ラファエル前派の画家達
ジョン・エヴァレット・ミレイ
『初めての説教』『第二の説教』
 

 

1860年代以降、ミレイは画家としての名声を獲得し、公職や肖像画の注文に応じるなとしているうちに、次第にオリジナルな作品を制作する機会が減っていきました。その一方で、彼が家庭をもち、父親となったという環境の変化も作用してか、自身の子供をモデルにしたファンシー・ピクチャーを描くようになります。ファンシー・ピクチャーは直訳すれば、空想的な絵ですが、18世紀後半にイギリスで流行した風俗画の一種です。特にジョシュア・レイノルズやトマス・ゲインズバラは、愛らしい子供や若い女性を仮装させるなどして空想的に描き人気を博したといいます。言ってみれば、深みのある物語よりは情緒をする絵画ジャンルと言えるでしょう。それを、ミレイは親ならでは喜びや誇らしい気持ちを託して、愛する子供たちの成長を見守るように作品を制作しました。その一方で、描かれた子供たちは悪戯っぽかったり、拗ねていたり、笑顔を浮かべていたりといった子供らしいパターンは避けられ、内省的に描かれていました。これは外部から影響に左右されないことが美にとって不可欠であり、それは、経験や性格により個性が容貌に未だ鮮明に表われてない子供の姿にあらわれているという考えによるものです。言うなれば、ロマンティックな純粋で無垢な子どもというイメージを実際の子供にうまくあてがって、いそうでいない子供を作品上に定着させたのがミレイのファンシー・ピクチャーと言えると思います。

当時のヴィクトリア朝の社会では、未完成な大人とか半人前という扱いから、穢れのない無垢な存在として子供が発見された時代でもありました。そういうイメージは当時の代表的な小説に現われています。例えば、ディケンズの「オリバー・ツイスト」やジョージ・エリオットの「サイラス・マーナー」などでは、子供が主人公となって、理想化された無頼的で救済的なキャラクターが活躍します。それまでは、童話のような子供向けの話を除いて、大人向けの小説で子供が主人公として人格を与えられて活躍するということはなかったことでした。それは小説だけでなく、絵画の分野では、子供を描いたファンシー・ピクチャーが、大人の肖像画が威厳をもった、つまり勿体ぶったさいきの顔であるのに対して、日常的な微笑ましい風景として自宅に飾るにほどよい絵画として人気があったと言われています。

『最初の説教』(左図)はミレイのファンシー・ピクチャーの最初の作品で、当時5歳だった、ミレイの長女エフィーをモデルにして描いた作品です。ロンドン近郊のキングストン・オン・テムズにある古い教会で、まだ幼い少女が緊張して堅くなった様子で、背もたれの高い信徒席に腰かけて、説教を聞いている様子が描かれています。少女は、目を大きく見開いて、帽子を頭に載せており、赤色のケープを身につけ、マフを用いている。傍らには聖書の他に、手袋が置かれています。薄暗い教会の中での色の良い明るい赤いケープが際立つのと、子供のために支えられた赤いストッキングを履いた彼女の短い足が、真剣に説教に集中していることを、示しています。そこにある子供へのあたたかな視線と、ユーモア─これは、子供が集中しようとするのをやめて眠っているのを見ているときに、後の作品である「第二の説教」でより明確になるのですが─も見られます。この作品は、1863年のロイヤルアカデミーで展示され、その晩餐会で、カンタベリー大司教はミレイのこの作品を指さしながら以下のように話したとされています。

「アートにはこれまでに、そしてこれからも私たちを満たすための偉大で高貴な使命がある。キャンバスに忠実に描かれた仲間の喜びと悲しみに共感して心が大きくなる時、私たちの魂が遊び心、純潔、純粋さに触れた時、自分自身がより良く、より幸せに感じる。」

『第二の説教』(右図)は、普通、『最初の説教』と対をなしている作品です。『最初の説教』から2年後、もう少し年を重ねたにも関わらず、少女は説教に耳を傾けることに対して関心を失い、眠りに落ちてしまっている様子が描かれています。前作で被っていた帽子は、座面に置かれています。彼女の日曜礼拝用の帽子が脱げて巻き毛が見えてしまっていたり彼女の小さな脚がぶらぶら揺れるところまで、「甘く平和な眠り」として示されています。今度は、暗い室内での赤いケープと赤いストッキングが目立ってしまって、とくに力なく高椅子からぶら下がっている両足は、少女が居眠りしていることを目立たせてしまっています。1枚目の絵画の熱心な愛好者だったカンタベリー大司教は、1865年のアカデミー晩餐会で講演をしたときにもこの作品も、次のように紹介しました。

「私は自分のために、いつもこの部屋への訪問者から喜びとともに利益を得ることを望んでいると言える。現時点で私は有益な教訓を学んだ。これは、自分だけではなく、私のそばにいるすばらしい牧師たちや祝福を受けた周りの人たちにとっても、有益に学ぶことができます。私はその絵の中に小さな淑女がいることがわかる(ミレイの《二度目のお説教》の中の教会で眠っている子どもの絵を指している)。彼女の態度は無意識に行われているにもかかわらず、彼女は最後の3時間ずっと聞いていた長い説教は、本当のところ、彼女の静かな眠りの雄弁さによって、私たちに長い説教の悪と眠気を誘発する談話への警告を与えた。申し訳ないことだが、確かに私はこの甘くて穏やかな眠りを邪魔すべきだが、私は彼女が目を覚ますとき、彼女はもしかしたら、居眠りをしてしまったことに対して指摘する人たち本当は偉い人達なのを知らされるかもしれない。絵の中の少女が「最初のお説教」を聞いて以来、時を経て得た変化と、彼女が私たちに示した教訓によって私たちは利益を得ることができた。」

 
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