カンディンスキー&ミュンター1901-1917展 |
1997年1月 セゾン美術館 かつて、池袋駅東口のパルコ・ブックセンターの建屋にセゾン美術館がありました。当時の西武百貨店はパルコを傘下に文化の最先端を牽引する存在で、パルコのテレビCMにウッディ・アレンが出たり、糸井重里の宣伝コピーが一世を風靡したり、渋谷駅周辺のパッとしない地区にパルコを建設して公園通りとして文化の発信地にしてしまったり、と。その一環としてセゾン美術館がありました。主として20世紀芸術や現代アートを中心に盛んに展覧会を開いていました。デパートの美術館というのは景気の良かった当時、高級イメージをアピールするのと客寄せの効果もあって各デパートにありました。といっても、セゾン美術館以外では人気のある印象派を中心に展示していました。それに対して、なじみの薄い現代芸術を中心にデパートが美術館を作ってしまったのですから、贅沢な時代だったと言えます。 当時の私は転職した会社にようやく慣れて、生活が安定し始めたころで、休日に美術館に出かける余裕が出てきた時期でした。 この展覧会は、“カンディンスキーが20世紀における最も偉大な芸術的成果といわれる「抽象絵画」の追求への道を歩み始め、『青騎士年鑑』を編集し、その主催による展覧会を組織するなど活発な活動を繰り広げたこの時期は、「ファーランクス」美術学校での教え子であり、のちに表現主義の画家となるガブリエーレ・ミュンターと行動を共にする時期と見事に一致します。カンディンスキーとミュンターは、ミュンヘンで出会い、何年にもわたるヨーロッパやアフリカへの旅行ののち、1908年にミュンヘン南方の小さな村ムルナウに落ち着きます。ことにその年から第一次世界大戦が始まり二人が引き離される1914年までの時期、彼らの芸術活動はお互いに、また友人たちからも刺激を受け、さらには同地のガラス絵などの民衆芸術から尽きせぬインスピレーションを得て、各々の個性を豊かに開花させました。本展は、出会いから別離まであたりの生活と画風の変遷に焦点をあて、相互の影響関係、その変貌の源泉、民衆芸術との関わりや抽象絵画誕生の背景を探ろうという展覧会です。”という主催者のあいさつにあるような趣旨です。カンディンスキーが抽象絵画を始める過程をミュンターをはじめとした周囲との影響関係から見せていくというものでした。 だから、展示は抽象画が出て来たところがゴールという構成で、カンディンスキーという名前だけは有名で、なんだかよく分らない絵画を描いた人がいるけれど、どうなのよ、というお勉強にはすごくいい展覧会だったと思います。それゆえに、ここで展示されていた作品は、それ自体を積極的に見たいと思うか、というとそれは別で、あのカンディンスキーが抽象画を描く前に、どのような作品を描いていて、それがどのようにして抽象画に至ったのかという視点があって、はじめて見るという類の作品だったと思います。 展示は次のような章立てで行われました。 T.プロローグ─出会い U.カンディンスキー─メルヘン的な絵画 V.長い旅行 W.ムルナウとミュンヘン X.ミュンターの静物 Y.人物の表現 Z.カンディンスキー─抽象への道 [.別れ 一応、カンディンスキーとミュンターという二人の画家がテーマの展覧会ですが、あくまでもカンディンスキーあってのミュンターで、(彼女もいい画家とは思いますが、正直言ってネームバリューから、この人だけを見たいとは思いません)感ディスキーを中心に見て行った感想を書いていきます。 なお、カンディンスキーの抽象画を中心とした展覧会は、このあと2004年の国立近代美術館で「カンディンスキー展」をみました。その時の感想はここにあります。カンディンスキー以外にも、抽象画に関してはマーク・ロスコ、ベン・ニコルソン、ジャクソン・ポロック、日本人では、坂本善三、山田正亮、野田裕示、難波田史男、辰野登恵子のそれぞれの展覧会の感想をアップしています。
T.プロローグ─出会い カンディンスキーは1896年に画家として出発するためにミュンヘンに出てきます。1901年に「ファーランクス」を結成し、附属の美術学校の教師となりました。そこの生徒として、ミュンターは1902年にカンディンスキーの絵画教室に参加したといいます。このころ、カンディンスキーは、ペインティングナイフだけでミュンヘン郊外の風景を制作していました。「小さな油彩スケッチ」と彼自身が呼んだもので、『アクチョールカ─秋』(右図)という作品もその最初のころのものです。輪郭線を消し、ペインティングナイフを当てて絵の具をうず高く盛り上げてマチエールのように残していく技法は、例えばゴッホが燃えるようなひまわりの作品などで多用した技法です。筆で絵の具を塗った場合と違って、絵の具が厚く盛り上がり、それ時代の存在が主張される、つまりは単に画面の道具としての色ということから、絵の具時代が物質として存在している。また、絵の具で塗るような絵の具の伸びはないため、彩色がぶつ切りのようになった結果、色は「つぎはぎ」のようにポッテリした絵の具の塊が画面のあちこちに点在することになります。その結果一度描かれている対象がバラバラに解きほぐされるような印象になります。この作品でも手前の水草は縦の線でグリーン系統の絵の具が盛られ、それが水草の茎と葉を辛うじて連想させますが、グリーンの塊のようです。その上の部分の池の水面は横方向に絵の具が盛られ、というように、ペインティングナイフの盛る方向と刻み、そして色によって画面が構成されて、かろうじて風景で分かりますが、輪郭は曖昧になってきているのがわかります。 『水門』(左図)という作品では、手前の土手の緑と土の茶色水面の黒、奥の森の黒が、それぞれ色のブロックのように区分分けされて、そこを小刻みにナイフで絵の具を盛っていて、それが画面の陰影をつくり、風景であることが分かるようになっています。 この方式をさらに発展させていくと、後年のムルナウの風景画のようなものになっていくのが、あとの作品を見ているだけに想像できます。そういう意味で、これらの作品は、あくまでそういう作品に至るということが分かる資料的価値のほうが高いと思います。 U.カンディンスキー─メルヘン的な絵画 カンディンスキーは「小さな油彩スケッチ」と並行してテンペラや水彩、そして多色木版による作品を制作し、自らそれらを「彩色ドローイング」と呼んだそうです。「小さな油彩スケッチ」が風景を題材としていたのと対照的に、「彩色ドローイング」はドイツやロシアの騎士道や民話的な題材をとりあげメルヘンチックな作品を制作しました。 『花嫁』(右図)もそのひとつで、褐色のボードの上に小さな色点や色斑をモザイクのように配しておいていくように絵の具を塗るのは、「小さな油彩スケッチ」で絵の具をナイフで塊のように置いていくのと、相通じる手法でしょう。色のかたまりのようにして、形態に色付けするというのではなくて、色じたいがひとまとまりとして独立して存在しているかのようなあり方です。花嫁の足もとの草花をまるで宝石のきらめきのように細かな色点を配し、花嫁の衣装の柄も大き目の色斑で構成させているのは、色の点の大きさだけで、草地と花嫁の衣装という二つの領域を区別しています。その上の中景は緑の横線で岡が描かれ、奥には教会が横線で構成されています。左端の縦欄の白樺、楕円の雲が浮かび、その余白を埋めるように空の青がべったりと塗られています。一見メルヘンチックですが、動きはないし、主役である花嫁に表情はなく人形のようです。全体として青系統の寒色が基調になってヒンヤリとした印象を受けます。タイトルで『花嫁』と言ってもらわなければ、そういう感じがしない、そういう作品です。 『商人たちの到着』 (左図)は、『花嫁』の手法を精緻に徹底させたものです。まるで点描のような作品は、画面全体の平面的な印象、というのか色が前面に出てくる印象がさらに強まりました。絵画というよりモザイクに近いのでしょうか。何かを描いても、そのせいか、その何かが判別しにくくなってくる傾向を、そういう手法が促進させているかのようです。カンディンスキーは『ガブリエーレ・ミュンターの肖像』(右図)を描いています。カンディンスキーも、こういう肖像画を描けるのだ、というちょっとした驚きはあります。カンディンスキーとミュンターのラブストーリーということに焦点をあてれば、意味ありげで、そういう興味をもって眺めることができるかもしれません。そういう視点で眺めることを否定するつもりはありませんが…。
W.ムルナウとミュンヘン
カンディンスキーにとって、長い旅行からミュンヘンに戻り、その近くもムルナウという土地と出会ったことが大きな転機になったことが分かります。そこで、カンディンスキーは画風を大きく転換します。 『ムルナウ─村の道』(左図)という1908年のムルナウに居を定めて間もないころの作品です。ここでの大きな変化はペイティングナイフを絵筆に持ち替えたことだそうです。私などは、そう言われればそうかもしれない、という程度でしかないのです。この作品を見る限りでは、点描のように絵の具を置いていくような描き方がされていますが、ナイフではできなかったような、軽さと細やかさが生まれている一方で、建物の輪郭や窓が黒い線が伸びるように描かれているのは、絵筆を使ったが故に出来たかことかもしれません。しかし、それ以上に見た目にも、ハッキリわかる違いは、色彩が派手になったことです。この作品では、オレンジ色が基調となって、家の壁、道路、左手の木になっている実、そして雲までも、これと家の輪郭や影の黒と対照するように描かれていて鮮烈な印象を受けます。以前は曖昧にぼかされていた輪郭線が、むしろ力強く登場し、細部の単純化が進み、以前には残っていた陰影も単純化が進む中で次第に感じられなくなってきています。後世からの、今だから言えるという見方かもしれませんが、この時、例えば色遣いにしても、自然の事物に固有のものという考え方から徐々に離れていったようにみえる、つまりは、自然をありのままに写し取るという、という写生の姿勢から離れていった、多分彼ら自身の言葉で言えば、解放された、という言い方になるのでしょうか。そして、多分、彼らは、それ以上に、内なるものとか、事物の本質を感じ取るとかいう言い方をするのでしょうが、それへの一歩を踏み出し、それを自覚し始めたのではないか、ということなのです。 このとき、ムルナウで共に活動をしたアレクセイ・ヤウレンスキーという画家がゴーギャンやフォービズム等を紹介し、クロワゾニズムという、黒い輪郭線で取り囲んでモチーフを単純化し、その輪郭線で囲まれた中を平坦な色面にすることで画面を再構成して、対象を均一な色の平面に還元してしまう手法を、彼らに伝えたと言います。 カンディンスキーは、視覚で捉えたわずかな基本要素を画面に還元させることを追求し、自然の光景から次第に離れていくのが、この時期の風景画を見ていると、よく分ります。『ムルナウ─庭T』(右図)という1910年の作品です。庭の地面と木々の茂みは、茶色と緑の、輪郭のハッキリしない色斑となって、画面の中央を占めています。それを取り囲むように、前景の左に小屋、右にヒマワリの花、遠景の左に家形、右に教会という比較的識別しやすいモチーフが描かれています。この中でも、左手の小屋は実際の色とは違って、画面構成の必要から緑、赤、青に塗り分けられ、全体として赤、青、黄、緑の鮮やかな色彩は、例えば赤と赤、あるいは青と青が、それぞれ画面の中心に対して点対称の関係を作るように配置され、それによって均衡が作られている、といいます。このように、形態と色彩の両面において、大胆な変形がくわえられ、もはや写生の姿勢は影をひそめ、彼ら自身の言う本質を追求していく方向が表われています。 『ムルナウの教会T』(左図)という1910年の作品です。さっきの『ムルナウ─庭T』に描かれた城館と教会のある風景から出発して、大きな飛躍をどけた作品だそうです。最初に描きこまれたのは城館と教会の塔の輪郭を表わす線のうち、城の輪郭線が色斑の中にほとんど埋没してしまい、これに対して塔の輪郭線は残されて、この作品を貫く支柱としての役割を果たしている。その線は、引き伸ばされた塔の形態を際立たせ、やや右に傾いた強い上昇の力を示すことによって、画面全体に動きと緊張感を与えています。このような線のエネルギーと、それによって表わされた象徴的モチーフとしての塔は、境界があいまいで混沌とした色斑の群れに、精神的な次元で内容をもたらしている、といいます。まるで、教科書でお勉強しているようですね。そうでもないと、辛うじて何らかの形をしていると分かるのは中央右手の塔と左手の家形だけです。あとは色のかたまりが大小様々が斑点のようにあるだけ、という作品で、何が精神か、何が本質か、というところでしょう。だからこそ、色による画面構成のバランスに気を使っているのでしょう。その中で、塔の形が楔のように(まさに塔は楔の形にも見える)が具体的な形態を残していることで、周囲と異質な感じで、それぞれが相容れない感じを与え、異質な二つの要素が同居とした居心地の悪さが、見る者に「あれ?」と思わせる。そういうちょっとした違和感が、見る者を立ち止まらせ、なんだろうと考えさせる、と言ったら言い過ぎでしょうか。 そんな託宣を垂れるよりも、白と青の二つの色の流れを見ているだけ、なんとなく清々しい感じなる。こっちの方が、私の正直な感想です。そういう動きを想像させるところがカンディンスキーの魅力でもあるのです。 これはもう、ほとんど抽象画です。
『インプロヴィゼーション6』という1909年から1910年にかけての作品です。カンディンスキー自身が「インプロヴィゼーション」という言葉について、「印象」や「コンポジション」とともに語っています。それによれば、「印象」は外的自然から受けた直接の印象が、素描的・絵画的な形態をとって現れるもの。「インプロヴィゼーション」は内面的な性格の事象が、主として無意識に、大部分は突然成立した表現。つまりは内面的な自然の印象。「コンポジション」は「インプロヴィゼーション」と似たような仕方で、極めて徐々に、作者の内面で形づくられる表現で、しかも作者が最初の構想に従って検討し、練り上げるものだということです。 制作年代をみれば、前回で見たムルナウの風景画と同じ頃のものです。つまり、カンディンスキーは、前回で見たように風景画を描いてから、更にもう一歩という段階を踏んで、抽象画に至ったのではないということです。このような抽象的な作品を描く、そのまた一方で抽象的な比重が高くなっている風景画を描く、その両方を同時併行で進めていたということになると思います。カンディンスキーは、はそれぞれで試しながら、表現を手探りで展開させていったということでしょうか。 この作品では、二人の人物と左背後の白い壁がそれと分かる形態を持っています。しかし、人物には表情はなく、どういう人なのかは分らないようになっています。左の人物の緑の頭と赤の顔、これに対して右の人物の緑の顔と赤い頭の対比。また右の人物の青い服と、左の人物のマントの裏地といった色彩の対比や二人の人物のあいだの曖昧な形のみられる融合のさせ方はかなり考えられている、という教科書的な説明でした。 このあと、カンディンスキーは、多数の「インプロヴィゼーション」を制作し、大作の「コンポジション」を制作、第1次世界大戦の勃発までの間、創作の絶頂期を迎えます。 この後の『コンポジション』等の作品は、後の国立近代美術館での「カンディンスキー展」で見ることができました そして、第1次世界大戦により、カンディンスキーは、ロシアに帰国を余儀なくされ、ミュンターと別れることになります。 最後に、展示されていた中で、ミュンターの作品を下に数点貼り付けておきます。
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