ジェーン・オースティン
『マンスフィールド・パーク』を読む
 

1.はじめに

2.あらすじ 

3.『マンスフィールド・パーク』を読む体験 

 

(6)参考 

4.『マンスフィールド・パーク』の多彩な魅力 

(1)「Persuasion」をめぐる小説 

(2)教養小説としての『説得』

 

1.はじめに

ジェーン・オースティンの小説は、あらすじだけを聞くと面白そうには思えないのに、実際に小説を読み始めると、物語に惹き込まれて離れられなくなると言われます。ひとつには、彼女の小説は波乱万丈のストーリーで、この先どうなるか目が離せなくなるとか、ドラマティックな展開に度肝を抜かれるとか、荒唐無稽な設定とか感傷的なロマンスとか、そういった読者をひきつける物語の要素は全くありません。彼女の小説について、こんな話だと紹介すると、たいていは味気ないことしか言えず、とにかく、実際に読んでみて、という他、何もいえなくなってしまうのが常です。

『マンスフィード・パーク』という作品は、彼女の小説作品のなかでも、おそらくはあらすじが最も味気ない作品ではないかと思います。しかし、小説の長さの点では、彼女の小説の中で、一番字数の多い小説なのです。味気ない筋で、一番長いのです。しかし、私は作品を読んでいても退屈することはない。それはなぜか、そのなぜかということを解明すると、それは、この小説の魅力を明らかにすることになると思います。オースティンの小説を紹介するときに、とにかく実際に読んでみて、という以外に、こういうことが魅力(特徴)なのだと言うことができることを、これから考えてみたいと思います。

あらすじが味気なくて、面白そうでない。それにもかかわらず、実際に読んでみると、止まらなくなる。というのは、実際の小説に魅力があるということです。それはあらすじとは関係ないでしょう、ということはストーリーではない。あまり、遠回りして、もったいぶって思わせぶりするのは好きではないので、ここで結論をいいますと、語り口が大きな魅力になっているのです。これだけ長い小説を、しかもあらすじが味気ないのを、語り口で読ませてしまう。それだけ、語り口がすごいということになるわけです。で、ここでの目的は、その語り口の魅力を、実際の小説を読み進めながら、ここで体験していくようにして、一部でも明らかにしてみようというものです。

そのまえに、あらすじを紹介しておくことにしますが、その前提として、あらすじの味気ないところを少し指摘して、それに対して、語りがどのような関係にあるかという、概説てきなことを、ここで少し説明しておきたいと思います。

(1)マンスフィールド・パークの中だけのストーリー─演劇の舞台のメタファー

『マンスフィールド・パーク』という長い小説のストーリーは、ほとんどマンスフィールド・パークという邸宅で進められます。一部の例外は、主な登場人物たちがサザトン・コートに出かけるというエピソードとファニーがポーツマスの実家に一時的に帰るというエピソードです。この例外的なケースでも、サザトン・コートのベンチやプライス家という固定した場所に定点カメラを置いているかのようです。物語は人々動きにカメラがついて移動して行くのではなく、固定したカメラが設置してあって、そのアングルの中で登場人物たちが会話したり、動いたりします。それ以外は、アングルに人物たちが出たり入ったりという動きをします。極端なことを言うと、それがこの小説の基本的な人物の動きなのです。

その典型が、若者たちによる素人芝居のエピソードで、マンスフィールド・パークという舞台において舞台劇が行われるという劇中劇のような入れ子構造が表われるのです。劇中の人物関係が、登場人物たちの人間関係に重り、劇の内容が、人物たちのその後の運命に関係していくということになります。いうなれば、この小説の構造の縮図のような場面なのです。それ以外では、登場人物の主要な会話は、マンスフィールド・パークの室内で交わされ、外部で起きた事件は、手紙や室内の会話で明らかにされます。例えば、マライアとヘンリー・クロフォードの出奔という大事件は当事者の行動が直接書かれているわけではなく、ファニーがメアリーから手紙を読むことで明らかにされます。それは、演劇において舞台外の事件が観客に知らされる場合の手法と同じです。

そのため、だれが、いつ、どこから、どのように舞台であるマンスフィールド・パークに入場し、退場したかということが小説のドラマを作っていると言えるのです。

(2)空虚な中心としての女主人公─ファニー・プライスはドラマの触媒

このように『マンスフィールド・パーク』のドラマ、人々が舞台であるマンスフィールド・パークに入ったり、出たりすることで生まれます。つまり、ドラマは常にマンスフィールド・パークの外から持ち込まれるのです。しかし、持ち込まれたドラマが受領されないと、そこでドラマとなりません。でも人々は入ったり、出たりするだけなので、マンスフィールド・パークにいるわけではないのです。マンスフィールド・パークの主人であるサー・トマスですら、アンティグアに2年間出かけていたわけで、その帰還は物語のひとつの転機をつくったわけです。では、マンスフィールド・パークに出入りしないで、常にいた人というのは誰かといえば、バートラム夫人なのです。この人は何もしない人で、物語に対して働きかけを何もしません。ただ、いるだけという人です。しかし、このバートラム夫人のところに登場人物たちは何の意識もすることなく、来て、そして出て行く。いってみれば神社のご神体のような周囲を引き寄せる空虚な中心なのです。そのバートラム夫人の傍らにいつもいるのがファニー・プライスです。彼女は、バートラム夫人という中心の傍らにいる巫女のような存在といえます。ファニーは、バートラム夫人とは同じではありませんが、行動することはほとんどありません。消極的で、かつ受動的なのです。周囲の人々が行動し、右往左往するのに対して、彼女はじっと留まって、その一部始終をずっと見守って、ときには人々の聞き役や理解者となります。つまりは、ファニーはドラマを起こすことはないのですが、触媒のような役割で、ファニーが関係してはじめてドラマとして生まれるという役割を担っているのです。

これを逆方向で考えてみると、小説の中で彼女が担っている機能を考えると、主人公として積極的に行動を起こしてドラマの渦中にあっては、機能を果たせなくなります。従って、存在感が薄いとか、受け身とかというのは、小説の構造上の必然と言えるのです。触媒は、自分が燃えるのではなく、素材を燃やすものなのです。

(3)ファニーが小説の語りに介入する

ふつうの小説では、触媒の役割は作者が担います。実際のところ、小説の語り手として、状況を説明し、登場人物の行動や思いを語ることでドラマの形を作っていくわけです。いわゆる「全知の語り手」として三人称形式で、神様のように小説のすべてを見通して鳥瞰的に語ります。しかし、この作品では、その全知の語り手の介入度がかなり高く、語り手が「私」と名乗って顔を出し、意見を述べる箇所も出てきます。この作品では語り手が、単一の支配的な意識に制限されることなく、すべての登場人物の意識の中を出入りし、「語りのオーケストレイション」を形成しています。特に目立つのが、そして、ファニーを通して見たことや聞いたことなどが描かれ、彼女の意識や心理が語り手の語りに混在している箇所が多いのです。そのあまりの多さと、客観的視点とファニーを通した視点を明確に区別してかたられていないため、読者はその二つを、それに気付かずに混同しながら、あとでそのふたつのズレに気がつくということがあるのです。そのズレが、読者の物語への興味を引き立て、ドラマを劇的なものにしているのです。それは、ファニーが触媒的存在であることで、はじめて可能となったものなのです。

(4)ズレが生む読みの深みと広がり

読者が、このズレに気づいてしまうと、語りは真実を伝えきれていないことに思い至ります。例えば、作者は明らかに意図的に語らないで真実を隠そうとします。それは、例えば、物語が進んだ時に、そういえばあの時、あれはどうだったのかと、隠されていたことに、後になって気づくことになります。それは、前のところで、主題がソナタ形式のように展開されることに対して、読者は、先がどのようになっていくかという興味が前に向かっていく方向があります。これに対して、後になって、あれはどうなっていたのかという、新しい事実について、すでに読んだページに書かれていたことと関連づけて読むという興味の後ろに向かって戻る方向があるのです。つまり、読者は、この先どのように展開するのかという分岐する方向と、この先どうなるのかという話の先の方向、そして、話が進んだあとで既に読んだところを振り返るという方向と、様々な方向に興味をひろげて、それを満たすための推理力や記憶力を読者に求めているのです。読者が、これを活用することで、物語の世界は重層的な深みと豊かな広がりをもって読者にこたえるものとなっているのです。

 

2.あらすじ

その体験をするまえに、予備知識として、簡単に小説のあらすじを紹介しておきます。オースティンの小説は波乱万丈とか荒唐無稽とは正反対の、平穏で単調な日々の生活の繰り返しのなかで、些細な事実を淡々と綴っていくものです。

とくに、『マンスフィールド・パーク』はオースティンの他の小説と比べても、マンスフィールド・パークという限られた空間という舞台も動かずに、事件らしい事件といえば、物語の最後に続けて起こるくらいです。それゆえ、物語のあらすじを以下にのべていくと、物語の本編のストーリーの分量と物語のはじまる経緯や設定といった前置きの分量がほとんど同量になってしまうことになります。これは、19世紀の小説のなかでは極めて特異なものといえると思います。

親が愚かな結婚をしたために、貧乏人の子沢山の家で育ったファニー・プライスは、10歳のときに、親戚の准男爵家に引き取られることになります。その経緯はこうです。ファニーの母プライス夫人を含む三姉妹は、結婚によってそれぞれ大きく運命が分かれたのでした。美人の次女は、マンスフィールド・パークの富裕な領主サー・トマス・バートラムと結婚し、二人の息子と二人の娘の母となり、長女はサー・トマスの友人で牧師ノリス氏と結婚しマンスフィールド・パークの敷地内の牧師館で暮らします。そして、ファニーの母である末娘は海兵隊の中尉プライスと経済的な基盤を持たない無分別な結婚し、ポーツマスで子沢山の貧乏暮らしをすることになりました。そんな中で、プライス夫人が9度目のお産を迎えたとき、彼女を苦境から救うべく、長女ファニーをバートラム家に引き取るという話が持ち上がります。プライス夫人が姉たち似助けを求めたのです。

虚弱な体質で内気な少女は、伯母のいじめと、いとこたちのからかいにあいながら、もうひとりの伯母である准男爵夫人のお世話係として、ひたすら耐える日々を送ることになります。唯一の味方は、いとこのエドマンドで、ファニーは彼の導きで読書の喜びを知り、立派な道徳心を身につけた、感受性豊かな女性へと成長していきます。そしてファニーはエドマンドに対して、尊敬と感謝と信頼と愛情が入り混じった恋心を抱くようになります。それは、好きになってはいけない人を好きになってしまった秘めたる恋でした。

ファニーが18歳になったとき、サー・トマスは農場経営の仕事のために、長男のトムを伴って西インド諸島のアンティグアへ赴きます。彼の不在中、伯母ノリス夫人の計画により、バートラム家の長女マライアと富裕な地主ラッシュワースとの縁談が進みます。ノリス師の後任の牧師が赴任してくると、その親類でロンドンの悪に染まったヘンリーとメアリーというクロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやってきて、その平和な暮らしがかき乱されることになります。バートラム家の次男エドマンドは、牧師になる予定ですが、ロンドン仕込みの機知あふれる個性的な美人メアリー・クロフォードの魅力に幻惑されます。マライアは、ラッシュワースと婚約しますが、同じロンドン仕込みのプレイボーイ、ヘンリー・クロフォードに血道をあげてしまいます。そして話がややこしくなるのはこの先で、ロンドンの上流社交界で数知れぬ恋のたわむれを経験したヘンリー・クロフォードが、マライアと戯れたあとで、生真面目なファニーをからかうつもりで本気で好きになり、なんと正式にプロポーズしてしまうのです。もう一度整理するとこうなる。婚約者のいるマライアがプレイボーイのヘンリー・クロフォードに夢中になり、プレイボーイのヘンリーは生真面目なファニーにプロポーズし、生真面目なファニーは牧師志望のエドマンドに秘めたる思いを寄せ、そして牧師志望のエドマンドは、牧師という職業を軽蔑するメアリー・クロフォードに幻惑されているという、たいへんぎくしゃくした数珠繋ぎの関係になるのです。それはともかく、ヘンリーは年収4千ポンドの領地を持つれっきとした紳士ですが、婚約者のいるマライアに公然と言い寄るような真似をした人物であり、ファニーはエドマンドに対する秘めた思いに加え、ヘンリーの人間性を信用できないという理由から、このプロポーズを断固断ります。しかし、こんな玉の輿の良縁を頑なに拒むファニーに対して、親代わりのサー・トマスは激怒し、ファニーをポーツマスの実家に里帰りさせてしまいます。表面上はサー・トマスのやさしい心遣いですが、実のところ、裕福な暮らしの有難味をファニーに対するお仕置きなのでした。そしてサー・トマスの狙いは当たり、ファニーは実家でひどい幻滅を味わうことになります。懐かしいはずの我が家は、下品な父親と愚かな母親がいる、騒音と混乱に支配された不快感の巣窟のような家であり、ファニーは、マンスフィールド・パークの静かで上品な生活のすばらしさをあらためて実感するのでした。実家での滞在が2ヶ月を過ぎた頃、ファニーは、トムが重病になって帰宅したこと、マライアがヘンリーを追って夫の家を出たこと、イェイツとジュリアが駆け落ちしたこと知って驚きます。エドマンドは、メアリーの兄に対する無節操な態度に幻滅して、彼女との結婚を断念します。ファニーは秩序を取り戻すために必要な存在として、マンスフィールド・パークに再び迎え入れられます。トムは病気から回復し、ジュリアはイェイツと結婚するが、ヘンリーに捨てられたマライアは、日陰者としてノリス夫人とともに暮らすことになります。そして、エドマンドは、ファニーへの愛に目覚め、求婚します。そして、ファニーは、聖職禄を得たエドマンドとともに、マンスフィールド・パークの牧師館で結婚生活を送るという大団円で物語は終わります。

 

3.『マンスフィールド・パーク』を読む体験

 第1章

物語の本筋は第2章から始まり、第1章は物語の発端となるエピソードということになります。物語ヒロインであるファニーがマンスフィールド・パークに引き取られた経緯です。客観的視点から説明する語り手による地の文と、サー・トマス、バートラム夫人、ノリス夫人の会話で構成されています。

まず、この3人の関係に経緯としてノリス夫人が長女、バートラム夫人が次女の三姉妹について、次女は幸運にも准男爵の目に止まり豪勢な結婚生活に乗り出し、長女は同じく幸運を狙ったが思い通りには行かず、姉の夫である准男爵の友人の牧師に「やむなく愛情をよせる」こととなり、三女はいれ以上ないほどの運の悪さで所謂「文無し結婚」という籤を引いてしまったことが語られます。この導入は、結婚生活の幸不幸がいかに紙一重で危ういものかということが、親の世代の結婚を通して示されているとこです。しかもここで槍玉に上げられているのは明らかに、経済的基盤を伴わない結婚の愚かさ、無分別さです。特に次女と三女のそれぞれの結婚は、彼女たちのその後の人生に天と地ほどの境遇の違いを引き起こし、所属する社会階級までも異なるものにしてしまうことを明らかに示しています。そして、三女のプラス夫人(ファニーの母親)の無分別な結婚は、無用の忠告など聞きたくないので、結婚式をあげるまで、家族にはいっさい知らさなかったのです。これは、物語の終盤でバートラム家の姉妹が家族の承諾を得られない駆け落ちをしてしまうことの先触れのような行為です。この物語は、前にも述べたように限られた空間のなかで登場人物が行ったり来たりする構造になっていますが、その行為についても限られたことを繰り返すという反覆構造になっています。そして、物語の終盤で大きく転換する事件である姉妹の駆け落ちについても、最初の導入の時点でプライス夫人の無分別な結婚という、先触れが布石になっているのです。さらに言えば、その無分別の結果生まれたのがファニー・プライスで、彼女がバートラム家にとって危機の救世主的な存在となるのです。この皮肉!ただし、この布石は最後の最後に明らかになるので、小説を何度か読まないと布石として見えてきません。だから、この小説は何度も繰り返し読んでいるうちに、このような細部に埋め込まれた布石が見えてくるのです。

※この反復は、この作品だけに限ったものとは限りません。オースティンの作品のファンであれば、彼女の6作の小説を横断して、反復を読むことも可能です。例えば、プライス夫人の無分別な結婚は、相手が海軍の士官候補であることから、『説得』のアン・エリオットがフェリックス・ウェントワースとの結婚を19歳のときに周囲の反対を押し切って強行したら、こうなってしまった可能性と想像することもできます。

そして、3人の会話が、それぞれの人物と引き取られるファニーがどういう存在として位置付けられるかが、ここで明らかにされます。それを会話でニュアンスまで表わしてしまうオースティンの水際立った手腕には最初から脱帽してしまいます。まず、ファニーを引き取るということをノリス夫人が思いつき、妹のバートラム夫人が簡単に賛成する。ここで、姉妹の軽薄さが出ますが、サー・トマスが他人の子どもを引き取るにはそれ相応の責任を負うことになるという慎重な姿勢を見せます。しかし、その真意は2人の息子たちと貧しい従妹との結婚を危惧するというもので、ここに彼の誠実な人柄であるのですが、建前を取り繕う一方で、現状の保身を優先する小心な身勝手さが示されています。このことが、この後の物語の展開とかかわって明らかになってくるのです。

これに対してノリス夫人の次のような言葉に簡単に説得されてしまいます。

あなたは、ご自分の二人の息子さんのことを心配なさっているんでしょうけど、あなたが心配しているようなことが起きるはずがないわ。だって、小さい時から兄妹のように育てられるんですものね。ね、そう思いません?あなたが心配しているようなことになるわけがないわ。兄妹のように育てられた男女が結婚した例なんて聞いたことがないわ。いいえ、むしろ、小さい時から一緒に育てられることこそ、いとこ同士の結婚をふせぐ唯一の確実な方法だわ。もしその子が美人になって、あなたの二人の息子さん、つまりトムかエドマンドが、これから七年後に初めてその子に会ったらどうなるかしら?それこそ、あなたが心配していることになるかもしれないわ。(中略)でも、いまからその子と一緒に育てれば、たとえその子が天使のように美しくても、兄妹以上の関係にはならないわ。(P.14〜15)

そして、三人とも姪を引き取る行為の善意さにいい気分になります。この三人の深く考えずに、一時の欲求に都合よく妥協してしまう性癖は、下の世代に実は引き継がれていてバートラム家の兄弟姉妹がクローフォード兄妹の狡知にあっけなく手玉に取られてしまうことの布石になっているとも言えます。直接的にはサー・トマスの心配は最終的なは当たってしまうことになって、このときの納得は裏切られて、ファニーとエドマンドが結婚してしまうのです。

また、ここですかさず、ノリス夫人が費用やファニーを引き取って住まわす責任をサー・トマスに押しつけてしまう、実際上の負担を負わないしみったれたところ、しかし、ファニーを引き取る提案をしてことで、その善行はすべて自分の手柄にしてしまう狡猾さが示されます。この三人の会話は、まるでお目出度い間抜けな悪党が、悪事の計画の打ち合わせをしているような場面に見えてくるのです。

 第2章

物語の本編はここからです。10歳のファニーがマンスフィールド・パークにやって来るところから始まります。

注意すべきは、この章から語り手が全能の神のような鳥瞰的な視点で客観的に語ることから、登場人物の内心に出入りしはじめるのです。これを「語りのオーケストレイション」と評する人もいるそうですが。なかでも、ファニーへの介入が著しく、彼女を通して見たことや聞いたことが描かれ、彼女の心理や意識が語りのなかに混入するようになって行きます。例えば、

バートラム家の子供たちはみんな器量が良くて、二人の息子はとても美男子で、二人のお嬢さまは目の覚めるような美人だった。おまけに四人とも発育が良くて、すらりとした体型をしていた。そのため教育程度の違いから生じる物腰の違いだけでなく、容姿の点でも、ファニーとは歴然たる違いがあった。二人のお嬢さまとファニーがほぼ同い年だとは誰も思わないだろう。でもじつは、下のお嬢さまとファニーは二つしか違わなかった。つまり、バートラム家の次女ジュリアはまだ12歳で、長女マライアは13歳だった。そんなバートラム家に引き取られた少女ファニーは、まさに不幸のどん底に突き落とされたような気持だった。誰も彼も怖くて、自分が恥ずかしくて、遠く離れた我が家が恋しくて、顔も上げられないし、蚊の鳴くような声でしか話せないし、口を開くたびに涙が頬を伝った。(P.23〜24)

この例は語り手による地の文です。前半は事実を客観的に語っているのが、“そんな〜”の文ではファニーの気持ちを描写し、次の文では語り手がファニーの内心になっています。しかし、上の例を注意しないで漫然と読み進めれば、語りの主体が変わったことに気づかないでしょう。その場合、ファニーの内心のおどおどした視点が、客観的な事実の動きであるかのように捉えられるようになるのです。そのようにして、ファニーはいかめしいサー・トマスにびくびくし、マライアとジュリアから不要になった飾り帯やおもちゃを与えられ、フランス語や地理歴史の無知を嗤われ、要は人格を持った主体として認めて相手にされず、ひとりぼっちであるということが、それはファニーからの視点が混入しているのに、客観的な事実であるかのように読めてしまうようになっています。たしかに、彼女は口数は多い方ではないし、内向的な性格ではあるかもしれません。しかし、常識で考えてみてください。わずか10歳の女の子が会ったこともない親類のところに、ひとりで不慣れな道中を経て、育った環境とまったく違った邸宅に、そして、両親が困って頼み込んで引き取られた事情は聞いているだろうし、ノリス夫人からくどいほど感謝するように説教されて、そうやって辿りついたマンスフィールド・パークで、屈託がないはずがないし、ホーム・シックにかかるのは当然だろうし、不安でしょう。だいたい、子供が天真爛漫に見えるとしても、10歳くらいの年齢であれば、周囲を見渡して、自身の立場をわきまえて、どこまでやれば周囲は笑って許してくれるかを見計らっているものです。その周囲がみえなければ、まずは様子を伺うのは普通のことです。それをせずに、最初からむやみに自己主張するのはレアケースではないでしょうか。だから、ファニーの、この時の様子は、一般的なものです。それを読者には、そのように見えないように語っています。それがオースティンの語り口の秘密ではないでしょうか。

ファニーのように聞く一方で、自分からは話すことがないヒロインというのはオースティンの作品の中では、他にも、『説得』のアン、『分別と多感』のエレノアもそうです。しかし、彼女たちは大人しいとか、受け身ではあっても、ファニーのように無力とか存在感が薄いとか魅力に乏しいとは言われません。ファニーだけが、そうなってしまうのは、おそらくオースティンが意図的に、そのように書いているからで、具体的には、この第二章でマンスフィールド・パークに到着した時のおどおどして、何も言えない、いじめられっこのような第一印象のイメージが、ファニーの作品を通しての印象を決めてしまったからではないかと思います。なぜ、オースティンはそんなことをしたのかは、そうした方が物語を進める時に便利だからです。そその効果は、この後の物語の展開において、出てきますので、それは追いかけていきたいと思います。

ここで、読者に映るファニーのイメージは、貧しい子沢山のプライス家の長女で、一家を苦境から救うための、いわば口減らしのために、裕福な伯母の家庭バートラム家に引き取られたという、肩身の狭い居候の身であるということです。この点はまがりなりにも家族の一員であるアンやエレノアとは違います。そして彼女は無口な人物にえることです。彼女は口数が多い方ではありません、会話の場面でも、ほとんど聞き役に徹していることが少なくない。しばらく登場人物たちの会話が続いている場面で、私たちはそこに彼女がいることさえ忘れるときがあります。というよりも、彼女のことが書かれていないことすらあります。これは語りが彼女の視点になっていれば、当然自分のことは見えないからで、それが客観的な語りであると読者は読んでしまうので、彼女の存在が書かれていないと読んでしまうのです。

さて、この第2章の最も重要なエピソードは、ファニーとエドマンドの出会いです。ファニーにとってエドマンドはマンスフィールド・パークの中で唯一、心を通わすことのできる人物で、この後、彼女を慰め励まし、守り、教え導く存在となっていきます。このファニーがエドマンドに心を開くきっかけとなったのが、ファニーの仲良しの兄であるウィリアムが関係します。つまり、ファニーが寂しがっている要因は家族との別離もさることながら、主としてウィリアムに会えないことに起因することをエドマンドが聞き出し、彼女に兄に向けて手紙を書く手伝いをしてあげたことでした。このときは、エドマンドは寂しがるファニーにとって最愛の兄ウィリアムの代わりとなる存在として映ったように書かれているのです。そこで、ファニーとエドマンドの関係は兄妹に擬せられることになります。このことによって、読者は、エドマンドはファニーにとって兄のような存在で、これは兄妹愛から発展して、やがて結婚へと至った物語なのだというように印象づけられる。これが、もしファニーがエドマンドに寄せる一貫した思慕の物語であることが最初から明らかにされたとしたら、物語の構成としては、現状の『マンスフィールド・パーク』がファニーとエドマンドのラブ・ストーリーとなって、ファニーの存在感が前面に出てくることになると思います。例えば『説得』のアンのようにです。しかし、作者であるオースティンは、そうすることはなく、ファニーの思慕は小説の中で伏流のように流れつづけて、ある時から人々の目に触れるようになります。第2章の最後で次のように叙述されています。

ファニーは、このような親切な導きに感謝し、兄のウィリアムスを除けば、エドマンドを世界中でいちばん愛するようになり、いつしかファニーの心は、この二人に等分に向けられるようになった。(P.38)

この文章の書き方ではファニーはエドマンドに感謝し、兄のウィリアムスと等分に愛するとしているので、兄妹愛と印象付けられます。

また、ファニーとエドマンドは兄妹のように印象付けられていますが、小説の中で、彼らに対比するように仲の良い兄妹が配役されています。それはクロフォード兄妹です。さらにまた、同じ兄妹でも対照的に、仲が良いとはいえないのがバートラム家の兄妹とファニーに対するウィリアム以外のプライス家の弟や妹たちとの関係です。この、それぞれの兄妹を対比するように物語がつくられていく構造になっているのですが、ここでは先走り過ぎました。

 第3章

小さな事件が起こって、少しずつ物語の歯車が動き始めます。ファニーの伯父にあたるノリス氏が亡くなります。牧師のノリス夫妻はマンスフィールド・パークの牧師館に住んでいましたが、これによって後任のグラント博士がやってきます。もともとの予定はバートラム家の次男エドマンドが牧師となって、そこに入るはずでしたが、長男のトムが浪費によって多額の債務を抱え、その清算のためにマンスフィールド・パークの聖職禄を処分せざるを得なくなり、それで、想定外のグラント博士がやってくることになったというわけです。

ここで、バートラム家の内実が明らかにされてきます。例えば、ここまで3章をかけてバートラム家の人々を紹介し、本編以前の経緯といった背景を説明してきましたが、肝心の題名にもなっているマンスフィールド・パークについては何も説明がありません。この後に登場する大地主のラッシュワース氏の場合は、土地の広さや年収を、そしてまたヘンリー・クロフォードは不在地主ですが年収を明記して、どの程度の農園か想像がつくように書かれています。しかるに、主な舞台で、ヒロインのファニーが強い愛着を常に抱き続けるマンスフィールド・パークなのです。また、第1章で経済的基盤を伴わない結婚の愚かさを無分別としてあげつらい、作中でも、結婚について語られるときには経済的な要素が常に考慮されているのに、物語の最後にはファニーが結婚してくるマンスフィールド・パークの経済規模については、一言も触れられていません、これは明らかに、作者オースティンが意図的に書かなかったことでしょう。つまり、オースティンは隠したのです。

ただし、マンスフィールド・パーク自体の風景描写が全くないわけではありません。例えば、物語の終盤でファニーがポーツマスの実家でマンスフィールド・パークのことを追憶するといった内心と関連づけられ、つまり、ファニーの思い入れのフィルターによって理想化された姿で記述されるのです。だから、実際の広さとか、どのくらいの人々が働いているのかとか、領主であるサー・トマスがそこでどんな采配を振るっているのかは一切書かれていないのです。したがって、マンスフィールド・パークは実体を持たずに登場人物が触れ合う舞台でしかないのです。

オースティンという小説家は必要なことしか書かない人です。だから、必要なことは書くのであって、何を書くべきかを吟味して作品を執筆している人です。書かないことには理由があるのです。先ほども触れたように、ラッシュワース氏やヘンリー・クロフォードについては簡単に書いているわけですし、バートラム家の状況に関することなので(領主の継承や経済状況の事情からサー・トマスは植民地に出向くことになり、それが物語の大きな転機となる)、明らかにすべきことのはずです。それをオースティンは書きません。その理由は何でしょうか。それは、おそらくバートラム家はが地代を主たる収入源とする18世紀以来の伝統的な地主層から,実態としては貿易つまり商売による収益に依存した企業家層に変貌してきているので。サー・トマスは西インド諸島の東部にあるアンティグア(Antigua)島にプランテーションを所有しており,この農園経営によって主たる収入を得ています。つまり,イングランドにとって不名誉となりうる奴隷貿易を含む、いわゆる三角貿易にバートラム家の領土管理は依存しているのです。それは、当時においては、あまり表には出したくない事情に属していたと思われます。ここに、ファニーがエドマンドに対して表面的には兄妹の愛情として、そのそこには密かに恋心を抱いたのと同じように、バートラム家は表面上はマンスフィールド・パークの領主として振る舞いながら、実質的には植民地への投資業に変貌していたという二重構造になっていたことが分かります。そして、この小説では、このような二重構造が至るころに現れて、それを独特の語り手によって二重構造で語られるということになり、そで、読者は閉じられたホームドラマであるべきものが、ダイナミックな謎をはらんだ物語として受け取ることができるようになるのです。

そして、バートラム家の人々に眼を転じましょう、長男のトムは、将来はサー・トマスの跡取りとなるべき人物です。しかし、彼は領主あるいは企業家としては無能で、おまけに浪費家でした。彼が作ってしまった莫大な借金の支払のためにマンスフィールド・パークの牧師館が一族の手を離れ、次男エドマンドは,その割を食って,本来自分が引き継ぐことになる屋敷を失いました。そして、その牧師館にやってきたのがグラント博士でした。トムはサー・トマスに叱責を受けますが、厳格な父親の前では多少の反省の色を見せても、その実、父親の忠告を無視し、相変わらず自身の根本的な放蕩をひかえるつもりはないようです。それゆえ、植民地でのプランテーション経営が思わしくなくって、サー・トマスはサー・トマスは自ら農地管理の指揮を執るべく西インド諸島の東部にあるアンティグア(Antigua)島に赴くことになります。その際にトムも同道することになります。それが、この第3章の最後のところで、ファニーが16歳になったときです。サー・トマスがアンティグアに赴いた期間は2年に及び、その間は次男のエドマンドが代理を務めるのですが、領主が2年間も留守をするということは、バートラム家にとって、アンティグアが重要だということと、若年のエドマンドに代理がつとまってしまうというマンスフィールド・パークの領主としての負担は、それほど重くないということが、そこかに想像できます。つまり、オースティンは、マンスフィールド・パークについて記述してしまうと、そのような空洞化してきている実態をも明らかにしなくてはならなくなることを避けて、書かなかったということも想像できます。

物語は、サー・トマスがマンスフィールド・パークから一時的に退出することと、牧師館にグラント博士がやってきたことで、その夫人の親類にあたるクロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやってくるキッカケができたことになります。

そして、第3章で見過ごせないのが、ノリス夫人が牧師館を出るので、それを契機にファニーがマンスフィールド・パークを出てノリス夫人と暮らすことになるということになって、ファニーとエドマンドの会話です。ファニーは、マンスフィールド・パークを出たくないことと、ノリス夫人と暮らすことへの愚痴を言います。この会話から分かることは、まず、ファニーがノリス夫人に対して、直接苛められていることの愚痴こそこぼしませんが、ノリス夫人とだけは一緒に暮らしたくないと彼女を嫌うことを表明します。そこで、ファニーの強い自己主張があるのです。しかし、小説全体の印象としてファニーは周囲に気遣いして自己主張しないと受け取られているのと、最初近くから、そうでない行動を実はとっている。しかし、ファニーのイメージは変わらない。それは、最初のいたいけな印象と、エドマンドと二人の場面で自己主張しているからでしょうか。そして、その上、エドマンドがノリス夫人と暮らすのはそれほど悪いことではないと条理をつくして説得しているのに対しても、頑固に自説を譲りません。それは、後で、ファニーがヘンリー・クロフォードからのプロポーズを拒絶したことに対して周囲がいくら反対しても断固として譲らないことの先駆けのような場面です。つまり、後になって、ファニーの意志の強さが明らかにされますが、それは、その時に突然そうなったのではなく、すでに16歳の少女のころにすでにそうであったのです。しかし、このような将来を予言するようなことは、書かれているけれど。読者は、それでファニーの性格をイメージしないで読み過ごしてしまいます。そこに、オースティンの小説の仕掛けがあると言えるのです。

そしてさらに、このような小さなエピソードですが、他の小説のヒロインであれば、自身に降りかかってくる危機や障害なのですから、それを回避したり対処するための行動を起こすものです。ところが、ファニーは、その行動を起こさないか、行動せざるをえなくなった際に、偶然のように事情が変化して、彼女が行動を起こすことに至らないのです。この場合でも、ファニーはマンスフィールド・パークを出てノリス夫人と暮らすことになると絶望的になっていたところ、ノリス夫人がファニーを引き取る労力と金銭負担を避けるため、ファニーがマンスフィールド・パークでの生活を続けられように画策し、成功させていました。つまり、ファニーの与らぬところで、事態は解決されていたのです。この後のエピソードでも、ファニーの年老いた馬が死んでしまったときのことや素人演劇にファニーが参加させられそうになったこと、あるいは一旦ポーツマスの実家に戻された後マンスフィールド・パークに帰れるようになったことなど、すべてファニー自身が行動を起こしていません。彼女は外面的には自発的な行動を起こしているようには、見えないのです。そこに、彼女が受け身であること、おとなしいという印象を読者に対して強めていくことになっていると思います。

この第3章の叙述のなかで、登場人物の会話があったり、実際に動いている場面があるのは、ファニーがノリス夫人とマンスフィールド・パークを出て行くことについてのファニーとバートラム夫人とのちょっとした会話と、ファニーがエドマンドに内々に相談するところだけで、それ以外の部分は語り手が説明してしいます。だから、サー・トマスが出かけてしまうことも、ノリス氏がなくなってグラント博士が赴任してくることも、背景の事実のように読まれてしまいます。つまり、読者には、マンスフィールド・パークの周囲では物事が動いているというイメージで、それに対して、マンスフィールド・パークは台風の目のように平穏が続いているように映るのです。

 第4章

サー・トマスとトムがアンティグアに出発しました。次男のエドマンドがサー・トマスの代理として留守を預かりますが、していること「食卓での主人役をつとめたり、執事と相談したり、代理人弁護士に手紙を書いたり、召使と話をつけたりした。」は、それは領地を経営する領主のすることなのか、というほど些末なことで、バートラム家のマンスフィールド・パークの領主として、貧弱としか言えず、何もしていないと同じです。小説の中で最後まで、代々立派だったマンスフィールド・パークの姿はどこにも描かれていない。立派であれば領主の代理であるエドマンドの毎日は、誠実であろうとすれば、多忙になるはずです。しかし、エドマンドの毎日は、こんな貧弱なのです。オースティンは間接的に、マンスフィールド・パークの栄光の姿は,ファニーの小さな頭にのみ存在しているのかもしれないことを、暗に語っているのでないでしょうか。この部分は語り手による地の文で書かれています。

バートラム家の姉妹マライアとジュリアは、いわゆるお年頃となって、社交界にデビューし、ノリス夫人に付き添われて舞踏会やパーティーに出かけます。これに対して、ファニーは18歳という年齢ですが、留守番とバートラム夫人の相手を務めます。これは、シンデレラと姉たちとの関係に擬せられて、ファニーが差別されている構図を作り出しています。これに対して、ファニーはむしろ解放感を得られるし、従妹たちから舞踏会の話を聞けるのを楽しみにしているというように、自分が受けている扱いについての不平を一切作者は書いていません。これらのエピソードは語り手による客観的な語りで、淡々と語られます。ここには、オースティンの書かないという選択が、かなり考えて為されているのではないかと思います。例えば、社交界に連れて行ってもらえないファニーの気持ちや、それに対してマライアとジュリアについては、マライアは婚約者と出会うわけですし、サー・トマスがマンスフィールド・パークからいなくなったことで得られた解放感が後の二人の行動に結びついていくわけですから、このときの二人の内心について触れられていてもおかしくはないと思います。また、社交界の模様や、二人がそこでどう振舞ったかなども、全く書かれていません。そして、さらに、マライアは、後に婚約者となるラッシュワースに出会います。このとき、マライアがラッシュワースをどう思ったのかも書かれていません。彼女の感情の記述はなく、次のような外面的で通り一遍のことしか書かれていません。

ラッシュワース氏はとても恰幅のいい青年で、頭の方は、まあまあ常識を備えているという程度だか、容姿も態度もそれほど感じの悪いところはないので、マライアは自分が見初められたことを喜んだ。マライア・バートラムは現在21歳であり、そろそろ結婚を義務と考え始めていた。ラッシュワース氏と結婚すれば、父のサー・トマスよりも収入の多い身分になれるし、それに、いまはこれが彼女のいちばん大きな願いなのだが、ロンドンにも家を持つことができるので、「結婚適齢期の女性は結婚すべし」という道徳的義務感から言っても、できることならラッシュワース氏と結婚することが、彼女の明らかな義務となった。(P.61)

最後の「彼女の明らかな義務となった」という文章にあるように外面をなぞるようなことしか書かれていません。まるで少女がロマンスとか結婚に憧れているような考え方です。このときのマライアの内面には主体性が確立されていなかったのか、マライア自身がラッシュワースをどう思ったのかには一言も言及されていません。

※もし、田舎貴族のお嬢さんで何不自由なく育ったマライアが、周囲のすすめるままに結婚をして、その後、運命的な出会いで、ヘンリー・クロフォードと恋に落ちて、自己に目覚め、何もかも打ち捨てて恋に生きるということであれば、それは典型的な近代小説ではないでしょうか。例えば、「ボヴァリー夫人」「アンナ・カレーニナ」など枚挙にいとまがないでしょう。それだけでなく、当時の通俗的なロマンスでも、このようなシチエィションの物語が多数作られたものではないかと思います。しかし、オースティンはそれを行わず、ひねりをきかせて、そういうヒロインの行動によって取り残された家族を小説の題材としました。後のことになりますが、そこではマライアの内面描写はありません。家族からみれば、彼女の行動は迷惑なことで、軽薄で無分別に移るでしょう。しかも、メインではなくサブ・ストーリーにして、ファニー・プライスが当の相手の男性からの求婚を断固断ったことと対比的に扱っています。従って、近代的な恋に目覚めた女性のロマンスが、ここではシンデレラの意地悪な姉の因果応報の結末に反転してしまっているのです。ここに、マライアのエピソードの小説上の昨日と、そのような扱っているという面白さがあると思います。

不思議なことにエドマンドが、この婚約に反対で、彼はラッシュワースのことを「この男は、年収1万2千ポンドの金持ちでなければ、ただの馬鹿だ」(P.63)と思ったと書かれているのに、です。これらの、何かを書かないかについては、オースティンは、かなり意図的であったと思います。

一方、この章で注目していいのは、ファニーの馬に関するエピソードです。彼女の乗馬用にあてがわれた年老いた葦毛のポニーが死んだことがことの始まりです。虚弱体質のファニーは、運動のために乗馬を進められます。しかし、老馬の死により乗馬ができなくなります。ノリス夫人は、運動であればファニーに散歩として、自身の家への用事をさせて便利に使いたいのですが、それはファニーにとっては荷重な負担を身体にかけることになります。それに気付いたエドマンドがファニーのために新たに馬を買うことを提案します。これは、エドマンドとバートラム夫人とノリス夫人との会話として書かれています。エドマンドは二人の反対を覆すことはできず、自分の持ち馬が3頭あるうちの1頭をファニーのために振り分けることで妥協します。ここで注意すべきは、会話の中にファニーの意見がまったく出てこないことです。記述にはファニーに関することが何もないので、その場にいたのか、いなかったのかもハッキリしません。つまり、そういう存在感なのです。この会話の中で、ファニー自身はどのように希望するのかが全く無視されているわけです。ここで図らずも、エドマンドがファニーのことを思い、優しくしている人物ではあるけれど、ファニーの人格を尊重しているまではいかなくて、表面的なレベルであるということ、実はエドマンドという人物の薄っぺらさということの一端をここで、オースティンは匂わせています。というのも、ここでファニーに新たにあてがわれた馬は、この後で、メアリー・クロフォードに乗馬を教えるために使うことになり、メアリーが事実上独占することになってしまって、結局はファニーが乗馬できなくなることになるわけです。このメアリーに乗馬を誘って、馬の手配をしたのは当のエドマンドなのですから。このように、オースティンの語り口の特徴のひとつとして、この場合には「馬」ですが、特定の題材やエピソードについて、それを取り上げて使いまわす。例えば、違った場面に持って行ったり、すこし形を変えてみたりして、そこで関係を作り出して、それによって意味を作り出していくという手法です。音楽でいえば、ソナタ形式で主題を提示して、その主題をいろいろ手を加えて展開させていくのに似ていると言えます。

一方で、ファニーの方はエドマンドに感謝するのですが、そこに恋愛感情が読み方によってはうかがえるような書き方をしています。ここでの語りは、ファニーの内心が主体になっています。

しかも、これはすべてエドマンドの親切のおかげだと思うと、喜びはますます大きくなり、とても言葉では言い表せなかった。ファニーにとってエドマンドは、善と偉大さの見本のような人であり、彼女にしかわからない価値を持った人であり、彼女がどんなに感謝しても足りない人だった。エドマンドに対するファニーの気持ちには、尊敬と、感謝と、信頼と、愛情のすべてが入り混じっていた。(P.60)

この書き方は微妙で、「エドマンドの親切のおかげだと思うと、喜びはますます大きくなり、とても言葉では言い表せなかった」ということは、馬を与えられたこと以上にエドマンドから与えられたことの方が彼女には喜ばしいということにも受け取れます。その後に続く文章がエドマンドへの感謝から、彼への思いに流れ込んでいきます。「彼女にしかわからない価値を持った人」ということはエドマンドの値打ちは自分にしかわからないという特別な感情をファニーが抱いていたわけで、それで「尊敬と、感謝と、信頼と、愛情のすべてが入り混じっていた」気持ちを持っていたというわけですから、ファニーにとってエドマンドは特別な人であることは、この時点で明白であり、直接的な言葉はなくても、恋心であることは感じ取れるわけです。そして、わずか1ページ後には、マライアがラッシュワースとの縁談の説明があるにもかかわらず、彼女の相手に対する思いが一言も書かれていないのです。その対照です。

そして、クロフォード兄妹がマンスフィールド・パークにやって来ます。

 第5章

前章でマンスフィールド・パークの牧師館にやってきたクロフォード兄妹が、バートラム家の兄弟姉妹と出会うところで、互いに好感を抱いた出会いから、牧師館での兄妹と二人の姉のグラント夫人の3人の会話が前半です。この長い小説の全体を通して、おそらく、最も活発に会話をしているのが、メアリー・クロフォードです。そして、兄のヘンリーもそれに続きます。これは、主人公であるファニーの発言が少なくて、彼女のことはもっぱら地の文で語られるのと対照的です。この兄妹のいるところでは、常に会話がおこり、それが小説において会話文で描写されています。したがって、読者には、この兄妹はバートラム家の兄妹たちより生彩ある存在として映ります。しかも、この兄妹に関する地の文による記述は外見とか二人の行動といったことばかりで、ファニーやエドモンド、サー・トマスに関する記述が、それぞれに程度の差こそあれ内面に踏み込んだものであるのと違います。したがって、この兄妹は、これから物語の展開につれて、行動をしていくことか、発言をすることによって、徐々に人物が明らかになってくるという登場の仕方をします。これは、ファニーやエドモンドか、ほぼ最初の段階でどのような人物かが読者に分かってしまって、そのイメージで小説を読み進めていくのとは、まったく違うあり方です。そのため、この兄妹は物語が進むにつれて意外な面が見えてきたり、人物像が変化してきます。

例えば、ヘンリーの容姿についての微妙な変化

兄のヘンリー・クロフォードは美男子ではなかった。それどころか、最初みた時は、完全な醜男だとみんなが思った。色黒の醜男なのだ。しかし、それでもやはり紳士であり、態度や話し方はとても感じが良かった。二度目に会ってみると、それほど醜男ではないとわかった。たしかに醜男ではあるけれど、どこか魅力的な表情をしているし、歯がとてもきれいで、じつに立派な体格をしているので、醜男であることをつい忘れてしまうのだ。三度目に会ったあとは、もう誰も彼を醜男だとは思わなかった。(P.70)

しかし、ファニーはそう思っていなくて

しかしクロフォード氏のことは─マライアとジュリアが何度も称賛したにもかかわらず─依然として醜男だと思っている(P.77)

ここで話題になっているのはクロフォード氏の容姿についてですが、それを何度もバートラム家の人たちが見ていると、その見え方が変わってくることが書かれています。その場合に、あっているうちに人間性が分かって容姿が気にならなくなったというのではなくて、彼の紳士としての態度や話し方、あるいは表情といったことで、醜男とは思わなくなったという見え方の変化が語られています。これは後で、クロフォード氏には演技者の才能があることが明らかになり、お芝居の演技や朗読の巧みなところが出てきますが、言ってみれば、醜男であるにもかかわらず、醜男でないように装うことができる人物であること。しかし、それは表面的なレベルであることが分かります。そして、バートラム家の人々は、それに騙されてしまう人々であること。これに対して、ファニーはクロフォード氏を依然として醜男だと思っていたということで、彼女はクロフォード氏の装い(演技)に騙されないで正体を見ていた、ということが、この時点で示されています。おそらく、この時点では、このことに気付く人は少ないかもしれません。しかし、この後物語が進んで、バートラム姉妹が彼に夢中になり、サー・トマスまでもが彼を立派な紳士と評価する中で、ファニー一人が彼からのプロポーズを頑として拒無。その伏線が、ここに張られているわけです。というより、それを読者が後で読み返して、「そうだったのか」と発見するように書かれています。

話を戻しますか、そこに、この兄妹の小説の中での独特の位置づけがあると思います。つまり、クロフォード氏の見え方が変わってきたは、彼がそのような振る舞いをするなど、装ってきたからです。そのクロフォード氏の装いにまんまと騙されたバートラム家の人々は、クロフォード氏と同じレベルの表面的なところでしか物事を見ていない人たちであるということなのです。つまり、クロフォード兄妹は見え方が変化してくるのですが、実は、見え方が変化してくるということは彼らを見ている人々の彼らをどのように見るかが変化して来ているわけです。つまり、これらの人々の姿を、クロフォード兄妹が鏡のように映し出す機能を担っているといえます。つまり、この兄弟は小説の中で人々の姿を映し出す鏡のような役割を果たしているといえるのです。

また、彼らの会話を読んでいると、表面的というのか、話している内容よりも、どのような言葉を使って、どのように喋るか、ということが重点を置かれていることが分かります。たとえば、このような会話は、言葉になっていることの内容は無内容に近いものです。

「姉上、ぼくはバートラム姉妹をすっかり気に入りましたよ。ふたりともとても上品で、すてきなお嬢さんですね」

「あなたのその言葉を聞いてうれしいわ。でも、どちらかと言うと、ジュリアさんのほうがお好きでしょ?」

「ええ、もちろん!ぼくは断然ジュリアさんの方が好きですね」

「でも、ほんとに?だって普通は、マライアさんのほうが美人だと言われているわ」

「まあ、そうでしょうね。マライアさんのほうが目鼻立ちが整っているし、表情もとても魅力的だ。でもぼくはジュリアさんのほうが好きです。たしかにマライアさんのほうが美人だし、マライアさんのほうが断然すてきだ。でもぼくはジュリアさんのほうが好きです。だって姉上の命令ですからね」

「もうあなたとは口をきかないわ、ヘンリー。でもあなたは、最後にはきっとジュリアさんのほうが好きになるわ」

「ぼくは最初からジュリアさんのほうが好きだと言ってるでしょう?」

「それに、マライアさんはもう婚約しているのよ。それを忘れないでね、ヘンリー。もう決まった人がいるのよ」

「マライアさんはいっそう魅力的なんです。婚約していない女性よりも、婚約している女性のほうがずっと魅力的です。婚約している女性は自分に満足していますからね。もう心配の種がなくなって、自分の魅力を思う存分振りまいても、相手からよけいな邪推をされる心配がありません。婚約した女性は絶対安全です。危害を加えられる心配はまったくありません」

この会話の言葉上からは、クロフォード氏がバートラム姉妹のどちらが好きなのか分かりません。話の流れや、あたかも軽口のように流れる会話、しかも、バートラム姉妹について表面的な外形しか話題になっていない、といったことから、直接的な記述はありませんが、クロフォード氏がバートラム姉妹のどちらの女性も敬意を持っていないことが分かります。ある意味、自身の欲望を充足させる消費物のようなものとしてしか捉えられていないということです。それは、話の内容というより、話す口調などで分かってくる書き方をオースティンはしています。

この後の展開において、クロフォード兄妹は、このように無内容な会話をしているような、表面的に生きている、つまりは人間としては無内容のような人であるために、その場しのぎで刹那的に、自身のあり方を無節操に変化させていきます。その彼らに対する人々の対し方が、そこで表われて、人々の姿が鏡のように映ってくるのです。ここでは、クロフォード氏がバートラム姉妹をそう見ていることから、実は、作者オースティンは、バートラム姉妹の人となりは、そう見られてもしかたのないような見てくれだけの、人格的にはもの足りない人物であることを間接的に読者に示していると言えるのです。実際、小説の中では、マライアとジュリアの発言は、ほとんど書かれておらず、誰かの間接的な話題や地の文による説明で済まされてしまっているのです。

 第6章

バートラム家の残された人々、クロフォード兄妹にラッシュワース氏が加わって、会話を交わしながら、それぞれのキャラクターを浮き彫りにしていきます。

ここで、ラッシュワースがマライアの婚約者として、マンスフィールド・パークに登場します。広大な領地を有しながら愚鈍な人物で、会話の席でも話題に乏しいため、話すことがみつかると、しつこく話題にするという場面があります。その話題というのが、彼の屋敷であるサザトン・コートとその周辺に手をいれ、改良を加えるということです。彼が言うには、友人のスミス氏が所有するコンプトン・コートの改良に成功したということで、とくにレプトンという人物に頼んで仕上げた庭園が素晴らしかった。ラッシュワースは、そのレプトンになら日当5ギニーを払っても惜しくないと言います。このことから、ラッシュワースは誰にでも言われたらさっさと従ってしまうような、しっかりした自己というものを持たない、迎合しやすい愚か者というという性格を読み取ることができるようになっています。しかも、ラッシュワースは「自分ではどうしていいのかわからない」と臆面もなく述べているので、どのように改良したいのかというヴィジョンをもっていないことが明らかです。常識で考えれば、領地を今後はこのようにしたいというヴィジョンがあるから、それにしたがって、現状では不都合が多いから改良しようということになるはずです。しかるに、ラッシュワースは、友人が改良したことに刺激をうけて、改良することが真っ先に考えられている。そういう点に、彼が領地をマネジメントできていないし、その自覚もないことが分かるようになっています。

そして、このサザトン・コートの改良について、話題豊富なヘンリー・クロフォードが一家言あるような発言をしたことで、ラッシュワース氏がサザトン・コートの庭園改良に皆の意見を取り入れたいということになり、そのためにはサザトン・コートを実際に見てみようということになっていきます。このことが第8章で、ファニーとノリス夫人を含むバートラム家とクロフォード兄妹が、サザトン・コートに招待されることになるわけです。

 第7章

この章で、いくつかのポイントとなるエピソードが起こります。まず、ファニーとエドマンドの会話があり、ここでエドマンドがメアリー・クロフォードに対する印象がよいことをファニーに語り、ファニーは見解を異にするも、それをあえて語らず、二人の間に認識のズレが生まれ始める場面です。この時点では、エドマンドはメアリー・クロフォードに対して恋愛感情を抱くまでには至っていませんが、美しく魅力的なメアリー・クロフォードに惹かれるようになり、メアリーに関する話題を、しばしばファニーの前で持ち出すようになります。その話の内容たるや、エドマンドはメアリーを称賛する方向に進んでゆき、ファニーのついてゆけない所まで行ってしまいそうになります。そこに、エドマンドとファニーの間に、メアリーに対する意見の不一致が生じ始めます。そこで、ファニーは、こころをひとつにしていたと感じていたエドマンドとの乖離を意識するようになります。そこで生まれた距離が、ファニーのエドマンドに対する気持ちを自覚させる方向に導かれていくことになります。しかも、エドマンドのファニーへの姿勢は変化がなく(変化して恋愛感情に移行したのはファニーだけです)、ファニーは、それが分かっているゆえに、自覚した自身の気持ちをエドマンドにも、彼以外のだれにも告げることなく、自身の内だけに秘めて、生長させていくのです。そこに、ファニーのエドマンドに対する外面的な態度と、内面の気持ちのズレが生まれ、ファニーという人物の二面性が明らかになってくることにともなって、その葛藤がドラマを生んでいきます。

ファニーは、エドマンドが毎日午前中に牧師館に出かけても、べつに驚きはしなかった。招待もなくこっそり行ってハープの演奏を聴けるなら、自分も喜んで行きたいと思ったからだ。それに、晩の散歩が終わって、両家の人たちが別れるとき、クロフォード氏がマンスフィールド・パークの女性たちのお相手をしている間に、エドマンドは、いつもグラント夫人とミス・クロフォードを牧師館へ送ってゆくのだが、ファニーはこのことも驚きはしなかった。でもファニーは、これは自分にとってはものすごく損な交換だと思った。エドマンドがずっとそばにいてくれて、ワインの水割りを作ってくれないのなら、ワインなど飲みたくないと思った。エドマンドがずっとそばにいてくれて、ワインの水割りを作ってくれないのなら、ワインなど飲みたくないと思った。しかし、ファニーが驚いたのはこのことだった。つまり、エドマンドはこんなに多くの時間をミス・クロフォードと一緒に過ごしているのに、自分が指摘した彼女の例の欠点に、あれ以後はぜんぜん気がついていないようなのだ。ファニーはミス・クロフォードと同席するたびに、あのときと同じ彼女の欠点に気がついて、提督に関するあの不謹慎な発言を思い出すのだが、エドマンドはぜんぜん気がつかないようなのだ。彼はミス・クロフォードのことをたびたびファニーに話したが、提督の話題が出なくなっただけで十分だと考えているようだった。それでファニーも、意地悪と思われたくないので、自分の意見を言うのは差し控えた。

次のエピソードは、メアリーが乗馬を習いたい出だしたことで、ファニーが苦痛を味わうことになったことです。これが、この後、ファニーが度々苦汁を舐めるような思いをさせられることになる経験の最初となるエピソードです。エドマンドはメアリーの願いをかなえてあげるために、ファニーの馬を時々メアリーの練習用に貸してあげることを申し入れ、ファニーは、当初は快く承諾します。初日こそ、メアリーの練習が終わった後でファニーが日課である乗馬による運動をすることができました。しかし、二日目以降、メアリーは乗馬の上達が早いうえに、エドマンドが付き添って教えてくれるのが楽しくて、だんだん止めたくなくなり、予定の時間を超過してファニーを待たせるようになります。けっきょく、ファニーの乗馬の事情は考慮されなくなります。その一方で、ファニーがメアリーが馬を使っているため、自分の乗馬ができなくて、手をこまねいて待っているのを、ノリス夫人が見咎めて、暇なのだからと遣いを言いつけることになります。

ファニーは乗馬の支度をして待っていた。ノリス夫人は、ファニーがなかなか出かけられないので小言を言いはじめたが、馬が戻ったという知らせはまだ来ないし、エドマンドも姿を現さなかった。ファニーはノリス夫人を避けて、エドマンドを探すために家を出ていった。(P.106)

牧師館の牧草地にいるみんなの姿がすぐにファニーの目に入った。エドマンドとミス・クロフォードが並んで馬を走らせ、グラント博士とクロフォード氏と二、三人の馬丁が、まわりに立ってそれを見物していた。とても幸せそうな一団だとファニーは思った。みんなが一つのことに関心を集中させて、ほんとうに楽しそうだ。その証拠に、とても陽気な声がファニーのところまで聞こえてきた。でもそれは、ファニーにとってはぜんぜん楽しい声ではなかった。エドマンドは私のことを忘れているのかしら、とファニーは思って胸が痛んだ。でも牧草地から目を離すことができず、目の前の光景を見ずにはいられなかった。最初、ミス・クロフォードとエドマンドは、牧師館にしては広い牧草地を並み足で一周した。それから、明らかにミス・クロフォードの提案で、普通の駆け足へと速度を上げた。臆病なファニーから見ると、ミス・クロフォードの乗り方はびっくりするほど上手だった。それから数分後に、二人の馬は停止した。エドマンドはミス・クロフォードのそばへ行って何か話しかけ、手綱の使い方を教えるために彼女の手を取った。遠くてよく見えないところは想像力で補ったのだが、ファニーの目にはそう見えた。でもこんなに驚いてはいけない。エドマンドはいつものように人に親切にして、持ち前のやさしさを発揮しているだけだ。これほど自然なことがあるだろうか?でも、ファニーはこう思わずにはいられなかった。エドマンドに代わってクロフォード氏が教えてあげればいいではないか。女性に乗馬を教えるのはお兄さんの方がふさわしいし、礼儀にかなっているのではないか、と。でもクロフォード氏は、いつも自分のやさしさを自慢にし、馬車の運転も得意だと言っているけれど、たぶん乗馬のことは知らなくて、エドマンドほどやさしくないのだろう。それからファニーは、あの牝馬に二重のお勤めをさせるのはかわいそうだと思いはじめた。私のことは忘れられてもかまわないけど、牝馬の疲労のことは忘れないでほしいと思った。(P106〜107)

それは、もともと、第4章でファニーがノリス夫人のお使い、つまり、マンスフィールド・パークから夫人の住居まで徒歩で往復することが、ファニーの虚弱な身体にとって過重な負担であることから、それに代わる運動として乗馬をするためにエドマンドがあてがった馬でした。したがって、ファニーにとっては、ノリス夫人のお使いは身体にとっての苦痛で、後で体調を崩すことになるものなのです。(ノリス夫人は、そのことに関してファニーへの配慮を全くしません。むしろ、こんなことで体調を崩すなんてと、ファニーを責めるのです)ファニーは、ノリス夫人に追い立てられるようにして、やむなく出かけます。その途中で、エドマンドがつきっきりでメアリーが乗馬の練習をしている後景に出会います。作者オースティンは、それをファニーの目を通して、彼女が見て、聞いたこととして描写します。乗馬練習の人々の楽しそうな声が聞こえてくると、「その楽しそうな声のさざめきは、ファニーには楽しくない」という認識がある。これは、自分が疎外されているというファニーの意識を映し出すもので、「エドマンドは自分のことを忘れてしまったのだろうか」という思いに、彼女は「心の痛み」を感じるものになっているのです。ファニーは、「その光景の一部始終から目が離せない」。とりわけ、メアリーがどんな乗り方をしているか、エドマンドからどういうふうに教わっているかを、一挙一動、詳細に観察します。エドマンドがメアリーの近くにいて話しかけ、手綱の扱い方を教えていると見え、彼女の手を取っている─「それをファニーは見た。あるいは目の届かないところは、想像力で補って見た」。遠くから見た眺めなのに、異様に細かく描かれているこの辺りの箇所では、あたかもファニーの視力が増大しているかのようです。見えないものまで、心の目で見えるというファニーの状況は、エドマンドとメアリーの関係が親密になることへの不安を示していて、さらに言うなら、彼女がいかに失恋の苦しみを味わっているかを暴露していると言えます。ここにある表現の誇張は、ファニーの心理状態の不安定さが表われたものと考えることもできます。その一方で、ファニーはエドマンドを悪く思うまいと、自分に言い聞かせるように、「こんなふうに(二人の乗り手によって)二重に仕事をさせられたのでは、馬には辛いだろう」と馬に同情するように自分の思いを転嫁させていって、結局、「自分は忘れられたとしても、かわいそうな馬のことは忘れてもらっては困るのだ」という、自分と馬を同列に並べて、せめて馬のことは思い遣ってほしいと、とファニーの言い分です。これは、馬への思いやりの見せて、実のところ、自己憐憫とひがみの入り混じった皮肉です。ここに、ファニーという女性の、一見おとなしい、品行方正な姿の奥にある屈折した感情がマグマのように渦巻いて、時折、噴射口からでてくと、このような形になって現れるのです。

さらに数日、メアリーの乗馬の練習がつづき遠乗りができるまでなります。ある日、エドマンドは遠乗りから帰宅すると、ファニーが、居間の隅にあるソファーで休んでいて、頭痛のために元気のない様子をしていることに気づきます。エドマンドは、ノリス夫人やレディー・バートラムの話を聞いて、ファニーがしばらく馬に乗ることができず、ノリス夫人の勝手な用事に振り回されて、暑い日差しのなかを歩かされていたことを知ります。エドマンドは、ファニーをこのような状態のまま放っておいたことを悔い、飲み物を取って来て、彼女に勧めます。すると、ファニーは、「飲みたくないと断りたかったけれど、さまざまな思いがこみ上げ涙が出てきて、口をきくより飲むほうが簡単なので、飲むことにした」のでした。

ファニーの不調は、ノリス夫人に無理をさせられてこともありますが、むしろ精神的な要因が大きいのです。「彼女はこの数日間、自分が無視されているように感じ、不満と嫉妬と戦ってきたのだ」と語り手は説明します。ここでは、「誰の」とか「誰に対する」という具体的な主体は省かれていますが、エドマンドに無視されたことが応えて、彼女が不満を感じ、彼とメアリーの関係に嫉妬していたことを示しているのは、明らかです。「頭痛よりも、心の痛みのほうがもっと大きかった。そして、エドマンドの親切による突然の変化によって、ファニーはどうやって自分を支えたらよいのかわからなくなった」ここには、エドモンドへの思いと、その挫折による失望とメアリーへの嫉妬で身体に影響を与え体調を崩してしまうほどの思いの強さ、ファニーがおとなしそうな外見の下で強い感情を秘めていることが示唆されているのです。

その後もファニーは、エドマンドがメアリーへの恋心を募らせ、求婚の意思を固めてゆくさまを、重く沈んだ心で、傍から、あるいは間近で観察し続けることになります。その一方で、彼女はメアリーの欠点を細かく観察し、その本性を見極めようとします。メアリーのほうは、概して、ファニーに表裏のない好意を示しているのに対して、ファニーのほうは、表面の態度と心の中は正反対なのです。

この二つのエピソードは、別々ですが繋がっているように書かれています。それによって、ここではファニーがエドマンドに恋愛感情を抱いていることが明らかになるのです。つまり、この章を境にして、ファニーの秘められた思いは形になって読者の前に現れてきました。

この場合のような、エピソードのひとつひとつを深く掘り下げてストーリー発展させるより、エピソードを並べて、それらが連鎖しているように繋ぎ合わされて、小説の構造が形づくられる。それが、オースティンのユニークさであるとナボコフはいいます。複数のエピソードが人物の動きや何らかの素材によって結びけられ、その結びつきがストーリーを生んでいく、例えば、第4章でのエピソードで、虚弱体質のファニーの運動のためにとあてがわれていたポニーの老馬が死んでしまい、エドマンドが自分の三頭の持ち馬のうちの一頭を「おとなしい牝馬」と交換し、ファニーに使わせることにしてあげました。ところが、この第7章でメアリーが乗馬の練習をするために、馬を提供したエドマンドが、ファニーからその馬を借りることを申し出る。結果的にファニーは乗馬による運動の機会を奪われて、ノリス夫人の酷使に長時間耐え忍のばなければならなくなります。エドマンドはこのことに後で気がついて愕然とします。ナボコフはこのようなエピソードの連鎖について、それは馬に関係したことなので「馬の主題」と呼んでいます。ナボコフが注目するのは、その後で若い人々が馬に乗ってマンスフィールド共有地にでかけたことで、ここから、風光明媚な場所に遠出する計画に発展します。それが、サザトン・コート訪問の計画に結実していきます。ナボコフは、「馬の主題」から「脱出行の主題」への移行と呼んでいることです。

 第8〜10章

重要な場面であるサザトン・コートへの訪問は3章に分けて語られています。サザトン・コートはバートラム家の長女マライアと婚約したラッシュワースの領地で、バートラム家よりも広大で、多くの収入をもたらしているところです。それが第6章においてラッシュワースがマンスフィールド・パーク訪問したときの会話がきっかけとなって、バートラム家の人々とクロフォード兄妹が招待されることになり、ちょうどヘンリー・クロフォードが大型馬車を所有していたため、その馬車で訪問することになりました。当初は、その訪問メンバーの中にファニーは入っていなかったのですが、バートラム夫人とノリス夫人の反対をエドマンドが説得するという、第4章でファニーの馬をあてがったときと同じような議論が3人の間で交わされ、ファニーがエドマンドに感謝する、それだけに終わらず愛情を強めていくという、同じことが繰り返されました。同じような場面は、牧師館のグラント博士からの食事への招待に応じることを認めることや、ダンス・パーティーを開くことなど、繰り返されることになります。そして、その繰り返されるにしたがって、反対、つまりはファニーに対する障害が弱くなっていくことになります。それは、つまり、ファニーの立場が、マンスフィールド・パークにおいて重くなっていく、その段階が違いとして見えてくる繰り返しでもあるのです。この時点では、障害は強いもので、エドマンドの説得はたいへんでした。

このサザトン・コートの訪問は二つの三角関係を明示してしまうことになりますが、その前哨戦のように、行きがけの馬車において、御者席のヘンリー・クロフォードの隣に誰が座るかをめぐって、バートラム姉妹の心に確執が生じます。このとき以降、マンスフィールド・パークでのお芝居ごっこがサー・トマスの帰還によって中止させれらてしまうまで、姉妹の確執は、あからさまに続けられていくことになります。

この小説の中の大きな見せ場のひとつが、サザトン・コートの庭園の散歩、とりわけ、ベンチに腰かけて休んでいるファニーに対して、登場人物が入れ替わり登場して去っていく、まるでベケットの「ゴドーを待ちながら」のようなファニーのいるベンチで定点観測しているような場面です。これは、マンスフィールド・パークに人物たちが出たり入ったりを繰り返すという小説全体の構造の縮図のような場面で、それだけに各人物のありようや相関関係が凝縮されて明らかになります。とりわけ、エドマンド、ファニーにメアリー・クロフォードを加えた三角関係と、マライアとジュリアのバートラム姉妹とヘンリー・クロフォードの三角関係とそこにラッシュワースが絡んでくる関係が、ここで明確に示されて、今後の物語の流れを引っ張っていくものとなっていきます。一行は建物を見学した後は、庭園を散策し始めます。森の中のくねくねした径を歩いているうちに、一行は三つのグループに分かれてゆきます。第一はマライアとヘンリー、ラッシュワース、第二はエドマンドとメアリー、ファニー、第三はジュリアとノリス夫人、ラッシュワース夫人の三つです。径を進んでいくと鉄門があり,鍵がかかっていてそれより先に進むことができない。その門の脇にベンチがありました。第一のグループは先頭を歩き、エドマンドとメアリーに比べて体力で劣るファニーは歩き疲れ、それだけでなく、二人の会話がはずんでくるのを一方的に聞かされることに、疎外感と嫉妬にとらわれた精神的な疲れもあったのでしょう。会話が盛り上がっている二人は、歩き足りないのか、疲れたファニーをベンチで休憩させたまま、さらに森の中へと入って行ってしまいます。ひとり取り残されたファニーが、二人の帰りを待っているところへ、第二のグループがやって来ます。鍵のかかった鉄門の向こうにあるパークに入れば、屋敷全体が見渡せる丘があると言うマライアの提案ですが、ラッシュワースは、愚かなことに鉄門の鍵を忘れてきて、皆を門前に待たせて、自分は屋敷まで急いで鍵を取りに帰ることになりました。本来ならば、領主であり皆を招待したホストであるはずなので、この森の径のことはよく知っているはずであり、招待した客をどのように案内すべきかを予め考えているのが当然であるはずです。そこで肝心の鍵を忘れたということは、地主として、領地を把握しきれていないか、彼の愚鈍さが、図らずも明らかになっているところです。彼がその場を去ったあと、残されたヘンリー・クロフォードとマライアがどのような会話を交わし、いかなる行動をとったか、その一部始終をファニーはじっと観察していました。

「サザートンをこれほど楽しく見ることは、もうないでしょう。来年の夏には、ここがぼくにとって、よい場所になっているとは思えない」と、ヘンリーは土地の改良にからめて、マライアに思わせぶりなことを言います。これを聞いたマライア手はぎくりとします。つまり、来年の夏には、あなたが結婚してしまっているから、面白くない、という裏の意味が、マライアに伝わったわけで、彼女も含みのある言葉を返して、ヘンリーの真意を確認するのです。

そのあと二人は、次のように、比喩的な表現を通して、さらに意味深長な会話を続けます。

「今朝ここへ来るときのドライブは、とても楽しそうでしたね。あんなに楽しそうなあなたを拝見して、私もうれしかったわ。あなたとジュリアはずっと笑いどおしでしたもの。」

「えっ、そうですか?そうですね、そうでしたね。でも、なんで笑っていたのか覚えていないな。あ、そうだ、ぼくの叔父の家の、アイルランド生まれの年老いた馬丁のことで、ばかばかしい話をしていたんです。あなたの妹さんは、笑うのが大好きですからね」

「私より妹のほうが陽気だとお思いなのね」

「笑わせるのが簡単なんです」とクロフォード氏は答えた。そしてほほえみながら、「だから、お相手をするのが簡単なんです。相手があなたなら、十マイルのドライブのあいだ、アイルランドの馬鹿話で楽しませようとは思わないでしょうね」

「ほんとは私も、ジュリアと同じくらい陽気だと思うわ。でも今はいろいろ考えることがありますから」

「もちろんそうでしょうね。それに、陽気すぎるのは無神経さを示す場合もありますからね。でもあなたの将来は順風満帆なんだから、あなたが陽気さを失うなんてことはあり得ないでしょう。あなたの前には晴れやかな光景が待っているんですから」

「それは言葉どおりの意味ですか?それとも比喩的な意味ですか?言葉どおりの意味ですわね。そうね、たしかに、たしかに私の前には太陽がさんさんと輝き、ひろびろとしたパークがとても気持ちよさそうだわ、でも残念なことに、あの鉄柵の門と隠れ垣が、私に束縛と苦難の道を感じさせるわ。あのムクドリが言うように、「私はここから出られないわ」」

マライアは、思い入れたっぷりにそう言うと、鉄柵の門のほうへ歩いていった。クロフォード氏もあとにつづいた。

「ラッシュワースさんは、鍵を取ってくるのにずいぶん時間がかかるのね!」とマライアは言った。

「あなたはその鍵がなければ、そして、ラッシュワース氏の許可と保護がなければ、絶対にここから出られないというわけですね。でも、ぼくがちょっと手を貸してあげれば、門の端から簡単に出られますよ。あなたがほんとうに自由になりたいと思っているならね。そして、それは禁じられたことではないと思えるならね」

「禁じられたこと?ばかばかしい!もちろん私はここから出られるし、絶対に出てみせるわ。ラッシュワースさんはすぐに戻ってくるでしょうから。私たちを見失うことはないわ」

「たとえ見失っても、ミス・プライスにことづてをしていけば大丈夫ですよ。ぼくたちはあの小さな丘にいるって。丘の上の、オークの木立ちのあたりいるって」

ファニーは、これはいけないことだと思い、やめさせようと思って大きな声で言った。

「マライアさん、そんなことをしたら怪我をするわ。忍び返しで怪我をするわ。服も引っかかって破れるわ。隠れ垣の溝に落ちる危険もあるわ。そんなことはやめたほうがいいわ」(P.152〜154)

この部分はほとんど会話が直接書かれています。最後の一文で、ファニーが会話をすべて聞いていたことがわかるようになっています。つまり、ここでファニーはベンチに座っていたのですが、読み手の視野から意図的に外されているようにかかれています。おそらく、ヘンリー・クロフォードとマライアの視野からも外れていたものと考えられます。マライアは、自分が籠の中の鳥のように不自由な身だという言い回しを通して、自分にとってラッシワースとの結婚が「束縛と苦痛」にすぎないことを仄めかします。それに対してヘンリーは、ここで「鍵」に象徴される夫の権威と保護がなくとも、マライア自身が望むなら、自分の助けを借りて門の脇を通り向こうへ行けるというような、かなり露骨な言い回しで誘惑しています。すると、大胆になったマライアは、「自分は禁じられていない」と言い放ち、ラッシワースを待たずにヘンリーと二人で、門の端を通って行こうとするのです。この出来事は、後に結婚生活に行き詰まったマライアが、ヘンリーと駆け落ちすることを予示していると言えるでしょう。

「これはすべてよくないことだと思ったファニーは、その行動を止めさせようと努めざるをなかった」とあることからも、ファニーが、二人の危険な雰囲気や言葉の奥に含まれた意味を、すべて読み取っていたことがわかります。ファニーは、ここに何か悪の匂いを嗅ぎ取っています。

二人が去ったあと、遅れをとったジュリアがやって来て、悔しげに二人の後を追ってゆくさまも、ファニーは観察しています。次に、鍵を取って来たラッシワースが現れ、自分がひとり取り残されことを知って、屈辱感と嫉妬を露わにします。次の箇所は、ラッシワースとファニーの会話です。

しばらくの沈黙のあと、「ぼくを待っていてくれてよかったのに」とラッシュワース氏が言った。

「マライアさんは、あなたがあとから来てくれると思っていますよ」とファニーは言った。

「彼女が待っていてくれたら、ぼくが追いかける必要はないんだ」

たしかにそのとおりなので、ファニーは何も言えなかった。またしばらくの沈黙のあと、ラッシュワース氏はつづけた。「ねえ、ミス・プライス、みんなはクロフォード氏をすごく誉めるけど、あなたも彼をすてきだと思いますか?ぼくはぜんぜんそうは思わないないけど」

「私も、クロフォードさんが美男子だとは思いません」

「美男子?あんな背の低い男を美男子だなんて、誰も思いませんよ。5フィート8インチもないかもしれない。彼は醜男ですよ。ぼくの意見では、あのクロフォード兄妹は何の役にも立たない。あのふたりがいなくても、ぼくたちは十分位立派にやっていける」

ファニーは小さなため息をもらし、どう答えていいか困ってしまった。(P.157〜158)

ファニーはラッシワースをなだめながらも、彼の言い分がもっともだと納得します。「クロフォード兄妹なんか、加わらなくてもよかったんだ。いなくても、我々は楽しくやっていたのだから」というラッシワースの言葉を聞いて、「ファニーはかすかな溜息をもらした。どう反論してよいかわからなかったのだ」と作者は書きます。この最後の一文の「溜息」とは何か。メアリー・クロフォードなんか現れなければ、エドマンドの心が奪われることもなく、楽しくやっていたのに─という自らの想いと、ラッシワースの言葉が重なり合ったため、反論できないというより、むしろ同様に置き去りにされた立場にある身として、強い同感から思わず漏れた溜息だった。

このベンチの場面において、鉄門で径の先が遮られていて、その先に眺めの良い丘があるということ、その鉄の門は柵のような形状、つまりは鳥かごに擬せられるものでしょう。その鉄門には鍵がかけられている。それを越えるには、鉄柵に引っ掛けて怪我をしたり、衣服を破いたりするリスクがある。これらは、まるで演劇の舞台装置のように象徴的な意味合いを持たせられています。しかも、それをベンチに座ってすべてファニーが距離をおいて客観的に観察しているという舞台の観客なのです。その観客にも登場人物と関係する境遇がある。それを読者が見ているというメタ演劇という構造がここにあります。リスクをおかして鉄門をこえたヘンリー・クロフォードとマライアは、その後の駆け落ちを、ジュリアはイェイツとの駆け落ちを象徴的に予告しているし、鉄門をこえないで戻ってきたエドマンドとメアリー・クロフォードは最後まで行かずにすんでのところで引き返す、つまりは結婚に至らない将来を暗示していると言えます。

次に挙げられることは、サザトン・コートの描写とその意味です。小説の中で作者はマンスフィールド・パークの建物や領地の情景描写を敢えて書かないでいるようなのに対して、このサザトン・コートの情景を念入りに描写しています。例えば、マンスフィールド・パークから10マイルほどの旅程を経て,馬車はサザトンの領地に入り、森の中を抜けると、エリザベス朝に竣工した立派な屋敷が馬車からの視界に入ってきます。ファニーはこんなふうにその風景に夢中になってしまう。

「私はああいうふるいお屋敷を見ると、尊敬の念を抱かずにはいられません。並木はどこにあるんですか?お屋敷の建物は東向きですね。そうすると、並木はお屋敷の裏側にあるんですね。ラッシュワースさんは、建物の西側に並木があるとおっしゃっていましたから」(P.129)

建物は所有者への敬意をかき立てる立派なもので、何度も訪問したマライアの説明によれば,特に教会の尖塔が優美な姿を誇っているらしい。樫の林はラッシュワース家の盤石な経済基盤の反映のようだといい、立派な荘園領主の威風堂々とした家屋敷が提示されています。

ところが,見かけの立派さとは対照的に,屋敷の内部は敬意をかき立てるものではなかったようです。眺望を楽しめる設計になっておらず,不必要に部屋数が多かった。これでは窓税の支払いが大変だし,女中の仕事を増やすばかりと思えたものです。特にひどいものは礼拝堂でした。一家の魂の拠り所と思える礼拝堂がまったく重々しさを欠いており,やたらに広くてマホガニーの家具調度品が多く,礼拝道具がただ置いてあるだけだったのです。この屋敷についての語りは、ファニーの視点で語られていると思われます。というのも、ファニーは傍らにいたエドマンドに、こんなふうに自分の考えていた礼拝堂のイメージと現実の礼拝堂の姿とのズレを言うからです。

「私が考えていた礼拝堂とぜんぜん違うわ。この礼拝堂には、敬虔な感じも、物悲しい感じも、荘厳な感じもないし、側廊やアーチもないし、碑文や軍旗もないわ。「天の夜風になびく」軍旗もないし、「スコットランドの王、ここに眠る」という碑文もないわ」(P.133)

実は、この礼拝堂は本当に古い格式あるものであったのですが、長きにわたって使用されず、ただ見るだけの設備に変わってしまったために、ファニーが話しているようなものに見えるのです。家人たちに使われてきた伝統がこの礼拝堂には欠けているということです。礼拝堂は立派だけれど信仰という中身がない器のようなものです。ここでは、そのことに気付いているのはファニーとエドマンドの二人だけです。むしろ、メアリー・クロフォードはその伝統を堅苦しい束縛として殊更に批判してみせます。これは、彼女が、このときエドマンドに愛情を感じ始めており、結婚相手として彼を考えると、彼が公言している牧師になるということが、彼女にとって受け容れ難いことであることと関連してのことでしょう。このあと、先ほど触れた森の中の散歩において、メアリー・クロフォードとエドマンドの二人は、彼が牧師になる事について熱い議論をたたかわすことになります。

ここで話をまとめると、サザトン・コートの描写は、間接的にマンスフィールド・パークよりも規模が大きく豪華な屋敷や庭園、広大な領地を詳しく描写していて、マンスフィールド・パークの描写を敢えて避けているように見えるのは不釣合いです。ササン・コートを見たファニーの興奮ぶりから、比較してマンスフィールド・パークが取るに足らないものであることを、無言で示唆している。ここに、マンスフィールド・パークをこよなく愛しているファニーの態度にすら表れているアイロニーと、ファニーですらそうなのですから、それ以外の人々の心はマンスフィード・パークから離れてきていることが暗喩的に予告されている。それが、より立派なサザトン・コートでは実質的な当主であるラッシュワース夫人の心が離れてきていることなどから空洞化が進んでいるわけです。それが実体化したのが礼拝堂なのです。

 第11章

アンティグアのサー・トマスから手紙が届き、仕事を終えて、ようやく帰ってくることが知らされます。しかし、彼の娘であるバートラム姉妹は、それを自由で解放された時間の終わりと受け止めます。とくに、マライアは、サー・トマスの帰宅により、ラッシュワースとの結婚式をあげることになるのです。この時点では、ヘンリー・クロフォードとの関係をモラトリアムとして満喫しようというのでしょうか、それが、この後の芝居ごっこの盛り上がりのひとつの動機になっていきます。

そして、この章の大半はメアリー・クロフォードとエドマンドにファニーの加勢があって、牧師という職業に関する議論です。それは、メアリーが好意を持っているエドマンドが牧師になる事に対してメアリーが反対であるからです。彼女が牧師という職業を嫌う理由は、姉のグラント夫人が牧師の妻として苦労しているのを見ているからです。

「ええ、もちろん、牧師になる人はとても真剣よ。苦労して収入を得るよりも、安定した収入を好むという点にかけてはね。そして一生、食べることと、飲むことと、太ること以外は何もしないという点にかけてはね。でもそれは怠惰ということだわ、バートラムさん。それは怠惰な生活であり、安逸をむさぼるということだわ。立派な野心もないし、すばらしい友達を得ようともしないし、人を楽しませようという努力もしないのよ。そういう人が牧師になるのよ。牧師はただ不精でわがままなだけよ。新聞を読んで、お天気を見て、奥さんと口喧嘩して一生を終えるのよ。教会の仕事は、副牧師が全部してくれるし、本人の大事な仕事は、おいしいご馳走を食べることだけだわ」(P.169)

これに対して、エドモンドとファニーは、グラント博士の非を認めつつも、牧師という職業そのものは尊敬に値すると食い下がるのですが、メアリーの牧師嫌いは改まる気配がない。

メアリーが、ここまで執拗に牧師への嫌悪を語るのはグラント博士への嫌悪だけにとどまらず、エドマンドを結婚相手として考える時にロンドンの社交界での享楽的生活が染みついてので、牧師館の退屈な生活に耐えられないという、実際的な理由もあったと考えられます。それは、メアリーが結婚に求めるもの、彼女がマンスフィールド・パークに現れたときから、「有利な結婚」が彼女の人生の目的であることを公言していたことによるものです。彼女にとって、結婚は相手から最大のものを期待しながら、自分自身は一番不正直に振舞うという駆け引きを伴う取引なのです。メアリにとっては、エドマンドが就こうとしている牧師という立場は、弁護士や軍人と同じく単なる職業選択上の選択肢の一つでしかありえないし、しかも一番無価値で無意味な職業でしかないというわけです。そのような方向性で、一般論として牧師という職業を批判しています。

「牧師に何ができるって言うの?男性はみんな有名になりたいと思っているし、ほかの職業なら、頑張れば有名になれるかもしれないけれど、牧師じゃだめだわ。牧師じゃ、有名になれる望みはまったくないわ」(P.142)

メアリーは、牧師では社会的なステイタスを得られないと言います。これに対してエドマンドは、牧師という仕事は

「現世的な問題においても、永遠的な問題においても、人間にとって最も重要な問題にたいする重要な任務な任務をもっているのです。つまり牧師は、宗教と道徳を守る任務を持っているのです。そして、宗教と道徳の影響力の所産である風俗習慣を守る任務を持っているのです。このような任務にまったく意味がないなどとは言えないはずです」(P.142)

メアリーとエドマンドの主張は平行線のままです。

「牧師がそんな重大な任務を背負っているなんてきいたこともないし、私にはまったく理解できないわ。あなたのおっしゃるような牧師の影響力や重要性は、社交界ではあまりお目にかかれないし、だいいち、牧師が社交界に顔を出すことはめったにないんですから。そんな影響力を示せるはずがないわ。」(P.142)

ただ、ふたりの主張の読んでいると、現代の世俗化された資本主義社会の人間には、メアリーの主張は至極真っ当です。べつのところで、メアリーは「私がいままで聞いたなかでは、収入が多いということが、幸せになるための一番いい方法だと思うわ」(P.321)と断言します。エドマンドがあなたはお金持ちになるつもりかと問うと、メアリーはみんなそうでしょ、と答えます。そして、エドマンドが主張するような「節約と倹約に努め、収入に合った生活をする」という誠実で正直な生き方を認めつつも、「でも、ねっと高いところを望めるのに、その中間で満足するような人は軽蔑するわ。せっかく栄誉を手に入れられるかもしれないのに、低い身分で満足するような人は軽蔑するわ」(P.323)これは、現代の資本主義社会では向上心として当たり前のことです。これに対して、エドマンドや彼に味方するファニーの主張は秩序維持のための建前を主張している、ちょっと欺瞞のように映ります。それは、マンスフィールド・パークという彼らが生きている場そのものが、ある種の欺瞞の上に成り立っているものと、現代からは見えるからです。この「マンスフィールド・パーク」という小説はファニー・プライスとエドマンドのラブストーリーという面とは別に、バートラム家の拠点であるマンスフィード・パークという欺瞞の上に建てられた家の自壊を記述した叙事詩という面を読むことができるのです。そういう視点では、クロフォード兄妹は軽薄で不道徳な人々というよりも、旧態依然のまま延命しているマンスフィールド・パークの欺瞞を突いて、取って代わる次の世代(小説の中では退場してしまいますが)を表していると解釈することもできるのです。

この章の最後に、そのような欺瞞を宿しながらも、そこにいる人たちにとっては掛け替えのないところであり、そのことをファニーがしみじみと述懐しています。しかし、それを意識しているのは、この秩序の維持に躍起になっているとサー・トマスとファニーの二人なのです。

「ここには調和があるわ。安らぎがあるわ。絵や音楽では表現できないもの、詩にしか表現できないものがあるわ。人間のあらゆる悩みを静めてくれて、人間の心を喜びで満たしてくれる何かがあるわ。こういう夜の景色を眺めていると、この世に悪や悲しみなどあるはずがないと思えてくるわ。人々が自然の崇高さにもって目を向けて、我を忘れてこういう景色を眺めれば、この世の悪や悲しみはもっと少なくなるはずよ」(P.174)

 第12章

アンティグアからサー・トマスがマンスフィールド・パークに帰るのは11月の予定ですが、同行していた長男のトムは一足早く9月に戻りました。

 第13〜19章

物語前半の最大の見せ場である素人芝居の騒動です。これに、オースティンは7つの章を費やしています。

まず、この騒動のいきさつから見ていきましょう。アンティグアから一足早く戻ったトムですが、放蕩壁をサー・トマスに咎められ鍛え直す目的でアンティグアに同道したわけです。したがって、トムの早期帰宅は、留守が長期化したことを気になったサー・トマスが、マンスフィールド・パークを守ることを期待されてのことだったはずです。ところが、トムはリゾート地で知り合ったイェイツなる人物を連れて来ます。イェイツは貴族の次男だが、軽薄な放蕩者で、彼こそが素人芝居を提案することになります。結果的に、トムはマンスフィールド・パークの秩序を守るために早く帰ることになったのに、逆に騒動を持ち込む秩序紊乱者となってしまうわけです。ここに作者オースティンの皮肉な目を想像することができますし、マンスフィールド・パークもしくはバートラム家の崩壊が避けられない叙事詩的なエピソードである(それにしては皮肉で喜劇的であるのはオースティンという作家の性格なのでしょうが)と言えます。

これに対しては、エドマンドとファニーが反対します。その理由は、第一に、サー・トマス、深刻な経済事情のために危険をおかして遠方の地に赴いている留守中に良俗に反する派手な振る舞いをすることは好ましくないこと。第二に、未婚の女性がいて、しかもマライアは婚約中という大事な時期に不謹慎なことは慎むべきであること。しかし、反対するのは二人以外になく、バートラム家の人々は実はバラバラであることがあきらかです。芝居をすることの是非に関しては、この後で演目が『恋人たちの誓い』という不道徳な作品に決まると、ファニーはエドマンドの分別に期待します。次善の場合として、演目を穏やかなものに変更させることも含めて。ファニーにとっては、エドマンドが反対していることが、自分の反対している立場の拠り所でもありました。というのも、ファニーの本心には迷いがあり、実のところ演技のような人前で派手なことをするのは生理的に受け付けないということが本音にあったと思います。トムからつよく役を引き受けることを頼まれ、ノリス夫人から嫌味を言われいたたまれなくなったところを、メアリーに助けられ、次のように迷いをひとりごちるのです。

「みんなからあんなに熱心に頼まれて懇願されていることを断るのは、ほんとうに正しいことだろうか?あの役を私が引き受けることは、この計画に必要なことであり、しかもこの計画は、私が最高にご恩返しをしなくてはならない人たちが、絶対にやると決めた計画なのだ。それを断るのは、ほんとうに正しいことだろうか?舞台に立って人前に出るのが怖いだけではないだろうか?エドマンドは、サー・トマスが絶対に反対すると確信して、この計画に反対している。でも私がエドマンドの判断に従って、ほかのことはいっさい断るのは、本当に正しいことだろうか?」(P.233)

つまり、ファニーは倫理的に正しい態度をとり続けていたわけではないのです。これは、後で唯一の反対者としてサー・トマスに評価され、小説の後半ではファニーの主人公としての存在感が増してくるのに従って、彼女が倫理的であるかのように描写されていきますが、実は、彼女自身にも迷いがあってのことであり、エドマンドが頼みだったというのが実状だったのです。しかし、エドマンドは、メアリーの魅力に抗し切れず相手役を引き受けてしまいます。サー・トマスが不愉快に思うのは明らかであるし、ずっと首尾一貫性の無さに、ファニーはメアリーの影響を感じ取ります。(上の記述は直接話法による発言ですが、下の記述は地の文で、内心の声になっています)

エドマンドが芝居に出るなんて!最初からあんなに反対していたのに!反対するのが当然だし、みんなの前であんなに反対していたのに!私は彼の意見も聞いたし、表情も見たし、どんな気持ちか全部わかっているつもりだ。こんなことがあり得るだろうか?あのエドマンドに、こんな矛盾したことができるのだろうか?彼は自分をいつわっているのではないだろうか。彼は間違ったことをしているのではないだろうか?ああ!これはすべてミス・クロフォードのせいなのだ!ファニーはエドマンドの言葉一つ一つに、ミス・クロフォードの影響をはっきりと感じ取り、ものすごく悲しかった、ついさっきまで自分を苦しめていた、自分行動に対する迷いと不安は、かれの話を聞いているあいだしばし忘れていたが、いまはもうどうでもよくなってしまった。(P.239)

ファニーはエドマンドの心変わりを許すことはできず、しかも悲しい気持ちになるという嫉妬と動揺でいっぱいになります。しかも、エドマンドが芝居に参加することになったことで孤立してしまいます。そのような立場に追い込まれたことで「サー・トマスのことを考えると、絶対に反対しなければならないことの素人芝居に、私が参加するわけには行かないのだ」(P.243)とかえって決意を固めることになりました。ファニーは参加を拒否することによって、傍観者になりました。

また、芝居のための舞台をしつらえるためにマンスフィールド・パークに手を加えるという目に見える破壊行為が行なわれることになります。しかも、サー・トマスというマンスフィールド・パークの秩序と権威を象徴する部屋を楽屋にし、渾沌と喧騒の場へと変えてしまうのです。これは、内側の崩壊を外形化して象徴的に表していると言えます。このことは、また、他方で「改造する」という主題のつながりで、あらわれてきている、これは、ラッシュワースのサザトン・コートの改造、これはファニーたちが出かけて演じた見せ場でもあります、との関連が見えてきます。

この後、二人の反対にもかかわらず素人芝居の話は進められていきます。そこで演目選びで次は、誰がどの役を演じるかという問題でもめ、ヘンリーの相手役をめぐってバートラム姉妹が争い、結局、負けたジュリアが気分を害して仲間から抜けるという事態になってしまいます。要するに、芝居をめぐって人々のエゴイズムが衝突し合うさま自体が、人間模様のドラマのような様相を呈していて、それを、ファニーがひとり観客として、傍から眺めているという状況になります。

ここで、演目である『恋人たちの誓い』について簡単に説明しておきましょう。18世紀ドイツの劇作家コツェビューの原作を、インチボルド夫人によって英語版に翻案され、1798年に出版されたものです。劇の配役は次のようになります。

ウィルデンハイム男爵:イェイツ

カッセル伯爵:ラッシュワース

アンハルト:エドマンド・バートラム

フレデリック:ヘンリー・クローフォド

執事,家主,農夫:トム・バートラム

アガサ:マライア・バートラム

アミリア:メアリ・クローフォド

農夫の妻:グラント夫人

この作品では、ある貴族の父と娘がそれぞれ、本来の相手と連れ添うことになります。ウィルデンハイム男爵は女中のアガサと関係を持ち、男子フレデリックをもうけました。しか,男爵は家の事情のゆえにアガサを捨て、貴族の娘と結婚しなければなりません。アガサは成長したフレデリックを兵隊に取られ、貧困のうちに倒れてしまいます、再会した息子に救われます。こで、アガサは息子に父親がウィルデンハイム男爵であることを告げます。男爵は息子に面会し、彼を引き取ることにします。

そして、牧師アンハルトに関わる筋書きが、ここで劇の進展に介入してきます。ウィルデンハイム男爵にはアミリアという娘がいますが、彼女は牧師アンハルトと愛し合う仲なのです。アンハルトとアミリアは男爵を説得し、アガサを妻として迎えることに同意させます。男爵は家のために娘をカッセル伯爵と結婚させようとすますが,アミリアは拒みます。彼女はアンハルトへの愛が誠であることを父に告げ、牧師との結婚を父に承諾させます。こういった内容の家庭劇です。

この芝居は、アガサと男爵の結婚、アメリアとアンハルトの結婚というハッピー・エンディングで終わりますが、不義密通という不道徳なテーマが含まれています。男爵が女中のアガサを誘惑したあげくに捨ててしまい、生まれた不義の子フレデリックが、長じて父に再会するという話や、男爵の娘アミーリアが、牧師アンハルトに愛を告白するという話など、『マンスフィールド・パーク』の物語全体と、内容のうえで微妙に呼応し合う要素を含んでいるといえます。

そのうえ、『マンスフィールド・パーク』の物語の人間関係と芝居の配役とが微妙に重なり合います。この配役が人間関係を煽るように影響を及ぼしていくことになるのです。アガサを演じるマライアはラッシュワースと婚約しているにもかかわらず、ヘンリー・クロフォードに思いを寄せており、彼の演ずるフレデリックとは母と子として親密に心を通わせる関係を演じることになります。この配役が決まったことで、サザトン・コート訪問で明らかになったヘンリー・クロフォードをめぐるバートラム姉妹の三角関係に決着がつくことになり、ジュリアの失恋が決定的になります。

ヘンリー・クロフォードは、明るい丁重な言葉づかいで言ったが、ジュリアとしては、話し方よりも内容のほうが重大な問題だった。それにジュリアは、姉のマライアへの目配せを目撃し、自分が侮辱されていることをはっきりと悟った。最初からそういう計画だったのだ。そういう策略だったのだ。彼は私などどうでもよくて、マライアのほうが好きなのだ。マライアは勝利のほほえみを必死にこらえている。マライアと彼の間ですっかり了解ずみなのだ。そう思うとジュリアは怒りがこみあげて、すぐには口もきけないほどだった。(P.206〜207)

この引用の最初の文章の前半は客観的な立場に語り手はいますが、後半以降はジュリアの目で見たところを語っています。ここにもオースティンの語りの特徴が表われています。ヘンリー・クロフォードとマライアが示し合わせて配役を決めるような関係にあったということをジュリアが悟り、敗北を思い知らされるということですが、ここで注目すべきは、三角関係の解消を敗北者であるジュリアの視線で書いていることです。この芝居の稽古を通じて、マライアとヘンリー・クロフォードの親密さが増していくことが読者にはわかりますが、そのことは小説の中で直接には書かれていないのです。それはジュリアの嫉妬と失望の光景だったり、ラッシュワースの嫉妬の愚痴、あるいはファニーの観察の中で間接的に語られるのです。

ファニーが見たところ、マライアがラッシュワース氏を避けているのは明らかであり、また、マライアとクロフォード氏が登場する第一場の稽古が必要以上に多いことも明らかだった。(P.251)

ちなみに第一場は母と息子が感動の再会をして抱き合う場面があるのだそうです。このマライアとヘンリーの配役に対して、ラッシュワースが演じるカッセル伯爵は愚鈍な男で、ラッシュワースはそれを演じることで現実の価値をますます貶めることになり、実際のところ42個の台詞に戸惑うラッシュワースは愚鈍さをさらけ出してしまうのです。それはつまり,マライアが彼を金持ちとはいえ見限るのに理由を説明するものとなってしまいます。そして、牧師アンハルトに積極的な女性のアミリアが言い寄るのは、エドマンドを口説こうとするメアリーの姿を反映しています。当初、メアリーは家督相続者である長男のトムを結婚相手として想定したものを、次男のエドマンドに鞍替えし、彼に対して牧師という職業の無価値さを説き、世俗的方向に頭を向かわせようとしたのも、自分と同じレベルまで彼の価値観を貶めようとした行動の一環といえます。つまり,エドマンドにも聖職禄が与えられることには間違いはないであろうし、いずれは愚か者のトムの跡継ぎとなってマンスフィールド・パークの家長になることも期待できるので、この次男坊でもそれほど悪い選択でもないという判断です。彼女は、この芝居の稽古を通じて本気でエドマンドを口説く姿勢を強めていくことになります。

一方、ファニーも、この芝居への参加をトムをはじめとした人々に強くせがまれることになります。彼女に求められたのは農夫の妻の役で、農夫そのものが脇役だから、その妻は端役にすぎません。しかし、そんな端役でもファニーは頑強に拒否し続けます。バートラム夫人の姪にあたりバートラム家の中でも核心の一員ではないマンスフィールド・パークの秩序の維持に本来最も遠い位置にあるファニーが、サー・トマスを思い遣り、最も強く秩序の維持にこだわるのは皮肉以外の何物でもありません。しかも、本来なら監督者の立場で芝居に反対すべきノリス夫人が唯一虐められる対象であるファニーをひどく責め、皆のために農夫の妻を演じるように迫るのです。たとえば、こんな風にです。

「あら、私は無理強いなんてしていませんよ」ノリス夫人は鋭い調子で答えた。「でも、私やいとこたちの、こんな簡単な頼みも聞けないようなら、ファニーはすごく強情で、恩知らずな子だと思いますよ。自分の生まれ育ちを考えてごらんなさい、ほんとに恩知らずですよ」(P.225)

エドマンドが守ってくれても、ノリス夫人は引き下がろうとしないので、とうとう、ファニーは涙を流しそうになってしまう。そこで、クローフォド嬢が一瞬の判断で、こんな思いがけない行動に出ることになります。

ミス・クロフォードは目を丸くしてノリス夫人を見つめ、それから、目に涙を浮かべはじめたファニーを見ると、ちょっときつい調子で、「ああ、暖炉のそばはいやだわ。私には暑すぎるわ」と言って自分の椅子を、テーブルの向こう側のファニーのそばへ移動させて、そこに腰をおろし、やさしいささやき声でファニーに言った。「気にしちゃだめよ、ミス・プライス。今日はいやな晩ね。みんな機嫌が悪くて、意地悪なことばかり言うわね。でも気にしちゃだめよ」

ミス・クロフォードは、さっきのエドマンドとのことで、自分も気落ちしていたのだが、ファニーにたいしてやさしい心づかいを示し、絶えず言葉をかけて元気づけてあげた。そして、テーブルの連中がこれ以上ファニーに声をかけないようにと、兄のヘンリーに目配せをした。(P.225)

メアリーは、エドマンドに気に入られようとしてファニーに助け船を出したのかもしれません。そうではなく,本当に純粋に衝動から弱者のファニーに対していたたまれない気持ちになって、瞬間的に彼女をノリス夫人の悪意から救い出したのかもしれません。何ともいえませんが、メアリーにはもともと善良なところがあって、その場の刹那的に限ってという条件がつくのですが、叔父の提督による悪影響やロンドン社交界の軽薄な風潮などによって、エドマンドやファニーのように倫理として内面化されなかった人であることを示していると見ることもできると思います。オースティンは、人間を一面的にではなく、こうした複雑で矛盾した人間性が同一人物の内部に共在していることを示し得た作家です。内部に矛盾を抱えたメアリーという人物が、それゆえに、アンチ・ヒロインでありながら、この小説の中でも、もっても生彩があり、魅力ある人物として描かれているのです。エドマンドがアンハルト役を引き受けたのは,その複雑なメアリーの人間性に共感を覚えたからとも考えられます。とするならば、エドマンドはクローフォド嬢の美貌や手練手管にまんまと騙されて演劇への参加を決めたとも言えるし、彼女の真の人間性を見抜いてそうしたのだとも言えます。ここで働いているのは単純な平板なラブ・ストーリーにとどまらず、人間性の複雑さは一義的に決定不可能であることを示す、見方によってはいろいろに見えてくる立体的な人間ドラマです。

ファニーの心は嫉妬と動揺でいっぱいだった。ミス・クロフォードはすっかり陽気な表情になって、マンスフィールド・パークにやってきたが、そのあまりにも陽気な表情は、ファニーには侮辱に思えたし、彼女に親しげに話しかけられても、ファニーは心穏やかに答えることはできなかった。(P.243)

しかし、複雑です。ファニーは自分への親切が、エドマンドのメアリーに対する認識をよりよくさせてしまったことに気付き、嫉妬を抑えることができず、メアリーの親切を素直に感謝できない自分に対する嫌悪も生まれます。したがって、ファニーの心が平穏であろうはずがありません。また、芝居への参加を拒んだ決意とは裏腹に、彼女は、疎外感と嫉妬心に苦しめられることになります。表面上は超然として、道徳的を優位性を維持していながら、心の奥ではそのような道徳的優位性の代償として経験する疎外感に苦しむのです。周囲の人が皆、陽気そうに忙しそうに相談したり、笑いあってしている中で、自分だけが無価値な人間として取り残され、完全な仲間外れの状態に置かれていることへの苛立ちは、また、メアリーに対してより激しい怒りとなって向けられることになります。オースティンはファニーという一見、おとなしそうな少女の内側に複雑で激しい感情が渦巻いて、彼女自身でも制御しきれないところを、それとなく描写しています。このあたりの機微も、注意していないと読み過ごしてしまうところです。しかし、だからといって、読みとばしてしまっても、この小説がつまらなくなるわけではないのです。しかし、そこに気付いてしまうと、この小説の愉しみは倍化します。そこに、オースティンのたくらみがあり、そういうことができしまう彼女の魅力に抗し難くなってしまうのです。

話に戻りましょう。ファニーは、このように孤立感を深めていきます。その結果、芝居をめぐる人々のエゴが衝突し合う人間ドラマを、ファニーがひとり観客として、傍から眺めることになるのです。観察者、そして時として不平の聞き役として、ファニーは人々のさまざまな状況に気づいてゆきます。

みんなにとってファニーはとてもおもいやりのある聞き役であり、手近にいる唯一の聞き役なので、ほとんど全員から、それぞれの不満や悩みを聞かされることになり、たとえばこんな事実を知らされた。イェーツ氏の絶叫調のセリフはひどすぎるとみんなが思っている。イェーツ氏はヘンリー・クロフォードに失望している。トムのセリフは早すぎて聞き取れない。グラント夫人はげらげら笑って芝居をぶちこわしにしてしまう。エドマンドはまだセリフをしっかり覚えていない。ラッシュワース氏を相手に芝居をするのは勘弁してもらいたい。ラッシュワース氏にはすべてのセリフのプロンプターが必要だ。などなど。(P.251)

その中で、ファニーは演技者として参加していませんが、静かに皆が台詞を覚える手伝いをしたり、リハーサルで補助役を務めたりして、プロンプターを務めたりと、裏方として芝居の練習に参加していきます。彼女は、芝居や出演者たちの全体像をつかみ、彼らを理解し、陰で支えるという精一杯の援助をしているのです。彼女の役割は、きわめて現実感があり、さらに、彼女を頼って皆がやって来ることは、彼女が、徐々に、人目につかないが、マンスフィールド・パークで不可欠な存在になってくる道程を予測させるものです。

たしかにファニーは、突然出演を頼まれたりして、非常に居心地の悪い不安な気持ちを味わったけれど、ほかにも時間と注意を取られることがあったおかげでずいぶん助かった。みんなの中に交じって、自分だけ何もすることがなくて、自分だけ何もすることがなくて、何の役にも立たないというみじめな気持ちや、ひとりぼっちの寂しい気持ちは味わわずにすんだ。自分の時間と同情がこれほど求められるとは思っていなかったし、最初の暗い予感はまったくの杞憂に終わった。ファニーは、ときにはみんなにとって非常に有用な存在だったし、たぶん、一座の誰にも負けないくらい気持ちが落ち着いていたのではないかと思う。(P.253)

ファニーは間接的に芝居の練習に参加することで孤立感を解消していきますが、その一方で観察者としての冷徹な面も表していきます。次の一節では、その一部が語られています。

─というわけで、みんなが満足して楽しんでいるどころか、全員がないものねだりをしたり、みんなの不満の原因をつくったりしていた。みんな自分のセリフが長すぎると言ったり、短すぎると言ったり不平をもらし、自分のやるべきことをやろうとしないし、自分が左右のどちら側から舞台に出るかさえ覚えていないし、苦情を訴えている本人以外は、誰も舞台上の指示に従わなかった。

ファニーは、自分もみんなと同じように無邪気にこの芝居を楽しめると思った。ヘンリー・クロフォードは演技がとてもうまいので、ファニーは舞台が作られた部屋にこっそり入って、第一幕の稽古を見るのが楽しみだった。ただし、マライアのことが心配になるような場面もあった。ただし、マライアのことが心配になるような場面もあったけれど。マライアも演技が上手だと、いや、上手すぎるとファニーは思った。最初の一、二回の稽古の後は、見ているのはファニーだけになり、ときには観客になったりして、結構ふたりの役に立った。(P.251)

ファニーは、それぞれの人物の能力や心理状態、置かれた立場や状況などを観察します。引用で、語りの焦点人物ファニーの心理や認識が辿られていて、自由間接話法の文体的特徴が表れと言えます。ここでは、ラッシュワースが、無能さゆえに、ひとり浮いた存在になっていること、マライアが婚約者を避けて、ヘンリー・クフォードと二人で第一幕の稽古ばかりを、不必要に繰り返していることなどを、ファニーは見て取っています。この第一幕とは、フレデリック役とアガサ役の二人が手を取り合う場面があるのです。それを見ているラッシワースが、次第に嫉妬心を煽られ、不快感を募らせてゆくという、危険な因子が含まれた箇所でもあります。

しかし、ファニーがそういう場面を特に好んで見ていたという事実も、ここでは漏らされています(「第一幕の稽古を見るのが楽しみだった」)。「ファニーは、自分もみんなと同じように無邪気にこの芝居を楽しめると思った。」と述べられていますが、例えば、彼女は、舞台部屋にそっと入って行って、ヘンリーの見事な演技を堪能する喜びを抑えきれない様子です。その楽しみは、「マライアのことが心配になるような場面もあったけれど」という制限つきですが、ここで曖昧に表現されているその「感情」こそ、二人の男女を過ちへと導く危険な雰囲気を指しているわけで、逆に言えば、ファニーはそれを感じてもなお、見続けていたということになります。しかも彼女は、「マライアの演技が上手すぎる」こと─つまり、二人が手を取り合うシーンが、たんなる演技を超えた真に迫ったものを含んでいたことをも、感じ取っています。つまり、悪の匂いを嗅ぎつけつつそれを見て楽しまずにはいられないファニーの心理は、悪意があるといわれても否定できない皮肉で、とても無邪気とは言えないものです。このように、ファニーはヘンリーとマライアの間に危険な関係が芽生え、育ってゆくさまを、場面や状況をとおして観察し、鋭く察知するのです。彼女は決して、それから目を離そうとせず、かといって阻止しようともせず、人間の悪徳の成り行きをひたすら見守り続けます。

ここで、ひとつ疑問が残ります。ファニーはラッシュワースの稽古の相手になったり、エドマンドとメアリーの稽古に立ち会ったりと、みんなの助けとなる行為をしていたのに、どうしてマライアとヘンリー・クロフォードの関係が進んでしまうことを観察するだけで、手をこまねいていたのでしょうか。ここには、冷徹さ以上に、ファニーという人物の悪意を感じます。結果論ですが、あとでファニーがヘンリー・クロフォードからの求婚を賢明にも拒否できた理由の一つは、ここで彼の正体を見切っていたからとも言えるわけです。現代の視点でいえば、情報を有効に活用する狡猾さとも言えるのです。穿った見方かもしれませんが、ファニーは、この素人芝居の騒動においても、演技への参加に対して拒否することで一時的に追い詰められることにはなりますが、ある意味で芝居を十分楽しんだのはファニーであり、あとになってサー・トマスが帰宅したときにファニーのみが芝居の騒ぎに参加しなかったとして評価されます。これは結果として、ひとりだけ安全地帯にいて、楽しみだけを享受したという、じつに要領の良い振る舞いだったと見ることもできます。ファニーは小説のヒロインだから、かもしれませんが、このひとは、無力さを装って、それを武器に狡猾に立ち回る賢さを備えていると言えるかもしれません。一応、このマライアとヘンリー・クロフォードの関係に対しては、サザトン・コート訪問の際に、森のベンチに座っていたファニーは、鉄柵を越えようとする二人を止めようと声をかけ、無視されたことが影響していると考えることができます。つまり、ファニーは、二人に対して何かを言っても無駄なことを前回の経験で悟っていたということです。

このようなファニーの位置は、バートラム家の人たちがサザトン・コートを訪問したときに、森のベンチに座って、通り過ぎる人々のありようを、舞台をみる観客のように眺めていたことの規模を大きくした繰り返しと言えます。ファニーは、この小説では、観察する人であるわけです。

この芝居は、通し稽古の最中に、不意にサー・トマスが帰宅したことによって、突然中止になります。この成り行きは、わざとらしいほど滑稽に演出されているような感じです。何も知らないサー・トマスに、ラッシュワース家の人々は戸惑いながらも、なんとか場を取り繕おうとぎこちない対応をします。サー・トマスは長旅の疲れと我が家に帰宅してほっとしたことなどから、様子がおかしいことに気付かず、家族と歓談を満足と安息を味わいます。その後、彼は書斎で落ち着こうとして、芝居の舞台に改造された変わり果てた姿に出会います。サー・トマスにとっては、個人的に寛げる場所であり、当主の威厳のすまう場所である堂々とした書斎は、荒れ果てたみじめな姿に変わり果てていました。そこでは何も知らないイェイツが,金切り声を上げて最後のリハーサルに臨んでいた。サー・トマスは、呆気に取られて、目の前の舞台上で叫び回るイェイツを見ます。その刹那、トムが部屋の別の端から現れ,三者が舞台上で鉢合わせになってしまうという、オースティンは見事に滑稽な舞台効果で、イェイツ氏とサー・トマスの出会いを描いています。

 第20章

サー・トマスは、即座に芝居の中止を命じ、自分の存在が忘れられていた事実を早く忘れるために、マンスフィールド・パークを元の正常な状態に戻すことに専念します。彼は芝居に関係するすべてのものを屋敷から一掃して、目に見えるものを追い払って満足し、あえて子供たちの内面にまで立ち入ろうとしません。

サー・トマスは、自分の不在中にこのようなメンバーで素人芝居をするなどというのは言語道断だと考えていた。あまりにも不愉快で、何も言う気になれないほどだった。(中略)この不愉快な気持ちを早く追い払い、自分の存在が忘れられていた事実を早く忘れることにした。そのためにはまず、そのいやなことを思い出させるものを屋敷から一掃し、屋敷を元の正常な状態に戻さなくてはならない。サー・トマスは、ほかの子供たちにお説教するようなことはしなかった。いろいろ問いただして、さらに不愉快な思いをする危険を冒すよりも、子どもたちが自分で自分の過ちに気付いてくれることを願った。(P.281)

この「いろいろ問いただして、さらに不愉快な思いをする危険を冒すよりも、子供たちが自分で自分の過ちに気付いてくれることを願った」というのは、彼が子供たちの良識を信頼しているわけではないでしょう。彼は「さらに不愉快な思い」をしたくなかった。その「不愉快な思い」とは、彼らを追求することによって、自分の威厳が損なわれることではなかったのか。彼は、たしかに当主としてマンスフィールド・パークを守るのを義務だと心得、公正で、善意に溢れ、責任感が強く、何よりも威厳を大事にしています。しかし、彼は愛情を表に出す人ではないし、控えめな態度であることから、子供たちにとって、父親として余りにも遠い存在で威圧的でした。そのため、エドマンド以外は自由を求め、早く窮屈な家を出たがっていて、マンスフィールドに家庭としての安らぎと安心を感じていません。だからこそ、彼らは、父親の不在を喜び、留守中に大いに羽を伸ばして、解放感を味わったのです。サー・トマスは、その真相があきらかになることを「不愉快な思い」として避けたのです。

そして、イェイツとヘンリー・クロフォードは、この地を去ることになります。とくに、ヘンリー・クロフォードが去ることによって、マライアの危機は回避されました。ヘンリー・クロフォードは、自分の身の危険を冒してまで、マライアの恋心に報いるつもりはない冷徹な利己主義者であると言えます。一方、マライアも利己主義である点では同じですが、もっとナイーヴであり、彼のように世間慣れしていません。マライアは、彼が求婚してくれることを期待していたのですが、彼女の願望は幻であり、かなえられないことが明らかになりました。実は、ヘンリー・クロフォードをめぐるバートラム姉妹の三角関係で、メアリーとヘンリーの仲に気づいていたのは、当事者の3人以外には、メアリーとファニーだけでした。メアリーはヘンリーと兄妹で似たものであるので、ヘンリーの不道徳さを知っていたわけですが、ファニーはサザトン・コートや芝居の件を通じて冷徹な観察をしていたしるしと言えます。それゆえに、ファニーは失恋したジュリアに同情することができました。作者であるオースティンは、ジュリアという人物の描写は、それほど重点を置いてはいないのですが、彼女の失恋した心情に対してはバランスを欠くほど丁寧に書いています。このようなところに、オースティンという作家の意地の悪い皮肉な性格が表われていると思います。

例えば、芝居の配役をめぐって姉に敗れ、失恋を悟った時に

ヘンリー・クロフォードは、たしかにジュリアの気持ちをもてあそんだ。でもジュリアのほうも、長いあいだ彼の恋のたわむれを許し、それを求めさえした。そしてそこには、婚約中のマライアに対する嫉妬と心配の気持ちも大きく関係していた。そしていま、ヘンリー・クロフォードはマライアのほうが好きだとはっきりしたので、ジュリアは仕方なくその事実を受け入れたが、婚約中という姉の立場を心配することもなかったし、自分のために冷静に落ち着きを保とうという努力もしなかった。(P.244)

数日後に芝居の準備が進んだときには、

だが、じつはジュリアは苦しんでいた。でもジュリアの家族の誰も気がつかなかった。ジュリアはヘンリー・クロフォードはーに恋をし、いまでも愛していた。元気に満ちあふれた、熱烈な性格の若い女性が、愚かな夢だが大切な夢をこわされて、ひどい苦しみを味わい、不当な仕打ちを受けたという強烈な被害者意識に苦しめられていた。ジュリアの心は痛みと怒りに震え、さらに怒りをかきたてて自分を慰めるしかなかった。あんなに仲の良かった姉マライアは、いまやジュリアの最大の敵だった。姉妹の心はすっかり離れ、ジュリアは、マライアとヘンリー・クロフォードの恋のたわむれが悲惨な結末を迎えることを願わずにはいられなかった。そして、自分に対しても、ラッシュワース氏にたいしても、このような恥ずべき振る舞いをしたマライアに、天罰が下ることを願わずにはいられなかった。(P.248)

そして、ここに至って、ヘンリー・クロフォードが立ち去ったことを知った時に

ジュリアは、ヘンリー・クロフォードがいなくなってほっとした。彼女には、彼が忌まわしい存在になりはじめていたからだ。それに、もしマライアが彼を手に入れることができなかったのなら、それで十分だった。マライアにたいしてそれ以上の復讐をする気など起きないほど、ジュリアの心は冷めていた。結局マライアは彼に捨てられたのだから、いままでのことを暴露して恥をかかせるようなことをしようとは思わなかった。ヘンリー・クロフォードがいなくなると、ジュリアはマライアが気の毒にさえ思えてきたのだった。(P.291)

このような引用の部分だけをみれば、この後の時代の恋愛小説の主人公のような因襲の束縛から恋愛によって自我に目覚めていくヒロインのような書き方です。オースティンは、もっと前のサザトン・コート訪問から帰った後の時点でこんなジュリアへの思い入れを語っています。

とくにジュリアは、マライアにたいする嫉妬心を認めて─つまり、クロフォード氏は自分よりマライアのほうが好きらしいという事実を認めて─彼の求愛など信用せず、彼が二度と戻らないように願うことが必要だと気がつくべきだった。(P.176)

 第21章

サー・トマスの帰還でマンスフィールド・パークは落ち着きを取り戻しましたが、それを好意的に受け容れるのはファニーだけのようで、サー・トマスとファニーの距離が近づき始めます。物語の後半では、ファニーがヒロインとして観察者から物語の中心となって動き始めますが、ここではその兆候として、サー・トマスのファニーに対する態度の変化が表われ始めます。それに気付いたのはエドマンドで、その理由はファニーがきれいになったからと説明します。他のバートラム家の人々は常にファニーを見ていたため、却って分からなかったことが、数年ぶりに再開したサー・トマスは、ファニーが以前の弱々しい、どちらかと言えば貧弱な少女だったのが、一人前の若く美しい女性に成長したことに気付いたというわけです。このことは、ファニーが物語のヒロインとしての資格を得たということを、作者オースティンが示して、それから後半に移ろうとしているように見えます。言ってみれば、ファニーの物語は、ここからが本番と言えます。

そして、この章における大きな出来事はマライアとラッシュワースの結婚です。この二人は、サー・トマスの不在中に、ノリス夫人がつよく推し進めて婚約となっていたものです。サー・トマスも、この婚約に対して、手紙で同意を与えていました。相手のラッシュワースは、これまでに何度も登場し、皮肉られていますが、エドマンドが「この男は、年収1万2千ポンドの金持ちでなければ、ただの馬鹿だ」というような愚鈍な男です。会話において、話題も乏しく、猟の収穫や猟犬の自慢話、密猟を厳しく取り締まるべきだという話ばかり聞かされたマライアはうんざりし、軽蔑さえするに至ります。彼はマライアに対しても外見しか見ていない、その向こうに存在するかもしれないものがあるということが、そもそも理解できない人です。しかし、このようなラッシュワースの本質的な性格や姿勢は、マライアが密かに心を寄せるヘンリー・クロフォードも同じであるように見えます。二人の違いは、ラッシュワースには、ヘンリー・クロフォードのようなその場を一瞬で取り繕う機転と自身を見映えよくさせる演技力が欠けているという点です。オースティンは、似たような人物を他の作品にも登場させていて、キャラクター・ピースとして使い勝手がよかったのかもしれません。例えば、『高慢と偏見』のビングリーやコリンズ、『説得』のチャールズ・マスグローヴといった人々がすぐに思い浮かびます。

サー・トマスは、ラッシュワースが「非常に能力の劣った青年であり、仕事に関しても教養に関してもまったく無知であり、何事においてもしっかりとした意見というものを持っておらず、しかも、自分でそのことにまったく気づいていない」愚鈍であり、マライアが彼に投げやりで冷たい態度であることを知ります。そこで、彼女の本心を確認します。しかし、ヘンリー・クロフォードとの戯れの恋の成就を願っていたマライアは、彼に捨てられ、プライドを傷つけられ、ラッシュワースとの結婚によって自分で自分に復讐しようと決意していたのでした。彼女は、次のように結婚の意志をきっぱりと説明します。

「お父さまの深いお心づかい、父親としてのやさしいお心づかいには、ほんとうに感謝いたします。でも、お父さまは勘違いをなさっています。私は婚約を解消したいなどとは思っていませんし、婚約をしてから、考えや気持ちが変わったこともありません。私は、ラッシュワースさんの人柄や考え方を高く評価していますし、彼と結婚して、必ず幸せになれると思っています」(P.301)

そのマライアの説明に対するサー・トマスの納得の仕方は、奇妙な逆説に満ちたものです。

彼は自分にこう言い聞かせた。ラッシュワース氏はまだ若いのだから、もっと立派な人間になる可能性がある。立派な人たちとたくさん交われば、どんどん良くなるに違いないし、実際に良くなるだろう。そしてマライア本人が、恋に目が眩んでいるわけでもなく、何の先入観もなくあんなにはっきりと、彼と結婚して幸せになれると断言しているのだから、本人の言葉を信じてやるべきだ。たぶんマライアは、それほど感受性の鋭い子ではないのだろう。そういえば、私はいままでも、あの子が感受性の鋭い子だと思ったことはない。しかし、感受性が多少鈍いからといって、それだけ幸せの度合いが低くなるわけではない。それに自分の夫がそんなにすばらしい人物でなくても構わないというのなら、その他の点では、ラッシュワース氏は社会的地位といい、財産といい、マライアにとっては、まったく申し分のない結婚相手なのだ。(P.302)

このようにサー・トマスは、一家にとって大変有利な結婚を彼なりに納得し、破談にならずにすんだことを内心喜んだりするのです。厄介なことにならずに済んだと。これはサー・トマスの自己欺瞞であり、もう一歩マライアの心の中に踏み込んで、彼女の気持ちを問いただすべきであったかもしれません。この愛の無い結婚をくいとめられなかったのは、威厳と体面ばかりを重んじる父親の責任であるといっても、過言ではありません。そして、サー・トマスは、この同じ過ちをファニーに対してもおかすことになります。

ここで、少し脱線しますが、以前に指摘だけしたマンスフィールド・パークが、ある種の欺瞞の上に成立しているということを考えてみたいと思います。前のところで、バートラム家は荘園領主の脈々として威厳を保ち続けてきているはずで、当主サー・トマス・バートラムは準男爵です。しかし,オースティンはバートラム家の家系については全く触れていません。バートラム家の家系が醸し出す威厳の描写も,意図的に忌避されています。また、マンスフィールド・パークの庭園を含む大邸宅の様子は、ほとんど描写されていません。それは、バートラム家は外見的な威厳はかろうじて維持していますが、実は内情は別であるとかんがえられるからです。そのようなバートラム家の矛盾をサー・トマスか体現していて、この場合の体面を取り繕うような欺瞞的な行動をしていることは、マンスフィールド・パークの欺瞞の表れとみることができるのではないか。それゆえに、オースティンはバートラム家の威厳を表わす描写を避けたといえるのではないかと考えられるところがあります。

そこで考えられる状態として、バートラム家の財政は危機的であると考えられます。その理由として、マンスフィールド・パークの牧師任命権は,グラント博士夫妻というバートラム家とは縁もゆかりもない一家に譲られてしまったことが指摘できます。本来なら、サー・トマスは牧師任命権を牧師志望の次男エドマンドのために保持しておくつもりでした。以前は、信用のおける管理人として友人でもあったノリス氏に委ねられていました。ところが、長男のトーマスが多額の借金を抱えたこともあり、領地の管理維持が経済的に苦しいものだから、マンスフィールド・パークの牧師館はグラント博士夫妻に譲られることになってしまいました。一族の人間が保持すべき資産が他人の管理に移らざるを得なかったわけで、バートラム家の経済的内実を暴露する事実であると言えます。

次に指摘できるのは、バートラム家が地代を主たる収入源とする18世紀的な地主層から,実態としては貿易つまり商売による収益に依存した企業家層に変貌しているということです。バートラム家の経済的基盤が奴隷制度に依存しているプランテイション経営にあるということは、物語の中でははっきりと描かれていません。ファニーが伯父に奴隷制度について質問をしたとエドマンドに話している場面に示唆されているだけです。しかし、当主であるサー・トマスが自ら2年間費やして財政の建て直しのために現地に赴くということが、依存していることを示しています。ナポレオン戦争中でもあり、サー・トマスが経済的にも個人的にも危機的な状況にあることは、「父上は今外国にいて、絶えず身の危険にさらされているのだから」というエドマンドが素人芝居に反対したときの根拠となった言葉にも表われています。つまり,イングランドにとって不名誉となりうる奴隷貿易を含む、いわゆる三角貿易にバートラム家の領土管理は依存しているのです。このことは、サー・トマスの誠実な行為が危険な分裂を起こしていることを示唆しています。すなわち、彼はイングランドにおける地所の価値を信じていながら、しかし、また奴隷制度を巻き込んだ貿易から得られる金融上の収益に頼らざるを得ないのです。サー・トマスは、真のイングランドの地主階級の価値観を表面的には強固に支持しているのです。それが、マンスフィールド・パークの表面的に取り繕っている平穏であり威厳なのです。こう考えると,オースティンがマンスフィールド・パーク自体の描写にはほとんど手をつけていないことは,実は周到に考え出された結果と考えてもいいかもしれません。バートラム家の荘園は立派なものではないかもしれず、また仮に立派な荘園ではあっても,この一家がそういうものを継承するに値する一家ではないことをオースティンは暗示しているのかもしれません。

こう考えると、サー・トマスがマライアの結婚に関して、ラッシュワースという人物がどうであれ、1万2千ポンドの年収とサザトン・コートという立派な屋敷を有して、生活が保障され、社会的な威厳を保つことができることは何よりも重大なこととして尊重せざるを得なかったというわけです。

物語は、マライアが結婚によりマンスフィールド・パークを離れ、ジュリアが当時の慣習によりマライアの新婚旅行に付き添います。トムは放蕩癖が直らず、ロンドンに出る。そして、エドマンドは牧師となるために。このようにバートラム家の子供たちは一度にマンスフィールド・パークを離れてしまいます。残されたバートラム家では、それまで日陰者であったファニーの存在感が高まってくることになます。そこから物語は後半に入ってゆきます。

 第22章

マライアとジュリアが出発したあと、ファニーの存在が重要性を増してきます。バートラム家の客間では唯一人の若い女性となり、みんなの視線と、思考と、配慮の対象となったのです。彼女はマンスフィールド・パークだけでなく、牧師館においてもメアリー・クロフォードの話相手(メアリーはファニーを友人と思った)としてたびたび招待を受けるようになります。作者オースティンもファニーを、物語のヒロインとして、もっとスポットライトを当てようと考え始めたのでしょう。ファニーは牧師館の庭をメアリーと散歩しながら、初めて自発的に自らの考えを語ります。

「この散歩道に来るたびに、木々の成長と美しさに感激するわ。ここは三年前は、牧草地の端に沿って粗末な生垣があるだけで、誰も目を留めなかったし、こんな立派なものになるなんて思ってもいなかったわ。(中略)たぶん三年後には、ここが昔はどんなだったか忘れてしまうでしょうね。時の働きや、人間の心の変化って不思議ね、ほんとうにものすごく不思議ね!」

「人間が生まれつき持っている能力のなかでいちばん不思議な能力は、記憶力だと思うわ。記憶力の強さと、弱さと、ララの多さには、人間の他の知的能力よりも何倍も不可解なものがあるわ。人間の記憶力は、ときにはすごく長持ちして、すごく役に立って、すごく従順だけど、ときにはすごく混乱して、すごく弱々しいときもあるし、ときにはすごく横暴で、制御不可能になるときもあるわ。人間はあらゆる点で不思議な生きものだけど、いろいろなことを思い出したり忘れたりする能力は、とくに不思議な能力だと思うわ」(P.313〜314)

それまでは、エドマンドの問いに答えて、考えていることの一部を相手の反応をみながら語っていたのですが、ここでは、問われることへの答えではなく、自然に語り始めます。ここに、ファニーという人物の隠されてきた教養と精神的な傾向が表われて来ます。おそらく、オースティンの小説の主人公で、このような教養と考え深さを持っていたのは、他には『説得』のアン・エリオットくらいではないでしょうか。むしろ、オースティンは、『高慢と偏見』では、主人公エリザベスのすぐ下の妹メアリー・ベネットのような劣った容貌を教養でカバーしようと必死になっているという皮肉に揶揄しています。しかも、このファニーの言葉は話し相手のメアリーには全く通じません。そこに二人の人物の本質的な違いを、オースティンは際立たせています。このメアリー・クロフォードという人物は、『高慢と偏見』の主人公であるエリザベスと似ているところが多い人物です。明るく、溌剌としていて、才気煥発で、自分の考えをはっきりと持っていて、上昇志向つまり打算的なところがある。しかし、メアリーとエリザベスの違いは、このファニーとの会話を続けられるかどうか、つまり、現実の向こうにあるもの、精神とか超越的なものを認められるかどうかということではないかと思います。メアリーは徹頭徹尾即物的で、目の前にある手で触れることのできる物から離れることがありません。それが。現実の打算に捉われることであったり、人はどう生きるべきかということよりも、どのようにうまくやっていくかを考える方向に導かれる。(例えば、この後に、エドマンドが加わっての会話で、メアリーは、収入が多いことが幸せになるための一番いい方法だと思う(P.321)と明言しています。)その分岐点が、ここでの会話に表われていると思います。したがって、この小説は、実は観念的なことを取り扱っている思想小説の面もあるのです。もともと、オースティンの小説は『高慢と偏見』ではプライドとは何か、『分別と多感』では分別と感情に流されるというように物語のなかで、ある概念がテーマのように取り扱われて、そのあり方や人々の間での受けられ方が物語の展開に重なって、物語を追いかけているうちに自然と考えてしまうような構造になっていました。そして、この『マンスフィールド・パーク』という作品では、以前の特定の概念よりも枠を広げて、人が生きること、正しく生きることというようなことを、明確にではありませんが、通奏低音のようにして、物語の底に流れています。それが、ここで、図らずもファニーの発言を通して、少しだけ姿を見せたと読むことができます。なお、ファニーのこのような点に全く気がついていないのが、ヘンリー・クロフォードとノリス夫人です。

メアリーとファニーの違いは、エドマンドの呼び方の好みの違いにもはっきりと表われます。メアリーはバートラム氏というバートラム家の当主であることを示す呼び方を好むのに対して、ファニーはエドマンドという彼個人を指す方を好みます。メアリーはエドマンドという個人名だけではもの足りなくてサーのような称号をつけたいと言います。要するに、ファニーはエドマンドという人物を好んでいるのに対して、メアリーは地位や肩書きを志向していることが、名前の好みの違いに象徴的に表われているというわけです。このようなところで、ふたりの違いをさりげなく表現してしまうオースティンの手腕は、ほんとうにすごいと思います。

その後、ファニーは牧師館のディナーの正式な招待を受けます。このことは、ファニーが淑女としてマンスフィールド・パークの外の世界からも認められたということです。この初めての正式な招待を受けたことを契機に、マライアやジュリアと比べるとささやかではありますが、ファニーが社交界にデビューし、結婚を真剣に考えていくことが始まります。それが後半の物語の展開と大きく関係してくるのです。

 第23章

ファニーが牧師館のディナーに招待されたことについてのひと悶着があります。毎度のことになりますが、ファニーに手を差し延べようとする動きがあると、バートラム夫人やノリス夫人の反対が入り、エドマンドとの間にバトルが起こるのですが、今回はサー・トマスがファニーを援ける側に立ちました。アンティグアからの帰還以来、サー・トマスがファニーを評価し、好感を強くしてきていることが、実際に行動に表われています。このディナーへの招待は、他人から見ればささやかなことかもしれませんが、ファニーにとっては大きな喜びとなりました。

しかし、いざ牧師館についてみると、ヘンリー・クロフォードが戻っていました。ディナー自体は楽しいものでありました。ファニーはマライアとのことを知っていたので、彼が戻ってきたことを必ずしも歓迎できません。一方、彼は何事もなかったように、メアリーとの会話でバートラム姉妹を話題にします。しかも、意味ありげな笑いをうかべて。それを脇で見ていたファニーは、彼に対する嫌悪感を強くします。彼はファニーに対しては、彼女が反対していた素人芝居を懐かしむような発言をします。これに対するファニーの反応は、珍しく感情的です。

「まるで夢のようだ!楽しい夢を見ていたようだ!(中略)ぼくはあの素人芝居のことを思い出すたびに、楽しい気分になるだろうな。とにかく面白かったし、活気があったし、みんな元気いっぱいだった!全員がそう感じていた。みんな生き生きしていた。一日じゅう仕事と希望と、心配と活気にあふれていた。つねに、克服すべき小さな反対と疑問と不安があった。とにかくぼくは、あんなに幸せな思いをしたのは生まれて初めてだ」

ファニーは無言の怒りを感じながら、心の中でつぶやいた。「あんなに幸せな思いをしたのは初めて?絶対に許されないあんなにひどいことをしたのに、あんなに幸せな思いをしたのは生まれて初めて?あんな卑劣な残酷なことをしたのに、あんなに幸せな思いをしたのは初めて?ああ!この人は心の底まで腐った人だ!」

「ミス・プライス、ぼくたちは運が悪かったんです」クロフォード氏は、ファニーの気持ちにはまったく気づかずに、エドマンドに聞こえないように声を低めてつづけた。「ぼくたちは、ほんとに運が悪かったんだ。もう一週間、ほんのもう一週間あれば、芝居はちゃんとできたんだ。(中略)」

クロフォード氏はファニーの返事を待っているようだった。ファニーは顔をそむけて、いつもよりしっかりした声で言った。

「いいえ、私は伯父さまの帰国を、たとえ一日でも遅らせたいとは思いませんでした。伯父さまは帰国なさって、すぐにあの素人芝居を中止にさせたんですから、あれはすべてやり過ぎだったと思います」

ファニーはクロフォード氏にむかって、一度にこんなにたくさんのことを言ったのは初めてだし、誰に対しても、こんなに怒りをあらわにして口をきいたのは初めてだった。(P.339〜340)

この後、唐突にメアリー・クロフォードが本気でエドマンドを愛し、彼との結婚を考えていることが説明されます。エドマンドが牧師になることについて、ヘンリー・クロフォードが影で「二十四、五歳で何もせずに年収七百ポンドが手に入る」(P.342)というのに対して、メアリーは内心で、「年収七百ポンドの聖職禄を手に入れるには、やはり何かしなくてはならないし、それなりの苦労があるし、それを軽く考えるわけにはいかない」(P.342)で思います。これは、エドマンドに対して、牧師という職業を否定してみせたメアリーにしては、意外なことではないでしょうか。メアリーは、エドマンドが牧師になる事に決まったことについてショックを受けますが、それは、自分が彼のことを真剣に思っているのに、彼は自分のことを真剣に考えてくれない。彼は自分が牧師の妻になる気はないということを知っているのにもかかわらず、牧師になる、ということです。

じつはミス・クロフォードは、エドマンドにたいしてはっきりと好意を持ちはじめ、本気で結婚のことを考えはじめていたのだ。でもこれからは彼に会っても、彼と同じ冷たい気持ち接しなくてはならない。彼は私のことを真剣に考えていないし、私を本気で愛してなどいないのだ。私が牧師の妻になる気はないということを彼は知っているのに、牧師になるというのだから、私を本気で愛していないのは明らかだ、これからは、彼の無関心さに負けないくらいに、私も彼に対して無関心にならなくてはならない。これからは、彼からどんなに好意を示されても、その場の楽しみ以上のことを考えてはいけない。もし、彼が、自分の愛情をそんなふうに抑えることができるのなら、私も、自分の愛情を自分で傷つけるようなことがあってはならないのだ。(P.344)

ここだけを読むと、結婚は打算的な契約であると公言する計算高いメアリーという人物像とは正反対の愛を一途に求め、しかも傷つきやすい心をもった女性というファニーに近い人物像に見えてきます。このことを念頭におきながら、この後のメアリーの行動は、ファニーには嫌悪されますが、隠された意味合いが見えてくると考えられます。つまり、メアリーには二つの面があって、彼女自身もその分裂を統合することが出来ずに、他人からは気紛れとか、その場しのぎにみえる行動も、実は分裂したどちらかの面が表面に出たゆえと、その時の隠れた別の面にも彼女の本心はあると考えることはできないでしょうか。最後近くで、エドマンドがメアリーと訣別する際に、彼女の笑顔を恐ろしいと形容しますが、そう考えると、その時の彼女の笑顔は別の意味があったということも考えられることになります。もしかしたら、オースティンが小説のなかで造形した人物のなかで、もっとも複雑な人物かもしれないとおもいます。これは、ひとつの仮説です。オースティンも、どこまで意識してメアリーという人物を造形しているかは疑問です。それは、この引用した文章の一節が物語のなかでも唐突に挿入される印象を受けるからです。

この間、ファニーは、エドマンドがメアリーへの恋心を募らせ、求婚の意思を固めてゆくさまを、重く沈んだ心で、傍から、あるいは間近で観察し続ける。その一方で、彼女はメアリーの欠点を細かく観察し、その本性を見極めようとしています。メアリーのほうは、概して、ファニーに表裏のない好意を示しているのに対して、ファニーのほうは、表面の態度と心の中は正反対なのです。このように見ると、ファニーとメアリーを並べて、正邪という倫理的な視点で対照的にみることはできないことがわかります。時には、ファニーの態度は陰険で執念深い点は否定できません。

 第24章

後半の物語が、いよいよ本格的に動き出します。ヘンリー・クロフォードが牧師館での滞在を延長することを告げます。それは、滞在する楽しみを見つけたからで、それはファニー・プライスを誘惑することです。

「いまのファニー・プライスは、秋に見たときのファニー・プライスとはまったくの別人だ。秋に見たときは、彼女はおとなしく控えめで、それほど不器量ではない女の子という感じだったけど、いまは完全に美人と言ってもいい。以前はぼくも、彼女は表情もぱっとしないと思っていた。でもきのう見たときは、柔肌の頬がたびたびぽっと赤く染まってほんとうに美しかった。それに目も口も、何か表現したいときには、それを十分表現できる能力を持っている。姿も、態度も、全体的な印象も、ほんとうに見違えるほど美しくなった。身長も、十月以来二インチ伸びたんじゃないかな」(P.345〜346)

ここで、ヘンリーが言っているのは、ファニーの外見や容貌に関することだけです。これは、暇つぶしにあの小娘にちょっかいを出してみようかという発言以上のものではないでしょう。昨日のディナーの席で、ファニーが怒りに駆られたことについても、原因をつくった当のヘンリー自身が何も気付いていないのです。ファニーの気持ちを思い遣るという姿勢は微塵もありません。

「ぼくは、ファニーのことをどう考えていいかわからない。彼女はどういう女性なのかさっぱりわからない。きのうも、彼女の狙いは何なのかさっぱりわからなかった。どういう性格なのか?生真面目なのかな?変わり者なのかな?上品ぶっているのかな?なぜあんなに尻込みして、なぜあんなにこわい顔をしたのかな?ぼくがいくら話しかけても、ほとんど口もきかなかった。若い女性があんなに長い時間一緒にいて、いろいろ努力したのにうまくいかなかったのは、生まれて初めてだ。あんなこわい顔をしてぼくを見る女性に会ったのは初めてだ。これはなんとかしなくちゃ。彼女の顔はこう言っているみたいだった。「私はあなたを好きになれません。絶対に好きになれません」って。だからぼくはこう言うんだ。「よし、それなら絶対に好きにさせてみせる」って」(P.347)

 まるで難攻不落の砦を攻略するゲームのようです。それから、彼は手練手管を駆使して巧みに言い寄ります。ファニーは、彼を嫌っているとはいえ、やさしい性格と趣味のよさから、彼の求愛を完全にはねつけるのは難しかったのかもしれません。しかし、彼女にはエドマンドという密かに思いを寄せる男性がいました。そんな折に、ファニーの実兄であるウィリアムが海軍の軍艦に乗り込んでの海外勤務から帰国し、マンスフィールド・パークで再会します。彼女にとっては最愛の兄で、再会のときは常にない興奮状態となります。ヘンリー・クロフォードは、ファニーにいくら言い寄っても埒が明かないなかで、狙い目を見出しました。

 第25章

ヘンリー・クロフォードがファニーに特別な関心を寄せていることは、周囲に気付かれはじめ、サー・トマスも気付くこととなります。それは、バートラム家の人々がグラント博士から招待を受けて、牧師館でのディナーのあと、カード遊びをする場面で、決定的となります。サー・トマスは、この事実とファニーが物欲しげな態度をとっていないことを見て、彼女に対する評価と好感をいっそう高めることとなります。(このことは、この後さらにサー・トマスはファニーに対して親切になって舞踏会を開いたりする一方で、彼女がヘンリーの求婚を断ったときの失望をより大きいものにすることになります)このカード遊びの場面は、サザトン・コート訪問におけるベンチの場面やマンスフィールド・パークでのサー・トマス不在時の素人芝居騒動といった演劇の舞台のような、ひとところで人間模様や人々の思惑の交錯が演じられるかのように焙りだされる場面の一つです。こういう場面が巧妙につくられているのが、この小説の大きな特徴です。この場面では、前の二つの場面では観客のような傍観者の位置づけだったファニーが、舞台の中心で舞台上で演ずる人物の一人になっています。そこに大きな変化があります。この時点で、ファニーが傍観者から物語を牽引する立場に変化したことを示していると言えます。 

ここでは、ファニーが傍観者から物語を牽引する立場に徐々に変化ししてきていることを示していると言えます。とはいえ、この時点では最愛の兄であるウィリアムと久方ぶりの再会を果たした幸福感にあり、事件も起こっていません。この場面で、のっぴきならない状態になっていこうとしているのは、エドマンドとメアリーであり、虎視眈々と蠢いているのがヘンリー・クロフォードです。そこで、楽しげなカード遊びの水面下でひそかな動きが進行している。そういう読み方をすると、緊迫感のある場面として、カード・ゲームの虚々実々の駆け引きが、物語の現実のエドマンドとメアリーにヘンリーとファニーがからんでの駆け引きが重ね合わせて見えてくる仕掛けになっています。これは、素人芝居のエピソードで演劇の配役の動きに物語の現実の人々の人間模様が重なり合っていた手法に通じるものです。

例えば、ヘンリー・クローフォードがファニーに対して好意をいだいているのではないかと推測しているサー・トマス、ソーントン・レイシーの改良計画に意欲を示すヘンリー、エドマンドがソーントン・トレイシーに移り住むとあまり会えなくなるのではないかと恐れるファニー、牧師の務めをきわめて真面目に受けとめているサー・トマスやエドマンドに不満をいだくメアリといった具合に、人々の様々な思惑が複雑に絡み合っています。しかし、これらの思惑は結局のところ実現することがなく、期待や予想とは異なる帰結を迎えることになる。それが『マンスフィールド・パーク』の物語なのです。この場面でプレイされるカード・ゲームはホイストとスペキュレイションで、中でもスペキュレイションは思惑買いを意味する言葉です。象徴的です。しかも、企て、思惑が実現しないというパターンは、地所の改良(サザトン・コート訪問)、素人芝居、そしてトランプ・ゲームと形をかえて繰り返されるのです。

 第26章

ファニーの兄であるウィリアムは、サー・トマスの好意をかち取ることに成功します。ウィリアムはやがて休暇明けには連隊に戻らねばならない身の上であり、ファニーの踊っている姿を見たいという願いを洩らします。これをきいたサー・トマスは、ウィリアムの願いに応えて、ファニーの気持ちを和らげようとする優しさもあって、重苦しい雰囲気を一掃しようと、クリスマス前の異例な時期に舞踏会を催すことを決心します。ファニーは小さいころは兄とダンスをして遊ぶような子どもであったことから、ダンス自体は好きで、マンスフィールド・パークで舞踏会を主催し、そこに参加するということは、ホステス役ということになります。内気なファニーには気が重いことです。しかも、彼女には衣装や装飾品の持ち合わせがなく、相談する相手もいません。彼女は、メアリーに相談します。そこで、ヘンリーが一計を案じたのがネックレスにまつわる件です。ファニーは、装飾品を所持しておらず、胸を飾るネックレスのかわりに兄から贈られた十字架を胸につけようとしますが、それを吊す鎖がありません。ヘンリーは、そのことに気付いていました。彼は、自分から渡したらファニーは受け取らないだろうから、メアリーを通じて彼女にプレゼントしてやろうと考えたのです。メアリーが手持ちのネックレスの一つを彼女に贈るという形にするのですが、このネックレスはかつて彼がメアリーへプレゼントしたものだったのです。メアリーはこのネックレスはかつての兄からのプレゼントだったことをファニーに告げます。ファニーはすぐにそれを返そうとしますが、いったんもらったものを返すのも失礼に当たります。その後。偶然にエドマンドが金の鎖をファニーにプレゼントしてくれて、それが例の十字架に通すにはぴったりだった。エドマンドは、ファニーから事情を聞くと、メアリーの好意を無にするのは失礼だからと、ネックレスをつけることをすすめます。そのときにエドマンドは「ぼくにとって、この世で一番大切なふたりだからね」(P.398)といって、ファニーにもメアリーを尊重することで、二人が尊敬し合うことを求めます。この言葉を聞いたファニーは心乱れます。

私は彼にとって、いちばん大切なふたりのうちのひとりなのだ。この言葉を心の支えにしなければならない。でも彼には、大切な人がもうひとりいるのだ!いちばん大切な人がいるのだ!エドマンドがファニーの前で、こんなにはっきりとそのことを口にしたのは、これが初めてだった。ファニーはずいぶん前からそのことに気づいてはいたけれど、こうして目の前ではっきりと言われると、短剣で胸を突き刺されたような激痛を感じた。なぜならその言葉は、エドマンドの確信と将来の計画をはっきりと語っているからだ。もうすべて、はっきりと決まっているのだ。つまり、エドマンドは、ミス・クロフォードと結婚するつもりなのだ。ずいぶん前から予想したことではあるけれど、それはやはり、ファニーの心を突き刺すような言葉だった。「私は彼にとって、いちばん大切なふたりのひとりなのだ」とファニー、何度も何度も自分に言い聞かせなくてはならなかった。そうしないと、その言葉が与える感動を感じることができないからだ。ああ!ミス・クロフォードが彼にふさわしい女性だと思えたらどんなにいいだろう!もしそう思えたら、事情はぜんぜん違ってくるし、こんな耐えがたい気持ちにならずにすむだろう!でも彼は、ミス・クロフォードを誤解しているのだ。ミス・クロフォードが持っていない長所をさかんに誉めあげるし、彼女の欠点は昔のままなのに、いまのエドマンドには、彼女の欠点がまったく見えなくなってしまったのだ。(P.398)

このように、自分が彼の最愛の二人のうちのひとりなのだという思いを反芻しながら、ファニーはそれにしがみつこうとします。しかし、あともうひとりがメアリーだという事実が、彼女には耐えがたく感じられ、彼女の心を刺し貫き激しい痛みをもたらします。ファニーは、メアリーがエドマンドの結婚相手として相応しくないと断定し、彼が騙され彼女を買いかぶっているのだと考えるのです。引用した文章には、何度も同じ言葉を反復し、感嘆符や繰り返し表れるなど、ここでは自由間接話法の特徴が見られ、ファニーがいかに苛立ち興奮しているかが伝わってくるようになっています。その奥には、恋敵に対する嫌悪感が潜んでいることが想像できるのです。

つまり、ネックレスは、ファニーにとって、そういうメアリーから贈られたものでもあるのです。エドマンドに身につけるように進言されたファニーの気持ちは、複雑だったはずです。しかも、背後ではヘンリー・クロフォードの下心も見え透いているのです。そこで、幸いなことにウィリアムから贈られた十字架とメアリーのネックレスはサイズが合わず、繋ぐことができないことが分かりました。ファニーは大義名分ができたことで、エドマンドの鎖を十字架につなげます。それで気持ちが落ち着いたのか、メアリーのネックレスを、べつに首にかけることにして、メアリーの好意に形式上は応えることにしました。

 第27章

エドマンドは舞踏会の翌日、正式に牧師となってソートン・レイシーに行くことになります。また、ウィリアムも同じように翌日に艦隊に帰艦するために出発する予定です。したがって、舞踏会はファニーにとっては、最も愛する人々と別れる前の最後のイベントでもあるわけです。

ヘンリー・クロフォードはロンドンで叔父の提督に会う予定があるといって、ウィリアムに自身の馬車で一緒にマンスフィールド・パーク出るように誘います。駅馬車を乗り継ぐ不便さに比べて快適な旅程になるため、ウィリアムは喜んで同意するのでした。ヘンリーのロンドン行きは、ウィリアムを叔父に紹介して、少尉への昇進の推薦をさせるためです。このヘンリーの行動は、あながち、妹のファニーの歓心を買う下心からだけとは言い切れないところがあり、彼がウィリアムの人物に好感をもち親切心を持った面もあると思われます。ヘンリー自身の動機はハッキリしませんが、刹那的に、ぱっとひらめいて、表面的によく映る振る舞いをするというクロフォード兄妹の行動パターンに従って行動していることはたしかでしょう。ヘンリーは、あとで、ファニーに求愛するときに、このことをちゃっかり利用するわけですが。

 第30章

ロンドンからの帰還後,ヘンリーはファニーへの燃える思いをメアリーに打ち明けます。

「ぼくはファニー・プライスにみごとにつかまってしまったんだ。ぼくがこれを遊び半分で始めたことは、きみも知っているね。しかし、遊びで始めたことの結末がこれさ。彼女はかなりぼくを好きになってきていると思う。でもぼくの気持ちはもうすっかり決まったんだ」(P.444)

ヘンリーによれば、ファニーは提督の偏見を取り去りうる唯一の女性であるといいます。すなわち、愛人を囲うことになんらの抵抗も感じない提督の女性観を変えることは、ファニーにしかできないと言います。

「ファニーは、提督のような男性が女性に対して持っている偏見をすべて取り除いてくれる女性だ。まさにファニーは、提督が、この世には存在しないと思っているような女性だ。まさに提督の言う、稀有なる女性そのものだ。もし提督が、理想の女性像を表現できるような繊細な言葉を持ち合わせていればの話だけど。でも話が完全に決まるまでは、そして、絶対に邪魔が入らないことがはっきりするまでは、提督には何も知らせないつもりだ。」(P.445)

「この世にいないと思える女性」とは、提督の女癖の矯正にはうってつけの女性であると言います。提督の生活がクロフォード兄妹にとって問題となっている―こうした難点の解決への意図がファニーへの求愛の中に幾分かは含まれているはずです。

 

 

(2))

とはたくさんあります。

(6)参考 

廣野由美子という人が『深読みジェイン・オースティン』という著書のなかで、興味のある方は直接著作を読むことをお奨めします。

最近文章をいれています。

アンは、この話の一部始終に熱心に耳を傾けていたのだが、この結論に達したことを聞くと、ほてった頬を心地よい冷たい空気で冷やそうと、すぐに部屋を出た。そして屋敷内の、お気に入りの小さな森の散歩道を歩きながら、そっとため息をついて言った。「あと数ヶ月するとあの方がここをあるいているかもしれないんだわ」”

ここで、暗示しています。

 

4.『マンスフィールド・パーク』の多彩な魅力

(1)「小説

ジェーン・オースティンの小説にはいます。

(2)教養小説(ビルドゥンクス・マン)としての

『説得』は、周囲から存在を無ではないということには、留意しておいて下さい。

 
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