グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第6群(第16変奏〜第18変奏)
 

 

第8章 第6群(第16変奏〜第18変奏)

第6群から後半に入ります。

第16変奏

前の第15変奏が消え入るような終わり方をして、余韻のあるような、宙吊りになった状態になっているのを引き継いで、ここでは、いかにも再開といった調子でガーンと第16変奏が始まります。この再開というのは、ここで雰囲気が変わって新たな気分で後半が始まるというものです。この第16変奏にたどりつくまでの前半ですでにかなりの時間が経っているわけですが、ここは気分転換。完全な切り替えです。

ちなみに、ゴルトベルク変奏曲がピアニストの演奏会のプログラムに載って会場で演奏される場合、第15変奏と第16変奏の間に休憩を挟むことがあります。そうすると、前半も後半も40分前後となり、今日の演奏会の常識的な演奏時間内にうまく収まるというわけです。しかも、第16変奏も、新たな始まりとして、いかにも新鮮に響くのである。ただし、でも、楽器から離れて休憩したりはできません。一服してお茶を飲んだりなんかしたら、緊張が途切れてしまいます。

なお、極めて対照的な性格をもつ第13変奏と第14変奏に続いて、第15変奏ではそのコントラストは更に拡大され、第15変奏と第16変奏の間の落差は、作品全体の中で最大になります。だから、その落差を味わうために連続して聴きたいという人もいると思います。

この第16変奏は、シンメトリーな構成のゴルトベルク変奏曲の中では、珍しく前半16小節、後半32小節という1:2の構成になっています。しかも、前半と後半でテンポが変化するのは、ここだけです。前半は附点リズムが支配的なフランス風序曲の部分で、左手で4つの音によるト長調の主和音が冒頭に一拍、それから32分音符の休止をおいてソからソまで1オクターヴの音階が急速に弾かれ、附点のリズムに乗った細かい音の動きが続きます。それが一種の景気の良い雰囲気を醸し出します。後半に入ると8分の3拍子の軽快なフーガです。テーマから5度下に二番目が入ってきて、さらにテーマのオクターヴ下がくる、と続くのです。音階が下がるような音型と、3度ずつ上昇する音型の組合せが複雑に入り組んでいって、最後は、終止のために置かれた一小節だけ序曲の拍子になってザーンと終止の主和音が引き伸ばされて終わります。

・グレン・グールド(1981年録音)

第15変奏から一息おいています。第15変奏の気分から転換させるために、最後の音の残響が消えないうちに続けてしまったほうが、印象的なのですが。区切りを意識のしたのかもしれません。バスの4つの音を同時に強打して、ガツーンと扉を叩き開く合図ようにして始まります。それに続くトリルが意識的で、この後のトリルも長い。そして、とくにバスのフォルテの音の切れ味が鋭いこと。バスの上行するパッセージなどは強打していて、まるでステージがせり上がって舞台が開くような感じです。さらに、附点のリズムが強調されてステージの階段をつんのめりそうになりながら駆け上がっていく様子が活写されるようです。その大きな要因はテンポの採り方にあると思います。この前半で頻出する32分音符によるオクターヴのスケール、つまりオクターヴの8音を順に駆け上がったり駆け下りたりするのは、4分音符と同じ長さということになります。だから普通に速いテンポで弾けば、一瞬です。それではオクターヴを段々に駆け上がったことが分からない。それをグールドははっきりと分かるように弾いています。つまり、それを分からせるためにテンポを遅くしています。それでも足りないので、同じ小節内の他の部分を短くして、つまり、小節内でテンポを揺らせているわけです。そして、その小節で8分音符や4分音符を短めに弾いているので、他の小節でもそれに合わせて短めにして揃えています。そうすると音数の少ない小節ではテンポが速まってしまうので、音と音の間を長めにとって、そうすると附点リズムを強調しているように聴こえてきます。その結果、前半は溜めの効いたリズムか生まれて、細かい音の密集したフレーズが明確に聴き取ることができて、そこは注意して聴くのと音楽が流れて、音数の少ないところは溜めがきいてそこで注意力を高めて用意の態勢をつくらせるようになっています。前半は全体として、溜めと流れという波が生まれています。後半のフーガの部分が短く感じられるのは反復をしないからでしょうか。それだけでなく、前半のような溜めをつくらないので、いっそう流れている印象が強くなります。そこで、後半になって場面が転換するような印象を、転換のときではなく、後になって替わっていることに気がつくのです。前半と後半で半々のような印象です。声部の掛け合いが際立ったところで後半に移り、その後半のフーガではそれぞれの声部が追いかけっこしているうちに、相互に競争になって、どんどんペースアップしていくような感じです。そのまま続いて、次の第16変奏に雪崩れ込んでいきます。

・グレン・グールド(1955年録音)

この演奏は、とくに後半のフーガの速いテンポに驚いてしまいます。前半のフランス風序曲も、1981年録音に比べれば遅くはないし、他の演奏家とくらべても常識的なところで、楽譜とおりにちゃんと弾いている(それほど1981年録音は、いろいろな仕掛けをしているということになるでしょうが)演奏です。それだけに、後半の、あのスピードで、それにもかかわらず、フーガがちゃんと分かるようにきっちりと弾き切っている技術に素直に脱帽です

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

第15変奏の後、たっぷり休止をとって前半が終わったという区切りをハッキリさせます。休止の後、おもむろに第16変奏を開始するといった趣です。しかしそれにしては、冒頭のバスの4つの音。揃えて同時に鳴らすのですが、ここでは弱々しくポロンといった風情で後半開始のベルが鳴るというほど華々しいものでなく、むしろ寂しい始まりです。この変奏を通して、フォルテまで音を強めることなく、控え目に弾いています。もともと、装飾とそうでない部分の区分があいまいで、全体が装飾のような演奏の仕方をするピアニストなので、ここではトリルとフレーズの動きの区分が曖昧で、序曲部分が装飾的なトリルの延長のような感じで、トリルの細かい音から、フレーズが抜け出すように後半のフーガが始まるという印象で、そのフーガがあっけなく終わって、もの足りなさを覚えたところに、間をおかず、そのフーガの問いかけに答えるように、次の第17変奏を始めます。

前半のフランス風序曲の部分は、この人の装飾のような弾き方をする特徴にぴったりなようですが、前半の部分がすべて装飾的なので、きらきらしたギャラントしかないものになりかねません。それでなのでしょうか、シフは、例えば、ぼうとうの32音符の8連符のオクターヴ上昇とか、8分音符と32分音符の5連符といったまとまりを機械的なほどきっちり弾いて、その形をはっきりと際立たせるためにか、そのまとまりの前後にわずかの間を空けているようです。そうすると、そのまとまりが繰り返され、何度か模倣されるカノンとして、前半の序曲が聴こえてきます。そして、まとまりごとに間をあけるので、そのたびに演奏の流れが断ち切られて、リズムフェイクのようなノリが生まれます。それが後半に移ると、フーガが始まると、途端に音楽の流れがスムーズに流れはじまる。その抜けるような感覚は、癖になりそうなほどです。

・マレイ・ペライア

ペライアは第15変奏から続けて第16変奏を弾き始めます。これによって第15変奏と第16変奏の対照が際立って、落差を実感することができます。冒頭のバスの4つの音は、グールドのように一度に鳴らすのではなく別々にパラパラという感じで鳴らしています。ペライアは、この後に続く細かい音の動きとの、冒頭の4つ音が連続していることを重視しているのではないかと思います。そして、左手のトリルと右手の音階的な動きがリズムでの同調に配慮して、というようにトリルを装飾の位置づけではなく、ひとつの声部の動きとして、もうひとつの声部の動きとの掛け合うようにその長さを考えているようです。それが後半のフーガではさらに顕著になっていきます。つまり、前半の序曲は変奏曲後半の開始を告げる序曲ではなく、この変奏のフーガのための序曲といった演奏になっていると思います。だから、グールドの場合は前半の序曲の部分が荘厳な感じで派手にかき鳴らすようなのに対して、後半のフーガはテンポアップこそしますが堅実にポリフォニーを演奏しています。これに対して、ペライアの場合は前半はむしろ抑え目で、その序奏から本番のフーガが始まるとテンポは速いテンポにシフトアップし、音量もあがって後半で盛り上がっていきます。そして、この盛り上がりのまま、間をおかず、次の第17変奏に突入していきます。

・ヴィルヘルム・ケンプ

冒頭のバス4つの音を揃えて一気に弾いて、その残響を豊かに響かせて、音階の後にでてくるトリルでは残響を響かせて、以後トリルでは豊かな残響の靄のような幻想的な音世界をつくって、そのなかで細かい音の動きが聞こえてくるというロマン派の幻想曲のような演奏になっています。そこからフーガが抜け出してくるところで、この後半のフーガは残響を抑えたデッドな響きにしてテーマが明確に聴こえるようにしていて、まさにロマンチックな演奏と言えるのではないでしょうか。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

冒頭のバス4つの音をバラバラにして、ひとつひとつの音が別々に聴こえるようにして弾いています。これは、ペライア以上に後に続く、細かい音の動きとの連続性を重視しているためだと思います。そうなると、荘厳な序曲という性格からは離れて、テューレックはニ声のデュエットとして演奏しているようです。したがって、その後の音階でも弾き流すようなことはせずに、訥々と一音一音しっかり弾いて、トリルは最低限に抑えて、パッセージを明確に聴かせることに主眼をおいて弾いています。その結果、この変奏のポリフォニックなところが、他のピアニストの演奏に比べてもっともよく示されていると言えます。また、前半から後半に移るときにも、他のピアニストのような場面が転換したような感じがなくて、連続性が強く意識されていると思います。むしろフーガにはいって、腰をすえてポリフォニーを聞かせるために、他のピアニストは後半にテンポアップするのに、テューレックだけはテンポを落として弾いています。

・シモーネ・ディナースタイン

冒頭のバス4つの音を揃えて一気に弾いて、その残響を豊かに響かせてから、おもむろにスタッカートで音階を弾き始めます。その後に続くトリルもある程度残響を響かせてそれが治まるところから細かいパッセージを丁寧に始めるという、盛り上げるところはもりあげても、そのあとで緊張をうまく抜いて、その脱力をうまく使っていて、この変奏全体をしっとりとした落ち着いた演奏にまとめています。他のピアニストでは、前半のフランス風序曲をたっぷりとしたテンポで、後半のフーガで勢いをつけるようにテンポよく弾いていくようですが、ディナーステインは、前半と後半でテンポ感を大きく変えることはなく、後半ではバスを強調していてリズムが前面に出るように弾いているので、リズミカルで、テンポがよくなったという印象を強めさせているようです。しかも、テーマの三つの声部のタッチを弾き分けて、それぞれの声部がフーガを始めところで異なるタッチで入っていくのがカラフルで、フーガが重なっていく様子が印象的です。そのフーガの後半で、再び、それぞれの声部が順次フーガに入っていくところで、音を弱くするので、そのあと全体は消え入るように終わっていきます。それが落ち着いた演奏の印象を強めています。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

この変奏の主部は後半のフーガであって、前半は文字通り序曲であるということを意識させる演奏で、あきらかに軽重のメリハリをハッキリさせていると思います。最初のバスの和音から一気に駆け上っていくフレーズはいかにも華やかに弾いていますが、それを繰り返した後で、片方の手がトリルをかけていて他の手が8分音符を刻むところでは音をしずめて、その後、スタッカートで駆け上がるふしのところでは再び音を強めますが一時的で、そのあと左右で掛け合いながら終わっていくところは音が弱まっていきます。後半に入って、心持ちテンポが上がり、タッチも後半の方が音が立っているような輪郭をくっきりと弾いています。フーガの各声部の対立が鮮明に浮き上がっていて、むしろ、それで後半は駆け抜けるように弾いているので、あっという間に終わってしまう印象です。ゼルキンは、ことさらに変奏曲全体の後半の始まりという節目などということを意識させないで、中間の山場である、第15変奏と第16変奏に、あまり手を加えたりすることなく、むしろ内容が厳しいので、素っ気ないほどシンプルでストレートな演奏をしていると思います。おそらく、ゼルキンは数字がどうだこうだといった理屈っぽい解釈を、あまり気にしていないのではないかと思います。

・アンジェラ・ヒューイット

様々な変化の要素がある変奏でとは思うのですが、わたしの悪い耳では聴き取れなかったようで、ここで私が指摘できるのは、後半のフーガの部分で、最初の時は、左手のバスの動きが割合に強調されていて、しかも、音色においても音が濁ってしまうことを恐れずに強打して、ドスのきいた感じになっていました。したがって、右手での二声のフーガの絡み合いとバスとが対立的に際立つ印象でした。それが繰り返しになると、音の全体的に強められなくなり、バスをことさらに強調しなくなりました。それによって、右手の二声とバスの三声が並立する印象となって、それだけに、部分的に浮き上がってくる声部が都度で交替するような響きに変わりました。最初の時は、対立関係が明確で緊張感の高い響きだったのが、繰り返しの際には複雑な感じは高くなりましたが、声部間の対立は弱くなり、リラックスした感じで、こちらの方があそび的な性格が強くなりました。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、音は一様で、前半のフランス風序曲も後半のフーガも同じように弾いています。フーガは各声部の動きが分かるように、ちゃんと弾いています。この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

シェプキンの特徴的なピアノの音。ラグタイムのような、残響の豊かさには欠けるものの、金属的な感じのする硬質で鋭い音で、この第16変奏のフランス風序曲のファンファーレを弾いていきます。そこでは、細かい音がタテに屹立している。それをたっぷりとしたテンポで弾いていると、巨大な円柱の林立する神殿のような空間が現れるようです。繰り返しでは、一転して弱音になって、耳が慣れずに、一瞬、音が消えてしまった錯覚するようで、そこが静寂に変わります。それが、荘厳さのうらの静寂といった神々しい印象を与えます。その繰り返しの後半で、少しずつ音量が増えてきて、後半のフーガに移ると、音楽が動き出します。

・イム・ドンヒョク

クリスタルのような硬質な音で細かい装飾的な動きやトリルのひとつひとつの音が透き通るように聴こえてくる演奏です。しかも、決して軽い音ではないので、ギャラント風の典雅ではなくて、音の運動として聴くことができる。ショパンのエチュードのような抽象的な印象の演奏です。ドンヒュクは前半の序曲部分を附点リズムっぽく後拍が追いかけるようなノリで、それを強調するように弾いているのが特徴でしょうか。それが、細かいな音のひとつひとつを際立たせながらも、音楽の勢いを失わせないことになっていると思います。そして、後半のフーガは普通のノリでとくにテンポアップしているわけではありませんが、前半の序曲からノリから移ってくると推進力があるように感じられます。そこで、見事に声部を弾き分けているので、しかも推進力が強く感じられるので、後半のフーガが見事に栄えて聴こえてきます。なお、この第16変奏がゴルトベルク変奏曲の後半のスタートとなる区切りであるというスタンスは、この演奏には感じられません。それがドンヒュクの姿勢なのだろうと思います。

第17変奏

ヴィトゥオーゾ系の第8、第11変奏につらなる、細かい音で左右の手が動くデュエット的な変奏です。前の第16変奏のフーガにおいて特徴的な16分音符の3度の動きを、「しりとり歌」のように引き取って始まります。それは、例えば冒頭のところであれば、左手の3度上がって、2度下がって、そこからまた3度上がる、という動きで、前半は、これを左で何度も繰り返します。それが後半になると逆に右手が、3度ずつ下降しながら、この動きを繰り返す。そうすると、左手は自由に動き出す。後半も終わりになると32分音符の装飾的な動きが一小節に一つくらい現れて、即興的というか、装飾的というか、一種の晴れやかさをつくっています。

・グレン・グールド(1981年録音)

第16変奏にくらべて、一段テンポアップして第17変奏を弾いています。音の動きは軽快に弾いていますが、最初から最後までマルカートで弾いて、鋭い突っかかるような、アグレッシヴさは維持しています。第16変奏が強い音で弾いていたのに対して、この変奏は音は弱めたものの、テンポをあげて、ここから後半の勢いの流れは、ここからとでもいうようなスタートダッシュをかけている演奏です。このアグレッシヴなマルカートで、一音一音をぶつ切りのようにして、細かい音を高速で動き回らせる演奏は軽快とか可愛らしさとは無縁の急き立てられるような切迫感を生んでいます。それは、この第6群の構成を緩−急−緩にして、フランス風序曲とカノンの強打の盛り上がりのテンションに間を切迫感でつないで、テンションを切らさないでいるということ。さらに、この第6群では、各声部の線の動きが大雑把に見ると上り坂と下り坂が交互に繰り返される大きなカーブになっています。それをグールドは、第16変奏ではバスの下行を強調してよく聴かせ、第18変奏ではバスの上行を強調して対称を作っています。そして、その間の、この第17変奏では、左手、右手、それぞれの上行、下行の交互に繰り返すのを交差させて、上行と下行が行き交う、いわば対立関係を浮き上がらせています。それを急き立てるようなテンポが緊張を高めることになっています。何か、のっぴきならない、といった印象を、他のピアニストの演奏からは聴けない演奏を作り上げています。それは、強いて言えば両端のどっしりとした変奏のあいだのつなぎ、換言すれば、大人と子どもの間の過渡期である思春期の急き立てられるような焦りとか、複雑に交錯する不安定で緊張を解くことができない内面のありようそのもののようにも聴こえてきます。

・グレン・グールド(1955年録音)

いつもは、速いテンポでも、手際よくポリファニーの各声部を対等に浮き上がらせてみせるのですが、この演奏では、第16変奏のフーガの3度の動きに通じるところでは、それ弾いている声部とは反対の声部を前に引き出すように弾いています。したがって、変奏の中で時に右手、ときに左が前に出たり、ひっこんだりをするので、この演奏では進むにつれて、全体のニュアンスが変化していきます。もうひとつは、第16変奏との「しりとり歌」のようになっている関係を前面に出さず、この変奏を独立したものとして演奏したかったかもしれないと思います。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

シフは第16変奏を抑えめに弾いたあとで間をおいて、その終わりに応答するような第17変奏の冒頭のフレーズを、抑えめの第16変奏に応ずるように、静かに始めます。この変奏の冒頭の、そっと入るところに端的に表われています。これは、前の第16変奏の終わり方が断ち切るように終わることから、様相が転換したことを、冒頭で示したようなものです。そして、この変奏では細かい音が動き回るヴィルトゥオーゾ的な要素がある、この変奏をシフは静かに聴こえるように弾いています。それは不思議な静けさで、生き生きとした躍動感があって、明るい気持ちになるような静けさを感じさせるものです。それはシフのピアノの明るい音色も影響しているのかしれません。ここで、シフは装飾的なあそびで、聴く者をクラックスさせてくれます。例えば、前半を繰り返したときに、右手がバスに移って、5度上がるという2つの音のまとまりを繰り返しながら1度ずつ下がってくるところを、1回目はそのとおりに弾きましたが、繰り返しのさいには、2音の16分音符のまとまりを8分音符ひとつにして、細かい動きを省略してしまいます。後半では、ところどころでトリルを加えて、とくに繰り返しの際には、変奏の終わり近くの右手の動きはトリルに代わってしまったりします。そういう遊びを楽しむことができる弾き方をしています。

・マレイ・ペライア

前の第16変奏から連続しているように弾き始めます。怒涛のように第16変奏の勢いで、緩やかな上行と下行のスロープを繰り返す16分音符の動きを、音はこころもち軽くしながらも一気に奔るように弾いていて、ペライアは終始この変奏をポジティブに元気付けるような力強いものとして演奏しています。第16変奏が後半の開始となる祭典であれば、この変奏はその後夜祭であるかのようです。

・ヴィルヘルム・ケンプ

第16変奏を豊かに響かせて弾いたあとで、いったん休止をとったあと、この第17変奏は対照的にスタッカートで可愛らしく始めます。細かく動き回る音を、珠を転がすように可愛くきれいに弾いて、第16変奏がロマンチックならば、こちらはロココ調とでもいいたくなるような対照をつけています。この変奏を、全変奏の演奏の流れのなかでのひといきいれるちょっとした息抜きを聴き手に与えてくるような聴かせ方をしていると思います。ほっとできる、束の間の変奏です。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

この人の例によって、遅いテンポで訥々とじっくり弾いています。緩やかな上行と下行のスロープが右手で弾く声部と左手の声部が交互に、時には交差して、その個々の声部の細かい装飾的な動き回るような音の動きが透けて見えるように明快に聴こえて来ると、その動きが可愛らしくユーモラスな動きをしているように聴き取ることができます。そのユーモラスな動きは、主に左手の動きが、2音単位で(例えば4連符は2音のダブリととれる)構成されているように弾いているので、2拍子のズンタというリズムが鈍クサく底辺に流れているのが聴き取れるようになっているからです。その鈍クサさが憎めないで、独特のユーモラスな感じを出している

・シモーネ・ディナースタイン

第16変奏をしっとりと弾いていたのに対して、この第17変奏はテンポを数段上げて、軽快に走るように弾いています。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

前の第16変奏後半のフーガと同じテンポ、同じような弾き方なので、引き継いでいるという印象です。例えば、左手は16分音符の4連符が続きますが、この4連符をゼルキンは2音ずつにグルーピングして、2音×2という弾き方をしていきます。これは第16変奏のフーガで左手の刻みをやっていたのと同じで、ここでふたつの変奏が通底しているわけです。ゼルキンは、そういう風に弾いていると思います。これに対して、右手の動きは第16変奏の直線的な音の形から細かい上下の動きをする幅が加えられて、あそびの感じ、つまり自由さ、ということでフーガの厳格さを和らげる要素が加わってきています。ゼルキンの演奏を聴いていると、この変奏のそういう性格がよく分かります。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏も各々の声部の動きのどこを浮かせるかで演奏の印象が変わってくるタイプなので、ヒューイットは、この前の第16変奏よりも、こっちの演奏の方が生彩がある、と思ってしまうのは私の偏見かもしれませんが、そのあたりに第16変奏を腕によりをかけて弾く他のピアニストとの違いが現われていると思います。まず、変奏の前半では、最初は他のピアニストがだいたい弾いているのと同じように弾いて、繰り返しで、変えて弾いていて、そこでいかに変化したかを見せ付けているかのようです。まず、最初の3小節で右手は第16変奏に対するしりとり歌のようなメロディを3回弾きますが、最初のときは、そのメロディを浮き上がらせます。これに対して繰り返しの際には左手が2音のまとまりで上昇するトコトコというのを右手に対抗するように弾いています。このトコトコは、この変奏全体の基調となっていくもので、繰り返しの際には、それを最初から前面にだしている。そのあと、両手でトコトコという動きを刻むようにして、そのトコトコが上がったり下がったりするのがしばらく続きますが、繰り返しの際に、大胆に左手のバスを浮き上がらせて、トコトコを省略するように下降フレーズを流れるように弾きます。それは、そのあとで、右手がトコトコしている一方で、左手がしりとり歌のメロディを弾くのですが、最初のときには、トコトコが耳にあって、その影でヴェールを隔てて聞こえてくるというものが、繰り返しでは。その前でバスに注意が行って、それに続くので、メロディが直接聴こえるようになるのです。

後半に入ると、ヒューイットは最初からバスを前面に出して、他のピアニストと違った弾き方をしているのをアピールするようです。後半は、さらに小節ごとに声部のどちらが前面に出るか、強弱関係が変化して、それに伴いトコトコの聴こえ方や位置関係が変化していくというのが、他のピアニストでは聴くことがないタイプの演奏が続きます。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実に弾いていますが、どの変奏も同じような音で弾いています。ポリフォニーの各声部の動きが分かるように、ちゃんと弾いています。この変奏では繰り返しをしていません。

・セルゲイ・シェプキン

第16変奏からテンポアップして快速に硬質な音で弾き始めます。とてもアグレッシヴな印象です。前半の繰り返しでは、音を弱めてから、後半の繰り返しで音を強めて、とても攻撃的になって盛り上がります。

・イム・ドンヒョク

前半はクリアな澄んだ音で弾いていきます。後半は、とくにバスの音が変化します。後半に入ると高音部の音はまるく優しい音になって、バスは逆に浮き上がるようになって同時に音は少し濁るようなドスのきいた音になります。それは、前半の部分は軽快に弾むような印象で一貫していますが、後半に入ったところで、それが一旦落ち着く、地に足が着くというイメージです。しかし、それで終わるわけではなくて、最後のところは両手で高い声部の鍵盤を弾くので、バスは弾かれなくなるので、後半の高音部の円く柔らかい音は、前半のクリアな音に比べて、フワフワと浮遊感のある音なので、この変奏の前半の部分の軽快な弾む感じから、フワフワと浮いた、つまり、もっと軽快な、重さのない宙に浮いている感じで終わるのです。

第18変奏

6度のカノンで、後半になって最初のカノンです。快活なアラ・ブレーヴェです。右手の二声がカノンになっていて、半小節ずれてテーマを追いかけます。このカノンは各声部が交差することなく、きれいに追いかけるので聴き手としては、その動きがとても分かり易いものになっています。カノンに追いかけっこするテーマがいくつかの部分に分かれて、それぞれが声部で交互に追いかけっこします。そのテーマを通して聞いてみるとコラール風の、例えば「主よ人の望みの喜びよ」の雰囲気に通じるような感じのメロディに聴こえてきます。それをカノンで分割して繰り返してくれて、左手の4分音符のあいだにちょこちょこっと8分音符が使われる、このリズム的な変化がカノンの全体の響きを。トリオソナタ風にしていて、その装飾的な動きが変奏を重くさせないで、軽快さを失わせないようにしています。

・グレン・グールド(1981年録音)

第18変奏は右手の二声がカノンですが、グールドは左手のバスを強調して、右手のカノンは伴奏のように聴けてしまいます。とくに右手のカノンで弾かれる問いかけるようなテーマに応えるようにバスの上行するフレーズが強調されると、盛り上がってくる感じがします。そのバスのフレーズの切れ味がきっぷ(気風)のよい、割り切ったような印象を与えてくれます。しかも、右手でのカノンのテーマの一部、附点2分音符が高いところで鐘が鳴るみたいにカーンと印象的に響きます。それがまるで、バスの上行するフレーズの行き着く先の高みに、高い音が響く。それがコラール風の上方を仰ぐ姿勢の雰囲気をつくり出しています。これは、前の第17変奏のすこし不安定な感じの解決というと深読みになりますが、とにかく、ここでひとつの区切りをつけている、そういう演奏のように思えます。だからこそ、この後の第19変奏のガラッと場面が変わるような演奏に切り替えることができると言えます

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

第18変奏を静かに始めます。テーマが弾き終わる語尾のところになると音を弱め、テンポを落とし、消えてしまうように、またテーマが始まると次第に音量とテンポをもどして、右手による音を伸ばすようなカノンのテーマを二声で追いかけっこするところより、ゆっくりとしたテンポのバスのリズムの動きが変奏曲のように聴こえてきます。しかも、繰り返しをする際に全体をオクターヴ下げて演奏しています。それゆえに静かで落ち着いた、この変奏は、さらに落ち着いた印象となります。さらに、バスがさらに低くなって、音が太く、そして濁るためにドスがきいた印象を与えます。それは、けっして大きい音を出すわけではないのですが、コラールの神を迎えるような構えを見せるようなどっしりとした感じがする演奏です。

・マレイ・ペライア

前の第17変奏から連続しているように弾き始めます。ペライアは、この第6群の第16〜18変奏をひと続きのように演奏しています。第17変奏の奔るような演奏を、この第18変奏でグッと腰を落として受け止めるようにして締め括りとしているような印象です。それだけコラール風の厳かで劇的な感じを意識して、少しもったいぶっているようにゆっくりと弾いています。

・ヴィルヘルム・ケンプ

冒頭の2分音符の最初の音、この残響が余韻をもって響いています。カノンで続く2分音符の響きもそうで、演奏の節目に2分音符の響きが打ち上げ花火が上がるように、印象的に響きます。この印象が強いので、二声のそれぞれの2分音符がひとつのグループのようになって、2音が続いて現われて、その間を繋ぐようにフレーズが組まれているように聴こえてきます。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

この人の例によって、遅いテンポで訥々とじっくり弾いています。その遅いテンポで右手の二声のカノンと左手のバスをしっかりと聴かせてくれます。そうなると三声のフーガのように聴いてしまいます。特に、右手の二声目のカノンで追いかける声部をよく聴かせてくれるのでグールドの演奏では強調されるバスの音の隠れて聴けなかったフレーズを聴くことができます。とりわけ他のピアニストの演奏でも埋もれがちな、右手の二声目が浮き上がるように聴こえてくると、全体的な響きがこの人だけかわったものとなっています。カノンのテーマの最初の2分音符の長い音を半小節遅れで音色を変えて始められると、録音のせいかもしれませんが、あらぬ方向から音が響いてくるような不思議な音空間に包まれます。ドビュッシーの調和しているのか不協和なのか分からないような不思議な響きに近い感じと言ったらいいでしょうか。

・シモーネ・ディナースタイン

 ディナースタインはバスを抑え気味にして右手の二声のカノンを前面に出すようにして弾いています。その結果、右手と左手の掛け合いによって、右手で下行してくる緩やかな動きを左手による上行の活発に動き回ることで迎えるという全体の様相のうち、左手による迎えが抑制されることになりました。その結果、コラールの雰囲気は減退し、そのかわり右手の全音符や2分音符のような音の伸びる響きが前にでてきて、ゆったりとした雰囲気の演奏になっています。この人の第18変奏はカノンのテーマよりも、ターンという長く伸びる音が、高声部と中声部で、交替に鳴っている。それは打ち上げ花火を間隔をおいて次々と打ち上げられるような印象で、ターンに続くカノンのテーマやバスの動きは、ターンの音に比べると弱めの音で、そのターンの花火が花開いて四方に飛び散っていく火花のような、派生して飛んでいく破片のような印象です。それが高い音でターン、ターンと続くので、本当に花火のように高いところで浮かんでいる、天上で奏でられているという錯覚にとらわれてしまいそうです。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

第16変奏の後半、第17変奏と速めのテンポの演奏が続きましたが、ここで中庸のテンポに戻ります。この変奏をゆっくりとコラール風に弾く人もはますが、ゼルキンはテンポをことさらに落とすこともありません。ここで目立つのはバスの動きです。というより、右手による二声のカノンは聴こえてきません。バスのリズムを刻む音がもっぱら聴こえてきます。しかも、ゼルキンは弾むようにスタッカート気味に弾いていて、時折、楽譜にはないけれど即興的にトリルを加えたりして、カノンをきっちり弾くことよりも、即興的に自由な演奏をしようとしている。第16変奏後半のフーガを厳格に弾いていたので、ここでまた、厳格に弾いてしまうと息が詰まってしまっていたかもしれません。

・アンジェラ・ヒューイット

右手の二声がカノンになっていて、半小節ずれてテーマを追いかけるのを、くっきりと浮き上がらせて、しかも、このカノンは各声部が交差することなく、きれいに追いかけるので聴き手としては、その動きがとても分かり易いものになっています。同時に、左手のバスを右手の二声に対抗させるように際立たせています。それによって、右手がカノンを演じている一方で、左手のバスは別の即興的なフレーズをくりかえしているようになります。それが、時には絡み、時には別々に動いている。それが、繰り返しのときは、全体の音を弱め、バスをベースの位置づけにして、カノンの変奏であるとして弾いています。そこで、いったん演奏を落ち着かせて、後半に入ると、再び、右手の二声と左手のバスを対抗的に弾き始めますが、後半は右手と左手が応答するようなフレーズが作られているところがあるので、その応答がハッキリしてきます。しかも、右手はカノンの応答するところがある。いわば二重の応答が重なり合う複雑さをヒューイットは際立たせてくれます。

・マルティン・シュタットフェルト

前半の繰り返しでは、右手が1オクターヴ上で弾いて、後半の繰り返しでは両手とも1オクターヴ上を弾いています。それで、音色を変化させているということでしょうか。

・セルゲイ・シェプキン

静かに始まり、左のバスを抑えめにして、そのベースに乗るようにして、右手の二声が前面に出て、カノンの掛け合いをしていきます。それが繰り返しになると右手の二声を1オクターヴ上の高さで、甲高く弾きます。そして、後半の繰り返しでは、両手ともにオクターヴ上がって弾いています。これは、第16変奏で神を天に仰ぐような方向性から、その仰いでいるのが、天上に昇って行くという方向性を表わしているのではないか。この変奏の曲調も上行する音型になっているので、それに合わせていると考えてもいいと思います。

・イム・ドンヒョク

この第18変奏は右手の二声がカノンになっていて、半小節ずれてテーマを追いかけるものです。この右手の二声によるカノンは、前に始まる声部は遅れて始まる声部が半小節ずれて終わるのを待って、新たに次を始めます。それで、ドンヒュクはこの右手の二声の前の声部が弾き始めて、後の声部がテーマを終わらせるのを一つのグループとして、当然、これに対応する左手の声部も含めてです。このグループの反復として捉えて弾いているようです。具体的にいうと、カノンのテーマの2分音符の最初の音がポーンと伸びるのが印象的で、半小節遅れて始まるのは、前の声部の始まりに応答するようにポーンと入りますが、ドンヒュクはその応答を聴かせるように、それが次のグループで反復されるときに、音色やタッチを変化させていきます。それに伴い、左手の弾き方も変化させています。つまり、このグループの弾き方の変化の妙を聴かせ所として、この変奏の演奏を組み立てているようなのです。

リンク            

ゴルトベルク変奏曲総論    

アリア               

第1群(第1変奏〜第3変奏) 

第2群(第4変奏〜第6変奏) 

第3群(第7変奏〜第9変奏) 

第4群(第10変奏〜第12変奏)

第5群(第13変奏〜第15変奏)

第7群(第19変奏〜第21変奏)

第8群(第22変奏〜第24変奏)

第9群(第25変奏〜第27変奏)

 

第10群(第28変奏〜第30変奏)

 

 
音楽トップへ戻る