ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『我は主の婢女なり』
 

 

 

この作品が『聖母マリアの少女時代』との連作であることは、前作『聖母マリアの少女時代』でマリアが縫っていた百合の刺繍が出来上がって、この作品では画面右下に置かれていることから分かります。しかし、『聖母マリアの少女時代』との連作による連続性よりも、この作品において当時としては大胆な試みを行ったことにより、『聖母マリアの少女時代』とは打って変わった作品になっていると思います。

『聖母マリアの少女時代』では、伝統的な聖母の教育という題材をリアリティのあるものにしようとして、一種独特のマリアを描いて見せました。しかし、ミレイやハントの宗教画と同じようにキリスト教の伝統的なシンボルをディテールとして多数配置し、結局のところ伝統的な宗教画の作法と象徴性を残した折衷的な結果となってしまった、とロセッティとしては評価せざるを得なかったのではないでしょうか。それは、彼がかねてから目指していたと思われる歴史的なリアリティ、そしてさらには心理的なリアリティとは言えない結果であったからです。

まだ仄暗い朝まだき、大天使ガブリエルの聖なるお告げにふと目を覚ました少女マリアの畏れ。ロセッティがこの作品を見る者に伝え、共感を呼び覚まそうとしたのは、伝統的な宗教画に描かれた神の子を宿した聖母の威厳などではなく、その朝マリアという名の普通の一人の少女を突然のように襲った畏れにおののく姿です。身体を心もちガブリエルから遠ざかるように壁に引き寄せながらも、じっとガブリエルの差し出す百合を見つめるマリアの訝しげな表情は、マリアの戸惑い、不安、畏れといった心の動きを想像させるものです。ロセッティの意図は、一人の少女マリアが聖母マリアへと変貌するその歴史上の一瞬間を、一人の少女のドラマとして、事細かな象徴や宗教画の様式によって説明するように伝えるのではなく、誰もが共感し得る素朴な感情に訴えることにより伝えようとしたのではないかと思います。

例えば、マリアのまとっている衣装も、彼女の寝台と同じくらいに白です。前作『聖母マリアの少女時代』に添えられたソネットで白百合の成長がマリアのメタファーとなっていたことから、白百合=マリアのイメージはひろがり、マリアの衣装や寝台にとどまらず、画面全体を白で覆い尽くすように、全体が白百合の象徴と化していると言ってもいいのです。しかし、これは、宗教画の伝統から言えば、聖母の描写には赤と青が用いられるという約束がありますが、ロセッティは敢えて約束破りを犯し、白で統一するという実験的な方法を試みたと考えられます。白百合の象徴もさることながら、一般的に白という色の汚れなき色のイメージで画面を統一することで、マリアの純潔と彼女のいる世界の清廉さを見る者の視覚に直接的に訴える効果を狙ったわけです。

ここで少し話を脱線させますが、このように白という単色トーンを強調し、それによって作品全体の印象をつくり出して見るモノに訴えるという手法が、そのものとして提案されたのは、この作品が制作されてから10年以上後のことだったといいます。それは同じイギリスの画家ホイッスラーの『白のシンフォニー』(右下図)という作品が最初とされています。それは20世紀以降のモダニズム絵画の大きな特徴となっていきます。それだけ、この『我は主の婢女なり』という作品の実験的性格がよく分かると思います。

また、異例といえば受胎告知に現われた天使に羽がない点も相当に異例で、天使が人にあらず神の使いであることを感じさせるものは、聖霊の降臨を象徴するかのような、黄金色に輝く足元のささやかな炎のみです。全体の構図も、伝統的な受胎告知の構図(左下図)とはかけ離れたものになっています。

話をもとに戻しましょう。ロセッティが、このような大胆な実験をしてまで、この作品で示そうとしたのは、理論という物差しや枠組みでは測りきれず、技法や方法には収まりきらない、もっと感覚的で普遍的なものではなかったのでしょうか。

作品の中のマリアはすでにイノセントで無垢な少女ではありえません。何も知らなくて許された幸福な少女時代という、目の前の幸せがいつまでも続くものと無邪気に信じることのできた時代は、もはや戻ることなく手の届かないものとなってしまった。これは、この作品を見る者は誰に教えられることもなく、そうと分かるものとなっています。その最も大きな要因はマリアの湛える憂いと翳りの表情です。前作『聖母マリアの少女時代』の頃では、最早ないということです。天使ですら前作では幼子のようであったのが、この作品では大天使となって現われてきているのですから。前作の添えられたソネットでは“天使の水遣る白百合のごと”“神の傍らに育まれ、静やかなる”マリアは、その象徴する白百合が、この作品では手折られた状態で、天使から彼女に向かって真っすぐに差し出されています。ちょうど根本を下腹のあたりに向けてです。白百合の花は聖母の象徴であると同時に、そのラッパ型の独特の形状から、男性自身の象徴であるとされてきました。望むと望まざるとにかかわらず、成長したマリアがもはや少女のままではいられないことを、ロセッティは、ここで構図と象徴の妙によって暗示していると言えます。そして硬い表情であらぬ方向をじっと見据え、まるで追い詰められたかのように壁に向かって後ずさりするマリアの姿は、この作品において一人の女であることを、何よりも雄弁に語っているとは言えないでしょうか。突然に受胎告知なんぞをされてしまって、驚き怯える生身の女であることを、直截的に訴えています。ロセッティは聖母としてではなく、マリアという人間の女性の心理的リアリティをこの作品で追求しています。まったく身に覚えのない妊娠を告げせれて、驚きこそすれ喜ぶ女性など、常識的に考えて、いるはずはありません。人を愛し愛されることも知らないまま、人の親になってしまうわけですから、恐ろしくないはずがありません。実際のところ怖くてたまらないはずです。だから、この作品でのマリアは、寝台の上で畏れ、後ずさりし、眼前の天使を頑なに拒もうとします。

考えてみれば、キリスト教最大の神秘は、神が我々と同じ人として現われ出たことにあると言っていいでしょう。神の存在を信じ人が人であることに意味と誇りを見出せる根拠は、まさにその点にあるのです。ミレイやハントとは違って、ロセッティはキリストその人を描くことなく、マリアを描くことによって、しかもマリアの人間性に焦点を当てることで、その神秘をひとつの真実として、誰の目にもはっきりと分かるものとして具体的に表現したのです。知恵と力の限りを尽くして、不可視のものを可視とする。形なきものに形を与える。神に憧れてやまず、一人祈るようにその神秘を詩にしたため絵に描いた、その成果がこの作品であると思います。

 
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