グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第1群(第1変奏〜第3変奏) |
第3章 第1群(第1変奏〜第3変奏) おさらいのようですが、変奏は三曲でひとつのグループを形成していて、30の変奏があるので、三曲ずつ10グループということになります。そして、グループの三曲目はカノンで閉められるようになっています。このカノンは最初の第1群が1度のカノン、第2群が2度のカノンというように広がっていって、9度のカノンまでいって、第10群の最後の変奏はクオドリベット(複数のメロディを寄せ集めて一つの曲にしたもの)となっています。 最初の第1変奏は、同じバッハのフランス組曲第5番のイタリア式クーラント(コレンテ)を思わせるような大胆な10度の跳躍を持つバスが特徴的で、しかも、4小節ごとに右手と左が入れ替わる、ヴィルトゥーゾ的なところのある曲です。右手では終始16分音符の細かなパッセージで、そこに左手の“ズン・チャカ、チャッ、チャ”とでもいうような1拍目と3拍目にアクセントが付されたリズミックなフレーズが闖入してパッセージの流れを断ち切ったり、掛け合いをしたりと二声の対照の仕方のおもしろさを味わうこともできます。静かなアリアから一転して激しい曲になりますが、このアリアからどのように移るかによって、ピアニストの弾き方は千差万別です。とくにテンポの設定と音量がポイントになってくると思います。というのも、アリアのあとに幕があいて変奏が始まるという考え方と作品はすでにアリアから始まっていう考え方では、アリアとこの第1変奏の関係が変わってきますし、アリアと第1変奏を一連と捉えたとしても、そのなかでも様々な解釈が生まれてきます。 この演奏の第1変奏の入りは衝撃的です。静かなアリアから休止をはさまず、アリアの最後の音の残響に耳を澄ましていて消えたか消えないかというタイミングで、冒頭のバスの最初の音が、まるでガツンと頭を殴られるような強く大きな音で鋭角的に入ってきます。その音量の落差と尖った音で、アリアから世界が一変します。しかし、アリアと第1変奏のテンポは、それほど大きく変化していなくて、連続性があります。しかし、聴いている側では、世界が一変したためにテンポも変わって、急に速くなったと錯覚を起こしがちです。しかも、グールドは殊更にバスを強調し、とくに1拍目と3拍目のアクセントを過剰なほど強打してリズムの刻みをタテノリのロックのビートのように尖った印象にします。二声の掛け合いのような線の浮かせ方で、バスは強く、テナーは優しげして対比をくっきりさせ、結果としてバスの印象が強まるように聴かせます。二声というよりバスが主でテナーが伴奏のような様相です。従って、グールドほどバスが強く聴こえてくる演奏は、あまりありません。グールドの演奏はバスが躍動するのです。だから、静かなアリアからリズミカルに一変してまって、演奏に推進力が強く感じられるため、テンポが速くなったように聞こえてしまうのです。アリアのところでも述べましたが、グールドはアリア-第1変奏-第2変奏-第3変奏でひとまとまりにして、演奏全体の方向性を示そうとしました。従って、アリアとこの第1変奏は連続した一連として演奏しているのです。そのため、テンポを変えていません。しかし、変奏はここから始まるので、アリアとの区切りは付けたい。そこで、音量で大きな落差をつくって、区切りをつけたと考えられます。 ・グレン・グールド(1955年録音) 1981年録音と比較して聴くと、テンポがかなり速いことが分かります。およそ180%速いと1981年盤のライナーノーツでも解説されていました。この録音での演奏はアリアも速いテンポで、この第1変奏ではさらにテンポが上がって駆け抜けるようです。グールドは途中でテンポを揺らしたりしない人なので、最初に速いと感じた、そのままのテンポで、この変奏を一貫して演奏しています。この速いテンポで右手の1分音符の細かいパッセージを弾くと、1981年盤では感じられないヴィルトゥジティが感じられます。つまり、ここでのグールドはバリバリ弾いています。また、バスを強調することもなく、右手と左手は二つの線としてくっきりと平等に明示されています。ストレートな演奏です。 シフはアリアを比較的速めのテンポで軽快に弾いています(繰り返しをしているので演奏時間は長くなっていますが)。そのアリアがしっとりと終わって、休止を挟んで、第1変奏が軽やかに始められます。それは、グールドの出会い頭の一発の衝撃と比べると、その部分だけを聴くと、別の曲かと間違えてしまうほど異なります。グールドの落差に対して、シフの場合は、アリアから第1変奏に休止を挟んで、なめらかに流れるようです。シフはアリアが速いテンポで、弱音でなくて中庸で弾かれているので、第1変奏には、テンポも音量も変わらずに演奏が続いていきます。彼のテンポと付点気味のリズムの付け方は、まるでラジオ体操のようで、それに乗って身体を軽く動かすのにちょうどいい感じで、そこに私などは軽快な身体感覚を覚えます。全体の方向性として、グールドはシロクロの二項対立で対比を強調します。これに対して、シフはそういう全体の構造的な対比ではなくて、細かいところ、各場面で個々に対比をつくっていきます。例えば、バスとテナーの二つの声部について、シフはグールドのようにバスを強めにして、剛のバスと柔のテナーといった対照をつくらず、双方の声部を同じ水準で弾きます。しかし、その二声が二つの線として、各場面で掛け合いをするときには、その場面によって弾き分けています。それは、二つの声部が対話をしているように、息とか間を変えています。それが、グールドの場合にはバスは強め一貫していますが、シフの場合には、それが時によって入れ替わったりします。その個々の場面での小さな変化を無数につけていて、そこに生き生きとした動きが生まれている。それがシフの変奏の特徴です。これは、この第1変奏よりも、第3変奏のカノンの方が顕著に表われているかもしれません。 ペライアの演奏は、グールドとシフの中間と考えるとイメージし易いかもしれません。そうかといって、中途半端とか折衷というのではありません。二人は極端なので、その間にはたくさんのヴァリエイションがあって、ペライアはその中の一つの立場というような意味合いです。ペライアは、おそらく、声部の対比の扱いについては、ある程度やっておいて、そういうところとは別のところで、演奏をしようとしていると思います。それは、メロディを生き生きとうたわせることではないかと思います。この点では、グールドは無機的といっていいほど音形をぶっきらぼうに弾いているし、他方シフは細かく弾き分けたり、装飾をしたりしてメロディをいじっていますが、それは手を加える対象とか素材として音形をとらえているわけで、二人とも音形を利用するための素材と考えている点では同じです。これに対してペライアは、メロディそのものに意味があるように、そこに感情移入できるよう弾き方をしています。装飾音をくわえたり、変化をつけたりしていますが、それはメインのメロディがあればこそです。これは、この第1変奏よりも、第2あるいは第3変奏の演奏を聴いたほうが分かると思います。これに対して左手のリズム的な声部はノンレガートでタテ、右手はレガートでヨコという対照的な扱いをしています。しかも、アリアからは、この第1変奏になるとテンポが速くなって、演奏にまず推進力を与えているようです。 ケンプは上の3人とも違う独自路線です。ケンプの弾くアリアは、おそらく最も速い演奏のひとつかもしれません。しかも、繰り返しをしないので、2分もしないうちに終わってしまいます。そして、休止の後の第1変奏は、それよりも速い。しかし、グールドのように突然大きな音にすることはしないので、第1変奏には滑らかに移ります。しかも、ケンプの場合、右手ではレガート気味に演奏しているので、滑らかにすべるような速いパッセージになっています。そこに、滑らかさに対比して、バスはノンレガートで滑らかさを断ち切るように。それが交互に聴こえてきて、聴き手は音楽の流れがストップ・アンド・ゴーを繰り返すダイナミックを感じることができます。ケンプの演奏の特徴は主旋律の浮かび上がらせ方の味わいにあると思うのですが、そういう演奏のつくりが基本になっているので、どうしても右手が主旋律で左手が伴奏となる傾向がありますが、その反面、二声が明確に対比されていなくて、それぞれの旋律の浮きあがったり、背後に隠れたりといったことが味わいとなっています。あのケンプが、速いテンポで押し通しているので、指がついていくのか心配になりますが、他の人とは違って装飾をつけないところもあるので、全く違う旋律に聴こえてくる、それが指が回らなくて端折ったのかわかりませんが、それも、たいへん興味深い。 グレン・グールドの1981年録音にそっくり、ではなくてこちらが本家本元です。しかし、アリアの最後の音の残響が終わるか終わらないかで第1変奏を強烈な打鍵で始めるグールドに対して、テューレックはちゃんと休止をとって第1変奏を始める点が大きく違います。しかし、それ以外の構成では、私の耳ではほとんど同じように聴こえます。グールドの方が極端にあざとく対比を強調しているのですが。ただ、細かいところでは違うのと、どぎつさのあるなしで、両者の印象は異なってきます。例えば、チューレックもグールドもバスを強調していて、テナーと平等というよりもバスの方がよく聴こえると思うほどです。グールドの場合には切れ味の鋭いアクセントで縦に切り刻むようなビートで、まるでロックの乗りのようなアグレッシブなリズムを作り出しているのに対して、チューレックはアクセントはつけていますが、それはむしろゴルトベルク変奏曲がバスの主題を変奏する曲なのだから、バスがどのように変奏されているかを明確に聴く者に分からせるためのものとして聴くことができるものとなっています。したがって、音の繋げ方やアクセントの程度などは変奏主題が繰り返されるときに、微妙に変化をつけて、どのように変奏されているか理解できるように演奏しています。そして、この曲がポリフォニーであることもちゃんと押えていて、テナーの旋律はバスの装飾のようにも弾いているのですが、二本の線が絡み合う様子をグールドよりも明確に聴かせてくれます。 アリアから第1変奏に移ってくると、アリアのゆったりとし演奏から、急にテンポが速くなって快速の演奏になります。このように落差をつけているのは、グールドの1981年録音の構成の考え方を上手く消化したものと言えます。この第1変奏のようにヴィルトゥオーゾ的な要素のある曲でも、彼女の場合、技術的に安定感があって、落ち着いていて、破綻なく弾いています。ころころと輝くように丁寧に音を出していますので、息が詰まるようなことがありません。ただ、そういう安定した演奏であることは、聴く人によって落ち着いて聴いていられるものであるし、また、別の人には、繰り返しの変化とかポリフォニックな声部の工夫といったこともないので、もの足りなく感じる人も出てくると思います。 ・ピーター・ゼルキン(1994年録音) アリアが終わって、速めのテンポで弾むようにノンレガートで歯切れ良く軽快に第1変奏を始めますが、音の大きさはアリアと変わりません。グールドのようにアリアに次いで第1変奏を大きなギャップのようにコントラストをつけて聴き手に強烈なインパクトを与えて、その後は変奏を通して、そのテンポや音の強さを一貫させるという、悪く言えば、出会い頭の一発にかけるけれど後は単調になるのに対して、ゼルキンは、最初の印象は薄いものの、演奏が進むにつれて面白味が染み入るように出てくるという演奏です。例えば、右手で最初に細かい3連符を弾いてスラーで伸ばして、4連符に続けていくところ、ゼルキンは、そのスラーで伸ばすところで右手を心持ちひき気味にします、その一方でそのひいたところに左手のバスを前に出します。その出し引きの間が呼吸をしているようなのです。大抵のピアニストは、ここは右手と左手で弾かれる二つの声部を独立させて、それぞれの線をはっきりさせて、絡み合わせるのですが、ゼルキンは、このような呼吸するようにニュアンスを変化させます。そして、後半に入ると、右手は高い音を弾くように移るのと同時に、音を強くします。しかし、その時にバスは同調しないで、その後になってバスも同じように音を強めていきます。この変奏の中で、音の強さや演奏の緊張感が少しずつ変化していくのです。その変化についても、ゼルキンのタッチが柔らかく、ノンレガートでもレガートに近く滑らかなので、いつ変化したのか分からないほど微妙に変化しているのです。それは、ゼルキンの演奏が呼吸しているように、絶えず流動しているということなのではないかと思います。 ・アンジェラ・ヒューイット ヒューイットの演奏は受けを狙った大袈裟な身振りや奇を衒って聴き手を驚かすことなど少しもないものです。だから、全体としての演奏は表面的には突飛なところもなく、この変奏についても殊更にテンポを速くしたり、コントラストを無理に強調したりすることはありません。全体のスタイルは優等生的と言っていいような誰もが納得できるものです。では、ヒューイットの演奏はどのようなところに特徴があるのか、繰り返しの際にどのように変化するかを比べながら細かく聴いてみると焙り出されてくると思います。まず前半、冒頭は繰り返しの際には右手は音を弱めて籠もるような響きになります。他方、左手も繰り返しの際には同じように音を弱めますが、最初は一定の強さで弾いていたのに対して、小節の最後二つの音に特に強いアクセントで強調しています。それを繰り返して、3小節目では逆に強めにはじめて終わりの二つの音を弱めます。このように、最初の時は、左手は第1小節目のパターンを繰り返して全体のリズムを作り出していますが、繰り返しではパターン内の強弱を変化させています。それによって、繰り返しではテンポを揺らしているわけではないのに、最初の規則的なリズムの印象から、リズムが伸び縮みするような印象に変化して、より自由な感じになっていきます。一方右手の方も、繰り返しは弱い音で始まり、左の変化に応答して小さく強弱をつけていきます。それが微妙な息遣いを与えられたように、音は弱くなりますが、時には最初にはなかったトリルを差し挟んだりと自由に活き活きとしたものに変化していきます。後半部分は、その変化の幅がさらに広くなります。 ・マルティン・シュタットフェルト アリアを静かに終わらせて、この第1変奏はフォルテで始めるという強弱の落差を際立たせるのはグールドと同じ方向性です。しかし、グールドのようにタッチを変えて、その落差を強調して強い印象を与えるということまではしていません。演奏のテンポも、標準的と言えるもので、ノンレガートの教科書の模範になるような演奏と言えます。この変奏では繰り返しをしていないので、アリアのときのような逸脱がなく、少しもの足りない気もします。 ・セルゲイ・シェプキン 快速を通り越してしまう、これでは舞曲としてステップも踏めないほど速い演奏です。速くて音が重なっていくパッセージでも常に一つ一つの音が決して濁らず、輝きを保ちつづけるところです。弾むようなリズムと、その音の輝きの相乗効果により、ステージ上に一陣の風が吹き抜けていくようなスピード感と、スリルが生み出されるのです。しかも、この速さで、音がつまっていても、繰り返しの際には、とくに後半の繰り返しでは、数ヶ所で装飾音を加えて弾いています。そして、変奏の最後では、急ブレーキを踏んだように大胆にテンポを落として、この急減速も凄いとおもうけれど、終わります。 ・イム・ドンヒョク グレン・グールドにしろ、シフにしろ、粒の立った音で突っ込むように初めるのに対して、ドンヒュクは滑らかに始めます。ショパンのエチュードを弾くような細い音で、例えば、第1小節の右手の声部では、16分音符の連符のとおり三つのフレーズに分けて、その三つの始まりを異なったニュアンスで弾いていて、それを次の第2小節でも繰り返します。一方、左手は3小節目まで、同じパターンのリズムを繰り返しますが、タッチや音色を変えて弾いています。まるで、ショパンのエチュードのような弾き方です。ショパンの曲はソナタ形式のような展開させるのではなく、短いシンプルなメロディを繰り返すことが多いのですが、その際に単純に繰り返すのではなく、転調させたり、リズムを変えたりと、ちょっとした変化を必ず加えます。ピアニストは、その変化をどのような弾き方をするか、というのがショパンを聴く時の焦点のひとつになります。ドンヒュクは、おそらく、そういうショパンの曲をレパートリーの中心にしている人なので、繰り返しには変化させることが、当たり前のように身についてしまっているのではないかと思います。それが、ショパンのような弾き方をしているという意味です。この変奏は同じパターンを3度ずつ繰り返していくも、同じように変化をつけて弾いていきます。この変奏では前半部分だけを繰り返しますが、繰り返しの際の始まり方は、弱音で入ってきます。それは、メヌエットなどの三部形式の舞曲のトリオの音楽を落ち着かせる部分のようにしているみたいです。そして右手の分散和音にトリルの装飾をつけて、それはバロックのギャラントというよりもロマン派の即興曲風の趣味性のように聴こえてきます。後半の入りは、この弱音をひきついで静かに入りますが、その後、クレッシェンドさせて段階的に音を強めていって、終わりになります。 ・アンドレイ・カヴリーロフ アリアをゆっくりしたテンポで内省的に弾いたあとで、この第1変奏をキビキビとした速いテンポで弾き始めます。このアリアから第1変奏に移ると、明らかにテンポが大きく変わるのですが、カヴリーロフはそれを自然に、ギャップを聴き手に感じさせることなく移行しています。グールドのように最初のバスの音を強打して聴き手を驚かしたり、シフのように間にたっぷり休止をとって、ここから変奏を始めるという期待と緊張感を聴き手に高ぶらせるようなことは、ガヴリーロフはしません。それはアリアからの移行の仕方だけではありません。バッハのこの曲はパズルのようなところがあって、グレン・グールドはそのパズルを精緻に構築するような演奏をしましたし、他のピアニストは、そうでなくてもアリアをメロディをうたわせて内省的に弾いても、この第1変奏のような曲ではメカニックに弾いたり、抽象的な音の運動だったり、そこに即興を加えたりという弾き方をして、アリアとは対照的に弾いていました。ところが、カヴリーロフという人は、きっと音楽というのは自身の肉体とか感情を必ず通さないといられない人なのではないかと思えるのですが、メカニカルなはずの、この第1変奏の演奏にも感情移入せずにはいられないようなのです。そのように弾いているように聴こえるのです。例えば、始めの右手で弾くフレーズは歌わせられるようなメロディではないのですが、その右手と左手が掛け合いをするようで、さらに、1小節目のフレーズを2小節目で変奏するように繰り返していきますが、その際に受け応えのような息の掛け合いをしているようなのです。フレーズのはじめの三連符を最初は太い音から、2小節目、3小節目と段々に高いところから始まるように変わっていくと、音が段々と細く、タッチが柔らかくなっていきます。一方、左手のバスは軽いアクセントをフレーズの後ろに置いてダンサブルなリズムをつくりだして、それが繰り返されていくにつれて微妙にアクセントの強弱を変化させて、右手で弾かれているフレーズに対応させているのです。その結果、右手と左手が二人でダンスを踊っているような肉体性が表われてきている演奏になっています。前半の中ほどで左手で弾いているリズムは、まるでワルツのようです。そのなかで、他のピアニストではやらないような、構成からも考えられないようなところで、おそらく弾いていて身体が自然に動いてエキサイトしたのではないかと思うのですが、山場を突然つくっています。ここで言っている、細かいところの変化というのは、他のピアニストのような演奏の意匠とか即興とかいった聴かせる工夫というのではなくて、ダンスを踊る時に人の肉体は機械のような正確な繰り返しはできないのと同じような自然なもののように聴こえるのです。 ・エウゲニイ・コロリオフ コロリオフの演奏の特徴は、バロック音楽の装飾性とか即興性を現代のピアノの機能を最大限に利用して演奏しているところにあると思います。この人の弾くピアノはよく音がとおって響きます。それはバロック時代のチェンバロとの大きな違いですが、グールドであればチェンバロの音の特徴とか、チェンバロらしい響きをピアノに取り入れて、ピアノのために作曲されたバッハの後の時代の音楽とは異なる響きを作り出していますが、コロリオフはそういう迂回するようなことせずに、ピアノの豊かさをそのまま利用しています。グールドの場合は、バッハのこの曲の構成などを考えて、そのためにチェンバロ的なクリスピーな響きが必要だったのかもしれませんが、コロリオフは、そのような大きな構成よりも表層の響きを重視しているようです。 この第1変奏に入り方についても、アリアから移ってくるときの効果をあまり考えていないようで、とくに引っかからず、すっと入ってきます。そして、第1変奏について、繰り返しに変化をつけていきますが、アンジェラ・ヒューイットのような音楽の語り口を変化させるというのでなくて、もっと細かいところで変化を積み重ねて行っています。最初は左手のバスのパターンを3回繰り返していきますが、アクセントの位置を少しずつずらしています。さらに、前半部分の反復の際には、このバスのところはレガート気味に弾いてアクセントは前目にしてフレーズのはじめをくっきりさせて全体はレガートで滑らかに流しています。それによって、リズムのメリハリがあって、しかも流麗さが加わってくる。しかも、右手と左手のバランスを少し変えて、一回目の演奏ではスタッカートで縦のリズムのソリッドな演奏です。それが2回目では、旋律的な動きをする右手が少し前に出て、レガート風に音を伸ばし連なるようにして流麗な演奏に、その際にリズムを揺らせたり、それに合わせて左手のバスのリズムのフレーズがアクセントを一回目から少しずらしたりします。そこで弾かれる演奏は、グールドのような彼なりの本質はこれだと鋭く突いて行くような演奏ではなくて、曲を出発点にして様々な方向に拡散していくようなこれもあり、あれもありという演奏です。 第1変奏がヴィルトゥーゾ的なところのある、いわば「動」であったのに続いて、第2変奏は対照的に「静」の音楽で声部が三つに増えます。冒頭の16分音符の下降するかたちのテナーの旋律がコロラトゥーラの玉を転がすような可愛らしさがあって、合いの手のように上昇する形のバスが、やはり16分音符で粒立ちのいい感じで、これらリフレインされると、次第に音の方向が、真ん中に収斂されていくように、それにつれてテンションが次第に高まっていきます。このリフレインとポリフォニーな響きが、次の第3変奏への準備にもなっています。左手のバスは「ソーファ♯−ソ−ミ/ファ♯−ミ−ファ♯−レ/ミ−レ−ミ−ド」と1拍目・2拍目にアクセントが来ます。この左手のフレーズが、9小節目になって右手が違うフレーズの繰り返しに移る時に、オクターヴ上で繰り返され、11小節目の前半のまとめに入っていくところで、「ミ−レ−ミ−ド」が「ミ−レ−ミ−シ」と、最後の音が変えられて、次の最初の音「ド♯」に繋がっていきます。この左手の動きが右手の二声の追いかけっことの掛け合いはトリオ・ソナタのようでもあります。音楽のクライマックスに達したと感じるその刹那、突如音楽は打ち切られてしまう。そして沈黙。一瞬の出来事です。 グールドは第1変奏から休止をはさまずに第2変奏に移ります。そして、テンポも同じで、連続的な流れを重視しているようです。ボリュームは静かめというより中庸に保って、下降するリフレインをしっとりとレガートで弾くのではなく、スタッカート気味にゴツゴツと音の粒立つ角を聴かせるようにして、ビートでタテの線を刻んでリズミックにしているところは、前の変奏との連続性を感じます。しかも、メロディのリフレインがニ声で波が打ち寄せるように、重なるようにして、後から後から繰り返されるのを、そのひとつひとつをくっきりと、しかも軽快さを保ちつつ弾いているのは、テンポは一定のはずなのに、加速してくるような錯覚に捉われます。テンションが徐々に高まってくるからでしょう。それが、次に続いていくわけで第1、第2変奏でノリは維持していて、第3変奏でテンポアップして、第1群をまとめようという構成になっています。 ・グレン・グールド(1955年録音) 前の第1変奏と同じような速いテンポで、「動」に対する「静」どころか、第1変奏の勢いをそのまま続けているという演奏です。しかも、高音部がニ声になってカノンのように追いかけっこするところを聴き所のように弾くピアニストが多いなかで、ここでのグールドは、バスを強調して弾いています。そもそも、この変奏曲はバスの変奏なのだからと主張しているかのようです。そのせいか、高音部の二声の線がそれほど明確に線として印象に残らない一方で、バスのリフレインが演奏を活気あふれる印象にしています。 ・アンドラーシュ・シフ シフは、第1変奏の快速テンポを続けていて、それゆえにでしょうか、バスの部分をシフは前面に出すようにして弾いています。そして、この人の特徴でもあるのですが、ここでは目立つのですが、シフはバスのフレーズの繰り返しを同じようには反覆しないで毎回変化をつけています。それはペライアのような音色やタッチの変化により多彩にしていくというのではなく、アクセントをずらしたり、微妙にリズムを揺らしたりして繰り返しが息づくような、反復するフレーズとフレーズが掛け合いをするようなものとなっているのです。同じように軽快に駆け抜けるグールドの場合には、そういう変化はなくて、一気に駆け抜ける爽快さがありますが、シフの場合は同じ軽快さでも、時には気持ちよく駆け出したり、時にはためらったり、といった息遣いがあるのです。そのかわり、高音の二声に分かれるところは、部分的にはそう聞こえるところもあるのですが、ひとつの声部で反復しているように聞こえるところがあります。ここではバスの動きに注目して、その息遣いに、自分の息を合わせて聴いてみましょう。 ペライアはこの第2変奏を第1変奏に比べて、少しゆっくりめに演奏しています。そして続く第3変奏で再びテンポを上げるのです。つまり、ペライアは第1〜第3変奏の第1群を急-緩-急のピアノ・ソナタのようにまとまりをつけているように思えます。急-緩-急というほど、明確にメリハリをつけているわけではなく、緩い色分けなのですが、ひとまとまりという感じはします。ということで、この第2変奏は緩の部分の緩徐楽章といった趣です。それは、高音部のリフレインのメロディを滑らかなレガートで歌わせて、二声のカノンのように追いかけっこするときにも音色を変えて、それぞれの声部を多彩に弾き分けています。さらに、バスのリフレインについても繰り返すたびにタッチを変化させています。これらの多彩な音色やタッチが響きあって、優美な演奏になっています。そして、これらリフレインが繰り返され、次第に音の方向が、真ん中に収斂されていくように、それにつれてテンションが次第に高まるとき、多彩な音色やタッチが集まってきて他のピアニストにないテンションの高まるクライマックスを作り出しています。 ここではケンプの美しいレガート演奏を堪能できます。第1変奏と変わらぬ軽快なテンポで、右手の細かいパッセージが滑らかに響きが流れていきながらも、旋律の線がはっきり浮かび上がって、カノンでリフレインが重なるところなどは薄いヴェールが重なるような美しさです。ケンプは、この変奏では装飾音をつけていないのか、指が追いつかなくて省略してしまっているのか、他のピアニストに比べると手数が少ないので、フレーズの印象が少し違うのですが、それによって主な旋律の部分が裸になったように表れて、その線の流れが他のピアニストよりも骨太の感じで聴こえてきます。 ・ロザリン・テューレック(1998年録音) グレン・グールドの1981年録音と同じように、アリア−第1変奏と、ほぼ同じようなテンポで第2変奏まで至ります。ここでも、テューレックの演奏はバスの動きがはっきりと聴こえてきます。とくに2拍子のタン・タという繰り返しが耳に残ります。それが心臓の鼓動に同調するようなリズムの動きで、聴いていると落ち着く感じなのです。他のピアニストの場合は、ゆっくりとしたテンポでも高音部の二声に分かれた16分音符の細かな動きが可愛らしく、装飾的に動きまわるのを聴かせようとします。しかし、テューレックの場合はバスの繰り返しの心地よさと変奏による変化が耳に残ります。そのバスのしっかりとした土台にのって、装飾のように高音部の2本の旋律が聴こえるという演奏になっていると思います。 第1変奏から落差を感じるほどにテンポを落として、第2変更を始めます。これだけを取り出しても、他のピアニストに比べてゆっくりと弾いていると思うのですが、前の第1変奏からテンポを落としているので、通して聴いていると、ゆっくりどころか鈍重に感じられるほどです。ここは、この人ならではテンポのとり方ではないかと思います。これでは、可愛らしさどころではありません。この人は、アリアも、かなり遅いテンポで弾いていて、速いところと遅いところの対照をグールドの1981年盤以上に極端にとっているとも言えると思います。ただ、グールドに比べて彼女の弾くピアノの音が比較的角の取れた丸みを帯びた柔らかで温かい印象で、響きをふくませているため、テンポの極端な対照が目立ってこないかもしれません。これは、三声のポリフォニーをしっかりと弾くためなのか、柔らかな音なのですが、バスの音の動きがくっきりと、よく分かるように聴こえてきます。 ・ピーター・ゼルキン(1994年録音) 前の第1変奏後半を引き継ぐように、音の強さを保ち、少しテンポを上げて始まります。シフが第1変奏からテンポを上げて躍動感のある演奏にしているのに対して、ゼルキンはテンポを上げて速めでいるにもかかわらず穏やかな演奏になっています。この変奏のはじめの方は、シフもゼルキンも同じような演奏をしていきます。しかし、最初の音をポーンと伸ばして細かい動きが続くフレーズを繰り返して、細かい動きのフレーズの繰り返しの場面に移るときに、楽譜には休止はないのですが、ゼルキンはふっと息を抜くように、音と動きを弱め一瞬の間をおきます。そこで動いていた演奏が落ち着くのです。そのあと、変奏の後半にはテンポを緩め、音を弱めます。この場合の変化も滑らかで、しかも、後半の演奏の中で、バスが上行するところでは音を強めたりして、細かく音の強弱、テンポの上げ下げをしながら次第に落としていくようなのです。これは、続く第3変奏ではテンポが落ちるためもあると思います。ゼルキンは、次の変奏に移るときの流れを重視しているようで、演奏全体が澱みなく流れていくという一貫したものになっている、その流れのなかで、細かいところで変化をつけていく演奏をしていると思います。それゆえに変化が自然で、ひとつのストーリーをつくるように聴き手に受け取られるものとなっている。 ・アンジェラ・ヒューイット バスが2拍子のリズムをチクタク時計のように規則的に刻んでいるのをベースに右手が二声のフーガのように追いかけっこをしているという演奏です。まずは、最初に右手が4分音符に音で上昇したあと16分音符の下降するかたちのテーマを2小節をかけて提示すると、6度上で、これを模倣します。というように右手の二声がカノンのように交互にテーマを受け渡していくというように弾きます。これが繰り返しになると、最初は同じようですが、6度上でテーマを受け渡されたところで、その受け渡した方の声部の小さな動きが、最初のときは隠れていたのが、繰り返しの際には少し音を強くして受け渡されたテーマを弾いている高い声部に絡むようになります。そうなると、単純にテーマを交互に受け渡しを繰り返すものから、テーマを繰り返しつつ互いに絡み合うフーガのように演奏の構成が複雑に変質していくのです。これは後半も同じです。このことによって、静かな第2変奏は、その静けさを維持しながら思索的な深みを帯びてくるように感じられるのです。 ・マルティン・シュタットフェルト 軽快なテンポを保ったままで、バスの4分の2拍子の機械的な刻みの上でカノンのようにテーマを受け渡していくという弾き方です。特に後半の部分では下降するフレーズをテーマにして各声部に引き渡されていくのを丹念に追いかけていくように、その声部を浮き上がらせて弾いていました。そして、前半も後半も繰り返しをしていますが、繰り返しの際には右手がずっとオクターヴ上げて弾いているという変化をつけていました。 ・セルゲイ・シェプキン 第1変奏のスピード演奏からはテンポを落として、標準的な軽快なテンポで、ノンレガートで弾いていますが、バスはスタッカートで弾みをつけているのに対して、右手は残響を抑えずに、しかも音色は派手で、かつレガート気味にして響きがつながって豊かに響かせるようにしています。高音の残響の中で、バスのソリッドな音のリズムの刻みが浮かび上がってくる。繰り返しにおいては装飾が散りばめられて、ギャラントな雰囲気を作り出しています。 ・イム・ドンヒョク ドンヒュクのピアノの音は細い鋭い音ですが、音がよく通る感じの音で、オーケストラと共演しても、ホールの隅まで届くような響く音です。そういうピアノ的な美しい音であることは、この第2変奏ではよく分かります。そのピアノの響きを活かして前半と後半で響きの様相の変化を作り出しています。前半では、三つ声部のタッチや音色を弾き分けて、それぞれの声部の線のひとつひとつが独立して、混じることなく聴こえます。前半の始めはカノンのように右手の二つの声部がテーマを引き継ぐものですが、曲が進むと声部がフーガのように絡み合うようになりますが、その中で、それぞれの線を別々に追いかけることができるほどです。それが後半に入ると、レガートで音が滑らかにつながっていって、響くようになります。そうすると、各声部が響き合って、声部のそれぞれの動きは明確ですが、音場が広がっていく感じに変わってくるのです。この変奏では繰り返しをしていないので、前半から後半の変化は劇的です。とはいっても、落差の大きな変化ではないので、気が付けば劇的だけれど、気が付かなければ流れてしまうかもしれません。 ・アンドレイ・カヴリーロフ 第1変奏がキビキビとした快速とした快速演奏でしたが、少しテンポをおとし、かといってゆっくりではありませんが、しかし、音を弱くして演奏しています。その前半部分の繰り返しになって2回目をはじめるところ、右手が短いトリルに続く応答のようなフレーズを、1回目はサラッと弾いていたのを、ここではグッと音を弱くしてひきます。それは一瞬のことで、その後のではバスが前に出て、右手も音の強さを元に戻すので、気付かないとやり過ごしてしまうような微かな変化です。それは、しかし、後半部分の予兆になっていて、後半部分に入ると、例えば、グールドであれば、転調したように場面から変わって視界が開けていくようなちょっとした開放感が出てくるのですが、ガヴリーロフは反対に音を弱めて、さらに響きをこもらせるような音色で始めます。そこで、この第2変奏を弱音で弾いていたのが、ここで内心をひそやかにそっと囁くような演奏に一変します。その予兆が前半の繰り返しの始まりのところだった。しかし、この囁きは、その後、左手のバスのフレーズ割り込むように前に出て、バスの影に隠れてしまいます。それが、囁くのを躊躇しているかのような響きになります。その後右手のフレーズが、囁くような籠もった響きと透明なよく通る響きを交互に弾き分けて囁くか囁かないかで逡巡しているという演奏となっています。しかし、その一方で、左手のバスが冷徹なテンポで機械的と言えるほどにバスのフレーズを弾いているので、演奏は感情に流されないで、きっちりしています。それだけに、右手が垣間見せる囁くような表情が、切実に聴き手に迫ってくる、という演奏になっています。 ・エウゲニイ・コロリオフ この人は、グレン・グールドのように各変奏のテンポ設定を全体の構成の中で設計するとか、次の変奏に移るときにテンポが変わることを効果的に活用するとか言うことは、それほど重視していないようで、各変奏の中で変化をつけていくという、グールドが遠目で見るのなら、この人は接近して見るタイプと言えるのではないでしょうか。この第2変奏は、第1変奏に比べるとテンポはゆっくり目ですが、かといって遅いというのでもなく、淡々と弾いています。基本的にテンポは守るひとのようです。その代わりに、右手が二声になっていくのを、それぞれの声部の音色を分けて、くっきりと浮かび上がらせて、それが絡むところを聴かせ所としている。それは一方で、バスが淡々としているので、尚更右手の二つの声部の絡み合いが目立ってくると言えます。そして、前半部分の繰り返しになって、2回目になると、バスのリズムアクセントをずらしてフレーズの後ろの方にアクセントをおいて、こころもち附点気味にリズムが聴こえてくるように変化させて弾いています。そうすると、淡々としていたリズムが変化して表情を持ち始めます。そこで右手は一回目に同じように弾いているのですが、聴こえ方が異なってきます。そこに、すこし装飾が即興的に加わってくるので、二回目の演奏は遊戯性が強くなってくるような感じです。 第1群を締めるのは1度のカノンです。前半8・後半8の16小節しかない短い曲です。最初の2小節で、単純で軽快なバスの和声的跳躍の上で2つの声部の模倣関係がはっきり聞き取れるように工夫しているが、3小節目からは、一転、バスがその存在を誇示するかのように時には上の声部に行ったりするほどの活発な動きを見せます。「ター・ラッ・タ」というリズムの第1拍の後拍にアクセントがあって、まるでスイングしているかのようです。このような活発なバスの上で、たくさんの16分音符が散りばめられたカノンは、ピアニストにとっては弾きにくいところでしょう。実際、第1、第2といいテンポで弾いてきた人も、この第3変奏でテンポを落とす人が多い。このカノンのメロディは同じバッハの「オルゲルビュッヒライン(オルガン小曲集)」の「主なる神、いざ天の門を開かせ給え」BWV617のコラール二重旋律と似ていてゆったりとした旋律線なので、それを聴かせるためにゆっくりとしたテンポで弾く人も多いのかもしれません。 グールドは、この第1群の各変奏を休止を挿まずに続けて演奏します。この第3変奏も、前の変奏のテンションが高まったところで打ち切るように終わった直後に始まります。その連続的な流れのなかで、テンポが少しアップします。これは大半のピアニストとは正反対の行き方で、ここでテンポアップするために、アリアから第1、第2変奏を遅いテンポで弾いたと考えられます。したがって、コラール風に荘重に終わるというより、軽快に駆け抜けて、次の第2群に駆け込んでいくという印象です。ここでも、グールドは強調するようにバスの動きを独立しているように、よく聴かせ、カノンの旋律の二重のところを追いかけあって、たたみ掛けるようにして弾いています。そこで聴き手が感じるのは、リズムの乗りとスピード感ではないかと思います。そのスピード感の上で、素人目にも複雑なパッセージをカノンでニ声で追いかけっこする、ときにメロディの一部が重なったりするのを明瞭に弾き分ける、その水際立った鮮やかさことが、グールドの真骨頂です。そして、これは賛否両論ありますが、うなり声が加わることによって、三声のカノンにプラスもう一声加わります。これがまた、ポリフォニックなんですよね。 ・グレン・グールド(1955年録音) 前の第1変奏と第2変奏と速いテンポで快速演奏していたのが、ここで息切れしたかのようにテンポが落ちます。 シフは、第1変奏、第2変奏の快速テンポを、この第3変奏でも続けています。前の二つの変奏に比べてバスは時々跳躍して動き回るし、高音部は16分音符ビッシリでニ声のカノンで複雑だし、かなり弾きにくいのではないかと素人目にも感じられます。実際、この変奏に関して、私の聴いた限りではどのピアニストも似たような弾き方(同じではありません)をしていて、あまり個性を発揮しにくい曲なのかもしれない、というよりも、この複雑な曲をしっかり弾いて、次の変奏に続けるだけで、たいていのピアニストは手一杯に近いのではないかと思います。それをシフは快速テンポで弾き切っています。それだけに無理をして力ずくで弾いている印象があります。ここでは、シフ独特の装飾的な工夫は、あまり見られなくて、少し粗いというか。その粗さは、あえて部分的にアクセントをずらしてみたり、バランスを欠くほどバス強調したりして、あざとく聴こえてしまっているところなど、シフのファンとか、彼の若さが良くも悪くも露わになっているところを好ましく思う人には、青春とかというストーリーをつくって楽しめる演奏ではないかと思います。 ペライアは前の第2変奏をゆっくりめに演奏して、この第3変奏で再びテンポを上げます。つまり、ペライアは第1〜第3変奏の第1群を急-緩-急の古典的なピアノ・ソナタのようにまとまりをつけているように思えます。急-緩-急というほど、明確にメリハリをつけているわけではなく、緩い色分けなのですが、ひとまとまりという感じはします。この第3変奏は軽快なロンドで終わる古典的なソナタやコンチェルトの終楽章のような感じでしょうか。ということで、ペライアの第3変奏は快速演奏です。しかも、バスの動きは多彩に弾き分けていますし、三声の旋律線は音色を分けてくっきり浮かび上がらせています。カノンのテーマをロンドの反復主題のように軽やかにニ声で繰り返すようで、適度な盛り上がりも途中に差し挟んでいるなど、少し無理していて粗さが出てしまったシフに比べて、さすがにペライアはソツなくまとめていると思います。そして、終わり方がロンドフィナーレのように盛り上がって、その盛り上がりを、次の第4変奏のファンファーレのような冒頭に連続させています。ペライアの演出でしょうか。 ケンプは三曲の変奏でひとつのグループといったことは考えていないのでしょう。それぞれに各変奏を弾いているようですそれまでアリアから軽快に弾いてきたところで、第3変奏はゆっくりと弾いています。ただし、ケンプはアリアがサラバンドという舞曲であって、それが次々に変奏されていくというようにゴルトベルク変奏曲全体を弾いているような印象で、全体をとおして舞曲のような軽やかさで一貫していると思います。この変奏では、ゆっくりとしたテンポでも高音部の16分音符のメロディを粒立ちのよい軽やかなコロコロと転がるような音で弾いています。しかも、バスのリズムが、特に工夫しているとも思えないのに舞曲のような身体性のあるリズムをつくっています。だから、ポリフォニーとかいう前に、身体で拍子をとるようにして演奏を聴いてしまっているのです。 テューレックの演奏は、全体にゆっくりとし遅いテンポですが、ここまでのアリアと各変奏のテンポの関係などでグレン・グールドの1981年録音と同じようです。ここまで、遅いテンポで演奏してきて、第3変奏では少し速める。この人の場合は、それまでじっくりと各曲を弾いてきたのが、ここでテンポが速くなると、少し軽快になった印象を受けました。おそらく、ここで紹介しているピアニストたちの中で、最もポリフォニーの三声を際立たせ、それぞれの線をくっきりと聴かせてくれていると思います。それだけでなく、動き回るバスのひとつひとつの音のタッチやアクセントを変化させて、リズムは正確に刻んでいるのだけれど、グールドのように無機的にならず、比較的遅いテンポでもスタティックにならないで静かな中に躍動感を宿したリズムを作り出しています。奇を衒ったり、細工を施しているわけではないが、細部に発見の多い、味わい深い演奏になっていると思います。 ディースタインの第1群の3つの変奏のテンポの取り方はユニークで、アリアを極端なほどゆっくり弾いて、第1変奏では快速テンポで、次の第2変奏では急ブレーキをかけたかのように急激にテンポを落として、この第3変奏では少しだけ速めています。しかも他のピアニストではありえないほどに極端に速いテンポと極端に遅いテンポに対比させています。それだけに、この変奏のみを単独で取り出せば遅いテンポなのだけれど、軽快な印象を受けてしまうのです。それを、この人の特徴である真珠のような美しい音を優美なタッチで弾く、この軽快さです。
・ピーター・ゼルキン(1994年録音) ゼルキンは第3変奏をとてもゆっくりと弾きます。それは、前の第2変奏の後半でテンポを落としてきたので、唐突さはなくて、比較的自然なテンポのような印象です。しかし、それにしても他の人の演奏に比べても遅い。他のピアニストは軽やかにはずむような印象を与えるような弾き方をするのですが、ゼルキンはカノンのテーマをレガートでやや頼りなげな音を静かに響かせながら、柔らかく歌わせています。軽やかにはずむのとは、むしろ反対に近いどっしりと腰を落ち着けてメロディをしっかりと聴かせています。この感じは、グレン・グールドの1981年録音のアリアの演奏を彷彿とさせる印象があります。例えば、冒頭の右手によるカノンのテーマの演奏を、附点4分音符でターンと音を伸ばしたあとで16分音符の6連符をリズミカルに弾むようにして、最初の伸ばす音の対して細かい弾む音の連続で応答するというダイアローグのような演奏をするピアニストが多いのですが、ゼルキンは16分音符の6連符のひとつひとつの音をしっかりと深く打鍵して軽さとは正反対の重々しさすら感じられる弾き方をしています。また、左手のリズムのベースも鈍重に感じられるほどしっかりと深く打鍵しています。そのため、メロディがしっかりして、腰を落ち着けて神を迎えるコラールの重々しい雰囲気に近しいものとなっています。それが、後半の演奏ではレガートで弾いて音のつながりが滑らかになって、音楽が流れる感じが強くなり、心持ちテンポが上がったような感じになります。それが、次の第4変奏につながっていくのです。 ・アンジェラ・ヒューイット 他のピアニストのように第1から第3変奏のテンポについて、とくに大きく変化させている印象はなくて、テンポをどのようにするのかということがあまり気にならない。それは逆に考えると、どのようなテンポでも無理しているようには見えないということで、この人の技巧がそれだけ秀でているという証拠ともいえます。この第3変奏についても、弾き難そうなカノンでテンポを落としたということはありません。ここではカノンをキッチリと弾いています。そして繰り返しともなると、前半ではカノンのテーマそのものが少し形を変えています。繰り返しではフレーズの語尾に装飾を入れています。それはちょっとした即興的なあそびでしょうか。この変奏の前半の部分では、右手で弾かれる中間の声部が強調されるように前面に浮き上がって弾かれていて、カノンではあるのですが、中声部の動きが一本の軸のように流れていました。それが繰り返しになると、右手の高い声部の中声部に絡むような動きが隠れていたのが聴こえるようになり、他方で、バスの動きも聴こえてくるようになります。それによって、繰り返しのところでは音楽の厚みがでてきて緊張感が生まれます。そして、後半の部分では、前半と逆に繰り返しではむしろ中声部が浮き上がって一本の軸となって流れるように変化しています。 ・マルティン・シュタットフェルト この変奏では繰り返しをしておらず、仕掛けもないので、まずそんなものかというところで、しかし、シュタットフェルトが仕掛けをしないでどのように弾くかというのが、この変奏の演奏で分かるような気がします。あまりタッチとか音色といったことに重点を置かず、おのおのの声部の絡み合わせ方に注意を向けている弾き方をしていると思います。バスの動きを強調していますが、それはリズムとかベースといった意味ではなくて、ひとつの声部としてバスのメロディを独立させていて、右手が二声になってカノンでテーマを追いかけっこしますが、そのおのおのとバスが応答しあうような弾き方をしています。これも意外性ということなのでしょうか。 ・セルゲイ・シェプキン 第2変奏からさらにテンポを落として三声のうち右手の二声を音色を変えて、明確に弾き分けていますが、その混じり気のない、澄んだ二色の音が、中声部でカノンのテーマの提示に次いで高音部が追いかける際に、まるで地層が重なるように、それぞれの音が透き通って聴こえてきます。それは、カノンとかポリフォニーといったことは措いて、それぞれの音と音の綾だけを追いかけていきたいと思わせる見事さです。 繰り返しでは、中声部を浮き上がらせて、テーマの最初の伸ばす音にトリルをかけています。そして、後半の繰り返しでは、中声部だけでなく高音部にもトリルをつけています。 ・イム・ドンヒョク 第2変奏から少しテンポを上げて、しかも、ひとつひとつの音が磨き抜かれたようなので、その技巧に仰天するほどです。三声を明確に弾き分けて、それぞれの線を際立たせてカノンのテーマを各声部に模倣して引き渡されていく様子がはっきり分かります。とくに、ドンヒュクは、右手の中声部と左手のバスを中心にしていて、高声部は相対的に伴奏のような位置付けにしているようです。しかし、ドンヒュクらしいのは、これらに加えて、例えば、前半部分であれば、カノンのテーマを右手が弾くと、バスの部分が8分音符の3連符が2つで支えるように動きますが、右手が繰り返すのに応じて、左手がバスを繰り返す際に、微妙にタッチを変えて、アクセントをずらして、変化をつけていること。あるいは変奏の前半部分を繰り返しますが、カノンのテーマの語尾を変化させていること、といった微妙に変化させていることです。そして、後半部分は繰り返しませんが、前半部分がカノンを聴かせるために冷静に弾いているのに対して、後半では静かに始まっても、中間の両手で細かい動きを応酬するところで、音を強め、テンポを上げて、盛り上がりをつくる劇的な展開をさせているところです。最後は静まって終わりますが、前半と後半として場面が変わるような物語のような構成で弾いているところ。言ってみれば、ショパンのバラードのような感じで弾いているように思える点です。 ・アンドレイ・カヴリーロフ 第3変奏はテンポが上がります。他のピアニストと比べても、けっこう速いテンポではないかと思います。左手の細かいバスの動きを速いテンポで弾いているのは、ちょっと無理をしているのかなという感じもします。それが、ガヴリーロフがショパンの演奏等でみせるテクニカルな曲は運動会の徒競走のように速く弾きたがる性向によるものかは分かりませんが、この変奏では、特にバスの低音を強調して、濁り気味の音色になるのも辞さずに弾いているので、直させ遮二無二に弾いている感じがします。しかし、前半の繰り返しになると、右手の声部をことさらに弱い音にして、スタッカートの残響も抑えてしまいます。そうするとバスの声部がことさらに浮いてきて、しかも、遮二無二に速い、というのが切羽詰ったような切迫感として聴き手に迫ってきます。そして、後半に入ると、それまで弱い音だった右手が左手のバスと拮抗するような強い音で弾き始めます。それで演奏のテンションが急に高くなって、切迫感から追い詰められるような緊張感になるという劇的な展開をしています。この後半部分の繰り返しでは、音を弱めて高まったテンションを抑えるようにしますが、緊張が解放されることなく抑えつけられて演奏を終わります。ここで、ガヴリーロフはテンポを揺らしたりすることなく、厳正に弾きつつ、声部の強弱だけで劇的な展開とせき立てられるような切迫感を聴き手に印象付ける演奏にしています。 ・エウゲニイ・コロリオフ コロリオフは、この変奏のような声部が複雑に輻輳するようなところで、アンジェラ・ヒューイットのように、演奏の中でどの声部を前に出すかを、そのつど微妙に変えていくような語り口をすることはしないようです。この第3変奏では、基本的に右手を二声に分けて弾いていますが、中声部にあたるところを中心線として、それに高い声部が絡み、左手のバスが支えるという基本構造を一貫させています。その代わりに、それぞれの声部の弾き方に変化をつけて、構造が一貫してシンプルにしているから、それを聴き手が楽しめるという演奏になっていると思います。ここでも、右手の中声部と高い声部は音色とタッチを弾き分けて、その声部の絡みを浮かび上がらせのと、響きが絡み合いで変化して行く様子が聴き所の一つです。そして、例えば、前半の繰り返しになると、バスのリズムの刻み方、タッチを変えて、います。一回目は淡々とスタッカートでリズムを刻んでいたのを、二回目になると弾むような刻み方にして、フレーズの後半にアクセントをつけるようにして躍動感を生み出しています。それに応ずるように右手のカノンの動きも、二つの声部のフレーズにアクセントがつくようになって、しかも、それぞれの声部のアクセントの位置は違うところにあります。それで声部の線の絡みに、それぞれの声部のアクセントのズレが縦の線で輻輳するようになって、全体としてノリが絡み合うことで、波のような躍動感が生まれた演奏になっています。 リンク 。
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