グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第8群(第22変奏〜第24変奏)
 

 

第10章 第8群(第22変奏〜第24変奏)

第8群。

第22変奏

第22変奏は「アラ・ブレーヴェ」とバッハが楽譜にわざわざ書いて念押しをし、前の変奏の重く暗い気分を一掃させています。ここではバス主題が前面に出てきます。それはコラール風で、慰めの歌になっている。敢えて言えば、第21変奏の哀しみを乗り越えて、その向こう側で、今度は自身と希望を向けて力強く歌おうとする、そういうことでしょうか。バスの低いところから上昇してくるような主題の形です。だからどうしても遅いテンポでたっぷりと歌いたくなるところを、指示はアラ・ブレーヴェ。バッハはだらだらするなと指示している、と。実際に、バスの動きが変奏の推進力を生み出して、そのリズムの切れ味がいいのです。だから最後は「おしまい」という感じ、つまり、前の第21変奏を受けて解決を与えて一区切りという終わり方になっていると思います。

・グレン・グールド(1981年録音)

前の第21変奏から続いて、重い気分断ち切るように、バスの全音符の力強い打鍵から始まります。ただし、強打するほど強調はしません。このバスの全音符が、長く伸びる音が変奏全体のリズムを作っているので、一音だけ強調すると、それが乱れてしまうからでしょうか。冒頭の音だけは、はっきりとアクセントが付けられているのですが、その後の小節でははっきりとアクセントが感じられず、スゥーと入ってくる、裏拍気味なのかと思うのですが、確たるものではありません。ただ、冒頭の入りは他のピアニストではあまり見られないうで、グールド独特かもしれません。そのバスの全音符についていくように低音域で別の声部の音が加わってきます。分散和音のようなかたちは、まるで金魚のうんこのようです。それがフレーズをつくり、フーガのように右手に引き継がれます。このフーガのテーマの音型を、グールドはひとつひとつの音が立つように、弾むように弾いていきます。そうすると、全体の推進力はバスの全音符で、フーガのテーマが遅れないように弾んで随いていって進んでいくような感じになっています。

この前半の8小節を、グールドは繰り返しますが、2回目はバスの打鍵を抑え気味にそっと弾きます、そして、随いていっていたフーガの部分を強めに弾いて、今度はフーガの部分が全音符をまるで後押ししているように聴こえます。そして後半の最初のバスの2分音符をアクセントをつけて強めに打鍵するので、ここで様相が変わります。その転換で、音楽が力強くなったように感じさせます。それだけでなく明るく転調したような印象を受けます。これは、変奏の冒頭の前の変奏の暗い区分を断ち切ったことから二段階で明るくなってきたという印象なのです。ここで、暗さを完全に断ち切りました。そして、後半は音が強めになり力強さが増したようなところですっきりとした終了型の終わりの最後のところですっと力を抜いているように音が消えるように弾いて、終わりの区切りの感じを聴き手に覚えさせています。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

前の第21変奏の後で、休止をとっています。そして、おもむろに始めるという変奏の入りで、グールドのように切れ味のよい歯切れのよさと強弱をつけることはしないで、淡々と演奏します。変奏の入りは静かです。冒頭の音はグールドのように印象的ではなく、弱音で、いつのまにか始まっているという感じです。バスの動きを表に出さずに、高音部でフーガのテーマを繰り返している方を前面にだして、最後はテンポをぐっと緩めて消え入るように終わるという演奏です。後追いの感じのフーガのフレーズが高音域で歌われるような演奏で、このフレーズがコラール風の神さまを迎えるような雰囲気がしてくる、静かに神さまを迎えるのを待つというイメージを与える。前の変奏の重い沈んだ雰囲気をグールドのように断ち切って力強く明るく進むという方向ではなく、それを一息いれて受け入れた上で神様を待って委ねるといったイメージです。

・マレイ・ペライア

変奏の入りは、そっと入ります。バスの全音符は音を伸ばしますが、土台を支える感じで、高音部の後追いの方にアクセントが置かれているような感じです。そして、前半の終わりのところで音が強くなり、それを繰り返し、後半で最後のところで音を強くして終わらせています。リズムはキープしていて、だらだらすることはありませんが、切れ味のよさとか、リズミカルということはなく、音の横のつながり、連続性を優先していて、静かで、落ち着いた雰囲気のなかで、最後に高揚して静かに終わるという演奏です。

・ヴィルヘルム・ケンプ

前の第21変奏の後で、休止をとっています。そして、おもむろに始めるという変奏の入りは、シフに似ています。しかし、シフのようにことさらに静かに弾くのではなく、淡々とした演奏を次第にクレッシェンドさせていって、だんだん演奏が力強くなっていきます。その前半を同じように繰り返して、後半には、それをうけてバスのアクセントを強くして、テンポは変わらないのに、推進力がパワーアップしていくという劇的な盛り上がりをしたところで終わらせて区切りとしています。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

弱音で、ゆっくりと止まりそうな遅さの演奏です。いつものように各声部の動きが透けて見えるような演奏で、バスの全音符もよく聴こえますが、グールドのように変奏の推進力とするような力強さはなくて、小節の区切りを与えているといった程度です。しかし、この区切りとなるバスの全音符が小節の始まりでの打鍵と、それに応えるようにフーガのテーマがでてくるという、応答の形がフーガとして繰り返されているのが、この演奏ではよく分かります。そこでフーガのテーマの部分の歯切れのよさがでている。それは、ポリフォニーという複数の声部によって構成される音楽のゆえなのでしょうが。テューレックの演奏では、このフーガのテーマ自体も複数の声部でつくられていると聴けるわけです。そのおかげで、ロマン派の音楽の独白のような感情の吐露がなく、節度と客観性を保っているけれど、生き生きとした息遣いが感じられるようになっているのであると思います。

・シモーネ・ディナースタイン

コラールのように、テーマを歌わせて各声部で受け継がれていくにしたがって、演奏を分厚く重ねていくようにして終わらせるという演奏です。テンポはゆっくりで、歌わせるということと、厳かな感じを作り出しています。ディースタインは、微かに聞こえてくるという程度のピアニッシモで始めて、この変奏全体をクレッシェンドをかけているようで、最後はある程度の音量になって終わります。それが、特に鍵盤を強打するように強調は何もしていないのですが、とてもポジティブな力強さを演奏に与えています。厳かでもあります。一方で、ゴルトベルク変奏曲の中では力強く歌えるようなメロディアスなフレーズは珍しいのです。しかも、前の第21変奏の暗い音楽から解放されたのです。聴き手だって、解放を謳歌したいのは自然です。ディナースタインの演奏は、そのような自然な欲求に応えてくれる演奏でもあると思います。たしかに、バッハはもたもたするなと言いたかったのかもしれませんが、その指示とおりの演奏は、どこかもの足りなさを覚えてしまうのはたしかです。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

前の変奏の重く暗い気分を一掃させるというのとは違います。それは、第21変奏を悲しみ一辺倒の演奏をしていないからです。むしろ、第21変奏のなかでチラチラ見えていたポジティブなところが、ここで姿を現わした。だから、二つの変奏にコントラストをつけて、この第22変奏を爆発するような力強さを与える必要ないわけです。ゼルキンは、テンポを上げて、音を強めに弾きますが、それは曲調の変化に伴うもので、それ以上ではなく、前の変奏との連続性を感じさせるものです。バスの全音符に続く2分音符にアクセントが置かれているため、ポジティブな一方で落ち着いてもいるのです。その2分音符の伸ばされた音に応答するような5音のフレーズ。このフレーズがスタッカートで切れ味よく弾むような弾き方で際立っていて、それが模倣されて何度も現われてくる。それがこの変奏の演奏の軸となっていて、その繰り返しが変奏全体のリズムを作っています。このフレーズが応答するような形で、後拍なので、それが際立たせられていると、なおさら変奏全体が落ち着いた雰囲気になっています。

・アンジェラ・ヒューイット

ヒューイットにしては珍しい装飾的な変化による効果を狙ったような演奏をしています。演奏の始まりが、聴こえるか聞こえないかのようなピアニッシモから微かに始まって、この前半全体でクレッシェンドしていくように、単独の声部で始まり、声部が重なって、音が細かく、つまり音符の数がふえていくのにつれて音量も大きくなっていく、という演奏です。しかし、この前半部分だけで大きな音になるまでは届かない。そして前半部分の繰り返しになると、最初の全音符を強打します。決然とした印象で、他の多くのピアニストが、この演奏の始まりを印象的にするのでやるのと同じような弾き方をここでやってます。そのあと、全音符に呼応するようなバスのフレーズの始めに楽譜にはないトリルをつけるのです。この後も、ところどころでトリルを追加していきます。後半は、この前半の繰り返しを引き継ぐような音量とタッチで続けます。そして、繰り返しになると、いたるところにトリルを追加して装飾的な盛り上がりを作り出します。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

「アラ・ブレーヴェ」と楽譜に書かれているような、まさに元気付けるような、少し勇ましいところのある演奏と言えます。この変奏を慰めの歌という意味合いでゆったりと弾く人もいますが、シェプキンは軽快なテンポで、しかも特徴的な甲高い音で弾いているので鼓舞するような感じも受けます。最初はバスで始まりますが、ピアノの音が甲高いので右手の音がバスを差し置いて出しゃばってきます。右手の二声がポリフォニックに掛け合いをするように絡み合うところを前面に出して、繰り返しの際には、そのメロディの後半に装飾を加えて、さらに鼓舞する印象を強めていると言えます。

・イム・ドンヒョク

ドンヒュクの演奏で、この第22変奏を聴くと、「タ・タ・タッタ」というフレーズが繰り返されるのを様々に変化させて聴かせていると聴くことができると思います。ドンヒュクは、このフレーズをタッチや音色を変化させて弾いていきます。それに加えて、ポリフォニーで他の声部が絡んでくるのを、ドンヒュクは、このフレーズの装飾のように位置付けてひいているのです。つまり、このフレーズを強調するように浮きあからせて、それ以外のところは背景に退けて、抑制して弾いているのです。

第23変奏

第21変奏が重く暗い変奏で、第22変奏がそこから抜け出して力強く立ち直ろうとして、比較的腰を落ち着けたタイプの音楽でしたが、この第23変奏は一転して、音が走り回るような動きの変奏です。譜面を眺めると、直線的な上行と下行の音符の並びがあるだけなのに、ちょっとしたリズムの工夫が目立つくらいで、それ以外の作為が見られないのに、これだけ運動的で時にはユーモラスになってしまう不思議さとバッハの巧みさに驚かされてしまいます。

冒頭、右手の旋律が半拍(8分音符ひとつぶん)遅れて左手の旋律を追いかける、そこから下降音型が繰り返されます。しかも、最初、高い音はシから下がってくる。二度目はラ、三度目はソからというように、繰り返すたびに、当の繰り返すフレーズも順にさがってくる。そこから、次は反転して上昇音型という逆パターンです。途中、同じ2つの音でグルーピングされた弾むような動きがあって、後半は、音の形は違ってきますが、大まかな動きは前半と変わらず、右手の下降、左手の上昇というといきます。まるで定規とコンパスで引いた図面のような整った構造のようです。

・グレン・グールド(1981年録音)

前の22変奏が終止形の決着した終わりとなった最後の音の残響が消えきらないうちに、第23変奏を始めます。他のピアニストは、第22変奏をしっかり終わらせて、やおら始めるという行き方が殆どです。この変奏の始まりは左手のバスのみの低い単音についで、次の音で上昇するのですが、この第2音目から右手が加わって、響きも倍増します。そして、上昇した高い音から16分音符の下降していく音型が繰り返されるのですが。この冒頭の二つの音については、最初は左手のみの単音、次は右手と左手の音が重なるので、最初の音に比べて、第2音で音が大きくなるように感じで、聴く手は第2音にアクセントがあるように聴きます。下降する音型の会誌でもある最も高い音ですから、印象に残るように聴くのでしょう。しかし、グールドは、冒頭の音を強めに弾くことで、最初の二つの音を同じ程度の音の大きさ、強さに揃えます。それによって、一直線の下降するフレーズではなくて、最初に少し上がって下降するフレーズであるという形をはっきりさせること。グールドはフレーズの形を明確にして、それによって構成される変奏曲や対位法の構成を聴き手にしっかりと示すことを演奏の基本としてきたわけです。そのため、最初の低い音を蔑ろにしなかったということ。そして、もうひとつ、このフレーズは一滴のしずくが音をたて水面に落ち、その勢いで丸い水の粒が放射状に飛び散る。水面は波紋が幾重にもひろがる。そういう様を連想させるところがあります。それがグールドの演奏で聴くと、最初のバスの低い音が水面に落ちる滴で、それがはっきりと打鍵されているから、そういうものに喩えられるのです。そして、続く下降フレーズが滴によって作られた波紋が、滴の一滴に応じるように水面に広がっていく。そういう演奏になっています。しかも、下降するフレーズの16分音符の4連符のひとつひとつの音をしっかりと弾いて、はっきりと聴き手に聴かせます。そこでフレーズが明確だし、水面に波紋の波のひとつとひとつをはっきり分かるようになるのです。この繰り返しのあと32分音符のパッセージはサッと弾き飛ばしてしまうので、そのはっきりした様が際立ってくるのです。このあと、同じ2つの音でグルーピングされた弾むような動きのところでは、2つの音のグループは冒頭の2音と同じような感じで弾いていて、おそらく、そのバリエィションであることを意識させようとしていのでしょう。そのグルーピングされた2つの音と次の2つの音の間のつなぎの細かい音のパッセージはサッと弾き飛ばしていて、これは滴に応ずる波紋のバリエィションで、この変奏自体も変奏曲の形式になっているというようにグールドは演奏しています。つまり、グールドは、ユーモラスとか可愛いとかいう前に、の変奏が変奏曲形式であることをキチンと明確にする演奏をしているというわけです。しかも、細かい音符の動きを高速で演奏して、ヴィルトゥオーゾ的な見せ場も盛り上げてくれています。メリハリをつけた演奏です。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

変奏の入りは、前の第22変奏をしっかり終わらせてから始まります。前の第22変奏がじっくりと落ち着いた演奏だったペースを、この第23変奏でも維持していて、グールドのような速いテンポにはしません。そのため、ヴィルトゥオーゾ的な名技を披露する要素は引っ込んでしまって、かわりに、軽い、可愛らしい、子どもが跳ねて遊びまわるようなイメージで弾いていると言えます。そのため、冒頭の第1音は次の音に比べて小さく聴こえるので、第2音目以降の下降するフレーズのみがメインという聴こえ方になります。しかも、シフはフレーズの尻尾を少し強めに弾いて終わりをはっきり区切るので、下降、あるいは上昇フレーズの部分が人まとまりとして前面に出てくるように聴こえるのです。全体として、最初にちょっとつんのめって、それにおいつくようにフレーズが続くという様相です。テンポがそれほど速くないので、そのひとつひとつの音がハッキリします。シフはそれらをスタッカート気味に弾むような感じで弾いているので、全体に弾むような、それによる軽快な感じが、全体の印象となっています。

・マレイ・ペライア

前の第22変奏がじっくりと盛り上げるような演奏だったのが、ここでは一転して腰軽でリズミカルな演奏に終始します。ヴッイトゥオーゾ的な性格を抑えないで、軽薄に、軽く浅い打鍵で、細かい動きをさっと華麗に弾いている。重厚な感じの変奏が続いたので、ここは一転して派手に遊びましょうという印象です。もともと、ペライアというピアニストはリストの技巧的な曲を好むようなタイプのピアニストで、美音をふりまく演奏をするタイプでもあったわけです。有名なモーツァルトのピアノ協奏曲の全集録音なども、そういう方向でセンスの良い演奏をしていました。ここでは、そういうペライアの特徴が表われていると思います。後半部分で、ほかのピアニストがしないような、バスのフレーズを強調するように目立たせて弾いていたのは、技巧のひけらかしでしょうか。

・ヴィルヘルム・ケンプ

ケンプは指が回らないのでしょうか、この変奏のテンポは遅いです。たどたどしいほどの弾き方ではじめて、前半を繰り返すと少し調子が出てきたのか、グールドやシフのように音を断ち切るような弾き方でなくて、繋げるようにピアノを響かせて、ときに左手と右手のタッチを弾き分けて繋げる響きに、デッドな断ち切るような音をアクセントのように巧みにまぜて、ダンス・ミュージック(形式としての舞曲というのとはちょっと違う)の身体を動かしながら、時に音楽に身を任せるような時間を作り出しています。しかし、後半はかなり苦しかったようで、最後のところで「終わったー!!」とでもいうような感じで、鍵盤に指を叩きつけています。がんばりました。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

テンポはシフと同じくらいの遅めなのですが、ひとつひとつの音の情報量が満載なので、遅いという印象を受けません。この第23変奏は2声のデュエットの形式なのですが、そのことをちゃんと弁えて、2つの声部が呼応するようなやりとりを、それとわかるように再現している演奏は、この人だけかもしれません。例えば、冒頭の2音は第1音の左手に問いかけに右手が応じるような形で、2つの音が呼応するようにニュアンスを弾き分けています。続く下降するフレーズは右手も左手も同じように下降するので、他のピアニストは、これを揃えて弾いていますが、テューレックは、ここで右手と左手を弾き分けています。ここで両手が対話しているのです。そのためフレーズの中で受け答えしているので、フレーズの中の個々の音のニュアンスが微妙に変化しているのです。それを聴き手が聴き分けるのは、かなりの注意を強いられることになります。さらに、グルーピングされた2音が相互に繰り返されるところは、まさに、いたるところデュエットだらけという濃密さです。これが繰り返されると、ニュアンスの付け方も変化します。対話しているわけですが、生きているわけで同じことを機械的に繰り返すはずもありません。後半は、前半を複雑にしたような形になってくるので、さらに輪をかけて濃密に対話しています。軽いはずの、この変奏を、ここまで層の厚い音楽にしてしまっているのは、この人だけでしょう。それが、この変奏に適しているのかは人によって意見は分かれるでしょうが。

・シモーネ・ディナースタイン

軽くて可愛らしいという印象を残すような演奏です。技巧的には難曲なんでしょうけれど、そういう素振を、できるだけ見せないようにして弾いています。余計な詮索はしないようにして、ピアノの軽快で美しい音と弾むような楽しい雰囲気を満喫する演奏ではないかと思います。多くのピアニストはリズムを前面に押し出して、場合によっては打楽器的な演奏をしているようですが、メロディの水平な流れというのがあまりなくて、縦の線をそろえて、休止が挟まれて、音が断ち切られるような、この変奏を演奏しようとすれば、そうなってしまうでしょう。ディナースタインも、その例外ではないのですが、リズムの切れを強調して縦の線をハッキリさせるということではなくて、縦に右手と左手の音が重なる、あるいはずれるという楽譜の指示を細かく読んで、両手の音が重なるときの響き、つまり音が混ざってしまうか、別々に響かせるかを精緻なほど弾き分けています。その結果、単にビートを刻んでいるようだったフレーズが繊細なカラフルさとなって聴こえてきます。そして、それを繊細な移ろいとして想像しながら聴くということもできるのです。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

第22変奏からテンポなどは、そのまま移ってくる感じです。ただ、第22変奏では軸となっていた応答するフレーズ後拍だったのが、ここではそうでないため、音楽の推進力が違ってくることになります。それで、こちらの方がスピード感があると感じます。ゼルキンは、第22変奏と同じよう訥々とひとつひとつの音を弾いています。だから、細かい音の連符でも音が流れずに、ひとつひとつの音をきっくりさせます。それゆえスピード感があっても奔らないのです。それに伴って、ゼルキンは小さな強弱をつけていきます。例えば、前半で休符によって右手が弾いているときには左手が休み、その逆というのが交互に繰り返される場面で、最初から微かにクレッシェンドがかけられて、途中でピークになると、今度は逆に徐々に音が弱まっていって、両手が交錯する場面に引き継ぐと再び音が強まる。それが後半でもあります。これは、ひとつひとつのフレーズの中でも音のアクセントではなくて、微かに強まっていったり弱まっていったりがあります。これがゼルキンの、このようなテクニカルな演奏を機械的にしないで、人の息吹きをうんで、つまり、たんに音楽を美しいとするのではなくて、人が語るような性格にしていると思います。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏は大半の部分が右手と左手の二声で、しかも互いに休止しあって単独の手で弾くところが多いので、ヒューイットのように声部の重ね方の変化で聞かせる人には、却って弾きにくい変奏かもしれません。ここでは、目立った変化を見つけることはできません。技巧はしっかりしている人なので、破綻なく堅実に弾いています。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

この変奏で、シェプキンはスケールで上下するところをレガートをかけて弾いていて、その豊かな響きは音の洪水に包まれてしまうようです。その合間に、切れ味の鋭いスタッカートが切り込んでくるコントラスト。そして、繰り返しの際には、スケールにレガートをかけずにスタッカートで細かいひとつひとつの音の輪郭を角張って弾いていきます。しかもデッドな響きで、響きまで変化させて、場面が一転するようです。

・イム・ドンヒョク

前の第22変奏からアタッカで続けて弾いています。この変奏は軽快に動き回るタイプの変奏ですが、ドンヒュクは弱音主体で弾いて、たしかに動きまわるのですが、表面的には静かなのです。最初はスタッカートで歯切れのよう弾むような弾き方をしていて、それを弱音で弾いていて、その後で32分音符の連符で上昇していくフレーズを左右の手で交互に引き継ぐように弾き進めるところになるとレガートでひいて、そのあと、休止を挟んだ短いリフレインでリズムをつくっていくところは豊かな残響で共鳴さます。このように弱音の静かな表面で、弾き方を多様に変化させて動き回る演奏をしています。

第24変奏

舟歌のような穏やかなリズムでゆったりと歌うようなメロディによる8度、つまりオクターヴのカノンです。オクターヴということで一区切りとなります。ついに行き着くところまで行き着いたという感じでしょうか。しかし、カノンで繰り返されるテーマのメロディは牧歌的で優しい。とはいえ、次の第25変奏は全体の中でも珍しい短調で書かれているアダージョで切々と暗い歌をうたうので、その直前となる、第24変奏では、あまりまったりと歌っているわけにもいかない。次の第25変奏への続け方と合わせて、演奏者によって解釈が分かれる変奏です。

カノンとしては冒頭にテーマがでてきて、2小節置いて1オクターヴ下で模倣が始まります。テーマが耳に残りやすいので、聴き手としてはカノンの動きをおいかけるのが比較的やさしい変奏です。

・グレン・グールド(1981年録音)

前の第23変奏はアタッカでその前の変奏が終わったか終わらないうちに始めたのに対して、この第24変奏では、第23変奏としっかり区切りをつけるようにして始めます。技巧的で動き回っていた第23変奏から、おだやかなこの変奏に移るために、雰囲気を転換させるいとがあったのか、またグールドは、この変奏の冒頭を弱音でそっと始めるので、いったん静かにする必要があったのかもしれません。1955年の録音ではレガートで弾いていた冒頭のテーマを、ゆっくり目のテンポ、とはいっても、次の第25変奏はテンポを落とすので、速いテンポの第23変奏から段階的にテンポを減速するという考え方でしょうか。したがって、舟でたゆたうというよりは乗馬してリズミカルに上下に揺れるという感じです。テーマのメロディを歌わすことはしません。決して速いテンポではありませんが、三声のカノンの声部が重なって、音符の数が多くなってくると、指の動きが加速されるような、前の第23変奏のヴィルトゥオーソ的な部分が残っているのが時折顔を見せるようです。冒頭の歌うようなテーマを際立たせることもなく、三声のカノンであること、声部が追いかけっこして、絡み合うところを劇的に聴かせるように弾いていると思います。というのも、前半部分を最初は弱音のスタッカートで抑えた弾き方だったのか、前半部分を反復する際には。音を強めにして、スタッカートを、より弾むように弾いています。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

前の第23変奏のテンポをあまり速めてはいなかったので、前の変奏のテンポをキープして、この第24変奏に入るという印象です。したがって、シフは第22〜24変奏という第8群の三つの変奏を同じような落ち着いたテンポをキープして一貫性を持たせていると言えます。この第24変奏の演奏については、前の2つの変奏との関係では落ち着いたテンポをキープしているように聴こえますが、他のピアニストの演奏と比べると速めのテンポの部類に入ると思います。シフは、この変奏単独ではなくて、前の変奏とのテンポや弾き方の変化によって、どのような印象を聴き手に与えるかを考慮して、一連の続きのなかでは落ち着いた中に躍動感があるという印象を与えていると思います。例えば前半のカノンのテーマを2つの部分にわけて前半の四分音符と八分音符が交互に上昇する部分は穏やかに歌わせるように弾いて、後半の16分音符を中心に細かく下降する部分は心持ち強めの音で弾むように弾いています。そうすると、最初に穏やかに歌う印象があり、それが消えないまま、弾むような躍動感ある演奏が、実は変奏を支配しているということなります。実際、この後半のフレーズが、この変奏ではよく耳に入ってきます。それが変奏全体のリズムをつくっていて、後半の終わり近くにレの音を3回繰り返して弾くところを、それが三声で2回模倣される、都合3回をかなり強調して弾いていると、それがアクセントとなって、変奏の終わりにむかって盛り上げる働きをしています。

・マレイ・ペライア

グールドやシフに比べるとゆっくりしたテンポの演奏です。しかも、前の第23変奏をヴィルトゥオーソ的な見せ場のような弾き方をしていたので、その対照というところで、ゆっくり弾いているように聴こえます。ペライアは全体を弱音で柔らかい音で、カノンのテーマのメロディを歌わせます。また、シフやグールドが16分音符の細かい動きがカノンで重なるところをテンポを上げて音を強めにするようにして目立たせていたのに対して、ペライアは抑えめに弾きます。さらに、グールドとシフはスタッカートで音の立ち上がりをはっきりさせてリズムを際立たせるようにして、そこに躍動感や加速感を生んでいたのに対して、残響をあまり抑えないで、響きが連なるような音にしています。そうすると、リズムを生むというよりは、装飾的なフレーズのように聴き手は受け取りやすくなります。つまり、カノンのテーマのメロディへの装飾と捉えて、うたうメロディへの注目をさらに強めることになります。

また、前の第23変奏をペライアは技巧をアピールするようにして高揚させる演奏していたので、この第24変奏はふつうにもどす鎮静効果をはかって弾いているとも考えられます。

・ヴィルヘルム・ケンプ

ケンプは、この第24変奏ではテンポをグッと落とします。少し先取りしますが、第25変奏をあまり深刻に陥らないように軽快なテンポにしているので、むしろこちらをゆっくりと弾いていると言えます。まさに舟歌のようにおだやかにたゆたう、パストラールとかシチリアーノといった演奏になっています。冒頭の右手による四分音符と八分音符が交互となる4つの音の強弱と間の取り方、ニュアンスの弾き分けが絶妙で、ここで聴けるメロディはケンプならではの、決して重くならないが、味わいのある演奏です。それにつづく、細かい音のフレーズについても決して弾き急ぐことはせずに、むしろテンポが落ちてしまうほどじっくりと弾いています。まるで、分散和音の伴奏を伴うフレーズのように聴こえてしまう。それだけメロディに溢れる演奏として聴こえてきます。この変奏の後半の細かい音のフレーズが何度も繰り返されるところは、平均律クラヴィーア曲集第1巻のハ長調のプレリュードのように聴こえてくるのです。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

テューレックは曲全体を遅いテンポで弾いているので、この変奏だけを取り出して遅いといっても、全体のなかでは、とりたてて遅いというわけではないでしょう。しかし、他のピアニストの演奏に比べると遅い。ケンプの演奏に比べても、もう少し遅い。その代わりに演奏から提供される情報量が多い。例えば、冒頭の右手の四つの音について、ケンプは強弱やニュアンス、それぞれの音の間のとり方を弾き分けていましたが、テューレックはその分け方の段階がもっと精緻です。一方、他の変奏では、ポリフォニーの構造を立体的に明確に示すように、各声部が聴き分けられるように弾いているのですが、この変奏では珍しく、声部によって前面にだしたり、後方に控えさせたりと、聴かせ方に恣意的なところがあります。例えば、冒頭の2小節でカノンのテーマを右手で弾いて、1オクターヴ下で、このテーマを模倣する際には、このテーマの模倣を前面に出して、最初にテーマを弾いた声部で続くフレーズをかなり弱く弾いています。つまり、カノンの模倣が始まるというところを聴き手に知らしめるのと、2小節のカノンのテーマの部分を聴き手に印象づけるようにしているわけです。ただし、ケンプのように、そのメロディを春風駘蕩という感じでうたわせることはしていません。

・シモーネ・ディナースタイン

意外にも、さらっと弾いてしまっています。この人の方向性であれば、ケンプに負けないくらいに、ゆったりとメロディをうたわせる演奏をしてもいいと思います。むしろ、グールドに近いテンポで弾き切ってしまいます。グールドはリズムの切れ味だったり、声部が重なって劇的に展開させるようなメリハリがあるのですが、ディナースタインは軽快にさらっと弾いてしまいます。逆に、グールドが加速し、劇的に盛り上がるように聴けるように弾いているところを、ディナースタインは、心持ち間延びさせるように緊張感のガス抜きのようなことをしています。敢えて、さらっと弾いているのかもしれません。しかも、その抜くということで、その部分のパッセージが他の演奏者にないきれいな響きを響かせてもいるのです。まあ、この変奏に続く第25変奏以降が終盤に向けてヘヴィーな変奏ばかりなので、この第24変奏では、聴き手にはひと息入れておいてもらおうというわけなのかもしれません。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

「舟歌のような穏やかなリズムでゆったりと歌うようなメロディ」という説明がピッタリの演奏かもしれません。弾き始めはそれほどゆったりしているとは思わなかったのですが、演奏が進むにつれて、ゆったりとした印象が強まっていきました。とくに途中でテンポを変えることはなかったのに。そのひとつの理由は前半はカノンのテーマの最初のところ、4分音符と8分音符の2音をグルーピングしたタンタというフレーズです。これがちょう波に揺れるタプタプとしたような感じのテンポと柔らかいタッチで弾かれます。そして、ゼルキンの演奏で聴くと、このタプタプが変奏のいたるところに現われるのです。他のピアニストできくとカノンのテーマの一部でしかないのですが、例えばバスのリズムのところだったり、カノンによって声部が重なってフレーズの途中で偶然生じていたり、それをゼルキンは丁寧に掬い上げて弾いているようなのです。まるで波に揺られて、まわりじゅういたる所に小さな波が生まれては消えるという風情です。それが演奏全体にたゆたうような、ゆったりとした、しかし少し不安な雰囲気を作り出しています。変奏の後半ではカノンのテーマで最初に音を伸ばしたのに応答するような細かく下降する5つの音の連なりが同じような効果を生み出しています。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏でもヒューイットらしい変化をつけにくいのでしょうか。ここでは、カノンのテーマが最初にソプラノで弾かれて、次に左手の低い声部が追いかけて、アルトが続いてと各声部に引き継がれていくところを、それぞれの声部を浮き上がられるとともに、このゆったりとしたテーマが、各声部に引き継がれることによって高い音、低い音というように響きが変化していくのを、微妙にタッチを変えたりして変化を際立たせていってます。それは、喩えて言えば、波が高い波や低い波、あるいは近くの波や遠くの波と細かな変化を見せながら、全体としてたゆたうような大きななみの動きになっているのを、このカノンの反復を、そういう波の動きのように捉えて弾いているように感じられます。それは、後半も続き、後半の繰り返しでは、音を弱めて、タッチを柔らかくして弾きます。それは波が岸に達して徐々に消えていく様子を模しているようにも感じられるのです。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

この第24変奏はカノンの変奏ですが、シェプキンはカノンのテーマよりも、その後で現われる16分音符の5連符による下降するフレーズの反復を重点的に聴かせるように弾いていて、その後拍気味の印象が残ります。ここまで快速テンポで弾いてきたのを、何か忘れ物をしたのか心残りがあるとでも言うような風情で、演奏のテンポは快速ですが、ここで、気持ちは立ちどまるような感じです。そして、繰り返しの際には、この下降フレーズの語尾に装飾を加えて、後拍の印象をさらに強めていると思います。

・イム・ドンヒョク

第23変奏の演奏に比べて、むしろこっちの第24変奏の方が躍動感があって、テンポも他のピアニストに比べると少し速めです。

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ゴルトベルク変奏曲総論    

アリア               

第1群(第1変奏〜第3変奏) 

第2群(第4変奏〜第6変奏) 

第3群(第7変奏〜第9変奏) 

第4群(第10変奏〜第12変奏)

第5群(第13変奏〜第15変奏)

第6群(第16変奏〜第18変奏)

第7群(第19変奏〜第21変奏) 

第9群(第25変奏〜第27変奏)

第10群(第28変奏〜第30変奏)

 
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