マルクス『資本論』を読む
第2部 資本の流通過程
第1篇 資本の諸変態とその循環
第1章 貨幣資本の循環
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第2部 資本の流通過程 

〔この部の概要〕

第1部が資本の生産過程を主たる対象として、資本家と労働者との関係を資本主義社会の基本的関係として論じていたのに対して、第2部は資本の流通過程をとくに取り上げて考察していて、第1部の分析を補完していると言えます。その編別の構成は次のようになります。

第1編 資本の諸変態とその循環

第2編 資本の回転

第3篇 社会的総資本の再生産と流通

マルクスは資本を商品・貨幣の形態に対して、このような形態をとりながら価値を増殖させる価値の運動体として捉えました。したがって、資本の流通というのは、資本価値が、そのとる姿態をたえず変えて、言い換えると変態を遂げながら価値を増殖するということです。第2部は、そのような資本の流通過程を産業資本の運動形式で解明しようとします。

『資本論』第2部は、第1部が「資本の生産過程」を対象としているのに対して「資本の流通過程」を対象としています。資本はしかし元来流通形態として出現したものであって、「資本の生産過程」といってもその流通面を無視して説くことはできません。事実、マルクスは第1部でまず商品、貨幣、資本の流通過程を明らかにして、また生産過程を考察する場合にも前提とし、必要な限りで資本の流通過程に触れています。第2部は、「資本の流通過程」を問題とするというわけで、実際上は第1部を補足するものとなっています。

第2部の対象としての「資本の流通過程」とは何を意味するか、その点を簡単に述べておきます。というのも、資本の流通といっても、マルクスの場合、ふつうこの言葉から想像されるように資本が人々の手を移っていくという意味ではないようです。そのような理解の仕方では、資本という概念自身が十分に解明されないことになるからです。その点は、すでに第1部でも当然にそうなっているのですが、第2部の詳細な分析を経ないと、なかなか理解できないと言えます。

マルクスは商品が販売されて貨幣となり、その貨幣で他の商品を購入するという過程─図式的にW−G−W´として表現される過程─を「商品の変態」として解明し、これをただちに商品の流通とするのですが、この過程は一方ではたしかに商品の価値が、商品の姿から貨幣の姿に変わり、さらに他の商品の姿に変わるという変態の過程を通して行われる流通になりますが、他方では商品は貨幣と交換され、貨幣が再び他の商品と交換されるという、現実に商品自身が売り手から買い手に移っていくという事実も示すもので、流通という言葉が二重の意味に解されることになります。事実、商品の価値は資本のように運動体としてあるわけではなく、現実的に一定の使用価値が価値として実現させられなければならないという関係にすぎません。貨幣は、この商品の流通の特殊の性質を一面化して流通手段となり、その限りではつねに流通市場にとどまるということになるので、マルクスが商品の変態として説いた商品の流通過程も、価値の運動体としての資本の流通過程のように明確には規定しえないものがあります。商品は、貨幣に対立した形態として商品であり、その価値は商品とか、貨幣とかの形態から独立した存在を与えられているとはいえないからです。

資本の場合になると、まず貨幣で商品を買い、その商品を売って貨幣にするというG−W−G´の過程にしても、すでに明らかに価値が商品、貨幣等の形態から独立した運動体としてあり、それは性質上つねに繰り返されるものとなっています。それと同時にGという貨幣がただちに資本であるとは言えません。G−Wの過程は、W−G−W´のG−Wとして機能する場合も、また一般に誰でもたんに貨幣で商品を買って消費するという、資本としての買い入れでない場合と同じです。それでいてG−W−G´の過程は資本の一つの姿です。W−G´も同じです。ただ資本としてはG−W−G´として始点と終点とが同じ貨幣であるのだ、より多くの貨幣G´にならなければ意味がないし、またそうでなければGも、Wも、資本のひとつの姿です。そのかわりG´は、そのうちの少なくともGは、また同じ過程を繰り返すことになり、資本はつねにそのように姿を変えながら運動しているものとして、資本であるということになります。G−WでGが商人の手から商品の売り手の手に移ったからといって資本自身が移るわけではありせん。資本はWという商品の姿で商人の手にあります。W−G´として売られる場合も同じように資本はG´に姿を変えるとともに、さきに投じたGより多いG´となるのであって、Wとともに買い手の手に移るわけではありません。資本の流通とは、このように資本価値が姿を変えて、いわゆる変態しながら価値を増殖することを意味しています。資本が人々の手を移るというように理解したのでは、価値増殖は理解されません。た実際相手がたんなる売り手、たんなる買い手にすぎないのに資本がその人の手に移るといったのでは、売買の過程を理解することにもなりません。商人から商品を買うと、資本が移って買い手が資本家になるということはない。資本の流通とは、資本家の手にあって資本が商品や貨幣と姿を変えながら運動するという意味で理解しなければなりません。

『資本論』第2部は、そういう意味での資本の流通過程を、資本がすでに生産過程をも把握した、言い換えれば生産過程が資本の形態で行われる産業資本の運動として解明しています。G─W…P…W´─G´の形式をとってこれを詳細に考察していきますが、それと同時に第1部の資本の生産過程で問題にならなかった資本の運動の一面が解明されることになります。

 

第1篇 資本の諸変態とその循環

〔この篇の概要〕

産業資本の運動は3段の一定の過程を繰り返して行うということから次のような3面の循環を持つことになります。

Tは貨幣に始まって貨幣に終わる貨幣資本の循環で、Uは生産過程に始まって生産過程に終わる生産資本の循環で、Vは商品生産物に始まって商品生産物に終わる商品資本の循環です。第1編はまず、資本の流通過程が、このような循環の3つの面を持っており、したがってこの3面を明らかにしないでは資本の運動が正しく把握されないということを指摘することから始めます。

これに続いてマルクスは、資本の流通過程の分析に固有の問題として、流通期間と流通費用という第1部では直接取り上げられなかった新たな問題を考察します。資本が価値の運動体である以上、どんな産業でも全資本を生産過程にある生産資本とするわけにはいきません。多かれ少なかれその一部は流通過程にある流通資本とせざるをえないのですが、この流通資本はそれ自体で価値を増殖させません。そこで、資本が流通過程にとどまる流通期間を生産期間に対して区別しなければなりません。一定量の資本において、流通期間の長短は資本の価値増殖に影響を及ぼすことになるからです。しかし資本にとっては、このように一定の流通期間を要するとともに、その流通のために一定の資材や労力をも要するのであって、そのような流通費用が一般に価値の形成に対してもつ意義も明らかにされなければなりません。そこでマルクスは、この費用を、第一に純粋の流通費用として、売買期間、簿記、及び貨幣の順で取り上げ、これらが価値の形成にまったく参加しない性質のものであることを明らかにする一方、第二に保管の費用を、第三に運輸費用を取り上げて、前者は商品の使用価値を、消極的にではあるが、保存するという点から、後者は使用価値を実現するために、補充的にではあるか、必要とするという点から、いずれも社会的に欠くべからざるものとして価値を追加させることを明らかにします。

資本の流通過程については、大きく言って二つのものを区別することができます。一つは、資本の生産過程で生産された商品(W)(商品資本)が市場で別の資本家が労働者に販売されて、貨幣(G)の形態(貨幣資本)に再転化する過程です。これは狭い意味での流通過程であり、資本の生産過程と区別されそれと対置されるところの本来の流通過程です。しかし、資本の流通というのは、この本来の流通過程だけでなく、そもそも生産過程を含めて資本は出発点としての貨幣から始まって、次々とその姿を変えていって、最終的により多くの貨幣になって戻ってくるのであり、このような大きな流れもまた資本の流通過程と言うことができます。

第1部で貨幣から資本への流れをG−W−G´という資本の一般的定式について考察し、次いで、その拡張された定式であるG−W…P…W´−G´という定式について考察しましたが、この資本の流れの全体が資本の流通過程を形成していると言うことができます。この大きな流れでは、資本は商品や貨幣や生産手段という特定の形態に限定されているのではなく、すなわち、商品資本、貨幣資本、生産資本という特殊な存在形態に拘束されているのではなく、それらの特定の姿を次々と取っては脱ぎ捨てていく価値の流動的な運動体として存在している。これを広い意味での流通過程と呼ぶことができます。

同じような二重性は資本の生産過程でも見られます。資本の生産過程とはその狭い意味で、工場やオフィスや建設現場などの場で生産手段(不変資本)と労働力(可変資本)とを用いて価値と剰余価値とを実際に生産する過程です。しかし、第1部では単にこの狭い意味での生産過程のみを検討したのではなく、その前段階としての生産手段と労働力との購入についても考察したし、また蓄積論では、出発点としての貨幣が狭い意味での生産過程と狭い意味での流通過程とを経てより多くの貨幣として実現され、それがさらに次の生産へと投資されて拡大再生産を繰り返していく過程も研究しました。このような拡大再生産と蓄積の過程は広い意味での生産過程として包括することができます。つまり、生産過程を同時に再生産過程としても考察するなら、生産過程はもはや価値と剰余価値とが直接生産される範囲に限定されないのであって、それらの生産された価値が市場で実現され、再投資される過程の全体をも包摂しうるのです。

このように、資本の運動の全体は、それを主として生産過程の観点から見るのか、それとも主として流通過程の観点から見るのかの違いによって、広い意味での生産過程としても、あるいは広い意味での生産過程として総括することができるというものです。マルクスは、広い意味での生産過程(資本の再生産と蓄積)と区別するために、狭い意味での生産過程を直接的生産過程と呼んでいますが、狭い意味での流通過程に関してもそれを直接的流通過程と呼びます。

そしても直接的生産過程における資本をまとめて生産資本と呼ぶことができるように、直接的流通過程における資本はまとめて流通資本と呼ぶことができます。この流通資本は、商品資本の形態と貨幣資本の形態をとって存在しています。

他方、広い意味での資本の流通過程をとくに資本の循環と言います。それが循環であるのは、この運動において資本は必ず出発点と同じ姿に回帰しているからです。たとえば拡張された定式でいうと、G−W…P…W´−G´では、貨幣資本(G)から出発して生産資本(P)、商品資本(W)というさまざまな姿態を経て、貨幣資本(G´)へと回帰しています。資本はこのような循環過程を無限に繰り返すことを通じて、次第に価値増殖していくのです。

このような、この循環において、貨幣資本が商品資本へ、商品資本が生産資本へ、生産資本がまた貨幣資本へとその姿を変えることを、昆虫が卵から幼虫へ、幼虫から蛹へ、蛹から成虫へと姿を変えていくのになぞらえて、資本の変態と言います。昆虫がどの姿態をとっていても、つねに同じ実体を持ち、同じ種類の昆虫であり続けているように、資本はどの特定の姿態をとっていても、価値という同じ実体を持ち、産業資本という同じ種類の資本なのです。

資本の循環はどの姿態の資本を出発点にするかによって、貨幣資本循環(G−G循環)、生産資本循環(P−P循環)、商品資本循環(W−W循環)という3つのタイプを区別することができます。区別といっても、まったく別の資本の循環という意味ではなくて、いずれも同じ産業資本の循環を表わす特定の形態なのですが、その循環の様相が出発点と終結点の違いによって変わってくるということです。

 

第1章 貨幣資本の循環

資本の循環過程は3つの段階を通って進み、これらの段階は、第1巻の叙述によれば、次のような順序をなしている。

第1段階。資本は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G─Wを通過する。

第2段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素よりも大きい価値を持つ商品である。

第3段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W─Gを通過する。

そこで、貨幣資本の循環を表わす定式は次のようになる。G─W…P…W´─G´。ここで点線は流通過程が中断されていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGとを表わしている。

第1段階と第3段階は、第1部では、ただ第2段階すなわち資本の生産過程を理解するために必要なかぎりで論究されただけだった。だから、資本が自分の通るいろいろな段階で身につけるところの、そして繰り返される循環のなかで身につけたり脱ぎ捨てたりするところの、いろいろな形態は、顧慮されていなかった。これからは、これらの諸形態がまず第1の研究対象になるのである。

これらの形態を純粋に把握するためには、さしあたりは、形態転換そのものにもなんの関係もない契機をすべて捨象しなければならない。それゆえ、ここでは、商品はその価値どおりに売られるということが想定されるだけではなく、この売りが不変の事情のもとで行われるということも想起されるのである。したがってまた、循環過程で起こることがありうる価値変動も無視されるのである。

資本の循環過程は貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環という三つの段階を通りますが、この第1章では、第1段階の貨幣資本の循環を見ていきます。

資本の循環過程は三つの段階を通過します。

第一段階(G−W) 資本家は商品市場及び労働市場で、貨幣でもって商品を購買する。

第二段階(P) 資本家は購入した商品を生産的に消費し、剰余価値を含む商品を生産する。

第三段階(W'−G') 資本家は商品を販売して貨幣を回収する。

貨幣資本の循環を定式で表わすと、次のようになります。

G─W…P…W´─G´

Gは貨幣あるいは貨幣資本、Wは商品あるいは商品資本、また点線は流通過程が中断されていることを表わします。また、左の方のGとWにダッシュが付されているのは循環により剰余価値が生まれて価値が増大しているということを表わしています。

なお、貨幣資本の循環と商品資本の循環については第1部では資本の生産過程つまり生産資本の循環を理解するために参照された程度でした。ここでは、まず貨幣資本の循環を見ていきます。

最初に検討するのは、貨幣資本(G)を出発点とする貨幣資本循環です。それは、生産過程論でも最初に検討した資本の拡張された定式と基本的には同じであり、G−W…P…W´−G´という循環形式をとります。この定式にある「…」は生産過程において流通の流れが中断していることを意味しており、後半のW´とG´にあるダッシュは、その価値量が出発点のGよりも増大していることを意味しています。これらの特殊な記号を無視してもっと単純化すれば、G−W−P−W−Gとなります。

この循環形式が同時に資本の一般的定式(その拡張版)と同じであるということは、この循環が、貨幣資本循環という特殊な循環であると同時に、すべての資本循環の基礎であり、その共通性でもあることを示唆しています。したがって、資本の循環とは何よりも、貨幣資本の循環なのであり、また実際に、資本家が何か事業をはじめようとするとき、常に一定量の貨幣から出発するし、また日々、貨幣から出発するのです。

 

第1節 第1段階 G−W

G─Wは、ある貨幣額がある額の商品に転換されることを表わしている。買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとって彼らの諸商品の貨幣への転化である。このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第1に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。それは一方では生産手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因と人的要因とであって、それらの特殊な性質は、もちろん、生産される物品の種類に相応していなければならない。労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pmであり、もっと簡単に表わせばW<PmAである。つまり、G─Wは、その内容から見れば、G─W<PmAとして表わされる。すなわち、G─WはG─AとG─Pmとに分かれるのである。貨幣額Gは二つの部分に分かれて、一方は労働力を買い、他方は生産手段を買うのである。この二つの列に分かれる買い入れはまったく別々な市場で行われる。一方は本来の商品市場で、他方は労働市場で。

こういうわけで、G─W<PmAは、一定の貨幣額、たとえば422ポンドが、互いに対応し合う生産手段と労働力とに転換されるという質的な関係を表わしているだけではなく、労働力Aに投ぜられる貨幣部分と生産手段Pmに投ぜられる貨幣部分との量的な関係をも表わしているのであって、この関係は、一定数の労働者によって支出される余分な剰余労働の総計によってはじめから規定されている。

そこで、たとえばある紡績工場で50人の労働者の週賃金が50ポンドだという場合に、1500時間の剰余労働を含めての3000時間の週労働が糸に転化させる生産手段の価値が372ポンドならば、この372ポンドが生産手段に支出されなければならない。

いろいろな産業部門で追加労働の充用が生産手段の形での価値追加をどの程度まで必要とするかは、ここではまったくどうでもよいことである。かんじんなのは、ただ、生産手段に支出される貨幣部分─G─Pmで買われる生産手段─がどんな事情のもとでも十分でなければならないということ、すなわち、はじめから追加の必要を考慮して適当な割合で用意されていなければならないということだけである。言い換えれば、生産手段の量は、この労働量を吸収するのに、つまりこの労働量によって生産物に転化されるのに、十分でなければならない。もし十分な生産手段が手もとにないならば、買い手が処分できる余分な労働も使えないであろう。彼が持っているその労働の処分権はなんにもならないであろう。また、もし処分できる労働よりも多くの生産手段がそこにあるならば、それらは十分な労働を加えられず、生産物には転化されないであろう。

第1段階はG─Wという過程で、この式は貨幣が商品に転換されることを表わしています。これは買い手の側からは貨幣の商品への転化であり、売り手の側からは彼らの商品が貨幣に転化することになります。これは一般的な商品流通のプロセスですが、この過程を同時に資本の循環の一段階とするのは、購買される商品の素材的内容であり、使用性質です。素材的内容は、第二段階の生産過程に充当される生産手段(Pm)と労働力(A)であるということです。これを式に表わせば、商品の価値W=A+Pmとなります。それはW<PmAということでもあります。ということは、G─Wは、G─W<PmAと表わすことができます。G─Wというプロセスは、G─AというプロセスとG─Pmというプロセスに分解することができます。前者は労働力を後者は生産手段を買うプロセスです。この二つの買いは別々の市場で行われます。前者は労働市場で、後者は商品市場です。

その場合、生産手段の量は、剰余労働をも吸収するに足るものでなければなりません。つまり、労働力の価値または価格は、労働力を売る人には労賃、すなわち労働量の価格として支払われます。したがって、買われる生産手段の量は、この労働量を充たすのに十分なものでなければなりません。したがって、G─W<PmAという式は、一定の貨幣額が互いに対応し合う生産手段と労働力に転換するという関係を表わしています。この関係は一定の労働者が支出する余分な剰余労働の枠内になっています。

そこで、生産部門に支出されるもの、すなわちG─Pmで買われる生産手段は追加労働に十分でなければなりません。まとめると、生産手段の量は、この労働量を吸収するのに、つまりこの労働量によって生産物に転化されるのに、十分でなければならないということです。もし十分な生産手段が手もとにないならば、買い手が処分できる余分な労働も使えないでしょう。

 

G─W<PmAが完了すれば、買い手は、ある有用な物品の生産に必要な生産手段と労働力とを処分することができるだけではない。彼は、労働力の価値の補償に必要であるよりも大きい労働力の流動化、またはより大きい量の労働を処分することができる。また、同時に、この労働量の実現または対象化のために必要な生産手段をも処分することができる。また、同時に、この労働量の実現または対象化のために必要な生産手段をも処分することができる。つまり、彼は、その生産要素の価値よりも大きい価値をもつ物品、言い換えればある剰余価値を含む商品量の生産に必要な諸要因を処分することができるのである。だから、彼が貨幣形態で前貸しした価値は、今では剰余価値(商品の姿での)を生む価値として実現されることを可能にする現物形態をとっているのである。言い換えれば、その価値は、価値と剰余価値をつくりだすものとして機能する能力をもっている生産資本という状態または形態にあるのである。この形態にある資本をPと呼ぶことにしよう。

ところで、Pの価値は、AプラスPmの価値であり、AとPmとに転換されたGに等しい。GはPと同じ資本価値であって、ただ、存在様式が違うだけである。すなわち、貨幣状態または貨幣状態にある資本価値─貨幣資本である。

それゆえ、G─W<PmA、またはその一般的形式から見ればG─W、いろいろな商品購入の総計、この、一般的な商品流通の過程は、同時に、資本の独立した循環運動のなかの段階としては、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化なのであり、もっと簡単に言えば、貨幣資本から生産資本への転化なのである。すなわち、ここでまず考察される循環図式では、貨幣は資本価値の最初の担い手として現われるのであり、したがって、貨幣資本は、資本が前貸しされるさいの形態として現われるのである。

貨幣資本としては、資本は、いろいろな貨幣機能を、当面の場合では一般的購買手段と一般的支払手段との機能を行うことのできる状態にある。(労働力ははじめから買われるにはちがいないがその支払が行われるのはそれが働いたあとでのことだというかぎりでは、貨幣は支払手段である。生産手段ができ合いで市場にあるのではなく、これから注文されなければならないというかぎりでは、貨幣はG─Pmでもやはり支払手段として機能する。)この能力は、貨幣資本が資本であることから生ずるのではなく、それが貨幣であることから生ずるのである。

他方、貨幣状態にある資本価値は、貨幣機能を行うことができるだけで、ほかの機能はなにも行うことができない。この貨幣機能を資本機能にするものは、資本の運動のなかでの貨幣機能の特定の役割であり、したがってまた、貨幣機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との関連である。たとえば、当面の場合では、貨幣が諸商品に転換され、これらの商品の結合されたものが生産資本の現物形態をなすのであり、したがって、この結合は、潜在的には、可能性からは、すでに資本主義的生産過程の結果をそれ自身のうちに蔵しているのである。

G─W<PmAで貨幣資本の機能を行う貨幣の一部分は、この流通そのものの完了によって、別の一機能に移行するのであって、この機能ではその資本性格は消失してその貨幣性格が残っている。貨幣資本Gの流通は、G─PmとG─Aとに、生産手段の買い入れと労働力の買い入れとに、分かれる。このあとのほうの過程をそれ自体として考察してみよう。G─Aは、資本家の側からは、労働力を買うことである。それは、労働者すなわち労働力の所持者の側からは、労働力─ここでは労賃という形態が前提されているのだから労働と言ってもよい─を売ることである。買い手にとってG─W(=G─A)であるものが、ここでは、どの買いでもそうであるように、売り手(労働者)にとってはA─G(=W─G)であり、自分の労働力をうることである。これは、第一の流通段階または商品の第一の変態である(第1部第3章第2節a)。それは、労働の売り手の側からは、彼の商品がその貨幣形態に転化することである。こうして手に入れた貨幣を労働者は次々に、自分の諸欲望を満たす諸商品の総計に、いろいろな消費物品に、支出して行く。そこで、彼の商品の総流通は、A─G─Wとして、すなわち第一にはA─G(=W─G)、第二にはG─Wとして、表わされる。つまり、単純な商品流通の一般的な形態W─G─Wで表わされ、そこでは貨幣は、単なる瞬間的な流通手段としての、商品と商品との転換の単なる媒介者としての、役を演ずるのである。

G─W<PmAが完了する。つまり、ある貨幣額が生産手段と労働力をもってある額の商品に転換されることですが、そうなると、買い手つまり資本家は、その製品の生産に必要な生産手段と労働力を不要になったとして処分すなわち手放すことができます。それだけでなく、資本家は労働力の価値を保障するために必要な労働力の流動性の確保、そのためのより大きな労働量、つまり予備の労働力も処分することができます。また、その労働量の実現のために必要な生産手段も処分することができます。つまり、資本家は剰余価値を含む商品の生産に必要な諸要素(労働力、生産手段)を処分することができる、ということです。それゆえ、彼が貨幣で支払った価値は、ここにいたって商品という剰余価値を生む価値になることを可能にするものにかりました。それが生産資本という状態または形態であり、Pという式で表わされます。

このPの価値はA+Pmの式で表わすことができ、AとPmとに転換されたGに等しくなります。GとPとは同じ資本価値ですが、存在様式が違います。Gは貨幣資本、すなわち、貨幣状態または貨幣状態にある資本価値です。

それゆえ、G─W<PmAという式から見ると、G─Wは一般的な商品流通の過程でしょうが、これは同時に、資本の循環運動の段階としては、貨幣形態から生産的形態への転化、もっと絞って言えば貨幣資本から生産資本への転化です。

貨幣資本は、資本の貨幣としての機能、購買手段と支払手段の機能を果たす状態です。また、貨幣の状態の資本価値は、貨幣機能しか果たすことができません。この貨幣機能が資本機能に転化する、すなわち、貨幣が商品に転換され、これらの商品がまとまったものが生産資本の基本形態となる、ということです。

G─W<PmAという式の中で、貨幣資本の機能を行う部分は、流通という過程が完了したことによって、別の機能を果たすように変化しますがそれだけで、その変化によって資本性格は消失しますが貨幣としての性格は残ります。貨幣資本の流通はG─Pm生産手段の買い入れG─Aと労働力の買い入れとに、分かれます。G─Aつまり労働力の買い入れは、資本家の側からは労働力を買うことで、また、労働者の側からは労働力を売ることです。買い手である資本家にとってG─Wであることは、すなわち、売り手である労働者にとってはA─Gという売ること、つまり彼の商品である労働力が貨幣形態に転化することです。これは商品の第1の変態です。労働者はこれで手に入れた貨幣を消費物品の購入のために支出するわけです。それを式で表わすと、A─G─Wとなります。これは一般的な商品流通の単純な形態と同じです。ここでの貨幣は、流通手段、すなわち、商品の転換の媒介者として機能します。 

 

G─Aは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである。G─Pmは、ただG─Aによって買われた労働量を実現するために必要なだけである。それだから、第1部第2篇、貨幣への転化では、G─Aがこの観点から説明されたのである。ここでは事柄が、もう一つ別の観点から、特に資本の現象形態としての貨幣資本に関連して、考察されなければならない。

G─Aは、一般に、資本主義的生産様式に特徴的なものとみなされる。しかし、けっして前に述べた理由からではない。すなわち、労働力を買うことは、労働力の価格すなわち労賃の補填のために必要であるよりも多量の提供、つまり前貸価値の資本化のための、または同じことだが剰余価値の生産のための根本条件としての剰余労働の提供を条件とする購入契約である。という理由からではない。そうではなく、それは、むしろ、G─Aという形態のせいであり、すなわち労賃という形態で貨幣で労働が買われるのだという理由からであって、これが貨幣経済の特徴とみなされるのである。

また、この場合に、特徴的とみなされるものは、形態の不合理なことでもない。この不合理はむしろ見すごされている。不合理は、価値形成要素そのものとしての労働は価値をもちえないということ、したがってまた一定量の労働も、その価値に表わされるような、すなわちそれと一定量の貨幣との等価性に表わされるような価値をもちえないということにある。しかし、われわれが知っているように、労賃は一つの仮装形態でしかないのであって、この形態では、たとえば労働力の日価格は、この労働力によって1日のうちに流動化される労働の価格として表わされ、したがってたとえばこの労働力によって6時間の労働で生産される価値がこの労働力の12時間の機能すなわち12時間労働の価値として表わされるのである。

G─Aがいわゆる貨幣経済に特徴的なもの、その標識とみなされるのは、ここでは労働がその所持者の商品として現われ、したがって貨幣が買い手として現われるからである─つまり貨幣関係(すなわち人間の働きの売買)のせいである。ところが、貨幣は、Gが貨幣資本に転化するとか経済の一般的性格が変革されるとかいうことがなくても、すでに非常に古くからいわゆる用役の買い手として現われているのである。

G─A、つまり商品を売るということは、貨幣資本から生産資本への転機となります。それが、貨幣が支払われることによる価値が、現実に資本、この場合は剰余価値を生産するという価値に転化するために必要な条件だからです。これに対して、G─PmはG─Aに付随する、つまり、G─Aによって買われた労働を実現するためのものです。

労働力を買うということは、労働力の価格(労働力を提供するために必要な費用)よりも多量の労働力の提供を条件とする労働力の入手です。これは投下された資本の価値、つまり剰余価値の生産のために必要な剰余労働の提供を含むということです。このことはG─Aという形態、つまり、労賃という貨幣の形態で労働が買われることから、このようなことが生じている。これが貨幣経済の特徴と見なすことができる。

この場合、一定量の労働は、その価値に相当する一定量の貨幣で表わされるような価値を持つことができない。これは、労賃というのは、いわば、ひとつの仮装形態であって、例えば労働力の1日あたりの価値は、労働の価格、つまり、この労働力によって6時間の労働で生産される価値が、この労働力の12時間の労働の価値として表わされているのです。ここでは、人間の労働が貨幣で売買されるという貨幣関係にあるため、労働が商品として扱われ貨幣がその買い手となります。この関係自体は資本主義経済に特有のものではなく、昔からあったものです。 

 

貨幣にとっては、どんな種類の商品に転化されるかは、まったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的な等価形態であって、すべての商品は、それらが観念的に一定の貨幣額を表わしており、貨幣への転化を期待していて、ただ貨幣との位置転換によってのみ商品所持者にとっての使用価値に転換されうる形態を受け取るということを、すでにその価格で示しているのである。だから、労働力がひとたびその所持者の商品として市場に現われ、その売り渡しが労働への支払いという形すなわち労賃という形で行われるようになれば、労働力の売買は、ほかのどの商品の売買と比べても少しもそれ以上に異様に見えるものではない。労働力という商品が買えるものだということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われるということこそが特徴的なのである。

G─W<PmAすなわち貨幣資本から生産資本への転化によって、資本家は生産の対象的要因と人的要因との結合を、これらの要因が商品から成っているかぎり、実現する。貨幣がはじめて生産資本に転化される場合、またはその所持者のためにはじめて貨幣資本として機能する場合には、その所持者には、労働力を買う前に、まず生産手段を、作業用建物や機械などを、買わなければならない。なぜならば、労働力が彼の支配下にはいるやいなや、そこに生産手段があって労働力を労働力として充用することができるようになっていなければならないからである。

事柄は資本家の側から見れば以上のようになっている。

労働者の側から見れば、彼の労働力の生産的発揮は、それが売られて生産手段と結合される瞬間からはじめて可能になる。つまり、労働力は、売られる前には、生産手段から、それを発揮するための対象的諸条件から、分離されているのである。このような状態にあっては、労働力は、直接にその所持者のための使用価値の生産のためにも使えないし、またその所持者が生きて行くために売らなければならない諸商品の生産のためにも使えない。ところが、労働力が売られることによって生産手段と結合されるやいなや、労働力も、生産手段とまったく同じに、その買い手の生産資本の一つの成分になるのである。

それゆえ、G─Aという行為では、貨幣所持者と労働力所持者とは、互いにただ買い手と売り手として関係し、互いに貨幣所持者と商品所持者として相対するのであり、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるだけなのであるが、─それにもかかわらず、買い手のほうは、はじめから同時に生産手段の所持者として立ち現われ、その生産手段は、労働力がその所持者によって生産的に支出されるための対象的諸条件をなしているのである。言い換えれば、この生産手段は労働力の所持者にたいして他人の所有物として現われるのである。他方、労働の売り手はその買い手にたいして他人の労働力として相対するのであって、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がG─A(労働者から見ればA─G)という行為で相対し現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである。それは、売買であり、貨幣関係であるのですが、しかし、資本家としての買い手と賃金労働者としての売り手とが前提されている売買なのです。そして、この関係は、労働力の実現のための諸条件─生活手段と生産手段─が他人の所有物として労働力の所持者から分離されているということといっしょに、与えられているのである。

貨幣はすべての商品の一般的な等価形態であり、すべての商品は一定の貨幣額で表わされます。それは貨幣に転化されることが期待されていて、それによって交換価値があらわされ、それを買った者にとっては使用価値に転換されるということを表わしています。

G─W<PmAの式で表わされる貨幣資本から生産資本への転化により、資本家は生産手段と労働力の結合を実現させます。貨幣資本がはじめて生産資本に転化する場合、初期投資として労働力を購入する前に、工場の建物や製造機械といった生産手段を揃えなければなりません。労働力を購入しても、その労働力を充用するための設備機械などの生産手段がなければ、それを活用することができないからです。 これは資本家の側から見たもので、次に労働者の側から見た場合を考えてみます。

この場合、労働者の労働力は、それが売られて生産手段と結合させらせた時から発揮されることになります。つまり、労働力は、売られる前には、生産手段などその力を発揮させるものから分離されているというわけです。このような状態においては、労働力をいくら所有していても、生産のために使うことはできません。このような状態では、労働力は生産には使えません。それが、売られることによって生産手段と結合するやいなや、買い手の生産資本となって、その力を発揮するのです。

それで、G─Aの式で表わされる過程では、資本家(貨幣所持者)と労働者(労働力保持者)は、互いに買い手と売り手として関係するという貨幣を介した関係にあります。とは言っても、買い手の方は、同時に生産手段という労働力が生産に寄与するための条件となっているものを所持している者でもあります。言い換えれば、この場合、生産手段は労働力の保持者である労働者がもっているのではなく、他人の所有としてある、ということです。また、労働力の保持者は労働力の売り手として買い手に対して、買い手の資本が生産資本として働くために買い手の支配下に入らなければならない、つまり、買い手の資本の一部となることになります。したがって、資本家と労働者の関係はG─Aで表わされるプロセスで両者が相対した際には、前提として成立しているというものです。それは貨幣関係がそういうものであると言えるのです。そして、この関係は労働力の実現のための条件である生活手段と生産手段が、労働者の手にはなく、他人から与えられるということと同時にあるということです。 

 

このような分離がどのようにして生ずるのかは、ここでの問題ではない。G─Aが行われるとき、それはすでに存在している。ここでわれわれが関心をもつのは次のことである。G─Aが貨幣資本の一機能として現われるにしても、すなわち、貨幣がここでは資本の存在形態として現われるにしても、それは、けっして、ただ単に、貨幣がここではある有用効果をもつ人間活動すなわちある役だちにたいする支払手段として現われるからではない。つまり、けっして支払手段としての貨幣の機能によるのではない。貨幣をこの形態で支出することができるのは、ただ、労働力がその生産手段(労働力そのものの生産手段としての生活手段をも含めて)から分離された状態にあるからである。そして、この分離状態は、ただ、労働力が生産手段の所持者に売られることによってのみ、したがってまた、けっして労働力それ自身の価格の再生産に必要な労働量と同じ限度内にとどまらない労働力の流動化もこの買い手に属するということによってのみ、解消されるのだからである。資本関係が生産過程で現われてくるのは、ただ、この関係がそれ自体として流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対するときの両者の経済的根本条件の相違のうちに、彼らの階級関係のうちに、存在するからにほかならないのである。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の存在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させることができるのである。

貨幣資本(われわれは、しばらくは、いま貨幣資本がわれわれの前で演ずる特定の機能の範囲内だけでこれを問題にするのであるが)の理解については、通例二つの誤りが並行しているまたは交錯している。第一には、資本価値が貨幣資本として行うところの、そしてそれが貨幣形態にあるからこそ行うことのできる諸機能が、まちがって資本価値の資本性格から導き出されるのであるが、これらの機能が行われるのは、ただ資本価値の資本性格から導き出されるのであるが、これらの機能が行われるのは、ただ資本価値の貨幣状態のおかげなのであり、ただそれの貨幣としての現象形態のおかげなのである。そして、第二にはこれとは反対に、貨幣機能を同時に一つの資本機能にするこの機能の独自な内容が貨幣の本性から導き出される(したがって貨幣が資本と混同される)のであるが、じつは、この資本機能は、ここでG─Aが行われる場合にそうであるように、単なる商品流通とそれに対応する貨幣流通とではけっして与えられていない社会的諸条件を前提しているのである。

奴隷の売買も、その形態から見れば、商品の売買である。しかし、奴隷制が存在しなければ、貨幣もこの機能を行うことはできない。奴隷制が存在すれば、貨幣を奴隷の買い入れに投ずることができる。逆に、貨幣が買い手の手にあるということだけでは、けっして奴隷制を可能にするには足りないのである。

自分の労働力を売ること(自分の労働を売るという形すなわち労賃という形での)が、孤立した現象としてではなく、諸商品の生産の社会的に決定的な前提として現われるということ、したがって貨幣資本がここで考察されるG─W<PmAを社会的な規模で行うということ─このことは、生産手段と労働力との本源的な結合を解きほどいた歴史的な諸過程を前提しているのである。このような過程の結果として、この生産手段の非所有者としての民衆すなわち労働者と、この生産手段の所有者としての非労働者とが対立することになるのである。その場合、この結合がその分解以前にどんな形態をもっていたか、それは労働者自身が生産手段として他の生産手段に付属するという形態だったのか、それとも労働者が生産手段の所有者だったのかということは、少しも事柄を変えるものではない。

つまり、ここでG─W<PmAという行為の根底にある事実は分配なのである。といっても、消費手段の分配という普通の意味での分配ではなく、生産諸要素そのものの分配であって、これらの要素のうち対象的諸要因は一方の側に集積されており、労働力は対象的諸要因から分離されて他方の側に孤立しているのである。

だから、生産資本の対象的部分である生産手段は、G─Aという行為が一般的社会的行為となりうる側に、すでにそのものとして、資本として、労働者に対立していなければならないのである。

このようなことが起こる原因については、ここでは問題としません。G─Aで表わされるプロセスにおいて、すでにそうなっているということから始めます。G─Aで表わされるプロセスは貨幣資本が機能して現われるのですが、これは貨幣が支払手段であるからではありません。貨幣を支払手段として使うことができるのは、労働力が生産手段から分離された状態にあるからです。このような分離状態は、労働力が生産手段の所持者によって買われた時に、はじめて解消されるのです。資本関係が生産過程において現われるのは、売り手と買い手の関係が勝者の経済的な根本条件の違いを土台して成り立っているからです。この関係の在り方こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させていると言えるのです。

資本機能というのは、じつは、G─Aで表わされるプロセスが成り立つのと同じように社会的諸条件が前提されています。奴隷の売買は、それだけを取り出せば商品の売買です。しかし貨幣で奴隷という商品を買うことができるのは奴隷制という制度がなければ、人を奴隷という商品にして売買することはできないのです。賃金労働者が自分の労働力を売るということは、それ自体で成立していて、可能であるのではなくて、それを可能にしている経済社会があるからこそ、できることであると言えます。したがって、G─W<PmAの式で表わされるプロセスは、生産手段と労働力の分離を成立させた歴史的諸条件が前提となっています。このプロセスの結果として、生産手段を所持しない賃金労働者と生産手段の所持者である資本家との対立が生まれることになります。

つまり、G─W<PmAの式で表わされるプロセスは、分配ということによっていると言えます。分配といっても、それは生産諸要素の分配であって、つきり、生産手段は一方の側である買い手に集積されていて、売り手である労働者からは分離されているという分配の在り方です。だから、生産手段は、G─Aで表わされるプロセスが成立すると、資本の側で労働者に対立するのです

 

前にも見たように、ひとたび確立された資本主義的生産は、その発展途上でこの分離をただ再生産するだけではなく、それをますます大きな規模に拡大して、ついにこの分離が一般的支配的は敵な社会的状態になったのである。しかし、事柄はもう一つ別の面を示している。資本が形成されて生産を支配することができるようになるためには、商業のある程度の発展段階が前提されており、したがってまた商品流通の、またそれとともに商品生産の、ある程度の発展段階が前提されている。なぜならば、物品は、売られるために、つまり商品として、生産されないかぎり、商品として流通にはいることはできないからである。ところが、生産の正常な支配的な性格としての商品生産は、資本主義的な基礎の上ではじめて現われるのである。

ロシアの土地所有者たちは、いわゆる農民開放の結果、今では農奴的強制労働者のかわりに賃金労働者を使用して彼らの農業を営んでいるのであるが、彼らは二つのことについて苦情を言っている。第一には、貨幣資本の欠乏についてである。例えば次のように言う。収穫物が売れる前にかなり大きな金額を賃金労働者に支払わなければならないのに、その第一条件である現金が足りないのだ、と。生産を資本家的に営むためには、貨幣の形態にある資本が、まさにこの労賃を支払うために、絶えず手もとになければならない。しかも、産業資本家は自分の金だけではなく他人の金も動かすことができるのである。

しかし、もっと特徴的なのは第二の苦情である。すなわち、たとえ金はあっても,買える労働力を十分な量で随意の時期に手に入れて利用することはできない、というのである。それというのも、ロシアの農村労働者は、村落共同体の土地所有のおかげでまだ完全には自分の生産手段から分離されておらず、したがってまだこの言葉の十分な意味での「自由な賃金労働者」になっていないからである。ところが、この賃金労働者が現に社会的な規模で存在しているということは、G─Wすなわち貨幣の商品への転化が貨幣資本の生産資本への転化として現われうるためには、欠くことのできない条件なのである。

それゆえ。貨幣資本の循環を表わす定式、G─W…P…W´─G´はただすでに発展した資本主義的生産の基礎の上でのみ資本循環の自明的な形態なのだということは、おのずから明らかである。なぜならば、それは現に賃金労働者階級が社会的な規模で存在するということを前提しているからである。資本主義的生産は、われわれが見てきたように、ただ商品と剰余価値とを生産するだけではない。それは、賃金労働者の階級を再生産し、しかもますます拡大される規模でそれを再生産するのであって、直接生産者の巨大な多数を賃金労働者に転化させるのである、それゆえ、G─W…P…W´─G´は、その進行の第一の前提が賃金労働者階級の恒常的な現存なのだから、すでに生産資本の形態にある資本を前提しており、したがってまた生産資本の循環の形態を前提しているのである。

一度、資本主義的生産が確立されると、その確率のプロセスで分離が拡大し、結果として一般的で支配的な社会状態となりました。しかし、一方、この支配的な状態が成立するためには、商業のある程度の発展段階にあることが前提されています。というのも、物品は商品として扱われなければ、商品として売り買いされないからです。たほうで、このような商品の生産は、資本主義的な体制を土台としています。

例えば、ロシアでは農奴解放により、地主たちは農奴のかわりに賃金労働者を雇うようになったのですが、そこに大きな問題がありました。そのひとつは貨幣が足りないということです。収穫物である作物が売れる前に賃金労働者に賃金を支払わなければならないのに、その貨幣がない。つまり、農業生産を資本家的に営むためには、貨幣の形の資本が、賃金を支払うために用意されていなければならないのに、それがない。第二に、たとえ貨幣があっても、その金で買うことのできる労働力が、必要な時に必要な量を調達できないのです。それは、ロシアの農業労働者は村の土地共同所有が残っているので、生産手段とは完全に分離していない状態で、いわゆる自由な労働者になっていないのです。

貨幣資本の循環を表わす定式G─W…P…W´─G´は資本主義的生産が確立した場合のみ成立すると言えます。資本主義的生産は、たんに商品と剰余価値を生産するだけではなく、階級としての賃金労働者を拡大再生産するのです。それゆえ、G─W…P…W´─G´は賃金労働者階級が恒常的に存在していることが前提で、それは資本が生産資本の形態で存在することが前提されていることでもあります。

第1段階はG−Wの過程です。これは、形式的には流通過程に属するのですが、実体的には直接的生産過程の不可欠の内在的契機となっており、その第1段階に他なりません。ここでの出発点は、循環全体の出発点と同じように貨幣ないし貨幣資本(G)です。一定額の貨幣は、歴史的にも日常的にも、資本循環の一般的な出発点となります。歴史的にはこの一定額の貨幣は、いわゆる本源的蓄積という過程を経て蓄積されますが、日常的にも、資本家は、常にある一定額の貨幣なしには事業を開始することはできないのであって、したがって、貨幣は繰り返し資本循環の出発点となります。そしてこの貨幣は最初から資本として機能することが前提されているのであり、また日々実際に資本として機能しているのであって、したがってそれは単なる貨幣ではなく、貨幣資本です。

資本家はこの貨幣資本で市場に出かけ、生産に必要な諸商品を購入します。この生産に必要な諸商品は大きく言って2つのものに分かれます。生産手段(Pm)と労働力(A)です。したがって、貨幣資本循環の最初の契機であるG−Wは、より詳しく見れば、G−W(Pm+A)であることが分かります。

まず生産手段は、工場や道具や機械やエネルギー源などの労働手段と、原料や部品などの労働対象に分かれます。これらの諸商品は、生産に特殊に役立つ特殊な形態を持ったものとして必要な量が市場に存在していなければならず、もしこれらの生産手段が天災や戦争などの理由で調達できないような事態が生じるならば、産業資本はその資本の流れを中断せざるをえず、それが深刻な場合には(すなわち予備の在庫を使い果たしても生産が開始できない場合)、資本の運動そのものが停止してしまい、利潤が入ってこないのに、過去の生産手段購入分の支払い期限がやってきて、しばしば破産に至ることになります。これが多くの個別資本に連鎖すれば恐慌にさえなるというものです。

しかし生産手段の調達問題は単に量的側面だけが問題になるのではありません。それは必要な質を持った必要な種類が一定の期間に調達できなければなりません。生産手段には無数の種類があり、1種類の商品生産物を生産する場合でさえ、各種原料や各種部品や各種備品など何十、何百種類もの生産手段を必要とします。これらの一部は他のもので代替可能かもしれませんが、多くは代替不可能です。たとえ生産手段の99%が調達できても、代替不可能な生産手段(たとえは特殊な形状の部品や希少金属など)が調達できなければ生産過程は頓挫します。とくに日本の大企業は中間在庫を最大限圧縮することで効率性を追究するジャストインタイム制を採用しており、このような生産手段の調達危機はただちに生産過程の停止をもたらすものです。

労働力は人間の精神と身体のうちに内在する生産諸能力の総体のことでありますが、この労働力が市場でいつでも購入可能な状態になるためには、さまざまな社会的仕組みが必要です。労働力と生産手段とを分離する歴史的過程(本源的蓄積のもう一つの側面)は別にしても、十分な量の労働力がいつでも労働市場に準備されるためには、新しい世代の労働力が定期的に労働市場に入ってくるような持続的な人口の(拡大)再生産が必要であるだけでなく、現役世代でも、賃労働者として常に動員可能な一定量のプールが存在しているのでなければなりません。これは、資本蓄積論で検討した相対的過剰人口や産業予備軍によって保障されるのですが、このような相対的過剰人口や産業予備軍が存在してはじめて、貨幣資本循環における最初の転換がスムーズにいくのです。

しかし、労働力は単に量が必要であるだけでなく、生産手段の場合と同じで、必要な質を持った必要な種類が一定期間に調達できなければなりません。一方では、資本主義の発展とともに進行する労働の規律化と単純化が、質と種類の面でも労働力の調達を著しく容易にし、他方では、同じように資本主義の発展とともに充実拡大していく教育制度が一定の質と規律性をあらゆる労働力に普遍的に保障します

 

第2節 第2段階 生産資本の機能

ここで考察される資本の循環は、流通行為G─W、貨幣から商品への転化、買い、で始まる。だから、流通は、反対の変態W─G、商品から貨幣への転化、売り、によって補われなければならない。ところが、G─W<PmAの直接の結果は、貨幣形態で前貸しされた資本価値の流通の中断である。貨幣資本の生産資本への転化によって、資本価値は一つの現物形態を受け取っているのであるが、この形態ではそれは流通を続けることはできないで、消費に、すなわち生産的消費に、はいらなければならないのである。労働力の使用、労働は、労働過程でしか実現されることができない。資本家は労働者を再び商品として売ることはできない。なぜならば、労働者は彼の奴隷ではないからであり、また、資本家が買ったのは、一定の時間を限っての労働者の労働力の消費以外のなにものでもないからである。他面、資本家は、ただ生産手段を商品形成者として労働力に消費させることによってのみ、労働力を消費することができる。だから、第1段階の結果は、第2段階の、資本の生産段階の、開始である。

第2段階は、G─Wという流通行為のプロセス、つまり、「買い」という貨幣から商品への転化からスタートします。貨幣資本の生産資本への転化によって、資本価値は現物形態となりますが、その形態では流通を続けることはできないで、生産的消費となるということです。商品としての労働は、労働過程でしか実現されない。資本家は労働を一定の時間で労働力を消費します。それは裏面では、資本家は、生産手段を労働力に消費させること以外では労働力を消費することはできません。

 

この運動はG─W<PmA…Pとして表わされる。ここにある点線は、資本の流通は中断されているが、資本は商品流通の部面から出て生産部面にはいるのだから、その循環過程は続いている、ということを暗示している。だから、第1段階、貨幣資本の生産資本への転化は、ただ、第2段階すなわち生産資本の機能の先ぶれとして、その準備段階として、現われるだけである。

G─W<PmAは、この行為を行う個人が任意の使用形態にある諸価値を処分することができるということを前提しているだけではなく、彼がこれらの価値をまさに貨幣を手放すことなのであって、それでもなお彼が貨幣所持者でありうるのは、ただ、この手放すという行為そのものをつうじて貨幣が彼の手に還流するということが暗に含まれているかぎりでのことである。しかし、貨幣が彼の手に還流してくるのは、商品を売ることによるよりほかはない。だから、この行為は、彼が商品生産者であることを前提しているのである。

G─A。賃金労働者はただ労働力を売ることによってのみ生きて行く。労働力の維持─賃金労働者の自己保存─には毎日の消費が必要である。だから、彼の受ける支払が絶えず比較的短い間隔で繰り返されて、彼が自己保存のために必要な購入─A─G─WまたはW─G─Wという行為─を繰り返すことができるようになっていなければならない。したがって、賃金労働者にたいして資本家はいつでも貨幣資本家として、また彼の資本は貨幣資本として、相対していなければならない。また、他方、多数の直接生産者、賃金労働者が、A─G─Wという行為をすることができるためには、彼らにたいして、必要な生活手段が、買うことのできる形で、すなわち商品形態で、いつでも相対していなければならない。つまり、このような状態は、すでに、商品としての生産物の流通の、したがってまた商品生産の規模の、ある程度の高さを必要とするのである。賃労働による生産が一般的になれば、商品生産が生産の一般的形態でなければならない。商品生産が一般的として前提されるならば、それはまた、社会的分業が絶えず増進すること、すなわち商品として一定の資本家によって生産される生産物がますます特殊化されて行くこと、互いに補足し合う諸生産過程がますます独立な諸生産過程に分かれて行くことを必然的にする。したがって、G─Aが発展するのと同じ度合いでG─Pmが発展する。すなわち、同じ度合いで、生産手段の生産が、それを生産手段とする商品の生産から分かれて行く。そして、生産手段は、どの商品生産者にたいしても、それ自身商品として、すなわちこの生産者が生産するのではなく彼が自分の特定の生産過程のために買う商品として、相対する。彼の生産手段は、彼の生産部門から完全に分離されて独立に経営される諸生産部門から出てきて、商品として彼の生産部門にはいって行くのであり、ますます広い範囲で、他の商品生産者の生産物として、商品として、相対するようになる。それと同じ度合いで資本家は貨幣資本家として登場しなければならない。言い換えれば、彼の資本が貨幣資本として機能しなければならない規模が拡大されるのである。

このプロセスは、G─W<PmA…Pという式で表わすことができます。この式の中の点線は、資本は商品流通部面から生産部面に移るのだから、これは循環するプロセスです。したがって、第1段階の貨幣資本の生産資本への転化は、第2段階の生産資本の機能の準備段階ということができます。

G─W<PmA…Pという式は、これを行為として行う個人が使用形態のものを処分できるということを前提している。その人が処分をするということは貨幣で支払うということなのです。その人が貨幣を所持していて、支払うと、結局は、それで生産した商品を売ると、貨幣が入ってくる。これを還流はてくる、それが貨幣の所持者ということに含まれています。

G─Aは、賃金労働者が労働力を売るということですが、労働力の維持には、毎日の生活消費が必要です。だから、彼が労働力を売って受ける支払いが短い間隔で繰り返されて、そこで自己保存のために必要な購入をすることを繰り返すことができるようになっています。それが、A─G─WまたはW─G─Wという式で表わされます。それができるためには、生活手段が、商品として買うことのできる状態になっていることが必要です。このような状態が成立するためには、生産物が商品として流通していること、流通するほどの量が生産されていることが条件です。このような条件が充たされるためには、生産物がある程度の規模で大量に生産され、それが商品として流通していなければなりません。つまり、賃労働による生産が成立することと、商品生産が生産の一般的形態になることとは、それぞれが条件となって同時に成立するのです。商品生産が一般的形態になれば、社会的分業が進み、各資本家によってそれぞれに生産が専門化され、互いに補足し合うように生産過程が分化されていくようになります。G─Aが発展するのと同じ度合いでG─Pmが発展する。すなわち、生産手段の生産が、それを生産手段とする商品の生産から分かれて行きます。そして、生産手段は生産者である資本家にとって商品となる。資本家は生産するための生産手段を自分で作るのではなく、他の生産者がつくった商品として購入する。そのために資本は貨幣資本として機能する規模が拡大していきます。

 

他方、資本主義的生産の根本条件─賃金労働者階級の存在─を生みだすその同じ事情は、すべての商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産が発展するのにつれて、それは、すべてのそれ以前の、主として直接の自己需要に向けられていて生産物の余剰だけを商品に転化させる生産形態に、破壊的分解的に作用する。それは、生産物を売ることを主要な関心事にするが、さしあたりは目につくほどに生産様式そのものを侵すことはない。たとえば、資本主義的世界貿易がシナ人やインド人やアラブ人などのような諸民族に与えた最初の影響がそうだったように。しかし、第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自己労働にもとづくかまたは単に余剰生産物を商品として売ることだけにもとづくような商品生産の諸形態を残らず破壊してしまう。それは、まず商品を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品に変えて行くのである。

生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段とはいつでも生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態にあっては、ただ可能性から見てそうであるにすぎない。およそ生産が行われるためには、両方が結合されなければならない。この結合が実現される特殊な仕方は、社会構造のいろいろな経済的時代を区別する。当面の場合には、自由な労働者がその生産手段から分離されているということが、与えられた出発点である。また、どのようにしてどんな条件のもとでこの二つが資本家の手のなかで─すなわち彼の資本の生産的存在様式として─一つにされるかは、われわれがすでに見たところである。それゆえ、こうして一つにされた商品形成の人的要因と物的要因とがいっしょにはいって行く現実の過程、生産過程は、それ自身が資本の一機能─資本主義的生産過程になるのであって、その本性は第1部ですでに詳しく説明されている。商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる。しかし、資本主義的商品生産がはじめて一つの画期的な搾取様式になるのであって、この搾取様式こそは、それがさらに歴史的に発展するにつれて、労働過程の組織と技術の巨人的成長とによって、社会の全経済的構造を変革し、それ以前のどの時代よりもはるかに高くそびえ立つのである。

生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の存在形態であるかぎり、それらが生産過程中に価値形成において、したがってまた剰余価値の生産において演ずる役割の相違によって、不変資本に可変資本とに区別される。生産資本の別々の成分としては、それらは、さらにまた、資本家の手にある生産手段は生産過程の外でもやはり彼の資本であるが、労働力のほうはただ生産過程のなかだけで個別資本の存在形態になるということによっても、区別される。労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権をもっている資本家の手のなかだけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産様式になるのである。だから、人間の労働力は生まれつき資本なのではないし、生産手段もまたそうではない。生産手段は、ただ歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであって、それは、ちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という社会的性格が刻印され、さらにまた貨幣に貨幣資本という社会的性格が刻印されるようなものである。

生産資本は、それが機能しているあいだに、それ自身の諸成分を消費してそれらの成分をさらに価値の低い生産物量に転換する。労働力はただ生産資本の諸器官の一つとして働くだけだから、その過剰労働によって生みだされるところの、生産物価値のうちその形成要素の価値を越える超過分も、やはり資本の果実である。労働力の剰余労働は資本の無償労働であり、したがって資本家のために剰余価値を、彼にとってなんの等価も必要でない価値を、形成する。それゆえ、生産物はただ商品であるだけではなく、剰余価値という実を結んだ商品である。その価値は、PプラスMである。すなわち、その商品の生産に消費された生産資本の価値Pプラスこの生産資本によって生みだされた剰余価値Mに等しい。この商品が10,000ポンドの糸であり、その生産に372ポンド・スターリングという価値の生産手段と50ポンド・スターリングという価値の労働力とが消費されたと仮定しよう。この紡績過程で、紡績工たちは、彼らの労働によって消費された生産手段の価値額372ポンド・スターリングを糸に移すと同時に、彼らの労働支出に応じてたとえば128ポンド・スターリングという新価値をつくりだした。それだから、10,000ポンド・スターリングという価値の担い手なのである。

他方、資本主義的生産の根本的条件である賃金労働者階級の存在を生み出す事情と同じ事情は、すべての資本主義的商品生産への移行も促します。そして、資本主義的商品生産の発展は、主に、自分の消費のために生産し、その余った生産物を他に向けて販売するという生産のあり方を解体させていきます。それは、まず商品を一般化し、次第にすべての商品を資本主義的商品に変えていくのです。

一般に、労働者と生産手段は生産の要因です。生産が行われるためには、この両方が必要で、この二つの要因が結合することが必要です。そして、この結合のやり方は、社会経済構造によって変わってきます。資本主義的生産の場合は、自由な労働者がその生産手段から分離してしまっていることからスタートします。この二つがどのようにして資本家の手のなかで結合するかは、第1部で考察しました。商品生産の営みは同時に労働力搾取の営みになります。この搾取の仕方が発展して、労働過程の組織化と技術進歩によって、社会経済構造を変えてしまったのです。

生産手段と労働力は、資本という形態である場合には、不変資本と可変資本に二分されます。生産手段は生産過程の中でも、生産過程に入ってこなくても資本としては変わりませんが、労働力は生産過程の中で資本として成立します。

生産資本は、それが機能しているあいだに、自身の諸成分を消費して生産物に転化させます。労働力はその生産資本の器官の一つであり、過剰労働によって生みだされる剰余価値も資本の青果物です。剰余労働は資本にとってはコストゼロで価値を生産します。その生産物は商品+剰余価値となり、式に表わせば、P+Mです。

に資本循環の第2段階であるW…P…W´を見てみましょう。これは生産過程そのものであり、直接的生産過程です。循環の第1段階で購入された生産手段と労働力とはまだ単なる商品資本ですが、それらが生産の場に配置されることで生産資本という形態をとります。生産過程にでは種々の物的な生産手段も労働者の身体に存在する労働力も、資本の特定の存在形態にすぎません。

これらの生産資本、すなわち生産手段と労働力とが結合し、他の何か有用なものに転換され、新生産物が生産される過程が労働過程です。しかし、資本主義的生産様式では、それは何よりも販売するための商品の生産であり、したがって新生産物は単なる使用価値ではなく、商品生産物です。さらに、資本主義的生産の目的は新生産物としての使用価値そのものでも商品そのものでもなく、利潤を獲得することであり、投下した価値以上の価値を獲得することです。したがって、資本にとって生産の目的は何よりも剰余価値(m)の生産であり、したがってその新生産物は、それ自身のうちに剰余価値を含んでいる商品資本です。

まずもって労働手段と労働対象は労働力によって合理的に消費され(生産的消費)、そこに含まれている価値は全体的ないし部分的に生産物価値に移転される。すなわち、原料や部品などの流動資本はその価値を全体として新生産物に移し、工場や機械や道具などの固定資本は、その消耗度に応じてその価値を少しずつ新生産物に移転させてゆきます。

しかし、この価値移転過程からはまだ剰余価値は生じません。同じ大きさの価値が生産手段の形態から生産物の形態に転化したに過ぎないからです。利潤の本源的源泉である剰余価値は、労働力が生み出す新たな価値が生じるものです。労働者は、生産手段を合理的に消費してそれを新たな商品生産物へと転化する過程で、同時に、その持続する労働時間を通じて絶えず生産手段に価値をつけ加えていって、この新たに付け加えられる価値の大きさが、労働力それ自身が持っている価値の大きさを上回った場合に、はじめて剰余価値が生まれるというわけです。

このようにして、最初に投下した資本価値だけではなく、生産過程で発生した剰余価値を含んだ新たな商品生産物(W)が生産過程から出現してきます。この新たな生産物は再び商品ないし商品資本の形態をとっていますが、最初のG−W過程のWとは違う点がたくさんあります。その違いは第一に、最初のWの使用価値は、この資本にとっての使用価値であり、その資本によって生産的に消費されるものですが、第2のWの使用価値は、それが生産手段であれ消費手段であれ、この資本にとっての使用価値ではなく、それを購入する別の資本や消費者にとっての使用価値です。第二に、質的に異なるだけでなく、量的にも第2のWには剰余価値が含まれており、第1のWよりも多くの価値を有しています。第三に、最初のWが、生産過程に配置されて生産の機能を果たす「生産資本としての商品資本」であったのに対して、生産過程から出現してくる第2のWは、これから市場で貨幣に転化されるべく本来の商品資本、「商品資本としての商品資本」です。そこで両者を区別するために、第1のWをW1、第2のWをW2と表記することにしましょう、そうすると、この第2段階は、その価値量の変化に注目するのではなく、その商品形態に注目して表現するなら、W…P…W´ではなく、W1…P…W2と表現することができるでしょう。

 

 

リンク                    .  

第24章 いわゆる本源的蓄積に戻る

 

 

 
『資本論』を読むトップへ戻る