ラファエル前派の画家達 ジョン・エヴァレット・ミレイ |
ラファエル前派を見ていると、ラファエル前派兄弟団という集団とかそのグループが推し進めた運動と、ミレイやロセッテイなどの個々の画家たちとが、必ずしも一致しないのではと見えてくることが、よくあります。それは、ミレイにしてもロセッテイにしても、互いに異なる点の方が大きくて同じグループに括ってしまうことが難しいほどなのです。たとえば、この二人に画風で似ているところはほとんどありませんし、描法の点でも共通点はほとんど見られません。多分、この二人でひとつの作品を共同制作することなどは不可能に近いことでしょう。では、ラファエル前派とは何だったのか、ということになってしまいますが、おそらく、純粋な絵画運動というよりは、理念とか絵画に対する姿勢とか考え方とかの点で互いに共感してグループを成したというものだったのではないか、と思います。だから、ミレイにしてもロセッテイにしてもラファエル前派に対しての距離感や態度が大きく違います。ミレイはラファエル前派兄弟団の設立に参加したものの、数年で脱退してしまいます。 端的に結論から先に述べてしまうことにすれば、ミレイにとってラファエル前派という運動は、おそらく本質的に彼の資質には必ずしもそぐわなかったのではないかと思います。しかし、ミレイは、ラファエル前派の参加することによって、良くも悪くも、その後の自身の活動や姿勢を決定づけられてしまった、その意味では、ラファエル前派に対してはどちらかというと運動を創ったというよりは、運動から影響を受けたという方が強かったのではないか、思えるのです。それは、ミレイという画家の描くという技量の点においては、ロセッテイは言うに及ばず、ハントやバーン=ジョーンズに比べても突出して勝っていたのではないかということに存します。ミレイという人は、描こうと思えば如何様にも描けてしまう人だったのではないかと、私には作品を見ていると思います。それだけ達者だし、デッサンなどを見ていると、つくづく思います。何でも描けてしまうのだけれど、しかし、だからこそ「これ」を描くということがなかったのではないか。一種の器用貧乏です。そんなミレイに「これ」を与えたのがラファエル前派だったのではないか、と私には思えるのです。これから、そのことを彼の作品を見ながら、考えていきたいと思います。 Ⅰ.ラファエル前派時代 (1)ラファエル前派時代のミレイ
ミレイという人の伝記を見てみると、この人はいわゆる天才少年で幼い頃から達者なスケッチをものしていたと言います。それがゆえに年少でロイヤル・アカデミーの附属学校に入学を許されています。その事実や、彼の残されたスケッチを見てみると、描く技量については達者な少年だったのではなかったのかと思います。 ラファエル前派の特徴として、細密な描写とか、見たままを写実するなどを指摘しましたが、それを体現しているのがミレイだったと思います。ミレイに比べれば、ロセッティなどは描写する技量の点で大きく水をあけられ、しかも細密に描き込む忍耐力もなかったので、この時期のロセッティは描くことよりも、ある種のイデオローグのように言説でミレイを振り回していたのではないかと思われる節があります。また、ハントは技量の点ではミレイにはかなわなかった。実際、ラファエル前派にいたころのミレイの作品は、ロセッティやハントに比べて仕上げの完成度という点では群を抜いているように見えます。とくに、個々のモティーフの緻密な描き込みは凄いと思います。しかし、その反面、全体としてみると窮屈というのか、詰め込み過ぎと感じられることもたしかです。例えば『マリアナ』(右図)という作品の左手のテーブルの奥行のなさは極端で、まるで小津安二郎の映画に出てくるラーメン屋のカウンターのようです。そのテーブルに比して下に散らばっている紅葉の葉がバランスを欠くほど大きく描かれています。私には、そこにミレイの長所と裏腹の弱点があったのではないか、それがラファエル前派に加わることで、その長所と弱点を生かす道を見つけて行ったのではないか、と私には思えるのです。
(2)ラファエル前派時代のミレイの特徴 ラファエル様式的特徴については、これまで述べてきましたが、その中でもミレイという画家は、他のロセッティやハントに比べ、どのような特徴的な個性を発揮していたのかをここで見ていきたいと思います。 ①一点突出のインパクト
だから、これらの作品はミレイの若さゆえの気負いかもしれませんし、反抗というラファエル前派の理念を体現しようとしたのかもしれません、また、構想力の弱さからグランド・マナーの歴史画をものにできない代償として一点突破の人目を惹くものを描こうとしたのかもしれません。ラファエル前派の仲間たちと比べてみても、ロセッティにしろハントにしろ作品それぞれで一点を突出させるようなことは見られません。 これを、作品を鑑賞する側からみれば、従来の伝統的な絵画にみられない、斬新で前衛的に見えたのであろうことは容易に想像できることです。そして、一点突出してインパクトというのは、見る側にとっては、とりあえずその突出部分にまず注目すればいいので、絵としては分かり易いことになるわけです。例えば『オフィーリア』について会話をする時には、美しい少女の死体が横たわっているという共通の話題をつくりやすいのです。その意味で、ミレイのこれらの作品は、ミレイという画家、あるいはラファエル前派という運動に親しんでもらう入口として寄与したのではないかと思います。 ただし、ミレイの作品は一見のインパクトだけで終わるような底の浅いものではありません。だからこそ100年以上隔てた私たちにも新鮮な感動を届けることが出来ているのです。そして、ミレイは画家としての経験を重ねていって、このようなポーズや構図を洗練させ、全体として穏当な画面を活き活きとさせるテクニックとして、活用していくようになります。 ②過剰な情報の詰め込み
これは、後年の熟達した作品では整理されて、細部が横溢することも抑えられ洗練されていきました。この時点では、この細部が過剰というほど詰め込まれていることで、写実的表現を超えて象徴主義的に見えてくるものとなっています。題材としての主題が、シェイクスピアの文学や聖書などのものがたりを取り上げたことから、出典を知る者が作品を見れば、溢れんばかりの細部の表現がものがたりの様々なモティーフを連想させて、深読みを誘うものとなっています。それは、鑑賞者にとっては、作品の味わいを幾重にも深くさせるものであると同時に、ものがたりを知っていると味わえるというプライドをくすぐられる楽しさもあるというわけです。 一方、描くミレイにとっては、人物はモデルを使って忠実に写しているわけで、彼にとっては構想を考えることなく、細部にこだわって、人物や花や草を好きなだけ描き込むことができたというものだったと思います。おそらく、細部が横溢されることで得られた効果は、当初から意図されたものではなく、結果としてこうなったので、それをミレイ自身が後付けで気が付いて、次第に自分のものにしていったのではないかと思います。私が思うに、ミレイという画家は考える(構想する)よりも先に、筆(腕)が先行して動いてどんどん描いてしまうタイプだったのではないか。それが、ラファエル前派の運動に参加して理念的な方向性を与えられて、構図やポーズで凝ったことを考えることはあっても、その結果としてシンプルな構成の上で、好きなだけ細かいことを描くことができる、という道を、とにもかくにも見つけることができた。その結果として出来上がった作品が象徴主義的な解釈が可能な作品となることができた、というところではないか、と私は思います。そういう、ミレイという画家の持っている特徴的な美点が、偶然に活かすことのできる枠を見つけ、それに従って質の高い作品を連続して作り出すことができた、というのが、ラファエル前派に参加していた時期のミレイの作品であると、私は思っています。 (3)ラファエル前派時代のミレイの主な作品 『オフィーリア』 (『オフィーリア』に見られるラファエル前派の様式的特徴) Ⅱ.ラファエル前派から離れる (1)ラファエル前派から離れる ミレイは1853年、アカデミーの準会員に推挙されたことを機に、ラファエル前派兄弟団から離れます。ラファエル前派に関しての私論として書いているところなので、本来ならば、ここで止めてしまってもいいのですが、ミレイという画家をみれば、ラファエル前派という枠に収まらないで、ラファエル前派をきっかけに自らの作品世界を展開させていったところに大きな魅力があるので、続けて追いかけていきたいと思います。以前にも述べましたように、ミレイが、単なる巧みなお絵かきとしてではなく、画家として作品を創作することができたのは、ラファエル前派に参加したことが大きな契機であったのではないか、というのが彼の作品を見ている限りでの、私の推測です。これには、特に資料とか証拠はなく、あくまでも私の想像で、そのようなストーリーでミレイの作品を見ているということなので、誤解なきように。
では、ミレイの作品は、どのような変化をしたのか。それは、端的にいえば、むずかしい試みをやめる、ということでした。どういうことかというと、ブルジョワや中産市民が絵画を購入し、自宅に飾るという目的を考えてみると、かつての王侯貴族のようにそれを広く人々に見せて、自分の政治的な力を誇示したりとか教養や見識を見せつけたりというのとは違って、主には自分や家族、あるいは知り合いの親しい人々と楽しんだり、部屋の調度として飾ったというものだったと思います。そこでは、これ見よがしの豪華で美しい、知的な情報が詰まったような見栄えのする作品というよりは、より親しみ易く、見易いもの、それでいて芸術的香気が感じられるものが求められていた、と思われます。そういう物差しで見れば、ミレイのラファエル前派の作品は、一面では親しみ易いのは確かですが、物語の附加的な情報の意味を持たせたディテールが過剰なほど詰め込まれています。見る人にとっては、意味ありげな細部に溢れて難しそうです。作品画面全体に遊びがないというのか、何から何までくっきりと描き過ぎなほど描き込まれていて、息つく暇もないほどほどです。『オフィーリア』にせよ『マリアナ』にせよ、観る人を疲れさせるところがあります。それは、人によっては難しげに映ると思います。そこで、ミレイは、ラファエル前派のことろの画面にできるだけ多くの情報を詰め込んでいことする方向から、180度方向転換し画面の情報を少なくする、(それを突き詰めて行くと、言葉にできるような情報を画面から失くしてしまおうという唯美主義の作品に行き着くことになります)プラスからマイナスの方向に変わります。それは、ラファエル前派の理念を踏まえた上で、すでにラファエル前派とは違った方向を志向するものになっていたのではないかと思います。
(2)唯美主義 ①ものがたりを描くからものがたりを作るへの逆転
ミレイは、方向を誤ったのでしょうか。それとも試みをやり過ぎてしまったのでしょうか。これは、後付けの結果論になってしまいますが、晩年はアカデミーの会長になり叙勲されるような成功した画家となるために、このときの当時としては過激な試みを敢えて行ったことが、大きく寄与していると考えられるため、ミレイにとっては試練だったと言うしかありません。 さて、絵画の場面からものがたりを想像してもらうという『浅瀬を渡るイザンプラ卿』(左上図)は人々の理解を得ることができませんでした。そこまでできるなら、絵画を見てある種の雰囲気とか気分を感じてもらう、例えば、しんみりしてしまう風景とか、楽しくてうきうきしてしまう情景というような、それこそ音楽を聴いた効果に近いものを実現することも可能ということになります。それは、それまでのミレイの作品に必ずのように関わっていた文学でも歴史でも聖書でも社会事件でも、ものがたりを切り離すということです。その一連の作品に対して、後のオスカー・ワイルドらの主張した“芸術のための芸術”の先駆的試みとして唯美主義と評する人もいるようです。『安息の谷間』(右図)では、ここでの尼僧たちは何かを行っている行為が主題となっているのではなくて、例えば、画面右側の若い尼僧の顔は、発表当時には醜い表情と評されたそうですが、彼女の絵を観る者を見てくるような理想的な顔とは異なる、いかにも近くの修道院にいそうな顔があってこそ、背後の夕暮れに迫ってくる死の深い意味と、ときに甘美とも錯覚されることもある誘惑的な死の意味が際立つように実感させられる効果を醸し出しています。それは、歴史的なものがたりや道徳的な教訓などとは異なる何かでした。ただし、それは直接的なメッセージではなくて、観る人が自由に感じるものでした。ミレイの緻密な細部描写は、写実的なものから象徴的な表現へと変容していきます。しかし、この①②のいずれにせよ、当時の鑑賞者たちには追いつくことができなかったようです。 (3)ラファエル前派から離れた時代のミレイの主な作品 Ⅲ.成熟と晩年 (1)人気の回復と画家の成熟 ①人気の回復と画家の成熟
しかしです。巧くまとまってはいて、広く受け入れられるものになっているのは確かなのでしょうけれど、私には、巧さが先に立ってしまっているように見えます。ラファエル前派時代の、過剰とも言える意味の氾濫に代表される、付け焼刃かもしれないけれど、押しつけがましいところがあるかもしれないが、理念を奉じていた迫力が失われてしまった、と私には見えます。悪く言えば、こじんまりまとまってしまっている。そのため、退屈な印象を避けられません。
②肖像画とファンシー・ピクチャー
肖像画とういうのは、たいていは、等身大で描かれ、一人あるいは、それほど多くはない人物を描きます。そのため、物語が主役である歴史画や宗教画のような場合と比べて、対象である人物の描写に省略がきかないため、高度な描写力が必要とされます。その描写力はさらに顔が似ていなければならないことや、たんに似ているだけでは十分でなく人柄をしのばせるような精神性の表現も求められます。それだけでなく、その人物の社会的な権威や世間的な成功がおり込まれていなければなりません。これは、ラファエル前派時代から物語を絵画にしてきたミレイの知識と経験の蓄積が大きく寄与したと思います。他方、婦人の肖像画の場合には、何をおいても美しく描くことが必要不可欠となるでしょう。上流社会の夫人たちは肖像画に対しては17、8世紀の貴族社会のような豪華で装飾的な衣装が愛好されていたようです。このような装身具や繊細な衣装の描写は、緻密な自然描写によって培われたミレイの技術が得意としたものであったでしょう。しかしまた、肖像画のモデルとなる人々は専業のモデルと違って長時間アトリエでポーズを決めてくれません。短時間のうちに下絵をつくり、それをもとに表現を肉付けして最終的に仕上げて完成させるという、制約の多いものでもありました。しかし、これは、考えてみれば、描くと言う技量についていえば右に並ぶものがいないほど達者なミレイにとっては最もうってつけの仕事であり、それにラファエル前派時代からの構想の蓄積をテイストとして加味させたものを作品としてつくってしまうので、ある意味人気が高まるのは、当然と言えるかもしれません。ミレイは、肖像画の注文を数多く受けるようになったのは1870年以降のことですが、多数の肖像画を残しているようです。 この肖像画はミレイの収入や地位を高めたものなのでしょうけれど、私がその作品を見る限りにおいては、ミレイが批判したレイノルズの描いたものと、ほとんど変わらないものとなってしまったように見えます。ミレイ自身が権威となってしまったということなのでしょうか。これは、ミレイが批判する側から、批判される側に移ってしまったということでしょうか。そうであるのならば、ミレイは死後、急速に忘れられてしまい、作品は歴史に埋もれてしまったというのも分かる気もしないではありません。
③晩年の風景画 晩年のミレイは、スコットランドの風景をポエティックに描いたと言いますが、私にはあまり面白いとは思いません。 (2)ラファエル成熟期の主な作品 『三姉妹』 |