グレン・グールドをもとにした
ゴルトベルク変奏曲の聴き比べ
第2群(第4変奏〜第6変奏)
 

 

第4章 第2群(第4変奏〜第6変奏)

アリアと第1群で演奏がスタートして、第2群に入ります。

第4変奏

第4変奏はシンプルなバスの反復に乗って、高音部が模倣的に動く、どちらかというとリズミカルな変奏です。舞曲風です。パスピエという足を交差させるようなステップのフランス舞曲のスタイルとも言われているそうです。ピアニストは、第3変奏が複雑なカノンでしたから、この比較的シンプルでコンパクトな第4変奏で少し力を抜けるということでしょうか。それにしても短い。けっこうバスの変奏テーマは長かったと思いますが、ここまで短く詰めてしまったということでしょう。しかも、四声なのです。例えば、冒頭で高音部高いところから降りてくるようなフレーズが始まると、そのフレーズ終わらないうちに高音部で重なるように、もうひとつの声部でフレーズが始まります。同じようなパターンで今度は低音部で重複するようにフレーズが始まる。それが繰り返される。短い曲で、それがぎっしり詰まっている。だけれど、そんな複雑そうなのに、演奏を聴いていてごちゃごちゃした印象がなくて、むしろスッキリしています。感じとしては、これから変奏を進めていくファンファーレのようなイメージすらあります(個人的印象ですが)。そのひとつの理由は、バスが小節ごとに一音だけで、低音部とリズムを作っているから、かもしれません。

グレン・グールド(1981年録音)

グールドは、前の第3変奏と、ほとんど同じが、心持ち速めのテンポで弾いています。グールドは、かなり遅いテンポのアリアから、ここまで徐々にテンポを上げてきているという、この後の第5変奏のテンポは、さらに加速度がついていきます。ここでのグールドはテンポよりも、強弱のコントラスト、とくにバスの付点4分音符をアクセントをつけるように強打するほど強調して、ダイナミックな盛り上がりをつくっているところです。グールドの演奏の特徴のひとつは極端なほどコントラストをつけるところにあります。遅いところは極端に遅く、速いところは速すぎるくらいに。また、強弱もどぎついくらいに対比させます。それらに中間がないのです。シロかクロか、その間のグレーがなくて、どちらかの極端から極端なのです。したがって、演奏には極端から極端へとワープしてしまうと、聴き手には大きなギャップが感じられます。それが鮮やかな場面転換、つまり瞬間的に新しい景色に移ってしまう感じで、まるでジェットコースターに乗っているかのようなスピード感と、次に何が出てくるのか予想する暇を与えられないで振り回されるようなスリルが生まれるのです。しかも、グールドのピアノの音は切れ味の鋭い切っ先のような音です。そのひとつひとつの音が屹立していて、音と音との間はスカスカになっています。だから、音が滑らかに流れないで、次に来る音が如何様にも変化しやすいようになっている。例えば、この変奏では、最初にバスで附点4分音符が強打され、半拍遅れて右手が8分音符で、それに応答するように弾きますが、その左右の手で強弱のコントラストがつけられています。次に、またバスの強打と右手が2声に分かれて、ひとつは前の小節と同じ動きと、もうひとつはその上の高いほうに被さるように、しかもバスと同時に始まります。この右手の二つは弱い音になり、バスは強い音で、それらにグラデーションで三つを明瞭に分けることはしません。ただし、音が屹立しているので、ひとつひとつの音がくっきりしていて、三つの声部の動きがはっきり分かるのです。この変奏ではバスが強打されるので、バスのアクセントが全体の動きを支配しています。しかも、右手で弾かれる8分音符のフレーズは、この変奏では基本的にはアクセントのついたバスに応答して随いて行くパターンです。したがって、バスの変化が印象的です。例えば後半で、バスが附点音符の強打だけでなく、2声に分かれて8分音符のフレーズ、右手が弾いていたフレーズをバスでも弾くところは強く弾いて、その動き、とくに上昇する動きが、まるでファンファーレを切り上げるときに音を高く掲げるのと同じような効果を生んでいるのです。

・グレン・グールド(1955年録音)

新録音とは違って一気呵成の快速演奏です。バスにアクセントをつけてメリハリをつけていますが、右手と左手で強弱の対比をつけるようなことはしていません。同じように強く打鍵しています。まるで、快速を続けるために両手の対立をやめて協力して一緒になって速く演奏を進めようとしているかのような演奏です。脇目もふらず猪突猛進です。ただしスピード感は新録音のような対比されたほうが相対的に感じられると思います。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

シフは、グールドのように強弱のコントラストを強調しません。バスの付点4分音符は、それなりによく聴こえてきますが、それよりも、この声部の輻輳したのを整理して聴かせるために、小節のアクセントをつけずに平らに弾いていて、その結果、小節の縦の線はバスの付点音符の1音だけで、あとは縦の線よりフレーズの連続性という横の線を滑らかにしています。それでスッキリした感じなり、しかも、高音部の声部の重複するところは、それぞれの声部の線を弾き分けないで、重ねてハーモニーのようにして聴こえてきます。その結果として、四声の曲が全体としてニ声のように聴く者に捉えられる。そういうすっきりと整理したように聴こえます。

また、装飾的な遊びもしています。ハッキリ分かるのは後半部分の繰り返しで、高いところから降りてくるようなフレーズを2回弾く終わりのところで終止するひとつの音で右手にトリルの指示が楽譜にあるところ、シフは最初は楽譜通りに弾きますが、繰り返して弾く2回目は、その降り切ったところは楽譜通りにトリルをつけて、さらにその後の下降しきったところから上昇していくところにも、楽譜にはないトリルを追加します。しかし、これ見よがしにはやっていなで、さりげなく装飾を追加しているので、注意していないとそれとは分かりません。漫然と聴いていると気が付きません。だから繰り返しで装飾的な変化をつけていても、すっきりしているのです。

・マレイ・ペライア

第3変奏が一旦盛り上がって静かに終わったところから、一息して、その盛り上がりを引き継ぐように第4変奏をフォルテで始めます。ペライアは、この短い曲のなかで、フォルテで始まって長いスパンのデヌミエンドとクレッシェンドをほどこして大きなうねりを作り出しています。それによって、この短い曲を速いテンポで駆け抜けるだけで終わらせないものにしています。しかも、バスの付点音符の1音とずらして高音部のフレーズにアクセントをつけて、両者が呼応する複合リズムっぽい乗りをつくって、短くて素通りしてしまいそうな、この変奏に対して、聴き手のとっかかりをつける工夫をつくって、聴き応えのある演奏にしています。

・ヴィルヘルム・ケンプ

ケンプは、この短い変奏を駆け抜けるように弾いているようです。この後の第5変奏が弾き手にとって力を要するのに備えてのことでしょうか。前の第3変奏をゆったりと弾いていたのから、ギアチェンジをするようにテンポアップして、基本的にはシフの行き方と同じように強弱をあまりつけずにスッキリとさせて弾き切っています。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

おそらく第4変奏の演奏で、これほど四声のフーガであることを誰にでも明確に聴き分けられるように弾いたのはテューレックしかいないでしょう。しかも、テンポも音量もそのままで、しかも強弱のコントラストも殆どつけることなく、平板になってしまうことをおそれることなく、ゆっくりしたテンポで。この人の演奏がすごいのは、短い曲の中で輻輳している各声部の線を解きほぐすように、それぞれの線をスッキリと際立たせているところです。どうしたら、こんなことができるのか。ここで、グールドの行き方と方向性が分かれます。

・シモーネ・ディナースタイン

前の第3変奏が、かなり遅いテンポだったので、それに比べるとテンポが急に上がったような印象です。それでも他のピアニストに比べると遅いのですが。これは、この後の第5変奏で、さらにテンポアップするので、それを際立たせるためのテンポ設定でしょうか。全体として、最初のアリアから徐々にテンポを上げていくという構成はグールドの1981年録音の影響でしょうが、そのテンポの上げ方はグールドとの違いを出しているといえます。また、ディナースタインは強弱をあまり強調しないのが、ここでは最初の音が彼女にしてはアグレッシヴです。ただし、耳当たりがよくて、優美さをそこなわない節度の枠内で演っている、とくに音のつなぎは滑らかという感じです。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

前の第3変奏がとてもゆっくりした演奏だったので、この第4変奏を速いテンポで演奏すると、その速さが目立ちます。ゼルキンは繰り返しを行わないので、演奏はあっという間に終わってしまう感じです。この変奏はバスが、8分の3拍子で附点4分音符、つまり、1小節を1つの音でペースを弾いて、その上で右手が8分音符の3連符で模倣的に動くというものです。しかし、ゼルキンの演奏で聴くと、附点4分音符の音の伸びている途中で8分音符の動きが起こる、という左手と右手の音が合わさって一つのメロディとして聴こえてくるので。そのメロディをテーマとした変奏曲のように、右手と左手のそれぞれのもう一つの声部の動きが絡むように加わってくる。それで、変奏の始まりはシンプルにテーマのメロディが提示され、だんだんと声部が加わっていって、後半になると、前半のメロディに応答するような高いところからのメロディになって、テンションが高まるように感じられると、そこにテーマの模倣がすぐに加わって、重ねられるように音楽がどんどん分厚くなっていくのです。

・アンジェラ・ヒューイット

ヒューイットの演奏は流して聞いていると、変奏ごとに大きな変化をつけて、次の変奏に移ると局面が一転してしまうということがないので、その演奏に面白さに気づかず漫然と聞き流してしまうところがあります。この第4変奏も、グレン・グールドであれば、最初のバスが強烈で一発で惹き込まれてしまうのですが、ヒューイットの場合は、第3変奏から坦々と移ってくるというのです。ただし、この変奏ではスタッカートにアクセントをつけて、音が尖がったというタッチで弾いています。前半のところでは一番高い声部、言ってみればソプラノの声部が浮き上がらせて声高な雰囲気で聴き手に訴える印象ですが、繰り返しになると、中声部とバスがソプラノに対抗するように掛け合いの要素が強くなります。この変奏の演奏は全体として最初のところで右手がバスの伸ばす音に応答するように8分音符の二つの音による3度下がるまとまりが強いアクセントでずっと通して反復されるのを大きな柱としています。それが後半の繰り返しの際には、この軸は下降する動きですが、これに対して8分音符の3連符で2度ずつ上昇していくまとまりを抜き出して浮き上がらせます。しかも、軸の二つの音のまとまりはスタッカートの尖がった音でリズムを刻むのに対して、上昇するまとまりはレガート気味に流れるタッチで弾いています。これが後半の繰り返しのところで軸の二つの音のまとまりに対抗するように浮き上がって、この変奏が終わったという印象と、次の変奏が続くという印象を聴き手に与えていると思います。

・マルティン・シュタットフェルト

繰り返しはしていますが、大きな仕掛けはしません。グレン・グールドの弾き方からコントラストの強いところを差し引いた、印象からいうと、微温的にしたような感じというと失礼かもしれませんが、後半の繰り返しのところで、それまで右手が鋭い音で打鍵していたのを、タッチを柔らかく変えていたのが少し印象に残りました。

・セルゲイ・シェプキン

少し速めのテンポで、シェプキンは全体的にテンポは速めでしょうか、スピード感を重視しているのかもしれません。グールドのような鋭さはないですが、バスと高い音の澄んだフォルテでしかも響きが美しい。また、右手と左手とでタッチを別にして、それを繰り返す際には、そのタッチを反対に入れ替えます。後半も同じようですが、後半の繰り返しでは最初のテーマのところに装飾を加え、高音部のフレーズに加え、終わり近くでは左手にも装飾を加えて、変化をつけています。

・イム・ドンヒョク

第3変奏と同じようなテンポで、比較的強い音で弾いています。グールドやシフがバスにアクセントを置いて、グールドなどは最初のバスの強打がインパクトを聴き手に与えるところがあります。これに対して、ドンヒュクはバスを強い音では弾きますが、それよりも、バスに応答するソプラノの声部を強調するように浮かび上がらせます。ポリフォニーではあっても、ソプラノが主で、その他の声部は伴奏になっている演奏で、中声部がソプラノの脇で伴奏のようにあります。その前半の繰り返しでは、全体に音の強さが抑制され、後半に入ると、左手の二つの声部がソプラノと対向するようになって、ポリフォニー的な響きになります。他のピアニストでは、第3変奏がカノンの形式の複雑があったのに対して、この第4変奏ではポリフォニーが緩んだものとしてリラックスしたものとなるのですが、ドンヒュクは第3変奏をポリフォニーとして必ずしも複雑に聞かせていなくて、第4変奏はリラックスということにはなっていません。むしろ、この後半部分はポリフォニーである声部の錯綜を弾き切っているという印象です。それは、快速テンポで歯切れよい雰囲気をつくりだすためのもの、という感じがします。

・アンドレイ・カヴリーロフ

グレン・グールドの弾き方は極端ですが、でも多くのピアニストは、バスの附点音符に強いアクセントをつけて弾く人がほとんどです。左のバスは1小節は、その附点音符の1音強いアクセントで弾いて、それと対話するように右手の中音の動きが絡んで、生き生きとした動きを作り出すとか、そういう方向で工夫している人が少なくありません。これに対して、カヴリーロフはアクセントをあまり強調しません。とは言っても、アクセントをつけずに平板に弾いているわけではないのです。しかしカヴリーロフの演奏の特徴は、むしろその左手のバスと掛け合うような右手との関係を機械的なくらいに、素っ気なくして、機械的に同一のフレーズのようにしている点です。まるでリズムボックスのような無機的なリズムの刻みのような弾き方をしているところです。そうすると、それ以外の右手の高音の三連符と、左手の右手の無機的に三音のリズムの刻みとか同質的にポリリズムのように絡み合って複雑なノリを作り出しています。しかも、もともとガヴリーロフというピアニストは音楽を生き生きと歌いたい資質を豊かに持っている人のようなので、このような無機的な弾き方に収まっている人ではないので、この短い中に時折、歌いたいという身体性が溢れようとして、機械的なノリを崩すところが出ます。それは、演奏を走らせようとして、ギアチェンジしたように急加速しようとするところが典型的です。その崩れそうな不安定さを潜在的にもって、機械的に弾いている。それが、ガヴリーロフのこの変奏の特徴といえると思います。

・エウゲニイ・コロリオフ

コロリオフの演奏の装飾性とか即興性というのは、シフのように音楽のコアな部分と装飾的な部分の境界が曖昧になって、どこまでが装飾でどこからがコアなメロディかが相互に侵蝕していってわからなくなってしまうとは違って、メロディのコアに部分と装飾の部分の境界がはっきりと引かれていて、その装飾の部分について色々な手を加えて、多彩な変化をつけていくタイプのものと言えます。この変奏でも、最初の入りはバスの附点音符は、それなりに切れ味が鋭くて印象的ですが、それに応答するように右手の高音部も負けず対抗するようにソリッドな立った音でリズムを刻みます。途中から右手の中声部が入ってきて、これも負けずに強い音で、三つの声部が対抗するように絡み合うところでは、アクセントは小節はじめのバスから、それに応答する小節後半の右手に移っています。そこから、この前半の繰り返しになると、バスの附点音符のアクセントが強調されるようで、それに応答する右手がバスにつき従うように、すこし音が弱められ柔らかくなってレガート気味に音がつながるように弾きます。そうすると、左手と右手の声部が対抗するのではなくて、対話するような掛け合いの様相に変化します。そうすると、右手のフレーズにトリルの装飾が挿入されて、彩を加えてゆきます。これは、前半部分の最初の三つの声部が対抗しているのか、繰り返しでの掛け合いの様相が、より豊かな拡がりとなっていく印象が強くなっていると思います。しかし、コアなフレーズ自体にはコロリオフはシフのようにオクターヴ高くして弾いたりということはしません。

第5変奏

第5変奏は、ショパンの練習曲集作品10−8を想わせるような、コロコロと転がっていくような技巧を誇示するようなところがあります。ピアニストにとっては気負ってしまうところがあるかもしれません。

デュエットとされていますが、最初から最後までニ声で、右手は規則的に細かい16分音符、途中で左手に移るにしても。レ--ファ♯-ソ、ミ---ソ、ド---ソ、ラ---ソというような速い音型が繰り返します。そのプロセスで、ソ音が何度も繰り返されて、レ-ファ♯------シといった線が浮かび上がってきます。こういった細かい音の合間にポツリポツリとバスが挿入されて、まるでバスが持続しているように聴こえてきます。しかも、休符が多いので音のテクスチュアが薄く、その余白が変奏全体に軽さと明解さを与えています。だから、さしずめ16分音符の細かい動きが音楽をリードする一方で、8分音符が気ままに跳躍するという、どちらの声部が各々で奔放に躍動していると言えます。まるで、1940年代後半のビ・バップのチャーリー・パーカーが定型的なリズムのリフレインに乗って超高速のアドリブを繰り出してくるような躍動感と速度間のある変奏です。

グレン・グールド(1981年録音)

グールドがアリアから徐々に速度をあげてきたのは、この第5変奏でいったんピークに達します。快速で駆け抜けるようにして、しかも機械的なほどかっちりと細かいフレーズが繰り返され、時折、バスのアクセントが強調されて軽快なテンポを断ち切るように挿入されてきます。その前進するフレーズの反復の動きと、それを断ち切ろうとする動きの対立が鋭い緊張を作り出していて、一筋縄ではいかない、単に快速で駆け抜けるだけでは終わっていません。それは、前の第4変奏がタテの線を強調したものだったのが、ここではタテとヨコの緊張関係となり、次の第6変奏ではヨコの線が主となるように変わっていきます。それは、テンポがここでピークに達して、緊張も同じようにここで転換するという設計になっているのではないかと思います。

・グレン・グールド(1955年録音)

新録音とは違って一気呵成の快速演奏です。バスにアクセントをつけてメリハリをつけて緊張感を作り出すようなことはしていません。まるで、快速を続けるために対立をやめて協力して一緒になって速く演奏を進めようとしているかのような演奏です。脇目もふらず猪突猛進です。ただしスピード感は新録音のような対比されたほうが相対的に感じられると思います。新録音であったようなバスに対して高音部の快速フレーズが応答するような、音楽のタテの線がくっきり見えてくるようなことなく、それぞれの声部が全力疾走して競争しているような演奏です。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

このような手数の多いヴィルトゥオーゾ的要素のある曲ですと、ピアニストは、どうしても技巧の冴えを見せたくなって、つい声高になってしまう、つまり音量を上げてしまいがちです。しかし、シフは弱音で弾いています。するとどうでしょう。この曲の細かい16分音符の動きが弱音で弾かれると、小声で、それも少し早口で囁くような印象となります。どうしても耳を澄まして注意しないと、早口なので言っていることを聞き逃してしまう。小声で囁くのだから、きっと秘密めいたことなのだろう、というような親密さがあるのです。しかも、シフの録音の角のとれた丸い音で優しい響きも、その雰囲気をさらに高めるのです。シフの場合は、前の第4変奏も強打がなく、テンポもゆっくりめで、次の、この第5変奏は少しテンポが速くなりますが、他のピアニストの快速に比べると、むしろ普通の速さで、しかも弱音で通すところがユニークと言えます。これが次の第6変奏で少しだけ強めの音でテンポが速まると、印象が他のピアニストと正反対といえるほど違って聴こえてくるのです。

そんな中で、前半の部分をひととおり弾いて、繰り返す際には左手で弾くバスの部分を強調して前面に出します。この前半部分の半分は両手を交差させるので、バスが前面に出るのは、その半分の部分で、その中でもほとんどがポツリポツリと挿入されるようなので、それほど目立たない。ただ1ヶ所だけ16分音符で上昇するフレーズがあって、そこが繰り返しのときだけ前面に出るので、変奏全体のなかで印象的なアクセントになります。

・マレイ・ペライア

ペライアは右手の規則的な細かいフレーズの繰り返しを、バスのリズムパターンのようにして、通常であれば左手のバスでリズムの伴奏を刻む役割を、この右手に担わせるようにして、左手のバスの動きを、むしろ即興的な演奏をしているかのように聴かせているようです。錯覚なのでしょうが、右手の細かいフレーズの動きが、分散和音による伴奏のようにも聴こえてきさえします。ペライアは滑らかなレガートで弾いているので、なおさらです。この第5変奏と第6変奏では、ペライアはバスのパートとしてリズムを刻ませる左手の役割を右手のフレーズに担わせて、左手の動きを主旋律として聴かせるような弾き方をしています。それは、総じて力強い印象としたからせり上がってくるような動きが強調されているように聴こえます。

・ヴィルヘルム・ケンプ

基本的な方向性はシフとよく似ていますが、シフほど弱音にしないし、もともと技巧のある人ではないので、速く弾いていません。しかし、右手の細かいフレーズをレガートで弾く、その滑らかな線の流れは、この人ならではものではないでしょうか。しかも、微妙に音色かタッチを変化させているのか、録音のせいなのか、フレーズを繰り返すたびに違って方向から聞こえてくるような変化が感じられるのです。さっきはこっちだったのに、今度はあっちといった具合。あくまで耳で聴いた印象なので、実際にどうとはいえないのですが、それゆえに聴空間のひろがりを感じさせられました。フレーズが繰り返されるたびに聴いている周囲の空間が広がっていく感覚というのでしょうか。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

この人は、ひたすらポリフォニーをいかに明確に響かせるかということを第一に弾いているようです。したがってピアニストたちの中で、もっとも遅いテンポで弾いている中に入ります。この変奏の演奏で、これほど落ち着いた、つまりは躍動感に欠ける演奏は珍しいと思います。しかし、それを補って余りあるのは、この細かい音のつながりをひとつひとつ確認できることで、テューレックは快速に弾き飛ばしてしまうと素通りしてしまう音のつながりをひとつひとつ提示して見せるように演奏しています。そのヨコの線と、その線が二本、相互にやり取りする様を拡大鏡で見るように示してくれます。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

速いテンポで弾いた第4変奏からの勢いをそのままに第5変奏では心持ちテンポを上げているようですが、しかし、これまでと同じように、音を強めたりすることはなく、躍動感というより、穏やかさの範囲内にある印象です。ゼルキンは速いテンポで16分音符の細かな動きを追いかけますが、そのひとつひとつの音をヴィルトゥオーゾ風に弾きとばすことはせずに、とくに4連符であることを、ちゃんとフレーズとして分かるようにフレージングをはっきりさせて弾いています。そこには第5変奏の説明で述べた奔放な動きではなく、フレーズのかたちをしっかりと弾いて、そこに意味をもたせようとして弾いているように思えます。16分音符でリズムを刻むというのではなく、4連符の動きが上行するか下行するかのフレーズの形の違いをはっきりとさせてメロディの動きとして弾いている。だから、時に分散和音のように聴けてしまうところがあります。平均律第1巻の最初のプレリュードの分散和音だけで音楽が進む、あの感じを彷彿とさせるのです。

・マルティン・シュタットフェルト

快速テンポでちゃんと弾けている。敢えて言えば、この変奏で速いテンポで意外性を狙っているのかもしれませんが。細かい音の粒も揃っているし、テンポも保っていて、音の動きにも注意が行き届いている。卒のない演奏をこなしている。これまで、仕掛けで驚かされてきたので、仕掛けがない、ということと、この仕掛けのないところで、シュタットフェルトという人が何をやりたいのかが録音のこの時点では明確に表われていないと思えます。

・セルゲイ・シェプキン

第1変奏では超高速テンポで驚かされましたが、この第5変奏はグレン・グールドほどのスピードではないようですが、おそらく右手の16分音符の細かい動きをペダルを踏み替えながら澄んだ豊かな音の輪郭をくっきりと浮かび上がらせています。その一方で、他の手では音色を変えています。おそらく、このテンポで弾くというのは超絶技巧なのではないかと思います。この変奏では、繰り返しで、装飾などの変化をあまりつけていません。それほど難易度の高い演奏をしていると言えると思います。

・イム・ドンヒョク

まさにショパンの練習曲集作品10−8を想わせるかのような演奏ではないかと思います。針の先のような細い、磨き上げられた音で、ひとつひとつの音の粒たちが美しく、くっきりと、転がっていくような印象です。しかも、例えば第1小節から第3小節にかけて少しクレッシェンドさせて、その後は逆に弱めていくというように、抑揚を少しつけています。それは、他方の声部で、8分音符を闖入させたり、伴奏のようなフレーズを対向させたりと、転がる動きに対して即興的な動きをしていますが、そのたびにタッチや音色を変化させている、その多彩さは他のピアニストにではなかなか聴けないものです。しかも、その入ってくるタイミングで、微妙にフェイクのように外してみせるあそびも楽しい。

・アンドレイ・カヴリーロフ

この人の特徴としてよく言われる、運動選手が限界に挑戦するようなアスリート的な感覚で難曲を超人的なスピードで弾くという姿勢が、典型的に現れていると言えるかもしれません。しかし、そのような19世紀のヴィルトゥオーソのような曲芸的な演奏をしているようで、これ見よがしに派手にアクセントつけたり、見得を切るようなことは一切していないで、むしろ、無機的といえるくらいに、機械的に弾いています。例えば、各声部のリズムの掛け合いなども他のピアニストであれば、その弾き分けが聴かせ所になるのですが、カヴリーロフは、あまり弾き分けることなく、機械的に同じように弾いています。カヴリーロフは第4変奏から第6変奏の第2群の変奏を総じて機械的に弾いています。その前の第1群の変奏を人間的とでもいいたくなるような歌とか身体的なノリで溢れていたのとは好対照に映ります。この変奏では、16分音符の細かい動きと8分音符の跳躍するような動きが、まるで競争するように速く、速くというように急き立てあうようにして突き進んでいくところに特徴があると思います。そのような、敢えて言えば、ほかのピアニストにはない求心性がある演奏だと思います。それが、この変奏の演奏として相応しいかどうかは別として。

・エウゲニイ・コロリオフ

コロリオフの演奏の装飾性というのが、音楽のコアなメロディと装飾を施す枝葉の部分の境界をハッキリ決めて、コアな部分には手を加えずに枝葉の部分に装飾を加えていくというものであることは、前に指摘しました。それは裏を返せば、メロディを大切にしているということです。それが、この第5変奏の演奏に表われていると思います。高速で回転するような、前半は右手で、後半は左で弾かれる声部の演奏を、コロリオフは、どのようなものが回転しているのか、その回転する形がはっきりとわかるように弾いてくれるのです。メロディをうたわせるとか、アクセントをつけるとか、陰影を与えるという細工をくわえるのではなくて、あくまでもフレージングを明確にして、高速で弾いても、それを崩さずに弾いているということです。当たり前のことのようですが、こんなことを、しかも、ピアノの音が透き通るように明確で、この高速の細かいフレーズを弾き切るというのは、ほかのピアニストでは、それができないために趣向を凝らして、いわばごまかしているともいえるわけです。そういう、コアなメロディをちゃんと明確な形にして弾いているかにこそ、コロリオフが加えている装飾が生きてくると思います。ここでは、その細かいフレーズの別の声部でリズムの合いの手をいれるように挿入される音が、一回目の演奏と、繰り返しの演奏とではタッチが変えられていて、掛け合いの様相が変わってきます。それによって、リードしている細かい音のフレーズの聴こえ方が変化してくるのです。

第6変奏

第2群の締めは第6変奏で、二つのカノン、2度のカノンです。第5変奏がヴィルトゥオーゾ・タイプの、ピアニストにとっては体力を要する曲でしたから、ひといきつきたいところに、この曲です。この曲は下降するフレーズが次々に連綿と続くさまが、ひたすら下降するだけなのに流れ落ちるようなしっとりとした景色を思わせる。「天にまします我らの父よBWV683」を連想させるという人もいます。その一方で左手が低いほうからだんだんと上がっていく、それが活発な動きのような印象で、それは第5変奏と続いているつながりでもあるのでしょうか。

グレン・グールド(1981年録音)

第6変奏は前の第5変奏でピークに達しテンポを落とさずに弾いています。むしろ、上述の第6変奏のしっとりした印象に反するような快速で駆け抜けるように弾いています。カノンの追いかけっこよりも、バスのせり上がってくるような活発な動きを際立たせているようです。それだけ、バスの動きが躍動的に強調されていて、今さらながらグールドの演奏はバスの動きと、それによって生み出される乗りであることが分かります。しかし、だからといって下降する動きが後景に退いてしまうこともなく、そこにせり上がる動きと下降する動きのコントラストが、これまた高い緊張感を作り出しています。第4変奏から第6変奏という第2群は最初のゆっくりとしたアリアからテンポを上げてきた勢いが第5変奏でピークに達し、この第6変奏では勢いを落とさずに締めとなっています。その後の第7変奏から、その勢いが転換し、演奏はあらたな局面を迎えることになります。

・グレン・グールド(1955年録音)

録音のせいかもしれません。あるいは弾いているピアノによるのかもしれませんが、この時のグールドのピアノは新録音のときのような尖がった音ではなく、丸みを帯びた音に聴こえるので、新録音の場合のようなコントラストの対比から生まれる緊張感というのは、あまり感じられません。むしろ、時にはテンポが揺れてフレーズを歌わせる、あるいみロマンチックな性格が混じってくるところがあります。この変奏では下降するフレーズの弾き方に、そういうところが若干感じられます。新録音のように機械的に繰り返されるのではなくて、波が退いては寄せるのを繰り返すような、息づくようなところがあります。この演奏では、その下降する動きが印象的に耳に残ります。

・アンドラーシュ・シフ(1982年録音)

シフは前の第5変奏から、ほんの半息をいれてこの第6変奏を同じようなテンポで弾き始めます。しかし、その息で明らかに空気が変わりました。シフの場合は第5変奏が弱音でささやくようであったのに、第6変奏では逆に、そのひそやかさがなくなります。しっとりとした、というよりカノンであることを聴き手に印象を強くしようという感じです。しかし、その割には、あっけなく曲が終わってしまいます。それは、バスが機械的にリズムを刻むのではなく、こころもち附点気味にすることによって、後ろに流れるようなリズムのノリをつくっていて、どっしりとしているのに演奏は先へ先へと耳が導かれるようになっています。想像するに、この後の第7変奏が可愛らしい曲となるので、前の第5変奏を弱音で弾いていて、しっとりとした演奏が3曲続くことになることを避けたかったのかもしれません。

・マレイ・ペライア

三声のカノンをバスに支えられ、高音部がニ声に分かれてカノンでフレーズを追いかけっこしますが、この変奏に関して上で述べたような下降するフレーズが連綿と続くしっとりとした景色というよりも、高音部のニ声の線とバスの上昇するようなフレーズの線が緊張関係を作り出すようです。ペライアは右手の二つの声部をレガートをかけて弾いて、それに対して、左手はレガートを抑えてリズムの刻みが明確に弾いています。それゆえ、カノンの下降するテーマの演奏には静けさ、落ち着きというよりも表面的には滑らかではあっても、リズミカルな左手が並行しているために劇的な緊張感と躍動感が秘められている演奏です。そして、前半と後半の繰り返しの際に、心持ちバスがよく聴こえてきて、演奏の中で、小さな幅で強弱を変化させています。それゆえに、なおさらバスの動きがカノンの旋律の流れを煽っているように感じられるのです。表面上の静かで滑らかさと、底面の秘められた躍動というのが、この演奏の印象です。

・ヴィルヘルム・ケンプ

ケンプも第5変奏から続けて第6変奏を、そのつながりの中で弾いているようです。次の第7変奏の可愛らしさを対照的に引き立たせる意図もあるのでしょうか。この曲の場合には、主導権はバスにあるという感じで、バスの響きと乗りに全体が支配されて、とくに前半は、そのために高揚感すら覚える雰囲気です。ケンプならしっとりと弾きそうなものですが、その中でも、高音の二声の線をタッチを使い分けて、それぞれの線が聞き分けられるように弾いています。

・ロザリン・テューレック(1998年録音)

この変奏の説明で述べたような下降する流れが連綿と続くことがはっきりと分かる弾き方をしていたのは、このテューレックだけだったと思います。多くのピアニストは第5変奏を快速に弾きとばし、それに続いて同じようなテンポで、この第6変奏を弾いてしまいます。とくに、前半を他のピアニストのように強い音で、バスの上昇する動きを際立たせることはしないで、弱音で静かに始めます。そのおがけで、曲全体がしっとりした雰囲気をここでつくっています。しかも、フレーズの第1拍目のアクセントを抑制してアウフタクト気味にフレーズが始まるので、すうっと吸い込まれるように感じられるのです。

・シモーネ・ディナースタイン

第5変奏とのテンポを保っているところは、これもグールドに近い設計です。しかし、ここでの音のつながりは、それまでの滑らかさを失って、たどたどしさが感じれられるほどです。最初、ディナースタインは右手の二つの声部を浮かび上がらせて、レガート気味に滑らかな弾き方でカノンを弾き始めます。この時のバスは右手の動きの背後に隠れています。その前半部分を繰り返す際には、隠れていたバスが右手の声部に対抗するように前に出てきて、このひとには珍しく角張ってゴツゴツした弾き方をしています。さらに、右手の弾き方もレガートを抑えてバスに負けないよう変化します。まるで右手と左手が、それぞれに別個に主張しているようで、それゆえに、カノンの複雑なからみ合いで、聴き手は、それぞれの線を見失うことはありません。後半の部分では緊張感がさらに高くなって、表面的には静けさがありますが、バスの動きは少し不気味さもあって、動きを秘めた演奏になっています。

・ピーター・ゼルキン(1994年録音)

第5変奏からテンポを変えないで弾いているようですが、躍動感のある第5変奏そのままに弾く人もいますが、ゼルキンは基本的には穏やかな演奏なのですが、ちょっと複雑です。というのも、冒頭のカノンのテーマの呈示は、高いファの附点4分音符にスラーがついて伸ばすようになっている音を強いアクセントと弾いています。一方、左手ではバス6連符をスタッカートを印象的に、角張って音の輪郭を際立たせるように弾いています。この第1小節目から第2小節目までの弾き方が比較的アグレッシヴで、その印象が第5変奏から躍動感を引き継いでいるようなのです。しかし、それに続く演奏ではタッチは柔らかくなり、ノンレガートはリズミカルから訥々とした印象に変化していきます。それに伴い演奏は穏やかな雰囲気に変わります。むしろ、訥々としたノンレガートはひそやかに囁くような静謐さの印象に変わっていくのです。第6の変奏の後半の最初のところは、冒頭と同じ強調するような弾き方をして、その後で穏やかな雰囲気に変わります。聴き手は、この最初のところの印象が残って、この第6変奏全体の演奏を穏やかなものとして捉えにくくなって、後半の最初も強調するようなので、なおさらです。それだけに、この変奏の演奏の穏やかさというのが、なおさら、ひそやかなものとなってくるのかもしれません。

・アンジェラ・ヒューイット

ヒューイットは、ここでも繰り返しの変化で展開させてみせます。附点4分音符の伸ばした音をスタート地点にして16分音符が続いて下降していくカノンのテーマを、ヒューイットは、その下降のスタートを柔らかく始めます。すると、フレーズの始点が明確でないので、いつの間にかフレーズか始まったようになります。それがカノンによって異なる声部に受け渡されていくと、下降するフレーズが次々に連綿と続くさまが、ひとつの流れのように聴こえてきます。水平の流れです。それが、ひたすら下降するだけなのに流れ落ちるようなしっとりとした景色となって現われてきます。しかし、繰り返しでは、フレーズの始点にアクセントをつけて、しかも少し鋭角的なタッチで弾いています。そうすると、それぞれの声部でのカノンのテーマの輪郭が明確に浮き上がってきます。最初の時の下降する流れは、各声部で断ち切られます。しかし、カノンの構造ははっきりして、水平の流れに対してカノンの垂直の構造が現われるのです。後半部分では、このような変化とともに、規則的にリズムを刻んでいたバスが、繰り返しの時には上昇する動きのところが浮き上がって、この変奏がただ下降するだけでなくて、上昇する動きが表面に現れてきて、下降が少し緩和されるところで、次の変奏に続いていくようにして終わります。

・マルティン・シュタットフェルト

テンポとしては速い方でしょうか、第3変奏と同じようにバスの動きが前面に出ていて、それと並行するように右手の二声がカノンを演奏しています。しかし、カノンのテーマの下降する動きとバスの上昇する動きが対立的に絡み合うといった構造的な捉え方はしていないようです。しかし、おのおのの声部の声部の動きは、ちゃんと聴こえるように弾いていて、卒のない演奏です。ここでは、繰り返しで前半の繰り返しは右手の弾いているところは全部オクターヴ上げて弾いているし、後半の繰り返しでははじめのところで右手が1オクターヴ上げて弾いています。

・セルゲイ・シェプキン

ゆったりとしたテンポで、カノンのテーマの下降する音型を弾いていきます。バスの動きをベースに高いところから降りてくるという風情を想わせる雰囲気です。しかも、繰り返しの際に一番高い声部をオクターヴ上げた高いところで弾き始めます。そうすると、うんと高いところから、下降するテーマが降りてくるというのが強調されます。この繰り返しでは、降りてきた後でいったん高いところに戻って、再び降りてくるのではなくて、ずっと降り続ける形になって、下降が強調されます。

・イム・ドンヒョク

ゴージャスという形容詞はゴルトベルク変奏曲の演奏に用いるのは似合わないかもしれませんが、まさに、そういう印象の演奏です。軽快なテンポで、かき鳴らすように響かせて弾いています。演奏の入りはゆったりしていますが、下降する音型が模倣されていくにつれて徐々にテンポがあがっていくような印象です。そして、下降する音型が引き継がれていくにつれて、その前に弾かれた響きが残っていて、そこに引き継がれた音型を弾くのが重なって、共鳴するように響きが豊かにひろがっていきます。それは視覚的光景に置き換えれば、高いところから薄いヴェールが下りてきて、近づいてくるにつれて鮮明になってくるような印象です。細かい音の動きの音型の響きが重なってヴェールのようになって聞こえてくるのは、ショパンの「エオリアン・ハープ」の練習曲を彷彿とさせるところがあると思います。後半に移ると、前半の下降する音型の反復は前半と同じように弾いて、そこから上昇していく音型があらわれくるところから、タッチがかわって歯切れのよい音で輪郭がハッキリしてきて様相が変わっていきます。変奏の終わりで下降してくるヴェールが剥がされる、そういうイメージです。

・アンドレイ・カヴリーロフ

第5変奏の速すぎるテンポ感をそのままに、この変奏の演奏が始まります。この変奏では、バスの16分音符の細かい動きが前面に出て、全体をリードするように位置付けで演奏されます。しかも、カヴリーロフはバスの動きを強調するように強打して、音が濁ることも辞さないようで、他の変奏とは異質な太い音でドスの効いた音です。それが高速で全体を引っ張っています。というより、フレーズの形が上昇するようなので、全体を押し上げて、煽るような感じになっています。右手の動きは、その左手に引っ張られて、寄り添うように聴こえます。演奏のスピードは第5変奏ほどではありませんが、バスがしたから突き上げるように煽るところが、演奏にダイナミックなうねりを生んで、バッハに似つかわしくないという意見も出てくるかもしれませんが、この第2群の3つの変奏で、ギアを段々とシフトアップしていって、この変奏でトップギアに入って突き抜ける、そんな印象です。

・エウゲニイ・コロリオフ

コロリオフは、第5変奏に比べて、はっきりとテンポを落としたことが分かる演奏で始めます。そして、冒頭の高い声部の附点音符を印象的に響かせて、そこから降りてくるような下向音型のフレーズのカノン主題が反復されていきますが、それをコロリオフはレガート気味に弾いて、下向する波が次々に打ち寄せてくるような印象を与えます。それが、繰り返しになると、冒頭の高い音の附点音符と同時にバスで上向する細かい音の動きが、一回目では附点音符に隠れるように、ベースで支えていたのが、この繰り返しでは前面に出てきます。そして、この上向のフレーズがバスで反復しながら、段々と高い音にせり上がっていく動きが前面にでてきます。その一方で、右手の下向するフレーズのカノンはレガートではなくスタッカートで細切れのような感じになって、聴こえ難くなってバスの後ろに隠れるようになってしまいます。それは、一回目の演奏は横に音がつながって流れていくメロディ的な流れが、繰り返しの二回目では音が細切れになってリズムを刻むような縦ノリに、方向性が転換しているわけです。これは変奏の後半部分でもこの転換のパターンで弾かれます。

リンク            

ゴルトベルク変奏曲総論    

アリア               

第1群(第1変奏〜第3変奏) 

第3群(第7変奏〜第9変奏) 

第4群(第10変奏〜第12変奏)

第5群(第13変奏〜第15変奏)

第6群(第16変奏〜第19変奏)

第7群(第19変奏〜第21変奏)

第8群(第22変奏〜第24変奏)

第9群(第25変奏〜第27変奏)

第10群(第28変奏〜第30変奏) 

 
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