・マルティン・シュタットフェルト
堅実で卒のない演奏です。この変奏での繰り返しはしていません。こういう演奏は、おそらく、演奏会であれば、それなりに満足して聴ける演奏だろうと思います。しかし、録音して他のピアニストの録音と並べられて比べられると、聞こえてくるところで他の録音と差別化されないと苦しい。これはシュッタットフェルト本人がよく分かっていることで、それが繰り返しの際の仕掛けという意外性を施しているのでしょう。しかし、それは、それ以外には自身の個性として差別化できる自信がなかったということなのかもしれません。この変奏の演奏を聴いていると、そんな気がします。ちゃんと弾けていて、悪いとはいえませんが、では、他のピアニストを差し置いて、この人を聞きたいと思うか・・。という演奏になっていると思います。
・セルゲイ・シェプキン
前の第13変奏でしみじみと情感溢れる演奏をして、続く第14変奏では一気に気分を解放するように爆発するような演奏するピアニストもいますし、シェプキンもそう弾くと予想していたら、そうではなくて、それなりに弾いていますが、どこか中途半端で、前の雰囲気を引き摺っていて、断ち切れていない感じがしました。しし、逆に考えれば、第13変奏の深い情緒を簡単に断ち切るようなものではないということなのかもしれません。むしろ、この快活な演奏を聴いていて、前の第13変奏の深い情緒を思い出すのを抑えられなかった。この演奏は堅実です。
・イム・ドンヒョク
第13変奏の遅いテンポから一転して軽快なテンポで、さながら音色とタッチのパレットのような演奏をしています。この変奏は左右の手が交差して、高音と低音の声部が何度となく入れ替わっていくのですが、その度に音色やタッチがガラッと転換して、その変化を楽しむことができます。これだけ、両手を交差したり、鍵盤のあちこちに手を伸ばしたりしながら、弾き分けていくのは相当な技巧を要すると思います。例えば、最初のところ右手がトリルを長くのばしているところで、左手はバスで16分音符の活発な動きをしています。その後、両手を交錯させて、右手がバスでトリルを長く伸ばしますが、その直前に左手で弾いていたときと同じようなバスの高さですが、太い音で濁らせたような音色でドスのきいた感じに、一方で左手が高い声部を弾きますが、やはり、直前に右手がトリルを弾いていたときと同じくらいの高さの音を鋭く抜けるような音で16分音符の活発な動き弾いています。それは、ドスのきいたバスを突き抜けてくるような印象です。それに続いて、両手ともに高い声部で3連符を交互に弾く際には、レガートで残響をたっぷり響かせます。後半の部分で両手ともにバスの声部で同じように3連符を交互に弾く際には、今度はスタッカートの歯切れのいい弾んだ音で弾いています。
・アンドレイ・カヴリーロフ
第13変奏に続いて腕の冴えを存分に振るった演奏で、細かいことハゴチャゴチャ言わずに、スピードとメカニカルなテクニックで圧倒しようというのでしょうか。ただし、この変奏の全体的なながれとして、変奏の前半は音楽の流れが下降していく方向性を聴き手に感じさせるように弾いていて、テンポはたしかに速いのですが、演奏そのものは堅実です。これに対して、後半部分では音楽の流れが上昇する方向に転じます。後半に入った、その冒頭では、この変奏の中で唯一と言っていい盛り上がりをつくって強めに弾いていて、それに続くパッセージでテンポを加速させています。そのときに低音から音楽がずり上げられてくるようなところになっていて、この変奏の中では、そこが強調されています。この後に続く、第15変奏が落ち込むような内容とのギャップを作ろうとしているのかもしれません。
・エウゲニイ・コロリオフ
コロリオフは、冒頭のトリルはあっさりと、左手の16分音符の4連音はデッドな響きで機械的にリズム刻んでいくと、つづいて右手が8分音符を残響のある開放的な音でバスと対照的に、それぞれの声部の隙間を互いに埋めるように、つづく両手とも高音部で3連符を交互に弾くところは、その開放的な響きで音の流れが途切れず続いているようにして、次いで右手が32分音符の細かいパッセージに対して左手が8分音符の楔を打つところは左手はデッドな響きで音楽の流れを断ち切るように入ります、この後左右の手が逆転して弾くと、右手でひく8分音符は残響を解放するように打ち込むので音楽の流れを断ち切らず、流れていく。これが繰り返しになると、バスの声部が浮き上がるようになって、トリルを繰り返した後、右手が8分音符のパッセージを弾くところでは、バスは機械的にリズムを刻んでいた一回目とはちがって弾むように、しかもアクセントをつけて躍動感がましていっています。後半に入ると、前半の二回目の方向性で弾き始め、繰り返しの二回目では、それまでデッドに響きを抑えていたバスの響きを開放するように変えて、低音から底上げするように躍動感を増していって終わります。このように、この変奏では、前の第13変奏の演奏とは打って変わって工夫を凝らした演奏をしています。
第15変奏
前半最後の第15変奏。初めて出てきた短調による変奏です。変奏曲全体の中でも短調で書かれているのは、この第15変奏の他は第21と25変奏の3曲しかありません。それだけ特徴的で、それぞれ全体の中で特異な(重要な)位置を占めていると思います。
5度のカノン。反行する鏡像カノンの一種です。しかし、左手のテーマがソ-ソ-ファ-ファ-ミ♭-ミ♭-レと下がってくるのに対し、模倣する右手は、レ-レ-ミ-ミ-ファ♯-ファ♯-ソと上がっていくので、正確に模倣したものではなく、隙がなく厳格に書かれているのではなく、曖昧な余地を少し残しています。そこに「ため息」といわれる休符から始まって二つ16分音符をスラーでアーティキュレーションを施して繋げるフレーズです。全体的に下行していくフレーズの方向ですが、ため息は天を仰ぎ見るように洩らすものです。その微妙な休符やスラーのニュアンス、つまり崩しが演奏者のセンスを映し出すものとなります。
また、楽譜にはアンダンテの指示が書かれていますが、ため息などというとゆっくりと聞かせたくなるところが、アダージョではないのです。アダージョでは重くなってしまう、しかも、バスが区切りよくしっかりと刻まれるテンポです。
最後の部分は、バスは下りていって終わるけど、右手は上がっていく。昇天して天国へ、みたいなイメージで、しかし、それだ終わらずに、左手はソで終止しているのに、右手はファ♯-ソ-ラ-シ♭-ド-レと中途半端な感じを免れない居心地の悪さを、故意に作りだして、後半の期待を高める形で終わります。
・グレン・グールド(1981年録音)
アンダンテにしては遅めでアダージョに近いかもしれません。少し重苦しさのある足取りで、遅いテンポを厳正に守って弾いています。しかも、スタッカートでそれぞれの音はポツリポツリとつながることはないので、グールドはため息というニュアンスには捉われていないと思います。このスタッカートで弾いているのが、朴訥とした一歩一歩前へ歩いている、しかし短調であることもあって足取りは重いといった様子を想像させます。この重い訥々とした足取りで、カノンの複雑な掛け合いを、とくに縦の線がきちっと揃って整理されて聴き手に提示されています。
また、この演奏については凝りに凝った仕掛けが指摘されていて、それによるとグールドは繰り返される前半の1回目を全体にレガートで、2回目は左手の自由声部をスタッカートで弾き分けています。そのせいか、2回目は5%ほどテンポがおそくなります。1回しか弾かれない後半は、そのはじめ半分がレガートで。残りの後半がスタッカートで弾かれています。そのため後半16小節は、前半の2回目よりさらにテンポか遅くなっています。その一部は、最後の小節のリテヌートも原因しています。このような3段階のテンポ変化は5分長大なリテヌートと考えてもいいではないか。これは最初の第1変奏から第6変奏にかけての5分にわたる長大なアッチェレランドに対応するリテヌートであり、この対応関係が一種のテンポ鏡像を形成していると考えられる。そうだとすると、この第15変奏という前半の締め括りと、冒頭の第1変奏から第6変奏という短い変奏の集まりは、初めと終わりで対称の関係になるように、グールドは演奏を設計していることになるわけです。
・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)
冒頭のカノンのテーマの入りが休符も取っていないような、ため息というより、前のめりの急いでいるような印象です。おそらく、演奏の勢いを落とさないまま、後半につなげたいのでしょう。このころのシフがデッカに録音した一連のバッハに散見される、リズムの弾き方の粗さ、これが聴き手には朴訥とした印象を与えるのですが、それが、この変奏の場合には、この変奏曲がバスのテーマの変奏であることを忘れさせない演奏になっていると思います。この変奏では、どうしても短調のカノンのテーマに注意が行ってしまうのですが、シフの演奏では、そこに感情移入する余地がないので、相対的にバスが聴こえてくるのに加えて、朴訥としたリズムが耳に引っかかるような感じです。
・マレイ・ペライア
ため息音型がため息のように聴こえてくる、それがメロディになって歌っているのがペライアの演奏です。グールドのぶつ切りのような演奏と比べて見ると、滑らかに音がつながって流れる歌になっているペライアの演奏は、同じ曲かと驚いてしまうことでしょう。微妙な揺らぎ、強弱のグラデーションを施しているのが、ため息をついたり、立ちどまったり、また無理して歩き出そうとしたりといった人の動きのようで、メロティの歌が息づいているようです。そして、前半の終わりということを、ほとんど意識させないで、このため息から次の後半のオープニングのファンファーレのようなフランス風序曲にアタッカでなだれ込んでいきます。
それでいて、この変奏がカノンであることは忘れていないで、各声部の掛け合いをちゃんと聴かせてくれます。
・ヴィルヘルム・ケンプ
アンダンテとしては少し速く感じられる、足早に歩いている(実はステップを踏んでいる)印象です。前の第14変奏で頑張りすぎて急にクールダウンできなかったのかもしれません。しかし、この少し速めのアンダンテであることが、演奏に推進力を与えているようで、このような短調の沈潜するような音楽であれば、アダージョのように弾いて重苦しくなってしまいそうなのがケンプというピアニストです。このテーマのメロディに肩入れしているようで、あきらかに一番高い声部、合唱でいえばソプラノのパートにメロディを歌わせることにして、他の声部を伴奏というように、主従の階梯をつけて弾いているのは明らかです。ケンプがウィーン古典派やロマン派の曲を弾くときに、きかせどころで、よく演っている音楽の生かしかたです。しかし、それをバッハで演ってしまうと、ロマン派の内心の吐露ではないので重すぎるのです、それを速めのテンポになっていることで、メロディに過度に沈潜することなく、さらと上辺を撫でるようにメロディを扱っています。そのことによって、軽さと透明感な明るさを与えている、と思います。
・ロザリン・テューレック(1998年録音)
テューレックは、遅いテンポの3声のカノンを、反行したりする複雑なカノン、ときにはフーガのように声部が重なって複雑に聴こえてくるカノンを、各声部を弾き分けて、それぞれの声部の線の動きが独立して聴こえてくるようにして、カノンの構造をガラス張りのように明確に示してくれます。ここには、短調の遅いテンポのテーマがあるだけで、ため息といったニュアンスはなくて、坦々とカノンの構造を示すという演奏です。そこで、各声部のからみ合いを分け入っていくのが面白いだけではなく、無愛想な演奏なのに、どういうわけか味わいを感じさせるところもあるのです。そこが不思議です。
・シモーネ・ディナースタイン
ディナースタインの演奏はそっと始まり、弱音で、ゆっくりめにカノンのテーマを歌わせるように弾いていきます。しかも、この第15変奏は三声のカノンでもあります。そこで、ディナースタインは、そのカノンを進めていくための各声部でテーマが追いかけっこするように続いて弾かれるところを、一つの声部から別の声部にテーマが受け渡されるように、テーマの冒頭の休符をうまくつかって、二つの声部で相互に対話をしているような間を作り出しています。しかも、テーマの語尾にちょっとしたニュアンスを施すと、次に始まるテーマの冒頭では、そのニュアンスを受け継いだり、ちょっと方向性をかえてみたり、あるいは強弱でつながっているようにしたりして、両者の間で会話のやり取りをしているかのように聴こえてきます。
・ピーター・ゼルキン(1994年録音)
これまでの演奏では旋律的な要素を抜き出してきて、息づくように歌わせていたゼルキンですが、この変奏では、厳しくカノンを演奏しています。ノンレガートでテンポを崩さずに、ひとつひとつの音を訥々とかみしめるように弾いています。しかし、グールドのように重苦しくはなりません。それはタッチが柔らかいことと、フレーズ入り方でふっとひと息抜いてからそっと始めるように弾いているためでしょうか。それもありますが、あまり、短調であることを意識させないで、カノンの構造を機械的なほどしっかりし弾いているためではないかと思います。
・アンジェラ・ヒューイット
この変奏でも、細かな変化をさせていて、追いかけきれないほどなので、大雑把な聴き方をして述べます。ヒューイットは、最初は右手が二声に分かれて弾かれるころで最も高いソプラノの部分をよく通る抜けのいい音で弾きます。そうすると、聴き手にはよく聴こえてきますが、この変奏ではソプラノの部分の休止が結構あって、その休止のところは右手の低い声部であるアルトの部分が埋めています。したがって、いきおい、ソプラノとアルトの掛け合いのような印象になります。それが繰り返しになると、全体の音を弱め、タッチを柔らかくして弾きます。そうすると音が籠もりがちになってソプラノの部分が相対的に引っ込むような表面になります。そこで、最初はソプラノが前面に出ていて聞こえてこなかったアルトの部分がよく聴こえるようになる。しかも、ソプラノの部分は休止もけっこうあるので、繰り返しの際には、アルトの部分が中心となった音楽に変質します。そうすると、最初のときとは違った音楽となってしまう。つまり、繰り返しの部分で隠されていた音楽が掘り起こされる。まるで、短調の音楽の表面の下の深層心理のような隠された音楽を掘り起こすような、そういう楽しみがヒューイットの演奏にあって、場合によっては深い味わいとして聴き手に感じされる場合もあります。
・マルティン・シュタットフェルト
それまでの演奏と比べると、極端なほどテンポを落として演奏します。それだけでは、グレン・グールドの演奏と似ていますが、グールドのようにポリフォニーを際立たせたり、タッチを使い分けたりことはしていません。従って、グールドのように聴き手に緊張感を強いるような重苦しさは感じられません。その意味では聴きやすいかもしれませんが、飽きる可能性もある演奏です。
・セルゲイ・シェプキン
第13変奏ではテンポをグッと落として歌い込んでいたシェプキンですが、この第15変奏では、アンダンテという楽譜の指示に従ったテンポで、ある程度の勢いを保たせながら、メロディを静かに歌わせています。アンダンテのテンポで弾いているため、短調のメロディをたっぷりと歌い込むことはできず、しかも、このカノンは最初のテーマの途中で、他の声部が追いかけるように始まるので、ひとつのメロディを歌い切るのを単独で聴かせることはできません。それをシェプキンは、カノンで声部が追いかけていくとこを、前の声部の演奏の上に被せるように弾いていきます。聴いている側では、ひとつの声部が歌い始めると、途中で別の声部が、その歌っている上から、歌を覆い隠すように歌い始めるように聴こえます。それは、歌っていて歌い切れないことが順次繰り返される様子と捉えられます。それは、短調の歌の悲しさが、その歌を歌おうとして歌い切れないせつなさが加わって、悲しさがさらに募るように聴こえてくるのです。それを、シェプキンは変奏の繰り返しの際に、音を弱めてひそめるように、歌が弱々しくなるように弾いて、その切なさを一層募るようにして弾いていきます。その一方で、アンダンテのテンポによって、重苦しくなることはなく、切なさが透明なものとして感じられるのです。
・イム・ドンヒョク
第13変奏がかなり遅いテンポで、第14変奏は軽快に、そして、この第15変奏は再び遅いテンポです。第13変奏と、この第15変奏をともに遅く弾く人は少ないと思います。しかも、ドンヒュクは、この二つの変奏を、同じようにインテンポで坦々と弾いています。こんなことをすれば、演奏の推進力がなくなって止まってしまったり、重苦しくなってしまうのですが、不思議なことに、重くもならず、それなりに聴けてしまう。それが、この人の音楽的なところなのかもしれません。この第15変奏はカノンになっているのですが、ドンヒュクはテーマを各声部が引き継いで、掛け合いをしたり、重層的に重なったりという弾き方はしません。右手がテーマの引き継ぎをひとつの線に均してしまって、坦々とメロディが垂れ流しのように続く印象です。そして、テンポが遅いので、しかもインテンポで音と音の間があいてしまうのを、そのままに、そこに残響を響かせますが、その響きは次の音とは共鳴しないように響かせます。グレン・グールドのように一つ一つの音が鋭く屹立して音の間があくと、その間は響きがなくて空虚な感じになり、一つの音が孤独に存在しているような印象になりますが、ドンヒュクの場合には、その音の間に残響があるので空虚にはならない。ただ、個々の音が他の音との共鳴をしていないので、それぞれが個々に独立を主張している。そういう印象です。そこにグールドのような深刻さが感じられないかわりに、重苦しくならないでいるのではないかと思います。
・アンドレイ・カヴリーロフ
カヴリーロフは、この変奏をアダージョのように情緒的に弾くわけでもなく、かといって、この変奏のカノンという形式を厳格に弾くのでもない。テンポはゆっくりですが、決して遅いテンポではない。淡々と音楽を進めている演奏で、カノンで各声部に主題が受け渡されていっているのですが、ガヴリーロフは、その各声部が掛け合いをしたり、絡んだりするというのではなくて、一本の旋律の線が続いているように弾いています。そこにカノンの声部の絡みというのではなく、その線に寄り添うようにフレーズが絡んでは離れていくという印象です。その主筋の線で旋律が淡々と流れていくので、短調のメロディが、それほど重くなく、透明感があって淡々と流れていく。そのことが、むしろ聴く者の心に残る。そういう演奏になっていると思います。
・エウゲニイ・コロリオフ
コロリオフは、まず前半はカノンをきちって弾いていきます。複雑に声部が絡み合うところでも、それぞれの短い旋律の動きが明解で、その手際のよさに感心します。そして、この前半を繰り返して二回目に入ると、まず、冒頭でカノンのテーマが提示されるところで、最初の時はこのテーマをひとつのフレーズとしてひとまとまりで弾いていたのを、二回目では2音ずつのまとまりが4個という分解するように弾きます。つまり、2音のまとまりを弾いてほんのちょっと溜めて次に2音というように。それがカノンとして受け渡されていくと、この変奏は単純に受け渡されていくのでなく、反転したりして変化していくので、一回目の時にくらべてより複雑になっていきます。それはひとつのグループが受け渡されるのでなくて、4つに分解されて、その中でも変化の影響がでてくることになるわけですから。前半の変奏の最初のところはさらに複雑になった後、前半の中間以降では左手と右手の旋律の掛け合いのような比較的シンプルになっていきますが、この2回目では淡々としていた一回目に比べてバスが雄弁になって前面に出てきます。前半の終わり近くでは強打にちかいほど強調されて、低音のボディーブローのように聴き手の耳に残って、短調の旋律の痛切さが強調されてくるようです。この方向性は後半部分の演奏にも引き継がれて、後半では、そのバスに負けずに高い声部の旋律も強調され、慟哭するような感じすらしてきます。その後半の繰り返しでは、高い声部とバスとで、それぞれ強調されていた声部の関係が入れ替わり、響きが変わって聞こえます。それは手を変え品を変えて、この変奏の悲劇的な感じを印象付けようという演奏になっていると思います。