『オフィーリア』に見られる
ラファエル前派の様式的特徴
 


  

ミレイの『オフィーリア』を例として、ラファエル前派の表現の特徴を見ていきたいと思います。

この作品の題材はシェイクスピアの「ハムレット」で、主人公ハムレットの恋人であるオフィーリアが、ハムレットに父親を殺され狂気に陥り木の枝に花環を欠けようとして川にはまって溺死してしまう情景を描いたものです。しかも、この情景は実際の舞台では演じられず、第4幕でガートルード王妃が詠じている言葉だけで伝えられるという形式をとっています。それは、次のような言葉です。

その花かずらを垂れ下がった枝にかけようと、

柳の木によじのぼれば、枝はつれなくも折れて、

もすそは大きくひろがりました。

それで暫くは人魚のように水の上に浮いてその間、

自分の溺れるのも知らぬげに、

水に住み水の性と合っているもののように、

しきりと端唄を口ずさんでいましたとやら。

でも、そのうちに、着物は水を含んで重くなり、

可哀そうに、美しいしらべの歌の声が止んだと思うと、

あの子も川底に沈んでしまい、

無惨な死を遂げました。

ラファエル前派は、主題をロマンティックな文学や歴史上の出来事や伝説、あるいは現代生活などでの劇的な場面の心理的なクライマックスや宗教的感情が湧き起こる場面に置きます。このうち文学的な主題は、キーツ、テニソン等の同時代のロマンティックな詩、あるいは古典、ここではシェイクスピアですが、そこから心理的な緊張感あふれる場面をすすんで取り上げています。

しかし、そういう題材は現実の生活からかけ離れたもので、絵空事や他人事のようなものとなってしまいます。現代の絵画鑑賞者にとって、シェイクスピアの文学の一場面であるオフィーリアを悲劇的なものと受け取ってもらえたり、そこに何らかの道徳的な寓意を感じてもらえるためには、そこに人々がリアリティを感じられるものでなくてはなりません。そこで、ミレイは、この作品の表現においては樹木や草花といった自然や、モデルとなった人物といった対象を細密な部分に至るまで写実的に表しています。でも、考えてみてください、ロマンティックというのは一種の主観主義で、他でもないひとつのことに感情移入してそこから想像力を自由に働かせるというものです。だからありのままに物事を見るというのではなくて、私の感情というフィルターを通すことになるのです。これに対して、自然を細部まで忠実に描写して再現するということは客観性を求められることで、相容れないはずのことなのです。この一見矛盾することについて、ラファエル前派の画家たちは親しく、彼らを理論面でバックアップした批評家のジョン・ラスキンは『絵画芸術論』のなかで次のように述べています。「細部は偉大な目的に関係している。神の作品の最も細かいもの、最も小さいものの中に存在する、計り知れない美のために(自然は)探求されなければならない」。つまり、動植物にしろ風景にしろ、たんに効果のために曖昧に描いたり、巧みな処理によって省略してしまうことは神の叡知を秘めた自然の真実の歪曲になると言うのです。そこでラファエル前派の画家たちは、対象の細部に至るまで忽せにすることなく、その対象に没入するように自然に対して忠実な姿勢で臨むことが芸術家の倫理だと考えました。結果的にではありますが、そのことが文学の一場面を、絵空事ではなく現実の出来事あるかのようなリアルなものとして、見る人に迫るものとなったと言うことができます。

とくに、シェイクスピアの戯曲によれば、オフィーリアは、川に落ちても驚くことなく、溺れていくことにさえ気づくことなく歌を口ずさみます。舞台では、それがまさに彼女の狂気を物語るものとして印象的ですが、現実にそんなことはありえるでしょうか。実際のところ、現実にそんな場面に立ち会った人などないだろうし、ありえないことです。それを、ミレイは、この『オフィーリア』のために、バスタブに浸かってポーズをとるモデルを執拗に写生を繰り返し、リアルな溺れる女性の姿を描き、背景の川と植物を驚くべき細密さで描写し、戯曲のことばに形を与えることに成功したのです。しかも、この『オフィーリア』は古い時代を舞台とした戯曲の場面であると同時に、現実の溺死する女性の写生として、見る人が受け取ることが可能なほど生々しいものと、当時の人々は見たと考えられます。実は当時のロンドン周辺では女性が小川に身投げをするという事実が少なくなかったそうなのです。だから、当時の人々が『オフィーリア』を現代の悲惨な事実の酷薄な描写として、目の前の出来事のように激しく迫ってくることもありえたのです。

それはまた、さらにラファエル前派の原点的な考え方に遡れば、ウィリアム・ホルマン・ハントの次のようなラファエル前派の自己定義の言葉にも通じてきます。“Pre‒Raphaelitism(前〈ラファエッロ派〉主義)は、Pre‒Raphaelism(前〈ラファエッロ〉主義)ではない。ラファエッロはその最盛期に於いて、因習に対してもっとも独自で大胆にふるまった芸術家のひとりであった。(中略)しかしラファエッロが実際は、システィーナ礼拝堂の天井を彼が見た後の12 年間の栄光に輝く年月に終わりがくる前に、豊かな牧草地につながれて自由が制限されていることを知らない高揚した馬のように、つまずかず、落ちぶれもしなかったかどうかは疑問であろう。(中略)ラファエッロの生涯に於けるどのような失敗もここでたどる必要はないが、彼の生産力の浪費、多くの助手達の養成が、彼に制作の規則と方法を犠牲にすることを強いたのだった。彼の追随者達は、ラファエッロに先立たれる前でさえ、師が描くポーズを強調し定型化して描いた。彼らはラファエッロの描く頭部の傾きや手足の輪郭を強調したので、人物はパターン化されて描かれるようになった。彼らは人々の集まりをピラミッドへとねじり上げ、彼らを前景のチェス盤上の駒のように配置した。彼らの師自身も最後には、そんな紋切型の例を供給することから逃れられなかった。”つまり、ハントによれば、ラファエル前派が批判したのはラファエロという画家ではなくて、ラファエロの工房やその後継者たちの職人的なパターンを繰り返すような紋切型の描き方です。紋切型に堕してしまうことで、対象のリアルで活き活きとしたものが失われてしまう。そこで誤解を恐れずにいえば、これに伴い感情的な感動を作品から感じることができない。それを批判することからラファエル前派の考え方、姿勢が生まれてきたと考えれば、文学や歴史の出来事という遠い時代のことであっても、今、現実に起こっていることと同じような迫真性、リアルさが感じられるという相矛盾する二つの方向を同時に追求していった。それが、上で述べたシンボリック・リアリズムと言われる方法論であり、実際に、この『オフィーリア』に具現化したと言えるのです。

1851年、ミレイはこの『オフィーリア』を描くに当たって、相応しい場所を求めてサリー州のイーウェルに赴き、背景となる部分を7月から秋にかけての数か月間で屋外制作で背景を描いたといいます。例えば、『オフィーリア』の画面を見れば、水草に覆われた小川の一角で、オフィーリアと共に、彼女が作った花綱が流れていく様があります。『ハムレット』に記されたキンポウゲ、イラクサ、デイジー、アーリー・パープル・オーキッドはもちろんのこと、バラやケシやパンジーやフクジュソウ等も加えられています。オフィーリアの首にはスミレの花飾りがかかり、水面に睡蓮が咲き、水辺にはワスレナグサやノバラが花を付けています。そこには咲いていなかった黄水仙も店から買ってきて描いたそうですが、テニソンに他の花と季節が合わないと指摘されて取り除かれたとのことです。『ハムレット』の中で語られた様々な花の「意味」や、ミレイがそのほかの花にこめた象徴的な意味を読み解くことはもちろん主題の理解を助けるものです。例えば、ヤナギは見捨てられた愛、イラクサは苦悩、ヒナギクは無垢、パンジーは愛の虚しさ、首飾りのスミレは誠実・純潔・夭折、ケシの花は死を意味しているということです。しかしその前に、それらはまず、一つ一つが見事な花の細密画として成立しているといってよいと思います。かつて『オフィーリア』が展示されている前で、植物学の教師が実地観察の代わりにこの作品を使って授業を行ったという逸話も残されているということです。それだけ、この作品の草花は植物学の見地でも精緻で細密な描写がされていたと言うことができます。

たしかに、『オフィーリア』の背景の自然は、草花の一つ一つまで精緻で細密に描き込まれています。しかし、どうみても自然な自然の風景とは見ることができないのも事実です。まるで、映画のセットのような人工的な、つくりものめいたものに見えてしまうのです。これはどういうことなのでしょうか、あれだけ写実にこだわり、執拗なほど写生を繰り返したはずなのに、出来上がったものをみると、自然な風景に見えないのです。これには、ラファエル前派の写実的表現に対する2つの特徴的なアプローチが原因しています。その一つは、ラファエル前派が風景を描く際には、伝統的な絵画化の手法を避けているという点です。伝統的な手法とは、「絵画としてまとめあげるメソッド」と   が説明しているものです。つまり、画家が心に描いたヴィジョンと実際に目に見えるものとの間で調整を行い、線や形や色と、明暗の間でバランスを取り、部分と全体の階層構造によって秩序ある全体をつくり上げることです。例えば、ポール・ドラロージュの『若き殉教者の娘』という1855年に描かれた、題材や構図が『オフィーリア』によく似た設定の作品です。しかし、『若き殉教者の娘』は殉教しておぼれ死んだ若い娘が中心となり、彼女に神の光が差し込むことが一番重要なことで、そのために周囲は暗く、そして光の神秘性を際立たせるために、全体として薄ぼんやりとしなって、画面左上の小さく影のように仲間の姿が遠く描かれています。これだけで、彼女が川で溺れたという風景が、川の広さや深さを連想させ、そこから一人川底に沈んでいく彼女の孤独や、そこで神と向き合う神秘が象徴的に際立って見えてきます。そして何よりも、『オフィーリア』の川よりも、人が溺れてしまう川であることが自然と納得できます。それは、『若き殉教者の娘』が主人公の溺れた女性と川の広がりを中心に描き、他の部分を省略したり、曖昧に描くという、描き方の程度に段階を付けたためです。これに対して、『オフィーリア』は、『若き殉教者の娘』のような各部分の画面上の重要かそうでないかの段階による秩序づけた配置がされず、各部分が均質な細密さで描かれています。このような細密に描かれた各部分をつないで一つの画面にしてみた場合、それを見る人は自然な全体像と見ることはないと言えます。この作品では各部分は、それこそ写真のような正確さを有しているのに、それらが合わさって一体となって、人間の視覚に入って来ると、人の経験的な、あるいは生理的な感覚には違和感を与えてしまうことになるのです。それは、私たちの視覚そのものが、すでに伝統的な絵画を見てきた経験から、絵画の見方が学習されてしまっていて、伝統的絵画に適った見方をしてしまっているからです。『オフィーリア』ではそういう見方でのリアルとは異なる方向を志向していると言えるのです。ここで、さらに別の現代日本画の松井冬子の『浄相の持続』という作品を見てみましょう。これは、裸の若い女性の死体が、花の咲き乱れる原に横たわっている様で、『オフィーリア』と似た構図と題材の作品です。しかも、『若き殉教者の娘』のように画面上に優劣の秩序づけがされておらず、美しい花々と死体とが均質に描き込まれていると言えます。『浄相の持続』は九相図という死体が腐乱していく様を何段階かに分けて描いていくシリーズの一つで、死体が腐乱し滅んでいくのに対して、生命あるものは生きる輝きを保ち続けることが対比的に描かれているわけで、ここでは、死んで間もない死体が未だに生命の痕跡を残しているところで、活きた花々と同列にあることが象徴的に描かれているわけで、ここでは均質に描かれた画面はリアルというよりは現実にはない絵画独自の記号的な世界として表現されています。つまり、細密な細部を描きながら、『オフィーリア』と違って、敢えて絵空事の世界を作り出そうとしているのです。『オフィーリア』は『若き殉教者の娘』の伝統的なリアルでも、『浄相の持続』の記号的表現でもない、リアルさを追求しているといえるのです。

もう一つの点は、生理的あるいは光学的な視覚とでも言う点です。さきほどは、絵画を見る人はそれまでに見てきた絵画によって見方を学習して、その見方に縛られるということを述べました。今度は、そういう学習をする以前の段階においても、人間の視覚というのは、無意識にものを眺める際に広角レンズのように円形に近く幅広い対象を捉えるものですが、意識的に何かに見入ったりする場合には、その部分を集中的に捉えて、それ以外の周縁部への注意は薄くなります、広角レンズに対して望遠レンズのようにある対象に視線を集中し、それ以外のものはレンズの視界から外れたり、レンズのピントの合う範囲が狭いため、それ以外は焦点が合わなかったりということになります。ルネサンス以降のここで何度も言及している伝統的な絵画は、そういう人間の視覚の特徴に沿うように、描くものの中で中心を定め、そこでは輪郭を明確に、色彩を明るく、タッチを細かくして詳細に描き込んでいきます。そして中心から離れていくにつれて徐々に輪郭をぼかし、色彩の明度や彩度をおとし、タッチを粗くしていくことにより、人間の視覚に近い効果を作り出そうとします。その代表的な技法が遠近法です。これに対して、ラファエル前派の絵画では、この遠近法によってではなく、各部分をそれぞれに正面から捉えようとして、画面全体の隅々にピントが合っているパンフォーカスのように捉えようとします。また、光と色の効果についても、その場面での光があたったり、陰になったりの色ではなく、それぞれの部分が自然の光があたった際の鮮やかな色をそれぞれに表わそうとします。すると、画面全体が奥行のない平板な色のパッチワークのようになって、各部分がそれぞれに独立して自己主張するような、ある種の非現実感を生み出すことになるのです。その意味で、この『オフィーリア』は生理的な視覚からも違和感を生じさせるものになっているということができます。

 

少し、話の方向を変えて、オフィーリアを眠るように溺死したという画面設定について考えてみたいと思います。というのも、ミレイ以外にもラファエル前派や周辺の画家たちが『オフィーリア』を描いた作品を残しているからです。例えば、アーサー・ヒューズの『オフィーリア』は、ミレイのオフィーリアが川の流れの底で横たわって溺死しているのに対して、ヒューズのオフィーリアは川辺に佇んでいる姿を描いています。ミレイの作品は画面全体が完結した世界となっていて、植物と衣服の襞が織り成す緻密なパターンが画面全体にまで押し広げられて、画面の隅々にまで細密に描きこまれています。それは、オフィーリアの死体が絡みつくように様々な草花に埋め尽くされる幻想的な美しさと、少女の生命のはかなさをシンボライズするとともに、衣服の襞と植物の茎や葉のからまっている様が運命の糸のように絡めとられてオフィーリアが悲劇から逃れることのできない様を表現しているようにも見えます。そこで、ラファエル前派の自然に忠実に細密に描写していく手法が作品の主題そのものと密接に関連して作品が成立している言うことができます。

これに対して、ヒューズのオフィーリアは、ラファエル前派の影響を受けて鮮やかな色彩を用いた細密描写を試みてはいるのですが、それは人物描写、つまり、オフィーリアの描写に限定されています。そして、オフィーリア以外の二次的な部分は、概略化され、効果的な雰囲気作りを担わされているといった感じです。二次的な部分というのは背景です。ミレイの場合には、背景を構成する植物とオフィーリアを区分出来ないような状態で、細密な描写になっていたのは、その植物にも意味があったからでした。これに対して、ヒューズの場合にはオフィーリアという人物を描くことが中心で、彼女以外は背景として、それ自体に意味があるものとしては描かれていません。ヒューズのオフィーリアは、ミレイのように背景と一体になっているのではなく、背景から浮き出ているのです。それは、背景を薄暗く、薄ぼんやり描き、そこから明瞭に浮き上がるようにオフィーリアの姿が印象深くなるように構成され、オフィーリア自身にスポットライトが当たっているように光が当てられています。その光に照らし出されたオフィーリアには幻想的で柔らかな表情が浮かべられていて、ミレイの場合の空ろな表情とは対照的ですが、そこにヒロインの人物がくっきりと描かれているといえるでしょう。ヒューズのオフィーリアは川辺に佇んでいる姿を描いていますが、この後に溺死してしまうことを、この絵を見る限りではうかがい知ることはできません。彼女は木に腰かけ、川の流れを見下ろして、無駄に花を水面に落とす、病的な青白い少女として描いています。全体的な印象派は儚げで、大人の女性を感じさせない少女のようで、透明な白いガウンを着ているのは、子どもの天使のようでもあり、髪の毛に絡まっている藁は茨の冠のようにも見えます。そこに、無垢な少女らしさと殉教者のイメージがダブらされています。そこに彼女を襲う悲劇の予兆は示されていません。しかし、この作品を見る者はハムレットの中のオフィーリアの運命を知っています。それだからこそ、この作品に表われているオフィーリアの無垢な表情に、はかなさや純粋さを想像させるのです。これは、例えば、ヒューズと同じように、川辺に佇むオフィーリアを描いたジュール・バスティアン・ルパージュの作品が、強い感情を表情にあらわし、悲劇を作品の中で予想させるものとなっているのと違います。また、ウォーターハウスの『オフィーリア』はヒューズと同じように川辺に佇んでいますが、花に囲まれた美しい少女が前面に出ています。

これらの作品ではオフィーリアの純粋で無垢な少女の美しさが際立たせられ、とても印象的です。しかし、ミレイのオフィーリアは、それだけにとどまらず、もうひとつ裏があると思います。それはミレイの作品のオフィーリアという少女の描き方の特徴に要因があります。まずは、その要因を探っていきましょう。

その第一は、オフィーリアが眠るように死んだ姿だということです。彼女は眠りから、もう目覚めることはありません。眠れる少女といえば、「眠り姫」の物語が有名です。 その物語は男女それぞれの成熟の物語と言えます。王女は魔法によって深い眠りに入り性的成熟を待つことになります。王子はいばらの茂み(未成熟の少女(蛹)を包む繭のようです)をくぐり抜けて王女を救出し、一人前の男になります。このように、主体的な行動力を学んだ男性と受動的な忍耐力を学んだ女性が、最後に結ばれるというものです。この「眠り姫」のモチーフがヴィクトリア朝文学や絵画の中で繰り返し用いられました。例えば、バーン=ジョーンズの『眠り姫』の連作です。それらは男性芸術家の美学を如実に反映していて、指導者としての男性性を強く求めた当時の社会で、男性としてのアイデンティティを確立するためには,他者である女性は受け身で無私の存在でなければならず、そこで「眠り姫」は従順な女性性を象徴する姿である美しい女性が凍結した時間の中で若さを保ったまま、男性による救出を眠りながら待つという、その「眠り姫」の物語は、受動的で無垢な女性が男性に自分の人生を委ねるというヴィクトリア朝の女性のシナリオをシンボル的な物語であったと考えられます。しかし、ミレイのオフィーリアは眠りから目覚めることはありません。つまり、王子のキスで眠りから覚めて成熟した女性となって王子と結ばれことはないのです。それゆえ、決して成熟することのない、永遠の処女としてとどまり続けるのです。このような永遠の処女に対する男性の願望とは、女性恐怖の裏返しと考えられます。このように、いわば「目覚めた」女性に恐怖心を抱きつつ、なおも「眠る女」に執着したと言うことは、男性のアンビヴァレントな感情を反映しているわけです。すなわち,少女を描いたり目覚める前の女性を描くということは、成熟の可能性を持つ女性、あるいは性的(セクシュアル)な女性に惹かれていることの裏返しだったと言えるのです。自らの男性性が脅かされない限りにおいて、こうした女性に惹かれていたと言えます。

第二に、オフィーリアは花咲く小さな川に閉じ込められた状態で、そこから永遠にでることができない姿だということです。それを、透明な川の水を通して、作品を見る者は、その川面を隔てて、オフィーリアを見ています。これは、オフィーリアの側からもいえることです。つまり、オフィーリアは閉じ込められて出てこない。これは、近代社会において大人になった女性は家庭という閉ざされた空間から外へつまり社会に進出するようになります。ヴィクトリア朝の社会は、まさにそういう時代の幕開けでもありました。それに対して、社会を女性に侵食されることを恐れ、男性の側では家庭に閉じ込めておきたいという逆方向の思惑もでてきます。それが、女性を処女性のままにとどめておきたいという欲望と容易に重なります。しかし、川面は透明で、閉じ込められているオフィーリアは川の外を見ることができる。つまり、外という成熟に対して求めるのだけれど閉じ込められている。そういうアンビバレントな状態にいるわけです。成熟に向かいつつも、成熟できない。そういう宙ぶらりんの、女性のある過渡的な一時期、いわゆる思春期という大人でも子供でもない時期に、このオフィーリアが固定されていることを、このシチュエィションがシンボリックに表わしているのです。

最後に、オフィーリアが川にはまった溺死の状態で描かれているということです。「溺死した女」は「眠る女」の図像と並んで、ヴィクトリア朝の画家によって繰り返し描かれました。例えば、フレデリック・ワッツ「発見された溺死者」です。17世紀ごろ魔女裁判では、魔女かどうかの判定は溺れるか否かで決められていました。一方で、ヴィクトリア朝文学では、溺死が社会秩序の破壊者である「堕落した女」や「娼婦」の行き着く運命として書かれました。溺れ死ぬことは魔女の汚名から逃れることだった。この系譜で、ヴィクトリア朝時代では娼婦は「溺死」することによって、哀れみをうけ、家父長制社会の秩序も回復するのである。したがって、女の溺死の図像は、ヴィクトリア朝男性の矛盾した感情を表現したものと言えるのです。 

このように、ミレイのオフィーリアには、純粋で無垢な少女の姿に、その表裏の関係でヴィクトリア朝社会、とくに男性のアイデンテティの屈折した女性観と性的な志向性が隠されていると言えます。

 
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