マルクス『資本論』を読む
第1部 資本生産過程
第5篇 絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産
第16章 剰余価値率を表わす種々の定式
 

 

 カール・マルクスの『資本論』を読んでいこうと思います。『資本論』については、たくさんの解説や論説があって、これがどういう著作であるかとか、時代背景とか、後世への影響とか、色々なところで論じられていると思います。ここでは、そういうことは脇に置いて、現物に当たってみて、自分なりにこう読んだというのを追いかけることにします。なお、実際に読むのは、スタンダードな訳として定評のある岡崎次郎の翻訳による大月書店のマルクス・エンゲルス全集版です。参考として、中山元の翻訳で日経BPクラシックスのシリーズで出版されているものをピンク色で適宜へいきすることにします。また、中山訳は本文を小見出しをつけて区切りをつけているので読みやすくなっているので、その小出しの区切りを使います。中山訳は、岡崎訳に比べて分かりやすく、こっちをつかいたかったのですが、フランス版を底本にしていることと、例えば、「剰余価値」と一般に定着している用語を「増殖価値」と訳したりして個性的なところがあって、慣れないところがあるから、参考にとどめています。続けて、黒い明朝体で、それについて私はこう読んだという読みの記録を綴っていきます。そこで、説明の追加をしたり、多少の脱線をします。なお、それでは、細かくなりすぎて全体像がつかめなくなってしまうおそれがあるので、目次の構成の「節」ごとに、そのはじめのところで概要を記すことにします。

 

第1部 資本の生産過程

第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産

第16章 剰余価値率を表わす種々の定式

〔この章の概要〕

現代の日本人の日常的な感覚では、働いて生み出した価値のうち、どれだけが自分の取り分になり、どれだけが会社の取り分になるのかと考えてしまう。しかし、それは偽りの外観でしかないと言います。むしろ、労働者は現代でも労働力の再生産費と引き換えに、自分の生活に必要な範囲を超える労働を強制されていると指摘します。したがって、労働者と資本が協働し、生み出した価値を両者の間で分け合っているのではなく、資本が労働力の購買によって賃労働者に剰余労働を強制し、剰余価値を絞り出しているというのが本当のところで、それを法則と式によって、まるで自然科学の論証のように明らかにしようとしているのが第14〜16章なのです。

 

〔本分とその読み(解説)〕

マルクスの定式

すでに見たように、増殖価値率は次のような定式で表わされる。

T 増殖価値/可変資本(m/v)=増殖価値/労働力の価値=増殖労働/必要労働

はじめの二つの定式が価値と価値との比率として表しているものを、第三の定式は、これらの価値が生産される時間と時間との比率として表している。これらの互いに補足し合う定式は、概念的に厳密なものである。だから、古典派経済学ではこれらの定式が、たとえ事実上は完成されていても、意識的には完成されていないのが見いだされるのである。むしろ、古典派経済学ではわれわれは次のような派生的な諸定式に出会うのである。

まず、既に第7章で考察が加えられた剰余価値率を表す様々な定式が示されます。この定式は3つの式が等号で結ばれていますが、第一の式(剰余価値/可変資本(m/v))と第二の式(剰余価値/労働力の価値)は、剰余価値率を二つの価値の比率として示したものであり、第三の式(剰余労働/必要労働)はこれらの価値を生産する労働時間の比率として示したものです。ここでは、マルクスは明言していませんが、この式は搾取度を正確に量ることのできる式なのです。古典派経済学では、この内容については考えられていましたが、このような明確な式として示すことはできませんでした。それは、この式から見れば派生的な次の定式がすでに使われていたからです。マルクスが次の定式を派生的といっているのは、搾取度を隠す式でもあるからです。

 

U 増殖労働/労働日=増殖価値/生産物の価値=増殖生産物/総生産物

ここでは一つの同じ比率が、順々に、労働時間の形態と、労働時間が具体化されて価値の形態と、この価値がそのなかに存在する生産物の形態とで表現されている。もちろん、生産物の価値というのはただ労働日の価値生産物だけを意味しており、生産物価値の不変部分は除外されているものとそうていされるのである。

すべてのこれらの定式では、現実の労働搾取度すなわち剰余価値率はまちがって表現されている。1労働日は12時間だとしよう。その他の仮定は前に用いた例のとおりだとすれば、この場合には現実の労働搾取度は次のような比率に表わされる。

この定式では一つの比率が、第一の式(剰余労働/労働日)では労働時間の比率として、第二の式(剰余価値/生産物の価値)では労働時間が体現された価値の比率として、第三の式(剰余生産物/総生産物)では価値の存在する生産物の比率として示されています。ここで、第二の式の生産物の価値とありますが、注意が必要です。生産物の価値とは本来c+v+mですが、ここでは不変資本部分は除かれています。ですからこれは実質的には価値生産物です。総生産物についても同様です。

この定式では、労働の搾取度つまり剰余価値率は表わされていないとマルクスは指摘します。この定式で隠された搾取度を、労働日を12時間として、次の式で示そうとします。それは定式1の式です。

 

増殖労働6時間/必要労働6時間=増殖価値3シリング/可変資本3シリング=100%

ところが、定式Uによれば次のようになる。

増殖労働6時間/労働日12時間=増殖価値3シリング/生産物の価値6シリング=50%

これらの派生的な定式は、実際には、1労働日またはその価値生産物が資本家と労働者とのあいだに分割される割合を表わしている。だから、もしこれらの定式が資本の自己増殖度の直接的表現として認められるならば、剰余労働または剰余価値が100%に達することはけっしてありえないというまちがった法則が正しいものと認められることになる。剰余労働はつねにただ労働日の1可除部分でありうるだけだから、または、剰余価値はつねにただ価値生産物の1可除部分でありうるだけだから、剰余労働は必ずつねに1労働日よりも小さく、また、剰余価値は必ずつねに価値生産物よりも小さい。だが、100/100という比率をなすためには、それらは等しくなければならないであろう。剰余労働が1労働日全体を吸収するためには(ここで1労働日というのは、1労働週とか1労働年とかの1平均日のことである)、必要労働はゼロまで減少しなければならないであろう。だが、もし必要労働がなくなれば、剰余労働もなくなる。というのは、後者はただの前者の1機能でしかないからである。だから増殖労働/必要労働=増殖価値/価値生産物という比率が100/100という限界に達することはけっしてありえないし、まして100+x/100まで上がることなどはなおさらありえないのである。ところが、剰余価値率、すなわち現実の労働搾取度はそこまで上がることがありうるのである。たとえば、L・ド・ラヴェルニュ氏の推算をとってみよう。それによれば、イギリスの農耕労働者は生産物またはその価値の4分の1しか受け取らないが、これにたいして資本家(借地農業者)は4分の3を受け取る。もっとも、その獲物があとから資本家や土地所有者などのあいだでどのように再分割されるかは、別問題である。これによれば、イギリスの農村労働者の剰余労働は彼の必要労働にたいして3対1の比をなしており、搾取の百分率は300%である。

労働日を不変量として取り扱う学派的方法は、定式Uの適用によって確立された。なぜならば、これらの定式ではつねに剰余労働に与えられた大きさの1労働日と比較されるのだからである。ただ価値生産物の分割だけに注目する場合も、同様である。すでに一つの価値生産物に対象化された1労働日は、つねに、ある与えられた限界をもつ1労働日である。

剰余労働と労働力の価値とを価値生産物の諸部分として表すということ─とにかくそれは資本主義的生産様式そのものから成ずる表現様式であってその意義はもっとあとで解明されるであろう─、この表わし方は、資本関係の独自な性格、すなわち可変資本と生きている労働力との交換やそれに対応する生産物からの労働者の排除をおおい隠している。それに代わって現われるのが、労働者と資本家とが生産物をそれのいろいろな形成要因の割合に従って分け合う一つの協同関係というまちがった外観なのである。

ところで、定式Uはいつでも定式Tに逆転されうるものである。たとえば6時間の増殖労働/12時間の労働日が与えられていれば、必要労働=12時間の労働日・マイナス・6時間の剰余労働であって、次のようになるのである。

6時間の増殖労働/6時間の必要労働=100/100

つまり、定式1から派生した定式2では、1労働日の価値生産物を資本家と労働者が分け合うという表現形式であり、これは資本と労働の関係が協同関係であるかのように偽るものである、とマルクスは指摘しています。

この場合、剰余労働はつねに全体の労働日の一部でしかありえないので、剰余労働は労働日より小さく、剰余価値は剰余価値は価値生産物より小さくなります。したがって、定式2の比率が100/100になるためには、剰余労働が労働日全体と同じ、つまり労働日のすべてが剰余労働で占められなければなりません。そうなると、労働日での必要労働がゼロにならなければなりません。それは、実際はあり得ないとして、定式2の比率が100/100は成立しないということになります。しかし、実際の労働搾取度はそのようにことがおこり得るとマルクスは指摘します。

例えばイギリスの農業労働者は剰余労働と必要労働の比率は3対1になり搾取度は300%に達する。古典派経済学に根差した定式2では、労働日は不変なものと前提されたため、剰余労働はあらかじ決められた枠内で分け合うというものになってしまっていました。それゆえ、剰余労働には、あらかじめ限界が設定されていたのです。このようなやり方は資本主義的な生産様式から成長してきたもので、資本関係に独特な性格を隠蔽し、あたかも資本と労働者が価値を分け合って協働しているかのような偽りの外見を作り出すものとなっていました。

そこでマルクスは、定式2はいつでも定式1に逆転化できると言います。なぜなら、1労働日マイナス剰余労働イコール必要労働であり、そこから剰余労働/必要労働が導き出すことができるからです。しかし古典派経済学は、そこまで突き詰めることは出来ませんでした。

すでに確認したように増殖価値率は次の三つの等式によって計算する。

定式1 増殖価値/可変資本(m/v)=増殖価値/労働力の価値=増殖労働/必要労働

この定式に含まれる最初の二つの等式は、増殖価値率を二つの価値の比率として示したものであり、第三の等式はこれらの価値を生産する労働時間の比率として示したものである。これらの式はたがいに補いあうものであり、概念的に厳密なものである。そのため古典派経済学でもその実質はすでに考えられていたが、意識的に構築されていなかった。古典派経済学ではむしろ次のような派生的な式が使われている。

定式2 増殖労働/労働日=増殖価値/生産物の価値=増殖生産物/総生産物

ここでは一つの同じ比率が、まず労働時間の比率として、次に労働時間が体現された価値の比率として、最後に価値の存在する生産物の比率として、順に表現されている。ここで生産物の価値というときには、労働日によって新たに生産された価値だけが考えられているのであり、生産物の価値の不変な部分は除外されている。

これらのどの等式でも、労働の実際の搾取度すなわち増殖価値率は正しく表現されていない。労働日を12時間としよう。これまで考察してきた実例で考えると、労働の実際の搾取度は次の式で示される。

増殖労働6時間/必要労働6時間=増殖価値3シリング/可変資本3シリング=100%

これにたいして

上の定式2によると、次のようになる。

増殖労働6時間/労働日12時間=増殖価値3シリング/生産物の価値6シリング=50%

これらの派生的な式が実際に表現しているのは、労働日あるいはその価値生産物を資本家と労働者がどのような比率で分けあっているかということである。これらの式は資本の自己増殖の度合いの直接的な表現として妥当するものであり、その場合には「増殖労働または増殖価値は決して100%にはならない」という正しくない法則が妥当することになる。

増殖労働はつねに全体の労働日の分割可能な一部でしかありえず、増殖価値はつねに価値生産物の分割可能な一部でしかありえないので、増殖労働は必然的に労働日よりも小さく、増殖価値は必然的に価値生産物よりも小さくなる。比率が100/100のようになるためには、両者は同じ値でなければならない。増殖価値が労働日の全体を占めるようになるためには(この労働日とは、労働週や労働年などの平均日を意味する)、必要労働がゼロになる必要があるだろう。しかし必要労働が消滅すれば、必要労働に付随して成立するにすぎない増殖労働も消滅する。だから増殖労働/必要労働=増殖価値/価値生産物の比率は決して100/100になることはなく、まして100+x/100になることもない。しかし増殖価値率が、すなわち実際の労働搾取度はそうなりうるのである。

たとえば[フランスの経済学者の]L・ド・ラヴェルニュ氏の計算によると、イギリスの農業労働者は、生産物あるいは生産物価値の4分の1しかうけとっていない。これにたいして資本家(借地農)はその4分の3をうけとっており、それをその後で資本家や地主たちのあいだで分配している。これによるとイギリスの農業労働者の増殖労働と必要労働の比率は3対1になり、搾取度は300%に達する。

労働日を不変なものとして扱う古典派経済学の方法は、前記の定式2を適用することで確立された。この式では増殖労働はつねにあらかじめ決められた労働日と比較されるからである。また価値生産物の分割だけが問題とされる場合も同じことが言える。すでに価値生産物のうちに対象化された労働日は、つねに特定の限界をもつ労働日である。

増殖労働と労働力の価値を価値生産物の分割部分とみなす説明方式は、資本制的な生産様式そのものから成長してきたものであり、その意味については後に解明するつもりである。この説明方式は資本関係に独特な性格を隠蔽するものである。可変資本が生きた労働力と交換され、それによって労働者が生産物から排除されていることを隠蔽しているのである。その代わりに登場するのが、労働者と資本家は、生産物を構成しているさまざまな要因の比率に基づいて、生産物を分配しあっている協同関係にあるという虚偽の外見である。

ちなみに定式2はいつでも定式1に戻すことができる。たとえば6時間の増殖労働/12時間の労働日の値がえられれば、必要労働の時間は12時間の労働日から6時間の増殖労働を差し引いたものであるから、次の結果がえられる。

6時間の増殖労働/6時間の必要労働=100/100

 

第三の定式

第三の定式は、すでにおりにふれて予示してきたもので、次のように表わされる。

V 増殖価値/労働物価値=増殖労働/必要労働=不払労働/支払労働

不払労働/支払労働という定式が招くことがありうる誤解、すなわち資本家は労働に支払うのであって労働力に支払うのではないかのような誤解は、前に与えられた説明によって解消する。不払労働/支払労働は、ただ増殖労働/必要労働の通俗的な表現でしかないのである。資本家は、労働力の価値、またはその価値からずれるその価格を支払って、そのかわりに、生きている労働力そのものにたいする処分権を受け取る。資本家によるこの労働力の利用は二つの期間に分かれる。一方の期間では、労働者はただ自分の労働力の価値に等しい価値を、つまり一つの等価を、生産するだけである。こうして、資本家は、前貸しした労働力の価格のかわりにそれと同じ価値の生産物を手に入れる。それは、ちょうど、彼がこの生産物を市場でできあいで買ったようなものである。これに反して、剰余価値の期間には労働力の利用は資本家のための価値を形成するが、それは資本家にとって価値代償を必要としないものである。彼はこの労働力の流動化を無償で受け取るのである。こういう意味で剰余労働は不払労働と呼ばれることができるのである。

だから、資本は、アダム・スミスが言うような労働にたいする指揮権であるだけではないのである。それは本質的には不払労働にたいする指揮権である。いっさいの剰余価値は、それが後に利潤や利子や地代などというどんな特殊な姿に結晶しようとも、その実体から見れば不払労働の物質化である。資本の自己増殖の秘密は、一定量の不払他人労働にたいする資本の処分権になってしまうのである。

剰余価値率を表す定式3が示されます。支払労働は必要労働に、不払労働は剰余労働に相当します。この式は資本家が支払うのは労働力に支払うのではなく労働に支払うかのような誤解を招き易いのですが、剰余労働とは資本家が無償で取得した労働であることを暴露するうえで有効な式なのです。この定式の2番目の等式は定式1の3番目の等式と同じです。不払労働/支払労働という表現は、増殖労働/必要労働をたんに一般向けにわかりやすく表現したものです。

資本は労働力の価値の価格を支払って、それと交換に労働力を自由に処分できる権利を得ます。その内訳として二つの価値が含まれています。一つは労働力の価値と等しい価値、つまり等価値です。これは必要労働、つまり労働者が生きるために必要な価値に相当するものと言えるでしょう。もう一つは剰余価値で、資本のための価値で、これは労働者にとって必要な価値ではないから資本は労働者に支払わなくていい剰余です。だから不払労働と呼ばれます。

マルクスは、資本とは本質的には不払労働にたいする指揮権であり、いっさいの剰余価値は不払労働時間の物質化である、と強調しています。資本の自己増殖の秘密とは、ある量の他者の不払労働を資本が自由に処分できるということなのです。

これまで何度か示唆した[増殖価値率を示す]第三の[正しい]定式は次のようなものである。

定式3 増殖価値/労働物価値=増殖労働/必要労働=不払労働/支払労働

不払労働/支払労働という式は、資本家が労働力にかんしてではなく労働にたいして支払いを行なっているかのような誤解を招くかもしれない。しかしこれまでのところを読んでいただければ、こうした誤解は避けられるだろう。不払労働/支払労働という表現は、増殖労働/必要労働をたんに一般向けにわかりやすく表現したものにすぎない。

資本家は労働力の価値の価格、またはこの価値からずれた価格を支払って、それと交換に生きた労働力そのものを自由に処分する権利を手に入れる。資本家はこの労働日の利益を二つの期間に分けて享受する。第一の期間においては労働者は自分の労働力の価値と等しい価値、すなわち等価値を生産する。こうして資本は、労働力の価格を前払いした代償として、それと同じ価値の生産物をうけとるのである。それはあたかも市場で同じ生産物を出来合いで購入したようなものである。

しかし第二の増殖労働の期間においては、労働力の利益の享受によって生まれた価値は資本家のための価値であり、しかも資本家はその価値の代償として何も支払う必要がない。資本家はこの労働力を無償でうけとる。その意味で増殖労働は不払労働と呼べるものである。

したがってアダム・スミスが指摘したように、資本は労働にたいする指揮権であるだけではない。本質的には不払労働にたいする指揮権なのである。あらゆる増殖価値は、それが後に利潤、利子、地代など、さまざまな特殊な形態に結晶したとしても、その実体は不払労働が物質化したものである。資本の自己増殖の秘密とは、ある量の他者の不払労働を資本が自由に処分できるということにすぎないのである。

 

 

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