は、労働者は原料と同じように、少数の大規模な工場(マルクスは労働兵舎と呼んでいます)に集められた。紡錘と織機と原料は、これまでは紡ぎ手や織り手の自立した生活のための手段であったのが、今では彼らに命令する手段になり、彼らから不払労働を吸いとるための手段になったのでした。

すでに確認してきたように、農村の住民が断続的に、たえず繰り返し収奪され、村から追いだされたに、同職組合に拘束されない多量のプロレタリアが都市の工業に供給された。老アダム・アンダーソンは(ジェイムズ・アンダーソンと混同しないように)、商業史の著作において、この状況がそれなりにうまく機能しているのは、神の摂理が直接に介入したからではないかと考えているほどである。

原初的な蓄積のこの部分についてさらに検討してみる必要がある。〔自然哲学者の〕ジョフロワ・サン・ティレールは、〔自然史の書物において〕宇宙質料の密度の増加を、他の部分の密度の低下で説明しているが、これと同じように独立した自営農民が減少したことで、産業プロレタリアートの増加を説明することはできるとしても、それだけでは説明できない。農耕者の人数は減っても、農地からはこれまでと同じか、それ以上の農産物が収穫されているのである。土地の所有関係の革命にともなって、同時に農耕方法が改善され、協業が進展し、生産手段が土地に集中的に投入されるようになったからである。また農村の賃金労働者がさらに激しく酷使されただけでなく、彼らが自分のために耕作していた畑の面積がますます縮小されていったからである。

農村人口が放出されると、放出された部分の人口がそれまで消費していた食料が、余剰な食料として放出される。これらの食料は今では可変資本の素材的な要素に変容するのである。外に追いだされた農民は、今では新しい主人である産業資本家から、食糧の価値を労働賃金の形で買いとらねばならない。生活手段において生じたことが、産業に必要な国内農村から原料においても発生しなければならない。こうした原料は、不変資本の要因に変わったのである。

たとえばフリードリヒ2世時代のヴェストファーレン地方の農民たちのことを考えてみよう。彼らは結局は何の足しにもならなかったとしても、せっせと亜麻糸を紡いでいたが、一部の農民は暴力的に収奪され、土地から追い払われた。そして残った人々も、大規模な借地農に日雇いで雇われる労働者になった。同時に大規模な亜麻糸の紡績工場と織布工場が建設され、「放出された」人々はそこで賃金労働をするようになった。亜麻糸は見た目は前と同じである。繊維はまったく前と同じでも、その身体に新しい社会的な魂が宿ったのである。亜麻糸は今ではマニュファクチュア工場主の不変資本の一部となったのである。

これまでは無数の生産者が、自分で亜麻を栽培し、家族とともにごくわずかな量の糸を紡いでいた。今では自分のために他人に紡がせ、織らせる資本家の手のもとに、亜麻糸が集中することになる。それまで農民たちが亜麻糸の紡績のために投じていた特別な労働は、農家の家族の特別収入となっていて、フリードリヒ2世の時代であれば、プロイセン王に収める税金となっていた。今ではそれが少数の資本家の利潤になる。

かつては地域の全体に広く分散していた紡績と織機は、労働者は原料と同じように、少数の大規模な〈労働兵舎〉に集められた。紡錘と織機ならびに原料は、これまでは紡ぎ手や織り手の自立した生活のための手段であったが、今では彼らに命令する手段になり、彼らから不払労働を吸いとるための手段になったのである。

大規模マニュファクチュアや大規模な借地農場経営をみるだけでは、それが無数の小さな生産現場を統合したものであることも、小規模な独立した生産者を収奪して形成されるものであることも分からない。それでもとらわれないまなざしで眺めていれば間違うことはない。革命の獅子と呼ばれたミラボーの時代には、大規模マニュファクチュアはまだ統合マニュファクチュアと呼ばれていた。ドイツで〔大規模な農地を〕統合農地と呼ぶのと同じである。

ミラボーは、次のように語っている。「人々は、数百人の人間が1人の管理者の指揮のもとで働く大規模マニュファクチュア、ふつうは統合マニュファクチュアと呼ばれているものだけに注目する。これにたいして、非常に多数の労働者が分散して、個々の自分なりの考えで働いている作業場は、注目に値しないと考えている。こうした場所はまったく無視されている。しかしこれは大きな間違いである。これだけ国民の富のもっとも重要な部分を構成しているのである。…統合工場はたしかに、1人や2人の事業家を驚くほど富ませるかもしれない。しかしこうしたところでは労働者たちは日雇いの労働者にすぎず、たんに賃金が高いか低いかの違いにすぎない。彼らは事業家の富にはまったくあずかれないのである。これにたいして仕事場が分散しているいわゆる分散工場の場合は、誰も金持ちにはならないが、多くの労働者が豊かに暮らしているのである。…そうした状況は、勤勉で経済観念の発達した労働者が増えるだろう。彼らはわずかな賃上げを求めるよりも、賢明な暮らし方と勤勉こそが、自分たちの状況を大幅に改善する手段であることを認識しているからである。わずかな賃上げは、将来のための重要な目標とはならない。せいぜい食うや食わずの生活がいくらかましなものになるにすぎない。多くは小規模な農業と結びついている分散した個人のマニュファクチュアこそが、自由なマニュファクチュアである」。

 

国内市場の形成

農村民の一部分を収奪し追い出すことは、労働者といっしょに彼らの生活手段や労働材料をも産業資本のために遊離させるだけでなく、それはまた国内市場をつくりだすのである。

じっさい、小農民を賃金労働者に転化させ、彼らの生活手段と労働手段を資本の物的要素に転化させる諸事件は、同時に資本のためにその国内市場をつくりだすのである。以前は、農家は生活手段や原料を生産し加工して、あとからその大部分で消費していた。これらの原料や生活手段は今では商品になっている。大借地農業者がそれを売るのであり、彼はマニュファクチュアに自分の市場を見いだすのである。糸やリンネルや粗製毛織物など、その原料をどの農家でも手に入れることができて各農家によって自家消費のために紡がれ織られていた物─このようなものが今ではマニュファクチュア製品にされてしまって、まさにその農村地方そのものがそれらの販売市場となるのである。これまでは自分の計算で労働する多数の小生産者に依存していた多数の分散した買い手が、今では集中されて、産業資本によってまかなわれる一大市場になるのである。このようにして、以前の自営農民の収奪や彼らの生産手段からの分離と並んで、農村副業の破壊、マニュファクチュアと農業との分離過程が進行する。そして、ただ農村家内工業の破壊だけが、一国の国内市場に、資本主義的生産様式の必要とする広さと強固な存立とを与えることができるのである。

農村の人々が収奪されて村から追い出されたことは、産業資本のための労働者を作り出しただけでなく、他方で国内市場を作り出すことにもなりました。それまでは、農家は生活手段と原料を自ら生産し、その大部分を自ら消費していました。それが今では、原料と生活手段は商品となりました。つまり、大借地農が原料や生活手段を売るものに変えたためです。そういうものが売れる市場を発見したということでもあります。糸、麻布、織物などの原料は、どの農家でも自家消費するために自ら紡ぎ、織っていたものが、今ではマニュファクチュアで生産される製品となり、農家そのものが販売先となったのです。このようにしてかつては自営していた農民が収奪され、みずからの生産手段から切り離されていくとともに、農村での副業が破壊され、マニュファクチュアと農業の分離が進行したのでした。農村の家内工業が破壊されることではじめて、国内市場は資本主義的生産様式には必要な規模と安定性を獲得することになったのでした。

農村民衆の一部が収奪され、村から追いだされたことは、たんに産業資本のための労働者を作りだし、その生活手段と労働材料を作りだしたわけではない。国内市場も作りだしたのである。

実際に、これらの出来事は、小農を賃金労働者に変え、彼らの生活手段と労働手段を資本の物的な要素に変えただけではなく、同時に資本のための国内市場を創設したのである。それまで農家は、生活手段と原料をみずから生産し、加工した後、その大部分をみずから消費していた。しかし今では原料と生活手段は商品になった。大借地農が、こうした原料と生活手段を売るようになる。マニュファクチュアのうちに市場をみいだしたからである。

紡ぎ糸、亜麻布、粗製の毛織物などの原料は、かつてほどの農家にもあり、どの農家も自家消費するために働き、織っていたものであるが、今ではマニュファクチュア製品となり、農村地方そのものが、その販売市場となるのである。これまでは多数の買い手が分散して存在し、自分なりの計算で仕事をする多数の小生産者の製品を購入していたが、今までは産業資本がまかなう大規模な市場に集まって売買するようになる。

このようにしてかつては自営していた農民が収奪され、みずからの生産手段から切り離されていくとともに、農村での副業が破壊され、マニュファクチュアと農業の分離が進行する。農村の家内工業が破壊されることで初めて、国内市場は資本制的な生産様式に必要とされる規模と安定性を獲得するのである。

 

国内市場の形成における大工業の役割

とはいえ本来のマニュファクチュア時代には根本的な変化はなにも現われない。人々の記憶にあるように、この時代は国民的生産を非常に断片的に征服するだけで、つねに都市の手工業と家内的・農村的副業とを広い背景としてこれに支えられているのである。この時代にはこれらのものをある種の形態や特殊な事業部門やいくつかの地点では破壊するにしても、よそでは再び同じものを呼び起こすのであって、それというのも、この時代は原料の加工のためにある一定の程度まではこれらのものを必要とするからである。それだから、この時代は一つの新しい部類の小農民を生みだすのであって、このような農民は耕作を副業として営み、生産物をマニュファクチュアに売る─直接にかまたは承認の手を経て─ための工業的労働を本業とするのである。このことは、イギリス史の研究者をまず第一に困惑させる一つの現象の、たとえ主要な原因ではないにしても、一つの原因なのである。その研究者は、15世紀の最後の3分の1期以後は、農村での資本経営の増加や農民層の破滅の進行について、いくらかの間隔をおくだけで絶えず叫ばれている苦情を見いだす。他面では、またこの農民層が、その数は減少しその形態はますます悪化しながらも、絶えず繰り返し研究者の前に現われる。その主要な原因は、イギリスは時代の変遷につれて穀作を主とする国になったりするということであり、また、その変遷につれて農民経営の規模が変動するということである。大工業がはじめて機械によって資本主義的農業の恒常的な基礎を与え、巨大な数の農村民を徹底的に収奪し、家内的・農村的工業─紡績と織物─の根を引き抜いてそれを農業と分離を完成するのである。したがってまた、大工業がはじめて産業資本のために国内市場の全体を征服するのである。

とはいえ、マニュファクチュア時代には、未だ根本的な変化には至りませんでした。マニュファクチュア時代は国民の生産の一部でしかなかったからです。それは、都市や農村の家内工業や副業の全体に占める割合が大きかったからです。一部の特定の分野で、このような家内工業がマニュファクチュアに敗れて崩壊したとしても、それはごく一部であり、また別の分野で家内工業が復活する。それはマニュファクチュアが、原料の加工のために、このような家内工業を必要としていたからです。

そのため、マニュファクチュアは新しい小農を生み出してもいたのです。彼らの生業は、生産物をマニュファクチュアに売るための工業的な労働で、耕作は副業でした。このことがイギリス史の研究者を戸惑わせたのでした。つまり、マニュファクチュアは単純に農村を解体したわけではないからです。それはイギリスの農業が穀物生産を中心とするものになったという変化で、それが農業経営の大規模化など資本主義的農業に変化していったからです。

それでもほんらいのマニュファクチュア時代には、根本的な変化は生じなかった。すでに確認してきたように、マニュファクチュアは国民の生産のごく一部だけを掌握しただけであり、つねに都市の手工業や農村の家内工業的な副業等が、大きな背景を構成していたのであり、これらに依存していたのである。ある特定の産業分野で、こうした都市の手工業や農村の家内工業的な副業の特定の形態が、特定の張所で破壊されたとしても、ふたたび別のところで復活する。マニュファクチュアは、原料の加工のために、こうしたものをつねにある程度は必要としていたからである。

そのためマニュファクチュアは、新しい小農階級を生みだしたのであり、この小農たちの主たる生業は、直接に、または仲買人を介して、生産物をマニュファクチュアに売るための工業的な労働であり、耕作はその副業だった。これがイギリス史の研究者を戸惑わせることの多い例の現象が発生した一つの理由である(主要な理由ではないかもしれないが)。すなわち研究者は、15世紀の最後の3分の1期以降に、農村で資本経営が広がり、農民層が次第に破壊されつつあるという嘆きが、一定の間隔をおいてたえず反復されるのに、他方では、いつも新たな農民層が、たとえ数は減少し、さらに悲惨に状態になっているとしても、存在していることに気づかざるをえないのである。

その主な理由は、イギリスはあるときは穀物生産を中心とする国であり、あるときは牧畜を中心とする国であり、それが次々と交替して現れるために、農業経営の規模も変動せざるをえないことにある。大工業が登場して、機械類が採用されることで初めて、資本制的な農業のための安定した土台が構築されたのであり、莫大な数の農民が徹底的に収奪されるようになり、農村の家内工業の〈根〉であった紡績と織物が農村から引き抜かれて、農業と農村の家内工業が完遂されたのである。こうして大工業が初めて、産業資本のために全体の国内市場を征服したのである。

 

 

第6節 産業資本家の生成

産業資本家の誕生プロセス

産業資本家の生成は、借地農業者のそれのようにだんだん進行したものではなかった。疑いもなく、多くの小さな同職組合親方や、もっと多くの独立の小工業者たちが、あるいはまた賃金労働者さえもが小資本家になり、そして、賃金労働者の搾取の漸次的拡大とそれに対応する蓄積とによって、文句なしの資本家になった。中世の都市の幼年期には、逃亡農奴のなかのだれが主人になり、だれが下僕になるかは、たいていは彼らの逃亡の時日が早いかおそいかによってきまったが、資本主義的生産の幼年期にもしばしばこれと同じことが見られた。しかし、この方法の蝸牛の歩みは、けっして15世紀末の諸大発見がつくりだした新たな世界市場の商業要求に応ずるものではなかった。しかし、中世はすでに二つの違った資本形態を伝えていた。すなわち、非常にさまざまな経済的社会編成体のなかで成熟して資本主義的生産様式の時代以前にも資本一般として認められている二つの形態─高利資本と商人資本とがそれである。

産業資本家は借地農のように徐々に生まれてきたものでありません。小規模な同職組合(ギルド)の親方や独立の小工業者、あるいは賃労働者までもが小資本家になった事例は少なくありません。そして、その中で資本の蓄積をすすめて大資本家になった者もいます。彼らは賃労働の搾取を次第に広げながら、それにふさわしい資本の蓄積を実行して、完全な資本家に転身していったのでした。しかし、このようなゆっくりとした変化は、15世紀末の新大陸発見による世界貿易市場の変化には対応できなかったでしょう。

産業資本家の誕生は、借地農の誕生のように緩慢なものではなかった。小規模な同職組合の親方が、小規模な資本家に変容した多くの例があるのはたしかである。それ以上の数の自立した小規模な資本家に変容した多くの例があるのはたしかである。それ以上の数の自立した小規模な手工業者が、ときには賃金労働者が資本家に転身した例もあるだろう。こうした人々は賃労働の搾取を次第に広げながら、それにふさわしい資本の蓄積を実行して、完全な資本家に転身したのである。資本制的な生産の幼年期に起きたのは、中世の都市の幼年期に起きたのと同じような現象である。すなわち中世の都市の幼年期において、都市に逃れてきた農奴のうちの誰が親方になり、誰が使用人になるかは、多くの場合には都市に逃亡してきたのが早いか遅いかできまっていたが、それと同じことである。

しかしこの蝸牛のように緩慢な歩みでは、15世紀末の多数の大発見によって創設された世界市場の貿易上の要求に対処することはできなかっただろう。それでも中世は、資本制的な生産様式の時代が始まる前の時期に資本一般とみなされていた二つの資本形態、すなわち高利貸資本と商人資本を伝えているのであり、これはそれぞれに異なった経済的な社会編成のもとで成熟してきたものである。

 

高利貸資本と商人資本の変容

「現在では社会のすべての富はまず第一に資本家の手にはいる。…彼は土地所有者には地代を、労働者には賃金を、租税および10分の1税徴収者にはその要求額を、支払う。そして、労働の年間生産物のなかの大きな一部分を、実際に最も大きな、そして日に日に大きくなって行く部分を、自分自身のためにとっておく。今では資本家は社会の富の全体の第一番の所有者だとみなしてよい。といっても、この所有の権利を彼に与えた法律があるわけではないが。…所有について起きたこの変化は、資本の利子を取ることによってひき起こされた。…そして、全ヨーロッパの立法者たちが高利禁止法によってこれを阻止しようとしたということは、少なからず注目に値する。…一国のあらゆる富にたいして資本家がもつ権力は、所有権について起きた一つの完全な革命であるが、いったいそれはどんな法律によって、またはどんな一連の諸法律によって、ひき起こされたのか?」この著者は、革命は法律によっては起こされない、と自答すればよかったのだが。

高利と商業とによって形成された貨幣資本は、農村では封建制度によって、都市では同職組合制度によって、産業資本への転化を妨げられた。このような制限は、封建家臣団が解体され、農村民が収奪されてその一部分が追い出されると同時に、なくなった。新しいマニュファクチュアは輸出海港に設けられ、あるいは古い都市やその同職組合制度の支配外にあった田舎の諸地点に設けられた。それゆえ、イギリスでは、これらの新しい工業培養場にたいする自治都市の激しい闘争が起きたのである。

高利貸しと商業によって成立した貨幣資本は、農村では封建制度のために、そして都市では同職組合(ギルド)制度が障害となって産業資本に転化することができませんでした。このような障害は、封建的な主従関係が解体し、農民の財産が収奪され、農村から追い出されることによってなくなりました。そして、輸出港や都市や同職組合の支配が及ばない田舎の土地で、新しいマニュファクチュアが生まれました。イギリスでは、このような土地と古くからの自治都市の間で争いが起こりました。

「現在では社会のすべての富は、まず資本家の手のもとに集まる。…資本家はその富の中から地代を土地所有者に支払い、賃金を労働者に支払い、税金を収税吏に、10分の1税を10分の1税徴税人に支払った後に、年間の労働の生産物の多くの部分、実際には最大の、そして日々増えつつある部分を自分のものにする。今では資本家は社会的な富のすべてを最初に手にする者と考えることができる。資本家にこうした所有権を認めている法律はないのだが。…所有におけるこうした変化は、資本に利子がつくことで発生した。…ヨーロッパのすべての立法者たちが、高利を禁止する法律で、この動きを阻止しようとしたのは奇妙なことである。…国のすべての富にたいして資本家がこのような支配力をもつのは、所有権の完全な革命である。どのような法律によって、あるいはどのような法律の組み合わせによって、この革命は起きたのか」。

この著者はしかし「革命は法律によって起きるものではない」ことを、自分に言い聞かせるべきだったろう。

ただし農村では封建制度のために、都市では同職組合制度のために、高利と商業によって成立した貨幣資本が商業資本に変容するのが妨げられていた。こうした障害は、封建的な主従関係が解体され、農村の住民の財産が収奪され、その一部が農村から追いだされることによって姿を消した。そして海沿いの輸出港や、古い都市やその同職組合制度の力が及ばない郊外の土地に、新しいマニュファクチュアが構成された。そこでイギリスでは、この新しい産業の苗床に対抗する自治都市の激しい闘争が発生したのだった。

 

世界史における本源的蓄積

アメリカの金銀産地の発見、原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没、東インドの征服と略奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらのできごとは資本主義的生産の時代の曙光を特徴づけている。このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのである。これに続いて、全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる。それはスペインからのネーデルランドの離脱によって開始され、イギリスの反ジャパン戦争で巨大な範囲に広がり、シナにたいする阿片戦争などで今なお続いている。

いまや本源的蓄積のいろいろな契機は、多かれ少なかれ時間的な順序をなしてことに、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスのあいだに分配される。イギリスではこれらの契機は17世紀末には植民制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的に総括される。これらの方法は、一部は、残虐きわまる暴力によって行われる。たとえば、植民制度がそうである。しかし、どの方法も、国家権力すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して、封建的生産様式から資本主義的生産様式への転化過程を温室的に促進して過渡期を短縮しようとする。暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだときにはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜在力なのである。

新大陸であるアメリカでの金と銀鉱山の発見による原住民の虐殺と鉱山奴隷への徴発、またインドの制服と略奪、アフリカでの奴隷狩りといったことが、資本主義的生産の時代の始まりを告げるものとなりました。この後、ヨーロッパ各国で地球全体を舞台とした貿易戦争が始まります。それが本源的蓄積の要因となりました。

本源的蓄積のさまざまな局面は、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスの順で各国で起こりました。それらは、組織化され、集中化された社会的な暴力である国家権力を利用して、封建制から資本制的な生産様式への移行を加速的に促進し、移行期間を短縮しようとしました。

アメリカ大陸では、金と銀の資源が発見され、原住民は虐殺されるか、奴隷にされ、鉱山に閉じ込められた。さらに東インドの征服と略奪が始まり、アフリカは黒い肌の人々を狩る商業的な狩猟場と化した。これにともなって資本制的な生産様式の時代の曙が訪れたのである。このような牧歌的なプロセスこそが、原初的な蓄積の主要な要因である。その後、ヨーロッパの諸国民のあいだで、地球全体を戦場とする貿易戦争が始まった。この戦争はネーデルランドがスペインから独立することで始まり、イギリスの反ジャパン戦争で巨大な規模に拡大し、中国とのアヘン戦争などによってさらにつづけられているのである。

原初的な蓄積のさまざまな局面は、多少なりとも時間的な順序にしたがって、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスの順に展開された。イギリスでは17世紀末に、原初的な蓄積のさまざまな局面が体系的に集約され、植民システム、国債システム、近代的な租税システム、保護貿易システムとして現れた。これらの方法は部分的にはきわめて残酷な暴力をともなうものだった。たとえば植民システムがそうである。しかしどの方法も、組織化され、集中化された社会的な暴力である国家権力を利用して、封建制から資本制的な生産様式への移行を加速的に促進し、移行期間を短縮しようとした。古い社会が新しい社会を孕んでいるときには、つねに暴力がその出産の手助けをするのである。暴力そのものが潜在的に、経済的な力なのである。

 

植民システムの蛮行

キリスト教的植民制度については、キリスト教の研究を専門とする人、W・ハウイットは次のように言っている。

「いわゆるキリスト教人種が、世界の至るところで、また自分が隷属させることのできたすべての民族にたいして、演じてきた蛮行と無法な暴行とは、世界史上のどんな時代にも、またどんなに野蛮で無教養で無情で無恥な人種にもとでも、比類のないことである。」

オランダの植民地経営の歴史は─しかもオランダは17世紀の典型的な資本主義国だったのだ─「たぐいまれな、背信と買収と暗殺と卑劣との絵巻を繰り広げている。」オランダがジャワで使う奴隷を手に入れるためにセレベスで用いた人間略奪の制度ほど特徴的なものはない。この目的のために人間どろぼうが訓練された。盗賊や通訳や売り手がこの商売での主役で、土着の王侯が主要な売り手だった。盗まれてきた少年は、成長して奴隷船におくられるようになるまでは、レベスの秘密監獄に隠しておかれた。ある公式の報告書は次のように述べている。

「たとえば、このマカッサルという都市には秘密監獄がいっぱいあって、なかでもとりわけ恐ろしい一つの監獄には、むりやり家庭からもぎ取られて鎖につながれ、貪欲と暴虐との犠牲になった哀れな人々が詰め込まれている。」

マラッカを自分のものとするために、オランダ人はポルトガルの総督を買収した。1641年、総督はオランダ人が市内にはいることを許した。オランダ人はたちまち総督邸に駆けこんで彼を殺しこうして、2万1875ポンドの買収費の支払いを「禁欲」した。彼らが踏み込んだところには、すぐに荒廃と人口減少とが起きた。ジャワの一州パニュワンギは、1750年には8万人以上の住民を数えたが、1811年にはたった8000しかいなかった。うまい商売とはこのことだ!

17世紀オランダの植民地経営は「裏切り、贈賄、謀殺、卑劣さの無比の絵巻物を広げるようなもの」でした。ジャワ島で働かせる奴隷を入手するために、セレベス島で人間の拉致の専門家を置いていました。また、マラッカを制圧するためにポルトガル人の総督を買収して侵入し、その後で彼を殺した。オランダ人が足跡を残したところはすべて荒廃し、過疎地となったといいます。

キリスト教的な植民システムについては、キリスト教を専門に研究するW・ハウイットが次のように語っている。「いわゆるキリスト教的な人類が世界のあらゆる地域で、彼らが征服することのできたあらゆる民族にたいして行った野蛮な行為と、神をも恐れぬ残虐行為は、世界史のいかなる時代にも、どんな野蛮で、無教養で、冷酷で、恥知らずな人種においても例をみないものである」。

17世紀において模範的な資本制的な国だったオランダの植民地経営の歴史は、「裏切り、贈賄、謀殺、卑劣さの無比の絵巻物を広げるようなものである」。ジャワ島で働かせる奴隷を手に入れるために、セレベス島で人間を強奪するためにオランダが作りだしたシステムほど、その特徴を明確に示すものはない。この目的のために人間の拉致を専門とする訓練されていた。この取引において中心的な役割をはたしたのは、盗賊、通訳、人売りであり、現地の王侯が主要な売り手だった。拉致された若者たちはセレベスの秘密の監獄に閉じ込められ、成長してから奴隷的に乗せられた。公式報告は次のように語っている。「たとえばマカッサルの町一つでも、秘密の監獄が多数存在し、そのどれにも鎖につながれ、無理やり家族から引き離された貪欲と暴虐の犠牲者たちが詰め込まれており、悲惨さと恐ろしさでは比べようのないものだった」。

マラッカを制圧するために、オランダ人はポルトガル人の総督を買収した。総督は1641年にオランダ人がマラッカに入るのを許した。オランダ人たちはすぐさま総督の家を強奪し、総督を謀殺し、買収のために約束されていた2万1875ポンドの費用を「節制」したのだった。オランダ人が足跡を残したところはすべて荒廃し、過疎地となった。ジャワ島の一つの州であるパニュワンギ州には1750年に8万人以上の住民がいたが、1811年にはわずか8000人に減っていた。これが「穏やかな取引」と呼ばれるものの正体だった。

 

インドにおけるイギリス

人も知るように、イギリス東インド会社は、東インドでの政治的支配権のほかに、茶貿易でも貿易一般でも、またヨーロッパとのあいだの貨物輸送でも排他的独占権を与えられていた。しかし、インドの沿岸航海と島嶼間の航海とインド内地の商業とは、会社の高級職員の独占となった。塩や阿片やきんまやその他の商品の独占は、いくら掘っても尽きない富の山だった。職員たちは自分かってに価値を定めて、不幸なインド人から思うままにしぼり取った。総督もこの私的な取引の仲間にはいった。彼の気に入った人々は、錬金術師よりももっとうまく無から金がつくれるような条件で契約を与えられた。大きな財産がきのこのように1日でできあがり、本源的蓄積は1シリングの前貸しも必要としないで進行した。ウォレン・ヘースティングスの裁判にはこのような実例がうようよ出てくる。その一つがここにある。ある阿片契約がサリヴァンという男に与えられるが、ちょうどそのとき彼は阿片地帯からは遠く離れたインドのある地方に─公務で─旅立とうとしている。サリヴァンはこの契約を4万ポンドでピンという男に売り、同じ日にピンはそれを6万ポンドで売り、そして、契約の最後の買い手が実行者になった男の明言しているところでは、彼はそのあとでもなお莫大な利益を取り出したのである。議会に提出された表によれば、この会社とその職員たちは、1757年から1766年までインド人から600万ポンドを自分たちに贈与させた!1769年から1770年にかけて、イギリス人たちは、米を買い占めて法外の価格でなければ転売を拒絶するというやり方で、飢餓を製造したのである。

イギリスも負けてはいません。国策会社である東インド会社は、東インドを政治的に支配するだけでなく、紅茶と中国貿易全般の排泄的な独占権と、東インドとヨーロッパの通商の排他的な独占権を所有していました。インドの沿岸と島嶼のあいだの船舶航行権とインド国内の交易権は、東インド会社の上級職員の独占権でした。

イギリスの東インド会社は周知のように、東インドを政治的に支配するだけでなく、紅茶と中国貿易全般の排泄的な独占権と、東インドとヨーロッパの通商の排他的な独占権を所有していた。しかしインドの沿岸と島嶼のあいだの船舶航行権とインド国内の交易権は、東インド会社の上級職員の独占権であった。塩、アヘン、〔葉煙草の〕キンマなどの商品の独占権は、尽きることのない富の源泉だった。上級職員たちは自分で値段をつけて、哀れなインド人から好きなように絞りとった。

総督もこの私的な交易に加わっていた。総督のお気に入りになれば、きわめて有利な条件のもとで契約を結ぶことができ、錬金術師よりも巧みに、無から金を作りだすことができた。巨大な富が茸のように1日で生みだされた。1文もあらかじめ投資せずに、原初的な蓄積が行われたのである。

〔イギリス領インドの初代総督の〕ウォレン・ヘイスティングを訴追した法廷の論告にはこのような例が山積みになっているが、その一例を挙げておこう。サリヴァンという者が、阿片の取引契約を結ぶことを認められた。それも、この人物が公務で、阿片の生産地域とはかけ離れた地区に出張しようとする当日のことである。サリヴァンはこの契約をピンという者に4万ポンドで売却した。ピンはこの契約をその日のうちに6万ポンドで転売した。この契約を最後に買って、取引を実行した人物は、後に巨万の富をえたと明言している。

議会に提出されたリストによると東インド会社とその職員たちは、1757年から1766年までに、インド人から600万ポンドもせしめている。1769年から1770年にかけて、イギリス人はすべての米を買い上げて、法外な値段を払わない限り売却しなかったために、飢餓を引き起こしたのだった。

 

キリスト教と植民

原住民の取扱いが最も狂暴だったのは、もちろん、西インドのように輸出貿易だけを使命とした栽培植民地であり、メキシコや東インドのように豊かな富と稠密な人口をもちながら強盗殺の手に任されていた国々だった。とはいえ、本来の植民地でも、本源的蓄積のキリスト教的性格は争われないものがあった。あの謹厳なプロテスタントの先達、ニュー・イングランドの清教徒も、1703年には彼らの州議会の決議によって、インディアンの頭の皮1枚または捕虜1人につき40ポンドの賞金をかけ、1720年には頭の皮1枚に100ポンドの賞金をかけ、1744年、マサチューセッツ・ベーがある一つの種族を反徒と宣言してからは、次のような賞金をかけた。12歳以上の男の頭の皮には新通貨100ポンド、男の捕虜には105ポンド、女と子供の捕虜には50ポンド、女と子供の頭の皮には50ポンド!それから数十年の後に、この植民制度は、その間に反逆者になった敬虔なピルグリム・ファザーズの子孫に仕返しを下。彼らは、イギリス人にそそのかされて報酬をもらっていた土人の斧で殺された。イギリス議会は、血の犬〔殺人狂〕と頭の皮はぎとは「神と自然からわが手に与えられた手段」だと宣言した。

原住民の扱いにもっとも容赦がなかったのが、カリブ海の西インド諸島のプランテーションやメキシコ、インドのような人口密度の高い地域でした。それ以上に北アメリカでは先住民であるインディオの頭皮に懸賞金をかけて、大殺戮を行いました。イギリス議会は、それを「神と自然が与えた手段」と宣言したのでした。

原住民の扱い方がもっとも狂暴だったのはもちろん、西インドのような輸出貿易だけを目的としたプランテーションと、メキシコや東インドのように、豊かで人口密度の高い地域で強奪や殺人が横行したところだった。それでも〔北アメリカなどの〕ほんらいの植民地でも、原初的なキリスト教的な性格は否定できない。

かの冷静で卓越したプロテスタントであるニューイングランドのピューリタンたちは、1703年の州議会の決議において、インディアンの頭皮1枚、あるいは捕虜にしたインディアン1人あたりに40ポンドの賞金をだすことを決議しているし、1720年には特定の種族が反逆者と宣言された後に、12歳以上の男の頭皮に新通貨100ポンド、男の捕虜に105ポンド、女性と子供の捕虜に50ポンドの懸賞金をかけ、さらに女性と子供の頭皮にも50ポンドの懸賞金をかけた。

やがて数十年後に、この敬虔なピルグリム・ファザーズの子供たちが〔アメリカ独立の〕謀反を起こすと、この植民システムが復讐を遂げることになる。彼らはイギリスによって教唆され、買収されたインディアンたちの斧の餌食になったのだった。イギリス議会はこの血の犬〔殺害首〕や頭皮を剥ぐ者は、「神と自然が与えた手段」であると宣言したのである。

 

植民システムと貿易

植民制度は商業と航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本集積の強力な槓杆だっさた。植民地は、成長するマニュファクチュアのために販売市場を保証し、市場独占によって増進された蓄積を保証した。ヨーロッパの外で直接に略奪や奴隷化や強奪殺人によってぶんどられた財宝は、本国に流れこんで、そこで資本に転化した。植民制度を十分に発達させた最初の国オランダは、1648年にはすでに商業の盛大さの頂点に立っていた。

オランダは

「東インド貿易をもヨーロッパ南西部と北東部とのあいだの交通をもほとんど独占的に握っていた。その漁業や海運やマニュファクチュアは、他のどの国のそれにもまさっていた。この共和国の資本は、おそらく他のヨーロッパ諸国の資本を全部合わせたよりも大きかったであろう。」

ギューリヒがつけ加えるのを忘れているのは、オランダの民衆は1648年にはすでに他のすべてのヨーロッパ諸国の民衆よりももっとひどく過度労働と貧困と残酷な抑圧のもとにあったということである。

今日では産業覇権が商業覇権を伴ってゆく。これに反して、本来のマニュファクチュア時代には商業覇権が産業上の優勢を与えるのである。それだからこそ、当時は植民制度が主要な役割を演じたのである。植民制度は「異国の神」だったのであって、この神はヨーロッパの古い神々と並んで祭壇に立っていたのであるが、それがある日これらの神々を一撃のもとに残らず葬り去ったのである。それは、利殖を人類の最後の唯一の目的として宣言したのである。

植民システムは貿易と開運を急速に成長させました。成長しているマニュファクチュアにとって植民地は、商品を売るための市場で、他国との競争がなく市場を独占できたことによって富の蓄積をやりやすくなりました。ヨーロッパ以外の地での略奪によって獲得した富は本国に集められ、そこで資本に転化しました。このような植民システムを最初に整備したオランダは、17世紀半ば、貿易大国として繁栄の頂点に立ちます。他方で、この時のオランダの民衆は、他のヨーロッパの国よりも過酷な長時間労働と貧困と抑圧に苦しめられていた。

資本主義が成立した社会では産業の優位が貿易の優位をもたらしますが、マニュファクチュアの時代には、その反対に、貿易の優位が産業の優位をもたらしたのでした。そこでは植民システムが重要な役割を果たしていました。

植民システムは貿易と海運を急速に成熟させた。「独占会社」(ルターの言葉だ)は、資本の集中の強力な梃子として働いた。成長途上のマニュファクチュアにとって植民地は、商品を販売するための市場となり、市場を独占できたので資本の集中を強力に保証するものとなった。ヨーロッパの外での略奪、住民の奴隷化、強奪殺人によって直接に獲得した富は母国に戻ってきて、そこで資本に変容した。植民システムを最初に完全な形で発展させた国であるオランダは、1648年にはすでに貿易大国として頂点に立っていた。オランダは「東インド貿易と、南西ヨーロッパと北東ヨーロッパのあいだの交易をほぼ独占していた。オランダの漁業、海運、マニュファクチュアは、他のどの国よりも優れていた。オランダ共和国の資本は、他のヨーロッパ諸国の資本のすべてを合計した金額よりも多かったかもしれない」。

こう指摘しているギューリヒは、次のようにつけ加えるのを忘れていた。オランダの民衆は1648年の時点ですでに、他のどのヨーロッパ諸国の民衆よりも過酷な超過労働と貧困と残酷な抑止に苦しめられていたのである。

今日では、産業における優位が、貿易における優位をもたらすが、ほんらいのマニュファクチュアの時代には反対に、貿易における優位が産業における優位をもたらした。そのため当時は、植民システムが重要な役割をはたしていた。植民システムはいわば「異国の神」として、ヨーロッパの古き神々の像とともに祭壇に祭られた。そしてある日、この異国の神が古き邪神像を一撃で祭壇の外に放りだしてしまったのである。この神は、利殖こそが人類の唯一の究極の目的であることを宣言したのだ。

 

国債システム

公信制度すなわち国債制度の起源を、われわれはジェノヴァやヴェネツィアではすでに中世に見いだすのであるが、それはマニュファクチュア時代には全ヨーロッパに普及していた。植民制度は、それに伴う海上貿易や商業戦争とともに、国債制度の温室として役だった。こうして、制度はまずオランダで確立された。国債、すなわち国家─専制国であろうと立憲国であろうと共和国であろうと─の譲渡は、資本主義時代に極印を押す。いわゆる国富のうちで現実に近代的国民の全体的所有にはいる唯一の部分─それは彼らの国債である。それゆえ、ある国民の負債が大きければ大きいほどますますその国民の富は大きくなるという近代的学説は、まったく当然なものである。公信用は資本の信条になる。そして、国債制度の成立とともに、けっして赦されない聖霊にたいする罪に代わって、国債にたいする不信の罪が現われるのである。

公債は本源的蓄積のもっとも力強い槓杆の一つになる。それは、魔法の杖で打つかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、しかもそのさいこの貨幣は、産業投資にも高利貸的投資にさえもつきものの骨折りや冒険をする必要がないのである。国家の債権者は現実にはなにも与えもしない。というのは、貸し付けた金額は、容易に譲渡されうる公債証券に転化され、それはまるでそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手のなかで機能を続けるからである。しかし、このようにしてつくりだされる有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役を演ずる金融業者たちの既製の富は別としても─また、いつでも国債のかなりの部分を天から降ってくる資本として利用する徴税請負人や商人や私的工場主の即製の富は別にしても─国債は、株式会社や各種有価証券の取引や株式売買を、一口に言えば、証券投機と近代的銀行支配とを、興隆させたのである。

国立という肩書をつけた大銀行は、その出生の当初から、ただ私的投機業者たちの会社でしかなかったのであって、彼らは政府と肩を並べ、また与えられた特権のおかげで政府に貨幣を前貸しすることができたのである。だから、国債の蓄積の測定器としては、このような銀行の株式の継続的騰貴よりも確かなものではないのであるが、これらの銀行の十分な発達はイングランド銀行の創立(1694年)に始まるのである。イングランド銀行は、自分の貨幣を8%の利率で政府に貸し上げることから始めた。同時に、この銀行は、同じ資本を貨幣に鋳造する権限を議会によって与えられた。というのは、この銀行はこの資本をもう一度銀行券という形で公衆に貸し付けたからである。イングランド銀行はこの銀行券を用いて手形を割り引くこと、商品担保貸付をすること、貴金属を買い入れることを許された。まもなく、この銀行自身によって製造されたこの信用貨幣は鋳貨となり、この鋳貨でイングランド銀行は国への貸付をし、国の計算で公債の利子を支払った。この銀行は片方の手で与えておいて片方の手でより多くを取り返しただけではなく、それは、また、取り返していたあいだも、与えた最後の1銭に至るまで相変わらず国民の永久の債権者だった。それは、だんだんにこの国の畜蔵金属のなくてはならない貯蔵所になり、すべての商業信用の重心になってきた。イギリスでは、魔法使い女を火あぶりの刑にすることをやめたのと同じときに、銀行券偽造者を絞首刑にすることが始まった。このような銀行貴族や金融業者や金利生活者や仲買人や株式取引人や証券投機師などのやからが突然出現したということが、当時の人々にどんな影響を与えたかは、当時のいろいろな著書、たとえばボリングブルクの著書によって示されている。

国債とともに国際的な信用制度も発生したが、それはしばしばあれこれの国民のもとで本源的蓄積の隠れた源泉の一つになっている。たとえば、ヴェネツィアの略奪制度のいろいろな卑劣行為は、滅びゆくヴェネツィアから巨額の貨幣を借りていたオランダにとっては、その資本的富のこのような隠れた基礎になっている。同じ関係はオランダとイギリスとのあいだにもある。すでに18世紀の初めには、オランダのマニュファクチュアははるかに追い越されて、オランダは支配的な商工業国ではなくなってきた。それゆえ、1701〜1776年のオランダの主要事業の一つは、巨大な資本の貸出し、ことに自分の強大な競争者であるイギリスへの貸出しになるのである。同様なことは、今日ではイギリスと合衆国との関係についても言える。今日合衆国で出生証書をもたずに現われる多くの資本は、やっと昨日イギリスで資本化されたばかりの子供の血なのである。

国債は国庫収入を後ろだてにするものであって、この国債収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかし、その結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも、新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段に対する課税(したがってその騰貴)を回転軸とかる近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の箴言のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし、…これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。しかし、ここでわれわれに関係があるのは、この制度が賃金労働者の状態に及ぼす破壊的な影響よりも、むしろ、この制度によって行われる農民や手工業の、要するに小さな中産階級の、すべての構成部分の暴力的収奪である。この点については意見の相違は少しもない。それはブルジョワ経済学者のあいだにさえもない。この制度の収奪的効果は、保護貿易主義によっていっそう強められるのであって、保護貿易制度はこの租税制度の不可欠な構成部分の一つなのである。

植民システムのもとで国債というシステムが大きく発展しました。国債とは、国家を売却するのと同じことで、その価格は国家が強力であれば価値の高いものとなります。それゆえ、国民の負債である国債が多ければ多いほど、その国民の富は大きくなるというわけです。

国債は本源的蓄積を力強く後押ししました。それ自体では生産に寄与しない貨幣に動きを与え、資本への転化を促しました。じっさい産業への投資に付きまとっていた管理の手間やリスクもかからなくするのです。国債の所有者は、実際には支払をするわけではなく、購入した国債と同額の証書が発行され、この証券は有価証券として他人に譲渡することができるので、現金と同じように流通するのです。これによって金利生活者という階級が出現し、国債を発行する政府と、それを買う国民との間を仲介する金融業者に手数料という収入をもたらしました。このように有価証券の取引が活発になると、同じ有価証券である株式の取引も活発なり、株式投資や近代的な金融機関の制度が、これによって整備されていくことになりました。

国立銀行は政府と同列の地位を与えられ、政府に貨幣を前貸しすることができました。だから、国債がどれだけ蓄積されているかを示す尺度となるのが、この銀行の株価が高いところにあるという事実です。イングランド銀行は、当初、政府に8%の金利で貸し付けをしました。国立現行は貨幣や銀行券といった通貨を発行できる特権を認められていました。この銀行券を使って手形割引を行ったり、商品を担保にした貸付をすることができました。

この銀行は、いわば片方の手で与え、もう片方の手で受け取るというものです。それだけではなく、イングランド銀行は国民の債権者あり続けるものです。次第にイングランド銀行は国が蓄蔵する金銀の所有者となり、すべての商売の支払いに信用を与えるものとなりました。

国債とともに国際的な信用システムが出現しました。このシステムは各国の本源的蓄積の隠れた源となりました。たとえば、ヴェネツィアの略奪制度のいろいろな卑劣行為は、滅びゆくヴェネツィアから巨額の貨幣を借りていたオランダにとっては、その資本的富のこのような隠れた基礎になっているのでした。

国債の裏付けとなるのは国庫の収入であり、その収入から国債の毎年の利払いと満期の償還の支払いがあるので、それを保証しなければなりません。そのために近代的な租税制度が必要となります。国債を発行することで、政府は特別な支出をまかなうことができますが、納税者はその時は増税にはなりません。しかし、国債が償還されるときは、その支払いに税金が使われるので、後々増税ということになります。それが進むと、政府は必要な増税がやりにくくなり、特別な出費に際しては国債の発行に頼るようになってしまいます。

近代的な財政で収入を確保するために、生活必需品への課税が行われました。これによって生活必需品の価格の高騰を招き、賃金労働者の生活に大きな負担を与えることになりました。この制度は農民や手工業など、小中産階級を構成するすべての人々の財産を暴力的に収奪することになりました。

公的な信用、すなわち国債システムは、すでに中世のジェノヴァとヴェネツィアにその起源をみいだすことができるが、マニュファクチュア時代をつうじて、ヨーロッパ全土を席巻した。植民システムは、海上貿易と貿易戦争によって、国債システムを温室のように促成栽培した。このシステムはまずオランダで定着した。国債とは、専制国家であれ、共和国であれ、国家を売却することであり、このシステムが資本制の時代の相貌をきめることになった。いわゆる国富のうちで、現実に現代の国民全体の所有となる唯一の部分は、この国債なのである。

そこで、国民の負債が多ければ多いほど、その国民の富は大きくなるという近代の経済学の教義が生まれたのはまったく首尾一貫したことなのである。公的な信用は資本の信条となった。そして国債制度が成立するとともに、いかなる赦しも認められない聖霊への罪の代わりに、国債の支払い不履行の罪が生まれたのである。

公的債務は、原初的な蓄積のもっとも力強い梃子となった。公的債務は魔法の杖のように、非生産的な貨幣に生殖力を与え、このようにして貨幣を資本に変容させる。そして産業への投資や高利貸の投資につきまとっていた管理の手間もリスクもなしですませることができるのである。国家への債権者は、実際にはいかなる支払いもしない。購入した国債と同額の公債証券が発行され、この証券はすぐに譲渡できるので、手元にある現金とまったく同じように同じように機能するからである。

このようにして怠惰な金利生活者の階級が誕生し、政府と国民のあいだを仲介する金融業者の成金の富が生まれる。さらにどんな国債でも、その一部は徴税請負業者、商人、民間企業の経営者たちには天から降ってきた資本として役だち、そこにも成金の富が生まれる。それは別としても、この国債が株式会社を、すべての種類の有価証券の取引を、株式取引業者を生みだした。すなわち株式投機と近代的な銀行制度は、この国債の産物なのである。

国立という肩書のある大銀行はその誕生の日から、民間の投機家たちの企業であった。大銀行は政府と同列の地位を占め、認められた特権によって、政府に貨幣を前貸しすることができた。だから国債がどれほど蓄積されているかを示す確実な尺度となるのが、こうした大銀行の株価がたえず騰貴しているという事実である。こうした大銀行が完全に発展したのは、イングランド銀行の創設(1694年)の時期である。

創設されるとともにイングランド銀行は、政府に8%の金利で自行の貨幣を貸し始めた。同時にイングランド銀行は、同じ資本を貨幣に鋳造し、これを銀行券の形で公衆に貸し与える権利を議会から認められた。この銀行券を使って手形を割引し、商品を担保に金を貸しつけ、貴金属を購入することが許された。やがて銀行がみずから発行した信用貨幣が通貨になり、イングランド銀行はこれを使って国家に貸しつけを行い、国家の代わりに国債の利子を支払うようになった。

この銀行はいわば片方の手で与え、もう一つの手で与えたよりも多くを受けとるのである。それだけではない。イングランド銀行は受け取りながら、最後の1銭にいたるまで国民の永遠の債権者でありつづけるのである。次第にイングランド銀行が国家の退蔵する金属の所有者となるのは避けがたいことであり、やがてはすべての商業的な信用の引力の中心となった。

イギリスで魔女を火炙りにしなくなったのと同じ時期に、銀行券を偽造した者の首吊りが始まった。このようにしてにわかに、銀行貴族、金融業者、金利生活者、仲買人、株屋、証券の投機師たちの一群が登場した。それが同時代の人々にどのような印象を与えたかは、当時書かれた文章が示している。たとえばボリングブルックの書物などを参照されたい。

国債とともに国際的な信用システムが登場した。このシステムは個々の民族の原初的な蓄積の隠れた源泉となることが多かった。たとえばヴェネツィアの卑劣な略奪システムが、オランダの資本の豊かさの隠れた土台となるというぐあいである。没落したヴェネツィアは巨大な額をオランダに貸しつけていたのである。オランダとイギリスの関係にも同じことが言える。18世紀の初めにはすでにオランダのマニュファクチュアはイギリスにはるかに凌駕されており、オランダはもはや支配的な貿易国家でも、産業国家でもなくなっていた。そのため1701年から1776年までのオランダの中心的な事業の一つは、資本の貸しつけであり、特に、強力なライバルであるイギリスに巨額の資本を貸しつけることだった。現在のイギリスとアメリカの関係についても同じことが言える。今日のアメリカ合衆国で、出生証明書のないままに現れる資本の多くは、昨日イギリスで資本に変えられた子供の血なのである。

国債の裏づけとなるのは国庫収入であり、これで国債の毎年の利子と償還を保証しなければならない。そこで近代的な租税システムが、国債システムを補うために必要不可欠となる。国債を発行することで政府は特別な支出をまかなうことができる。その際に納税者はすぐには何も感じることはないが、その帰結として増税が必要になる。他方では次々と借り入れた国債が累積していくとまた増税が必要となり、そのため政府は新たな特別支出を行う際にはいつも、ふたたび国債を発行せざるをえなくなる。

近代的な財政の基軸となるのは、生活必需品への課税であり(その結果として生活必需品の価格が高騰する)、そのために近代的な財政はみずからのうちで自動的に累進していく萌芽をそなえているのである。過大な課税は偶発的な出来事ではなく、むしろその原則である。この租税システムが最初に定着したオランダで、偉大な愛国者であったデ・ウィットが、彼のモットーにおいて、国債こそ賃金労働者を従順にし、質素にし、勤勉にし、…そして過剰なまでの労働を負わせるための最善の手段であると称賛しているのもそのためである。

しかしここでわたしたちが注目したいのは、この租税システムが賃金労働者の生活に破壊的な影響を及ぼすという事実よりも、むしろこのシステムが農民を手工業など、小中産階級を構成するすべての人々の財産を暴力的に収奪するという事実である。これについてはブルジョワ経済学者のあいだにも、いかなる意見の違いはない。この租税システムの不可欠な構成要素である保護貿易主義によって、この財産の収奪効果はさらに激しいものとなったのである。

 

保護貿易主義

富の資本化と民衆の収奪とにさいして公債やそれに対応する財政制度にかかってくる大きな役割は、コペットやダブルデーやその他多くの著者たちに、近代諸国民の貧困の根本原因をここに求めるという誤りを犯させることになった。

保護貿易制度は、製造業者を製造し、独立労働者を収奪し、国民の生産手段と生活手段を資本化し、古風な生産様式から近代的生産様式への移行を強行的に短縮するための、人工的な手段だった。ヨーロッパ諸国は先を争ってこの発明の特許を取ろうとし、そしてひとたび利殖家に奉仕するようになってからは、間接には保護関税により、直接には輸出奨励金などによって、この目的のためにただ単に自国民からしぼり取っただけでしなかった。属領ではあらゆる産業が、暴力的に根こそぎにされた。たとえば、アイルランドの羊毛工業がイングランドによってそうされたように。ヨーロッパ大陸ではコルベールの先例にならってこの過程はもっとずっと単純化された。産業家の本源的資本はここでは一部分は直接に国庫から流れ出てくる。

ミラボーは叫ぶ、「7年戦争前のザクセンの工業の繁栄の原因を、なぜそんなに遠くに求めようとするのだろうか?それは1億8000万の国債だ!」と。

保護貿易の制度は、製造業者を育成し、労働者を収奪して賃金労働者にし、生産手段と生活手段を資本化して、旧式の生産様式から新しい近代的な生産様式に移行する期間を強制的に短縮する手段でした。ヨーロッパ各国は競ってこの制度を採用しました。各国は、間接的には保護関税によって、直接的には輸出奨励金によって、自国の国民から利益を搾り取ったのでした。それだけでなく、イギリスがアイルランドの毛織物業を壊滅させたように、十属関係にある近隣諸国の産業を犠牲にしたのです。大陸では産業家の原初的な資本の一部が、国家財政から直接に供給されたのです。

国債とそれに対応した財政システムが、富の資本化と大衆の収奪に大きな役割をはたしているたに、コペットやダブルデーなどの多くの著述家は、近代の国民が悲惨な状態に置かれている主要な原因が、国債と財政システムのもとにあると考えているが、これは間違いである。

保護貿易システムは、工場主を作りだし、独立した労働者を収奪し、国民の生産手段と生活手段を資本化し、古めかしい生産様式から近代的な生産様式に移行する期間を暴力的に短縮するための人為的な手段である。ヨーロッパ諸国はまるで特許でもとるかのように、この発明を独占しようと争い、利殖家に奉仕するようになった。そして間接的には保護関税によって、直接的には輸出奨励金によって、利殖家たちの利益のために、自国の国民を略奪したのである。それだけではなく、イギリスがアイルランドの羊毛マニュファクチュアを破壊したように、従属関係にある近隣諸国のすべての産業が、暴力的に根絶されるのである。ヨーロッパ大陸では、コルベールのやり方にならって、このプロセスははるかに単純に進められた。大陸では産業家の原初的な資本の一部が、国家財政から直接に供給されたのである。ミラボーは、「7年戦争前のザクセンにおけるマニュファクチュアの隆盛の原因を遠くに求める必要があるだろうか。それは1億8000万の国債の発行にあるのだ!」と叫んでいる。

 

児童略奪

植民制度、国債、重税、保護貿易、商業戦争、等々、これらの、本来のマニュファクチュア時代に生まれた若芽は、大工業の幼年期には巨大に成長する。大工業の誕生は、大仕掛けなヘロデ王的児童略奪によって祝福される。海軍と同じように、工場も強制徴募によって新兵を補給する。サー・F・M・イーデンは、15世紀の最後の3分の1期から彼の時代すなわち18世紀末までの農村民からの土地収奪の残酷さを飽きるほど味わっており、また、資本主義的農業を確立して「耕地と牧場との正しい割合を設定する」ために「必要な」この過程を十分な自己満足をもって祝っているにもかかわらず、マニュファクチュア経営を工場経営に転化させて資本と労働力とのあいだの正しい割合を設定するための児童略奪や児童奴隷制の必要については、同様な経済学的認識を示してはいないのである。彼は次のように言う。

「経営の成果をあげるために小屋や救貧院から貧民の子供を取り上げてきて、幾組にも分けて交替させながら夜間の大部分をつうじて酷使し、休息時間を取り上げなければならないようなマニュファクチュア、そのうえに年齢も性癖も違う多数の男女を寄せ集めて実例によって堕落や不品行に感染せざるをえないようにするマニュファクチュア─このようなマニュファクチュアが国民や個人の幸福の総和をふやすことができるかどうかは、おそらく公衆の考慮に値することであろう。」フィールドデンも次のように言っている。「ダービーシャやノッティンガムシャ、またことにランカシャでは、最近発明された機械が、水車を回すことのできる流水に接している大工場で使用された。都市から遠く離れたこれらの地で、にわかに何千もの人手が必要になった。そして、ことに当時まで比較的人口が希薄で子供ができなかったランカシャは、今ではなによりもまず人口を必要とした。小さくて器用な指がなによりも必要だった。すぐにに、ロンドンやバーミンガムやその他あちこちの教区救貧院から徒弟(!)をつれてくる習慣ができあがった。こうして、7歳から13歳か14歳までのこれらの小さな寄る辺ない生きものが幾千となく北方に送り出された。自分の徒弟に衣食を与えて工場に近い『徒弟小屋』に泊らせることは雇い主(すなわち子供盗人)の習慣だった。彼らの労働を監視するために、監督が置かれた。子供たちを極度に酷使することはこれらの奴隷監督の利益になった。なぜならば、彼らの給料は子供からしぼり出すことのできた生産物量に比例していたからである。残酷は当然の結果だった。…多くの工場地帯、ことにランカシャでは、工場主の手に任されたこれらの無邪気で孤独な子供たちに残酷きわまる責め苦が加えられた。彼らは死にかかるまで過激な労働に追いまわされた。…彼らはえりにえった残酷なやり方でむち打たれ、縛られ、責められた。…彼には骨まで飢えながらむちで労働を強いられることが多かった。…じつに、ときには自殺に追いやられることさえもあった!…ダービーシャやノッティンガムシャやランカシャの人里離れた美しいロマンティックな渓谷も、責め苦の─そしてしばしば殺人の─ものすごく荒れ果てた土地になった。…工場主たちの利潤は莫大だった。彼らは『夜業』という慣行を始めた。すなわち、一組の労働者を昼間の作業でくたくたに疲れさせたあとには、夜間作業のために別の一組を用意していた。昼間組は夜間組がいま出たばかりの寝床にはいり、またその反対に昼間組が出たあとに夜間組がはいった。寝床の冷えるまもない、とはランカシャの言い伝えである。」

マニュファクチュア時代に資本主義的生産が発展してくるにつれて、ヨーロッパの世論は恥の羞恥心の最後の残り物をも失ってしまった。諸国民は、資本蓄積の手段としてのあらゆる非行を露骨に自慢した。たとえば、正直者A・アンダソンの素朴な商業年代記を読んでみるがよい。そこでは、イギリスがそれまではアフリカと英領西インドとのあいだだけで営んでいた黒人貿易を今後はアフリカとスペイン領アメリカとのあいだで営むことができるという特権を、ユトレヒトの講和でアシエント協約によってスペイン人に強引に認めさせたということが、イギリスの国策の勝利として大げさに吹聴されている。イギリスは、1743年まで毎年4800人の黒人をスペイン領アメリカに供給する権利を手に入れた。これは同時にイギリスの密貿易を公認のものとみせかける仮面を与えた。リヴァプールは奴隷貿易の基礎の上で大きく成長した。奴隷貿易は、本源的蓄積のリヴァプール的方法をなしている。そして、今日に至るまでリヴァプールの「声望」は、引き続き奴隷貿易のピンダロスだったのであって、この奴隷貿易は─前に引用した1795年のドクター・エイキンの著書を参照せよ─「商業的企業精神を情熱にまで高め、りっぱな海員船乗りを育成し、莫大な貨幣をもたらす」と言われるのである。リヴァプールが奴隷貿易に使用した船は、1730年には15隻だったが、1751年には53隻、1760年には74隻、1770年には96隻、1792年には132隻だった。

綿工業はイギリスに児童奴隷制をもちこんだが、それは同時に、合衆国の以前は多かれ少なかれ家父長制的だった奴隷経済を商業的搾取制度に転化させるための原動力をも与えた。一般に、ヨーロッパでの隠された奴隷制は、新世界での文句なしの奴隷制を脚台として必要としたのである。

資本主義的生産様式の「永久的自然法則」を解き放ち、労働者と労働諸条件との分離過程を完成し、一方の極では社会の生産手段と生活手段を資本に転化させ、反対の極では民衆を賃金労働者に、自由な「労働貧民」こ、この近代史の作品に、転化させるということは、こんなにも骨の折れることだったのである。もしも貨幣は、オジェの言うように、「ほおに血のあざをつけてこの世に生まれてくる」のだとすれば、資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。

植民制度、国債、重税、保護貿易、商業戦争といったマニュファクチュアの時代に生まれたシステムは、大工業時代の初期に大規模になりました。その一環として大規模な児童収奪が繰り返されました。それにより海軍では新兵の補充にあてられ、マニュファクチュア経営を工場経営に転換させ、資本と労働力の正しい関係を作りだすためには、児童の略奪と児童の奴隷化が必要であったと考えられます。

急増する労働者の需要をまかなうために児童が駆り出されたのと、機械には子供の小さくて器用な手が求められたこと、低賃金でこき使うことが容易だったからと考えられます。

綿工業はイギリスに児童奴隷制をもちこんだが、それは同時に、合衆国の以前は多かれ少なかれ家父長制的だった奴隷経済を商業的搾取制度に転化させるための原動力をも与えたのでした。一般に、ヨーロッパでの隠された奴隷制は、アメリカ大陸では文句なしの奴隷制を脚台として必要としたのでした。イギリスは奴隷貿易で繁栄した。奴隷貿易は、リヴァプールといったイギリスの貿易港では原初的な蓄積の方法となりました。

植民、国債、重税、保護貿易主義、貿易戦争など、ほんらいのマニュファクチュア時代に生まれたこれらのシステムは、大工業時代の幼年期には巨大な規模に膨れあがってくる。大工業の誕生を祝ったのは、ヘロデ王のやったような幼児の略奪をさらに大規模に繰り返すことだった。王国の海軍と同じように工場も、強制的な徴募によって新兵が補給された。15世紀の最後の3分の1期から18世紀末までに農村の住民から残酷な土地の収奪が行われたが、F・M・イーデン卿は、彼の時代に行われたこうした収奪にご満悦であり、同時にこのプロセスは、資本制的な農業を作りだし、「農地と牧草地の正しい比率を生みだす」ためには「必然的な」ものだったと高慢にも称賛する。しかし彼は、マニュファクチュア経営を工場経営に転換させ、資本と労働力の正しい関係を作りだすためには、児童の略奪と児童の奴隷化が必要であったことには、経済学のまなざしとは違う認識を示している。彼はこう語る。

「もしもマニュファクチュアというものが成功するためには、小屋や救貧院から貧しい子供たちを略奪して、兵隊のように隊を組ませて交替させながら、休む暇もなく夜中の遅くまでつらい仕事をさせていなければならないのであれば、そしてもしもマニュファクチュアというものが、さまざまな年齢層のさまざまな性格の男女を集めて、放埓と堕落の模範を示すようなものであるならば、それが国民の幸福と個人の幸福を全体として増大させるのであるかどうか、公衆はよく考えてみるべきだろう」。

またフィールドデンは次のように述べている。「ダービーシャー、ノッティンガムシャー、とくにランカシャーでは、水車を回すことのできる川の近くに建設された工場に、最近発明された機械装置が設置された。そして都市から遠く離れたこの場所で、数千人の人手が急に必要になった。とくにこれまでかなり人口が少なく、出生率が低かったランカシャーで、多数の人手が必要とされるようになった。何よりも求められているのが、小さくて器用な指である。するとたちどころにロンドン、バーミンガムなどのさまざまな教区の教区の救貧院から、徒弟と称して(!)、子供たちを集める習慣が生まれた。7歳から14歳までの小さな寄る辺ない児童が何千人も、北に向けて送りだされた。親方たちは(すなわち児童泥棒たちということだ─マルクス)、徒弟たちに衣服をあてがい、食事を与え、工場の近くの〈徒弟小屋〉に住まわせるのを習慣としていた。彼らの仕事を見張るために監督が雇われた。こうした奴隷監督にとっては、児童を極限までこき使うことが自分の利益になった。給料は、児童から絞りとることができた生産物の量に比例していたからである。残虐な行為が行われるのは当然の結果だった。…多くの工場地区、とくにランカシャーでは、工場主のもとに送りとどけられたこれらの罪もない孤独な子供たちに、みるだけで心が引き裂かれるような責め苦が加えられた。過労で死に追いやられたのである。…子供たちは鞭で打たれ、鎖でつながれ、工夫された選り抜きの残酷な手段で拷問が加えられた。飢えて骨と皮だけになるほどにやせ細っても、鞭で仕事につかされた。…それどころか、自殺に追いやられた子供たちもいる。…ダービーシャー、ノッティンガムシャー、ランカシャーの人里離れた美しいロマンティックな渓谷は、世間の目がとどかない僻地にあって、責め苦と、時には殺人の身の毛のよだつ荒れ野となった。…工場主たちの利潤は巨額だった。そのために、彼らの狼のごとき貪欲さはさらに鋭いものとなった。彼らは〈夜間労働〉をやらせたのである。つまり昼間に、一つの班に手が痺れるほど働かせた後で、別の班に夜の仕事の準備をさせておいた。そして昼間の班の子供たちは、夜の班の子供たちが起きてきたばかりのベッドに潜りこむのである。次はその逆になる。ランカシャーの民衆の伝えるところでは、ベッドは冷える暇がなかったという」。

マニュファクチュア時代に資本制的な生産が発達するとともに、ヨーロッパの世論は恥の感覚と良心の最後の痕跡まで失ってしまった。諸国民は資本の蓄積の手段となることであれば、どんなに忌まわしいことでも、シニカルに誇って語るようになった。たとえば誠実な人物であるA・アンダーソンの素朴な商業の年代記〔前掲の『商業の起源の歴史的および年代記的な概説』〕を読んでみられたい。イギリスはユトレヒト講和の際に、アシエント条約によってスペイン人から、それまでアフリカとイギリス領西インド諸島のあいだだけで行われてきた黒人の奴隷貿易を、今後はアフリカとスペイン領の〔南〕アメリカとのあいだでも行える特権を獲得したのだったが、そのことをアンダーソンはイギリスの国家の叡智として褒め称えているのである。

これによってイギリスは1743年までにはスペイン領アメリカに毎年4800人の黒人奴隷を供給する権利を得たのであるまた同時にイギリスは、自国の密貿易の実態を隠すための公的な承認を獲得した。リヴァプールは奴隷貿易によって繁栄し始めた。奴隷貿易は、リヴァプールなりの原初的な蓄積の方法だったのである。そして現在にいたるまでリヴァプールの「高貴な名望家」たちは、奴隷貿易の「抒情詩人」ピンダロスとも呼べる人々なのである。すでに引用したエイキン博士の1795年の著書を参照していただきたいが、奴隷貿易は「商業的な起業精神を情熱にまで高め、立派な船乗りを育成し、莫大な富をもたらす」ものとされたのだった。リヴァプールは1730年には奴隷貿易用の船舶を、15隻所有していたが、1751年にはこれが53隻に、1760年には74隻、1770年には96隻、179年には実に132隻にまで増えたのだった。

木綿産業はイギリスにおいて児童奴隷制度を導入したが、これがきっかけとなってアメリカ合衆国では、それまで多少なりとも家父長的だった奴隷経済が、商業的な搾取システムに変貌した。ヨーロッパにおける賃金労働者たちの隠蔽された奴隷制は、その土台として新世界における覆いなしの奴隷制を必要としたのである。

これは「かほどに困難な、大きな事業」だったのだ─資本制的な生産様式という「永遠の自然法則」を解き放ち、労働者と労働条件の切り離しを完遂し、片方の極では社会的な生産手段を資本に変容させ、他の極では民衆を賃金労働者に、すなわち自由な「働く貧民」という近代史の虚構の産物に変容させるというのは。もしも〔フランスのジャーナリストのマリー・〕オジェが言うように、貨幣が「生まれつきの結婚を頬につけて世に出てくる」ものであれば、資本は頭のてっぺんから足の先までのあらゆる毛穴から、血と脂を滴らせながらこの世に生まれてくるのである。

 

マルクスは次に、資本家たちの出自を問題として論じます。論点はとくに産業資本家の生成にあるわけです。マルクスがここでも純然たる経済的条件よりも、むしろ国家権力との関係、すなわち「植民制度」や「国債制度」、また「租税制度」や「保護貿易」を取り上げています。このことに注意していいと思います。マルクスは、そのさい、国際的な広がりを十分見渡して、奴隷貿易と、インドネシアやアメリカにおける奴隷制にも特別な関心を払っています。北アメリカにおける原住民の掃滅と奴隷化、さらには、アメリカの商業的黒人狩猟場への転化は、資本主義的生産の時代の曙光であり、このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのだといいます。マルクスによれば、暴力は、古い社会が新たな社会を孕んだときに、いつでもその助産婦となる。暴力とはそれ自身が一箇の経済的な潜勢力に他ならないのです。

たとえば、リヴァプールの資本主義の中心地のひとつであったばかりではない。それ以前にリヴァプールは奴隷制度の主要港でした。奴隷貿易は、本源的蓄積のリヴァプール的方法をかたちづくっていました。綿工業はイギリスには児童奴隷制をもちこんだが、それは同時に、以前は多かれ少なかれ家父長制的であった。合衆国の奴隷経済を商業的搾取制度へと転化させるための原動力を与えた。一般に、ヨーロッパでの賃金労働者の隠された奴隷制は、新世界での文句なしの奴隷制を足場として必要としたのである。

資本主義的生産の開始そのものに、外部的契機が密接にからんでいるといえます。マルクスはこの点について十分に自覚的であったようです。資本主義はそもそも、つねにその外部を必要とするもので、外部的要因をも巻きこみながら、資本は、あたまから爪先までも毛穴というか毛穴から血と汚物とを滴らせながら生まれでてくるのだ。とマルクスは言っています

 

 

第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向

資本の前史

資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、どういうことに帰着するであろうか?それが奴隷や農奴から賃金労働者への直接の転化でないかぎり、つまり単なる形態変換ではないかぎり、それが意味するものは、ただ直接生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私有の解消でしかないのである。

社会的、集団的所有に対立物としての私有は、ただ労働手段と労働の外的諸条件とが私人のものである場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかによって、私有もまた性格の違うものになる。一見して私有が示している無限の色合いは、ただこの両極端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映しているだけである。

労働者が自分の生産手段を私有しているということは小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のために必要な一つの条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制や農奴制やその他の隷属的諸関係の内部でも存在する。しかし、それが繁栄し、全精力を発揮し、十分な典型的形態を獲得するのは、ただ、労働者が自分の取り扱う労働条件の自由な私有者である場合、すなわち農民は自分が耕す畑の、手工業者は彼が老練な腕で使いこなす用具の、自由な私有者である場合だけである。

この生産様式は、土地やその他の生産手段の分散を前提する。それは、生産手段の集積を排除するとともに、同じ生産過程のなかでの協業や分業、自然にたいする社会的な支配や規制、社会的生産諸力の自由な発展を排除する。それは生産および社会の狭い自然発生的な限界としか調和しない。この生産様式を永久化しようとするのは、ペクールの正しく言っているように、「万人の凡庸を命令する」ことであろう。ある程度の堅さに達すれば、この生産様式は、自分自身を破壊する物質的手段を生みだす。この瞬間から、社会の胎内では、この生産様式を桎梏と感ずる力と熱情とが動きだす。この生産様式は滅ぼされなければならないし、それは滅ぼされる。その絶滅、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、したがって多数人の矮小所有の少数人の大量所有への転化、したがってまた民衆の大群からの土地や生活手段や労働用具の収奪、この恐ろしい民衆収奪こそは、資本の前史をなしているのである。それには多くの暴力的な方法が含まれているのであって、われわれはそのうちのただ画期的なものだけを資本の本源的蓄積の方法として検討したのである。直接的生産者の収奪は、なにものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしくて卑しくて憎らしい欲情の衝動によって、行われる。自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体とその労働諸条件との癒合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐されるのである。

この転化過程が古い社会を深さから見ても広がりから見ても十分に分解させてしまい、労働者がプロレタリアに転化され、彼らの労働条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれば、それから先の労働の社会化も、それから先の土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそれから先の私有者の収奪も、一つの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家である。

資本の本源的蓄積が意味するものは、ただ直接生産者の収奪、すなわちみずからの労働によって成立する私有財産が解体されたということでしかないのです。

社会的で集団的な所有に対立するものとして私有は、労働手段と労働条件が個人のものである場合に限って成立します。しかし、この個人が労働者であるかないかによって、違ってきます。一見すると私有財産には多様な形式があるように見えますが、実際は、この二とその間のパターンしかありません。

労働者が自分の生産手段を所有していることが小規模経営の基礎です。この小規模経営は、社会的な生産が発達し、労働者が自由な個人として発達するために必要な条件の一つです。農業の分野で、この生産様式は、土地とその生産手段が分散していることが前提となります。この生産様式では、生産手段が集約されることはないし、協業や分業、さらには自然に対するコントロールや社会的な生産の自由な発展といったこととは無縁です。この生産様式は、生産と社会の自然発生的な枠を越えることはないのです。やがて、ある程度まで成長すると、そのうちに自らを壊してまで発展しようとするものを生み出す。その時、はじめてこの生産様式を足枷と感じる意識が生まれます。この場合の破壊つまり乗り越えは、個人のあいだで分散されていた生産手段が社会的に集中された生産手段となり、多くの人々の手元にあったごくわずかな所有が、少数の人々のもつ巨大な所有に変貌し、そして多数の民衆は、その所有する土地、生活手段および労働の道具を収奪されるということです。この民衆に対する収奪が、資本の前史なのです。この収奪は暴力的な強制を伴って実行されます。

この、いわば変革が、それまでの古い社会を破壊するほどになり、労働者がプロレタリアになり、資本主義的な生産がひとりだちすると、労働者や生産手段の社会化が起こります。

資本の原初的な蓄積、その歴史的な生成はどのような帰結をもたらしたのだろうか。これが奴隷と農奴を賃金労働者に直接変化させなかった場合には、すなわちたんなる形態の変化にすぎない場合には、直接の生産者の所有の収奪を意味するだけである。みずからの労働によって成立する私有財産が解体されたのである。

社会的で集団的な所有に対立するものとしての私有財産が存在するのは、労働手段と労働の外的な条件が私人に属する場合にかぎられる。しかしこの私人が労働者であるか、労働者でないかによって、私有財産の生活は異なったものとなる。一見すると私有財産にはきわめて多様な形式があるようにみえるが、実はこの二つの極のあいだの中間的な状態を反映したものにすぎない。

労働者がみずからの生産手段を私的に所有していることが、小規模経営の基礎である。この小規模経営は、社会的な生産が発達し、労働者が自由な個人として発達するために必要な条件の一つである。しかしこうした生産様式は、奴隷制や農奴制、その他の隷属的な関係のうちにも存在している。それでもこの生産様式が繁栄し、そのすべてのエネルギーを発揮し、適切な古典的な形態を獲得するのは、労働者がみずからの労働条件を私的に所有し、それを自由に使える場合にかぎられる。農民がみずから耕す農地をみずから所有しており、職人が巧みに扱う道具をみずから所有している場合である。

この生産様式は、土地とその生産手段が分散していることを前提としている。この生産様式のもとでは、生産手段が集積されることはないし、協業とか、同じ生産過程の内部での分業とか、さらに自然にたいする社会的な支配や管理や、社会的な生産の自由な発展なども発生しない。この生産様式が適切なものであるのは、生産と社会の自然発生的な狭い限度のうちにかぎられる。これを永遠につづけようとするのは、ペクールの語るとおり、「すべてが平凡であるように命令する」ことであろう。

実際に、この生産様式がある程度まで発達すると、そのうちからみずからを破壊する物質的な手段を生みだすのである。その瞬間から、この生産様式を桎梏と感じる力と情熱が社会のうちで動きだす。この生産様式は破壊されねばならず、そして破壊される。この生産様式が破壊されると、個人のあいだで分散されていた生産手段が社会的に集中された生産手段となり、多くの人々の手元にあったごくわずかな所有が、少数の人々のもつ巨大な所有に変貌し、そして多数の民衆は、その所有する土地、生活手段および労働の道具を収奪される。この民衆にたいする困難で恐るべき収奪こそが、資本の前史なのである。

この収奪はさまざまな暴力的な方法で行われるものであり、これまでは資本の原初的な蓄積の方法のうちでも、とくに画期的な方法だけを調べてきた。直接に生産している人々の収奪は、きわめて仮借のない蛮行として行われるのであり、それを衝き動かしているのは、恥知らずで、不潔で、けちくさく、醜悪な情熱である。自立して働く個人の私的所有は、個々の独立して労働する個人とその労働条件が、いわば癒着することで成立していたものであるが、これが資本制的な私的所有によって駆逐されてしまう。資本制的な私的所有は、他人の労働の搾取に、形式的には自由な他人の労働の搾取に依拠しているのである。

この変革プロセスが、それまでの古い社会を破壊するほどの深さと規模に達し、労働者がプロレタリアになり、彼らの労働条件が資本に変容するとともに、そして資本制的な生産がみずからの足で自立できるようになるとともに、労働のさらなる社会化が発生する。土地やその他の生産手段は、ますます社会的に活用される共同の生産手段に変わり、私的な所有者の収奪がさらに進んで、新しい形態をとるようになる。収奪されるのはもはや自営の労働者ではなく、多くの労働者を搾取する資本家の側なのである。

 

資本家の収奪

この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中よって、行われる。いつでも1人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網の目のなかへの世界各国民への組入れが発展し、したがって資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それが資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。

諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的私有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べものにならないほど長くて困難な過程である。前には少数の横領者による民衆の収奪が行われたのであるが、今度は民衆による少数の横領者の収奪が行われるのである。

この資本の収奪は資本の集中によって発生します。それは、1人の資本が多数の資本家を滅ぼすということです。同時に、労働過程の協業が進み、生産手段が共同的に使用されるようになります。数少なす巨大資本が、利益を奪い取り独占の方向に進みます。

資本主義的な生産様式を生んだ私的所有は、自分自身の労働によって自身の所有物をつくるということの否定です。資本主義的生産様式は資本主義によって実現された所有、つまり、協業と土地の共同所有と生産手段の共同所有に基づいた個人的な所有です。

個人が自分の労働によって取得している私的所有が、資本主義的な私的所有に移り変わっていくのは長期的で緩慢なプロセスでした。これに対して社会的な所有の変化は、それほど長期的ではなかった。最初の段階は少数の強奪者が多数の民衆から収奪し、第二段階は多数の民衆が少数の強奪者を収奪しました。

この新たな収奪は、資本制的生産に内在する法則である資本の集中の法則によって起こる。つねに1人の資本家が多くの資本家を滅ぼすのである。資本の集中は、少数の資本家による多数の資本家の収奪である。これと並行して労働過程における協業がさらに進んだ段階に発展し、科学が意識的に技術的に利用されるようになり、地下資源地下資源が計画的に活用されるようになり、労働手段が共同的にしか利用できないものとなり、生産手段も共同の社会的な労働のための生産手段として節約され、すべての民族が世界市場の網の目に組み込まれ、資本制的な体制の国際的な性格が強まる。

巨大資本家はますます数を減らしながら、この変革プロセスのあらゆる利益を奪いとり、独占する一方で、貧窮と抑圧と隷従と退廃と搾取がますます強まる。しかし資本制的な生産過程のメカニズムによって訓練され、結合され、組織化された労働者階級は、その成員の数が増える一方であり、またその憤慨も強まるのである。

資本の独占は、それとともに、またそのもとで繁栄してきた生産様式そのものの枷になる。生産手段の集中と労働の社会化は、その資本制的な覆いに耐えられなくなるところまで進む。そしてこの覆いが破砕される。資本制的な私的所有の終わりのときを告げる鐘が鳴らされる。収奪してきた者たちが収奪される。

資本制的な生産様式が生まれてきた資本制的な所有形式である資本制的な私的所有は、みずからの労働に基づいた個人的な私的所有の第一の否定である。しかし資本制的な生産は、自然過程と同じ条件によって、みずからの否定を生みだす。これは否定の否定である。この否定の否定は、私的所有をふたたび作りだすことはなく、資本制時代に実現された成果に基づいた個人的な所有を作りだす。これは、協業と土地の共同所有と、労働をつうじて生みだされた生産手段の共同所有に基づいた個人的な所有である。

第23章で述べてきた資本の蓄積過程の一般的法則を明確に把握してさえすれば、この歴史的過程の意義も容易に理解できます。しかし、逆にこの歴史的過程を理解していれば、資本の蓄積の一般的規定も明確になります。それは旧社会において、封建領主下の農民にしろ、ツンフト支配下の手工業者にしろ、ともかく生産手段と直接結合させられていた生産労働者を、その生産手段から原始的に分離する過程にほかなりません。そしてそれがまた資本家自身を産業資本家として形成する過程でもありまし。経済学でいう国民的富は、生産労働者から分離させられた生産手段の資本としての所有を意味するものであって、それは決して国民全体が富を有するという意味のものではありません。資本主義が発生した地盤は封建社会でした。農業生産者である農民の手から土地を取り上げるということが、この歴史的過程の基礎をなすものとならざるをえなかったのも、そのためです。もちろん、この過程は、国々によって種々異なった形であらわれました。特に日本のように遅れて資本主義化した国は、先進国であるイギリスが典型的に実現したこの過程を、きわめて複雑に、いいかえればその後の資本主義的発展によって、たとえば株式会社による機械的大工業とともに実現することになったので決してそのままにはあてはまるものではありません。イギリスの典型的過程を理解することなく、日本のような特殊なケースを理解することはできないと言えます。

まず、農民からの土地の収奪が15世紀以後のイギリスの歴史から説かれます。14世紀末にすでに農奴制を事実上失ったイギリスは、15世紀末から16世紀はじめにかけて新たなる展開を示しなす。ブルジョア的発展の産物である王権による封建家臣団の分解は多数のプロレタリアを労働市場に供給してきたといえますが、さらにまた王権に対抗する封建領主自身も、その土地に対して領主と同様に封建的権利を有していた農民たちを暴力的にその土地から駆逐し、彼らの共同地をも奪って土地の近代的私有化を実現し、従来と比較にならぬほど多数のプロレタリアをつくりだしたのでした。マルクスはこの過程を簡明に説きつつ封建制の資本制への転化の基礎を明らかにしています。いわゆる囲い込み(エンクロージア)として知られる土地からの農民追放や共同地の私有化の歴史的意義もこれによってはじめて理解することができます。しかしこの土地から追放された農民は、そのままでは近代資本主義のもとに賃金労働者として役だてることはできませんでした。特に、当時の手工業は必ずしもそれの準備を有するではなかった。そこには、15世紀末以後の被収奪者にたいする残虐な立法、賃金引き下げの法律が必要だったのです。マルクスはこれを、浮浪人となって流れ歩く土地を失った農民に対し、賃金労働者への訓練を強制するものとして明らかにします。イギリスにおいてもこのような強制的手段をもって近代的労働者が形成されてきたことは、十分に注目する必要があると言えます。しかし、このような過程に対応して、他方では資本家的借地農業者が生成していきます。15世紀末から16世紀にかけて、農民自身のうちに賃金労働者と資本家的農業者との分化対立が生じ、16世紀には富裕な資本家的借地農が出現してきたのです。ただしこれでただちに農業が資本主義化したというのではなく、それはなお数世紀を要する緩慢なる過程をとおして実現されたのでした。

農業上のこのような革命が、従来の手工業者のほかに、新たにプロレタリアをつくったことは、工業資本家にとってその基礎条件を与えたのですが、そればかりではなかったのです。農業の生産力自身も土地所有関係の変革とともに行われた生産方法の変化によって著しく増進し、これが工業資本に原料と労働者の食料とを商品として供給する基礎をなしたのでした。マルクスはこの点を「工業に及ぼす農業革命の反作用、産業資本のための国内市場の形成」として論じています。農業のこのような変化はもちろん農村的工業自身を破壊せずにはいなかったのでした。農村は工業品の市場となり、都市は農村物の販路となりました。ここに農業と工業との分離が国民的規模において行われる端緒が開かれ、国内市場の形成をもたらすこととなったのです。もちろん、この過程は、マニュファクチュア時代においては、完成することはなかった。機械的大工業になってはじめて農民の収奪も農工業の分離も徹底的に実現したのであって、国内市場も完全に大工業の支配下に置かれることになるのでした。もっともこの農工業の分離も具体的にはむしろ農業国と工業国との対立となってあらわれるので、理論的に想定できるように一国の内にそのまま実現できるものではありません。それはともかく16世紀はその端緒をなしたものとして理解すべきものです。

国内市場の形成が、一方では資本家的借地農業、他方ではこれに対応する資本家的工業の発生を基礎条件とすることは言うまでもないことです。直接の生産者自身が賃金労働者としてその生産するものを商品として購入しなければならない関係におかれて、はじめて国内市場が完成するからです。しかし産業資本の生成は、資本家的借地農とは異なって、実際は外部からの動力によってきわめて急激に行われました。15世紀末の新大陸の発見が世界市場を形成し、これによって異常な促進を受けたのであって、工業における資本家の発生は、農業資本家の発生のように逐次的に行われる過程にまかされるというものではなかったのです。西欧諸国、とくにスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスの諸国は、順次にこの外来的な要因に影響され、促進させられつつ、国内において旧来の封建社会を分離する過程をたどったのであって、近代的王権はこの過程の促進者としての歴史的役割を引き受けたのであるが、それはまた同時に、これらの諸国が世界市場に争う覇権によって、その国内経済でも資本主義化する程度と深さとを決定されるという関係にありました。17世紀末のイギリスは、その植民制度、国債制度、近代的租税制度、保護政策等においてこれを体系的に組織化して、いわゆる重商主義として確立しのし。それが、資本主義の先駆者としての地位を確保するものとなっていたのです。17、8世紀におけるオランダ、フランスに対する商業戦争の勝利も、国内経済の資本主義的商品経済化=国内市場の形成においての他の諸国に先んじた事実を示すものでした。

これらの制度はいずれも独立小生産者の賃金労働者化を後押しするものとしてはじめてその歴史的意義を理解することができます。しかしまたこの過程が、世界市場の発展といういわば外部的条件によって実現させられたということは、これを偶然的なものとして捉えるべきではありません。商品経済は、もともとその発生の端緒においてそういう性格を有しているだからです。『資本論』第1巻第2章「交換過程」において、マルクスはすでに交換そのものが共同体と無共同体とのあいだの外部的関係において発展することを明らかにしています。しかもこの外部的関係がまた内部的にも商品経済の発展をもたらすのです。資本主義としての商品経済が、世界市場によって、国内経済をも資本主義化するのは当然です。だからと言って、逆に国外市場がなければ資本主義の成立は不可能であるというのではありません。とくに理論的に国外市場を資本主義関係の成立の条件とすることは、誤りです。国外市場によって実際上は成立したとしても、資本主義的社会関係自身は、一社会として成立する根拠を国内的に有するものとなるとき、したがってまたこのようなものとして理解されたとき、はじめてその本質を明らかにできる。それは具体的な歴史的な過程を理解するいわば理論的基準を示すものとして、したがってまたこの基準をそのままに歴史的過程としても国外的影響を軽視すべきではありません。それはこのような基準を歴史的過程を理解するのに役立てるからではなく、マルクスにおける歴史と理論との関係を、この「原始的蓄積」の章のような歴史的叙述のうちに、十分に学ばなければならない。たとえばこの17、8世紀のイギリス資本主義をマニュファクチュアの時代として、国内的な過程に解消してしまう理解は、決してこの関係を十分に認識したものとはいえないのです。それは、商品経済の本質を誤解することにもなりかねません。

資本家と賃金労働者との基本的関係が、商品の単純なる分析から出発して展開されてゆく、『資本論』第1巻の理論的過程は、もちろん、たんなる理論的過程ではありません。それだからこそ、その展開は固定した定義の羅列としてではなく、前の簡単な関係における規定が理論の展開とともに複雑な関係のうちにあらわれてくるものです。これによってはじめて具体的な歴史的過程を理解することができるわけですが、しかしこの理論的過程そのものが具体的な歴史的過程を再生産するものとはいえないのです。イギリスのように典型的に資本主義の発展を見た国においても、具体的な歴史自身が理論によって再生されるわけではなく、それでは理論と歴史との関係が逆転したことになってしまいます。またそれだからこそわれわれは、イギリスの歴史過程を分析して得た理論をもって、ドイツはもちろんのこと、ロシアや日本のような国の資本主義の発展をも理解することができるのです。

事実マルクスはその理論的分析をもってたんにイギリスの歴史を解明しようとしたのではなく、資本主義そのものの歴史的意義を明らかにしようとしたのです。したがってこの「本源的蓄積」の章の最後に「資本主義的蓄積の歴史的な傾向」を論ずることを忘れはしなかったのです。

資本の本源的蓄積は、要するに資本の歴史的発生に他なりません。しかしそれは単に奴隷や農奴が賃金労働者となるという形態的変化にすぎないものではありません。それは生産手段と労働力との結合する関係自身の変化を伴わないでは行われません。生産手段が、近代的な自由な所有、言い換えれば商品的形態を与えられなければならない。しかし生産手段がたんに直接の生産者の財産として私有させられるにすぎなかったというような経営は、土地その他の生産手段の分散を基礎とするものであって、その生産力の発展は必ず狭隘な限界内にとどまり、決して従来の社会、具体的には封建社会にかわって新たな社会を形成する動力を与えることができるものになるものではないのです。

むしろこの小経営の条件である生産手段の生産者による直接的所有自身を否定する過程によってはじめて、このような歴史的動力も与えられるというところに、資本の本源的蓄積の意義があるのです。それはたんなる近代的所有としての形態的発展ではなく、この形態的発展は、むしろこの形態規定に想定させられるものです。労働による所有を否定するこの資本の創世記過程を経てはじめて歴史的に、具体的に実現させられるのです。それは個人的分散的に所有される生産手段の社会的に集積された生産手段への転化として、言い換えれば生産手段の資本としての占有、すなわち労働によって生産される生産手段の資本家の手への集中に他ならないものでした。またこのようにしてはじめて旧社会は、一定の深さと広さで分解されるのです。このような点に、資本主義の出発点を見いだしたマルクスは、これによってまた資本主義の発展の傾向をも、その特有な形で、言い換えれば所有関係自身がその内部に発展する生産力を、自ら処理しきれないほどに発展されるものとして理解することができたのです。資本の集中と資本家の数の減少に対応して、資本家的生産過程の内に訓練され、統合され、組織される労働者の数の増加を、資本に対する新たなる対抗的勢力として、資本主義を社会主義に転化するものとして認められるのでした。分散的な私的所有の集中的な私的所有への転化が、さらに社会的な所有へ転化されることによって、労働による所有が確立されるというのです。しかしこの点は、分散的な私的所有そのものが、すでに近代的な所有形態を前提とする小生産者的のものであるとすれば、それは単純商品生産と同様に一社会の基本的な形態としては実現できないものであり、むしろ具体的にはこのような近代的所有関係は、集中的な、資本家的私有において実現され確立されるという事情から見ても明らかなように、その理論的展開に難点をもつものと言えます。また実際、封建的社会の、封建的所有関係自身の資本家的所有関係への転化として、はじめてこの資本の本源的蓄積も理解できるし、前述のようにマルクス自身もこのような観点からこれを説いていたのです。それはともかくここで資本主義から社会主義への転化について述べられている点は、具体的に種々な問題を含むものであるという留保をもって理解されるものです。そういう転化の具体的過程の必然性はこのような抽象的規定で論証されるものではないからです。

 

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