カンディンスキー&ミュンター1901-1917展 |
1997年1月 セゾン美術館
当時の私は転職した会社にようやく慣れて、生活が安定し始めたころで、休日に美術館に出かける余裕が出てきた時期でした。 この展覧会は、“カンディンスキーが20世紀における最も偉大な芸術的成果といわれる「抽象絵画」の追求への道を歩み始め、『青騎士年鑑』を編集し、その主催による展覧会を組織するなど活発な活動を繰り広げたこの時期は、「ファーランクス」美術学校での教え子であり、のちに表現主義の画家となるガブリエーレ・ミュンターと行動を共にする時期と見事に一致します。カンディンスキーとミュンターは、ミュンヘンで出会い、何年にもわたるヨーロッパやアフリカへの旅行ののち、1908年にミュンヘン南方の小さな村ムルナウに落ち着きます。ことにその年から第一次世界大戦が始まり二人が引き離される1914年までの時期、彼らの芸術活動はお互いに、また友人たちからも刺激を受け、さらには同地のガラス絵などの民衆芸術から尽きせぬインスピレーションを得て、各々の個性を豊かに開花させました。本展は、出会いから別離まであたりの生活と画風の変遷に焦点をあて、相互の影響関係、その変貌の源泉、民衆芸術との関わりや抽象絵画誕生の背景を探ろうという展覧会です。”という主催者のあいさつにあるような趣旨です。カンディンスキーが抽象絵画を始める過程をミュンターをはじめとした周囲との影響関係から見せていくというものでした。 だから、展示は抽象画が出て来たところがゴールという構成で、カンディンスキーという名前だけは有名で、なんだかよく分らない絵画を描いた人がいるけれど、どうなのよ、というお勉強にはすごくいい展覧会だったと思います。それゆえに、ここで展示されていた作品は、それ自体を積極的に見たいと思うか、というとそれは別で、あのカンディンスキーが抽象画を描く前に、どのような作品を描いていて、それがどのようにして抽象画に至ったのかという視点があって、はじめて見るという類の作品だったと思います。 展示は次のような章立てで行われました。 Ⅰ.プロローグ─出会い Ⅱ.カンディンスキー─メルヘン的な絵画 Ⅲ.長い旅行 Ⅳ.ムルナウとミュンヘン Ⅴ.ミュンターの静物 Ⅵ.人物の表現 Ⅶ.カンディンスキー─抽象への道 Ⅷ.別れ 一応、カンディンスキーとミュンターという二人の画家がテーマの展覧会ですが、あくまでもカンディンスキーあってのミュンターで、(彼女もいい画家とは思いますが、正直言ってネームバリューから、この人だけを見たいとは思いません)感ディスキーを中心に見て行った感想を書いていきます。 なお、カンディンスキーの抽象画を中心とした展覧会は、このあと2004年の国立近代美術館で「カンディンスキー展」をみました。その時の感想はここにあります。カンディンスキー以外にも、抽象画に関してはマーク・ロスコ、ベン・ニコルソン、ジャクソン・ポロック、日本人では、坂本善三、山田正亮、野田裕示、難波田史男、辰野登恵子のそれぞれの展覧会の感想をアップしています。
Ⅰ.プロローグ─出会い
この方式をさらに発展させていくと、後年のムルナウの風景画のようなものになっていくのが、あとの作品を見ているだけに想像できます。そういう意味で、これらの作品は、あくまでそういう作品に至るということが分かる資料的価値のほうが高いと思います。 Ⅱ.カンディンスキー─メルヘン的な絵画
『花嫁』(右図)もそのひとつで、褐色のボードの上に小さな色点や色斑をモザイクのように配しておいていくように絵の具を塗るのは、「小さな油彩スケッチ」で絵の具をナイフで塊のように置いていくのと、相通じる手法でしょう。色のかたまりのようにして、形態に色付けするというのではなくて、色じたいがひとまとまりとして独立して存在しているかのようなあり方です。花嫁の足もとの草花をまるで宝石のきらめきのように細かな色点を配し、花嫁の衣装の柄も大き目の色斑で構成させているのは、色の点の大きさだけで、草地と花嫁の衣装という二つの領域を区別しています。その上の中景は緑の横線で岡が描かれ、奥には教会が横線で構成されています。左端の縦欄の白樺、楕円の雲が浮かび、その余白を埋めるように空の青がべったりと塗られています。一見メルヘンチックですが、動きはないし、主役である花嫁に表情はなく人形のようです。全体として青系統の寒色が基調になってヒンヤリとした印象を受けます。タイトルで『花嫁』と言ってもらわなければ、そういう感じがしない、そういう作品です。
カンディンスキーは『ガブリエーレ・ミュンターの肖像』(右図)を描いています。カンディンスキーも、こういう肖像画を描けるのだ、というちょっとした驚きはあります。カンディンスキーとミュンターのラブストーリーということに焦点をあてれば、意味ありげで、そういう興味をもって眺めることができるかもしれません。そういう視点で眺めることを否定するつもりはありませんが…。
Ⅳ.ムルナウとミュンヘン
カンディンスキーにとって、長い旅行からミュンヘンに戻り、その近くもムルナウという土地と出会ったことが大きな転機になったことが分かります。そこで、カンディンスキーは画風を大きく転換します。
カンディンスキーは、視覚で捉えたわずかな基本要素を画面に還元させることを追求し、自然の光景から次第に離れていくのが、この時期の風景画を見ていると、よく分ります。『ムルナウ─庭Ⅰ』(右図)という1910年の作品です。庭の地面と木々の茂みは、茶色と緑の、 『ムルナウの教会Ⅰ』(左図)という1910年の作品です。さっきの『ムルナウ─庭Ⅰ』に描かれた城館と教会のある風景から出発して、大きな飛躍をどけた作品だそうです。最初に描きこまれたのは城館と教会の塔の輪郭を表わす線のうち、城の輪郭線が色斑の中にほとんど埋没してしまい、これに対して塔の輪郭線は残されて、この作品を貫く支柱としての役割を果たしている。その線は、引き伸ばされた塔の形態を際立たせ、やや右に傾いた強い上昇の力を示すことによって、画面全体に動きと緊張感を与えています。このような線のエネルギーと、それによって表わされた象徴的モチーフとしての塔は、境界があいまいで混沌とした色斑の群れに、精神的な次元で内容をもたらしている、といいます。まるで、教科書でお勉強しているようですね。そうでもないと、辛うじて何らかの形をしていると分かるのは中央右手の塔と左手の家形だけです。あとは色のかたまりが大小様々が斑点のようにあるだけ、という作品で、何が精神か、何が本質か、というところでしょう。だからこそ、色による画面構成のバランスに気を使っているのでしょう。その中で、塔の形が楔のように(まさに塔は楔の形にも見える)が具体的な形態を残していることで、周囲と異質な感じで、それぞれが相容れない感じを与え、異質な二つの要素が同居とした居心地の悪さが、見る者に「あれ?」と思わせる。そういうちょっとした違和感が、見る者を立ち止まらせ、なんだろうと考えさせる、と言ったら言い過ぎでしょうか。 そんな託宣を垂れるよりも、白と青の二つの色の流れを見ているだけ、なんとなく清々しい感じなる。こっちの方が、私の正直な感想です。そういう動きを想像させるところがカンディンスキーの魅力でもあるのです。 これはもう、ほとんど抽象画です。
『インプロヴィゼーション6』という1909年から1910年にかけての作品です。カンディンスキー自身が「インプロヴィゼーション」という言葉について、「印象」や「コンポジション」とともに語っています。それによれば、「印象」は外的自然から受けた直接の印象が、素描的・絵画的な形態をとって現れるもの。「インプロヴィゼーション」は内面的な性格の事象が、主として無意識に、大部分は突然成立した表現。つまりは内面的な自然の印象。「コンポジション」は「インプロヴィゼーション」と似たような仕方で、極めて徐々に、作者の内面で形づくられる表現で、しかも作者が最初の構想に従って検討し、練り上げるものだということです。 制作年代をみれば、前回で見たムルナウの風景画と同じ頃のものです。つまり、カンディンスキーは、前回で見たように風景画を描いてから、更にもう一歩という段階を踏んで、抽象画に至ったのではないということです。このような抽象的な作品を描く、そのまた一方で抽象的な比重が高くなっている風景画を描く、その両方を同時併行で進めていたということになると思います。カンディンスキーは、はそれぞれで試しながら、表現を手探りで展開させていったということでしょうか。 この作品では、二人の人物と左背後の白い壁がそれと分かる形態を持っています。しかし、人物には表情はなく、どういう人なのかは分らないようになっています。左の人物の緑の頭と赤の顔、これに対して右の人物の緑の顔と赤い頭の対比。また右の人物の青い服と、左の人物のマントの裏地といった色彩の対比や二人の人物のあいだの曖昧な形のみられる融合のさせ方はかなり考えられている、という教科書的な説明でした。 このあと、カンディンスキーは、多数の「インプロヴィゼーション」を制作し、大作の「コンポジション」を制作、第1次世界大戦の勃発までの間、創作の絶頂期を迎えます。 この後の『コンポジション』等の作品は、後の国立近代美術館での「カンディンスキー展」で見ることができました そして、第1次世界大戦により、カンディンスキーは、ロシアに帰国を余儀なくされ、ミュンターと別れることになります。
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