マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第1篇 商品と貨幣
第1章 商品
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第1篇 商品と貨幣

第1章 商品

第1節 商品の二つの要素─使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)

〔この節の概要〕

この第1節「商品の二つの要素─ 使用価値と価値」で、商品は二つの要因からなるものだということを明らかにしています。まず、商品は使用の対象であるということで使用価値という考え方。しかし、その使用価値をその所持者が自分で使うのではなく、交換に出すわけです。交換とは、自分が欲しいけれども他人が持っているもの獲得したいことから生まれてくる行動であり、そのために対価を渡す、対価を渡して相手の持っているものを獲得するのが交換です。その交換する商品を価値と規定しました。ですから、商品は価値と使用価値という二つの要因から成っているということです。しかも、自分が所持している物を、自分で使わないで交換しようというのですから、価値が積極的要因なわけです。自分は使わない、つまり使用価値にしないわけですから、使用価値は誰か他人のための使用価値である。自分が持っているものを誰かが欲してくれないと交換できない。相手の持っているものを交換を通して手に入れたいが、その相手が自分が持っている商品を使用価値として認めてくれなければ交換できない。そういう二つの要因があるとしたのです。

 

〔本文とその読み(解説)〕 

使用価値と交換価

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。

マルクスは序文で「難しいですよ」と警告を発してくれていましたが、その通り、最初から難しい文章です。この冒頭の文章で躓いて、『資本論』への挑戦したものの、返り討ちにあってしまうケースが少なくありません。マルクス主義などという言葉は、最近聞かれなくなりましたが、そういうものからのイメージからは、「階級」とか「革命」とかいったことから始まると勘違いしていて、「商品」というものの意外さに驚き、まるで哲学のような抽象的な文章に戸惑う、というケースが、よくあるパターンだったようです。

言っていることは、資本主義の根源は商品だから、商品の分析から始めるということです。しかし、どうして「商品」からなんでしょうか。『資本論』という著作は円環構造になっていて、最後まで読み進めると、再び最初のところに戻ってくる、その時に、なぜ商品なのかということが分かるようになっています。おそらく結果的にそうなっているのですが、そういうこともあるので、ここでは深く考えないで、「資本主義の根源は商品」ということを最初にいって、それを前提にして、これから議論が展開されていく、という程度に受け取っていくといいと思います。

ただし、そういいながら重箱の隅をつつくようなことで、聞き流してもらっていいのですが、ここでの「商品」というのは、資本主義経済での「商品」なのか、もっと広い意味の経済行為で使われる「商品」をさすのか解釈が分かれています。

つまり、資本主義をそれ以前のあらゆる社会から区別しているのは、人々の生活や社会の再生産を支えている富の大部分が「商品」として供給されていると考えられるからです。もちろん、資本主義以前の社会でも商品は存在していたし、貨幣も存在していました。江戸時代にはかなり商品経済が発達としていたし、都市部に限れば、日用品の多くは商品として購入されていました。しかし農村などは基本的に自給自足の社会で、都市部でも近所で余りものを融通し合ったりと、必ずしも市場で貨幣を介して交換されるとは限りませんでした。そういう商品は、マルクスの言う「社会の富は「一つの巨大な商品の集まり」として現れ」という社会の富を構成する要素ではない商品もあったということです。

じつは、生活に必要なもののほとんどが商品となり、人々はその商品を買って生活するという、今では当たり前になっているような社会のあり方は、資本主義以前には存在しなかったのです。資本主義社会になって、人々のあいだで商品が売買によって広範囲に流通すると社会は変化します。例えば、人々の生活が村のような共同体の範囲を超えて、見知らぬ他人と関係するようになると、古い伝統や因習にとらわれることから脱して、自由競争が行われるようになると、生産力が飛躍的に増大し、物質的な富が豊かになってゆきます。それに伴って、共同体の人間的な絆が希薄になり、金銭的な関係に置き換えられていく。したがって、人々が生産し、消費している様々な富が商品という形態をとっていることが、資本主義社会に固有な様々な現象を生み出す原因となっている。それがマルクスの分析の出発点となっている。

それでは、マルクスの言っている「商品」とはどういうものか、それは、これからの分析の対象となっている商品は、端的には、市場を通じて貨幣との交換で得られる物品、と言ってもいいのではないかと思います。

商品は、まず第一に、外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの種類の願望を満足させる物である。この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようとは、少しも事柄を変えるものではない。ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生産手段として、すなわち愛用の対象としてか、それとも回り道をして、生活手段として科ということも、問題ではない。

おのおのの有用物、鉄、紙、等々は、二重の観点から、すなわち質の面と量の面から、考察される。このような物は、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは、歴史的な行為である。有用な物の量を計るための社会的な尺度をみいだすことも、そうである。いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生ずる。

最初の文章で、商品は富の形(要素形態)として現れると言っていますから、富と共通する特性を持っているはずです。それは人間の欲望を満たす事物であるということです。そして、鉄や紙を例にして、二つの要素がある、それは質と量だといいます。このうち、商品の質は有用性です。そして、量は尺度で測定されるもの。この賞の議論を先取りすると、質が使用価値で、量が価値ということになります。この章では、商品は、この二つの要素から成っていることが分析されていきます。

商品は何よりも人間の外部にある対象であり、その特性によって何らかの種類の人間の願望を満たす事物である。この欲望の性格が食欲であるか、幻想から生まれたものであるかは、重要なことではない。またこの物が人間の欲望をどのように満たすのか、それとも生産手段として、迂回路をへて満たすのかも、重要なことではない。

鉄や紙などの有用な物は、それぞれ性質と量という二重の側面から考察する必要がある。こうした物はすべて、多数の特性をそなえており、そのためにさまざまな側面において有益に利用することができる。物を利用しうるさまざまな側面と、その多様な使用方法を発見するのは、歴史の仕事である。有用な物がどれほどの量で必要とされるかを測定する社会的な尺度をみいだすのも、歴史の仕事である。商品の社会的な尺度の違いは、測定される対象の性質の多様性によって生まれることも、習慣によって作りだされることもある。

 

ある一つの物が有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである。商品体のこのような性格は、その使用価値の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値の考察にさいしては、つねに、1ダースの時計とか1エレのリンネルとか1トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される。いろいろな商品のいろいろな使用価値は、一つの独自の学科である商品学の材料を提供する。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は富の社会的形態がどのようなものであるかにはかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている─交換価値の。

商品は欲求を満足させることで有用とみなされます。例えばパンは胃袋を満たすことで享受の対象となる。ここで充足されるべき欲求は、単なる空想から発生したものでも、当面は少しもかまいません。パンという商品は、事物として食べられるという属性によって欲求を満足させるものです。

そして、ある物が有用だとみなされたとき、その物には使用価値があると言われることになります。商品の使用価値という場合、その商品が有用だとみなされるわけですが、その有用だとみなすのは使用者です。しかし、その使用者というのは、物の所持者や生産者以外の人です。商品というのは交換されるもので、Aさんが自分で食べるために自分で焼いたパンを商品とは言いません。それを誰かに売るために焼いて、パン屋の店先に並べたときに商品となるのです。ですから、この商品としてのパンを食べる、つまり有用とするのは消費者、つまりパンを焼いて所持しているAさんではありません。Aさんは、自分が所持しているパンを、自分で食べないで交換しようというのですから、価値が積極的要因なのです。自分は使わない。つまり使用価値にしないわけですから、使用価値というのは、そもそも誰か他人のための使用価値であるということになります。そして、交換ということと必然的に結びつきます。相手の持っているものを交換を通して手に入れたいが、その相手が自分が持っている商品を使用価値として認めてくれなければ交換できない。そういう2要因があるとしたのですが、これはただの2要因ではないのです。自己の使用価値は価値に対する制約要因なのです。

また、パンの使用価値を認めるのは、そのパンを買うAさん以外の人です。その人たちは、Aさんがパンを焼くことに、どれだけ労力をかけたということとは、無関係にパンを買っていきます。Aさんが苦労したからといって、消費者がおなかを空かせるとは限らないのです。

ある物が有用であるとき、その物は使用価値をもつと言われる。しかしこの有用性は空中に漂っているものではない。有用性は商品の〈身体〉の特性から生まれたものであり、この〈身体〉なしには存在しない。鉄、小麦、ダイヤモンドなどの商品の〈身体〉そのものが使用価値であり、財なのである。この〈身体〉の特性は、この商品が使用価値という性格を獲得するために人間がどれほどの労働を投入する必要があるかとは、かかわりがない。使用価値を考察するときには、1ダースの時計、1ヤードの亜麻布、1トンの鉄のように、つねに量的な規定が想定されている。商品の使用価値は、商品学という独自の学問で研究する対象である。使用価値は、商品が使用され、消費されて初めて現実のものとなる。使用価値は富の内容の素材となるものであり、その富の社会的な形態がどのようなものであるかにはかかわらない。わたしたちが考察している社会形態では、使用価値は[富の内容とは]別の素材の担い手となる。使用価値は交換価値の担い手なのである。

 

交換価値

交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。それは時と所によって絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見える。したがって、商品に内的な、内在的な交換価値というものは、一つの形容矛盾であるように見える。このことをもっと詳しく考察してみよう。

ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、X量の靴墨とかY量の絹とかZ量の金とか、要するにいろいろに違った割合の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、一つの交換価値をもっているのではない。しかし、X量の靴墨もY量の絹もZ量の金その他も、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、X量の靴墨やY量の絹やZ量の金などは、置き換えられうる、または互いに等しい大きさの諸交換価値でなければならない。そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じもりを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただそれとは区別される或る実質の表現様式、[現象形態]でしかありえない、ということになる。

商品の二つの要素、質が使用価値なら、量は交換価値と、ここで最初に説明されます。交換価値は使用価値のように商品に内在する性質のようなものとは違い、商品の外部に尺度のように客観的に存在しているものです。さて、ここで注意しておかなければならないことは、使用価値や交換価値について、ここで最初に定義しましたが、これは、これから議論を展開させるために、まずこういうものだと設定したという程度で、これから議論が深まっていくと、これらの概念の内容が豊かになっていって、しまいには変容していくことになる。したがって、ここでの定義は、さしあたりのものと受け取っておいてほしいと思います。

使用価値に対して交換価値が提示されました。前の段落で使用価値が定義されていたので、ここでは最初に交換価値が定義されます。交換価値とはとりあえず、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係としてあらわれるものである。交換価値は、すなわち、一定の割合としてさしあたり現象するものです。たとえば1クォーターの小麦というように。したがって、ここでいっている割合とは単位と言い換えることができ、そうすると交換価値は量として現れると考えてもいいのです。量とすると、商品が違っても量の差に還元することができるからです。つまりこういうことです。二つの商品、たとえば小麦と絹を考えてみましょう。一方でその両者が全く異なったものである限り、交換は不可能です。交換とは、置き換えることであり、そのためには共通するところがなければなりません。その一方で、同一のものなら交換される必要がない。したがって交換とは一面では異なったもの同士の交換でなくてはならないことになります。交換は他面では、等しいもののあいだの交換です。異なったものであるかぎり、互いに置き換えられることができないから。実際には、小麦と絹とは、一方は食べる物であり、他方は身につけるものであるから、使用価値において異なっているものです。両者はしかしもその価値にあっては等しい。この等しいというのが交換価値と言えます。ここで小麦の所有者にとっては(たとえば必要量を超えて小麦を所有しているがゆえに)小麦それ自体としては使用価値ではなく、同じように絹の所有者自身に対して絹は使用価値を持たない。しかし、互いにとって相手の所有物は使用価値をそなえていることは、それが他の商品と交換されることで、つまりその商品が価値を有しているしだいがあきらかにされることで、同時に証明されることになる。 

交換価値はまず量的な関係として示される。この最初の量的な関係とは、ある種の使用価値が別の種類の使用価値とどのような比率で交換されるかを示すものであり、この関係は時と所におうじてたえず異なる。このため交換価値は偶然的なもの、まったく相対的なもののようにみえる。そこで商品には内的で固有の交換価値があるという表現は、形容矛盾に聞こえるのである。この問題をさらに詳しく検討してみよう。

ある商品、たとえば1クォーターの小麦であれば、X量の靴墨やY量の絹布やZ量の金などと交換される。要するにこの小麦はさまざまな比率で他の商品と交換される。だからこの小麦の交換価値はただ一つではなく、多数の交換価値をそなえていることになる。しかしX量の靴墨もY量の絹布もZ量の金なども、すべて1クォーターの小麦の交換価値なのだから、X量の靴墨、Y量の絹布、Z量の金の交換価値は互いに置き換えられうるものであり、同じ大きさでなければならない。

そこで次のことが確認できる。第一に、その社会で通用する同じ商品の交換価値は、同一である。第二に、交換価値はそもそもある内容[価値][現象形態]であり、交換価値が表現する内容は、交換価値とは違うものである。

 

交換価値の等式

さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば、1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄というように。この等式は何を意味しているのか?同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。だから、両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。

簡単な幾何学の一例は、このことをもっとわかりやすくするであろう。およそ直線形の面積を測定し比較するためには、それをいくつもの三角形に分解する。その三角形そのものを、その目に見える形とはまったく違った表現─その底辺と高さの積の2分の1─に還元する。これと同時に、諸商品の諸交換価値は、それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なもの還元されるのである。

交換価値が等しいと交換が成立します。例えばAさんがボールペン10本を持っていて、BさんはTシャツ一枚を持っていたとします。AさんはTシャツを1枚欲しがっており、Bさんにボールペン10本と交換してほしいと言う。このときAさんはボールペン10本の価値と、Tシャツ1枚の使用価値をイコールだと考えています。別の言い方をすれば、Aさん自身にとってボールペン10本に使用価値はない。自分の生活には不要だから交換しようとする。しかし、Bさんにとっては、事情は逆になります。Bさんは自分が所有しているTシャツ一枚の価値と、ボールペン10本の使用価値が釣り合うかどうかを考える。そして釣り合うと思ったら交換するし、釣り合わないと思ったら、交換を断るわけです。あるいはTシャツ一枚の価値はボールペン15本と釣り合うと考えたら、Aさんにボールペン5本の追加を要求して、Aさんが応じたら交換が成立することになるわけです。この時、交換価値は等しいということになるわけです。しかし、これは10本のボールペンと一枚のTシャツに限った場合で、しかもこの時の一回限りです。

たとえば、1クォーターの小麦ならもそれは他のさまざまな商品、たとえば靴墨や絹や金等と交換されることがあるでしょう。その場合交換される比率、つまり相手の商品量は、それぞれに異なっています。だから小麦は複数の交換価値を有しているのであり、唯一の交換価値を備えているのではないことになります。

靴墨も絹も金も、すべて同一量(1クォーター)の小麦とそれぞれに異なった量(x,y,z)で交換され、しかも各々の比率は妥当なものであるとすると、その場合、そのつどの交換価値が表現するのは、同じものでなければならないはずです。つまり、小麦にも靴墨にも絹にも金にも、すべてに共通する何かが、それぞれに内在していて、それが客観的に測定可能、つまり量で比較できなければならない、ということです。それを、ここでは、ある〈共通なもの〉といっています。

さらに別の二つの商品にして、小麦と鉄を考えてみよう。この二つの商品の交換比率がどのようなものであるにせよ、特定の量の小麦が特定の量の鉄と等しい関係にあることを示す等式で表現することができる。たとえば1クォーターの小麦=aキログラムの鉄という等式で示されるのである。

この等式は何を語っているのだろうか。1クォーターの小麦とaキログラム鉄という二つの異なる物のうちに、同じ大きさのものが共通して存在しているということである。この小麦と鉄という二つの物が、小麦でも鉄でもない第三のものに等しく、この第三のものはそれ自身としては小麦でも鉄でもないということを示しているのである。だからどちらの商品も、交換価値としては、この第三のものに還元できるのでなければならない。

これは簡単な幾何学の実例で考えると分かりやすい。[六角形や七角形など]多数の直線で囲まれている図形を考えてみよう。この図形の面積を計算し、比較したければ、これを三角形に分解するとよい。そして三角形の面積は、目に見える図形とはまったく異なる表現に還元され、底辺の長さに高さを乗じて、それを2分の1にするという方法で計算できる。これと同じように複数の商品交換価値は、ある〈共通なもの〉に還元される。この〈共通なもの〉を多く含んでいるか、少なく含んでいるかで、その交換価値が決まるのである。

 

人間労働の凝縮物

この共通なものは、商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などという自然的な属性ではありえない。およそ商品の物体的な属性は、ただそれらが商品を有用にし、したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである。ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは、まさに諸商品の使用価値の捨象なのである。この交換関係のなかでは、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるものである。あるいは、かの老バーボンが言っているように、「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには差異や区別はないのである。」

使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。

〈共通なもの〉について、もう少し考えてみましょう。そもそも、ある二つの商品があって、その両者が全く異なったものであれば、そもそも交換しようとも思わないし、逆にまったく同じなら交換する必要がありません。したがって、二つの商品を交換するためには、一面では異なっているが、別に共通しているところがある(共通しているから、置き換えることができる)ものであること、つまり〈共通なもの〉を持っていることが条件となります。

例えば、1クォーターの小麦とy量の絹の両者の〈共通なもの〉とは何でしょう。それは、使用価値ではありません。一方は食べる物であり、他方は身につけるものです。食べることと着ることが、それぞれどのくらいの量であれは釣り合いがとれるのか、そういう量に還元することができません。1クォーターの小麦を食べるという役に立つこととy量の絹を着ることが釣り合うということが成立するでしょうか。そういう量で比べるということはできません。また、小麦そのものでも絹それ自体でもありえないのだから、商品の自然的な属性でもないことになります。

むしろ、このような自然的な属性も、使用価値も違うにもかかわらず、その違いが度外視され、それぞれの商品が同じものとして扱われ、量的に比較されることで交換される。つまり、互いに異なる使用価値を持つ商品が、使用価値とは全く異なる、何らかの共通の性質を持つとして扱われる。だから交換できるのです。その共通なものとは何か、マルクスは分析を進めます。

この〈共通なもの〉は、商品の幾何学的特性でも、化学的な特性でもその他の自然の特性でもありえない。そもそも商品のこれらの〈身体〉的な特性は、それが有用なものである場合にだけ問題になるのであり、使用価値としてしか問題にならないのである。ところで商品の交換比率の明確な特徴は、この使用価値がまさに無視されるということである。交換比率が問われるときには、使用価値はたんにある比率で存在してさえいれば、他の商品の使用価値とまったく同じものとみなされる。老バーボンの表現を借りれば、「交換価値さえ同じであれば、商品がどのような種類のものであるかは問題ではない。交換価値の等しい物のあいだには違いも区別もない」のである。

商品は使用価値としては、何よりも質の異なるものである。しかし交換価値としては、商品は量の異なるものであり、いかなる使用価値も含まない。

 

そこで、商品の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るのは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。

この部分を『資本論』最初の難所という人もいます。その人は、少なくとも一読して直ちに意味が了解できるような箇所ではないという。そこで、この部分を理解するためには、次の3点を理解しておくことが必要だといいます。

第1点として、商品というのは、資本主義社会において典型的に現れる商品、すなわち日々の人間たちの労働によって再生産(生産を絶えず繰り返し行うこと)されている商品なのです。第2点として、ここでは本来なら生産活動に必要とされる生産手段(原料や道具、生産設備など)の存在は基本的に無視されていて、生産活動に必要なのはもっぱら生産者の労働だと想定されている。言い換えれば、商品生産を行う際に費やさなければならないものは労働だけだということになります。第3点は、ここではあくまでも資本主義社会の商品のみを対象としているということです。その理解の上で、この部分は次のように読むことができるでしょう。商品の使用価値という属性(使用価値を生み出す自然属性を含む)を取り除いてみると、商品にはそれが労働によって生産されて物であるという性質しか残っていません。とはいえ、ここでは使用価値を無視してしまっているのですから、何らかの使用価値を生み出す具体的な労働の産物であるという性質も、もはや残っていません。例えば、鉄から使用価値を取り除けば、それが製鉄労働の産物であるという性質もまた消えてしまいます。ではいったい何が残っているのでしょうか。具体的な労働の種類を問わず、とにかく人間によって何らかの労働によって生産されたものであるという性質です。

文章に沿って読み進めれば、小麦そのものでも絹それ自体という商品の自然的な属性には〈共通なもの〉はないわけですが、それぞれが、小麦なら農家での農作業という生産労働の結果であり、絹なら養蚕、紡績、織物という生産労働の結果作りだされたという点で共通しています。しかし、それぞれの労働の内容はそのものは異なります。それを分量で量るために、単純に継続時間で測るということで一元化してしまうのです。それをここでは「これらの労働はたがいに区別されず、すべて同じ人間労働に、抽象的な人間労働に還元され」ると言っています。これを抽象的労働といって、この後で詳しい分析が行われていきます。

さて、商品の〈身体〉の使用価値を無視するならば、そこに残るのは商品が労働の生産物であるという特性だけである。しかしわたしたちの手の中で。この労働の生産物はすでに変化してしまっている。商品の使用価値を無視するということは、その商品の使用価値を作りだしている物体的な成分や形態もまた無視するということである。その商品はもはやテーブルや住宅や紡ぎ糸などの有用な物ではなくなっている。商品の感覚的な特性はすべて消失している。

これはもはや家具労働、紡績労働、その他の種類の特定の生産的な労働の生産物ではなくなっている。労働の生産物の有用な性格が失われるとともに、これらの労働の具体的に異なる形態もまた消滅する。もはやこれらの労働はたがいに区別されず、すべて同じ人間労働に、抽象的な人間労働に還元されている。

 

そこで今度はこれらの労働生産物の残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられるということだけである。このようにそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値─商品価値なのである。

ここで、ちょっと趣が変わります。マルクスは抽象的な人間労働そのものが「そこに残されたもの」、すなわち商品から使用価値を取り除いた後に残された共通なものであるとは言っていません。では何が残されているのかといえば、「無差別に行使された人間労働の凝縮物」だといいます。この人間労働の凝縮物とは何でしょうか。文字通り抽象的な人間労働が物理的に凝縮するということはありえません。実際の労働は、家具労働は木材をもちいて家具を作り上げるだろうし、紡績労働は糸を紡いで織物を織るというように、その個別の具体的労働の結果として物質的な生産物が形成されます。しかし、抽象的な人間労働はそうではありません。それは、前記のような労働の具体的形態が取り除かれた、たんなる人間の労働力の支出という意味での労働であり、労働の結果である生産物には痕跡を残しません。実際、家具や織物を見ても、その生産にどれだけの労働が支出されているは分かりません。そのような労働の凝縮物とは何を指すのでしょうか。上の本文を読むと、「人間労働の凝縮物という幻想的な実態にすぎない」とマルクスは言っています。「幻想的」と「実態」と矛盾するような語が一緒になって戸惑うところがありますが、凝縮物というのが幻想的という物理的な実体を持たないでいて、実在する労働生産物の属性となっているというもの。つまり、抽象的な人間労働の凝縮物というのは、抽象的な人間労働、すなわちその生産物の属性にどれだけのその労働が支出されているかという幻想的で目に見えない(一見で、はっきりと分からない)ものが、生産物という実在的なものがもつ属性となっているということです。つづく「社会的な実体の結晶」というのも同じ意味であると言えるでしょう。人間の労働力がどれだけ支出されているのかという「社会的な実体」が結晶化し、労働生産物の属性になっている。このような抽象的な人間労働の凝縮物が、どの商品にも存在する共通なもの、すなわち価値なのです。どの商品も、その生産に支出された労働力に対応する価値をもっており、この価値の大きさがどれだけかで商品の交換比率、すなわち交換価値となることになります。

しかし、継続した労働時間で測るといっても、人間には個人差というものがあって、AさんとBさんが同じ時間だけ機を織ったとしても、織り上がった絹の量が違うのが普通です。そこで、社会的に平均的な労働条件に基づいて、社会的に平均的な身体的・精神的能力や器用さをもって遂行される労働─これを社会的必要労働時間といいますが─を基準にして継続的時間を測っています。なお、社会的必要労働時間については、次の「使用価値の大きさを決めるもの」で詳しく説明されています。

※この後の第4節で触れられていますが、抽象的な人間労働という概念自体は難しいものではなく、それは、人間が日々行っている労働を、その労働の具体的形態を度外視して、たんなる労力の支出という側面から把握したものです。私たちが労働の種類を問題にしないで、「今日は昨日より働いた」とか、「私は隣人より多く働いた」という場合には、とくに意識することなく抽象的な人間労働について語っている。つまり、生理的に感知しているのです。むしろ、難しいのは、商品生産の場合には、この抽象的な人間労働が凝縮、あるいは結晶化し、労働生産物の性質になるという事態です。これは商品の物神的性格の問題であり、第4節で論じられます。なお、そこでは、凝縮とか結晶という表現が、対象化とか物象化と表現されるようになります。

それではこのようにして残された労働生産物の残滓を検討してみよう。そこに残されているのは、人間のさまざまな労働がどのような形態で行われたかはまったくかかわりなく、たんに無差別に行使された人間労働の凝縮物という幻想的な実態にすぎない。これが表現しているのは、これを生産するために人間の労働力が行使されたということ、そこに人間の労働力が蓄積されているということだけである。それは、これらの物に共通する社会的な実体の結晶であり、これがこの商品の価値、商品価値なのである。

 

諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値はその使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現れた。そこで、労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現形式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。

商品の価値とは〈共通のもの〉であり、交換の比率という形であらわされるものです。これは、交換価値につながっていくものであるのが見えてきますが、使用価値との関係もふくめて、別のところで考察されることになります。

さて、この段落で「資本論」の最も基本となる考え方が持ち出されています。商品の根拠は価値にあるとして、その価値の根拠はどこにあるかという労働価値説の立場を示しています。マルクス以前の古典経済学は商品経済を歴史的に資本主義経済社会のもとで生まれたという見方をせずに、もともと存在する普遍的なものとみてしまったために、労働による生産物を考察しながらも、ここでマルクスが分析しているように商品という形態を分析することができなかった。マルクスによれば、商品経済は、歴史から言うと限られた条件の下で表れる。たとえば、封建共同体のなかでは商品交換は行われていません。共同体の中で農民は生産物をつくり、それを強制的に領主に搾取されてしまうことはありましたが、交換は行われていなかった。農民は自分が労働してつくった生産物のなかから自分や自分の家族の生活に必要な生産物を獲得し、消費して、生存を維持していたわけです。そこでは交換はないので、生産物は商品にはならないのです。商品にならなければ価値形成労働はない。その労働についての詳しい分析は、この後の第2節で行われるので、ここでは労働価値説について、少し長くなりますが、簡単に説明しておきたいと思います。

商品の使用価値は、それが自然のままに存在し無償で誰もが享受できるもの、例えば太陽の光や空気のようなものは商品でありません。また潜在的な使用価値として自然の中に埋め込まれているようなもの、例えば地中の石油や海中のマグロのようなものも、それ自体は商品ではありえません。海中のマグロが漁師の漁労や流通そして料理等の加工のような生産的な労働によって、潜在的な使用価値を現実的使用価値へと変換されることによって、商品としての価値をなるのです。自然物そのものは価値も交換価値もありません。そこで、それ自体では価値を持たない自然物を現実の使用価値に変換した労働ということが、自然物に価値を付与したことになるのです。こうして、商品というものは素材として交換価値を持たない自然と価値を作りだす労働という二つのように大別できるのです。つまり、商品の価値を形成するのは労働なのです。それを労働価値説といい、マルクスは、この学説こそが科学的な学説であり、それに基づく経済学だけが科学的な学問であるとしたのです。

しかし、労働が価値を形成すると言っても、個々の労働は個人によっても千差万別です。例えば同じものを生産するのでも、要領のいい人は1時間で片づけてしまうのに、要領の悪い人は2時間以上を要してしまう。しかし、それでは要領の悪い人の生産した商品は、要領のいいひとの生産した商品の2倍の価値が付くのでしょうか。そんなことはあり得ないでしょう。そこで社会的に平均的な労働条件に基づいて、平均的な能力を持った人の生産を基準として価値が形成されます。これを社会的必要といいます。

この社会的必要というのは非常に多義的です。それは単に平均的水準を意味するだけでなく、様々な文化、習慣、社会制度など要素が含まれています。古典経済学は「労働一般」として一般化しようとしましたが、そもそも一般化するにしても文化や慣習の影響を抜きに語れません。そこで「社会的必要」と規定し直すことで、歴史や文化の規定を加えたのです。それが、近代の資本主義という限定です。

商品の交換関係のうちで、商品の交換価値はその使用価値とはまったく独立したもののようにみえる。労働生産物の使用価値を実際に無視してしまうと、このように規定された労働生産物の価値が決定される。だからすでに考察してきた〈共通なもの〉とは、商品の価値である。これが商品の交換比率として表現されるのである。これから研究を深めていくと、価値の必然的な表現形式としてもまたは現象形式として、この交換価値について考察することになるが、ここではこの価値はこれらの形式とは別に考察する必要があるのである。

 

使用価値の大きさを決めるもの

だから、ある使用価値または財貨が価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それらの価値の大きさはどのようにして計られるのか?そこに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間または一時間とか一日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。

一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ価値が大きい、というように思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練度および強度の社会的平均とをもって、なんらかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。たとえば、イギリスに蒸気織機が採用されてからは、一定量の糸を織物に転化させるためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう。イギリスの手織工はこの転化に実際には相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は、いまでは半分の社会的労働時間を表わすにすぎなくなり、したがって、それの以前の価値の半分に低落したのである。

だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間の比に等しい。「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」 

「労働はたがいに区別されず、すべて同じ人間労働に、抽象的な人間労働に還元され」るといい、社会的必要労働時間といっても、実際に労働して麦や絹を生産しているのは、Aさんであり、Bさんであ、一人一人の個人です。したがって、実際の労働は、それを行っている個人によって千差万別になります。たとえば、要領のいいひともいれば悪い人もいます。器用な人もいれば不器用な人もいる。手際のよい人もいればドジで鈍くさい人もいます。そこで、要領のいい人がある商品を完成させるのに2時間ですむ作業を、要領の悪い人は3時間もかけてしまうこともあると思います。これでは、おなじ商品でも要領の悪い人は要領の良い人の1.5倍の労働時間を要する。ということは、要領の悪い人の作った製品は、要領の良い人の作った製品の1.5倍の労働時間分の価値があることになるのでしょうか。もちろん、そんなことにはなりません。2時間かけようが、3時間かけようが、その製品は同じで価値が変わることはありません。もし、それぞれの価値が違うのなら、交換そのものが成り立たなくなります。同じボールペンが、作る人によって100円だったり150円だったりすることなんて想像できないでしょう。したがって、要領の良しあしのような個人差などを考慮して、労働を、社会的に平均的な労働条件に基づいて、社会的に平均的な身体的・精神的能力や器用さで遂行される労働とします。ここの労働は平均から多かれ少なかれ離れているでしょうが、それぞれ同じ製品を生産する無数の人々の労働は、平均に収斂する結果に落ち着くことになる。そう考えるのです。

しかし、その平均的な時間というのは、平均ではなくて平均的なのであり、実際にすべての労働者の作業時間を測って平均時間を計算したのではありません。平均的な身体と技量の熟練した労働者を想定し、そういう人が普通に作業してこれだけの時間がかかるということを算定しています。それが、商品の価値を作りだすために必要な時間ということで必要という言葉をあえて付けて社会的必要労働時間という言い方をしているのです。

他方で、社会的必要労働時間というのは問題がないわけではありません。社会的といいながら、その時間がどのくらい必要かというのを誰が決めるのか、というと社会的に自然に決まるのか。というのも、社会的必要というのは非常に多義的で、単に労働者の器用さとか労働条件の平均的水準だけできまるのではないのです。そこには、様々な文化、習慣、社会的規制の有無、社会経済的環境、などたくさんの要素があります。マルクスがここで指摘しているのは、イギリスで蒸気機関を動力とする自動織機が導入されたことで作業時間が半分になってしまった。したがって、自動織機を導入していない古い工場で手作業をする職人は最新式の工場の2倍の時間をかけて織物を織っていることになるわけで、この職人たちは変化していないのですが、技術革新という社会の変化で、この職人たちの価値は半分になってしまいました。このように社会的必要労働は、一方では人々の意識や行為から独立した客観的なものであるとともに、他方で人々の社会的意識や社会的行為によって絶えず干渉され影響を受けるものでもあり、地域や時代とともに変化するものといえます。

このように、商品の使用価値または財が価値をもつのは、そこに抽象的な人間労働が[物的なものとして]対象化され、物質化されているからである。この価値の大きさはどのようにして測定されるだろうか。そこに含まれる「価値を形成する実体」の大きさ、すなわち労働の量によってである。この労働の量そのものは、労働が持続した時間の長さで決定され、この労働時間の長さを測定する尺度は、一時間、一日のように、特定の時間の長さである。

商品の価値が、それを生産するために消費された労働の量の大きさで決定されるのだとすれば、[疑問が生じるかもしれない。たとえば]ある労働者が怠け者であるか、労働に熟練していない場合には、商品を完成するためには長い時間がかかってしまい、その商品の価値が高くなるということにはならないだろうか。しかし須知の実体となる労働というものは、同等な人間労働のことであり、同等な人間の労働力の行使である。商品世界の価値のうちには、社会の全体の労働力が表現されるのであり、これはたしかに無数の個人的な労働力で構成されるが、ただ一つの同等な人間の労働力とみなされるのである。

個々の個人の労働力はすべて、その社会の平均的な労働力という性格をそなえている。この労働力は、これはその社会の平均的な労働力として行使されるのであり、一つの商品を生産するために平均して必要な労働時間(これは社会的に必要な労働時間と呼ばれる)だけを費やすものであるため、他の人の労働力と同じになるのである。この社会的に必要な労働時間とは、社会的に正常な既存の生産条件のもとで、社会的に平均した労働の熟練度と強度を行使して、何らかの使用価値を作りだすために必要な労働時間のことである。

たとえばイギリスに蒸気で作動する織物機械が導入された後には、一定の量の紡ぎ糸を亜麻布に織りあげるための労働時間は、それ以前の半分に短縮された。この機械を利用せずに手作業で布地を織る職人は、実際には以前と同じだけの労働時間を働くとしても、彼の個人としての一労働時間の生産物は、社会的な労働時間としては[機械を利用する場合の]半分の労働時間の価値しかなくなった。手作業で布地を織る職人の生産物の価値は、それ以前の半分に低下したのである。

このように一つの使用価値の大きさを決定するのは、社会的に必要な労働の量であり、その使用価値を生産するために必要とされる労働時間なのである。この場合には個々の商品は一般に、その種類の商品の平均的な見本とみなされる。複数の商品は、そこに同じ大きさの労働量が含まれるならば、言い換えれば、同じ労働時間で生産できるのであれば、同じ大きさの価値をもつことになる。ある商品の価値の比率は、その商品の生産に必要な労働時間の長さと、別の商品の生産に必要な労働時間の長さの比率と一致する。「価値としてみた全ての商品は、凝固した労働時間の特定の量にほかならない」。

 

交換価値の変動

それゆえ、もしもある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的な応用可能性との発展段階、生産過程の社会的な結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。同量の労働でも、たとえば豊作のときには8ブッシェルの小麦に表わされ、凶作のときには4ブッシェルの小麦にしか表わされない。同量の労働でも、豊かな鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは地表に出ていることがまれだから、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。したがって、ダイヤモンドはわずかな量で多くの労働を表わす。ジェーコブは、金にその全価値が支払われたことがあるかどうかを疑っている。このことは、ダイヤモンドにはもっとよくあてはまる。

エシュヴェーゲによれば、1823年にはブラジルのダイヤモンド鉱山の過去80年間の総産額は、ブラジルの砂糖またはコーヒーの農場の1年半分の平均生産物の価格にも達していなかったというが、じつはそれよりもずっと多くの労働を、したがってずっと多くの価値を表していたにもかかわらず、そうだったのである。もしも、鉱山がもっと豊かだったならば、それだけ同じ労働量がより多くのダイヤモンドに表わされたであろうし、それだけダイヤモンドの価値は下がったであろう。もしほんのわずかな労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功するならば、ダイヤモンドの価値が煉瓦の価値よりも低く下がることもありうる。一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品を生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その物品の価値はそれだけ大きい。つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。

そのため一つの商品を生産するために必要な時間が変わらないかぎり、その商品の価値の大きさも同じである。ただし労働の生産力が変動すると、必要な労働時間も変動する。労働の生産力はさまざまな要因によって決定される。とくに労働者の平均的な熟練度、科学とその技術的な応用可能性の発展段階、複数の生産過程の社会的な結合、生産手段の規模と効力、自然の状況などが重要である。

たとえば豊作の年であれば8ブッシェルの小麦を収穫できる労働量でも、不作の年にわずか4ブッシェルの小麦しか収穫できないこともあるだろう、鉱物の埋蔵量が多い鉱山では、同じ労働量でも、埋蔵量の乏しい鉱山より多量の金属を掘り出すことができるだろう、などなど。

ダイヤモンドは地表近くにはほとんど存在しないために、これを発見するために平均して長い労働時間が必要である。だからダイヤモンドはその小さな体積のうちに、多量の労働を表現しているのである。ジェイコブは、金がその[ほんらいの]すべての価値を支払われたことがあるかは疑問であると語ったことがある。それならば、ダイヤモンドについては、この言葉がもっとあてはまるだろう。

エシュヴェーゲによると、1823年の時点でブラジルの過去80年間のダイヤモンド鉱山の総生産量の価格は、ブラジルの砂糖とコーヒーのプランテーションで1年半の期間で生産される平均生産物の価格を下回っていたという。それでもダイヤモンドの生産には、砂糖とコーヒーの生産より長い労働時間が含まれていたのであり、大きな価値を含んでいたのである。ダイヤモンドの埋蔵量の豊富な鉱山があれは、同じ労働量でより多くのダイヤモンドが生産できるだろうし、ダイヤモンドの価値は低下するだろう。もしもわずかな労働で石炭をダイヤモンドに変えることができたならば、ダイヤモンドの価値はレンガの価値よりも低くなることだろう。

一般的に、労働の生産力が高いほど、一つの物品を生産するために必要な労働時間が短くなり、そこに結晶する労働量の小さくなる。反対に労働の生産力が低くなると、一つの物品を生産するために必要な労働時間が長くなり、その物品の価値は大きくなる。ある商品の価値の大きさは、それを生産するために必要な労働の量に正比例し、その労働生産力に反比例するのである。

 

 

自然に生まれる使用価値

ある物は、価値ではなくても、使用価値であることがありうる。それは、人間にとってのその物の効用が労働によって媒介されない場合である。たとえば空気や処女地や自然の草原や野生の樹木などがそれである。ある物は、商品ではなくても、有用であり人間労働の生産物でることがありうる。自分の生産物によって自分自身の欲望を満足される人は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。商品を生産するためには、彼は使用価値を生産するだけではなく、他人のための使用価値、社会的使用価値を生産しなければならない。[しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は領主のために年貢の穀物を生産し、坊主のために10分の1税の穀物を生産した。しかし、年貢の穀物も10分の1税の穀物も、他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移さなければならない。]最後に、どんな物も、使用対象であることなしには、価値ではありえない。物が無用であれば、それに含まれている労働も無用であり、労働のなかにはいらず、したがって価値をも形成しないのである。

ある物が価値をもたずに、使用価値をもつことがありうる。物が人間にとって有益であるのに、その物を使用するために人間の労働が不要な場合がこれにあてはまる。空気、処女地、自然のままの草原、野生の樹木などがその実例である。物は商品でなくても、有益な物であったり、人間の労働の生産物であったりすることもある。みずからの生産物で自分の欲望を満たす人は、使用価値を作りだしているが、商品を作るわけではない。商品を作りだすためには、その人は使用価値を作りだすだけではなく、他人のための使用価値を、社会的な使用価値を作りだす必要がある。[しかも他人のためというだけでは不十分である。中世の農民は封建領主のために年貢として穀物を生産し、聖職者のために10分の1税の穀物を生産していた。しかしこうした年貢のための穀物も10分の1税のための穀物も、他人のために生産されたが、商品になったわけではない。生産物が商品になるためには、それが使用価値をもつ他人に、交換を通じて譲渡されなければならないのである]。最後にどのようなものであっても、使用の対象でなければ価値をもつことはできない。それが無用なものであれば、そこに含まれる労働もまたむようなものである。これは労働とはみなされず、いかなる価値も作りださないのである。

 

 

第2節 商品に表わされる労働の二重性

〔この節の概要〕

第1節「商品の二つの要素─ 使用価値と価値」で、商品は二つの要因からなるものだということを明らかにしています。まず、商品は使用の対象であるということで使用価値という考え方。しかし、その使用価値をその所持者が自分で使うのではなく、交換に出すわけです。交換とは、自分が欲しいけれども他人が持っているもの獲得したいことから生まれてくる行動であり、そのために対価を渡す、対価を渡して相手の持っているものを獲得するのが交換です。その交換する商品を価値と規定しました。ですから、商品は価値と使用価値という二つの要因から成っているということです。しかも、自分が所持している物を、自分で使わないで交換しようというのですから、価値が積極的要因なわけです。自分は使わない、つまり使用価値にしないわけですから、使用価値は誰か他人のための使用価値である。自分が持っているものを誰かが欲してくれないと交換できない。相手の持っているものを交換を通して手に入れたいが、その相手が自分が持っている商品を使用価値として認めてくれなければ交換できない。そういう二つの要因があるとしたのです。そして、その二つの要因の根拠には労働があるとしました。それが、この第2節で明らかにされる労働の二重性です。

労働の二重性のひとつの面は、裁縫労働とか紡績労働とかいった特定の生産活動として示される具体的な有用活動の面、もう一つは一般的な人間労働力の支出として示される抽象的な一般的労働の面です。

そもそも、人間が自然に働きかけて生活に必要な諸物質を得るためには、彼はその商品を生産するということは、一般的労働が、商品の社会的ニーズを充たす種々な使用価値の生産のために要する労働時間を基準にして配分され、払われるということです。この場合、上着の使用価値を生産する裁縫といった一定の有用労働としての個々の生産者の私的労働が、一般的な人間労働力として払われることになります。けれども、元来労働が全体として社会化されていない商品生産の社会では、それぞれ特定の有用労働に従事する個々の生産者は、その人間労働力をそのまま直接に社会的労働として支出するものではない。個々人の労働が何らかの仕方で、社会的総労働の部分として関連をもたねばならないという社会的生産の一般的条件は、ここでは一種の回り道によって、すなわち、直接に人間どうしの関係においてではなくて、かれらの労働の生産物の、商品としての交際関係を通して達成せられる。どういうことかというと、例えば工場での分業(例えばマニュファクチャ)ということがない場合は、上着を生産するのは、工場で生地の加工やボタンなどの生産等が一貫して分業で作られるのではなくて、ボタンを作る人は作り問屋に納め、上着を縫う人は生地やボタンを問屋から買って縫ってつくります。そこには問屋による売買が介在して、それぞれの生産は個々別々です。だから、その時その時で価値は一定していないのです。同じような上着でも、その時々で価値が変わってくるおそれがあります。それでは商品とは言えません。言い換えると個々の商品生産者が支出する私的労働は、その生産物が商品として交換せられる特殊な社会的過程を媒介としてはじめて社会的労働となりうるのです。商品の価値というのは、このような商品生産者の私的な労働が社会的な労働となるためにとる特殊な形態規定にほかなりません。すなわち、私的労働としての有用労働の面が商品の使用価値となって現われて、種々雑多な商品の相違をつくり出し、価値の大小は諸商品の生産に要する労働時間を基準にして比較することで計量できるものとなり、このようにしてはじめて社会的総労働の部分としての関連をもつようになるのです。したがってまた個々の商品の価値はその生産に必要な一般的な社会的労働の分量によって規定されることになるにしても、その価値はそのまま社会的労働時間いくらとしては測定せられない。商品の価値を形成する一般的労働は商品交換を通してはじめて社会的なものとして評価されるのであるから、一商品の価値は他の商品との交換関係における価値、すなわち交換価値として表示され、そういうものとして測定せられるほかはない。結局商品の交換価値は、市場における生産物の単なる交換比率ではなく、一定の客観的基準によって決定される商品の価値が必然的に表現される形態であると同時に、商品生産の社会における社会的労働の配分を規制する特殊な形態であるということができるのです。

 

〔本文とその読み(解説)〕 

労働の二面性

最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。次には、労働も、それが価値に表わされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴を持っていないということが示された。このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。

前節で商品には価値と使用価値という二つの要因があり、その根拠には労働があるとしました。今度は、その根拠である労働を見ていきますが、二つの要因の根拠となっていることは、それぞれの根拠ということであり、労働には、二つの要因の根拠となるような二つの面がある、それが労働の二面性です。その二面のそれぞれの面について、この後で説明が加えられていきます。

商品は私たちには最初は、使用価値であり交換価値でもあるという二面的な性格をおびて現れた。やがて労働もまた、価値において表現されるかぎりでは、もはや使用価値の生みの母としての特徴を失うことが明らかになった。商品の中に含まれる労働にこのような二面的な性格があることは、わたしが初めて批判的に解明したことである。これは経済学を理解するための跳躍点となることなので、ここでさらに詳しく解明しておくべきだろう。

 

有用労働

二つの商品、たとえば一着の上着と10エレのリンネルをとってみよう。前者は後者の二倍の価値をもっており、したがって、10エレのリンネル=Wならば、1着の上着=2Wであるとしよう。

上着は、ある特殊な欲望を満足させる使用価値である。それを生産するためには、一定種類の生産活動が必要である。この活動は、その目的、作業様式、対象、手段、結果によって規定されている。このようにその有用性がその生産物の使用価値に、またはその生産物が使用価値であるということに、表わされる労働を、われわれは簡単に有用労働と呼ぶ。この観点のもとでは、労働はつねにその有用性に関連して考察される。

上着とリンネルとが質的に違った使用価値であるように、それらの存在を媒介する労働も質的に違ったもの─裁縫と織布である。もし、これらの物が質的に違った使用価値ではなく、したがって質的に違った有用労働の生産物でないならば、それらはおよそ商品として相対することはありえないであろう。上着は上着とは交換されないのであり、同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはないのである。

いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体─社会的分業が現れている。社会的な分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になることはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行われていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。

こうして、どの商品の使用価値にも、一定の合目的的な生産活動または有用労働が含まれているということがわかった。いろいろな使用価値は、それらのうちに質的に違った有用労働が含まれていなければ、商品として相対することはできない。社会の生産物が一般的に商品という形態をとっている社会では、すなわち商品生産者の社会では、独立生産者が私事として互いに独立に営まれるいろいろな有用労働のこのような質的な相違が、一つの多岐的体制に、すなわち社会的分業に、発展するのである。

ともあれ、上着にとっては、それを着る人が仕立屋自身であろうと彼の顧客であろうと、どうでもかまわないのである。どちらの場合にも、上着は使用価値として働くのである。同様に、上着とそれを生産する労働との関係も、裁縫が特殊な職業になり社会的分業の独立な分肢になるということによっては、それ自体として少しも変化してはいない。人類は、衣服を着ることの必要に強制されたところでは、だれかが仕立屋になるよりも何千年もまえから裁縫をやってきた。しかし、上着やリンネルなど、すべて天然には存在しない素材的富の要素の存在は、つねに、特殊な合目的的生産活動によって媒介されなければならなかった。それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。

商品、例えば上着を作るためには、そのための特別な作業が必要です。材料である布を切ったり、縫ったり、折ったり、それらのための寸法を測ったり、ボタンや飾りを付けたり、それらには独特の手の動きや筋肉の動き、そういう動きをするために必要な知識や注意の集中、精神の動きなどが必要です。これは他の商品、例えばリンネルをつくる、例えば織るという作業をするために必要な身体や精神の動きとは異なるものです。このように、何を生産するかによって労働の様態は異なってきます。フライパンで料理を作るような動きで手編みのマフラーを作ったり、旋盤を操作することはできません。商品の無限の多様性に応じて無限にあるのです。これが有用労働です。これは具体的で目に見える労働だから分かりやすい。有用労働は、一方では、何らかの具体的で特殊な動きや精神的・肉体的な作用の仕方をするのであり(具体的労働)、他方ではそうした特殊な動きや働きを通じて何らかの社会的有用性を生み出すのである(有用労働)。

この有用労働が価値を形成するのは、私がその上着を商品として市場に出す場合のみであり、したがって、個々の労働者が私的生産者として上着という市場で交換される商品の生産の社会的分業に組み込まれている場合のみです。その場合、個々の私的生産者がなす労働は直接的には社会的労働ではなく、直接的には単なる私的労働であるにすぎず、自分の生産した生産物を市場で交換することを通じてはじめてそれの社会的性格が承認される。つまり有用でということになるのです。

しかし、裁縫や織物といった作業は人類の歴史のなかで古くから行われていました。人が生きるためには衣食住が必要で、そのための作業であるわけです。したがって、ここで言われる作業はどんな生産関係の下でも考えられるわけです。たとえば、封建的支配の下で農民がお米を作るのに有用労働が行われている。だから、具有用労働はどんな社会でも必ずある労働であるということができます。ところが、この場合では商品を生産することにはならないのです。したがって、労働と言うことはできない。なぜなら、商品経済は、歴史から言うと限られた条件の下で表れる。たとえば、封建共同体のなかでは商品交換は行われていません。共同体の中で農民は生産物をつくり、それを強制的に領主に搾取されてしまうことはありましたが、交換は行われていなかった。農民は自分が労働してつくった生産物のなかから自分や自分の家族の生活に必要な生産物を獲得し、消費して、生存を維持していたわけです。そこでは交換はないので、生産物は商品にはならないのです。商品にならなければ価値形成労働はない。

二つの商品を考えてみよう。一枚の上衣と10ヤードの亜麻布の二倍の価値を持つとすると、10ヤードの亜麻布=W、一枚の上衣=2Wである。

上衣は、特別な欲望を満たす使用価値である。上衣を生産するためには、特別な種類の生産活動が必要である。この生産活動の性格は、その目的、作業方法、対象、手段、結果によって決定される。ある労働が有用なものであるとき、その労働は生産物の使用価値のうちに表現される。すなわちその労働によって、生産物は使用価値をそなえるようになる。この労働を有用労働と呼ぶことにしよう。この観点からは労働はつねにその有益な効果から考察されることになる。

上衣と亜麻布は、質的に異なる使用価値をそなえているので、それらを現実的に作りだす労働も、質的に異なるものであり、裁縫労働と織物労働である。上衣と亜麻布が質的に異なる使用価値をそなえており、質的に異なる有用労働の生産物でなかったならば、たがいに[交換されるべき]商品として出会うことはなかっただろう。上衣は上衣とは交換されない。使用価値が同じであれば。使用価値が交換されることはないのである。

異なる種類の使用価値または商品の<身体>の全体に、同じく多様な有用労働の全体が、社会的な分業として現れるのであり、この全体は労働の種類に応じて、たとえば属、種、科、亜種、変種のように分類することができよう。この社会的な分業は,商品の生産が可能となる条件であるが、逆に商品の生産は、社会的な分業が可能となる条件ではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に[カースト制度によって]分割されていたが、その労働の産物が商品になることはなかった。もっと身近な例で言えば、すべての工場で労働は組織的に分割されているが、労働者がみずからの生産を交換することで、この分業が行われているわけではない。たがいに商品として向き合うことができるのは、自立して互いに独立した私的な労働の産物だけである。

ここまで明らかになったのは、すべての商品の使用価値のうちには、特定の目的を目指した生産活動、すなわち有用労働が含まれているということである。さまざまな使用価値をもつものは、そのうち質的に異なる有用労働を含んでいないかぎり、たがいに商品として向き合うことはできない。社会の生産物が一般に商品という形式をとる社会、すなわち商品生産者の社会では、自立した生産者が私的な活動として、たがいに有用な労働を含むために、このような質的な区別が発展し、やがては複数の部門で構成された体系が、社会的な分業へと成長する。

生産された上衣にとっては、それを着るのが仕立屋なのか、それとも仕立屋の顧客なのかは、どうでもよいことである。どちらにしても使用価値として着られるからだ。また上衣とそれを生産する労働の関係は、裁縫業が特殊な職業であり、社会的な分業のうちで独立した部門として営まれるかどうかとは、まったくかわりのないことである。

人類は、衣服を着用するという欲求に迫られているかぎり、専門の仕立屋が登場する前から、数千年の長い期間をつうじて衣服を作ってきたのである。しかし上衣や亜麻布のように、自然のうちにはみられない素材の〈富〉の要素が存在するようになるためには、特別な目的をそなえた生産活動が登場し、この活動が特別な自然の素材を人間の特定の欲望にあわせて媒介する必要があった。

このように労働は有用労働として、使用価値を作りだす営みとして、人間のいかなる社会的な形態ともかかわりのない人間の生存条件であった。これは人間と自然とのあいだの物質代謝であり、人間生活を媒介する永遠の自然の必然性である。

 

富の源泉

使用価値である上着やリンネルなど、簡単に言えばいろいろな商品体は、二つの要素の結合物、自然素材と労働との結合物である。上着やリンネルなどに含まれているいろいろな有用労働の総計を取り去ってしまえば、あとには常に或る物質的な土台が残るが、それは人間の助力なしに天然に存在するものである。人間は、彼の生産において、ただ自然そのものがやるとおりにやることできるだけである。それだけではない。この、形をつれる労働そのものにおいても、人間はつねに自然の力にささえられている。だから、労働は、それによって生産される使用価値の、素材的富の、ただ一つの源泉なのではない。ウィリアム・ペティの言うように、労働は素材的富の父であり、土地はその母親である。

商品の使用価値は、それが自然のままに存在し無償で誰もが享受できるもの、例えば太陽の光や空気のようなものは商品でありません。また潜在的な使用価値として自然の中に埋め込まれているようなもの、例えば地中の石油や海中のマグロのようなものも、それ自体は商品ではありえません。海中のマグロが漁師の漁労や流通そして料理等の加工のような生産的な労働によって、潜在的な使用価値を現実的使用価値へと変換されることによって、商品としての価値をなるのです。自然物そのものは価値も交換価値もありません。そこで、それ自体では価値を持たない自然物を現実の使用価値に変換した労働ということが、自然物に価値を付与したことになるのです。こうして、商品というものは素材として交換価値を持たない自然と価値を作りだす労働という二つのように大別できるのです。つまり、商品の価値を形成するのは労働なのです。ここでは、「労働は〈富〉の父親であって、〈富〉の母親は大地なのである」と言っていますが、ここでも、労働価値説を単純化して説明しています。

使用価値としての上衣と亜麻布など、商品の〈身体〉には、自然の素材と労働という二つの要素が結び付けられている。上衣や亜麻布などに含まれているすべてのさまざまな有用労働の全体をとりさると、商品の〈身体〉はつねに、人間が自然に手を加える以前に存在していた物質的な土台が残るだろう。人間は生産するときには、自然と同じようにふるまうこと、すなわち素材の形式を変えることしかできない。そして素材の形式を変える労働そのものにおいても、人間はつねに自然の力に助けられている。だから労働は、人間が生産する使用価値、その素材の〈富〉の唯一の源泉ではない。ウィリアム・ペティが指摘したように、労働は〈富〉の父親であって、〈富〉の母親は大地なのである。

 

質的に異なる労働

そこで今度は、使用対象である商品から商品─価値に移ることにしよう。

われわれの想定によれば、上着はリンネルの二倍の価値をもっている。しかし、それはただ量的な差異にすぎないもので、このような差異はさしあたりまだわれわれの関心をひくものではない。そこで、われわれは、一着の上着の価値が10エレのリンネルの価値の二倍であれば、20エレのリンネルは一着の上着と同じ実体をもった物であり、同量の労働の客体的表現である。ところが、裁縫と織布とは、質的に違った労働である。とはいえ、次のような社会状態もある。そこでは同じ人間が裁縫をしたり織布をしたりしているので、この二つの違った労働様式は、ただ同じ個人の諸変形でしかなく、また別々の諸個人の特殊な固定した諸機能にはなっていないのであって、それは、ちょうど、われわれの仕立屋が今日つくる上着も彼が明日つくるズボンもただ同じ個人労働の諸変形を前提しているにすぎないようなものである。さらに、一見してわかるように、われわれの資本主義的社会では、労働需要の方向の変化に従って、人間労働の一定の部分が、あるときには裁縫の形態で、あるときは織布の形態で供給される。このような労働の形態転換は、摩擦なしにはすまされないかもしれないが、とにかくそれは行われなければならない。生産活動の規定性、したがってまた労働の有用的性格を無視するとすれば、労働に残るものは、それが人間の労働力の支出であるということである。裁縫と織布とは、質的に違った生産活動であるとはいえ、両方とも人間の脳や筋肉や神経や手などの生産的支出であり、この意味で両方とも人間労働である。それらは、ただ、人間の労働力を支出するための二つの違った形態ででしかない。たしかに人間の労働力そのものは、あの形態やこの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、ただの人間労働を、人間労働一般の支出を、表わしている。ところで、ブルジョワ社会では将軍や銀行家は大きな役割を演じており、これに反してただの人間はひどくみすぼらしい役割を演じているのであるが、この場合の人間の労働についても同じことである。それは、平均的にだれでも普通の人間が、特別の発達なしに、自分の肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。もちろん、単純な平均労働そのものも、国が違い文化段階が違えばその性格は違うのであるが、しかし、現に在る一つの社会では与えられている。より複雑な労働は、ただ、単純な労働が数乗されたもの、またはむしろ数倍されたものとみなされるだけであり、したがって、より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいということになる。このような換算が絶えず行われているということは、経験の示すところである。ある商品がどんなに複雑な労働の生産物であっても、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身ただ単純労働の一定量を表わしているにすぎないのである。

いろいろな労働種類がその度量単位としての単純労働に換算されるいろいろな割合は、一つの社会的過程によって生産者の背後で確定され、したがって生産者たちにとっては慣習によって与えられたもののように思われる。簡単にするために、以下では各種の労働力を直接に単純労働力とみなすのであるが、それはただ換算の労を省くためにすぎない。

ここで使用対象である商品から、商品─価値へと進みます。例えば、二つの商品について一着の上着と10エレのリンネルの二倍の価値を持つとすると、10エレのリンネル=W、一着の上着=2Wということになります。この時の上衣と亜麻布とは質的に異なる労働によるものではなくて、たんに量の差として表わされています。この差は、商品─価値の差に見合うものです。このような労働の面を『資本論』を開設する経済学者は抽象的人間労働と呼んでいます。

人間の労働はその質的に具体的で多様な姿において使用価値を形成しながら、それと同時並行的に、その質手に同等でただその継続時間という量的価値を通じて区別される側面において価値を形成する。労働の前者の側面を具体的有用労働と言い、後者の側面を抽象的人間労働と言う。そして労働がこのような二つの側面を持つことを、労働の二面性という。

上着とリンネルとでは、それを作るために費やされるのは異なる種類の有用労働です。しかし、この場合のように量の差にすることによって同一の価値の基準の上で比べることで、価値を計って交換することが可能となります。それが、10エレのリンネル=W、一着の上着=2Wという基準です。そのためには、有用労働のように、この二つは、そもそも種類が異なるとしていると比べることができません。基準が別々なのですから。ここで、有用労働とは別の労働の面が現われます。上着を縫うという労働もリンネルを織るという労働も質的に異なる生産活動ですが、どちらも人間の頭脳、筋肉、神経、手などを使った生産的な労働力の行使であり、どちらも人間の労働であることは共通しているのです。これらは何かを生産するという労働というものの一般的性質で共通の基準に立つことができるのです。その同じ基準で、量の差を計るものが継続時間、つまり継続して労働するトータルタイムです。つまり、10エレのリンネル=W、一着の上着=2Wということは、リンネルという商品の抽象的人間労働の量が、上衣の労働の量の半分であるということです。すなわち上着を生産するために必要な労働時間は、リンネルを生産する場合の二倍の長さの労働時間になるということです。

ここで使用対象である商品から、商品─価値へと考察を進めよう。

わたしたちは、上衣には亜麻布の二倍の価値があると想定した。しかしこれはたんに量的な違いであり、わたしたちはまだこれには関心をもたない。だから一枚の上衣の価値が、10ヤードの亜麻布の価値の二倍であるならば、20ヤードの亜麻布は一枚の上衣と同じ価値をそなえていることを忘れないようにしよう。価値としているならば、上衣も亜麻布も同じ実体そなえた物であり、同種の労働が客観的に表現されたものである。ただし裁縫労働と織物労働は質的に異なる労働である。

しかし一人の人があるときは亜麻布を織り、あるときは亜麻布を上衣に仕立てるような社会的な状態というのも存在する。この状態では二つの異なる形式の労働が見られるが、それは同じ個人の労働が変化したものにすぎず、異なる個人の固定した機能とはなっていない。この状態では、同じ仕立屋が今日は上衣を縫い、明日はズボンを縫うとしても、同じ個人の労働が姿を変えただけである。

ところがわたしたちのような資本制的な社会では、労働の需要の方向が変わるにおうじて、あるときは裁縫労働が、あるときは織物労働が、人間の労働のある部分として提供されるのは明らかである。このような労働形式の交替は、摩擦を生じるかもしれないが。それでもどうしても必要なのである。

ところで生産活動がどのように規定されているか、すなわち労働がどのように有用なものとして行われているかを無視すると、そこには人間の労働力が行使されたという事実だけが残る。裁縫労働も織物労働も質的に異なる生産活動であるが、どちらも人間の頭脳、筋肉、神経、手などを使った生産的な労働力の行使であり、どちらも人間の労働であることは共通するのである。人間の労働力が二つの異なる形で行使されたにすぎない。もちろん人間の労働力がこのように異なる形で行使されうるためには、多少なりとも人間の労働力が発達したものである必要がある。しかし商品の価値は、人間の労働力そのものを端的に表現しているものであり、人間労働一般が行われたことを表現しているのである。

ブルジョワ社会では将軍や銀行家が重要な役割をはたしていて、ただの人間はみすぼらしい役割しかはたしていないが、人間の労働についても同じことが言える。人間の労働は、ふつうの人が誰でももっている単純な労働力が行使されたものであり、この単純な労働力は、人間がその肉体の器官のうちに特別に発達することもなく、平均的にもっているものである。

単純な平均労働そのものは、その国や文化段階におうじてさまざまに異なる性格をおびているが、その社会のうちでは一定したものである。複雑な労働というものも、この単純な労働が相乗されたか、倍加されただけにすぎない。だから小さな量の複雑な労働は、大きな量の単純な労働に等しい。この[複雑な労働の単純な労働への]換算がたえず行われているのは、経験からも明らかである。ある商品は、複雑な労働によって生産されたものかもしれない。しかしその価値で考えるならば、それ単純な労働によって生産された商品と同等なものとなるのであり、特定の量の単純な労働を表現するにすぎない。

さまざまな種類の労働は、ある係数を使って単純な労働に換算することができるが、この係数のさまざまな比率は、生産者が決定するのではなく、その背後の社会的なプロセスによって決まるのであり、生産者には慣習によって決まるかのようにみえる。簡略化のために、以下ではすべての種類の労働力をそのまま単純な労働力とみなすことにする。そうすれば換算する作業が不要になるからである。

 

交換価値と労働

こういうわけで、価値としての上着とリンネルではそれらの使用価値の相違が捨象されているように、これらの価値に表わされている労働でもそれらの有用形態の相違、縫製と織布との相違は捨象されているのである。使用価値としての上着やリンネルは、目的を想定された生産活動と布や糸との結合物であり、これに反して価値としての上着とリンネルは単なる同質の労働凝固であるが、それと同じように、これらの価値に含まれている労働も、布や糸にたいするその生産的作用によってではなく、ただ人間の労働力の支出としてのみ認められるのである。縫製や織布が使用価値としての上着やリンネルの形成要素であるのは、まさに裁縫や織布の互いに違った質によるものである。裁縫や織布が上着価値やリンネル価値の実体であるのは、ただ、裁縫や織布の特殊な質が捨象されて両者が同じ質を、人間労働という質をもっているかぎりのことである。

しかし、上着やリンネルは価値一般であるだけではなく、特定の大きさの価値である。そして、われわれの想定によれば、一着の上着は10エレのリンネルの二倍の価値がある。それらの価値量のこのような相違は、どこから生ずるのか?それは、リンネルは上着に比べて半分の労働しか含んでおらず、したがって上着の生産にはリンネルの生産に比べて二倍の時間にわたって労働力が支出されなければならない、ということからしょうずるのである。

つまり、商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ認められるとすれば、価値量との関係では、もはやそれ以外には質をもたない人間労働に還元されていて、ただ量的にのみ認められるのである。前のほうの場合には労働のどのようにしてどんなが問題なのであり、あとのほうの場合には労働のどれだけが、すなわちその継続時間が、問題なのである。一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の量だけを表わしているのだから、諸商品は、ある一定の割合をなしていれば、つねに等しい大きさの価値をなければならないのである。

たとえば一着の上着の生産に必要ないっさいの有用労働の生産力が変わらないならば、上着の価値量は上着自身の量が増すにつれて増多精する。もし一着の上着がX労働日を表わしているとすれば二着の上着は2X労働日を表わしている、というようにである。ところで、一着の上着の生産に必要な労働が二倍に増すか、半分に減るかするとしてみよう。前のほうの場合には一着の上着が以前の二着の上着と同量の価値をもち、あとのほうの場合には二着の上着が以前の一着の上着と同量の価値しかもたない。といっても、どちらの場合にも上着は相変わらず同じ役だち方するのであり、上着に含まれている有用労働の質の良否は相変わらず同じなのであるが。しかし、上着の生産に支出された労働量は変化しているのである。

リンネルと上着の交換が市場で成立するためには、そもそも、「リンネルがほしい」と「上着がほしい」と生産者以外の人が思うのは、その人がリンネルなり上着なりに使用価値をもつからです。つまり、そこに欲しいというニーズ、欲望が発生するわけです。そこで、リンネルが欲しくて上着を作った人と上着が欲しくてリンネルを作った人が市場で出会って、それぞれ相手の持っているものが欲しい、手持ちのものと交換しようという交渉が始まるわけです。シンプルで原始的なモデルはそういうことになります。これは説明の便宜ですが、しかし、それだけでは交換は成立しません。そこで成立するためには、それぞれの交換価値が等しいということになって双方が納得して交渉が成立するわけです。片方が損するという交渉なら、損をすることになる人は、交換したいと思わないからです。そこで、リンネルと上着の価値が釣り合う必要があります。リンネルと上着のそれぞれの交換価値が等しくなるということです。それが、10エレのリンネル=W、一着の上着=2Wということです。この等式が成立するためには、前で見たように交換価値というのが一つの基準に従って、量の差で比べることができるということがあって可能となっているのです。その基準というのが、継続した労働時間です。この例であれば、リンネルという商品の抽象的人間労働の量が、上着の労働の量の半分であるということです。すなわち上着を生産するために必要な労働時間は、リンネルを生産する場合の二倍の長さの労働時間になるということです。前節の「交換価値の変動」のところでも説明されましたが、一つの商品を生産するために必要な時間が変わらないかぎり、その商品の価値の大きさも同じだということになります。ただし労働の生産力が変動すると、必要な労働時間も変動する。労働の生産力はさまざまな要因によって決定されます。とくに労働者の平均的な熟練度、科学とその技術的な応用可能性の発展段階、複数の生産過程の社会的な結合、生産手段の規模と効力、自然の状況などがその変動要因です。例えば、農産物の小麦の場合は、天候によって生産量は左右されますが、それに必要な労働時間は同じです、したがって価値はかわりませんが、豊作になれば同じ価値で大量の小麦を市場に出すことができます。

ここで、今までのことをまとめてみましょう。まず、「商品に内在する価値」という表現が実はかなりレトリカルなものであるということが言えると思います。たしかに、ある商品の価値の大きさが別の商品の使用価値の分量で表現される「交換価値」に比べれば、その商品の生産に社会的・平均的に必要だった労働によって規定される「価値」は、商品に内在的なある量として想定することができるでしょう。交換価値の場合は、どの商品の分量で表現するかによって、無数の価値表現が存在しうるからです。しかし、だからといって、価値を純粋に相対的なものとみなすことはできません。どの商品のどのような分量で表現されるのであれ、そのような表現がそもそも可能となるためには、両者に共通したある内在的な量が存在しなければならないからです。

しかし、その「内在的な量」とは自然物の量でありませんでした。それは、その商品を生産するのに社会的・平均的に必要な労働の量であって、この量そのものは商品の中に自然物として含まれているわけではありません。それは、労働がその生産にある平均値として投入されたという社会的事実の物的反映であって、商品に社会的な意味で内在していると同時に、自然的な意味ではもともと内在しているものではありません。

もし生産物を生産するのが一個の共同体だとすれば、どの生産物にどれだけの労働が投入されたかという社会的事実を、その生産物自身の「価値」として(すなわち、物の何らかの属性として)表示する必要はないでしょう。帳面に、A生産物は何時間、B生産物は何時間と表示すればよいわけです。あるいは慣習によってだいたいの労働時間が想定されていればよい。しかし、各々がばらばらに私的労働をする商品生産社会においては、社会全体の総労働時間を、その社会の諸成員が必要とする様々な生産物に対する多様な欲望の量に応じて計画的に配分することは不可能である。その生産物の生産に社会の総労働時間のどれだけが投下されたのかは、生産物が「商品」として市場に出され。その商品という「物」の価格として表示されることでしか示すことはできないわけです。しかも、その労働が本当に社会的に必要な生産物に必要な分量だけ投下されたのかどうかは、投下された時点では分からない。それが商品として実際に一定の価格で購買されることで初めて確認できるのです。

市場社会においては、ある商品を生産するのに必要だった労働の質と量とは、それ自体として社会的に組織しカウントし評価する仕組みは存在しません。ある完成品商品が市場で人々の目の前に登場して消費されるまでに、無数の人々の手がそこに関わり、無数の人々のあいだを通過している。先進国の大都市に存在するスターバックスで飲む一杯のコーヒーが出来上がるまでには、地球の裏側でコーヒー栽培に従事する農民にまで至る国際的な人々のほとんど無限の協働が必要です。これらの無数の労働はすべてそれらによってつくり出される商品という「物」を媒介にして結合しており、したがってそれらの「物」に託す形でしか、そうした労働の質と量とを評価することができません。労働の質は、消費者の欲求と基準を満たす商品の「社会的使用価値」として託され、労働の量は商品それ自身に内在する「価値」として社会的に託されるのです。

こうして、社会の諸成員の支出する社会的総労働時間が、人々の多様な必要に応じて配分されなければ社会が存続できないという法則は、その労働が各々、商品という物に内在する「価値」として物的に表現され、それが実際に交換されることで、事後的に、媒介的に解決されるのである。それと同時に、このように社会的な関係が物的に表現されることで、その本当の内実が見えなくなってしまう。商品の価値ないし交換価値という概念が独り歩きし、後からその「価値」とはいったい何であるかが探求されることになるのである。最後は、少し先走りました。 

このように上衣と亜麻布の価値においては、それぞれの商品における使用価値の違いは無視されているし、それぞれの商品に投入された有用労働の形の違い、縫製労働と織物労働の違いも無視されている。使用価値としての上衣と亜麻布においては、目的にふさわしい生産活動と布地や紡ぎ糸が結びつけられているが、価値としての上衣と亜麻布は、同種の労働が凝固したものである。それと同じようにこれらの価値に含まれる労働は、布地や紡ぎ糸を使った生産的な働きによってその意義が認められるのではなく、人間の労働力が投入されたものとして、その意義が認められるのである。

上衣と亜麻布の使用価値を形成する要因は縫製労働と織物労働であり、その性質が異なることによって意義が認められるのである。これらの労働は、上衣亜麻布の価値の実体ではあるが、それはそれぞれの労働に特殊な性質の違いが無視されて、人間労働という同等な質をもつことによってである。

ところが上衣と亜麻布は、価値一般であるだけではなく、特定の大きさをもつ価値でもある。わたしたちの想定では、一枚の上衣が10ヤードの亜麻布の二倍の価値を持つことになっていた。このような価値の大きさの違いはどこから生まれるのだろうか。それは亜麻布に含まれる労働の量が、上衣に含まれる労働の量の半分にすぎないからである。すなわち上衣を生産するために必要な労働力は、亜麻布を生産する場合の二倍の長さの時間にわたって投入する必要があるからである。

このように使用価値については、商品に含まれる労働は質的に評価されるが、価値量については、労働の質を無視して人間労働に還元した後に、量的に評価される場合には、どのような労働が、どのように行われるかが問われるが、労働が量的に評価される場合には、どれだけの量の労働が行われるか、労働が持続する時間の長さはどの程度かが問われるのである。ある商品の価値の大きさは、そこに含まれる労働の量だけによって決まるのであるから、どの商品も特定の比率のもとで、すべて等しい大きさの価値を含んでいなければならない。

ここで一枚の上衣を生産するために必要な有用労働にそなわる生産力の大きさは一定であるとしよう。その場合には上衣の価値の大きさは、その数量に比例することになる。一枚の上衣がX労働日を表現するのであれば、二枚の上衣は2X労働日を表現することになる、などなど。

次に一枚の上衣を生産するために必要な労働が、それ以前の二倍に増えるか、半分に減るとしよう。二倍に増えた場合には、一枚の上衣は以前の二枚の上衣と同じ価値をもつことになり、半分に減った場合には、二枚の上衣の価値が以前の一枚の上衣の価値しかないことになる。しかしどちらにしても上衣は[それを着る人にとって]同じ役割をはたすのであり、それに含まれる有用労働は同じ真実を保っている。ただ、上衣の生産に投入された労働の量が変動したのだ。

 

生産力の逆説

より大きい量の使用価値は、それ自体として、より大きい素材的富をなしている。二着の上着は一着の上着よりも、そうである。二着の上着は二人に着せられるが、一着の上着は一人にしか着せられないというように。それにもかかわらず、素材的富の量が増大にその価値量同時的低下が対応することがありうる。このような相反する運動は、労働の二面的な性格から生ずる。生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力が上昇または低下に比例して、より豊富な、またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働力の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。それゆえ、同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとしても、つねに同じ価値量に結果するのである。しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち、生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。それゆえ、労働の豊度を増大させ、したがって、労働の与える使用価値の量を増大させるような生産力の変動は、それが使用価値総量の生産に必要な労働時間の総量を短縮する場合には、この増大した使用価値総量の価値量を減少させるのである。逆の場合も同様である。

この第2節の最後に重要な点は、有用労働と抽象的な人間労働という労働の二面性と生産力と関係です。

ここでは、1枚の上着を生産するのに2時間の労働時間が社会的に必要です。それが、生産力が向上して、1時間で1着の上着を生産できるようになりました。そうすると、上着の生産にかかる時間は半減し、価値は時間で量られるのですから、価値は半減することになります。この場合の上着1着を生産する労働について、まず、抽象的な人間労働という観点からでは、単純に労働時間が半分の量になったということです。しかし、有用労働という観点からでは、時間は半分になっても出来上がった上着の品質は同じ、役立ち方は同じです。それは生産力が2倍になったということになります。つまり、生産力が2倍になると、上着1着を生産する労働は、抽象的な人間労働としては半分になり、上衣の価値も半減しますが、有用労働としては同じだということになります。

つぎに2時間の労働の方に着目してみると、有用労働の観点からは、以前は1着の上着しか生産できなかったのが、生産力が向上したので、2着の上着を生産できるようになりました。ところが、抽象的な人間労働の観点からは生産力が上がろうが、2時間の労働であることに変わりありません。生産力が向上しても、2時間の労働によって生み出される価値は変化しないのです。

このように、生産力との関係でみると、労働の二面的性格を把握することの必要性が分かります。もしこれを労働というひとつの見方だけで考えようとすれば、混乱してしまうことになります。

すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力で支出であって、この同等な人間労働または抽象的な人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を想定された形態での人間の労働の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。

この部分は、この節のまとめと考えていいと思います。読んでの通りのとおり分かりやすい文章ですが、注意すべき点は、労働の抽象的な人間労働としての側面がつねに価値を形成するわけではないという点です。「一方ですべての労働は、生理学的な意味で人間の労働力で投入される営みである。それは、同等の人間労働または抽象的な人間労働という特性をそなえており、商品の価値を形成する。」といっているのは、まさに 労働の抽象的な人間労働としての側面です。しかし、その後で「。他方ではすべての労働は目的に適った特定の形で人間の労働が投入される営みである。この労働は具体的で有用な労働という特性をそなえており、これが商品の使用価値を形成するのである。」として、他の面を忘れないように言い加えています。抽象的な人間労働はそれが凝縮され、生産物の属性となったときにはじめて価値を形成するのであり、抽象的な人間労働が行われただけでは価値にならない。それでは、抽象的な人間労働は、どのような条件の下で凝縮され労働生産物の属性、すなわち価値となるのでしょうか。このことは、第4節で述べられることになります。

使用価値の量が大きくなれば、素材の〈富〉もより大きくなる。二枚の上衣があれば、二人の人が着ることができるが、上衣が一枚しかなければ、一人の人しか着ることができない。などなど、しかし素材の〈富〉の量が大きくなると、同時にその価値の大きさが減ることもありうる。この対立した動きは、すでに述べた労働の二面的な性格によるものである。

生産力はつねに有用で具体的な労働の生産力であるが、実際には特定の時間の長さにおいて、目的に適った生産的な活動の効力だけを決定する。だから有用労働は、その生産力が増大すれば、これに正比例して豊富な生産源となるが、生産力が低下すれば、同じくこれに正比例して乏しい生産源になる。

これにたいして生産力の変動は、価値に表現される労働にはまったく影響を与えない。生産力は、具体的な有用労働の形式に含まれるものであるから、[交換価値において]その具体的で有用な労働が無視されてしまうと、生産力はもはや労働と関係を持つことができない。だから生産力の変動とはまったくかかわりなく、同じ労働は、同じ労働時間において、同じ価値の大きさを作りだす。しかし同じ労働は、同じ時間において、異なる使用価値を生みだす。生産力が上昇するならば多くの使用価値を作りだし、生産力が低下するならば、少ない使用価値を作りだすのである。

生産力が増大すると、労働の生産性を高めるので、その労働が生み出す使用価値の総量は大きくなる。しかしそれによって全体の使用価値の生産に必要な労働時間の総量が減少すると、この同じ変化が、増大した使用価値の総量の価値の大きさを減少させることになる。その逆もまたあてはまる。

一方ですべての労働は、生理学的な意味で人間の労働力で投入される営みである。それは、同等の人間労働または抽象的な人間労働という特性をそなえており、商品の価値を形成する。他方ではすべての労働は目的に適った特定の形で人間の労働が投入される営みである。この労働は具体的で有用な労働という特性をそなえており、これが商品の使用価値を形成するのである。

 

第3節 価値形成または交換価値

〔この節の概要〕

商品の使用価値とは他者に対する使用価値で、たとえ商品として生産された生産物であっても、常に商品となるとは限らない。こう言い直すと分かりやすいかもしれません。商品は、売主つまり生産者にとって、売ってこそなんぼです、交換されて初めて価値が生まれる。で、その売る相手である買主は、その商品に価値を認めなければ買わない。その買主が認める価値こそが、有用であるということ、すなわち使用価値です。だから、商品の使用価値は買主、つまり交換の相手という他者にとって価値ということです。これをまとめると、商品は交換されなければ価値を実現しないが、その価値の実現があってはじめて、使用価値としても実現されることになる。だから、商品というのは「これから価値になり、使用価値になるものであるともいえるが、それも売れてみなければ実は価値にも、使用価値にもならないという過程的な存在」(宇野弘蔵)と言うことができます。商品とは商品へと生成していく存在なのです。使用価値である生産物は、それが他社に対する使用価値であるがゆえに商品となる。そのように商品となることで、生産物を作りだす具体的な労働が、同時に抽象的な労働となる。その背後にあるものは、交換によって仲立ちされた関係の総体です。

商品の価値は、このようにして、関係の中で考察し直されることになります。使用価値をともなう姿で、交換関係のうちであらためて分析されることになるのです。それが第3節です。

 

〔本文とその読み(解説)〕  

商品の価値の実態

商品は、使用価値または商品体の形態をとって鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手でもあるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として、現われるのであり、言いかえれば商品という形態をもつのである。

商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろものだということによって、マダム・クィツクリとは違っている。商品体の感覚的に粗雑な対象性とは正反対に、商品の価値対象性には、一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的であるということを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現われやないということもまたおのずからあきらかである。われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。 

商品は、まず鉄やリンネルや小麦などといったありのままの自然な形態、つまり現実形態で我々に前に現われます。つまり、使用価値のあるものとして生産されます。しかし、他方で、商品は、「商品」であるためには、他者にとって使用価値のある価値の担い手である価値形態として存在します。それゆえ、商品は自然の形態である同時に価値の形態であるという二重の形態を備えることになるのです。では、商品は、どのようにして、このような二重の形態をそなえるようになったのか。それがこれから解き明かされていくことになるのですが、マルクスは、それが捉えどころがないと断ります。クィ津クリー婦人とは譬えでシェイクスピアの『ヘンリー4世』に出てくる宿屋の女将で言葉を交わさなくても以心伝心で通じてしまうという、つまり容易に伝わるということらしいです。個々の商品を手に取って、ざらざらした肌触りやずしりとした重みを、具体的に実感することは容易ですが、商品に価値については、そのように自然と実感できる要素はないわけで、だから手に取ったり、様々な角度から眺めてみたりしたりしても、捉えることはできないのです。このように、マルクスは前節を読み終えただけで、価値の実体や量について分かったと誤解している読者に冷や水をあびせようにして、釘を刺しています。

ここでマルクスは、商品の価値の現象形態、すなわち交換価値あるいは交換関係に立ち戻ることを宣言します。いわゆる価値形態論の出発点です。

商品は、鉄、亜麻布、小麦のように、使用価値の形態で、すなわち商品体として世界に登場する。これは商品の生まれながらの自然の形態である。しかしそれらが商品であるのは、それらが二重の性格をそなえているから、使用される対象でありながら、同時に価値の担い手でもあるという二重性がそなわっているからである。だから商品は、自然の形態であると同時に、価値の形態でもあるという二重の形態をそなえているかぎりで、商品なのである。

商品の価値とは実際には何であるのかは、どうにも捉えどころがなく、そこがクィツクリー夫人とは違う。商品の実態はざらざらとして感覚的な具体性をそなえているが、商品の実態はざらざらとした感覚的な具体性をそなえているが、商品の価値の実体のうちには、自然の素材はひとかけらも含まれていない。だから一つの商品をどれほどひねくりまわしても、商品を価値物として把握することはできないのである。

しかし商品に価値という実態が備わるのは、商品が人間の労働という社会的な単位の表現である場合にかぎられること、そして商品の価値の実態は純粋に社会的なものであることを想起してみれば、商品と商品の社会的な関係のうちにしか、商品の価値の実態が現われることはないのは、すぐに理解できることである。実際にわたしたちは、商品の交換価値あるいは交換比率から出発して、商品の中に潜む価値を追跡してきたのである。いまはふたたびこの価値の現象形態に戻らねばならない。

 

貨幣の謎

諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つの共通な価値形態─貨幣形態をもっているということだけは、だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知っていることである。しかし、いまここでなされなければならないことは、ブルジョワ経済学によって試みられたことさえないこと、すなわち、この貨幣形態の生成を示すことであり、したがって、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な目だたない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡することである。これによって同時に貨幣の謎も消え去るのである。

最も単純な価値関係は、明らかに、なんであろうとただ一つの異種の商品にたいするある一つの商品の価値関係である。それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。

商品は様々な使用価値をそなえていますが、それらの価値形態には共通する点があり、それが貨幣形態であるということです。そこで、貨幣形態の発生プロセスを追跡すれば、商品の価値形態を明らかにすることができるはずです。また、貨幣形態の発生プロセスを明らかにすることは貨幣の謎を解き明かすことでもあります。

誰でも知っていることですが、単なる物々交換と違って、商品の売買には値段、つまり価格をつけなければなりません。人が市場で商品を売買し合うには、あらかじめ何らかの形で商品に価格がつけられていなければならない。この価格こそが、資本主義において商品がもっている価値形態なのです。

では、なぜ商品を交換するのに価格をつけなければならないのでしょうか。それは、「商品の価値とは実際には何であるのかは、どうにも捉えどころがな」いからです。それは前節で見てきたように商品の価値というのが、抽象的な人間労働の凝縮というような、目に見えるような物質的なありかたではないからです。つまり、価値形態というのは、目で見ることのできない価値を、目に見えるように表現する形態なのです。つまり、価値を可視化し、価値に基づく商品交換を可能にするものです。

現実の資本主義社会では、この価値形態は価格の形をとっています。例えば「上着1着は○○円だ」というように貨幣で商品の価値を表します。それが貨幣による価値の表現、つまり貨幣形態です。

それでは、もっとも単純な関係から見ていきましょうと、はじめます。それは、1つの商品(商品A)と他のもう1つの商品(商品B)の関係です。この商品Aと商品Bとの価値関係がもっとも単純な価値関係です。

商品というものは、自然形態においては多彩な使用価値をそなえているが、これとは明確に対照的な共通の価値形態として、貨幣形態をそなえていることを知らない人はいない。しかしここでわたしたちは、ブルジョワ経済学がこれまで一度も試みたことのないことを実行しなければならない。この貨幣形態の発生プロセスを追跡すること、商品の価値関係のうちに含まれる価値表現を、そのもっとも単純で地味なありかたから出発して、光輝く貨幣形態にまで発展していくプロセスを跡づけることを試みるのである。これに成功すれば、貨幣の謎は解けるのである。

もっとも単純な価値関係とは、一つの商品と別の種類の一つの商品のあいだの価値関係であることは明らかだろう。別の種類の商品がどのようなものであっても、問題はない。すなわち、二つの商品のあいだの価値関係が、一つの商品にとってもっとも単純な価値表現である。

 

(A)単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態

X量の商品A=Y量の商品B。またはX量の商品AはY量の商品Bに値する。

(20エレのリンネル=1着の上着。または20エレのリンネルは一着の上着に値する。)

1.価値表現の二つの極─相対的価値形態と等価形態

相対的価値形態と等価形態とは

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。

ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。

相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに排除しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、また対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネルはけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあることを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の価値表現に材料を提供しているだけである。 

マルクスは「すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちに潜んでいる。」といいます。この単純な価値形態というのは

商品AのX量=商品BのY量。すなわちX量の商品Aが、Y量の商品Bと同じ価値をもつ。

(20エレのリンネル=上着一着。20エレのリンネルは上着一着と同じ価値を持つ)

という二つの商品の単純な交換です。しかし、この単純な交換の中に貨幣の謎もまた、この形態に隠されているに違いないのです。それだけに、この分析は一筋縄ではいかない。

商品Aと商品B─ここではリンネルと上着─は全く別の使用価値を有しています。明らかに「異なる役割をはたしている」からです。リンネルはここでみずからの価値を、自分のとは他なるもの、つまり上着によって表現しています。リンネルはリンネル自身の価値を表示することができないのです。「リンネルの価値は、他の商品によって相対的にしか表現できない」。一方で、上着はたんにリンネルの価値表現の材料として働いているに過ぎないわけです。その場合第一の商品の価値は相対的価値として表現されており、リンネルは「相対的価値形態」にあると言います。これに対して第二の商品は「等価物」として機能しているのであって、上着は「等価形態」にあると言います。つまり、他の商品によって相対的に価値が表現される側の商品(ここではリンネル)は、「相対的価値形態」にあると言い、価値表現の材料となる側の商品(ここでは上着)は、価値を表現される側の商品(リンネル)に「値するもの」としてその商品(リンネル)に等置されているので、「等価形態」にあると言います。そして、この「等価形態」にある商品(上着)のことを「等価物」といいます。

両者はリンネルと上着との価値関係にあって成り立つ一個の価値表現の中で、互いに条件付けあっている「二つの分離できない局面」ですが、同時に「たがいに排除しあい、対立しあう両極として、同じ価値表現の二つの極を構成する」のです。両者のあいだには互換的ではない関係、つまり非対称性が存在します。この非対称性は商品と貨幣のあいだの非対称性となっていくわけです。それは、本文でも「第一の商品であるリンネルは能動的な役割をはたし、第二の商品である上着は受動的な役割を果たす」と言っているように、商品の価値表現においては、主役はあくまでも相対的価値形態にある商品(リンネル)であり、この商品の価値が等価形態にある商品(上着)によって表現されます。

リンネルはただ価値としてのみ、等価物としての上着に関係することができます。他方上着は、ひとえに価値物としてだけリンネルと等置されます。「リンネルの相対的価値形態は、何か別の商品があって、それがリンネルにたいして等価形態にあることを前提としている」。リンネルが価値であることは、ただこのような「回り道」を介して表現されるほかはない。上着は、手でつかめるその「自然形態」のままに価値をあらわしており、リンネルは上着の自然形態のうちでみずからの価値を表現する。他方で、上着は「[相対的価値形態によって]みずからの価値を表現することはできない。この商品は他の商品の価値を表現するための素材となるだけである」のです。

すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちに潜んでいる。それだけに、これを分析するにはそれなりに困難なところがある。

ここでは、二種類の異なる商品AとB、わたしたちの実例では亜麻布と上衣が、二つの異なる役割をはたしているのはあきらかだろう。亜麻布はみずからの価値を上衣で表現し、上衣は亜麻布の価値を表現するための素材として役立っている。ここで第一の商品である亜麻布は能動的な役割をはたし、第二の商品である上衣は受動的な役割を果たす。第一の商品の価値は、相対的な価値として表現されており、相対的価値形態のうちにある。第二の商品は等価物として機能しており、等価形態のうちにある。

相対的価値形態と等価形態は、たがいに帰属しあい、たがいに条件づけあう二つの分離できない局面であるが、同時にたがいに排除しあい、対立しあう両極として、同じ価値表現の二つの極を構成する。これらの二つの極はつねに異なる商品に分配され、この二つの商品の価値表現をたがいに関係させる。

たとえばわたしは亜麻布の価値を亜麻布で表現することはできない。20ヤードの亜麻布=20ヤードの亜麻布というのは、価値を表現する等式ではない。すなわちこの等式はむしろ価値の表現とは反対のものを表現している。20ヤードの亜麻布は20ヤードの亜麻布であること、それが使用の対象である亜麻布の一定量であることを示しているのである。だから亜麻布の価値は、他の商品によって相対的にしか表現できない。

すなわち亜麻布の相対的価値形態は、何か別の商品があって、それが亜麻布にたいして等価形態にあることを前提としているのである。他方では等価形態として機能するこの別の商品は、同時にみずからも相対的価値形態にあることはできない。この等価形態にある商品は、[相対的価値形態によって]みずからの価値を表現することはできない。この商品は他の商品の価値を表現するための素材となるだけである。

 

その関係の逆転可能性

もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル、または一着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなればならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現れることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。

そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対の等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでのこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それともそれで価値が表現される商品であるのかということだけによって、定まるのである。

この「20エレのリンネルは上着1着に相当する」(20エレのリンネル=1枚の上着)という等式において、「20エレのリンネル」と「1着の上着」とは異なった役割を果たしています。ここでは、「20エレのリンネル」は自己の価値を「1着の上着」で表現しており、「1着の上着」は「20エレのリンネル」の価値を表現する材料になっています。「20エレのリンネル」はこの関係において能動的であり、「1着の上着」は受動的役割を演じています。ここでは、この関係は相互的なものであるから、逆から見ると、これは「1着の上着は20エレのリンネル」(1着の上着=20エレのリンネル)という等式になり、そこでは今度は「1着の上着」価値が「20エレのリンネル」によって表現され、「20エレのリンネル」は今度は「1着の上着」の価値を表現する材料になっています。しかし、そうなるためには結局、等式をひっくり返さなければならないのであり、左側の商品と右側の商品とでは異なった、対立する役割を演じていることに変わりはないということになります。これは、あくまでも、左右をひっくり返すことはできても、一つの等式で二つの商品が相互に左右両方の役割を同時に演じることはできないのです。つまり、同じ商品が、同じ価値表現のうちで、相対的価値形態と等価形態の両方の役割を担うことはできない。

もし、逆に左右をひっくり返して、「20エレのリンネル=1着の上着」であろうと、「上着1着=20エレのリンネル」であろうと、意味は変わらないというと、この等式は単に交換比率が等しいことのみを表していることになります。したがって、この等式は単に交換比率だけを表しているというだけではないといえるのです。価値形態のメカニズムについて理解するには、「20エレのリンネル=1着の上着」か、それとも「20エレのリンネル=2着の上着」かという量的比率は問題ではなく、むしろ左辺(相対的価値形態)にある商品と右辺(等価形態)にある商品との質的関係が問題なのです。

しかしこの20ヤードの亜麻布=1枚の上衣という表現、すなわち20ヤードの亜麻布は上衣1枚に相当するという表現は、その逆の関係もまた含んでいる。これは1枚の上衣=20ヤードの亜麻布、すなわち1枚の上衣は亜麻布20ヤードに相当するという表現を含んでいる。しかし上衣の価値を相対的に表現するためには、[このままの表現ではなく]等式をひっくり返す必要がある。この等式をひっくり返しさえすれば、上衣ではなく亜麻布が等価物になる。だから同じ商品が、同じ価値表現のうちで、相対的価値形態と等価形態の両方の役割を担うことはできないのである。この二つの価値形態は、二つの対局へとたがいに排除しあう。

ある商品が相対的価値形態にあるのか、それともこれと対立した等価形態にあるかは、価値形態の等式において商品がどの位置にあるかによって決定される。その商品が、他の商品によって自分の価値を表現されているのか、それとも他の商品の価値を表現しているのかによって決まるのである。

 

 

2.相対的価値形態

a)相対的価値形態の内容

〈価値物〉の役割

一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかを見つけだすためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からまったく離れて考察しなければならない。人々はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が等しいとされる割合だけを見ているのである。人々は、いろいろな物の大きさはそれらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としているのである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。  

価値表現は、価値関係をさらに論理的に解剖するなかから見出すことができるように思えます。価値表現は、それは「表現」ですから、価値が表され、見えているわけですが、しかしその見えているカラクリは直接には見えませんし分かりません。それを説明するのが「相対的価値形態の内実」というわけです。

マルクスは、単純な価値形態を、分かりやすくするために次のような等式で表しました。

X個の商品A=Y量の商品B

まず確認しなければならないのは、20エレのリンネル=1着の上着という等式は、次のような意味をもっているということです。すなわち人々の住むこの社会は、人が生きていくために必要もののほとんどを商品として生産し、それを社会的に交換することによって維持されているということです。だからこの二つの商品の等式は、そのような社会の商品交換のもっとも基本的な関係として、二つの商品が交換される関係を取り出しているということです。しかもそれは現実に存在している客観的な商品交換の関係から、それに付随するさまざまなもの、例えばそれらが資本の生産した商品であるという属性や、商品の売買にまつわる信用や、商品所有者や購買者の思惑や欲望、貨幣等々、実際に商品が交換され売買されている諸関係に付随するさまざまな諸問題はとりあえずはすべて捨象されて、とにかく商品と商品が社会的に交換されるといもっとも抽象的な関係だということです。だからそれは直接には、ある一つの商品の一定量が別の他の商品の一定量と交換されるという現実として現われているのです。これが交換関係です。それは直接にはそれぞれの一定の使用価値量の交換割合として見えているものです。

そして、二つの使用価値が交換されるということは、それらが同等であり、等置されるものであるからです。リンネルと上着が等置されるから、それらは交換可能なのであって、実際に交換されているわけです。そしてこの二つ商品が等置だという関係は、それらの価値の関係であるということです。つまり価値として両者は等しいことを意味しているということです。だから20エレのリンネル=1着の上着という等置は、リンネルと上着を両者のもつ価値の側面から観た場合の等置関係なわけです。これが、すなわち価値関係です。価値はもちろん目に見えないから、価値関係も見えません。しかし交換関係は現実の客観的な過程ですから、目に見えています。ただ等置されている関係(同等性関係)は見えても、何が等しいのかは見えていません。そして何が等しいかと言えば、それらは価値として等しいということです。だから、価値としてはリンネルと上着は同じ本質のものであるわけです。

以上を確認したうえで、本題に入りましょう。

20エレのリンネル=1着の上着、という等式はリンネルの価値が上着によって表現されているということを表しています。リンネルは、上着によって価値を表現されていることによって、価値が明らかにされ、交換可能な商品として表わされるということなのです。

ここで、マルクスが諄いほど誤解を避けようとするのは、左右両辺が等しいとしてしまうと、それは商品以前の物々交換でもありうるからです。資本主義経済でなくても余った物を互いに融通しあったり、交換しあったりしていた。たまたま、20エレのリンネルと上着1着の交換が成立したということではない、ということを念を押したと言えます。それは、前のところで等式の左辺と右辺が入れ替わることはできるとしても、それはリンネルの価値が上着によって表現されるということが、上着の価値がリンネルによって表現されるということに入れ替わることだと、敢えてことわって確認しているからも分かります。このように見ていくと、この等式の右辺は上着が充てられていますが、お金のような役割を担っているように見えます。この後ででてきますが、この右辺を価値物と呼んでいます。それはまるで貨幣です。そうです、マルクスは貨幣の登場以前として商品が交換して流通していて、その中から貨幣が生まれてきたというプロセスを考えています。商品の交換の中から貨幣が生まれてきたというのです。ここでは、貨幣が生まれてくる以前の段階、しかし、そこで商品の交換がどのように行われていたか。

20エレのリンネル=1着のリンネルであろうと、20エレのリンネル=20着の上着であろうと、または20エレのリンネル=X着枚の上着であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと、少ない上着に値しようと、このような割合は、どれでもつねに、価値量としてはリンネルも上着も同じ単位の諸表現であり、同じ性質の諸物であることを含んでいる。リンネル=上着というのが等式の基礎である。

しかし、質的に等置された二つの商品は、同じ役割を演ずるのではない。ただリンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか?リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着にたいしてもつ関係によって、である。この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上衣はリンネルと同じだからである。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。すなわち独立な表現を与えられる。なぜならば、ただ価値としてのみリンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。たとえば、酪酸は蟻酸プロピルとは違った物体である。とはいえ、両方とも同じ化学的実体─炭素(C)と水素(H)と酸素(O)とから成っており、しかも同じ百分比組成、すなわちC482をもっている。いま、かりに酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係のなかでは、第一に蟻酸プロピルはただC482の存在形態として認められているだけであろう。そして第二に酪酸もまたC482から成っていることが示されているであろう。つまり、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、酪酸の化学的実体がその物体形態とは区別されて表現されていることになるであろう。 

そこで、貨幣がまだ存在していない状態を前提として、この文章を読んでいくと分かりやすいので、そうしましょう。ある商品の価値の大きさは、貨幣が存在していないかぎり、何か他の商品を一定量として表現するしかない。というのも、価値そのものは社会的なものであって、直接には目に見えないものだからです。リンネル20エレと上着1着とが同じ労働時間(例えば1日)の産物であって、リンネルを織った者と上着を縫った者とのあいだで両者が交換されるとすると、20エレのリンネルの価値の大きさは1枚の上着に値するという等式を立てることができます。(20エレのリンネル=1着の上着)この場合、上着はその使用価値体でもってリンネルの価値の大きさを表現する役割を果たしており、事実上、貨幣のような役割を演じていることがわかります。つまり、「20エレのリンネルの値段は1着の上着である」と事実上言っているということに等しいのです。このように、ある商品の価値を別の商品体で表現することを価値形態といいます。この最も単純な価値形態のうちには、潜在的に貨幣の役割を演じている商品を等価形態にあるといい、そのような位置にある商品を等価物と言います。

この関係をもう少し詳しく見てみましょう。この等価関係の前提は、両方の商品の所持者がそれぞれ相手の商品を必要とし、それを欲していることです。だがそれはこの関係の単なる外的前提であって、ここで考えている二つの商品の関係そのものとは分けて考える必要があります。この関係そのものを理解するには商品の所持者の存在を別にします。さらに、この等価関係においてはそれぞれの商品が同じ労働時間の産物であることも前提されていることを考慮します。これは商品の価値量に関係して見るうえでは第二義的である。ある一定の貨幣量が正しく商品の価値量を表現しているにこしたことはないが、それはかなりの程度偶然であり、それよりももっと重要なのは、そもそもなぜ貨幣が商品の価値を表現することができるという質的な問題だからです。

この質的問題からすると、この「20エレのリンネルは1着の上着に値する」(20エレのリンネル=1着の上着)という等式において、「20エレのリンネル」と「1着の上着」とは異なった役割を果たしていることが分かります。ここでは、「20エレのリンネル」はそれ自身の価値を「1着の上着」で表現しており、「1着の上着」は「2エレのリンネル」の価値を表現する材料になっているということです。「20エレのリンネル」はこの関係においてし能動的であり、「1着の上着」は受動的役割を演じているとも言えます。もちろん、この交換は相互的なものであるから、逆から見ると、これは「1着の上着は20エレのリンネルに値する」(1着の上着=20エレのリンネル)という等式になり、そこでは今度は「1着の上着」の価値が「20エレのリンネル」によって表現され、「20エレのリンネル」は今度は「1着の上着」の価値を表現する材料になっています。しかし、そうなるためには結局、等式をひっくり返さなければならないのであり、左辺の商品と右辺の商品とでは異なった、対立する役割を演じていることに変わりはないわけです。

われわれが、価値としては商品は人間労働の単なる凝固である、と言うならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、しかし、商品にその現物形態とは違った価値形態を与えはしない。一商品の他の一商品にたいする価値関係のなかではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品にたいするそれ自身の関係によって現われてくるのである。

たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。ところで、たしかに、上着をつくる縫製は、リンネルをつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、還元するのである。

このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを縫製から区別する特徴をもってはいないということ、つまり抽象的人間労働であるということが、言われているのである。ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するからである。 

ここで第1節で述べられていた「商品は価値としては、たんに人間の労働が凝固した物とみなすにすぎない」がでてきます。ここで年ためにおさらいをしておきましょう。これ大事なことですから。この「人間の労働が凝固した物」とは何でしょうか。文字通り抽象的な人間労働が物理的に凝固する(固まって固体化する)ということはありえません。実際の労働は、家具労働は木材をもちいて家具を作り上げるだろうし、紡績労働は糸を紡いで織物を織るというように、その個別の具体的労働の結果として物質的な生産物が形成されます。しかし、抽象的な人間労働はそうではありません。それは、労働の具体的形態が取り除かれた、たんなる人間の労働力の支出という意味での労働であり、労働の結果である生産物には痕跡を残しません。実際、家具や織物を見ても、その生産にどれだけの労働が支出されているは分かりません。では、そのような労働の凝固物とは何を指すのでしょうか。べつのところで、「人間労働の凝縮物という幻想的な実態にすぎない」とマルクスは言っています。「幻想的」と「実態」と矛盾するような語が一緒になって戸惑うところがありますが、凝縮物というのが幻想的という物理的な実体を持たないでいて、実在する労働生産物の属性となっているというもの。つまり、人間の労働の凝固物というのは、抽象的な人間労働、すなわちその生産物の属性にどれだけのその労働が支出されているかという幻想的で目に見えない(一見で、はっきりと分からない)ものが、生産物という実在的なものがもつ属性となっているということです。人間の労働力がどれだけ支出されているのかという「社会的な実体」が結晶化し、労働生産物の属性になっている。このような抽象的な人間労働の凝縮物が、どの商品にも存在する共通なもの、すなわち価値なのです。どの商品も、その生産に支出された労働力に対応する価値をもっており、この価値の大きさがどれだけかで商品の交換比率、すなわち交換価値となることになります。そういう意味で、「商品は価値としては、たんに人間の労働が凝固した物とみなすにすぎない」という言葉が引用されているわけです。

商品の価値の量は継続した労働時間で計ります。商品の価値は自然の形態により生じるのではなく、そうであれば、リンネルと上着の形態は質的に異なるので、等号でイコールにすることはできないはずです。それに対して、商品を労働というプロセスで生成された結果として、そのプロセスの量、つまり時間で価値を計るというのは、時間ということで両者を揃えるので、そこで自然な形態などを捨て、抽象化すると言えます。さらに、リンネルをつくる織物労働と上着をつくる縫製労働は労働の具体的内容が異なりますか、労働時間に抽象化することで共通の尺度を得ることができることになります。このように迂回することで、はじめて20エレのリンネル=1枚の上着という等号が成り立つのです。そして、労働時間という抽象化は、織物労働と縫製労働の関係だけに限らす、商品をつくる労働一般に共通するということになります。それは逆に、織物労働も縫製労働も労働一般という共通に括られるということになります。これは、前節で見た労働の二重性の議論につながります。織物労働や縫製労働は、具体的な有用労働です。これに対して抽象的な一般労働は労働一般として括られた労働ということになります。

二つの商品の価値関係のうちに、ある商品の単純な価値表現のどのように潜んでいるかを見つけだすためには、この二つの商品の価値関係について、その量的な側面をまったく無視して考察する必要がある。ところが多くの場合、その逆のことをするので間違えるのである。価値関係のうちに、二つの種類の商品の特定の量が、たがいに等しいとされる関係のほうに注目してしまうのだ。この関係に注目してしまうと、異なる事物の量を比較するためには、まず異なる物の大きさを同じ単位に還元しなければならないことが見逃されてしまう。異なる物は同じ単位によって表現されなければ、同じ分母を持ち、たがいに通約できる大きさにならないのである。

20ヤードの亜麻布=1枚の上衣であろうと、20ヤードの亜麻布=20枚の上衣であろうと、20ヤードの亜麻布=X枚の上衣であろうと、すなわち特定の量の亜麻布の価値が、何枚の上衣の価値と等しいにせよ、それらの比率はつねに、亜麻布も上衣も価値の大きさとしては同一の単位を表現するものであり、同一の本性をそなえものであることを、暗黙のうちに想定しているのである。亜麻布=上衣、これがこの等式の基礎である。

しかしこの二つの商品は[同じ単位を表現するものとして]質的には同じものであるとしても、同じ役割をはたしているのではない。亜麻布の価値だけが表現されているのだ。それはどのように表現されているだろうか。「等価物」である上衣と関係することによって、みずからを「交換可能な商品」である上衣と関係することによってである。

この関係において上衣は、価値の存在形態として、価値物としての役割をはたしている。上衣はこうした価値物としてのみ、亜麻布と〈同じもの〉なのである。他方でこの関係において亜麻布は、独自の価値をもつものであることが明らかになり、自立的な表現を獲得する。というのは、独自の価値をもつものであることが明らかになり、自立的な表現を獲得する。というのは、独自の価値をもつものでなければ、亜麻布は同等な価値をもつ上衣と、すなわちみずからと交換可能な商品である上衣と関係することができないからである。

たとえば酪酸は蟻酸プロピルとは違う物質であるが、どちらも炭素C、水素H、酸素Oという同一の化学物質で構成され、しかもこれらの化学物質の比率は同じC482である。ここで酪酸が蟻酸プロピルと等しいとされるならば、この関係式では蟻酸プロピルはたんにC482の存在形態とみなされ、酪酸もまたC482という組成であることが示されるのである。だから蟻酸プロピルを酪酸と等しいと考えることで、酪酸の化学物質はその物質形態とは違う形で表現されるのである。

わたしたちが、「商品は価値としては、たんに人間の労働が凝固した物とみなすにすぎない」と語るときには、わたしたちは分析しながら、その商品を価値という抽象物に還元しているのである。ただし商品の自然の形態とは異なる価値形態を、その商品に与えているわけではい。ところがある商品を他の商品との価値関係において考察するときには、事情が異なる。ある商品は他の商品と固有な関係を結ぶことによって、その商品の価値という性格があらわになるのである。

たとえば価値物としての上衣が亜麻布に等置されると、上衣のうちに潜んでいた人間の労働が、亜麻布のうちに潜んでいた人間の労働に等置されるのである。上衣を製造する縫製労働は、亜麻布を製造する織物労働とは異なる種類の具体的な労働である。しかし縫製労働は織物労働と等置されることによって、実際にこの二つの労働のうちにそなわる人間労働という共通の性格に還元されるのである。

この迂回路をめぐることで、次のように語ることができるようになる。織物労働もまた、製品に価値を織り込むものとして、縫製労働から区別されるような指標はそなえていないのであり、どちらも抽象的な人間労働なのである。異なる種類の商品を等価なものと表現することによって、初めて価値を形成する個々の労働の独自な性格があらわになる。それはこの等価表現によって、異なる種類の商品に潜んでいる種類の人間の労働を、実際にそれに共通するもの、すなわち人間労働一般に還元するからである。

 

価値を形成する労働

しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。課題はすでに解決されている。

リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルと質的に等しいもの、同じ性質のものとして認められるのは、上着が価値であるからである。それだから、上着はここでは、価値がそれにおいて現われる物、または手でつかめるその現物形態で価値を表わしている物として認められているのである。ところで、上着は、上着商品の身体は、たしかに一つの単なる使用価値である。上着が価値を表わしてはいないことは、有り合わせのリンネルの一片が価値を表わしていないのと同じことである。このことは、ただ上着がリンネルとの価値関係のなかではそのそとでよりもより多くを意味しているということを示しているだけである。ちょうど、多くの人間は金モールのついた上着のなかではそのそとでよりも多くを意味しているように。

前のところで、「わたしたちが、「商品は価値としては、たんに人間の労働が凝固した物とみなすにすぎない」と語るときには、わたしたちは分析しながら、その商品を価値という抽象物に還元しているのである。ただし商品の自然の形態とは異なる価値形態を、その商品に与えているわけではい。ところがある商品を他の商品との価値関係において考察するときには、事情が異なる。ある商品は他の商品と固有な関係を結ぶことによって、その商品の価値という性格があらわになるのである。」とマルクスは書きました。商品の価値は自然の形態により生じるのではなく、そうであれば、リンネルと上着の形態は質的に異なるので、等号でイコールにすることはできないはず。つまり、商品はそのままの物質的な姿では価値として通用することはできない。そこで他の商品との関係、つまり他の商品と交換できるという関係が明らかになって、はじめて価値物として通用することができるようになるのです。その関係というのが「20エレのリンネル=1着の上着」という式です。リンネルが上着に対してそれを等価物として、あるいは自身と交換できるものとして関わることで価値を表している。20エレのリンネルという相対的価値形態は、1着の上着という等価的価値形態で表される。それで、この単純な価値関係では、20エレのリンネルと1枚の上着との交換が成立する。このリンネルの交換価値は、等号が示している通りに上着の使用価値の分量で表されるということになるのです。「リンネルとの価値関係において上着はリンネルと質的に等しいものとして、同じ性質のものとして表現されているのは、上着が価値を示すものだからです。具体的に分かりやすく言えば、商棚に並ぶ20エレのリンネルに「1着の上着」という値札をつけるとうことです。この値札は、普通は「1万円」というように金額が示されているものです。ここでの「1着の上着」は「1万円」という金額、価格と同じような位置づけ、つまり、価値を表しているというわけです。

ここで、20エレのリンネルの価値を1着の上着で表すためには、両方の価値が等しいということがはっきりしていなければなりません。そこには両者に共通の尺度が必要です。そこで、商品を労働というプロセスで生成された結果として、そのプロセスの量、つまり時間で価値を計るというのは、時間ということで両者を揃えるので、そこで自然な形態などを捨て、抽象化させる。さらに、リンネルをつくる織物労働と上着をつくる縫製労働は労働の具体的内容が異なりますか、労働時間に抽象化することで共通の尺度を得ることができる。ということです。

市場社会においては、ある商品を生産するのに必要だった労働の質と量とは、それ自体として社会的に組織しカウントし評価する仕組みは存在しません。ある完成商品が市場で人々の目の前に登場して消費されるまでに、無数の人々の手がそこに関わり、無数の人々のあいだを通過している。例えば、先進国の大都市に存在するスターバックスで飲む一杯のコーヒーが出来上がるまでには、地球の裏側でコーヒー栽培に従事する農民まで至る国際的な人々のほとんど無限の協働が必要です。これらの無数の労働はすべてそれらによってつくり出される商品という「物」を媒介にして結合しており、したがってそれらの「物」に託す形でしか、そうした労働の質と量とを評価することができないのです。労働の質は、消費者の欲求と基準を満たす商品の「社会的使用価値」として託され、労働の量は商品それ自身に内在する「価値」として社会的に託されるわけです。こうして、社会の諸成員の支出する社会的総労働時間が、人々の多様な必要に応じて配分されなければ社会が存続できないということは、その労働が各々、商品という物に内在する「価値」として物的に表現され、それが実際に交換されることで、事後的に、媒介的に、解決されることになるわけです。

しかし亜麻布の価値を作りだしている労働に固有の価値を作りだしている労働に固有の性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は価値を形成するが、それは価値そのものではないからである。人間労働が価値となるのは、凝固した状態になり、対象としての[物的な]形態をまとうことによってである。亜麻布の価値を人間労働が凝固したものとして表現するためには、亜麻布の価値を、ある状態において表現する必要がある。この価値の実態は、亜麻布とは物的に異なるものであり、しかも他の商品とも共通したものである。この課題はすでに解決されている。

亜麻布との価値関係において上衣は亜麻布と質的に等しいものとして、同じ性質のものとして表現されているのは、上衣が価値を示すものだからである。ここで上衣は価値が姿を現す物として、価値が手でつかめるような自然の姿を示す物として機能しているのである。ところで上衣は上衣という商品の身体であり、たんなる使用価値である。一枚の上衣も、任意の長さの亜麻布も、それ自体では価値を表現しない。ここから明らかになるのは、上衣は亜麻布との価値関係の内部では、その価値関係の外部でより多くのことを意味しているということである。それは[礼服として]飾り紐つきの上衣を着用した人間が、それを着用していないときよりも、多くのことを意味しているのと同じである。

 

〈価値身体〉

上着の生産では、実際に、縫製という形態で、人間の労働力が支出された。だから、上着のなかには人間労働が積っている。この面から見れば、上着は「価値の担い手」である。といっても、このような上衣の属性そのものは、上着のどんなにすり切れたところからも透いて見えるわけではないが。そして、リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、したがってただ具体化された価値としてのみ、認められるのである。ボタンまでかけた上着の現身にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである。とはいえ、リンネルにたいして上着が価値を表わすということは、同時にリンネルにとっての価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。たとえば、個人Aが個人Bにたいして王位にたいする態度をとるということは、同時にAにとっては王位がBの姿をとり、したがって顔つきや髪の毛やその他なお多くのものを国王が替わるごとに取り替えることなしには、できないのである。

こうして、上着がリンネルの等価物となっている価値関係のなかでは、上着形態は価値形態として認められる。それだから、商品リンネルの価値が商品上着の身体で表わされ、一商品の価値が他の商品の使用価値で表わされるのである。使用価値としてのリンネルは上着とは感覚的に違った物であるが、価値としてはそれを「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。このようにして、リンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。リンネルの価値存在が上着とその同等性に現われることは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊とその同等性に現われるようなものである。

上着の使用価値は裁縫労働という有用労働によってつくり出されました。だから上着という生産品は労働の蓄積された結果で、いわば「物」として身体、つまり実体をそなえたものです。その価値の実体は、たとえ上着が着古されても損なわれるようなものではありません。そういう上着をリンネルとの「20エレのリンネルは上着1着に相当する」という価値関係において、リンネルに対して<価値身体>という役割を果たしているといいます。

先の例での、20エレのリンネルに1着の上着という値札をつけて価値を表した際には、上着の方は自らに値札をつけることがなくても、その物質的な姿のままで、いきなり価値物として通用することができます。上着は値札を貼ることなくリンネルを購入することができるわけです。なぜなら、このような価値表現では、上着はリンネルと交換できるものという性質をリンネルから付与されているからです。それだからこそ、上着はリンネルの価値を自身の身体で表すことができる。「上着がリンネルにたいしてその価値を表現するときには、リンネルにたいしてその価値を表現するときには、リンネルにとっての価値は上着という姿をとっている必要がある。」というのは、まさにリンネルは自らにつけた値札に1着の上着と書き込み、上着に自身の等価物としての性質、つまり交換できるものという性質を与え、これによって上着を価値身体として、この価値を体現する上着の使用価値によって、自らの価値を表している、ということをいっているのです。

リンネルの交換価値は上着の使用価値が表している。20エレのリンネルが、たとえAさんが織ったものでも、Bさんが織ったものでも、1着の上着という価値の実体が、その交換価値を表していることで、同じように1枚の上着と同じ価値のものと交換することができる。そういう機能を備えていると言えます。それを、商品としてのリンネルの価値は、商品としての上着の価値身体によって表される、と言います。

つまり、みずからでは表現されえないリンネルの価値は、上着という一定量の使用価値そのものがリンネルの価値である、という回り道を経てはじめて表現することができるからです。このようにして20エレのリンネルの価値表現がリンネルの所有者の手で上着の所有者とは関係なく与えられることになれば、これに対応して上着の所有者は、いつでも一着の上着をもってこの20エレのリンネルと交換することができることになります。

上衣の生産においては、実際に縫製労働という形で、人間の労働力が支出された。だから上衣のうちには、人間の労働が蓄積されているのである。この観点から見ると上衣は、[価値の担い手]である。しかし上衣が価値の担い手であるという性質は、その上衣が着古されて糸目が見えるようになったとしても、そこから透けて見えるようなものではない。そして亜麻布との価値関係においては、上衣はただこの側面だけにおいて、すなわち身体をもった価値、〈価値身体〉としての役割だけをはたすのである。上衣がどれほどボタンを留めて[よそよそしい姿で]登場したところで、亜麻布は上衣のうちに、同じ生まれの〈美しい価値〉という魂がそなわっていることを認めたのである。

それでも上衣が亜麻布にたいしてその価値を表現するときには、亜麻布にとっての価値は上衣という姿をとっている必要がある。たとえば個人Aが、国王である個人Bに恭しくふるまうことができるのは、個人Aにとって陛下という称号が、同時にBの肉体の姿をとっているからである。そして陛下の顔つきも、頭髪も、その多くの特徴も、国王が代わるたびに新たなものとなるからである。

上衣が亜麻布の等価物として登場する価値関係においては、上衣の形態が価値形態として機能する。だから商品としての亜麻布の価値は、商品としての上衣の身体によって表現されるのである。すなわちある商品の価値は、他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としての亜麻布は、上衣とは感覚的に異なるものであるが、価値として考えるかぎりは、亜麻布は「上衣と同類のもの」なのであり、上衣と同じように見えるのである。だから[この関係においては]亜麻布は、その自然の形態とは異なる価値形態をうけとるのである。亜麻布の価値としての存在は、亜麻布が上衣と同等の価値をもつとされることで姿を現す。それは、キリスト教徒は神の子羊に等しいと語られることで、その羊としての本性が姿を現すのと同じである。

 

商品語

要するに、さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、いまやリンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは自分の思想をリンネルだけに通ずる言葉で、つまり商品語で、言い表わすだけである。労働は人間労働という抽象的属性なおいてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいとされるかぎり、つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成っている、と言うのである。自分の高尚な価値対象性が自分のごわごわした肉体とは違っているということを言うために、リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては上着にそっくりそのままである、と言うのである。ついでに言えば、商品語もまたヘブライ語のほかになお多くの、もっと正確な、またはもっと不正確な方言をもっている。たとえば、ドイツ語の“Wertsein”(値する)は、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表わすには、ロマン語の動詞valere, valer, valoirよりも適切ではない。Paris vait bien une messe!(パリはたしかにミサに値する!)

こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bの身体に関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値はこのように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。

さて、「20エレのリンネルは上着1着に相当する」という単純な価値関係において、上着の価値は等価的価値形態で、価値身体の働きをしているわけです。これに対してリンネルの方は、マルクスは上着の身体に対して言葉に譬えて「商品語」だと言います。「わたしたちは「人間労働という抽象的な特性をもつ労働が、リンネルの価値を作りだす」と表現するが、リンネルはこう語るだけである。「上着は、リンネルと等価のものとされるかぎりで価値であり、リンネルと同じ労働によって作られたのである」。そしてわたしたちのように「リンネルの崇高な価値の実態は、リンネルのごわごわした身体性は異なる」と語る代わりに、リンネルは「価値は上着として姿を現し、価値物としてのリンネルは、一つの卵が他の卵と区別できないように、上着と同じものである」と語るのである。」つまり、これまで客観的に説明されてきたことは、交換の場におけるリンネルの立場であれば、相手に対してリンネルの価値は、自身によってつくられもので、上着と同じ程度のものである、ということになる。マルクスは、それを商品語として、リンネルの自己認識であるかのように置き換える。それが相対的価値形態の表れ方です。

なお、マルクスは註で、「ある意味では人間でも商品と同じことが起きている。人間は誰も鏡を手にして生まれてこないし。フィヒテ派の哲学者のように、「われはわれなり」と言って生まれてくるわけでもないので、誰もがまず他人を鏡として映しだしてみるものである。人間ペテロは自分と同類の人間であるパウロとの関係によって、初めて人間としての自己自身とかかわるのである。そしてペテロにとってパウロは、その皮膚と髪をそなえたパウロとしての身体のままで、人間という〈類〉が現象する形態としての意味をもっているのである」といって、商品も人間も同じように見ている、彼の基本的な視点といえるかもしれません。 

マルクスは「相対的価値形態の内実」という項目の冒頭で、価値形態のメカニズムについて理解するには、「20エレのリンネル=1着の上着」か、それとも「20エレのリンネル=2着の上着」かという量的比率は問題ではなく、むしろ左辺(相対的価値形態)にある商品と右辺(等価形態)にある商品との質的関係が問題だと述べています。それゆえ、両辺の量的比率を捨象し、「リンネル=上着」という等式にもとづいて考察を行っていくことになります。

さて、この「リンネル=上着」という関係において、リンネルはどのように自分の価値を表現しているでしょうか。「リンネルが上着にたいしてそれを自分の「等価物」、あるいは自分と「交換できるもの」とするようにして関わることによって」です。

抽象的な言い方なので難しく感じられると思いますが、値札をイメージすればそれほど難しくありません。「リンネル=上着」という価値表現においては、リンネルは自分の価値を表現するために自分に値札をはり、この値札に「上着」と書き込みます。このような価値表現は、あくまでリンネルの側がリンネルの側が能動的に行うものであり、実際の上着はそこに存在していなくても、値札に「上着」とペンで書き込みさえすれば行うことができます。そのことを通じてリンネルは上着に対してある一定の性質を与えていることになります。それは、「自分(リンネル)の等価物」であり、それゆえ「自分(リンネル)と交換できるもの」であるという性質です。

じっさい、リンネルに貼り付けられた値札に上着と書かれているケースを想定すれば、上着によってこのリンネルを入手することができるということは直感的に理解できると思います。このことをより論理的に捉え直してみると、リンネルは自らの価値を表現するために値札に上衣と書き入れることによって、上着に「自分(リンネル)と交換できるもの」という性質を与えていることになるのです。

続いて、このような価値表現が行われるのであれば、上着は価値を持っている物、すなわち「価値物」として通用することができると言います。これはどういうことでしょうか。

一般的に、商品はそのままの物質的な姿で価値として通用することはできません。商品が持っている価値は純粋に社会的なものであり、目には見えないからです。それこそがまさに、価値表現が必要となるゆえんです。

しかし、価値表現において値札に書き込まれた側の商品、この場合で言えば上着にはこのことはあてはまりません。この場合、上着は自らに値札を貼ることなく、その物質的な姿のままで、いきなり価値物として通用することができます。言い換えれば、値札を貼ることなく上着が持っている価値の力を用いて、リンネルを手に入れることができます。というのも、この価値表現においては、上着はすでにリンネルによって「リンネルと交換できるもの」という性質を与えられているからです。すなわち、ここでは、上衣はリンネルに対してその交換力、すなわち上衣がもつ価値の力を直接に発揮することを認められています。これによって上着は自らに値札を貼ることなく、「価値の存在形態として、価値物として通用する」ことができるのです。

したがって「リンネル=上着」という価値表現においては、上着はその物質的な姿、すなわちその現物形態のままでいきなり価値として通用することができるわけですから、「上着はここでは、価値がそれにおいて現れる物、あるいは、その手でつかめる現物形態で価値を表している物として通用する」ということになります。マルクスは、ここでの上着のように、その現物形態のままで価値を体現する存在になったもののことを「価値体」と呼んでいます。リンネルは、まさにこの価値体によって自らの価値を表現しているのです。つまり、リンネルは、価値を体現するものとなった上着の現物形態、上着の使用価値によって自らの価値を表現しているということになります。

このように、亜麻布が他の商品、たとえば上衣とかかわりをもつようになると、わたしたちの商品の価値の分析でこれまで語られてきたのと同じことを、亜麻布がみずから語りだす。ただし亜麻布は自分の考えを、自分で語ることのできる言葉、すなわち商品語で、密かにもらすだけである。わたしたちは「人間労働という抽象的な特性をもつ労働が、亜麻布の価値を作りだす」と表現するが、亜麻布はこう語るだけである。「上衣は、亜麻布と等価のものとされるかぎりで価値であり、亜麻布と同じ労働によって作られたのである」。そしてわたしたちのように「亜麻布の崇高な価値の実態は、亜麻布のごわごわした身体性は異なる」と語る代わりに、亜麻布は「価値は上衣として姿を現し、価値物としての亜麻布は、一つの卵が他の卵と区別できないように、上衣と同じものである」と語るのである。

ここで注意しておきたいのは、商品語は[ユダヤ人の語る]ヘブライ語たけでなく、正確さには多少の違いはあっても、地方語も話すということである。ドイツ語の価値としての存在よりも、ロマンス語系の[価値を示す]動詞である[イタリア語の]ヴァレーヌ[スペイン語の]バレール、[フランス語の]ヴァロワールのほうが、商品BをAに等置するということが商品Aの価値表現であることを、巧みに言い表している。「パリはミサに値する」のである。

このように価値関係に媒介されることで、商品Bの自然の形態が商品Aの価値形態になる。あるいは商品Bは商品Aの価値鏡になると言うべきかもしれない。商品Aは、価値身体であり、人間労働を受肉した商品Bとかかわることで、使用価値である商品Bを、みずからの価値を表現する材料にするのである。商品Aの価値はこのようにして商品Bの使用価値で表現されることで、相対的価値形態をもつのである。

 

b)相対的価値形態の量的な規定性

価値形態の表現するもの

その価値が表現されるべき商品は、それぞれ与えられた量の使用対象であって、15ブッシェルの小麦とか100ポンドのコーヒーとかいうものである。この与えられた商品量は一定量の人間労働を含んでいる。だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値すなわち価値量をも表現しなければならない。それゆえ、商品Aと商品Bにたいする価値関係、リンネルの上着にたいする価値関係のなかでは、上着という商品種類がただ価値身体一般としてリンネルに質的に等置されるだけではなく、一定のリンネル量、たとえば20エレのリンネルに、一定量の価値体または等価物、たとえば1着の上着が等置されるのである。

「20エレのリンネル=1着の上着、または、20エレのリンネルは1着の上着に値する」という等式は、1着の上着に、20エレのリンネルに含まれているのとちょうど同じ量の価値実体が含まれているということ、したがって両方の商品量に等量の労働または等しい労働時間が費やされているということを前提する。しかし、20エレのリンネルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は、織布または裁縫の生産力の変動につれて変動する。そこで次にはこのような変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響をもっと詳しく研究しなければならない。

少し、今までのおさらいをして確認してみましょう。リンネルはこの場合、上着という使用価値を異にする他の商品によってみずからの価値を相対的に表現します。これに対して、上着はその使用価値によってリンネルの価値を表現し、リンネルにとっての等価物としての役を果たしているということから、商品としてのリンネルは「相対的価値形態」の地位にあり、上着は「等価形態」の地位にあるといます。もちろんリンネルも上着も、それぞれ価値と使用価値との二要因をもっています。ただし、ここでは商品としてのリンネルの価値が表現される仕方が問題になっているので、リンネルの価値に対して上着の使用価値が対置される。リンネルの所有者にとって、一定量の上着の使用価値がリンネルの価値物であるとして表わされることになります。すなわち、みずからでは表現されえないリンネルの価値は、上着という一定量の使用価値そのものがリンネルの価値である、という回り道を経てはじめて表現することができることになります。このようにして20エレのリンネルの価値表現がリンネルの所有者の手で上着の所有者とは関係なく与えられることになれば、これに対応して上着の所有者は、いつでも一着の上着をもってこの20エレのリンネルと交換することができることになります。

そこでは、商品価値として相手に表されるのは20エレのリンネルというように、使用する特定の量としてです。この量こそは人間の労働が凝固したものによるわけで、したがって価値の量的な大きさを表してもいるわけです。この価値の大きさの現実の変動が、価値の大きさの相対的な表現や、相対的な価値の大きさに、どのように関係しているか、それは、前節で検討した有用労働と抽象的な人間の労働という二重性と生産力の関係とほぼ重なるような様相を呈します。それをマルクスは4つのケースを想定し、詳細にシミュレーションをしてみせて、明らかにしています。

価値が表現されるべきすべての商品は、特定量の使用対象である。たとえば15ブッシェルの小麦、100重量ポンドのコーヒーなどである。この与えられた商品の量には、特定の量の人間労働が含まれている。だから価値形態は価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさを表現していなければならない。商品Aと商品Bの価値関係、たとえば亜麻布と上衣の位置関係においては、上衣という種類の商品が、価値身体一般として、亜麻布という商品に質的に等置されるだけではない。一定の量の亜麻布(たとえば20ヤード)にたいして、特定の量の価値身体または等価物(たとえば上衣1枚)が等置されるのである。

この等式「20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、あるいは20ヤードの亜麻布と同じ量の価値実体が潜んでいることを前提にしているのであり、この二つの商品の量には、同じだけの労働あるいは同じだけの労働時間が費やされているのである」

ただし20ヤードの亜麻布あるいは1枚の上衣を生産するために必要な労働時間の長さは、縫製労働や織物労働の生産力の変動にともなって変動する。そこでこのような変動が、価値の大きさの相対的な表現に及ぼす影響について、さらに詳しく考察する必要がある。

 

片方の価値が一定の場合

T。リンネルの価値が変動するが、上着価値は不変だという場合。リンネル生産に必要な労働時間が、例えば亜麻を産する土地の不毛度の増進のために、2倍になれば、リンネルの価値は2倍になる。20エレのリンネル=1着の上着 に代わって、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。というのは、1着の上着いまでは20エレのリンネルの半分の労働時間しか含んでいないからである。これに反して、リンネルの生産に必要な労働時間が、たとえば織機が改良によって、半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。したがって、今度は、20エレのリンネル=0.5着の上着 となる。つまり、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表わされた商品Aの価値は、商品Bの価値が同じであっても、商品Aの価値に正比例して上昇または低下するのである。

U。リンネルの価値は不変のままあるが、上着価値は変動するという場合。このような事情のもとで、たとえば羊毛刈取りの不出来のために上着の生産に必要な労働時間が2倍になれば、20エレのリンネル=1着の上着 に代わって、いまでは、20エレのリンネル=0.5着の上着 となる。逆に上着の価値が半減すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となる。それゆえ、商品Aの価値が同じままであっても、商品Aの相対的な、商品Bで表わされた価値は、Bの価値変動に反比例して低下または上昇するのである。

TとUに属するいろいろな場合を比べてみれば、相対的価値の同じ量的変動が正反対の原因から生じうるこが分かる。そこで、20エレのリンネル=1着の上着 が(1)20エレのリンネル=2着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が2倍になるかまたは上着の価値が半分に減るからであり、また(2)20エレのリンネル=0.5着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が半分に下がるか上着の価値が2倍に上がるかするからである。

両方ともに変動する場合

V。リンネルと上着との生産に必要な労働量が、同時に、同じ方向に同じ割合で変動することもありうる。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変化していても、やはり 20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値の変わっていない第三の商品と比べてみれば、すぐ見いだされる。かりにすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するとすれば、諸商品の総体的価値は不変のままであろう。諸商品の現実の価値変動は、同じ労働時間でいまでは一般的に以前よりもかなり多量かまたはより少量の商品が供給されるということから知られるであろう。

W。リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれらの価値が、同時に同じ方向にではあるがしかし同じでない程度でとが、その他いろいろな仕方で変動することがありうる。考えられるかぎりのすべてのこの種の組合せが一商品の相対的価値に及ぼす影響は、TとUとVの場合の応用によって簡単にわかる。

こういうわけで、価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値の大きさには、明確に一義的に反映されることはないし、あますところなく反映されることもない。ある商品の相対的な価値は、その商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。そして最後に、その商品の価値量とこの価値量の相対的表現とに同時に生ずる変動が互いに一致する必要は少しもないのである。

ここでは、1着の上着を生産するのに2時間の労働時間が社会的に必要です。それが、生産力が向上して、1時間で1着の上着を生産できるようになりました。そうすると、上着の生産にかかる時間は半減し、価値は時間で量られるのですから、価値は半減することになります。この場合の上着1着を生産する労働について、まず、抽象的な人間労働という観点からでは、単純に労働時間が半分の量になったということです。しかし、有用労働という観点からでは、時間は半分になっても出来上がった上衣の品質は同じ、役立ち方は同じです。それは生産力が2倍になったということになります。つまり、生産力が2倍になると、上着1着を生産する労働は、抽象的な人間労働としては半分になり、上着の価値も半減しますが、有用労働としては同じだということになります。

つぎに2時間の労働の方に着目してみると、有用労働の観点からは、以前は1着の上着しか生産できなかったのが、生産力が向上したので、2枚の上着を生産できるようになりました。ところが、抽象的な人間労働の観点からは生産力が上がろうが、2時間の労働であることに変わりありません。生産力が向上しても、2時間の労働によって生み出される価値は変化しないのです。

このように、生産力との関係でみると、労働の二面的性格を把握することの必要性が分かります。もしこれを労働というひとつの見方だけで考えようとすれば、混乱してしまうことになります。

一。上衣の価値が一定であるのに、亜麻布の価値が変動すると考えよう。たとえば[亜麻布の素材である]亜麻を栽培する土壌の収穫力が低下したために、ある量の亜麻布を生産するために必要な労働時間が2倍に増えたとしよう。その場合には亜麻布の価値も2倍になる。20ヤードの亜麻布=1枚の上衣ではなく、20ヤードの亜麻布=2枚の上衣となる。今では1枚の上衣には、20ヤードの亜麻布の半分の労働量しか含まれていないからである。これとは逆に、たとえば織機が改善されて、同じ量の亜麻布を生産するために必要な労働時間が半分に減ったとしよう。その場合には亜麻布の価値は半減し、20ヤードの亜麻布=0.5枚の上衣になる。商品Aの相対的な価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が一定の場合には、商品Aの価値に正比例して増減する。

二。亜麻布の価値が一定であるのに、上衣の価値が変動すると考えよう。この場合にはたとえば羊毛の刈り入れが難航して、上衣の生産に必要な労働時間が2倍になると、20ヤードの亜麻布=1枚の上衣ではなく、20ヤードの亜麻布=0.5枚の上衣になる。反対に上衣の価値が半分に低下すると、この等式は20枚の亜麻布=2枚の上衣になる。すなわち、商品Aの価値が一定の場合には、商品Bで表現される商品Aの相対的な価値は、Bの価値変動に反比例して増減することになる。

この一と二で考察した二つの場合を比較すると、相対的な価値の大きさの同じ変動が、正反対の原因から生じうるこが分かる。すなわち同じ20ヤードの亜麻布=1枚の上衣の等式から出発して、次の二つの場合が可能なのである、第一に亜麻布の価値が2倍になるか、上衣の価値が半分に低下すると、20ヤードの亜麻布=2枚の上衣の等式が成立する。第二に亜麻布の価値が半分に低下するか、上衣の価値が2倍に増加すると、20ヤードの亜麻布=0.5枚の上衣の等式が成立するのである。

両方ともに変動する場合

三。亜麻布と上衣の生産に必要な労働の量が、同時に、同じ方向に同じ比率だけ増減すると考えてみよう。この場合には、亜麻布と上衣の価値がどれほど変動したとしても、20ヤードの亜麻布=1枚の上衣で変化はない。だし価値が変動しなかった第三の製品と比較するならば、亜麻布と上衣のそれぞれの価値が変動していたことが明らかになる。すべての商品の価値が同時に同じ比率で増減する場合には、それらの相対的な価値は一定のままであろう。その場合には、どの商品においても、同じ労働時間で供給される商品の量が前よりも多かったか、少なかったかということから、すべての商品において実際に価値の変動があったことが確認できるのである。

四。亜麻布と上衣のそれぞれの生産に必要な労働時間が、そしてそれらの価値が同時に、同じ方向で、だし異なる比率で変動するが、反対の方向で変動した場合を考えてみよう。このような場合に特定の商品の相対的な価値に対して発生しうるすべての可能な組み合わせについては、これまでの一から三までの事例を適用すればすぐに理解できるだろう。

このように、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的な表現にも、相対的な価値の大きさのうちにも、一義的に反映されることはないし、あますところなく反映されることもない。ある商品の相対的な価値は、その商品の価値が一定であっても変動することがありうる。その商品の価値が変動しても、その相対的な価値が一定のままであることもありうる。さらに商品の価値の大きさと、この商品の価値の大きさの相対的な表現の両方が同時に変動したとしても、この二つの変動が一致するとは限らない。

 

3.等価形態

価値等価物のはたす役割

すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特なに価値形態、等価物という価値形態を押しつける。リンネル商品がそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接に交換されうるものだということによって、表現するのである。したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。

「20エレのリンネルは上着1着に相当する」という単純な価値関係において、リンネルは自身の価値を自身で表すことはできず、自身以外の商品である上着の使用価値によって表している。リンネルという商品が価値のある存在であることが明らかになるのは、上着と等価であるとみなされる場合です。それはつまり、上着がリンネルと直接交換できるということによって、リンネルは自らが価値ある存在であることを表しています。

上着の価値は等価的価値形態で、価値身体の働きをしているわけです。

すでに見たように、リンネルは上着を値札に書き込み、自らの等価物であり、自らと交換できるものであるという性格を上着に与え、それを「価値体」にすることによって自分の価値を表現するわけですが、このとき、上着は自らに値札を貼ることなく、いきなり自らが持つ価値という力を発揮することができるという特別な性質を獲得します。この特別な性質のことを、ここでは「他の商品と直接に交換できることを示す形態」と言い表しています。

この「他の商品と直接に交換できることを示す形態」は等価形態にある商品(値札に書き込まれた商品)、すなわち等価物だけがもつことができる性質です。逆に、相対的価値形態にある商品、この場合でいえば、リンネルはこのような性質をもっていません、「リンネル=上着」という価値表現においては、上着によってリンネルを手に入れるということは必ず可能ですが、リンネルによって上着を手に入れることは必ずしも可能ではありません。この価値表現においては、上着の持ち主がそれによってリンネルを手に入れようとしたときにだけ交換が成立するからです。このことは、私たちが日常的に目にしている価値表現において、たとえば「おにぎり1個=100円」という価値表現がなされている場合に、100円によっておにぎりを買うことは必ずできるが、逆におにぎりによって100円を手に入れる、すなわちおにぎりを売るということが必ずできるわけではない、ということを思い起こせば、容易に理解できるでしょう。

ですから、等価形態にある商品、すなわち等価物は、ふつうの商品にように単に価値という交換力をもっているというだけではなく、その交換力を直接に発揮することができるという交換力をもっているというだけではなく、その交換力を直接に発揮することができるという特別の力はもっているということになります。逆に、相対的価値形態の側にある商品は、価値という交換力を持っていますが、この価値を等価物によって表現することによってしか交換可能な形態をとることができないので、この交換力直接に発揮することはできません。あくまでも、等価物の持ち主が相対的価値形態にある商品を入手しようとしたときだけ、その交換力を発揮することができる、ということになります。

ある一つの商品種類、たとえば上着が、別の一商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役だち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという特別な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとが交換されうる割合けっして与えられてはいない。この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にはかかわりなく、規定されている。しかし、商品書類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられてはいない。この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量として現れるだけである。

たとえば、40エレのリンネルは「値する」─なにに?2着の上着に。商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまた一定の価値量リンネルを表現するに足りるのである。したがって、2着の上着は40エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれはそれ自身の価値量を表現することはけっしてできないのである。価値等式における等価物は、つねに、ただ、ある物の、ある使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相な理解は、ベーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至られたのである。そうではなく、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。 

上着がリンネルと直接交換できるということによって、リンネルは自らが価値ある存在であることを表しています。しかし、ここで交換の比率が示されているというのではない。「この交換比率は上着の価値の大きさによって決まるのである。」と言っています。たしかに、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式が成り立つには、社会的に一般化された抽象的な人間の労働という共通の尺度で、継続する労働時間が等しいということを根拠にして、価値の大きさについて等号が成立したわけです。しかし、いったん等号が成立し、リンネルの価値を上着で表すことになると、上着はその物質的な姿、ここでは「1着の上着」という現物形態がそのままいきなり価値として通用することができることになります。「上着という使用価値は、リンネルにたいして価値身体として機能するのであるから、リンネルの一定の価値の量を表現するには、一定の量の上着で十分である。」と言っているように、リンネルの価値の価値は、上着という〈価値身体〉によって表現される。具体的にいうと、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式から、「20エレのリンネル」は「1着の上着」という単位がひとつという価値の大きさです。そもそも等価形態に置かれた商品である上着は、一定量の価値を持っているからこそ、等価物に置かれたのですが、しかしリンネルの価値表現においては、自身の価値を表すのではなく、ただ相対的価値形態にあるリンネルの価値を表す材料になるだけです。だから等価形態にある上着の価値そのものは、そもそもリンネルとの価値等式においては何も表されていないわけです。だからもともと価値が表されていないのですから、その価値の量も表されていないのは、ある意味では当然ともいえます。しかしでは上着の価値量はリンネルの価値表現においては何の関係もないかというとそうではありません。20エレのリンネルの価値量は、上着の使用価値の一定量、たとえば「1着」の上着という形で表されているわけです。ここで「1着」というのは、上着の使用価値の量的表現ですが、それによってリンネルは、自身の価値を量的に表現しているわけです。それは上着の使用価値そのものがリンネルの価値を表しているからです。だから上着の使用価値の量がリンネルの価値の量を表すことになるわけです。しかし上着が「1着」であるか、それとも「2着」であるかは、リンネルの価値が与えられているなら、上着のリンネルの価値量によって決まってきます。しかし、リンネルの価値量の相対的表現においては、上着はただその使用価値の量的規定性しか持たないのです。つまり、等価形態にある上着の価値量は、リンネルの価値量の相対的表現においては、規定的に関係しているが、リンネルの価値量の表現そのものには直接には表れてこないわけです。

この倍の価値の大きさは「1着の上着」が2単位に相当するリンネルの価値ということになります。したがって、等価物である上着は、自身の価値量として表現される形態を持ちません。ということは、上着は一定量の自然的形態でリンネルの一定量の価値量を表していることと裏腹です。仮に、ここで上着が価値量を表す形態をもっていたら、リンネルの価値形態は上着があらわし、その上着の価値形態を表すものがあり、そうすると、その価値形態をあらわすものが、というように無限後退に陥ってしまうことになりかねません。すなわち上着はリンネルの価値等式において等価物の役割をはたし、価値身体として認められているので自身の価値量としての表現形態を持つことはできないし、持つ必要もないというわけです。したがって「ある商品の等価形態は、決して量的な価値の規定を含まないのである。」といっているわけです。この時、リンネルの価値は上着の1着2着でというように表されることになります。

すでに確認したように、商品A(亜麻布)はその価値を。異なる種類の商品B(上衣)の使用価値で表現することによって、商品Bに等価物の形態という独自の価値形態をおしつけたのだった。亜麻布という商品が価値のある存在であることが明らかになるのは、上衣がそれ自身の身体形態と異なる価値形態をそなえることなく、亜麻布と等価であるとみなされる場合である。つまり上衣が亜麻布と直接に交換できることからこそ、亜麻布は実際にみずからが価値のある存在であることを表現する。このようにある商品の等価形態は、その商品が他の商品と直接に交換できることを示す形態なのである。

上衣のような商品が、亜麻布のような他の商品にたいして等価物として役立つとしても、そして上衣が亜麻布と直接に交換できることを示す形態をそなえているという特別な性格をそなえるようになったとしても、それによって上衣が亜麻布と交換される実際の比率が与えられることは決してない。亜麻布の価値は与えられているのだから、この交換比率は上衣の価値の大きさによって決まるのである。

上衣が価値等価物となり、それで亜麻布の相対的な価値が表現されるか、亜麻布が価値等価物となり、それで上衣の相対的な価値が表現されるかにかかわらず、上衣の価値の大きさは、その商品を生産するために必要な労働時間の長さによって決定される。したがってその価値形態とは独立して決められるのである。しかし上衣という商品の種類が、価値表現において等価物の位置をひきうけたとたんに、上衣の価値の大きさは、価値の大きさとして表現されることはなくなる。この商品の種類は、価値の等価関係を示す数式においては、ある一定量の物の大きさを示す機能をはたすだけなのである。

たとえば40ヤードの亜麻布は、何に「値する」だろうか。これは2枚の上衣に値するのである。ここで上衣という商品の種類は、等価物としての役割をはたしている。上衣という使用価値は、亜麻布にたいして価値身体として機能するのであるから、亜麻布の一定の価値の量を表現するには、一定の量の上衣で十分である。だから2枚の上衣は40ヤードの亜麻布の価値の大きさを表現することはできるが、自分自身の価値の大きさを表現すること、すなわち上衣の価値の大きさを表現すること決してできない。価値等価物は、価値の等式においてつねにある物やある使用価値のたんなる量の形態を示すだけなのである。ベイリーはこの事実を表面的に解釈したので、先行する経済学者たちや、彼に追随する経済学者たちと同じように、価値表現のうちにたんなる量的な関係しかみいださないという過ちを犯したのである。ところが反対に、ある商品の等価形態は、決して量的な価値の規定を含まないのである。

 

等価形態の第一の特性

等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。

商品の現物形態が、価値形態になるのである。だが、よく注意せよ。この取り替えが一商品B(上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A(リンネルなど)が商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。すなわち、他の商品の現物の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。

ここからは、等価形態の三つの独自性について述べられています。まず、「使用価値がその反対物の、価値の現象形態になる」という第一の独自性から見ていきましょう。

「使用価値がその反対物の、価値の現象形態になる」とはどういうことでしょうか使用価値というのは、それ自体が直接的なものです。つまり直接目に見える感覚的なものとして存在しています。上着ならば着るということだろうし、リンネルならば服を縫う素材にするといったことです。しかし価値はそうしたものではありません。使用価値のように目に見えるものではない。しかし、それにも関わらず、価値が目に見えるように現れたものとして、使用価値の直接性を備えてしまったということです。だから使用価値の直接的なあり方がそのまま価値の直接的なあり方になっています。しかし、それは、あくまでも上着の使用価値がリンネルの価値の直接的な目に見えるあり方なっているのであって、上着の使用価値が上着の価値の直接的なあり方になれるわけではありません。そしてそのためには上着の使用価値が価値の形態になるという入れ替わりがそこには生じなければならないわけです。もちろん、入れ替わりといっても上着の使用価値そのものは何も変わっていないのです。ただそのままの使用価値にリンネルの価値の現象形態という新たな役割が付け加えられるだけなのです。しかしその付け加えられた新たな形態規定においては、上着の使用価値は、ただリンネルの価値の現象形態であるという役割しか持たされず、上着の使用価値自体に存在している他のさまざまの属性−−例えば羊毛でできていて着心地がよいといったこと−−はそこでは直接には問題になっていません。少し面倒な説明になってしまいました。端的に言えば、これまで何度も述べてきたこと、つまり、リンネルは自らの価値を表すには、等価物である上着によって、ということ。このとき上着の使用価値、つまり生まれながらの価値が、リンネルとの価値関係をつくると、リンネルの価値を表すことになるということです。

ここで述べられている問題は、等価形態の不可解さです。すなわち、等価形態にある商品、すなわち等価物が「直接的交換可能性」を、「生まれながらにもっているかのように見える」という問題です。この不可解さは「リンネル=上着」という最も単純な価値表現の中からすでに見て取れるのだ、とマルクスは言います。

「リンネル=上着」という価値表現において上着がリンネルに対する価値形態となるのは、この価値表現においてリンネルが上着に対してそれと自分と「交換できるもの」とするようにして関わっているからにほかなりません。ですから、上着はあくまでこの価値表現の内部でだけ価値形態となることができるのです。しかし、そうであるにもかかわらず、生まれながらにして自然と価値形態となっているように見えてしまうのです。なぜでしょうか。

どのような商品も、自身に対して等価物として関係することはできないのであり、したがってまた、生まれながらにして自身の価値を表すことができないのです。それゆえに、他の商品を等価物として自分自身の価値を表さなければならないのです。つまり、リンネルの側は自らの価値を表現するために上着を必要とします。これに対して、上着の側は、いったんこの価値表現が成立しさえすれば、自分に値札を貼ることなく、生まれながらの姿で自然と価値形態表すことができます。しかも、この時、等価物として作用する上着の生まれながらの姿は表すとの関係から生じるわけではありません。だからこそ、上着が価値表現のなかで生まれながらの姿で発揮する力を、上着の生まれながらの姿と区別することが困難になるのです。それはまた、後程展開される物象化論につながっていくものです。

ちなみに、ここで使用価値を自然の〈皮膚〉と表現していますが、これは使用価値が直接的なものであるのに対して、価値は内在的なものであるということを具体的なイメージで示すものではないかと思います。つまり使用価値は物の表面に顕れていて直接目に見えるものであるということで、それを身体の表面を覆っている皮膚に譬えているわけです。それに対して価値は内在的なもので、直接には見えず、だから皮膚に覆われて見えなくされているものというイメージで捉えられているわけです。

等価形態を考察すると明らかになる第一の特性は、使用価値が、その反対物である価値の現象形態になるということである。

商品の自然の形態が、価値形態になるのである。ここで注意が必要なのは、この位置の交替は、ある商品B(上衣、小麦、鉄など)にとっては、その商品に対して他の任意の商品A(亜麻布など)が向きあう価値関係のうちだけで発生するということである。いかなる商品も、みずからを価値等価物とすることはできないから、ある商品はみずからの価値を表現するために、みずからの自然の<皮膚>を使うことはできない。すなわちその商品は等価物の役割をはたす他の商品との関係にはいる必要がある。これは他の商品の自然の<皮膚>を、自分の価値形態として利用しなければならないということである。

 

度量衡の実例

このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。もしこの両方のむ物に重さがないならば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。両方を秤の皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものでもあるということが、実際にわかるのである。鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。

この等価形態の第一の特性(使用価値がその反対物である価値の現象形態になる)を分かりやすく説明するために、商品を量り売りするために、商品そのものの量を計る場合を考えてみましょう。例えば商品としての角砂糖を量り売りするために、使用価値としての角砂糖そのものの量を計る必要がありますが、それを考えてみるわけです。ます、商品としての角砂糖もやはり物体だから重さがあります。だからその重さで商品としての角砂糖の量、つまりその使用価値の量を計ることができるわけです。しかし角砂糖の重さは角砂糖だけを見ているだけでは、見たり感じたりすることはできません。だから使用価値としての角砂糖の量をその重さで計るためには、まずその角砂糖の重さそのものを目に見えるような形で表し、その上で、買い手が自分自身の目でその量がどれぐらいかを確認できるように、計って見せなければなりません。買い手は自分の目で確認しない限り、これは幾らの角砂糖だと一方的に言われても信用出来ないわけです。だからどうしても目に見えない角砂糖の重さを、目に見えるようにして、その上でその量を買い手の目の前で計って見せる必要があるわけです。

そこで、売り手は天秤計りを持ち出して、一方の皿に一定量の角砂糖を乗せ、他方の皿にあらかじめ確定されている分銅を乗せて、その釣り合いを見ながら計るところを見せるわけです。こうして買い手は角砂糖の重さを、よってその使用価値の量を自分の目で確認して納得して買うことが出来るわけです。その分銅が鉄で出来ているとするなら、それもやはり単なる鉄の固まりであり、鉄も物体としては、それだけを見ていても、やはり角砂糖と同じで、その重さを見たり感じたりすることは出来ません。つまり鉄も、やはり重さが目に見えるような形で顕れている物とはいえないのです。

しかし、それにもかかわらず、買い手はその鉄片によって、角砂糖の重さが目に見えていると感じ、使用価値としての角砂糖の量がそれによって計ることが出来たと納得するわけです。どうしてそうなっているのか、それが問題です。それは天秤ばかりで一方の角砂糖と他方の分銅とが釣り合っていることを買い手は確認したからです。この場合、角砂糖と分銅とは重量として同じである、つまり重量として等置の関係にあることを示しています。天秤ばかりは、この二つの物体が、互いの重さにおいて釣り合っていることを目に見える形で表しているのです。売り手は、天秤ばかりによって二つの物体を重量関係においたのです。

したがって、この重量関係において、鉄片は、重さ以外の何ものをも表さない物体とみなされているのです。さまざまな量の鉄片は、角砂糖の重量の尺度として役立つのです。そしてその場合は、鉄片は角砂糖に対して、ただ単に重さそのものの姿として、重さが目に見える形で顕れたものとして役立っています。つまり重さの現象形態を代表しているのです。鉄片が、こうした役割を演じるのは、ただ角砂糖とか、それ以外のその重量を表そうとするものが、この鉄片に対してとる関係、すなわち重量関係のなかだけのことです。もちろん、両方に重さがないなら、両方を天秤ばかりに乗せることも出来ないし、だから重量関係に置くことも出来ません。だから一方を他方の重さの表現として役立てることも出来ないわけです。

両方を天秤ばかりの皿に乗せるなら、それらが釣り合い、それらは重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであることが、実際に目に見える形で分かります。この場合、角砂糖の重さそのものが鉄片の個数として具体的に目に見える形で顕れているのです。鉄の固まりが重量の尺度としては角砂糖に対して、ただ重さだけを代表して、それを目に見える形で表しているのに対して、われわれの価値表現においては上着がリンネルに対して、ただ価値だけを代表し、それを目に見える形として表しているのです。

これはあくまで喩え話です。鉄は自然的属性である「重さ」を代表しています。相対的価値形態は、リンネル商品の価値をその使用価値とは区別されたもの、「上着に等しいもの」として表現する形態です。

ここで、マルクスはリンネルが自身の価値を上着によって表すとしたときのことを、重さをはかる度量衡に譬えて説明しようとした。ここで用いられている譬えは、角砂糖の重さを鉄で量るというものでしたが、角砂糖だけを見ても重さは判然としないので、角砂糖と鉄を秤に乗せて、角砂糖の重さを量ります。この時の鉄は佐藤の重さを自らの物質的な量で表示するという役割を果たします。つまり、角砂糖と鉄を秤の両天秤に乗せて、鉄が分銅の役目をするというイメージです。鉄と角砂糖は、このような関係にあって初めて、鉄はここで説明している分銅の働きをするのです。ここでは、角砂糖の重さを量ることができるのは、鉄との関係が成り立っているからで、鉄がなければ量ることができない。ここでの鉄は角砂糖との関係の限りでは、重さを表すだけの存在です。同じように、上着の身体がリンネルにとって、価値だけを代表するというのです。

これは度量衡の実例を考えてみると分かりやすい。度量衡は商品の<身体>にたいして、すなわち使用価値のとしての商品体に適用されるものである。1個の角砂糖は物体であるから重いのであり、重量をそなえている。しかし角砂糖の中にその<重量>というものをみいだしたり、手探りして探しだしたりすることはできない。そこで、あらかじめ重量が決められている小さな鉄の塊を利用しようとするのである。鉄の身体形態は、それだけ考察してみれば、角砂糖の身体形態と同じように、重さの現象形態ではない。しかし角砂糖の重さを表現するためには、わたしたちは角砂糖を鉄との重量関係をのうちに置くのである。この関係において鉄の塊は、重量のほかに何も表現しない一つの物体の役割を果たす。この関係において鉄の塊は、角砂糖の重量を測定する尺度として役立ち、角砂糖の物体身体にたいして、たんなる重さの姿として、重量の現象形態を代表するのである。

鉄は角砂糖との関係に入るときだけに(その重さを調べる必要があれば、角砂糖でなくてもどんな物体でもかまわない)、この役割をはたすのである。両方の物体に重さがなければ、どちらもこの関係のうちに入ることはできない。片方が他方の重さを表現するために役立つこともできないだろう。実際に、両方の物体が秤の皿で釣り合うならば、それらが重さとして同じものであり、それぞれの量が互いに同じ重量のものであることが分かるだろう。ここで鉄の身体が角砂糖にとって重量の尺度として、重さだけを代表するのと同じように、前記の価値表現においては、衣の身体が亜麻布にとって、価値だけを代表するのである。

 

等価形態の謎

とはいえ、類似はここまでである。鉄は棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している─、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。

ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。等価形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめて彼のブルジョワ的に粗雑な目を驚かせるのである。そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目線を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。彼は、20エレのリンネル=1着の上着というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎をとかせるものだということには、気づかないのである。

特定の物としての使用価値に包まれた社会的実体としての価値を直接に量る手段は存在しません。交換するに際して、二つの商品の妥当な交換割合は、無数の諸交換行為を通じて徐々に社会的平均値として確定されていくものです。そうだとすれば、商品交換者たちは、お互いの所有物である諸商品がそれぞれ相手の欲望を満たすかどうかという問題に加えて、そもそも自分の商品が他の諸商品に対してどれくらいの交換割合が妥当であるのかを、事前には分からない、という困難に直面することになります。それゆえ、「20エレのリンネル=1着の上着」という関係において、もし、片方が「あなたの上着1着は私のリンネルの10エレに値する」という価値関係を一方的に宣言したとして、これに対して上着仕立職人の方は「いやいやあなたのリンネルの30エレは私の上着1着にしか値しない」と言い張るかもしれない。これはいわば、それぞれの商品所持者が自己の商品を一方的に等価物として扱おうとしているわけです。等価物という規定は能動的になしうる自己規定ではなく、社会的に付与された受動的で共同的な規定である。どの商品所持者も自己の商品を恣意的等価物することはできないのです。

これもまた商品に内在する使用価値と価値との矛盾の現われなのですが、上記の場合とは性質を異にしているものです。上記では、無差別な価値と矛盾している「使用価値」は、特定の欲望を特定の量だけ満たすものとしての側面から見た使用価値、すなわち「効用としての使用価値」でした。だが、第2の場合に価値と矛盾している「使用価値」は、どんな効用を満たすのであれ、それが感覚的に粗雑な物的形態を持っているという側面から見た使用価値、すなわち「現物形態としての使用価値」です。商品は価値としては労働時間の一定量の凝固物でしかないのですが、使用価値としては単なる具体的な「物」でしかなく、そのどこにも価値としての分量が表示されているわけでもないのです。社会的な実体としての価値には年輪のようなものはなく、物としての商品をどんなに調べても、その商品の価値の大きさが分かるわけではありません。それは商品に社会的に内在していると同時に、自然的には何ら内在していない。それゆえ、それを商品の生産物としての具体的姿から読み取ることは不可能です。前記の例で言えば、角砂糖の重さは目に見えないので、鉄と比べることで、つまり鉄の重さで見える化するわけです。それが価値の表現ということです。

実際のところ、相対的価値形態も価値が目に見えるように現れるのですが、この場合は、例えばリンネルの価値をリンネルの身体やその諸属性とはまったく違った、別の商品の身体やその物的属性によって、例えば上着なら上着の自然属性によって表すのだから、商品と商品との社会的関係において現れてくることが分かります。だからそれらの価値関係の背後に社会的関係が潜んでいることが暗示されているのです。しかし等価形態についてはそれが逆になっているのです。というのも、等価形態の場合、等価物である上着のそのあるがままの姿、その自然形態そのものが価値を表しており、だから上着そのものが、生まれながらに価値の形態を持っているかのように見えるからです。もちろん、等価形態にある上衣が直接価値を表すのは、リンネルとの価値関係のなかでのみ認められることであり、上着の表している価値というのは、リンネルの価値であって、上着の価値ではないのです。ところが、自然形態そのものが価値を表しているから、価値が、上着自身の自然属性であるかに見えてしまうというのです。それは、ある物の諸属性というのは、ある物が他の物との関係から生じるのではなくて、ただ他の物との関係のなかで確認されるだけであるから、等価形態にある上着が価値を表すということも、あるいは直接的交換可能性の形態も、同じように上着の自然属性、例えば重さがあるとか、保温に役立つといった属性と同じように、生まれながらに持っているもののように見えてしまうというからです。

つまり等価形態にある商品は、その自然形態そのものが価値の形態として認められ、それによってその使用価値のままに、そのままで自らの価値を表す商品とは直接に交換可能なものとして通用するわけだから、そうした諸属性が、本来は相対的価値形態にある商品との価値関係のなかでのみ生ずるものであるのに、あたかも等価形態にある商品が生まれながらに持っている他の自然属性と同じようなものとして見えてしまうということです。というのは物の属性というのは等価形態のように他の物との関係で初めて生じるというような性格のものではないから、等価形態の諸属性も価値関係を離れても、等価形態に置かれた商品自体が自然に持っているもののように見えるのだということです。

これが等価物の謎です。

しかし類似しているのもここまでである。鉄は角砂糖の重量表現において、両方の物体に共通の自然の特性、すなわちそれらの重さを代表する。しかし上衣は亜麻布の価値表現において、二つの物[自然の特性ではなく]超自然的な特性、すなわち価値を代表するのであり、この価値は純粋に社会的なものなのである。

ある商品、たとえば亜麻布の相対的価値形態は、その価値の存在をその物体やその物体の特性とはまったく異なるものとして、たとえば上衣に等しいものとして表現する。このことによってこの表現そのものが[自然的なものではなく]社会的な関係を含んでいることが暗示されているのである。等価形態についてはその逆のことが言える。上衣のような商品体は、その物が物であるかぎりで価値を表現しているのであり、[上衣としての]生まれつきの価値形態をそなえている。そしてまさにこれによってこの等価形態が成立するのである。たしかにこれは、商品としての亜麻布が、等価物としての上衣に関係づけられる価値関係のうちだけで成立するものである。しかしある物の特性は、他の物との関係によって生まれるものではなく、そのような関係の中で確認されるだけである。だから上衣もまた、重みがあるとか、着ると暖かいなどという[商品体の]特性と同じように、等価形態、すなわち他の商品と直接に交渉できるという特性を、生まれつきそなえているようにみえるのである。

ここに等価形態の謎めいた特徴がある。この形態が貨幣という完成した姿を示すようになると、経済学者のブルジョワ的な粗雑なまなざしの注意をひくのである。そのときになって初めて経済学者は、金や銀の神秘的な性格を解明しようと試みる。ただしそのやり方と言えば、金や銀のような輝きをあまりそなえていない粗野な物質を登場させて、かつて商品の等価物の役割を演じたことのある[貝殻などの]粗野な物質のカタログを最新のものにすることに、自己満足をかんじるのである。彼は、20ヤードの亜麻布=1の上衣というきわめて単純な価値表現のうちに。すでに等価形態の謎をとくための鍵が潜んでいることに気づかないのである。

 

等価形態の第二の特性

等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される縫製は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。リンネルの価値表現では、縫製の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくることにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。このような価値鏡をつくるためには、縫製そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。

縫製の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。こういうことは、なにも神秘的なことではない。ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。たとえば、織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置させられるのである。

だから、具体的な労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。

第1節及び第2節で見たように、どんな種類の労働も抽象的な人間の労働という共通の性質をもっており、この抽象的な人間の労働が商品のもつ共通の性質、すなわち価値の実体をなしていました。このこと自体は特に難しいことではありません。ところが、「商品の価値表現においては、事態がねじ曲げられてしまう」とマルクスは言います。

ここでは、亜麻布が上着を価値身体とすることによって自らの価値を表現するわけでから、これを労働の側から見れば、織布が抽象的人間労働という一般的属性において価値を形成するということを示すためには、まず、上着を生産する裁縫という具体的労働を「抽象的人間労働の手でつかめる実現形態」、すなわち裁縫というその具体的形態のままで抽象的人間労働を具現する存在にしなければならない、ということになります。すなわち上着が価値身体となったように、それを生産する裁縫労働もまたその具体的形態のままで抽象的人間労働としての意味しかもたないものとなるということです。これが等価形態の第二の独自性です。

詳しく、見ていきましょう。

等価形態として役立つ商品の身体、例えば上着の商品体は、価値体として認められます。すなわちその自然形態が価値の形態、価値が具体的な形をとって目に見える物として現れたものとして認められています。上着の具体的な現物形態が価値の形態として、だから無差別な人間労働が対象化したもの、抽象的な人間労働がそこに具体的に凝固しているものとして、認められるのです。しかし他方で、上着という物を形作っているのは、抽象的な人間労働ではなくて、一定の有用な具体的な労働、つまりは裁縫労働なのです。だからここでは、この具体的な有用労働が、抽象的な人間労働が具体的な姿をとって現れているものになっているわけです。すなわちその表現になっているのです。上着の物的形態が、抽象的な人間労働がその物的姿をとって自らを現わし実現したものと認められるなら、実際には上着を形作っている裁縫労働が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるわけです。リンネルの価値表現では、上着の使用価値は、ただリンネルの価値を具体的に表すという役割だけが問われているだけで、上着の使用価値本来の有用性は何も問われていません。だから上着の使用価値を形作る裁縫労働の有用性も、上着の使用価値本来の有用性を形作る側面は何も問題にされずに、ただリンネルの価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働、つまり抽象的な人間労働の凝固であるという物体をつくるという面だが問われているわけです。

リンネルの価値表現では、上着の身体がリンネルの価値鏡になります。そして価値鏡としての上着の身体を作るためには、裁縫労働そのものは、抽象的な人間労働であるという属性以外の何も反映してはならないのだというのです。これは裁縫労働に抽象的な人間労働がその内的契機として含まれているということではありません。裁縫労働という具体的な労働が抽象的な人間労働そのものの反映なのだということなのです。つまり裁縫労働が抽象的人間労働という目に見えない内的なものが外的な物として現れた実現形態としてあるということなのです。

われわれは「第2節 商品に表される労働の二重性」の最後のパラグラフで、〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する〉と言われていたのを知っています。ここで言われていることはこのことです。すなわち、裁縫労働も織布労働も、労働力が支出され、だからどちらも人間労働という一般的な属性を持っている。だからある場合には、すなわち価値生産という場合には、労働の一般的な属性において考察され、使用価値生産の場合には、労働の具体的な属性から考察される。こういうことには神秘的なことは何一つないわけです。ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまいます。織布労働がその一般的属性、すなわち無差別な人間労働一般という属性においてリンネルの価値を形成するということを表現するために、この織布労働に対して、リンネルの等価物である上着を生産する裁縫労働が、その具体的な労働の形態のままで、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として現れ、対置されなければならないのです。裁縫という具体的な労働が抽象的人間労働が現実に目に見えるものとして現れ出たものとみなされるのです。

等価物の役割をはたす商品の身体は、つねに抽象的な人間労働を受肉したものという意味をそなえており、つねに特定の有用で具体的な労働の産物である。そこでこの具体的な労働は、抽象的な人間労働を表現するものとなる。たとえば上衣がたんに抽象的に人間労働を表現するものだとすれば、実際に上衣において実現された縫製労働は、抽象的な人間労働がたんに現実のものとなったものであることになる。亜麻布の価値表現における縫製労働の有用性は、その労働が衣服を作り、したがって[それを着る]人間[の性格の表現]を作るということにあるのではなく、その衣服において、それが人間の労働が凝固したものであることが理解できる一つの〈身体〉を作ることにある。この労働は、亜麻布の価値のうちに対象化された労働とまったく区別できない。このような価値鏡を作りだすために、縫製労働はその抽象的な特性としての人間の労働の他には何も表現してはならないのである。

縫製労働においても、人間の労働力が投入される。どちらの労働も、人間労働という一般的な特性をそなえているのであり、価値の生産などの特定の場合には、この観点からしか考察できない。ここには何も神秘的なところはない。しかし商品の価値表現においては、状況は歪んだものとなる。たとえば、織物労働が織物という具体的な形式においてではなく、人間労働という一般的な特性のもとで亜麻布の価値を形成しているという状況を表現するためには、亜麻布の等価物[としての上衣]を生産する具体的な労働である縫製労働が、抽象的な人間労働がわかりやすく実現された形式として対置させられることになる。

だから等価形態の第二の特性は、具体的な労働が、その反対物である抽象的な人間労働の現象形態になるということである。

 

等価形態の第三の特性

しかし、この具体的な労働、縫製が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的形態にある労働なのである。それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。

第3の独自性は、「具体的な労働がその反対物である抽象的な人間の労働の現象形態」になっているということです。例えば、「リンネル=上着」という価値表現がなされていることを前提した場合、上着を生産する裁縫労働の場合は、商品を生産する労働であるかぎり、織布と同じように、裁縫もまた私的労働であることに変わりありません。しかし、この場合、その生産物である上着が価値身体としての機能を持っているので。それを生産した結果、裁縫労働もまた、「直接に社会的な形態がそこにある労働」だということになります。すなわち、「リンネル=上着」という価値表現がなされていることを前提するなら、裁縫は私的労働でありながら、直接に社会的に通用することができ、無駄になることはけっしてありません。なぜなら、その生産物である上着は直接的交換可能性をもっており、その価値の力を発揮して、必ずリンネルリンネルを手に入れることができるからです。

ですから、裁縫という具体的労働が、「抽象的人間労働の手でつかめる実現形態」となるということの意味をより具体的に把握すれば、この価値形態の中では裁縫は直接に抽象的な人間労働を代表するものとして通用し、それゆえ直接に社会的に通用することができる形態を獲得しているということに他なりません。

もちろん、リンネルを織る織布労働も抽象的人間労働という属性をもっていますが、織布という具体的な形態のままでは抽象的人間労働として社会的に通用することはできません。織布に限らず、私的労働である限り、一般に、どんな種類の具体的労働もその現物形態のままでは社会的なものとして認められません。資本主義社会では、私的労働の生産物を市場にもっていき、交換することによってしか、その私的労働が社会的に通用することができるかどうかを確かめる術はないのです。ですから、私的労働は生産物がもつ交換力、すなわち「生産物に対象化された抽象的人間労働=価値」においてはじめて社会的に通用する形態を獲得することができます。

しかし、この価値もまた、そのままでは社会的に通用することができず、価値形態をとらなければなりません。これまでの例で言えば、リンネルの価値は上着の現物形態によって表現されなければなりません。この価値表現によって、ようやく織布労働は、間接的(価値及び価値形態という媒介をつうじて)であるとはいえ、社会的に通用することができる形態を与えられるのです。マルクスはこのとき、等価物を生産する裁縫労働が、相対的価値形態にある商品を生産する労働と同じように私的労働でありながら、直接に抽象的人間労働として、直接に社会的なものとして通用するという独自性をもっているのだ、と述べていることになります。とはいえ、ここで裁縫労働が直接的に社会的に通用するといっても、それはあくまでも上着が等価形態を獲得した結果にすぎず、裁縫自身は依然として私的労働であることには注意が必要です。

しかしこの縫製労働という具体的な労働が、無差別的な人間労働のたんなる表現になることによって、この労働は亜麻布のうちに潜む労働という他の労働と同等な形態をそなえることになる。そのためこの労働は、さまざまな商品を生産する他のすべての労働と同じように私的な労働でありながらも、直接的に社会的な形態をそなえた労働となる。

そのためにこの労働は、他の商品と直接に交換できるある生産物のうちに、みずからを表現するのである。こうして、等価形態の第三の特性は、私的な労働がそれとは正反対の形態、すなわち直接に社会的な形態の労働になることにある。

 

アリストテレスの分析

最後に展開された等価形態の二つの特色は、価値形態を他の多くの思考形態や社会形態や自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な研究者にさかのぼってみれば、もっと理解しやすいものとなる。その人は、アリストテレスである。

アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののしっそう発展した姿でしかないということである。というのは、彼は次のように言っているからである。

「5台の寝台=1軒の家」

というのは、

「5台の寝台=これこれの額の貨幣」

というのと「違わない」と。

彼は、さらに、この価値表現のひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等値されることを条件とするということ、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見ぬいている。彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」と。ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは不可能なのだ」と。このような等値は、ただ諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。

つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っているのである。この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表わしている共通の実体は、なんであるか?そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。なぜか?家が寝台にたいして或る同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。そしてこの同等なものは─人間労働なのである。

しかし、商品形態の価値では、すべての労働は同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不平等性を自然的基礎としていたからである。価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同質な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。アリストテレスの天才は、まさに彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。

第2の特性と第3の特性の理解の援けとして、古代ギリシャのアリストテレスの論を持ち出しているようですが、むしろ、議論をややこしくしてしまうおそれもあるので、ここでは通過することにします。  

等価形態の独特な特徴であるこの第二の特性と第三の特性については、思想や社会や自然の多数の形態のほかにも、価値形態を初めて分析した偉大な研究者を振り返ってみると、さらによく理解できるようになるだろう。この研究者とはアリストテレスである。

まずアリストテレスは、商品の貨幣形態は、単純な価値形態が発展して生まれたものであることを明快に指摘する。その単純な価値形態とは、ある商品の価値を他の任意の商品で表現する場合の価値形態である。アリストテレスはこう述べているのだ。

「5台のベッド=1軒の住宅」

これは次の等式と「異ならない」。

「5台のベッド=ある量の貨幣」

さらにアリストテレスは、この価値表現のひそんでいる価値関係が成立するためには、住宅がベッドと質的に等しいものとされうることが必要であることを洞察している。というのは、このように感覚的に異なる二つのもののあいだに、こうした本質的な同等性な同等性が存在しなければ。通約することのできる大きさとしてたがいに関係づけられることはできないからである。彼はこう述べているのだ。「同等性なしでは交換はできない。同等性は通約可能性なしにはありえない」しかしアリストテレスはここで立ちどまってしまい、それ以上は価値形態の分析を進めようとはしない。「しかしこのように異なる種類のものが通約可能であること」、すなわち質的に同等であることは、「実際にはありえないことである」。このように質的に同等であることは、物の真実の本性には属さないことであり、したがって「実際の必要性にもとづいた応急処置」にすぎないという。

アリストテレスの分析がどこまで失敗に終わったのかは、彼がみずから語っている。すなわち価値概念が存在していないためである。同等なものとは何か、すなわちベッドの価値表現において、ベッドにたいして住宅が示す共通の実体は何か。アリストテレスはそのようなものは「実際にはありえないことである」と答える。しかしどうしてなのだろうか。住宅がベッドにたいして同等なものを示すのは、その同等なものがベッドと住宅の両方のうちで現実に同等なものを示すかぎりにおいてである。それこそが人間労働なのである。

商品の形態価値においては、すべての労働は同等な人間の労働であり、同等なものとして表現されることを、アリストテレスは価値形態から読みとることができなかった。それはギリシアの社会は奴隷労働に依拠していたからであり、人間の不平等と労働の不平等を自然な基礎としていたからである。価値表現の秘密とは、すべての労働が人間労働一般であるがゆえに、そしてそのかぎりにおいて、すべての労働は同等であり、同質なものとして通用することにある。しかしこの秘密は、人間が平等なものであるということを民衆がすでに自明なものとして確固として信じていなければ、解読できないものなのである。

しかしこれが初めて可能となったのは、商品形態が労働生産物の一般的な形態となっている社会したがって人間たちがたがいに商品所有者として関係しあうことが支配的な社会関係になっているような社会においてである。アリストテレスの天才は、商品の価値表現のうちに、同等性という関係を発見したことのうちに、輝いている。しかし彼が生きていた社会の歴史的な制約のために、この同等性の関係がどこにおいて「実際に」成立しうるのかを、読みとることができなかったのである。

 

 

4.単純な価値形態の全貌

使用価値と交換価値

ある一つの商品の単純な価値形態は、異種の一商品にたいするその商品の価値関係のうちに、すなわち異種の一商品との交換関係のうちに、含まれている。商品Aの価値は、質的には、商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。言いかえれば、一商品の価値は、それが「交換価値」として表示されることによって独立に表現されている。この章のはじめは、普通の言い方で、商品は使用価値であるとともに交換価値である、と言ったが、これは厳密に言えば間違いだった。商品は、使用価値または使用対象であるとともに「価値」なのである。商品は、その価値が商品の現物形態とは違った独特な現象形態、すなわち交換価値という現象形態をもつとき、そのあるがままのこのような二重物として現われるのであって、商品は、孤立的に考察されたのでは、この交換価値という形態をけっしてもたないのであり、つねにただ第二の異種の一商品にたいする価値関係または交換関係のなかでのみこの形態をもつのである。とはいえ、このことを知っておきさえすれば、さきの言い方も有害なものではなく、かえって、簡単にすることに役立つのである。

われわれの分析が証明したように、商品の価値形態または価値表現は商品価値の本性から出てくるものであって、逆に価値や価値量がそれらの交換価値としての表現様式から出てくるのではない。ところが、この逆の考え方は、重商主義者たちやその近代的な蒸し返し屋であるフェリエやガニルなどの妄想であるとともに、彼らとは正反対の近代の自由貿易外交店員、バスティアやその仲間の妄想でもある。重商主義者たちは価値表現の質的な面に、したがって貨幣をその完成形態とする商品の等価形態に、重きをおいているが、これとは反対に、どんな価格ででも自分の商品を売りさばかなければならない近代の自由貿易行商人たちは相対的価値形態の量的な面に重きをおいている。したがって、彼らにとっては、商品の価値も価値量も交換関係における表現のなかよりほかにはないのであり、したがってまた、ただ日々の物価表のなかにあるだけなのである。スコットランド人マクラウドは、ロンバート街の混乱をきわめた諸観念をできるだけ学問らしく飾り立てるというその機能において、迷信的な重商主義者たちと啓蒙された自由貿易行商人たちをみごとに総合したものになっているのである。

この〈4.単純な価値形態の全貌〉というのは、これまで〈A 単純で、個別の(あるいは偶然的)な価値形態〉として、〈x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する)〉という等式を例に上げ、まず〈1 価値表現の二つの極─相対的価値形態と等価形態〉で、〈単純な価値形態〉には、相対的価値形態と等価形態が価値表現の両極として含まれていることが確認され、そのあと〈2 相対的価値形態〉と〈3 等価形態〉とにわけて、それぞれを個別に考察してきたわけです。だから今回の〈4 単純な価値形態の全貌〉というのは、それまで個別に考察してきたそれぞれのもの(相対的価値形態と等価形態)を総合して、全体として考察するということです。

まず、「単純な価値形態の全体」の直接的な考察が行われます。最初の「単純な価値形態」の直接的な表象に戻りますが、「A」の最初に出くわした直接的な表象は、まだその内的構造はまったく分からない状態で出会ったものでしたが、今では、ここまで読み進めて内的な構造を詳しく分析して辿ってきた結果、それらは論理的に透けて見えるようになっています。つまり「単純な価値形態の全体」の論理的な構造が透けて見えているような、「全体」としての最初の直接的な表象にもどっているわけです。だから直接的な考察といっても、その内部構造が何も分からない状態のものとは異なり、それらが透けて見えている状態での考察なのです。だから直接的なものが、その内的なものとどのように関連し合い、内的なものがどのようにして自らを発現して直接的なものとして現われているのかというように、直接的なものとそれがそのようなものとして発現してきた内的なものとの論理的・必然的な関連において、再び全体としての直接的なものを説明するというような考察になるわけです。それが、ここの叙述の前提です。

「ある商品の単純な価値形態は、異なる商品との価値関係のうちに、あるいはこの異なる種類の商品との交換関係のうちに示されている」。ここに「価値関係」と「交換関係」という言葉が出てきます。「交換関係」というのは、二つの商品が互いに交換される関係や割合のことですが、二つの使用価値が異なる商品が交換されるということは、それらの異なる商品が互いに等しい関係を持っているということ、「同等性関係」にあるということです。そして二つの商品が同等であるというのは、それらが価値である限りにおいて言えることです。だから二つの商品の「同等性関係」は「価値関係」なのです。だから「価値関係」というのは、「交換関係」におかれた二つの商品が、価値という一面においては互いに等しいのだと関係し合うものだということができます。そしてこの「価値関係」のなかに一つの商品の「価値表現」が潜んでいたわけです。ただし、二つの商品の共通な価値属性が、それらを互いに価値関係のなかに置くのであって、二つの商品の交換関係、あるいは価値関係が、両者に共通な価値属性を持たせるのではないということが肝心です。

商品はそのままでは決して直接には交換可能ではありません。というのも、商品の直接的な存在はその自然形態であり、使用価値だからです。使用価値の場合は、偶然、交換相手がそれを必要としていた場合は交換可能ですが、そうでなければ、使用価値のままでは直接には交換できません。だから商品は交換可能となるためには、一旦、直接に交換可能なもの(等価物)に転換する必要があるのです。つまり等価物が直接に交換可能なのは、等価物の使用価値そのもの、その自然形態が価値そのものに、価値が具体的な形態をとって現われたものとして通用しているからにほかなりません。だから等価物の場合は、価値の具体物として認められるその使用価値のままで、それこそ「直接」に交換可能なのです。それ自体が価値そのものですから、あらゆる商品の価値に等置されうるからです。しかもここで商品Bが商品Aに対して直接的交換可能性を持っているというのは、商品Bの使用価値が商品Aの価値が具体的な形で現われたものだからなのです。つまり商品Bの使用価値によって商品Aの価値が表されているからなのです。だからマルクスはここで〈商品Aの価値は、質的には、商品Bの商品Aとの直接的交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。ここで〈質的には〉と述べているのは、ここでは商品Aの価値の量ではなく、価値そのものが如何に表現されるかということだけが問題になっているからです。

それに対して、量的には商品Aと商品Bが交換されるということは、商品Aの価値の大きさと商品Bの価値の大きさが同じであるからにほかなりません。この両方の価値の大きさというのはいずれも両方の商品に内在的なものであって、だからここでは直接性は何も問題にはならないのです。ただ商品Aの価値の大きさは、それと交換される商品Bの使用価値の量(例えば上着ならその1枚、2枚というその使用価値量)によって表現されているのです。だから商品Aの価値量は、ある与えられた内在的な量なのですが(だからそれは当然目に見えません)、それはそれと交換可能な商品Bの使用価値量によって目に見える形で表現されているのです。だからマルクスは〈(商品Aの価値は)量的には、一定量の商品Bの、与えられた量の商品Aとの交換可能性によって表現される〉と述べているのだと思います。

最初に戻って、その続きは一商品の価値が質的にも量的にも、どのように表現されているかを確認して言えることは、一商品の価値は、「交換価値」として表示されることによって、初めて独立に表現されているのだということです。しかし、これは第1章のはじめに示されたことです。しか、その言い方に間違いがあったと指摘します。というのも、厳密にいうと、商品は使用価値または使用対象であるとともに「価値」であるというべきだからです。つまり、二重の存在であるということです。最初は、その二重性というこが明らかにされていませんでした。そこが言い方の間違いだというわけです。つまり、商品には使用価値と価値の対立が含まれていることは示されていましたが、実はその対立は商品そのものに含まれる内的なものだったのです。それが次のところの文章です。

ある商品の単純な価値形態は、異なる商品との価値関係のうちに、あるいはこの異なる種類の商品との交換関係のうちに示されている。商品Aの価値は、商品Bが商品Aと直接に交換可能であることのうちに、質的に表現されている。商品Aの価値は、特定の量の商品Bが、与えられた量の商品Aと交換可能であることのうちに、量的に表現されている。言い換えると、ある商品の価値は、それが「交換価値」として示されることで、自立的に表現されるのである。

この章の冒頭で、ふつうの言い方にならって、「商品には使用価値と交換価値がある」と述べたのだが、厳密に言えば、これは間違いだったのである。「商品は使用価値または使用対象であり、同時に〈価値〉でもある」と言うべきであったのである。商品の価値がその自然の形態とは異なる独自の現象形態である交換価値という現象形態をそなえるようになるとともに、商品はそのほんらいの姿である二重性を示すようになる。そして商品を孤立させて考えているあいだは、商品はこの形態をとることはない。別の異なる種類の商品との価値関係あるいは交換関係の中でのみ、商品はこの形態をとるのである。ただしそのことが分かっていれば、「商品には使用価値と交換価値がある」と言っても問題はないし、簡略である。

これまでの分析から、商品の価値形態または価値表現は、商品の価値の本性から生まれるものであって、その反対に価値と価値の大きさが、商品を交換価値として表現することから生まれるものではないことが証明された。価値が交換価値としての表現から生まれるのだというこの考え方は、[古典的]重商主義者たち、それにフェリエやガニールなどの現代版の焼き直しの重商主義者たちの妄想となってきたが、これは彼らとは対極にある自由貿易論を主唱する現代のバスティアとその一派がいだいている妄想でもある。

重商主義者たちは、価値表現の質的な側面、すなわち貨幣のうちに完成した姿を示す商品の等価形態を強調するが、これとは反対に自由貿易主義者たちは、自分の商品をどんな価格でも販売しなければならないために、相対的価値形態の量的な側面を強調するのである。

しかしどちらにとっても商品の価値も価値の大きさも、交換関係における表現のうちにしか、日々の物価表のうちにしか存在しないのである。スコットランド人のマクロードは、[イギリスの金融・商業街である]ロンバート街の混乱した考え方をできるだけ博識ぶって飾りたてようとして、迷信深い重商主義者たちの考え方と啓蒙された自由貿易主義者たちの考え方を巧みに総合する役割をはたしている。

 

価値の内的な対立と外的な対立

商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現のいっそう詳しい考察は、この価値関係のなかでは商品Aの現物形態はただ使用価値の姿として、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値の姿としてのみ認められているということを示した。つまり、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表わされるのであるが、この関係のなかでは、自分の価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値の対立の単純な現象形態なのである。

商品の内部における使用価値と価値の対立についてですが、これは単独ではたんなる一つの物体、あるいは使用価値でしかない生産物が同時に「純粋に社会的なもの」である価値という属性をもたなければならない、という対立のことを指しています。ところが、価値表現においては、この対立がいわば外化し、相対的価値形態の側の商品(リンネル)の現物形態がただ使用価値としてのみ認められ、他方、等価形態の側の商品(上着)の現物形態がただ価値としてのみ認められるということになります。後者については、言うまでもなく、この価値表現において上着は価値体となっており、その物体的な姿のままで価値であるからです。また、前者については、リンネルはそれじたいとしてはたんなる使用価値でしかなく、価値体である上着によって自分が価値であるということを示す形態を獲得しているにすぎないからです。

このように価値表現においては、等価物が端的に価値を体現するものとなり、相対的価値形態の側の商品は、たしかに価値を持ち、それを等価物によって表現しているのですが、それ自体としては端的に価値ではないということが重要なポイントとなります。

労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表わすような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになる。

労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象ですが、労働生産物を商品にするのは、ただある歴史的な発展段階においてに過ぎません。すなわち、その使用物を生産するために支出された労働が、その使用物の属性として、すなわちその使用物の価値として表される歴史的な一時期なのです。

だから労働生産物が商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、その使用物に支出された労働が、使用物の価値の形態として現われる歴史的条件と一致することが分かります。だから、商品の単純な価値形態は、単純な商品形態であり、商品形態の発展は価値形態の発展と一致するのです。

商品Bとの価値関係に示された商品Aの価値表現をさらに詳しく分析してみると、この価値関係において商品Aの自然の形態は使用価値の姿として働いているが、商品Bの自然の形態は価値形態または価値の姿としてだけ働いていることが明らかになった。だから商品のうちに秘められている使用価値と価値の内的な対立は、その外的な対立によって、すなわち二つの商品関係によって表現される、この二つの商品の関係において、みずからの価値を表現すべき商品は、直接には使用価値としてだけ働いており、それによって価値が表現される他方の商品は、直接には交換価値としてだけ働いているのである。このように一つの商品の単純な価値形態は、そのうちに含まれる使用価値と価値の対立の単純な現象形態なのである。

いかなる社会的な状況においても、労働の産物は使用対象になる。しかし労働の産物が商品になるのは、使用対象となる物品の生産に投入される労働が、その物品の「対象的な」特性として、すなわちその物の価値として表現されるような歴史的に規定された発展段階においてだけであり、このような段階において、労働の産物が商品に変わるのである。だから商品の単純な価値形態は、同時に労働の産物の単純な商品形態であり、商品形態の発展は、価値形態の発展と一致することになる。

 

単純な価値形態の成熟への道

単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽状態の不十分さは、一見して明らかである。

ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aをそれ自身とは違ったなんらかの一つの商品種類にたいする交換関係のなかにおくだけであって、ほかのすべての商品との商品Aの質的な同等性と量的な割合とを表わすものではない。一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個別的な等価形態が対応する。こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現のなかでは、ただこの一つの商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもつだけである。

とはいえ、個別的な価値形態はおのずからもっと完全な価値形態に移行する。個別な価値形態によっては、一商品Aの価値はただ一つの別種の商品で表現されるだけである。しかし、この第二の商品がどんな種類のものであるか、上着や鉄や小麦などのどれであるかは、まったくどうでもよいのである。つまり、商品Aが他のどんな商品種類にたいして価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値表現が生ずるのである。商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aのとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き伸ばせる列に転化するのである。

単純な価値形態では、商品A、例えばリンネルの価値は、商品B(上着)よって表現され、商品A(リンネル)は価値形態を持ちます。しかし商品A(リンネル)は、自身の使用価値と区別された価値形態(交換価値)をもつだけです。しかも、商品A(リンネル)は、ただ商品B(上着)という単一のリンネル自身とは異なる商品種類に対する関係をもつだけです。しかし価値としては、商品A(リンネル)は、すべての他の商品と同じなのです。だから商品A(リンネル)の価値形態は、商品A(リンネル)を、すべての他の商品に対する質的な同等性や量的な比例関係に置く形態でも無ければならないはずなのです。ところが単純な価値形態では、商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な(個別的な)等価形態が対応するだけです。つまりこの場合は商品B(上着)は、ただ単一の等価物として機能するだけなのです。こうして、上着は、リンネルの相対的な価値表現においては、ただ単一の商品種類リンネルに対してだけ等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているのみなのです。

個別的な価値形態は、おのずから、より完全な一形態へと移行します。すなわち、個別的な価値形態では、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されているだけです。しかし第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦かどうかということは、まったくどうでもよいことです。だから商品A(リンネル)が、あれこれの他の商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品、すなわち商品A(リンネル)のさまざまな単純な価値形態が生じることになります。商品A(リンネル)の可能な価値表現の数は、商品A(リンネル)と異なる商品種類の数によって制限されているだけです。だから、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化することになります。すなわち「全体的な、または展開された価値形態」に移行することになるのです。

単純で個別的な形態についての考察について、細かな議論はこのくらいにして、その具体的な議論から離れますが、大雑把な私なりの総括をしてみたいと思います。マルクスの議論はこの価値形態ごとの考察はモデルであり、単純なモデルから段階的に展開していくことで資本主義の形態モデル(貨幣形態から資本形態)に近づいていくという体裁をとっています。最初の単純なモデルから、次の段階にいかなくてはならなかったのはなぜか、このモデルのままで自足てきなかったのはなぜか。その細かな議論は、これまで行われたようですが、それを踏まえて、もっと大雑把に、ストンと腑に落ちるように考えてみたいと思います。

それは、自分自身の生活の場が、単純で個別的な交換の上で営まれていたらどうなのかという思考実験によってです。例えば、貨幣がなくて、個別の物々交換だけで流通が成り立っている社会を想定してみましょう。そこでは、各々の人間が商品生産者で、各人は必要なものを自身が生産した生産品と物々交換で得るという世界です。そこで暮らす1人の靴職人を考えてみましょう。彼は日々の食料や日用品を、当然必要とします。それらをすべて自前で作ることももちろん可能ではあるのですが、彼が靴職人であるという前提からして、日用品のすべてをけっして自前では作っていない社会が前提されている。誰もが自前で日用品のすべてを作れるのなら、靴職人の出番もまたないからです。というわけで、彼が靴職人として靴製造に専念するためには、それ以外の必需品を他人に作ってもらわなければならず、生きていくのに必要なものを、たとえば食料品や衣服等々を交換によって入手しなければならないわけです。だから、彼が靴を作っているのは、自分や家族が履くためであることは、勿論ですが、それ以上に靴を交換手段として差し出すため、つまりは他人が使用するために作っているのです。これは、靴の使用価値になりますね。

彼は製作した靴を持って市場に行き、自分の必要なものを入手するために、それと交換してくれるよう求めます。たとえば、上着を入手しよう上着の仕立職人のところに出向くとする。彼には新しい上着が必要でした。だが、相手である仕立職人はどうなのでしょうか?交換相手である仕立職人も靴を必要とすることはあるでしょうが、今は必要としていないかもしれません。あるいはいま必要としていても、彼が作った靴は気に入らないかもしれない。あるいは、彼の靴を気に入ったとしても、彼の靴は高すぎるかもしれません。このように、ちょっと考えただけでもこれらのさまざまな困難を予想することができてしまいます。

この場合、彼は靴を持って行って、必要とする上着を手に入れようとしました。彼にとって、靴は単なる交換手段であり、言ってみれば、彼にとっては単なる価値物の役割を果たすべきものです。しかし、他方でそれは靴という使用価値のうちに囚われており、他者にとっては特殊な欲望を満たすためのごつごつした現物でしかないのです。そして彼が靴を持って市場にやって来たのは、自分の靴を必要とする人を探すためでもあった。つまり彼はここでは二つの役割を同時に靴に果たさせようとしている。一方では彼は、他の諸商品の買い手であって、そのさい自分の生産した靴を、必要な諸商品を入手するための単なる交換手段として扱っている。その限りでは、靴は単なる価値物であり、靴という商品身体は価値の担い手と言う受動的役割を果たしているに過ぎません。他方で彼は靴という特殊な商品の売り手であって、その場合、靴の具体的な使用価値は受動的ではなく、能動的役割を演じており、ぴかぴかに磨かれ、できるだけその使用価値のすばらしさでもって買い手の心を捉えたいと思っている。逆に価値としての側面はその使用価値の中にひっそりと潜んでいる内在的なものでしかないものです。

しかし、それは相手である仕立職人が靴を欲していて、交換に応ずる意思をもっていればの話です。相手が「靴は十分間に合っている。私に必要なのは靴ではなくて、別の何かだ」といったら、自分の靴と交換に上着を得ようとした彼の試みは挫折することになります。

ではどうすればいいか。仕立職人は靴は欲していませんが、上着の素材となるリンネルを欲している。靴職人リンネルの製作者と靴を交換して、リンネルを得て、そのリンネルとの交換により上着を得ることができるかもしれません。そのためには、靴と上着、靴とリンネル、リンネルと上着、のそれぞれの交換が成立できることが必要です。それが、個別的な価値形態から一般的な価値形態へと展開する契機と考えてよいと思います。

この単純な価値形態は未熟なものであることは、すぐに分かることである。これはまだ萌芽の状態であり、さまざまな変身段階を経て、初めて価格形態へと成熟していくのである。

ある商品Bによって行われる価値表現は、商品Aの価値をその使用価値から区別するだけであり、これによって商品Aが、その商品と異なる任意の種類の商品との交換関係のうちに置かれるだけである。この表現は他のすべての商品との質的な同等性を示すものでも、量的な比率を示すものでもない。ある商品の単純な相対的価値形態には、他の商品の個別の等価形態が対応する。たとえば商品としての上衣は、亜麻布の相対的な価値表現においては、このような個別の商品の種類である亜麻布との関係のうちでのみ、等価形態または直接的な交換可能性の形態をもつのである。

ところでこうした個別な価値形態は、もっと完全な価値形態に移行する。商品Aの価値は、個別な価値形態に媒介されて、他の種類の一つの商品で表現されるが、この第二の商品の種類がどのようなものであるか、すなわちそれが上衣なのか、鉄なのか、小麦なのかは、まったくどうでもよいことである。だから商品Aが他のさまざまな商品の種類との価値関係のうちに登場するたびに、同一の商品の異なる単純な価値表現が生まれることになる。その商品について列挙することのできる価値表現の数は、それと異なる種類の商品の数によってしん制約されない。だからこそその商品の個々の価値表現は、さまざまに異なる単純な価値表現の系列へと変容し、この系列はたえず長くなる一方である。

 

 

(B)全体的な価値形態または展開された価値形態

これから始まる<(B)全体的な価値形態または展開された価値形態>は、いうまでもなく、前の〈(A)単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態〉のより発展したものです。そして(A)と同じように、(B)も、価値形態の両極である、相対的価値形態と等価形態がそれぞれに分析され、その上で、それらが総合されて、この新しい発展した価値形態である(B)の欠陥が指摘され、次の発展段階への移行が考察される、という展開になっています。

ただ相対的価値形態にしても、等価形態にしても、あくまでも「全体的な価値形態または展開された価値形態」としてのそれであり、これまでの単純な価値形態の考察を前提に、展開された価値形態に固有の問題を、それぞれについて明らかにしているわけです。

まず相対的価値形態については、最初はその質的な考察を行い、次いでその量的考察が行われています。等価形態については、(B)に固有の特徴として、その特殊的な性格が明らかにされています。

そして次の価値形態(C 一般的価値形態)への移行として、展開された価値形態が全体として考察され、その欠陥がかなりの分量で考察されています。

  

Z量の商品A=U量の商品B、または=V量の商品C、または=W量の商品D、または=X量の商品E、または=その他

(20エレのリンネル=1枚の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=0.5トンの鉄、または=その他

では、全体的な価値形態または展開された価値形態とはどのようなものでしょうか。それを示しているのが上記の式です。この形態の特徴は、〈20エレのリンネル=1着の上着〉という単純な形態だけでなく、〈20エレのリンネル=10ポンドの茶〉、〈20エレのリンネル=40ポンドのコーヒー〉、〈20エレのリンネル=1クォーターの小麦〉等々という単純な価値形態の無限の列が並び、個々に成立していた等式が、20エレのリンネルが上着以外の製品とも等号が成立するということで、他の全ての商品と等しいという関係を形成することによって、等しい内容が一般的な現象として表されることになるということです。

 

1.展開された相対的価値形態

商品世界の市民

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめて、ほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の系列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。

第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象は本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ。

まずは、〈全体的な価値形態または展開された価値形態〉の相対的価値形態の質的考察が行われます。

式からも分かるように、リンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の商品によって表されています。そしてこの関係においては、他のすべての商品の諸使用価値、その自然諸姿態は、どれもリンネルの価値を表わすことになるわけです。こうして、リンネルの価値はすべての種類の人間労働の凝固物として現われています。なぜなら、リンネルの価値を形成する労働は、いまでは明瞭に、他のすべての商品に支出されている労働に等しいということになっているからです。リンネルの価値を形成する労働は、ある場合には裁縫労働の姿をとり、ある場合には茶を生産する労働の姿をとり、ある場合にはコーヒー生産労働と同じであり、小麦生産労働と同じ等々だからです。つまりリンネルの価値を形成する労働は、他のすべての具体的な労働と同じなのですが、だからこそそれはその無限の同等性によって、それ自体が一般的な人間労働そのものの凝固物であることを、実際的にも明らかにしているのだといえるからです。だから、いまではリンネルはその展開された価値形態によって、単純な価値形態の場合のように、ただ一つの種類の商品に対してだけではなくて、商品世界のすべての商品種類に関係し、自身の価値を表すのですから、商品世界と社会的な関係に立っていることになります。リンネルは、商品として、この世界の市民なのです。つまり商品として認められ、この同じ商品社会の一員であることが示されているわけです。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品の価値はそれが現われる使用価値の特殊な諸形態には無関係だということが示されていることでもあるのです。

第一の形態、つまり(A)単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態〉である、「20エレのリンネル=1着の上着」では、これらの二つの商品が一定の量的割合で交換されるということは、偶然的事実であり得ます。これに対して、第二の形態、つまり<(B)全体的な価値形態または展開された価値形態>では、偶然的現象とは本質的に違っていることを示唆しています。つまり「その現象を規定している背景が、すぐに現われてくるのです。その背景とは、二つの商品の価値量です。つまり、リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄などの無数の違った商品所持者のものである無数の異なる商品のどれで表されようと、常に同じ大きさであることが分かってきます。だから二人の個人的な商品所持者の偶然的な関係はなくなり、交換が商品の価値量を規制するのではなくて、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規定するということが明らかになっています。

ある商品、たとえば亜麻布の価値は、この価値形態では商品世界の無数の他の要素で無数の他の要素で表現される。それぞれの別の商品体はどれでも、亜麻布の価値観になる。この価値はこのようにして初めて、無差別な人間労働が凝固した物として現れるのである。というのも、この亜麻布の価値を形成する労働がいまや、ほかのすべての種類の人間労働と同等な労働として、明確に表現されるからである。ほかの労働がどのような自然の形態をそなえているか、たとえば上衣、小麦、鉄、金などを生産する労働であるかは、ここでは問われない。このようにして亜麻布はその価値形態によって、個々の他の商品の種類と社会的な関係を結ぶだけでなく、商品世界の全体と社会的な関係を結ぶようになる。亜麻布は商品として、この商品世界の市民である。同時にこの商品の価値の表現が、無限の系列のうちにあるため、その商品価値が現われる商品の使用価値がどのような特殊な形態であろうと、どうでもよいことになる。

第一の[単純な価値]形態は20ヤードの亜麻布=1枚の上衣であった。この形態では、二つの商品が特定の比率で交換されるのは偶然的な事実であるかもしれない。しかしこの第二の[展開された価値]形態では、偶然的な現象は根本的に異なる現象が登場し、その現象を規定する背景がただちに明らかになる。亜麻布の価値は、それが上衣で表現されようと、コーヒーや鉄で表現されようと、すなわちきわめて多様な所有者の持ち物である無数の異なる商品のどれで表現されようと、つねに同じ大きさのままである。二人の個人的な商品所持者のあいだの関係は姿を消している。交換が商品の価値の大きさを決定するのではなく、その反対に商品の価値の大きさが商品の交換比率を決定することは明らかである。

 

 

2.特殊な等価形態

上着や茶や小麦や鉄などの商品はどれもリンネルの価値表現では等価物として、したがってまた価値体として、認められている。これらの商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くのものと並んで一つの特殊的等価形態である。同様に、いろいろな商品体に含まれているさまざまな特定の具体的な有用な労働種類も、いまでは、ちょうどその数だけの、人間労働そのものの特殊な実現形態または現象形態として認められているのである。

これまでは、展開された価値形態、すなわち〈全体的な価値形態または展開された価値形態〉の「相対的価値形態」の考察でしたが、ここでは、「等価形態」の考察です。展開された価値形態の等価形態の特徴は、その「特殊的」なところにあります。

展開された価値形態においては、等価形態に置かれる諸商品、上着や茶や小麦や鉄などは、いずれも亜麻布の価値の等価物として、したがって価値体として、つまりその使用価値、自然形態が価値を表すものとして、認められています。これらの諸商品のそれぞれの特定の現物形態は、いまでは他の多くの現物形態と並べられることによって、一つの特殊的な等価形態となっています。そしてそのことは、同様に、それぞれの商品体(諸使用価値)に含まれているさまざまな特定の具体的な有用労働種類も、他のさまざまな有用労働と並ぶことによって、ちょうどその数だけの、人間労働そのもの(人間労働一般)の特殊な実現形態または現象形態として認められているのです。

上衣、紅茶、小麦、鉄などのそれぞれの商品は、亜麻布の価値表現のなかでは等価物として、したがって価値体として働いている。これらの商品の個々の自然の形態は、いまでは他の多くの等価形態とならぶ一つの特殊な等価形態である。同じように、さまざまな商品体のうちに含まれる特定の、具体的で有用な多様な種類の労働は、同じように多数の人間労働一般の特殊な実現形態または現象形態として働くのである。

 

3.全体的な価値形態または展開された価値形態の欠陥

そして、この展開された価値形態の欠陥の指摘です。少し議論を先取りすることになりますが、マルクスは、価値形態が価格形態(=貨幣形態)にまで発展することによって、価値はその概念にもっとも相応しい形態を獲得し、自立した姿態を得るとともに、諸商品を質的に同じで量的に比較可能なものとして表すことができるようになると考えています。それゆえ、価値形態の各発展段階は、だからそうしたもっとも発展した貨幣形態からみた場合に、いまだ不十分さや欠陥があると言うことなのです。だから単純な価値形態の最後にその不十分さが指摘されたように、展開された価値形態の場合も、その最後に、その欠陥が指摘され、次の発展段階への移行の必然性が明らかにされるという展開になっているわけです。

 

三つの欠陥

第一に、この商品の相対的な価値表現は不完全である。といのは、その表示の列は完結することがないからである。一つの価値等式につながってつくる連鎖は、新たな価値表現の材料を与える商品種類が現われるごとに、相変わらずいくらでも引き伸ばされるものである。第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的な価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現である。─展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊な価値形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸形態のうちにもってはいる。しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。

第1の欠陥です。それは商品の相対的価値表現が不完全だということです。というのは、その表現の列は完結することがないからです。というのは、新たな商品種類が現われるごとに、価値等式の列は、相変わらずいくらで引き伸ばされて、限りがないからです。第2は、この価値表現の繋がりは、さまざまな表現の寄せ集めのままだということ。そして最後に、それぞれの商品の相対的価値は、この展開された形態で表現されるならば、当然のことながら、どの商品の(展開された)相対的価値形態も、他のどの商品の(展開された)相対的価値形態とも違った無限の価値表現の列になります。つまり諸商品それぞれが違った展開された価値形態で自らの価値を表現するわけですが、それらがすべて違っているということです。

これらの指摘された欠陥は相対的価値形態の欠陥ですが、これに対応する等価形態にも反映した欠陥があります。すなわち、ここではそれぞれの商品の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで、一つの特殊的等価形態ですから、それらは互いに排除しあう限られた等価形態があるだけです。同じように、それぞれの特殊的な等価物に含まれている特定の具体的な有用労働の種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかありません。人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、特殊的諸現象形態の総範囲のうちに持っていますが、しかし、人間労働は統一的な現象形態をまだ持っていないのです。

第一にこの商品の相対的な価値表現は不完全である。これを表現する系列は完結することがないからである。一つの価値等式を別の価値等式と結ぶ連鎖は、新たな種類の商品が登場するたびに、いくらでも引き延ばされる。この新たな種類の商品が新しい価値表現の材料を提供するからである。第二にこの連鎖は、ぱらぱらの異なる種類の価値表現の多彩なモザイクのようなものにすぎない。第三に、これはつねに起こることだが、どの商品の相対的な価値もこの展開された形態で表現されるようになると、すべての商品の相対的な価値形態が、他のどの商品の相対的な価値形態とも異なる価値表現の系列となり、これは終りがなくなる。

展開された相対的価値形態のこれらの欠陥は、それに対応する等価形態のうちでも明らかになる。それぞれの個別の商品の種類のどれについても、その自然な形態は、他の無数の特殊な価値形態とならぶ一つの特殊な等価形態にすぎないのであるから、一般にただ制限された等価形態があるだけであり、そのうちではそれぞれの等価形態は他の等価形態を排除するのである。

それと同じようにそれぞれの特殊な商品等価物のなかに含まれる特定の具体的で有用な労働の種類も、人間労働の特殊で、したがって尽きることのない現象形態にすぎない。たしかに人間労働は、こうした特殊な現象形態の全体の領域のうちでは十全で完全な現象形態をそなえているだろう。しかしそこでは人間労働が統一的な現象形態をもつことはないのである。

 

普遍的な形式へ

とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。たとえば、

20エレのリンネル=1着の上着

20エレのリンネル=10ポンドの茶

などの総計からである。

しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような同じ意味の等式をも含んでいる。

すなわち

1着の上着=20エレのリンネル

10ポンドの茶=20エレのリンネル

などを含んでいる。

じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。─そこで、20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=その他の商品、という系列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わしてみれば、次のような形態が与えられる。

ここで指摘されている三つの欠陥の要点を一言で言えば、展開された価値形態においては統一的な価値表現がなされていない、ということです。たしかに、ここでは最初に見た単純な価値形態とは違い、リンネルは商品世界の市民となることができます。しかし、この展開された価値形態という価値表現の仕方では、それぞれの商品は別々に異なる価値表現を行っているにすぎません。

この展開された価値形態の問題点は、そもそも価値表現とは何かという基本に立ち返るといっそうはっきりします。そもそも価値とは、使用価値の違いにもかかわらず、市場で交換される商品がもっている共通の属性をもっているからこそ、それぞれの使用価値の違いにもかかわらず、互いに交換することができるのです。ところが、この共通の属性は抽象的な人間労働の凝固たいし対象化であり、そのままでは目に見えず、捉えようがないものです。だからこそ、それを価値形態によって表現する必要があったのです。

このように、価値表現が商品の共通の性格を表現するものであるとすれば。展開された価値形態が価値表現としてはまったく不適合であることは明らかです。というのも、そこでは、等価物が無数の雑多な商品からなり、しかも、それぞれの部品ごとに異なる価値表現が必要となり、それぞれの商品の価値を共通なものとして表現するような価値形態にはなっていないからです。実際、展開された価値形態によって商品の価値を表現するという仕方では、人々がそれぞれの商品の価値を互いに比較し、衡量して交換することは極めて困難です。商品の価値を共通なものとして表現し、広範な商品交換にするためには、統一的な価値表現が必要になります。

全体的な価値形態または展開された価値形態の考察について、細かな議論はこのくらいにして、その具体的な議論から離れますが、単純で個別的な形態に続いて大雑把な私なりの総括をしてみたいと思います。まずは単純で個別的な形態のおさらいから始めましょう。

それは、自分自身の生活の場が、単純で個別的な交換の上で営まれていたらどうなのかという思考実験によってです。例えば、貨幣がなくて、個別の物々交換だけで流通が成り立っている社会を想定してみましょう。そこでは、各々の人間が商品生産者で、各人は必要なものを自身が生産した生産品と物々交換で得るという世界です。そこで暮らす1人の靴職人を考えてみましょう。彼は日々の食料や日用品を、当然必要とします。それらをすべて自前で作ることももちろん可能ではあるのですが、彼が靴職人であるという前提からして、日用品のすべてをけっして自前では作っていない社会が前提されている。誰もが自前で日用品のすべてを作れるのなら、靴職人の出番もまたないからです。というわけで、彼が靴職人として靴製造に専念するためには、それ以外の必需品を他人に作ってもらわなければならず、生きていくのに必要なものを、たとえば食料品や衣服等々を交換によって入手しなければならないわけです。だから、彼が靴を作っているのは、自分や家族が履くためであることは、勿論ですが、それ以上に靴を交換手段として差し出すため、つまりは他人が使用するために作っているのです。これは、靴の使用価値になりますね。

彼は製作した靴を持って市場に行き、自分の必要なものを入手するために、それと交換してくれるよう求めます。たとえば、上着を入手しよう上着の仕立職人のところに出向くとする。彼には新しい上着が必要でした。だが、相手である仕立職人はどうなのでしょうか?交換相手である仕立職人も靴を必要とすることはあるでしょうが、今は必要としていないかもしれません。あるいはいま必要としていても、彼が作った靴は気に入らないかもしれない。あるいは、彼の靴を気に入ったとしても、彼の靴は高すぎるかもしれません。このように、ちょっと考えただけでもこれらのさまざまな困難を予想することができてしまいます。

この場合、彼は靴を持って行って、必要とする上着を手に入れようとしました。彼にとって、靴は単なる交換手段であり、言ってみれば、彼にとっては単なる価値物の役割を果たすべきものです。しかし、他方でそれは靴という使用価値のうちに囚われており、他者にとっては特殊な欲望を満たすためのごつごつした現物でしかないのです。そして彼が靴を持って市場にやって来たのは、自分の靴を必要とする人を探すためでもあった。つまり彼はここでは二つの役割を同時に靴に果たさせようとしている。一方では彼は、他の諸商品の買い手であって、そのさい自分の生産した靴を、必要な諸商品を入手するための単なる交換手段として扱っている。その限りでは、靴は単なる価値物であり、靴という商品身体は価値の担い手と言う受動的役割を果たしているに過ぎません。他方で彼は靴という特殊な商品の売り手であって、その場合、靴の具体的な使用価値は受動的ではなく、能動的役割を演じており、ぴかぴかに磨かれ、できるだけその使用価値のすばらしさでもって買い手の心を捉えたいと思っている。逆に価値としての側面はその使用価値の中にひっそりと潜んでいる内在的なものでしかないものです。

しかし、それは相手である仕立職人が靴を欲していて、交換に応ずる意思をもっていればの話です。相手が「靴は十分間に合っている。私に必要なのは靴ではなくて、別の何かだ」といったら、自分の靴と交換に上着を得ようとした彼の試みは挫折することになります。

ではどうすればいいか。仕立職人は靴は欲していませんが、上着の素材となるリンネルを欲している。靴職人リンネルの製作者と靴を交換して、リンネルを得て、そのリンネルとの交換により上着を得ることができるかもしれません。そのためには、靴と上着、靴とリンネル、リンネルと上着、のそれぞれの交換が成立できることが必要です。それが、個別的な価値形態から全体的な価値形態へと展開する契機と考えたことです。

さて、ここから全体的な価値形態の総括です。

まずは、単純な価値形態では、それほど大きな問題とならなかったことが、ここでは大きな困難となってきます。上の例で続けると、靴職人である彼は、上着の仕立職人にこう語る。「私の靴は4日分の労働の産物であり、あなたの上着は2日分の労働の産物であり、したがってあなたの上着1着は私の靴半足分に値する」と。つまり、上着1着の価値を半足の靴で表現したわけです(1着の上着=半足の靴)。しかし実際には、ある特定の商品が何時間労働の産物であるかは、その商品をいくらこねくりまわしても分かりません。自分の商品材料や道具となると、なおさらそれが何時間労働の産物であるかは分からないものです。また、商品交換者たちは、商品の価値の実体が何であるかを説明している古典派経済学の書を手に持って交換の場に現れるわけではないし、またそもそも個々の商品の生産に何時間かかろうとも、その個別の労働時間が直接に価値の大きさを規定するわけでもないのです。

つまり、特定の物としての使用価値に包まれた社会的実体としての価値を直接に測る手段は存在しないのです。その妥当な交換割合は、無数の諸交換行為を通じて徐々に社会的平均値として確定されていくものです。したがって、商品の交換者たちは、お互いの所有物である諸商品がそれぞれ相手の欲望を満たすかどうかという問題に加えて、自分の商品が他の諸商品に対してどれくらいの交換割合が妥当であるのか分からない、という困難に直面することになるのです。それゆえ、靴職人の彼はたとえば「あなたの上着1着は私の靴半足に値する」という価値関係を一方的に宣言しても、上着仕立職人の方は「いやいやあなたの靴1足は私の上着1着にしか値しない」と言い張るかもしれないのです。これはいわば、それぞれの商品所持者が自己の商品を一方的に等価物として扱おうとしているからです。等価物という規定は能動的になしうる自己規定ではなく、社会的に付与された受動的で共同的な規定であるにもかかわらずです。どの商品所持者も自己の商品を恣意的等価物することはできないのです。

商品というものは価値としては労働時間の一定量の対象化でしかありませんが、使用価値としては単なる具体的な「物」でしかなく、そのどこにも価値としての分量が表示されているわけではありません。社会的な実体としての価値には年輪のようなものはなく、物としての商品をどんなに調べても、その商品の価値の大きさが分かるわけではない。それは商品に社会的に内在していると同時に、自然的には何ら内在していないのです。そのため、それを商品の生産物としての具体的姿から読み取ることは不可能です。

ただし、個別の交換であれば、その都度、両方で交渉して納得し合意に達すれば、お互いに等価値とみなして交換が成立することは可能です。このようにして、最初の交換割合はかなり偶然的に決まるでしょう。しかし、それがある程度定期的になるにつれて、その交換割合が大きくその実体としての労働時間支出と食い違っていたならば、継続的に有利な交換割合を享受している側は過度に栄えるが、継続的に不利な割合を余儀なくされた側は衰退し滅びていくだろうからである。そこで、自然と調整が働きます。

さて、それが個別の価値形態から全体的な価値形態へとなればどうなるか。それは、現実には交換の範囲が拡大して交易となることです。個別の場合であれば、靴と上着だけに限られていたものが。そこにリンネルが加わります。加わるのはリンネルに限りません。

それは、これまで交換されたことがないあらたな商品が加わるということです。靴とリンネルとはこれまで交換されたことがないのだから、妥当な交換割合は不明です。しかし、靴とリンネルの間では交換されたことがなかったとしても、靴は上着とは何度も交換され、一定の交換割合ができています。他方、靴も上着とのあいだの交換割合が1:2で、リンネルと上着のあいだの交換割合が3:2だとすると、上着を間にはさんで、この3つの商品のあいだには、靴1足=上着2着=リンネル3という等式が成り立つことになります、したがって、これまで交換されたことがなかった靴とリンネルとの間の交換割合も、1:3として確定することができることになります。この場合、上着は、靴とリンネルとの共通の等価物としても役割を果たし、両者の交換を観念的に媒介する役割を果たしています。

この交換において、上着の使用価値は、具体的な欲望を具体的な分量だけ満たすもの(効用としての使用価値)としての役割はいっさい果たしていません。上着はこの取引における交換対象でさえなく、いかなる具体的な欲望の対象でもないのです。上着の価値はここでは単なる価値物として扱われており、その物的な現物形態はただその価値を表示するのに役立っているだけです。

上着は、その物的な現物形態のままで、しかしいかなる直接の欲望の対象でもなく、純粋な価値物として、他の諸商品の共通の等価物(一般的等価物)としての役割を果たし、したがって、事実上の貨幣としての役割を果たしている。ただし、現実的に交換を媒介するのではなく、あくまでも観念的に交換を媒介する役割を果たしているのです。

しかし、ここからが本番です。個別で靴と上着を交換する場合には、両方の価値が正しいかどうかは見えないため、その都度交渉をして調整していました。その場合、例えば、ある年の皮の品質が悪く、加工するのに余計に手間がかかり、靴の生産に普段の2倍の時間がかかったとしたら、靴職人は交換の際に、価値は2倍になったと主張するでしょう。しかし、それは相手の指定職人には見えないのです。だから、実際には、交換のお互いの価値が等しいかどうかは不安定なのです。そうなったら、靴と上着の価値関係が不安定で変動したら、靴とリンネル、あるいは上着とリンネルの価値関係はどうなるのでしょう。3者の関係の釣り合いが取れなくなります。これが3者だから調整の余地がありますが、他にもたくさんの商品がかかわってくると、交換の価値のレートがきわめて不安定なことになります。まるで砂の楼閣のようなもので。何かのきっかけで全てが一瞬にして崩壊してしまうようなものです。それは、それぞれの交換の価格がその都度、個別に成立するからです。それを安定的なものにしなければならない、となると全体的な価値形態への段階が生じてくることになるのです。

 

 

(C)一般的な価値形態

1着の上着                      

10ポンドの茶               

40ポンドのコーヒー          

1クォーターの小麦                       20ヤードの亜麻布

2オンスの金                    

0.5トンの鉄                   

X量の商品A                    

等々の商品                

この一般的な価値形態においては、展開された価値形態の欠陥は克服され、「単純」かつ「統一的」な価値表現が成立しています。もはや、それぞれの商品は個々別々に価値表現を行うのではありません。どの商品も、同じ一つの商品(この例ではリンネル)を等価物にするという、この一つの統一的な価値形態において、自らの価値を表現します。いまや、商品が持つ価値という共通の属性は。共通の価値体である商品によって表現されているのです。だからこそ、「この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させる」ことができるのです。

このことを別の視点から捉えると、一般的価値形態は、個別的な価値形態や展開された価値形態とは違い、商品の「共同事業」としてのみ成立することができるという点に特徴があります。個別的な価値形態や展開された価値形態は、相対的価値形態の側の商品が一つなので、その商品の「私事」によって成立します。ところが、一般的価値形態はそうではありません。あらゆる商品が同じ一つの商品、この例ではリンネルにたいしてそれを自分の等価物するようにして関わることによって、一つの統一的な商品世界を形成するのです。

このような一般的価値形態においては、等価物となる商品は、自分以外のあらゆる商品の等価物となるわけですから、「一般的等価物」と呼ばれます。また、それはあらゆる商品の値札に書き込まれるわけですから、あらゆる商品にたいする直接的交換可能性を持つことになります。一般的等価物となる商品は、必要な量さえあれば、あらゆる商品をいつでも入手することができるという極めて強力な性質を獲得することになります。

 

1.価値形態の性格の変化

いろいろな商品はそれぞれの価値をここでは(1)単純に表している、というのは、ただ一つの商品で表しているからであり、そして(2)統一的に表している、というのは、同じ商品で表しているからである。諸商品の価値形態は単純で共通であり、したがって一般的で

第一と第二の形態の欠陥

形態TとUはどちらも、ただ、一商品の価値をその商品自身の使用価値またはその商品体とは違ったものとして表現することしかできなかった。

第一の形態は、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=0.5トンの鉄、などという価値等式を与えた。上着価値はリンネルに等しいもの、茶価値は鉄に等しいものというように表現されるのであるが、しかし、リンネルに等しいものと鉄に等しいものとは、すなわち上着や茶のこれらの価値表現は、リンネルと鉄とが違っている。この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。

第二の形態は第一の形態よりももっと完全に一商品の価値をその商品自身の使用価値から区別している。なぜならば、たとえば上着の価値は、いまではあらゆる可能な形態で、すなわちリンネルに等しいもの、鉄に等しいもの、茶に等しいもの、等々として、つまりただ上着に等しいものだけを除いて他のあらゆるものに等しいものとして、上着の現物形態に相対しているからである。他方、ここでは諸商品の共通な価値表現はすべて直接に排除されている。なぜならば、ここではそれぞれの商品の使用価値のなかでは他のすべての商品はただ等価物の形態で現われるだけだからである。展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。

マルクスはまず〈形態 I〉(単純で、個別の(あるいは偶然的な)価値形態)と〈形態II〉(全体的な価値形態または展開された価値形態)の欠陥というか、不十分性を指摘しています。ここで、これまで見てきた商品の価値形態をふり返ると、単純な価値形態(形態 I )では確かにリンネルの価値は上着に等しいものとして表されましたが、しかしそれ以外の商品との質的な同一性そのものは、この形態では表現されていません。また全体的な価値形態(形態II)の場合はどうかというと、リンネルの価値はさまざまな商品の使用価値で表現されることによって、その価値の他の諸商品との同一性が表現されているように見えます。しかしリンネルの価値の表現は、他方でそれ以外の商品の価値の表現を排除してしまっていることに気づきます。つまりリンネルの価値は、表現された価値としては他の商品の価値の表現と同じものとはいえないのです。というのはリンネルの全体的な価値形態は、リンネルを除く他のすべての商品で表現されるように、例えば上着の全体的な価値形態も、上着を除く他のすべての商品で表現されるわけですから、この二つの表現形態は同じとはいえません。つまり全体的な価値形態もリンネルの価値と上着の価値の質的同一性を表現しているとはいえないわけです。だからこれらは、やはり価値の概念からみれば、その表現形態としては不完全な、欠陥を持ったものと言わざるを得ないのです。以下のパラグラフはこうした問題を論じて行くわけです。

単純で個別な価値形態(形態 I 、第一の形態)は、〈1着の上着=20ヤードのリンネル、10ポンドの茶=1/2トンの鉄〉などという、それぞれ異なる二つの商品の価値等式によって表されました。しかし上着の価値と茶の価値は、リンネルと鉄が異なるように違ったものとして表現されており、両者が価値として同じものとして表現されているとはとてもいえません。これは当然であって、こうした形態が実際に現われてくるのは、ただ労働生産物が時折、偶然に交換されるような原始時代のものだからです。だから上着がリンネルと交換され、上着の価値がリンネルで表現されたとしても、それが茶の価値と比較しなければならない必要性もまたないわけです。茶が鉄と交換されるのは、上着がリンネルと交換されるのと同じように、まったく偶然の時折の出来事に過ぎず、それらの交換が互いに関連し合うこともまたないからです。

単純で個別な価値形態(第一の形態)に較べると全体的な価値形態(第二の形態)は商品の価値をより普遍的に表現しているように思えます。というのは、例えば上着の価値は、いまでは上着を除くすべての商品によって表現されているからです。

しかし、この場合も諸商品の共通な価値表現というものはすべて直接に排除されています。というのは、上着の価値は上着を除く他のすべての商品で表されるのと同じように、茶の価値も茶を除く他のすべての商品で表されるので、この両者の価値表現は同じものとはいえないからです。だから上着と茶は共通の価値表現を持っているとはいえませんし、それはすべての商品の価値の表現についても言いうることなのです。このように展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、例えは家畜がほぼ慣習的に他のさまざまな商品と交換されるようになったときですが、しかしそれは家畜と交換される他のさまざまな商品が、いまだ必ずしも相互に商品として対峙し合うとは限らない状態のものです。だから上着の全体的な価値形態が、それ以外の価値形態を排除していても大きな困難が生じなかったともいえます。

第一の形態と第二の形態はどれも、一つの商品の価値を、それに固有の使用価値やその商品体とはことなるもので表現するという目的のためだけに役立ったのである。

第一の形態は、1枚の上衣=20ヤードの亜麻布、10重量ポンドの紅茶=0.5トンの鉄などの等式を作りだした。この等式では上衣の価値が亜麻布の価値も等しいものとして示され、紅茶の価値が鉄の価値に等しいものとして示された。しかし上衣が亜麻布と同等であり、紅茶が鉄と同等であることを示すこの価値表現は、亜麻布が鉄と違うものであるのと同じように、たがいに違うものである。この形態は、偶然でその場かぎりの交換によって、労働の生産物が商品が変わるごく初期の段階に登場するにすぎないのは明らかである。

第二の形態は第一の形態よりも完全な形で、ある商品の価値をその商品に固有の使用価値から区別する。そのためにこの形態では、たとえば上衣の価値を亜麻布と同等なもの、鉄と同等なもの、紅茶と同等なものなどとして、上衣そのものと異なるすべての商品と同等なものとして示すので、これらの商品は考えられるすべての形態において、上衣の自然の形態と対比される。

他方でこの形態では、複数の商品の価値を共通して表現する方法は、すべて直接に排除されている。というのはこの価値の表現方法で、ある商品の価値を表現するたびに、他のすべての商品は等価物の形態としてだけ登場するからである。この展開された価値形態は、ある労働の産物、たとえば家畜が、もはや例外としてではなく、習慣に基づいて、さまざまな別の商品と交換されるようになる段階に登場する。

 

第三の形態の特徴

新たにえられた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値は、その商品とリンネルの同等性によって表わす。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。

一般的価値形態は、すべての商品が、その価値をただ一つの共通の商品である亜麻布で表現しています。亜麻布だけが商品世界から分離されて、そうした価値表現の材料として役立っているわけです。亜麻布は、それ以外のすべての商品の、よって商品世界の価値を表しているといえます。こうしてどの商品も自分の価値を自分自身の使用価値から区別して表現するだけではなくて、一切の使用価値からも区別されています。例えば上着の価値は亜麻布として表現されていますが、同じように茶の価値もやはり亜麻布として表現されており、あるいは鉄の価値も、金の価値も、やはり同じ亜麻布として表現されているわけですから、それらの価値はすべて同じであることが、この価値形態によって初めて表現されているわけです。つまり上着の価値は、単に上着の使用価値から区別されるだけではなくて、他のすべての使用価値からも区別されているからこそ、その価値は、他の諸商品の価値と同じものとして、共通なものとして表現されているといえるわけです。こうして、この形態がはじめて現実の諸商品を互いに価値として関係させるのであり、質的に同一で量的に比較可能な形態に置くのです。言い換えれば、諸商品を互いに交換価値として、すなわち価値の現象形態として、価値が目に見える形で現われているものとして関係させるのです。

この場合、それぞれの商品は個々別々に価値表現を行うのではありません。どの商品も、ここでは亜麻布という同じ一つの商品を等価物にするという、この統一的な価値形態において、自らの価値を表現します。いまや、商品が持つ価値という共通の属性は、共通の価値体である亜麻布という商品によって表現されているのです。 

前のほうの二つの形態は、商品の価値を、ただ一つの異種の商品によってであれ、その商品とは別の一連の多数の商品によってであれ、一商品ごとに表現する。どちらの場合にも、自分に一つの価値形態を与えることは、いわば個別の私事であって、個別商品は他の諸商品の助力なしにこれをなしとげるのである。他の諸商品は、その商品にたいして、等価物という単に受動的な役割を演ずる。これに反して、一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値の価値を等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。

リンネルに等しいものという形態ではいまやすべての商品が質的に同等なもの、すなわち価値一般として現われるだけではなく、同時に、量的に比較されうる価値量として現われる。すべての商品がそれぞれの価値量を同じ一つの材料、リンネルに映すので、これらの価値量は互いに反映しあう。たとえば10ポンドの茶=20エレのリンネル、そして、40ポンドのコーヒー=20エレのリンネル。したがって、10ポンドの茶=40ポンドのコーヒー というように、または1ポンドのコーヒーに含まれている価値実態、労働は、1ポンドの茶に含まれているそれの4分の1でしかない、というように。 

一般的価値形態は、個別的な価値形態や全体的な価値形態とは違い、商品の共同事業としてのみ成立することができるという点に特徴があります。個別的な価値形態や全体的な価値形態は、相対的価値形態の側の商品が一つなので、その商品の個人の都合によって成立します。ところが、一般的価値形態はそうではありません。あらゆる商品が一つの商品、ここでは亜麻布に対してそれを自分の等価物とするように関わることによって、一つの統一的な商品世界を形成するのです。

このような一般的価値形態においては、等価物となる商品は、自分以外のあらゆる商品の等価物となる一般的等価物となります。それはあらわる商品の値札に書き込まれるわけです。したがって、あらゆる商品に対して直接的交換可能性を持つことになります。一般的等価物となる商品は、必要な量とえれば、あらゆる商品をいつでも入手することができることができるという極めて強力な性質を獲得することになります。

新たにえられた[第三の]形態では、商品世界のさまざまな商品の価値を、商品世界から排除されたただ一つの同じ種類の商品、たとえば亜麻布で表現する。だからすべての商品の価値は、亜麻布と同等であることによって表現されるのである。亜麻布と同等であることで、それぞれの商品の価値はそれに固有の使用価値から区別されるだけでなく、他のすべての使用価値からもまた区別される。それによってそれぞれの商品の価値は、この商品ともあらゆる商品とも共通なものとして表現されるのである。このようにこの形態にいたって初めて、さまざまな商品がたがいに価値として現実に関係しあうようになるのであり、それらをたがいに交換価値として登場させるのである。

それ以前の二つの形態では、一つの商品の価値をそのたびごとに表現するのであり、そのために[第一の形態のように]ある一つの異なる種類の商品を利用するが、[第二の形態のように]異なる種類の一連の商品を利用するかという違いがあるだけだった。どちらの形態でも、個々の商品はいわば(個人の都合)としてみずからに価値形態を与えるのであって、それぞれの商品は他の商品の手助けなしに、これを行うのである。他の商品はそれぞれの商品にたいして等価物となるだけであって、ここではたんなる受動的な役割をはたしているのである。

これとは反対に一般的な価値形態は、商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。ある商品が一般的な価値表現を獲得するのは、同時に他のすべての商品がみずからの価値を、同じ等価物で表現するからである。そして新たに登場するすべての商品の種類も、同じようにふるまう必要がある。これによって明らかになるのは、さまざまな商品の価値の実態とは、これらの物のたんなる「社会的なあり方」なのであって、さまざまな商品の全面的な社会的な関係によってしか表現しえないということであり、商品の価値形態は、社会的に妥当な形態でなければならないということである。

この亜麻布と同等なものという[第三の]形態において、いまやすべての商品は質的に同等なもの、すなわち価値一般として登場するだけではなく、同時に量的に比較可能な価値の大きさとしても登場する。すべての商品がいまやその価値の大きさをただ一つの同じ資材で、すなわち亜麻布で表現するので、これらすべての価値の大きさもたがいに他の価値を表現しあうようになる。たとえば10重量ポンドの紅茶=20ヤードの亜麻布であり、40重量ポンドのコーヒー=20ヤードの亜麻布であるとすると、10重量ポンドの紅茶=40重量ポンドのコーヒーたちになる。あるいは1重量ポンドのコーヒーの中には、1重量ポンドの紅茶の4分の1の価値実体すなわち4分の1の労働しか含まれていないと考えられるようになる。

 

一般的な等価物と人間労働

商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から除外された等価物商品、リンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。それだから、リンネル自身の現物形態がこの世界に共通な価値姿態なのであり、それだから、リンネルは他のすべての商品と直接に交換されうるのである。リンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められる。織布、すなわちリンネルを生産する私的労働が、同時に、一般的な社会的形態に、すなわち他のすべての労働との同等性の形態に、あるのである。一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルに実現されている労働を、他の商品に含まれているそれぞれの労働に順々に等置し、こうすることによって織布を人間労働一般の一般的な現象形態にする。このようにして、商品価値に対象化されている労働は、現実の労働のすべての具体的形態と有用的属性とが捨象されている労働として、消極的に表わされているだけではない。この労働自身の積極的な性質がはっきりと現われてくる。この労働は、いっさいの現実の労働がそれらに共通な人間労働という性格に、人間の労働力の支出に、還元されたものである。

諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表わす。一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、この世界のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっているということ明らかに示しているのである。

商品世界を構成するすべての商品は、一般的な相対的価値形態において、商品世界から除外されたリンネルよって自らの価値を表すことによって、リンネルに一般的な等価物という性格を押しつけます。ここでマルクスは〈一般的な等価物という性格を押しつける〉と〈押しつける〉という表現を使っていますが、リンネルの一般的等価物としての性格はあくまでもリンネルが受動的に商品世界から押しつけられたものだとの理解が重要だということが指摘されています。というのも、この一般的等価形態が貨幣形態にまでなるとその性格があたかも貨幣が生まれながらに持っているかの外観が生じてしまい、諸商品の交換関係から貨幣が生まれるという関係が逆転して、貨幣があるから商品がある、すなわち貨幣によって諸商品が流通させられるのだという観念が生じてきてしまうという誤解を生むからだということです。

単純な価値形態においても明らかになったように、リンネル自身の現物形態が、価値の形態になるのですが、ここではさらにそれは商品世界に共通の価値姿態になるのです。だからまたリンネルはその現物形態のままで他のすべての商品と直接に交換可能なものになります。

いまではリンネルの物体形態は、いっさいの人間労働の目に見える化身、その一般的な社会的な蛹化として認められます。

単純な価値形態の等価形態で考察したように、ここではリンネルを生産する織布労働が、つまり個別の具体的労働が、同時に、そのまま一般的な社会的形態になります。しかも一般的等価形態においては、織布労働が、すべての労働と同等であることがこの形態そのものによって表されているわけです。というのは、一般的価値形態をなしている無数の等式は、リンネルという使用価値に実現されている具体的な労働である織布労働が、すべての他の商品に含まれているそれぞれの具体的な労働、例えば上着を生産する裁断労働やコーヒー栽培労働、鉱山労働など他のすべての労働種類によって等置され、こうすることよって織布労働という具体的な労働そのものを、裁断労働やコーヒー栽培労働や鉱山労働など他のすべての労働種類に共通である人間労働一般の一般的な現象形態にするわけです。

こうして諸商品の価値に対象化されている労働は、いまでは、それらの現実の労働の具体的形態と有用的属性とが捨象された労働として、すなわち抽象的一般的人間労働として消極的に表されているだけではありません。この労働自身の積極的な本性がはっきりと現われてきます。この労働は、すべての現実の労働が人間的労働というそれらに共通な性格に、人間的労働の支出に、還元されたものなのです。

一般的価値形態は、諸労働生産物を抽象的な人間労働の単なる凝固物として表します。それだけではなく、それ自身の構造によって、それは諸労働生産物を商品にする社会的な関係そのものの表現であるもことを示しています。こうして、一般的価値形態は、この世界(ブルジョア社会)のなかでは労働の一般的な人間的性格が労働の独自の社会的性格となっているということを明らかに示しているのです。

商品世界の一般的な相対的価値形態は、亜麻布を商品世界から排除して、それを等価物商品と商品世界とし、それに一般的な等価物という性格を押しつける。亜麻布に固有の自然の形態は、この商品世界に共通する価値の姿であるから、亜麻布は他のすべての商品と直接に交換することができる。亜麻布の身体形態は、すべての人間労働が分かりやすい形で受肉したものであり、人間労働が一般的で社会的な〈蛹〉のようなものに化身したものである。

亜麻布を生産する私的な労働である織物労働は、同時に一般的で社会的な形態をおびて、他のすべての労働との同等性という性格をそなえるようになる。一般的な価値形態を作りだした無数の等式は、亜麻布のうちに実現された労働を、他の商品のうちに含まれる労働と次々に等置することによって、織物労働を人間労働一般の一般的な現象形態とするのである。

このようにして商品価値のうちに対象化した労働は、現実の労働からあらゆる具体的な形態と有用な労働としての性格を無視された労働として、消極的に表現されるのである。それだけではなく、そのほんらいの積極的な性格もここに明確に表現される。この労働は、すべての現実の労働を、それが人間の労働であるという共通した性格に、人間の労働力が投入されたものであるという性格に還元するからである。

この一般的な価値形態は、さまざまな種類の労働の産物を、無差別な人間労働が凝固したものとして表現する。そしてみずからの構造によって、それが商品世界の社会的な表現であることを明らかに示しているのである。これによってこの一般的な価値形態は、この商品世界の内部では、労働の一般的で人間的な性格が、それに固有の社会的な性格を作りだしていることをあらわにする。

 

 

2.相対的価値形態と等価形態の発展関係

相対的価値形態と等価形態の対立

相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。しかし、これは注意を要することであるが、等価物形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。

一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、ほかの一商品を個別的等価物にする。相対的価値の展開された形態は、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それらは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。

しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。

すでに第一の形態─20エレのリンネル=1着の上着─もこの対立を含んではいるが、それを固定させていない。同じ等式が前のほうから読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相対的価値形態にあり、あるときには等価形態にある。両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。

形態Uでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして、等価形態にあるからからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。ここではもはや価値等式─たとえば、20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=1クォーターの小麦、等々─の二つの辺をおきかえること、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。

このあとのほうの形態、すなわち形態Vが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである。

反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の一般的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネルとなり、これは価値も価値量も表わしていない同語反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Vを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Uが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。 

相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応しています。しかしこのことは十分注意すべきことですが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現であり、その結果に過ぎません。イニシアチブは、あくまでも相対的価値形態にあり、等価形態はただ受動的にそれを受け取るに過ぎません。

一商品の単純な、個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にします。一商品の全体的な相対的価値形態は、一商品の価値を表す他のすべての商品に、それぞれ種類の違った特殊的な等価物という形態を与えます。そして最後のすべての商品が共同でその価値を表す一般的な相対的価値形態は、その価値を表す材料となる商品世界から排除されたある特別な商品である共通の等価物となる商品に一般的等価形態を与えます。

そして、相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係とともに、それは同時に両形態の対極性、対立の発展でもあるのです。つまり相対的価値形態と等価形態とは、互いに前提しあいながら、同時に相互に排斥しあっているような関係にあるということです。こうした対立的な関係が、それぞれの価値形態の発展によって、対立そのものも発展し、硬化するというわけです。そうした対極性の発展関係が、単純な価値形態から展開した価値形態、そして一般的価値形態へと価値形態が発展する度合いに応じて、どのように発展しているかを考察しようというわけです。

すでに第一の形態(単純で価値形態)にも対立が含んでいたからこそ、相対的価値形態にリンネルがあるということは、リンネルは同時に等価形態にあることはできず、必ず他の別のある商品、例えば上着でなければならなかったのです。 しかし単純な価値形態では、まだそれは固定させてはいませんでした。例えば20エレのリンネル=1着の上着という等式がなりたつということは、同時に1着の上着=20エレのリンネルという等式も成り立ちました。つまりどちらの商品もあるときは相対的価値形態にあり、また別のあるときには等価形態にもあることができたのです。だからこの場合、二つの形態が互いに排斥し合う関係にあるということをつかむためには、いささか骨が折れたのでした。

形態U(展開された価値形態)でも、やはり両形態の対極的な対立は含まれています。すなわち、一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値をそれ以外のすべての商品によって展開して表現しうるだけです。ある一つの商品種類が展開された相対的価値形態にあるなら、それはそれを表現する材料である他の多くの特殊的な等価形態の一つになることはできません。言いかえれば、すべての他の商品が、その一つの商品種類に対して特殊な等価形態にあるからこそ、またその限りにおいてのみ、その一つの商品種類は展開された相対的価値形態を持つのです。確かにここでは、その一つの商品種類は、ある特定の商品に固定されてはいません。しかし、ここでは単純な価値形態のように、この価値等式そのもの、例えば、20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=1クォーターの小麦、等々の二つの辺をひっくり返すことは、もはやできません。それをやるとこの等式そのものを全性格を変えてしまい、全体的な価値形態から一般的価値形態に転化させることになってしまうからです。つまりここでは対極的な対立の「硬化」はその限りでは一段と進んでいることが分かります。

形態V(一般的価値形態)は、商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えますが、それはただ一つの例外を除いて、商品世界のすべての商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのみです。これは相対的価値形態と等価形態の対極的な対立が、商品世界のすべての商品と、その商品世界から排除されたある例外的な商品種類という形で現われていることを意味します。ここでは一般的等価形態にある商品は、商品世界から排除された例外的存在としてあります。つまりその限りでは「硬化」は一段と進んでいるともいえます。だから、この例外的な一商品、例えばリンネルが他のすべての商品との直接的な交換可能性の形態にある、あるいは直接的に社会的な形態にあるということは、他のすべての商品がこうした形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのことなのです。

一般的な相対的価値形態について上記のようにいえるということは、反対に、一般的等価物の役割を演ずる商品については、この商品が、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは排除されているということがいえるわけです。もしもリンネルが、つまり一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとなると、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならなくなるでしょう。しかしその場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネルとなり、私たちが価値表現の両極を考察したときに確認したように、これは価値も価値量も表さない同義反復でしかなく、ただ〈20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということ〉を示すだけに過ぎません。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Vを逆にしなければならないのです。一般的等価物は、他のすべての商品の身体で、その無限の列で、自身の価値を相対的に表現するしかないのです。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態、すなわち形態Uが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのです。

 

これは、分かりやすく言うと、こういうことです。三つの価値形態の発展に沿って述べていくと、相対的価値形態は等価物によって価値を表すということ。それが20ヤードのリンネル=1着の上着という等式で表されているわけです。の相対的価値形態と等価物との関係を、ここでは対極関係と呼んでいます。それは、上記の等式を見れば、左辺が相対的価値形態で右辺が等価物という関係を示していますが、けっして両者は同じではなく、左辺と右辺を入れ替えることはできない。もし入れ替えると、異なる関係を表すことになってしまうということです。ただし、現実の交換関係では、20ヤードのリンネルと1着の上着とは直接交換することができます。そういう関係です。このような単純で個別な価値形態では、両者の対極的な関係は、目立つものではありません。

しかし、個別的な価値形態が展開された、全体的な価値形態となると、1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=20エレの亜麻布、等々の諸製品と20エレのリンネルがそれぞれに等式を成り立たせることができています。このとき、1着の上着、10ポンドの茶等の諸商品は、それぞれに上着を等価物として価値を表すことができます。したがって、1着の上着と10ポンドの茶は同じ20エレのリンネルで価値をあらわすものとして、価値の大きさは同20エレのリンネルといえます。もしも、この場合に1着の上着=20エレのリンネル、10ポンドの茶=20エレのリンネルの2つの等式の左辺と右辺をそれぞれ入れ替えてしまったら、そのことは言えなくなります。20エレのリンネルは、1着の上着でも、10ポンドの茶でも等価物として価値を表すことができるということになります。このとき、1着の上着と10ポンドの茶は、それぞれ等価物という尺度ですから、互いに価値の大きさが等しいと比べることはできないわけです。また、リンネルと上着、茶と上着はそれぞれ等式で関係が成り立っていますが、1着の上着と10ポンドの茶は価値の大きさが等しいとはいっても、等式の関係が成り立っているわけではないので、1着の上着の価値を10ポンドの茶で表すことはできません。1着の上着と10ポンドの茶とは直接交換することはできません。それぞれは20エレのリンネルとしか交換できないということです。つまり、1着の上着を20エレのリンネルと交換し、それで得た20エレのリンネルと交換により10ポンドの茶を得る、ということになります。それは相対的価値形態と等価物との対極関係のためです。したがって、ここでは単純で個別的な価値関係では目立たなかった対極関係があからさまになったといえます。

それが一般的な価値形態になると、1着の上着、10ポンドの茶等々の諸商品は一律に20エレのリンネルで価値を表すという形態です。そこでは、もはや等式の左辺と右辺を交換するということは不可能です。そんなことをしたら、一律で成り立っている形態が崩壊してしまいます。この場合、交換はすべて20エレと何かの交換という一律の形になってしまっています。これに対して単純で個別的な形態であれば、その都度、交渉によって1着の上着と10ポンドの茶の交換が成り立つことはあったかもしれませんが、一般的な価値形態では、偶然にそういう交換が成り立つ可能性もない。その結果、相対的価値関係と等価物の対極関係は堅固で動かしがたいものとなったということです。

では、この場合のリンネルはどうなってしまうのでしょう。一般的等価物として、交換に右辺として必ず介在するということになると、リンネル自身がほかの商品と同列に並ぶことはできなくなります。ここでは排除されると書かれていますが、そうでなければ、価値を表す等価物として機能しなくなるからです。一般的等価物として有効に機能するためには、他のものに価値を決められて等価物自身の価値が変動したら、全体が崩れてしまうわけですし、交換して使われてなくなってしまったら、交換という関係が成立しなくなります。一般的等価物は、できれば、交換に介在するというだけで、変わらず、そのまま存在し続けてほしいのです。

相対的な価値形態がどの程度まで発展するかにおうじて、等価形態の発展段階が決定される。ここで注意すべきことは、この等価物形態の発展は、相対的な価値形態の発展の表現であり、その結果であるにすぎないということである。

[すでに考察してきたように、第一の形態では]ある商品の単純な相対的な価値形態や、個別的な価値形態によって、ある別の商品がその商品の等価物になる。そして、[第二の形態では]相対的な価値形態の展開された形態は、ある商品の価値を他のすべての商品で表現するものであり、これによって他のすべての商品は、異なる種類の特殊な等価物という形態をそなえるようになる。そして最後に[第三の形態において]ある特殊な商品だけが、一般的な等価形態をうけとるようになる。他のすべての商品が、この特殊な商品だけを、みずからの統一的で一般的な価値材料として利用するからである。

そしてこの価値形態一般が発展していくと、価値形態の両極である相対的価値形態と等価形態の対立も発展していくのである。

すでに最初の形態である20ヤードの亜麻布=1枚の上衣という等式にも、この対立が含まれていたが、この対立はまだ固定されていなかった。同じ等式を上から読むか、下から読むかにおうじて、亜麻布と上衣は対立する二つの商品極として、たがいに相対的な価値形態をおびたりする。この段階では両極の対立を固定するのは難しい。

第二形態では、そのつど、ただ一つずつの商品の種類が、みずからの相対的な価値を全体的に展開できるに過ぎない。その商品が展開された価値形態をもつのは、他のすべての商品がその商品にたいして、等価形態にあるからである。この第二段階ではもはや、等式の二つの極を逆転させることはできない。この等式は20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、または=10重量ポンドの紅茶、または=1クォーターの小麦利用になっているのであり、これを逆転させると、等式の全体的な性格がかわってくるだけでなく、それを[第二形態の]一般的な価値形態に転換しなければならなくなるのである。

最後の形態である第三段階にいたってついに、商品世界は一般的で社会的な相対的価値形態を手にすることになる。それはただ一つの商品をめぐって、この商品世界に属するすべての商品が、一般的な等価形態から排除されるからであり、そのかぎりにおいてである。だからある商品、たとえば亜麻布が他のすべての商品と直接に交換可能な形態を、すなわち直接に社会的な形態をおびるのは、他のすべての商品がその形態をおびていないからであり、そのかぎりにおいてである。

反対に、一般的な価値等価物としての役割をはたす商品は、商品世界の統一的で一般的な相対的な価値形態から排除される。もしも亜麻布が、すなわち一般的な等価形態をおびた商品が、同時に一般的な相対的価値形態をおびるようなことがあったならば、そのときにはその商品の等価形態となるのはその商品自らだということになる。その場合には20ヤードの亜麻布=20ヤードの亜麻布となり、これは同語反復であり、価値も価値の大きさも表現しなくなる。

一般的な等価物の相対的な価値を表現するには、この第三形態の等式をひっくり返さねばならない。するとこの一般的な等価物[である亜麻布]は、他の商品と共通な相対的な価値形態を示すのではなく、他のすべての商品身体の無限の系列のうちで、みずからの価値を相対的に表現するにとどまるのである。これは、第二形態の展開された相対的価値形態の等式であり、そこにおいて等価物商品の特殊な相対的な価値形態が表現されるのである。

 

3.一般的価値形態から貨幣形態への移行

そして今回の一般的価値形態から貨幣形態のへ移行は、価値形態の発展としては最後となります。これまでも、こうした価値形態の発展と移行には、商品の交換関係そのものの発展、あるいは商品形態の発展が背景にあり、それを前提してマルクスは考えていて、今回もその意味では同じなのですが、これまでは価値形態そのものの本質的な変化があったのに、今回はそうではないともマルクスは述べています(こうした事情は次の「D 貨幣形態」で考察されます)。こうした価値形態の発展とその移行は、すべて形態そのものに内在する矛盾や欠陥を指摘することから説明されてきました。その意味では、抽象的な考察が行われています。

 

貨幣としての金の登場

一般的等価形態は、価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的な価値形態(形態V)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自の商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。

そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態Uではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態Vでは、自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である。そこで、形態Vのなかで商品リンネルを商品金に取り替えれば、次のような形態が得られる

一般的等価形態は価値一般の一つの形態です。だから、それはどの商品も、この形態をとることができるのです。しかし、ある商品が一般的等価形態にあるのは、他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、またその限りで、それは一般的等価形態にあるのです。だからその商品は、これまで確認してきたように、商品世界から排除された、特別な商品であり、例外的な商品でした。だから、この排除が最初は、ときとところによっては、色々な商品に付着したのですが、しかし最終的に一つの商品の種類に限定されると、その瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は、客観的に一つの固定性と一般的な社会的妥当性をかちえたことになるわけです。

そこで、そのような過程で、その現物形態に等価形態が最終的に癒着する特殊な商品種類は、貨幣商品になるわけです。言いかえると、貨幣として機能します。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自の社会的な機能となり、だからその商品だけがそれを果たすことになり、社会的独占となります。これは一つの特権的な地位を獲得することですが、こうした特権を、形態Uでは、リンネルの特殊的な等価物の役割を演じ、形態Vでは、自分たちの相対的価値形態を、他の商品と一緒にリンネルで表現していた、ある商品が歴史的に勝ち取ったのです。それがすなわち金なのです。そこで、形態Vの一般的等価形態にあるリンネル代わりにその商品である金を入れると、次の式のような形態が得られます。

つまり、こういうことです。商品の価値は一般的等価形態によってのみ適切に表現されますが、それだけではまだ価値表現として十分ではありません。商品の価値表現が「客観的な固定性と一般的な社会的通用性」を獲得するには、一般的等価形態を取る商品が「一つの独自な商品種類」に限定される必要があります。実際、一般的等価形態をとる商品が限定されず、刻々と変化しているのであれば、商品の価値表現は「客観的な固定性と一般的な社会的妥当性」をもっておらず、商品交換は困難になります。

このように、一般的等価物の役割を独占し、一般的等価物と癒着するにいたった商品のことを貨幣と呼びます。現実に一般的等価物の役割を独占した商品は金ですので、金が貨幣として機能することになります。現実に機能している貨幣がもつ、あらゆる商品に対する直接的交換可能性という力は、まさに商品の価値表現において必然的に必要とされる一般的価値形態から発生しているのです。 

一般的な価値形態は、価値一般の一つの形態である。だからどんな商品も、この価値形態とることができる。他方で、一つの商品が第三形態の一般的な価値形態をとることができるのは、それが他のすべての商品によって、等価物として排除されたときにかぎる。そして排除されるのがある特別な種類の商品だけに決定的に限定された瞬間から、初めて商品世界の統一的な相対的価値形態が、客観的な固定性を獲得し、一般的な社会的な通用性を獲得したのである。

この特別な種類の商品は、その自然の形態が社会的な等価形態と癒着することによって、貨幣商品となったのであり、それは貨幣として機能するようになる。商品世界の内部で、一般的な等価物の役割をはたすことが、この商品の特別な社会的な機能となったのであり、その機能を社会的に独占することになる。

第二形態では、亜麻布の一つの特殊な等価物として機能していたさまざまな商品の一つである商品が、そして第三形態では、それぞれの相対的な価値を共同して亜麻布によって表現させていたさまざまな商品のうちのひとつである商品が、この優先的な地位を歴史的に獲得した。この商品とは金である。だから第三形態で、商品の亜麻布の代わりに商品の金を置くと、次のように表現できる。

 

(D)貨幣形態

ようやく現代の社会で私たちが日常的に目にしている「価格形態」にまでたどり着きました。貨幣形態には、あらゆる商品が金によって自分たちの価値を表現することの結果として、金が一般的等価形態の役割を独占的に担っているということが示されています。ところが、「価格形態」ではこの痕跡は消え失せてしまっています。それどころか、ポンドとか円という「鋳貨の名前」が直接に価格を表示しているかのような外観すら帯びています。だからこそ、そのような外観からほど遠い、「リンネル=上着」という最も単純な価値形態から出発して、価値形態を詳細に分析する必要があったのです。

これまでの分析を振り返ってみて分かるのは、商品は自分たちの共同事業によって貨幣という特別な力を持った商品を作りだすことなしには、自分たちの価値を表現することができないということです。つまり、商品は自分たちの値札に共通の等価物として金を書き入れ、金にあらゆる商品に対する直接的交換可能性を付与し、価値体とかることによってしか自分たちの価値を表現することができないのです。ですから、生産者たちが労働生産物を商品として取り扱う限り、人間血の意志とは関わりなく、価格による価格表現がどうしても必要になると言えるでしょう。

実際、人間たちが一般的に労働生産物を商品として交換している社会では、その社会がどんな文化を持とうと、どんな気候条件のもとでどんな言語を用いていようと、かならず価格形態によって商品の価値を表現しています。価値形態というのは、人間が人為的に作り上げたものではなく、いわば商品の内的本性にしたがって人間たちが無自覚のうちに生み出したものなのです。だからこそ、それを理解するためには、これほどまでに込み入った考察が必要だったのです。

 

20エレのリンネル             

1着の   上着                    

10ポンドの茶            =

40ポンドのコーヒー          

1クォーターの小麦                       2オンスの金

0.5トンの鉄                    

X量の商品A                    

 

第4形態の特徴

形態Tから形態Uへの、また形態Uから形態Vへの移行では、本質的な変化が生じている。これに反して、形態Wは、いまではリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているということのほかには、形態Vと違うところはなにもない。形態Wでは金は、やはり、リンネルが形態Vでそれだったもの─一般的な等価物である。前進は、ただ、直接的な一般的交換可能性の形態または一般的等価形態がいまでは社会的慣習によって、最終的に商品金の独自な現物形態と合生しているということだけである。

金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にたいしてすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。すべての他の商品と同じように、金もまた、個々別々の交換行為で個別的等価物としてであれ、他のいろいろな商品等価物と並んで特殊的等価物としてであれ、等価物として機能していた。しだいに、金は、あるいはより狭いあるいは広い範囲のなかで一般的等価物として機能するようになった。それが商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとったとき、それは貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、はじめて形態Wは形態Vと区別されるのであり、言いかえれば一般的価値形態は貨幣形態に転化しているのである。

一般的価値形態から貨幣形態のへ移行は、価値形態の発展としては最後となります。これまでも、こうした価値形態の発展と移行には、商品の交換関係そのものの発展、あるいは商品形態の発展が背景にあり、それを前提してマルクスは考えていて、今回もその意味では同じなのですが、これまでは価値形態そのものの本質的な変化があったのに、今回はそうではないともマルクスは述べています。それは、形態W(貨幣形態)では、形態Vで一般的等価形態にあった亜麻布の代わりに、金が来るだけで、それ以外では形態Vと区別されるところがありません。形態Wにおける金は、形態Vにおいて亜麻布がそうであったのと同じように、一般的等価形態にあるという点では変わらないのです。ただ違うところ、進歩は、一般的等価形態が持っている直接的な一般的な交換可能性の形態が、今では社会的な慣習によって、商品の金の特有な現物形態に最終的に落ち着いたということだけです。

金が形態Wで、他の諸商品に対して貨幣として相対するようになるのは、金がすでに以前から他の商品と同じように一つの商品として、他の諸商品に相対していたからにほかなりません。つまり、他のすべての商品と同じように、金もまた、個別的な交換行為において(つまり単純な価値形態において)、個々の等価物としてあらわれたし、また展開された価値形態では、他の商品と並んで一つの特殊な等価物としてあらわれ、それぞれ等価として機能していたのです。そして、金は、しだいに広い範囲や狭い範囲の違いはあったとしても、徐々に一般的等価として機能するようになったのです。そして金が商品世界の価値を表現する、こうした地位、つまり一般的等価物としての地位、を他の諸商品を押し退けて独占するようになると(本当は他の諸商品の一般的な相対的な価値表現の列から金は例外的なものとして排除されて、受動的にそうした地位につかされるわけですが)、それは貨幣商品になり、そして金がそうした地位についた瞬間から、はじめて形態IV(つまり貨幣形態)は、形態III(一般的価値形態)から区別されるのです。言いかえると、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのです。 

すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。それゆえ、リンネルの「価格形態」は

20エレのリンネル=2オンスの金

または、もし2ポンド・スターリングというのが2オンスの金の鋳貨名であるならば、

20エレのリンネル=2ポンド・スターリング

である。

貨幣形態の概念における困難は、一般的等価形態の、したがって、一般的価値形態一般の、形態Vの、理解に限られる。形態Vは、逆関係的に形態Uに、展開された価値形態に、解消し、そして、形態Uの構成要素は、形態T、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着、またはX量の商品A=Y量の商品Bである。それゆえ、単純な商品形態は、貨幣形態の萌芽なのである。

貨幣形態の概念を理解するのがむずかしいのは、一般的な等価形態を理解するのが難しいためです。しかし一般的価値形態の理解は、そもそももとに遡れば、形態U(展開された価値形態)の理解に帰着し、そしてその理解はさらにはそれの構成要素でもある形態T(単純な価値形態)の理解に帰着するのです。つまり 20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、または、x量の商品A=y量の商品B、という単純な価値形態の理解こそが、すべての出発点であり、その概念的な理解こそが重要であるということです。だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽だといえるわけです。  

第1形態から第2形態に移行した際にも。第2形態から第3形態に移行した際にも、本質的な変化が発生していた。しかしこの第4形態は、今では亜麻布ではなく金が一般的に等価形態をそなえていることをのぞくと、第3形態といかなる違いもない。第4形態では金は、第3形態で亜麻布が占めていた一般的な等価物の役割をはたしているだけである。第3形態と比較して進歩があるとすれば、それは直接的で一般的な交換可能性の形態、すなわち一般的な等価形態が、いまや社会的な慣習によって、商品の金の特殊な自然の形態と最終的に癒着していることにある。

金は他の商品と貨幣として向き合っているが、それは金とそれまで他の商品として向き合っていたためである。金もまた他のすべての商品と同じように、等価物として機能していた─個々の交換行為において個別の等価物として機能していたし、他の商品等価物とならんで特殊な等価物として機能していたのである。しかしやがて金は、狭い範囲であるか広い範囲であるかを問わず、一般的な等価物として機能するようになっていった。ついに金が商品世界の価値表現のうちで、独占的な等価物としての地位を獲得すると、貨幣商品となったのである。そして金が貨幣商品となった瞬間から、第四形態は第三形態と区別されるようになる。そして一般的な価値形態が貨幣形態に変化したのである。

ある商品、たとえば亜麻布の単純な相対的な価値表現を、すでに貨幣商品として機能している商品(たとえば金)によって表現すると、これは価格形態となる。そこで亜麻布の「価格形態」は次のように表現される。

20ヤードの亜麻布=2オンスの金

そして金の貨幣がポンドという名前で呼ばれるならば、次のようになる。

20ヤードの亜麻布=2ポンド

貨幣形態の概念を理解するのがむずかしいのは、一般的な等価形態を理解するのが難しいためである。すなわち一般的な価値形態を示した第三形態を理解するのが難しいためである。第三形態を逆向きに分析すると、展開された価値形態である第二形態がえられるし、第二形態を構成する要素は、第一形態を集めたものである。20ヤードの亜麻布=1枚の上衣、またはX量の商品A=Y量の商品Bだからだ。このため単純な商品形態は、貨幣形態の萌芽なのである。

 

第4節 商品のフェティッシュな性格とその秘密

第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機も歴史的な存在なのです。それらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。その課題を解決しているのが、この第4節です。

もちろん、諸商品を分析していく中でも、その歴史性は明らかにされてきたのですが(価値形態の考察では、常に問題は歴史的にも取り扱われています)、しかし商品が商品でないものから(労働生産物から)、商品に如何にして何ゆえになるのかということは、商品を前提した分析では明らかにならないのです。商品を見ている限りは、それ以前のものは歴史の背後に隠されており、決してわれわれは見ることができないからです。だからマルクスはそうした問題は自ずと別の課題になるのだと述べています。そしてその課題を果たすのが第4節といえるのです。

 

商品の妄想

商品は、一見、自明な平凡なものに見える。商品の分析は、商品とは非常にへんてこなもので形而上学的な小理屈と神学的な小言でいっぱいなものだということを示す。商品が使用価値であるかぎりでは、その諸属性によって人間の諸欲望を満足させるものであるという観点から見ても、あるいはまた人間労働の生産物としてはじめてこれらの属性を得るものだという観点から見ても、商品には少しも神秘的なところはない。人間が自分の活動によって自然素材の形態を人間にとって有用な仕方で変化させるということは、わかりきったことである。たとえば、材木で机をつくれば、材木の形は変えられる。それにもかかわらず、机はやはり材木であり、ありふれた感覚的なものである。ところが、机が商品として現われるやいなや、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。机は、自分の足で床の上に立っているだけではなく、他のすべての商品にたいして頭で立っており、そしてその木頭からは、机が自分かってに踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を繰り広げるのである。

これまでの商品の分析をつうじて、「一見したところ、ごくあたりまえのつまらない」商品がじつは「形而上学的な屁理屈と神学的な気難しさに満ちた何とも厄介な物」であることが明らかになってきました。日常的に商品を購買したり、販売したりするだけであれば、とくに難しいことは何もありません。ところが、あらためて「商品とき何か」と問い直すやいなや、途端に商品は理解しがたい、神秘的なものとして現れてきます。この節では、この商品の神秘的性格が「どこから」発生したものであるか、さらにはそれが「なぜ」発生したかを解き明かすことが課題となります。

『資本論』全体を適切に理解するには、この二つの問い、すなわちそのような神秘的な性格を持つ商品が「どこから」発生したのか、「なぜ」発生したのかという点を理解することがきわめて重要になります。というのも、商品は人類史の一定の段階で発生したものであり、しかもこの商品の生産が生産活動の大部分を占めるようになったのが資本主義社会だからです。ですから、この問いを理解することによってはじめて、商品やその属性である価値についてもひいては資本主義社会を根本から理解できるようになると言えるでしょう。

この節でマルクスがはじめに考察するのは、商品の神秘的性格は「どこから」発生したのか、という問いです。引用文にもあるように、この神秘的性格は明らかに商品の使用価値から発生したものではありません。使用価値という観点から見る限り、商品はありふれた、五感で把握できる感性的なものに過ぎないからです。

例えばテーブルがひとたび商品として登場するやいなや、それは感性的存在でありながら、それ以上のもの、超感性的なものに転化するのです。テーブルはその脚で床に立っているだけではなくて、他の商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりはるかに奇妙な妄想を展開するようになるのです。

商品というものは、一見したところ、ごくあたりまえのつまらない物に見える。しかし商品を分析してみると、それがいかに形而上学的な屁理屈と神学的な気難しさに満ちた何とも厄介な物であるかが分かる。商品は使用価値としては、神秘的なところはまったくない。わたしがここで、商品はその特性によって人間の欲望を満たすものであるという観点から分析しても、商品は人間労働の産物として、初めて商品という性格をそなえるようになるという観点から分析しても、神秘的なところはないのである。

人間の活動によって、自然の素材の形式が、人間に役立つように変えられるのは、ごく自明のことである。例えば人間が木材に手を加えてテーブルを製作するときには、木材の形式が変わる。形式は変わったとしてもテーブルは木材でできているのであり、ふつうの感覚的な物である。

しかしテーブルが商品として登場したとたんに、テーブルは感覚的な物であるだけでなく、超感覚的な物に変わってしまう。テーブルは4本の脚で床の上に立っているが、他のすべての商品にたいしては頭で逆立ちをしているのである。そしてテーブルはその材木の頭のうちで、奇怪な妄想を繰り広げる。この妄想は、テーブルがひとりでに踊り始めるよりも、もっと奇怪なのである。

 

商品の神秘的な性格

だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事でなければならなかった。といっても、発展段階の相違によって一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。

商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。そして、次にマルクスは、商品の神秘的性格は「価値規定の内容」からも出てこない、と言います。ここでいう「価値規定の内容」という表現は、価値の全体をなす抽象的な人間労働のことを意味しています。つまり、商品の神秘的性格はその価値の実体をなす抽象的な人間労働から出てくるものではない、ということです。もう少し別の言い方をすれば、抽象的な人間労働それ自体には少しも神秘的なところはない、ということです。マルクスはこのことを三つの面から説明しています。

まず、マルクス抽象的な人間労働の質的な面に注目します。個々の有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間労働であり、人間の有機的な身体の諸機能から出ているものだという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

次に、量的な面について見ると、抽象的な人間労働の量は労働時間として現れるわけですから、「この量は労働の質から感覚的にも区別されうるもの」だと言えます。このような抽象的な人間労働の量は、それぞれの生産者とっては時間をどれだけ費やすのか、その生産者にどれだけの疲労を与えるのかを決めるわけですから、「どんな状態のもとでも、人間は─発展段階の相違によって一様ではないが─生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった」のです。

最後に、抽象的な人間的労働の社会的意義についてマルクスは指摘しています、ここの引用文だけでは少し分かりづらいと思いますが、先にみたような抽象的な人間労働の質的および量的意義は、個々の人間たちにとってだけでなく、それらの人間たちが構成する社会にとっても意義を持っているということです。

マルクスは以上の3点からみて価値の実体をなす抽象的な人間労働にはどこにも神秘的なところはない、と言います。 

それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、いろいろな労働生産物の社会的関係という形態を受け取るのである。

だから、商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態と現われる。しかし、視覚の場合には、現実に光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態が現われるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げこまなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだとも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。 

さて、これまでみてきたように、商品の神秘的性格は、その使用価値から生まれてくるものでも、その価値規定の内容である抽象的人間的労働から生まれてくるものでもありません。では、どこから生じるのでしょうか、

それは「商品形態」から生まれるのだ、とマルクスは言います。というのも、労働生産物が商品形態をとる社会では、先ほどみた抽象的人間的労働の社会的性格が、価値として、すなわち労働生産物自身の属性として現象することによって、人間たちの認識を幻惑するからです。商品生産が大部分を占める資本主義社会の商品形態においては、人間たち自身の活動である労働力の支出が、あるいはその労働力の支出がもつ社会的意義が、労働生産物がもつ価値という社会的属性として現れるという「思い違い」によって、抽象的人間的労働の社会的性格は直接的に現れるものではなくなり、むしろ生産物自身が「それ自身の生命を与えられて、それら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立的な姿に見える」のです。

つまり、こういうことです。ある商品の価値の大きさが別の商品の使用価値の分量で表現される「交換価値」に比べれば、その商品の生産に社会的・平均的に必要だった労働によって規定される「価値」は、商品に内在的なある量として想定することができます。交換価値の場合は、どの商品の分量で表現するかによって、無数の価値表現が存在しうるからです。しかし、だからといって、価値を純粋に相対的なものと言い切ることはできません。どの商品もどのような分量で表現されるのであれ、そのような表現がそもそも可能となるために、両者に共通したある内在的な量が存在しなければならないからです。しかし、その「内在的な量」とは、その商品を生産するのに社会的・平均的に必要な労働の量であって、この量そのものは商品の中に自然物として含まれているわけではないのです。それは、労働が陽の生産に平均値として投入されたという社会的事実の物的反映でしかないわけです。商品に社会的な意味で内在していると同時に、自然的な意味では内在していないのです。もし生産物を生産するのが一個の共同体であれば、どの生産物にどれだけの労働が投入されたかという社会的事実を、その生産物自身の「価値」として(すなわち、物の何らかの属性として)表示する必要はないでしょう。帳面に、あるいは現代ではパソコン上に、A生産物は何時間、B生産物は何時間と表示すればよい。あるいは慣習によってだいたいの労働時間が想定されていれば足りるのです。しかし、各々がばらばらに私的労働をする商品生産社会では、社会全体の総労働時間を、その社会の諸成員が必要とするさまざまな生産物に対する多様な欲望の量に応じて計画的に配分することは不可能です。その生産物の生産の社会の総労働時間のどれだけが投下されたのかは、生産物が「商品」として状に出され、その商品という「物」の価格として表示されることでしか示すことはできないのでか。しかも、その労働が本当に社会的に必要な生産物に必要な量だけ投下されたのかどうかは、投下された時点では分からない。それが商品として実際に一定の価格で購買されることで初めて確認できるものです。

市場社会においては、ある商品を生産するのに必要だった労働の質と量とは、それ自体として社会的に組織しカウントし評価する仕組みは存在しません。ある完成商品が市場で人々の目の前に登場して消費されるまでに、無数の人々の手がそこに関わり、無数の人々のあいだを通過しています。先進国の大都市に存在するスターバックスで飲む一杯のコーヒーが出来上がるまでには、地球の裏側でコーヒー栽培に従事する農民まで至る国際的な人々のほとんど無限の協働が必要でした。これらの無数の労働はすべてそれらによってつくり出される商品という「物」を媒介にして結合しており、したがってそれらの「物」に託す形でしか、そうした労働の質と量とを評価することができないというわけです。労働の質は、消費者の欲求と基準を満たす商品の「社会的使用価値」として託され、労働の量は商品それ自身に内在する「価値」として社会的に託されます。こうして、社会の諸成員の支出する社会的総労働時間が、人々の多様な必要に応じて配分されなければ社会が存続できないという法則は、その労働が各々、商品という物に内在する「価値」として物的に表現され、それが実際に交換されることで、事後的に、媒介的に、無政府的に解決されます。それと同時に、このように社会的な関係が物的に表現されることで、その本当の内実が見えなくなってしまう。商品の価値ないし交換価値という概念が一人歩きし、後からその「価値」とはいったい何であるかが探求されることになるわけです。このように物を媒介とした人と人との社会関係が、それ自体としての物と物との関係として現れることを物象化ないし物化といいます。この関係においては、商品の所有者ないし所持者は、この商品の単なる人格的担い手であり、物としての商品の人格化にすぎない。これは商品関係を基本とするあらゆる社会において存在する現象だが、ほとんどすべての富を商品として生産し流通させる資本主義においてはじめて本格的に発展する。発達した商品生産社会としての資本主義社会においては、人々は「社会的な物」(商品や貨幣や資本)の人格的担い手としてのみ尊いのであり、セレブなのです。「金持ち」という露骨な表現ほどこの転倒した関係を的確に表現するものはないでしょう。金持ちがこの社会で偉そうにしているのは、彼の人間性のうえでも高潔さのゆえではなく、ただ、「お金」という「社会的な物」を大量に担っているからにすぎません。彼はお金という「物」を手に入れる生きた箱にすぎない。封建社会では人々は身分や血統、家系の人格化であった。ある貴族や皇族が重要なのは、その個々人の人格性のゆえではなく、それがある血統ないし家系の担い手であるからに過ぎません。彼や彼女は、ブルボン家ないし徳川家の血統ないし家系を受け継ぐ生きた「入れ物」だからこそ「尊い」とされ、尊敬されます。それは、ちょうど資本主義社会において金持ちが尊敬されるのと同じです。

このように、労働生産物が商品形態をとり、抽象的人間的労働の社会的性格が労働生産物の社会的属性となることから発生する錯覚のことを「物神崇拝(フェティシズム)」と呼びます。労働生産物の大半が商品の形態をとる資本主義社会においては、この物神崇拝が必然的に発生します。ここでは、自分たちが労働の社会的性格を生産物の交際力として表示し、商品交換を行うからこそ、生産物が価値という力を持っているのだということがわからなくなり、むしろ、生産物がうまれつき「価値」を持っているからこそ、それらは商品として交換できるのだと人々は考えるようになります。

商品の神秘的な性格は、その使用価値から生まれるものではないし、その価値規定の内容から生まれるものでもない。なぜならば第一に、有用な労働や生産的な労働はたしかに多様なものではあるだろうが、こうした労働が人間の有機体の働きであるということは生理学的な事実であり、こうした働きはすべて、その内容や形式がどのようなものであろうと、本質的に人間の頭脳、神経、感覚器官などが利用されたものだからである。

第二に、価値の大きさを規定する根拠は、こうした労働が投入された時間の長さであり、労働の量であるが、こうした労働の量は感覚的にも、労働の質とは明確に異なるものである。人間の生活手段の生産に必要な労働時間は、社会の発展段階におうじて異なるものであるが、いかなる状況においても、人間はこれに関心をもたざるをえないのである。

最後に、人々が何らかの形でたがいに他人のために働かざるをえなくなると、ただちに人間の労働は社会的な形態をおびるようになる。

それでは、労働の生産物が商品の形態をとると同時に生まれるこの謎めいた性格は、どのようにして発生したのだろうか。明らかにこの商品形態そのものから生まれたのである。さまざまな人間労働は、[抽象的な人間労働としては]同等なものであり、その同等性はさまざまな労働の生産物において、同等な価値の実態という物体的な形態をとる。また人間の労働力の持続時間で測定した労働の投入量の尺度は、労働の生産物において、価値の大きさという形態をとる。最後に、生産者たちの関係は、労働の生産物において、社会的な関係という形態をとり、ここにおいて生産者たちの社会的な規定が確認される。

だから商品形態の秘密とはたんに次のことにあるのである。すなわち人間はこの商品という形態を目にすると、自分たちの労働の社会的な性格が、あたかも労働の生産物の対象的な性格でもあるかのように、いわばこれらの物に自然にそなわった社会的な性格でもあるかのように、思われてくるのである。そして生産者たちとその全体の労働の社会的な関係であるはずのものが、あたかも生産者たちの外部に存在する[商品という]対象の社会的に関係でもあるかのようにみえてくるのである。このような思い違いによって、労働の生産性が商品になり、感覚的でありながら。超感覚的なものに、社会的なものになるのである。

[視覚との類比で考えてみるならば]人間は[ある物を眺めて]視神経において物を照らしだしている光の印象をうけると、視神経に刺激を感じるが、それを視神経にたいする主観的な刺激としてではなく、目の外部に存在する物の対象的な形態としてうけとるのである。

視覚の場合には、実際に一つの物が、外部に対象として存在していて、そこから別の物である人間の目に、光線が投じられている。これは[外部の]物理的な物と[人間の目という]物理的な物のあいだの物理的な関係である。これにたいして商品形態と、商品形態が表現される労働の生産物のあいだの価値関係は、労働の生産物の物理的な性質とも、この物理的な性質から生まれる物どうしの関係とも、まったくかかわりがない。この価値関係は人間たちのあいだの特定の社会的な関係なのであるが、それが人間にとっては、物と物のあいだの関係でもあるかのように見えるのであり、これは幻影的な形態と呼べるだろう。

だからこれについて類比を考えるならば、[視覚ではなく]宗教的な世界の曖昧模糊とした領域に逃げこまなければならないだろう。この[宗教の]領域では、人間の頭のなかで作りだした産物が、それ自身の生命を与えられて、たがいに関係し、人間とも関係する自立的な姿をとっているようにみえる。商品世界では、人間が手を使って作り出した生産物が、同じようにふるまう。わたしはこれを物神崇拝と呼ぶ。労働の生産物が商品として生産されるとともに、このフェティシズムが商品に貼りつき、商品の生産から分離できなくなるのである。

 

商品のフェティッシュな性格

このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすてに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。

およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現れるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の循環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現れるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。

こうした商品世界の物神的な性格は、これまでの分析で明らかになったように、商品を生産する労働の固有の社会的性格から生じます。では、商品を生産する労働の固有の社会的性格とは何でしょうか。

たとえば、第2節でみたように、たんに社会的分業が存在するだけでは、労働生産物は商品とはなりません。それは、総労働の配分と生産物の分配を人間たちの意志によって解決することができるので、労働の社会的性格を価値というかたちで考慮する必要がなかったからです。つまり、これらのケースでは、人間たちが労働の社会的性格を直接に考慮しているのです。

では、どうなると労働生産物は商品となるのでしょうか。「使用対象が一般に商品になるのは、それらが互いに独立に営まれ、私的労働の生産物である」場合に他なりません。ここでいう私的労働とは、私的個人が勝手におこなう労働でありながら、社会的分業の一部を構成している労働のことです。このように、私的生産者たちが私的労働を行う社会状態のもとでは、共同体的秩序は存在せず、人々はバラバラの私的個人になってしまっています。ここで彼らを結びつけるのは、互いの生産物の使用価値にたいする欲望でしかありません。「生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触」することができるのです。では、このとき、私的生産者は互いに何を基準として商品を交換するのでしょうか。

私的生産者たちは互いに疎遠であり、彼らの間には何の利害の共通性もありません。彼らは人格的なつながりがあるから交換したのではなく、交換によって生産物を手に入れる必要があるから相手と関係を取り結んだのです。私的生産者たちを取り結ぶものは生産物と生産物との関係にすぎません。彼らは相手のことは考えず、できるだけ有利な比率で欲しい物を手に入れたいと思っています。また、自分が労働力を支出して生産した物を交換に出すのだから、その労働量に見合う適正な比率で交換することができなければ、生きていくことができません。それゆえ、私的生産者たちが私的労働を行い、交換をする場合には、必ず値踏みをして交換しなければならないのです。

このように値踏みをして交換するときには、私的生産者たちは生産物に対して、その生産物がもつ使用価値とは区別される、ある独自な社会的な力を認めていることになります。これこそが、抽象的人間的労働の対象化としての「価値」にほかなりません。私的生産者たちは生産物を比較して値踏みして交換することによって、異なる様々な生産物を「価値」という共通の社会的力を持つ生産物として、すなわち「商品」として扱っているのです。

しかもこのとき、商品交換の基準となる「価値」は、同時に、抽象的な人間的労働の社会的性格を表示しています。バラバラの私的生産者からなる社会では、もはや直接に抽象的な人間的労働の社会的性格を考慮し、人間たちの意志によって自覚的に社会的総労働の配分を行うことはできません。しかし、抽象的な人間的労働の社会的性格を商品の価値に表示することによって、この社会的総労働の配分を無自覚のうちに行っているのです。ですから、ここでは価値は総労働の配分と生産物の分配(交換)を規制するという「二重の役割」を果たしていることになります。

じっさい、もし価値とまったく無関係に交換比率(価格)が決まってしまうのであれば、有利な交換比率(価格)をもつ産業部門に労働が集中し、逆に不利な交換比率(価格)をもつ産業部門では労働が不足し、総労働の配分はうまくいかなくなってしまうでしょう。現実の市場ではたえず商品の交換比率(価格)は変動していますが、商品生産者たちが価値を基準として有利な交換比率(価格)を追求して行動することにより、さまざまな摩擦をともないながらも、結果として総労働の配分を行うことが可能になっているのです。

このように、資本主義社会では、人々がとりむすぶ社会関係は「人格と人格とが自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係として現れる」ことになります。ここで登場する「物象」は、「人格」と対比的に用いられる概念であり、商品や貨幣のように社会的な意味を持つ物のことを指します。そのため、ここで見たような人格的関係が物象的関係として現れる事態のことを「物象化」と呼びます。以下で、このプロセスの詳細な分析が進められます。

この商品世界のフェティッシュな性格は、これまでの分析から明らかなように、商品を生産する労働が独特な社会的な性格をそなえていることから生まれたものである。

そもそも使用対象である物品が商品になるのは、これらの物品がたがいに独立して営まれる私的な労働の生産物であるからである。これらの私的な労働の複合体が、社会的な労働の全体を構成する。生産者たちは、それぞれの労働の生産物を交換することで、初めてたがいに社会的に接触するのであるから、生産者たちの私的な労働にそなわる独自の社会的な性格も、この交換の営みのうちで初めて現れてくる。

言い換えると、さまざまな私的な労働が、社会的な労働の全体の一つの部分を構成するものとして認められるのは、交換によって労働の生産物がたがいに関連しあい、そしてこの労働の生産物を媒介にして、生産者たちがたがいに関連しあうからである。だから生産者たちには、自分たちの私的な労働の社会的な関係は、あるがままのものとして現れる。すなわち、労働する人格が直接的に他の労働する人格と作りだす社会的な関係として現れるのではなく、人格の物的な関係として、また物と物の社会的な関係として現れるのである。

 

私的な労働の二重の性格

労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産物そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際一つの二重な社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用な労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれらの自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、─したがって彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映させ─、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸労働生産物の、共通な価値性格という形態で反映されるのである。 

労働生産物は、互いに交換されるようになると、その交換の内部で、はじめてそれぞれが互いに異なる使用価値というそれらの具体的な対象性とは分離された形で、社会的に同等な、価値という対象性を受け取ります。有用物と価値物という、この二つの対象物に労働生産物が分裂する事態が始めて生じてくるのは、有用物が交換を目当てに生産されるまでに、だからさまざまなものが生産される場合に、それらの価値性格がすでに考慮されるまでに、労働生産物の交換が十分な広がりと、重要性とを獲得した時です。

この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は、実際に、二重の社会的性格を受け取ります。私的諸労働は、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望、つまり他人の欲望を満たさなければなりません。そしてそうすることによって、その労働が社会の総労働の自然発生的分業の体制の諸分肢であることが実証されなければならないのです。他面では、私的諸労働は、それらの特殊な有用的私的労働のどれもが、別の種類の有用的私的労働のどれとも交換され得るものであり、したがって、それらが等しいものとして通用する限りでのみ、交換され、よってまた生産者たちの多様な欲求を満たすことができます。

そもそも、互いにまったく違った諸労働が同等のものとして通用するということは、それらの違いが捨象されること、すなわち諸労働が、人間労働力の支出として、抽象的人間労働として、それらがもっている共通な性格に還元されることなくしてはあり得ません。

私的生産者たちの頭脳には、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格は、実際の交易、生産物交換において現れる諸形態でのみ反映します。すなわち、一面では、彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格は、彼らの労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人にとって有用でなければならないという形態で反映し、多面では、種類を異にする労働の同等性という社会的性格は、労働生産物というこれらの物質的に異なる諸物の共通な価値性格という形態で反映するのです。

 

労働生産物は一つの有用物です。本来は、直接に生産者の欲望を満たすもので、生産者は自らの欲望を満たすために、物を作るわけです。しかし、それが価値という性格を持つということは、もはや生産者の欲望を満たすためものではなくなるということです。それは生産者にとっては、それ以前に持っていた有用物としての性格とは違ったものとして、現われてくるということになります。だからマルクスはその価値という性格は、有用物とは〈分裂して〉現れてくると述べているのだと思います。つまり労働生産物の交換が発展して、生産者がその生産物の価値としての性格を意識するような段階、つまり交換を目的に生産を行うような段階、そのような段階においては、労働生産物はもはや生産者の欲望を満たす有用物ではなく、他の労働生産物を彼が入手するための「手段」でしかなくなるわけです。だからここには、それが本来は持っていた有用物という属性とは分裂した、別の一つの属性が労働生産物に付け加わっているとマルクスは指摘しているわけです。それはすなわち他の生産物との「交換のための手段」という属性です。そしてその限りではそれは他の生産物と社会的に同等な性格を持ったものとして存在しています、それをマルクスは「価値物」と述べているのだと思います。だから価値形態に出てくる「価値物」は、相対的価値形態にある商品の価値が一つの他の等価形態にある商品の物的姿をとって現れてきた物でしたが、この「価値物」とは、そうしたものではなく、生産物そのものが「価値物」として現れてくるということを述べているのだと思います。

これは分かりやすくいうと、次のような事態を述べているのだと思います。労働生産物の交換がある程度発展し、生産者が交換を目的に生産するようになると、生産者はそれまでの自家消費分(有用物)とは別に、交換用の労働生産物を、それとして区別して、物的にも区別し分けるようになります。これが有用物と価値物とへの労働生産物の「分裂」、あるいは「分離」ということの実際の内容なのです。このように考えてみれば、それほど難しいことを言っているわけではないことが分かります。

労働の生産物は、交換されることで初めて、感覚的にそれぞれに異なる使用対象としてあり方から切り離されて、社会的で同等な価値対象としてのあり方をうけとる。労働生産物は交換されることで、このように労働の生産物の有用物としての性格と価値物としての性格が分裂する。この分裂が実際に確認されるようになるのは、[社会における]交換がすでに十分に広範に広がり、重要な意味をもつようになってから、有用物が交換を目的として生産されるようになってから、そして生産される時点においてすでに生産物の価値としての性格が意識されるようになってからのことである。

この瞬間から、生産者たちの私的な労働が、実際には二重の性格をおびるようになる。生産者たちの私的な労働はまず、特定の有用な労働として、特定の社会的な欲望を満たす必要がある。そのことによって、社会の全体の労働の一部として、労働の社会的な分業の自然発生的な体系の一部を構成する労働として、みずからを示す必要がある。他方では私的な労働は、その労働を行う生産者たちの多様な欲望も満たす必要があり、そのためにはそれぞれの特殊な有用労働が、他の生産者たちの異なる種類の有用な私的な労働と交換できるものであること、すなわち他の有用な労働と同等なものであることが必要である。

そもそもまったく異質な種類の労働が同等なものであるためには、それぞれの労働の現実の異質性を無視し、そして共通な性格のものに還元しなければならない。この共通な性格とは、そこに人間の労働力が投入されていること、抽象的な人間労働が投入されていることである。

私的な生産者は頭の中で、自分たちの私的な労働がこのような二重の社会的な性格をもつことを、実際の取引において、生産物が交換されるときに現れる形だけで思い浮かべる。そして自分たちの私的な労働の社会的に有用な性格を、労働の生産物は有用なものでなければならず、しかも他人にとって有用でなければならないという形で思い浮かべるのである。すなわちさまざまに異なる種類の労働が同等なものという社会的な性格を手に入れることを、素材として異なるこれらの労働の生産物に共通した価値がそなわるという性格として思い浮かべるのである。

 

社会的な象形文字としての商品

だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それをおこなうのである。それゆえ、価値の額に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである。

だから、人間は自身の労働による生産物を交換して、互いに価値として関係させていのではなくて、彼ら自身の労働を抽象的な人間的労働として互いに関係させているのです。このような人間の関係が諸物の交換という物的な関係を媒介として行われており、その関係によって覆い隠されてしまっている。しかし、交換の当事者は、ただ諸物の交換(諸物を価値として関係させる)という現実しか見えていないので、彼ら自身では意識しないで自身の労働を互いに抽象的な人間的労働として関係させている。つまり、彼らは物の関係に媒介されて、互いに社会的な関係を取り結んでいるのです。しかし、そのことは覆い隠されて、彼らは、それと知らず行っているのです。だから、生産物が価値を持っているということは意識されますが、それが何であるかということは一つも分からないのです。むしろ生産物が価値を持っているということが、労働生産物をわけの分からないものに、つまり一種の社会的な象形文字してしまうのです。それが何であるかは、もっとあとになって、その象形文字を解読して、その秘密を知るのです。使用価値の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的産物なのです。

つまり、こういうことです。私的生産者たちは、自覚的に抽象的人な間的労働の社会的性格を価値に表しているのではない、ということです。むしろ、私的生産者たちは値踏みをして商品を交換することにより、無意識のうちに、自分たちのさまざまに違った労働を、抽象的人間的労働としては同じものであり、同じ社会的意義をもっているのだ、というふうに等置しているのです。そもそも自覚的にこれをやっているのであれば、これまでの考察は不要でした。それゆえ、人間たちはあとになって、「人間たちはこの象形文字を解読しようとして、みずからの社会的な生産物の秘密を探るようになる」のです。

労働の生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかないという後世の科学的発見は、人間の発展史上に一時代を画するものであるが、しかしそれはけっして労働の社会的性格の対象的外観を追い払うものではない。この特殊な生産形態、商品生産だけにあてはまること、すなわち、互いに独立な私的諸労働の独自な性格はそれらの労働の人間労働としての同等性にあるのであってこの社会的性格が労働生産物の価値性格の形態をとるのだということが、商品生産の諸関係のなかにとらわれている人々によっては、かの発見の前にもあとにも、最終的なものに見えるのであって、それは、ちょうど、科学によって空気がその諸要素に分解されてもなお空気形態は一つの物体形態として存続しているようにものである。

労働生産物は、それが価値であるかぎりでは、その生産に支出された人間労働の単なる物的表現に過ぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画する偉大な発見ですが、しかし、それが発見されたからといって、労働の社会的性格が、物の関係として現れている現実そのものを決して無くさないのです。

互いに独立した私的諸労働の独特な社会的性格が、それらの労働の人間労働としての同等性にあり、またこの社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるということは、商品生産というこの特殊な生産形態だけに当てはまることです。だから、商品生産の社会に身を置き、それを当然の前提として受け入れている人々、つまり物象的な関係にとらわれている人たちとっては、価値が、その生産に支出された人間労働の物的表現に過ぎないということが分かったとしても、しかしそれによって商品生産の社会こそが究極の絶対的なものとして現れるということは何一つ変わらないのです。それは空気がその諸元素に科学的に分解されたとしても、そのことによって空気形態が依然として、一つの物理的形態として存在しているのと同じなのです。

だから人間が、みずから作りだした労働の生産物をたがいに価値として関係づけるのは、これらのものが同様な人間労働をたんに覆い隠している物品として通用するからではない。その正反対なのである。人間が、それぞれの異なる生産物を交換しながら、それらをたがいに価値として等置するからこそ、彼らは自分たちの異なる労働を、たがいに人間労働として等置するのである。生産者たちはそのことを意識していないが、実際にはそのように行動しているのである。

価値とは何かというは、価値の〈額〉には書き込まれていない。むしろ価値はすべての労働の生産物を、社会的な象形文字に変えてしまう。後になって人間たちはこの象形文字を解読しようとして、みずからの社会的な生産物の秘密を探るようになる。というのも、使用対象を価値として規定することは、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである。

やがて労働の生産物は、それが価値であるかぎり、その生産に投入された人間労働が物として表現されたものであることが、学問的に発見されるようになるが、これは人類史の画期的な出来事だったのである。しかしだからといって、労働の社会的な性格が、この物において対象化されていることが否定されるわけではない。

たがいに独立しているようにみえる私的な労働には、人間労働として同等なものであるという特有な社会的な性格がそなわっており、それが労働生産物の価値としての性格という形態をとるということは、商品生産という特別な生産形態だけにあてはまる。この事実が学問的に発見される前にも、その後にも、商品生産の関係のうちに閉じ込められている人々にとっては、これはまったく確実な事実なのである。それは科学によって空気がそれを構成する元素分解されたとしても、空気は物理的な形態としては空気のままであるのと同じことである。

 

価格の決定

生産物交換たちがまず第一に実際に関心をもつものは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合が或る程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見える。たとえば1トンの鉄と2オンスの金とが等価であることは、1ポンドの金と1ポンドの鉄とがそれらの物理的属性や化学的属性の相違にもかかわらず同じ重さであるのと同じように見える。じっさい、労働生産物の価値性格は、それらが価値量として実証されることによってはじめて固まるのである。この価値量のほうは、交換者たちの意志や予知や行為にはかかわりなく、絶えず変動する。交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均整のとれた尺度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則のように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである。という科学的認識が経験そのものから生まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それらの発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはしない。 

物象化が発生している社会では、人々は直接に労働の社会的性格を考慮して、総労働を配分したりすることはできません。商品の価値において、あるいはその現象形態である価格において、抽象的人間的労働の社会的性格を間接的に、しかも事後的に考慮し、それにしたがって自らの生産活動をどうするかを決めなければならないのです。それゆえ、「生産物を交換する人々の社会的な動きは、彼らには物の動きのように思われるのであり、彼らはこの物の動きを制御するどころか、この物の動きに制御されている」ということになります。

詳しく見ていくと、つぎのような説明になります。生産物を交換しようとする人々、交換当事者たちは、交換に際して関心を抱くのは、交換比率です。これによって、自身は交換によってどれだけ交換相手の生産物を受け取ることができるかが変わってくるからです。この交換比率は、同じ生産物の交換が繰り返されれば、パターン化してきて慣習となって交換比率が固定化してきます。定価販売のようなものです。そうすると、当事者たちには、この比率は、あたかも生産物の本性によって、あらかじめ定められているかのように見えてくるというのです。

しかし実際には、生産物の価値は認められた大きさによって変動し、その変動には生産物の本性に関連するような交換者の意志、予見、行為などとは関わることはありません。したがって、生産物を交換する人々の社会的な動きは、彼ら自身の意志、予見、行為と関わりなく語いているので、独立した物の動きのように思われるのであり、彼らはこの物の動きを制御するどころか、この物の動きに翻弄され、その動きに従わざるを得ないのです。

物象化が発生している社会では、人々は直接に労働の社会的性格を考慮して、総労働を配分したりすることはできません。商品の価値において、あるいはその現象形態である価格において、抽象的人間的労働の社会的性格を間接的に、しかも事後的に考慮し、それにしたがって自らの生産活動をどうするかを決めなければならないのです。それゆえ、「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては物象の運動の形態を持つのであって、彼らはこの運動を制御するのではなく、これによって制御される」ということになります。

私的労働は、それぞれの生産物の有用労働として個別、具体的に行われるものですが、交換が慣習化していけば、それは社会的に位置を占めることとなり、自然と社会的な分業の中に組み込まれるようになり、その分業全体の比率の尺度におさまっていくようになります。つまりは、その製品を生産するために必要と社会的に認められる労働時間の大きさは、交換が慣習化し、交換比率が固定化したことに応じて、決められていくことになるのです。

生産物を交換しようとする人々がまず実際に関心をいだくのは、自分の生産物と引き換えに、どれほどの量の他人の生産物をうけとるか、すなわち生産物がどのような比率で交換されるかということである。この比率が慣習によって一定の値に固定されるまで成熟してくると、この比率はあたかも労働の生産物の本性から定められたかのように思われてくる。たとえば1重量ポンドの金と1重量ポンドの鉄は、それぞれに物理的な特性も化学的な特性も異なるのに、同じ重さである。これと同じように、1トンの鉄が2オンスの金と同じ価値をもつように見えるのである。

しかし実際には、労働の生産物の価値としての性格は、それぞれが価値の大きさとして認められることで初めて決定される。この価値の大きさは、生産物を交換する人々の意志や予測の行動とは独立して、たえず変動する。生産物を交換する人々の社会的な動きは、彼らには物の動きのように思われるのであり、彼らはこの物の動きを制御するどころか、この物の動きに制御されているのである。

私的な労働は、たがいに独立して行われるものの、社会的な分業の自然発生的な一部を構成する労働として、あらゆる面でたがいに依存しあっているものであり、[その生産物の価値は]その社会にふさわしい比率の尺度に次第に収斂していくものである。私的な労働力の生産物の交換比率は偶然的に決定され、たえず変動するものではあるが、その生産物を生産するために社会的に必要な労働時間の長さが、[この比率を決定する上で]自然法則として、強い力で貫徹する。それは家屋が崩れるときには、重力の法則によって[屋根が]その家に住む人の頭の上に落ちてくるのと同じである。ただし経験のうちからこうした学問的な洞察が育ってくるためには、すでに商品の生産が完全に発展している必要がある。

だから価値の大きさは労働時間によって決定されるということは、商品の相対的な価値がしめされるようにみえる運動の背後に隠された秘密なのである。この秘密が発見されたことで、労働の生産物の価値の大きさがたんに偶然によって決定されるという外観はとりのぞかれたが、そのことによって、物としての形態が失われるわけではない。

 

商品の価値の貨幣形態の役割

人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という刻印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなく、この諸形態の内実についての解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。

人間の生活の諸形態についての省察、よってまたそれらの科学的分析は、一般には、現実の発展とは反対の道を辿ります。この分析は「後から」始まり、したがって発展過程の完成した諸結果から始まるのです。労働生産物に商品の刻印を押す(商品であると市場に認められる)諸形態、だから商品流通に前提されている諸形態は、人々が、これらの形態の歴史的性格についてではないのですが−−むしろこれらの形態は人々にとってはすでに不変のものと考えられています−−これらの形態の内実について解明しようとする以前に、すでに社会的生活の自然諸形態の固定性を帯びています。

このようにして、価値量の規定に導いたものは、商品価格の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態─貨幣形態─こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである。もし私が、上着や長靴などが抽象的人間労働の一般的な具体化としてのリンネルに関係するのだ、と言うならば、この表現の奇異なことはすぐに感ぜられる。ところが、上着や長靴などの生産者たちがこれらの商品を一般的等価物としてのリンネルに─または金銀に、としても事柄に変わりはない─関係させるならば、彼らにとっては自分たちの私的労働の社会的労働にたいする関係がまさにこの奇異な形態で現われるのである。

このような諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、この歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。それゆえ、商品世界のいっさいの神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧のなかに包みこむいっさいの奇怪事は、われわれが他の生産形態に逃げこめば、たちまち消えてしまうのである。

だから価値の大きさの理解に導いたのは諸商品の価格の分析にほかなりませんでしたし、諸商品の価値性格を確定するようになったのは、諸商品の共通な貨幣表現から出発することによって可能だったのです。ところが、商品世界の完成形態と言ってもよい、この貨幣形態こそ、私的諸労働の社会的性格、したがって私的労働者たちの社会的諸関係を、あらわに示さず、かえって、それを物的におおい隠すのです。

人間生活のさまざまな形態についての考察と、その学問的な分析は、そもそも現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは事後的に行われるのであり、発展プロセスの最終的な結果がでてから始まるのである。労働生産物に商品の刻印を押し、商品の流通の前提となっている生活形態が、すでに社会生活の自然な形態として固定されてしまった後になって初めて、この生活形態の歴史的な性格ではなく、その内容を説明しようと試み始めるのである(この歴史的な性格はすでに人々にとっては変えようのないものに思われているのだ)。

このようにして商品の価格を分析することで、その価値の大きさが決定され、商品に共通する貨幣表現を分析することで、商品の価値の性格が決定されたのである。ところがこのような商品世界の完成した姿である貨幣形態は、私的な労働の社会的な性格と、私的な労働者の社会的な関係を明らかにするのではなく、実際には物の形によってそれを隠蔽してしまうのである。わたしが、「上衣やブーツは、抽象的な人間労働が一般的に受肉したものとして、亜麻布とかかわる」と語ると、いかにも奇妙に聞こえるだろう。しかし上衣やブーツなどの生産者が、これらの商品を一般的な等価物としての亜麻布に(それが金や銀でもまったく同じなのだが)関係させるとき、彼らにとってはみずからの私的な労働は、社会的な全体の労働とのあいだで、まさにこれと同じような奇妙な形で現れているのである。

この種の形態が。まさにブルジョワ経済学のカテゴリーを構成している。商品生産というこの歴史的に規定された社会的な生産様式における生産関係を示すものとしては、これらの形態は社会的に妥当で、客観的な思想形態になっているのである。商品世界のすべての神秘的な考え方、すなわち商品生産に基づく労働の生産物を霧で包んで隠すすべての魔法や亡霊は、わたしたちが別の生産形態に逃げこむと、ただちに消滅してしまうものである。

 

ロビンソン物語

経済学はロビンソン物語を愛好するから、まず島上のロビンソンに出てきてもらうことにしよう。生来質素な彼ではあるが、彼とてもいろいろな欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具をつくり、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。祈祷とかそれに類することは、ここでは問題にしない。というのは、わがロビンソンはそれを楽しみにし、この種の活動を保養だと思っているからである。彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動のうちでどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目ざす有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。そして、わがロビンソンは、時計や帳簿やインクやペンを難破船から救いだしていたので、りっぱなイギリス人として、やがて自分自身のことを帳面につけはじめる。彼の財産目録のうちには、彼がもっている使用対象や、それらの生産に必要ないろいろな作業や、最後にこれらのいろいろな生産物の一定量が彼に平均的に費やされる労働時間のむ一覧表が含まれている。ロビンソンと彼の自製の富をなしている諸物とのあいだのいっさいの関係はここではまったく簡単明瞭なので、たとえばM・ヴィルト氏でさえも特に心労することなくこの関係を理解することができたことであろう。しかもなおそのうちには価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

商品生産の社会では、労働の社会的関係は物的に覆い隠され、物の社会的関係として現れ、神秘的な形態をとります。だからマルクスは商品生産とは異なる別の生産諸形態に逃げ込めば、こうした一切の神秘化、いっさいの魔法妖術は、消え失せるとして、最初はロビンソンの孤島の生活を考察しました。孤島ではロビンソンがただ一人いるだけですから、そもそも人間の社会的関係そのものが問題ではありませんでした。しかしロビンソン個人のささやかな生活を支えるためにも、彼は彼の諸機能を、さまざまな作業として支出しなければならず、それらが互いに関連し合っていなければならないという形で、労働の結びつきが、やはりそこでも問題であることが示されました。しかしそれらはロビンソン個人の諸機能ですから、そこには何の神秘性もないことが確認されたのでした。

その内容として、まず、ロビンソンの例から見ていきましょう。このロビンソンは、言うまでもなく、ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の主人公です。無人島に漂着したロビンソンが独力で自給自足の生活を営みます。彼は質素ではありますが、それでも17世紀のイングランド人としての自分の欲望を満足させるためにさまざまな労働を行わなければなりません。

とはいえ、これらの様々な労働もやはり、抽象的な人間的労働としては、すなわち時間と労力を費やすものとしては彼にとって同じ意義をもっています。ロビンソンはこの抽象的人間的労働を、「さまざまな機能のあいだに正確に配分」しなければなりません。ロビンソンはこの抽象的人間的労働を、「さまざまな機能のあいだに正確に配分」しなければなりません。ロビンソンにとっては、どんな形態の有用労働であれ、自分の時間と労力を費やす人間的労働であることにはかわりなく、したがってそれらの総量には限度があり、この有限な労働を適切に配分することによってしか、自分の生活に必要なものを手に入れることができないからです。

以上にみたような、ロビンソンの生産物とロビンソンの労働との関係、すなわち生活に必要な使用価値を生産するには、有限な労働を適切に配分しなければならないという関係は、非常に簡単明瞭です。しかし、そうであるにもかかわらず、「そこには、価値のすべての本質的規定が含まれている」とマルクスは述べています。

どういうことでしょうか。マルクスが抽象的人間的労働のことを「社会的実体」と述べていましたが、マルクスは価値の実体をなす抽象的人間的労働をたんに生理学的なものとして捉えていたのではない、ということがここでの叙述を理解する上でのポイントとなります。とはいえ、一部のマルクス研究者が誤解しているように、マルクスは嘲笑的人間的労働が生理学的なものであることを否定したのでもありません。

マルクスがここで言いたいことは、こういうことです。抽象的人間的労働それじたいは労働を「人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出」として捉えたものであり、生理学的なものでしかありません。しかし、抽象的人間的労働は、人間にとっては、どんな種類の労働であれ。限りのある総労働、限りのある総労働時間の一部を費やして行われたものであるという意味で、等しい意義を持っています。だとえば、ロビンソンにとって、漁猟をおこなう3時間であれ、家具をこしらえる3時間であれ、自分の限りある労働時間を費やしたという意味では、すなわち抽象的人間的労働としては同じ意義を持っています。ですから、私たちが買い物をするときに限られた予算を適切に配分して生活に必要な商品を入手しなければならないのと同じように、ロビンソンは、限られた労働時間、限られた労働量を適切に配分して生活に必要な物品を生産しなければならないのです。このような意味で、それ自体としては生理学的なものでしかない抽象的人間的労働は、人間にとって社会的な意義を持つのです。実は、このような抽象的人間的労働がもつ社会的な意義が生産物に対象化され、表示されたものこそが価値に他ならないのです。

経済学はロビンソンの物語がお好きなようだから、ここでも孤島のロビンソンを登場させよう。彼は生まれつき質素なようだが、それでもさまざまな欲望を満たす必要があるので、さまざまな種類の有用労働を行う必要がある。道具を作ったり、家具を製作したり、ラマを飼育したり、魚を釣ったり、獣を狩ったりする必要があるだろう。祈ることや、その他のことについてはここでは問題にしない。わたしたちのロビンソンはこうした活動は[労働というよりは]楽しみと考えているし、気晴らしとみなしているからである。

彼が従事する生産活動は、さまざまに異なる機能をはたすものではあるが、同じロビンソンの異なる活動形態にすぎないこと、そして人間労働の異なったやり方であることを、彼は十分に認識している。そして必要に迫られて、自分の時間を異なる機能ごとに正確に細分するようになる。彼の全体の活動のうちで、ある活動が大きな地位を占め、ある活動は小さな地位しか占めないが、この違いは、目的とする有用な効果を実現するためには、どれほど困難を克服する必要があるかによって決まる。

これまでの経験から、ロビンソンは難破船から時計、帳簿の台帳、インクとペンなどを運びだしてきており、良きイギリス人として、自分自身について帳簿をつけ始めている。彼の財産目録には、所有している使用対象のリスト、そうした使用対象を生産するために必要なさまざまな活動、こうしたさまざまな生産物の特定量を生産するために平均として必要になる労働時間などが記載されている。

ロビンソンが作りだした富を構成するさまざまな物と、彼自身のあいだのすべての関係は、きわめて単純で明白であるので、M・ヴィルト氏でも、とくに頭を悩ませなくても理解できるはずである。ところがこの関係のうちに、価値のすべての本質的な規定が含まれているのである。

 

中世の世界

そこで今度はロビンソンの明るい島から暗いヨーロッパの中世に目を転じてみよう。あの独立した男に代わって、ここではだれもが従属しているのが見られる─農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者。人的従属関係が、物質的生産の社会的諸関係をも、その上に築かれている生活の諸部面も特徴づけている。しかし、まさに人格的従属関係が、与えられた社会的基礎をなしているからこそ、労働も生産物も、それらの現実性とは違った幻想的な姿をとる必要はないのである。労働や生産物は夫役や貢納として社会的機構のなかにはいって行く。労働の現物形態が、そして商品生産の基礎の上でのように労働の一般性がではなくなりその特殊性が、ここでは労働の直接に社会的な形態なのである。夫役は、商品を生産する労働と同じように、時間で計られるが、しかし、どの農奴も、自分が領主のために支出するものは自分自身の労働力の一定量だということを知っている。坊主に納めなければならない十分の一税は、坊主の祝福よりもはっきりしている。それゆえ、ここで相対する人々がつけている仮面がどのように評価されていようとも、彼らの労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現れるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいないのである。

マルクスは、今度は、孤立した一人の人間ではなく、人間相互の関係が、最初から直接に関連し合っていて、物の関係として現れていない社会として、中世の社会を取り上げているわけです。中世では、孤島の独立した男の代わりに、誰もが依存しあっています。例えば農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者というように。ここでは、人格的な依存関係が、物質的生産の社会的関係をも、その上に立つ生活領域をも性格づけています。

労働の現物形態が、つまりその特殊な形態が、ここでは、労働の直接に社会的な形態ですから、商品生産の基礎上でのように、労働生産物に対象化された労働が抽象的・一般的な性格に還元されて、初めて社会性を獲得するというような、難しいわけの分からないものは何もありません。

賦役労働も、確かに商品を生産する労働と同じように時間によってはかられますが、どの農奴も、彼が領主の農場で支出するのは、彼の個人的労働力の一定量であるということは知っています。また教会に納める十分の一税も、坊主の与える祝福よりハッキリしています。だから、ここで人々が相対している際に身につけている仮面(農奴、領主、臣下、君主、俗人、聖職者等々)がどのように判断されようとも、彼らの労働における人格と人格との社会的諸関係(農奴と領主、俗人と聖職者との関係)は、いつでも彼ら自身の人格的諸関係として現れ、物と物との、あるいは労働生産物と労働生産物との、社会的関係というような変装された形では現れないのです。

さて、ロビンソンの晴れやかな島からヨーロッパの陰鬱な中世に場所を移すことにしよう。ここでわたしたちが目にするのは[ロビンソンのような]独立した人間ではなく、誰もがたがいに依存しあっている人々である。すなわち農奴と領主、家臣と君主、平信徒と司祭である。この人格的な従属関係は、物質を生産する社会的な関係の特徴でもあり、この社会的な関係に依存する生活領域の特徴でもある。

しかし人格的な従属関係が、既存の社会の土台を構成しているからこそ、労働も生産物も、現実からかけ離れた幻想的な姿をとる必要はないのである。労働は人間の生身の賦役として、生産物は現物の貢納として、社会の構造のうちに組み込まれている。商品生産を土台とした社会では、労働の一般性が直接に社会的な形態となるが、この中世の社会では、労働の生身の活動が、その特殊性が、直接に社会的な形態となるのである。

賦役労働は、商品を生産する労働と同じように労働時間の長さで測定されるが、農奴ならだれでも知っているように、彼が領主に奉仕するために費やす労働時間の長さは、彼の個人的な労働力のうちのかぎられた部分だけである。また司祭に支払われる十分の一税は、司祭の祝福の言葉よりも分かりやすいものである。

だからここで人々がかぶっている仮面をどう考えるにしても、労働における人々のあいだの社会的な関係、つねにそれぞれに固有の人格的な関係として現れるのであり、労働の生産物である物と物との社会的な関係によって覆い隠されていないのである。

 

共同労働と商品生産労働

人間たちが共同で行う労働、すなわち直接的に社会化された労働を評価するために、すべての文明化された民族の歴史の初期に確認できるような、自然発生的な形態の労働にまでさかのぼる必要はない。わたしたちの身近にも実例がある。田舎の農家の素朴な家父長的な営みでは自家消費用に穀物、家畜、紡ぎ糸、衣服などを生産しているのである。これらの物は、こうした農家の家族にとって、家族労働によるさまざまに異なる生産物として現れてくるのであり、物と物が商品としてたがいに出会うわけではない。

これらの物を生産するのは異なる種類の労働であり、例えば耕作、家畜の飼育、糸紡ぎ、織物、裁縫等の労働であるルこれらは自然の形態のままで社会的な機能をはたす。というのも家族の[労働]機能は、商品の生産の労働と同じように、それ自身で自然に成長してきた分業に依拠するものだからである。性差と年齢の違い、そして季節とともに変化する労働の自然的な条件が、家族のうちでの労働の分配と、個々の成員の労働時間を定める。しかしこうした家族労働では、個々の労働力を時間の長さで決めて投入することは、最初から労働の者の社会的な規定なのである。というのも家族の個々の労働力は、家族の共同の労働力の器官としてしか、機能しないからである。

共同的な、つまり直接的に社会化された労働を考察するためには、私たちは、すべての文化民族の歴史の入り口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はありません。その直接的に社会化された労働としては、自家用のために、穀物や家畜、糸、リンネル、衣類などを生産する農民の家族の素朴な家父長的な勤労が、もっとも手近な一例をなしています。これらのさまざまな物は、家族に対して、その家族労働のさまざまな生産物として相対しますが、それら自身がたがいに商品として相対することはありません。これらの生産物を生み出すさまざまな労働、例えば農耕労働(穀物)や牧畜労働(家畜)、紡績労働(糸)、織布労働(リンネル)、裁縫労働(衣類)などは、その現物形態のままで、社会的昨日をなしています。

というのは、それらの労働は、商品生産と同じように、それ自身の自然発生的分業をもつ、家族の諸機能だからです。男女の別や年齢の相違、季節の移り変わりによって変化する労働の自然条件などが、家族の間での労働の配分と個々の家族構成員の労働時間を規制します。しかし、ここでは継続時間によってはかられる個人的労働力の支出は、はじめから、労働そのものの社会的規定として現れます。というのは、個人的労働力は、はじめから、家族の共同的労働力の諸器官としてのみ作用するからです。

人間たちが共同で行う労働、すなわち直接的に社会化された労働を評価するために、すべての文明化された民族の歴史の初期に確認できるような、自然発生的な形態の労働にまでさかのぼる必要はない。わたしたちの身近にも実例がある。田舎の農家の素朴な家父長的な営みでは自家消費用に穀物、家畜、紡ぎ糸、衣服などを生産しているのである。これらの物は、こうした農家の家族にとって、家族労働によるさまざまに異なる生産物として現れてくるのであり、物と物が商品としてたがいに出会うわけではない。

これらの物を生産するのは異なる種類の労働であり、例えば耕作、家畜の飼育、糸紡ぎ、織物、裁縫等の労働であるルこれらは自然の形態のままで社会的な機能をはたす。というのも家族の[労働]機能は、商品の生産の労働と同じように、それ自身で自然に成長してきた分業に依拠するものだからである。性差と年齢の違い、そして季節とともに変化する労働の自然的な条件が、家族のうちでの労働の分配と、個々の成員の労働時間を定める。しかしこうした家族労働では、個々の労働力を時間の長さで決めて投入することは、最初から労働の者の社会的な規定なのである。というのも家族の個々の労働力は、家族の共同の労働力の器官としてしか、機能しないからである。

 

ロビンソン物語自由人の団体の例

最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりのむ個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他方では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だつ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。 

この「自由人の団体」とは、マルクスが「アソシエーション」と呼ぶことが多い、自由な人間たちによる自由な結社のことを意味しています。マルクスがポスト資本主義社会の基本的な社会原理になると考えていたものです。この「自由な人々の連合体」においては、「ロビンソンの労働のすべての規定がふたたび立ち現れ」「社会的なものとして登場する」とマルクスは言います。なぜなら、ここでは、人々が自由意志によって連合体を形成しており、人々の意志にもとづいて社会全体の総労働の分配と総生産物の分配が行われるからです。

ここでは、先にロビンソンに対してしか意義を持たなかった抽象的人間的労働が、社会全体にとって意義のあるものとして現れてきます。なぜなら、どんな成員のどんな形態での有用労働も、抽象的人間的労働としては、有限な社会的総労働の一部分を費やして行われるという意味では同じだからです。実際、ロビンソン個人の場合とまったく同じように、自由な人々の連合体もやはり、社会のなかの有限な総労働時間を適切に配分しなければ、生活に必要な物品を生産することはできません。このような抽象的な人間的労働としての社会的意義が、商品生産社会においては、労働生産物な対象化されて価値になるとマルクスは考えたのです。

この場合の、この労働の分配の仕方は、社会的な生産組織そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度に応じて、変化するでしょう。もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しましょう。そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるでしょう。労働時間の社会的計画的配分は、さまざまな欲求に対するさまざまな労働機能の正しい割合を規制します。他方、労働時間は、同時に、共同労働に対する生産者たちの個人的な関与の尺度として役立ち、したがってまた、共同生産物のうち個人的に消費されるべき部分に対する生産者たちの個人的分け前の尺度としても役立ちます。人々が彼らの労働や労働生産物に対してもつ社会的な諸関係は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭であり、何の神秘的な性格を帯びることもないでしょう。

最後に気分転換のために、自由な人々が集まって、共同の生産手段によって労働し、多数の個々人の労働力を、意図的に一つの社会的な労働力として投入する場合を考えてみよう。ここでもロビンソンの労働のすべての規定がふたたび立ち現れるが、かつてのように個人的なものとしてではなく、社会的なものとして登場する。ロビンソンの生産物は、すべて彼個人の生産物であり、彼個人が直接に利用する使用対象であった。

しかしこの自由人の団体で生産される全体の生産物は、一つの社会的な生産物である。この生産物の一部は、ふたたび生産手段として利用される。この部分は社会的なものとしてとどまる。ただし他の部分は、この団体の成員の生活手段として消費される。だからこの部分は、成員のあいだで分配する必要がある。この分配方法は、社会的な生産有機体そのものの特殊な種類におうじて、そしてそれに対応した生産者たちの歴史的な発展段階におうじて異なるものとなるだろう。とくに商品生産における分配と比較しやすいように、それぞれの生産者は、労働時間の長さに基づいて、生活手段を分配されるものと想定しよう。

そのときには、労働時間は二重の役割をはたすことになる。一方で労働時間は社会的な計画に基づいて配分され、これによってさまざまな欲望が、さまざまな労働機能と正しく比例したものとなるように規制される。他方で労働時間は同時に、共同の労働に個々の生産者がどの程度まで参加したかを示す尺度となり、この尺度は同時に、全体の生産物のうちで、生産者が個人的に消費することのできる生産物の量を示す尺度にもなる。この団体においては、個々の生産者の労働と、その労働による生産物との社会的な関係は、生産の場においても分配の場においても、きわめて透明で単純である。

 

商品生産者の社会の状況

商品生産者の一般的な社会的生産関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として取り扱い、この物的な形態において彼らの私的労働を同等な人間労働として互いに関係させるということにあるのである。このような商品生産者の社会にとっては、抽象的人間にたいする礼拝を含むキリスト教、ことにそのブルジョワ的発展であるプロテスタンテト教や理神論などとしてのキリスト教が最も適当な宗教形態である。古代アジア的とか古代的な生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊段階にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。あの古い社会的諸生産有機体は、ブルジョワ的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な種族関係の臍帯からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属諸関係にもとづいている。このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によって制約されており、またそれに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。このような現実の被局限性は、観念的には古代の自然宗教や民族宗教に反映している。およそ、現実の世界の宗教的な反射は、実践的な日常生活の諸関係が人間にとって相互間および対自然のいつでも透明な合理的諸関係を表わすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的生活過程の、すなわち物質的な生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的な所産なのである。

マルクスは、経済学の物語としてロビンソン・クルーソーから始めて、資本主義的生産様式とは異なる別の生産諸形態の考察を行いました。まず、人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものであり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件を示す具体例として、空想物語であるロビンソンの孤島での生活を例に考察を行い、そのあと資本主義的生産様式から歴史的に遡って、最初の前資本主義的生産様式である中世社会の考察に移ります。そこでは人格的な依存関係が、労働の社会的な関係に、すなわち生産諸関係になっている社会でした。そこで次に、マルクスは「人間たちが共同で行う労働、すなわち直接的に社会化された労働を評価するために、すべての文明化された民族の歴史の初期に確認できるような、自然発生的な形態の労働にまでさかのぼる必要はない。」として、中世の封建社会へと発展する以前の社会形態である、家父長制の家族労働の分析を行ったのでした。そして最後に、一転して、将来の自由な個人の自覚的な連合体の社会を想定して、そこでも諸関係は極めて透明であり、労働生産物が神秘的な霧に覆われる必要はないことを明らかにしたのです。

そして、ここから叙述の方向は一転します。それが宗教の諸形態として反映することが、今度は問題になっているように思えます。では、内容を見ていきましょう。生産物をもっぱら商品として生産する生産者の社会的な関係(つまり資本主義的な生産関係)は、生産物を商品として、したがってまた価値として取り扱い、その商品の価値という物的形態において、生産者の私的な諸労働を同等な人間労働として互いに関係させることにあります。こうした商品生産者たちの社会においては、抽象的人間を礼拝するキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタントや理神論などとしてのキリスト教が最も相応しい宗教形態です。古代アジア的、古代的などの生産様式においては、生産物の商品への転化、したがって商品生産者としての人間の存在は、一つの副次的役割を演じています。といっても、共同体が崩壊段階にはいっていけばいくほど、そうした関係は重要な役割を果たすようになるのですが。

こうした古い社会的生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもはるかに簡単明瞭ですが、それらは、他の個々人との自然的な種族関係のへその緒からまだ切り離されていない個々人の未成熟にもとづいているか(アジア的生産様式の場合)、そうでなければ、直接的な支配隷属関係にもとづいているのです(古代的生産様式の場合)。それらの生産有機体は、労働の生産力の発展の低さによって、またそれに照応して極めて限られた、物質的な生活過程の内部における人間の諸関係、だからまた人間相互の諸関係と人間と自然との諸関係によって、制約されています。この現実の生活の局限された状態が、古代の自然宗教や民族宗教に観念的に反映しています。現実世界の宗教的な反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間に対して、あるいは人間相互の、また人間と自然との、透明な関係として、よって合理的な諸関係を日常的に表すようになると、初めて消え失せるようになります。社会的生活過程の、すなわち物質的な生活過程の姿は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的で計画的な管理のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのです。けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的な産物である一連の物質的存在条件が、必要とされるのです。

ところが商品生産者の社会では、生産者は自分の生産物は商品として、したがって価値として扱う。この社会では、自分の私的な労働に物的な形態を装わせて、それをたがいに同等な人間労働として関係させるのが、一般的で社会的な生産関係となっているのである。このような社会にふさわしい宗教は、抽象的な人間を礼拝するキリスト教であろう。とくにそれがブルジョワ的に発展したプロテスタンティズムや、理神論などがもっともふさわしい宗教であろう。

古代アジア的な生産様式や古典古代などの生産様式では、生産物が商品に変わり、それによって人間が商品の生産者として存在することがあったとしても、それはわずかな役割しかはたしていない。ただし[古代的な]共同体の崩壊が進むと、これはますます重要な役割をはたすようになる。ほんらいの意味での商業民族は、古い世界の隙間にある〈中間世界〉にしか存在しなかった─あたかもエピクロスの神々のように、そしてポーランド社会の隙間に生きるユダヤ人のようにである。

かの古代の社会的な生産有機体は、ブルジョワ的な生産有機体と比較するときわめて単純で透明である。その基礎となっているのは、まだ他の人間との自然な氏族的な結びつきという〈へその緒〉を切っていない未成熟な人間たちであるか、直接的な支配関係あるいは隷属関係に服している人間たちなのである。こうした社会的な生産有機体は、労働の生産力の発展段階の低さによって制約されており、それにおうじて人間の物質的な生活を作りだすプロセスの内部の諸関係、すなわち人間どうしの関係の狭隘さに制約されたものなのである。

人間が現実にこのような狭隘さに捉えられていることは、思想的には古い自然宗教や民族宗教のうちに示されている。一般的に、人間どうしの関係と人間と自然の関係の両面で、日々の実践的な労働の生活が、次第に透明で理性的なものとなってくることで初めて、現実の世界の実践的な労働の生活が、次第に透明で理性的なものとなってくることで初めて、現実の世界が宗教の世界において描きだされなくなってくるものである。社会的な生活のさまざまなプロセスの姿、すなわち物質的な生産プロセスの姿は、自由に社会化された人間たちが作りだしたものとして、人間の意識的で計画的な制御のもとに置かれたときに初めて、その神秘的な霧のヴェールを脱ぎ捨てる。しかしそのためには社会の物質的な基礎が、そのための一連の物質的な存在条件が必要である。そしてこれもまた、長期にわたる苦悩に満ちた発展の歴史によって自然に生まれてくるものなのである。

 

経済のフェティシズム

ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠れている内容を発見した。しかし、経済学は、なせこの内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働は計測が労働生産物の価値量に、表わされるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえなかったのである。そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている。それだから、社会的生産有機体の前ブルジョワ的諸形態は、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるように、経済学によって取り扱われるのである。

商品世界に付着している呪物崇拝は、または社会的な労働規定の対象的外観によって、一部の経済学者が、どんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である。交換価値は、ある物に投ぜせけた労働を表わす一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。

商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的で最も未発達な形態であり、それだからこそ、今日と同じように支配的な、したがって特徴的な仕方でではないにせよ、早くから出現するのであって、そのためにその呪術的性格はまだ比較的容易に見ぬかれるように見えるのである。そりよりももっと具体的な諸形態では、この単純性の外観さえ消えてしまう。重金主義の幻想はどこからくるのか?重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、といっても特別な社会的属性をもった自然物の形態で、表わしているということを、見てとらなかった。また、近代の経済学は、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、その呪物崇拝はそれが資本を取り扱うやいなやたちまち明白になるのではないか?地代は土地から生まれるもので社会から生まれるのではないという重農主義の幻想が消えたのは、どれほど以前のことだろうか?

マルクスはこの節の最後を経済学批判で締めくくっています。マルクスは、人々の眼前に現れている「物象的な形態」だけを対象とし、その奥にある関係についての分析に乏しい経済学を「俗流経済学」と呼び、最も激しく批判しました。これに対し、「不完全ながらも、価値と価値量を分析し、これらの形態のうちに隠されている内容[労働]を発見した」、アダム・スミスやデヴィッド・リカードらの古典派経済学については高く評価しました。

しかし、この古典派経済学もやはり、俗流経済学と共通する根本的な欠陥を持っているとマルクスは考えました。なぜなら、古典派経済学も、まさに本節で解明してきた、「なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題」を提起することさえできなかったからです。経済学者たちにとっては、人間たちが生産活動において取り結ぶ関係が「物象的な形態」をとり、この「物象的形態」が人間の生産活動を支配するという事態が、あまりにも当然なことに見えたので、このような問いを立てることじたい、思いもよらないことでした。それほど、彼らにとって、商品生産の社会において発生する商品や貨幣などの物象的形態は「自然的」なものに見えたのです。

では、本文を見ていきましょう。これまでの古典派経済学は、不完全ではありますが、価値と価値の大きさを分析して、これらの形態のうちに隠されている内容を発見しました。(ここからは物神性をまとった経済的諸カテゴリーを自然なものとして扱った古典派経済学の批判に充てられています。)しかし、経済学は、では、なぜ、この内容(労働や労働時間)が、そうした形態をとるのか、どうして労働が価値として表されるのか、あるいは、その継続時間による労働の量の測定が、労働生産物の価値の大きさとして表されるのか、という問題については、そもそもそうした問題を提起したことも無かったのです。(これは前のところの次の一文を思い出させます。「それでは、労働の生産物が商品の形態をとると同時に生まれるこの謎めいた性格は、どのようにして発生したのだろうか。明らかにこの商品形態そのものから生まれたのである。さまざまな人間労働は、[抽象的な人間労働としては]同等なものであり、その同等性はさまざまな労働の生産物において、同等な価値の実態という物体的な形態をとる。」つまりこのようにマルクスが問題を提起して解明していることについて、これまでの古典派経済学は問題にもしたことがなかったということです。)「経済学のブルジョワ的な意識にとっては、生産のプロセスが人間を支配しているのであって、人間がまだ生産プロセスを支配していない社会構成に属することがその〈額〉に明記されている定式は、生産労働そのものと同じように自明な自然の必然性のように思えるものである。」これは次のように考えられるのではないでしょうか。ここでマルクスが述べている「生産のプロセスが人間を支配しているのであって、人間がまだ生産プロセスを支配していない社会構成に属すること」というのは、マルクスがこうした諸カテゴリーの根拠を、すなわち、その物象的な諸関係の秘密を解きあかした結果、言えることだと思います。だからここでマルクスが「その〈額〉に明記されている定式」というのは、そうした商品の物神的性格とその秘密が解きあかされたが故に、今は言えることだと理解すべきではないでしょうか。それに対して、ブルジョア的な目には、そうした諸関係はまったく見えないということで、自明で必然的に見えると述べていると読めると思います。だから、経済学が社会的生産有機体の前ブルジョア的形態、例えば封建的生産様式や古代的生産様式等を取り扱うやり方は、教父たちが前キリスト教的諸宗教を取り扱うのとまったく同じやり方なのです。

商品世界にまとわりついている物神崇拝、あるいは社会的な労働諸規定の対象的外観に、一部の経済学者がどんなにはなはだしくあざむかれているかということは、とくに交換価値の形成における自然の役割についての退屈でばかばかしい論争が示しています。このような商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的な最も未発展な形態ですから、そしてだからこそ、商品形態は、ブルジョア的な生産ではそうであるように、支配的で特徴的な様式にまでなっていないとしても、早くから歴史的には登場します。しがし、そうした未発展な商品形態では、まだその物神的性格は比較的容易に見抜くことが可能なように見えます。しかし、もっと具体的な形態、例えば貨幣形態であるとか、資本形態などの場合は、簡単であるという外観さえ消え失せます。ここで〈重金主義の幻想〉というのは、金銀こそが唯一の富だと考えたことではないかと思います。つまり商品形態のより発展した貨幣形態では物神崇拝を見抜くことはより困難であり、よって重金主義者は、金銀を見ても、それが社会的な生産関係を表すものであり、金銀が持つ社会的な力は、彼ら自身の社会的な関係から生じているということを理解できなかったわけです。重金主義の幻想はどこから来るのでしょうか? 重金主義は、金銀を見ても、貨幣としての金銀は一つの社会的な生産関係を、金銀という自然物の社会的な自然属性として、表しているのだということが分かりませんでした。また、その重金主義を批判し、冷笑している近代の経済学は、しかし自分たちも資本を取り扱うとなると、資本は工場や機械などの財物だと強固な理解から抜けきれず、その物神崇拝は手にとるように明らかではないでしょうか。

[古典派]経済学は不完全な形であっても、価値と価値の大きさを分析し、価値形態のうちに潜む内容を発見したのだった。ただし経済学がまったく問わなかったことがある。それはこの内容はなぜあの形式をとったのか、すなわち労働はなぜ価値で表現されるのか、労働はその持続時間の長さによって測定されることで、なぜ労働の生産物の価値の大きさのうちに表現されるのかという問いであった。

経済学のブルジョワ的な意識にとっては、生産のプロセスが人間を支配しているのであって、人間がまだ生産プロセスを支配していない社会構成に属することがその〈額〉に明記されている定式は、生産労働そのものと同じように自明な自然の必然性のように思えるものである。だからブルジョワジーが登場する以前の社会的な生産有機体の諸形態を経済学が考察するやり方は、まるでキリスト教の教父たちがキリスト教の諸宗教を扱うのと同じやり方にみえるのである。

一部の経済学者たちが、商品世界に貼りついたこのフェティシズムによって、そして社会的な労働規定の対象的な外見によって、どれほど欺かれたかを明らかに示してくれるのが、交換価値の形成において自然がはたしている役割について、長いあいだつづけられた無味乾燥な論争である。交換価値は、ある物のうちに投入された労働を表現する特定の社会的なやり方であるから、為替相場と同じように、自然の素材をそのうちにごくわずかでも含むことはできないのである。

商品形態は、ブルジョワ的な生産のもっとも一般的で、発達のごく初期の段階から登場する形態であるから、今日のように支配的で特徴的な形ではないとしても、[歴史の]ごく早い段階から登場している。だから商品のフェティッシュな性格は、かなり簡単に洞察できるように思えた。しかし具体的な形態をとるようになると、簡単に洞察できるように思えた。しかし具体的な形態をとるようになると、簡単に洞察できるという外見すら消え失せる。重金主義の幻想は、どこから生まれたのだろうか。重金主義は、金や銀を目の前にして、それが貨幣として社会的な生産関係を表現するものであること、ただし独特な社会的な特性をそなえた自然物の姿によって表現するものであることを理解しなかった。

そして現代の経済学もまた、偉そうに重金主義を見下して嘲笑してはいるものの、資本を考察する段階になるとすぐにフェティシズムに陥ってしまうのは明らかなことではないだろうか。重農主義は、地代が社会からではなく土地から生まれると信じていたのだが、この幻想が消滅したのはそれほど昔のことではないのである。

 

商品の独語

ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠れている内容を発見した。しかし、経済学は、なせこの内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ労働が価値に、そしてその継続時間による労働は計測が労働生産物の価値量に、表わされるのか、という問題は、いまだかつて提起したことさえなかったのである。そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配していない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている。それだから、社会的生産有機体の前ブルジョワ的諸形態は、たとえばキリスト教以前の諸宗教が教父たちによって取り扱われるように、経済学によって取り扱われるのである。

商品世界に付着している呪物崇拝は、または社会的な労働規定の対象的外観によって、一部の経済学者が、どんなに惑わされているか、このことをとりわけよく示しているのは、交換価値の形成における自然の役割についての長たらしくてつまらない争論である。交換価値は、ある物に投ぜせけた労働を表わす一定の社会的な仕方なのだから、たとえば為替相場などと同じように、それが自然素材を含んでいることはありえないのである。

商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的で最も未発達な形態であり、それだからこそ、今日と同じように支配的な、したがって特徴的な仕方でではないにせよ、早くから出現するのであって、そのためにその呪術的性格はまだ比較的容易に見ぬかれるように見えるのである。そりよりももっと具体的な諸形態では、この単純性の外観さえ消えてしまう。重金主義の幻想はどこからくるのか?重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、といっても特別な社会的属性をもった自然物の形態で、表わしているということを、見てとらなかった。また、近代の経済学は、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、その呪物崇拝はそれが資本を取り扱うやいなやたちまち明白になるのではないか?地代は土地から生まれるもので社会から生まれるのではないという重農主義の幻想が消えたのは、どれほど以前のことだろうか?

しかし、先回りを止めて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例を挙げることにしましょう。諸商品がものを言えるとすれば、こういうでしょう。われわれの使用価値は人間の関心を引くかも知れません。しかし、それは物としてのわれわれには属さないのです。そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値なのです。われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちを互いに関係させあうのです、と。これは商品自身が語っている内容です。使用価値は人間の関心を引くかもしれないが、物としての商品に属しているのは使用価値ではなくて、価値だと述べています。しかしそれにしても、使用価値は〈物としてのわれわれには属さない〉、〈われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である〉というのは、一体、どういうことでしょうか。商品は直接には使用価値であると共に価値です。しかし使用価値は労働生産物が商品にならなくても、備わっている属性です。だから労働生産物が商品であるということは、そこに価値があるからだということになります。つまり物としての商品にだけ属しているのは、使用価値ではなくて、価値なのだというのです。そしてそれは物が互いに商品として関係し合うその仕方(すなわち人間が「交換」といっている関係)を見れば、それを証明しているとも述べています。というのは、物が互いに商品として関係し合うのは、それらが交換価値として関係し合う限りにおいてのみだからだ、というわけです。つまり商品という物象的な関係をおびた物は、客観的に互いにこうした関係を取り結んでいるとマルクスは述べているのです。なぜ、マルクスは、こうした商品自身が主体的に互いの関係を取り結ぶというようなものとして問題を論じているのでしょうか。商品はそれらが交換価値として関係するのは、当然、人間がそれらを交換するから、そうした関係を結ぶことは明らかなのに、あたかも商品自身が自分で互いの関係を取り結び、そうしたなかで商品自身が自分たちのそうした関係を語るというような説明をしているわけです。それは商品の交換関係が、一つの客観的な法則として人間を外的に拘束するものとして現れているからです。商品生産者は、自分が売ろうとする商品の市況に一喜一憂して、何時、自分の商品を売るべきかタイミングを考えています。つまり商品同士の交換関係は、あたかも人間自身の意識や行動とは独立した過程、客観的な物象的関係として存在し、それによって、人間は拘束され、それに引き回されるような転倒した関係が生じているのです。だからこそ、マルクスはあたかも商品自身が主体的に自分たちで互いの関係を取り結ぶような自立したものであり、またそうした自分たちの関係を自分自身の言葉で語るようなものとして説明しているのです。こうした物象的な関係というのは、それ自身、人間の労働の社会的な関係を反映したものであるにも関わらず、それが人間の意識や意志からは直接には独立したものとして立ち現れてきて、人間を支配し、拘束し、引き回すような転倒した関係にあることを、マルクスはこうした商品自身の主体的な行動や関係、言葉や話として説明しているのだと思います。

では、経済学者たちが、この商品の心をどのように伝えているのかを聞いてみることにしましょう、と述べて以下で経済学者たちの引用をします。その後で、次のような批判的なコメントを加えて行きます。

これまでどの化学者も、真珠やダイヤモンドのなかに交換価値を発見していません。これは当然です。交換価値は、労働の社会的な性格が反映したものであって、それは自然素材とはまったく異なるものだからです。価値の対象的性格には一物もの自然素材は含まれていません。ところが、批判の鋭さを自負しリカードを批判するこれらの経済学者たちは、交換価値という化学的実体を発見したかのように、物の使用価値はそれらの物的属性にはかかわりがないが、それらの価値は物としてのそれらに属するということを見いだしているのです。つまり彼らはまったく物神崇拝に取り込まれているわけです。こうした彼らの見解を確証するのは、物の使用価値は人間にとっては、交換なしに、したがって物と人間との直接的な関係において実現するという事実です。使用価値は人間との関係のなかでのみ使用価値なのだから、だから使用価値は物的属性には関わりがないというのです。それに反して、物の価値は、ただそれらの交換においてのみ、つまり物の関係においてのみ、すなわち人間とは関係のない物自身の一つの社会的な過程として実現されている事実です。だからそれらは物自身の属性によるものだというわけです。だから彼らは使用価値は人間に関係するもので、物の物的属性には関係はないが、価値としてはそれらは物そのものの関係によるものであり、よってそれは物そのものの属性なのだ、と考えるわけです。しかしこれは、あのシェークスピアの『から騷ぎ』に登場する善良な警察官、ドッグベリーが夜番のシーコールに教えるセリフを思い出させます。すなわち「おとこぶりのいいのは運の賜物だが、読み書きは自然に備わるものだ」。このように彼は終始、言葉を誤用するのですが、物神崇拝にとりつかれた経済学者たちもまるで同じように語っているわけです。

ここではそれほど先走りしなくても、商品形態について別の実例を示しておけば十分だろう。もしも商品たちが話すことができるとしたら、次のように語るだろう。「人間たちは、われわれの使用価値に関心をもつかもしれない。しかしこの使用価値は、物としてのわれわれに属するものではない。物としてのわれわれに属しているのは、価値である。われわれが物である商品として交換されることが、そのことを証明している。われわれはただ交換価値として、たがいに関係しあうだけである」と。

それではかの経済学者が商品の気持ちになって語るかを聞いてみよう。「価値(交換価値のことだ─マルクス)は物の特性であり、富(使用価値のことだ─マルクス)は人間の特性である。この意味で価値は必然的に交換されるということを含んでいるが、富はそうではない」。あるいは「富(使用価値のことだ─マルクス)は人間の特性であり、価値は商品の特性である。一人の人間あるいは共同体は富をもっていると語られる。一粒の真珠やダイヤモンドは価値があると言われる。…真珠やダイヤモンドは、真珠やダイヤモンドとして価値をもつ」。

これまではどんな化学者も、真珠やダイヤモンドのうちに、交換価値が存在するのを発見したことはない。しかしこのような化学物質を発見したと称する経済学者たちは、その批判的な精神の深さを誇りながら、物の使用価値は、物の特性とは無関係なものであり、反対に物の価値が、物に属することを発見するのである。彼らがここで発見したのは、人間にとっての物の使用価値は、交換を媒介とせずに、人間と物との直接的な関係のうちに実現されるのに、それとは反対に物の価値は交換のうちでのみ、すなわち社会的なプロセスのうちだけで実現されるという奇妙な事態である。このときわたしたちは、お人好しのドグベリーがが、夜番のシーコールに次のように叫んだことを思いださずにはいられない。「容貌のよしあしは神の賜物だが、読み書きは生来そなわったものだ」。

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第2章 交換過程に進む 

 
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