マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第1篇 商品と貨幣
第3章 貨幣と商品流通
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第1篇 商品と貨幣

第3章 貨幣または商品の流通

〔この章の概要〕

第1章「商品」では、「商品とは何か」、つまり「商品の概念」が明らかにされ、第2章「交換過程」では、第1章で概念的に明らかにされ、現存在として捉え返された商品の現実の運動、すなわちその交換の過程が対象になりました。そしてその交換過程が、如何にして貨幣を生み出すのか、すなわち商品が貨幣に如何に転化するのかが明らかにされたと紹介してきました。

とするなら、それらを踏まえた第3章では、今度は「貨幣の何たるか」、すなわち「貨幣の概念」が解明されるのでしょうか。実は、そうではないのです。なぜなら、「貨幣とは何か」については、まさにこれまでの第1章と第2章の展開のなかで、解明されてきたことなのだからです。第1章と第2章とを統一した第3章は、それらの過程の総括でもあり、第1章と第2章とは貨幣を概念的に展開してきた過程として総括されるのです。つまり自立した現存在として捉え返された第3章の貨幣の地点から振り返るならば、まさに第1章も第2章も、貨幣の概念的把握の過程であり、その展開の過程であったとも言えるわけです。

だから第3章では、自立的な現存在として捉え返された貨幣が、今度は主体となり、その運動諸形態(形態諸規定性、すなわち諸機能)とその諸法則が解明されることになるわけです。かくして第3章の表題は「貨幣または商品流通」というわけです。というのは、貨幣の運動というのは、商品流通があってこそであり、その運動諸形態は、商品流通のなかで貨幣が受け取る形態諸規定のことだからです。だから貨幣の運動諸形態とその法則を解明するということは、すなわち商品流通の諸法則を解明することでもあるわけです。

 

マルクスは、第1章「商品」から第2章「交換過程」の説明に入り、貨幣が商品の交換過程の必然的な産物であることを確証します。そしてそれに続くのが、この第3章で「価値の尺度」としての貨幣を解明します。商品の価値が他の商品の使用価値量で表現されます。「単純な価値形態」が発展して「貨幣形態」へと到達すると、商品はすべてその価値を特定の貨幣商品、実際上は金の一定量でもって表現することになりますが、それと同時に価値形態はもはや単なる交換価値としてではなくて、価格として現れます。たとえば金1円というのは純金2分という金の一定量を指す名称でしかないのに、金何円と言えば商品の価値を一般的に表示したことになります。もちろん貨幣としての金も、それ自身商品として生産されたものであり、したがってまたその生産に要する労働量からなるその価値は、生産力の変化によってたえず変動するのであって、古典派経済学が誤って探求したような不変の価値尺度というようなものでは決してないのです。むしろ反対に貨幣はみずからの価値を変動しうるものとして、一般商品の価値を秤量する尺度となります。しかしこのように商品の価値がそれから独立した価格という現象形態をとって外的に表示されてくると、この価格は必ずしも価値をそのまま反映するものとは言えなくなります。商品の価格は価値以上にも、価値以下にも表示されえます。しかしそれは決して価格形態そのものの欠陥ではありません。むしろ、そのような乖離がかえって商品の価値を基準とする交換を可能にします。もともと、商品は、個別的に生産されたものをもって社会的需要を充足しようというのであって、価格の変動を通してより他に、その生産を社会的受容に適応させることはできないからです。言い換えれば、価格は価値から離れるといっても、そうむやみに離れるわけではなく、結局、価値を中心として変動しながら商品の交換を実現します。このようにして価値と価格は、このように必ずしも量的に一致しないのですが、そればかりか、労働の生産物でないものまでが、たとえば骨董品や土地や、ときには名誉や良心や人間の血液までが商品として一様に価格形態をとるようになります。これもまた商品経済の欠陥とは言えません。それはあらゆるものが商品交換のうちに導入され、それによって全社会が商品経済化することになる当然の現象です。要するにこのような性質をもつ価値にして、はじめて商品としての労働生産物を、たえず価値を基準として社会的に交換することになって、商品経済は社会存続の一般的原則を実現できるものとなるのです。

商品がすべてその価値を貨幣によって価格として表現することになれば、これに対応して貨幣はすべての商品に対して直後に交換可能の地位を獲得する。商品は直接相互には交換されえないで、すべて貨幣をとおして交際されうるものとなります。すなわち商品の交換は、まず商品(W)を販売して貨幣(G)を手にし、その貨幣によって他の商品(W)を購入するという、いわゆる商品の変態W−G−Wとなって現われる。この場合、個々の商品の変態の過程は相互に交錯して行われ、全体として一つの連鎖をなしつつ、商品経済の社会的な物質代謝の流通過程を形成し、貨幣はこれを媒介する流通手段として機能します。したがって貨幣が流通手段として機能する範囲を決定するものは、貨幣自身ではなくて商品流通です。商品流通に照応して増減する流通手段の分量は、このようにして流通商品の価格総額と流通速度とによって決定せざるをえません。それと同時に、流通手段としての貨幣は、恒常的流通の範囲内においては、いわゆる鋳貨として単なる価値記号となり、したがって銀貨や銅貨などの補助貨幣、進んでは紙幣によっても代位されうるものとなります。この場合紙幣が金の鋳貨を代位するものとしての流通必要量以上に発行させられることになれば、紙幣はその名目量以下の金を代位するものとなり、それに対応して商品価格は騰貴を余儀なくされます。いわゆるインフレーションという現象はこのような関係を基礎とするものです。

さて「流通手段」としての貨幣が、商品の流通の増減によって増減するとすれば、貨幣は単に流通手段としてのみ存在するというわけにはいきません。貨幣は商品に対立した「貨幣」それ自身としても存在しなければなりません。マルクスはこの点を「蓄蔵貨幣」、「支払手段としての貨幣」、「世界貨幣」として展開する。まずW−G−WがW−Gで中断させられることによって、言い換えると購買G−Wをともなわない販売W−Gによって、貨幣は流通から引き上げられ蓄蔵することができる。貨幣はこのような蓄蔵貨幣として、はやくから商品経済社会の一般的富を代表し商品価値の独立化を実現するものとなっているのですが、それはまた流通手段としての貨幣の分量を調節する役割をも果たすのです。ところが、この蓄蔵貨幣の形成される過程はまた、他方でW−G−Wの購買G−Wが貨幣なくして行われ、後からW−Gの過程が行われて貨幣が支払われるという関係をも可能にします。貨幣は「支払手段」として機能することになる。この場合商品の買い手は単なる買い手としてではなく、債務者として貨幣を支払うのであって、その支払いが互いに清算されれば貨幣の流通量を節約することにもなりますが、そうでなければ、あるいはまたその差額は必ず貨幣でもって支払わねばなりません。このようにして支払手段としての貨幣は、蓄蔵貨幣とは異なって、流通の内部においても価値の独立の存在物であることが要求されます。それは蓄蔵貨幣と対比した商品経済的富の絶対的な存在物となります。このような蓄蔵貨幣ないし支払手段としての貨幣は、国内流通、言い換えれば一定の社会的商品流通から出て、他の社会的な商品流通とのあいだにも貨幣として機能します。すなわち、国際貸借の決済に、または国際取引における購買手段に使用されます。それと同時に、ふたたび地金の形態をもって授受されます。元来金は、ぜいたく品などの材料にも用いられる一方、つねに貨幣としても使用される特殊な商品なのですが、国際間に授受される世界貨幣としての貨幣は、まさにこのような商品にほかなりません。それと同時に、国内における流通手段の分量はこの世界貨幣によって根本的に調節されるものとなるのです。

 

ここから、〔本文とその読み(解説)〕の部分について、少し書き方を変えます。まず本文の文章は、今までと同じで青色のゴシック体のままです。しかし〔その読み(解説)〕と一緒にしていたのを改めて、〔読み〕と〔解説〕を切り離します。そして〔読み〕は〔本文〕に対しての読み下し、私の言葉に言い換える、つまり解釈ですが、本文に続けて、黒字の明朝体で書くことにします。その後で、〔解説〕として補足説明や、説明の追加を茶色の斜字体で書くことにします。それによって、本文、読み、解説の区別をはっきりさせることにします。

 

第1節 価値の尺度

〔この節の概要〕

第1章「商品」から第2章「交換過程」へと続いて、貨幣が商品の交換過程の必然的な産物であることが明らかにされます。そしてそれに続くのが、この第3章で、まず第1節において「価値の尺度」としての貨幣が解明されます。すなわち、商品の価値は他の商品の使用価値量で表現されます。「単純な価値形態」が発展して「貨幣形態」へと到達すると、商品はすべてその価値を特定の貨幣商品、実際上は金の一定量でもって表現することになりますが、それと同時に価値形態はもはや単なる交換価値としてではなくて、価格として現れます。たとえば金1円というのは純金2分という金の一定量を指す名称でしかないのに、金何円と言えば商品の価値を一般的に表示したことになります。もちろん貨幣としての金も、それ自身商品として生産されたものであり、したがってまたその生産に要する労働量からなるその価値は、生産力の変化によってたえず変動するのであって、古典派経済学が誤って探求したような不変の価値尺度というようなものでは決してないのです。むしろ反対に貨幣はみずからの価値を変動しうるものとして、一般商品の価値を秤量する尺度となります。しかしこのように商品の価値がそれから独立した価格という現象形態をとって外的に表示されてくると、この価格は必ずしも価値をそのまま反映するものとは言えなくなります。商品の価格は価値以上にも、価値以下にも表示されることが可能です。しかしそれは決して価格形態そのものの欠陥ではありません。むしろ、そのような乖離がかえって商品の価値を基準とする交換を可能にします。もともと、商品は、個別的に生産されたもので、社会的需要を充足しようというものであって、価格の変動を通してより他に、その生産を社会的受容に適応させることはできないからです。言い換えれば、価格は価値から離れるといっても、そうむやみに離れるわけではなく、結局、価値を中心として変動しながら商品の交換を実現します。このようにして価値と価格は、このように必ずしも量的に一致しないのですが、そればかりか、労働の生産物でないものまでが、たとえば骨董品や土地や、ときには名誉や良心や人間の血液までが商品として一様に価格形態をとるようになります。これもまた商品経済の欠陥とは言えません。それはあらゆるものが商品交換のうちに導入され、それによって全社会が商品経済化することになる当然の現象です。要するにこのような性質をもつ価値にして、はじめて商品としての労働生産物を、たえず価値を基準として社会的に交換することになって、商品経済は社会存続の一般的原則を実現できるものとなるのです。

 

〔本文とその読み(解説)〕 

貨幣の機能

簡単にするために、本書ではどこでも金を貨幣商品としては前提とする。

金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。

諸商品は、貨幣によって通約可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通約可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である。

問題を簡単にするために、本書では、貨幣商品については金を前提に考えることにします。

金の第一の機能は、商品世界にその価値を表現する材料を提供することです。つまり諸商品の価値を、質的に等しく量的に比較可能なものとして表すことにあります。こうして金は、価値の一般的な尺度として機能します。そしてこの機能によって初めて、独特な等価商品である金は何よりもまず貨幣になるのです。

さまざまな商品は、貨幣によって比較可能になるのではありません。むしろ逆であって、すべての商品の価値が対象化された人間労働であり、それによって質的に同じとなって量的に比較可能なものとなっているからこそ、それらの価値を同じ一つの特定の商品で共同で表し、そうすることによって、その独特な一商品を共同の価値尺度、すなわち貨幣にしているのです。価値尺度としての貨幣は、さまざまな商品の価値の内在的な尺度である労働時間の必然的な現象形態なのです。 

本書では説明を簡略にするために、貨幣商品としては金を前提とする。

金の第一の機能は、商品世界に価値表現の材料を与えることであり、[価値の尺度として]同じ分母の大きさとなって、複数の商品の価値を質的に同等で、量的に比較可能な大きさとして表現することにある。このように金は、価値の一般的な尺度として機能するのであり、この機能をはたすことによってのみ、金という特別な等価形態商品は、まず貨幣になるのである。

さまざまな商品が貨幣のおかげで通約可能なものとなるのではない。そのはんたいなのである。すべての商品は価値としては人間の労働が対象化されたものであり、そのことによってそもそもたがいに通約できるものであるからこそ、その価値を同じ特別な商品によって共通に測定できるのであり、またそうすることによってこの特別な商品を自分たちの共通な価値尺度である貨幣に変えることができる。価値の尺度である貨幣は、商品の内在的な価値の尺度である労働時間の必然的な現象形態である。

 

価格 

一商品の金での価値表現─X量の商品A=Y量の貨幣商品─は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表わすためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような単独な等式で十分である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。というのは、等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表わされているのが見いだされる。これに反して、貨幣は価格をもっていない。このような、他の諸商品の統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価物としてそれ自身に関係させられなければならないであろう。

貨幣である金によって一つの商品の価値を表現する等式「商品AのX量=貨幣商品のY量」は、その商品の貨幣形態、あるいは価格です。もはや例えば鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、(これまでのように、一般的な相対的な等価形態のような多数の商品の価値と等置させる必要はなく)1トンの鉄=2オンスの金 というような一つの等式があれば十分です。というのも、等価物の商品である金がすでに貨幣になっているからです。だから諸商品の価値を一般的に表す価値形態は、第1章で見た一般的価値形態のようなさまざまな商品が隊伍を整えて行進する必要はもはや必要ないからです。だから諸商品の価値形態は、最初の単純なあるいは個別的な相対的価値形態の姿をとるわけです。  

ここで、少しおさらいをしましょう。「第1章で見た一般的価値形態」とは、次のような式で表され

1着の上衣     =

10ポンドの茶    =

40ポンドのコーヒー=

1クォーターの小麦 =

2オンスの金     = 20ヤードの亜麻布

1/2トンの鉄    =

X量の商品A     =

等々の商品     =

すなわち、一般的価値形態は、すべての商品が、その価値をただ一つの共通の商品である亜麻布で表現しています。亜麻布だけが商品世界から分離されて、そうした価値表現の材料として役立っているわけです。亜麻布は、それ以外のすべての商品の、よって商品世界の価値を表しているといえます。こうしてどの商品も自分の価値を自分自身の使用価値から区別して表現するだけではなくて、一切の使用価値からも区別されています。例えば上着の価値は亜麻布として表現されていますが、同じように茶の価値もやはり亜麻布として表現されており、あるいは鉄の価値も、金の価値も、やはり同じ亜麻布として表現されているわけですから、それらの価値はすべて同じであることが、この価値形態によって初めて表現されているわけです。つまり上着の価値は、単に上着の使用価値から区別されるだけではなくて、他のすべての使用価値からも区別されているからこそ、その価値は、他の諸商品の価値と同じものとして、共通なものとして表現されているといえるわけです。こうして、この形態がはじめて現実の諸商品を互いに価値として関係させるのであり、質的に同一で量的に比較可能な形態に置くのです。このような一般的価値形態に対して、貨幣形態では、上記のように式をずらずらと並べることは不要になるわけです。というのも、貨幣商品としての金は、それだけですでに社会的に認められた価値の具体物として存在しているからです。だから上の上衣、茶、コーヒー、小麦、金その他の諸々の商品は、貨幣に等置されるだけで社会的に妥当な自らの価値を表したことになるわけです。 

他方で、展開された相対的価値形態、あるいは相対的価値形態の無限の連鎖が、今度は、貨幣商品の独特な相対的価値形態になります。それはいまでは諸商品の価格として社会的に示されています。だから物価表を逆に、つまり貨幣の側から読めば、貨幣の価値の大きさがさまざまな商品で表されていることになるわけです。これに反して、貨幣そのものは何ら価格を持ちません。もし他の諸商品と同じように、統一的な相対的価値形態に参加しようするなら、貨幣は自分自身の等価として自分自身に関係させられねばなりませんが、これは同義反復以外の何ものでもないからです。 

ここでの「展開された相対的価値形態」というのは、第1章で出てきた形態Uであり、次のようなものでした。

20ヤードの亜麻布=1枚の上衣

   〃        =10ポンドの茶

   〃        =40ポンドのコーヒー

   〃        =1クォーターの小麦

   〃        =2オンスの金

   〃        =1/2トンの鉄

   〃        =等々

ここで左辺の「20ヤードの亜麻布」の代わりに「2オンスの金」を入れ、右辺の「2オンスの金」の代わりに「20ヤードの亜麻布」を入れると次のような等式がなりたちます。

2オンスの金 =1枚の上着

   〃    =10ポンドの茶

   〃    =40ポンドのコーヒー

   〃    =1クォーターの小麦

   〃    =20エレのリンネル

   〃    =1/2トンの鉄

   〃    =等々

 これがすなわち貨幣商品の金の価値表現というわけです。しかし、これは物価表、つまり2オンスの金に1万円という鋳貨名をつけると仮定すれば、1枚の上衣が1万円、1ポンドの茶1000円、1ポンドのコーヒー250円等々というような表を逆に読めば、2オンスの金の価値は、1枚の上衣や10ポンドの茶や40ポンドのコーヒーや1クォーターの小麦等々の諸商品によって(それらの使用価値とそれぞれの量によって)表されているというわけです。

商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された。したがって単に観念的な、または想像された形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物と金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、想像される。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、自分の舌をこれらの物の頭の中に突っ込むか、または、これらの物に紙札をぶらさげるかしなければならないのである。商品価値の金による表現は観念的なものだから、この機能のためにも、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、金を用いることができる。商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品の価値に価格という形態または想像された金形態を与えても、まだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、すなわち観念的な、貨幣として役だつのである。この事情は、まったくばかげた理論が現われるきっかけになった。価値尺度機能のためには、ただ想像されただけの貨幣が役立つとはいえ、価格はまったく実在の貨幣材料によって定まるのである。たとえば1トンの鉄に含まれている価値、すなわち人間労働の一定量は、同じ量の労働を含む想像された貨幣商品量で表わされる。だから、金や銀や銅のどれが価値尺度として役だつかによって、1トンの鉄の価格は、まったく違った価格表現を与えられる。すなわち、まったく違った量の金や銀や銅で表わされるのである。

それゆえ、もし二つの違った商品、たとえば金と銀とが同時に価値尺度として役だつとすれば、すべての商品はふたとおりの違った価格表現、すなわち金価格と銀価格とをもつことになる。これらの価格表現は、銀と金との価値比率、たとえば1対15というようなそれが不変であるかぎり、無事に相並んで用いられる。しかし、この価値比率の変動が起きるたびに、それは諸商品の金価格と銀価格との比率を攪乱して、この事実によって、価値尺度の二重化がその機能と矛盾することを示すのである。

商品の貨幣形態、あるいは価格というのは、商品の価値形態一般と同じように、手で掴むことができる実在的な物体とは区別された、観念的な、またはただ表象されただけの形態なのです。というのも、鉄や亜麻布、小麦などの商品の価値というものは、それ自体としてはまったく目に見えないばかりか思い浮かべることさえできないものです。しかし、それらの価値はそれらの物のなかに確かにあるのです。だからこれらの価値を、それらと同じ物である金と等しいものとすることによって、それらの物としての諸商品の頭の中に、自分の価値を一定量の金として表象させることになるのです。

だからこそ、商品の保護者(所持者)は、表象として思い浮かべられた商品の価格を外界に伝えるためには、自分の舌で商品の代弁をする(「さぁー、いらっしゃい、安いですよ。一つ○○円です。さあさあ、いかがですかー。」と呼びかける)か、あるいは商品に紙札(「○○円」という値札)をかかげるかしなければならないのです。金による商品の価値の表現は観念的なものですから、その操作、つまり諸商品の価値の貨幣による表現という操作に必要な貨幣(金)も、やはりただ想像されただけの、あるいは観念的な、金が使われます。しかし商品の保護者(所持者)なら、誰でも知っていますが、彼が自分の商品の価値に価格の形態、すなわち想像された金形態を与えたとしても、彼はとうていまだその商品を現実の金に転化したわけではないのです。だからまた何百万もの商品の価値を金で評価するとしても、現実の金はまったく一つも必要としないわけです。だから価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、または観念的な貨幣として役立つだけなのです。このような事情は、様々な荒唐無稽な理論を生み出しました。

価値尺度という機能のためには、ただ想像されただけの貨幣で十分なのですが、しかし、実際に表現された価格がどうなるかということになると、現実に存在している実在的な貨幣材料(金)に依存しているのです。だから、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って、同じ1トンの鉄の価値は、まったく違った価格表現を受け取ることになります。言い替えれば、金、銀、銅のまったく異なる量によって表象されことになるわけです。

だから二つの異なる商品、例えば金と銀とが同時に価値尺度として使われると、すべての商品は二通りの違った価格表現、すなわち金価格と銀価格というような価格を持つことになります。金と銀との価値の比率が不変であるなら、例えば1対15というように常に同じなら、こうした二重の価格表現は大きな混乱なしに推移します。しかし、この価値比率に変動が生じるなら、その度に、商品の金価格と銀価格との比率が混乱し、こうして、価値尺度の二重化は、その本来の機能と矛盾するということが、事実によって証明されることになるのです。

この第3章では貨幣の機能について見ていきますが、まず、第1節で貨幣の価値尺度機能を扱います。ここでは、はじめにあたって概論的な説明を試みています。

ある商品の価値を金で表現すると(たとえば商品AのX量=貨幣商品のY量)、これはこの商品の貨幣形態であり、これを価格と呼ぶ。たとえば鉄の価値を社会的に通用する形で表現するには、[これまでの一般的な相対的な等価形態のような多数の商品の価値と等置するのではなく]1トンの鉄=2オンスの金という単独の等式があれば十分である。この等式はもはや他の商品の価値等式と並べて行進させる必要はない。金という等価物商品が、すでに貨幣の性格をもっているからである。だから商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは商品の最初の姿、すなわち単純な(あるいは個別的な)相対的価値形態にもどることになる。

他方で、展開された相対的な価値表現、すなわち多数の相対的な価値表現の終わりなき連鎖は、貨幣商品の特別な相対的価値形態となる。しかしいまやこの連鎖は、商品の価格のうちに社会的に示されているのである。しかしいまやこの連鎖は、商品の価格のうちに社会的に示されているのである。物価表を逆に[つまり貨幣の側から]読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品によって表現されていることがわかる。これにたいして貨幣はけっして価格をもたない。もしも貨幣が[価格をもとうとして]他の商品が作りだしている統一的な相対的価値形態に参加しようとしたならば、自分自身の等価物として自分と関係しなければならなくなるだろう。

この価格、すなわち商品の貨幣形態は、商品の価値形態一般と同じように、手で掴むこともできる商品の実在的な身体の形態とは異なる観念的な形態であり、思い描かれた形態である。鉄や亜麻布や小麦などの価値は目に見えないが、これらの物そのもののうちに現実に存在している。この価値は、金と等置されることによって、いわば物の頭のうちに幽霊のように憑いている金との関係によって、思い描かれるのである。

だから商品の保護者たちは、自分の商品の頭の中に舌をつっこむ[商品を代弁する]必要があり、外部世界にその価格を伝えるために、値札をぶら下げる必要があるのである。商品の価値を金で表現するのはこのように観念的なものであるから、[値札を下げるという]この行為には、ただ思い描いただけの観念的な金を使うことができる。商品の保護者たちは誰でも、自分の商品の価値に価格、すなわち思い描かれた金の形の形態を与えたとしても、その商品は金に化けるわけではないこと、また数百万もの商品を金で表現するためには、一かれらの金も現実に必要ではないことをよく知っているのである。だから貨幣が価値の尺度としての機能をはたすときには、たんに思い描かれた観念的な貨幣として役立つだけである。このためきわめて荒唐無稽な理論が生まれたのだった。

このように思い描かれた貨幣は、価値の尺度を示すという機能をはたすが、価格は現実の貨幣材料だけによって決まるのである。たとえば1トンの鉄に含まれる価値、すなわち一定の人間労働の量は、同じ量の労働を含むと考えられた貨幣商品の量で表現される。だから貨幣商品として金、銀、銅のいずれが利用されるかにおうじて、1トンの鉄の価格はまったく異なる価格で表現されるのであり、異なる量の金、銀、または銅で思い描かれるのである。

このため二つの異なる商品、たとえば金と銀が同時に価値の尺度として役立つならば、すべての商品は二種類の異なる価格表現、すなわち金価格と銀価格をもつことになる。金にたいする銀の価値の比率が、金1にたいして銀15のような一定の比率を保つならば、この二つの価格は問題なく共存できる。ところがこの比率が変動するならば、金価格と銀価格の比率は攪乱されてしまうのであり、価値尺度が二つあることが、その機能と矛盾したものであることが、事実によって証明されてしまうのである。

 

貨幣の度量単位と度量標準

価格の決まっている商品は、すべて、a量の商品A=x量の金、b量の商品B=z量の金、商品Cのc量=y量の金 というような形で表わされる。ここでは、a、b、cはそれぞれ商品種類A、B、Cの一定量を表わしており、x、z、yはそれぞれ金の一定量を表わしている。それだから、商品価値はいろいろな大きさの想像された金量に転化されているのであり、つまり、商品体が種々雑多であるにもかかわらず、同名の量に、すなわち金量に、転化されているのである。このようないろいろな金量として、諸商品の価値は互いに比較され、計られるのであって、技術上、これらの金量を、それらの度量単位としての或る固定された金量に関係させる必要がおおきくなってくる。この度量単位そのものは、さらにいくつもの可除部分に分割されることによって、度量標準に発展する。

金や銀や銅は、それらが貨幣になる以前に、すでにこのような度量標準をそれらの金属重量においてもっている。たとえば、1ポンドは度量単位として役だち、それが一方ではさらに分割されてオンスなどとなり、他方では合計されてツェントナーなどとなるのである。それだから、すべての金属流通では、重量の度量標準の有り合わせの名称がまた貨幣の度量標準または価格の度量標準の元来の名称にもなっているのである。

価格規定を受けた商品は、すべて次のように表示されます。

商品Aのa量=金のx量

商品Bのb量=金のy量

商品Cのc量=金のz量      等々

ここでA、B、Cは商品の種類を、a、b、cはそれぞれの種類の商品の使用価値の一定量を表し、x、y、zは金の一定量を表しています。だからすべての商品の価値は、さまざまな大きさに想像された金の量によって表示されます。商品の種類がどんなに多くて複雑であっても、それらは金の一定量というまったく同じものに、転化されているわけです。だからこそ、諸商品の価値は、さまざまな金の量として、互いに比較され、測られ合うことが出来るわけです。さまざまな商品の価値はさまざまな金の量として表されるので、それらがどれだけの金の量かを一目でわかるように、ある固定された量の金を度量単位として、それに関連させて、それぞれの商品の価値を表す金の量を測る必要が技術的に生じてきます。これが度量単位で、それはさらに細かく割り切れる分量に分割されることによって、度量基準に発展していくものです。

要するに、商品の価格形態というのは、それが貨幣になるべきこと(売られるべきこと)を表していますが、しかしそれが必ずしも貨幣に転化できる(売れる)とは限りません。商品がその価格通りに売れるかどうかは偶然のことのように見えるわけです。だから価格形態ではそれは依然としてただ潜在的に(可能性として)あるわけですから、それはまだ観念的なものであり、想像されたものだということです。しかしマルクスは同時に商品の価格は観念的な想像されたものですが、しかしその商品の価値を尺度して価格として表示する金の存在は現実的であると指摘しています。

一方、量というのは、見ればそれがどれだけのものか分かるものもあり、自分で手に持てばその重さで分かるものもありますが(しかし内包量のようにそれだけでは分からない量もあります)、しかしそれがどれだけの量かといわれとそれを表現することはできません。長さだと二つのものを並べてどちらが長いか短いかという比較はできますが、また二つのリンゴを両手に持ってだいたいどちらが重いか軽いかをいうことはできますが、ではどれだけの長さか、どれだけの重さか、と聞かれると答えようがないことになります。だからどれだけの量かを表現するためには、一定の量を基準として、その何倍か、あるいは何分の一かという形で数で表現する必要が生じてくるわけです。金による価値の表現においては、表象された金の量を表現するために、そうした作業が技術的に必要になるということです。しかしここで注意が必要なのは、それはあくまでも金の量を表現することであって、商品の価値の量を表すことではないということです。 

金、銀、銅は、もともと貨幣になる前に、すでに金属として、その重さによる度量基準を持っています。つまりそれらの大きさはその重さによって測られていました。だからその重量基準が、そのまま貨幣の度量基準になり、例えば1ポンドが度量単位として役立って、それが分割されて、オンスなどになり、さらには合算されてツェントナーなどになったのです。だから、すべての金属貨幣の流通では、重量の度量基準が、そのまま貨幣の度量基準やあるいは価格の度量基準の最初の呼称になっているのです。 

価格が定められた商品はすべて次の形で表現される。商品Aのa量=金のx量、商品Bのb量=金のy量、商品Cのc量=金のz量など。この式でa、b、cは商品A、B、Cの特定量を示し、x、y、zは金の特定量を示している。したがって商品の価値は、異なる大きさで思い描かれた金の量に変わっているのである。商品体の種類はきわめて多様であるが、同名の量に、すなわち金の量に変わっているのである。さまざまな商品はこのようにさまざまな金の量としてたがいに比較しあい、計算しあう。そこから、商品の度量単位として、固定された金の量にさまざまな商品価値を関係づけることが、技術的に必然的なものとなる。この度量単位そのものはさらに小さな可除部分に分割されると、度量標準に発展する。

金、銀、銅はそれぞれが貨幣になる以前から、それぞれの金属の特定の重量が、こうした度量標準となっている。だから1重量ポンドは度量単位として役立つのであり、それがさらにオンスなどの単位に細分される一方で、合算されるとキログラムなどの単位になる。そのため、どの金属の流通においても、重量の度量標準の既存の名前に基づいて、貨幣の度量標準の名前、すなわち価格の度量標準の名前がつけられているのである。

 

貨幣の機能

価値の尺度および価格の度量標準として、貨幣は二つのまったく違った機能を行う。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量標準であるのは、固定した金属重量としてである。それは、価値尺度としては、種々雑多な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化されるのに役だち、価格の度量標準としては、この金量を計る。価値の尺度では諸商品として計られるのであるが、これにたいして、価格の度量標準は、いろいろな金量をある一つの金量で計るのであって、ある金量の価値を他の金量の重量で計るのではない。価格の度量標準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければならない。この場合には、すべての他の同名の量の度量規定の場合と同じに、度量比率の固定性が決定的である。したがって、価格の度量標準は。一つの同じ金量が度量単位として役だつことが不変的であればあるほど、その機能をよりよく果たすのである。価値の尺度として金が役だつことができるのは、ただ金そのものも労働生産物、つまり可能性から見て一つの可変的な価値であるからこそである。

貨幣は、価値の尺度として、または価格の度量基準として、二つのまったく異なる機能を果します。貨幣が価値の尺度であるのは、人間労働の社会的化身としてであり、価格の度量基準であるのは、固定された金属重量としてです。貨幣は、価値尺度としては、多種多様な商品の価値を価格に、すなわち想像された金量に転化することに役立ちます。価格の度量基準としては、その想像された金量を測るわけです。だから価値の尺度としては、さまざまな商品の価値が計られるのです。それに対して、価格の度量基準というのは、金の分量をある決められた金量を単位にして測るのです。だから価格の度量基準というのは、ある金量の価値を別の金量の重量ではかるのではありません。

価格の度量基準のためには、一定の金重量が度量単位として固定されなければなりません。この場合、どんなものの量についても、その度量規定を行おうとすれば、度量比率が変わらないことが必要です。だから、価格の度量基準の場合も、同一量の金が度量単位として変わることなく役だてば役立つほど、それだけよくその機能を果たすのです。ところが、金が価値の尺度として役立つことができるのは、金そのものが他の労働生産物と同じように価値を持った一つの商品だからです。そうでなければ、諸商品は、金を自己の価値に等しいものとして等置し、それによって自己の価値を共同で表すことはありえないのです。そして商品であるなら、その価値はその生産に社会的に必要な労働が対象化したものであり、その量は生産力が変われば必要労働時間も変わり、変化します。だから金は、可能性から見て、絶えず可変的な価値であるからこそ、他の商品に対する価値の尺度たりうるのです。

ここで言っているのは、貨幣としての金が、価値の尺度として果す機能と、価格の度量基準として果す機能とは、まったく異なるものだということです。この二つの機能は区別しにくいのですが(マルクスは別のところでブルジョワ経済学は混同していると批判しています)、貨幣としての金が、価値の尺度としての機能を果すということは、商品に対象化された抽象的な人間労働、つまり価値という純粋に社会的なものを、金という物的なものの一定量として表現するということです。つまり金という自然物(その使用価値)そのものが、その姿のままで価値というまったく社会的なものとして認められているわけです。〈人間労働の社会的化身〉というのはそういう意味だと思います。前のところでやりましたが、商品の価値に値札をつけるという機能で、いわゆる一般的等価物としての機能です。この時点では観念的に価値が表現されただけで、現実の金に転化されたわけではないのです。

他方、貨幣が価格の度量基準であるということは、貨幣(金)がある決まった金属重量物であるということだけが問題なのです。つまりその金属の重量基準に基づいて価格として表象された貨幣(金)の分量が計られるということです。現実に貨幣として金に換算して購入する場面で、その観念的な価格に相当する金の一定量の物で現実の交換で使えるという機能です。実際に、例えば、私たちにおなじみの貨幣の度量単位はもちろん「円」です。現代では管理通貨制度に移行し、金と兌換できなくなりましたので、ピンとこないかもしれませんが、戦前の貨幣法では、「1円=750ミリグラムの金」と定められていました。この単位によって貨幣である金の量を表し、さらにはこの金で表現される価格の大きさを表すので、この単位は貨幣の度量単位であると同時に、価格の度量単位であるということになります。こうして、現実には、商品の価格は、「1キログラムの鉄=750ミリグラムの金」というかたちで言い表されるのではなく、「1キログラムの鉄=1円」というかたちで言い表されるようになります。

したがって、価値尺度としての金は二重に機能するということになります。価格としては観念的に、度量基準としては現実的に、この両者はもちろん相互に深く関連しています。観念的にすでに価値尺度として機能しているからこそ、度量基準は購入の場面において現実的尺度として機能することができるのです。他方、金が現実の度量基準として機能しているからこそ、それは観念的尺度としても容易に機能することができるのです。

なお、この度量については、例えば日本とアメリカで同じ1キロと言っても、実際は重さが異なるとか、同じ重さについて昔は1キロといったが、今は違うなどというのでは、実用には耐えません。だから度量単位は固定されていなければ駄目だということです。価格の度量基準としての表象された金量を測る場合も同じだということです。 

貨幣は、二つのまったく異なる機能をはたす─貨幣は価値の尺度であるとともに、価格の度量標準でもある。貨幣は人間労働が社会的に受肉したものとしては、価値の尺度である。また貨幣は固定された金属重量としては、価格の度量標準である。価値の尺度としての貨幣は、さまざまな多彩な商品の価値を価格に、すなわち思い描かれた金の量に変える。価格の度量標準としての貨幣は、この金の量を量るのである。

商品は価値の尺度によってたがいに価値として測られるが、価格の度量標準は反対に、金のさまざまな量を、一つの金の量で量るのであり、一つの金の量の価値を他の金の重量で測るのではない。価格の度量標準のためには、特定の金の重量を度量単位として固定する必要がある。同名の量の度量規定の場合につねに確認されるように、価格の度量標準の場合にも、この度量比率が固定されることが決定的に重要である。度量単位としてつねに同一の量の金が利用されるならば、金は価格の度量標準としての機能をよりよくはたすことができる。金が価値の尺度として役立つことができるのは、金そのものも労働の生産物だからであり、変動する可能性のある価値だからである。

 

金の価値の変動が二つの機能に及ぼす影響

まず第一に明らかなことは、金の価値変動は、金が価格の度量標準としての機能することをけっして妨げないということである。金価値がどんなに変動しても、いろいろな金量は相変わらず互いに同じ価値関係を保っている。金価値が1000%下落したとしても、12オンスの金は相変わらず1オンスの金の12倍をもっているであろう。そして、価格ではただいろいろな金量の相互の関係だけが問題なのである。他方1オンスの金がその価値の増減につれてその重量を変えることはけっしてないのだから、同様にその可除部分の重量も変わらないのであり、したがって、金は、その価値がどんなに変動しても、いろいろな価格の固定した度量標準としては、つねに同じ役だちをするのである。

金の価値変動はまた金が価値尺度として機能することも妨げない。金の価値変動はすべての商品にたいして同時に起きるのだから、その事情が同じならば、金の価値変動は諸商品の相互の相対的な価値には変化を起こさないのである。といっても、いまでは商品はみな以前よりも高いかまたは低い金価格で表わされるのではあるが。

価格の度量基準の機能と価値尺度の機能とが、まったく異なるものであるなら、金の価値が変動しても、価格の度量基準としての機能を決して損なわないことは、明らかです。それは金の価値がどんなに変動しても、異なる金の量は、やはり同じように、その違いを変えずに、同じ比率を保っているからです。金の価値が、例え1000%低下しても、12オンスの金は1オンスの金の12倍の価値を持っています。価格において問題になるのは、異なった金量の相互の比率だけなのですから。

他方、1オンスの金は、たとえその価値が変わろうとも、その重量を変えることは決してありませんから、その加除部分の重量もまた、その価値の変動によってその重量を変えることはありません。だから、金は、その価値がどんなに変動したとしても、価格の決まった度量基準としてはつねに同じ役割を果たすのです。

つまり、商品の使用価値は、商品の自然属性であり、商品の価値は幻のような社会的な属性です。両者はまったく対立した属性なのです。だから商品の価値が変化しても、その使用価値には何の変化もありません。例えば1グラムの金の価値が変化して、以前は上衣1枚に値したものが、今は上衣2枚に値するようになったとしても、1グラムの金の重量はあくまでも1グラムの金であるように。価格の度量基準の機能というのは、貨幣としての金の物理的な量の問題であり、使用価値の問題です。だから貨幣としての金の価値がたとえ変化したとしても、その使用価値の量には何の影響もないのです。価格の度量基準として機能するためには、単位となる金の量が固定されることが何より重要ですが、しかしそのことは金という使用価値の量の固定であって、金の価値の固定ではありません。だから価値の変化が使用価値の量にどんな変化ももたらさないように、金の価値変動は、価格の度量基準の機能を決して損なわないのです。 

すぐに明らかになるのは、金の価値が変動しても、価格の変動標準としての機能を妨げることは決してないということである。金の価値が変動したとしても、さまざまな金の量の相互の価値関係はつねに一定している。金の価値が1000%低下したとしても、12オンスの金の価値は、1オンスの金の価値の12倍であることに変わりはない。価格について重要なのは、さまざまな金の量の相互的な関係だけなのである。また1オンスの金の重量は、金の価値が増減してもまったく変化しないし、その可除部分の重量も変化しない。だから金の価値がどれほど変動したとしても、価格の固定された度量標準としてつねに同じ役割をはたすのである。

また金の価値が変動しても、価値の尺度が妨げられることもない。金の価値の変動はすべての商品に同じように影響するのだから、他の事情が同一であれば、商品の相互の相対的な価値は変動しない。ただそれまでよりも高いか低い金の価格で表現されるだけのことである。

 

商品価格の変動と貨幣価値

一商品の価値をなんらかの別の商品の使用価値で表わす場合と同様に、諸商品を金で評価する場合にも、そこに前提されているのは、ただ、一定の時には一定量の金の生産には一定量の労働が必要だということだけである。商品価格の運動に関しては、一般には、以前に展開された単純な相対的価値表現の法則があてはまるのである。

商品価格が一般的に上がるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が上がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が下がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が上がる場合だけである。だから、貨幣価値の上昇は商品価格の比例的な低下を必然にし貨幣価値の低下は商品価格の比例的な上昇を必然にするということは、けっしてないのである。そうなるということは、ただ価値の変わらなかった商品だけにあてはまることである。たとえば、その価値が貨幣価値と同程度に同時に上がる商品は、同じ価格を保っている。もし商品の価値が貨幣価値よりもおそく上がるかはやく上がるかすれば、その商品の価値の低下または上昇は、商品の価値運動と貨幣の価値運動との差によって規定される、等々。

相対的価値形態では、一商品の価値を他の何らかの商品の使用価値で表現しました。それと同じように、諸商品の価値を、金の使用価値(その量)で評価する場合も、ただ金も一つの商品であり、その生産には特定の量の労働が必要だということだけです。だから金で評価された諸商品の価格の運動についても、すでに第1章で述べた単純な価値形態の諸法則が当てはまります。

諸商品の価格が全般的に上がるのは、貨幣価値が一定であれば、商品の価値が全般的に上がる場合だけですし、もし商品の価値が変わらないのであれば、貨幣価値が下がる場合だけです。

反対に、諸商品の価格が全般に下がるのは、貨幣価値が一定であれば、諸商品の価値が下がる場合だけであり、諸商品の価値が変わらないのであれば、貨幣価値が上がる場合だけです。

 だから、貨幣価値が上がれば、それに比例して商品の価格が下がり、貨幣価値が下がれば、それに比例して商品の価格が上がるということには決してなりません。こういうことは、ただ価値の変わらなかった商品についてだけに言えることです。その価値が貨幣価値と同時にそして同じ程度に上がる商品については、その価格はまったく変わりません。またもしも商品の価値が貨幣価値よりもゆっくり上がるか、あるいは速く上がる場合には、商品の価格が下がるか、上がるかは、その商品の価値変動と貨幣の価値変動との差によって規定されてくるでしょう。 

一つの商品の価値を何らかの他の商品の使用価値で表現しようとする場合につねに想定されていることだが、さまざまな商品を金で評価するときには、その時代において、特定の金を生産するためには、特定の量の労働が必要であることだけが想定されている。商品価格の変動については一般に、すでに考察した単純な相対的な価値の表現の法則があてはまる。

貨幣価値が一定であれば、商品価格が全般的に上昇しうるのは、商品の価値が上昇する場合だけである。商品の価値が同じであれば、貨幣価値が低下しなければ、商品価値が全般的に上昇することはない。

逆に貨幣価値が一定であるときに、商品価値が全般的に低下しうるのは、商品の価値が低下する場合だけである。商品の価値が同じであれば、貨幣価値が上昇しなければ、商品価値が全般的に低下することはない。

だから商品の貨幣価値が上昇すると、それに比例して商品価値が必ず低下するとは言えないし、商品の貨幣価値が低下すると、それに比例して商品価格が必ず上昇するとも言えない。こうしたことは、商品の価値が不変である場合だけに言えることである。たとえば貨幣の価値が上昇しても、商品の価値と同時に、しかも同程度に上昇するならば、商品の価格は変動しない。商品の価値が[同時ではなく]貨幣の価値の増減よりも遅れて増減する場合は、商品の価格の増減の大きさは、商品の価値の変化と貨幣価値の変化の差異によって定められるのである、などなど。

 

貨幣の名

そこで、また価格形態の考察に帰るとしよう。

種々の金属重量の貨幣名は、いろいろな原因によって、しだいにそれらの元来の重量名から離れてくるのであるが、その原因のうちでは次のものが歴史的に決定的である。(1)発展程度の低い諸民族における外国貨幣の輸入。たとえば、古代のローマでは、金銀の鋳貨は最初の外国商品として流通していた。このような外国貨幣の名称は国内の重量名とは違っている。(2)富の発展につれて、あまり高級でない金属はより高級な金属によって価値尺度機能から駆逐される。銅は銀によって、銀は金によって。たとえばこの順序がすべての詩的年代記と矛盾していようとも。たとえば、ポンドは、現実の1ポンドの銀を表わす貨幣名だった。金か価値尺度としての銀を駆逐するやいなや、同じ名称が、金と銀との価値比率にしたがって、たとえば15分の1ポンドというような金に付着する。貨幣名としてのポンドと、金の普通の重量名としてのポンドとは、いまでは別のものとなっている。(3)何世紀にもわたって引き続き行われた王侯による貨幣変造。これは鋳貨の元来の重量から実際にはただ名称だけをあとに残した。

このような歴史的過程は、いろいろな金属重量の貨幣名がそれらの普通の重量名から分離することを国民的慣習にする。貨幣度量標準は、一方では純粋に慣習的であるが、他方では一般的な努力を必要とするので、結局は法律によって規制されるようになる。貴金属の一定の重量部分、たとえば1オンスの金は公式にいくつかの可除部分に分割されて、それらの部分にポンドとかターレルとかいうような法定の洗礼名が与えられる。そこで、このような可除部分は、貨幣の固有の度量単位として認められるのであるが、それは、さらにシリングやペニーなどのような法定の洗礼名のついた別の可除部分に細分される。それでもやはり一定の金属重量が金属貨幣の度量標準である。変わったのは、分割と命名である。

価格形態の考察に戻りましょう。

金属重量の貨幣の名称(例えば、ポンド)は、さまざまな理由で、もとの重量の名称とは違うものになっていきます。このさまざまな理由のなかで、歴史的に重要なものとして、次のようなものを挙げることができます。第一に、発展程度の低い諸国民のもとへ外国貨幣を導入する場合。たとえば、古代ローマでは、金鋳貨と銀鋳貨は、最初はまず外国商品として流通しましたが、これらの外国貨幣の呼称は、国内の重量名とは異なっていました。

第二に、富が増大するにつれて、低級な貴金属は高級な貴金属によって、すなわち銅は銀によって、銀は金によって、貨幣の金属から押しのけられます。ただし、この順序があらゆる詩的年代記と矛盾しているかもしれませんが。たとえば、貨幣の名称としての「ポンド」は、現実の1重量ポンドの銀に付けられたものでした。金が価値尺度としての銀を駆逐すると、同じ呼称が、つまり「1ポンド」という貨幣の名称が、その時の金と銀との価値比率[1対15]にもとづいて、例えば15分の1重量ポンドの金につけられることになります。だからこうなると重量としては15分の1ポンドなのに、貨幣名としては、それを「1ポンド」と呼ぶことになるのです。だから貨幣名としてのポンドと、金の慣習的な重量名としてのポンドとは、今や別物となるのです。

第三に、何世紀にもわたって続けられてきた王侯による貨幣の変造によって、鋳貨の元来の重量からは、実際にその呼称だけが残されることになったのです。

このようにして歴史的なプロセスを経て、金属の重量に由来する貨幣名と、それが実際に習慣的に決まっている重量名とが分離することがどこでおきてきます。一方で、貨幣の度量基準、つまり貨幣の名称は、商品交換のなかで慣習的に決まってきます。だから各国の各地域によって一様でなく様々なものになっていきました。しかし、商品交換が発展し、広がれば広がるほど、それはどこでも同じでなければ、商品の交換を広く普及させることはできません。だから、結局は、最終的には国によって、法律によって規制されることになるのです。

たとえば1オンスの金が、政府によって可除部分に分割されて、ポンド、ターレルなどのような、法律で決められた名前が付けられるようになります。その時に決められた、貨幣の本来の度量単位として通用することになるこのような可除部分は、さらに下位の可除部分に細分されて、シリング、ペニーなどのような法律によって決められた名前を受け取るわけです。しかしこのことは、一定の金属重量が金属貨幣の度量基準であるということそのものは何の変わりもありません。変えられたのは、ただ分割の仕方とそれに付けられた名前だけです。

貨幣の度量標準は、歴史的経緯の中で「純粋に慣習的」に形成されていきますので、一国の中でさまざまな度量標準が併存してしまう可能性があります。しかし、度量標準には「一般的な効力」が必要であり、一国の中では統一される必要があります。そのため、「最終的には法律によって規制される」ことになります。

ここから分かるのは、貨幣が現実に価値尺度として機能するには、国家の介入が不可欠だということです。これまでは、私的生産者とその生産物だけが登場し、議論が進められてきましたが、ここでついに「法律」というかたちで国家が登場してきたことになります。

なお、はじめのところに〈貨幣の名称〉という用語が出てきます。価格の度量基準というのは、商品の価値を尺度するために表象された貨幣商品の金の使用価値量を数量的に表すためのものでした。金の使用価値の量を測るためには、その重さを計ります。つまり習慣的には重量の基準が使われたのです。もともと相対的価値形態の分析で明らかになりましたが、相対的価値形態にある商品の価値を表す等価形態にある商品の使用価値の量的表現は、純粋に習慣的なものでした。例えば、等価形態にある上着の使用価値量を一着、2着と数える数え方は、習慣的なものです。靴なら一足、二足と数えます。金の場合はそれを重量で数えたというだけのものです。等価形態にくる諸商品と同じように貨幣金の場合も、何で数えるかは、その意味では習慣的なものであり、当初は、手近な重量単位が使われたに過ぎません。だから習慣的に決められるものなら、国王や政府が、法令で決めることもまた可能なわけです。ただ、歴史的には観念的に表象された金量という価格の度量基準についても、当初は、重量の基準がそのまま貨幣金の数量を表すものとして、すなわち度量基準として利用されたのです。そしてこの観念的に表象された貨幣金の数量を表したものを、〈貨幣の名称〉と言うのです。それが、後のところで、〈貨幣の名称〉が〈または金の度量基準の法律的に有効な計算名〉と言い換えられます。そこで貨幣の名称というのが、金の度量基準が、法律で社会的に有効なものとして定められたものに変わってくることを示しています。

こうして、価格、または商品の価値が観念的に転化されている金量は、いまでは金の度量標準の貨幣名または法律上有効な計算名で表現される。そこで、1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言うのに代わって、イギリスでならば、それは3ポンド・スターリング17シリング10ペンス半に等しいと言われることになるであろう。このようにして、諸商品は、自分たちがどれほどに値するかを、自分たちの貨幣名で互いに語り合うのであり、そして、貨幣は、ある物を価値として、したがって貨幣形態に、固定することが必要なときには、いつでも計算貨幣として役だつのである。

ある物の名は、その物の性質にとってはまったく外的なものである。ある人の名がヤコブだということを知っても、その人についてはなにもわからない。それと同じに、ポンドやターレルやフランやドゥカーテンなどという貨幣名では、価値関係の痕跡はすべて消えてしまっている。これらの不可思議な章標の秘儀についての混乱は、貨幣名が商品の価値を表わすと同時に或る金属重量の、すなわち貨幣度量標準の可除部分をも表わすので、ますますはなはだしくなる。他面では、価値が、商品世界の雑多な物体から区別されて、このなんだかわからない物的な、しかしまた純粋に社会的な形態に達するまで発達をつづけるということは、必然的なのである。

したがって、価格、すなわち商品の価値が観念的に転化されている金の量は、いまでは貨幣の名称、または金の度量基準の法律的に有効な計算名で表現されるようになります。だから、1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言うかわりに、イギリスでは、それは3ポンド17シリング10.5ペンスに等しいということになるのです。

これは、小麦が直接金の重量によってではなく、法律で決められた貨幣名であるポンドやシリングやペンスによって表されるようになり、金そのものは価格を表すものとしては表面には出てこなくなるということです。それは内在的には媒介していますが、度量基準が重量基準から離れると、直接的には諸商品の価格には何の関係もないように見えるようになります。諸商品の価格は、ただ法律で決まっている貨幣名、あるいは計算名で測られて表されているだけに見えるのです。

このように、諸商品は、自分たちの価値の大きさを、貨幣名で語ることになります。他方で、貨幣は、ある物を価値として、したがって貨幣形態で、確定する必要がある時にはいつでも、計算貨幣として役立つようになるのです。

つまり、金貨が現実に流通していても、人々は商品の価格を金を直接意識することなく、ただ法的に決まっている貨幣の名称であるポンドとかドルとか円で表すようになります。それがどれだけの金量に付けられた貨幣名であるかということは、直接には意識されなくなるのです。

ある物の名称は、その性質にとってまったく外的なものです。例えばある人の名がヤコブであると分かっても、それだけでは、私たちはその人物については何も分からないのです。同じように、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカートなどの貨幣の名称には、価値の関係のすべての痕跡が消え失せているのです。

このような、まるでユダヤ教神秘主義のカバラを想わせるような神秘的な象徴の隠された意味にかんする混乱は、これらの貨幣の名称が、商品の価値と同時に、ある金重量の可除部分、つまり貨幣の尺度基準の可除部分をも表しているだけに、さまざまな困惑と混乱を引き起こします。

ここで言われていることは次のようなことです。貨幣の名称というのは、そもそも法的に金の度量基準が社会的に有効なものとして定められたものです。つまり一定の金重量にポンド、ターレルという法定の貨幣名がつけられて、それが分割されてシリング、ペニーと名前がつけられたものです。しかし1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいというかわりに、3ポンド17シリング10.5ペンスだということになると、3ポンド17シリング10.5ペンスというのは、小麦の価値を価格として表すだけでなく、金1オンスの価格でもあるように見えてくるということです。これを鋳造価格と呼び、国家が金の価格を決めることができるかのような錯覚が生じてくることになるわけです。

他方で、価値が、様々な商品について物体という面から区別されて、この内容のない物的な形態に、しかしまた、まさしく社会的な形態にいたるまで発展し続けるということは、必然的なのです。

円やポンドなどの貨幣の名称で言い表される度量標準によって貨幣の物量を量ることができるということには、どこにも難しいことはありません。しかし、貨幣は商品の価値を表現する価値尺度であり、「1キログラムの鉄=1円」などというかたちで、商品の価格もまたこの同じ価格標準で表されることになります。このように、「貨幣の名称が商品の価値を表すと同時に、ある金属重量の、すなわち貨幣度量標準の可除部分をも表す」ことから、貨幣の度量標準をめぐる理論的混乱が発生します。というのは、このことによって、国家が「計算名を一定の金重量に固定することが、この重量の価値を固定することと見まちがえ」られるからです。つまり、国家が貨幣の価値を決定するかのような幻想を生み出すのです。

さらに、このような理論的混乱に基づいて、国家が、たとえば、750ミリグラムの金は1円ではなく、2円であるなどと貨幣の度量標準を変更することによって、「国民の富」を倍増させることができるというような「経済的「奇跡」療法」さえ考え出されるようになります。もちろん、このように貨幣となる金の物量を量る単位を変更することによっては、「国民の富」を増やすことはできません。

ここで価格形態の考察に戻ろう。

金属重量の貨幣の名称は、さまざまな理由で、もとの重量の名称とは違うものになっていく。こうした理由のうちで、歴史的に重要なものとして、次のようなものが挙げられる。第一に、あまり発展していない民族のもとに、外国の貨幣が導入された場合がある。たとえば古代のローマでは、銀の貨幣と金の貨幣は当初は外国の商品として流通していた。この外国の貨幣の名称は、国内の[銀と金との]重量の名称とは異なっていた。

第二に、富が増大するとともに、低級な金属は高級な金属に、その価値の尺度としての機能を奪われる。銅は銀によって、銀は金によって貨幣としての機能を奪われる。ただしこの貨幣の機能の剥奪が、詩的な年代記で語られる順序と矛盾するとしてもである。たとえばポンドは、現実の1重量ポンドの銀の名称だった。金の価値が尺度として銀を駆逐すると、[1対15という]金と銀の価値比率におうじて、15分の1重量ポンドの金に、同じポンドという名称がつけられた。現在では貨幣の名称としてのポンドと、金の重量の名称としての重量ポンドは分離されている。

第三に、君主が数百年ものあいだ、貨幣の変造をつづけたことがあげられる。そしてもともとは鋳貨の重量の名称であったものが、貨幣の名称として残ったのである。

このような歴史的なプロセスのために、金属の重量の名称に由来する貨幣の名称が、その金属の通常の重量の名称とは分離することが、民族的な慣習になったのだった。一方で、貨幣の度量標準は純粋に慣習的なものであり、他方では一般的に通用する必要があるので、結局はこの度量標準は法律によって規制されるようになった。

貴金属の特定の重量部分、例えば1オンスの金は法律の定めによって正式に、異なる可除部分に分けられて、それらにポンドやターレルなどの法的な洗礼名が与えられる。このような可除部分はこれによって貨幣のほんらいの度量単位として流通するようになる。これはさらに小さな可除部分に分けられて、シリングやペニーなどの法的な洗礼名を与えられるのである。金属の特定の量が金属貨幣の度量標準であることに変わりはない。その分割の仕方と名称だけがかわったのである。

こうして価格、すなわち商品の価値が観念的に転化されている金の量は、今では金の度量標準の貨幣の名称で、あるいはその法的に有効な計算名で表現される。だから1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言う代わりに、イギリスでは1クォーターの小麦は3ポンドの17シリング10ペンス半に等しいと言うのである。このように商品は、自分たちの価値の大きさを貨幣名で互いに語り合うのである。物を価値として確定する必要があるときには、いつでも貨幣は計算貨幣として役立つのである。

ある物の名称は、その物の本性にはまったく外的なものである。ある人がヤコブと呼ばれることを知ったとしても、わたしはその人となりについては何も知らない。同じように、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカーテンという貨幣の名称には、価値関係のいかなる痕跡も残されていない。

そして貨幣の名称が商品の価値を表現すると同時に、ある金属の重量の、すなわち貨幣の度量標準である金属の可除部分も表現するために、このような[ユダヤ教の神秘主義である]カバラ的な記号の秘密をめぐる混乱がますます深まるのである。他方で価値が商品世界のさまざまな物体から離れて、内容のない物的な形態に、そしてたんなる社会的な形態にまで発達していくことも、必要なことである。

 

価格の役割

価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である。それだから、商品と、その名が商品の価格であるところの貨幣量とが等価だということは、一つの同義反復である。というのは、およそ一商品の相対的な価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現だからである。しかし、商品の価値量の指標としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならないのである。かりに、同じ量の社会的必要労働が1クォーターの小麦と2ポンド・スターリング(約0.5オンスの金)とで表わされるとしよう。2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値量の貨幣表現、すなわちその価格である。いま、事情が1クォーターの小麦を3ポンド・スターリングに値上げすることを許すか、またはそれを1ポンド・スターリングに値下げするかを強いるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングとは、この小麦の価値量の表現としては過小または過大であるが、それにもかかわらずそれらはこの小麦の価格である。というのは、第一にそれらは小麦の価格形態、貨幣であり、第二には小麦と貨幣との交換割合の指標だからである。生産条件に変わらないかぎり、または労働の生産力が変わらないかぎり、相変わらず1クォーターの小麦の再生産には同じだけの社会的労働時間が支出されなければならない。このような事情は、小麦生産者の意志にも他の商品所持者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間にたいする或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表わしているのである。価値量さが価格に転化されるとともに、この必然的な関係は、一商品とその外部にある貨幣商品とその交換割合として現われる。しかし、この割合では、商品の位置量が表現されうるとともに、また、与えられた事情のもとでその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。このことは、けっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

価格とは、商品の価値が貨幣によって表現されたもの、よって貨幣の名称によって言い表されたものです。商品の価値というのは、その商品に対象化された抽象的な人間労働が凝固したものです。だから価格は、商品に対象化された労働の貨幣名といえます。よって、商品の価値と、それを価格にしている表象された金量、つまり貨幣量の価値とが等しい、というのはまったくの同義反復なのです。なぜなら、一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性にもとづいた表現だからです。

これは分かりにくい文章になっていますが、これまでの議論では、商品の価値の貨幣での表現をその商品の価格と呼んできました。だから商品の価格とは、商品に対象化された抽象的人間労働の凝固を貨幣の名称にしているといえます。そして、この場合の前提として、商品の価値と、それを価格として表す貨幣=金量の価値とは等しいというのは、ある意味では同義反復といえます。なぜなら、私たちが相対的価値形態の分析で常に前提していたのは、二つの商品の価値が等しいということだからです。つまりここでは、二つの商品を交換するという場合のそれぞれの商品の価値形態やそこから発展した価格形態というのは、価格がそれで表された価値とは量的に等しいことが前提されていたことを確認しているわけです。というのは、これからこのパラグラフではその両者の量的不一致の可能性を論じようとしているからです。だからまずこれまでの分析では両者は一致しているこきを前提してきたことを確認しているわけです。それでは、不一致の可能性に入っていきたいと思います。つまり、売り手と買い手が同じ商品について、異なる価格を考えている場合です。ということは、上に述べた価格というのは、その商品によって自身の価値と等しいと表象された金量だということを考えれば分かります。つまりそれは商品が自分の価値は、○○の金量と等しいと、商品の頭のなかで思い浮かべた金量との交換を一方的に要求しているに過ぎないものなのです。だからその限りではその商品と貨幣との交換比率を指し示すものといえます。しかしそれはいまだ単に商品の側からの一方的な要求にすぎません。しかし実際に、つまり今度は単なる一方的な要求ではなく、事実として、商品所持者と貨幣所持者とが売買交渉し、互いに一致した交換比率、つまり販売価格というものは、決して最初の値札通りとは行きません。たがらその値決めされた交換比率は、商品の価値の大きさを忠実に表しているとは必ずしも言えないわけです。例えば、リンゴ1個につけられた値札が100円だというのは、それが100円の貨幣と交換されるべきことを示していますが、しかし店頭での販売者と購買者の交渉の結果、決まった販売価格は、必ずしも100円とは限りません。あるいは90円かも知れません。だからその値決めされた価格は、リンゴ1個の価値の大きさを忠実に表しているとは限らないということです。 

かりに、等しい大きさの社会的必要労働が、1クォーターの小麦と2ポンド(2分1オンスの金)とによって表されているとしましよう。2ポンド・スターリングは、1クォーターの小麦の価値の大きさの貨幣表現です。つまりその価格です。しかし今、事情によって、1クォーターの小麦に3ポンドの値段をつけることが許されるか、あるいは、それに1ポンドの値段をつけることをよぎなくされるならば、1ポンドと3ポンドとは、1クォーターの小麦の価値の大きさの表現としては、小さすぎるか、または大きすぎるかのどちらかではしょう。しかしにもかかわらず、それらはこの小麦の価格なのです。というのも、第一に、1ポンドも3ポンドも、やはり小麦の価値の貨幣表現であることは確かであり、第二に、小麦がどれだけの貨幣と交換されるべきかを示す指標だからです。

生産条件が変わらない限り、すなわち労働の生産力が変わらない限り、1クォーターの小麦を生産するためには、従来と変わらない量の社会的労働時間をかける必要があります。このような事情は、小麦生産者の意志にも、他の商品所有者たちの意志にも、関係がありません。だから、商品の価値の大きさというのは、その社会が有する総労働のうち、その商品を生産するために必要な労働時間として社会によって配分されるべきものを表すものであり、それはこの商品が生産される社会の中に貫いている客観的な必然的な関係を表しているのです。

これはどういうことかというと、商品の価値の大きさとは何か、ということです。つまり、商品の価格の大きさは、一見すると商品所持者の主観によって決められもののように思えます。商品の生産者は、同じ種類の他の商品の価格表を見て、自分の商品の価格としてどれだけの値を札に書くかを考えるのですから、彼がいくらに書くかは彼の恣意のままのように思えます。しかし実際には決して価格は彼の恣意のままには決めることは出来ないのです。恣意的な価格は、それがまったく売れないか、あるいは売れてもいくらも儲けがないという形で市場から反撃を食らうだけです。だからそれは適正なものとしてはいくらであるかは、商品所持者の意志にはかかわりなく決まってくるものです。むしろ反対に商品の生産者たちは市場で事実として決まってくる商品の価格に左右されて彼らの生産をコントロールしなければならない。コントロールしているのは商品生産者たちではなく、彼らの意志から独立して必然的なものとして、彼らにとっては一つの強制力として作用する商品の形成過程に内在する関係なのです。それは社会的物質代謝を維持するために、社会の総労働をそれらの諸使用価値を生産するに必要な形で配分するように作用する客観的な法則なのです。それが価値法則です。

ただ価値の大きさの価格へと転化されると、この必然的で社会的な関係は、商品の外部に存在する貨幣商品との交換比率として現れてくるのです。しかし、この交換比率そのものは、商品の価値の大きさが表現されうるのと同じように、与えられた事情のもとでは、その商品が価値の大きさよりもより大きかったり、より小さかったりします。このような、価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性は、あるいは価値の大きさから価格が背離する可能性は、価格形態そのもののうちにあるのです。これは、価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、価格形態を、資本主義的生産様式にとっては適切なものするのです。なぜなら、資本主義的生産様式における諸法則というものは、盲目的に作用する無政府的な諸運動のなかに貫く平均的な法則としてのみ自己を貫徹しうるのだからです。 

価格は、商品に対象化された労働の貨幣名である。だから「商品と、商品の価格を表現するため使われる貨幣の量は、等価である」というのは、「一般に1つの商品の相対的な価値表現は、2つの商品の等価性を表現する」というのと同じように同義反復である。ただし商品の価値の大きさの指標である価格は、商品と貨幣の交換比率の指標ではあるが、反対に商品と貨幣の交換比率の指標は、必ずしも商品の価値の大きさの指標であるとはかぎらない。

ある社会的に必要な同量の労働が、1クォーターの小麦でも、2ポンドでも表現されるとしよう。2ポンドは、1クォーターの小麦の価値の大きさの貨幣表現であり、その価格である。ある状況のために、[売り手が]1クォーターの小麦に3ポンドの価格をつけるひとができたが、逆に1ポンドの価格しかつけることができなかったとしよう。この1ポンドまたは3ポンドという値は、この小麦の価値の大きさの表現としては小さすぎるか、大きすぎるものではあるが、それでも小麦の価格であることに変わりない。というのも、それらは第1に小麦の価格形態である貨幣だからであり、第2に小麦と貨幣の交換比率を示す指標だからである。

生産条件に変動がないかぎり、あるいは労働の生産力に変動がないかぎり、1クォーターの小麦を生産するためには、あいかわらず以前と同じ量の社会的な労働時間を投じる必要がある。これは小麦生産者の意志とも、他の商品所持者の意志ともかかわりのないことである。だから商品の価値の大きさは、社会的な労働時間との関係を表現するものであり、この関係は必然的なものであって、商品の形成プロセスに内在的なものなのである。

価値の大きさが価格に転化されると、この必然的な関係は商品の外部に依存する貨幣商品とその交換比率として現れる。この交換比率のうちには、商品の位置の大きさが表現されるとともに、特定の状況において商品が売買される際の価値の大小も表現されうる。だから価格と価値の大きさが量的に一致しない可能性、すなわち価格が価値の大きさからずれる可能性は、価格形態そのもののうちに潜んでいるのである。これはこの価格形態の欠陥ではなく、反対にこの価格形態を生産様式にふさわしい形態にするものである。この生産様式では、盲目的に働く無規則性の平均法則だけが、規則として貫徹しうるのである。

 

価格形態の役割

しかし、価格形態は、価値量と価格との、すなわち価値量とそれ自身の貨幣表現との、量的な不一致の可能性を許すだけではなく、一つの質的な矛盾、すなわち、貨幣はただ商品の価値形態でしかないにもかかわらず、価格がおよそ価値表現ではなくなるという矛盾を宿すことができる。それ自体としては商品でもないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣とひきかえに売ることのできるものであり、こうしてその価格をつうじて、商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。ここでは価格表現は、数学上のある種の量のように、想像的なものになる。他方、想像的な価格形態、たとえば、そこには人間労働が対象化されていないので少しも価値のない未開墾地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはこれから派生した関係をひそませていることがありうるのである。

価格形態というのは、価値の大きさと価格との量的不一致の可能性を許すものです。しかし価格形態はこれだけに留まりません。このような量的な不一致という矛盾だけではなくて、質的な矛盾を抱えています。というのも、貨幣というのは、商品の価値を表すもの、すなわち商品の価値形態であるにもかかわらず、価格がそもそも価値の表現でないこともあるからです。つまり価格が価値の表現であることをやめるような矛盾なのです。

これはそれ自体としては商品でないもろもろの物、たとえば良心や名誉といった、それ自体としては商品でもなくまた労働が対象化されていて価値を持つようなものでもないものが、その所有者によって貨幣とひきかえに売られる物となり、こうして価格をつけられて商品として売られることがありえるからです。だから、あるものは、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことがありえるのです。ここでは価格表現は、数学上のある種の大きさ(虚数)と同じように想像上の価値表現となるのです。他方で、未だ耕作されていない土地は、人間の労働がまだ対象化されていないために、いかなる価値ももたないが、想像上の価格形態によって価格をもつことができるのです。このような価格形態は、現実の価値形態あるいはそれから派生した関係を蔵しています。

相対的価値形態一般がそうであるように、価格は、ある商品たとえば1トンの鉄の価値を、一定量の等価物たとえば1オンスの金が鉄と直接に交換されうるということによって表現するのであるが、けっして、逆に鉄のほうが金と直接に交換されうるということによって表現するのではない。だから、実際に交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。たとえ商品にとってこの化体が、ヘーゲルの「概念」にとっての必然から自由への移行や、ざりがにとっての殻破りや、教父ヒエロニュムスにとっての原罪の脱却よりも、「もっとつらい」ことであろうとも。商品は、その実在の姿、たとえば、鉄という姿のほかに、価格において観念的な価値姿態または想像された金の姿態をもつことはできるが、しかし、現実に鉄であると同時に現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すればよい。商品がその保持者のために一般的等価物の役を果たそうとするならば、それは金と取り替えられなければならない。たとえば、鉄の所有者がある享楽商品の所有者に対面して、彼に鉄価格を指し示して、これが貨幣形態だと言うならば、享楽商品の所持者は、天国で聖ペテロが自分の前で信仰箇条を暗誦したとダンテに答えたように、答えるだろう。

「この貨幣の混合物とその重さとは

汝すでによくしらべたり

されど言え、汝はこれを己が財布のなかにもつや」

価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性を含んでいる。他方、金は、ただそれがすでに交換過程で貨幣商品としてかけまわっているからこそ、観念的な価値尺度として機能するのである。それゆえ、観念的な価値尺度のうちには堅い貨幣が待ち伏せしているのである。

相対的価値形態一般がそうですが、価格をつけられたある商品、たとえば1トンの鉄の価値を表現するのは、その商品の等価に置かれた商品、たとえば1オンスの金が鉄と直接に交換できるということによって表わすということです。しかしこのことは、逆に、鉄のほうが金と直接に交換できるということによって表現するので決してありません。したがって、商品は、実際に交換価値の働きを実際に発揮するためには、その自然の身体を脱して、ただ想像されただけの金から現実の金に自己を転化させなければなりません。たとえ、商品にとって、この化体が、ヘーゲルの「概念」にとって必然から自由に移行することよりも、ザリガニが甲らを破ることよりも、教父ヒエロニムスにとって古いアダム〔原罪〕から脱却することよりも、「いっそうつらいこと」であろうともです。

つまり、商品が、他のどの商品とも交換できるようになるためには、その商品という肉体を脱して、絶対的な価値姿態にならなければならないわけです。つまり商品は価格というその想像された金から現実の金に自身を転化させなければならないのです。要するに商品は売られて貨幣に転化される必要があるということです。

たとえこの貨幣への転化が、この商品にとってどんなに困難なことであろうとそれがなし遂げられないと、商品所持者は初期の目的を果すことは出来ません。商品の使用価値は商品所持者にとっての使用価値ではなく、他の第三者の使用価値、社会的使用価値ですから、もしその転化ができないなら、その使用価値は実現することが出来ず、商品は商品ですらないことになります。だから商品所持者はその商品の交換価値の作用(つまり自分の欲する別の商品と交換するという作用)を果すこともできないことになります。

ここでマルクスは後に「命懸けの飛躍」という商品の貨幣への転化の困難さの比喩として、いくつかのものを挙げています。 

商品は、たとえば鉄のような現実の姿をとることができるだけでなく、価格のうちで観念的な価値の姿あるいは想像された金の姿をとることができます。ただし商品は現実に鉄であると同時に、現実に金であることはできません。商品に価格を与えるためには、想像された金を商品に等置すれば十分です。商品がその所有者のために一般的等価の役割を果たすためには、商品は金と置き換えられなければならないのです。たとえば、鉄の所有者がこの世の欲を満たすある商品の所有者の前にやってきて、鉄の価格をさして、これは貨幣形態であるといったとすれば、この世の欲を満たす商品の所有者は、天国で聖ペテロが彼に向かって信仰個条を暗唱したダンテに答えたとおりに、答えることでしょう。

これまで述べてきたように、価格形態は、貨幣と引きかえに商品を譲渡する可能性と譲渡する必然性、つまり貨幣に転化しなければならない必然性を含んでいます。たしかに商品の価値を価格として表すためには、ただ観念的な金で十分なのですが、かし、金が観念的に価値の尺度として機能するためには、現実の金がすでに交換過程において貨幣商品として動きまわっているからにほかならないのです。だから観念的な価値の尺度のうちには、硬い貨幣が待ちかまえているのです。

価格形態はこのように価値の大きさと不一致の可能性、すなわち価値の大きさとその貨幣表現との量的な不一致の可能性を許容するだけではなく、質的な矛盾を宿しうる。[この矛盾が発生すると、]貨幣はたしかに商品の価値形態であるにもかかわらず、価格は価値を表現するものではなくなってしまうのである。それ自体としてはいかなる商品でもないもの、たとえば良心や名誉なども、その所有者にとっては貨幣と引き換えに売りにだすことができるのであり、価格をつけられることで、商品の形態をとることができる。だから価値をもたないのに、形式としての価格をもつことができるものが存在する。この場合にこの価格表現は、[虚数のような]ある種の数学の量と同じように想像だけの価格表現である。他方では、耕作されていない土地は、人間の労働がまだ対象化されていないために、いかなる価値ももたないが、想像上の価格形態によって価格をもつことができる。こうした価格形態は、現実の価値形態あるいはそれから派生した関係を蔵しているのである。

相対的価値形態一般と同じように、価格がある商品たとえば1トンの鉄の価値を表現するために、特定の量の等価物、たとえば1オンスの金が1トンの鉄と直接に交換できることで表現するのであり、その反対に鉄が金と直接に交換できることによって表現するのではない。そのように、交換価値の働きを実際に発揮するためには、商品はその自然の身体を脱ぎ捨てて、想像されただけの金から現実の金に変わる必要がある。商品がこの実体変化を遂げるのは、ヘーゲルの「概念」が必然性から自由に移行するのに苦労し、ロブスターが古い殻を脱ぎ捨てるのに苦労し、[キリスト教の]教父のヒエロニスムが[原罪を犯した人間を象徴する]古きアダムを脱ぎ捨てるのに苦労する以上に、「はるかに骨の折れる」ことであるだろうか。

商品は、たとえば鉄のような現実の姿をとることができるだけでなく、価格のうちで観念的な価値の姿あるいは想像された金の姿をとることができる。ただし商品は現実に鉄であると同時に、現実に金であることはできない。商品に価格を与えるためには、想像された金と等置するだけで十分である。しかしその商品が商品保持者にとって一般的な等価物の役割をはたすことができるためには、商品は金に置き換えられなければならない。たとえば鉄の所有者が享楽的な商品の所有者と出会って、鉄の価格を貨幣形態だと語ったとすると、享楽的な商品の所有者は、[『神曲』において]天国の聖ペテロに自分の信仰箇条を暗唱しにやってきたダンテにペテロが答えたように語るだろう。

この貨幣の純度と重さは、しかと確かめた

なれどわれに語れ、そなたはそれを

おのが財布のうちにもっているのか

価格形態は、商品が貨幣と交換される可能性と、この譲渡の必然性を含んでいる。他方で金は、交換過程のうちですでに貨幣商品として動き回っているからこそ、観念的な価値の尺度として機能するのである。このように観念的な価値の尺度のうちに、硬い貨幣が待ち構えているのである。

 

 

第2節 流通手段

〔この節の概要〕

商品がすべてその価値を貨幣によって価格として表現することになれば、これに対応して貨幣はすべての商品に対して直後に交換可能の地位を獲得することになります。商品は直接相互には交換されるというのではなく、すべて貨幣をとおして交換されるものとなります。すなわち商品の交換は、まず商品(W)を販売して貨幣(G)を手にし、その貨幣によって他の商品(W)を購入するという、いわゆる商品の変態W−G−Wとなって現われるのです。この場合、個々の商品の変態の過程は相互に交錯して行われ、全体として一つの連鎖をなしつつ、商品経済の社会的な物質代謝の流通過程を形成し、貨幣はこれを媒介する流通手段として機能します。したがって貨幣が流通手段として機能する範囲を決定するものは、貨幣自身ではなくて商品流通です。商品流通に照応して増減する流通手段の分量は、このようにして流通商品の価格総額と流通速度とによって決定せざるをえません。それと同時に、流通手段としての貨幣は、恒常的流通の範囲内においては、いわゆる鋳貨として単なる価値記号となり、したがって銀貨や銅貨などの補助貨幣、進んでは紙幣によっても代位されうるものとなります。この場合紙幣が金の鋳貨を代位するものとしての流通必要量以上に発行させられることになれば、紙幣はその名目量以下の金を代位するものとなり、それに対応して商品価格は騰貴を余儀なくされます。いわゆるインフレーションという現象はこのような関係を基礎とするものです。

 

〔本文とその読み(解説)〕 

(A)商品の変態

社会的な物質代謝

すでに見たように、諸商品の交換過程には、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解消される方法である。たとえば、一物体が絶えず他の一物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が実現されるとともに解決される諸運動形態の一つである。

交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。ひとたび、使用価値として役だつ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。そこで、われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。

すでに「第2章交換過程」で見ましたが、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいます。商品の交換過程の発展は、これらの矛盾を解消させることはありませんが、これらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだします。これは一般に現実の矛盾が解決される方法なのです。たとえば、一つの物体が絶えず他の一つの物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾ですが、楕円は、まさにこの矛盾が実現されるとともに解決される運動形態の一つなのです。

交換過程においては、諸商品を、その所有者にとって非使用価値であるものを、それらを必要とする、つまりその人にとっては使用価値であるところ人の手に移します。だからこの過程を、素材的側面だけから見るならば、社会的な素材変換であることが分かります。使用価値を互いに交換しあうということは、それら使用価値を作り出した具体的な有用な労働を互いに交換し合うということでもあります。交換過程を終えて、商品が、ひとたび使用価値として役だつ場所に移れば、商品は、交換の部面から消費の部面へと入って行きます。しかしここでわれわれが関心をもつのは、前のほう、つまり交換の部面であって、後者の消費の部面ではありません。だから我々は、この交換過程を、その素材の面からではなく、全過程を形態の面から考察しなければなりません。それは社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察することなのです。

商品の交換過程には、たがいに矛盾し、たがいに排除しあう関係が含まれていることは、すでに確認したとおりである。商品が発展することで、こうした矛盾が解消されることはないが、こうした矛盾が運動することのできる形態が作りだされるのである。これは、現実的な矛盾が解消されるための一般的な方法なのである。たとえば[木星のような]一つの物体が[太陽のような]別の物体に向かってたえず落下しながら、しかも同時にその物体からたえず逃れ去るのは、矛盾した事態である。楕円は、この矛盾が実現される同時に解消される運動形態の一つである。

交換過程によって、[それを所有しているがすでに]非使用価値となっている持ち主から、[それをまだ所有していないが]使用価値をそなえている人への商品が移転されるのであり、これは一つの社会的な物質代謝である。ある種類の有用労働によって生産された物品が、他の種類の有用労働によって生産された物品と交換される。[こうした交換によって]商品がその使用価値を役立てることのできる場所に到達すると、その商品は交換の領域から出て、消費の領域に入る。ここで関心があるのは、交換の領域だけである。そこで交換過程の全体を、その形式の側面から考察することにしよう。社会的な物質代謝を媒介するこの商品の形態の変化について、商品の変身についてだけを考察すべきなのである。

 

商品の交換過程での運動形態

この形態変換の理解がまったく不十分なのは、価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換において行われるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのである。

商品はさしあたりは金めっきもされず、砂糖もかけられないで、生まれたままの姿で、交換過程にはいる。交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表わすところの外的な対立を生みだす。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている。商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態として対立する金に、関係させている。逆に、金材料は、ただ価値を物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである。

形態の変換を理解することを困難にしているのは、価値概念そのものが明らかになっていないことを別とすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、つまり普通の商品と貨幣商品との交換において行なわれるという事情のせいです。これがあまりにもありふれているからこそ、それにわれわれの注意も固執することになるからです。

つまり、私たちが日常ありふれた風景としてみるのは、金で商品を買うということです。それは、ある商品と金との交換です。これを他の関係と切り離すと、商品と別の商品金との直接の交換としかみえません。

しかし商品と金との交換というこの素材的な契機だけに固執してしまうと、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになるのです。金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのです。

このような間違い、まさにまさにみるべきものを見落としているわけです。特定の商品(その使用価値)と金(という使用価値)との直接的な交換という素材的な関係だけを見ているからです。そうすると見るべきもの、形態上の変化を見落とすというのです。

商品はさしあたりはその生まれたままの姿で、金メッキをしたりして装うことなく日常の姿で交換過程に入ります。交換過程においては、商品は貨幣に転化し、商品と貨幣とへの商品の二重化を生み出します。それは商品に内在する使用価値と価値との対立を、商品と貨幣という外的な対立として生み出したものです。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対します。しかし、この対立のどちら側もやはり商品であり、したがって使用価値と価値との統一体であることに違いはありません。

このような統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしているのです。商品は現実的には使用価値であって、その価値存在は価格というただ観念的に現われているだけです。そして、この価格が商品を、その現実の価値姿態としての対立している金に、関係させているのです。反対に、金は、ただ価値の物質化として、貨幣として、通用するだけです。だから、金は現実には交換価値なのです。その使用価値は、ただ一連の相対的価値表現のなかに、観念的に現れているに過ぎないのです。この一連の相対的価値表現のなかでは、金は、自分自身の現実に使用される全範囲を表す対立する諸商品と関連させられるのです。このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのです。

金と言っても、しかし、貨幣としての金の使用価値はただ形式的に価値の担い手として、つまり価値の塊としての意義しかなく、現実の欲望に関係する使用価値としては、その貨幣が相対するすべての諸商品の実在的な使用価値として、その限りでは金にとってはただ可能性として、つまり観念的にしか存在しないのです。 

この形態の変化についての理解はきわめて不十分なものであるが、その理由は価値の概念そのものが解明されていないことにあるだけでなく、一つの商品の形態の変化が、つねに二つの部品の交換において発生すること、すなわちふつうの商品と貨幣商品の交換において発生することにある。この商品と金の交換という素材の側面だけに注目していると、その形態にどのようなことが起きているかという重要な問題が見逃されてしまう。ここで見逃されてしまうのは、金はたんなる商品としては貨幣ではないこと、他の商品がみずからの価格のうちで、自分自身の貨幣の姿としての金と関係しているということである。

商品はまず、金メッキもされず、砂糖をふりかけられもせず、あるがままの姿で交換過程に入ってくる。交換過程において、この商品は商品であると同時に貨幣であるという二重化を経験するが、それは商品のうちに内在していた使用価値と価値の対立が、外的に表現された外的な対立である。この外的な対立において、使用価値としての商品は、交換価値としての貨幣と向き合っている。他方で、この対立の両極はどちらも商品であり、使用価値と価値が統一されたものである。

このような異なるものの統一は、その両極に逆転した形で表現され、そのようにして同時に両極の相互的な関係を表現する。商品は現実に使用価値であり、その価値の側面は価格のうちに観念的に現れているだけであって、価格はその商品を、その現実の姿として商品に向き合って金と関係させる。反対に金の素材は、価値を受肉したものとして、貨幣としてだけ通用する。だから金の素材は現実には交換価値である。金の使用価値は、一連の相対的な価値表現のうちに観念的に現れているだけである。この一連の相対的な価値表現は、金が現実に使用されるすべての領域を定めるものであり、ここにおいて自分と向き合うさまざまな商品と関係するのである。商品のこうした対立した形態こそが、商品の交換過程の現実の運動形態なのである。

 

生産物の交換過程

そこで、われわれは商品所持者のだれかといっしょに、たとえばわれわれの旧知のリンネル職機といっしょに、交換過程の場面に、商品市場に行ってみることにしよう。彼の商品、20エレのリンネルは、価格が決まっている。その価格は2ポンド・スターリングである。彼は、それを2ポンド・スターリングと交換し、次に、実直ものにふさわしく、この2ポンド・スターリングをさらに同じ価格の家庭用聖書と交換する。彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値姿態である金とひきかえに手放され、そして、この姿態からさらに他の一商品、聖書とひきかえにまた手放されるのではあるが、この聖書は使用対象として織職の家にはいって行き、そこで信仰欲望を満足させることになる。こうして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態─商品が貨幣への転化と貨幣から商品への再転化とにおいて行われるのである。商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引─売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、である。

いま、リンネル織職が取引の最終結果を調べてみるとすれば、彼は、リンネルの代わりに聖書を、つまり、彼の最初の商品の代わりに価値は同じだが有用性の違う別の一商品をもっている。同じやり方で、彼はほかの生活手段や生産手段も手に入れる。彼の立場から見れば、全過程は、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物交換を媒介しているだけである。

そこで、私たちは商品所持者のだれかといっしょに、たとえば私たちの旧知のリンネル織職といっしょに、交換過程の場面に、すなわち商品市場に行ってみることにしましょう。彼が売ろうとしている商品は20エレのリンネルで、その価格は、あらかじめ決まっています。その価格は2ポンドです。彼は、リンネルを2ポンドと交換に引き渡します。次に、昔気質の彼にふさわしく、この2ポンドと交換に同じ価格の家庭用聖書を手に入れることにしましょう。彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値の姿である金とひきかえに手放され、そして、さらに、この金は他の一商品である聖書と引き換えひきかえに、また手放されました。このようにして聖書は使用対象としてリンネル織職の家に運ばれ、そこで宗教的な欲望を満足させることになります。

これについて、まずリンネル職人から見ると、彼の亜麻布は彼にとってはただ他の商品を入手するための手段であり、他の商品と共通のものを持つもの、すなわち価値の担い手でしかありません。だから彼から見ると、リンネルはその姿から変身して、金という姿になり、さらに聖書になったことになります。そして聖書は彼の宗教的欲望を満たすことになるわけです。つまりリンネルの価値は、金に変わっても、聖書に変わってもまったく同じままです。つまり価値を主体としてみると、それは最初はリンネルという姿を持っていたのが、金という姿に変身し、さらに聖書に変身したのです。

このようにして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変身、つまり、商品の貨幣への変化と貨幣から商品へのその再度の変化、によって進められるのです。商品の変身のこの二つの側面は、商品所持者の取引である販売という側面と(ここである商品が貨幣と交換される)、購入という側面(ここで貨幣が別の商品と交換される)の二つの側面です。そして、この二つの側面は販売と購入という二つの行為が統一されます、すなわち買うために売るということです。

このように商品の交換過程における変身は、現実には、商品所持者の互いの諸取引によって行われるわけです。それは「販売(売り)」と「(購入」買い」です。だから厳密にいえば、「売りと買い」は商品の変身を商品所持者の互いの商取引の行為として見たものと言うことができます。

あるいは、その諸取引を商品(価値)を主体として見れば、それは「商品の変身」としてとらえられるということでもあるわけです。そして商品所持者の取引として見た場合の商品の二つの互いに補い合う変身は、「売り」と「買い」として現実に現われ、さらにこの両者を統一した「買うために売る」だと説明されています。リンネル織職の最終目的は、自分のリンネルを商品として販売するだけにあるのではなく、自分にとって必要な家庭用聖書を入手することであり、だから最初の「売り」は、最後の「買い」のためだからです。

亜麻布職人が自分の取引の最終結果を調べてみると、彼は、亜麻布の代わりに聖書を、つまり、彼が最初に市場に持ってきた商品の代わりに、価値は同じですが、有用性の違う別の商品をもっていることになります。これと同じ方法で、この亜麻布職人は自分のための生活手段や生産手段も手に入れることができます。彼の立場から見れば、この交換過程は全部、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物の交換を媒介しているだけです。

こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行われる。

商品(W)−貨幣(G)−商品(W)

W−G−W

その素材的内容から見れば、この運動はW−W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。

さてここでわたしたちは、ある商品所持者、たとえば昔なじみの亜麻布職人とともに、交換過程の舞台である商品市場を訪れてみよう。彼が売ろうとしている商品は、20ヤードの亜麻布である。その価格はあらかじめ決まっており、2ポンドである。彼は2ポンドをうけとって、亜麻布を引き渡す。そして昔気質のこの男は、この2ポンドと引き換えに、同じ価格の家庭用の聖書を手にいれる。彼にとってはたんなる商品であり、価値の担い手にすぎない亜麻布は、その価値の姿である金と引き換えに譲渡され、この価値の姿である金は、今度は他の商品である聖書と引き換えに譲渡される。こうして聖書は使用対象として亜麻布職人の自宅に運ばれ、そこで宗教的な欲望を満足させることになる。

このように商品の交換過程は、たがいに対立し、補いあう二つの変身のうちで実現される─ある商品が貨幣に変化し、次にこの貨幣が別の商品にふたたび変化するわけである。商品の変身の二つの側面は、商品所持者の取引である販売という側面と(ここである商品が貨幣と交換される)、購入という側面(ここで貨幣が別の商品と交換される)の二つの側面であり、同時にこの二つの行為が統一されて、購入するために販売することである。

亜麻布職人が自分の取引の最終的な結果を吟味するならば、今では亜麻布の代わりに聖書を手にしていること、もともとの商品の代わりに、同じ価値をもつが有用性の異なる別の商品を手にしていることを確認するだろう。この亜麻布職人は、自分の生活手段や生産手段も、これと同じ方法で入手するだろう。彼の立場からみるかぎり、この交換過程のすべては、自分の労働の生産物と他人の労働の生産物との交換、すなわち生産物の交換を媒介しているだけである。

そこで商品の交換過程は、次のような形態の変化のうちに実現される。

商品(W)−貨幣(G)−商品(W)

W−G−W

商品の素材という観点からみると、この運動W−Wは商品の交換であり、社会的な労働の物質代謝であるが、その交換という結果のうちに、交換過程は姿を消している。

 

命懸けの跳躍

W−G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように、商品の命がけの飛躍である。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。

W−G、商品の最初の変身である「販売」です。商品はその自然の身体から金の身体へ飛び移るように変身します。これは、『経済学批判』で指摘した、商品の「命懸けの跳躍」なのです。この跳躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないでしょうが、商品所持者にとってはたしかに痛いものです。社会的分業は彼の労働を一面的にするのと反対に、彼の欲望を多面的にしています。だから、彼にとっては、彼の労働の生産物はただ交換価値としてのみ役だつものでしかないのです。

商品社会では社会的分業はますます発展します。分業が発展するということは、彼はもっぱら彼の労働にますます縛りつけられ、よってその労働は一面的になっていくということです。他方で、ますます多くの生産物が商品として生産されて、彼の欲望を刺激し、その欲望を多面的にするということでもあります。だから彼にとっては、彼の生産物は、ますます多面的になる彼の欲望をただ満たすための手段、単なる交換価値として役立つものでしかないようになってしまうのです。

しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所持者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されていなければならない。言いかえれば、その労働は社会的分業の一環として実証されなければならない。しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者たちの背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。

しかし、彼の生産物はただ貨幣としてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取ることができるだけです。しかもその貨幣は未だ他人のポケットにあるのです。その貨幣を他人のポケットから引っ張り出すためには、その商品はなによりもまず貨幣の所持者にとっての使用価値とならなければなりません。ということは、この商品のために支出された彼の労働は社会的に有用な形態で支出されていなければならないということです。それは言いかえれば、その労働は社会的分業の一環であることが実証されなければならないということです。しかし、分業というのは一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者たちの背後で織られたものであり、また絶えず織られているものなのです。

彼の生産物が交換価値として役立つだけだといっても、それは直接にはそうしたものとして存在しているわけではありません。そのためには、まず、彼はその商品の価値を表象において貨幣に転化し、一般的に社会的に認められるものとして、すなわち価格として表現する必要があります。そしてその上で、その観念的な貨幣を、現実の貨幣に転化するのですが、しかし現実の交換価値として存在する貨幣というのは、他人のポケットの中にあるのであって、彼の手中にあって自由にできるものではないのです。まさに、ここに困難が横たわっているのです。彼が彼の商品の価値の現実形態である、他人のポケットにある貨幣を引っ張り出すためには、彼の商品の使用価値が、そのポケットの貨幣の所持者にとって必要なもの、つまり彼にとっての使用価値でなければなりません。つまり彼が彼の商品に支出した労働が、一般的に社会に有用な形で支出されたものでなければならないということです。そしてそれは言い換えれば、彼の労働が社会的な分業の一環であることを実証するということなのです。彼の労働が社会的分業の一環であることを実証するというのがまたやっかいなものなのです。なぜなら、分業というものは、この商品社会では、自然発生的なものであって、一つの生産有機体をなしているからです。そしてその複雑な社会的な有機体をなす網の目は、実は商品生産者たち自身が編んでいることには違いはないのですが、しかしそれは彼らが意識的にそれをやっているのではなくて、実は彼ら自身はまったく知らないあいだに、彼らの背後で客観的な法則にもとづいて織られているものなのです。しかもそれはすべての有機体がそうであるように、“生きており”絶えず新しいものへと織り変えられているものでもあるのです。

場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。昨日まではまだ同じ一人の商品生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの特殊な作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離され、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。この分離過程のために事情はすでに熟していることもまた熟していないこともあるであろう。生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。

場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするか、または新しい欲望をこれから自力で呼び起こそうとする新しい労働様式の生産物であるかもしれません。昨日まではまだ同じ一人の商品生産者の多くの機能のうちの一つの機能を果たしていたある一つの特殊な作業が、おそらく、今日になったら、この連関から切り離され、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになります。しかまたこの分離過程のために事情はすでに熟していることもまた熟していないこともあるのです。彼の生産物が今日は或る一つの社会的欲望を満足させているとしても、明日はおそらくその全部か、あるいは一部が別のよく似た種類の生産物によって、その地位から追われてしまうかもしれません。

彼の商品は、新たな欲望を満足させようとするものかもしれませんし、あるいはこれから新しい欲望を自力で呼び起こそうとしているような、新しい生産物であるかも知れません。しかしそれが果たして成功するか失敗するかは、それこそやってみなければ分からないのです。分業が常に発展して、新たな網の目が織り直されているということは、昨日までは同じ一人の商品生産者がいろいろと作業をしていたその一過程が自立化して、その過程から切り離されて、独立した労働によって担われるようになり、一つの分業の環として自立することもあるわけです。するとそれはまた新たな部分生産物として独立の商品として市場に出ていくことになります。しかしその分離が、果たしてそのための条件が十分成熟していたのかどうか、それとも時期尚早だったのかも、これまた実際にはやってみなければわからないのです。

労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。リンネルにたいする社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。

ある労働が、われわれの見ているリンネル織職の労働と同じように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の20エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいないのです。リンネルに対する社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物は余計になり、したがって無用になる。もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。

社会的分業の環の一つを実証するということは、単にその労働の生産物の使用価値が社会的な使用価値であるということだけでは駄目なのです。われわれの見ているリンネル職人の場合、彼のリンネルは社会的に有用な労働の生産物であったとしても、しかしそのことだけでは、彼の20エレのリンネルという使用価値全体がそのまま保証されているということにはならないのです。すべての物には質と量の二つの側面があるように、社会的分業にも質的な契機と量的な契機があります。つまり質的にはさまざまな労働の有用性が互いに社会的に結びついたものになっているかどうかということが問題です。しかし量的には、さまざまな労働がそれぞれの分野にそれぞれに必要な分量で支出されているかどうかということが問題なのです。社会的分業というのは、こうした二つの契機において互いに絡まり合い、釣り合っていて、しかもそれが常に変化し発展しているものなのです。だからリンネルに対する社会的欲望にも、すべての他の商品に対しても同じですが、それぞれの限度というものがあるのです。だからそれがリンネル職人の競争相手によって満たされてしまうなら、われわれの見ているリンネル職人の生産物は社会的には余分なものとなってしまいます。そうすると、無用なもの、商品でも生産物でもなくなってしまうことになります。彼は贈り物をするために、市場を渡り歩いているわけではないのですから。

しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。ところが、今度は、どれだけの貨幣が?という問題が起きてくる。答えは、もちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。商品所持者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。それは市場ではすぐに客観的に訂正される。彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。

かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしましょう。ところが、今度は、どれだけの貨幣が手に入るか?という問題が起きてくるのです。その答えは、もちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値の大きさの指標によって、予想されています。この場合、商品所持者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないでおきます。そうした問題は、市場においてすぐに客観的に訂正されるものです。商品所持者は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずなのです。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかないことになります。

リンネル職人の前に立った人が、リンネルを必要としていたとします。つまり彼の生産物は相手にとって使用価値であることが実証されたのです。貨幣は商品に引き寄せられました。しかし今度は、相手のポケットにはどれだけの貨幣があるのかが、問題になるのです。もちろん、20エレのリンネルには2ポンドという値札がついています。この2ポンドという価格が、ただ商品所持者の純粋に主観的なものだから、単なる思い込みに過ぎないこともありえます。しかし私たちはそうした問題は、とりあえず無視しましょう。なぜなら、そのような主観的な偶然的な契機を通じて貫いている一般的な関係を、私たちは今問題にしているのだからです。だから彼の20ヤードの亜麻布には、ただその生産に社会的に必要な平均労働が支出されたものとしましょう。値札に書かれた2ポンドは、20エレのリンネルに対象化されている社会的労働の貨幣名であることになります。

しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれのリンネル織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうでなくなる。それは、われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。

ところが、古くから保証されていたリンネルの生産条件が、われわれの見ているリンネル職人の同意もなしに、彼の背後で激変したとしましょう。昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなってしまっているのです。それは、われわれの見ているリンネル職人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所持者が最も熱心に立証するところです。われわれの見ているリンネル職人にとっては不幸なことですが、世の中にはたくさんのリンネル織職がいるのです。

生産有機体である社会的分業は、常に変化し発展しています。それはわれわれの見ているリンネル職人の知らない間に、彼に何の断りもなしに変わっていくのです。だから彼の生産したリンネルが、昨日まではリンネル業界に保証されていた生産条件を満たし、だからそれに必要な社会的な平均労働が支出されていたとしても、しかし、生産条件が激変して、今日、同じ20エレのリンネルの生産に必要な社会的な平均労働を半減させることもありうるのです。それは、今、彼の前にいる貨幣所持者が、彼の競争相手である同じリンネル職人たちが自分たちの亜麻布に付けている値札を指さして、すぐに教えてくれます。「2ポンドか。高いなあ。あっちでは同じものが1ポンドで売ってたよ」と。無政府的な生産では、競争相手に事欠きません。

最後に、市場にあるリンネルは、どの一片も社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネル片の総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろとも、というわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。

最後に、市場にあるすべての亜麻布は、ただ社会的に必要な労働時間だけが支出されたものとしましよう。それにもかかわらず、これらの亜麻布の総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうるのです。もし市場の胃袋が亜麻布の総量を1ヤード当たり2シリングという正常な価格で吸収できないとすると、それは、社会的な総労働時間の過剰に大きな部分が、亜麻布を織る労働として投入されたことを示す証拠です。結果は、それぞれの亜麻布職人が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時聞を支出したのと同じことになってしまいます。ここでは、死なばもろとも、という諺の通りになったわけなのです。市場にあるすべての亜麻布が一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされないのです。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのです。

その前の話では、われわれの見ている亜麻布職人だけが、彼の背後で激変した生産条件を知らずに、彼の生産物である亜麻布が、それまでは社会的平均労働が支出されていたのに、亜麻布生産に必要な社会的平均労働そのものが変わってしまったために、彼の商品が競争相手からはじき出されてしまったということでした。だから20ヤードの亜麻布は2ポンドでは売れないという話でした。

しかし今回はそうではなく、亜麻布生産という生産部門そのものが問題になっているのです。彼の同業者たちは彼と同じように、亜麻布の生産に社会的に必要な労働時間を対象化させたのに、しかし、今度は、それがそのように評価されない場合もあるという話なのです。というのは、商品の価値というのは、社会の総労働のうち、与えられた生産条件のもとで、その商品を社会が必要とする分だけ、その生産部門に配分されるということも含まれているからです。だからここでは、リンネルの生産部門と他の諸商品の生産部門との関係(バランス)が問題になってくるのです。そしてこうした関係においては彼の商品であるリンネルは同業者の他の亜麻布とまったく一緒のものとして扱われ、彼の商品はその全体の亜麻布量の加除部分をなすに過ぎないものになるのです。だからこうした影響は亜麻布生産全体に等しくおよぶことになります。

 

ここで、そもそも論によるまとめをしておきましょう。そうすると、これからの議論に入りやすいと思います。商品とは他者のための使用価値であり。商品所持者にとっての使用価値ではありません。その商品が、交換過程を介してそれを求める者の手に落ちることになります。その意味で交換過程とは社会的な物質代謝の過程にほかなりません。マルクスはこの過程を商品の形態変換とか変身として考察します。

商品の売り、つまりW−G(商品を手放し、貨幣を手にいれること)には、商品の買い手すなわちG−W(貨幣を譲渡して、商品を入手すること)が対応している。その意味では非対称的な関係であって、関係のこの非対称性によって商品を貨幣と置き換えうることは偶然性に左右されるということです。しかも、この偶然性の超越論的な力が覆い隠している。貨幣の超越論的な力が購買と販売の分離を可能としながら、同時にそれを隠蔽している。

これはどうしてでしょうか。貨幣の謎を解き明かしておくためには、ここで少しだけ立ち止まって考えておく必要があります。

関係が非対称となるのは第一に、W−Gつまり売りとは「商品の命懸けの跳躍」だからです。商品は他者のための使用価値でなければなりません。商品が他者にとって使用価値であることは貨幣との交換そのものによって明かされます。商品が売られることで商品の生産に支出された労働が社会的に有用であったことも証明されるというわけです。

商品は貨幣を愛し求める、とはいえシェークピアも言うように「まことの恋がなめらかにすすむためしはない」。分業体制という見わたしがたく広大で、厚みをもった織物が、しかも亜麻布職人が布をつくりあげる背後で、たえず織りあげられているからです。分業は労働生産物を商品に変化させて、そのことで労働生産物への変化を必然的なものとする。分業は同時にまた、この変化が成功するかどうかを偶然的なものとするのです。 

W−G、商品の最初の変身としての販売。これは商品の価値が商品の身体から金の身体へと飛び移る行為であり、わたしが別の著書で指摘したように、これは商品の命懸けの跳躍である。この跳躍に失敗したならば、商品は無傷のままであろうが、おそらく商品所持者には痛いことだろう。社会的な分業によって、彼の欲望はますます多彩なものとなるだろうが、彼の労働はますます多彩なものとなるだろうが、彼の労働はますます一面的なものとなる。そのために彼の労働の生産物は、交換価値としてしか彼の役に立たない。

彼の生産物は、貨幣としてしか、一般的かつ社会的に通用する等価形態をうけとることはないのだが、その貨幣はまだ他人のポケットのうちにある。貨幣を他人のポケットから引っ張りだすには、その商品は貨幣の持ち主にとって使用価値とならねばならない。だからこの商品のために投入された労働は、社会的に有用な労働という形態で投入されていなければならない。すなわち、その労働は社会的な分業の一環でなければならない。しかし分業は自然発生的な生産の有機体であって、この有機体の繊維は商品生産者たちの背後で織りあげられてきたのであり、これからも織りあげられるのである。

あるいはこの商品は、新たに登場した欲望を満たそうとするか、独力で[新しい]欲望を呼び起こそうとする新しい種類の労働の生産物であるかもしれない。昨日までは、同じ商品生産者の多数の機能のうちの一つの機能をはたしていた特殊な作業が、今日になるとこの連関から切り離されて独立し、それによってその部分的な生産物が、独立した商品した商品として市場に送りだされるかもしれないし、まだ熟していかなったかもしれない。ある生産物が今日の社会的な欲望を満たしていたとしても、明日には似たような種類の生産物によって、その市場から完全に、あるいは部分的に追い出されるかもしれない。

ある労働が、たとえばわたしたちの亜麻布職人の労働と同じように、社会的な分業の承認された一環を構成していたとしても、それだけ彼の20ヤードの亜麻布の使用価値が保証されているわけではない。亜麻布への社会的な欲望は、他のすべての欲望と同じようにかぎりのあるものであり、ライバルの亜麻布職人の労働によって、亜麻布への社会的な欲望がすでに完全に満たされていたならば、わたしたちの職人の労働は過剰で余分なものとなり、無用なものとなってしまう。諺で「贈り物のあら探しをするな」と言われるが、職人は別に贈り物をしたくて市場をうろついているわけではない。

ここで彼の生産物の使用価値が認められて、その商品に貨幣が引き寄せられてきたと考えてみよう。しかし次の問題は、どれだけの貨幣が手に入るかということである。その答えはもちろん、すでに商品の価格のうちに、商品の価値の大きさの指標のうちにあらかじめ予測されている。商品所持者はときにごく主観的な計算違いをするものだが、これは市場ですぐに客観的に是正されるものだから、ここでは無視することにする。商品所持者は自分の生産物に、社会的に必要な平均的な労働時間だけを投入したはずである。だから商品の価格は、商品に対象化された社会的な労働の量の貨幣名にすぎない。

しかしわたしたちの亜麻布職人の知らないところで、彼の同意もなしに、亜麻布を織る昔ながらの生産条件が激変していたかもしれない。昨日は1ヤードの亜麻布のために必要な社会的な労働時間として疑いなく妥当した労働時間が、今日はそうでなくなっているかもしれない。これはわたしたちの職人のさまざまなライバルのつける価格相場によって、貨幣所持者がきわめて熱心に証明してくれることである。わたしたちの職人には不幸なことに、世の中には多数の亜麻布職人がいる。

最後に、市場に存在するすべての亜麻布には、[平等に]社会的に必要な労働時間しか投じられていないと想定しよう。その場合にも、これらの亜麻布の全体の量には、過剰に投入された労働が含まれることもある。市場の〈胃袋〉が、1ヤードあたり2シリングという通常の単価で、[市場にでている]亜麻布のすべてを食い尽くすことができないとしたら、それは社会的な総労働時間の過剰に大きな部分が、亜麻布を織る労働として投入されたことを示す証拠である。その場合には、個々の亜麻布職人が自分の生産物に、社会的に必要な労働時間を上回る時間を費やしたのと同じ結果になる。「死なばもろとも」という諺どおりである。市場にでているすべての亜麻布はただ一つの取引品目とみなされ、個々の亜麻布はその可除部分とみなされるにすぎない。実際に、個々のどの亜麻布の価値も、同じ種類の人間労働が、同等の社会的に規定された量で受肉したものにほかならないのである。

 

分業の意味

このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」。分業体制のうちにそのばらばらな四肢を示している社会的生産有機体の量的な編制は、その質的な編制と同じに、自然発生的で偶然的である。それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするとその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。

このように、商品は貨幣を恋こがれるように求めます。しかし、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」とも言います。分業体制といっても、それは内在的に言いうるだけで、直接的にはばらばらの関係しか持ち得ない社会的生産有機体は、その量的な編制は、その質的な編制と同じように、まったく自然発生的で偶然的なのです。それだから、私たちの商品所持者は、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係そのものを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのです。人々の相互の人格的な独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのです。

私たちは、前パラグラフで、商品の「命懸けの跳躍」がどのような「命懸け」にならざるをえないのか、その困難の数々を見てきました。しかしそれが困難であるからこそ、一層、商品は自らを貨幣へと転化しうることを請い願うわけです。しかし「真実の恋はなかなかうまくはいかない」ともシェイクスピアも言っているように、それはなかなか思い通りにはいかないものです。それが「叶わぬ恋」になってしまうのはひとえに商品所持者(生産者)がおかれている立場にあります。商品所持者(生産者)は社会的な分業の環をなしていなければならないのですが、それは彼にはまったく与り知らないことだからです。彼が所属している社会的生産有機体は、常に変化しているだけではありません。それ自体がまったくバラバラのブラウン運動のようなものの寄せ集まりでしかなく、まったくバラバラの運動を繰り返しているものなのです。だからその量的な編制はもちろん、質的な編制もまったく自然発生的に生まれたものでしかなく、偶然的なものだからです。このような盲目的な運動は、一方で商品所持者(生産者)が独立の私的生産者だからです。つまり彼は他の誰とも関係なしに、自分自身の都合(計算)で"自由に"生産しているからなのです。しかし彼が"自由"なるが故にこそ、彼自身の社会的生産過程における他の人たちと諸関係は、彼ら自身から独立した物象的な関係として自立させることになっているのです。人々は封建社会のように人格的に互いに依存しあう関係にはないのですが、しかしその代わりに彼らの社会的関係は、彼らから分離して独立した物象的な体制として現われてくるのです。そして彼らは、人格的に依存する代わりに、物象的に依存し、それに従属することになるのです。

分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。そこで、とこかく事が進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、したがってその正常な進行を前提としなければならない。商品の[貨幣への]形態の変化つねに起こるのである─もちろんこれに異常が発生して、実体(価値の大きさ)が増減することはつねにありうるのだ。

分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然てきなものとなります。同時に、分業の、この実体の変化が成功するかどうかは偶然によります。しかし、ここでは現象を純粋に観察しなければなりません。だから私たちは、以下ではその正常な進行を前提することにしましょう。そこで、とにかく事が進行して、商品が売れ残ることがないとするならば、商品の貨幣への転換は、時には異常事態が生じて、その変換される価値量が減らされたり加えられたりすることがあったとしても、つねに行なわれていることになります。

だから問題は社会的生産有機体が、自然発生的分業によって成り立っていることにあるのです。こうした社会的な分業は、労働生産物を商品に転化させ、労働生産物の貨幣への転化を必然にします。貨幣こそ、労働の社会的関係が自立化して「物」として存在しているものだからです。だから貨幣に転化してこそ、その労働の社会性が実証されるわけです。しかし分業が自然発生的であるということは、こうした労働生産物の貨幣の転化をまったく偶然的なものにもします。誰もそれを保証してくれません。ただ行き当たりばったりなのです。成功も失敗もただ、やってみなければわからないのです。しかし私たちは失敗例をあれこれ問題にしても始まりません。問題はそうした物象的な関係のなかにある法則性を解明していくことだからです。だから私たちは、さまざまな失敗や挫折をもたらす偶然的な諸事情は捨象して、問題を純粋に考察しなければなりません。だからここでは労働生産物の貨幣への転化は正常に進行するということを前提しましょう。だから私たちは商品の形態の変化は常に行なわれるものと仮定します。そして商品が売れないことがないとすれば、たとえ異常な事態が生じて、その価値量が減ったり増えたりしたとしても、商品の変身は常に行なわれているわけです。 

このように考えると、たしかに商品も貨幣を恋こがれるが、「真実の恋はなかなかうまくはいかない」と言わざるをえない。社会的な生産有機体は、その切り離された肢体を分業のシステムのうちで表現するのであり、この有機体の量的な編成は質的な編成と同じように、自然発生的なものであって、偶然的なものである。そこでわたしたちの商品所持者は、分業のために独立した私的な生産者となっているのと同じように、社会的な生産過程もこの生産過程と彼らの関係も、この同じ分業によって、自分たちから独立したものとなっていることを発見するのである。そしてそれぞれの人格はたがいに自立しているが、この状態は全面的な物的な依存の体系によって補われていることに気づくのである。

分業は労働の生産物を商品に変化させたのであり、そのことによって商品が貨幣に変化するのは必然的なことになった。しかし分業のために、この実体変化が成功するかどうかは偶然的なものとなる。しかしここではこの現象を純粋に観察し、その正常な進み行きを想定する必要がある。そして正常に進行し、商品が売れ残ることがなければ、商品の[貨幣への]形態の変化つねに起こるのである─もちろんこれに異常が発生して、実体(価値の大きさ)が増減することはつねにありうるのだ。

 

交換過程の二つの側面

一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては、商品が彼の金にとって代わる。すぐに目につく現象は、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとの、持ち主変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。だが、なにと商品は交換されるのか?それ自身の一般的価値姿態とである。そして、金はなにと?その使用価値の一つの特殊な姿態とである。

一方の商品所持者にとっては金が自分の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わります。すぐに目につくのは、商品と金との、20エレのリンネルと2ポンドとの、持ち主の交替または場所変換です。つまりそれらの交換です。だが、なにと商品は交換されるのでしょうか?それ自身の一般的な価値の姿とです。そして、金はなにと?その使用価値の特殊な姿とです。

商品の貨幣への正常な転換を前提しますと、それをありのままに見ればわかりますが、まず商品所持者(ここでは亜麻布職人)からみると、彼の商品(リンネル)が貨幣にとって代わっています。また他方の貨幣の所持者にとっては彼の貨幣()が商品(リンネル)に取って代わっています。つまり20ヤードの亜麻布と2ポンドとがその持ち手を変換したわけです。それがすなわちそれらの交換ということです。こんな当たり前のことをなぜくどくどと言うのか、ですって?確かに現象そのものはありふれたことですし、あたり前のことです。しかし私たちはその現象の背後に隠されている内在的な関係をこれからみようとしているのです。まず商品は何と交換されるのでしょうか。貨幣とです。しかしその貨幣とは商品にとっては何を意味するのでしょうか。それは商品(亜麻布)にとっては、自分自身の内在的な価値が−−だからそれ自体は目に見えないものとしてありますが−−、現実に目に見えるものになったものです。つまりそれは彼自身の価値の現実的な姿なのです。しかも単に彼自身の価値姿態だけではなく、一般的な価値姿態なのです。

なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか?2ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行われる。それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣が商品への転化である。この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。言いかえれば、売りは買いであり、W−Gは同時にG−Wである。

どうして金はリンネルに貨幣として相対するのでしょうか?2ポンドというリンネルの価格または亜麻布の貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからです。もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって行なわれます。このように、商品の価格ではただ想像されているだけの金を、商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれるのです。だから、商品の価格の実現というのは、あるいは商品の単に観念的な価値形態の現実の価値姿態としての実現とは、同時に、逆に貨幣の単に観念的な形式的使用価値の現実の特殊な使用価値への実現なのです。商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化です。この一つの過程は両面的な過程です。すなわち商品所持者の極からは売りであるものが、貨幣所持者の反対の極からは買いだからです。言いかえれば、売りは買いであり、W−Gは同時にG−Wなのです。

しかしそれではそもそもなぜ金はリンネルに対して貨幣として相対するのでしょうか?それはリンネルがその首に値札をぶら下げているからです。つまり2ポンドという価格、あるいはリンネルの価値の貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからです。だからリンネルの使用価値とその値札が貨幣としての金を呼びよせるのです。こうして呼び寄せられた現実の金と、リンネルが交換された時に、その瞬間に、リンネルはそのリンネルというその商品形態の殻を脱ぎ捨てて、その内在的な観念的な価値が現実に現われたもの、すなわちその「生身」へと変身することになるのです。だから商品の価格の実現というのは、商品がその価格で自分の価値姿態を観念的に表象しているだけのものを、現実の価値姿態、つまり貨幣に転換することです。同時に、貨幣はその現実の価値の姿に対して、その使用価値は、貨幣が相対するすべての諸商品の姿において観念的に表象されています。だから貨幣の商品への転化、すなわち購買は、観念的な使用価値を、特殊な現実の使用価値に実現することなのです。商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化です。どちらからみても、観念的なものを現実的なものに転化する過程といえます。

一方の商品所持者にとっては自分の商品は金に変わり、他方の商品所持者にとっては、自分の金が商品変わる。すぐに目につく現象は、商品と金、20ヤードの亜麻布と2ポンドの持ち主が交替し、[商品の]存在場所が変わったこと、すなわち交換が行われたことである。しかし商品は何と交換されたのだろう。商品にほんらい含まれている一般的な価値の姿と交換されたのである。それでは金は何と交換されたのだろうか。その使用価値の特別な姿と交換されたのである。

なぜ金は亜麻布にたいして貨幣として向き合うのだろうか。亜麻布の2ポンドという価格またはその貨幣名によって、すでに亜麻布は貨幣としての金と関係づけられているからである。もともとの商品形態を投げ捨てることは、商品の譲渡によって実現される。すなわち商品の使用価値が、その価格においてたんに想像されていただけの金を、現実のものとして引き寄せた瞬間に実現されるのである。このようにして商品の価格の実現、すなわち商品の観念的にすぎない価値形態の実現は、同時にその反対の側面として、貨幣の観念的にすぎない使用価値が実現されることにでもある。商品が貨幣に変化することは、貨幣が商品に変化することでもある。一つの過程が、両面的な過程として働くのであり、商品所持者の極からみると販売であり、貨幣の所持者の極からみると購入である。すなわち販売は購入である。W−Gは同時にG−Wでもある。

 

貨幣の役割

これまでのところでは、われわれの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係のほかにはない。それは、ただ自分の労働生産物を他人のものとすることによってのみ、他人の労働生産物を自分ものにするという関係である。それゆえ、ある商品所持者に他の人が貨幣所持者として相対することができるのは、ただ、彼の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料であるからか、または、彼自身の商品がすでに脱皮していてその元来の使用形態を捨てているからである。

これまでのところでは、私たちの知っている人間の経済関係は、商品所持者どうしの関係以外にはありません。そこにあるのは、ただ自分の労働生産物を手放して他人のものにしなければ、他人の労働生産物を自分のものにすることかできないという関係です。だから、ある商品の所持者に他の人が貨幣の所持者として相対することができるのは、ただ、その他の人の労働生産物がもともと貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料だからか(つまり彼の生産物が金かその他の貴金属である場合か)、または、彼自身が生産した商品が、すでに最初の脱皮を終えて、つまりそれがもともと持っていた使用姿態を脱ぎ捨てて、貨幣に転化しているかです。

言うまでもなく、貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場にはいらなければならない。この点は、金の生産源にあるが、そこでは金は、直接的労働生産物として、同じ価値を別の労働生産物と交換される。しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表わしている。金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W−Gの、産物である。

言うまでもありませんが、商品市場で、貨幣が機能しているということは、金は、どこかの点で商品市場にはいらなければなりません。このどこかの点とは、金が生産されるところです。しかしその場合は、金は、労働の直接的な生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換されるだけなのです。しかし、この瞬間から、その金はもはや「直接的労働生産物」ではなく、いつでも「実現された商品価格」を表わしています。つまり金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼がすでに手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W−Gの、産物なのです。

金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すべての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的な譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を脱ぎ捨って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化する。それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。その貨幣形態にあっては、どれもこれもまったく同じに見える。だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが。

金はその産地で物々交換されて商品市場に入りますが、その瞬間からそれは貨幣として機能します。しかし貨幣として機能するといっても、まずはその観念的な貨幣、すなわち諸商品の価値を尺度をするものとして機能するのです。それは諸商品たちが自分たちの使用価値の姿の反対物である観念的な価値を、まずは観念的な想像された金の姿に映し出すことから生じます。金が単なる観念的なものとしてではなく、実在の貨幣として登場するのは、諸商品が貨幣としての金と全面的に交換することから生じます。すなわち諸商品はその全面的な譲渡によって、それぞれの自分たちの使用価値の姿を脱ぎ捨てて、転化された使用価値の姿、つまり彼らの内在的な価値を、現実的な価値の姿へと転化したからです。

商品の価値には一片の自然素材も含まれていません。だから商品が販売されて貨幣に転化したということは、商品がその商品に固有の使用価値の姿を脱ぎ捨てて、その一般的な価値の姿になったということですから、そこにはだから商品の特殊な使用素材の痕跡がまったくないということになるのです。貨幣というのは、均質の金属材料のなかに諸商品が自分たちの価値を映し出したものだからです。だから貨幣だけを見ていると、それがどういう商品がその使用価値の姿を脱ぎ捨てて転換したものなのは、まったくわからないわけです。あるいは糞尿が販売されて貨幣になったものかも知れません。だから糞尿それ自体は確かに貨幣ではありませんが、しかし貨幣は糞尿でもありうるのです。 

わたしたちは、人間の経済的な関係としては、商品所持者どうしの関係しか考えてこなかった。これは、商品所持者たちがたがいにみずからの労働の生産物を手放さなければ、他人の労働の生産物を獲得できないという関係である。だからある商品所持者にたいして、他の人が貨幣所持者として向き合うことができるのは、彼の労働の生産物が生まれつき貨幣の形態をそなえているか(すなわち金などの貨幣材料であるか)、あるいはみずからの商品がすでに脱皮をすませていて、もともとの使用形態を脱ぎ捨てているからである。

金が貨幣として機能するためには、ある地点まで商品市場に登場する必要があるのは当然のことである。この地点とは、金の生産場所であり、そこで金はある労働の直接的な生産物として、同じ価値をもつ他の労働の生産物と交換されるのである。しかしこの瞬間から金はつねに実現された商品価格を表現するものとなる。このような金の生産場所で金と商品が交換される場合を除いて、金はあらゆる商品所持者の手の中では、彼が譲渡した商品の外化した姿であり、販売の産物もすなわち最初の商品の変身過程であるW−Gの産物である。

金が観念的な貨幣もしくは価値尺度となったのは、すべての商品が金によってその価値を計るからである。そのときに金は、商品が使用される実際の姿とは反対の思い描かれた姿に、すなわち価値となるのである。金が自分たちの現実に外化され、変身した使用「価値」の姿にするからであり、金をさまざまな商品の現実的な価値の姿にするからである。

商品は、それが価値の姿をとるときには、自然発生的な使用価値も、商品を生みだした特殊な有用労働の痕跡も、すべてを脱ぎ捨てており、あたかも蛹のように、無差別な人間労働の一様な社会的な受肉へと変身しているのである。だから貨幣をみても、貨幣に変化したもとの商品がどのような種類のものだったかは分からない。貨幣形態をとるかぎり、すべて同じにみえる。糞は貨幣ではないが、貨幣は[もとは]糞であるかもしれない。

 

変身と再変身

いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、1クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。リンネルの売り、W−Gに、同時に、その買い、G−Wである。しかし、リンネルの売りとしては、この過程一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程、すなわち聖書の買いで終わる。リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。

W−G(リンネル−貨幣)は、この、W−G−W(リンネル−貨幣−聖書)の第一の段階は、同時にG−W(貨幣−リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W−G−W(小麦−貨幣−リンネル)の最後の段階である。一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。

私たちは貨幣を見ただけでは、どんな商品が販売されてその貨幣になったものなのかはわかりません。いま、私たちのリンネル織職が彼の20エレのリンネルを売り放して得た2ポンドの金貨は、もともとは1クォーターの小麦の変化(売って得た)したものだったと仮定しましょう。つまりリンネル織職の前に現われた貨幣の所持者は小麦の生産者であり、彼は自分の1クォーターの小麦を販売して得た貨幣を持ってリンネル織職の前に現われ、そしてリンネルを買ったわけです。だからリンネル織職のリンネルの販売W−Gは、同時に、小麦生産者の買いG−Wなのです。しかし売りは同時に買いだからということで、これで問題が完結しているわけではありません。リンネル職人としてはリンネルの売りは運動の最初であって、彼の目的は彼にとって必要な家庭用の聖書の買いで終わらねばならないからです。もう一方で、リンネルの購買者である小麦生産者は、リンネルを買って、彼の目的は果されたことになります。彼は小麦の販売で運動をはじめ、リンネルの購買でその運動を終えたのわけです。

リンネル織職がリンネルを販売して貨幣を入手した過程は、彼にとって最終目的である家庭用聖書を購入するための最初の段階です。しかし彼のリンネルの販売は、同時に、それを購入する小麦生産者にとっては購買です。つまり小麦生産者にとっては、それは彼の最終目的を果すことなのです。つまり彼が小麦を販売したのは、それで得た貨幣でリンネルを購入するのが目的だったからです。だからリンネル織職の運動の第一段階(最初の段階)は、小麦生産者の運動の第二段階(最後の段階)だということになります。だから一商品の第一の変身、つまり商品の貨幣への変化は、いつでも同時に、他の一商品の第二の変身、貨幣の商品への再変身だということがわかります。

ここでわたしたちの亜麻布職人が、その商品を販売してうけとった二枚の金貨は、もともとは1クォーターの小麦と引き換えられたものだったと考えよう。[売り手にとっての]亜麻布の販売G−Wは、[買い手にとっては]同時にその購入G−Wでもある。しかしこの過程は、亜麻布の販売という観点からみると、その[貨幣で購入する]反対の物、すなわち聖書の購入で終わる運動を始めるものである。この過程はさらに、亜麻布の購入という観点からみると、その反対の物、すなわち小麦の販売によって始まった運動を終えるものである。

W−G(亜麻布−貨幣)は、W−G−W(亜麻布−貨幣−聖書)の交換過程の最初の局面であるが、これは同時に、G−W(貨幣−亜麻布)、すなわち別のW−G−W(小麦−貨幣−亜麻布)の最後の局面である。片方の商品の最初の変身、すなわちその商品形態から貨幣形態への変化は、つねに同時に、それと対極にある他方の第二の変身、すなわちその貨幣形態から商品形態への再変身なのである。

 

貨幣は匂わない

G−W、商品の第二の、または最終的な変態、買い。─貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またそれらの一般的な譲歩の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。貨幣はすべての価格を逆の方向に読むのであり、こうして、貨幣自身が商品になるための献身的な材料としてのすべての商品体に、自分の姿を映しているのである。同時に、諸商品の価格は、諸商品が貨幣に投げかけるこの愛のまなざしは、貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示している。商品は、貨幣になれば消えてなくなるのだから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わからない。それの出所がなんであろうとも、それは臭くはないのである。それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。

これまで私たちは商品の貨幣への転化、W−G、つまり商品の第一の変身(最初の変身、販売)を見てきましたが、次に、貨幣の商品への変化、G−W、つまり商品の第二の変身(最終の変身)である「購入」について見てゆくことにしましょう。貨幣は、他のいっさいの商品が自分の自然の姿を脱ぎ捨てた姿です。またはそれらの諸商品を一般的に譲渡した結果得たものですから、反対に、絶対的に譲渡されうる商品とも言えるわけです。貨幣はすべての価格を逆の方向に読みます。つまり、貨幣が商品になるための献身的な材料としてすべての商品体に、自分の形式的な使用価値の姿を映し出すわけです。

商品はその価値においては、他の諸商品と同じであり、互いに交換可能なものであることを示しています。しかしその使用価値によって、それは無条件に他の諸商品と交換可能とはいえないものとしてあるわけです。こうした価値と使用価値との対立によって、商品はその商品と貨幣とへの二重化を必然としたのでした。だから貨幣こそ、さまざまな諸商品がその使用価値の姿態を脱ぎ捨てて、価値そのものの姿になったものなのです。しかし貨幣がそうしたものになりえたのは、すべての商品が特定の商品を自分たちの一般的な等価物としたからに外なりません。こうした関係からその一般的等価物は直接的な交換可能性を得ているわけです。だから貨幣こそ、無条件に、絶対的に譲渡されうる「商品」と言えるわけです。貨幣さえあれば何でも買えるというのが私たちの日常的な意識です。

諸商品の価格表というのは、諸商品が貨幣に投げかける愛のまなざしなのですが、しかしそれは同時に貨幣の変化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示しています。商品は販売されて貨幣に転化した時点で流通から脱落して消費過程に(個人的消費か生産的消費かに)入ります。だから流通の現場には貨幣だけが残ります。だから貨幣を見てもそれがどうしてそれを持っている人の手に入ったのかはわかりせん。彼はそれを盗んだのかも分からないし、あるいは糞尿を売って手に入れたのかも知れません。いずれにせよ貨幣は“匂わない”のですから。貨幣は、一方では売られた商品を代表しますが、他方ではこれから買われうる商品を代表するのです。

G−W、商品の第二の変身または最終的な変身、すなわち購入。

貨幣は他のすべての商品の外化した姿であり、すべての商品の全面的な譲歩の産物であるから、絶対的に譲渡することのできる商品である。貨幣はすべての価格を逆向きに読み上げる。そしてそのことによって、貨幣が商品に変身する上で献身的な材料となってくれたすべての商品体のうちに、みずからを映しだすのである。

価格とは、さまざまな商品が貨幣にみずからを売り込もうとする愛のまなざしであり、この価格は貨幣の変化能力の限界、すなわち貨幣そのものの量を示すものである。商品が貨幣に変わるときは、商品の姿は消えてしまう。だからその貨幣がどのようにして今の所有者の手に渡ったのか、何が貨幣に変わったのかは、貨幣をみてもわからない。どこから手に入れたものであれ、貨幣は匂わない。貨幣は一方では売られた商品を代表するが、他方ではそれによって買うことのできる商品を代表する。

 

変身過程の終了と開始

G−W、買いは、同時に、売り、W−Gである。したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼の2ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた2ポンド・スターリングをウィスキーに替える。G−W、すなわちW−G−W(リンネル−貨幣−聖書)の最終変態は、同時にW−G、すなわちW−G−W(聖書−貨幣−ウィスキー)の第一段階である。商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大胆に売るのであるが他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散させざるをえない。したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買い分かれる。こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。

すでに見ましたように、売りは同時に買いでしたから、それは反対からみれば、買いは同時に売りでもあるということです。だからある商品の最後の変身(第二段階の変化)、G−Wは、同時に他の商品の最初の変身(第一段階の変化)、W−Gだということができます。だから常に言えることは、G−W、すなわちW−G−W (リンネル−貨幣−聖書) の最終の変身、つまり第二段階は、同時にW−G、すなわちW−G−W(聖書−貨幣−ウィスキー) の最初の変身、つまり第一段階なのです。

リンネル織職が売ることができるのはリンネルしかありませんが、しかし商品社会では彼の欲望を刺激するものが商品として市場に溢れています。だから彼はリンネルを一生懸命に生産して、それを多量に売って、そしてそれで得た貨幣で、彼の多方面の欲望を満たすさまざまな商品を買い求めることになめのです。だから一つの売りは、いろいろな他の諸商品の多くの買いに枝分かれすることになります。このように、一つの商品の最終の変身は、他の多くの商品の最初の変身の総和を形成していくことになるのです。 

G−W、すなわち購入は同時に販売W−Gである。だからある商品が最終的に変身するとき、同時に別の商品が最初の変身を遂げる。わたしたちの亜麻布職人にとっては、彼が2ポンドを聖書に変化させたところで、彼の商品の生涯は終わる。しかし聖書の売り手は、亜麻布職人から聖書の代金としてうけとった2ポンドを、蒸留酒に変える。G−Wは、W−G−W(亜麻布−貨幣−聖書)の過程にとっては最後の変化であるが、同時にW−G、すなわちW−G−W(聖書−貨幣−穀物酒)の過程の最初の段階である。

商品の生産者はある特定の分野だけの商品を供給するものだから、商品を大量に販売することが多い。一方では彼は、多様な欲望に動かされて、実現された価格を、すなわちうけとった貨幣の金額を、つねに多数の購入に細分化せざるをえない。だから一つの販売は多彩な商品の購入につながる。このようにして一つの商品の最終的な変身[によってえられた金額]が、他のさまざまな商品の最初の変身[に投じられる金額]の総計となる。

 

四つの極と三人の登場人物

そこで今度は、ある商品、たとえばリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W−GとG−Wとから成っているということである。商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的過程で行われ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になる。しかし、商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。

一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。

商品変態は二つの逆の運動段階は、一つの循環をなしている。すなわち、商品形態、商品形態の脱ぎ捨て、商品形態への復帰。もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されているのである。それは、その所持者にとって、出発点では非使用価値であり、終点では使用価値である。こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われるが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのである。

これまで私たちは亜麻布織職のあとに続いて、市場での彼の振る舞いを見てきました。まず彼はリンネルを貨幣と交換しましたが、それはリンネルという商品の最初の変身でした。そして次にリンネル織職は手に入れた貨幣で、彼の最終目的である家庭用聖書を購入しました。これは商品としてのリンネルの最後の変身でした。またそれぞれの変身がどんな意味を持っているのかをそれぞれ個別に見てきたのでした。だから今度は、リンネル織職の市場での振る舞いを全体として見てみることにしましょう。つまり商品としてのリンネルのあらゆる変身を見るわけです。リンネル織職は、まずリンネルを販売してから、家庭用聖書を買ったのですから、それは商品変態としては、W−GをやったあとG−Wを行なったということになります。だから全体としては互いに補いあう二つの反対の運動(W−GとG−W)からなっていることに気づきます。リンネルのこの二つの互いに補いあいながら対立する変身を、リンネル織職は彼の市場における振る舞いとして担うことになります。彼はまずリンネルの最初の変身としては、リンネルの販売者という役割を担います。次に彼は貨幣保持者として、家庭用聖書を購入するリンネルの第二の変身を遂げる段階では、購買者として登場します。つまり彼は最初はリンネル販売者として「売り手」になり、家庭用聖書の購買者としては「買い手」になるわけです。このようにリンネルの変身は、リンネル織職に社会的に一定の役割を担わせ、それにもとづいて「売り手」と「買い手」という経済的役割を反映させるわけです。

しかし、リンネルの二つの変身(W−GとG−W)では、どちらの変身でも商品()と貨幣()が対立して存在しています。しかしそれらは互いに反対の極として存在しているのです。だから商品の所持者()は、売り手として登場したときには、別の誰かが貨幣保持者()として相対します。つまりリンネル織職が売り手となるためには他の誰かが買い手にならなければならず、同じように彼が買い手になる時には、別の第三者が売り手にならなければならないわけです。リンネルの変化はW−GとG−Wという二つの変身を次々に行なっていくことでした。すなわち商品から貨幣になり、そして貨幣から商品になるというようにです。同じことはリンネル織職の役割にもいえます。彼は市場に商品所持者として登場し、まず最初は売り手になり、そしてそれから買い手になったのです。だから売り手と買い手という役割は、決してある人の決まった性格というようなものではなく、商品流通のなかで絶えずそれを担う人が変わっていくようなものであり、役割だといえます。

さてリンネルの変化のプロセス全体を振り返ってみましょう。まずリンネルは最初の変身(リンネル−貨幣)を行ないました。しかしリンネルのこの最初の変身は、彼に買い手として相対する貨幣所持者の最後の変身でした。彼は(小麦−貨幣−リンネル)という総変化の最後の変身を行なったわけです。次にリンネルの第二の変身(貨幣−聖書)を見ると、彼に相対する聖書の所持者にとっては、最初の変身(W−G)です。彼も(聖書−貨幣−ウィスキー)という総変化を遂げるための最初の変身なのでした。ということは、リンネルという一つの商品の変化のプロセスには、少なくとも、四つの極(W−GとG−W、すなわちリンネル、貨幣、貨幣、聖書)があり、三人の登場人物(リンネル織職、小麦生産者、聖書所持者)が存在していることが前提されています。まず、先に見たようにリンネルの最初の変身のためには、貨幣が相対しなければなりません。その貨幣は他人(ここでの想定では小麦生産者)のポケットとのなかにあります。だからリンネル織職には、貨幣所持者である小麦生産者が相対します。つまりまず二人の登場人物が必要です。

次に、商品が貨幣に転化すると、その貨幣は、その商品の価値の姿の一時的な存在となります。それが一時的なのは、リンネル織職の場合を考えればよく分かります。彼はリンネルを販売して貨幣を入手しますが、それはその貨幣で聖書を買うためであって、貨幣はただそのための一時的な存在だからです。ただ貨幣は市場では、さまざまなものと交換でき、その使用価値は市場にならんでいる諸商品の形で観念的には表されています。だから第一の商品の変身(W−G)の結果であるGは、第二の変身(G−W)の出発点です。だからここには四つの極(W、G、G、W)があることになります。そして、リンネル織職は、最初は売り手として登場し、次には買い手と登場しました。そして彼が買い手として登場する時には、彼には第三の商品所持者、つまり聖書を売り払おうと考えている人物が売り手として登場することが前提されています。つまりこれで登場人物は三人になったわけです。

商品の変化というのは、最初は商品が貨幣に変身し、そしてその貨幣が再び商品に再変身するわけですから、これは一つの循環を描いているということができます。もちろん循環を描くといっても、一つの商品がまったく同じところに戻ってくるわけではありません。最初の商品はその所有者にとっては非使用価値ですが、再変身して戻ってくる商品は、その所有者にとっては使用価値だからです。だからここでは循環の契機をなす二つの商品は、非使用価値と使用価値という対立した性格をもつものとしてあります。同じように、貨幣もこの循環ではその役割が変わります。まず最初は商品の価値の姿として固い価値結晶として現われますが、しかしあとはつまり商品の流通をただ媒介する役割という面からみると、それはこの循環においては、ただ商品のたんなる等価形態でしかなく、消滅していくだけのものでしかないのです。

マルクスは、ひとつの商品の変化の全体が「四つの極と三人の登場人物」を前提としていると説きました。マルクスがリンネル、聖書としているそれぞれの商品を記号で置き換え、それぞれに添え字を付して(W1、W2)一般的なかたちで全体を図にできると思います。

商品所持者Aは商品W1をBに販売します。その結果W1はBの手に移り、Bの手元にあった貨幣GがAの手に落ちます。Aはその貨幣Gで商品所持者Cから商品W2を購入します。Aにとって第一の行為つまり売りがTにより、第二の行為つまり買いがUによって示されます。それぞれ、破線で囲まれた部分である。実線で囲んだ部分が部分流通W−G−Wをあらわしていることになのます。商品のこの流通過程は「貨幣の循環を解除する」。貨幣はむしろ、その出発点からたえず遠ざかって、出発点に回帰してくることがない。このことが貨幣の「通流」です。貨幣は「購買手段」として機能することで商品を流通させ、商品の流通とともに貨幣は通流します。このようにして貨幣は流通手段として、つねに流通の相面に棲みつき、たえずそのなかを駆けまわっているのです。

商品は運動しなければなりません。運動をやめた商品は死筋の在庫であるか、消費の対象となります。商品は貨幣と場所を取り替えると同時に流通から脱落して消費に入るからです。これに対して、貨幣はつねに流通部面にとどまり、運動を継続します。貨幣の運動はたんに商品の運動、商品流通の表現にすぎないにもかかわらず、逆に商品流通がひとえに貨幣運動の結果として現象するのです。

商品には、添え字(1、2、…n)がつきます。貨幣のGには添え字がつかない。貨幣をいくら見ても、その貨幣には変身した商品の素性はわかりません。貨幣は排泄物でありうる、のです。じっさい貨幣とは、価値の転移であり物質代謝である。商品流通が分泌しつづける排出物です。とはいえ糞尿は貨幣ではない。貨幣の生命は、それが他者たちによって無限に受け取られつづけることにこそあるからです。貨幣には、色彩も臭気もついていません。

商品流通の表層、市場の表面では、つねに貨幣のみが通流します。貨幣とは価値の表現であり、商品の等質性の表現です。くわえて、W−G−Wという行為の系列は原理的には無限に継続することができます。その系列と過程のなかで貨幣Gはつねにおなじものでありつづけ、等質的なものでありつづける。G…Gの系列は、その背後に無限な商品の差異を残して、しかしその差異を抹消しながら、それじたい無限に継続します。一面では多数の、同時的な、したがって空間的に並行する一方的な商品の変身だけが存在します。他面で、それらすべての表層で、単一の流通手段として貨幣が通流しているのです。

この貨幣の通流こそが商品世界あるいは商品空間を均一化します。商品空間を均一化し等質化することで同時にまた、商品が流通してゆく時間を無限に延長し、時間そのものを単線化し、等質化してゆくことになります。

ここには、一個の詐術があります。あるいはすくなくとも、さけがたい乖離過程が、称号と実体との。名目と実質との分離過程があります。

貨幣、とくに鋳貨は、使われることで使いへらされます。ただちに流通から脱落する商品に対して、鋳貨は通流しつづけることで、それがもっているよりも多くの金属の純分を代理表象することになります。さいごに残されるのは、偉大なる名称の影にほかなりません。鋳貨の身体とは、そこではもはやひとつの影にすぎない。鋳貨は、それが通流し、無数の人間がそれを受けわたしてゆくことで過程によって重みをくわえたにもかかわらず、その同一の過程を反復することで軽くなります。それとは関係なく一枚のソヴリン硬貨は仮象のソヴリン硬貨として、仮象の金としてもとの金量として通用しつづけるのです。反復によって生成した差異が、反復そのもののうちで仮象へと解消されます。こうして流通過程そのものによって金属貨幣には、いわば観念化が生じることになります。 

さてここで一つの商品、たとえば亜麻布の変身の全体を考えてみると、まず確認できるのは、それが二つのたがいに補いあう運動、すなわちW−GとG−Wで構成されているということである。商品のこれらの逆向きの二つの変身は、商品の所有者どうしの二つの対立した社会的な過程のうちで起こるのであり、商品の所有者どうしの対立した経済的な役割に反映される。商品の所有者は、販売を実行する者としては売り手であり、購入を実行する者としては買い手である。

しかし商品のすべての変身において、商品形態と貨幣形態という二つの形態は、対立した両極としてではあるが、つねに同時に存在する。同じように同一の商品所持者が、売り手としては別の買い手と向き合い、買い手としては別の売り手と向き合うことになる。同じ商品が、逆向きの二つの変化を次々と経験する。すなわち商品はまず貨幣になり、貨幣は次に商品となる。それと同じように、同じ商品所持者が、二つの異なる役割を演じるのであり、まず売り手となり、次の買い手となる。だからここでは人々は固定された役割を演じるのではなく、商品の流通においてたえず役割を交替しているのである。

ある商品の変身の全体は、もっとも単純な形態では、四つの極と三人の登場人物を想定する。まず貨幣がその商品の価値姿として、商品と向き合う。この価値姿は、相手側である他人のポケットの中で、物的な硬い実在性をそなえている。ここで商品所持者に、貨幣所持者が向きあうのである。

次に商品が貨幣に変わると、この貨幣は商品の束の間の等価形態となる。この等価形態の使用価値あるいは内容は、貨幣の側からみると、別の商品体のうちに存在する。最初の商品の変身の終点であるこの貨幣は、同時に第二の商品の変身の出発点である。このように第一幕では売り手だった人物が第二幕では買い手となり、この第二幕ではこの買い手に、第三の商品所持者が売り手として向きあうのである。

この商品の変身は二つの逆向きの運動段階を経験するが、これは一つの循環を構成している。まず商品の形態として存在し、次に商品の形態を脱ぎ捨て、それからふたたび商品の形態に戻るのである。ただし商品はこの循環においては対立的に規定されている。出発点においてはこの商品は、その商品の所有者にとっては非使用価値であり、終点においては使用価値になっている。このように貨幣は、まず商品が変化する硬い価値の結晶として現れるが、その後に商品のたんなる等価形態として融けて姿を消すのである。

 

商品流通

ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するととともに、他の一商品(小麦)の総変態を閉じる。その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこの商品そのものが化してゆく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる。

商品流通は、ただ形態的にだけではなく、実質的に直接的生産物交換とは違っている。事態の経緯をほんのちょっと振り返ってみよう。リンネル織職は無条件にリンネルを聖書と、自分の商品を他人の商品と、取り替えた。しかし、この現象はただ彼にとって真実であるだけである。冷たいものよりも熱いものを好む聖書の売り手は、聖書とひきかえにリンネルを手に入れようとは考えもしなかったし、リンネル織職も小麦が自分のリンネルと交換されたことなどは知らないのである。Bの商品がAの商品に替わるのであるが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではない。実際には、AとBとが彼らどうしのあいだで互いに買い合うということも起こりうるが、しかし、このような特殊な関係はけっして商品流通の一般的な諸関係によって制約されているのではない。商品流通では、一方では商品交換が直接的生産物交換の個人的および局地的な制約を破って人間労働の物質代謝を発展させるのが見られる。他方では、当事者たちによっては制御されえない社会的な自然関連の一つの全体圏が発展してくる。織職がリンネルを売ることができるのは、農民が小麦すでに売っているからこそであり、酒好きが聖書を売ることができるのは、織職がリンネルをすでに売っているからこそであり、ウィスキー屋が蒸留酒を売ることができるのは、別の人が永遠の命の水すでに売っているからこそである、等々。

それだから流通過程はまた、直接的生産物交換のように使用価値の場所転換または持ち手変換によって消えてしまうものでもない。貨幣は、最後には一つの商品の変態列から脱落するからといっても、それで消え失せてしまうのではない。それは、いつでも、商品があけた流通場所に沈殿する。たとえばリンネルの総変態、リンネル─貨幣─聖書では、まずリンネルが流通から脱落し、貨幣がその場所を占め、次には聖書が流通から脱落しその場所を占める。商品による商品の取り替えは、第三の手に貨幣商品をとまらせる。流通は絶えず貨幣を発汗している 

ある一つの商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡み合っています。まずリンネルが、その最初の変身を開始するとき(リンネル−貨幣)を考えてみましょう。リンネルに相対する貨幣は、実はその総変化(小麦−貨幣−リンネル)の最後の変身を閉じようとしているわけです。つまりリンネルは、自分自身の最初の変身を開始するその同じ過程で、同時に、別の一商品(小麦)の最後の変身を終わらせるという二つの役割を果たしていることになります。つまりリンネルの循環は小麦の循環と絡み合っています。

リンネルの変身した貨幣は、今度はリンネルの第二の変身(貨幣−聖書)を遂げるのですが、このリンネルの最後の変身は、同時に別の第三の商品(聖書)の総変化(聖書−貨幣−ウィスキー)の最初の変身を行なわせるということでもあるわけです。だからこれはリンネルの循環が別の第三の商品(聖書)の循環と絡み合っていることを示しているわけです。このように一商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡まり合っていましたが、それぞれの絡み合っている他の二つの商品の循環もまた、別のそれ以外のさまざまな商品の循環と絡まり合っていることになります。このように商品の変化が描く循環は、他の諸商品と解きがたく縺れ合って絡まり合っているのです。この絡み合っている総過程を商品流通といいます。

生産物を互いに直接交換するのと、それを商品として貨幣を媒介して、売ったり買ったりするのとでは、見た目たけではなく、内容的にもまったく違ったものになっています。物々交換と商品流通がまったく異なるものであることは、次のことを考えれば分かります。物々交換の場合は、時と場所を決めて、交換者は互いにそれぞれの商品の所持者として相対して、互いにそれぞれの商品を相手に手渡す代わりに相手の商品の譲渡を受けるというものです。これに対して、商品流通の場合は、まったく違っています。例えばリンネル織職はリンネルを売って聖書を買ったのですから、自分のリンネルと聖書を交換したと考えるかもしれませんが、しかしそれは彼にとっての真実というだけで、実際はまったく違います。というのも聖書を売った人にとっては、彼は聖書とリンネルを交換する気などまったくないことは明らかだからです。彼は聖書を売って、ウィスキーを入手しようとしているわけですから。同じように、リンネルを買ったのは、小麦を生産した農民ですが、リンネル織職にとっては彼が入手した貨幣が小麦の転化したものだった(だから農民は彼の小麦と亜麻とを交換したと考えている)ということもまったくあずかり知らないことなのです。

現実として、商品流通の場合は、Bの商品がAの商品にとって替わっていますが、しかしAとBとが互いに彼らの商品を交換するのではないことは明らかです。もちろん、実際には、あるときはAとBとが互いに商品を買い合うということも起こり得ますが、しかし商品流通というのは、そうしたことを前提するものではないし、一般的にAとBが互いに買い合うというような条件に制約されているわけではありません。

商品流通では、生産物の直接的な交換(物々交換)が前提しているような個人的な、あるいは局地的な、あるいは時間的な制限を打ち破って、人間労働の社会的な物質代謝を拡大し発展させていることが分かります。しかし他方で、彼らの社会的関係が、物々交換のように互いの直接的な関係ではなくなるということは、彼らの社会的関係が物の関係として、彼らの意識によって制御できない一つの物象的な関係として発展してくることになるのです。リンネル織職や聖書販売人やリンネルを買った人など、これまでの登場人物は、ただ彼らの販売する物の関係を通じてしか社会的な結びつきを持つことが出来ないのです。しかも彼らはそのことを自覚するわけではなく、まったく無自覚にそうした社会的な物象的関係を取り結んでいるのです。そして彼らが知らないあいだに形成された社会的関係に彼らは支配され、翻弄されることになるのです。つまり商品流通では、商品流通の当事者たちは、このようにそれぞれが互いを前提し合う関係を形成するのですが、しかし彼らはそのことには無自覚ですし、互いに無関心なのです。

物々交換の場合は、当事者が互いの商品を持ち寄り、交換し合えば、それで終わります。しかし商品流通では、以前に見たように、一つの商品が変態を遂げるためは、四つの極と三人の登場人物が必要だったのであり、しかもそれらの登場人物のそれぞれの商品についても同じことが言え、だからそれらが複雑に絡まり合っているのだから、それは終わりのない無限連鎖になるわけです。だから一つの商品の変態列が終了したからといって商品の流通過程がなくなるということはありません。流通過程が続くということは、そのなかで貨幣が留まっているということでもあります。さまざまな商品が流通過程に入ってきては消えていきますが、しかし貨幣はつねにそこに留まり続けています。一つの商品が最後の変身(G−W')を遂げて流通過程から消えたと思ったら、その商品(')に取って替わった貨幣()というのは、実は第二の商品(')の変身の出発点をなしているのですから、新たな流通過程の開始を意味します。こうして、貨幣は次々とさまざまな商品の変化のプロセスを経て流通に留まり続けることになるわけです。例えばリリンネルの変化のプロセスを考えてみると、リンネル−貨幣−聖書となりますが、ここではまず最初にリンネルが販売されて、流通過程から脱落します。しかしその代わりにリンネル織職は貨幣を持っており、リンネルが流通過程で占めていた場所を貨幣が代わりに占めていることがわかります。次にリンネル織職はその貨幣で聖書を購入します。その結果、聖書は流通過程から脱落しますが、しかし貨幣そのものは依然として最初の聖書所持者だった人の手のなかにあり、聖書に代わって流通過程のなかにその場所を占めていることになるのです。商品の流通の結果をみれば、商品と商品が交換されたということになります。しかしそのことは同時につねに第三者の手に貨幣商品を止まられていることになるのです。だから流通はつねに貨幣を汗のように滲みださせるのです。

ここまでの商品と貨幣の流通をまとめると次のように図式化できます。

直接的な商品交換は一般的購買手段としての貨幣によって媒介されることで、「売り」と「買い」という2つの別個の過程に分けられます。これを図式化するにあたり、記号を用います。貨幣はドイツ語でGeld(ゲルト)で、商品は複数形でWaren(ヴァーレン)というので、貨幣をG(ゲー)、商品をW(ヴェー)という記号で表現します。そうすると、直接的商品交換は、W1−W2と表現することができます(W1とW2はそれぞれ使用価値の異なる商品を意味しています)。これは両方の商品の価値と使用価値とが同時的に実現される過程であり、この過程は、貨幣によって媒介されることで、W1−G−W2と表わすことができます。

W1の持ち手からすると、前半のW1−Gは「売り」であり、後半のG−W2は「買い」です。商品所持者は、自分が生活するために、あるいは自分の商品を生産するのに必要な何かを手に入れるために自分の商品を手放すのだから、最初の「売り」には必然的に「買い」が伴うことになります。商品から見ると、出発点の商品であるW1は、まず同じ価値をもつ貨幣Gに変身し、次に同じ価値を持っているが最初の商品とは異なる使用価値を持つW2に変身し、そこから消費過程(ないし生産過程)に入って、商品流通過程から脱落します。したがって、「W1−G−W2」(より簡潔に表現すれば「W−G−W」)という過程は、商品流通過程の相対的に完結した一つの基本単位となるわけです。

しかし、この過程が成立するまでには、前半においては商品W1を購入する貨幣所持者と、後半においては貨幣と引き換えに商品W2を売る商品所持者とをそれぞれ必要とします。W1の所持者をAとし、その買い手をBとし、商品W2の売り手をCとすると、まずAとBとの間では次のような取引が存在します。

後半においては、今度は商品W2の売り手Cとのあいだで以下のような取引が存在します。

この両取引を合体させると、次のようになります。

以上で少なくとも、Aに関する商品流通の流れを描くのに必要なすべての商品交換が描かれています。しかし、W1の買い手であるBは、最初から貨幣を持っていたわけではありません。ここでは商品所持者同士で構成される社会が前提となっているので、Bは自分が今もっている貨幣を入手するのに、自分の商品を売って貨幣を入手する前段があったはずです。他方、Aに商品W2を売るCにしても、それによって得た貨幣でもって別の何らかの商品を買う後段が存在するはずです。そこで、Bが最初に持っていた商品をW0とし、Cが最終的に購入して消費する商品をW3とすると、以下のような3つの商品流通の系列が描けるはずです。

 

しかし、BはBで、自分の最初の商品W0を買ってくれた貨幣所持者がどこかにいたはずで、Cにしても、自分が最終的に購入する商品W3を売ってくれる商品所持者がいたはずです。こうして、この商品流通の連鎖は無限連鎖となるわけです。

ここで、貨幣Gに注目すると、Gは、代わる代わる3つの商品流通を媒介しながら、その最初の持ち手であったBからしだいに遠ざかってCにまで至っていることがわかる。しかし、Bはこの貨幣を別の誰かから入手したわけであり、またCもそれをすぐに手放して別の商品を入手するわけだから、このGの軌跡は前にも後にも無限に延びていくだろう。このような無限の軌跡を描いて次々と商品流通を媒介にしていく貨幣は単なる購買手段ではなく、流通手段として機能していると言えます。

 

ちなみに、ここで登場する「物質代謝」という言葉は、生理学由来のものですが、マルクスはこの言葉をしばしば比喩的に、社会の中での人間たちによる物質的なやり取りのことを示す概念として用いています。この言葉にはもう一つの用法があり、マルクスはこの言葉によって人間と自然、あるいは自然同士の物質的なやり取りを表すときもあります。

いずれにしろ、ここでは、商品流通によって広範な労働生産物の交換が可能になること、そして他方では、そのような広範な商品交換が当事者たちによっては制御できるものではなくなることが指摘されています。 

一つの商品がこの循環において経験する二つの変身は、同時に他の二つの商品の逆の変身の一部を構成する。同じ商品(亜麻布)が、それ自身の変身の連鎖を開始するとき、別の商品(小麦)の変身の連鎖の全体が閉じられる。この商品は最初の変身、すなわち販売の場面で、このように[変身を開始するものと終了させるものとして]一人で二役を演じるのである。

この商品は金の軸に化身し、やがて姿を消していくが、その過程において、第三の商品の最初の変身を遂げさせる。このようにそれぞれの商品の変身の連鎖が描きだすこの循環は、他の商品の循環と分かちがたく結びついている。この全体の過程は、商品流通として現れる。

商品流通は、形式的にだけではなく実質的にも、生産物の直接の交換[物々交換]とは異なるものである。それはこれまでの経緯をふりかえってみればすぐに分かることである。亜麻布職人が亜麻布と聖書を交換したこと、自分の商品を他人の商品と交換したことは確かである。しかしこの現象が真実であるのは、亜麻布職人にとってだけである。[本という]冷たいものよりも[蒸留酒という]熱いものを好む聖書の売り手にとっては、聖書を売って亜麻布を手に入れようなどとは、まったく考えていない。それは亜麻布職人が、自分の亜麻布が小麦を交換されたものであることを知らないのと同じである、などなど。

[現実としては]Bの所有する商品がAの所有していた商品と交換されたのだが、AもBも、みずから所有していた商品をたがいに交換するわけではない。実際に、AとBがみずから所有する商品をたがいに交換することはありうるだろう。しかしこのような特殊な関係は、商品流通の一般的な関係の条件にしたがうものではない。

この商品流通[の一般的な関係]において確認できるのは、第一に商品の交換が、生産物の直接的な交換においてみられた個人的で局地的な制約を克服し、人間労働の物質代謝を発達させているということである。第二に、取引する当事者のコントロールの及ばない社会的な自然連関の全体の領域が発展しているということである。亜麻布職人が亜麻布を販売できるのは、[亜麻布を買った]農民がすでに小麦を販売しているからでもある。熱いもの[蒸留酒]の好きな男が聖書を売ることができるのは、亜麻布職人が亜麻布をすでに売っているからである。醸造家が蒸留した水[蒸留酒][聖書を売った男に]売ることができるのは、相手がすでに永遠の命の水[聖書]を売っているからである、などなど。

だから流通過程は、生産物の直接的な交換とは違って、使用価値の存在場所の交替や所有者の交替のうちに、姿を消してしまうことはない、貨幣はある商品の変身の連鎖のうちから最終的には姿を消すが、貨幣そのものが消え失せることはない。貨幣は、流通過程において商品が姿を消した空席に、つねに戻ってくる。たとえば亜麻布が流通から姿を消し、貨幣がその空席に入りこみ、次に聖書が流通から姿を消すと、貨幣がその空席に入り込む。ある商品が別の商品に置き換えられると、同時に貨幣商品が第三の所有者の手に渡る。流通はつねに貨幣を汗のように滲みださせる。

 

商品流通と恐慌

どの売りも買いであり、またその逆でもあるのだから、商品流通は、売りと買いとの必然的な均衡を生じさせる、という説ほどばかげたものはありえない。それの意味するところが、現実に行われた売りの数が現実に行われた買いの数に等しい。というのであれば、それはつまらない平凡な同義反復である。しかし、それは、売り手は自分自身の買い手を市場につれてくるのだということを証明しようとするのである。売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行動としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる。さらに、この同一性は、もしこの過程が成功すれば、それは一つの休止点を、長いことも短いこともある商品の一時期を、なすということを含んでいる。商品の第一の変態は、同時に売りでも買いでもあるのだから、この部分過程は同時に独立な過程である。買い手は商品をもっており、売り手は貨幣を、すなわち、再び市場に現われるのが早かろうとおそかろうと流通可能な形態を保持している一商品を、もっている。別のだれかが買わなければ、だれも売ることはできない。しかし、だれも、売ったからといって、すぐに買わなければならないということではない。流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換のうちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統一が外的な諸対立において運動するということも意味している。互いに補いあっているために内的には独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる─恐慌というものによって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立─この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性へ発展は、単純な商品流通の無立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。

商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる。

「販売(売り)」は反対側からみれば「購入(買い)」なのですから売りと買いは一つの同じ過程なのであり、それゆえ、売りと買いは必然的に均衡するのだ、という説をとなえる人がいます。しかし、これは馬鹿げた考えです。これはただ売りと買いをただ意味のない抽象として捉えたにすぎません。実際には一つの商品の「売り」にはさまざまな困難が立ちふさがることを私たちは見てきました。それがこの一言でなしにすることができるなどと言うことはありえません。売りと買いは必然的に均衡するということは、一つの商品の売りのためには、必ずそれに見合った買いを見いだすことができる、つまりそれは絶対に売れるということを証明することです。もしそれが出来るなら、そもそも“命懸けの跳躍”などあろうはずがありません。経済過程の現実は需要と供給とは常にアンバランスであることを日常的に教えてくれています。

「売り」(G−W)と「買い」(W−G)は、二人の対局に立つ人からみれば、つまり商品所持者と貨幣所持者との相互関係としてみれば、一つの同じ行為の二側面です。しかしそれを一人の商品保持者の行動としてみるなら、互いに対局した互いに補い合う行為(W−G−W)を意味しています。だから「売り」と「買い」とは同一だと言っても、そもそも最初の「売り」(W−G)が成功しなければ、商品所持者にとっては、その商品は無駄になることになります。なぜなら、商品の価格は、その商品に含まれている価値の大きさの指標ですが、他方でそれは金になりたいという商品の願望、つまり商品に含まれている労働時間に、一般的社会的な労働時間という姿を与えたいという願望を表現しています。もしその“命懸けの跳躍”が成功しないなら、商品は商品ではなくなり、生産物でさえもなくなるのです。というのも、商品はその所有者にとって非使用価値だからこそ商品なのですから。

 しかし、もしこの販売(「売り」)が成功したとしても、それはそれで問題含みです。なぜなら、「売り」は同時に「買い」だということは、「売り」の対局の買いは、それを買う人からみれば、最後の商品の変身を意味しています。つまり彼に残されているのは流通過程からの退場です。そして商品所持者の「売り」という最初の変身の結果として入手した貨幣(G)というのは、自立した価値の姿として存在しているのです。だから売った人が、すくに買う必要は必ずしもありません。W−G…G−Wの…が短くも長くもなり得るのです。つまりそれは一つの休止点をなしうることを意味し、だからすぐに買う必要もないことになります。ということは亜麻布職人が亜麻布を売って手にした貨幣で、すぐに聖書を買わないとするなら(なぜなら彼が手にした貨幣はいつでもどんなときでも彼に必要な使用価値に転化しうる姿で存在しているのですから、彼はそれをもっと別の機会にその権利を行使しようと考えることもできるからです)、冷たいものより熱いものを好む人は、なかなかそれにありつけないことになります。少なくともそうした可能性を持っているわけですから、「売り」と「買い」が必然的に釣り合うなどとは言えないのです。

「売り」と「買い」は同一の過程の二側面だということは、「買い」がなければ「売り」もないということでもあるのです。そして、貨幣保持者は、何時如何なるときに、如何なる場所において、再び流通過程に入るかは事情の如何にかかっているのですから、彼は自分が売ったからといっても、すぐに買わねばならないというわけではないのです。直接的な生産物交換においては一つの局所において生産物の所持者が相対して、互いの生産物を交換し合うのですが、それに対して商品流通では、こうした生産物の交換の時間的、場所的、個人的限界を打ち破って社会的な物質代謝を発展させていることはすでに見ました。つまり生産物交換のうちにある、自分の労働生産物を交換のために引き渡し、それと引き換えに相手の生産物を受け取るという直接的な同一性を、商品流通においては、それを売りと買いに分裂させることによって、そうした物質代謝の発展をなし遂げているのです。

一つの商品の変態(W−G…G−W)は、(W−G)と(G−W)の間に休止点をもたらすとはいえ、しかしそれが一つの商品の変態の生涯をなすのですから、内的に統一していることは明らかです。だから売りと買いの分裂というのは、こうした本来は内的に統一しているものが、外的に対立して運動するということなのです。しかしこのように互いに補い合っているために内的に統一しているものが外的に独立化して運動するなら、その運動には限度があり、その運動がある点まで進めば、必ずその統一が強制的に回復されなければならないことになるのです。それが恐慌なのです。

最後の部分は詳しく見ていくことにしましょう。まず商品に内在する「対立」として@使用価値と価値との対立、A私的労働が同時に直接に社会的な労働として表現されなければならないという対立、B特殊な具体的な労働が同時にただ抽象的で一般的な労働としてのみ通用しなければならないという対立、C物が人格化され、人格が物化されるという対立、と四つの対立が指摘されています。そしてそれを受けて「これらの内在的な矛盾は」と今度はそれらを矛盾と述べています。これらについて、まず、四つの対立のそれぞれについて個別に見て行きましょう。

@使用価値と価値との対立というのは、商品には使用価値と価値という対立した契機があります。使用価値というのは、商品の物的な存在そのものであり、その具体的な有用性のことです。しかし価値というのは、直接には目にすることの出来ない商品に内在的なものであり、商品の生産に支出された労働の社会的性格を表しているものです。それが対立したものであるというのは、使用価値と価値は互いに前提しあいながらも排除し合っているものだからです。使用価値には価値は含まれていませんし、価値には使用価値は一片も含まれていません。それが使用価値と価値との対立ということです。

A私的労働が同時に直接に社会的な労働として表現されなければならないという対立です。私的労働というのは、個々人がバラバラにそれぞれの思惑で勝手にするような労働のことです。社会的な労働というのは、個々人の労働が彼の所属する社会において、前もって直接に社会的に関連づけられた形で支出されるような労働のことです(これは工場内で一つのシステムの中に位置づけられた労働を考えればわかります。しかし工場内ではそれらの労働を関連づけるのは資本であって決して労働者自身ではないから、それは労働者にとっては疎外された強制労働なのですが)。だからこの二つの労働はまったく相反するものといえます。しかし労働の生産物が商品になるということは、その生産物を生産した労働が私的労働であるのに、しかし本来的には社会的に関連しあっていなければならないということを意味するのです。諸商品の交換がその社会的関係を実現するわけです。その交換関係を内在的に表しているのがその商品の価値なのです。つまり商品というのはそれに支出された労働は直接には私的なバラバラな労働なのですが、それが商品であるということは、そのバラバラな労働が社会的な関係のなかにあることを示す必要があることを意味しているのです。それは商品の価値が具体的な姿(貨幣)において表されるということでもあるのです。それが〈私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならない〉ということなのです。これは商品がその直接的な姿である使用価値を脱ぎ捨てて、その内在的な価値の直接的な姿態である貨幣にならなければならないということでもあります。商品と貨幣というのは、商品に内在する使用価値と価値が商品の二重化によって、外的な対立として現れたものです。

B特殊な具体的な労働が同時にただ抽象的で一般的な労働としてのみ通用しなければならないという対立です。特殊な具体的労働というのは使用価値を生産する有用な具体的な労働ということです。もしその労働が直接社会的な関係のなかで支出されたものなら、その労働は特殊な具体的な労働のままに同時に直接に社会的な労働でもあるということです。しかし商品を生産する労働は直接には私的労働です。だから商品を生産する特殊な具体的労働は、そのままでは社会的な労働としては存在しえません。だからその特殊な具体的な労働は、その特殊性を捨象されて抽象的で一般的な労働に還元されて、はじめて社会的な関係を持ちうるものとなるのです。諸商品の交換過程は、まさにその抽象を日々行うことによって諸商品を関連づけているのです。だから特殊な具体的労働が同時に抽象的一般的な労働としてのみ認められなければならないという対立は商品社会に固有のものなのです。

C 最後の物が人格化され、人格が物化されるという対立についてです。物の人格化というのは、商品という物象が、人間に代わって主体となるということです。だから人間はただ商品の運動に規定された代表者という役割でしかないことになります。それに対して人格の物化というのは、人間の社会的関係が、物象の関係、物象相互の社会的関係、あるいは物象そのもの(貨幣)として現れてくるということです。だから最後の物が人格化され、人格が物化されるという対立は、商品社会では、人々の生産した物が、商品となることによって、生産者に代わって主人公になり、人間は、その物象の単なる代表者になるということ、そしてそのために人間の社会的な関係が、物の関係として、あるいは物そのものとして現れてくるということではないかと思います。これは商品の物神性を意味しているといえます。

そしてそれを受けて「これらの内在的な矛盾は」と今度はそれらを矛盾と述べています。それは、商品の内在する対立というのが、商品を抽象的に・分析的に観察したときに、商品に内在する諸契機が対立として捉えられたのに対して、商品をそれらの対立物の直接的な統一として捉え返せば、それらは直接的な矛盾として現われるということです。だから私たちがこれまで考察してきた商品の変身というのは、商品に内在する対立した契機が、交換過程において互いに矛盾した関係として現われ、その矛盾の解決として商品が、商品と貨幣とに二重化して、新たな運動形態を得たのでした。そして商品の変身において発展した運動形態を受け取った矛盾は、今度は販売と購買との分裂として現れてくるのですが、それがある段階まで行けば、不可避にその分裂が強制的に克服されて統一されざるを得ず、それが恐慌の可能性、しかし商品流通においてはただ可能性だけですが、を示すのだということです。

しかし、商品の運動形態に内在する恐慌の可能性というのは、あくまでも抽象的な可能性にすぎず、だから単純な商品生産と流通を前提するだけでは恐慌としては現われてきません。これは単純な商品というのは資本主義以前の諸社会においても部分的には存在してきましたが、そうした社会では恐慌というものは存在しなかったことを見てもわかります。恐慌というのは、単にある特定の商品が売れないということではありません。単に商品が売れないというだけなら、資本主義以前にもそうした現象はいくらでもあったでしょう。しかし資本主義に固有の恐慌というのは、すべての商品が作っても売れないという現象として現われてくるのです。だからそうした現象の裏には資本主義的生産の複雑な諸関係が前提されているのです。恐慌の抽象的な可能性は、単純な商品流通においてはもう一度「支払手段」のところでも出てきますが、同じことがいえます。

また『資本論』では第2巻の「資本の流通過程」でも恐慌の可能性について論じているところは何度か出てきますが、やはりそれらも可能性にすぎないものです。すでに資本関係を前提しているのに、依然としてそれらが可能性に留まっているのは、『資本論』の第1巻、第2巻は資本主義的生産様式に内在する諸法則を一般的に叙述するために、諸商品(資本)は価値どおりの価格で交換されることが前提されています。つまり資本主義的生産と流通の諸法則は純粋な形で均衡的に貫徹するものとしてその諸形態が考察されているのです。だからそうした均衡を破る諸契機は、ただ単なる可能性としてしか把握されないのです。

 

ここで、説明が長くなってしまったので、ここでのポイントをまとめてみましょう。売りと買いは必然的に均衡するという愚かしい議論と批判されているのは、「セーの法則」と呼ばれています。フランスの経済学者であるジャン=バティスト・セー(1767〜1832)によって定式化されたと考えられていて、商品の供給がおのずとその商品にたいする需要を生み出すという理論です。当時、「セー法則」に影響を受けていた経済学者たちは、貨幣は商品交換を便利にするための道具にすぎないと考えていました。例えば小麦所持者が亜麻布を手に入れようとしたとき、物々交換では小麦所持者が亜麻布を欲し,亜麻布所持者か小麦を欲するという極めて偶然的なケースしか交換がなりたたない、だから、より円滑に交換を行うための手段として貨幣が導入されたのだ。と考えたのです。この考え方によれば、貨幣は単に物々交換を円滑にするための手段にすぎませんから、商品交換を撹乱させることはまったくありません。こうして、彼らは商品流通を事実上、物々交換と同一視し、ある商品の販売は他の商品の購買に等しいと考えたのです。しかし、すでにみたように、貨幣はたんに商品交換を便利にするための道具ではありません。というのも、貨幣は商品の価値表現にとって不可欠であり、あらゆる商品に対する直接的交換可能性という力を独占している特別な物象だからです。たしかに、前の引用文でみたように、貨幣によって商品交換を便利にするための道具ではありません。というのも、貨幣は商品の価値表現にとって不可欠であり、あらゆる商品にたいする直接的交換可能性という力を独占して特別な物象だからです。たしかに、前の引用文でみたように、貨幣によって商品交換が便利になり、それはますます発展していきます。しかし、貨幣は立たせ交換を円滑にするだけではありません。それがもつ特別な力によって新たな矛盾を生み出してしまいます。それは、商品どうしの交換が販売と購買へと分裂してしまうということです。

商品が販売できるかどうかは、その商品を購買しようとする人がいるかどうかにかかっています。ところが、ある人が自分の商品を販売して貨幣を入手したとしても、必ずしもこの貨幣をつかって新たに商品を購買するとはかぎりません。貨幣は直接的交換可能性をもっているがゆえに、いつでも好きなときに使用できます。だから、それがいつふたたび流通に入るかはそのときどきの事情に依存します。たまたま市場に自分が欲しい商品が存在しないとか、自分の欲しい商品を入手するにはもう少し所持金を増やす必要があるなどの理由によって、貨幣を手元にとどめておくということが起こりえるのです。

こうして、いったん商品流通の流れが途切れてしまうと、それが連鎖していく可能性がうまれます。商品が売れないために、その商品の所持者が他の商品を購買できず、その商品のまた販売できなくなる、といった具合です。このような販売不能の連鎖が社会的な拡大すると、恐慌になります。

このように、商品交換が販売と購買に分裂すると、もはや「ある商品の販売=別の商品の購買」という「セー法則」の想定は成り立ちません。なぜなら、自分の商品の販売は、その販売によって取得した貨幣で別の商品を購買することなしに、おこなうことが可能だからです。このような商品交換の、販売と購買という対立的な行為への分裂が、恐慌の可能性を生み出すのです。そして、この恐慌こそが全般的な過剰生産を解消し、ふたたび販売と購買からなる商品変態の統一を回復させる、ということになります。

商品の流通において、販売は同時に購入であり、購入は同時に販売であるという理由で、商品の流通が販売と購入を必然的に均衡させるという理論があるが、これほど愚かしい理論はない。これが言いたいことだが、現実に行われた販売と購入の数が同じであるということであれば、これは[売ることは相手には買うことなのだから]たんなる平凡な同義反復である。しかしこの理論は、売り手は自分の商品の買い手を市場につれてくることを証明しようとするのである。

販売と購入は、対極的な立場にある二人の人、すなわち商品の所有者と貨幣の所有者との相互的な行為としては、同一の行為である。しかし同一の人物にとっては、これは二つの対極的に対立した行為となる。だから販売と購入が同一であるということは、流通という錬金術の坩堝の中に投げ込まれた商品が、貨幣として姿を現さないならば、すなわち商品の所有者が販売し、貨幣の所有者が購入するのでなければ、この商品は無駄になることを意味するのである。またこの販売と購入が同一であるということはさらに、この取引が成功したならば、この売買過程は商品のある種の〈休息場所〉、商品の生涯の一こまを作りだし、これは長くつづくことも短く終わることもあるということを意味している。

この商品の最初の変身段階は、販売である同時に購入であるから、変身過程の一部であるこの段階は同時に独立した過程でもある。買い手はいまでも商品を手にしており、売り手は貨幣を手にいれている。貨幣とは、流通において使われうる形態を維持している商品であり、やがては遅かれ早かれ、ふたたび市場に現れることになるだろう。いかなる売り手も、買ってくれる相手がいなければ売ることはできない。しかし誰も、売ったからといってすぐに何か買わなければならないわけではない。流通は生産物の交換にそなわる時間的、空間的、個人的な制約を突破する、それは生産物の交換では、自分の労働の生産物を譲渡することが、他人の労働の生産物を取得することと直接に同一であるが、これに対して商品の流通では、この同一性が販売と購入の対立のうちに分割されるからである。

この商品の流通においては、たがいに独立して向き合うさまざまな過程がそれぞれ一つの内的な統一を作りだすのであり、これらの過程の内的な統一は、外的な対立のうちで運動するのである。これらの過程はたがいに補いあっているために、内的には独立していないものが外的には独立したものとなる。そしてこの運動があるところまで進むと、統一が暴力的に回復させられる─恐慌によってである。

商品の流通にはさまざまな矛盾が内在している─まず商品そのものに使用価値と価値の対立があり、[商品を生産した]私的な労働が、同時に直接的な労働として表現されなければならないという対立があり、特殊な具体的な労働が、同時に抽象的で一般的な労働としてのみ通用しなければならないという対立があり、物が人格化され、人格が物化されるという対立がある。これらの内在的な矛盾は、商品の変身という対立のうちに、その発展した運動形態をみいだしているのである。そのためこれらの形態は、恐慌の可能性を含んでいるのである(ただし、たんなる可能性にすぎない)。この可能性が現実のものとなるためには、商品の単純な流通という観点からみると、まだまったく存在していない諸関係の全体の領域が必要とされる貨幣は、商品の流通を媒介する役割において、流通手段という機能をはたすのである。

 

 

(B)貨幣の流通

貨幣の流通とは 

労働生産物の物質代謝がそれによって行われる形態転換、W−G−Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。それゆえ、このような商品の運動は循環である。他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。売り手が自分の商品の転化した姿、貨幣を握りしめているあいだには、商品は第一の変態の段階にあるのであり、言いかえれば、ただその流通の前半を経過しただけである。その過程、買うために売る。完了すれば、貨幣はさらにその最初の所持者の手から遠ざかっている。もちろん、リンネル織職が聖書を買ってからまたあらためてリンネルを売れば、貨幣はまた彼の手に帰ってくる。しかし、その貨幣ははじめの20エレのリンネルの流通によって帰ってくるのではなく、この流通によっては、貨幣はむしろリンネル織職の手から聖書の売り手の手へと遠ざかっている。貨幣は、ただ新たな商品のための同じ流通過程の更新または反復によってのみ帰ってくるのであり、この場合も前の場合も同じ結果で終わるのである。それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或るの商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の流通である。

現代の社会は、労働生産物が商品として交換され、流通することよって、その社会的な物質代謝が維持されています。だからW−G−Wのうち、W−Wが規定的であって、それを媒介する貨幣Gはそれに規定されたものでしかないのです。しかしこれは商品流通の現実から受ける印象とは違ったものです。現象的には貨幣が商品を流通させているように見えるからです。しかしW−W、つまり商品が同じ点に帰ってくることが本質的なことであり、その商品の運動をマルクスは循環だと述べています。商品(労働生産物)が、別の商品(労働生産物)と交換されて、この社会の物質代謝は維持されているからです。これが一番の基礎だとマルクスは述べているのです。だから他方では、貨幣の運動はこれを媒介するものですが、W−G−Wでは、貨幣は自分自身に帰ってくることはありません。それは商品の運動に規定されて、ただ出発点から遠ざかるだけなのです。例えば売り手が自分の商品を販売して貨幣を入手した段階を考えてみましょう。この段階では商品は最初の変身を終えただけですが、さらにその貨幣で自分の欲しいものを買って、その商品の最後の変身を終えるならば、結局、貨幣はまた別の所持者のところに移って行って、その最初の売り手の手から遠ざかっていくだけです。

もちろん、売り手の手に貨幣が再び戻ってくることはありえますが、しかしそれは売り手がまた新しい商品、例えば亜麻布職人が亜麻布を売ったあと手にした貨幣で聖書を買ってそれを手放したあとに、別に新たに織った亜麻布を売るならば、貨幣はまた彼の手に帰って来ます。しかしこの貨幣は、別の商品(新たな亜麻布)の循環を表しているのであって、亜麻布職人が最初に手放した貨幣そのものが帰って来たわけではありません。最初の貨幣は聖書の売り手の手へと遠ざかっているのです。

だから貨幣は、亜麻布の販売が、新しい亜麻布によって繰り返されることによって、新たに亜麻布職人の手に帰ってくるだけです。だから今回の結果も最初の亜麻布の販売の場合とまったく同じことです。ですからこういうことから言えることは、商品流通によって貨幣に直接与えられる運動形態というのは、貨幣が絶えず出発点から遠ざかっていくこと、貨幣が商品所持者の手を次々と渡り歩いて行くことです。それが貨幣の流通というのです。

労働の生産物の物質代謝が行われる形態転換であるW−G−Wが意味するのは、同じ価値が商品としてこの過程の出発点にあり、ふたたび商品として同じ場所に戻るということである。だから商品のこの運動は循環である。他方でこの形態は、[貨幣を]締めだすという意味で]貨幣の循環を排除する。そのために貨幣はその出発点に戻るのではなく、出発点からたえず遠ざけられる。売り手が自分の商品が変化した姿である貨幣を手元にとどめておくかぎり、商品は最初の変身段階にとどまるのであり、その流通過程の前半を経過したに過ぎない。購入するために販売するという過程が完了すると、貨幣はその最初の所有者からさらに遠ざけられる。

もちろん亜麻布職人が聖書を購入した後で、新たに亜麻布を販売すれば、貨幣がふたたび手元にもどってくる。しかしこの貨幣は最初に販売した20ヤードの亜麻布が流通することで、彼のもとに戻って来たわけではない。この流通によって、貨幣は亜麻布職人の手から聖書の売り手のもとへと遠ざかるのである。貨幣が亜麻布職人のところに戻ってくるのは、新たな商品を手放すことで、同じ流通過程を更新あるいは反復することによってであり、この流通過程は前の流通過程と同じ結果をもたらす。

だから商品の流通が貨幣に直接に与える運動形態は、貨幣が最初の出発点からたえず遠ざかるという運動であり、一人の商品所得者の手から、他の商品所持者の手へと流れるという運動であり、これは貨幣の流通と呼ばれる。

 

貨幣の流通の働き

貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいつでも購買手段として買い手の側に立っている。貨幣は商品の価格を実現することによって、購入手段として機能する。貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる。その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。流通の後半を、商品はもはやそれ自身の皮をつけてではなく、そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品に取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体として運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。

貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通が貨幣運動の結果としてのみ現われるのである。

他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品やの価値の独立化されたものであるからにほかならない。だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。したがってまた、この形態運動は感覚的にも貨幣の流通に反映しなければならない。たとえば、リンネルはまず自分の商品形態を自分の貨幣形態に変える。リンネルの第一の変態W−Gの最後の極、貨幣形態は、次にはリンネルの最後の変態G−Wの、リンネルの聖書への再転化の、最初の極になる。しかし、この二つの形態変換のどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらの相互の場所変換によって、行われる。同じ貨幣片が、商品の離脱した姿として売り手の手にはいり、そして商品の絶対的に譲渡可能な姿としてこの手を去る。それは二度場所を替える。リンネルの第一の変態はこの貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれを再び持ち出す。だから、同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。

これに反して、ただ画一的な商品変態、単なる売りか単なる買いかのどちらかが行なわれるとすれば、同じ貨幣はやはり一度だけ場所を替える。この貨幣の第二の場所変換は、つねに商品の第二の変態、貨幣からの商品に再転化を表わしている。同じ貨幣片の場所変化のひんぱんな繰り返しには、ただ一つの商品の変態列が反映してだけではなく、商品世界一般の無数の変態のからみ合いが反映しているのである。なお、すべてこれらのことは、ただ単純な商品流通のここで考察された形態にあてはまるだけということは、まったく自明のことである。

貨幣の運動は商品の形態変換に規定されたものですが、貨幣を主体として見ると、その運動は単調な繰り返しのように見えます。貨幣からみると、商品はいつも売り手の側にあり、貨幣はいつでも買い手の側にあります。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能します。つまり貨幣は、売り手の商品の価格を実現して、その商品を売り手から買い手の手に移しますが、また再び、その同じことを繰り返して、今度はその売り手の手から、別の売り手の手へと移って、遠ざかっていきます。その過程の繰り返しです。

こうした貨幣の一方的な運動は、商品の二面的な形態運動、つまり「売り」と「買い」という二つの形態変換によって生じているわけですが、そのことは貨幣の運動をみる限りでは覆い隠されて見えなくなっています。これは以下に述べますように、商品流通そのもの本性から生じていることなのです。商品の第一の変身(売り)、すなわちW(亜麻布)−G(貨幣)は、亜麻布が貨幣に変身するのですから、それは亜麻布自身の運動としても見ることができます。しかしその第二の変身(買い)、G(貨幣)−W(聖書)は、もはや亜麻布の運動としては見ることができません。亜麻布の姿はすでになく、今はその価値の姿態である貨幣の運動としてしか見えないからです。

つまり商品は最初の変身で、貨幣と場所を取り替えると、その商品の使用価値は、流通から抜け出て、消費に入ります。商品が占めていた場所には、商品の価値の姿すなわち貨幣がつきます。つまり貨幣自身は、それがどういう商品の変身したのかをその姿では何も表していないのです。つまりここでは亜麻布の最初の変身の結果であることはまったく見えなくなっているのです。だから商品の第二の変身、つまり流通の後半は、ただ貨幣の運動としてしか見えないのです。こうしたことから運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくることになるのです。そして貨幣の運動としては、商品自身の販売と購買という対立した運動が、ただ貨幣がその都度別の商品とその位置を変換したという同じ過程しか含んでいないのです。

社会的物質代謝の大本である商品が別の商品と取り替えられるという商品流通の結果は、商品自身の形態変化によってではなく、流通手段という貨幣の新たな機能によって媒介されているようにみえるのです。つまり流通手段としての貨幣が、それ自体では運動しない商品を流通させて、それが非使用価値である人の手から、使用価値である人の手へと、移していくようにみえるのです。商品はただ、貨幣自身の進行とは反対の方向に移っているだけのようにみえます。貨幣は、たえず流通のなかで商品が占めていた場所に入り、そして自分自身の出発点から遠ざかっていくことによって、絶えず商品を流通部面から消費部面へと遠ざけています。だからこそ、貨幣運動が商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通が、ただ貨幣運をとの結果として現れてくるのです。

他方、現象的には、商品は流通手段としての貨幣に媒介されて流通しているようにみえています。しかしそもそも貨幣が流通手段という機能を持ったのは、貨幣が諸商品の価値の独立した存在だからです。貨幣を貨幣たらしめるのは、諸商品が自ら価値を共同してそれで表現しているからです。だから流通手段としての貨幣の運動にも、実際には、そういう商品の形態運動が感覚的にも反映していなければならないのです。

そして実際、貨幣の運動形態を丁寧に見るならば、そうした反映を見ることができます。例えば、亜麻布は最初の商品の変身において、自分の商品形態を貨幣形態に変えました。亜麻布の第一の変身W−Gの最後の極である貨幣形態は、次には、亜麻布の最後の変身G−Wの、すなわち亜麻布の聖書への再変化の最初の極になります。この二つの形態変換はどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらが互いに位置を変えることによって行われます。つまりこの過程を貨幣に注目して見ますと、最初のW−GのGというのは、商品としての亜麻布の脱皮した姿として売り手の手に入ります。その同じ貨幣片が、今度はG−Wでは、商品の絶対的に譲渡できる姿として存在し、その売り手の手を去ります。貨幣片は、二度、その位置を変えます。亜麻布の第一の変身は、貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変身はそれをまた持ち出します。だから、同じ商品の二つの対立する形態変換(売りと買い)は、反対の方向への貨幣の二度の位置の変換をもたらすという形で反映しているのです。

一つの商品の変化W−G−Wが、貨幣の運動にどのように反映しているかをみましたが、ただ単に販売だけとか、購買だけと言う場合にも、やはりこうした一面的な商品の変身の場合も、貨幣の運動に反映されるのです。この場合は貨幣はやはりただ一度だけ貨幣は場所を替えるだけです。例えば貨幣の第二の場所変換、すなわち買いの場合は、常に貨幣から商品への再変化だけを表しています。だから買いにせよ、売りにせよ、同じ貨幣片が頻繁にそれを繰り返して変換するということは、ただ一つの商品の形態の変化ではなくて、商品世界全体の無数の変身の絡まり合いをそれが反映していることを示しています。なおこのことは自明のことですが、こうしたことが言えるのは、ただ単純な商品流通という、今われわれが考察している形態だけに言えることなのです。

これらを要約すると、貨幣の流通についても図解することによって問題になっている現象を明快に把握することができます。ここでのポイントは、貨幣流通は商品流通の結果でしかないにもかかわらず、商品流通が貨物の結果として表われるということです。

つまり、商品流通を構成する個々の商品変態(W1−G−W2)をみれば、貨幣の運動が商品変態の結果でしかないことは明らかです。何かを買うためには何かを売ることが必要であり、どんな購買も販売の結果でしかありません。つまり、商品変態が行われている限りでは、貨幣の運動は、つねに特定の商品(W1)によって別の商品(W2)を入手するプロセスを媒介するものでしかありません。ここでは、現実の生産活動や消費活動を媒介するものとして貨幣が流通していくのです。逆に、現実の生産活動や消費活動がなければ貨幣が流通しないことは明らかでしょう。

ところが、貨幣は直接的交換可能性を持っている特別な物象ですから、貨幣所持者の「買おう」という意志なしには売買は行われません。そのため、個々の商品の売買だけに注目すれば、売買のイニシアチブはつねに貨幣の側にあるということになります。こうして、貨幣を購買手段として用いることによって、売買が成立し、その結果として商品が流通する、という外観が成立するのです。

このような商品流通の外観にとらわれると、市場に貨幣を流通させることによって商品流通を活性化することができるのかのような幻想に陥ることになります。じっさいには、どれほど貨幣が強力な力をもっていようと、それが流通するのは、つねに現実の生産活動と消費活動の結果に過ぎないのです。

それゆえ、17〜18世紀に考えられたような「セー法則」のように商品流通をたんなる物々交換だと見なして恐慌を否定するのも誤りですが、他方で、商品流通をその経済的実体から切り離し、貨幣の力によって思うがままに動かせるものだと考えるのもまた誤りだということになります。 

貨幣の流通は、つねに同じ過程を単調に反復するものである。商品はつねに売り手の側にあり、貨幣はつねに購入手段として、買い手の側にある、貨幣は商品の価格を現実のものとすることによって、購入手段として機能する。貨幣は価格を現実のものとすることで、商品を売り手の手元から買い手の手元へと移転させる。同時に貨幣は買い手の手元から売り手の手元へと遠ざかる。そして別の商品によって、同じ過程を反復するのである。

貨幣の動きのこのような一面的な形態が、商品の二面的な形態の運動から発生するものであることは覆い隠されている。商品の流通の本性そのものが、それとは反対の仮象を生みだす。商品の最初の変身は、貨幣の動きとしてみることができるだけではなく、商品そのものの動きとみることもできるが、商品の第二の変身は、貨幣の動きとしてしかみることができない。

商品の流通の前半の段階では、商品は貨幣と位置を交替する。これと同時に商品の使用価値としての姿は、流通過程からは脱落して消費に入る。商品の使用価値としての姿の代わりに、商品の価値としての姿、または貨幣の仮面をかぶった姿が登場する。商品の流通の後半の段階では、商品はそのほんらいの皮膚ではなく、商品にとっては二つの対立した過程を含んでいた同じ運動が、貨幣自身の運動としては、つねに同じ過程を含んでおり、この過程ではつねに貨幣は、他の商品と位置を交替するのである。

商品流通の結果は、一つの商品が別の商品に置き換えられることであるが、これは商品そのものの形態の変化に媒介されているのではなく、流通手段である貨幣の機能によって媒介されているようにみえる。そして貨幣は、自分では動くことのできない商品を流通されるのであり、その商品が非使用価値となっている所持者の手元から、その商品が使用価値をもつ人の手元に移動させる。そして貨幣はつねにこれと反対の方向に移動するようにみえるのである。

貨幣は流通において商品の位置にとって代わり、そうすることで商品をつねに流通の領域から遠ざけるとともに、みずからの最初の出発点からとおざかりつづける。このように実際には貨幣の動きは商品の流通を表現するものにすぎないのに、反対に商品の流通が貨幣の運動の結果でしかないようにみえるのである。

他方で貨幣に流通手段の機能が与えられているのは、貨幣は商品価値が独立したものであるからである。そのため流通手段としての貨幣の動きは、実際には商品そのものの形態の動きにほかならない。だからこの商品形態の動きは、貨幣の流通に目に見えるように反映される必要がある。たとえば亜麻布はまずその商品の形態を貨幣の形態に変える。次に亜麻布の最初の変身W−Gの最後の極である貨幣形態は、亜麻布の変身の後半の段階G−W(亜麻布の聖書への再度の変化)の最初の極になる。しかしこの二つの形態の交替はそれぞれ、商品と貨幣の交換であり、両者の相互的な位置が交替することによって行われる。

同じ貨幣片が、まず商品の外化した姿として売り手の手元に到着し、次に商品の絶対的に譲渡可能な姿として、売り手の手元を離れていく。貨幣は二度、位置を変える。亜麻布の最初の変身によって、この貨幣片が亜麻布職人のポケットに入り、亜麻布の第二の変身によって、この貨幣片が亜麻布職人のポケットからふたたび出て行く。同一の商品がこのように二つの対立した形態転換を行うことは、貨幣が二つの対立した方向に、二度にわたって位置を交替することに反映されている。

これにたいして販売から購入しか行われず、商品が一面的にしか変身しない場合には、同じ貨幣が一度だけ位置を変えるにすぎない。貨幣の第二の位置の交替は、つねに商品の第二の変身、すなわち貨幣がふたたび商品に変わるときに起きる。同じ貨幣片の位置の交替が頻繁に反復されるときには、そこには一つの商品の一連の変身だけではなく、商品世界一般の無数の変身の複雑な関係も反映されている。ところで、こうしたことはここで検討している単純な商品の流通の形態だけに妥当するのは明らかなことである。

 

貨幣の流通量

どの商品も、流通への第一歩で、その第一の形態変換で、流通から脱落し、そこには絶えず新たな商品がはいってくる。これに反して、貨幣は流通手段としてはいつでも流通部面に住んでおり、絶えずそのなかを駆けまわっている。そこで、この部面はつねにどれだけの貨幣を吸収するか、という問題が生ずる。

一国では毎日多数の同時的な、したがってまた空間的に並行する一方的な商品変態が、言いかえれば、一方の側からの単なる売り、他方の側からの単なる買いが、行われている。商品は、その価格において、すでに決定された想像された貨幣量に等置されている。ところで、ここで考察されている直接的流通形態は、商品と貨幣とをつねに肉体的に向かいあわせ、一方を売りの極に、他方を買いの反対極におくのだから、商品世界の流通過程のために必要な流通手段の量は、すでに諸商品の価格総額によって規定されている。じっさい、貨幣は、ただ、諸商品の価格総額ですでに観念的に表わされている金総額を実在的に表わすだけである。したがって、これらの二つの総額が等しいということは自明である。

どの商品もそれが流通の第一歩を踏み出した途端、つまり販売されるとすぐに、その使用価値は流通から脱落し、消費過程に落ちていきます。もちろん流通には絶えず新たな商品が入ってきます。しかしいずれにしても流通における商品はただ瞬間的な契機に過ぎません。それに対して、流通手段としての貨幣はというと、常に流通部面に居座り、徘徊しています。だから、一体、この流通部面にはどれだけの貨幣が居すわっているのか、というその量の問題が生じてきます。

商品が流通の中で変身していくのを見てきて明らかになったのは、例えば亜麻布が販売され、貨幣に変身し、その貨幣が聖書に変身することによって、亜麻布が最終的には聖書に変化したのだということでした。しかし商品流通で私たちが直接目にする現実は、こうしたものではありません。そこではさまざまな商品が一方的に売られたり、買われたりしているだけです。売られた商品の価値がその実現形態である貨幣として、次にどのような商品に変身するのか、あるいは一方的な購入のために投入された貨幣が、実はある別の商品の価値の実現したものだった、などということはまったく分からないし、目に見えるものではありません。現象として見えているのは、ただ一方の面からの単なる販売であり、他方の面からの購買が行なわれているということだけです。しかしこうした一方的購買や販売でも、諸商品の価格は、すでに売り手と買い手との値決め交渉の結果として、一定の価格として、それぞれの当事者が思い描き一致した観念的な貨幣量に相当すると考えられています。

我々がいまここで考察している単純な商品流通では、あとで見るような商品の引き渡しと貨幣の支払とが同時にではなく異なる時点で行なわれるような流通(貨幣の支払手段としての機能にもとづく流通)とは違って、商品と貨幣とがつねに生身で相対していることを想定しています。そして一方の商品を販売という極に、他方の貨幣を購買という極におくのですから、商品世界の流通過程における必要な流通手段の量というのは、すでに諸商品の価格の総額によって規定されていることになります。

とはいえ、われわれが知っているように、商品の価値が変わらない場合には、商品の価格は、金(貨幣材料)そのものの価値といっしょに変動し、金の価値が下がればそれに比例して上がり、金の価値が上がればそれに比例して下がる。こうして諸商品の価格総額が上がるか下がるかするにしたがって、流通する貨幣の量も同じように増すか減るかしなければならない。この場合には流通手段の量の変動はたしかに貨幣そのものから生ずるのではあるが、しかし、流通手段としての貨幣の機能からではなく、価値尺度としての機能から生ずるのである。諸商品の価格がまず貨幣の価値に反比例して変動し、それから流通手段の量が諸商品の価格に正比例して変動するのである。これとまったく同じ現象は、たとえば、金の価値が下がるのではなく、銀が価値尺度としての金にとって代わる場合とか、銀の価値が上がるのではなく、金が銀を価値尺度の機能化から追い出すような場合にも、起きるであろう。前のほうの場合には以前の金よりも多くの銀が、あとのほうの場合には以前の銀よりも少ない金が、流通しなければならないだろう。どちらの場合にも、まず貨幣材料の価値、すなわち価値の尺度として機能する商品の価値が変動し、そのために商品価値の価格表現が変動し、またそのためにこれらの価格の実現に役だつ流通する貨幣の量が変動するということになるであろう。すでに見たように、商品の流通部面には一つの穴があって、そこを通って金(銀、要するに貨幣材料)は、与えられた価値のある商品として流通部面にはいってくる。この価値は、価値尺度としての貨幣の機能では、したがって価格決定にさいしては、すでに前提されている。

実際、こうした前提のもとでは、現実の貨幣は、ただ諸商品の価格総額が観念的に表されている金総額を、ただ実在的に表すだけですから、この両者が等しいというのは当然のことです。こうした場合、商品の価値が変わらなくても、商品の価格そのものは、その価値を尺度する金(貨幣材料)の価値が変動すれば、それにつれて変動します。金の価値が下がれば、商品の価格はそれに比例して上がり、金の価値が上れば、それに比例して下がります。しかし商品の価格の総額が上ったり、下がったりするということは、すでに見たように、それに応じて流通する貨幣の総量も増加したり、減少したりしなければならないということになります。この場合、商品価格の総額の増減に応じて流通手段の総量が変動します。それは一見すると、流通手段としての貨幣の総量が変動したから、商品の価格も増減したかのように見えるのです。つまり諸商品の価格は流通手段としての貨幣の量によって規定されているかのように見えるのです。しかし、この場合、流通手段の総量の変動は、確かに貨幣そのものから生じるのですが、しかし貨幣の流通手段としての機能から生じているのではなく、その価値尺度としての機能から生じているのです。

まず貨幣の価値の変動に反比例して商品の価格が変動し、次にその商品の価格の変動に正比例して流通手段の量が変動するのです。

例えば貨幣の価値が半分になると商品の価格は2倍に上がります。そして商品価格が2倍になれば、その流通に必要な貨幣の量も2倍になるということになります。しかしこれを一面的に見ると、流通手段の量が2倍になったから、諸商品の価格も2倍になったように見えるのです。だから諸商品の価格を引き上げるために(デフレを克服するために)は、流通手段としての貨幣を増大させるべきだ(通貨の供給を増やせ)、などという俗論がまかり通ることになるわけです。

これと同じように例えば、金と銀とが価値尺度としての貨幣の機能を交代して担う場合にも生じます。これまで金が価値尺度の機能を果たしていたのが、銀がそれにとった代わった場合とか、あるいはその逆の場合などです。金に代わって銀が尺度機能を担う場合、金と同じ重量の銀が取って代わると価値が少ない分だけ諸商品の価格は上がり、それに応じて流通手段としての銀の総量も増えます。反対の場合は、反対のことが生じます。つまり、まず貨幣材料の価値が変動すれば、それに応じてそれよって尺度される諸商品の価格が変動し、その諸商品の価格の変動に規定されて、それらの価格の実現に必要な貨幣の総量も変動するということなのです。この前後の因果関係をハッキリ掴む必要があります。つまり現象的には流通手段しての金に代わって、それより価値の少ない銀が流通手段として流通したから、流通する銀の量が増えたように見えますが、しかし問題は価値尺度の機能を媒介して、諸商品の価格総額の変化が生じたから、流通手段の量の変化も生じたのだということです。

ここまで金あるいは銀のような貨幣材料となる商品の価値が変動すると、それによってその価値が尺度される諸商品の価格が変動し、そして諸商品の価格の総量が変動すれば、その価格を実現するために必要な流通手段として機能する貨幣の総量の変動も生じるということを見てきました。そして価値尺度を担う貴金属が金から銀に交代する場合やその逆の場合についても見てきましたが、しかしそもそも貨幣としての金(あるいは銀)の価値の変動というのはどうして生じるでしょうか。

a 商品の変身」で見たように、貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場に入らなければなりません。この点は金の生産源にあることを知っています。つまりこの生産源を通って金あるいは銀のような貨幣材料は、与えられた価値量(それはその生産のために支出された社会的に必要な労働時間によって規定されています)をもった商品として、同じ価値をもつ他の諸商品と直接的に交換されることによって流通部面にはいって来るのです。だから金(あるいは銀)の価値量は、価値尺度としての貨幣の機能を果すものとしては、すなわち諸商品の価格を決定する場合には、すでに諸商品にとっては、すでに与えられたもの、ある決まった量を持つものとしてあるのです。

いま、たとえば価値尺度そのものの価値が下がるとすれば、それは、まず第一に、貴金属の生産源で商品としての貴金属と直接に交換される諸商品の価格変動に現われる。ことに、ブルジョワ社会の比較的未発展な状態では、ほかの商品の一大部分は、なおかなり長いあいだ、価値尺度のいまでは幻想的となり過去のものとなった価値で評価されるであろう。しかし、一商品は他の商品を、それと自分との価値関係をつうじて自分にかぶれさせてゆくのであって、諸商品の金価格または銀価格は、しだいに、それらの価値そのものによって規定された割合で調整されて行って、ついにはすべての商品価値が貨幣金属の新しい価値に応じて評価されるようになるのである。このような調整過程は、直接に貴金属と交換される諸商品に代わって流入する貴金属の継続的な増大を伴う。それゆえ、諸商品の訂正された価格づけが一般化するにつれて、または、新たな、すでに下がった、そしてある点までは引き続き下がって行く金属の価値によって諸商品の価値が評価されるようになるにつれて、それと同じ程度に、諸商品の価値の実現に必要な金属の増加量もすでに存在しているのである。新たな金銀産地の発見に続いて起きた諸事実の一面的な考察は、17世紀およびことに18世紀には、商品価格が上がったのはより多くの金銀が流通手段として機能したからだというまちがった結論に到達させた。以下では金の価値は与えられたものとして前提されるが、実際にもそれは価格評価の瞬間には与えられているのである。

それでは金や銀といった貨幣材料の価値が、例えば下がった場合を例にそれがどのような形で実際の流通過程における商品の価値を尺度する貨幣の価値の減少として現われてくるのかを見てみましょう。まず貨幣材料の生産地で金の価値が下がった場合、それと直接に交換する商品の価格に変化が生じます。それまではそれらの商品は既存の金の価値によって尺度された価格を持って、生産地に登場します。つまり一定の価格を持って登場するのですが、しかしそれらと交換される金は、その価値を尺度した金とはすでに違った価値の少ない金ですから、当然、それらの商品は既存の尺度された金量よりも多くの金量と交換されることになります。つまりこのことは商品の価格が高くなるということです。生産地での直接的な交換においてはこのような変化があっても、それ以外のところでは依然として旧来のすでに幻想的なものとなった金の価値にもとづいて商品の価値は尺度されています。これはブルジョア社会がまだ十分に発展していないところではより一層そうした傾向があります。しかし諸商品の活発な交換が調節作用を果します。一つの商品が他の商品と交換される場合、両商品の価値関係を通じて、自分の価値を高く評価された商品の価格表示が、次々に伝播して、やがて貨幣金量の新たな価値に応じてすべての商品が評価されるようになるのです。

すでに生産地においては、貨幣材料である貴金属と直接交換される商品に代わって、価値の下がった貴金属がその下がった分だけ多く流通に入っていきます。そしてそれが継続的に生じます。ですから、下落した貨幣価値によって尺度されて増大した商品の価格は、それが一般化するにつれて、つまり下落した貨幣価値によって評価されて増大した諸商品の価格総額が増えるにつれて、それらを実現するに必要な流通手段としての貨幣総量そのものも、すでに増加して流通に存在しているということになるのです。新たな金や銀の生産地の発見に続いて生じたもろもろの事実(諸商品の価格が全般的に上がった)を一面的に考察した結果、17世紀、そしてとくに18世紀には、商品価格が上がったのは、より多くの金銀が流通手段として機能したからだ、という誤った結論が引き出されました。以下では、金の価値はいつでも与えられたものとして前提しますが、実際にも、それらが諸商品の価値を尺度する瞬間にはいつでも常にある与えられた大きさとして存在しているのです。 

どの商品も、流通の最初の段階に入り、そして最初の形態に変化することで流通から脱落し、その代わりに新たな商品が流通に参入する。これにたいして流通手段として貨幣はずっと流通の領域にとどまり、この領域のなかをさまよう。そこでこの流通の領域にどの程度の量の貨幣がたえず吸収されているのかが問題になる。

一つの国では毎日、多量の商品の変身が同時に行われており、この変身は空間的に併存しながら一方向に向けて発生している。言い換えると、一方の側では販売だけが、他方の側では購入だけが行われている。商品はその価格によって、あらかじめ特定の貨幣の量に相当するものと考えられている。

ここで想定している商品と貨幣の直接的な流通過程では、商品と貨幣は、片方が販売の極に、他方が購入の極に存在するものとして、たがいに身体的に向き合うものとして考えられている。だから商品世界の流通に必要な流通手段の量は、さまざまな商品の価格の総額によってあらかじめ定められている。実際の貨幣は、商品の価格の総額のうちにあらかじめ観念的に表現されている金の総額を現実に表現するにすぎない。だから商品の総額と貨幣の総額が等しいのは自明のことである。

しかし周知のように、商品の価値が変動しない場合には、商品の価格は金(貨幣材料)の価値とともに変動する。金の価値が低下すると、それに[]比例して低下する。このように商品の価格の総額が増減するのにおうじて、流通する貨幣の量も同じように増減する必要がある。この場合には流通手段の量の変動はたしかに貨幣そのものから発生するが、それは流通手段としての貨幣の機能による変動ではなく、価値の尺度としての貨幣の機能による変動である。

商品の変動がまず貨幣の価値と反比例して変動し、次に流通手段の量が、商品の価格に正比例して変動するのである。たとえば金の価値が低下しないとしても、銀が金の代わりに価値の尺度として利用されるようになった場合や、銀の価値が上昇しないとしても、金が銀を追いだして、銀の代わりに価値の尺度として利用されるようになった場合にも、まったく同じ現象が発生するだろう。第一の場合には、以前の金の量よりも多い量の銀が流通しなければならないだろうし、第二の場合には以前の銀の量よりも少ない量の金が流通しなければならないだろう。どちらの場合には、貨幣材料の価値、すなわち価値の尺度として機能する[金や銀の]商品の価値が変動し、そのために商品価値の価格の表現が、したがってこの価格の実現のために役立つ流通貨幣の量が変動することになるだろう。

すでに指摘したように、商品の流通の領域には、一つの<>が開いて、その穴をつうじて金や銀などの貨幣材料が、特定の価値をそなえた商品として、流通の領域に流入してくる。この価値は、価値の尺度としての貨幣が機能するための前提となるものであり、貨幣が商品価格の規定をするための前提となる。

ここで、たとえば価値の尺度そのもの[としての貨幣]の価値が低下すると、この変化はまず、貴金属の生産場所で商品としての貴金属と直接に交換されるさまざまな商品の価格の変動として現れる。とくにブルジョワ社会がそれほど発達していない状態では、大部分の商品は、価値の尺度としてはすでにはるか以前に幻想的なものとなっている時代遅れの価値で評価されるだろう。そのあいだに、それぞれの商品はたがいの価値の比率によって、次から次へと[新しい価値が]伝染し、商品の金価格または銀価格は、それぞれの価値そのもので規定された比率で次第に調整されていく。最終的にはすべての商品の価値が、貨幣金属の新しい価値で評価されるようになるだろう。この調整過程にともなって、貴金属の量はたえず増大することになる。貴金属は、直接に貴金属と交換される商品と交替する形で流入するからである。

さまざまな商品の価値の調整が進み、商品の価値が、貴金属の低くなった新たな価値に合わせて評価される程度におうじて(貴金属の価値は、一定の水準まで低下させしつづけるだろう)、商品の価値の実現に必要な貴金属の量はすでに増加している。17世紀、そしてとくに18世紀には、新しい金産地や銀産地が発見された後に起きた事実を一面的に観察したため、商品価格が上昇したのは、以前よりも多くの金や銀が流通手段としてきのうするようになったからであるという間違った結論が下されたものだった。以下では金の価値は与えられたものとして想定する。実際に価格の評価が行われる時点では、すでに金の価値は与えられたものなのである。

 

貨幣の量の変動要因

こういうわけで、この前提のもとでは、流通手段の量は実現されるべき諸商品の価格総額によって規定されている。そこで、さらにそれぞれの商品種類の価格も与えられたものとして前提すれば、諸商品の価格総額は、明らかに、流通のなかにある商品量によって定まる。もし1クォーターの小麦が2ポンド・スターリングならば、100クォーターは200ポンド・スターリング。200クォーターは400ポンド・スターリング、等々である。したがって小麦の量が増すにつれて、販売にさいしてこれと場所取り替える貨幣量も増やさなければならないということは、ほとんど頭を痛めなくてもわかることである。

商品量を与えられたものとして前提すれば、流通する貨幣の量は、諸商品の価格変動につれて増減する。流通貨幣量が増減するのは、諸商品の価格変動につれて、増減する。流通貨幣量が増減するのは、諸商品の価格総額がそれらの価格変動の結果として増減するからである。そのためには、すべての商品の価格が同時に上がったり下がったりする必要は少しもない。すべての流通する商品の実現されるべき価格総額を増加または減少させるには、したがってまた、より多量なまたはより少量の貨幣を流通させるには、一方の場合には或る数の主要物品の価格上昇が、他方の場合にはそれらの価値低下があれば、それで十分である。商品の価格変動に反映するものが、現実の価格変動であろうと、単なる市場価格の変動であろうと、流通手段の量への影響は同じことである。

貨幣の価値が与えられたものと前提すれば、流通手段の量は、商品の値決め交渉によって確定した価格、すなわち現実の貨幣へと実現されるべき商品の価格によって決定されます。さらにすべての商品の価格そのものが与えられたものと前提されるならば、商品の価格の総額は、流通している商品の総量によって決まりまるのは明らかです。1クォーターの小麦の価格が2ポンドならば、100クォーターの小麦の価格は200ポンドであり、200クォーターならば400ポンドになる等々。小麦の量が増えるにつれて、それらの価格を実現する貨幣量も増えるのは当たり前のことです。

商品の量が与えられたものすれば、流通する貨幣の量は、商品の価格の変動につれて変動します。流通する貨幣の量が増減するのは、商品の価格の変動の結果、流通する商品の価格総額が増減するからです。ただし、商品の価格総額が増減するためには、すべての商品の価格が同時に上るか下がる必要はまったくありません。流通している中にはさまざまな商品があります。同時には、ある商品は上るが、別の商品は下がる場合もありえます。だから商品総額が上るか下がるためには、主要な物品の価格が上るか、下がるかすれば、それで十分なのです。それによってより多量の貨幣の流通を引き起こすか、あるいはより少量の貨幣の流通を引き起こすことになります。いまこの商品の価格の変動が、商品の価値の変動、すなわちもろもろの商品を生産するための社会的必要労働時間の変動によるものか、それともただ単に市場における需給の変動による市場価格の変動によるものなのか、そうした価格変動を引き起こす原因がいずれであろうと、それが流通手段の変動に与える影響という点では同じだということです。

この前提のもとでは流通手段の量は。実現されるべき商品の価格の総額によって決定される。さらにここでは、すべての種類の商品の価格も与えられたものであると想定しよう。そうすると商品の価格の総額が、流通している商品の量によって決定されるのは明らかである。1クォーターの小麦の価格が2ポンドであれば、100クォーターの小麦は200ポンドになるし、200クォーターの小麦は400ポンドになる、などなど。小麦が販売されるときに小麦とその位置を交替する貨幣の量は、小麦の量とともに増大しなければならない。このことを理解するのは難しいことではないだろう。

商品の量を与えられたものとすると、流通する貨幣の量は、商品の価格の変動におうじて増減する。流通する貨幣の量が増減するのは、商品の価格の変動にともなって、商品の価格総額も増減するからである。ただしすべての商品の価格が同時に増減する必要はない。流通するすべての商品について実現されるべき価格の総額を増減させるには、そして流通する貨幣の量を増減させるには、中心的な役割をはたす商品の価格がある程度にだけ上昇するか低下するだけで十分である。さまざまな商品の価格の変動が、現実の価値の変動を反映したものであるが、あるいは市場価格のたんなる動揺を反映したものであるかにはかかわりなく、流通手段には同じような影響が発生する。

 

同じ貨幣の変身

ある数の無関連な、同時的な、したがってまた空間的に並行する売りまたは部分的変態、たとえば1クォーターの小麦、20エレのリンネル、1冊の聖書、4ガロンのウィスキーの売りが行われるものとしよう。どの商品の価格も2ポンド・スターリングで、したがって実現されるべき価格総額は8ポンド・スターリングだとすれば、8ポンド・スターリングだけの貨幣が流通にはいらなければならない。これに反して、同じ諸商品が、われわれになじみの商品変態列、すなわち1クォーターの小麦−2ポンド・スターリング−20エレのリンネル−2ポンド・スターリング−1冊の聖書−2ポンド・スターリング−4ガロンのウィスキー−2ポンド・スターリングという列の諸環をなすとすれば、その場合には2ポンド・スターリングがいろいろな商品を順番に流通させて行くことになる。というには、それは諸商品の価格を順々に実現して行き、したがって8ポンド・スターリングという価格総額を実現してから、最後にウィスキー屋の手のなかで休むからである。それは4回の流通をなしとげる。このような、同じ貨幣片が繰り返す場所変換は、商品の二重の形態変換、二つの反対の流通段階を通る商品の運動を表わしており、またいろいろな商品の変態のからみ合いを表わしている。この過程が通る対立していて互いに補いあう諸段階は、空間的に並んで現われることはできないのであって、ただ時間的にあいついで現われることができるだけである。

空間的に同時に並行しておこなわれるバラバラの一方的な商品の変身(売りまたは買い)があるなら、それらの流通に必要な流通手段の総量は、諸商品の価格総額によって規定されているというこことを確認しているだけです。

例えば、次のような一定量の商品、1クォーターの小麦、20ヤードの亜麻布、1冊の聖書、4ガロンのウィスキーを例にあげ、どの商品の価格も2ポンドで、それらがただ同時に販売されるためには、それらの商品の価格の実現に必要な貨幣量はその価格の総和である8ポンドであり、それだけの貨幣が流通しなければならなりません。

これまでは流通する貨幣の総量は、流通する商品の価格の総額に規定されるということが確認されました。しかし流通する貨幣の総量は、それだけではなくて、貨幣の流通する速度によっても否定的に規定されているのです。ここで否定的にというのは、それだけ貨幣量を減らすように作用するからです。貨幣の流通する速度は量の代わりをするのです。だからその速度によっては1個の貨幣片はその何倍にもなることになります。

いま、上と同じ商品が、私たちにはお馴染みの商品の変身の系列をたどってみましょう。1クォーターの小麦−2ポンド−20ヤードの亜麻布−2ポンド−1冊の聖書−2ポンド−4ガロンのウィスキー−2ポンドという連鎖で、2ポンドという貨幣片が順々にまず1クォーターの小麦の価格を実現し、次に20ヤードの亜麻布の価格を実現し、さらに1冊の聖書の価格を実現し、そして最後に4ガロンのウィスキ−の価格を実現して、最終的にウィスキー屋の手のなかで休止するとしています。

同じ2ポンドの貨幣片が4回回転することによって、8ポンドの代わりをつとめたことになります。2ポンドが4倍になったのです。貨幣は4回の位置の交替をくり返しました(小麦、亜麻布、聖書、ウィスキーのそれぞれを、それを非使用価値とする所持者の手から、それを使用価値とする人の手に移しました)、私たちはそれらの商品がただ一方的に順々に売られたことを見ただけです。しかし私たちが「商品の変身」の節で確認したように、それらは例えば亜麻布なら最初は貨幣に変身したあと、さらに聖書に変身したのでした。つまり二重の形態の変換を行い、販売と購買という二つの対立する流通段階を通ったのでした。だから上記のような諸商品列の流通が示すのはそれらの商品の変身の絡まりあいなのです。  これらの商品が経ていく過程は、同時に空間的に並んで行なう、つまり、同時並行できません。ただ時間的に相次いで現われることができるだけです。

それだから、時間区分がこの過程の長さの尺度になるのであり、また、与えられた時間内の同じ貨幣片の流通回数によって貨幣流通の速度が計られるのである。前記の4つの商品の流通過程には、たとえば一日かかるとしよう。そうすると、実現されるべき価格総額は8ポンド・スターリング、同じ貨幣片の一日の流通回数は4、流通する貨幣の量は2ポンド・スターリングである。すなわち、流通過程の或る与えられた期間については、

商品の価格総額    

                =流通手段として機能する貨幣の量

同名の貨幣片の流通回数

となる。この法則は一般的に妥当する。与えられた期間における一国の流通過程は、一方では、同じ貨幣片がただ一度だけ場所を替え、ただ一回流通するだけの、多くの分散した、同時的な、空間的に並行する売り(または買い)すなわち部分変態を含んでいるが、他方では、同じ貨幣片が多かれ少なかれ何回もの流通を行うような、あるいは並行し、あるいはからみ合う、多かれ少なかれいくつもの環から成っている変態列を含んでいる。とはいえ、流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる。たとえば一日の流通過程のはじめにそこに投げこまれる貨幣量は、もちろん、同時に空間的に並んで流通する諸商品の価格総額によって規定されている。しかし、この過程のなかでは、一つの貨幣片はいわば他の貨幣片のために連帯責任を負わされるのである。一方の貨幣片がその流通速度を速めれば、他方の貨幣片の流通速度が鈍くなるか、または、その貨幣片はまったく流通領域から飛び出してしまう。なぜならば、流通部面が吸収しうる金額は、その各個の要素の平均流通回数を掛ければ実現されるべき価格総額に等しくなるような量に限られるからである。それゆえ、貨幣片の流通回数が増せば、その流通量は減るのであり、貨幣片の流通回数が減れば、その量は増すのである。流通手段として機能しうる貨幣量は、平均速度が与えられていれば与えられているのだから、たとえば一定量の1ポンド券を流通に投げこみさえすれば、同じ量のソヴリン貨をそこから投げだすことができるのである。これは、すべての銀行がよく心得ている芸当である。

だからこの場合、一個の貨幣片がどれだけの諸商品を流通させることができるのかは、たとえ順々に相次いでなされたとしても、あるいは長短の間をもって行なわれたとしても、そのための時間が問題になってきます。だから貨幣の流通する速度は、ある与えられた時間内に、同じ貨幣片が何回商品を流通させるか、その回転数が問われます。つまり貨幣の流通速度は、同じ貨幣片が一定の時間内に行なう回転数によって測られるのです。

私たちが最初に確認したのは、流通する諸商品の価格総額が流通する貨幣総量を規定するということでした。だから、その関係を式に示すと

   諸商品の価格総額 = 流通手段として機能する貨幣の量

となります。しかし次に、貨幣の流通速度が貨幣の量の代わりをするということも確認しました。だからその考えを加えると上記の式はどうなるかを考えてみましょう。

上記の商品列の例で考えると、いま4つの商品の流通に1日かかるとしましょう。すると実現されるべき価格総額は8ポンドです。しかし上記の商品列で運動する貨幣量は同じ2ポンドだけであり、それが4回転したのでした。だから実際に4つの商品を流通させるのに1日に必要な貨幣量は2ポンドだったのです。だからそれを同じように式に表すと、

商品の価格総額(8ポンド) 

                       =流通手段として機能する貨幣の量(2ポンド)

同名の貨幣片の流通回数(4回転)

となります。

この法則はあらゆる場合に妥当します。ところで、ある国で一定の与えられた期間内における貨幣の流通を考えてみる、ある貨幣片はただ一回の流通を行うだけで、多くの分散した、同時に行われる販売または購買を媒介するだけのものもあれば、しかし他方では、同じ貨幣片が何回も流通して、多くの商品が、互いに並行して、絡み合う、変身の系列を順々に媒介して流通していくものもあると考えられます。

だから同じ貨幣片の総数とそれらの総回転数をとると、同じ貨幣片の平均された回転数が出てきます。そうした各個の貨幣片の平均的な回転数、あるいは流通回数が、貨幣の流通の平均速度になります。そこで例えば、一日の流通のはじめに投入される貨幣量というのは、そのときに空間的に並行して流通する商品の価格総額によって規定されます。そしてその一日が終わるまでに、最初に投入された貨幣総量を構成する各個の貨幣片はどのような流通を行なうのかを考えてみましょう。この一日の流通過程において、ある一定数の貨幣片は一度だけ流通するだけかも知れません。しかし他の多くの貨幣片はそれぞれ順々に商品列を流通させて、何回かの回転を行なうでしょう。そうしてそれらは平均的な回転数をもって流通すると考えられます。とするなら、一日に流通する商品の価格総額が与えられていれば、その流通に必要な貨幣量はその平均の回転数によって決まってきます。だからこの場合、さまざまな回転数で流通する貨幣は互いに連帯責任を負っているようなものなのです。ある貨幣片が流通速度を早めれば(回転数を増やせば)、他方の貨幣片は速度が鈍くなるか(回転数を減らすか)、あるいは一回回転しただけで、流通から出て行くことになります。いずれにせよ、流通部面か吸収しうる貨幣量というのは、流通する商品の価格総額を一定量の貨幣片の平均的な流通回数で割った量になるのであって、それ以上の貨幣は吸収し得ないことになります。だから貨幣片の流通の回数(回転数)が増えれば、貨幣量は減るし、流通する回数(回転数)が減れば、貨幣量は増えなければなりません。流通手段として機能することのできる貨幣の量というのは、流通する商品の総額が決まっていれば、その平均速度によって決まってきます。つまりそれ以上の貨幣量は流通過程には吸収されないということです。だから一定量の1ポンドの銀行券を流通に投げ込めば、同じ量のソヴリン金貨が流通から投げ出されることになります。これは銀行業者がよく心得ていることです。

ここでマルクスは「たとえば特定の量の1ポンド紙幣を流通に投入すると、同じ1ポンドのソブリン金貨を流通から追いだすことができる。これはすべての銀行に周知の手品である。」と述べています。これを読むかぎりあたかも銀行は銀行券を恣意的に流通に投げ込むことができるかに思えます。しかしもちろん、こうしたことはありえません。銀行は銀行券を、例えば産業資本家や商業資本家たちが銀行に持参する手形を割引して貸し出すことによって、あるいは担保を取って貸し出すことによって、あるいは預金者が銀行から銀行券で預金を引き出すことよって、銀行券を流通に"投げ込む"ことができるだけです。だから実際に銀行券を商品の価格の実現のために流通させるのは、再生産的資本家たちか個人的な消費者たちなのです。ただ銀行は、手形割引を容易にするか(利子率を引き下げて)、あるいは引き締めるかはある程度までは恣意的にできます(しかし利子率も一見すると恣意的に決めているように見えますが、これも貨幣資本の需給によって客観的に一意的に決まってくるものなのです)。それに銀行が貸し出す銀行券は利子生み資本であって、それ自体が通貨(流通手段)なのではありません。それが実際に産業資本家や商業資本家、あるいは個人的消費者によって流通に投じられることによって、はじめてそれは通貨(流通手段)になるのです。こうした区別も本当は必要なのです。しかし現実問題として、銀行家たちは銀行券の貸し出しを増やして、流通する銀行券の量を増やせば、それまで流通していたソブリン金貨が銀行に預金や支払として還流してくる事実を知っているのです。そしてそれはいうまでもなく、流通手段として流通する貨幣の量が、流通する商品の価格総額や貨幣の平均回転数(流通速度)が決まっていれば決まってくるからです。そうした事態をマルクスは平易に説明するために、あたかも銀行が銀行券を流通に直接投げ込むことができるかのように述べて説明しているのだと思います。

ここで一定の量の商品、たとえば1クォーターの小麦、20ヤードの亜麻布、1冊の聖書、4ガロンの蒸留酒が、同時に、空間的に併存して、たがいに無関係に販売され、変身の一段階を経過していると想定しよう。どの商品の価格も2ポンドとすると、実現すべき価格の総額は8ポンドになり、総額は8ポンドの貨幣が流通に投じられていなければならない。

ところがこれらの商品が、すでにわたしたちには馴染みの商品の変身の系列をたどって、1クォーターの小麦−2ポンド−20ヤードの亜麻布−2ポンド−1冊の聖書−2ポンド−4ガロンの穀物蒸留酒−2ポンドという連鎖をたどるのであれば、2ポンドの貨幣が、それぞれの商品の価格を順番にさせて、8ポンドの価格総額を実現し、それぞれの商品の価格を順番に実現させて、8ポンドの価格総額を実現し、それぞれの商品の価格を順番に実現させて、8ポンドの価格総額を実現し、それぞれの商品を順に流通させて、最後には醸造家の手の中に入ることになる。

同じ2ポンドの貨幣片が4回にわたって流通する。同じ貨幣片はこのような位置の交替を反復しながら、商品の二重の形態の変換を表現するのであり、二つの対立した流通段階を通過する商品の運動と、さまざまな商品の変身の複雑な関係を表現する。この過程は、たがいに対立しながら補い合うさまざまな局面を貫いて行かれるものであり、これらの局面は空間的に併存することはできず、時間的に連続してつづけることができるにすぎない。

だから一定の時間の長さが、この過程の持続の長さを示す尺度になる。ここで貨幣の流通の速度は、特定の時間の長さのうちで同じ貨幣が流通する回数で示される。例としてあげた四つの商品の流通過程が、一日のうちに行われるとしよう。実現される価格総額は8ポンドであり、一日における同じ貨幣片の流通回数は4回であるから、流通する貨幣の量は2ポンドになる。特定の期間における流通過程について、次の式が成立する。

  商品の価格総額    

                =流通手段として機能する貨幣の量

同名の貨幣片の流通回数

この法則は普遍的に妥当する。特定の期間におけるある国の流通過程では、多数の分散した販売(または購入)が空間的に併存した形で行われ、変身の一部の段階が同時に起こることがあり、こうした変身においては、同じ貨幣片は一度しかその位置を交替することはないので、流通回数は一回になる。しかし他方では、こうした変身が併存して行われるとともに、かなり多くの取引がたがいに結びついて行われることもあり、その場合には、同じ貨幣片が多かれ少なかれ何度も流通するようになる。

ただし流通するすべての同名の貨幣片の流通回数の総数から、個々の貨幣片の平均流通回数または貨幣の流通の平均速度が定められる。そしてたとえば日々の流通過程が始まる時点で流通に投じられる貨幣の量は、同時に空間的に併存して流通する商品価格の総額によって決まるのは明らかである。しかしこの流通過程の内部では、一つの貨幣片は他の貨幣片にいわば〈連帯責任を負う〉のである。ある貨幣片の流通速度が速まると、他の貨幣片の流通速度が速まると、他の貨幣片の流通速度は遅くなる。ときには流通の領域から完全に脱落してしまうこともある。流通の領域では一定の量の金しか吸収しないからである。この金の量に、流通に含まれる要素である個々の貨幣片の中位の流通回数を乗じると、実現されるべき価格の総額に等しくなるはずである。

このように貨幣片の流通回数が増加すると、その流通量は減少する。貨幣片の流通回数が低下すると、流通量は増加する。貨幣の平均の流通速度が決まると、流通手段として機能することのできる貨幣の量は自然と決まってくる。たとえば特定の量の1ポンド紙幣を流通に投入すると、同じ1ポンドのソブリン金貨を流通から追いだすことができる。これはすべての銀行に周知の手品である。

 

貨幣の流通速度が示すもの

貨幣流通では一般にただ諸商品の流通過程が、すなわち反対の諸変態をつうじて諸商品の循環が、現われるだけであるが、同様に、貨幣流通の速さ現われるものも、商品の形態変換の速さ、諸変態列の連続的なからみ合い、物質代謝の速さ、流通過程からの諸商品の消失の速さ、そしてまた新たな諸商品の入れ替えの速さである。つまり、貨幣流通の速さには、対立しながら互いに補い合う諸段階の、価値姿態への使用姿態の転化と使用姿態への価値姿態の再転化との、または売りと買いという両過程の、流動的な統一が現われる。逆に、貨幣流通の緩慢化には、これらの過程の分離と対立的な独立化、形態変換したがってまた物質代謝の停滞が現われる。この停滞がどこから生ずるかは、もちろん、流通そのものを見てもわからない。流通は、ただ現象そのものを示すだけである。通俗的な見解は、貨幣流通が緩慢になるにつれて流通部面のあらゆる点で貨幣が現われては消える回数が少なくなるのを見るのであるが、このような見解がこの現象を流通手段の量の不足から説明しようとするのは、いかにもありそうなことである。

私たちは貨幣の通流をそれ自体として観察してきましたが、そもそも貨幣の流通というのは、商品の変身がそうした貨幣の流通を引き起こしているということでした。ということはこれも当然のことですが、貨幣の流通の速さというのは、こうした商品の変身つまり携帯変換の速さに規定されているということです。つまり流通過程に商品が登場するとともに、貨幣に媒介されて、すぐに消費過程に落ちていく、そしてそれと入れ代わりに新たな商品がまた流通過程に登場し、それもすぐに消費過程に落ちていく、そのような商品の新陳代謝の速さに規定されている、あるいは貨幣の流通の速さにそれが現われているということです。

同じことですが、貨幣の通流の速さとして現われているのは、商品の変身の、すなわち対立しながら互いに補い合う変身の諸段階、すなわち使用価値としての商品が、貨幣に変身して価値の姿になり、さらに再び別の商品に、すなわち使用価値姿態に再度変化するという、ようするに同じ商品所持者が販売と購買という両過程を行なう、その流動的な統一を表しているのです。ということは、これも当然ですが、貨幣の通流がゆっくりしているということは、これらの商品の変身がいろいろなところで滞り、形態変換が最後まで行かずに停滞しているということです。それは商品が売れなかったり、売れたがその貨幣の保持者が次の商品を買う機会を伺っていて、購買をすぐには行なわないということです。これは社会的な物質代謝の停滞を表していますが、しかしこの停滞が何を原因として生じているのかは、流通過程を見ているだけでは分かりません。だからブルジョア社会の直接目に見える表面だけをただなぞっているだけの俗流経済学者たちが、貨幣の通流が緩慢になって、諸商品が売れずに滞留しているのを、流通手段の不足から説明するのは、当然のことなのです。景気を引き上げるために、通貨をジャブジャブと供給せよ、などという俗論がはびこっているのはそのためです。 

貨幣の流通において一般に示されるのは、商品の流通過程、すなわち対立した変身を経験する商品の循環だけである。同じように貨幣の流通速度において示されるのは、商品の形態変換の速度であり、一連の変身の連続的で相互的な結びつきであり、物質代謝のせわしなさであり、流通過程からの商品の脱落の素早さであり、新たな商品による[脱落した商品]代替の速さである。

このように貨幣の流通速度には、対立しながら補いあうさまざまな局面の流動的な統一が示されるのである。そこでは使用[価値]の姿から価値の姿への変化が、価値の姿から使用[価値]の姿への再度の変化が、すなわち販売と購入の二つの過程の流動的な統一が示されるのである。反対に貨幣の流通速度が緩やかになると、この過程の分離と対立的な自立が現れ、形態変換の停滞が、すなわち物質代謝の停滞が現れる。この停滞がどこから生まれるのかは、流通そのものから明らかにすることはできない。流通はただ現象そのものを示すだけである。貨幣の流通速度が緩やかになると、貨幣は流通の領域のあらゆる場所で次第に使われなくなり、やがては姿を消すという通俗的な見解が語られることがある。これは、この現象を流通手段の不足によって解釈しようとするものである。

 

流通手段の変動原因

要するに、それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立的な流通過程の流れの緩急によって、規定されているのである。そして、この価格総額の何分の一が同じ貨幣片によって実現されうるかは、この流れの緩急によって定まるのである。また、諸商品の価格総額は、各商品種類の量と価格との両方によって定まる。ところが、この三つの要因、つまり価格の運動と流通商品量とそして最後に貨幣の流通速度とは、違った方向に、違った割合で変動することができる。したがってそれによって制約される流通手段の量も、非常に多くの組み合わせの結果でありうるのである。ここでは、ただ商品価格の歴史上最も重要なものだけをあげておこう。

このように、それぞれの期間に流通手段として機能する貨幣の総量は、一方では、流通する商品世界の価格総額によって、他方では、商品世界の対立しているもろもろの流通過程の流れの緩急によって、規定されているのです。そして、この価格総額の何分の一が同じ貨幣片によって実現されることができるかは、この流れの緩急によって定まる。つまり、全商品総額の何分の一かが同じ貨幣片によって実現されるということは、一つの貨幣片が次々と商品を実現していくということであり、それは貨幣の流通速度を表していて、貨幣の流通速度は商品の流通の速度によって決まるということです。ただし、貨幣の流通量を規定する商品の価格総額というのは、さまざまな種類の商品の量とそれぞれの価格によって決まってきます。これらが流通手段の量を規定する三つの要因としてまとめられ、これらは、さまざまな方向で、さまざまな比率で変動しうるのです。

これら三つの要因、つまり@〈価格の運動〉というのは、商品世界(全商品)の価格総額を規定する諸商品の価格の変化(増減)ということです。これは生産力の変化による価値の変化によっても、貨幣商品(貨幣材料)の価値の変化によっても生じますし、需給の変動によっても生じます。またA〈流通商品量〉というのは、流通過程に投じられる商品量ということです。これはさまざまな要因によって増減しますが、大きくは景気の好不況によって増減します。さらにB〈貨幣の流通速度〉というのは、商品の流通速度の緩急、すなわち社会的な物質代謝の緩急によって規定されています。つまりそれぞれの三つの要因は違った方向に、また違った割合で変化するということです。

だから実現されるべき価格総額も、そしてそれによって規定される流通手段の量も、上記の三つの要因のさまざまな組み合わせによって、非常に多くのケースがありうるのです。そこで、マルクスは重要な例を挙げていきます。

商品価格が変わらない場合は、流通手段の量が増大しうるのは、流通商品量が増加するからであるか、または貨幣の流通速度が下がるかであるか、または両方がいっしょに作用するからである。逆に、流通手段の量は、商品量の減少または流通速度の増大につれて減少することがありうる。

商品の価格が一般的に上がっても、流通手段の量が不変でありうるのは、商品価格の上がるのと同じ割合で流通商品が減少する場合か、または流通商品量は変わらないが、価格の上昇と同じ速さで貨幣の流通速度が増す場合かである。流通手段の量が減少しうるのは、商品量が価格上昇よりも速く減少するか、または流通速度が価格の上昇よりも速く増すからである。

商品価格が一般的に下がっても、流通手段の量が不変のままでありうるのは、商品価格が下がるのと同じ割合で貨幣の流通速度が落ちる場合である。流通手段の量が増大しうるのは、商品価格が下がるのよりももっと速く商品量が増大するか、または商品価格が下がるのよりももっと速く流通速度が落ちる場合である。

もう一度、貨幣の流通量を規定する三つの要因を確認しておきましょう。@価格の変動、A流通する商品量、B貨幣の流通速度です。

そして最初にここで検討しているのは@の商品の価格が変わらない場合です。その場合の流通手段の量が増減しうるケースを見ているのです。まず最初は流通する貨幣総量が増大しうる場合です。それは流通する商品の量が増加する場合(Aが増加する場合)か、貨幣の流通速度が下がる場合(Bが下がる場合)です。商品の価格が変わらなくても流通する商品量が増えれば、実現すべき価格総額が増大します。そうすれば流通する貨幣の量は増大します。あるいは貨幣の流通速度が遅くなると、それだけ貨幣の流通量は増えなければなりません。次は、反対に@の商品の価格に変化がない場合に貨幣の流通総量が減少するケースです。この場合は、A流通する商品量が減少するか、あるいはB貨幣の流通速度が増大するという場合が考えられます。

二番目に、@の商品価格が一般的に上る場合の流通手段の量の変化を見ています。まず流通手段の量に変化がないケースとして考えられるのは、@の価格の上昇と同じ割合でAの流通する商品の量が減少する場合です。あるいはAの流通する商品の量が変わらなくても、@の価格の上昇と同じ割合で貨幣の流通速度が増す場合です。速度は量の代わりになりますから、実現するべき価格総額が増えても、それだけ速度が増せば、流通する貨幣量に変化はありません。次に@の商品価格が一般的に上るのに流通手段の総量が減少するケースで、まず、Aの流通する商品の量が@の商品価格の上昇するよりも速く減少する場合場合は、実現されるべき商品の価格総額は結果として減少しますから、流通する貨幣の総量は減少するのです。また、Bの貨幣の流通速度が@の価格の上昇よりも速く増大する場合では、価格の上昇は流通する貨幣の流通量を増大させますが、それより流通速度が増大することによる貨幣の流通量の減少効果が大きいために、結果として流通貨幣量が減少することになるわけです。

三番目に@の商品価格が一般的下がる場合の流通手段の変化を見ています。まず、流通手段の総量に変化がない場合というのは、@の商品の価格の下がるのと同じ割合でAの商品の量が増大するケースです。この場合は結果として実現されるべき商品の価格総額は変わらないのですから、貨幣の流通量も変わりません。次に@の価格の下がるのと同じ割合で、Bの貨幣の流通速度が下がる場合です。この場合も、価格が下がるだけ貨幣の流通量は減りますが、しかし同じ割合だけ貨幣の流通速度が減少するなら、速度の減少に対応して流通する貨幣量は増えなければなりませんから、全体としては貨幣の流通量に変化がないことになります。次に@の商品の価格が一般的下がる場合に貨幣の流通量が増大するケースです。これは@の商品の価格が下がるのよりもっとも速くAの商品の流通量が増大する場合です。価格が下がってもそれ以上に商品量が増大すれば、実現すべき商品の価格総額は増大しますから、貨幣の流通量は増大することになります。あるいは@の商品の価格が下がるよりももっと速く流通速度が下がる場合です。価格の下落はそれだけ貨幣の流通量を減らすように作用しますが、しかし貨幣の流通速度がそれ以上に減少すれば、それは流通量の増大として作用しますから、結果として貨幣の流通量は増大することになります。

いろいろな要因の変動が互いに相殺されて、これらの要因の絶え間ないが不安定にもかかわらず、実現されるべき商品価格の総額が変わらず、したがってまた流通貨幣量も変わらないことがありうる。それゆえ、ことに、いくらか長い期間を考察すれば、外観から予想されるよりもずっと不変的な、それぞれの国で流通する貨幣量の平均水準が見いだされるのであり、また、周期的に生産恐慌や商業恐慌から生ずる、またもっとまれには貨幣価値そのものの変動から生ずるひどい混乱を別とすれば、外観から予想されるよりもずっとわずかな、この平均水準からの偏差が見いだされるのである。

流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の平均速度とによって規定されているという法則は、次のように表現することができる。すなわち、諸商品の価値総額とその変態の平均速度とが与えられていれば、流通する貨幣または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって定まる、と。これとは逆に、商品価格は流通手段の量によって規定され、流通手段の量はまた一国に存在する貨幣材料の量によって規定される、という幻想は、その最初の代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮説に根ざしているのである。

貨幣の流通量を規定する三つの要因─@価格の変動、A流通する商品量、B貨幣の流通速度─がさまざまに変化しても、それらが互いに相殺し合って実現されるべき商品価格の総額に変化がなく、よって流通する貨幣量にも変化がない場合があります。例えば@の商品の価格が上昇(あるいは下落)しても、それと同じ程度にAの流通する商品量が減少(あるいは増大)すれば、全体として実現すべき商品の価格総額は変わりません。このような諸要因の相殺効果があるから、それぞれの国で流通する貨幣量の平均水準というのは、いくらか長い期間をとると、その外観から予報されるよりもずっと安定しているのです。また周期的には生産恐慌や商業恐慌から生じたり、あるいはもっとまれなことですが、貨幣価値そのものの変動から生じるひどい混乱を別とすれば、この平均水準からの偏倚も、その外観から予想されるよりもずっとわずかなものなのです。

ようするに貨幣の流通量というのは、それほど目まぐるしく変化するようなものではなくて、思った以上に安定しているということです。

例えば政府やブルジョア経済学者たちはデフレ克服のためとか、景気浮揚のために通貨をどんどん発行せよ叫んできましたが、しかし日銀の銀行券の発行残高の推移を見てみますと、それほど大きくは変化していません。しかしこれは当然のことであって、そもそも通貨(貨幣の流通手段と支払手段を併せたもの)の量というのは、原理的にみても商品の流通の現実に規定されているのであって、時の政府が恣意的に左右できるようなものではないのですから。

流通手段の量は、流通する商品の価格総額と貨幣流通の速度に規定されているという法則は、諸商品の価格総額と変態の平均速度(つまりそれは貨幣の流通速度に反映されます)が決まっていれば、あとは流通する貨幣の量は、今度は貨幣自信の価値の大きさ、貨幣材料になる金や銀の価値の大きさによって決まるということでもあります。しかしこれとは逆に商品の価格は流通手段の量によって規定され、そして流通手段の総量は一国に存在する貨幣材料の量によって規定されているという、貨幣数量説という幻想が生まれてきます。その代表者たちにあっては、商品は価格をもたずに流通過程に入り、また貨幣は価値をもたずに流通過程に入ってきて、そこで雑多な商品群の一加除部分と金属の山の一加除部分とが交換されるという馬鹿げた仮説にもとづいたものなのです。

ここでのマルクスの議論も図示すると明快にわかります。

ここでのポイントは、どんな商品もむき出しの姿で流通の世界に入るのではなく、あらかじめ値札をつけられて、すなわち価格をつけられて流通の世界に入っていくということです。てすから、基本的に、商品流通に必要とされる流通手段の量は、流通する商品の価格総額によって規定されるということになります。とはいえ、一定期間内に同じ貨幣片が何回も流通を媒介することもありますので、この平均的な流通回数で商品の価格総額を除したものが「流通手段として機能する貨幣の量」だということになります。

ここで気をつけなければならないのは、商品の価格総額が流通貨幣量を規定するのであって、流通貨幣量が商品の価格総額を規定するのではないということです。後者のような考え方は現代では「貨幣数量説」と呼ばれており、市場に流通させる貨幣量を調整することにより、インフレにしたり、デフレにしたりすることができると考えます。この理論はまさに、「商品は価格をもたずに流通過程にはいり、また貨幣は価値をもたずに流通過程にはいってきて、そこで雑多な商品群の一可除部分と金属の山の一可除部分とが交換されるのだ、というばかげた仮設」に基づいています。一時期流行し、現在ではその誤りが現実によって完膚なきまでに証明されたいわゆる「リフレ論」(貨幣を大量に供給することにより、人々のインフレ期待を高め、経済活動を活性化させるというもの)も、この「貨幣数量説」の変種にすぎません。

繰り返しになりますが、貨幣流通は商品流通の結果であり、生産活動や消費活動じたいが活性化しなければ商品流通は活性化せず、したがって流通貨幣量も増大しません。実体経済と無関係に流通貨幣量を増大させ、経済活動を活性化するのは不可能なのです。貨幣経済と無関係に流通貨幣量を増大させ、経済活動を活性化するのは不可能なのです。貨幣の供給が効果を持つのは、何らかの理由で商品流通に必要な貨幣量が社会全体が不足している場合だけであり、今の日本のように「カネ余り」の状態にある社会ではおよそ効果をもちません。  

このように一定の期間において、流通手段として機能する貨幣の総量は、流通させるべき商品世界の価格の総額と、商品世界において対立する流通過程の流れの緩急によって決まる。この流れの緩急によって、商品価格の総額のうちのどれだけが、同じ貨幣片によって実現されるかが決まる。この流れの緩急によって、商品価格の総額のうちどれだけが、同じ貨幣片によって実現されるかが決まる。ただしさまざまな商品の価格の総額は、それぞれの種類の商品の量によっても、価格によっても左右される。これらの三つの要因、すなわち価格の変動、流通する商品の量、そして最後に貨幣の流通速度は、さまざまな方向で、さまざまな比率で変動する可能性がある。だから実現されるべき価格の総額は、そしてそれによって決定される流通手段の量は、非常に多くの組み合わせによって決まることになる。ここで商品価格の歴史のうちから、とくに重要なものを列挙してみよう。

商品の価格が一定であれば、流通手段の量が増加するのは、流通させるべき商品の量が増加するか、貨幣の流通速度が低下するか、この両方が起きた場合である。反対に商品の量が減少するか、貨幣の流通速度が増大すると、流通手段の量は減少することがある。

商品の価格が全般的に上昇しても、次の場合には流通手段の量は変化しないことがある。すなわち流通する商品の量が、商品価格の上昇と同じ比率と低下する場合、あるいは流通する商品の量が一定であって、貨幣の流通速度が価格の上昇と同じ比率で急速に増加する場合である。また商品の量が価格の上昇よりも急速に減少するか、貨幣の流通速度が商品の価格の上昇よりも急速に増加する場合には、流通手段の量は低下することがある。

商品の価格が全般的に下落しても、次の場合には流通手段の量は変化しないことがある。すなわち商品の量が商品価格の下落と同じ比率で増加する場合、あるいは貨幣の流通速度が価格と同じ比率で減少する場合である。また商品の量が、価格の下落よりも急速に増大するか、流通速度が価格の下落よりも急速に減少する場合には、流通手段の量は増大することがある。

これらのさまざまな要因の変動は、たがいに相殺しあうこともあるため、こうした要因が不安定であっても、商品価格の実現されるべき総額は変動せず、流通する貨幣の量も変動しないことがある。そのために、とくにかなり長期的に観察してみれば、一国において流通する貨幣の量の平均水準は、予想されるよりもはるかに安定したものであることが分かる。また生産恐慌や商業恐慌のために周期的に発生する激しい攪乱や、まれには貨幣価値の変動から発生する激しい攪乱をのぞくと、この平均水準からのずれも、一見して予想されるよりもはるかに小さなものであることが分かる。

流通手段の量は、流通する商品の価格の総額と、貨幣の流通の平均速度によって決定されるというこの法則は、商品の価値の総額が与えられており、商品の平均的な変身速度が与えられている場合には、流通する貨幣の量または貨幣材料の量は、それ自身の価値によって決定されると、表現することができる。ところがこれとは反対に、商品の価格が流通する貨幣の量によって決定され、この流通手段の量は、国内に存在する貨幣材料の量によって決定されると主張されることがあるが、これは幻想である。この幻想を主張したもともとの理論家は、商品はその価格が定められずに流通過程に入り、貨幣もその価値が定められずに流通過程に入ると想定し、流通過程に入った後に、雑多な商品の可除部分が、金属の山の可除部分を交換されるという愚かしい仮説を立てているのである。

 

 

(C)鋳貨、価値の記号

国の<制服>としての鋳貨

流通手段としての貨幣の機能からは、その鋳貨姿態が生ずる。諸商品の価格または貨幣名として想像されている金の重量部分は、流通のなかでは同名の金片または鋳貨として商品と相対しなければならない。価格の度量標準の確定と同様に、鋳造の仕事は国家の手に帰する。金銀が鋳貨として身につけ世界市場では再び脱ぎ捨てるいろいろな国家的制服には、商品流通の国内的または国民的部面とその一般的な世界市場部面との分断が現われている。

流通手段としての貨幣の機能というのは、その前に出てきた価値尺度の機能とは異なり、流通のなかに貨幣そのものの現物が現われ、商品に対峙する必要がありました。価値尺度の機能では、貨幣はただ観念的なもので十分だったのですが、流通手段としての貨幣は現実の流通のなかで商品と交換されるものでなければならなかったわけです。

そしてこの商品に対峙し、交換される貨幣の機能から、その鋳貨形態が生じてくると述べています。商品の価格または貨幣名で思い描かれている金の重量部分は、流通のなかでは、同じ名称の金片すなわち鋳貨のかたちをとって、商品に向かい合わなければなりません。価格の度量標準というのは、金の一定量を円とかドルとかで呼ぶことを決めることです。それは国家が決めました。例えば戦前は金2分(750r)=1円と決められていました。その750rの金をコインに鋳造して、それに「1円」という刻印を押して鋳貨にするのですが、こうしたこともやはり国家が担っています。ドルや円というように国によって度量標準の違いがありますように、それらを鋳貨にしたものも、国によって当然違ってきます。つまりこうしたものはそれぞれの国に固有のものであり、その国内でしか通用しません。だから1円の刻印された金貨も世界市場にでてゆくと750rの金地金としか評価されないのです。つまりその国民的な制服を脱ぎ捨てなければならないのです。だからここに商品流通といっても、それぞれの国のなかの国内市場での流通と国民と国民との間の世界市場での商品のやりとりという、商品流通の二つの部面における違いが現れているわけです。 

流通手段としての機能から、貨幣の鋳貨としての姿が生まれる。商品の価格または貨幣名によって想像される金の重量部分は、流通の場においては、同名の金片または鋳貨として、商品と向き合う必要がある。貨幣を鋳造することは、価格の度量標準を定めることと同じように、国の仕事である。金と銀は鋳貨として製造されることで、さまざまな国の<制服>を身にまとうが、これは世界市場に入るときにはふたたび脱ぎ捨てることになる。ここにおいて、商品流通の国内的領域あるいは国民的領域と、その一般的な世界市場の領域が分断されるのである。

 

混乱の歴史

要するに、金鋳貨と金地金とは元来はただ外形によって区別されるだけで、金はいつでも一方の形態から他方の形態に変わることができるのである。しかし、鋳造所からの道は同時に坩堝への道でもある。すなわち、流通しているうちに金鋳貨は、あるものはより多く、あるものはより少なく磨滅する。金の称号と金の実体とが、名目純分と実質純分とが、その分離過程を開始する。同名の金鋳貨でも、重量が違うために、価値の違うものになる。流通手段としての金は価格の度量標準としての金から離れ、したがってまた、それによって価格を実現される諸商品の現実の等価物ではなくなる。18世紀までの中世および近世の鋳貨史は、このような混乱の歴史をなしている。鋳貨の金存在を金仮象に転化させるという、すなわち鋳貨をその公称金属純分の象徴に転化させるといすう、流通過程の自然発生的な傾向は、金属喪失が一個の金貨を通用不能にし廃貨とするその程度についての最も近代的な法律によっても承認されているところである。

金鋳貨というのはそれぞれの国境で区切られた国内でしか通用しません。だから世界市場に出て行く時にはその国民的制服を脱いで金地金にならなければならないと言いましたが、もともと金鋳貨も金の地金も、いずれも金属の金としては同じもので、ただその形状が異なるだけです。だから金鋳貨はいつでも溶解されて金地金にすることができるわけです。しかし鋳貨形態にはそれに固有の問題があるのです。そもそも現実に流通している金鋳貨は、鋳造所で鋳造された時は確かに地金と同じ金純分を含んだものですが、しかし流通に一旦出てくるとそれは「坩堝へといたる道を歩み始めている〉というのです。これは金鋳貨が鋳潰されて地金になるということですが、単にそうしたことではなく、鋳貨の含む金純分が流通しているうちに磨滅して減少してしまうので、あまりにも磨滅しすぎたものは鋳貨として通用しなくなり、流通から引き上げられて坩堝に投げ込まれて鋳直される必要がでてくるという意味なのです。

だから金鋳貨は流通しているうちに、それぞれの鋳貨によって違いはありますが、次第に磨滅して、それが名目的に表しているもの(例えば1円=750rの金)が、実際には1円金貨の含んでいる金純分が、例えば725rなどと減ってくることになります。ではそうした1円金貨は通用しなくなるかというとそうではなく、やはりその磨滅した金貨もしばらくは1円金貨として通用するのです。だから同じ1円金貨でも、それが実際に含んでいる金純分はというと、金貨によってさまざまだということになります。しかしそれらはすべて同じように流通手段としての貨幣の機能を果します。

だから流通手段としての金は、価格の度量標準としての金(これはもともと金純分にもとづいて決められたものです)と違ってくるのです。だから磨滅した金貨も、1円の商品の価格を実現しますが、しかしその商品の本当の等価物かというとそうではなくなるということになります。ここからいろいろな問題が生じてくることになります。中世から18世紀までの近代の鋳貨の歴史は、この混乱の歴史であるのです。流通過程では、金貨は、それに刻印されている名称(例えば1円=750rの金)とは違った実質をもつようになります。だから実際に流通している金貨は、ただ公称する金属含有量の象徴(シンボル)になるわけです。こうしたことから、政府は、一つの金貨の磨滅の程度によってそれを流通から引き上げて廃貨する基準、金貨として通用する最軽量の量目を法律で決めることになるのです。 

金の鋳貨と金の地金は、ほんらいはその形状が異なるにすぎない。金はいつでも片方の形態から他の形態に移行することができる。造幣局から出た金はすでに、溶解の坩堝へといたる道を歩み始めている。金の鋳貨は流通するうちに摩耗していくのであり、多く摩耗する鋳貨もあれば、あまり摩耗しない鋳貨もある。金の名称とその実質の分裂、名目純度と実質純度の分裂が、すぐに始まるのである。同名の金の鋳貨でも、重量が異なれば、異なる価値をもつ。

流通手段としての金は、価格の度量標準としての金とは別のものになり、そうなると商品価格が実現される商品の等価物であることをやめてしまう。中世から18世紀までの近代の鋳貨の歴史は、この混乱の歴史である。流通過程は、鋳貨として存在する金を金の仮象に変容させ、鋳貨をその公的な金属含有量の象徴にすぎないものに変容させる傾向をおのずとそなえているのである。この傾向は、金属の摩耗にかんする最近の立法においても認められている。こうした法律では、摩耗の激しい金片は流通不可能なものとみなし、貨幣としての資格がないものとみなすとされているのである。

 

補助鋳貨の登場

貨幣の流通そのものが鋳貨の実質純分を名目純分から分離し、その金属定在をその機能的定在から分離するとすれば、貨幣流通は、金属貨幣がその鋳貨機能では他の材料から成っている章標または象徴によって置き換えられるという可能性を、潜在的に含んでいる。金または銀の微小な重量部分を鋳造することの技術上の障害、また、最初はより高級な金属のかわりにより低級な金属が、金のかわりに銀が、銀のかわりに銅が価値尺度として役だっており、したがってより高級な金属がそれらを退位させる瞬間にそれらが貨幣として流通しているという事情は、銀製や銅製の章標が金鋳貨の代理として演ずる役割を歴史的に説明する。これらの金属が金の代理をするのは、商品流通のなかでも、鋳貨が最も急速に流通し、したがって最も急速に磨滅するような、すなわち売買が最小の規模で絶え間なく繰り返されるような領域である。これらの衛星が金そのものの地位に定着するのを阻止するために、金のかわりにこれらの金属だけが支払われる場合にそれを受け取らなければならない割合が、法律によって非常に低く規定される。いろいろな鋳貨種類が流通する特殊な諸領域は、もちろん、互いに入りまじっている。補助鋳貨は、最小の金鋳貨の何分の一かの支払のために金と並んで現われる。金は、絶えず小額流通にはいるが、補助鋳貨との引換えによって同様に絶えずそこから投げ出される。

流通過程では、金鋳貨はその身をすり減らし、それが名目的に表している金属含有量から分離して行きます。ということは、実際に流通している磨滅した金鋳貨は、それが名目的に表している金貨幣の象徴になって流通手段として機能していることを意味します。だからこうした流通手段として機能するだけのものでしたら、鋳貨としての金属貨幣を、金属以外のものによって置き換えられる可能性を潜在的に含んでいることを意味します。

歴史的にはこうした代替物は、銀製や銅製のものが現われましたが、それは小口取り引きで必要とされる少額の価値を表すわずかの金を鋳貨として鋳造することの技術的な困難があったことが一つの理由です。もう一つの理由は、たいていの国で、最初はより低級の金属である銅が銀の代わりに、そしてそのあと銀が金の代わりに価値の尺度として通用していたからです。そしてより高級な金属が低級な金属を価値尺度の地位から奪っても、より低級な金属が貨幣として通用していたという事情から理解でます。

このように銀や銅が金に置き換わって利用されるのは、小口の取り引きが行なわれる商品流通の領域です。そこでは売買が最小の規模でたえまなく繰り返され、商品流通が活発であるため、鋳貨ももっとも急速に流通し、それだけ急速に磨滅するからです。これらの金鋳貨に代わって流通する補助鋳貨は金鋳貨と一緒に流通し、いわば金鋳貨の周りを回る衛星のようなものですが、しかしそうした衛星が大量に出回って金鋳貨の地位を脅かすほどになるのを防ぐために、金鋳貨の代わりにこれらの補助的な鋳貨だけが支払われる場合にはその比率が法律によって制限されて、非常に低く規定されているのです。

こうして実際の商品流通においては、金鋳貨と並んでさまざまな種類の補助鋳貨が流通しています。しかし流通には主に大口の取り引きが行なわれるところと主に小口の取り引きが行なわれるところとがあり、互いに混在しています。補助鋳貨はもっぱら小口の小売りの領域で使われ、あるいは金鋳貨での支払の端数を埋めるものとして使われます。金鋳貨もたえず小口の流通に入り込みますが、すぐに小口取り引きでは便利な補助鋳貨に両替えされて、小口の流通から投げ出されるのです。 

貨幣の流通そのものによって、鋳貨の実質純度が名目純度と異なるものとなってしまい、鋳貨の機能的な存在が金属としての鋳貨の存在と異なるものとなってしまう。だから貨幣の流通には、鋳貨の機能をはたす金属貨幣を、別の素材で作られた通貨や、象徴だけのものによって置き換える可能性が、潜在的にそなわっているのである。

金や銀のごく少量の重量部分を貨幣に鋳造するのは技術的に困難であることを考えると、さらに高級な金属の代わりに低級な金属が、すなわち金の代わりに銀が、銀の代わりに銅が、価値の尺度として役立つものであり、高級な金属によって貨幣の地位を奪われるまでは、貨幣として使用しているという状況を考えると、金の鋳貨の代用として銀や銅の通貨が利用されてきた歴史的な役割を理解することができる。

売買がごく小規模でたえず反復されるような商品流通の領域では、鋳貨の流通速度がきわめて速く、そのために急速に摩耗することになる。こうした商品流通の領域においては、銀や銅が金に代わって利用されるようになる。このような補足的な金属が金そのものの位置を占めるのを防ぐために、こうした金属の利用比率をごく小さくすることが法律で定められており、この比率にみあう範囲で、支払い際に金の代わりにこれらの金属をうけとる義務が定められているのである。

異なる種類の鋳貨が流通する特別な領域も、もちろんたがいに複雑に結びついている。ごく小額の鋳貨の端数部分を支払うために、補助鋳貨が金とともに利用されるようになる。小口の流通の金はたえず参入するが、補助鋳貨と交換されて、金はたえず流通から外に投げだされるのである。

 

紙幣の登場

銀製や銅製の章標の金属純分は、法律によって任意に規定されている。それらは、流通しているうちに金鋳貨よりもっと磨滅する。それゆえ、それらの鋳貨機能は事実上それらの重量にはかかわりのないものになる。すなわち、およそ価値というものにはかかわりのないものになる。金の鋳貨定在は完全にその価値実体から分離する。つまり、相対的に無価値なもの、紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができる。金属製の貨幣章標では、純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されている。紙幣では、それが一見してわかるように現われている。要するに、困難なのはただ第一歩だけだというわけである

ここで問題にするのは、ただ、強制通用力のある国家紙幣だけである。それは直接に金属流通から直接に生まれてくる。これに反して、信用貨幣は、単純な商品流通の立場からはまだまったくわれわれに知られない諸関係を前提する。だが、ついでに言えば、本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生ずるように、信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能にその自然発生的な根源をもっているのである。

1ポンド・スターリングとか5ポンド・スターリングなどの貨幣名が印刷されてある紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれる。それが現実に同名の金の額に代わって流通するかぎり、その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。紙幣流通の独自な法則は、ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけである。そして、この法則は、簡単に言えば、次のようなことである。すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金または銀が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というのである。

金鋳貨は度量標準にしたがって、その金属純分によってそれに刻印される名称が決まってきます。例えば金750rが1円というように。しかし補助鋳貨である銀製や銅製の標章の場合は、それがどれだけの金属含有量を含んでいるかは、政府によって任意に決められています。つまり補助鋳貨に刻印されている名称は、その金属 (銀や銅)の量とはその限りでは無関係なのです。このような補助鋳貨は、主に小売りの小口取り引きで使われるために、目まぐるしく人の手から手へ移されることから、金鋳貨よりより一層磨滅します。ですから、それらの鋳貨としての機能は、ますますその重量とはかかわりのないものに、つまりそれが持っている価値とは何の関係もないものに事実としてもなってきます。このようにして金の鋳貨としての存在は、まずはその磨滅から名目純分と離れ、補助鋳貨としては金そのものから離れて象徴化しますが、ますます相対的に無価値なもろもろの物がそれにとって代わり、ついには何の価値ももたない紙券が、金に代わって鋳貨として機能することができるようになります。それで、紙券のような相対的に無価値なもの、つまり金属鋳貨と比べれば無価だと言ってもいいほど価値がないものが、金に代って鋳貨として機能することができるのです。金属製の象徴的貨幣では、わずかとはいえその金属自体が価値をもっているがゆえに、それの純粋に象徴的な性格はまだいくらか隠されたままです。しかし、紙幣では、その象徴的な性格が一見してわかるように現われているのです。何ごとも難しいのは最初の一歩なのである。

我々はこれから紙幣について、その流通の独自の法則を問題にするのですが、その際に、ここで扱うものは、国家によって強制通用力を与えられた国家紙幣だけです。紙幣は、金鋳貨の流通手段の機能から生まれてくるものです。これと違って、信用貨幣は、これは銀行券だけではなく、手形や小切手などの商業貨幣もそれに含まれますが、私たちがいま扱っている単純な商品流通のなかではまだまったくここで考察していない諸関係があってはじめて生まれてくるものです。ただ、ここでは次のことを指摘しておきます。本来の紙幣が流通手段としての貨幣の機能から生まれるのに対して、信用貨幣は支払手段としての貨幣の機能に自然発生的な根源があるのです。といってもそこで信用貨幣が直接問題になるわけではありません。あくまでも自然発生的な根源がそこにあるということです。

1ポンドとか5ポンドなどの貨幣名が印刷されている紙券が、国家によって外から流通過程に投げ込まれたとします。それらが現実に度量標準によって決められた同じ額だけの金に代わって通用するのなら、それらの運動はただ貨幣の流通法則に則っているだけです。つまりそれらの流通量は、流通する商品の価格総額と貨幣の流通速度に規定されることになります。これまでは、紙券の運動には貨幣流通の諸法則が反映されているいうことでしたが、ここでは「紙幣流通の独自な法則」が述べられています。ということは紙券の流通にはそれに固有の法則があるというのです。ではそれはどんなものでしょうか。それは、「紙幣が金の代用となる比率だけにおうじて決まる」というもの、つまり、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というものだそうです。そもそも紙幣の発行量が紙幣が代理する金の量の枠内に制限されているなら、それは貨幣流通の諸法則に規制されているということではなかったでしょうか。だからここで紙幣流通に独自なものとは、「制限される」というところにあります。つまり、紙券がその制限を越えて発行されたとしても、それはその代理しなければならない貨幣量しか代理し得ないのだということです。それが紙幣流通の独自性なのです。

例えば流通に必要な貨幣量が1,000万ポンドだった場合(この量は現実に流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきます)、1ポンド紙幣を2,000万枚発行したとしても、その紙券に書かれた額面では2,000万ボンドになる紙券は、しかしただ1,000万ボンド・スターリングの貨幣の代理として流通するだけだということなのです。つまり1ポンド紙幣券は実際には1ポンド金貨を代理していると言えず、その半分しか代理していないことになります。そしてそれによってその価格が実現される商品の価格が騰貴することでもあります。なぜなら商品の価値が同じなら、金鋳貨で1ポンドの商品は、1ポンドの紙券だと2枚必要になり、だから2ポンドと評価されることになるからです。これが紙幣流通の独自の法則なのです。

ところで、流通部面が吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下に絶えず動揺している。とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最小限より下にはけっして下がらない。この最小量が絶えずその成分を取り替えるということ、すなわち、つねに違った金片から成っているということは、もちろん、この最小量の大きさを少しも変えはしないし、それが流通部面を絶えず駆けまわっているということも少しも変えはしない。それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き換えられることができるのである。これに反して、もし今日すべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまうならば、これらの水路は、商品流通の変動のために明日はあふれてしまうかもしれない。およそ限度というものがなくなってしまうのである。しかし、紙幣がその限度、すなわち流通しうるであろう同じ名称の金鋳貨の量を越えても、それは、一般的な信用崩壊の危険は別として、商品世界のなかでは、やはり、この世界の内在的な諸法則によって規定されている金量、つまりちょうど代表されうるだけの金量を表わしているのである。紙券の量が、たとえば1オンスずつの金のかわりに2オンスずつの金を表わすとすれば、事実上、たとえば1ポンド・スターリングは、たとえば4分の1オンスの金のかわりに8分の1オンスの金の貨幣名となる。結果は、ちょうど価格の尺度としての金の機能が変えられたようなものである。したがって、以前は1ポンドという価格で表わされていたのと同じ価格が、いまでは2ポンドという価格で表わされることになるのである。

紙幣は金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表わされているのと同じ金量で商品価値か観念的に表わされているということにあるだけである。ただ、すべての他の商品量と同じようにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。

流通の領域が実際に吸収しうる金の量は、流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきますが、それは絶えず増減しています。しかしある国の流通する流通手段(媒介物)の量は、経験的確認できる一定の量よりも少なくなることはない、つまり最低限というものがあります。それはこの流通量がその社会の物質代謝の現実に規制されていることから出てきます。それはその社会が社会として維持して再生産されていくために必要最小限の量ということでもあるわけです。この必要最小限の金量というのは、それを構成するさまざまな金貨幣(金片)によって成り立っており、それらが絶えず入れ代わっていることも容易に想像できます。しかしそれを構成する諸部分がどんなに入れ替わっても、全体としての必要最小量というものは依然として存在しているのです。だからこの必要最小量のものについては、つねに流通手段としてだけ機能していることになりますから、紙製の象徴(ようするに紙券)と置き換えることできるということです。だからこの限りでは紙券の運動は貨幣の流通法則に規制されているといえます。

反対に、もしその必要最小量の金量がすべて紙券によって置き換えられてしまった場合はどうなるでしょうか。そうなれば、必要最低金量の増減によっては、紙券がその枠を越えてしまうことにもなりかねません。必要最低金量が増大する場合は、紙券の不足分は金鋳貨が流通するでしょうが、減少する場合、紙券は流通必要金量より大きくなることになります。紙券の場合は金とは違って、流通に不要なものは流通から引き上げられるということがありませんから(なぜなら紙券には価値はほとんど無いですから、流通から引き上げられた紙券はただの紙屑になるからです)、相変わらず流通に留まり続け、結果として、流通に必要な金量より多い紙券が流通する事態が生じてきます。そうなると「国家が流通貨幣にその外部から投げ込む」ということから、歯止めが効かなくなります。つまり国家が紙幣を恣意的に流通必要最小限の金の量を越えて乱発することになりかねません。そうなると先に見た「紙幣流通の独自な法則」が問題になってくるわけです。 その「紙幣流通の独自な法則」というのは「紙幣が金の代用となる比率だけにおうじて決まる」というものでした。つまり紙幣の流通量が、流通に必要な最小の金量を越えたとしても、それは一般的な信用危機が生じる可能性を別にすれば、紙券はそのまま流通手段として流通します。しかし、流通に必要な金量というのは、商品流通の法則そのものですから、結局、例え流通必要金量を越えて発行された紙券であっても、その必要量以上のものは代理できない、つまりその必要量しか代理できないということになるのです。

だから例えば、金鋳貨であれば流通できるはずの総量の2倍の紙幣が流通することになれば、それぞれの紙幣が本来なら2オンスの金に代わって流通するものが、結局、それぞれが1オンスの金を代理して流通することになるわけです。ということは、事実上、1ポンド紙幣は、4分の1オンスの金に代わって、8分の1オンスの金を代理していることになります。これは1ポンドが、4分の1オンスの金の貨幣名ではなく、8分の1オンスの金の貨幣名になるということと同じです。だから以前は1ポンドという価格で表されていた商品の価値が、いまでは2ポンドという価格で表されることになるのです。つまり商品の価格が騰貴するということです。

紙幣というのは、金鋳貨が流通手段として流通する過程で磨滅し、その自体のシンボルとなるところから、シンボルなら別に金でなくてもというところから生じてきたものです。だからそれは金鋳貨の象徴かというと、そうではなく、磨滅した金鋳貨は度量標準で確定している一定量の金(これ自体は観念的なものです)の象徴なのです。つまりそれは金そのものの象徴(シンボル)、あるいは貨幣金の象徴なのです。

では紙幣で表される商品の価格というものはどのように捉えればよいのでしょうか。商品の価値は、観念的な金によって、価格として表示されます。金がこのような価値を尺度する機能を持つのは、金そのものが価値を持つ一つの商品だからです。しかし紙幣それ自体には価値はほとんどありませんから、紙幣が直接商品の価値を尺度し価格として表示する機能があるわけではありません。だから紙幣による諸商品の価格表示というのは、度量標準で決められている金のある一定量(これ自体は観念的なものですが)を、紙幣が象徴しているからなのですが、さらに紙幣は、流通手段としての貨幣の機能を果すものですから、その観念的な金を感覚的に手で掴めるものとして象徴して表していることになります。だから紙幣は直接商品の価値ではなく、それを価格として表示する金量を、だから諸商品の価格を象徴しているということができるわけです。そしてこうした回り道を通って、それは諸商品の価値を表象しているということができるのです。他の商品と同じようにそれ自体価値をもつ金分量を紙幣が代理している限りで、紙幣は諸商品の価値の記号だということができるわけです。 

銀貨や銅貨にどれだけの金属が含まれるかは、法律によって任意の量が定められている。これらの通貨は流通するうちに、金の鋳貨よりも急速に摩耗する。そのためにこれらの通貨の鋳貨としての機能は、実際にはその重量とは、すなわちそもそもの価値とはまったく異なるものとなってしまう。金の鋳貨としての存在は、その価値としての実質からまったく切断されてしまう。そのためほとんど無価値な紙幣でも、金の代用として、鋳貨として機能することができるのである。金属で作られた通貨には、その純粋に象徴的な性格はまだかなり隠されたままである。しかし紙幣では、この象徴的な性格がまざまざと示される。何ごとも難しいのは最初の一歩なのである。

ここで考察されているのは、強制的な通用力をそなえている国の紙幣だけである。これは金属の流通から直接に生まれてくる。これとは違って信用貨幣は、単純な商品の流通という観点からはまったく考察していない諸関係を前提としている。ここでは次のことを指摘しておくにとどめよう。ほんらいの[国の]紙幣は、流通手段としての貨幣の機能から発生するが、これと同じように信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能という〈根〉から、自然発生的に生まれてくるのである。

その表に、1ポンドとか5ポンドなどの貨幣名が印刷されている紙幣は、国家が流通貨幣にその外部から投げ込むものである。こうした紙幣が同名の金の量の代わりに現実に流通する場合には、紙幣の運動を支配するのは、貨幣の流通の法則だけである。紙幣の流通に独自の法則は、紙幣が金の代用となる比率だけにおうじて決まる。この法則は単純なものであり、紙幣の発行額は、紙幣が象徴的に表現する金または銀が、もともと実際に流通すべきであった量に制限されるというものである。

ところで流通の領域が実際に吸収しうる金の量は、一定の平均水準の上下にたえず変動しているものである。しかしある国で流通する流通手段の量は、経験的に確認できるある一定の最低水準を下回ることはない。その最小の量を構成する流通手段はつねに異なったものとなりうる。すなわちつねに別の金貨で構成されることがある。しかしこのことが最小の流通手段の量に影響することも、そのたえざる変動に影響することもないのは明らかである。だからこの最小の量は、紙幣という象徴によって代替させることができるのである。

これとは反対に、いま流通のすべての〈運河〉が、その吸収能力の限度まで紙幣で満たされたとすると、明日にても商品の流通の変動のために、〈運河〉が溢れるかもしれない。その場合にはすべての尺度が失われることになる。ただし紙幣がその限度を上回っても、すなわち紙幣が発行されていなければ流通されていたはずの同名の金の鋳貨の量を上回ったとしても、全般的な信用低下の危険性が発生するのは別として、商品世界の内部では紙幣は、その内在的な法則にしたがって規定された量の金を、すなわち代表できるだけの量の金を代表しているのである。

たとえば以前は1オンスの金を代表していた紙幣の量は、今では2オンスの金を代表するように変わってしまうと、たとえば1ポンドは以前は4分の1オンスの貨幣名であったものが、事実として8分の1オンスの貨幣名に変わってしまう。価格の尺度としての金の機能が変わったのと同じことになる。だから以前は1ポンドの価格で表現されていた同じ価格が、今では2ポンドの価格で表現されるようになる。

紙幣は、金の記号または貨幣の記号である。紙幣と商品価値の関係は、紙幣によって象徴的に、そして感覚的に表現されるのと同じ量の金属のうちに、商品の価値か観念的に表現されているということだけである。金の量は、他のすべての商品の量と同じように価値の量であり、紙幣はこの金の量を代表するかぎりで、価値の記号となる。

 

紙幣の代替機能

最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理されることができるのか?ということである。しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。ところで、この機能の独立化は、磨滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行われるのではない。金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただそれが現実に流通しているあいだだけのことである。しかし、一つ一つの金鋳貨にあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にあてはまるのである。この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。だから、その運動は、ただ商品変態W−G−Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはすぐに消えてしまうのである。商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手にと遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである。

しかし、貨幣の章標はそれ自身の客観的に社会的な有効性を必要とするのであって、これを紙幣の象徴は強制通用力によって与えられるのである。ただ、一つの共同体の境界によって画された。または国内の、流通部面のなかだけで、この国家強制は有効なのであるが、しかしまた、ただこの流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。

私たちは金鋳貨がその流通のなかで磨滅して、それ自身の象徴になり、よって金以外の物によって置き換えられ、最終的にほとんど価値のない紙幣によって象徴され置き換えられる過程を見てきました。これらは磨滅した金鋳貨が、流通手段として機能する限りでは、磨滅していない完全な金鋳貨と同じようにその機能を果すことができることから生じています。つまり金鋳貨は磨滅したから流通するのではなく、流通するから磨滅したのです。ではどうして磨滅した金鋳貨が一定の限界内では流通手段として機能し続けられるのかという問題が最後に片づけなければならない課題として出てきます。その課題は、すでに我々が検討してきた過程そのもののなかに解決があります。

金鋳貨というのは、貨幣としての金が流通手段としての機能を果す上での技術的な問題から生じていました。貨幣金が流通手段としての機能を果たすためには、その金の純度や重量を正確に秤量する手間が生じます。金鋳貨とは一定の金量を鋳造して、そこに刻印してその純度と重量を保証するものです。それによって生じる手間を省いて流通手段としての機能を容易に果たすことができるようにしたものです。すなわち金鋳貨は、貨幣()が流通手段としての機能を果すために特化したものと言うことが出来るのです。これが金が「鋳貨として、すなわち流通手段としての機能において分断され、自立する」ということの内容なのです。

だからまた金鋳貨の象徴化や他の金属や紙幣によって代理されるという性格も、その流通手段としての機能そのものから生じているといえるわけです。しかしそれは一つ一つの金鋳貨について生じているわけではありません。

一つ一つの金鋳貨なら流通から引き上げられることもありえます。それらは流通に入ったりそこから引き上げられたりしているわけです。そうした個々の金鋳貨ではなく、我々が問題にしているのは流通過程で流通し続けている金鋳貨全体に対してであって、そうしたものについてそれは言いうるのです。

絶えず流通過程にあって流通し続けている金鋳貨というものは、ある国においてはその最低限の量というものがあります。必ずこれだけは流通のなかに留まり続けているという分量です。そしてこの常に流通に留まり続けている金鋳貨については、それは流通手段としてだけ機能しているのですから、別のものによって、すなわち紙幣によって置き換えることができるということなのです。この流通過程に留まり続けている最小量の金の総量については、常に流通過程にあって、不断に流通手段としてのみ機能しているといえます。

そのため、その運動はその運動は、我々が商品の変身のところで見たように、W−G−Wの対立する過程を媒介しています。ここでは商品は、販売されればすぐに消費過程に落ちていきますが、貨幣は常に流通過程に留まり続けるものとし現われていました。まず商品の運動があって、そしてその反映として貨幣の運動があったのです。W−G−WにおけるGはWの交換価値の自立的な存在です。しかしそれは束の間の契機でしかありせん。なぜならW−Gを経た商品の価値は、すぐさまG−Wによって別の商品へと変態しなければならないからです。そしてその結果が貨幣が絶えず人の手から別の人の手へと遠ざかる運動が生じていたのです。それが貨幣の通流であり、貨幣の流通手段としての機能だったのです。

だから商品の変身であるW−G−Wの過程における一時的な存在であるGは、商品交換の当事者が互いに納得するなら貨幣のたんなる象徴でも十分可能なのです。だから流通手段としての貨幣の機能だけであるなら、つまり商品の交換を媒介するためだけのものなら、そのGは別に金にこだわる必要はないということになります。これはいわば貨幣の流通手段としての機能的存在が、その物質的存在を吸収したともいえます。W−G−WにおけるGが、商品の価格をただ一時的に客観的に表示するものだけであるなら、それは貨幣を象徴するだけでもよいですから、だからさまざまな記号によって代替できるのです。

 W−G−Wにおいて、W−Gで商品の売り手がGの代わりに記号である紙幣を受け取るのは、その次に彼がそのGの代理物である紙幣で、G−Wの過程を確実に実行できると確信しているからにほかなりません。つまり交換当事者たちが互いの共通の意志としてそうした過程を認め合っていることが必要です。つまり売り手が貨幣の代わりにその記号を受け取るのは、そうした社会的了解があってこそです。すなわちそこに強制通用力が働いているからなのです。そして国家がそれを保証したものが国家紙幣です。国家紙幣は、一つの共同体の境界内に限られたものですが、しかしまた国内の流通領域のなかでは、貨幣はただ流通手段の機能を果すだけですから、だからそれは紙幣によって置き代えられ、その金属としての実質から国家によって外的に分離されて、ただ流通手段という機能を果すだけのものとしての存在を受け取るのです。

国家紙幣のような紙券が流通手段としての貨幣の機能を果たすことができるのはなぜでしょうか。貨幣は、流通手段として次々に様々な商品の売り手に渡っていき、商品流通の世界を流通し続けるからです。もし次節でみる蓄蔵貨幣のように長期間手元にとどめておくものであれば、やはり価値の裏付けが重要になりますが、流通手段としてすぐに用いるのであれば、これはさほど重要ではありません。だからこそ、人々が商品流通の世界において紙券を金の代理として認める限りでは、金とまったく同じように流通手段として機能することができるのです。

ここで重要なのは、国家ができるのは紙券にお墨付き、すなわち強制通用力を与えることだけということです。国家紙幣の存在根拠は、あくまでそれが貨幣の流通手段としての機能を代理するものだというところにあります。もし国家が流通に必要な貨幣量をこえて国家紙幣を発行したとすれば、反作用がおき、国家紙幣が代理できる金量が額面以下に低下し、インフレーションが起きてしまいます。「国家はいまやその刻印の魔術によって紙を金に変身させる」ようにみえますが、すなわち、たんにお札を刷るだけで価値を生み出すことができるように見えますが、「国家のこのような権力は、単なる見せかけに過ぎない」のです。ここでもやはり、価値尺度でみたものと同じ種類の幻想、かなわち、無価値の紙券に流通手段としての貨幣の機能を代理させるには国家の介入が必要であるという事実から、国家の力によってたんなる紙券を金とまったく同じ物に変身させることができると考えてしまうような幻想が発生してくるのがわかります。

現代でも、中央銀行が発行する銀行券が法定通貨であることから、中央銀行が法定通貨であることから、中央銀行がどんどん銀行券を刷り、国にお金を貸すことによって、増税なしに財政難を解決できるというようなことを主張する人々がいますが、もしそれが可能であれば、極端な話、この社会から税金をなくすこともできるでしょう。では、そのとき、国家が使用できる購買力(価値)はどこから発生するのでしょうか。結局、中央銀行券が代理できる金量ないし価値量が減少する以外には購買力(価値)が発生する道筋はなく、そうなれば、極度のインフレーションが社会を襲うでしょう。当たり前のことですが、国家によっても無から有を生み出すことはできないのです。

最後に問題となるのは、なぜたんなる無価値な記号にすぎないもの[紙幣]によって、金が代替されうるのかということだろう。すでに考察してきたように、金がこのように[紙幣によって]代替されうるというのは、金が鋳貨として、すなわち流通手段としての機能において分断され、自立するからにほかならない。しかしこのような自立は、摩耗した金片がたえず流通していることのうちに現われるのであり、個々の金の鋳貨のうちに現われるのではない。

金貨は、それが現実に流通しているかぎりで、たんなる鋳貨であり、流通手段である。しかし個々の金の鋳貨にあてはまらないことが、紙幣に代替される最小量の金にあてはまるのである。この最小量の金はつねに流通の領域にとどまりつづけ、流通手段として機能しつづけ、もっぱらこの機能の担い手として存在しつづける。

そのためその運動は、商品の変身W−Gの対立する過程の複雑で持続的な関係を表現するだけであり、この過程において商品は、その価値の姿を一瞬だけ示した後には、すぐに消え去る。ここでは商品の交換価値の自立した表現は、たんに束の間だけ存在する要素にすぎない。それはすぐに他の商品によって代替される。

だから貨幣がある人の手から別の人の手へと遠ざけられる過程においては、貨幣を代理するたんなる象徴にすぎないもの[紙幣]でも、十分に役に立つのである。貨幣の機能的な存在が、その物質的な存在をいわば吸収してしまうのである。貨幣は、商品価値を一時的に客観的なものとして示すだけのものであるから、それは自分自身の記号としての機能するだけであり、さまざまな記号によって代替されることができるのである。

しかし貨幣を代理するさまざまな記号は、それ自身にとっても客観的で社会的な有効性を必要とするのであり、紙幣という象徴はこの有効性を、国家による強制的な適用によってうけとるわけだ。この国家による強制は、共同体の境界の内部だけで、すなわち国内の流通領域の内部だけで妥当するものであり、貨幣はこの境界の内部だけで、紙幣の姿において、みずからの金属としての実質から外面的に分離されて、たんなる機能的な存在様式を維持することができる。

 

 

第3節 貨幣

〔この節の概要〕

「流通手段」としての貨幣が、商品の流通の増減によって増減するとすれば、貨幣は単に流通手段としてのみ存在するというわけにはゆかない、貨幣は商品に対立した「貨幣」それ自身としても存在しなければならない。マルクスはこの点を「退蔵貨幣」、「支払手段としての貨幣」、「世界貨幣」として展開する。まずW−G−WがW−Gで中断せられることによって、いいかえると購買G−Wをともなわない販売W−Gによって、貨幣は流通から引上げられて退蔵することができる。貨幣はこのような退蔵貨幣として、はやくから商品経済社会の一般的富を代表し商品価値の独立化を実現するものとなるのであるが、それはまた流通手段としての貨幣の分量を調節する役割をも果たすのである。ところが、この退蔵貨幣の形成される過程はまた、他方でW−G−Wの購買G−Wが貨幣なくして行なわれ、あとからW−Gの過程が行われて貨幣が支払われるという関係をも可能にする。貨幣は「支払手段」として機能することになる。この場合商品の買い手は単なる買い手としてではなく、債権者として貨幣を支払うのであって、その支払がたがいに清算されれば貨幣の流通量を節約することにもなるが、そうでなければ、あるいはまたその差額は必ず貨幣でもって支払われねばならない。こうして支払手段としての貨幣は、退蔵貨幣とは異なって、流通の内部においても価値の独立の存在物であることが要求される。それは退蔵貨幣と対応した商品経済的富の絶対的な存在物となる。このような退蔵貨幣ないし支払手段としての貨幣は、国内流通、言い換えれば一定の社会的商品流通から出て、他の社会的な商品流通とのあいだにも貨幣として機能しうる。すなわち、国際貸借の決済に、または国際取引における購買手段に使用される。それと同時に、ふたたび地金の形態をもって授受される。元来金は、奢侈品などの材料にも用いられている一方、つねに貨幣としても使用されうる特殊な商品なのであるが、国際的に授受される世界貨幣としての貨幣は、まさにこのような商品にほかならない。それと同時に、国内における流通手段の分量はこの世界貨幣によって根本的に調節されうるものとなるのである。

 

〔本文とその読み(解説)〕  

貨幣の定義

価値尺度として機能し、したがってまた自身の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。それゆえ、金(または銀)は貨幣である。金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行われるか代理物によって行われるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。

貨幣とは価値尺度として機能し、したがってまた、自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品─それは貨幣(=定冠詞のない貨幣〔Geld)です。ですから、現にそのように機能している商品である金(または銀)は貨幣(ゲルト)なのです。貨幣が貨幣(定冠詞のない貨幣ゲルト)として機能するのは、その金の身体、つまり現物のままで、貨幣商品として現われなければならない場合だということです。

だからそれは価値尺度の機能のように、ただ観念的な貨幣として果すようなものではなく、また流通手段のようにその代理物(補助鋳貨や紙幣など)によって果すようなものではない、金がその肉体のままで果たす機能だということです。ではそれはどういうものでしょうか。それはこのあとすぐに出てくる〈a貨幣の退蔵〉のなかにある「退蔵貨幣」と〈c 世界貨幣〉ではないかと思います。これら両者ともに貨幣は貨幣(ゲルト)、すなわち現物の金そのものとして存在しなければならないからです。

同じ貨幣(ゲルト)であっても、もう一つその機能が、金自身によって果されるだけではなくて、その代理物によっても果される機能があるのです。それは〈b支払手段〉に出てくる支払手段としての貨幣の機能です。この場合は金の現物そのものももちろん支払手段としての機能を果すことはできますが、それだけではなく、その代理物、例えば銀行券、特に法定通貨の規定を受けたイングランド銀行券のようなものも、支払手段としての機能を果すことが出来るのです。そしてこうした支払手段としての機能を果すものは、金あるいはその代理物が、唯一の価値の姿、あるいは交換価値の唯一の適当な存在として、単なる使用価値である他のすべての商品に対立して固定される場合だということです。

この部分は、「第3節 貨幣」全体に対する前文と考えることができます。だから「第3節」の小項目「a 貨幣の退蔵」、「b支払手段」「c 世界貨幣」の内容を含んだものと考えられるわけです。この貨幣(定冠詞のない貨幣[Geld)は、第1節と第2節でそれぞれ考察された貨幣の機能を統一したものだということです。

貨幣とは、価値の尺度として機能する商品、すなわち生身のままで、あるいは代理をつうじて、流通手段として機能する商品である。だから金または銀は貨幣なのである。金または銀が貨幣として機能するためには、一方では金または銀の生身のあり方で登場しなければならない。その場合には価値の尺度の場合のようにたんに観念的なものであってはならず、流通手段の場合のような代表する能力であってもならない。他方で金または銀が貨幣として機能するためには、金や銀の機能が(その機能をみずからはたすか、代理をつうじてはたすかは問わない)、たんなる使用価値である他のすべての商品に対して、金や銀を唯一の価値の姿として、唯一の適切な交換価値の姿として固定しうることが必要である。

  

(a)貨幣の蓄蔵

貨幣の不動化

二つの反対の商品変態の連続的な循環、または売りと買いとの流動的な転換は、貨幣の無休の流通、または流通の永久自動機関としての貨幣の機能に現われる。変態列が中断され、売りが、それに続く買いによって補われなければ、貨幣は不動化され、または、ボアギュペールの言うところでは、可動物から不動物に、鋳貨から貨幣に、転化する。

商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹を固持する必要と熱情と発展する。商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。この形態変換は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。商品の離脱した姿は、商品の絶対的に譲渡可能な姿またはただ瞬間的な貨幣形態として機能することを妨げられる。こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣の蓄蔵者となるのである。

前節の流通手段で見たように、流通手段としての貨幣は、商品の変態W−G−Wを媒介するものでした。それが代理物で置き換えうるのは、それが商品の価値の一時的な実在形態でしかなかったからです。

だから貨幣が流通手段としての機能を果す条件は、商品の対立する運動、すなわち販売と購買がよどみなく繰り返されるということです。それをマルクスは「貨幣が流通の<永久機械>として働く」と表現しています。ところが商品の変身の連鎖が中断されて、すなわち販売W−Gのあとに続く購買G−Wがなされなくなると、貨幣Gはその時点で、流通から引き上げられて停止します。そうすると鋳貨は貨幣(ゲルト)に変化するのです。

商品流通が発展すると、人々の欲求も刺激され、それまでの自給自足の制限された生活から、さらに多くの欲望が解き放たれ、その欲望を満たすために商品を購入する必要が生じてきます。そうすると、そうした商品を手に入れるために、まずは貨幣を所持しなければならず、何でも欲しいものが手に入る貨幣を所持する必要と熱望が生じてきます。貨幣を持ってさえいれば何でも欲しいものが手に入るということから、とにかく貨幣を持つことが自己目的になり、あとで商品を買うためにではなく、商品を貨幣に置き換えるためだけに売るようになります。そうなると商品から貨幣の転化が、社会的な物質代謝を媒介するものではなく、それ自体が自己目的になるのです。こうして、貨幣は退蔵貨幣になるのです。そして商品の売り手は、貨幣の退蔵者になります。

「蓄蔵貨幣」は、ドイツ語のSchatzという語の訳語です。ドイツ語のこの語は、もともとは宝物とか財宝を意味する語で、貨幣だけを指すのではないのです。たとえば宝石でも王冠のように貨幣でないものでもSchatzになりうるのです。経済学でSchatzと言うときには、地金、コイン、貴金属などの審美的製品のいずれの形態をとっていようと、蓄えられた貨幣商品のことを指します。 

二つの対立する商品の変身すなわち販売と購入のよどみない転換の連続的な循環は、貨幣の休みなき流通のうちに、貨幣が流通のいわば<永遠機械>として働くことのうちに現われる。この商品の変身の連鎖が中断され、販売がその後の購入によって補われなくなると、貨幣は不動化する。ボワギュペールが語るように、動くものから動かざるものに変化し、鋳貨から貨幣に変化する。

商品の流通の最初の発展段階から、第一の変身[商品−貨幣]の産物[貨幣]を、つまり商品の変化した姿を、その金の蛹をもしっかりと握りしめておきたいという必要性と情熱が生まれるものである。そのとき、商品は販売されはするが、それは別の商品を購入するためではなく、商品形態を貨幣形態に変えるためである。そのとき、商品は販売されはするが、それは別の商品を購入するためではなく、商品形態を貨幣形態ら変えるためである。この貨幣形態への転換は、物質代謝のたんなる媒介としての役割をはたすのではなく、自己目的になる。外化した[貨幣としての]姿は、その絶対的な譲渡可能性として機能することも、たんなる一時的な貨幣形態として機能の退蔵者となる。

 

貨幣の埋蔵

商品流通が始まったばかりのときには、ただ使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。こうして、金銀は、おのずから、有り余るものまたは富の社会的な表現になる。このような貨幣蓄蔵の素朴な形態が永久化されるのは、かたく閉ざされた欲望範囲が伝統的な自給自足的な生産様式に対応している諸民族の場合である。たとえば、アジア人、ことにインド人の場合かそうである。ヴァンダリントは、商品価格は一国に存在する金銀の量によって規定されると妄信しているのであるが、彼は、なぜインドの商品はあんなに安いのか?と自問する。答えは、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、というのである。彼の言うところでは、1602年から1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋めたが、それは元来はアメリカからヨーロッパにきたものだ。1856年から1866年に、つまり10年間に、イギリスはインドとシナに(シナに輸出された金属は大部分が再びインドに向かって流れる)1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出したが、この銀は以前にオーストラリアの金と交換して得られたものだった。

商品流通が始まったばかりの時期には、ただ使用価値の余剰分だけが貨幣に転化します。こうして、おのずから金銀は、必要を超えた豊かさの、言い換えれば富の社会的な表現になります。

余剰物というのは、少なくとも直接にはその使用価値を実現する当てが当面はないということです。例えば、食料ならば自分たちが食べる分はすでに確保してあって、それ以上の食べきれない分です。それを他人に売って、代わりに、欲しいものを得ようということが可能になるわけです。だからそれらが商品として交換され貨幣に転化されると、その貨幣をすぐに別の商品に再転化する必要性もまた差し迫ってないということでもあるわけです。だからこうした場合の貨幣は貨幣(ゲルト)として留まる可能性が高くなるというわけです。こうして金銀は必要を超えた豊かさのを表すものとして、社会的な富を表すものになるのです。

このように商品交換の初期のころの余剰物を商品として交換し貨幣に変化させた人たちが、その貨幣を退蔵するのは、彼らが自給自足的な生産様式のもとで閉ざされた欲望を伝統的に保持しているからにほかなりません。それは、アジア人やインド人などの古い共同体的な生産様式にもとづいた諸民族においてです。

ヴァンダーリンドの貨幣数量説は次の一文にあらわれたような内容です「どの国でも、金銀が国民のあいだで増加するにつれて、物価はたしかに上がって行くであろう。したがってまた、ある国で金銀が減少すれば、すべての物価は、このような貨幣の減少に比例して下落せざるをえない」。そこで、本来金銀の保有数が多いインドで物価が安いのはなぜか?という疑問が生じたのですが、彼はインドでは貨幣を埋蔵するから、流通する貨幣の量が少なくなり、だから商品の価格も安いのだと自答しているということです。ただここではマルクスはアジアやインドの遅れた自給自足的な生産様式のもとではその伝統的な制限された欲望から貨幣を退蔵する傾向が大きいのだという関連のなかで、ただヴァンダーリンドの言説を批判的に紹介しているに過ぎません。これはヴァンダーリンドの述べているところとして紹介されているものです。それによると1602〜1734年に、つまり132年間にインドは1億5,000万ポンドの銀を埋蔵し、さらに1856〜1866年、つまり10年間にほぼ1億2,000万ポンドの銀を埋蔵したということです。これは事実だけですが、それほどインドでは銀の埋蔵が盛んだったということです。 

商品の流通が始まったばかりの段階では、使用価値の余剰分だけが貨幣に変えられる。こうして金と銀はおのずから、豊かさと富の社会的な表現となる。伝統的な自給自足的な生産様式の諸国民では、欲望の範囲も明確に規定されているために、貨幣退蔵のこの素朴な形態が永続的にものとなる。アジア人がそうした人々であり、とくにインド人かそうである。

ヴァンダーリンドは、商品価格は国内にある金または銀の量で決定されると妄想し、インドの商品価格の低さに直面して、その理由はインド人は貨幣を地中海に埋蔵してしまうからだと考える。彼によると、1602年から1734年までの期間にインド人は、もともとはアメリカからヨーロッパに選ばれた1億5000万ポンドの銀を地中に埋めたという。1856年から10年間に、イギリスはオーストラリアの金と交換して手にいれていた1億2000万ポンドの銀を、インドと中国に輸出している(中国に輸出された銀は、その大部分がふたたびインドに輸出された)。

 

流通の錬金術

商品生産がさらに発展するにつれて、どの商品生産者も、諸物の神経、「社会的な質物」を確保しておかねばならなくなる。彼の欲望は絶えず更新され、絶えず他人の商品を買うことを命ずるが、彼自身の商品の生産と販売は、時間がかかり、また偶然によって左右される。彼は、売ることなしに買うためには、まえもって、買うことなしに売っていなければならない。このような操作は、もし一般的な規模で行われるとすれば、それ自身と矛盾しているように見える。しかし、貴金属はその生産源では直接に他の諸商品と交換される。ここでは売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行われる。そして、それ以後の、あとに買いの続かない売りは、こうして、交易のすべての点に、大小さまざまな金銀蓄蔵が生ずる。商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金が目ざめてくる。商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。

「金はすばらしいものだ!それをもっている人は、自分が望むすべてのものの主人である。そのうえ、金によって魂を天国に行かせることさえできる。」(コロンブス「ジャマイカからの手紙」1503年)

貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい。人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである。しかし、貨幣はそれ自身商品であり、だれの私有物にでもなれる外的な物でもある。こうして、社会的な力が個人の個人的な力になるのである。それだからこそ、古代社会は貨幣をその経済的および道徳的秩序の破壊者として非難するのである。すでにその幼年期にプルトンの髪をつかんで地中から引きずりだした近代社会は、黄金の聖杯をむその固有の生活原理の光り輝く化身としてたたえるのである。

商品の生産がさらに発展していくと、すべての商品生産者は〈先立つもの〉を、「社会的な担保」を確保しておかねばならなくなります。

つまり商品生産がさらに発展すると、貨幣こそが確かな担保物件として確保する必要に迫られるということです。そしてそれがもっともよく分かるのは、恐慌時のような混乱期であり、そういう時には貨幣の退蔵(当時のイギリスではイングランド銀行券の退蔵)が生じのだと、指摘しています。

人々の欲求は商品生産の発展とともに拡大され刺激されます。だから彼は他人の商品を絶え間なく買う必要を感じますが、しかしそのためには必要な貨幣を入手する手段である彼自身の商品の生産と販売には、時間がかかりしかも絶えず偶然に左右されます。だから彼は貨幣をもっとも安全な担保として常に確保しておく必要に迫られるのです。つまり貨幣を確保して彼の欲望を満たす商品を購入するということは、売ることになしに買うことですが、しかしそのためには前もって、買うことなしに売って置かなければならないわけです。

買うことなしに売るということは、しかしすべての人がそれをやるなら、それ自身矛盾したものになります。なぜなら、売るということが誰かが買うことを意味するからです。だから一般的な規模で売るだけで誰も買わないなどということはそれ自体が自己矛盾なのです。しかし社会的に見ると、常に買うことになしに売ることが行われている特別な場所があります。それは金の原産地地における金と他の商品との直接的な交換です。ここでは買うことなしに(金所持者の側)、売ること(商品所持者の側)が行われているのです。

そして、金の生産地から流通に入った金は、そのあと購買のない販売、つまり自分商品を売ったあと、商品を買わずにその金を退蔵する人たちによって、商品流通のそれぞれの時点におけるそれぞれの規模の金銀の退蔵貨幣が形成され、貴金属の再分配が行われることになるわけです。商品を販売すれば、その交換価値を貨幣()という形で持っていることができます。そして交換価値の独立した姿態である貨幣()は、あらゆる商品と直接交換可能であり、貨幣()を持ってさえいれば、あらゆる商品を手に入れる力を持っていることを意味します。だからこそ、ここに何が何でも金を持とうという金への欲望が生まれてくるのです。

商品の流通の規模が拡大し、すべてのものが商品として生産され流通するようになると、人々は何はともあれ、自分の欲求を満たすためには、まずは貨幣を手に入れる必要があります。そして貨幣さえ手に入れれば何でも入手できるわけです。地位や名誉や権力などあらゆるものに価格が付けられ、よって貨幣によって手に入れることができようになります。貨幣は世界を支配する力を持つことになるのです。そこにコロンブスの書簡が引用されています。

以前の価値尺度のところで、価格形態には一つの質的な矛盾があることが示されました。つまりそれ自体としては商品でないようなもろもろの物、例えば良心、名誉などが、その所有者によってカネで売られるということを知りました。だから商品であろうが、なかろうが、あらゆるものが貨幣に変身するわけです。しかも、貨幣を見ただけでは、何が貨幣に変身したのかは分かりません。すべてのものが売れるものになり、買えるものになるのです。そしてそれを媒介するのが流通であり、だからそれは社会的な坩堝になるというわけです。あらゆるものがそこに投げ込まれて貨幣として出てくるのです。この貨幣を得ようとする欲求には誰もあらがうことができません。聖人をきどる坊主どもが、聖なる遺物でさえもたたき売ってでも手に入れようとしたわけですから、それ以外の普通の人々などは、その欲求に抵抗できません。

貨幣においてはそれがいかなる商品の変身したものかの痕跡は消え去っています。貨幣はその意味では徹底的な水平派(平等派)なのです。しかも貨幣は、また一つの商品であって一つの物に過ぎず、誰でもそれを持つことができます。そしてそれを誰が持とうが同じ貨幣としての力をその所持者に与えます。つまり貨幣のもつ社会的な力が、私的な人格のもつ私的な力になるのです。こうした貨幣の魔力から、古代社会では貨幣を経済や道徳の破壊者として非難したのです。資本主義の幼年期というのは、重金主義の時代であり、金を求めて世界中を駆けめぐった大航海時代でもありました。黄金こそが富の物質的代表であり、地球のすみずみまで地中を掘り起こして、黄金を求めることがすべての出発点だったのです。 

商品の生産がさらに発展していくと、すべての商品生産者は〈先立つもの〉を、「社会的な担保」を確保しておかねばならなくなる。たえず新たな欲望が生まれ、たえず他人の商品を購入したいと考えるのだが、彼自身の商品の生産と販売には時間がかかり、しかも偶然に左右される。販売せずに購入するためには、その前に販売するだけで購入しないで[貨幣をためて]おく必要がある。

すべての人がこのような方法に頼った場合には、自己矛盾に陥るようにみえる。しかし貴金属はその生産の現場では、直接に他の商品と交換される。生産の現場ではたしかに販売だけが行われ(商品の所有者による販売が行われ)、購入は行われない(金や銀の所有者の側の購入は行われない)。

この段階を除くと、販売だけが行われてその後に購入が行われない場合には、[売り手のもとに貨幣が退蔵されて]すべての商品所有者のあいだで貴金属が広い範囲で所持されることになる。このようにして交易のあらゆるところで、金や銀がさまざまな規模で退蔵される。金を所有していれば、商品を交換価値として固定し、交換価値を商品として固定することができるようになるために、金への欲望は大きくなるばかりである。

商品の流通の規模が大きくなるとともに、貨幣のもつ力も強くなり、いつでも臨機応変に対処できる[すなわち何でも購入することができる]貨幣は、富の絶対的で社会的な形態となる。「金はすばらしいものだ!金を所有している者は自分の望むすべての物を自分のものにできる。金があれば自分の魂までも天国に送りとどけることができるだろう」(コロンブスがジャマイカから送った書簡、1503年)

貨幣をみただけでは、何がその貨幣に変わったのか[どのような商品が貨幣に変身したのか]は分からない。しかし商品であれ何であれ、すべてのものは貨幣に変わるのである。すべてが売れるものになり、すべてが買えるものになる。流通は社会の巨大な坩堝となり、この中にあらゆるものが流れ込み、そこからは貨幣の結晶として出てくる。この錬金術には、聖人の遺骨でさえ抵抗することができないし、それほど粗野ではない(人間たちの取引の及ばない聖なる事物)などは、ほとんど抵抗もできない。

貨幣の中では商品の質的な違いは姿を消しているのであり、さらに貨幣は過激な水平派たちのように、すべての区別を消滅させる。それでいて貨幣はそれ自体が一つの商品であり、だれでも所有できる外的なものである。これによって社会的な威力は、私的な人格の私的な威力となる。だから古代社会においては貨幣は、経済と道徳の秩序を破壊する小銭として非難されたのである。現代社会は、その幼年期においてすでに[富の神]プルトスを大地の臓腑のうちから引き上げたのであり、黄金の聖杯のうちで、それにもっともふさわしい生活環境の輝かしい化身[である貨幣]を祝福するのである。

 

貨幣蓄積の無限の欲望

使用価値としての商品は、ある特殊な欲望を満足させ、素材的な富の一つの特殊な要素となしている。ところが、商品の価値は、素材的な富のすべての要素にたいするその商品の引力の程度をあらわし、したがってその商品の所有者の社会的な富の大きさを表わしている。未開の単純な商品所持者にとっては、また西ヨーロッパの農民にとってさえも、価値は価値形態から不可分なものでありしたがって、金銀蓄蔵の増加は価値の増加である。もちろん、貨幣の価値は変動する。それ自身の価値変動の結果であるにせよ、諸商品の価値変動の結果であるにせよ、しかし、このことは、一方では、相変わらず200オンスの金は100オンスよりも、300オンスは200オンスよりも大きな価値を含んでいるということを妨げるものではなく、他方では、この物の金属的現物形態がすべての商品の一般的等価形態であり、いっさいの人間労働が直接に社会的に化身であるということを妨げるものではない。

貨幣蓄蔵の衝動はその本性上無際限である。質的には、またその形態から見れば、貨幣は無制限である。すなわち、素材的な富の一般的な代表者である。貨幣はどんな商品にも直接に転倒されうるからである。しかし、同時に、どの現実の貨幣の額も、量的に制限されており、したがってまた、ただ効力を制限された購入手段でしかない。このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積のシシュホス労働へと追い返す。彼は、いくら新たな征服によって国土を広げても国境をなくすことのできない世界征服者のようなものである。

商品というのは使用価値と価値という対立物の統一したものです。商品の使用価値は、他の第三者のその使用価値に固有の欲望を満たす素材的な富の一つの要素をなしています。商品の価値は、商品の所持者にとって必要な他の諸商品との交換の可能性を示しています。例えば上等のウールの上着の使用価値とは、それを着て身体を温めるだけでなく、社会的地位も着飾りたいという欲望を満たします。他方、上着の価値は、それと交換可能なさまざまな商品、亜麻布、茶、鉄等々として、つまり上着がどれだけの商品と交換可能かを示しています。だから上着の所持者にとっては上着の価値は、彼が欲する社会的な富の大きさを示しているのです。商品交換が未発展な社会、例えば未開社会の商品の所持者や、あるいは西ヨーロッパの農民にとってさえも、彼らの商品の価値というのは、それが他のどのような商品を引きつけうるのかということから、すなわちその商品の価値形態(交換価値)と不可分なのです。例えば彼らの持つ一袋のトウモロコシやジャガイモが、どれだけの斧や布と交換可能か、ということによって、彼らの商品の価値を計るのです。だから金銀はあらゆるものを引きつけうるものですから、まさに物質的富の代表者であり、だから金銀の増加はそのまま彼らにとっては価値の増加なのです。

もちろん、貨幣も一つの商品ですから、その貨幣自身の価値の変動によっても、あるいはその貨幣が引きつける諸商品の価値の変化によっても、その相対的な価値(つまり他の諸商品で表された価値)は変化します。貨幣の相対的な価値が変化するものだとしても、しかしこのことは、200オンスの金は、100オンスの金よりも、あるいは300オンスは200オンスよりも大きな価値を含んでいることには変わりありませんし、金という物質がすべての商品の一般的な等価形態であり、人間労働の直接的な社会的化身であるということには違いはないのです。いずれにせよ貨幣としての金を持っているということは、一般的な富の物質的代表物を持っていることになるのです。

だからこうしたことから貨幣をためこもうという衝動が生じます。そして貨幣をためこもうとする衝動には、その本性上、限度というものがありません。ある特定の使用価値、例えば靴なら、一足あれば十分だと考える人もいるでしょう。つまり使用価値にはそれに固有の限度というものがあるのです。どんなに食欲旺盛な人でも米の一升も一度には食べられません。しかし貨幣ならどんなにそれが積み上がろうがそれには限度というものはありません。だから貨幣は質的には無制限なのです。それは必要ならどんな商品とも直ちに交換可能なのですから、それは素材的な富の一般的代表者なのです。あらゆるものと交換できるということから、それを積み上げることで、何か物質的な富を腹一杯食べたような気になって(その可能性だけで)満足するわけです。しかし他方で、現実の貨幣には量的な制限があります。つまり質的には無制限であるが故に、それをためこもうとしてもかならずそこには量的に制限があるのです。100万円貯めたとしても、次は1,000万円貯めたいと思い、さらには1億円、10億、…と限りがないのです。だから貨幣は、どんな商品とも直ちに交換可能だからといっても量的に制限されているということは、やはりその交換可能性にも限りがあるということなのです。このように、貨幣には、無制限にその蓄蔵を求めようとする傾向と、しかし実際にはその蓄蔵には常に一定の量的制限があるという現実は、一つの矛盾となって、貨幣蓄蔵者を蓄積のためのあくなき求道者にするのです。彼はどんなに貨幣を貯め込んでも、それで満足することはありません。なぜなら、それは質的には無制限なのですから。まだまだその先があるからです。それは新しい国を征服するたびに、次の征服すべき新しい国家にぶつかる世界征服者のようなものでしょう。 

使用価値としての商品は、ある特定の欲望を満たし、素材的な富の特別な要素となっている。しかし商品の価値は、この素材的な富のあらゆる要素にたいする要素にたいする商品の魅力の大きさを測定するものであり、商品の所有者の社会的な富の大きさを測定するものである。単純で未開な社会の商品の所有者にとっては、あるいは西ヨーロッパの農民にとっても、価値は価値形態から分離されていないので、蓄財している金や銀の量が増えるということは、自分の所有している価値が増えるということである。

もちろん貨幣の価値は変動する。貨幣そのものの価値が返答した場合にも、商品の価値が変動した場合にも、貨幣の価値は変わる。しかしだからといって、200オンスの金の価値が、100オンスの金の価値よりも高いこと、300オンスの金の価値が200オンスの金の価値よりも高いなどといったことに変わりはないし、他方ではこの物の金属としての自然の形態が、すべての商品の一般的な等価形態であり、すべての人間労働が直接に社会的に受肉したものであることにも変わりはない。

貨幣をためこみたいという欲望は、その本性からしてかぎりのないものである。貨幣は質的には、すなわちその形態からみるかぎり、制限のないものである。貨幣はすべての商品と直接に交換できるものであって、その素材的な富の一般的な代表者である。しかし同時に、現実の貨幣の額は量的には制限されたものである。だから購入手段としての働きにはかぎりがある。貨幣にはこのように質的には制限がなく、量的に制限されているという矛盾があるために、貨幣の退蔵者はたえず蓄積するというシシュホスの[かぎりのない]労働へと追い立てられる。貨幣を退蔵する者は、新たな領土を征服するごとに、[征服すべき別の国との]新たな国境をみいだす世界征服者のごとくである。

 

蓄財者の倫理

金を、貨幣として、したがって貨幣蓄蔵の要素として、固持するためには、流通することを、または購入手段として享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それだから、貨幣蓄蔵者は黄金呪物のために自分の肉体の欲望を犠牲にするのである。彼は禁欲の福音を真剣に考える。他方では、彼が貨幣として流通から引きあげることができるものは、ただ、彼が商品として流通に投ずるものだけである。彼は、より多く生産すればするほど、より多く売ることができる。それだから、勤勉と節約と貪欲とが彼の主徳をなすのであり、たくさん売って少なく買うことが彼の経済学の全体をなすのである。

もともと貨幣が第三規定の貨幣になったのは、流通手段の否定としてでした。すなわちW−G−Wの商品の変態を第一の変態W−Gだけで止めて、そのGを流通から引き上げることによってです。GがG−Wとして、すなわち購買手段として諸商品の購入に支出されることを妨げることによって、その不滅の形態を得ることができるようになるのです。だから、貨幣蓄蔵者は金銀を貯め込むために、貨幣へのフェティッシュな欲求のために自分自身の肉体的な欲求を犠牲にするのです。彼は世俗の欲求を禁じ、欲望を断念せよという福音書の教えをまじめに実行するのです。

蓄財をするためには、貨幣を入手しなければなりません。そのために、彼は何らかの商品を流通に投じる必要があります。だから彼はより多くを生産し、より多く売りながら、しかしより少なく買うようにしなければならないのです。こうして、勤勉と節約と吝嗇が蓄財者のもっとも重要な徳目となるのです。たくさん売って、少ししか買わない、これが彼の経済学の枢要となります。 

貨幣としての金を蓄財の要素として握り締めているためには、その貨幣が流通するのを防ぐ必要があり、これを享楽を目的とした購入手段として使ってしまってはならない。だから貨幣の退蔵者は、金へのフェティシズムのために、みずからの肉体の快楽を犠牲にするのである。そして欲望を断念せよという福音書の教えをまじめに実行する。

他方で蓄財者が貨幣を流通から引きあげることができるためには、商品を流通に投じる必要がある。そして商品を多く生産すればするほど、多くの商品を販売することができる。こうして勤勉、節約、吝嗇が蓄財者の枢要なる美徳となる。できるだけ多く販売して、できるだけ少なく購入すること、これが彼の経済学の要である。

 

貨幣退蔵の機能

蓄蔵貨幣の直接的な形態と並んで、その美的な形態、金銀商品の所有である。それは、ブルジョワ社会の豊とともに増大する。「金持ちになろう。さもなければ、金持ちらしくみせかけよう」(ディドロ)。こうして、一方では、金銀の絶えず増大される市場が、金銀の貨幣機能にはかかわりなく形成され、他方では、貨幣の潜在的な供給源か形成されて、それが、ことに社会的な荒天期には流出するのである。

貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではいろいろな機能を果たす。まず第一の機能は、金銀鋳貨の流出条件から生ずる。すでに見たように、商品流通が規模や価格や速度において絶えず変動するのにつれて、貨幣の流通量も休みなく満ち干きする。だから、貨幣流通量は、収縮し膨張することができなければならない。あるときは貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるとき鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。現実に流通する貨幣量がいつでも流通部面の飽和度に適合してはじき出されなければならない。一国にある金銀量は、現に鋳貨機能を果たしている金銀量より大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は流通する貨幣の流出流入の水路として同時に役だつのであり、したがって、流通する貨幣がその流通水路からあふれることはないのである。

蓄蔵貨幣というのは、流通手段をその第一の形態転換において否定し、流通から引き上げられて、第三の規定の貨幣になったものですが、それと並んで、直接には蓄蔵貨幣としてではなく、ただ金銀のその金属としての美しさから、それを装飾品等の形態で所有するということが生じます。それはブルジョア社会の富が増すにつれて大きくなります。金持ちは金銀で身の回りを飾り立てるようになるのです。こういうわけで、貨幣としての金銀とは別に、金銀を取引する市場が形成されてたえず拡大しています。そうしたなかで、ゆくゆくは必要なときには貨幣になりうる金銀の供給源が形成されることになるのです。そしてこの源泉は、社会的な荒天期、恐慌時に、貨幣の供給源になるのです。

貨幣の蓄蔵は、貨幣の機能とは別に、金属の流通経済においてさまざまな機能を担っています。さしあたっての機能は、金銀鋳貨の流通する条件から生まれてきます。貨幣の流通量を検討したときに、商品流通の規模や商品の価格総額が変動するのにつれて、貨幣の流通量も変動する必要があることを学びました。まず商品の流通があって貨幣の流通があるということも。だから貨幣の流通量は、現実の商品市場の変化に応じて変化しなければなりません。つまりそれに応じて収縮したり、膨張したりしなければならないのです。あるときは蓄蔵貨幣は、鋳貨になって流通に出て行く必要がありますが、また別のときにはそれは流通からはじき出されて、蓄蔵貨幣として滞留することになるわけです。一国にある金銀の量は、常に、実際に流通手段として機能しているもの、つまり鋳貨機能を果たしている金銀の量よりも大きくなければなりません。そしてこの条件をなしているのが、貨幣の蓄蔵貨幣の形態にあるものなのです。そのことによって、現実に流通する貨幣量は常に流通の領域が必要とするものを供給し、それに適合するようになるのです。蓄蔵貨幣の最初の機能は、このような流通貨幣が流通に必要な量に適切に保つように働くものであり、そのための貯水池の役割をはしていることなのです。蓄蔵貨幣は流通貨幣の貯水池として、必要なときには流通に貨幣を供給し、不要になれば流通から貨幣を吸収する役割を果たしています。だから貨幣はその流通のなかで適切に保たれているのです。

貨幣の退蔵には、その直接的な形態だけではなく、美的な形態もある。美的な形態とは、金製品や銀製品の所有である。ブルジョワ社会が豊かになるとともに、この形態の貨幣の退蔵が増えてくる。「金持ちになろう。あるいは金持ちにみえるようにしよう」(ディドロ)。こうして貨幣機能とは別に、金や銀の市場がたえず拡大する。これ[こうした形での貴金属の退蔵]は、貨幣の潜在的な供給源を形成するのであり、社会の激動期になるとここから貨幣が流出するようになる。

貨幣の退蔵は、金属の流通経済においてさまざまな機能を担っている。さしあたっての機能は、金の鋳貨や銀の流通条件から生まれる。すでに確認したように、商品の流通はその規模、価格、速度の側面で、たえず変動するのでありそれとともに流通する貨幣の量もたえず増減する。そのため貨幣の流通量は収縮したり膨張したりすることができねばならない。あるときは貨幣が鋳貨として流通に引き込まれ、あるとき鋳貨が貨幣として流通からはじきだされねばならない。現実に流通している貨幣の量は、流通の領域の飽和度と一致したものでなければならない。だから一国に存在する金または銀の量は、実際に鋳貨として機能している金または銀の量よりもつねに多くなければならない。貨幣の退蔵形態がこの条件を満たすのである。退蔵された貨幣はいわば〈貯水池〉のような働きをするのであり、流通する貨幣が流通から流出する〈運河〉としても、流入する〈運河〉としても役立つ。これによって流通する貨幣は、その流通の〈運河〉から決して溢れることがないのである。

 

 

(b)支払手段

支払手段としての貨幣

これまでに考察した商品流通の直接的形態では、同じ大きさの価値量がいつでも二重に存在していた。すなわち一方の極に商品があり、反対の極に貨幣があった。したがって、商品所持者たちは、ただ、現に双方の側にある等価物の代表者として接触しただけだった。ところが、商品流通の発展につれて、商品の譲渡を商品価格の実現から時間的に分離するような事情が発展する。ここでは、これらの事情の最も単純なものを示唆するだけで十分である。一方の商品種類はその生産により長い時間を、他方の商品種類はより短い時間を必要とする。商品が違えば、それらの生産は違った季節に結びつけられている。一方の商品は、それの市場がある場所で生まれ、他方の商品は遠隔の市場に旅しなければならない。したがって、一方の商品所持者は、他方が買い手として現われる前に、売り手として現われることができる。同じ取引が同じ人々のあいだで絶えず繰り返される場合には、商品の販売条件は商品の生産条件に従って調整される。他方では、ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた別の一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる。

 

債権者と債務者の敵対関係

債権者または債務者という役割は、ここでは単純な商品流通から生ずる。この商品流通の形態の変化が売り手と買い手にこの新しい極印を押すのである。だから、さしあたりは、それは、売り手と買い手という役割と同じように、一時的な、そして同じ流通当事者たちによってかわるがわる演ぜられる役割である。とは言え、対立は、いまではその性質上あまり気持ちのよくないものに見え、また、いっそう結晶しやすいものである。しかしまた、同じこれらの役割は商品流通にかかわりなく現われることもありうる。たとえば、古代世界の階級闘争は、主として債権者と債務者との闘争という形で行われ、そしてローマでは平民債務者の没落で終わり、この債務者は奴隷によって代わられるのである。中世には闘争は、封建的債務者の没落で終わり、この債務者は彼の政治権力をその経済的基盤とともに失うのである。ともあれ、貨幣関係─債権者と債務者との関係は一つの貨幣関係の形態をもっている─は、ここでは、ただ、もっと深く根ざしている経済的生活条件の敵対関係を反映しているだけである。

 

商品の自己目的となる貨幣

商品流通の部面に帰ろう。商品と貨幣という二つの等価物が売りの過程の両極に同時に現われることはなくなった。いまや貨幣は、第一には、売られる商品の価格決定において価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち定められた期限に彼が支払わなければならない貨幣額の大きさを示す。貨幣は、第二には、観念的な購買手段として機能する。それはただ買い手の貨幣約束のうちに存在するだけだとはいえ、商品の持ち手変換をひき起こす。支払期限がきたときはじめて支払手続が現実に流通にはいってくる。すなわち買い手から売り手に移る。流通手段は蓄蔵貨幣に転化した。というのは、流通過程が第一段階で中断したからであり、言いかえれば、商品の転化した姿が流通から引きあげられたからである。支払手段は流通にはいってくるが、しかし、それは商品がすでに流通から出て行ってからのことである。貨幣はもはや過程を媒介しない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、過程を独立に閉じる。

売り手が商品を貨幣に転化させたのは、貨幣によって或る欲望を満足させるためであり、貨幣蓄蔵者がそうしたのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務を負った買い手がそうしたのは、支払ができるようになったためだった。もし彼が支払わなければ、彼の持ち物の強制売却が行われる。つまり、商品の価値姿態、貨幣は、いまでは、流通過程そのものの諸関係から発生する社会的必然によって、売りの自己目的になるのである。

買い手は自分が商品を貨幣に転化するまえに貨幣を商品に再転化させる。すなわち、第一の商品変態よりもさきに第二の商品変態を行う。売り手の商品は流通するが、その価格をただ私法上の貨幣請求権に実現するだけである。その商品は貨幣に転化するまえに使用価値に転化する。その商品の第一の変態はあとからはじめて実行されるのである。

 

債務の相殺

流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。この流通速度は二つの事情に制約されている。第一には、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払うというような、債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さである。いろいろな支払の連鎖、すなわちあとから行われる第一の変態の連鎖は、さきに考察した諸変態列のからみ合いとは本質的に違っている。流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているだけではない。この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。これに反して、支払手段の運動は、すでにそれは以前にできあがっている社会的な関連を表わしているのである。

多くの売りが同時に並んで行われることは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。反対に、このことは支払手段の節約の一つの新しい梃子になる。同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払の決済のための固有な施設と方法が発達してくる。たとえば、中世のリヨンの振替がそれである。AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。こうして、あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。諸支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって、流通する支払手段の量も小さくなるのである。

 

貨幣恐慌

支払手段としての貨幣の機能は、媒介されない矛盾を含んでいる。諸支払が相殺されるかぎり、貨幣は、ただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物資代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する。貨幣恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払を決済の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことである。この機構の比較的一般的な攪乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。たったいままで、ブルジョワは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる。鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。したがってまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうともかまわない。支払に用いられるものがなんであろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に変わりはないのである。

 

流通する貨幣の量と商品の量の不一致

次に、与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、それから相殺される諸支払を引き、最後に、同じ貨幣片の流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役だっている。彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代価をその支払期日に支払う。同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。そこで、織職は一冊の聖書を現金で買う─2ポンドは再び流通手段として機能する─等々。それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間に、たとえば1日に流通する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致しないのである。もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。その貨幣等価物が将来はじめて姿を現わすような諸商品が流通する。また他方では、その日その日に契約される支払いと、同じ日の日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。

 

現物納税から貨幣納税へ

信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品にたいする債務証書そのものが、さらに債権の移転のため流通することによって、はっせいするのである。他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有な存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし、他方、金銀鋳貨は主として小口取引の部面に追い帰されるのである。

商品生産が或る程度の高さと広さに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。貨幣は契約の一般商品となる。地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。この変化がどんなに生産過程の総姿態によって制約されているかを示すのは、たとえば、すべての貢租を貨幣で取り立てようとするローマ帝国の試みが二度も失敗したことである。ボアギュペールやヴォバン将軍たちがあのように雄弁に非難しているルイ14世治下のフランス農村住民のひどい窮乏は、ただ租税の高さのせいだっただけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった。他方、アジアでは同時に国家租税の重要な要素でもある地代の現物形態が、自然関係と同じように不変性をもって再生産される生産関係にもとづいているのであるが、この支払形態はまた反作用的に古い生産関係を維持するのである。それは、トルコ帝国の自己保存の秘密の一つをなしている。ヨーロッパによって強制された外国貿易が日本で現物地代から貨幣地代への転化を伴うならば、日本の模範的な農業もそれでおしまいである。この農薬の窮屈な経済的存立条件は解消するであろう。

 

支払周期

どの国でも、いくつかの一般的な支払時期が固定してくる。それらの時期は、再生産の別の循環運行を別とすれば、ある程度まで、季節の移り変わりに結びついた自然的発生条件にもとづいている。それらはまた、直接に商品流通から生ずるのではない支払、たとえば租税や地代などをも規制する。社会の全表面に分散したこれらの支払のために1年のうちの何日間かに必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な、しかしまったく表面的な攪乱をひき起こす。支払手段の流通速度に関する法則からは次のことが出てくる。すなわち、その原因がなんであろうと、すべての周期的な支払について、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということである。

支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする。独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョワ社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。

 

 

(c)世界貨幣

世界貨幣の三つの機能

国内流通部面から外に出るときには、貨幣は価格の度量標準や鋳貨や補助費や価値章標という国内流通部へ面でできあがる局地的な形態を再び脱ぎ捨てて、貴金属の元来の地金形態に逆もどりする。世界貿易では、諸商品はそれらの価値を普遍的に展開する。したがってまた、ここでは諸商品にたいしてそれらの独立の価値姿態も世界貨幣として相対する。世界市場ではじめて貨幣は、十全な範囲にわたって、その現物形態が同時に抽象的人間労働の直接に社会的な実現形態である商品として、機能する。貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる。

国内流通部面ではただ一つの商品だけが価値尺度として、したがってまた貨幣として、役だつことができる。世界市場では二とおりの価値尺度が、金と銀とが、支配する。

世界貨幣は、一般的な支払手段、一般的購買手段、富一般の絶対的社会的物質化として機能する。支払手段としての機能は、国際貸借の決済のために、他の機能に優越する。それだからこそ、重商主義の標語─貿易差額を!金銀が国際的な購買手段として役だつのは、おもに、諸国間の物質代謝の従来の均衡が突然攪乱されるときである。最後に、富の絶対的社会的物質化として役だつのは、購買でも支払でもなく、一国から他国への富の移転が行われる場合であり、しかも商品形態でのこの移転が、商品市場の景気変動や所期の目的そのものによって排除されている場合である。

各国は、その国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにもそれを必要とする。だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生ずる。このあとのほうの役割のためには、つねに現実の貨幣商品、生身の金銀が要求される。それだからこそ、ジェイムズ・スチュアートは、金銀を、それらの単なる局地的代理物から区別して、はっきりと世界貨幣と呼んで特徴づけているのである。

 

世界貨幣の動き方

金銀の流れの運動は二重のものである。一方では、金銀の流れはその源から世界市場の全面に行き渡り、そこでこの流れはそれぞれの国の流通部面によっていろいろな大きさでとらえられて、その国内流通水路にはいって行ったり、摩耗した金銀鋳貨を補填したり、奢侈品の材料を供給したり、蓄蔵貨幣に凝固したりする。この第一の運動は、諸商品に実現されている各国の労働と金銀生産国の貴金属に実現されている労働との直接的交換によって媒介されている。他方では、金銀は各国の流通部面のあいだを絶えず行ったり来たりしている。それは、為替相場の絶え間ない振動に伴う運動である。

ブルジョワ的生産の発展している諸国は、銀行貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能に必要な最小限に制限する。いくらかの例外はあるが、蓄蔵貨幣貯水池が平均水準を越えて目につくほどあふれるということは、商品流通の停滞または商品変態の流れの中断を暗示するものである。

 

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第4章 貨幣の資本への変容に進む 

 

 
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