ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『レディ
・リリス』
 

 

「ヴィーナス・ヴェルティコルディア」ではヴィーナスを愛欲の女神として、男たちを誘惑し、翻弄し、最終的には破滅に至らしめる存在として描いていました。このようなものを追求して行き着く先は、唯美主義の文学作品で盛んに取り上げられた男を破滅させるファム・ファタール(宿命の女)です。文学作品ではサロメなどに代表されるといわれています。

このような女性を描くとき、ロセッティはおよそ次の四つのイメージによって、誘惑的な性格を表わそうとしていたと言えます。

・林檎をはじめとする植物

・誘惑の道具としての楽器

・誘惑され虜となった男の魂を表わす鳥のイメージ

・豊かな髪

ロセッティは、実際の作品では、これら四つのイメージを、ある時ははっきりと分かる形で、別の時には、ややもすると見過ごしてしまいそうな、何気ないところに姿をかえてこっそりと忍び込ませていたり、とさまざまに描きこんでいます。これらのうち、林檎をはじめとする植物については「ボッカ・バチアータ」のところで、誘惑の道具としての楽器については「青い部屋」のところで触れました。ここでは、豊かな髪について、「レディ・リリス」において述べてみたいと思います。というのも、この「レディ・リリス」(右図)こそ、ロセッティの作品の中で、女性の髪の恐ろしい力が最大限に表わされた作品であり、その中で魔女リリスは高慢そうな冷たい顔で、手鏡をもち、その長くしなやかな髪を梳いています。

「レディ・リリス」という作品は、1866年から70年にかけて描かれた「シビラ・パルミフェラ」(右下図)と対になっていると考えられます。「レディ・リリス」が肉体の美しさを表しているのに対して、「シビラ・パルミフェラ」は魂の美しさを表しています。パルミフェラという名前は「棕櫚の葉を持つ者」という意味で、モデルは手に棕櫚の葉を持っています。この棕櫚の葉は、蝶のモチーフと相まって、この絵のスピリチュアルな性質を表しているのかもしれません。また、この絵には赤いバラやポピーなどの花の象徴性があり、非現実的な背景空間が描かれています。

ロセッティはこの絵のために「肉体美」というそのものズバリの題名のソネットを作っています。

アダムが本の妻リリス、伝説によれば

(エヴを賜った前に彼が愛でた市子、)

かの蛇に先だちて、口舌で他を惑し、呪力の文なす、

その妖艶な髪の毛は初花の黄金であつた。

世は老いても常若に身構へ、巧に思ひをめぐらして、

かがやう髪の蜘蛛のい梳く手に

浮かれ男をあまた織り込め、そのはてには、

心も見も命さへも捉へて放たなかつたとか。

 

薔薇と罌粟とはこの妖女の手のもの、あはれリリスよ。

されば美し薫り、妙なる接吻、さては和める眠の

わなに誰一人として免れえようはずもない。

見よ、汝の蠱惑の及ぼすところ、若人の眼は炎と燃え、

直ぐなる頸もうなだれる、げにも、あな、

その心の臓を引絞れるは唯一筋の金髪。

 

 

レディ・リリスは、3〜4世紀のバビロニア神話で見つけることができ、ヘブライ語の聖典では彼女がイブの創造の前にアダムと同じ地球から創造されたと記されていました。上記の詩の中の「アダムが本の妻リリス」というのは、そのことを指していると思います。13世紀の物語のバリエーションでは、リリスはアダムに従属することを拒否し、エデンの園を捨てて大天使サマエルと結合しました。19世紀になると、リリスという名前は強力な女性の独立性と原初的な性的魅力の代名詞となり、彼女は悪魔か魔法使いのどちらかとして識別されるようになり、元の女性のファム・ファタールとなりました。ロセッティは彼女を後者と考えていたようで、リリスを描いた時には、ゲーテの「ファウスト」の中のメフィストフェレスの描写を思い出したようです。

「レディ・リリス」の髪の威力はすさまじいものがあります。この作品では、その圧倒的な力を補うかのように、ここにも幾つかの植物が描きこまれています。薔薇と罌粟についてはソネットのなかにも歌われていましたが、画面右上に見るような白薔薇は、一般に「無垢」や「純潔」を表わすとされています。しかし、これがそもそもリリスの罠なのです。つまり、それは彼女の純白の衣装や膝の上に置かれた「童心」や「優しさ」を表わすヒナギクの花冠とともに、男たちを油断させる巧みな手管なのです。邪気のなさを装った罠が白で表わされているのに対して、むしろ彼女の本性は赤─右下隅の赤い罌粟や左上の鏡台の上にある赤紫色の毒草ジギタリス─によって表わされているのです。つまり、「死」と「不誠実」です。しかもジギタリスの傍には、ピンク色に輝くハート型の容器があり、ソネットの最終行で、「その心の臓を引絞れるは唯一筋の金髪」と歌われていたように、まさしくジギタリスの毒と、梳かれて今にも届きそうな黄金の髪によって脅かされています。リスの左手首の血のように赤いブレスレットも、男の魂をしっかりと繋ぎとめる絆であり、珊瑚であるところに海の精セイレーンとの深い血縁を窺わせています。鏡台の燃えさしの蝋燭についてはもはや繰り返すまでもありませんが、これも元々は白い燭台ではなく、赤く塗られてあったのを、この「レディ・リリス」でロセッティは、画面一杯にリリスの悩ましい姿態を捉えながら、右上隅から左下隅に至る対角線上に白(薔薇、肌、衣装、ヒナギク)で一見無邪気な誘惑の罠を、そして右下隅から左上隅に至る対角線上に赤(罌粟、ブレスレット、鏡の房、髪、ジギタリス、蝋燭)でその危険な本性を描き出しているのです。<レイディ・リリス>は、おそらくロセッティの描いた最も危険なファム・ファタルである。それだけに「誘惑」の罠も一筋縄ではいかないものとなっています。

一方で、神話におけるリリスの男性による支配に抵抗する、強力で、脅迫的で、性的な女性である点も現れています。例えば、リリスは自分の美しさに集中し、自由で官能的な髪を贅沢に使い、ヴィクトリア朝時代の女性が通常身に着けていたコルセットを着けておらず、「すぐ脱げそうな服」を身に着けている。

同じような構図の作品に「アウレリア(ファツィオの恋人)」(右図)という作品があります。豊かな髪を梳る女性像です。この作品は、赤みがかった黄金の髪にちなみ「アウレリア(黄金)」となっていますが、「ファツィオの恋人」というのは14世紀イタリアの詩人ファツィオ・デリ・ウベルティが、愛する貴婦人、ヴェローナのアニオーラに寄せた韻文によるものです。

ブロンドの織り交った縮れ毛を見つめれば

愛は網を絡ませわたしの心を虜にする

時には真珠の数珠を餌に

時には薔薇一輪を挿し

というように、韻文には誘惑する女性像の萌芽としてロセッティが惹かれる所があったと思われます。この韻文は特に見るという行為を強調しています。男性の詩人は自分自身が女性の美しさに魅了されていると宣言していますが、女性は自分の相互観察の結果としてのみこの力を発揮することができます。アウレリア(その名前はおそらくその古典的な意味合いのために選ばれた)は彼女の赤い唇、流れる赤い髪と露出した肩と首によって画面で強調された強力なエロティックな魅力を醸し出しています。奥行きの浅い空間の中で、欄干を前にして、手前に櫛、香水瓶など、贅沢な化粧品が並んでいます。鏡に映る自身の姿に見とれる彼女の夢のような表現は芸術家の視線の対象です。

 

男を破滅に引き摺り込む女性への嗜好

世紀末になると、英国に限らずヨーロッパ中で“ファム・ファタル”と呼ばれる危険な魅力を湛えた女性像が盛んに描かれました。例えば、セイレーンという、ギリシャ神話に出てくる、海辺の岩場に棲み、通りかかる船乗りたちを美しい歌声で誘惑しては海に引きずり込んで溺れさせる海の魔女です。有名なものはホメロスの『オデュッセイア』にでてくるものです。このセイレーンは中世以降は半人半魚の人魚で、手に鏡を持ち、自慢の髪を梳きながら歌声で船乗りたちを誘惑するとされました。これをキリスト教会は人々を堕落させる邪悪な誘惑の象徴と解釈しました。人魚は人間のように魂を持たず、単なる肉体的存在であり、その魂を得ようとして人間の男と結ばれることを欲したと信じられていました。しかし、このような魔性のセイレーンはヴィクトリア朝の作家たちには、その禍々しい魔性と表裏の蠱惑的な美しさとを併せて魅惑的に映ったと言えます。

他方で、ヴィクトリア朝でのセイレーンのイメージは神話上の蠱惑的な魔女であると同時に、実は当時の男性たちの現実的で切実な危機感を象徴するものでもありました。セイレーンという言葉は、当時の隠語で娼婦を表わすものだったといいます。快楽の海に溺れて身を持ち崩すという破滅、あるいは当時においては梅毒をはじめとして性病は治療法が発見されておらず死の病でもありました。そのようなおそれがあることを知りながらも、毎夜のように男たちを駆り立てて売春宿に足を運ばせる娼婦たちはセイレーンと重ねられて見られたとしても不思議ではありません。

では、当時の画家たちはセイレーンをどのように描いたのでしょうか。まず、1837年に制作されたウィリアム・エッティの「セイレーンとユリシーズ」(左上図)です。ホメロスの『オデュッセイア』の場面を描いたもので、3人のセイレーンたちは人魚ではなく、全裸に近い姿でオデュッセウスをはじめとした船乗りたちを誘惑しています。この作品は、発表当時には痛烈な批判に曝されたといいます。古典的な絵画の規範を無視して、誘惑の危険を暗示するどころではなく、腐乱した屍体の上で平然と媚をうる女性の姿は不道徳とされたのです。

これに対してフロストの「セイレーン」(右図)は3人のセイレーンたちだけを描いたもので、エッティに比べると古典的なピラミッドの構図に当て嵌めて、セイレーンの肉体を描写することに努め、死の危険が暗示すらされていないものとなりました。そのため、フロストはエッティのような批判を免れることができました。しかし、その一方で、3人のうちの右端のセイレーンは画面のこちら側、つまり観る者の方に視線を投げかけています。エッティがセイレーンの神話を遠い昔の完結した物語として描いていたのに対して、フロストはセイレーンを神話の世界から、現代の社会へと歩み出させた。つまり、上述の現実の恐怖を仄めかすものとして描いていると言えます。

さらに、1858年のフレデリック・レイトンの「漁師とセイレーン」 (左下図)は、魚たちを殺した報いとして人魚に海へ引きずりこまれる漁師をうたったゲーテの『漁師』という詩を題材にした作品です。セイレーンは両腕を漁師の頸にまわしてしっかりと抱き寄せ、尾鰭を蛇のように彼の右足にからみつかせています。真珠を飾った長い黄金の髪や強く押し付けられた胸、そしてその胸から腰へと不自然なまでの蛇行を見せる曲線に、セイレーンの官能性は露骨なまでに強調され、否応なしに見る者に迫ってきます。一方、漁師はこのセイレーンと著しい対照を見せて、海辺の岩に背を凭せながらも、既に足首まで水につかり、観念したかのように目を閉じています。これはセイレーンの圧倒的な官能性を前にした男の無力さを物語るものでしょうか。しかし、一見してわかるように、この両腕を開いた漁師のポーズは、キリスト磔刑のそれに擬せられています。つまり、レイトンは漁師を単なるセイレーンの誘惑に屈した心弱き若者とするだけにとどまらず、彼を受難者に仕立て上げでいるのです。そのことによって死の恐怖がリアルさを減殺させることで、批判を免れようとしたと言えます。

このような流れの中で、1868年のロセッティの「レディ・リリス」をあらためて観ると、誘惑される男性や直接的な死の危険の暗示は画面にはなく、危険な雰囲気の女性を描くという特徴が、はっきりと分かると思います。つまり、ロセッティは“ファム・ファタル”という主題とか、男を誘惑する物語とかいったものではなく、そういう危険な女性の美しさそのものを描きたがったという点に、大きな特徴があったといえます。

 

 
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