ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『聖母マリアの少女時代』
 

 

 

1850年代前半、ラファエル前派の活動がスタートし、ミレイやハントが盛んに作品を制作し、発表していました。この二人に比べて、ロセッティがまとまった油絵作品として完成させ、発表したのは、この二作のみと言えます。しかも、この二作は連作のような関係にあるものです。この二作は聖母マリアを題材としていて、宗教画に分類されるものです。しかし、これらは同じ時期にミレイやハントが宗教的なテーマで描いた作品と大きく異なるものとなっています。その大きな点は、キリストを描かず、聖母マリア(だけ)を取り上げていることです。これは、宗教画ではあっても、ロセッティが聖母マリアを至高の女性の女性と呼んで憚らなかったといいますから、理想の女性を描いたという、いかにも後年のロセッティにつながるような特徴がすでに表れているということではないでしょうか。また、ミレイやハントの宗教画では後のキリストの受難の予兆がシンボルに託されて挿入されていて、それが画面の全体の象徴性を高め、緊張感をもたらしていたようなことを、ここでのロセッティは行っていないということです。

まず、『聖母マリアの少女時代』(左図)から見ていきましょう。この作品は、画面中央にある百合の花を刺繍にしているマリアを描いたものと言えます。これは、ロセッティ自身が言っていることですが、伝統的な宗教画の主題である聖母マリアの教育に沿うものだと言うことができます。“主題は聖母マリアの教育という、これまでもムリリョやその他多くの画家によって幾度となく扱われてきたものですが、私にはそれらが不適切な方法で描かれてきたとしか思えません。といいますのも、彼らは決まって、マリアを母アンナの監督の下で書物を読む姿で捉えられてきているからです。これは明らかにその時代とは相容れない行為であって、純粋に象徴的な方法で扱われていない限り、到底容認し得ないものです。そのため、はるかに蓋然性が高く、しかもありふれていない表現を試みるために、私は聖母が百合の花を刺繍しているところを描きました。”とロセッティが言っているように、ムリーリョの『聖母の教育』(右下図)は宗教画の伝統に則って描かれた常識的なものだった言えます。しかし、ロセッティは、自身の言葉のとおり伝統的な読書ではなく、敢えて刺繍をするマリアを描きました。ここには、ロセッティなりの伝統への反抗と、こじつけに近いかもしれませんがリアリティの追求という姿勢があったがためだと思います。

ロセッティの生きた19世紀の時代でも平均的な家庭で母親が娘に教えるものは読書ではなく裁縫であったでしょう。そうすう読み書きより家事仕事の伝授が優先されていたという歴史的に事実と思われることに従い、ロセッティは、これまで誰も描かなかった、実在の人間としてのリアルな少女マリアを描こうとしたと言えるのではないでしょうか。そしたまた、ラファエル前派の自然主義のマニフェストといえるようなことを書き込んでいます。それは、マリアの刺繍する姿に表れています。刺繍といえば紙に書いた図案に沿って縫っていくのが一般的やり方ですが、マリアの手許に図案はなく、彼女の視線を追いかけて見れば、白いユリの花を見つめています。この刺繍のやり方は、ラファエル前派の人々が実際の自然を観察して写生をして描くといった姿勢を連想させるものとなっています。つまり、ここでマリアはラファエル前派の姿勢を体現しているわけです。

とはいっても、この作品では自然主義リアリズムに則った精確緻密で写実的な絵描き方というよりも、象徴主義的な描き方がされています。この点で同じラファエル前派のミレイやハントの歴史的な時間の内に現実に起こったかもしれぬ場面を今実際に目の当たりにしているような宗教画とは大きく異なります。それは、例えば天使の羽根や、マリアやアンナの光輪が描かれていることなどから分かります。そして、画面の中に様々なシンボルが散りばめられていて、その複雑な象徴性を解釈する手がかりとでもいうのでしょうか、ロセッティは次の2編のソネットを額縁に書き入れました。

T

こは、かの祝福されしマリア、あらかじめ選ばれし神の性処女。

歳月は旧りたれど、そのため

若き日をガラリアなるナザレの町に過ごしぬ。

慈み敬う御親にうち守られつつ

はや、くもりなき聡き心と

ひじょうの忍耐を現しぬ。御母の膝にありしときより

信篤く、希望に溢れ、慈み深く

厳しき平穏のときに強く、かつまた務めにありて堅し。

少女の月日はかくこそありけれ。

神の傍らに育まれ、静やかなること

天使の水遣る白百合のごと。ある夜明、家なる

白き褥にて目を覚ますその折まで畏れはなかりき、

─されど陽の昇るまで泣き泣きて、ついに畏れを覚ゆ

時満ちたれば。

U

ここに描かれたるは象徴なり。赤き布の

なかほどにしるされしは三つの点。

第二の点のみ、しかと認められざるは

キリストのいまだ現われざることを示すもの。書物は

(パオロの説きし黄金の慈愛を天辺に置き)

それぞれに彼女が魂より溢れ出る徳目を表す。

さればこそ、そが上に無垢なる

百合花は置かれたり。

七つの棘ある茨と七つの葉ある棕櫚とは

彼女が七つの悲しみと喜びとを表す。

時満つるそのときまで、聖霊は

いまだ見ぬ御子を待ちてとどまる。されど時経ずして

彼女潔き御業をなし給わん。げに、主なる神、

御子授け給うほどもなくぞ。

 

ここでは、詩の言葉が絵の解釈をひとつひとつ示しています。ロセッティという人は理念先行というのか、言葉で語る詩人であって、その詩人と不可分に画家になったという人ということができます。従って同じテーマで詩と絵が同時に創られ、それらが互いに補完し合うように絡み合うことによって、彼の作品の象徴性は完成するに至るということになります。そこでは、作品を見るものに、目に見えないはずの神秘が詩の言葉を介することによる目に見えてくるような感じにさせるのです。

では、上のソネットを見ていきましょう。

ソネットTでは前半で聖母の基本的な徳性が幼い頃から既にそなわっていたことが歌われ、後半は『我は主の婢女なり』を関連させる受胎告知を予兆させる。ソネットUでは、“ここに描かれたるは象徴なり”とうたっているように、絵の中で描かれている象徴の幾つかを解説しています。例えば、画面中央の欄干に吊るされた赤い布。血を連想させる赤い布地はもともと伝統的なキリスト受難の象徴です。ここで目を凝らして見てみると、その赤い布にしるされた三位一体を表わす三角形の左下の第二点が欠けているのです。三角形で三位一体を暗示するというのは宗教画ではよく使われる手法ですが、ロセッティはここで不完全な三角形を描くことでキリストの不在を示すという手の込んだ象徴的な表現を試みています。しかし、こんな複雑な象徴は絵を一瞥した程度では分かるはずもなくマニアックすぎるといっても過言ではありません(そんなところに、ロセッティのオタク趣味が仄見えるのですが)。それをソネットUの“ここに描かれたるは象徴なり”に続く“赤き布の/なかほどにしるされしは三つの点。/第二の点のみ、しかと認めざるは/キリストのいまだ現れざることを示すもの。”とうたわれており、それを読むことで、鑑賞者ははじめてその象徴に気づくことができるようになっています。画面中央下に積まれた6冊の書物は、上から慈愛、信仰、希望、賢明、節制、剛毅という基本徳目を表わしています。書物の上に置かれた百合の花は、聖母の代表的なアトリビュート(シンボル)で穢れなき無垢を示しています。また聖母が味わったとされる七つの悲しみと喜びを表す茨と棕櫚は、画面手前の床の上に束ねられ、その束ねている革紐には“あまたの悲しみ、あまたの喜び”と記されています。

また、画面の中にはソネットにうたわれていない象徴も多数存在します。欄干の上のガラス器に生けられた棘のない薔薇は、「純潔」の白百合とともに聖母の花であり、その傍らのランプは「敬虔さ」を表すとされるものです。欄干の向こうでヨアキムが手入れをしている葡萄の木も、ヨハネ福音書に“わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である”とあるようにキリストの象徴です。その脇では聖霊の象徴である鳩が格子垣と羽根を休め、緑の蔦のからまるその垣根の一部が、ちょうど画面の中央で十字架の形になっています。これは未だ不在のキリストの、十字架上の死の暗示と言うことができます。そして、ソネットにもあるように、キリストのみならずマリアの未来をも暗示しています。ソネットTにあるように、今は平穏な少女時代を過ごしているマリアですが、その後、思いがけず母になってしまうわけです。自分では何ひとつわからないうちに、しかも、ただの人の子ではなく、神の子の母になってしまうのです。それは、ソネットTもUも最後の4行に暗示されているわけで、これらのソネットと絵はキリスト懐胎という一点に帰結していくように一切が予兆されるがごとく象徴が暗示されていることが分かります。

このように、ロセッティは、同じような宗教画を描きながら、ミレイやハントとは違って緻密で写実的な画面から見えるもので語り、緊張感の高まる劇的に一瞬を場面とすることよりも、言葉による詩と見えるものである絵を補うように並行して制作することにより、見えないもの、例えばマリアの心理的な面をリアルに表わそうとした。そこに見るものの共感を誘うという作品の方向性を目指したのではないか、と私には思えます。

 
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