グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第7群(第19変奏〜第21変奏)
 

 

第9章 第7群(第19変奏〜第21変奏)

第7群。

第19変奏

メヌエットを想わせる落ち着いた3拍子の変奏です。但し、バッハは、メヌエットには通常4分の3拍子を用いているので、8分の3拍子のこの変奏では、通常のメヌエットよりやや軽快な性格ということでしょうか。同じ8分の3拍子の第4変奏とは違いテンポはゆったりで、その意味では、どこかの国の古風な舞曲、とでもいった趣にもなりえます。そんなこともあってか、速かったり遅かったり、強かったり弱かったり、演奏者によって解釈が大きく変わる不思議な変奏です。

この変奏で特徴的なのは2拍目の音がシンコペーションで次の小節にかかるところです。この2拍目に、アクセントがあって、1拍目よりずっと目立ちます。だから、「ン」と1泊目があって、「パ」というふうにリズムを感じる。それは最後の部分でもそうです。そこでは2拍目から3拍目とずれていくのだけれど、そのリズムがはっきりと聴き取ることができます。

・グレン・グールド(1981年録音)

舞曲というよりは、ゆっくり歩くような演奏。その今にも止まりそうな遅いテンポで、息を溜めて、この後の第20変奏で飛び出していく力を蓄えているような、虎視眈々と獲物に狙いを定めているような、息詰まるような重さがあります。このテンポでなら、各声部にほどこされた細かいニュアンスの対位法が絶妙のテクスチャーを織りなしているのがよく聞き取れるというところでしょうか。例えば、左手で3拍子のリズムを坦々と刻むところ、ひとつひとつの音のニュアンスを変えて弾いています。それによって、他の声部との絡みが変化してきて、おそらく後に続く第20変奏が快速でテンションの高い内容なので、コントラストを強調するために、ここではテンポを遅くして、重いリズムで力を蓄えるような演奏をしています。そして、ここで蓄えた力を後の第20変奏で爆発させています。前の第18変奏をちゃんと終わらせて区切りをいれてから、この変奏を始めるのもそうでしょう。だから、この変奏の変奏は舞曲の踊るようなリズムや楽しげにところはなくて、重さがのしかかってくるようなところがあります。それは、フレーズの形が音の上下の動きの少ないところを、そのことを前面にだすように弾いていると思えるからです。

・グレン・グールド(1955年録音)

8分の3拍子によりメヌエットよりも軽快な性格を帯びているといった上記解説の通りのような演奏で、1981年録音の演奏とは、全く異質の演奏です。この変奏については、グールドは、この後で解釈を変えたということになります。とのはいっても、この演奏の方が素直に聴くことができるし、1981年の録音のように細かいところでニュアンスを変えている神経質なほどの演奏になっていません。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

メヌエットとか舞曲といった言い方に、当てはまる演奏です。冒頭の小節のリズムが独特なほどシンコペーションを際立たせていて、ン・ターン・タといったぐあいで、第2拍が間延びするほどで第3拍目がその遅れを取り戻そうとタと急かすように刻むと躍動感が生じるようで、そのアクセントをつけてダンサブルなリズムをバスが刻んでいるのを土台にして、16分音符が動く4小節のフレーズを声部に受け渡して、引き継いでいくようにして、それぞれの声部で弾くときに、音色やタッチの変化をはっきりとつけています。とくに、最も高い声部ではオクターヴ高くして弾いて変化をはっきりわかるようにしています。それによって、二段鍵盤のように音色が極端に変わるような効果をつけているのと同時に、上下に音が跳躍するところのない落ち着いた内容に対してダイナミックな要素を附加して、落ち着いた中に舞曲の躍動感を作り出そうとしていると思います。

・マレイ・ペライア

ペライアは、この短い変奏の中で各声部の弾き分けを音色やニュアンスの変化だけでなく強弱も変化させています。つまり、最初16分音符のフレーズを真ん中の声部が柔らかくひいて、次に高い声部が弱音になってスタッカート気味に歯切れよく、次にバスの声部が引き継ぐと強めに弾いて、全体として強弱のうねりを生んでいました。最初、柔らかい演奏で落ち着いた感じの古風な舞曲という風情が、典雅な印象になり、その後少し激しさも加味されて躍動的になったり、様相を変化させて、この変奏の様々に解釈できるという性格そのものを聴き手に提示しています。しかし、それで演奏がバラバラになってしまうおそれがありますが、うまくつなげて全体としてうねるような劇的な展開としてまとまった印象になっています。

・ヴィルヘルム・ケンプ

前の第18変奏の残響が途切れないうちから、柔らかく始めます。アクセントが2拍目にあって「ンパ」となっているリズムの感じを冒頭の音の抜けの感じで演奏をはじまるので、それで柔らかい始め方がすんなりきます。そして、変奏は軽快で速いテンポの演奏です。レガートで音がつながるようにして、真ん中の声部の8分音符の動きを際立たせて、それ高い声部とバスシンプルな動きを伴奏のようにしています。また、リズムの刻みをシンコペーションの効果をうまく使って2拍子のように弾いて、アクセントを目立たせないようにして、躍動感を保ったまま、上品で典雅な雰囲気を作り出しています。そうすると、真ん中の声部の動きの上下に単音が散りばめられたような演奏になり、それがリズミカルで、モーツァルトの交響曲の上品なメヌエットのようです。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

舞曲と言える範囲内に入るギリギリの遅さの演奏ではないかと思います。だから印象は、ゆったりとした舞曲。しかも、各声部の構造が透けて見えるような明確な演奏です。とくに声部を弾き分けることはしなくても、これだけ構造が分かるように弾いていると、各声部の動きの輪郭がはっきりします。その代わりにニュアンスのような飾りは一切ありません。それだけに、他の人では聴こえてこないような中間部分での高い声部でのシンコペーションしながら半音階的な動きをする響きが、真ん中の声部と絡むと不協和音っぽい近現代の印象派のような響きを生み出しているところなどがそうです。

・シモーネ・ディナースタイン

テーマを、よく歌わせた演奏です。舞曲であるということをベースにして、その生き生きとしたリズムをベースに、テーマを柔らかく歌わせている演奏です。アクセントが2拍目にあって、フレーズの入りが後ろノリのようになるので、後ろ髪を引かれるような歌に聴こえてきます。他のピアニストは、この6連符の16分音符を揃えて弾いて、メヌエットのような舞曲のリズムにしているのですが、ディナースタインが弾いているは、この変奏のテーマ自体は、それほど歌いやすいメロディではないのですが、弱音で弾いて、同じ言葉を何度も繰り返す繰り言のよう独り言を囁いているように聴こえます。シューベルトを想わせる内省的でしっとりとした演奏になっていると思います。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

第18変奏から少しテンポを上げて弾いていますが舞曲という感じではありません。最初に右手による16分音符の6連符によるリズムが印象的で、前のめりのリズムの刻みで、とても推進力のある演奏になっています。そのため、それほど速いテンポで弾いているわけでもないのに、ゼルキンには珍しく急いでいるかのような印象を与えます。この次の変奏が激しい躍動的なものなので、それへの橋渡しなのでしょうか。ゼルキンは、第15変奏あたりから、素っ気ないというか、リズム主体で、それまでの旋律を抜き出して柔らかく歌わせていた弾き方から、変えてきていまと思います。これは全体を見てそういう設計をしているのか、たまたま各変奏の弾き方を考えていてそうなったのかは分かりませんが、これらの演奏がはいったことで、全体としてダラダラと歌うことに流されてしまうことに歯止めがかかって、めりはりがついたと思います。

・アンジェラ・ヒューイット

ヒューイットは、この変奏を、例えば最初では右手の二声のうちの下の声部で弾かれる16分音符の6連符のフレーズが基軸となって変奏の中で、声部をかえて一貫して弾かれていることを、演奏の幹として、これを際立たせるように弾いています。舞曲のリズムといった性格を、あまり考えていなくて、この基軸の繰り返しがとおっていて、その周辺で、右手の高い声部が間髪的に、絡んできたり、バスが8分音符の3連符で並行して複合リズムのような響きをつくったりと、しっかりとした基軸の上で即興的な動きが変化を与えている、という演奏をしているような印象です。

・マルティン・シュタットフェルト

前半の繰り返しで右手を1オクターヴ上げて弾いていますが、後半の繰り返しは、そのままの高さで弾いています。

・セルゲイ・シェプキン

舞曲というより、リラックスしてのんびりしている演奏です。この変奏全体を通して、いずれかの声部で8分音符の6連符がありますが、その繰り返しを軸に、他の声部が絡んでくるという演奏をしているようです。しかも、その軸が出てくる度に装飾を加えて見たり、拍子をずらしてノリを変えてみたり、あるいは、このフレーズを歌わせてみたり、様々な変化をさせています。それが、即興的な自由さを感じさせて、リラックスした雰囲気を作っています。

第20変奏

第20変奏は、全体を三つに分けたときの2番目のグループの最後です。ヴィルトゥソ的な要素のある激しく、運動性に富む変奏です。ピアノを打楽器のように扱うパーカッシヴな多様さを最大限に展開している。様々なノリやビートのデパートのような変奏です。例えば、表現豊かな左手の8分音符のスイング感。思い切りメロディックにアクセントをきかせて。裏拍でシャープに切り返してくる右手の16分音符が、8分音符の波にダイブする。その小気味よさ。そうかと思うと、三連符で上昇/下降するとき、もうひとつの手は、高音域にきらりと光る装飾音を弾く、その効果。

・グレン・グールド(1981年録音)

前の第19変奏が弱音で抑えて蓄えていた緊張を一気に解放させるかのように、最初、バスが8分音符で駆け上がるようなパッセージをマルカートで、鋭い尖がった音で強打します。これに右手の16分音符の細かな装飾的な音もまた尖った強い音で裏拍でシャープに切り返すように、鋭さや強さを補強します。その動きが上行して、また最初から上行と繰り返すと、このバスにおいての鋭い音の上行を繰り返します。このバスの動きに応答するように高音域において16分音符の三連符でシ−ラ−シ/ド−シ−ド/レ−ド−レというふうに上がっていく細かい動きに転じます。そこではスタッカート気味の粒立ちのいい音で、しかも角のとれたおとになります。同じような動きがバスに移ると上行から下行の方向になり粒立つ音から響きがつらなるように変化します。最初の縦に断ち切るような音から、動きの転換にしたがって、徐々に段階を踏んで横につながる音に移ってきます。それが前半。後半は最初の8分音符で駆け上がるパッセージに戻るようですが、繰り返しはしないで、すぐに続く高音域の16分音符の三連符のパッセージに移ります。ここでテンポが一気に加速されたような感じで、そこから、細かい上下の動きを繰り返すパッセージになり、そこでバスが“反復8分音符が、屋根に釘を打つように聴こえる”と諸井誠が形容したダッダッダッという印象的な鋭い断ち切る音が縦に入るように連打されます。これは、前半の縦の断ち切る音と、それに応答した横に移る音の共存するように聞こえます。つまり、この変奏では、強弱、縦横、断ち切る動きと続く動き、上行と下行といったコントラストが鋭くあって、ハイスピードの展開で、その緊張感が突き詰められ、最後に対立する両極端が並立するようになるといったストーリーで大団円を迎える。多彩な変化と展開を最後に解決をつけるという力技をやってのけ、カタルシスを聴き手に覚えさせるという演奏になっていると想います。

・グレン・グールド(1955年録音)

基本的な解釈は1981年録音と同じだと思います。むしろ、全体としてのスピードは、こちらの方が速い。しかし、1981年録音は、止まってしまうほど遅い第19変奏から急展開で、この第20変奏になるので、コントラストから速さが際立って聴こえるのに対して、こちらは、第19変奏が軽快な舞曲のように弾いているので、それほど速いという印象を受けません。むしろ、運動性が気持ち良いノリとして、聴き手に伝わるという演奏です。ですから、この変奏自体の演奏は、それほど変わりませんが、前後の変奏との関係から、印象が全く異なるものになっています。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

グールドと比べると坦々とした演奏に感じられます。グールドが前の第19変奏とのコントラストを強調するのに対して、シフはつながりを意識しているようです。つまり、第19変奏から自然に第20変奏に移行している流れにしようとしています。それは、ここで第2部が終わるという区切りを考えているからかもしれません。第19変奏から続いて、古典的なソナタのロンドフィナーレのような快活な舞曲で終わらせるような感じでしょうか。とくにバスの動きが8分音符の下行するパッセージでは鋭く切り込むのではなく、弾む感じで快活そのもののダンスのビートのようです。そして、16分音符になって加速するところでは、ロンドのくるくる廻るという意味がぴったりの回転するように繰り返しをバスの弾いていて、子犬が小さな円をくるくると走って廻っているようです。

・マレイ・ペライア

基本的な解釈はグールドと共通しているようですが、グールドほどのアグレッシヴな尖がったところはなくて、その点だけで比べれば微温的ということになります。しかし、別の面から言うとグールドの突出したところはひとつの方向に一丸となって集中するところにありますが、ペライアは逆に多様にひろがる方向で表現しようとしていると想います。具体的には、グールドが各声部を同じようなタッチや音色で弾いているのに対して、ペライアは声部の音色やタッチを変えて弾き分けているところが違います。例えば、最初の左手の8分音符のパッセージに。右手の16分音符が裏拍でシャープに切り返してくるところ。ペライアは左をグールドのようには強打しませんが、右手のタッチがスタッカートのように軽く弾むようにして角の取れた音で弾くことによって、グールドのような両者が挑むような掛け合いではなく、鋭いバスの音の周りを高音域の音が装飾するような感じになります。このような各声部の動きが見えて、カラフルな演奏になっていて、グールドの演奏では派手さの点では負けていないと思います。

・ヴィルヘルム・ケンプ

パーカッシヴなはずの、この変奏で、これだけ横の線、音のつながりを前面に出した演奏があるのかと驚くような演奏、まるで歌わせたかと錯覚するような演奏をしています。最初のバスの8分音符の下行するパッセージは残響をたっぷりとって、それぞれの音が響き合うようにして全体がヴェールのように響いて、しかもそれが繰り返されると、右手の装飾的な斬り返しが加わってヴェールが風に揺れるような感じになっています。そして続く16分音符の細かい動きはロマン派のピアノ曲のスケールのように(例えばショパンの練習曲の第1曲)音の響きがつながってひとつに響いている。豊麗な響きに聴こえてきます。そこに時折、バスや高音域の挿入句のような装飾が響きのアクセントとなって、聴き手にフレーズの区切りのような印象を与え、演奏でリズムが揺れることもあって、歌っていると錯覚してしまう。グールドの演奏と並べると、同じ曲とは思えません。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

例によってテンポは遅いですが、ひとつひとつの音まで細かい変化をつけて引いています。たとえば冒頭のバスの8分音符の下行するパッセージは、グールドは勢いよく一気に弾いてしまうところがあるのに対して、テューレックは腰を落ち着けて、最初の音にはアクセントがあって強めに鋭く、附点気味に音を伸ばし、続く音はその問いかけに答えるように少し弱くしてデッドに残響を抑えてパッセージの中で応答しているように弾いています。これが繰り返されると、そのたびに応答のニュアンスを変化させて、人の会話のように息づいているように聴けるのです。その意味では、顕微鏡を覗いているような、この変奏から聴き取れる情報量がものすごく多い演奏になっていると思います。

・シモーネ・ディナースタイン

全体として、優しい音質でゆったりと弾いている、いわば癒し系とでも形容されそうな基調でこれまで各変奏を弾いてきた中で、このヴィルトゥソ的な要素の変奏もちゃんと弾くことのできる技量もあるというところを示している。そういう演奏かもしれません。達者に指がまわって破綻はない演奏です。しかし、引っかかるところがない。むしろ、この人の本領は、この前の第19変奏の可愛らしさや、この後の第21変奏の歌う変奏にあると思います。そういうものだけでは、この長い曲では飽きてしまうので、それに節目をつけるアクセントとして、あまり目立ちすぎると全体の基調を崩してしまうので、適当なバランスを考えて、それなりにまとまった演奏をしていると思います。音質は滑らかで流麗な演奏です。ちゃんと盛り上がります。しかし、鍵盤を強打してフォルテッシモで弾くことはなく、決して声高にならない弱音基調の演奏です。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

第19変奏より、さらにテンポを上げて堅実に弾いています。グレン・グールドの1955年録音の演奏を遅くしたような演奏。グールドの旧盤はテンポが速いというところで凄みというか特徴をアピールしていましたが、その速いという突出したところを持たない演奏と聴こえます。

・アンジェラ・ヒューイット

ヒューイットにしては躍動的で、快速なテンポの演奏をしていると思います。そのなかで、この人らしい仕掛けを随所に施しています。例えば、右手の16分音符が、8分音符の波にダイブする小気味良さから始まりますが、次に左右の手が逆転して持ち場を交替すると、右手がダイブするときはアクセントをつけて鋭く突っ込んだのに、左手がするとはき打ち込みの鋭さはなくて、それだけで響きの様相が一変します。この左右の持ち場の交替を繰り返すので、そのたびに響きががらっと変わって、場面転換のようです。このあと、16音符の細かい波に8分音符が突っ込むところでは、その波を断ち切るように鋭く突っ込んでリズムのアクセントをつくるのが他の多くのピアニストですが、ヒューイットはその突っ込みを強調しないので、16分音符の波が流れていく連続性が、その後のフレーズにつながっていく感じになります。後半でも、他のピアニストの場合には、右手の刻むリズムと、左手の刻むリズムが重なってノリを生んでいくという演奏をする人が多いと思いますが、ヒューイットはそれぞれのリズムを別々に聴かせるように弾いていて、それぞれのリズムの絡みを聴き手に分からせる。そのために、声部の浮き上がらせ方で他のピアニストが弾いているようなやり方を意識的に考えて避けて弾いています。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

シェプキンは、この変奏ではまるで展覧会のように多彩なタッチと音色をつかって、極彩色の演奏をしています。それも、声部ごとに弾き分けて、繰り返しているので、さらに多彩さが広がっていきます。ここでは言葉で追いかけきれないほど変化していて、目も眩むようです。

第21変奏

第21変奏は、前の第20変奏とは対照的に、いかにも悲しげな響きを聞かせる7度のカノンです。全体で3曲しかない短調の変奏のうちの2曲目ですこれほどのドラマの高まりを見せたのは、たぶん第14・15変奏が最初でした。その次のクライマックスにあたるのがここ第20・21変奏。この第21変奏ではバスが半音階的な動きを見せる。第15変奏でもさり気なく見せていましたが、第21変奏はストレートにソ-ファ♯−ファ−ミと下がっていく。明らかに死と嘆きのイメージです。その雰囲気、そして特徴的な半音階進行は、次の、そして最後の短調曲である第25変奏の気分を先取りし準備するものです。

この変奏は前半8小節、後半8小節の16小節しかありませんが、その枠の中で、バスが明確に示されています。当然一小節にテーマとなるバスの動きが二つは入ってくることになる。音楽がため息で覆い尽くされる。前半後半ともに、最初の一小節くらいが半音階的な下降を描いています。まるでメロドラマの音楽のようで、ため息の休符が現われては消え、バスがためらいがちに半音階で下行するのです

あと、カノン7度というのがまた非常にきついところです。半音階と7度ですから、人間の心にはざわざわして気持ち悪いというか落ち着かない。唐突な7度の跳躍は不安を煽り、タイでひきのばされた掛留音がシンコペーションとなって、深いためいきを洩らさずにはいられないのです。気持ちが無性にかきたてられる。そういうものをここに持ってくるというのも見事です。

・グレン・グールド(1981年録音)

重々しいリズムですが、かといってテンポをそれほど落とすこともなく、最初のバスの音は、前の激しく動く第20変奏の終わりよりも強い音で、変奏の開始が悲劇的な感じがします。その響きのうちに少し音を弱めてレガート気味に16分音符の小さく上行しまたバスの強いがあった今度は16分音符が小さく下行します。ここで、16分音符のところを少しテンポを加速して悲しみが流れ出すように弾くピアニストもいますが、グールドはインテンポと言えるほど坦々と弾きます。これを繰り返していくのが変奏の前半です。このカノンのテーマ繰り返しに装飾的な変化が加えられていって、4回目からは、それまでバスの部分のみで弾かれていたのが高音部の鍵盤も使われ始めます。しかし、グールドは一貫してテーマのところをバスを強めに、しかし坦々と弾いています。この前半部分の8小節を反復するのですが、この2回目をグールドはぐっと音を弱くしてピアノで弾きます。それ以外は一回目と同じように坦々と弾きます。しかし、この二回目を弱音で弾くことによって、全体の印象が変わります。まるで地盤沈下するように気分が沈みこむような感じになるのです。これは一回目との落差がそうさせるのだろうと思います。そうなると、一回目坦々と強めの音で弾いていたことが、強めのバスの音がずしり杭のように打ち込まれていたと、特にテーマの最初のアクセントとなるバスが、です。それが。はじめにもどって、弱音で繰り返されたときに、気が付かず打ち込まれていた杭に思い至ることになる。そして、うけた傷にはじめて気づいて気分が痛みに沈んでいく。そして、後半部分は、また強い音で弾き始めるのです。そこが劇的、とりわけ悲劇的に響いてくることになります。一撃です。沈んだところに追い討ちをかけるように、杭を打ち込まれるようです。後半のカノンテーマははじめに下行します。それが気分を下降させる。ここからは高音域での下行するフレーズが心持ち印象的に聴こえてきます。一方、その間もバスは坦々と杭を打つように刻んでいる。グールドの演奏では、その沈んだ気分が解決されないまま、間をおくことなくアタッカで次の変奏に移っていきます。

・グレン・グールド(1955年録音)

さらっとした演奏です。強弱のコントラストを強調するわけでもなく、テンポもそれほど落とすこともなく、カノンであることをちゃんと聞かせるという弾き方をしていると思います。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

全体にグールドより速いテンポで、グールドのような強弱の変化による劇的な展開をするのではなくて、弱音でとおして弾いています。カノンのテーマをグールドのように最初の音のアクセントを強調しませんが、続く16分音符のフレーズは加速するように弾いています。それによって感情が高ぶるといいますか、この場合は悲しい感じが募るという、それがカノンで反復されていきます。その繰り返しのたびに徐々にテンポが速くなっていくような錯覚をおこします。それは装飾が加わって、音が細かく、多くなっていくので、テンポが速まったのかと勘違いするのかもしれません。そうさせるようにか、シフは音が込み合うところでは心持ちテンポをあげ、その後でテンポを緩めて元に戻すというように細かいところで微妙にテンポを揺らしています。それが坦々と弾いているようでありながら、悲しい感じを作り出している演奏であると思います。

・マレイ・ペライア

シフに似たテンポの変化をつくっていますが、それに加えて16分音符のフレーズをレガートで弾いてメロディが流れていくようです。それがカノンとして別のところに受け継がれて反復されていくと、一貫して流れていくようです。そこに装飾的な声部のフレーズが重ねられるように、音楽を重くなっていく、それが聴き手の気分に重くのしかかってくるような効果を作り出します。後半ではテーマの演奏にニュアンスをつけるように弾いて情緒的なドラマの形にしています。悲しみという感情をストレートに起こすように工夫を凝らした演奏であると思います。

・ヴィルヘルム・ケンプ

グールドと同じようなテンポで、しかし強弱の変化もつけず、リズムを重くすることもなく、シフのようにテンポを変えたり揺らすこともなく、何の細工も加えずに、坦々と弾いています。後半のところで、微妙に部分的に強くしたり弱くしたりしている程度です。それなのに、聴いていて、しんみりしてしまう演奏です。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

意外なことに、全体の遅いテンポの中では相対的に遅いとは言えないテンポで、これは必要以上に重くしないためなのでしょうか。しかし、ピアノというよりピアニッシモの基調で、ささやくようにか細い音で弾かれます。そのピアニッシモで細かく弾き分けられる。例えば、カノンのテーマを各声部で受け渡していくのですが、各声部の音色やタッチを分けて、さまざまなニュアンスで短調のテーマを弾き分けています。とくに、それらしい表情づけやテンポを揺らしたりすることはないのですが、様々に弾き分けられることで、様々な方向から短調のテーマが語られるという感じで、四方から囲まれるような感じになります。テューレックは感傷に堕してしまうことを避けて、カノンであることをしっかり弾こうとしているのだと思います。

・シモーネ・ディナースタイン

ピアニッシモでしっとりと弾き始め、レガートでテーマを歌わせています。バスは背景となって、テーマの歌を土台で支えることに徹していて、テーマについては終始ソプラノがアリアを独唱するように聴かせているようです。ただし、高らかに歌い上げることはありません。まるで、ロマン派の内心の吐露するアダージョのように、たっぷりと思い入れをこめた演奏になっています。最初のカノンのテーマを受け渡しするところを弱音でテンポを落として、ため息のようにポツリツポツリ弾いているので、それが演奏全体のイメージを作っていると思います。しかし、それがひとしきり続いた後で、16分音符の細かい音の動きでは流れるような推進力があって、前半のおわりの右手が二声で8分音符の掛け合いをするようなところで再び音を弱くしてテンポを落とします。そして、後半のはじめは前半のカノンのメロディに応答するような音の形ですが、それは流れるような感じで弾いています。したがって、この変奏はため息で始まりますが、それが音楽としてちゃんと進行していって終わるので。変奏の最後は消え入るような終わり方ですが、短調で書かれているけれど、決して悲しんでいて終わりというものではないのです。少なくともディナースタインは、そういう演奏をしていると思います。だから、次のポジティブな第22変奏に続いていけるのです。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

前の変奏に比べてテンポは遅くなります。とはいっても特に遅いというのでもなく、たんたんと音楽は進みます。第15変奏のときもそうでしたが、ゼルキンは短調だからといって殊更に、そのことを強調するような弾き方をしていません。レガート風にして、細かく強弱をつけて、もっとメロディを歌わせてもいいだろうにと思いますが、ここではノンレガートによって、ひとつひとつの音が独立しているように弾いて、よく言えば端正、そうでない言い方では素っ気ない弾き方をしています。無表情と言ってもいいです。カノンの各声部の追いかけっこが明解に分かります。例えば、最初のところでカノンのテーマが短調のいかにも悲しげな印象のテーマを流れるようにバスで提示して、それを右手が模倣して、つまりは声が高くなって繰り返していくと悲しみが募っていくという演奏をするピアニストはけっこう多いと思います。しかし、ゼルキンは最初の提示を、そんなテンポを落とすこともなく一音一音を訥々とした感じで弾くので表情は感じられません。それを右手が模倣したときには、左手はテーマを明け渡して別の動きをしています。これが聴こえてくると、短調の悲しいとは別のポジティブな響きなのです。つまり、悲しいという単一の方向ではないのです。前半は、それがチラッと姿をみせつつ、ゼルキンは前半の終わりをスッと音を弱めて終わります。後半は右手が下降するテーマを提示して模倣していきます。しかし、後半では左手によるポジティブな動きが少し前にでてきます。一時は右手の短調に同調するような動きとなりますが、最後のところで悲しみ一辺倒にならないところで終わります。おそらく、ゼルキンは、この変奏を短調で悲しみ一辺倒の雰囲気とは捉えていなかった。もっと複雑なものとして提示したがったのではないか、そう考えさせる演奏になっていると思います。

・アンジェラ・ヒューイット

カノンのテーマとなっている、16分音符の3連符で上行し4連符で下行というかたち、を半小節おくれて右手が追いかけ、そこから半小節おくれて左手がという模倣がよく分かる形で、いわば反復されていて、そのカノンを弾いている以外の声部が、その反復に様々な形で絡んでくる。ヒューイットは、そういう弾き方をしているようです。したがってカノンを弾いている声部は、常に前面に出ています。したがって、他のピアニストの弾いているような、カノンのテーマが他の声部と呼応することでため息のような効果を生むということにはなっていません。後半では、前半のカノンのテーマを反転したようなテーマが同じように、反復されていくのに他の声部が絡んでくるという弾き方を続けています。

・マルティン・シュタットフェルト

かなり遅い、いまにも止まりそうなほどの遅さで弾いています。インテンポで、正確に間違わず弾いています。繰り返しをやっていますが、とくに仕掛けをしてはいないようです。

・セルゲイ・シェプキン

テンポは少し速めかもしれませんが、その勢いで音楽が進む中で、短調のメロディをたっぷりと歌わせています。バッハというよりロマン派のエレジーのようです。しかし、テンポを落としているわけではないので、節度があるような表面的な形式を踏ませているようです。シェプキンは、この歌を最初はレガートで弾いていきますが、繰り返しの際には、歌の流れを断ち切るかのようなスタッカートで弾きます。それが訥々として語るような印象を生んで、しみじみとした歌をテンポを落とさないでいて、悲しみをこらえて゛内に秘めて歌っているような切ない雰囲気を作り出しています。

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ゴルトベルク変奏曲総論    

アリア               

第1群(第1変奏〜第3変奏) 

第2群(第4変奏〜第6変奏) 

第3群(第7変奏〜第9変奏) 

第4群(第10変奏〜第12変奏)

第5群(第13変奏〜第15変奏)

第6群(第16変奏〜第19変奏)

第8群(第22変奏〜第24変奏)

第9群(第25変奏〜第27変奏)

 

第10群(第28変奏〜第30変奏)

 

 
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