芭蕉の俳句を読む
『野ざらし紀行』
 

1.はじめに〜『野ざらし紀行』について

芭蕉は、有名な『奥の細道』以外にも『鹿島紀行』『笈の小文』などといった紀行文集を執筆しています。『野ざらし紀行』はその最初のものと言われています。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅に出たのが貞亨元年で、41歳の時だったといいます。それが、時代の境目でもあり、芭蕉自身、それ以前の天和時代の貞門俳諧の伝統の中で漢詩文調で個性を発揮していた俳風から、漢詩文の伝統に加えて、和歌や連歌の伝統につらなるような優美さを取り入れていくことによって、まったく新しい俳諧独自の風狂を切り拓いていった転機に当たります。

実際に『野ざらし紀行』に記された句はどれを取り上げても、それ以前の芭蕉の作品とは、作風が全く異なっており、それまでの俳諧を発展させたものではなく、あらたに作り出された別の文芸ともいえるものになっていて、和歌や連歌と対等だと主張できるようなレベルの高い作品が多いのです。

おそらく、このような芭蕉が独自の俳諧を切り拓いていくに際して、この『野ざらし紀行』の旅は、その実践の場となったのではないか、と想像させるような内容となっています。それは、『野ざらし紀行』の中の大垣の条前後を境にして、前半と後半で、句・文ともに色調が明らかに変化しているからです。前半は漢詩文調の余響をとどめた字余りの悲愴調が目立ち、後半は多くやすらかな定型の枠内で駘蕩たる風狂の気分を漂わせる調子に移ってきています。『野ざらし紀行』も『奥の細道』と同じように純然たる旅の記録や道中の感慨の報告ではなく、後で虚構も加えられたり、意識的に再構成して制作されたものです。芭蕉自身、そのことを意識して『野ざらし紀行』を執筆した、つまり新風開発の過程を確認する意味を帯びて執筆されたものと思われる節が見られます。『野ざらし紀行』を読んでみると、紀行文の文体の緊張した悲壮の響き、特にその暴雨に据えられた「のざらし」の句は、一読すればたたならぬ気配をもって詠むものに迫ってくるところがあります。そこから、この旅は天和期の芭蕉庵生活の中から観念的に把握しかけた風雅の実体をたしかにとらえんがための決死の実践にほかならなかったという想像が無理なく導き出されるのです。

例えば、『野ざらし紀行』の冒頭は次のような文章です。

千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入ると云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也。

野ざらしをこころに風のしむみかな

難しい文章ですね。当時でも、これを読んですぐに意味がわかった人は、よほどのインテリであったのではないでしょうか。

「千里に旅立て、路糧をつゝまず」は『荘子』「逍遥遊篇」の「千里ニ適ク者ハ宿ニ糧ヲ舂ク者ハ三月糧ヲ聚ム」という文言の引用で、「千里」は遠い距離を表わす決まり文句ですから、この文言は「遠い所に行くものは三ヶ月前から食糧の準備をする」というような意味になります。それを芭蕉の文言では「路糧をつゝまず」と変えていますから、「道中の準備をしない」という意味になるでしょう。次の「三更月下無何に入る」は、『江湖風月集』の堰渓広聞和尚作の「語録ヲ褙ス」という詩の、「路、糧を齋マズ笑ヒテ復歌フ、三更月下、無何ニ入ル」という文句を利用したものです。これは、荘子が「長旅には前もって十分な食糧の用意が要る」と言ったけれど、文化程度の向上した今ではその必要もなく、愉快な旅の果てには、荘子が無何有郷と名づけたユートピアにだって、月光のもと、悠然とたどりつける─といった内容の詩の一部です。なお『江湖風月集』は、臨済宗の僧侶の読むべき基本図書のひとつで、この詩の「無何」という荘子が無何有郷と名づけたユートピアは悟りの境地の比喩と考えられます。禅であれば「現世的にもののすべてを投げ捨てて出山する悲壮な場面」といった境地をもう一つ突き抜けた安らかな境位を言っている。芭蕉は、そういう安らかな悟りの象の譬えを、深夜の旅路も追い剥ぎに襲われる心配もなく、月明かりのもとを安んじて無何有の郷に入っていくことができるとように転用しています。続く、「むかしの人の杖にすがりて」というのは、旅の縁で「杖」と表現したのであり、要するに昔の人の言葉をたよりとするという意味でしょう。

この文章を読む限りでは、芭蕉は旅の目的地を具体的にどこだとは明言していませんが、ある理想郷を目指していたと言えるわけです。引用元の文章では無為自然だったり、悟りの境地だったりしているわけですが、芭蕉という人が、そういうものを目指していたわけではないことは明らかです。言うまでもなく風雅の境地です。昔の人の言葉をたよりにというのは、引用元の漢文からすれば禅僧なのかもしれませんが、芭蕉にとって古人といえば和歌の西行や連歌の宗祇です。かれらは旅に生きた人でもあり、その後を追いかけるようにして、理想郷を目指す。西行にしたって、宗祇にしたって、風雅人の旅はぜったい楽でないのが現実であり、事と次第によっては、自分が、野ざらしとまではゆかなくても、旅中に死ぬことだってありえよう─と、これからさき生涯にわたる旅を頭に描いたとき、骨身に刺さる秋風を感じたのです。それは、別の面から見れば、かれの俳諧が西行の和歌や宗祇の連歌と同じ次元の芸術であることを自覚したからにほかならないでしょう。これは当時の俳諧の地位からいえば破格の考え方です。だから、この自覚にも相当の覚悟があったはずです。

しかし、秋の肌寒い風が身に沁みるというのは、骨身刺さってくるという外面的な方向ばかりでなく、心に隙間があるからこそ秋風が入り込んでくるのです。つまり、理念としては「昔の人の杖にすがり」「野ざらしを心に」期していながらも、感性の面ではそれにすがりつくことができず、秋風の肌寒さが身内にしみわたってゆくのをどうすることもできない、理性と感性、観念と感覚との割れ目が顔をのぞかせているのが特徴的だ。「千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入ると云けむ」というのは大仰で、ペダンチックで、自分であえて構えている、敢えて言えば演じているところが見えてくるようにも思えます。そういう演技が天和時代まではできていたのが、できなくなって、境目を隠すことができなくなった。それが、芭蕉をして、この旅へと駆り立てたのではないか、その旅の中で、新たな芭蕉像、つまりは俳諧の作品を見出していった、そういうものとして『野ざらし紀行』を読むことができると思います。

 

2.『野ざらし紀行』の句を読む

以上のような、芭蕉に対する視点で、『野ざらし紀行』からいくつかの句をピックアップして読んでいきたいと思います。なお、『野ざらし紀行』は句集ではなくて、紀行文集のようなものであって、全体の構成とか地の文とよばれる散文の部分にも工夫が凝らされています。だから、句だけをピックアップするのは偏った姿勢であることは否定できません。そのことを最初に断っておきます

●「野ざらしをこころに風のしむみかな」(旅立ち)

この句とともに散文の紀行文があって、この句は旅立ちに際して詠まれたものであることが分かります。そういうものとして、この句を読んでいくと、この句の特異なところが現われて来ます。それだけでなく、『野ざらし紀行』に収録されている句に共通しているものでもあります。

野ざらしをこころに風のしむみかな

「野ざらし」とは、骸骨のことです。行き倒れになって、風雨にさらされ、骨だけになってしまった死骸です。ですから、この句の意味は「野垂れ死にして骸骨になった自分の姿を想像すると、ひとしお風の冷たさが身にしむ」というものです。いよいよ今から旅立つという時に、生き倒れとなった末に白骨となった自分の姿を眼のうちに描き、秋の冷たい風をじっと身体で感じているのです。これは、何か変ではありませんか。何か強引というか、無理をしている。

それはこういうことです。当時の社会は江戸初期です。このころになると幕府体制が強固になって、社会が安定してきて、交通・宿泊の施設インフラが整備されていたはずです。だから、旅に出るということが、即、生命の安全が保障されないという時代ではなくなっていので、旅の道中で簡単に野ざらしとなる心配はなかったはずです。

また、だからといって遠い旅に出るのは100%安全かというとそんなことはないわけで、だからこそ当時の人々は、縁起をかついで吉日を選んで出立するのが一般的でした。それは不吉なことを避けるということであるわけです。それが普通であるのに、野垂れ死にして白骨となるなどという不吉なことを敢えて口に出しているのです。

「野ざらしをこころに」は、野ざらしとなることを心に期し、という意味です。この中の「こころに」はさらに掛詞として「こころに風のしむみかな」へと下にかかって、心に秋風がしみわたる、という意味になっています。そう考えると、この句は全体として、理念としては秋風に吹きさらされた野ざらしの運命を覚悟した悲壮な決意を表明しても、肌に感じる秋風がもろもろのあわれとともに心の奥底にまでヒヤリとしみわたってゆくのをどうすることもできない。「こころに」が掛詞として上下にかかりながら、理念の世界から感覚の世界への屈折を媒介するはたらきをしています。「しむみかな」というのが、その二つの世界の割れ目に立っている自分を、もう一人の自分の目が見つめているのを表わしています。

少なくとも、芭蕉本人は、悲壮な決意で旅に出ようとしていることだけは伝わってきます。しかし、上のような事情で、その悲壮な決意は、一般化しないで、芭蕉個人の感傷に留まっている。しかし、それゆえに、この句のテンションの高さがあると思います。私たちの周囲にもいると思いますが、周囲から浮いてしまっているのに、一人ではしゃいでいる人ってテンションが高いですよね。躁状態というか。それがこの句に、いや、『野ざらし紀行』に一貫して存在しているのです。それが、この紀行文集の大きな特徴です。

さて、こんな無理なハイテンションですが、芭蕉本人は伊達や酔狂でやっていたはずもなく、そうせざるを得なかったから、そうしたわけです。それでは、そうしなければならなかった事情とは何でしょうか。ひとつは、俳諧の新たな試みとして、個人的な感慨や感傷を詠むということは、従来にはなかったことで、それを芭蕉は試みているということです。文学史の見解では、芭蕉は、この『野ざらし紀行』で蕉風と称せられる、独自の俳句を作り始めたことになっています。いわば、ここで従来からの俳諧の世界から飛躍しているわけです。ですから、当然、力が入っている。それが、この句にも表われている、というわけです。

もうひとつは、句とともに書かれている散文の紀行文を読むと想像できることです。

千里に旅立て、路糧をつゝまず、三更月下無何に入ると云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也。

難しい文章ですね。当時でも、これを読んですぐに意味がわかった人は、よほどのインテリであったのではないでしょうか。

「千里に旅立て、路糧をつゝまず」は『荘子』「逍遥遊篇」の「千里ニ適ク者ハ宿ニ糧ヲ舂ク者ハ三月糧ヲ聚ム」という文言の引用で、「千里」は遠い距離を表わす決まり文句ですから、この文言は「遠い所に行くものは三ヶ月前から食糧の準備をする」というような意味になります。それを芭蕉の文言では「路糧をつゝまず」と変えていますから、「道中の準備をしない」という意味になるでしょう。次の「三更月下無何に入る」は、『江湖風月集』の堰渓広聞和尚作の「語録ヲ褙ス」という詩の、「路、糧を齋マズ笑ヒテ復歌フ、三更月下、無何ニ入ル」という文句を利用したものです。これは、荘子が「長旅には前もって十分な食糧の用意が要る」と言ったけれど、文化程度の向上した今ではその必要もなく、愉快な旅の果てには、荘子が無何有郷と名づけたユートピアにだって、月光のもと、悠然とたどりつける─といった内容の詩の一部です。なお『江湖風月集』は、臨済宗の僧侶の読むべき基本図書のひとつで、この詩の「無何」という荘子が無何有郷と名づけたユートピアは悟りの境地の比喩と考えられます。禅であれば「現世的にもののすべてを投げ捨てて出山する悲壮な場面」といった境地をもう一つ突き抜けた安らかな境位を言っている。芭蕉は、そういう安らかな悟りの象の譬えを、深夜の旅路も追い剥ぎに襲われる心配もなく、月明かりのもとを安んじて無何有の郷に入っていくことができるとように転用しています。続く、「むかしの人の杖にすがりて」というのは、旅の縁で「杖」と表現したのであり、要するに昔の人の言葉をたよりとするという意味でしょう。

この文章を読む限りでは、芭蕉は旅の目的地を具体的にどこだとは明言していませんが、ある理想郷を目指していたと言えるわけです。引用元の文章では無為自然だったり、悟りの境地だったりしているわけですが、芭蕉という人が、そういうものを目指していたわけではないことは明らかです。言うまでもなく風雅の境地です。昔の人の言葉をたよりにというのは、引用元の漢文からすれば禅僧なのかもしれませんが、芭蕉にとって古人といえば和歌の西行や連歌の宗祇です。かれらは旅に生きた人でもあり、その後を追いかけるようにして、理想郷を目指す。西行にしたって、宗祇にしたって、風雅人の旅はぜったい楽でないのが現実であり、事と次第によっては、自分が、野ざらしとまではゆかなくても、旅中に死ぬことだってありえよう─と、これからさき生涯にわたる旅を頭に描いたとき、骨身に刺さる秋風を感じたのです。それは、別の面から見れば、かれの俳諧が西行の和歌や宗祇の連歌と同じ次元の芸術であることを自覚したからにほかならないでしょう。これは当時の俳諧の地位からいえば破格の考え方です。だから、この自覚にも相当の覚悟があったはずです。それらが、この句の悲壮感と高いテンションとなって結実している。そういう句を芭蕉は、『野ざらし紀行』の冒頭に持ってきて掲げているのです。『奥の細道』との違いは際立っています。

●「猿を聞人捨子に秋の風いかに」(富士川の捨て子)

「富士川の捨て子」と呼ばれる有名な一節で、この句はそのエピソードと一体不可分になっています。

猿を聞人捨子に秋の風いかに

の句だけを取り出してみると、「猿の鳴き声を聞いた人よ、捨て子に秋の風が吹きつけている様子をどう思うか」という。禅問答のような内容と受け取られかねません。しかし、その句が詠まれたエピソードが次のようです。

富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

その内容は、大体こんなところでしょうか。「富士川のほとりを行くと、三つばかりの子供が悲しげに泣いていた。両親は、この川の早瀬のような厳しい世間の荒波をしのぐことができず、露ほどのはかない命が消えるまで、と思って捨てておいたのであろうか。小萩の根本に吹く秋風に、今夜は散るだろうか、明日はしおれるだろうかと哀れに思って、袂の食べ物を投げ与えて次の句を詠んだ。」と、凄絶な状況に遭ったのを、この文章はパセティックな書き方をしていて、読者に訴えかける力の強いものとなっています。例えば、「この川の早瀬にかけてうき世の波」では、「かけて」は「たとえる」という意味です。つまりこの文言は「この川(富士川)の急流にたとえられる世の中の厳しさ」というほどの意味になる。富士川は日本三急流の一つで、その点でも人々に知られている川です。こういうところから、このシチュエーションは出来すぎという感じは、少し覚えます。「露計の命待ま」は「露ほどはかない命が尽きるのを待つ間」という意味で、どうせ捨てるなら、子供を富士川に投げ込むことができたのだが、自然に命が尽きるまで生かしておいてやりたいと思って、両親が川のほとりに捨てたのだろう、と読むことができます。「小萩がもとの秋の風」は『源氏物語』「桐壷」の巻の「宮城野の露吹き結ぶ風の音に子萩がもとを思ひここそやれ」という歌を踏まえた表現で「小萩」は幼い子供を指すものです。その「小萩」の縁で、芭蕉は死ぬことを「ちらむ」「しほれむ」と書いたのでしょう。「喰物なげて」というのは随分冷淡な表現のようですが、この表現には、捨てられた幼い子供に対して、何もしてやることができない自分の無力さに対するいきどおりが込められている、とみるべきです。「喰物あたえて」と改めればおだやかな表現になりますが、それでは、文章のインパクトが格段に弱くなる。明らかに芭蕉は煽るように文章を書いています。

このようなインパクトの強い文章に続いて、禅問答のような句が詠まれている。そうすると、前の文章のショッキングな内容に対して、大きなギャップのある淡々として、読む人に問いかける様子の句が、読む人にとっては、前のめりの姿勢をとらされてしまうようで、他人事では済まされないように引き入れられてしまう効果を生んでいると思います。

猿を聞人捨子に秋の風いかに

このようにシチュエーションで「猿を聞人」の猿というのが、「断腸」という言葉の語源となっている「人間に我が子をさらわれた母猿が深く悲しみ、死後、母親の腹を割いてみると腸が千切れ千切れになっていた」という中国の故事中の猿を言っているということが、この句を読む人にスッと入ってきます。そうすると、断腸の思いで親が、富士川の川原に子どもを置き去りにする場面が目に浮かんでくることになります。猿の断腸の声というのは、古来詩文に詠まれてきたのを、芭蕉は引用しているわけで、「猿を聞人」というのは、そんなことを詩文に詠んでいる詩人たち聞いた人です。したがって、この句は猿声に涙を下した中国の詩人行客たちに向けて問いかけている。猿の鳴き声を悲しいと開くのは、いわば詩文の世界のこと、いわば虚事です。そんな虚事よりも、この眼前の捨て子に吹く秋風の現実の悲しみを、君たち詩人はどう受けとるかという問いを出したものです。それは、他人事ではなく、文人としての自分自身に対する問いかけでもあります。芭蕉は、実際に、この場で捨て子に食物を与えますが、それ以外には何もできなかったのです。芭蕉は、現実世界を捨て、風雅つまり俳諧に専念する決心をしたのですが、捨て子を眼前に見て、自分の現実的無力、それに対する痛切な反省が、その決心を動揺させるのです。それがこの句の「捨子に秋の風いかに」と問いかけることで、何の答えも提示していないのです。

おそらく、芭蕉が問いかけた中国の詩人行客たち、例えば、杜甫・李白・白楽天といった人々は、自身が戦火に焼かれて苦しい生活を強いられたことはあっても、詩作と現実、解り易くいうと、ちょっとピントがずれているかもしれませんが、1960年代にサルトルが「飢えた子供の前で文学は無力なのか?」と問いかけた、そういう問いを、考えたこともなかったのではないでしょうか。それまでの日本の文学者たち、和歌や連歌の作者たちは芭蕉の問いを問うことはなかった。たとえ、目の前に、そういう事実があっても、文学者としての彼らの目に映ってこなかった。あるいは目を背けていた。芭蕉は、それを告発しているのではなく、それを自身の問題として、どうすればいいのかと問うているのです。そんなの、答えられるわけがない。だから、問いかけるところで切れているのです。

このような問いは、自然と思想や宗教的な方向に傾きがちです。「すくい」の問題につながっていくことだからです。それゆえか、この句の「猿を聞人」というのは禅僧たちではないかと考える人もいます。それは、この句は当初、「猿を泣く旅人捨子に秋の風いかに」であり、この句形では明らかに詩人たちを念頭にしたものであったのが、「猿を聴く人」と修正した時点で句の内容が変わって禅僧に向けたものとなったというのです。『野ざらし紀行』の冒頭に、『江湖風月集』に収録されている堰渓広聞和尚の詩が利用されていますし、『江湖風月集』の中には他の禅僧の「霊隠ニ猿ヲ聴ク」という詩が一首、「猿ヲ聴ク」という詩が二首収められていることなどが、その根拠となっているということですが。こんな現実に直面したら、うろたえて、じたばたするしかない。仕方ないのです。そこで、厳しい修行を積んだ末に悟りの境地に到達した高僧に問いかける。気持ちはわかります。芭蕉に、そういう気持ちはなかったとはいえないと思います。それは、『野ざらし紀行』のなかで、この句に続いて、次のような文章を続けているからです。

いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる欤、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。

この意味は、「どうしてこうなったのだろう。お前は父に憎まれたのか。母に嫌われたのか。父はお前を憎んだわけではなかろう。母はお前を嫌ったわけではなかろう。ただこれがお前の天命であり、お前の不運な宿命を泣け。」と。捨てられた子供にむけて、これは天命なのだ、と言っているのです。この文章は『荘子』「大宗師編」の子輿と子桑の説話によっているそうです。その説話を簡単に要約すると、つぎのとおりです。「子輿と子桑は親友であった。子桑は極貧の生活を送っていた。あるとき、子桑が困っているだうと、食べ物を用意して子輿が彼を訪ねると、彼は「父か、母か、天か、人か」とうたっていた。子輿はその歌はどういう意味かと訊ねると子桑は次のように答えた。「自分がこれほど貧しいのはどうしてなのか、こうなることを父が望んだのか、母が望んだのか、あるいは天のせいか、人のせいか、父や母がこうなることを望んだはずがないし、天や人も自分だけを不公平に扱ったとは考えられない。自分がこのように貧しいのは天命なのだ」と」

捨て子には、そう言います。その一方、芭蕉自身はどうなのでしょうか。ここでは、本人は何も語っていませんが、結局芭蕉は、現実を捨て、虚事に生きる決意を新たにするより仕方がありません。仕方がないのですが、ただ安易に現実を無視するのでなく、この痛切な反省の上に立って芸術に献身しよう、わが身を捧げようとするところに、強く、激しく、純粋なものがあると言えましょう。この場合、芭蕉にとっては、この句を詠むということが、詩人としての惻隠の情の最高の発露であり、それは実践でもあったということなのだす。ここには、捨て子との関わりを経ておのれの無力さに突き当たり、詩人としての自覚に吹っ切れてゆく機敏を読み取ることができるのではないかと思います。

●「道のべの木槿は馬にくはれけり」(大井川、眼前)

道のべの木槿は馬にくはれけり

「道端の木槿は馬に食われた」というだけのきわめてシンプルな句です。えっ!これだけ?っていうほど、見たままという印象の句ですが、当時の俳諧の世界では、革命的とは言わないまでも、かなり異質な句だったようです。例えば当時の芳山という俳諧師は『俳諧暁山集』という著書の中で、この句をさして雑言」つまり、発句に値しない口からでまかせの放言としか思えないような稚拙な句と評しています。芳山という人に見る目がなかったのかというと、芭蕉の弟子達の間でも、この句を高く評価する人はいなかったといいます。

しかし、芭蕉自身は、この句を蕉風、つまり自身の俳諧の世界の端緒となった句と位置付けていたようです。

それは、どういうところからでしょうか。そのヒントは、この句の「眼前」という前書きにあります。「眼前」というのは「見たまま」ということであり、一瞬目に入った光景がそのまま句になったということです。句のよしあしは別にして、この体験は芭蕉にとって新風を開く大きなヒントになったのではないかと思う。服部土芳が蕉風を体系的にまとめた俳論『三冊子』の中で、芭蕉は「私意をはなれよ」とか、「俳諧は三尺の童にさせよ」と盛んに門人に説いていたとされています。これらの芭蕉の言葉は分別を捨てて無心になれと言っているのであり、俳諧を作る心構えとして、無心になる事を説いたのです。これは芭蕉独自の教えであり、蕉風俳諧の根本理念です。この芭蕉の教えに、無心を基本とする禅の影響があると考えて言いと思いますが、この「道のべ」の句の前書きの「眼前」は、この句が無心の状態で作られた句であることを示していると同時に蕉風俳諧の方向を示す重要なキーワードになっているのです。

しかし、それだけでは芳山の評した「放言」と、実際には同じことを言っているだけです。この句が凄いのは、たんに見たままの、何も手を加えていないような何でもないものが俳句として読める作品になっているということです。この句のポイントは「馬上吟」とある詞書です。木槿を食べたのが芭蕉自身の馬である点こそ、この句の効果を限りないものにしているのです。眼前の珍しい光景に新鮮な驚きをもって接し、「けり」と詠嘆している。たったそれだけです。この点についてドナルド・キーンは次のように解説しています。

「芭蕉は、馬の背にゆられている。と、突然に馬が首を下げて食いとったのは,道ばたの生け垣に咲く一輪のむくげの花である。花がまさに食われようとする瞬間に、芭蕉の心はその美しさに気づいてときめく。どこかであった情景の紹介でもなければ、架空の出来事でもなく、一瞬の嘱目の吟である。」(ドナルド・キーン)

つまり、「眼前」という前書のとおり、芭蕉の視線に映るもの、まず槿の花です。芭蕉の目はここに放心したように吸い付けられている。世界はただ一輪の槿の花だけしかない。とそのとき、それまで彼の視界には全くなかった馬の長い口がひょこっと現れて、瞬間槿の花が消えていた。消え去った槿の鮮やかな白さが残像として前より強烈に瞼に映じている。それが道のべの木槿は馬にくはれけり」という中に、すべて描写されている。そこには、食べられずに済んだかもしれない木槿をいとしむ芭蕉の眼差しまで感じられるのです。

このように何でもないありふれたものに深い美しさを感じて、それにふさわしい、自然な表現でつくられた句と言えると思います。芭蕉自身さらに工夫を重ねたことは、これ以後の彼の作品を見れば明らかで、芭蕉はこれ以後このような句は作っていません。

しかし、『野ざらし紀行』が芭蕉にとっての過渡期をあらわにしている、漢詩文の世界を片足に踏まえて、それを乗り越えようとしているプロセスの中で詠まれている句であることも忘れることはできません。この句でも平明な自然観照の背後に、そういう趣向があったと考えてもおかしくはないでしょう。例えば、「野梅」という謝春卿の次のような詩

疎籬に傍はず 墻に近ずかず

官路に臨まず 塘に横らず

前村 開て遍し 人知ること少し

馬上 唯だ聞く 暗香有ることを

「道のべの木槿は」とは、この「疎籬に傍はず、墻に近ずかず、官路に臨ま」ぬ「梅」を踏まえている。つまり、官路に臨まぬ梅は、人の知ること少なく、馬上にただ暗香を賞されるのみであるのに対して、「道のべの木槿は」馬上で客が見ている前で「馬にくはれ」てしまった。風に漂う木槿の匂いを梅の清香に比している。また「荘子」山木篇の「木鴈」の逸話を踏まえていると指摘する人もいるのですが、そうした様々なイメージをも包み込んでいるところもあるところに、この句には平明さだけに収まりきれない感興があると言えます。

●「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」(小夜の中山)

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

馬の上でうつらうつらと眠って夢心地で進んできたが、ふと目を覚ますと遠くに月が見え、近くには茶を煮る煙が立ちのぼっていた、というような意味の句です。前文の説明を読むと状況がわかります。

廿日餘の月かすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。

二十日余りの月がかすかに見えているという時分、夜明け前で山の麓は未だ暗いうちに、馬に乗って出発している。鶏鳴ならずということですから、未だ太陽の光は当たってこない。馬に揺られて、ときどき眠気におそわれるのでしょう。夢うつつの状態で、唐の詩人杜牧の「早行」という詩の世界を彷徨って、今、馬上にいる状態と重なっているかのようです。

早行       杜牧

鞭ヲ垂レテ馬ニ信セテ行ク       数里イマダ鶏鳴ナラズ

林下残夢ヲ帯ビタリ            葉飛ンデ時ニ忽チ驚ク

霜凝リテ孤雁遥カニ           月暁ニシテ遠山横タハル

僮僕険ヲ辞スルコトヲ休メヨ       何レノ時カ世路平ニカナラン

早行の詩句から芭蕉の前文は、鞭を垂れて、数里いまだ鶏鳴ならず、月や山、そして、忽ち驚くというところまで、そっくり引用して使っています。まるで、芭蕉自身が杜牧になりきっているように見えます。小夜の中山ではっと目を覚まします。「小夜の中山」とは、現在は、静岡県掛川市佐夜鹿にある峠で、峠道の両脇は、目もくらむ深い谷が切れ落ちていて、古くから、箱根峠や鈴鹿峠とならんで、東海道の三大難所とされていたところです。有名な歌枕でもあり、西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」には、命がけで峠越えをした必死さがあります。おそらく、芭蕉の念頭には西行の歌があったと思いますが、ここでは、その面影はまったく見えてこないで、正反対の牧歌的な風景を詠んでいるようです。おそらく、馬に揺られて夢心地だった芭蕉は、難所の峠にさしかかると馬子からでも目を覚まさせられたのでしょう。忽ち驚くと書いています。その峠で里を見下ろすように詠んだのでしょうか。

馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

「残夢月遠し茶のけぶり」という後半部分は、残夢、月、茶のけぶりと単にイメージを並べたというだけ、しかも、「馬に寝て」も含めて、それらのイメージは杜牧の「早行」からいただいてきたもの。唯一違うのは「茶のけぶり」です。「茶のけぶり(煙)」とは、早朝に茶農家が摘んだ茶葉の熱処理のため、茶葉を蒸すことによって発生した煙のことで、季節は秋であることから、茶どころである一帯には「茶の煙」が立ち上がっていたに違いないでしょう。つまり、驚いて目が覚めた芭蕉の眼下にひろがっていたのは、茶の煙が立ちのぼる平穏な風景だったわけです。杜牧の詩では、最後に世の中が治まらないことを嘆いているのと、ここに違いがあります。そこが俳諧であり換骨奪胎です。日本や中国の古典文学を典拠として句を作るという方法は、貞門時代にも談林時代にもありました。しかし当時の古典の利用はもじりの範囲にとどまっていて、新たな詩的世界を作る踏み台として利用したことはなかったといいます。ここで芭蕉は、典拠によりながら、典拠とは異なる独自の詩的世界を作り上げているのです。杜牧の早行を追いかけてきた読者には、「茶のけぶり」という平穏な世界が、それだけかけがえのない大切なものとして痛切に見えてくる。しかも、「馬に寝て」「残夢」「月遠し」「茶のけぶり」と、四段に途切れた詠みっぷりは、どことなしにけだるい寝覚めを感じさせ、そこで生まれるリズムは読み手に迫ってくる。そういう感覚に訴える句になっていると思います。

●「みそか月なし千とせの杉を抱あらし」(伊勢、外宮)

腰間に寸鐵をおびず。襟に一嚢をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有。俗にゝて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事をゆるさず。

暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほのくらく、御燈處ゝに見えて、また上もなき峯の松風、身にしむ計、ふかき心を起して、

みそか月なし千とせの杉を抱あらし

ここまで、『野ざらし紀行』の句や文は、「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」の句に最も典型的に表われているように、漢詩文の伝統への挑戦という姿勢で語られてきました。この伊勢の文でも「腰間に寸鉄を帯びず」「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」云々といった自画像の披露の文には、なおこうした気負いが尾を引いています。それが、伊勢神宮の外宮に詣でた文からは、西行の「深く入りて神路の奥を尋ぬれば叉うへもなき峯の松風」(『千載集』)の「また上もなき峰の松風」という歌句を取り込み、また雅文的整調表現としての「はべり」を用い、さらに「詣侍りける」でもいいところを「詣侍りけるに」と柔らかな連綿体に改めるなど、やまとことば風の柔らかな文にしようとして、調子が変化してきています。その調子の変化は句にも表われてきています。

みそか月なし千とせの杉を抱あらし

折から月末のことで、古人がこの神の威光にたとえて崇敬の情を寄せた月は見えない。ただ、悠久の時の流れを刻んだ千古の神杉を神路山の山気が包み込んでいるのみ。その山気に、古人が神路山の月に感を発したと同じ深い崇敬の情のひしひしと身内に徹るのをおぼえる次第だ。だいたい、そんな意味でしょうか。この国は、漢詩ではなくて西行の次の歌を踏まえて詠まれていると思われます。

神路山の嵐おろせば、峰のもみぢ葉御裳濯川の波に敷き、錦をさらすかと疑はれ、御垣の松を見やれば、千歳の緑梢にあらはる。同じ御山の月なれば、いかに木の葉隠れもなんと思ふ。ことに月の光も澄み上りければ、

神路山月さやかなる誓ひにて天の下をば照らすなりけり

この句の「千とせの杉」は西行の「千歳の緑」の文言に応じて、霊木の大きさを示すとともに、伊勢神宮の鎮座以来の永劫の時間の流れを表わしたものと言えます。「あらし」とは西行の文でいう「神路山の嵐」を指します。これは嵐といっても嵐気、つまり山気という湿り気を含んだ深山の空気のことで、暴風のことではありません。したがって、「抱あらし」とは、森厳の嵐気が千古の神杉を包みこんでいるという環境、雰囲気を表わしています。芭蕉は晦日の月の出ていない闇の中、千古の神杉を包み込んだ神路山の嵐気に、西行が木の葉隠れの神路山の月におぼえたと同じ崇敬の念を感得したというのです。

しかし、芭蕉は西行に追随しているわけではありません。西行の和歌もそうですが、この句で詠まれている神路山ついては、西行のほかにも後鳥羽上皇の「ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空に出でん月影」という和歌もあるなど、月とセットで詠まれるのが伝統でした。西行の和歌ではあたりを照らす月の澄んだ光を崇敬して詠んでいるものと言えます。その月の光がない状態を、芭蕉は逢えて設定している。しかも、「みそか月なし」と字余りとなっても押し通しようにして、句の冒頭に持ってきています。そこに、芭蕉の挑戦的な気負いが見られると言ってもいいのではないでしょうか。また、月の光がないところで、視覚を封じられた闇のなかで森閑とした深山の気を全身で感じるということになっている。それが「抱あらし」という詩句に表われていて、西行の和歌にはない、山気と一体になったところがあります。それは、後年の「山寺や…」の句のような宇宙的な拡がりに連なっていく先駆のような句ではないかと思います。

●「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」(伊勢、西行谷)

芭蕉は伊勢神宮の外宮を参拝したあと、五十鈴川のほとりで西行が庵を結んでいたという西行谷に向かいます。そこで、ストレートに西行の事跡を偲ぶのではなく、俳諧の諧謔の姿勢というべきなのでしょうか、いわば変化球を用いて西行に絡んでいきます。つまり、西行谷に見かけた里芋を洗っている農家の女達を、西行が天王寺に参詣したときに和歌を交わした遊女になぞらえているのです。

西行谷の麓に流あり。をんなどもの芋をあらふを見るに、

芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

この句の意味は、流れに芋洗う女の俗なる艶。女たちよ、自分が西行ならば、かの江口の流れの君に詠みかけたように、歌を詠みかけることだろう、といったものです。

この句が踏まえている西行の和歌とエピソードは、つぎのようなものです。

天王寺へ詣で侍りけるに、にわかに雨の降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければよみ侍りける

世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿をも惜しむ君かな    西行

返し

世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ     江口の君(「新古今和歌集」巻第十 羈旅歌)

この句の季語の「芋」は里芋のことで、「歌よまむ」の「む」が切れ字で、推量を表わします。「西行ならば歌よまむ」はもしも西行ならばあの江口の君に対したように歌を詠み掛けることであろう、と西行に思いを馳せているわけです。しかし、西行は賑やかな四天王寺の門前で艶やかで、機知をそなえた女性に対して、今で言えば粋なやりとりを交わしたわけです。言ってみれば都会の遊びなれた男女の戯れのようなものです。それに対して、芭蕉が見ているのは川の流れに並んで里芋を洗っている女達です。イモ姉ちゃんという形容は、当時はなかったかもしれませんが、労働している女性に、芭蕉は艶やかさを見出している。それは西行にはなかった美意識といえます。芭蕉は、ここで西行の和歌の世界を念頭に置きながら、秋の季節の中における俳諧としての俗なる艶を新たに発見したのを、句に詠んでいるのです。

●「手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜」(伊賀)

芭蕉の母親が没したのは天和3年6月のことで、この旅の前年のことでした。当時の芭蕉は江戸において、火事で焼け出され、避難生活をおくっていました。見取ることも葬儀に出席することもできませんでした。それゆえ、芭蕉の故郷で母の墓参をすることへの思いは強かったのではないかと思います。それが、地の文と句が一体となって、最後には慟哭のようなものとなっています。

長月の初、古郷に歸りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、はらからの鬢白く、眉皺寄て、只命有てとのみ云て言葉はなきに、このかみの守袋をほどきて、母の白髪 おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝が まゆもやゝ老たりと、しばらくなきて、

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

まず、9月のはじめに故郷に帰った、というのが結果としてそうなったのか、意図してなのか、9月というのが、後の「霜枯果て」や「秋の霜」につながるのでしょうが、晩秋のあわれを誘うイメージの強いもので、ここで全体のトーンが決まったといえます。「古郷に歸りて」「霜枯果て」「替りて」「只命有て」と「て」をたたみかける文体に、痛切な感情の高ぶりを効果的に感じさせるものとなっていると思います。続く、「北堂の萱草も霜枯果て」の北堂は古代の中国では家の北側にある堂のことをいい、これは主婦の居住するところだった。その庭には萱草、つまり忘れ草を植えるのが常であることから萱堂とも言ったそうです。それもすっかり霜枯れてしまったというのは、霜に打たれて枯れてしまったということ、これは「秋の霜」に通じることですが、そこに住んでいた人の不在を暗示する。母が亡くなってより久しく時日の過ぎたことを景によって表わしています。「今は跡だになし」に母がもうこの家には居ないということが案に示されている。ずいぶんの時間が経ち、何事も昔とは変わってしまった。

それから、兄や姉妹とも久々の対面に変わり、「はらからの鬢白く眉皺寄」というのは兄半左衛門のことを指すと見て間違いない。「はらから」は兄弟姉妹。鬢は頭の左右側面、耳ぎわの髪の毛のことで、白髪の目立つところだ。鬢は白くなり、眉のあたりにも皺は寄って年齢を感じさせる。兄と向かい合い、出てくる言葉と言っては「只命有て」、よくぞ生きていたなあということのみ。「このかみ」は子どもたちのなかの上、年長者ということで特に男子の先に生まれた方、兄を指す。兄がお守りの袋を解き、何かを取り出しながら母の白髪を拝みなさいと伝える。取り出したのは母の白い遺髪だった。

ここで思わず口をついて出たという形で「手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜」の句が示されるというわけです。

手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

季語は秋の霜で、この霜は実景というより比喩の対象です。つまり、霜の鬢で霜鬢という語もあるほど、白髪を霜に見立てるのは漢詩などでも多く用いられる常套的な表現方法ですが、その白い色と消えやすさとをもって、母の遺髪の象徴に用いたものと言えます。「手にとらば消ん」というのは、兄が袋から出した母の白い髪でしょう。「手にとれば」ではなく、仮定条件の「手にとらば」だから手にしたのならばの意味になるわけです。手に取ったら消えてしまいそうだということになります。「なみだぞあつき」は係り結びになっていて、涙が熱いことを強めています。しかも、その前の「手にとらば消ん」の「ん」は切れ字になっていて、係り結びとあわせて、3つもの切れ字が使われています。短い句のなかで、3つも切れ字が使われていれば、響きや調子は切れ切れになるので、それが悲痛な慟哭の調子を作っています。これは地の文において「て」を畳み掛けることで痛切な感情を強調させていたことに対照させているのでしょう。

熱い涙なのです。熱い涙がこぼれかかれば秋の霜も溶けてしまうだろう。だから霜に見立てられる白髪も私の涙で消えてしまうのではないか。「秋の霜」が「消える」とは、遺髪のはかない感じをいうとともに、いっそう激しくこみ上げてくる涙に見えなくなってしまうであろうことを表わしています。「涙ぞ熱き」の「ぞ」の係りが、言外に遺髪の冷たい質感や、遺髪に対しての身の心寒さ、昔と変わり果てた四囲のひっそりとした様を対照的に匂わせて、「手にとらば消ん」と八音に及ぶ字余りと倒置法が、切れ字の多用と相俟って、抑えがたいほど激しい感情の高ぶりを伝える効果をあげています。

このような傾向の句は、『奥の細道』の「塚も動けわが泣く声は秋の風」といった句を思い合わせると、芭蕉にとって本来的なものであったのかもしれません。

●「碪打て我にきかせよや坊が妻」(吉野)

『野ざらし紀行』前半のクライマックスとも言うべき吉野です。

独よし野ゝおくにたどりけるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り、烟雨谷を埋ンで、山賎の家處々にちいさく、西に木を伐音東にひヾき、院々の鐘の聲は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土の廬山といはむもまたむべならずや。

ある坊に一夜を借りて

碪打て我にきかせよや坊が妻

この「独よし野ゝおくに」云々や「西に木を伐音東にひヾき」云々の文言はしたの杜甫の「張氏の隠居に題す」の「独り相求む」や「伐木丁丁として山更に幽なり」を下敷きにしていると考えられます。吉野の記述では、このあとのところでも後醍醐帝のくだりで「山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜になれば」ば、同じこの漢詩の「石門の斜日 林丘に到る」も同じように下敷きにしているようです。ここで、芭蕉は漢詩文を通して知った詩興を日本の風土の上にあてはめて確かめようとしている、と考えられます。芭蕉は吉野の奥にひとり古人の吟魂を訪ねようとしたのです。

張氏の隠居に題す       杜甫

春山伴無く独り相求む

伐木丁丁として山更に幽なり

澗道の余寒 冰雪を歴て

石門の斜日 林丘に到る

貪らずして夜金銀の気を識り

害に遠ざかって朝に麋鹿の遊を看る

興に乗じては杳然んとして出処に迷い

君に対して疑がうらくは是虚舟を泛かべしかと

吉野は和歌に詠まれることも多く、山の深さや白い雲なども和歌などに詠まれています。代表的なものが、下の和歌です。「白雲峯に重り」は晩秋の山に代々の歌人たちの吉野の春の白雲のイメージを重ね合わせたもので、この言い方によって、下の「いくえ」もの「峰の白雲」を匂わせると共に、「しらくも」を音読して漢語にひるがえし、次の「烟雨谷を埋ンで」と対句仕立てにしています。

おもかげに花の姿を先立てていくへ越え来ぬ峰の白雲    藤原俊成

烟雨は煙るような雨で漢詩によく登場する。白雲と合わせて山の深さと脱俗の仙境としての風情を匂わせています。山賤は木を切るなどして山で暮らす人。その住まいとおぼしい家が所々に小さく見え、西で木を切る音が東に響く。静かなことが良く伝わり、奥深くをたどっていることがわかる。吉野には吉野神宮や金峰山寺、如意輪寺などがあり、「院々の鐘の聲」はそうした寺で打ち鳴らす鐘のことでしょう。これはまた、「木を伐音」と並べておくことで、聴覚の面から幽寂の趣を捉えています。これは後の「古池や…」の句や『奥の細道』の「閑さや…」の句へと展開していく先駆けかもしれません。「世を忘たる人」は世間を離れ、俗を超越した人。「詩にのがれ歌にかくる」は対句表現で、詩や歌に逃れ隠れているということ。詩歌を好んで隠棲したことを言います。このような吉野を仙境とする歌人たちによって詠まれたイメージは「唐土の廬山」の巫山の雲雨のイメージです。

つまり、この地の文は杜甫の詩句を下敷きにした幽邃協境に古人を訪ねるしすえ詩脈から、「白雲峯に重り」という視覚的世界と「西に木を伐音」という聴覚的世界と、いずれも漢詩句を下敷きにした二つの幻想世界の間に、「山賎の家處々にちいさく」という現実の点描を挿入して、情景の描写にリアリティを与えるとともに「坊が妻」にあつらえた砧の音の背後から、吉野に隠された多くの古人たちの数々の詩情を反響させるようにしています。このあとで、芭蕉は西行の遺蹟を訪ねるのですから、それに続いていると言えます。

碪打て我にきかせよや坊が妻

碪とは洗った衣布を槌で叩いて柔らかくし、ツヤを出すこと。女性の手わざで、これが秋の季語です。下の李白「子夜呉歌」などが元になり、砧にはいまは不在の夫や恋人を思いながら嘆きつつ槌を打つというイメージが強く、謡曲『砧』でもそうしたことが取り上げられています。

子夜呉歌 李白

長安一片の月

萬戸衣を擣つの聲。

秋風吹いて尽きず、

総て是れ玉関の情。

何れの日か胡虜を平らげ

良人遠征を罷めん。

また『新古今和歌集』所収の藤原雅経の歌に「み吉野の山の秋風小夜ふけてふるさと寒く衣打つなり」とあるように、吉野と砧は結びつくものでした。ここでは宿の妻に対して、吉野の風物詩ともいうべき砧の音を聞かせてくれと呼びかけています。

この句は、世阿弥の能『砧』の「げにや我が身の憂きまゝに。たとうまじき事まで思ひ出でられ候ふぞや。唐土に蘇武といひし者。胡国とやらんに移されしに。古里に留め置きし妻や子の。高楼に登つて砧をうつ。志の末通りけるか。万里の外なる蘇武が旅寝に。古里の砧聞えしとなり。」や「蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。西より来る秋の風の。吹き送れとどほの。衣うたうよ。」などを面影に、「坊が妻」を能のシテと見て、自己をワキ僧と観じる、これは日常を脱俗した風狂の立場です。そこに、「ふるさと寒く衣打つなり」と和歌に詠まれた歌枕に対する痛切な懐旧思慕の情を寄せたのです。この句の「坊が妻」はしたがって、現実の僧の妻というより、夫の不在を思い空閨を嘆く女性のシンボルとしているのであって、さらに、芭蕉が耳にしたのは、現実の砧の音ではなく、「坊が妻」が、能のシテのように打つ砧の音の中に、古人が「ふるさと寒く衣打つなり」と聞いた詩情をまさぐろうとしたのです。したがって、「坊が妻」は吉野に沁み付いている多くの古人の詩情を呼び覚まそうとする希求が生んだ詩的幻想と言ってよいのではないか。

●「露とくとく心みに浮世すゝがばや」(吉野)

前の「碪打て…」のくだりで吉野を「唐土の廬山」と見立てた余韻のなかで、ここも吉野のづつきとして書き進められています。西行の草庵の跡を訪ねます。西行は、芭蕉が最も慕い、尊敬した平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人で、行脚と草庵生活をくり返したその生き方は、芭蕉のお手本ともいうべきものでした。この『野ざらし紀行』ではすでに伊勢の箇所で「また上もなき」と和歌の一部を引用し、また西行谷を訪れる際、「西行ならば歌よまん」と詠んでいます。それらに続く西行追惜第三弾といえるでしょう。

とくとくと落つる岩間の苔清水くみほす程もなきすまひかな

という和歌が西行の詠んだものとして伝えられていたということですが、こうたが、いかにも西行の閑居の心情を汲むのにふさわしい歌として、隠閑への志向をともにしていた蕉門の俳士たちの間に広まっていたと考えられています。地の文で「彼とくとくの清水は」とのべているのが、そのような読者(蕉門の門人たちや芭蕉の読者と想定される人々)との共通の嗜好を前提としたものと言えます。「さがしき谷をへだてたる、いとたふとし」と草庵の跡の世塵を絶した佇まいに、ます、「とくとくと」の歌の心を見出し、「今もとくとくと雫落ける」と続けているのです。この歌にはまた、俗塵の汚れを超脱した閑素幽栖を愛する心と共に、清水の滴りとその音を聞く心をニュアンスとして読み取ることができます。その「とくとく」を引用するようにつかった句では、和歌の情趣とはまた趣きを異にした、軽さがあって、歌に詠まれた清水の滴りを目の当たりに下喜びと賛嘆を含んだ感激がそこには表現されているからです。また、地の文の「彼とくとくの清水」、「今もとくとくと雫落ける」と、「とくとく」を繰り返した後に、句が「露とくとく」で始まるという繰り返して、西行の脱俗の心境にひたろうと願う心を「試ミニ…セン」という漢文訓読調をもじった諧謔の型でしめていて、地の文との相乗効果を生かしているといえます。

西上人の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。

露とくとく心みに浮世すゝがばや

西行は吉野に草庵を結んだことがあるとされ、そのことは地誌などにも記され、草庵の跡が吉野の名所にもなっていた。その草の庵の跡を訪ねようと、奥の院から右の方へ2町ほど分け入っていく。「さがしき」は険しいの意味で、「さがしき谷をへだてたる」は険しい谷を隔ててあるということになります。何と隔てられてあるかは書いていませんが、人間の暮らす一般の世界と隔てられてあるという意味ガ含まれているでしょう。そして西行がこのように世俗と隔絶したところに庵を結んだことを、とても尊いことだとしているわけです。「彼とくとくの清水」は昔と変わることなく、とくとくと雫が滴り落ちていた。伊勢で風を受けたと同じように、ここでも西行と同じものを実際に体験することが出来たのだ。その感動を句に詠んだ。

露とくとく心みに浮世すゝがばや

この句は「すゝがばや」で切れるようになっていて「ばや」が願望の切れ字とされています。そのこの句での内容は、現実の日常の中ではそのようには振る舞ったりしない、日常的感覚からの逸脱を希求する、つまり風狂の風情を示すものと言えます。伝西行の「とくとくと」の和歌に応え、地の文の地の文の「彼とくとくの清水」、「今もとくとくと雫落ける」に続いて、「露とくとく」と冒頭にもってきたところに、ひとつの挨拶の諧謔があると同時に、またその「とくとく」の音に耳を澄ませて、露の滴て俗塵をすすごうと希求しているところに、日常感覚の世界を脱した風狂が色濃く感じられるようになっています。

「心みに浮世すゝがばや」とは「試ミニ…セン」という漢文訓読調を裁ち入れ、それを「心みに…ばや」と屈折させたもので、願望の内容の上からと、そのような言い回しの上からと、二重の意味における諧謔が働いているということになります。浮世をすすぐというのは、人跡を隔てた深山に幽栖した西行の風懐にあやかって、俗塵を脱しようとする願望を言ったもので、この吉野全体の記述で言えば、西行を「廬山」に隠れた高士に比して、その脱俗の境地にあやかろうとしたものです。そのような心理的な脈絡が漢文訓読調を下敷きにした「心みに…ばや」という言い方をとらせた由縁でしょう。この句は、こうした真面目な願望を、二重三重の諧謔で包んだ形で表現したものといってもいいのではないかと思います。

●「秋風や薮も畠も不破の関」(大垣、不破の関)

秋風や薮も畠も不破の関

この句のだいたいの意味は「古歌にその荒廃ぶりを歌われた不破の関屋はいまは跡形も止めず、薮と化し畠と変じて、ただ秋風が吹き巡るばかりである。」といったところでしょうか。

「不破」は美濃国不破郡(現在の岐阜県不破郡)にあった古い関所で、延暦八年(789年)に廃止になりましが、歌枕として残り、その荒れ果てた様子を和歌の題材として多くの歌が詠まれました。そのなかでも、藤原良経の「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」(新古今和歌集)は名歌として知られ、後の和歌は、この歌で詠まれたイメージ(歌枕の本位)を継承するように、悪く言えば焼き直しですが、詠まれました。芭蕉も、その伝統に連なるように、この歌を念頭において、この句を詠んだとされています。藤原良経は、かつては東西を分ける要衝であった不破の関が今はただ「秋の風」に吹かれるだけの廃屋になってしまっている。そのことを「秋の風」と歌に詠み、思いを込めました。その「秋の風」を芭蕉が受け継いで句にしたわけです。「不破の関」の跡を前にして、そこで吹いていた秋の風を、藤原良経の歌にある「秋の風」と結びつけたわけです。そこで数百年の時間の隔たりを一瞬にして飛び越えた。「秋の風」を介して、眼前の風景と昔日の想起される風景がつながったわけです。

しかし、他方で、芭蕉の「秋の風」と藤原良経の「秋の風」は違います。ひとつは、句、あるいは歌の中の「秋の風」の位置です。藤原良経の歌では何もない荒涼としたところに秋の風が吹き渡ります。これに対して、芭蕉の句では、「秋の風」が吹いていて、昔日の光景を想起させるのです。そして、目を転じると、廃墟ではなく「薮も畠も」のあったのです。この文言の「薮も畠も」と「も」を重ねたことで、藤原良経の時代から数百年という長い時間が経過していることを表わしています。つまり、荒廃した土地に、藪も畑も加わったのです。ただし、藪や畑に変わったのではない。それが「も」を重ねたことからわかることです。したがって、芭蕉の句では、藤原良経の「人住まぬ」ではない、というのは「畑も」あるのですから、現在の光景を描いているのです。つまり、「秋の風」は昔を想起させますが、現在の藪や畑に吹いているのです。この「秋の風」が数百年という時の経過をへだてた昔と今をそれぞれに、映し出し、しかも、風が吹いている風景をイメージしてもらうとわかるのですが、そこに余情を感じさせている。その一方で、現実の人間の生活の息吹の沁み付いた生臭さ、あるいはほの温かさがあって、その温かさが、秋風の悲愁の冷たさをいっそう濃いものにしている。

そういう句になっていると思います。

●「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」(大垣)

『野ざらし紀行』前半の終わりです。江戸を発って、故郷の伊賀で亡き母の墓参を果たし、吉野に訪れて西行を偲び、そしてこの大垣に着いた。大垣がひとまずのゴールであったことは、地の文で「武蔵野を出づる時」とスタートを回顧していることからも分かります。そして、この句が、あたかも旅が終わったかのように詠んでいるのです。

大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心におもひて旅立ければ、

しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

この句を締めている「秋の暮」は季語であると同時に旅寝の宿りを尋ねる夕暮れを、それは、旅の不安定さから家で落ち着いて眠ることへの志向を表しています。この句は、前書きの地の文のおわり「野ざらしを心におもひて旅立ければ」に続いていることからも分かるように、『野ざらし紀行』の最初の句

野ざらしをこころに風のしむみかな

と呼応しています。「野ざらしをこころに」つまり、死を覚悟して旅たったことに対して、「しにもせぬ」と応じている。旅立ちのときの気負いがいささか大仰な口調になっていたのに、今、旅が無事に終わった安堵の中で振り返って、気恥ずかしさからの自嘲の入り混じった思いの中にあります。そのなにやらうそ寒い感じは、秋の旅の終わりを告げ季節の終わりを示す「秋の暮」の語のもっている侘しい感じと照応するものでもあります。

●「曙や白魚白きこと一寸」(桑名)

白みはじめた伊勢の浜辺に、一寸ほどの白魚が、白く横たえているのは、神々(こうごう)しくも、美しくも見えるものであるよ。という内容の句です。

『三冊子』によると、この句は当初は

雪うすし白魚しろきこと一寸

という形だったそうです。まだほの暗いうちに浜へ出た。雪のうすく積もった海辺に、白魚が上げられてくる。かわいらしいこと、一寸ほどの白魚だ。これがその最初の形で詠まれた景色です。しかし、雪の白さと白魚の色が、あまりに付きすぎるのと、表現の焦点がもうひとつはっきりしないので、例えば魚屋の店先に雪が降ったところだと曲解されても仕方のないものとなってしまっています。そこで、現在の形に改められました。

曙や白魚白きこと一寸

それで、景色がぐっと大きくなりました。海辺で、白々と夜が明けて、空と海の境がはっきりとしてくる、しらじらと明けていく「曙」、「白魚」、「しろきこと」と続くこの句は、色彩的には白一色となっています。「白魚」は文字通り白い魚です。それに敢えて「しろきこと」と、まるで青い青空というようなくどさです。しかも、初めはこれらの「雪」という白いものが加わっていたのですから、芭蕉は白を、それだけ強調したかったのです。それを「曙や」という夜明けの朝焼けの赤いイメージを対比させることで、かえって白を浮き立たせた。雪で白くなった浜は夜でも白く浮かんでいて、その中でひときわ白く白魚の死体が打ち上げられている、というイメージは薄ぼんやりしています。闇夜に白く浮かび上がる死体。これに対して、夜明け、水平線があかく染まって、生まれたての太陽が顔をのぞかせる。このとき、芭蕉が思いえがくのは、白魚の何ともいえない白さだ。大きなあかい太陽と、ちいさな白魚の白さの対比。その陽光に白魚の白さが照らし出される。色づいてくる、むしろ生のイメージになっているのではないでしょうか。

なお、この句には唐の詩人杜甫の「白小」という漢詩の影響を受けているといわれているそうです。

    白小                            杜甫

白小も群命を分かつ

天然二寸の魚たり

細微にして水族を霑にし

風俗として園蔬に当ふ

肆に入れば銀花のごと乱れ

筐を傾くれば雪片ぞ虚しき

生成の猶わ卵は捨くいふに

尽く取ること義何如にぞや

●「しのぶさへ枯て餅かふやどり哉」(熱田神宮)

白みはじめた伊勢の浜辺に、一寸ほどの白魚が、白く横たえているのは、神々(こうごう)しくも、美しくも見えるものであるよ。という内容の句です。

社頭大イニ破れ、築地はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をす(ゑ)えて其神と名のる。よもぎ、しのぶ、こゝろのままに生たるぞ、中なかにめでたきよりも心とヾまりける。

しのぶさへ枯て餅かふやどり哉

この句の大体の意味は、「熱田神宮に参拝したのだが、荒廃をつくして、むかしを想うよすがの、しのぶ草まで枯れていたよ。帰りに、茶店に立ち寄って、時の移りを儚く想いながら餅を食べたことである。」といったところでしょう。

「しのぶさへ枯て」の「忍枯る」が冬の季語ということになります。しのぶ自体は秋の季語ですが、ここはそれが枯れているとあるので、しのぶ枯る、しのぶ枯れるで冬になるというわけです。しのぶさえというのは、菊、萩、薄、葛など秋を彩った草花はいずれもはかない印象を含んでいますが、それらの中でもっとも儚い印象のしのぶまでが枯れているということでもあろうし、偲ぶの意味と掛け、熱田神宮のかつての荘厳な姿を思い偲ぶよすがもあるかのように生えている忍草までも枯れ果てて、いまやかつてを偲ぶたよりのいっさいを遮断されてしまった様。つまり、かつての立派な様子を偲ぶ縁もないといったことも表しています。しかし、この句では、そのような様をさらに敷衍したり、あるいはそれをに対する感慨や懐古の情をことさらに訴えかけたり煽るようなことはしません。一転して、次の「餅かふやどり哉」で神前の茶店で憩い、もちを買って食べている自身の旅姿を描写し、旅の宿りの感慨をかみしめているように映ります。それは「餅かふやどり哉」の切れ字「かな」がその感慨の心を伝えているからです。

「しのぶさへ枯て」から「餅かふやどり哉」に、場面転換しているのです。ここにひとつ屈折があります。「しのぶさへ枯て」という、季節の推移と時代の変遷を包み込んだ栄枯盛衰のさまに直面するように立たされての慨嘆や懐古の情は、それだけ終わらないのです。そこに、「餅かふやどり哉」の現実の芭蕉がいるのです。前半の感慨は一字の足を止め茶店の餅を黙々と噛みしめているのです。「かな」に表されている感慨は、芭蕉が噛みしめているのは餅だけでなく、前半の感慨でもあるわけです。つまり、神宮の栄華のはかなさは、自身の旅姿のたよりなさに重なってくる。つまり、懐古の感慨を訴えかける姿勢から、ここでは現実の自身の境遇に重ねて噛みしめる姿勢になっているということです。その芭蕉の姿がユーモラスであるほど、そこに内面化という言い方は不適切かもしれませんが、後年の侘びの境地への萌芽が見られるのではないかと思います。

また、『野ざらし紀行』前半の「野ざらしをこころに風のしむみかな」の悲壮感ただようリキミかかった姿勢が、後半では、このようなアイロニカルなものが出てくるものに変わってきます。

●「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」(名古屋)

『野ざらし紀行』前半は、江戸から大垣までの孤独な旅でしたが、大垣に着いて木因の家に落ち着いたところで終わりました。後半の芭蕉の旅は、この木因に連れられて、彼の知己に俳諧師として紹介されてまわる旅で、所々で句会を開く、風狂の旅となります。そのためなのか、『野ざらし紀行』の記述も前半に比べて紀行文の本文が句の前書き程度に短くなっています。

狂句木枯の身は竹齋に似たる哉

この句は、道中で連れの木因が詠んだ次の句

歌物狂ひ二人木枯姿かな     木因

に応えるかたち詠まれたものだそうです。木因は俳諧を趣味とする大垣の商人です。

この句の「木枯の身」は、木因の句の「歌物狂ひ二人木枯姿」からきているものと考えられます。しかし、木因の場合は仮にやつがれの姿に身をやつした侘び人気取りの洒落といった感じであるのに対して、芭蕉の方は、そういう侘び姿が本来のものと同じように身に沁み付いてしまっているという自嘲が感じられでアイロニカルになっているという大きな違いがあります。

「狂句」という詩句もまた木因の「歌物狂ひ」の語に応じたものと言えます。物狂いというのは、単なる気違いということではなく、「もの」(神霊)が人間に憑いて神がかりの状態になり、歌い舞う、その動作を舞踊にした芸能のことも指します。木因は、芭蕉との二人の道中姿を四季折々の狂句を売り物として歩く、物狂い芸に擬して興じたと言えます。この諧謔に応えたのが、この句の「狂句」という詩句です。しかし、芭蕉の自己認識では、俳諧はそもそも正雅なるもの、本道からはずれた逸脱として誕生したもので、本来的に狂句なのです。したがって、俳諧師というのは現世的意味でまっとうな人生の軌道を踏み外した生き方で、彼自身が狂そのものであったのです。それやゆえ、芭蕉がこの句で「狂句」を用いたことには風狂の自認があったと考えられます。

「竹齋に似たる哉」はおかしげな句を詠み、木枯らしに吹かれながら歩いている身が竹斎に似ているなということです。竹斎は人の名で、これは実在の人ではなく、仮名草子に分類される小説『竹斎』の主人公だそうです。その京で医者をしていたものの、医者として能ではまるで駄目。狂歌を好み、従者を伴い江戸に下る道中のかずかずの珍騒動を描いたもので、名古屋でも天下一の藪薬師の竹斎という看板を掲げ、3年間を過ごした。みすぼらしい身なりで、珍妙な診療をしては失敗。狂歌を詠んでオチを付けるという体裁のものです。

芭蕉は木枯しの姿が竹斎の放浪の連想を呼び、同時に竹斎の姿の中に世の中でまっとうな生活をしていくには無能力で狂歌にいそしむしか知らない敗残者としての人生を見出した。そういう意味では、「狂句」という詩句には、敗残者竹斎の唯一の生きがいである狂歌を意識していたものと言えるかもしれません。つまり、木因の句の諧謔に応えると同時に竹斎の敗残者の滑稽さにも照応している。

切れ字の「似たる哉」という言い方は、それを自己の姿として認識していることを示しています。しかし、その詠嘆、嘆いているというよりは、むしろ興じているというように映ります。そこに、自己を突き放して見ている冷たい視線と、それゆえのアイロニーが色濃く現われていると思います。

●「馬をさえながむる雪の朝哉」(熱田)

馬をさえながむる雪の朝哉

句の配列順序とは違って、この句の方が「狂句木枯し…」より先に、熱田で作られたらしいということです。予期せぬ雪の朝、一面の白銀の世界では、いつもは見慣れた馬の過ぎ行く姿も新鮮なものとして目に入ってくる、という意味になるでしょうか。

宿に逗留中、主人が客へのもてなしに火鉢の炭を吹き起こしている。まだ早朝の時分に、そのポカポカ温かい室内から窓を開けて、空気の冷たい外をのぞいてみたら、そこに思いがけず雪景色を見出した。その瞬間を即興的に写し取ったというものでしょうか。雪は、景色を一夜にして白いヴェールで包み込んで、昨夜までとは別世界に変貌させてしまいます。その白一色の世界の中では、目の前の街道を行き交う、おそらくは早立ちの旅人を乗せる馬の見慣れた姿までもが、何か幻想的なものとして新鮮に見えてくる。しみじみと、その馬が過ぎ行く後姿を眺めている。芭蕉自身も漂泊の身ですから、その風景を温かい室内にいて、雪の風物として観賞している。おそらくは早朝のまどろみの中で、暖かさと安らぎを噛みしめている。

さきに、この句の『野ざらし紀行』の中での記載の配列について簡単に触れましたが、その中では、この句の前に「市人よこの笠売らう雪の傘」という句を載せていて、その句の市人の誰彼に向かって雪の侘び笠を呼び売りするという風狂から連なるように、この句を続けています。これは想像ですが、この句において雪の中で馬に乗って旅をする、おそらくは笠を被っている旅人は現実の旅人とは別に、呉天の雪におもむく中国の詩人の姿だったのではないでしょうか。その白い幻想は、この句に続く「海暮れて鴨の声ほのかに白し」の句にも引き継がれていくことになります。

●「海暮れて鴨の声ほのかに白し」(熱田)

海暮れて鴨の声ほのかに白し

芭蕉一行は桑名から渡し舟で対岸の熱田に渡ります。この句は、その桑名で詠んだ「曙や白魚白きこと一寸」と対照的に作られています。両方とも白という色を詠んでいながら、桑名の句は夜明けで白魚の死体に陽光が当たっているという死のイメージ、しかし明るくて輪郭がくっきりしているのに対して、こちらの句は日暮れの暗くなってきた海にカモの声かぼんやりした姿が白いイメージとして詠まれています。

師走の海に舟をこぎだすと、短い冬の日は早くもさむざむと暮れて、海上一面に薄暮れの迫る中に、波間に浮かぶカモがクッー、クッーと鳴くあたりだけが、ほの白く暮れ残って感じられる。白くとしかいいようがない。それは自分をも白く透明にしていく。宇宙の閑寂に包まれるようだ。そんな意味にとれると思います。宇宙の静寂?そんなことは、句の中に一言もないではないか?と訝しく思われるかもしれません。慥かに、この句は景色だけを客観的に描写し、美しいなあとか悲しいねとかいった感情を表わす語がありません。そこで、宇宙の静寂どころか、何も感じるところがないのでは、単に景色を描写しているだけの写生の句ではないのか、と思われるかもしれません。

ところで、芭蕉は、深川時代から仏頂和尚と交際し、禅を勉強したといわれています。鹿島紀行は、その仏頂和尚を訪ねた旅でした。この仏頂和尚をはじめとした禅の僧たちは、景色だけを簡潔な詩句にまとめ、それを通じて宇宙の大真理と感合する、そういうものを詠んでいました。例えば

月は潭の底まで穿れど水に痕無し

月の影は階を掃ふも塵は動かず

あるいは、禅僧の水墨画は、山水の景色だけをシンプルに墨一色で描いていました。

これらは、動くものが何一つ無い閑寂さだけ感じ取れたら結構。あとは、その閑寂さから、宇宙の大真理へ深まってゆくだけという。悟りの世界ということなのかもしれませんが。芭蕉は、背後に宇宙の大真理を潜ませる自然を詠じたのであり、それを禅から学び取ったのである。禅の勉強はもっと前からのことだけれど、それが芭蕉の内部で成熟し、新しい描写をつくりだした。それが、この句でも表われているといえるのです。このような芭蕉の新しい描写は、後に『奥の細道』では「荒海や佐渡によこたふ天河」といった句に結実していくことになります。

この句では白という色が、その媒介を果たしています。

この白い色について、カモの声なのか姿なのかと、読む人によって解釈が分かれているようです。ある人は、この句ではカモの声を白いと表現しているところに特徴があるといいます。本来なら聴覚の対照である鳥の声を視覚で把握するという共感覚というものだといいます。視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚および意識なあらゆる観念形式の区別を打破しようする禅の表現にしばしば出てくるもので、鴨の声がくらい海面を漂ってくる感じが表現されているといいます。

またある人は、海上一面に薄暮れの迫る中に、波間に浮かぶカモがクッー、クッーと鳴くあたりだけが、ほの白く暮れ残って感じられるというもので、カモの声が白い、というのではなく、声とか景色とかいって区別しないで、全体がぼんやりしたなかで白のイメージに包まれる。この句は、自分もなく、海もなく、声になりきり、白いになりきった、そこを示したもので、心が色、物になるというような物と我がひとつとなった状態。それを白という視覚的な言葉で示しているのにすぎないというのです。

いずれにしても、耳で聞くとか目で見るといった対象を認識するというのではなくて、芭蕉自身が大きな世界の中にいて一体化している、そういう状態にあるということを表わそうとしている。そういう句であるという点では、解釈にそれほど大きな違いはないと思います。

●「年暮ぬ笠きて草鞋はきながら」(故郷越年)

年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

この句は「笠を着け、草鞋をはいて、実に長い旅であった。こうして、甲子の年が暮れたのであるよ。」といった意味内容でしょう。

「年暮ぬ」の「ぬ」が切れ字です。この「ぬ」は完了の助動詞ですが、同じ完了の助動詞の「つ」のように動作の完了を意識的に確認し、その進行を遮断する気持ちが強いのに対して、その動作に対する自分の意志の関わり方が稀薄で、動作はゆるく進行を継続するという気持ちが強いニュアンスです。ここでも、煤掃き、年忘れ、餅つき、などと忙しい世間の師走の暦の行事から外れてしまって、それらと無関係な生活をおくってきた人間が、年の暮に際して、自分の意志とは無関係に移って行く年の歩みをふと意識した時の感触が、切れ字の「ぬ」に表われていると言えます。

「笠きて草鞋はきながら」とは、旅装のままでいるということで、年の暮れの行事を追い、大晦日の夜は家の内外を清め、礼服を着用して座しておごそかに1年の終わるのを待つ世間の人々の生活と対照させたものです。

常よりも心ぼそくぞおぼえける旅の空にて年のくれぬる   西行(『山家集』)

西行の上記の歌では、漂白者の心細さや、無常さが表われていますが、芭蕉も共鳴するところがあったと思いますが、それにしては、「笠きて草鞋はきながら」と詠んでいる軽快なリズムが、詠嘆といった重さというよりは飄逸さが漂っていると感じられます。この時点の芭蕉は、未だ『奥の細道』の冒頭に述べられているような、人生を永遠の旅人なりとするような芭蕉ではありません。したがって、この句は西行に通じるような詠嘆の性格は含んでいても、それ以上に、歳末のことを述べていて、世間から外れてしまった漂泊者として風狂の世界の住人となったわが身を自嘲している、それとともにそういう世間の慌しさを、すこし皮肉っぽく眺めている。

●「春なれや名もなき山の薄霞」(大和)

奈良に出る道のほど

春なれや名もなき山の薄霞

この句を虚心坦懐に読むと、「ああ、いよいよ春が来たのかなあ。春の大和路を心に描きながらたどる山路の、四方の名前も知らぬ山々に一刷毛(ひとはけ)霞が棚引いて見える。気持ちの良い景色だ。」という意味内容にとることができと思います。それはそれで、ひとつの内容になっていると思います。

例えば「名もなき山」は、道中の周囲を見渡して、目に映る山の連なりと取ることができます。上の解釈ではそうですが、次のような和歌が念頭に置かれていると言われています。

ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも   柿本人麻呂『万葉集』

ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく   後鳥羽院『新古今集』

短い前書きの「奈良に出る道のほど」が、「名もなき山」のイメージに大和の山という限定を与えていることになる。大和平野の立つ山といえば、天の香具山で、古来、真正な形の良い山として人々に仰がれ、歌人たちはその香具山に立つ霞に春の到来を感じ取ってきたものです。そのような古典の伝統を背景にしながら、そこであえて「名もなき山」としているところに、芭蕉の工夫があるわけです。たとえば、この句を声に出して読んでみて下さい。

Harunareya Namonakiyamano Asagasumi

五七五のすべてを『a』音からはじめています。ある意味、頭韻を踏んでるわけです。それら続く詩句でも『a』音を多く並べることで、耳に心地よい響きを作り出しているのです。音楽的と言ってもいい。その際に、「名もなき山」にすると、『a』音と別の母音が交互になって、リズムを作るのです。

さて、「薄霞」についても、奈良への旅の道中で、大和平野の周囲の丘陵を望んだときの景色と詠むことができます。それであるから、冒頭の「春なれや」というのは「春だなあ」という詠嘆として読む解釈に結び付いていくわけです。しかし、上記の和歌を踏まえていることを考慮に入れるなら、それぞれの和歌では「霞たなびく春立つらしも」とも「春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく」と言っているように、天の香具山に霞がかかっている佇まいから春の到来に気付いて、ほのかなる春の訪れの兆しを見出した喜びをうたっているのです。したがって、芭蕉が、この句で天の香具山を背景として「名もなき山」の霞を取り上げたのは、ただ単に早春の大和の風景を詠んだというだけでなく、そこには、背景とした和歌にうたわれている季節の感触への共感があって、その季節感を象徴するものとして霞をもってきたと考えることができるのです。そう考えると、「春なれや」は「春だなあ」と春を謳歌したものではなく、周囲は未だ冬の風物に包まれ、肌に感じる風も冷たい中で、周囲の山に霞がたなびいているのは、さすがに春だろうかと、春の到来の兆候を感じたものということになります。この句の後に、奈良の東大寺二月堂のお水取りを詠んだ句が載せられていますが、かの地ではお水取りがすまないうちは春が来ないと言われているので、それとのバランスを考えると、未だ早春の時期ということになるわけです。

●「わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」(大和)

わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく

ひっそりとした竹林の奥のこの家に宿り、ひなびた綿弓の音を琵琶の音と聞きなして、しばし旅愁を慰めている、という意味になるでしょうか。

「綿弓」とは綿の実から取り出した綿を弦をもって弾いて、不純物を取り除いて柔らかくするための道具で綿打弓ともいうそうです。「綿弓や」の「や」が切れ字で、綿弓をはじく弦の音は、ビーンと単発的に静寂を切り裂くように鳴って、それが切れ字「や」による切断のニュアンスと重なるようにして、琵琶の音にイメージの変換を遂げます。綿弓は現実の世界での実際の音で、琵琶は芭蕉の想像した、いわば幻想の響きで、切れ字が実の音を幻想に転換させているのです。ここで、芭蕉が想像した琵琶という楽器には中国的なイメージを想起させるところもあって、それだけでなく流離の憂いを琵琶の音に慰みを求めた古人の情を想起させる、という効果をもたらすものです。したがって、「琵琶に慰む」は、行脚の途次にある自身の流離の身に対して、琵琶の音で慰めてくれる、ということになるわけです。また「竹の奥」の「竹」が、竹林の賢人といったように中国の高士や隠者を描く場合に欠くことのできない小道具です。それゆえ、「竹の奥」は前書きに「竹之内」の地にとどまりて、と書かれていることを、旅の慰めの場を隠士の居になぞらえていると考えられます。

●「山路来て何やらゆかしすみれ草」(大津)

山路来て何やらゆかしすみれ草

京都から大津に至る逢坂山越えの道をあるいていて、という前文がついていて、「どのくらい山道を歩いたかな。一休みと思って足もとを見ると、すみれ草が咲いている。ひっそりたたずむ姿に、つい心が重なって、どことなく懐(ゆか)しさを覚えてしまうことであるよ。」と訳されるようです。

『三冊子』によると、この句は当初は

何とはなしに何やらゆかし菫草

という句であった。ということは、野ざらし紀行の道中で詠まれたのではなくて、すでに作られていた句をアレンジして、紀行文集に入れたというのが実際らしいです。よくあることでしょうが。さて、その逢坂山の山道は特に険しい山路でもないそうですから、芭蕉も苦労せずに歩けたはずということです。しかも時は春の末─菫の咲く季節です─で、春の揚棄は、心ものびのびするころ。あまり人の通らない道辺に、菫の花を見つけた。ひそかに咲いた菫の可憐さに、どう言ってよいかわからぬほど、しかしほのかに、心を惹きつけられた。それが「何とはなしに何やらゆかし」という詩句に表われています。

しかし、これでは、ひそかに咲いたすみれの寂しみが、もうひとつはっきりしてきません。現代でも低山の山道を散歩していると菫に出会うことがありますが、山野で出会う花として菫は、そんなにめずらしい植物ではありません。江戸時代でも、誰もが知っている山野草だったと思います。そういうありふれた花を取り上げているから、焦点が絞れていない印象なのです。

山路来て何やらゆかし菫草

それで、「山路来て」と環境を示すことにより、普段、身の回りで見かける菫の姿をクローズアップするように浮かび上がらせました。旅の山道で足元にふと見かけた菫は普段の生活で見た菫だ。それから郷愁を呼び起こす。それが何やら懐かしいという感情が湧き上がる。日常見慣れたものを、日常から離れた場所で見ると、妙に心が引かれて懐かしい気分になる。

「ゆかし」とは、「心が引かれる」とか「慕わしい」とか「懐かしい」という意味です。それが「何やら」という理由のハッキリしない微妙な感じなのです。普段、人は当たり前のように目にしていて、それと気づいていない、自らの存在を強く主張しない。だから、積極的に好きな花というわけではないけれど、どこかで親近感を持っている。だから、何となく懐かしいのです。その菫を、この句では、山道の山の景色と足元の菫の花を対照させて、そのひそやかに咲く小さく可憐な花をクローズアップさせました。

それはまた、山道の端でひっそりと根を下ろして、人知れず花を咲かせている菫に、誰に誉められるでもなく、黙々と日々をつとめている人々への共感を「何やらゆかし」と詠懐しているとも読むことができるのではないかと思います。

●「唐崎の松は花より朧にて」(大津、近江八景)

唐崎の松は花より朧にて

うす明かりが琵琶湖の水を照らしている。その中に、幽かに映る辛崎の松は、朧月夜の花よりも更に風情があっていいものだ、というのがこの句の解釈でしょうか。

この句は、作られた当時から問題句とされて、芭蕉の門人たちも「去来抄」や其角の「雑談集」の中で、この句が論じられていました。それは、まずは、この句の終わり方が「…にて」という終わり方になることだということです。これは、形式的なことですが、留め字といって連句のなかの第三句目に用いられることになっている決まりなのだそうです。それに加えて、発句として、単独で詠む場合には、切れ字が必要とされていますが、この句にはそれがない。切れ字というのは発句の中心となるもので、そこに心情とか趣向が表われるので、連句を進めていく際のテーマとなっていくようなもの、スタートの合図のようなものです。それが、この句にないというので、貞門時代なら、きっと「俳諧にあらず」と非難されるようなものだったのです。例えば、其角の「雑談集」では次のように述べられています。

伏見にて、一夜俳諧もよほされけるに、かたはらより「芭蕉翁の名句、いづれにてや侍る」と、尋出られけり。折ふしの機嫌にては、大津尚白亭にて、

   辛崎の松は花より朧にて

と申されるこそ、一句の首尾、言外の意味、あふみの人もいまだ見のこしたる成べし。其けしき、こゝにもきらきらとうつろい侍るにや」と申たれば、又かたはらより、中古の頑作にふけりて、是非の境に本意をおほはれし人さし出て、「其句、誠に俳諧の骨髄得たれども、慥なる切字なし。すべて名人の格的には、さやうの姿をも発句とゆるし申にや」と不審しける。答へに、「哉どまりの発句に、にてどまりの第三を嫌へるによりて、しらるべきか。おぼろ哉と申句なるべきを、句に句なしとて、かくは云下し申されたる成べし。朧にてと居(スヘ)られて、哉よりも猶徹たるひゞきの侍る。是、句中の句、他に的当なかるべし」と。此論を再ビ、翁に申述侍れば、「一句の問答に於ては然るべし。但シ予が方寸の上に分別なし。いはゞ、さゞ波やまのゝ入江に駒とめてひらの高根のはなをみる哉、只眼前なるは」と申されけり。

「先生、どうされたんです」。「いや、先生には特別の御工夫があるものだ」。まことに賑やかなことです。ところが、芭蕉は、澄ましたものであった。「わたしはね、べつに難しい理屈や先例を頭においたわけではないのだよ。花よりも松の朧なところに心を惹かれただけのことさ。まあ見たままだね」といったことになります。実は、この芭蕉の最後の言葉「只眼前なるは」は、芭蕉の俳諧にとって、非常に大きな意味を持つものだったと言います。それは、眼前の景は、形式的法則よりも大切である、ということを言っているからです。こんなことが重要なのかというと、連歌では、生の実感をそのまま詠むということ、卑しいとされていたのです。実感を実感として生かした表現は、連歌的世界からいって、俗なるもの、つまり、詩になっていなくて、散文と同じだったのです。である。これに対して、だから、この句が俗なる世界のものであることは、その実感を表現に生かしてきたのが、芭蕉の俳諧なのです。この句であれば「 辛崎の松は花より朧なり」というように、「にて」ではなく「なり」という切れ字を使えば、発句として成立するのです。しかし、しかし、それでは、かすかに流れてゆく余情のゆらめきが、そこでぷつんと切断され、松と花とを霞こめた朧夜の美しい感じが破れてしまう。どうしても「朧にて」でないといけないのである。この余韻は、従来の形式的な発句にはなかったものです。たとえ「俗」であっても、こんな余情が感じられるではないか、それが芭蕉が俳諧として取り入れようとしたもの、芭蕉の新しさだったのです。

また、別のところで、芭蕉本人がある門人に宛てた手紙の中で、「愚句、そこもとニテ之句、辛崎の松は花より朧にてと、御覚えくださるべくそうろう。」と書き送ったと言います。この「ニテ」とは、場所を表すもので、「朧にて」は、芭蕉のいた場所なのです。其角の「雑談集」の中で、芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」と言っていました。だから「辛崎の松は花より朧にて」これは趣向とか心情ではなく、眼前の事実でした。さて、「朧にて」というが芭蕉のいる場所でした。「朧」なる風景は本来ならば「眺望」であり、芭蕉は遠くから眺めるものであるはずなのに、なぜ、「そこもとニテ」、「朧ニテ」となるのか。それを実現させていたのは、芭蕉、その人です。そこで、芭蕉は、対岸の風景、「朧」を見て、我を忘れて、それと一つになった。だから、対岸の「朧(なる眺望)」は遠くではなく、芭蕉のいる場所にあった。いや芭蕉が、朧そのものになった。芭蕉は自然とひとつになった。それが「おぼろニテ」という留め字となって表われた。まるで禅でいう自他一如という世界と一体化しているようなものです。このように一見すると手の混んだまるではからいの句と、とられかねない句であるのに、芭蕉は「分別なし」「ただ眼前なる」と言っているのです。分別でなく、「朧」が眼前の事実であったから、そのまま言葉にした、と。だから、「にて」を「かな」とすることはできなかった、と。

●「夏衣いまだ虱をとりつくさず」

『野ざらし紀行』の巻尾の句です。

夏衣いまだ虱をとりつくさず

読んだままを解釈すると、「秋風を聞きながらの旅立ちであったが、こうして、夏衣をまとい、無事、草庵に戻ることができたよ。虱は、しばらく取り尽くさずにおいて、旅寝の名残を楽しむことにしよう」といった意味内容になると思います。ここからは、つぎのような心情を想像することができます。やれやれ。やっと深川のあばら家に帰りついた。長い旅だったなあ。あれからもう1年近くなる。ええと、あしかけ2年、まる9カ月。何といっても、ひとりごろっと伸びるほどの楽しみは無いね。しかし、さっぱりした浴衣かなんかにくつろぐ身分でもなし─と。何しろ道中のほこりで箔のついたこの一枚きりなんでね。ありゃ、ほこりだけではないらしいて。虱もお伴だよ。なつかしの虱君。まあ暇つぶしには好い相手さ。ぽつぽつ往生させてあげようかね。なむあみだぶつ。旅立ちの悲痛さにくらべ、なんと安らかな落ち着きであることか。

慥かに、句の冒頭の「夏衣」は夏の季語で雅やかな言い方とされています。それつづけて「虱」という、およそ雅とは正反対の汚いものを配したところにユーモアを感じさせ、そこに旅が終わった安堵の、気持ちの余裕を感じることも可能です。この句の「夏衣」という詩句には、「野ざらしをこころに風のしむみかな」と詠んで始まった旅は、その秋風が身に沁みはじめることから、冬に入り、歳を越して、春を過ぎ、そして旅の途中で着替えた夏衣をそのまま着通して夏衣で帰宅することができた。その夏頃についた虱を潰しながら、長旅の経過を振り返り、旅情を反芻している芭蕉の感慨がにじみ出ている。

しかし、この句の声調には、帰庵早々の落ち着かぬ気分を感じさせるものがあります。それは、「夏衣いまだ…が」という漢文訓読調になってい、「いまだ虱をとりつくさず」という詩句は、単なる怱々の思い、あるいは旅後のものうさを述べただけのものではなく、夏衣に付着した虱には、同時に、長途の行脚の侘びの思い出が染みついている。それは諸所の門友たちと俳情の交歓、あるいは風流に生きる人々との交流です。そこで思い出されるのは、次のようなエピソードです。

中国魏晋時代の賢人たちは、不老長寿を願って「五石散」という毒薬を愛飲した。貧乏人にはとうてい飲むことのかなわないこの高価な薬を飲用すると、薬の作用によって全身が発熱してくる。悪寒がしても、しかし、この場合は厚着をしなくてはならない。そして、また、発熱によって皮膚が擦りむけやすくなっているので、きちんとした着物をきることができない。ために当時の高逸の士の間には、寛衣緩帯を着用する風俗が起こった。しかも彼らは、皮膚が破れやすくなっているために、洗濯をした新しいものを身につけることができなかったから、着物には当然虱がわく。かくして、虱をひねりながら清談をたたかわせることが、高士たることの象徴となったという。

芭蕉は、このことを知っていて「いまだ虱をとりつくさず」という漢文訓読調にした。そこに脱俗の士の高雅な挙措のイメージが重ねられていた。したがって、「いまだ虱をとりつくさず」とは、帰宅怱々の思いを述べたものというよりは、自身、中国の高士を気取りながら、旅の中の諸所で交わした脱俗の高士たちとの交流を反芻している感慨を述べたものと受け取ることもまたできる。その風交の一齣を反芻しながらつづったのが、この紀行文に他ならない。紀行はつづり終えても、なお、旅の思い出は語り尽くせない、この句は、そうした無限の余情を含みながら、孤独な「野ざらし」の門出の句との大きな対照を示しています。

 

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