ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『パオロとフランチェスカ
 

 

パオロとフランチェスカの悲劇的な物語はダンテの『新曲』の地獄篇第5曲のパオロとフランチェスカの挿話で語られていますが、これは、1285年頃実際に起こった事件を基にしたものです。当時リミニのマラテスタ家とラヴェンナのポレンタ家という二つの相対立する家がありました。ある時和解のためにグイド・ダ・ポレンタの娘フランチェスカをマラテスタ家へ嫁がせることになったのでし。しかしこの時、両家はフランチェスカに内緒で一つの奸計を用います。つまり武勇の誉れ高いが風采の上がらぬ跛の兄ジャンチオットがその相手であったにもかかわらず、美男の弟パオロをジャンチオットと偽って見合わせ、フランチェスカをマラテスタ家へ嫁がせたのです。フランチェスカは嫁いだ後はじめて事の次第を知るにいたります。が、時は既に遅く、フランチェスカのパオロに寄せる、またパオロのフランチェスカに寄せる恋情はもはや絶ちがたいものとなってしまっていたのでした。折しもジャンチオットが公務で外出の機に、睦やかな二人の様子を使用人がジャンチオットに注進に及び、とって返したジャンチオットの手で二人は有無を言わせず殺害されたと伝えられています。しかし、地獄篇第5曲でダンテは一切こうした史実に触れようとせずに、ダンテがヴェルギリウスとともに肉欲の咎人が集まる第2獄で見たのは、抱き合ったまま狂風に煽られ、暗い空をあてどなく漂う二人の魂であったというのです。これは18世紀後半以降の芸術家と彫刻家に人気の主題でした。たとえば、1854年にG.F.ワッツはロイヤル・アカデミーで「パオロとフランチェスカ」を発表しています。

一方、ロセッティはこの挿話をもとに1855年1枚の水彩画を制作しています。それが「パオロとフランチェスカ」です。この作品は、三つの部分に分けられており、左の第一の部分には大きな円窓を背に互いの手と手をしっかり握りしめ接吻を交わす二人の姿が描かれています。二人の膝の上には一冊の大きな本が置かれ、その開かれた頁には二人に接吻を唆したランスロット卿と王妃グウィネヴィアの接吻の場面が認められます。右の第三の部分は、抱き合ったまま第2獄の狂風に漂う二人の姿が、かれらの体と対角線に配された無数の火の玉(魂)を背景として描かれています。『新曲』には、肉欲の罪人の魂を火の玉とする記述は見られません。ロセッティは、独自に地上で亡くなった人々の魂を火の玉状のものと想像しているのです。以上のように、この作品は画面を三つの部分に分け、各々左から○=×と極めて図式的な構図を見せています。細かなディテールは一切省かれ、もっぱら抱き合うパオロとフランチェスカとそれを見ているダンテとヴェルギリウスの姿だけが、奥行きを排した装飾的な画面に浮彫りにされているのです。画面の平面性、装飾性はさらに『新曲』からの引用の記入によって高められています。このような形式上の特性は、パオロとフランチェスカという主題に対するロセッティの関心の在処を如実に物語っているといえます。それは、例えばアングルの「パオロとフランチェスコ」(1819年)と比較すると、鮮明に浮かび上がるように分かります。アングルの作品では、パオロは恥じらい気に顔をそむけたフランチェスカの頬に接吻しています。その瞬間彼女の手からアーサー王の物語が落ち、背後のカーテンの影から現われた醜い夫のジャンチオットが、二人を手討ちにしようと剣に手をかけています。ロセッティとアングル両者の違いは明らかです。大きな違いは三つ挙げられ、第一は、その接吻とフランチェスカの表情です。ロセッティにはフランチェスカに恥じらいの表情を与えるなど、全く見当違いも甚だしいと思われ、その瞬間は彼女にとって、「恋しくてたまらなかったから、私はあの人を愛したのだ」ということがすべてなのだといっているようです。互いのつのる思いの果ての接吻であってみれば、恋心に強くとらえられたフランチェスカに恥じらいの表情を与えることは、その貞潔さを暗示するどころか、むしろ卑しい不純な要素を加えることに等しい。フランチェスカはパオロの激しい恋慕の情けに屈したメロドラマのヒロインではない。そのため、ロセッティの互いに抱き合い口と口を合わせる二人には、情熱の無垢さがあるのに対して、アングルのフランチェスカにはむしろ媚態に似たいやらしさが表われています。二番目は、ジャンチオットの存在です。ダンテ自身『新曲』の中で一言も彼に言及していないように、ロセッティにとっても、彼はまったく余計な存在でしかなかった。ロセッティには、ジャンチオットの姿を描き、アングルのように一瞬のちの二人の死を暗示することなど思いもよらないことでした。それは、二人の接吻の瞬間が、そうした至高の愛の瞬間の前では、現世的な死などまったく取るに足らない瑣事にすぎなかったと言えます。ロセッティにとっては、ダンテが書いたように「かの日我等またその先を読まざりき」で十分だったということです。三番目は、二人の読んでいたアーサー王物語の書冊の扱いです。アングルの作品で、フランチェスカの手からこぼれ落ちた小さな本の頁には、挿絵の存在は認められないのに対し、ロセッティの作品では、互いに抱き合い接吻を交わすランスロット卿と王妃グウィネヴィアの姿がはっきりと認められます。しかも、ランスロット卿はパオロと同じく赤い上衣の下から黒い袖を見せ、王妃グウィネヴィアはフランチェスカの予型を見ていることを示しています。二人の抱擁と接吻は、ランスロット卿と王妃グウィネヴィアのそれによって予表されていたのであり、地獄の第二獄における永遠の抱擁と接吻を約束するものだったのです。ダンテの「われら一日こころやりとて恋にとらはれしランチャロットの物語を読みぬ。(中略)かの憧るる恋人の接吻をうけしを読むに至る時、いつにいたるも我とはなるることなきこの者、うちふるひつつわが口にくちづけぬ」という記述にもかかわらず、かつてロセッティのように明確な予型論的な意図をもってパオロとフランチェスカが描かれた例は一つもありません。本の存在はロセッティにとって単なる小道具以上の意味を持っていたのです。

さて以上のように見てくると、ロセッティの「パオロとフランチェスカ」の単純化された画面構成が、ひとえにパオロとフランチェスカの接吻の瞬間だけを純化した形で提示しようとした結果であったことが分かるのです。二人の浮かべる恍惚とした表情から明らかなように、まさしくロセッティは二人の接吻を偶像視しているといってよいと思います。

ロセッティにとって接吻は、単なる愛情表現にとどまらない意味を持っていたと言えます。ロセッティにとって接吻こそが「愛の目的」であったのでした。接吻は愛し合う者たちに、魂と魂の交歓をもたらすものと想像されているのである。ロセッティにとって接吻とは、束の間肉体を離れた魂と魂とを一つに結び合わせ、永遠の愛の世界へと参入させる象徴的な行為と考えられているのです。こうした理想化された接吻を最もよく体現するのが、パオロとフランチェスカの接吻でした。そうした接吻ゆえに、かれらは死を超えて、永遠に抱き合ったまま愛し続けるのです。

 

 
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