ラファエル前派の画家達 ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ |
ラファエル前派を見ていると、ラファエル前派兄弟団という集団とかそのグループが推し進めた運動と、ロセッティやミレイなどの個々の画家たちとが、必ずしも一致しないのではと見えてくることが、よくあります。それは、ロセッティやミレイにしても、互いに異なる点の方が大きくて同じグループに括ってしまうことが難しいほどなのです。たとえば、この二人に画風で似ているところはほとんどありませんし、描法の点でも共通点はほとんど見られません。多分、この二人でひとつの作品を共同制作することなどは不可能に近いことでしょう。では、ラファエル前派とは何だったのか、ということになってしまいますが、おそらく、純粋な絵画運動というよりは、理念とか絵画に対する姿勢とか考え方とかの点で互いに共感してグループを成したというものだったのではないか、と思います。だから、ロセッティにしてもミレイにしてもラファエル前派に対しての距離感や態度が大きく違います。ロセッティはラファエル前派として活動を続けますが運動自体は初期のものから変容していきますし、ミレイはラファエル前派兄弟団の設立に参加したものの、数年で脱退してしまいます。 端的に言うと、ミレイの場合にはラファエル前派という運動は一時的なものであったのに対して(その後の彼の芸術に対する決定的な影響という点はあるにしても)、ある意味でロセッティにとってはラファエル前派という運動、あるいはラファエル前派兄弟団というグループの存在は、彼の資質を考えると、なくてはならないものではなかったか、と思えるのです。それは、彼の性格からいって一つの運動を続けるような根気強さがあったとは思えないにもかかわらず、それを辛抱強く続けたことからも窺えるのではないかと思うのです。それほど、ラファエル前派というものが、ロセッティにとって切実なものであったからこそ、本来の彼の性格から見れば、少しでも合わないと思えば、さっさと脱退してしまってもいいはずの運動に、ミレイやハントといった主だったメンバーが脱けていってしまった後も、留まり続けたのだと思います。
脱線が長くなりましたが、何となく理解していただけたのではないかと、思います。誤解をおそれず、端的に言えば、ロセッティという人は、芸術を理解する知性とか、作品を見る目、あるいは画家として対象を観る鋭い目をもっていたにもかかわらず、それを作品として描く腕を持つことができなかった人ではないか、と私には思えるのです。それは、ラファエル前派の仲間である、ミレイがとにかく描く技量にかけては天下一品で、何も考えなくても自然と描けてしまう天性の画家という人とは正反対の資質だったと思います。だからこそ、ラファエル前派の理念とか姿勢といった面では、ロセッテイが先導しつつ、作品発表においてはミレイやハントの後塵を拝し、さほど目立つ存在ではなかったのではないか、と思います。そんなロセッティにとっては、自らの理念や感覚を作品として実現させるには、自分の描く力量では追い付かず、また、実践の場からのその理念や感覚に対するフィードバック、つまり、理念の検証や反省をやっていくには、どうしても技量をもって自分と共に描いてくれる人がどうしても必要だった、と私には思えます。だから、ロセッティは、ミレイ等に比べると作風が変化していくということは、あまりなく、一度大きな作風の転換をしている以外は一貫性があります。そのような点を、個別の作品を見ながら追いかけてみたいと思います。 Ⅰ.初期のラファエル前派時代(1850年代以前) (1)初期ラファエル前派時代のロセッティ
ラファエル前派兄弟団が結成されてから、ミレイやハントは矢継ぎ早に作品を制作し発表しますが、ロセッティは、まとまった油絵として二点『聖母マリアの少女時代』と『我は主の婢女なり』(左図)を展覧会に出品した以後は、作品を公表することなく、少数の注文主を相手に独特の水彩画を制作していたそうです。水彩画は素人が趣味や手慰みに嗜むものとされていたようです。ロセッティは、このような水彩画の油絵のようにしっかりと描き込むというよりは即興的にさっと描くことができる特徴を活用して、文学から持ってきた題材に自由な空想を働かせて、様々なヴァリエーションの描画をしていたようです。それは、自然を細部まで写実的に描写して、あるものすべてを写し取るという、ミレイやハントの試みていた様式とは異なるものだったと言うことができます。ロセッティは、ミレイやハントのように、屋外にでかけて実際の自然をスケッチすることに対しても積極的ではなかったそうです。では、ラファエル前派のなかでロセッティだけが、他のメンバーとは別の方向を向いてしまっていたでしょうか。私はここに、理念の人というのか言葉で考えてしまう人ロセッティと、とにかく描いてしまう人ミレイの資質の違いが、自然を描くというところまでは一致しているのに、実際に描く方法になってくると食い違いを起こしてしまうという事態を見てしまうのです。
ではこれに対して、どうするか一番手っ取り早いのは、目の前にある自然をそのまま描いてしまうことです。“諸君は出来うる限り真摯な心をもって、自然に近づかねばならない。そして自然の意味を洞察し、自然の教えを学ぶにはどうすれば最善かということ以外の雑念を払いのけて、安心して自然とともに歩めばよいのである。そして何ものも拒絶することなく、何ものも選択することなく、また何ものも軽蔑することなく、すべてが善いことを信じて、つねに真実のうちに喜びを見出すべきなのだ”というラスキンの言葉そのままに、屋外にくり出して、自然の中で目前の自然を忠実に写しとるということです。それをミレイやハントは実践したわけです。彼らには、自然を忠実にスケッチするだけの技術を美術学校で鍛えられ、それをすることができた。つまりは、スケッチ技術の振り向け先を伝統的なものと切り替えればよかったのです。その結果、彼らの描く画面は細密な描写の集積になって、人物も背後の風景も一様な刻明さで描かれた、結果として平面的なものとなったわけです。 しかし、ここでの自然の理想化ということは、ひとつひとつの草や花の個別性や特殊性を切り捨ててしまうことに他なりません。それは人物の描写においても、一人一人の人間は個性を備えているはずであるのに、本来備えている個性を棚上げして、理想的な女性の姿とか、英雄的な姿に一括されてしまうことになります。例えば、ダ=ヴィンチの有名な『モナ・リザ』と女性のスナップ写真とでは、私たちは写真にリアルを感じます。それは写真だからと言うだけではなくて、そこにいい面でも悪い面でも個性が表われているからです。それは、近代における主観主義の発生に伴う個性の発見ということにもよるのではないかと思います。そのような理念の拠って立つ前提に遡って描くことを、ロセッティは試みたのではないか、と思えるふしがあります。それは、ミレイやハントが自然を忠実に写実しようとして盛んにスケッチを試みたはずですが、そのスケッチという描き方や対象の捉え方、その方法論はアカデミーの技法であるわけです。多分、ミレイやハントは目の前の自然を見たままに描くことに疑問を持っていないと思いますが、果たして、ありのままに見ているのか、そこにアカデミックな眼鏡をかけて見ていないとは言えないか、そういう疑いを微塵も持っていないと思います。これに対して、ロセッティは、アカデミーのスケッチの技法を習得できなかったことが幸いして、その自然に見合った見方や描き方を彼なりに模索したのではないか、と思われるふしがあります。例えば、ここであげた二作品の一見して分かる描写の拙劣さです。同年代のミレイやハントがそれなりにまとまって完成度の高い画面をつくり上げているのに対して、ロセッティの二作品はお世辞にもまとまっているとは言えません。その意味で、様々な描き方を試みることが容易な水彩画をロセッティが数多く描いたのも、もしかしたら、試行錯誤をしていたのかもしれません。その意味で、ロセッティにとってはラファエル前派兄弟団でのミレイやハントとの時代は、彼自身の修行と試行錯誤を繰り返しながら作品を制作していた時代だったのではないか。 (2)初期ラファエル前派時代のロセッテイの特徴 ラファエル様式的特徴については、これまで述べてきましたが、その中でもロセッティという画家は、他のミレイやハントに比べ、どのような特徴的な個性を発揮していたのかをここで見ていきたいと思います。 ①下手さの開き直り
その大きな理由として考えられるのは、ロセッティが伝統的な美術教育に耐えられず、途中で投げ出してしまって、技術的な熟練に至らなかったということです。つまり、下手だったということです。伝統的なデッサンができなかったからこそ、ものの見方をデッサンの練習をしながら鍛えることがなかったというわけです。多分、ロセッティはそこで開き直るように自己流を通してしまったのでしょう。だから、『我は主の婢女なり』は、一見して、どこかギクシャクとしていて、バランスのとれていない印象を与えます。そこが、結果的に伝統的な様式の枠を超えてしまう作品になってしまったということではないでしょうか。それは、下手であることを開き直るようにして、ポジティブに自己主張してしまうという勇気ある挑戦のたまものであったと思えるのです。 ②ものがたりの過剰さの抑制
③理想から個性へ ロセッティの宗教画が象徴的なものを削り取ったということは、また、別の面から見ることができます。ものに象徴的な意味を託すということは、それが現実のあるそのものであってはいけないのです。例えば、絵の中の釘が、実際に私の使っている釘そのままであったとすれば、それはそのものズバリであって、そこに象徴的な意味があるとは考えられません。それが象徴的な意味を持たせられるためには、誰がみても釘であることがわかるけれど、それは私の釘でもなく、誰かの釘でもないことが必要です。つまり、らしく見える釘、言ってみれば、釘という概念に抽象化されたような釘一般のようなものであることが必要です。だから、ミレイの作品では、緻密に写実的な描き方をしていますが、周到に個物に特定できることは避けられています。 話は少し変わりますが、例えば美人というものをどう考えられているかというと、端的にいうと個性的な特徴のない一般的な顔を美人ということが多いようです。たとえば、現代で100人の人の顔をサンプリングして、その画像をコンピュータで処理して共通点を拾っていくと、100人の共通なところを抽出した一般的な顔をつくると、美人といわれる顔になったといいます。一方でも美人は冷たいという言葉があります。表情のない顔を「能面のような」ということがありますが、能面というのは普遍的な美を表わしているものでもあるわけです。 話が、色々なところに飛んでしまっていますが、何を言いたいのかというと、象徴的な意味を込めようとすると個物をそのままに写しとるのではなくて、一般性を持たせたように描くことが必要になってくるわけです。これは、人物でもそうで、実際に知りあいの女性がそのままに描かれていれば、それをマリアと見ることは出来なくなってしまいます。だから、どうしてもマリアとするには、ある女性を特定できないように一般化することは避けられません。それを伝統的な絵画では一種の理想の姿、美人、を描いていたというわけです。しかし、美人は冷たい。それは天国にいる神々しい姿であれば、人間的な感情など感じさせないほうが、人とは違う神の慈悲とすることもできるでしょう。しかし、ロセッティは、『我は主の婢女なり』でマリアという一人の女性の心理的なリアルを描こうとした。その時に、リアルとして追いかけるためには、冷たい美人では表せないのです。その場合には、一人の人間としての個性を備えた現実に存在するように見えなくてはなりません。そうでなれば、見る人は感情移入することはまずできないでしょう。そこで、ロセッティは一般化とモデルを写実することとの矛盾に改めて立ったといえます。そこで、彼なりに妥協してだした回答は、当然、ミレイの場合とは異なるものであったとおもいます。それは、理想化というのとは別のところで、それぞれの個人の個性を追求したところでの美を見出すという方向だったと思います。それは、私の考えるところ、美ということの革命ともいえるほどの大きな転換ではなかったかと思うのです。 (3)初期ラファエル前派時代のロセッティの主な作品
Ⅱ.初期のラファエル前派の拡散(1850年代)
もしかしたらロセッティにとって、ミレイやハントが離れて行ってラファエル前派が自然解体したのは、喜ばしいことだったのかもしれません。その時にロセッティが描いていた絵は、詩人ダンテにまつわる水彩の小品ばかりで、完全に自己の個人的嗜好に偏った創作に勤しんでました。もともと自然描写の不得手な彼は、ラファエル前派の信条である「自然をありのままに描く」ことに、当初から違和感を覚えていたに違いありません。ロセッティは、ティーエイジャーのころからウィリアム・ブレイクに傾倒していました。ブレイクは、自身の精神世界のみを芸術の対象として、自然や政治等の現実世界のあらゆる要素をその象徴として用いた人です。ブレイクにとっては、象徴性のない「ありのままの自然」など存在しないも同然だったと言えます。このような人に憧れ、横溢する想像力のままに詩を書き絵を描いたロセッティにとってリアリスティックな自然描写に関心を持つというのは本来のものではなかったと言えます。そんなロセッティがミレイやハントに対して、どこまで同士意識を持ち続けられたか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。おそらく、孤立感を深めていたのではないか。そうであれば、ラファエル前派が拡散したことで、彼本来の芸術的土壌である想像の世界に戻ることができた、と言えるのではないでしょうか。そんなロセッティにとって想像力を飛翔させる土台として中世への回帰という傾向がありました。 (1)ダンテを介した中世への憧れ~理想の愛の追求
ロセッティはダンテの『新生』という作品の翻訳を試みますが、その傍らで、1847年に『浄福天女』という詩を書き始めます。これは、まさにロセッティ版のベアトリーチェというもので、両者を比較してみると、ロセッティに対するダンテの影響の大きさが分かりますし、同時にロセッティに特徴的なものも明らかになってくると思います。まずは、『浄福天女』は長い作品なので、大まかな内容をかいつまんで紹介することから始めます。 “愛し合う年若い男女がこの世の縁薄く、女は男に先だって他界する。女は今天国にあって男の来るのを今か今かと待ちわびている。そして、女は男の魂が天国に昇って来たなら、既に勝手知ったこの天国を案内し、神の前へ伴って行こうなどと、楽しい想いに胸をふくらませている。一方、地上の男は、落ちる秋の枯れ葉に彼女の髪が顔をかすめたかと思い、小鳥の囀りに天上で呼ばわる彼女の声を聴くが、いつかな天へ召される日は来ない。女は魂が昇ってくる度に天の欄干に凭れ、目を凝らして見るものの詮なく、落胆の涙を流す。男にはその女の泣き声が聴こえるような気がした。”
このようなロセッティの『浄福天女』という作品の、地上に残された男が天上に召された恋人を慕い続けるという設定は、ダンテそのもので、濃厚な影響が窺われます。しかし、ロセッティの浄福天女はダンテのベアトリーチェとは、およそ異なる性格を与えられています。最も大きな違いは浄福天女には、ベアトリーチェにはない肉感性が与えられているということです。『浄福天女』には容姿の表現が多数見られます。これに対して、ベアトリーチェは天上において肉体を離れ去った魂であって肉感性とは無縁の存在です。その違いは、二人の求める愛の違いです。ベアトリーチェの愛が神に向かうのに対し、浄福天女は天上に昇りながらも、地上での愛の継続、地上で叶えられなかった愛の成就をひたすらに求めるのです。このことは、ロセッティがダンテのベアトリーチェに対する愛に憧れながらも、まったく独自の浄福天女像を創り上げたことを意味しています。神への精神化された愛と俗世界での肉体を介した人への愛をいっしょくたにしてしまうロセッティにとって、結局愛とは女性に向けたもの以外にありません。翻って言えば、自己の魂を女性像として外部へ投影したものが愛なのです。女性の中にその愛を認めるとき、愛は魂を焦がさせる。したがって、その愛する対象との合一は、結局のところ肉体を離れた死よって、天上に昇天することによってのみ成就されることになります。このようにロセッティが愛の理想として希求するのは、魂の片割れとしての女性であり、自己の魂と外在化された魂との合一なのです。ロセッティにとって、愛は死を前提としてはじめて成就されることになります。その意味で死はまさしくロセッティにとって、新生であると言えます。 このような愛の理想が、この後、ロセッティの数多く描いていくことになる女性像に反映していくことになります。 (2)ロセッティ独特の水彩技法
ロセッティは1850年代前半には、もっぱら水彩画を描いていました。それ以前は油彩を描いていたのにです。同時期のミレイやハントが矢継ぎ早に油彩の大作を発表していたのとは対照的に映ります。どうしたのでしょうか。その最大の要因は、ロセッティの油彩技術の未熟さにあったと言われでいます。どうしても、ロセッティという人は、根気を要する腕が追い付かないということなのでしょうか。とくに、彼の欲する透明感ある色彩の冴えは、ラファエル前派に特徴的なフレスコ画を模した油彩技法によって可能となりましたが、それは恐ろしく手間のかかるもので、未熟で根気に欠けるロセッティには敬遠せざるをえなかったと言えます。 ロセッティの特異な水彩画の技法は、中世趣味のロマンティックな主題を豊麗に演出し、普通の水彩画では得られない濃密さと色彩の艶を備えていました。その色彩の鮮やかさは、当時、彼が熱心に模写や勉強をしていた中世の装飾写本の挿絵を彷彿とさせるものでした。それはどのようなものかというと、簡単に言えば、水彩絵の具を水で溶かずにそのまま紙に塗り付け、筆で擦るというものだったと言います。これによって水彩画特有の淡い色彩や滲みといったものがなくなってしまいますが、フレスコ画のような鮮やかで透明な色彩を得ることができたと言います。当時、ロセッティが水彩画を描くのを間近に見た人の証言です。“紙にあまり頓着せずに鉛筆を走らせ、何本もの線である形を描き出していった。こうして作られたスケッチは、輪郭線だけというのでも、また陰翳というのでもなく、その二つが混じり合ったものであった。それから彼はやおら筆を取り出し、紫紅色を含ませて紙の余白で筆から水気がなくなり、乾いた絵具だけが残るまで何度も擦った。そうしておいて、その乾いた絵具をかなり粗いモデリングが描き上げるまで紙になすりつけた。それはかなり荒々しいものであったが、その輝きと色彩は実に生き生きとしていた。その後、彼はその効果を幾分削ぎ、和らげるかのように全体に淡彩を施した。そして今度はもっと流麗な筆捌きで、以上の手順を繰り返し、すぐさま彼にしか生み出しえないと思われるような素晴らしい色彩の作品を完成させた”。実際、ロセッティは、自分の望む鮮やかな色を出すまで、何度も執拗にこのような作業を繰り返したのではないでしょうか。 これですらかなりの手間だとは思いますが、水彩画は、油彩に較べれば手軽に透明で鮮やかな色彩を駆使するのが可能であることを知ったことから、ロセッティにとっては水彩画はドローイングからペインティングに替わったと言うことができます。1850年代後半からは、ロセッティが再び油彩に返り咲き、理想の愛や女性を求めて、油彩による表現を追求していくことになるわけです。 (3)初期ラファエル前派拡散時のロセッティの主な作品 Ⅲ.唯美主義的な展開(1860年代)
未だ若いころは、つまり、ラファエル前派のころは、血気盛んであり、若さゆえの衒いもあって、自身をカッコよく見せたいがゆえに稚拙な理論武装を試みたりしました。そしてまた、未だ女性経験もなく、想像の中で理想の女性像を追い求めることになりがちで、それがラファエル前派の物語的な方法論や聖母マリアの純粋で処女性をまとった女性を追い求めたりしたということです。当時のロセッティを取り巻く社会環境はヴィクトリア朝の禁欲的な風潮にあって女性を描くとしても、数多くの制約に縛られていたことも、原因と考えられます。 ロセッティはその中で、もともと素養のあった文学の世界で、自身の思いのたけを想像のなかで追求していったと考えられます。それがダンテの作品のベアトリーチェであったり、中世のアーサー王伝説であったり、ギリシャ神話の女神たちであったりと、ヴィクトリア朝の道徳的社会の中でも、ひとつの抜け道でもあったことから、これらの女性たちに仮託して、作品を制作していったと考えられます。 その後、長ずるにあたって、ロセッティは結婚を経験し、生身の女性を現実に知ることになります。とくに、ロセッティの女性遍歴と、付き合った女性を作品のモデルにしたりとか、その女性たちを介した愛憎の人間関係とかはラファエル前派を解説した著作や文章に詳細に紹介されているので、ここでは採り上げませんが、そこでロセッティは、それまで想像の中でかきたてていた女性を、生身で知るわけです。そこで、ロセッティは付き合っていた当の女性を、そのまま、自らの彼女たちの思いをぶつけるように、彼女たちの肖像を、ロセッティ自身が彼女たちが一番美しく映えるように意匠を凝らして描いていくようになっていきます。そのときに、聖書のエピソードとか神話とか文学のものがたりとか、もっともらしい説明などは不要となっていきます。ロセッティにとっては、目の前に麗しい愛の対象がいるわけです。その愛の感触をそのまま表わすことが、ものがたりの場面をかりるというような面倒な回り道をする必要性を感じられなくなっていったというわけです。そんな回り道をする間に、愛の温もりが冷めてしまいます。ロセッティは、むしろ、そういう温もりを含めて作品として定着させたかったのではないか。それこそが、ロセッティの唯美主義といわれる作品であったと考えられます。
つまり、1860年以降のロセッティの作品は、女性の半身あるいは四分の三を、ほぼ等身大の大きさのキャンバスに、女性が画面に収まりきれずに、画面からはみ出してくるようにいっぱい描かれます。それは、背景とか空間といったものは、もはや描くのが面倒で、女性とそれを飾る付属物、たとえば花や装飾を描いていきます。そして、タイトルについて、神話や文学のタイトルを意味深につけてあげることで、象徴性の飾りをするとともに、それなりの意味づけをしています。そのなかで、描かれている女性はロセッティの好みのタイプの女性であり、彼自身が髪の毛フェチであるかのように、そのほとんどが豊かな髪を結い上げることなく(当時のヴィクトリア朝では一般に女性の髪は結うものであったにもかかわらず)、あえて髪を流して描いて、唇を毒々しいほどに真っ赤に塗って強調しているといえます。 多分、世の男性もそうですが、ロセッティの場合も女性の好みが一通りではすまず、大きく分けて二つのタイプのこのみがあったようです。それが、この時期の作品にも傾向として表れているようです。それは主に1850年代に描かれたベアトリーチェや聖母マリアの清新で霊妙な女性像と、1860年代のヴェネツィア派風の異教的、官能的な魅力を発散する女性像です。前者は、「ベアタ・ベアトリクス」「プロセルピナ」といった作品に、後者は「ボッカ・バチアータ」「ヴィーナス・ヴェルティコルディア」あるいは「レディ・リリス」などの作品に結実していったと言えます。そして、今日、私なぞがロセッティというと、想起する作品のイメージとして、これらの作品が代表的なものとして現れると言えます。 (1)唯美主義の時期のロセッティの主な作品 |