ジェーン・オースティン
『マンスフィールド・パーク』を読む
 

1.はじめに

2.あらすじ 

3.『マンスフィールド・パーク』を読む体験  

4.『マンスフィールド・パーク』の多彩な魅力 

(1)悲劇としての『マンスフィールド・パーク』 

(2)『マンスフィールド・パーク』

 

1.はじめに

ジェーン・オースティンの小説は、あらすじだけを聞くと面白そうには思えないのに、実際に小説を読み始めると、物語に惹き込まれて離れられなくなると言われます。ひとつには、彼女の小説は波乱万丈のストーリーで、この先どうなるか目が離せなくなるとか、ドラマティックな展開に度肝を抜かれるとか、荒唐無稽な設定とか感傷的なロマンスとか、そういった読者をひきつける物語の要素は全くありません。彼女の小説について、こんな話だと紹介すると、たいていは味気ないことしか言えず、とにかく、実際に読んでみて、という他、何もいえなくなってしまうのが常です。

『マンスフィード・パーク』という作品は、彼女の小説作品のなかでも、おそらくはあらすじが最も味気ない作品ではないかと思います。しかし、小説の長さの点では、彼女の小説の中で、一番字数の多い小説なのです。味気ない筋で、一番長いのです。しかし、私は作品を読んでいても退屈することはない。それはなぜか、そのなぜかということを解明すると、それは、この小説の魅力を明らかにすることになると思います。オースティンの小説を紹介するときに、とにかく実際に読んでみて、という以外に、こういうことが魅力(特徴)なのだと言うことができることを、これから考えてみたいと思います。

あらすじが味気なくて、面白そうでない。それにもかかわらず、実際に読んでみると、止まらなくなる。というのは、実際の小説に魅力があるということです。それはあらすじとは関係ないでしょう、ということはストーリーではない。あまり、遠回りして、もったいぶって思わせぶりするのは好きではないので、ここで結論をいいますと、語り口が大きな魅力になっているのです。これだけ長い小説を、しかもあらすじが味気ないのを、語り口で読ませてしまう。それだけ、語り口がすごいということになるわけです。で、ここでの目的は、その語り口の魅力を、実際の小説を読み進めながら、ここで体験していくようにして、一部でも明らかにしてみようというものです。

そのまえに、あらすじを紹介しておくことにしますが、その前提として、あらすじの味気ないところを少し指摘して、それに対して、語りがどのような関係にあるかという、概説的なことを、ここで少し説明しておきたいと思います。

(1)マンスフィールド・パークの中だけのストーリー─演劇の舞台のメタファー

『マンスフィールド・パーク』という長い小説のストーリーは、ほとんどマンスフィールド・パークという邸宅で進められます。一部の例外は、主な登場人物たちがサザトン・コートに出かけるというエピソードとファニーがポーツマスの実家に一時的に帰るというエピソードです。この例外的なケースでも、サザトン・コートのベンチやプライス家という固定した場所に定点カメラを置いているかのようです。物語は人々動きにカメラがついて移動して行くのではなく、固定したカメラが設置してあって、そのアングルの中で登場人物たちが会話したり、動いたりします。それ以外は、アングルに人物たちが出たり入ったりという動きをします。極端なことを言うと、それがこの小説の基本的な人物の動きなのです。

その典型が、若者たちによる素人芝居のエピソードで、マンスフィールド・パークという舞台において舞台劇が行われるという劇中劇のような入れ子構造が表われるのです。劇中の人物関係が、登場人物たちの人間関係に重り、劇の内容が、人物たちのその後の運命に関係していくということになります。いうなれば、この小説の構造の縮図のような場面なのです。それ以外では、登場人物の主要な会話は、マンスフィールド・パークの室内で交わされ、外部で起きた事件は、手紙や室内の会話で明らかにされます。例えば、マライアとヘンリー・クロフォードの出奔という大事件は当事者の行動が直接書かれているわけではなく、ファニーがメアリーから手紙を読むことで明らかにされます。それは、演劇において舞台外の事件が観客に知らされる場合の手法と同じです。

そのため、だれが、いつ、どこから、どのように舞台であるマンスフィールド・パークに入場し、退場したかということが小説のドラマを作っていると言えるのです。

(2)空虚な中心としての女主人公─ファニー・プライスはドラマの触媒

このように『マンスフィールド・パーク』のドラマ、人々が舞台であるマンスフィールド・パークに入ったり、出たりすることで生まれます。つまり、ドラマは常にマンスフィールド・パークの外から持ち込まれるのです。しかし、持ち込まれたドラマが受領されないと、そこでドラマとなりません。でも人々は入ったり、出たりするだけなので、マンスフィールド・パークにいるわけではないのです。マンスフィールド・パークの主人であるサー・トマスですら、アンティグアに2年間出かけていたわけで、その帰還は物語のひとつの転機をつくったわけです。では、マンスフィールド・パークに出入りしないで、常にいた人というのは誰かといえば、バートラム夫人なのです。この人は何もしない人で、物語に対して働きかけを何もしません。ただ、いるだけという人です。しかし、このバートラム夫人のところに登場人物たちは何の意識もすることなく、来て、そして出て行く。いってみれば神社のご神体のような周囲を引き寄せる空虚な中心なのです。そのバートラム夫人の傍らにいつもいるのがファニー・プライスです。彼女は、バートラム夫人という中心の傍らにいる巫女のような存在といえます。ファニーは、バートラム夫人とは同じではありませんが、行動することはほとんどありません。消極的で、かつ受動的なのです。周囲の人々が行動し、右往左往するのに対して、彼女はじっと留まって、その一部始終をずっと見守って、ときには人々の聞き役や理解者となります。つまりは、ファニーはドラマを起こすことはないのですが、触媒のような役割で、ファニーが関係してはじめてドラマとして生まれるという役割を担っているのです。

これを逆方向で考えてみると、小説の中で彼女が担っている機能を考えると、主人公として積極的に行動を起こしてドラマの渦中にあっては、機能を果たせなくなります。従って、存在感が薄いとか、受け身とかというのは、小説の構造上の必然と言えるのです。触媒は、自分が燃えるのではなく、素材を燃やすものなのです。

(3)ファニーが小説の語りに介入する

ふつうの小説では、触媒の役割は作者が担います。実際のところ、小説の語り手として、状況を説明し、登場人物の行動や思いを語ることでドラマの形を作っていくわけです。いわゆる「全知の語り手」として三人称形式で、神様のように小説のすべてを見通して鳥瞰的に語ります。しかし、この作品では、その全知の語り手の介入度がかなり高く、語り手が「私」と名乗って顔を出し、意見を述べる箇所も出てきます。この作品では語り手が、単一の支配的な意識に制限されることなく、すべての登場人物の意識の中を出入りし、「語りのオーケストレイション」を形成しています。特に目立つのが、そして、ファニーを通して見たことや聞いたことなどが描かれ、彼女の意識や心理が語り手の語りに混在している箇所が多いのです。そのあまりの多さと、客観的視点とファニーを通した視点を明確に区別してかたられていないため、読者はその二つを、それに気付かずに混同しながら、あとでそのふたつのズレに気がつくということがあるのです。そのズレが、読者の物語への興味を引き立て、ドラマを劇的なものにしているのです。それは、ファニーが触媒的存在であることで、はじめて可能となったものなのです。

(4)ズレが生む読みの深みと広がり

読者が、このズレに気づいてしまうと、語りは真実を伝えきれていないことに思い至ります。例えば、作者は明らかに意図的に語らないで真実を隠そうとします。それは、例えば、物語が進んだ時に、そういえばあの時、あれはどうだったのかと、隠されていたことに、後になって気づくことになります。それは、前のところで、主題がソナタ形式のように展開されることに対して、読者は、先がどのようになっていくかという興味が前に向かっていく方向があります。これに対して、後になって、あれはどうなっていたのかという、新しい事実について、すでに読んだページに書かれていたことと関連づけて読むという興味の後ろに向かって戻る方向があるのです。つまり、読者は、この先どのように展開するのかという分岐する方向と、この先どうなるのかという話の先の方向、そして、話が進んだあとで既に読んだところを振り返るという方向と、様々な方向に興味をひろげて、それを満たすための推理力や記憶力を読者に求めているのです。読者が、これを活用することで、物語の世界は重層的な深みと豊かな広がりをもって読者にこたえるものとなっているのです。

 

2.あらすじ

その体験をするまえに、予備知識として、簡単に小説のあらすじを紹介しておきます。オースティンの小説は波乱万丈とか荒唐無稽とは正反対の、平穏で単調な日々の生活の繰り返しのなかで、些細な事実を淡々と綴っていくものです。

とくに、『マンスフィールド・パーク』はオースティンの他の小説と比べても、マンスフィールド・パークという限られた空間という舞台も動かずに、事件らしい事件といえば、物語の最後に続けて起こるくらいです。それゆえ、物語のあらすじを以下にのべていくと、物語の本編のストーリーの分量と物語のはじまる経緯や設定といった前置きの分量がほとんど同量になってしまうことになります。これは、19世紀の小説のなかでは極めて特異なものといえると思います。

親が愚かな結婚をしたために、貧乏人の子沢山の家で育ったファニー・プライスは、10歳のときに、親戚の准男爵家に引き取られることになります。その経緯はこうです。ファニーの母プライス夫人を含む三姉妹は、結婚によってそれぞれ大きく運命が分かれたのでした。美人の次女は、マンスフィールド・パークの富裕な領主サー・トマス・バートラムと結婚し、二人の息子と二人の娘の母となり、長女はサー・トマスの友人で牧師ノリス氏と結婚しマンスフィールド・パークの敷地内の牧師館で暮らします。そして、ファニーの母である末娘は海兵隊の中尉プライスと経済的な基盤を持たない無分別な結婚し、ポーツマスで子沢山の貧乏暮らしをすることになりました。そんな中で、プライス夫人が9度目のお産を迎えたとき、彼女を苦境から救うべく、長女ファニーをバートラム家に引き取るという話が持ち上がります。プライス夫人が姉たち似助けを求めたのです。

虚弱な体質で内気な少女は、伯母のいじめと、いとこたちのからかいにあいながら、もうひとりの伯母である准男爵夫人のお世話係として、ひたすら耐える日々を送ることになります。唯一の味方は、いとこのエドマンドで、ファニーは彼の導きで読書の喜びを知り、立派な道徳心を身につけた、感受性豊かな女性へと成長していきます。そしてファニーはエドマンドに対して、尊敬と感謝と信頼と愛情が入り混じった恋心を抱くようになります。それは、好きになってはいけない人を好きになってしまった秘めたる恋でした。

ファニーが18歳になったとき、サー・トマスは農場経営の仕事のために、長男のトムを伴って西インド諸島のアンティグアへ赴きます。彼の不在中、伯母ノリス夫人の計画により、バートラム家の長女マライアと富裕な地主ラッシュワースとの縁談が進みます。ノリス師の後任の牧師が赴任してくると、その親類でロンドンの悪に染まったヘンリーとメアリーというクロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやってきて、その平和な暮らしがかき乱されることになります。バートラム家の次男エドマンドは、牧師になる予定ですが、ロンドン仕込みの機知あふれる個性的な美人メアリー・クロフォードの魅力に幻惑されます。マライアは、ラッシュワースと婚約しますが、同じロンドン仕込みのプレイボーイ、ヘンリー・クロフォードに血道をあげてしまいます。そして話がややこしくなるのはこの先で、ロンドンの上流社交界で数知れぬ恋のたわむれを経験したヘンリー・クロフォードが、マライアと戯れたあとで、生真面目なファニーをからかうつもりで本気で好きになり、なんと正式にプロポーズしてしまうのです。もう一度整理するとこうなる。婚約者のいるマライアがプレイボーイのヘンリー・クロフォードに夢中になり、プレイボーイのヘンリーは生真面目なファニーにプロポーズし、生真面目なファニーは牧師志望のエドマンドに秘めたる思いを寄せ、そして牧師志望のエドマンドは、牧師という職業を軽蔑するメアリー・クロフォードに幻惑されているという、たいへんぎくしゃくした数珠繋ぎの関係になるのです。それはともかく、ヘンリーは年収4千ポンドの領地を持つれっきとした紳士ですが、婚約者のいるマライアに公然と言い寄るような真似をした人物であり、ファニーはエドマンドに対する秘めた思いに加え、ヘンリーの人間性を信用できないという理由から、このプロポーズを断固断ります。しかし、こんな玉の輿の良縁を頑なに拒むファニーに対して、親代わりのサー・トマスは激怒し、ファニーをポーツマスの実家に里帰りさせてしまいます。表面上はサー・トマスのやさしい心遣いですが、実のところ、裕福な暮らしの有難味をファニーに対するお仕置きなのでした。そしてサー・トマスの狙いは当たり、ファニーは実家でひどい幻滅を味わうことになります。懐かしいはずの我が家は、下品な父親と愚かな母親がいる、騒音と混乱に支配された不快感の巣窟のような家であり、ファニーは、マンスフィールド・パークの静かで上品な生活のすばらしさをあらためて実感するのでした。実家での滞在が2ヶ月を過ぎた頃、ファニーは、トムが重病になって帰宅したこと、マライアがヘンリーを追って夫の家を出たこと、イェイツとジュリアが駆け落ちしたこと知って驚きます。エドマンドは、メアリーの兄に対する無節操な態度に幻滅して、彼女との結婚を断念します。ファニーは秩序を取り戻すために必要な存在として、マンスフィールド・パークに再び迎え入れられます。トムは病気から回復し、ジュリアはイェイツと結婚するが、ヘンリーに捨てられたマライアは、日陰者としてノリス夫人とともに暮らすことになります。そして、エドマンドは、ファニーへの愛に目覚め、求婚します。そして、ファニーは、聖職禄を得たエドマンドとともに、マンスフィールド・パークの牧師館で結婚生活を送るという大団円で物語は終わります。

 

3.『マンスフィールド・パーク』を読む体験(引用はちくま文庫の中野康司訳より)

 第1章

物語の本筋は第2章から始まり、第1章は物語の発端となるエピソードということになります。物語ヒロインであるファニーがマンスフィールド・パークに引き取られた経緯です。客観的視点から説明する語り手による地の文と、サー・トマス、バートラム夫人、ノリス夫人の会話で構成されています。

まず、この3人の関係に経緯としてノリス夫人が長女、バートラム夫人が次女の三姉妹について、次女は幸運にも准男爵の目に止まり豪勢な結婚生活に乗り出し、長女は同じく幸運を狙ったが思い通りには行かず、姉の夫である准男爵の友人の牧師に「やむなく愛情をよせる」こととなり、三女はいれ以上ないほどの運の悪さで所謂「文無し結婚」という籤を引いてしまったことが語られます。この導入は、結婚生活の幸不幸がいかに紙一重で危ういものかということが、親の世代の結婚を通して示されているとこです。しかもここで槍玉に上げられているのは明らかに、経済的基盤を伴わない結婚の愚かさ、無分別さです。特に次女と三女のそれぞれの結婚は、彼女たちのその後の人生に天と地ほどの境遇の違いを引き起こし、所属する社会階級までも異なるものにしてしまうことを明らかに示しています。そして、三女のプライス夫人(ファニーの母親)の無分別な結婚は、無用の忠告など聞きたくないので、結婚式をあげるまで、家族にはいっさい知らさなかったのです。これは、物語の終盤でバートラム家の姉妹が家族の承諾を得られない駆け落ちをしてしまうことの先触れのような行為です。この物語は、前にも述べたように限られた空間のなかで登場人物が行ったり来たりする構造になっていますが、その行為についても限られたことを繰り返すという反覆構造になっています。そして、物語の終盤で大きく転換する事件である姉妹の駆け落ちについても、最初の導入の時点でプライス夫人の無分別な結婚という、先触れが布石になっているのです。さらに言えば、その無分別の結果生まれたのがファニー・プライスで、彼女がバートラム家にとって危機の救世主的な存在となるのです。この皮肉!ただし、この布石は最後の最後に明らかになるので、小説を何度か読まないと布石として見えてきません。だから、この小説は何度も繰り返し読んでいるうちに、このような細部に埋め込まれた布石が見えてくるのです。

※この反復は、この作品だけに限ったものとは限りません。オースティンの作品のファンであれば、彼女の6作の小説を横断して、反復を読むことも可能です。例えば、プライス夫人の無分別な結婚は、相手が海軍の士官候補であることから、『説得』のアン・エリオットがフェリックス・ウェントワースとの結婚を19歳のときに周囲の反対を押し切って強行したら、こうなってしまった可能性と想像することもできます。

そして、3人の会話が、それぞれの人物と引き取られるファニーがどういう存在として位置付けられるかが、ここで明らかにされます。それを会話でニュアンスまで表わしてしまうオースティンの水際立った手腕には最初から脱帽してしまいます。まず、ファニーを引き取るということをノリス夫人が思いつき、妹のバートラム夫人が簡単に賛成する。ここで、姉妹の軽薄さが出ますが、サー・トマスが他人の子どもを引き取るにはそれ相応の責任を負うことになるという慎重な姿勢を見せます。しかし、その真意は2人の息子たちと貧しい従妹との結婚を危惧するというもので、ここに彼の誠実な人柄であるのですが、建前を取り繕う一方で、現状の保身を優先する小心な身勝手さが示されています。このことが、この後の物語の展開とかかわって明らかになってくるのです。

これに対してノリス夫人の次のような言葉に簡単に説得されてしまいます。

あなたは、ご自分の二人の息子さんのことを心配なさっているんでしょうけど、あなたが心配しているようなことが起きるはずがないわ。だって、小さい時から兄妹のように育てられるんですものね。ね、そう思いません?あなたが心配しているようなことになるわけがないわ。兄妹のように育てられた男女が結婚した例なんて聞いたことがないわ。いいえ、むしろ、小さい時から一緒に育てられることこそ、いとこ同士の結婚をふせぐ唯一の確実な方法だわ。もしその子が美人になって、あなたの二人の息子さん、つまりトムかエドマンドが、これから七年後に初めてその子に会ったらどうなるかしら?それこそ、あなたが心配していることになるかもしれないわ。(中略)でも、いまからその子と一緒に育てれば、たとえその子が天使のように美しくても、兄妹以上の関係にはならないわ。(P.14〜15)

そして、三人とも姪を引き取る行為の善意さにいい気分になります。この三人の深く考えずに、一時の欲求に都合よく妥協してしまう性癖は、下の世代に実は引き継がれていてバートラム家の兄弟姉妹がクローフォード兄妹の狡知にあっけなく手玉に取られてしまうことの布石になっているとも言えます。直接的にはサー・トマスの心配は最終的なは当たってしまうことになって、このときの納得は裏切られて、ファニーとエドマンドが結婚してしまうのです。

また、ここですかさず、ノリス夫人が費用やファニーを引き取って住まわす責任をサー・トマスに押しつけてしまう、実際上の負担を負わないしみったれたところ、しかし、ファニーを引き取る提案をしてことで、その善行はすべて自分の手柄にしてしまう狡猾さが示されます。この三人の会話は、まるでお目出度い間抜けな悪党が、悪事の計画の打ち合わせをしているような場面に見えてくるのです。

 第2章

物語の本編はここからです。10歳のファニーがマンスフィールド・パークにやって来るところから始まります。

注意すべきは、この章から語り手が全能の神のような鳥瞰的な視点で客観的に語ることから、登場人物の内心に出入りしはじめるのです。これを「語りのオーケストレイション」と評する人もいるそうですが。なかでも、ファニーへの介入が著しく、彼女を通して見たことや聞いたことが描かれ、彼女の心理や意識が語りのなかに混入するようになって行きます。例えば、

バートラム家の子供たちはみんな器量が良くて、二人の息子はとても美男子で、二人のお嬢さまは目の覚めるような美人だった。おまけに四人とも発育が良くて、すらりとした体型をしていた。そのため教育程度の違いから生じる物腰の違いだけでなく、容姿の点でも、ファニーとは歴然たる違いがあった。二人のお嬢さまとファニーがほぼ同い年だとは誰も思わないだろう。でもじつは、下のお嬢さまとファニーは二つしか違わなかった。つまり、バートラム家の次女ジュリアはまだ12歳で、長女マライアは13歳だった。そんなバートラム家に引き取られた少女ファニーは、まさに不幸のどん底に突き落とされたような気持だった。誰も彼も怖くて、自分が恥ずかしくて、遠く離れた我が家が恋しくて、顔も上げられないし、蚊の鳴くような声でしか話せないし、口を開くたびに涙が頬を伝った。(P.23〜24)

この例は語り手による地の文です。前半は事実を客観的に語っているのが、“そんな〜”の文ではファニーの気持ちを描写し、次の文では語り手がファニーの内心になっています。しかし、上の例を注意しないで漫然と読み進めれば、語りの主体が変わったことに気づかないでしょう。その場合、ファニーの内心のおどおどした視点が、客観的な事実の動きであるかのように捉えられるようになるのです。そのようにして、ファニーはいかめしいサー・トマスにびくびくし、マライアとジュリアから不要になった飾り帯やおもちゃを与えられ、フランス語や地理歴史の無知を嗤われ、要は人格を持った主体として認めて相手にされず、ひとりぼっちであるということが、それはファニーからの視点が混入しているのに、客観的な事実であるかのように読めてしまうようになっています。たしかに、彼女は口数は多い方ではないし、内向的な性格ではあるかもしれません。しかし、常識で考えてみてください。わずか10歳の女の子が会ったこともない親類のところに、ひとりで不慣れな道中を経て、育った環境とまったく違った邸宅に、そして、両親が困って頼み込んで引き取られた事情は聞いているだろうし、ノリス夫人からくどいほど感謝するように説教されて、そうやって辿りついたマンスフィールド・パークで、屈託がないはずがないし、ホーム・シックにかかるのは当然だろうし、不安でしょう。だいたい、子供が天真爛漫に見えるとしても、10歳くらいの年齢であれば、周囲を見渡して、自身の立場をわきまえて、どこまでやれば周囲は笑って許してくれるかを見計らっているものです。その周囲がみえなければ、まずは様子を伺うのは普通のことです。それをせずに、最初からむやみに自己主張するのはレアケースではないでしょうか。だから、ファニーの、この時の様子は、一般的なものです。それを読者には、そのように見えないように語っています。それがオースティンの語り口の秘密ではないでしょうか。

ファニーのように聞く一方で、自分からは話すことがないヒロインというのはオースティンの作品の中では、他にも、『説得』のアン、『分別と多感』のエレノアもそうです。しかし、彼女たちは大人しいとか、受け身ではあっても、ファニーのように無力とか存在感が薄いとか魅力に乏しいとは言われません。ファニーだけが、そうなってしまうのは、おそらくオースティンが意図的に、そのように書いているからで、具体的には、この第二章でマンスフィールド・パークに到着した時のおどおどして、何も言えない、いじめられっこのような第一印象のイメージが、ファニーの作品を通しての印象を決めてしまったからではないかと思います。なぜ、オースティンはそんなことをしたのかは、そうした方が物語を進める時に便利だからです。そその効果は、この後の物語の展開において、出てきますので、それは追いかけていきたいと思います。

ここで、読者に映るファニーのイメージは、貧しい子沢山のプライス家の長女で、一家を苦境から救うための、いわば口減らしのために、裕福な伯母の家庭バートラム家に引き取られたという、肩身の狭い居候の身であるということです。この点はまがりなりにも家族の一員であるアンやエレノアとは違います。そして彼女は無口な人物にえることです。彼女は口数が多い方ではありません、会話の場面でも、ほとんど聞き役に徹していることが少なくない。しばらく登場人物たちの会話が続いている場面で、私たちはそこに彼女がいることさえ忘れるときがあります。というよりも、彼女のことが書かれていないことすらあります。これは語りが彼女の視点になっていれば、当然自分のことは見えないからで、それが客観的な語りであると読者は読んでしまうので、彼女の存在が書かれていないと読んでしまうのです。

さて、この第2章の最も重要なエピソードは、ファニーとエドマンドの出会いです。ファニーにとってエドマンドはマンスフィールド・パークの中で唯一、心を通わすことのできる人物で、この後、彼女を慰め励まし、守り、教え導く存在となっていきます。このファニーがエドマンドに心を開くきっかけとなったのが、ファニーの仲良しの兄であるウィリアムが関係します。つまり、ファニーが寂しがっている要因は家族との別離もさることながら、主としてウィリアムに会えないことに起因することをエドマンドが聞き出し、彼女に兄に向けて手紙を書く手伝いをしてあげたことでした。このときは、エドマンドは寂しがるファニーにとって最愛の兄ウィリアムの代わりとなる存在として映ったように書かれているのです。そこで、ファニーとエドマンドの関係は兄妹に擬せられることになります。このことによって、読者は、エドマンドはファニーにとって兄のような存在で、これは兄妹愛から発展して、やがて結婚へと至った物語なのだというように印象づけられる。これが、もしファニーがエドマンドに寄せる一貫した思慕の物語であることが最初から明らかにされたとしたら、物語の構成としては、現状の『マンスフィールド・パーク』がファニーとエドマンドのラブ・ストーリーとなって、ファニーの存在感が前面に出てくることになると思います。例えば『説得』のアンのようにです。しかし、作者であるオースティンは、そうすることはなく、ファニーの思慕は小説の中で伏流のように流れつづけて、ある時から人々の目に触れるようになります。第2章の最後で次のように叙述されています。

ファニーは、このような親切な導きに感謝し、兄のウィリアムスを除けば、エドマンドを世界中でいちばん愛するようになり、いつしかファニーの心は、この二人に等分に向けられるようになった。(P.38)

この文章の書き方ではファニーはエドマンドに感謝し、兄のウィリアムスと等分に愛するとしているので、兄妹愛と印象付けられます。

また、ファニーとエドマンドは兄妹のように印象付けられていますが、小説の中で、彼らに対比するように仲の良い兄妹が配役されています。それはクロフォード兄妹です。さらにまた、同じ兄妹でも対照的に、仲が良いとはいえないのがバートラム家の兄妹とファニーに対するウィリアム以外のプライス家の弟や妹たちとの関係です。この、それぞれの兄妹を対比するように物語がつくられていく構造になっているのですが、ここでは先走り過ぎました。

 第3章

小さな事件が起こって、少しずつ物語の歯車が動き始めます。ファニーの伯父にあたるノリス氏が亡くなります。牧師のノリス夫妻はマンスフィールド・パークの牧師館に住んでいましたが、これによって後任のグラント博士がやってきます。もともとの予定はバートラム家の次男エドマンドが牧師となって、そこに入るはずでしたが、長男のトムが浪費によって多額の債務を抱え、その清算のためにマンスフィールド・パークの聖職禄を処分せざるを得なくなり、それで、想定外のグラント博士がやってくることになったというわけです。

ここで、バートラム家の内実が明らかにされてきます。例えば、ここまで3章をかけてバートラム家の人々を紹介し、本編以前の経緯といった背景を説明してきましたが、肝心の題名にもなっているマンスフィールド・パークについては何も説明がありません。この後に登場する大地主のラッシュワース氏の場合は、土地の広さや年収を、そしてまたヘンリー・クロフォードは不在地主ですが年収を明記して、どの程度の農園か想像がつくように書かれています。しかるに、主な舞台で、ヒロインのファニーが強い愛着を常に抱き続けるマンスフィールド・パークなのです。また、第1章で経済的基盤を伴わない結婚の愚かさを無分別としてあげつらい、作中でも、結婚について語られるときには経済的な要素が常に考慮されているのに、物語の最後にはファニーが結婚してくるマンスフィールド・パークの経済規模については、一言も触れられていません、これは明らかに、作者オースティンが意図的に書かなかったことでしょう。つまり、オースティンは隠したのです。

ただし、マンスフィールド・パーク自体の風景描写が全くないわけではありません。例えば、物語の終盤でファニーがポーツマスの実家でマンスフィールド・パークのことを追憶するといった内心と関連づけられ、つまり、ファニーの思い入れのフィルターによって理想化された姿で記述されるのです。だから、実際の広さとか、どのくらいの人々が働いているのかとか、領主であるサー・トマスがそこでどんな采配を振るっているのかは一切書かれていないのです。したがって、マンスフィールド・パークは実体を持たずに登場人物が触れ合う舞台でしかないのです。

オースティンという小説家は必要なことしか書かない人です。だから、必要なことは書くのであって、何を書くべきかを吟味して作品を執筆している人です。書かないことには理由があるのです。先ほども触れたように、ラッシュワース氏やヘンリー・クロフォードについては簡単に書いているわけですし、バートラム家の状況に関することなので(領主の継承や経済状況の事情からサー・トマスは植民地に出向くことになり、それが物語の大きな転機となる)、明らかにすべきことのはずです。それをオースティンは書きません。その理由は何でしょうか。それは、おそらくバートラム家はが地代を主たる収入源とする18世紀以来の伝統的な地主層から,実態としては貿易つまり商売による収益に依存した企業家層に変貌してきているので。サー・トマスは西インド諸島の東部にあるアンティグア(Antigua)島にプランテーションを所有しており,この農園経営によって主たる収入を得ています。つまり,イングランドにとって不名誉となりうる奴隷貿易を含む、いわゆる三角貿易にバートラム家の領土管理は依存しているのです。それは、当時においては、あまり表には出したくない事情に属していたと思われます。ここに、ファニーがエドマンドに対して表面的には兄妹の愛情として、そのそこには密かに恋心を抱いたのと同じように、バートラム家は表面上はマンスフィールド・パークの領主として振る舞いながら、実質的には植民地への投資業に変貌していたという二重構造になっていたことが分かります。そして、この小説では、このような二重構造が至るころに現れて、それを独特の語り手によって二重構造で語られるということになり、そで、読者は閉じられたホームドラマであるべきものが、ダイナミックな謎をはらんだ物語として受け取ることができるようになるのです。

そして、バートラム家の人々に眼を転じましょう、長男のトムは、将来はサー・トマスの跡取りとなるべき人物です。しかし、彼は領主あるいは企業家としては無能で、おまけに浪費家でした。彼が作ってしまった莫大な借金の支払のためにマンスフィールド・パークの牧師館が一族の手を離れ、次男エドマンドは,その割を食って,本来自分が引き継ぐことになる屋敷を失いました。そして、その牧師館にやってきたのがグラント博士でした。トムはサー・トマスに叱責を受けますが、厳格な父親の前では多少の反省の色を見せても、その実、父親の忠告を無視し、相変わらず自身の根本的な放蕩をひかえるつもりはないようです。それゆえ、植民地でのプランテーション経営が思わしくなくって、サー・トマスはサー・トマスは自ら農地管理の指揮を執るべく西インド諸島の東部にあるアンティグア(Antigua)島に赴くことになります。その際にトムも同道することになります。それが、この第3章の最後のところで、ファニーが16歳になったときです。サー・トマスがアンティグアに赴いた期間は2年に及び、その間は次男のエドマンドが代理を務めるのですが、領主が2年間も留守をするということは、バートラム家にとって、アンティグアが重要だということと、若年のエドマンドに代理がつとまってしまうというマンスフィールド・パークの領主としての負担は、それほど重くないということが、そこかに想像できます。つまり、オースティンは、マンスフィールド・パークについて記述してしまうと、そのような空洞化してきている実態をも明らかにしなくてはならなくなることを避けて、書かなかったということも想像できます。

物語は、サー・トマスがマンスフィールド・パークから一時的に退出することと、牧師館にグラント博士がやってきたことで、その夫人の親類にあたるクロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやってくるキッカケができたことになります。

そして、第3章で見過ごせないのが、ノリス夫人が牧師館を出るので、それを契機にファニーがマンスフィールド・パークを出てノリス夫人と暮らすことになるということになって、ファニーとエドマンドの会話です。ファニーは、マンスフィールド・パークを出たくないことと、ノリス夫人と暮らすことへの愚痴を言います。この会話から分かることは、まず、ファニーがノリス夫人に対して、直接苛められていることの愚痴こそこぼしませんが、ノリス夫人とだけは一緒に暮らしたくないと彼女を嫌うことを表明します。そこで、ファニーの強い自己主張があるのです。しかし、小説全体の印象としてファニーは周囲に気遣いして自己主張しないと受け取られているのと、最初近くから、そうでない行動を実はとっている。しかし、ファニーのイメージは変わらない。それは、最初のいたいけな印象と、エドマンドと二人の場面で自己主張しているからでしょうか。そして、その上、エドマンドがノリス夫人と暮らすのはそれほど悪いことではないと条理をつくして説得しているのに対しても、頑固に自説を譲りません。それは、後で、ファニーがヘンリー・クロフォードからのプロポーズを拒絶したことに対して周囲がいくら反対しても断固として譲らないことの先駆けのような場面です。つまり、後になって、ファニーの意志の強さが明らかにされますが、それは、その時に突然そうなったのではなく、すでに16歳の少女のころにすでにそうであったのです。しかし、このような将来を予言するようなことは、書かれているけれど。読者は、それでファニーの性格をイメージしないで読み過ごしてしまいます。そこに、オースティンの小説の仕掛けがあると言えるのです。

そしてさらに、このような小さなエピソードですが、他の小説のヒロインであれば、自身に降りかかってくる危機や障害なのですから、それを回避したり対処するための行動を起こすものです。ところが、ファニーは、その行動を起こさないか、行動せざるをえなくなった際に、偶然のように事情が変化して、彼女が行動を起こすことに至らないのです。この場合でも、ファニーはマンスフィールド・パークを出てノリス夫人と暮らすことになると絶望的になっていたところ、ノリス夫人がファニーを引き取る労力と金銭負担を避けるため、ファニーがマンスフィールド・パークでの生活を続けられように画策し、成功させていました。つまり、ファニーの与らぬところで、事態は解決されていたのです。この後のエピソードでも、ファニーの年老いた馬が死んでしまったときのことや素人演劇にファニーが参加させられそうになったこと、あるいは一旦ポーツマスの実家に戻された後マンスフィールド・パークに帰れるようになったことなど、すべてファニー自身が行動を起こしていません。彼女は外面的には自発的な行動を起こしているようには、見えないのです。そこに、彼女が受け身であること、おとなしいという印象を読者に対して強めていくことになっていると思います。

この第3章の叙述のなかで、登場人物の会話があったり、実際に動いている場面があるのは、ファニーがノリス夫人とマンスフィールド・パークを出て行くことについてのファニーとバートラム夫人とのちょっとした会話と、ファニーがエドマンドに内々に相談するところだけで、それ以外の部分は語り手が説明してしいます。だから、サー・トマスが出かけてしまうことも、ノリス氏がなくなってグラント博士が赴任してくることも、背景の事実のように読まれてしまいます。つまり、読者には、マンスフィールド・パークの周囲では物事が動いているというイメージで、それに対して、マンスフィールド・パークは台風の目のように平穏が続いているように映るのです。

 第4章

サー・トマスとトムがアンティグアに出発しました。次男のエドマンドがサー・トマスの代理として留守を預かりますが、していること「食卓での主人役をつとめたり、執事と相談したり、代理人弁護士に手紙を書いたり、召使と話をつけたりした。」は、それは領地を経営する領主のすることなのか、というほど些末なことで、バートラム家のマンスフィールド・パークの領主として、貧弱としか言えず、何もしていないと同じです。小説の中で最後まで、代々立派だったマンスフィールド・パークの姿はどこにも描かれていない。立派であれば領主の代理であるエドマンドの毎日は、誠実であろうとすれば、多忙になるはずです。しかし、エドマンドの毎日は、こんな貧弱なのです。オースティンは間接的に、マンスフィールド・パークの栄光の姿は,ファニーの小さな頭にのみ存在しているのかもしれないことを、暗に語っているのでないでしょうか。この部分は語り手による地の文で書かれています。

バートラム家の姉妹マライアとジュリアは、いわゆるお年頃となって、社交界にデビューし、ノリス夫人に付き添われて舞踏会やパーティーに出かけます。これに対して、ファニーは18歳という年齢ですが、留守番とバートラム夫人の相手を務めます。これは、シンデレラと姉たちとの関係に擬せられて、ファニーが差別されている構図を作り出しています。これに対して、ファニーはむしろ解放感を得られるし、従妹たちから舞踏会の話を聞けるのを楽しみにしているというように、自分が受けている扱いについての不平を一切作者は書いていません。これらのエピソードは語り手による客観的な語りで、淡々と語られます。ここには、オースティンの書かないという選択が、かなり考えて為されているのではないかと思います。例えば、社交界に連れて行ってもらえないファニーの気持ちや、それに対してマライアとジュリアについては、マライアは婚約者と出会うわけですし、サー・トマスがマンスフィールド・パークからいなくなったことで得られた解放感が後の二人の行動に結びついていくわけですから、このときの二人の内心について触れられていてもおかしくはないと思います。また、社交界の模様や、二人がそこでどう振舞ったかなども、全く書かれていません。そして、さらに、マライアは、後に婚約者となるラッシュワースに出会います。このとき、マライアがラッシュワースをどう思ったのかも書かれていません。彼女の感情の記述はなく、次のような外面的で通り一遍のことしか書かれていません。

ラッシュワース氏はとても恰幅のいい青年で、頭の方は、まあまあ常識を備えているという程度だか、容姿も態度もそれほど感じの悪いところはないので、マライアは自分が見初められたことを喜んだ。マライア・バートラムは現在21歳であり、そろそろ結婚を義務と考え始めていた。ラッシュワース氏と結婚すれば、父のサー・トマスよりも収入の多い身分になれるし、それに、いまはこれが彼女のいちばん大きな願いなのだが、ロンドンにも家を持つことができるので、「結婚適齢期の女性は結婚すべし」という道徳的義務感から言っても、できることならラッシュワース氏と結婚することが、彼女の明らかな義務となった。(P.61)

最後の「彼女の明らかな義務となった」という文章にあるように外面をなぞるようなことしか書かれていません。まるで少女がロマンスとか結婚に憧れているような考え方です。このときのマライアの内面には主体性が確立されていなかったのか、マライア自身がラッシュワースをどう思ったのかには一言も言及されていません。

※もし、田舎貴族のお嬢さんで何不自由なく育ったマライアが、周囲のすすめるままに結婚をして、その後、運命的な出会いで、ヘンリー・クロフォードと恋に落ちて、自己に目覚め、何もかも打ち捨てて恋に生きるということであれば、それは典型的な近代小説ではないでしょうか。例えば、「ボヴァリー夫人」「アンナ・カレーニナ」など枚挙にいとまがないでしょう。それだけでなく、当時の通俗的なロマンスでも、このようなシチエィションの物語が多数作られたものではないかと思います。しかし、オースティンはそれを行わず、ひねりをきかせて、そういうヒロインの行動によって取り残された家族を小説の題材としました。後のことになりますが、そこではマライアの内面描写はありません。家族からみれば、彼女の行動は迷惑なことで、軽薄で無分別に移るでしょう。しかも、メインではなくサブ・ストーリーにして、ファニー・プライスが当の相手の男性からの求婚を断固断ったことと対比的に扱っています。従って、近代的な恋に目覚めた女性のロマンスが、ここではシンデレラの意地悪な姉の因果応報の結末に反転してしまっているのです。ここに、マライアのエピソードの小説上の昨日と、そのような扱っているという面白さがあると思います。

不思議なことにエドマンドが、この婚約に反対で、彼はラッシュワースのことを「この男は、年収1万2千ポンドの金持ちでなければ、ただの馬鹿だ」(P.63)と思ったと書かれているのに、です。これらの、何かを書かないかについては、オースティンは、かなり意図的であったと思います。

一方、この章で注目していいのは、ファニーの馬に関するエピソードです。彼女の乗馬用にあてがわれた年老いた葦毛のポニーが死んだことがことの始まりです。虚弱体質のファニーは、運動のために乗馬を進められます。しかし、老馬の死により乗馬ができなくなります。ノリス夫人は、運動であればファニーに散歩として、自身の家への用事をさせて便利に使いたいのですが、それはファニーにとっては荷重な負担を身体にかけることになります。それに気付いたエドマンドがファニーのために新たに馬を買うことを提案します。これは、エドマンドとバートラム夫人とノリス夫人との会話として書かれています。エドマンドは二人の反対を覆すことはできず、自分の持ち馬が3頭あるうちの1頭をファニーのために振り分けることで妥協します。ここで注意すべきは、会話の中にファニーの意見がまったく出てこないことです。記述にはファニーに関することが何もないので、その場にいたのか、いなかったのかもハッキリしません。つまり、そういう存在感なのです。この会話の中で、ファニー自身はどのように希望するのかが全く無視されているわけです。ここで図らずも、エドマンドがファニーのことを思い、優しくしている人物ではあるけれど、ファニーの人格を尊重しているまではいかなくて、表面的なレベルであるということ、実はエドマンドという人物の薄っぺらさということの一端をここで、オースティンは匂わせています。というのも、ここでファニーに新たにあてがわれた馬は、この後で、メアリー・クロフォードに乗馬を教えるために使うことになり、メアリーが事実上独占することになってしまって、結局はファニーが乗馬できなくなることになるわけです。このメアリーに乗馬を誘って、馬の手配をしたのは当のエドマンドなのですから。このように、オースティンの語り口の特徴のひとつとして、この場合には「馬」ですが、特定の題材やエピソードについて、それを取り上げて使いまわす。例えば、違った場面に持って行ったり、すこし形を変えてみたりして、そこで関係を作り出して、それによって意味を作り出していくという手法です。音楽でいえば、ソナタ形式で主題を提示して、その主題をいろいろ手を加えて展開させていくのに似ていると言えます。

一方で、ファニーの方はエドマンドに感謝するのですが、そこに恋愛感情が読み方によってはうかがえるような書き方をしています。ここでの語りは、ファニーの内心が主体になっています。

しかも、これはすべてエドマンドの親切のおかげだと思うと、喜びはますます大きくなり、とても言葉では言い表せなかった。ファニーにとってエドマンドは、善と偉大さの見本のような人であり、彼女にしかわからない価値を持った人であり、彼女がどんなに感謝しても足りない人だった。エドマンドに対するファニーの気持ちには、尊敬と、感謝と、信頼と、愛情のすべてが入り混じっていた。(P.60)

この書き方は微妙で、「エドマンドの親切のおかげだと思うと、喜びはますます大きくなり、とても言葉では言い表せなかった」ということは、馬を与えられたこと以上にエドマンドから与えられたことの方が彼女には喜ばしいということにも受け取れます。その後に続く文章がエドマンドへの感謝から、彼への思いに流れ込んでいきます。「彼女にしかわからない価値を持った人」ということはエドマンドの値打ちは自分にしかわからないという特別な感情をファニーが抱いていたわけで、それで「尊敬と、感謝と、信頼と、愛情のすべてが入り混じっていた」気持ちを持っていたというわけですから、ファニーにとってエドマンドは特別な人であることは、この時点で明白であり、直接的な言葉はなくても、恋心であることは感じ取れるわけです。そして、わずか1ページ後には、マライアがラッシュワースとの縁談の説明があるにもかかわらず、彼女の相手に対する思いが一言も書かれていないのです。その対照です。

そして、クロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやって来ます。

 第5章

前章でマンスフィールド・パークの牧師館にやってきたクロフォード兄妹が、バートラム家の兄弟姉妹と出会うところで、互いに好感を抱いた出会いから、牧師館での兄妹と二人の姉のグラント夫人の3人の会話が前半です。この長い小説の全体を通して、おそらく、最も活発に会話をしているのが、メアリー・クロフォードです。そして、兄のヘンリーもそれに続きます。これは、主人公であるファニーの発言が少なくて、彼女のことはもっぱら地の文で語られるのと対照的です。この兄妹のいるところでは、常に会話がおこり、それが小説において会話文で描写されています。したがって、読者には、この兄妹はバートラム家の兄妹たちより生彩ある存在として映ります。しかも、この兄妹に関する地の文による記述は外見とか二人の行動といったことばかりで、ファニーやエドモンド、サー・トマスに関する記述が、それぞれに程度の差こそあれ内面に踏み込んだものであるのと違います。したがって、この兄妹は、これから物語の展開につれて、行動をしていくことか、発言をすることによって、徐々に人物が明らかになってくるという登場の仕方をします。これは、ファニーやエドモンドか、ほぼ最初の段階でどのような人物かが読者に分かってしまって、そのイメージで小説を読み進めていくのとは、まったく違うあり方です。そのため、この兄妹は物語が進むにつれて意外な面が見えてきたり、人物像が変化してきます。

例えば、ヘンリーの容姿についての微妙な変化

兄のヘンリー・クロフォードは美男子ではなかった。それどころか、最初みた時は、完全な醜男だとみんなが思った。色黒の醜男なのだ。しかし、それでもやはり紳士であり、態度や話し方はとても感じが良かった。二度目に会ってみると、それほど醜男ではないとわかった。たしかに醜男ではあるけれど、どこか魅力的な表情をしているし、歯がとてもきれいで、じつに立派な体格をしているので、醜男であることをつい忘れてしまうのだ。三度目に会ったあとは、もう誰も彼を醜男だとは思わなかった。(P.70)

しかし、ファニーはそう思っていなくて

しかしクロフォード氏のことは─マライアとジュリアが何度も称賛したにもかかわらず─依然として醜男だと思っている(P.77)

ここで話題になっているのはクロフォード氏の容姿についてですが、それを何度もバートラム家の人たちが見ていると、その見え方が変わってくることが書かれています。その場合に、あっているうちに人間性が分かって容姿が気にならなくなったというのではなくて、彼の紳士としての態度や話し方、あるいは表情といったことで、醜男とは思わなくなったという見え方の変化が語られています。これは後で、クロフォード氏には演技者の才能があることが明らかになり、お芝居の演技や朗読の巧みなところが出てきますが、言ってみれば、醜男であるにもかかわらず、醜男でないように装うことができる人物であること。しかし、それは表面的なレベルであることが分かります。そして、バートラム家の人々は、それに騙されてしまう人々であること。これに対して、ファニーはクロフォード氏を依然として醜男だと思っていたということで、彼女はクロフォード氏の装い(演技)に騙されないで正体を見ていた、ということが、この時点で示されています。おそらく、この時点では、このことに気付く人は少ないかもしれません。しかし、この後物語が進んで、バートラム姉妹が彼に夢中になり、サー・トマスまでもが彼を立派な紳士と評価する中で、ファニー一人が彼からのプロポーズを頑として拒無。その伏線が、ここに張られているわけです。というより、それを読者が後で読み返して、「そうだったのか」と発見するように書かれています。

話を戻しますか、そこに、この兄妹の小説の中での独特の位置づけがあると思います。つまり、クロフォード氏の見え方が変わってきたは、彼がそのような振る舞いをするなど、装ってきたからです。そのクロフォード氏の装いにまんまと騙されたバートラム家の人々は、クロフォード氏と同じレベルの表面的なところでしか物事を見ていない人たちであるということなのです。つまり、クロフォード兄妹は見え方が変化してくるのですが、実は、見え方が変化してくるということは彼らを見ている人々の彼らをどのように見るかが変化して来ているわけです。つまり、これらの人々の姿を、クロフォード兄妹が鏡のように映し出す機能を担っているといえます。つまり、この兄弟は小説の中で人々の姿を映し出す鏡のような役割を果たしているといえるのです。

また、彼らの会話を読んでいると、表面的というのか、話している内容よりも、どのような言葉を使って、どのように喋るか、ということが重点を置かれていることが分かります。たとえば、このような会話は、言葉になっていることの内容は無内容に近いものです。

「姉上、ぼくはバートラム姉妹をすっかり気に入りましたよ。ふたりともとても上品で、すてきなお嬢さんですね」

「あなたのその言葉を聞いてうれしいわ。でも、どちらかと言うと、ジュリアさんのほうがお好きでしょ?」

「ええ、もちろん!ぼくは断然ジュリアさんの方が好きですね」

「でも、ほんとに?だって普通は、マライアさんのほうが美人だと言われているわ」

「まあ、そうでしょうね。マライアさんのほうが目鼻立ちが整っているし、表情もとても魅力的だ。でもぼくはジュリアさんのほうが好きです。たしかにマライアさんのほうが美人だし、マライアさんのほうが断然すてきだ。でもぼくはジュリアさんのほうが好きです。だって姉上の命令ですからね」

「もうあなたとは口をきかないわ、ヘンリー。でもあなたは、最後にはきっとジュリアさんのほうが好きになるわ」

「ぼくは最初からジュリアさんのほうが好きだと言ってるでしょう?」

「それに、マライアさんはもう婚約しているのよ。それを忘れないでね、ヘンリー。もう決まった人がいるのよ」

「マライアさんはいっそう魅力的なんです。婚約していない女性よりも、婚約している女性のほうがずっと魅力的です。婚約している女性は自分に満足していますからね。もう心配の種がなくなって、自分の魅力を思う存分振りまいても、相手からよけいな邪推をされる心配がありません。婚約した女性は絶対安全です。危害を加えられる心配はまったくありません」

この会話の言葉上からは、クロフォード氏がバートラム姉妹のどちらが好きなのか分かりません。話の流れや、あたかも軽口のように流れる会話、しかも、バートラム姉妹について表面的な外形しか話題になっていない、といったことから、直接的な記述はありませんが、クロフォード氏がバートラム姉妹のどちらの女性も敬意を持っていないことが分かります。ある意味、自身の欲望を充足させる消費物のようなものとしてしか捉えられていないということです。それは、話の内容というより、話す口調などで分かってくる書き方をオースティンはしています。

この後の展開において、クロフォード兄妹は、このように無内容な会話をしているような、表面的に生きている、つまりは人間としては無内容のような人であるために、その場しのぎで刹那的に、自身のあり方を無節操に変化させていきます。その彼らに対する人々の対し方が、そこで表われて、人々の姿が鏡のように映ってくるのです。ここでは、クロフォード氏がバートラム姉妹をそう見ていることから、実は、作者オースティンは、バートラム姉妹の人となりは、そう見られてもしかたのないような見てくれだけの、人格的にはもの足りない人物であることを間接的に読者に示していると言えるのです。実際、小説の中では、マライアとジュリアの発言は、ほとんど書かれておらず、誰かの間接的な話題や地の文による説明で済まされてしまっているのです。

 第6章

バートラム家の残された人々、クロフォード兄妹にラッシュワース氏が加わって、会話を交わしながら、それぞれのキャラクターを浮き彫りにしていきます。

ここで、ラッシュワースがマライアの婚約者として、マンスフィールド・パークに登場します。広大な領地を有しながら愚鈍な人物で、会話の席でも話題に乏しいため、話すことがみつかると、しつこく話題にするという場面があります。その話題というのが、彼の屋敷であるサザトン・コートとその周辺に手をいれ、改良を加えるということです。彼が言うには、友人のスミス氏が所有するコンプトン・コートの改良に成功したということで、とくにレプトンという人物に頼んで仕上げた庭園が素晴らしかった。ラッシュワースは、そのレプトンになら日当5ギニーを払っても惜しくないと言います。このことから、ラッシュワースは誰にでも言われたらさっさと従ってしまうような、しっかりした自己というものを持たない、迎合しやすい愚か者というという性格を読み取ることができるようになっています。しかも、ラッシュワースは「自分ではどうしていいのかわからない」と臆面もなく述べているので、どのように改良したいのかというヴィジョンをもっていないことが明らかです。常識で考えれば、領地を今後はこのようにしたいというヴィジョンがあるから、それにしたがって、現状では不都合が多いから改良しようということになるはずです。しかるに、ラッシュワースは、友人が改良したことに刺激をうけて、改良することが真っ先に考えられている。そういう点に、彼が領地をマネジメントできていないし、その自覚もないことが分かるようになっています。

そして、このサザトン・コートの改良について、話題豊富なヘンリー・クロフォードが一家言あるような発言をしたことで、ラッシュワース氏がサザトン・コートの庭園改良に皆の意見を取り入れたいということになり、そのためにはサザトン・コートを実際に見てみようということになっていきます。このことが第8章で、ファニーとノリス夫人を含むバートラム家とクロフォード兄妹が、サザトン・コートに招待されることになるわけです。

 第7章

この章で、いくつかのポイントとなるエピソードが起こります。まず、ファニーとエドマンドの会話があり、ここでエドマンドがメアリー・クロフォードに対する印象がよいことをファニーに語り、ファニーは見解を異にするも、それをあえて語らず、二人の間に認識のズレが生まれ始める場面です。この時点では、エドマンドはメアリー・クロフォードに対して恋愛感情を抱くまでには至っていませんが、美しく魅力的なメアリー・クロフォードに惹かれるようになり、メアリーに関する話題を、しばしばファニーの前で持ち出すようになります。その話の内容たるや、エドマンドはメアリーを称賛する方向に進んでゆき、ファニーのついてゆけない所まで行ってしまいそうになります。そこに、エドマンドとファニーの間に、メアリーに対する意見の不一致が生じ始めます。そこで、ファニーは、こころをひとつにしていたと感じていたエドマンドとの乖離を意識するようになります。そこで生まれた距離が、ファニーのエドマンドに対する気持ちを自覚させる方向に導かれていくことになります。しかも、エドマンドのファニーへの姿勢は変化がなく(変化して恋愛感情に移行したのはファニーだけです)、ファニーは、それが分かっているゆえに、自覚した自身の気持ちをエドマンドにも、彼以外のだれにも告げることなく、自身の内だけに秘めて、生長させていくのです。そこに、ファニーのエドマンドに対する外面的な態度と、内面の気持ちのズレが生まれ、ファニーという人物の二面性が明らかになってくることにともなって、その葛藤がドラマを生んでいきます。

ファニーは、エドマンドが毎日午前中に牧師館に出かけても、べつに驚きはしなかった。招待もなくこっそり行ってハープの演奏を聴けるなら、自分も喜んで行きたいと思ったからだ。それに、晩の散歩が終わって、両家の人たちが別れるとき、クロフォード氏がマンスフィールド・パークの女性たちのお相手をしている間に、エドマンドは、いつもグラント夫人とミス・クロフォードを牧師館へ送ってゆくのだが、ファニーはこのことも驚きはしなかった。でもファニーは、これは自分にとってはものすごく損な交換だと思った。エドマンドがずっとそばにいてくれて、ワインの水割りを作ってくれないのなら、ワインなど飲みたくないと思った。エドマンドがずっとそばにいてくれて、ワインの水割りを作ってくれないのなら、ワインなど飲みたくないと思った。しかし、ファニーが驚いたのはこのことだった。つまり、エドマンドはこんなに多くの時間をミス・クロフォードと一緒に過ごしているのに、自分が指摘した彼女の例の欠点に、あれ以後はぜんぜん気がついていないようなのだ。ファニーはミス・クロフォードと同席するたびに、あのときと同じ彼女の欠点に気がついて、提督に関するあの不謹慎な発言を思い出すのだが、エドマンドはぜんぜん気がつかないようなのだ。彼はミス・クロフォードのことをたびたびファニーに話したが、提督の話題が出なくなっただけで十分だと考えているようだった。それでファニーも、意地悪と思われたくないので、自分の意見を言うのは差し控えた。

次のエピソードは、メアリーが乗馬を習いたい出だしたことで、ファニーが苦痛を味わうことになったことです。これが、この後、ファニーが度々苦汁を舐めるような思いをさせられることになる経験の最初となるエピソードです。エドマンドはメアリーの願いをかなえてあげるために、ファニーの馬を時々メアリーの練習用に貸してあげることを申し入れ、ファニーは、当初は快く承諾します。初日こそ、メアリーの練習が終わった後でファニーが日課である乗馬による運動をすることができました。しかし、二日目以降、メアリーは乗馬の上達が早いうえに、エドマンドが付き添って教えてくれるのが楽しくて、だんだん止めたくなくなり、予定の時間を超過してファニーを待たせるようになります。けっきょく、ファニーの乗馬の事情は考慮されなくなります。その一方で、ファニーがメアリーが馬を使っているため、自分の乗馬ができなくて、手をこまねいて待っているのを、ノリス夫人が見咎めて、暇なのだからと遣いを言いつけることになります。

ファニーは乗馬の支度をして待っていた。ノリス夫人は、ファニーがなかなか出かけられないので小言を言いはじめたが、馬が戻ったという知らせはまだ来ないし、エドマンドも姿を現さなかった。ファニーはノリス夫人を避けて、エドマンドを探すために家を出ていった。(P.106)

牧師館の牧草地にいるみんなの姿がすぐにファニーの目に入った。エドマンドとミス・クロフォードが並んで馬を走らせ、グラント博士とクロフォード氏と二、三人の馬丁が、まわりに立ってそれを見物していた。とても幸せそうな一団だとファニーは思った。みんなが一つのことに関心を集中させて、ほんとうに楽しそうだ。その証拠に、とても陽気な声がファニーのところまで聞こえてきた。でもそれは、ファニーにとってはぜんぜん楽しい声ではなかった。エドマンドは私のことを忘れているのかしら、とファニーは思って胸が痛んだ。でも牧草地から目を離すことができず、目の前の光景を見ずにはいられなかった。最初、ミス・クロフォードとエドマンドは、牧師館にしては広い牧草地を並み足で一周した。それから、明らかにミス・クロフォードの提案で、普通の駆け足へと速度を上げた。臆病なファニーから見ると、ミス・クロフォードの乗り方はびっくりするほど上手だった。それから数分後に、二人の馬は停止した。エドマンドはミス・クロフォードのそばへ行って何か話しかけ、手綱の使い方を教えるために彼女の手を取った。遠くてよく見えないところは想像力で補ったのだが、ファニーの目にはそう見えた。でもこんなに驚いてはいけない。エドマンドはいつものように人に親切にして、持ち前のやさしさを発揮しているだけだ。これほど自然なことがあるだろうか?でも、ファニーはこう思わずにはいられなかった。エドマンドに代わってクロフォード氏が教えてあげればいいではないか。女性に乗馬を教えるのはお兄さんの方がふさわしいし、礼儀にかなっているのではないか、と。でもクロフォード氏は、いつも自分のやさしさを自慢にし、馬車の運転も得意だと言っているけれど、たぶん乗馬のことは知らなくて、エドマンドほどやさしくないのだろう。それからファニーは、あの牝馬に二重のお勤めをさせるのはかわいそうだと思いはじめた。私のことは忘れられてもかまわないけど、牝馬の疲労のことは忘れないでほしいと思った。(P106〜107)

それは、もともと、第4章でファニーがノリス夫人のお使い、つまり、マンスフィールド・パークから夫人の住居まで徒歩で往復することが、ファニーの虚弱な身体にとって過重な負担であることから、それに代わる運動として乗馬をするためにエドマンドがあてがった馬でした。したがって、ファニーにとっては、ノリス夫人のお使いは身体にとっての苦痛で、後で体調を崩すことになるものなのです。(ノリス夫人は、そのことに関してファニーへの配慮を全くしません。むしろ、こんなことで体調を崩すなんてと、ファニーを責めるのです)ファニーは、ノリス夫人に追い立てられるようにして、やむなく出かけます。その途中で、エドマンドがつきっきりでメアリーが乗馬の練習をしている後景に出会います。作者オースティンは、それをファニーの目を通して、彼女が見て、聞いたこととして描写します。乗馬練習の人々の楽しそうな声が聞こえてくると、「その楽しそうな声のさざめきは、ファニーには楽しくない」という認識がある。これは、自分が疎外されているというファニーの意識を映し出すもので、「エドマンドは自分のことを忘れてしまったのだろうか」という思いに、彼女は「心の痛み」を感じるものになっているのです。ファニーは、「その光景の一部始終から目が離せない」。とりわけ、メアリーがどんな乗り方をしているか、エドマンドからどういうふうに教わっているかを、一挙一動、詳細に観察します。エドマンドがメアリーの近くにいて話しかけ、手綱の扱い方を教えていると見え、彼女の手を取っている─「それをファニーは見た。あるいは目の届かないところは、想像力で補って見た」。遠くから見た眺めなのに、異様に細かく描かれているこの辺りの箇所では、あたかもファニーの視力が増大しているかのようです。見えないものまで、心の目で見えるというファニーの状況は、エドマンドとメアリーの関係が親密になることへの不安を示していて、さらに言うなら、彼女がいかに失恋の苦しみを味わっているかを暴露していると言えます。ここにある表現の誇張は、ファニーの心理状態の不安定さが表われたものと考えることもできます。その一方で、ファニーはエドマンドを悪く思うまいと、自分に言い聞かせるように、「こんなふうに(二人の乗り手によって)二重に仕事をさせられたのでは、馬には辛いだろう」と馬に同情するように自分の思いを転嫁させていって、結局、「自分は忘れられたとしても、かわいそうな馬のことは忘れてもらっては困るのだ」という、自分と馬を同列に並べて、せめて馬のことは思い遣ってほしいと、とファニーの言い分です。これは、馬への思いやりの見せて、実のところ、自己憐憫とひがみの入り混じった皮肉です。ここに、ファニーという女性の、一見おとなしい、品行方正な姿の奥にある屈折した感情がマグマのように渦巻いて、時折、噴射口からでてくと、このような形になって現れるのです。

さらに数日、メアリーの乗馬の練習がつづき遠乗りができるまでなります。ある日、エドマンドは遠乗りから帰宅すると、ファニーが、居間の隅にあるソファーで休んでいて、頭痛のために元気のない様子をしていることに気づきます。エドマンドは、ノリス夫人やレディー・バートラムの話を聞いて、ファニーがしばらく馬に乗ることができず、ノリス夫人の勝手な用事に振り回されて、暑い日差しのなかを歩かされていたことを知ります。エドマンドは、ファニーをこのような状態のまま放っておいたことを悔い、飲み物を取って来て、彼女に勧めます。すると、ファニーは、「飲みたくないと断りたかったけれど、さまざまな思いがこみ上げ涙が出てきて、口をきくより飲むほうが簡単なので、飲むことにした」のでした。

ファニーの不調は、ノリス夫人に無理をさせられてこともありますが、むしろ精神的な要因が大きいのです。「彼女はこの数日間、自分が無視されているように感じ、不満と嫉妬と戦ってきたのだ」と語り手は説明します。ここでは、「誰の」とか「誰に対する」という具体的な主体は省かれていますが、エドマンドに無視されたことが応えて、彼女が不満を感じ、彼とメアリーの関係に嫉妬していたことを示しているのは、明らかです。「頭痛よりも、心の痛みのほうがもっと大きかった。そして、エドマンドの親切による突然の変化によって、ファニーはどうやって自分を支えたらよいのかわからなくなった」ここには、エドモンドへの思いと、その挫折による失望とメアリーへの嫉妬で身体に影響を与え体調を崩してしまうほどの思いの強さ、ファニーがおとなしそうな外見の下で強い感情を秘めていることが示唆されているのです。

その後もファニーは、エドマンドがメアリーへの恋心を募らせ、求婚の意思を固めてゆくさまを、重く沈んだ心で、傍から、あるいは間近で観察し続けることになります。その一方で、彼女はメアリーの欠点を細かく観察し、その本性を見極めようとします。メアリーのほうは、概して、ファニーに表裏のない好意を示しているのに対して、ファニーのほうは、表面の態度と心の中は正反対なのです。

この二つのエピソードは、別々ですが繋がっているように書かれています。それによって、ここではファニーがエドマンドに恋愛感情を抱いていることが明らかになるのです。つまり、この章を境にして、ファニーの秘められた思いは形になって読者の前に現れてきました。

この場合のような、エピソードのひとつひとつを深く掘り下げてストーリー発展させるより、エピソードを並べて、それらが連鎖しているように繋ぎ合わされて、小説の構造が形づくられる。それが、オースティンのユニークさであるとナボコフはいいます。複数のエピソードが人物の動きや何らかの素材によって結びけられ、その結びつきがストーリーを生んでいく、例えば、第4章でのエピソードで、虚弱体質のファニーの運動のためにとあてがわれていたポニーの老馬が死んでしまい、エドマンドが自分の三頭の持ち馬のうちの一頭を「おとなしい牝馬」と交換し、ファニーに使わせることにしてあげました。ところが、この第7章でメアリーが乗馬の練習をするために、馬を提供したエドマンドが、ファニーからその馬を借りることを申し出る。結果的にファニーは乗馬による運動の機会を奪われて、ノリス夫人の酷使に長時間耐え忍のばなければならなくなります。エドマンドはこのことに後で気がついて愕然とします。ナボコフはこのようなエピソードの連鎖について、それは馬に関係したことなので「馬の主題」と呼んでいます。ナボコフが注目するのは、その後で若い人々が馬に乗ってマンスフィールド共有地にでかけたことで、ここから、風光明媚な場所に遠出する計画に発展します。それが、サザトン・コート訪問の計画に結実していきます。ナボコフは、「馬の主題」から「脱出行の主題」への移行と呼んでいることです。

 第8〜10章

重要な場面であるサザトン・コートへの訪問は3章に分けて語られています。サザトン・コートはバートラム家の長女マライアと婚約したラッシュワースの領地で、バートラム家よりも広大で、多くの収入をもたらしているところです。それが第6章においてラッシュワースがマンスフィールド・パーク訪問したときの会話がきっかけとなって、バートラム家の人々とクロフォード兄妹が招待されることになり、ちょうどヘンリー・クロフォードが大型馬車を所有していたため、その馬車で訪問することになりました。当初は、その訪問メンバーの中にファニーは入っていなかったのですが、バートラム夫人とノリス夫人の反対をエドマンドが説得するという、第4章でファニーの馬をあてがったときと同じような議論が3人の間で交わされ、ファニーがエドマンドに感謝する、それだけに終わらず愛情を強めていくという、同じことが繰り返されました。同じような場面は、牧師館のグラント博士からの食事への招待に応じることを認めることや、ダンス・パーティーを開くことなど、繰り返されることになります。そして、その繰り返されるにしたがって、反対、つまりはファニーに対する障害が弱くなっていくことになります。それは、つまり、ファニーの立場が、マンスフィールド・パークにおいて重くなっていく、その段階が違いとして見えてくる繰り返しでもあるのです。この時点では、障害は強いもので、エドマンドの説得はたいへんでした。

このサザトン・コートの訪問は二つの三角関係を明示してしまうことになりますが、その前哨戦のように、行きがけの馬車において、御者席のヘンリー・クロフォードの隣に誰が座るかをめぐって、バートラム姉妹の心に確執が生じます。このとき以降、マンスフィールド・パークでのお芝居ごっこがサー・トマスの帰還によって中止させれらてしまうまで、姉妹の確執は、あからさまに続けられていくことになります。

この小説の中の大きな見せ場のひとつが、サザトン・コートの庭園の散歩、とりわけ、ベンチに腰かけて休んでいるファニーに対して、登場人物が入れ替わり登場して去っていく、まるでベケットの「ゴドーを待ちながら」のようなファニーのいるベンチで定点観測しているような場面です。これは、マンスフィールド・パークに人物たちが出たり入ったりを繰り返すという小説全体の構造の縮図のような場面で、それだけに各人物のありようや相関関係が凝縮されて明らかになります。とりわけ、エドマンド、ファニーにメアリー・クロフォードを加えた三角関係と、マライアとジュリアのバートラム姉妹とヘンリー・クロフォードの三角関係とそこにラッシュワースが絡んでくる関係が、ここで明確に示されて、今後の物語の流れを引っ張っていくものとなっていきます。一行は建物を見学した後は、庭園を散策し始めます。森の中のくねくねした径を歩いているうちに、一行は三つのグループに分かれてゆきます。第一はマライアとヘンリー、ラッシュワース、第二はエドマンドとメアリー、ファニー、第三はジュリアとノリス夫人、ラッシュワース夫人の三つです。径を進んでいくと鉄門があり,鍵がかかっていてそれより先に進むことができない。その門の脇にベンチがありました。第一のグループは先頭を歩き、エドマンドとメアリーに比べて体力で劣るファニーは歩き疲れ、それだけでなく、二人の会話がはずんでくるのを一方的に聞かされることに、疎外感と嫉妬にとらわれた精神的な疲れもあったのでしょう。会話が盛り上がっている二人は、歩き足りないのか、疲れたファニーをベンチで休憩させたまま、さらに森の中へと入って行ってしまいます。ひとり取り残されたファニーが、二人の帰りを待っているところへ、第二のグループがやって来ます。鍵のかかった鉄門の向こうにあるパークに入れば、屋敷全体が見渡せる丘があると言うマライアの提案ですが、ラッシュワースは、愚かなことに鉄門の鍵を忘れてきて、皆を門前に待たせて、自分は屋敷まで急いで鍵を取りに帰ることになりました。本来ならば、領主であり皆を招待したホストであるはずなので、この森の径のことはよく知っているはずであり、招待した客をどのように案内すべきかを予め考えているのが当然であるはずです。そこで肝心の鍵を忘れたということは、地主として、領地を把握しきれていないか、彼の愚鈍さが、図らずも明らかになっているところです。彼がその場を去ったあと、残されたヘンリー・クロフォードとマライアがどのような会話を交わし、いかなる行動をとったか、その一部始終をファニーはじっと観察していました。

「サザートンをこれほど楽しく見ることは、もうないでしょう。来年の夏には、ここがぼくにとって、よい場所になっているとは思えない」と、ヘンリーは土地の改良にからめて、マライアに思わせぶりなことを言います。これを聞いたマライア手はぎくりとします。つまり、来年の夏には、あなたが結婚してしまっているから、面白くない、という裏の意味が、マライアに伝わったわけで、彼女も含みのある言葉を返して、ヘンリーの真意を確認するのです。

そのあと二人は、次のように、比喩的な表現を通して、さらに意味深長な会話を続けます。

「今朝ここへ来るときのドライブは、とても楽しそうでしたね。あんなに楽しそうなあなたを拝見して、私もうれしかったわ。あなたとジュリアはずっと笑いどおしでしたもの。」

「えっ、そうですか?そうですね、そうでしたね。でも、なんで笑っていたのか覚えていないな。あ、そうだ、ぼくの叔父の家の、アイルランド生まれの年老いた馬丁のことで、ばかばかしい話をしていたんです。あなたの妹さんは、笑うのが大好きですからね」

「私より妹のほうが陽気だとお思いなのね」

「笑わせるのが簡単なんです」とクロフォード氏は答えた。そしてほほえみながら、「だから、お相手をするのが簡単なんです。相手があなたなら、十マイルのドライブのあいだ、アイルランドの馬鹿話で楽しませようとは思わないでしょうね」

「ほんとは私も、ジュリアと同じくらい陽気だと思うわ。でも今はいろいろ考えることがありますから」

「もちろんそうでしょうね。それに、陽気すぎるのは無神経さを示す場合もありますからね。でもあなたの将来は順風満帆なんだから、あなたが陽気さを失うなんてことはあり得ないでしょう。あなたの前には晴れやかな光景が待っているんですから」

「それは言葉どおりの意味ですか?それとも比喩的な意味ですか?言葉どおりの意味ですわね。そうね、たしかに、たしかに私の前には太陽がさんさんと輝き、ひろびろとしたパークがとても気持ちよさそうだわ、でも残念なことに、あの鉄柵の門と隠れ垣が、私に束縛と苦難の道を感じさせるわ。あのムクドリが言うように、「私はここから出られないわ」」

マライアは、思い入れたっぷりにそう言うと、鉄柵の門のほうへ歩いていった。クロフォード氏もあとにつづいた。

「ラッシュワースさんは、鍵を取ってくるのにずいぶん時間がかかるのね!」とマライアは言った。

「あなたはその鍵がなければ、そして、ラッシュワース氏の許可と保護がなければ、絶対にここから出られないというわけですね。でも、ぼくがちょっと手を貸してあげれば、門の端から簡単に出られますよ。あなたがほんとうに自由になりたいと思っているならね。そして、それは禁じられたことではないと思えるならね」

「禁じられたこと?ばかばかしい!もちろん私はここから出られるし、絶対に出てみせるわ。ラッシュワースさんはすぐに戻ってくるでしょうから。私たちを見失うことはないわ」

「たとえ見失っても、ミス・プライスにことづてをしていけば大丈夫ですよ。ぼくたちはあの小さな丘にいるって。丘の上の、オークの木立ちのあたりいるって」

ファニーは、これはいけないことだと思い、やめさせようと思って大きな声で言った。

「マライアさん、そんなことをしたら怪我をするわ。忍び返しで怪我をするわ。服も引っかかって破れるわ。隠れ垣の溝に落ちる危険もあるわ。そんなことはやめたほうがいいわ」(P.152〜154)

この部分はほとんど会話が直接書かれています。最後の一文で、ファニーが会話をすべて聞いていたことがわかるようになっています。つまり、ここでファニーはベンチに座っていたのですが、読み手の視野から意図的に外されているようにかかれています。おそらく、ヘンリー・クロフォードとマライアの視野からも外れていたものと考えられます。マライアは、自分が籠の中の鳥のように不自由な身だという言い回しを通して、自分にとってラッシワースとの結婚が「束縛と苦痛」にすぎないことを仄めかします。それに対してヘンリーは、ここで「鍵」に象徴される夫の権威と保護がなくとも、マライア自身が望むなら、自分の助けを借りて門の脇を通り向こうへ行けるというような、かなり露骨な言い回しで誘惑しています。すると、大胆になったマライアは、「自分は禁じられていない」と言い放ち、ラッシワースを待たずにヘンリーと二人で、門の端を通って行こうとするのです。この出来事は、後に結婚生活に行き詰まったマライアが、ヘンリーと駆け落ちすることを予示していると言えるでしょう。

「これはすべてよくないことだと思ったファニーは、その行動を止めさせようと努めざるをなかった」とあることからも、ファニーが、二人の危険な雰囲気や言葉の奥に含まれた意味を、すべて読み取っていたことがわかります。ファニーは、ここに何か悪の匂いを嗅ぎ取っています。

二人が去ったあと、遅れをとったジュリアがやって来て、悔しげに二人の後を追ってゆくさまも、ファニーは観察しています。次に、鍵を取って来たラッシワースが現れ、自分がひとり取り残されことを知って、屈辱感と嫉妬を露わにします。次の箇所は、ラッシワースとファニーの会話です。

しばらくの沈黙のあと、「ぼくを待っていてくれてよかったのに」とラッシュワース氏が言った。

「マライアさんは、あなたがあとから来てくれると思っていますよ」とファニーは言った。

「彼女が待っていてくれたら、ぼくが追いかける必要はないんだ」

たしかにそのとおりなので、ファニーは何も言えなかった。またしばらくの沈黙のあと、ラッシュワース氏はつづけた。「ねえ、ミス・プライス、みんなはクロフォード氏をすごく誉めるけど、あなたも彼をすてきだと思いますか?ぼくはぜんぜんそうは思わないないけど」

「私も、クロフォードさんが美男子だとは思いません」

「美男子?あんな背の低い男を美男子だなんて、誰も思いませんよ。5フィート8インチもないかもしれない。彼は醜男ですよ。ぼくの意見では、あのクロフォード兄妹は何の役にも立たない。あのふたりがいなくても、ぼくたちは十分位立派にやっていける」

ファニーは小さなため息をもらし、どう答えていいか困ってしまった。(P.157〜158)

ファニーはラッシワースをなだめながらも、彼の言い分がもっともだと納得します。「クロフォード兄妹なんか、加わらなくてもよかったんだ。いなくても、我々は楽しくやっていたのだから」というラッシワースの言葉を聞いて、「ファニーはかすかな溜息をもらした。どう反論してよいかわからなかったのだ」と作者は書きます。この最後の一文の「溜息」とは何か。メアリー・クロフォードなんか現れなければ、エドマンドの心が奪われることもなく、楽しくやっていたのに─という自らの想いと、ラッシワースの言葉が重なり合ったため、反論できないというより、むしろ同様に置き去りにされた立場にある身として、強い同感から思わず漏れた溜息だった。

このベンチの場面において、鉄門で径の先が遮られていて、その先に眺めの良い丘があるということ、その鉄の門は柵のような形状、つまりは鳥かごに擬せられるものでしょう。その鉄門には鍵がかけられている。それを越えるには、鉄柵に引っ掛けて怪我をしたり、衣服を破いたりするリスクがある。これらは、まるで演劇の舞台装置のように象徴的な意味合いを持たせられています。しかも、それをベンチに座ってすべてファニーが距離をおいて客観的に観察しているという舞台の観客なのです。その観客にも登場人物と関係する境遇がある。それを読者が見ているというメタ演劇という構造がここにあります。リスクをおかして鉄門をこえたヘンリー・クロフォードとマライアは、その後の駆け落ちを、ジュリアはイェイツとの駆け落ちを象徴的に予告しているし、鉄門をこえないで戻ってきたエドマンドとメアリー・クロフォードは最後まで行かずにすんでのところで引き返す、つまりは結婚に至らない将来を暗示していると言えます。

次に挙げられることは、サザトン・コートの描写とその意味です。小説の中で作者はマンスフィールド・パークの建物や領地の情景描写を敢えて書かないでいるようなのに対して、このサザトン・コートの情景を念入りに描写しています。例えば、マンスフィールド・パークから10マイルほどの旅程を経て,馬車はサザトンの領地に入り、森の中を抜けると、エリザベス朝に竣工した立派な屋敷が馬車からの視界に入ってきます。ファニーはこんなふうにその風景に夢中になってしまう。

「私はああいうふるいお屋敷を見ると、尊敬の念を抱かずにはいられません。並木はどこにあるんですか?お屋敷の建物は東向きですね。そうすると、並木はお屋敷の裏側にあるんですね。ラッシュワースさんは、建物の西側に並木があるとおっしゃっていましたから」(P.129)

建物は所有者への敬意をかき立てる立派なもので、何度も訪問したマライアの説明によれば,特に教会の尖塔が優美な姿を誇っているらしい。樫の林はラッシュワース家の盤石な経済基盤の反映のようだといい、立派な荘園領主の威風堂々とした家屋敷が提示されています。

ところが,見かけの立派さとは対照的に,屋敷の内部は敬意をかき立てるものではなかったようです。眺望を楽しめる設計になっておらず,不必要に部屋数が多かった。これでは窓税の支払いが大変だし,女中の仕事を増やすばかりと思えたものです。特にひどいものは礼拝堂でした。一家の魂の拠り所と思える礼拝堂がまったく重々しさを欠いており,やたらに広くてマホガニーの家具調度品が多く,礼拝道具がただ置いてあるだけだったのです。この屋敷についての語りは、ファニーの視点で語られていると思われます。というのも、ファニーは傍らにいたエドマンドに、こんなふうに自分の考えていた礼拝堂のイメージと現実の礼拝堂の姿とのズレを言うからです。

「私が考えていた礼拝堂とぜんぜん違うわ。この礼拝堂には、敬虔な感じも、物悲しい感じも、荘厳な感じもないし、側廊やアーチもないし、碑文や軍旗もないわ。「天の夜風になびく」軍旗もないし、「スコットランドの王、ここに眠る」という碑文もないわ」(P.133)

実は、この礼拝堂は本当に古い格式あるものであったのですが、長きにわたって使用されず、ただ見るだけの設備に変わってしまったために、ファニーが話しているようなものに見えるのです。家人たちに使われてきた伝統がこの礼拝堂には欠けているということです。礼拝堂は立派だけれど信仰という中身がない器のようなものです。ここでは、そのことに気付いているのはファニーとエドマンドの二人だけです。むしろ、メアリー・クロフォードはその伝統を堅苦しい束縛として殊更に批判してみせます。これは、彼女が、このときエドマンドに愛情を感じ始めており、結婚相手として彼を考えると、彼が公言している牧師になるということが、彼女にとって受け容れ難いことであることと関連してのことでしょう。このあと、先ほど触れた森の中の散歩において、メアリー・クロフォードとエドマンドの二人は、彼が牧師になる事について熱い議論をたたかわすことになります。

ここで話をまとめると、サザトン・コートの描写は、間接的にマンスフィールド・パークよりも規模が大きく豪華な屋敷や庭園、広大な領地を詳しく描写していて、マンスフィールド・パークの描写を敢えて避けているように見えるのは不釣合いです。ササン・コートを見たファニーの興奮ぶりから、比較してマンスフィールド・パークが取るに足らないものであることを、無言で示唆している。ここに、マンスフィールド・パークをこよなく愛しているファニーの態度にすら表れているアイロニーと、ファニーですらそうなのですから、それ以外の人々の心はマンスフィード・パークから離れてきていることが暗喩的に予告されている。それが、より立派なサザトン・コートでは実質的な当主であるラッシュワース夫人の心が離れてきていることなどから空洞化が進んでいるわけです。それが実体化したのが礼拝堂なのです。

 第11章

アンティグアのサー・トマスから手紙が届き、仕事を終えて、ようやく帰ってくることが知らされます。しかし、彼の娘であるバートラム姉妹は、それを自由で解放された時間の終わりと受け止めます。とくに、マライアは、サー・トマスの帰宅により、ラッシュワースとの結婚式をあげることになるのです。この時点では、ヘンリー・クロフォードとの関係をモラトリアムとして満喫しようというのでしょうか、それが、この後の芝居ごっこの盛り上がりのひとつの動機になっていきます。

そして、この章の大半はメアリー・クロフォードとエドマンドにファニーの加勢があって、牧師という職業に関する議論です。それは、メアリーが好意を持っているエドマンドが牧師になる事に対してメアリーが反対であるからです。彼女が牧師という職業を嫌う理由は、姉のグラント夫人が牧師の妻として苦労しているのを見ているからです。

「ええ、もちろん、牧師になる人はとても真剣よ。苦労して収入を得るよりも、安定した収入を好むという点にかけてはね。そして一生、食べることと、飲むことと、太ること以外は何もしないという点にかけてはね。でもそれは怠惰ということだわ、バートラムさん。それは怠惰な生活であり、安逸をむさぼるということだわ。立派な野心もないし、すばらしい友達を得ようともしないし、人を楽しませようという努力もしないのよ。そういう人が牧師になるのよ。牧師はただ不精でわがままなだけよ。新聞を読んで、お天気を見て、奥さんと口喧嘩して一生を終えるのよ。教会の仕事は、副牧師が全部してくれるし、本人の大事な仕事は、おいしいご馳走を食べることだけだわ」(P.169)

これに対して、エドモンドとファニーは、グラント博士の非を認めつつも、牧師という職業そのものは尊敬に値すると食い下がるのですが、メアリーの牧師嫌いは改まる気配がない。

メアリーが、ここまで執拗に牧師への嫌悪を語るのはグラント博士への嫌悪だけにとどまらず、エドマンドを結婚相手として考える時にロンドンの社交界での享楽的生活が染みついてので、牧師館の退屈な生活に耐えられないという、実際的な理由もあったと考えられます。それは、メアリーが結婚に求めるもの、彼女がマンスフィールド・パークに現れたときから、「有利な結婚」が彼女の人生の目的であることを公言していたことによるものです。彼女にとって、結婚は相手から最大のものを期待しながら、自分自身は一番不正直に振舞うという駆け引きを伴う取引なのです。メアリにとっては、エドマンドが就こうとしている牧師という立場は、弁護士や軍人と同じく単なる職業選択上の選択肢の一つでしかありえないし、しかも一番無価値で無意味な職業でしかないというわけです。そのような方向性で、一般論として牧師という職業を批判しています。

「牧師に何ができるって言うの?男性はみんな有名になりたいと思っているし、ほかの職業なら、頑張れば有名になれるかもしれないけれど、牧師じゃだめだわ。牧師じゃ、有名になれる望みはまったくないわ」(P.142)

メアリーは、牧師では社会的なステイタスを得られないと言います。これに対してエドマンドは、牧師という仕事は

「現世的な問題においても、永遠的な問題においても、人間にとって最も重要な問題にたいする重要な任務な任務をもっているのです。つまり牧師は、宗教と道徳を守る任務を持っているのです。そして、宗教と道徳の影響力の所産である風俗習慣を守る任務を持っているのです。このような任務にまったく意味がないなどとは言えないはずです」(P.142)

メアリーとエドマンドの主張は平行線のままです。

「牧師がそんな重大な任務を背負っているなんてきいたこともないし、私にはまったく理解できないわ。あなたのおっしゃるような牧師の影響力や重要性は、社交界ではあまりお目にかかれないし、だいいち、牧師が社交界に顔を出すことはめったにないんですから。そんな影響力を示せるはずがないわ。」(P.142)

ただ、ふたりの主張の読んでいると、現代の世俗化された資本主義社会の人間には、メアリーの主張は至極真っ当です。べつのところで、メアリーは「私がいままで聞いたなかでは、収入が多いということが、幸せになるための一番いい方法だと思うわ」(P.321)と断言します。エドマンドがあなたはお金持ちになるつもりかと問うと、メアリーはみんなそうでしょ、と答えます。そして、エドマンドが主張するような「節約と倹約に努め、収入に合った生活をする」という誠実で正直な生き方を認めつつも、「でも、ねっと高いところを望めるのに、その中間で満足するような人は軽蔑するわ。せっかく栄誉を手に入れられるかもしれないのに、低い身分で満足するような人は軽蔑するわ」(P.323)これは、現代の資本主義社会では向上心として当たり前のことです。これに対して、エドマンドや彼に味方するファニーの主張は秩序維持のための建前を主張している、ちょっと欺瞞のように映ります。それは、マンスフィールド・パークという彼らが生きている場そのものが、ある種の欺瞞の上に成り立っているものと、現代からは見えるからです。この「マンスフィールド・パーク」という小説はファニー・プライスとエドマンドのラブストーリーという面とは別に、バートラム家の拠点であるマンスフィード・パークという欺瞞の上に建てられた家の自壊を記述した叙事詩という面を読むことができるのです。そういう視点では、クロフォード兄妹は軽薄で不道徳な人々というよりも、旧態依然のまま延命しているマンスフィールド・パークの欺瞞を突いて、取って代わる次の世代(小説の中では退場してしまいますが)を表していると解釈することもできるのです。

この章の最後に、そのような欺瞞を宿しながらも、そこにいる人たちにとっては掛け替えのないところであり、そのことをファニーがしみじみと述懐しています。しかし、それを意識しているのは、この秩序の維持に躍起になっているとサー・トマスとファニーの二人なのです。

「ここには調和があるわ。安らぎがあるわ。絵や音楽では表現できないもの、詩にしか表現できないものがあるわ。人間のあらゆる悩みを静めてくれて、人間の心を喜びで満たしてくれる何かがあるわ。こういう夜の景色を眺めていると、この世に悪や悲しみなどあるはずがないと思えてくるわ。人々が自然の崇高さにもって目を向けて、我を忘れてこういう景色を眺めれば、この世の悪や悲しみはもっと少なくなるはずよ」(P.174)

 第12章

アンティグアからサー・トマスがマンスフィールド・パークに帰るのは11月の予定ですが、同行していた長男のトムは一足早く9月に戻りました。

 第13〜19章

物語前半の最大の見せ場である素人芝居の騒動です。これに、オースティンは7つの章を費やしています。

まず、この騒動のいきさつから見ていきましょう。アンティグアから一足早く戻ったトムですが、放蕩壁をサー・トマスに咎められ鍛え直す目的でアンティグアに同道したわけです。したがって、トムの早期帰宅は、留守が長期化したことを気になったサー・トマスが、マンスフィールド・パークを守ることを期待されてのことだったはずです。ところが、トムはリゾート地で知り合ったイェイツなる人物を連れて来ます。イェイツは貴族の次男だが、軽薄な放蕩者で、彼こそが素人芝居を提案することになります。結果的に、トムはマンスフィールド・パークの秩序を守るために早く帰ることになったのに、逆に騒動を持ち込む秩序紊乱者となってしまうわけです。ここに作者オースティンの皮肉な目を想像することができますし、マンスフィールド・パークもしくはバートラム家の崩壊が避けられない叙事詩的なエピソードである(それにしては皮肉で喜劇的であるのはオースティンという作家の性格なのでしょうが)と言えます。

これに対しては、エドマンドとファニーが反対します。その理由は、第一に、サー・トマス、深刻な経済事情のために危険をおかして遠方の地に赴いている留守中に良俗に反する派手な振る舞いをすることは好ましくないこと。第二に、未婚の女性がいて、しかもマライアは婚約中という大事な時期に不謹慎なことは慎むべきであること。しかし、反対するのは二人以外になく、バートラム家の人々は実はバラバラであることがあきらかです。芝居をすることの是非に関しては、この後で演目が『恋人たちの誓い』という不道徳な作品に決まると、ファニーはエドマンドの分別に期待します。次善の場合として、演目を穏やかなものに変更させることも含めて。ファニーにとっては、エドマンドが反対していることが、自分の反対している立場の拠り所でもありました。というのも、ファニーの本心には迷いがあり、実のところ演技のような人前で派手なことをするのは生理的に受け付けないということが本音にあったと思います。トムからつよく役を引き受けることを頼まれ、ノリス夫人から嫌味を言われいたたまれなくなったところを、メアリーに助けられ、次のように迷いをひとりごちるのです。

「みんなからあんなに熱心に頼まれて懇願されていることを断るのは、ほんとうに正しいことだろうか?あの役を私が引き受けることは、この計画に必要なことであり、しかもこの計画は、私が最高にご恩返しをしなくてはならない人たちが、絶対にやると決めた計画なのだ。それを断るのは、ほんとうに正しいことだろうか?舞台に立って人前に出るのが怖いだけではないだろうか?エドマンドは、サー・トマスが絶対に反対すると確信して、この計画に反対している。でも私がエドマンドの判断に従って、ほかのことはいっさい断るのは、本当に正しいことだろうか?」(P.233)

つまり、ファニーは倫理的に正しい態度をとり続けていたわけではないのです。これは、後で唯一の反対者としてサー・トマスに評価され、小説の後半ではファニーの主人公としての存在感が増してくるのに従って、彼女が倫理的であるかのように描写されていきますが、実は、彼女自身にも迷いがあってのことであり、エドマンドが頼みだったというのが実状だったのです。しかし、エドマンドは、メアリーの魅力に抗し切れず相手役を引き受けてしまいます。サー・トマスが不愉快に思うのは明らかであるし、ずっと首尾一貫性の無さに、ファニーはメアリーの影響を感じ取ります。(上の記述は直接話法による発言ですが、下の記述は地の文で、内心の声になっています)

エドマンドが芝居に出るなんて!最初からあんなに反対していたのに!反対するのが当然だし、みんなの前であんなに反対していたのに!私は彼の意見も聞いたし、表情も見たし、どんな気持ちか全部わかっているつもりだ。こんなことがあり得るだろうか?あのエドマンドに、こんな矛盾したことができるのだろうか?彼は自分をいつわっているのではないだろうか。彼は間違ったことをしているのではないだろうか?ああ!これはすべてミス・クロフォードのせいなのだ!ファニーはエドマンドの言葉一つ一つに、ミス・クロフォードの影響をはっきりと感じ取り、ものすごく悲しかった、ついさっきまで自分を苦しめていた、自分行動に対する迷いと不安は、かれの話を聞いているあいだしばし忘れていたが、いまはもうどうでもよくなってしまった。(P.239)

ファニーはエドマンドの心変わりを許すことはできず、しかも悲しい気持ちになるという嫉妬と動揺でいっぱいになります。しかも、エドマンドが芝居に参加することになったことで孤立してしまいます。そのような立場に追い込まれたことで「サー・トマスのことを考えると、絶対に反対しなければならないことの素人芝居に、私が参加するわけには行かないのだ」(P.243)とかえって決意を固めることになりました。ファニーは参加を拒否することによって、傍観者になりました。

また、芝居のための舞台をしつらえるためにマンスフィールド・パークに手を加えるという目に見える破壊行為が行なわれることになります。しかも、サー・トマスというマンスフィールド・パークの秩序と権威を象徴する部屋を楽屋にし、渾沌と喧騒の場へと変えてしまうのです。これは、内側の崩壊を外形化して象徴的に表していると言えます。このことは、また、他方で「改造する」という主題のつながりで、あらわれてきている、これは、ラッシュワースのサザトン・コートの改造、これはファニーたちが出かけて演じた見せ場でもあります、との関連が見えてきます。

この後、二人の反対にもかかわらず素人芝居の話は進められていきます。そこで演目選びで次は、誰がどの役を演じるかという問題でもめ、ヘンリーの相手役をめぐってバートラム姉妹が争い、結局、負けたジュリアが気分を害して仲間から抜けるという事態になってしまいます。要するに、芝居をめぐって人々のエゴイズムが衝突し合うさま自体が、人間模様のドラマのような様相を呈していて、それを、ファニーがひとり観客として、傍から眺めているという状況になります。

ここで、演目である『恋人たちの誓い』について簡単に説明しておきましょう。18世紀ドイツの劇作家コツェビューの原作を、インチボルド夫人によって英語版に翻案され、1798年に出版されたものです。劇の配役は次のようになります。

ウィルデンハイム男爵:イェイツ

カッセル伯爵:ラッシュワース

アンハルト:エドマンド・バートラム

フレデリック:ヘンリー・クローフォド

執事,家主,農夫:トム・バートラム

アガサ:マライア・バートラム

アミリア:メアリ・クローフォド

農夫の妻:グラント夫人

この作品では、ある貴族の父と娘がそれぞれ、本来の相手と連れ添うことになります。ウィルデンハイム男爵は女中のアガサと関係を持ち、男子フレデリックをもうけました。しか,男爵は家の事情のゆえにアガサを捨て、貴族の娘と結婚しなければなりません。アガサは成長したフレデリックを兵隊に取られ、貧困のうちに倒れてしまいます、再会した息子に救われます。こで、アガサは息子に父親がウィルデンハイム男爵であることを告げます。男爵は息子に面会し、彼を引き取ることにします。

そして、牧師アンハルトに関わる筋書きが、ここで劇の進展に介入してきます。ウィルデンハイム男爵にはアミリアという娘がいますが、彼女は牧師アンハルトと愛し合う仲なのです。アンハルトとアミリアは男爵を説得し、アガサを妻として迎えることに同意させます。男爵は家のために娘をカッセル伯爵と結婚させようとすますが,アミリアは拒みます。彼女はアンハルトへの愛が誠であることを父に告げ、牧師との結婚を父に承諾させます。こういった内容の家庭劇です。

この芝居は、アガサと男爵の結婚、アメリアとアンハルトの結婚というハッピー・エンディングで終わりますが、不義密通という不道徳なテーマが含まれています。男爵が女中のアガサを誘惑したあげくに捨ててしまい、生まれた不義の子フレデリックが、長じて父に再会するという話や、男爵の娘アミーリアが、牧師アンハルトに愛を告白するという話など、『マンスフィールド・パーク』の物語全体と、内容のうえで微妙に呼応し合う要素を含んでいるといえます。

そのうえ、『マンスフィールド・パーク』の物語の人間関係と芝居の配役とが微妙に重なり合います。この配役が人間関係を煽るように影響を及ぼしていくことになるのです。アガサを演じるマライアはラッシュワースと婚約しているにもかかわらず、ヘンリー・クロフォードに思いを寄せており、彼の演ずるフレデリックとは母と子として親密に心を通わせる関係を演じることになります。この配役が決まったことで、サザトン・コート訪問で明らかになったヘンリー・クロフォードをめぐるバートラム姉妹の三角関係に決着がつくことになり、ジュリアの失恋が決定的になります。

ヘンリー・クロフォードは、明るい丁重な言葉づかいで言ったが、ジュリアとしては、話し方よりも内容のほうが重大な問題だった。それにジュリアは、姉のマライアへの目配せを目撃し、自分が侮辱されていることをはっきりと悟った。最初からそういう計画だったのだ。そういう策略だったのだ。彼は私などどうでもよくて、マライアのほうが好きなのだ。マライアは勝利のほほえみを必死にこらえている。マライアと彼の間ですっかり了解ずみなのだ。そう思うとジュリアは怒りがこみあげて、すぐには口もきけないほどだった。(P.206〜207)

この引用の最初の文章の前半は客観的な立場に語り手はいますが、後半以降はジュリアの目で見たところを語っています。ここにもオースティンの語りの特徴が表われています。ヘンリー・クロフォードとマライアが示し合わせて配役を決めるような関係にあったということをジュリアが悟り、敗北を思い知らされるということですが、ここで注目すべきは、三角関係の解消を敗北者であるジュリアの視線で書いていることです。この芝居の稽古を通じて、マライアとヘンリー・クロフォードの親密さが増していくことが読者にはわかりますが、そのことは小説の中で直接には書かれていないのです。それはジュリアの嫉妬と失望の光景だったり、ラッシュワースの嫉妬の愚痴、あるいはファニーの観察の中で間接的に語られるのです。

ファニーが見たところ、マライアがラッシュワース氏を避けているのは明らかであり、また、マライアとクロフォード氏が登場する第一場の稽古が必要以上に多いことも明らかだった。(P.251)

ちなみに第一場は母と息子が感動の再会をして抱き合う場面があるのだそうです。このマライアとヘンリーの配役に対して、ラッシュワースが演じるカッセル伯爵は愚鈍な男で、ラッシュワースはそれを演じることで現実の価値をますます貶めることになり、実際のところ42個の台詞に戸惑うラッシュワースは愚鈍さをさらけ出してしまうのです。それはつまり,マライアが彼を金持ちとはいえ見限るのに理由を説明するものとなってしまいます。そして、牧師アンハルトに積極的な女性のアミリアが言い寄るのは、エドマンドを口説こうとするメアリーの姿を反映しています。当初、メアリーは家督相続者である長男のトムを結婚相手として想定したものを、次男のエドマンドに鞍替えし、彼に対して牧師という職業の無価値さを説き、世俗的方向に頭を向かわせようとしたのも、自分と同じレベルまで彼の価値観を貶めようとした行動の一環といえます。つまり,エドマンドにも聖職禄が与えられることには間違いはないであろうし、いずれは愚か者のトムの跡継ぎとなってマンスフィールド・パークの家長になることも期待できるので、この次男坊でもそれほど悪い選択でもないという判断です。彼女は、この芝居の稽古を通じて本気でエドマンドを口説く姿勢を強めていくことになります。

一方、ファニーも、この芝居への参加をトムをはじめとした人々に強くせがまれることになります。彼女に求められたのは農夫の妻の役で、農夫そのものが脇役だから、その妻は端役にすぎません。しかし、そんな端役でもファニーは頑強に拒否し続けます。バートラム夫人の姪にあたりバートラム家の中でも核心の一員ではないマンスフィールド・パークの秩序の維持に本来最も遠い位置にあるファニーが、サー・トマスを思い遣り、最も強く秩序の維持にこだわるのは皮肉以外の何物でもありません。しかも、本来なら監督者の立場で芝居に反対すべきノリス夫人が唯一虐められる対象であるファニーをひどく責め、皆のために農夫の妻を演じるように迫るのです。たとえば、こんな風にです。

「あら、私は無理強いなんてしていませんよ」ノリス夫人は鋭い調子で答えた。「でも、私やいとこたちの、こんな簡単な頼みも聞けないようなら、ファニーはすごく強情で、恩知らずな子だと思いますよ。自分の生まれ育ちを考えてごらんなさい、ほんとに恩知らずですよ」(P.225)

エドマンドが守ってくれても、ノリス夫人は引き下がろうとしないので、とうとう、ファニーは涙を流しそうになってしまう。そこで、クローフォド嬢が一瞬の判断で、こんな思いがけない行動に出ることになります。

ミス・クロフォードは目を丸くしてノリス夫人を見つめ、それから、目に涙を浮かべはじめたファニーを見ると、ちょっときつい調子で、「ああ、暖炉のそばはいやだわ。私には暑すぎるわ」と言って自分の椅子を、テーブルの向こう側のファニーのそばへ移動させて、そこに腰をおろし、やさしいささやき声でファニーに言った。「気にしちゃだめよ、ミス・プライス。今日はいやな晩ね。みんな機嫌が悪くて、意地悪なことばかり言うわね。でも気にしちゃだめよ」

ミス・クロフォードは、さっきのエドマンドとのことで、自分も気落ちしていたのだが、ファニーにたいしてやさしい心づかいを示し、絶えず言葉をかけて元気づけてあげた。そして、テーブルの連中がこれ以上ファニーに声をかけないようにと、兄のヘンリーに目配せをした。(P.225)

メアリーは、エドマンドに気に入られようとしてファニーに助け船を出したのかもしれません。そうではなく,本当に純粋に衝動から弱者のファニーに対していたたまれない気持ちになって、瞬間的に彼女をノリス夫人の悪意から救い出したのかもしれません。何ともいえませんが、メアリーにはもともと善良なところがあって、その場の刹那的に限ってという条件がつくのですが、叔父の提督による悪影響やロンドン社交界の軽薄な風潮などによって、エドマンドやファニーのように倫理として内面化されなかった人であることを示していると見ることもできると思います。オースティンは、人間を一面的にではなく、こうした複雑で矛盾した人間性が同一人物の内部に共在していることを示し得た作家です。内部に矛盾を抱えたメアリーという人物が、それゆえに、アンチ・ヒロインでありながら、この小説の中でも、もっても生彩があり、魅力ある人物として描かれているのです。エドマンドがアンハルト役を引き受けたのは,その複雑なメアリーの人間性に共感を覚えたからとも考えられます。とするならば、エドマンドはクローフォド嬢の美貌や手練手管にまんまと騙されて演劇への参加を決めたとも言えるし、彼女の真の人間性を見抜いてそうしたのだとも言えます。ここで働いているのは単純な平板なラブ・ストーリーにとどまらず、人間性の複雑さは一義的に決定不可能であることを示す、見方によってはいろいろに見えてくる立体的な人間ドラマです。

ファニーの心は嫉妬と動揺でいっぱいだった。ミス・クロフォードはすっかり陽気な表情になって、マンスフィールド・パークにやってきたが、そのあまりにも陽気な表情は、ファニーには侮辱に思えたし、彼女に親しげに話しかけられても、ファニーは心穏やかに答えることはできなかった。(P.243)

しかし、複雑です。ファニーは自分への親切が、エドマンドのメアリーに対する認識をよりよくさせてしまったことに気付き、嫉妬を抑えることができず、メアリーの親切を素直に感謝できない自分に対する嫌悪も生まれます。したがって、ファニーの心が平穏であろうはずがありません。また、芝居への参加を拒んだ決意とは裏腹に、彼女は、疎外感と嫉妬心に苦しめられることになります。表面上は超然として、道徳的を優位性を維持していながら、心の奥ではそのような道徳的優位性の代償として経験する疎外感に苦しむのです。周囲の人が皆、陽気そうに忙しそうに相談したり、笑いあってしている中で、自分だけが無価値な人間として取り残され、完全な仲間外れの状態に置かれていることへの苛立ちは、また、メアリーに対してより激しい怒りとなって向けられることになります。オースティンはファニーという一見、おとなしそうな少女の内側に複雑で激しい感情が渦巻いて、彼女自身でも制御しきれないところを、それとなく描写しています。このあたりの機微も、注意していないと読み過ごしてしまうところです。しかし、だからといって、読みとばしてしまっても、この小説がつまらなくなるわけではないのです。しかし、そこに気付いてしまうと、この小説の愉しみは倍化します。そこに、オースティンのたくらみがあり、そういうことができしまう彼女の魅力に抗し難くなってしまうのです。

話に戻りましょう。ファニーは、このように孤立感を深めていきます。その結果、芝居をめぐる人々のエゴが衝突し合う人間ドラマを、ファニーがひとり観客として、傍から眺めることになるのです。観察者、そして時として不平の聞き役として、ファニーは人々のさまざまな状況に気づいてゆきます。

みんなにとってファニーはとてもおもいやりのある聞き役であり、手近にいる唯一の聞き役なので、ほとんど全員から、それぞれの不満や悩みを聞かされることになり、たとえばこんな事実を知らされた。イェーツ氏の絶叫調のセリフはひどすぎるとみんなが思っている。イェーツ氏はヘンリー・クロフォードに失望している。トムのセリフは早すぎて聞き取れない。グラント夫人はげらげら笑って芝居をぶちこわしにしてしまう。エドマンドはまだセリフをしっかり覚えていない。ラッシュワース氏を相手に芝居をするのは勘弁してもらいたい。ラッシュワース氏にはすべてのセリフのプロンプターが必要だ。などなど。(P.251)

その中で、ファニーは演技者として参加していませんが、静かに皆が台詞を覚える手伝いをしたり、リハーサルで補助役を務めたりして、プロンプターを務めたりと、裏方として芝居の練習に参加していきます。彼女は、芝居や出演者たちの全体像をつかみ、彼らを理解し、陰で支えるという精一杯の援助をしているのです。彼女の役割は、きわめて現実感があり、さらに、彼女を頼って皆がやって来ることは、彼女が、徐々に、人目につかないが、マンスフィールド・パークで不可欠な存在になってくる道程を予測させるものです。

たしかにファニーは、突然出演を頼まれたりして、非常に居心地の悪い不安な気持ちを味わったけれど、ほかにも時間と注意を取られることがあったおかげでずいぶん助かった。みんなの中に交じって、自分だけ何もすることがなくて、自分だけ何もすることがなくて、何の役にも立たないというみじめな気持ちや、ひとりぼっちの寂しい気持ちは味わわずにすんだ。自分の時間と同情がこれほど求められるとは思っていなかったし、最初の暗い予感はまったくの杞憂に終わった。ファニーは、ときにはみんなにとって非常に有用な存在だったし、たぶん、一座の誰にも負けないくらい気持ちが落ち着いていたのではないかと思う。(P.253)

ファニーは間接的に芝居の練習に参加することで孤立感を解消していきますが、その一方で観察者としての冷徹な面も表していきます。次の一節では、その一部が語られています。

─というわけで、みんなが満足して楽しんでいるどころか、全員がないものねだりをしたり、みんなの不満の原因をつくったりしていた。みんな自分のセリフが長すぎると言ったり、短すぎると言ったり不平をもらし、自分のやるべきことをやろうとしないし、自分が左右のどちら側から舞台に出るかさえ覚えていないし、苦情を訴えている本人以外は、誰も舞台上の指示に従わなかった。

ファニーは、自分もみんなと同じように無邪気にこの芝居を楽しめると思った。ヘンリー・クロフォードは演技がとてもうまいので、ファニーは舞台が作られた部屋にこっそり入って、第一幕の稽古を見るのが楽しみだった。ただし、マライアのことが心配になるような場面もあった。ただし、マライアのことが心配になるような場面もあったけれど。マライアも演技が上手だと、いや、上手すぎるとファニーは思った。最初の一、二回の稽古の後は、見ているのはファニーだけになり、ときには観客になったりして、結構ふたりの役に立った。(P.251)

ファニーは、それぞれの人物の能力や心理状態、置かれた立場や状況などを観察します。引用で、語りの焦点人物ファニーの心理や認識が辿られていて、自由間接話法の文体的特徴が表れと言えます。ここでは、ラッシュワースが、無能さゆえに、ひとり浮いた存在になっていること、マライアが婚約者を避けて、ヘンリー・クフォードと二人で第一幕の稽古ばかりを、不必要に繰り返していることなどを、ファニーは見て取っています。この第一幕とは、フレデリック役とアガサ役の二人が手を取り合う場面があるのです。それを見ているラッシワースが、次第に嫉妬心を煽られ、不快感を募らせてゆくという、危険な因子が含まれた箇所でもあります。

しかし、ファニーがそういう場面を特に好んで見ていたという事実も、ここでは漏らされています(「第一幕の稽古を見るのが楽しみだった」)。「ファニーは、自分もみんなと同じように無邪気にこの芝居を楽しめると思った。」と述べられていますが、例えば、彼女は、舞台部屋にそっと入って行って、ヘンリーの見事な演技を堪能する喜びを抑えきれない様子です。その楽しみは、「マライアのことが心配になるような場面もあったけれど」という制限つきですが、ここで曖昧に表現されているその「感情」こそ、二人の男女を過ちへと導く危険な雰囲気を指しているわけで、逆に言えば、ファニーはそれを感じてもなお、見続けていたということになります。しかも彼女は、「マライアの演技が上手すぎる」こと─つまり、二人が手を取り合うシーンが、たんなる演技を超えた真に迫ったものを含んでいたことをも、感じ取っています。つまり、悪の匂いを嗅ぎつけつつそれを見て楽しまずにはいられないファニーの心理は、悪意があるといわれても否定できない皮肉で、とても無邪気とは言えないものです。このように、ファニーはヘンリーとマライアの間に危険な関係が芽生え、育ってゆくさまを、場面や状況をとおして観察し、鋭く察知するのです。彼女は決して、それから目を離そうとせず、かといって阻止しようともせず、人間の悪徳の成り行きをひたすら見守り続けます。

ここで、ひとつ疑問が残ります。ファニーはラッシュワースの稽古の相手になったり、エドマンドとメアリーの稽古に立ち会ったりと、みんなの助けとなる行為をしていたのに、どうしてマライアとヘンリー・クロフォードの関係が進んでしまうことを観察するだけで、手をこまねいていたのでしょうか。ここには、冷徹さ以上に、ファニーという人物の悪意を感じます。結果論ですが、あとでファニーがヘンリー・クロフォードからの求婚を賢明にも拒否できた理由の一つは、ここで彼の正体を見切っていたからとも言えるわけです。現代の視点でいえば、情報を有効に活用する狡猾さとも言えるのです。穿った見方かもしれませんが、ファニーは、この素人芝居の騒動においても、演技への参加に対して拒否することで一時的に追い詰められることにはなりますが、ある意味で芝居を十分楽しんだのはファニーであり、あとになってサー・トマスが帰宅したときにファニーのみが芝居の騒ぎに参加しなかったとして評価されます。これは結果として、ひとりだけ安全地帯にいて、楽しみだけを享受したという、じつに要領の良い振る舞いだったと見ることもできます。ファニーは小説のヒロインだから、かもしれませんが、このひとは、無力さを装って、それを武器に狡猾に立ち回る賢さを備えていると言えるかもしれません。一応、このマライアとヘンリー・クロフォードの関係に対しては、サザトン・コート訪問の際に、森のベンチに座っていたファニーは、鉄柵を越えようとする二人を止めようと声をかけ、無視されたことが影響していると考えることができます。つまり、ファニーは、二人に対して何かを言っても無駄なことを前回の経験で悟っていたということです。

このようなファニーの位置は、バートラム家の人たちがサザトン・コートを訪問したときに、森のベンチに座って、通り過ぎる人々のありようを、舞台をみる観客のように眺めていたことの規模を大きくした繰り返しと言えます。ファニーは、この小説では、観察する人であるわけです。

この芝居は、通し稽古の最中に、不意にサー・トマスが帰宅したことによって、突然中止になります。この成り行きは、わざとらしいほど滑稽に演出されているような感じです。何も知らないサー・トマスに、ラッシュワース家の人々は戸惑いながらも、なんとか場を取り繕おうとぎこちない対応をします。サー・トマスは長旅の疲れと我が家に帰宅してほっとしたことなどから、様子がおかしいことに気付かず、家族と歓談を満足と安息を味わいます。その後、彼は書斎で落ち着こうとして、芝居の舞台に改造された変わり果てた姿に出会います。サー・トマスにとっては、個人的に寛げる場所であり、当主の威厳のすまう場所である堂々とした書斎は、荒れ果てたみじめな姿に変わり果てていました。そこでは何も知らないイェイツが,金切り声を上げて最後のリハーサルに臨んでいた。サー・トマスは、呆気に取られて、目の前の舞台上で叫び回るイェイツを見ます。その刹那、トムが部屋の別の端から現れ,三者が舞台上で鉢合わせになってしまうという、オースティンは見事に滑稽な舞台効果で、イェイツ氏とサー・トマスの出会いを描いています。

 第20章

サー・トマスは、即座に芝居の中止を命じ、自分の存在が忘れられていた事実を早く忘れるために、マンスフィールド・パークを元の正常な状態に戻すことに専念します。彼は芝居に関係するすべてのものを屋敷から一掃して、目に見えるものを追い払って満足し、あえて子供たちの内面にまで立ち入ろうとしません。

サー・トマスは、自分の不在中にこのようなメンバーで素人芝居をするなどというのは言語道断だと考えていた。あまりにも不愉快で、何も言う気になれないほどだった。(中略)この不愉快な気持ちを早く追い払い、自分の存在が忘れられていた事実を早く忘れることにした。そのためにはまず、そのいやなことを思い出させるものを屋敷から一掃し、屋敷を元の正常な状態に戻さなくてはならない。サー・トマスは、ほかの子供たちにお説教するようなことはしなかった。いろいろ問いただして、さらに不愉快な思いをする危険を冒すよりも、子どもたちが自分で自分の過ちに気付いてくれることを願った。(P.281)

この「いろいろ問いただして、さらに不愉快な思いをする危険を冒すよりも、子供たちが自分で自分の過ちに気付いてくれることを願った」というのは、彼が子供たちの良識を信頼しているわけではないでしょう。彼は「さらに不愉快な思い」をしたくなかった。その「不愉快な思い」とは、彼らを追求することによって、自分の威厳が損なわれることではなかったのか。彼は、たしかに当主としてマンスフィールド・パークを守るのを義務だと心得、公正で、善意に溢れ、責任感が強く、何よりも威厳を大事にしています。しかし、彼は愛情を表に出す人ではないし、控えめな態度であることから、子供たちにとって、父親として余りにも遠い存在で威圧的でした。そのため、エドマンド以外は自由を求め、早く窮屈な家を出たがっていて、マンスフィールドに家庭としての安らぎと安心を感じていません。だからこそ、彼らは、父親の不在を喜び、留守中に大いに羽を伸ばして、解放感を味わったのです。サー・トマスは、その真相があきらかになることを「不愉快な思い」として避けたのです。

そして、イェイツとヘンリー・クロフォードは、この地を去ることになります。とくに、ヘンリー・クロフォードが去ることによって、マライアの危機は回避されました。ヘンリー・クロフォードは、自分の身の危険を冒してまで、マライアの恋心に報いるつもりはない冷徹な利己主義者であると言えます。一方、マライアも利己主義である点では同じですが、もっとナイーヴであり、彼のように世間慣れしていません。マライアは、彼が求婚してくれることを期待していたのですが、彼女の願望は幻であり、かなえられないことが明らかになりました。実は、ヘンリー・クロフォードをめぐるバートラム姉妹の三角関係で、メアリーとヘンリーの仲に気づいていたのは、当事者の3人以外には、メアリーとファニーだけでした。メアリーはヘンリーと兄妹で似たものであるので、ヘンリーの不道徳さを知っていたわけですが、ファニーはサザトン・コートや芝居の件を通じて冷徹な観察をしていたしるしと言えます。それゆえに、ファニーは失恋したジュリアに同情することができました。作者であるオースティンは、ジュリアという人物の描写は、それほど重点を置いてはいないのですが、彼女の失恋した心情に対してはバランスを欠くほど丁寧に書いています。このようなところに、オースティンという作家の意地の悪い皮肉な性格が表われていると思います。

例えば、芝居の配役をめぐって姉に敗れ、失恋を悟った時に

ヘンリー・クロフォードは、たしかにジュリアの気持ちをもてあそんだ。でもジュリアのほうも、長いあいだ彼の恋のたわむれを許し、それを求めさえした。そしてそこには、婚約中のマライアに対する嫉妬と心配の気持ちも大きく関係していた。そしていま、ヘンリー・クロフォードはマライアのほうが好きだとはっきりしたので、ジュリアは仕方なくその事実を受け入れたが、婚約中という姉の立場を心配することもなかったし、自分のために冷静に落ち着きを保とうという努力もしなかった。(P.244)

数日後に芝居の準備が進んだときには、

だが、じつはジュリアは苦しんでいた。でもジュリアの家族の誰も気がつかなかった。ジュリアはヘンリー・クロフォードはーに恋をし、いまでも愛していた。元気に満ちあふれた、熱烈な性格の若い女性が、愚かな夢だが大切な夢をこわされて、ひどい苦しみを味わい、不当な仕打ちを受けたという強烈な被害者意識に苦しめられていた。ジュリアの心は痛みと怒りに震え、さらに怒りをかきたてて自分を慰めるしかなかった。あんなに仲の良かった姉マライアは、いまやジュリアの最大の敵だった。姉妹の心はすっかり離れ、ジュリアは、マライアとヘンリー・クロフォードの恋のたわむれが悲惨な結末を迎えることを願わずにはいられなかった。そして、自分に対しても、ラッシュワース氏にたいしても、このような恥ずべき振る舞いをしたマライアに、天罰が下ることを願わずにはいられなかった。(P.248)

そして、ここに至って、ヘンリー・クロフォードが立ち去ったことを知った時に

ジュリアは、ヘンリー・クロフォードがいなくなってほっとした。彼女には、彼が忌まわしい存在になりはじめていたからだ。それに、もしマライアが彼を手に入れることができなかったのなら、それで十分だった。マライアにたいしてそれ以上の復讐をする気など起きないほど、ジュリアの心は冷めていた。結局マライアは彼に捨てられたのだから、いままでのことを暴露して恥をかかせるようなことをしようとは思わなかった。ヘンリー・クロフォードがいなくなると、ジュリアはマライアが気の毒にさえ思えてきたのだった。(P.291)

このような引用の部分だけをみれば、この後の時代の恋愛小説の主人公のような因襲の束縛から恋愛によって自我に目覚めていくヒロインのような書き方です。オースティンは、もっと前のサザトン・コート訪問から帰った後の時点でこんなジュリアへの思い入れを語っています。

とくにジュリアは、マライアにたいする嫉妬心を認めて─つまり、クロフォード氏は自分よりマライアのほうが好きらしいという事実を認めて─彼の求愛など信用せず、彼が二度と戻らないように願うことが必要だと気がつくべきだった。(P.176)

 第21章

サー・トマスの帰還でマンスフィールド・パークは落ち着きを取り戻しましたが、それを好意的に受け容れるのはファニーだけのようで、サー・トマスとファニーの距離が近づき始めます。物語の後半では、ファニーがヒロインとして観察者から物語の中心となって動き始めますが、ここではその兆候として、サー・トマスのファニーに対する態度の変化が表われ始めます。それに気付いたのはエドマンドで、その理由はファニーがきれいになったからと説明します。他のバートラム家の人々は常にファニーを見ていたため、却って分からなかったことが、数年ぶりに再開したサー・トマスは、ファニーが以前の弱々しい、どちらかと言えば貧弱な少女だったのが、一人前の若く美しい女性に成長したことに気付いたというわけです。このことは、ファニーが物語のヒロインとしての資格を得たということを、作者オースティンが示して、それから後半に移ろうとしているように見えます。言ってみれば、ファニーの物語は、ここからが本番と言えます。

そして、この章における大きな出来事はマライアとラッシュワースの結婚です。この二人は、サー・トマスの不在中に、ノリス夫人がつよく推し進めて婚約となっていたものです。サー・トマスも、この婚約に対して、手紙で同意を与えていました。相手のラッシュワースは、これまでに何度も登場し、皮肉られていますが、エドマンドが「この男は、年収1万2千ポンドの金持ちでなければ、ただの馬鹿だ」というような愚鈍な男です。会話において、話題も乏しく、猟の収穫や猟犬の自慢話、密猟を厳しく取り締まるべきだという話ばかり聞かされたマライアはうんざりし、軽蔑さえするに至ります。彼はマライアに対しても外見しか見ていない、その向こうに存在するかもしれないものがあるということが、そもそも理解できない人です。しかし、このようなラッシュワースの本質的な性格や姿勢は、マライアが密かに心を寄せるヘンリー・クロフォードも同じであるように見えます。二人の違いは、ラッシュワースには、ヘンリー・クロフォードのようなその場を一瞬で取り繕う機転と自身を見映えよくさせる演技力が欠けているという点です。オースティンは、似たような人物を他の作品にも登場させていて、キャラクター・ピースとして使い勝手がよかったのかもしれません。例えば、『高慢と偏見』のビングリーやコリンズ、『説得』のチャールズ・マスグローヴといった人々がすぐに思い浮かびます。

サー・トマスは、ラッシュワースが「非常に能力の劣った青年であり、仕事に関しても教養に関してもまったく無知であり、何事においてもしっかりとした意見というものを持っておらず、しかも、自分でそのことにまったく気づいていない」愚鈍であり、マライアが彼に投げやりで冷たい態度であることを知ります。そこで、彼女の本心を確認します。しかし、ヘンリー・クロフォードとの戯れの恋の成就を願っていたマライアは、彼に捨てられ、プライドを傷つけられ、ラッシュワースとの結婚によって自分で自分に復讐しようと決意していたのでした。彼女は、次のように結婚の意志をきっぱりと説明します。

「お父さまの深いお心づかい、父親としてのやさしいお心づかいには、ほんとうに感謝いたします。でも、お父さまは勘違いをなさっています。私は婚約を解消したいなどとは思っていませんし、婚約をしてから、考えや気持ちが変わったこともありません。私は、ラッシュワースさんの人柄や考え方を高く評価していますし、彼と結婚して、必ず幸せになれると思っています」(P.301)

そのマライアの説明に対するサー・トマスの納得の仕方は、奇妙な逆説に満ちたものです。

彼は自分にこう言い聞かせた。ラッシュワース氏はまだ若いのだから、もっと立派な人間になる可能性がある。立派な人たちとたくさん交われば、どんどん良くなるに違いないし、実際に良くなるだろう。そしてマライア本人が、恋に目が眩んでいるわけでもなく、何の先入観もなくあんなにはっきりと、彼と結婚して幸せになれると断言しているのだから、本人の言葉を信じてやるべきだ。たぶんマライアは、それほど感受性の鋭い子ではないのだろう。そういえば、私はいままでも、あの子が感受性の鋭い子だと思ったことはない。しかし、感受性が多少鈍いからといって、それだけ幸せの度合いが低くなるわけではない。それに自分の夫がそんなにすばらしい人物でなくても構わないというのなら、その他の点では、ラッシュワース氏は社会的地位といい、財産といい、マライアにとっては、まったく申し分のない結婚相手なのだ。(P.302)

このようにサー・トマスは、一家にとって大変有利な結婚を彼なりに納得し、破談にならずにすんだことを内心喜んだりするのです。厄介なことにならずに済んだと。これはサー・トマスの自己欺瞞であり、もう一歩マライアの心の中に踏み込んで、彼女の気持ちを問いただすべきであったかもしれません。この愛の無い結婚をくいとめられなかったのは、威厳と体面ばかりを重んじる父親の責任であるといっても、過言ではありません。そして、サー・トマスは、この同じ過ちをファニーに対してもおかすことになります。

ここで、少し脱線しますが、以前に指摘だけしたマンスフィールド・パークが、ある種の欺瞞の上に成立しているということを考えてみたいと思います。前のところで、バートラム家は荘園領主の脈々として威厳を保ち続けてきているはずで、当主サー・トマス・バートラムは準男爵です。しかし,オースティンはバートラム家の家系については全く触れていません。バートラム家の家系が醸し出す威厳の描写も,意図的に忌避されています。また、マンスフィールド・パークの庭園を含む大邸宅の様子は、ほとんど描写されていません。それは、バートラム家は外見的な威厳はかろうじて維持していますが、実は内情は別であるとかんがえられるからです。そのようなバートラム家の矛盾をサー・トマスか体現していて、この場合の体面を取り繕うような欺瞞的な行動をしていることは、マンスフィールド・パークの欺瞞の表れとみることができるのではないか。それゆえに、オースティンはバートラム家の威厳を表わす描写を避けたといえるのではないかと考えられるところがあります。

そこで考えられる状態として、バートラム家の財政は危機的であると考えられます。その理由として、マンスフィールド・パークの牧師任命権は,グラント博士夫妻というバートラム家とは縁もゆかりもない一家に譲られてしまったことが指摘できます。本来なら、サー・トマスは牧師任命権を牧師志望の次男エドマンドのために保持しておくつもりでした。以前は、信用のおける管理人として友人でもあったノリス氏に委ねられていました。ところが、長男のトーマスが多額の借金を抱えたこともあり、領地の管理維持が経済的に苦しいものだから、マンスフィールド・パークの牧師館はグラント博士夫妻に譲られることになってしまいました。一族の人間が保持すべき資産が他人の管理に移らざるを得なかったわけで、バートラム家の経済的内実を暴露する事実であると言えます。

次に指摘できるのは、バートラム家が地代を主たる収入源とする18世紀的な地主層から,実態としては貿易つまり商売による収益に依存した企業家層に変貌しているということです。バートラム家の経済的基盤が奴隷制度に依存しているプランテイション経営にあるということは、物語の中でははっきりと描かれていません。ファニーが伯父に奴隷制度について質問をしたとエドマンドに話している場面に示唆されているだけです。しかし、当主であるサー・トマスが自ら2年間費やして財政の建て直しのために現地に赴くということが、依存していることを示しています。ナポレオン戦争中でもあり、サー・トマスが経済的にも個人的にも危機的な状況にあることは、「父上は今外国にいて、絶えず身の危険にさらされているのだから」というエドマンドが素人芝居に反対したときの根拠となった言葉にも表われています。つまり,イングランドにとって不名誉となりうる奴隷貿易を含む、いわゆる三角貿易にバートラム家の領土管理は依存しているのです。このことは、サー・トマスの誠実な行為が危険な分裂を起こしていることを示唆しています。すなわち、彼はイングランドにおける地所の価値を信じていながら、しかし、また奴隷制度を巻き込んだ貿易から得られる金融上の収益に頼らざるを得ないのです。サー・トマスは、真のイングランドの地主階級の価値観を表面的には強固に支持しているのです。それが、マンスフィールド・パークの表面的に取り繕っている平穏であり威厳なのです。こう考えると,オースティンがマンスフィールド・パーク自体の描写にはほとんど手をつけていないことは,実は周到に考え出された結果と考えてもいいかもしれません。バートラム家の荘園は立派なものではないかもしれず、また仮に立派な荘園ではあっても,この一家がそういうものを継承するに値する一家ではないことをオースティンは暗示しているのかもしれません。

こう考えると、サー・トマスがマライアの結婚に関して、ラッシュワースという人物がどうであれ、1万2千ポンドの年収とサザトン・コートという立派な屋敷を有して、生活が保障され、社会的な威厳を保つことができることは何よりも重大なこととして尊重せざるを得なかったというわけです。

物語は、マライアが結婚によりマンスフィールド・パークを離れ、ジュリアが当時の慣習によりマライアの新婚旅行に付き添います。トムは放蕩癖が直らず、ロンドンに出る。そして、エドマンドは牧師となるために。このようにバートラム家の子供たちは一度にマンスフィールド・パークを離れてしまいます。残されたバートラム家では、それまで日陰者であったファニーの存在感が高まってくることになます。そこから物語は後半に入ってゆきます。

 第22章

マライアとジュリアが出発したあと、ファニーの存在が重要性を増してきます。バートラム家の客間では唯一人の若い女性となり、みんなの視線と、思考と、配慮の対象となったのです。彼女はマンスフィールド・パークだけでなく、牧師館においてもメアリー・クロフォードの話相手(メアリーはファニーを友人と思った)としてたびたび招待を受けるようになります。作者オースティンもファニーを、物語のヒロインとして、もっとスポットライトを当てようと考え始めたのでしょう。ファニーは牧師館の庭をメアリーと散歩しながら、初めて自発的に自らの考えを語ります。

「この散歩道に来るたびに、木々の成長と美しさに感激するわ。ここは三年前は、牧草地の端に沿って粗末な生垣があるだけで、誰も目を留めなかったし、こんな立派なものになるなんて思ってもいなかったわ。(中略)たぶん三年後には、ここが昔はどんなだったか忘れてしまうでしょうね。時の働きや、人間の心の変化って不思議ね、ほんとうにものすごく不思議ね!」

「人間が生まれつき持っている能力のなかでいちばん不思議な能力は、記憶力だと思うわ。記憶力の強さと、弱さと、ララの多さには、人間の他の知的能力よりも何倍も不可解なものがあるわ。人間の記憶力は、ときにはすごく長持ちして、すごく役に立って、すごく従順だけど、ときにはすごく混乱して、すごく弱々しいときもあるし、ときにはすごく横暴で、制御不可能になるときもあるわ。人間はあらゆる点で不思議な生きものだけど、いろいろなことを思い出したり忘れたりする能力は、とくに不思議な能力だと思うわ」(P.313〜314)

それまでは、エドマンドの問いに答えて、考えていることの一部を相手の反応をみながら語っていたのですが、ここでは、問われることへの答えではなく、自然に語り始めます。ここに、ファニーという人物の隠されてきた教養と精神的な傾向が表われて来ます。おそらく、オースティンの小説の主人公で、このような教養と考え深さを持っていたのは、他には『説得』のアン・エリオットくらいではないでしょうか。むしろ、オースティンは、『高慢と偏見』では、主人公エリザベスのすぐ下の妹メアリー・ベネットのような劣った容貌を教養でカバーしようと必死になっているという皮肉に揶揄しています。しかも、このファニーの言葉は話し相手のメアリーには全く通じません。そこに二人の人物の本質的な違いを、オースティンは際立たせています。このメアリー・クロフォードという人物は、『高慢と偏見』の主人公であるエリザベスと似ているところが多い人物です。明るく、溌剌としていて、才気煥発で、自分の考えをはっきりと持っていて、上昇志向つまり打算的なところがある。しかし、メアリーとエリザベスの違いは、このファニーとの会話を続けられるかどうか、つまり、現実の向こうにあるもの、精神とか超越的なものを認められるかどうかということではないかと思います。メアリーは徹頭徹尾即物的で、目の前にある手で触れることのできる物から離れることがありません。それが。現実の打算に捉われることであったり、人はどう生きるべきかということよりも、どのようにうまくやっていくかを考える方向に導かれる。(例えば、この後に、エドマンドが加わっての会話で、メアリーは、収入が多いことが幸せになるための一番いい方法だと思う(P.321)と明言しています。)その分岐点が、ここでの会話に表われていると思います。したがって、この小説は、実は観念的なことを取り扱っている思想小説の面もあるのです。もともと、オースティンの小説は『高慢と偏見』ではプライドとは何か、『分別と多感』では分別と感情に流されるというように物語のなかで、ある概念がテーマのように取り扱われて、そのあり方や人々の間での受けられ方が物語の展開に重なって、物語を追いかけているうちに自然と考えてしまうような構造になっていました。そして、この『マンスフィールド・パーク』という作品では、以前の特定の概念よりも枠を広げて、人が生きること、正しく生きることというようなことを、明確にではありませんが、通奏低音のようにして、物語の底に流れています。それが、ここで、図らずもファニーの発言を通して、少しだけ姿を見せたと読むことができます。なお、ファニーのこのような点に全く気がついていないのが、ヘンリー・クロフォードとノリス夫人です。

メアリーとファニーの違いは、エドマンドの呼び方の好みの違いにもはっきりと表われます。メアリーはバートラム氏というバートラム家の当主であることを示す呼び方を好むのに対して、ファニーはエドマンドという彼個人を指す方を好みます。メアリーはエドマンドという個人名だけではもの足りなくてサーのような称号をつけたいと言います。要するに、ファニーはエドマンドという人物を好んでいるのに対して、メアリーは地位や肩書きを志向していることが、名前の好みの違いに象徴的に表われているというわけです。このようなところで、ふたりの違いをさりげなく表現してしまうオースティンの手腕は、ほんとうにすごいと思います。

その後、ファニーは牧師館のディナーの正式な招待を受けます。このことは、ファニーが淑女としてマンスフィールド・パークの外の世界からも認められたということです。この初めての正式な招待を受けたことを契機に、マライアやジュリアと比べるとささやかではありますが、ファニーが社交界にデビューし、結婚を真剣に考えていくことが始まります。それが後半の物語の展開と大きく関係してくるのです。

 第23章

ファニーが牧師館のディナーに招待されたことについてのひと悶着があります。毎度のことになりますが、ファニーに手を差し延べようとする動きがあると、バートラム夫人やノリス夫人の反対が入り、エドマンドとの間にバトルが起こるのですが、今回はサー・トマスがファニーを援ける側に立ちました。アンティグアからの帰還以来、サー・トマスがファニーを評価し、好感を強くしてきていることが、実際に行動に表われています。このディナーへの招待は、他人から見ればささやかなことかもしれませんが、ファニーにとっては大きな喜びとなりました。

しかし、いざ牧師館についてみると、ヘンリー・クロフォードが戻っていました。ディナー自体は楽しいものでありました。ファニーはマライアとのことを知っていたので、彼が戻ってきたことを必ずしも歓迎できません。一方、彼は何事もなかったように、メアリーとの会話でバートラム姉妹を話題にします。しかも、意味ありげな笑いをうかべて。それを脇で見ていたファニーは、彼に対する嫌悪感を強くします。彼はファニーに対しては、彼女が反対していた素人芝居を懐かしむような発言をします。これに対するファニーの反応は、珍しく感情的です。

「まるで夢のようだ!楽しい夢を見ていたようだ!(中略)ぼくはあの素人芝居のことを思い出すたびに、楽しい気分になるだろうな。とにかく面白かったし、活気があったし、みんな元気いっぱいだった!全員がそう感じていた。みんな生き生きしていた。一日じゅう仕事と希望と、心配と活気にあふれていた。つねに、克服すべき小さな反対と疑問と不安があった。とにかくぼくは、あんなに幸せな思いをしたのは生まれて初めてだ」

ファニーは無言の怒りを感じながら、心の中でつぶやいた。「あんなに幸せな思いをしたのは初めて?絶対に許されないあんなにひどいことをしたのに、あんなに幸せな思いをしたのは生まれて初めて?あんな卑劣な残酷なことをしたのに、あんなに幸せな思いをしたのは初めて?ああ!この人は心の底まで腐った人だ!」

「ミス・プライス、ぼくたちは運が悪かったんです」クロフォード氏は、ファニーの気持ちにはまったく気づかずに、エドマンドに聞こえないように声を低めてつづけた。「ぼくたちは、ほんとに運が悪かったんだ。もう一週間、ほんのもう一週間あれば、芝居はちゃんとできたんだ。(中略)」

クロフォード氏はファニーの返事を待っているようだった。ファニーは顔をそむけて、いつもよりしっかりした声で言った。

「いいえ、私は伯父さまの帰国を、たとえ一日でも遅らせたいとは思いませんでした。伯父さまは帰国なさって、すぐにあの素人芝居を中止にさせたんですから、あれはすべてやり過ぎだったと思います」

ファニーはクロフォード氏にむかって、一度にこんなにたくさんのことを言ったのは初めてだし、誰に対しても、こんなに怒りをあらわにして口をきいたのは初めてだった。(P.339〜340)

この後、唐突にメアリー・クロフォードが本気でエドマンドを愛し、彼との結婚を考えていることが説明されます。エドマンドが牧師になることについて、ヘンリー・クロフォードが影で「二十四、五歳で何もせずに年収七百ポンドが手に入る」(P.342)というのに対して、メアリーは内心で、「年収七百ポンドの聖職禄を手に入れるには、やはり何かしなくてはならないし、それなりの苦労があるし、それを軽く考えるわけにはいかない」(P.342)で思います。これは、エドマンドに対して、牧師という職業を否定してみせたメアリーにしては、意外なことではないでしょうか。メアリーは、エドマンドが牧師になる事に決まったことについてショックを受けますが、それは、自分が彼のことを真剣に思っているのに、彼は自分のことを真剣に考えてくれない。彼は自分が牧師の妻になる気はないということを知っているのにもかかわらず、牧師になる、ということです。

じつはミス・クロフォードは、エドマンドにたいしてはっきりと好意を持ちはじめ、本気で結婚のことを考えはじめていたのだ。でもこれからは彼に会っても、彼と同じ冷たい気持ち接しなくてはならない。彼は私のことを真剣に考えていないし、私を本気で愛してなどいないのだ。私が牧師の妻になる気はないということを彼は知っているのに、牧師になるというのだから、私を本気で愛していないのは明らかだ、これからは、彼の無関心さに負けないくらいに、私も彼に対して無関心にならなくてはならない。これからは、彼からどんなに好意を示されても、その場の楽しみ以上のことを考えてはいけない。もし、彼が、自分の愛情をそんなふうに抑えることができるのなら、私も、自分の愛情を自分で傷つけるようなことがあってはならないのだ。(P.344)

ここだけを読むと、結婚は打算的な契約であると公言する計算高いメアリーという人物像とは正反対の愛を一途に求め、しかも傷つきやすい心をもった女性というファニーに近い人物像に見えてきます。このことを念頭におきながら、この後のメアリーの行動は、ファニーには嫌悪されますが、隠された意味合いが見えてくると考えられます。つまり、メアリーには二つの面があって、彼女自身もその分裂を統合することが出来ずに、他人からは気紛れとか、その場しのぎにみえる行動も、実は分裂したどちらかの面が表面に出たゆえと、その時の隠れた別の面にも彼女の本心はあると考えることはできないでしょうか。最後近くで、エドマンドがメアリーと訣別する際に、彼女の笑顔を恐ろしいと形容しますが、そう考えると、その時の彼女の笑顔は別の意味があったということも考えられることになります。もしかしたら、オースティンが小説のなかで造形した人物のなかで、もっとも複雑な人物かもしれないとおもいます。これは、ひとつの仮説です。オースティンも、どこまで意識してメアリーという人物を造形しているかは疑問です。それは、この引用した文章の一節が物語のなかでも唐突に挿入される印象を受けるからです。

この間、ファニーは、エドマンドがメアリーへの恋心を募らせ、求婚の意思を固めてゆくさまを、重く沈んだ心で、傍から、あるいは間近で観察し続ける。その一方で、彼女はメアリーの欠点を細かく観察し、その本性を見極めようとしています。メアリーのほうは、概して、ファニーに表裏のない好意を示しているのに対して、ファニーのほうは、表面の態度と心の中は正反対なのです。このように見ると、ファニーとメアリーを並べて、正邪という倫理的な視点で対照的にみることはできないことがわかります。時には、ファニーの態度は陰険で執念深い点は否定できません。

 第24章

後半の物語が、いよいよ本格的に動き出します。ヘンリー・クロフォードが牧師館での滞在を延長することを告げます。それは、滞在する楽しみを見つけたからで、それはファニー・プライスを誘惑することです。

「いまのファニー・プライスは、秋に見たときのファニー・プライスとはまったくの別人だ。秋に見たときは、彼女はおとなしく控えめで、それほど不器量ではない女の子という感じだったけど、いまは完全に美人と言ってもいい。以前はぼくも、彼女は表情もぱっとしないと思っていた。でもきのう見たときは、柔肌の頬がたびたびぽっと赤く染まってほんとうに美しかった。それに目も口も、何か表現したいときには、それを十分表現できる能力を持っている。姿も、態度も、全体的な印象も、ほんとうに見違えるほど美しくなった。身長も、十月以来二インチ伸びたんじゃないかな」(P.345〜346)

ここで、ヘンリーが言っているのは、ファニーの外見や容貌に関することだけです。これは、暇つぶしにあの小娘にちょっかいを出してみようかという発言以上のものではないでしょう。昨日のディナーの席で、ファニーが怒りに駆られたことについても、原因をつくった当のヘンリー自身が何も気付いていないのです。ファニーの気持ちを思い遣るという姿勢は微塵もありません。

「ぼくは、ファニーのことをどう考えていいかわからない。彼女はどういう女性なのかさっぱりわからない。きのうも、彼女の狙いは何なのかさっぱりわからなかった。どういう性格なのか?生真面目なのかな?変わり者なのかな?上品ぶっているのかな?なぜあんなに尻込みして、なぜあんなにこわい顔をしたのかな?ぼくがいくら話しかけても、ほとんど口もきかなかった。若い女性があんなに長い時間一緒にいて、いろいろ努力したのにうまくいかなかったのは、生まれて初めてだ。あんなこわい顔をしてぼくを見る女性に会ったのは初めてだ。これはなんとかしなくちゃ。彼女の顔はこう言っているみたいだった。「私はあなたを好きになれません。絶対に好きになれません」って。だからぼくはこう言うんだ。「よし、それなら絶対に好きにさせてみせる」って」(P.347)

 まるで難攻不落の砦を攻略するゲームのようです。それから、彼は手練手管を駆使して巧みに言い寄ります。ファニーは、彼を嫌っているとはいえ、やさしい性格と趣味のよさから、彼の求愛を完全にはねつけるのは難しかったのかもしれません。しかし、彼女にはエドマンドという密かに思いを寄せる男性がいました。そんな折に、ファニーの実兄であるウィリアムが海軍の軍艦に乗り込んでの海外勤務から帰国し、マンスフィールド・パークで再会します。彼女にとっては最愛の兄で、再会のときは常にない興奮状態となります。ヘンリー・クロフォードは、ファニーにいくら言い寄っても埒が明かないなかで、狙い目を見出しました。

 第25章

ヘンリー・クロフォードがファニーに特別な関心を寄せていることは、周囲に気付かれはじめ、サー・トマスも気付くこととなります。それは、バートラム家の人々がグラント博士から招待を受けて、牧師館でのディナーのあと、カード遊びをする場面で、決定的となります。サー・トマスは、この事実とファニーが物欲しげな態度をとっていないことを見て、彼女に対する評価と好感をいっそう高めることとなります。(このことは、この後さらにサー・トマスはファニーに対して親切になって舞踏会を開いたりする一方で、彼女がヘンリーの求婚を断ったときの失望をより大きいものにすることになります)このカード遊びの場面は、サザトン・コート訪問におけるベンチの場面やマンスフィールド・パークでのサー・トマス不在時の素人芝居騒動といった演劇の舞台のような、ひとところで人間模様や人々の思惑の交錯が演じられるかのように焙りだされる場面の一つです。こういう場面が巧妙につくられているのが、この小説の大きな特徴です。この場面では、前の二つの場面では観客のような傍観者の位置づけだったファニーが、舞台の中心で舞台上で演ずる人物の一人になっています。そこに大きな変化があります。この時点で、ファニーが傍観者から物語を牽引する立場に変化したことを示していると言えます。 

ここでは、ファニーが傍観者から物語を牽引する立場に徐々に変化ししてきていることを示していると言えます。とはいえ、この時点では最愛の兄であるウィリアムと久方ぶりの再会を果たした幸福感にあり、事件も起こっていません。この場面で、のっぴきならない状態になっていこうとしているのは、エドマンドとメアリーであり、虎視眈々と蠢いているのがヘンリー・クロフォードです。そこで、楽しげなカード遊びの水面下でひそかな動きが進行している。そういう読み方をすると、緊迫感のある場面として、カード・ゲームの虚々実々の駆け引きが、物語の現実のエドマンドとメアリーにヘンリーとファニーがからんでの駆け引きが重ね合わせて見えてくる仕掛けになっています。これは、素人芝居のエピソードで演劇の配役の動きに物語の現実の人々の人間模様が重なり合っていた手法に通じるものです。

例えば、ヘンリー・クローフォードがファニーに対して好意をいだいているのではないかと推測しているサー・トマス、ソーントン・レイシーの改良計画に意欲を示すヘンリー、エドマンドがソーントン・トレイシーに移り住むとあまり会えなくなるのではないかと恐れるファニー、牧師の務めをきわめて真面目に受けとめているサー・トマスやエドマンドに不満をいだくメアリといった具合に、人々の様々な思惑が複雑に絡み合っています。しかし、これらの思惑は結局のところ実現することがなく、期待や予想とは異なる帰結を迎えることになる。それが『マンスフィールド・パーク』の物語なのです。この場面でプレイされるカード・ゲームはホイストとスペキュレイションで、中でもスペキュレイションは思惑買いを意味する言葉です。象徴的です。しかも、企て、思惑が実現しないというパターンは、地所の改良(サザトン・コート訪問)、素人芝居、そしてトランプ・ゲームと形をかえて繰り返されるのです。

 第26章

ファニーの兄であるウィリアムは、サー・トマスの好意をかち取ることに成功します。ウィリアムはやがて休暇明けには連隊に戻らねばならない身の上であり、ファニーの踊っている姿を見たいという願いを洩らします。これをきいたサー・トマスは、ウィリアムの願いに応えて、ファニーの気持ちを和らげようとする優しさもあって、重苦しい雰囲気を一掃しようと、クリスマス前の異例な時期に舞踏会を催すことを決心します。ファニーは小さいころは兄とダンスをして遊ぶような子どもであったことから、ダンス自体は好きで、マンスフィールド・パークで舞踏会を主催し、そこに参加するということは、ホステス役ということになります。内気なファニーには気が重いことです。しかも、彼女には衣装や装飾品の持ち合わせがなく、相談する相手もいません。彼女は、メアリーに相談します。そこで、ヘンリーが一計を案じたのがネックレスにまつわる件です。ファニーは、装飾品を所持しておらず、胸を飾るネックレスのかわりに兄から贈られた十字架を胸につけようとしますが、それを吊す鎖がありません。ヘンリーは、そのことに気付いていました。彼は、自分から渡したらファニーは受け取らないだろうから、メアリーを通じて彼女にプレゼントしてやろうと考えたのです。メアリーが手持ちのネックレスの一つを彼女に贈るという形にするのですが、このネックレスはかつて彼がメアリーへプレゼントしたものだったのです。メアリーはこのネックレスはかつての兄からのプレゼントだったことをファニーに告げます。ファニーはすぐにそれを返そうとしますが、いったんもらったものを返すのも失礼に当たります。その後。偶然にエドマンドが金の鎖をファニーにプレゼントしてくれて、それが例の十字架に通すにはぴったりだった。エドマンドは、ファニーから事情を聞くと、メアリーの好意を無にするのは失礼だからと、ネックレスをつけることをすすめます。そのときにエドマンドは「ぼくにとって、この世で一番大切なふたりだからね」(P.398)といって、ファニーにもメアリーを尊重することで、二人が尊敬し合うことを求めます。この言葉を聞いたファニーは心乱れます。

私は彼にとって、いちばん大切なふたりのうちのひとりなのだ。この言葉を心の支えにしなければならない。でも彼には、大切な人がもうひとりいるのだ!いちばん大切な人がいるのだ!エドマンドがファニーの前で、こんなにはっきりとそのことを口にしたのは、これが初めてだった。ファニーはずいぶん前からそのことに気づいてはいたけれど、こうして目の前ではっきりと言われると、短剣で胸を突き刺されたような激痛を感じた。なぜならその言葉は、エドマンドの確信と将来の計画をはっきりと語っているからだ。もうすべて、はっきりと決まっているのだ。つまり、エドマンドは、ミス・クロフォードと結婚するつもりなのだ。ずいぶん前から予想したことではあるけれど、それはやはり、ファニーの心を突き刺すような言葉だった。「私は彼にとって、いちばん大切なふたりのひとりなのだ」とファニー、何度も何度も自分に言い聞かせなくてはならなかった。そうしないと、その言葉が与える感動を感じることができないからだ。ああ!ミス・クロフォードが彼にふさわしい女性だと思えたらどんなにいいだろう!もしそう思えたら、事情はぜんぜん違ってくるし、こんな耐えがたい気持ちにならずにすむだろう!でも彼は、ミス・クロフォードを誤解しているのだ。ミス・クロフォードが持っていない長所をさかんに誉めあげるし、彼女の欠点は昔のままなのに、いまのエドマンドには、彼女の欠点がまったく見えなくなってしまったのだ。(P.398)

このように、自分が彼の最愛の二人のうちのひとりなのだという思いを反芻しながら、ファニーはそれにしがみつこうとします。しかし、あともうひとりがメアリーだという事実が、彼女には耐えがたく感じられ、彼女の心を刺し貫き激しい痛みをもたらします。ファニーは、メアリーがエドマンドの結婚相手として相応しくないと断定し、彼が騙され彼女を買いかぶっているのだと考えるのです。引用した文章には、何度も同じ言葉を反復し、感嘆符や繰り返し表れるなど、ここでは自由間接話法の特徴が見られ、ファニーがいかに苛立ち興奮しているかが伝わってくるようになっています。その奥には、恋敵に対する嫌悪感が潜んでいることが想像できるのです。

つまり、ネックレスは、ファニーにとって、そういうメアリーから贈られたものでもあるのです。エドマンドに身につけるように進言されたファニーの気持ちは、複雑だったはずです。しかも、背後ではヘンリー・クロフォードの下心も見え透いているのです。そこで、幸いなことにウィリアムから贈られた十字架とメアリーのネックレスはサイズが合わず、繋ぐことができないことが分かりました。ファニーは大義名分ができたことで、エドマンドの鎖を十字架につなげます。それで気持ちが落ち着いたのか、メアリーのネックレスを、べつに首にかけることにして、メアリーの好意に形式上は応えることにしました。

 第27章

エドマンドは舞踏会の翌日、正式に牧師となってソートン・レイシーに行くことになります。また、ウィリアムも同じように翌日に艦隊に帰艦するために出発する予定です。したがって、舞踏会はファニーにとっては、最も愛する人々と別れる前の最後のイベントでもあるわけです。

ヘンリー・クロフォードはロンドンで叔父の提督に会う予定があるといって、ウィリアムに自身の馬車で一緒にマンスフィールド・パーク出るように誘います。駅馬車を乗り継ぐ不便さに比べて快適な旅程になるため、ウィリアムは喜んで同意するのでした。ヘンリーのロンドン行きは、ウィリアムを叔父に紹介して、少尉への昇進の推薦をさせるためです。このヘンリーの行動は、あながち、妹のファニーの歓心を買う下心からだけとは言い切れないところがあり、彼がウィリアムの人物に好感をもち親切心を持った面もあると思われます。ヘンリー自身の動機はハッキリしませんが、刹那的に、ぱっとひらめいて、表面的によく映る振る舞いをするというクロフォード兄妹の行動パターンに従って行動していることはたしかでしょう。ヘンリーは、あとで、ファニーに求愛するときに、このことをちゃっかり利用するわけですが。

 第28〜36章

ロンドンからの帰還後,ヘンリーはファニーへの燃える思いをメアリーに打ち明けます。

「ぼくはファニー・プライスにみごとにつかまってしまったんだ。ぼくがこれを遊び半分で始めたことは、きみも知っているね。しかし、遊びで始めたことの結末がこれさ。彼女はかなりぼくを好きになってきていると思う。でもぼくの気持ちはもうすっかり決まったんだ」(P.444)

ヘンリーによれば、ファニーは提督の偏見を取り去りうる唯一の女性であるといいます。すなわち、愛人を囲うことになんらの抵抗も感じない提督の女性観を変えることは、ファニーにしかできないと言います。

「ファニーは、提督のような男性が女性に対して持っている偏見をすべて取り除いてくれる女性だ。まさにファニーは、提督が、この世には存在しないと思っているような女性だ。まさに提督の言う、稀有なる女性そのものだ。もし提督が、理想の女性像を表現できるような繊細な言葉を持ち合わせていればの話だけど。でも話が完全に決まるまでは、そして、絶対に邪魔が入らないことがはっきりするまでは、提督には何も知らせないつもりだ。」(P.445)

「この世にいないと思える女性」とは、提督の女癖の矯正にはうってつけの女性であると言います。提督の生活がクロフォード兄妹にとって問題となっている―こうした難点の解決への意図がファニーへの求愛の中に幾分かは含まれているはずです。

ファニーへの燃える思いに,ヘンリー・クロフォード自身の自己改善への意欲が含まれていたことは,次の地の文に明白です。

ヘンリーは、自分のいまの気持ちを話して、ファニーの魅力を称える以外に話すことはなかった。ファニーの美しい顔と姿、上品な態度、善良な心、これはまさに尽きることのない話題であり、ヘンリーは、ファニーの穏やかで控えめなやさしい性格を、熱っぽい調子で誉めたたえた。女性のやさしさは、男性が女性の価値を判断するときの最も重要な要素であり、男性はときには、やさしさのない女性を愛することもあるけれど、女性にやさしさがないなどということは信じられないのだ。そしてファニーのしっかりした性格については、ヘンリーはこれを信頼して称賛するだけの十分な理由があった。ファニーがマンスフィールド・パークでつらい目にあって、その忍耐強い性格が試される場面を何度も見たことがあるからだ。バートラム家の人たちは─エドマンドを除いて─みんな何らかのかたちで、絶えずファニーに忍耐と我慢を強要してきたのではないだろうか。それに、ファニーがとても愛情深い性格であることも間違いない。兄ウィリアムと一緒にいるときのファニーを見るがいい!ファニーはやさしい心の持ち主であると同時に、ものすごく熱い心の持ち主だということが、あのほほえましい光景を一目見ればわかるだろう。そして、ファニーが鋭敏かつ明晰な知性の持ち主だということも間違いないし、しかも彼女の態度には、上品で謙虚な心がはっきり表われている。しかしそれだけではない。ヘンリー・クロフォードはいちおうの分別を備えているので、自分の妻は立派な道徳心と信仰心を備えた女性でなければならないと思っている。ただ、そういうことについて真剣に考えることに慣れていないので、それを適切な言葉で言うことはできなかった。しかし彼はこう言った。ファニーは志操堅固で、名誉を重んじ、礼儀作法をしっかりとわきまえた女性だから、いかなる男性も、彼女の貞節と誠実な愛情を完全に信頼することができる、と。つまり彼は、ファニーが立派な道徳心と信仰心の持ち主だとわかったからこそそう言ったのである。(P.447〜448)

ヘンリー・クロフォードによって熱っぽく語られるファニーですが、実は、小説のなかで作者によって、彼女のことがまとまって紹介されたことはありませんでした。クロフォード兄妹の場合等は、登場したときに最初に外見やら性格を説明されていたのと対照的でした。ファニーの場合は、最初は、ポーツマスの貧しい妹の家からマンスフィールド・パークにやってきて、バートラム家の家族と使用人の中間のような脇に控えるみすぼらしい少女だったのが、徐々に成長してきたという事情もあったとおもいます。それにしても、バートラム家の人もエドマンド以外は彼女のことは人として視野に入っていなかったという存在だったせいもあるでしょう。従って、読者は彼女にまつわるエピソードから人となりを見ていくという読み方をするようでした。物語が進んで、ファニーが成長し、若い女性となったところで、いまさら人物紹介をするのもおかしい、というわけで、ここでヘンリー・クロフォードの賛美をまじえた紹介になったのではないかと思います。それはまた、読者に対して、ファニーはこのような人物であるというイメージを植え付ける効果も与えていると思います。ここでのファニー像は、彼女に恋するヘンリー・クロフォードの目に映った姿で、そこに偏りがあります。しかし、その偏りは、実は、後に彼女がヘンリーの求愛を拒絶する行為と矛盾しない姿なのです。そこで、読者は納得することになるでしょう。ファニーの、ものごとの本質を深く観察し、何が正しいかという倫理を自身で保持していて、金持ちとか肩書きといった外面に左右されないというイメージを固定化させる機能を果たしていると思います。これによって、これ以前の少女のころのファニーにも遡って、そういう人物だったというイメージが上書きされることになったと思います。オースティンの小説のヒロインたちは、『分別と多感』のエリナーがある事情からエドワードへの思いを口にすることを封印された以外は、程度の差はあれ自身の感情にすなおな人々です。彼女たちは、様々な行動をとりますが、その動機は、読者にとっては、シンプルで分かり易いのです。しかし、ファニー・プライスの場合は、物語のなかでもエドマンドへの思いは最後近くでエドマンドが気づくまで、ずっと隠し通します。また、メアリー・クロフォードに対しても表面上は親しげですが、心の中では冷徹な観察と嫉妬、嫌悪を抱えています。そういう一筋縄ではいかない屈折した性格の女性です。しかも、オースティンは彼女が、何かに対したときの、その時々に起こった感情を細かく描写しますが、彼女の全体像、つまり、そういう反応は彼女のどのような性格から起きているのかを書きません。例えば、『高慢と偏見』においてエリザベスが、多彩な感情の動きをしますが、それは小説の題名でもある、彼女のプライド(それを裏返したのが偏見)から導き出せるように書かれている、そのプライドにあたるものがファニー・プライスの場合は隠されているのです。そのかわりに、タテマエとして正しさを求める道徳感があてがわれている程度です。しかし、それでは表面的すぎて彼女の激しい憎悪感情を説明できる説得力に欠けます。それが、ストーリーがご都合主義に映ったり、ファニーという人物の分かり難さ、ひいては、オースティンの小説のなかでは難解に感じられる要因ではないかと思います。

さて、物語はヘンリーが打ち明けたファニーとの結婚をメアリーは賛成します。

翌朝、ヘンリー・クロフォードはウィリアム・プライスの昇進を告げる手紙が届くと、それを持ってファニーのもとを訪れます。そして、彼は、ファニーに兄の昇進と、それに自身が尽力したことを伝えます。その経緯をくわしく説明するなかで、自分がどんなに心配したかを熱っぽく語り、「最も深い関心」とか「二重の動機」とか「口では言えないほどの思いと願い」といった言葉を連発します。彼は、巧妙に自身のファニーに対する思いを織り交ぜて、抵抗なく受け入れられるように伝えようとするのです。これに対してファニーはウィリアムの昇進の喜びと驚きで頭がぼうっとして、彼の話を漫然と聞き流してしまいます。ヘンリーは、これに気をよくして、いよいよ本題の愛の告白に入ります。これに対してのファニーは

でもファニーは、これはすべて馬鹿な冗談であり、恋のたわむれの真似事であり、自分をだますための一時の戯言だと思った。これは自分にたいする非常に失礼かつ不当な振る舞いであり、自分はこんな仕打ちを受ける理由はないと思わずにはいられなかった。でもこれは、いかにもヘンリー・クロフォードがやりそうなことだし、彼がマライアやジュリアに対してしたこととまったく同じだ。でもいまの自分は、たとえヘンリーに不快感を覚えても、それを表に出してはいけない。彼はウィリアムのためにあんなに骨折ってくれたのだから、たとえ彼が失礼な振る舞いをしても、その恩を忘れてはいけない。ウィリアム昇進の知らせを聞いて、ファニーの心は喜びと感謝の気持ちでいっぱいだった。だから、自分の気持ちを傷つけられたくらいで、そんなにムキになって腹を立てることはできなかった。(P.459)

ファニーはウィリアムの昇進については感謝しますが、求愛については、かつて彼がマライアやジュリアをもてあそんだ戯れで、自分を侮辱する失礼なことだとしか考えられません。しかし、兄の昇進への尽力には感謝しなくてはならないので、厄介なことになったと戸惑うばかりです。彼女は求愛を冗談であるとして、まともに相手をすることなしに、失礼だとたしなめますが、ヘンリーは強引に結婚を申し込みます。彼は、ファニーが自分を嫌っていることに気づいていません。

彼はこの件に関して、非常に楽観的で自信たっぷりであり、自分が求める幸せ─すなわち自分とファニーとの結婚─の邪魔をしているのは、ファニーの謙虚な気持ちだけだと思っていた。(P.460)

このヘンリー・クロフォードの結婚の申込みは同じ作者の『高慢と偏見』において、エリザベスに対してコリンズが求婚して手厳しく断られても、自分が拒絶されたことに気づいていない場面や、同じ作品で、ダーシーがコリンズの牧師館でエリザベスに求婚して断られた場面によく似ています。『高慢と偏見』の場合は、二人とも程度の差はありますが、高慢さゆえにあいての女性を見下し、その気持ちに思い至らない愚かさを皮肉に笑いのめしています。この場合の、ヘンリーも同じです。作者からみれば、ヘンリーにとっては、ファニーもマライアもジュリアも同じようなもので、そのなかで少しファニーの値段が高いという程度の差なのだということなのでしょう。それは、前日のヘンリーとメアリーの会話で、メアリーが、彼がファニーに飽きてしまっても妻として生活を保障され幸せでいられるという趣旨の発言をしていて、彼がファニーを愛していると言っていることは一時の気紛れに過ぎないことを見破った発言をしています。しかし、『高慢と偏見』は喜劇的な場面ですが、この作品では悲劇的な様相を呈します。つまり、これまで彼女は傍観者としての立場で、人々が思い煩い、行動するさまを眺めていただけでした。しかし、この求婚は彼女を人生の傍観者から選択者の立場へと転換させるものです。彼女は、突然、人生の岐路に立たされ、決断を迫られることになったわけです。

まずは、ファニーが、ヘンリーの求婚をどう受け止めたか、次のように書かれています。

ファニーはあらゆることを感じ、考え、そして身震いした。激しい興奮状態のまま幸福感に満たされたかと思うと、突然みじめな気持ちになり、深い感謝の念を覚えたかと思うと、突然激しい怒りがこみあげた。クロフォードさんが私にプロポーズするなんて信じられない!突然そんなことを言い出すなんて許しがたいし、まったく理解できない!でも彼はそういう人なのだ。何かをするときは、必ず邪悪なことを混ぜなくては気がすまない人なのだ。(P.461)

ファニーの心の中で、兄のことを想い感謝と喜びが、動揺や惨めさや怒りと混ざり合い混乱の極にありながら、同時にヘンリィに対して断罪するのです。当然、彼女はヘンリーと結婚するつもりはありません。

しかし、サー・トマスは彼の信奉する伝統的価値観から見れば、ヘンリーのファニーへの求婚は彼女にとってはこれ以上望むべくもないほどの幸運であり、ファニーが受諾するのは当然ということになります。したがって求婚を断るファニーに,サー・トマスは理解できません。

「おまえは私の期待をことごとく裏切った。お前の性格は、私が思っていたのとは正反対だということがよくわかった。いいかね、ファニー、最近の私の態度で、おまえにもわかっていたと思うが、私はイギリスに戻ってから、おまえのことを非常に高く買っていたのだ。おまえは、わがままや、うぬぼれや、近頃の若い女性に流行している、自由な精神などというものとはまったく無縁な女性だと、私は思っていたのだ。自由な精神などというものを振りかざす若い女性を見ると、私は虫唾が走る。ところが、おまえもそういう連中と同じように、わがままで強情な娘だというこがはっきりしたのだ。お前を導く権利がある人たちを無視して、ひと言の相談もせずに、何でも自分で決めしまう娘だということがはっきりしたのだ。私が想像していたような娘とはまったく違うということがはっきりしたのだ。プライス家の人たち、つまり、おまえの両親や兄弟や妹の利益や不利益のことは、おまえの頭には一瞬も浮かばなかったようだ。クロフォード君との結婚が決まれば、お前の家族はどれほど恩恵をこうむり、どれほど喜ぶだろう。しかしそんなことは、おまえにはどうでもいいのだ。お前は自分のことしか考えていないのだ。」(P.482〜483)

「もし私の娘が誰かからプロポーズされて、私の意見も忠告も聞かずに断ったら─たとえその相手が、クロフォード君よりも半分も劣る青年だったとしても─私はびっくり仰天するだろう。もしそんなことがあったら、私はほんとうにびっくりしてひどく傷つくことだろう。それは、親に対する義務と敬意を冒瀆する振る舞いだと思うことだろう。しかしお前の場合は事情が違う。おまえは私に対して、子供としての義務があるわけではない。しかしファニー、みしおまえが、恩知らずな行為をしてもようと思っているのなら─」(P.484)

ファニーはエドマンドが好きなことは口が裂けても言えません。当初、ファニーがバートラム家に引き取られる際にいとこ同士の結婚が危惧されたことはファニーも分かっているはずです。また、ヘンリーがマライアやジュリアに対しておこなったことは彼女たちの名誉のために黙っていなくてはなりません。したがって、サー・トマスにはファニーがこんな良縁を断る理由がさっぱりわからず、彼女が増長しているとしか思えません。しかも、サー・トマスだけではなく、レディー・バートラム、メアリー・クロフォードもファニーとヘンリーの結婚を勧めます。エドマンドまでが、 ヘンリーとの結婚をファニーに説得しようとします。ファニーは、素人芝居の練習でヘンリーが婚約者のいるマライアに言い寄っていたことをエドマンドに説明しますが、エドマンドは素人芝居を「皆の愚かな振る舞い」だと考えていて、彼らの行動を把握していないのです。ファニーは、ヘンリーを評価するエドマンドにメアリーの影響を感じ取ります。メアリーはエドマンドが間違っていることを知っています。彼の判断すらあてにできなくなったファニーは、孤立感を強めていきます。彼女は、今まで以上に独立心を持ち始め、もはやエドマンドに相談をしなくなっていきます。その一方で、ファニーはヘンリーに怒りを覚えます。「自分勝手で思いやりのない、クロフォード氏のしつこさに対して怒りがこみあげてきて」、決して彼を愛することはできないと思うのです。

ファニーはいつもバートラム家の人たちの役に立ちたいと願ってきたし、愛されたいと思ってきた。しかし、ファニーとヘンリー・クロフォードとの結婚が、この人たちの願いであり、その願いを聞き入れないファニーは「わがままで恩知らず」だと非難されるという状況に追い込まれます。ヘンリーは、そのような状況を味方にして、つまり、バートラム家の人たちの後押しを受けて、断られてもファニーに言い寄ってくるのです。

ある時、ヘンリィは朗読においても際立った才能を発揮してみせます。素人芝居の際にも、彼の演技は卓越したものでしたが、シェイクスピアの朗読においても、彼は王であれ、女王、家臣であれ、思いのままにそれぞれの人物になりきり、威厳や誇り、博愛や後悔、どのような感情も巧みに表現してしまう才能を持っていることを示します。彼は「演じる」ことで、様々な人間に変容し異なる人生を疑似体験することができるわけであり、彼が常に追い求めている変化と新奇さを手に入れることができるのです。しかし巧みに自分を演じ分け、相手に合わせて対応を変えるヘンリィの器用さは、ファニーには彼の不誠実さ、無節操の現れとしか映りません。「自分は全ての人にとって一番大切な存在、自分にとって他は皆取るに足らぬ人間」と考えるヘンリィの自己本位さが、ファニーの不信感を募らせるのです。ヘンリーは、卓越した演技の才能を持ちながら、ファニーの前で役柄のひとつである誠実な人物の役を演じようとしているのです。しかし、誠意ある努力にもかかわらず、彼はそれを持続させることができない。そして、ファニーは演技そのものを否定するのです。ファニーは素人芝居に参加するよう求められたとき、「私は世界を与えると言われても、何かを演じるなどということはできませんわ。ええ、本当に私にはできませんわ」と答えました。それは、彼女が、頑なまでに自己自身であることにこだわるからで、ヘンリーは、そのようなファニーと際立った対照を示していると言えます。確固たる自己を持たないヘンリィはその場その場の状況と相手に応じて、洗練され機知に富む都会的な恋人から真摯な恋人まで、結局はその形だけを演じているに過ぎないということを、ここで示しています。ヘンリィはファニーが本物の感情を持てる人間であることを理解できる判断力がありながら、彼の情熱は気紛れで、目の前に見えなくなると容易にその対象を取り替えてしまうほど脆いのです。ヘンリィがファニーに固執するのは、彼女が彼からの誘い掛けに全く応じず、あくまでも彼の求婚を拒み続ける姿勢に彼の征服欲がかき立てられたからに過ぎないという要素が少なくありません。ファニーがヘンリィに抱く不信感は、彼が行動規範となるべきモラルを持たず、己の欲望のみに突き動かされて生きる人間であることを見抜いていることからきているという点も指摘できると思います。したがって、ファニーがヘンリーに歩み寄る余地はまったくないと言えます。

だいたい、ヘンリーという人物は、これだけ執拗に言い寄っていながら、ファニーが頑なな態度を崩すことがないことに、自身を反省するという姿勢が全くみられないところに、この人物がファニーという女性のことを考えていないこと、改善するにしても自分を変えていく可能性がないことを明らかにしています。それは、『高慢と偏見』においてダーシーがエリザベスに第一回目の求婚を手厳しく拒絶されて、自身の高慢さと偏見に思い至って、謙虚さを獲得していったことと対照的です。その点で、ヘンリーは同じ作品のコリンズに通じるところがありますが、コリンズが喜劇的であるのに対して、彼は、この後で破滅的な愚行を犯すことになる悲劇的な存在と言えます。

 第37〜42章

サー・トマスは、ファニーを一度貧しい実家のポーツマスに帰すことにします。彼は、「ファニーはすでに八、九年、裕福な恵まれた生活をしてきたために、物事を比較したり判断したりする能力がすこし狂っているのだ。実家のプライス家でしばらく暮らせば、十分な収入のある裕福な暮らしの価値が、あらためてよく分かるはずだ」(P.564)と考えたのです。

オースティンの小説では、ヒロインが視点を変えて外側から客観的に自己を見つめ直す過程が、ストーリーの中に設けられています。それによって、ヒロインたちは、自己を反省し、誤りに気づいたり、それまで認識できなかった事実をしることができるようなっていくのです。例えば、『高慢と偏見』では、エリザベスがダーシーと出会うことにより、自分自身の狭い経験範囲から引き出した自らの理解力や判断力の優位性への自信満々な思い込みから覚醒したように、また『エマ』では、エマがウッドハウス家の甘やかされた娘から、地域社会の一員として自らの位置を確認することにより、自己中心的な視点からより成熟した視点へと成長していくように、『マンスフィールド・パーク』でも、世間から隔離され言わば純粋培養のように育ったファニーも、もう一度外側からマンスフィールド・パークを見つめなおし、社会の中の一員としての位置を再確認するプロセスとして、このポーツマスへの里帰りのエピソードを読むことができると思います。

もともと、ファニーという人物はオースティンの登場人物の中でも、『ノーサンガー・アビー』のキャサリン・モーランドと並んで夢見がちな性格のヒロインです。以前、サザトン・コート訪問から帰宅したときに、ファニーは雲ひとつない夜空の輝きを眺めながら、エドマンドに語り掛ける。

「ここには調和があるわ。安らぎがあるわ。絵や音楽では表現できないもの、詩にしか表現できないものがあるわ。人間のあらゆる悩みを静めてくれて、人間の心を喜びで満たしてくれる何かがあるわ。こういう夜の景色を眺めていると、この世に悪や悲しみなどあるはずがないと思えてくるわ。人々が自然の崇高さにもって目を向けて、我を忘れてこういう景色を眺めれば、この世の悪や悲しみはもっと少なくなるはずよ」(P.174)

エドマンドのリードのあったのでしょうが、『ノーサンガー・アビー』のキャサリン・モーランドのようなゴシック小説の虚構世界に入り込んでしまうのとは違って、世間知らずで理想主義的なタテマエを素朴に信じているといった性格です。

このような夢見がちなファニーが、ポーツマスという現実世界の中に放り込まれることで、サー・トマスが言う通りに実家にうんざりし、理性が治癒されていくのです。マンスフィールド・パークで常に疎外感を味わっている分だけファニーは、本来の居場所である実家への思いは熱烈です。彼女は「家族のみんなから、いままで経験したこともないほどたっぷりと愛されるのだ。何の不安も遠慮もなく家族の愛情を感じ、自分は自分の家族とまったく対等なのだと感じ」(P.566)ることを思い描き、夢心地になるのですが、彼女の描いた愛情溢れる理想的家族像への幻想は無残に打ち砕かれることになります。

何年ぶりかに帰郷したファニーは、実の両親や弟妹たちとの再会を果たし、しばらく彼らと生活を共にするわけですが、それは彼女自身の期待に反し、喜ばしい体験ではなかったのです。プライス氏がいかに酒飲みで、大声で悪態をつき、粗野で下品な父親であるか。プライス夫人がいかに愛情が薄く、不平不満に没頭するばかりの、無能な母親か─それは、両親に失望したファニーの目を通して、突き放したように描かれています。また、年下の弟妹たちの身なりが不潔でみすぼらしいさま、家の中が騒々しく、たえず諍いが生じているさまなども、ファニーの目をとおして描かれ、彼女がいかに驚きあきれ、神経がまいりきっているかがうかがわれる。家中の者がみな落ち着きなく、誰もがファニーに対して無関心であることに対しても、彼女は失望を感じるのです。

ファニーが違和感を覚えるのは、たんに一家の人々に対してだけではなく、家の狭苦しさや家具の貧弱さといった物理的環境に対しても、耐えがたい思いを味わいます。

日が伸びたので、いまはろうそくは必要なかった。日が沈むまでまだ一時間半ある。ポーツマスに来てからもう三ヶ月たったのだと、ファニーはあらためて思った。居間に差しこむ強い日差しは、ファニーを明るい気持ちにさせるどころか、ますます憂鬱にした。都会と田舎では、太陽の光がまったく違うものに見えたからだ。都会の太陽は、ただまぶしいだけで、しかも息苦しくなるような不快なまぶしさで、光がなければみえないよごれやほこりを目立たせるだけだった。都会の太陽には、健康的な感じも明るい感じも全くなかった。暑苦しいぎらぎらした光と、ふわふわと漂うほこりのなかにファニーは座っていた。そして彼女の目は、父親の頭髪のシミがついた壁から、弟たちが傷だらけにしたテーブルへとさまよった。テーブルの上には、一度もきれいに洗ったことがないお盆、拭いたあとの筋が残っている紅茶茶碗と受け皿、そして、レベッカが持ってきたときよりもいっそうべとべとしてきたバター付きパンが置かれていた。(P.676)

居間に強い日光が差し込んで来たとき、ファニーは気分が明るくなるかわりに、ますます憂鬱になります。陽光の効果さえも、田舎と都会とでは違うのだというように、違いが強調されます。むしむしとするような熱気と、埃の舞うなかに座りながら、ファニーは、父親の頭が当たってできた壁の跡や、弟たちが傷をつけた食卓、不潔なお盆、拭き方が縞状になったカップや受け皿、埃の浮いたミルク、バターでべたべたとしたパンなどを目で追う情景です。オースティンは、不潔さを容赦なく浮かび上がらせるという日光の悪しき側面を、即物的に描き出し、そのまぶしさに耐えきれない弱り切ったファニーの神経の病理学的現象をリアリスティックに描きだします。ここでは、ファニーによって焦点化されたこのような語りの部分からも、彼女の実家に対する嫌悪感にも似た違和感が、浮かび上がってくるのです。

ファニーは結局、ポーツマスの実家への里帰りという体験を経て、次のように、マンスフィールドこそ、今や自分にとっては真のホームなのだということを認識するに至ります。

これが里帰りしたわが家の姿だった。ファニーにマンスフィールド・パークのことを忘れさせてくれて、エドマンドのひとを穏やかな気持ちで考えるようにさせてくれるはずの、わが家の姿だった。おかげでファニーは、マンスフィールド・パークのことを忘れるどころか、マンスフィールド・パークと、そこに住むいとしい人たち、そこの幸せな生活のことしか考えられなくなってしまった。いまいる我が家とマンスフィールド・パークは、何から何まで正反対だった。マンスフィールド・パークの上品さ、礼儀正しさ、規則正しさ、調和もそしてあの平和と静けさが、絶えずファニーの頭に浮かんだ。つまり、それらと正反対のものが、ポーツマスの家を支配しているからだ。(P.599)

マンスフィールド・パークやエドマンドから距離を置こうというファニー自身の意図にもかかわらず、彼女がポーツマスで発見したのは、その騒音と不作法、混乱の世界とは対極にある、マンスフィールドの優雅で礼節正しい調和の世界にほかならなかったことを、この文章は明らかにしています。ここで注目したいのは、ファニーが「マンスフィールド・パークと、そこに住むいとしい人たち、そこの幸せな生活」と呼ぶとき、その懐かしい世界を構成するのは、エドマンドひとりではなく、バートラム家の娘たちも含まれていて、ノリス夫人さえ除外されていないことです。しかも、ファニーは、母親であるプライス夫人はノリス夫人よりも、玉の輿にのったバートラム夫人と、気質が似ている。しかし、プライス夫人は、その生活によって、思慮に欠け不精な女性へと品位を落としてしまったというように、ファニーは母親を冷徹に分析すらしています。

さらにオースティンは、この作品で、身分や環境の相違が、人間や人間関係を変えてしまうことを、もう一歩推し進めて描いています。例えば、ポーツマスに滞在中、メアリーからの手紙が届いたとき、ファニーは次のように反応します。

彼女から手紙が来なくなればほっとするだろうと思っていたファニーの予想は間違っていた。ここでも、ファニーの気持ちにたいへんな変化が生じたのである!つまり、ファニーは、久しぶりにミス・クロフォードから手紙をもらって、ほんとうにうれしかったのである。いまこうして上流社会から追放されて、いままで関心のあったすべてのものから切り離されてみると、自分の心が住んでいた世界に属する人から来た手紙、しかも愛情と、ある程度の上品さを備えた手紙は、ほんとうにうれしかった。(P.601)

あれほど嫌悪していたメアリーからの、あまり欲しくないと思っていた手紙を手にしたファニーは嬉しく思ったのです。ポーツマスのような異世界にいると、メアリーはむしろ同族ということになり、相対的に格上げされているのです。むしろ、その世界との関係に繋ぎとめてくれるものとして待望されるのです。ここでは、ファニーにとっては、倫理的な基準よりも、むしろ階級的な基準のほうが、人との距離を決定づけるより大きな要因となっているわけです。実は、ファニー自身の夢見がちな理想主義が、このような階級的な基準の上に立っていたことが、明らかになってくるのです。それは、彼女がポーツマスでの生活を続けるうちに、自分でも思い知らされるのです。

そんな時、ヘンリーが突然ポーツマスを訪ねて来ます。ファニーは、自分が毛嫌いし、求婚を断った相手の男性が、はるかに身分の劣る自分の貧しい実家を訪ねてきたとき、自分の身内を恥じるのです。

この散歩はファニーにとっては、たいへんな苦痛と混乱の連続となった。というのは、三人が大通りに出たとたん父親に出会ったからだ。今日は土曜日なので、プライス氏の身なりは、いつもよりいっそうだらしなかった。プライス氏は立ちどまった。紳士には程遠い父親だが、ファニーはクロフォード氏に父親を紹介しないわけには行かなかった。クロフォード氏が父親を見てびっくりするのは間違いないとファニーは思った。クロフォード氏は恥ずかしさと不快感に襲われて、すぐに私のことをあきらめて、私と結婚したいなどと、これっぽっちも思わなくなるに違いない。(P.616)

ファニーは、みすぼらしい身なりをした下品な父親を、ヘンリーに引き合わせることに対して、極度の苦痛と困惑を覚えます。父のみすぼらしい風采を恥じているだけでなく、紳士でない親を、紳士に見せるのが恥ずかしくて、できることなら親子であること隠したいというファニーの階級意識の表れとも、解釈できます。またファニーは、ヘンリーが驚いて嫌気がさし、自分と結婚したいという気がなくなるだろうと予想すると、耐えがたい気持ちになるのです。それは、本来であれば、ファニーにとって望ましい結果であるはずなのに、です。これまで頑なまでに自分の我を通す潔癖なファニーの姿を見てきた読者としては、この期に及んでヘンリーに見栄を張りたがる彼女のなかに、矛盾や俗物性を認めることも可能です。

ファニーは幼いころ親に捨てられたようなもので、疎外感を持ち続けてきたのですが、この里帰りという体験を経て、逆に彼女のほうが、自分を失望させた親を、心理的に見捨て、実家を疎外したとも言えます。言ってみれば親離れです。もっともファニー自身も、そういう自分の感じ方に対して、罪の意識を拭いきることができませんでした。しかし、いったん豊かな環境に慣れた者が、貧しさや下品さに対して感じる違和感はどうしようもないと言えます。人を隔てる環境の相違という壁は、時として乗り越えがたい場合があるということに、この作品は目を背けていません。

他方で、ファニーの自己認識の過程は大変緩やかでゆっくりとしたものです。オースティンの他の作品、例えば『高慢と偏見』や『エマ』ではヒロインがある瞬間に劇的な自己認識や覚醒を経験するようにはいきません。ファニーの言動は常に正しく慎ましやかであり、自らの自惚れや高慢さを恥じ入るように反省を口にすることは決してありません。しかしいくら志操堅固であっても、社会生活なしにはその堅固さは何の意味ももたらさない。一見非の打ち所のないファニーですが、オースティンのほかの女主人公と同様に現実社会の認識を伴って初めて、ファニーは自己を見つめ直すことができるたわけです。個人と社会の関係、社会の中の一員としての個の存在、これらの認識なしには自己の成長はありえない。ファニーの自己認識には、いささか夢想的で理想主義的傾向のある潔癖さから、現実社会の世俗性の受容へと、変化していきます。そこには、自分自身や家族に対する冷徹な観察と認めたくない事実を認めてさせられたという苦さが伴いました。

このようなファニーの変化は、ポーツマスでの閉塞状況の中にあって、それまでであれば、ひたすら耐え忍んで助けを待つという受け身の姿勢に終始したはずのものから、内気な性格を鼓舞して、状況の改善に向けて行動を起こすということに表われます。ファニーが家族やポーツマスのかつての知り合い人々のなかで、唯一、すぐ下の妹のスーザンに慰めを見出します。ファニーは二週間かけて、スーザンを慎重に観察し、彼女はプライス家を何とか改善させたいと孤立無援の戦いをしていることに気づきます。そこで「ファニーには初めての経験だし、自分が人を導いたり、何かを教えたりできるなどと思ったこともないが、とにかく、スーザンにときどき助言を与えてあげようと決心した。そして、「みんなにどういうことをしてあげるべきか。自分にとっていちばん賢明なことはどういうとか」ということに関する正しい考え方を、スーザンのために実践しようと決心した。」(P.607)ファニーが、そこでとって行動は、スーザンとベッツイのペンナイフの奪い合いを解決するために、妹のベッツイにペンナイフを買ってやり、スーザンが自分のものであったペンナイフを取り返せるように計らいます。些細なことですが、このことによってファニーはスーザンの尊敬と信頼を得て、彼女に貸し本屋の本を借りてやり、歴史を教え、彼女を教育し、改善に協力するのです。

 第43〜44章

ファニーがヘンリー・クロフォードから求婚された一方で、彼女の一番の懸念であったエドマンドとメアリーの関係はどうなっているのでしょうか。少し、時間を遡りますが、エドマンドが牧師となって赴任するソートン・レイシーからマンスフィールド・パークに戻ったとき(彼女はすでにヘンリーからプロポーズされていました)、二人の結婚やメアリーについて、ファニーの懸念として、次のように書かれています。

ミス・クロフォードとエドマンドとの結婚は、今まで以上に順調に進みつつあるようなのだ。エドマンドはミス・クロフォードとの結婚をますます強く望んでいるし、ミス・クロフォードのほうも、以前よりずっと真剣な気持ちになってきたようだった。エドマンドにとっての障害、つまり高潔な精神から生ずるためらいは、もはやすっかり取り除かれたのかはよくわからない。そして、ミス・クロフォードの、結婚という自分の野心にたいする疑いと迷いも、同じように克服されたようだった。ただし、なぜ克服されたのかは、やはりよくわからない。お互いの愛情が増したとしか言いようがない。エドマンドの善良な心と、ミス・クロフォードの悪しき心が恋心に屈したのであり、その恋心がふたりを結び付けたとしか言いようがない。エドマンドは、ソートン・レイシー村での用事が済みしだいロンドンへ行く予定だ。たぶん二週間以内に行くことになるだろうと彼は言っていたし、ものすごくうれしそうに言っていた。そしてロンドンでミス・クロフォードと再会すれば、どういうことになるか、ファニーにはよくわかっていた。エドマンドは間違いなく結婚を申し込み、ミス・クロフォードは間違いなく承諾するだろう。でも、ミス・クロフォードの悪しき心はそのまま残るだろう。ファニーはそれを思うと悲しくなった。自分のことは別にしても、そう、自分のことは別にしてもほんとうに悲しくなった。

ミス・クロフォードは最後の会話で、やさしい感情や、心のこもった親切を示したけれど、ミス・クロフォードはやはりミス・クロフォードなのだ。本人は気がついていないが、道に迷った堕落した心の持ち主であり、ほんとうは闇の中にいるのに、自分では光の中にいると思い込んでいるのだ。ミス・クロフォードはエドマンドを愛しているかもしれないが、それ以外の感情では、エドマンドにふさわしい女性ではない。あのふたりの間には、恋心以外には共通の感情はないと、ファニーは確信している。だから彼女がこう思ったとしても、いにしえの賢人たちは許してくれるだろう。つまり、ファニーはこう思ったのだ。「ミス・クロフォードの心が向上する可能性はほとんどない。お互いにこんなに愛し合っているときでさえ、エドマンドは、ミス・クロフォードの判断力の曇りをぬぐって正しい考えに導くことができないのだから、たとえふたりが結婚して一緒に暮らしても、エドマンドの善なる心は空費されるだけだろう」と。(P.561〜562)

「エドマンドの善良な心と、ミス・クロフォードの悪しき心が恋心に屈した」とか、彼の求婚を受け入れても「ミス・クロフォードの悪しき心はそのまま残るだろう。ファニーはそれを思うと悲しくなった。」というような表現には、メアリーの心を「悪」と直結させるファニーの見方が端的に表れています「ミス・クロフォードはエドマンドを愛しているかもしれないが、それ以外の感情では、エドマンドにふさわしい女性ではない」、「ミス・クロフォードの心が向上する可能性はほとんどない」というように、ファニーは畳みかけるように厳しい裁断を下す。恋敵に対する彼女の批判は、容赦のないものです。ここには、嫉妬から憎悪になだれこんでいく、ファニーの強い感情が窺われます。オースティンは、この文章をファニーの視点から彼女の内心の声の直接話法を盛り込んで、主観的な書き方をしています。つまり、ここでは、事実はどうなのかではなく、ファニーは、どう捉えているのか、ということが物語の中心になってきているのです。

ここで、ヘンリー・クロフォードがポーツマスのプライス家を訪ねた後のメアリーからの手紙を読んだ後、ファニーはふたりの結婚の見込みについて、思いをめぐらせます。

この手紙を読んで唯一はっきりしたことは、エドマンドとミス・クロフォードの結婚に関しては、決定的なことはまだ何も起こっていないということだった。(中略)ファニーの頭に一番たびたび浮かんだ考えはこうだった。ミス・クロフォードはロンドンの生活に戻って、エドマンドにたいする愛情が冷めて、気持ちがぐらつくかもしれないが、結局は以前の愛情がよみがえって、エドマンドとの結婚をあきらめきれないのではないか、ということだ。ミス・クロフォードは、自分の心が許す以上に野心的になるだろう。ためらったり、じらしたり、条件を出したり、いろいろな要求を出したりするかもしれないが、結局はエドマンドのプロポーズを受け入れるだろう。これがファニーの頭に一番たびたび浮かんだ推測だった。ロンドンに家を持つ?まさかそれは不可能だろう。でもミス・クロフォードから、どんな要求を出すかわからない。エドマンドの将来はますます暗くなるばかりだ。自分が結婚する男性について、容姿のことしか話せない女性なんて!ああ、なんてつまらない愛情だろう!ミス・クロフォードは、エドマンドと半年も親しいつきあいをしていたというのに!ファニーはミス・クロフォードのことが恥ずかしくなった。」(P.639〜640)

「ミス・クロフォードは、自分の心が許す以上に野心的になるだろう。ためらったり、じらしたり、条件を出したり、いろいろな要求を出したりするかもしれないが、結局はエドマンドのプロポーズを受け入れるだろう。」という予想には、ファニーがいかにメアリーを嫌悪すべき人間だと思っているかが、ありありと表れています。自分が結婚する男性について、容姿のことしか話せない女性なんて!ああ、なんてつまらない愛情だろう!」という憤懣。ここには、エドマンドの値打ちをわかっているのは自分だけなのに、メアリーに彼を譲るのはもったいないという悔しさが滲み出ています。

ここでは、愛する男性が、自分より価値のないと思っている女性に恋するさまを、じっと見ながら耐えねばならないファニーの苦悩を繰り返し描いています。そのなかでも、ファニーの苦悩が頂点に達した部分は、次のくだりではないでしょうか。終盤近く、エドマンドが、メアリーに対する悩ましげな思いを書き綴った手紙を、ファニーに送ってきます。そこには、とにかくファニー、ぼくはミス・クロフォードとの結婚をあきらめることはできません。彼女は、ぼくが妻として考えられる唯一の女性です」(P.646)というような告白さえ述べられている。それを読んだファニーの反応は、次のように描かれます。

「いいえ、手紙なんてほしくない。もう二度と手紙なんてほしくない」ファニーは手紙を読み終えると、心の中できっぱりと言った。(中略)彼女はエドマンドに対して腹が立ち、不快感と怒りを覚えそうになったほどだった。「プロポーズを一日延ばしにしても、何もならないわ」とファニーは心の中で言った。「なぜ早くはっきりしないのかしら?エドマンドは恋に目がくらんで、何も見えなくなっているんだわ。誰が何をしようと、彼の目を開かせることはできないわ。こんなに長い間真実を目の前にしているのに目が覚めないんですもの。エドマンドはミス・クロフォードと結婚して、哀れでみじめな一生を送るんだわ。彼女の悪影響で、エドマンドの品格まで落ちることがありませんように!」

ファニーはもう一度手紙に目を通した。「ミス・クロフォードは私のことが大好きですって?とんでもないわ。彼女が愛しているのは、自分とお兄さんだけだわ。(中略)「彼女は、ぼくが妻として考えられる唯一の女性です」ええ、そうでしょうね。エドマンドがこの愛情に一生支配されるんだわ。プロポーズを受け入れられても断られても、いずれにしても、エドマンドのころは永遠にミス・クロフォードと結びついているんだわ。「ミス・クロフォードを失うということは、ヘンリー・クロフォードとファニーも失うということです」いいえ、エドマンド、あなたは私のことがわかっていないわ。あなたがむりやり結びつけなければ、ヘンリー・クロフォードと私は絶対結びつくことはないわ。さあ、どんどん手紙を書いてください。そして早くすべて終わりにしてください。この宙ぶらりんの状態を早く終わりにしてください。早く決断して行動して、早く自分の運命を決めてください」(P.651〜652)

ここでは、ファニーの心の思いは、直接話法で示されています。「いいえ、手紙なんてほしくない。もう二度と手紙なんてほしくない」─これは短い言葉ですが、絶望的な失恋と傷心、幻滅がこめられた表現です。ここでファニーは初めて、エドマンドに対して、不快感と怒りを覚える。「なぜ早くはっきりしないのかしら?エドマンドは恋に目がくらんで、何も見えなくなっているんだわ。誰が何をしようと、彼の目を開かせることはできないわ。こんなに長い間真実を目の前にしているのに目が覚めないんですもの。エドマンドはミス・クロフォードと結婚して、哀れでみじめな一生を送るんだわ。彼女の悪影響で、エドマンドの品格まで落ちることがありませんように!」と、投げやりな思いを吐き出しています。恋する男性を、相手の女性もろとも地に突き落とす─ファニーの苦悩は、そんなところまで行ってしまいます。

しかしこのあと、そんな手紙でも、やはりファニーには有り難いように思えてくる。こうして未練が生じ、どうしても恋心が捨てきれないファニーの心のさまがよく描かれていると思います。

これは、ファニーが、それまでの受け身の傍観者から自主的な行動により周囲を変えることに気づき、自己変革を遂げつつある状態にあって、そのことを自覚しながらも、ポーツマスという遠隔地にいるために、自分では何も行動を起こせない焦りもあると思います。それは、待っているしかなかった以前のファニーから、行動を起こすことができる自分に変わったときには、その行動が及ばぬところにエドマンドがいるという、それまでのファニーでは感じることのなかった無力感に、ここで捉われたがゆえに、激しい感情をあらわにすることになったと考えられます。つまり、以前のファニーであれば、諦めていたことが、自分を変えた後のファニーは諦めきれなくなって、そこで激しい感情を吐き出すことになったと考えられます。それだけ、ここでのファニーの激情はエドマンドへの執着ともいえる思いを、正当化する手間を省いて、不快感としてメアリーだけでなくエドマンドにもぶつけています。このような、愛する人物に自分以外の女性がからんでいる状態を、自分は手紙で知ることしかできないところにヒロインを置くというシチュエーションは、オースティンは好きなようで、『説得』のアン・エリエットもウェントワースの状態を妹からの手紙で知ります。また、『分別と多感』のエレノアや『ノーサンガー・アビー』のキャサリンは、相手とは遠くはなれて諦念と失望の日々を過ごします。彼女たちは、ファニーと違って、激しい感情に捉われることなく、諦念のなかで静かに絶望的な運命を受け容れようとしています。そこに、ファニー・プライスという人物のユニークさがあると思います。しかも、この750ページの小説のなかで、650ページあたりまで進んで、はじめてファニーは激情を全開に発するので、それまでは感情を表に出さない、おとなしい少女としてあり続けるわけで、彼女のイメージは最後の100ページではなく、前の650ページで決められてしまっているのです。

 第44〜47章

ファニーが自らの拠り所となる場所をはっきりと認識し、理想主義的で観念的な考え方を軌道修正させたとき、彼女は再び傍観者の立場に追い遣られることになりました。事件が背後で矢継ぎ早に起こるのですが、彼女は次々に送られてくる手紙の読み手の立場に立たされ、ポーツマスの実家でひとり気遣わしげに成り行きを見守るだけなのです。それは、トムの落馬による怪我と自堕落な生活を続けたことによって身体を壊してしまったこと、マライアとヘンリー・クロフォードの不義密通により出奔してしまったこと、続いてジュリアとイェイツも駆け落ちしたことなどです。この一連の事件はファニーをマンスフィールド・パークの正当な住人として、上流階級に迎え入れる環境を整えるための下準備の役割を果たしていると言えます。トム、マライア、ジュリアといったバートラム家の子どもたちが不行跡で脱落していったことに反比例するように、相対的にファニーの価値が変化したわけです。それは、視点を変えれば、ファニーが夢想的な精神主義から現実を凝視した世俗性への歩み寄りを求められるように、身分や財産を重視するサー・トマスの「世間智」自体も大きな試練にさらされ、軌道修正を求められることになるのです。

最初は、トムが落馬した怪我の手当てもせずに放蕩を続けて衰弱したあげくに、病気となったということを、バートラム夫人からの手紙で知ります。バートラム夫人は息子の心配と不安の慰みを求めて、ファニーに矢継ぎ早に手紙を書きます。受け取るファニーはトムとバートラム夫人を心配しながら、毎日のように手紙が送られてくることより、マンスフィールド・パークとの心の絆を深めていきます。一方、プライス家の人々はバートラム家に形ばかりの同情を示すのみで、ファニーの気持ちを理解できず、ファニーの気持ちはプライス家から離れていきます。一方、バートラム家ではトムの看病をつとめられるのはエドマンドとかいないので、ファニーは自分がマンスフィールド・パークに戻り、役に立ちたいという具体的な思いが生まれます。実際に、自分であれば、具体的に貢献できることが分かるのに、それができないという焦燥感が募るわけです。おそらく、エドマンドやサー・トマスは、こんなときにファニーがいてくれたらと思うだろう、とファニーは分かっているだろうから、尚更です。

三ヶ月前にポーツマスに帰ってきたとき、ファニーは、ポーツマスの実家を「わが家」と呼び、「わが家へ帰るのだ」とうれしそうに言っていた。「わが家」という言葉は、ファニーにとってはとても大切な言葉だった。そしていまでも大切な言葉だが、しかしいまは、マンスフィールド・パークにたいして使われる言葉に変わってしまった。いまのファニーには、マンスフィールド・パークがわが家なのだ。ポーツマスの実家はあくまでも実家であり、マンスフィールド・パークがわが家なのだ。ひとりでひさかに物思いにふけるとき、ファニーはもうだいぶ前から、マンスフィールド・パークをわが家と呼ぶようになっていた。そして、ファニーの心を何よりも慰めてくれるのは、バートラム夫人も手紙の中で同じ言葉づかいをしていることだった。

「私がこんなに悲しいつらい思いをしているときに、あなたが家を留守にしているなんて、ほんとうに残念でなりません。あなたが二度とこんなに長期間家を留守にしないことを私は信じ、願い、心から望んでいます」(P.663)

このようにファニーは、自分が真に所属すべき場所は実家ではなくマンスフィールド・パークであることをはっきりと自覚します。8年という歳月が経過するうちに、自分の中にマンスフィールド・パークの一員であるという自覚が、ファニーの行動をより力強く、より自信あるものに変えていったことに、ファニーは自覚的になります。

もし私がわが家(つまりマンスフィールド・パーク)にいれば、みんなの役にたつことができるだろう。必ずみんなの役に立つことができるし、みんなの頭や手の労力を省いてあげることができるだろう。譬えそれが、バートラム夫人の気持ちを支えて、寂しさを紛らせてあげることだけだったとしても、あるいは、もっと大きな不幸、つまり、自分の存在感を高めるためにいろいろな危険を誇張しがちな、ノリス夫人の絶え間ないお節介から、バートラム夫人を守ってさし上げることだけだったりしても、私がマンスフィールド・パークにいることは、みんなの役に立つだろう。バートラ家夫人のために本の朗読をしたり、話し相手になったり、現在の幸せを感じる手助けをしたり、将来の出来事に対する心の準備の手助けをしたりすることができるだろう。それに、バートラム夫人の階段の上がり下がりの面倒を省いてあげて、たくさんの伝言を夫人に代わって伝えてあげることもできるだろう。こうしたことを思うと、ファニーはほんとうにうれしくなった。(P.665)

このようにファニーの思いは、具体的な行為を伴うもので、けっして抽象的な感情にとどまるものではありません。それだけ、現実に実態のあるものとして、マンマフィールド・パークが彼女の心にあります。これは、抽象的なあこがれとなって、実際にきてみたら、幻滅してしまったポーツマスの実家に対する思いとはまったく異なるものであることが、ここで分かります。

物語の見地から言えば、ここで手紙で語られる一連の事件は、物語にドラマチックな場面を作り出す素材です。それがもっとも当てはまる例が、マライアとヘンリー・クロフォードの出奔は、それだけで小説になるようなエピソードです。しかも、それまで、ジュリアをまじえての三角関係や、サザトン・コートや素人芝居でのエピソードなどで、二人の経緯を、これまで興味深く取り上げてきていました。しかし、そのクライマックスになるべき出奔を、新聞記事によって表わされ、メアリーの手紙によって概略を説明されるだけで、もの足りなく思う人も多いのでないでしょうか。例えば、ナボコフは、このようなオースティンの書き方について、書簡体に依存しがちな18世紀の長篇小説の様式への退行であるとして嘆いています。しかし、これらのエピソードを詳しく書いてしまうと、長い物語が、さらに長くなってしまう冗長さを避けられないし、描き方によってはメロドラマ的、扇情的になりかねません。そのために、ファニーの存在が霞んでしまうことになります。一方で、そこで事件が次々とたたみかけるように、物語の終盤に起こることで、小説の展開に加速度がついていく効果を作り出していると思います。また、オースティンは、『高慢と偏見』ではエリザベスの妹リディアが駆け落ちした事件について姉からの手紙で語っています。オースティンはサブ・キャラクターの事件を手紙で間接的に描くという手法を好んでいたかもしれません。これは、物語の中の事実と、それが表現されることで読者が知ることとの差を自覚して、小説の手法として意識していたオースティンらしいことと思います。

ファニーは、プライス氏から読んでいた新聞の中に、ラッシュワス夫人(マライア)がヘンリー・クローフォドと駆け落ちした記事を見出したことを告げられます。これだけでも恐ろしい醜聞で、ファニーは信じられないでいますが、さらに悪いことに、ロンドンにいるエドマンドから、マライアの駆け落ちに加えてジュリアもイェイツ氏と駆け落ちしたという手紙が追って届けられます。しかし、その手紙はファニーにマンスフィールド・パークへの帰還を求める手紙でもありました。その手紙を読み終えたファニーは、次のように描かれています。

すっかり落ち込んでいたファニー、いまほど強壮剤が必要だと思ったことはなかったが、この手紙ほど強力な強壮剤はないと思った。なんと、明日ポーツマスを去ることができるのだ!みんなが不幸なのに、自分が飛び上がりたいほど幸せになる危険があると、ファニーは思った。みんなの不幸が、私に幸せをもたらしてくれたのだ!これでは、不幸にたいして無感覚になってしまうのではないかと、彼女は心配した。こんなにすぐにマンスフィールドパックに戻れるのだ。しいもバートラム夫人の慰め役として、こんなに親切に迎えられるのだ。しかもなんと、妹のスーザンを連れて行く許可まで与えられたのだ。こんなにいくもの幸せが重なって、ファニーは喜びで胸が熱くなり、一瞬あらゆる苦しみが消え去ったかのように思われ、いちばん大切に思っている人たちの苦しみを一緒に分かち合うことができなくなるのではないかと思った。(P.683)

ファニーは、多くの人たちが不幸な思いをしているとき、自分がこのうえなく幸せに感じることが危険であると自覚しつつも、人々にとっての悪が、自分にとっては喜ばしいものだと、思わずにはいられないのです。とにかくマンスフィールドに帰れる、それも結構な待遇で、妹を連れて‥‥と利点を数え上げていると、「ファニーは喜びで胸が熱くなり、一瞬あらゆる苦しみが消え去った」というように、まさに幸福の絶頂にあるようなのです。人々が不幸に沈んでいるとき、幸福の絶頂にのぼりつめるというのが、ファニーの勝利の形といえます。そのような力学的構造のもとに配置された女主人公であるとするなら、不遇時代のファニーのイメージは、運命の浮き沈みに伴って一時的に表れ出たものにすぎなかったということになるかもしれません。

廣野由美子はアウバッハの主張を引用しながら次のように言います。ニーナ・アウバッハは、このような力学的構造に着目し、ファニーを、つねにアウトサイダーとして留まり「セレモニーに害をもたらす者、家族の分裂のもと」であると見なして、彼女をロマン主義文学悪漢たちや、『フランケンシュタイン』の怪物に引き比べたり、「食べ物を好まず、他人の活動を心でむさぼるファニーの傾向」を、吸血鬼になざらえさえしている。「ファニー=怪物」説は、いささか行き過ぎの観を免れないが、作品の大部分で周縁的存在に留まっているファニーが、力強いエネルギーを秘めた人物であることを指摘している点では、示唆深い。ファニーに共感を覚えるかは、読者の好き好きだ。しかし少なくとも、彼女が清く正しく慎ましいだけの「面白味のない主人公」でないことは、断言してもよいだろう。(廣野由美子『深読みジェイン・オースティン』P.228))

ファニーが、エドマンド、スーザンと馬車の中で、マンスフィールド・パークが見えてきたときの描写は、それまでほとんど描かれていなかったマンスフィールド・パークの風景が印象的に語られます。それは、まるでマンスフィールド・パークがファニーの喜びによって輝いているかのような印象を読者に与えるのです。

ファニーは、田舎の景色がすっかり変わっていることに気がついていた。ポーツマスへ向かった二月のころとはぜんぜん違うのだ。そして、マンスフィールド・パークの広大な敷地に入ってゆくと、彼女の感覚はますます鋭敏になり、その喜びは最高潮に達した。彼女がマンスフィールド・パークを去ってから、三ヶ月、丸三ヶ月がたったのだ。マンスフィールド・パークの広大な敷地は、冬の景色から夏の景色に変わったのだ。ファニーはいたるところで、芝地や木々のあざやかな新緑に目を奪われた。樹木はまたすっかり葉で覆われているわけではないが、いままさにあのすばらしい状態にあった。つまり、もうすぐさら美しくなることがはっきりと感じられ、もうすでに美しい景色が目の前にあるのだが、さらに美しい景色が見る者の想像力のために残されているという、あのすばらしい状態にあった。しかし、この喜びはファニーひとりだけのものだった。(P.688〜689)

しかし、ファニーの幸福は単にマンスフィールド・パークに戻れるということだけではありません。ひとつは、ヘンリー・クロフォードから結婚の申込みが無効になったということです。それだけでなく、ファニーが結婚の申込みを拒んだということが正しい判断であったことが明らかになったわけです。それは、他方では、ファニーに結婚を強くすすめたサー・トマスの判断の誤りでもありました。彼の判断の誤りの根本的な原因は、マライアとジュリアのへの過ちにも結びつくものでした。彼は、マライアの結婚に際して「マライアがラッシュワースを愛しているかどうかよりも、ラッシュワース家の地位と財産に目が行ってしまい、バートラム家の利益と世間体だけを考えて、この結婚を認めてしまった」(P.712)という判断の誤りです。その根本には、結婚市場で少しでも金銭的に有利な結婚ができるように、娘たちの教育を受けさせたことにありました。多大なお金をつぎ込んで教養や知識や芸事を身につけさせました。しかし、体裁と外面を重んじて、娘たちに表面的な教育を授け、人格形成に一番大切なものを身につけさせる教育を怠ったのです。

内面的な教育が欠けていたのだ。そうでなければ、その誤りの悪影響は、娘たちが大きくなるにつれて薄れたはずだ。サー・トマスはこう思った。マライアとジュリアには、人間にとっていちばん重要な道徳心、つまり、現実の生活で発揮されなければならない道徳心が欠けていたのだ。マライアとジュリアは、自分の気持ちやきちんと性格を制御することの大切さを教えられなかったのだ。人間としての義務をしっかりと自覚しなければ、自分の気持ちや性格をきちんと制御することはできないのだ。マライアにもジュリアにも、宗教的な教育は施したつもりだが、それを毎日の生活で実践することを教えなかったのだ。若い女性にとって大切なことは、洗練された礼儀作法を身につけ、ピアノや絵や外国語に秀でることだと考え、その教育はしっかり施したつもりだが、それだけでは、人間の道徳心に有益な影響を及ぼすことはできないし、人間の心に道徳的効果をもたらすことはできないのだ。サー・トマスは、マライアジュリアを立派な人間に育てたいと思ったが、その教育は、おもに知力と礼儀作法に向けられ、人格形成には向けられなかったのだ。マライアとジュリアは、自制心や謙虚さの重要性については、誰からも有益な助言を与えられなかったのではないかと、サー・トマスは思った。(P.715〜716)

しかし、オースティンはマライアとジュリアについて、ファニーとは縁の遠い世界で起こったこととは考えていません。その事件のきっかけは、ファニーなのです。ヘンリー・クローフォドはファニーへの想いを諦められず、ポーツマスまでやって来て、彼女の実家に好意を持ってもらおうと努めました。しかし、それも効果があったというわけでなく、彼はファニーへの愛が受け入れられず、業を煮やして、とうとうロンドンのウィンポール街での放蕩生活にもどってしまう誘惑に負けてしまいます。その行き着く先が,マライアとの駆け落ちでした。マライアの大罪を見たジュリアもまた自分の身が束縛されることを怖れ、イェーツ氏とスコットランドへ駆け落ちしたのでした。ファニーがヘンリーを受け入れなかったことは、無関係ではないのです。廣野由美子の紹介した「ファニー=怪物」説は、こんなところから生まれてくると思います。

ファニーに遠因したマライアとヘンリー・クロフォードの出奔は、さらにエドマンドとメアリー・クロフォードの結婚の話が流れてしまうことになります。バートラム家としては、長女マライアに恥をかかせ、ラッシュワース家との関係をぶち壊したクロフォード家とは付き合えないという理由がひとつ。エドマンド自身が、メアリーのヘンリー・クロフォードの失態に対してとった態度に失望して、彼女との結婚をあきらめるのです。ことが終わった後で、エドマンドはファニーに次のように語ります。

要するに彼女は、ふたりが馬鹿なことをしたと言って怒っているんだ。あのふたりがしたことは、彼女にとってはただの「馬鹿なこと」にすぎないんだ。つまりヘンリーは、愛してもいない女性の誘惑に乗って、ほんとうに愛している女性を失う羽目になるような馬鹿なことをしたと、彼女はそう言ってヘンリーを非難したんだ。(中略)ミス・クロフォードは今回の事件を、単なる愚行としか見ていないんだ。しかもそれは、露見したから愚行なんだ。つまり、慎重さと用心さを怠ったのが愚かだったということだ。復活祭の休暇中、マライアがトウィッケナムに滞在していたとき、ヘンリーもすぐ近くのリッチモンドに滞在していた。そしてふたりの関係を召使に勘づかれてしまった。要するに、召使に勘づかれたのがまずかったということなんだ。ああ、ファニー!ミス・クロフォードが非難しているのは、用心を怠って召使に勘づかれたことであり、彼女は、ふたりが犯した罪を非難しているわけではないんだ。」(P.701〜704)

「用心さを怠った」とか「露見したから愚行なんだ」と言われてしまえば,要するに上手に浮気をすればふたりは許されることになってしまうわけです。エドマンドは、「夫のある女性がほかの男性と出奔するという不道徳な罪」として、断罪すべきところを、このような倫理感のなさに辟易してしまい、メアリーを選ぶのは間違いであることに気づきます。エドマンドは、別れの言葉に対してメアリーが微笑んだことを「ぼくを征服するために挑発しているような、不謹慎ないたずらっぽいほほえみだった」(P.709)とまとめています。図式的にまとめてみると、物語の中で、マライアと出奔したヘンリーと、エドマンドを誘惑しようとして失敗したメアリーのクロフォード兄妹は、ロンドン社交界の虚飾や世俗智によって、世間を知らない純粋なバートラム家の子どもたちを誘惑し、堕落させる役回りを演じているように見えます。これに対して、一貫して道徳的に正しい姿勢を貫くファニーが、エドマンドをはじめバートラム家を救うという勧善懲悪のストーリーです。というほど、単純で退屈な小説ではないでしょう。このメアリーについて語られる場面ですが、オースティンは、ここでは、メアリーについての記述はエドマンドの発言として直接話法で書かれています。そのエドマンドの聞き役がファニーです。ここでメアリーについての語りは、二人の主観的なものなのだす。語り手による客観的な語りではないのです。エドマンドは失恋の相手を語るわけですから愛憎半ばでしょうし、ファニーはメアリーを嫌っています。

それに、現代の読者からすれば、メアリーにしろヘンリーにしろ断罪されるほど不道徳かと問われれば、そうだとは断言しかねるのです。それは、おそらくオースティンにも、ある程度分かっていたのではないでしょうか。むしろ、時代の趨勢として、ファニーやエドマンドは保守的な道徳の立場で、クロフォード兄妹は大都会ロンドンに象徴される経済成長の新興市民の前触れともいえるような立場です。この小説は時代が変わろうとしている状況で、マンスフィールド・パークという伝統的な荘園が時代の波に抗して従来の正しさを守ろうとする話と捉えることもできます。

ヒロインであるファニーは、彼女以外の登場人物がそれぞれの欲望にかられて右往左往する中で、彼女ひとりが道徳的優位性を堅持し、じっと留まっている。しかしその代償は彼女が不当に受ける非難や叱責、誤解や無視であり、深い孤独感です。それにもかかわらずファニーは決して誤った行動をすることがないという主人公です。これは、図式的な小説の勧善懲悪のヒロインであり、読者には「とりすましたお堅い女偽善者に関して我々が抱いているイメージを最悪の形で具現化した人物」とか「自己満足と自尊心の怪物」という反発をうける場合もありうるものです。そこで、作者であるオースティンは、ファニーを一見当時のコンダクト・ブックから抜け出して来たかのように従順で控えめな人物に仕立てだのではないでしょうか。最終的には、ファニーは、待ち望んだ相手から求婚され、マンスフィールド・パークの女主人となります。彼女は、愛する対象とその周りの世界をひたすら見つめながら待ち続けるわけです。彼女の、この寡黙な徹底した受け身に姿勢に、立ち直れない程の大きな痛手を受けたマンスフィールド・パークの人たちが、彼女の中に彼等の良き聞き手、良き理解者として全てを受容しようとする彼女自身の本質を見出していくにしたがって、彼女の真価が明らかになっていき、彼女の存在感が大きくなっていくことになるのです。それは、物語の中でも、最初は存在感に乏しい傍観者のスタンスであった彼女が、素人芝居での振舞いや本人の成長などで存在を周囲から認められるなってくると、ヘンリーからの求婚の伴い、別の意味で傍観者になっていくという彼女のマンスフィールド・パークでの具体的なスタンスにも表われています。ファニーの幸せは、マンスフィールド・パークの人々の多大な苦しみの中で得られたものでもあるのです。エドマンドがファニーへの気持ちを妹に対する愛情から妻への愛情へと変容させていくのも、彼がメアリとの別れの苦悩を彼女に語り尽くす過程を通してです。ファニーが手に入れる幸福の背後には、マライアのマンスフィールド・パークからの追放、サー・トマスの心痛と後悔、エドマンドのメアリとの別れ等、苦悩と痛みが隠されている。したがって、物語のハッピーエンドに見える終わり方も、苦渋を伴ったものと言えます。

だから、今後の彼らの行く末は順風満帆であるとは、言い切れないところがあります。エドマンドは、マンスフィールド・パークの牧師に収まります。これで、ファニーとエドマンドは、名実ともにマンスフィールド・パークの秩序の守護者となります。ところが、当のマンスフィールド・パークの将来を考えると、サー・トマスがこの世を去った後、放蕩者のトムが相続人となれば、荘園の経営が手堅く続けられるという保障はありません。そして、一家の主要な収入源であるアンティグア島のプランテーションは、無能のトムに切り盛りできるとはとうてい考えられません。また,そもそも,プランテーション経営自体が奴隷貿易の上に成立した搾取経済です。牧師夫妻のエドマンドとファニーならば、このような罪を生む農地管理は、当然ながら忌避すべき行為ということになってきます。また、社会的にも奴隷使用のプランテーションの存続も規制を受けるものとなっていくでしょう。つまり、ジリ貧の予想しか建てられないのです。それだけ苦渋を含んだ結末になっているのです。

 第48章

物語は、前の47章までで終わり、最後の章では後日談のように、それぞれのエピソードの決着をまとめていく落穂拾いのようなないようです。このような一節が、とりあえずの大団円ということになるのではないかと思います。ここで私と言っているのは作者のことでしょう。

わがファニーは、いろいろなことがあったけれど、とにかくこのときは幸せだったにちがいない。それだけは私も満足である。彼女はまわりの人たちの苦しみに同情し、少なくとも自分では同情していると思っていたが、自分はたいへん幸せたったにちがいない。自然に湧き出る喜びの源があったからだ。つまり、大好きなマンスフィールド・パークに戻り、みんなの役に立ち、みんなから大切にされ、もうクロフォード氏に悩まされる心配もなくなったからだ。それに、サー・トマスはロンドンから戻ってくると─そのときの落ち込んだ精神状態で示せる限りにおいてだが─クロフォード氏のプロポーズを断ったファニーの正しさをあらためて認め、これまで以上の愛情を示してくれたのである。こうしたことがファニーを幸せな気持ちにしたにちがいないが、こうしたことがなくても彼女は幸せだったろう。なぜならエドマンドの目が覚めて、もうミス・クロフォードにだまされる心配がなくなったからである。

しかしエドマンドは、幸せとは程遠い状態だった。彼は失望と後悔に苦しみ、現在の状態を嘆き、もはや絶対にあり得ないことを望んでいた。ファニーは、エドマンドのその気持ちがわかるので悲しかった。しかしその悲しみは、大きな満足感を土台にしており、すぐに安らかな気持ちに変わることができたし、あらゆるやさしい感情と調和していた。そういう悲しみなら、みんな喜んで、自分の最高に陽気な気分とでも交換したことだろう。(P.711〜712)

 

4.『マンスフィールド・パーク』の多彩な魅力

(1)「悲劇」としてのマンスフィールド・パーク

これまで、この小説を逐一追いかけるように、いささか重箱の隅をつつくかのように、細部を語り口まで見てきました。分量を抑えるつもりでしたが、なかなかそうはいかなくて、この小説を読んだことのない人には、いささか散漫で、いったいどんな作品なのかということがぼけてしまったかもしれません。それで、今度は、これまでの説明を踏まえて、この小説の全体像を提示していきたいとおもいます。ただし、誤解してほしくないのですが、この小説はどのようなものなのかということは、読む人が自分なりに読んでいるうちにイメージしていくものなので、固定的な、絶対的なこうであるというイメージを提示するつもりはありません。ここで提示するのは、そのうちの一つを紹介するという程度に受け取っていただきたいと思います。

@メタ演劇構造〜主役であると同時に観客でもある主人公の半存在感

最初の「はじめに」のところで、演劇の舞台のようだと述べました。例えば、物語はもっぱらマンスフィールド・パークという限られたところで、限られた人物によって進められます。それを読む人は、演劇の舞台の観客のように、舞台という限られた空間で、そこに俳優が出入りするのを眺めるのに、似た体験をするということを述べたと思います。それは、物語の進み方にも言えることであります。この小説の主人公はファニー・プライスであることは、この小説を読んだ人であれば、異存は持たれないと思います。しかし、この主人公は、ほとんど行動しません。普通の物語であれば、主人公が行動することで物語が進んでいくのですが、この小説では、主人公はほとんど他者に働きかけることをしないし、自ら何かを作ったり、事件を起こしたりということをません。ファニー・プライスがすることは、もっぱら周囲の人々を観察することくらいです。これは、「はじめに」でも指摘したことですが、主人公であるファニー・プライスが物語の中心であるべきなのに、自ら物語を進めることがないというほど存在が空虚であるということです。しかも、小説の語りにおいて、作者の語りにときおりファニーが介入するということも述べました。これは、小説の中では、ファニーが行うことはもっぱら観察することと関連しています。つまり、ファニー・プライスは、この小説の主人公であると同時に、この小説の登場人物たちの行動を観察している傍観者であるわけで。それは、演劇であれば観客の立場なのです。つまり、ファニー・プライスはマンスフィールド・パークという舞台にいながら、そこで人々が繰り広げるドラマの観客となっているのです。それは、ある意味では作者や読者と重なる立場でもあります。だからこそ、ファニーは作者の語りに介入することができるのです。したがって、ファニー・プライスは小説の登場人物でありながら、その小説の舞台の外に出ているのです。外側から登場人物たちを観察している。この場合、ファニーは半分小説の中で、半分外に出て、読者の側にいる。小説と読者の中間的存在、橋渡しのような存在なのです。

このような小説の主人公の存在は、この作品に限ったものではありません。主人公が一人称で語る物語がそうです。この場合には、主人公と語り手が重なるわけです。このような小説では、主人公はしばしば傍観者のように振舞い、観察したことを語り、それが物語となります。例えば、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」、あるいはプルーストの「失われた時を求めて」などが代表的なものです。しかし、これらと違って、『マンスフィールド・パーク』はファニー・プライスのモノローグで語られる小説ではないのです。あくまでも、作者によって客観的に語られる物語です。そこが、この小説の特異なところなのです。それを無理なく成り立たせているのが、マンスフィールド・パークという舞台で、登場人物が物語を演じ、それを登場人物であるファニーが観察し、それをまた読者が見るという、演劇の舞台をみるということを入れ子のように二重化した小説の構造にあると考えられます。難しげな言葉にすればメタ演劇的な構造ということになります。

この構造が分かり易く出ているのが第8〜10章で主な登場人物たちがサザトン・コートを訪問し、3〜4人のグループに分かれて、そこの庭園を散歩するという場面で、虚弱体質のファニーが散歩に疲れてベンチで休んでいると、そこに様々なグループが通りかかり、ファニーの目の前で人間模様を演じるという場面です。ファニーの前に、マライアを挟んでヘンリー・クロフォードとラッシュワースの3人が、まるで三角関係のような配置であらわれ、柵の向こうの眺めの良い丘に行くために、ラッシュワースは柵を開ける鍵を取りに行くため舞台を去ります。残された二人は、彼を待つことなく手に手をとって、鍵を開けるのではなく、柵を乗り越えるという正規でない方法で向こう側に去っていきます。その後で、ジュリアが登場し、二人を追いかけて去っていきます。そこにラッシュワースが戻ってきて、取り残されたことに気づく。まるでファニーの目の前でドラマが演じられているのを、彼女はその観客となっているのです。そこで、ファニー(だけ)は三角関係の人間模様やヘンリー・クロフォードの不誠実さを知るのです。その様子は、読者は読んでいるわけです。そして、ヘンリー・クロフォードとマライアの行為は、後の二人の出奔の前兆として、読者は読むことができます。

このような登場人物たちが会話を交わすことが直接話法で描かれているのは、ほとんどの場合(ほとんど、というのは例外もあるということです。それは例えば、牧師館でのクロフォード兄妹の会話です。)、ファニー・プライスが見ている前での場面なのです。これに対してファニーのいないところでの会話は、手紙で伝えられたり、誰かの発言の中で言及されるという間接話法でしか描かれないのです。従って、彼らの発言は語り手や手紙の文章でひとつの視点で要約されて語られます。例えば、エドマンドがメアリーに失望して別れを決心するところ等重要場面であるはずなのに、エドマンドがファニーへの話の中で間接的に触れられるだけなのです。それも、エドマンドが語るという一方的な視点で語られるのです。そこには、このマンスフィード・パークという擬似的な舞台が、ファニー・プライスという観客に見られることではじめて成立しているという構造があるようにおもえるのです。ファニーがこの小説の主人公であることの意味は、実は、ここにあるのではないかと思うのです。

どうしてこんな複雑な構成にしなければならないのでしょうか。読者としては、こんな面倒な構成よりも、ストレートにエドマンドとファニーの成り行きを見守りたいと思うのではないでしょうか。それを考えるには、ファニーが観客であるとして、彼女の前で演じられるドラマに注意する必要があると思います。

A舞台で演じられるもの〜悲劇で成立するハッピーエンド

ファニーの前で演じられるドラマは、いったいどのようなものだったのか。それを知るには、『マンスフィールド・パーク』という物語を見ていく必要があります。この小説は、最後はファニーがエドマンドと結ばれるというハッピー・エンドの形をとっていますが、全体としてハッピー・エンドと言えるのでしょうか。それは、ファニー以外の登場人物にとっては必ずしもハッピーエンドになっていない。というよりも、この小説でハッピー・エンドと言える終わり方をしているのは、実にファニーだけで、他の人物はアンハッピーか、アンハッピーとはいわないまでも、仕方がないと諦めるような状況になって終わりを迎えているのです。ハッピーか、アンハッピーかというと曖昧ですから、もっと端的にいうと、物語の開始の時点からその人物の置かれた状況がより良いものとなったのは、ファニーだけで、他の人々は没落してしまったり、せいぜいのところ現状維持、でも将来の見通しが明るいかというとそうでもない。といったところです。一般的に、ハッピー・エンドの物語でも、ハッピーで終わらない登場人物は必ずいます。しかし、そういう人物には、物語の中でそれなりの原因が機能的に与えられています。その典型的なケースが悪役です。その場合は、悪役の不幸が主人公の幸せという裏返しの構造になっているわけです。この悪役というのは、物語の負の側面を体現し、しばしば、主人公が善意で無垢であるのに対して、悪役は負であることを意識して自覚的に行動します。そして、それゆえに、物語での不幸は悪役が一身に引き受けることで、めでたしめでたしという結末に至るわけです。それを『マンスフィールド・パーク』に当てはめると、悪役がいないのです。しいて言えば、クロフォード兄妹が、それに近いでしょうが、ファニーがエドマンドと結ばれるためには、この兄妹が失恋しなければならないからで、結果としてそうなっているからにすぎません。ここに、『マンスフィールド・パーク』の特異なところがあると思います。クロフォード兄妹は、ファニーが幸せになるためには、不幸にならざるを得ないのです。つまり、ファニーの幸せはクロフォード兄妹の不幸の上に成り立っているのです。同じように、バートラム家の姉妹やサー・トーマスといった人々が幸せになったとしたら、ファニーはハッピー・エンドを向かえることができないのです。ということは、ファニーは結果的に、自身が幸せになることによって、周囲の人々を不幸に陥れている、そういう存在でもあるのです。そういう存在が、意図的に行動し、自分の幸せをかち取ったとしたら、そういう存在は物語の中では悪役になるのが普通です。そうなると、この小説は10歳で預けられた少女が18歳までの間にバートラム家を乗っ取る話ということになってしまいます。そんな話、読者は喜んで受け容れるでしょうか。そこで、ファニーは無垢で行動しない主人公である必要があるのです。そこで、ファニーが見るという観客のような存在であるべき理由のひとつが、ここにあると思います。

そのように考えてみると、ファニーは観客としてバートラム家の人々やクロフォード兄妹、その他の人々が不幸になるところを見ていくのです。彼女の目の前で演じられるのは悲劇に他なりません。

ここで、確認しておきたいのですが、不幸な結末になるからと言って、それは悲劇であるとは限らないということです。例えば、勧善懲悪の物語で悪役が滅んでも、その悪役には悲劇であると誰も思わないでしょう。悲劇というのは、その登場人物の不幸に対して、見る者が「ざまあみろ」と突き放すのではなくて、その人の運命に同情するような要素がないと成立しないのです。さきほど、『マンスフィールド・パーク』には悪役が登場しないといいました。おそらく、この中で最も悪役に近いのはクロフォード兄妹です。この兄妹が物語終わり近くで陥った状況に対して、「ざまあみろ」と快哉を叫ぶ人もいるでしょう。でも、全部が全部ではないはずです。かといって、この兄妹に同情する人は少ないでしょうが、すべて身から出た錆といって切り捨てるにしのびないような、一部でひっかかりが残るという人が多いのではないでしょうか。バートラム家の姉妹の姉マライアの場合はどうでしょう。彼女のヘンリー・クロフォードとの出奔は自分勝手な我が儘かもしれません。しかし、彼女は彼女なりに愛を貫いたのであり、彼女の行為そのものは『ロミオとジュリエット』のジュリエットと同じです。人は、誰でも幸せになろうとします。そのために努力もします。そのこと自体は、何も咎められることはないはずです。しかし、その幸せになろうとすることが、時に他の人の幸せとかちあってしまうことがあります。そのときに、その求める幸せというのが正しいのか間違っているのか、という議論が生まれます。それが倫理とか道徳といったことの起源のひとつではないかと思います。幸せになろうと一生懸命な渦中にある人は、往々にしてそのことに気づきません。例えば、ギリシャ悲劇の『オイディプス王』は、王としてよかれと思ったことがテーバイの人々の不幸を招いてしまうのです。そのことに気づいた彼は、自分で自分の目を潰して、自ら追放されることを選びます。良かれと思って努めてきた自分が、実は諸悪の根源であったことに気づいたときに、彼はそれまでのすべてがひっくり返ってしまう。そうなった時に人は、それまでの自分を続けることができなくなる。それが悲劇というドラマです。彼はよかれとおもって全力を尽くした。それを非難できるでしょうか。もし、彼に落ち度があったとすれば、愚かであったということです。運命を知らなかったということです。しかし、自分の運命を知り得る人などいないでしょう。だから、そのしらないということに対して謙虚でなかった、つまりは運命に対して傲慢であった、ということになるでしょう。そのことにおそらく、彼は気づいたのです。気づいたからこそ、そのことを見ることのできなかった自分の目を潰したのです。そこに、人々は、運命を見、彼の運命に同情し、共感する、それが悲劇というものです。

そのような視点で『マンスフィールド・パーク』の登場人物たちを見てみると、どうでしょうか。ここで槍玉にあげているクロフォード兄妹。妹のメアリー、独身女性の彼女は、当時の常識に従い結婚相手を求めています。それは後半生の人生設計のためには必要なこと、常識的な人生で幸せになるためには当たり前のことです。そのターゲットしてバートラム家の兄弟と出合い、とくにエドマンドに惹かれていく。そして、彼と結婚することに一生懸命に努めていく。その方法は、彼女なりで策略を弄したりします。このこと自体、彼女は良かれと思っておこなったことです。中には、エドマンドが牧師になることに反対し、彼の人生に支配をおよぼそうとしますが、これとて彼女なりに、彼にとってよかれと思ってのことです。彼女に責められることがあったとすれば、オイディプス王と同じように、それが果たしてエドマンドにとっての幸せになるのかということを知らず、知ろうとしなかった愚かさ、強いて言えば、そういうことになります。

しかしオイディプス王は自身の愚かさを知り、自ら追放され、両目を潰すのです。メアリーは、それを知らず、愚かなままで、同じ過ちを繰り返すかもしれません。だから、彼女は自身で直接語るのは、悲劇にならないのです。メアリーの愚かさを知るのはファニーだけです。従って、ファニーに語られ、彼女がそういう解釈をすることで、メアリーは、初めて悲劇を生きることができることなるわけです。そして、読者は、そこに生き生きとした悲劇を読み取ることができる。メアリーの兄のヘンリー・クロフォードの場合も同じです。彼は軽薄で自らの欲求を抑えきれない愚かな人物ですが、悪意を持っている人物ではありません。その欠陥に本人も周囲の人々も気づいていないなかで、ファニーだけが気づいている。だから、マライアとの出奔の真実をファニーだけが知りうるのです。ファニーは、この小説の主人公であるだけでなく、彼女がいることによって、登場人物たちが、小説の中で悲劇を演じることができるという機能を担っているといえます。

そのようなファニーが、他の登場人物たちと同じように悲劇の渦中にいるとしたら、この人々を観察することも、観客となってあげることもできません。そこで、彼女は小説の機能上、どうしても悲劇的なドラマから離れていなければなりません。かといって、完全な傍観者であれば、小説の中にいる必要がありません。ファニーがいなくても作者が介入して語ればいいのですから。そこで、ファニーは小説の主人公として小説の中で存在していくためには、小説の中で彼女も生きなくてはなりません。しかし、他の人々とおなじ悲劇の渦中にいてはいけない。そうなると、他の人々とは違った生き方をしていかなければならない。それが、小説の中で、ファニーだけがハッピー・エンドの結末になっている、ひとつの理由であると考えられます。

Bなぜ悲劇なのか

回りくどいことになりますが、近代のはじまりの時代で、リアリズムに入った作家であるオースティンは、ギリシャ悲劇のような神話のような現実から遊離するような作品を書くことはできません。オイディプス王のような半分神のようなスーパーヒーローを小説の中に登場させても白々しいだけです。オースティンが書く人物たちは、読者の周りに実際に似たような人物が想像できるような、身近で現実的な人物たちです。そういう人物たちに、ギリシャ悲劇のような悲劇を演じさせようとすれば、どうしたって、それなりの仕掛けが必要なのです。

ではなぜ、オースティンは、それほどまでに面倒な仕掛けをしてまで、小説の中で悲劇を演じさせようとしたのでしょうか。

これは、一人のジェイン・オースティンのファンとしての個人的な妄想ということになります。客観的な事実の根拠があるわけではなく、小説から主観的に読み取ったと思うことです。オースティンの小説は、どれも地方の中小の地主階級の娘が有利な結婚を求めることをめぐって騒動がおこり、最後にそれなりの相手を獲得してハッピーエンドで終わるというパターンです。作者にとって身近な環境が舞台で、その家庭内の情景や登場する人々が、今にも隣で話しかけてきそうな生き生きとしたリアルさで表現されています。それが読む人に親近感を与え、現実の過程のささやかなで他愛もないようなエピソードが、小説のストーリーとして広く読者を楽しませるものとなっている、というものです。日常の出来事を生き生きと、広く読者が興味をもつように描写するためには、かなり突っ込んだ観察が必要で、中には、日常の行為を繰り返している人には見えないような興味深いところを見つけ出して、それを提示することもあったわけです。そのためには、オースティンは徹底した観察や分析、あるいは深い考察をしなければならなかったと考えられます。そうしているうちに、オースティンは、周囲の、ふつうの人々の、噴出さずにはいられないような面白さや可笑しさを見出し、それは当時にはなかった斬新さであったし、後の世でも受け容れられる普遍性も備えたものであったと思います。そういうものが満載されていたのが、例えば、代表作とされる『高慢と偏見』です。しかし、オースティンは人々の面白い面だけを見出したのでしょうか。それはあまりにも偏りがあるのではないか。おそらく、面白くない面、つまり、シリアスな面、悲惨で厳しい、思わず目を背けたくなるような面も見ていたはずです。おそらく、オースティンは、そこにギリシャ悲劇の主人公たちにも比肩するような真実を見つけだしていたのではないかと、と思います。というよりも、題材として、そういうものがあるということではなくて、ごく普通の人々の生活の中に真実があって、それはギリシャ悲劇のように誰にも分かるような形で表われていないだけのことではないか、ということです。ということは、それなりの工夫をして、通常では見えないものを見えるようにすることで、その真実を明らかにすることができる、ということになるわけです。

とはいっても、古来から、見えないものを題材として書いてきた作家はたくさんいます。イギリス文学ではミルトンの「失楽園」のように聖書の題材をとった壮大な叙事詩の伝統があるわけです。しかし、オースティンには、それはそれとして、現実の自分たちの生活とはかけ離れた、浮世離れした夢のように思えたのではないでしょうか。抽象的な概念や神学や歴史の知識をかざして、もっともらしい議論をする支配エリートの人たちが教養としてもてあそぶ、と揶揄的な言い方になりますが、19世紀がはじまった時代、近代市民が登場してこようという社会の人々にはリアリティーを、もはや持てるものではなくなっていた。学校でいやいや暗記させられるような、お仕着せの教養といったら言い過ぎかもしませんが、そうではなくて、ギリシャ悲劇では、当時の市民たちがポリスの野外劇場に集まって、多くの人に受け容れられていたわけですから、曽ことと同じように、当時の人々に受け容れ易いものとして、リアリスティックなものをオースティンは作り出そうとした、作り出せることに気づいたのではないかと思います。その試みが『マンスフィールド・パーク』であった。私には、そう思います。

 

(2)教養小説(ビルドゥンクス・マン)としての

周囲から存在を無ではないということには、留意しておいて下さい。

 

リンク       .

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