ラファエル前派の画家達
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ
『青い部屋』
 

 

 

「青い部屋」(左図)は、ティツィアーノやパルマ・ヴェッキオを思わせるヴォリュームのある袖の衣装に身を包み、14弦の小型の琴を奏でる、一人のもの思わしげな女性の姿が青を基調とした鮮やかな色彩で描かれています。背景の装飾的な処理といい、奏楽のモチーフといい、どこまでもヴェネツィア派を意識したロセッティのヴェネティアン・スタイルの一頂点をなす作品と言われています。この「青の閨房」という作品がわざわざ“青の”という色をタイトルに冠したのは、背景の梅の意匠のあしらわれた中国風の染付タイルの青を基調として、女性の衣装や矢車菊(琴の手前)、髪飾り、昼顔(女性の右肩先)やトケイソウ(画面上部左右)の枝葉が、様々な調子の青と緑とで微妙に描き分けられていることによります。こうした画面の青い印象を、女性の赤い髪や筝の緋色の房がアクセントとなって赤みを帯びた温もりのある女性の肌や髪の柔らかさに対して、多様な青い色調とタイル等の磁器の硬質な冷たさで一層際立たせているが、ロセッティが制作当初からこれを青を基調とした作品にするつもりでいたと言われています。

ロセッティは1860年代初頭にホイッスラーで出会います。ホイッスラーは物語的要素を排除するようにして、その代わりに色彩により画面全体のムードをつくり上げようとしていました。「白のシンフォニー」(右上図)という作品は白という単一の色彩を基調として、音楽用語をタイトルにすることで、一般的な絵画の主題性・物語性に対する強い忌避の姿勢を示しています。これは、ウォルター・ペイターの“あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる”という『ルネサンス』の中の有名な一説、つまり、形式と内容の一致に対する憧れを絵画で試みたと言えます。

これに対して、ロセッティは奏楽のテーマというものに少し違った意味合いをみていました。ロセッティは音楽嫌いであったにも関わらず、古今東西の珍しい楽器を多数蒐集していました。それはおそらく形やデザインの面白さを、絵画のモチーフとして利用しようと考えていたからでしょう。しかし、単に形が面白いからといって、それだけでは絵のモチーフとはなりません。それには、何か取り上げる必然性があったはずです。それは、ロセッティが若き日にルーヴル美術館を訪れて、ジョルジョーネの「田園の合奏」(右下図)を見たときに書いたソネットに見ることができます。

夏至の節忌を、水は今その悩みゆゑ。─さもあらめ

甕を浸せ、徐ろに、─且又耳を傾けて

聞きてあれかし、その縁にうち喞ちつつ忍び入る

波の嘆きを。こころせよ、青渕深き水の底、

暁がたを音もなく日の熱さこそ籠りたれ。

今し手を置くヴィオロンの絃は顫へて啜り泣き、

咽ぶや、あはれ歓楽の極みに物は悲しくて、

稍色焼けし面の主歌ふをやめぬ。かの君の

眼はいづこを迷へる。脣すべる細き笛

吹きさし棄つる折からを、素肌を胸にうち撓ひ

さへぎる草の葉も涼し。さてしもかくてあらしめよ。

物を問ひそ、かの君に。かの君こそは泣きもせめ。

言にな出でそ、いつまでも。在るが随にしあらしめよ。

「不滅」の魂と語らひて口触れ合へるその「命」。

このソネットにおいて、ロセッティは「田園の合奏」の魅力を、ふとフリュートを弾く手が止まり、はたと互いの眼が見交わされる、そうした絶妙の瞬間、「歓楽の極み」が一転して悲しみへと変わる神秘的な瞬間を提示し得ている点に見ていると言えます。この瞬間はロセッティにとって単なる無意味な空白ではなかったはずです。それは永遠性に繋がり、神秘をかいま見せてくれる至高の瞬間にほかならなかったのです。そのことは最終行を見れば、明らかです。

ここで参考として同時代のイギリスの批評家ウォルター・ペイターがジョルジョーネに関して『ルネサンス』の中で、次のように記しています。“唐突な行為、考えの急激な変化、表情の移り動き─こういうものを彼はヴァザーリが彼の特質としてジョルジョーネの火と名づけたすばやさで捉えた。深い意味を持つ生気あふれる一瞬。ただ一つの仕様、表情、ほほえみ─短く、まったく具体的な瞬間─にすぎないことかもしれないが、長い歴史のあらゆる動機、あらゆる動機、あらゆる興味と効果が凝集され、現在の強烈な自覚のなかに過去も未来も吸い込んでしまうような瞬間を提示することこそ、最高の劇詩の理想とするところである。このような理想の瞬間を、ジョルジョーネ派は、ヴェネツィアの昔の市民の熱に浮かされた混沌たる色の世界から、あっぱれな伎倆をもって選び出す。時間のなかの絶妙の休止点─こうして捉えられた一点に、われわれは豊かに充実した存在を望み見る。そこに生命の精髄、本質がある。”ペイターはジョルジョーネの本質を充実した瞬間の提示に見出していたと言えます。これは、ロセッティのソネットと共通した見方であると思います。さらに、ペイターはジョルジョーネの秘密が画題の選択にあるとして、“ジョルジョーネ派においては、音楽そのものの完全な瞬間、音楽を作ること聞くこと、歌あるいはその伴奏などがまたすぐれた画題となっている。”と述べています。つまり、ペイターやロセッティにとって、ジョルジョーネの卓越した点は、急激に表情が変化したり、ふと脳裏を言い知れぬ感情がよぎったりする、そうした絶妙の瞬間を奏楽や歌唱といった主題のうちに描き出した点にあったと言えます。

これはまさしく、ロセッティの奏楽のテーマの秘密です。「青い部屋」の中で、女性が軽妙な手つきで琴を爪弾き、その音色を確かめるかのように小首をかしげる姿を見てみると、彼女の奏でる琴は、その眼や指先の微妙な表情と相俟って、私たちを外的なリアリティの世界から解き放ち、染付タイルの連還さながら透明な音で飽和した空間へと誘います。琴の音に合わせ、歌おうして、彼女の唇はこころもち開きかけています。しかし、琴から音がはじき出された瞬間、彼女はかすかに息を呑むわけです。画面にその一瞬を鮮やかに刻みつけられているわけです。それは音と音のはざまの一瞬に挿入された心の吐息にほかなりません。

ロセッティがこの「青い部屋」という作品で意図したことは、青を基調とした精妙な色彩や、背景の染付タイルの装飾的な処理によって、単に「音楽」のアナローグを提示することに留りませんでした。若き日、ジョルジョーネの<田園の合奏>に一篇の描かれた「詩」を見たように、「青い部屋」においても、ロセッティが望んだことは、曰くいいがたい内的な一瞬の提示、すなわち「詩」を描くことにほかなりませんでした。ジョルジョーネの「田園の合奏」の中で竪笛と水差しをもつ二人の裸婦が「詩」の寓意像と解釈されるように、「青い部屋」の中で14弦の琴も彼の「詩」(ソネット)を描こうとする意志を象徴的に代弁するものと考えてもいいでしょう。ロセッティ自身、ある時こう語ったと言います。“最も気高い絵は、描かれた詩である。

 

楽器を爪弾く様子という題材であれば、この「青い部屋」の他にも、ロセッティは「あずまやのある牧場」(左図)では、ジョルジョーネ風の田園風景を背景に、楽器を手にする二人の女性を配し、さらに画面中ほどに音楽に合わせて踊る二人の女性を挿入させています。緑の背景の上に薔薇色がどのように響くかを試すかのように、この二つの色を女性たちのドレスや髪の毛の色合いとして繰り返すように用いています。

同じように「ラ・ギルランダータ」(右下図)では、音楽のアナロジーということだけでなく、楽器の持つ不思議な形状の面白さを女性を描く構図上の視点としても用いています。さらに、音楽に身をゆだねる状態になぞらえる効果もあります。画面の女性の弦を爪弾く指先に見る者の視線が集まり、音の響きを連想するように自然と導かれる。すると画面の中で楽器の音色に夢見がちに耳を傾ける女性自身がまるで色や筆触という音を響かせている楽器のように感じられてくる。さらに音だけでなく、他にも、様々に感覚を刺激する要素が描きこまれているわけです。光沢を帯びて緩やかに襞をつくる絹地、流麗に流れる髪、つややかでしなやかな花びらの表現などは、触覚的です。またはびっしりと描きこまれる薔薇やスイカズラは甘い香りを連想させます。このような五感それぞれへの働きかけ、またそれらの相乗的な効果により、見る者の感覚は様々な段階や深さにおいて目覚めさせられることになります。主役である女性の持つ圧倒するような存在感と配色の効果により、視覚への刺戟が最も強いことはもちろんですが、その他の感覚、すなわち聴覚、触覚、嗅覚を刺激するモチーフも画中に散りばめられて、理性を圧倒する感覚の優位が語られてもいると言えます。

 

 
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