ラファエル前派の画家達
ジョン・エヴァレット・ミレイ
『秋の葉(枯葉)』
 

 

『秋の葉(枯葉)』は、『安息の谷間』などと並んで、ミレイが初期のラファエル前派時代の聖書や伝説の一つの場面を象徴的な記号を画面にちりばめた意味内容の『大工の家のキリスト』のような作品から、雰囲気とか空気感(ムード)といった抽象的な言葉や形にしにくいものを描こうとした先駆的な作品です。それは、「美」としか言いようのないもので、それゆえに唯美主義と呼ばれました。この「美」の捉え方は、後には他の画家たちが加わってくることによって、変質していって耽美に重なっていくことになりますが。『秋の葉(枯葉)』で感じられるのは、秋の季節そのものを大気の象徴として、儚さと死を表現している、ということです。枯れ葉、葉っぱの山からたちのぼる煙、右の少女が持っているリンゴ、夕日など、秋の象徴的なものがすべて存在し、豊かな質感のイメージを生み出すために組み合わせられています。(密集した葉っぱの模様が絵面からこぼれ落ちているように見えます。)さらに、『大工の家のキリスト』の明るくてキリッとした「ハードエッジ」な作風と微細な筆致が深みを増して緩み、パレットが濃くなり、時には絵の端のあたりにスケッチ的な筆致が見られるようになったことも明らかです。

ミレイが秋を憂鬱で儚い季節として描いたのは、芸術的伝統というよりも、当時のイギリスの詩の影響によるものと考えられます。芸術的伝統といえば、例えば16世紀マニエリスムの画家アンチンボルドの『秋』(右下図)は、秋を熟した果実や収穫を控えた青々とした植物に満ちた豊穣の時期と見なす典型的な作品といえます。いささか奇矯ではありますが。19世紀の詩人キーツは、この季節を「芳醇な実りの季節」と呼び、「芯まで熟したすべての果実」を詳細に描写していることで有名です。しかし、イギリスの詩では、秋をノスタルジーや死期に合わせて表現することが多くなっていきます。春は新しい命、冬は死を意味し、季節の一年のサイクルを人間の生活に喩えるならば、秋は若さと老いの間の過渡期を意味します。実際、シェイクスピアの「ソネット73」の語り手は、秋を「あなたが私の中で見ているかもしれない一年のうちのその時期」とし、彼の老年期になぞらえて、「黄葉」、「荒れ果てた廃墟の聖歌隊が遅くまで甘い鳥が歌っていた」、「そのような日のたそがれ」という厳粛なイメージで表現しています。とくに、ミレイはテニスンが1847年に発表した詩集『王女』のなかの「涙よ、空しき涙」の次の一節からインスパイアされたと言われています。

Tears, idle tears, I know not what they mean.

Tearsfrom the depth of some divine despair

Rise in the heart, and gather to the eyes,

In looking on the happy Autumn-fields,

And thinking on the days that are no more.

 

涙よ 空しき涙よ 私には分からない これが何を意味するのかが

涙は聖なる絶望の深みからの

心の中に湧き出で 両目に集まってくる

幸せな秋の野を見て

そして思うのだ もはや過ぎ去った日々のことを

アンチンボルドが描いたように豊かな実りのイメージとは対照的に、枯れていく葉と荒涼とした秋の空の象徴性の中に、来るべき冬という死を暗示する季節に向かって、枯れて朽ちていく儚さ、その美しさを暗示しているといえます。それと並行して、来たるべき冬の浄化を予感させる少女たちの無垢で純粋な姿が描かれています。登場人物たちは皆、思索に耽っているが、この絵には深い精神的なオーラが漂っており、鑑賞者は自分自身の死すべき運命とこの世の存在について考えさせられる雰囲気があります。

画面には、薄明の中、庭の落葉を集める4人の少女の姿が描かれています。彼女たちは焚き火をしていますがが、火自体は見えず、葉の間から煙だけが出ています。左側の二人の少女は年長で、長く黒い髪を緩めた、濃いグリーンのドレスという当時の中流階級の服装です。二人のドレスは厚手で冬の寒さに備えたものであることが分かります。最も左の少女は枝編み細工のバスケットを持っており、そこから2番目の少女は、そのゆるい髪とまっすぐなまなざしが特に印象的で、視線を画面のこちら側に向けて、何か訴えかけてくるようです。

右側の二人は粗野な労働者階級の服装で、真ん中よりで頭を3/4に向けて右に横に立っているのは、鮮やかな赤い髪の少女で、ポニーテールに結ばれ、錆びた色の衣服を着て熊手にもたれています。そして下を向いて、視線を左下の葉の山に向けています。グループの最年少の一番右の少女は、下向きで、左側の黒髪の二人の伸ばした腕と、この少女の落ち着いた下向きのまなざしは、祈りを捧げる姿に似ているように見えます。この幼い少女は、赤いネクタイの紫色のドレスを着て、リンゴと青い花の小さな花束を手に持っています。赤いリンゴは腐っているように見え、春にはみずみずしく青々としていた葉そのものが、今は優しく燻されているように見えます。また、リンゴは、原罪とエデンの園からの追放によって暗示された幼少期の無垢さの喪失を暗示しているのかもしれません。

前景には、葉っぱの山が圧倒的な存在感を放って描かれています。この大きな山の中にあっても、一枚一枚の葉の色は、茶色、緑、赤、金色など、緻密な描写がなされており、それぞれの葉の色がはっきりとしています。葉っぱを扱う左側の二人の服装が似たような濃いグリーンの服を着ているため、背景の風景に溶け込み、超自然的な要素を感じさせます。これに対して、右端の幼い少女は赤い頬、赤いスカーフ、赤いリンゴは、この絵の中で最も鮮やかな色として際立っています。少女たちと葉っぱの山の色彩とディテールの豊かさを堪能した後、葉っぱの山から煙の雲が浮かび上がり、遠くの雲が空を横切ったり、長女の手から葉っぱが落ちてくる(不思議なことに中地に溶け込んでいる)など、絵の中の刹那的な、秋の朽ちていくうつろいというのが具体的な感じとることができると思います。背景の土地は、ディテールがわかりにくい深い青の地平線に滑り込み、その上には秋の夕日によく見られるオレンジやレモン色の空が、土地の暗さと強くコントラストをなしている。植生はまばらで、まばらな感じです。

この作品全体の配色は、ほとんどのラファエル前派の作品とは異なり、色相は、ほとんどの部分ではなく、地味であり、風景が均等に点灯していないという点で例外的です。煙、雲、落ち葉などの動きがあるように見える部分と、若い女性の凍りついたようなポーズや表情を比較してみてください。このコントラストは女性の美しさを儚いものとして見ることを意味している。周囲の季節の変化や昼から夜への移り変わりは、彼女たちが長くこのままではいられないことを示唆している。絵の全体が、この愛らしく、心にしみるような瞬間の中で、永遠に時間を止められたらいいのにと、見ている人は願ってしまうのです。

 
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