ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『アーサー王の死
 

 

6世紀にサクソン人の侵攻からブリトン人を守り、円卓の騎士たちを率いたとされるアーサー王伝説は、中世の間に様々に語られました。12世紀にジェフリー・オブ・モンマスが『ブリタニア列王史』にそれをまとめ、その300年後にトーマス・マロリーがアーサー王にまつわる諸々のロマンスを『アーサー王の死』にまとめました。さらに、ヴィクトリア朝時代には、テニスンの「シャロットの姫君」と『国王牧歌』の出版により人気が再燃しました。

ロセッティはマロリーの『アーサー王の死』第21巻から「アーサー王の墓」という水彩画を制作しました。木の間を洩れて降り注ぐ陽の光があちこちに緑色にきらめくモザイクを振りまき、画面にしっとりとした潤いを与えています。しかし、ここでランスロット卿は最後の接吻を王妃に拒絶されています。アーサー王の死後、アームズベリーの修道院で尼僧となった王妃のもとをランスロット卿が訪れています。実際、アーサー王が埋葬されたのは、グウィネヴィアのいるアームズベリーではなく、グラストンベリーでしたが、ロセッティは二人の別れの場面を『アーサー王の死』の結末に相応しい本質的な要約と化すために、独自の解釈に基づいてアーサー王の墓を描き入れているということです。今、ランスロットはアーサー王の墓越しに腰をかがめて王妃に接吻しようとしています。ランスロットは世俗的な愛の成就を渇仰する男として、情熱を表す緋色の上衣を身に着けています。背に楯を背負うさまは、さながら翼を閉じた<>の神クピドのようです。一方、左の掌でランスロットの口を遮る王妃は、対照的に黒い僧衣に身を包み、悔悛の秘蹟を受けた身らしく跪いています。ランスロットの接吻を遮るものは、王妃の掌ばかりではありません。石棺のアーサー王の手、つまり二人の不義がもたらしたアーサー王の死が、二人の接吻を遮っているのです。ランスロットの顎をはさんで、アーサー王の腕とグウィネヴィアの腕とが正確に対称をなすのはそのために他なりません。この三人の結末は、石棺の側面左側に描かれた端緒と対照されています。ランスロットがアーサー王から円卓の騎士として叙任されたとき、ランスロットはうっかり自分の剣を忘れてきていました。その失態の窮地から救ったのがグウィネヴィアだったのです。それがランスロットとグウィネヴィアの愛の発端であり、ランスロットはその時自分の思い姫として王妃を守り続けることを誓ったのでした。画面左下隅には一個の朽ちた林檎と蛇とが描かれています。またグウィネヴィアの右と画面上部に生い茂る木もまた林檎です。これを単にランスロットとグウィネヴィアの罪を原罪に準えた表現と考えるほど単純ではありません。じつはランスロット自身がここでは蛇なのです。イヴ(グウィネヴィア)に善悪を知る木の果実を食べるよう唆した蛇であるとともに、アーサー王に死をもたらした蛇でもあったのです。『アーサー王の死』第20巻で、アーサー王の宮廷から永久に追放されたランスロットは、フランスのベンウイックに渡ります。アーサー王は彼に戦いを挑むため、ガウェインとともに大軍を率いて海を渡るのです。しかし、王が不在の内に息子のモルドレッドがイングランドの王位を狙うことになります。反乱の知らせを受けて、急遽討伐のために引き返したアーサー王でしたが、なんとかモルドレッドとは休戦協定を結ぶことができました。しかし、双方とも相手方をまったく信用しておらず、敵に剣を抜く者があれば、有無をいわせず皆殺しにする心づもりだったのです。そうするうちに、ヒースの中から一匹の蛇が現われ、ある騎士の足に噛みついたのです。毒蛇とわかるやその騎士は剣を抜き殺しました。この他意のない行為によって、一時の和解は崩れ去り、再び戦端が開かれることになります。そして、この闘いでアーサー王は命を落とすことになるのです。アーサー王の死の引き金を直接引くことになったのは、一匹の蛇でしたが、これも翻ってみれば、結局遠因はアーサー王にイングランドを離れさせた、ランスロットの不義の罪に求められねばならないわけです。したがって、キャメロットという楽園を追放された今、悔い改めたイヴ(グウィネヴィア)が二度と蛇(ランスロット)の甘い誘惑を受け容れることはないのです。

さて、石棺の側面右にはもう一面円卓の騎士たちの絵が描かれています。これは『アーサー王の死』第11巻の記述に基づいているということです。ペレス王のもとを訪れたランスロットが王の城で食事をしていると、やおら小さな吊り香炉を咥えた一羽の鳩が飛んでくる。すると、急に卓上にこの世のものとも思われぬ酒や珍味が現われ、そこへ一人の美しい娘が金の盃をもって現われる。これを奇異に思ったランスロットが尋ねるとペレス王は答えて言うのです。「これは人が生きている間に手にする貴重なものです。これがまわりをまわるとき、円卓は時経ずして崩れるでしょう。すなわち今ここであなたが御覧になったものが聖杯なのです」。ここで、ロセッティはペレス王の城館ではなく、まさしく円卓のまわりを聖杯の鳩が飛ぶさまを描いているのです。こうして円卓の崩壊を暗示しているのですが、むしろ円卓を崩壊に導いたものは、ランスロットとグウィネヴィアの道ならぬ愛であったわけです。グウィネヴィアの右の林檎の樹が、その黒い影をこの石棺の側面に投げかけているのはそのためです。しかし、言うまでもなく聖杯とは他ならぬ最後の晩餐のテーブルを模したものでした。そうだとすれば、当然円卓の騎士は十二使徒に準えられることになるわけです。林檎の樹の影は、騎士の一人をすっぽりと覆い尽くし、一番右端の緑衣の騎士を除くすべての騎士と聖杯の鳩とを隔てています。つまり、罪はその黒々とした影を、接吻でキリストを裏切ったユダと同様、グウィネヴィアへの接吻でアーサー王を裏切ったユダと同様、グウィネヴィアへの接吻でアーサー王を裏切ったランスロットの上にも投げかけるのです。そしてユダの裏切りがキリストを死に導いたように、ランスロットの裏切りがアーサー王の死を招くことになったのです。分かれた枝の影が、円卓の中央に座すアーサー王の頭部をかすめているのはそのためです。アーサー王はモルドレッドが頭に振り下ろした剣の一撃で受けた傷がもとで絶命することになります。ランスロットは罪深さのゆえに聖杯を拝受することは叶わなかったのですが、やがて右端の緑の衣を纏った清らかな騎士ガラハッドだけが聖杯を拝受することに成功することになります。ここでは、構想上の予型論的な意図は明白です。蛇─ユダ─ランスロット卿という予型論的連関を軸に、キリストがアーサー王の予型として、またイヴがグウィネヴィアの予型として構想されているわけです。同じアーサー王の死を扱った作品でも、バーン=ジョーンズの「アヴァロンのアーサー王の眠り」と較べると、ロセッティの視点の特徴が際立ってくると思います。

ダンテやアーサー王伝説を扱った1850年代のロセッティ絵画を考えるとき、重要なことは彼の水彩画技法の特異性です。その水彩画の手法こそが、主題とする中世のロマンティシズムを豊麗に演出しているからです。この作品もそうですが、彼の水彩画は一見して水彩とは判別し得ないほどの濃密さと色彩の艶を具えています。その色彩の鮮やかさは時に中世の写本挿絵を彷彿とさせるものです。ロセッティは水彩絵の具を水を混ぜずにまるで油彩のように紙に塗り付け、擦ることによって自由に駆使している」というように、通常水彩画と聞いて想像するような水っぽく淡い色彩やボカシ、滲みといったものと、彼の水彩画はまったく無縁だといいます。

「紙にあまり頓着せずに鉛筆を走らせ、何本もの線である形を描き出していった。こうして作られたスケッチは、輪郭線だけというのでも、また陰翳というのでもなく、その二つが混じり合ったものであった。それから彼はやおら筆を取り出し、紫紅色を含ませて紙の余白で筆から水気がなくなり、乾いた絵具だけが残るまで何度も擦った。そうしておいて、その乾いた絵具をかなり粗いモデリングが描き上げるまで紙になすりつけた。それはかなり荒々しいものであったが、その輝きと色彩は実に生き生きとしていた。その後、彼はその効果を幾分削ぎ、和らげるかのように全体に淡彩を施した。そして今度はもっと流麗な筆捌きで、以上の手順を繰り返し、すぐさま彼にしか生み出しえないと思われるような素晴らしい色彩の作品を完成させた」

おそらくロセッティは実際の制作においても、自分の望む鮮やかな色彩の光沢が得られるまで何度もそうした手順を繰り返したに違いないでしょう。今日、彼の水彩画の幾つかがややもすると輸送に耐えられないほどの脆さを見せているのは、おそらく手の込んだ手法のためであろうと思われます。

そもそも一体何が彼にこのスタイルを始めさせたのでしょうか。最大の要因は、ほかならぬ油彩技術の未熟であったと言われています。1850年の「我は主の婢女なり」以降、ロセッティは1850年代末までほとんど油彩画を制作していません。彼の欲する透明感ある色彩の冴えは、ラファエル前派のフレスコ画的油彩技法によってのみ得られたのですが、その恐ろしく手間のかかる技法は常に彼を躓かせずにはおかなかったのです。しかし、初期から「色彩を使って自分のアイディアを表現しよう」という思いは強く、また「色彩は絵の人相である。人間の額の形のように、もしそれが善良さと偉大さを顕していなければ、完全に美しいものとはなり得ない。その他の要素も絵の活発な生命には違いないが、色彩こそがその生命の母体であって、それによって我々は一目でその絵を理解し、愛するようになる」と考えるロセッティにとって、油彩による色彩表現の挫折はそれこそ芸術家としての死活問題に等しかったと言えます。だがそこに水彩画があったというわけです。彼は白い紙の上に描く水彩画の方がずっと手軽に濁りない鮮やかな発色が可能なことを知りました。そのときから、彼にとって水彩画は単なるドローイングの手段ではなくペインティングの手段となりました。試行錯誤が彼に、粘りのある絵具を塗り重ね、時にアラビアゴムを混ぜることによって微妙なテクスチェアと光沢を生み出すことを教えました。油彩を扱う際の屈託が嘘のように、彼は水彩によって念願の色彩の探究に心ゆくまで没頭できたのである。1850年代の水彩画は、そうした喜びに溢れた研鑽の成果でした。かれ自身もはっきりそれを自覚していたのだろうと思われます。そして、1850年代末からロセッティは再び意欲的に油彩画に取り組み始める。そして、やがて理想的な愛に寄せる見果てぬ夢は、油彩による表現を求めることになる。

 

 
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