グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第5群(第13変奏〜第15変奏)
 

 

第7章 第5群(第13変奏〜第15変奏)

第5群は、前半の最後のグループです。このグループ直前の第12変奏が反行カノンでテンションが高まります。そこで、第13変奏がメリスマに富んだアダージョという、これまでのグループの入りではなかったパターンで、変奏曲全体の中でも特徴的です。そして、第14変奏が圧倒的なヴィルトゥオジティを見せます。そして、前半の掉尾を飾る第15変奏のカノン、とエンターティメントの要素も含めて多彩な面を見せながらも、内容の重い曲が次から次へと聞かされる、前半のクライマックスです。

第13変奏

前の第12変奏も比較的穏やかな変奏でしたが、この第13変奏もそうで、一種の緩徐楽章のようなものでしょうか。しかし、ポロンとじっくり噛みしめるようにメロディを弾く曲でもなく、むしろ、細かい音の動きが多いのです。それなのに、動きが穏やかに聞こえる。メジューエワというピアニストは32分音符による装飾付きのアリアと言っています。彼女は似たようなアリアとして第25変奏を指摘し、あちらは嘆きのクライマックス。この第13変奏は少しほっとできるといいます。伴奏とメロディという、ホモフォニーに近い世界になっている。バッハもここではけっこうリラックスしているとも。第25変奏との比較は、続く第14変奏との組み合わせも含めて、次の第14変奏はたいへん華やかなヴィルトゥオーゾ・ピース。この第13・14変奏の関係、つまりアリアとそれに続くヴァリエーションをペアとして見た場合、第14変奏と第26変奏は互いに雰囲気が似ています。後の第14変奏との関係については、この第13変奏の終わり方が、だんだん音が上がっていって、終わりは、もっとも高い音がシで、ちょっと不安定な感じが残しているのです。それが、次の第14変奏へのブリッジのようになっている。この変奏でも、次のつなぎが意識されていると言えます。

曲の内容に戻ると、細かい音の動きは右手で、これに対して左手はふたつのパートに分かれた伴奏で、ひとつはタイでさーっとのびた音のゆったりした動きで、そのあいだにバスが少し下がったり、上がったり。実はこの左手に聞き耳を立てると内声部がため息のように息づいた歌が聞こえてきます。一方、右手の32分音符の細かな音は、ずっとつながっていて、ひとつの歌うメロディになって聞こえてきます。それは、人の声の歌う音の持続する動きを鍵盤で追っているような歌です。

・グレン・グールド(1981年録音)

ゆっくりというより、遅いテンポです。とくに、前の第12変奏をエネルギッシュにハイテンションで聞かせた直後ですから、その対比で際立ちます。さらに、テンポを揺らしてメロディを歌わせるようなことしないで、たんたんと弾いているように聞こえることも加算されます。ゴルトベルク変奏曲の場合、グールドの演奏は、アリアもそうですが、後半の第25変奏のような、ゆっくりとした曲での演奏に私の場合は退屈してしまいます。快速テンポや複雑なポリフォニーの絡みなどで見せる際立った冴えが、グールドの弾く、この曲の最大の魅力であることを逆の面から教えてくれている、と言えます。ただ、単に坦々と弾いているのではなくて、右手と左手のタッチを対比的なほどに、レガートとマルカートを使い分けて、しかも、右手をマルカート、左手をレガートとふつうに考えると逆の使い方で意表をついている、それで聴かせてしまうという特徴的な弾き方をしています。それはそれで、とても興味深いアプローチをしていると思います。

細かいところでしょうが、例えば、最初のところでも、右手が32分音符と8分音符の4連符をひいて、その最後を問いかけるように上げた音をスラーで伸ばしている、ちょうどその間に合いの手を入れるように左手のバスが16分音符に続けて2分音符をアクセントを施して弾いたところで右手が、合いの手の前の問いかけに応えるように高い音から下降する動きで始まる32分音符の多い6連符のフレーズを弾きます。これがちょうど1小節の間のことです。この1小節で、最初に右手が問いかけ、バスが合いの手を入れて、さらに右手が問いかけに応えるという3人の問いかけのようなまとまった時間を作り出しています。このまとまりを次の小節でもと、やりとりを繰り返していきます。その繰り返しが進むと、そのやりとりの息を微妙に変化させていって、グールドらしからぬような、演劇的な時間になっています。そのためか、楽譜にあるトリルを省略して、装飾的な動きを控えて、やりとりを浮かび上がらせています。メロディを聴くというのではなくて、会話を楽しむような演奏をしています。

・グレン・グールド(1955年録音)

この変奏も、1981年録音に比べてテンポは速く、1981年録音のような仕掛けをしても聴き取ることはできないかもしれません。ここでのグールドは、左手のバスのふたつのパート、つまりタイでさーっとのびた音のゆったりした動きと、もう一方の下がったり、上がったりする動きが交互にくるので、その二つの部分を掛け合いをするように弾いて、リズムが息づくように弾いています。この録音にしても、1981年録音にしても、バスをよく聴こえるようにして、リズムをハッキリ聞かせている点で共通しています。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

前の第12変奏よりもテンポを上げて、第11-第12-第13と段階的にスピード・アップしてきた快速テンポです。右手による細かい音の動きを、軽快なダンスのように、シフ独特の丸い音の響きを聞かせてくれます。シフは、他の人のようにバスを伴奏の隠し味的な扱いにしないで、ちゃんと聴かせてくれるので、ポリフォニーであることを忘れさせない演奏になっています。とくに、左手のバスのふたつのパート、つまりタイでさーっとのびた音のゆったりした動きと、もう一方の下がったり、上がったりする動きのうちの後の方の上がったり下がったりする動きに弾き方を、微妙にアクセントの強さを変化させたり、リズムを揺らしたりして変化をつけています。それによって聴き手はバスの動きに惹かれることになります。その一方で、右手の動きについても、タイで音をのばして連符の橋渡しをするところに即興的に音を伸ばす代わりにトリルをいれてみたり、32音符による6連符全体にスラーをかけているフレーズを繰り返しの際にオクターヴ下げて弾いたり、装飾的な変化を加えています。前半部分を終わって繰り返すときに、最後の音に長めのトリルを施して、繰り返しの始まりへのブリッジのようにさせたりなど。それらの変化は、この変奏が、誰かが言ったように32分音符による装飾付きのアリアと捉えているのかもしれません。そのわりにじっくり噛みしめるようにメロディがあるわけでもないので、それほどテンポを落とさないで、装飾的な変化を与えることで注意して聴いてもらおうとしている、そんな演奏と思います。

・マレイ・ペライア

前の第12変奏から、ぐっとテンポを落として、腰を落ち着けて、しっとりと右手のメロディを歌わせている演奏です。32分音符の粒を揃えるよりも、歌うことを優先させて、楽譜にあるタイをこえて音を伸ばし、テンポを揺らし、歌を息づかせます。左手はあいまいになりがちなリズムのキープとサラバンドという舞曲の軽さ、推進を陰でつくっていて、ゆっくりなのだけれど、生き生きした動きがある演奏になっています。

・ヴィルヘルム・ケンプ

第12変奏のしっとりしたところから、すこしテンポを上げて軽快に、第13変奏を弾き始めます。アダージョからアンダンテといった感じでしょうか。右手の細かい音をレガートで紡いでいって現れる歌に、ケンプの真骨頂が出ているような演奏です。右手の32分音符のキラ星のような美しさで、右手の旋律の演奏に気を取られていると、左手の内声がまた、そっと歌っている。さりげなく休むか休まないかのような間をおくのは、ため息そのものに聞こえて。まさに、ケンプならではとしか言いようのない、人間の声という演奏です。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

これまで、弱い囁くようなピアノで、ゆっくりとかんで含めるように弾いてきたテューレックは、ここで急転して、この人にしては快速テンポで弾き始めます。どこか無理をしているような感じもしないではない、力みが感じられるのです。考えに考えて弾いている人なので、何か理由があるとおもうのですが、まして、このアリアのような第13変奏で、シフやペライアよりも速いテンポで弾いているのです。

・シモーネ・ディナースタイン

この変奏で、繰り返しもしていますが、5分を超える時間をかけていて、かなり遅いテンポです。これでは32分音符の細かい音が詰まっているのではなくなって、ひとつひとつの音がゆったりして、間をレガートでつないでいるような。シューベルトのソナタのアダージョ楽章に装飾的な動きを加えたような印象です。この人の基本的な姿勢が、よく表われている演奏ですが、しっとり、しんみりしてしまう印象です。ただ、時間をかけた演奏でも特にテンポが遅いという感じはしません。この変奏で、ディナースタインは、ほぼ全体を通して右手の声部を前面に出して、左手は背景に引っ込めていますが、それは、さながら右手で弾いている声部が単独で聴こえてくる、モノローグのようです。時折左手の少ない音が、右手の旋律の伴奏のように聞こえてくる程度です。しかも、ディナースタインという人は、メロディを音楽的に流麗に歌わせるという器楽的な美しさを追求するというよりは、語り掛けるにように息づかせる弾き方をするようです。それが内省的な印象を強めているのだと思いますが、ここでも例えば、最初に出てくるテーマのメロディを、始めの上行する動きをそっと緩めのテンポで入って、休止にはならないのですが、微妙な間をおいて音の粒立ちをよくして、しかも心持ちテンポをあげて下行する動きを弾きます。そうすると、聴き手には、何か自問自答しているように、ためらいつつ問いかけるような、動きに何かしらの躊躇があって答える。こういう場合、問いかけは言葉を捜しつつ行うので言葉が長くなるのに対して、答えはボソッと答えるというような短くなるのが常です。テーマのひとつのメロディのなかに、そういうやりとりを内包させている様子が、まさに内包的な響きとなって聴こえてきます。それをさらに、ディナースタインは、変奏全体のなかでも、前半部分では、このテーマを繰り返すところは、そっとゆっくり弾いて、前半の中ほどをすぎると32分音符が小さな上下動をくりかえすところなどを少しテンポを上げるように、そして音楽が流れるように弾いていきます。それが、つまり、小節の中でゆっくりと少し速いがあって、その小節を含む変奏全体としてゆっくりと少し速いというテンポの揺れを重層させています。それが、後半の繰り返しのところで、音楽の流れが止まってしまいそうなほどのところがあるにもかかわらず、その後で取り返すように音楽が流れるので、遅い印象がないのです。れは、遅いテンポをインテンポで通して弾くグレン・グールドとは異質の演奏です。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

前の第12変奏はエネルギッシュでもなく、この第13変奏をテンポを落としてじっくりと歌わせるでもなく、全体としてゼルキンは中庸のテンポ、音の強さで弾き続けています。この第13変奏においても、グールドやペライアのようにテンポをぐっと落とすことはせずに、坦々と中庸のテンポを続けます。しかも、ゼルキンのメロディの歌わせ方はペライアのように腰をおちつけてじっくりと歌うのではなくて、16分音符と32分音符という細かい音のつらなりを紡いで語りかけるように聴こえてくる弾き方をしています。微妙な間をとっていて、微かな強弱をつけているのと相俟って、モノローグをしているのか、内密にひそやかに囁きかけているように雰囲気を作っている歌い方になっていると思います。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏のように比較的シンプルな構成で、声部が絡み合わないと、ヒューイットのような細かなパーツを組み合わせる行き方はつらいところがあるのでしょうか。他の変奏に比べて変化といえば、繰り返しの際に、全般的に音を弱め、タッチを柔らかくしているくらいでしょうか。卒のない人なので、それなりに弾いていますが、聴き手の印象としては引っかかりのない演奏です。

・マルティン・シュタットフェルト

ゆったりとしてテンポで弾いていますが、演奏が硬いというのか、メロディの外形をなぞっていて息づいていないので、単に遅い。グールドのように、敢えて歌わせないでいて、テンポを遅くして聴き手の緊張感を高めるという演奏でもないようです。それが繰り返されて、繰り返しの際には右手の部分がオクターヴ上げて甲高い音で演奏しています。これでは、しみじみすることもできません。

・セルゲイ・シェプキン

シェプキンがロシアのピアニズムの系譜にあって、感傷的ともいえるような深い情感の表現に長けているのが分かる演奏です。テンポを落としてじっくりと歌っている。美音で弾かれるとロマン派のロマンスを聴かされているようです。しかも、繰り返しになると、右手の細かい動きに、さらに装飾音が加えられると、まるで右手が即興的に、情感に任せて音を漂わせていく、モーツァルトが悲しいメロディにちょっとした長調の即興的な飾りをつけて悲しみを紛らわせる素振りをみせながら、却って聴き手は悲しみを痛切に感じてしまうようなところ、あるいはジャズの即興にあるような基の譜面では足りない情緒を身体感覚で即興的に歌ってしまうような、そんな風に感じられる装飾になっていると思います。

第14変奏

前の第13変奏から180度転換したような、華やかなヴィルトゥオジティが前面に押し出された、刺激的で挑発的な全曲中でも屈指の難曲の1つです。ここでは連続した32分音符のめまぐるしい動きが初めて登場します。冒頭のトリルの掛け合いからして目の眩むようです。右手と左手の交差がややこしいこと極まりなくて、途中でそれぞれの線がこんがらがってしまうところが何箇所もあります。これは、映像で、実際に弾いている演奏者の姿を見ていると興味深いです。両手を目一杯交差させて、身体をひねるようにして弾いています。あんな無理な姿勢をして、よく高速で指を動かして、間違わないものだ。ちょっとしたスペクタクルです。速度(4分音符の速さ)は第1変奏と全く同じはずなのですが、それなのに聴く耳は第14変奏を高速の3拍子と捉えてしまうのです。それだけに、変奏曲の前半部分でもっとも盛り上がるのもここだと言えます。基本的には、分散和音と2度の複数の組合せで構成されているようですが、四つくらいの異なった性格の部分が交互にでてきて、様相が変わり、ときに絡み合うので、ここでぐっとテンションを高めて、次の第15変奏に雪崩れ込んでいくのです。この変奏は難曲ではあるので、演奏者たちは余裕をもって自分の個性を出すまでは、なかなかいかないようです。

・グレン・グールド(1981年録音)

これは、映像で演奏している手の動きを見ていると分かり易いのですが、右手と左手の弾き方を使い分けていて、前半の8分音符の高速のパッセージはスタッカートで切れ味鋭く、これに対して左手はレガートで対照的に対比関係を作り出しています。これは、チェンバロの場合の二段鍵盤を右手と左手が違う鍵盤を弾いているので、それぞれの音色が別々になるのを、ピアノでは両手が同じ鍵盤を弾くので、それぞれの手の弾き方を変えることによって、チェンバロの音色による区分を別の仕方で行っているわけです。グールドは、この変奏だけでなく全般的に、この手法を用いていますが、とりわけこの第14変奏、第13変奏などのこのグループでは、それが目立っています。

これはチェンバロの音色の変化の代替だけでなく、右手のスタッカートのひとつひとつが粒だって立ち上がってくる音の高速で動き回るさまは、まるで噴水のように爆発的に音が一気に飛び出してくる、この曲では珍しい狂気を孕んでいる部分であるのと、左手が冷静に機械的ともいえるリズムをつくっていて、その狂気をコントロールしようという対立、しかも時折跳躍して強いアクセントで打鍵して、勢いに楔を打ち込むようにして一時的に断ち切って、しかし、その勢いが塞き止められたわけではなく、すぐに続いていく凄まじい様子などは手に汗を握るものです。そういう対立関係の高い劇的な緊張感を作り出しているのです。

・グレン・グールド(1955年録音)

この変奏も、1981年録音ほど速くなく、切れ味の鋭さもそれほど感じられません。しかし、録音された時代環境を考えると、この演奏は、かなりアグレッシヴと受け取られたのではないか。この土台があって、グールドは1891年のような演奏を録音することができたのかもしれません。そのような背景を考えなくても、この演奏は前の第13変奏とのコントラストを大きくすることなくて、けっこう攻めている割には、スムーズに続けて聴くことができるようになっていると思います。だから、聴き手にとっても意外と聴き疲れすることがないのです。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

シフは、グールドやペライアのように右手と左手の弾き方を対照的に分けることはしません。むしろ、同質的な響きによって、グールドやペライアのように響きが多彩に広がっていく方向ではなくて、ひとつの響きに収斂していくような方向で、高速で細かい音が動くことに聴き手の注目を集める方向の演奏ではないかと思います。第11-第12-第13と段階的にスピード・アップしてきた快速テンポが、だんだんスピードアップしてくることで緊張感が高まって、ここで頂点に達したという演奏です。

シフは冒頭の右手のトリルに対して、左手が上下動する4連符の細かい音の動きをするところで、2音ずつのグルーピングして、2音のリズムの反復のように刻んで、しかも上昇の動きと下降の動きごとに分解し、それぞれの動きのニュアンスを変えて弾いています。そうすると16分音符の連続した細かい動きから、上昇と下降という二つのフレーズをテーマにした変奏のように聴こえてきて、メリハリがつけられて、分かり易くなります。この一連のパターンに続いて、左右それぞれで3連符を交互に弾くところでは、附点リズムになっていることから2音のグループの変形として、それまでの流れから続いて聴くことができる、というようにとてもシンプルなものを基本にして、それが変化していくという印象になっています。それは、グールドのようにコントラストを強調しないで、同質的な響きにしているからこそできることで、グールドとシフの資質の違いが端的に反映している変奏だと思います。

・マレイ・ペライア

ペライアもグールドと同じように右手と左手の弾き方を分けて、それぞれの特色を出していますが、グールドほど極端に対照をつくらず、その点では微温的です。しかし、それぞれの手の弾き方に応じて音色やタッチを微妙に変化させて、グールドにはないグラデーションを作り出しています。そのため、右手の細かい音の高速の動きは流麗な流れとなり、そこに不規則な変化が発生するという即興的な要素が加わって、遊戯で競うような真剣だけれど楽しいという雰囲気が生まれています。しかも、左手の規則的なリズムの刻みは、そのベースとなって支えているので、安心して聴いていることができる。それは、あたかもジャズの即興演奏のようです。右手の即興的な動きが、勢い余ってあっちこっちフラフラいってしまいそうなのを、左手の強固なリズム部隊ががっしりとした支えとなって逸脱してしまいがちな動きの尻尾をかんで音楽としてまとめている。その両者の駆け引きの楽しさ、そういう印象を与える演奏になっていると思います。

・ヴィルヘルム・ケンプ

ケンプはもともとメカニックには弱いところがある人ですが、ここでは頑張って弾いている感じです。ただ、どうしても歯切れが悪く、細かな音がはやく動くところは、ひとつひとつ音をコントロールしきれていなくて、それぞれの残響がまじりあってしまってフレーズのかたちが見え難くなる場面がみられます。しかし、これが響き合うような効果を生んでいて、きらびやかに聴こえてくる演奏です。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

前の第13変奏ほどでもないですが、最初のトリルから、無理して弾いている印象です。もともとのメカニックが、そんなにありそうには思えない人で、この演奏あたりで限界が露わになってしまっているようです。第13変奏と、この第14変奏の演奏は、これまでの姿勢から方針転換したかと思えるほど異質に聴こえます。その中でも、4つほどの性格の異なるフレーズが入れ替わり立ち替わり現れてくるのを、それぞれのフレーズを明快に示して明らかにしている語り口には、この人らしいフレーズをきっちり弾くところが出ていると思います。

・シモーネ・ディナースタイン

この人の演奏はデュエットであることを意識して、高音部と低音部の掛け合いの部分をよく聴き取るこができます。とりわけ、バスの部分の不規則に挿入されるような単音の散らし具体が絶妙で、それがアクセントとなってバスの動きが多彩に感じられます。それだけでなく、右手と左手のタッチを変えて、それぞれの声部を弾き分けて、掛け合いに変化をつけたり、この変奏ではいくつかのパターンをありますが、そのパターンごとにタッチをかえたり、しかも繰り返しの際にさらに変化させたりと、このようなタッチの変化の多彩さと合わせて、このバスの変化を追いかけて楽しめる演奏になっています。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

この変奏では、ゼルキンも頑張って弾いているようです。運動性の高い変奏ですが、ゼルキンは旋律を息づくように流れるように弾くことを、ここでも心掛けているように見えます。たとえば、この変奏は休止が多くて、右手または左手が他の手が休止していて片手だけで弾いているときが多いのですが。両手ともに弾いている場合、16分音符の4連符がつづく細かい音の流れはレガートのように弾いて水平の流れをつくって、そこに微かに綾をつけて、別の声部で8分音符を単独または2音まとめるときには、その水平の流れに区切りをいれるようにスタッカートのように弾いているようです。それによって、この変奏の運動性を損わないようにしています。しかし、特筆すべきは運動性を前面に出したような、この変奏でも旋律的な要素を抜き出して、例えば前半と後半の終わりのところなど、その旋律が絡み合うことでテンションが高まるように聴こえます。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏や前の第13変奏の演奏を聴いていると、この人は古典派以降のメロディを歌わせるとか、ダイナミックに躍動するといった、個人的な感情とか身体を連想させるような演奏をするタイプではないことがよく分かります。この変奏を躍動するような演奏ではなく、スタティックな演奏になっています。それが、このひとの特徴でスタティックな枠組みの中でパーツを様々に変化させていて、その変化が動きになっていると聴き手に感じさせていると言えます。だから、演奏が退屈にはならないのです。前半の繰り返しになると、ヒューイットはバスにアクセントをつけて弾きます。それで、右手のトリルよりも低音のリズムが前面にでて、しかもドスがきいているかんじになります。その印象が、左手が高い声部の鍵盤に移っているところでも記憶に残って装飾的な派手な動きよりも、時折アクセントをつられているビートのような動きに注意がいくのです。それで右手または左手が他の手が休止していて片手だけで3連符を弾いているところで、この繰り返しのさいには最後の附点のついた音のアクセントを強調します。そうするとフレーズの尻が強調されて、リズムがタテノリのような歯切れのいい感じになって、リズミカルな印象がとてもつよくなります。そのあと、バスが細かい音で右手に絡んでくるところでは、ドスのきいたバスに注意がいってしまうことになります。その結果、この変奏は派手で躍動的というだけではない、多彩さを秘めた音楽であることを、そのめまぐるしい変化が聴き手をワクワクさせることを明らかにしてくれているのです。

・マルティン・シュタットフェルト

堅実で卒のない演奏です。この変奏での繰り返しはしていません。こういう演奏は、おそらく、演奏会であれば、それなりに満足して聴ける演奏だろうと思います。しかし、録音して他のピアニストの録音と並べられて比べられると、聞こえてくるところで他の録音と差別化されないと苦しい。これはシュッタットフェルト本人がよく分かっていることで、それが繰り返しの際の仕掛けという意外性を施しているのでしょう。しかし、それは、それ以外には自身の個性として差別化できる自信がなかったということなのかもしれません。この変奏の演奏を聴いていると、そんな気がします。ちゃんと弾けていて、悪いとはいえませんが、では、他のピアニストを差し置いて、この人を聞きたいと思うか・・。という演奏になっていると思います。

・セルゲイ・シェプキン

前の第13変奏でしみじみと情感溢れる演奏をして、続く第14変奏では一気に気分を解放するように爆発するような演奏するピアニストもいますし、シェプキンもそう弾くと予想していたら、そうではなくて、それなりに弾いていますが、どこか中途半端で、前の雰囲気を引き摺っていて、断ち切れていない感じがしました。しし、逆に考えれば、第13変奏の深い情緒を簡単に断ち切るようなものではないということなのかもしれません。むしろ、この快活な演奏を聴いていて、前の第13変奏の深い情緒を思い出すのを抑えられなかった。この演奏は堅実です。

第15変奏

前半最後の第15変奏。初めて出てきた短調による変奏です。変奏曲全体の中でも短調で書かれているのは、この第15変奏の他は第21と25変奏の3曲しかありません。それだけ特徴的で、それぞれ全体の中で特異な(重要な)位置を占めていると思います。

5度のカノン。反行する鏡像カノンの一種です。しかし、左手のテーマがソ--ファ-ファ-ミ♭-ミ♭-レと下がってくるのに対し、模倣する右手は、レ−レ−ミ−ミ−ファ♯-ファ♯−ソと上がっていくので、正確に模倣したものではなく、隙がなく厳格に書かれているのではなく、曖昧な余地を少し残しています。そこに「ため息」といわれる休符から始まって二つ16分音符をスラーでアーティキュレーションを施して繋げるフレーズです。全体的に下行していくフレーズの方向ですが、ため息は天を仰ぎ見るように洩らすものです。その微妙な休符やスラーのニュアンス、つまり崩しが演奏者のセンスを映し出すものとなります。

また、楽譜にはアンダンテの指示が書かれていますが、ため息などというとゆっくりと聞かせたくなるところが、アダージョではないのです。アダージョでは重くなってしまう、しかも、バスが区切りよくしっかりと刻まれるテンポです。

最後の部分は、バスは下りていって終わるけど、右手は上がっていく。昇天して天国へ、みたいなイメージで、しかし、それだ終わらずに、左手はソで終止しているのに、右手はファ♯−ソ−ラ−シ♭−ド−レと中途半端な感じを免れない居心地の悪さを、故意に作りだして、後半の期待を高める形で終わります。

・グレン・グールド(1981年録音)

アンダンテにしては遅めでアダージョに近いかもしれません。少し重苦しさのある足取りで、遅いテンポを厳正に守って弾いています。しかも、スタッカートでそれぞれの音はポツリポツリとつながることはないので、グールドはため息というニュアンスには捉われていないと思います。このスタッカートで弾いているのが、朴訥とした一歩一歩前へ歩いている、しかし短調であることもあって足取りは重いといった様子を想像させます。この重い訥々とした足取りで、カノンの複雑な掛け合いを、とくに縦の線がきちっと揃って整理されて聴き手に提示されています。

また、この演奏については凝りに凝った仕掛けが指摘されていて、それによるとグールドは繰り返される前半の1回目を全体にレガートで、2回目は左手の自由声部をスタッカートで弾き分けています。そのせいか、2回目は5%ほどテンポがおそくなります。1回しか弾かれない後半は、そのはじめ半分がレガートで。残りの後半がスタッカートで弾かれています。そのため後半16小節は、前半の2回目よりさらにテンポか遅くなっています。その一部は、最後の小節のリテヌートも原因しています。このような3段階のテンポ変化は5分長大なリテヌートと考えてもいいではないか。これは最初の第1変奏から第6変奏にかけての5分にわたる長大なアッチェレランドに対応するリテヌートであり、この対応関係が一種のテンポ鏡像を形成していると考えられる。そうだとすると、この第15変奏という前半の締め括りと、冒頭の第1変奏から第6変奏という短い変奏の集まりは、初めと終わりで対称の関係になるように、グールドは演奏を設計していることになるわけです。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

冒頭のカノンのテーマの入りが休符も取っていないような、ため息というより、前のめりの急いでいるような印象です。おそらく、演奏の勢いを落とさないまま、後半につなげたいのでしょう。このころのシフがデッカに録音した一連のバッハに散見される、リズムの弾き方の粗さ、これが聴き手には朴訥とした印象を与えるのですが、それが、この変奏の場合には、この変奏曲がバスのテーマの変奏であることを忘れさせない演奏になっていると思います。この変奏では、どうしても短調のカノンのテーマに注意が行ってしまうのですが、シフの演奏では、そこに感情移入する余地がないので、相対的にバスが聴こえてくるのに加えて、朴訥としたリズムが耳に引っかかるような感じです。

・マレイ・ペライア

ため息音型がため息のように聴こえてくる、それがメロディになって歌っているのがペライアの演奏です。グールドのぶつ切りのような演奏と比べて見ると、滑らかに音がつながって流れる歌になっているペライアの演奏は、同じ曲かと驚いてしまうことでしょう。微妙な揺らぎ、強弱のグラデーションを施しているのが、ため息をついたり、立ちどまったり、また無理して歩き出そうとしたりといった人の動きのようで、メロティの歌が息づいているようです。そして、前半の終わりということを、ほとんど意識させないで、このため息から次の後半のオープニングのファンファーレのようなフランス風序曲にアタッカでなだれ込んでいきます。

それでいて、この変奏がカノンであることは忘れていないで、各声部の掛け合いをちゃんと聴かせてくれます。

・ヴィルヘルム・ケンプ

アンダンテとしては少し速く感じられる、足早に歩いている(実はステップを踏んでいる)印象です。前の第14変奏で頑張りすぎて急にクールダウンできなかったのかもしれません。しかし、この少し速めのアンダンテであることが、演奏に推進力を与えているようで、このような短調の沈潜するような音楽であれば、アダージョのように弾いて重苦しくなってしまいそうなのがケンプというピアニストです。このテーマのメロディに肩入れしているようで、あきらかに一番高い声部、合唱でいえばソプラノのパートにメロディを歌わせることにして、他の声部を伴奏というように、主従の階梯をつけて弾いているのは明らかです。ケンプがウィーン古典派やロマン派の曲を弾くときに、きかせどころで、よく演っている音楽の生かしかたです。しかし、それをバッハで演ってしまうと、ロマン派の内心の吐露ではないので重すぎるのです、それを速めのテンポになっていることで、メロディに過度に沈潜することなく、さらと上辺を撫でるようにメロディを扱っています。そのことによって、軽さと透明感な明るさを与えている、と思います。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

テューレックは、遅いテンポの3声のカノンを、反行したりする複雑なカノン、ときにはフーガのように声部が重なって複雑に聴こえてくるカノンを、各声部を弾き分けて、それぞれの声部の線の動きが独立して聴こえてくるようにして、カノンの構造をガラス張りのように明確に示してくれます。ここには、短調の遅いテンポのテーマがあるだけで、ため息といったニュアンスはなくて、坦々とカノンの構造を示すという演奏です。そこで、各声部のからみ合いを分け入っていくのが面白いだけではなく、無愛想な演奏なのに、どういうわけか味わいを感じさせるところもあるのです。そこが不思議です。

・シモーネ・ディナースタイン

ディナースタインの演奏はそっと始まり、弱音で、ゆっくりめにカノンのテーマを歌わせるように弾いていきます。しかも、この第15変奏は三声のカノンでもあります。そこで、ディナースタインは、そのカノンを進めていくための各声部でテーマが追いかけっこするように続いて弾かれるところを、一つの声部から別の声部にテーマが受け渡されるように、テーマの冒頭の休符をうまくつかって、二つの声部で相互に対話をしているような間を作り出しています。しかも、テーマの語尾にちょっとしたニュアンスを施すと、次に始まるテーマの冒頭では、そのニュアンスを受け継いだり、ちょっと方向性をかえてみたり、あるいは強弱でつながっているようにしたりして、両者の間で会話のやり取りをしているかのように聴こえてきます。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

これまでの演奏では旋律的な要素を抜き出してきて、息づくように歌わせていたゼルキンですが、この変奏では、厳しくカノンを演奏しています。ノンレガートでテンポを崩さずに、ひとつひとつの音を訥々とかみしめるように弾いています。しかし、グールドのように重苦しくはなりません。それはタッチが柔らかいことと、フレーズ入り方でふっとひと息抜いてからそっと始めるように弾いているためでしょうか。それもありますが、あまり、短調であることを意識させないで、カノンの構造を機械的なほどしっかりし弾いているためではないかと思います。

・アンジェラ・ヒューイット

この変奏でも、細かな変化をさせていて、追いかけきれないほどなので、大雑把な聴き方をして述べます。ヒューイットは、最初は右手が二声に分かれて弾かれるころで最も高いソプラノの部分をよく通る抜けのいい音で弾きます。そうすると、聴き手にはよく聴こえてきますが、この変奏ではソプラノの部分の休止が結構あって、その休止のところは右手の低い声部であるアルトの部分が埋めています。したがって、いきおい、ソプラノとアルトの掛け合いのような印象になります。それが繰り返しになると、全体の音を弱め、タッチを柔らかくして弾きます。そうすると音が籠もりがちになってソプラノの部分が相対的に引っ込むような表面になります。そこで、最初はソプラノが前面に出ていて聞こえてこなかったアルトの部分がよく聴こえるようになる。しかも、ソプラノの部分は休止もけっこうあるので、繰り返しの際には、アルトの部分が中心となった音楽に変質します。そうすると、最初のときとは違った音楽となってしまう。つまり、繰り返しの部分で隠されていた音楽が掘り起こされる。まるで、短調の音楽の表面の下の深層心理のような隠された音楽を掘り起こすような、そういう楽しみがヒューイットの演奏にあって、場合によっては深い味わいとして聴き手に感じされる場合もあります。

・マルティン・シュタットフェルト

それまでの演奏と比べると、極端なほどテンポを落として演奏します。それだけでは、グレン・グールドの演奏と似ていますが、グールドのようにポリフォニーを際立たせたり、タッチを使い分けたりことはしていません。従って、グールドのように聴き手に緊張感を強いるような重苦しさは感じられません。その意味では聴きやすいかもしれませんが、飽きる可能性もある演奏です。

・セルゲイ・シェプキン

第13変奏ではテンポをグッと落として歌い込んでいたシェプキンですが、この第15変奏では、アンダンテという楽譜の指示に従ったテンポで、ある程度の勢いを保たせながら、メロディを静かに歌わせています。アンダンテのテンポで弾いているため、短調のメロディをたっぷりと歌い込むことはできず、しかも、このカノンは最初のテーマの途中で、他の声部が追いかけるように始まるので、ひとつのメロディを歌い切るのを単独で聴かせることはできません。それをシェプキンは、カノンで声部が追いかけていくとこを、前の声部の演奏の上に被せるように弾いていきます。聴いている側では、ひとつの声部が歌い始めると、途中で別の声部が、その歌っている上から、歌を覆い隠すように歌い始めるように聴こえます。それは、歌っていて歌い切れないことが順次繰り返される様子と捉えられます。それは、短調の歌の悲しさが、その歌を歌おうとして歌い切れないせつなさが加わって、悲しさがさらに募るように聴こえてくるのです。それを、シェプキンは変奏の繰り返しの際に、音を弱めてひそめるように、歌が弱々しくなるように弾いて、その切なさを一層募るようにして弾いていきます。その一方で、アンダンテのテンポによって、重苦しくなることはなく、切なさが透明なものとして感じられるのです。

リンク            

ゴルトベルク変奏曲総論    

アリア               

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