ラファエル前派の画家達
ジョン・エヴァレット・ミレイ
『ブラック・ブランズウィッカー』
 

 

1859年、アカデミー展に出品した『ブラック・ブランズウィッカー』が好評を得て、ミレイは人気画家に復帰しました。「商業的なラファエル前派の絵」と呼ばれる、現代の生活の一場面を描くと言う、ホルマン・ハントの『良心の目覚め』がきかけとなって始められた傾向の作品です。ここで描かれている場面はワーテルローの戦いに赴くブランズウィック騎兵隊の兵士と恋人の別れの場面を題材としたもので、歴史的、ものがたり的な題材を扱ったもので、ラファエル前派時代の物語的な絵画への回帰のようにもみえます。しかし、当時のミレイとは別人のような画家がここにいます。卓越したデッサン力による性格で巧みな描写は相変わらずで、それがラファエル前派時代と変わらぬ数少ない点でしょう。ラファエル前派時代と大きく変わった点は、鑑賞者が作品を見て想像する余地を大きく残している点です。ラファエル前派時代の作品は、『オフィーリア』が典型的ですが、作品の中に意味情報が満載されていて、観る方は沢山の情報をあてがわれて、それを理解する、あるいは解釈するという受け身の態度を取らされることになります。これに対して、『ブラック・ブランズウィッカー』の場合は、提示されている情報が抑えられていて、観る人の想像で足りない情報を補う余地が生まれるように仕組まれています。そこに鑑賞者が作品を見ることによって積極的に関わることが可能になってきます。例えば、別れる女性の感情を象徴する細部は『オフィーリア』の時のように描かれていないので、観る者は彼女の身になって気持ちを想像することになります。そこに感情移入が生まれます。比喩的な説明になりますが、何かを伝えたいとき、言葉を尽くして説明するのではなく、少ない言葉でニュアンスを表わして後は相手の想像に期待するという方法があります。この方法では、余韻をつくりだす詩的な表現に通じるものと言えます。『ブラック・ブランズウィッカー』では、そのた歴史の主役であるヒーローの活躍場面ではなく、平凡な人々に焦点を当て、しかもクライマックスの状況を敢えて外して、ドラマの先行きが定まらない日常的な場面とドラマの境目のようなところを描いています。それが鑑賞者にとって想像を誘うような、想像しやすい設定を巧みに行っているわけです。そして、描き方についてもラファエル前派時代の精緻さから、流麗で大胆な筆遣いにより、画面中の人物に動感を与えています。ここに、ラファエル前派時代に鑑賞者と出会い、唯美主義的な作品や出版物の挿絵などの様々な試行錯誤を繰り返しながら、鑑賞者とのコミュニケイションの形を見つけ出すことができたミレイの姿があると思います。それはまた、消費者のニーズを察知するマーケティングの成功も意味するわけで、人気作家としての地位を確固たるものにしていったのでした。

しかし、意味情報が画面に込められていないというのではありません。情報の提示の仕方が、以前の作品に比べて間接的になったと言えます。好意的に言えば画面を演出していて、作品を見る者はミレイのその仕掛けによって巧妙に導かれることになるのです。

例えば、画面の中心である状況によって引き裂かれた恋人たちの抱き合う姿は、ミレイ自身の1851年の『聖バルテルミーの祝日のユグノー教徒』(右図)からインスピレーションを得たと言われています。『聖バルテルミーの祝日のユグノー教徒』は1572年の聖バルテルミーの大虐殺で、ユグノー(フランスのプロテスタント)が宗教のためにパリとフランスの一部地域で虐殺された歴史的事件を題材にしています。その日、一部のユグノーは、白い腕章を身に着けてパリから脱出し、ローマカトリックのシンボルを示すことによって危険から身を守ったのです。この作品は、2人の恋人がロマンチックな抱擁をする情熱的で意味ありげな場面を描いているように得ます。画面右側の若い男はタイトルのユグノーです。一見すると、この場面は甘くて親しみがあるように見えるかもしれませんが、よくこの作品を見るとドラマチックな細部を見ることができます。実は、愛する人に白い腕章を身につけようとしているこの女性は、彼の人生を救うための静かな試みを必死に行っています。男性は彼女を抱きしめながら優しく左手で腕章を取って白い腕章を着用することを拒否しています。この作品の形式的なことを言うと、暗い色、主に黒と濃緑色が特徴的で、唯一の白い部分は白い腕章です。ミレイは、不確実な中の唯一の光と希望はこの腕章だという状況に込められた感情や意味を基本的に色で伝えているのです。『ブラック・ブランズウィッカー』は、同じように男性は抱く女性を慰めていますが、女性は姿勢や態度が異なります。『聖バルテルミーの祝日のユグノー教徒』の女性は恋人をじっと見つめているのに対し、『ブラック・ブランズウィッカー』の女性は目をそらし、兵士と扉の間の盾として体を使っています。また、舞台設定も異なっています。兵士が直面しなければならない外の世界とは対照的に、『ブラック・ブランズウィッカー』の恋人たちは室内で描かれています。『聖バルテルミーの祝日のユグノー教徒』の恋人たちは外で抱擁していますが、ミレイは室外の自然を制約のある形で描いて、閉じ込められたような印象を与えています。細部まで描き込まれた壁は、二人の近くに居心地の悪さを感じさせ、その壁を侵食するような葉っぱも同様に圧倒するほどの脅威を与えます。この忍び寄る葉っぱは、恋人たちが経験するであろう別離を象徴しているのかもしれません。自然の不吉な力は、ミレイの他の作品、例えば『オフィーリア』にも反映されているものです。すなわち、自然の要素が彼女の死の場面を描き出し、そこから逃れることのできない閉所恐怖症のような球体を作り出しています。『聖バルテルミーの祝日のユグノー教徒』では、自然の脅威に包まれていることが、分離の脅威に近づいていることを反映しています。『ブラック・ブランズウィッカー』では、室内でボールガウンを着た恋人が彼を拘束してドアを閉めようとしているのに対し、彼はドアを引っ張って開けようとしています。抱擁の瞬間に別離が隠喩されているのです。この二人の人物の衣装は、その精巧なディテールとリアルな姿で際立っています。服装はヴィクトリア朝にとって特に重要なものでしたが、この作品では特に、それぞれの人物の役割を表しています。兵士は軍服を着ていて、公の場に出ると特に身なりが整っており、戦闘の厳しさを考えると特に清潔感がある。彼の暗い衣装と対照的なのは、白で輝き、袖には真っ赤なリボンをつけた女性の衣装で、戦争中の恋人へのオマージュと思われるものです。赤いリボンのテーマは、飼い主の足元の犬の首輪にも再び現れ、憧れの獣と貧しい女性を微妙に混同させています。リボンは、二人の服装に共通する要素として、二人を内的領域、つまりブランズウィッカーが戦場に出発する間、二人が留まる領域に結びつけているわけです。このように、ミレイの物質的な特殊性へのこだわりは、彼の作品のメッセージを示しています。

画面の左上、室内の壁にかけられているのは、ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』(左図)で、この絵の存在は、抱き合う恋人たちの感傷をあざ笑うことで、フランスの勝利を予感させている。また、ヴィクトリア朝時代の生活用品への熱狂、中産階級の人々がいかに自分たちのアイデンティティーを物質的なものに反映させていたか、というテーマも紹介されています。そういう迂回された対照性によって、恋人たちの別離の運命が際立つように演出されています。

 
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