アルフレッド・テニスンがシェイクスピアの「尺には尺を」から想を得て詠んだ詩「マリアナ」(1830)の一場面として制作された作品だそうです。作品タイトルに、次の一節が添えられています。
彼女はただ、「私の人生は侘しい、
あの人は来ないもの」と言った。
彼女は言った、「淋しくて淋しくてしようがない─
もういっそ死んでしまいたい」
参照ついでに、もともとのシェイクスピアの喜劇「尺には尺を」のあらすじをかいつまんで述べてみましょう。
ウィーンの公爵ヴィンセンシオは外交でウィーンを離れることにしたと言い、その代理を厳格なアンジェロに任せる。公爵の統治下ではウィーンは法に緩かったが、アンジェロは性道徳について厳しく取り締まることにする。若い貴族クローディオは婚前交渉で恋人のジュリエットを妊娠させる。ジュリエットとは結婚するつもりだったが、アンジェロから死刑を宣告される。クローディオの友人ルーシオは修道院にいるクローディオの妹イザベラを訪ね、アンジェロに会って死刑の取り消しを懇願するように頼む。
イザベラはアンジェロに面会し、慈悲を求める。アンジェロはイザベラに恋をし、自分と寝るならばクローディオを助けてもよいと持ちかける。イザベラは拒否する。そして刑務所に行き、クローディオに潔く死ぬよう言う。クローディオは助かりたいので、イザベラにアンジェロと寝るように頼むが、イザベラは拒否する。
公爵は実はウィーンを出発しておらず、修道士に変装してアンジェロの動向を監視していた。イザベラから話を聞いて、公爵はアンジェロに罠をしかけることにする。
その罠は「ベッド・トリック(Bed
trick)」である。アンジェロにはかつてマリアナという婚約者がいた。マリアナの持参金が海の藻屑と消えた時、アンジェロは婚約を一方的に破棄したが、マリアナはまだアンジェロを愛していた。そこでイザベラがアンジェロの誘いに乗り、マリアナとベッドで入れ替わらせた。
計画はうまく行ったが、アンジェロはイザベラの約束を破り、クローディオを処刑しようとする。公爵は病死した囚人の首をクローディオの首のように見せかけ、アンジェロに届けさせる。
公爵は変装を解き、ウィーンに「帰還」する。そこでイザベラとマリアナに真実を訴えさせるが、アンジェロは容疑を否定する。公爵は再び修道士に化け、改めて公爵であることを明かし、アンジェロも罪を認める。アンジェロをマリアナと結婚させた後、公爵はアンジェロに処刑を宣告する。「尺には尺を」というわけである。しかし、クローディオが生きて現れ、アンジェロは罪を許される。
読んでお分かりのように、この『マリアナ』の場面は舞台に現われず、そこで語られる挿話としてあるだけなのです。これは、同じとは言えませんが、ミレイの代表作『オフィーリア』もシェイクスピアの「ハムレット」の中で王妃ガートルードによる語られる挿話を作品化したのと似た経緯と言えるかもしれません。
テニスンは、この戯曲の中から捨てられたマリアナの傷心に焦点をあてて一遍の詩にしたものでしょう。マリアナは、船の難破で持参金を失い、婚約者アンジェロに捨てられてしまいます。彼女は婚約者への想いを断ち切ることができず、塀で囲まれた館に籠るように孤独な日々を送っています。
では、作品を見ていきましょう。マリアナは、窓辺にテーブルを置き、布一面に刺繍をしていたようです。絵の場面は、刺繍しつづけて疲れたために、丁度刺繍の糸の色を変えた、切りのよいときなのか、糸の長くついた針を布に刺したまま、立って腰を伸ばすような姿勢をしながら、ぼんやり窓の外に目をやりつつ、物思いをしているところ。刺繍された布は、右に巻かれており、ずいぶん長い間、刺繍をしていることを示しています。中世から近世にかけて、刺繍と言えば子女のたしなみの第一で、望みを捨てずに結婚の準備をしつづけ、長い時間を経ているということを感じさせます。この背景として、マリアナの籠っている部屋の描き方が、窓辺の太陽の光があたる部分と、影の濃い祭壇の組まれ灯りがともされた一隅の部分とで、半々くらいに描き分けられています。それが、昼と夜、どちらの時間にもわたって、そこにいる人物の生活が、ある一貫性をもっていることを象徴するかのようです。つまり、婚約を破棄したアンジェロをまだ愛し待ち続けるというマリアナの心の内の反映です。しかし、さらに見ていくと、この半々に分けられた室内の描き方は、アンジェロを想い続ける心情とあきらめなくてはならないという現実の対立とも見えなくもありません。それはさらに、マリアナがまとうロングドレスの深い青と、スツールのオレンジ色彩が対比され、それが画面全体に鮮やかな印象を与え、作品の中心となっていることで、対照ということが、この作品の基本構造になっていると考えられるからです。これは、マリアナ心情の反映に他なりません。
その一方で、画面全体に閉塞感が強く漂っています。作品全体のサイズが小さいことが第一で、小さいサイズに閉じ込められている感を強くさせ、画面全体の中で人物を全身像で描きながら、画面に占める割合が多くで余白がありません。しかも、全体を暗く強い印象の色を多用しているので見ていて、目を休ませるところがなく、室内の描き方も広がりとか奥行といった空間を感じさせないことと相俟って、狭く閉じ込められたような印象を強く受けます。
それを、描き込まれた細部が助長するかのように印象を強くさせます。例えば、マリアナの視線の正面にある窓は、半分がステンド・グラスになって戸外への視界を遮られています。そのステンド・グラスが受胎告知の場面なのはマリアナの想いと現状の象徴とも見えます。ステンド・グラス色彩は戸外の秋の紅葉の色彩につながっており、それは室内の植物文様の金色の壁紙ともつながっているようで、マリアナにとっては、室内でも外の風景でも、侘しく、そして閉塞感と傷心により一様に映ってしまうということでしょうか。室内の床に秋の葉が散らかっており、侘しさの一様さがここにもあります。そして、左手前の吊り下げられたような2枚の白いテーブルクロスは、アンジェロを待つのに疲れたマリアナの無気力を表し、その隣(奥)が暗闇となっているのは、空虚と隣り合わせであるということでしょうか。そして、刺繍をしているテーブルの狭さが、袋小路のような息苦しさを思わせます。
そして何よりも、この作品の中心はマリアナです。マリアナのとっているポーズがこの作品の最も特徴的な要素と言えるでしょう。テーブルについて長時間刺繍に根を詰めていた緊張のこわばりを解くように、立ち上がり腰を伸ばし、背を反らせています。そう説明すれば、とくに変わったところはないでしょう。しかし、画面で描かれたポーズを見てみると、斜め後ろから見ることになり、マリアナ本人とは視線を合わせることがなく、まるで覗き見しているかのような錯覚にとらわれることもあり得ます。マリアナの手を腰あてる仕種は胸を張ることになり、その豊かな胸を突き出すような格好になります。それを斜め後ろという角度からみると、横胸の突き出るところを、全部ではないのですが、それとなく分かるようになっています。それこそ覗き見の感覚です。全部見えないけれど、それらしきをかいま見える微妙な角度です。また、手を腰に当てることで腰のくびれに視線が自然と集まることになり、その下の臀部の膨らみが強調されます。その身体の曲線を際立たせるように、青いドレスは身体に張り付くように曲線を露わにしてしまい、ドウに巻いたベルトが下腹に向かってずり落ち、背中の部分は腰にまとわりついているのが、臀部を強調する効果を上げています。上方の彼女の顔は蒼白な顔色で、頭を後ろに反らし首を左にねじって横顔をみせていますが、そこには生気がなく、身体の曲線と対照されていると言えます。ここに、アンジェロへの湧き上がるような(官能的な)想いと、それを断ち切らねばならないという状況との対照、マリアナの内部での葛藤が形となって表われていると言えます。なお、マリアナの取っているポーズは、同じミレイの『両親の家のキリスト』でイエスに寄り添っている聖母マリアのポーズと似ているところがありますが、両者の意味合いはまったく対照的です。
こうしてみると、この作品は構成とか構図とか、そういうもので作られているというよりは、唯一の登場人物であるマリアナの描き方に負っていて、それをディテール(小道具)が補完しているものと言えます。写実し描き込みたいミレイにとっては、このパターンがやり易かったのではないかと思います。有名な『オフィーリア』にしても、ポーズは特異ですが、画面の中央に一人の人物を置き、その周りにディテールをこれでもかと詰め込むというパターンでは、この作品と共通しています。それだけに、ミレイは、この作品では中心であるマリアナを描くことに集中できたと言えるのではないでしょうか。この作品は、マリアナの官能的な肢体を覗き見するような要素があるにも関わらず、展示した当初から女性の人気が高かったといいます。それは、理想化されたのではない一般の女性を主人公にしたという点と、しかも、キレイゴトではない一人の女性の姿をかいま見ることができるという点。そして、正面から描いた場合にはどうしてもマリアナと鑑賞者は正対し、対峙することになるのですが、マリアナを後ろから描くことによって、対峙することがなくなり、ステンド・グラスや窓の外の風景などをマリアナと同じような角度でみることができて、視線を同じくすることになるわけで、画面の中とマリアナと同化できるような感じになれたのだと思います。テニスンの詩の効果もあって、とくに女性は、ここに描かれたマリアナの共感できたのではないか、と思えるのです。
それは、同じ題材で、同じように後姿を描きながらマリアナの正面に姿見の鏡を置き、彼女の顔を描いてしまった。ウォーターハウスの作品には、ミレイのこの作品のような共感を誘うところは生まれえなかったと思うのです。それが、この作品を特徴づけている点ではないかと思います。