ラファエル前派の画家達 ジョン・エヴァレット・ミレイ 『両親の家のキリスト(大工の仕事場)』 |
作品を見ていきましょう。大工である父親の仕事場で、ヨセフと助手がドアを製作中で、画面真ん中の台に乗せられています。そのドアから突き出た釘で少年イエスは左手のてのひらを傷つけてしまう。母親のマリアは跪くようにイエスの脇で少年を慰めようと、心配な表情をしている。イエスはマリアを安心させようとするのか、彼女の左ほおにキスしている。父親のヨセフは、イエスの傷を見ようとするのか、少年の左手を後ろにそらす。すると、イエスは左手のてのひらを露わにして傷を見せるだけでなく、結果的に祝福を与える仕種になっている。そして、そのために傷から血が地面に滴り落ちている。祖母のアンナは傷の原因となった釘を抜こうとするのか、やっとこに手を伸ばそうとしている。右手からは従兄のヨハネが傷を洗うためか水を入れた盥をもってくる。それを逆側に大工の助手が傍観している。そういったところでしょうか。 可能な範囲で、細かな物語を見ていきましょう。まず、この仕事場で製作されているのはドアということになっていますが、ヨハネ福音書に “私は戸である。私を通って入るものは救われ、出入りして牧草を見つけるであろう。”とあるのが由来であると言われています。つまり、ドアはキリスト自身の象徴でもあります。作業場には、ドアの製作のためドア板を削った木くずが散らかっていますが、ドアがキリストの象徴であるとすれば、そのドアを削る、つまりキリストの身を削ることによって出たもの、ということはキリストが身を削って人類のために犠牲になることの象徴といえます。そして、少年イエスはドアの一部の釘で傷ついたわけで、キリスト自身によって傷ついた、ということはキリストが自らすすんで犠牲になったことを表わしていると言えます。そして眼を中央の壁に転じれば、大工道具が立て掛けられています。まず目を引くのははしごですが、これはキリストが磔刑になった時にかれを十字架にかけるための道具です。そのはしごに止まっている鳩は精霊を表わしています。道具類は十字架を作るための道具でもあります。そして、左手奥には戸外の風景が広がっており、そこには一群の羊が室内を覘き込むようにしていますが、キリスト教の信者たちを表わしています。その他にも、細かなキリスト受難のシンボルがあるようですが、この程度にしておいて、手前に移ります。右手前でヨハネが水の入った盥をもってきますが、これは後に、ヨハネがキリストに洗礼を与えることを予見させるものです。そして、この場面のクライマックスである手前中央はイエス少年の傷は、後年、磔刑に処せられて十字架にかけられる時にてのひらに釘を打ちつけられたことを予見させ、マリアの重い表情はそれを予見しているかのように見えます。そしても発表当時添えられたという預言書の文章は、“もし人が彼に「あなたの手の傷は何か」と尋ねるならば、「これは私が友だちの家で受けた傷だ」と彼は答えるだろう。”というザカリア書の一節です。
さて、これだけ細部が過剰で、意味があふれてしまうような画面で、それぞれ細部が互いにけんかして、存在を打ち消し合ってしまうこともあるのですが、この画面では、そういう事態が起こらず、結果として納まっているようです。これは、画面構成が単純で左右対称に近いテイストで均衡がとられているため、全体として安定した印象になっていて、そこに細かく描き込まれた各部分がはめ込まれているからです。真ん中に長方形が画面に対して水平におかれているのが、どっしりとした安定感を与えてその長方形のまわりに左右対称のように人物を配すると、安定感は崩れないし、釣り合っているような感じが加わり、安定感が増してきます。さらに、人物たちは長方形に向かうように配されているので、すべてが画面を見ているこちらに対して正面を向くことができて、それに不自然な感じを与えずに済むことができます。人物が全て正面を向いている いや、もしかしたらミレイは意図していたかもしれません。それは、この作品が、あたかも教会の壁画として描かれたように見せようと工夫されているからです。ミレイは、この作品については白い地塗りの上に構図を描き、フレスコやテンペラといった壁画のように似せて、あたかも日ごとに部分が仕上げられていったかのような跡を意図的に付けているそうです。それは、油彩の層の下に鉛筆の線が見て取れるように残されているそうです。これは、私には凝り過ぎと思えます。
このような宗教画は近代化された社会において、特に産業革命によって勃興した市民階級や、新たに出現した専門職を含めた中産階級の人々の中では、世俗化が進行し、宗教に対する姿勢も、宗教心は保っているものの、教会に通い儀式に参加するという形式的な態度を嫌い、新しい信仰の姿勢として精神主義的な姿勢といわれるそれぞれの個人が直接神に祈るという信仰の姿勢に、マッチするものだったと思います。言ってみれば、形式的な祈りの言葉ではなくて、心でダイレクトに神と交信しようするのは、この作品のように、見る個人が感情的に共感することで神に向かうというひとになるわけです。その意味で、後世のジェイムズ・ティソやフリッツ・フォン・ウーデなどが展開する人間的な宗教画への道を開くことになった、と指摘する人もいるようです。
これらのことは、ミレイという画家の特徴に根差したものと言えると思います。それは、モデルを写して描くことには抜群の腕前を発揮するのに、自らの視覚的想像力によって構想する点では弱いということです。例えば。女性の理想の姿などという現実には存在しないものを描こうとする時、ミレイははたと困ってしまうのではないかと思います。これに対して、ロセッティなどは、目の前のモデルを描いていても、いつの間にか彼自身の理想像が混じってしまう。その結果、ロセッテイの描く女性はモデルが誰であろうと、同じような女性の姿になってしまうことになります。ミレイは、こんなことが出来ない画家だったと思います。モデルの女性を描くときは、モデルを忠実に写して描いていく。だから。理想の女性を描こうとすれば、現実に存在する理想の女性を写生することはできても、存在しない女性像一般のようなイメージを持たないのだと思います。そういうミレイにとって、理想の姿としてのマリアを求めるということが、どのようなことか、想像するのは容易です。 追伸:この構図について別の意味合いをもった解釈もあるということです。つまり、大工道具の掛けられた壁は、羊たちが仕事場に入り込めないように隔てる壁です。これは羊にシンボライズされている一般信徒と聖家族を切り離す内陣仕切りを表わすことになります。とすれば、大工の作業場は聖域であり、作業台は祭壇と言うことができます。キリストと聖母のみが祭壇である作業台の手前にいることができるというわけです。さらに左の戸口はるか彼方には井戸が掘られていて、これは教会の西の隅に置かれるべき洗礼盤を暗示しています。ここから幼いヨハネが水を汲んできたというわけです。こうしてみると、この絵を観る者は、教会の東の端から祭壇を眺めていることになります。これらをまとめると、大工の仕事場は、実は最初の教会ということになるわけです。 |