マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第3篇 絶対的増殖価値の生産
第8章 労働日 |
第1部 資本の生産過程 第3篇 絶対的剰余価値の生産 第8章 労働日 〔この章の概要〕 労働者は剰余価値を生む生産をすることによって、はじめて自己の労働生産物の一部を、その労働力の代価として受け取る賃金でもって買い戻し、資本家は、労働力に対して賃金の形で前貸しする可変資本の価値を、労働力によって新たに生産された価値から剰余価値とともに回収するという関係にある。このように展開される資本制生産は、労働者の全労働時間を資本の支配のもとにおくものとして、当然、まず労働時間の延長による「絶対的剰余価値」の生産として現れます。「剰余価値=労働者が生み出した価値−労働力の価値」なので、1日の労働時間が長ければ長いほど、資本家はより多くの剰余価値を生産することができます。しかし労働時間は無制限に延長させられるものではありません。それは一定の限界をもっていることになります。しかし労働日がそういう限界をもっているとしても、1労働日のうち、労働力の再生産に必要とされる労働時間部分、いわゆる必要労働時間が短縮させられるならば剰余労働時間は増加する。資本主義はこれを生産方法の発展による生産力の増進によって実現したのであった。 本来は人間の労働を楽にし、短くすると思われている機械装置が、実は労働日の延長のきわめて大きな動機になりました。 それはなぜかというと、機械は恒久的運動機関であり24時間運転することができるものだったからです。それを毎日できるだけ長く使用した方が、生産量が増え、早く機械の価値が回収できたのです。 また、早く回収すれば、さらに新しく生産性の高い機械ができて、古い機械が生産コストの高いものとなってしまうリスクを小さくできました。しかも、新型で生産力の高い機械の購入直後には特別剰余価値が生まれるから、その期間は資本を徹底的に利用しようとし、それも労働日延長の強い動機となったのです。 手工業やマニュファクチュアは熟練労働に依存していたから、それまでは夜間労働はありませんでした。もちろん納期に間に合わすために徹夜で生産することは古代からときにはあったのでしょうから、一般的には夜間も生産し続ける動機がありませんでした。大工業の時代になって、資本家に機械を24時間ずつ動かし続けた強い動機が生まれたものです。 資本家の立場からみると、機械が夜間に半日も使われないでいるのはたいへん勿体ないことです。ここにも労働者をはりつけて、剰余労働を吸収したいという欲望が強くなります。しかし労働者を24時間働かせるわけにはいかないので、労働者を二組に分けて交替制とする発想が生まれました。 とくに溶鉱炉をもつ鍛冶工場、圧延工場などにおいては、それが制度として存在していました。今も事情は同じですが、金属加工業などにおいては、機械を一回止めると生産コストが高くなります。溶鉱炉などの火を夜に止めてしまうと、翌朝再び金属溶解温度まで上げていくのにエネルギーと時間が必要になるので、24時間工場を稼働させます。しかも大部分は日曜日でも24時間使い、365日間年中無休で工場を稼働させるのです。 そのとき8歳から18歳までの児童・少年が、原料や完成品を工場内で運ぶなどの補助的な労働に使われました。男子成年労働者が夜間に労働しているときも、その補助をする児童・少年労働者が必要であり、したがってその夜間労働の禁止は、成年労働者の禁止は、成年労働者の夜間労働を不可能にするものとなりました。1833年の工場法で児童・少年労働は午後8時半までに制限され、代わりに使われた婦人成年労働者も1844年に同じ制限が適用されました。その結果、男子成人労働者の深夜ないし徹夜の労働は一時的になくなりました。『資本論』以後のことになりますが、コンペア・システムによってそれが復活し、現在も続いているということはいうまでもありません。資本家の剰余価値への欲望は、まったく変わっていません。 労働者が機械の使用に慣れていくと、当然ながら労働の能率は自然に上がります。その上がった分も資本の生産力の上昇になるわけですが、さらに工場法が制定されて労働日が制限されると、労働の強度を意識的に高めようとする衝動が弱まりました。しかも、皮肉なことに、労働日の短縮が労働者を肉体的にも精神的にも健康にし、その労働の規則性や秩序、精力を高めていました。労働支出の増大が労働者に強制されるようになったのでした。 使い古された例ですが、チャップリンの『モダン・タイムス』の、機械がだんだん速く動くようになり、まさにあの世界です。労働の強度は機械を動かす速度によって規定され、資本の側がその決定権を握っています。それによってより多くの労働が支出され、剰余労働を増やすことになりました。労働の強化は、必要労働時間を短くし剰余労働時間を長くすることになるから、これも必要労働時間も短縮させる「相対的剰余価値の生産」ではありますが、労働密度を高めるものに変質したとマルクスは指摘しています。 現在は、8時間労働が原則ですが、140年前の12時間労働日の時代よりはるかに労働の密度は高まっていると考えるべきだろうと言えます。その労働密度で残業が長くなれば、労働力を破壊するものとならざるをえないのです。 長時間労働と労働強化の必然的な結果は過労死と短命化でした。 当時のイギリスでは、工場法によって内務大臣に直属する工場監督官が置かれ、工場の実態が調べられていました。その『工場監督官報告書』に載る、当時のイギリスの事例を数多くマルクスは紹介しています。そのほんの一部をみるだけでも、過労死と短命化が古くて新しい問題であることが分かるでしょう。 たとえば、婦人服製造工。婦人服の製造は、今でいえば華やかなファッション業界ですが、そこで働いている人たちは現在も相当悲惨な状況にあるようです。当時も華やかな上流階級のパーティーのための貴婦人用のドレスを縫わされる若い女工が、狭い作業場で長時間労働させられ、脳出血で死にました。過労死の典型です。検死医は「詰め込みすぎた作業室における長い労働時間と、狭すぎる換気の悪い寝室のために死んだ」と証言しています。 そして大物鍛冶工。鍛冶屋というのは、ドイツでは昔は子供の憧れの仕事、かっこよい仕事というイメージがありました。マルクスの引用した医師の報告でも「純粋に肉体的に見れば、彼は、適度に労働する場合には、人間の最上の状態の一つにある」「彼ほど食いかつ飲みかつ眠る者は、ほかにいない」、その仕事は「非の打ち所がないもの」と、ずいぶん誉めている。とても健康的で力強いイメージの労働なのですが、それが工場労働になると過度労働となり、平均37歳で死ぬようになってしまったのです。 短命化は、肉体労働にきつい労働にはかぎりませんでした。 製パン業は昔からある産業ですが、ここで珍しいことにマルクスは労働時間の話から少し脱線して、パンの不正製造の話も書いています。現代でも無縁な問題とはいえないから、私も脱線しましょう。 「人間は、恩寵によって選ばれた資本家や地主や冗職牧師でないかぎり、額に汗してパンを食べるように定められていることは知っていましたが、しかし、人間は毎日そのパンとともに、明礬、砂、その他の結構な鉱物性成分を別としても、腫れ物の膿や蜘蛛の巣や、油虫の死骸や腐ったドイツ酵母まで混ぜ込んだ」パンを食べねばならないとは知りませんでした。 日常みんなが食べているパンが混ぜ物の多いひどい物だったというのは、おそらく当時ロンドンで大騒ぎになった事件なのでしょう。 製パン業の場合、労働時間の問題としては、夜間労働という側面がありました。日本では焼きたてのパンを朝から売っている店はあまりないでしょうが、今でもヨーロッパのパン屋は早朝から聞いています。朝食前に店が開き、焼きたてのパンを売っています。日本の豆腐屋に近い感じです。パンは焼く前に生地を発酵させる時間が必要だから、夜のうちに仕込んで早朝から焼く。そのため夜間労働が行われていました。ただしそれは、マルクスによると19世紀になってから確立したことのようです。たしかにパンはある程度保存できるし、毎朝焼きたてのパンを食べる習慣は中世にはなかったことでしょう。だとすれば、これは資本主義的営業政策から発生したことになります。 ロンドンの製パン職人の労働は通常夜の11時からはじまりました。生地を作り終えて仮眠をしている間に生地が膨らんで、それを早朝から窯に入れます。パンを焼いている横で、摂氏30度前後の高温の室内で働き続けました。 その結果、製パン業の労働者は短命で、42歳に達することは稀でした。当時の平均年齢はもちろん今よりずっと短かったが、50歳代としても、それより10年以上も早く死んでしまう。製パン業はそれほど健康に悪い仕事とは常識的には思えないものですが、そういう状況になっていました。労働者が異常に消耗させられていたのです。 それでも製パン業は、つねに志願者であふれ、補充はいくらでもいました。その労働力の供給源が、スコットランドであり、イングランドの西部農村であり、そしてドイツでした。国内の農村部と外国の後進国です。その事情も今と同じと言えます。 鉄道労働者の例が出ています。乗客を「天国に運搬した」鉄道事故があり、鉄道労働者の怠慢が原因とされました。しかしその労働者は、観光シーズンには休みなく40時間から50時間働かされていました。事故が起きないほうが不思議な状況のなかで働かされていました。 近年日本でもまた大きな鉄道事故がありました。観光列車ではなかったが、これは安全への投資を節約し、労働生産性の向上しか眼中になかった民営化に原因があったことは誰の目にも明らかでした。労働運動の抵抗による歯止めが存在しないことも共通と言えます。旧国鉄労働組合の組合員が徹底的に排除されたため、JRの労働者はそれにほとんど抵抗できないでいるようです。 アイルランドの亜麻打ち工場では、毎年労働者が1人死亡し、10人が重傷を負いました。四肢のひとつが機械によってもぎ取られたのです。わずか数シリングのきわめてかんたんな装置をつけるだけで予防できたのですが、法律で強制されるまで資本家はそれをつけようとはしませんでした。作業場の酸素濃度を確保するための1人当たりの空間の規制や、換気装置設置の義務化などの法的規制に対しても、資本家は徹底的に抵抗しました。 現代の日本ではほとんど問題にならないことですが、児童・少年の工場での酷使も大工業になって出現した現象でした。機械は筋肉の力を不必要とします。肉体労働が大幅に軽減され、また必要としない労働を大量に生みだしました。機械は児童労働者を使用する手段となり、賃金労働者としたのでした。 「労働および労働者のこの強大な代用物は、たちまち、性と年齢の区別なく、労働者家族の全成員を資本の直接の命令下に編入する」とマルクスは書いています。賃金労働者の数を増加させ、さらに子供も遊びに代えて、あるいは農村では伝統的だった家族的補助労働に代えて、資本家のための労働をするようになったのです。 マルクスは多くの児童労働の事例を紹介していますが、一つだけ紹介しましょう。マッチ製造業の例です。19世紀になって発明されたマッチの製造は当時の新興産業でした。今はもうあまり使われなくなりましたが、それまで面倒だった火起こしが簡単になり、爆発的に普及しました。しかし燐は有毒物質で、顎の骨が腐って、最終的には顎がなくなってしまう燐毒による被害もありました。また、爆発事故も多かった。そこで子供たちが毎日15時間も働かされていました。マッチ製造業では労働者の半数が児童・少年で、そこでは、筋力を必要とせず、細かい作業が多いマッチの生産では、補助労働ではなく、子供が労働者の中核になっていました。 工場法で児童労働が禁止され、少年労働が制限されるようになってからは、婦人労働者が動員されるようになりました。夫人は大人だから、「自由主義」の理念により、いっさい制限を受けなかったからです。そのため婦人労働者が急増しました。 乳児や満1歳未満の子供の死亡率の高さが、母親の就業と関連していました。適切に食物が与えられなかったり、子供にアヘン剤が与えられたためです。さらに、子供が邪魔になって殺すこともありました。アヘン剤というのは薬としてアヘンを飲用するもので、それを子供に朝与えて母親は働きに出たのです。すると子供は機嫌よく1日過ごしていました。 ともあれ、児童と婦人の多数を追加することで、機械装置は、マニュファクチュアにおいて、男子労働者がなお資本の専制に向けていた反抗を、ついに打破しました。マニュファクチュアは熟練労働者が中心でしたから、それが抵抗すると生産が止まってしまいました。しかし機械装置は不熟練労働者に操作できるものであり、婦人・少年が大量に市場に動員されたことによって、男子熟練労働者の資本に対する抵抗を無力化したのです。 ところで、このようにして労働者が増えると、労働力の価値規定、つまり賃金規定に変化が生じます。労働力の価値は個々の青年労働者の生存維持に必要な労働時間だけではなかったからです。労働力の価値規定は、労働者自身の再生産費と家族生活費、そして熟練費でした。ただし、最後の要素は機械制によって大幅に縮小され、単純労働者ならゼロになります。 ところが「機械装置は、労働者家族の全成員を労働市場に投じて、成年男子の労働力の価値を、彼の全家族の上に分割する。それゆえに、機械は彼の労働力の価値を引き下げる」のです。つまり、家族が4人の労働力に分割されても家族全体の再生産費は、以前の家長1人の労働力の価値とは変わらないが、しかし、資本家は今までの1労働日にかわって4労働日が手に入ることになります。これを価値分割といいます。つまの、こういうことです。たとえばある男子青年労働者の価値規定を、マルクスの区分とは少し変えて、@本人の1カ月の衣食住のうち衣食等の個人的再生産費、A世代を再生産するためには子供が最低2人必要なので2人、そして妻1人の家族の衣食のための生活費、B家族の「共益費」、たとえば住居費のように、本人分とか妻分とかではなく、1つの家族が生活していくための住居、燃料・水道代など、に分けてみましょう。その合計が男子青年労働者の労働力の価値規定になってしました。かりに、その合計を1か月40万円としましょう。内訳は@本人の衣食が10万円、A妻の衣食も10万円、子供二人は半額で5万円ずつ。そしてBの誰のものともいえない家族共益費が10万円だったとします。男子青年労働者が月40万円の賃金で、この家族が再生産され、2人の子供が育って労働者の再生産が行われることになります。ところが、婦人労働力が動員され、妻が働きだすとしましょう。そうなると、妻の生活費は妻の労働力の価値規定に移ります。子供も1人分が妻の労働力の再生産費となる。共益費も半分は妻の労働力再生産費となります。したがって、婦人労働者の価値規定は、自分の衣食費10万円+子供1人の生活費5万円となります。つまり、この婦人労働者の労働力価値は合計で20万円になります。男子が40万円だったのに婦人が20万円というのは、過渡的に婦人労働者の低賃金を説明するものと言えますが、長期的には男子成年労働者の価値規定も20万円に下がることを意味します。要するに、この1家族は40万円あれば、労働力の再生産ができるからです。これが価値分割です。 価値分割がどのようにして起こるかというと、例えば「今月から妻が働くことになりました」と言ったら、「では今月から賃金を40万円から20万円に下げます」と個別的に決まるわけではありません。商品(労働力)の価値は個別的に決まるわけではないのです。とはいえ、もし労働者の全所帯が共働きになれば、労働力の価値規定は社会的に20万円に下がります。そうなったら働き損です。今まで1人で済んでいたものが、2人で働いて結局得る金額は同じになります。しかし、理論的にはそうならざるを得ません。一方資本家は、今までと同じ金額で2倍の労働力を使用できることになります。現実的には、婦人労働者が増えていくと、それにしたがって社会的平均として労働力価値が40万円から少しずつ低下していくことになります。 〔本分とその読み(解説)〕 可変量としての労働日 われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産に必要な労働時間によって規定される。だから、もし労働者の平均1日の生活手段の生産に6時間が必要ならば、彼は、自分の労働力を毎日生産するためにはむ、または自分の労働力を売って受け取る価値を再生産するためには、平均して1日に6時間労働しなければならない。この場合には、彼の労働日の必要部分は6時間であり、したがって、ほかの事情が変わらないかぎり、一つの与えられた量である。しかし、それだけでは労働日そのものの長さはまだあたえられていない。 われわれは、線分a─bが必要労働時間の持続または長さ、すなわち6時間を表わすものと仮定しよう。労働がabを越えて1時間、3時間、6時間などというに延長されれば、それにしたがって次のような三つの違った線分が得られる。 労働日T a───b−c 労働日U a───b──c 労働日V a───b───c この三つの線分は、それぞれ7時間、9時間、12時間から成る三つの違った労働日を表わしている。延長線bcは剰余労働の長さを表わしている。1労働日はab+bcまたはacだから、1労働日は可変量bcとともに変化する。abは与えられているのだから、abにたいするbcの比率はいつでも計ることができる。bcは、労働日Tではabの6分の1、労働日Uでは6分の3、労働日Vでは6分の6である。さらに、剰余労働時間/必要労働時間という比率は剰余価値率を規定するのだから、剰余価値率は前記の比率によって与えられている。それは、三つの違った労働日ではそれぞれ16と3分の2%、50%、100%である。その逆に剰余価値率だけでは労働日の長さは与えられないであろう。かりにそれがたとえば100%だとしても、労働日は8時間、10時間、12時間等々でありうるであろう。この剰余価値率は、労働日の二つの部分、必要労働と剰余労働とが同じ長さだということを示すであろう。しかし、これらの部分のそれぞれの長さであるかは示さないであろう。 つまり、労働日は不変量ではなく、可変量である。その二つの部分の一方は、労働者自身の不断の再生産のために必要な労働時間によって規定されてはいるが、しかし労働日の全体の長さは、剰余労働の長さまたは持続時間とともに変動する。それゆえ、労働日は規定されうるものではあるが、それ自体としては不定なのである。 これまで、労働力という商品が、その価値のとおりに販売され、購入されることを前提にして考えてきました。労働力の価値は、他の商品と同じように、その商品を生産するために必要な労働時間です。これまでの設例では、労働者の日々の平均的な生活のために6時間の労働が必要であるとしていました。したがって労働者にとって労働日の必要労働時間は6時間です。これは、他の条件が同じであれば、同じような時間量となるものです。しかし、労働日の労働時間は、この必要労働時間の6時間だけではありません。 では、労働日は必要労働と剰余労働を合計したものです。だから、剰余労働の量によって労働日の労働時間が決まります。したがって、労働日は不変量ではなく、可変量である。労働日のうちの一つの部分は、労働者自身をたえず再生産するために必要な労働時間によって決まるのですが、労働日の全体の長さは、剰余労働が行われる時間の長さあるいは剰余労働の長さによって変化します。それゆえ、労働日の長さは規定できても、それ自体は不確定なものとなります。剰余労働とは剰余価値を産出する労働です。資本の目的は剰余価値の不断の獲得にある限り、剰余労働時間の延長が、さしあたり資本にとっては絶対的な利益となるからです。 ここでの、マルクスの説明は、必要労働時間が6時間と決まっていて、労働日の長さがどうなるかを剰余労働の時間の長さを3通りにして比較しています。それによって、剰余労働の長さによって労働日の労働時間の長さが変動することを示しています。 わたしたちは、労働力がその価値どおりに販売され、購入されることを前提として考察してきた。労働力の価値は他のすべての商品と同じように、その商品を生産するために必要な労働時間によって決まる。労働日の日々の平均的な生活手段を生産するために6時間が必要であるとすれば、労働者は自分の労働力は日々生産するために、あるいは自分の労働力を販売してえられた価値を再生産するために、1日当たり平均して6時間働く必要がある。これによって、労働者にとって必要な労働日の長さは6時間であり、他の条件が同じであれば、ある与えられた量である。しかしこれだけでは労働日そのものの長さは決まらない。 ここでa─bという線分で、必要な労働時間の持続時間または長さ、すなわち6時間を示すとしよう。実際に労働する時間がこの必要な労働時間よりも1時間、3時間、6時間だけ長いとすると、次のような三つの線分がえられる。 労働日1 a───b−c 労働日2 a───b──c 労働日3 a───b───c これらはそれぞれ7時間、9時間、12時間という、長さの異なる三つの労働日を示している。延長した線分bcが増殖労働の長さを示す。労働日はab+bcすなわちacであるから、労働日の長さは[増殖労働の長さを示す]可変量bcとともに変化する。abの値はすでに与えられているので、bcは労働日1ではabの6分の1であり、労働日2ではabの6分の3であり、労働日はabの6分の6である。 さらに増殖労働時間/必要労働時間の比率は増殖価値率を決定するから、このbcとabの比率から増殖価値率を求めることができる。前記の三つの労働日でみると、増殖価値率は、労働日1では16と3分の2%、労働日2では50%、労働日3では100%になる。 反対に増殖価値率だけが与えられていても、そこから労働日の大きさを決めることはできない。たとえば増殖価値率が100%であっても、労働日の長さが8時間であることも、10時間であることも、12時間などであることもある。この100%という増殖価値率は労働日の二つの部分である必要労働と増殖労働の時間の長さが等しいことを示しているだけで、実際にそれぞれの部分が何時間であるかを示しているわけではない。 すなわち労働日は不変量ではなく、可変量である。労働日のうちの一つの部分は、労働者自身をたえず再生産するために必要な労働時間によって決まるが、労働日の全体の長さは、増殖労働が行われる時間の長さあるいは増殖労働の長さによって変化する。労働日の長さは規定できるが、それ自体は不確定なものである。 労働日の限界を定める要因 このように労働日は固定量ではなく流動量であるとはいえ、他面、それはただ或る限界のなかで変動しうるだけである。しかし、その最小限度は規定されえないものである。もちろん、延長線bcすなわち剰余労働をゼロとすれば、一つの最小限度、すなわち1日のうちで労働者が自分を維持するために必ず労働しなければならない部分が得られる。しかし、資本主義的生産様式の基盤の上では、必要労働はつねに彼の労働日のただ一部分をなしうるだけであり、したがって労働日はけっしてこの最小限度までは短縮されえないのである。これに反して、労働日には最大限度がある。労働日は、ある限界を越えては延長されえない。この最大限度は二重に規定されている。第一には、労働力の肉体的限界によって。人間は、24時間の1自然日のあいだにただ一定量の生命力を支出することしかできない。馬ならば毎日8時間しか労働することはできない。1日のある部分では体力を休み、眠らなければならない。また別の一部分では、人間はそのほかの肉体的な諸欲望を満足させなければならない。すなわち、食うとか身を清めるとか衣服を着るなどの欲望である。このような純粋に肉体的な限界のほかに、労働日の延長は精神的な限界にもぶつかる。労働者は、精神的および社会的な諸欲望を満足させるための時間を必要とし、これらの欲望の大きさは数は一般的な文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的および社会的な限界のなかで動くのである。しかし、これらの限界はどちらも非常に弾力のあるもので、きわめて大きな変動の余地を許すものである。こういうわけで、われわれは8、10、12、14、16、18時間の、つまり非常にさまざまな長さの労働日を見いだすのである。 労働日は量、つまり、1日の労働時間が決められ固定されているわけではなく、可変的つまり流動的です。しかし。変化すると言っても無制限というわけではなく、限度があります。その最低限は明らかです。労働日が必要労働時間と一致するまで短くなれば、剰余労働時間は存在せず、したがって剰余価値も生まれません。この場合、必要労働は労働者が自分自身を維持するために必要ですから、これを削ることはできない。したがって、労働日が必要労働の時間と一致するというのが最低限です。しかし、剰余労働がゼロで剰余価値の生まれないというのを資本家が認めることはありません。なぜなら、資本家は剰余価値を求めて生産をするのが資本制生産様式だからです。したがって、労働日は少なくとも、どれほどわずかであれ剰余労働時間を、したがって剰余価値を資本家に与える水準でなければならないのです。労働日が最低限にまで引き下げられることはありえないのです。 反対に最大限度はあるのでしょうか。最大限とは、この長さを超えて、労働時間を長くすることはできないという限度です。その最大の限度は二つの要因によって決まります。その第一は、労働力の肉体的な限界です。1日は24時間ありますが、人は、そのすべてを労働に費やすことはできません。人間も1日のある時間は力を休め、眠る必要があるし、別の時間は食事をしたり、体を洗ったり、服を着たりするといった身体的な要求を満たす必要があるのです。そうでなければ、身体を維持することはおろか、生命を維持することはできません。 第二の要因として、精神的な制約です。第一の肉体的な制約に対して精神的な制約です。労働者は人間として精神的及び社会的な欲望を満たすための時間が必要です。その長さや頻度は、一般的な文化水準によって決まるという、いわば社会慣習的な限界と言えます。 このように労働日の長さは、身体的な制約と社会的な制約という上限のうちで変動します。ただし、この二つの制約そのものが弾力的で、変動する余地があります。したがって、実際の労働日の長さはきわめて多様となります。 労働日はこのように固定された量ではなく、流動的な量であるが、一方ではその変化にはある限界がある。しかしその最低限の長さは確定できない。もちろん延長した線分bc、すなわち増殖労働の長さをゼロとすれば、労働日の長さの最低限を決めることはできる。これは労働者が自分を維持するために必然的に働かざるを得ない労働時間の長さに等しい。しかし資本制生産様式の基盤のもとでは、必要労働はつねに労働日の一部を占めるにすぎない。労働日がその最低限にまで引きさげられることはないのである。 これに対して労働日には最大の限度がある。ある特定の長さを超えては、延長することはできない。この最大の限度は次の二つの要因によって決まる。第一は労働力の身体的な限界である。自然日は24時間あるが、このあいだに人間は特定の量の生命力しか支出できない。たとえば馬は1日に8時間しか働けない。人間も1日のある時間は力を休め、眠る必要があるし、別の時間は食事をしたり、体を洗ったり、服を着たりするといった身体的な要求を満たす必要がある。 こうした純粋に身体的な制限のほかにも[第二の要因として]、精神的な制限が労働日の長さを限定する。労働者は精神的な欲望や社会的な欲望を満たすための時間を必要とする。その時間の長さや回数は、一般的な文化水準によって決まる。 このように労働日の長さは、身体的な制約と社会的な制約の範囲のうちで変動することになる。そしてこの二つの制約はきわめて弾力的なものであり、大きく変動する余地がある。実際に労働日の長さは、8時間、10時間、12時間、14時間、16時間、18時間など、きわめて多様である。 資本の魂の衝動 資本家は労働力をその日価値で買った。1労働日のあいだの労働力の使用価値は彼のものである。つまり、彼は、1日のあいだ自分のために労働者を働かせる権利を得たのである。だが、1労働日とはなにか?とにかく、自然の1生活日よりは短い。どれだけ短いか?資本家は、この極限、労働日の必然的限界については独特な見解をもっている。 資本家としての彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本にはただ一つの生活衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である。資本はすでに死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そしてそれを吸収すればするほどますます活気づくのである。労働者が労働する時間は、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。もし労働者が自分の処理しうる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。 資本家は労働力を1日当たりの価値で購入します。その購入した日はずっと、労働力の使用価値を資本家が所有しているということです。その1日、つまり労働日の長さについて、資本家は独自の見方をします。 資本家という人格は、いわば人間の姿をした資本です。資本家の魂とは資本の魂だとマルクスは言います。その魂の求めることは、ただひとつ。剰余価値を作り出すこと、資本の不変部分である生産手段を利用して、できるだけ多くの剰余価値を得ようとします。 資本は、いわば死せる労働で、生ける労働を吸収することで生き延びてきています。しかも、吸収する量が多いほど、長く生き延びるのです。労働者が労働時間を自分の意のままに自分のために消費する時、労働者は資本家のものを掠めることになります。 資本家は労働力をその1日当たりの価値で購入したのである。その労働日のあいだは、労働力の使用価値は資本家が所有している。しかし1労働日とは何なのか。それは少なくとも自然の1生活日よりも短い。それでは何時間だけ短いのだろうか。その限界、労働日の必然的な制約については、資本家は独自の見方をする。 資本家としての彼は、人間の姿をとった資本にすぎない。資本家の魂は、資本の魂である。そして資本の衝動はただ一つである。みずからの価値を増殖すること、増殖価値を作りだすこと、資本の不変部分である生産手段を利用して、できるだけ多くの増殖労働を吸い取ること、それが資本の唯一の衝動である。 資本は死せる労働であり、吸血鬼のように、生ける労働を吸いとることによってのみ生きている。しかも吸いとる量が多ければ多いほど長く生き延びるのである。労働者が労働する時間は、資本家が自分の購入した労働力を消費する時間である。労働者が労働時間を自分の意のままに自分のために消費するならば、労働者は資本家のものを盗むことになる。
労働者の声 こういうわけで、資本家は商品交換の法則をたてにとる。彼は、ほかのどの買い手とも同じに、彼の商品の使用価値からできるだけ大きな効用を引き出そうとする。ところが、突然、労働者の声が聞こえてくる。それは生産過程の疾風怒濤のなかかき消されていたのであるが。 ぼくがきみに売った商品は、その使用が価値を創造し、しかもそれ自身が値するよりも大きい価値を創造するということによって、ほかの商品庶民とは区別される。これが、きみがそれを買った理由だった。きみのほうで資本の価値増殖として現われるものは、ぼくのほうでは労働力の余分な支出だ。きみもぼくも、市場では、ただ一つの法則、商品交換の法則しか知らない。そして、商品の消費は、それを手放す売り手のすることではなく、それを手に入れる買い手のすることである。だから、ぼくの1日の労働力の使用はきみのものなのだ。しかし、ぼくの労働力の毎日の販売価格によって、ぼくは毎日労働力を再生産し、したがって繰り返しそれを売ることができなければならない。年齢などによる自然的な消耗は別として、ぼくは明日も今日と同じに正常な状態にある力と健康と元気とで労働することができなければならない。きみは、いつもぼくに向かって「倹約」と「節制」との福音を説いている。よろしい!ぼくは、分別のある倹約な亭主のように、ぼくの唯一の財産、労働力を倹約し、そのばかげた浪費はいっさいやめることにしよう。ぼくは、毎日、ぼくの労働力を、ただその正常な持続と健全な発達とにさしつかえないだけ流動させ、運動に、労働に、転換することにしよう。労働日の法外な延長によって、きみが1日のうちに、ぼくが三日かかって回復できるよりも大きい量のぼくの労働力を流動させることもできる。こうしてきみが労働として得るだけのものを、ぼくは労働実体で失うのだ。ぼくの労働力の利用とその強奪とはまったく別のことだ。平均労働者が合理的な労働基準のもとで生きて行くことのできる平均期間が30年だとすれば、きみが毎日ぼくに支払うぼくの労働力の価値は、その全価値の(365×30)分の1すなわち1万950分の1である。だが、もしきみがそれを10年で消費するならば、きみはぼくに毎日その全価値の3650分の1の代わりに1万950分の1を、つまりその日価値のたった3分の1を支払うだけであり、したがって毎日ぼくからぼくの商品の価値の3分の2を盗むのである。きみは、3日分の労働力を消費するのに、ぼくには1日分を支払うのだ。これは、われわれの契約にも商品交換の法則にも反している。そこで、ぼくは正常な長さの労働日を要求する。しかもきみの同情に訴えることなくそれを要求する、というのは、商売に人情はないのだからだ。きみは、模範市民で、たぶん動物的虐待防止協会の会員で、そのうえ聖者の聞こえさえ高いかもしれない。しかし、ぼくにたいしてきみが代表している物には、胸のなかに鼓動する心臓がない。そこで打っているように思われるのは、ぼく自身の心臓の鼓動なのだ。ぼくは標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ。 資本家は、資本の人格化として行動するかぎり、剰余価値を最大化しようとし、そのためにできるだけ労働日を延長しようとします。資本家はこのような労働日の延長を「商品交換の法則」を盾にとって正当化します。他の商品と同じように、1日分の労働力の価値を支払い、1日の間有働力を自由に使用する権利を得たのだから、それをどう使おうが自由だ、というわけです。 これに対して、労働者の方は、いくら労働力を資本家に売り渡してしまっているからといって、労働日を無制限に延長されれば、肉体的および精神的限界を超えてしまい、彼の心身が破壊されてしまいます。そのため、労働者は「標準労働日」、すなわち心身をすり減らすことなく、ふつうに生活していけるような標準的な労働時間の長さを要求します。とはいえ、賃労働者はこのことを資本家の同情に訴えて実現しようとするのではありません。彼も資本家と同様に、「商品交換の法則」を盾に取ります。つまり、過度の労働日の延長によって自分の心身が破壊されれば、自分は労働力を販売し続けることができなくなり、本来受け取ることのできる生涯賃金の一部しか受け取ることができなくなる。だから標準労働日は労働力商品の売り手としての正当な権利だ、というわけです。 ここでは資本家は、商品交換の法則に依拠しているのである。資本家も他の買い手と同じように、自分の購入した商品の使用価値から引き出す効用を最大にしようとする。しかしここで突然、労働者の声が聞こえてくる。生産過程の疾風怒濤のうちでは沈黙していたこの声は次のように語るのである。 「ぼくが君に売った商品は、ありふれた商品ではない。ぼくが売った商品は、使うことで価値を生む。しかもそれ自身の価値よりも大きな価値を作り出すのだ。君もそのためにこそ、この商品を買ったわけだ。だが君にとって資本の価値の増殖とみえるものは、ぼくにとっては労働力の過剰な支出にほかならない。君もぼくも市場では商品交換の法則しか知らない。そして商品を消費することができるのは、その商品を譲渡した売り手ではなく、商品を手にいれた買い手である。だから君はぼくの日々の労働力を使用することができる。 しかしぼくとしては、労働力を毎日売っているその価格で、自分の労働力を毎日再生産し、それを新たに売ることができるようにしなければならない。年齢やその他の自然な消耗をのぞくと、ぼくは明日もまた今日と同じような体力と健康と活力に満ちた標準的な状態で働くことができなければならない。 君はぼくにいつも、倹約しろとか、節制しろとか説教する。いいとも。賢い倹約家である主人の君と同じように、ぼくも自分の唯一の財産である自分の労働力を倹約しよう。労働力の愚かしい浪費はやめて節制しようではないか。これからぼくは自分の労働力を標準的な水準で維持し、健全な発達に妨げのない範囲だけで、毎日労働力を放出して、これを運動や労働に使うことにしよう。 君は労働日を際限なく延長して、ぼくが三日かけないと補うことのできないほどの労働力を1日で放出させることもできる。しかし君がそこで手にする労働の量だけ、ぼくは自分の労働の実体を失うことになる。ぼくの労働力を利用することは、それを奪うことはできないはずだ。平均的な労働者が、常識的な規模の労働をして生きる期間を平均して30年と考えよう。君がぼくに毎日支払う労働力の価値は、その総価値の(365×30)分の1だから、1万950分の1である。しかしそれを[1日に3日分働かせて30年ではなく]わずか10年間で消費し尽くしてしまうとすれば、君はぼくにすべての価値の3650分の1を支払うべきところを、毎日1万950分の1しかはらわないことになるのだ。つまり労働力の1日当たりの価値の3分の1しか支払わないことになるのだ。つまり君はぼくの商品価値の3分の2を盗んでいることになる。君は3日分の労働力を消費しているのに、ぼくには1日分しか払わないからだ。これはぼくたちの契約にも、商品交換の法則にも反することだ。 だからぼくは労働日の長さが標準的なものであることを要求する。そしてそれを要求するときに君の心情に訴えかけることはしない。金の問題に心情を交えてはならないからだ。君はたしかに模範的な市民かもしれない。もしかすると動物的虐待防止協会の会員かもしれない。それどころか聖人君子と呼ばれる誉れの高い人かもしれない。しかし君がぼくに対して代表しているもの[資本]の胸に鼓動する心臓がない。鼓動のように見えるのは、ぼくの心の鼓動なのだ。ぼくは標準的な労働日を要求する。他のすべての売り手と同じように、自分の商品に見合う価値を要求するのだ」。 労働日の長さをめぐる闘争 要するに、まったく弾力性のあるいろいろな制限は別として、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長してできれば1労働日を2労働日にでもしようとするとき、彼は買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質には、買い手による消費にたいする制限が含まれているのであって、労働者が、労働日を一定の正常な長さに制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張するのである。だから、ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利とのあいだでは力がことを決定する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争─総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争─として現われるのである。 労働日の限界は極めて弾力性に富んでいるので、実際のところ、労働日の限界も、増殖労働の限界も明確に定められているわけではありません。それゆえ労働力という商品の売買では、買い手の権利と売り手の権利が衝突します。どちらの権利も「商品交換の法則」から発生したものであるにもかかわらず、賃労働者が自分の生命活動の一部を切り売りするという労働力商品の特殊性のために、このような「二律背反」が発生するのです。どちらの側の権利も、商品交換法則から正当なものと認められ、対等なのです。 そうなると、決定力を持つのは力の強さ、パワーです。すなわち、どちらの権利が優勢となり、どのくらいの長さの労働時間が「標準労働日」と見なされるかは、資本家階級と労働者階級とのあいだの闘争によって決まることになります。すなわち、資本家階級はこの社会で圧倒的な力を持っている貨幣、あるいは資本を武器に闘い、労働者階級は自分たちの唯一の武器である団結、すなわちアソシエーションの形成によって闘うのです。 必要労働時間と剰余労働時間との合計は、資本家の指揮下で行われる1日の総労働時間を構成しますが、この1日の労働時間が労働日です。そこで問題は、この労働日の長さは何によって決まるのか、です。 必要労働時間の長さは固定したものと考えていいでしょう。すると、労働日の長さは基本的に剰余労働時間の長さによって決まることになります。では、この剰余労働時間はどこまで延長可能なのでしょうか?言い換えるなら。「1日分の賃金」をもらって労働者が行われなければならない「1日分の労働」とは具体的に何時間を意味するのか?というのも、「1日分」というのは非常に曖昧な言い方であって、それが文字通りの24時間を意味しえない以上、「1日分」が意味する実際の労働時間数は、自然的にではなく社会的に決定されているからです。 資本家にとっては、剰余労働時間は長ければ長いほどよいことになります。それゆえ、その「1日分」はできるだけ文字通りの意味に取ろうとするでしょう。資本の人格化たる資本家の頭を支配しているのはできるだけ多くの剰余価値を獲得することであって、労働者の健康や生活などではないのです。 極端な話ですが、ナチスもその強制収容所においてそうした「死ぬまで働かせる」体制を追求しようとしました。この点で資本家の夢とナチスの現実とはそっくりである。というよりも、通常の状態では実現できない資本家の夢を、絶対的な暴力と独裁のもとで実現しようとしたのがナチスと言えます。まさにこの場所において、資本の形態的運動原理である「無限の価値増殖」と資本の実体的運動原理である「労働者に対する支配の強化」とは完全に合致し、手に手をとって労働者から最大限の剰余労働を搾り取ろうとする。それは究極の姿でもある。 しかし、現実に、たとえ資本家の夢がそうであるとしても、「通常の状態」ではそれはまず実現不可能です。労働者には、少なくとも、その日に消費され消耗した労働力を肉体的にも精神的にも回復するための一定の時間が絶対的に必要です。「1日分の労働時間」とは決して、24時間ではありえないし、20時間でもありえない。労働者はさしあたり生物学的存在として、一定の睡眠時間や食事時間や休憩時間などを必要とする(身体的・生理的制限)存在です。とは言っても、労働者は単に生物学的存在であるだけでなく、社会的・文化的存在でもあるのです。したがって、テレビや映画を見たり、読書やネットをしたり、家族と会話したり、趣味を楽しんだり、社会的な交流をする等々の時間が必要なのです(社会的・文化的制限)。 さらに、これらの回復時間以外にも様々な時間が必要です。たとえば、自宅と勤務先とを往復する通勤時間が必要であり、さらに、家庭内においても種々の労働が待っている。まずは日々の生活手段を消費し維持するための種々の家事労働が必要です。さらには、労働が何か特殊で高度な専門的労働である場合には、その専門的知識や技術を維持したりより高めるための時間も必要になります。 このように、労働力が身体的・精神的に日々正常な形で再生産されるためには、賃労働時間以外にも多くの時間が必要になってきます(ちなみに『資本論』では、通勤時間や家事労働時間などが看過されている)。これらの種々の時間を生活時間と呼ぶとすれば、これらの生活時間が基本的に労働力価値を構成する諸要素にそれぞれ対応していることが分かります。つまり、労働力が正常に再生産されるためには、種々の要素によって構成された生活賃金だけでは不十分なのであり、それぞれの要素に対応した種々の生活時間が必要なのです。 このような時間がちゃんと保障されなければ、労働力は正常な形では再生産されないだろうし、このような状況が毎日積み重ねられれば、本来なら40年間は健康な状態で労働できるはずの労働力が、10年や20年で使いものにならなくなるかもしれません。 これに対して、資本家は、労働力価値をできるだけ切り詰めようとするのと同じく、剰余労働時間をできるだけ延長させ、したがって賃労働時間以外のあらゆる時間を削減しようとします。労働力以外に売るもののない労働者は、過酷な条件であっても資本家に労働力を買ってもらうしか生きる術がありません。このような構造的な不平等ゆえに、しばしば形式上の等価交換の原則さえ踏みにじられることもあります。労働者を単なる剰余価値生産機械に転化し、労働者のいっさいの自由時間と生命そのものを絶えず資本家のための価値源泉に変えること、これこそ資本の不断の傾向であり、その最も根源的な衝動であると言えます。 労働者はこの資本の絶えざる傾向と闘争しないかぎり、人間として存在しえないのであり、彼ないし彼女はただ、資本家のために剰余価値を生産する機械か役畜と成り果て、自己の人生をまともに享受できないまま早死にするになってしまう。 労働者はその人間性と生命そのものとを奪われないためには、労働時間の制限に取り組まなければならない、労働日をできるだけ延長しようとする資本の内的衝動と、労働日を制限しようとする労働者による長く地道な階級闘争との複合的な結果として、19世紀初頭以降、しだいに労働日の制限(とくに女性と子供の)が法制化されていきました。 しかし、最初の時点で成立した法定労働時間規制はまったく中途半端なものでした。それは13時間労働とか12時間労働を許容しており、せいぜい、労働者が自らの労働力の身体的・精神的な回復を可能とする最低限度を保障するものでしかありせんでした。このような労働日を標準最大労働日と呼ぶとすれば、この労働日は労働力の「正常な(ノーマル)」身体的・精神的再生産を可能とするかぎりの長さの労働日でしかなかったのです。すなわち、この長さを越えて恒常的に労働時間が延長されると、労働力の正常な再生産が不可能となって、それが長期間に及ぶと労働力が致命的な毀損を受けることになるわけです。 このような標準最大労働日を実現したとしても、労働者はかろうじて正常に生きていけるにすぎず、人間的な生活や人間的な個性の開花というものは、とうてい望みえないままです。かろうじて健康に生きているだけで、ほとんどの時間がやはり労働時間に費やされる人生は、人生と言えるのか。労働者は、単に労働者としてぎりぎり正常に生きていける程度の労働時間規制では満足するべきではないし、実際しせんでした。標準最大労働日よりもいっそう労働日を制限する闘いに労働者は引き続き取り組んだのです。 そして、この闘いは同時に、労働者はいったい1日何時間働けば「1日分の賃金」を獲得する権利を得るのかをめぐる社会的な抗争でもありました。つまり、ここで言う「1日分の賃金」がその時々の歴史的・地域的・社会的条件のもとで標準的とされている生活を可能にする額だとすれば、そのような生活賃金を受け取るのにいったい労働者は1日に何時間労働すれば、そのような生活賃金を受け取るのにいったい労働者は1日に何時間労働すればいいのか?それが8時間なのか9時間なのか10時間なのか?これは、あらかじめ理論的に特定することは不可能であるし、また商品交換法則から演繹できるものでもないものです。それは、どれぐらいの労働時間が(したがってどれぐらいの長さの生活時間が)社会的に「標準的(ノーマル)」なものとして承認されるのかという問題でもあるのです。したがって、@最小労働日と標準最大労働日の範囲内にあって(量的規定)、かつ、A「1日分の労働時間」として標準的であると社会的に承認された労働日(質的規定)こそ、本来の意味での標準労働日です。ここでは、単に正当な商品交換をせよという水準を超えて、健康で文化的な標準的生活(最低限の生活ではなく)を求める社会的人権の論理が重要な役割を果たしているのです。 このようにして、労働者による階級闘争と社会的承認をめぐる抗争の末、19世紀半ば以降になってようやく、本来の標準労働者が次第に各国で法的に確立されていった(法定標準労働日)。この法定標準労働日は最初は10時間程度だったが、20世紀になるとやがてそれは8時間労働となり、それがグローバルスタンダードになっていったわけです。いわゆる労働者の祭典である5月1日のメーデーも、この8時間労働の確立をめざす労働者のストライキが行われた日にちなんでいる、国家として最初に明確にこの8時間労働制を男女ともに確立したのは1917年の社会主義革命後のソヴィエト・ロシアである。この日本で基本的に8時間労働制が確立されたのは、ようやく第2次世界大戦後の戦後改革の中ででした。 このように労働日の限界はきわめて弾力性に富んではいるものの、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界も、増殖労働の限界も定められることはない。資本家は買い手としての権利を主張しながら、労働日はできるだけ延長しようとする。できれば1労働日を2労働日にしたいのだ。 他方で、売られた商品であるこの[労働力という]商品には、買い手が消費する際にある限界があることが含まれている。そして労働者は売り手の権利を主張しながら、労働日を正常な長さに制限しようとする。ここには権利と権利の二律背反が発生していて、どちらの権利も、商品交換の法則から正当なものと認められているのである。権利が対等であれば、決定するのは力の強さである。 こうして資本制的な生産の歴史においては、労働日の標準化の制限をめぐる闘争として現われてくる。これはすべての資本家、すなわち資本家階級と、すべての労働者、すなわち労働者階級との闘争である。 労働の過酷さ 資本が剰余労働を発明したのではない。いつでも、社会の一部の者が生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は、自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えて、生産手段の所有者のために生産手段を生産しなければならない。この所有者がアテナイの貴族であろうとエトルリアの神政者であろうとローマ市民であろうとノルマンの領主であろうとアメリカの奴隷所有者であろうとワラキアのヤールであろうと現代の大地主や資本家であろうと。とはいえ、ある経済的社会構成体のなかでは生産物の交換価値ではなく使用価値のほうが重きをなしている場合には、剰余労働は諸欲望の狭いにせよ広いにせよとにかく或る範囲によって制約されており、剰余労働にたいする無際限な欲望は生産そのものの性格からは生じないということは明らかである。それだから、古代でも、交換価値をその独立の貨幣姿態で獲得しようとする場合、すなわち金銀の生産では、恐ろしいまでに過度労働が現われるのである。そこでは致死労働の強制が、過度労働の公認の形態なのである。それは、シチリアのディオドロスを読んだだけでもわかる。といっても、これは古代世界では例外である。ところが、その生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行われている諸民族が、資本主義的生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事にまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残酷の上に過度労働の文明化された残酷さが接ぎ木されるのである。それだから、アメリカ合衆国の南部諸州の黒人労働も、生産が主として直接的自家需要のためのものだったあいだは、適度な家長制的な性格を保存していたのである。ところが、綿花の輸出が南部諸州の死活問題になってきたのにつれて、黒人に過度労働をさせること、所によっては黒人の生命を7年間の労働で消費してしまうことが、計算の上に立って計算する方式の要因になったのである。もはや、いくらかの量の有用な生産物を黒人から引き出すことが肝要なのではなかった。いまや肝要なのは剰余価値そのものの生産だった。夫役についても、たとえばドナウ諸侯国でのそれについても、同じことである。 人が自身を保存するために必要な労働時間を超過して働かされるということは、資本制生産様式で発明されたものではなく、歴史を遡れば、いつの時代にも見つけられるものです。前近代社会では価値よりも使用価値に重きが置かれていて、労働も支配階級の使用価値に対する欲望を満たすためのものであり、そこには一定の限度がありました。ところが、資本は、際限のない価値増殖欲求にしたがってどこまでも剰余労働を拡大しようとするのです。 このような資本の残酷さは、前近代的な残虐さと結びつくとき、もっとも忌むべきものとして現われてきます。ここでマルクスによって挙げられているように、アメリカにおける黒人奴隷が、当初は直接の自家消費のための生産をしていたころには、使用価値を満たせばよく、その労働にも一定の制限があり、奴隷と所有者との関係も家父長制的な性格を残していました。それが次第に世界市場に参入し、綿花の輸出に南部諸州が生存をかけるようになると、剰余価値の生産のために強制労働させられるようになると、「7年間の労働で生命が枯渇するほどの厳しい黒人の超過労働が見込まれ、それに基づいて計算するシステムに組み込まれたのだった」のです。 ここで重要なのは、近代的な資本主義システムは、前近代システムを単に駆逐するのではない、ということです。資本は、剰余価値の取得の障害となる限りでは、前近代的システムを解体しようとしますが、それが剰余価値の取得に利用できる限りでは、それを温存し、徹底的に利用するのです。したがって、前近代的な差別や残虐さは奴隷解放闘争や公民権運動のような社会運動なしには一掃することはできません。資本主義が浸透すればするほど自動的に前近代的差別がなくなっていくと考えるのは幻想なのです。実際、資本が極めて強い力をもっている現代の日本社会において、どれだけ前近代的な女性差別がしぶとく生き残っているかを思い出すだけでも、このことは容易に理解できるでしょう。 もちろん、資本主義が浸透して非常に強力になったために、相対的に前近代的な差別の手を借りる必要がなくなり、それらが淘汰されていくということは起きうるでしょうし、実際に起きています。しかし、このような置き換えは、家父長的なイデオロギーに粉飾されていた支配よりも、いっそう露骨な支配として現れるのであり、人々の自由の拡大に貢献するものではありません。 資本が増殖労働を発明したわけではない。生産手段が社会の一部の人々によって独占されているところではどこでも、自由な身分であれ、不自由な身分であれ、労働者はこの生産手段を所有する人々の生産手段を生産するために、自己を保存するために必要な労働時間に、超過労働時間を付け加えなければならないのである。 生産手段を所有しているのがアテナイの貴族であるか、エトルリアの神政統治者であるか、ローマ市民であるか、ノルマンの領主であるか、アメリカの奴隷所有者であるか、[ルーマニアの]ワラキアの[大地主貴族]ボヤールであるか、現代の大地主や資本家であるかを問わず、このことに変わりはない。 ある経済的な社会構成体において、生産物の交換価値ではなく、使用価値が重視されている場合には、その大小の違いはあるとしても、欲望の範囲によって増殖労働が制約されるようになるのは明らかである。このような社会では、生産そのものの性格から、増殖労働への際限のない欲望が生まれることはない。 反対に金銀の生産のように、交換価値を自立した貨幣形態として獲得することを目指す場合には、たとえ古代においても、超過労働がさかんに行われた。死に至るまで暴力的に働かせることが、超過労働の公認された形態だった。このことはディオドロス・シクルスの歴史書を読めばすぐに分かることだ。 もっとも古代ではこれは例外的なものだった。だが、それまで奴隷労働や賦役労働など、あまり発達していない形態で生産していた様々な民族が、資本制的な生産様式に支配された世界市場に参入させられるようになり、世界市場がこれらの諸国から外国に生産物を輸出させることに強い関心をいだくようになると、奴隷制や農奴制などの野蛮な残酷さに、超過労働という文明化された残酷さが接ぎ木されたのだった。 例えばアメリカ合衆国の南部諸州における黒人労働は、主として直接の自家消費に向けられるものを生産しているあいだは、まだそれにふさわしい家父長制的な性格を維持していた。しかしこれらの諸州が綿花の輸出に生存をかけるようになると、所によっては7年間の労働で生命が枯渇するほどの厳しい黒人の超過労働が見込まれ、それに基づいて計算するシステムに組み込まれたのだった。この労働の目的はもはや、黒人に特定の量の有用物を作らせることではなかった。増殖価値そのものを作り出すことが目的だったのである。同じようなことは、ドナウ諸侯国での賦役労働についても言えるのである。 ドナウ諸侯国での賦役労働 ドナウ諸侯国で見られる剰余労働への渇望とイギリスの工場でのそれとの比較は、特に興味のあることである。というのは、剰余労働は夫役において一つの独立な感覚的に知覚することのできる形態をもっているからである。 1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、1人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目に見えない。剰余労働と必要労働とは融合している。だから、私は同じ割合を、たとえば、この労働者が毎分30秒は自分のために労働し30秒は資本家のために労働するというようにも表現することができる。夫役ではそうではない。たとえばワラキアの農民が自分を維持するために行なう必要労働は、彼がボヤールのために行なう剰余労働とは空間的に分離されている。彼は一方を彼自身の耕地で行ない、他方を領主の農場で行なう。それだから、労働時間の二つの部分は独立に並んで存在する。夫役の形態では、剰余労働は明確に必要労働から区別されている。このような現象形態の相違は、明らかに、剰余労働と必要労働との量的な割合を少しも変えるものではない。週に3日の剰余労働は、夫役と呼ばれようが賃労働と呼ばれようが、労働者自身のためにはなんの等価も形成しない3日の労働だということに変わりはない。しかし、資本家の場合には剰余労働への渇望は労働日の無際限な延長への衝動に現われ、ボヤールの場合にはもっと単純に夫役日の直接的追求に現われるのである。 夫役はドナウ諸侯国では現物地代その他の農奴制付属物と結びつけられていたが、しかし支配階級への決定的な貢租となっていた。このような所では、夫役が農奴制から発生したことはまれで、むしろたいていは反対に農奴制が夫役から発生した。ルーマニア諸州でもそうだった。これら諸州の元来の生産様式は共同所有を基礎としていたが、それはスラヴ的形態の共同所有ではなく、インド的形態のそれではなおさらなかった。土地の一部分は自由な私的所有として共同体の諸成員によって独立に管理され、他の部分─公共地─は彼らによって共同に耕作された。この共同労働の生産物は、一部は凶作その他の災害のために予備財源として役だち、一部は戦費や宗教費やその他の共同体支出をまかなうための国庫として役だった。時がたつにつれて、軍事関係や教会関係の高職者たちは共有財産といっしょに共有財産のための仕事を横領した。自分たちの公共地での自由な農民の労働は公共地盗人たちのための夫役に変わった。 それと同時に農奴制諸関係が発展した。といっても、世界を解放するロシアが農奴制を廃止するという口実のもとに農奴制を法律にまで高めるまでは、ただ事実的に発展しただけで、法律的に発展したのではなかった。ロシアの将軍キセリョーフが1831年に交布した夫役の法典は、もちろんボヤールたち自身によって口授されたものだった。ロシアは、このようにしてドナウ諸侯国の貴人たちと全ヨーロッパの自由主義的白痴の拍手とを一挙にかちえたのである。 「レグルマン・オルガニック」というのはかの夫役の法典のことであるが、ワラキアの各農民には、ある分量の細別された現物貢租のほかに、いわゆる土地所有者のために、(1)12の労働日一般、(2)1日の耕地労働、(3)1日の材木運搬作業をする義務が課される。合計して1年に14日である。ところが、この労働日は、経済学への深い洞察をもって、その普通の意味には解されないで、1日分の平均生産物の生産に必要な労働日と解されるのであるが、この1日分の平均生産物というものが、ずるいやり方で、どんな巨人でも24時間では仕上げられないように規定されているのである。そこで、「レグルマン」そのものも、まったくロシア的に皮肉な露骨な言葉で、12日労働日は36日の手労働の生産物、1日の耕地労働は3日のそれ、そして1日の材木運搬もやはりその3倍と解するべきだ、と言明するのである。合計で42夫役日である。しかし、なおそのうえに、いわゆるヨパギーが加わる。これは、特別な生産上の必要のために領主にたいしてなされるべき役務である。各村落は、その人口数に比例して、毎年ヨパギーのために一定の割りまえを差し出しなければならない。この追加夫は、ワラキアの各農民1人あたり14日と見積もられる。こうして規定された夫役は1年に56労働日になる。しかし、ワラキアでは気候が悪いために1年の農耕日数は210日しかなく、そこから日曜日と祭日とで40日、悪天候のために平均30日、合計70日がぬけることになる。残りは140日である。必要労働にたいする夫役の比率、56分の84日すなわち66と3分の2%は、イギリスの農業労働者や工場労働者の労働を規定する剰余価値率よりもずっと小さい剰余価値率を表わしている。だが、これはただ法律で規定された夫役でしかない。そして、イギリスの工場立法よりももっと「自由主義的な」精神で、「レグルマン・オルガニク」は、それ自身の回避を容易にすることを知っていたのである。12日を54日にしたあとでは、54夫役日の各1日の名目上の1日仕事は、またもや、ある追加分が翌日にかからなければならないように、規定される。たとえば、1日で或る広さの土地が除草されるという場合には、その土地はこの作業のためには、ことにトウモロコシ畑では、その2倍の時間を必要とするのである。法定の1日仕事は、2、3の農業労働については、その1日が5月に始まって10月に終わるというようにも解釈できるようになっている。モルダヴィア地方については規定はもっときびしい。「レグルマン・オルガニックの12夫役日は」勝利に酔った1ボヤールは叫んだ、「年に365日になる!」と。 資本制的な生産では、剰余労働と必要労働とは融合しています。これに対して賦役であるならば、そうではない。それを、ここでは、ドナウ諸国のワラキアの農民とイギリスの工場労働との比較で明らかにしています。 ワラキア公国の農民は自分を保存するため必要労働を自分の畑で行います。そして、それに加えて領主の貴族のための賦役として剰余労働を貴族の農場で行いました。この農民の必要労働と領主のための剰余労働とは、別の場所で行います。つまり二つの労働は空間的に区別され。「必要労働は剰余労働とは明確に区別されるのである。」。したがって、1週間の半分、つまれ3日間は自分の畑で働き、3日は領主の畑で働くというように区分できます。もともとこの地方では、土地の一部は自由な私有地として認められ、残りの農地は共有農地として共同で管理されていました。この共同農地の収穫物は災害のために備えた備蓄や共同体の支出に使われていました。それを後に、教会や領主たちが、それを簒奪し、共同農地の労働が簒奪者のための労働となり、それが賦役として制度化されたのでした。これを制度化し、「レグルマン・オルガニック」という法典で形式的に整備されました。そこで、領主が剰余労働を増やすためには、「レグルマン・オルガニック」という法典の力によって、農民たちに長時間の夫役を強制し、剰余労働を搾り取ろうとしました。そこでは、まだ前近代的な関係が支配的であり、資本自体の力がまだそれほど強力ではなく、国家の助けを必要としたのです。それは剰余労働がはっきりと分かるから、それを強制するとことが、具体的に直接見えてしまうからです。 これに対して、イギリスの資本制的生産をする工場では、剰余労働と必要労働を明確に区別できません。労働者が工場で、週に6日働いても、ワラキアの農民のように3日を自分の農地で、後の3日を領主の畑でというように明確に分けられません。たとえ、労働時間の半分が必要労働で、残りの半分が剰余労働だったとしても、働いている労働者は、実際に、今、自分が行っている労働が必要労働の分なのか剰余労働の分なのか判別できないのです。したがって、資本家が労働者に剰余労働を要求したとしても、全体としての労働を要求するようにすれば、労働者は必要労働を求められているのか剰余労働を求められているのか分かりません。 ドナウ諸侯国にみられる[賦役労働における]増殖労働への貪欲さと、イギリスの工場[労働]における増殖労働への貪欲さを比較してみるのは、とくに興味深いことである。賦役労働では増殖労働が自立した形態をとっていて、見てもすぐに分かるようになっているからである。 ここで1労働日が、[イギリスの工場のように]必要労働6時間と増殖労働6時間で構成されているとしよう。この場合には自由な労働者は、週に6日、1日6時間、すなわち合計で36時間の増殖労働を資本家に提供することになる。これは週に3日は自分のためだけに働き、残りの週に3日は資本家のために無償で働くとも表現できる。しかし[イギリスの工場では]これは目に見えない。増殖労働と必要労働は、互いに混じり合っていて区別できない。だから同じ状況を、労働者は1分のうちに30秒を資本家のために働いていると表現することもできるのである。 しかし賦役労働では状況が異なる。ワラキア公国では、たしかに農民も自分を保存するための必要労働を行うが、それは彼が大地主貴族のために行う増殖労働とは、空間的に分離された場所で行われる。農民は必要労働を自分の畑で行い、増殖労働を領主の[ボヤールの]農場で行う。どちらの労働も、その労働時間はたがいに独立したものであり、別々に行われる。賦役労働の形態では、必要労働は増殖労働とは明確に区別されるのである。 賃金労働と賦役労働という現象形態の違いのために、増殖労働と必要労働の量的な関係が変わることはないのは明らかである。週に3日の増殖労働は、それが賦役労働と呼ばれようと賃金労働と呼ばれようと、労働者にとってはどちらも代価が支払われない3日間の労働であることに違いはない。ただし資本家にあっては増殖労働への渇望は、労働日を無際限に延長したいという衝動となって現われるが、ボヤールにあってははるかに単純に、賦役労働日を直接に要求するという形をとる。 ドナウ諸侯国における賦役労働は、現物地代やその他の農奴制の付随物と結びついたものではあるが、支配者階級へのもっとも重要な貢租だった。こうした状況では、農奴制から賦役労働が生まれるのではなく、反対に賦役労働から農奴制が生まれたのである。ルーマニアの諸州でもそうだった。この地方のもともとの生産様式は、土地の共有制に依拠したものであったが、スラヴ的な形態の土地の共有制でも、ましてやインド的な形態の土地の共有制でもなかった。 この地方ではもともとは土地の一部は自由な私有地として認められ、共同体の成員がこれを独立して管理していた。残りの一部は共有農地として、彼らによって共同で耕作されていた。この共同労働の生産物の一部は、凶作やその他の予想外の災害に備えて備蓄され、また別の一部は、戦費や宗教費などの共同体の支出をまかなうために、国庫に納められた。しかし時が経つと、軍や宗教組織の幹部たちがこの共有農地で行われる労働まで簒奪した。こうして自由な農民が共有の農地で行うはずの労働は、この共有地を強奪した人々のための賦役労働となったのである。 それによって同時に農奴制的な関係も発達してきたが、それは事実における発達であり、法的な発達ではなかった。やがて世界の解放者を名乗るロシアが、農奴制を廃止するという名目のもとで、農奴制を法的に確立した。ロシアのキセレフ将軍が1831年に発布した賦役労働の法典は、もちろんボヤールたちがみずから定めたものである。こうしてロシアはドナウ諸侯国の貴族たちを支配できるようになると同時に、[農奴制の廃止という名目で]ヨーロッパ全土の自由主義的な愚か者たちから称賛を集めたのである。 この賦役労働の法典は、「レグルマン・オルガニック」という名称で発布された。これによってワラキアのすべての農民は、細かく規定された特定の量の現物貢租を納めることを義務づけられただけではなく、いわゆる土地所有者に、12日間の一般的な労働、1日の耕作労働、1日の材木運搬の労働を提供することを義務付けられたのである。これらの労働は合計で年間14日になる。しかしこの規定には経済学的に鋭い洞察が込められているのであって、この労働日の長さは、普通の1日と考えるべきではないのである。これは毎日の平均的な生産物を生産するために必要な労働日という意味に理解すべきなのである。そしてこの〈毎日の平均的な生産物〉というのが、きわめて巧妙に定められており、どんな巨人でも24時間で仕上げることはできないようになっているのである。 「レグルマン・オルガニック」そのものはロシア的なアイロニーを駆使した素っ気なさで、次のように説明する。12日間の労働日とは、36日の手仕事による生産物という意味に、1日の耕作とは3日の耕作という意味に、1日の材木運搬とは、3日の材木運搬という意味に理解すべきである、と。こうして合計で42日の賦役労働となったのである。 それだけではなく、生産に必要な規定外のヨパギーと呼ばれる労働が、領主のための奉仕作業として要求される。それぞれの村は人口に応じて、毎年一定の人数をヨパギーのために提供しなければならない。この新たな賦役労働によってワラキアの各農民は、年間14日の労働を提供させられたと推定されている。こうして規定された賦役労働の日数は合計で56労働日となった。 ところがワラキアは気象条件が悪いために、耕作が可能な1年のうちに210日ほどしかない。それに日曜日と祭日の40日間は耕作できず、悪天候で耕作できない日が年間で平均30日間はある。合計70日は耕作できないのである。残りの労働日は140日である。賦役労働の比率と必要労働の比率は、56日と84日であり、66%3分の2になる。これはイギリスの農業労働者や工場労働者の労働を規定している増殖価値率よりもはるかに低い比率である。 しかしこれはたんに法的に規定された賦役労働にすぎない。そして「レグルマン・オルガニック」はイギリス工場法よりも「はるかに自由主義的な」精神で、法の規定を迂回する方法を知っている。すなわち、まず12日の賦役労働の日数を54日に延長して、次にその54日のそれぞれの賦役労働日に、名目的な〈1日仕事〉を定めているのである。そしてこの〈1日仕事〉の内容ときたら、その日につづく数日を費やさなければ片づけることのできないものなのである。たとえばトウモロコシ畑の耕作を例にとると、土地の除草が〈1日仕事〉として定められているが、実際にはこの除草には2日はかかるのである。 このように個々の農業労働について法的に定められた〈1日仕事〉が5月に始まって10月に終わるように解釈できるのである。モルダウ地方ではさらに厳しい規定がある。「レグルマン・オルガニックで定める12日の賦役労働日は(と勝ち誇ったボヤールが叫んでいる─マルクス)、年に365日になる!」。 労働者の疲弊 ドナウ諸侯国のレグルマン・オルガニクは剰余労働にたいする渇望の積極的な表現だったのであり、それを各条項が合法化しているのだとすれば、イギリスの工場法は同じ渇望の消極的な表現である。この法律は、国家の側からの、しかも資本家と大地主との支配する国家の側からの、労働日の強制的制限によって、労働力の無際限な搾取への資本の衝動を制限する。日々に脅威を増してふくれあがる労働運動を別とすれば、工場労働の制限は、イギリスの耕地にグアノ肥料を注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一方の場合には土地を疲弊させたその同じ盲目的な略奪欲が、他方の場合には国民の生命力の根源を侵してしまったのである。ここでは周期的な疫病が、ドイツやフランスでの兵士の身長低下と同じ明瞭さで、それを物語ったのである。 奴隷制や農奴制などといった前近代の野蛮な残虐の上に過度な労働の文明化された残虐が接ぎ木されていたドナウ諸侯国においては「レグルマン・オルガニック」という法典の力によって、農民たちに長時間の夫役を強制し、増殖労働を搾り取ろうとしました。そこでは、まだ前近代的な関係が支配的であり、資本自体の力がまだそれほど強力ではなく、国家の助けを必要としたのです。 しかし、資本制的生産様式が定着したイングランドにおいては、むしろ労働日を抑制する法律が増殖労働への渇望の表現になるとマルクスは言います。というのも、そこでは資本の力がきわめて強力であり、剰余労働の飽くなき追求が、土地の疲弊だけではなく、人間そのものの弱体化を招いてしまったからです。こうして、社会は自らを維持するために労働日の法律的規制を強制されるのです。 しかし、このような法律的規制は、それがいかに社会的利益に、あるいは近代国家の利益に合致するからといって、自動的に実現されていくわけではありません。それは今の日本を見ていればよく分かります。労働日の法律的規制を実現するために、いかに長期にわたる労働者階級の闘争が必要であったかは、この後、詳しく見ることになります。 ドナウ諸侯国の「レグルマン・オルガニック」が、増殖価値への渇望の積極的な表現であり、すべての条文がそれを積極的に表現したものだとすると、イギリスの工場法は同じ渇望を消極的に表現したと言えるだろう。工場法は、しかも資本家と大地主が支配する国家の側から、労働日を強制的に制限することによって、労働力を際限なく吸い取ろうとする資本の衝動を制限するものである。そこには、労働運動が日々のように脅威を強めながら拡大していったことの影響を見ることができるだろう。しかしこうした労働運動の力がなかったとしても、工場労働の制限は必然的なものだった。イギリスの農地にグアノ肥料を施さざるをえなかったのと同じように、必然的なものだったのである。盲目的な略奪欲が、農地の場合には大地を疲弊させ、工場の場合には国民の生命力をその根のところから脅かしたのである。イギリスでは周期的に流行する疫病が、ドイツとフランスでは兵士の身長の低下が、この生命力への脅威をはっきりと物語っているのである。 イギリスの工場視察官の報告 現在(1867年)も有効な1850年の工場法は、週日平均10時間を許している。すなわち、最初の5日は朝の6時から夕方の6時まで12時間であるが、そこから朝食のために半時間、昼食のために1時間が法律によって引き去られて、10と2分の1労働時間が残り、土曜は朝の6時から午後2時まで8時間で、そこから朝食のために半時間が引き去られる。残りは60労働時間で、最初の5日が10時間30分、週末の1日が7時間30分である。この法律の特別の番人として内務大臣直属の工場視察官が任命されていて、その報告書は半年ごとに議会から公表される。だから、それは剰余労働にたいする資本家の渇望について継続的な公的の統計を提供するのである。 ここで工場視察官の言うところを聞こう。 「詐欺的な工場主は朝の6時15分前、ときにはもっと早く、ときにはもっとおそく、作業を始め、午後の6時15分すぎに、ときにはもっと早く、ときにはもっとおそく、作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の始めと後わりから5分ずつを取り上げ、また昼食のためにとってある1時間の始めと後わりから10分ずつ削り取る。土曜には彼は午後2時すぎに15分間、ときにはもっと長く、ときにはもっと短く、作業する。そこで彼の得は次のようになる。 午後6時以前 15分 午後6時以後 15分 朝食時間 10分 5日間の合計 300分 昼食時間 20分 合計 60分 土曜日 午前6時以前 15分 朝食時間 10分 週の総利益 340分 午後2時以後 15分 すなわち1週間に5時間40分で、祭日や臨時休業の2週間を引いて50労働週間をこれに掛ければ27労働日になる。」 「労働日が毎日5分ずつ標準の長さを越えて延長されれば、1年には2日半の生産日になる」。「あちこちでほんのわずかな時間をつかみとることによって得られる毎日1時間ずつの追加は、1年の12ヶ月を13ヶ月にする」。 マルクスが「資本論」を執筆していた当時の工場法では、週日は1日10時間30分、土曜日は7時間30分で、1週間のトータルの労働時間は60時間と規定されていました。これについて、各工場には報告の義務があり、その報告の内容を工場視察官が監視してました。その監視官の報告を見ると、資本家の飽くなき労働時間の延長の試みの跡が見えてきます。タテマエの上では、工場法による規制があるため、それをごまかして、例えば、始業時間を15分早めたり、同じような終業時間を遅らせたり、昼休みを初めと終わりで10分ずつけずったりして、1日の労働時間をトータルで50分増やす、それを週5日で250分、というように。「労働日が標準の時間よりも1日に5分延長されるだけで、年間2日半の生産日が儲かることになる」。「こちらから少し、あちらから少しと時間を削りとり、1日に1時間の追加時間を加えると、1年12ヶ月が13ヶ月になるのである」。執拗に労働時間を超過させて、剰余価値を追求している実態を見せています。 現在(1867年)施行されているのは、1850年に制定された工場法であるが、この法律では週に平均で10時間の労働日を認めている。すなわち月曜から金曜までの週日は、朝6時から夕方6時までの12時間であるが、そこから朝食のための30分と、昼食のための1時間が法律の定めによって差し引かれるので、残りは10時間30分となる。土曜日は朝6時から午後2時までの8時間で、そこから朝食のための30分が差し引かれる。そこで残った労働時間は、週日は10時間30分、土曜日は7時間30分で、合計は60時間となる。この法律では専門の監視官の設置を定めている。それが内務大臣に直属する工場視察官であり、その報告書は半年に1回、議会が公表している。そのためこれらの報告書は、資本家の増殖労働への渇望についての公的な統計を継続的に公開しているのである。 ここで工場視察官の声を聞いてみよう。 「ごまかしをする工場主は、多少の前後はあるが、朝の5時45分に仕事を始めさせ、夕方は、これも多少の前後はあるが、午後の6時15分に仕事を終えさせる。また朝食の時間として名目的には30分が定められているが、その最初と最後の5分を削り、昼食のために定められている1時間も、最初と最後を10分ずつ削る。土曜日は、ときに多少の差はあるものの、午後2時15分まで働かせる。こうして工場主の利益は次のようになる。 午後6時以前 15分 午後6時以後 15分 朝食時間 10分 5日間の合計 300分 昼食時間 20分 合計 60分 土曜日 午前6時以前 15分 朝食時間 10分 週の総利益 340分 午後2時以後 15分 すなわち週に5時間40分も儲けるわけである。祭日や臨時休業の日として年に2週間を差し引くと50週になり、これにこの時間を乗じると、年間27日分の労働日を儲けるわけである。 「労働日が標準の時間よりも1日に5分延長されるだけで、年間2日半の生産日が儲かることになる」。「こちらから少し、あちらから少しと時間を削りとり、1日に1時間の追加時間を加えると、1年12ヶ月が13ヶ月になるのである」。 恐慌の影響 恐慌のときには生産が中断されて、ただ「短時間」しか、週にわずかな日数しか作業が行われないのであるが、その恐慌も、もちろん、労働日を延長しようとする衝動を少しも変えるものではない。なされる仕事が少なければ少ないほど、それだけ多く剰余労働が作業されなければならない。そこで、工場監督官たちは1857年から1858年にかけての恐慌期について次のように報告する。 「こんなに景気の悪い時期に過度労働というようなものが行われわるというのは矛盾したことに思われるかもしれないが、この不景気が無法な人々を違反に駆り立てるのである。彼らはこうして・・・特別利潤を確保する」。「私の管区で122工場が完全に廃棄し、143工場が休業し、その他の全工場が操業を短縮しているその時期に」、とレナード・ホーナーは言う、「法定時間を越えて過度労働が続けられる。」「たいていの工場では」、とハウウェル氏は言う、「不景気のために、半分の時間しか操業していないのに、相変わらず私は、法律で労働者に保証された食事や休憩の時間への食い込みによって毎日半時間か4分の3時間が労働者からもぎ取られるという苦情を、以前と同じようにたくさん受け取った。」 同じ現象は、1861年から1865年までの激しい綿花恐慌のときにも、もう少し小さい規模で繰り返される。 「食事時間中とかその他違法な時間に労働者が就業している現場を、ときどきわれわれが押えると、そのつど言いたてられるのは、彼らがどうしても工場を去ろうとしないのだとか、「彼らの労働」(機械の掃除など)「をやめさせるには、ことに土曜の午後には、強制が必要だとかいうことである。しかし、機械が止まってから〈人手〉が工場に残っているとすれば、それは、朝の6時から夕方の6時までの間には、つまり法定労働時間中には、そんな仕事をするひまが彼らに許されていなかったからにほかならない。」 以上のように執拗なほど工場主が労働時間を延長させるのは、それによって得られる利潤が、彼らにとって抵抗し難い誘惑となっているからです。かれらは、そのような違反行為は見つからない可能性に賭けていて、かりに見つかったとしても、罰金は僅かで、最終的にはトータルの利潤が上回ると計算しています。かれらは「一瞬一瞬が、利益を生む」としています。 恐慌によって生産が中断され、「時短」によって週に2、3日しか生産が行われないような事態にいたっても、労働日を延長しようとする衝動に変わりはない。仕事が少ないほど、働いた分の利潤が大きくなければならない。労働時間が短くなればなるほど、増殖労働時間が長くなるべきである。たとえば1857年から1858年にかけての恐慌期について、工場視察官は次のように報告している。 「これほど景気が悪いのに超過労働が行われていると報告すると、辻褄が合わないと思われるかもしれない。しかし不景気だからこそ、無法な人々が違法行為に駆り立てられるのである。こうして特別な利益を手に入れるのである」。レナード・ホーナーは「私の担当する地区では122の工場が完全に廃棄しており、143の工場が操業を停止していた。その他のすべての工場も、操業を短縮している。その同じ時期に、法律で定められた労働時間を超える超過労働がなお横行している」と報告している。また[同じく工場視察官の]ハウェル氏は[ほとんどの工場で、経営状態が悪化し、操業時間は半分に短縮されている。それにもかかわらず私の手元には、労働者の訴えが以前に劣らないほどに頻繁に届けられている。この訴えによると、法律で定められた毎日の食事と休憩の時間が、30分から45分も削られているというのである]と語っている。 1861年から1865年に至る深刻な綿花飢饉の際にも、やや小規模ではあるが、同じ現象がみられた。 「我々が食事時間やその他の違法な時間に労働者たちが働いている現場を取り押さえると、次のような言い訳を聞かされるものである。すなわち労働者たちはどうしても工場を去りたがらない、そのためとくに土曜日などは、彼らの仕事(機械の掃除など─マルクス)をやめさせるには、強制しなければならないほどであるというのである。しかし機械類が運転を停止した後にも〈人手〉が工場に残っているとすれば、その理由は1つしかない。法律で定められ朝の6時から夕方の6時までの労働時間のうちに、労働者にそうした仕事をする時間的な余裕が与えられていなかったのである」。 超過労働の魅力 「法定時間を越える過度労働によって得られる特別利潤は、多くの工場主にとって、抵抗しうるには大きすぎる誘惑に思われる。彼らはみつからないという好運をあてにしており、また、発覚した場合でも罰金や裁判費用はごくわずかなので彼らには差し引き利益が保証されているということをあて込んでいる。」「1日じゅう少しずつ盗むことの累積によって追加時間が得られる場合には、それを立証することの困難は、監督官たちにとってほとんど克服しがたいものがある。」 こまように労働者の食事時間や休息時間を資本が「少しずつ盗むこと」を、工場監督官たちは、「数分間こそどろ」、「数分間のもぎとり」とも呼び、または、労働者たちが専門用語で呼んでいるように、「食事時間のかじり取り」とも呼んでいる。 言うまでもなく、このような雰囲気のなかでは剰余労働による剰余価値の形成は少しも秘密ではないのである。 ある立派な工場主が私に言った、「毎日たった10分間時間外労働をさせることを私に許すだけで、あなたは1年に1000ポンドを私のポケットに入れるのです」と。「時々刻々が利得の要素なのである。」 この点では、完全時間労働する労働者を「フル・タイマー〔全日工〕」と呼び、6時間しか労働することを許されない13歳未満の子供を「ハーフ・タイマー〔半日工〕」と呼ぶこと以上に特徴的なことはない。労働者はここでは人格化された労働時間以外のなにものでもない。すべての個人差は、「全日工」と「半日工」との差違に解消されるのである。 「多くの工場主にとって、労働時間を法律で定められた限度を超えて延長させることによって得られる特別な利潤は、抵抗し難い誘惑のようである。違反してもみつからない可能性に賭けており、もしも違反が暴かれても、わずかな罰金と裁判費用を払えば、収支は黒字になると計算しているのである」。「わずかな時間を盗んでそれを集めて追加の労働時間を手に入れている場合には、視察官がその証拠を集めるのはきわめて困難である」。 資本が労働者の食事時間や休憩時間を盗むこの「小さな泥棒行為」について、工場視察官たちは、「数分の齧りとり」とか「数分のごまかし」と呼んでいる。労働者たちは技術用語として、これを「食事時間のつまみ食い」と呼んでいる。 こうした雰囲気のもとで、増殖労働によって増殖価値が形成されていることは、公然たる秘密である。「ごく立派な工場主がわたしに、もしも私に1日わずか10分でも超過労働を課すことを許して下さるならば、私の懐には毎年1000ポンドが転げ込んでくるのですと語ったものである」。「一瞬一瞬が、利益を生む」。 この観点からみると、12時間にわたって働く労働者を「フル・タイマー」と呼び、6時間しか労働が許されていない13歳未満の児童を「ハーフ・タイマー」と呼ぶのはいかにも特徴的なことである。労働者はここでは人間の顔をした労働時間にすぎないのである。あらゆる個人差は、「フル・タイマー」と「ハーフ・タイマー」の違いに解消されてしまう。」 規制のない産業分野の実例 これまでわれわれが労働日の延長への衝動、剰余労働にたいする人狼的渇望を考察してきた領域では、イギリスのあるブルジョワ経済学者の言うところでは、アメリカン・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない極端の無法のために資本がついに法的な取締りの鎖につながれることになった領域だった。そこで今度はわれわれの目を、労働力の搾取が今日なお無拘束であるか、またはつい昨日までまだ無拘束だったいくつかの生産分野に向けてみよう。 「州治安判事のブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市の公会堂で催されたある集会の議長として、市の住民のうちレース製造に従事する部分では、他の文明世界には例がないほどの苦悩と窮乏とが支配的である、と明言した。…朝の2時、3時、4時頃ごろに9歳から10歳の子供たち彼らの汚いベッドから引き離されて、ただ露命をつなぐだけのために夜の10時、11時、12時まで労働を強制され、その間に彼らの手足はやせ衰え、身体はしなび、顔つきは鈍くなり、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して、見るも無残なありさまである。われわれは、マレット氏やその他の工場主があらゆる論議にたいして抗議するために現われたことに驚きはしない。…この制度は、モンタギュー・ヴァルビ師が述べたように、無制限な奴隷状態の制度、社会的にも肉体的にも道徳的にも知的にもどの点でも奴隷状態の制度である。…男子の労働時間を1日18時間に制限することを請願するために公の集会を催すような都市があるというのは、いったいどういうことだろうか!…われわれはヴァージニアやカロライナの農場主を非難する。だがしかし、彼らの黒人市場は、そこにどんな鞭の恐怖や人肉売買があろうとも、ヴェールやカラーが資本家の利益のために製造されるために行なわれるこの緩慢な人間屠殺に比べて、それ以上ひどいものなのだろうか?」。 スタッフォードシャの製陶製造業は、過去22年間に3回にわる議会の調査の対象になった。その結果は、「児童労働調査委員会」への1841年のあてのスクリヴン氏の報告と、枢密院の医務官の命令で公表されたグリーンハウ博士の報告と、最後に1863年6月13日の『児童労働調査委員会。第一次報告書』のなかの1863年のロンジ氏の報告とに書かれてある。私の課題のためには、1860年と1863年の報告書から、搾取される子供たち自身のいつくかの証言を借りてくるだけで十分である。子供からは大人を、ことに少女や婦人を、しかも、それに比べれば綿紡績業などは非常に快適で健康的な仕事に見えるような産業部門では、推論してよいであろう。 資本制的生産は、労働日の際限ない延長への衝動としてあらわれるものでもあります。それは絶対的増殖価値の生産の過程とも言えます。マルクスは、ここで、工場法の適用外に置かれている手工業や家内制工業、さらに農業や鉄道業にあって、労働日の延長が剥き出しの資本の衝動を示す実態を暴いてゆきます。 例えば、ノッティンガムのレース製造業の工場では9〜10歳の児童が朝の2〜4時ころに叩き起こされ、夜の10〜12時ころまで無理やり働かされていました。そのため、子供たちは「手足はか細くなり、まるでしなびたようなからだつきをしていて、顔の表情は鈍くなり、石のような無感覚のうちに人格はこわばり、一目見ただけでぞっとするほど」だったと述べられています。 以下、児童労働の実態についての報告が続きます。 これまで私たちは[紡績業という]1つ産業分野において、労働時間の延長を求める衝動がどれほど強く、増殖労働への渇望がどれほど貪欲なものであるかを調べてきた。この産業分野では、イギリスのあるブルジョワ経済学者の言葉を借りると、アメリカのインディオに対するスペイン人の残酷な振舞いにも劣らぬ極端な不法行為が行われた後に、やっと資本が法的な規制の拘束をうけるようになったのだった。次に私たちは、労働力の搾取が今日もまだ規制されていないか、ごく最近まで規制されていなかった生産分野に注目しよう。 「州の治安判事のブロートン氏は1860年1月14日に、ノッティンガム市の公会堂で開催されたある会議の議長として、ノッティンガムでレース製造業に就業している市民たちは、文明世界では考えられないような困窮と辛苦の状態にあると宣言した。…9歳から10歳の児童が、朝の2時、3時、4時頃から、汚いベッドから叩き起こされて、ただひたすら生き延びるためだけに、夜の10時、11時、12時まで無理やり働かされる。手足はか細くなり、まるでしなびたようなからだつきをしていて、顔の表情は鈍くなり、石のような無感覚のうちに人格はこわばり、一目見ただけでぞっとするほどである。我々はマレット氏などの工場主たちが、あらゆる議論に抗議するために登場してきたことに驚かない。…モンタギュー・ヴァルビ牧師が形容しているように、このシステムは無制限な奴隷制のシステムであり、社会的、身体的、道徳的、知的な意味での奴隷制である。…男子の労働時間を1日18時間に制限することを求めて、公開の会議を開くような都市を、人はいったいどう思うだろうか。…我々は[奴隷制を採用しているアメリカの]ヴァージニア州やカロライナ州の農場主を大声で非難する。それでいて資本家の利益のためにヴェールやカラーを製造するという目的で、人間を緩慢に屠殺するようなやり方が、鞭で脅しながら人間の肉体を売買する黒人奴隷市場よりもましであると、言えるものだろうか」。 スタッフォードシャーの製陶業には、過去23年間に3回にわたって、議会の調査が行われた。この調査結果を報告しているのが、1841年の児童労働調査委員会あてのスクリヴン氏の報告であり、枢密院の医務官の命令で公表された1860年のグリーンハウ医師の報告であり、最後に1863年のロンジ氏の報告である。 本書の目的からは、1860年と1863年の報告書から、搾取されている児童自身のいつくかの証言を紹介すれば十分だろう。児童の状況が明らかになれば、大人たちの状況も推測できるだろう。とくに少女や女性の状況は明らかである。こうした産業分野と比較すると、[すでに考察してきた]木綿の紡績工業などが、きわめて快適で健康的なものに思えてくるほどである。 児童の惨状 9歳のウィリアム・ウッドは「働きはじめたときは7歳10ヶ月だった」。彼は最初から「型を運んだ」(できあがって型にはいった品を乾燥室に運んではまたからの型を持って帰った)。彼は平日は毎朝の6時にきて、夜の9時ごろにやめる。「私は平日は毎日晩の9時まで働いている。たとえば最近7〜8週間はそうだ。」つまり、7歳の子供で15時間労働だ!J・マーリという12歳の少年は次のように述べている。 「私は型を運び、ろくろを回す。私がくるのは朝の6時で、4時のこともよくある。昨夜は今朝の8時まで夜どおし働いた。私は昨日から寝ていない。ほかにも8人か9人の子供が昨夜は夜どおし働いた。1人のほかは、けさもみなきている。私は週に3シリング6ペンス(1ターレル5グロッシェン)もらう。夜どおし働いてもそれより多くはもらえない。先週は二晩徹夜で働いた。」 10歳の少年ファーニハフは次のように言っている。 「昼食のためにまる1時間もらえるとはかぎらない。半時間だけのこともよくある。木、金、土曜はいつもそうだ」。 続いて、スタッフォードシャーの製陶業に対して議会が調査をおこなった報告書からです。ウィリアム・ウッドという少年は7歳10ヶ月から働き始めました。最初は「型運び」という陶器の形に成型した粘土を乾燥室に運び、成型の型を持ち帰るという仕事です。この作業を1日15時間続けます。他の12歳の児童は、この「型運び」と「ろくろ回し」の仕事を徹夜して働きます。彼らは、特別に苛酷な労働をしているのではなく、ほかの子供たちも同じように長時間労働を常態としています。しかし、彼らが徹夜で働いても賃金の割り増しはなく、賃金は1週間で3シリング6ペンスしかもらえない。 9歳になるウィリアム・ウッドが「働き始めたのは、7歳10ヶ月のときだった」。最初の仕事は「型運び」で、成型した完成品の商品を乾燥室に運び、その後で商品を取り出した空の型を持ち帰る仕事である。平日には朝の6時に仕事場にやってくるが、仕事が終わるのは夜の9時になる。「平日は毎日夜の9時まで働きます。たとえばここ7週間から8週間はそうでした」。7歳の子供が1日15時間労働するのである!12歳の児童のJ・マレーはこう証言している。「ぼくは型運びと、ろくろ回しをしています、仕事場には朝の6時に、ときには4時に来ます。昨晩は徹夜して、今朝の6時まで働き続けました。昨日の夜からベッドに入っていません。ぼくのほかにも8人から9人の子供たちが、昨晩は徹夜で働いています。1人をのぞいて、全員が今朝また仕事に来ました。ぼくは週に3シリング6ペンス(ドイツでは1ターレル5グロッシェンにあたる)もらっています。徹夜で働いても、賃金の割り増しはありません。先週は二晩も徹夜しました」。10歳の少年ファーニホウは次のように証言している。「昼食は1時間まるまるとれるとは限りません。30分しかないこともよくあります。木曜、金曜、土曜はいつもそうです」。 製陶業の惨状 グリーンハウ博士は、ストーク・アポン・トレントやウルスタントンの製陶業地方では寿命が特別に短い、と言明している。ストーク地方では20歳以上の男子人口のわずか30.6%が、またウルスタントンでわずかは30.4%が製陶工場で働いているだけなのに、第一の地方ではこの部類の男子の肺病による死亡の半数以上が陶工であり、第二の地方では約5分の2が陶工である。ハンリの開業医プーズロイド博士は、次のように述べている。 「陶工はすべて前の世代よりあとの世代のほうが短小で虚弱である。」 もう1人の医師マックビーン氏も次のように言っている。 「25年前に陶工たちあいだで私が開業して以来、階級の著しい退化が身長と体重の減少にしだいにひどく現われてきている。」 これらの証言は、1860年のグリーンハウ博士の報告書から借りてきたものである。 1863年の委員の報告書のなかには、次のような証言がある。ノース・スタッフォードシャー病院の医長J・T・アーレッジ博士は次のように言っている。 「一つの階級として陶工は、男も女も…肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。遅鈍で活気がなく、彼らの体質が虚弱なことは、胃病や肝臓病やリューマチのような痼疾にかかることでもわかる。しかし、彼らがことにかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。ある種の喘息は彼らに特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨やその他の身体部分を冒す瘰癧は、陶工の3分の2以上の病気である。この地方の住民の退化がもっとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地区からの補充のおかげであり、より健康な種族との婚姻のおかげである。」 少し前まではまだ同じ病院の外科医員だったチャールズ・ピアソン氏は、委員ロンジにあてた手紙でなかんずく次のように書いている。 「私は、自分に観察から言えるだけで、統計的には言えないが、この哀れな子供たちの健康が彼らの親や雇い主の貪欲を満足させるために犠牲にされたのを見ては、幾度も憤慨に燃えたということを、断言するのに、躊躇しない。」 彼は陶工の病気の原因を数えあげて、最後に「長時間労働」をその頂点としている。この委員会報告書は次のように望んでいる。すなわち、 「世界の注視のなかでこのように卓越した地位を占める一つの製造工業が、その偉大な成果に、自分の労働と技能とによってこのような偉大な結果に到達させた労働者人口の肉体的退化やさまざまな身体的苦痛や早期死亡がともなうという汚名を、もうこれ以上に長くは背負わないであろう」ということを。 イングランドの製陶工場について言えることは、スコットランドのそれにもあてはまる。 医師の報告によれば、苛酷な長時間労働のため、この地域の平均寿命が際立って短いものとなっている。この地域の若年層は身体が小さく、虚弱である、つまり成長が阻害されてしまっていて、それを退化と呼ぶ医師もいるということです。「発育不全で体格が貧相であり、胸部に奇形がみられることも多い。老化も早く、寿命も短い。鈍重で活気がなく、消化不良、肝臓や腎臓の障害、リューマチなどの疾患に罹りやすいことからも、虚弱な体質が明らかである」 これは、イングランドに限らず、スコットランドの製陶業にもあてはまる。つまりは、英国の製陶業に全般的に当てはまるということです。 グリーンハウ医師は、ストーク・アポン・トレントとウルスタントンの製陶業地域では、平均寿命が際立って短いことを証言している。ストーク地区において製陶業で働いているのは、20歳以上の男性住民の36.6%であり、ウルスタントン地区では30.4%にすぎないが、ストーク地区の20歳以上の男性の胸部疾患における死者のうち、半数以上が陶工であり、ウルスタントン地区では約5分の2が陶工である。ハンリーの開業医のプーズロイド医師は、「陶工たちの下の世代の人々は、上の世代の人々よりもみな身体が小さく、虚弱である」と述べている。またマックビーン医師も、「私は25年前に陶工たちの居住地域で開業したが、それ以来この階級の人々の退化が目立っており、身長と体重の減少が顕著である」と語っている。これらの証言は、1860年のグリーンハウ医師の報告書から引用したものである。 1863年の委員たちの報告には、次のような証言が見られる。ノース・スタッフォードシャー病院の医長J・T・アーレッジ医師は、「陶工たちを一つの階級として見ると、男女ともに…肉体的にも精神的にも退化している住民層となっている。発育不全で体格が貧相であり、胸部に奇形がみられることも多い。老化も早く、寿命も短い。鈍重で活気がなく、消化不良、肝臓や腎臓の障害、リューマチなどの疾患に罹りやすいことからも、虚弱な体質が明らかである。彼らに特に多いのは、肺炎、肺結核、気管支炎、喘息など、胸部疾患である。ある種の喘息は陶工に特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病と呼ばれている。腺や骨などの身体部位をおかす腺病は、陶工たちの3分の2以上でみられる持病である。この地区の住民の退化がこの程度でおさまっているのは、近隣の農村地区から人々が集められていることと、健康な人々との婚姻が行われていることによるものである」と証言している。 しばらく前まで同病院の外科医だったチャールズ・パーンズ氏は、ロンジ委員に宛てた書簡で次のように証言している。「私は統計的にではなく、実地の観察からしか発言できません。しかしこれらの哀れな子供たちが、両親と雇い主の貪欲を満たすために、健康を犠牲にせざるを得ない状態をみるたびに、何度でも憤慨の念がこみあげてきたことを断言せざるをえません」。 彼は陶工の病気の原因を列挙した後に、その最終的な原因として「長時間労働」を挙げている。この委員会の報告では次のような窪みが表明されているのである。「これほどに重要な地位を占めるこの製造業が、世界が見守るうちで、このような汚名をこれ以上狙い続けることがないことを願います。これほどに大きな成果を達成しながら、その偉大な成功も、労働者大衆の身体の退化と、さまざまな肉体的な苦難と短い寿命に支えられているという汚名を担うことがないことを願います」。イギリスの製陶業にあてはまることは、スコットランドの製陶業らもそのままあてはまる。 マッチ製造業 マッチ製造業は1833年、燐を直接に軸木につけることの発明に始まる。それは1845年以来イングランドで急速に発達し、ロンドンの人口稠密な地区から、ことにまたマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリッジ、ニューカッスル、グラスゴーにも広がったが、それといっしょに、すでに1845年にヴィーンの一医師がマッチ製造工に特有の病気として発見していた首けいれん症も広がった。労働者の半数は13歳未満の子供と18歳未満の少年である。この製造業はその不衛生と不快とのために評判が悪くて、労働者階級のなかでも最も零落した部分や飢え死にしかかっている寡婦などがこの仕事に子供を、「ぼろを着た、飢え死にしそうな、かまい手のない、教育されない子供」を、引き渡すだけである。委員ホワイトが(1863年に)尋問した証人のうち、270人は18歳未満、50人は10歳未満、10人はたった8歳、5人はたった6歳だった。12時間から14時間か15時間にもなる労働日の変化、夜間労働、たいていは燐毒の充満した作業室そのもののなかでとられる不規則な食事。ダンテも、こんな工場では、彼の凄惨きわまる地獄の想像もこれには及ばないと思うであろう。 マッチ製造業は1833年に、リンを直接に軸木に付ける方法が発明されて始まりました。労働者の半分は、13歳未満の児童と18歳未満の少年でした。かれらは12時間から14、5時間にも及ぶ長時間労働を、それに伴う夜間労働も含めて行います。食事も不規則で、リン毒の充満する作業場でとっていました。彼らの中には、マッチ職人に特有の病気とされた開口障害が広がっていました。 マッチの製造業は1833年に、軸に燐を直接に塗付する方法が発明されて始まった。マッチ製造業は1845年からイングランドで急成長を遂げ、ロンドンの人口密集地帯から、やがてはマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリッジ、ニューカッスル、グラスゴーなどの都市にも広まった。それとともに1845年にウィーンの医師によって、マッチ職人に特有の病気として発見されていた開口障害が、これらの都市にも広がっていった。 労働者の半数は13歳未満の児童か、18歳未満の青少年である。マッチ製造業はその不衛生なことと不快さのために人々からの評判が非常に悪く、この仕事に自分の子供を送り込もうとするのは、飢餓に直面した寡婦など、労働者階級のうちでも極貧の層の人々だけである。ここに送り込まれてくるのは「みすぼらしい身なりをして、半ば飢えており、全く放置されて教育も受けていない子供たち」である。ホワイト委員が1863年に聴取した証人のうちの270人は18歳未満であり、40人は10歳未満であった。そのうちの10人はわずか8歳で、5人はわずか6歳だった。労働日の長さは1日12時間から14、15時間にも及ぶ。夜勤もあり、食事は不規則である。そして燐毒は汚染された仕事場で食事をとるのがほとんどである。ダンテがこの工場のありさまを目にしたとすれば、自分の描いたもっとも凄惨な地獄絵も、絵空事だと思うだろう。 壁紙工場 壁紙工場では、粗雑な種類は機械で、精巧な種類は手で印刷される。最も忙しい月は、10月の初めと4月の末とのあいだである。この期間中はこの労働は、しばしば、またほとんど中断なしに、午前6時から夜の10時かもっと深夜まで続く。 J・リーチは次のように証言する。 「この冬(1862年)、19人の少女のうちの6人は、過労からきた病気で欠勤した。彼女たちに居眠りをさせないために、どなりつけてなければならない。」W・ダフィ─「子供たちはしばしば疲労のために目をあけていられなかった。じっさい、われわれ自身もそんなことがよくある。」J・ライトボーン─「私は13歳で。…われわれはこの冬は夜の9時まで、その前の冬は10時まで働いた。この冬は足の傷が痛くて毎晩のように泣いた。」G・アスプデン─「私はこの子が7歳のとき、私は彼を背負って雪の上を往復するのが常だった。そして彼は16時間働くのが常だった!…彼が機械について立っているあいだに私がしゃがんで食事させることがよくあった。彼は機械を離れたり立っているあいだに私がしゃがんで食事させることがよくあった。彼は機械を離れたり止めたりしてはならなかったから。」マンチェスターの一工場の業務担当社員スミス─「われわれ(と彼が言うのは「われわれ」のために労働する「人手」のこと)は食事のための中断なしに労働するので、10時間半の1日労働は午後4時半に終わり、それからあとはすべて規定外時間である。」(このスミス氏ははたしてこの10時間半のあいだ全然食事をしないだろうか?)「われわれ(スミスその人)は夕方の6時前にやめること(と彼が言うのは「われわれ」の労働力機械の消費をやめること)はまれてなので、われわれ(やはり同じクリスピヌス)は実際は1年じゅう規定時間以上に労働しているのである。…子供も大人も(152人の子供と18歳未満の少年と140人の大人が)が同じように最近18か月は平均して毎週少なくとも7日と5時間労働した。すなわち毎週78時間半である。今年(1863年)の5月2日までの6週間では、平均はもっと高かった─週に8日すなわち84時間だった!」。 しかし、尊貴複数〔君主が「私」と言う代わりに使う「われわれ」〕にひどく執着しているこのスミス氏は、にやにやしながらつけ加える。「機械仕事はたやすい」と。すると、木版手刷り法の使用者たちは言う。「手労働は機械労働よりも健康的だ」と。一般に工場主諸君は、「少なくとも食事時間中だけは機械を止めよう」という提案には、憤慨をもって反対する。 バラ(ロンドン)の或る壁紙工場の支配人のオトリ氏は次のように言う。「もし朝の6時から夜の9時までの労働時間を許す法律があれば、われわれには(!)非常にありがたいのだが、朝の6時から夕方の6時までという工場法の時間はわれわれには(!)適しない。…われわれの機械は、昼食時間中は(なんという寛大さ)止められる。この休止からは、紙や絵の具のこれというほどの損失は生じない。しかし、それに付随する損失が好ましいものではないということはわかる。」と彼は同情的につけ加える。 委員会報告書では素朴に次のように言っている。時間、すなわち他人の労働を取り取得する時間を失い、またそれによって「利潤を失う」といういくつかの「有力会社」の心配は、13歳未満の子供や18歳未満の少年に12時間から16時間にわたって昼食を「とらせないでおく」ための、または、蒸気機関に石炭や水をやったり羊毛に石鹸をつけたり車輪に油をつけたりするように─生産過程そのもののあいだに単なる労働手段の補助材料として─彼らに昼食をあてがうための「十分な理由」ではないのである。 壁紙工場では、粗雑な壁紙で印刷し、精緻な壁紙は手刷りで印刷します。仕事がとくに忙しいのは、10月の初めから4月末までで、この繁忙期には、中断もなく労働が午前6時から夜の10時あるいは深夜まで続けられます。13歳未満の児童であっても、12時間から16時間に及ぶ労働時間のあいだ、昼食すらもあてがわれずに働きます。 会社側の証言では、時間、すなわち他者の労働を取り込む時間を時間を失うことで、利益を失うことをおそれていることが示されています。 壁紙工場では、粗雑な壁紙で印刷し、精緻な壁紙は手刷りで印刷する。仕事がとくに忙しいのは、10月の初めから4月末までである。この時期には朝の6時から夜の10時まで、あるいはさらに深更まで、しかも多くはほとんど中断もなしで仕事が続けられる。 J・リーチは次のように証言している。「昨年の冬(1862年)は、19人の少女のうちの6人が、過労による病気で欠勤しました。少女たちが眠り込まないように、私は怒鳴り続けていなければならないのです」。W・ダフィは「子供たちは疲労して、目を開いていられなくなります。実際に我々自身もほとんど目を開いていられないほどでした」と証言する。J・ライトボーンは証言する。「僕は13歳です。…この冬は、ぼくたちは夜の9時まで働きました。昨年の冬は夜の10時まで働きました。今年の冬は足の傷が痛んで、ほとんど毎晩泣いていました」。G・アスプデンの証言。「私はこの子が7歳のとき、いつも背中に雪の上を工場に通ったものです。この子は毎日16時間も働くのが常でした。…この子が機械についているときに、私はしゃがんで口に食べ物を運んでやりました。この子は機械の前を離れることも、機会を止めることも許されていなかったからです」。 マンチェスター工場の共同支配人スミスの言。「我々は、食事時間の間も中断せずに働くので、1日10時間半の労働は午後4時に終わり、それ以後の時間はすべて超過労働時間である」。このスミス氏は果たしてこの10時間半の間、自分でも食事をとらないものだろうか。「我々は、夕方の6時前にやめることはない。だから我々は、実際に1年中ずっと超過労働をしていることになる。…過去18か月は、子供と大人が同じように、平均して少なくとも週に7日と5時間、つまり78時間半は働いている。週に8日分、すなわち84時間は働いたのである」。しかし君主のような複数主語が好きなこのスミス氏は、にんまりとしてこう付け加える。「機械仕事は軽い仕事だからね」。 ところが木版刷り方式を採用している人々は、「手仕事は機械作業よりも健康によい」と主張している。一般に工場主たちは、「最低でも食事中くらい、奇怪を止めてはどうか」という提案には、憤慨して反対する。ロンドンのバラにある壁紙工場支配人のオトリー氏は次のように主張する。「法律で朝の6時から夜の9時まで働かせることが認められていれば、我々にもとても好都合だが、工場法では朝の6時から夕方の6時までしか労働を認めていないので、我々には好ましくない。…我々の機械は、昼食の間は止めている。この機械の停止によって生じる紙や絵の具の損失は、それほど大きなものではない。しかし、それに付随して損失が発生することが歓迎されないのは理解できる」。 委員会の報告では無邪気にも次のように述べている。いくつかの「大手の会社」は、時間、すなわち他者の労働を取り込む時間を失うことで、「利益を失う」のではないかと懸念している。しかしそのような懸念があるからといって、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に、12時間から16時間も昼食を「与えないでおいたり」してもよいとか、まるで蒸気機関に石炭や水を補給したり、羊毛に石鹸を加えたり、歯車にオイルを差したりするのと同じように、彼らに食事をとらせてもよいという「十分な理由」になるものではない。それではまるで生産過程そのものの現場で、たんなる労働手段の補助材料として、彼らに食事を与えているようなものである。 製パン業 イギリスのどの産業分野を見ても、製パン業ほど─(近ごろやっと始まったばかりの機械製パンは別として)─古風な、じつに、ローマ帝政時代の詩人たちの作品から想像できるように古風な生産様式な前キリスト教的な生産様式を今日まで保持しているものは一つもない。しかし、資本は、前に述べたように、自分が征服する労働過程の技術的な性格にはさしあたり無関心である。資本は労働過程をさしあたりは自分の目の前にあるとおりの形で取り入れるのである。 信じられないほどのパンの不純製造、ことにロンドンでのそれが、「食料品の不純製造に関する」下院委員会(1855〜1856年)とハッスル博士の著書『摘発された不純製品』とによってはじめて暴露された。この暴露の結果は、「飲食料品不純製造防止のための」1860年8月6日の法律だったが、それは効果のない法律だった、というのは、もちろんそれは不純製品の売買によって「正直にもうけよう」とするどの自由商業主義者にたいしても最大の思いやりのあるものだからである。委員会自身も、自由商業は本質的には不純品の、またはイギリス人がしゃれて言う「ごまかし品」の取引を意味する、という自分の確信を多かれ少なかれ素朴に表明した。じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」は、白を黒とし、黒を白とすることをプロタゴラスよりもよく心得ているし、いっさいの実在的なものがただの仮象にすぎないことを目の前に実証して見せることをエレア学派よりもよく心得ているのである。 ともあれ、委員会は公衆の目を自分の「日々のパン」に、したがってまた製パン業に、向けさせた。それと同時に、公の集会でも議会への請願でも、過度労働などについてのロンドンの製パン職人の叫びが響きわたった。その叫びがますます痛切になったので、すでにたびたび触れた1863年委員会の一員でもあるH・S・トリメンヒア氏が勅命調査委員に任命された。彼の報告は、証人の口述とあいまって、公衆を、その心ではなくその胃袋を、かき乱した。聖書に精通しているイギリス人のことだから、人間は、神の恩寵で選ばれた資本家や地主や冗職牧師でないかぎり、額に汗してそのパンを食うべき運命を背負わされているということは知っていたが、そのイギリス人も、人間は、毎日そのパンとして、明礬や砂やその他のけっこうな鉱物性成分は別としても、腫れものの膿や蜘蛛の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母をまぜ込んだいくらかの量の人間の汗を食わなければならないということは知らなかったのである。そこで、聖なる「自由商業」様にはなんのおかまいもなく、それまで「自由」だった製パン業は国家の監督官の監視下のもとにおかれて(1863年の議会会期末)、同じ法律によって、18歳未満の製パン職人には夜の9時から朝の5時までの労働時間は禁止された。この最後の条項は、われわれにこんなにも昔を思わせるこの営業部門での過度労働について、あますところなく物語るのである。 「ロンドンの製パン職人の労働は、通例、夜の11時に始まる。この時間に彼はこね粉をつくるのであるが、それはひどく骨の折れる過程で、一釜のパンの大きさと品質とに応じて30分から45分つづく。次に彼は、こね板、というのは同時にこね粉をつくるおけのふたにもなるのであるが、このこね板の上に横になって、一つの麦粉袋を頭の下に置きもう一つの麦粉袋をからだの上にのせて数時間眠る。それから4時間は激しい絶えまない労働が始まり、こね粉を投げたり、秤ったり、型に入れたり、かまどに押し込んだり、かまどから取り出したりする。あるパン焼き場の温度は75度から90度であり、小さい焼き場ではそれより低いことよりも高いことのほうが多い。食パンや巻きパンなどをつくる仕事がすめば、パンの配達が始まる。そして、日雇い人のかなりの部分は、前に述べたような激しい夜業をすませてから日中はパンをかごに入れてかついだり手押し車に載せて家から家に運んだりし、またそのあいだには何度もパン焼き場で作業する。季節や営業規模に応じて労働は午後1時と6時のあいだに終わるが、職人のもう一つの部分は深夜おそくまでパン焼き場で働いている。」「ロンドン季節〔ロンドンの社交季節で初夏のころ〕には、パンを『定価』で売るウェストエンドの製パン業者の職人は、通例は夜の11時に仕事を始め、1度か2度の、ときには非常に短い中休みをはさんで、翌朝の8時までパン焼きに従事する。それから彼らは4時、5時、6時、じつに7時までもパンの配達に使われ、また時にはパン焼き場でビスケット焼きをすることもある。すっかり仕事をすませてから、彼らは6時間の、しばしばたった5時間か4時間の睡眠をとる。金曜にはいつももっと早く、たとえば夜の10時に労働が始まって、パンの製造とか配達とかで中断なしに翌土曜の夜の8時まで、また多くはずっと日曜の朝の4時か5時までも、労働が続く。パンを『定価』で売る一流の製パン工場でも、やはり日曜には4時間か5時間翌日のための準備作業をしなければならない。…『安売り親方』(パンを定価より安く売る親方)、しかも前に述べたようにロンドンの製パン業者の4分の3以上はこれなのだが、こういう親方の製パン職人は、労働時間はもっと長いのであるが、しかし彼らの労働はほとんどまったくパン焼き場だけに限られている。というのは、彼らの親方は、小さな小売店に供給するほかは自分の店で売るだけだからである。週末に近くなると…つまり木曜には、ここでは労働は夜の10時に始まって、わずかばかりの中休みがあるだけで、ずっと日曜の夜明け前まで続くのである」。 「安売り親方」については、ブルジョワ的立場でさえも「職人の不払労働が彼らの競争力の基礎をなしている」と理解している。そして、「定価売り製パン業者」は、自分の「安売り」競争相手たちを、他人の労働の盗人で不純品製造者だとして、調査委員会に告発している。 「彼らは、ただ、公衆をだますことによって、また彼らの職人から12時間分の賃金で18時間を引き出すことによって、成功しているだけである。」 パンの不純正製造と、パンを定価より安く売る製パン業者部類の形成とは、イギリスでは18世紀の初め以来、この営業の同業組合的性格がくずれて名目上の製パン親方の背後に資本家が製粉業者や麦粉問屋の姿で立ち現われてから、発達した。それとともに、資本主義的生産のための、労働日の無制限な延長や夜間労働のための、基礎が置かれた。といっても、夜間労働はロンドンにおいてさえ1824年にはじめて本式に足場を固めたのであるが。 以上に述べたところからわかるであろうように、この委員会報告書は製パン職人を短命な労働者に数え、彼らは、労働者階級のどの部分でも常則になっている幼年死亡を幸いに免れたのちも、42歳まで生きることはまれだとしているのである。それにもかかわらず、製パン業はいつでも志願者であふれている。ロンドンへのこの「労働力」の供給源は、スコットランドであり、イングランドの西部農業地帯であり、そして─ドイツなのである。 ロンドンのパン職人の労働はふつう、夜の11時に始まり、その後こね粉を下に敷いたこね板の上で数時間の睡眠をとり、その後で4時間の激しくも絶え間のない労働が75度から90度もの室温になるパン焼き場で始まります。やがて休む間もなく待っているのは、パンの配達です。 ロンドンのパン屋の4分の3はいわゆる安売り店で、こうした店で働くパン職人の労働時間はさらに長くなります。それは店でパンを売る仕事もあるからです。この「安売り店」については、ブルジョワ的な観点からも、「その競争力の基盤となっているのは、職人たちの労働に支払いが行われていないことにある」ことが認められています。「彼らが成功しているのは、公衆を騙しているからであり、職人たちに18時間も働かせながら、12時間の賃金しか支払っていないからにほかならない」のです。 ここでは、長時間労働の問題にくわえ、不純物を混ぜ込んでできるだけ安いコストでパンを製造しようとする不純製造の問題が取り上げられています。マルクスはこの不純物が混ぜ込まれたパンを、「ミョウバンや砂やその他の結構な鉱物性成分は別としても、腫れものの膿や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母を混ぜ込んでいくらかの量の人間の汗」と描写しているほどです。 前近代の年においてはツンフトやギルドという職人たちによる同職組合が形成され、自分たちの生産のあり方に厳しい統制を加えていました。過度な競争に巻き込まれ、自分たちの労働環境や生活環境が悪化しないために、同じ職業の職人たちで組織を形成し、自分たちの生産物の品質や価格を厳密に規制したのです。それゆえ、そこでは商品の販売が行われたとはいえ、価値の生産が主要な目的となることはありませんでした。 ところが、このような同職組合が解体し、資本が生産活動に影響を及ぼすようになると、状況が一変してしまうのです。長時間労働や不純製造も、生産が価値の取得、剰余価値の取得を目的として行なわれるようになったことの結果にほかなりません。 だから、パン職人が42歳まで生きることは稀だと、マルクスは言います。 イギリスのすべての産業分野のうちで、製パン業ほど古風な産業はないだろう。まるで古代のローマ帝政時代の詩人たちを想起させるほど古風な生産様式は、キリスト教が到来するよりも前の時代を思わせる。しかしすでに指摘したように資本は、自ら支配する労働過程の技術的な性格には、当面は無関心なのである。さしあたり資本は、労働過程をそのあるがままの状態で受け入れるのである。 最近、パンが信じられないほどの不正な方法で製造されていることが暴かれた。「食品の不正製造に関する」下院委員会の調査と、ハッサル博士の著書『発見された不正製造』によって、ロンドンでの不正な製造の実態が明らかになった。この不正が暴露されて定められたのが、1860年8月6日の「飲食料品の不正製造防止」法である。 しかしこの法律は、不正に製造された商品を売買して「まめに稼ぐ」ことを企てるあらゆる自由商業主義者たちに有利な法律であったために、もちろん効果はなかった。この委員会そのものが自由商業とは、基本的にいかがわしい物質をつかって、イギリス人らしいウイットで言うと「まぜものをした物質」を取引するものであるという信念を、素朴に表明していたのである。実際にこうした「ソフィスト的な詭弁」は[ソフィストの]プロタゴラスよりも巧みに、白を黒と言いくるめ、黒を白と言いくるめることができるし、[古代ギリシャの]エレア学派よりも巧みに、実在とは単なる仮象にすぎないことを目に見えるように示すことができるものなのだ。 それでもこの委員会の調査は公衆が自分たちの「日々のパン」に、そして製パン業に注目するきっかけにはなったのだった。同時にロンドンのパンの職人たちは、公開の会合や議会への請願によって、超過労働などについて悲痛な叫びをあげた。この叫びはあまりに切羽詰まったものだったので、すでに何度も登場している1863年委員会のH・S・トリメンヒア委員が、勅命調査委員に任命された。同委員の報告書と証人たちの証言は、公衆の心ではなく胃を憤慨させた。 聖書に詳しいイギリス人たちは、人間であれば誰でも、額に汗してパンを食べるように定められていることを知っていた。しかしこのイギリス人も自分たちは毎日、実際に人間の汗が混ざったパンを食べさせられていることは知らなかったのである。ミョウバンや砂、その他の「けっこうな」ミネラル成分が混ざっているのはよいとしても、腫れ物の膿、蜘蛛の巣、ゴキブリの死骸、腐ったドイツ酵母まで混ざっているとは知らなかったのである。 こうして神聖なる「自由商業」への配慮も打ち捨てられて、それまで「自由」だった製パン業者は、国の査察官の監視下に置かれることになった。この議会で認可された条例によって、夜の9時から朝の5時までの労働時間に、18歳未満のパン職人を働かせることは禁じられた。この条項は、この古風な産業分野で超過労働がどれほど深刻なものであったかを如実に物語っている。 「ロンドンのあるパン職人の労働は、ふつうは深夜の11時に始まる。まずパン生地をこねる作業から始める。この生地をこねる作業は、パンの大きさと品質によって異なるものの、30分から45分はかかり、とてもつらい仕事である。それから職人は、パンをこねた板を、生地を作る桶の蓋として載せて、その上に横になり、一つの小麦粉の袋を枕にし、もう一つの袋を載せて、2、3時間は眠るのである。 目を覚ますと、それから5時間はせわしない仕事がつづくことになる。生地をこね板に投げつけ、計算し、型にいれ、型をかまどに入れ、最後に型ごと竈から取り出す。パン焼き部屋の温度は摂氏24度から32度にもなる。狭いパン焼き部屋では室温はさらに高くなる傾向がある。 食パンやロールパンなどの製造を終わると、次はパンの配達である。多くの日雇いのパン職人は、こうしたつらい夜勤が終わった後に、昼間はパンを籠に入れて運ぶか、荷車に載せて、住宅街を売って歩くのである。さらにそその合間にも時々はパン焼き部屋に戻って作業する必要がある。季節と販売量にもよるが、販売作業は午後1時から6時までかかる。そして別のグループの職人たちが、夜遅くまでパン焼き部屋で作業をするのである」。 「ロンドンではハイシーズンになると、パンを<正価>で売るウェストエンドのパン屋の職人たちは、深夜の11時に仕事を始め、途中で1度、あるいはときには2度、ごく短い休憩をとるほかは、翌朝の8時まで仕事を続ける。その後は夕方の4時、5時、6時、あるいはときには7時まで、パンを配達しなければならない。また、パン焼き部屋でビスケットを焼かされることもある。こうして仕事が終わると職人たちは6時間ほどの睡眠をとるが、5時間や4時間しか睡眠の時間がないことも多い。 金曜日は仕事がいつもより早めに、たとえば夜の10時頃に始まり、パンの仕込みやら配達やら、中断なしに翌日の土曜日の夜の8時まで働かされる。それでも終わらずに日曜の朝の4時か5時まで続くことも多い。パンを<正価>で売る一流のパン屋でも、日曜日にも翌日のために4時間か5時間の準備作業が必要となる。…すでに述べたようにロンドンのパン屋の4分の3以上は、正価を下回る価格でパンを販売する<安売り店>である。こうした店で働くパン職人の労働時間はさらに長くなる。ただしこうした店の労働は、パン焼き部屋での仕事に限られる。こうした<安売り店>では小さな小売店に納品する他は、すべて自分の店でパンをうるからである。週も終わりに近づいて…木曜日になると、こうした店では夜の10時に仕事が始まり、これがわずかな中断をはさむだけで、日曜日の夜明け前まで続くのである」。 この「安売り店」については、ブルジョワ的な観点からも、「その競争力の基盤となっているのは、職人たちの労働に支払いが行われていないことにある」ことが認められている。そして「正価」でパン屋は調査委員会に対して、ライバルである「安売り店」が他人の労働を略奪するものであり、不正製造を行っていると告発している。「彼らが成功しているのは、公衆を騙しているからであり、職人たちに18時間も働かせながら、12時間の賃金しか支払っていないからにほかならない」。 パンの不正製造と、パンを正価を下回る値で安売りする製パン業者階級がイギリスに登場してきたのは、18世紀の初頭以降のことである。これはパンの製造業が同業組合という性格を失って、もはや親方といっても名目だけのパン焼き親方の背後に、製粉業者や小麦粉問屋という姿で資本家が登場するようになった時期とちょうど重なる。これによって労働日を際限なく延長し、夜間労働を強制する資本制的な生産の土台が確立されたのである。もっとも夜間労働が真の意味で定着したのは、ロンドンでも1824年になってからのことだった。 これまでの記述から、この委員会の報告書ではパン職人たちを短寿命の労働者とみなしていた理由はご理解いただけるだろう。労働者階級の人々は、幼年の頃に死亡することが多いが、この時期を乗り越えても、こうして短寿命の労働者たちが42歳まで生き延びるのは至難なことだった。それでも製パン業には、つねに労働志願者が殺到している。ロンドンの製パン業にこうした「労働力」を供給しているのは、スコットランド、イングランド西部の農村地帯、そしてドイツである。 アイルランドの製パン業 1858年から1860年には、アイルランドの製パン職人は、夜間労働と日曜労働とに反対する運動のための大集会を自費で組織した。公衆は、たとえば1860年のダブリンの5月集会で、アイルランド人的熱情で彼らに味方した。この運動によって、ウェイクフォード、キルケニー、クロンメル、ウォーターフォード等々では夜間労働なし昼間労働が実際に首尾よく実現された。 「賃職人の苦痛が人も知るようにあらゆる限度を越えていたリメリクでは、この運動は、製パン親方、ことに製パン兼製粉業者の反対にあって失敗した。リメイクの実例に、エニスとティペラリーでの敗退を招いた。公衆の不満が最も激しい形で表明されたコークでは、親方たちは、職人を追い出すという自分たちの権力の行使によってこの運動を失敗に終わらせた。ダブリンでは親方たちは最も頑強に抵抗し、運動を先頭に立った職人たちをいじめることによって、そのほかにものに譲歩を強制し、夜間労働と日曜労働に服することを強制した。」 アイルランドですきまなく武装していたイギリス政府の委員会も、タブリンやリメリクやコークなどの無情な製パン親方たちにたいしてはただ哀れっぽく抗議して次のように言うのである。 「本委員会の信ずるところでは、労働時間は自然法則によって制限されているのであって、この法則は罰なしに犯されるものではないのである。親方たちが彼らの労働者に、その宗教的信念にたいする違背や国法の侵犯や世論の無視を、追放という威嚇をもって強制することによって(宗教的信念にたいする違背などということはすべて日曜労働に関するものである)彼らは資本と労働とのあいだに悪意を起こさせ、また宗教や道徳や公共の秩序にとって危険な一例を与えるものである。…本委員会の信ずるところでは、12時間を越える労働日の延長は労働者の家庭的および私的生活の横領的侵害であり、また、一人の男の家庭生活を妨害し、息子、兄弟、父としての彼の家庭義務の遂行を妨害することによって、有害な道徳的結果を招くものである。12時間を越える労働は、労働者の健康を破壊する傾向があり、早死や若死を招き、したがってまた労働者家族が家長からの世話や扶助をそれが最も必要な時期に奪い取られるという不幸を招くものである。 アイルランドのパン職人たちは1858年から1860年にかけて、夜間労働と日曜日の就業に反対するために、大規模な抗議集会を自費で開催した。例えば1860年5月にダブリンで開催された集会では、アイルランド人らしい温かい人情で彼らを応援したのだった。実際にこの運動は成功を収め、ウェイクフォード、キルケニー、クロンメル、ウォーターフォードなどでは、夜間労働の禁止が実現したのである。 「周知のようにリメリクでは、賃職人の苦しみが常識を外れたものであったものの、パン屋の親方に、とくに製パンと製粉を兼業する親方たちの反対で、この運動は蹉跌した。リメイクで運動が失敗に終わると、エンニスとティペラリーでも運動が挫折した。公衆の憤慨がもっとも激しく表明されたコークでは、親方たちが職人たちを解雇するという権限を行使したことで、運動は挫折した。ダブリンでは親方たちは強硬に抵抗し、運動を主導した職人を解雇したので、他の職人たちも屈服し、夜間労働と日曜労働に従事せざるをえなくなったのである」。 イギリス政府の委員会はアイルランドではいわば完全武装していたが、それでもタブリン、リメリク、コークなどでのパン屋の親方たちの過酷な措置に、重々しい口調で戒めたのである。 「本委員会は、労働時間というものは自然の法則によって制限されているものであり、これに反すると罰が加えられものだと考えている。親方たちは職人を解雇すると脅迫することで、職人たちにみずからの宗教的な確信に背かせ、国の法律に違反させ、世論を軽蔑させているのである。こうして親方たちは資本と労働の間に悪感情を生み出し、宗教、道徳、治安に危険な前例を作り出している。…本委員会は、労働時間を12時間を超えて延長することは、労働者の家庭生活をと私生活を収奪するものであり、一人の男性としての家庭生活だけでなく、息子として、兄弟として、父親としての家庭の義務を遂行することを妨げるものであり、これは道徳的に不幸な結果をもたらすものだと考えている。12時間を超える労働は、労働者の健康を損ね、老化を早め、早死をもたらす傾向がある。労働者が早死すると、その労働者の家庭は、まさにもっとも必要とされる時期に、その大黒柱による保護と扶養を奪われることになる。これは労働者の家庭にとっては不幸なことである」。 超過労働のその他の実例 われわれは今までアイルランドにいた。海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者が、この犂を扱う男が、過酷きわまる風土のさなかで日曜の4時間の追加労働(この安息日にやかましい国で!)をともなう彼の13時間から14時間の労働を訴えており、同時に他方ではロンドンの大陪審の前に3人の鉄道労働者が、すなわち1人の乗客車掌と1人の機関手と1人の信号手とが立っている。ある大きな鉄道事故が数百の乗客をあの世に輸送したのである。鉄道労働者の怠慢が事故の原因なのである。彼らは陪審員の前で口をそろえて次のように言っている。10年から12年前までは自分たちの労働は1日にたった8時間だった。それが最近の5、6年のあいだに、14時間、18時間、20時間とねじあげられ、そして遊覧列車季節のように旅行好きが特にひどく押し寄せるときには、休みなしに40から50時間続くことも多い。自分たちも普通の人間であって巨人ではない。ある一定の点で自分たちの労働力はきかなくなる。自分ちは麻痺に襲われる。自分たちの頭は考えることをやめ、目は見ることをやめる。あくまで「尊敬に値するイギリスの陪審員」は、彼らを「殺人」のかどで陪審裁判に付すという評決を答申し、一つの穏やかな添付所のなかで次のようなつつましやかな願望を表明する。鉄道関係の大資本家諸氏は、どうか将来は、必要数の「労働力」の買い入れではもっとぜいたくであり、代価を支払った労働力の搾取では「もっと節制的」か「もっと禁欲的」か「もっと倹約的」であってもらいたい、と。 [苦境を訴えようと]あらゆる職業、年齢、性別の労働者のさまざまな群れが、かの[冥府を訪ねた] 殺された人々の霊がオデュッセウスのもとに押しかけたよりももっと熱心にわれわれのところに押しかけてくる。そして腕に抱えた青書がなくても一目で過度労働の色が見て取れる。あらゆる職業とあらゆる年齢と男女両性の色とりどりの労働者群れのなかから、われわれはさらに2人の人物を取り出してみよう。この2人がなしている著しい対照は、資本の前で万人が平等だということを示している。それは、婦人服製造女工と鍛冶工である。 1863年6月の最後の週に、ロンドンのすべての日刊新聞は、「たんなる過度労働からの死亡」という「センセーショナル」な見出しの記事を載せた。それはある非常に名声の高い宮廷用婦人服製造所に雇われていて、エリズとやさしい名の婦人に搾取されていた20歳の婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリーの死亡に関するものだった。何度も語られた古い話が今また新たに発見されたのであって、これらの娘たちは平均16時間半、だが社交季節にはしばしば30時間絶えまなく労働し、彼女たちの「労働力」がきかなくなると時おりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えられて活動を続けさせられるというのである。そしてそれはちょうど社交季節の盛りのことだった。新しく輸入されたイギリスの皇太子妃のもとで催される誓忠舞踏会のための貴婦人用衣裳を一瞬のうちにつくりあげるという魔術が必要だった。メアリー・アン・ウォークリーは、ほかの60人の娘たちといっしょに、必要な空気容積の3分の1も与えないような一室に30人ずつはいって、26時間半休みなく労働し、夜は、1つの寝室いくつかの板壁で仕切った息詰まる穴の1つで1つのベッドに2人ずつ寝た。しかも、これは、ロンドンでも良いほうの婦人服製造工場の一つだった。メアリー・アン・ウォークリーは金曜日に病気になり、そして、エリズ夫人の驚いたことには、前もって最後の1着を仕上げもしないで日曜日には死んだ。遅ればせに死の床に呼ばれた医師キーズ氏は、「検屍陪審」の前で率直な言葉で次のように証言した。 「メアリー・アン・ウォークリーは詰め込みすぎた作業室での長い労働時間のために、そして狭すぎる換気の悪い寝室のために死んだのだ。」 この医師に礼儀作法というものを教えるために、この証言にたいして「検屍陪審」は次のように言明した。 「死亡者は卒中で死んだのであるがその死が人員過剰な作業場での過度労働などによって早められたのではないかと考えられる理由はある。」 われわれの「白色奴隷は」、と自由貿易論者コブデン、ブライト両氏の機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「われわれの白色奴隷は、墓にはいるまでこき使われ、疲れ果てて声もなく死んで行くのだ。」 「死ぬまで労働することは、婦人服製造女工の仕事場だけでのことではなく、幾千の仕事場で、じつに商売の繁昌している仕事場ならばどこでも、日常の事柄である。…鍛冶工の例をとってみよう。詩人の言葉を信じてよいならば、鍛冶工ほど元気で快活な男はいない。彼は早朝に起きて、太陽よりもさきに火花を散らす。彼はほかのだれよりもよく食い、よく飲み、よく眠る。ただ単に肉体的に見れば、彼は、労働が適度であるかぎり、じっさい人間の最上の状態の一つにある。だが、われわれは彼について都市に行き、この強い男に負わされる労働の重荷を見てみよう。また、わが国の死亡表の上で彼がどんな地位を占めているかを見てみよう。「マウルボウン(ロンドンの最大区の一つ)では、鍛冶工は毎年1000人につき31人の割合で、またはギリスの成年男子の平均ゆりも11人多い割合で、死んでいる。その仕事はほとんど本能的とも言える人間の一技能であって、それ自体としては非難するべきものではないが、それがただ労働の過重だけによって、この男を破壊するものになるのである。彼は毎日何度かハンマーを打ちおろし、どれだけか歩行し、どれだけか呼吸し、どれだけか仕事をして、平均してたとえば50年生きることができる。誰かが彼を強制して、どれだけかより多く打たせ、どれだけかより多く歩かせ、1日にどれだけかより多く呼吸させ、全部を合計して彼の生命支出を毎日4分の1ずつ増加させようとする。彼はやってみる。そして結果は、彼がある限られた期間に4分の1たくさんの仕事をして、50歳ではなく37歳で死ぬということである。」 スコットランドでは、観光が盛んな季節には、鉄道の機関手たちは40時間から50時間も働き続けるのです。そのような過度な長時間労働が原因で発生した鉄道事故について述べられています。この例も、剰余価値の生産を追求するあまり、労働によって提供される使用価値の品質が犠牲になってしまうことを示す例だと言えます。 次に、婦人服を製造する女工の場合を紹介しています。若い娘たちは、平均して16時間半、社交の季節には、しばしば30時間ものあいだ絶え間なく服の仕立労働に従事し、気を失いそうになるとシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えられるのでした。1863年6月に「たんなる過労による死亡」という「センセーショナルな」見出しの記事で報じられたメアリー・アン・ウォークリーは「エリーズというしゃれた名前のマダム」にさんざん働かされていたのでした。メアリは60人の娘たちとともに「一部屋に30人ずつ詰め込まれ、必要な空気容積の3分の1しかない部屋で、26時間30分を休みなく働いた。夜になると、2人で1つのベッドに寝かされ」ていたのでした。医師の検死報告は、メアリの死因を「過密な作業場での長時間労働」と「きわめて狭くて通気の悪い寝室」であるとしています。これはしかもロンドンでは良い方に属する婦人服製造工場のひとつで起こった事例なのでした。 この章でのマルクスの叙述は、たとえばのちに問題とする。資本の本源的な蓄積過程をめぐる描写もそうであるように、歴史に対する憤怒に満ちています。経済原論の教科書等では簡単に通り過ぎられてしまうことの多い、こういった歴史的叙述は、ある意味では「資本論」中の白眉といってもいいのではないでしょうか。 マルクスを読む、とりわけ「資本論」を読むとは、過酷な歴史過程への激烈な憤怒を、マルクスと共有することでもあるのです。ここで参考として、マルクスの描写がその前提としている仕事、マルクス自身が繰り返し参照を求める先行業績であるエンゲルスの「イギリスにおける労働者の状態」に若干触れておきましょう。 1842年、エンゲルスはマンチェスターにある「エルメン・アンド・エンゲルス商会」に修行に出る。2年間に及ぶ実態調査を踏まえて書かれたのが、「イギリスにおける労働者の状態」(1845年)です。 マンチェスターは当時のイギリスの綿工業の中心地であり、いうまでもなく綿工業は産業革命という激震の震源地です。当時のイギリスは「世界の工場」と呼ばれ、その繁栄はドーヴァー海峡の彼方でも広く知られている。とは言え繁栄の裏面、労働者の窮状はイギリス以外のヨーロッパの諸国ではほとんど知られていなかった。 ある階層の健康状態を端的に表現する指標として平均余命をエンゲルスは提示します。彼の報告によれば、1840年のリヴァプールでは、上流階級(紳士階級、自由職等々)の平均期待余命は35歳、商人及び比較的めぐまれた手工業者の場合は22歳でした。これに対して「労働者、日雇い人夫ならびに被雇用階級一般」のそれはわずか15歳だったのです。平均寿命のこの異様なまでの短縮に対しては、言うまでもなく労働者階級における乳幼児死亡率の高さが統計的に有意なしかたで影響しており、乳幼児の死亡率の高さには彼らの劣悪な生育・生活環境が影を落としていました。 しかし、そればかりではなく、生き延びた幼児もまた、直ちに過酷な労働へと追いやられていました。若きエンゲルスは、激しい怒りとともに書いています。 9歳になる工事用労働者の子供は、困苦欠乏と有為転変の境遇の中で育ち、湿気と寒さと、衣類や住宅にも事欠く中で育つので、もっとも健康な生活環境のうちで育まれた子供であるなら備えている労働能力など、とうてい持っていようもない。子供は9歳ともなる工場へと追いやられ、毎日6時間半(以前は8時間、もっと前には12時間ないし14時間、それどころか16時間も)13歳になるまで働き、13歳から18歳までは、12時間働く。 労働者は、労働力は売ることでしか生を繋ぎとめることができない。その労働者の子弟が、「労働能力」そのものすら剥奪された状態に置かれる。彼らは、働き始めてもなお劣悪な生活環境から逃れることができない。「身体を衰弱させる様々な原因は作用し続けている」。その上になお、とエンゲルスは皮肉に付け加えるのです。「労働までが加わるのである」。 この工場主の息子は書きつける。「けれども、どのような事情があるにしても、子供の肉体的並びに精神的発達のためにまるごと捧げられなければならない、子供の時間を、情け知らずのブルジョワジーの貪欲の犠牲に供し、工場主諸侯の利益のために搾取する目的で、子供から学校と戸外の大気を奪い取ることは、どうしても許しがたいところである」。 「資本論」も触れてゆくように、工場主は休憩時間にすら機械の掃除を労働者に命じています。様々な労働災害が労働者をおそう回数は、機械が巨大化するとともに増大してゆきます。それに加えて、数え上げるのも一仕事となる疾病までも待ち受けている。その結果はこうです。「たんにブルジョワジーの財布を膨らませるためにだけ、女性は不妊にされ、子供の身体は不完全なものとされて、男性は虚弱にされ、手足は押しつぶされ、全世代が虚弱と不治の病を伝染されて、そして破滅するのだ!」。 アイルランドの状況はこのようなものだったが、海峡を隔てた対岸のスコットランドでは、耕作者である農業労働者が、きわめて厳しい気候のもとで1日13時間から14時間の労働を強制されていると訴えており、安息日にやかましい国であるにもかかわらず、日曜日にも4時間の追加労働を強いられているという。 他方でロンドンの大陪審では、車掌、機関手、信号手の3人の鉄道労働者が同時に訴えられていた。この3人の不注意が原因で鉄道事故が発生し、数百人の乗客が死亡して[おり、3人はその責任を問われて]いるのである。 彼等は3人とも陪審員の前で、次のように説明した。「10年から12年前までは、1日の労働時間は8時間でした。それがこの5年から6年の間に、14時間、18時間、さらに20時間にまで延長されています。行楽列車が運行され、旅行客が急増する季節には、労働時間は連続して40時間から50時間に達することもあります。私たちも普通の人間です。超人ではありません。労働時間が長くなるとある時点で働けなくなるのです。そして身体が麻痺してしまいます。頭は考えるのをやめ、目は見るのをやめるのです」と。 ところがまったく「立派なイギリスの陪審員たち」は、3人を「殺人」のかどで陪審裁判に送るという判決を下した。そして判決に穏やかな調子の捕捉を付け加えて、鉄道を経営する大資本家の諸氏は、将来は「労働力」を必要な量だけ調達する際には、これまでのように費用を惜しまないでいただきたい、そして代価を支払った労働力を搾取する際には、これまでよりも「節制して」、あるいは「禁欲して」「倹約して」いただきたいというつつましい願望を語ったのだった。 わたしたちのところに、[苦境を訴えようと]あらゆる職業、年齢、性別の労働者のさまざまな群れが、かの[冥府を訪ねた]オデュッセウスのもとに押しかけた戦死者たちよりも強い熱意をもって押し寄せてくる。その人々の様子をみれば、わきに青書などをはさんでいないとしても、超過労働を強いられていることは一目で分かる。こうした労働者の群れの中からあと二人だけ紹介しよう─婦人服の仕立女工と大物鍛冶工である。このきわめて対照的な二人は、資本の前であらゆる人が平等であることを証明するものだろう。 1863年6月後半の週に、ロンドンのあらゆる日刊新聞は、「たんなる過労による死亡」という「センセーショナルな」見出しの記事を掲載した。死亡したのは、宮廷用の婦人服の仕立てを専門とする有名な工場に勤める20歳の婦人服仕立女工のメアリー・アン・ウォークリーだった。彼女はエリーズというしゃれた名前のマダムにさんざん働かされたのだった。昔よく聞かされた話がまた再現されたのです。 この仕立工場では女工たちは平均16時間30分、ハイシーズンにはしばしば30時間も休みなしに働かされる。女性たちの「労働力」の動きがつっかえるようになると、ときどきシェリーやポートワインやコーヒーなどを供して、動きを滑らかにするようにしたという。ちょうどシーズンの真っ最中だった。外国から迎え入れたばかりのイギリスの皇太子妃に敬意を表すための舞踏会用に、貴婦人たちの衣裳を魔法のようにごく短時間で仕上げる必要があった。 メアリー・アン・ウォークリーは他の60人の娘たちとともに、一部屋に30人ずつ詰め込まれ、必要な空気容積の3分の1しかない部屋で、26時間30分を休みなく働いた。夜になると、2人で1つのベッドに寝かされる。このベッドが置かれていたのは、大きな寝室をいくつかの板敷で仕切った息の詰まるようなところだった。それでもロンドンではまともな仕立工場の一つだった。 彼女は金曜日に具合が悪くなり、日曜日には死んでしまった。マダム・エリーズの驚いたことに、最後に残った1着を仕上げもせずにである。死の床に遅ればせながら呼ばれた医師キーズ氏は、「検死陪審」で率直な言葉遣いでこう証言している。「メアリー・アン・ウォークリー」は過密な作業場での長時間労働と、きわめて狭くて通気の悪い寝室のため死亡した」。この医師に上品に物言いを教えるために「検死陪審」は次のように宣言した。「故人は卒中で死去した。その死が、過密な作業場での超過労働のために早められた懸念がないわけではない」。自由貿易主義者のコブデンとブライトの機関紙『モーニング・スター』紙はわが国の「白人奴隷は」と書き立てた。わが国の「白人奴隷はこき使われて墓に追いやられ、葬送の歌も歌われないまま朽ち果てていく」と。 「過労死は、婦人服の仕立女工の仕事場だけでなく、何千もの仕事場において、仕事が順調に進んでいるすべての仕事場において、日常茶飯事となっている。…大物鍛冶工の例をとろう。詩人たちの言葉を信用するならば、鍛冶屋ほど生命力に溢れた愉快な男たちはいないことになっている。[村の元気な]鍛冶屋は早起きで、お日様が顔を出す前から火薬を散らす。鍛冶屋ほどよく食べ、よく飲み、よく眠る人はいない。実際にただの肉体的な負担だけを考えれば、適度な労働であれば鍛冶屋ほどよい身分で暮らしている人はいないのかもしれない。 しかし彼のあとについて都市を訪れてみよう。この屈強な鍛冶屋に、どんな労働の重荷が背負わされるかを調べてみよう。そしてイギリスの死亡率のリストで、どんな順位を占めているかを調べてみよう。メリルボンでは、大物鍛冶工は年間1000人に31人の比率で死亡している。これはイギリスの成年男子の死亡率[である1000人に20人の比率]を11人も上回っている。 人類のほとんど本能的とも言えるこの技術は、仕事としては非の打ちどころのないものだが、過剰な労働のために人間を破壊する仕事になってしまうのである。大物鍛冶工は、1日の間に特定の回数だけハンマーを振るい、特定の歩数だけ歩き、特定の回数だけ呼吸し、特定の量の仕事をこなして、たとえば平均して50歳で死ぬとしよう。しかし彼にその特定の回数よりもはるかに多くの回数だけハンマーを振るわせ、もっと多く歩かせ、もっと多く呼吸させ、そのすべてを合算して、その生命の支出を1日あたり4分の1だけ増やすように強制したとしよう。彼はそれをやってみる。その結果はどうなるだろうか。彼は特定の期間に4分の1だけ多く仕事をして、50歳ではなく37歳で死を迎えるのである」。 夜間労働の「必要性」 不変資本、生産手段は、価値増殖過程の立場から見れば、ただ労働を吸収するために、そして労働の一滴ごとにそれ相当の量の剰余労働を吸収するために、存在するだけである。生産手段がそれをしないかぎり、その単なる存在は資本家にとって消極的な損失である。なぜならば、生産手段が休んでいるあいだはそれはむだな資本前貸しを表わしているからであるが、この損失は、この中断によって作業の再開のための追加費用が必要になれば、積極的となる。自然日の限度を越えて夜間まで食い込む労働日の延長は、ただ緩和剤として作用するだけであり、労働の生き血を求める吸血鬼の渇きをどうにか鎮めるだけである。だから、1日まる24時の労働をわがものにするということこそ、資本主義的生産の内在的衝動なのである。しかし、同じ労働力が昼も夜も続けて搾取されるというようにことは、肉体的に不可能なので、この肉体的な障害を克服するためには、昼間食いつくされる労働力と夜間食いつくされる労働力の交替が必要になるのである。この交替にはいろいろな方法がありうるのであって、たとえば、労働者全員の一部分がある週は日勤をし、次の週は夜勤をするというように配列させることもありうる。人の知るように、この交替制、輪作制は、イギリスの綿工業の血気さかんな少壮期に優勢に行われたし、またことに現在もモスクワ県の紡績工場盛んに行われている。この24時間生産過程は、今日もなお、大ブリテンの現在に至るまで「自由な」多数の産業部門に、ことにイングランドやウェールズやスコットランドの溶鉱炉や鍛冶工場やその他金属工場に、制度として存在している。ここでは労働過程は、6つの仕事日の24時間のほかに、多くの場合に日曜の24時間をも含んでいる。労働者は、男と女とから、男女の大人と子供とから、成っている。子供と少年との年齢は、8歳から(いくつかの場合には6歳から)18歳までのすべての中間層にわたっている。いくつかの部門では、少女や婦人も夜間に、男の従業員といっしょに労働している。 これまで見てきたのは、一人の労働力から最大限の剰余価値を搾取するための労働日の延長についてでしたが、ここではやや異なる事態について述べられています。資本家がそれに働きかけ、なんらかの使用価値をもつ生産物を生み出すための生産手段もまた必要です。とはいえ、あくまで剰余価値を生み出してくれるのは労働力なのですから、剰余価値の取得を目的とする資本家にとって、生産手段は「たんに労働を吸いとること、そして吸いとった一滴一滴の労働から、それに比例した量の剰余労働を搾りとることだけを目的としている」ものにすぎません。ですから、資本家はこの生産手段への投資をできるだけ無駄にしないように、自分が購買した生産手段でできるだけ多くの剰余価値を取得しようとします。具体的に言うと「生産手段は、操業が停止されているあいだは、資本の無益な前払いとなるから」、操業を中断することは損失につながり、そうしんいたるには、操業を中断させないようにすね。つまり、1日24時間ずっと操業することになり、そこから、労働者が1日24時間継続して行使されるように、夜間労働への渇望が生まれるのです。 しかし、同一の労働者を昼夜を通して、1日24時間働かせるのは、肉体的には不可能なことです。そこで、昼間の労働者と夜間の労働者を交替させて、同じように労働力が1日を通して供給されることが考えられました。じっさい、交替制を導入し、夜間操業をしなければ、同じだけの生産物を生産し、同じだけの剰余価値を取得するために、2倍の土地や2倍の機械設備が必要になります。また、夜間に操業を停止することにより、機械設備が傷んだり、燃料や時間のロスが発生することもあるでしょう。こうして、資本は、夜間労働の人体へのさまざまな弊害にもかかわらず、交代制を導入し、賃労働者に夜間労働を押しつけるのです。いわば、資本は、生産手段の「浪費」を防ぐために、労働力に負担をかけ、労働力を浪費するのです。資本主義的生産の転倒的性格を示している典型的な事例だと言えるでしょう。 不変資本である生産手段は、価値の増殖過程の観点からみると、たんに労働を吸いとること、そして吸いとった一滴一滴の労働から、それに比例した量の増殖労働を搾りとることだけを目的としている。それをしないで生産手段がただそこにあるというだけでは、それは資本家にとっては消極的な損失を意味する。というのも生産手段は、操業が停止されているあいだは、資本の無益な前払いとなるからである。そして操業の中断のために、作業の再開にさらに余分な費用がかかる場合には、この消極的な損失はただちに積極的な損失に変わる。 自然の労働日の限度を超えて労働日を夜間にまで延長しても、それはその場しのぎの手段にすぎず、労働の生き血を求める吸血鬼の渇きをわずかのあいだだけ癒やすにすぎない。だから資本制的な生産にとっては、1日の24時間のすべての時間を通じて労働を占有したいというのは内在的な衝動なのである。しかし同じ労働力を昼も夜もつづけて搾取するのは、肉体的に不可能なことであるから、この人間の肉体という障害を乗り越える必要がある。そして昼に食い尽くされる労働力と、夜に食い尽くされる労働力を交替させる必要があるのである。 この交替にはさまざまな方法がある。たとえば労働人員を二つに分けて、ある週には日勤させたグループに、次の週には夜勤させるように配慮することができる。こうした交替制すなわち輪番制が、かつてイギリスの木綿工業などが盛んに成長していた時期に主流だったこと、そして今でも[ロシアの]モスクワ県では主流をなしていることは周知のことだろう。この24時間の生産過剰は、グレート・ブリテンで今にいたるまで[自由な]多数の産業分野において、とくにイングランド、ウェールズ、スコットランドの溶鉱炉、鍛冶工場、圧延工場、その他金属工場で、制度として存在している。 こうした工場では、週日の6日の各24時間の労働だけでなく、日曜日も24時間の労働過程が組み込まれていることが多い。労働者は男性でも女性でも、成人でも子供でも構わない。児童と青少年の年齢は、8歳から18歳まで、あらゆる年齢層にまたがっている。いくつかの産業分野では、少女や女性労働者、男性労働者とともに夜間労働に従事する。 夜間労働の弊害 夜間労働の一般的な有害な作用は別としても、生産過程のまる24時間にわたる中断のない継続は、名目労働日の限界を越えるための絶好の機会を与える。たとえば、すぐ前に述べた非常に緊張を必要とする産業部門では、各労働者にとって公認の労働日はたいてい12時間で、夜勤か日勤かである。しかし、この限界を越える過度労働は、多くの場合に、イギリスの公式の報告書の言葉で言えば、「ほんとうに恐ろしい」ものがある。 「どんな人間的心情も」、報告書は言う、「証言によれば9歳から12歳の少年によって行われるという労働量のことを考えれば、両親や雇い主のこんな権力乱用はもうこれ以上許されてはならない、という結論にどうしても達せざるをえない。」 「一般に少年を昼夜交替で働かせる方法は、営業の繁忙な時にも事態の平常な時にも、労働日の法外な延長を招く。この延長は、多くの場合に、ただ残酷であるだけでなく、まさに信じられないほどのものである。なにかの原因で交替の少年があちこちで欠勤しているということがないとはかぎらない。そういうときには、出勤している少年のうち自分の労働日をすませてしまったものの1人または何人かが不足を補わなければならない。この制度は一般によくしられているので、ある圧延工場の支配人は、交替の少年が欠勤しているときその席はどうして埋めるのか、という私の質問にたいして、それはあなたも私と同じようによく知っているはずだ、と答えて、事態を認めるのに少しもためらわなかったほどである。」 夜間労働は人間の生理的な活動の面からも有害なものと言えます。しかも、それだけにとどまらず、1日の労働時間を24時間に延長する方法として用いられることになりました。 夜間労働には一般的にみられる悪影響があるだけでなく、生涯設計を24時間にわたって中断せずに継続することは、名目的な労働日の限界を超えるための絶好の機会となる。すでに述べてきたような過酷な労働が行われる産業分野では、1人の労働者の公称の労働日はたいていは夜間でも昼間でも12時間である。この限界を超える過剰労働は、イギリスの公式報告の表現を借りると、「きわめて恐るべきもの」となる。 その報告書には次のように書かれている。「証人の説明のように、9歳から12歳までの児童が担わされている労働量について考えるならば、人間らしい心をもつ人であれば、両親と雇用者によるこうした権力の濫用をこれ以上許すことはできないという結論に達せざるをえないのである」。 「児童を昼と夜で交替制で働かせるという方法はそもそも、仕事が集中する時期だけでなく、普段の仕事においても、労働日を延長するための恥ずべき方法である。多くの場合、労働日の延長はただ残酷なものであるだけでなく、まさに信じがたいものになっている。交替すべき児童が何らかの理由でときおり欠勤することは避けられない。するとその穴埋めとして、すでに自分の労働日を終えた1人または数人の児童が、働かなければならない。このシステムは有名なもので、わたしがある圧延工場の支配人に、交替する児童が欠勤したときには、その分はどのように穴埋めするのかと尋ねると、その支配人は、<あなただってわたしと同じようによくご存じではないですか>と答えて、事実を隠そうともしなかったのである」。 児童の夜間労働 「ある圧延工場では、名目労働日は朝の6時から夕方の5時半までだったが、ある少年は、毎週4晩は少なくとも翌日の晩の8時半まで働いた。…そしてそれが6カ月つづいた。」「もう一人は、9歳の時には1回12時間の就業を引き続き3回やったことがたびたびあり、10歳の時には2日2晩続けて就業した。」「第3の1人はいま10歳であるが、3晩は朝6時から深夜12時まで、そのほかの夜は9時まで働らきとおした。」「第4の1人は、いま13であるが、まる1週間午後6時から翌日の正午12時まで労働し、またときには3回分続けて、たとえば月曜の朝から火曜の夜まで働いた。」「第5のものは、いま12歳であるが、ステーヴリのある鋳鉄工場で14日間朝6時から夜12時まで労働し、もうこれ以上それを続けることはできない。」9歳のジョージ・アリンズワーズは次のように言っている。「私はこの前の金曜にここにきた。その翌日はわれわれに朝の3時から始めなければならなかった。だから、私は一晩中ここに残っていた。家まではここから5マイルある。革前掛けを敷き小さなジャケットをかけて床の上に寝た。その次の2日は朝の6時にやってきた。じっさい!ここは暑いところだ!ここに来る前には、やはりまる1年間或る溶鉱炉で働いた。いなかの非常に大きな工場だった。やはり土曜の朝は3時に始まったが、家が近かったので、とにかく家に帰って寝ることだけはできた。ほかの日は朝6時に始めて晩の6時か7時に終わった。」 夜間労働は一般的にいっても有害なものであるのですが、さらに、少年たちを昼夜交替で働かせることは、労働日の限界を超える延長を招くことになりました。実際には、1日12時間の労働時間にして、12時間ずつの交替で24時間工場を稼働させるという建前で、実際には、12時間の交替勤務を連続してとらせることによって、1人の児童に朝の6時から翌日の夜まで働かせるということが行われました。 「ある圧延工場では、名目上の労働日は朝の6時から夕方の5時半までになっていた。ところがある児童は週に4日は、[朝の6時から]少なくとも翌日の夜の8時半まで働いていた。…しかもそれが6カ月もつづいたのだった」。「別の児童は9歳のときに、12時間の交替勤務を3回も連続してとらされたことがあった。その児童は10歳のときには、2日2晩連続して働かされたのだった」。「3人目の児童は現在10歳であるが、朝の6時から夜中の12時まで、三夜つづけて働き、週の残りの日は[朝の6時から]夜の9時まで働いていた」。「4人目の児童は現在13歳で、1週間つづけて毎日夕方の6時から翌日の昼の正午まで働き、ときには交替勤務を3回も連続したこともあった。たとえば月曜日の朝から火曜日の夜までである」。「5人目の児童は現在12歳だが、ステーヴリーの鋳鉄工場で、朝の6時から夜の12時まで14日のあいだ続けて働かされて、もはや仕事をつづけられなくなっている」。 9歳のジョージ・アリンズワーズはこう証言している。「ぼくは先週の金曜日からここで働き始めました。翌日の土曜日は朝の3時から仕事を始めなければならなかったので、一晩中ここで過ごしました。ぼくはここから5マイル離れたところに住んでいます。革の前掛けを床に敷いて、小さな上着をはおって寝ました。それから2日つづけて朝の6時にここに来ました。なんともここは暑いところです。ここに来る前は、ある溶鉱炉でまる1年も働いていました。地方のとても大きな工場でした。土曜日も朝の3時から仕事が始まります。それでも家が近くにあるので、少なくとも帰宅して眠ることはできました。他の日は朝6時に仕事が始まり、夜の6時から7時に終わりました」などなど。 資本の見解 ここで次に、この24時間制度を資本自身はどう考えるか、を聞くことにしよう。この制度の行き過ぎ、労働日の「残酷で信じられないほどの」延長にまでになるその乱用を、資本はもちろん黙って見のがす。資本はただ「正常な」形態にあるこの制度を語るだけである。 製鋼工場主ネーラー・アンド・ヴィカーズ社は、600から700の人員を使用し、そのうち10%だけが18歳未満であり、さらにそのうち20人の少年だけが夜業員であるが、この会社は次のように述べている。 「少年たちが高温に苦しむとはまったくない。温度はたぶん86度から90度である。…鍛鉄工場や圧延工場では職工たちは昼夜交替で労働するが、しかし、これに反して、ほかの作業はすべて昼間作業で、朝6時から晩6時までである。鍛鉄工場では12時から12時まで作業が行われる。何人かの職工は、昼の時間と夜の時間の交替なしに、いつも夜間に労働しているく。…われわれは、昼の労働と夜の労働とでなにか健康上の(ネーラー・アンド・ヴィカーズ社の健康?)違いがあるとは認めない。また、おそらく、職工たちは、同じ休息時間をもらう場合のほうが、それが変わる場合よりもよく眠れるであろう。…18歳未満の少年約20人が夜勤組といっしょに作業している。…18歳未満の少年の夜間労働なしでは、われわれはやってゆけないであろう。われわれに異論があるのき─生産費の増加ということである。熟練工や部署の頭はなかなか得られないが、少年ならいくらでも得られる。…もちろん、われわれが少年を使用している割合のわずかなことから見れば、夜間労働の諸制限はわれわれにとってあまりに重要性や利害関係のないものであろう」。 ジョン・ブラウン会社は製鋼製鉄工場で、3000人の大人と少年を使用しており、しかも製鋼製鉄の重労働の一部分には彼らを「昼夜交替」で使用しているが、そこのJ・エリス氏が言っているところでは、重製鋼作業では大人2人に少年1人か2人の割合になっている。同社の事業では18歳未満の少年は500を数え、そのうち約3分の1、つまり170人が13歳未満である。提案された法律改正についてエリス氏は次のように言っている。 「18歳未満の従業員には24時間のうち12時間より長くは労働させないということが、非常にけしからぬことだとは思わない。しかし、少年たちが夜間労働を免除されうるという線を12歳以上のどこかに引くことできるとは考えない。われわれは、すでに雇っている少年を夜間使用することを禁止するよりも、むしろ、一般に13歳未満とか、または15歳未満でもよいが、そのような少年は使用させないという法律の方を採りたいとさえ思う。昼の組で労働する少年は、交替で夜の組でも労働していなければならない。というのは、大人はいつでも夜間労働だけをしているということもできないからである。そんなことは彼らの健康をこわしてしまうであろう。とはいえ、夜間労働き、1週間おきにすれば害はないと思う。」 (これとは反対に、ネーラー・アンド・ヴィカーズ社は、その事業につごうのよいように、継続的な夜間労働よりもかえって周期的に交替する夜間労働こそ害をなすおそれがあると信じていたのであろう。) 「われわれは、交替の夜間労働をしている人々が、昼だけ労働している人々とまったく同じに健康であるのを見いだす。…18歳未満の少年を夜間労働に使用しないということにたいするわれわれの抗議は、支出の増加を理由としてなされるであろうが、しかしこれがまだ唯一の理由でもある。(なんという露骨な素朴さか!)思うに、この増加は、事業がその成功的経営のために当然払うべき考慮をしながら正当に負担しうるよりも大きいであろう。(なんとよく舌のまわる言い方よ!)労働はここではわずかしかないから、こんな取締りのもとでは不足になるかもしれない(つまり、エリス・ブラウン会社は、労働力の価値を完全に支払わざるを得ないという致命的な困惑に陥るかもしれないというわけである)」。 キャメル社の「巨人製鋼製鉄工場」も、前記のジョン・ブラウン社の規模と同じように大きな規模で経営されている。その業務担当重役は、自分の証言を文書にして政府委員ホワイトに手渡したが、その後、修正のために自分の手に返された草稿を隠してしまうのが適当だと考えた。だが、ホワイト氏は物覚えがよい。彼がまったく正確に思い出すところによれば、この巨人会社にとっては児童と少年の夜間労働の禁止は「不可能事である。それは、会社の工場を休止させるのと同じことであろう」、といっても、この会社では18歳未満の少年は6%よりもほんのわずか多いだけ手であり、13歳未満はたった1%なのだが! 同じ題目について、アッタクリフの製鋼圧延鍛鉄工場であるサンダソ兄弟商会のE・F・サンダソン氏は次のように言っている。 「18歳未満の少年に夜間労働をさせることの禁止からは大きな困難が生ずるであろうが、最大の困難は、少年の労働の代わりに大人の労働を使うことが必ず招くにちがいない費用の増加から生ずるものである。それがどれだけになるかは言えないが、おそらく製造業者が鉄鋼価格を引き上げうるほどにはならないだろうから、したがって損失は業者の負担になるであろう。というのは、大人の労働者たちは(なんというつむじ曲がりどもだ!)もちろんそれを負担することを拒むだろうからである。」 サンダソン氏は、自分が子供たちに幾ら払っているかを知らないのであるが、しかし、 「それは、たぶん毎週1人当たり4シリングから5シリングであろう。…少年労働は、一般的に(もちろん「特殊の場合には」必ずしもそうではない)少年の力でちょうどまにあう種類のものであり、したがって、大人のより大きい力を用いても損失を償うだけの利益は出てこないであろうし、もし出てくるとしてもただ金属が非常に重いというわずかな場合だけのことであろう。また、大人は、手下に子供のいないのを好みもしないであろう。というのは、大人は子供ほど従順ではないからである。そのうえ、少年は仕事を覚えるためには小さいときから始めなければならない。少年を昼間労働だけに制限することは、この目的が果たされないであろう。」 それはなぜか?なぜ少年は彼らの手仕事を昼間は覚えられないのか?きみの理由は? 「そのわけは、そうすることによって、昼と夜と1週間交替で労働する大人たちは、その時間には自分の組の少年から引き離されて、彼らが少年たち取り出す利益の半分を失うだろうからである。つまり、彼らが少年たちに与える手引きはこの少年たちの労賃の一部として計算され、したがって大人たちが少年労働をより安くに手に入れることができるようにするのである。大人はだれでもその利益の半分を失うのであろう。」 言い換えれば、サンダソン社は、成年男子の労賃の一部分を、少年たちの夜間労働で支払う代わりに自分の財布から支払われなければならなくなるというわけである。サンダソン社の利益はこれを機にいくらか落ちるであろう。そして、これこそは、なぜ少年たちは彼らの手仕事を昼間は覚えられないのかということについてのサンダソン社のもっともな理由なのである。そのうえ、このことは、今後少年と取り替えられる大人に正規の夜間労働を負わせるであろうし、彼らはまたそれに耐えられないであろう。要するに、困難は非常に大きくて、これらの困難はおそらく夜間労働の全面的抑圧を招くことになるであろう。「鋼の生産そのものについて言えば」、とE・F・サンダソンは言う、「それによって少しも違いは生じないであろうが、しかし!」しかし、サンダソン社は、鋼をつくるよりももっと多くのことをしなければならない。鋼鉄づくりは利得づくりの口実にすぎない。溶鉱炉や圧延工場など、建物や機械や鉄や石炭などは、鋼に姿を変えるよりももっと多くのことをしなければならない。これらのものがそこにあるのは、剰余労働を吸収するためであり、そして、もちろん、12時間でよりも24時間でのほうがいっそう多くを吸収する。これらのものは、じっさい、神と法とによって、ある数の職工の1日まる24時間にわたる労働時間にたいする手形をサンダソン社に与えるのであるが、ひとたびこれらのものの労働吸収機能が中断されれば、その資本性格を失い、したがってサンダソン社にとっては純粋な損失となるのである。 「しかし、そのときは、非常に高価な機械が半分の時間は遊んでいるという損失が生ずるであろうし、また、現在の制度のもとでわれわれが供給できるだけの生産物量を供給するためには、われわれは場所や機械設備を2倍にしなければならなくなり、それは支出を2倍にするであろう。」 しかし、他の資本家たちは昼だけ労働させることしか許されないで、そのために自分たちの建物や機械や原料は夜は「遊んで」いるのに、なぜこのサンダソン社だけが特権を要求するのか? 「たしかに」、とE・F・サンダソンは全サンダソンの名において答える。「たしかに、このような機械が遊んでいることによる損失は、昼だけしか作業が行われないすべての工場が受けるものである。しかし、溶鉱炉の使用がわれわれの場合には特別な損失の原因になるであろう。もし溶鉱炉の火を消さずにおけば、燃料が浪費され(今のように労働者の生命材料が浪費される代わりに)、また、その火を落とせば、再び火を入れて所要の熱度に達するまでの時間の損失が生じ(他方、8歳の子供が睡眠時間の損失でさえサンダソン一族にとっては労働時間の利益になるのだが)、また溶鉱炉そのものも温度の変化のために傷むであろう。(ところが、同じ溶鉱炉が労働の昼夜交替では少しもいたまないのである)」 資本家の側では、夜間労働や労働日の延長について、そのシステム濫用や労働者にとって苛酷であることは無視し、工場の効率的な運用で剰余価値を生み出すことだけを考えている、とマルクスは言い、資本家の証言を紹介し、それを検証していきました。製鉄関係の、製鋼、圧延、鍛鉄工場では溶鉱炉の火を点けたり消したりするには多大な手間やコストがかかるため、継続して溶鉱炉の火を点け続けることになり、「溶鉱炉の運転を維持していると、建物が浪費される。しかし運転を停止すると、ふたたび火をいれてから、必要な温度になるまで時間の損失が発生し、溶鉱炉がそのものも、温度変化によって傷むだろう。」という証言のとおりです。このような工場では、溶鉱炉に火がついているときに、昼間の12時間だけ生産するのは、生産手段は24時間分消耗しているので利潤が減ってしまうことになり、夜間もつづけて生産する方が効率的という理屈でしょう。 また、成人の労働者を24時間働かせたり、夜間に働かせるのは難しいし、超過賃金を支払わなければならない。そこで、児童に夜間労働をさせて、成人ではないからと賃金を抑えることによって、労働力のコストを抑えるというのです。それらの工場にとっては、児童の夜間労働の禁止は場を休止させることと等しいので、溶鉱炉の火を消さずにおくことはたしかに燃料の浪費になりますが、火を落としてしまえば時間の損失となるというのです。かくて労働者の生命材料が浪費される。時間と生命が交換されるということになってしまったのです。 ここで資本自身は24時間労働システムについてどう考えているのか、聞いてみよう。資本はシステムの行き過ぎた運用や、「残忍で信じがたい」労働日の延長のためのシステムの濫用についてはあっさり無視する。資本が語るのは、「正常な」形でのシステムの運用についてだけである。 鉄鋼工場のネイラー・アンド・ヴィッカーズ社では、600人から700人の従業員を雇用している。そのうちで18歳未満の従業員は10%にすぎず、夜勤についている青少年は20人にすぎない。そして同社では「青少年が高温で苦しめられることはまったくない。温度はおそらく摂氏30度から32度ほどだろう。…鍛鉄工場と圧延工場では、職工たちは日勤と夜勤を交替制で働いているが、その他の工場では朝6時から夕方6時までの昼間勤務だけである。鍛鉄工場では12時から12時までの[昼夜交替制の]作業である。一部の職工たちは昼間の勤務と夜の勤務の交替なしでいつも夜勤で働く。…昼間の勤務と夜の勤務によって健康に影響が生じているとは考えられないが、休憩時間が変わるよりも、いつも同じ時間に休憩をとるほうが、よく眠れるだろう。…18歳未満の青少年で、夜勤のチームで働いているのは20人ほどだろう。18歳未満の青少年の夜勤なしでは、当社はうまくやっていけない。…当社が異議を申し立てたいのは、[青少年の夜勤なしでは]生産コストが上昇するということだ。熟練した職工や、工場長のような人材は見つけるのが難しい。しかし青少年ならいくらでも見つけることができる。…もちろん当社では雇用している青少年の比率の低さを考えれば、[青少年の]夜勤が制限されたとしても、それほど大きな問題ではないし、それほど害もないだろう」。 製鉄製鋼工場のジョン・ブラウン社では3000人の成人男性と青少年を雇用しており、製鋼工場と製鉄工場の重労働部門の一部で「昼夜交替制」を採用している。同社のJ・エリス氏の説明によると、製鋼工場の重労働部門では、成人男性2人に青少年1人または2人が配属されるという。同社で雇用している18歳未満の青少年労働者の数は500人ほどであり、そのうち3分の1、すなわち170名は13未満の児童だという。法律の改正案について同氏は次のように語った。 「18歳未満の青少年を24時間のうち12時間以上は働かせなくても、それほど困ったことにはならないと思う。しかし12歳よりも年長の青少年を夜勤で働かせることについて、どこかで線引きをできるとは思わない。雇い入れた青少年に夜勤を禁じる法律よりも、13歳未満、場合によっては15歳未満の児童の雇用をそもそも禁止してしまう法律の方が、まだ受け入れやすい。昼間のシフトで働いている青少年には、交替で夜のシフトで働いてもらう必要がある。大人たちもずっと夜勤を続けることはできないからだ。そんなことをしたら健康を害してしまう。ただし週ごとに交替すれば、夜勤は健康の害にはならないと思う。当社の考えでは、交替制で夜勤をしている人々の健康状態は、昼間だけ働いている人々と比較しても、悪くなっていない。…当社が18歳未満の青少年の夜間労働の禁止に異議を唱えるのは、コストが増加するからであり、それが唯一の理由である。事業としては成功することが義務であることを考えると、このコストの増加は公平にみても、負担の限度を超えることだろう。当地では労働が稀少であり、このような規制が導入されると労働が不足する可能性がある」。 キャメル社の「サイクロプス製鋼製鉄工場」も、ジョン・ブラウン社と同じように、大規模経営の工場である。同社の社長は、政府の調査委員のホワイト氏に、自分の証言内容を文書にして提出したが、修正を求めて戻された原稿を握りつぶすのが好ましいと判断したようである。しかしホワイト氏は優れた記憶の持ち主だった。この一つ目の巨人にとっては、児童と青少年の夜間労働の禁止などは「まったく不可能なことだ。これは工場の操業を停止しろというようなものだ」と書かれていたことをホワイト氏は正確に記憶している。しかし同社で雇用している18歳未満の青少年の数は全体の6%強にすぎず、13歳未満の児童にいたってはわずか1%しかいないのである。 アッタクリフにある製鋼圧延鍛鉄工場のサンズスン・ブラザーズ商会のE・F・サンダスン氏はこの問題について次のように説明している。「18歳未満に青少年の夜間労働を禁止すると、きわめて困難な問題が発生する。最大の問題は、青少年労働の代わりに成人労働を採用すると、必然的にコストが増大することだ。どの程度のコストの増大になるかは言えないが、それほど大きな額ではないだろう。工場主が鋼鉄価格を引き上げる根拠となるような額ではないので、その損失は工場が負担することになるだろう。というのも、成人の職工たちは、当然ながらその損失を負担するのは拒むだろうからだ」。 サンダスン氏は、子供たちの賃金の額については知らないという。しかし「週に1人4シリングから5シリングほどだろう。…青少年の労働は一般的には、青少年の力がちょうどふさわしいような仕事であり、成人の力をそうした仕事に投入しても、損失を穴埋めするような利益はではないだろう。そんなことがあったとしても、それはとても重い金属を扱うようなごくわずかな場合にかぎられるだろう。成人の職工たちも、青少年を部下として使えなくなることは歓迎しないだろう。成人の職工だと、[部下にしても]あまりに従順ではないからだ。青少年たちは仕事を覚えるには、早い時期から仕事を始めなければならない。青少年の雇用を昼間の労働だけに限定すると、この目的が実現できないだろう。 なぜ実現できないというのか、なぜ青少年たちは昼間の労働だけで仕事を覚えられないのか、君の理由は? 「その理由は、[青少年の夜間労働を禁止すると]成人の職工が週ごとに交替して、ある週は昼間だけ、ある週は夜間だけ働くようになるだろう。すると夜間労働のあいだは同じシフトの青少年たちと別々になり、その青少年たちからえられるはずの利益の半分が失われるからである。というのも、成人の職工が青少年たちに与える指示は、青少年たちの賃金の一部として計算されるからであり、だからこそ成人は青少年の労働を安価に手に入れることができるのだ。そうなると成人の職工たちは自分の利益の半分を失うのである」。 ということは、サンダスン社はこれまでのように成人の職工の賃金の一部を、青少年の夜間労働によって支払うのではなく、会社の財布から支払われなければならなくなるということである。サンダスン社の利益はこれによっていくらか低下するだろう。そしてこれこそ、青少年たちが昼間の勤務では、仕事を学べないという主張の背後にあるサンダスン社側のもっともな理由なのだ。 さらにこの正規の夜間労働の負担を担うのは、青少年の代わりに働かされる成人の職工である。そして彼らはそれに耐えられないだろう。要するに困難はきわめて大きなものであり、ついには夜間労働の全面的な廃止へとつながりかねないことになる。 E・F・サンダスン氏は語る。「鉄鋼の生産そのものについては、まったく違いはないだろう。しかし!」。サンダスン社は鉄鋼の生産よりもほかにすることがあるのだ。鉄鋼の生産とは、利益をあげるための口実のようなものにすぎない。溶鉱炉、圧延工場などは、そして建物、機械類、鉄、石炭などは、みずからを鉄鋼に変えるだけではなく、もっと別のことをしなければならない。これらは増殖労働を吸い上げるためにあるのではなく、もっと別のことをしなければならない。これらは増殖労働を吸い上げるためにあるのである。そして24時間で吸い上げる増殖労働の量は、12時間で吸い上げる量よりももちろん多いのである。実際にこれらのものは、サンダスン社にとっては、一部の職工が1日に24時間働くことを神と法によって認められたいわば<手形>のようなものとなっているのであり、増殖労働を吸い上げる機能が中断してしまうと、それはたちまち資本としての性格を失い、サンダスン社にとっては純粋な損失となるのである。 「しかしそうなると、きわめて高価な機械類が半分の時間は停止してしまい、損失となるだろう。すると現在のシステムで当社が実現している生産量を確保するためには、機械類を2倍に増やし、そのための場所も2倍に増やす必要があるだろう。そして出費も2倍になるだろう」。 それではほかの資本家たちに許されていない特権が、どうしてサンダスン社だけに認められるというのだろうか。ほかの資本家たちには昼間労働しか認められず、建物や機械類や原料は夜間には「休止状態」になるのではないだろうか。 「たしかに」と、同社を代表してサンダスン氏が答える。「たしかに機械類の運転を休止した場合の損失は、昼間しか労働が行われないすべての工場で同じように負担になる。しかし当社では、溶鉱炉を利用しているために特別な損失が発生する。溶鉱炉の運転を維持していると、建物が浪費される。しかし運転を停止すると、ふたたび火をいれてから、必要な温度になるまで時間の損失が発生し、溶鉱炉がそのものも、温度変化によって傷むだろう。 労働日の定義 「1労働日とはなにか?」資本にとって日価値を支払われる労働力を資本が消費してよい時間はどれだけか?労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を越えて、どれだけ延長されうるか?これらの問いにたいして、すでに見たように、資本は次のように答える。労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役だちを繰り返すために絶対欠くことのできないわずかばかりの休息時間を引いたものである。まず第一に自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜日の安息時間でさえも─そしてたしえ安息日厳守の国においてであろうと─ただふざけたことでしかない!ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度も踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うめに必要な時間を取り上げる。資本は、食事時間をへずり、できればそれを生産過程そのものに合併する。したがって、ただの生産手段としての労働者に食事があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械にグ油脂が加えられるようなものである。生命力を集積し更新し活気づけるための健康な睡眠を、資本は、まったく疲れきった有機体の蘇生のためにどうしても欠くことのできない時間だけの麻痺状態に圧縮する。ここでは労働日の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の1日の可能な限り最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定する。資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつのは、ただただ、1労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、貪欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。 つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の委縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する。それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである。 しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本がその無制限な自己増殖衝動によって必然的に追求する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産にはいっそう大きい損耗費がはいることになり、それは、ちょうど、機械の損耗が速ければ速いほどその毎日再生産されるべき価値部分がいっそう大きくなるのと同じことである。それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである。 前に見たように、労働日とは必要労働時間と剰余労働時間との合計で、これは資本家の指揮下で行われる1日の総労働時間を構成するものです。しかし、資本の側からは違って見えます。資本は労働力の1日当たり価値を支払って、どれほどの時間労働力を使うことができるか、その時間が長ければ長いほど増殖価値が大きくなるという考え方です。つまり、「労働日とは、毎日まる24時間から、労働力がまったくその役に立たなくなることがないために絶対に必要なわずかな休息時間を差し引いた残りのすべての時間である」と言うのです。 具体的にいうと、資本は労働者の肉体の維持、そして成長と発達のために必要な時間、例えば大気や日光を浴びたりする休息や食事あるいは睡眠の時間を削ろうとしさえします。 つまり、労働時間を制限する限度は、労働力を正常に維持するという目的という前に見たことは、資本の側では、労働力を日々最大限に支出させるという目的になっているのです。もし彼が雇った賃労働者が体を壊して働くことができなくなったとしても、別の賃労働者を雇えばよいのです。ですから、資本家は、彼が資本の人格的担い手であるかぎりは、賃労働者の健康を配慮する理由をまったく持っていないのです。 資本の目的は増殖価値を手に入れることでしかありません。価値増殖の結果どんなことが起ころうとも、貨幣という形で価値を手に入れることができさえすれば、彼はその価値の力を行使することができるということです。 重要なのは、労働日の延長による過重労働やそれによる健康の破壊が個々の労働者にとっての問題ではなく、社会問題になっていたということです。というのも、使用価値を社会に提供し、また、資本にとってはそれをつうじて増殖価値を提供する労働者たちの健康が破壊され、再生産できなくなれば、資本主義的生産様式、ひいては社会そのものの存立が危うくなってしまうからです。 次に重要なのは、そうであるにもかかわらず、資本が自ら労働日の最大化にブレーキをかけることはない、ということです。むしろ、「資本は、社会によって強制されないかぎり、労働者の健康や寿命にたいし何らの顧慮も払わない」のです。これは、現代のさまざまな社会問題について考える際にも、非常に重要な視点になります。 「1労働日とは何か」。資本はその1日あたりの価値を支払って手に入れた労働力を、どれほどの時間にわたって消費することができるのか。労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を超えて、どこまで延長することができるのか。すでにみたように、これらの問いに資本は次のように答える。「労働日とは、毎日まる24時間から、労働力がまったくその役に立たなくなることがないために絶対に必要なわずかな休息時間を差し引いた残りのすべての時間である」と。 ここでさしあたり明らかなことは、労働者は1日の生活時間のすべての時間を通じて、労働力以外の何ものでもないこと、そして労働者が自由に使える時間はすべて、その本質からみても法的にみても労働時間であり、したがって資本の自己増殖過程のためのものだということである。人間的な教養のための時間、精神的な発展のための時間、社会的な機能を遂行するための時間、社交や身体的および精神的な生命力の自由な活動のため時間などは、そして日曜日の安息の時間ですら、まったくの愚行となるのである。 資本は、増殖労働を求める際限のない盲目的な衝動に動かされ、狼のような激しい空腹に襲われて、労働日の精神的な最大の限界を踏み越えるだけでなく、純粋に身体的な最大の限界も踏み越える。資本は身体の成長と発達、そして健康を維持するために必要な時間まで略奪する。戸外の大気と日光を享受するために必要な時間を奪う。資本は食事の時間をかじり取り、できればこの時間を生産過程そのものと一体化させようとする。そして労働者に与えられる食事は、まるでボイラーに石炭がくべられ、機械類にグリースやオイルがさされているかのように、たんに生産手段としての労働者に与えられるにすぎないものとなる。資本は生命力を集中力を集中させ、更新し、活性化するために必要な健康な睡眠時間を、完全に消耗した生命力の再生に必要な最小限の時間に短縮し、凝縮する。 ここで労働日の限界を決めているのは、労働力を正常に維持するという目的ではない。反対に、いかにそれが病的なほどに暴力的で苦痛であったとしても、労働力を日々最大限に支出させるという目的が、労働者の休息時間の限界を定めているのである。資本には、労働力の寿命には関心はない。資本が関心をいだくのはただ一つのこと、すなわち1日の労働日のうちで、労働力をいかにして最大限に活用できるかということだけである。資本は労働力は寿命を短縮させることで、この目標を実現する。貪欲な農民が、土壌から養分を奪い去ってでも収穫を増やそうとするのと同じである。 資本制的な生産は、本質的に増殖価値の生産であり、増殖労働の吸収である。そのため労働日を延長することで、人間の労働力を委縮させるだけでなく、労働力から正常な精神的および身体的な発達条件と活動条件を奪うのである。そして労働そのものの早すぎる消耗と死骸をもたらす。資本制的な生産は、労働者の生活時間を短縮しながら、与えられた期間における労働者の生産時間を延長するのである。 しかし労働力の価値には、労働者の再生産や労働者階級の子孫作りに必要な商品の価値も含まれているのである。資本は自己増殖を求める際限のない衝動に駆られて、自然の理に反してまでも労働日を延長しようとする。しかしこの延長のために個々の労働者の寿命が短くなり、それによって労働力の持続時間も短縮されるのであり、消耗した労働力を補充することが、さらに頻繁に必要になる。そうなると労働力の再生産のためにこの消耗分を補充するコストがさらに大きくなる。機械の損耗が激しいと、その分だけ機械によって日々再生産それている価値部分が大きくなるのと同じことである。だから標準労働日を設定するのは、資本そのものにとって利益のあることだと思われる。 奴隷制との比較 奴隷所有者が彼の労働者を買うのは、馬を買うようなものである。彼が奴隷を失うことは資本を失うことであって、この資本は奴隷市場での新たな支出によって補填されなければならない。しかし、 「ジョージアの稲作地やミシシッピの沼沢地は、人体に致命的な破壊作用を加えるかもしれない。それでもなお、この人命浪費は、ヴァージニアやケンタッキーの充満した飼育場から補充できないほど大きくはない。経済上の考慮は、奴隷を人間的に取り扱うことが主人の利益を奴隷の維持と一致ざせるかぎりでは、そのような取り扱いの一種の保証になることもあるであろうが、奴隷貿易が始まってからは、反対に、極度の奴隷虐待の原因に変わるのである。なぜならば、ひとたび外国の黒人飼育場からの供給によって、奴隷が補充できるようになれば、奴隷の生命の長さは、その生命が続いているあいだのその生命の生産性よりも重要ではなくなるからである。それだからこそ、最も有効な経済は、できるだけ大量の働きできるたけ短期間に人間家畜からを搾り出すことにあるというのが、奴隷輸入国では奴隷経済の一つの原則になっているのである。1年間の利潤がしばしば農場の総資本に匹敵する熱帯地域においてこそ、まさに黒人の生命は最も容赦なく犠牲にされるのである。西インドの農業、この何世紀も前からのおとぎ話的な巨富の揺りかごこそは、幾百万のアフリカ人種を呑みこんだのである。今日では、その収入は幾百万と数えられ、その農場主が王侯にも似ているキューバにおいて、われわれは、奴隷階級のあいだで、粗悪きわまる食物や絶えまない極度の酷使のほかに、過度労働と睡眠や休養の不足というゆっくりと行われる責め苦によって一大部分が年々直接に滅ぼされてゆくのを見るのである。」 名まえが違うだけで、ひとごとではないのだ!奴隷貿易を労働市場と書き換え、ケンタッキーやヴァージニアをアイルランドと、またイングランドやウェールズの農業地方と書き換え、そしてアフリカをドイツと書き換えて読んでみよ!われわれは、どんなに超度労働がロンドンの製パン工をかたづけてしまうかを開いたが、それでもなお、ロンドンの労働市場はドイツ人やその他の命がけの製パン業志願者であふれているのである。製陶業は、われわれが見たように、従業員が最も短命な産業分野の一つである。だからといって製陶工は不足しているだろうか?ジョサイア・ウェッジウッド、近代的な製陶法の発明者で彼自身普通の労働者の出である彼が1785年に下院で言明したところでは、この工業全体では1万5000から2万の人員を使用していた。1861年には、大ブリテンにおけるこの産業の都市的所在地だけの人口が10万1302だった。 「綿業は90のよわいを数える。…イギリス人の世代のあいだに、それは綿業労働者の9世代分を食いつくした」。 もちろん、いくたびかの熱病的な好況期には労働市場がかなりの欠乏を示したこともあった。たとえば、1843年がそうだった。だが、そのとき、工場主諸君は、農業地方の「過剰人口」を北部に送り出すことを救貧法委員に提案し、「工場主たちはそれを吸収し消費するであろう」という説明をそれにつけた。これが彼らの本音だったのである。 「救貧法委員の同意によってマンチェスターに周旋人が置かれた。農業労働者名簿が作成されて、これらの周旋人に送達された。工場主たちは事務所に駆けつけた。そして、彼らが自分たちの気にいった者を選び出してから、選ばれた家族がイングランドの南部から送り出された。これらの人間小荷物は、それだけの数の貨物の包みと同じように荷札つきで、運河や荷馬車で送られた、─ある者はあとから徒歩でついて行き、また、道に迷い半ば飢えて、工業地帯をうろつく者が多かった。これが発展して、一つのほんとうの取引部門になった。下院はこれをほとんど信じないであろう。この規則的な取引、この人肉商売は引き続き行われて、これらの人々は、黒人が南部諸州の綿花栽培業者に売られるのとまったく同じように規則的にマンチェスターの周旋人からマンチェスターの工場主へと売買された。…1860年は綿業の頂点を示している。…再び人手が足りなくなった。工場主たちはまたもや人肉周旋人の助けを求めた。そして、周旋人たちはドーセットの砂丘、デヴンの丘陵、ウィルツの平野をくまなく捜しまわったが、過剰人口はもはや食いつくされていた。」 『ペリー・ガーディアン』紙は、英仏通商条約の締結後には1万の追加職工が吸収されるかもしれないし、やがてはそのうえ3万か4万が必要になるだろうに、と嘆いた。人肉取引の周旋人や下請け人がは1860年に農業地方をほとんど成果なしにあさりまわったのちに、 「ある工場主代表は、救貧局長官ヴィラズ氏に、救貧院から貧児や孤児を供給することを再び許可するように請願した」。 このような労働時間の限度なき延長という傾向は資本主義社会独自の現象であり、それ以前の奴隷制や農奴制といった社会では事情は全く異なっています、奴隷主や封建領主の権力は奴隷や農奴を人格的に従属させ、支配することによって成り立っていました。それゆえ、奴隷や農奴の人格的再生産は支配者たちの権力にとって決定的な意味を持っていたのです。ところが、資本家の権力は人格的支配にもとづいているのではなく、貨幣の力に基づいています。彼にとっては貨幣がもつ価値の力の獲得だけが問題なのであり、賃労働者の人格的再生産を配慮する必要はありません。だからこそ、たとえ資本の運動が賃労働者の生存を脅かし、資本主義社会そのものの存立を脅かすようになるとしても、資本家たちは労働日の最大限の延長をやめようとしないのです。 例えば、奴隷制では奴隷の所有者は、奴隷を資産として考えます。だから奴隷が死ぬと、奴隷の所有者は資本を失うことになり、それを穴埋めするために、奴隷市場で改めて支払いを行わねばならなくなります。だから、奴隷を長持ちさせることが、奴隷の所有者の利益になる。それが奴隷の所有者が奴隷を人間的に扱わせていたのです。しかし、奴隷貿易が導入されると、アフリカの黒人奴隷を輸入して死んだ奴隷の代わりに使うことができる消耗品に変わり、奴隷が生きている間に生産性を高める、つまり極端なまでに酷使することに転換しました。 この奴隷貿易という言葉は、労働市場に言い換えると。まさにロンドンの労働者は中米や北米の黒人奴隷に言い換えることができてしまいます。ロンドンの労働者市場は、アイルランド、イングランド、ウェールズの農業地帯から、そして大陸のドイツから人を調達して、労働者を供給したのでした。そして、ついには、都市の貧困な児童や孤児をも調達するようになったのでした。 奴隷の所有者は、馬を購入するように奴隷を購入する。だから奴隷が死ぬと、奴隷の所有者は資本を失うことになり、それを穴埋めするために、奴隷市場で改めて支払いを行わねばならなくなる。しかしである。「ジョージア州の米作地やミシシッピ州の沼沢地は、人間の身体に致命的で破壊的な影響を及ぼすものかもしれない。それでもこうした人命の浪費も、ヴァージニア州やケンタッキー州の豊かな土地からの収益で埋め合わせることができないほどに大きなものではない。経済的な配慮によって奴隷を長持ちさせることが、奴隷の所有者の利益になると考えられているかぎり、こうした経済的な配慮は、奴隷の所有者に奴隷を人間的に扱わせるためのある種の保証となる可能性がある。ところが奴隷貿易が導入されると、この経済的な配慮は反対に、奴隷を極端なまでに酷使して、使いつぶしてしまう理由に一変するからである。というのも、外国の黒人地域から奴隷を輸入して、死亡した奴隷の代わりに使うことができるようになると、奴隷が生きているあいだにその生産性を高めることの方が、急に重要なものとなるからである。こうして奴隷輸入国の奴隷経済の原理は、<人間家畜>からできるたけ短期間に、できるだけ多くの労働を搾り取ることによって、経済効率を最高にするということになる。 熱帯地域の栽培農場では、1年で農場の総資本の額に匹敵するような収益をあげることができるため。黒人の生命はまったく容赦なく犠牲にされる。西インドの農業は、過去何世紀にもわたって、夢のような巨万の富を生み出してきたが、これこそがアフリカの数百万人もの民を食い尽くしてきた元凶である。今日ではキューバがその元凶となっており、農場主は数百万の収入をえて、まるで王侯のように暮らしている。この地でわれわれが目撃するのは、奴隷にきわめて粗悪な食物が与えられ、きわめて過酷な絶えざる労働が強いられ、そして過重労働と睡眠不足と休憩不足などの緩慢な拷問によって、奴隷階級の大部分が死へとまっしぐらに向かっている惨状である」。 名前を変えてみれば、ここで語られているのが君自身のことであるのが分かるだろう。奴隷貿易という言葉を労働市場に読み替え、ケンタッキー州とヴァージニア州をアイルランド、イングランド、ウェールズの農業地帯に読み替え、そしてアフリカをドイツに読み替えてみたまえ。超過労働のためにロンドンには、パン職人は1人もいなくなるだろうと言われてきた。それでもロンドンの労働市場は、あい変らずドイツなどの地から、パン職人になろうとしてやってくる命がけの者たちの群れであふれているのである。 すでに確認したように製陶業は、職工の寿命がもっとも短い産業分野の一つである。そのために陶工は不足しているだろうか。近代的な製陶法の発明者で、みずからも普通の労働者の出身者だったジョサイア・ウェッジウッドは1785年に下院において、製陶業の全体で1万5000人から2万人を雇用していると説明していた。1861年にはグレート・ブリテンにおいて製陶業の本拠地となった都市だけで、10万1302人を雇用している。「綿花産業は90年前に始まった。…イギリス人のこの3世代のうちに、この産業は9世代分の綿花労働者を食い尽くした」。 好景気で熱に浮かされたような時期には、労働市場で深刻な人手不足が発生したこともあったのはたしかである。たとえば1843年がそうだった。そのとき工場主たちは救貧法の委員たちに、農業地帯の「過剰人口」を北部に送るように提案し、「工場主たちがこの過剰な人口を吸収し、使い尽くすだろう」と説明した。これは彼らの本心だった。 「救貧法の委員たちの同意をえて、マンチェスターに人集めの斡旋人たちが配置された。農業労働者のリストが作成され、斡旋人たちに配られた。工場主たちは事務所に駆け込んで、このリストから自分の希望に合った労働者を選び出した。選ばれた一家は、イングランド南部から送り込まれてきた。まるで貨物を運送するかのように荷札もつけて、人間貨物が運河や荷馬車で送り届けられてきた。馬車の後をとぼとぼと徒歩で続く者もあり、多くの者が道を失い、なかば飢餓状態で工業地帯をさまよい歩いた。 この斡旋業はやがて立派な産業になった。下院はそれを信じることができないだろう。この定期的な取引、人肉の売買はその後もつづき、黒人奴隷がアメリカの南部の諸州の綿花農場主たちに売り渡された。…1860年は、綿花産業の絶頂期だった。…こうして、ふたたび人手不足の時期が到来した。工場主たちはふたたび人身売買の斡旋業者に頼った。…そして斡旋業者たちはドーセットの砂地を、デヴォンの丘陵を、ウィルツの平地を探し回った。しかし過剰人口はすでに食い尽くされていた」。 『ペリー・ガーディアン』紙は、英仏通商条約が締結されれば、1万人の新たな人手が吸収されるだろうし、さらに3万人から4万人の人手が必要となるかもしれないと嘆いている。人身売買の斡旋業者やその下請業者たちは1860年に、農村地帯を探し回ったが、成果はあがらなかった。そこで「1人の工場主の代表が救貧局長のヴィアーズ氏に、救貧院に収容されている貧困な児童や孤児をふたたび渡してくれるように請願した」。 資本家の運動 経験が資本家に一般的に示すものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形づくっているのではあるが。もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史的に言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的な生産がどんなに速くどんなに深く人民の力の生活根源をとらえてきたかを示しており、どんなに工業人口の衰退がただ農村からの自然発生的な生命要素の不断の吸収によってのみ緩慢化されるかを示しており、そしてまた、どんなに農村労働者さえもが、自由な空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを栄えさせるという彼らのあいだであんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にもかかわらず、すでに衰弱しはじめているかを示している。自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。われ亡きあとに洪水はきたれ!これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである。 肉体的および精神的な萎縮や早死にや超度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次のように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)を増やすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか?と。しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争が資本主義的生産の内在的諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである。 資本家の認識は、人口はつねに過剰な状態にあるというものでした。資本が、その時点でもとめる価値増殖ために必要な労働力は、その過剰の人口によって満たされているという認識です。ただし、その過剰な人口の内訳を見れば、過酷な労働と劣悪な環境で短命な労働者が次々と世代交代を繰り返していくという、いわば自転車操業のような状態だったのです。 もちろん、資本家のなかには労働条件の悪化に心を痛める分別のある人もいるかもしれません。あるいは、より長期的な視野から賃労働者の健康の破壊を危惧する資本家もいることでしょう。しかし、資本家は資本の人格化として振る舞い、価値増殖をひたすらに追求することをやめることはできません。なぜなら、資本家はたえず他の資本との「自由競争」にさらされているからです。最大限の価値増殖を追求することを止めれば、彼は競争に敗れ、資本家として生きていくことができなくなります。こうして、これまでマルクスが分析によって明らかにしてきた増殖価値の最大化という「資本制的な生産に内在する法則」が、個々の資本家にとっては、彼らの個人的意志とはかかわりなく貫徹する「個々の資本家を強制する外在的な法則」として現れるのです。 では、資本が労働日の延長にブレーキをかけることができないとすれば、誰がそれにブレーキをかけることができるのでしょうか。それは「社会」であり、とりわけ生きるために自分の労働力を守らなければならない賃労働者たちです。この後はしばらく、賃労働者たちが普通に働いて生活していけるような「標準労働日」を法律で確定するための闘争の歴史がテーマとなります。 ここには、いくつもの重要な洞察が含まれています。まず、重要なのは、労働日の延長による過重労働やそれによる健康の破壊が個々の労働者にとっての問題ではなく、社会問題になっていたということです。というのも、使用価値を社会に提供し、また、資本にとってはそれをつうじて増殖価値を提供する労働者たちの健康が破壊され、再生産できなくなれば、資本主義的生産様式、ひいては社会そのものの存立が危うくなってしまうからです。 次に重要なのは、そうであるにもかかわらず、資本が自ら労働日の最大化にブレーキをかけることはない、ということです。むしろ、「資本は、社会によって強制されないかぎり、労働者の健康や寿命にたいし何らの顧慮も払わない」のです。これは、現代のさまざまな社会問題について考える際にも、非常に重要な視点になります。 みてきたように、資本の目的は増殖価値を手に入れることでしかありません。価値増殖の結果どんなことが起ころうとも、貨幣という形で価値を手に入れることができさえすれば、彼はその価値の力を行使することができます。もし彼が雇った労働者が体を壊して働くことができなくなったとしても、別の労働者を雇えばよいのです。ですから、資本家は、彼が資本の人格的担い手であるかぎりは、労働者の健康を配慮する理由をまったく持っていないのです。 これは資本主義社会独自の現象であり、それ以前の奴隷制や農奴制といった社会では事情は全く異なっています、奴隷主や封建領主の権力は奴隷や農奴を人格的に従属させ、支配することによって成り立っていました。それゆえ、奴隷や農奴の人格的再生産は支配者たちの権力にとって決定的な意味を持っていたのです。ところが、資本家の権力は人格的支配にもとづいているのではなく、貨幣の力に基づいています。彼にとっては貨幣がもつ価値の力の獲得だけが問題なのであり、労働者の人格的再生産を配慮する必要はありません。だからこそ、たとえ資本の運動が労働者の生存を脅かし、資本主義社会そのものの存立を脅かすようになるとしても、資本家たちは労働日の最大限の延長をやめようとしないのです。 もちろん、資本家のなかには労働条件の悪化に心を痛める良心的な人もいるかもしれません。あるいは、より長期的な視野から賃労働者の健康の破壊を危惧する資本家もいることでしょう。しかし、資本家は資本の人格化として振る舞い、価値増殖をひたすらに追求することをやめることはできません。なぜなら、資本家はたえず他の資本との「自由競争」にさらされているからです。最大限の価値増殖を追求することを止めれば、彼は競争に敗れ、資本家として生きていくことができなくなります。こうして、これまでマルクスが分析によって明らかにしてきた剰余価値の最大化という「資本主義的生産の内在的法則」が、個々の資本家にとっては、彼らの個人的意志とはかかわりなく貫徹する「外的な強制法則」として現れるのです。 では、資本が労働日の延長にブレーキをかけることができないとすれば、誰がそれにブレーキをかけることができるのでしょうか。それは「社会」であり、とりわけ生きるために自分の労働力を守らなければならない賃労働者たちです。この後はしばらく、賃労働者たちが普通に働いて生活していけるような「標準労働日」を法律で確定するための闘争の歴史がテーマとなります。 資本家の経験から一般に確認されていることは、人口はつねに過剰な状態にあること、すなわち資本がその時点で必要とする価値増殖の欲望の大きさと比較すると、人口はつねに相対的に過剰であることである。ただしこうした人口の流れを構成するのは、栄養状態が悪いために短命で、次々と世代の交替を繰り返していく、いわば未熟なままに摘み取られた果実のような世代をつないだものにすぎないのである。 もっとも、分別のある観察者であれば、これまでの経験から次のことは理解できるだろう。すなわち資本制的な生産は歴史的にみて、まだ始まったばかりであるのに、いかに急速に民衆の生命力の根幹を、その深いところで痛めつけているかということを。そして工業人口の退化を遅らせるには、農村地帯で自然に育った生命力を吸収するほかに方法はないということを。さらには農村地帯にはまだ自由な空気があり、自然淘汰の原理が強く働いているために、最強の個体だけが選別されてきたが、この頼みの綱である農村地帯の労働者すら、すでに死滅して始めているということを。 資本の周囲で、労働者世代がこれほどの苦難に直面しているのを資本が認めようとしないことには、「十分な理由がある」。しかし将来は人類の衰弱が見込まれるという理由で、そしてとどめようもなく民族の衰弱がつづくという理由で、資本が実際の活動を抑制することを期待するというのは、やがては地球が太陽に向かって落下していくという理由で、資本に活動の抑制を期待するような空しいことである。どんな株式の投機においても、誰もがいつかは<雷>が落ちることは知っているのだが、自分だけは黄金の雨をたらふく浴びてから安全な場所に避難した後で、雷は隣の人の頭の上に落ちるだろうと期待しているのである。「あとは野となれ、山となれ」。これがあらゆる資本家と資本家国家の合言葉である。だから社会から強制されない限り、資本は労働者の健康や寿命に配慮することなどありえないのである。 労働者は身体的にも精神的にも衰弱している、早すぎる死を向かいている、超過労働に苦しめられているなどと訴えても、資本はこう考える。その苦しみが我々の喜び(利益)を増しているのに、どうしてその苦しみがわれわれを苦しめる必要があるのか、と。しかし基本的にこの問題は個々の資本家の意図の善し悪しに左右されるものではない。自由競争のために、資本制的な生産に内在する法則が、個々の資本家を強制する外在的な法則として作用しているのである。 標準労働日の設定の歴史 標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である。しかし、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働者取締法と比較してみよ。現代の工場法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとする。資本がやっと生成してきたばかりでまだ単なる経済的諸関係の力によるだけではなく国家権力の助けによっても十分な量の剰余労働を吸収権を確保するという萌芽状態にある資本の要求は、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらしぶしぶなさざるをえない譲歩に比べれば、もちろん、まったく控えめにみえる。資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動的な生活時間の全体を、じつに彼の労働能力そのものを売ることに、つまり彼の長子特権を一皿のレンズ豆でうることに(旧約聖書、創世記)自由意思で同意するまでには、すなわち社会的にそれを強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのである。それゆえ、14世紀半ばから17世紀末まで資本が国家権力によって、成年労働者に押しつけようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供の血の資本への転化にたいして時おり国家によって設けられる労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことである。今日たとえばマサチューセッツ州で、この北アメリカ共和国の現在まで最も自由な州で、12歳未満の子供の労働の国家的制限として布告されているものは、イギリスでは17世紀の半ばごろにはまだ血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日だったのである。 最初の「労働者取締法」は、その直接の口実(その原因ではない、というのは、この種の立法は口実がなっても何世紀も存続するのだから)をペストの大流行に見いだしたのであって、このペストは、トーリー党の一著述家の言うところでは、「労働者を適度な価格で(すなわち彼らの雇い主に適度な量の剰余労働を残すような価格で)労働につかせることの困難が実際に堪えられなくなった」ほどに、人口を減少させたのである。そこで、適度な労賃が、ちょうど労働日の限界と同じように、強制法によって命令された。ここでわれわれが関心をもつのはこの労働日に関する点だけであるが、これは1496年(ヘンリ7世治下)の法律でも繰り返されている。すべての手工業者と農業労働者との3月から9月までの労働日、とはいってもけっして厳守されたのではなかったが、それは当時は朝の5時から晩の7時と8時とのあいだまで続くことになっていた。しかし、食事時間は朝食の1時間と昼食の1時間半と4時のパンの半時間とであり、現行の工場法によるそれのちょうど2倍だった。 冬は中休み時間は同じで朝の5時から日暮れまで労働することになっていた。1562年のエリザベスの一法律は、「日賃金または週賃金で雇われる」労働者のすべてについて、労働日の長さには触れていないが、中間の休み時間を夏は2時間半に、冬は2時間にしようとしている。昼食は1時間に限られ、「半時間の昼寝」は5月の半ばから8月の半ばとのあいだだけ許されるべきだとする。欠勤は1時間につき1ペニー(約8ブフェニヒ)ずつ賃金から差し引かれることとする。しかし、実際には事情は労働者にとって法文にあるよりもずっと有利だった。経済学の父であり、また統計学の創始者ともいえるウィリアム・ベティは、17世紀の最後の3分の1期に著わした一書のなかで次のように言っている。 「労働者(当時ではじつは農業労働者)は、毎日10時間ずつ労働して、毎週に20回の食事を、すなわち仕事日には毎日3回、日曜には2回の食事をとっている。このことからはっきりわかるように、もし彼らが金曜の晩は断食するつもりになり、現在そのために午前11時から午後1時まで2時間を費やしている昼食を1時間半にするつもりになれば、つまり彼らが20分の1だけ多く働いて20分の1だけ少なく消費するならば、前述の租税の10分の1は徴収されうるであろう。」 アンドリュー・ユア博士は、1833年の12時間労働法案を暗黒時代への後退として悪評する権利があったのではないか?もちろん、諸法令のなかに記されておりとベティによって言及されている諸規定は、「徒弟」にも適用される。しかし、17世紀の末には児童労働がまだどんな状態だったかは、次のような苦情からも推測される。 「われわれの少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまではまったくなんの仕事もしない。そして、それからも、できあがった手工業者になるためには、もちろん長い時間─7年─を必要とする」。 これに反して、ドイツはほめられる。なぜならば、そこでは子供たちは揺りかごなかから少なくとも「わずかばかりの仕事は仕込まれる」からである。 これに対して、労働者の側では、いくら労働力を資本家に売り渡してしまっているからといって、労働日を無制限に延長されれば、肉体的および精神的限界を超えてしまい、彼の心身が破壊されてしまいます。そのため、労働者は「標準労働日」、すなわち心身をすり減らすことなく、ふつうに生活していけるような標準的な労働時間の長さを要求します。この標準労働日が社会的に認められて設置されたのは、資本と労働者の間の数百年にわたる闘争を経て、漸くのことでした。しかし、現代の工場法による規制は労働日を短縮することを目指しているのに対して、18世紀前半までの工場法は労働日を強制的に延長することを目指していました。それゆえ、現代の視点で見ると誤解に導かれることになります。 まだ商品化の範囲と程度がそれほど大きくなく、「経済的諸関係の力」が強力ではなかった資本主義の生成段階においては、資本家は容易には労働時間を延長することができませんでした。資本主義以前の社会では、小規模の生産活動が一般的であり、労働者自身が生産過程を管理しているのが普通でしたし、また、仕事場は生活の場と密着していました。自分で労働のあり方を管理し、家の近くで労働していたのですから、労働時間と自由時間の境界は曖昧であり、実際に労働する時間はそれほど長くありませんでした。このような生活慣習をもった人々に賃労働させ、しかも長時間労働に従事させるのは容易なことではなかったのです。それゆえ、資本家たちが国家の手を借りて労働時間を延長しようとしたのです。 最初の「労働者取締法」が発布された直接の口実はペストの大流行でした。ペストのために人口が激減し、あるトーリー党の著述家の言葉を借りると「労働者を妥当な価格で雇うことが、実際に耐えがたいほどに困難になった」のでした。そこで拘束力のある法律によって、妥当な労働賃金と労働日の制限が定められたのです。 15世紀以降、労働日の制限が繰り返し定められました。労働時間が段々と延長され、食事などの休憩時間が削られてゆきました。 標準労働日が設定されたのは、資本家と労働者のあいだの数百年にわたる闘争のおかげである。しかしこの闘争の歴史には、対立する方向に向かう二つの流れがある。たとえば現代の工場法と、14世紀から18世紀半ばまでのイギリスの労働者取締法の規定とを比較していただきたい。現代の工場法は労働日を強制的に短縮することを目指しているのに対して、過去の労働者取締法の規定は、労働日を強制的に延長することを目指していたのである。 もっとも資本がまだごく初期の生成段階にあっては、たんなる経済的な諸関係の力によってではなく、国家権力の助けを借りて、どうにか十分な量の増殖労働を吸収する権利を確保できたのであり、資本の要求もきわめて穏やかなものだった。やがては資本制的な生産が発達し、「自由な」労働者たちは、自分が習慣的に必要としてきた生活手段の価格を支払うために、自分のすべての活動時間を、それどころか自分の労働能力そのものをみずから進んで、売り渡すようになるのである。あたかもレンズ豆の煮物のために自分の家督権を譲ったエサウのように。ただしそれまでにはまだ数世紀の時間が必要だった。 資本は14世紀半ばから17世紀末にいたるまで、国家権力の強制力によって、成人の労働者に労働日の延長を押しつけようとしたが、19世紀の後半になると、子供の血を資本に変えることを[すなわち児童労働を]国家から制限されるようになる。そこで、かつて延長された成人の労働時間が、後に制限された子供の労働時間とほぼ一致するのは、ごく自然なことにみえるのである。 たとえば最近までアメリカ合衆国でもっとも自由な州だったマサチューセッツ州では、現在は12歳未満の児童の労働時間の上限が州の法律で制限されている。その上限の労働時間は、17世紀の半ばまでのイギリスで、働き盛りの職人、頑強な作男、きわめて大柄な鍛冶職人の標準労働日だったのである。 最初の「労働者取締法」が発布された直接の口実はペストの大流行だった。ペストのために人口が激減し、あるトーリー党の著述家の言葉を借りると「労働者を妥当な価格で雇うことが、実際に耐えがたいほどに困難になった」のである。そこで拘束力のある法律によって、妥当な労働賃金と労働日の制限が定められた。 ここでわたしたちが考察するのは労働日の制限だけだが、こうした制限は1496年にも繰り返し定められた。それによるとすべての職人と農業労働者の労働日は、3月から9月までは朝の5時から夜の7時または8時までとされていた。ただし食事の時間として、朝食の時間が1時間、昼食の時間が1時間半と定められており、4時には間食のために30分が認められていたので、現行の工場法で認められている食事の時間の2倍になる。 冬季には、朝の5時から日没まで働くことになっていたが、食事の休憩時間は同じである。1562年に定められた「日給または週給で雇用されている」すべての労働者のためのエリザベス朝の法令では、労働日の長さについては規定せず、食事のための休憩時間を夏は2時間半に、冬は2時間に制限しようとしていた。昼食の時間は1時間に短縮され、5月中旬から8月中旬にかけては、「30分の昼寝」を認めていた。欠勤すると、1時間につき1ペニーが賃金から差し引かれる。しかし実際の状況は、法律書で定めるよりも、労働者にはるかに有利なものになっていた。 経済学の父であり、ある程度は統計学の父でもあるウィリアム・ベティは、17世紀の最後の3分の1期に刊行した著書で次のように書いている。「労働者は毎日10時間働き、週に20回の食事時間をとっている。労働日には1日3回、日曜日には1日2回の食事時間をとるのである。だから金曜日の夕食を抜かし、さらに午前11時から午後1時まで、2時間かけている昼食時間の長さを1時間半に減らすならば、すなわち20分の1だけ多く働き、20分の1だけ食事を減らすならば、上に述べた税金の10分の1の金額は調達できるはずである」。 アンドリュー・ユア博士が、1833年の12時間労働法案を、暗黒時代への逆戻りだと難じたのは、もっともではなかったか。たしかに諸法令とベティが言及している規定は「徒弟」にも適用される。しかし17世紀末に児童労働がどのようなものだったかは、次の苦情からも明らかだろう。「ここイギリスの子供たちは、徒弟になる年齢になるまで何もしない。そのため1人前の職人になるまでに、7年もの長い歳月が必要となるのである」。イギリスと比較して、ドイツは称賛されている。ドイツでは子供たちは揺りかごの頃から「少しは働くようにしつけられている」からである。 労働論争 18世紀の大部分をつうじて、大工業の時代に至るまでは、まだイギリスの資本は労働力の週価値を支払うことによって労働者のまる1週間をわがものにすることには成功していなかった。といっても、農業労働者は例外であるが。労働者たちが4日分の賃金でまる1週間暮らすことができたという事情は、彼らには残りの2日間も資本家のために労働するということの十分な理由だとは思われなかった。イギリスの経済学者たちの一方のものは資本に奉仕してこのわがままを激しく非難し、他方のものは労働者を援護した。たとえば、当時その商業辞典が今日マカロックやマクレガーの同種の著述が博しているのと同じ好評を博したポスルウェートと、前に引用した『産業および商業に関する一論』の著者との論戦を聞いてみよう。 ポスルウェートはなかんずく次のように言う。 「私がこの簡単な所見を結ぶにあたって一言しないわけにはゆかないのは、もし労働者が生活するために十分なだけを5日で受け取るものならば彼はまる6日も労働しようとはしないだろう、というあまりにも多くの人が口にするありふれた言いぐさについてである。このことから、彼らは、手工業者やマニュファクチュア労働者に絶えまない1週6日の労働を強制するためには、租税やその他なにかの手段によって生活必需品を高価にすることさえ必要だということを結論する。失礼ながら、私はこの王国の労働する人民の永久的な奴隷状態のためにやりを構えるこれらの偉い政治家たちとは違う意見をもっている。彼らは<働くばかりで遊ばないと愚かになる>という諺を忘れている。イギリス人は、これまでイギリス商品に一般的な信用と名声を与えてきた彼らの手工業者やマニュファクチュア労働者の独創と熟練とを自慢するのではなかいか?それはどういう事情のおかげだったか?おそらく、われわれの労働民衆が彼らの特有のやり方で気晴らしをするということ以外のなにのおかげでもないだろう。もしも彼らが1週にまる6日絶えず同じ仕事を繰り返しながら1年じゅう働きとおすことを強いられるならば、それは彼らの独創力を鈍らせて、彼らを元気にし敏活にするよりもむしろ愚鈍にするのではないだろうか?そして、このような永久的な奴隷状態によっては、われわれの労働者はその名声を維持するどころかそれを失ってしまうのではないだろうか?…こそんなにひどくこき使われる動物からは、われわれはどんな種類の技能を期待できようか?…彼らの多くは、フランス人なら5日か6日かかる労働を4日でやる。しかし、もしイギリス人が永遠の苦役労働者でなければならないなら、彼らははフランス人よりもっと退化するおそれがある。わが国民が戦場の武勇で名をあげるとき、われわれは、それは一面では国民の腹のなかにあるイギリスの上等なローストビーフとプディングとのおかげであり、他面ではそれに劣らずわれわれの立憲的な自由の精神のおかげである、と言うのではないか?それならば、われわれの手工業やマニュファクチュア労働者のすぐれた独創力やエネルギーや熟練は、なぜ、彼ら彼らの特有のやり方で気晴らしをする自由のおかげであってはならないのか?私は希望する。彼らがけっしてこれらの特権を失わないであろうことを、また彼らの技量の源であると同時に彼らの元気の源である良い生活をも失わないであろうことを!」 これにたいして『産業および商業に関する一論』の著者は次のように答える。 「もし週の7日めを休みにするのが神のおきてとみなされるならば、それには、他の週日が労働に(というのは、すぐ次にわかるように、資本ということである)属するということが含まれているのであって、この神の命令を強行することが、残酷だと言って叱られるわけではない。…およそ人類は生来安楽と怠惰とに傾くということ、われわれは、不幸にも、われわれのマニュファクチュア細民の行動から経験するのであって、この細民は、生活手段が騰貴する場合のほかは、平均して週に4日より多くは労働しないのである。…1ブッシェルの小麦が労働者の全生活手段を代表し、それが5シリングで、労働者は自分の労働によって毎日1シリングかせぐものと仮定しよう。その場合には、彼は1週に5日だけ労働すればよい。もし1ブッシェル4シリングなら、4日だけでよい。…ところが、労賃はこの国では生活手段の価格と比べてもずっと高いのだから、4日労働するマニュファクチュア労働者余分なかねをもっていて、そのかねで週の残りの日は遊んで暮らすのである。…週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態ではないということを明らかにするためには、私の述べたことで十分だと思う。われわれの農業労働者はこれを実行しているが、どこから見ても彼らは労働者のうちでもっとも幸福な人々である。しかし、オランダ人はこれをマニュファクチュアで行っていて、非常に幸福な国民のようにみえる。フランス人は、多くの休日のあいだにはさまれないかぎり、それを行っている。…ところが、わが国の庶民は、自分はイギリス人として生得の権利によって、ヨーロッパのどこかほかの国における(労働者民衆)よりももっと自由で独立であるという特権がある、という固定観念を自分たちの頭に植えつけた。ところで、この観念は、それがわれわれの兵士の勇気に影響を及ぼすかぎりでは、多少は有益であるかもしれない。しかし、マニュファクチュア労働者は、そのような観念をもつことが少なければ少ないほど、彼ら自身のためにも国家のためにもよいのである。労働者はけっして自分たちが自分たちの上長から独立している考えてはならないであろう。…おそらく総人口8分の7が財産をほとんどかまったくもっていないわが国のような商業国では、民衆を勇気づけることは各別危険である。…わが国の工業貧民が、いま4日でかせぐのと同じ金額で6日働くことに甘んずるようになるまでは、救済は完全ではないであろう。」 この目的のためにも、また「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも、同じくまた「救貧税の軽減や勤勉精神の助長やマニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのためにも」、資本に忠実なわがエッカルトは、公の慈善に頼っているこのような労働者を、一口に言えば、受救貧民を、一つの「理想的な救貧院」に閉じ込めるというきわめつきの方策を提案する。この「恐怖の家」、この「救貧院の典型」では、「毎日14時間、といっても適当な食事時間がはいるので、まる12労働時間が残るように」労働が行わなければならない。 「理想の救貧院」では、すなわち1770年の恐怖の家では、1日12労働時間!それから63年後の1833年、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳から18歳までの少年の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように見えた!1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョワのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆は一様に叫んだ、「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ!」と。チューリヒでは、10歳以上の子供の労働は12時間に制限されている。アールガウ州では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく2時間に短縮された。なんという「1770年以来の進歩」だろう、マーコリーならば「大喜びで」こう叫ぶことであろう! 資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。それは工場と呼ばれた。そして、このたびは理想は現実を前に色褪せたのである。 19世紀前半の産業革命が起こる前、イギリスの労働者は4日分の賃金で1週間暮らすことができました。だから、資本家のために1週間の残りの2日分を働く動機づけがなかったのです。それまでのイギリスの製品は労働者の熟練によって、一般に高い信用と評価を得ていました。それは、工場の職人の労働時間に余裕があり、製作の意欲と熟練の技能を維持することができていたのでした。そこには気晴らしをする余暇の時間を作ることもできたのでした。 18世紀には、大工業時代が到来するまでのほとんどの期間を通じて、農業労働者を例外として、イギリスの資本はまだ、1週間分の労働力価値を支払うことで、労働者の1週間の全体を買い取ることには成功していなかった。労働者は4日分の賃金で、1週間を暮らすことができたので、資本家のためにさらに2日働くだけの理由がなかったのである。イギリスの経済学のある一派は、これを労働者のわがままであると非難し、他の一派は、労働者を弁護した。たとえばポスルウェイトと、すでに引用した『産業と商業に関する試論』の著者との論争をみてみよう。ポスルウェイトの商業辞典は当時は、今日のマカロックやマクレガーの商業辞典と同じように高く評価されていたのである。 ポスルウェイトはたとえば次のように述べる。「この短い記述の最後を締めくくるために、次の点を指摘しておきたい。あまりに多くの人が、労働者は、5日働いて、生きていけるだけのものを手に入れると、週に6日がんばって働かなくなると主張しているが、これは陳腐な語り方である。こうした人々は、手工業者やマニュファクチュアの労働者を週に6日、休みなく働かせるためには、税金などの手段で、生活必需品の価格を高騰させる必要があると結論する。ひとこと言わせていただくならば、私はわが王国の労働者を永続的な奴隷にすることに手を貸す大政治家たちとは、意見を異にする者である。こうした政治家は、<働くばかりで遊ばないと愚かになる>という諺を忘れているのである。 これまでイギリス人は、自国の手工業者とマニュファクチュア労働者の才能と技術によって、イギリス製品は一般に高い信用と評価を獲得してきたことを誇りにしてきたのではなかったか。この信用と評価は、どのような状況において生まれたものだろうか。それはわが国の労働大衆がそれぞれに工夫して、気晴らしをする方法をみつけているから生まれたのである。彼らが1年じゅう働きづめで、週に6日、ひたすらに同じ作業を反復することを強制されたならば、彼らの才能は鈍くなるだろう。活発で機敏なところを失って、鈍重になってしまうだろう。このような永続的な奴隷になってしまったら、わが国の労働者たちはその名声を維持することができず、それを失ってしまうのではないだろうか。…このように酷使された動物から、我々はどのような熟達した技能を期待できるのだろうか。…彼らの多くは、フランス人なら5日か6日かかるところを4日で片付けてしまう。しかしイギリス人が永遠に苦役を強いられるならば、イギリス人はフランス人以下に退化してしまう恐れがある。 わが国民は戦争での勇敢さによって有名であるが、それはイギリスのおいしいローストビーフとプディングを食べて、からである。それだけではなく、イギリス人の立憲的な自由の精神が備わっているからである。このことは我々がつねに語ってきたことではないか。そうだとすれば、イギリスの手工業とマニュファクチュア労働者の才能と活力と技能が優れているのは、彼らがそれぞれに工夫して、気晴らしをする自由があったからだと、どうして語らないのだろうか。わたしは彼らがこの特権を、このよく生活を二度と失わないことを希望するものである。彼らの勤勉さも勇気も、この良き生活から生まれたものなのである」。 これに対して『産業と商業に関する試論』の著者は次のように答える。「1週間の7日目を休日とするのが神の掟であるならば、その掟には週の残りの日々は労働のために使われるべきだということも含まれている。だから神のこの命令を強制することを残酷だと非難することはできない。…人間が一般に安逸と怠惰に流れやすい本性を備えていることは、わがマニュファクチュア貧民の態度によって、うんざりするほど経験している。彼らは生活手段の価格が高騰しなければ、週に平均して4日よりも多くは働かないのである。…労働者のすべての生活手段を1ブッシェルの小麦の価格で代表されることにしよう。今1ブッシェルの小麦の価格が5シリングで、労働者が労働によって1日1シリングを稼ぐとすると、労働者」は週に5日しか働く必要がない。1ブッシェルの小麦の価格が4シリングであれば、週に4日働けばすむ。…しかしこの王国の労働賃金は生活手段の価格と比較するとはるかに高いので、マニュファクチュア労働者は週に4日働けば、週の残りの日は遊んで暮らせるだけの余分な貨幣を手にしている。…もうお分かりのことだと思うが、週に6日の適度な労働は、奴隷状態などではない。わが国の農業労働者は週に6日働いているが、労働貧民の中でもっとも幸福な人々なのである。 しかしオランダ人はマニュファクチュアでも週に6日は働いているが、非常に幸福な国民にみえる。フランス人も、多くの休日が割り込まないかぎり、同じように週に6日働いている。…ただ、わが国の下層民たちは固定観念にとりつかれていて、イギリス人として他のヨーロッパのあらゆる国の人々よりも自由で独立している特権を、生まれつきの権利として保障されていると思い込んでいるのだ。この固定観念はたしかに、兵士を勇敢にするという意味ではいくらかは役に立っているかもしれない。しかしマニュファクチュア労働者がこうした固定観念を持たなければもたないほど、自分のためにも国家のためにもよいのである。労働者は自分が上司から自立しているなどと、決して思い込んではならない。…わが国のような商業国では、すべての国民のおそらく8分の7までが、ほとんど資産がないか無産者であるので、下層民を勇気づけるのはきわめて危険なことである。…わが国の工業貧民が4日で手にしている報酬を、6日働いて手にすることを甘受するようになるまでは、治療が完全にすんだとは言えない」。 この目的のために、あるいは「怠惰、放埓、ロマン主義的な自由の夢想などを完全に根絶させるために」、または「救貧税の引き下げ、産業精神の奨励、マニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのために」、われらの資本に忠実な友は、特効薬を提案する。すなわち公的な扶助を受けているすべての労働者、すなわち受給貧民を、「理想的に救貧院」に監禁せよというのである。そして「こうした施設は恐怖の家でなければならない」という。こうした「恐怖の家」、この「理想的な救貧院」では、貧民たちを「毎日14時間、ただし適当な食事時間が含まれるために、実質では12時間の労働時間が残るように」働かせなければならないという。 毎日12時間の労働を要求する「理想の救貧院」、これが1770年の恐怖の家だったのである。ところがその63年後の1833年に、イギリス議会が4つの分野の工場に対して、13歳から18歳までの青少年労働日を正味12時間に引き下げると、イギリス工業界はまるで最後の審判の日が訪れたかのように騒いだのだった。1852年、ルイ・ボナパルトが法定の労働日の規定を覆して、ブルジョワ階級の支持基盤を固めようとすると、フランスの労働大衆は口を揃えてこう叫んだのだった。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の定めた法律のうちで、われわれに残された唯一の財産である」。 スイスのチューリヒ州では10歳以上の児童の労働時間は12時間に制限されている。アールガウ州では1862年に13歳から16歳までの青少年の労働時間が12時間半から12時間に短縮された。オーストリアでも1860年に、14歳から16歳までの青少年の労働時間は12時間に短縮されている。なんとすばらしい「1770年以来の進歩だろう」とマーコリーなら「感極まって」叫んだかもしれない。 1770年にはまだ資本にとっての夢にすぎなかった受給貧民のための「恐怖の家」は、わずかな年月の後に、マニュファクチュア労働者自身にとっての巨大な「救貧院」として登場した。これは工場という名前で呼ばれた。そしていまやこの現実を前にして、かの理想も色褪せてみえるほどだったのである。 資本の祝祭 資本が数世紀を費やして労働日をその標準的な最大限界まで延長し、次にはまたこの限界を越えて12時間という自然日の限界まで延長したのちに、いま、18世紀の最後の3分の1期における大工業の誕生以来は、なだれのように激しい無際限な突進が起きた。風習と自然、年齢と性、昼と夜という限界は、ことごとく粉砕された。古い法規では農民のように単純だった昼と夜との概念でさえ、まったくあいまいになって、1860年になってもイギリスの一判事は、昼と夜とがなんであるかを「判決上有効に」説明するためには、真にタルムード編修者的な明察を尽くさなければならなかったほどである。資本は盛大な宴を張って祝った。 資本は労働日をその通常の上限にまで延長し、さらにこれを超えて自然日の限界である12時間にまで延長するために、数世紀もの長い時間をかけたのだった。しかしその後は、18世紀の最後の3分の1期に入って大工業が誕生してからは、突然のように暴力的で際限のない雪崩のような現象が発生した。それまでは垣根の役割をはたしていた風習と自然の区別、年齢と性別の区別、昼と夜の区別など、あらゆる垣根が壊された。古い法律の規定に誰でも分かるように定められていた昼と夜という単純な概念すら、きわめてあいまいなものとなった。1860年になってもあるイギリスの裁判官は、昼とは何か、夜とは何かを、「判決としての効力のある形で」説明しようとして、まさに[ユダヤ教の聖典を解読する]タルムード的な智恵を必要としたのだった。資本は盛大に祝祭を祝っていた。 労働者階級の抵抗 生産の騒音に気をとられていた労働者階級がいくらか正気に帰ったとき、この階級の反抗が始まった。さしあたりまず大工業の生国イギリスで。とはいえ、30年間というものは、この階級が奪い取った譲歩はまったく名目的なものでしかなかった。1802年から1833年までに議会は5つの労働関係法を成立させたが、しかし、その強制的実施や必要な職員などのためには1文の支出も議決しないという抜け目のなさだった。これらの法律は死文のままにとどまった。 「1833年の法律以前には子供や少年が終夜か終日かまたはその両方か、どのようにでも随意に働かされたということ、これが事実である。」 1833年の工場法の規定 やっと1833年の工場法─綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場に適用される─以来、近代産業にとって標準労働日が現われはじめる。1833年から1864年までのイギリスの工場立法の歴史以上によく資本の精神を特徴づけているものはない! 1833年の法律が明言するところでは、普通の工場労働日は朝5時半に始まって晩8時半に終わるべきだとされ、また、この限界内すなわち15時間の範囲内では、少年(すなわち13歳から18歳までの人員)を1日のどの時間に使用しようと、それは、いくつかの特にあらかじめ定められた場合を除いて、同一の少年が1日のあいだに12時間より長くは労働しないかぎり、適法とされる。この法律の第6節は、「このように労働時間の限定されている各人のために、各1日のうちに少なくとも1時間半の食事時間が認められるべきこと」を規定している。9歳未満の子供の使用は、のちに述べる例外を除いて、禁止され、9歳から13歳までの子供の労働は、1日8時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律によれば晩の8時半と朝の5時半とのあいだの労働は、9歳から18歳までの人員のすべてについて禁止された。 19世紀に入ると労働者の抵抗が始まります。その30年間の抵抗の結果として。1833年に工場法が制定されました。すなわち、通常の工場労働日は朝の5時半に始まり、夜の8時半に終わるとされています。そしてこの15時間の制限時間のうちであれば、青少年たち、すなわち13歳から18歳までの子供たちを1日のいずれかの時間帯において働かせるのは、適法とみなされます。ただしとくに定められた場合をのぞき、同じ青少年を1日に12時間以上にわたって働かせないことが前提とされました。また、毎日少なくとも1時間半の食事時間が労働者に与えられねばならず、9歳未満の労働が禁じられました。また、段階的に、児童の夜間労働は禁じられました。 喧しい生産の喧騒に欺かれていた労働者階級も、どうにか冷静さを取り戻すと、すぐに抵抗を始めた。まずは大工業の発祥の地であるイギリスで、労働者階級の抵抗は始まった。ただし最初の30年間の抵抗によって獲得した資本の譲歩は、ごく名目的なものにすぎなかった。1802年から1833年までに議会は5つの労働法を制定したが、狡猾なことに、こうした法の強制執行の費用や、必要な官吏のための費用は、1文の支出も認めなかった。だからこれらの法は完全な空文だった。「実際に1833年の工場法が制定されるまでは、児童や青少年は終日、終夜、あるいはその両方で、意のままに働かされていたのは事実である」。 1833年の工場法の規定 1833年になって、木綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場を対象とした工場法が制定されて、現代的な工業のための標準労働日がようやく定められた。1833年から1864年におけるイギリスの工場法の立法の歴史ほど、資本の精神を特徴的に示しているものはないだろう。 1833年の工場法によると、通常の工場労働日は朝の5時半に始まり、夜の8時半に終わるとされている。そしてこの15時間の制限時間のうちであれば、青少年たち、すなわち13歳から18歳までの子供たちを1日のいずれかの時間帯において働かせるのは、適法とみなされる。ただしとくに定められた場合をのぞき、同じ青少年を1日に12時間以上にわたって働かせないことが前提とされている。 この法律の第6条では、「規定によって労働を制限させているすべての者に、毎日少なくとも1時間半の食事時間が与えられるべきこと」が定められている。9歳未満の児童の雇用は、後に述べる例外を除いて禁じられている。9歳から13歳までの児童の労働は1日8時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律の規定では夜の8時半から朝の5時半までの労働は、9歳から18歳までのすべての子供について禁じられている。 1833年工場法における議会の妥協 立法者たちは、成年労働力の搾取における資本の自由、また彼らが言うところの「労働の自由」を侵害するつもりは少しもなかったので、工場法からこんな身の毛もよだつような帰結を引き出すことを予防するために、一つの独特な制度を案出した。 1833年6月25日の委員会の中央評議会第1次報告書では、次のように述べている。「現在行われている工場制度の大きな弊害は、それが児童労働を成人労働日の最長限度にまで延長する必然性をつくり出すことにある。この弊害のただ一つの救済手段、すなわち、予防されるべき弊害よりもさらに大きい弊害が生ずるおそれのある成人労働の制限を伴わない救済手段は、2組の児童を使用する案だと思われる。」 こういうわけで、リレー制度という名のもとにこの「案」が実行されて、たとえば朝5時半から午後1時半までは9歳から13歳までの1組の子供が、午後1時半から晩の8時半までは別の1組が替え馬される、というように仕組まれた。 しかし、過去22年間に制定された児童労働に関するすべての法律を工場主諸君が最もあさましく無視したことにたいする報酬として、今度は、苦い丸薬も金色に塗られて彼らに与えられた。議会は、1834年3月1日以降は11歳未満の子供が、1835年3月1日以降は12歳未満の子供が、1836年3月1日以降は13歳未満の子供が、一工場で8時間より長く労働してはならない!と規定した。「資本」にとってこのように寛大な「自由主義」は、ドクター・ファーやサー・A・カーライルやサー・B・プロディーやサー・C・ベルやガスリー氏など、要するにロンドンの最も著名な内科医と外科医とが、すでに下院での彼らの証言のなかで、遅滞は危険だ!と言明していたことを思えば、ますます称賛に値するものだった。さらに、ドクター・ファーはもう少し無遠慮に次のようにも言った。 「立法は、起きるおそれのあるあらゆる形の死亡を防ぐためには、すぐにも必要であり、しかも、たしかにこれ(諸工場のやり方)は、人を死なせる最も残酷な方法の一つとみなされなければならない。」 工場主諸氏への思いやりから13歳未満の子供たちをさらに数年間毎週72時間の工場労働の地獄に封じ込めたその同じ「改革された」議会が、やはり自由の一滴を与えた奴隷解放令では、これと反対に、はじめから農場主たちに、およそ黒人奴隷を毎週45時間よりも長く使役することを禁止したのである! この法律を作成した人たちは成人の労働者を搾取する資本の自由を侵害しようとはまったく考えていませんでした。つまり、とくに労働者の労働時間の延長を強く規制しようとは考えていなかったということになります。それゆえ、この法律と同時にリレー制度を考案したのでした。 それは次のようなものでした。成人の労働を制限することなく、児童の長時間労働を規制するために、例えば、朝の5時半から午後の1時半までは、9歳から13歳までの児童の一つの班が馬車につながれ、午後1時半から夜の8時半までは別の班が馬車につながれるというように二つのシフトに分けて働かせるというもの出した。それにより、児童の負担を減らし、成人への成長を阻害させないようにして、次の世代の労働者の確保を図ったのでした。 ただし、実際のところ、児童労働に対する規制は経過措置や抜け道も多くて、なかなか進展しませんでした。 法案の作成者たちは、成人の労働者を搾取する資本の自由、あるいは彼らの言葉では「労働の自由」を侵害しようとはまったく考えていなかったので、工場法がもたらす可能性のあるこうした恐ろしい結果を予防するために、独自の[リレー・]システムを考案したのだった。 1833年6月25日の委員会の中央評議会の第1回報告書は「現在の工場システムの大きな弊害は、子供の労働が成人の労働日の最長時間にまで延長されることが必然的なものとなることにある。しかし成人労働を制限すると、それが予防するはずの弊害よりもさらに大きな別の弊害を作り出してしまうだろう。このため成人労働を制限せずに、この弊害をとりのぞく唯一の方法は、子供を二つのシフトに分けて働かせることだろう」と述べている。この「案」はリレー・システムという呼び名で採用された。たとえば朝の5時半から午後の1時半までは、9歳から13歳までの児童の一つの班が馬車につながれ、午後1時半から夜の8時半までは別の班が馬車につながれるというわけである。 工場主たちは、過去22年間に制定された児童労働についてのあらゆる法律をきわめて厚顔無恥に無視してきたが、今回はそのご褒美として、飲みにくい薬がオブラートに包まれて提供されることになった。すなわち議会は、工場で児童を8時間を超えて労働させることを禁止するにあたって、11歳未満の児童については1834年3月1日以降に、12歳未満の児童については1835年3月1日以降に、13歳未満の児童については1836年3月1日以降になってから、8時間を超えた労働を禁止することを定めたのである。 ロンドンのもっとも著名な内科医や外科医であるファー医師、A・カーライル卿、B・プロディー卿、C・ベル卿、ガスリー氏たちが、下院の証人陳述において、「先延ばしすることは危険である」と証言していたことを考えると、「資本」に対するこのような思いやりのある「自由主義」は、何とも見上げたものである。ファー医師はいかなる遠慮もなしに「あらゆる形での早死を防ぐために、立法措置がただちに必要です。そしてこれは死を招くもっとも残忍な方法の一つと見なす必要があります」とまで証言していたのである。 この「改革された」議会は、工場主への深い思いやりから、13歳未満の児童をその後も何年ものあいだ、週72時間の工場労働の地獄に閉じ込めたのだった。これに対してやはり自由を僅かずつしか認めようとはしなかった奴隷解放令については、この同じ議会が農場主たちに黒人奴隷を週に45時間以上働かせることを、最初から禁じていたのである。 資本の抵抗 だが、これで贖罪をすませたのではなく、資本は次には長年にわたるそうぞうしいアジテーションを開始した。それは主として、児童という名のもとに労働を8時間に制限され或る程度の就学義務を課されていた部類の人々の年齢をめぐって行われた。資本家的人類学によれば、児童期は10歳か、せいぜい11歳で終わるものだった。工場法の完全実施の期限、宿命の1836年が近づくにつれて、工場主暴徒はいよいよ激しく荒れ狂った。実際にそれは政府をおどかすことに成功して、1835年に政府は児童期の限界を13歳から12歳に引き下げることを提案した。ところが、そのとき外部からの圧力が脅威を増してきた。下院の勇気がなくなった。下院は、13歳の子供を1日に8時間よりも長く資本のジャガノート車の下敷きにすることを拒んで、1833年の法律は完全に発効することになった。この法律は1844年6月まで変わらないままだった。 この法律が工場労働をまず部分的に、次いで全部的に規制していた10年のあいだ、工場監督官の公式の報告書は、その施行の不可能についての苦情にみちている。すなわち、1833年の法律は、朝5時半から晩8時半までの15時間の範囲でならば、各「少年」と各「児童」とに12時間または8時間の労働を任意の時刻に始めさせ、おわらせることを、また人によって違う食事時間を指定することを、資本の主人たちの自由に任せたので、主人たちはまもなく一つの新しい「リレー制度」を案出したのであるが、それによれば、労働者は一定の駅で取り替えられのではなく、時によって違う駅々で絶えず繰り返し車につけ替えられるのである。この制度のみごとさについてはのちにまた立ち帰って見なければならないので、ここにはこれ以上は立ちどまらないことにしよう。しかし、一見しただけでも明らかなのは、それが工場法全体をその精神から見てだけではなくその文面から見ても無効にしてしまったということである。各個の児童、各個の少年についてのこの複雑な記帳を前にして、工場監督官たちはいったいどうして法定の労働時間と法定の食事時間の許可とを強制すればよいのか? たくさんの工場でやがて再び以前の残酷な不法が処罰もされずに横行するようになった。内務大臣とのある会見(1844年)で、工場監督官たちは、新しく案出されたリレー制度のもとではどんな取締りも不可能だということを論証した。しかし、その間にも事情は非常に変わっていた。工場労働者たちは、ことに1838年以来は、10時間法案を彼らの経済的選挙スローガンにし、人民憲章を彼らの政治的選挙スローガンにしてきた。工場主たち自身のうちでも、すでに1833年の法律に従って工場経営を規制していた一部の人々は、人並み以上のずうずうしさや比較的幸運な地方事情のために法律違反をやることができた「不誠実な兄弟」の不徳義な「競争」について、議会に陳情の雨を降らせた。そのうえ、個々の工場主がどんなに元どおりの強奪欲をほしいままにしたいと思っても、工場主階級の代弁者や政治的指導者たちは、労働者にたいする態度や言葉を変えることを命令した。彼らはすでに穀物法廃止のための戦いを始めていて、勝利のために労働者の援助を必要としたのだ!それゆえ、彼らは、自由貿易の千年王国ではパンの大きさが2倍にされるだけではなく、10時間法案も採用されるということを約束した。そこで、ただ1833年の法律をほんものにしようとするだけの処置にたいしては、彼らはますます反対するわけにはゆかなくなった。自分たちの最も神聖な利益、地代を脅かされて、ついにトーリー党は、彼らの敵の「けしからぬ術策」に向かって博愛的な怒声をとどろかせた。 資本家は、労働時間に対する規制の緩和、とくに児童労働の規制緩和のキャンペーンを展開しました。そして、この法律は1844年まで改正されませんでした。そこで、かれらは新しいリレー制度を考案しました。この制度では労働者たちは一定の駅で交替させられのではなく、それぞれ違う駅で違う荷馬車につなぎ替えられることになります。このシステムは、実質的に工場法の規制を無効化してしまいます。多くの工場では、規制以前の過酷な労働者の搾取が再び横行するのでした。 しかし、社会的な情勢は以前に比べて変化していました。例えば、工場主階級の代表者たちや政治的な指導者たちは、穀物法の撤廃を目指していて、そのためには労働者の支援が必要だったのです。彼らは、労働者たちに食事のパンの量を2倍にし、10時間労働法を受け入れることを約束しました。そこで、個々の工場主たちが貪欲さを貫こうとしても、工場法の規定に従うという空気が定着していきました。 しかし資本はこうしたことで宥められる気配もなく、何年にも及ぶ騒がしい宣伝活動を開始した。このキャンペーンの中心となったのは、児童という名のもとに労働時間を8時間に制限されているだけでなく、就学義務が定められている子供たちの年齢規定だった。資本の人類学によると、児童という年齢層は10歳まで、遅くとも11歳までで終わるべきであるというのだった。 工場法の完全実施の期限である悪夢の1836年が近づくと、暴徒のような工場主たちはさらに激しく騒ぎ立てた。実際に彼らは政府を威嚇することに成功し、政府は1835年に児童の年齢規定を13歳から12歳に引き下げることを提案したほどである。しかし外からの圧力は高まった。下院の勇気は挫けそうになった。そして13歳未満の子供たちを、10日8時間以上も資本の[人々を犠牲にする]ジャガノートの車輪の下敷きにすることを下院は拒否し、1833年の工場法は完全に施行されることになった。この法律は1844年6月までは修正されることはない。 この法律はその10年間にわたって、工場労働は部分的に、後には全面的に規制した。しかし工場視察官の公式報告は、この法律を施行できないことへの嘆きに満ちている。というのは、1833年のこの法律は、朝の5時半から夜の8時半までの15時間のあいだであれば、どの「青少年」であろうとどの「児童」であろうと、任意の時間からからその「青少年では」12時間あるいは「児童では」8時間の労働を開始させ、中止させ、終了させる自由を資本の主人に認めていたからである。そして資本の主人たちは、さまざまな労働者に、様々な形で食事時間を割り当てる自由も認められていた。 そこで彼らは新しい「リレー・システム」を発明した。このシステムでは労働者たちは一定の駅で交替させられのではなく、それぞれ違う駅で違う荷馬車につなぎ替えられるのである。このシステムの巧みさについては、後にさらに詳しく検討する予定なので、ここではこれ以上は立ち入らない、しかしこのシステムがこの工場の全体をその精神においてだけでなく、その実際の適用においても無効にしたことはすぐに理解できることである。あらゆる児童と青少年にこれほど複雑な記帳が行われていては、工場視察官はどうすれば法定の労働時間が遵守され、法定の食事時間が与えられるように強制できるというのだろうか。 多くの工場で、かつて横行していた残酷な不法行為が再び横行するようになり、それによって、工場主たちが処罰されることもなかった。工場視察官たちは内務大臣とのある会合において、雇用主が新たに発明したリレー・システムのもとでは、いかなる監督も不可能であることを証明した。しかしすでに状況が大きく変化していた。とくに1838年以降は工場労働者たちは、政治面では人民憲章を選挙のスローガンに掲げ、経済面では10時間労働法案を選挙スローガンに掲げていたからである。 また1833年の工場法を忠実に規制していた一部の工場主たちも、山のように陳情書を議会に提出していた。工場法の規定を遵守しない「不正な同僚たち」の不道徳な「競争」によって被害をうけていると訴えたのである。これらの不正な工場主たちは、鉄面皮であることによって、あるいは立場の有利さによって、法律違反を許されてきたと、彼らは主張したのである。 さらに個々の工場主がどれほど昔からの貪欲さを貫こうとしても、工場主階級の代表や政治的な指導者たちから、労働者に対する姿勢や言葉遣いを改めるように求められていた。彼らはすでに穀物法の撤廃を目指した戦いを始めていたのであり、この戦いで勝利を収めるためには、労働者たちの支援が必要だったのである。こうして工場主たちは[穀物法を撤廃することを目指す]自由貿易の千年王国の旗のもとで、労働者たちに食事のパンの量を2倍にし、10時間労働法を受け入れることを約束したのである。そこで1833年の工場法の規定を実現するための措置に反対するのは、ますます許されないことになった。トーリー党の政治家たちは、自分たちのもっとも真正な利益である地代が[穀物法の廃止で]脅かされるにいたって、自分の敵たち[である工場主たち]の[不埒なやり方]に憤慨し、博愛主義をふりかざして騒ぎ立てた。 追加工場法 こうして1844年6月7日の追加工場法は成立した。それは1844年9月10日に発効した。それは労働者の新たな一部類を被保護者の列に加えている。すなわち、18歳以上の婦人である。彼女らはどの点でも少年と同等に扱われた。すなわち、その労働時間が12時間に制限され、夜間労働が禁止される、等々である。こうして、はじめて立法は成年者の労働をも直接かつ公的に取り締まることを余儀なくされたのである。1844年/45年の工場報告書には皮肉に次のように言われている。 「成年婦人たちが彼女たちの権利のこの侵害について苦情を訴えたというような事例は、われわれの耳には一つもはいらなかった。」 13歳未満の児童の労働は、1日6時間半に、また或る条件のもとでは7時間に、短縮された。 1844年に追加工場法が成立します。この工場法では労働者の別のカテゴリーである18歳以上の女性を、保護の対象に加えました。女性は労働時間が12時間に制限され、夜間労働が禁止されるなど、あらゆる点で青少年と同じように保護されるようになりました。このようにして立法は初めて、成人の労働を直接かつ公式に管理するようになったのでした。そして、追加工場法では、不正なリレー制度の濫用を防ぐための規制も設けられました。 このようにして1844年6月7日には、追加工場法が成立し、1844年9月10日に施行された。この工場法では労働者の別のカテゴリーである18歳以上の女性を、保護の対象に加えた。女性たちは、労働時間が12時間に制限され、夜間労働が禁止されるなど、あらゆる点で青少年と同じように保護された。このようにして立法は初めて、成人の労働を直接かつ公式に管理せざるをえなくなったのである。 1844年から1845年の工場視察官報告書では、皮肉をこめて次のように述べている。「成人した女性たちが、自分たちの[労働の]権利へのこうした侵害に不服を申し立てたという事例は、われわれの知る限りでは1件もなかった」。13歳未満の児童の労働時間は6時間半に短縮され、一定の条件のもとでは7時間まで許された。 リレー・システム 不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。 「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」 したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。労働日の開始は公設の時計、たとえば最寄りの鉄道時計で示されなければならず、工場の鐘はこれに合わされなければならない。工場主は、労働日の開始と終了と中休みとを示す印刷した告示を工場内に掲げておかなければならない。午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以降再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かせてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行われている作業室内にはとどまっていてはならない、等々。 すでに見たように、労働の時間や限度や中休みを鐘の音に合わせてこのように軍隊的に一様に規制するこれらのこまごまとした規定は、けっして議会的思案の産物ではなかった。それらは、近代的生産様式の自然法則として、諸関係のなかからだんだん発展してきたのである。それらの定式化や公認や国家による宣言は、長い期間にわたる階級闘争の結果だった。それらのさしあたりの結果の一つは、たいていの生産過程では児童や少年や婦人の協力が不可欠だったので実践は成年男子工場労働者の労働日も同じ制限に従わせたということだった。それゆえ、だいたいにおいて1844年-1847年の時期には、工場立法のもとに置かれたすべての産業部門で12時間労働日が一般的に一様に行われたのである。 とはいえ工場主たちはこの「進歩」をそれを埋め合わせる「退歩」なしに許したのではなかった。彼らにそそのかされて、下院は、神と法とによって資本に与えられるべき「工場児童の追加供給」を保証するために、使用されてよい児童の最低年齢を9歳から8歳に引き下げたのである。 追加工場法では、不正なリレー制度の濫用を防ぐための規制も設けられました。 労働の時間、限度、休憩について、軍隊式に時報に合わせて画一的に規制するこれほどの微細な規定が定められました。これは現実の状況に基づいて時間をかけて段階的に、生産現場で発達してきたことで、いわば近代の生産様式から生まれた自然法のようなものです。それが公認されたのが、この法律と言えます。 このような規定は、やがて成年男子の工場労働者の労働日にも同じ制限が定められるようになっていきました。これはほとんどの生産過程において児童、青少年、女性との共同作業が不可欠であったという現場の都合によるものです。 ここでは、非常に重要な指摘がなされています。法律を成立させるのは議会であり、法律をめぐる紛争を処理するのは裁判所であり、それを施行し、強制するのは政府なので、私たちは、法律は議会の産物であり、国家の力だけによって実現されるものだと考えてしまいがちです。しかし、現実にはそうではありません。法律の背後には、それを必要とする社会関係があり、たいていの場合、階級闘争が潜んでいます。 第3章でみたように、資本主義システムにおいては、物象化と物象の人格化が生み出す矛盾を媒介し、物象の機能を保障するために法律が必要とされます。労働日の文脈で言えば、資本が自らの際限のない価値増殖欲求にしたがって、労働力商品の人格的担い手である労働者に過度の長時間労働を強制し、労働者の肉体的及び精神的健康を破壊してしまうことを防ぐために、諸々の労働法が必要とされます。これらの法律によってはじめて、資本主義社会は労働力を安定して確保することが可能になるのです。 しかし、資本家は労働力購買者としての「権利」を盾に取り、長期的にみれば社会が破壊されることになるにもかかわらず、私的利益のために労働日を最大化することを決してやめようとはしません。資本主義社会における最大の権力である貨幣をその手に集中させている資本家は、強大な社会的権力をもっており、法律を無視して利益を追求することすら辞しません。第3章で見たように、制度や法律は決して万能ではないのです。ですから、労働日を制限する法律を制定し─これだけでも強力な闘争が必要ですが─さらに、その法律を資本家に守らせるには労働者たちによる強力な労働運動が必要となります。このことは、現在の日本でどれほど資本による違法行為(残業代不払いなど)が行われているかを見れば一目瞭然でしょう。 こうして、資本主義社会では、資本による社会の破壊を規制し、社会を存続させるための法律は、労働者たちの闘争なしには守られることがない、ということが分かります。労働者たちは、標準労働日のための闘争を通じて労働力商品の売り手としての「権利」を資本家に認めさせ、自分たちの「権利」を制度の中に埋め込むのです。ですから、逆に労働者の闘いの力が弱まれば、資本はすぐさま法律を破ろうとするでしょうし、さらには議会に働きかけて法律そのものを改変しようとするでしょう。一見議会における紛争のように見えても、その根底には資本と労働の社会的闘争があることを見逃してはならないのです。 この追加工場法では不正なリレー・システムの濫用を防ぐために、とくに次のような重要な細則が定められている。「児童および青少年の労働日は、1人の児童または青少年が朝番として工場で労働を開始した時点から始まるものとする」。たとえばAが朝の8時に仕事を始め、Bが10時に始めたとしても、BはAと同じ時間に仕事を終えなければならないことになる。労働日が始まったことは、公設の時計、たとえば最寄りの鉄道の駅の時計にしたがって告知しなければならず、工場の時計はその時計に合わせなければならない。工場主は工場内に掲示をだして、労働日の開始時刻、休憩時間を大きな字で示す必要がある。 また12時以前に午前中の班の仕事を始めた児童は、午後1時以降に再び働かせてはならない。すなわち午後の班は午前の班とは別の児童で編成しなければならない。保護の対象となるすべての労働者に、つねに同一の時刻から食事のための1時間半の休憩を与えなければならず、さらに午後3時以前に少なくとも1時間は休憩を与えなければならない。児童や青少年を午後1時以前に、5時間以上にわたって働かせる場合には、その間に少なくとも30分の食事休憩を与えなければならない。児童、青少年、女性が食事をとる際には、何らかの労働が行われている場所にとどめておいてはならない。 労働の時間、限度、休憩について、軍隊式に時報に合わせて画一的に規制するこれほどの微細な規定が定められたが、こうした規定は議員たちが頭をひねって作りだしたのではないことは明らかだろう。これは現実の状況に基づいて時間をかけて段階的に発達してきたものではないことは明らかだろう。これは現実の状況に基づいて時間をかけて段階的に発達してきたものであり、いわば近代の生産様式から生まれる自然法なのである。長期にわたる階級闘争の結果として、このような規定が定式化され、公認され、国家によって宣言されるにいたったのである。 こうした規定によってやがては、成年男子の工場労働者の労働日にも同じ制限が定められるようになった。それはほとんどの生産過程において児童、青少年、女性との共同作業が不可欠であったという現場の都合によるものであった。このため全体としてみると1844年から1847年の期間は、工場法が適用されたすべての工業部門において、12時間労働日が一般的に遵守された時期だった。 とはいえ工場主たちはこの「進歩」を認めたとしても、それを穴埋めする「退歩」をもまた獲得していたのだった。工場主たちの要求によって、下院は雇用される児童の最低年齢を9歳から8歳に引き下げた。神と法の名において資本に借りを返すために、下院はこれによって「工場への児童の追加的な供給」を認めたのである。 新工場法 1846/47年はイギリスの経済史上に新たな時代を画する。穀物法は廃止され、綿花やその他の原料の輸入関税が撤廃され、自由貿易は立法の導きの星だと宣言される!要するに、千年王国が始まったのである。他方では、この同じ年にチャーティスト運動と10時間運動が頂点に達した。これらの運動は、仕返しをしようといきり立ったトーリー党に同盟者を見いだした。ブライトやコブデンに率いられた食言自由貿易軍の熱狂的な抵抗にもかかわらず、あのように久しく追求されてきた10時間法案は議会を通過した。 1847年6月8日の新しい工場法は、1847年7月1日からは「少年」(13歳から18歳までの)とすべての婦人労働者との労働日が暫定的に11時間に短縮されるべきこと、ただし1848年5月1日からは最終的に10時間に制限されるべきことを確定した。その他の点では、この法律はただ1833年および1844年の法律の修正的追加でしかなかった。 資本は、1848年5月1日からこの法律が完全に施行されることを妨げるために、一つの前哨戦を企てた。しかも、経験によって知恵がついたという労働者たち自身が、自分たち自身の事業を再び破壊することを助けるはずになっていた。時機は巧妙に選ばれた。 「1846年/47年の恐ろしい恐慌の結果、多くの工場は短時間しか操業せずほかの工場は完全に休業していたので、工場労働者たちは非常な苦痛を受けたということが思い出されるにちがいない。そのために労働者の多数はひどい窮迫状態にあり、借金している者も多かった。それだから、彼らが、過去の損失を埋め合わせたり借金を払ったり質屋から家具を引き出したり売り払った持ち物を補ったり自分や家族のために衣服を調達したりするために、もっと長い労働時間を選ぶであろうということは、かなり確実に感じとることができたのである。」 工場主諸氏は、このような事態の自然的効果を10%の一般的な賃金引き下げによって高めようとした。これは、いわば、新しい自由貿易時代の開幕のお祝いとして行われた。次いで、労働日が11時間に短縮されるとさらに8%3分の1の引き下げが行われ、労働日が最終的に10時間に短縮されるとその2倍の引き下げが行なわれた。したがって、どうにかして事情が許した場合には、少なくとも25%の賃金引き下げが行われたわけである。このように好都合に準備された機会に乗じて、労働者たちのあいだに1847年の法律を廃止するための扇動が開始された。そのためには詐欺や誘惑や脅迫のどんな手段も辞するところではなかったが、しかし、いっさいは徒労に終わった。労働者たちが「この法律によって自分たちに加えられた圧迫」をそのなかで訴えなければならなかった半ダースの請願書について言えば、彼らの署名が強要されたものだということは、その口頭尋問にさいして請願者たち自身によって明言された。「彼らは圧迫されているというが、それは工場法以外のだれかによってである。」しかし、工場主たちは、自分たちの思うように労働者に語らせることに成功しなかったとき、今度は彼ら自身が労働者の名において新聞や議会でますます声高く叫ぶばかりだった。彼らは工場監督官たちを非難して、自分の気まぐれな世界改良のために不幸な労働者を無慈悲に犠牲にする一種の国民公会委員だとした。この策略も失敗した。工場監督官レナード・ホーナーは、自分自身で、また自分の部下の副監督官たちによってランカシャーの諸工場で多数の証人尋問を行った。尋問された労働者の約70%が10時間に賛成し、それよりもずっと少ないパーセンテージが11時間に、まったく問題にならない少数が元どおりの12時間に賛成した。 もう一つの「おだやかな」策略は、まず成年男子労働者を12時間から15時間労働をさせておいて、次にこの事実をプロレタリアの念願の最上の表現だと言明することだった。だが、またしても「無慈悲な」工場監督官レナード・ホーナーがそこに居合わせた。たいていの「時間外労働者」が述べたところでは、 「彼らにとってはもっと少ない労賃で10時間だけ労働するほうがずっとよいのだが、彼らには全然選択権がない。彼らのうちには失業している者も多く、紡績工のうちにやむをえずただの糸つなぎ工として働いている者も多いので、もし彼らがもっと長い労働時間を拒めば、たちまち他の者が彼らの席を占めてしまうであろう。だから、彼らにとっては問題は、もっと長い時間労働するか、それとも解雇されるか、どちらかなのである。」 1846年には穀物法が撤廃され、イギリスは自由貿易を原則とするようになります。それと並行して、1847年に新工場法が成立します。これは、1847年7月1日から、13歳から18歳までの青少年とすべての女性労働者の労働日を、さしあたり11時間に短縮し、1848年5月1日からは最終的に10時間に制限すると定めたものでした。 実は、1846年と47年の経済は不況に陥り、多くの工場が操業の短縮や停止に追い込まれ、労働者に対して賃金カットが行われました。多数の労働者が困窮したのでした。この時、工場主たちは、労働者が雇用と収入を求めて長時間労働に応じる(工場法の規制がもとに戻る)ことを期待していましたが、期待外れとなりました。さらに、当時の新聞や議会が労働者が犠牲になると長時間労働を非難したのでした。当時の工場査察官の調査によれば、労働者たちは10時間労働を支持していることが明らかとなりました。労働者の以下のような証言を紹介しています。「私たちはたとえ受け取る賃金が減っても、ともかく10時間労働が好ましいと考えています。でも私たちには選択の余地がないのです。失業している仲間も多く、紡績工がたんなる糸繋ぎ工として働かざるをえない状況です。私たちが時間外労働を拒否したら、別の者が代わりに働くだけでしょう。ですから私たちにとっては、時間外労働をするか、あるいは路上生活をするかという選択肢しかないのです」。 1846年と1847年は、イギリスの経済史における大きな転換点になった。穀物法が撤廃され、綿花やその他の原料が輸入関税が廃止され。自由貿易が立法を導く原理であることが宣言されたのである。[自由貿易の]千年王国が始まったわけである。他方ではこの数年間に、チャーチスト運動と10時間労働法運動が頂点を迎えた。これらの運動は、復讐心に燃えるトーリー党に同盟者を見出したのだった。ブライトとコブデンを指導とする自由貿易〈革命〉は、かつての約束を破って猛烈な抵抗を試みたが、それでも長年のあいだ熱望されていた10時間労働法が議会を通過した。 1847年6月8日の新工場法は、1847年7月1日から、13歳から18歳までの青少年とすべての女性労働者の労働日を、さしあたり11時間に短縮し、1848年5月1日からは最終的に10時間に制限すると定めていた。その他の点については、この法律は1833年と1844年の法律を修正し、捕捉するものに過ぎなかった。 資本はこの法律が1848年5月1日から完全に実施されるのを防ごうとして、前哨戦を試みた。工場主たちによると、これまでの経験によって賢くなった労働者自身が、みずからの作品であるこの新工場法を破壊する手助けをするはずだった。タイミングの選択も絶妙だった。「忘れてはならないのは、1846年と1847年のすさまじい恐慌の際に、多くの工場が操業の短縮や停止に追い込まれ、それによって工場の労働者もきわめて困難な状況に追いやられたことである。多数の労働者が著しく困窮した状態に置かれ、多くの労働者は借金を背負ったのだった。だから労働者たちが労働時間を長くするのを望むことは、かなり確実なことと思われたのだった。だから労働者たちが労働時間を長くするのを望むことは、かなり確実なことと思われた。労働者たちはかつての損失を取り返し、負債を返済し、質屋にいれた家具を取り戻し、売り払ったものを買い直し、自分や家族のために新しい衣服を買い足したいと願っていたはずなのである」。 工場主たちはこうした状況によって自然に生じる効果をさらに高めようとして、一律10%の賃金カットを実施した。これは新たな自由貿易時代のいわば幕開けだった。労働日が11時間に短縮されると、工場主たちは賃金をさらに8%3分の1だけカットし、最終的に労働日が10時間に短縮されると、その2倍の賃金カットが実行された。こうして状況が許すかぎりで、少なくとも25%の賃金カットが実行されたのである。 このようにして順調に準備された好機のもとで、1847年の法律の整備を目指して、労働者たちへの扇動が行われた。詐欺、誘惑、脅迫など、あらゆる手段が使われたが、すべて空しかった。労働者が「この法律によってうけた抑圧」を訴えた陳情書が6通ほど提出されたが、その口頭審問の際に、陳情にやってきた労働者自身が、強制されてこれに署名したと明言したのである。「抑圧されているのはたしかだが、工場法によってではなく、もっと別のものに抑圧されている」ことをみとめたのである。 工場主はこのように、自分たちに都合の良いように労働者に発言させることに失敗したが、新聞や議会などでは、労働者の名を借りて叫びたてたのだった。彼らは工場視察官を非難し、世界を改善するという妄想に駆られて不幸な労働者たちを容赦なく犠牲にする姿勢は、フランス革命のときの国民議会の革命委員会の委員のようだと誹謗した。しかしこの作戦も失敗だった。工場査察官のレナード・ホーナーは自ら、あるいは部下の副視察官たちの手を借りて、ランカシャーの諸工場で多数の証人審問を行った。審問された労働者の約70%は10時間労働を支持していた、11時間に賛成した労働者の数は、はるかに少なかった。以前の12時間労働を支持したのはごく少数だった。 もっと「穏健な」別の作戦として、成人男子労働者に12時間から15時間の[時間外]労働をさせておいて、これは労働者のプロレタリアとしての願いが最も適切に表現されたものだと宣伝する作戦があった。しかし「手厳しい」工場視察官のレナード・ホーナー氏はすぐに現場に赴いた。大部分の「時間外労働者」は次のように証言した。「私たちはたとえ受け取る賃金が減っても、ともかく10時間労働が好ましいと考えています。でも私たちには選択の余地がないのです。失業している仲間も多く、紡績工がたんなる糸繋ぎ工として働かざるをえない状況です。私たちが時間外労働を拒否したら、別の者が代わりに働くだけでしょう。ですから私たちにとっては、時間外労働をするか、あるいは路上生活をするかという選択肢しかないのです」。 資本の反撃 資本の前哨戦は不成功に終わって、10時間法は1848年5月1日に発効した。しかし、その間に、指導者を投獄され組織を粉砕されたチャーティスト党の大失敗はイギリスの労働者階級の自信をすでに動揺させていた。つづいてまもなくパリの6月暴動とその血なまぐさい鎮圧とは、大陸ヨーロッパでもイギリスでも、支配的な諸階級のすべての分派を、すなわち地主も資本家も、相場師も小売商人も、保護貿易論者も自由貿易論者も、政府も反対党も、坊主も無神論者も、若い娼婦も老いた尼もひっくるめて、財産と宗教と家族と社会とを救え!という共同の叫びのもとに統合した。労働者階級はどこでも法律による保護の外におかれ、宗門から追放され、「容疑者法」のもとにえかれた。だから、工場主諸氏は遠慮する必要はなかった。彼らは、単に10時間法にたいしてだけではなく、1833年以来労働力の「自由な」搾取をいくらかでも制御しようとした立法の全体にたいして、公然の反逆を起こした。それは、奴隷制擁護反乱の縮図であり、2年以上にわたってキニク学派的な無遠慮さとテロリスト的な激しさとで遂行されたが、反逆資本家の賭けたものは彼の労働者の皮膚のほかにはなにもなかったのだから、この無遠慮さも激しさもますます安上がりなものだった。 その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということ、これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していないということ、また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということはずっと変わらず、この範囲内で少年と婦人との最初は12時間の労働、のちには10時間の労働が、定められた諸条件のもとで行われることになっていたということ、これである。 工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。彼ら叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ!と。 第二の一歩は、食事のための法定の休み時間に関連していた。工場監督官たちの言うところを聞いてみよう。 「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している。」 つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ!そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか?ところが、刑事裁判所は次のような判決した。すなわち、定められた食事時間は 「実際の労働日のうち休み時間に与えなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて、10時間、中断なし労働させることは違法である」と。 これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始した。 たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を、再び午後1時以降に働かせることを禁止した。しかし、それは労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制しなかった!それゆえ、8歳の児童は、昼の12時に労働を始れば、12時から1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半まで3時間半、合計して法定の時間半働かせることができた!あるいは、もっとうまくやることもできた。児童の使用を晩の8時半までの成年労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば、晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができた! 「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年労働者だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという習慣がイングランドに忍び込んだのである。」 労働者と工場監督は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議した。だが、資本は答えた。 「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁きを、いやさ、証人どおりの違背金をお願いしているんでございます。」 実際に1850年7月26日に下院に提出された統計資料によると、あらゆる抗議にかかわらず、1850年7月15日には、257の工場で3742人の児童がこの「慣行」にしたがわされていた。 それでもまだ足りない!めざとい資本はさらに別の発見をした。1844年の工場法は、午前中に5時間の労働を与える場合には、最低限でも30分の休憩を認めることを義務付けていたが、午後の労働については何も規定していなかったのである。そこで資本は、8歳の就労児童を[この慣行にしたがって]午後2時から8時半まで休みなく酷使したうえで、さらに[食事の休憩を与えず]児童を空腹状態におくという楽しみを要求し、獲得したのだった。 はい、胸元でございますよ。証文にそうございます。 10時間労働を定めた新工場法は1848年5月に発効しました。これに対して、資本の側の反撃が始まりました。ちょうどこのころチャーティスト運動が破綻するなど反動の風潮が強くなります。工場主たちは、法の網目を巧みに突いて、雇用していた青少年と女性の一部を、ときには半数を、解雇し、その一方では、ほとんど廃止されていた成人男性労働者の夜間労働を復活させたのでした。 反撃の第二弾は、食事のための法定の休憩時間に関するものでした。。たとえば労働時間が、朝の9時から夜の7時までだという場合には朝の9時以前に1時間、夜の7時以降に30分の食事時間を与えれば、合計で1時間半になり、法律の規定を満たしていることになる、と。 このように工場主は法律の条文の揚げ足を取るようにした、いわば屁理屈の解釈で法の網目をくぐろうとしました。例えば、条文は、正午前に働き始めた8歳から13歳の児童を、午後1時以降にふたたび働かせることを禁じていました。しかし正午あるいはそれ以後に働き始めた児童の6時間半の労働については、まったく規制していなかったので、8歳の児童を正午から働かせ始めて、午後1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、午後5時から8時半まで3時間半というふうに働かせることができるというのです。 資本の前哨戦は敗北に終わった。10時間労働法は1848年5月1日に発効した。しかしその間にチャーチスト党は組織が壊滅し、党首が投獄された。このチャーチスト党の運動の破綻は、イギリスの労働者階級の自信を揺るがした。やがてパリで6月に暴動が発生し、血なまぐさい鎮圧が行われた。これをきっかけとして、ヨーロッパ大陸もイギリスでも、支配階級のすべての分派が大同団結へと向かった。地主と資本家、相場師と小売店、保護貿易主義者と自由貿易主義者、政府と野党、聖職者と無神論者、若い娼婦と老いた修道女、誰もが口をそろえて、私有財産を守れ、宗教を、家族を、社会を守れと叫んだ。労働者階級はあらゆるところで法の保護を奪われ、追放され、「容疑者法」によって追い回された。 こうして工場主は遠慮する必要がなくなった。彼らは10時間労働法だけでなく、1833年から、いくらかでも労働力の「自由な」搾取を抑制しようと努力してきたすべての立法措置に公然と立ち向かった。まるで奴隷制の擁護を求めた反乱のミニチュア版だった。この立法措置への反抗は冷笑的な残酷さとテロリスト的な精力で、2年以上にわたって継続されたのだった。この残酷さも精力も、反乱を起こした資本家にとっては安い買い物だった。資本家たちには労働者の皮膚のほかには、何も失うものがなかったからである。 以下で述べることを理解するには、次のことを思いだす必要があるだろう。1833年の工場法、1844年の工場法、1847年の工場法はどれも、後の法律によって修正されていない限り、最初の法的な効力を維持していたのである。そしてどの法律も、18歳以上の男性労働者の労働日は制限していなかったし、1833年の工場法以来、法定上の「1日」はつねに朝の5時半から夜の8時半までの15時間だった。青少年と女性の労働は、その範囲内で、最初は125時間、後に10時間にわたって、規定の条件のもとで行われるべきであると定めていた。 工場主たちはあちこちで、雇用していた青少年と女性の一部を、ときには半数を、解雇し始めた。その一方では、ほとんど廃止されていた成人男性労働者の夜間労働を復活させた。工場主たちは、10時間労働法の下では、ほかに残された道はないと叫んでいた。 反撃の第二弾は、食事のための法定の休憩時間に関するものだった。工場視察官はこう語っている。「労働時間が10時間に制限されてから、工場主はこう主張するようになった。たとえば労働時間が、朝の9時から夜の7時までだとしよう。その場合には朝の9時以前に1時間、夜の7時以降に30分の食事時間を与えれば、合計で1時間半になり、法律の規定を満たしていることになる、と。現在でも昼食の休憩時間として1時間あるいは30分を認めている工場主もいるが、同時に彼らは10時間の労働時間のうちに、1時間半の休憩時間を認める義務はまったくないと主張しているのである」。 つまり工場主たちの主張によると、1844年の工場法は食事時間について細かな規定を定めているものの、それは労働者が工場に入る前と工場を出た後で、つまり自宅で飲み食いすることを許可しているにすぎないというのである。労働者が朝の9時前に昼食をとることにどんな問題があるのかというわけだ。しかし刑事裁判所は次のような判決を下した、規定の食事時間は「実際の労働日が継続しているあいだに、休憩時間として与えなければならない。また朝の9時から夜の7時まで中断なしに10時間続けて働かせるのは違法である」。 この反撃は資本にとってはいわば心地好い示威行為のようなものだった。そして資本は1844年の工場法の字句に違反しない、合法的な手段で反乱を開始した。 1844年の工場法では、たしかに正午前に働き始めた8歳から13歳の児童を、午後1時以降にふたたび働かせることを禁じていた。しかし正午あるいはそれ以後に働き始めた児童の6時間半の労働については、まったく規制していなかった。だから8歳の児童を正午から働かせ始めて、午後1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、午後5時から8時半まで3時間半というふうに働かせることができた。合計して、法律で定めた6時間半だから、というわけである。 さらに巧みなやり方があった。成人の男性労働者の労働に合わせて児童を働かせたいならば、工場主は午後2時まで児童に仕事を与えなければよいのである。すると児童を夜の8時半まで中断なしに工場を引き止めて置くことができた。「最近では、工場主たちは工場の機械を10時間以上にわたって稼働させたいと強く望んでいるために、イギリスで次のような横行が広まっているのは明確である。工場主たちは、青少年や女性たちがすべて工場を去った後で、8歳から13歳の男女の児童を夜の8時半まで成人労働者とともに働かせるようにしているのである」。労働者と工場視察官は、衛生上の理由と道徳的な理由からこれに抗議した。しかし資本は[シャイロックにならって]こう答える。 報いは自分で引き受けまさ!お裁きを願いましょう。 証人のかたを、科料を頂きましょう。 実際に1850年7月26日に下院に提出された統計資料によると、あらゆる抗議にかかわらず、1850年7月15日には、257の工場で3742人の児童がこの「慣行」にしたがわされていた。 それでもまだ足りない!めざとい資本はさらに別の発見をした。1844年の工場法は、午前中に5時間の労働を与える場合には、最低限でも30分の休憩を認めることを義務付けていたが、午後の労働については何も規定していなかったのである。そこで資本は、8歳の就労児童を[この慣行にしたがって]午後2時から8時半まで休みなく酷使したうえで、さらに[食事の休憩を与えず]児童を空腹状態におくという楽しみを要求し、獲得したのだった。 はい、胸元でございますよ。証文にそうございます。 資本の抜け道 とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面に、シャイロック的にしがみつくということは、ただ同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものだった。ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということである。工場主たち次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始した。1844年の法律のなかの、15時間工場日の任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、 「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまた比較的無害だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制である」と。 こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した。それは、悪い助言に惑わされている労働者たち自身の利益のために、 「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行われるのだ。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である」。「リレー制度のもと反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたというのか?工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどうを省くために、この国の大きな工場利益が二つの次のものとして扱われてよいものだろうか?」 もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にも立たなかった。工場監督官たち告発の手続をとった。しかし。まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣のジョージ・グレイの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。 「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が濫用されているのではないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないによって告発しないこと。」 そこで、工場監督官J・スチュアートは、スコットランド全域で、工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権もってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。 しかし、いくら法廷に呼び出しても、裁判所、すなわち州治安判事が無罪を宣告してしまえば、なんになろうか?これらの法廷では、工場主諸氏が自分たち自身を裁判したのである。一例をあげよう。カーショー・リーズ会社の紡績業者でエクスリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示した。拒絶を回答されて、最初は無抵抗にふるまった。数か月後に、ロビンソンという人物、やはり紡績業で、フライデーではなかったが、とにかくエクスリッジの親類だったこの人物が、エクスリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックボートの市治安判事の前に呼び出された。4人の判事が列席し、そのうち3人は紡績業者で、主席は例のエスクリッジだった。エスクリッジはロビンソンに無罪を宣告し、そこで、ロビンソンにとって無正しいことは、エスクリッジにとっても正しい、と宣言した。彼自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用した。もちろん、この法廷の構成がすでに一つの公然の法律違反だった。監督官ハウェルは次のように叫んでいる。 「この種の法廷茶番は切実に強制手段を求めている。…およそこのような場合には…法律をこれらの判決に適合するものにするか。または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?」 刑事裁判所は、1848年の法律の工場主的解釈を不条理だと宣言したが、社会救済者たちは惑わされなかった。レナード・ホーナーは次のように報告している。 「私は、別々の7つる裁判所管区で10回の告発によってこの法律を励行しようとして、ただ一度しか治安判事に支持されず…それからは、法律違反のかどでこれ以上告発しても無駄だと思っている。この法律のうち、労働時間を画一を実現するために制定された部分は…もはやランカシャには存在しない。私も私の部下も、いわゆるリレー制度が行われている工場が少年や婦人を10時間より長くは働かせないということを確かめるための手段を全然もっていない。…1849年4月末にはすでに私の管区の118工場がこの方式で作業していた。そして、そのような工場の数は近ごろは急激に増加している。一般に、これらの工場は今では朝の6時から晩の7時半まで13時間半作業しており、いくつかの場合には朝の5時半から8時半まで15時間作業している。」 すでに1848年12月には、レナード・ホーナーがもっていた名簿のなかの65人の工場主と29人の工場管理人とが、一様に、どんな監督制度でもこのリレー制度のもとでは極度の過度労働を防止することはできない、と明言していた。同じ児童や少年が、ある時は紡績室から絨布室などに、ある時は15時間のあいだに一つの工場から別の工場に移された。いったいどうすればこんな制度が取り締まられるのだろう! 「その制度は、交替という言葉を乱用して、職工たちをカルタのように限りなくさまざまに混ぜ合わせ、また、労働時間と休息時間とを毎日個人個人によって別々にずらせて、同じ完全な一組の職工が同じ時間に同じ場所でいっしょに働くことはけっしてないようにするのである。」 しかし、現実の過度労働のことはまったく別として、このいわゆるリレー制度は、フリエの「短時間交替」のユーモラスな素描もそれにはかなかなかったほどの資本幻想の所産だったのであって、ただ労働の魅力が資本の魅力に変えられた点が違っているだけだった。りっぱな新聞が「適度の注意と方法とが完成しうるもの」の見本としてほめあげたあの工場主方式を見てみよう。労働者全員が多くの場合に12から15の部類に分けられ、これらの部類そのものもまた絶えずその構成部分を取り替えた。1工場日の15時間のあいだ資本は労働者をときには30分、ときには1時間、引き寄せては突き放し、またあらためて工場に引き入れては工場から突き出し、そのさい、10時間の労働が完了するまではいつでも彼を見失うことなく、時間をこまかくちぎって彼をあちこちに追い回すのだった。舞台の上でのように、同じ人物が次々に違った幕の違った場面に登場しなければならなかった。そして、俳優が劇の上演時間中は舞台のものであるように、労働者は今では工場への往復時間を計算に入れないで15時間は工場のものだった。こうして、休息の時間は、強制された怠惰の時間に変わってしまい、それは若い男工を酒場に追いやり、若い女工を娼家に追いやった。資本家が、労働者人員をふやさないで自分の機械を12時間か15時間動かしておくために、毎日のように新案を考え出せば、そのつど労働者はあるいはこの、あるいはあの切れ端の時間で彼の食事をまるのみにしなければならなかった。10時間運動の当時、工場主たちは、労働者のやつらは10時間の労働で12時間分の労賃がもらえることをあてにして請願するのだ、と叫んだ。彼らはメダルを裏返しにしていた。彼らは、労働力を12時間も15時間も自由に使うことと引き換えに10時間の労賃を支払ったのだ!これがむく犬の正体だったのだ、これが10時間法の工場主版のだったのだ!この感動に満ち人類愛にあふれた自由貿易主義者こそは、穀物法廃止運動のまる10年間、労働者たちに向かって、穀物の輸入が自由ならばイギリス産業の資本をもってすれば資本家を富ますには10時間労働法でまったく十分だということを一銭一厘まで計算してみせたその人だったのである。 資本は法律の条文に表面上は従い、内実は反抗しました。しかし、もともとこの法律の目的は工場の不正なリレー・システムの廃止にありました。その一方で、工場主たちは長時間労働は、労働者にとって賃金が増えることのだから、労働者の利益になるというのです。 しかし、工場視察官は法的な手段で工場主たちを法的手段で規制しようとしました。しかし、法的手段である裁判では、工場主たちが判事となっていました。当然結果は、自分で自分を裁くのですから、無罪です。裁判所の決定は法的な拘束力を持ちます。無罪判決は、告発された雇用は違反ではないということになり、リレー・システムの工場への導入が認められたことになります。 このいわゆるリレー・システムというのは、資本のファンタジーが生み出した産物であって、フーリエが「短時間交替」システムでユーモラスに描写した方式もとうてい太刀打ちできないほどのものでした。同じ児童や青少年が、あるときは紡績室から織物室へ、あるときは15時間の間に一つの工場から別の工場へと移動させられていた、それで、継続して長時間労働を実際には可能にしてしまおうというのです。 労働者は12から15までのカテゴリーに分類され、それぞれのカテゴリーで、絶えず構成員が替わっています。工場の15時間の労働時間のうちに、資本は労働者をここで30分働かせ、それから放り出して、また別の工場で働かせ。それから工場から追いだす。ばらばらに細分化された時間のうちで労働者をあちらこちらに追い立てる。しかも10時間労働が終わるまで、けっして労働者の尻尾を放さないのです。このようにして、資本家は、労働者の人員を増やさずに機械類を12時間から15時間にわたって稼働させ続けるために、労働者は、あちこちに場所の移動を繰り返し、与えられた短い時間の断片を利用して、食事をかきこまねばならなくなりました。10時間労働法の運動が盛り上がっていた頃に工場主たちは、「労働者連中は10時間働くだけで12時間分の賃金をせしめようと陳情している」と叫びたてていた。そして今や工場主はコインを裏返したのである。10時間の賃金を支払うだけで、12時間から15時間分の労働力を工場で利用できるようにしたのです。 資本はこのように、児童労働の規制については、1844年の工場法の字句に、シャイロックのごとく固執してみせた。しかしそれは同じ法律の「青少年及び女性」の労働者についての規制に公然と逆らうためのものだった。この法律の主要な内容と目的は、「不正なリレー・システム」の廃止にあることを思いだしていただきたい。工場主たちは反乱を始めるにあたって次のような短い声明をだした。1844年の工場法は、15時間の工場日の任意の短い時間のうちに、青少年と女性を任意に働かせることを禁じているが、この条項は「労働時間の制限がまだ12時間であるうちは、それほど有害なものではなかった。しかし10時間労働法のもとでは、耐えがたい困難を引き起こす」と。 そして工場主たちは工場視察官たちに、この条項の字句には拘泥せず、自らの責任のもとで以前のリレー・システムをふたたび導入すると、素っ気ない口調で伝えたのである。この方式は、間違ったことを教えられている労働者自身の利益になることだという。「労働者にもっと高い賃金を払えるようにするためである」。「これは10時間労働法のもとでグレート・ブリテンの工業的な覇権を維持するために可能な唯一の方法である」。「たしかにリレー・システムのもとでは、違法行為が発見しにくいかもしれない。しかしだからどうだというのだ。工場視察官や副視察官のわずかな手間を省くために、この国の工場の重要な利害をあたかも副次的なものであるかのように扱ってよいものだろうか」。 こうした言い逃れがまったく役に立たなかったのはもちろんのことである。工場視察官は法的な手段に訴えた。しかし内務大臣のジョージ・グレイ卿のもとに、山のような陳情が送りつけられたため、1848年8月5日の通達において、工場視察官たちに次のような訓令を与えることになった、「リレー・システムが未成年と女性労働者を10時間以上働かせるために濫用されているのが明確な場合をのぞいて、この法律の字句への違反によって告発することは一般的に差し控えるべきこと」。 この訓令をうけた工場視察官J・スチュアートは、スコットランド全土において、15時間の工場日の範囲内での交替制を容認したので、このシステムはかつてのように華々しく展開されたのであった。これに対してイングランドの工場視察官たちは、大臣には法律を停止させる独裁的な権限はないと宣言して、奴隷制を擁護する反乱と戦う訴訟を継続したのである。 しかしどれほど裁判所に召喚したところで、裁判所そのもの、すなわち州の治安判事が無罪の判決を下すのであれば、何の役に立つというのだろうか。こうした裁判所では、工場主たちが判事となってみずからを裁いていたのである、実例をあげよう。カーショー・リーズ社の紡績業者エクスリッジという人物は、自社の工場のために考案されたリレー・システムの流れ図を作成して、地区の工場視察官に提出した。不許可の決定が下されると、しばらくはおとなしくしていた。数か月後に、同じく紡績業を営むロビンソンという人物が、ストックボードの市治安判事に召喚された、この人物は[『ロビンソン・クルーソー』の物語の]フライデーではないが、エクスリッジが考案したリレー・システム案とまったく同じものを採用していたからである。 裁いた判事は合計4人であり、そのうち3人が紡績業者で、主席判事が例のエスクリッジだったのはいかにも避けられないことだった。彼はロビンソンに無罪を宣告し、ロビンソンにとって無罪であるものは、エスクリッジにとっても無罪であると宣言した。この法的な拘束力のある自らの決定に依拠して、エスクリッジはただちにこのシステムを自分の工場に導入したのだった。もちろん法廷がこのような形で構成されることは明白な法律違反であった。工場視察官のハウェルは要請している。「こうした法廷での茶番劇は、治療薬が必要であることを明確に告げるものである。…こうして事例ではすべて、…法律をこうした判決に合わせて手直しするか、判決が法律に合わせて下されるように、もっと過ちを犯さない法廷にゆだねるしかない、有給の判事が何よりも必要である」。 刑事裁判所は、1848年の工場法の工場主的な解釈はばかげたものだと宣言していたが、社会救済者たち[工場視察官たち]は惑わされることはなかった。レナード・ホーナーは報告している。「私は七つの異なる裁判所の管区で合計10回の告発を行って、法律を遵守するように強制しようとしたことが、治安判事の支持がえられたのは1回だけだった。…それ以来というもの、わたしはこの法律違反を理由に告発しても無駄だと考えている。この法律のうちで、労働時間を斉一なものとするために定められた条項は、…ランカシャーではもはや存在しないに等しい。また私も部下の視察官たちも、いわゆるリレー・システムを採用している工場で、青少年や女性労働者が1日に10時間を超える時間で労働させられているかどうかを確認する手段はまったくもっていない。…1849年の4月末の時点では、わたしの管轄する地区ですでに114の工場がこの方法を採用しており、しかもこのシステムを採用する工場の数は最近は激増している。一般にこれらの工場で朝の6時から夕方の7時半まで、13時間半の労働が行われている。場合によっては朝の5時半から夜の8時半まで、15時間の労働が行われていることもある」。 資本家は、労働者の人員を増やさずに機械類を12時間から15時間にわたって稼働させ続けるために、毎日のように新しいアイデアを思いつく。そのたびごとに労働者は、あちこちで与えられた短い時間の断片を利用して、食事をかきこまねばならない。10時間労働法の運動が盛り上がっていた頃に工場主たちは、「労働者連中は10時間働くだけで12時間分の賃金をせしめようと陳情している」と叫びたてていた。そして今や工場主はコインを裏返したのである。10時間の賃金を支払うだけで、12時間から15時間分の労働力を工場で利用できるようにしたのである。 これが事態の核心であり、これこそが工場主版の10時間労働法だった。この同じ工場主たちが、10年間に及ぶ穀物法廃止運動のあいだは、わざとらしい人類愛を唱える自由貿易主義者として、穀物の輸入が自由化されれば、イギリス工業の資本力によって、10時間労働法でも資本家を富ませることができると、労働者たちに端数まで示して計算してみせたものである。 資本の勝利と妥協 2年間にわたる資本の反乱は、ついに、イギリスの4つの最高裁判所の1つである財務裁判所の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律ひのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた。 しかし、外観上は決定的な資本の勝利とともに、たちまち一つの急変が現われた。それまで労働者がやってきた抵抗は、毎日たゆまず繰り返されたとはいえ、あくまで受け身のものだった。いまや彼らは、ランカシャーやヨークシャーであからさまに威圧的な集会を催して、抗議した。つまり、10時間法と称するものは、ただのごまかしで、議会の詐欺で、いまだかつて実際にはなかったのだ!と。工場監督官たちは、階級間の敵対は信じられないまで緊張している、ときびしく政府に警告した。工場主たちでさえ一部のものは、次のようにつぶやいた。 「治安判事たちの判決が互いに矛盾しているために、まったく異常な無政府状態が広がっている。ヨークシャーでは別の或る法律が行われ、とランカシャーではまた別の法律が行われ、ランカシャーの一教区では別の或る法律が、そのすぐ近所ではまた別の法律が行われている。大都市の工場主は法網をくぐることもできるが、田舎町の工場主はリレー制度に必要な人員も見いだせず、まして労働者を一つの工場から別の工場に移すのに必要な人員などはなおさら見いだせないのだ。」 しかも、労働力の平等に搾取こそは資本の第一の人権なのである。 このような事情のもとで工場主と労働者とのあいだの妥協が成立し、それは1850年8月5日の新しい追加工場法のなかでは議会によって確認されている。「少年と婦人」については、労働日は週のはじめの5日間は10時間から10時間半に延長され、土曜日は7時間半に制限された。労働は朝の6時から晩の6時までのあいだに行わなければならず、そのあいだにある食事のための1時間半の中休みは、全員同時に、そして1844年の諸規程に従って、与えられなければならない、等々。こうして、リレー制度には一挙に結末がつけられた。児童労働については1844年の法律が引き続き有効とされた。 資本の反撃は1850年の財務裁判所の判決で最高潮となります。「この判決によって10時間労働法は廃止され」、それまでは青少年と女性労働者にリレー・システムを導入することを躊躇していた工場主たちも、大喜びでこのシステムを採用するようになったのでした。 しかし、これに対して労働者の抵抗が積極的になります。そこで階級対立が強まります。大都市の工場主なら、法律をごまかすこともできるだろうが、田舎ではリレー・システムを運用するだけの人手がみつからない。一つの工場から別の工場に人手を移す余裕など、さらにないという状況になり、これは工場主なとっても不利益です。 そして1850年に新しい追加工場法が成立します。この法律によると「青少年と女性労働者」の労働時間は、月曜から金曜については1日10時間から10時間半に延長されたのですが、土曜日については7時間半に制限されました。労働は朝の6時から夕方の6時までに行う必要があり、1844年の工場法の規定に従って、この労働時間のうちで食事のための1時間半の休憩時間はすべての労働者に一斉に与えられる必要がある。というものでした。これによってリレー・システムは廃止されました。 資本の反乱は2年間にわたって続けられたが、ついにイギリスの4つの最終審の1つである財務裁判所の判決によって資本が勝利を収めた。この裁判所は1850年2月8日に、提訴されたある事件について判決を下した。この判決によると工場主たちはたしかに1844年工場法の精神に反する行為を行ったが、この法律自体にも、法律そのものを無意味にするような言葉が含まれているという。「この判決によって10時間労働法は廃止された」。そしてそれまでは青少年と女性労働者にリレー・システムを導入することを躊躇していた工場主たちも、大喜びでこのシステムを採用するようになった。 これは資本の決定的な勝利のように見えたが、すぐに逆転が生じた。労働者たちはこれまでも日々新たに不屈の抵抗を続けてきたが、あくまでも受動的に抵抗だった。ところが、これをきっかけとして労働者たちはランカシャーとヨークシャーで公然と威嚇的な集会を開いて抗議を始めたのである。労働者たちは、10時間労働法なるものはたんなる欺瞞であり、議会のごまかしであり、これまで存在していなかったものだと主張したのである。 工場視察官は政府に、階級対立が信じられないほどに強まっていると、強く警告した。工場主たちの一部も、次のように苦情を述べるようになっていた。「治安判事たちがたがいに矛盾するような判決を下すので、きわめて異例な無政府状態になっている。ヨークシャーとランカシャーで違う法律が通用しているだけでなく、ランカシャーの一つの教区と別の教区で、すでに違う法律が通用しているのである。大都市の工場主なら、法律をごまかすこともできるだろうが、田舎ではリレー・システムを運用するだけの人手がみつからない。一つの工場から別の工場に人手を移す余裕など、さらにない」。 それでも労働の平等に搾取が、資本の第一の人権なのである。 このような状況のもとで、工場主と労働者の間で妥協が成立した。1850年8月5日に新しい追加工場法が議会を通過した。この法律によると「青少年と女性労働者」の労働時間は、月曜から金曜については1日10時間から10時間半に延長されたが、土曜日については7時間半に制限された。労働は朝の6時から夕方の6時までに行う必要があり、1844年の工場法の規定に従って、この労働時間のうちで食事のための1時間半の休憩時間はすべての労働者に一斉に与えられる必要がある。などなど、これによってリレー・システムは最終的に廃止された。児童労働については1844年の工場法の規定がそのまま適用された。 例外となった絹工業 ある部類の工場主は、今度も以前と同じに、プロレタリアの子供にたいする特別な領主権を確保した。絹工場主がそれだった。1833年には彼らは脅迫するようにほえたてた、「もし何歳の子供でも1日に10時間ずつ働かせてよいという自由を自分たちから奪うならば、それは自分たちの工場を休止させることだ」と。十分な数の13歳以上の子供を買うことは彼らには不可能だ、というのである。彼らは、欲しいと思った特権をゆすり取った。この口実は、後の調査によって、まっかなうそだということが判明したが、それでも、彼らは、10年ものあいだ、椅子に座らせてもらわなければ労働ができないような小さな子供たちの血から毎日10時間ずつ絹を紡ぎ取ることを妨げられなかったのである。1844年の法律は、11歳未満の児童を毎日6時間半よりも長く働かせる「自由」を彼らから「奪い」はしたが、その代わりに、11歳から13歳までの児童を毎日10時間働かせる特権を彼らに保証したのであり、また他の工場児童については規定されていた就学義務を免除したのである。今度の口実は次のようだった。 「織物の繊細さのためには指のやわらかさが必要であり、この柔らかさはただ早くから工場にはいることによってのみ確保できるものである。」 しなやかな指のために子供たちはみな屠殺されたわけで、ちょうど南ロシアで有角家畜が皮と脂肪とのために屠殺されるようにものだった。1850年には、1844年に許された特権は、絹撚り部門と絹巻き取り部門とに制限されたが、しかし、この時、「自由」を奪われた資本への損害賠償として、11歳から13歳までの児童の労働時間は10時間から10時間半に延長されたのである。その口実は、「絹工業では他の工場でよりも労働が軽く、また、けっしてそれほど健康に有害ではない」というのだった。あとになって政府の医学的調査が証明したところでは、それとは反対に 「絹業地方の平均死亡率は例外的に高く、しかも人口のうちの婦人部分ではランカシャーの綿業地方に比べてさえより高いのである。」 工場監督官たちの抗議は半年ごとに繰り返されてきたにもかかわらず、この不法は今日まで続いているのである。 労働日の標準化をめぐるせめぎ合いの中でも「プロレタリアの児童に対する特別な領主権」を主張してやまない工場主たちがいました。絹工場主たちでする。 1833年に、彼らは「いかなる年齢であれ、児童を1日10時間働かせる自由を我々から奪うなら、児童は仕事を失うことになるだろう」と脅してみせました。絹工場主たちは実際10年の間、椅子に乗せてもらわなければそもそも労働もできないような「小さな子供の血から、毎日10時間ずつ絹を紡ぎとること」を妨げられなかったのです。1844年の立法は、11歳未満の児童たちについて工場主たちの「自由」を制限しましたが、11歳から13歳までの子供については、毎日10時間働かせる「特権」を保証しました。就学義務すらも免除されたのです。その理由は、こうである。「織物の精細さを感じとることには、敏感な指の感覚が必要である。これは幼いときから工場に入らないと培われない」というのです。 このようにして「繊細な指」を確保するために子供たちは「屠殺」されたのでした。標準労働日をめぐる永年の闘争、たびかさなる工場法の改正を潜り抜けて、生き延びることになったのでした。 労働者にとって「自分の労働力を売ることが彼の自由である時間とは、労働者がそれを売ることを強制されている時間」です。かつてエンゲルスが書いていたように、ヴァンバイアは「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだには」労働者を攫んではなさない。「売り渡すことのできない人権」の「派手な目録」などはいらない。必要なのは「法に依って制限された労働日という控え目な大憲章」なのです。マルクスが一節をそう結んでいる通りに、である。 今回もある工業部門だけは、工場主がプロレタリア児童に対する特別な〈領主権〉を維持した─絹工業である。1833年に彼らは「いかなる年齢であれ、児童を1日10時間働かせる自由を我々から奪うなら、児童は仕事を失うことになるだろう」と脅してみせたことがある。 13歳より年長の青少年たちを十分な人数で調達することはできないというわけである。彼らは結局、望み通りの特権を奪い取った。後の調査ではこの口実はまったくの嘘であることが明らかになったが、それも彼らには妨げとはならなかった。その後10年間にわたって工場主たちは、1日10時間、仕事をするためには椅子に座らせてもらわなければならないような幼い児童たちの血から絹を紡ぎだしたのだった。 たしかに1844年の工場法によって彼らは、11歳未満の児童を毎日6時間半よりも長い時間にわたって働かせる「自由」を「奪われた」が、反語では11歳から13歳の児童を毎日10時間働かせる特権が保証されたのだった。しかも他の産業分野の工場で働く児童たちは、就学義務を定められていたのに、絹工業だけは、この義務が免除されたのだった。そのための口案は次のようなものだった。「織物の精細さを感じとることには、敏感な指の感覚が必要である。これは幼いときから工場に入らないと培われない」。 児童たちは繊細な指というもののために虐殺されたのである。南ロシアで、皮と獣脂をとるために、角をもつ動物たちが屠殺されたようにである。1850年の法律では、この1844年の法律で認められた特権は、絹撚り部門と巻取り部門の二つの部門だけに限定された。しかしこれによって「自由」を奪われた資本の損害賠償として、11歳から13歳までの児童の労働時間は10時間から10時間半に延長されたのである。今回の口実は、「絹工業の工場労働は、他の工場よりも軽作業であり、健康への悪影響がそれほど大きくないから」という裳だった。しかしその後で行われた公的な医学調査によって、それが全くの偽りであることが明らかになった。この調査によると「絹工業地域での平均死亡率は形骸的に高い」という。工場視察官は半年にわたって抗議を続けたが、この不法状態は今なお解消されていません。 児童労働のための新たな規定 1850年の法律は、ただ、「少年と婦人」について朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝6時から晩の6時までの12時間に変えただけだった。だから、児童については変わったところないのであって、彼らは、その労働の総時間は6時間半を越えてはならなかったとはいえ、相変わらずこの12時間が始まる前に半時間、それが終わってから2時間半利用されてよかったのである。この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官によって提出された。しかし、むだだった。背後には、好況期には児童を補助とする成年労働者の労働日を再び15時間にねじ上げようとする意図が待ち伏せていた。次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示した。こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はより遅くまで働かせること」の禁止によって補足された。それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した。最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた。 1853年に、児童に関しても「児童を青少年や女性労働者たちよりも朝早く、または夜遅く働かせる」ことを禁止する規定が工場法に付け加えられました。これによって、1850年の工場法が、すべての労働時間を規制することになったのでした。 1850年の追加工場法で労働時間が制限されたのは、「青少年と女性労働者」だけについてであり、以前の朝5時半から夜8時半までの15時間労働が、朝6時から夕方6時までの12時間労働に短縮されたのである。だから児童の労働時間については変更は加えられていなかった。児童の労働時間は全体で6時間半に制限されていたが、この正規の労働時間の前の30分と終了後の2時間半の間に働かせることができた。この法案が審議されているときに、この不自然な規定が目にあまるほどに濫用されていることを示す統計が、工場視察官によって議会に提出された。しかしそれも空しかった。 その背景には、好況になったならば児童のこの労働時間を利用して、成人労働者の労働日を再び15時間にまで戻そうという意図が潜んでいた。しかしその後の3年間の経験から、このような試みは成人男性労働者の抵抗によって実現できないものであることが明らかになった。そこで1853年になってやっとのことで、「児童を青少年や女性労働者たちよりも朝早く、または夜遅く働かせる」ことを禁止する規定が、1850年の工場法に付け加えられた。それからは、わずかな例外を除いて1850年の工場法が、その法の適用される工業分野のすべての労働時間を規定することになった。最初の工場法が制定されてから、実に半世紀もの時間が過ぎていた。 新たな進歩 立法は、1845年の「捺染工場法」によって、はじめてその元来の領域の外に手を伸ばした。資本がこの新しい「無軌道」を許したときのふきげんさは、この法律の一字一句が語っている!この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもない。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許している。それは議会の早産児である。 それにもかかわらず、原則は、近代的生産様式に独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた。1853年から1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映った。法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した。いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言した。だれにもわかるように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力はしだいに弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきた。こうして、1860年以来の比較的急速な進歩とはなったのである。 染色工場と漂泊工場とは1860年に、レース工場と靴下工場とは1861年に、1850年の工場法の適用を受けることになった。『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)によって、これと運命を共にしたものには、あらゆる種類の土器の製造場(製陶工場だけではない)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場があり、また「仕上げ」という名称で一括される多くの工程があった。1863年には「屋外漂白業」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになり、これによって、屋外漂白業は児童と少年と婦人との夜間(晩の8時から朝の6時まで)の労働が禁止され、製パン業は晩9時から朝5時までは18歳未満の製パン職人を使用することを禁止された。その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしよう。 マルクスは、女性と子供が低賃金で危険なところで長時間労働をさせられたことに対して、問題化され、工場法が制定されたと説明しています。これは『資本論』の骨子でもあるわけですが、これに対しては違った立場からは異論もあります。ただし、女性や子どもは成人男性に比べて明らかに賃金が低かったのは事実で、それにはデータからも明らかです。しかし、以前と比べてどうなるのかという観点からは、女性は専業主婦で子供は学校へいって勉強するという現代の中産階級に核家族というのがもともとあったのではなく、以前から女性も子供も猛烈に働いていたのでした。例えば、農家では子供は子守をさせられていたし、藁運びのような農作業をさせられてました。織布工の家でも、織布工だけではなく、妻も子供も、当然、手伝いをしていました。 このような家内労働の形態を見ると、家の中で戸主の監督のもとに家族がワンセットで労働していました。家族が社会の最小単位でしたから、外に向かっては戸主だけが代表権をもっていました。したがって、職業というステイタスは戸主にしか認められていなかったのです。それに伴い、妻や子どもは戸主の付属物のようなもので職業がなかったのです。家族労働で織物を織った場合、賃金は戸主がもらう。戸主の収入となるのです。つまり妻や子供は働いているとしても、すべて戸主の労働に包摂され、戸主が賃金をもらうのです。 それが工場化が進み、妻や子供が戸主の指揮監督が行き届かないところで雇用されるようになったのです。とくに産業革命の綿織物業界では、ミュール紡績機ができる頃になると、主として働く人と補助的な人の比率が、個々の家族構成と合わなくなっていきます。そのため家族をもとめて雇用する可能性がなくなっていったのです。そこで、妻や子供が戸主とは別々のところで雇用されるようになって、妻や子供は戸主ではなく戸主とは違う職場の職場長の命令に従うようになっていきます。もともとは家族の戸主の従属メンバーだった人たちが、別の人の命令をきくようになる。これは戸主の立場からすると、自身の監督権とかリーダーシップが脅かされることになる。そこから、女性やこともが工場で働くのはかわいそうだということに一般化して、批判の声をあげた、ということなのです。これは川北稔という歴史学者が『イギリス近代史講義』のなかで述べられていることです。 他方で、女性や子供は、それまで戸主に支払われていた賃金を受け取ることによって、新たな消費が生まれて、市場が作られていきました。たとえば、戸主が受け取った賃金はパブの飲み代に消えてしまったのが、女性に現金収入があると、家庭用品やオシャレ用品を購入するようになり、そういう商品の生産が増えるようになっていったというわけです。 立法がもともとの領分を踏み越える試みをしたのは、1845年の「捺染工場法」が最初だった。資本がこの新たな「逸脱」を認めたがっていなかったことは、この法律の条文の行間からも読み取れる。この法律は8歳から13歳までの児童と女性労働者の労働時間を朝の6時から夜10時までの16時間に制限し、食事のための法定の休憩時間をまったく規定していなかった。13歳以上の男性労働者については、昼間と夜間を問わず自由に労働させることを認めていた。これはいわば議会が流産した法律だった。 それでもこの[労働時間を制限するという]原則は、近代的な生産様式にもっとも固有な産物である大工業部門において採用されることによって、勝利を手中にしていたのである。1853年から1860年にいたる大工業の驚くべき発展は、工場労働者の身体的及び精神的な〈復活〉とともに誰の目にもはっきりと認識できる事実だった。半世紀に及ぶ反乱を続けながらも、一歩ずつの遅い歩みではあっても、労働日の法的な制限と規制を受け入れることを強いられてきた工場主自身が、いまだに「搾取が自由に横行している部門」との違いを自慢そうに指摘したこともある。 今や経済学の[偽善者である]ファリサイの徒たちは誇らしげに、自分たちは労働日を法的に規制する必要があることを洞察していたのであり、これは自分たちの「科学」の賜物の典型であると語るようになったのである。すぐに理解できることだが、この動きが不可解なものであることを認識した大工業家は、この動きに連携し、これと和解するようになった。それにともなって資本の抵抗力は次第に弱まってきたし、同時に労働者階級の攻撃力がはるかに強くなり、直接の利害関係のない社会階層の人々のうちにも、連帯者を見出すようになっていた。こうして1860年代以降というもの、かなり急速に進歩が達成されたのである。 1860年からは染色工場と漂泊工場にも1850年の工場法が適用されるようになり、1861年からはレース工場と靴下工場も、この法律の適用を受けるようになった。[児童労働調査委員会]の第一次報告書(1863年)の結果に基づいて、製陶工場だけでなく、あらゆる種類の土製品の製造工場、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、ファスチャン織物工場にも工場法が適用され、さらに「仕上げ」という表現で一括される多くのプロセスにも、工場法が適用されるようになった。 1863年には「屋外漂白業」と製パン業は、特別に定められた法律の監督を受けるようになり、屋外漂白業についてはとくに児童、青少年、女性労働者の夜間労働が禁止され、製パン業については、18歳未満のパン職人を夜9時から朝5時まで働かせることが禁止された。この委員会は後に、農業、鉱山業、運輸業を除くイギリスのすべての重要な産業部門から、別の[労働の][自由]を取り上げることを提案した。これについて改めて考察することにしよう。 歴史的な展開 読者の記憶にあるように、労働が資本に従属することによって、生産様式そのものの姿が変えられるということはまったく別としても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしている。やはり読者の記憶するように、これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。だから、われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけである。しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的諸事実の関連だけからでも、次のようなことがでてくる。 第一に、水や蒸気や機械によってまっさきに革命された諸産業で、すなわち近代的な生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされる。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した物質的生産様式とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化する。それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現れるだけである。それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門が本来の工場体制をとるようになっていただけではなく、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に製釘業などのような分散的ないわゆる家内労働でさえ、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見いだされた。それゆえ、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行われていればどんな家でも任意に工場だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである。 第二に、いくつかの生産様式では労働日の規制の歴史が、また他の生産様式ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していることは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということである。それゆえ、標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行われていた内乱の産物なのである。この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだからそれはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる。イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった。それだからこそ、工場の哲学者ユアも、「完全な労働の自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである。 剰余価値を生産すること、それと裏腹の剰余労働を搾取することが、資本制的な生産の目的であり、そのことが資本主義の特徴であることを、ここで、はじめに確認しています。労働が資本によって購入され、それに従属することによって、生産様式が資本制にむかって変革されていったことも指摘しています。 この章において工場法と標準労働日の経緯を追い掛けてきましたが、その対象となったのは近代的な産業で、とくに未成年の労働者に対するものでした。というのも、近代的な産業が資本主義の労働の搾取が露出した領域であり、とくに未成年の労働者にそれが端的に分かり易く表われていたからです。そこから、それぞれの産業についても歴史的にどのように展開していったのかという推論が可能だとマルクスは言います。 第一に、近代的な生産様式が最初に実現した産業である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績産業と織物産業では、剰余価値を欲望する資本により労働日を仮借なく延長する違法行為が発生します。それが、逆のきっかけともなって、労働日と休憩時間について法律で規制しようとする社会的な動きが起こってきます。それが工場法です。 この法律の規制が当時の最先端産業である紡績業や織物産業で採用されるようになった頃に、続いて他の工業の生産部門が近代的な工場生産体制に移行していきます。それ以外の二も製陶業やガラス工業のようなマニュファクチュアの生産体制や製パン業のような手工業や製釘業のような家内工業でも資本制的な搾取をするようになっていきました。したがって、工場法の対象領域に含まれていったのでした。 そして、第二に、資本制的な生産様式が普及し、ある程度成熟してくると、労働者と資本家との関係が対等な契約関係ということが崩れて、個人としての労働者は労働力という商品の自由な売り手ではなくなって、実質的に資本家に支配されるようになりました。そこで、労働者が団結して資本家に対抗すること、そして社会運動として対抗することが始まります。労働日に対する法的な規制を要求するのは、その労働者による闘争です。 その結果として標準労働日が設けられたものです。 それは、イギリスから始まり、ヨーロッパの大陸に広がっていきました。 ここでは、これまでみてきた労働日の制限のための闘いの意義について述べられています。長時間労働を防ぐための法律を制定するための闘いは、華々しい革命闘争に比べれば地味な闘いにみえるかもしれません。実際。後の「マルクス主義者」たちの中には、地道な改良闘争に対して、「改良主義」などのレッテルを貼り、軽視する者たちも少なからずいました。彼らは、いっけん労働者の状態を改善するようにみえる「社会改良」は、実際は、労働力商品の売り手としての労働者の存在を維持し、彼らの資本主義体制に対する敵意を削ぐものであり、むしろ革命を妨害するものだと考えたのです。 しかし、マルクスは、労働者たちが新しい社会を形成するための力を蓄えていくためには、改良闘争が非常に重要だと考えました。そのなかでも、マルクスがとくに重視したのが労働日の制限にほかなりません。というのも、労働時間規制によって労働者たちが資本の支配からの自由になる時間を確保できるようになるからです。最初の『資本論』草稿である『経済学批判要綱』で述べられているように、「余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある自由時間は、もちろん、その持ち手をある別の主体へと転化する」とマルクスは考えたのです。 労働者たちは労働日を制限することによって、健康を維持し、明日もまた労働力を売ることができるようになります。しかし、労働日を制限することの意味はそれだけではありません。労働日の短縮は、労働者にとっては同時に自由時間の増大であり、それによって労働者は自分を労働力の売り手として再生産するだけでなく、人間らしく生きるための、させには社会運動や政治運動などの社会活動を行うための身体的・精神的余裕を取り戻すことができるのです。 逆に、労働者がこのような自由時間を確保できず、資本のもとで長時間労働に従事させられているあいだは、資本の力に対抗しうるような主体を形成することは非常に困難です。だからこそ、マルクスは「労働日の制限は、それなしには、他のすべての解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である」とまで述べ、労働時間規制の重要性を強調したのです。 読者は、増殖価値を生産すること、あるいは増殖労働を搾りとることが、資本制的な生産に固有の内容であり、目的であることを記憶しておられるだろう。ただし労働が資本に従属することによって、生産様式そのものに様々な変革が生じるのもたしかである。また読者は、これまでの展開から、自立した、すなわち法的に成年達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶことも記憶しておられるだろう。 これまでの歴史的な素描の中心となったのは近代的な産業であり、また肉体的及び法的にみて未成年による労働であったが、それはたんに近代的な産業が労働の搾取の特別な領域であり、未成年者が労働の搾取のもっとも分かり易い実例であったからにすぎない。後の展開を先取りすることは避けたいが、歴史的な事実のたんなる連関だけからも、次のことが推論できる。 第一に、水力、蒸気、機械類によって最初の革命的な変化が発生した産業、すなわち近代的な生産様式が最初に実現した木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績産業と織物産業では、まず労働日を際限なく、そして仮借なく延長することを求める資本の衝動が満たされる。物質的な生産様式が変化し、それに伴って生産者の社会的な関係も変化することによって、最初は極端なまでの違法行為が発生するが、それが逆にきっかけとなって、労働日と休憩時間を法的に制限し、規制し、統一しようとする社会的な規制が生まれることになる。そのため19世紀の前半にはこの規制はまだ例外的な立法として現れるだけである。 ところが、新しい生産様式を誕生させた紡績及び織物産業でこうした規制が十分に採用された頃になると、他の多くの生産部門でもほんらいの意味での工場生産体制に移行するようになる。それだけではなく、製陶業やガラス工業のように、多かれ少なかれ古めかしい経営方式を採用しているマニュファクチュアでも、さらに製パン業のような古風な手工業でも、そして製釘業のように分散的にいわゆる家内労働ですら、すでに工場と同じように資本制的な搾取の支配するところとなっていたのである。そこで立法は次第にその例外的な性格を脱ぎ捨てざるをえなくなった。そしてイギリスのように、立法がローマ・カトリック教会のような決疑論のやり方を採用する国では、その中では人間が働いている住宅を、すべて恣意的に工場と呼ぶしかなくなるのである。 第二に、資本制的な生産が特定の成熟段階に達すると、労働者は1人ずつでは、すなわち自らの労働力の「自由な売り手」としては、資本に抵抗することができず、敗北するようになる。これはいくつかの生産部門で展開されてきたこれまでの労働日の規制の歴史がまざまざと示していることであり、さらにその他の部門で今なお続けられている規制要求の闘争がはっきりと証明していることでもある。 だから標準労働日が定められたのは、資本家階級と労働者階級のあいだの長い闘争の結果としてであり、この闘争は多かれ少なかれ、潜在的な内乱として闘われたのである。この闘争は近代産業の領域で闘われるものであるから、最初の舞台となったのは、近代産業の母国であるイギリスである。イギリスの工場労働者は、イギリスの労働者階級の代表選手であるとともに、近代の労働者階級一般の代表選手でもある。労働者階級理論家たちもまた、資本の理論に最初に挑戦した人々であった。だからこそ[『工場の哲学』の著者である]工場の哲学者ユアは[労働者階級を]非難する。資本の側は「完全な労働の自由」を求めて雄々しく闘ったのに、イギリスの労働者階級が「工場法の奴隷」を旗じるしにしたが、これはイギリスの労働者階級の拭いがたい屈辱であると。 フランス フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてくる。12時間法の誕生のためには2月革命が必要だったが、この法律もイギリス製の原物に比べればずっと欠陥の多いものである。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示している。それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである。他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているものを、原則として宣言しているのである。 ヨーロッパにおいて、イギリスと対抗していたのがフランスです。いわゆる産業革命など、資本制的な生産様式でリードしていたのはイギリスです。フランスは、イギリスに追随するように、経済の分野で競っていました。労働日に対する規制についても、イギリスの後追いしていました。12時間労働法が成立したのは2月革命の時の革命政府においてで、しかもイギリス版にくらべて欠陥の多いものでした。他方で、段階的に適用範囲を広げていったイギリス版に対して、フランスは全領域に一挙に、そして、未成年、女性といった区別なく一律に規制を始めたのでした。 フランスはのろのろと、足を引き摺りながらではあるが、イギリスの跡を追った。12時間労働法が成立するには、2月革命を待たねばならなかった、そしてこの法律はイギリス版と比較すると、はるかに欠陥に多いものだった。それでも革命を機会に工場法を成立させるというフランス方式には利点もあった。フランスではすべての作業場と工場に対して、まったく同じ労働日の制限を、それも一挙に命じたのである。これと比較するとイギリスでは、ここではこれについて、あそこではあれについてという風に、嫌々ながらも状況の圧力に屈していた。それは次から次へと裁判を引き起こす状況を作りだすには最適なものだった。またイギリスでは、児童、未成年者、女性労働者の名において勝ちとられた権利が、最近になってから一般的な権利として要求されるようになったのだが、フランスの法律では最初から原則として宣言されていたのである。 8時間労働 北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にあった。黒い皮の労働に焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがない。しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。南北戦争の第一の成果は、機関車という一歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニューイングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動だった。ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日)は次のように宣言する。 「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定とである。われわれは、この輝かしい成果に到達するまで、われわれの全力を尽くすことを決意した。」 それと同時に(1866年9月初め)、ジュネーヴの「国際労働者大会」は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議した。「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。…われわれは8時間労働を労働日の法定限度として提案する。」 こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・サンダーズの次のような陳述を裏書きするのである。 「社会の改良へのさらに進んだ諸方策は、もしあらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されるのでなければ、けっして成功への見込みをもって遂行されることはできないのである。」 ここには、社会的弱者に対するマルクスの姿勢が示されています。後の「マルクス主義者」の一部には、「階級闘争を行い、政治権力を握れば、結局、自由で平等な社会を実現できるのだから、共産主義者はマイノリティの問題などにかかずらっている場合ではない」などという考えを平気で述べる人たちもいました。しかし、マルクスは、このような考え方とは正反対の態度をとりました。マルクスはむしろ、社会的マイノリティの権利が正当に認められなければ、労働者階級が真に団結し、資本と闘うことはできないと考えていたのです。 マルクスは『資本論』において上記のような理論的判断を下しただけではなく、現実の社会運動においてもリンカーン(1809〜1865)の奴隷解放を熱烈に支持しました。マルクスは自らが起草したインターナショナル[1864年にヨーロッパの労働者や社会主義者が設立した国際労働者協会の通称]のリンカーン宛の挨拶文において次のように述べています。 「私たちは、あなたが大多数で再選されたことについて、アメリカ人民にお祝いを述べます。奴隷所有者の権力に対する抵抗ということが、あなたの最初の選挙の控え目のスローガンであったとすると、奴隷制に死を、があなたの再選の勝利に輝く標語です。 アメリカの巨大な闘争の当初から、ヨーロッパの労働者たちは、彼らの階級の運命が星条旗に託されていることを、本能的に感じていました。… 北部における真の政治的権力者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をけがすのを許していたあいだは、また彼らが、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは、彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。しかし、進歩に対するこの障害は、内戦の血の海によって押し流されてしまいました。 ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級の権力を伸張する新しい時代を切り開いたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろうと確信しています。」 マルクスがこのような認識を示したのは、奴隷制に対してだけではありません。マルクスは、この後、アイルランドについても同様の認識を示すに至りました。「アイルランドの体制をイングランドの労働者階級の権力獲得によって転覆させることができるのだと、私は長い間信じてきた。…研究をより深めることによって、私は今ではそれと反対のことを確信するようになった。イングランドの労働者階級は、アイルランドに対する植民地主義的支配から手を切らないかぎりは、何事も成し遂げられないであろう。梃子はアイルランドに据えなければならない。このことのために、アイルランド問題は社会運動全般に非常に重要なのだ」。同様のことをクーゲルマン宛の手紙でもマルクスは述べています。「イングランド労働者階級がこのイングランドで何か決定的なことをなしうるためには、アイルランドについてのその政策を思い切ってはっきりと支配階級の政策から分離し、さらにアイルランド人と共同してことを進めるにとどまらず、1801年に結成された合併を解体し、これに代わって自由な連邦という関係を樹立するために主導権を握るようにさえしなければならない」。 アメリカの奴隷制であれ、イングランドによるアイルランド支配であれ、支配階級の搾取体制を強化するだけでなく、人種やエスニシティによる差別を通じて、労働者階級を分断し、労働運動を機能不全にしてしまっていました。これを克服するために、労働運動がレイシズムやエスニシティの問題に積極的に取り組む必要があるとマルクスは考えるようになったのです。 マルクスは社会的マイノリティの問題を階級問題に還元して満足してしまうのではなく、それらが資本主義的生産関係とどのように絡み合っているのかを具体的に分析し、社会的マイノリティに資本主義的生産様式に抵抗するための潜勢力を見いだしました。その後の社会運動の展開を見れば、マルクスの先駆性は明らかだと言えるでしょう。 北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部に歪みをもたらしているあいだは、自立的な労働者運動はまったく麻痺していた。黒い肌の労働に烙印がおされているかぎり、白い肌の労働が解放されることはありえない。しかし奴隷制が姿を消したところからは、すぐに新しい運動の生命が芽吹いた。南北戦争の最初の果実は、8時間労働だった。この運動は<七里靴>の力をもつ蒸気機関車の力で、大西洋岸から太平洋岸へ、ニューイングランドからカリフォルニアへと広がっていった。ボルティモアで開催された全国労働者会議(1866年8月)はこう宣言した。 「この国の労働を資本制的な奴隷制から解放するために今なすべき最大の任務は、アメリカ連邦のすべての州で、標準労働日を8時間と定めた法律を制定することである。この栄光の目標を実現するために、われわれはすべての努力を傾ける決意である」。これに声を備えるように(1866年9月初旬)、ジュネーヴの「国際労働者大会」はロンドンの総評議会の提案に基づいて、次のように決議した。「労働日の制限は、それを実現することなしには、解放を目指した他のあらゆる活動が失敗に終わらざるをえない前提条件であることを、ここに宣言する。…われわれは8時間労働を労働日の法的な制限として定めることを提案する」。 こうして大西洋の両側で生産関係そのもののうちから本能的に育ってきた労働運動は、イギリスの工場視察官R・J・ソンダーズの次のような言葉を確認するものだった。「まず労働日を制限し、定められた制限を強制的に遵守させなければ、新たな社会改革の措置がさらに実現される見込みはまったくない」。 労働者の変貌 われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないであろう。市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していた。つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてである。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば白紙の上に墨くろぐろと証明した。取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということであり、じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉が、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは」手放さないということである。彼らを悩ました蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のである。なんと変りはてたことだろう! 生産過程に入る前、労働者は市場では「労働力」という商品の所有者として、その他の商品所有者と向き合っています。これは、商品の所有者どうしの関係です。労働者と資本家との関係も同じような関係です。労働者は自分自身を自由に処分することができるということになっています。そこで、労働者は資本家と契約を結ぶのです。 しかし、いざ契約を結んでみると、もはや労働者は自由なに自分自身を処分することができる存在ではないことが明らかになります。自分の労働力を売るために自由に使えるはずだった時間は、労働力を売ることを強制されている時間だったのです。では労働者はどうすれはいいのか、一人で資本家に対向することはできないので、労働者は団結して身を守らなければならないのです。 労働日の制限のための闘いは、労働者に「高度な活動」をするための自由時間を与えるだけではありません。労働者たちは、労働日の制限をめぐる闘いの中で団結することの重要性を学んでいきます。 もちろん、この章の冒頭でみたように、彼らが最初に盾に取るのは「商品交換の法則」であり、労働力という商品の売り手としての権利です。ところが、実際には、そのような権利があるというだけでは、同じように商品所持者として「商品交換の法則」を盾に取る資本家には、まったく太刀打ちできません。生産手段を持たず、生活手段の蓄えも十分ではない賃労働者たちが個人として、たえず膨大な増殖価値を搾取し、膨大な貨幣を手中にしている資本家の社会的暴力に対抗するのは非常に困難だからです。それゆえ、「資本主義的生産のある一定の成熟段階では、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服する」のです。 とはいえ、資本に屈服している限り、彼らは労働力商品の売り手としての権利を確保し、自らの生存を維持していくことはできません。それゆえ、彼らは闘いの中で、団結することにより、労働力商品の売り手としての権利を主張することを学んでいくのです。 もちろん、この闘いは、まだ商品の売り手としての正当な権利を主張し、それを国家の法律によって保障することを求めるものであり、資本主義的生産様式そのものを変革するための闘いではありません。しかし、この闘いの中で、商品の売り手としての自分たちの「権利」そのものよりも、この闘いの手段である団結、すなわちアソシエーションの方が重要であることに気づいていくのです。マルクスは若い頃に書いた『哲学の貧困』で次のように述べています。 「団結は、つねに一つの二重目的、すなわち仲間同士の競争を中止させ、もって資本家に対する全面的競争をなしうるようにするという目的をもつ。たとえ最初の抗争目的が賃金の維持にすぎなかったにしても、次に資本家の方が抑圧という同一の考えで結合するにつれて、最初は孤立していた諸団結が集団を形成する。そして、つねに結合している資本に直面して、アソシエーションの維持の方が彼らにとって賃金の維持よりも重要になる」 労働者たちにとって、団結すること、アソシエーションを形成していくことは、もはや単なる手段ではありません。団結し、アソシエーションを形成していくことによってこそ、資本に強制されず、自由に働き、生活することができることを感じ取っていくからです。こうした闘いの中で、労働者たちがアソシエーションにおいてこそ自分たちの自由を実現できることを予感するようになれば、まさに資本主義を超える新しい社会の萌芽が芽生えたことになるでしょう。 労働者が生産過程から出てくるときには、生産過程に入ったときには異なる姿をしていることを認める必要がある。労働者は市場では、「労働力」という商品の所有者として、その他の商品の所有者と向き合っている。このときの関係はあくまでも商品の所有者どうしの関係である。労働者は資本家と、自分の労働力を売る契約を結ぶ。このことは、労働者は自分自身を自由に処分することができる存在であることを、きわめて明確に示すものである。 ところが契約を結んでみると、労働者は自分が「自由な行為主体」ではないことを発見する。自分の労働力を売るために自由に使えるはずだった時間は、労働力を売ることを強制されている時間だったことを発見するのである。実際にこの吸血鬼は、「まだ搾取できる一片の筋肉が、一筋の腱、一滴の血が残っているかぎり」、労働者を手放そうとしない、労働者は苦痛を与える蛇から「身を守る」ために団結しなければならない。そして一つの階級として、国家に法律を制定させなければならない。労働者が自由意志に基づいて資本と契約しながら、それでいて労働者自身とその同胞を死と隷従においやることを防ぐための強力な社会的な防壁となることのできる法律を。「手放すことのできない人権」とかを列挙したうやうやしいカタログではなく、労働日を法律で制限する慎ましいマグナ・カルタが登場し、それが「ついに労働者が売り渡す時間がいつ終わり、自分の時間がいつ始まるかが明らかになる」だろう。何と大きな変化であることか。
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